後輩「わたしは、待ってるんですからね」 (642)


「夏休みももうすぐ終わるし、誰かの家で泊まりで遊ぼうぜ!」

 なんて言ってるうちは良かった。
 場所が俺の家になったのも、まあ問題じゃない。
 
 夏休みは実際、終わるまで十日を切っていた。
 その最後を飾るイベントとして、男友達三人だけで集まるのも悪くない。

 俺たちは近くのコンビニで大量のスナック菓子とジュースを買い込んで集まった。
 食事代わりのカップラーメンだって大量に買い溜めた。
 予定では三泊四日、部屋に引きこもり怠惰に時を過ごす予定だった。

 楽しかった。
 古いパーティーゲームで盛り上がり、トランプをしながらこの夏の思い出を語り合い……。
 ノートPCでエロフラッシュサイトを巡り、テンションをあげて猥談を始め……。

 そしてふと気付いた。気付いてしまった。

「俺たち……何をやってるんだ?」



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 時間は二日目の昼過ぎで、家には誰もいなかった。
 俺たちは徹夜明けのテンションのまま「看護戦隊エンジェルナース」の続きを見ていた。

「なにって、何の話?」

 俺の声にまっさきに反応したのはビィ派の奴だった。

 女顔で背が低い。パッと見だと美少年に見えなくもない。見た目だけなら。
 でも口が悪いうえに乳房原理主義者だった。女の価値は胸で決まると主張して憚らない。
 エーコ派の俺と衝突を繰り返すのはごく自然な成り行きだと言えた。

 俺たち三人の中でいちばんのエロス大臣でもあり、エロフラ巡りを提案したのもこいつだった。
 
「……いや、つまりさ、この高二の夏休みの、終わり頃に差し掛かって、だ」

「うん」

「他の奴が、彼女と夏祭りなんかに行ってるような時季にさ」

「……うん?」

「なんで、男三人で集まって、エロフラッシュなんて見てんだ?」

「……」

 あー、こいつそれ言っちゃうのかー、と言いたげな顔で、ビィ派の奴は俺を見た。


「あのさぁ、シスコン野郎」

 ビィ派は呆れたように言った。シスコン野郎というのはたぶん俺のことだと思う。

「何が駄目なんだよ、エロフラ鑑賞。健全な男子学生の、健全な夏休みの過ごし方だろ」

「健全な男子"中"学生の、夏休みの過ごし方だと思うけど」

「ばかにすんなよおまえ、これ十八禁だぞ。大人の楽しみだっつーの」

 じゃあ見るなよ、と思いつつ、俺は溜め息をついた。自分も見ている以上は同罪だ。
 俺が何かを言うよりも先に、シィタ派の奴が口を挟んだ。

「いや、いいと思うけどね」

 シィタ派の彼は落ち着きがあって地味に見えるけど、話してみると普通に面白い奴。
「この中でいちばん女に縁がなさそう」というのはビィ派の言。

 が、こいつは中学時代に一度だけ彼女を作ったことがあった。三ヵ月後に別れた。こいつから振ったのだ。
「なんかめんどくさくなったんだよね」と本人はあっさりしていた。
 相手はクラスでも評判のかわいい子だった。俺が彼の言い分に納得するまで半年が必要だった。


「こういうふうに集まってワイワイやるのもさ、楽しくていいと思うよ」

 シィタ派の彼はいつも良いことを言う。が、それをされるとこちらは何も言い返せなくなってしまう。
 話を強引にまとめられてしまい、消化不良に陥ることも珍しくなかった。
 なんだかんだで馬が合うから一緒にいるわけなんだけど。

「そりゃ楽しいよ。楽しくないなんて言ってないよ。言ってないけど……」

「けど?」

「これでいいのか、高二の夏……」

 言葉は汗臭い部屋の中に静かに落ちた。
 開け放ったままの窓からは、風も吹きこまない。

 部屋の中に響く音は、扇風機が羽根を回す音と、PCの駆動音と、蝉の鳴き声くらいのものだった。

 そんな騒がしい沈黙を破ったのは、案の定ビィ派だった。

「つまり、なんだ? 俺たちにはもっとふさわしい過ごし方があるはずだと、おまえは言うわけか」


「というよりは、なんというか……」

「ないね。断言しよう。ない」

 まだ何も答えてねえよ、と言いたかった。

「見ろ。ディスプレイを」

「……」

 言われるがままに視線を動かすと、少女の裸体が映っていた。
 我に返ってから眺めると奇妙な憂鬱に心が支配される。罪悪感?

「かわいいじゃないか」

 ビィ派はたしなめるように言った。
 たしかにかわいい。……いや、かわいいという感想はどうかと思うのだが。

「俺は十六年ほどの人生で悟ったね。理想は常にディスプレイの向こうにある」

 困ったことに、ビィ派には哲学と思想と信念があった。

「あ、紙媒体も含む」

 けっこうおおらかな思想ではある。


「断言する。こんな女の子は現実にはいない。絶対に、いない」

 そこまで言うと、彼は心底悲しそうに溜め息をついた。

「俺たちは、理想の世界の住人じゃなかったんだ」

 ……なんなんだ、こいつは。俺はどこかで何かのスイッチを押してしまったのだろうか?
 間違いなく話がずれている。

 興奮すると持論を展開し始めるのがビィ派の厄介なところだった。
 趣味が近いのでつまらないということもないのだけれど、絡み癖のある酔っ払いみたいでちょっとめんどくさい。

「そうは言ってもさ、生身の女の子と夏祭りとか、行ってみたいなあって思うだろ?」

 訊ねると、ビィ派は心底呆れたというふうにわざとらしく溜め息をついた。「やれやれ」とでも言いたげだ。

「じゃあ、行けばいいだろ」

「……え?」

「夏祭り。三日後から二日間。商店街で。花火だってあるぞ。浴衣の女の子誘って行って来い」

「……」

 一緒にいく相手がいたら、こんな話はもちろんしていない。


「いいかシスコン。俺たちに選択の余地なんてないんだよ」

 ビィ派の声は段々と大きくなりはじめていた。
 大音声の蝉の合唱をかき消すほどに。
 近所に声が漏れるからやめてほしい。

「俺は現実の女に関わりたいなんて思わないが……思っていたとして、同じことだ」

 彼がこんなに真面目な顔をしたのはいつぶりだろう。
 思い出せるかぎりでは、学園ハーレムモノにおけるお約束イベントの是非について激論を交わしたとき以来だった。 

「――俺たちにはどうせ何もできやしないんだよ!」

 ひときわ大きな声でそう断言すると、部屋に沈黙が戻り、耳に蝉の声がよみがえった。
 まあ、たしかに。
 したいと思ってできるほどの積極性を持っていれば、夏休みの終わりごろになって、いまさらこんなことを言い出しはしない。

「だから俺は断言できる。これは俺たちが取り得る選択肢の中で最善のものだ。友達とすら遊ばなかったら寂しくて死ねるぞ」

 まあそうかもしれない、と思ったところで話は終わり、俺たちはフラッシュめぐりを再開した。
 ……虚無感。夏休みは残り一週間を切っていた。





 今年の夏休み、家族以外の女性と交わした会話のいくつかを、俺は即座に思い出すことができる。

「袋はお分けいたしますか?」「あ、お願いします」(コンビニ)

「プールとか海とか、行ったー?」「行ってませんねー」(部活)

「おにいちゃん、ひさしぶりー。彼女できたー? お小遣いちょーだい?」「うるせーよ」(従妹の家)

 あとは細々しすぎていて思い出せないが、その程度だった。

 といって、夏休み以外だったら話は違うかと訊かれればそうではない。 
 学校が始まっていても、まあ似たようなものだ。

 要するに俺は女子に縁のない男子高校生であり。
 女子に縁のない男子高校生として、高二の夏休みを、見事、女子に縁のないまま消化してしまっていた。





 昔はこうじゃなかった。……本当に。

 昔といっても、小学生の頃とか中学生の頃とかの話であって。
 そんな過去にすがるのも、我ながらみっともないとは思うのだが。
 
 昔はこうじゃなかったのだ。

 小学生のときは、クラスの女の子と公園の砂場で結婚の約束を交わしたし(彼女は転校した)。
 中学生のときは、告白だってされた(一度も話をしたことがなかったので断った)。
 毎年バレンタインには最低一個、チョコをもらっていた(……家族だけど)。

 でも、いつのまにか、話す相手が狭まってきて。
 いつのまにか、女子が俺の生活から姿を消した。




 といっても、まったく話相手がいなくなったわけでもない。
 そのあたりは難しいところだ。

 俺が所属している部活は文芸部。部員は計七名で、その内三人は幽霊部員。
 まともに活動しているのは俺と部長と、後輩の女の子がひとり。残る一人はシィタ派の彼だった。

 部長は三年生で先輩だけど、ちまっこい感じで、なんだか小動物的な愛くるしさがある。
 背だって低いし、子供みたい。と、本人に言ったら怒られそうなものだけれど。

 後輩の方はあまり話したことがないのでよく分からないが、いつも部室の隅の方で本を読んでる。

「……どうしました、せんぱい?」「……あ、えっと、これ、夏休み中の部活の日程表」
 というのが俺と後輩が最後に交わした会話だ。
 つまり、夏休みに入ってからは一度も話をしていない。
 
 部長の方は頻繁に声を掛けてくれるのだけれど、思うように返事ができず、すぐ会話が途切れてしまう。
 要するに、女子と交流があるとかないとか以前に、俺のコミュニケーション能力には欠陥があるのだ。





 もうひとりだけ、よく話す女の子がいる。
 その子とは学校の屋上でよく出会う。俺は不思議と、彼女とだけは普通に話をすることができた。

 というのも、彼女の発言というのが、哲学的というか、文学的というか、そういう変な具合だから。
 いつも形而上学的で、思索的で、つまりよくわからない。

 以前、俺は彼女にクラスメイト達の色恋について訊ねたことがある。
 俺たちふたりにしては、比較的地に足のついた話題だった。

「学生時代の恋愛なんて、どうせ卒業までには別れるのが大半でしょ。興味ないよ」

 彼女はそんな、どこかで聞いたようなことを言った。
 俺も彼女相手にはあまり緊張せずに済むので、

「いつかなくなるものに意味がないっていうなら、生きていることにだってなんの意味もないのだぜ?」

 と、そんなふうに気取って言い返しすらしたのだけれど、

「だからそう言ってるでしょ?」

 と呆れた風に言われてしまうと、それ以上は何も言える気がしなかった。
 つまり彼女はよく分からない子だった。




「俺たちにはどうせ何もできやしないんだよ!」

 というビィ派の叫びから三日後、俺たち三人は商店街の夏祭りに足を運んでいた。  
 暇だったのだ。

 集まるように声を掛けたのは俺で、一番文句を言ったのはビィ派だった。
 
「どうしてわざわざ人ゴミの中に来たがるのか、理解に苦しむね」

 彼はそんなふうに悪態をつく。とはいえ、なんだかんだ言いつつ呼び出せば来てくれるあたり、悪い奴じゃない。
 シィタ派はいつものように、

「いいと思うけどな。男三人で祭りっていうのもさ」

 などと、妙に良いことを言って話を終わらせた。

「ま、思い出づくりみたいなもんだよ」

 俺はビィ派をたしなめるような気持ちで言った。

「思い出づくり?」

「高二の夏に、夏祭りに縁がなかったっていうよりはさ、友達と一緒に行ったっていう方が、気持ち的に楽だろ?」

 ビィ派は呆れたように溜め息をついた。
 夕方過ぎの商店街。雑踏のざわめき。浴衣姿の女の子たち。
 どこかしら、なにかしら、みんなはしゃいでいた。



 特設ステージから聞こえるバンド演奏に耳を傾けていると、妙に薄ら暗い気持ちになる。

「……今年の夏、なんもなかったなあ」

 俺の呟きに、ビィ派はまた溜め息をついた。

「お前はそればっかりな」

 俺はこの夏の間に自分がいったい何をしたのか、それを思い出そうとしてみた。
 いくつかのことは思い出せたが、いくつかのことはよく思い出せなかった。

 前からやろうと思っていた「バイオショック・インフィニット」はやった。音声ログだってけっこう集めた。
 気になっていた「海街diary」も読んだ。すずがかわいかった。

 課題も忘れずに終わらせたし、お盆には墓参りだってちゃんとした。
 例年通り、妹と二人で従妹の家にも遊びに行った。
 部活だって欠かさず出た。新学期に置いてきぼりを食らうのが怖いから、勉強だってそこそこした。

 何もしていなかったわけじゃない。じゃあ、この空虚感の原因はいったい……。


 気付けばバンド演奏は終わっていて、小学生の和太鼓演奏に変わっていた。

 暗くなってくると、辺りはより一層賑やかになりはじめた。
 商店街を歩く人々の組み合わせはさまざまだった。親子。家族連れ。学生の集団。若い男女。

「ああもう。さっきから何回溜め息つくんだ、シスコン!」

 と、ビィ派は俺に向けて怒鳴った。

「……あ、俺溜め息ついてた?」

「無意識かよ?」

 無意識だった。

「すまん。かき氷でも食うか」

 話を逸らそうとしたのだが、ビィ派の苛立ちは結構大きいものだったらしい。
 気持ちの置き場が見つからないような、そんな態度。
 彼も戸惑っているのかもしれない。理由は分からないけど。


「そんなに女の子と一緒に夏祭りに来たかったのか?」

「いや、そんなにってわけではないけど」

「じゃあなんで溜め息なんてついてるんだよ」

「なんていうか」

「なんていうか?」

「……先行き、暗いよなあって」

 今年や来年だけでなく、ひょっとして俺はいつまでも恋人を作ることができないのではないか、とか。
 というか、女友達すらできないのではないか、とか。

 そういうことを考えてしまった。


「分かった」

 とビィ派は言った。うんざりしたような声音だった。

「おまえ、ちょっとナンパしてこい」

「は?」

「ナンパ。ガールハント」

「話のつながりがまったく分からない」

「だから。女の子に声を掛けてくるんだよ」

「なぜ?」

「女の子と一緒に夏祭りを見て歩きたいんだろ?」

「……いや、まあ」

 だったらナンパするしかないだろ、と彼は言う。

 俺たちには一緒に夏祭りを楽しんでくれるような女の知り合いはいない。
 =知り合い以外の女性に声を掛けるしかない。 
 というような理屈らしい。



「ナンパなんてできるような性格だったら、そもそもこんなことでうだうだ悩んでないよ」

「ナンパができないならどうする? 奇跡が起こるのでも待つか?」

「いや、そうじゃなくって……」

「グラス一杯分の水の中にチェレンコフ光を見出そうとするようなもんだ」

 ビィ派の声は大きくなりはじめていた。衆目を集めつつあることに彼は気付かない。
 シィタ派は、ひとりで綿菓子を食べながら、通り過ぎていく人々をぼんやりと眺めている。
 彼の目はいつも透徹して見える。

「声を掛けてこい。一万人に一人くらいは返事をくれるかもしれない。でも掛けなかったら一万年に一度だ」

「……」

 ……どっちにしたって確率はほとんどゼロだと思うんだけど。
 何が悲しいって、否定する根拠がないことが一番悲しい。

「分かったよ」

 と俺は言った。




 ナンパなんてするより、同じ学校の女の子と親しくなっていく方がよっぽど発展性がある。

 たとえば、男友達に女の子を紹介してもらう。
 あるいは、自分で女友達を作る。さらに、友達を紹介してもらう。

 そういう手順を踏んだ方がよっぽど確実に、楽に、出会いを増やせる。

 そう。
 女の子を紹介してくれるような男友達がいればそうしている。
 女友達を作れるような性格だったらそうしている。

 それができないから男三人で夏祭りに来ているという結果がある。

「人を縛り付けるのは恐怖だ。恐怖の正体は存在しない苦痛に対する不安だ」

 とビィ派は言った。


「つまり、『恐怖を感じている間は、苦痛は実在しない』『恐怖は常に未来の苦痛に対する不安だ』
『同時にそれは過去受けた苦痛の反復に対する予感でもある』『苦痛は実在しない』『よって恐怖も実在しない』
『日常生活の範囲内では、大抵の場合、実際に訪れる苦痛は恐怖していたそれよりもずっと小さい』
『おまえが失敗しても俺は笑わない』『誰も気にしない』『何も傷つかない』」
 
 だから思う存分声を掛けてこい、と。
 でも絶対、そういう問題じゃない。

 そもそも普通に友達を作るより、ナンパをする方がずっと難易度が高い、と、思う。

 リスクの面で見ても、リターンの面で見ても、ナンパなんて利口な手段じゃない。

 どうかしてる。でも俺は頷いた。たぶん本気じゃなかった。
 単に何かしたい気分だったのだ。





 実践編、その一。

「……あの子がいいのか?」

 ビィ派が指差したのは浴衣姿の女の子の後ろ姿だった。青い浴衣。黒い髪を後ろでまとめている(貧弱な表現力の例)。
 かわいい子がかわいいことは背中を見ただけで分かる(たぶん)。

 俺がその子を目で追っていたことに、彼は即座に気付いたのだ。おそろしい。

「行ってこい」

「……ついてきてくれないの? 提案したのおまえだろ?」

「甘ったれんな。女を必要としてるのはおまえだ。それに、大勢で押しかけて女の子を委縮させたらどうする」

 追い払うように俺の背中を押すと、彼はかき氷を食べるのに集中しはじめた。
 ……迷っていてばかりでも仕方ないので、ためらいつつも足を動かす。
 まあ、何かまずいことが起こっても、祭りの熱気のせいにすれば納得してくれるだろう、みんな。うん。

 半分ヤケだ。


「あの」

 と俺は彼女の背中に声を掛けた。彼女は振り向きさえしなかった。
 声が小さくならないように注意したつもりだったが、聞こえなかったのだろう。
 あるいは、この雑踏だ。声を掛けられているのが自分だと、分からないのかもしれない。

「ちょっといいですか?」

 と横から回り込みつつ声を掛けると、女の子はようやく振り返ってくれた。

「はい?」

 目が合う。美少女だった。遠目に見たときより、背は低く見える。
 こちらを振り返るために、わずかに首を傾げて上向けた顔。
 黒い髪。戸惑った声。たしかにかわいい。かわいいが。
 
 困ったことに、聞き覚えと見覚えがあった。

「……お兄ちゃん?」

「……」

 妹だった。



 硬直している俺をさしおいて、妹は即座に現実を受け入れたようだった。
 
「結局来たんだ、お祭り。来ないんだと思ってた」

 彼女は俺の方を向き直ると、小首をかしげてそう言った。
 表情の動きはほとんどないが、驚いているように見える。
 俺は呆然と頷きを返した。

「……あ、うん」

「それで、なに?」
 
「あ、いや……見かけたから、声かけただけ」

 俺は嘘をついた。時には真実を話す方がよほど罪深いこともある。

「……そう?」



「うん。小遣い、足りてるか?」

「足りないって言ったら、くれる?」

「……おい」

「……冗談」
 
 彼女はくすくすと笑う。兄妹で話をすると、いつもこんな調子になった。
 妹は今年で中三。受験を控えて、夏休み最後の息抜きに来た、というところか。
 
 近隣の公立高校を志望している。こいつの成績なら問題なく受かるだろう。
 無能の兄とはえらい違いだ。

 俺は財布を開いて、紙幣を二枚取り出し、妹に手渡した。

「……い、いいよ」



「いいから」
 
 むりやり手のひらに押し付ける。妙な罪悪感が俺の身体を動かしたのだ。何かの足しにはなるだろう。

「ありがとう。……わたし、友達待たせてるから、行くね」

「うん。楽しんで来い」

「お兄ちゃんもね。帰り、そんなに遅くならないと思うから」

 妹は手を振って去って行った。

 ……俺は悪くない。
 そりゃ、妹が祭りに来ているというのは聞いていた。

 でも、浴衣姿で、髪型も普段とはちがうとなれば、気付かなくても仕方ないことだ。
 俺は悪くない。……と、思う。でもなんだろう、この罪悪感は。 





 反省編、その一。

「シスコンの面目躍如だよなあ。雑踏の中から妹を選ぶなんて」

 俺たちは露店の隅の方に座り込み、たこ焼きを食べていた。
 ビィ派は相変わらずうんざりした様子で人ゴミを睨み、シィタ派はあちこちをぼんやり眺めている。

 返事をしないでいると、ビィ派が俺の背中を叩いて笑った。

「褒めてんだよ。喜べ」

「喜べるかよ……」

 もちろん喜べない。
 
「というかそもそも、浴衣の女の子に声を掛けるのも考え物だよな」

「なんで?」

「浴衣着てるってことは、誰かと一緒なんじゃねーのかな」

 ……最初に気付いてほしいものだ。ビィ派は俺の恨みがましい視線を無視した。
 そりゃ、俺だって気付かなかったけど。

「さて、次いきますか」

 とビィ派は俺を立ち上がらせた。戦士に休息はない。





 実践編、その二。

「あの子とかどう? かわいいし、普段着だよ」

 次のターゲットを見つけたのはシィタ派だった。

 こうやって雑踏の中でかわいい女の子を探すというのも、一方的に品評会でもしているようで気が引ける。
 とはいえ気にしていてもしかたない。

 より大きなものの為に、些細なものを犠牲にしなければならないことだってある。
 そして大抵の場合、ささやかなものほど重要なのだけれど。
 ……だとすると俺は、まるで見当違いなことをしているのかもしれない。自分ではよくわからなかった。

「よし、行くか」

 自分を奮い立たせるために声を出すと、ビィ派は相変わらず冷淡な反応をした。

「行くのはおまえだけだけどな」

「行ってきます」

 たこ焼きを食べ終えた彼らは、今度はフランクフルトにかぶりついていた。


 次の標的はたしかに普段着だった。

 顔もかわいかった。上から目線で言えば、まさに言うことなしだ。
 こんなかわいい女の子と一緒に花火を見ることができたら、たぶん幸せだろう。

(……ほんとに?)

 と心の中の誰かが訊ねてきた。(さあ?)と俺は答えた。
 そんなの、今の俺に聞かれたって困る。実際にやってみたあとに聞いてほしい。
 
 幸い、声はそれ以上何も言ってこなかった。

「あの、すみません」

 声を掛けたあと、「すみません」もどうなんだろうなぁと考える。
 こういうのってタメ口の方がいいんじゃないだろうか。
 
 仮にうまくいっても、

「いいですよ。一緒に回りましょうか」

「あ、はい。あっちで面白そうな出し物をやってたんですよ」

 なんて敬語で会話を続けるのか? お見合いか?
 


 などと考えている間に女の子は振りかえった。
 見覚えのない顔。
 
「……はい?」

 聞き覚えのない声。
 
 よし、と俺は内心で拳を握った。

 で。

 何を言えばいいんだろう?

 怪訝そうな表情。
 何を言えばいいんだっけ。何が最終目的なんだっけ? 
 そう。俺は女の子と一緒に花火を見たいのだ。
 
 女の子と一緒に夏祭りに行った思い出が欲しいのだ。
 ……夏祭りの思い出だけ? いや、その後のことは成り行きに任せる感じで。


 そのために確認しなくてはならないのは……。
 いま、彼女が一人なのかどうか?

「……えっと。なんですか?」

 と彼女は言った。
 
 心臓は正確なリズムを見失い、肺は正常な動作を奪われた。
 きっと、頬は紅潮していた。

 ……バカか俺は。
 こんな美少女が、一人で祭りに来ているわけがあるか。
 友達か、男か、それじゃなくても家族と一緒に決まってる。

 夏祭りにひとりで来る奴なんていない。当たり前のことだ。

「あ、いえ……」



 俺はポケットから自分の携帯を取り出し。

「これ、さっきそこで拾ったんですけど、あなたのじゃないですか?」
 
 とっさに逃げに走った。
 口に出してから、「人違い」でもよかったな、と気付く。思いつかなかった。

「……いえ。わたしのじゃ、ないですけど」

 彼女は不審そうな顔で俺を見た。

「そ、っか。勘違いみたいだな。ごめんなさい。他の人みたいだ」

 俺は作り笑いをした。女の子は笑わなかった。困ったことに。
 
「運営の人に渡した方がいいと思いますよ」

「……そうします。すみません、声を掛けて」

「……いえ。それじゃあわたし、待たせてる人がいるので」

 ほら。やっぱりこの通り。
 祭りでナンパなんて馬鹿げてる。
 俺は笑いたかった。うまく笑えなかったけど。

 彼女は背を向けて去って行った。
 俺は恐怖に敗北した。苦痛は幻想ではなかった。それは未来にたしかに存在していた。
 




 反省編、その二。
 
 誰でもいいから笑ってほしい気分だった。

 ビィ派なら、戻ってすぐに「何やってんだよおい」とか言ってくれると思っていた。
 そう言ってもらえれば、俺だって「いやあ、参ったなあ」って言えたのだ。

 でも、彼らは俺のことなんて忘れていたようだった。

 我らが文芸部のちびっこ部長と、数人の見知らぬ女子が、二人と話をしていた。
 俺はその様子を、二メートルとちょっと離れた位置で立ち止まったまま、十五秒間ほど眺めた。

 十五秒経って、最初に俺に気付いたのはシィタ派だった。

「おかえりー」

 と彼は笑った。俺は気持ちの置き場所を見失ってしまった。
 たぶん俺自身のせいだ。


 シィタ派の視線の先を追って、部長が俺の方を見た。
 浴衣はよく似合っていた。たぶん三年の友達同士で来たんだろう。

「おー。楽しんでるー?」

 いつもの間延びした声で、部長は俺にそう訊いた。
 いつも通りの笑顔。顔見知りの後輩に向ける笑顔。

 なんでもない、挨拶みたいな質問。それなのに。

 自分が夏祭りを楽しんでいるのかどうか、それがよく分からなくて、俺はとっさに返事ができなかった。

(楽しんでる?)と俺は自分に訊いてみた。
(さあ?)と俺は答えた。

「おーい、無視ー?」

 部長は取り繕うみたいに笑ったけれど、俺の喉はまだ声を出せない。
 居心地の悪さは二割増しになった。

 ようやく何かを言えそうになったときには、場の流れはすっかり変わっていて。
 シィタ派が俺の代わりに部長にフォローを入れて、ビィ派がそれを盛り上げて。
 それからすぐ、部長たちはあっというまに去って行った。俺は一ワードも喋らなかった。




「で、どうだった?」

 とビィ派は言った。

「……断られた」

「やっぱりか。ほれ、おまえの分」

 ビィ派は笑いながらチョコバナナを差し出してきた。

 まずいことをしたと気付いたのは、それを受け取ってからだった。
 部長たちに、ひどい態度をとってしまった。どう考えたって、さっきの態度はない。

 思った時には、だいたいのことは手遅れだ。
 今だってそうだ。持ち直さないといけない。みんな楽しんでる。水を差しちゃまずい。

 気をつけなければ。


「大丈夫?」

 とシィタ派は俺を見た。心配をさせてしまっている。
 彼の瞳はいつも透徹していて、俺が気付かないことに気付くし、俺が見えないものを見る。
 
「……うん。無理だわ、ナンパ。やるもんじゃない」

「まあ、おまえ向いてなさそうだもんな」

 ビィ派の言葉に、俺もようやく笑えた。

「じゃあやらせるなよ」

「おまえが女の子女の子うるせーからだろ」

「ナンパしろって言ったの、おまえだろ」

「悪かったな。ホントにやるとは思わなかったんだよ」

「……いや、緊張したよ。喉乾いたから、ラムネ買ってくる」

「おう」



 二人に背を向けて、片手にチョコバナナを持ったまま、ラムネを買いに行った。
 財布から小銭を取り出して露店に並び、冷えたラムネを受け取って、両手がふさがっていることに気付いた。

「……何やってんだ、俺は」

 ほんとうに、何をやっているのやら。
 
「何やってるんです? せんぱい」

「俺が知りたい」

 声を掛けられたことに気付いたのは、返事をしたあとだった。

「……ども」

 振り向いた先に、きょとんとした顔で、文芸部唯一の一年生が立っていた。

「ああ、こんばんは……」

「こんばんは。ラムネですか」

 会話はすぐに途切れた。夏休みが始まってから、彼女と交わした最初の会話だった。



「……あ、さっき、部長も見かけたよ」

「会いました。浴衣でしたね」

 そういえば、後輩は普段着だった。
 それでも普段は制服姿しか見ていないので、だいぶ印象が違って見える。

「ひとり?」

「いえ。家族と来てたんですけど、はぐれちゃったみたいで」

「ふうん」

「せんぱいは?」

「あ、うん。ほら、あそこ」

 雑踏の向こうに座り込む二人を指差す。シィタ派がこっちに気付いて手を振ってきた。
 後輩はとまどいながら小さく手を振りかえす。

「一緒だったんですか」

「ま、他に来る相手いないしね」

 何か言ってくれるかと思ったけれど、彼女は何も言わなかった。
 それでもこの場を去ろうとはしなかったので、俺は反応に困った。
 両手は塞がったままだったし、話したいことだって、別になにもない。


「夏休み、終わるね」

 世間話のつもりでそう言ってみる。彼女の表情は動かない。
 ……なんだろう、この苦行は。精神面に負荷がかかる。

 彼女は何も言わなかったし、俺も何も言わなかった。

 そんな沈黙を嫌ったみたいに、不意に、パン、と、音が響いた。

「あ。今の音」

「……銃声か?」

「花火ですね」

「あ、だね。うん」

 俺のささやかな冗談は簡単に受け流された。


 後輩は首を巡らせて空のあちこちを見上げはじめる。
 建物が邪魔になる分、この通りから見える空は狭い。
 
「前から思ってたんですけど、お祭りの参加者には見えない位置で花火をあげるって、絶対おかしいと思うんですよ」

 そんなふうに不平を漏らしながらも、周囲の人の視線の先を辿って、彼女も花火を見つけたようだった。

「まあ、花火を見たい人には、別の会場があるしね。ホントは別々のイベントなんだよ」

「そうなんですか?」

「うん。どうせだったら祭りに合わせて日程ずらせばいいのにな」

「……ですね」

「まあ、だからこの祭りの一日目は、割と人が少ないんだけど」

「……」

 返事がなくなったから何かと思って後輩の方を見ると、すっかり花火に夢中になっているようだった。
 喜んでいるふうでもなく、ただ食い入るように見つめている。



 そりゃ、この場所からだって、ある程度花火は見える。会場で見るよりは小さいけど、それなりに綺麗に。
 音だってちゃんと聞こえる。ちょっと遠いだけで、ちゃんと楽しむことはできる。

 子供みたいに無心になって、彼女はいつのまにか暗くなった空を見上げていた。
 花火の音が途切れても、次は何かと待ちわびるみたいに、一瞬も見逃すまいとしているみたいに。

 俺は、そんな気持ちにはなれなかった。

「家族と、合流しなくていいの?」

「あ」

 水を差すのは悪いと思いながらも一応投げかけた言葉に、今度はちゃんと反応してくれた。
 後輩は慌てて携帯を取り出すと、シィタ派にもよろしく伝えるように言い残してあっという間に去って行った。

「それじゃ、二学期に」なんてあっさり言い残して。それだけだった。
 
 彼女の後姿を見えなくなるまで見送ってから、俺は溜め息をついて二人が居る場所まで戻った。
 花火の音に、どこかで子供がはしゃいでいた。遠くで救急車がサイレンを鳴らしていた。

 夏はそのようにして終わった。

つづく




 次に部室に現れたのは編入生だった。
 入部届を職員室に提出してきたから遅れたのだと言う。

 まあ、それでなくても何かと用事が多そうなのは想像がついた。
 そもそも文芸部は時間に関してはけっこうルーズで、特定の日以外はいつ来ていつ帰ってもいいことになっている。

 部長がそのあたりのことを説明すると、編入生はちょっと困った感じで部室の中を見渡した。

 そういえば、俺は彼女が何年なのかも知らない。
 まあ、敬語を使っておけば問題ないだろう。

 部室の中に、しばらく俺以外のふたりの声だけが響いていた。
 ちょうどいいので、俺は黙って本を読むことにする。

 何かを忘れているような気がした。
 思い出そうとしても、頭が重くてうまく考えられない。


 物語の中では、悲惨な虐待と監禁の末にひとりの女の子が死につつあった。
 体調のせいか、あるいは訳に変な部分があるせいか、いまいち小説に没入できない。

 現実は柔らかな風が吹き込む夕方の文芸部室で、俺は空想とのギャップに目が眩むような思いがした。
 いや、違う。そうじゃないだろう、と俺は思った。どうしてそんなことを思ったのかは分からなかった。

 いつのまにか部長と編入生の会話は途切れていて、部室からは誰の声も消えていた。

 不意に、その沈黙を編入生が破った。

「あの」

 と彼女は声をあげた。てっきり部長に言ったのかと思って小説を読むのに集中していると、

「呼ばれてるよー?」

 とその当人が言ったので、俺は顔をあげた。

「はい?」

 自分の出した声はマスクのせいで籠っていて、うんざりした。
 編入生はたしかにこちらを見ている。


「あの、わたし、あなたにどこかで会ったことありますか?」

「……」

 やっぱり、祭りのときの女の子なのだろうか。
 あのときは暗かったし、服装もいまと違ったから、いまいち確信が持てないでいる。

 部長はなにか気まずそうな顔をしていた。

 俺は心当たりを探しているようなふりをしてから、

「いや、判りませんね」

 と結局ごまかした。彼女はとまどったような顔になった。

「そうですか」

 と言ったきり、落ち込んだように俯いてしまう。
 ……なぜ落ち込む?
 
