P「Just Sing」矢吹可奈「Sing a Song!」【ミリマスSS】 (34)


ミリマスSSです。
矢吹可奈のSSです。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1523024992


 舞台袖という場所が、僕は好きだ。


 開演前、暗がりの舞台袖では、照明や音響のスタッフたちが慌ただしく動き回っている。その中で、アイドルは自らの出番を待ち、静かにたたずんでいる。集中しているのか、これからのステージの熱に心高ぶらせているのか、そこまでは分からない。

「出番だ」と、僕は声をかける。それから一言、二言、声をかける。彼女らは頷いたり返事をして僕の声に応えるが、その反応は十人十色だ。ゆっくり微笑んだり、軽口を返して笑ったり、はたまた、生真面目にも真剣な顔を返してくる。

それでも、表情の中にある眼差しはみな真っ直ぐだ。努力に裏打ちされた自信と、ステージ上の光景を楽しみにする好奇心とに満ちた目だ。彼女たちの眼差しを見て僕は安心する。

そして、背中をポンと一押しすると、彼女たちは光と歓声の海と化したステージへと駆けていく。観客席からは熱を帯びた歓声が沸く。


 この始まる前の、熱気と緊張感に満ちた舞台袖の空気が、僕は好きだ。この場所は、プロデューサーだけに与えられた唯一の特等席といえるだろう。


 舞台袖には、赤みがかった明るい栗毛の少女が、一人たたずんていた。小さなはねっ毛はひょっこりと立ち、髪留めは揺れている。声をかけようと思った矢先、彼女はキラキラとした目を僕の方に向けると、顔をパッとほころばせた。

「あっ、プロデューサーさん!」

「可奈、そろそろ出番だ。準備はいいか?」

「はいっ! バッチリ、OKです!」

「よしっ。……そうだ、可奈。一番大切なのは……」

「楽しく歌うこと! ですよね?」

 矢吹可奈は弾んだ声で返した。僕も思わず笑みがこぼれる。

「ああ、そうだ。よしっ、それじゃあ行ってこい!」

 ニッコリと笑って、可奈はステージへと駆けていった。可奈の登場に観客席が沸く。「こんにちはー!」という彼女の元気な声がステージに響くと、また一層の歓声が返ってきた。


 実は最近、可奈はちょっぴりスランプに陥っている。でも、今の表情ならきっと大丈夫だろう。


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 僕が担当するアイドルの一人である矢吹可奈だが、最初の頃はまあ手のかかる娘だった。いや、生意気だとか言うことを聞かないとか、そういうことではない。


 ただ、とにかく、絶望的に音痴だった。


 可奈の歌声を初めて聞いたときのことを、昨日のように鮮明に思い出すことができる。春香の「乙女よ大志を抱け!!」を歌ったのだが、リズムも音程もガタガタで、ある種の前衛音楽をも思わせるような歌声だった。

ボイストレーナーの先生が、「これはやり甲斐がありそうね」と異様な笑みを浮かべながら言っていたことを覚えている。彼女が歌えば鳥は逃げ、カエルは池に飛び込み、カタツムリは角を引っ込めるほどであった。


 今でも時々、可奈の歌声が出会った当初に戻る夢を見るが、目が覚めるたびに夢で良かったと真に安堵するものだ。


 可奈の歌唱力は絶望的で、今だから言えることだが、アイドルとしてやっていくには無理な代物だった。そうにもかかわらず、彼女の歌う姿には惹きつけられるものがあった。

それは何かと言われたら、至極単純なもので、とにかく元気で楽しそうに歌っていたことであった。見ているこっちまでが楽しくなるほどに、可奈は幸せそうに歌っていた。


 僕は、「歌が好きなの?」と彼女に尋ねた。

「はいっ! 私、歌うことが大好きなんです! 歌で人を感動させられるような、そんなアイドルになりたいです!」

 可奈のニコニコ顔は、青空に浮かぶ太陽のような輝きに満ちていた。


 ダンスもまた、お世辞にも上手いとは言えなかった。難易度のあるステップになるとよく転倒していた。ミスをする度に可奈はシュンとする。しかし、何度も失敗しても可奈は練習を重ねた。体力がある方でもなかった。それでも、ついていこうと必死に動き回った。

