春香「右の腕時計」 (90)



曇りの日が続いています。

七月。

電車の窓から眺めても雲がどこまでも広がっています。

天気予報によると、今日の午後からは雨。

暦の上では夏みたいですが、今日みたいな日は少し肌寒いです。

そんな中、765プロは今日からクールビズに入ります。

とは言っても、クールビズの対象になるのは三人だけ。

律子さんと小鳥さん、そしてプロデューサーさんです。

その三人も、常に長袖を着て、スーツの上着を持って動いていました。

クールビズを奨励してはいますが、形だけのルールになっています。

もしかしたら社長はクールビズなのかも、とは思いましたが、真っ黒なのでわかりません。



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事務所に到着。今日も元気よく挨拶から開始。

「おはようございまーす!」

「お、おはよう、春香」

バタンと勢いよく扉を開けたすぐ先に、千早ちゃんがいた。

危なかった。もう少しで千早ちゃんをドアでぺしゃんこにしてしまうところだった。

「千早ちゃん、ごめんね。びっくりした?」

「べ、別にそんなことはないわ」

平静を装っていても、ドアを開けたときは全身がびくってしてたね。

とても驚いていたようなので、少し反省。


電話を受けている小鳥さんに静かに挨拶をして、スケジュールを確認する。

今日は千早ちゃん、プロデューサーさんとずっと一緒。変更なし。

他のみんなも色々と仕事が入っているみたい。

ホワイトボードなのに、もう書くスペースなんてないくらい真っ黒。

連日、プロデューサーさんと律子さんが走り回ってくれているおかげです。


「お、春香おはよう。来てたのか」

「おはようございます、プロデューサーさん。ついさっき来たところです」

プロデューサーさんはいつものようにここで寝泊りしたようだ。

シャツがとても外には見せられない程、よれよれになっている。

こんな時、プロデューサーさんに大丈夫ですか、と訊くのは禁止。

言っても無駄だし、その分だけなぜかもっと頑張ろうとするから。


「プロデューサーさん、朝ご飯はもう食べましたか?」

「ん、今からちょっと買いに行こうかと思ってたところだけど」

「そう思って、今日は私が作ってきました」

かばんから丸く膨らんだ包みを取り出してプロデューサーさんに手渡し。

「おにぎりか、ありがとな。じゃあ早速いただくよ」

プロデューサーさんは机にもたれかかれながら食べ始めた。

「やっぱり手作りのおにぎりは旨いな」

と、ここで遠くから声が聞こえた。

「おにぎり!」

仕切りの向こうから、ぴょこんっと金色の髪が飛び出た。


相変わらず、おにぎりという単語には敏感だ。

機嫌よくソファから起きてきた美希を見ながらそう思う。

私よりも先に来るなんて珍しいけど、最近やる気を出している美希ならこういう日もあるのかな?

「春香、ミキにもおにぎりちょーだい♪」

「え、プロデューサーさんの分しか持って来てないよ?」

一瞬だけショックを受けた表情をする。

でもすぐに立ち直ってプロデューサーさんの持つおにぎりを見つめる。

「ハニー、ちょうだい?」

可愛らしい仕草でお願いをする。なんだかズルイ。

プロデューサーさんは私からもらったおにぎりを、すぐに美希に渡して良いのか困惑している。

「プロデューサーさん、ミキに一つあげてもらってもいいですか?」

「春香がそう言ってくれるなら」

「春香、大好きなの!」


「私より早いなんて美希にしては珍しいね」

「今日はずーっとハニーと離れ離れなの。だから、早く来たの」

これも相変わらず。どうしてこうも素直に好意を表すことができるんだろう。

「ハニーのおにぎりの具は何が入ってるの?」

「俺のはおかかだな」

「ハニーと一緒なの!」

美希はそう言ってプロデューサーさんの左腕に抱きつく。

「おいおい、食べてる最中にそんなことするんじゃない」

掴まれた左腕を簡単に引き離す。とても慣れた行動に見えた。

「むー」

そう言って美希は今度は右腕を捉えようとするが、これまたすっとかわされていた。

「ハニー、冷たいの!」

「いや、だってな……」

じゃれ合っている美希をみると、少し羨ましい。

……今日はずっと一緒だから気にしないもん。


千早ちゃんから4回のダメだしを受け、やっとレコーディングが終わった。

歌に関しては千早ちゃんはプロデューサーさんよりも厳しい。

最近はオブラートに包む言い方をしてくれるようになった分、まだ楽になったけど。

「おつかれさまでした〜」

へろへろになりながらスタッフの人たちに挨拶をする。

「春香、厳しくしてごめんなさい。でも、最後はすごく良かったわ」

「ううん。千早ちゃんがびしっと言ってくれないと、本当に良かったかどうか分からないから」

「ふふっ。厳しくする方がいいだなんて、変な春香ね」


「春香、おつかれさん。ほい、お茶」

プロデューサーさんが冷たいお茶を手渡してくれる。

「ありがとうございます」

「千早も春香の指導ありがとな」

そう言ってプロデューサーさんは千早ちゃんの頭を左手でぽんぽんと撫でた。

「はい、春香のためですから」

手を頭に乗せられた千早ちゃんは顔を少し赤くして俯いた。


椅子に座ってぐったりとする。

冷たいお茶を飲んで熱くなった喉を冷やす。

千早ちゃんは隣で雑誌を読んでいる。

横目で見ると、ファッション関係の本のようだ。

ふと、出会ったばかりの千早ちゃんを思い出す。

あの頃はこんな雑誌なんて、絶対に見なかったのに。

すっかり丸くなっちゃったね。

どうしてか、みんなからは私のせいだと言われる。

そんなことないのに。

千早ちゃんが自分で頑張って変わったんだから。


千早ちゃんが熱心に読む先は、男性の落とし方講座という怪しい題目だった。

面白そうだから、気付かれないように後ろから見てみる。

ふむふむ、好きな男性には積極的にアピールとな。

思い切って抱きついちゃえ……いつの時代のアドバイスだろう?

