恵美「もしも魔王の正体に気づかなかったら」2巻 (90)

・はたらく魔王様! 真奥×恵美

・恵美「もしも魔王の正体に気づかなかったら」
 恵美「もしも魔王の正体に気づかなかったら」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1369382669/)
 の続きです。
 前回の概要:勇者が魔王にデレた。魔王満更でもなし

・原作二巻分のIFのため、原作二巻もしくはアニメ6〜13話視聴済み推奨

・原作でも明言されていない部分の独自解釈あり

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1372422504

恵美「お電話ありがとうございます、ドコデモお客様電話相談室担当、遊佐がお伺い……」

真奥『よ、恵美』

恵美「……は?」

テレアポの業務中。
着信があったので真面目に電話を取ってみれば、それは知った声だった。

恵美「ちょ……あなたねえ、何でこっちに連絡して来るわけ? 携帯にメールでもしてよ携帯に!」

周りに聞き咎められないよう小声で応対する。

頭が仕事モードだったのと、突然聞く彼の声の相乗効果で困惑してしまう。
色々と込み入った事情があり、心の準備なしで聞くには刺激の強い声だった。

真奥『悪いな、仕事中。でもお前が職場出る時間分かんなかったし、電話で話したいことがあってさ』

あまり悪びれた様子のない声で言ってくる。

彼の同居人である悪魔大元帥ルシフェル改め漆原半蔵のハッキング技術によって
私を狙い撃ちした電話がかかってくるのはこれで二度目だった。
……冷静に考えると大丈夫なのかしら、うちの会社。

恵美「……話したいって、何をよ?」

話したいことがある、なんて言われると素直に聞く態勢になってしまうのが辛い立場だ。
果たして彼の口から出てきた言葉は、私に強い衝撃を与えた。

真奥『今夜、暇か?』

…………今夜?

恵美「…………暇ね。ものすごく暇ね。何もすることがないわ」

真奥『お、おう……それはそれで寂しいな。いや、まあそれならちょうどいい』

真奥『暇なら、焼肉食いに行かないか。たまにはパーッと』

これは。
……これはひょっとして、噂に聞く、デートの誘いというやつなのではないだろうか。

恵美「……えっと、それは……」

落ち着け。
別に夜の食事に誘われたからと言って、その、深い意味があると決まったわけでもない。
ただ食事をしてそれで終わりという線だって十分にあり得る、というか彼にそれ以外の展開は期待しにくい。
ああ、けど、今日の下着は何色だったかしら。
待ち合わせの時間によっては、急いでそれなりに映えるものを買いに、

真奥『ん、何か都合悪かったか?』

恵美「悪くない! ぜんっぜん悪くない! から、……うん、行く」

真奥『そっか、良かった』

デスクの下で拳を力強く握った。よし。
そうとなれば、今日は絶対に残業が発生しないよう気合を入れて——

真奥『いやー、芦屋が珍しく外食の許可をくれてさ。漆原は家から出らんないし、やっぱこういうのは人数いた方が美味いと思ってな』

がごん、と音がした。
……私がデスクに突っ伏して頭をぶつけた音だ。

そうね、お母さん、もとい部下同伴なのね。
先ほどまでの自分の浮かれようが、こうなると恥ずかしい。

真奥『何だ、今の音』

恵美「……気にしないで、本当に」

まあ、アルシエル——芦屋が財布のヒモを緩めるのは確かに珍しい。
その機会に私を誘ってくれたことは喜んでおこう。

笹塚駅で待ち合わせることにして、電話を切る。
気づくと、隣のブースからこちらを眺める視線が一つ。

梨香「恵美、もしかして貞夫さんと電話? まずいよぉ、仕事中に」

自前の携帯電話でこっそり話していたとでも思ったのだろう、
言葉とは裏腹に、楽しそうにニヤけた顔で梨香が言ってくる。

彼女には以前貞夫のことで相談に乗ってもらったことがあり、
今でもその後の経緯を気にしてくれている。
……ありがたいのだが、どうも純粋に楽しんでいるようにも見えるのは気のせいか。

梨香「でも良かったよねえ、貞夫さんとも仲直りできて、順調にいってるみたいじゃん」

しみじみと言う彼女の言葉に、少しだけ引っかかった。

恵美「……順調、なのかな」

その独り言は、幸い彼女には聞こえなかったようだった。

真奥「くっくっく、どうだ、手も足も出ずに地獄の炎で焼かれる気分は!」

芦屋「……魔王様、お食事はもう少しお静かになさってください。周りのお客さんに迷惑です」

恵美「貞夫、これもう焼けてるわよ」

真奥「あ、おう」

すごいテンションね。
まあ、彼の普段の食生活と言えば、マグロナルドのハンバーガーか、
如何に芦屋が工夫を凝らすとはいえ精進料理も裸足で逃げ出す粗食なのだから、無理もないけど。

恵美「貞夫、ちゃんと野菜も食べなさいよ。ほら、サラダ」

芦屋「そうですよ魔王様、最近は野菜も高騰していますので、この機に是非」

真奥「分かった分かった、お前ら俺のお袋か!」

言われなくても分かってるとばかりに言う貞夫だが、彼の好物は肉やジャンクフードの類である。
放っておけばマグロナルドの賄いばかり食べ続けて健康を害しかねない。
……今は人間の姿とはいえ、魔王が食生活の乱れごときでどうにかなるのかは知らないが。

真奥「そう言えばさ、漆原の晩飯、買ってったほうがいいんじゃね? 焼肉弁当とかあるっぽいぜ?」

その提案に、私と芦屋は揃って首を横に振った。

芦屋「必要ありません。帰りに杉屋で豚丼の並でも買えば十分です」

恵美「それだって贅沢なほどよ。あいついつもお菓子食べてるじゃない、ご飯抜きでもいいくらいだわ」

芦屋「まったくだ。命を救われた分際で魔王様のカードを使いネットショッピングとは、調子に乗りおって」

二人してため息をつくと、貞夫が怪訝な顔をして言ってきた。

真奥「あのさ、お前らって仲良いの? 悪いの?」

恵美「私としては良くあろうと思ってるけど? 将来の同僚なわけだし」

芦屋「……まだ言っているのか。勇者の言葉とは思えん戯言だな、エミリア?」

恵美「主夫業に身も心も染まった悪魔大元帥に言われたくはないわ」

芦屋「それを言うなっ!」

あ、ちょっと涙目になってる。
結構本人も気にしていたらしい。

芦屋は貞夫と違い結構な人間嫌いらしく、特に敵対していた私には愛想がない。
千穂ちゃんや正体が知れる前の私には紳士的に接していたくせに、変に融通の効かないやつだ。
ただ主である貞夫が私の接近と、いずれ新生魔王軍の悪魔大元帥として貞夫の平和な世界征服を支えるという
私の半ば本気の宣言を跳ね除けないため、自身も私と敵対するでもなく、さりとて慣れ合うでもない、そんな距離を保っている。

ちなみに漆原と仲良くするつもりはない。
貞夫が保護したから見逃しているだけで、散々な目に遭わされた恨みがあるし、働かざるもの食うべからずだ。
真奥家の財政にダメージだけを与え何もしない奴には腹立たしい思いがあった。

恵美「……そういえば気になってたんだけど、何でいきなり焼肉なの? 芦屋がよく許したわね」

常に近隣のスーパーのチラシをチェックし、タイムセールの時間を把握しているこの男としては異常事態とも言える。
ちなみに私の分は割り勘だ。
その問いに、芦屋は得意げな顔をした。

芦屋「ふ……魔王様の出世祝いだからな」

恵美「出世?」

芦屋「慄くがいい、勇者よ。魔王様はついに、僅かな時間と人数とはいえ、この世界で人間を支配できるようになったのだ……!」

真奥「要は、今度からマグロナルドの午後時間帯責任者になるんだよ。その時間は店長代理の扱いになる」

恵美「へえ!」

感心した。
私もこの国のフリーター事情に詳しいわけではないが、バイトを始めて一年もしない彼が
その役割を任されるまでに至ったのは、ちょっとした偉業と言っていいはずだ。
それは彼の弛まぬ努力が成したことなのだろう。

恵美「おめでとう、本当に」

真奥「ありがとな。でもなー、ちょうどそのタイミングで向かいにセンタッキーがオープンすることになってさ」

真奥「もし売上勝負で負けたら、俺は店長に……」

芦屋「魔王様ともあろう方が今からそんな弱腰でどうするのです!」

何に怯えたのか、バイト先の売上を気にして震える魔王と、それを鼓舞する臣下。

その光景は、とりあえず平和だった。

焼肉屋は笹塚駅のすぐ近くだったが、一応ということで駅まで送ってもらい、徒歩で帰る彼らと別れた。
電車で永福町の自宅を目指しながら考える。

恵美(……結構仲良くやってるわよね、私達)

勇者である私は、偶然の出来事の末、魔王である彼に恋をした。
その想いを告げた。
結果として、それから二ヶ月近く経った今の状態がある。
私達の出自を考えれば、確かに梨香の言うとおりこの恋は順調と言ってもいいのかも知れない。

けれど、気になることがあった。

経験不足故に不器用ながらも、たまにメールを送ったり、貧乏な彼に手作りのおかずを持って行ったり
(何度か彼の家に直接食事を作りに行ったが、台所を預かる芦屋が良い顔をしないのでその形になった)という
私のアプローチに対して、彼の反応はどうにも素っ気ない。
今日動揺したのも、彼からの誘いなど異例のことだったからだ。

何よりも、私の側からは何度か口にした言葉。
彼の側からは、冗談めかしてそれらしいことは言われたものの、面と向かって真面目には言われていない言葉。

「好き」の一言。

恵美(……あいつは、私のことをどう思ってるんだろう。恋人? 好かれている女? ……友人知人レベルではないはずだけど)

恵美(私があいつを好きなくらいに、あいつは……私を好きでいてくれているのかしら)

その疑問を胸中で言葉にしたのは、そうでないと感じている証拠に他ならないと自分で分かっていた。

エメラダ『それは〜、日本で保存しても違和感の無い形に加工整形した聖法気です〜』

恵美「せいほ……えっ」

突然送りつけられた、品物名に"食品"と書いてあるダンボール箱の山。
送り主のエメラダに、携帯——を触媒にした概念送受——で確認をしたところ、そんな返事が帰ってきた。
ダンボール箱のガムテープを適当にちぎり一つ開ける。

恵美「うわぁ、ホーリービタンBって……」

成分表に"聖法気"と書いてある小瓶を、訝しみながら手にとった。

エメラダ『違いますよ〜、Bじゃなくてβです〜。試作品ですから〜、βタイプってことで〜』

恵美「……どうでもいいけど……これはつまり、飲めば聖法気が補充できるってことなのね」

エメラダ『そういうことですね〜。ところでエミリア〜』

そこで、彼女の声の調子が変わった。
探りを入れるように。

エメラダ『最近、魔王とはどんな感じなんですか〜?』

恵美「……そうね」

先日の悩みのこともあり、ややテンションが落ちるのを感じながら答える。

恵美「一緒にご飯食べたりして、それなりに仲良くやれてると思うんだけど……なんか、それなり以上に行けないっていうか」

恵美「恋愛って難しいのね、本当に。今更ながら戦い以外何もしてこなかったことを悔やまれるわ」

恵美「まあ、でなきゃ彼とは会えなかったんだけど」

意図せず愚痴のような言葉になる。
それを聞いたエメラダが、顔は見えずとも苦笑したのが分かった。

エメラダ『……魔王に恋しちゃってることは隠さないんですね〜』

恵美「あなたに隠し事はしたくないもの」

彼女は、心配しているのだろう。
"魔王に取り込まれた勇者"である私を。そして魔王が何をするかを。

エメラダ『エミリア〜、お願いですから〜』

エメラダ『私とエミリアが敵対するようなことだけはしないでくださいね〜』

エメラダ『"恵美"のことも〜、日本のことも〜、"真奥"のことも〜、全部知ってる私のお願いです〜』

彼女は神聖セント・アイレ帝国の重鎮だ。
もしも魔王が、当初私達が危惧していたとおり、エンテ・イスラに戻って再び侵略を行ったなら。
例え私がそちらに付いていても、戦わなければならない立場にある。
だが、

恵美「大丈夫。彼を……は難しいだろうけど、私を、信じて」

はっきりとそう言えた。
私は彼が、二度とエンテ・イスラに災厄を撒き散らすようなことはしないと信じている。
勇者としても、一人の人間としても。

エメラダ『……はい〜。今は、その言葉を信じます〜』

完全に納得はしていないであろう声色で彼女が言う。
まあ、仕方ない。傍から見れば、悪魔に魅了されて色ボケた女の戯言だ。

だが彼女も、"真奥貞夫"と僅かながら会話し、"魔王サタン"との違いを感じたはずだ。
でなければ一度彼女が日本に来たとき、容赦なく彼を殺していたはず。
魔力を使い切っていた貞夫を殺すことなど、その気になれば片手間でできたのだから。

