玉座の間にて (52)


千年の間、空席であった玉座。
冷え切ったであろうその黒檀に、再び熱が宿る。

名のある長どもを、その力をもってしてねじ伏せ。
彼は、魔物の頂き「魔王」の座にたどり着いた。

逞しき体躯からは、オーラが黒き靄のように立ち上り。その輪郭を霞ませる。
しかし、その圧倒的存在感に。彼がいま、そこにおわすことを誰一人として疑うことはない。

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ほどなく、人類にも彼の即位が伝わるであろう。
彼の生ある限り、魔族たちの悲願である滅びと嘆きにあふれる世界が必ずや実現されるのだ。

ふと、自身の手が震えていることに気づく。
長きにわたる魔王の不在に、いっそのこと己がその椅子に坐することを企んだこともあった。
あるいは、新たな魔王がその器で無ければ、己が成り代わろうかとも。
それだけの野心と、それを適えるだけの器量は持ち合わせているつもりでいた。

意図せず震える手が、剣の鞘に触れる。その冷たさに、私は吃驚し拳を強く握りこんだ。
拳を開かなければ、剣の柄は握れない。であれば、剣が抜けぬは必然。
私の、愚かな野心は本物の魔王と対峙することで霧散してしまったのだ。


彼と、剣を交えれば私は確実に死ぬ。
いや、死すらを超える恐怖をこの身に刻まれるであろう。
剣を抜くことができない。彼と戦う意思が湧かない。いますぐ、裸足で逃げ出したい。
御伽噺でしか知らぬ、伝説がいま私の目の前にあるのだ。

そんな私の葛藤を見抜いてか、魔王はくつくつと目を細めた。

「安心しろ、とって食おうとは思わん。だが、些か無礼ではあるな」

「申し訳ございません。我が一族は、礼より先に剣を学ぶ故」


「それで、貴様は誰だ」

「我らは、魔王の座を見守ることを宿命づけられた一族でございます」

「なんとも、けなげな一族だな。しかし、答えにはなっておらぬ。我が問うたは、貴様のことよ」

その言葉に、私は自らの役目を思い出す。
なぜ、私はここにいるのか。それは、卑怯者のそしりを受けぬため。
それは、三千世界に蔓延る影を確固たるものするため。
それは、魔王が世界の敵とならん力を与えるため。


まずは、語らねばならぬ。
一族に伝わる、先の世の魔王と勇者の戦いを。

「私は、一番槍にして語り部。先代魔王の最期を、お伝えするべく御前におわす」

魔王は、私の口上にしばし前のめりとなった。

「人に滅ぼせられし、先の王。我は、気奴を惰弱であったとは到底思えぬ。それほどに、魔王の座は遠く果てなき頂きにあった。ぜひ、聞かせてくれ」

その御身姿に、私は改めて確信する。
新たな魔王は、かつての魔王より遥かに強いであろうことを。
既に、天下に並ぶもの無き力を携えながら、それでもなお先に学ぼうという姿勢。

今上の魔王は、傲りや慢心とは無縁。
なれば、かの王を打ち倒す隙など一寸ほどありはすまい。
魔王とは、そうあらねばならない。そうなくてはならない。
そのためだけに、我ら一族は語りを紡いできたのだ。


