善子「貴女との空」(57)

周りの視線が刺さる。
ヒソヒソ声は隠してるつもりでも、
耳は全てを拾ってしまう。
「化け物」
だと。

教室の空気は拒絶していた。
津島善子という存在を。
いえ、
「口裂け女である津島善子」を。

善子「……失礼したわ」

浦の星女学院の春、津島善子が最後に登校した日は桜が新入生を出迎えていた。

昔、口裂け女と呼ばれる存在が流行った時期があり、本当にいるのか不確かだったのに、目撃情報は相次いで小学校では集団登下校が当たり前に。

口が耳まで裂け、
大きなマスク、
赤いコート、
通りすがりの人に「私、キレイ?」と聞き、
「キレイ」と答えた人に「これでもかぁ!」と裂けた口を見せ、驚いた口を血で錆びた鋏で裂き、
「ブサイク」と答えた人に「お前も同じ目にあわせてやる!」と口を裂いて殺害する。

ポマードと3回唱えるか、
べっこう飴を与えて舐めてる隙に逃げるか、

当時の小学生達は必死に覚えていたが、
果たして私はポマードと言われて、飴を与えられて反応するだろうか?

自宅の鏡に写る裂けた口を見て、
「有り得ないわ」と溜息を吐く。

耳まで裂けた口は、軽く開くだけでも綺麗な歯並びが丸見えだった。

「善子起きてるの?」

母親の呼ぶ声が聞こえる。

善子「……ええ」

裂けた口で返事をすれば、スーツ姿の母親がビニール袋片手に部屋へ入ってきた。
娘の顔へ刻まれた傷を目にして、表情を曇らせる。

「はい、これ朝御飯。ごめんね、時間なかったから急いでコンビニで買ってきたの。あと帰り遅くなるから適当にこれで食べてて」

あれやこれやと手渡される物を善子は次々に受け取っていくが、袋の中に紛れたお札に顔を顰めた。

善子「…………ありがとう」

「冷蔵庫に好きなチョコ置いてるからね?じゃあ」

気遣われてる……幼少の頃からずっと。
ただそれが助かっている反面、自分の傷に対して罪悪感を覚えてる母親の姿が痛々しい。

善子「……こんなにいらないのに」

コンビニ食品を冷蔵庫に戻すと、ひんやりとした板チョコを取り出して興味なさげに齧り付く。
裂けた場所から零れないように。

テーブルに置いた5000円は、今日も使われないだろう。

ふと、浦の星女学院の制服が視界にうつった。
壁にかけたままですっかり埃まみれになってるのを綺麗にすることはなく、ただそこにある。
善子は「女子高生」だという唯一の証。

善子「今更学校、なんてね」

ベランダに出てみれば、蝉の声。
いつもより強い日差しに呆れるけど、よく考えれば関係ない。

善子「……あら?」

しかし、今日はどこか違う。
善子は僅かに聞こえてきた音を頼りにリビングへと戻ると、テレビの電源がついたままでニュース番組が流れていた。

善子「きっと消し忘れね」

リモコンを手に取り、煩わしい元凶を絶とうとすれば──。

「女子高生がプールの飛び込みで不慮の事故」

と、物騒なテロップが目に入り、モニターに映し出される「事故を起こした女子高生」の詳細が語られるが、やはり興味ないので結局はテレビを消してしまった。

所詮、彼女には関係がないのだから。

夜が街を覆い隠し、人々が帰路についた静かな時間……善子が翼を広げる時。

ゴシックな衣装に身を包み、善子は港の展望台へ繰り出していた。街を一望出来る場所は、夜になれば人の気配がなく、善子にとって唯一心が安らぐ空間。

善子「神様に嫉妬されて醜悪な天使へ堕とされた私は、まさに堕天使ね……」

しかし、2週間経って梅雨に差し掛かったある日、
招かれざる客が車椅子に乗って展望台にいた。

善子「今日は先客がいたのね……」

不味い……と冷や汗が伝う。
もし「口裂け女」と呼ばれる噂が耳に入っていたら、これからも利用しにくくなってしまう。

善子「でも、距離を開ければいいでしょ」

しかし、何かが引っかかる。
車椅子に座って窓の向こうを眺めてる、弱々しい女の子に。
どこかで見たような。

善子「関係ないか」

そう踵を返そうとしたら、

曜「ねぇ……誰かいるの?」

思わず呼び止められてしまった。

善子「……」

返事をしようかしまいか、善子は思わず口ごもってしまう。

曜「急にごめんね……思わずびっくりしちゃって」

びっくりした?自分以外の人が来たことに?
それなら善子も内心驚いている。
まさか夕陽が沈む前の時間に、人がいるとは。

善子「……」

違和感。車椅子の女の子は言葉を発しているけれど、決してこちらを見て話してはいない。
音を探してるかのようにキョロキョロと辺りを見回していた。

曜「いきなり話しかけられたら……嫌、だよね。ごめんね」

おかしい……私は貴女の近くにいるのに。

善子「……ねぇ貴女」

そっと肩に手を置いたその瞬間───。

曜「わあぁぁぁぁ!?」

オドオドしてた彼女は突然パニックを起こして、車椅子の上で暴れだしてしまった。

善子「な、なによ!?」

咄嗟に抑えようとしても力が強く、吹き飛ばされそうになる。しかしこのまま放置は出来ない。
だが、

善子「しまっ!?」

彼女の指がマスクを偶然にも掴んでしまい、無理やり引き剥がされてしまった。
裂けた口が露出して善子は咄嗟に片腕で顔を隠すが、そのせいで彼女に突き飛ばされてしまう。

善子「っ!あんたねぇ……!」

しかし、気づいてしまった。

善子「もしかして、目が見えないの?」

曜「はぁはぁはぁ……」

自分を守るように抱きしめるその姿は弱々しくて「盲目」であることを、ようやく認知した。

善子「その……さっきはごめんなさい。いきなり触って……」

今は落ち着いてもらおう。
顔が見えていないなら好都合……と、善子は出来るだけゆっくりと声をかける。

曜「あ、あの……私の方こそ……ごめんなさい!まだ慣れて、なくて……」

まだ慣れてない?
盲目になって日が浅いの?

