佐久間まゆイチブンノイチ人形 (38)



「なんじゃこりゃ……」

 玄関に置いてある巨大な段ボール箱を前に、俺は思わずそう呟かずにはいられなかった。

 その箱は一見するとちょっとした冷蔵庫と見間違えるほど大きかった。縦の長さで言えば俺の胸のあたり、150㎝ほどはあるだろうし、横幅も50㎝近くありそうだ。これをもし俺が見る前に隣人が見たとしたら大いに怪しんだであろう。

 巨大なそれは、まるでこれを無視するなど許さないという風にドアの前にどっしり鎮座しており――もちろん、放置して家に入るという選択肢はないのだが、どこか送り主の性格が表れているような気がして、俺は苦笑いをするしかなかった。

 心当たりは、ある。自然と、先程まで一緒にいたアイドルの言葉を思い出す。

『Pさん、まゆからプレゼントがありますから、今日は寄り道しないでまっすぐ帰ってくださいね』

 高く、しかし甲高いわけではないとろけるような声で、まゆがそんなことを言っていたはずだった。今までに彼女から貰ったものは数知れない。手作りのお弁当、ペン、ネクタイ――大小はあるものの、まゆは俺が必要だと思っていたものをまるで心を読んでいるかのように送り、そのたびに満足げにほほ笑みかけてきた。今回もその類のものであるのは間違いなさそうだ。

 
 これほどの物は記憶を探ったとしても出てこない。また、直接渡されなかったのもこれが初めてかもしれない。

 担当アイドルになんで教えてもいない住所を把握されているのか、という少し恐れの入った疑問はいったんおいておくことにして、俺は家に入るべく行動に移ることにした。ひとまずドアを開けるために段ボールをずらそうとした……のだが、

「おっも!」

 思わずそんな声が出てしまった。女性の多い仕事場で自然と力仕事をすることも増え、多少の物なら軽く扱える自信があったのだが、この段ボールの重さは予想をはるかに上回るものだった。腕の力だけではまず上がらない。少し考えてから、どうにか引きずるようにずらして箱をずらしてドアを開ける。

 抱えていこうとしても腰を痛めてしまうかもしれない。引きずってみたり、横にしてみたり、また引きずってみたりと試行錯誤を繰り返すこと十数分、ようやく部屋に箱を運び終える。久しぶりに肩で呼吸をしていたし、頬から滴った汗のしずくが顎のあたりで合流して、ぽたりとフローリングのマットにシミを作っていた。

 さて、なんだろう。

 尋常ではない重さの箱を運びながら、俺は中身が楽しみになっている自分がいることに気が付いていた。感触的に本当に冷蔵庫が入っているなんてことはないはずだ。

 中身のぎっちりとつまっているそれは、もしかしたらスタドリ漬けの生活を送っている俺のための大量のお茶のペットボトルかもしれないし、はたまた忙しい俺の為に週刊漫画雑誌の漫画を送ってくれたのかもしれない。なんだかんだ、まゆの贈り物というのはいつも俺を楽しませてくれたし、きっと今回もその例に漏れることはないだろう。

 
 一度汗を拭こうとハンカチを取り出す。ずいぶん昔に買った覚えのあるハンカチの肌触りは大分ざらついたもので、そういえば新しく買おうと少し前に思っていたことを思い出す。そんなことが一瞬頭の片隅に過ったが、頭の中はすぐに箱の中身のことでいっぱいになる。

 はやる気持ちを抑えつつ、縦長の段ボール箱をゆっくりと横にする。これを勢いよく倒そうものならトラブルは避けられなそうだ。そして、中央に真っすぐと貼りついているテープに手を掛けた。1メートル以上あるそれを掴んでから一気に引っ張ると、ベリベリと気持ちのいい音をしながら勢いよくはがれていく。これまでの苦労のせいだろうか案外楽しい。

 テープをはがし切った後、俺は心の中で『せーの』とタイミングを計ってから思い切り箱を開いた。そして、



「―――――――ッ!?」



 絶句、した。

 どすん、という音が部屋に響いて、それがしりもちをついた音であることに気が付いたのはしばらく経ってからのことだった。

 ぎっちりと入っていた梱包材の中で、何かと、目が合った気がした。

 何が入っていたのかはわからない。でも、俺が箱を開けたとき目に入ったのは間違いなく「目」だ。それだけは間違いない。

 何かの間違いではないのか。3つの点が集まった図形を人と勘違いするという、シミュラクラ現象というやつなのでは――――と混乱する頭を働かせながら、新たな可能性にハッとする。