「勇者に生なし、勇者に死なし。

先王、幾たびも勇者の首を撥ね、胴を螺旋きり、頭顱を擂り潰し。
その眼を飲み、皮を剥ぎ、腸を喰らった。

されど勇者怯むことなく漸進す。
かの者に恐れなし。喜んで命差し出す者なり。

勇者、死す度、力を得。

遂には先王の戟を躱し、その肌に擦疵を刻む。
次いで指を堕とし、肉を削ぎ、その切っ先が喉を貫き申す。

勇者、侮るべからず。
かの者に、久遠の死を与う」


魔王の喉が、低く鈍く唸った。

「我が一族に伝わる、魔王の最期にございます。口伝故、委細わかりませぬが、かつての勇者は蘇生魔法が使えたものと我らは解しております」

「馬鹿な」

「なぜ、否定できましょう」

「我は、魔法を極めることでこの座に就けた。
故に、蘇生魔法など存在しないことを心得ているのだ。

魔法とは、世界の理を超え奇蹟を現出する術。
邪法、魔法と呼ばれる所以はそれだ。

だが、その魔法をもってしても失われた命には触れられぬ。
それが、理外の術、唯一の理なのだ」


「勇者は、女神の加護を受けていたと聞きます。神の力をもってしても、蘇生は不可能でしょうか?」

「ふむ、神もまた理外の存在。ならばあるいは―――相分かった。
いや、判らぬことが多いが人間が先の王を討ち取ったという事実を知れたのみで充分」

「一族に伝わる物語。王の力添えとなりましょうや」

「うむ、よくぞ千年の長きにわたり伝えたものよ。大儀であった。
時に、貴様は己をもって一番槍と申したな。ならば、早速その槍振るうがよい」

魔王は、嫣然と立ち上がりその右手を前へとかざす。


「我は魔王。全てを擂り砕き、打毀し、滅尽せし存在。光を闇に、希望を絶望に。罪を賞に、生を死に。ハライソを地獄に。悉くを覆し、万物を翻せ。王の名のもとに命ずる、フィンブルヴェト大いなる冬の使徒として、その先駆けと成れ」

その豪然たる声明に、私の拳は震えを止めた。
魔王の御手と、淀みなき眼が指し示す敵は人類。
かの者は、その口舌の全てを世に現出せしめるであろう。

これは決して、夢や願望といった幽かなものではない。
魔王の、魔族たちの宿願がいまここに成就する。

私の心から恐怖が立ち消え、胸中より熱と力が沸き上がる。
これぞ、我ら一族が血に宿し、魂に刻まれた力だ。

後世に語られるであろう伝説が、いま幕を開くのだ。

おつおつ


魔王を討ち果たした男。果たしてこれは虚言ではないのか。
そう疑わせるほどに、男の表情は柔和で人懐こいものであった。
加えて、そのししむらの果敢無げさよ。

とても、この若者が、血と鉄にまみれた魔族共との大合戦の渦中に居たとは到底思えぬ。

「不躾で申し訳ないが、本当に貴殿が魔王を討ち取ったのか」

「はい陛下」

「いや、貴殿が偽りを申しているとは思わないが、その、なんだ―――」

思わず、言葉に詰まる。
その細き腕でよくぞ、とは言えぬ。目前に立つは、人類の救世主。
『勇者』と呼ぶべき、英雄であるのだから。


「いえ、仰りたいことはわかります。ただまあ、我らは勇者の血筋でありますれば」

私の心中を慮ったその言葉に、ひとまずの安堵の息がこぼれる。
やはり、印象に違わぬ配慮をもった青年だ。

だが、気になることを申した。

「『勇者の血筋』と?」

「はい。私共の先祖は、かつて先の世の魔王を打ち倒した『勇者』にございます」

「ほう、我が国勃興の折に尽力したという勇者の子孫であったか。
いやしかし、伝説の勇者の子孫が残っていたとは知らなんだ」


「ははは、まあご先祖の働き以降は特に活躍なく辺境にて暇を持て余していました故。
ご存じなくとも仕方ありますまい」

「しかし、今ここに我らは魔王を打ち倒した新たな英雄を迎えているのだ。
まずは、貴公の家について話を聞かせてもらえるか?」

「それでしたらまず我が先祖の話から始めましょう」

ふと視線を横に移すと、常ならば眠たげにしている衛兵が今日は目を爛爛と輝かせている。
まったく現金な奴だと頬が緩む。だが、英雄の冒険譚が直に聞けるとあらば致し方もあるまい。

現に、老いた私でさえ勇者の語り口に心躍らせているのだから。


「およそ500年程前の話にございます。
我らが先祖は、僅かな仲間と共に破壊の権化である魔王を打ち倒し。
その、働きから当時の王より『勇者』の号を賜りました。

その際、併せて頂戴した極北の領土領民を持って我が一門を起ち上げたのでございます。
初代は一平民から成りあがったにも関わらず、領民たちは温かく迎え入れてくれたと聞きます。
そして、親しみを込め《勇者さま》と呼び従ったそうです。

以来、我が家の長は総じて《勇者さま》とあだ名されるようになりました。
ところで、陛下は『勇者』の由来をご存じでしょうか」

「勇気ある者の意と心得るが」

「いかにも、魔王を前にして剣を抜く勇気を持つ者。それが由来にございます」


首をひねる。それは実に妙な話であった。
戦場に身を置く男衆にしてみれば、剣を抜くなど息をするのに等しき行い。
たかが、剣を抜くことをもってして勇気ある者と称するとは実に奇異ではないか。

「御疑念もっともかと。私も、由来を初めて聞いた時、かつての人類は如何に臆病であったのかと嘆いたほどです」

ふと、悪戯心が湧き上がる。

「称号を与えた我が王家も含めてか?」

見る見るうちに、若き勇者の顔が青ざめる。
「いや、あの」と取り繕う様は、まさに叱られた童のようではないか。
勇者の人となりが見れるかと、思い付きでからかってみたが想像以上に見た目通りの男であった。