曜「ほんとに……ごめんなさい……」

先に手を出したこちらが謝るべきことなのに、彼女は頭を垂れてまで謝罪をする。音を拾えてるからか、身体をこちらへ向けて。

善子「……謝らなくていいの」

正直に言って戸惑っていた。
目の前にいる人は、今まで出会ってきた人の中で特殊な部類になるから。

曜「でも……悪いのは私だから」

ほら、また謝る。

スポーツをしていたのだろうか、
ガッシリとした肉体なのに小さく見えてしまう。

だからなのか、
彼女が見えないからなのか、

善子「……名前、教えなさいよ」

それとも堕天使が差したのか、

善子「私はヨハネ……堕天使ヨハネ」

自ら名乗り出していた。

曜「………………曜でいいよ」

盲目の曜、
口裂けの善子、
2人は出会ってしまった。

それからというものの、
私は展望台に行くたびに彼女、曜と出会った。

曜「あ……」

気まずい……といえば嘘ではない。
何故ならファーストコンタクトが酷い有様だったから。

善子「あ……」

まさかまた会うことになるとは。
夏が近いのに長袖の服を着た貴女……。

善子「……おはよう」

おはようと言うには、遅い時間。
だけど捻り出して抽出した言葉なのだから仕方ない。

曜「……おはよう」

だけどお互いのぎこちなさは解けるわけがなく、
絶妙な距離感がもどかしかった。

善子「……ここ好きなの?」

曜「……はい」

善子「……そ、そうなんだ」

気まずい。

曜「……」

善子「……」

曜はウズウズして、ずっと手元を弄ってて伏せ目がちに。

善子「あ~……」

言いたいことがありそう……と思うけれど、善子は場所を移動することにした。それが解決策だと知ってるから。

曜「あ、あの……」

また、呼び止められた。

曜「い、いえ……なにも……」

今日、展望台の窓から眺めた景色はどこか曇っており、心にモヤモヤが居座り続けた。

だから、3度目の出会いで善子は思わず溜息を漏らす。呆れてるのではなく、3度目の偶然に。

善子「……偶然ね」

曜「……あ、来てたんですね」

3度目も善子より早い時間帯に。

善子「お気に入りの場所だから」

窓から眺める夜景は街の灯りに照らされており、マスクをつけた醜い自分がどうしても視界に写ってしまう。

窓越しに見える曜は申し訳なさそうに縮こまっており、しまった……と目を細める。

善子「だからと言って私のだけの場所じゃないし、誰がいてもいいけどね」

そう、1人になれる空間だけれど「公共の場所」なのだから独占は出来ない。
幸いにもこの場所は広くて顔を合わせずに済ませることは容易であった。最も気に入っていた景色を放棄しないといけない条件付きで。

曜「……待って」

遠ざかる足音に気づいてしまったのか、まさか声をかけられるとは思わなかった。相変わらず声音は震えていたが、驚いて「えっ!?」と素っ頓狂な声が漏れてしまう。

遠ざかる足音に気づいてしまったのか、まさか声をかけられるとは思わなかった。相変わらず声音は震えていたが、驚いて「えっ!?」と素っ頓狂な声が漏れてしまう。

曜「あ、いや、私がお邪魔したから……」

善子「……そんなわけないでしょ」

居場所を持ってない堕天使が勝手に根城にしてた、ただそれだけ。お邪魔、なんてまるで私が悪いみたいな言い方ね……微妙なイラつきが抑えられない。
それはきっと自分を「口裂け女」と罵倒されることに慣れたせいもあるし、気を使ってくる母親と被るせいでもある。

善子「……ここにいなさい」

曜「えっ……?」

今度は曜が素っ頓狂にこちらへ向いたけれど、なんだ、ウジウジしてるだけじゃなくて、驚く声も出せるのね……善子はどこか嬉しい気持ちになってしまう。

善子「貴女もここが好きなのでしょ?だったら、好
きにしたらいいじゃない。私も好きにするし」

曜「…………」

出会って3回目の人に突然言われたら、流石にドン引きよね……恥ずかしくて車椅子の曜へ視線を向けられないけれど、長い沈黙からはとっとと解放されたかった。
初めて誰かとこうして話すのは初めてだから、という理由もあるけれど。

曜「……あ、あの」

勇気を振り絞って動かされる唇は、曜が首からぶら下げていた携帯電話の着信音によって強制的に切断されてしまい「閉館時間だね」と、本日の会合は終わりを告げられた。
係の人が曜を迎えに来る前に、善子は踵を返す。

「また、明日……ね」
という呟きを背に。

今日は気分が良い​─────ただそれだけの理由でいつもより早い時間帯に家を後にした。
昨日より人通りは多いものの、歩幅が少しだけ大胆な善子にとっては吹く風と同義で気にならない。
夕日が影を逃がしていく中、展望台までは距離があるけれどつい口ずさんでしまう。
しかし、ふいに呼び止められてしまった。

ルビィ「津島さん……だよね?」

小さく、まるで小動物のような女の子に。

善子「……誰?」

浦の星女学院の制服を着ているということは同じ学校で、同じリボンなので同級生ということは理解した。

ルビィ「え、えと、あの!く、黒澤ルビィって言います!覚えてないかな?」

久しく学校には通ってないので自己紹介の記憶は朧気だが、人見知りでガチガチに緊張していた子がいたのを微かに思い出す。

善子「あー……」

だとしたら不都合だ。クラスメイトからも影で噂されてる自分に何か用だろうか?
と言っても目の前でオドオドしてる子が、自分なんかのためにわざわざ時間を割いて「嫌がらせ」をするのは想像出来ないけれど。
というより、この子内浦住みじゃなかった?と疑問が浮かんでしまった。

ルビィ「覚えてないよね……あ、あの!不登校の善子ちゃんにプリント届けに来て……それで……」

こちらが黙って凝視してたからだろうか、
ルビィの語尾は次第に弱くなって困ったのか今にも泣き出しそうだった。無理もない、話しかけてるのは誰もが恐れる「口裂け女」
酷い罰ゲームね、クラスメイトの顔が見てやりたいわ……。