 そうだ、あれを見たとき俺は「人間の目だ」と思ったのだ。

 ダラダラと、いやな汗が体中から噴き出すのを感じる。心臓の音が急に耳に入るようになった。俺はしりもちをついた間抜けな姿勢のままどうにか深呼吸を重ねつつ、何かにすがるようにスマートフォンの電源を入れた。

 日時を示す上の画面の下、何か通知があるときに表示されているそこに緑のアイコンがあるのが目に入る。ラインの通知を示すその右側に、「まゆ」という名前が入っているのが見えて、俺は少し冷静になってその通知を見つめた。

 文面にはただ一言、

『大切にしてくださいね』

というメッセージ。その横には可愛らしいハートの絵文字がちょこんと添えられている。心臓は早鐘のように響いているが、俺はなんだか自分がばからしくなって苦笑いした。

 いったん落ち着くための時間を取るために、まゆにラインの返信をすることにする。とりあえず『ありがとな』と当たり障りのない返事をすると、いつも通り5秒と待たずに既読が付いてすぐさま『はい』という返事。いつも通りのやり取りが、俺の心臓を次第に落ち着かせていくのを感じていた。

 そうだ、他でもないまゆからのプレゼントじゃないか。


 何が入っていたとしても、たとえ人間らしき何かが入っていたとしても、こんなに健気に俺のためにしてくれるまゆからの贈り物じゃないか――――と、半ば自分に語り掛けるようにしながら、恐る恐る箱の梱包材をどけていく。そうして、プレゼントの全容を見たとき、俺は――

「くくくっ」

 思わず乾いた笑いが口から漏れ出していた。これは反則だろ、とこの場にいないまゆにツッコミを入れる。

 箱の中に、まゆがいた。

 いや、正確にはまゆではない。確かに目も口も髪の毛も、手から足からいつも見るまゆそのものだったが、今すぐライブに行ったって違和感のなさそうな衣装に身を包んだまゆの胸にはこう書かれた紙が置かれていたのだ。

「佐久間まゆ1/1人形」と。


 まゆ人形と相対して数十分。俺は何度目かわからない驚きの声をあげていた。

 1分の1フィギュア、というワードはどこかで聞いたことがある。あまり興味があるわけではなかったが、テレビ局などに飾られている大きなマスコットキャラクターなどでその類のものは見たことがあった。だから、驚いたのはそこではない。

 たしかに、そういう人形はある。だからと言って、ここまで精巧なものが人に作れるものなのだろうか。

「まゆ人形」のクオリティは常軌を逸していた。肌に触れてみると、本物の人間との違いは人形が少し冷たいくらいだろうか、そのくらいの違いしか感じることができなかった。何の材質なのか見当もつかないがもちもちと柔らかく、それでいて深く押し込むと骨のような固い感触を感じる。

 もしかしたら、この人形の重さからしてまゆの体重まで再現しているのかもしれない。表情はいつも見る微笑んでいるまゆを忠実に再現しており、もしこれが本物のまゆだと言われても何ら不自然のない。写真で見たら本物と間違えてしまいそうなクオリティだった。

 こんなすごい人形、誰に依頼して作ってもらったんだ? 相当金もかかっただろう、一体いくらかかったんだ? 色々な疑問も頭に浮かんだが、一番の悩みはこれをどこに置くべきか、ということである。

 なにしろどう見てもまゆだ。割れ物を扱うようにそっと部屋の中央に立たせてみるが、その存在感は半端なものではない。人型の物が部屋につっ立っている状況というのはそわそわして、自室にいるというのになんだか落ち着かない。

 時計を見ると、もう23時をとっくに過ぎており、もう日をまたごうとしているところだった。明日も仕事がある。俺は軽くシャワーをあびてから、まゆ人形を箱の中にそっと戻すことにした。問題を明日以降に先送りすることにしたのだ。

 ぎょろり、と。箱に入れるとき、まゆ人形が俺をみた気がしたのは、気のせいだと思うことにした。




 夢を見た。

 場所は、事務所……だろうか。目の前にはまゆが、祈るように手を合わせながらこちらを見つめている。

「お返事を……聞かせてもらえますか?」

 どうやら、まゆからの何かしらの提案があったらしい。俺の思考とは関係なく、口が、

「ダメだ」

と声を発する。瞬間、まゆの瞳が濁るのを感じるが、俺はお構いなしのようだ。続けて、

「俺たちはアイドルとプロデューサーじゃないか。俺だって、まゆの事は嫌いじゃないさ。でもな、トップアイドルになりたいんだろう?だったら、俺との恋愛なんてするべきじゃない。心配しなくても、俺みたいな男はそこら辺にごろごろ転がってるよ。まゆはまだ16歳だ、こんなさえない男、すぐに忘れてもっといい結婚ができるようになるさ」