「アイドルって大変ですね。でも、とっても楽しいです!」

 失敗した分だけ落ち込み、そして彼女は笑った。強い子だった。


 可奈のアイドルへの憧れは強く、僕たちにとって嬉しいことでもあるが、765プロのアイドル、ことさらに春香と千早への憧れが強かった。春香たちと初めて顔合わせをした時には、感極まって泣いたほどである。

そして、春香のことを可奈は普段「春香さん」と呼んでいるが、アイドルになる以前は「春香ちゃん」と呼んでいたようだ。しばらくしてから、「春香ちゃん」と呼ばれたい春香と、恥ずかしさと畏れ多さからそんな呼び方はできないと断る可奈の2人による、ほのぼのとした格闘が幾日にも行われることとなるが、これはまたいつか話すことにしよう。


 レッスンを重ねても、可奈の音痴は治らなかった。いや、初めて歌を披露したときよりは、ある程度の改善を見せていた。トレーナーさんや千早による指導と、可奈の努力の賜物だろう。

それでも、一般的に考えたときに、その歌唱力ではまだまだ人様の前に出せないものであった。

ただ、彼女の歌う姿はとにかく楽しそうで、見ていると思わずときめいてしまう。人を感動させるようなアイドルになりたい、と可奈は言っていたが、その素質はすでに兼ね備えていた。可奈は最もアイドルらしくないと同時に、最もアイドルらしい子だった。

可奈がとにかく楽しく歌う姿をこのまま見せることが、音痴を無理矢理に改善して歌わせるよりも、最も彼女の魅力を引き出すことになるだろうと僕は思った。


 初めて可奈がライブに登場したとき、この見込みは正しかったと確信した。当時の僕は、我ながら良い決断をしたものだ。


 舞台袖からステージを見ると観客の姿や反応は見えず、肝心の可奈はその横顔しか見ることができない。最初の挨拶では少しばかりひきつったような笑顔を浮かべたりと、横顔からも可奈の緊張が見てとれた。歌い出しでは、いつも以上にその音程を外した。

しかし、彼女の歌うことへの喜びは緊張をも吹き飛ばしてしまうのだろう、次第に可奈は元気一杯に歌い出した。歌声は見事に音程を外し続ける。それでも、可奈の横顔は、いよいよ生き生きとした表情で歌うようになり始めた。とにかく楽しげに歌った。

歌うことが一番大好きだという、この上なく幸せそうな顔であり、見ているこっちまで幸せな気持ちになる表情だった。


 可奈の歌う姿、楽しく歌うさまは観客にも伝わったのだろう、歌い終わると彼らからは大きな歓声があがった。沸いた歓声の大きさに可奈は少し驚いていたが、照れ臭そうに頭をかいて、それから満面の笑みを浮かべて、深々とお辞儀をした。


 ステージから戻ってきた可奈は、僕の懐へと文字通り飛び込んできた。可奈の腕か何かが僕のみぞおちに入り、僕はしばらく悶絶してしまった。しばらくして、可奈にライブの感想を聞いてみると、

「はいっ! もう、すっごく楽しかったです!」


 満面の笑みで可奈は答えた。百点満点の回答で、僕も笑って応えた。


 ひどく音痴なアイドルの登場に、アイドルファンはある種の衝撃を受けたようだった。大抵のファンは矢吹可奈というアイドルを受け入れたが、一部は可奈の歌唱力を指摘した。

しかし、どちらの立場のファンも、「可奈の歌う姿を見ていると、こっちまで楽しくなる」と口を揃えた。とりわけ、ライブで彼女の姿を実際に目の当たりにしたファンが、声高に言うのであった。


 それからの可奈は、少しずつ知名度が上がり始めた。楽しいことを「楽しい!」と心から表現する可奈の姿はとても好印象だった。おかげでバラエティ番組などに少しずつ出演するようになる。

おっちょこちょこちょいゆえ番組内でヘマをしてしまうが、しょんぼりする姿がまた愛らしい、とこれまた評判だ。良いのか悪いのかよく分からないが、ひとまず結果オーライということだろう。

そのうち、演技のお仕事も入ってくるかもしれない。ハリウッドの大物監督が我がプロダクションのアイドルを出演させた映画の製作をもくろみ、その映画で可奈を主役に抜擢して、初の俳優としての仕事、ましてや主役として可奈は奮闘する、なんてこともあったりして。