いずれそれをはっきりとした信用に変えるのが、人間と悪魔両方に味方した私の役目だろう。

恵美「ところで、最近そっちはどう?」

話題を変えた。
私と魔王をオルバが殺そうとしたのは、大法神教会のごく一部で主導された計画だったそうで、
一応世界を救ったことになっている私達に表立った危険はないらしい。
……表立ったものは、だが。

エメラダ『暗殺者ギルドに依頼が出たとか〜、裏の賞金稼ぎとか〜』

エメラダ『あとは教会の訂教審議会なんかが動いてるなんて話もありますけど〜、このあたりは噂の域を出ませんね〜』

恵美「ていきょう……何?」

エメラダ『あ〜、すいません〜、異端審問会のことです〜。最近名称変えたみたいで〜』

恵美「ええ? 異端審問会って……なんでそんな噂が? そんな奴らに狙われる覚えなんて……」

エメラダ『……エミリア〜』

恵美「……あったわね、ものすごく」

元教会騎士の勇者が魔王に惚れた、なんてことがもしも知られていたら、そりゃまあ教会的には許せないだろう。

異端審問会と言えば、教会にとっての異端者の処刑なんかを行うこともある物騒な組織だ。
警察に捕まったオルバを追ってこの世界に来ないとも限らない。心に留めておいたほうがいいだろう。

エメラダ『一応言っておきますけど〜、勇者の恋物語の噂なんて流していませんよ〜』

恵美「分かってるわよ……教えてくれてありがとう。そっちも気をつけて」

エメラダとアルバートも強引に日本に来たせいで睨まれているらしいが、そこは彼らを信じるしかない。
互いの無事を祈って電話を切った。

ダンボール箱から取り出したホーリービタンβを一つ飲んでみた。

恵美「まんまドリンク剤ね……本当に効果あるのかしら」

特に何かが変わったようにも思えない。
とりあえず空き瓶をキッチンのゴミ箱に捨てようと顔を向けると、視界の端に映った惨劇。

恵美「あ……」

さっきダンボールを開封したとき放り出したガムテープが、……テレビの脇のテレビ情報誌の表紙に張り付いている。

恵美「ああああああああああ!」

叫びながら雑誌に駆け寄るが、目の前の現実は変わらなかった。

恵美「せっかく水戸の副将軍様が表紙だったのに……」

いや、まだ諦めるには早い。
ゆっくり剥がせば何とか……

びりっ、と無情な音とともに、表紙は破れた。

恵美「あああ……」

ため息をつく。なんてことだ。

……元気を取り戻すため、座って携帯を手に取った。
『明日、遊びに行っていいですか』と、簡素なメールを彼に送る。

少しして帰ってきた返信は、『ああ』の一言だった。

恵美「……分かってるけど。マメな文章書くタイプじゃないって、分かってるけど」

独り言を呟きながら、足をじたばたとさせる。
寂しいなら電話の一つもすればいいではないかと内なる自分が言うが、それはそれでハードルが高いのだ。
くそう、前にテンションが高まったときには色々と言えたというのに。
……というか、思い出すと自分でも恥ずかしすぎることをのたまった気がするわね。

ああ、本当に、恋は難しい。

翌日の早朝、私は笹塚駅に降り立った。
まだ貞夫は寝ている時間だろう。
まさかこの時間に私が来るとは思っていないだろうが、別に時間の指定をしたわけではない。
寝顔の一つも拝ませてもらおう。

相変わらずのオンボロアパート、ヴィラ・ローザ笹塚に近づけば、貞夫の部屋の窓枠に洗濯物が干されているのが見えた。

恵美「……ん?」

微かな違和感。
よく見れば、洗濯物は皺だらけのまま雑に干されていた。
あの芦屋がこのような干し方をするはずがないのだが……

「まったく、洗濯物一つ満足に干せないのか。本当に半蔵殿は家事を知らないのだな」

恵美「!?」

女の、声?

咄嗟に壁に身を潜めてそちらに目をやると、窓から姿を見せる少女がいた。

少女「皺のまま干したら型崩れするだろう。乾きにもムラが出る。そういう知識もきちんと持て」

漆原「はいはい、すいませんねー。あーもう、本当に芦屋がもう一人増えたみたいだ」

……ちょっと待って、ちょっと待って。

彼女は誰? 何?
貞夫の部屋で漆原と話しているということは、新しい悪魔だろうか。
それならいい。貞夫のかつての部下、それだけならいい。

……ただの隣人だったら。
それも、家に上がって家事に口を出せるレベルの、親しい間柄だったとしたら。

ここからでは声がよく聞こえない。
湧き上がる焦燥感に身を任せ、息を潜めて錆びた階段を登る。
そのまま共用廊下の、貞夫の部屋の前で身を屈めた。

……勇者としてどうなのかしら、これ。
ああもう、いいのよ。
この世界の勇者は人の家のタンスを開けたりツボを割ったりカッコいいポーズを取ったりするものなのよ。

少女「よろしいか、万能葱を刻んで生姜をすりおろし、つゆを冷水で希釈する。これだけであとはうどんを茹でればすぐに食事は整う」

どうやら先ほどの少女は、洗濯だけでなく食事も作っているらしい。
漆原が説教をくらっている。

芦屋「もっと言ってやってくださいカマヅキさん、身内がいくら言っても聞きませんから……」

芦屋の、心なしか元気のない声が聞こえた。
カマヅキ、さん。
……部下という線は消えた。

漆原「あれ? 芦屋、もしかして生姜、使い切った?」

芦屋「そういえば昨日、終わってしまったな。すいませんがカマヅキさん、今日は葱だけで……漆原、冷蔵庫の扉はきちんと閉めろ!」

最後の声だけやたらと力強かった。姑め。
そんなことを考えていると、……カマヅキさんの声が、生姜を取ってくると言いながら玄関の方に動き出した。

恵美「ちょっ……」

突然のことに慌てるが、この廊下に身を隠す場所などない。
とにかく、この場を離れないと……

気づけば、階段で足を滑らせて宙を舞っていた。

恵美「いやああああああ!!」

落下する。
身を固くして思わず目を瞑ると、

「うおおおっ!?」

覚悟していた地面にぶつかる痛みはなく、代わりに柔らかい衝撃。
バッグの中身がバラバラと落ちる音がする。
恐る恐る目を開けると、

真奥「……大丈夫か、おい。この階段滑るっつったろ」

彼の顔が、すぐ近くにあった。

恵美「さ、貞夫っ……!」

状況を確認し、顔が赤くなるのが分かった。
落ちた私を彼が受け止めてくれたらしく、その体勢は所謂お姫様抱っこと呼ばれるものだ。
気恥ずかしさと、密着した彼の体温で混乱して動けない。

真奥「どうした、怪我でもしてんのか。下ろして大丈夫か?」

恵美「え、あ、うん……大丈夫、ありがとう」

なんとか返事をすると、彼はゆっくりと私を下ろした。
その頭にはポケットティッシュが乗っている。
どうやら落下した私の持ち物も彼に向かって降り注いだようだ。

恵美「あ、ごめ……痛かった、よね?」

真奥「別に、大したことねえよ」

言いながら、辺りに散らばった物を拾い始めてくれる。
慌てて私も私物の回収を始めた。

彼の姿を見れば、軍手をはめており、地面には箒とちりとりが転がっている。
こんな早朝に何故起きていたのだろうと思っていたが、掃除でもしていたのだろうか。

鎌月鈴乃——彼女は時代がかった口調でそう名乗った。

貞夫の部屋には冷やしうどんに冷奴、小松菜のおひたしと豪華な朝食。
そして驚くべきことに夏バテして寝こむ芦屋の姿があった。
どうやら鈴乃が引越しのお裾分けに大量のうどんを寄越したところ、
そればかり食して芦屋が倒れ、責任を感じた鈴乃が家事を手伝っているという状況らしい。

とりあえず想定していた最悪の展開ではなかったことに胸を撫で下ろすが、疑念がなくなったわけではない。
昨今の日本人女性というのは、隣近所の男所帯とここまで付き合いを深めようとするものかしら。

鈴乃「とにかく、こうしてこの広い日本で偶然見えたのは縁あってのこと」

鈴乃「是非、よしなにお付き合いを願い、助力を請いたい」

恵美「こ、こちらこそ」

深々と頭を下げる彼女に合わせる。
……色恋を別にしても、懸念していたエンテ・イスラからの刺客という可能性も考えていたのだが、
この佇まいと一週間も貞夫の隣に住んで攻撃をしてこないという状況から、その線は薄いだろうか。

朝食を食べ終え、食器を流しに運んだ貞夫が大きく欠伸をした。

真奥「あー、なんかやることや覚えることが多すぎて流石に疲れるわ」

恵美「ああ、もうすぐだっけ? 店長代理」

真奥「そ」

想像するしかないが、店長代理ともなれば、接客や調理以外にもこなさなければならない仕事は多いのだろう。
と、そのとき、

漆原「疲れてるんなら、これ貰えば?」

漆原が、口が開きっぱなしだった私のバッグからホーリービタンβを取り出し、言ってきた。

恵美「ちょっと、返しなさいよ!」

相変わらずデリカシーという言葉を知らない男だ。
その光景を見た貞夫が言う。

真奥「なんだ恵美、栄養ドリンクなんか飲んでるのか? そういうのに頼るとそれこそ芦屋みたいに夏バテしちまうぞ」

恵美「違うわよ、これは……」

言いながら考える。
聖法気の補充ができるようになったことを、彼に伝えておいた方がいいだろう。
私達の前にはいつ刺客が現れてもおかしくないのだ。
だが無関係の鈴乃の前で明け透けに言うのもまずいと思い、貞夫に小瓶を手渡した。

恵美「……ほらこれ、成分が強烈なのよ。いざっていうときに飲むために持ってるの」

真奥「……うわぁ」

成分表の"聖法気"の欄を見たのだろう、貞夫が訝しげな声を上げて眉をひそめる。
おそらく昨夜の私も同じ顔をしていたはずだ。
エメラダには悪いが、なんとも胡散臭い。

真奥「……恵美、これ本当にもらっていいか?」

恵美「え?」

意外な言葉だった。
聖法気入りのドリンクなど、悪魔にとって毒のようなものだろうに。
ホーリービタンβは午前と午後に一瓶ずつ服用するもので、午前の分は既に飲んでいる。
これは午後に飲むためのものだったが、別に家に帰ってから飲めばいい。
だから渡すこと自体は構わないのだが……

恵美「いいけど、それ、使い道あるの?」

真奥「まあ、いざっていうときのためにな」

それだけ言って彼は小瓶を冷蔵庫に入れた。
まあ、彼のことだ。何かしら考えがあるのだろう。
基本的に多くを語ってはくれない彼には、深い追求はしないことにしていた。

ふと気づく。
正座のまま、厳しい表情で鈴乃がこちらを見ている。

恵美「な、何……?」

鈴乃「恵美殿は……もしや貞夫殿と親密なお付き合いをされているのか」

恵美「はぁぁぁぁっ!?」

思わず大声を上げてしまった。
部屋の全員がこちらを振り向く。

恵美「な、な、何を言い出すのよ!?」

鈴乃「いや、二人の会話を聞いていると気の置けないやりとりというか……遠慮の無い間柄だと見受けられるので」

特に艶めいた会話はしていなかったと思うのだが、傍からはそう見えるのだろうか。
気恥ずかしさと少しの嬉しさで動揺する。

漆原「……そうだねぇ。その辺、実際どうなのさ? 真奥」

からかうような口調の漆原。
釣られて私も貞夫を見た。

……言って欲しい。
肯定して欲しい。
私達の関係について。

だが彼は、

真奥「さあな」

つまらない冗談を流すように、軽く笑ってそう言った。

漆原が白けたような顔になる。
芦屋が若干だが痛ましげな視線をこちらに送ってきたのが逆に辛い。
そして鈴乃は、肩を落とす私を見て、更に表情を厳しくさせた。

私の想いが鈴乃に伝わったとしたら、それで彼女に何の不都合があるのか。
少し考えて、……以前も似たような状況があったことに思い当たった。

恵美「まさかとは思うけど……あなたも貞夫を狙っているの?」

鈴乃に小声で耳打ちした瞬間。
彼女は焦った様子で、私の腕を引っ張り部屋の外へと釣れ出した。

鈴乃「き、聞こえたらどうするつもりだ」

……決まりだ。
少し、気が遠くなった。
ただでさえ同じ職場に千穂ちゃんという強敵がいるというのに、今度は同じアパートに。
更に彼への距離が遠ざかったように感じた。

鈴乃「そ、それにしても大したものだな。どうして、分かった?」

恵美「どうしてって言われてもね……なんとなくそう思っただけなんだけど……」

鈴乃「そうか……流石だな……」

なんとなく、という私の曖昧な答えに、なんだか感心した様子だ。

鈴乃「しかし、安心した。察してくれたということは、先ほどの様子は私の見間違いなのだな」

……私からこの話題を振ったということは、私にその気はない、と判断したのだろう。
笑顔を取り戻した彼女に、私は何も言えなかった。

私と貞夫の関係について、彼は肯定も否定もしなかった。
未だ私達ははっきりとした関係ではないのだ。
ならば、私が口を出せることではない。
誰が彼を好きになろうと、……彼が誰を好きになろうと。

最後のあがきのように、忠告めいた言葉を絞り出す。
普通の人間が魔王である彼に近づいても幸せな結末は望みにくいのだから、と自分に言い訳をしながら。

恵美「……一応言っておくけど、あいつは普通の人の手に負えるような男じゃないわ」

恵美「できれば、近づかない方がいい。……と思う」

鈴乃「っ……! し、しかし、私はこう見えて色々な修羅場をくぐっている!」

目の前の無垢な少女から発せられたその言葉は、恋愛経験のない私への牽制のようにも聞こえた。

鈴乃「……が、そうだな、あなたがそう言うのであれば、自重しよう。きっとあなたにしか分からない何かがあるのだろう」

かと思えば今度は物分かりよく頷いてくる。
なんだか私を信用している様子だが、そうされるような振る舞いをしただろうか?