と、堰を切ったように話し出した。

 もし、もしもまゆが俺の事を憎からず思っていて、いつかこんな日が来たとしたら、俺はこんなふうに断ることになるのだろうか。彼女の告白を断っているのは俺であって、俺じゃなかった。どこか冷静にこの状況を観察しながら、俺は漠然とまゆとの関係について考えていた。

「わかりました」

 飽きもせず、あるべき関係について語っていた俺の言葉を遮るように、まゆはそうぴしゃりと言った。一度は伏せたていた顔をあげ、再び俺の方を向く。どうやら、あまりショックを受けた様子でもないらしい。


「Pさんがそういうのなら、まゆにも考えがあります」

 そう言って、ゆっくり、一歩一歩踏み占めるようにこちらに向かってくる。近づいてくるまゆにはなんとも形容しがたい迫力があって、本能的に逃げようとするも足が動かない。そうして、まゆは俺の目と鼻と先まで迫ると、

「……ぁ!? ま、まゆ……」

 その細い両の腕の手のひらを俺の首に絡みつけるのだった。

 苦しい。呼吸ができない。

 あの小さな手のひらの、どこにこんな力があるのだろう。抵抗しようにも彼女の腕はびくともせず、むしろ首を絞める力が強まっていくような感覚さえ感じられる。

「まゆはPさんのもの……。だから、Pさんもまゆの物になってください。ね?ね?ね?」

 ね、ね、ね、ね……。次第に薄れていく意識の中、まゆの何度目かわからない「ね」が頭に響いて、そして……。

「っ! はぁ、はぁ……」

 そこで目が覚めた。壁にかけられている時計をちらりと確認すると、いつも起きる時間、タイマーをセットしている時間の20分ほど前であることがわかる。無意識に首に左手を当てる。当然、まゆの手がかかっているわけではない。あらくなった息の中、俺はひときわ大きな息をついて自分の右のてのひらをに目を向けた。じとりと、汗で湿っている。

 嫌な夢だった。

 首どころか、全身をわしづかみにされているようなゾッとするような感覚がまだ残っている。これまでに見た夢の中でも一番恐ろしい夢だと言っても過言ではないだろう。とにかくリアルで、できることなら今すぐにでも忘れたかった。

 枕元に置いていたスマートフォンを起動する。まゆからの新着のメッセージがないことが唯一の救いのように思えた。

 全身にじっとりとかいた汗を今すぐにでも洗い流したかった。シャワーをあびようとベッドから体を出して、そして……






「――――――――――――」




 思わず息が止まるような感覚。もしかしたら、本当に息が止まっていたのかもしれない。

 まゆ人形。

 昨晩には箱の中に入れておいたはずのそれが、直立の姿勢のまま俺をまっすぐに見つめていた。

 俺はこひゅ、こひゅという、いままで聞いたことのないような自分の呼吸音を無視するようにして、大急ぎでバッグとスーツを掴んで部屋から飛び出した。

 こちらを見つめていたまゆの瞳は、どうしてだか昨日よりも濁っているように見えた。




 威張れるほどの人生を歩んできたわけではないのだが、俺だって色々な経験をしてきた大人なつもりだ。朝の事をいつまでも引きずっているわけにもいかない。

 朝の恐怖体験は、昼、そして夕方にかけて事務仕事をこなしているうちに、偶然が重なりあっただけだということで落ち着きを見せ始めていた。

「あら、プロデューサーさん。今日は随分と調子がいいんですね」

 などと、同じように事務仕事をこなすちひろさんからからかわれる。つまり、それほどまでに熱心に書類と向き合っていたということだろう。熱心というよりは、何か他の事に脳のキャパシティを遣わなければやっていられなかったのだが、今日の事を笑い話にすることもまだできず「ありがとうございます」と苦笑で返事をした。

 そうこうしているうちに時間は過ぎて、テレビ局にいるまゆを迎えに行く時間になる。今日は、確か新しいCDのレコーディングがあったはずだ。直接向かうと昨日聞いていたので、まだ今日はまゆとは会っていない。昨日の時点では朝も送っていこうかと思っていたのだが、朝の時点ではまゆと会いたくなかったのだ。