 祭りの日に顔を合わせたかもしれない相手、というだけなら、落ち込む必要はないはずだ。
 それとも、もっと他の場所で会ったのだろうか。あるいは、誰かと勘違いしているのか。


 いずれにしろ、俺に心当たりがない以上は、あちらから何か言われないかぎり分かりようがなかった。
 彼女との話はそのまま途切れてしまった。

 それから、十分も経たずにシィタ派が現れた。
 彼は俺を見て、「大丈夫?」と言った。

「何が?」

「それ」

 と彼は俺の口を指差した。マスクだ。

「ああ、うん」

 ふと、編入生の視線が俺とシィタ派の方を向いていることに気付く。

 シィタ派もその視線には気付いていたしく、どこか居心地悪そうにしている。

 不可解だ。


「窓、閉めていいですか?」

 肌寒さに堪えかねて、俺は全員にそう訊ねた。特に異論のある人はいないらしい。
 窓辺に立つと、また少しの間咳が止まらなくなった。本格的にひどくなってきた。

「大丈夫?」

 と部長が訊いてきた。 
 段々ひどくなってきたし、これ以上は迷惑になるだろうと思い、帰ることにした。

「きついみたいなんで、帰ります」

「お大事に」

 と部長は笑った。

 俺は荷物をまとめながらシィタ派に話しかけた。

「今朝はごめんな」
 
「いいよ。それより、気をつけて帰れよ」

 うん、と頷く。でも俺は本気で謝っていなかった。
 そういうところが自分でも嫌になる。特に最近は。


 部室を出たときには四時二十分を過ぎていた。
 後輩はたぶん部活を休むのだろう。たいして珍しいことでもない。

 どちらかというと気になるのは、編入生の視線の方だった。
 なんというか、明らかに態度が不審だった。

 その態度の原因は、どうも俺だけではないような気がする。
 彼女は俺だけではなくシィタ派の方も見ていた。

 というより、シィタ派の方をより多く見ていた気がする。
 
 ひょっとしたら、シィタ派にはなにか心当たりがあるのかもしれない。
 少し考えてみたけれどよく分からなくて、俺は考え事をやめて帰って寝てしまうことにした。
 
 明日になっても彼女の態度が変だったら、シィタ派に訊いてみればいいかもしれない。

 まあ、理由があるなら、そのうち何か話してくると思うのだが。




 家に帰ってからすぐに自室のベッドに横になって眠った。
 結構深い眠りだったけれど、目が覚めたときに時計を見ると、帰ってきてから二十分と経っていなかった。

 俺はふと思いつき、洗濯物を取り込んで畳んだ。

 何か考えなくてはならないことがあった気がするのだけれど、思い出せない。
 しばらくすると妹が帰ってきて、夕食を作り始めた。手伝うには、まだ本調子ではなかった。
 俺は自分が制服のままだったことに気付き、着替えることにした。
 
 食事のとき妹が、

「クルマサカオウムってかわいいよね……。でも夜明け頃とかに絶叫する習性があるんだって。なんでだろうね」

 というような話をしていたけれど、頭にはあまり入ってこなかった。

 食事をとってから、すぐに部屋で休んだ。 
 ここにきて、風邪がいきなり悪化した理由が分かった気がした。やっぱり寝不足だったのだ。

 眠くて仕方ない。身体が異様に重かった。

 ベッドで休んでいると妙な焦燥感のようなものに襲われた。
 それが眠気にのまれて消えてなくなるまで、しばらく俺は眠ることができなかった。  




 昔から、文章を書くのは嫌いだった。作文や感想文なんて大の苦手だった。

 夏休みの読書感想文なんかは、妹に一枚五百円で書いてもらうことにしていたくらいだ(割と頻繁に入賞した)。

 俺が自分の意思で文章を書くようになったのは中学三年の春先のことだった。

 初めて書いたのは、「彼女は退屈していた。」から始まり、「だから彼女は出かけることにした。」で終わる五千字ほどの物語だった。

 要約してしまえば「彼女は退屈していた。だから彼女は出かけることにした。」で済む文章だ。
 内容は支離滅裂だったし、矛盾を含んでいた。たいして面白いこともなかった。

 何度読み返してみても、その文章に何かの意味があるなんて思えなかった。
 でも、意味があるかどうかはともかく、問題が多くあることは分かった。

 俺はそれを修正せずに、別の話を書くことにした。今度はできるかぎり問題を少なくし、体裁を整えることに腐心した。
 また「彼女は退屈していた。」から始まり「だから彼女は出かけることにした。」で終わる文章だった。

 そうした話を、俺は一年間で十八本書いた。
「彼女」は少女であったり老婆であったりしたし、「退屈」している理由だってばらばらだった。
 字数もさまざまで、二千字で終わるものもあれば十五万字かかるものもあった。


 そうした文章を書くときに俺が目指したのは、ただ「前に書いたよりもマシなものを」ということだけだ。
 何がどうなっていれば「前のものよりマシ」だと言えるのか、それは自分でもよく分からなかった。

 苦痛な作業だった。得るものは何もないし、書けば書くほど自信を失っていく。

 俺は文章を書いていていい思いをしたことは一度もない。
 にも関わらず、なぜそんなことを続けてきたのか、自分でもよく分からない。

 たぶんそれ以外にできることがなさそうだったからだろう。
 そして冷静に振り返ってみれば、それすらもできていないのだ。
 
 どんなことでも継続して続ければ、少なくとも人並み程度の能力は得ることができる、というのが俺の考えだった。
 能力を得た先に何があるのかということに関しては、あまり考えないようにしていた。

 けれど高一の秋頃から、その考えが本当に正しいのか、よく分からなくなってしまった。




 目が覚めたときには夜中の十時過ぎで、体調はいくらかマシになっていた。
 まだ軽く咳が出たが、夕方頃よりはだいぶマシだった

 水を飲もうと思ってリビングに行くと、父が帰ってきていた。
 誰かと電話で話をしているらしい。俺はあまり気にしないことにした。

 水を飲んでから、シャワーを浴びて歯を磨き、寝る準備をする。
 鏡を見て歯を磨きながら、頭の中で、べつに無理に何かを書く必要はない、と自分に向けて言ってみた。

 たしかに、と俺は思った。文章なんて書かなくたってまったく困らない。
 
 そう思うと少しだけ体が軽くなった気がした。

 なんだかいろんなことが自分とは無関係に起こっている気がする。
 ひょっとしたら、まだ夢の中にいるような気持ちだったのかもしれない。
 
 落ち着かない一日だった。
 不調の原因が寝不足なら、やはり、もう少し生活をかえりみるべきだろう。
 少しの間、文章を書こうとするのは諦めた方がよさそうだった。

つづく




 翌朝には風邪は治っていたし、早めに眠ったおかげか体調も万全だったのだけれど、

「ていうか、あの編入生っておまえの元カノだよな?」

 とビィ派がシィタ派に言っているのを聞いて、思わず咳が出た。
 俺を驚かせた本人は「大丈夫か? 病み上がりなんだから気をつけろよ」とあっさりしている。

「……マジで?」

 俺の問いかけに、シィタ派はちょっと気まずげな顔で頷いた。
 始業前の教室はざわついていて落ち着かない。誰も俺たちの方に注意を払っていなかった。
 
「だからどうってわけでもないけどね」

 そう言われてしまえば、たしかにそうなのだろうけれど。
 じゃあ、それで昨日はシィタ派の方を見ていたんだろうか。

「同じ中学だったのか。……え、でも編入って」

「あの子、中三にあがるときに引越ししただろ。親の仕事の都合とかで」

 ビィ派は溜め息をつきながら俺の疑問に答えた。
「なんでそんなことも覚えてないんだ?」という顔。



「中学のときの同級生なんてたいした数もいないんだから、気付けよ」

 とビィ派は言った。

「でも、あの編入生だって俺のこと覚えてないみたいだったし。たぶん話したことないし」

 というより、ビィ派もシィタ派も、遠目だったとはいえ祭りのときには気付いていなかったはずだ。
 今でも気付いていないかもしれない。まあ言わずにおこう。ほんとうに同じ人物なのかは分からないし。

 そうは言いつつも、内心、自分でも覚えていないことがショックだった。
 シィタ派に彼女ができたときというのは、俺の中ではわりと苦い思い出だ。

 というのも、その子のことが好きだったから。俺が。

 まあ好きといっても話をしたことがあったわけでもないし、一方的にかわいいなあと思っていた程度だけれど。
 中二の秋頃にその子とシィタ派が付き合い始めて、冬に別れて。
 それから彼女は翌年の春に転校していった。そう言われればたしかにそういう記憶もある。


「……なんかすげえショック」

 俺の呟きに、ビィ派は深く頷いた。

「そうだよ。おまえはもうちょっと反省しろ。人に興味を持て」
 
 俺は中学時代の彼女の顔を思い出してみようとしてみる。
 ぜんぜん思い出せなかった。かすりもしなかった。

「じゃあ、あの子が文芸部に入ったのって……」

 シィタ派がいたからなんだろうか、と訊ねようとした俺を、ビィ派は小馬鹿にするように笑った。

「これだから年齢=彼女いない歴の奴は困る」

 失笑していた。おまえも同じだろ、と突っ込みたい。

「偶然だろ、たぶん。俺たちがこの学校にいたことだって知らなかっただろうし」

「……まあ、そりゃそうだろうけど」
 
 ちょっとした言動で思わぬ傷を抉られてしまった。
 




 昼休み、昼食を食べてから図書室に向かった。

 うちの学校の図書室は、校舎の端の方にあるうえにいつも薄暗いため、あまり頻繁に訪れたい場所ではない。 
 利用者だって少ない。図書委員は、俺が見たかぎりではほとんどいつも昼寝している。今日もそうだった。

 なんでも、人目がないのをいいことに妙なことをする生徒もいるとか、なんてことをビィ派が前に言っていた。
 ときどき物陰で男女が抱き合っていたりするのを見かけるあたり、根も葉もないというわけでもないだろう。

 というか、男女の教師が二人で何か話している姿も見かける。この学校はいろいろダメそうだ。

 俺は各種図鑑の置いてある棚に向かい、その中から鳥獣図鑑を手に取った。

 委員会の意欲のなさとも利用者の興味のなさとも無関係に、蔵書の数は少なくない。 
 新しいものも入ってくる。司書を見かけたことはないが、割とちゃんと仕事をしているのだろう。

 聞いたことのない名前だったので少し不安だったが、クルマサカオウムの名前はちゃんと載っていた。
 索引から探してページを開くと、写真と一緒に生態についての記載もあった。

 分類や体長なんかの情報を無視して解説文を読む。
 叫び声をあげる習性についての記述は見つけられなかった。

 俺は最後にクルマサカオウムの写真を一瞥してから図鑑を棚に戻した。
 桃色の毛並み。たしかにかわいい鳥だった。





 放課後、すぐに部活に出る気にはなれずに、屋上に向かった。
 彼女は当然みたいな顔で、フェンスのすぐ傍に立っていた。

「ひょっとしてきみって雨の日もここに居たりする?」

 半分冗談みたいなつもりで訊いたのだけれど、

「そういう日は別のところかな」

 と真面目に答えを返されてしまった。

「そっちは、なんか体調悪そうだね?」

 彼女はクイズに答えるような得意げな顔で言った。
 べつに不愉快でもなかった。
 嬉しそうな顔でそんなことを言ってしまうあたりは、彼女らしいかもしれない。

 もっとも、そんなことを言えるほど、彼女のことを知っているわけでもないのだが。


「わかる?」

「顔色悪いもん。太陽の下だから、はっきり分かる」

 雲は多いけれど、太陽はしっかりと屋上を照らしている。
 気温はあまり高くないし、風は少し肌寒いくらいだったけれど。

「建物の下だと分からないってこと?」

「まあ、そうかも。でも、分かる人には分かるんじゃない?」

 彼女はどうでもよさそうにポッキーをかじった。

「体調だけじゃなくて、なんか機嫌も悪そうだね?」

 彼女の隣まで行ってフェンス越しに街を見下ろしはじめたとき、彼女は俺の方を見てそう言った。
 
「わかっちゃう?」

 否定するのも面倒でおどけてみたけれど、彼女はやっぱり笑わなかった。


 口から溜め息が漏れる。

「この季節はダメなんだよね、俺」

「他の季節だったらマシなの?」

 まあ、他の季節でもダメなんだけど。
 俺は返事をしなかった。今度は彼女が溜め息をつく番だった。
 そのまま少しのあいだ沈黙が続く。別に気まずく思うこともなく、ただ時間が流れる。

 不意に、彼女がこちらを下から覗き込んだ。

「なんか憂鬱そう?」

「そっちもね」

 と俺は少し後ずさりながら言った。彼女は身を翻して肩をすくめた。

「わたしは憂鬱じゃないときがないから」

「大変だなあ」


「それで、どうして落ち込んでるの?」

「うーん」

 なんと言えばいいか分からずに考え込む。
 とはいえ、彼女に対しては、正確に話すよりも煙に巻くような言い方の方が通じたりするわけで。

「世の中って不平等だよねってこと」

「そうだね」

 彼女はあっさり頷いた。言ったこっちが困ってしまうくらい素早い肯定。

「不平等にも種類があるけど」

 と言って、彼女は俺の方をじっと見た。
 もっと詳しく話せ、ということだろうか。なんだか面倒そうだ。


 しかたなく、俺は話し始めた。

「……たとえば、きみが一生懸命テスト勉強するとするでしょう。でも、点数はあまり思わしくなかった」

「うん。やり方が悪かったのかも。前の期末はちょっと反省かな」

「たとえ話。一方、俺も一生懸命テスト勉強をした結果、見事全教科満点を取った」

「……悪意を感じるたとえ」

「そして俺はきみに言う。『どうせちゃんと勉強しなかったんだろ? 努力って点数に出るんだぜ』」

 彼女は押し黙った。

「そういう感じ」

「……まあ、たしかに腹は立つね」


「極端な話になるけど、勉強してテストの点数があがった奴は、結果が出せた分勉強するのが楽しくなる」

「うん。……いや、どうかな。楽しくはないと思うよ」

「まぁ、それは、うん。で、結果の出なかった奴は、勉強したってどうせ無駄なんじゃないかって気持ちになる」

「不安にはなるかもね」

「そういう気持ちがあると勉強効率も落ちる。集中できなくなる。成績もさらに落ちる」

「……つまり?」

「悪いところにいる奴はさらに悪いところに落ちていくし、良いところにいる奴はさらに良いところに昇っていく」

 彼女はちょっと納得しかねるような顔をした。

「誰かにやさしくしたときに、それを受け止めてもらえた人は誰かにやさしくすることに抵抗を覚えない。
 反対に、やさしさを突っぱねられた人は、人にやさしくすることが怖くなる。
 やさしいことができる奴はいい奴だって言われるし、できない奴は感じが悪い奴だって思われる。
 そう思われると、更にやさしくなれなくなっていく。まあ、そんな感じ」


「でもそれって、相手にとってその親切が嬉しくなかったり、見当違いだったり、タイミングが悪かったりする場合もあるでしょ?」

「もちろんそうだろうけど。でも例え話だし」

 彼女はちょっと考え込んだ様子だった。
 気付けば空は暗くなっている。太陽が雲に隠れはじめ、風が冷たくなりはじめていた。

「そもそも、その親切で相手が喜ぶかどうかなんて、正確に見極められる奴はいないんじゃないかな。
 自分がしたことで相手が喜ぶかどうかなんて、結局、運次第じゃない?」

 俺の言葉に、彼女は困ったように首を傾げた。同意はしかねるらしい。
 
「まあ、とにかく、そんな感じで、世の中って不平等だよな、ということ」

「それはそうだろうけどね。でも、不平等って、そんなに落ち込むようなこと?」

「どうだろうね。あんまり関係ないかも」

 溜め息が出る。
 彼女は不思議そうな顔のまま天気の移り変わりを見上げていた。




 ぎい、と鉄扉が軋む音がした。

 屋上に来る人は、そんなに多くない。
 一年の春頃に、興味を持ってやってくる人も多いけれど、みんなそのうち来なくなる。

 風を遮るものがないぶん何をするにも不便だし、肌寒かったりもする。
 高い場所にあるだけで、べつに面白いわけでもない。

 頻繁に掃除されているわけでもないから、そんなに綺麗な場所とも言えない。
 夏頃はここに来る人も結構いたけれど、大抵の人は太陽の光にうんざりして屋内に戻っていった。

 だから、人が来るのは珍しい。そう思って後ろを振り返ると、扉から出てきたのは後輩だった。
 何か用事でもあったのかと思って様子をうかがう。  
 後輩は俺たちふたりを交互に見つめると、じっとしたまま黙り込んでしまった。

 俺が困っていると、隣に立っていた彼女がフェンスを離れる。

「わたし、もう行くから」

 それだけ言うとあっというまにいなくなってしまった。
 取り残された俺と後輩は、しばらく言葉もなく向かい合っていた。


「どうしたの?」

 と、俺は声を掛けてみた。後輩はちょっと困った顔をしている。

「いえ。せんぱいを探してたんです」

「なんで?」

「ちょっと訊きたいことがあって。たぶん屋上だろうって、他の先輩たちが言ってたので」

 そこまで言ってから、彼女は少し緊張した様子になった。

「さっきの人……」

「知り合い?」

 ちょっとしたごまかしも含めて何かを訊かれるより先に訊いてみると、彼女は面食らったようだった。

「いえ、どこかで会ったことがある気はしますけど。……彼女さんですか?」

「まさか」

 否定。それ以上は何も言わなかった。でも事実だ。俺は彼女の名前すら知らない。


「それで、訊きたいことって?」

「小説のこと、なんですけど」

「え?」

「……変ですかね?」

 変といえば、変だった。
「小説のこと」というのが彼女が書くものについてなのか、俺が書いたものについてなのかは分からない。
 たぶん前者についてなのだろうけど、そうだとすると俺に訊ねる理由が分からなかった。

「まあ、変といえば変だね」
 
 俺は思ったことをそのまま言った。
 彼女は俯いて、何か考え事を始めてしまった。

「寒くなってきたし、部室いかない?」

「……はい」

 後輩が頷いたのを見て、俺は校舎の中へと向かった。後輩は黙ってあとをついてきた。

 結局、そもそもの用件だったらしい「訊きたいこと」を、彼女がその日のうちに訊いてくることはなかった。

つづく




 土曜日、目が覚めたのは午前十時過ぎだった。
 
 しばらく何もする気になれずベッドの中で転がる。
 課題もない。したいこともない。よって寝ていても何の問題もない。

 こういう生活をしているとときどきうんざりする。

 危機感からベッドを抜け出して階下に降りると妹が旅番組を見ていた。
 若く見える三十代か老けて見える二十代か、そのどちらかの女性が美味そうにうどんを啜っている。

「……今晩うどんにしよ」
 
 妹がぼそりと呟いていたのが印象的だった。


 休日はぼんやり家の中に篭もって過ごすと後悔することになる。  
 時間を無駄にした気になるからだ。そうなると憂鬱になる。

 ので、出かけることにした。

 さて、どこにしよう、と俺は考える。

(どうする?)と自分にも訊いてみた。
(さあ?)と俺は答えた。何も思いつかなかった。

 何も考えずに出かけるのは避けたい。だいたいの場合本屋に辿り着いてしまうからだ。
 本屋に行って、気になる本を手にとって、まだ読みかけている本があることを思い出す。そして買わずに帰る。
 そういうことを俺はもう何度も繰り返していた。中三の春頃からずっと。

 かといって、他に見たい場所もない 
 CDショップやレンタルショップならいいかとも思ったけれど、あまり気は進まない。

 映画館がいいかもしれない。特に気になる映画もやっていないけど。
 




 館内は薄暗くてポップコーンの匂いがする。

 昔からこのむせかえるような甘ったるい匂いがあんまり得意じゃなかった。
 鼻を塞ぐような匂い。
 この匂いを嗅ぐと、「ねえ、楽しいでしょう?」と訊かれているような気分になる。

 土日とはいえ、休み明けだからか、あまり若者の姿は見えない。 
 といっても、大人だってそう多いわけじゃない。人があまりいないということだ。
 
 なんだか映画を観る前からポップコーンの匂いだけでうんざりしてしまった。
 上映時間を見ると、三十分後から始まるものがあるらしかった。

 少なくともシアターの中に入れば、この匂いからは逃れられる。
 休憩用のテーブルで、若い男女がパンフレットを見ながら楽しそうに話をしていた。

 出かけるたびに思うことなんだけれど、この街にはあまり一人で出歩く人がいない気がする。
 
 一時間ほど前に目覚めたばかりだからか、妙に頭がぼんやりして、考え事に耽ってしまう。

 疲れる。



 溜め息をついたとき、後ろから肩を叩かれた。
 部長だった。不思議そうな顔で立っていた。

「や。奇遇だねー」

「……」

 とっさに返事ができなかった。何を言ったらいいのか、よくわからない。

「映画? って、そりゃそうか」

「……はい」

 ようやく返事ができた。部長は一人で喋って一人で笑っていた。
 
「何見るの?」

 訊かれて、チケットを買っていなかったことを思い出した。
 俺は上映時間が一番近い映画を確認して、そのタイトルを言った。聞いたこともないタイトルだった。

「おんなじ奴だ」

 彼女は少し意外そうな顔をした。



「ねえ、じゃあさ、一緒に見ない? 券買ってないんでしょ?」

「……まあ」

「よし、決定」

 部長はあっさりと決定してしまうと売り場に向かって歩き出した。仕方なく後を追う。
 偶然。

 まあ、べつに悪いことではないのだろうけど。なんとなく落ち着かない。
 ……まあ、同じ映画を観るのに知り合い同士が別の場所にいるっていうのも、変、か?

 妙なこだわりがあるわけでもないし。とはいえ、そのあたりがあっさりしているのは部長の性格のせいだろうけれど。

 チケットを二人で買ったあと、部長はあっというまに二人分のポップコーンと飲み物を買って俺をテーブルへと手招きした。
 代金を支払おうとすると、部長は「いいからいいからー」と笑って言う。
 いいわけねえだろと思いながら代金を押し付けた。部長は笑った。

「でも、変わった映画観るんだね?」

「……まあ、意外性のある男を目指してるので」


「意外性かー。なるほどねー」

 もちろん俺は、自分がどんな映画を観ようとしているのかを知らなかった。
 部長はうんうん頷きながら「意外性は大事だねー」なんて言ってる。

 というより、自分が観る映画を「変わった映画」って。
 どんな映画なんだろう。妙に気になってきてしまった。

「そういえば、文化祭まで一ヵ月切ったわけだけど、どう?」

「どう、とは?」

「ほろにが系川柳」

「……あー」

 何も考えていなかった。
 二週間前までに提出となると、もうリミットはそんなにない。 
 まあ、川柳で行くなら(適当なので済ませるなら)、そんなに問題はないけど。
 
 そもそも部誌の作成は強制参加ではなかった。


「今年はみんな苦戦してるみたい。夏休みの内から考えててねーって言ってたのに」

「いやあ。あはは」

 笑ってごまかした。
 部長は一瞬むっとした顔になったが、そのあとすぐに気を取り直そうとするみたいに咳払いをした。

「まあ、いいんだけどさ」

 諦めたみたいな顔。ちょっと寂しそうな。
 俺は何かを言うべきなんだろうか。

 そうこうしているうちに開場の時間になった。
 薄暗いシアターの中で指定席を探す。
 客はほとんどいないようだった。
 
 ほとんどというか俺たちふたりを除いても二、三人。
 そのうちの一人は二十代後半くらいのやせぎすの男で、後ろの方で眠っていた。

 ……妙に不安になる光景だ。




 隣に座る部長は予告が始まったあたりから映像に集中しはじめた。
 身じろぎひとつしなかった。ポップコーンひとつかじらなかった。

 隣にいる部長が気になって、俺はいまいち集中できない。
 とはいえ暗い場所で黙り込んでいるのだから、普段と同じような気持ちとはいかない。

 音と光に刺激されたまま身動きしない。
 
(どうして俺はここにいるんだ?)と俺は思った。

 予告は終わって映画が始まった。
 暗い映画だった。というのは、視覚的な意味で暗いという意味だ。

 全編を通して、濃い影が画面を支配している。
 暗くて何が起こっているのかも何も分からなかった。
 音と台詞でかろうじて話の筋が追えるくらいだ。

 目だけを動かして部長の方を覗き見る。彼女は集中しているみたいだった。




 映画が終わったあと、少し話でもしようと部長は言った。
 俺たちは映画館を出てすぐそばのハンバーガーショップに入ることにした。

 テーブルにつくと、どちらも口を閉ざしてしまった。
 いい時間だから店内は結構混み合っていて、おかげで騒々しい。

 部長は少ししてから映画の感想についての話題を振ってきた。
 俺は覚えているかぎりの情報を強引に並べ立てた。

「ラストシーンの俳優の演技すごかったですね。ちょっと唖然としました」

 とかそんな具合に。さいわい部長の方も不審には思わなかったようだった。
 実際、つまらない映画ではなかった。面白いかと言われると首を傾げるところはあるが。

 そんな調子なので、部分部分の良かったところ、悪かったところをあげているうちに、すぐ話は終わってしまう。

 また沈黙。
 


「ね、あのさ」

 不意に部長が口を開いた。

「ホントに、小説書かないの?」
 
 俺はジュースを啜りながら少し考えた。

「ううん。今からだと、どっちにしても間に合いそうにないので」

 部長もやけにこだわっているように見える。

「うーん」

 と彼女は考え込んでしまった。停滞。

「部長は今年も書いたんですよね?」

「うん。わたしのはもうできてるから」



「部長は……」

「ん?」

「文章書くの、好きですか?」

 俺の質問に、彼女はちょっと不思議そうな顔をして、それから唸るように考え込んでしまった。
 後悔して質問を取り下げようとしたときに、彼女はしっかりと、うん、と頷く。

「まあ、うん。好きだから書いてるというか。嫌になるときもあるけど……」
 
「……そうですか」

 そうなんだろうな、と俺は思った。

 映画を観て素直に感動したり、文章を書くのが楽しかったり、話を考えるのが面白かったり。 
 花火を一生懸命に見上げたり、楽しかったことを思い出したり、そういうことの出来る人が、たぶん、面白いものを書く。

 溜め息が出そうになったけれど、こらえる。
 さすがに今のタイミングで溜め息をついたら、逆に質問されてしまいそうだ。


「スランプ?」

 と部長は言った。ちょっと困った感じの顔で。

「そういうわけでもないですけど」

 というより、たかだか趣味や部活でスランプも何もない。書けるときに書けばいいだけなのだ。
 
「去年の部誌、評判よかったよね」

 部長は急に話を変えた。俺は頷く。といっても、まぁ、言うほどの評判があったわけでもないのだが。
 文芸部の部誌を手に取る奴なんてたかが知れてる。読む奴はもっと知れている。感想を寄せる奴は更に限られる。
 
「まあ、部長の、面白かったですもんね」

 世辞のつもりもなく言う。実際おもしろかった。
 バラバラの短い話が最後の最後で繋がってくるという連作短編だったのだけれど、個々の話も出来がよかった。
 ひそかに、川柳よりも評判になったんじゃないだろうか。

 去年卒業した先輩たちの作品も面白かったことには面白かったが、少し感傷的過ぎた。

「きみたちのもね」

 と部長は言った。正確に言えば評判が良かったのはシィタ派の書いたものだった。
 


 シィタ派が書いたのは不思議な話だった。
 世にも奇妙な物語と星新一のショートショートを足して二で割り、カフカ風にアレンジしたような話。
 
 あいつのすごいところはそれを何本も仕上げたことで、しかもそのほとんど全部が面白かった。
 話が盛り上がる分、部長が書いたものよりも取っ付きやすいという面もあった。

 困ったことに、俺の書いた小説が載った位置は、シィタ派の小説のすぐ後だった。
 おかげで俺の小説も、シィタ派の書いたもののようにオチがあるんだと信じて読んだ人がいたらしい。

 もちろん俺の書いた文章にヤマやオチなんてなかった。
 あるのは「彼女は退屈していた。だから彼女は出かけることにした」という文章だけ。
 意味はない。得るものもない。何か言われるのが嫌でタイトルを「意味のない文章」としたくらいだ。

「これだけ雰囲気違うね」なんて、クラスの女子にシィタ派が言われていたのを見た。
「これ、別の奴が書いたんだよ」とシィタ派は言った。「ああ、そうなんだ。どうりで」そんな具合。

 中には俺の書いた話を褒めてくれる奴もいた。
 でもたぶん、話の流れでそう言っただけなんじゃないかと思っている。
「よかったよ」とか言いながらも、彼らはその話の中身に触れることがなかったからだ。

 もちろん、中身なんてなかったんだけど。

 俺がずっと押し黙ったままだったからだろう。部長は何も言わなくなってしまった。
 結局その日、俺と部長はそのまま別れた。
 

つづく




 家に帰ると玄関に見慣れない靴があった。
 
 多少気になったけれど、妹の友達か何かだろうと思い、リビングは経由せずに自室に戻る。
 
 なんだろう。最近、ずっと憂鬱な気分が続いている。
 夏休みが終わった頃からずっと。あるいはもっと前から。

 何かが致命的に足りない。傾きや、繋がりみたいなものが。
 誰と話をしても他人事みたいな感じしかしない。後に何も残らない。
 そんなことがずっと続いている。

 階段を昇りながらそんなことを考えた。妙なことを考えたせいで気分はいやに重かった。
 重みが肩に感じられるくらいだった。

 ドアを開ける。

 ドアを開けると、普段ならベッドが見える。
 で、そのベッドのすぐ下のあたりに、今日は何かが見えた。
 何かと言うか、足。人間の。膝を折って足の先をこちらに伸ばしている。

 じゃあ、その根元は当然臀部なわけだ。
 とするとその上にかぶさっているひらひらした布はスカートなんだろう。
 状況を整理すると、つまり俺のベッドのすぐ横で、女の子が屈みこんでいる。

 尻をこっちにつき出して。



「……あ?」

 思わず声が出た。

「あっ、帰ってきたっ?」

 と、どこかで聞いたようなくぐもった声がベッドの下から聞こえた。
 声の主はベッドの下に頭を突っ込んでいたらしく、急に抜け出そうとしたせいか頭をベッドの底にぶつけたみたいだ。
 
「あだっ」
 
 とか言ってる。今の声だけで、なんとなく事態を察してしまった。

「……アホだなあ」

「アホっていうな!」

 と声をあげつつ、彼女はベッドの下から抜け出そうとしていた。
 頭というか、上半身を突っ込んでいたので、抜け出すにはそのままの姿勢で後ろへ下がってくるしかない。
 その下がり方というのが、なんというか。
 
 結局、俺の視点からだと、こう、尻を左右に振っているように見えるわけで。
 うーむ。何か最近もこんなことがあったような気がするが。

 あ、ぱんつ見えそう。


 やっとのことでベッドの下から抜け出すと、埃を吸ったのか、彼女は何度かくしゃみをした。鼻水も出した。

「ほら、ティッシュ」

「あ、ありがとう」

 それから鼻をかんで、長い溜め息を吐いた。
 お茶でも出したら「あ、どうもご丁寧に」なんて言ってくれるかもしれない。

「それで、何をしていた」

「いやあ、ほら。年頃の男の子の部屋に来てやることなんて、ねえ? 決まってるでしょ」

「……まあ、いいけど。なんでいるんだ、おまえ」

「あれ、聞いてない?」
 
 従妹は不思議そうな顔をしながらスカートをぱんぱん叩いて埃を落とした。

「お母さん、こないだ電話したって言ってたんだけどなあ」

 電話。そういえば、このあいだ父が夜中に電話していた。
 


「わたし、しばらくこっちで暮らすから。よろしくね、おにいちゃん」

 にっこり笑う。
 従妹は高一で、俺よりも一つ下、妹よりは一つ上。

 見た目は……かわいい。
 髪は黒くてストレート。美少女である。
「男ウケはよさそう」とか「ああいうのに限って性格悪そう」とか言われていそうな感じ。

 どうでもいいが、「ああいうのに限って性格悪そう」というのも見た目の一種だと思う。
 ので、ある意味では容姿に恵まれていないとも言えるかもしれない。

 男子がかわいいと思う女の子の話をしていると、不意に現れて、

「でもあの子性格悪いよ」
 
 とだけ言って去っていく女子に何度か遭遇したことある。
 経験則ではそう語る女子の方が性格が悪く見えることが多くて、言われている方にそんな印象を抱いたことはない。

 こういう話をすると「男ってバカ。見た目に騙されてる」みたいな話になるんだろうか。
 仮に美人=腹黒いが事実だとしても、正直は必ずしも美徳じゃない。
 機嫌悪そうな正直者より笑顔の腹黒女の方が付き合いやすいのだ。なんとも切ない。


 それはともかく。

「こっちで暮らすって、おまえ学校は?」

「うん、まあ。いろいろ?」

 いろいろ、らしい。いいんだけど。

「まあ、今日からよろしくね」

 またにっこり笑う。まあ別にそれはいい。

「おまえ、今なにしてた?」

「うん? いや、ちょっと前についたんだけどさ、ちえこに聞いたら――」

 ちえ、というのが妹の名前だった。「こ」がどこから来たのかを俺は知らない。

「おにいちゃんが出かけてるっていうじゃない? これから一緒に生活する同居人の野獣性を確認するチャンスだと思って」

「……野獣性?」

「ベッドの下が定番だよね?」

「おまえさ……」

 あはは、と従妹は楽しそうに笑った。よく笑う奴だ。


「それにしても、ずいぶん急だな」

 探りを入れるつもりで訊ねると、従妹はちょっと困った顔をした。
 困った顔。
  
 俺は、いったいどれだけの人をこんな表情にさせてきたのか。

「ねえ、それよりもさ」

 彼女は気を取り直そうとするみたいに笑った。

「おにいちゃん、料理の練習してるんでしょ? 晩御飯つくってみてよ」

「……あ、いや、普段作ってるの俺じゃないし」

 叔母宛の手紙をこいつも読んだんだらしかった。
 それにしても食べ物の話しかしない奴だ。

「だと思って、ちえこに頼んでみた。今晩おにいちゃんがつくったの食べてみたいって」

「……あいつに、俺が料理の練習してるって言った?」

「言ったよ。最近様子がおかしいと思ったらー、って驚いてた。戸惑ってたみたいだけど」

「……言ったのか」

 べつに言ったからって問題があるわけじゃないんだけれど。


「なんかまずかった?」

 さっきまでの表情と打って変わって、今度は不安そうな顔。
 いい子だ。みんながこんなふうに表情豊かになれればいい。世界平和になれ。

「別にまずくはない」

 まずくはないが、できればあんまり知られたくなかった。
 今更だし、恰好がつかないような気がする。

 まあ、そんなこといったら格好つけようとするのがそもそも今更なんだけど。
 ほんとうに知られたくなかったなら、手紙にも書かなければよかったのだ。

「……怒ってる?」

 言い方がまずかったのか、彼女はまだ不安そうにしていた。

「怒ってないよ」
 
 俺の答えを聞いて、彼女はようやく安堵した表情になる。
 ……夏に会ったときより、彼女の態度は不安定に見える。




 階下に降りると、妹はソファで昼寝していた。
 父もいないようだし。客人をほったらかしとはとんだ家だ。俺もだけど。

「ちえこはホントに寝るの好きだね」

 従妹は呆れたような、安心したような、奇妙な感じの溜め息をついた。

「おまえ、いつこっちについたの?」

「ほんの一時間くらい前」

「父さんは?」

「えっと……わたしが来たときには、ちえこしかいなかったよ?」

「……なんかあったのかな」

 今日は休みのはずなんだけど。まさか従妹が遊びに来る日にくだらない用事で家を空けるはずもない。
 テーブルの上を確認すると書き置きがあった。

「出かける。父」

 ……どこに? なぜ?