鈴乃「だが、そうは言っても私は今さらここを離れられない。図々しいことは承知だが、何卒、助力を願いたい」

恵美「……ええ、私にできることなら」

鈴乃「そうか……少し、これで安心できる」

自己嫌悪に苛まれながら答えた。
どの口で私はそう言うのか。
心の中では、応援などしていないくせに。

まってたでー
…このルートだとサリエルまじで魔王にぶっ殺されるんじゃ

恵美「そうだ、ちょっと待ってて」

部屋に戻り、バッグからメモ帳とペンを取り出した。

恵美「私がいない間に、変なことしなかったでしょうね」

漆原「僕そんな命知らずじゃないよ」

再び鈴乃のもとに戻って、走り書きをしたメモを手渡した。

恵美「これ、私の電話番号とメールアドレスと住所」

恵美「何かあったら頼ってちょうだい。できる範囲で、助けるから」

貞夫のことはさて置いても、地方から一人東京に出てきて、私を信用してくれているらしい彼女だ。
おそらく私がここでの、初めてできた同性の友人なのだろう。
無下にはできなかった。
……できる範囲で、と付け加えたのは、協力しづらい件が一つあったからだが。

鈴乃「了解した、恩に着る」

鈴乃がメモを懐にしまったのを見て、部屋の中の貞夫に話しかけた。

恵美「じゃ、私はそろそろお暇するわ」

貞夫「ああ。仕事だよな? 頑張ってな」

彼の笑ってのその言葉に、沈んだ気分が少し浮かび上がるように感じる私は、安い女だろうか。
彼と、廊下に立つ鈴乃に手を振ってその場を去った。

と、

恵美「いやああああああ!!」

慌てたように鈴乃が様子を見に来る。
……危ないところだった。
考え事をしていたせいか再び階段から落ちかけたが、なんとか途中で手すりに掴まり踏ん張った。

恵美「だ、大丈夫、今度は大丈夫だったから、ほんと」

恥ずかしさから口早にそう言って、今度こそ仕事に向かった。

店員「っらっしゃいぁせー」

仕事帰りに、私は夕食を買うためコンビニに入っていた。
ここしばらく、貞夫のためにおかずを作ったりはしているが、自分一人での食事となると自炊をする気はなかなか起きない。

購入したカレーを温めてもらい、店から出ようとすると、久方ぶりの感覚があった。
殺気だ。

咄嗟に身構えると、人間離れした速度で人影が近づいてきて、そして自動ドアに激突した。
目出し帽を被った、あからさまに怪しい小柄な姿。

店員「っ! っんすか? 今の」

物音に驚いた店員が近づいてくるが、

恵美「危ないっ!」

咄嗟に彼を突き飛ばす。
その一瞬後、彼のいた空間を切り裂くものがあった。
ワンピースの袖と、買ったばかりの弁当が真っ二つに引き裂かれる。

……どう考えても敵だ。
店員がまだ起き上がっていないことを確認し、進化聖剣・片翼を発動させた。

恵美「天光風刃!」

衝撃波で敵を店外に弾き飛ばし、店員に叫んだ。

恵美「出てきちゃダメよ! それと、早く警察を!」

吹き飛んだ敵を追いながら、足に破邪の衣を集中させる。

恵美「天光駿靴!」

駈け出し、追いついた敵の姿は、ただ怪しいというだけではなかった。
手に持つのは巨大な鎌。先ほど弁当を切り裂いたのもそれだ。
自動ドアにぶつかったときは持っていなかった。
間違いなく、エンテ・イスラ関係の者だ。

恵美「こんな人目につく場所で襲ってくるなんてどういうつもり!?」

恵美「私だけならともかく、日本の人たちに迷惑をかけようって言うなら容赦はしないわ!」

言いながら、破邪の衣の力で上空から斬りかかる。
敵はそれを受け止めた。だがその動きは予想済みだ。
そのままの勢いで身体を捻り、回し蹴りをくれてやる。
打撃を喰らい、隙のできたその敵を追撃しようとした瞬間、奴の両目が光った。

紫色のビームのようなものが発射される。
何故か悪寒を感じて、足を止め聖剣で薙ぎ払った。
すると、

恵美「えっ!?」

聖剣が……力を失っている?
見れば、大きさも縮まって短剣程度になってしまっている。

更に連射される紫色の光。
これ以上剣で払うこともできず、身体に受けるわけにもいかず、慌てて躱していると、

店員「っのっ!」

一つ、二つと飛んでくるオレンジ色の物体。
それは敵に直撃し、上半身を染めた。

そちらを見れば、先ほどの店員が防犯用カラーボールを投げつけている。

恵美「ちょっ……」

まずい。ただの強盗ならいざ知らず、エンテ・イスラの刺客にそのようなものが通じるはずが——

思った瞬間、敵は目に入ったらしい塗料に悶絶しながら、こちらに背を向けて逃走した。

恵美「……えー……」

店員「っのっ! 逃げんなっ!」

威勢よく店員が叫ぶが、既に敵の姿は消えていた。
……聖剣、受け止めてたんだけど、あいつ。

コンビニの事務室で、カレーと一緒に買ったスープ(これだけは無事だった)を飲む。
店の防犯マニュアルに則って、こういう場合店内の客をそのままにしなければいけないんだそうだ。
仕方なく椅子に座り、待ちながら考える。

恵美「ちゃんと、効いてたわね」

あの怪しい栄養ドリンクもどきのおかげで、顕現した進化聖剣・片翼は
二ヶ月前のルシフェル戦の時とは比べ物にならない力を内包していた。
だのに、それを無効化したあの紫色の光はなんだったのか。

店員「あの、っ客様、これ、っ客様のですよね」

恵美「あ、ごめんね、ありがとう」

事務室に、さっき放り出したバッグを持って店員が入ってきた。
ありがたく受け取る。

店員が去ってから、携帯を取り出した。
急いで貞夫にこの件について伝え、警戒を促すべきだ。
敵の狙いは分からないし、私を狙ったことから貞夫……魔王は関係ないのかもしれないが、用心に越したことはない。

バイト中かも知れないが、念のためと電話をかけると、幸い彼は出てくれた。

真奥『恵美? どうした?』

恵美「あ、貞夫。今大丈夫?」

真奥『ああ、ちょうどバイト終わったとこだから』

ほっと息をついて、先ほどの出来事をできる限り詳細に伝える。
すると彼が唸りだした。

真奥『目からビーム、で聖法気が弱まって聖剣が縮んだ、ねえ』

恵美「え……心当たりがあるの?」

真奥『多分だけど、"堕天の邪眼光"。大天使サリエルだ』

言われて驚いた。その名は私もよく知っている。
大法神教会の聖典にも、異端審問会を含むいくつもの部署の象徴天使としても出てくる名だ。
堕天の邪眼光とは、その名のとおり天使を堕天させるもので、
一説ではルシフェルを堕天させたのもそれであるとかなんとか……

真奥『……お前、元教会騎士だよな? なんで俺より先に気づかないんだよ』

恵美「うぐっ……」

それを指摘されると辛いところだ。
……というか、むしろ魔王である貞夫が何故天使の情報に詳しいのだろう。
その疑問を口にする前に、

真奥『何なら、しばらくお前の仕事帰り、家まで送るか?』

恵美「っ!」

私の欲目でなければ、心配そうな声で、彼がそう言った。
……電話で良かった。面と向かって話していたら、だらしなく緩んだ顔を見られているところだ。

恵美「ありがたいけど、ぶっちゃけあなた戦力にはならないでしょ」

真奥『ぬ』

今度は彼が痛いところを突かれたように声を出す。
気持ちは本当に嬉しいのだが、実際問題として魔力がほとんど残っていない彼がいたところで、
大天使相手にに何ができるということもないだろう。
……カラーボールで撃退できてはいたが。
ならば下手に彼を危険に晒すのは私の望むところではなかった。

少し読みづらいでござる

真奥『しかし、なんで大天使様がこの世界に来てんだろうな』

恵美「異世界に逃げた悪の魔王を成敗するため、っていうのは……」

真奥『……まあ、ねえよなあ』

恵美「ないでしょうねえ」

二人してそう言い切れた理由は簡単だ。
エンテ・イスラを魔王軍が蹂躙していたとき、天使が現れて人々を救ったことなど一度もなかった。
魔界や悪魔と同じく、天界や天使はエンテ・イスラでは既知の存在だが、
信仰の薄い大衆の中には、天使についてお伽話のように思っている者も少なくない。

恵美「……とにかく、何がしたいのかもよく分からないし、当面の狙いは私みたいだし、また来たら適当に撃退するわ」

真奥『つっても、体験したとおり、聖法気を使う相手にはほとんど無敵だぞ、あれ』

恵美「最悪、逃げるくらいはできるわよ」

真奥『んー……分かった。何かあったら連絡しろよ』

恵美「うん。……ありがとう」

電話を切って一息ついた。
……嫌われてはいない。
少なくとも、今の私の距離は彼にとって邪魔ではないということだ。
少々卑屈になっていたかもしれない、と自分を奮いたたせる。

そのとき、手に持ったままの携帯が着信メロディを響かせ、思わず取りこぼしそうになった。
慌てて電話に出て、怒りん坊将軍のメロディを消す。

千穂『遊佐さんっ! 真奥さんが大変ですっ!』

その大声に、咄嗟に耳から携帯を離した。

恵美「ち、千穂ちゃん? いったいどうしたの?」

千穂『真奥さんがっ! 真奥さんがっ!』

悲痛な叫びに、背筋に凍えるものを感じた。
……まさか、さっきの電話の直後に、彼の身に何か……

千穂『お弁当持ってきてたんです! 手作りの!』

……気が抜けて、上げかけていた腰を椅子に下ろした。

恵美「……そりゃ……芦屋はマメだし、そうしても不思議はないでしょうよ」

千穂『芦屋さんじゃないんです! お弁当付きハートマークの手作り女の子が二段重ねで!』

恵美「詳しく」

再びガタッと椅子を鳴らしながら立ち上がって言う。
何を言ってるのか分からないが何を言いたいのかは分かった。

勇者としての戦いと共に、女としての戦いも今、再び幕を開けたのだ。

翌日の朝、私達二人は魔王城のドアの前に立っていた。
手にはそれぞれ作った手作りのおかず。
相棒の千穂ちゃんの表情には怯えが混じっていた。おそらく、私も。

千穂「……遊佐さん」

恵美「大丈夫、……大丈夫よ」

千穂ちゃんと自分に言い聞かせるように言う。

彼女は貞夫に好意を持っており、それはその正体を知っても変わらないらしい。
私の気持ちも知られており、言ってみれば恋敵ということになるのだが……
何故だろう、彼女を敵視する気にはならない。彼女も同様のようだ。
どうやら私は、貞夫のことは関係なしに、彼女を友人と思っているらしい。

真奥家の事情と鈴乃が家事を手伝っていることは千穂ちゃんにも伝えてある。
だが手作りのお弁当にハートマークというのは、どう考えてもその範囲を逸脱しているだろう。
やはり昨日察したとおり、鈴乃が貞夫に好意を抱いている、と考えるしかあるまい。
……そしてもしかすると、もうその好意は届いてしまっているかもしれない、とも。

恵美「怖がっていても何も始まらないわ。……行きましょう」

千穂「は、はいっ……!」

震える指で呼び鈴を押した。

鈴乃「はい、ただいま」

千穂「っ!」

今日も、いる。
私は昨日話したが、初めて聞くその女性の声に、千穂ちゃんが息を呑んだのが分かる。

ドアが開き現れたのは、割烹着を纏い、髪をまとめた鈴乃だった。

鈴乃「おや、恵美殿と……あなたは?」

千穂「わ、わ、わた……」

鈴乃「貞夫殿、お客人が」

振り返り来客を告げる鈴乃。千穂ちゃんが立ち竦んだ。
……そういえば、彼女は貞夫を下の名前で呼ぶ。
私のみに許されていたアドバンテージが消え去ったのだ。
まして、未だ真奥さんとしか呼べない千穂ちゃんのショックは察して余りある。