 もちろん、アイドルとしての活動も積極的に続けた。これまたおっちょこちょこちょいな可奈は、ある日のライブで転倒してしまった。なかなか難しいダンスも組み込んだ演目であり、それだけに熱心に練習に打ち込んでいた分、ライブ後に彼女は舞台袖でひどく落ち込んだ。

「せっかくたくさん練習したのに。……プロデューサーさんにも、レッスンいっぱい見てもらってたのに、ごめんなさい」

「確かにこけちゃったな。でもさ、レッスンのときに一番失敗してたステップは、ちゃんと成功していたじゃないか」

「え?……あっ、確かに!」

 やっぱり気が付いてなかったのか。彼女は少し顔が明るくなった。


「可奈、確かに今日は転倒して失敗したよ」

 可奈は再び落ち込む。

「でも、あのステップが本番でできたっていうのは、とっても大きなポイントだ。だから、可奈、今日出来た良いことをまず考えよう。課題を考えるのはそれからだよ。すでに起きてしまったことは、いくらクヨクヨしてもひっくり返らないんだから」

 後ろを向いて進めなくなるくらいなら、前を向いて何度もこけながら進んだ方がいいじゃないか。

僕は可奈の頭に手を置いて、くしゃくしゃと頭をかいた。彼女は少し照れくさそうにしていたが、嬉しそうだった。

「でも、明日からレッスンは多めだな。ダンスもボーカルも」

「うえぇ!?」

 ひどく面白い反応をしてから、彼女は「プロデューサーさんの鬼ー!」という叫び声を舞台袖いっぱいにこだまさせた。


 少しずつ改善してきているとはいえ、可奈の歌声は相変わらず音痴だった。それでも、ピカピカの笑顔を振りまきながら歌う姿は、僕やライブを観にやって来るファンたちを笑顔にさせた。


可奈は歌が上手いわけでもないし、自分で作った曲を歌っているわけでもない。それでも、彼女はファンの心を動かし、笑顔にさせる。

どうしてだろうか? それは、可奈の歌う姿に感動を覚えてしまうからだろう。彼女が人々を感動させるのは、今われわれが生きている日常のなかに歌が存在することに対する幸せ、そんな些細な幸せなのだ。

歌うのは楽しい、そして歌のあるわれわれの世界は素晴らしく、最上の幸せなのだと、可奈の歌う姿を見る人たちは感じ、そして笑うのである。

「ミューズからの愛され方って、こんな形もあるんですね」と、可奈について千早は言っていたが、なかなか言い当て妙だなと僕も思う。ちょっぴり不思議な愛され方ではあるけれど。


 可奈のライブを観る僕やみんなを幸せな気持ちにさせた。思わず僕も歌いたくなる。彼女のライブを観た後は、時々一人でカラオケに行って何曲か歌ったのだった。

可奈と一緒に何度かカラオケに行ったこともある。採点機能を付けて歌ったとき、僕の得点が高かったために可奈が落ち込んだこともあったが、これもまた、別のときのお話ということで。


 可奈はとことん歌うことが好きなようで、事務所でもよくその歌声を披露していた。可奈自身の曲、または同じ765プロのアイドルの曲を歌うこともあれば、今の自分の気持ちを形にした即興ソングを作って歌っていた。色んなフレーズがたくさん思い浮かぶのだろう、可奈の歌う即興ソングは多彩だった。

育や環から「可奈ちゃんは世界一の作曲家だね!」と言われると、可奈はとても喜んだ。直後に「もうちょっとうまく歌えたら、だけど」と付け加えられ、ガックリするのもお約束だったが。


 可奈の歌声は事務所の日常になった。音痴ではあるけど意外と心地よいから、仕事をしていても気にならない。

しかし、志保は最初の頃、可奈が歌うたびに、「矢吹さん、集中しているから歌わないで」ときつく言っては可奈をしょんぼりさせていた。それも最近では、事務所に可奈の歌声が聞こえなければ、「今日は可奈、来ていないんですね」と可奈がいないことを気にするようになった。この前、そのことを志保に指摘してみると、

「べ、別に、可奈の歌が聴きたいとか、そういうわけではありませんから。ただ、聞こえていないと何だか普段の事務所じゃないなって、そう思うだけです」


 僕は最近、志保さんが小説や台本を読みながら、可奈の歌にリズムを取っているのを知っています。


 でも、歌うことが大好きだからこそ、苦手なこと、音痴を克服したいという気持ちはやっぱり強くなるようだ。


 ある日のライブでのことだった。舞台袖の可奈は、普段だと歌うことができる楽しみをウキウキと滲ませているものだった。しかし、この日は気を張りつめている様子であった。僕は違和感を覚えつつも、こういう時もあるのかなと珍しく思いながら、可奈をステージへ送った。