ルビィ「あ、あの……」

善子「……はぁ」

ルビィ「!」

善子「プリント、よこしなさい」

ルビィ「……え?」

善子「だから、プリントよ」

ルビィ「え、あ、うん!待ってて!」

途端、雲が散りゆくように笑顔が晴れ渡り、先程とは打って変わってイキイキと鞄を漁ってプリントの束を渡してくる。何この子……調子狂うわねと善子は受け取った。

ルビィ「えへへ」

ふにゃふにゃな笑顔でルビィは見えない尻尾を振っていた。

善子「……あんた、怖くないの?」

だから、どうしても確かめたかった。
この子も知ってるはずだから。

ルビィ「ん?なにが?」

キョトン、と首を傾げるその幼い顔に善子は拍子抜けして転びそうに。

善子「ちょ……なんでもないわ」

あまりにも純粋すぎる。
この子は私にこれ以上関わってはいけない、
そう促そうとしたら──、

「あっれ~善子じゃん!」

「うっわ、バケモン!」

もう2度と聞きたくなかった、
ずっとずっとずっと忘れたいと懇願していた声が耳を突き抜け、時が止まったと錯覚した。
どうして……?

「あんた、相変わらず不登校なの?」

「ねぇねぇ、そいつ友達?あんたみたいな怪物に友達?」

言わないで……。

「そこのちっちゃいあんた、この善子ってさぁ」

言わないで……!その子を巻き込まないで!

善子「やめなさい!!!」

抑えきれない……私に「悪意」の目を向ける、元クラスメイトに。

「おら、大人しくしろっての!」

背中から羽交い締めにされ、もう1人がニタニタ醜悪な微笑みを晒しながら、私にとって外してはいけない大切なマスクへ手をかけ、

「口が裂けたバケモンなんだよ!!!」

奪い去ってしまった。
善子を守る、ちっぽけで大きなマスクを。
無残にも捨てられゴミのように足で踏み潰される。笑い声をあげられながら。

憎い……どうして放っておかないの?
私が何をしたの……?
眼前が霞んできたけれど、固く閉じた口を無理矢理にでもこじ開けてくる手を止められなかった。

「大人しくしろっての!」

直後、腹部へ重い痛みがめり込むと、
「がはっ……!」
閉じていたかった口を開いてしまった。
「口裂け女」を知らないルビィの目の前で。

耳まで裂けた、大きな口を。

悔しい……憎い……止まらない感情がドロドロとせめぎ合うけれど、それ以上にルビィに「裂けた口」を見せてしまったことが辛く、重くのしかかる。

善子「ご、ごめんなさ……」

ルビィ「やめてよ!」

時間が止まった気がした。

ルビィ「なんでそんな酷いことするの!? 津島さんを離してよ!!!」

子犬のように怯えてたルビィが、私を取り囲む者共へ向ける「目」は怒りに満ちており、まるで別人のようだった。

「は?何言ってんだこいつ?」

「うちらにそんな態度とっていいの?」

「バケモン庇うの?」

でも全く怯まない。むしろ余計に油を注いでしまっている。こうなれば手遅れね……せめて遠くへ逃げて────、

ルビィ「バケモンじゃない!!!」

ルビィ「津島さんはバケモンじゃない!!!」

なおも立ち向かう、その小さい身体の勇気。
彼女の怒りは憎しみでなく「侮辱」された純粋な怒りだった。
善子はただ、目の前の光景が信じられなくて開いた口が閉じられない。
どうしてこの子は、今日会ったばかりの私に対してここまで出来るの?

どれだけ優しい子なの……?
理解が出来ない。
津島善子の心は渦を巻いて感情の波に流される。

「ちょっと威勢がいいだけで、ほざいてんじゃねーよ!」

激昂した者が今にもルビィへ殴りかかろうとした時、

ダイヤ「少し威勢があるだけでほざいているのは、どちら様ですの?」

漆黒の髪が揺れ、鈴のように美しく澄んだ声が張り詰めていた空気を極限まで凍てつかせた。
善子の側まで近づいてきたダイヤは、賊を睨みつけて決して離さない。

ダイヤ「たった1人相手に恥ずかしくありませんの?それに、うちの妹と津島さんを侮辱しておいてただで済むと思わないことですわ」

善子は「うちの妹」と聞いて、ルビィの勇気と誰かのために怒る強さを、やっと理解することが出来た。

「だ、だったらなによ……あんた1人で何できんだよ!」

ダイヤ「誰かと思えば、貴女のお父様は私の親族が経営する施設で勤務されてるみたいですわね。そちらの方も、津島さんを拘束されてる方も……どうやら皆さんまとめて路頭に迷いみたいようなので、きちんと話を通しておきますわね。1人で」

蜘蛛の子を散らすように賊共は逃げ、善子はその場にへたりこんでしまい、自分達を助けてくれたダイヤの力に顔を隠すのも忘れてしまった。
「怖かったよぉぉぉ!」と声を上げて泣いてしまったルビィを、先程とは違う慈愛に満ちた顔で受け止めるダイヤは「頑張りましたわね……ルビィ。もう大丈夫よ?」と宥めていた。

善子「あ、ありがと……」

ようやく捻り出した声は頼りなく、自分でも驚くほど震えてしまっていた。

ダイヤ「津島善子さん……でよろしいですわね?」

ルビィから離れ、こちらへ手を差し伸べて微笑むダイヤ。助けてくれたことに変わりはないけれど、その手を取ることは出来なかった。
いくら腹部が傷もうとも自身の足に喝をいれて立ち上がる。