「それじゃ、まゆを寮まで送りますので一旦失礼します」

 ちひろさんにそう挨拶をすると、彼女は不思議そうにこちらを見つめた。


「え? 一旦、って……プロデューサーさん、まだお仕事ありましたっけ?」

「別に、ないっちゃあないですけど」

「だったら、まゆちゃんを送っていただいたらそのまま帰って大丈夫ですよ?」

「え、ええとですね……ちひろさんのお仕事が残っているならお手伝いしたいんですけど」

「どんな風の吹き回しですか」

 俺の台詞に、ちひろさんはかすかに口角をあげた。

「お気持ちは嬉しいですけど、大丈夫ですよ。もう少しで終わりますし、プロデューサーさんが帰ったら事務所も閉めちゃうつもりだったので」

「そう、ですか……」

 そこまで言われるとこちらからの反撃の材料は何もない。

「プロデューサーさんが私の手伝いをしてくれるなんて、明日は雪でも降るんじゃないですかね。ふふふっ……」

 ちひろさんの言葉を尻目に、俺はとぼとぼと事務所を後にした。

 落ち着きを見せてきたというのは強がりで、しばらくの間は家に帰りたくない、というのが本心だったのだ。




 まゆを送り届けたとき、何も聞くことができなかったことを最初に報告しておく。

 会話をかいつまむと、

「なぁ、まゆ」

「なんですか?」

「昨日の贈り物だけどさ……」

「あ、気が付いてもらえましたかぁ?」

「あ、ああ。ていうか、気が付かない方がおかしいだろ」

「うふ、そうですかぁ。気に入っていただけました?」

「気に入るというかさ、その……凄いなって、思ったんだけど」

「そうですか。ふふ、喜んでもらえてうれしいです」

「あれ、高かっただろ?」

「いえいえ、Pさんのためならお安い御用です♪」

「そっか。それでな、その……」

「?」

「……いや、なんでもない!大切にするよ、ありがとう」

と、こんな具合だった。


 もし。

 もしもまゆが人形に細工をしていたとして、俺の言葉を聞いた時にどんな行動をするだろうか。もしそんなことがなかったとしても、そうしたら今朝の事はどう説明をすればいいんだ? 大金をかけたであろうプレゼントが怪奇現象を引き起こしたと知って、まゆはどんなことを思うだろう?

……と、長々と言い訳脳内でこねくり回して正当化しようとしたが、要するに俺はビビったのだった。まゆが車を降りて女子寮に消えていく数十分の中で覚悟を決めることができなかった。

 そうして今、俺はあの人形の待つ部屋の前で深呼吸をしながら立っている。

 何度目かわからないスマートフォンによる時間チェック。今はちょうど20時だから、かれこれ30分は玄関前でうだうだしていることになる。

 もちろん、帰らないという選択肢も、朝になってから帰宅することでできるだけ人形と過ごす時間を短くする、という考えも頭にはあった。

 ただし、前者の場合はいつまでも先送りを続けなくてはならない。土日の昼に帰ることもできるだろうが、あいにく今日は火曜日だ。着替えだって、仕事に必要な書類だってある。後者ならまだ実現性はあるが、仕事のために睡眠を取ることが一番優先だと思っていたので現実的じゃないように思えた。こうして、思いつく選択肢の中で一番マシなのが「早く帰宅して人形に対処する」というものであると俺は判断したのだった。


 よし、と口に出してみる。

 何度目かわからない空元気だったが、今回はたまたまいい助走になったようだった。俺は思い切ってドアの鍵を開け、そのまま一目散に家の電気を点けた。台所、バスルーム、そして部屋とお構いなしにスイッチを入れたから、たちまち部屋が光でいっぱいになる。


「よかった~」



 部屋の様子を見た俺の第一声がこれだ。目に見える範囲でだが、特に何かが変わっている形跡もない。朝見たときのまゆ人形は部屋の隅、ベッドの反対側に突っ立ったままでいる。安心からか力が抜けて、思わずへたり込んでしまった。

 そこからは、あらかじめ決めていた行動をテキパキとこなすことができた。人形を放置したまま飯を食うのもシャワーをあびるのもまっぴらごめんというものだ。壊すのは流石にはばかられたため、触りたくもない重たい人形をゆっくり、ゆっくりと再び箱の中に戻していく。元々入っていた白い梱包材を、出来るだけ記憶のままに同じように配置してふたを閉めてから、家にあったガムテープを段ボールにグルグルに巻き付けていく。ほぼ新品だったガムテープがなくなるまで巻き付けるのはいかにも臆病な俺らしかった。

 一連の作業が終わった後、俺は恐る恐る段ボール箱をこんこんとノックしてみた。もちろん――というのは俺の希望が多分に含まれているが、中から返事が返ってくることはない。元々、数十キロある人形が入っていた強固な段ボールに、さらにこれでもかとガムテープを追加してやったのだ。たとえ俺が段ボールの中に入れられたとしても出ることができるのかどうか。ここにきて、やっと心が落ち着いた気がして、俺は一つ大きな息をついた。

 そこからはいつも通りの時間を過ごした。まずはシャワーをあびて、帰宅する途中で買ったコンビニの弁当をかっ込み、そして仕事を少しだけ進める。そうしている間にも部屋の隅に置いた段ボール箱をちらちらと確認するが、特に何かが起きることもない。

