【モバマス】あと八ヶ月で結婚する約束の比奈(29)と(元)P (36)

小説を書きます
期日までにステップを踏んでトロフィーを集めよう!

経緯
【モバマス】十年後もお互いに独身だったら結婚する約束の比奈と(元)P - SSまとめ速報
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関連
【モバマス】佐々木千枝を生贄に捧げる - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1521029010/)


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ここまでのあらすじ

~荒木比奈とプロデューサーは雑談のさなかに「比奈が三十歳になるまでお互い独身だったら結婚する、それより先に結婚できた方は相手をあざ笑う」という不用意な約束をしてしまう。それから九年。プロデューサーは比奈に恥をかかせないためにプロダクションを離れ、独身を貫いていた。どこからか漏れた約束はプロダクションのみんなに知れ渡り、二人の外堀は完全に埋まっていた。埋まった外堀に甘えずるずると結論を引き延ばしまくったお互いの気持ちにようやく決着をつけた比奈と元プロデューサー。じつはみんなずっと思っていた。「早くくっついちまえよ☆(例:佐藤心)」と。元プロデューサーは、比奈ともう一度「三十歳まで独身だったら結婚しよう」と約束した。~

 約束の期日まで、あと八ヶ月――

「……お待たせしたっス」

 駅前のモニュメントで待っていると、待ち合わせの時刻から五分遅れで荒木比奈がやってきた。Tシャツにジーンズのラフな格好で、シャープな印象のフレームの眼鏡をかけ、やや深めにキャップを被っている。
 比奈は芸能人オーラを消すのが得意だが、それでも人混みを意識して普段とは装いを変えているようだ。

「ああ、珍しいね、仕事?」

「いえ……」

 比奈は口ごもった。

「そんなに待ってないよ。行こう」

 通りのほうを指さす。
 そうして、二人で並んで道を歩きだした。


 今日は「ランチを食べる」という約束だった。
 ついでに、比奈が観たかった映画と、比奈が買いたかった漫画と画集を求める予定である。
 仕事ではない。


「なに食べようか」

「そうっすね……」

 二人して通りを眺める。平日午後、昼食にはほんの少し早い時間帯なので、店は選び放題だ。

「……あんまり、気を遣わなくてよさそうなとこが有難いっス。この前に瑞樹さんや心さんと入ったとこは、お二人に選んでいただいたんですけど、すごいセレブって感じのとこで、ちょっと気疲れしてしまいまして」

「了解、じゃ、そこらへんのレストランにしよう」


 結局、二、三店舗物色して、パスタのチェーン店に入った。
 二人席のテーブルに向かい合って座る。

「二人で入るのは、すごく久しぶりだよね」

「そうっスね、えーと……」比奈はしばらく考える。「……正確には思い出せないくらいっス」

「二人だけで入るようなときは、たいてい深夜仕事上がりとかで、とにかく腹になにか入れたいってときだったからなぁ」

「そうっスね」比奈は笑う。「そんな時間だと開いてるのもファミレスかファーストフードかラーメンくらいで、すぐ出るからってラーメンばっか食べてたっスね」

「色気のかけらもなかったな。で、二人してトレーナーさんにカロリー摂りすぎって怒られて」

「……懐かしいっすね」

 比奈は目を細めた。
 お互いになんとなく、そこで会話が止まる。
 休みの仕事の話もどうかと思い、頭の中で話題を考えていると、比奈が困ったように頭を掻いた。

「休みの日まで仕事の話はどうかって思ったんスけど、仕事のこと以外に話題がないっスね」

 思わず吹き出しそうになった。

「共通の話題ではどれも仕事絡みだからな、しょうがないよ」

「そーっスね。こういうとき、みんなどんな話してるんスかねぇ」

 二人して唸っているうちに、注文が運ばれてきた。

 食事で腹を満たしたあと映画を観て、感想を交わしながら大型書店へと歩いていく。

「いや、あれはすごい描写だったっス。叙述トリックっていうか、まんまと騙されたっス」

「ちょいちょい挟まれた映像は過去かと思ったけど、実は未来だった、ってのに自然に気づかせる仕組みがすごいよね」

「そうっス、途中途中なんかおかしいなって思ったりはしたっスけど、メインのエイリアンとのコンタクトのほうに意識もってかれちゃいましたね。最後はよく考えたらちょっとご都合なとこもちょっとありましたけど、そこはラストに向かう熱量で持っていかれたっス」

 比奈は熱っぽく語る。少し早口になっているのは、興奮しているときだ。
 いい顔をしている。

「デザインもかっこよかった」

「そうっス、あの図案、設定資料集があれば欲しいっス」

「これから探してみる?」

「さっき携帯でネットを探してみたんスけど、出てなさそうっス……日本で公開されたばかりじゃちょっと望み薄っスね」

大型書店に到着したあと、目当てのものはすぐに見つけることができた。そのまま、比奈のお薦めの漫画談議が続く。
好きなものを語っているときの比奈はとても輝いている。
比奈は自分のことをただのオタクだと評しているけれど、オタクであるかどうかにかかわらず、人前で好きなものを笑顔で語るのは難しい。