「……昼飯食った?」

「え? うん。着く前に」

「……じゃあ、まあいいか」

 いや、いいのかどうかは分からないが。
 そもそもこいつが何をしに来たのかを知らないので、何もしようがない。

 沈黙。
 放っておきたいところだったけど、別にやりたいこともなく、リビングを離れる理由もない。

「なにかしたいこととか、ある?」

「……え? あ、いいよ。気にしなくて」

「無理だろ」

「……無理か」

「無理」

 俺の言葉に、従妹はおかしそうに笑った。




 父はまだ帰ってくる様子がなく、妹も起きる様子がなかった。

 
 そのまま事態が動くのを待っていてもよかったのだが、従妹がコンビニに行きたいというので案内することにした。 
 太陽の日差し。蝉の鳴き声。少し前までと何も変わらない。

 
 でも、何かが致命的に変わってしまっている。
 なんだろう? よく分からない。

「ここらへん、いいよね。わたしもこういうところ住んでたら、毎朝ジョギングとかできるんだけどね」
 
 隣を歩く従妹はそんなことを言ったけれど、俺には彼女の言っていることがよく分からなかった。

「そんなのどこでもできるだろ?」

 彼女は困った顔で首を横に振った。

「わたしんちってさ、周りに田んぼと山しかないでしょ。あとは他の人の家ばっかり」

 このあたりだって都会というわけでもない。普通の住宅地。
 でも、たしかに従妹の家はここに比べても更に田舎だった。
 その気になればカブトムシもクワガタも捕まえられる。


「走ってると、他の人の家から丸見えなんだよね」

「そんなの、このあたりだってそうだよ」

「うん。でもね、うちの家の近くって、みんな顔見知りだからさ、噂されるんだよ」

「噂?」

「うん。前の家のおばちゃんとかにね、朝走ってたねーって。すぐ広まるんだよ、いろんなこと」

 珍しく、うんざりしたような口調だった。彼女はいつも器用に感情を隠す。 
 本音を軽々しく口にしない。だから温厚に見えるけど、本当はすごく繊細で、しかも気難しい。

「別にジョギングに限らなくてね、あそこの家の子はどこの学校に行ったとかさ、そういうのも全部」

 そういうの、ときどき嫌になるんだよね。従妹は無表情にそう言った。

 従妹には違って見えるのかもしれない。でも、ここだって本当は似たようなものだ。
 そう言おうと思ったけどやめた。何の意味もないことだった。


 コンビニからの帰り道の途中、昔遊んでいた児童公園を通り過ぎたとき、ふと過ぎる記憶があった。

 公園にはよく猫が集まっていた。 
 いろんな奴がいた。茶色いのも白いのも黒いのも掃いて捨てるほどいた。

 その中でもひときわ目を引いた、白い、みすぼらしい猫。
 歩くときはいつも左の後ろ足を引きずっていた。

 毛並みはいつも泥や土で汚れていたし、目は腫れていて、ひどい目ヤニが端の方をほとんど塞いでいた。
 右目の下瞼は化膿してめくれあがり、ピンク色の粘膜が覗いていた。
 瞳は綺麗な青色をしていたが、白目は黄色く澱んでいた。

 尻尾は普通の猫の半分くらいの長さしかなかった。鳴き声は掠れていてほとんど音としての説得力を失っていた。
 それは音というよりもささやかな空気の震えでしかなかった。子供たちは寄ってたかって猫に石を投げつけた。
 他の猫をどれだけかわいがっていた子供だって、あの猫を撫でようとなんてしなかった。

 ただ、気味が悪いだけの猫。それでもその公園から姿を消すことはなくて、何年か前に大通りで車に轢かれて死んだ。
 どうして今そんなことを思い出したんだろう。




 夕飯頃には父も帰ってきたし、妹も起きていた。
 
「じゃあ、晩御飯、よろしくね」

 と妹は眠そうな顔で言った。
 仕方ないので俺はうどんを茹でた。
 
 食卓に何の変哲もないうどんが並ぶ光景を、俺以外の三人は困った顔で眺めていた。

「……なにこれ」

 と従妹は呆然とした様子で言った。

「うどんですが」

「……なんで、うどん?」

「……」

「めんどくさくなったんだろ!」

 従妹はそんなふうに吠えたけれど、妹と父はおかしそうに笑っていた。

つづく



 
 月曜の朝は雨が降っていた。

 家を早く出れば学校にも早く着く。今朝は早く出たので、早く着いた。
 教室にはまだ誰もいない。普段だったらそこらじゅうで騒いでいるクラスメイトたちもいない。
  
 まあ、いたっていなくたって俺には関係ないんだけど。
 
 誰もいない朝の学校。雨の音とひんやりとした空気。
 悪くない気分だった。

 雨は好きだった。出先で降られたりするとうんざりするけれど、室内から眺める分には。
 そんなに強くはないけれど、かといって小雨というほどでもない雨。
 一時間もすればグラウンドに大きな水たまりを作ることだろう。

 心が安らぐ。

 あまりにも雨の音が好きすぎて、以前、自然音を収録したCDなんてものまで買ったことがある。

 まあ別に悪くはないのだけれど、聞いている内にたいしたことねーよなという気分になってくるのだ。
 最終的には「なんで俺はこんなもん買ったんだ……」という自己嫌悪に駆られ落ち込んでしまう。

 癒されるはずがむしろダメージを負うという奇妙な経験だった。
 それに比べて自然の雨の音はいい。なにせタダだ。



 ぼんやりと浸っていると徐々に人が増え始めた。 
 賑やかになりはじめるが、クラスメイト達の表情もどこか精彩を欠いている気がする。
 
 みんな雨が憂鬱なんだろうか。月曜日だからだろうか。
 雨の日と月曜日は気が滅入るってカーペンターズも歌ってたし、両方かもしれない。
 
 ぼんやりとそんなことを考えながらシャーペンで定規を弾いて遊んでいると、ビィ派とシィタ派が登校してきた。

 二人とも眠そうだった。

 せっかくなので「眠そうだね?」と訊いてみる。

「……いや、うん。朝までゲームしてた」

 ビィ派の答えはそれだった。いつものことだけど、生活を犠牲にしてまでゲームをする情熱はすさまじい。
 なんてことを、俺がからかい半分にビィ派に言ったりすれば、

「どんな形であれ、何かに熱中できるほうができないよりはいいよ」

 とシィタ派が大真面目に返してきたりする。どうだろう?



「それにしても、変わり映えしないよな」

 ビィ派は教室の中を見渡してそう言った。
 
「自分だってそうだろう」

 そう言うと、ビィ派は珍しくちょっと傷ついたみたいな顔をした。

「まあな」

 俺はちょっと後悔した。
 
 実際、ビィ派の言う通りでもあったのだ。変わり映えしない。

 一学期に騒いでた奴は二学期になっても騒いでいるし、静かだった奴は今も静かだ。
 変化はもちろんある。前は仲が良かったのに、今じゃ一言も交わさないとか、そんな感じ。

 本人たちからすれば、何かの事件があったのかもしれない。今も事件が続いているのかもしれない。
 でもこうやって、端の方から見てみれば、そんなのは取るに足らない、どうしようもないことだった。

 とても変化と呼べるようなものじゃない。
 そこまで考えてから、俺は少し嫌な気分になった。



 特に面白い話題もなくて、話はすぐに途切れてしまった。
 ビィ派は自分の席につくと顔を埋めて眠りはじめた。

「おまえはなんで眠そうなの?」

 と今度はシィタ派に訊ねてみると、彼は照れくさそうな顔でこめかみのあたりを掻いた。

「部誌の原稿。思うように捗らなくて」

「別に新作書く必要もないんじゃないの?」

「まあ、そりゃ、そうなんだけどさ」

 彼はちょっと考え込むような顔になった。
 ビィ派がいるとそうでもないんだけど、彼と俺だけだと話があまり弾まない。

 まあ、べつにそれで気まずくなったりするわけでもないのだけど。

「なんとなく新しいのを書いときたい気分なんだよ」

 ふうん、と俺は思った。彼にもそういうことがあるのだと初めて知った。




「そっちはどう?」

「どうって?」

「書いてるんだろ?」

 と彼は大真面目な顔で言った。
 別に本気でごまかせるなんて思っていたわけじゃない。
 態度や言動で、なんとなく、それくらいのことはばれてるだろうとは思っていた。

 それでも、彼なら訊いてこないと、どこかたかをくくっていた。部長だって後輩だって、みんな訊いてこないだろうと。

「……まあ、一応ね」

 俺の答えに、彼は安堵したように溜め息をついた。
 そんなに不安に感じるくらいなら、訊かなきゃいいだろうに。

「そっか。調子は?」

「どうも上手くいかないな。そっちは?」

「……どうにも、ね」

 彼にだって調子の悪いときくらいはある、らしい。


「部長に相談もしてみたんだけど……」

「なんて言ってた?」

 彼は肩をすくめた。

「書くことに、書き切ること以上の成果を求めてませんか? って。言ってる意味、分かる?」

「……さあ?」

「書き切るだけじゃ、ダメだよな?」

「……と、思うけど」

 うーん、と二人で考え込む。

「好きに書けってことかな?」

「……好きに書くって、どうやるんだっけ?」




 好きなものを書けばいいんだよー、と部長なら言うんだろうけど。
 シィタ派はともかく、俺はその「好きなもの」というのがよく分からなかった。

 好きな食べ物はなんですか。リンゴです。
 ではリンゴについて書いてみましょう、という話になるんだろうか。

 じゃあ今回の「彼女」はリンゴが好きだった。そういうことにしてしまおう。
「彼女」は今、自分の家にいる。一人暮らし。どこかのアパートの一室だ。

 その日は平日だったけれど仕事は休みで、天気は朝からどんよりとした曇りだった。
 
 家に居るのは退屈だったけれど、取り立てて済ませてしまいたい用事もない。
 だから、ぼんやりと窓の外の雲の形を眺めながら、さて、出掛けるべきか出掛けざるべきか、などと悩んでいる。
 
 それから彼女はどうしてもリンゴが食べたくなって、結局出掛けることにする――?

 ……ないだろう。この「彼女」はどう考えたってリンゴひとつのために出かけるような女じゃない。
 仕事帰りに立ち寄った果物屋で気まぐれにリンゴを買うような女だ。

 それでもどうにかしてこの女に出掛けてもらわなくては困る。
 まったく面倒な女だ。もうちょっと素直で扱いやすいほうが助かる。




 放課後、部室に行ったときには既に俺以外の全員が揃っていた。
 顧問は案の定いなかった。文化祭前だというのにろくに顔も見せない。

 だからある程度自由にやれている面もあるんだろうけど。

 部室の中ではみんなが好き勝手やっていた。
 シィタ派はいつものように窓際でぼんやりしていたし、後輩は一生懸命にノートに向かって何かを書いていた。
 
 部長は……寝ていた。

「……なんで寝てるの、この人」

「気付いたら寝ちゃってました」

 後輩が苦笑しながらそう教えてくれた。

「あの」

 と声が聞こえた。たぶん他の人に言っているのだろうと思い、鞄を置いて椅子に座ると、

「あの!」

 と更に大きな声になった。そっちを振り返ると、編入生が困った顔で俺を見ていた。

「はい?」



「わたし、なにしてればいいですかね?」

 なんで俺に訊くんだろう、と思ったけれど、部長は寝ていたし、シィタ派には声を掛けづらいのかもしれない。
 それだったら別に後輩に訊いたっていいと思うんだけど、まあ下級生に訊くよりは、と考えたのか。

 とはいえ、

「なにも。好きにどうぞ」

 ということ以上は俺の口からは言えない。文芸部って、普通のところはどんなことしてるんだろう。
 俺の答えを受けた編入生は余計に困った顔をしていた。

 そのまま自分の作業をしようと思ったのだが、後輩が俺に「さすがにそれはどうかと」という視線を向けていた。
 見ればシィタ派もこちらを見ていて、「それはどうなのよ?」という顔をしている。

 じゃあおまえらが何か言え。

 と思いつつも、さすがにそんな顔をされるとこちらとしてもちょっと考えてしまう。
 シィタ派はともかく後輩は俺にとってはかわいい後輩であるわけで、こんなくだらないことで軽蔑されたくはない。

「ええと、そうだな。文化祭のことって、部長から何か訊いてる?」


 俺の質問に、編入生はようやく話が進んだという顔をした。

「部誌を作って出すんですよね?」

「そう。その部誌。きみも何か書くように言われた?」

「いえ。どちらでもいいって言われました」

「……あのさ、学年同じだよね?」

「え、はい」

「敬語じゃなくていいよ」

「……あ、はい」

 お約束だ。

「まあ、部誌に何か出してみたいっていうんだったら、手助けはできないけど、去年までのバックナンバーがあるから」

 俺は部室の隅の戸棚の中に並べられた部誌を指差した。

「それ読んで、何か書いてみてもいいと思う。書かないっていうなら、まあ、本でも読んでるのがいいかな」


「……そ、うですか」

 編入生はまだ困った顔をしていた。
 まあ、この部は基本的に沈黙に支配されているわけで、慣れていないとキツいかもしれない。
 
 ああ、そうだ。

「編入生さん、ちょっといい?」

「……はい?」

「女の人を家から外に出したいときってどうすればいいと思う?」

 彼女はちょっと困った顔をした。

「えっと、電話を掛ける、とか」

 俺は感心して溜め息をついた。

「きみ頭いいね」

つづく




 編入生が部誌のバックナンバーに目を通し始めたのを確認してから、俺はノートを開いた。

「……やっぱり書くんじゃないですか」
 
 後輩がすぐに声を掛けてくる。ちょっとわずらわしい。今引っかかったところだったのに。

「べつにそういうんじゃない」

 俺はそう返事をしたけれど、「そういうんじゃない」というのがどういうことなのかは自分でも分からなかった。

「なにがですか」

 と案の定彼女は不機嫌そうになる。

「ちゃんと書いてください。わたしは、待ってるんですからね」

 俺は三秒くらいその言葉を無視した。でも三秒経った後に、何かおかしなことを聞いたような気持ちになった。
 後輩の顔を見返すと、彼女はいたって真剣な顔をしている。愛の告白でもしてきそうなくらいだった。

「待ってるって、何を?」

「せんぱいが書くのを、です」

「……なぜ?」

「……」

「まあ、なんでもいいけど。あんまり期待には応えられそうにないよ」





 さっそく彼女の部屋の電話を鳴らしてみた。
「彼女」は電話に出るだろうか? ……出るだろう。

 三、四回コール音を無視してから、仕方なさそうに立ち上がって電話台まで歩く。

  
 掛かってきた電話はなんだろう? 
 友達からの電話? いや、違う。その日は平日だったはずだし、たぶん時刻は昼下がりだ。

 そんな時間に電話を掛けてくるような友達は彼女にはいない。

 そもそも、友達からなら、携帯の方に掛ければ済むはずだ。
 だとすると何か悪い知らせかもしれない。あるいは何かのプロモーションかもしれない。

 なんだろう、と俺は考える。彼女も考える。

 そうだな、と俺は思った。宅配便の在宅確認かもしれない。その線が濃厚だ。
 代引きで何か頼んでいたんだろう。

 本や漫画の新刊かもしれないし、ネットで安く買ったコスメの類かもしれない。
 あるいは別れた恋人にあげるはずだったプレゼントの注文を取り消すのを忘れたのかもしれない。

 きっと在宅確認の電話に出た彼女自身も、自分が何を頼んだのか思い出せないはずだ。


 彼女は暇つぶしがてら、自分がいったい何を頼んだのかを思い出そうとする。
 でも一向に思い出せない。結局思い出すのをあきらめて、コーヒーでも入れてぼんやりと荷物が来るのを待つ。
 
 ……。

 電話をすれば外に出せるような気がしたのだけれど、むしろこれでは部屋の中に縛られている。
 
 駄目だな、と俺は思った。この調子じゃまだ外に出るまで時間が掛かりそうだ。
 できればその日のうちに出掛けてほしいんだけど、荷物が届くのは夕方頃だろう。
 
 夕方頃にわざわざリンゴを買いに出かけるような気分になってくれるだろうか?

 俺は一度書くのを中断して溜め息をついた。
 伸びをして体の緊張を解く。

 椅子の背もたれに身をあずけると、すぐ傍にいた後輩が俺のノートを覗き込んでいたことに気付いた。

「……きみ、自分の作業はいいの?」

「あとでやります」

 熱心に目を動かしている。許可くらいとってほしいものだ。



「……」

 見れば、シィタ派も、眠っていたはずの部長も、驚いた顔で後輩の様子を見ていた。
 視線に怖気づくこともなく、後輩はノートに目を通し続ける。

「……どうしたの?」

 俺が後輩にそう訊ねたのは、だいたい十五秒くらい経ってからだった。

「……」

 後輩は返事をくれなかった。

 助けを求めてほかの部員たちに視線をやる。

 わたしは寝ています、という態度(部長)。

 対処法を持ち合わせていない、という目(シィタ派)

 これが異常事態なのかどうか察しかねる、という顔(編入生)。

「つづき」

 と、不意に彼女は口を開いた。

「つづき、まだですか」


 冷え切った声だ。彼女の声じゃないみたいだった。
 まるでもっと他の何かが彼女の身体を乗っ取って、彼女の口を借りて喋っているような感じがした。

 もちろんそんなわけはなく、たしかに彼女が喋っているはずなんだけれど、そういうふうに感じた。

「……まだだよ。だから書いてるんだ」

「……そうですか」

 それから彼女は目を閉じて長く溜め息をついた。
 ほんとうに長い溜め息だと感じた。たぶんほんの一、二秒のささやかな溜め息。
 それが途方もなく長いもののように思えたのだ。

「わたしも自分の書かなきゃ」

 そう言って顔をあげたときには、彼女は普段の彼女だった。

 俺は今見たものを受け止めかねていた。

 いったいなんだったんだろう?




 結局その日は、馬鹿らしくなって続きを書くのはやめてしまった。
 
 彼女が出掛けようと出掛けまいと、そんなのは関係ない。
 取るに足らない話だ。

 俺はノートを閉じて鞄の中にしまう。こういう気分になると、まず書くことはできない。

 机に体重をあずけてぼんやりしていると、不意に誰かが立ちあがる音が聞こえた。

「あの、わたし、これからちょっと用事があって……」

 声をあげたのは編入生だった。

「すみませんけど、先に……」

「あ、うん。了解ー」

 部長の頷きのあと、編入生は部室を出て行った。誰も何もしゃべらなかった。

 扉の閉まる音。
 取るに足らない。





 屋上に吹く風はいつもより冷たかった。
 曇っているから、それも当たり前の話だ。

 雨は昼過ぎには止んでいたけれど、空は灰色に覆われている。
 
 屋上の地面は濡れているようだった。

 朝の内に出来上がっただろう水溜りを避けながら、フェンスの近くに立つ。
 靴の底は濡れるだろうけど、たいして厭わなかった。
 屋上の入口には、それ用のマットだって一応置いてある。

 なんの慰めにもならないけど。

 普段と街の様子は違ったけれど、それでも彼女は屋上に立っていた。

「元気?」

 と声を掛けると、

「まあまあね」

 と返事が来る。


 前にもこんなことがあった。
 何度もこんなことを繰り返した。

 同じことをずっと繰り返している。

 退屈で取るに足らない、鬱屈していてうんざりする、焼き増しの毎日。
 いろんなことの関係が綺麗に断ち切られて、何もかもがバラバラに浮き上がっている。
 
 何もかもがうまく回らない。うまく繋がってくれない。起こることが全部他人事。
 去年の秋。もっと前。中三の春。違う。中二の秋。……もっと前。
 もっと前からずっとだ。

「変なの」
 
 と彼女は言った。

「なにが?」

「べつに」

 なぜかは知らないけれど、俺は彼女のその言葉に無性に苛立った。
 


「最近はわたしもつらい」

 彼女は何も訊かずにそんなことを言った。
 こちらも何かを訊かれたい気分じゃなかったので、すごく助かる。
 
 でも、気遣われたのかと思うと、不思議に思う気持ちと一緒に、申し訳なさが湧いてきた。
 
「文化祭の準備始まったでしょ。わたしのクラス、あれやるんだって。あの……」

 しばらく彼女は苦しそうな顔でうんうんと唸った。

「……ホラーハウス?」

 お化け屋敷をやるらしい。

「ああいうの、困るな。普段だったらやる気ない人も妙に張り切っちゃってさ」

「……」

「自分がのけものになったみたいな気分になるんだよ」

 なったもなにも、と、

「最初からのけものなんだけどさ」

 言う前に言われてしまった。

「でも、何もないうちは、のけものじゃないのかもって錯覚できるんだよ、本当に」


 結局さ、堂々巡りなんだよね、と彼女は言った。

「つらいなあって思う。ちょっといいことがある。またつらくなる。その繰り返し。
 次にいいことがあるとは限らないでしょ。ずっと悪いことばっかりかもしれない。
 でも、ひょっとしたらいいことがあるかもって思って、続けて……いいことがあって、でもやっぱり終わって」

 堂々巡り。得意げな、綺麗な笑顔だった。

「いつまで繰り返すんだろう」

 自問のような言葉。
  
「彼女」を部屋から出すにはどうしたらいいのだろう、と俺は考える。

 たとえば「彼女」が小さな子供で、母親にリンゴを買ってくるようにお使いを頼まれた、となれば、そこで話は終わってしまえる。
 あるいは「彼女」が素直で、明るくて、活発な女の子だったら、気分転換に出掛けようって話にもなる。

 でもそうじゃない。

「彼女」はとても思いつめていて、根っこの部分で人に心を預けていない。そしてたぶん、ほとんど何も期待していない。


 古い友達から電話が掛かってきたって嫌気が差すだけで。
 お使いなんて頼まれても、死んだって行きたくなくて。
 気分転換に外に出掛けるよりは、不貞寝している方がよっぽど気がまぎれると考えるような人で。

「彼女」を「彼女」じゃなくしてしまえば、文章を書くことはできる。

 でもそれだけじゃダメだった。俺が出掛けてほしいのは「彼女」だ。
 それ以外の誰かなんて放っておいたって勝手に出掛けるのだ。

 どう考えたって代償行為だ。
悦に入っているだけかもしれない。単なる自己投影の変形かもしれない。
 
 でもそうする以外ない。

「彼女」が出掛けないとするなら、俺だって身動きが取れなくなってしまうんだから。

つづく




 大声で、誰かと誰かが何かを言い争っていた。いつものことだ。
 ヒステリックな金切声。隣にいる誰かの声さえ、俺には聞こえない。
 
 いつも見る夢だ。

 俺と彼女は、すぐ傍から聞こえる言い争いを無視して、黙々と食事をとる。

 言い争い? 違う。それは一方的な糾弾だ。 
 一方がもう片方を、ただ思う様に責め続ける。断罪だ。よく分からない言葉の連続。

 それは毎日繰り返されていた。日常だった。
 
 だから、俺と彼女の中では、「それ」は大声で責めたてるものだったし、父とは「それ」に責められるものだった。
 食事中だろうがなんだろうが、無関係に怒鳴り声をあげるのが「それ」だったし、俺も彼女も、その資格が「それ」にあるのだろうと思っていた。
 そうされるだけのことを、父がしたのだろうと思っていた。

 そして、俺も彼女も、それをどこか、自分とは関係のない話だと受け止めていた。
 家の中でどれだけ大きな叫び声が聞こえても、それは自分たちではなく、父に向けられているのだろうと。
 もしそれが父の声だったなら、「それ」に何かを言い返したのだろうと。

 だから大声が飛び交う中で、俺と彼女は、自分とは無関係な情報をシャットアウトして、黙々と食事を続けていた。
 声は音でしかなかったし、人は影絵のようなものだった。

 夢は夢だ。




「おにいちゃん、起きて」

 翌朝はそんなふうに起こされた。声は、わずかに緊張を含んでいるような気がした。
 また寝過ごしたのか、と思うよりも先に違和感を抱いた。

「……だれ?」

「起きて。ちえこが……」
 
 瞼を開けると、従妹が俺の顔を覗き込んでいた。身体を起こして伸びをする。
 なんだかいつになく手足が重い。

「……なんだって?」

「ちえこが風邪ひいたみたい」

 従妹はちょっと戸惑った顔でそう言った。



 夜中の三時まで机で居眠りをしていたら、そりゃあ風邪を引く。
 ただでさえ九月に入って夜は冷えるようになってきた。

 季節の変わり目だ。気をつけなきゃ風邪だってひく。

 妹は制服姿のままリビングのソファでぐったりと横になっていた。
 
「おい、大丈夫か?」

「……うん」

 青ざめた顔をしていた。

「薬も飲んだし、ちょっと休んでたらよくなると思うから」

 弱々しく笑って、妹は瞼を閉じた。
 強がりだろうか。本当だろうか。

 強引にでも休ませるべきだという気もするし、もう自分で判断できる歳だろうという気もした。
 どっちだろう。



 互いに黙り込む。従妹がうしろでうろたえているのが分かった。
 
「熱は計ったのか?」

「……」

「……計ったんだな? 何度だった?」

「……三十六度八分」

「どうして嘘をつく?」

「……三十八度一分。なんか具合悪いなって思って熱計ったら、余計に具合悪くなっちゃった」

 それにしたってずいぶん高い。
 
「ずっと体調悪かったんじゃないか?」

 返事はない。都合が悪くなると、すぐに黙り込む。もしくは、謝る。

「……ごめんなさい」

 気付かなかった俺も俺だ。本人さえ、自覚がなかったのかもしれないが。



「今日は休んだ方がいい。他の人にも迷惑になるから」

「……うん。あ、お兄ちゃん」

 素直に頷いたかと思えば、急に顔をあげる。

「テーブルの上に、お弁当あるから」

「うん」

「それと、朝ごはん……」

「……うん」
 
 俺は段々と居たたまれなくなってきた。

「……洗濯物、まだ干してない」

「俺がやるから」

「……ごめんなさい」


 こういう奴だった。昔からずっとこうだった。
 いつも怯えてる。びくびくしてる。自分が誰かに迷惑を掛けていないかって不安がる。
 見放されるんじゃないかって、いつも怯えてる。

 悪いことなんて何もしてないのに
 謝らなきゃいけないのはいつだってこっちなのに。

 妹は身体を起こして立ち上がると、ふらふらとリビングを出て行った。
 自室に戻って着替えるつもりだろう。

 俺は居心地悪そうにしている従妹に声を掛けた。

「おまえ、料理できるっけ?」

「あ……うん。家でしてたから」

 そういえば、そうだった。今は叔母さんが働きに出ているから……。
 ……頭がうまく回らない。

「悪いけど、あいつの面倒見てやってくれ。俺も今日、早めに帰ってくるから」

「うん。しっかり看病する。こういうときに役に立たなかったら、何の為の居候かわかんないもんね」

 ……少なくとも、緊急時に家事をこなしてもらうために居候させているわけでもないだろうけど。




 玄関を出て靴の踵を直したあと、何かが変だ、と思った。

 塵のような細かな霧雨が、舞うように地面に降っていた。太陽の光は布越しに見るかのように霞んでいる。
 すごく肌寒い。冗談みたいに。

 何かが変だ、と俺はもう一度思う。何が変なんだろう。
 
 霧のせいだろうか。視界は悪く、人の気配も遠い。音も鈍く聞こえる。
 もちろん歩くぶんにはまったく困らない。横断歩道の向こうの信号だってちゃんと見える。
 車のライトだってちゃんと分かる。でも、どこか現実味がない。夢の中のような浮遊感。色彩は説得力に欠けている。
 どこかから誰かと誰かが囁き合うような声が聞こえた。くすくすという笑い声すら聞こえそうな気がする。

 濡れた土の匂い。

 天気のせいだ、と俺は思った。珍しい天気だから、ちょっとそんな気がするだけだ。

(本当に?)と俺は訊いた。
(さあ?)と俺は答えた。

 天気のせいなんかじゃない。本当は分かっている。かといって何かが変わったというわけでもない。
 眼鏡を掛ける前と、掛けた後との違い。

 寒々しく、空々しく、よそよそしい。この感じはよく知っている。
 現実だ、と俺は思った。なぜ忘れていられたんだろう。それはずっとここにあったのだ。




 校舎の中は静まり返っていたし、廊下は冷え切っていた。
 誰の話し声も聞こえなかった。そんなに早い時間でもない。人は確かにいるはずなのだ。
 
 それなのに、声も物音もしない。でも気配だけはある。人は確かにいる。

 なんだろう。この奇妙な感覚。説明のつかない不穏さ。
 錯覚かもしれない。

 教室に入る。クラスメイトたちは確かに登校している。
 普段通りに話をしている。笑ったり怒ったりしている。
 
 どうしてだろう? そういうものを、いつもよりずっと遠く感じてしまう。
 色あせている。音が遠い。何かが起こったのかもしれない。俺の身に何かが。だって変だ。

 俺以外のものは全部いつも通りに動いているはずなんだ。
 それなのに、どうしてこんなにも普段と感覚が異なるんだろう。 
 俺の身に何が起こったんだ?



 教室の入り口で立ち尽くしていると、背中を押された。
 
「邪魔」

 と、誰かは俺を押しのけた隙間から教室に入っていって、誰かと気安げに話をし始めた。
 窓の外が真っ白なのが、いやに目についた。
  
 ……落ち着け。
 自分の席に着くだけだ。荷物を置いて、席に着けばいい。それだけだ。何を緊張することがあるんだ?
  
 心臓の音がやけに大きく聞こえる。足元がふわふわとしてどこか頼りない。
 
「おはよう」と誰かが言った。
「おはよう」と俺は返した。

「どうしたの、ぼんやりして」
 
 声はしっかりと耳に届いている。いつもよりはっきりと聞こえる。
 いや、はっきりしすぎている。ありとあらゆる情報が、普段より鮮明に、鋭く伝わってくる。
 処理しきれていない。

 落ち着け、と俺は自分に言い聞かせた。
 


 誰かは目の前にいる。たぶん心配そうな顔。
 見覚えがある。ちゃんとある。そうだ。誰だっけ?

「……いや、ちょっと寝不足で」
 
 と俺は答えた。まだ相手が誰なのかは分からないままだった。
 俺は何かのヒントがないかと思って辺りを見回してみる。取っ掛かりすら見つからなかった。
 目の前の誰かは、何かを勘違いして勝手に言葉を続けた。

「アイツ、風邪ひいて今日休みだってさ。おまえも気を付けた方がいいよ」

「……休み?」

「そう。騒がしいのがいないと、調子狂うよね」

「休み……」

 ――風邪をひいて休んでるんだ。
 ――×××が看てるから大丈夫だと思うけど。
 ――それにしても、嫌な雨だよな。

 ずきり、と、頭が痛んだ。そうだ。そうだよ。雨が降っていたんだ。あの日も。こんなふうな。
 だからすごく不安になるんだ。でも大丈夫なんだ。こんな雨の日は今までに何度もあった。
「俺」は大丈夫なんだ。不安がってるのは「彼女」の方だ。


「なあ、おい。体調悪そうだけど、大丈夫か?」

「……大丈夫。ちょっと、授業が始まるまで、休んでるわ」

「……うん」

 そう言ってしまうと誰かはどこかに行ってしまった。
 彼が行ってしまうと、俺の耳には他の音も何もかも全部が遠のいて聞こえた。
 
 視界に映る光の束も、耳を衝く音の重なりも、全部が全部、未整理のまま打ち捨てられているように思えた。
 何もかもが雑然としていて、はっきりしない。

 だから俺はそれを整理しようとした。文章を書くことによって。
 誰が悪かったのか、何が原因なのか、俺はずっと知りたかった。

 でも、本当に俺がすべきことは、そんなことじゃなかった。

 気に掛けるべきなのは原因じゃなく、結果の方だった。
 俺が気にするべきは「なぜ」その状況が生まれたか、ではなく、その状況を「どう」すべきか、だった。
「それ」をどう処理するべきか、だった。それ以外のことなんて、後回しでかまわなかったのだ。


つづく




 昼休みには、感覚は平常通りに戻っていた。

 屋上の空気は冷たい。
 さすがに昼前には霧ではなくなっていたけれど、細かな雨はまだ降り続いていた。音のない雨。

 霧というのは最悪だ。いつのまにか忍び寄って、小さな虫みたいにひそやかに身体に入り込む。
 気付きもしないうちに、人を内側から底冷えさせていく。そこに躊躇はないし、礫ほどの愛情もない。

 そして、誰もが忘れた頃に、鈍い痛みを連れてくる。

 だから霧雨は嫌いだった。

 それなのに、そんな日は無性に外の様子が気になってしまう。

 どれだけ細かかろうと、雨の下に出れば濡れてしまうのは当たり前だ。
 浮かび上がるような粒には、傘だって無意味だろう。こんな日に外に出る奴なんて馬鹿だ。

 フェンスの近くまで歩く。靴の裏の濡れた感触が気持ち悪い。

 それでも彼女はそこにいた。


「珍しいね。昼に来るなんて」

 彼女は意外そうな顔をした。

「……そっちは、雨の日だろうとお構いなし?」

「今日はたまたま、そういう気分だったから」

「物好きだね」

 雨の感触が不快だった。彼女の様子はいつもとまるで変わらない。
 当たり前だ。天気なんてささやかな変化だ。いつだって少しずつ違う。
 そんなものに影響を受けるなんて馬鹿げてる。

「何かあった?」

 彼女は、いつもとは少し違う訊き方をした。
 いつもよりずっと、不安そうな訊き方。

「……いや」


 俺は一度否定してから、何を言うべきかを考えた。
 
「妹が熱出して寝込んでるんだよ。うん。だからかな」

「それは、心配だね」

 彼女があんまりにも普通のことを言うので、俺も少し戸惑ってしまった。
 雨は静かに制服を濡らしていく。十分も立っていたら授業に出られなくなってしまうかもしれない。

 でも、そういうことはどうでもいいのだ。そういうのは、ここでは些細なことだ。
 屋上というのは俺にとってそういう場所だった。たぶん彼女にとってもそうだろう。

 現実から切り離された場所。俺はしばらくそこに蹲っていた。
 文章を書き続けることによって、そういう場所に静かに自分の生活を移行させてきた。
 けれど現実がひとたび牙を剥けば、そんなものはたちまち無価値になってしまう。

「小説は、やっぱり書かないの?」

 そんなことを彼女は言った。どうだろう、と俺は思った。何もかもがよく分からなかった。
 


「わたしは、良いと思ったよ。去年の」

「……俺の?」

「うん。必死なのに、一生懸命なのに、身動きとれてない感じが。でも前向きでさ。そういうのって、分かる人にしか分かんないけど」

 彼女はいつになく饒舌だった。何かを感じ取ったみたいに。

「選民意識とかじゃなくてね、結局、経験とか、境遇によるんだよね。教室とかでもそうでしょ?
 Aに位置する奴は自分なりにがんばってて、Bに位置する奴はがんばっても仕方ないからそこそこにしようって思ってる。
 Cに位置する奴は、どっちもバカで何も分かってないって思ってる。バラバラなんだよ。方法論も目的意識も違うんだ。
 それってね、場合によっては一生そのままなんだよ。噛みあわない。理解し合えない。たぶん、どっちが間違ってるって話じゃないんだ」

 彼女はそう言ってしまうと、しくじった、という顔になった。たぶん後悔しているんだろう。

「今年も、ちょっと楽しみにしてたんだよ。きっと、そういう人、他にもいるよ」

 彼女はそう言った。それは嬉しかった。そんなことを言ってくれる人は、今まで一人もいなかったから。
 でも、今更だったし、それは「彼女」の話であって、「俺」の話ではない。
 
「もう行くよ」

 俺はそう言って、屋上をあとにした。制服に砂のような雨粒がしみていた。




 屋上を出たあと、俺は階段の踊り場で携帯を取り出して家に電話を掛けた。
 従妹が電話に出たのは六回目のコール音の後だった。

「大丈夫そう?」

「うん。ちょっと寝苦しそうだったけど」

「そっか」

「たぶん、あの調子だったらすぐに良くなるよ」

「それならいいんだけど」

 従妹は何か言いたげだった。それが気になって黙り込んでみたのだけれど、彼女は何も言ってくれない。

「それじゃ、早めに帰るから」

「……うん」

 そんなふうにして会話は終わった。




 放課後、部室に顔を出すと、まだ編入生しかいなかった。
 仕方ないので、部活は休むと部長に言伝するように頼んだ。

 俺がそのまま帰ろうとすると、編入生は思い出したように声をあげた。

「あの、わたしたちってやっぱり、一緒の中学でしたよね?」

 どうして今更そんなことを気にするんだろう。少し煩わしかったけど、俺は振りかえって頷いた。

「それと、お祭りのとき、会いましたよね?」

 今度は少し答えに迷う。でも、結局頷いた。嘘をつく理由もなかった。
 俺が黙り込むと、彼女は困ったような顔をした。確認してどうするのか、考えていなかったのかもしれない。

「あのときの携帯の持ち主、見つかりました?」

「ああ、うん」

 これは本当だ。


「それなら、よかったです」

 彼女の表情に、どこかしら含みがあるように感じた。なぜ今更こんな話をするんだ?
 なんだか何もかもが面倒になってきた。

「実はね、あれ俺の携帯なんだよ」

「え?」

 俺はポケットから携帯を取り出し、彼女に見せた。彼女は怪訝そうな顔になる。
 
「どうして、そんな……」

「うん。ナンパしようとして声かけたんだ。でも直前で面倒になって」

 怖くなった、という言葉を、面倒になった、と言い換えると、いろんなことがごまかせるようになる。
 編入生はすごく驚いていた。こっちがちょっと怖くなるくらいだった。
 ああ、そうだったんだ、と笑ってくれることを期待したわけでもないけど。
 
「なんで、その……ナンパ、なんて?」

 そんなに驚くことかな。痴漢ってわけでもないだろうに。
 そんなふうに思いながらも、なんとなく言いたいことは分かる気がした。


「きみがかわいかったから」

 と俺は言ってみた。身の毛もよだつような軽口。よくこんなことが言えたものだ。

「――そうじゃなくて!」

 怒鳴るような声。神経質そうだし、気に障ったのかもしれない。
 まあ、なによりも、善意の振りをした性欲だったわけだから。
 
「……すみません、大声出して」

 彼女はすぐに気を取り直したのか、あっというまに元の表情に戻った。
 まだ少しこわばっていたけれど、それは微笑みの形をしていた。
 それから何かに気付いたみたいな顔になる。

「あの、そのときって……」

「一人だったよ」
 
 被せるように言うと、彼女はちょっと気まずそうな顔をした。
 
「……そうですか」

 そこで話が途切れたので、俺は帰ることにした。
「それじゃ」と声を掛けると、「あ、はい」と声が帰ってきた。それだけだった。




 部室を出てから(どうして?)と自分に訊ねてみた。
 どうしてナンパなんてしたんだっけ?
 