「あの、大変失礼いたしました。なにぶん、礼儀を知らぬ田舎者ゆえ……」

「すまぬ。少しばかりからかっただけだ。続けてくれ」

自然と口元が緩むのを感じる。
その厳格さに、周囲より恐れられることも多い私がこのような戯れに興じるとは。
どうにも、この男には不思議と周りを和らげる力を持っているらしい。

勇者は、頭を掻きながら話を続けた。

「剣を抜く。確かに、児戯にも等しき所作にございます。
しかし、真に魔王を前にすれば、その考えも変わりましょう。

言葉に尽くせぬ恐怖。いや、魔王は恐怖そのものと言ってよいでしょう。
死の覚悟をもってしても、我が四肢は悉く震え、歯が鳴り、瞼が沈み、腰の剣は岩ほど重く感じられました。あれを前にして、剣を抜くのはとてもとても困難なことなのです。

故に、それでもなお白刃を晒した我が先祖は勇者と称されたのです」


初めて聞く話であった。それに、魔王が倒れた今確かめようのない事実でもある。
しかし、魔王の下に送り込んだ戦士たちが勇者一党を除いて誰も戻らなかったことを思えば、その恐ろしさは真実なのであろう。

「そして、その子孫である貴殿もまたその栄華に授かったわけだ。
貴殿は、如何にして魔王の恐怖に打ち勝ったのだ?」

「皆の助けがあったからこそ」

勇者の頬に、一筋の光るものが流れる。
しばしの間、謁見の間に沈黙が降り勇者の啜り泣く声のみが響いた。
察するに、魔王との戦いで多くの仲間を失ったのであろう。

見かねた衛兵が、勇者に寄り添い手拭きを渡す。
勇者は礼を言い、それで鼻を?み再び面を上げた。


「失礼。我が一門の話でした……。

―――そう。我らが先祖は、勇を示したからこそ『勇者』と称されたわけでございます。
それゆえに、その息子である二代目は自身が《勇者さま》と呼ばれること厭ったそうです。
何も成しえていない己は、決して勇者などではないと。

しかし、そんなこととは裏腹に領民たちは親しみを込めて、《勇者さま》と声をかけてくる。
二代目は領民の気持ちを慮り、忸怩たる思いながらそれを受け入れました。

二代目は、先祖の威光を笠に着るような罪悪感を覚え、加えて、己も魔王と相まみえることさえできれば、父と同じく勇を示せるであろうにというに勇者への羨望に苛まれたのでしょう。

その思いは我が一門に、脈々と受け継がれてまいりました」


何ともまあ、優しく、生真面目な一族であろうか。
開祖の偉業を盾に、民を従えさせるのは至極自然なことであり。
事実、我が王家もまたそのようにして成り立ってきたというのに。

「そして遂に、我が一門は、魔王と相まみえ本物の勇者と成る機宜を得ました。
それこそ魔王城下の大合戦への、陛下よりの参集の下知にございます」

「我が令に、もっともはやく応じたのは貴殿の家であったそうだな」

「なにせ、一門始まって以来の歓天喜地にございましたゆえ。
名実ともに勇者と成るべく、長きにわたり研ぎ澄ました技を存分に発揮できるとあれば。
一門総出、押っ取り刀での出陣と相なったわけでございます」

「一門総出か」

「いかにも、赤子と稚児を除いた老若男女問わぬ一門総出でございます」


なんと、あの血煙が舞い鼻をつく据えた匂いが漂う悍ましき戦場に女を出すとは。

勇者一門にとって、『勇者』の号はそれほどに重いものであったのか。これは、もはや執着。否、妄執といって過言ではない。

「もちろん、名誉のみを求めて戦いに臨んだわけではございません。

我が一門は、剣で成り上がった身でありますれば。女子供とて、皆その心得がございます。
であれば、民の為にそれを振るうことにどうして躊躇することがありましょうや。

足の悪い祖母ですら、鞘を支えに剣を振るい申した」

「それは、当主である貴殿の考えによるものか?」


「まさか。各々、自身の意思によるものにありますれば、誰一人として強いられてはおりませぬ。それに、当時の筆頭は私ではなく大叔父でありました」

肺腑より息が漏れる。なんとも、恐ろしい武の家であろうか。

恐らく、勇者の大叔父とやらは戦場に倒れたのであろう。戦場にて、家督の継承が為されるのはよくあること。勇を誇る一門であれば、なおさらだ。

しかし、これほど若き者に長の座が回ってくるとは。
継承順位から考えても、勇者より先に家督を継ぐべき人物は多くいたはずだ。
それはつまり、それだけ一族の多くの者が倒れたということではなかろうか。