 可奈のいつもと違う雰囲気は歌にも表れた。それは歌らしい歌であった。しかし、可奈の歌ではなかった。音程はある程度取れている。同時に、音程にすべての意識を向けているようで、その横顔は必死だった。

「お疲れ様」

 戻ってきた可奈に声をかけたが、彼女は浮かない顔をしていた。


「プロデューサーさん」

「どうした?」

「私、今日はいつもよりちゃんと音程を取って、上手く歌おうって意識して歌いました」

「うん。確かに、今日はあまり音が外れてなくて、上手に歌えてたよ」

 僕の言葉に、可奈の表情は少しだけ明るくなった。しかし、たちまち再び表情を暗く落とした。

「上手に歌えてたんですね? 良かった……。でも、これで良かったのかなぁ」


「これで良かった、というのは?」

「……私、歌が上手じゃないから、このままだとダメなんじゃないかって」

 可奈なりに、自らの音痴を気にしていたようだ。

「上手くならないままでいたら、私の歌を聴いてくれるみんながガッカリするんじゃないかって」

「それで、あんなに必死になって歌ってたのか」

「はい。ちゃんと歌おう、上手く歌おう、って」

 確かに可奈は今も音痴だ。でも、初めて歌を披露したときよりも格段に上達していた。トレーナーさんや千早の熱い指導は勿論だが、何よりも可奈の努力が実を結んだからである。レッスンは真面目に受け、レッスンの無い日は家の近くの河原で自主練もしていた。

時々挫けそうになることもあったが、それでも可奈がひたむきに鍛練を重ねるのは、歌が大好きだからだ。彼女の頑張りを歌の神様も少しは見てくれているようで、一歩ずつ、一歩ずつ上達の道を進むことができている。


「それで、可奈は歌ってて楽しかった?」

 僕がそう尋ねると、可奈は少し驚いた表情をして、それから首を横に振った。可奈は目元に涙を少し浮かばせていた。

「楽しくなかったんです。みんなに喜んでもらいたくて、一生懸命に歌おうって思って歌ったのに。……歌うことが楽しくなくて、私、こんなことになったの初めてで……」

 俯く彼女の目から、ぽろり、ぽろりと涙が零れ始めた。

「どうしたらいいんだろう。私、このままだと、歌が……」

 嫌いになってしまうかもしれない。その感情は、可奈にとって一番思い浮かべたくないものだろう。歌が大好きだからこそ、真摯に向き合ってしまうばっかりに、嫌になってしまうものだ。