雑誌の表紙を確認してみると、なるほど。亜美や真美くらいの年代向けの雑誌だった。

右手の指に指輪をつければ彼氏募集中の意志表示。

ふむふむ。でも、これって相手が知らないと意味ないんじゃないかな?

でもそれを食い入るように見る千早ちゃん。明日から実行してきそうな気がした。


別の席ではプロデューサーさんはスタッフの人と打ち合わせをしている。

熱が入っているのか、大盛り上がり。

よく見ると、プロデューサーさんだけが汗をかいていた。

ここももうクールビズを実施中のようで、みんな半袖。

プロデューサーさんは腕まくりをしてはいるものの、ネクタイをきっちりと締めているので暑そうだった。

少しくらいラフな格好になったって誰も文句なんて言わないのに。

生真面目さが災いして、融通がきかないみたいだった。

壁の貼り紙によると、空調は来週くらいから入るみたいです。


「ごめん、お待たせ。ちょっと話が盛り上がっちゃってさ」

汗だくで満足そうな顔をして戻ってくるプロデューサーさん。

「あの、私のタオル使います?」

「ん、いいのか?」

「はい。これまだ使ってませんので」

予備のタオルを取り出して渡す。

「ハンカチで拭いても全然止まらなくてな。洗濯して返すよ」


中にいるのにびっしょり。全身から湯気が出ていそうだった。

拭くよりもシャワーを浴びたほうがいいような気がする。

ふと、目がタオルを持った右手に止まった。

「あれ?」

「ん、どうかしたか?」

ちょっとした違和感から出た言葉。

そういえば、他の人がこうしてるところってあんまりない気がする。

「プロデューサーさん、どうして腕時計を右腕につけてるんですか?」


「ああ、これか?」

プロデューサーさんは右腕につけた銀色の時計をこっちに向ける。

「プロデューサーさんって、確か右利きでしたよね?」

「ああ、右利きだ」

「時計を右につけてる人なんてあんまりいませんから」

「なんというか、子供の頃からの癖なんだよ」

そう言うと、プロデューサーさんはなんとも説明しにくそうな顔で頭を掻いた。


プロデューサーさんが言うには、大切なものは右に持っていく癖があるらしい。

財布、携帯、その他諸々。その中に時計が入っているだけ、とのこと。

実際に、今も右ポケットから財布と携帯が出てきた。

何度か治そうとしたものの、結局無意識の行動はどうにもならなかったみたい。

「なんだか、それってバランス悪くないですか?」

「全くだ。右肩だけが凝ってしょうがない」

屈託無く笑うけど、きっと体が歪んでますよ!

「せめて時計くらいは左でもいいんじゃないですか?」

「んー、この時計は特に大切なものだからな。他のを左にするよ」

そう言ってプロデューサーさんは財布と携帯を右ポケットにしまった。


「プロデューサーは右側……」

ぼそっと千早ちゃんが呟いた。

私には聞こえたけど、性格難聴のプロデューサーさんには聞こえなかっただろう。

やっぱりなんだか不安になる。

「まあ、あんまり気にする人もいないからな。春香もできれば気にしないでくれ」

「はい、わかりました」

でも、私はその腕時計のことがいつまでも頭の片隅に残ることになった。


空は真っ黒な雲で埋め尽くされています。

明日はやや強めの台風がここに来るみたい。

ニュースでは地方の状況が逐一放送されていて、台風の強さが伝わってきます。

いくつかの地域では停電もあるようで、あまり良い話題ではありません。

明日はもしかすると、電車も止まっちゃうかも。

でも、その前に、別の台風が765プロに吹き荒れることになりました。


「兄ちゃーん、これどう?似合うっしょー?」

真美がプロデューサーさんに右手を見せていた。

正確には、右手につけた指輪だ。

少し背伸びしたい感じがして微笑ましい。

だけど、真美の表情はどこか真剣だった。

真美の突然のおしゃれ宣言に、プロデューサーさんも驚いている。

私は嫌な予感がした。千早ちゃん的な意味で。

「プロデューサー、少しよろしいでしょうか?」

あ、来た。わざわざ真美との会話を遮ってもアピールしたいことがあるようだ。

「あ、ああ。なんでも言ってくれ」

千早ちゃんからの助け舟。プロデューサーさんはそれに考えもせずに飛び乗った。

それ、きっと泥舟ですよ、泥舟!


「この歌詞のこの部分なんですけど」

「うん、なになに……えっと、そこはだな……なっ!?」

千早ちゃんがニヤリと笑う。

「どうかしましたか?」

プロデューサーさんは、千早ちゃんの右の薬指に付いた指輪を見て口をパクパクさせている。

楽譜を右手で遮る。話すときは右手を胸の辺りへ持っていく。

これ見よがしに、指輪を特大アピール。

口では真面目に仕事の話をしてるけど、千早ちゃんは下心満載だった。


またもやおろおろし始めるプロデューサーさん。

ただの彼氏募集中宣言なのに、どうしてそんなに狼狽するんだろう。

というか、真美も同じ雑誌を見て一緒に影響されるだなんて。

「千早お姉ちゃん、そ、それどうしたの?」

真美は驚いているようだ。

うん、千早ちゃんがあの雑誌見てたらちょっと驚くよね。

「真美こそ、急に一体どうしたの?」

平静を装っているけど、真美に先手を打たれたのが痛かったみたい。

あんまり険悪な雰囲気になるのも嫌だし、ここはそろそろ私が船を一隻出さないとだめかな?