善子「……助けてくれてありがとうございます」

これ以上、この姉妹に自分が迷惑をかける必要なんてない。剥き出しの口を腕で覆ってその場を去ろうとするけれど、

ダイヤ「お待ちなさい──津島善子さん」

善子「…………」

ダイヤ「………いえ、何でもありませんわ」

夕日が沈んでいく中、善子は嫌でも頭に浮かんでしまう。

「学校に来てみませんか?」

という言葉を飲み込む、ダイヤの表情を。

展望台で曜と挨拶を交わしたのは、閉館時間が迫っている時だった。

しかし、心無しか曜はいつもより元気がないように見えて声をかけてみるものの「大丈夫……だよ」と流されてしまった。震える手も知らずに。

それから数日後、相変わらず展望台に赴けば車椅子の曜がおり、善子は話しかけるわけもないけれどなんとなく側にいた。
打ち解けている……とは思わないけれど、梅雨が近づく季節、暑さが身を焦がし始めても長袖の彼女に疑問を抱き始める。

善子「……暑くないの?」

衣替えした善子はふと、軽く聞いてみただけだった。

曜「…………うん」

冷房の効いた展望台だから、それ以上は特に興味はなかった。しかし、

曜「ヨハネさんは気になるの?」

ボソリと呟く声は消え入りそうで、

曜「実は私も気になってるの……なんで毎日マスクつけてるのかなって」

まるでこちらの顔色を伺うかのように問いかける姿は、今にも消えてしまいそう。
震えてるのか、肩が微妙に動いてるのが目に見えてわかる。

善子「……気まぐれよ」

曜「教えると嫌われてしまうから?」

見透かされた……と同時に、彼女も服の下にもあるのだろうと確信してしまった。
「嫌われてしまう」と強く思い込んでしまう何かが。

空は海のように青いのに、気分は灰色。

善子「えぇそうね。嫌われてしまうわ。貴女には見えないけれど」

だったことカミングアウトしてやろうか、
嫉妬した神に傷つけられた醜悪な顔を。
篭った熱にふやけたマスクをずらすと、曜の目の前で開く……口裂け女と同じ裂けた口を。

善子「これが私……口が裂けてるの。周りからは口裂け女と呼ばれてるわ」

不敵に微笑み、彼女の反応を待つ。彼女が頭の中で思い浮かべてる「ヨハネ」はたった今、醜い口裂け女になったと。

曜「なんだ……そんなことなんだ」

「そんなこと」
たった一言で済まされたカミングアウトに善子は少々腹立たしさを覚えるが、同時に「きっとそう言ってくれる」と予想が出来ていた。だから、呆れて溜息が零れる。

善子「はぁ……次は貴女よ」

悪い意味で、曜のカミングアウトもある程度予想が出来ていた。善子自身も高校に上がるまで数えきれない程経験してきたから。

しかし、

曜「じゃあちゃんと見てね。今の私には見えないから」

それは想像を絶する光景だった。

善子「……!?!?!!!」

口が裂けてる、ということがいかに生温いか、残酷な現実を目の当たりにして涙が止まらなくなる。
「見えない」ことがどういうことか、
込み上げる胃酸に腰が抜けて立ち上がれなくなった。

善子「……なんで……こんなの……」

殴られた?カッターナイフで切られた?そんな生易しい傷ではない……ましてや、ターゲットが「盲目」だということが歯の奥をカチカチと鳴らす。

曜「はは……嫌いに、なったよね……きっと凄いんだよね、私の腕……」

泣いてるのは善子だけではない。
白濁色の瞳から1粒1粒痛みを涙にして零れさせ、紐が切れたかのように抑えていた感情が爆発し、彼女はただ泣き叫ぶ……自身の人生を、見えない目を、理不尽に与えられた傷を。

曜「なんで!?なんで私なの!?みんな私を傷つけるの!?怖いよ……痛いよ……なんで……友達だと思ったのに……なんで誰も助けてくれないの!?」

曜「私何もしてないのに!!!!!!!!!!」

展望台に響き渡る叫びは、いつまでも善子の心にこだまし、気がつけば目の前の曜をそっと抱きしめていた。震える身体を守るように、あまりにも大きすぎる傷を受け止めるように……。