真奥「あれ、恵美とちーちゃん? どうしたんだ、こんな朝早く」

玄関にやってきてそう言う貞夫の声は、呑気なものだった。

千穂「うわー、紫蘇がこんなに細かく刻まれて、凄く綺麗……」

鈴乃「よく包丁を研いで、紫蘇を半分に切って、重ねて丸めてから千切りにすれば簡単だ」

二人が台所に立ち談笑する様を、座って眺める。

……芦屋の病床に伏す姿と、一見言葉通りに隣人として手伝っているだけの
鈴乃の姿に、千穂ちゃんはひとまず落ち着きを取り戻した。
ひとまずは、だが。

その内側には焦燥が渦巻いているのが分かる。それは私も同じだ。
だが貞夫達のいる前で、あのハートマークは何ですかと問うわけにもいくまい。
結果、表面上は穏やかな触れ合いの場が持たれていた。

鈴乃「二人がおかずを沢山持ってきてくれたおかげで、食卓が豪華になるな」

食卓には、元々用意されていたものに、私達の作った唐揚げやポテトサラダなどが所狭しと並んでいる。
……よく考えたら朝食には大分重いかもしれない。
まあ残ったら残ったで節制生活に命を賭ける芦屋がありがたがるだろう。
準備も整った頃のこのこと起き出してきた漆原に杉屋の容器とフォークだけを渡して、食事は始まった。

千穂「でも、芦屋さん、本当に具合大丈夫ですか?」

芦屋「お気遣いありがとうございます。鎌月さんのおかげで十分休養をいただきました」

芦屋「あまりお世話をかけてばかりもいられませんし、今日あたりから復帰しようかと思っております」

是非そうして欲しい。私達の心の安定のために。

恵美「ところで、どんなお仕事考えてるの?」

鈴乃「正社員などと贅沢は言わない。最低限の生活さえ営める奉公ならば、それでいい」

また時代がかった単語だ。
しかしバイトでいいのなら、この東京ならば選択肢は多いだろう。
そう思ったとき、

真奥「なら、うちの店来れば?」

魔王の凍てつく波動のような言葉が飛び出した。
鈴乃以外の全員が固まる。
あの漆原ですら呆れたような表情だ。

真奥「最近シフト薄いことが多いから、新しい人が来ても大丈夫だと思うし」

真奥「それにちーちゃんもいるから、あんまり緊張しないで新人研修できると思うぜ」

……貞夫が恋愛感情に疎いのは悪魔だからかと思っていたのだが、悪魔の中でもこいつは特殊なのだろうか。

恵美「そう性急に決めることはないわ」

恵美「知り合いがいる職場っていうのは、メリットと同じくらいデメリットがあるものよ」

その場の禍々しい雰囲気を振り払うように、助け舟を出す。
結果として、その案は保留となった。
千穂ちゃんがこちらに一瞬目をやり、謝意を送ってくる。

……正直なところ、今の仕事との給料差で断念したが、私も一度マグロナルドでのバイトを検討したのは内緒だ。

千穂ちゃんより一足先に魔王城を後にした私は、笹塚駅の改札前に立っていた。
鈴乃に新宿の店を案内することになったのだが、財布を忘れて戻った彼女を待っているのだ。
なんと彼女は和服しか持っていないらしい。一体どんな旧家から来たのやら。

電話が鳴る。千穂ちゃんだ。
さっき別れたばかりなのに、何の用件だろう。

恵美「もしもし、千穂ちゃん?」

千穂『あ、遊佐さん……どうも……』

何があったのか、ぜいぜいと息を切らしている。
それを落ち着けてから、彼女は言った。

千穂『あの、遊佐さんに話しておきたくて』

恵美「ん?」

千穂『……ついさっき、その、真奥さんに……告白しました』

時間が止まった気がした。
人通りが多くざわつく駅構内にあって、耳に入るのは彼女の声だけだった。

千穂『返事は貰えなかった、っていうかどっちかって言うと私が言わせなかったんですけど』

千穂『遊佐さんには、報告しておきたくて』

恵美「……どうして、私に?」

電話の向こうで、逡巡する気配があった。

千穂『……真奥さんにも言ったんですけど、私は自分で真奥さんを好きになったんです』

千穂『好きでなくなるときも自分で決めます』

千穂『例え真奥さんが私を後輩としか思ってなくても、例え……他の誰かや、遊佐さんが真奥さんと付き合っても』

千穂『私が想うことは、私の勝手ですよね』

……この子は。

千穂『えっと、つまり何が言いたかったかというとですね』

千穂『遊佐さんとは友達でいたいって思って。えへへ』

電話の向こうで恥ずかしそうに笑う彼女に、私も笑って返した。

恵美「……ええ。私も同じ気持ちよ」

千穂『だったら嬉しいです。……ちなみに遊佐さんは、もう告白は?』

恵美「だ、……大分前にしたけど。何か受けてくれたんだかどうなんだか、よく分かんないわ」

千穂『そうなんだぁ』

恵美「あいつ、ちょっと男らしくないと思わない? ちゃんと好意にははっきりと応えるべきよね?」

千穂『ですよね! そこだけが不満です!』

再び私達は笑い合った。

……少し安心した。
この恋がどう終わろうとも、進もうとも、彼女とは友人でいられるだろう。
そう思った。

恵美「財布あった?」

鈴乃「あ、ああ、大丈夫だ。待たせたようだ、すまない」

少しして駅に戻ってきた鈴乃は、どこかぼんやりした様子だった。

恵美「それはいいけど、どうしたの? なんか元気ないけど」

鈴乃「いや……それより、これから電車? とやらに乗るのか?」

恵美「そうね。笹塚から新宿までは一駅だけど、歩くにはちょっと遠いしね」

彼女は何故か戸惑いを見せながら言った。

鈴乃「ああ、あの、そのことなんだが。実は、私は電車に乗ったことがない」

恵美「……え?」

耳を疑ったが、冗談ではないらしい。

恵美「……ちょっと聞くけど、一体どうやって笹塚まで来たの?」

鈴乃「私はゲートを使って直接笹塚に降り立ったんだ。多少の知識不足は、容赦してほしい」

ああ、そういう……

……なんですって?

恵美「あ、あなた、エンテ・イスラから来たの!?」

恋のライバルとしてどう接するかと考えていた矢先に、あまりにも唐突な告白だ。
やはり自覚はなくとも色ボケているのか、すっかり混乱してしまった。
見れば、鈴乃の側も驚いているようで、

鈴乃「気づいていたのではないのか!?」

恵美「そんなこと一言も言わなかったじゃない!」

鈴乃「あなたから言ったのではないか! 貞夫を……魔王を狙っているのかと!」

狙う。修羅場をくぐっている。離れられない。
あのとき彼女の口から出た言葉を、自分が致命的に間違った受け取り方をしていたことにようやく気づく。
……昨日からの私の心労の責任を取ってもらいたい気分だ。

鈴乃「じゃあ、一体どういうつもりで『魔王を狙っているのか』などと聞いてきたのだ!」

恵美「え、あ、それは、その」

恋敵が増えたのかと思いました。
……なんて言えるか!

恵美「あ、あなたこそどういうつもりで『貞夫と親密な付き合いをしているのか』とか聞いたのよ!」

彼女は、顔を険しくして言った。

鈴乃「勇者であるあなたが、魔王に魅了され、共闘したという情報があったからだ!」

目を見開く。
その情報を知っており、それをエンテ・イスラに流せる可能性があり、更にそれによって利するのは、
……今警察に捕まっているはずのオルバしかいない。
となれば、彼女は……

鈴乃「……否定、しないのか?」

まるで裏切られたかのように言う彼女に、ひとまず聞かなければならないことがあった。

恵美「その前に、教えてちょうだい。結局あなたはどこの誰で、どういうつもりで魔王城に入り浸ってるの」

仮に彼女がオルバと同じ目的で動いているのなら、私にとっても、貞夫にとっても、日本にとっても害となる存在だ。
最悪剣を交える覚悟で問いかける。

鈴乃「……私の本当の名は、クレスティア・ベル。訂教審議会筆頭審問官だ」

それはつい昨日、エメラダの口から出た単語だった。

鈴乃「あなたに協力を求めるためにやってきた。勇者エミリア・ユスティーナ」

鈴乃「私は決してあなたに害を為す者ではない。……あなたと魔王の関係についても、間違いだと信じている」

彼女は真摯に頭を下げた。
その表情は、少なくとも私の目に見える範囲で、嘘をついている様子はない。
……ならば、今すべきことは。

恵美「とりあえず会社に遅刻したくないから、詳しい話は新宿に着いてからね」

鈴乃「ああ、あ? ええ?」

恵美「日本て、そういう国なの。ほら、行くわよ」

目を丸くする鈴乃に先立ち、改札に向かう。

……甘いかもしれない。私の目など、所詮オルバの翻意すら見抜けなかった節穴だ。
エメラダの忠告を思い返せば、訂教審議会の者と馴れ合うのも危険かもしれない。

だが、立場のぶつかり合う者同士、ただそれだけの理由で刃を交えるのでは、分からないこともある。
それを今の私は貞夫達と出会ったおかげで知っていた。

恵美「一体あなた、何を見て日本を勉強したの?」

初対面から彼女の装いには疑問を持っていたが、今日一緒に新宿を歩いてみたところ、
その文明への驚きと対応は原始人のそれと言っても過言ではなかった。

鈴乃「和服は日本の伝統衣装だと分かってから、一番多く和服が出るジダイゲキというもので学んだ」

鈴乃「他にも、日本の近現代で最も長い期間続いた昭和時代のドキュメンタリーなどを中心に」

時代劇、とな。

恵美「聞きたいんだけど、気に入った時代劇ってなに?」

鈴乃「そうだな……『大嵐紋太郎』や『子連れ獅子』に、あとは『三匹が薙ぐ』のような浪人ものが好みだな」

鈴乃「『水戸副将軍』や『怒りん坊将軍』などは、あまり琴線に響かなかった」

恵美「……あっそ」

私は後者が好きなんですけどね。
どうにも、気の合う部分が見つからない。

鈴乃「……まず、私の側の事情から話させてもらう」

雰囲気を引き締まったものに戻し、彼女が語り出した。

鈴乃「オルバ・メイヤーがあなたに対して行った不義に関しては、お詫びのしようもない。彼があなたを騙したことは裏付けが取れている」

鈴乃「彼の意志が教会の総意では決してない。少なくとも私は、あなたの味方でありたいと思っている」

鈴乃「私がこの世界に来たのは、あなたと共に魔王サタンを倒し、あなたをエンテ・イスラに連れ帰るためだ」

鈴乃「勇者の生存を知らしめて、オルバの不正を隠そうとする教会を正したい。……それが目的だった」

今エンテ・イスラでは、私の生存を触れ回るエメラダ達のおかげで、教会の権威が揺れている真っ最中らしい。
鈴乃の話を信じるならば、彼女はその中にあって、腐った教会を正そうとしているということだ。

鈴乃「……だが、一つだけ、はっきりと答えて欲しい」

鈴乃「オルバからの情報の中で、捏造だろうと思っていたこと。……あなたが魔王に心惹かれたという話」

鈴乃「その真偽を、教えて欲しい」

嘘であってほしい、彼女の瞳がそう言っている。

どう答えるべきか。
彼女にとって、……いや、全てのエンテ・イスラの人間にとって、魔王は忌むべき存在だ。
勇者である私がそれに味方しているとなれば、大問題になるだろう。

だが例えこの場で彼女を騙し果せたところで、問題を先延ばしにするだけだ。
貞夫はいつか、エンテ・イスラに戻る。私も共に。
ならば彼女の説得は、貞夫の目指す「新たな世界征服」、その第一歩かもしれない。

恵美「……事実よ。あなたがその目で見て、疑念を抱いたとおり」

恵美「私は魔王……"真奥貞夫"が好き。魔術で魅了されているわけじゃない、私の本心で」

鈴乃「馬鹿な!」

彼女は立ち上がり、テーブルを叩いた。

鈴乃「奴は魔王だぞ!? 奴のせいでエンテ・イスラの人間の命がどれほど失われたことか!」

恵美「それは、私が一番良く知ってるわよ」

鈴乃が絶句する。
私の出自、生まれ故郷を滅ぼされたことは当然知っているだろう。

鈴乃「……その上で、奴に与しようというのか。何故だ。どうやって誑かされた」

恵美「特別なことは何も。ただ先入観なしに"真奥貞夫"に触れた、それだけよ」

恵美「……そうね、もし私が最初からあいつが魔王と気づいていたら」

恵美「多分敵対していたでしょうね。"魔王サタン"と"真奥貞夫"のギャップに頭を悩ませながらも」

恵美「でも私は"遊佐恵美"として何も知らず彼と出会った。そして恋をした」

恵美「あいつの過去の過ちは変わらない。でも私があいつを好きになった現実も変わらない」

恵美「憎しみがなくなったわけじゃないけど、それ以上に今のあいつを信じてるだけよ。もうあいつは人間の敵じゃないと」

そう、憎しみがなくなったわけではない。
勇者として魔王と慣れ合うことに罪の意識をまったく感じないわけでもない。
もっと大きな気持ちが、彼の正体を知る前に育ってしまった。そういう話だ。

