白菊ほたる『災いの子』 (136)

モバマスSSです。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1525442847

   01.

「本日の出演者の白菊です……。みなさん、よろしくお願いします……」

 スタジオでは、テレビ局のスタッフと思わしき人々があわただしく行き交っていた。私が口にした挨拶に反応はない。喧噪にかき消されて、誰の耳にも届かなかったのかもしれない。
 邪魔にならないよう隅のほうに移動し、こそこそと辺りを見回す。
 今から収録する番組には、同じ事務所に所属しているアイドルといっしょに出演する予定で、彼女とは現地で合流する手はずとなっていた。だけど、その姿が見当たらない。
 時計を見ると、収録が開始される予定時刻の15分前だった。まだ来ていないのか、あるいは、別の場所で待機しているのかもしれない。
 しかし、それから20分経っても、30分経っても、一向に同僚のアイドルは現れず、収録が始まる気配もなかった。

「おーい、そこの……アンタ! 今日はもう帰っていいよ」

 突然スタッフのひとりからそう言われ、びくりと体が震えた。

「わ、私ですか?」

「そう、お疲れさん! おいAD、番組のプロデューサーとクソ事務所のプロデューサー呼んで! 会議するぞ!」

 スタッフはイライラした様子でどこかに歩き去っていった。
 状況はよくわからないけど、どうやら収録は中止になったらしい。スタジオからは波が引くように人が消えていき、すぐに私ひとりだけが残された。 

「あの……すみませんでした」

 誰もいなくなったスタジオに頭を下げて、そこをあとにする。自分のことながら、誰に、なにを謝っているんだろうと思った。



 建物の外に出ると、空はどんよりと曇っていて、少し肌寒かった。雨は降っていないけど、いつ降りだしてもおかしくない。降ると思っておいたほうがいいだろう。
 とぼとぼと駅に向かって歩き出す。赤信号に捕まっているあいだにいちど振り返って、出てきたばかりのビルを眺めた。

 ……せっかくの、テレビのお仕事だったのにな。

 今日撮るはずだった番組のメインは、私の同僚アイドルだった。私はいてもいなくても変わらないオマケのような役柄で、もしちゃんと収録が行われたとしても、トータルで5分映っているかも怪しいといったところだろう。
 それでも、テレビに出たという実績があれば今後仕事を取りやすくなる、とプロデューサーさんが言っていた。実績、芸能事務所に籍をおいてはいても、私にはそれがない。

 ……そうだ、連絡しなきゃ。

 携帯電話を取り出し、事務所に電話をかける。
 はい、と事務員の女性の、機械のような声が応答した。

「もしもし、白菊です。お疲れさまです」

《お疲れさまです》

「あの、収録現場に行ったんですが……中止になったみたいで……」

《……ええ、存じてます》

 少し前にテレビ局からクレームの電話が入ったらしく、収録中止の件はすでに事務所に伝わっていた。
 そもそも中止になった理由が、私と共に出演する予定だった所属アイドルが急なキャンセルをしたためだったそうだ。

 腹が立たなかったと言えば嘘になる。だけど、私は文句を言える立場にはなかった。
 共演予定だったその人は、事務所で唯一の『売れているアイドル』というもので、うちの事務所は実質的にその人がひとりで全職員を養っているような状況だった。
 だから彼女はどんなワガママも許されたし、誰も苦言を呈することはできなかった。ほとんどまともにお仕事をこなしたこともない私とは、比較するまでもない。

「そう、ですか……私は、どうしたらいいですか?」

《白菊さんは、もう事務所には来なくてけっこうです》

 事務員さんが明日の天気を告げるみたいに言った。
 事務所には立ち寄らず直帰していい、というだけの意味ではなく、なにか含みを感じる響きだった。

「あの、それは……どういう……?」

《それから、近日中に寮からも退去していただきます》

 クビを言い渡されているのだということに、やっと気付く。頭の中が真っ白になった。

「待ってください! どうして!」

《どうしても、白菊さんとは共演したくなかったそうです》

 今日の仕事をキャンセルしたアイドルのことだろう。

《局からは、今後うちの事務所に仕事を依頼することはないと言われました》

「そんなの……」

 私のせいじゃないと言いたかった。勝手にキャンセルしたのはその人で、そんなの私の落ち度じゃない、と。

《白菊さんもご存知の通り、最近のうちの経営は順調とはいえません。今回だけの話ではありません、他にも大きな仕事が流れました。……白菊さんが所属してから》

 それだって、私が関わっているものはない。
 だけど私も、事務所の職員もみんな知っていた。直接関与していなくても、私が『そういうこと』を呼び寄せているのだと。
 私は電話を耳に押し当てたまま固まっていた。電話の向こうの事務員さんも、なにも言わずに黙っていた。

 しばしの沈黙のあと、ごうっとノイズのような音が耳に届く。電話の向こうで事務員さんが吐いた息が、受話器のマイクに当たって起こした音のようだった。

《あなたさえいなければ》

 そう言い残して、通話が切れた。ツーツーという電子音を聞きながら、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。

   *

 幼いころから、人並外れて運が悪かった。

 歩けば転び、走れば更に転び、階段があればいつも転げ落ちた。足場はよく崩れたし、なにもないところでは空からなにかが降ってきて、子供のころはいつも生傷が絶えなかった。
 物心ついたころにはすでにそうだったため、私はしばらくのあいだ、それが異常なことだとは思っていなかった。
 気付いたのはある時期から、同年代の他の子供たちに避けられるようになってからだ。

「ほたるちゃんの近くにいるといやなことが起こる」

 なんの悪意も込められていない、文字通りの無邪気な言葉だった。
 改めて周りを見回してみる。他の人たちは私と比べて、そんなにケガをしていなかった。
 私以外の人間にとって、この世界では、犬は誰にでも吠えているわけではなく、鳥は人を狙ってフンを落としてはおらず、雨の日のドライバーは歩行者に水を浴びせることに生きがいを見出しているわけでもないらしい。
 
 じゃあどうして、私だけが?

 答えはやはり子供たちが教えてくれた。「ちかよるな、不幸がうつる」と。
 ひそかに抱いていた数々の疑問が、そのひとことで氷解した。



 ああそうか、私は『不幸』なんだ。

 なにごとも慣れてしまえば普通というもので、自分の身に降りかかるだけだったなら、たいしたことじゃないと思えた。だけど私の不幸は、しばしば周りの人たちを巻き込んだ。
「ごめんなさい」と謝ることが口癖になった。私のせいで、ごめんなさい。

 いつからか自然と、他人と距離をとるようになっていた。傍から見れば私は、暗く、おとなしく、人付き合いの悪い、引っ込み思案な子供と映っていただろう。だけど他人が嫌いだったわけじゃない。他人を不幸にしてしまうことが嫌だった。
 私はただそこにいるだけで不幸を撒き散らす。災いをもたらす。
 だから私はそこにいてはいけないと、楽しそうに笑う人たちの姿を、いつも遠くから見ていた。

 とはいえ、子供の身である以上、現実問題として家族と距離をとることはできない。
 己の異常な体質に気付かなかった理由に、母や父もよくケガをしていたということがある。だけどそれは、同じ体質を持っているのではなかった。ケガは、私がさせていた。

 あるとき思い立って、「私がいるとあぶない?」と母に訊ねてみると、
「お母さんはいいよ、お母さんだから」と、答えになっていないような答えが返ってきた。
 それから、母は少し笑いながら、「お父さんもね」と付け加えた。

 ある日、『アイドル』というものを見た。
 それはテレビの音楽番組で、若い女の人がフリルいっぱいのひらひらしたドレスに身を包んでいた。

 彼女は希望の歌を歌っていた。
 信じればいつか夢は叶うというような、陳腐でありふれた歌詞。だけどそれは、これまでに聴いたどんな歌よりも私の心に響き、深く深く刻みつけられた。

 後から思い返してみれば、歌もダンスも技術的には立派なものではなかったと思う。
 だけど、そのときの私の目は、すっかりテレビの中の彼女の姿に釘付けになっていた。

 彼女は楽しそうだった。
 とてもとても楽しそうに見えた。
 色とりどりのライトが照らすステージで、力いっぱいに歌って、踊って、笑っていて、なんだか見ている私まで幸せな気分になったことを覚えている。

 その笑顔が、私にもうひとつの呪いをかけた。
 私もアイドルになりたいと、そう願ってしまったことだ。

 家族にも内緒で小さな芸能プロダクションのオーディションを受け、数日後に合格の連絡が届いた。それから三日三晩かけて必死に両親を説得し、知り合いのひとりもいない東京で生活を始めた。
 これで私もアイドルだと、胸をときめかせて。
 だけど現実はそんな甘いものじゃなかった。故郷を離れても、芸能事務所に所属しても、私の不幸は止むことはなかった。

 最初に所属したプロダクションはたびたび空き巣被害にあい、事務所が火災で半焼して、最後は従業員がお金を持ち逃げして倒産した。
 当時のプロデューサーさんが紹介状を書いてくれて、私は他の事務所に移籍することができた。

 移籍した先のプロダクションは、あまり経営がうまくいっておらず、ある日訪れたら入り口に、『倒産しました』と張り紙が残されていた。社長が脱税容疑で書類送検されていたことは後で知った。
 私はすぐに別のプロダクションを探して、所属オーディションを受けに行った。

 契約には保護者の同意がいる。移籍をするたびに私は実家に書類を郵送し、電話をかけた。
 電話に出た母に、不安を感じさせないように事務的な口調を作って、「別のプロダクションに移籍した、書類を送ったから記入して返送してほしい」と伝える。
 あまりに短い間隔で移籍を繰り返す私に、きっと言いたいことはたくさんあったと思う。だけど母はいつも私の説明に淡々と相槌を打ち、最後に「寂しくなったら、いつでも帰ってきていいからね」とだけ言った。
「だいじょうぶ」と答えるときだけ、いつも涙がこぼれそうになった。
 本当はいつだって寂しかった。帰りたいなんて、毎日のように思っていた。
 だけど、まだあきらめたくない。もう少しだけがんばりたい、がんばらせてほしい。

 夜、眠るたびに夢を見た。かつて所属していた事務所の社長や、同僚のアイドルや、プロデューサーさんたちが私を指差して「お前のせいだ」と責めたてる夢だ。夢の中の私は、ひたすらに頭を下げて「ごめんなさいごめんなさい」と繰り返していた。

『お前のせいだ、お前さえいなければ』

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
 私さえいなければよかったのに、ごめんなさい。

 目が覚めるたびに、この世から消えてしまいたいと思った。
 とっくにわかっていた。私がアイドルになろうとすればするほど、たくさんの人に不幸が降りかかる。
 私は呪われている。アイドルなんて目指していい人間じゃないと。

 だけど、アイドルを目指すことをやめてしまったら、私は不幸を撒き散らすだけの災厄でしかないから、
 こんな私でも、いつかみんなに幸せを届けられるって、信じていたかった。

   *

 ひどく喉が渇いていた。

 辺りを見回し、すぐ目の前の公園に飲み物の自動販売機があるのを見つける。
 重い足取りでそれに近づき、財布を開く。小銭の持ち合わせがなく、千円札を投入した。吸い込まれていった紙幣は、機械に認識されず、投入口から戻ってくることもなく、どこかに消えてなくなった。
 私は、もたれかかるように自販機に額をぶつけた。この衝撃でお金が返ってこないかと、淡い期待を込めて。
 もちろんそんなことはなく、ただ痛いだけだった。



 私はどうして、いつもこうなんだろう。



 これでも、一生懸命がんばった。
 アイドルになりたくて。いつか見たあの人のように、みんなに幸せを届けてみたくて。

 ……幸せになりたくて。

 だけど、もう、疲れてしまった。



 鼻の奥がツンと痛くなり、涙がこみ上げてくるのを自覚する。



 あきらめなければ夢は叶うなんて嘘だったよ。

 がんばってもがんばっても、いいことなんて、なにもなかったよ。

「どうしたの?」

 ふいに背後から声がかかる。あわてて目元をぬぐい振り返ると、すぐそばにスーツ姿の男の人がいた。
 周囲に他に人の姿はない。さっきの言葉は、私に向けて言ったようだ。

「……ちょっとだけ、つらいことがあって」

 いつもだったら、聞こえなかったふりでもして、逃げるようにその場を立ち去っていたと思う。そうしなかったのは、誰でもいいから会話をしたかったのかもしれない。

「収録のこと?」

「どうして、それを……?」

「見てたから」

「テレビ局の……スタッフさんですか?」

 男の人は、「いや」と言って、名刺を差し出してきた。
 受け取ったそれをながめて、思わず身が震えた。346プロダクション、それは私の所属している――していた事務所なんて比べ物にならない、大手の芸能事務所だ。そこの、プロデューサー……。

「そうだったんですか……でも違うんです。つらいのは収録のことじゃなくて。私、アイドルじゃなくなっちゃいました」

「どうして?」

「実は、暗い話で申し訳ないのですが……。今まで私が所属したプロダクション、全部倒産してるんです。前のも、その前のも……」

 当たり前のように身の上話をしている自分を不思議に思った。
 相手が、本当なら私なんかが一生関わることのない雲の上の人だから、かえって気が楽になっているのかもしれない。

「今回のプロダクションでは、お仕事をもらえて……。売れっ子さんのバーターでの出演でしたけど、それでもいけるかなって思ってたんですけど……やっぱりダメで」

「今日の、現場に来なかったって子かな」

 こくりとうなずきを返す。

「その人は、私なんかと組みたくなかったらしくて……。プロダクションの人からは、大きな仕事がなくなったのは私のせいだって言われて……。いつもそうなんです、事故とかアクシデントが私のせいでたくさん起きて……。私なんかがアイドル目指したら、ダメだったんですね」

「ダメじゃない」

 私は首を横に振った。

「私は、人を不幸にしちゃうんです。呪われてるんです。そんな人は、アイドルにはなれないんです。きっと」

 たぶんこの人は信じていないんだろう。すべてはただの偶然で、被害妄想にでも陥ってるとでも思ってるんだろう。

「アイドルになりたくない?」

 男の人が、握手でも求めるみたいに、手を差し出してきた。
 スカウトをされているのだと気付き、どくんと心臓が跳ねる。
 心が揺れ動く。期待をしてしまう自分が嫌になる。また同じことを繰り返すだけだって、わかってるのに。

 ――あなたさえいなければ。



 伸ばしかけた腕がこわばる。
 もしも私がこの手を取ってしまったら、この人も、いつかはそう思うのだろうか。

「……ダメです。スカウトなら……他を当たってください」

 そう言い残して、私はほとんど走るように足早に公園を出た。

 私はきっと、後悔するのだと思う。
 せっかくの誘いをなぜ受けなかったのか、なぜ諦めてしまったのかって。この先、ずっとずっと。

 だけどもう、これ以上、私の夢のせいで傷つく人を見るのが怖かった。
 最初は優しかった人が、私の不幸を知って、忌まわしいものを見る目を向けてくる瞬間が怖かった。



 それから、追いかけてきた男の人が、私の行く手をさえぎるように前に出て、

 私の目の前で、車にはねられた。

   02.

 あたしはかなりの夜型なもんで、たいていの場合、かなりの深夜になってから床につく。
 昨夜は特に、次の日(つまり今日)が久々のオフだと知っていたこともあって、なんの遠慮もなく夜更かしして、ベッドに潜り込んだころにはもう空が明るみ始めていた。

 目覚ましアラームもなんもかけずにぐっすりと熟睡し、目を覚ましたころには当然、おてんとさまはすっかり高いところまで昇っていた。
 あかん、このままでは昼食まで食べ逃してしまう、なんて思いながらも、寝起きのだるさに抗えず、布団にくるまってぐだぐだとしていた。そんなとき、
 突如ガガガガガっと削岩機のような音が上がり、なにごとやねんと目を向けると、机の上にほっぽらかしていたスマートフォンが振動していた。
 もう少し静かに鳴ってくれたなら無視してもよかったけど、これはちょっとあまりにもうるさい。あたしは断腸の思いで愛するおふとんに別れを告げ、元気のよすぎるスマホを手に取った。
 画面を見ると、事務員の千川ちひろさんからの着信だった。はて珍しい、と思いながら通話ボタンを押して耳に当てる。

「はいはい、シューコちゃんですよ」

 ついさっきまで寝ていたせいか、声は自分でもびっくりするぐらいガラガラで、恥ずかしくなってあわててげふんげふんと咳払いをした。

《まさか、こんな時間まで寝てたんですか?》

「いや、うん、いや?」

《まあ、オフですし構いませんけどね。手が空いているようなら、ちょっと周子ちゃんに頼みたいことがあったんですが……その様子だと空いてますね?》

 こういう人の弱みにすかさず付け込むところは、是非とも見習いたいものだね。

「内容によるかな」

 ちひろさんからの依頼は、新人アイドルが寮に入るから案内してやってほしい、とのことだった。
 平日のまっ昼間ということもあり、学生たちはみんな学校に行っている。そうでない人らは仕事やらレッスンやらに出ていて、ちょうど手の空いているのがあたしぐらいしかいなかったそうだ。

 特に用事があるわけでもなかったので、あたしはそれを承諾した。
 新人さんがどんな子かというのにも興味があったし、寮に入るのならなにかと顔を合わせる機会も多いだろう、他の誰よりも早く顔見知りになれるというのに、ちょっとした優越感を感じたりもする。
 新人さんは鳥取県出身の13歳、今日は手続きのために学校は休んだらしい。若いというよりは、まだ子供だね。寮に入るということは、親元を離れて暮らすことになるわけだ。

「13歳っていうと中学生か、さぞかし寂しがるだろうね」

《いえ、もともとこっちで生活していたみたいですよ》

 それは、ひとり暮らししていたということだろうか。13歳が?

「……ワケアリな感じかな? 家庭事情にはあまり突っ込まない方がよさそう?」

《そういうわけではなく、先日まで他事務所に所属していたそうです》

「へえ、移籍なんだ。引き抜き?」

《……私もあまり詳しいことは》

「まあええよ。で、時間は?」

《今こちらで書類手続きをしてますので……そうですね、30分後ぐらいにロビーで待っててもらえますか?》

 ちひろさんとの通話を終え、あたしは手早くシャワーを浴びてから1階ロビーに降りた。
 長椅子に寝そべり、共同スペースから持ってきた雑誌を眺めながらしばし待つ。ほどなくして、入り口の自動ドアの向こうにひと組の男女が連れ立って歩いてくるのが見えた。
 少し後ろを歩いている少女が新人さんだろう。聞いた年齢よりはいくらか大人びて見える。
 男のほうは、あまり話をしたことはないけど見覚えのあるプロデューサーだ。あの人が新人さんの担当になったのかな。……って、なんだあれ?

 あたしは体を起こし、自動ドアを通ってきたふたりに向けて片手を上げた。

「白菊ほたるです……よろしくお願いします」

 緊張した様子の少女がぺこりと頭を下げる。業界経験があるせいなのか、やけに礼儀正しい。

「ほたるちゃんね、よろしくー。あたしは塩見周子。えーと……知ってるかな?」

「はいもちろん。CDも持っていて、よく聴いてます」

 あたしは心の中でほっと胸をなでおろした。自分ではそこそこ売れてきてるんじゃないかなー、なんて思ったりするものの、そもそもアイドルなんてのは興味のない人はまったく興味がないわけで、有名人ヅラして相手が知らなかったりすると、なかなか恥ずかしいことになる。
 まあ、同業に知られてないってことはさすがにないとは思うけど、念のためね。

「では塩見さん、案内はお願いします」とプロデューサーが言った。「白菊の部屋は616号室で、荷物はもう運びこまれているはずです」

「うん、それはいいんだけどさ……それ、どしたん?」

 あたしは自分の頬を人差し指でとんとんと叩いた。
 プロデューサーの頬には、大きなガーゼが医療用テープでとめられていた。よく見れば、手やほかのあちこちにもガーゼや絆創膏がぺたぺたと貼られている。
 なぜか、ほたるちゃんがばつが悪そうに顔を伏せた。

「かすり傷です」とプロデューサーが答える。

 そのかすり傷の原因を聞きたかったんだけどな、と思ったけど、たぶん言いたくないということなのだろう。それ以上の追求はやめておいた。

「じゃあついてきて」

 ほたるちゃんに向けて言って、あたしは先導して歩き出した。

 ここが大浴場だけど各部屋にもユニットバスはついてるよ。こっちは共同スペースで何種類か定期購入されてる雑誌があるから勝手に読んでいいよ、読み終わったら戻しておいてね。エレベーターはあっちとそっち、このドアの向こうは非常階段、と適当に施設内を案内していく。
 ほたるちゃんはきょろきょろと周りを見回しながら、慎重な足取りであたしについてきた。新しい環境への興味というふうではなく、なんとなく、警戒をしているように見えた。この子は殺し屋に命でも狙われているのだろうか?