「―――いったい、どのような戦いであったのだ」

「それはもう、後世に胸を張って語り継げるものにございました」



息が切れる。これほど長い時間走り続けたのはいつ以来だろうか。
魔王城下の大合戦。王の呼びかけに参集した我ら一門は、その先駆けとばかりに魔物どもの大群へと突き進んだ。

視界の全てが醜き魔物どもで埋まり、血と肉の生ぬるさを頬で感じ。
斬っては捨て、斬っては捨てを繰り返し、ひたすら前へと進み続けた。

魔物の悲鳴にまざり、若い男の鈍い声が轟く。声の主は、俺の二つ上の従兄弟だ。
共に鍛錬を積んできた、俺より剣技に勝る強者の叫びに俺は奥歯をかみしめる。

また、どこかで嬌声があがる。また一人、何処かで血のつながった家族が死んだ。
だが、悲しむいとまなどない。押し寄せる魔物の猛攻に、我らはひたすら剣を振り続けるしかなかった。


ふと気づくと、百余名ほど居た我が一門はその数を半分に減らしながらも魔王城を背に肉壁と化していた魔物の軍団を貫いていた。

「これは好機である!」

大叔父上が声を張る。
目前にそびえる、禍々しい城こそ我らが敵の本陣。
いま、我ら勇者一門こそが大将首に最も近い場所にいるのだ。

「ばば様、大丈夫か?」

足が悪いくせに、無理やりついてきた祖母に声をかける。
しかし、祖母は応えの代わりに喉からヒイヒイと風を吹かすので精いっぱいだった。


抜き身の剣を杖代わり、よくぞここまでついてきたものだ。
よく見ると祖母の剣は、血と油に濡れている。驚くべきことに、その体たらくでも尚、祖母は幾体もの魔物を屠っていた。

「ああ、家宝の聖剣を杖がわりになんか使うから。ほら、切っ先が欠けちゃてるよ」

「……ば、ばかたれ。鞘を無くしてしまったんじゃから致し方あるまい」

「なんで、そんな体でついて来たんだよ」

祖母の手足が、疲れと緊張からか幽かに震えている。
魔王討伐という悲願を前に、既に虫の息じゃないか。


「あ、あのハナタレには任せておけぬ」

祖母が、『ハナタレ』と呼ぶのは我が勇者一門の当主である大叔父上のことだ。
あの、老いてなお鍛え抜かれた体で、俺を含めた若衆をまとめてコテンパンに叩きのめす豪傑も祖母からすれば、いまだ頼りない弟というわけなのだろう。

「しかたねえなあ。魔王の下まで、俺が連れて行ってやるよ」

背を向け腰を屈めると、祖母は「借りは、いつか返すよ」と素直におぶさってきた。
「その前に、魔王に殺されちまうよ」。なんて言葉は、決して口に出せない。
たとえそれが、限りなく現実足り得る未来であったとしても。祖母は未だ、自身が真の《勇者》となることを諦めていないのだから。

「ゆくぞぉ!」


当主殿の号令に、再び歩みを進め魔王城へと突貫する。
だが、肩透かしもいいところ、我らは難なく入城を果たすことができた。それもそのはず、魔王城の城門は開け放たれ、その守り手すらも不在であったからだ。

妙だ、いくら総力戦と言っても本陣に兵を配置していないなんて在り得るのだろうか。

「奴ら、魔族の多くは、その膂力と引き換えに知力に乏しい。当然、統制の整った軍行動などとれるはずもない」

「親父、生きていたのか」

平原での乱戦で、姿を見失った父が知らぬ間に傍らに立っていた。
身体中傷だらけであるものの、その芯に揺らぎはない。俺は、父の健在な姿に安堵する。

「ふん、お前に心配されるほど耄碌しておらんわ」


「それで―――なんだって。つまり奴らは馬鹿だってことか?」

「侮ってはいかんぞ、剣の腕、個の強さに関して、魔物は人間より遥かに上だ。しかし、奴らは集団行動がとれん。魔王も、それがわかっているからこそ奴らを陣形もとらせず城下の大平原にまとめて置いているのだろう」

父の話は、おそらく正しい。だが、本当にそれだけであろうか。
事は最終局面、人類の興亡がかかっているのだ。何もかもが疑わしく思える。もしこれが、所謂『空城の計』だとしたら。城の奥地で火に巻かれ、我らは一網打尽となってしまう。