私が一歩足を踏み出した時、入り口の扉がが勢いよく開いた。

「おっはようございまーす!」

真が勢いよく入ってくるなり、プロデューサーさんに詰め寄った。

「プロデューサー、見てくださいこの指輪。すっごく可愛くて買っちゃいました!」

真美と千早ちゃんが頭を抱える。私も抱えた。

ああ、修羅場。


千早ちゃん、真美、真。

三人それぞれが、なぜか同じ指輪を同じようにつけている。

きっと真も同じ雑誌情報なんだろうけど、指輪まで同じものを探してくるなんて。

知らない人からしたら、仲良し三人組で通るかも。

同じ日に同じ行動をしてるから、それはそれで仲がいいんだけど。

でもね三人とも。

読んでる雑誌も雑誌だけど、業界人なのに惑わされすぎ!



「ふう、まあ落ち着け」

平静を取り戻そうとするプロデューサーさんが一言。

頭が痛いようで、右手は頭を抑えたまま離れないみたいだ。

「にいちゃ〜ん」

真美は甘い声を出しながらプロデューサーさんの余った左腕にしがみつく。

妙にくっついている。どうも胸を押し当ててるみたい。

なるほど。真と千早ちゃんが相手なら、真美にもこの手は有効かも。


しかし、千早ちゃんには真美の知らないアドバンテージがあった。

千早ちゃんはそっとプロデューサーさんの右側に立った。

「私はプロデューサーの右にいるだけで構いません」

さすがに恥ずかしいのか、抱きついたりまではしないみたい。

でも、この意味深な行為に真美は目を丸くしていた。

左腕に抱きついているのに、右側にいるだけの千早ちゃんに対して困惑しているみたいだ。

いいね


さあ、ここで動けないのは真。

真美のように抱きつくことは恥ずかしい。

でも千早ちゃんのようなマル秘情報もない。

ここは引き下がるかな……と思っていたら、真はもう一つの指輪を取り出した。

「プロデューサーもこの指輪どうです?ボク、余計に一個買っちゃったんで、あげますよ」

まさかのペアリング宣言だった。


「よし、お前達の気持ちはよーくわかった」

なにやら思いついたのか、プロデューサーさんは真美を引き離しながら言った。

多分、わかってない。

「その指輪は没収する。いくら彼氏ができたとは言え、そんなことアピールするもんじゃない」

三人の表情が引き攣ったところで固まった。

「右手に指輪を付けるのは彼氏がいるって宣言だろ?」

「え゛っ!?」

誰の声か。それとも三人が一緒に言ったのか。それは間違いなく驚愕の声だった。


「雑誌で読んだぞ。ほら、これだろ?」

プロデューサーさんが出してきたのは、千早ちゃんが読んでいたものとは別の雑誌。

それには、彼氏がいるよアピールとして、右手に指輪をつけるとい内容だった。

別のところには、禁断の恋は外堀から埋めようとまで書いてあった。

三人は目が点になっている。

三人が読んだ内容とは正反対のことが書かれていて、プロデューサーさんはそっちを読んでいたみたい。

つまり、プロデューサーさんに『恋人ができたから認めてよ』とアピールしていたことに……。


「ま、真美にこんな指輪なんて似合うわけないないよね!」

「ボクも実はこれ、あんまり可愛くないなーって思ってたんですよ」

「プロデューサーは冗談も通じない、つまらない人ですね」

急いで指輪を外す三人。だけど手遅れみたい。

「会社としてはアレだが、お前らが選んだんなら、きっと良い奴なんだろ。俺個人としては嬉しいよ」

プロデューサーさんは時折、変に追撃をしてくるのがいやらしい。

「応援はするが、バレない範囲で付き合えよ。アイドル生命も賭けてるってことなんだからな」

三人は涙を浮かべながら、雨が降りそうな外へ駆け出した。

「いつの間にか、みんな大人になっていくんだな。これが父親の気持ちなのか……」

なんだか達観しているけど、全くの見当違い。

これってやっぱり、私がフォローしないとダメなんだろうなぁ。


「プロデューサーさんって、残酷ですよね」

「俺が残酷?むしろかなりの慈悲を与えたつもりなんだが」

「プロデューサーさんはすっごく誤解してますよ?」

「誤解?」

私は千早ちゃんの鞄から飛び出していたジュニア向け雑誌を抜き出した。

ページを捲り、該当する項目を探す。

「ここです。よーく読んでください」

「そうか、あいつらはこれを読んだのか。これだとまったくの正反対の意味になるな」

「はい、だから誤解なんです」

ほっと一息。これでなんとか三人は救われそう。


「だがな、やっぱりアイドルが大々的に彼氏募集中なんていうのはダメだ」

「ええっ!?」

なんだか別の誤解が生まれた。

「えーっと、きっと三人が好きな人が気付いてくれないから、もっとアピールしてるだけ……かな?」

「もっとアピール……一体誰に……ま、まさかジュピターなのか、そうなのか?」

「ほ、本気で言ってるんですか?」

「ははは……そ、そうだよな。あいつらに限ってそんなこと……」

目が空ろだ。これはきっと信じてない。

ごめんね、千早ちゃん、真、真美。誤解は解けそうも無いみたい。


「なあ、春香は、こういうことはないよな?」

本当は募集中だけど、そこは目の前にいる人の予約席。まだ空けるわけにはいきません。

「あんまりしたいとは思いませんけど……プロデューサーさんはどうなんですか?」

こんなプロデューサーさんに恋人はいるのだろうか。どうせなので訊いてみたい。

「まだいないかな。欲しいことは欲しいんだが、ちょっとな」

プロデューサーさんはそう言って右手で軽く頭を撫でてくる。

「やっぱり忙しいからですか?」

「手のかかる、甘えん坊なやつらばかりだからな」

私もその甘えん坊の一人に入ってるみたいだった。

もうだめおやすみなさい

おつん。
面白いぞ!頑張ってくれ

右腕に腕時計仲間として応援してる

面白い…アイドル達かわいいな、Pが大人の目線でいいな。

あ…なるほど

右腕に時計はイタリア男が発祥じゃなかったっけ


台風が過ぎると急に暑くなってきました。

まだ梅雨明け宣言はされていませんが、もうすっかり晴れ模様です。

そのせいか、765プロのエアコンは朝からフル稼働です。

今日はまだそれほど暑くありませんが、遠慮なくかけています。

去年と比べて格段にお仕事が増えたためか、律子さんも許容しているようです。

暑さが緩和されたおかげで、小鳥さんたちのキーボードを叩く音も軽快です。


そこにカチャカチャと金属をすり合わせる音。

プロデューサーさんが腕時計を外す音だった。

なんでわざわざ外したんだろう?