鈴乃は力なく椅子に座り、頭を抱えて言った。

鈴乃「……人間の敵ではない、だと? 何を、馬鹿な……」

恵美「あなただって、少しはそう思ったんじゃない? 一週間隣で暮らして、生で見た彼らの生活はどうだった?」

恵美「毎日真面目に働いて、千穂ちゃんみたいな良い子に好かれて、充実してる彼らの生活は」

漆原を除いて、だが。

鈴乃「……何かの理由があって偽装しているのかもしれない。千穂殿も騙されているのかもしれない」

恵美「しれない、って言ってる時点で揺れてる証拠よ」

鈴乃は、答えなかった。

恵美「……話が戻るけど、私は今さら、教会や諸王国にどう思われようがどうでもいいの」

恵美「ただ彼の側にいて、彼の行く先を見守りたいだけ。……叶うなら、一番側でね」

恵美「だからあなたにも、"真奥貞夫"が有害な人物じゃないってことを分かってもらえたら、とても嬉しい」

しばしの間が空く。
やがて彼女は言った。

鈴乃「……少し、時間が欲しい。混乱している」

恵美「分かったわ。私もそろそろ仕事だし、行くわね」

今は、これ以上の言葉に意味はないだろう。
黙りこくっている彼女を置いて私は立ち上がる。

ふと、確認しなければならないことを思い出した。

恵美「ねえ、あなた、大天使サリエルと一緒に来てたりしないわよね?」

鈴乃「は……? そんなわけがないだろう。サリエル様がこの世界に来る理由などない」

その顔は、ひとまず誤魔化しているようには見えなかった。
仮に誤魔化しているなら、それこそ聞いても無駄だ。
彼女の部署の象徴天使であるなら、と思ったが、奴の襲撃のタイミングは偶然だったのだろうか。
考えながら、今度こそその場を去った。

初めて本音をぶつけあって語った結果彼女に抱いた印象は、綺麗事ばかりではない教会の中でも不器用で清廉、純粋な人間だ。
訂教審議会、いや異端審問会に属していてその性質が保たれたのは奇跡に近いだろう。

だがそれは悲劇でもある。
私には知る由もないが、おそらく彼女は、両手の指でも足りない数の人間を"異端"として処刑してきているはず。
それに慣れることもなく、オルバのようにそれを是とするでもなく、心を軋ませながら任務をこなしてきたはずだ。
犠牲を払うことで進める道があると信じて。

その彼女にとって私と、ある意味貞夫は希望だったのかもしれない。
"勇者と共に魔王を倒し、教会の不正を正して世界に平和を"。そんな文字通り綺麗な道への。

だけど、できれば理解してほしい。私や千穂ちゃん、それにおそらくマグロナルドの人達にとっても。
"真奥貞夫"の犠牲は、絶対に看過できないものなのだと。

少し、と言った彼女の言葉に偽りはなく、本当に少しだった。

鈴乃「恵美殿、ようやく勤務を終えられたか」

夕方、梨香と一緒に会社を出た私を待っていたのは、今朝とは違う浴衣の鈴乃。
その手には色々と買い物をしたらしく結構な量の荷物がある。

鈴乃「どうだ、ちゃんとスイカも買えたぞ! 一人で、ちゃーじ? とやらもできた!」

今朝の傷心振りは何だったのか、興奮した様子でICカードを見せつけてくる。

恵美「……えらいえらい」

純粋、という印象は間違っていなかったらしい。
使命は使命として昼間は楽しんでいたようで何よりだ。

梨香「こちら、恵美のお友達?」

恵美「えーっと」

どう紹介したら良いものか。
考えていると、鈴乃が先に自己紹介を始めた。

鈴乃「初めまして。私は鎌月鈴乃という。東京に引っ越してきて間もないが、恵美殿には色々とよくしてもらっている」

梨香「あ、どーも。私は鈴木梨香。見ての通り、恵美の同僚よ」

挨拶を済ますと、彼女は私に向き直った。

鈴乃「ここで待っていたのは、恵美殿に、改めてお願いがあって」

何を言い出すつもりなのか、測りかねた。
無関係の人間の前で余計なことを言い出すとは思えないが……

鈴乃「恵美殿と一緒に、貞夫殿の職場を見に行きたいんだ」

梨香「……サダオ?」

恵美「ちょっ」

止める間もなく、鈴乃は話を続けた。

鈴乃「あなたが私を彼に近づけたくないのは分かるが、私も私で、はいそうですかと引き下がるわけにはいかないんだ」

梨香「……え、サダオって貞夫さんのこと? どういうこと恵美!? まさか二股かけられてたとか、」

恵美「違うわよ!」

頭を抱えた。
何を言い出すかと思えば。

梨香は複雑そうな顔で私と鈴乃を見比べてから、決心したように頷いた。

梨香「……分かった、私も行く。ジャッジは任せて」

恵美「何を任せろってぇの!?」

思わず叫んだ。
梨香は基本的に空気は読めるし、詮索の類はするのもされるのも好かない人間だ。
だが貞夫の件に関しては私がかなり深刻な相談をした結果、ある種の責任感を持ってしまっているらしい。
一見して悪人ではない鈴乃と私を天秤にかけた結果、貞夫の側を見極めるという結論にでも至ったのだろう。

こうなったら仕方ないと、梨香を先頭に歩き出した。
横を歩く鈴乃に小声で囁く。

恵美「……わざと梨香を巻き込んだでしょ。別にマグロナルドくらい言われれば着いてくのに、なんでよ」

鈴乃「彼の味方のあなたと、敵の私の視点だけでは水掛け論に過ぎないだろう。第三者からの魔王の評価を知りたかった」

少し申し訳なさそうな顔でそう言う。

……印象訂正。不器用で清廉、純粋。ただし頭は回る。

貞夫に彼女の正体を教えておくべきだったかとも思うが、まあ大丈夫か。
あいつのことだ、感づいているかもしれないし、それにこの場は素の彼を見せたほうがいいだろう。

幡ヶ谷に着いたものの、肝心のマグロナルドの客足はまばらで、梨香曰く修羅場向きではないとのこと。
ひとまず向かいのセンタッキーで作戦会議をすることになった。
……ねえ梨香、それってなんだか修羅場期待してない?
ちょっと楽しんでるように見えるのは私の気のせいよね?

梨香「じゃあまずは、改めてあなた達の口から真奥貞夫さんについて聞かせて欲しいんだけど」

完全に場を仕切った梨香が言う。

鈴乃「私にとっては引越し先の隣人だ。……まぁ、良き隣人ではある」

討伐する気で、どの口が言うのか。

恵美「私にとっては……」

あれ、一言で言うとどうなんだろう。
……彼氏? と公言できるほどの自信はまだなかった。
結局、

恵美「……好きな人?」

今はまだそんなところだ。
しかしその返答に梨香が食いついた。

梨香「え!? 付き合ってるんじゃなかったの!?」

恵美「いや、言ってないわよそんなこと! 仲直りはしたって言ったけど!」

梨香「え、あれ、えー? その話が出てから二ヶ月くらい経ってるよね? 告白とかは?」

恵美「……まあ、したわ」

梨香「だよね? でも振られた様子もないし、ってことは付き合ってるんじゃないの?」

恵美「いや、そこは、うーん……どうだろ」

振られたり、嫌われたりはしていない。
けれどちゃんと恋人になったわけでもない。
思えばあやふやな関係だ。

梨香「それって、いや、貞夫さんの悪口みたいになっちゃうんだけど」

梨香が怪訝な顔で言いづらそうに続けた。

梨香「……恵美、キープされてんじゃないの?」

それは違う、と言いかけて言葉が出なかった。
無論貞夫にそんな意思があるわけもないことは分かっているが、
……状況だけ見れば、千穂ちゃんにも私にも言い寄られている現状は、そう言えないこともない。

思いがけず、返答に悩むこととなった。
貞夫を怪しみ始めている梨香に何と言えばいいか分からないし、
純然たる恋愛トークに発展して目論見が少々外れてしまった鈴乃も気まずそうな顔だ。

そのとき、声をかけてくる男がいた。

芦屋「我が家主の株を落とすような真似はやめてもらいたいものだな、遊佐」

恵美「……芦屋」

顔を上げれば、長身の男。今朝まで夏バテで寝込んでいた芦屋がそこにいた。
その表情はやや不機嫌そうに歪んでいる。

芦屋「まったく、面倒事になるかと思って無視していれば……」

そう嘆息した。
手には食べ終えたトレーを持っている。
この店のリサーチにでも来ていたのだろうか。

梨香「ええと……お友達さん?」

芦屋「どちら様か存じませんが、遊佐の知人で、鎌月さんの隣人です。芦屋四郎と申します」

言いながら、彼は空いていた梨香の隣に座った。

梨香「ああ、どうも。私は恵美の同僚の鈴木梨香って言います。鈴乃ちゃんのお隣ってことは……その、真奥さんのおうち、ってことよね?」

芦屋「ええ、そういうことになります」

芦屋「失礼ながら、近くの席にいて、お話が聞こえたもので……家主の真奥が誤解されているようなので、居ても立ってもいられず」
そこで彼は私に鋭い視線を向けた。
この女は"関係者"か、という意味だろう。
小さく首を横に振った。

梨香「誤解っていうと……」

芦屋「そうですね、どこからお話すればよいものやら」

芦屋「……これは鎌月さんにも初めてお話しますが、真奥と私はかつて会社を経営していたのです」

梨香「えええ? か、会社ぁ!?」

梨香が声を上げる。

鈴乃「い、一体彼は何を言っているんだ?」

小声で聞かれるが、私にも分からない。
ただ、芦屋が貞夫のフォローをしに現れたことは分かったため、黙って話を聞いた。

芦屋「主に土地運用や人材派遣に力を注ぎ、土建などにも手を出したことがあります。社名はまおうぐ……『真奥組』でした」

……まあ、エンテ・イスラ侵略や軍の派遣とも言うわね。
魔王城は貞夫の魔力で建てたとか前に言ってたっけ。
魔界一級建築士とか言ったかしら、あいつが持ってるって自慢してた資格。

芦屋「そして遊佐は、ライバル社の社員でした」

梨香「え? 恵美、前の仕事って土建屋さんだったの!?」

芦屋「いや、たしかお前はあの当時、派遣だったな?」

……うん、まあ、勇者業は派遣と言えば派遣だけども。
何かしら、この納得のいかなさ。

その後も芦屋の論説は続いた。
小さい規模の会社だったこと、私と受注を争ったこと、最終的に倒産して、偶然私と再会したこと。
そしていつか、再び起業しようと頑張っていること。
……大体合ってるのがなんだかなあ。

梨香「なるほどなぁ……」

梨香は感心している様子だ。

梨香「けど芦屋さん、そのお話とさっきの誤解云々は、どう繋がるの?」

芦屋「それですが」

彼は間を置いて、私と目を合わせた。
その意思を確認するように。

芦屋「……遊佐は、あなたに話しているでしょうか? 真奥がいずれ興す会社に入るつもりだ、ということを」

視線を梨香に戻して、彼はそう言った。

梨香「えぇっ! 恵美、うちの会社辞めちゃうの!?」

恵美「あ、それは、その……」

芦屋「いえ、まだまだ先の話ですし、本決まりでもありませんから、そう慌てることはありませんよ」

宥めるように芦屋が言う。

……喩え話で、ではあるが。
彼の口から、私を味方と認めるような発言を、初めて聞いた。

隣では、勇者の思惑を悪魔の口から聞いた鈴乃が、驚きの表情になっている。

芦屋「真奥も、遊佐から好意を向けられていることは重々承知しているはずです」

……他人の口からこんなことを言われると、やたらと恥ずかしいのは何故かしら。

芦屋「ですが先ほど説明したとおり、真奥は会社再建に全精力を傾けている最中です」

芦屋「しかも相手はかつての敵、かつ未来の社員候補。憎からず想っていても、そう気軽に男女の仲になるのは難しいでしょう」

芦屋「いつか真奥の中で整理がついたとき、真剣な返事をすることでしょう。けして、遊佐を軽んじているわけではないはずです」

芦屋「それまで、どうか我が家主を信じては頂けませんか」

その言葉は梨香を説得するためのものだったが、……聞かせている相手は私だということが分かった。
困ったな。姑に、大変な借りができてしまった。

梨香「そういうことかー。確かにそう言われるとねぇ」

感心しきりといった顔で、彼女は頷いていた。
……良かった。話が予想もしない方向にぶっ飛んだせいで、鈴乃と二股云々は頭から消え去ったらしい。

結局、ここまで来たらと、梨香の単純な興味本位で今度はマグロナルドに行くことになった。
芦屋は報告があるだろうし、私も彼の顔を見たかったからちょうどいい。
……途中、なんだか芦屋への態度がおかしかった梨香が気になったが。

芦屋に、小声で話しかける。

恵美「あの、芦屋……フォローありがと」

芦屋「礼を言われる筋合いはない。私は魔王様への謂れ無き悪評を見逃せなかっただけだ」

芦屋「まあ、そう思うなら、予算不足で買えなかった特製ビスケットとサウザンドレッシングサラダをテイクアウトしてもらおうか」

恵美「はいはい」

そう嘯く彼に、苦笑して答えた。

真奥「オープニングセールに、クーポンかぁ」

芦屋「特筆すべきことと言えば、看板商品であるフライドチキンは流石の仕上がりでした」

恵美「でもなんか、キモい店員がいたわよ? あ、千穂ちゃん、ビッグマグロバーガーセット三つ、店内でお願い」

千穂「はーい」

注文しつつ、芦屋とセンタッキーの感想を報告した。
しかし、どれも決定的な差とは思えないというのが結論だ。
新規開店というだけでこれだけ入客数に差がつくものなのかしら?