「で、最後にここが食堂ね、朝昼晩にごはんが出るよ。時間逃したら食べられないから気を付けてねー」

 そのときはギリギリで昼食を出してもらえる時間だった。ほたるちゃんもお昼はまだ食べていなかったそうなので、あたしらはせっかくなのでうどんをすすっていくことにした。

「だいたいこんなところかなー、あとなにかわからないことある?」

「いえ、だいじょうぶです」

 ほたるちゃんは毒でも盛られていないかと疑うように、ゆっくり、おそるおそるといった感じにうどんを食べていた。いったいなんなんだろう、一風変わった子には慣れているつもりでいたけど、これはなかなか珍しいタイプだ。

「……あの、わざわざ案内までしてもらっておいてこんなこと言うのは失礼だと思いますが、私にはあまり関わらないほうがいいです」

 ほたるちゃんが言った。
 正直なところかなり驚いた。積極的に打ち解けにくるほうではなさそうだとは思ったけど、こんなにもはっきりと拒絶されるとは予想外だった。

「あ、いえ、違うんです。その、私がいると迷惑になると思うので……」

「うーん? 迷惑なんてことないけど、なんでそう思うん?」

「不幸がうつりますから」

 あたしは考えた。考えたけど、なにを言っているのかわからなかった。

「……不幸が」

「はい」

「うつりますから」

「はい」

 これは、どう反応したらいいものだろう。ジョークにしては真剣な表情をしているし、笑うところではなさそうだけど。

「プロデューサーさんも、私をスカウトしたせいで……交通事故に」

「交通事故?」

「はい、車に……昨日のことですが」

 なるほど、それで傷だらけだったのか……なんて簡単に納得するはずもない。

 ちら、とほたるちゃんのどんぶりに目を向ける。麺は見えない、おつゆはまだ残ってるけど、かなり片寄った割れ方をした割りばしはきちんとそろえて置かれているから、もうごちそうさまということだろう。どうやら毒も入っていなかったようだ。

「なかなか面白そうな話だから、もう少し詳しく聞かせてもらいたいかな。ちょっとあたしの部屋こない?」

「いけません! そんな、なにが起こるか……!」

 ほたるちゃんがあわてて首を横に振る。
 大真面目で言ってるんだよね、これ。

「じゃあ、ほたるちゃんの部屋だったら?」

 そう問いかけると、ほたるちゃんはそわそわと視線をさまよわせた。迷っているらしい。

「はい決定、行ってみよー」

 これは強引に行けば押し切れると判断し、あたしはそう言って勝手に616号室、ほたるちゃんの部屋に向けて歩き出した。

「どうぞ……気を付けてください」

 鍵を開けたほたるちゃんが先に部屋の中に入る。
 引っ越してきたばかりなので、中は当然がらんとしていた。間取りはあたしが住んでいる部屋と変わらない。家具と呼べるものは備え付けのベッドがひとつだけ、ほたるちゃんの荷物らしい開封されていないダンボール箱がいくつか、部屋の隅に積み重なっていた。

 このなにもない部屋で、いったいなにを気を付けろというのだろう、と思った。そのとき――

「きゃう!」

 ダンボールの塔が崩れ、ほたるちゃんの姿が埋まって見えなくなった。

「ええ……?」

 あたしは絶句しつつ箱をひとつひとつ脇にどかしていき、うつぶせに倒れたほたるちゃんを発掘した。

「だいじょうぶ? ケガしてない?」

 むくりと起きあがり、床にぺたんと座ったほたるちゃんが、点検するように体のあちこちを触り、小さく腕を回す。
 手慣れているな、と思った。その動作はまるで決まった手順をたどるように、今までに何十回、何百回と繰り返してきたように、無駄がなく洗練されているように見えた。

「……平気です」

「なによりだね。それで……うん、だいたいわかったよ」

 あたしは見ていた。
 ダンボールが崩れる前、ほたるちゃんはそれにほんの少しも接触してはいない。なんの衝撃も受けていないのに、箱の山が勝手に動いて崩れた。
 どんな理屈でそんなことが起こるのかはわからない。だけど、あの口ぶりからすると、どうやらこの少女にとっては、これが日常であるらしい。

 難儀だね、なかなか。

「そういえば、プロデューサーが事故にあったってのは?」

「えっと……昨日、私が公園でスカウトを受けまして」

「うん」

「私はそれを断って、公園から出て行ったんですが」

「あれ? 断ったん?」

「はい。ですけど、追いかけてきたプロデューサーさんが目の前で車にはねられて……私が駆け寄ったら、血まみれのプロデューサーさんが私の手を握って、『たのむ、アイドルになってくれ』と……」

「おいおい……」

「救急車を呼ぶから離してくださいって言ったら、『スカウト受けてくれるなら離す』って……」

「うーん……」

「それで私は……アイドルでもなんでもなりますから救急車呼ばせてください、と……」

 またとんでもないスカウトもあったもんだ。というか、それ普通に脅迫じゃなかろうか。

「私のせいで……」

「誰のせいとかはとりあえずいいや。それよりほたるちゃんさ、アイドルやりたいの?」

「え……」

「たぶんそれ法的にアウトだからね。もう契約済ませちゃったとしても、無効にしようと思えばできるよ」

「そう、ですか……じゃあやっぱり、断ったほうが……」

「とりあえず質問に答えてくれるかな、アイドルやりたいのかどうなのか」

「……私は、アイドルなんかやっちゃいけないんです。……みんなを不幸にするから」

「だーかーら!」

 あたしはほたるちゃんの両頬をつまんで横に引っ張った。やわらかい、大福のようだ。

「質問に答えんかい! 今は不幸とかどうでもええねん! あたしはほたるちゃんの気持ちを訊いてんの! やりたいかやりたくないか、二択だよ、どっち?」

「いひゃいれふ、はらひてくらはい」

「はいよ」

 最後にちょっと強めに引っ張って、あたしは手を放した。
 ほたるちゃんは涙目になってかすかに赤くなった頬をさすっていた。

「あんね、答えが『やりたくない』なら、それで話は終わりだよ。引き止めもしない。……で、どうなん?」

 返事は返ってこない。
 ほたるちゃんはスカートの裾をぎゅっと握り、唇を固く引き結んでうつむいていた。そして、声ももらさず、肩を震わせるでもなく、表情すら変えずにぽろぽろと涙だけを流した。

 よくない泣き方だ。まだ子供なんだから、どうせ泣くならもっと大声をあげて泣きわめいたほうがいいのに。

「私は……」

 長い沈黙のあと、消え入りそうな声でほたるちゃんがつぶやいた。

「アイドルになりたいです」

「そっか」

 あたしはぐすぐすと鼻をすすり上げるほたるちゃんの頭にぽんと手を乗せた。

「じゃあ、アイドルになりな」

 ほたるちゃんが探るように目を上げる。

「体質ってことでいいのかな? それ、いろいろと不便でしょ、あたしは巻き込んでくれても構わないから、気軽に絡んでいいよ」

「よくないですよ」

「あたしがいいって言ってるんだから、いいんだよ」

 あたしはぺしぺしとほたるちゃんの頭を叩きながら、軽くほほ笑んで見せた。

 この子は人気出るだろうな、と思った。
 ほたるちゃんにはなんとなく、守ってあげたくなるような、庇護欲をそそるようなかわいらしさがある。きっと、男だったらなおさらだろう。
 また、それに矛盾するようでもあるんだけど、なんか、なんというか――

「……いじめたくなる」

 ついうっかり、声に出してしまった。

「えっ」

「いや、なんでもない」

 どうやら聞こえていたらしく、ほたるちゃんは後ずさるように身を引き、怯えのこもった目をあたしに向けてきた。

「ごめんて」

話は面白いんだけど、トリップの後ろの数字が全く意味をなしてないから今日はここまでとか書き込んでくれると嬉しい

>>22
今後そのようにします。本日はここまでです。

   03.

 346プロダクションの事務所はとにかく大きい。
 敷地内に広い中庭とカフェがあり、ビルの中にはエステルームやトレーニングルームまで完備されている。このトレーニングルームは街のスポーツジムにも負けないくらい設備が充実していて、ルームランナーにエアロバイク、変わったところだとボクシングのサンドバッグやリングまであるらしい。

 そしてここには、複数のレッスン室がある。



 ひと通りの手続きを済ませ、引っ越しも終えた次の日、私はプロデューサーさんに案内されて、『第3レッスン室』と札の掲げられた部屋の前にやって来た。
 第3ということは、少なくとも3つ以上のレッスン室があるんだ、と私は心の中で感動していた。

 プロデューサーさんが丁重にドアをノックする。「どうぞ」と中から女性の声がした。
 
 部屋の中はとても広々としていた。
 壁の一面が鏡張りになっていて、壁際には見るからに高級そうな大きいオーディオ機器が設置されている。
 足を踏み入れると、フローリングの床がシューズとこすれて、きゅっきゅと小気味いい音を立てた。
 先ほどの声の主らしい、黒いバインダーを持った女性が、私に目を向けてニヤリと笑う。歳は20代中盤ぐらいだろうか、長い黒髪で、少し吊り上がり気味の目をしている。

「聖さん、こちらが新人の白菊ほたるです。白菊、この人は青木聖さん。うちの専属トレーナーでかなりのベテランだ」

 とプロデューサーさんが言った。
 私は『専属トレーナー』という言葉にまたもや感動を覚えつつ、「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。

「ああ、君が白菊か。話は聞いている、いい覚悟だ」

 私は首をかしげた。覚悟?

「あの、話というのは、どのような?」

「君のプロデューサーから、なんの遠慮も手加減もなくシゴいてやってほしいと言われている。私の本気のレッスンといったら、第一線で活躍しているアイドルでも泣いて逃げ出すと有名だからな。新人の身でありながら、立派な気概だ」

 私はぽかんとなった。

「プロデューサーさんが、そんなことを?」

「……君が言い出したことじゃないのか?」

 トレーナーさんがプロデューサーさんをにらみつけ、プロデューサーさんはポリポリと頭を掻きながら顔をそらす。
 なんだか悪戯のばれた子供みたいに見えて、ちょっと笑ってしまいそうになった。

「あ、私はだいじょうぶです。それでお願いします」

 怖いと思う気持ちはあったけど、それ以上に、『第一線で活躍しているアイドルでも泣いて逃げ出すレッスン』というものに興味があった。

 この日はダンスを教えてもらった。
 ダンスは昔から好きではあったけど、これまで正式に習えるような機会はなく、私の技量はほとんど素人と変わりない。まずは基礎の基礎からということになった。

 スピーカーから流れる音楽とトレーナーさんの叱責の声を浴びながら、懸命に体を動かす。トレーナーさんの見せるお手本では簡単そうに見えるのに、いざ自分でやってみるととても難しい。
 何度も転んでは立ち上がりを繰り返し、およそ1時間半後、私は全身汗だくで床にへたりこみ、必死に息を整えていた。

 少し離れたところで、トレーナーさんとプロデューサーさんがなにか話をしている。声は聞き取れなかったけど、表情から察するに、あまりいい内容ではなさそうだ。

 それからトレーナーさんがこちらに振り返り、パンと手を鳴らした。

「よし、ここまで。しっかりストレッチをしてからシャワーを浴びて、今日はもう帰っていい」

「もう少し、お願いできませんか?」

 私はふらふらと立ち上がって言った。
 トレーナーさんとプロデューサーさんが顔を見合わせる。

「聖さんはこのあと別のところでレッスンが入ってる。俺も仕事があるから」

 とプロデューサーさんが言った。

「じゃあ、ひとりでこの部屋使わせてもらうのはダメですか? 復習していきたいので」

「今日はここはもう使わないみたいだから、かまわないけど……疲れただろ?」

「だいじょうぶです。楽しいですから」

「楽しい?」

 プロデューサーさんが怪訝そうに繰り返す。

「はい、前の事務所ではレッスンとかさせてもらえなかったので、とっても楽しいです」

 私が今までに所属してきた芸能事務所には自前のレッスン室というものはなく、必要なときはレンタルスペースを使っていた。
 ただし、お金がかかるからだろう、そこでレッスンを受けられるのはすでにある程度の人気を得ている人に限られていて、私は残念ながらそうではなかった。

「なかなか面白いヤツじゃないか」

 トレーナーさんが笑って、プロデューサーさんの背中をばしんと叩く。

「水分だけはしっかりとるように」

 そう言って、トレーナーさんが部屋を出て行った。 

「うーん、復習か……」

 叩かれた背中をさすりながら、プロデューサーさんがつぶやく。

「はい、プロデューサーさんも、見ていて気になったことがありましたら、なんでも言ってください」

「気になるところ、じゃあひとついいかな」

「なんでしょう」

「笑ってみて」

「え?」

「笑う、笑顔、スマイリング」

「あ、はい。えっと…………こう、ですか?」

 私は当惑しつつ、笑みを作ってプロデューサーさんに向けてみた。

「いや?」

「えっ……」

「まあ、これから練習していけばいいさ」

 苦笑しながらプロデューサーさんが部屋を出て行き、私はひとりぽつんと残された。



 ……笑顔、そんなに、変だったのかな?



 鏡の前に行き、そこに映った自分に向けて笑いかけてみる。
 ぴしりと音がして、鏡に大きなヒビが入った。ひどい。

 いやそれよりも、どうしよう? これいくらぐらいするんだろう? このぐらい大きい鏡だと、かなり高いはず……

「あ、言い忘れたことが――なんだこれ」

 声に目を向けると、さっき出て行ったプロデューサーさんが戻ってきていた。

「ご、ごめんなさい! ちゃんと弁償しますから……」

「ケガは?」

「してません、触れてないですから」

「触れてない?」

 プロデューサーさんがひび割れた鏡をしげしげと眺める。

「本当にケガはない?」

「はい」

「これは、なんで割れたんだ?」

「えっと、私の不幸によるものかと……」

 笑顔の練習をしたら、なんて恥ずかしくて言えるわけがない。

「殴ったとか、なにか叩きつけたとかじゃないんだ?」

「そんなことしません」

「だったら弁償なんて必要ないよ。勝手に割れたってことだし。すぐ交換の手配しとくから問題ない」

「……でも、私のせいです」

「もしそうだとしても、直接打撃を加えてないなら責任はない。うちの事務所はカネだったらアホほどあるから気にしないでいい。むしろどんどん備品が壊れて新品になればみんなが喜ぶ」

 無茶苦茶なことを言うなあ、と思った。怒られなくてよかったけど。

「その、言い忘れたことというのは?」

「そうそう、ここ使い終わったら帰る前にひと声かけてって。あと交換は明日になるから、今日のところはその鏡にはあまり近づかないように」

「わかりました」

 再び部屋を出て行くプロデューサーさんを見送り、オーディオの再生ボタンを押す。
 トレーナーさんから指摘されたところを思い返し、流れる音楽に合わせてひとつひとつ反復していく。
 体中から汗が流れ、筋肉がきしみを上げる。苦しいけど、なんだか気持ちよかった。
 体を動かしているあいだはなにも考えずにいられて、嫌なことをぜんぶ忘れられるようだった。

 途中でいちど、「水分だけはしっかり取るように」というトレーナーさんの言葉を思い出して、レッスン室近くの自販機に向かった。
 500ミリリットル入りペットボトルのお水を2本買って、十円玉ひとつしか飲まれなかった。今日は運がいい。

 喉をうるおすと元気が出た。まだまだいくらでも踊れそうな気がした。
 運動はあまり得意なほうじゃない。きっと私には才能なんてないのだろう。わかっていても、つい同じようなミスを繰り返してしまう。

 でもだいじょうぶ。できないなら練習すればいいだけだから。

 失敗しなくなるまで。

 ちゃんとできるようになるまで。



 何度も何度も、何度でも。

(本日はここまでです)

   04.

「間に合いそうにないなこれ」

 運転席のプロデューサーさんが、ひとりごとのようにつぶやいた。
 あと30分ほどで私の参加するオーディションの開始時刻になる。予定ではとっくに着いているはずだったけど、この先で信号機の故障があったらしく、私たちの乗る車は渋滞に巻き込まれていた。

「仕方ない、縁がなかったと思おう」

 プロデューサーさんの声に怒りや苛立ちの色は感じられず、私は少しほっとした。
 オーディション会場にたどり着けないのはこれが初めてじゃない。というより、様々なアクシデントで、参加できないことのほうが多い。内心では、今度こそ怒鳴られるんじゃないかと怯えていた。

「すみません」と私は言った。

「すぐ謝るよな」

「……すみません」

「あまりよくないクセだよ、それ。やめたほうがいい」

「でも、私のせいですから」

「出れなくて困るのは白菊だろ。他の参加者は勝率が上がって喜ぶよ」

「……プロデューサーさんは、困ってるでしょう?」

「別に」

 プロデューサーさんがそっけなく答える。

「この程度のオーディション、受かっても落ちてもたいしたことじゃない」

 ちらりとハンドルにかけられたプロデューサーさんの包帯の巻かれた手を盗み見て、私は「オーディションのことだけじゃないんです」と心の中でつぶやいた。

 346プロに所属してから、およそ1ヶ月が経つ。
 私と行動を共にすることが多いプロデューサーさんは、たびたび私の不幸の巻き添えにあっていた。
 私自身は長い経験で慣れていることもあって、目に見えるようなケガをすることは多くない。だけどプロデューサーさんはそうはいかない。
 不幸中の幸いか、重症というほどのものは今のところないけど、細かな擦り傷や切り傷は、日を追うごとに増えていっている。
 誰だって痛い思いはしたくない。プロデューサーさんも、いいかげん嫌になってきているころだろう。だけど、この人はなぜか、そのことについてなにも言及しない。

 私の近くにいなければ不幸はなくなる。どう考えてもそうしたほうがいい。
 だけど、私からそれを言い出すことはできなかった。新しい担当プロデューサーがついても、どうせまたその人にも不幸が降りかかる。
 そうなったとき、その人がこのプロデューサーさんみたいに、なにも言わずに耐えてくれるとは思えない。むしろ私の担当になんて、なりたがる人がいるんだろうか?

 プロデューサーさんはどうして、私の担当を続けているんだろう?
 自分がスカウトしたから?
 後に引けなくなったから?

 ……かわいそうだと思ったから?

「あなたはいつ私を捨てるんですか?」と訊ねてみたい衝動に駆られる。

「そう焦ることはない」

 プロデューサーさんが言った。

「全部が全部オーディションにもたどり着けてないわけじゃないだろ。多くはないけど仕事もしてる。うちはよっぽどのスキャンダルでもない限りは契約解除するようなことはないから、細々とやっていくなら今のままでも心配は要らない」

「……そんなの、嫌です」

「なんで?」

「そんなんじゃ、トップアイドルになれないじゃないですか」

「トップアイドル」

 プロデューサーさんが繰り返すのを聞いて、急に恥ずかしくなった。
 まだほとんど仕事もしてないのにトップアイドルなんて、大口を叩くにもほどがあるだろう。

「す、すみません、忘れてください……」

「安心した」

「……なにがですか?」

「俺も、トップアイドルのプロデューサーってものになってみたかったから」

 冗談なのか、それとも本気で言っているのか、その表情からは読み取れなかった。
 
「でも、白菊はなんでトップを目指す? ふつうのアイドルじゃ駄目なのか?」

 プロデューサーさんが訊ねる。私は、どう言葉にしたらいいものだろうかと、しばらく考えこんだ。

「私は……自分の夢のために多くの人を不幸にしてるんです。いくつも事務所が潰れて、たくさんの人が職を失って」

 言葉を切って、運転席に目を向ける。プロデューサーさんは、「聞いている」というようにうなずいた。

「他人を巻き込みたくないなら、アイドルなんて目指さないほうがよかったんです。……でも、もうさんざん迷惑をかけちゃったから」

 私はうつむいて自分の膝に目を落とし、スカートの裾を握り締めた。

「……仕事のないアイドルなんかで満足しちゃったら、みんなの不幸が報われない」

「本当にそれだけか?」

「え?」

「いや……じゃあトップアイドルにならなきゃな」

 前方の車は、まったく動き出す気配がない。
 沈黙が車内を満たしたけど、不思議と居心地が悪いという感じはしなかった。

「……プロデューサーさんは、信じれば夢は叶うって思いますか?」

「いや、信じてるだけじゃ駄目だろう」

「努力して、実力をつけろってことですか?」

「それもあるけど」

 プロデューサーさんがハンドルを離してシートに背中を預ける。

「人気とか知名度ってのは実力順じゃないから。あまり世に知られていない実力者が知られないまま消えていくなんて、珍しいことじゃない」

「その違いは……運、でしょうか……」

「違うなぁ」

「違うんですか?」

「才能や運のせいにしてるようなやつは、まだまだできることをやり切ってないよ」

 呼吸が止まる。
 プロデューサーさんは特定の誰かを指して言っているわけじゃない。そうわかっていても、自分のことを言われているように思えた。
 私は、不運のせいにしているのだろうか?