死ぬのは、怖くはない。だが、魔王と剣を交えることなく死ぬのは何よりも怖い。

「なんじゃ、腰でも抜けたか。臆病者め」


背から放たれた祖母の悪態に、胸のあたりがカーっと熱くなる。
昔からそうだ。俺に限らず、我が一門は誰一人として臆病者と呼ばれることをよしとしない。その言葉を、撤回させるためならば一族皆、平気で命を張るだろう。身体中を巡っている勇者の奔流が、まるで呪いのようにそうさせるのだ。

だからこそ、例え一族同士で仲違いを起こそうと、その言葉だけは決して使われることはない。使ってはならない禁句なのだ。だがしかし、祖母は敢えてその禁を破った。

おそらく、俺の中の迷いを見て取り発破をかけたつもりなのだろう。だとすれば、その目論見は見事に成功していた。いまや、瞬間的に湧きたった怒りに、俺の体から緊張は抜け全身に力がみなぎっている。

しかし、祖母の手のひらの上というのは実に気にくわない。

「腰が抜けてるのはババ様だろ」

俺の精いっぱいの反撃に、祖母は俺の頭をピシャリと叩き、フンと鼻を鳴らした。


魔物どもの不在で、俺達は束の間の平穏に息を整えることができた。体と刀にまとわりついた魔物どもの血肉を剥がし、大叔父の指揮の下魔王を探しはじめる。

非常に大きな城だというのに、魔王の所在は思いもよらず容易く見つかった。
城門から一直線に、城の中央へと通ずる廊下を進んだ果て。今、我らの前に、荘厳な装飾が施された巨大な扉が立ちふさがる。

間違いない。この扉の向こうに、魔王がいる。

その姿が見えずとも、扉から溢れ出る瘴気が。そして、我らの体に流れる勇者の血がそう確信させる。誰一人として口を開こうとしない。この先に我らの願い、希望、憧れの全てが坐しているのだ。

あまりの静寂に誰かの、唾を呑みこむ音さえ聞こえる。

先頭に居た大叔父が、振り返り、生き残った家族の姿を名残惜しそうに眺める。
その表情は何処か優し気で、寂し気で、かつて目にしたことのないほど安らかなものだった。

「それじゃあ、行こうか」

そう呟くと、大叔父は扉に手をかけた。




冷気が、全身を突き抜けた。
極北の大地で鍛えぬいた肉体が、そのあまりの寒さに悲鳴をあげている。

指先の感覚がない。いや、指先だけではない。
腕も足も、瞼すら、四肢の全てが自分の意思で動かせない。
僅かにカタカタと鳴る奥歯だけが、自身がまだ生きているということを実感させてくれる。

俺は今日、新たに一つ学びを得た。
恐怖とは、酷く冷たいものなのだ。

扉の先には、一個軍団が収まりそうな広間。そして一人の王。
顔も知らぬ、その容姿すら人類には伝わっていない。だが、わかる。
奴こそ、魔王。

魔王の目は、どこか虚ろであった。
まるで、何の感慨も湧かないかのように我らを見つめている。


命を奪いに殺到した我らを前に、なんと傲岸不遜なことか。
我らなど、とるに足らないということか。湧き上がる怒りに、凍った手足がじわりと溶けていく。
一門の全てが、同様の怒りを感じているのだろう。みな、一歩また一歩と魔王へと歩み寄る。

「ちがう。そうではない……」

大叔父上が呟いた。

「魔王が見ているのは、我らではない。その焦点は、我らの背後に広がる城下の大戦だ。軽く見られているどころではない、我らは宙に舞う埃や何かと同程度にしか思われておらんのだ」

その言葉を裏付けるかのごとく、魔王は漸くこちらに視線を落とした。
それこそ、大叔父上の声を聞くまで我らに気づいていなかったかのように。

「なんだ、人がいたのか」


厚く、鈍い声が広間に響くと同時に、闇の瘴気が我ら勇者一門にのしかかる。
俺は、その重さに思わず膝をついてしまう。俺だけではない、一門の皆が、大叔父上ですら立っているだけで精いっぱいといった面持ちだ。

玉座の間に入って以来、感じていた冷たいプレッシャーの比ではない。
恐怖とは冷たいもの? 否、真なる恐怖とは昏く重いものなのだ。
その視線が向けられたいま、俺たちは初めて魔王と戦うことへの恐怖に晒されている。

そうか、これが魔王と戦うということなのか。
これを前にして、剣を抜くなど一体どれほどの勇気があれば可能なのか。
伝説の御先祖は、なんと偉大な勇者であったのか。俺は、初めて理解した。