 僕は可奈と目線を合わせようと、少し屈んだ。

「可奈。別に上手く歌おうって思わなくてもいいんだ」

 可奈は少し泣きはらした瞳を僕の方へ向けた。これまた、少し驚いているようだった。

「それって、下手なままでいい、ってことですか?」

「うーん、それともちょっと違うかもしれないな。確かに、上手く歌えるっていうのは歌手として、アイドルとして大事なことだよ」

 おそらく、多くのアイドルにとっては、歌う上で一番大切なことだろう。


「でも、もっと大切なことがあるんだ」

「それって、何ですか?」

「楽しく歌うこと」

 そしてこれは、君にとって、一番大切なことなんだ。

「可奈。まず、君が楽しいって思わないと、ファンのみんなも楽しめないんじゃないかな?」

「私が楽しいって、思わないと……」

「そう。だって、可奈は歌でみんなを感動させたいんだろ?」

「……はいっ」

 一度鼻をすすってから、可奈ははっきりと、でもちょっと涙声で言った。


「可奈、約束しよう。ライブのときの約束だ」

「何ですか?」

「ライブのときは、とにかく楽しく歌うこと」

 僕の約束に、可奈はまだ赤みが残る目をぱちくりとさせた。

「へっ? それだけですか?」

「ああ。そうして、私は歌が大好きなんだって気持ちをみんなに伝えるんだ」

「上手に歌えなくても、みんなに伝わりますか?」

「もちろん。心から歌ったら、必ず伝わるさ」

 心配しなくたっていい。たとえ人様に聴かせるには不十分な出来栄えであっても、とにかく歌うんだ。君の歌を。


「可奈、約束してくれるか?」

「はいっ! プロデューサーさん、ありがとうございますっ。次のライブは、絶対楽しく歌うって約束します!」

 やっと可奈は笑ってくれた。

「色々たくさん悩んでたのに、プロデューサーさんに相談したら吹き飛んじゃいました」

「でも可奈、歌が上手くなろうと思って努力したっていうのは、すっごく良いことだと思うぞ?」

「本当ですか? えへへ……」

 可奈は少し照れくさそうに頭を掻いた。


「あの、プロデューサーさん」

「どうした?」

「私、これからも今日みたいに転んでしまうことがあるかもしれません。その時は、プロデューサーさん、私を起こしてくれませんか?」

「……もちろん約束するよ。だから、可奈も全力疾走し続けていいからな。ずっと付いて行くし、いつでもすぐに起こしてあげるさ」

 僕の言葉に、可奈はパッと顔をほころばせた。

「ありがとうございますっ! えへへ、やっぱりプロデューサーさんって、私のヒーローですね!」

「ヒーロー?」

「はいっ! 困った可奈を~、助けてくれる~♪ いつでもどこでも~、駆け付けてくれる~♪ って!」

「そう言ってもらえると、僕も嬉しいな」

 君がアイドルとして幸せに過ごすことができるのなら、僕はヒーローだろうと鬼だろうと、何にでもなってやるさ。それが僕の責務だから。


 可奈にいつもの調子が戻ってきた。いつもの調子の外れた即興ソングだ。「やっぱりボイストレーニングも増やすか」って言えば可奈は怒るんだろうなと思いながら、僕は可奈の歌を聴いていた。


・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・


 話を今に戻そう。


 今日は前回の約束から初めてのライブだ。可奈がどのようにして歌うのか、僕は少し緊張しながら舞台袖で見守る。でも、きっと大丈夫だ。可奈は約束を覚えてくれていた。僕が尋ねる前に「楽しく歌う」と言ってくれた。表情も良かった。

 
 最初の挨拶も済んで、一度ステージは真っ暗になった。イントロが始まり、スポットライトが再び可奈を照らす。その瞬間、大丈夫だと思っていても、僕はふと不安になった。しかし、可奈は歌い出しから、僕の一抹の不安を見事に吹き飛ばしてくれた。



 素っ頓狂な歌声が、ステージ上で大きく響いた。

 なんとまあ、ひどい歌だ。何とか音楽として成立しているが、何度も音を外している。何度も何度も。しかし、歌っている彼女は気にしない。笑顔を振りまきながら、可奈は今いるステージを一所懸命に、とにかく楽しげに踊り歌っている。

 僕の大好きな矢吹可奈の歌だ。聴いていると笑顔になれる、そして見ていると幸せになれる、矢吹可奈の歌う姿だ。そうだ。それでいい。


 歌うんだ、大きな声で。とにかく力強く、ひたすら楽しく。

 歌うんだ、大好きな歌を。歌うことの喜びを、愛をみんなに伝えるために。

 その歌は君だけの歌なんだ。みんなを感動させることができる歌だ。みんなを幸せにすることができる歌だ。

 歌え。歌え!


 最後の曲が終わり、観客席から一層大きな歓声が沸いた。

「ありがとうございましたー!」と可奈の勢いのある元気な声が響くと、また大きな歓声が返ってきた。彼女はお辞儀をし、それから声援に応えるために手を振りながら、舞台袖へと戻ってくる。

そして、僕を見るやいなや、可奈は勢いよく僕に飛び込んできた。僕は何とか可奈を受け止めた。

「お疲れ様、可奈。どうだ、ステージは今日も楽しかったか?」

「はいっ! とーっても、楽しかったです!」

 可奈は弾んだ声で返した。僕も思わず笑みがこぼれる。頭をクシャクシャと少し強めに撫でると、可奈は少し照れくさそうにしながら、ピカピカの笑顔で応えた。




おわり



タイトルはカーペンターズの「Sing」から。
可奈ちゃんにはいつまでもニコニコしながら歌ってほしいですね。

矢吹可奈「Sing, Sing, Sing!」
矢吹可奈「Sing, Sing, Sing!」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1398579086/)
こちらもどうぞ。昔書いた可奈SSです。


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