「春香、どうかしたか?」

じっと見てたら気付かれちゃった。

「いえ、どうして時計を外したのかなって」

プロデューサーさんは右手に持ったボールペンを私に見せる。

「字を書くとき、結構邪魔になるからな」

そう言って、目の前の書類の山にサインをし始めた。


字を書くとき、確かに利き腕に時計をしてたら少し書きにくい。

だったら余計にどうして右手に時計をするんだろうという疑問が出てくる。

「時計、左腕にすればいいのでは?」

律子さんが私の代わりにつっこむ。

「何かする度に外していたら面倒ではないですか?」

「いや、それもそうなんだが……」

「外す回数が多くなれば、それだけ壊れやすくなります。大事な時計なんでしょう?」

律子さんからの猛攻に、プロデューサーさんはどう反論しようかと迷っているみたい。

律子さんは律子さんで、外す時のあの音と行動が気になっていたようだった。


こんなとき、助け舟を出す人も大体決まっている。

「律子さんはとてもよくプロデューサーさんを見ていますね」

微笑を浮かべながら、意味深な言い方をする小鳥さん。

この人の助け舟は、自分が乗った船か相手が乗った船か、どちらか、たまに両方が沈没・炎上する。

「そんなことありません。ただ少し気になっているだけです」

「一昨日、繁華街にある時計屋さんに行きましたよね?」

小鳥さんの予想外な言葉に、いつもは冷静な律子さんの動きがピタリと止まった。


「そこでプロデューサーさんと同じようなデザインの腕時計を見てましたね」

「な、なんの話でしょう?」

図星なのか、律子さんの目が泳ぐ。

「時計の写真を店員さんに見せて、一緒に探してもらうなんて中々できませんから」

小鳥さんの勢いは止まらない。今日は律子さんの船が大炎上だ。

「最後には、わざわざ昔のカタログを取り寄せちゃうなんて、律子さんも可愛いですね〜」

律子さんは信じられない、と言った表情をする。

小鳥さん、律子さんをストーキングでもしているのだろうか。


「なんだ、律子も同じ時計が欲しかったのか」

ここで話の本質をイマイチ理解していないプロデューサーさんが出てくる。

「これは律子には似合わんと思うぞ。安物の時計だしな」

時計を持ちながら真剣に答えるプロデューサーさん。

「俺と同じ安物時計なんてつけてたら、それこそみんなから笑われるぞ」

そしていつもどおりの一刀両断っぷり。

「そ、そうです、よね……」

いきなり不似合いと断言され、少し落ち込む律子さん。

さすがの小鳥さんも、これにはフォローのしようがない。

「今度、伊織や美希にでも相談したらどうだ?」

「はぁ……そうさせていただきます」

律子さんは頬杖をついて溜息一つ。半分諦めているようだった。


そうこうしているうちに、プロデューサーさんと律子さんが外出の準備を始めた。

書類をまとめ、鞄に詰めていく。

来月にある大型ライブの打ち合わせと下見に行くみたい。

プロデューサーさんは机の上にあった時計を例の金属音を鳴らしながら身につけ……止まった。

「げっ」

「プロデューサー、どうしました?」

「電池が切れた」

「このタイミングで、ですか?」


プロデューサーさんの時計は太陽電池式らしい。

普段は勝手に充電されるけど、曇りの日が続いたりすると充電できずに止まるみたい。

プロデューサーさんはずっと長袖なので、袖の下に隠れることが多く、それも余計に響くようだった。

「仕方ない、今日は置いていくか」

「他に忘れ物はありませんか?」

「ああ、大丈夫だ」

そう言って、止まった腕時計を机の上に置き、そそくさと二人は出発した。


机の上に置かれた腕時計を手にとってみる。

思ったより軽い。裏を見るとチタン製と書いてあった。

「プロデューサーさん、この時計がとても大切みたいですね」

「大切なものを机の上に置きっぱなしにするなんてね。誰かに取られちゃいそうよね」

小鳥さんがくすりと微笑んだ。

ここには物を盗む泥棒はいないけど、大切なものを扱うにしてはちょっと乱暴だ。

充電のためなんだろうけど、せめて小鳥さんに一言言えばいいのに。


「机の上よりも窓際の方が太陽が当たるんじゃないですか?」

小鳥さんは、そうね、と肯定してくれた。

窓際でも特に日当たりの良いところを探す。

と。手元にある時計を見て、興味本位でつけてみる。