指先一つ動かせない。
柄を握る気力すら湧かない。
ああ、我らはここに臆病者として果てるのだ。

絶望の幕により、物語が終わろうとしたその時。
突如、光が差し込んだ。

鏡面のごとく磨かれ、青空の下にあっては「次太陽」、月夜にあっては「小天文」と称される我ら勇者一門に受け継がれてきた聖剣。

たとえ、吸った魔物の血で曇っていようが、杖代わりに使われたことで切っ先が欠けていようが関係ない。世に比類するもの無き美しき刀身が、広間に僅かに差し込んでいる光を映しだしたのだ。

いま我が背におわす祖母の手で掲げられることによって。


「おお、ばば様が剣を抜かれた」「よもや」「なんという勇気」「なんという胆力」

俄かに、声が上がる。

だが、俺は知っている。違う。みんな、誤解している。
我が祖母は、勇気をもって剣を抜いたわけでは無い。あの剣は、そもそも最初から抜かれていたのだ。


「この臆病者の一族め。これより、《勇者》の号は儂一人のもんぞ!」

祖母の一喝に、みな呪いが解けたように湧きたった。

一人また一人と、体に纏わりつく恐怖を打ち払い気勢を上げ剣を抜いていく。
その様子を、魔王は心底嬉しそうに、まるで子を慈しむ母であるかのように見守って
いた。


「魔王の首は、俺がもらい受ける!」

大叔父上が、ひときわ大きな声をあげ一息に魔王へと切りかかった。
必殺の上段構え。一切の防御を捨てた、海すら割る渾身の一撃。

転瞬いつの間にか抜かれた魔王の剣が、その空いた銅へと横薙ぐ。
しかし、同じく一瞬のうちに間合いを詰めていた大叔父上の供周りがそれを剣で受けた。

かに思えた。
魔王の一撃を受けた、供周りの剣は粉々に砕け散り、勢いそのままに大叔父上へと打ち当たる。
それでも大叔父上は、仲間の当たりに体勢を崩しながらも一刀を振り下ろして見せた。
だが、軸のずれた剣筋は、魔王の手甲を砕くにとどまった。


大叔父上は、倒れかかる供周りを手で押しのけ再びの大上段に構える。
あくまで一刀にかける、大叔父上のその頑なな姿に、魔王の口角が徐々に上がっていき、遂には歯を見せ声をあげて呵々大笑してみせた。

「よいぞ、人間」

魔王も、剣を振り上げ大叔父上と同じ上段の構えをとる。
ほんの瞬刻の沈黙の後、二人は同時に剣を振った。

「ぬうん……」

大叔父の巨体が、ぐらりとゆらぐ。
同時ではなかった、魔王の剣が僅かながら早かったのだ。


皆が、大叔父上の敗北に気を取られる中、間髪入れずに黒い影が魔王へと迫る。
影の正体は、我が父。父の必殺の刺突が、大叔父上の体の隙間より魔王の心臓へと放たれる。

大叔父上のその巨体の影に、魔王の死角へと巧みに隠れ完全なる不意打ちを狙ったのだ。魔王の目には、父が無から沸いて出たように見えたであろう。

だがしかし、魔王はそれを体を捻り躱して見せた。
的を失った父は、勢いそのままに魔王の袂を通り過ぎる。だが、その隙を狙った魔王の拳が我が父の顔面へと打ち据えられた。父は、地面に突っ伏しうめき声をあげた。

ゆらりと振り返った魔王の右手には、いましがた奪ってであろう父の目玉がつままれていた。
そして、なんと、それをこれ見よがしに我らに見せつけ、口を大きく開け飲み込んでみせたのだ。
明らかな挑発に我が一門は、怒りそのままに魔王へと一斉にとびかかった。



子を三人産んでなお、その美しさが評判だった叔母上の腹から腸が漏れ出る。大叔父上の厳しい稽古から逃げ出した俺を、よく探しに来てくれていた兄の首が胴から離れた。片目を抜かれながらも、再び立ち上がった父は顔をつぶされてしまった。