煮え滾るどす黒い感情は唇を噛んで砕き、自分と変わらない「同じ女の子」である曜の慟哭が止まるその時まで。

曜「みんな側にいてくれたのに……見えなくなった途端なんで……!!!怖いよ……みんなの顔が見えないのが怖い!!!」

曜「怖い……怖いよ…………!!!」

もし目が見えなかったら──善子には分からない。けれど渡辺曜にとっては地獄であり、救いのない世界なのだと彼女の叫びが物語っていた。

もしここが地獄なら……どうして彼女は堕ちてきたのか。

どうして「大丈夫、私がいるわ」と言えなかったのだろうか。

だからこそ、

善子「悪いけど、あんたがいくら怖がってもこの私は嫌うことなんてないわ」

お互いの秘密を受け入れあった。

私が守るから……と胸に秘めて。

次の日から特に変わったことはなく、今まで通りの私達だった。

善子「おはよう」

曜「あ、今日は早いんだね」

実は渡辺曜が昼間から展望台にいた事実を知った以外は。

善子「たまたまよ、たまたま」

真っ赤な嘘だった。本当は昨日のことで曜のことが心配になって、いてもたってもいられなくなったから……とは素直に言えず。

曜「そっか、嬉しいな」

心を見透かしてるのか、曜は微笑んで車椅子から立ち上がる。

善子「ちょっと、危ないわよ」

駆け寄って慎重に手を握ると、曜は少し驚いてから「やっぱり、心配してくれてたんだね」と悪戯っぽく笑った。

善子「そんなの知らないわ!」

あぁおかしい……今までの曜より少し距離が近づいたことで、自身の心が戸惑って落ち着きを知らない。

曜「ごめんね。本当はこの景色を見て欲しかったんだ」

そう言って曜が指差す先、
沼津の街ではなく、
海のようにどこまでも青く澄み切った空は近くて、どうしてか言葉を失うほど魅入っていた。

しかし、

善子「て、あんた見れないじゃん」

曜「だから、善子ちゃんに見て欲しかったの。私の好きな景色だし」

善子「あ……」

自分の軽率な思考に罪悪感を覚えてしまう。

曜「ふふ、優しいんだね」

善子「……優しくないし」

曜「本当はね……薄ぼんやりだけど感じるの」

白濁の瞳は遠くを見据えてるかと思えば善子の方へと向けられ、微笑む頬はやがて笑顔に変わり、

曜「青空を見る善子ちゃんの……青くて綺麗な心」

曜「綺麗だね、善子ちゃん」

綺麗な心…………果たして自分に相応しくないものがあるのだろうか?
口が裂けて腐りきってる私に……と、眩しい笑顔に向き合えず言葉を返せないでいた。

曜「ねぇ、スクールアイドルって知ってる?」

善子「なによそれ……」

全く関係の無い話題が飛び出す。

曜「学校でアイドル活動をする人達なんだけど、とってもキラキラしてるんだ……青空みたいにね」

でも──と、恥ずかしそうに頬をかく仕草をする彼女は遠くを見据えて続ける。

曜「私の友達にもね、スクールアイドルが大好きだった子がいて……事故の後喧嘩しちゃってもう話してないんだけど」

情けないなぁ私、なんて自虐的に笑うけれど善子はそれでも話しを遮らない。

曜「舞台の上で踊るアイドルの子達って、とっても楽しそうで見てるこっちも笑顔になっちゃう」

曜「…………ねぇ」

開けた窓から差し込む風が曜の髪を撫で、叶わぬ願いを星に切望する少女の儚い微笑みが咲き、

曜「私達なら、どんなスクールアイドルになってたのかな?」

決して有り得ない未来へ思いを馳せていた。

善子「……さぁね」

自分が舞台の上に立ち、大勢の人の前で踊り歌う姿が想像出来ない善子は曖昧に返事をするけれど、

善子「ま、引っ込み思案なあんたを私が引っ張っていくんじゃない?」

何故か2人で楽しく笑い合う光景は想像出来て悔しいので、意地悪に答えてしまう。

曜「もう酷いなぁ……でも、ヨハネさんにならいいかな……なんて」

善子は思わず笑ってしまう。何故なら、

善子「私は堕天使ヨハネよ?美貌に嫉妬した神によって天界から堕とされ、醜悪なる堕天使」

善子「貴女も共に堕ちようと言うのかしら……?」

心がどうしようもなく温かくて、いくら正そうとしても笑顔が止まらないから。汗が滲みでるほど暑い顔を見られるわけないのに、曜から隠したくなる。

曜「ふ、ふふ……」

善子「ちょっと、何がおかしいのよ!」

曜「堕天使でも優しいんだねって」

善子「は、はぁ!?ちょっと、あんた何言って!」

暑い暑い暑い、顔が熱い。

曜「私が堕天したら……堕天使ヨウ、かな?」

善子「聞きなさいよ!」

どうしてか、今日の曜にはずっとペースを崩されて心臓が痛いほど煩いのに、全く悪い気がしなくて……日差しに照らされる彼女は、海のように青い空と相まっていつもより綺麗に見えてしまった。

善子(なんだ、ちゃんと笑えるじゃない……)