芦屋「とにかく、私もささやかながら協力させていただきます。ビッグマグロバーガーセットを二つ」

芦屋「漆原は文句を言うでしょうが、今日の夕食はこれで行きます」

恵美「待ちなさい芦屋、原価率はポテトとドリンクが群を抜けて低いと言うわ」

恵美「漆原の分はそれでいいわよ。少しでも儲けを出すために、奴にはありったけのポテトを食わせなさい」

芦屋「ほう、なるほど……」

真奥「……いや、まあ、バーガーくらい食わせてやれよ。俺が許すから」

芦屋「魔王様がそう仰るのなら」

言ってる間に出来上がった持ち帰りのセット二つを持って、芦屋は店を出た。
私も千穂ちゃんに手伝ってもらい、三人分のトレーをテーブルに運ぶ。
先に席についていた梨香が感心したように言ってきた。

梨香「何て言うか……仲いいんだねえ。疑って悪かったかな」

恵美「心配してくれたのはありがたいけど、私は大丈夫よ。現状、結構満足してるし」

言いながら食事を始めた。

鈴乃「……しかし彼は、この状況をどうするつもりなのだろうな」

鈴乃もマグロバーガーを頬張りながら、店内を見渡して言った。
夕食の時間だというのに、席は半分も埋まっていない。
やはりセンタッキーに客を奪われているのだろう。
せめてもの貢献にと注文したこのセットも焼け石に水だ。
だが、

恵美「さあ。でも、多分平気よ」

断言した。訝しげに梨香がこちらを見る。

梨香「なんで?」

恵美「あいつ、慌ててなかったから。見えてる負けをただ待つやつじゃないし、何か考えてるんじゃないかしら」

梨香「……よく分かるね。愛の力?」

からかいの声を無視して食事を進める。

そのとき、店内に緑色の大きな物体を手にした老人が店に入ってきた。

老人「真奥ちゃん、いるかい?」

真奥「ナベさん! わざわざ来てくれたんですか!」

ナベさん、とやらに駆け寄る貞夫。
談笑してから緑のそれを貞夫に渡したナベさんが帰ると、手すきのクルーが集まり飾り付けを始めた。

梨香「あれって……」

千穂「笹ですよ。もうすぐ笹幡七夕祭りなんです」

近くにいた千穂ちゃんが胸を張って説明してくれた。
笹塚と幡ヶ谷の商店街が合同で行う笹幡七夕祭り。
それに合わせて、笹を用意したこと。
小学生以下の子供に短冊を書いてもらったらドリンクをサービスすること。
それら全て、貞夫が提案したこと。

恵美「でも、生の笹って高いんじゃないの?」

千穂「それも真奥さんですよ。地域清掃で知り合った、さっきの渡辺さんちのを分けてもらったんです」

彼女はその貞夫の功績を、誇らしそうに語った。
なるほど、昨日彼が軍手を付けて出かけていたのはそのためか。

梨香が笹と、飾り付けをする貞夫達を見回し、笑って言った。

梨香「デキる奴じゃん」

恵美「でしょ」

私の声も、若干誇らしげになっていたかもしれない。

喧騒から離れ、険しい顔で貞夫を見つめる鈴乃に近づいた。

恵美「……ねえ、あれが世界を混沌に陥れる魔王の姿に見える?」

鈴乃「……詭弁だ。過去は変わらない。あれが消した命が、戻ってくることはない」

恵美「そうね。でもこれから先のあいつを、私は信じてるの」

彼女は、答えなかった。

だが。
今の問答で、私のすべきことが、見えてきた気がした。

まだ店で働く貞夫に別れを告げ、バイトの終わった千穂ちゃんと鈴乃と三人で甲州街道を歩く。
どうせ寄り道程度なので、千穂ちゃんを家まで送り届けることになったのだ。
梨香は貞夫の働きぶりを見て満足したらしく、先に帰った。

千穂「あー、でも良かった、ちゃんとお客さん来てくれて」

そう言って伸びをする。

さっきは驚いた。
笹の飾り付けが終わり、店の前に設置した瞬間、ものすごい勢いで客が入りだしたのだ。
それはまるで——

鈴乃「……本当に、単なる偶然と思うのか?」

鈴乃「エミリア、あなたは気づかなかったか」

交差点に差し掛かったとき、彼女は唐突にそう切り出した。

千穂「エミリア……? エミリアって、遊佐さんの本当の……鈴乃さん、まさか……」

鈴乃「薄々そんな気はしていたが、やはり千穂殿は、魔王サタンのことを知っているのだな」

千穂ちゃんが驚き、鈴乃の目が鋭くなった。

最初の質問に答える。

恵美「……笹飾りが、人を呼んだ?」

鈴乃「そうだ。悪い気を払うと言われる、大地との結びつきが強い笹の木に、人の念をこめて作った七夕飾りだ」

鈴乃「それらを媒介に魔王は無意識に魔力を発動させた」

確信はなかったが、そんなところかもしれないとは思っていた。
いくらなんでも人の流れが急過ぎた。

鈴乃「もしも、彼がこの日本で出世を繰り返し、地位を手に入れ、邪悪な本性を現した上でそれを行ったらどうなる?」

鈴乃「悪魔は長命で、どれほど綿密な計画を立てているか分からない」

鈴乃「今のうちに討伐し、千穂殿の記憶を抹消し、日本からエンテ・イスラの痕跡を消し去る。……やはり、これが最善だ」

彼女が語る。
私に言い聞かせるように。そして、自分に。

鈴乃「エミリア、あなたはそうは思わないのか? もうあなたは本当に、魔王の味方になってしまったのか?」

私が口を開く前に、千穂ちゃんが声を上げた。

千穂「……いや。いやだ……いやだよ……私、忘れたくない」

彼女は呼ぶ。私達の名を。
忘れたくはないと。
貞夫のことを、何があろうと忘れたくないと。

鈴乃「……彼は魔王だ。エンテ・イスラで残虐非道な行いを魔族に許し、大勢の人間を苦しめた、悪魔の王なんだ!」

そう。
それは事実だ。
そしてそれこそが、私の解決すべき問題なのだ。

感情が爆発した千穂ちゃんも大声で叫びだす。

千穂「じゃあ鈴乃さんは、真奥貞夫になる前の、魔王サタンに会ったことあるんですかっ!」

千穂「魔王軍とばっかり戦ってて、魔王本人に会ったこともない人に何が分かるんですか!」

千穂「私は、真奥さんが魔王サタンになっても、いい人だって知ってます!」

言い合いになり、互いに激昂する二人を宥める。

恵美「ちょっと二人とも落ち着いて。鈴乃、あなたの言うとおりになってるわよ。彼の味方と敵で言い合いしたって水掛け論だわ」

鈴乃「それを言うなら……! あなたはどうなのだエミリア! 魔王に恋焦がれるような勇者が何を!」

鈴乃「あなたは世界を救う勇者としての使命よりも、個人の感情を取るのか!」

恵美「あいつの味方かどうかって意味なら、そうね。……半々かしら」

千穂「遊佐さん……!?」

私を完全に貞夫側の者として認識していた千穂ちゃんが疑念の声を上げるが、安心させるように微笑んだ。

鈴乃「……どういう意味だ」

恵美「難しい話じゃないわ。OLの"遊佐恵美"は、これから先ずっと彼の味方よ」

恵美「けど、勇者である"エミリア・ユスティーナ"がエンテ・イスラの味方であることにも変わりはない」

恵美「それだけの話よ」

勇者に未練はない、そう思っていた。
それについて深く考えたことはなかった。

だが違うのだ。
"魔王サタン"しか知らない鈴乃と、"真奥貞夫"しか知らない千穂ちゃんの言い合いを見てはっきりと分かった。
勇者エミリアには、まだ為すべきことが残っている。

私は"真奥貞夫"の世界征服に不安を持っていない。
彼はいつか必ず、誰もが納得できる征服を成し遂げると信じている。
それは例えば千穂ちゃんを始めとする、あのマグロナルドのクルー達に慕われているように。

だがそれで"魔王サタン"の悪行が消え去るわけでもない。
彼自身には消すことは難しい。
鈴乃のように、彼の言葉も行動も、エンテ・イスラの人間には受け入れ難いだろう。
ならばそれはエンテ・イスラの希望であった、勇者エミリアの仕事だ。

だから、まずは鈴乃……クレスティア・ベルから始める。

恵美「私の元々の使命は、魔王サタンを滅ぼすことだったわね。少しだけ、変更させてもらうわ」

恵美「私は魔王サタンへの人々の憎しみと怒りと、彼自身の罪を滅ぼす。いつか彼に罪の償いをさせる」

恵美「その上で真奥貞夫の世界征服を手伝う。それが」

恵美「悪魔大元帥件勇者、エミリア・ユスティーナの生涯の仕事よ」

迷いは晴れた。
誇りすら感じながら、言い放った。

鈴乃が信じ難いものを見る目で言ってくる。

鈴乃「……詭弁だと言ったぞ。どうしようと、過去は消えない」

恵美「どうかしら。過去の遺恨も超えた私がいるのよ? それに」

恵美「消せない過去に拘っているのはあなた自身の方に見えるわ。クレスティア・ベル」

彼女は、沈黙した。
千穂ちゃんは落ち着いたのか、事の成り行きを黙って見守っている。

恵美「異端審問官の仕事は知ってるわ。元教会騎士だもの」

恵美「あなたのこなした"仕事"の数はいくつかしら。 十? 百? もっと?」

千穂ちゃんの手前言葉はぼやかすが、あえて聞かれたくないだろうことを聞く。
案の定、彼女の表情は傷ついたように変わった。

恵美「あなたがその犠牲を気にしないのなら、私を連れ戻そうとする必要はなかったわよね」

恵美「勇者も魔王もいない世界で、教会に逆らうものを排除していけば、とりあえず教会にとっては"平和"な世界になる」

恵美「それが嫌だから教会を正そうと、私を連れ戻そうとしたんでしょう?」

恵美「でも生憎私にそのつもりはないの。そのやり方だと、貞夫の命や、千穂ちゃんの想いが犠牲になるから」

"払わなければならない犠牲"など、あってたまるものか。
それは、私にも彼女にも共通する想いのはずだ。

彼女に向かって手を差し伸べる。
既に彼女は動揺を通り越して、怯えに近い表情を浮かべていた。

恵美「貞夫を、とは言わない。まずは私を信じて。ベル」

恵美「私と私の信じる彼は、必ず犠牲のない平和な世界征服を成し遂げてみせる」

彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
想いが伝わるように。

鈴乃「……私、は……」

私の手を見つめる彼女が、何かを呟こうとした瞬間。

恵美「……っ!」

千穂「えっ!?」

私は千穂ちゃんを抱き抱えて跳んだ。
今までいた場所を見れば、空中から降ってきた、例の大鎌に目出し帽の暴漢の姿があった。
鈴乃は呆然とそれを見つめている。

暴漢が口を開く。
それを尻目に、千穂ちゃんを突き飛ばした。
歩いてきた方向、幡ヶ谷の方に。

恵美「逃げて千穂ちゃん!」

千穂「ゆ、遊佐さ……」

恵美「早く!」

言いながらも聖剣を顕現させ、暴漢に斬りつける。
少しの間逡巡した後、やがて千穂ちゃんは駆け出した。
奴が私の攻撃を大鎌で防ぎながら舌打ちする。

恵美「狙いは私でしょう? 罪もない女子高生を巻き込むなんて大天使の名が泣くわよ、サリエル」

言うと、奴はやや驚いたようだ。
……まだ立ち尽くしている鈴乃とこいつがどういう協力関係なのかは知らないが、全てを伝えているわけではないらしい。

奴の目が光る。
それを避けながら距離を取った。

私にサリエルを倒すことはできないだろう。相性が悪すぎる。
代わりに今すべきことを考える。

私が逃げ切ることではない。
千穂ちゃんを無事逃がす時間を稼ぐこと。
そして、鈴乃の説得。

彼女がサリエルに協力……いや、従属しているのは先ほどのやりとりで見て取れた。
だが私の貞夫への想いを知ってもあくまで説得を試みた彼女と、暴力で襲い掛かってきたサリエルとは目論見が違うように感じる。
今の彼女の立場が、不本意なものならば。
そしてさっきの私の言葉が、少しでも彼女に届いているのならば。