「これなんかお薦めっスよ、全六巻で読みごたえは抜群っス。アタシはぼろぼろ泣きました」

 比奈はすこし背伸びをして、本棚に差されたコミックの一冊を取ると、こちらに手渡してきた。

「へぇ……」

 B6版のコミックだった。主人公らしき少年と、ヒロインにしてはやや背の高い異国風の少女のイラストが表紙を飾っている。

「どうっスか、せっかく本屋来たんですし、買っていくってのも」

「うーん、でもさ、これ……比奈、持ってるんでしょ?」

「え? ハイ」

「じゃあ、それ読ませてよ」

「あ……」比奈はなにかに気づいたようにはっとした表情をして、それから少し恥ずかしそうに視線を逸らした。「……そっスね」

 本屋を出て、すこし日が傾きだした街中を歩く。このあとの予定はとくに決まっていなかった。
 夕飯にはすこし早すぎる。

「あの、荷物持ってもらっちゃって……申し訳ないっス」

 比奈がぽつりと言った。

「え? いや、いいよ、気にしないで」

 比奈が買った画集は大判でハードカバーなので、さすがに持ったまま歩かせるのは忍びなかった。
 と、比奈のほうを見て、ああ、と思い当たり、画集の入ったビニール袋を反対側の手へ。
 空いた手で、比奈の手をとる――

「ひゃぁッ!?」

「うぉっ!?」

 比奈が大きな声を挙げたので、思わず手を離し、歩みを止めた。

「ななな、な」

「あれ、こういうことじゃなかった?」

「や、その、いや、心の準備、っていうスか、その……うう……」比奈は顔を真っ赤にして唸る。「その……色々、あるじゃないスか……順番とか……」

「あれ、あ、そっか」

 一か月前にした遠回しなプロポーズを思い出す。呑み会後で比奈が泥酔していたため、やり直しを要求されていた。
 姿勢を正す。

「比奈、比奈が三十歳になってもお互い独身だったら――」

「そっちっスか!?」

「違うの!?」

「や、それはそれで……あー、もうアタシも判らなくなってきました、もう……はは……」

 比奈は力なく笑った。

「まぁ、でも、その……」比奈は再び、視線を逸らしたままで言う。「せっかくこういう関係になったんですし、リア充っぽいこと経験したくないかっていたら……嘘になるっスけど……」

「……じゃあ、もし、よろしければ、もうすこしぶらぶらしてから、食事でも?」

 芝居っぽく意識して言いながら、比奈に向かって空いている方の手を差し出す。
 比奈はその手をおずおずと取った。
 手を繋いで、ふたたび歩き出す。


「……今日、遅れたのは、自分でもちょっと驚いてるんスけど……服装に迷いまして」

「ぷはっ」

「笑ったっスね!?」

「ごめんごめん、つい」

「ええ、ずっと独身の干物女っス。全然経験ないんで……色々、新鮮で」

 比奈の声のトーンが少し曇った。

「いや、本当にごめん。それも、恋愛する時間がないくらい仕事頑張ってくれてたからだもんね。比奈にだけじゃないけど……責任感じないわけじゃなかった」

「だから彼女作らなかったんスか?」

「そんなつもりはないけどなぁ。いい仕事もってこようとは思ったけど」

「そっスか。どっちでもいいですけど。でも、デビューしてから今までを不幸だと思ったことは一度もないっス。仕事が恋人で、充実してました」

 比奈は少し恥ずかしそうに頬を染めて言う。

「だから、リア充生活はこれから全部が初めてっス。……お手柔らかにお願いするっス」

「あんまり、自信ないなぁ」

 言って、お互いにちょっと笑う。

「……ただ一人のひとのためだけに自分の服を選ぶのは、新鮮な気分だったっス。こういうのも、そのうち慣れちゃうんすかね。……なんて、アイドルになりたてのときも、同じようなこと思ってた気がするっス」

 ふいに、比奈は昔を懐かしむみたいに言った。

「……歩いてるだけでもいいと思えるなんて、不思議っスね。時間がかかった分、ちゃんと色々……噛みしめたいっス」

「そうだね」

 言いながら、繋いでいた手の指を絡めた。
 比奈は何も言わずに、絡めた指に少しだけ力を込めて握り返してきた。

[『初めてデートをする』のトロフィーを獲得しました]
[『初めて手を繋ぐ』のトロフィーを獲得しました]

つづく

つづきは書いたら投下します。

ここまでのあらすじ
~荒木比奈とプロデューサーは雑談のさなかに「比奈が三十歳になるまでお互い独身だったら結婚する、それより先に結婚できた方は相手をあざ笑う」という不用意な約束をしてしまう。それから九年。プロデューサーは比奈に恥をかかせないためにプロダクションを離れ、独身を貫いていた。どこからか漏れた約束はプロダクションのみんなに知れ渡り、二人の外堀は完全に埋まっていた。埋まった外堀に甘えずるずると結論を引き延ばしまくったお互いの気持ちにようやく決着をつけた比奈と元プロデューサー。じつはみんなずっと思っていた。「とっくにくっついたんだと思ってたわ(例:川島瑞樹)」と。元プロデューサーは、比奈ともう一度「三十歳まで独身だったら結婚しよう」と約束した。~

