春香「右の腕時計」 (90)



曇りの日が続いています。

七月。

電車の窓から眺めても雲がどこまでも広がっています。

天気予報によると、今日の午後からは雨。

暦の上では夏みたいですが、今日みたいな日は少し肌寒いです。

そんな中、765プロは今日からクールビズに入ります。

とは言っても、クールビズの対象になるのは三人だけ。

律子さんと小鳥さん、そしてプロデューサーさんです。

その三人も、常に長袖を着て、スーツの上着を持って動いていました。

クールビズを奨励してはいますが、形だけのルールになっています。

もしかしたら社長はクールビズなのかも、とは思いましたが、真っ黒なのでわかりません。



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事務所に到着。今日も元気よく挨拶から開始。

「おはようございまーす!」

「お、おはよう、春香」

バタンと勢いよく扉を開けたすぐ先に、千早ちゃんがいた。

危なかった。もう少しで千早ちゃんをドアでぺしゃんこにしてしまうところだった。

「千早ちゃん、ごめんね。びっくりした?」

「べ、別にそんなことはないわ」

平静を装っていても、ドアを開けたときは全身がびくってしてたね。

とても驚いていたようなので、少し反省。


電話を受けている小鳥さんに静かに挨拶をして、スケジュールを確認する。

今日は千早ちゃん、プロデューサーさんとずっと一緒。変更なし。

他のみんなも色々と仕事が入っているみたい。

ホワイトボードなのに、もう書くスペースなんてないくらい真っ黒。

連日、プロデューサーさんと律子さんが走り回ってくれているおかげです。


「お、春香おはよう。来てたのか」

「おはようございます、プロデューサーさん。ついさっき来たところです」

プロデューサーさんはいつものようにここで寝泊りしたようだ。

シャツがとても外には見せられない程、よれよれになっている。

こんな時、プロデューサーさんに大丈夫ですか、と訊くのは禁止。

言っても無駄だし、その分だけなぜかもっと頑張ろうとするから。


「プロデューサーさん、朝ご飯はもう食べましたか?」

「ん、今からちょっと買いに行こうかと思ってたところだけど」

「そう思って、今日は私が作ってきました」

かばんから丸く膨らんだ包みを取り出してプロデューサーさんに手渡し。

「おにぎりか、ありがとな。じゃあ早速いただくよ」

プロデューサーさんは机にもたれかかれながら食べ始めた。

「やっぱり手作りのおにぎりは旨いな」

と、ここで遠くから声が聞こえた。

「おにぎり!」

仕切りの向こうから、ぴょこんっと金色の髪が飛び出た。


相変わらず、おにぎりという単語には敏感だ。

機嫌よくソファから起きてきた美希を見ながらそう思う。

私よりも先に来るなんて珍しいけど、最近やる気を出している美希ならこういう日もあるのかな?

「春香、ミキにもおにぎりちょーだい♪」

「え、プロデューサーさんの分しか持って来てないよ?」

一瞬だけショックを受けた表情をする。

でもすぐに立ち直ってプロデューサーさんの持つおにぎりを見つめる。

「ハニー、ちょうだい?」

可愛らしい仕草でお願いをする。なんだかズルイ。

プロデューサーさんは私からもらったおにぎりを、すぐに美希に渡して良いのか困惑している。

「プロデューサーさん、ミキに一つあげてもらってもいいですか?」

「春香がそう言ってくれるなら」

「春香、大好きなの!」


「私より早いなんて美希にしては珍しいね」

「今日はずーっとハニーと離れ離れなの。だから、早く来たの」

これも相変わらず。どうしてこうも素直に好意を表すことができるんだろう。

「ハニーのおにぎりの具は何が入ってるの?」

「俺のはおかかだな」

「ハニーと一緒なの!」

美希はそう言ってプロデューサーさんの左腕に抱きつく。

「おいおい、食べてる最中にそんなことするんじゃない」

掴まれた左腕を簡単に引き離す。とても慣れた行動に見えた。

「むー」

そう言って美希は今度は右腕を捉えようとするが、これまたすっとかわされていた。

「ハニー、冷たいの!」

「いや、だってな……」

じゃれ合っている美希をみると、少し羨ましい。

……今日はずっと一緒だから気にしないもん。


千早ちゃんから4回のダメだしを受け、やっとレコーディングが終わった。

歌に関しては千早ちゃんはプロデューサーさんよりも厳しい。

最近はオブラートに包む言い方をしてくれるようになった分、まだ楽になったけど。

「おつかれさまでした〜」

へろへろになりながらスタッフの人たちに挨拶をする。

「春香、厳しくしてごめんなさい。でも、最後はすごく良かったわ」

「ううん。千早ちゃんがびしっと言ってくれないと、本当に良かったかどうか分からないから」

「ふふっ。厳しくする方がいいだなんて、変な春香ね」


「春香、おつかれさん。ほい、お茶」

プロデューサーさんが冷たいお茶を手渡してくれる。

「ありがとうございます」

「千早も春香の指導ありがとな」

そう言ってプロデューサーさんは千早ちゃんの頭を左手でぽんぽんと撫でた。

「はい、春香のためですから」

手を頭に乗せられた千早ちゃんは顔を少し赤くして俯いた。


椅子に座ってぐったりとする。

冷たいお茶を飲んで熱くなった喉を冷やす。

千早ちゃんは隣で雑誌を読んでいる。

横目で見ると、ファッション関係の本のようだ。

ふと、出会ったばかりの千早ちゃんを思い出す。

あの頃はこんな雑誌なんて、絶対に見なかったのに。

すっかり丸くなっちゃったね。

どうしてか、みんなからは私のせいだと言われる。

そんなことないのに。

千早ちゃんが自分で頑張って変わったんだから。


千早ちゃんが熱心に読む先は、男性の落とし方講座という怪しい題目だった。

面白そうだから、気付かれないように後ろから見てみる。

ふむふむ、好きな男性には積極的にアピールとな。

思い切って抱きついちゃえ……いつの時代のアドバイスだろう?