 12時を回る前には眠気が襲ってきて、俺は人形なんかなかったみたいにストンと眠りに落ちた。きっと、精神的に相当疲れていたのが原因だと思う。

 




 そうして、彼女の時間が来た。








 なにか、足音のようなものが聞こえた気がして俺は目が覚めた。

 薄目を開けて部屋を見渡すも、カーテンから明かりが漏れている気配はなく、部屋は漆黒に包まれている。

 なんだ、気のせいか。

 まだ寝ぼけていた俺は、そんなことを思いながらもう一度寝なおそうと体勢を変えようと身体を横に――――

 できなかった。両足に、何か、太いひものようなものが巻き付いている。飛び上がるように体を起こそうとするが、

「うっ!」

 ぐっ、と引き戻されてしまってそれはかなわない。原因は、腕だ。両手が頭の上で交差した形で縛られている。

「……っ」

 急激に覚醒していく意識の中で、俺の頭の中ではここ二日間で起こったことがリフレインしていた。そうだ、まゆの人形があって、それで、俺は。




「うふ……♪」




 その時だ。

 聞こえてはならない、いや、一番聞きたくなかった声がした。いつもは俺を和ませてくれる、でも決して、今は聞こえてほしくなった声……。

 パチンと何かをはじく音がして、たちまち瞼の裏に光が差し込んだ。どうやら、『何か』が部屋の電気をつけたらしい。体を震わせながら、それでも決死の覚悟で目を開けて周囲を確認する。

「やっと、気が付きましたかぁ」

 声の主はそう言って俺に近づいてくる。フリフリの赤い衣装に身を包んだ彼女は――――間違いなくまゆ人形そのものだっただった。


 人間は、本当に恐怖を感じると声も出ないらしい。少なくとも今の俺がそうだ。

 彼女の顔を見るのが心底恐ろしい。視界の端に、子供の遊び散らかした画用紙みたいにグチャグチャになっている段ボール箱が見える。どうやったらああなるんだ。あの、堅いはずだった段ボール箱が。

 俺はどうなるんだ。一体何をされるんだ。

 脳裏にちらつく想像――あるいは、あまりの恐怖にちらついた幻想はあまりに恐ろしく、グロテスクだった。

「ふふ、そんなに怖がらなくてもいいんですよぉ」

 彼女はそんなことを言いながら、ベッドをきしませて俺の体にのしかかる。いわゆる、マウントを取られた状態だ。思わず喉が鳴る。

「うふ……」

 目と目が合うと、満足げに彼女は目を細めた。

 嬉しそうに目を細めたまゆの、その細く小さい手がゆっくりと顔の方に近づけられていく。無意識のうちに、昨日の夢がフラッシュバックする。夢では、その指が首にかかったんだっけ。

 逃げる? 手足の拘束をこの状況で一瞬のうちに抜けるのは絶対に無理だ。それなら助けを……助け? 段ボールをボロボロにするほどの力を持った奴にマウントを取られているのに?

 もうこうなってしまったら、俺の命運は彼女にかかっているんだろう。

 もう、どうにでもしてくれ。

 麻痺しきってしまった思考の中で、投げやりな気持ちだけがはっきりと言葉になっているように感じられた。

 そんなこちらの気持ちを楽しむように、彼女はゆっくり、ゆっくりと腕を伸ばしてくる。子供のころ、大嫌いだった注射の、注射器が間接の静脈に近づいてくるのを眺めているようなそんな気持ち。いやだ、どうしようもなくいやなのだが、もうどうすることもできない。

 そして夢の通り、彼女の手は俺の首に――――




「……え?」

 かからなかった。彼女の指は予想に反し首を通り過ぎ、強張っているであろう俺の頬をそっと撫でたのだった。その、まるで産まれたての赤ん坊にするようなふわりとしたタッチからは、俺に対して何か害を加えようという気持ちは感じられない。

 ――温かい?

 ここにきて、初めて違和感に気が付く余裕ができる。彼女の指からだけではなく、のしかかられている腹にも寝巻越しにじわりと熱が伝わってきていた。彼女は無機質なただの人形だったはずだ。

 一体、どうなっているんだ。

 まゆは俺の頬を撫でる手はそのままに、俺の疑問などお見通しだと言わんばかりに軽く微笑んだ。そして、動かしていた手をぴたりと止めて上半身を倒してくる。彼女の整っている顔が近づいてきて、次の瞬間には唇を奪われていた。

 温かい。

「ん……っ」

 俺の鼻先に、彼女のぬるい鼻息が当たる。彼女は舌で俺の口内に入ろうと試みていたようだが、俺が口を硬く閉じているのを感じ取ったのだろうか、一度顔を離して俺を見つめた。彼女の唾液が細い糸のようになって彼女自身に一つの筋を作る。先程よりも心なしか赤く染まっている頬と相まって、彼女の顔は非常に扇情的に見える。