「実力ってな、世に知らしめるところまで含めて実力だよ。黙ってても誰かが見つけてくれるだろうなんて大間違い、それは自分でやらなきゃいけないことだ。ひとりきりで山にこもって延々修行しているやつを誰が見つけてくれる? そいつが世界一強いとしても、一生誰にも知られることはないのが当たり前だ。自分だけが知ってればいいというのならかまわないけど、それで世に認められないと嘆くのは、ただの馬鹿だろ」

 平然とした口調で厳しいことを言うので、少しびっくりした。

「えっと……じゃあ、どうしたら?」

「この例だったら、山を下りて道場破りでもしたらいいんじゃないかな」

「……アイドルだったら?」

「そんなに変わらない、戦って勝つ。戦えるチャンスを探して飛び込んでいく」

「どうして、戦いなんかにたとえるんですか?」

「人生はなんでも戦いだよ。まあ、戦略的なところは悪い大人が考えることだから、白菊が頭を悩ませることじゃない」

 雨が降り始めた。
 ぽつぽつと雨粒がフロントガラスを叩くのを見て、プロデューサーさんがワイパーのスイッチを入れた。

「少し話を戻すと」

 しばらくメトロノームみたいに行き来するワイパーを眺めて、プロデューサーさんが言った。

「間に合いそうにないなこれ」

「戻りすぎでは……」

 プロデューサーさんが小さく笑う。

「信じるだけなら、なにもしてないのと同じだよ。夢を叶えたいなら、そのための方法を考えて実践しないとさ。その点では、白菊はその歳で自ら芸能事務所に飛び込んでいってる。行動力は悪くない。ただ、事務所はもっと選ぶべきだった。最初の事務所は、どうしてそこに入った?」

「えっと、オーディションを開いているところを調べて……所属アイドルがそんなに多くはないところに」

「つまり、自分でも入れそうな程度のところを受けたんだな」

 私は言葉に詰まった。間違ってはいないけど、これを肯定してしまったら、最初にいた事務所に失礼だと思ったからだ。

「小さい事務所ってのはカネがない。そういうところが求めているのは即戦力か、なんでもいいかのどっちかだ。実際のところはズブの素人に即戦力なんているわけないから、だいたい後者ってことになる。そういった意味では入りやすいのは間違いないけど、そこから成功することは難しい。育成や売り出しにカネをかけられないから、取ってこれる仕事もたかが知れていて、なかなか実績には結び付かない。小さい事務所から成り上がるよりは、最初から大手に入ったほうが成功する可能性はずっと高い。大きいところも利益を出すことが目的なのは同じだけど、こっちは気が長いっていうのかな、すぐに仕事をさせられるレベルでなくても、将来利益を出す見込みがあると思えば採用する。駄目元でもなんでも、まずは大きいところから、片っ端から受けた方がよかった」

 今更そんなことを言われても、という思いはある。
 だけど346プロに来てから、環境の差というものはたしかに実感した。レッスンの設備もそうだし、事務所のお仕事に対する姿勢がぜんぜん違った。
 以前所属していた事務所のプロデューサーさんが、「大手は大手というだけで優遇されている」と愚痴をこぼしていたことがある。事実、オーディションの合格率は、大きい事務所の所属アイドルが圧倒的に高いらしい。
 だけど、346プロに入ってわかった。それは優遇されているのではなく、心構えの違いだ。
 今までにいた事務所ではオーディションの予行練習なんてやったこともなく、基本的にアイドル任せだった。とりあえずエントリーして、なにかの間違いで受かればいいというような方針だ。
 一方で346プロは、同種のオーディションの合格傾向、主催や審査員の好みまで綿密に分析し、それに合わせたレッスンを積んだ上でのぞんでいた。これでは、勝負になるはずがない。

「……じゃあ、もし私が346プロを受けていたら、採用しましたか?」

「選考が俺だったらね」

 私はプロデューサーさんのほうを見た。

「……本当に?」

「そうなってたらよかったんだけどな」

 プロデューサーさんがいちど腕時計を見てから携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけ始める。
 おそらく、開始時刻までにオーディション会場にたどり着けないことが確定したんだろう。

 渋滞に巻き込まれて間に合わない旨を告げ、時間を遅らせる、あるいは日をずらすことは可能かと問いかける。しばらく相手の言葉に合わせて相槌を打つ。
 プロデューサーさんのほうの声しか聞こえないけど、「無理だ」という回答が返ってきたらしいことはわかった。
 念のため訊いてみたといったところなのだろう、プロデューサーさんは特に落胆した様子もない。
 それから改めてお詫びの言葉を言って、電話を切った。



「それにしても動かないな」

「……ですね」

「ヒマだな」

「ですね」

「白菊は、やってみたい仕事とかある?」

「えっと……お仕事でしたら、なんでも」

「女の言うなんでもはアテにならないんだよ」

 なんですかそれ、と思った。
 しかし、「なんでも」では、なにも答えてないのと同じかもしれない。私がやってみたいお仕事は――
 少し考えて、浮かんだのはやっぱり、かつてテレビで見たアイドルの姿だった。

「歌のお仕事を、やりたいです」

「歌番組?」

「はい。あと、大きい会場で、お客さんがいっぱいいる前で……」

 言っていて、顔が熱くなった。

「ライブか」

 こくりとうなずく。

「そのうち、出させるよ」

「大人の言うそのうちは、アテにならないです」

「たしかに」

 プロデューサーさんは笑った。

「でも本当だよ」

   *

 お仕事が少ないぶん時間には余裕がある私は、空いているレッスン室を使って自主レッスンすることを日課にしている。

 長い時間をかけて渋滞を抜け、事務所に戻ってきたあと、私はプロデューサーさんと別れてそのまま第4レッスン室に向かった。
 レッスン室の使用予定は前もって訊いていて、手帳にメモしてある。今の時間はこの部屋が空いているはずだった。
 だけど、ドアを開けてみるとそこには先客がいた。周子さんだ。

「およ、ほたるちゃんおつかれー。どしたーん?」

「あ、お疲れさまです。今日はこのレッスン室が空いてるみたいなので、自主レッスンに使わせてもらおうと……周子さんは、どうしてここに?」

「あー、あたしも同じだよ」

「周子さんが、自主レッスンを?」

「なんかおかしいかな?」

「すみません。ただ、周子さんはあまり、そういうことをしないものかと」

「へえ、ほたるちゃんはあたしにどういうイメージ持ってるん?」

 失礼なことを言ってしまったかもしれない、と思ったけど、周子さんは気を悪くしたようには見えない。むしろなにか面白がっているようだった。

「周子さんは……売れっ子で、歌もダンスも凄くって、お喋りも上手で、なんでもできる完璧な人だと……」

「そこまでベタ褒めされるとなんか恥ずかしいね」

「すみません……」

「なんで謝んのさ」

 周子さんがあごに手を当てて、ううんと小さくうなった。

「あたしはなんというかね、自分で言うのもなんだけど、要領がいいんだよ」

「要領、ですか?」

「そ、あたしがデビューしたあたりの時期に、たまたま世間の需要と合ってたみたいな感じかな。外見とか性格とかね。だからまあ、売れたのは実力じゃないよ。運がよかったんだね」

 そんなことはないだろう、と思った。
 周子さんはさまざまなお仕事をしていて、歌やダンスはもちろん、トークや演劇にいたるまで、どれをとってもレベルが高い。
 自由奔放であるにもかかわらず、どんな仕事もけろりとこなす天才肌と世間でも評判で、実力がないなんてことは、とても考えられない。

 困惑が表情に出ていたのか、周子さんは私の顔を見てくすりと笑った。

「あたしってもともと、なにやらせても他人よりうまくできるみたいなとこあったんだよね。昔から歌は上手いって言われてたし、運動神経もけっこうよかったし。だけどね、なんやかんやで人気出てきてぽんぽんお仕事貰えるようになってから、ふと周りを見渡してみるとね、みんなすごいんだこれが。これはあかん、あたし場違いすぎるって思ったね」

 そう言って、周子さんが肩をすくめる。私は黙って続きを待った。

「お仕事するたびに、今度こそボロがでるんじゃないかってびくびくしてたよ。『こいつ本当はたいしたことないな』ってね。だから、そうならないように、こうやってコソコソ練習したりして、一生懸命繕ってんの。その点について、あたしはいつも必死だよ」

「……でも私は、周子さんすごいって思います。本当に」

「うん、ありがと。まー、今はそんじょそこらのアイドルには負けてないってぐらいには自信もあるよ。でもそれは、こうやってあとから帳尻合わせをした、その成果だね」

「あ……すみません、なんか失礼なことを言って」

「いや、そーゆーキャラで売ってるわけだからね。そんなふうに思ってもらえてたなら、むしろうまくいってるってことだし、あたしとしちゃ万々歳だよ」

「やっぱり、誰でも一生懸命努力してるんですよね。私も、もっとがんばらないと……」

「んー……いや、誰でもってのはどうかなー」

「え?」

「あたしは違うけど、ホンモノの天才ってのはいるもんだよ」

 私は少し考えた。

「……一ノ瀬志希さん?」

「そーゆーこと」

 志希さんはものすごく頭がよく、アイドルになる前は海外に渡って飛び級で大学に通っていたらしい。ちょっと私には想像もつかない世界だ。
 大学を辞めて日本に戻っていたところで、屋外でテレビ番組の撮影を見守っていた346プロのプロデューサーに自分から声をかけ、紆余曲折の末にアイドルになったそうだ。
 
「志希さん……すごいらしいですね」

 彼女はアイドルとしても天才的で、デビューしてからあっという間に人気アイドルになった。
 周子さんも本物の天才とたたえる、その目からはいったい、どんな景色が見えてるんだろう?

「うらやましいと思ったことはないけどね」

 ぽつりと、周子さんが言った。

「……どうしてです?」

「あたし、けっこう志希ちゃんとのお仕事になること多いんだ」

 私はうなずいた。
 346プロは所属アイドルでユニットを組ませて売り出す商法をとることが多く、いちど限りのものから長期的に活動するものまで、覚えきれないほど多くのユニットがある。
 たしか周子さんと志希さんは複数のユニットにいっしょに編成されている。共演することも多いだろう。

「だからあたしにはわかる。あれはたぶんね、しんどいよ」

 私は首をひねった。しんどい?
 どういう意味かと詳しく聞きたかったけど、周子さんは優しげなような悲しげなような、不思議な微笑を浮かべていて、なんだか声をかけてしまうのがためらわれた。

「それよりほたるちゃん、自主練しにきたんでしょ。せっかくだからちょっと見せてもらおっかな」

「しゅ、周子さんの前でですか? その……恥ずかしいです」

「見られるのも練習のうちだよ。どんなお仕事だって人に見られながらだからねー」

 それから私は、周子さんに手伝ってもらって準備運動のストレッチをした。

「ん、ほたるちゃん意外と固いね。ちゃんと柔軟やんないとダメだよ、体柔らかいほうがケガしにくいから」

「す、すみません、がんばります」

 周子さんが、「また謝ってる」と言ってけらけらと笑った。

 周子さんはよく笑う。ある時は天真爛漫な子供のように、またある時はいじわるな狐のように。この笑顔は間違いなく、彼女の魅力のひとつだろう。

「……笑顔って、やっぱりだいじでしょうか」

 ふと思い立って訊ねてみる。

「また唐突だね。笑顔?」

「はい、前にプロデューサーさんに笑ってみろと言われて……やってみたんですが、その……ヘタだったみたいで……」

「うーん、まあ必要不可欠ってわけでもないかな? クール系のイメージで売ってるアイドルもいるわけだし、そういう人は無表情でミステリアスなのが魅力だったりもするから」

 なるほどミステリアス、と頭の中にメモを取る。
 ……クールでミステリアス、私にできるだろうか?

「――と、ここまでが一般論ね。あたし個人としては、とても大切だと思う」

「そうなんですか?」

「うん。あたしの知ってる、すごーく強いアイドルは、いつだって笑ってるから」

「強い?」

 と私は繰り返した。
 アイドルの評価として、それはあまりそぐわないように思ったからだ。

「うまく言えないんだけどねー。あの子は、すごいとか上手いじゃなくて、なんか『強い』って感じがする」

 誰のことだろう?
 周子さんは首をかしげる私を見て、小さく含み笑いを漏らした。

「あとほたるちゃんにも、その素質があるような気がする」

   *

 レッスンを終えて、私は周子さんといっしょに寮に帰ることにした。
 事務所を出る前に周子さんに少し待ってもらって、いつものようにプロデューサーさんに声をかけに行く。

「お疲れさまです。私、そろそろ上がりますね」

「あ、白菊ちょっと待って」

 プロデューサーさんが私を呼び止める。
 はい、と向き直った私に、プロデューサーさんは躊躇するように少しの間を置いて、ゆっくりと言った。

「黙っていてもいずれどこからか伝わるだろうから、今のうちに言っておく。お前がうちに来る前にいたプロダクション、倒産したそうだ」

 全身が粟立つ。急に室温が下がったような気がした。

「……そう……ですか」

 硬直してしまったような喉から、かろうじてそれだけ絞り出す。声はかすれて、震えていた。

 私のせい? 私はもうあの事務所には所属していないのに?

 ……そうだ、経営が危なかったのは、私がいたときからだ。
 おそらく、あのころにはすでに倒産が視野に入るくらい財務状況は悪かったのだろう。なんとか立て直そうと一縷の望みをかけて、疫病神たる私を解雇した。だけど、そのあとも回復しきれなかったということだ。

「白菊、だいじょうぶか?」

 私は弱々しくうなずきを返す。

「あの事務所には……あまりいい思い出がないんです。いつも怒鳴られていて、大きな声を聞くだけで怖くなっちゃって……、他のアイドルの人たちからも、嫌われていて……」

 みんなは私を恨んでいるだろうか?

 ……きっと、恨んでいるだろうな。

「それでも……潰れてほしくなんてなかったです」

 事務員さんの言葉が脳裏によみがえる。

『あなたさえいなければ』

 私がいたせいで、

 346プロもいつかは――



「お前のせいじゃない」

 プロデューサーさんが珍しく、語気を強くして言った。
 その顔はほんの少しだけ、苦しげに歪んでいるように見えた。

(本日はここまでです)

   05.

 346プロに入ってから頻度は少なくなったけど、今でもときどき夢を見る。
 内容は変わらない。みんなが「お前のせいだ」と私を責めたてて、私が「ごめんなさい」と繰り返す。変わったのは、『みんな』に前の事務所の人たちが加わったことだ。

 夢から覚めると、いつもびっしょりと汗をかいていた。
 部屋のバスルームに入って汗を流し、鏡を見る。
 暗い、よどんだ顔が映っている。

 ぱんっと両頬を手で叩く。

 ――暗い顔をしてたらオーディションの印象が悪くなる。気合いを入れなくちゃ。



 オーディションやお仕事の際の移動は、いつもプロデューサーさんといっしょだった。
 プロデューサーさんは前もって現場への道のりを詳しく調べ、起こり得る交通機関のトラブルの予測と、移動の代替手段を考慮している。その上で、私から見ても過剰と思えるような余裕を持って出発する。それでも間に合わないことはあったけど、それは時間の問題ではなく、なにをどうしてもたどり着けないような状況のときだった。
 
 無事に到着してオーディションが始まっても、私の番で機材が不調になることがよくあった。
 プロデューサーさんが前もって、「なにかあっても審査員に止められない限りは続けろ」と指示を出していて、私はそれに従った。「もう一度頭から」とやり直しをさせてもらえたこともあったし、そのまま最後まで続けて合格をもらえることもあった。

 また、まれに大手の強みともいうべきお仕事が舞い込んでくることがあった。
 人気のあるアイドルは黙っていてもお仕事の依頼がやってくる。ただし、スケジュールの都合が合わなかったり、目指す方向性との齟齬があったりで、断ることも珍しくない。
 そんなとき、346プロではその仕事に向いていそうな別のアイドルを紹介する。思惑はいろいろあるのだと思うけど、クライアントは紹介されたアイドルをそのまま起用することが多かった。この形のときはオーディションもなにもなく、即座に起用が決定となる。
 私も何度か紹介でお仕事をもらった。特に深夜のテレビドラマで、悲劇のヒロイン役をやらせてもらったときは、関係者全員がびっくりするぐらいの好評を得た。

 日々がゆっくりと流れていった。

 私はたくさんのレッスンを受け、たくさんのオーディションを受けた。
 そうして、少しずつだけどお仕事が増えていった。



 でも、こんなものじゃ、ぜんぜん足りない。

 プロデューサーさんは、相変わらず負傷が絶えない。

 他のアイドルや社員の人たちともお話をするようになって、ちょっとした噂話を耳にした。
 それによると、私の担当プロデューサーさんは中堅と呼べるくらいにはキャリアがあって、本当なら新人ひとりにかかりきりになっているような立場ではないそうだ。
 ならばなぜ、私の専属になっているのかというと、

『本人の希望』

 ということらしい。
 これ以上のことは周りにはわからない。直接訊ねてみようかとも思ったけど、答えを聞いてしまうのが怖いという気持ちもあって、結局口に出せずじまいだった。

 そんなある日、

「白菊」

 事務所にやってきた私に向けて、プロデューサーさんが手招きをする。

「今、ちょっと代役を探してる案件があって――」

「やります」

 私は即答した。
 アイドルも人間である以上、なんらかの事情によって決まっていたお仕事に急に出れなくなることはある。代役は紹介と同様、即起用が決定する。貴重な機会だ。

「せめて内容聞いてから返事しないか? じゃあ社内オーディションにエントリーしておくから」

 社内オーディション? 聴き慣れない言葉だ。

「なんですか? それ」

「今回は希望者が多そうだから、346プロ内だけでオーディションみたいな形式で選考するんだって」

「誰の……どんなお仕事です?」

「最初にそれを訊こうな。桜舞姫のライブ、塩見さんの代役だ」

 桜舞姫……さくらまいひめ……
 少し考えて思い出す。桜舞姫は周子さんと志希さん、それに相葉夕美さんの3人ユニットだ。
 346プロではよくある期間限定のユニットで、継続的な活動はしていない。だけどメンバーひとりひとりが単独でも十分お客さんを呼べるくらいに人気があって、再度ユニットとしての活動を望む声も多い、と聞いたことがある。

「詳しく、聞かせてもらえますか?」

「本番は2週間後、このライブは撮影してライブビデオとして販売する予定だった。会場は定員5000人で、すでにチケットは完売済。なかなかデカいな」

「周子さんは、だいじょうぶなんですか? ケガですか?」

「いや、ただの風邪みたいだけど、最近仕事が詰まってたせいか過労気味だったそうで、かなりこじらせてるらしい。さすがにライブの日までダウンしてるってことはないだろうけど、コンディション整える余裕があるかわからないから、今回は大事を取って見送らせることにしたんだって」

「それって……周子さんのファンの人たちから苦情がきませんか?」

「詳細は未定だけど、後日代わりに塩見さんメインのイベントを企画するって話が上がってて、代役のアナウンスと同時に発表する。桜舞姫はファン層がけっこう被ってるから、たぶん塩見さんだけが目当てで他ふたりには全く興味ないって客はあまりいない。仮にふたりだけでやるとしても、払い戻しはほとんどないだろうって予測になってる」

 集客力としては志希さんと夕美さんのふたりでも問題ない。それなら、事務所の考えは『どうせなら他のアイドルにもチャンスを』ということだろう。346プロにはたくさんのアイドルがいるけど、さすがにふだんの活動でそれだけの規模のライブに参加できる人は限られている。

「社内オーディションというのは……どのくらいの人が参加するんですか?」

「急な話だし、もともとスケジュール入ってた子はどんなに小さい仕事でもそっちを優先するようにってお達しが出てる。それでも30人以上にはなるかな。今日で募集を締め切って、オーディションは明日だとさ」

「30人……」

 これを多いと見るべきか、少ないとみるべきかはわからない。
 参加者が全員346プロのアイドルということを考えたら、外部のオーディションよりもよっぽど厳しい競争といえるかもしれない。

「もちろん人気のあるアイドルほど忙しいから、トップクラスの売れっ子はあまりエントリーしていない。ただし、たまたまスケジュールが空いていたということはある。たとえば、このふたりがそうだ」

 そう言って、プロデューサーさんがパソコンのモニターを示した。

   *

 翌日、私は臨時のオーディション会場となるレッスン室にやってきた。部屋の前の通路に、緊張した様子のアイドルたちがレッスン着姿でたむろしている。
 社内オーディションは、いちどに3人ずつ入室して審査を行うという形で行われるらしい。審査員は志希さん、夕美さんに、それぞれの担当プロデューサー、それに周子さんのプロデューサーを加えた5人だ。
 入り口のドアに1枚の紙が張ってある。審査の順番が書かれたもののようだった。

 私といっしょに受けるのは――

「おお! 其方も天界へ続く門を開かんとする者か。されど呼び声が求めしは唯一枚の翼、今宵は存分に猛り狂う魂を比べ合おうぞ!」

「は、はいっ!?」

 びくりと身を震わせて振り返ると、神崎蘭子さんが突き出した手のひらを私に向けていた。

「キミもオーディション受けるんだね、がんばろう。――みたいな意味だよ」

 その後ろで、二宮飛鳥さんが言った。

「然り」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 私はぺこりと頭を下げる。

 蘭子さんと飛鳥さん、このふたりが私と同時に審査を受ける、プロデューサーさんがこのオーディションの本命だろうと言ったふたりだった。

 選ばれるのはたったひとりだから、組み合わせや順番にさほど意味はない。
 それでも、最低でも同時に審査を受ける3人の中では、いちばんいいと思わせることが出来なければ話にもならない。そんな中で、本命候補と見なされるふたりのいる組になってしまうのは、我ながらさすがの引きの悪さだろう。

「……出番までの時間潰しといってはなんだけど、他愛のない戯言を聞いてもらっても構わないかな?」

 飛鳥さんが言った。

「なんでしょう?」

「ボクは、夕美さんと志希、それぞれとふたり組のユニットを組んだことがある」

「……あっ、そういえば」

「やれやれ、気付いていなかったのか」

 飛鳥さんが、ふっと息を漏らして首を横に振る。

「す、すみません」

「いや、ボクのほうこそ謝るべきだな。どうやら無用な勘繰りをしていたようだ」

「どういうことですか?」

「ようするに……ボクは審査に有利だと思われてるんじゃないか、とね」

「ああ……」

「しかし、ボクの知っている限りでは、あのふたりはそういった身びいきをする性格ではない。その点は安心してくれていいし、とらぬ狸のなんとやらだが、仮に審査の結果ボクが選ばれたとしても、そんなふうには思ってほしくない、ってところだね」