共に育ち、共に飯を喰らい、共に生きてきた家族たちが魔王に蹂躙されていく。

「ばば様、いい加減に降りてくれ! ばば様を背負っているせいで俺は未だ剣すら抜けていない」

俺の言葉に、背負った祖母は微動だにしなかった。
それどころか、肩を掴む手に力がこもる。

「待て……お前は優れた剣士だが、万が一の勝ち目はない」

「だからと言って、じっとしていられるか」

「だから見よ。奴の剣筋を追え、奴の思考を先んじろ、勝機を見つけるなら今しかない」


あまりの歯痒さに、腸が煮えくり返りそうになる。だが、だからと言って祖母を投げ出すわけにもいかない。
俺は祖母の言葉に従い、じっと目を凝らす。

呼吸を整え、魔王の剣に穴が開くほどみつめる。
そうすると微かながら、その剣に違和感を覚える。魔王は、左手を庇っているようにみえた。

「何が見える?」

「大叔父上の一撃は、届いていたんだ」

よく見れば、魔王は傷こそ負っていないが当初より確実に動きが悪くなっている。
皆の必死の剣が、少しずつではあるが確実に魔王の体力を奪っているのだ。

「このまま数で押せば、いつかは魔王も倒せるかもしれない」

「その通り、だが奴が衰えるのを待つ気はないぞ。少しでも早く奴を倒せば、それだけ仲間の命を救える」


「不意打ちなら。いや、奴は死角からの親父の剣すら交わして見せた」

「奴の目は、異常なほど良い。魔王は常に、動きある者を視界におき、その挙動を把握できるように努めておる……」

祖母が、急に黙り込む。

「どうした、ばば様?」

「奴は、お前のことだけ見ていない。いや見えていない気がする」

「どういうことだ?」

祖母は、俺の背から降り俺の姿を一瞥する。

「剣か……? いや、確証はないが」


「ばば様、何か知恵があるなら貸してくれ」

「奴は、自らを前に剣すら抜けぬ臆病者を敵としてみておらんのかもしれん。つまり、いまだ剣を抜いていないお前は魔王にとっていないも同じ。

ならば、お前の剣ならば魔王に届くやもしれぬ。だが、奴を一刀のもとに切り伏せられなければ……」

「ばば様。俺の得意な剣を忘れるとは、もうボケたのか」

「居合か」

魔王を中心に、仲間たちの骸が足の踏み場も無く円周に広がっている。
だが、勇者一門の誰一人として意に介さず魔王に挑む。仲間の骸を踏み荒らし、血に足を滑らせようとも我らは宿願足る魔王を打ち倒すのみなのだ。

俺は、祖母の手振りを合図に魔王の背後へと回り込む。


魔王を狭間に、祖母と目が合った。これが、今生の別れとなるやもしれぬ。
減らず口の絶えない、気難しい年寄りであったが、いまとなっては何もかもが愛おしくてたまらない。

「ちぇえええいぃあああああああああああああ」

祖母が、今まさに絶命し膝から崩れ落ちる仲間の隙間を縫い魔王へと躍りかかる。
同時に、俺は全身全霊をもって地を蹴った。

居合。
極東の地に伝わる、剣を鞘から抜き放つ動作を持って敵に一撃を与える剣技。
本来剣技にあるべき構えを捨て、静から動へと瞬時に入れ替わる迅速の剣。

その直前まで、剣は鞘に収まっているが故に魔王は俺を敵と認識できない。
我が一門、最速の剣受けてみよ。


祖母がその小さき体で魔王の蹴りを受け、壁まで飛ばされる。
その衝撃に、肺腑の空気がすべて抜けたのであろう。祖母の叫声が止まり、ほんの一瞬だけ場が沈黙に包まれた。

ちりん。

後に、鈴の音と語られた鞘を走る刀身が調。
続くは、魔王の右腕が地面に打ち付けられる音であった。

胴を上下に切り分けたつもりであった。
生涯にわたり、最高に剣が奔った。だが、それでも魔王は躱して見せたのだ。
額から冷や汗が流れる。ああ、遂に俺にも死が訪れるのだ。

不意に、人の気配を感じた。
大勢の人間の声に、鎧と剣がすれる音。沸き立つ歓声。
ああ、いったいどれほどの時間、我らは戦い続けていたのだろうか。大平原にて戦っていた、国の兵隊たちが遂に魔物の軍団を突破し魔王城に雪崩れ込んだのだ。


「ここまでか」

利き腕を斬りおとされたというのに、魔王はその冷静さを微塵も失わず穏やな様子であった。

「我が腕を堕とすとは見事なり。しかし、今日はここまでとしよう。
今宵の大合戦は貴公らの勝利だ。しかし、私は力を蓄え再びこの魔王城へと帰って来よう」

魔王は踵を返し、俺のことなど気にも留めず歩みを進める。
その背に、黒く大きな影が覆いかぶさる。

「なっ!?」

魔王が、初めて驚きの声をあげた。

「俺が勇者だ。俺こそが勇者だ」


大叔父上だ。袈裟切りにされて、倒れたはずの大叔父上が息を吹き返し、魔王を逃すまいと覆いかぶさったのだ。
それと時を同じくして、人ならざる獣じみた叫喚が骸の中よりあがった。