 恐怖で凍り付いたように血の気の引いた身体は、いつしか汗をかき出していた。つい先ほどまでくっついていた唇に目が行ってしまう。俺の唾液でテラテラと光っている唇を、小さな舌を見せつけるように一周させてなめとった後、まゆは俺の耳元まで顔を近づけた。


「大丈夫ですよ、Pさん」

 左の耳元に甘い声が響く。

「Pさんが怖がっていること、なんとなくわかります。でも……」

「…………でも?」

「『まゆ』が、そんなことするわけがないじゃないですか」

「まゆ、が……」

「ええ。それとも」

 クスっと、『彼女』の息が耳元をくすぐった。

「まゆがこれまでに、Pさんを困らせるようなことをしたことがありましたか?」

「いや、それは……」

「多少はあるかもしれないですけど、あんまり多くはありませんよねぇ?……これも、夢みたいなものなんです」

「夢……」

「はい。だから、折角の夢なんですから、楽しくまゆと過ごしませんか」


 そう言って彼女は――まゆは、もう一度俺に唇を重ねた。ちょん、ちょんと、彼女の舌先が唇をつつく。恥じらうように、彼女は目を閉じた。あざとい動作だったが、深く絡ませようと必死な舌とは対照的な表情はなんとも愛らしく感じられた。ものの数秒後には彼女の侵入を許してしまう。

「んっ……ふふ……ぁむ……んっ……」

 電球に照らされた静かな部屋の中、口の中で唾液の混じり合う音だけが響き合う。彼女の舌も、唇も、とろけてしまいそうなくらい柔らかくて熱い。どれほどの時間が経っただろうか、もう一度唇を離したときにはお互いの呼吸は乱れきっていた。

「ねぇ、Pさん」

 と、まゆはおもむろに彼女のイメージカラーである赤の衣装に手をかけた。丁度、彼女の右手が胸の谷間のあたりに添えられている。

「まゆのここ、気になってましたよね?まゆ、知っているんですから。Pさんが、ライブのたびにここをチラ見してたの」

 焦らすように、俺のギラギラとしているであろう視線を楽しむように、右手がゆっくりと衣装をはいでいく。そして、ピンク色の円が少し見えたか見えないかというところで――

「っ……!」

「おあずけ、です。ふふ……」

 パッ、っと手を離す。服が一瞬のうちに元の形を取り戻していき、あと少しで見えそうだったまゆの胸が衣装に包まれてしまう。取り繕うこともできずただ息を荒くしている俺の様子に、まゆは満足げにほほ笑んでから、先程まで衣装を掴んでいた右手を俺の固くなっている股間のモノにそっと添えた。


「ねえ……」

 軽く腰を浮かせ、パジャマの上からスリスリと手が前後する。

「まゆに……」

 時々指に力が入り、竿の部分をキュッとつかまれる。思わず呻くような声が出る。

「なにを……」

 シャツの中に手が入る。その頃には痛いほどの熱を股間から感じていた。

「して欲しいですか……?」

 鈴の泣くようなややさかな笑い声。俺はもう正気ではいられなかった。

「手で……」

「手ですか?」

「いや、あの……」

「うふ。いいんですよ、もっと正直になって。手だって口だって胸だって、なんだってしてあげますから」

「なんだって……」

「そう。なんだって、です」


 なんだって。そういわれて、思わず唾を飲み込みつつ、彼女の全身を舐めるように見てしまう。

 柔らかく、少女らしい繊細さを持つ手。あるいは、小さな口内。それとも、さっきお預けされた、控えめながらも形がいいであろう胸……。

 まゆは動きを止めて待っている。恐らく、何をしてほしいのか言えばきっとその通りになるだろう。

 きっと、この行為――彼女が本物であろうがなかろうが、立場上許されない、アイドルに手を出すということを止めるのならばこれが最後のチャンスになるだろう。ここで止まれなかったら明日からどうなってしまうんだろう。きっと本物のまゆとも今まで通りじゃいられない。でも、いいじゃないか。これは夢なんだから、そう、これは夢なんだ――。

 お互いの興奮して吐かれる吐息が部屋を満たして、飽和してしまいそうな気がした。沈黙がどれくらい続いたのかはわからないが、まゆは何も言わず、かといって急かしもせず、ただ深く俺を見つめていた。そして、俺は、