この日、この瞬間を記念日とするなら何かをプレゼントしたい……そう思えてしまえる。
微笑んでるのを知ってるのは、善子を写し出す窓ガラスだけだったとしても。

しかし物事はそう簡単に上手くは行かず、
夕方から沼津の雑貨屋で睨めっこしていた。

善子「てか、プレゼントって何を渡したらいいのよ」

人生で誰にも何かをあげた記憶はないので、いざ渡すと意識すれば全くもってちんぷんかん。

善子「あの人の喜ぶものってなによ」

ここはオルゴールか聴いてそうなCDを……と足を別の場所へと向けようとすれば、

ルビィ「あ!善子ちゃん!」

叶うことなら会いたくなかった人物に声をかけられてしまった。

ルビィ「どうしたの?お買い物?」

人懐っこいコロコロとした笑顔で、あっという間に近くまで来てしまう。甘い香りが鼻孔をくすぐり、きちんとしてることに感心する。

善子「……別に」

素敵な姉がいて、
綺麗な顔立ちで、
何不自由がない彼女はこれ以上自分と関われば不幸になる……良心は軋むけれど仕方がなかった。

ルビィ「でも、ずっと睨めっこしてたよね?」

ニヤニヤと笑う顔が憎ったらしく、プリント1枚渡すだけで泣きそうになってた子とは別人ね……なんて呆れてしまう。

善子「……貴女には関係ない」

恵まれた貴女は私に関わらない方がいい……そう立ち去りたかったけれど、

ルビィ「関係あるよ。はい」

差し出された手には、天使の翼をモチーフとした銀色のネックレスが握られていた。

善子「なによ……これ……」

ルビィ「善子ちゃんの探してたプレゼントだよ」

驚きのあまり渡されるまま受け取るけれど、
誰かにプレゼントの話などした覚えがない。

善子「なんで分かるのよ」

ルビィ「だって善子ちゃん、自分の物だとぱっと決めそうなのに、悩んでるってことは誰かにプレゼントしたいんだよね?」

図星だった。というより、いつの間にルビィに見られていたのか……善子は「話しかけなさいよ」という気持ちと恥ずかしい気持ちに挟まれてしまい、頭を抱える。

善子「はぁ……あんた、ほんっと恐ろしいわ」

とんでもない人に懐かれたものね……とニヤニヤな笑顔を背にレジへと足を運んだ。


善子「ねぇ、軽蔑しないの?」

家の裏手にある階段に並んで座り、2人でジュースを飲んでる時にふと気になって善子は聞いてみた。

ルビィ「軽蔑?なんで?」

答えは予想通りだけれど、首を傾げるルビィの顔がやはり受け入れ難くて。

善子「……ほら、私って」

顔を隠す髪をかきあげ、裂けた口を見せつける。

ルビィ「うん?だからどうしたの?」

善子「いや、だからさ」

普通なら1度見ただけで「怪物」と軽蔑されるのに、この子はまるで「そこにいて当たり前」という風に返すので、むしろ何かしらの反応が欲しくなってしまう。

ルビィ「あ、分かった!はい!」

善子「飴……?」

ルビィ「違うの?」

善子「……はぁ」

口の端から落ちてしまうから食べたくないけど、差し出された以上頂くしかなくて。

善子「……ありがと」

落ちないように慎重に舐め、口の中に広がるとっても甘いイチゴの味に目を細めた。

ルビィ「ふふ、ごめんね。別に善子ちゃんの口が裂けてても善子ちゃんには変わりないから」

参ったわ……甘すぎて胸焼けを起こしそう。
善子はバレないように空を見上げた。

ルビィ「それにね、いじめてきた人達に絡まれた時、善子ちゃんはルビィに謝ってたよね?それでね思ったの。ルビィを巻き込みたくなかったんだなぁって……」

「ありがとう」って微笑むルビィの純粋さ、
善子にとってはあまりにも眩しくて。

ルビィ「だから……」

その先の言葉はどうしても聞きたくなくて、

ダイヤ「ルビィ」

妹を呼ぶ優しい声に内心ホッとしてしまう。

ルビィ「あ、お姉ちゃん!」

ダイヤ「丁度いいですわね。善子さんに用がありましたの」

決意めいた感情が宿った瞳は強いけれど、優しく微笑むその顔に善子は何も言えないでいた。

ルビィ「用って何?」

ルビィは疑問を浮かべてるけれど、善子は立ち上がってダイヤへ促す。

善子「……ちょっと向こうで話さない?」

ルビィから少し離れた場所に腰を下ろしてすぐ、ダイヤは善子に向き直って改めた姿勢で軽く息を吸った。

ダイヤ「津島善子さん、身勝手なことであるのは承知しておりますが……もしよろしければ受けてみませんか?傷の治療を」

頬を撫でる風は吹き止む。

善子「……ふざけてんの?」

ダイヤ「失礼な言い方になりましたわね。整形費は浦の星女学院生徒会長黒澤ダイヤ、理事長小原鞠莉が責任を持って全額負担しますわ」

信じられない。あまりにも話の都合が良すぎて、それが冗談ではないということに怒りが通り越してしまう。

そう、悪気はない。彼女は本気で提案してるのだから。

善子「……ごめんなさい」

だからこそ飛びつくわけにはいかない。

善子「この傷も私なのよ」

善子「誰かの援助で治すぐらいなら、自分の力で治したいの」

またとないチャンスなのは理解してる。
しかし、善子は絶対に譲れなかった。
真っ直ぐダイヤを見つめる。
彼女の好意を拒絶する痛みと共に。

ダイヤ「……そうおっしゃると思っていましたわ」

バツが悪そうに俯くダイヤはすぐ向き直ると、静かに頭を下げて謝る。

ダイヤ「貴女の強い気持ちを無下にするような提案、申し訳ありません。私はただ、貴女が見た目だけで口裂け女と呼ばれることが許せなくて」

ダイヤ「以前、ルビィを助けていただいた時に思いましたの。貴女は誰よりも人の痛みがわかる人だと」

善子「あーはいはいストップ」

最近、内面を褒められることが過剰になったため、善子は心臓の許容量がオーバーしそうになる。

このまま素直に聞いてれば、ダイヤは褒め続けると安易に予想できた。

ダイヤ「はっ!申し訳ありません。私としたことが……!」

どこまでも真面目なのね……善子は微笑んで立ち上がると、近くで待たせているルビィと目が合って軽く手を振ると恥ずかしいのか、遠くを眺めて呟く。

善子「ま、まぁ……友達?にはなってやらんことないわね」

もう手遅れかもしれないけどね、と笑顔のルビィに微笑んでしまった。

善子「それにしても蒸し暑いわね」

梅雨の空が沼津を覆い尽くす。

曜「ヨハネさん、おはよう」

今日から梅雨に入ったのか、分厚い雲が空を覆い尽くし、まるでバケツをひっくり返したような雨が止まない。
どこにいても蒸し暑く、せっかくのマスクも水分を吸ってふやけて気持ち悪かった。

善子「おはよ」

展望台から眺める景色も薄暗いため、灰色の空が恨めしいくて思わず睨んでしまう。

曜「雨激しいね」

困り顔の曜は雨であっても相変わらずで、
善子は少し救われた気持ちになる。

善子「そうね、堕天使が喜ぶほどの雨だわ」

皮肉を言ったところで雨は止んでくれないけれど。

善子はポケットから紙袋を出すと、曜へのプレゼントを手の中で確認する。
銀色のネックレス──天使の羽がモチーフの。

曜「善子ちゃん、どうしたの?」

貴女の側へより、
「ちょっとだけ触れるわね」と首へ手を伸ばし、そっとネックレスをうなじで止める。ずっと戸惑ったままの曜は「なに?なにつけたの?」と聞いてくるが、手探りでプレゼントを確認するし「……わぁ……嬉しい……」と少女の笑顔で喜びを表していた。

善子「堕天使ヨハネのリトルデーモン……その証よ!」

素直に「プレゼント」なんて言えないから、
つい誤魔化してしまうけれど、

曜「証かぁ……嬉しいな!ありがとう!」

きっと伝わってるから大丈夫。


気づいた時には閉館時間が迫ってきたので、善子は曜の車椅子を押して下まで連れていく。出会った頃は受付の人の役目だったが、最近は善子が恒例に。

建物の外へ出た頃には外に1台の車が止まっており、運転席から曜の母親が降りてくる。

引き渡して終わり……それが毎日の日課であり、これからもずっと続いていくのだと信じていた。
遠くなる車の影を見守りながら家路へ歩き始めた善子の背後、物陰からこちらを覗いてるかつていじめてきた連中に気付かぬまま。