(怖かったから)、と俺は答えた。
 太陽が西の方に移動するのにつれて、街はふたたび白く染まり始めた。
 窓の外で、覆うような霧雨が広がっている。

 昇降口を目指す途中で、シィタ派が前から歩いてきた。

「あれ、どうしたの」
 
「いや、帰る」

 そういえば、こいつに頼んだ方が早かったな、と今更のように思う。
 どうも頭がうまく働かない。

 彼はたいして気にするふうでもなく、「そっか」と頷いただけだった。

「それじゃ、また明日」





 家に着く頃には四時を過ぎていて、天気は再び霧雨へと戻りつつあった。
 夕霧。秋の季語だ、と俺は思った。べつに意味はない。気分が落ち着かないだけだ。
 
 家に帰ると、従妹がヤカンでお湯を沸かしているところだった。

「おかえり」と彼女は言った。
「ただいま」と俺は返した。

「あいつは?」

「さっき計ったときは、熱、七度六分くらいになってたって。でも、どうだろう。しんどそう」

「そっか」

 俺は自室に戻って鞄を置いてから、妹の部屋へ向かった。
 階段も廊下も、いつもより長く感じた。


 部屋の中は薄暗かった。レースカーテン越しの白さが、雲なのか霧なのか、分からない。
 妹は眠っているようだった。額に触れて温度を確かめようとすると、ぞわりとした。

 まあ、冷えピタの感触がいやだっただけなんだけど。昔からこういう感触が鳥肌が立つくらい苦手だった。

 冷たさはもうなくなっている。枕元に箱があったので替えようと思ったら、からっぽだった。
 
 今貼ってあるものを剥がして、手のひらで額に触れてみる。
 前髪が汗で張りついていた。触れられたことを知ったら嫌がるだろうなと、そんなことを考える。

 熱はまだ下がっていないようだった。

「……お兄ちゃん?」

 物音か、手のひらの感触か、どちらが原因かは分からないけど、妹は起きてしまった。
 声はいつもより小さかったけれど、弱々しいというほどでもなかった。

「うん。ただいま」

「……おかえり」


「調子は?」

「……うん。朝よりはだいぶましになってきた、と、思う」

「食欲は?」

「あんまり、ないかも。あ、晩ごはん……」 

 作るとか言い出さないだろうな。そう思ったのが顔に出たのか、妹は言葉を引っ込めた。
 さすがに、どうかしてる。こいつも俺も。

「……ごめんね」

「謝るなよ」

「……うん」

「寝てろ。夕飯できたら起こすから」

「……うん」


 妹が瞼を閉じるのを見てから、俺は部屋を出ようとした。
 けれど、扉を閉める途中に呼ばれた気がして、もう一度部屋を覗きこむ。
 
 妹は上半身を起こしてこちらを見ていた。

「なに?」

「……なんでも、ない」

 明らかに、様子は変だった。でも、なんでもないと言っているんだから、それ以上何も言えない。
 俺は今度こそ扉を閉めて、自室に戻った。鞄の中から財布を取りだし、リビングに降りる。

 従妹はヤカンのお湯をポットに入れているところだった。

「どっか行くの?」

「コンビニ。冷えピタ買ってくる」

「ん。分かった」


 家を出ると、霧はいっそう濃さを増していた。 
 頭がズキズキと痛む。今朝からずっと、断続的に。
 
 俺も風邪をひいてしまったんだろうか。
 
 違うな、と反射的に思った。そうじゃない。大丈夫、ちゃんと分かってる。
 妙な動悸が走った。でもそれだけだった。気にすることはない。

 視界は、今朝よりは悪くない。人の声はしなかったけれど、だからといって感覚が遠ざかっている気もしなかった。
 手のひらを握り込む。痛みが走る。まともだ。

 早く用事を済ませて、帰ろう。こんな霧の中をいつまでも歩いていたくはなかった。

 少し歩いたところで、後ろから物音が聞こえた。
 気にせずに数歩先に進んだところで、とん、と背中に軽い衝撃があった。

「……お兄、ちゃん」

 半ばぶつかるように、背中に何かが合わせられ、すぐに離れていった。
 振り返ると、息を乱した妹が、俺の服の裾を掴んでいた。



 とっさに何も言えなかった。
 妹の顔は青ざめていたし、自分でも何が何だか分かっていないような様子だった。
 パジャマ姿のまま、サンダルをつっかけて、髪も少し乱れたまま。熱に浮かされたような顔で。

 すぐに従妹が後を追ってきた。彼女もまた、何が起こったのか分からないという顔でこっちを見た。

「……寝てろって言っただろ?」

 と良い兄貴みたいなことを言ってみると、妹は俯けていた顔をあげて、俺と目を合わせた。
 不安そうな表情で、こっちを見上げている。さっきよりずっと、今の方が具合が悪そうだった。
 ほんの少しの時間しか経っていないのに。

「すぐに戻るから。な?」

 そう言い聞かせようとしたとき、自分の声がすごく嘘っぽく聞こえた。
 妹は一瞬、表情をくしゃくしゃに歪めた。泣きそうな顔。錯覚かと思うくらいに、短い間のことだった。
 
 それから、数秒の沈黙が流れて、

「……うん」

 と、掠れるような声で妹は呟く。
 服の裾から手を離すと、ふらふらと従妹の方へと戻っていった。
 従妹は何かを言いたげにしていたけれど、連れ帰るように促すと、結局それに従ってくれた。
 
 ふたりの姿は、すぐに霧で見えなくなった。

つづく




 買い物を済ませて家に戻ると、リビングには従妹しかいなかった。
 彼女は何かを言いたげにしていたけれど、そこには触れずに妹の部屋に向かった。

 部屋の中は暗い。
 
 でも、妹が眠っていないことは、なんとなくわかった。
 
「……おかえり」

 という声を、追いかけるような咳の音。
 ただいま、と俺は返した。

 ベッドの傍らに置かれていた椅子に座ると、妹はこちらを見たまま眠たそうに目を細めた。
 さっきよりずっと、気分は落ち着いているようだった。

「食欲は?」

「……お腹は空いてるんだけど、喉が痛くて」

 声は掠れていた。
 なるべく考えないようにしているのに、どうしても思い出してしまう。


「お粥なら食べられる?」

「……と、思う、けど」

 作れるの? と目が言っていた。ひどい話だ。

「そんくらいなら作れる」

 と俺は答えたけれど、作ったことはなかった。単に料理本に載っていただけのことだ。
 妹は、苦しそうに笑って、咳をした。
 
「一応、飲み物、新しいの買ってきた」

 そう言って枕元にコンビニの袋を置くと、妹はまた笑った。
 しばらく、お互いに黙り込む。どうしてこんなことになっているのか、よく分からなかった。


「あのさ」

 何かを言わなければならない気がして、口を開く。
 何かというより、それはずっと前から言いたかったことだったのだけれど。

「……もっと、わがままとか、文句とか、言っていいんだぞ?」

 不思議と、俺の声は震えていた。なんでなのかは自分でもすぐにわかる。
 怖かったのだ。

 妹はきょとんとした。それから一瞬だけ傷ついたような顔をする。でも最後には、ごまかすみたいに笑った。
 
「いきなり、どうしたの?」

 俺が本当におかしなことを言ったみたいな顔で、妹はそう言った。
 そうなると、こっちはもう何も言える気がしなくなった。

「あの、お兄ちゃん」

「……ん?」



「前にね、言ってたでしょ。えっと……」

 妹は少し考え込むような顔をした。思ったよりも、真剣な顔だった。

「……何かしているって確信が持てないと、自分がここに居ていいのか分からなくなるって」

「そんなこと、言ったっけ?」

「うん」

 言ったとしたら、そのときの俺はたぶん調子づいていたんだろう。

「それってさ……」
 
 妹はそこまで言いかけて、結局言葉を続けるのをやめてしまった。
 
「夕飯、作ったら持ってくるから」

「……うん」

 お互いに何かを言い損ねているんだろう。そんな気がした。
 今度部屋を出るときには、呼び止める声は聞こえなかった。
 扉を閉めてから、部屋の中に聞こえないように溜め息をつく。柄にもなく妙に緊張していた。




「猫は甘さを感じないって本当なのかな?」
 
 と、夕食時、不意に従妹が口を開いた。

 夕飯のメニューは野菜炒めだった。あと白米。味噌汁もあるにはあった。
 さすがに、昨日今日料理を始めたばかりの男に何品も作れというのは酷だと思う。
 ましてや今日は食材を買いに行く時間もなかった。

「もともと肉食だから、甘味を感じる必要がなかったんじゃないか」

「肉食だと、甘味は感じないの?」

「肉にも甘味はあるだろうけど、それは砂糖の甘さとは違うらしいから、砂糖の甘さは感じないってことだと思う」

「……ふうん」

「まあ、友達が言ってたんだけどさ」

「でもさ。前に猫にカステラあげたんだけど、喜んで食べてたよ」

「いや、実際どうなのかまでは知らない。あんまり野良に余計なもの食わせるなよ」

「あ、うん……」


 会話はそこで途切れたけれど、従妹はまだ何か言いたそうにしていた。
 元々猫の舌の話なんて話のとっかかりのつもりだったんだろう。

「野菜炒め、どう?」

「……あ、美味しいよ。料理、ちゃんとできるようになってたんだね」

 話しかけてみても、返事はとってつけたみたいな響きを孕んでいた。
 しばらく黙々と箸をすすめる。従妹はどことなく上の空だった。

 それもそんなに長くは続かなくて、やがて覚悟を決めたみたいに顔をあげたかと思うと、

「あの、さっきのことだけど」

 そんなふうに切り出した。

「さっきって?」と俺はうそぶいた。

「だから、さっき、ちえこがさ、おにいちゃんを追いかけていったでしょ。あれって……」

 さて、と俺は思った。どうしよう? どう答えればいいんだろう。


「どう考えても、様子がおかしかったよね?」

 従妹は真剣な顔をしていた。それはそうだろう。本当におかしかったんだから。
 でも、だからって的確な答えが用意できるわけではなかった。

 妹が何を思ってあんなことをしたのかなんて、俺にだって本当のところは分からない。
 想像がつくだけだ。

 でも、それは「俺たち」の問題であって、「彼女」の問題じゃない。
 かといって、ごまかしがきく雰囲気でもなかった。

「たぶんね、母親がいなくなったときのことを思い出したんだと思う」

「……えっと、おじさんとおばさんは、だいぶ前に離婚したんだよね?」

「そうだよ。俺が小三の頃だったな。出ていったのがちょうど今日みたいな天気の日でさ」

「そう、なの? ……でも」

 それにしたってさっきの様子はおかしい、と、彼女は言いかけたのかもしれない。
 でも、そんなことは本人になってみなければわからないことだ。
 それに、半分は嘘だった。

 さすがにそれ以上訊く気にはなれなかったのか、従妹は口を閉ざしてしまった。




 食事を終えて様子を見に行くと、空になった食器がベッドの脇の椅子の上に置かれていた。
 妹は眠っているようだった。

 食器を持って部屋を出るときに、ふと、さっき妹が何かを言いかけていたことを思い出す。

 ――何かしているって確信が持てないと、自分がここに居ていいのか分からなくなるって。

 部屋を出て、キッチンの流し台に食器を置く。わけもなく溜め息が出そうだった。
 自分ではもう覚えていないような些細な言葉。取るに足らない軽口。
 そういうことをあいつはずっと覚えている。

 だから俺は、人一倍、言葉にも行動にも気をつけなきゃいけなかった。

 俺はそんなことを言うべきじゃなかった。
 何度か頭の中で自分にそう言い聞かせたあと、そのことについては忘れることにした。
 
 それでも、納得とも驚きともつかない奇妙な気持ちが、俺の中から消えなかった。

 あいつはやはり、「自分はここに居てもいいんだ」と納得するために、必死に家事をこなしているのかもしれない。
 それは、ずっと前から予想していたことではあった。
 そう考えてから俺は悲しくなった。結局俺は、今まであいつに本当に何もしてやれていなかったのだ。




 自室に戻ったあと、鞄の中を整理していると、ふと部活のことが頭をよぎった。
 
 小説、と俺は思った。それから屋上で彼女と交わした会話を思い出す。

(書けるか?)と俺は自分に訊いてみた。
 ……無理だ、今は。とてもじゃないけど。

(じゃあいつなら書けるんだよ?)と、また自分に訊ねる。

 分からない。とにかく今は現実にどうにかしなきゃいけない問題がたくさんある。
 それを全部片付けてからじゃないと……。

(そんなの、終わるのか?)

 ……いつかは、終わるよ。きっと。

(ひとつ片付けたら、また新しい問題が出てくる。その繰り返しだろ?)

 それでも、片付けなきゃいけない問題は目の前にある。

(根本的な転換が起こらないかぎり、おまえはずっと同じことを繰り返すだけじゃないのか)

 上手い答えが見つけられない。


 どうも頭がうまく回らない。俺も疲れてるんだろう。
 しなきゃいけないことはたくさんある。今日は課題だって出たし、予習だってしなくちゃいけない。
 読みかけだった小説の続きだって、しばらくほったらかしのままだった。

 
 ミーガン・ロクリンはあのまま息絶えてしまうんだろうか? 
 とはいえ、生き延びたところでもはやどうにもならないという場面ではあるのだけれど。


「出口があればいいんだけどね」

 と、俺は意味もなく呟いてみた。独り言。いつもより明るい調子で。
 そう呟くだけで、ちょっとだけ前向きな気持ちになれた。
 心が弱りそうなときは、そういうささやかな励ましが大事だ。嘘だってかまわない。

 もちろん、出口なんてどこにもないんだけど。

つづく




 翌朝には、妹の風邪はほとんど治っていたようだった。
 俺が寝惚け眼をこすりながら階下に降りたときには、既にキッチンに立って弁当を作っていた。
 
 妹はこっちに気付くとにっこり笑った。普段より二割増しくらい元気に見えた。

「おはよう」

「……おはよう」

 あんまりにも元気そうに笑うものだから、こちらとしても何も言う気がなくなってしまう。
 
「風邪は?」

「平気!」
 
 ……わざとらしいくらいに、元気だった。
 わざとらしいというか、たぶんわざとなんだろう。実際体調は悪くないようだし、何も言わないことにした。

 昨日の今日ではあるのだけれど。
 何事もなかったかのような朝だった。それもべつに悪くはないんだけど。




 早めに登校して自分の席でぼんやりしていると、いつものふたりが俺のところに来た。
 
「よお」

 とビィ派は言った。マスクをつけていたし、声の調子もなんだか変だった。

「風邪ひいたんだって?」

 俺が訊ねると、ビィ派は眉間を寄せて頷いた。

「うん。布団掛けずに寝たせいかな。最近夜だけいやに冷えるだろ。昼間はまだ暑いのにさ」

「うちの妹も風邪ひいて寝込んでたよ、昨日、熱出してさ」

「変な風邪、流行ってるのかもね」

 シィタ派がそう言ったところで、会話は一度途切れた。
 みんないつもと同じような態度だと俺は思ったのだけれど、ビィ派はちょっと怪訝げに俺とシィタ派の顔を見た。

「なんかおまえら変じゃない? なに、喧嘩でもしたの?」

 そう言われて、俺たちふたりは顔を見合わせた。
 思い当る節がまったくなかった。それにしても、「喧嘩したの?」と素直に訊けるこいつの豪胆さには感心する。


 ビィ派には俺たちふたりの様子がいつもと違うように見えたんだろうか。
 
「……べつに、喧嘩とかしてないよな?」

 俺が訊ねると、シィタ派は妙な表情になった。何か言いにくそうな。

「部活で何かあった?」

 と俺は訊ねた。昨日の放課後に顔を合わせたときは、いつも通りの態度だったはずだからだ。
 あるいは、それ以前から様子はおかしかったんだろうか。
 もしそうだったとしても、昨日の俺は気付かなかったはずだ。

「いや、何かあったってわけじゃないんだけどさ」
 
 シィタ派がそれ以上話してくれそうになかったからか、ビィ派の目が今度はこちらを向いた。

「そっちは?」

「病み上がりの妹が心配でね」

「さすがシスコン」

 と彼が笑ったので、話はそこで終わってくれた。
 実際、その答えは嘘でもなかった。半分くらいはそれが原因だろうと自分では思う。




「おー」

 と部長に声を掛けられたのは、移動教室の途中に三年の教室の廊下を通ったときだった。

「元気?」

 一緒にいたシィタ派が返事をすると思って黙っていたのだが、彼は何も言わなかった。
 なんとなく間の抜けたやりとりだと思いながらも、俺は返事をする。

「ええ、まあ」

「昨日はなんで休んだの? 歯医者?」

「みたいなもんです」

「歯医者ってさー、一回行くと毎週みたいに行くことになるよねー。わたしも行かなきゃなあ」

 部長は放っておくとひとりで勝手に話しているので、相手にするのが割と楽だ。
 と思っていると、はっとしたように真面目な表情になって、

「……いや、みたいなもんって、なに? 歯医者なの? 違うの?」

 深刻そうにそんなことを訊いてきたりする。ちょっと真剣に慌てている感じが可愛らしい。
 部長の傍に居た三年の女子がクスクスと笑う。祭りのときに見た顔だという気がした。違うかもしれない。


「今日はちゃんと出ますよ」

 俺がそう言うと、部長はちょっと戸惑ったような顔になった。

「あ、べつに用事があるならあるで全然いいからね? 顧問からして、まあ、あれだしさー」

 部長の態度が、部室で会うときよりも明るい気がする。自分のホームだからだろうか。
 ……文芸部室もホームか。

 特に話すこともなくなったから、その場で別れて移動を再開した。
 
「……あのさ」
 
 少し歩いてから、シィタ派が口を開いた。

「やっぱり、俺よりおまえの方が部長と仲良い気がする」

「気のせいだろ?」

 シィタ派の反応が薄い分、俺と話す機会が多いというだけという気がする。
 それでも彼は、どことなく納得しかねるような顔をしていた。




 放課後、俺が顔を出した頃には、編入生を含めた全員が既に部室に揃っていた。

 シィタ派は一人で紙面に向かってペンを動かしていた。だいぶなめらかな動き。
 苦戦していたと聞いていたけど、うまく回り始めたんだろう。そういうタイミングがある。
 どうやっても動かないんじゃないかと思うほど大きな重石が、些細な刺激で転がって跡形もなく砕けるようなタイミング。
 
 後輩も一生懸命ノートに何かを書いていた。うしろから部長がそれを覗き込んでいる。

 さて、どうするか、と俺は思った。
 文章は書けない。かといって、部室にいて何もしないのも気が引ける。
 
 仕方ないので鞄から小説を取り出して続きを読むことにした。
 ページは残りわずかだったし、うまく集中できれば今日中に読み切ってしまえるだろう。

 ふと気になって、そのまえに編入生の様子を見ると、彼女は彼女で原稿用紙に向かって何かを書いていた。
 気になって視線を向けていると、こちらの様子に気付いてか、編入生は不思議そうな顔をした。

「何を書いてるの?」と俺は訊いてみた。
 
 編入生はちょっと困った感じに笑った。


「部長に、練習代わりにって、お題に沿ってなんでもいいから文章を書いてみてって言われたんです」

 彼女の様子は平常通りに見えた。頭の中で何を考えているかは知らない。
 でも、質問の答えは納得のいくものだった。後輩もシィタ派も、似たようなことをさせられていた。

 俺はたしか、「蝉のぬけがらについて思うこと」を書けと言われて、「そんなものには興味ない!」とだけ書いたら花丸をもらった。
 部長はそういう価値観の持ち主なんだろう。

 会話を終わらせて、俺は本を読み始めた。
 
 みんながんばってるなあ、などと思いながら。
 
(俺は?)と俺は訊ねた。
(今はよそうぜ)、と俺は答えた。タイミングが悪い。こういうのは周期の問題だ。

 余計なことを考えたせいで、目の前の文章に集中できなくなってしまった。
 ほんとうに最後の最後なのに。あと少しで終わってしまうのに。
 どうしても読み進められない。


 そのとき部室の入口のドアが開いた。顔を向けると、顧問が立っている。

 運動部だったら集合掛けて挨拶しに行くところなんだろうが、誰もなにも言わなかった。
 みんな作業に熱中していた。俺以外。

 だからだろうか。顧問は俺に話しかけてきた。

「どう、調子は?」

「はあ。まあ」

「部誌の原稿は?」

「……まあ、なんとか。そのうち」

「ぼんやりしてると間に合わないぞ。来月頭なんてすぐだよ」

「まあ、なんていうか、いろいろ、思うところがあって」

「なにが思うところだよ。あれか、スランプか。芸術家か、おまえは」

 顧問はまるで面白い冗談でも聞いたみたいに大声で笑った。
 死ね、と俺は思った。妙に腹立たしい。


 俺がクスリとも笑わないのが気に障ったのか、彼の声は苛立たしげにこわばった。

「まあ、やる気がないなら無理強いはしないけどね」

 顧問はそう言うと、他の部員たちの様子を見にいった。

 すごい人だ。
 何がすごいって、この人にとって、こういう人にとって、やる気とか精神力っていうのは無尽蔵のものなのだ。
 そう信じてる。信じるだけの体験をしてきている。そういう経験がある。

 だから、「やる気を出せない」とか、「やる気にならない」というのを、単なる怠慢の一種と判断する。
 そしてそれは、一面の真実ではあるのだ。
 
 真実だから、いっそう調子づく。
 現実には、「やる気」も「精神力」もきわめて肉体的で、物質的だ。使えば消費される。
 燃料が必要だし、新鮮さだって必要だ。時間の経過によって消耗も劣化もするし、燃費の差だって出る。
 
 俺は気付かれないように溜め息をついて本を閉じた。さっきよりずっと集中できなくなってしまった。

 ――それってね、場合によっては一生そのままなんだよ。

 そうだな、と俺は思った。歳をとるとかとらないとか、大人だからとか子供だからとか、そういう問題でもない。
 どっちかが正しいとか、間違っているとかでもない。
 経験したか、経験していないかの差。あるいは、強いか弱いかの違い。それだけだ。


 俺がひとりで鬱々とした気持ちになっていると、不意に部長に声を掛けられた。
 彼女はまだ後輩のうしろに立っている。

「あのね、きみっていつもどんなふうに書いてる?」

「……いつもって?」

「小説。わたしのやり方で説明しようとしたんだけど……うまく伝わらないっていうか、うまくいかないみたいで」

 たしかに後輩はすごく困った顔をしていた。
 俺は彼女が書いたものを覗き込もうとしたけれど、思い切り隠されてしまった。

「だ、めです!」

「……だめ、って」

 部長には見せていたはずだし、そもそも部誌として発行されればどうせ俺にも見られることになるのだが。

「これは人様に見せられるような段階じゃないんで」

 彼女の中では部長は人としてカウントされていないらしい。


 部長の小説は割と起承転結がはっきりしているし、抽象的な部分も少ない。
 わりとポピュラーで、感傷的なところもない。

 まあ、そこが部長(シィタ派もだけど)のすごいところで、普通、素人が書くと真逆になる。
 起承転結と呼べるものはなく、抽象的な表現が頻出する。
 文章が自分の殻に閉じこもっていて、登場人物が何を考えているのか分からない。
 無意味に長大で、すごく感傷的。……八割がた俺の話だ。

(素人小説のパターンはもうひとつあって、そちらは状況の読めないバトルマンガみたいなテイストになる)

 だから部長の書き方は、書いたことがないという人には難しい。すごく難しい。
 無意味に長大に感傷的に書く方がよっぽど簡単なのだ。
 
 とはいえ、それは今は関係ない。
 俺は内容を教えてもらうことを諦めて、質問に答えることにした。

「俺の場合は、毎回始まりと終わりが決まってるんで、参考にならないと思います」

「あ、そっか。そうだよね」

 というか、シィタ派に訊けばいいだろう。
 そう思ったところで、昼間に彼に言われたことを思い出し、ちょっと気まずくなった。
 たぶんひとりで暇そうにしていたから声を掛けられたんだろうけど。


「……始まりと終わりが決まってるって、どういうことですか?」

 後輩がひとり、不思議そうな顔をした。

「毎回、女の子が部屋の中で考えごとしてるところから始まるんだよね」

 部長に読ませたのはだいたい二、三本だと思うが、まあそれでも分かるものは分かるだろう。
 なにせ文章がまるまる同じなのだ。

「それで、女の子が出掛けるところで終わる」

 後輩は感心したような顔になった。感心するところでもない。

「まあ、それだけ決まってれば、あとはどうにでもなるんで」

「ああいうの、わたし書けないんだよね。なんでなんだろう」

 逆に書けない方が幸せなんだと思うけど、部長はちょっと悔しそうな顔をしていた。
 俺は居たたまれなくなってきた。そもそもあれは小説なんてもんじゃない。

 とはいえ、まあ、そんなことを言ったところで無意味なんだけど。

「まあ、何か書こうとするなら、やっぱり俺より部長のやり方の方が参考になると思いますよ」

 それだけ言って、話を終わらせた。後輩は余計にわけがわからなくなったみたいな顔をしていた。

つづく




 放課後の部室には誰もいなかった。

 俺が早すぎたのかもしれないし、他の部員は用事でもあるのかもしれない。
 理由はわからない。とにかく誰もいない。それが事実だった。

 せっかく誰もいないわけだし、何か普段人がいるせいでできないことをやってみたいと思ったのだが、思いつかない。 

 ようしと俺はパイプ椅子に腰かけて、やってみたいことを考えてみることにした。

 ここには誰もいないんだ。やりたいことだって好きなだけやれる。何がしたい?

 ……せいぜい、裸になって踊り狂うくらいしか思いつかなかった。発想力の乏しさがここにきて露呈している。
 あるいは全裸になって自慰に耽るというのも考えたが、方向性が同じだし、あまりにも馬鹿げていた。
 ついでに言うとべつにやりたいというわけでもない。困った話だ。
 
 やりたいことがなかった。一人になってやることなんて、本を読むか、ぼーっとするか、寝るくらいしか思いつかない。
 それだって暇つぶしでしかない。

 大勢の中にいるといつもうんざりした気持ちになる。上手く会話に混ざれない。相槌を打つくらいしかできない。
 だからひとりの方が楽だ。ひとりでいるのは疲れない。
 
 でも、ひとりになりたいわけじゃない。面倒な話だ。


 他人の中にいれば他人にうんざりするし、一人で居れば自分にうんざりする。
 誰の役にも立たない自分。何の成果もあげられない自分。
 
 部室のドアが開いた。最初に来たのは部長だった。俺に声を掛けたあと、いつもの席に座った。
 次に来たのは編入生と後輩。廊下で会ったのだろうか、一緒にやってきた。
 シィタ派は最後に顔を出した。どことなく考え込んでいるように見えた。

 いつものように、みんなそれぞれに活動を始めた。俺はぼんやりとしていた。
 ノートを開くことも本を開くこともない。何もすることが思いつかなかった。
 
 同じだ、と俺は思った。一人でいるときと。何も変わらない。
 それはそうだろう。自分が同じことをしているんだから。
 
「どうかしたの?」と声が聞こえた。振り返ると部長が立っていた。

「ちょっと考え事をしてたんです」と俺は答えた。
 部長は何か言いたげな表情をしたあと、「そっか」とだけ言って自分の席に戻った。

 今日は気持ちのいい秋空だった。少し空気は冷たいけれど、晴れていた。
 なにがいつもと違うんだろう。


 小説。小説の続きは書けるだろうか?
 
「彼女」はどうやったら外に出るんだろう。
 いつもより真剣に、その方法を考えてみることにした。

 でも、もう無理なんじゃないかという気がした。「彼女」は何をしても外に出てくれないような気がする。 
 電話が鳴っても出ない。ノックが聞こえてもドアは開けない。呼び声も届かない。

 結局「彼女」はそこに納得してしまう。まあいいか、と思う。仕方ない、と。
 それが相応だ。そもそも決まっていたことなんだ。そういうふうに。

 それも仕方ないことだ。だって、誰も「彼女」に出掛けて欲しいなんて思ってはいないんだから。
 誰も「彼女」が出掛けることを求めていない。必要としていない。
「彼女」だって、そこにいる自分自身を認め、納得してしまえば、それで構わないはずだ。

 べつに必要とされていない。

 俺は鞄から読みかけの小説を取り出して続きを読むことにした。
 今までがなんだったのかというくらいあっさりと読み進めることができる。
  
 物語は終わりに差し掛かっていた。当然のような結末が当然のようにあらわれる。
 人が死んだ。何人かが当然のように生き延び、何人かは死んだように生き延びた。それで話は終わった。



 最後のページを読み終えた後、俺はぼんやりとその小説について思いを巡らせた。
 それから今朝シィタ派から聞いた小説のあらすじのことを思い出した。

 避けられるだけならばまだいい。けれど行動が伴えばどうなるだろう?

 一人の人間の尊厳を集団で踏みにじる行為は、一種の狂乱だ。
 誰にも、その行為がどこまでエスカレートしていくのか分からない。ブレーキが壊れている。

 だとすると、シィタ派の言うように何らかの解決をもたらすのが一番なのかもしれない。
  
 とはいえ、解決法だってそれほどないし、そのどれをとったところで後味は悪い。
 和解できるとは思えない。糾弾するにしても、今度は手帳の持ち主が悪意にさらされるだけだ。
 
 解決手段。こういうときシィタ派が取る手法は、爽やかでない結末をいかにも爽やかに描写する、というものだ。
 どう考えても何も終わっていない、何も解決しない。そういうのを雰囲気だけ爽やかに描写する。

 するとなんとなく、何もかもがすっきりと終わったように見える。見えるだけだけれど。

 結局、デイヴィッドがもっと早く行動を起こせばよかったのかもしれない。
 そうすればメグだってあそこまでひどい目には合わなかっただろう。

 けれどあの無力なデイヴィッドの態度は、まちがいなく俺自身のどこかと一致していた。



 そんなことを考えているうちに、俺はなぜか従妹のことを思い出した。
 それから彼女が昨夜俺に言ったいくつかの言葉を思い出した。

 こっちに来た理由を訊かなかったのは、気を遣ったわけではない。分かったようなつもりになっていたわけでもない。
  
 面倒だったからだ。どうせ何か面倒な理由があるに決まっていると思った。

 他人の問題になんて最後まで関われない。
 最後まで責任をとれないなら最初から関わらない方がマシだ、というのが俺の考えだった。
 
 何が起こっているのかを知れば何かを言わなきゃならない。
 だから最初から距離を置いた。何かの責任を負うなんてまっぴらだ。

 そういう意味では、たった今読み終えた小説は、ある種の暗示と言えるのかもしれない。

  
 とはいえ、聞いたところで何ができるというわけでもない。 
 あるいは、それでも聞くべきだったんだろうか。


 よく分からない。





 部活の終わる時間まで、俺はそんなふうに考え事を続けていた。
 その日、顧問は顔を出さなかった。それだけが救いだった。

 部室に最後まで残ったのは俺と部長だった。他のみんなは早々に帰ってしまった。
 
 誰かに話しかけられたような気もするし、誰も俺に声を掛けなかったような気もする。

 気付けば窓の外は橙色に染まっていた。

「……大丈夫?」

 椅子に腰かけたままぼんやりしていると、部長はそう声を掛けてきた。

 俺はとっさに返事ができず、部長の顔をぼんやりと見返した。
 そういえば、俺は彼女の名前も知らないのだ。

「大丈夫です」

 そう答えても、彼女はまだ気がかりなようにこちらを見続けていた。
 態度に出すな、と俺は俺に言った。でも無理だった。普通の態度がよく分からない。


「あの、文化祭、間に合いそう?」

「……」

「書けないようなら、無理しなくてもいいからね? 結局、強制じゃないし、何かあるわけでもないから」

「……そう、ですよね」

 書けないようなら、書かなくてもいい。
 当たり前のことだ。何かの義務でやっているわけでもない。普通のことだ。
 誰も必要としていないことなんだから。

「部誌の方は、なんとでもなるし、だから、ホントに厳しいようだったら……」

「……はい。分かってます」

「……うん」

 部長はまだ何か言いたげな顔をしていた。こんな顔を、何人もの人が俺に向けた。
 いったいみんな何が言いたいんだろう。何が言いにくいんだろう。

 でも、べつに問い詰める気にはなれなかった。だってそれは面倒だ。
 結局部長は何も言わずに去って行った。部室には俺ひとりだけが残される。

 扉の閉まる音。




 帰る気にはなれなかった。家に帰ったところで、どうなるわけでもない。
 俺の態度は、きっとまだいつも通りじゃない。家事を手伝おうとしたって、妹にまた心配させるだけだ。
 だからって、家の中で何もせずにいるなんて、俺には耐え難い。

 だからって、部室に残って何かができるわけでもない。
 小説なんて書けないし、書けないなら書かなくてもいい。

 俺は何だったらできるんだ?