「はい、もちろんです」

「しかし、多少なりとも意識されているだろうと思っていたのは、いささか自意識過剰だったかな?」

「いえ……本当に忘れてただけです。プロデューサーさんも、飛鳥さんと蘭子さんがこのオーディションの本命だろうって言ってましたから」

「……へえ、それは光栄だね」

 飛鳥さんがあごに手を添えて、なにか考え込むような仕草をする。

「其方も炯眼の賢者に見出されしワルキューレ、その魔力を軽んじるは愚者の行いよ」

 蘭子さんが、託宣を告げる予言者のようにおごそかに言った。

「そうだな、ボクも同感だ」と飛鳥さん。

「……えっと?」

 私が助けを求めるように視線を向けると、飛鳥さんは軽く肩をすくめた。

「お互いさま、だってさ」

 審査を終えた3人が部屋から出てきて、新たに3人が部屋に入る。何度かそれを繰り返し、やがて私たちの順番をむかえる。
 3人でレッスン室に足を踏み入れ、最後に入った私が部屋のドアを閉めた。

 壁際に、普段はレッスン室にはない長机が置かれており、審査員となる5人が椅子に腰掛けていた。
 夕美さんがこちらに向けて小さく手を振る。その肩に、志希さんが電車の中で居眠りをする人みたいに頭を預けている。
 入り口のかたわらに、椅子が3脚並べられていた。座ってしまっていいものかと少し悩む。

「内輪のことですから堅苦しいのは抜きにして、入って来た順で1曲ずつお願いします」

 審査員席のひとりが代表するように言った。たしか周子さんの担当プロデューサーだ。

「他のふたりはどうぞ座っていて」

 入室したのは、蘭子さん、飛鳥さん、私の順だった。
 私と飛鳥さんが椅子に腰を下ろし、蘭子さんがつかつかと部屋の中央に歩を進める。

「創世のホルンは?」

「特になしで。準備がいいようならすぐにでも音楽を流します。好きなように入ってください」

 蘭子さんがこくりとうなずく。

「血が滾るわ」

 曲が流れ出し、蘭子さんが歌い踊り始める。すでにCD販売もされている自分の曲ということもあってか、さすがに手慣れている。声の響きも体の動きも自信に満ち溢れていて、ほんのわずかの迷いも感じられない。

 審査で披露する曲は、エントリーの際に指定したものだ。特に制限はなく、どんな曲を選んでもよかった。

 ほんの少し、うらやましいと思ってしまう。
 蘭子さんも飛鳥さんも自分の曲がある。私にはない。しかし、これを不利だと思うのはわがままだろう。持ち歌という手札があることも実力のうちだ。アイドルの活動でそれだけの実績を残してきた証拠なのだから。

 曲が終わる。蘭子さんは音楽が途切れた瞬間の姿勢のまま数秒間静止し、審査員席に向けて優雅に一礼した。ミスらしいミスは見当たらない、完璧なパフォーマンスだった。
 いくつもの感嘆のため息が重なり、次いでぱちぱちと拍手の音が上がった。私も、半ば無意識のうちに手を叩いていた。

「ありがとうございました。次の方」

 と周子さんのプロデューサーさんが言った。

「ボクの番だね」

 着席する蘭子さんと入れ替わりに飛鳥さんが立ち上がる。一瞬、ちらりと私を見たような気がした。そして、レッスン着のポケットから青い扇子を取り出し、ぱしんと音をたてて開いた。

 イントロが流れ出し、私はあっけにとられた。順番を間違えているのではないかと思った。スピーカーから流れ出したその曲が、私が指定した周子さんの『青の一番星』だったからだ。
 周子さんの代役とはいっても、実際のライブでのセットリストは未定だ。もしも選ばれたアイドルが自分の持ち歌を持っているのなら、当然それを含んだ構成をするだろう。
 プロデューサーさんは、すでにCDデビューを済ませているアイドルは自分の曲を、そうでないアイドルは周子さんの曲を選択するだろうと予想していた。だけど飛鳥さんはそうしなかった。これは、どう見るべきなのだろう?

 飛鳥さんの披露したそれは、周子さんのオリジナルのものとはだいぶ違った。音源は同じでも、歌い方や踊り方で飛鳥さんらしいものにアレンジされている。

 順番を恨めしく思う。私は飛鳥さんと同じ曲を続けて披露することになってしまった。それも、私はアレンジなんてしていない、印象としては不利になるかもしれない。

「ありがとうございました。次の方」

 拍手に包まれて戻ってきた飛鳥さんが、私の前で足を止め、

「もしかして、使うかな?」

 と、青い扇子をひかえめに差し出してきた。
 私は首を横に振り、自分の扇子をポケットから取り出して見せた。

「ありますので」

 これはプロデューサーさんの私物らしい。オーディションの少し前に、思い立って「このあたりに扇子って売ってるところありませんか?」と訊いてみると、「あるよ」と言ってこれを渡してきた。扇子ってそんな誰でも持っているものなのかと、少しびっくりした。

 飛鳥さんが小さくうなずいて着席する。
 審査員席の5人が、特に感慨をいだいた様子もなく眺めていた。
 おそらく青の一番星はこのオーディションで最も多く選択されている曲だ。ならば、小道具として扇子を持参したアイドルも少なくはなく、先ほどのような貸し借りのやりとりも、もう何度も行われていたのかもしれない。

 席を立ち、足を進めながら考える。
 飛鳥さんのアレンジは、即興でできるクオリティじゃなかった。かといって、前々から準備していたとも思えない。社内オーディションの話はみんな昨日知らされたばかりなのだから。
 つまり、話を聞かされてから、一晩で身に着けたということだ。このオーディションのために。それは勝つための努力、勝つための工夫だ。
 蘭子さんも飛鳥さんも、油断や慢心はしていない。それぞれが自分にできる限りのことをして勝ちに行っている。

 部屋の中央でゆっくりと息を吸い、吐く。
 肩にのしかかっていた重みが、すっと抜ける感じがした。

 他人をうらやむのも、気圧されるのも、もうおしまい。余計なことは考えない。
 どうせできることは変わらない。私も、私にできることを精いっぱいやるだけだ。

 勝つために。

 扇子を広げてみると、毛筆で四字熟語らしきものが書いてあった。『撓不折百』、聞いたことのない言葉だ。どういう意味か、あとで誰かに訊いてみよう。

 周子さんのプロデューサーさんが、準備はいいかというような視線を投げかけてくる。私は小さくうなずきを返す。

 扇子で顔を隠すようにしてしばし待ち、先ほどと同じイントロが流れ始める。
 音が出てよかった、と思った。当たり前のことでも、私にとっては幸先がいい。
 もっとも、実のところ音楽なしでも同じように歌い、踊れる自信はあった。
 何度か、周子さんの練習風景を見学させてもらったことがある。私はそれをしっかり目に焼き付けて、代役の話が出る前から、周子さんの曲はずっとひとりで練習していたのだ。

 すっと体から意識が離れ、少し後ろから自分を眺めているような感覚を覚える。
 悪いことじゃない。集中できているときにたびたび起こる現象だ。私は私のパフォーマンスを見つめ、その出来栄えを確認する。
 今のところ、なかなか上手くいっていると思う。声もしっかり出ているし、音程も外れていない。振り付けも問題ないはず――
 そう思った瞬間、ずるっと足が滑り、視界が傾いた。
 ちらと足元に目を向けると、ほのかに床が光って見えた。きっと汗を踏んだのだろう。私たちより前にすでに10人以上が審査を受けている。汗の雫ぐらい落ちててもおかしくない。
 私は崩れた体勢のまま、勢いを殺さずにくるりと1回転した。そしてなにごともなかったようにダンスを続けた。歌も途切れさせてはいない。
 なかなか上手くリカバリーできたと思う。予定にはなかったターンだけど、振り付けのアレンジに見えないこともないはず――だけど、ミスだと思われるかな?

 曲が終わり、審査員席に向けて深く頭を下げる。ぱちぱちと拍手の音が湧き起こった。

「ほたるちゃん、途中足すべってなかった?」

 席に戻ろうとする私に、夕美さんが問いかけてくる。

「あ、わかっちゃいましたか……すみません」

「よくあわてなかったね」

「はい。私、すべったりつまずいたりするの、慣れてるので」

 周子さんのプロデューサーさんが注目を集めるように手を叩く。

「じゃあ3人とも退出して、次の人たちには5分ぐらい待つように言ってもらえるかな?」

 残りのふたりのプロデューサーさんが、掃除用具入れのロッカーからモップを取り出している。これからの審査の人たちがまたすべらないように、モップ掛けするということだろう。

「しかしキミは、なかなか渋い扇子を持ってるね」

 部屋を出たところで、飛鳥さんが言った。

「いえ、これは借り物で……」

 私はプロデューサーさんの扇子を広げてみせた。

「なんて読むかわかります?」

「ふむ、これは…………蘭子、どう思う?」

 蘭子さんが扇子を覗き込み、「百折不撓」と言った。

 ひゃくせつふとう――ああ、右から読むんだ。
 飛鳥さんが腕組みをして、うんうんとうなずいている。

「どういう意味ですか?」

「……どういう意味だったかな、蘭子」

 蘭子さんが人差し指を唇に当てて宙に目を向ける。口に出したら怒られそうだけど、なんだか子供っぽくてかわいらしい仕草だった。

「何度失敗しても、志を曲げないこと」

   *

 社内オーディションの次の日、「合格した」とプロデューサーさんが言った。

「私が……?」

「もちろん、もっと喜べ」

「あ、あの……プロダクションの財務状況はだいじょうぶですか? 朝来たら玄関に張り紙がされて連絡とれなくなったりしませんか?」

「なにを言ってるんだ?」

「いえ、すみません。動揺してしまって」

 合格したということは、お客さん5000人のライブに出られるということだ。

 私が? 本当に?

 急に現実感が湧いてきて、心臓がばくばくした。
 じんわりと汗をかき、あわててハンカチを取り出してぬぐう。
 その際に、バッグの底に昨日から入れっぱなしにしていた扇子があるのを見つけた。

「これ、昨日返すの忘れてました。すみません」

「ああ、それは返さなくていい。もともとあげるつもりで買ったから」

「そうなんですか?」

「買ったはいいけど、若い女の子がそんな和風バリバリの扇子なんかもらっても喜ばんだろうと思って、ずっと机の引き出しに放り込んでた」

 和風好きなんだけどな、と思いながら扇子を開き、ぱたぱたとプロデューサーさんに風を送る。

「ありがとうございます。いつ買ったんですか?」

「たしか1月末ぐらいだったかな? 俺はいちども使ってないから、新品みたいなもんだよ」

 あれ? と私は首をかしげた。
 それはプロデューサーさんの記憶違いだと思う。

 だって今年の1月には、まだ私はスカウトされていない。

(本日はここまでです)

   06.

 社内オーディションの2日後、ライブに向けて何回か予定されている合同レッスンの最初の日を迎えた。夕美さんと志希さんとはオーディション以来、初めて顔を合わせることになる。
 指定された時刻より10分ほど早くレッスン室に入ると、すでに夕美さんがそこにいた。薄緑色の半袖Tシャツを着ていて、下はレッスン用のジャージを穿いている。

 こちらに目を向けた夕美さんが、ぱっと顔を輝かせて手を振った。

「ほたるちゃんおはよう、ライブがんばろうねっ!」

「はい、よろしくお願いします」

 私が頭を下げたところに、「あっ」という夕美さんの声が届き、なんだろう? と顔を上げる。
 夕美さんが私を見ていた。違う。夕美さんの視線は、私よりも更に後方に注がれていた。

 ふいに背中に重みが加わり、私は思わず短い悲鳴を上げた。

「ハスハス、くんかくんか、……ふむふむ、ほうほう?」

 首をひねって目を向けると、志希さんが後ろから私の首筋に顔をうずめていた。

「もう、志希ちゃん、あんまりほたるちゃんおどかしちゃダメだよ」と夕美さんが言う。

 志希さんは、ぴょんと跳ねるように私から離れ、あごに手を当てて目を閉じた。

「……無香料のボディソープにトニックシャンプー。外資系の、特に高くも珍しくもないやつ――だけど、これは!」

「これは?」と夕美さんが繰り返す。

「夕美ちゃんたいへん! ほたるちゃんはなんと、周子ちゃんとそっくり同じお風呂用品を使っているよ、これの意味するところは!」

「寮だからね」

「にゃるほど」

 志希さんは納得したようにうなずき、私に向けて片手を上げた。

「よろしくね、ほたるちゃん」

「は、はい……よろしくお願いします」

 レッスン開始まではまだ少し時間がある。私は気になっていたことをふたりに訊いてみることにした。

「あの……どうして、私が選ばれたんですか?」

「どうしてって?」

 夕美さんが首をかしげる。

「えっと、蘭子さんや飛鳥さんや、他にもすごい人はいるのに……」

「ほたるちゃんがいちばん点数高かったからね」

「点数?」

「あれ、これ言っちゃいけないんだったかな?」

「もう終わったからヘーキじゃないかにゃ?」と志希さん。

「そうだよね」

 夕美さんがうなずいて私に向き直る。

「こないだのオーディションは審査員で共通の評価シート使ってるんだ。音程とかリズムとか、けっこう事細かな項目があって、それぞれに点数をつけるの。それでみんなの採点を合算して、最高得点になったのがほたるちゃんだったってこと」

「評価シート……ですか」

「印象だけで判断すると、どうしても私情が入っちゃうからね。それは審査としてよくないよねって」

「でも、飛鳥さんは『あのふたりは身びいきはしない』って言ってましたけど……審査の前に」

 夕美さんがちらりと志希さんに目を向ける。

「んー、そう言ってもらえるのは嬉しいけどね、そういうのは、しようと思ってするものじゃなくて勝手になるものなのだよ」

 志希さんが言った。

「無意識、深層心理、アンコンシャス・バイアス。偏見は誰でも必ず持っている。好意的なものも含めてね。『自分は公正だー』なんて思ってしまうのがいちばんいけない。あたしも夕美ちゃんも、346のアイドル全員と同じだけ関わってなんていないから、偏見は発生するよ。身びいきってのはつまり、身近な子のパフォーマンスはよく見えてしまうということで、それは自分では気づけないんだよね。かといって、自分とあの子は仲がいいから好意的に見ているはずなので、ある程度マイナス評価しようってのもひどい話でしょ。偏見の効果がどのくらいなのかわからないのに」

 私は「はあ」と言って、あいまいにうなずいた。

「というわけで、審査の基準となる項目を決めて点数をつけることにしたんだね。これでも完全な私情の排除なんてできないけど、審査結果比べてみたら、プロデューサー勢も含めて、だいたい一致してたよ」

 なるほど、よく考えてるんだなあ、と感心した。
 だけど、私が気にしているのはそういうことではなく、

「その……私、不幸体質で、みなさんに迷惑をかけてしまうんじゃないかと」

「ああ、有名だよね。夕美ちゃんは知ってる?」

「うん、詳しくは知らないけど、ほたるちゃんがそう言ってるってのは聞いてるよ」

「知ってるのなら、どうして私を入れたんですか? こんなだいじなライブに……私のせいでなにかあったら……」

「評価シートに、そんな項目はないから」と志希さんが言って、「そうだね」と夕美さんがうなずく。

 あまりに平然とした反応で、私はぽかんとしてしまった。

「そういえば、志希ちゃんはそういうの信じるの?」

「ん? そういうのって?」

「オカルトっぽいの、科学者とか研究者の人はあんまり信じないのかなって」

「そんなことないよー、科学者にも熱心な宗教家とか、もっとおかしなものに傾倒してる人はいっぱいいるし」

「へえ、そうなんだ」

「あと、説明のつかない現象ってのは、科学の使徒なら、単にまだ解明されてないだけって見るものだよ。実際に起きてることを理屈がわからないからって『そんなはずはない』なんて言い張るのは、それこそ非科学的だね」

「そっか、たしかにそうだね」

「そういうものを科学的に研究してるところもあるから、その手の人がほたるちゃんのこと知ったら大喜びであれこれ実験するだろうね。解剖しちゃうかも」

 そう言って、志希さんが私に目を向ける。私は思わず何歩かあとずさった。

「ああ、あたしはケミカルが専門だから、そーゆーのは研究対象外なのでだいじょうぶ」

「は、はい……」

 背中を一滴、冷や汗が伝い落ちる。
 だいじょうぶの理由が「研究対象外だから」というのは、もしも対象の内だったら解剖するのにもためらいはないと言っているように思えてしまうのは、考えすぎだろうか?。

「そーゆー夕美ちゃんは、信じてないのかにゃ?」

「うーん、私にはわからないかな。ほたるちゃんがそう言ってるんならそうなんじゃないかな」

 夕美さんがあっけらかんと答える。

「でも、どっちにしても、ほたるちゃんのせいじゃないよね。体質なら」

「あ、そうそう。それでひとつ確認したいことあったんだー。ほたるちゃん、ちょっとじっとしててね」

 言うが早いか、志希さんは私のレッスン着のファスナーを一気に下まで引き下ろした。

「な、なにをするんですか!?」

「いいからいいから、よいではないか~」

 そう言いながら、志希さんがするすると私のレッスン着を脱がし始める。私は抵抗する間もなく上着をはぎ取られてTシャツ姿にされた。このままぜんぶ脱がされるんじゃないかと思って身を固くしたけど、志希さんは私の上着を片手に、じっと私を見ていた。

「うん、きれいな腕だね」

「腕?」

 私が自分の腕に目を落とす。その隙に、志希さんが私のTシャツをぴらりとめくった。私は変な声を上げながら後ろに飛びのいた。

「なにかあった?」

 夕美さんがほほ笑みながら訊ねる。

「かわいらしーおへそがひとつ」

 志希さんがにゃははと笑う。

「それだけだね」

「そっか」

「なにがですか……」

「ん、傷がないな、ってね」

 ああ、とようやく納得がいく。
 私のプロデューサーさんがいつも傷だらけなのは、今やけっこう有名な話だ。私の不幸を知っているのなら、当然それも知っているはずだ。
 プロデューサーさんの負傷の原因が私の不幸なら、私も同じようにケガをしているんじゃないか、ということだろう。
 でも、それならそうと、先に言ってくれればいいのに。

「ケガは……昔はよくしていたんですが、今は慣れたので」

「ふーん、慣れたらなんとかなるものなの?」

「気を付けていればだいたいは……それでもたまにケガをすることはあるんですけど、昔からなるべく軽傷で済むように肌の露出をひかえてますので」

 たかが布の1枚でも、あるのとないのでは負傷の度合いがぜんぜん違う。
 私は夏場でも外に出るときはほとんど長袖のTシャツかブラウスを着て、スカートのときはなるべくタイツを穿くようにしていた。

「にゃるほどにゃるほど。昔って、どのくらい昔?」

 どのくらい?

 考えてみると、いつから始めたことなのかわからなかった。私にとってそれは当たり前すぎて、なぜかと疑問に思うことすらなかった。だから、

「……物心ついていないような、小さいころからです」

 母が、そうさせていたんだと気付いた。
 私がまだ幼く、自分の不幸体質を知らなかったころから。

「いいママだね」と志希さんが言った。

「ね」と夕美さんが言った。

   *

 レッスン開始時刻になり、トレーナーさんが入ってきて、雑談は終了となった。
 この合同レッスンの担当になったトレーナーさんは、青木聖さんだ。

「時間は少ない。ビシビシ行くから覚悟しておけ」

 聖さんは私たちを見回して言った。

 私は周子さんが予定していた曲をそのまま引き継ぐ形となった。本番では、私、志希さん、夕美さんの順でステージに上がる。それぞれの単独での出番のあと、アンコール分として全員で3曲を披露する。つまり私は時間を空けて2回ステージに上がることになる。

 準備運動を兼ねた軽いダンスのあと、ひとりずつレッスンをすることになった。残りの2人は休憩を兼ねた見学ということらしい。

「白菊はいきなりだと緊張するだろうから、あとにして、先に先輩ふたりにお手本を見せてもらおうか」

 聖さんが言う。緊張していたのはたしかだったので、ありがたいと思った。

「まず一ノ瀬から」

「はーい」

 私と夕美さんが壁際に移動して腰を下ろす。
 私は少しわくわくしていた。志希さんと夕美さんの歌は、一般販売されているCDでは聴いているけど、生の歌やダンスは見たことはなかったからだ。

「ほたるちゃん、すごい真剣だね」

 くすっと夕美さんが笑う。

「はい、見るのも勉強ですから……」

「うーん……でも」

 夕美さんが困ったように苦笑する。

「志希ちゃんは、参考にはならないと思うよ」

 どういう意味だろう? と思ったけど、ちょうど音楽が流れ始めたので、私は見学に集中することにした。

 志希さんはどうやら歌にアレンジを加えているようだった。ところどころ音程やリズムをわざと崩していたり、間奏部分でスキャットを入れたり、歌詞も一部変えたりしている。それでいて楽曲としての質は損なわれていない。

 さすがに歌もダンスもレベルが高く、私は思わず感嘆の息をついた。志希さんは軽々とこなしているけど、あれは相当に難しいだろう。

「一ノ瀬、振り付けが違う」

 最初の曲が終わったところで、聖さんがあきれたようにつぶやいた。

「あれ、そーだっけ? どこが違ったかにゃ~?」

 志希さんがとぼけたように言って、聖さんが深いため息をつく。

「ぜんぶ違う」

 ぜんぶ?

「……あの、違うというのは?」

 私は小声で夕美さんに問いかけた。

「即興だね、あれ」

 夕美さんが答える。
 即興――ダンスにもアレンジを加えていたのだろうか?