うん、やっぱりぶかぶか。

革ベルトじゃないから調整なんてものはできない。

それに、右手につけると違和感がすごい。やっぱり左手の方がしっくりくる。

私は苦笑いしながら腕時計を外し、浅底の容器に入れ、文字盤を太陽の方へ向けた。

どのくらいで充電できるんだろう?

あ、小鳥さんの目の前で思いっきりつけちゃった。

急いで小鳥さんを見ると、すでにビデオカメラを構えていた。

「ばっちり!」


千早ちゃんと一緒に外でお昼を食べて事務所へ戻ってきた。

中に入ると、やよいが窓際でなにやら背伸びをしながら両手を挙げていた。

「高槻さん、何をしているのかしら?」

千早ちゃんも首を傾げていた。

「やよい、ただいま。何してるの?」

「あ、春香さん、千早さん、おかえりなさーい」

よく見ると、やよいの手のひらにはプロデューサーさんの腕時計。

「プロデューサーさんの時計なんて持ってどうしたの?」

「小鳥さんから太陽で充電できるって聞きました!」


「少しでも太陽に近いほうが早く充電できるかなーって」

なんともやよいらしい回答だった。

「じゃあ屋上の方が良いんじゃない?」

「あ、屋上のこと、忘れてましたー!」

思い立ったが吉日。やよいは腕時計を握り締め、元気よく屋上へと向かった。

やよいが一人で屋上。なんだか不安になる。

千早ちゃんを見ると、同じ考えみたいだった。

「春香、行きましょう」

「うん」


屋上では、やっぱりやよいは目一杯背伸びしながら時計を掲げていた。

なんだかなぁ、と思いながらも、提案したのは私なのでちょっと言い辛い。

「気持ちいい天気ね」

千早ちゃんが座りながら言った。

「うん、そうだね」

このくらいの暑さなら、気持ちよく日光浴ができそう。

風もゆったりと流れて、少しこそばゆい。

「ふぁ……」

珍しく千早ちゃんがあくび。

千早ちゃんの綺麗な髪が風でなびいている。

気が緩むのも仕方ないかな。この太陽のぽかぽかは眠気を誘う。

私は千早ちゃんの横に座り、元気に飛び跳ねるやよいを眺めながら日向ぼっこを始めた。


夏です。

降り注ぐ強い日差しを浴びながら一つ言わせていただきます。

「プロデューサーさん!夏ですよ、夏!」

「言わなくていい。余計に暑くなるだろ」

「夏ですよね?」

「ああ、夏だ」

「夏と言えば?」

「……海だ」

「私たち、どうして山に登ってるんですか?」

「……すまん」


プロデューサーさん、久しぶりの大失敗。

本当ならば、私たちは山ではなく海でのロケでした。

そして本来の山ロケ組は海へ。

プロデューサーさん曰く、書く方を間違ったとのこと。

急遽訂正しようとはしたらしいですが、先方さんがこれでいいやと進めてしまい、後戻りできませんでした。

なんとも適当感溢れるロケです。

そのおかげで、私は慣れない山道を、せっせとキャンプ用品を持って登っているのでした。


この事実が発覚したのは昨日の夜。

準備する時間なんてものはありませんでした。

頑張って長袖の服は用意したものの、それだけ。

あとは全部、山へ行く予定だった人のものを借りてきました。

借りた相手は響ちゃんと伊織。二人が準備したものは完璧なものでした。

でも、こういうのはあっちが用意してくれるんじゃないんでしょうか?

「……すまん」

ジト目でプロデューサーさんを見て、ションボリさせてみた。


「あらあら〜春香ちゃん、あんまりプロデューサーさんをいじめたらだめよ〜?」

そして今回の失敗で一番怖いのがあずささん。

海なら少しくらい迷子になってもいいんだけど、山はさすがに怖い。

私とプロデューサーさんで、交互にあずささんを監視するという体制を採っています。

念のため、発炎筒やらGPS携帯も持たせています。万全です。

スタッフさんたちも、山とあずささんという組み合わせに、戦々恐々しています。


山登りと行っても、道自体はそれほど険しくありません。

家族でキャンプをするレベルの山だからでしょうか。

携帯の電波もバリバリあります。

今回のロケのテーマは気軽に行けるアウトドア。

本来の参加者は響ちゃん・伊織・やよい・真美・亜美だったので、本当に気軽そのものです。

たまには海じゃなくてもいいかも。

あずささん対策さえできてたら、楽しいロケになるかもしれない。

私は視線をあずささんの方へ向ける。あ、あれ?