恵美「クレスティア・ベル! これがあなたのやりたかったこと!?」

叫びながらも、降り注ぐ邪眼光を躱す。
一つを躱しきれず剣で払い、またも聖剣が短くなるが、構わず言葉を続けた。

恵美「千穂ちゃんにまで危害を加えようとしたこの下衆に協力して、それで貞夫を殺して!」

恵美「そしてエンテ・イスラは今までと何も変わらない"平和"を保つ、それでいいのね!?」

口に出せたのはそこまでだった。
サリエルの斬撃を弱まった聖剣では防ぎきれず、吹き飛ぶ。
意識が闇に落ちるのを感じた。

気を失った恵美の手から、聖剣が消失する。
それを見てサリエルは軽く舌打ちした。

千穂の走り去った方角を見るが、既に彼女の姿はない。
彼女の捕獲もできればしたいところではあったが、今すぐリスクを冒してまでやるべきことではない。
向こうは幡ヶ谷だ。まだ人通りも多い。
下手に襲撃して、辺りの人間が恐怖の感情を抱き魔王の力になってもつまらない。

まったく不本意なことばかりだ、とサリエルは嘆息した。
もう一つ、不本意なことがあったことを思い出し、振り返る。

サリエル「……何故加勢し、佐々木千穂を追わなかった? まさか本当にほだされたんじゃないだろうね、ベル」

彼女は未だ立ち尽くしていた。
戦闘にも加わらず、その顔は俯き表情は冴えない。

サリエル「まあいい、最優先すべきは聖剣だ。場所を変えよう」

恵美を担ぎ上げると、鈴乃が口を開いた。

鈴乃「……問題ありません。佐々木千穂はおそらく、魔王に助力を請うでしょう」

鈴乃「サリエル様の結界内で私が奴を待ち受ければ、万が一の紛れもなく倒せます」

鈴乃「佐々木千穂をご所望ならば、その後で攫うことは難しくないでしょう」

彼女は無表情にそう言った。

サリエル「魔王は来るかな? 本当に勇者のことを憎からず想っていると?」

鈴乃「おそらくは」

だとしたらとんだ笑い話だ、とサリエルは失笑した。

まあ良い、手順が少々予定と変わるだけの話だ。
最終的に自分の目的達成は揺るがない。
それが大天使サリエルの、実力と自信に裏打ちされた結論だった。

真奥「あの店長が猿江三月を騙った別人、ね」

漆原『そういうことになるね』

事務所で漆原から店への電話を受けた真奥は思案した。
センタッキーの人事管理表にアクセスした漆原からの情報は奇妙なものだった。
向かいの店の店長は気に食わない風体だったが、更に正体不明の怪しい人物だと言うのだ。

恵美を襲ったと思しき大天使サリエル。
防犯用カラーボールを顔面に食らったらしいそれと、サングラスときつい香水の猿江三月。

疑念が確信に変わったその瞬間、事務所のドアが開いた。

そこには、彼が店で最も信頼する右腕の、泣き顔があった。

心臓が破れそうだった。
だが千穂は止まらない。
彼女は全速力で駆けていた。

走りながら真奥の携帯に電話をかけるが、出ない。
ならばと店の電話にかけるが、通話中だった。

間の悪さに気落ちしながらも、彼女は走り続けた。
やがて辿り着いたのはマグロナルド幡ヶ谷駅前店。

中に入り、真奥の姿がないことを確認すると、事務室へ走る。
客や店員仲間の奇異の目を無視して、彼女はドアを開けた。

そこに、店の電話を握ってこちらを驚いたように見ている、真奥貞夫の姿。

思わず涙が溢れるのを感じながら、千穂は叫んだ。

千穂「真奥さんっ! 遊佐さんを……遊佐さんを助けてください!」

芦屋は気を揉んでいた。

漆原にセンタッキーのことを調べさせ、何かが分かったらしく真奥に報告させたまでは良かったが、
その会話の内容は徐々に不穏な空気を漂わせていった。家計簿的に。

漆原「ああ、場所? 分かるよ、発信機で……いや、ちょっとした悪戯だったんだって!」

漆原「都庁に向かってるね。うん。……うん。え、いや、あの。……四万円」

瞬間芦屋が発した怒気を感じたのだろう、漆原が芦屋を焦った様子で振り返るが、通話に戻る。

漆原「……え。僕も? ……えぇぇ、外出たくないし、疲れるし……」

漆原「……分かった、分かったよ! 絶対芦屋は任せたからね!? 約束だからね!?」

通話を終えた漆原が、どんよりとした顔で立ち上がった。

芦屋「……おいちょっと待て、四万円とは一体……」

漆原「ああ、それはあとで真奥と話して。僕はやることがあんの」

言いながら彼は冷蔵庫を開け、小瓶を取り出した。
それを見た芦屋が驚愕に目を見開く。

芦屋「貴様、まさか……働くのか?」

漆原「不本意だけど。家主を怒らせちゃったから」

小瓶の中身を飲み干した漆原は、言葉通り不本意そうだった。

漆原「まったく、ニートも楽じゃない」

サリエル「ふむ……やはり天使を堕天させるようにはいかないのか……」

恵美「いい加減……諦めなさいよ」

力が入らないが、毒づくのはやめない。
目の前の下衆に態度だけでも反抗の意を示したかった。

目覚めた私が連れて来られていたのは、どうやら都庁の屋上ヘリポート。
宙に浮く紫の十字架に貼り付けられ、私は拘束されていた。

鈴乃の姿はなく、屋上には私とサリエルの二人だけ。
どうやら奴の目的は私から聖剣を取り上げることらしく、先ほどから何度も邪眼光を浴びせられている。
おかげで聖法気はほぼ枯渇し、身体に力が入らない。

恵美「私も特に抵抗してるわけじゃないのにできないんなら、出直したら?」

そうサリエルを嘲笑してやる。いや、実際奴の姿は笑えた。
今は目出し帽も取り、素顔を晒し天使の装束に身を包んでいるが、
その目の周りにはどうやら取れなかったらしいカラーボールの跡がパンダの模様のように残っている。
天使の出で立ちとそれのアンバランスさは最早ギャグの域だ。

抵抗していない、というのは本当だ。
聖剣は私の体内にある"天銀"から精製されるが、その"天銀"が体内で具体的にどうなっているのか私も知らないのだ。
サリエルもそこは、言っちゃなんだが出たとこ任せだったのだろう。
聖法気を消耗させても一向に変化のない私の身体に首を傾げている。

サリエル「気が進まないが、仕方ないね。レディに対する仕打ちとしては甚だ無礼に過ぎるが、仕事だと思って許して欲しい」

サリエル「どうやら、直接取り出すしかないようだ」

言いながら奴は私に近づいてきた。
……直接って。

恵美「いや……いや! やめて!」

強気を維持する余裕が消えた。
奴の汚らわしい手が、私のブラウスのボタンを襟元から外していく。

いやだ。やめろ。やめろ。
それをしていいのは、それをして欲しいのは、——だけなのに。

サリエルの手が止まった。
きょとんとした顔でこちらを見てくる。

……それで、自分が涙を浮かべているのが分かった。

サリエル「まいったな、僕も女性を辱めるような真似は不本意なんだが」

意外にも、少しだけだが本当に気まずそうな顔で奴が言ってくる。

サリエル「君と魔王が恋仲というのは本当だったのかい? 正直、聞いていても信じられなかったんだが」

恵美「……少なくとも、あいつはあんたの百倍はいい男よ、変態」

変態呼ばわりに奴は機嫌を損ねたようだった。

サリエル「奴が君を助けに来るとでも? いや、仮に来たとしても、ベルが下で待機している」

サリエル「魔力のほとんどない奴は、何もできずただ殺されるだけさ」

違う。
貞夫と私が恋仲というのは、……正直堂々と確信できることではないが、今の私は少なくともあいつの仲間だ。
あいつは、仲間を見捨てない。

そして鈴乃がここにいない意味。
先ほどの襲撃に加わらなかった意味。
それを信じる。

そのとき、サリエルがぴくりと眉をひそめた。
結界に反応を感じたのだろう。

サリエル「……どうやら本当に来たようだよ、彼は」

奴はその姿を確認するためか、薄笑いを浮かべながら端へ歩いていった。

サリエル「さて、一体何ができるか……」

嘲りを含んだその言葉は、途中で遮られた。

目にも留まらぬ速さで上昇するそれは、一瞬で私達の頭上まで飛び上がり、静止した。
その背には、……私が二度戦ったときとは違う、白の羽根。
からかうような笑みを浮かべるその男は。

漆原「悪いねエミリア、王子様じゃなくって」

恵美「……漆原!」

サリエル「ルシフェル……!?」

驚く私達を尻目に漆原が手をかざす。
瞬間、元々弱った私を縛るために大した力は込められていなかったのだろう拘束が砕けた。
地に伏せ、力の入らない身体で目線を戻した。

……そうか、貞夫に渡したホーリービタンβ。
私は知らなかったが、考えてみれば元天使の漆原だ。
聖法気すらも力に変えることができるのかもしれない。

サリエル「……また拝むことになろうとはな、その顔とその羽根を」

漆原「僕だってやる気はないけど、家主の指示だ。ニートもこれはこれで苦労があるものさ」

交わした言葉は一瞬。
サリエルは飛び上がり、漆原が迎撃し、空中戦が始まった。

漆原は光弾を撒き散らし、サリエルはそれを邪眼光で迎撃しつつ大鎌で斬りかかる。
一見互角に見えるそれは、実のところ勝敗の決まった戦いだ。

ホーリービタンβの効果は私が体感したとおり、エンテ・イスラでの自然回復には及ばない。
漆原の動きも全盛期のそれではない。
そう長くは持たず力尽きるし、そうでなくとも邪眼光が直撃すれば大幅に力は削られる。
それを分かっているのだろうサリエルは、深追いをせず防御に意識を割いていた。

漆原が動いたなら間違いなくそれは貞夫の指示だ。
彼は一体何に勝機を見出しているのか、それを考えていると、肩を叩かれた。

真奥「よ。無事か」

振り返れば、階段を普通に登ってきたらしく息の切れた彼がそう言った。
その姿はマグロナルドの制服のままだ。

……信じてはいた。信じてはいたが、彼が仕事を……
あれほど大事にしていた仕事を放棄してまで助けに来てくれたことに、瞳が潤むのを感じる。

ふと、彼の顔が歪む。
その視線は、はだけたままの私の胸元に向いていた。
やましいことはないが、何故か慌てて言い訳しながらボタンを閉める。

恵美「あの、えっと、これは……」

真奥「分かってるよ」

再び私の肩に手を置きながら、彼はサリエルに視線を向けた。
それにはまさしく、魔王と呼ぶに相応しい殺意が篭っていた。

真奥「安心しろ、あの変態性犯罪者は必ずブン殴ってやる。必ずだ」

サリエル「魔王……! くそ、ベルは何をしている!」

漆原と戦いながらこちらにも意識を割いていたのだろうサリエルが、初めて焦りの声を上げた。
もしもこのまま私達が逃げ出せば、今度は顔が割れている状態での再戦だ。
それは奴にとっても望ましい展開ではないだろう。
奴もそう考えたようで、私達に向かって急降下してくる奴に、またも不測の事態が発生した。

鈴乃「おおおお!」

突進するサリエルに合わせるように真正面から突撃する影。
髪を解いた鈴乃が、手にした大槌——聖法術、"武身鉄光"——をサリエルに思い切り叩きつけた。

サリエル「ぐっ……! ベル! 貴様、血迷ったか!」

その攻撃を大鎌で弾き、堕天の邪眼光を鈴乃に浴びせる。
途端大槌はもとの簪の姿に戻ったが、反動で着地した鈴乃は再び大槌を具現化し構えた。

鈴乃「血迷ったのはあなただ、サリエル」

下で貞夫と何を話したのかは知らない。
私の説得を聞いてくれたのかも分からない。
だがその顔に、迷いはなかった。
彼女は今、自分の信ずる正義に殉じているのだと分かった。

鈴乃「少なくとも魔王の"真奥貞夫"としての日本での生き方は、決して正義に悖るものではない」

鈴乃「そして千穂殿や……"遊佐恵美"の想いを犠牲にして得る偽りの平和など、私が許さない!」

叫びながら再び突撃する。
鈴乃と空中から翻弄する漆原との波状攻撃に、奴は苛立ちを感じたようだ。

サリエル「ええい、いい加減にしろ!」

高く飛び上がり、月を背にして聖法気を凝縮させる。

サリエル「くらえ、雷翼月てぶほっ!」

漆原「遅いよ」

何やら力を溜めて大技をぶちかまそうとしたらしいサリエルの顔面を、更に上から漆原が踏みつけるように蹴った。
勢いよく落下し、地面に叩きつけられることは避けて着地した奴が顔を上げると、

鈴乃「光波瞬閃!」

光が奔る。
その目眩ましをまともに受けたサリエルが、叫んで顔を抑えたとき、勝負はついた。

奴は結局最初から最後まで私達を侮っていた。
コンビニ店員のおかげで逃走するハメになったとき、気づけば良かったのだ。
どんなに有利でも、勝ちの決まった戦いなどないと。