「あの曲の本来の振り付けはあるんだけどね。ぜんぜん原型とどめてないよ」

「私には、ちゃんとした振り付けに見えましたけど……」

「うん、あれ志希ちゃんが今考えたんだね」夕美さんが言う。「それで、同じのは二度とやらないの。もったいないよね」

 それから1曲終えるごとに聖さんが苦言を呈した。「それではレッスンにならない」と。
 信じがたいことに、志希さんはすべての曲にオリジナルの振り付けを当てているらしい。私の目には、そのどれもが甲乙つけがたいほど完成度が高く見えた。
 夕美さんによれば、それらは全て『その場』で考えて踊っているという。本当に、そんなことが可能なのだろうか?

 聖さんは、途中からはもうなにも言わず、ただ複雑そうな顔で志希さんのパフォーマンスを眺めていた。

「では次、相葉」と聖さんが言う。

「はいっ」と元気よく答えて夕美さんが立ち上がる。入れ替わりに志希さんが腰を下ろし、そのままこてんと横になった。

 夕美さんが、さっきまで志希さんが踊っていたところでトーントーンと飛び跳ねる。リズムを取っているようにも見えたし、体をほぐしているようにも見えた。
 聖さんがオーディオを操作し、音楽が流れ始める。
 夕美さんが控えめなステップを踏み、少しの間をおいて、澄んだ歌声が響き渡る。

 空気が一変した。

 私は不思議な感覚を覚えた。
 まるで自分が今、色とりどりのお花が咲き乱れる草原にでも立っているような錯覚。
 室内にいるはずなのに、降り注ぐ陽光のあたたかさを感じ、そよ風が肌をなでる感触まで伝わってくるようだった。

 夕美さんは志希さんとは違い、歌に特別なアレンジはしていない。CD音源を忠実に再現するように、正確なリズムと音程で声を響かせていた。
 一方で、ダンスは少し変わっていると感じた。急な動き出しや停止というものがなく、流れる水のように、常に動いている。歌の振り付けというよりは、日本舞踊かなにかみたいだった。全体的にゆっくりに見えるのに、不思議と曲に遅れることはない。

 1曲目が終わる。聖さんは特になにも言わずに次の曲を流した。

 どくんどくんと、自分の胸が高鳴るのを感じる。
 志希さんが私に向けてなにか言ったような気がしたけど、耳には入ってこなかった。
 私はまばたきをするのも忘れて、夕美さんに見入っていた。
 歌もダンスも、もちろんすごく上手い。だけどそれだけじゃない。

 この人は、なんて楽しそうに歌うんだろう。

 歌うことが大好きで、心の底から楽しいと思っているのが、その声や表情からあふれ出していて、なんだか、見ている私まで、幸せな気分になった。

「相葉はそれまで」

 聖さんが言う。

「次、白菊」

 ぼうっと余韻に浸っていた私は、その声で現実に引き戻された。

「は、はいっ! すみません!」

「いや、謝る必要はないが……」

 私が部屋の中央に向かう。すれ違いざまに夕美さんが、「ほたるちゃん、がんばってね」と言って笑いかけてきた。

 なんだかふわふわと雲の上を歩いているような気分になる。
 背後で志希さんが、「ほたるちゃんがかまってくれない」と不満そうな声を出し、夕美さんが「レッスン中だからね」となだめている。
 こそっと振り返り、その様子を盗み見る。私は膝が震え出しそうになるのを必死に抑えた。

 私が、このふたりと同じステージに立つの?

「久しぶりだな」

 聖さんがニヤリと笑う。
 私が聖さんのレッスンを受けるのは、346プロにきて最初のレッスン以来だった。
 後になってから知ったけど、そもそも聖さんは通常は新人のレッスンなんて受け持つことはない。あのときは、プロデューサーさんの依頼で特別に、ということだったらしい。それ以降は、聖さんの妹の慶さんや明さんが私のレッスンを担当していた。
 聖さんの笑みは、「あれからどう変わったか見せてみろ」と言っているように見えた。

 私は、改めて部屋の中を見回した。
 整った設備、適切な指導、レッスンに打ち込むための、最高の環境がここにはある。
 もうなにも言い訳はできない。なにのせいでもない。これでダメだったら、私自身がダメなんだ。

 ゆっくりと息を吸い、吐く。

「お願いします」と私は言った。

 そして、案の定というべきなのか、聖さんの叱責の声が飛びに飛んだ。
 声が小さい、テンポが遅れている、表情が固い、足元を見るな、指先までしっかり伸ばせ、と。
 指摘されたところを修正しようとすると、別のどこかがおろそかになる。聖さんはそれを見逃さず、即座に指摘の声を飛ばす。それをずっと繰り返した。

「よし、そこまで」

 予定の曲をひと通り終えて、聖さんが言った。

「……すみませんでした」

 私は息を切らせながらつぶやいた。

「なにを謝ってる?」

「私だけ……ぜんぜんダメで」

 聖さんが「ああ」と納得したような声を漏らす。

「現時点でそれだけできていれば十分だ。気にしなくていい――というよりも」

 聖さんが壁際で休んでいるふたりに目を向ける。

「……白菊ぐらいのほうが、こっちもやりがいがあって助かるな」

「いじめっこだ」

 と志希さんが笑う。

「上手だったよ」

 夕美さんがぱちぱちと拍手をしてくれる。
 私はほっと息をついた。自分の中になにか、この人には見放されたくないという思いがあった。

「だけど、振り付けアレンジするんですよね?」

 夕美さんが聖さんに向けて言った。

「ああ、だがまずは素の状態を見て、それから矯正していくつもりだったから」

「あの? アレンジというのは?」

 私は話について行けていけずに問いかけた。

「本番の衣装は和装になるんだよ。動きが制限されるし、普通のとは見え方が変わってくるから、それ用の振り付けになるんだよね」

 夕美さんが答える。
 なるほど、夕美さんの振り付けは、本番の衣装まで想定したものだったんだ。

「すみません、考えてませんでした」

「こっちが言ってなかったんだから、考えてなくていい」

「あたしも考えてなかったにゃ」と志希さんがつぶやく。

「一ノ瀬はそれ以前の問題だ」

 聖さんが頭痛をこらえるように額に手を当てた。

「下駄を履くわけではないから、そこまで極端に難しくはならないと思うが、和装の経験は?」

「えっと、お仕事では少しだけ。歌ではなくて、演劇ですが……」

「ほう」

 幽霊の役を、とまでは口にしない。聞いたほうも反応に困るだろう。

「今日のところはそこは気にしなくていい。次回、感覚をつかむためになにか借りてこよう」

「わかりました」

「それはそうと、白菊」

 聖さんが、手元のバインダーに目を落とす。

「ここ最近、体重が減っているようだな」

「あ、はい。そうみたいです。えへへ」

「なにを嬉しそうにしている、増やせ」

「ええっ?」

「これはもはや不健康といっていい領域に入っている。お前まだ13歳だろう、成長期に体重落とすヤツがあるか」

「いえ、でも私べつに、ダイエットとかしてるわけじゃ……」

「レッスンのしすぎだな。レッスン量を減らすか、食事量を増やすかしろ」

 レッスンは減らしたくないなあ、と思った。

「えっと、じゃあ……がんばって食べます……」

「そうしろ。では、白菊がもう少し休憩したら、全体曲のレッスンを始める」

「あ、私はすぐでも、だいじょうぶですけど」

 聖さんがいぶかしげな視線を向けてくる。

「お話してるあいだに、息整いましたので」

「……ああ、そういうヤツだったなお前は」

 私はきょとんとした。
 そういうやつって、どういうやつだろう?

「心配しなくても、お前も遠からず、あっち側になるよ」

   *

 志希さんと夕美さんはお仕事の予定が多く入っているため、合同レッスンがとれる日はあまり多くない。
 2回目の集まりは最初の合同レッスンから3日後のことで、この日は集合時間になっても、志希さんが姿を現さなかった。

「あの、志希さんは……?」

 私は夕美さんに問いかけた。

「来てないね、電話も出ないし。今日は来ないかな?」

 スマートフォンを片手に夕美さんが答える。

「もしかして……私のせいでなにか……」

 夕美さんは笑って首を横に振った。

「志希ちゃんはよくサボるから、いつものことだよ」

「え……本当ですか?」

「うん、志希ちゃんには、ホントはレッスンなんて必要ないだろうからね」

 それは、夕美さんもだろうと思う。
 前回、今度のライブに向けてのレッスンとしては初回だったにもかかわらず、夕美さんのパフォーマンスは私の目にはそのままステージで披露したとしても問題ない出来映えに見えた。聖さんも、「文句なし」ということなんだろう、夕美さんに対してはコメントがほとんどなかった。
 たぶん、このレッスン自体が、ほとんど私のためだけに組まれているんだと思う。
 全体曲でも、ふたりはぴったりと息が合っていた。というより、ふたりが私に合わせてくれていた。最初の1回目から、聖さんの細かな指摘はいくつかあったけど、不思議なほど気持ちよく歌うことができた。もしかしたら志希さんは前回私と合わせられるかを試しにきていて、あれでもう十分だと思ったのかもしれない。

 聖さんがやってきても志希さんは姿を見せず、レッスンはふたりだけで始めることになった。
 私は、前回よりは叱られることは少なくなった。この3日間で指摘されたところを集中的に直した甲斐があったのかもしれない。

 ひと通り終えたあと、今度は聖さんが持ってきた羽織袴とブーツを着用してレッスンをおこなった。本番の衣装そのものではないけど、構造はほぼ同じらしい。ブーツは踵がけっこう高くて、慣れるまでに何回か転んでしまった。
 夕美さんはやはり衣装を想定した振り付けをしていたらしく、仮の衣装を着てのダンスも不自然なところは全くなく、むしろよりいっそう映えるものになっていた。

 私は夕美さんや聖さんの助言を聞きながら何度も繰り返し、ようやく「なんとか形にはなっている」という程度には踊れるようになった。

 志希さんは、衣装を着たレッスンをしなくてだいじょうぶなのだろうか、と思って夕美さんに訊いてみると、「前にやったことあるから心配は要らないよ」と返ってきた。

 前というのは、最初に桜舞姫が結成されたときのライブのことだろう。

「志希ちゃんはすぐにちゃんと踊れるようになったけどね、私は最初のうちはすごい下手だったんだ。ほたるちゃんのほうがずっと飲み込みが早いよ」

 あのダンスを見たあとでは、夕美さんに下手なころがあったなんて信じられない。私を元気づけようとして謙遜してるんじゃないかと思った。
 志希さんがすぐにできるようになったというのは本当だろうけど……

「周子さんは?」と訊いてみる。

「慣れたものだったね」

 答えた夕美さんは、どこか誇らしげなように見えた。

「私このあと少し時間空くから、周子ちゃんのお見舞いに行こうと思ってるんだけど、ほたるちゃんも行く?」

 レッスンが終わったころ、夕美さんが言った。

「いえ……私なんかが行ったら、治るものも治らないと思うので……」

 実は何度か行ってみようかと思ったことはある。
 病状も気になっていたし、私が代役を務めさせてもらうことになったと報告もしたかった。
 同じ建物に住んでいるのだから、行こうと思えばいつでもすぐに行けた。
 だけど、お見舞いに行った私の不幸でなにかよくないことが起きてしまったら、「お前は、なにをしにきたんだ」という話だ。とどめでも刺しにきたのかと。

「そんなことないと思うけどなあ」

 夕美さんが苦笑する。それから「うーん」と少し考え込むような仕草をして、

「ねえ、ほたるちゃん。明日ってどんな予定になってる?」と言った。

「お仕事とかはないです、自主レッスンでもしていようかと」

「そっか、じゃあ私とデートしない?」

 夕美さんが、にっこりとほほ笑む。

「デ……えええええ!?」

 自分でも驚くくらいの大声が出た。

「ええと……私もオフだから、いっしょにお出かけしない? ってことなんだけど……そんなに驚くことだったかな?」

「そ、そうですよね、ふつうですよね。もちろんだいじょうぶです、はい」

「よかった、じゃあまたあとで連絡するね」

   *

 ひとりになったレッスン室でしばらく自主レッスンをこなして、私はいつものようにプロデューサーさんに声をかけに行った。

「プロデューサーさん、私そろそろ上がりますので」

「お疲れさま。今日はいつもより少し早めだな、疲れ溜まってるのか?」

「いえ、その、明日は…………で、でーと、なので、それに備えてというか……」

 軽い悪戯心が芽生えて、私はそんなことを口走ってしまう。

「ああ、なんだデートか……」

 プロデューサーさんが、カタカタとキーボードを叩きながらそっけなくつぶやく。
 この人があわてるとは思っていなかったけど、予想以上に反応が軽くて少しがっかりした。

「では、お先に失礼しま――」

「デート!!!」

 突然プロデューサーさんが叫び、ガタンと椅子を倒して立ち上がる。
 びっくりしすぎて腰が抜けそうになった。

「それはマズい! たしかにお前はまだこれっぽっちも売れていないし、スキャンダル狙ってる週刊誌もいないだろうけど、それは駄目だ!!」

 さすがに少しむっとした。事実ではあっても、『これっぽっちも』は、いくらなんでもひどい。

「相手は誰だ、学校の同級生か!? まさか業界関係者じゃないよな!?」

「知りません」

 私はプロデューサーさんに背を向けて、駆け足で部屋を出て行った。

   *

 これまであまりそういった経験がなかったため、私はたぶん、浮かれていたんだと思う。

 寮の自室に帰ってから、私は携帯電話を片手に思い悩んでいた。
 つい反射的に引き受けてしまったけど、私といっしょにお出かけなんかしたら、夕美さんになにか悪いことが起きてしまうかもしれない。プロデューサーさんみたいに。
 プロデューサーさんならいいというわけじゃないけど、夕美さんはライブを控えているだいじな体だ。万が一にもケガなんてさせるわけにはいかない。

 だけど、わざわざお休みの日に誘ったということは、なにか私に話でもあるのかもしれない。それにいちど引き受けたことを反故にするのはよくない。

 ……なんて頭の中で必死に言い訳を作ってるけど、本当は違う。私は楽しみにしているんだ。夕美さんと、遊びに行きたいと思っているんだ。

『だけど』が頭の中で繰り返される。
 今の状況的に、優先するべきはライブだ。断りの電話をかけることが正しい、と思う。
 液晶画面には、夕美さんの電話番号が表示されている。私はもう10分以上に渡って通話ボタンに指を伸ばしては引っ込めを繰り返していた。
 そのとき、手の中の携帯電話が鳴りだし、心臓が止まるかと思った。夕美さんからのメール着信だった。
 メールを開いてみると、明日の待ち合わせの時間と場所が書いてあった。それから「楽しみにしてるね」とひとこと、最後は花束らしき絵文字で結ばれていた。

 私は悩みに悩みぬいた末、携帯電話を机に置いた。
 断りの電話はかけない。私は夕美さんとお出かけをする。
 だけど、夕美さんにケガなんてさせない。いざとなったら、私が身を呈してでも防いでみせる。
 ベッドに腰かけて、両手をぎゅっと強く握りしめた。

 私が夕美さんを守るんだ。

(本日はここまでです)

   07

 調合した顆粒をカプセルに詰め、ビンに落とす。何度かそれを繰り返し、カプセルがなくなったところで大きく伸びをし、こりをほぐそうと首を振る。
 締め切ったカーテンの隙間から差し込む光を視界にとらえ、とっくに日が昇っていたことを知る。時計を確認、午前10時36分。夜間に始めた作業が時間を忘れさせていたらしい。

 強い疲労感と眠気を感じる。服を脱ぎ、バスルームへ。シャワーに打たれて眠気を払い、バスタオルで乱雑に体をぬぐう。
 ドライヤーで髪を乾かしながら部屋の中を物色。衣類の山、洗濯は済んでいるが畳まれていない。髪の水気が飛びきったことを確認し、スイッチを切る。適当に拾った下着とキャミソール、ショートパンツを身に着け、椅子に引っかけたままにしていたカーディガンをはおる。カプセル入りのビンをバッグに放り込み、外へ。
 眩しさに目が痛み、バッグから取り出したサングラスをかけた。

 大通りでタクシーを捕まえ、目的地の住所を告げる。バックミラー越しに好奇の視線。

「346プロダクションですか?」と運転手。

 肯定の返事を返す。『世間話でもしてみたい』というような欲求が鼻に届く。そしらぬ顔で窓の外に目を向け、無言のまま流れる景色をぼんやりと眺める。

 到着、電子マネーで料金を支払い、車を降りる。
 事務所の正面入り口前から少し引き返す。隣接した女子寮に入り、サングラスを外す。
 1階ロビー。見知った顔がこちらを見て小さく首をかしげる。『キミがなぜここに?』ウインクをひとつ送り、通り過ぎる。エレベータに乗り込み、目的の階へ。
 ドアの前に立ち、ぴんぽんとチャイムを鳴らす。しばし待ち、ドアが内側から開かれる。

「……志希ちゃん?」

 部屋の主、塩見周子ちゃん。片手でドアを抑えながら困惑の表情をする。
 寝癖、部屋着、裸足で玄関のスニーカーを踏んでいる。

「やっほ、上がっていいかにゃ?」

「ん? うーん……んー」

 やや充血した目、おそらく寝起き、若干痩せた印象、かすかに肌荒れ。
 懸念、『伝染してしまうのではないか』という不安。

「あたしはだいじょうぶだから」

「どんな根拠で……ま、いいか。どうぞ」

 声は平静。鼻詰まりなし、喉荒れなし、呼吸器官の症状なし――あるいは軽微。

「おじゃましまーす」

 周子ちゃんに続き室内へ。奥の部屋へ向かいながらキッチンを確認。最近使用された形跡なし。匂いなし。
 寝室に通され、部屋を見回す。空のペットボトル、脱いだままの衣服、散らかし気味。
 椅子に座るよう促され、従う。周子ちゃんがベッドに腰をおろす。気怠そうな雰囲気、立っているのが辛かった様子、仄かに紅潮した頬、微熱。

「志希ちゃん、今日オフなん?」

「あ、そういえばレッスンがあったような」

 バッグを探り、スマートフォンを取り出す。画面を点灯、6件の不在着信、見なかったことに。

「悪い子だねー」

 苦笑する周子ちゃん。呆れ含み、特に問題とは思っていない。
 しばし沈黙。なにか言おうか言うまいか迷っている気配。逡巡ののち、口を開く。

「……ごめんねー、ライブ出れなくて」

 軽い調子、擬態。罪悪感が香る。

「周子ちゃん最近忙しかったもんねー、やっぱり労働は悪だね」

「また杏ちゃんみたいなことを」

「あたしもしばらく周子ちゃんとのんびりしてよっかにゃ~」

「夕美ちゃんに怒られるよ。あの子を本気で怒らせたら、辺り一面、花しか生えない焼け野原だよ」

「興味深い土壌だね。怒らせたことあるの?」

「ないけどさ」

 流暢な会話。娯楽にふけった形跡なし、退屈していた。ひたすらの睡眠。一刻も早く病状を回復させようとしていた。

「そういえばねー、なんと周子ちゃんの代わりにほたるちゃんが出ることになったのだ」

「ほたるちゃん? どういう成り行きで?」

「うちのアイドルで代役のオーディションを開いてねー」

「へえ、オーディション? 誰が審査したん?」

「あたしと夕美ちゃんと、プロデューサー軍団」

「えー、ひとが寝込んでるあいだに面白そうなことやんないでよ。あたしも審査したかったわ」

「周子ちゃんいたらオーディションの必要ないでしょ」

「そらそうだ。……そっか、ほたるちゃんか」

 微笑、どこか遠くを見るような目。罪悪感、ある程度解消。

「志希ちゃんは、ほたるちゃんのことどう思った?」

「ひかえめ、というより、自己評価がやたら低いね」

「あー……たしかにそうかも」

「こないだ3人でレッスンしたんだけどね、あれだけできるならフツーもっと自信持ってるものだよ」

「それ、志希ちゃんが折ったんじゃあるまいか」

「いや、ほたるちゃんもぜんぜん悪くなかったよ。他人の曲であれだけできれば大したもの、だけど本人はそう思っていない」

「うーん、志希ちゃんは、なんでだと思う?」

「他人から認められた経験に乏しいから、かにゃ」

「……まあ、自信ってな、そうやってつけるものかもね」

「あと加害恐怖の傾向があるね。強迫性障害の一種」

 周子ちゃんが眉をひそめる。

「それは、病気?」

「メンタル関係はまだまだ研究が進んでなくてね、病気かどうかの区別なんてのは、名前が付いてるか付いてないかぐらいでしかない。そういった意味では病気になるかな」

「で、ほたるちゃんがそれだって?」

「あくまで傾向。検査でわかるようなものじゃないし、この手のものは明確な指標とゆーものがないから、確実に正確な診断なんてのは、お医者さんでもできない」

「でも強迫性ナントカってのは、ようは思い込みなんだよね。ほたるちゃんの不運は本物だよ」

「本人にとっては同じだよ。思い込みのほうも本物だって思ってるんだから」

「それもそうか。治療とかできるん?」

「投薬である程度の効果は見込めると思う。ただし、効いてるあいだだけだね。思い込みなら、その間に思い込みを解消できれば、今度はお薬を減らしていって最後は要らなくなる。だけどほたるちゃんは本物だから、それだけじゃ本人の認識の変化は望めない」