「ぷ、プロデューサーさん、あずささんが見当たりませんけど……?」

「じょ、冗談だろ?」

「おい、三浦さんいないぞ!」

周囲の人たちも相次いで声を上げる。

酷い監視体制でした。


「春香ちゃん、ごめんなさいね〜」

幸い、道からそう離れていないところにいました。

曰く、どうも綺麗な花が咲いていて、それを見ていてはぐれたそうです。

こっちはGPSが居なくなってる時だけ使えなくて大慌てだったのに。

その後、迷子対策として、頂上までずっと私と手を繋ぐことになりました。

「春香ちゃん、せっかくだから腕組みしましょうか〜」

「え、この暑い中、更にくっつくんですか?」

「うふふっ。えいっ」

スタッフさんによると、仲の良い姉妹みたいとのことでした。



頂上付近のキャンプ地に到着。

プロデューサーさんやスタッフさんの指示に従い、撮影を順調にこなしていきます。

テントって簡単に張れるんですね。

テント設置後は本来ならば昆虫採集の予定でした。

しかし、響ちゃんたちがいないので、虫については誰も分かりません。

ついでに、あずささんを一人きりにできないので、どうにもなりません。

夜まで適当に風景を眺めつつ、夕食のシーンに力を入れようという結論になったようでした。

行き当たりばったりのロケに不安が募ります。

それでも、私たち以外には誰もいなかったので、海よりも静かでゆっくり出来ました。


「春香ちゃん、こんなのどうかしら?」

木陰で休んでいると、あずささんが可愛らしい小さな花を見せてきた。

シロツメクサだ。

「これをこうしてこうすると、はい」

茎をもってくるくると編んでいくと、段々と一つの輪になりそうだった。

「花冠ですか?」

「うふふ、することないから、あっちでいっぱい摘んできちゃった」

やよいみたいなあどけない笑顔が眩しい。

「私もお手伝いしますね」

あずささんから何本か受け取る。

時間はいっぱいあるから、暇つぶしにはちょうどいいかも。


やり方を教えてもらいながら編んでいく。

不恰好だけど何とか腕輪くらいの大きさならできた。

一方のあずささんは、大きい冠とやたら小さい輪を作っていた。

「これを頭に乗せて、これを付けると、はい完成」

私の頭に花冠を乗せ、左手の薬指に小さな花の輪をつけられた。

「うふふ。春香ちゃん、可愛いお花のお姫様みたいよ〜」

あずささんは無邪気に言ってるけど、さすがに高校生でこれは厳しい。

プロデューサーさんはプロデューサーさんで満足そうな顔。

「わ、私も作ります!」

巻き添えにすべく、急いであずささん用の指輪と冠を作り始めた。


夜。

バーベキューと言えど、料理スキルの差は歴然だった。

ゆっくり動いてるんだけど、手際の良さでみるみるうちに食材が切られていく。

いつの間にか終わっている下ごしらえ。他の人たちは焼くだけ。

頭にあの花冠をつけながらしているので、なんとなく優雅な気がする。

恥ずかしくないのかな?あずささん、恐るべし。

対して、私は飯盒係。火にかけて見守るだけ。切るくらいなら私も手伝えるのに。

「ふおーふおー」

吹く必要は無いらしいけど、なんだか寂しいのでアピールしておこう。

カメラさん、天海春香はがんばってますよー!

はるるん、あざと……頑張り屋さんだなあ


食事が終わり、寝袋で眠るシーンも撮ったので、今日の撮影は無事終了。

スタッフの皆さんお酒を出してきて飲み始めました。

「うふふっ。かんぱ〜い」

何度目か分からない乾杯コール。あずささんはすでにお酒をたっぷりお召し上がりに。

765プロのアイドルで唯一お酒が飲めるあずささんは、スタッフの方からは大人気です。

もしかしたら、今回のロケはこれが目的……?

私は伊織が飲むはずだっただろうオレンジジュースを手に、星空を眺めていました。


「春香、隣いいか?」

そう言ってプロデューサーさんが私の左に座る。

「今日はごめんな。俺の手違いで山登りになっちゃって」

「いえ、たまには山もいいかなって思いました」

プロデューサーさんはまだ気にしてたみたい。

私は思いのほか楽しめたから、すっかり海のことは忘れていたのに。


「なんだ、あずささんに作ってもらった花飾り、退けちゃったのか」

「はい、少し恥ずかしくて」

綺麗に作ってもらったものだから、鞄の中に大事に入れてあるけど。

「まあ春香くらいの歳なら少し恥ずかしいかもな」

そう言ってプロデューサーさんは私の頭を見てくる……ん?

「え、もしかして、私のリボンに疑問持ってるんですか?」

「いや。それが花のリボンだったら、もっと似合うかもなって思っただけだよ」

花のリボンなんて持ってたかな?ううん、ここは新しいのを買おう。

「まあ、春香はどのリボンでも似合うよ。やっぱり春香自身が可愛いからかな」

赤い顔をしながらドキっとすることを言ってくる。

よ、酔ってるのかな?


「そ、空見てください。とても綺麗な夜空ですよ!」

思わず話題を変えてみる。

「こうしてゆっくりと空を眺めるのは、みんなで天体観測した時以来ですね」

「懐かしいな。そういえば、あの時の願い事は叶ったのか?」

去年、みんなで765プロの屋上でした天体観測。

沢山の流れ星に向けた、私の願い事。

あれ、なんだったかな?