奴の背後には、ゲートが開いている。
貞夫が溜め込んでいた、そして笹の木が発生させたものを取り込んだ魔力で開いたゲート。
ゲート術の肝は、行き先の指定や移動中の安全についての制御にある。
どこへ行くかも知れない入り口を開くだけなら今の貞夫でも何とか事足りた。

光を避け近づいていた私と貞夫が、拳を。
そして鈴乃が大槌を振りかぶった。

真奥「くたばれ、この……」

恵美「ド変態セクハラ天使がぁぁぁぁっ!!」

二つの拳が顔面を、大槌が土手っ腹を直撃した。
無様な叫び声を上げた奴は後ろに吹き飛び、ゲートに飛び込んだ。

瞬間、貞夫がゲートを閉じる。
そこに変態の姿は残っていなかった。

真奥「よし、漆原その辺の修復! 恵美、鈴乃、また今度な!」

漆原「まだ働くの!?」

恵美「ええっ!? ちょ、貞夫!?」

サリエルをなんとか撃退するやいなや、彼はそう言って地上に降りていった。
……分かってるけどね、早くバイトに戻らなきゃってのは。
でもここは愛の抱擁とかあって然るべきじゃないかしら。

大分力を使ってげっそりしている漆原が、ぶつくさ言いながら辺りの修復を始める。
幸い付近には被害はなかったが、屋上のあちこちには穴が開いており、それなりに壊れていた。

恵美「ありがとう、ベル」

彼女に笑いかけた。その礼は、助けてくれたことと、信じてくれたことに。

鈴乃「私はまだ魔王の存在を認めたわけではない。奴はエンテ・イスラにとっての悪だ」

鈴乃「ただ、言ったとおりあなたや千穂殿の想いを犠牲にするつもりももうない」

鈴乃「そこをどうするかは、これから模索することだ。あのアパートで監視を続けながらな」

仏頂面で言う。
まあ、完全な味方になってもらえるとは思っていない。
それこそその関係は、これから模索していくことだ。
今はそれで十分だった。

恵美「漆原。……ほんっとうに不本意だけど、一応、礼を言っとくわ」

漆原「そんな礼ならいいよ……ていうか言葉より唐揚げでもまた作ってきて。お腹すいた」

あちらも不本意そうに返事をした。
というか、最早聖法気云々というより足がガクガクしてきている。
ニートには辛い夜だったようだ。

そういえば、奴と貞夫のいない場所で話すのも初めてのことだ。
……参考になるかは置いといて、一度聞いてみたいことがあった。

恵美「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど。……悪魔の恋愛感情ってどんなもんなの?」

漆原「は?」

恵美「いや、なんと言うか……貞夫のあの反応の鈍さは、悪魔だからなのか貞夫だからなのかなあって」

芦屋は、いつか貞夫は真剣な答えを出すだろうと言っていた。
だがそれにしても、その手の感情をあまりにも表に出さなさ過ぎではないだろうか。
どうせ私の気持ちは知っている漆原だ、後腐れなく聞くだけ聞いてみた。

漆原「あー、佐々木千穂なんかも悲惨だったよね」

恵美「ね、あれは可哀想だったわよね」

鈴乃「?」

おそらく敵対視していたからではなく、生来その辺に鈍いのだろう鈴乃が不思議そうな顔をした。

漆原「両方じゃないの? やっぱり今まで違う生物だと思ってた相手に欲情しにくいところはあるだろうし」

……また直接的な言葉が出てきたが、話は続いているので殴るのを我慢する。

漆原「あとは真奥本人がなあ。鈍い性格ってのもあるだろうけど、知ってる? あいつの年齢」

恵美「……ううん。いくつだっけ」

漆原「三百ちょっとだったかな。年寄りに感じるかもしれないけど、魔界や天界基準じゃまだまだ若いよ」

漆原「ちなみに芦屋は千五百くらい、僕は……忘れちゃった。何千だったかな? 万は行ってなかったと思うけど」

ベルと二人して絶句した。
なんだ、その途方も無い数字は。

屋上の修復が終わり、手をプラプラさせて漆原が振り返った。

漆原「はあ、疲れた。……んで、更に真奥は昔っから魔界統一だけに力を注いできたんだ」

漆原「お前と同じだよ、エミリア。子供の頃から仕事ばっかりの、遊びを知らない若者さ」

……それって、つまり。

漆原「要するに処女と童貞の青臭い関係なんだから、もうちょっと積極的にいかないと……あ、いやごめんなさい」

私の眼光に反応して、漆原が言葉を止めた。
まあ、参考になったので許してやろう。

見ればベルが顔を真っ赤にしている。
……ベルって若く見えるけど、経歴を考えたら二十歳は行ってるわよね?
彼女も処……なのかしら。今度聞いてみよう。

恵美「……とりあえず、私はタクシーでマグロナルドに行ってみるわ。貞夫が気になるし。ベルは?」

鈴乃「そうだな、今日は家に帰ろう。途中まで同乗させてもらえるか。一人では乗り方が分からん」

恵美「いいわよ」

頷いて、二人で歩き出すと、抗議の声。

漆原「ちょ待って、僕も乗せて! 疲れたしもう飛べないし家の方角分かんないし!」

恵美「甲州街道を向こうに一、二時間歩けば、まあ大体あんたの家よ」

漆原「無理言うなよ! 助けてやったしアドバイスもしてやったじゃん!」

無慈悲に大雑把な方角を指さすと、更なる悲痛な叫び声。
さっきの会話はこのためか、と嘆息した。

途中、千穂ちゃんに電話で無事を報告した。
泣いて喜んでくれたようで、心配をかけてしまって恐縮しきりだ。
まだ貞夫は戻っていないということだった。
……もしかして財布がなくて走っているのだろうか。

タクシーを幡ヶ谷駅近くで降り、ベルにお金を渡す。
ちなみに漆原は、サリエルが脱ぎ捨てた目出し帽があったのでそれを被せて同乗させてやった。
元々あんまり顔を見られちゃまずいという理由で外に出ないことになっているのだ。
おかげで恐ろしく怪しい風体となり、運転手さんに別の意味で通報されないか心配だったが、なんとかなった。

マグロナルドに近づく。
既に閉店時間も近く、客の姿は見えない。
……代わりに、店の入口でちょうど始まったらしい修羅場が見えた。
どうやら貞夫は先ほど着いたようだ。

貞夫を睨みつけている店長らしき女性に、黙って項垂れる貞夫、庇っているらしい千穂ちゃん。
まあ、天使をやっつけに行っていましたとは言えまい。
悪魔のくせに嘘の上手くない貞夫が、時間帯責任者の任を放り出して仕事をサボった言い訳はそうそう思いつかないだろう。
だからこそ、私が来たのだ。

恵美「あの。真奥さんは、私を助けてくれたんです」

突然の闖入者に、その場の人達がこちらを振り向く。
私の顔を認めた千穂ちゃんが顔を輝かせた。

木崎「……あなたは?」

恵美「遊佐といいます。佐々木千穂ちゃんと、真奥さんの友人です」

恵美「さっき、千穂ちゃんと一緒に帰宅する途中、変質者に襲われて……」

千穂「そう! そうなんです! だから私、咄嗟にいつも頼ってる真奥さんに頼っちゃって……だから真奥さんは悪くないんです!」

一応信じてくれたらしい店長が、口を開く。

木崎「……そういうことなら、まあ分からんでもないが。だが」

そこで再び貞夫と、今度は千穂ちゃんも睨む。

木崎「ちーちゃんが逃げられたのなら、何故警察を呼ばなかった。二人とも軽率に過ぎるぞ」

痛いところを突かれる。
確かに相手が単なる変質者ならそうすべきで、貞夫が店を放り出すほどの理由にはならない。

……仕方ない。

恵美「あの……店長さん」

木崎「何でしょう?」

恵美「先ほどは友人と言いましたが、正確に言うと」

恵美「友達以上恋人未満というやつで。……私は前からアプローチしているのですが、彼がなかなかはっきりしてくれなくて」

三人とも、ぽかんとした顔になった。

恵美「今回貞夫も危険な目に遭ってしまって。勿論それは軽率だったんですが、彼が飛び出してきたことで」

恵美「彼が私を想ってくれていることが分かって、嬉しかったんです。どうか今回だけは、許して頂けませんか」

頭を下げる。
少しの沈黙のあと、千穂ちゃんが叫んだ。

千穂「ゆ、ゆゆゆ遊佐さーん!? ずるくないですかそれ!?」

混乱した様子で肩を揺すられるが、何も言わない。
千穂ちゃんには悪いが、駄天使ニートのアドバイスを実行しただけだ。
手で顔を覆っている貞夫の様子が何だかおかしかった。

その様子を見た店長さんが、一つため息をついた。
……何とか煙にまけただろうか。

木崎「……まーくん、君の気持ちは分かったが」

真奥「は、はい」

千穂「木崎さーん!?」

木崎「黙ってろちーちゃん。……君自身も、私や他のクルーにとって大切な存在だ。だからこそ無茶はするな」

木崎「彼女を守ろうとした君の勇気は買う。だが君が怪我をしたら、私や彼女も心を痛める」

……厳しくも、優しい店長さんのようだ。
ひょっとすると、貞夫が変わった要因の一つは彼女なのかもしれない。
そう思った。

木崎「……しかし、ちーちゃんも大変だな?」

千穂「木崎さあああああああん!?」

恵美「天使ってアホしかいないのかしらね?」

真奥「……お前も半分天使だよな?」

話しながら、深夜の道を歩く。
今度こそ千穂ちゃんを無事に家まで送り届けた帰りだ。

笹の木の魔力に反応したのか、ゲートでどこへとも知れない場所へ飛んだはずのサリエルが
マグロナルドの冷蔵庫から出てきたときには肝を冷やしたが、何と奴は店長さんに一目惚れし、無害な存在となった。
……何だったのかしら、あの戦いは。

恵美「ねえ、貞夫」

真奥「ん?」

この二ヶ月の平穏の揺り返しとばかりに、この数日は色々なことがあった。
私の気持ち、千穂ちゃんの気持ち、ベルの言葉、芦屋の言葉、漆原の言葉。
それらを踏まえて、やはり私が彼に言えることは一つだった。

恵美「改めて言うけど。あなたが好きよ」

足は止めない。横の彼も同じであることを横目で確認して続ける。

恵美「千穂ちゃんと同じことを言うけどね、あなたが私をどう思っていてもそれは変わらないの」

恵美「別にもう、はっきりした答えなんて求めない。ただ私がそう思ってることだけ知っていてくれればいいわ」

真奥「……お前ら、情報交換してんの?」

恵美「そうよ。女の子をナメないようにね」

真奥「……それもちーちゃんに言われた」

苦い顔をする貞夫に、思わず笑う。

彼は頭をぼりぼりと掻いて続けた。

真奥「俺がその手のことに疎いせいで、まあ、各方面に悪いことしてるってのは知ってるんだが」

恵美「あら、自覚はあったのね」

真奥「うるせえ。けど何だ、今日お前が攫われて……無茶苦茶心配したし」

真奥「予兆はあったのに何もできなかった自分に腹が立ったし」

真奥「お前にセクハラしたあの変態はぶっ殺してやろうかと思ったよ」

真奥「どうなんだろうな、これはお前と同じ気持ちなのかな?」

彼は、本気で分からない、という顔でそう言った。

恵美「……さあ。でも、そうだと嬉しい」

言いながら、彼の腕にしがみつくように自分の腕を回した。

真奥「歩きにくいんだけど」

恵美「これくらいいいじゃない、今日は疲れたんだから」

振りほどかれる様子はないので、そのまま歩き出す。

恵美「ねえ、セクハラの件だけど」

真奥「あ?」

恵美「……さ、貞夫なら、いいわよ?」

真奥「……若い娘がそんなこと言うんじゃありません」

駄目じゃない、あのニートめ。
心中で罵倒する。

まあ、いいか。
まだ時間はいくらでもある。

ベルに宣言したとおり、遊佐恵美もエミリア・ユスティーナも、彼と一生添い遂げるつもりなのだから。


おしまい

調子こいて続きました。楽しんで頂けたなら幸いです。
以下蛇足。

よく考えたら、恵美が真奥サイドについてると鈴乃の立場がないですね。おかげで変に長くなりました。
あと原作を読み返しながら「恵美が味方ならニートももう戦力投入できるはず」
「サリエルは純粋な戦闘力は後の○○とかに比べてそこまで圧倒的じゃないから数の暴力で勝てるかも」
と書きためてたら、アニメの自主的に働くニートやバカ強いサリエルに良い意味で裏切られました。
本当に良いアニメ化だったと思います。

お疲れ様です。3巻以降になるとアラスラムスの出現でめっちゃエミリア有利になりますね

お疲れ様です。3巻以降になるとアラスラムスの出現でめっちゃエミリア有利になりますね

乙、よかったでー
元々別の種族相手な上ウン百年魔界統一に励んでたら色恋の感情には鈍くなるわな
まあ恵美も天使とのハーフだし気長に色恋の感情を育てていけばいいよ

お、続きがきてたとは
3巻も是非

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