「あ゛あああ゛あ゛あ゛ああ゛ああ」

声にもならぬ声をあげたのは、顔をつぶされたはずの我が父であった。父は血と涎をまき散らしながら、魔王の足へと剣を突き立てた。

魔王の喉から唸り声があがる。

「このイカレどもめ、倒れたままなら生き残れたやもしれぬというに」

魔王が、まとわりつく親父たちを振りほどこうと剣を振り上げる。その手首が、伯母上の槍によって貫かれた。腹を割かれた伯母上は、漏れ出た腸を片腕で抱え込み、片膝ながら最期の一突きを見舞ったのだ。


「誰でもない、私が、私だけが真の勇者だ!」

伯母上の口上に連れられて、倒れたはずの一門の皆々が、続々と立ち上がる。

「いや、俺だ」「ワシこそが勇者だ」「勇者勇者勇者勇者勇者勇者」

動きを止められた魔王の体に、次々と剣が差し込まれていく。

「ぐあああああああああああああああ」

魔王の膝が地につく。しかし、それでも一門は止まらない。
受けた痛み、失った家族、勇者の一門に生まれた使命。あらゆる思いを載せて、皆が魔王へと剣を、槍を、斧を、突き立てていった。

その悲鳴が明け、魔王の目より光が失われた時分。
その体は、かつて生ある者であったとは思えぬ巨大な剣山と化していたのだった。




「それで、何人生き残ったのだ」

「20余名ほど。当主含め、我が家の主だった男たちはほとんど死に申した。
最期に立ち上がった者たちも、もはや執念にのみ体を突き動かされていたのでしょう。

魔王亡き後、しばらくして息絶えました」

「それは申し訳ない事を聞いた」

「いえ、それが我ら勇者一門の宿願なれば」

「うむ、世界はまさに主ら一族によって救われたのだ。

さて、その類まれなる働きには当然、王家は報いなければならぬ。
お主らは、何を望む」

「魔王に挑んだ全ての者に《勇者》の称号を」


「―――よかろう。いやしかし、伝説に倣えば魔王を前に、剣を抜いた者を勇者と呼ぶは当然のこと。勇者の称号だけでは、ちと寂しすぎる。

他に、望むことはないのか?」

「……ならば、我ら一門に仕事をお与えください」

「恩賞ではなく仕事が欲しいと申したか?」

「ええ。我が一門は、長年の苦しみに耐えようやく真の勇者たる機会を得ることができました。

しかし、此度の戦に列することのできなかった童ら。それに、まだ見ぬ我が子孫たちは、我らと同じ《勇者》への執着に苦しみ苛まれることでしょう。

ですので、時に際して彼らにも、我らと同じ機会をお与えいただきたいのです」

「具体的には、何がしたいのだ」

「未来永劫にわたって、我ら一門を魔王番として彼の地に配して頂きたく―――」




「参集!」

私の呼びかけに、闇に潜んでいた者たちが姿を現す。
魔王の玉座を見守りし、魔王曰く『健気な一族』のその全てが今ここに集っている。

たとえ、その表情見えずとも一族の皆が魔王の雄々しき姿に歓喜を振るわせていることがわかる。

「ほう、これが我が先兵となる者達か。

しかし驚いた。その体躯を見るに、童や老体も混ざっているものと見受けられる。

にも関わらず、その全てが類まれなる技を有していることがわかる。いったいどれほどの鍛錬を積み犠牲を払えば、このような一団が築けようか」

「それを、お見せすべく。私たちは、いまここに集うております」

私が、鞘より剣を抜き、その切っ先を魔王へと向けると一族がそれに続いた。


「……どういうつもりだ。いくら、礼より剣を貴ぶ一族と言えど我に剣を向けるなど無礼極まりないぞ」

「それが、我らに与えられた使命ゆえ」

魔王の表情が曇る。

「謀ったのか?」

「よもや」

場が剣呑な空気で満ちる。
魔王の眉根が寄り、見る見るうちに怒りの形相へと変貌していく。


「死ぬことになるぞ」

「覚悟の上」

玉座より立ち上がった魔王が、クロークのピンを弾き肩を慣らす。

「なにゆえだ」

「我ら、勇者の一族でありますれば」

「よかろう! ならば、その血筋絶やすがよい!!」


いま、新たな伝説の幕が切って落とされた。


―――――
  おわり
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