「…………口で、して欲しい」




 欲望に負けて、またこの状況を完全に受け入れることを決めた。

「あはっ」

 言いましたね? というメッセージなのかもしれない。彼女の目が、嬉しそうに細まった。

 まゆの手がズボンにかかる。あっという間にズボンと下着が空気に触れて、籠っていた熱気が冷えるような気がした。

 彼女の視線が俺のモノに移動している。服の上にまゆが乗っかる形になっているため大して動けない。ゆっくりと彼女の顔がペニスに近づいてきて、一つ、大きな深呼吸をした。興奮でおかしくなりそうだ。


「うふ、すごい臭い……。それじゃあ、いただきますね」

 そう言って、まゆは上向いているペニスを右手でそっと顔の方に角度を調整し、多分、見せつけるためだろうか、歯医者でするように大口を開けてペニスを咥えこんだ。

 うっ。という声が思わず出た。気を抜いたら直ぐに出てしまいそうなガツンとした快感。ぬめっと熱い口内のざらつきもそうだが、まゆに自分のペニスを咥えられている光景があまりにも衝撃的だった。

 下腹部に鼻息が当たる中、ストロークが開始される。寝る前にシャワーを浴びているからそこまで不潔ではないだろうが、汚れを全て舐めとるように、彼女の舌はねっとりと裏筋をなぞり、角度を変えて竿の前の部分を舐め、そしてカリと、その間の部分を思い切り刺激した。限界が近いことを伝えるがお構いなしで、それどころか勢いを増すまゆのフェラチオで、俺は声を上げて射精してしまった。

「ん……っ、んっ!? んん……」

 音が聞こえてきそうな、すごい勢いの射精だったと思う。まゆから驚きの意であろう呻きが上がるも、彼女は口を離さずに精子をすべて口内に収めてから、

「ふぅ……んぁ、ふごいですねぇ……」

 と、漸く口をペニスから離して言った。舌足らずなのは口内の精子のためだろう。

「まゆ、机の上にティッシュがあるから」と言いかけるも、まるで薬を飲むようにまゆは精子を胃に送り込んだ。

「ふふ……良かったですか?」

 肩で息をしていた俺を、満足そうに彼女は眺めた。

「あ、ああ」

「なら、良かったです。――でも、まだできますよねぇ?」

 射精を済ませたのにも関わらず大きいままのペニスを一瞥しながらそう呼び掛けられる。ちらりと時計を確認すると、まだ朝までは時間がある。それに、まだまだ満足していない自分がいた。

「そうですね、もうこんなのはいりませんか」 

 視線だけで俺の意を汲み取ったまゆが、俺の手足の拘束をほどき始めた。途中から夢中になって気がつかなかったが、強めの拘束が解けると末端に勢いよく血が巡るのを感じた。

 夜は長い。起き上がってまゆを抱きしめてから、俺は彼女の煌びやかな衣装に手をかけた――。




 長い時間交わっていたはずなのだが、それでもスマートフォンのアラームで起きることができたのは仕事はじめてそこそこ年数が経っているからだろうか。あるいは、昨晩のことは本当に夢だったからなのだろうか。

 あれから、何度果てたのかわからない。まゆの口内でもそうだが、膣にも何度も精をぶつけた。彼女の小さな身体を抱く感覚は、産まれてから経験したことのないような、気絶してしまうような快感で、事実俺は気絶するように意識を失っていたようだった。 

 起きるとまゆは、まゆ人形だった。

 夜になると動き出す玩具が、持ち主にバレないように朝になると元の位置に戻るように。あるいは、だるまさんがころんだをしているように、彼女は昨日俺が段ボール箱に位置のまま無造作に転がっていた。ただ、大量に散らばったティッシュと、ボロボロになった段ボール、それにとてつもない徒労感だけが、昨夜がすべて幻ではなかったことを証明していた。

 まゆ、と声をかけるも返事はない。脱がせた筈の衣装は綺麗に彼女の身体を覆い、べっとりと付いていた筈の体液も最初からなかったかのように無機質にすべすべとしている。

 昨夜の言葉が蘇る。

 ――これも、夢みたいなものなんです。

 本当なのかどうかはわからない。でも、そんな気もしてきていた。

 兎に角、あまり時間がなかった。べたつく身体をシャワーで洗い流してから、出社前、ちょっと人形にキスしてみようかなんて考えて、やっぱりやめて事務所に向かった。


「あら、何かありました? すごくお疲れのようですが」

 ちひろさんに軽いお小言をもらいながら、まゆが来る放課後の時間までできるだけ無心で仕事をこなした。

 できるだけ、というのは、気を抜くと昨夜のことを考えてしまうからだった。小ぶりながら綺麗な胸、締め付けてくる膣の感覚、俺を喜ばせるための妖艶な表情、あるいは、出社してくるまゆのこと。