 いや、そんなことより、俺には考えるべきことがあるのかもしれない。もっと他の、自分のことではなく……。

 昨日からずっと頭の奥が痛んでいる気がする。
 
 いったいいつまでこんな考え事を続けるつもりなんだろう。
 
 たとえば、誰でもいいから俺を好きでいてくれる女の子が一人でもいたら、自分も少しはがんばれるかもしれないと思ったことがある。
 でもそんなのは馬鹿げているし、「誰でもいい」というのは大嘘だ。
 
 俺を「不安にさせない」「プライドを傷つけない」「望むことを叶えてくれる」。
 それでいて「容姿もまあまあ」くらいの条件は無意識につけている。いずれにしても馬鹿げている。

 相手の人間性をまるで無視しているし、実際にそんな子が現れても俺はまともに会話すらできないだろう。
 ましてやそんな子が仮にいるとしても、俺のことを好きになるわけがない。



 さて、と俺は思った。家には帰りたくない。かといっていつまでも部室にはいられない。
 とにかく移動するしかない。どこでもいい。そう考えたところで屋上のことが頭に浮かんだ。

 屋上。

 仕方ないか、と俺は思った。昨日あんな話をされたあとに、夕陽なんて見る気にはなれないのだけれど。

 それに、今日こそは彼女がいるかもしれない。いたからといって、どうというわけではないのだけれど。

 部室を出て屋上に向かう途中に、シィタ派の後ろ姿を見た。
 誰かが隣にいるようなので覗き見ると、どうも編入生と一緒に歩いているらしい。
 邪推するほどのことでもないだろう。

 俺は屋上への階段を昇る。踊り場の窓が開きっぱなしになっていて、吹き込む風にカタカタと音を立てていた。
 校舎に人の気配はしない。外から誰かの話し声から遠く聞こえるだけだった。

 鉄扉を押し開ける。
 夕陽の逆光。フェンスの傍らの影。彼女は今日もそこにいた。

「元気ないね?」と彼女は言った。振り向いているのかどうかすら、俺には分からない。
「まあね」と俺は言った。取り繕う気にもなれない。


「……前からずっと、聞いてみたかったんだけどさ」

 彼女は珍しく、そんなふうに口を開いた。ちょっと口籠るような様子。
 何かを言いあぐねているような。

「どうしてあんたは、屋上にくるの?」

 二人称ですら、彼女に呼ばれるのは初めてだという気がした。

「……ダメかな」

「別にダメとは言ってないけど。理由が気になるんだよね」

「きみがいるから」と俺は言ってみた。やっぱりどこかしら軽薄になりきれない気味悪さが残っている気がした。
 彼女は一瞬目を丸くして、こほんと咳払いをする。

「嘘だよね?」

「なんでそう思う?」

「だって、わたしに興味ないでしょ?」


「……そんなことはないよ」

「じゃあ、わたしのことどう思ってる? どんな存在?」

「いつも屋上にいる女の子。わりと変なことを言う」

「それ以外は?」

「……それ以外?」

 見とれるくらいの美人だ。それくらいだった。

「じゃあ、初めて会ったときのこと、思い出せる?」

「……屋上にきみが居た。俺が話しかけた。なにしてるのって」

 彼女は押し黙った。少しだけ傷ついたような表情になった気がした。
 でもたぶん気のせいだろう。だって俺は、彼女が傷ついたときにどんな表情をするのか知らないのだ。きっとそう見えただけだ。

 それから少しして、彼女は諦めたような、納得したような、そんな溜め息をついた。

「そう」

 その言葉の意味が、俺にはよくわからなかった。


「今日はどうかしたの?」

 気を取り直すみたいな感じで、彼女は口を開いた。俺は今の表情の変化を頭の中で処理しかねていた。

「ちょっとね」

「小説のこと?」

「……書けないなら書かなくてもいいって言われた」

「ふうん」と彼女はどうでもよさそうに頷いた。
 それから当然みたいな顔で言葉を続ける。

「で、書くの?」
 
 そのなんでもない質問に、俺は一瞬、言葉を失った。

「……え?」

 俺があんまり奇妙な顔をしていたのだろう、彼女もちょっと驚いた顔になった。
 それから言い直すように、

「……書かない、の?」

 そう訊ねてきた。


「……いや、書かない、っていうか」

「うん」

「別に、強制ってわけでもないし」

「……うん」

「誰かが必要としてるわけでもない、だろ?」

「ねえ、そんなことないよって、言ってほしい?」

「……そういうつもりじゃないんだ」

「わたしも、そういうつもりで訊いたんじゃないよ」

 彼女はちょっと怒ったような顔をして、まっすぐこちらを見つめた。
 こんなふうに真正面から顔を合わせたことは、あっただろうか。

「書くか書かないかは、書きたいか書きたくないかで決めるものでしょ?」


 俺はまた、何も言えなくなった。何も言い返すことができない。 
 だって彼女の言っていることは正しいのだ。

「……なんか、ごめん。変なこと言ったかも」

「いや」

 俺が反応をしなかったせいだろうか。彼女は自分が変なことを言ったと思ったらしい。
 俺はそれを否定したかったけれど、その余裕が今はなかった。

「……わたし、今日、帰る」

「あ、うん」

「また明日」

「……うん、また明日」

 彼女は俺がそう返したあとも、こちらの反応を窺うように視線を向けてきた。
 どうかしたのだろうか。

 しいていうなら、「また明日」という言葉には、違和感があったけれど。
 彼女は小走りして屋上を去って行った。鉄扉が軋む。ドアが閉まる。

 扉の閉まる音。


 みんな扉の向こうに去っていく。いつまでも残っているのは俺だけだ。
 誰かが俺と会う。俺と話をする。そして誰かは俺を残して去っていく。
 
 扉の内側に残るのは俺だけだ。

 俺はフェンスの向こうの夕陽を眺めてみた。やっぱり元気になんてならなかった。
 特別綺麗でもないし、かといって色あせても見えない。何もかもが平坦に伝わってくる。

 どうかしてる。

 もう全部やめてしまおう。文章を書こうとするのもやめて、家事も妹に任せて、勉強もそこそこにして。
 普段通りに過ごしてしまおう。そうするのだってべつに悪いことじゃない。

 でも、そう考えると、たまらなく不安になった。

 不意に強い風が吹いた。
 背後で扉が軋む音がした。

 振り返ると、さっき去ったばかりの彼女が、入口からこちらを見ている。息を切らして。

「……どうしたの?」


 彼女は息を整えたあと、右手に握った何かをこちらに差し出した。

「これ、渡しておいてもらおうと思って」

 俺は彼女に歩み寄り、それを受け取った。
 小さな紙片。

「……なに、これ? 誰に渡せばいいの?」

 彼女はちょっと辛そうな顔をした。

「……なんで、気付かないの? ほんとうに覚えてないの?」

「え?」

 錯覚かと思うほど、心細そうな表情。それは一瞬で溶けるみたいに消えてしまった。

「開いてみて」

 少し躊躇ったけれど、彼女が厳しい目でこちらを見ていたので、俺はその紙片を広げた。

『穴倉の 熊をくすぐる 春の風 枝野』

 一瞬、そこに何が書いてあるのか分からなかった。


「……枝野?」

「うん」

「……文芸部の?」 

「うん」

「……きみが?」

「わたし、名札、つけてるんだけど」

「……」

 たしかに、枝野と書いてあった。

「ていうか、わたしたち、中学一緒だから」

「……そう、だっけ?」

「ついでに言うと、わたし、中学のとき、一回あんたに告白したことあるから」

「……あ、え?」

「……やっぱり、覚えてないんだ」

 押し殺すような声で呟いていた。彼女の顔はあっという間に真っ赤に染まった。
 それを隠すみたいに背を向けると、「ばか! 死ね!」とだけ怒鳴って、見たこともないような速さでり去っていく。

 残された俺は途方に暮れた。頭がまったく動かなかった。

つづく




 ミーティングが終わってから、部員たちはそれぞれの活動に移った。

 部長にあんなことを言われた以上は仕方ないので、俺も一応ノートを広げて何かを考えている振りをする。
 頭が働いている状態とは言い難かった。
 
 後輩の様子が気にかかった。といっても、彼女の様子はいつも通りなのだけれど。
 それも当然の話で、彼女からすれば、今日は普段と何も変わらない一日のはずなのだ。

 見れば、熱心にペンを動かし、既に何かを書き始めているらしい。
  
 俺はしばらく彼女の様子を眺めていた。
 ときどき、唸り出したり、伸びをしたり、ペン回しをしたりしながら、ノートに向かっている。
 真剣な表情で。
 
 どこかで、見たことがあるような気は、する。
 まあ、見たことがあったっておかしくはないはずなんだけど。

 とはいえ、まあ、交流はなかった(はずだ)し、仮に俺のことを覚えていても、それがどうというわけでもないだろう。
 もし何かあれば、とっくにそれらしい話になっているはずだし。

 つまり、気に掛けるだけ無駄、なはず。


 まあ、単に中学が同じというだけなら、話をしたこともなくてもおかしくないし。
 だよな、と思うのだけれど、いまいち自分に自信がモテないのはどうしてだろう。

 じっと見ているうちに、後輩は徐々に落ち着きを失い始めていた。
 もぞもぞと何度も姿勢を直し、ペン先でノートをつつき始める。

 どうかしたんだろうかと見ていると、不意に、

「あの」
 
 と部長が座ったまま声を掛けてきた。

「はい?」

「どうしたの?」

 見れば、他の部員たちも俺の方を見ているようだった。編入生までもが。

「……あ、いや」

「今までにないくらいの熱視線だったけど」

 からかうというよりは、本当に驚いたみたいな顔で、シィタ派が言った。
 後輩は戸惑った様子で、ノートから顔をあげず、黙り込んだまま俯いている。



 俺が黙ると、みんなも黙った。

「……いや、ちょっと気になって」

「気になる」

 と繰り返したのは編入生だった。

「あ、いや。気になるって言っても、そういう気になるではなくて」

「じゃあ、どういう気になる?」

 今度ははっきりと揶揄を含んだ声音で、シィタ派は訊ねてきた。俺は少し考え込む。

「……つまり」

「……つまり?」

「夏祭りのクジ引きの景品みたいな感じの、気になる、かな」

 俺の答えに、シィタ派は困った顔になった。部長だけが納得したように何度も頷く。

「あー、実際は当たらないからやらないんだけど、よさそうなのがあるとつい見ちゃうんだよねー」


「……よさそうなのがあると、つい見ちゃうわけですか」

 今度は編入生が言った。

「その言い方は語弊があると思う」

 そう大真面目に言ったのだけれど、彼らは興味深げな視線をなくしてはくれなかった。
 シィタ派に至っては、

「『あれよさそうだなー。どうせ当たんないけどなー』っていう卑屈さがおまえらしいと言えばおまえらしい」

 笑いながらそんなことを言い始めるくらいだった。

「卑屈ってなんだ。悪気がなければ何を言ってもいいってわけじゃないぞ」

「安心しろ。悪気ならある」

「死ね」

 と俺は二割くらい本気で言ったが、実際俺も似たようなものだった。
 何を書いているのかが気になったとか、適当にごまかしておけばよかった。

 後輩は部活が終わるまで、一度も俺の方を見なかった。




 部活中はそれからずっと、何をするでもなくぼんやりしていた。
 
 この「ぼんやりする」というの、割と大切な時間だと思うのだが、まあ周りから見れば単にサボっているだけか。
 帰り際にもう一度屋上を覗いたけれど、やはり彼女の姿はなかった。

 それでもすぐに帰る気にはなれなくて、フェンスの傍から街を見下ろした。

 急に、猫のことを思い出した。車に轢かれ、ばらばらに引きちぎられた白い猫のこと。
 今日もどこかで死んでいるんだろうなあ。そんなことを思った。俺の生活とは無関係に。

 あれほど無様で醜い死にざまもない。あんな無様な死に方は……。

 どうして俺はそんなことばかり覚えているんだろう。
 自分はひょっとして、何か致命的な欠陥を抱えているんじゃないかという気がしていた。昔から。
 
 中二の冬に祖母が死んだとき、俺はすぐには泣かなかった。妹は泣いていたし、父だって悲痛な顔をしていたけれど。
 俺は死というものをうまく飲み込めなかったのかもしれない。悲しかったような気はする。


 今にして思えば滑稽な話だけれど、俺は人の死というものをテレビの向こうの出来事としてしかとらえていなかった。
 だから、祖母が死んだら、テレビでニュースとして取り上げられるような気がしていたのだ。

 もちろんそんなことにはならなかった。祖母はごく普通の人物だった。
 ニュースとして取り上げるに足らない人物。取るに足らない死。
 当時はそのことがすごくショックだった。

 火葬場からの帰りのバスの中、よく知らない親戚の男の人が話しかけてくれた。 
 そして言い聞かせるように「泣かなくて偉かったな。祖母ちゃん、天国で誇りに思ってるぞ」と言った。
 
 俺はそのとき、その人の言うことが本当なんじゃないかと思った。
 祖母が本当に俺のことを見ているような気がした。俺はそのとき初めて泣いたのだ。

 翌日の地方ニュースでは今年の初雪が例年よりもかなり遅い時期だということに触れていた。
 情報バラエティは月末に迫ったクリスマスに向け、流行を取り入れたプレゼントを特集していた。

 そのあとのニュース番組では、県内のとある住宅地で起こった殺人事件の詳細を報道していた。
 愛憎のもつれについて、コメンテーターが沈痛な面持ちでそれらしいことを言っていた。

 祖母の死については、誰もなにも言わなかった。どうしてそんなことを今でも覚えているんだろう。


 どうして俺はこんなことしか覚えていないんだろう。
 もっと他に覚えているべきことはあったはずなのだ。

 古い記憶を漁ってみる。でも思い出せることはろくになかった。
 幼稚園に入っていた頃のことなんておぼろげな記憶すらない。
 
 一番古い記憶はなんだろう? 小学校低学年くらいのとき、従妹が叔母たちと一緒に家に遊びに来たときだろうか?
 それとももっと別のものだろうか。

 ようやく思い出せたのは、また死んだ動物についての記憶だった。
 雀の死骸だ。小学校の頃だ。学校が終わった後、校庭の隅に年下の子が何人か集まっていたから、何かと思って近付いた。 
 そうしたら、木の枯れ枝でスズメの死骸をつついていた。俺は無性に腹が立って怒鳴りつけた。

 そうすると、彼らは、墓を作ろうとしたのだ、と弁解した。実際、傍には浅い穴が掘ってあった。
 細い枝で体を押してそこに入れようとしていたのだ。

 触って持てばいいだろ、と俺が言うと、気持ち悪いんだ、と彼らは言った。
 俺はその倒錯に何を言っていいのか分からなくなってしまった。
 何かしら耐えきれないような気持ちだけが残った。

 俺は何も言わずに穴を深く掘り、素手で死骸を掴んだ。柔らかくてぐにゅぐにゅとした、気持ち悪い感触だった。鳥肌が出た。
 それでも穴の中に動かなくなったスズメの死骸を置き、わずかに土を掛けた。そこが限界だった。

 埋めろ、と俺は言った。ありがとう、と彼らは言った。そして木の棒を盛り上がった土に差したり、その前に形のいい小石を並べたりし始めた。 
 俺はもう何も言いたくなかった。いくら手を洗っても、死骸の感触は消えなかった。




 扉が開く音がした。とっさに彼女が来たのかと思い躊躇したけれど、結局振り返る以外に手段は見つけられなかった。
 それでも、やってきたのは枝野ではなかった。部長だった。

「うわ、風、強いねー」

「……どうしたんですか?」

「いやあ。ちょっと居残りして、ようやく書き終わったからさ、屋上で祝盃あげようと思って」

「……一人で?」
 
 手には烏龍茶、が、ふたつ。

「飲むかい?」

「俺がいるって、わかってたんですか?」

「まあ、うん。きみ、いっつもここでしょ。まだ帰らないみたいだったから」

 よく見ているものだ。俺には真似できない。


 俺は部長から烏龍茶を受け取った。彼女は嬉しそうに頷いた。

「さっきはああ言ったけど、書きたくないなら、書かなくてもいいよ」

「……また、言ってることが違う」

「わたし、わりと適当に生きてるから」

 部長の笑い方は、見ていて気持ちがいい。そこには必要以上の衒いのようなものが一切ない。
 本当に自然と湧き出るような笑み。

 そういうのは、俺にはできない。

「ホントにね。無理ならいいし、書きたくないなら書かなくてもいいんだよ」

 ――書くか書かないかは、書きたいか書きたくないかで決めるものでしょ?

 ……結構、ダメージを食らったようだ。あのやりとり。
 こんなに何度も彼女のことを思い出すことなんて、今までなかった。

「自分でもよくわからないです」

「よく分からないって?」


「書きたくないんですよ、俺は。書いてると心底うんざりしてくるんです。自分が嫌になってくる。
 だから、書いてる最中は、これを書き終えたらもう二度と書いてやるもんかと思う。 
 でも、書かないでいると、今度は不安になるんです。物凄い無力感に襲われる。自分が一生何も手に入れられない気がしてくる。
 たぶん、俺はどうかしてるんです。病気みたいなものなんですよ。書くことから距離を置くべきなんだと思う」

 言ったあと、言わなければよかったと後悔した。部長は長い間を置いたあと、
 
「まあ、人によっていろんなこと考えながら書いてるよねえ」

 と、そう、当たり前みたいに頷いた。

「……おかしい、って、思わないんですか?」

「ん。いや、うーん。でも、ほら。ホントに書く理由なんて人それぞれじゃない? お金がもらえるんなら別だけどさ。
 ほら、女の子にモテたいってだけで始めても、売れるバンドっているわけでしょ?
 書く側の都合なんて、読む側にはほとんど伝わらないよ。どんな理由でも書きたいなら書けばいいし。
 ストイックになったり、サービス精神旺盛になったりする必要はないんじゃない?
 まあ、でも、ちょっと不健全って感じはするけどね」


 俺が何も言えずにいると、部長は言葉を重ねた。

「まあ、書けないからってそんなに落ち込むこともないと思うけどね」

「……そう、ですよね」

「いや、べつに落ち込んじゃダメってことじゃなくて。つまり、いろいろあっても、いいんだよ。と、わたしは思う」

 そう言い切ると、烏龍茶をストローで啜りきって、部長は大きな溜め息をついた。

「それにしてもさ、夕陽って見てるとうんざりしてくるよねえ。明日も学校かあって」

 その言葉に、俺はちょっと驚いた。

「綺麗なんだけど、綺麗なぶん落ち込んじゃうよね。なんかこう、切ない感じ? 分かんないけど」

「部長」

「ん?」

「明日、土曜ですよ」

「……た、たとえだよ、たとえ」

 部長はごまかすみたいに笑った。

つづく




 そんな出来の悪いラブコメみたいなやりとりをしている最中も、俺の心から奇妙な違和感はなくならなかった。
 
 たぶん寂しいんだろうな、と自分で納得していたのだけれど、どうもおかしい。
 その日、父は早々に帰ってきて夕飯に参加していた。

 食事は妹が言っていた通り豪華だったけれど、俺は食べ終えた十分後には自分が何を食べたのか思い出せなくなっていた。

 どこかふわふわと落ち着かない。現実的な手触りが薄い。

 従妹は食事を終えたあと父と何かを話していたが、途中で叔母から電話が掛かってきたようで、部屋に引っ込んでしまった。
 俺と妹とそれから父は、そのまま取り残され、交わす言葉もなく黙り込んだ。

 父が三本目のビールを開けるとき、妹は「まだ飲むの?」と咎めるように言った。
 父は照れくさそうに笑うだけで何も答えなかった。

 俺はその何気ないやり取りを注視するでもなく眺めていた。

 何もするべきことが思いつかない。



 俺がぼーっとしている間に妹は早々に食器を片付けて洗い始めた。
 父はテレビを見ながら何をするでもなくビールを啜っている。
 
 誰も喋らなかった。

 やがて食器を洗う音が途切れ、妹は宿題をすると言い残して自分の部屋へと戻っていった。

 これで俺と父だけが取り残されてしまった。

 そういえば最後に父と話をしたのはいつだっただろう。 
 ずっと前からろくに言葉も交わしていない気がする。

 いつからか話さなくなった、というわけでもない。
 もともと口数の少ない人だった。

 何か用事があるとき以外は、黙り込んでみんなを後ろから眺めていることが多かった。
 ときどき叔母と顔を合わせると、びっくりするくらい喋り出すものだから、子供ながらに驚いた記憶がある。

 でもそれ以外は、いつも堅苦しい顔をしているか、あるいは不機嫌そうに顔をしかめているか。
 ときどき感情をあらわにするときも、大声で怒鳴りつけるだけで……。

 ……そう、だったっけ?


 怒鳴り声なんて、ずっと聞いた記憶がない。
 不機嫌そうな顔をしているというのも、最近じゃむしろ、窺うような、後ろめたそうな顔を向けてくるだけで。
 何か物言いたげな顔をしているだけで、そんな顔はもうずっと見ていない。

 最後に真面目に話をしたのは、いつだったっけ。高校に入るときだって、ろくに何も言わなかった気がする。
 
 そういえば、俺の受験が終わる前頃から、合格発表の日まで、父はずっと断酒をしていたんだって妹に聞いた。
 ふうん、としか思わなかったけれど。

 最後に話をしたのは……膝を壊して、病院に連れて行ってもらったとき?
 どんな話をしたのか、もう覚えていない。

 それ以前は、まともな会話なんてなかった。
 ただ一方的に、俺が……。
 
 ……思い出すと、自分がこの場にいることがそもそもの間違いだという気がしてくる。
 
 ずっと、この家に自分の居場所がないような気がしていた。
 それは従妹が来てからもっと顕著になっていた。

 何が理由なのかは知っている。後ろめたさだ。

 だから、この奇妙な感覚は、きっと寂しさだけが理由じゃないんだろう。
 俺は、どこかで安堵もしていたのだ。


 母が出ていった後、俺は父を手ひどく責めたのだ。
 
 母が出ていったのは父のせいだと。
 覚えているかぎりの、母が父に向けていた罵詈雑言を使って。

 でもきっと、母が出て行ったのは……。
 俺が……。

 ――良い子にしてないと、置いてっちゃうからね?

 なんで近頃はこんなことばかり思い出すんだろう?
 夏休みの間も、その前も、こんなことはまったく思い出さなかった。

 そうした記憶は日常の底の方で眠ってしまっていたはずなのに。
 
 いろんなことを忘れて、それなりに楽しく……。

(本当に?)と声が聞こえた気がした。
 


 人は自分自身が抱える本質的な部分からは、決して逃れられないものなんです、とどこかで聞いた。

 そうだ。中学時代の担任だった男。バスケ部の顧問だった。
 部活を辞めたあとから、落伍者でも見るような目で俺を見るようになった。

 精神論が好きなバカだった。極めつけは卒業アルバムの文集に教師として寄せたコメントだった。

 全員に向けた安っぽいメッセージの後に、バスケ部全員の名前を連ねたあと、「ありがとう」と一言、書いていた。 
 そこに俺の名前はなかった。あの頃、人を一人だけ殺していいと言われたら、俺はあいつを殺していた。
 
 だから卒業アルバムを見返すのは嫌いだった。ページだけ避けようとしても、印象は強く残ってしまう。そういうものだ。

 中二の冬、部活を辞めてすることがなく、かといって帰る気にもなれずに教室に残っていた俺に、彼は一度だけ話しかけた。

「なぜ帰らないんだ?」と彼は聞いた。俺は面倒だったけれど、少しだけ考えた。
「親がうざいから」と俺は答えた。その頃にはもう、父のことを憎んではいなかった。
 すべては俺のせいだと知っていた。だって夢の中で母がそう言ったのだ。

「おまえくらいの年頃だと、まあ親っていうのは鬱陶しいものだからね。
 でも、そのうち感謝するようになる。誰だってね。あまり邪険にするものじゃないよ」


 そいつはそれだけ言うと、子供を見るとき特有の微笑ましそうな顔で笑い、体育館へと向かった。
 本当に腹立たしいときというのは、怒りよりも先に呆れがくるせいで、まともに反論もできないのだと、俺はそのとき知った。

 母さんは俺を捨てたんだぞ、と俺は思った。
 あの女は家族を捨てて逃げたんだ。熱にうなされる妹を置き去りにして姿を消したんだ。

 頭の中で教師をなじったあと、そのときの俺はどうしようもない無力感に支配された。
 だってそれは俺のせいなのだ。

 俺が良い子じゃないから……うるさく騒ぐから……勉強もろくにしない……言うことをきかないから……。
(そうじゃない)、と今の俺は言う。そうじゃないんだ。おまえのせいじゃない。
 物事っていうのは、そういうふうに決まるものじゃないんだよ。今の俺は昔の俺に対してそう言うことができる。

(本当にそう?)と昔の俺は言う。

(仮にそれが全部じゃなかったとしても、原因のひとつではあったんじゃないかな)

 俺は何も言えなかった。

(そうである以上、俺に何かを言う資格なんてあるんだろうか?)


 母がいなくなった日、街には深い霧が立ち込めていた。
 
 夕方過ぎに妹が目を覚ましたとき、母の姿はなかった。
 痛む喉を鳴らして、妹は母のことを呼んだ。でも返事はなかった。
 
 乾いた喉を潤すために部屋を出てキッチンに向かい、コップに水を汲み、それを一気に飲んだ。
 それからダイニングテーブルの上に置いてあった一枚の紙に目がとまった。
 
 母が記入すべき欄だけがすべて埋められた離婚届だった。
 おおよそ非の認められない完璧な記入だった。署名と押印まで丁寧だった。

 妹は重い体を引きずるようにして服を着替え、そのまま家を出た。
 熱でうまく動かない体は、霧と焦りのせいで余計に体力を奪われていた。

 霧の中、意識を失って倒れ込んだ妹の姿を、何十分かあとに近所に住んでいた女性が見つけた。
 その後妹は肺炎で二週間入院した。家には俺と父だけが残され、俺は父を激しく責めた。

 父は何も言わずに、状況が飲み込めていないような目で、俺を見た。

 それからろくに会話なんてなかった。父はその翌朝、当たり前のように、学校へ行けと言った。
 そして自分は当たり前のような顔で仕事に向かった。俺は何が起こっているのかまったく理解できなかった。
 父のことをひどく憎んだ。自分たちをこんな境遇に追い込んだのは父が母を蔑ろにしたからだと思った。

 でも、俺だって似たようなものだった。
 妹が霧の中で野ざらしにされていたとき、俺は学校で友達と笑い合っていたのだ。
 妹が風邪を引いていたって分かっていたはずなのに、両親の顔を見たくなくて。


 
 今にして思えば、父はよく当たり前のような顔で俺と妹を育てられたものだ、と他人事のように感じる。
 
 そして俺も、よくここに居続けることができたものだ。
 俺は今も、父に一言も謝ってはいない。

 謝るのが怖かった。
 謝って、もし、許されなかったらと思うと。
 だって父にまで見放されたら、俺に居場所なんてどこにもないのだ。

 そして、見放されてもしかたないだけのことを、俺はずっとしてきたのだから。

 だから、いつも、正面切って父と話すのが怖かった。
 
 ふと、自分が「今ここ」にいることを思い出した。それで少しほっとした。
 すくなくとも妹の病気は治っている。そして、俺は今父を責めていない。

 そういう情報をちゃんと整理しておく必要があった。でないと、ぐしゃぐしゃになって何もかもが分からなくなるのだ。

 相変わらず、俺と父しかここにはいない。テレビの音だけが鳴っている。
 
 今かもしれないな、と思った。謝るなら、今かもしれない。
 


 そう思ったことが分かったわけでもないだろうが、じっと見られていることに気付いたのか、父は俺の顔を見た。

「どうした?」

 うってつけのタイミングではあった。
 でも俺は、とっさに「いや」と否定する。
 
 それからたまらなく嫌な気持ちになった。
 父は「そうか」とだけ言ってビールを啜った。

「……美味いの?」

「……ん?」

「ビール」

「……んー。これは微妙だな」

「……」

 しらねえよ、と言いたかったけれど、自分で訊いておいてそれはできなかった。


「飲みたいのか?」

「飲んでいいの?」

 訊き返すと、父は少し考え込んで、

「飲みたいならな。やめといた方がいいと思うけど」
 
 と言った。俺はべつに飲みたいわけではなかったから、何も言わなかった。
 父はそれから一言も話さずに黙り込んでしまった。口数が少ないのにも程度というものがある。

 俺は何かを言いたかった。でも、それを今のタイミングで言ってしまうことはできなかった。
 
「珍しいな」

 不意に、父がそんなことを言った。

「……何が?」

「おまえがそんなふうに、口籠ったりするのが。いつもは、言いたいことを好き放題言ってるのに」
 
 なぜか、責められているような気がした。たぶん、そんなつもりはないのだろうけど。


「何か、言いにくいことか?」

「……いや」

 と、俺は一度否定しかけて、

「……うん」

 と肯定しなおした。

「母さんが出て行ったときのこと」

 父は何も言わずに、ビールの缶をテーブルの上に置いた。そして頷き、続きを促した。

「あのとき、俺、父さんを責めただろ?」

 父はまた頷いた。

「……ごめんなさい」

「……ん?」

 と父は首を傾げた。とても不思議そうに。

「……え?」


「今、何に対して謝った?」

「……いや、だから、父さんに」

「なぜ?」

「だから……責めたことを?」

 自分で言ったはずなのに、父の態度があまりに変なので疑問形になってしまった、

「……ん、あ、ああ。そういうことか」

 まだ何か納得いかないような顔で、父は何度も首を傾げていたが、やがてなんとか納得したのか、深く頷いた。

「そうか」

「……うん」

「ずっと気にしてたのか?」

「……ずっとってほどでも、ないけど」

「……そうか」


 そうか、と。
 それだけだった。

 据わりの悪い、落ち着かない気持ちが、胸の底の方からずるずると這いあがってくる。
 判決を待っているような気分。

 そんな俺の不安が顔に出ていたのだろうか。
 父は取り繕うように笑った。どこか乾いた、不安そうな顔で。

「そんな顔をするなよ」

「……でも」

「あのな」

 父はそう言って、何かを話し出そうとした。でも、何を話したらいいのか分からないような態度で、今度は唸り始めた。
 やがて、覚悟を決めたような、真剣な表情で、口を開く。

「おまえたちは、俺たちを責めていいんだよ。おまえが言ったことに間違いなんてなかった。
 母さんが出て行ったのは俺の責任だ。俺は母さんがそこまで追い詰められていたなんて知らなかった。
 その日その日をやり過ごすことで手一杯だった。たぶん今でもそうだよ。おまえが不安がっていることなんて気付かなかった」

 そこで一度言葉を区切り、窺うような目でこちらを見る。今度は俺が続きを促す番だった。


「だから、つまり……おまえは悪くないんだよ。べつに誰もそのことでおまえを責めたりしない。
 申し訳ないことをしたって思ってるんだ。ただ、そんなことを言うのは、とても卑怯な気がしたんだよ。
 俺が、そんなことを言える立場だとは思えなかったんだ。だから、ちゃんと話もしないまま、ずるずる今日まで来てしまった」

 まあ何か言い足りないというように、父は自分の頭を小突いた。たぶん言葉を探しているんだろう。

「親の都合で子供に悲しい思いをさせるなんて、そんなこと、あっちゃいけないんだよ。
 俺は上手くやれなくて、母さんは出て行ってしまったけど。でも、本当はそんなことになっちゃいけなかったんだ。
 もっと母さんのことを気に掛けるべきだった。言ったって、いまさらな話だけど」

 父は一瞬だけ、すごく苦しそうな顔をした。
 俺にはその表情の理由が、よく分からなかった。それ以上に、言葉の続きを聞こうとするのに一生懸命だった。

 でも、父はそれ以上何も言わなかった。
 まだ何かを言いたそうにしていたけれど、言うべきことが思い出せないみたいに、押し黙ってしまった。

「……悪かった」

 と、父は最後にそう言った。
 俺は今の話をうまく受け止めることができなかった。自分が最初に何を言われたのかも、思い出せなかった。

 俺は何も言えないまま、その場を後にして自分の部屋に戻った。
(違う)、と俺は思った。でも、何が違うのかは分からなかった。

 それから急に悲しい気持ちになった。その理由も分からないまま、俺は気付けば眠りに落ちていた。

つづく




 目をさました。

 ここはどこだ? と考える。そしてすぐに気付く。自分の部屋だ。そのベッドの上だった。
 時間は何時だろう? でも時計がない。俺は起き上がってカーテンを開けた。
 
 明け方頃のようだ。東の空から赤い光がゆるく広がっている。
 俺はデスクの上に置いていた携帯を手に取って時間を確かめた。四時半。朝の四時半だ。

 手足が自分のものじゃないような、そんな奇妙な感覚がある。
 たぶん夢のせいだろう。どんな夢を見たのかは、もう思い出せないけれど。

 どんな夢を見たんだっけ? そう考えてみる。でも無駄だった。 
 夢というのはそういうものだ。思い出そうとしても輪郭くらいしかつかめない。
 その輪郭さえも徐々につかめなくなっていく。ひどいときには夢を見たことすら忘れてしまう。