「じゃあ、体質のほうをなんとかできなきゃどうにもならない?」

「そーゆーわけでもない。他人を巻き込もうが気にしなければいいわけだし」

「それは……ちょっとほたるちゃんには難しいかなー」

「程度の問題だよ。あの子は気にしすぎ。他人にメーワクってんなら、あたしのほうがよっぽどかけてるのにね?」

「せやね」

 迷いのない肯定。その遠慮のなさを心地よく感じる。

「周子ちゃんは、前からほたるちゃん気にかけてるよね」

 周子ちゃんの目を見ながら言う。

「どうして?」

「最初に会ったときさ、ほたるちゃん、私はアイドルなんかやっちゃいけないって言ってたんだ、みんなを不幸にするからって」

「うん」

「それでも、アイドルになりたいって言ったんだ」

「うん」

「あたしは、じゃあなりなって言ったよ。だから、ちょっと責任感じてたりもするんだよね。本当にそれでよかったのかわかんないしさ」

「間違ってはないと思うよ。欲求とはヒトが生きるために必要なメカニズムだから」

「どーゆーこっちゃ?」

「ほたるちゃんにとってアイドルになりたいってのは、きっと自分が生きるために必要なことだから、そう望むんだよ。ほたるちゃんは自分が不幸を振りまいていると思っている。だったらそれを上回るくらい人を幸せにして打ち消したい。理に適ってないこともない」

「なんか複雑やね」

「つまり、あの子に今必要なものは」

「成功体験かね」

 周子ちゃんが後を引き取る。あたしはうなずく。

「ライブが大成功すればいいわけだ」

「心配?」

「んー……いや、そーでもない」

「ほほー、そのココロは?」

「志希ちゃんと夕美ちゃんがいるから」

 周子ちゃんがこちらを見て薄くほほ笑む。

「助けてあげてよ」

「それを、あたしに頼むかにゃ?」

「信用してるよ」

 なんとなく落ち着かない感じがして、もぞもぞと椅子の上で体勢を変える。それから小さく首を縦に振る。
 周子ちゃんが優しげに笑った。

「そいえば周子ちゃん、ごはんはどうしてる?」

「ん、寮の食堂で。あんまり大勢いるとこに行くのもなんだからね、特別に時間ずらしてもらってる」

「しっかり食べてる?」

「あんまり食欲ないから、しっかりは食べてないかなー」

「そかそか、それはよかった」

「いや、ええんかい」

「いいんだよー、胃腸が弱ってるときはそれが正しい」

 しばしの雑談を交わすうち、周子ちゃんがコンコンと咳込む。乾性咳嗽。
 エネルギーの消費と、嘔吐神経の刺激。

「んー、咳、ひどい?」

「少しね」

「咳しすぎると吐きやすくなっちゃうから、ひどいようなら咳止め飲んだ方がいいんだけど」

「いや、そこまでじゃないよ。たまに、忘れたころにくるぐらい」

「ふんふん……だったら咳止めはいいかな。それはさておき、これプレゼントね。志希ちゃん特製だよ」

 バッグからカプセル入りのビンを取り出し、手渡す。
 徹夜の成果、海藻類を原料にした特殊カプセル、胃腸への負担の軽減。

「んー、風邪薬? 10個ぐらいあるね」

 ビタミン剤、と告げる。
 周子ちゃんがいぶかしげにビンを持ち上げ、カラカラと鳴らす。

 ――いい匂いがする。



「……んっ、じゃあたしはここらで失礼するから、それは飲まないようなら捨てちゃっていいよ。じゃーねー、鍵はかけないでいいからねー」

 立ち上がり手を振って、返事を待たずに部屋を出る。

 通路、こちらに向かってくる人影、右肩にバッグ、左手に買い物袋を下げている。
 一直線に駆け寄り、抱き着く。

「きゃっ」と短い声。



 ハスハス、くんかくんか、スーハースーハー。



「志希ちゃん?」

「や、奇遇だね夕美ちゃん」

 夕美ちゃんの左肩にあごを乗せ、ちらと買い物袋に目を向ける。食料品。
 大根、セリ、昆布……おそらく具沢山のお粥、周子ちゃんのごはんを作るのだろう。

「周子ちゃんのお見舞い行ってたんだね。でもレッスンさぼっちゃだめだよ」

「にゃはは、ごめんごめん」

 夕美ちゃんの指があたしの髪を梳く。あたたかさと頭皮に伝わる心地よい感触に、眠気がよみがえる。

「……志希ちゃん、寝不足?」

 顔も見えてないのに、なんでわかるんだろう?

「あー、うん。少し」

「帰ったらゆっくり休みなね。志希ちゃんまで倒れたら困っちゃうよ」

「プロデューサーたち大あわてだろうね、おもしろそ~」

「私が、困っちゃうよ」

「――うん」

 しばしのあいだ、黙って撫でられるに身をまかせた。
 なごりおしいけど、夕美ちゃんもそろそろ周子ちゃんのところに行きたかろうと思い、最後に大きく息を吸い込んで腕をほどく。
 お花と、太陽の香りがした。

「またねー」と手を振って、エレベーターに向かう。

「あ、志希ちゃん」と呼び止める声。

 足を止め、首だけで振り返る。

「おうち帰ったら、手を洗って、うがいしてね」

 思わず笑ってしまいそうになった。
 くるっと半回転し、敬礼のポーズをとる。

「はい、ママ!」

「ママじゃないよっ」

 建物の外へ。かすかに足元がふらつき、頭を振って眠気を払う。タクシーをつかまえ、帰宅。
 玄関先で眠りそうになるのをこらえ、洗面所へ。手を洗い、うがいをする。

『私が、困っちゃうよ』

 寝室へ移動。室温、問題なし。湿度、問題なし。水分――やや不足していると感じる。
 ミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。封を切り、半分ほどを一気に飲み下す。
 ベッドにもぐりこみ、目を閉じる。

『助けてあげてよ』

 まどろみの中、思い返す。
 あたしを頼りにするなんて、周子ちゃんもどうかしてる。

 白菊ほたる、不幸の申し子。
 あまり心配はしていない。あんな捨てられた子犬みたいな目をした子を、夕美ちゃんが放っておくわけがない。

 ふと彼女の担当プロデューサーに思案を向ける。
 深い会話を交わした覚えはない。ほたるちゃんの代役内定後、丁寧なあいさつをしにきた。
 20代後半、独身、いつも戦闘服のように隙なくスーツを着込んでいる。兵士、あるいはサイボーグを連想。ビジネスライク。
 以前担当していたアイドルの引退後、ほたるちゃんをスカウトするまでは事務仕事に専念していたという。

 事務所内ですれ違った際、ときおり、ごく少量のメンズパルファンを漂わせていることがある。
 印象、自ら購入してまで香りを身につけるタイプではない。あれば使うかもしれない、もらいもの?
 女から男へ香水のプレゼント。マーキングの意味。

 噂、以前の担当アイドルと男性芸能人のゴシップ沙汰。346の権力で握りつぶした。
 その後、彼女はテレビの生放送中に引退を表明。くだんの男性芸能人との進展はなし。以降の行方は知れず。

 アイドルから担当プロデューサーへの恋慕、失恋、あてつけ?

 思考を中断――空想の域を出ない。



 だけど彼からは、隠し事の匂いがする。

(本日はここまでです)

   08.

 小学6年生の運動会のとき、私は女子長距離走のクラス代表に選ばれた。
 特別運動に秀でていたわけでもない私が、なぜ代表に選ばれたのかはわからない。もしかしたら、みんながやりたがらない種目を押し付けられただけなのかもしれない。

 自他ともに認める雨女で、遠足などのみんなが楽しみにするイベントには数限りなく雨を降らせてきた私だけど、運動会当日は抜けるような快晴だった。
 長距離とはいっても、実際にそれがどのくらいだったかは覚えていない。小学校のことだし、それほどの距離ではなかったと思う。

 校庭のトラックを1周し、校門から外に出て、決められたルートを走る。
 ところどころに目印代わりの生徒や教師たちが立っていて、道を間違えないように誘導していた。
 私は一生懸命走った。押し付けられたはずれくじでも、代表であることは変わりない。手を抜いて、みんなの迷惑になんてなりたくなかったから。
 車にぶつかりそうになっても足を止めず、靴ひもが切れたら急いで結び直して、何度も転んで、同じ数だけ立ち上がって、ひたすら一心不乱に走り続けた。

 しばらくして、後続がどんどん離れていくのがわかった。
 私が先頭を走っている。私が他のクラスのみんなを引き離している。そんな快感を背中で覚えながら、私はまた一生懸命に走り続けた。

 街中をぐるりと周り、再び校門をくぐる。トラックのコースに戻って、ゴールを目指してまっすぐに走る。



 私はいちばんでゴールをした。

 はずだった。



 ゴールラインを駆け抜けて、倒れるように地面にへたりこみ、咳込みながら息を整えて、ようやく気付いた。
 ゴールの両側で向かい合うようにしたふたりの教師が、テープを持っていなかったことを。
 先頭だと思っていた私の、視界に入らないほど遥か先を、ひとりの少女がずっと、悠然と走っていたことを。

 私が2位になったことでそこそこの得点が入り、私のクラスは優勝した。もしこれが3位だったなら、優勝は逃していたらしい。
 予想外の私の健闘を、みんながたたえてくれた。会話を交わしたこともないクラスメイトとハイタッチまでした。

 みんなが喜んでいた。みんな笑っていた。

 私は、笑えなかった。

   *

 駅の階段を駆け昇り、地上に出る。空は灰色に曇っていて、季節のわりに少し気温が低かった。
 携帯電話を取り出して時間を確認する。約束の時間を10分ほど過ぎていた。
 きょろきょろと辺りを見回すと、少し離れたところで、女性が手を振っていた。

「ほたるちゃん、おはようっ」

 一瞬、それが夕美さんだと気付けなかった。
 事務所で見かけるとき、夕美さんはスカート姿が多い。だけど今日は細身のジーンズを穿いて、橙色のテーラードジャケットをはおっていた。
 もしかしたら変装なのかもしれない。顔を隠しているわけじゃないけど、こうして見ると雰囲気がいつもとはだいぶ違っていて、これなら通りすがりの人が見かけても、よく似た別人だと思ってしまうだろう。

「すみません、遅れてしまって」

「ううん、私も今来たところだよ」

 気を遣ってくれてるのかと思ったけど、私が遅れた理由は電車遅延なのだから、同じ駅で待ち合わせしている夕美さんも遅れていてもおかしくはない。私はそれ以上なにも言わず、小さく頭だけ下げた。

「じゃあ行こっか」

 夕美さんが歩き出し、私が後を追おうとしたところで、ぽつぽつと軽い感触が頭を叩いた。

「あ、降ってきたね」

「すみません、私のせいです」

「うん? なにが?」

「その……私が外出したときは、よく雨が降るんです」

 夕美さんは少し黙ったあと、にっこりと笑って、「私は雨も好きだよ」と言った。

 私は首をかしげた。雨が好きな人間なんているのだろうかと思った。

「植物はお水がないと枯れちゃうからね。人が育ててるのはよくても、誰もお世話していない街路樹とか野の花は、雨が降らないと困っちゃうんだよ。あと農作物とかもね」

 それに、と言って、夕美さんが傘を広げる。

「この傘、お気に入りなんだけど、使う機会がないと寂しいからね」

 夕美さんの傘は、透明だけど外側のほうにピンク色のラインが入って、その少し内側に色とりどりのお花の模様が踊るように散りばめられていた。丈夫さ以外の観点で傘を選んだことのない私には、こういうものがどこで売っているのかもわからなかった。

「かわいらしいですね」

「ほたるちゃんは、傘は?」

「忘れてしまって……いつもは持ってるんですけど……」

 私は折り畳み傘は常に持ち歩いている。だけど、今日に限ってそれがなかった。
 いつの間にかバッグの底に大きな穴が空いていて、来る途中で傘がその穴からすべり落ちてしまったらしい。そんなことあり得るだろうか、と思うけど、状況を見るとそうとしか考えられない。

「そうなんだ、じゃあどうぞ」

 夕美さんが傘を少し持ち上げ、隣にスペースを作る。
 断る理由が思いつかず、私は「失礼します」とつぶやいて、いそいそと夕美さんの隣に入った。
 服装と、もともと髪が短めなのもあってか、ものすごくきれいな顔立ちをした男の人のようにも見えて、少しどきどきしてしまう。

 夕美さんがゆっくり歩きながら、道すがら目に入る草花や街路樹をひとつひとつ解説していく。
 私は肩を並べて相槌を打ちながら、車道に注意を払っていた。予想される不幸で特に被害が大きくなるのは、やはり交通事故だろうから。

 遠くから向かってくる1台の車が目に入る。けっこうスピードを出している。
 ちゃんとまっすぐ走っているから、歩道に突っ込んでくるようなことはないだろうけど、なんとなく気になって目で追っていた。そして、ちょうどあの車が私たちとすれ違うあたりの車道が、ほんのわずかくぼんでおり、雨水が溜まっていることに気付いた。
 気付くのが少し遅かった。私が夕美さんに警告の声をかけるより早く、車がすぐ横を走り抜ける。
 すっと傘がかたむき、真横を向く。タイヤが踏みあげた水しぶきが傘に当たり、バァンと大きな音を立てた。

「透明の傘って、視界をさえぎらないからいいよね」

 夕美さんが何事もなかったように傘を上に向け直す。私も夕美さんも、ほとんど濡れていなかった。

「気付いていたんですか?」

「うん、ほたるちゃんなに見てるのかなーって思ってて」

 夕美さんが上に目を向ける。

「あれ、もう止んだかな?」

 つられて私も空に目を向けた。ちょうど雲が切れて日が差し始めたところだった。
 夕美さんが閉じた傘を軽く振り、水を飛ばした。

 待ち合わせ場所を指定したのは夕美さんで、目的地は聞いていない。私は夕美さんの隣を半歩ほど遅れて歩いていた。そこに、細い路地からぴょこんと真っ黒い猫が飛び出してきた。
 よりによってこの日にかと、ため息をつきたくなった。

「あ、ほたるちゃん、猫!」

 夕美さんが無邪気な声を上げる。

「首輪してないね。珍しいね、東京で野良猫って」

「そうでもないですよ」と私は言った。「だいたい3日に1回は見かけます」

「……ほたるちゃん、猫嫌い?」

「いえ、嫌いじゃないですけど……」

 夕美さんがしゃがみ込んで猫のあごの下をなでる。猫がゴロゴロと喉を鳴らした。

「私はけっこう動物寄ってくるほうだと思うんだけどね、私のプロデューサーさんは、なぜか動物に嫌われやすくて、よく襲われてるんだ」

「襲われ……?」

「ほたるちゃんは、そういうことはない?」

「ええと……さすがに、襲われることはないです」

 夕美さんが顔を上げて私にほほ笑みかける。

「じゃあ、ほたるちゃんは猫に好かれてるんだね」

 猫が夕美さんの視線を追うように振り返って、私の足に頭をすり寄せてきた。おそるおそるなでてみると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。かわいい。
 好かれているなんて、考えたこともなかった。だけど、そう思ってみると、よく猫と出くわすというのも、そんなに悪いことじゃないのかもしれない。
 ……たまには、真っ黒じゃない子とも会ってみたいけど。

 ばいばい、と猫に手を振って再び歩き出し、夕美さんが足を止めた場所はオープンテラスのカフェだった。
 建物の中と屋外、それぞれにだいたい半分ずつ席が設けられている。

「よかった、空いてるね」

 夕美さんがスキップするような足取りで入口をくぐる。
 そこはお店の構え、インテリア、店員さんの物腰にいたるまで、すべてが高いレベルで洗練されていて、自分ひとりではまず気後れして入れないようなお店だった。もっとはっきり言うと、『高そう』だった。

「いいお天気になってきたし、テラス席でいいかな?」夕美さんが問いかける。

「おまかせします」と答えた。

 案内された席に着く。雨が上がったのを見てすぐに拭いたのか、椅子もテーブルも、少しも濡れていない。メニューを置いたウエイターさんが分度器で測ったようなお辞儀をして離れていく。

「夕美さんはこのお店、よく来るんですか?」

「うん、最近見つけてね、気に入ってるんだ。私はもう決めてるから、メニューはほたるちゃんが見ていいよ」

「はい、じゃあ私は……」

 メニューを開く。予想はしていたけど、どれもお店に負けずなかなか立派なお値段をしている。……飲み物だけでいいかな。

「夕美さんは、なにを?」

「パンケーキと、今日はカモミールティーにしようかな」

「じゃあ、私もカモミールティーで」

 夕美さんが片手を上げ、ウエイターさんに注文を告げる。

「あの……今日は、どうして私を呼んだんですか?」

 再度ウエイターさんが去っていったところで、私はおずおずと訊ねた。
 今日のことは楽しみでもあったけど、なにか特別な話があるんじゃないか、レッスンでなにか至らないところがあっただろうかと不安でもあった。

「ほたるちゃんと遊びたかったから」

 夕美さんがこともなげに答える。
 なにか続く言葉があるのかな、と待っていたけど、夕美さんはなにを言うでもなく、にこにことほほ笑んでいた。

「えっと、なにかお話があったとかでは?」

「ううん、私はただ、ほたるちゃんとお茶したかっただけだよ。このお店ね、ひとりではよく来てるけど、いっしょに来たのはほたるちゃんが初めてなんだ」

 少し意外に感じた。夕美さんは交友関係が広く、ひとりでいるところを見た記憶がほとんどない。事務所のアイドルにはカフェ巡りを趣味にしてる人もいるし、お気に入りのお店なら真っ先に紹介してそうなものだけど……

「藍子さんとか、琴歌さんとも来ていないんですか?」

「うん、それに私のところのプロデューサーさんも、連れてきたことないね」

「どうしてです?」

「私ね、みんなといっしょにいるのも楽しいけど、ひとりの時間も好きなんだ。何の気兼ねもなく、ひとりきりでリラックスしていられる秘密の場所っていうのかな? だから誰にも教えないの」

「だったらなおさら……なんで私をつれてきたんですか?」

「なんでだろうね?」

 はぐらかしているという感じはしなかった。本気で「そういえばなんでだろう?」と疑問に思っているみたいだった。

「私はそんな深く考えて行動してないよ。ほたるちゃんとこのお店に来たいなって思ったから、そうしたの」

 ウエイターさんがワゴンを押してきた。パンケーキが3枚盛られたお皿、それに耐熱ガラスらしい透明のポットと、白いカップがふたつ乗っている。
 テーブルに置いたカップに、淡い黄色の液体が注がれる。ちょうど2杯分の分量が入っていたらしく。空になったポットはワゴンに戻していった。

 カップを口元に近づけると、ぽわんと不思議な香りがした。
 カモミール、お花の見た目はわかるけど、匂いがこんな感じだったかというと、ちょっと自信がない。だけど、嫌いじゃない。
 そっとひとくちすすってみる。味はほとんどない。ふつうの紅茶や緑茶と比べるとお湯みたいなものだった。そのぶん、お茶類特有の渋みもなくて香りの邪魔をしない。きっとそういう楽しみかたをする飲み物なのだろう。

「どうかな?」

 と夕美さんが問いかける。

「苦手な人はすごい苦手らしいんだけど、ほたるちゃんは平気?」

「はい。私これ、好きです」

「よかった」

 夕美さんが輝くような笑顔を見せて、私はつい見惚れてしまいそうになった。
 夕美さんはいつも笑っている。周子さんや志希さんもよく笑うけど、夕美さんはその比じゃない。もはや地顔が笑顔なのではないかと思ってしまうほど、いつだってほほ笑んでいる。

「笑うって、どうやるんですか?」と訊ねてみた。

 夕美さんがわずかに首をかたむける。

「えっと……私、笑顔というものが苦手で、夕美さんは、どうやってるのかなって……」

「うーん、同じようなことけっこうよく訊かれるんだけどね、実はよくわかんない」

「わからない?」

「うん、私は笑おうと思ってないから」

 私は当惑した。笑おうと思ってないのに、いつも笑ってる?

「楽しくもないのに笑わなくていいよ。自分が楽しめば、自然に笑えると思うよ」

「……楽しかったことを思い出せばいいんでしょうか」

「思い出すんじゃなくて、そのとき楽しむ、かな?」

「よく……わかりません」

 夕美さんが「ううん」とうなる。それから、ひとくちサイズに切ったパンケーキをフォークに刺し、私に向けてきた。
 意図はわかるんだけど、これは……

「あの……恥ずかしいので……」

「うん、私もこの状態はちょっと恥ずかしいから、できれば早く食べてほしいな」

 ……引っ込めるという選択肢はないんでしょうか?