雑誌の表紙を確認してみると、なるほど。亜美や真美くらいの年代向けの雑誌だった。

右手の指に指輪をつければ彼氏募集中の意志表示。

ふむふむ。でも、これって相手が知らないと意味ないんじゃないかな?

でもそれを食い入るように見る千早ちゃん。明日から実行してきそうな気がした。


別の席ではプロデューサーさんはスタッフの人と打ち合わせをしている。

熱が入っているのか、大盛り上がり。

よく見ると、プロデューサーさんだけが汗をかいていた。

ここももうクールビズを実施中のようで、みんな半袖。

プロデューサーさんは腕まくりをしてはいるものの、ネクタイをきっちりと締めているので暑そうだった。

少しくらいラフな格好になったって誰も文句なんて言わないのに。

生真面目さが災いして、融通がきかないみたいだった。

壁の貼り紙によると、空調は来週くらいから入るみたいです。


「ごめん、お待たせ。ちょっと話が盛り上がっちゃってさ」

汗だくで満足そうな顔をして戻ってくるプロデューサーさん。

「あの、私のタオル使います?」

「ん、いいのか?」

「はい。これまだ使ってませんので」

予備のタオルを取り出して渡す。

「ハンカチで拭いても全然止まらなくてな。洗濯して返すよ」


中にいるのにびっしょり。全身から湯気が出ていそうだった。

拭くよりもシャワーを浴びたほうがいいような気がする。

ふと、目がタオルを持った右手に止まった。

「あれ?」

「ん、どうかしたか?」

ちょっとした違和感から出た言葉。

そういえば、他の人がこうしてるところってあんまりない気がする。

「プロデューサーさん、どうして腕時計を右腕につけてるんですか?」


「ああ、これか?」

プロデューサーさんは右腕につけた銀色の時計をこっちに向ける。

「プロデューサーさんって、確か右利きでしたよね?」

「ああ、右利きだ」

「時計を右につけてる人なんてあんまりいませんから」

「なんというか、子供の頃からの癖なんだよ」

そう言うと、プロデューサーさんはなんとも説明しにくそうな顔で頭を掻いた。


プロデューサーさんが言うには、大切なものは右に持っていく癖があるらしい。

財布、携帯、その他諸々。その中に時計が入っているだけ、とのこと。

実際に、今も右ポケットから財布と携帯が出てきた。

何度か治そうとしたものの、結局無意識の行動はどうにもならなかったみたい。

「なんだか、それってバランス悪くないですか?」

「全くだ。右肩だけが凝ってしょうがない」

屈託無く笑うけど、きっと体が歪んでますよ!

「せめて時計くらいは左でもいいんじゃないですか?」

「んー、この時計は特に大切なものだからな。他のを左にするよ」

そう言ってプロデューサーさんは財布と携帯を右ポケットにしまった。


「プロデューサーは右側……」

ぼそっと千早ちゃんが呟いた。

私には聞こえたけど、性格難聴のプロデューサーさんには聞こえなかっただろう。

やっぱりなんだか不安になる。

「まあ、あんまり気にする人もいないからな。春香もできれば気にしないでくれ」

「はい、わかりました」

でも、私はその腕時計のことがいつまでも頭の片隅に残ることになった。


空は真っ黒な雲で埋め尽くされています。

明日はやや強めの台風がここに来るみたい。

ニュースでは地方の状況が逐一放送されていて、台風の強さが伝わってきます。

いくつかの地域では停電もあるようで、あまり良い話題ではありません。

明日はもしかすると、電車も止まっちゃうかも。

でも、その前に、別の台風が765プロに吹き荒れることになりました。


「兄ちゃーん、これどう?似合うっしょー?」

真美がプロデューサーさんに右手を見せていた。

正確には、右手につけた指輪だ。

少し背伸びしたい感じがして微笑ましい。

だけど、真美の表情はどこか真剣だった。

真美の突然のおしゃれ宣言に、プロデューサーさんも驚いている。

私は嫌な予感がした。千早ちゃん的な意味で。

「プロデューサー、少しよろしいでしょうか?」

あ、来た。わざわざ真美との会話を遮ってもアピールしたいことがあるようだ。

「あ、ああ。なんでも言ってくれ」

千早ちゃんからの助け舟。プロデューサーさんはそれに考えもせずに飛び乗った。

それ、きっと泥舟ですよ、泥舟!


「この歌詞のこの部分なんですけど」

「うん、なになに……えっと、そこはだな……なっ!?」

千早ちゃんがニヤリと笑う。

「どうかしましたか?」

プロデューサーさんは、千早ちゃんの右の薬指に付いた指輪を見て口をパクパクさせている。

楽譜を右手で遮る。話すときは右手を胸の辺りへ持っていく。

これ見よがしに、指輪を特大アピール。

口では真面目に仕事の話をしてるけど、千早ちゃんは下心満載だった。

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