 でも、夢はあくまで夢でしかない。夢が現実に与えうる影響なんてたかが知れている。
 俺は溜め息をついてから顔を洗いに部屋を出た。
 
 扉を開けるとき、奇妙な感覚が俺を襲った。扉は難なく開いた。だからといってどうということでもない。
 それは単なる日常の一部でしかなかった。ささやかな日常的事実。




 土曜日だった。考えてみれば自然なことだ。金曜の次は土曜だと決まってる。

 そして土曜と言えば、従妹が帰ると言っていた日だ。
 そう考えてみれば、昨日そのような会話を誰かとしたような気がする。

 さて、と俺は思った。何をすればいいだろう? 何も思いつかない。
 いつもそうだ。手持無沙汰で居場所がない。でも、そんなことを今考えたところでどうしようもない。

 俺はしばらくぼんやりと考え込んでいた。
 ふと、さっきまで見ていた夢のことを思い出す。その内容が妙に気にかかった。
 とはいえ、もちろん内容自体は覚えていない。なんとなく気がかりな夢だった気がしたのだ。

 結局俺は二時間あまり自室のベッドで寝転がりながら、その夢の内容を思い出そうとしていた。

 もちろん、夢の内容が思い出せたりはしなかった。
 六時を過ぎると父や妹も起床し、家の中に物音が起こり始める。
 
 いつも通りの土曜の朝だ。




 従妹が起きてきたのは八時を過ぎてからだった。
  
 眠そうに目をこすりながら、すっかり見慣れた寝間着姿のままリビングに降りてくる。
 リビングにいたのは俺と妹だけで、父は昇格試験の勉強があるとかで部屋に篭もってしまった。

 すっかり過ごしやすくなった秋の涼しさの中、俺と妹はリビングでほうじ茶を啜りながら旅番組を眺めていた。

「……」

 従妹は何か物言いたげな目で俺と妹の方を見た。
 そのまま放っておくのも落ち着かないので、

「おまえもせんべい食う?」

 と声を掛けると、眠たげなじとっとした目を俺たちに向けた。

「……じじばばみたい」

「……」

 戦わずして負けたような気分になった。



 それでも従妹はパジャマ姿のまま俺たちの傍に座り、一緒にせんべいをかじりはじめた。

「今日で帰るんだろ?」

 わざと、さらりと聞き流せるような軽い調子で、そう訊ねた。

「うん。おにいちゃんを寂しがらせて悪いけど」

 従妹のその言葉に、一瞬、見透かされたような気持ちになったが、そういえば昨日の夜、そんな会話をしたのだった。
 
 結局、俺はこいつの事情というのを、聞くことはできないんだろう。
 それは俺のためでもあったけれど、それでもやっぱり、こいつだって話したいわけではないのだ。

「一緒に暮らして分かったんだけどさ」

「ん?」

「おにいちゃん、生活力ないね。彼女できないよ」

「……おまえ、思ったこと全部言っちゃうの、やめた方いいぞ。友達できないから」

 軽口に対して軽口で返すと、従妹はちょっと傷ついたような顔になった。
 俺はその表情の変化に驚いた。焦りはきっと顔に出た。
 従妹がそれに気付かないわけはなくて、だから彼女は、取り繕うみたいにへたくそな笑みをたたえる。

 それからごまかすみたいに、「うん。気を付ける」と頷いた。


「でも、おにいちゃんも、もうちょっとがんばった方いいよ」

「……うん」

「いつまでもちえこに頼りっきりじゃ情けないよ」

「……」

 妹は、はらはらしたような目で俺と従妹の顔を交互に見た後、間をとるみたいにほうじ茶を啜った。

「ちえこも」、と従妹は言った。

「兄離れしなきゃね」

 その言葉の意味が、俺はちょっとつかめなかった。
 だからそのときは、ちょっとしたからかいなんだろうと思って聞き流してしまったんだけど。
 あとになって考えてると、その言葉に対する妹の答えは、奇妙な真剣みを帯びていた気がする。

「……うん」

 とても、短いものだったけれど。




 九時過ぎには従妹も着替えて身だしなみを整えていた。

「荷物は?」

「昨日のうちにまとめといた。もともとそんなに量ないし」

 本当に今日、帰るらしい。いまいち実感できない。

「何時?」

「正午過ぎに、おじさんに車で駅まで送ってってもらうことになってる」

 あと三時間。
 あっという間のようで、待つとなると長い時間だ。
 
 従妹はどこか落ち着かない様子で家の中のあちこちを眺めている。

 その様子があまりに忙しいので、俺はちょっと呆れた。

「落ち着けよ」

「……あ、うん」
 
 まだ、気持ちが落ち着かないらしい。



 そう長い期間じゃなかった。……いや、どころか、せいぜい一週間程度。

「うーん、でも仕方ないよね。落ち着かないんだもん」

 最終的にはそんな感じで開き直り始めた。妹は何も言わずにテレビを見ている。

「手持無沙汰だなあ」

 そう言いながら、従妹は髪を指先でくるくる伸ばし始めた。
 よく女子がやっているのを見かけるけど、あれ何をしてるんだろう。枝毛でも探してるんだろうか。

「あ、そうだ。おにいちゃん、あのさ」
 
 急に楽しいことを思い付いたというように、従妹はこっちを見た。

「なに?」

「ちょっとクイズね。"手持無沙汰"って、男だと思う? 女だと思う?」

「……は?」

「なぞなぞ」

「……いや、なに、それ?」



「だから、なぞなぞ。クイズ。どう、分かる?」

「……いや、手持無沙汰は、男でも女でもないから」

「あのね、おにいちゃん。そんなの分かってるの。パンはパンでも食べられないパンは?」

「……ぱんつ?」

「……おにいちゃん、そこ普通、フライパンだから」

「……」

 思わぬところで恥をさらしてしまった。
 従妹はこほんと咳払いをする。俺は据わりの悪さをごまかすみたいに頭を掻いた。

「ていうかおにいちゃんはパンツ食べそう」

「おまえの中の俺のイメージどうなってんの?」

 とにかく、と従妹は強い調子で話を戻した。


「フライパンがパンじゃないことなんてみんな知ってるでしょ? つまり、そういうなぞなぞ」

「いや、でも、手持無沙汰が男か女かなんて、知らないし」

「だーかーら、なぞなぞなの。ちょっと考えれば分かるよ」

 結局俺は、そのなぞなぞの答えが分からなかった。
 そもそも真面目に考える気もなかったのだ。

 従妹は俺が真面目に取り合わないのを不服がっていたようだけど、気にしないことにした。

 結局会話もそこで途切れて、リビングにはテレビの音しかしなくなった。
 テレビの音はどことなく空疎な響きを伴ってる。いつでも。
 
 それはきっと、一方通行だからだろう。

 じゃあ、もしかしたら、俺の生活の中で、空疎に思える他のものも、ひょっとしたら、一方通行なのかもしれない。

「あーあ」

 と従妹は溜め息をついた。まだ十時にもならない。時間はまだまだある。



「ねえ、おにいちゃん。ちょっとこの辺り歩いてみたいんだけど、一緒に来てくれない?」

 よっぽど退屈なのか、そんなことまで言い出す始末だった。

「歩いてみたいって、散歩?」

「うん。ちえこもどう?」

「……え?」

  きょとんとした顔。それまで何かを考え込んでいた様子の妹は、すぐに会話の流れに気が付いて、

「わたしはいいや」

 と笑った。どこか弱々しく。その様子を怪訝に思いながらも、問い詰める気にはなれない。

「それじゃ、行こうか」

「……俺、まだ行くなんて言ってないけど」

「でも、来てくれるでしょう?」

「……」

 自信の根拠が知りたかったが、結局俺は散歩に付き合うことにした。あながち的外れな自信でもないのかもしれない。




 何があるというわけではない。
 つまらない街並み。どこにでもあるような、ありがちな住宅街。
 どこか圧迫されるような、狭くて入り組んだ道路。家々を囲うような灌木と石塀。

 そうした狭い道路を、俺たち二人は並んで歩いた。

 よく子供たちが道路で遊んでいるから、見通しの悪いこの道路を通る車は、いつもゆっくりと走る。

 不思議と俺には、そんなふうに誰かと遊んだような記憶がない。
 それだけではなく、子供時代の記憶はとても曖昧だ。

 ……いや、違う。少しだけ覚えていることもある。
 住宅街の中央にはちょっとした広さの公園があった。
 
 どこからともなくたくさんの猫が集まり始める公園。
 ブランコがあって、滑り台がある。雲梯があって、シーソーがある。
 鉄棒があって、砂場もある。

 砂場……。

「どうしたの?」

 砂場で……俺は、誰かと……。
 でも……彼女は……。
  


「……あ」

 不意によぎる記憶があったけれど、たぶんそれは違う。

「どうしたの、おにいちゃん」

「……いや。気のせいだった」

 従妹は怪訝そうな顔をしていたけれど、深く追求してこなかった。

 そうだな、と俺は思った。
 俺には小学校時代、友達と呼べる相手なんていなかった。
 それでも、この公園で、小学生の頃、ひとりだけ、一緒に遊んだ子がいた。

 でもその子はいなくなった。転校した。引っ越したのだ。

 誰だっけ? 昔は結構ショックだった。毎日のように顔を合わせてた。
 でもいなくなってしまった。当たり前だ。子供じみた約束なんていずれは忘れ去られる運命にある。

「ずっと一緒」はありえない。生き続ける以上は、いずれ何らかの形で終わりが来ることになる。
 俺たちは「誰かがいる」ということに適応し、その誰かがいなくなれば今度は「誰かがいなくなる」ということに適応する。
 人々が俺の部屋に現れる。やがて去っていく。それが繰り返される。そのたびに俺は心を軋ませながら適応する。

 宿命。


「昔からさ」

 不意に、従妹は口を開いた。

「わたし、嫌いだったの。わたしが住んでいる街のことが」

 真剣な表情。

「それでね、この辺りに憧れてたんだ。子供っぽいって自分でも思うけど」

「うん」

 頷いたのは、相槌を打っただけではなく、ささやかな共感をこめてだった。
 もちろん、この街が好きなわけじゃない。

 俺も、この街が嫌いだった。だから、彼女の言いたいことは、よく分かるような気がした。

「住んでる家が、たとえば、二十メートルずれた場所にあるだけでさ、人生ってまるっきり変わっちゃうんだろうね」

 今度は何も言わずに頷く。

「だから、あんな街じゃなければってずっと思ってた」


「……今は?」

 そう問いかけると、従妹は困ったように笑った。

「今も」

「……」

「でも、今は、ちょっと違う。嫌いだよ、あんな街。でもね、結局わたしはあそこにいるしかないんだ」

「……そんなこと、ない、かもしれない」

「うん。そうかもしれない。でも、今のところは、っていう意味」

「……」

「あの街が嫌なら、わたしはわたし自身の力で、あの街を出ないといけない」

 従妹はそれだけ言うと黙り込んでしまった。俺は返す言葉を失った。
 何を言えると言うんだろう。彼女の中で話は終わってしまっているのだ。そこに俺が介入する隙間なんてない。


「まあ、つまり、その……」

 何かを上手に言いたいのだけれど、上手く言えない、というような、そんな表情。
 だから俺は当てずっぽうで、

「“理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ”」

 そう言ってみた。

「……うーん。うん、まあ、そういうこと、なのかも」

 それでも何か納得しかねたような顔つきで、従妹はこちらをじとっと睨んだ。

「ね、それなんかの受け売り?」

「山月記」

「よく覚えてるね」

「言いたいことを言いたいときにちゃんと言えるように、気に入った言葉は覚えておくんだよ」

「それって、なんか、かっこわるい」

「そう? でも、便利だよ。とっさに何かを訊かれたときに、自分がちゃんと答えられるから」


「人の言葉でしょう?」

「共感できない言葉なら使ったりしない。自分の思考を言い当てていると感じるから引用するんだ。
 俺たちに言葉は難しすぎる道具だよ。いろんな人がいろんな言葉や文章を残すけど、そんなに普遍性はない。
 だから、上手に言葉を操れる人に、自分の気持ちを代弁してもらうんだ。事実や現象は言語化すると矮小化するから。 
 そういう意味では、小説を読んだり文章を読んだりっていうのは、すごく実用的で、実際的なことだよ」

 従妹はしばらく俺の言葉について考えようとしていたみたいだけれど、やがて諦めたようだった。
 俺は言葉を使うのが上手じゃない。だからいつも、言いたいことがうまく伝えられない。

 だからときどき、大事なことを訊かれたときだけは、ちゃんと答えられるように。
 自分の気持ちを表してくれる言葉を、あらかじめ借りておく。

「……他にも、いろいろあるの?」

 うーん、と俺は考え込んだ。とっさには何も思いつかなかった。

「でもそれって、自分で説明しようとするのをやめるってことでしょ?」

「どうだろう」

 実際、自分でもよくわからなかった。とっさに口からショーペンハウエルの「読書について」の一節が出てきそうだった。
「読書は、他人にものを考えてもらうことである」。それだってショーペンハウエルの考えたことだ。俺の考えたことじゃない。


「……ま、いいか」

 従妹はそんなことを言った。そこで切り上げてくれてよかった。それ以上話をするのは面倒だった。
 
「……さっきのなぞなぞだけど」
 
 俺は話題を切り替えるために、その話をした。

「答え、いったいなんなんだ?」

「あ、うん。問題、覚えてる?」

「……手持無沙汰が、男か女か?」

「うん。女なんだよね」

「……なんで?」

「あー、えっと。手持無沙汰って三回言って?」

「手持無沙汰、手持無沙汰、手持無沙汰」


「もっとひらがなっぽく」

 ……ひらがなっぽいってなんだ? 
 それでも言われた通り、もう一度繰り返す。

「てもちぶさた、てもちぶさた、てもちぶさた」

「ても、ちぶさた」

「……ても、ちぶさ、た?」

「うん、だから女性」

「……その心は?」

「ちぶさ(乳房)があります」

「女子高生の発想じゃねーぞ」

「自分で出題しておいてなんだけど、不安になってきた。乳房があるからといって女性と言い切れるんだろうか?」

「なぜそこで無駄に悩むんだ……」

「無駄に悩んでこそ、青春だから?」

 なぜ疑問形。


「いや、まあ、それはともかく、乳房があるからといって女性だとは言い切れないよね」

「……そう、か?」

「うん。それに、乳房がないからと言って、女性じゃないとも言い切れないよね」

「そうだな」

「……いま即答だったけど、どこ見て言った?」

「何の話だろう」

「……まあ、いいけど」

 従妹はそこでひとつ溜め息をついた。土曜の朝、家並みはひどく静かだった。
 少しの間、黙りこんだまま歩いていたけれど、結局従妹は再び口を開いた。俺にはなんとなくそうなることが分かっていた。

「乳房があるから女性なのか。女性だから乳房があるのか」

「……」

「……なんで呆れた顔をするの?」

「呆れてるからだと思う」

つづく




 散歩から戻る途中、従妹はずっと何かを言いたげにしていた。
 訊ねるべきか、訊ねないべきか、俺はずっとそれを考えていた。

 彼女は来たときと同じ踵の高い夏物のサンダルを履いていた。
 歩くたびに踵がカン、カン、と小高い音を立てている。

 それはちょうどノックの音みたいに聞こえた。
 
 彼女は俺の隣を歩いている。目も合わせないで何も言わずに。カン、カンという音が続く。
   
 空はいつの間にか曇り始めていた。
 俺は歩き続けることに少しうんざりしていた。

「そろそろ戻ろう」

 従妹は少し間を置いてから、うん、と小さく頷いた。

 空は白く、雲は暗かった。景色はすべてが薄い光を纏っているように見えた。
 水彩画の中の世界。鈍い景色。



「あのさ、文章を読むことについては、さっきの話で納得したんだけど」

 不意に、従妹は口を開いた。

「じゃあ、書くことは、どうなの? 書くことには、どんな意味があるの?」

 その問いかけに、俺は言葉を失った。
 その答えを、俺は持っていなかったのだ。

「……自己満足」

 と俺は答えてみた。結局はそこなのだ。

「……そう、なの?」

「うん。いろんな文章がある。自己充足、他者充足、思考の整理。でもどれも根源は同じだよ。
 ただ方向性が違うだけだ。他人を満足させたい、と思う奴は、他人を満足させたいという自分の欲望を満たしている。
 そうじゃなくて、作家やコピーライターなんかは金の為に書くかもしれない。それだって自分の生活の充足のためだ」

 答えながら、俺はたとえようのない不安を感じていた。そうなんだろうか?
 きっと俺は文章を書くことに幻想を見すぎている。


「おにいちゃん、わたしって、女の子?」

 しばらく押し黙ったかと思うと、ふたたび口を開き、従妹は、突然、本当に突然、そんなことを言い始めた。

「……なんだよ、急に?」

「いいから答えて」
 
 彼女の表情には、感情が付与されていなかった。
 あるいは、俺がそれを見つけ出せないだけなのかもしれない。

「女だよ。そうだろ?」

「胸はないのに?」

「……その話、まだ引っ張るのか?」

「真剣に、訊いてる」

「……」

 本当に真剣な顔をしていたので、俺はちょっと戸惑ってしまった。



「女だよ」と俺はもう一度答えた。

「……うん」

 少し、声が震えているように聞こえた。俺の声も、従妹の声も。
 
「あの」

 何かを言いあぐねるような態度。靴音は絶えず俺の耳に届き続ける。声は震えていた。

「今から、わたし、余計なことを言う、かも」

 不安そうな声音。震えている。

「なに?」

「わたし、女の子だよね?」

「うん」

「胸はないけど」

「……俺が悪かったよ」

「そういう意味じゃなくて……」



 つまりね、と従妹は話し始めた。

「わたしが女性であるための条件って、なんなんだろう?」

「……どういう意味?」

「条件」と彼女は繰り返した。俺はとっさに肉体的な要因を挙げようとしたが、たぶんそういう話ではないのだろう。

「たとえばわたしの今の人格を、そっくりそのまま、その辺の男の人に移し替えるとするでしょう?
 そのときわたしの肉体はたしかに男の人だよね。でも、じゃあ、わたしの人格は?」

「実際に女性として生活した記憶がある以上、人格は女性なんじゃないか」

 人格。人格に性別があるというのは、考えたことのないことだった。

「じゃあ、わたしの肉体にある日突然、どこかの男の人の人格が入ったとしたら? 
 そのときおにいちゃんは、わたしを男だと思う? 女だと思う?」

「……理屈上、男にならないとおかしいけど、女だと思うだろうな」

「……女、っていうか、"わたし"だと思うよね?」

「そうだな。おまえが変なことを言い出したって思う。……つまり、何が言いたい?」

「わたしがわたしであるための条件って、なんだろうね?」

「……」



「肉体は"わたし"だけど、それは"わたし"じゃない」

「現実では、人の精神は人の肉体を離れたりしない」

「思考実験、みたいなもんだよ。もし別人の人格がわたしの肉体に宿ったとしても、それはわたしじゃない。
 だとすると、わたしがわたしであるための条件ってなに?」

「連続性」と俺は答えた。従妹はすこしつまらなそうな顔をした。俺は気にせずに話を続ける。

「もしくは文脈。それまでの記憶の堆積。そういうものだろう」

「じゃあ、まるっきりの記憶喪失になったら、それはもうまるっきりの別人ってこと?」

「社会的には同一人物として扱われるだろうけど、精神的には違う人物じゃないか」

 ふうん、と従妹は溜め息を漏らした。どうでもよさそうだった。

「じゃあ、そうした連続性さえ保たれていれば、社会的にはともかく、精神的には同一人物になり得るってこと?」

「まあ、そうじゃないか。もっととんでもない可能性は除いて、だけど」

「とんでもない可能性って?」


「たとえば、俺がある朝目覚めると、同じ学校のクラスメイトBくんになっていた。
 俺はBくんの家で目覚め、Bくんの制服を来て学校に行き、Bくんの席に着く。 
 そして本当の俺の身体の方にBくんの精神が宿っているのではないかと考える。
 けれど、実際に俺の肉体と会話をしてみると、まるで俺とそっくりな喋り方、そっくりな態度、そっくりな考え方をしている」
 
 俺は途中で自分の話していることにうんざりした。
 
「このとき、俺は自分の記憶にある通り"俺"なのか。
 それとも、エラーを起こし混乱したBくんの精神が、自分を"俺"の人格だと錯覚しているのか、確認のしようがない」

「……?」

 案の定、従妹は首をかしげた。俺は溜め息をついた。

「その話はいいよ。それで、続きは?」

「あ、うん。つまりね、連続性、文脈が保たれていれば、それは同一の人格として扱ってもかまわない、という話だったよね?」

「……うん」

「だとすると、わたしは乳房がなかろうと、肉体的に男性であろうと、精神は女性であり続けることができるってことでしょう?」

「まあ、そうなる」

 ……なぜ乳房にそこまでこだわるのかは分からないけれど。



「つまり、わたしが言いたいのは……」

「……言いたいのは?」

「……なんだっけ」

「……」

 ここは呆れてもいいところだろう。

「あ、そう。つまりね、ある事実が事実であるために必要な条件って、結構曖昧だと思うんだよ」

「……うん。それが?」

「それって、どんなことだって同じでさ」

「うん」

「たとえば、その、家族、とか」

 カン、カン、と足音は鳴り響く。辺りはいつになく静かで、その音はとてもよく響いた。
 頭が少しだけ痛かった。脈動するような鈍い痛み。


「つまり、わたしが言いたいのはね……」

「無理するな、って?」

 俺が訊ねると、従妹はちょっとだけ足を止めた。
 それから顔を俯けて、立ち止まったまま、小さな声で呟く。

「……うん」

「みんなそう言うんだ」

「それだけ、みんなに心配されてるってことでしょ?」

 足音だけが響いている。空は白くて、通りは静かで、たぶん世界中から人がいなくなったらこんな感じだろうと思う。
 それは心地良い想像だった。旅行で観光地なんかに行くことがあると、いつも人込みにうんざりする。

 どこかの山にどこかの修験者だか俳人だかが登ったという山道があって、そこに行ったことがある。
 パンフレットによれば古式ゆかしい建築物と自然の美しさが売りらしかった。
 勾配はきつく足元は不安定だった。にもかかわらず人込みは水の流れみたいにうねり続ける。
 足を休めれば邪魔になるし、急ごうにも人が邪魔で進めない。人に縛られているのだ。

 山道の途中には立て看板があり、その道を昇った俳人が残した俳句が書かれていた。
 それは山道の途中、疲れの中で野花を見たときの安らぎを詠んだささやかな俳句だった。

 人の流れは立て看板の前でも止まらなかった。俺はその倒錯に吐き気を催した。


「顔に出てるってことか」

「……顔に出すなってことじゃ、ない、よ」

 どうしてか、従妹の声は震えていた。
 怯えているんだろうか。でも、何に?

「ほんとはわたしが言うことじゃないんだけど、きっとわたし以外は、誰も言わないだろうから。
 おにいちゃんはなんだか、無理をしてまで、誰かの役に立とうとしてるように見えたんだ。ずっと前から。
 でも最近は、なんだか、燃料が切れたみたいに、すごく、つらそうな感じがする」

「……どうだろう」

「いろんなことに、疲れちゃったみたいにさ。そんなふうに見えるんだよ」

「……」

「おにいちゃんはさ、何もしないでいるのが怖いんだよ。何もしないでいて、呆れられたり、諦められたりするのが怖いんだ」

「違うよ」

「違わない。だから必死になって、誰かにとって有用な自分であろうとするんでしょう? 
 そうして勝手に頑張って、勝手に疲れて、勝手に落ち込んでるんでしょう?
 そういう態度が、周りの人を余計に疲れさせて、そのことにも自分で気付いてる。でも自分じゃ直せない。違うの?」


「違う。俺は……」

「なに?」

「俺は……ただ……」

 従妹は、俺の言葉の続きを待った。でも続きなんて思いつかなかった。
 彼女の言葉は丸っきり正しかった。否定のしようなんてなかった。

 この街が嫌いだった。ずっと前から。違和感があった。耐えきれない不快感があった。
 この街にいるという事実が耐え難かった。この街にいるしかないという事実が不安だった。
 
 でも、本当は知っていた。それは、街に対する気持ちではなかった。
 俺は自分自身が嫌で嫌で仕方なかったのだ。
 いや、その言い方は正確じゃない。自分自身が嫌だったのではない。
 
 それは他者に対する恐れだった。
 俺がもっと頭が良く、落ち着きがあって、よく気が付き、運動もでき、人好きのする人間だったなら、と。
 他人にそう思われるのが怖かった。

 自分が「この程度」であることに対して、自分自身では納得していた。それが相応だ、と。
 でも、他人からもし、「こいつがこうじゃなかったら」と思われていたらと思うと、おそろしかった。



「……そうだな」

 と俺は言った。従妹の言うことは否定のしようがない。事実俺は、そのように考えていた。
 彼女は少しの間考え込んでしまった。俺は何も言わずに続きを待った。

「おにいちゃんは、無理をして、誰かの役に立とうとか、しなくてもいいんだよ。
 そんなことしなくたって、おにいちゃんの居場所はちゃんとあるんだよ」

 従妹はそう言ってから、唇を強く噛んでいた。後悔していたのかもしれない。
 
「そうかもしれない」

 と俺は言った。半分くらい聞き流していた。
 カン、カン、という靴の音。それが少し煩わしく思えてきた。

「もっと俺が、良い息子で、良い兄貴で、良い従兄だったらよかったんだよ。頼りがいがあって、芯があって……。
 だから、そういうふうになりたかったんだよな。なろうとしてみたんだ。でも、すればするほど、嫌になった」

「おにいちゃんは、がんばってたよ」

「そうかもしれない。……違うな。そうじゃない。がんばったかどうかは、この際関係ないんだ。
 他人がどう思うかは関係ないんだよ。俺が俺を許せないんだ。役立たずの自分が嫌で嫌で仕方ないんだ」



「どうして?」

「果たすべき責任を果たせない奴に、居場所なんてない」

「責任なんて……」

「ある。あるんだよ。俺はそれを果たさずにいるんだ。だからきっと、いつか見放されてしまう」

「……誰に?」
 
 その質問の答えは、すぐには浮かばなかった。

「おじさんも、ちえこも、そんなこと考えてないと思う。おにいちゃんがどんな人間でも、見放したりしない。
 そうでしょう? だって家族でしょう?」

「違うよ。果たすべき責任を果たせない奴は家族なんかじゃない。家族である資格がない。
 だから役立たずな俺には、あの家にいる資格がないんだ。俺は役に立たないと……」

「……」

「……だって、そうじゃないと、おかしいだろ。父さんと母さんが同列なんて」

「……え?」

「……でも、なんだか、すごく疲れるんだ。おまえの言う通りだよ。
 自分には、人間としての部品が欠けているような気がするんだ。こんな話をすると面倒だって思うか? 
 でも俺は言わずにはいられないんだ。俺は、母さんのことが好きだったんだよ。もうろくに覚えてもいないのにさ」



 もう従妹は何も言わなかった。足音はいつのまにかすごく小さくなっていた。

「雨が降りそうだな」

 俺がそう言うと、彼女も空を見上げた。灰色の空が静かに垂れこめている。
 どことなく、空気も澱んでいるような、そんな気がした。

 少しの沈黙のあと、従妹が不意に、とても小さな声で、ささやくように、

「それでも、おにいちゃんがそんな顔をしてるの、嫌だよ、わたしは」

 そんなことを言ったけれど、それも、それだけと言ってしまえばそれだけのことだ。
 だって彼女はいなくなってしまうんだから。

 家に着くまで、俺たちは何の言葉も交わさなかった。
 従妹は落ち込んでしまったようだったけれど、俺にはその理由が分からなかったし、そうである以上放っておく以外に方法がなかった。

 
 少し無責任だと言う気もしたけれど、だからといって何かを言う方がよほど無責任だという気もした。 
 どうせ俺は彼女の望むようになんてできやしないのだ。


 家に帰ると十時を過ぎていて、見計らったように細かな雨が降り始めた。
 従妹は正午過ぎに少しの荷物だけを持って、父の車に乗せられて駅へと向かって言った。
 
 俺たちはささやかな別れの挨拶だけを交わした。それ以上、特に言うべき言葉はなかった。
 従妹が車に乗るとき、例のサンダルの踵がアスファルトと鳴る音は、とてもささやかだった。
 雨の中で、その音は本当にちいさく聞こえた。

 そして従妹が車に乗ると、それ以上は本当に聞こえなくなってしまった。
 そのようにして従妹は俺の家を去った。当然のことだから、当然のように去って行った。


つづく




 部長の口車に乗せられてノートを開いた。実際、今なら何かを書けるような気がしたのだ。
 
 書きかけていた文章を読み直してみると、つくづく書くことが嫌になってくる。
 こんな文章はどこにも行きつかないし、行きついたところでどうにもならないというような気分だ。
 
 それでも書かないわけにはいかなかった。倫理観の問題だ。
 とにかく俺は書かなくてはならない。本当は俺自身、そのことをよく理解している。
 
 ただ単に退屈していただけだったはずの彼女の心境はやがて変貌していく。
 そこには逃れようのない彼女自身の問題が浮き彫りになり始める。

 人は自分自身が抱える本質的な部分からは、決して逃れられない。

 けれど、そうした部分が明らかになるにつれて、俺は段々とたとえようのない心細さを感じることになる。
 いつもそうだ。
 
 いくら物語の中で俺とよく似た人物を救ったところで、俺自身が救われるわけではない。
 そんなのは当たり前のことだ。



 それでも俺は書こうとしてみた。俺が書き始めたのだ。書き終えないわけにはいかない。
 そんなのはあまりに無責任だし、身勝手だ。途中で放り投げることはできない。

 だから俺は書く。書いている。でも書いているうちに、自分が何を書いているのか、段々と分からなくなってくる。
 自明さが失われ、いろんなものが不鮮明になっていく。最後には何も分からないような気になる。

 今度ばかりは無理かもしれない。彼女は外に出ることができないかもしれない。
 書きながらそんなことを思う。
 
 一度そういう考えがよぎってしまうと、あとはまともに考えが回らなかった。

 でも書かなきゃいけない。そういう責任がある。
  
 ノートを閉じて一度休憩を挟むことにした。頭の中でずっと同じことがぐるぐるとまわっている。

 書こう、と思う。でも書けない。何がだめなんだろう。何かが駄目なのだ。

 部活が終わるまでに書き進められたのはたった少しだけだった。

 いっそ書けなかった方がマシと言うほど少ない量。
 




 部活が終わった後も、何をするでもなく部室に残っていた。
 
 家には帰りたくなかった。こういう気分の日は、いつもなら屋上に行った。
 でも、もう行くわけにはいかなかった。少なくとも、彼女に対して言えることが何か思いつくまでは。
 たとえば「久し振り」だとか、あるいは「気付かなかったよ、ごめんな」だとか。
 
 無神経だろうと馬鹿げていようとなんでもいい。とにかく自分自身納得のいく言葉がほしかった。

 でも結局のところ、そんなのは無謀な試みなんだろう。
 時間は絶え間なく流れ続けているし、その勢いは決して俺のことを顧みたりはしない。
 
 誰も俺が納得するのを待っていたりはしない。
 俺は納得したかったし、未整理のまま放り出されたさまざまなものをどうにかして整理したかった。
 
 文章を書くことで起こっていることを整理できれば、もう少しマシな行動がとれるような気がした。
 でも、文章を書いている間にも時間は流れていく。俺とは無関係に物事は動いていく。
 そして取り返しがとれなくなっていく。整理しなければいけない事柄は増えていく。

 俺は身動きがとれなくなっていく。
 結局、物事を未整理のまま抱え込んで、とりあえず最善を尽くす方が、よっぽどマシな結果が生まれたのかもしれない。



 額を抑えて考え込んでいると、不意に物音が聞こえて顔をあげた。
 てっきりもうみんな帰ったのかと思っていたら、後輩がまだ帰っていなかったらしい。

「帰らないの?」と俺は訊ねてみた。

「せんぱいこそ、どうしたんです?」

「……俺は、まあ、ちょっと」

「書けましたか?」

 後輩は当たり前みたいな顔でそう訊ねてきた。俺は少し苛立った。

「きみはやけに俺の小説の進捗を気にするね」

「気になってますから」

「……これが?」

 俺は片手に持っていたノートを机の上に放り出した。冗談だろ。そう思った。

「どうして?」
 
 訊ねると、後輩は一瞬、息を呑んだように見えた。その態度は妙に硬質で、不安にさせられる。



「ああ、いや、やっぱりいい」

 俺がそう言ったとき、後輩の表情は目に見えて変わった。
 さっきまでの、どこか怯えたような表情から、驚いて声も出せないというようなものに。

「訊かないんですか」

「訊きたくない」

「どうして?」

「関係ないから」

 今度は彼女が苛立った。そういうふうに見えた。
 
「せんぱいの書く話は」

 俺の言葉とは無関係に、後輩は急にそんなことを言い始めた。

「つまらないです」

「……はあ」

 あまりにもまっすぐに言われたものだから、俺は呆気にとられて反応に困ってしまった。



「……あ、そう?」

 結局でてきたのはそんな間抜けな反応だけで、

「はい」

 それでも後輩が真剣に頷くものだから、頭がすごく混乱した。

「でも、妙に気になったんです」

 何か、話し始めてしまった。正直あまり訊きたくなかったけれど、そんなことを言える雰囲気ではない。
 自分の書いたものと他人との関係なんて知りたくない。

「去年の文化祭、わたし、来たんですよ。そのとき、まだ受験する高校も決めてなくて。
 どこでもいいやって思ってたんですけど、その日に文芸部の部誌を見て、それで、ここにしようって思ったんです」

「へえ」

 そうだったんだ、と俺は思った。それだけだった。たいして興味も湧かない話だった。

「部誌に一通り目を通して、途中までは面白いなって思って読んでたんです。
 でも最後の最後に、すごく排他的っていうか、人を拒絶した感じの短編が載ってて……すごく不愉快になったんです」

「……ねえ、念の為に訊くけどそれって」

「せんぱいのです」

 ああ、俺のか。いや、気付いてたけど。


「あの、よく分からないけど、今俺、傷ついていいところだよね?」

「はい。でも、せんぱいは傷つきませんよね?」

「……俺のことを知ってるみたいなこと言うね」

「知っていましたから」

「……」

「わたしとせんぱい、中学一緒でしたよ。知ってました?」

「……ああ、うん」

 知ったのはつい最近だけど。後輩は少し意外そうな顔になった。

「知ってたんですか。てっきり、覚えてないものだと思ってました」

 俺は何も言わずにおいた。どっちにしたって、ひとまず話が終わるのを待つしかなかった。

「正直、せんぱいのこと、あんまり好きじゃなかったです。部活だってやる気があるようには見えなかったし。
 それに、なんだか暗くて、話してると妙に緊張しましたし」


 思わず溜め息が出た。「すみません」と後輩が謝る。謝るくらいなら最初から言うな。

「何を考えているのか分からなくて、ずっと、怖かったんです。せんぱいのこと」

「そうだろうね。もともとあんまり人好きのするタイプじゃないしね」

 言い訳するつもりでもないけれど、精神的に余裕のないタイミングで他人に気遣える人間なんていない。
 ところで。
 どうして俺はこんな話を訊かされてるんだろう? わざわざ訊く気にもならなかった。
 
「だから、せんぱいが部活を辞めたあとも、元々やる気がなかったから、膝を口実に辞めたんだろうって思ってたんです」

「それは……無思慮だね」

 後輩は俺の言葉に少し傷ついたようだった。俺はそういう顔が出来ていないんだろうか?
 傷ついたような顔をできないような奴が、泣きたいときに泣けないような奴が、いつだって悪役だ。
 
「傷つきましたか?」

「少しね」と俺は言った。そう言ってみると、本当に少ししか傷ついていないような気分になれた。
 言葉は意味を矮小化させる。

 泣くなと言われたから強がる癖がついて、泣かなくなったら可愛げがないと怒られた。間抜けな話だ。
 それでも泣くのはいやだったから、泣きたいときには笑うようになった。どうして笑うんだと叱られた。
 
 数年後には、悲しかろうと楽しかろうと、泣きも笑いもせずに仏頂面をしている子供の出来上がった。
 誰を責めればいいんだ?
 