 周囲を気にしながらこそこそとフォークに顔を寄せて、先端に刺さったパンケーキを口に含む。ほのかにレモンの匂いがした。
 けっこう厚みがあるかな、と思いながら歯を立てる。生地の香ばしさとメープルシロップの甘さとチーズの風味が口の中でひとつになり、するすると消えていく。本当に消えた。
 あぜんとした。私は飲み込むという工程をとっていない。なのに、ひと噛みしたパンケーキは、まるで魔法のように口の中で溶けてなくなった。

「……おいしい」

 思わず、そうつぶやいていた。

「でしょ」

 夕美さんが嬉しそうに言う。

「今、ほたるちゃん笑ってたよ」

 私は、はっとして自分の頬をぐにぐにと触った。

「……自分じゃ、わかりません」

「だよね」と夕美さんがほほ笑んだ。

「もうひとくち食べる?」

 私はこくこくとうなずく。食い意地が張っていると思われてしまう恥ずかしさよりも、さっきの味をもういちど味わいたいという欲が勝っていた。
 それから何回か『あーん』を繰り返し、結局3枚のうち1枚は私が食べてしまった。

「ところでほたるちゃん、お花は好き?」

 お皿とカップを空にしたところで、夕美さんが言った。

「好きです」と私は答えた。

 お会計は夕美さんが持ってくれた。
 私は「夕美さんの頼んだパンケーキまでかなり食べておいて、そんなわけにはいかない」と固辞したけど、夕美さんの「お姉さんぶりたいから」というセリフに返す言葉が見つからず、結局押し切られてしまった。

 お店を出て歩いているとき、夕美さんがぴたりと足を止めた。
 どうしたんだろう、と私も立ち止まると、すぐ近くでパシンと軽い音が鳴った。
 私の顔のすぐ前に夕美さんの手があって、野球のボールが握られていた。
 夕美さんの視線は近くの高いフェンスに向いていた。どうやらそこは学校らしい、金網のフェンスの向こうから高校生ぐらいの男子が走ってきた。左手にグローブをつけている、野球部員のようだ。
 夕美さんは彼に向けて手を振り、空めがけてボールを投げた。高く上がったボールはフェンスを乗り越えて、彼が構えたグローブに入った。

 夕美さん肩強いなあとか、いいコントロールしてるなあ、なんてのんきに考えて、ふと我に返ってあわてて頭を下げた。

「す、すみません! 手はだいじょうぶですか!?」

「うん、平気だよ。ホームランだったのかな?」

 夕美さんはほほ笑みを絶やさない。
 だけど、自慢じゃないけど私は、主な球技に使うボールはひと通り当たったことがある。その経験からすると、野球のボールはなかなか硬くて痛い。
 それも今回はけっこう遠くから飛んできて、かなりのスピードがついていたはずだ。素手で受け止めて、痛くないとは思えない。

「ちょっとしたコツがあってね、手を後ろに引きながら受け止めるの。ボールに優しくって感じにね、そうしたら痛くないよ」

 夕美さんがひらひらと手を振る。本当に痛がってはいないようだった。けど――

「……助けてくれてありがとうございました。でも、私はだいじょうぶなので、次からは放っておいてください」

 夕美さんがきょとんとする。

「だいじょうぶって?」

「その、私はずっとこうなので、もう慣れているというか……」

「本当にそう?」

「いえ、痛いことは痛いんですが……余裕があれば自分でなんとかしますので……」

「ほたるちゃんは、いつも自分のことは後回しだね」

 夕美さんが、少し困ったような微笑を浮かべる。

「痛いことに慣れたりしないよ」

 それから、私たちはバスに乗って植物園に向かった。
 私はこういうところに来るのは初めてだったけど、夕美さんはオフの日にたびたび訪れているらしい。入園料は400円、意外と安い。人はあまり多くなくて、落ち着いた雰囲気だった。
 
 広い園内をふたりでゆっくりと、色んなお花を眺めて歩く。
 右を見ても左を見てもお花でいっぱいで、夕美さんは、はしゃいでいるといってもいいくらいに喜んでいた。お花ももちろんきれいだったけど、その嬉しそうな顔を見るだけでも来てよかったと思った。

 ときどき夕美さんはお花に聴かせるように歌を歌った。きっと夕美さんにとって歌うというのは特別な行為ではなく、嬉しいとき、楽しいときに自然とそうしてしまうものなのだろう。
 気のせいか、辺りに咲くお花が夕美さんの歌声を聴いて、少し元気になったように花びらを広げたように見えた。

 私がいっしょにその歌を口ずさむと、夕美さんはにっこりと笑って、きれいな声だとほめてくれた。

 園の敷地内に小さな売店があって、夕美さんが「アイス食べよっ」と言って私を引っ張っていった。
 私は昔から好きでたまに食べている棒つきアイスを買った。夕美さんも同じものを選んだ。

 ベンチに腰掛け、慎重に袋を開ける。私は開けようと力を入れた拍子に中身が吹き飛んでしまったり、ちゃんと開ききっていない袋にアイス本体がひっかかって棒だけが抜けてしまうということがよくあったから。

「あ――」

 無事に取り出せてほっとしたのもつかの間、ふたくちほどかじったところで、アイスが崩れて棒から落下していった。
 アスファルトに散った残骸に、すぐさま勤勉な引っ越し業者のように蟻が集まり始める。私は恨めしく思いながらじっとそれを眺めた。
 ……ううん、ふた口も食べれたんだから、十分って思わなきゃ。

「あ、落としちゃった? 服にはついてない?」

 すでに自分のぶんを食べ終えている夕美さんが訊ねる。

「はい……服は無事です」

 たしかに、お洋服が汚れなかったのは幸運といっていいかもしれない。アイスだってぜんぜん高いものじゃないし、落ち込むようなことじゃない。

「そっか、よかった」

 それから夕美さんが「はい」と言って、食べ終わったアイスの棒を差し出してきた。
 捨ててきてってことかな? と思いながらそれを受け取って、私は初めて、長年食べてきたこのアイスが『当たり付き』だったと知った。

「……もらっちゃっていいんですか?」

「ふたつは食べ過ぎだからね。聖さんもほたるちゃん太らせようって言ってたし、ちょうどよかったね」

「太らせようとは言ってないと思いますけど……」

 当たり棒を水道で軽く洗ってから、お店で新しいアイスに引き換えてもらう。今度は落とさずにぜんぶ食べることができた。

「当たりって、よく出るものなんですか?」

「珍しいと思うよ、私もあのアイスでは初めてだったかな」

 ひと通り園の中を眺め終えて、私たちは出口の近くにあるお土産屋さんに入った。
 さまざまな種類の種や小さめの鉢植え、それに植物の図鑑、お花をモチーフにした雑貨などが売っている。
 夕美さんが真剣な表情で種を選んでいた。可能なものなら全種類買っていきたいとでも思っているようだった。
 私は必要なものはなかったけど、なんとなく記念に、お花柄のついたメモ帳とシャープペンを買った。

 楽しい時間は流れるのが早いという話は間違いではないらしく、植物園を出ると、沈みかけた太陽が世界をオレンジ色に染めていた。
 夕美さんが「よかったら、うちで晩ごはん食べてく?」と言った。
 それはとても魅力的な提案だったけど、私は遠慮した。せっかくここまで何事もなく終えたのに、夕美さんのおうちで不幸を起こすわけにはいかない。

「そっか」と、少し残念そうに夕美さんが言った。「今日はありがとね、楽しかったよ」
 
「こちらこそ、とっても楽しかったです」

「そうだ、これあげる」と言って、夕美さんが小さな包みを渡してきた。さっきのお土産屋さんで買ったものらしい。
 開けてみると、銀のネックレスが出てきた。お花を模した小さいトップがついている。カモミールの花だ。

 遠慮するべきだと思う。それほど高価なものじゃないにしろ、今日はたくさんのものをもらい過ぎている。
 だけど、この1日でわかった。夕美さんは意外と強引なところがある。「受け取れません」と付き返しても、たぶん聞きはしないだろう。
 なによりも、私が喜んでいた。とてもとても嬉しいと思っていた。

 だから私は、夕美さんの前でネックレスをつけてみせた。

「よく似合ってるよっ」

 夕美さんがぱっと顔を輝かせる。お花が咲くような――とは、きっと夕美さんのためにある言葉なんだろう。

 私は寮に戻り、食堂で早めの夕食をとってから事務所に向かった。
「第2レッスン室を使います」と私が言うと、プロデューサーさんは、どこかとがめるような眼差しを向けてきた。

「相手は誰だ」

 プロデューサーさんが言う。不機嫌、というより、少し怒っているようだった。
 相手? と私は首をひねり、昨日の帰り際のことを思い出した。

「夕美さんです」

 プロデューサーさんはがっくりと膝をつき、魂を吐き出すみたいに長い息をついた。

「どうしました? 体調でも……」

 うなだれたプロデューサーさんの顔をのぞきこむ。

「いい、だいじょうぶ。レッスンしといで」

 プロデューサーさんはそう言って、追い払うように手を振った。

 レッスン室のオーディオに持ってきたCDをセットし、再生ボタンを押す。
 流れ出した夕美さんの歌に、いっしょに歌っているつもりになって自分の声を重ねる。
 合同レッスンで見学させてもらった動きを、見よう見まねで再現する。
 見るのと自分でやるのはやっぱり大違いで、なかなかうまくはいかない。

 この1日を振り返りながら、それを何度も何度も繰り返した。
 ときどきネックレスが揺れて、ちゃらんと音を立てるたびに、少し口元が緩んでしまった。



 夕美さんはとても楽しそうに歌う。その笑顔は見ている人を幸せにする。

 私もあんなふうになりたいと思ってしまうのは、さすがにおこがましいかな?

 その日の夜、久しぶりに実家に連絡をしてみた。思えば346プロに入ったとき、書類の郵送をしたとき以来だった。
 電話には父が出た。また移籍だろうか、と身構えてる雰囲気が電話越しでも伝わってくる。

「今度お客さん5000人ぐらい来るライブに出るんだ」

 私が伝えると、電話からガタンという物音と、くぐもった悲鳴が届いた。

「あの……」

《少し待て》と父の痛みをこらえるような声がする。

 電話を耳に当てたまましばらく待っていると、《もしもし》と、母の声に代わった。

「あ、お母さん、私……」

《聞いたよ、50000人だって? すごいじゃない》

「5000だよ」

 私はあきれてつぶやいた。
 たったふたりの伝言ゲームで、どうして10倍にまで膨れ上がってしまうのか。

「それも、先輩アイドルの代理だから、私は本当はまだまだで――」

 母がうんうんと相槌を打つ。

「その……お父さんはだいじょうぶ? どこかぶつけた?」

《久しぶりにほたると話した感じがするって、痛がりながら喜んでるよ》

 すごく反応に困ったけど、喜んでるのなら、まあいいのかな?
 それからひとしきり、元気にしているかとか、ごはんはちゃんと食べてるかとか、お金は足りてるかなどと他愛のない話をして、母は最後に、

《寂しくなったら、いつでも帰ってきていいからね》

 と言った。

 私はきっと、笑っていたと思う。

「だいじょうぶ、寂しくなんかないよ」

 嘘偽りなくこの言葉を返せることが、心の底から嬉しかった。

 それから、毎日の自主レッスンと、何回かの合同レッスンを重ねて日々を過ごした。
 志希さんは、ときどき気まぐれに顔を出しては、自由奔放に歌とダンスを披露し、気付けばまたどこかに消えていた。
 夕美さんは、「困ったものだね」と笑っていた。

 休憩時間に夕美さんの前で、ひとりでこっそり練習していた夕美さんの曲をやってみた。
 夕美さんは驚いたように目を見開いて、「すごい上手」と拍手をしてくれた。それから「いっしょにやってみよう」と言って、ふたりで並んで歌って踊って、聖さんから「休憩時間は休憩をしろ」と怒られた。

 私の衣装も届いた。白い生地に、私の苗字に掛けたのだろう、白い菊の柄が入った羽織と、黒い袴、それに黒革のロングブーツ。白地に白い模様で見えるのかな? と思ったけど、柄の部分だけ光沢が強くなるような加工がされているらしく、鏡に向かって動いてみると、菊のお花がきらきらと輝いて見えた。
 扇子も用意してもらえるという話だったけど、私はプロデューサーさんからもらった扇子を使いたいと言った。
 聖さんが扇子に書かれた百折不撓の文字を見て、「お前にぴったりだ」と言った。

 ライブの日が近づくにつれ、緊張で胸がどきどきした。だけどそれ以上に、わくわくもしていた。
 早くその日が来ればいいのになと、夜はいつもベッドの中で、指折り数えながら眠りについた。

 悪夢はもう見なかった。

   *

 ライブ当日、私とプロデューサーさんはかなり早い時間に出立した。
 きっとだいじょうぶ、なんて希望的観測をもってはいけない。なにが起きてもかまわないと思っておくくらいがいい。
 あらかじめ予測し、十分な備えをした場合はなにも起こらないことが多い。今回も特に問題は起こることなく、移動に使用したバスは十分な余裕をもって会場近くの停留所に到着した。

 会場の前に、まだライブまでは相当な時間があるにも関わらず、ちらほらと人の姿が見える。

「ライブのお客さんでしょうか? 早すぎません?」とプロデューサーさんに問いかける。

 まさかこの人たちまで不幸に備えてるということはないだろう。

「遠くから来ている人もいるから、ふだん会わないファン同士の交流とか、いろいろあるんだろ」

 プロデューサーさんが言った。

「あと物販待ちかな」

 なるほど物販、と私はうなずいた。

 プロデューサーさんに続いて、関係者用の出入口から会場に入ろうとしたとき、ふと辺りが暗くなった。
 曇ったかな、雨が降るのかな? と振り返り、空を見上げる。



 思わず息をのんだ。



 数千羽か、数万羽か、あるいはそれ以上か。

 到底数えきれない、おびただしい数のカラスの群れが、太陽をさえぎり、昼間の空を黒く染めていた。

(本日はここまでです)

   09.

 建物に入ると、遠くのほうからざわざわと人の声が聞こえた。
 プロデューサーさんのあとについて進むと、だんだんと喧騒が大きくなり、スタッフさんたちが忙しく駆け回る姿が見えてくる。
 いたるところに、なにに使うのかわからない機材が雑多に積まれていて、床はコード類が駆け巡っている。埃っぽくて、火薬みたいな匂いがした。どこかテレビ局のセット裏に似ている。

「まだまだ時間あるな」

 腕時計を見て、プロデューサーさんがつぶやく。
 
「俺は設営のほう見てるから、控室入っててくれるか? 会場の外に出るときはひと声かけてって」

「わかりました」

 プロデューサーさんと別れ、演者用の控室に入る。
 けっこう広い部屋だった。壁のほぼ一面が大きな鏡になっていて、化粧台がいくつか並んでいる。部屋の中央には長机と椅子が6脚あって、長机の上には電気ポットと急須、重ねた湯呑がいくつか、それにお茶っ葉の缶が乗っていた。
 椅子をひとつ引いて腰掛ける。
 部屋の隅のほうに、ダンボール箱が3つ並べられているのが目に映った。箱にはそれぞれ相葉夕美、一ノ瀬志希、白菊ほたると名前が書いてある。今日の衣装が入ってるんだろう。

 私はしばらく、座ったままでぼうっとしていた。
 時間つぶしに外に出るつもりはない。さっき見た、黒い空が忘れられなかった。
『不吉』というものを表すのに、あれ以上のものはないだろう。思い返すだけで、ぞくりと寒気がした。
 早く夕美さんが来てくれたらいいのに、と思った。夕美さんがいてくれたら安心できる。あんな光景、きっとすぐに忘れさせてくれる。
 もちろん、夕美さんと志希さんはまだ当分来ることはない。早い会場入りをしたのは、もし私が交通機関のトラブルにあった場合に、ふたりを巻き込まないよう時間をずらすという意図もあったのだから。

 外に出ないとなると、時間をつぶせるようなものは携帯電話ぐらいしかない。だけど、バッグからそれを取り出し、画面を点灯させると、『圏外』になっていた。もはや落胆もしない。私にはよくあることだ。

 メイクさんもまだ来ていないだろうし、着替えるにしても、いくらなんでもまだ早い。
 なにをしてようかな、と悩んでいるところに、コンコンとノックの音が届く。
「どうぞ」と答えると、大きいサングラスをかけた、長い黒髪の女性が入って来た。
 てっきりプロデューサーさんだとばかり思っていた私は、びっくりして言葉を失った。
 誰だろう? スタッフさんには見えないけど……

「お、やっぱりもう来てたんだ、早いねー」

 どこか茶化すような、その声には覚えがあった。

「周子さん?」

「うん、ひさしぶりだね、ほたるちゃん」

 周子さんがサングラスを外し、こちらに手を振る。

「その髪は……?」

「もちろんヅラだよん。ふだんはここまで気合いの入った変装はしないんだけどね、なかなか似合うっしょ」

「どうして、ここに?」

「関係者用の席ひとつ用意してもらえてね、今日は客席から見せてもらうんだ。でもさすがにこの日にあたしが堂々とうろついてるのはマズいから、こんな格好してるってわけ」

「お加減はよくなったんですか?」

「おかげさまで、風邪のほうは完治してるよ。ずっと寝てたから、カラダはだいぶなまってるだろうけどねー」

 周子さんが私の向かい側に腰掛け、目の前にあった電気ポットの中をのぞき込む。

「むしろほたるちゃんがなんか元気ないねー。緊張してる?」

「いえ、その……空を見てしまって……」

「ああ、アレね。そいえば、うちの公式サイトの今日のライブ情報に、『天気予報にかかわらず傘の持参を推奨します』とか書いてあったの、あれほたるちゃんが言ったん?」

「え? あ、はい。私が関わると、天気が崩れやすいので……」

 それはたしかに私が進言したことだった。だけど、どうして今その話が出るんだろう。

「そかそか、ファインプレーだったね。外のファンたち、傘さしてフンから身を守ってるよ」

 なるほど、あれだけのカラスがいればフンを落とされる危険性は大いにある。見た目の不吉さに気を取られていて、考えもしなかった。

「実害になるようなのはそんぐらいだね。あんなん気にしないでええよ」

 私はうなだれて「はい」と答えたけど、自分でもわかるくらい、声には力がなかった。

 きゅぽんと妙な音がして顔を上げる。周子さんがお茶の缶の蓋を開けた音だった。

「あ、すみません。私がやります」

「いいからいいから、任しとき」

 立ち上がりかけた私を手で制し、周子さんが鼻歌混じりにお茶を淹れ始める。
 傾けた缶をゆすって急須にお茶っ葉を入れる。ポットのお湯をふたつの湯呑に注ぐ。それから湯呑を軽く揺らして、中のお湯を急須に移した。
 私はお茶の淹れ方に詳しくはないけど、正しい手順のようには見えない。周子さんの独自のやり方なのかもしれない。
 急須の蓋を閉じて少し待ってから、中身を何回かに分けて交互に湯呑に注ぐ。全て目分量だし、時間も計ってはいないようだけど、とても手際がよかった。

「ほい、これで帳消しね」

 そう言って、周子さんが湯呑を押し出してくる。
 なにが帳消しなんだろう、と思いながらそれを手に取り、私は目を見張った。茶柱が立っていた。
 さすがに偶然とは思えない。もしかしたらなにかコツみたいなものがあって、周子さんは狙ってこれを立てたのかもしれない。
 それでも、やっぱり嬉しかったし、少し気分が軽くなった。

「ところで、志希ちゃんは迷惑かけてない?」と周子さんが言った。

 志希さんは、その頭脳やアイドルとしての実力とは別に、奇行で有名なところがある。事務所でたびたび怪しい化学実験をして、問題を起こしているという噂も聞く。たぶん、その心配をしているんだろう。

「えっと、合同レッスンに来ないことはありましたけど、特に迷惑ということは……」

 レッスン初日にセクハラっぽいことをされたような気がするけど、とりあえずそれは置いておこう。

「そらよかった。まあ夕美ちゃんがいるなら平気だろうとは思ってたけど」

「夕美さんがいると、平気なんですか?」

「志希ちゃんは夕美ちゃんになついてるからねー」

 あのふたりはかなり仲がいいように見えるけど、『なついている』という表現は、志希さんのほうが夕美さんを特別視しているということだろうか。

 少し考えて、そうであってもなにもおかしくはない、と思った。

「夕美さんは素晴らしい人ですから」

「あれ、ほたるちゃんまで夕美ちゃんにご執心なのかな? いいの? あれは寝る前にアイスだって食べちゃう女だよ」

「食べてもいいじゃないですか……」

 周子さんがけらけらと笑う。 

「夕美ちゃんっていい子なんだけど、別にいい子であろうとはしてないんだよね」

 意味がよくわからず、私は首をひねった。

「どういうことです?」

「んー、ふつう『いい子』ってな、どこか無理してるところがあるんだよね。周りからいい子であることを期待されている、だからそうあるように努めている、みたいな。だから心の奥底では、けっこう鬱屈したものを抱えてる事が多かったりする。でも夕美ちゃんは違う。あの子、仕事現場でスタッフの手伝いとかよくしてるんだけどさ、あれは本当に本人が好きでやってるんだよ。根が善良だから、自分のやりたいようにやってたら結果的に他人のためにもなっているみたいな感じかな。ある意味では欲望に忠実ともいえるね。ああ見えて、ときどきキツいことも言うよ。素直だから」

 周子さんがお茶をひとすすりし、ほうっと息をついた。

「……志希ちゃんは、アタマがよすぎるからなのか、なんなのか知らないけど、ふつうの人じゃ見えないもんまで見えちゃうんだよ。嫌でも。てゆーか嫌だろうね」

「嫌、ですか?」

「うん、天才の宿命ってやつだね。他の人が死ぬほど努力してもたどり着けないようなところをお散歩感覚で越えていくんだから、妬まれるし、嫌われるよ。まあ、良識ある人は思ってもわざわざ表には出さないだろうけど、志希ちゃんにはたぶん、顔だけは笑って調子のいいこと言ってる人が腹の底ではどう思っているのか、なんとなくわかっちゃうんだ。それってきっと、しんどいよ」

 周子さんが手に持った湯呑に目を落とし薄くほほ笑んだ。

「夕美ちゃんは表も裏もないから、裏を読む必要なんてない。言ったことはそのまま言葉通りに受け取ればいい。そーゆーのが志希ちゃんにとっては、すごく楽なんじゃないかな。……あたしは夕美ちゃんみたいにはなれない。どうしてもアタマで考えちゃうからね、これはもう、どうしようもない」

「……よく見てるんですね」

 周子さんが肩をすくめる。

「これぜんぶあたしの勝手な想像だから、あんま信用しないでね」

「でも……志希さんは、周子さんのお話しているときも、とても楽しそうにしてますよ」

 レッスンの合間のちょっとした雑談で周子さんの話題になったとき、志希さんの声や表情からは深い親しみの色が感じられた。特別というのなら、周子さんも志希さんにとってはそうなのだと思う。