思い出せないけど、なんだか自分のアイデンティティを否定するようなものだった気がする。

「えへへ、忘れちゃいましたけど、まだ叶ってないみたいです」


「願い事はなかなか叶わないもんだな」

「プロデューサーさんのお願い事って何でしたか?」

「ん、俺はみんなの健康かな。叶いやすそうだったからさ」

あれ、意外。てっきり私たち全員をトップアイドルにするっていうことなのかと。

「それはお願いすることじゃなくて、俺がしなきゃいけないことだからな」

「こ、心を読むなんて、面妖ですよ、面妖な!」

「貴音の真似をするとは、なにやつ!?」

二人して貴音さんの真似をして、お互いに滑ったのを笑いあった。


「まあ、今お願い事をするなら、こんなヘマをしませんように、かな」

苦笑いをしながら空へ向かって言う。

「それはお願いしないと治らないんですか?」

「俺のうっかりは、小鳥さんの妄想癖と一緒だ。永遠に治らない」

重病みたい。

そっちが治らないのなら、その鈍感を治るようにお願いすれば……あ、こっちも無理か。

私は流れ星のない夜空に、これ以上プロデューサーさんを好きになる人が増えないようにお願いした。


「そういえば、伊織たちの方は終わったんですか?」

急遽、海に行くことになってしまった五人。伊織がいるから大丈夫だとは思うけど。

「小鳥さんから連絡があって、夕方にはもう終わったみたいだ」

プロデューサーさんはビールを飲みながら答えてくれた。

その時、ぼんやりと光る右腕の時計に目が行った。

腕時計の針に蛍光塗料がついていて、その光だったみたい。

「俺の時計、気になるか?」

プロデューサーさんは空を見上げたまま問いかけてきた。


「最近よく俺の時計見てるけど、右手にするのってやっぱり目立つか?」

なんともばつが悪そうな顔で訊いてくる。

「いえ、えっと、その時計っていろいろ機能が付いてるんだなって」

「そうか?かなりシンプルなタイプなんだが」

太陽電池・電波時計・蛍光塗料。3つしかなかった。

「この時計はな、俺が初任給で買った時計なんだ」

なんでも、765プロに来る前に働いていた会社で買ったものらしい。

社会人としての一歩ということで、初めてのお給料の大半を使って買ったとのこと。

「社会人一年生の初任給なんて知れてるからな。あんまり高いもんじゃないんだ」

プロデューサーさんはそう言いながらも、腕時計を誇らしそうに見つめる。

一番大切なものだから、右側に。

プロデューサーさんの言っていたことが、少し理解できた気がした。


「今日は疲れたか?」

「はい、でも今日は暑かっただけですから、まだまだ平気です」

「俺はもうヘトヘト。山道は辛いよ」

歌とダンスで鍛えられているので、私たちの体力は同年代の子よりもかなり多い。

それこそ、運動部の子にも負けないくらい。

反対に、営業で出歩くとは言え、プロデューサーさんの体力は少ないみたい。

仕事ばかりだから家で運動する時間もないんだろうなぁ。


「お疲れのプロデューサーさんに、飲み物取ってきますね」

そう言って立ち上がろうとしたところ、足に力が入らなかった。

とすんっと尻餅をつくようにまた座ってしまった。

「おいおい、大丈夫か?」

思ってたよりも疲れてたみたい。

「えへへ、足が縺れたみたいです」

「今日は早く寝よう。明日はここから降りないといけないからな」

そう言いながら、プロデューサーさんは私の頭を撫でてくる。

肩の力が抜け、思わず身体が傾く。

「春香?」

意図せず、プロデューサーさんに身体を預ける形になってしまった。

「ふあ……少し眠くなっちゃいました」

頭がプロデューサーさんの肩に乗ると、急な眠気が襲ってきた。


思わず元の体勢に戻そうとすると、プロデューサーさんは私の右肩を持ってゆっくりと私を引き寄せた。

「今日は一日、お疲れ様」

プロデューサーさんはそのまま頭を撫でて続けてくれる。

ちくりとした弱い痛みがあった。

時計のベルトに髪の毛が挟まったみたい。

それでも、夏の夜の涼しさと、プロデューサーさんの体温で微睡む。

えっと、こんなときはどうすればいいんだろう?

「えへへ、ぷろでゅーさーさーん、おやすみなさーい」

できたのはおやすみの挨拶だけだった。

「おやすみ、春香」

私はプロデューサーさんの優しさを感じながら、睡魔に白旗を振った。


山登りの番組はそこそこの視聴率が取れたみたい。

最後のシーンはなぜか私が眠りこけてるシーンだった。

プロデューサーさんは上手に映らないようになっていた。

「なんでこんなシーンが!?」

「春香ちゃん、幸せそうね」

小鳥さんがニヤニヤしながらこっちを見てくる。

本気の寝顔を全国放送されるというのは、とても恥ずかしい。

それが涎を垂らしていたというのだから、尚更。

ちなみに……ちびっこ五人組の水着番組の視聴率は、私たちのそれよりも二倍以上高かった。

やっぱり夏は山より海ですよ、うーみー!

まだ半分もいってないけどおやすみなさい

おつ!
うっすら判ってくるとニヤニヤしちゃうな

これ全部Pが無意識での行動だったら相当だよね

今頃この世界の俺らは「春香さんが肩を載せてる相手は誰だ!?」って騒いで特定しようとしてたりするかもな


外はセミ、中は蚊が耳元で大合唱。

睡眠不足になりがちな日が続いています。

夏休みに入ったけど、私たちにはあってないようなもの。

実感できるものは宿題の山だったりします。

そういうわけで、私は事務所に宿題を持ち込み、時間を見つけてはコツコツとしていたのでした。

しかし、ここが宿題をするには良い環境かと言われれば、全く違ったりします。


「いおり〜ん、早く早く〜」

亜美が伊織を急かす。

「氷をここに入れて、これでいいわね。じゃあ回すわよ」

伊織がハンドルを回し始めると、ガリガリという音が聞こえてくる。

夏の定番、かき氷。

小鳥さんがどこからか持ってきたかき氷機を、さっそく伊織と亜美が使っていた。

やや粗めの氷の粒がガラスの器に積もり始める。

ちらりとテーブルの上を見ると、シロッブが無い。

一体何をかけて食べるつもりなんだろう?