「……いい気になりやがって」

その日の晩は異常な蒸し暑さでなかなか寝つけず、クーラーのスイッチを入れてようやく瞼が蓋を閉じてくれた。
起きた頃には昼を余裕に超えて、夕闇に蝕まられていた。

善子「っ!いけない!」

昨日、曜と別れる前に「お昼、一緒に食べよう」と約束していたので、慌てて飛び起きる。

あまりにも騒がしく準備していたからか、母親が「どうしたの」と様子を見に来た。

善子「え……なんでお母さんが……?」

普段ならまだ学校で仕事なはずなのに、浮かない顔をした母親がいた。

「あら知らないの?今朝女の子が海に飛び込んで亡くなったって」

海に飛び込んだ?
時々ありそうな事件ね……と他人事のように聞いていた善子。

「もしかしたら事件の可能性もあるからって、早いうちにみんな帰ることになったの」

まるで地元「沼津」で起こったかのような口ぶりに一瞬、冷たい悪寒がぞわりと背中を這う。

「だから、今日くらいは家にいてね……?今は危ないから。沼津港で起こったことだけど、決して遠くはないから」

沼津港……その言葉だけで善子は最悪の結果が頭の中をよぎって足元から崩れ落ちる恐怖にかられる。違う、ありえないと必死に言い聞かせて。

乾燥して上手く話せない喉から無理矢理にでも声を掻き出し、母親へ答えを知りたくない質問を投げかける。

善子「ね、ねぇ……その飛び込んだ子って……」

ただの偶然……そう思いたくて。

「善子と同じ学校の子みたいよ……確か─────わたなべよう」

気づいた時には家を飛び出していた。

わたなべよう?
それって……曜?
それとも別人?
頭の中がぐちゃぐちゃに混乱し、途中でタクシーを拾った時には余っ程酷い顔をしていたのだろう。終始怪しまれていた。

それでも善子は「女の子が飛び込んだ」ことと、曜が全くの無関係であると早く知りたくて、ただ焦る気持ちに駆られていた。

近づくにつれ、
人だかり、
車の通り、
いつもと違う異常な景色が善子の希望をヤスリで削るように少しすつ、奪っていく。

お願いお願いお願い全てが気のせいであって。

タクシーを降りると展望台の前でたかる人々を押しのけてその先で見た光景は、

善子「───────────────?!!」

信じたくなかった。
口が裂けたことが不幸というのであれば、
大切な人の水死体は絶望に等しかった。

善子「うそ…………でしょ……」

引き上げられて間もないのだろう。
警察が野次馬に制止の声をかけるのが聞こえなくなり、ブルーシートの上で横たわる「渡辺曜」だったものしか見えない。
皮膚は膨れ上がり、身体はズタズタに傷つき、恐怖と痛みに歪んだその顔は辛うじて曜であることが認識できた。

善子「…………なんで……なんで!!!」

信じたくなかった。
駆け寄っても警察に止められるが、目の前の曜を曜だと認めたくない。

善子「どうして曜が死んでるの!?なんで!ねぇなんでよ!!!」

「きみ、止まりなさい!」

善子「うるさい!こんなの嘘よ!嘘に決まってるわ!だって曜は昨日私と話してたの!死ぬわけないじゃない!」

善子「ね、ねぇ……その飛び込んだ子って……」

ただの偶然……そう思いたくて。

「善子と同じ学校の子みたいよ……確か─────わたなべよう」

気づいた時には家を飛び出していた。

わたなべよう?
それって……曜?
それとも別人?
頭の中がぐちゃぐちゃに混乱し、途中でタクシーを拾った時には余っ程酷い顔をしていたのだろう。終始怪しまれていた。

それでも善子は「女の子が飛び込んだ」ことと、曜が全くの無関係であると早く知りたくて、ただ焦る気持ちに駆られていた。

近づくにつれ、
人だかり、
車の通り、
いつもと違う異常な景色が善子の希望をヤスリで削るように少しすつ、奪っていく。

お願いお願いお願い全てが気のせいであって。

タクシーを降りると展望台の前でたかる人々を押しのけてその先で見た光景は、

善子「───────────────?!!」

信じたくなかった。
口が裂けたことが不幸というのであれば、
大切な人の水死体は絶望に等しかった。

善子「うそ…………でしょ……」

引き上げられて間もないのだろう。
警察が野次馬に制止の声をかけるのが聞こえなくなり、ブルーシートの上で横たわる「渡辺曜」だったものしか見えない。
皮膚は膨れ上がり、身体はズタズタに傷つき、恐怖と痛みに歪んだその顔は辛うじて曜であることが認識できた。

善子「…………なんで……なんで!!!」

信じたくなかった。
駆け寄っても警察に止められるが、目の前の曜を曜だと認めたくない。

善子「どうして曜が死んでるの!?なんで!ねぇなんでよ!!!」

「きみ、止まりなさい!」

善子「うるさい!こんなの嘘よ!嘘に決まってるわ!だって曜は昨日私と話してたの!死ぬわけないじゃない!」

認めたくない。こんな現実間違ってるって。
曜は死んでいない、目の前にいるのは曜以外の誰かって。

「一旦落ち着いて!」

善子「落ち着いてられないわ!ねぇ曜、あんたいつまで寝てんの?早く起きなさいよ!車椅子忘れてきちゃったの?」

心が訴えてくる。もうやめなさいと。

善子「仕方ないわね。私が上まで連れて行ってあげるわ。ほんと手のかかるリトルデーモンね。証まで忘れちゃって……」

いつの間にか警察が手を離し、善子は気付かぬまま曜だったものへ近づき、目の前で屈んで語りかける。

善子「ほら、今日は一緒にお弁当食べる約束でしょ?ちゃんと作ってきてあげたんだから感謝しなさいよね」

どうしてか、目頭が熱くなって雨じゃないのにポタポタとアスファルトの上に雫が落ちていく。

善子「もう、証までつけるの忘れちゃって……」

ブクブクに膨れ上がったその手、決して離さないように強く握りしめられた証──天使の羽。

善子「────────あぁぁあぁあぁぁぁぁ!」

警察が強引に善子を引き離そうと肩を掴む。

善子「離して!離しなさい!!!!!」

善子「あぁあぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!」

降りしきる土砂降りの雨の中、

裂けた口が千切れるほど、

善子は叫び続けた。

慟哭の雨は、きっと止まないだろう。

「善子、ご飯用意してるからね?」

部屋の外から母親の声が聞こえてくるけれど、
善子にとってはどうでもよかった。
あの日からずっと部屋に篭った善子は、ただ時が過ぎるのを待つだけの空虚になっていた。

窓を叩く雨音さえもあの日を思い出すため、ずっとカーテンを閉ざしている。

目を開いているけれど見ていない、
起きてるようで起きていない、
最早生きる理由すら失っていた。

しかし、

「あら……お友達?」

ルビィ「は、はい。あの、善子さんは……」

誰かが家に上がり、軽い足音が部屋へと近づいてくる。果たして誰なのか、何の用事なのか、今の善子にとってはどうでもよくて。

ルビィ「善子ちゃん……入るよ?」

控えめに開かれた扉から零れる明かりが、ベッドの上で横たわる善子を照らす。

ルビィ「最近元気ないみたいだから」

口裂け女と海に飛び込んだ女の子は関係性がある──という噂は嫌でも街に広まり、当然ルビィの耳にも届いていた。そして飛び込んだ女の子こそ、善子がプレゼントを渡した相手なのだと知ってしまった。