「何を考えてるか分からない人だと思ってたんです。たぶん何も考えてないんだろうなって。
 ときどき友達と一緒に騒いでるところを見かけると、本当にそんなふうに見えたんです」

「きっと本当に何も考えてなかったんだよ」

 後輩は首を横に振った。

「何も考えていない人は、あんなものを書きません」

 舌打ちをしそうになったのを堪える。今度は溜め息も出なかった。

「やっぱり部誌になんて載せるんじゃなかったな。適当に書いたのを出せばよかった。
 妙なものを出したせいで、みんな俺のことを変な目で見てる気がする。ただのバカの方がよっぽどやりやすかった」

 言いながら、俺は後輩に対して強い苛立ちを感じていた。
 おまえに俺の書いたものの何が分かるって言うんだ?
 文章から作者の人格を想像しようとする奴は信用ならない。そういう奴は文章それ自体を絶対に読まないからだ。
 
 主人公のどんな台詞だって作者の思想の投影だと解釈したがる。間抜けが他人に口出しするほど馬鹿げた話もない。

「どんな人が書いたんだろう、って思ったんです。それで名前を見たんです。
 すごく意外でした。他の人ならともかく、せんぱいがそんなものを書くなんて想像もできませんでした」
 


「想像力の欠如だな」

「……」

「結局、自分で勝手に解釈しちゃうんだよな。目の前の相手がどんな人間か。
 明るそうに見えたら楽しい人なんだろうとか、騒いでたら空気が読めない奴だとか、暗そうに見えたら暗い奴なんだろうとかな。
 自分なりに解釈して、そこから先はもう印象が固定されるんだ。そいつが本当にどんな人間かなんて関係ない。
 だから気付けないんだ。馬鹿騒ぎをしてる奴が心の底から騒ぎを楽しんでいるとは限らないって。
 クラスで一番の人気者が家で手首を切ってるかもなんて想像さえもできないんだ。噂にでもならないかぎり」

「あの……」

「いかにも勉強しかできないような暗そうな奴が、学校の外では何かに熱中してて、その中ではそこそこ人気があって。
 しかも社交性だってあって友達だって多くて目標だってあるかもしれない。そんな仮定もできないんだ。
 だから簡単に人が死ぬんだよ。だから簡単に人を殺すんだ。俺だってそうだしおまえだってそうだよ。みんなそうなんだ」

「せんぱい……?」

「だから俺は自分のことを勝手に判断されるのが我慢ならないんだよ。俺がどういう人間かなんてどうしておまえに分かったりするんだ。
 なんでおまえに見せた顔が全部だなんて考えるんだ。でも知ってるんだよ。立場が代われば俺だってやってるんだ。
 俺だって同じことをしてる。だから俺は誰のことも責められない。俺はそのことが嫌で嫌でたまらないんだよ」

「せんぱい」

「なに?」

「……その、ごめんなさい」


「いいよべつに。きみが悪いんじゃないよ。ただそういうふうに出来てるんだ」

「そうじゃなくて、無神経なことを、言ったかなって」

「ああ、うん。言ってたな。傷ついてないと思ったんだろ? なら仕方ないよ。俺だって反撃したからあいこだよ」

 後輩はまた傷ついたみたいな顔をした。俺はいいかげんうんざりしてきた。
 でも、それを不愉快に思うのは俺の都合であって彼女には関係ない。責める理由にもならない。

「わたしはただ、せんぱいの書いたものを読んで、どんな人が書いたんだろうって、興味をもったんです。
 それで、次はどんなものを書くんだろうって、気になったんです」

「不愉快だったのに?」

「……不愉快だったのは、たぶん、自分と重ねたからだと思います」

「そう。なら俺のせいじゃないな」

「……そうですね」

 それから後輩は黙り込んだ。安っぽい沈黙だった。少なくともそんなふうに感じた。


「書いてくれませんか」と、長い沈黙の後、後輩は言った。
「なぜ?」と俺は訊ねた。
 もう書くことなんてできそうにない。俺は気遣う余裕を失うほどに混乱していたし、疲れていた。

 
 普段だったらこんな言い方しなかった。もっと器用にはぐらかしていた。 
 でももう無理なのだ。俺には何もできやしない。もうどうしようもないところまで来てしまったのだ。


「わたしはせんぱいの書いたものが読んでみたいんです。どんなものを書くのか、興味があるんです」

「自分と重ねたから?」

「……そう、かもしれません」

「だったら、自分で書くべきだよ。自分のことは自分で書くべきだ。本当は一人一人、個人的なものを書けばいいんだ。
 誰かの文章を読んだりせずにさ。そういうものこそ、本当は普遍的になりうるし、なるべきなんだ」

「じゃあ、わたしも書きます。だから、せんぱいも書いてください」

 交換条件にもなっていなかった。後輩は小さな声で話を続けた。

「入学してから、せんぱいと話をして、せんぱいがどういう人だったのか、知ろうとしたんです。
 でも、そうすればするほど分からなくなって、やっぱり怖いし、緊張するんです。
 本当にこの人があんなものを書いたのかって、不安になったんです」

「なあ」と俺は彼女の話を遮った。

「その話まだ続く?」

 また彼女は同じ顔をした。いいかげんうんざりしていた。彼女は少なからず傷ついていた。 
 でもそれがどうした? 俺だって傷ついてる。



「……いや、違う」

 俺は拳を作って自分の額を軽く小突いた。それから溜め息をついた。

「こんな言い方がしたいわけじゃないんだ。でも、俺が書いているものは個人的なものなんだ。
 だから誰かに頼まれたって書けないし、そんなふうに書きたくもないんだ。
 それを読んできみがどう思おうと勝手だけど、感じたことを俺に押し付けるのはやめてほしい」

 その言葉は、後輩を少なからず失望させたようだった。
 でも、嘘ではなかった。

 彼女は俺の書いた文章に勝手な幻想を投影していた。
 そんなものに付き合わされるのはいやだった。すぐに嫌気がさすに決まっていた。

「でも、わたしは……」

「“わたしは”」

 と俺は繰り返した。

「それはきみの都合だ。俺とは関係ない」

 
 そこで話は終わった。後輩は何かを言いたげだったけれど、結局荷物を持って部室を出て行った。 
 酷く喉が渇いていた。溜め息をつく。肌寒い。

 
 彼女の望むようなものが書けたなら、と俺は思った。それはたぶん、すごく幸せなことだったんだろう。


つづく




 後輩が去って行った後、部室に残ったまま一人で考え込んだ。

 言わなければよかった、と後悔する気持ちが大きかった。あんなことは言わないでよかった。余計なことを言った。
 言ってしまったものは仕方ない。そう割り切ろうとするけれど、無理だった。
 後悔するくらいなら最初から何も言わなければいいのだ。

 何度か溜め息をついた。強い風が窓をカタカタと鳴らした。外はもう暗くなりはじめていた。秋なのだ。

 俺は何をしているんだろう?
 高校二年生なんだぜ、と俺は思った。高校二年生なんだ。もう子供みたいに誰彼かまわず当り散らしていい歳じゃない。
 もう十七になるんだ。なんだって年下の女の子相手にあんなどうしようもないことを言えたりするんだ?

「バカだな」

 俺はそう呟いてみた。一人で。誰が聞くわけでもない。誰が言うわけでもない。何の意味もない言葉。
 でも言葉を口に出すことの意味はあった。アリバイ作りみたいなものだ。

 言葉に出すことで、『俺は後悔しているのだ』と強く自覚しようとする。
 そうすることで罪悪感を和らげようとしている。卑怯者の手口だ。
 
 あんなことを言うべきじゃなかった。いつもそんなことで後悔している。
 そういうタイプの後悔は時間が経っても薄まることがない。
 誤字みたいなものだ。だいたいの場合は手遅れになってから気付く。人に見せた後とか。



 いつもは親密さすら感じる部室という空間が、ひどくよそよそしく、冷たいものに思えた。
 居心地が悪くなったので、荷物を持って帰ろうとした。空間にすら軽蔑されているような気がしている。

 部室を出るとき、机の上にシャープペンを見つけた。
 なんだか気になったので、近付いて手に取ってみる。

 部活中、部長がずっとカチカチやってた奴だ。何度か見たから、間違いない。忘れていったんだろうか。
 
 なんとはなしに、部長がやっていたようにノックしてみる。カチカチと音がする。
 けれど、芯は出てこなかった。入っていないのかと思ってひっくり返してみると、三本ほど真新しい芯が出てくる。

 先の方を見てみると原因が分かった。
 ペン先が潰れているのだ。

 つまり、もうこのペンはダメだということだ。
 何回ノックしたところで芯は出てこない。役目を果たすことができない。
 
 誰が何をやったってもう出てこない。俺は少しだけ笑ってしまった。

 可哀想に、と俺は思った。でもまあいいじゃないか。どうせ替えが効くんだ。
 部長は新しいシャープペンを買うだろう。たぶん今度はおまえより丈夫な奴を。おまえより使い勝手がいい奴を。
 だから安心して天に召されるがいい。さらば。

 俺は机の上にシャープペンを置いたあと、手のひらを合わせて数秒拝んだ。
 それから、なんだか嫌な気分になって、すぐに部室を出ることにした。





 もう外は暗かったけれど、まだ帰る気にはなれなかった。
 俺は自販機で烏龍茶を買ってその場で口をつけた。喉の渇きはそれでどうにかなった。
  
 でも他のことは烏龍茶じゃどうしようもなかった。肌寒さや心細さはこの自動販売機では無理だった。
 あるいは何か特別なエピソードでもあれば、心細さくらいはなくすことができたかもしれない。

 たとえばある日の放課後、かわいい女の子とこの自動販売機の傍で楽しくおしゃべりしたとか、そういう個人的なエピソード。
 そういうものでもあれば心細さは雲散霧消し、ちょっとしたほろ苦さが胸に去来し、少しだけ満たされたかもしれない。

 とても残念なことに俺と自動販売機の間に個人的なエピソードなんてなかった。だから心は弱ったままだ。

 俺はなんだかやりきれない気持ちになって屋上へと向かった。確認だ。

 階段を昇りながら、俺は自分を励ました。人は人を傷つけずには生きられないものなんだよ、と。
 傷つけずに生きていると思ってる奴はきっと気付いていないだけなんだ。あるいはそう思いたいだけなんだ、と。

 それでも俺は頑なに反論する。それは積極的に人を傷つけていい理由にはならない、と。 
 人はできるかぎり人を傷つけないように努力するべきだし、俺にはその努力が欠けていたのだ、と。

 階段を昇りきってしまうといつものように目前に鉄扉があった。
 この扉はいつだって簡単に開く。冗談みたいに簡単に。なんでだろう、鍵が掛かっていないのだ。

 たぶん、ここには何もないからだろうな、と俺は思った。
 守るべきものも隠すべきものもここにはない。だから簡単に扉が開くんだ。

 俺はいつものように扉を開けた。やっぱり簡単に開いた。





 屋上から見る空は鮮やかだった。雲は青紫で、空は橙で、夕陽は黄色。絵に描いたような光景。
 風が少し強かった。こんなところにいたら、また風邪を引いてしまうかもしれない。
  
 まあいいやと俺は思った。屋上には誰の姿もなかった。夕陽はいつになく眩しい。
 
 夕陽。
 すくなくとも、明日もがんばろうなんて気にはならなかった。だからってうんざりしたわけでもない。
 ただ、綺麗だった。でもそれだけだった。遠い世界の出来事。手の届かない場所の出来事。

 誰もいない。誰もいないっていうことは、誰にも見られてないってことだ。 
 誰にも見られてないってことは、何をしても分からないってことだ。

 ここでならなんだってできる。思う存分泣くことだってできる。

 そう思うと家までの帰り道が余計に長く感じられた。ここから動くことなんて二度とできないような気がした。

 
 俺は屋上に座り込んでじっと空を睨んだ。フェンス。隔絶されてる。向こうに手は届かない。 
 フェンスが邪魔だなあと俺は思った。空がよく見えないじゃないか。

 
 まあ、それが取り立ててどうだというわけでもなかった。べつに空が見たくてここに来たわけでもない。



「おまえは彼女を傷つけたんだ」と俺は俺に向けて言ってみた。
「そしてもう二度とやり直すことはできない」

 言ってしまうと後は簡単だった。同じ言葉を頭の中で何度も唱えるだけだ。
 
 もう二度とやり直すことはできない。
 終わったことなんだ。過ぎてしまったことは変えられない。諦めて受け入れろ。

 変えられるのは「これから」のことだけだ。「これまで」のことはそのままに置き去りにするしかない。
 いつもならそう思って頭を切り替える。でも今日はなんだか、気力が萎えてしまっていた。

 それでも頭を切り替えないわけにはいかない。どうしようもないことにいつまでも縋りついているわけにはいかない。

「終わったことだ」と、今度はそう口に出してみた。マントラ。

「なにが?」と声が聞こえた。

 答えを口にしかけて、俺は振り向いた。

 枝野が立っていた。





「何してるの?」と彼女は言った。
 直前に口にした言葉を忘れたみたいに自然な声音で。
 
「何をしてるように見える?」と俺は訊ねた。
 相応しい答えが見当たらなかったから、考えるのを放棄しただけだ。

「落ち込んでるみたいに見える」

「当たり」

 枝野の声は以前の通りで、彼女の態度は俺を緊張させない。
 まるで何事もなかったかのような会話。いつかも交わしたような言葉。

「誰かと喧嘩でもした?」

「ときどき、きみは魔法が使えるんじゃないかと思う時がある。千里眼で俺を見てるんじゃないかって」

 枝野はちょっと面食らったみたいな顔でこっちを見た後、心外だというふうに眉を寄せた。

「もし千里眼が使えても、あんたのことなんて絶対に見ないけどね」

 そう言ってから彼女は深い溜め息をついた。何かを諦めるような溜め息。



「……ごめん。嘘かも」

 彼女はそう言って肩をすくめた。俺はその言葉をうまく理解できなかった。

「どれが?」

 その質問には答えずに、枝野は勝手に話を続ける。

「ホントのこと言うと、さっき部室の前に居たんだよ、わたし」
 
「立ち聞き?」

「人聞き悪いな。聞こえてきたの」

「部室に何か用事?」

「……部員が部室に顔を出すのに、理由が必要?」

「それが幽霊部員ならね」

 俺の言葉に、彼女は不服そうに口を歪めた。

「今日はいつもより口が回るね?」

 そうかもしれない。いつもなら考えてから言葉にするから。でも今は……。



 俺はそれ以上深くは考えずに、適当に言葉を返そうとしたけれど、思いつかなかった。

「きみに謝るべき?」

 言葉に詰まるあまり、俺はそんなことを訊ねた。訊ねるべきじゃなかった。何度同じことを繰り返すんだろう。
 彼女は案の定呆れた顔になった。というより、呆れを通り越したのか、軽く笑っていた。

「それ、普通、わたしに訊く?」

 その言葉には答えずに、俺は彼女の表情の動きを観察した。俺が黙り込んだことに気付くと、彼女は笑うのをやめた。
 そして真剣な顔で口を開く。

「何について?」

「覚えていなかったこと」

「だと思ったけど。いいよべつに」

 当たり前みたいな顔をしていた。


「だってそれ、いまさらなんだもん。それに、覚えてなかったのはべつにあんたの責任じゃないでしょ。
 そりゃショックだったけど、だからってあんたを責めるのは違うでしょう?
 そんなのは、もうわたしは一年以上前に通り過ぎたし、とっくに納得してたんだよ」

「そう、なんだ」

 そうだったなら。
 なんで彼女は、しばらく屋上に来なかったんだ? あんなふうに逃げ出したんだ?

 彼女は嘘をついていた。それは俺にも分かった。
 長い沈黙が流れた。風が冷たかった。どうしてこんなに肌寒いんだろう。
 
 やがて、何かを決心するみたいに息を呑んだあと、彼女はまた口を開いた。

「なんで書くって言わなかったの?」

「何の話?」

「さっきの、部室での話」

「……なんでって、どういうこと?」

「あんたは、誰かに必要とされたかったんじゃないの?」



 俺は枝野の顔をじっと見つめた。彼女も負けじと俺の顔を見た。でも結局、目を逸らしたのは枝野が先だった。

 必要とされたかった、のだろうか、俺は。
 よくわからない。そんなふうに逃げ出そうとする俺の思考を、

「失望されるのが怖かった?」
 
 枝野の一言が捕らえた。彼女は本当に、魔法が使えるのだという気がした。

「そうだね」

 俺は軽く溜め息をついてから肯定した。肯定してしまうと多少楽になった。
 それは事実だった。

"事実に怯える必要はない。"と俺は唱えた。コインロッカー・ベイビーズ。
"ただ認めて何日間か泣けば良かったのだ。"

「臆病者」と枝野は言った。その言葉はいくらか俺を傷つけたけれど、だからといって反論があるわけでもない。
 俺は少し考えてから、枝野の顔をもう一度見つめた。彼女は少し怯んだ。

「ねえ、きみのこと、好きだったって言ったら信じる?」

「うそ」と彼女は言った。鼻で笑うように。それでもどこかしら、隠しきれない動揺が漏れ出たような笑い方。

 こんな悪趣味な嘘を誰がつくだろう。



「中学のとき、俺のことを好きだと言ってくれる人は一人しかいなかった。
 ひょっとしたら、一人いたというだけでも、十分すぎるくらい幸福なのかもしれない」

「そうだよ。存分に後悔したまえ」
 
 冗談めかして笑いながら、彼女は俺の言葉の続きを待っていた。目は合わせてくれなかった。

「本当は縋りつきたいくらい嬉しかったんだ。でもそれと同じくらい怖かった。
 だって俺たちはろくに話したこともなかったし、きみは俺のことをほとんど何も知らなかった。違う?」

 彼女は少し考え込んだ。

「……まあ、たしかに。所属している部活とクラスと、あとはおおまかなイメージくらいしか」

「どうせ失望させるだけだって思ったんだ。俺だってきみのことはほとんど何も知らなかったしね。
 だって俺は俺という人間のろくでもない部分をよく知っているし、きみはそれについてほとんど何も知らなかった」

「自虐的」と彼女は笑った。

「事実」と俺は答えた。

「だから振ったの?」

「そう、だと思う。とても後悔した。二週間くらいきみのことが頭から離れなかった」



「嘘だ」

「本当に。といっても、今はその内容をほとんど覚えてないけど。俺はそれからきみのことについてある程度調べた。
 どんな部活に入っていて、どんな友達と付き合っているのか。調べたというより観察したという方が近いか。
 気付くと目で追いかけてた。俺はその時期、毎日みたいにきみのことを考えてた。たぶん好きだった」

「……」

「手放してから惜しくなるタイプなんだよな、きっと」

「最低」

 と彼女は笑った。軽蔑したというよりは、理解しかねるというふうに。

「きみにそのことを話すべきなんじゃないかと考えることもあったよ。
 俺もきみのことが好きなのかもしれないって。そうすれば何か変わるかもしれないと思った。
 でも結局、俺はそういうことができないんだよな」

「そういうのって?」

「誰かを好きになったとしても、その気持ちをどう取り扱っていいのか分からないんだ。
 誰かを好きになる。好きだと告げる。両想いだと知って、付き合って。そのあとはどうなるんだ?
 一緒に話をして、デートして、ひょっとしたら卒業しても付き合っていたりして、大人になって、上手くすれば結婚でもするかもしれない。
 結婚して子供を産んで、子供を育てて……」

「……」

「それでどうなる?」


「そんなに先のことまで、普通、考えないよね」

 彼女は真剣な声音でそう言うと、遠くの空をじっと睨んだ。

「でも」と俺は言った。

「俺は考えるんだ。考えずにはいられない」

 彼女は正しい。俺は臆病者だ。

「結局きみが知る通り、俺がきみに何かを告げることはなかった。
 自分の中で終わったことにしてしまうと、何もなかったみたいにすぐきみのことも忘れられた。
 あとはほろ苦い思い出だけが残った。そんなものでもないよりはましだと思った」

「最低」と彼女は繰り返した。ちょっとつらそうだった。
 それでも俺は、今とても正直に話をしている。
 ……ひょっとしたら、つらい事実を話す正直者よりも、素敵な作り話を語るうそつきの方が付き合いやすいかもしれない。

「失望されるのが怖かったの?」

「きっときみは俺のことなんてすぐに嫌になっただろうと思う」

「どうして?」


「きみは俺にまともな人間であることを望んだと思う。
 理想化されないまでも、少なくとも恥じるところのない人間であることを望んだと思う。
 反対に俺は、きみに無条件の好意を望んだだろう。何をしても許してくれるような、そんな都合のいい存在であることを望んだ」

 俺は話しているうちに段々と嫌な気持ちになってきた。

「そんなのまともな恋愛なんて呼べるか?」

「……まともな恋愛ってなんだろう?」

 その答えを俺は知らない。でも、少なくともそういうものは「まとも」とは呼べない、と思った。

「俺は人を好きになれるような人間じゃないんだろうな。
 たとえば俺が望むのは"安心"であって、"安心させてくれるような誰か"であって、特定の誰かじゃない。
 俺を安心させてくれるなら誰だっていい。きみだってかまわないけど他の誰かでもかまわない。
 要するに俺がほしいのは抱き枕とか、赤ん坊のおしゃぶりみたいなものなんだ」

 なんでこんな話をしているんだっけ?

「ものすごくリアルな人型の機械が、俺に愛情を抱いている"ふり"をしてくれるのが一番都合がいい。 
 生きている人間が相手だと不安になってくるから。結局魂の有無だって関係ないんだ」

 彼女は黙り込んでしまった。

「でも、そんなことを考えて、そんなことを人に求めれば、いつか気付かれて軽蔑されるに決まっている。
 だから、誰ともどうにもなれない。とにかく俺は、人との関係というものをどう発展させていけばいいのか分からないんだ。
 停滞している状態に安心を抱く。
 きっとだからこそ、高校に入ってから一年以上、きみと一緒にいられた。名前を知ろうとすることもなく」



 枝野は黙り込んだまま夕陽を睨んでいた。空は暗い。風は強い。夜が近付いている。

「小説は」と、彼女はふたたび口を開いた。

「書かないの?」

 俺は首を横に振った。

「分からない」

「失望されるのが怖い?」

「どうだろう。それもあると思う」

「面倒な奴」と彼女は言う。俺は少しだけ笑った。
 俺は、一生このようにして生きるほかないのかもしれない。

「でも、きっと書くよ。いつかは。誰かに見せるかは、別の話だけど」

「ほんとは今でも好きだったんだよ」

 彼女は唐突に、そんなことを言った。一瞬、何の話なのか分からなかった。


「なんでかはもう分からない。たぶん落とし穴みたいなものなんだよね。
 一度落ちたら抜け出せない。そんな感じなんだと思う。よくわからないけど」

 俺は何も言わなかった。

「でも、わたしはきっと"あなた"が求めているものを与えられないし、他の誰にもそんなことはできないって思う」

「そうだろうね」と俺は物わかりのいい子供みたいに頷いた。本当は今すぐにでも話をやめてほしかった。

「それでも本当なら、努力くらいはしたかったけど、中途半端に期待するのは、お互いつらいだけだもんね」

「うん」

「わたしが望むのは……望むとしたら、それはもっと普通の恋愛なんだよ、きっと。
 だからわたしは、今度はもっと普通の人を好きになると思う。普通に落ち込んだり普通にはしゃいだりする人を。
 そんなに簡単に切り替えられるかは、ちょっと自信ないけど、でも、わたしだってもう疲れたんだよ」

「……」

「だから、これでおしまい」

 おしまい、と、彼女は言った。


「ねえ、ひとつだけ訊いてもいい?」と俺は訊ねた。
 ずっと前から気になっていたのだけれど、この言葉、それ自体がひとつの質問だよな。
 どうでもいいことを考えて気分を切り替えようとした。

「なに?」と彼女は首を傾げた。

「きみは前、学生同士の恋愛に興味なんてないって言ってなかった?」

「よくそんなこと覚えてるね。それ、あてつけみたいなものだったんだよ」

「意味がない、みたいなことも言っていたよね?」

 彼女は肩をすくめた。

「意味がなくて何がいけないの?」

 たぶんそこが俺と彼女の決定的な違いなんだと思うけれど、確信はできない。
 俺はそれ以上考えることをやめてしまったからだ。本心では、彼女は無意味だとも思っていないのかもしれない。

 何かしらの意味はあるのだと考えているのかもしれない。今だったら、その考えに同意できそうだった。
 意味があるにしても、結局俺には、怖くてそんなことはできそうにないけれど。

 彼女が屋上を去り、俺はひとり置き去りにされた。扉の閉まる音の後には、風の声しか残らなかった。
 このようにして俺はひとりぼっちになった。

つづく




 夕食をとったあと、俺は一人で部屋に戻った。
 
 眩暈がしそうなほどの全能感があった。自覚できるくらいに。あるいは本当に酔っていたのかもしれない。

 今なら書ける、と思った。今なら何だって書ける。

 誰のためのものだって書ける。誰かを楽しませることだってできる。それを望むことができる。
 俺は今、人を心から楽しませることができる。そういう心境だった。
 
 そしてノートを開いた。俺は今初めて「彼女は退屈していた。」から始まらない文章を書いている。

 書き出しの一行目は迷いなくスラスラと掛けた。
 テンポもリズムも言葉の配置も句読点の位置も問題ない。
 
 一行目はごく当たり前のような流れで二行目へと繋がった。二行目は当たり前のように展開の幅を広くしてくれた。
 頭の中で書いた文章を読み、ここは違う、と修正を加える。
「当たり」じゃダメだ。「正解」がいい。駄目な部分に気付いても、すぐに代案が浮かんだし、適切な語だってすぐに思いついた。

 今なら本当になんでもできる。そう強く思った。



 腕が自分の腕じゃないみたいに簡単に動いた。
 今まで俺の体を何かが縛り付けていて、それが一気に解き放たれたみたいな気分。

 よく分からない昂揚感。ほとんど暴走するような感覚。
 
 俺は今書いている。いつもよりずっと自由に。頭を熱くして。

 書き終えてみるとそれは千五百字ほどのショートショートだった。
 ストーリーの展開にもほとんど悩まなかった。

 本当に起こったことみたいに思えた。
 それは本当に起こったことで、ひょっとしたら俺は、記憶を書き起こすように書いただけなのかもしれないと思えるほど。
 
 俺は書き終えたものを読み返してみた。短い。でも悪くない。
 文章の読み心地も悪くない。テンポはいいけれど書き崩しているわけでもない。細部は丁寧だ。

 面白かった。自分で読んでクスクス笑えるくらいだった。
 ただの文章だ。俺が求めた、何も起こらない、にもかかわらず面白い、そんな文章だった。
 展開やストーリーではなく、語感や言葉の並びによっておかしさを掻き立てる手法。

 でも、と俺は思った。

 いったい誰が、これを読むんだ?
 熱はそこですっと冷めた。



 俺は書きあげた文章をもう一度読み返す。別に悪くない。
 でも、そのノートの前のページには、まだ部屋の中から出ることのできていない「彼女」の姿があった。

 俺の書く文章は、いつだって「彼女」のためにあるべきなのだ。

 俺は何を書いたんだ? そう思った。

 たしかにこ人を喜ばせるかもしれない。
 すくなくとも、いつも書いているものよりは、楽しんでくれる人は多いかもしれない。

 でもそこに「彼女」の姿はなかった。
 厳密に言えばたしかに存在してはいる。
 そういう意味では、これも俺が書いた文章だと言える。
 
「次」に何かを書くのなら、こういう形だってかまわないかもしれない。

 でも「今」はダメだ。
 俺は「彼女」を外に出さないといけない。

 一度書き始めたものを放り投げることは絶対にできない。
 べつに他の物を先に書き上げたってかまわない。

 けれど、いつかは、絶対に、書き上げないといけない。



 溜め息が出た。それから額を抑えて考える。
 
 そうなんだよな、と俺は一人で頷いた。
 いつかは書き上げなきゃいけないんだ。だって俺はもう書き始めているんだから。

 書きたくないとか、書けないとか言うなら、べつに書かなくてもいい。
 けれど、書き始めたものにだけは、責任を取らなきゃいけない。絶対に。
 
 途中で投げ出すことだけは、絶対にできない。
 
 おまえは絶対に死ぬなよ、と俺は俺に言った。
 おまえは絶対に誰かを置き去りにしたりするな。

 それから今日一日の記憶を洗いざらい確認してみた。
 誰とどんな会話をしたのか、すべて思い出そうとする。

 けれど、会話の内容のほとんどを、俺は覚えていなかった。
 俺が覚えているのはぼんやりとした印象だけだった。

 シィタ派と編入生が付き合い始めたとビィ派が言っていた。それ以外はほとんど曖昧になっていた。



 俺は今日も自己完結的で排斥的だった。
 みんな俺のドアをいつものようにノックした。ある者は激しく、ある者はささやかに。
 俺はそれらをひとつひとつ丁寧に断っていった。

 でも本当にそうだったんだろうか。
 それだけだっただろうか。

 不意に、ノックの音が聞こえた。最初は幻聴だと思った。
 でも、それは現実の音だった。それは現実に存在する音だった。

「なに?」と俺は訊ねた。
「電話」と妹の声が答えた。

 俺は立ち上がって扉を開けた。妹はどことなく落ち着かなさそうな顔で電話の子機を握っていた。
 それを受け取り、耳に当てる。

「もしもし?」と俺は言った。
「おー、元気?」と叔母が言った。


「ああ」
 
「なに? 元気ないなあ」

「あ、いや……」

「あ、そう。手紙読んだよ。古風な奴だね、今時。写真ありがとね」

「うん」

「最近どう? 料理は上達した?」

 俺はちらりと妹の方を見てから、結局その質問に答えた

「いや。あんまり」

「生まれ変わるんじゃなかったの?」

「サナギが蝶になるには、けっこうなエネルギーがいるものなんだよ。……いや、知らないけど」

「サナギか、あんたは」

「羽化できるといいよね」

「自分で言うなよ。無責任な奴だなあ」

 叔母の呆れたような声に、俺はなんとなく安心した。



「娘がそっちで迷惑かけなかった?」

「俺は何もしてないから」

「そうなの? 帰ってきたとき、なんかふてくされた顔してたから、何かあったのかなって思ったけど」

「……あー」

「ま、食って寝たら治ったみたいだったけど」

「……あ、そう」

「まあでも、行く前よりは元気になったみたいだから安心して?」

「そう、なんだ」

「ていうか、行く前とは別のことが気がかりになったみたいな感じだったけど」

「……」

 俺のことじゃないよな? と思うものの、なぜか自信が持てなくて言葉を返せなかった。


「声が暗い気がするけど、なにかあった?」

「え?」

 訊ねられて、言葉に詰まる。

「いや、まあ、なんていうか、いろいろ?」

「ふーん」とどうでもよさそうに溜め息を漏らしてから、叔母はちょっと笑った。

「あんまり考え込んじゃダメだからね、あんたの場合。
 頭悪いくせに考え込んだってろくなことにならないんだから」

「……あ、うん」

 普通にひどい。

「いや、それでもさ、考えずにはいられないときってあるじゃないか」

 叔母はちょっと考え込んだようだった。

「そういうときは、ひとりにならないこと。誰でもいいから、誰かの近くにいって、なんでもいいから話をすること。
 ひとりでも平気って言う人ならともかく、あんたはそうじゃないでしょう?」

「まあ、たぶん。……でも」


「余計なことは考えないでいいから、とにかくわたしの言う通りにしなさい」

 叔母の声音は真剣なものに変わっていた。

「あんたはたぶん、ひとりで居ることに慣れ過ぎたんだよ」

「……どういう意味?」

「そういうのは、分からない人には一生分からないけど、でも、分かる人には分かってしまうものなんだ。
 だからわたしにはそれが、まあ、そこそこ……理解できる。分かっちゃうんだよ」

 だから、と叔母は言う。

「だから、もし自分が"そこ"にもう一度落ちてしまいそうだと気付いたら、絶対に誰かと話をすること。
 話して、"そこ"を矮小化させること。言っていること、分かる?」

「まあ、分かるよ」

「もちろんこれは命令じゃなくて……もし"そこ"がもう嫌だと思ったら、の話」

「……うん。分かってる。ありがとう」


 叔母は溜め息をついて、沈黙を置いた。俺には居心地のいい沈黙だった。
 けれど不意に、何かの話し声と、がさごそという物音が電話口から聞こえた。

「……あ」
 
 というささやかな声。

「……えっと、もしもし? おにいちゃん?」

 従妹だった。

「ああ、うん」

「うん……」

 最後にどんな話をしたのかが、よく思い出せなかった。ほんの少し前まで一緒に暮らしていたはずなのに。
 ほんの少し前というか、まだ三日と経っていないはずだ。

「元気?」

 従妹はごまかし笑いを漏らすみたいにそう訊ねてくる。俺は「まあね」と曖昧に頷いた。

「そっか。……うん」

「うん。……そっちは?」



「わたし? わたしは、べつに、普通かな」

「普通?」

「うん。割と、普通。今のところ」

 どう考えても、三日前まで顔を合わせていた相手との会話じゃない。
 俺はすこし嫌な気分になった。
 
 つまりそれは、俺が彼女とほとんど向き合っていなかったという事実を端的に示しているのだ。

「なあ、おまえがこっちにいるときにさ、俺、変なこと言ったか?」

「え? あ、うん」

「あのな、今は比較的マシな状態だから、今のうちに言いたいことを全部言っておくけど……。
 俺は別におまえを傷つけたかったわけじゃないんだ」

「……べつに、傷ついてなんて」

「聞けよ」と俺は言った。

「俺はべつにおまえを傷つけたいと思ってるわけじゃないし、暗い気持ちにさせたいと思ってるわけでもない。
 おまえに嫌われたいわけでもないんだ。そうだろ? 誰かに積極的に嫌われたい人間なんていないよ。
 いるとしても、それはよっぽどひねくれて、どうしようもなくなってしまった奴だけだ」