 今まゆに会ったら、平常心でいられるだろうか。きっとそれは無理で、油断したらとんでもないことを言ってしまいそうだ。今までのバランスが嘘のように崩れてしまう。それとも、もしかして、まゆは昨晩のことを知っているんじゃないだろうか。人形が動いたのだ。ありえない話じゃない。そうだとしたら、俺は彼女にどんな言葉を掛けたらいいのだろうか。

 頭の中でグルグルと破裂してしまいそうだった。できるだけ平常心で、彼女のことは見ないように。そう結論付けるころにはまゆは出社してきた。

「おはようございます」

 ドクンと心臓がはねた。できるだけ平常心で、そう、平常心で……。

「あら……Pさん、お疲れ……ですか?」

 無意識に胸に目が向かうのを感じて視線をそらしつつ、俺は「なんでもないよ」と言った。少し、白々しかっただろうか。

「んー?」

 可愛らしく、見ようによってはあざとさを感じさせるような声とともに、まゆの顔がぐっと近づいてくる。思わず後ずさりして、

「なんでもないよ」

 と言って汗を拭こうとポケットからハンカチを取り出した。その時だ。




「あれ?」



 という声が上がった。見ると、まゆが目を点にしてハンカチを見つめている。

「……使ってないんですか?」

「……何のこと?」

 まゆはいじけたように頬を膨らませた。

「ハンカチですよ」

「ハンカチ?」

 何が何やらわからない。そのことを察したのか、まゆが机の横にあった俺の鞄をゴソゴソとあさり始める。

「ほら、これ」

 ややあって、鞄から見知らぬハンカチが取り出された。いかにもまゆが選びそうな、可愛らしい花柄のハンカチ。

「一昨日、プレゼントしたはずなんですけど」

 嫌な予感がした。

「一昨日?」

「そうですよぉ。Pさん、ラインでありがとうって……」

「ちょっと待ってくれ」


 一昨日、一昨日は……まゆ人形がプレゼントされた日で、ハンカチじゃなくて……。

「人形は?」

「人形? 何のことですか?」

 冷や汗が、どっと噴き出してきた。

「Pさん、ハンカチボロボロだったじゃないですか。だから、プレゼントしてあげたいと思って、一昨日鞄の中にそっと入れておいたんですよ。昨日もお話ししたと思うんですけど、とっても喜んでもらえたと思って。……あの、もしかして、何かと――」

「――ごめん、今日早退するよ! 付き添いはほかの人にお願いしておくから!」

「えっ? Pさんっ!?」

 まゆの言葉を最後まで聞くことなく、俺は事務所を飛び出した。


 あれは、まゆのプレゼントなんかじゃなかった。

 よく考えればわかる。自分の人形なんかよりも、ハンカチをプレゼントする方が現実的だ。事実、俺の使っているハンカチはボロボロだった。まゆの反応からして、嘘をついているとも思えない。
 
 じゃあ、あれはなんだったんだ。俺は、誰から、何を受け取ってしまったんだ。昨日交わった、彼女はいったい何だったんだ。

 法定速度を大きく超えて車を飛ばして、一目散に自宅に向かった。あれを置いておくことはできない。処分の方法は後々考えるとしても、夜になったらあれが動き出してしまう。得体の知れないあれと過ごすことは考えられない。何が起きているのかさっぱりわからないが、絶対、絶対にあれは処分しなければならない。

 アパートに着いて、大急ぎで階段を駆け上がった。一息ついて、『まゆ』から貰ったハンカチで汗を拭いて、なんとなく、そのハンカチをギュッと握りしめた。なにも、なにもありませんように。なにも……。

 マナーモードにしているスマートフォンを見ると、不在着信が入っていた。事務所から一件、まゆから三件。

 これが終わったら、ちゃんと謝ろう。そして、いつか笑い話にでもしてやるさ。そうだ、俺は別に被害を受けたわけじゃない。だから、大丈夫だ。早く済ませて、事務所に戻らなきゃ。

 いつの間にか、左手に持つハンカチが手汗でぐっしょりと濡れていた。その冷たさを感じながら、俺は玄関のドアを開けて――――








「あら、おかえりなさいPさん。ふふ……」







 ばっちりと、玄関に立っていたそいつと目があった。

 考えるよりも先に、悲鳴が出た。次いで足が、逃走のために方向を変えて――

「逃がしませんよ」

 万力のような力で左手をつかまれて、思わずハンカチを落としてしまった。ものの数秒で家に引き込まれる中、俺は自分がいなくなって泣いているまゆのことと、玄関の落ちたハンカチのことを、走馬灯のように考えていた。




終わり

終わりです。読んでいただいてありがとうございました。
エロパートちゃんと書くべきでした。反省します。

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2018年12月06日 (木) 00:52:04   ID: hW8QEI0p

モバマスまゆとデレステまゆは別人だってそれ一番言われてるから。

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