善子「…………だからなに?」

無気力な声は雨に掻き消されそうになり、ルビィは何も言葉を返せなかった。

善子「…………なんで」

今にも命を絶ちそうなほど灯火は脆い。
しかし、ギリギリの所で躊躇している。

ルビィ「…………また来るね?」

何も出来ないことを痛感したルビィは部屋を後にするがそのまま立ち去ろうとする瞬間、
「どうして自殺なんかしたんだろう……」
と、涙混じりに声を漏らした。

自殺……?

痩せ細った身体は空虚が嘘だと思うほど飛び起き、部屋の外にいるルビィへ詰め寄る。

善子「自殺ってどういうことよ?」

その瞳はまさに「怒り」だった。

ルビィ「よ、善子ちゃん!?」

善子「答えなさい!曜が自殺ってどういうことよ!!!」

ルビィの肩を強く掴む。
決して逃がさないように。

ルビィ「あ、あの……」

見たことない恐ろしい剣幕にたじろいでしまうが、

「善子!何してるのよ!」

家にいた母親に引き剥がされそうになる。
それでも「曜」が自殺をした──ということがあまりにも信じられなくて、

善子「黙って!ルビィ、曜が自殺したって誰に聞いたの!?言っとくけどあの子は自殺するような子じゃないの!これが最後よ……誰が自殺したって言ったの?」

ルビィは肩に走る痛みに顔を歪めるけれど、涙を流しながら答えていく。

ルビィ「け、警察の人達が……目が見えない心労で自殺したんだって……」

「自殺」
善子は散々事情聴取で曜がいじめられてること、自分達をいじめた者達がいること、
それらを必死に訴え続けたにも関わらず、下された「判断」はあまりにも無責任だった。

善子「あ……はは……は……は……はは……」

ルビィの肩から手が滑り落ち、乾いた笑いしか出なくなる。
自殺?もし自殺ならば、曜はどうしてネックレスを握りしめていたの?
絶対に離さないように……。

ルビィ「あ、善子ちゃん!!!」

ルビィは善子を止めようとするけれど、
近くにあった裁縫用の鋏を握りしめ、

善子「近寄らないで!!!」

その切っ先をか弱いルビィへ向け、善子は家を飛び出した。
傘もささないで。

展望台へたどり着いた頃には、息するのすら苦しいほど雨が降っていた。
それでも善子は見上げていた。
大切な彼女との思い出の場所を。

善子「どうして……死んだの?」

誰も答えてはくれないけれど、握りしめた鋏の刃が肌に食い込み血が流れ落ちていく。

その時、誰かが展望台から降りてきたのだろうか、ガラスドアの向こうに人影が見えて善子は咄嗟に身を隠してしまう。

「んだよ雨降ってるじゃん」

「だからやめとけって言ったのに」

「でもさ、誰も疑ってなかったよね」

「あぁ?うちらがあの盲目を殺したって?」

殺した……?
曜を……?

「ほんと滑稽だったよね。あんなやっすいネックレスに返して!お願いします!ってさ!」

ネックレス……?
それは私がプレゼントした曜の宝物よ?

「だったら取りに行けよ!って海に投げたらそのまま飛び込んじゃうしさ!」

「見えてないから分からないんだって!」

「必死にもがく姿、あれ笑えたね」

「あいつが悪いんだよ。あの口裂けがうちらに逆らったのが悪いんだからな!」

海にネックレスを投げた?
曜は見えないのよ……?

ケラケラと命を侮辱する不快な笑いは、善子の心に「憎しみ」を滾らせた。

何も見えない世界で大切なプレゼントを追いかけ、苦しみと恐怖に支配されてそれでも「ネックレス」だけは絶対に離さなかった曜の純粋さを踏みにじる鬼畜の所業に、自分の中の何かが切れてしまう。

世間は自殺と断定した。

しかし、

見えない少女を弄んで死に追いやった「殺人鬼」の正体は、誰も見ようとしない。

青い空よりも綺麗な心を持つ少女の命に、この世界は盲目だった。

善子「だったら……望み通りの姿になってやる」

心が壊れていく。
全てが憎い、ただその感情に身を委ねて。


曜、
貴女は私を「綺麗」だって微笑んでくれたけれど、
これからの私にも言ってくれるかしら?

「あ、お前……!」

「もしかして今の聞かれてた……?」

ねぇ、曜──────────。

赤く染まった鋏は凶刃となり、
裂けた口は不気味に開いた。

善子「私、綺麗?」

エピローグ。

黒澤ダイヤは朝から嫌な予感が胸中で渦を巻き、
家に帰りついたルビィが泣きついてきたことで「予感」は「確信」に変わった。

嫌なこと、というのは恐ろしいほど的中してしまう。想像以上に。

ダイヤ「あぁ……あ……善子……さん?」

雨に流される血の池に横たわる肉塊、
それは惨たらしく切り刻まれ、抉られ、ダイヤは胃酸が逆流して吐き散らしてしまった。

ダイヤ「あ、あああぁあ……あぁあぁ……あぁ……」

息が乱れてやがて過呼吸へとなっていく。

善子「……」

返り血に染まり、真っ赤な善子が黒澤ダイヤへゆっくりと近づいて……。

ニタァ……と笑った。

おわりです。

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