 従妹は返事を寄越さなかった。ただ息遣いだけが電話の向こうから聞こえた。



「俺はおまえのことが好きだし、だからおまえには笑っていてほしいんだよ」

「……は?」

「えっ……」

 電話の向こうからの声と、すぐ傍で俺の様子を見ていた妹の声が重なった。
 ちょっとまずい言い方をしたなと思ったけれど、まだ言い足りなかった。

「傷つけたいわけじゃないんだ。だけど、俺はそういう気持ちをどこに持っていけばいいのか分からないんだよ。 
 叔母さんも言ってたけど、俺はきっとひとりでいることに慣れ過ぎたんだ。
 だからおまえに、余計なことを言ったかもしれない。おまえを傷つけたかもしれない。
 でも本当はそんなことしたくなかったんだ。ただ感情のセーブがきかなくて、言わなくてもいいことを言って……。
 相手を暗い感情に巻き込んでしまう、そういうときがあるんだ」

 本当は、俺が話しかけていた相手は従妹ではなかったのかもしれない。
 俺は電話の向こうに他の誰かの姿を見ていたのかもしれない。
 枝野や部長や後輩のことを。あるいは傍にいる妹のことを。

 そう思うと、自分の言葉がすごく自己愛的なものに思えていて、それ以上は苦しくて続けられなかった。

「勝手な言い分かもしれないけど、それだけは理解してほしい」

「あ、えっと、うん。……え? あ、その……」

 
 しばらく混乱したような声で、従妹は意味のない言葉を吐き出していたけれど、 

「……ごめん!」

 という声を最後に電話が切れた。



 電話が切れてしまうと、自室は驚くほど静かに思えた。
 
 俺は音の途切れた子機を見下ろしながら、頭に昇った血がさっと引いてくるのを感じた。

「……好きなの?」

 部屋の入口の前に立ったままの妹が、困ったような顔でこちらを見ていた。
 俺は自分の発言を思い出してみようとしたが、よく思い出せなかった。

 よく思い出せなかったけれど、なんだかまずいことを言ったということだけは分かる。

「いや、違う」

「好きじゃないの?」

「……」

「好きじゃないのにさっきみたいなこと言ったの?」

「そうじゃなくて……」



 妹は俺の方を見ないでじっと床の上を見つめていた。何かを考えているようだった。
 それからふと、どこか大人びた口調で、

「……従兄妹は、結婚できるもんね」

 従兄妹は、と。
 そんなことまで言い始める始末だった。

「だからそういうんじゃなくて」 

 妹は説明しようとした俺の手から電話の子機を奪い取ると、俺の目を見て「お幸せに」と大真面目な顔で言った。
 それからこちらに何かを言う時間も与えず、軽い足音を残して俺の部屋を出て行く。

 扉を閉める勢いはいつもより激しかった。

 取り残された俺は、電話での話の余熱と、妹の不可解な態度のせいでしばらく何も考えられなかった。

 ベッドに寝転がってしばらく天井を見つめた後、結局起き上がって机に向かってノートを開いた。

 妙に胸がモヤモヤして、上手く集中できなかった。


つづく




 気付けば俺はひとりぼっちで部屋に取り残されていた。
 いつものようにノートに向けて文章を書き連ねている。

 意味のあるもの。意味のないもの。無関係なこと。雑多な組み合わせ。

 けれど、ある地点から進もうとすると、どうしてもそこから進むことができなくなってしまう。
 どうしてだろう。

 方法論。目的意識。なんだろう、何が足りないんだろう。
 
 それでも俺は書くしかなかった。書き上げるしかなかった。

「どうして?」

 と声が聞こえた。気付けばすぐ傍に誰かが立っていた。
 女だ。若い女。

「なにが?」と俺は訊ねた。
「どうして書かなきゃいけないの?」と彼女は言った。



 俺はすぐに答えようとしたけれど、その理由が分からなかった。
 きっと何かの理由があったはずなのだ。でも、考えれば考えるほど、書いている意味がよくわからなくなってきた。
 俺自身、もう書きたいなんて思っていない。誰も求めていないし、誰かに求められても関係ない。
 
 結局俺には書く理由なんてない。

「大変だね」と女が言った。

「大変なんだよ」と俺は答えた。彼女は目を細めて少し笑った。俺の好きな笑い方だった。
 でも俺は本心じゃ大変だなんて少しも思っていなかった。

「書き上げてどうするの?」

「……どうするもなにもない。書いたらおしまいだよ」

「それじゃあ、部屋から出て行って、そこで終わり? その先は?」

「その先のことは、俺の責任の範疇にはない」

「無責任じゃない?」

 女の表情の動きはよくわからなかった。いろんなものが判然としない。目の前に霧でも掛かっているみたいに。



「ようやく覚悟して部屋から出たら、すぐにでも交通事故に巻き込まれて死んじゃうかもしれない」

「そうかもしれない」と俺は言った。それは真実だった。

「何かを決意したからって、すべてが上手くいくはずがない」

「うん」

 女は俺の方を一瞬だけじっと見つめたあと、何かを言いたげに口を開いた。
 でも、言葉は追いかけてこない。

「いつも、自分にはマトモな人間としての部品がいくつか足りないんじゃないかって気がしてたんだ」

 俺の言葉に、女は笑った。

「なにそれ?」

「いっそ誰からも忘れ去られて、存在ごと消えてなくなってしまえたらなって思ってた」

「そう」

「そうすれば誰も悲しまないし、誰も気にしない」

 静かな溜め息が聞こえる。


「悲しい?」と女は聞いた。
「たぶん」と俺は答えた。

「もうそんなことを考えるのはやめにするよ」

「どうして?」

「どうしてだろう。たぶん嫌気が差したんじゃないか」

「置き去りにするんだ?」と彼女は言った。

「置き去りにされないためだよ」

 これはきっと夢なんだろうな、と俺は思った。俺は今夢の中にいる。そして誰かと話をしている。

「じゃあお別れなんだね」
 
 確認するような声。俺はうしろめたさに囚われながら頷く。

「でもきっとあなたは後悔すると思う」

「そうかもしれない」
 


 俺は立ち上がって扉へと近付いた。ドアノブは凍てついたように冷たい。

「絶対に、いつか、後悔すると思う」

「でもそうしないことには始まらないんだ」

「結局同じことを繰り返すんだね」

「そうした方がいいと思ったことをするだけだよ。いつだって」

「それでも、あなたがこれから置き去りにするものはあなたの一部だったものなんだよ。
 だから切り離して捨ててみたって絶対に離れられない。傍になくても、幻肢痛みたいにいつまでもジリジリと体を焦がす」

「他にやりようがないんだ」

「捨ててどうするの? 結局同じことを繰り返すだけだよ」

「分からないけど、きっともっと上手くやるよ」

「どうして?」と彼女はもう一度聞いた。
「さあ?」と俺は答えた。


 でもとにかく扉を開けるしかなかった。ドアノブを捻ると、扉は簡単に開いた。

「本当に行くの?」

 彼女の声には明確な侮蔑が込められていた。それをやり返すことだってできる。
 でも俺は、彼女を軽んじるつもりはなかった。

「本当に行くんだよ」

 あるいは彼女の言う通り、後悔するだけかもしれない。
 
「うそつき」

 そんな言葉が後ろから聞こえた。でももうどうしようもない。  
 このままではいろんなものが駄目になってしまう。
 
 俺は扉を開けた。





 机の上に顔をのせてうたた寝してしまっていたようだった。
 
 頭は妙にすっきりしていた。机の上には開きっぱなしだったノートが置かれている。
 俺はそこに書かれた文章を読んでみた。

「彼女は退屈していた。」から始まり、「だから彼女は出かけることにした。」で終わる文章だった。
 ようやく俺は書きあげたのだ。少なからぬ時間を犠牲にして。
 得るものは何もない。分かっていることだった。
 
 俺はただ無為なことを続けていただけだった。不毛なことを続けていただけだった。

 立ち上がり、部屋を出ることにする。喉が渇いていた。
 とにかくこれで終わったんだ、と俺は思った。



 階下に降りてリビングに向かうと、灯りがついているだけで無人だった。
 なんとなくの気まぐれで、俺は流し台に置かれたままになっていた食器を洗い始めた。
 退屈なときにいつもそうするように。

 書き上げたのだ。もうすべきことは残されていなかった。残るのはいつもの日常だけ。
 達成感はない。あるのは徒労感だけだった。

 でも終わった。
 そう思うと楽になった。肩の荷がおりた。もう何も考えなくていい。

 食器を洗い終えた頃、リビングにパジャマ姿の妹が現れた。風呂上りなのか、髪をタオルで拭いている。

「やってくれたの?」

「暇だったから」

「そう。ありがとう」

 妹はそっけない調子でそう言うと、少しだけ俺の顔を見たあと、すっと視線を逸らした。


 俺はその様子を見て、なんだか急にいろいろなことの辻褄が合ったような気がした。
 もちろんそれはただの錯覚なんだけど、そのときはそれが真実であるように思えたのだ。

「動物園に行きたいな」

 俺がそう言うと、妹はたいして表情も動かさずに、怪訝そうにこちらを見た。

「……急にどうしたの?」 

「行こう。今週末。行きたくない?」

「……まあ、いいけど」

 それから妹は髪を乾かした後すぐに部屋に戻ってしまった。
 俺はしばらくリビングの椅子に腰かけながら、自分自身のことだけを考えた。
 
 今ならいろんなことが上手くやれるような気がする。どんなことだって楽しめるような気がする。
 そういう手段が思い出せてきた。俺にだってそういうことをできる神経がちゃんと備わっているんだ。

 誰かに優しくしたり、誰かのことを大事にしたり、そういうことだってできるんだ。
 いろんな言葉が俺の頭の中で意味もなく鳴り響いた。
 
 俺は部屋に戻ってからもう一度ノートに向かい、新しい話を書いた。
 その話の中では、誰も部屋の中に閉じこもったりはしていなかったし、誰も外に出ようなんて考えてはいなかった。





 翌朝、俺は久し振りに早起きした。洗濯物を干して三人分の弁当を作った。
 妹は驚いていたけれど、俺の作った弁当を照れくさそうに受け取っていた。どこかばつの悪そうな様子で。

 学校に行ってからは、久し振りに友人ふたりとバカ話で盛り上がった。
 それから編入生とシィタ派の恋の顛末について詳しい話をきいた。
 シィタ派は気恥ずかしそうな様子で、でもまんざらでもないように、俺たちの質問に答えてくれた。
 
 彼の話は、案の定俺の事情とはあまり関係がなかった。

 昼休みには屋上に向かったけれど、枝野の姿はなかった。
 枝野と話をしたい気分だった。でも彼女はもうここには来ないのだろう。
 
 まあ、仕方ないか、と俺は思った。いつかはこうなっていたのだ。宿命的に。

 放課後は部室に出て、清書した原稿を部長に渡した。
 部長は当たり前みたいな顔でそれを読みだして、うん、とひとつ頷いた。

「今回は二本なんだね?」と部長は言った。
「いろいろありますから」と俺は適当に答えた。部長はその言葉については何も言ってくれなかった。

 その日はそれで終わって、週末には父に車を出してもらって動物園に行った。
 クルマサカオウムは居なかった。





 それから文化祭までの期間は本当にあっというまだった。
 あまりに時間の流れが速すぎて、生活したという実感が持てないくらいだった。
 
 文芸部の部誌は部員全員が原稿を提出した。
 顧問はそれを自分の功績みたいに誇っていた。
 
 当日は学校のさまざまな場所に部誌を置く他に、部室の前で手渡しで配布することになった。
 これは毎年のことらしいけれど、去年だってろくに一般客は来なかった。
 
 まあ交代だし、たいした時間やるわけでもないし、座っていられる分、大変というわけでもないのだけれど。
 
 クラス発表の方は何をするのかも分からないありさまだったけれど、俺には別に役目はないらしい。
 せいぜい片付けをやらされるくらいだろう。
 あまりに非協力的すぎるので、数に入れられていなかったのかもしれない。



 文化祭の三日前、部室で配布する部誌の山を眺めてぼんやりとしている部長を見かけた。

「どうしたんですか」と俺が訊ねると、彼女はちょっと困ったように笑った。

「いやあ、ほら、わたし、三年だからさ」

 それからぱらぱらと出来上がった部誌のページをめくりはじめる。

「これで引退なんだよなあって」

 俺が何も言わないでいると、彼女はちょっと寂しそうな顔になった。

「引退しても、顔出しに来ますよね?」

「あー、うん。勉強の息抜きにでもね。でもそれはやっぱりさ、今までとは違うんだよね」

 違うんだよ、と部長は繰り返した。

「いろんなものが通り過ぎていきますね」
 
「うん」



「ときどき怖くなりませんか?」

 俺の質問に、部長はちょっと意外そうな顔をした。

「きみは怖いの?」

 夕陽の差し込む部室には、もう俺と彼女しかいない。

 文化祭の準備でがやがやと騒がしい校舎の中、この部室だけが別世界のように静まり返っていた。 
 
「ときどき、同じ一日がずっと繰り返されたらいいのにって思う時があるんです、俺は。楽しかった日なんて特に。

 そうすれば不安にはならないし、寂しくもならない」

「わたしがいなくなったら寂しい?」

 からかうみたいな調子で、部長は笑った。俺は笑い返そうとしたけれど、うまくいかなかった。

「俺は変化が怖いんです。自分だけが取り残されていくような気がするんですよ」

「そっか。そうかもね」

 彼女は窓の外に視線を移した。季節はもうすっかり秋だった。夏の余韻なんてほとんど存在していない。
 それからぽつりと、

「わたしも怖いよ」

 と、そうこぼした。まるで部長の声じゃないみたいに、静かで、か細い声だった。



「でも、通り過ぎていくものばかりじゃないよ。傍にいなくなったからってこの世からなくなるわけでもない。
 連絡先さえ知ってれば、卒業してからだって音信不通になるわけじゃない。
 留まるものもあるし、新しくやってくるものだってある。なくなるのが怖いなら、なくさないようにしっかりと掴んでおかないとね」

 彼女はそれでもまだ、無表情に窓の外を眺め続けていた。
 まるで自分がどんな表情を取るべきか決めかねているように、俺には見えた。

「だから、はい」

 と彼女は言って。
 俺に向けて自分の携帯を突き出した。

「……メアド。交換しない?」

「……俺、メール無精ですよ」

「いいよ、わたしが一方的にメールするから。もし面倒になったら、切っていいから」

「……」

「わたし、友達少ないからさ」


「俺に教えたら、きっと後悔しますよ」

「……知ったら後悔するようなアドレスなの?」

「俺は、面倒な奴ですから」

 部長は一瞬、目を丸くしたあと、くすくすと笑い始めた。

「知ってる。大丈夫」

「それと、ひとつだけ謝らなくちゃいけないことがあるんです」

「……なに?」

「俺、部長の名前、知らないんです」

「……え?」

「というか、覚えてなかったんですよ」

「……この二年間ずっと?」

「はい。ずっと部長って呼んでましたし」


「いや、でも二年のときは部長じゃなかったし」

「先輩って呼んでました」

「……あ、そっか」

 そっか、と何度か部長は繰り返した。それから不意に笑いだし始める。

「そうなんだ。そうだったんだ」

「はい」

「いいよ、そんなの、気にしなくて。でもなんか、きみらしい」

 本当に楽しそうに、部長は笑った。そしてひとしきり笑ってから、ちょっと真面目な顔になって、口を開いた。
 それでも頬を緩ませながら。

「名前なんていいんだよ。きみがわたしを呼ぶ。わたしはきみがわたしを呼んでいるんだと分かる。
 それだけで十分なんだ。だから部長でも先輩でもかまわない。あだ名でもなんでもいいんだよ。
 きみがわたしを呼んでいるっていう事実だけあれば、それだけでべつにかまわないんだよ」

 俺は少し考えてから、そうかもしれない、と思った。


「それでも、もう部長じゃなくなるんだから……部長って呼ぶのは、変ですよね」

「うん。でも、まあ。好きに読んでよ。あ、赤外線のデータで名前も表示されるっけ」

「……はい」

「いまさら苗字っていうのも遠いし、先輩付けっていうのも変かな」

「じゃあ、下の名前に……」

「下の名前だと、「さん」はちょっと近いかなー」

「じゃあ、下の名前に「先輩」付けですかね」

「……何を話し合ってるんだろう、わたしたちは」

 彼女はちょっと気恥ずかしそうにごまかし笑いをすると、窓の外を見ながら溜め息をついた。
 それから俺たちは赤外線で連絡先を交換した。
 部長の名前は思ったよりもずっと彼女に似合っていた。

「ねえ、ためしに一度、呼んでみてくれない?」

「え?」

「わたしの名前」

 俺は少しだけ考えてから、結局言葉として、まだ慣れない彼女の名前を呼んでみた。
 俺の声に、彼女は満足げに笑って、頷いた。




 文化祭の前日、俺が家に帰ったときには時刻は夕方五時を過ぎていた。
 
 いつもより少し早いくらいだったのだけれど、家の中の空気はどこか違っていた。変だった。
 何か澱んでいる気がした。もちろん俺の第六感なんてあてにはならないので、気のせいだろうと思うことにした。

 でも違った。
 人の気配のしないリビングを抜けて、階段を昇り自室に向かう途中で、何か奇妙な音が聞こえたのだ。

 音は妹の部屋から漏れ出ていた。
 その音がなんなのか、俺には分からなかったけれど、なぜか人を不安にさせる音。

 俺はノックをした。少し待っても返事はない。それでもどうしても気になった。

 だから、扉を開けた。

 妹はベッドの上に居た。制服姿のまま。うつぶせになっている。
 音の正体はすぐに分かった。妹は泣いているのだ。

 俺は覗き見た罪悪感と気まずさから、何を言っていいのか分からなくなった。
 結局でてきた言葉は、

「ただいま」

 というどうしようもないものだった。




 それでも妹は、「おかえり」と震えた声で返事を寄越して、顔をあげてくれた。

 どうかしたか、と訊こうとした。でも、訊いていいのか分からなかった。
 訊いて俺にどうにかできることなのか、分からなかった。自分が何かの役に立てるかさえ分からない。

 でも、それは俺の事情であって、彼女の事情じゃない。
 だから俺は訊いてみることにした。「どうかしたのか」と。拒絶されてもそのときはそのときだった。

 言葉は驚くほどするりと口から出てきた。
 俺の声に、妹は何を言っていいか分からないというふうに俯いた。

「悲しいのか」と俺は訊いた。妹は何も言わずに頷いた。

「何が悲しい?」と俺は続けて訊ねる。彼女は何も言ってくれなかった。出て行けとすら言われない。
 やがて、静かな声が聞こえてきた。

「真っ暗なトンネルの中をずっと歩いてる感じがする」

「トンネル?」

「とても不安定で、ぐらぐらする場所を歩いている感じ」


「……何かが不安?」

「ちょっと違う」
 
 妹は軽く目元をぬぐって、呼吸を整えた。

「ときどき自分が嫌になるんだよ。わたしがわたしであるっていうことが。
 お兄ちゃんの妹で、お父さんの娘で……そういうことが、全部」

「この家が嫌い?」

「そうじゃない」

「俺が嫌い?」

「そうじゃない」

 弱々しい声。掠れるような、くずおれるような声。俺はそれ以上言葉を重ねる気になれなかった。

「わたしはたぶん、わたしを甘やかしすぎたんだよ」

「……そんなことはない」



 俺は妹のところに歩み寄って、枕に顔を埋める彼女の頭を少し撫でた。
 そんなことをしている自分に嫌気が差した。いつものような自己嫌悪が、俺の心を支配する。

 でも今は、俺の気持ちなんかより、妹をどうにか楽にさせてやりたかった。
 こんな行為に意味があるのか、分からなかったけれど。

 妹はしばらくされるがままになっていたけれど、不意に腕を動かして、俺の手首を掴んだ。
 それから、俺の腕を静かに押しのけた。拒絶されたのかと思った。

 けれど、彼女の手のひらは、俺の腕を離そうとはしなかった。
 逡巡のような、躊躇のような短い時間を挟んでから、静かに手首から離れ、そっと俺の手のひらを握った。
 
「どうした?」

 と俺は訊ねた。
 
「出口が……」

「え?」

「……出口が、あったらいいよね。今あるすべての問題の、全部、全部から逃れられる場所への、出口」



 思わず同意の言葉が口から出そうになって、俺は必死に唇を閉ざした。
 それから、一度深呼吸をして、

「ないよ、そんなの」と、そう答えた。

「逃げることなんてできない。俺たちはここにいるしかないんだよ。出口があるとしても、そんな奇跡みたいなものじゃないんだ」

 そう答えることが正しいことなのかどうか、俺には分からなかった。
 でも、そう答えることしかできなかった。

 妹はしばらく黙り込んでいたけれど、やがてすっと手のひらから力が抜けた。
 まるで磁力を失った磁石みたいに、彼女の手は静かに俺の手から離れていく。

「……大丈夫。ちゃんと分かってる」

 そう、彼女は静かな声で言った。


「本当に大丈夫?」と俺は訊ねた。随分バカらしい言葉だと自分でも思う。

 妹はごまかすように笑った。

「お姉ちゃんも言ってた。わたしもそろそろ兄離れしないと」

「べつに兄離れなんてしなくてもいい」

 そう言うと、妹はまた泣きだしそうな顔になって、俺の方を見上げた。
 俺はすっかり混乱して、どうすればいいのか分からなくなってしまう。

 彼女は静かに俯いて、

「うん。ありがとう」

 と、そう言った。


「お兄ちゃんも……」

「ん?」

「……ううん。なんでもない」

 微笑みにも、まだ涙の余韻が宿っているような気がした。

 それにあえて触れることもせず、俺は妹の部屋を出た。
 自室のベッドに鞄を放り投げてから、俺はすさまじいほどの罪悪感と無力感に襲われた。

 何かを致命的に間違ってしまったような、そんな気がした。
 俺は彼女にあんなことを言うべきではなかった。そう直感的に思う。

 それでも、ああするほかなかった。
 俺はそれ以上考えるのをやめた。そして、彼女の負担を少しでも和らげる方法について考えた。
 
 他のことはほとんど何も考えなかった。





 文化祭当日はそこそこ盛況だった。
 シィタ派は編入生とまわると言うし、ビィ派は部活の方で何かがあるというので、俺には一緒に回る相手のあてがなかった。
 
 それでもいつもとは雰囲気の違う校舎を歩いているだけでも楽しいものだ。
 それに、人ごみを避けて歩いていると、思いもよらず面白い出し物に出会ったりする。

 一人で校舎の中を歩いていると、奇妙なほど他の人の様子が目に入ってきた。 
 大勢で歩く者、二人で歩く者、一人で歩く者、いろんな者がいた。
 中には柱のそばに座り込んで休んだりしている者もいた。

 でも、何はともあれ、みんなこの場にいる。

 自分たちの学年の階を見て回っていたら、途中のお化け屋敷の受付に、枝野の姿を見つけた。
 一瞬だけ目が合った気がした。でも、彼女は列に並ぶ客たちの方にすぐ視線を移したので、気のせいなのかもしれない。
 
 仕方がなく、俺はすぐにその場を離れた。

 そこら中を歩き回っているうちに、友人たちと一緒に回っていたらしい部長と遭遇する。

「楽しんでる?」と彼女は言った。

「まあ、たぶん」と俺が答えると、彼女はおかしそうに笑う。



 交代の時間になってから文芸部の前に行くと、パイプ椅子に座っていたのはまたしても枝野だった。
 俺はどうしようか迷ったけれど、話しかけないわけにもいかない。

「こういうのにはちゃんと参加してるんだな」

 と、仕方なく、俺はそんなことを言った。
 枝野は少し躊躇していたけれど、やがて諦めたみたいに笑った。

「部員だから」

「さっきも受け付けやってなかった?」

「うん。付け加えれば、図書委員だからね。いつも図書室でも受け付けやってる」

「本当?」

「あんたが来たときも、一度、カウンターに居たことあるよ。貸出だってした。気付かなかった?」

「……気付かなかった」

「あんたはいろんなことを見逃しすぎたんだね」

 まったくその通りだった。


「何かあった?」と、彼女はそう訊ねてきた。

「まあ、いろいろあるよ」

「そうだろうね」

「きみは?」

 彼女は口籠る。俺は少し後悔した。

「何もないよ。きっとわたしは、ずっとこのままだよ」
 
「本当に?」

「どうして?」

「いや、理由はないけど」

 彼女はどうでもよさそうな顔で辺りを見回した。




「それじゃあ、わたしは行くから」

「うん。楽しんで来い」

 彼女はちょっと戸惑ったような表情になる。

「……正気?」

「……なぜ?」

「あんたらしくない」

「俺のイメージがどんなものなのか、分からないけど、まあ、変なこと言ったんなら謝るよ」

 彼女はまだ納得しかねるというような顔で、微妙に笑いながらこっちを見る。
 それからふと思い出したように口を開いた。

「ねえ、もし……」

「……なに?」

「……やっぱ、いいや」

 今度は本当に、去って行ってしまった。枝野の背中は廊下の角にあっというまに消えて、見えなくなった。




 受付の仕事は暇だった。通りすがりに部誌をとっていく人はいるが、そもそも文芸部室は校舎の隅の方にある。
 人どおり自体が少ない。こう考えるともっと他の場所に陣取ればいいと思うのだが、毎年なぜか部室の前で配っている。

 退屈な時間ほど長く感じる。
 俺は一人でパイプ椅子に座ったまま、廊下の窓から見える木々に目を遣った。

 ときどき緩い風が吹いて、窓の外の梢を微かに揺らした。
 
 俺は椅子に腰かけたまま、その光景をじっと眺めていた。
 特に何も考えずに。

 けれど、不意に軽い足音が近付いてきた。そちらに目を向けると、立っていたのは従妹と妹の二人だった。

「や」

 従妹は軽く手をあげて笑った。

「来たのか」

「うん。どんな感じかと思って」

「遠いのにわざわざ?」

「愛の為せる技だよね」

「……」

 従妹の軽口はいつものことだけれど、最後に話したのが例の電話のときなので、微妙に冗談になっていなかった。



「仕返し」と従妹は笑った。

「読んでもいい?」

「いいよ」

 従妹と妹は、並んで部誌を手に取った。俺はその様子をぼんやりと眺めた。
 結構な量だから、もしこの場で読み終えようとしたら、相当の時間が必要になるだろう。

「お兄ちゃんが書いたの、どれ?」

「最後の方」

 妹はあわただしくページをめくった。
 俺は少し気まずい気持ちになったけれど、だからといって読ませないというのも変な気がした。

「ながい」

 従妹は結局、そう言って読むのをやめた。
 まだ担当の時間が終わらないと教えると、二人はそのあたりを回ってくると言って去って行った。


 やがて交代の時間がやってきた。次の担当はシィタ派一人のはずだったけれど、来たのは編入生と一緒だった。
 
 俺は何かを言おうと思ったけれど、何も思いつかなかったのでやめておいた。
 
 すぐに妹たちに連絡しようと思ったけれど、少し疲れている気がして、そのまま屋上へと向かった。
 きっと誰もいないだろうと思ったのだ。

 けれど、そこには先客が居た。

 鉄扉の向こうには、見慣れた後輩の後ろ姿があった。
 彼女は扉の軋む音に少し身を竦ませてから、こちらを振り返った。

「……せんぱい?」

「……うん」

「休憩ですか?」

「まあ、そんなとこ」

「なんか、久し振りですね」

 俺はあの日以降、後輩と一度も話をしていなかった。



 もう十月で、だから風は冷たかった。
 衣替えの時季。そんなときに、俺と彼女は、どうしてか屋上にいる。

「こんなところで何をしてたんだ?」

 俺はそう訊ねてみた。後輩は取り繕うみたいに笑った。

「せんぱいを待ってたんです」

「……」

「……って言ったら、信じてくれますか?」

 彼女は表情を微笑のまま崩さなかった。

「だって、嘘だろ」

「はい。嘘です。だからいま、すごく戸惑ってます。どうしてこんなところに来たんですか?」

 その質問の答えを、俺は持っていなかった。外の空気を吸いたかったから、かもしれないけど。


「少し話をしてもいいか」

「……どうぞ」

「待ってるって言われて、本当は嬉しかったんだ」

「……」

「でも、怖かったんだ。俺はたぶん、きみを喜ばせるようなものは書けないんだよ。 
 どんなに書こうとしてみても、何か違うような気がする」

「読みましたよ、原稿」

「……」

「片方は、やっぱりつまらなくて、もう片方は、おもしろかったです」

「そっか」

「でもわたしは、つまらない方が好きです。おもしろい方は、ちょっと、よくわかりませんでした」

「……うん」



「わたしはずっと暗いトンネルの中を歩いていたような気がするんです。すごく孤独に。無自覚に。
 でも、せんぱいの文章は、わたしに自分の居る場所がどこなのか、教えてくれた気がするんです。
 何をすればいいのか。だからわたしは、せんぱいの書く話が気になって仕方なかったんです」

「きみにひどいことを言った気がする」

 彼女は首を横に振った。風が吹いて、彼女の髪が揺れた。

「わたしも、ひどいことを言いましたから」

 ごめんなさい、と彼女が先に言うので、悪かった、と俺は追いかけるみたいに謝った。

「俺もきみの書く話を読んだよ」

「……どうでしたか?」

「俺のよりずっとよく出来ていた」

「……そんなこと」

「よく出来ていたんだ」

「……ありがとうございます」

「こちらこそありがとう」

 彼女は照れくさそうに笑った。

「出口があるといいな」と俺は言った。
 彼女は何も言わずに頷く。そして俺は屋上を後にした。
 扉を閉めるとき、彼女の姿を見たけれど、動き出す様子はなかった。ただじっとそこに留まっていた。



 
 文化祭は盛況で終わった。部誌は量の割には早めに全て捌けた。
 余計に作らなかったのだから当たり前かもしれない。
 
 文化祭にやってきた従妹は日帰りで帰って行った。
 彼女は何かを言いたげにしていたけれど、何も言わなかった。

 理由は分からないけれど、その日は妹もなぜか俺から離れようとしなかった。
 夕食をとるといつもは勝手に過ごしているのに、その日は俺の部屋に来てベッドの上で黙って漫画を読んでいた。

 文化祭の翌週には新部長を決めるミーティングがあって、これはあっさりとシィタ派に決まった。適任だろう。
 
 部長は最後までほがらかな笑いを崩さなかった。翌日から部室に彼女の姿はなくなった。

 放課後の屋上に、枝野は二度と現れなかった。
 それでも、学校でときどき顔を合わせたときには、言葉を交わすようになった。
 良いことなのか悪いことなのかは分からない。



 いろんなことが、良い方向に回り始めていた。
 
 バイオリズムのようなものなのだろう。良い時もあれば悪い時もある。
 低調のときもあれば、冗談みたいに好調のときもある。

 でも同じところにはとどまらない。

 思い返してみれば、夏休みが終わってから文化祭までの一ヵ月ほどの間、俺の生活は暗いトンネルを歩くように陰鬱としていた。

 そしてそれは別段不思議なことでもなく、かといって特別なことでもない。
 俺という人間の内側にもともと含まれていたものが、何かの拍子にポンと顔を出したに過ぎない。

 そして、終わりがないかのように思えたトンネルもやがては途切れ、俺は明るい場所へと躍り出た。

 問題は、トンネルを抜けた先に何があるのかということだ。
 




 文化祭が終わり、衣替えがあって、俺たちは冬服を着て学校に登校するようになった。

 文芸部は部長がいなくなったことでバランスが崩れていた。
 今までムードメーカーだった存在が抜けると、文芸部の部室はいつも静かになってしまった。
 
 そこに枝野がなぜか頻繁に顔を出すようになって、それでようやくバランスが取れている。
 かといって、もともと何かをしていた部でもないし、静かだからといって困るものでもないのだが。

 文化祭の片付けが終わってしまうと校内は以前よりもずっと静かになったように感じられた。
 うるさい場所から静かな場所に移動したときみたいに。

 その変化を嫌ったのがビィ派だった。元来お祭りごとが好きなビィ派は、静寂を嫌った。
 そして、こんなことを言い始めた。

「文化祭も終わったことだし、今度の休み、誰かんちで泊まりで遊ばない?」

 それはなかなかに魅力的な案だった。このところ三人で集まって遊ぶことはほとんどなかった。
 何よりみんな、文化祭が終わってそこそこ寂しがっていた。 
 だから、俺もシィタ派も、彼の案にすぐに乗った。



 コンビニで菓子類とジュースを買い溜めて、俺の家に集まった。
 別に集まって何をする予定があったわけでもない。
 
 唯一の彼女持ちであるシィタ派をからかったあと、適当に古いゲームでもして遊ぶ。
 せいぜいそれくらいだ。

「なんかさ、夏休みが終わる頃にも、こんなことしたよな」

 俺の言葉に、ビィ派は「そうだっけ?」と首を傾げる。

「それにしても、変わり映えしないよな」

 ビィ派の言葉が妙に感傷的だったので、俺は少し驚いた。

「ときどき不安になるんだよな。自分なりに頑張ってるつもりだけどさ。
 ほんとうはずっと同じところを堂々巡りしてるだけで、全然変わってないんじゃないかって。
 必死にトンネルの中を歩いてきたつもりだけど、トンネルを抜けた先にも、また新しいトンネルがあるだけじゃないかって」



 俺はその言葉にうまく答えられなかった。
 
 でも、シィタ派は違った。

「そんなことないだろ」

「……そうかな」

「まあ、気持ちは分かるけどね。ずっと同じようなことを繰り返しているような気分になるのも分かる。
 実際、俺たちの日常なんて、大半が似通ってるしね。でも、同じような日はあっても、同じ日はないよ。
 春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、その次にまた春が来るけど、その春は前の春とは違う。
 どれだけ似ているように見えても、俺たちはやっぱり進んでいるんだよ。
 そして過ぎた春は二度と来ない。どれだけ似ているように見えても、やっぱり別物なんだ」

 俺もビィ派も、何も言わなかった。するとシィタ派は勝手に話を続ける。

「だから、この当たり前に見える一日一日を、大事に過ごさなきゃいけないわけ」

 彼は得意げに、なんだか良い感じに話をまとめた。そうされると、俺たちは何も言い返せなくなってしまう。
 いつものように。だから俺たちは、なんだかわけもわからずに顔を見合わせて笑った。
 
 それから、さて、と俺は手を打ち鳴らして、二人の顔を見て、言った。

「次は何をして遊ぶ?」


おしまい

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