 周子さんは少しのあいだきょとんとしたあと、にんまりと笑った。

「……そっかそっか、それは嬉しいね」

 それは、嬉しそうというよりは、『いいからかいの種を得た』というような性悪そうな笑みで、私は言ってしまったことを少し後悔した。志希さん、ごめんなさい。

 それから周子さんの提案で衣装のチェックをした。周子さんが言うには、こういった場合に使うはずの小物が足りなかったり、他の人のところに紛れ込んでいたりするのは珍しくないらしい。
 幸いにも、今回はそういったアクシデントはないようだった。

「すみません、気が付きませんでした」

「なかなか謝りグセ抜けないねー」

 私は、再び「すみません」と言ってしまいそうになって、なんとかこらえた。
 だけど、言いかけたことまでお見通しだったらしく、周子さんがくすりと笑った。

「こーゆーときはすみませんじゃなくて、ありがとうって言うといいよ」

「……ありがとうございました」

「そうそう、どういたしましてだね」

 しばらくのあいだ、いっしょにお茶を飲みながらお話をし、途中でいちど顔を出したプロデューサーさんが周子さんを見て何者かと困惑する場面もあったりして、時間はあっという間に過ぎていった。
 周子さんはきっと、私が早めに現場入りして時間を持て余していることまで予測していたんだと思う。もしひとりで待っているだけだったら、時間の進みはこの何十倍にも遅く感じられただろう。

 開場の時間が近づき、周子さんが「がんばってね」と言って控室を去っていく。
 会場に入ったときの暗澹とした気分は、すっかり晴れていた。



 だけど、やはりアクシデントはあった。
 志希さんと夕美さんが到着しない。

   *

「想定が甘かったな、こういうこともあるのか」

 プロデューサーさんがつぶやく。

「私も……こんなことは初めてで……」

 どうやらふたりは、それぞれのプロデューサーさんが運転する車で会場に向かっていたところを、渋滞に巻き込まれて立ち往生してしまったらしい。渋滞の原因はわかっていない。動き出しさえすれば30分ほどで着くような位置だけど、原因が不明だからいつ動き出すのかがわからない。

 すでに開場は始まって、開演時間は刻一刻と迫っている。

「少し前にふたりは車を降りて、別の方法でこっちに向かったそうだ」

「今はどのあたりに?」

「それが、連絡が付かない。車に残ったプロデューサーどもには繋がるんだけどな」

「その場所から電車ですと、どのくらいかかるんですか?」

「……調べてみたら、電車も止まっているらしい」

「それじゃあ……」

「渋滞も電車の運行停止も極一部でしか起きていないようで、今のところライブのお客さんが足止めをくらっているという情報はない。どうも相葉さんと一ノ瀬さんを狙ったように、ピンポイントで起きているみたいだな」

 それは、私が日頃遭っているアクシデントの特徴とぴったり一致していた。
 渋滞してるエリアを抜けて、タクシーでも捕まえればいいように思えるけど、私の経験では、そういったときに流しのタクシーを捕まえられることはまずない。電話で呼ぼうにも、こちらからの連絡が繋がらないということは、おそらくふたりの携帯電話は機能していない。故障か、謎の圏外にでもなっているんだろう。

「どうするんですか?」

「白菊はトップバッターだから、気にせず予定通りにやればいい」

「そのあとは……?」

「白菊の出番のあいだに、到着することを祈ろうか」

 祈る――私の祈りなんて、天に届くだろうか。

「他人の心配するより先に、自分の仕事をしろ」

「……はい」

 もし間に合わなかったら? と喉まで出かけた言葉を飲み込む。口に出してしまったら、本当になってしまいそうだと思ったからだ。

 開演時間になっても、ふたりは到着しなかった。相変わらず連絡もつかず、今どこでどうしているのかもわからない。

 私はひとり、ステージに向かった。

 つい昨日リハーサルで立っていたはずなのに、そこはまるで別の世界のようだった。

 中央に立った私をスポットライトが照らし出し、大きな歓声があがる。
 私にではなく、桜舞姫に、本来であれば周子さんに向けた歓声だということはわかっている。それでも、脚がすくんでしまいそうになった。
 首筋にライトの熱さを感じる。ステージがまぶしすぎて目がくらみ、客席はあまりよく見えない。だけどホールを埋め尽くす生命の気配とでもいうのか、大勢のお客さんが詰めかけていることはわかった。

「み、みなさんこんにちは。白菊ほたるです」

 マイクに向かって言った。私の声がスピーカーから流れる。

「えっと……今日は周子さんの代わりで歌わせていただくことになりました。よろしくお願いします」

 客席に向けて深くお辞儀をする。ぱちぱちと拍手の音が返ってきた。

 袂から扇子を取り出し、ぱしんと開く。
 百折不撓。何度失敗しても、志を曲げないこと。

 今は、自分のステージに集中しなきゃ。こんなに大勢のお客さんが私を見てくれている。このどこかには周子さんもいる。恥ずかしい姿は見せられない。

 大きく、ゆっくりと息を吸い、吐く。いつからか、緊張したときに儀式のようにおこなっている深呼吸。動悸が静まり、肩が軽くなる。緊張も不安も、鬱屈も憂悶も、吐き出した息とともに消えてゆく。

 扇子で顔を隠すようにしてしばし待つ。

 音楽が流れ、体がパブロフの犬みたいに反射的に舞い始める。
 激しい動きは要らない。まとった衣装も体の一部のように、はためく袖も振り付けの一部となるように、ゆうゆうと、だけど遅れることのないように動く。

 息を吸い込み、マイクに向けて、声を響かせる。
 客席で、無数の青い光が揺れ動いていた。

 最初の曲が終わり、拍手と歓声が湧き上がる。
 これを私が起こしているのだという、えもしれぬ感動がこみ上げた。

 ステージは、怖いくらいに順調に進んだ。足をすべらせることもなく、床が抜けることもなく、上空からなにかが落下してくることもない。

 3曲を終えたところでMCに入る。内容は歌った曲の簡単な解説と、事務所での周子さんのちょっとしたエピソードなんかだ。もちろんアドリブでできるなんて思っていないので、前もって書き出して、プロデューサーさんにチェックしてもらったものを丸暗記してある。ところどころつっかえながらも、ちゃんと予定通りに喋ることができた。
 反応も悪くなく、客席からは笑い声が上がった。周子さん本人はどんな気分で聞いてるんだろう、と思うと、ちょっと悪いことをしたような気もするけど。

 MCのあとは、再び音楽に身を委ねる。
 もう、頭で考えることはやめていた。これまでに何百回と繰り返して、すっかり体に染みついたリズムに身を任せ、声を響かせた。

 あるときから、意識が体から離れて、自分を少し後ろから眺めているような錯覚を覚えた。集中できている証拠、いい傾向だ。
 ミスもなにもない、歌声も身のこなしも機械のように正確で、パフォーマンスは完璧といっていい。

 だけど、



 私は今、どんな顔をしているんだろう?

   *

「ありがとうございました」と言って客席に手を振り、ステージをあとにする。

 舞台袖にいたプロデューサーさんに駆け寄り、「夕美さんたちは?」と訊ねる。
 プロデューサーさんが首を横に振った。

「まだ到着していない。どこにいるのかもわからない」

 それから10分が経過した。もともと演者の入れ替わりの際には5分から10分程度の休憩時間を予定していた。だけどこれ以上経つとお客さんも騒ぎ始めるだろう。

 私とプロデューサーさんはいても立ってもいられず、スタッフ用の出入口の前で待っていた。

「……喋りでつなぐって、無理か?」

 プロデューサーさんが言った。いつもは冷静に落ち着いている印象の彼にも、さすがに焦りの色が見える。
 正直言って自信はない。私自身は知名度がほとんどなく、お客さんは今日初めて見たという人がほとんどだろう。なにを話せばいいのかもわからない。
 それでも、この状況でできないとは言えない。

 ――と、そのとき、

 バァンとドアが開け放たれ、夕美さんが息を切らせて駆け込んできた。

「あっ、ほたるちゃんおまたせっ! 遅れちゃってごめんね、今どうなってる?」

「夕美ちゃん待ってー」と、志希さんも後に続いてきた。

 私はほっと胸をなでおろした。

「えっと……私の出番が終わって、休憩時間を少しオーバーしてるぐらいです。あの、どうやって来たんですか?」

「自転車を買って、走ってきたよ」

 思いもよらない、力ずくな答えが返ってきた。

「じ、自転車ですか。すぐに出れるんですか? 疲れてるんじゃ……?」

「あー……買ったのは1台だよ。本当はいけないんだけどね、志希ちゃんを後ろに乗せて、私がこいできたの。私は志希ちゃんのステージのあいだ休めるから」

 言われてみれば、夕美さんは汗をかいて息を切らせているけど、志希さんは平然としている。

「一ノ瀬さん、こちらへ」

 プロデューサーさんが志希さんを控室に誘導する。

 私は、すっかり安心しきって、油断していた。

 意識が引き延ばされ、スローモーションの映像を見ているように感じた。
 通路の端に積み上げられた機材が崩れ、志希さんに向かって倒れ込む。
 誰かが発した警告の声に、志希さんが振り返る。
 目前に迫っている危機に気付き、身を硬直させる。
 一瞬で駆け寄った夕美さんが、志希さんを突き飛ばす。

 轟音と悲鳴が上がる。
 埃が舞い上がる。
 ふたりの人影が倒れている。

 通路の奥のほうの人影、志希さんがよろよろと起き上がる。
 倒れたときに打ったのだろう、肘をさすっているけど、見てわかるようなケガはないようだった。

 もうひとつの人影、夕美さんが身じろぎして、うめき声を上げた。

「動かないで!」

 志希さんが叱責するように言った。

「医療スタッフ呼んで。夕美ちゃん痛む? どこ?」

「……左の、足首かな?」

「ちょっとごめんね」

 志希さんが慎重な手つきで夕美さんの左足の靴を脱がす。夕美さんがわずかに顔をしかめた。

「……かなり腫れてるね」志希さんが苦々しくつぶやく。

「他に痛む個所は?」とプロデューサーさんが訊ねる。

 夕美さんが首を横に振った。

 医療スタッフが到着し、夕美さんを両側から支えて移動していった。

 私は、一部始終を馬鹿みたいに呆けて眺めていた。
 今更遅れて、震えが体を駆け上ってきた。

「ご、ごめんなさい……私のせいです……」

 か細い声を絞り出す。志希さんがにらみつけるような視線を向けてきた。

「一ノ瀬さん、相葉さんのことはスタッフにまかせて、今はステージの準備をお願いできますか?」プロデューサーさんが言った。

「わかってるよ」

 志希さんは今までに聞いたこともない刺々しい声で答え、控室に向かった。

 私は動くこともできずに、その場に立ち尽くしていた。

 志希さんの準備は手早く、着付けもメイクも5分ほどで終えてきた。
 私の出番が終わってからはおよそ20分ほど経っていて、客席はざわつき始めている。

 控室を出てステージに向かう志希さんを、遠目から盗み見る。あんなことがあった直後に舞台に上がれるものだろうかと、不安に思った。

 志希さんは舞台袖でいちど足を止め、瞑想するように固く目をつぶった。
 数秒後、目を開いたときには、表情の険しさはあとかたもなく消えて、誰もが知っている『一ノ瀬志希』になっていた。

 スポットライトに照らし出された志希さんを、大歓声が出迎える。
「お待たせしちゃってごめんねー」と志希さんが手を振る。声の調子も、すっかり普段の通りだった。

 私は無人の控室に入った。夕美さんのケガが気になったけど、私が様子を見に行って、これ以上更に悪いことが起きるのが怖かった。
 しばらくして、プロデューサーさんがやってきた。

「夕美さんは?」

「おそらく捻挫だろうって。骨に異常があるかどうかは、病院に行ってみないとわからない」

「……ステージは」

「無理だな」

 噛み締めた奥歯が軋みをあげた。
 また、私のせいで……

「ライブは、どうするんですか?」

「プロデューサーたちが渋滞を抜けてもうすぐ着くらしいから、話し合って決めることになるけど、おそらく休憩を長めにとって一ノ瀬さんに続投してもらうことになるかな」

 志希さん……志希さんならうまくやってくれるだろう。
 夕美さんのファンの人たちは残念に思うかもしれないけど、志希さんだったら、それでもみんなを満足させるだけのパフォーマンスを見せてくれるに違いない。

 ――けど、

「……私が出ます」

 そんな言葉が、私の口をついて出た。 

「夕美さんの代わりに……私の、せいだから……」

 プロデューサーさんが、一瞬だけちらりと私を見た。だけどなにも言うことはなく、椅子に腰を下ろして、なにか考え込むように腕を組んでいた。

 ややあって、部屋の外から騒ぐような声が届く。夕美さんと志希さんのプロデューサーが到着したのかもしれない。
 彫像のようにじっとしていたプロデューサーさんが席を立つ。
「あのっ」と声を上げる私の肩に、ぽんと手が置かれる。

「交渉してくる」

 そう言い残して、プロデューサーさんは部屋を出て行った。

 再びひとりきりになった控室で、私はふらふらと鏡の前に立った。
 辛気くさいと、暗いと言われ続けてきた真っ白い顔が、私を見返していた。
 なるほど、これは辛気くさいと言われても仕方ない。まるで死人のような顔色だった。

 鏡の中の自分が、これは全てお前のせいだと言っているように思えた。

 夕美さんがケガをしたのも、
 ふたりの到着が遅れたのも、
 ……周子さんが倒れたのも、

 私が社内オーディションで選ばれなければ、
 私が346プロダクションに入らなければ、
 私がアイドルになろうなんて思わなければ、



 ちがう、と心の中でつぶやく。



 鏡の中の私が、あざ笑うような表情を浮かべた。

 だってあなた言ったじゃない。
 私は人を不幸にするって。
 呪われてるって。
 アイドルになんて、なっちゃいけないって。

 プロデューサーさんにスカウトされて嬉しかった?
 大手のプロダクションなら平気だって思った?
 人を幸せにしたいなんて言いながら、どれだけの人を不幸にした?

 鏡に映った唇が、ゆっくりと動いて、言葉の形を作る。



『あなたさえいなければ』



 ――うるさい黙れ。



 ぴしっと乾いた音がして、鏡に大きな亀裂が走る。
 映った私の顔を斜めに切り裂いたヒビは、またたく間に蜘蛛の巣状に広がっていき、鏡は無数の破片となってバラバラと床に落ちた。
 次いで、部屋中の蛍光灯が爆発するように砕け散った。

 暗闇に包まれた部屋に、自分の荒い呼吸音だけが響いていた。

 それからどのくらい時間が経ったろう。ドアが開かれ、通路の光が薄く差し込んだ。

「あらら大惨事。ほたるちゃん無事?」

 志希さんの声だった。ステージが終わったんだろう。

「……足元、気を付けてください。ガラスの破片が」

「うん、ありがと」

 志希さんは意に介した様子もなく、ブーツの底でジャリジャリとガラスを踏んで、まっすぐ私の前にきた。

「ねえ、今そこでプロデューサーたちが話してるの聞いたんだけど、ほたるちゃんが夕美ちゃんの代わりにステージに出るって言ってるって、ホント?」

「……本当です」

「なんで?」

「私の……せいですから」

 志希さんが私の胸倉をつかんで引き寄せた。暗がりに浮かぶ大きな目に、はっきりと怒りの感情が宿って見えた。

「夕美ちゃんは“あたし”をかばって、“あたし”の代わりにケガをしたんだよ。これが、ほたるちゃんのせいだっていうの? ほたるちゃんにはそれがわかるの?」

「ごめんなさい」

「謝ってないで、答えてよ」

「……ごめんなさい」

「だから――」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 小さく舌打ちの音がして、私をつかむ手に力がこもる。
 叩かれるんだろう、と思った。そのとき、

「一ノ瀬さん」

 部屋の入り口から声が届く。プロデューサーさんの声だった。

「白菊は、起きたことが自分の体質によるものか、そうでないか、区別はつかない」

「……ずいぶんはっきり断言するんだね。どうしてキミに、そんなことが言い切れる?」

「前に所属してた事務所に、白菊をクビにさせるよう仕向けたのは俺だ。だけど白菊はそれに気付かずに、自分の不幸のせいだと思っているから」

 世界がひっくり返ったような混乱に陥る。

 この人は今、なんて言った?

「……プロデューサーさん?」

 私の声は弱々しく、かすれていた。

「本当だよ」

 とプロデューサーさんが言う。表情は見えなかった。

「346のプロデューサーという立場を利用して、持ちうる限りのコネを使って圧力をかけた。あの事務所に仕事を回さないように。すでに決まっている仕事がご破算になるように。あの事務所が存続できなくなるまで」

「どうして……?」

「白菊を手放させるためだ。向こうからすると、なにがなんだかわからないけど突然仕事がぜんぜん取れなくなったって状況だ。それだけで白菊のせいだと思ってくれる。本当は違うのに。あの日、白菊の同僚アイドルがキャンセルしたことも、俺がそうなるように仕組んだ。スカウトした日、俺があの場にいたのも偶然じゃない。あの頃の白菊の仕事現場にはぜんぶ行っていた。解雇されたばかりの白菊を、その場ですぐにスカウトするために」

 頭が混乱して、まるで働いていなかった。
 この突然の告白を、どう受け止めていいのかわからない。

「ひどいやつだと思う?」

 プロデューサーさんが自嘲するように笑う。

「俺もそう思う。俺の悪意で起こしたことを、わざと白菊のせいだと勘違いさせてたんだから。結局のところ、会社ひとつを潰したわけだ」

「……なんで、そんなことまでして、私を」

「その答えは、前に言った」

 わからない。前に? 前って、いつ?

 志希さんはいつの間にか私から手を離し、黙ってプロデューサーさんのほうを見つめていた。

「お前は不幸じゃない」

 プロデューサーさんがゆっくりと言った。

「事務所が潰れたのも、そこの社員たちが路頭に迷ったのも、相葉さんのケガも、お前のせいじゃない。なんの責任も、罪滅ぼしの必要もない」

 それから少しの間を置いて、プロデューサーさんが私に問いかけた。

「……だったら、白菊はどうしたい?」

 私はどうしたい?

 私が不幸じゃなかったら、私のせいじゃなかったら?

 うまく考えることができなかった。
 だって、私はいつだって不幸だった。いつも周りの人に迷惑をかけていた。
 私に選べることなんて、なにもなかった。
 何度も頭を下げて、ごめんなさいと繰り返すことしかできなかった。
 だから、少しでも償おうと、罪滅ぼしをしたいと、そう願わなきゃいけなかった。

『ほたるちゃんはいつも自分のことは後回しだね』

 いつか言われた言葉が脳裏に浮かぶ。たしか夕美さんだ。
 夕美さんは少し困ったように、悲しそうにほほ笑んでいた。

『今は不幸とかどうでもええねん! あたしはほたるちゃんの気持ちを訊いてんの!』

 これは周子さんの言葉だ。
 周子さんはいらだって、怒っているようだった。

 私の気持ち。

 小学6年生のときの運動会。
 みんなが喜んでいた。みんな笑っていた。私は、笑えなかった。
 家に帰って、枕に顔を突っ伏して、声を噛み殺して泣いた。
 クラスが優勝した喜びよりも、いちばんになれなかった悔しさで。

 私は、夕美さんの代わりにステージに立つと言った。
 私のせいだから。
 私さえいなければ、こんなことにはならなかったから。

 じゃあ、私のせいじゃなかったら?

 どうやら、志希さんは夕美さんの代わりに出るつもりでいる。
 志希さんが出てくれるなら、全ては解決する。
 お客さんはきっと喜んでくれる。
 みんなが笑ってくれる。

 だけど、私は――



「……それでも私は、歌いたい」

 意思じゃなく、心がそう言った。
 自分でも気付いていない心だった。
 不幸のせいじゃなく、贖罪のためじゃなく、ただ私自身が、こんなにもステージに立ちたいと思っていたなんて。

 プロデューサーさんが大きくうなずく。

「だけど残念ながら、話し合いの結果では、この後は一ノ瀬さんに出てもらうことになった。白菊を推薦してみたけど、俺の一存だけじゃどうにもならなくてね」

 ……それは、そうだろう。どう考えても私よりは志希さんのほうが信用がある。
 夕美さんのプロデューサーさんや志希さんのプロデューサーさんなら、志希さんを選ぶのが当然だ。それが正しい。

「いや、キミ……さんざん人を惑わすようなこと言っといて、それはどうなの?」

 志希さんがあきれたようにつぶやく。

「そう、思いますよね?」

 プロデューサーさんが志希さんに向けて言う。
 短い沈黙が流れた。

「……キミはひょっとして、あたしを説得してるのかにゃ?」

「察しのいいことで、助かります」

「キミは、346プロのプロデューサーだよね。その立場でありながら、今この状況において、あたしよりほたるちゃんがステージに上がったほうがいいと思うわけ?」

「はい」

 志希さんとプロデューサーさんが無言で見つめ合う。空気が張り詰めて、銃でも突きつけあっているみたいだった。

 志希さんがすっと目をそらし、ガリガリと血が出そうな勢いで頭を掻きむしった。

「…………わかったよ」

 ガラス片を踏みにじって出口へと向かい、プロデューサーさんの横をすり抜ける。そして、いちど私のほうに振り返って、小さく笑った。

「志希ちゃん、失踪しまーす」

(本日はここまでです)

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