かき氷機を見る。なんというか、少しだけ私に似たデザイン。

のヮの<1回100円

左のリボンでロックを外し、開けた頭から中に氷を入れる。

ハンドルは右側のリボン。かき氷は口から出てくる設計みたい。

ガリガリガリガリ

なんだか伊織がハンドルを回すたびに頭が痛くなる感じがする。

二人はそんな私にはお構いなく、次々と氷を投入しては粗い雪を積もらせていた。


「お、かき氷か」

営業から帰ってきたプロデューサーさんが顔を出した。

「へい兄ちゃん、いっぱいやってくかい?」

腕組をした亜美が、まるでラーメン屋の店主のごときオーラを放つ。

「大将、大盛で」

「よし、任しといてっ!」

プロデューサーさんも負けじとノリよく応え、亜美は更に氷を投入。

でもハンドルを回すのは伊織。

普段なら亜美が回す役を買って出るだけに、なんだか珍しい光景だった。


私の隣に座ったプロデューサーさんが、手元を覗き込んでくる。

「春香は宿題か」

「はい、今のうちにやっておこうかなって」

プロデューサーさんは教科書を手に取り、適当にページを捲る。

「微分積分か、随分と懐かしいな」

「もう何が書いてあるかチンプンカンプンなんです」

私はそんなに頭が悪いわけではない。でも、特別良いわけでもない。

仕事で度々学校を休めば、それだけ授業にはついていけない。

夏休みの宿題、特に数学は鬼門だった。


「数学なら俺に任せろ」

そう言ってプロデューサーさんはノートにサラサラっと文字を書き始めた。

「まあ微積分はラプラス変換だな。遠回りになることもあるが、確実だ」

「はい?」

私の疑問を他所に、次々と謎の記号とともにアルファベットを羅列していくプロデューサーさん。

見たことの無い公式?を使っている。何をしているのか、コレガワカラナイ。

頭でそんなことを棒読みしている間に答えが出た。あっているかどうか、コレモワカラナイ。

「あの、遠回りじゃなくて、最短でするやり方を教えてください」

「数学は何事もコツコツとだな」

少し頭の固いプロデューサーさんは、基礎固めの大切さを説いてくれる。

でも、一刻も早くこの宿題から解放されたい私には、その遠回りは苦しいんです。


「兄ちゃん、いっちょあがり!」

「ぜぇ、ぜぇ……」

亜美がプロデューサーさんにかき氷を差し出す傍らで、伊織が肩で息をしていた。

そこまで全力でやらなくても。

ハンドルが小さく持ち難いせいで、余計な力が必要なようだった。

「じゃあいただくかな。シロップは?」

「水だよ」

「ほう。なかなか粋な店だな」

そう言って一口。シャリシャリっとした音が聞こえる。

「本当にこれ水か?」

作ってもらったかき氷がなんだか不満そう。

「うん、水だよ」

「砂糖水じゃないのか?」

「ただの水道水だよー」

亜美はあっけらかんと答えた。


「なぜにただの水を……」

「し、シロップ買うのを忘れたのよ」

作ってから気付くなんて、伊織らしくもない。

と、なんだか視線を感じた。

「はるるん……」

「春香……」

「春香、頼めないか?」

プロデューサーさんと年下二人のお願いとあっては断れない。

ペンを置いて本とノートを閉じる。

さて、ここにある材料で作れるといいけど。


とりあえずはベースのシロップを作ろう。

これからのことも考えて、いっぱい作り置きしておこうかな。

コンロの上にあるやかんをのけ、お鍋2台体制を採る。

水に砂糖を大量投入し、煮詰めていく。

伊織の飲みかけのオレンジジュースがあったので、オレンジ味は確保。

冷蔵庫の中にはいくつかのジャム。シロップと混ぜればいいかな。

牛乳があった。生クリームはないけど、アイスが作れるかも。

蜂蜜が無かったのは残念。


コンロを全力で使っているので、だんだんと室温も上がる。

気付いたら大粒の汗ができていた。でもお菓子作りに手抜きは厳禁。

「できたら呼ぶから、あっちの部屋で涼んできてもいいよ」

「はるるんの頑張りは無駄にしないよっ!」

亜美が逃げようとしたところ、伊織が首根っこを捕まえた。

「春香が作ってくれてるんだから、私たちも何かするべきでしょ」

「うーん、でもシロップを作るだけだし、別にいいよ」

「じゃあ亜美と一緒に買い物に行くわ。何かいる材料とかある?」

買ってきて欲しいもの……生クリームとか、無くなった砂糖とか。

でもなぜか私の口から出た言葉は

「ブルーハワイ買ってきて」

だった。

「えー」

伊織の目線が痛かった。


「俺も何か手伝えないか?」

一人残ったプロデューサーさんは手持ち無沙汰みたい。

「お仕事はいいんですか?」

「……まあ、ちょっとな」

なんだか微妙な表情を浮かべている。

もしかしたら何か失敗したのかな?

私はコンロの火を止めた。

十分なとろみが付き、甘い香りが漂っている。

スプーンに一口取って味見。うん、ベースのシロップ自体はこれで完成かな。

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