 約束の期日まで、あと七ヶ月――

「……お邪魔します」

「はぁ、どうも、いらっしゃいませ、っス」

 玄関のドアから顔をのぞかせた、見知った顔にぎこちない礼をした。
 どうにも、態度が定められない、と比奈は困った。

「あんまり片付いてないっスけど」

「……まぁ、そうだろうな」

 なんとも言えないやり取りを交わして、彼を部屋の中へ通す。
 彼が部屋に入るのは初めてではない。比奈を担当していたときも何度か入っているし、先日も――非常に情けないことだが――酔い潰れたところを介抱してもらったときに部屋の中は見せている。
 でも、そのときとは二人の関係が変わっている。お互いに、より深い距離まで許すような言葉を交わしている。
 それだけで、こんなにもあらゆる感覚が変わるものだろうか――と、比奈は自分のことながら興味深く感じていた。

「なんか、変な感じっスね」

「そうだね、なんか落ち着かない」

 比奈の言葉に、彼は困ったように笑った。彼が自分と同じ感覚を持っていたことに、比奈はほんのすこし嬉しさを感じる。

「えーと……」

 彼が部屋を見渡す。彼は彼で、自分の立ち位置を決めかねているみたいだった。

「そこ、座っていい?」

 比奈のソファーを指さす。いままで、彼はそこに座ったことはなかった。仕事の話をするときはいつもテーブルに座って話をしていた。彼はソファーを比奈の領域だと思っていたのかもしれない。
 とすれば、彼の要望は、比奈の領域に一歩踏み込もうとしてくれたことの証だ。

「どうぞ。飲み物は、お茶でいいっスか?」

「お構いなく……って、ほんとに構わなくていいから、なんなら自分で出す」

「……そうっスね。場所、覚えてもらった方がいいでしょうし」

 言って、比奈は彼をキッチンへ案内し、食器や布巾の場所を教えた。彼はグラスを取って、冷凍庫から氷を、冷蔵庫のペットボトルから烏龍茶をとって、自分で注ぐ。
 それから、比奈のソファーに座った。

「……そういえば、これに座るのって初めてかもしれないな」

「あー、そうかもしれないっスね、プロデューサーはいつもテーブルの椅子使ってましたし、ソファーはアタシがだいたい占領しちゃってましたし」

「ちょっとくたびれちゃってるな、これ」

 彼が体重をかけると、スプリングが過剰に沈んでしまうらしい。座りずらそうにしている。

「だいぶ長いこと使ってるんで」

 引っ越すことになったら、二人でゆったり座れるものに買い替えよう、と比奈は頭の端っこで考えた。
 そこまでのやりとりをして、お互い、しばしの沈黙。

「……比奈も座れば?」

 彼はソファーのとなりの空いたスペースをぽんぽんと叩いて比奈に示す。

「あー……」比奈の口から曖昧な声が漏れた。「……そっスね、ハハ……」

 言いながら比奈は思う。情けない、なんて情けない。
 もうすぐ齢三十を数えようというのに、満足に異性との距離の取り方すらつかめない。しかも、誰より信頼する、すると決めている相手だというのに。
 一方で、鮮烈に青い、止めることもできない自らの恋慕の感情に振り回されている嬉しさを心の中で認め、比奈は口の端で思わず笑っていた。

「よっと、失礼しまっス」

「比奈の家でしょ」

 比奈は笑う彼の左隣に座る。二人の体重で、経年劣化したスプリングはさらに深く沈みこんだ。自然と、押しつぶされたソファの中心部に向かって、二人の身体は傾いていき、触れる。

「おっと、と」

 彼は片手に持っているグラスの中身をこぼさないように、フローリングの床に置いた。

「アハハ、さすがに二人はこのご老体には重すぎたっスかね」

 比奈は言ったが、意識は彼に触れている右の肩に集中していた。まだ暑さの残る九月の部屋の中、クーラーをめいっぱい効かせているためか、彼の体温はシャツごしでも熱く伝わってくる。

「……」

 会話が止まる。
 比奈は焦った。どうしてそこで黙る。いや、理由に予想はついた。彼も次の行動を決めかねている。
 と、思っていたのだが。
 比奈が次の行動を考える前に、彼と触れていない側の比奈の肩に、彼の手が置かれた。

「っ!」

 比奈は思わず息を飲み、肩がびくりと跳ねた。

「わっ」彼が驚きの声を挙げる。「ど、どうした?」

「や、その、びっくりしたっス……」

 言いながら、比奈は自分の頬が強く熱をもつのを感じていた。言葉を発したはいいが、そこから先が続かない。
 彼の目が比奈をじっと見ていた。

「あ……」

 比奈はなにかを悟ったみたいに、短く声を漏らした。つばを飲んだ。喉がきゅ、と細い音を立てた。

「……ふっ」彼が破顔する。「っくく、や、ごめん、ふふ」

「な」比奈はますます自分の顔が熱くなるのを感じた。「なんでそこで笑うっスかぁ!?」

 恥ずかしさと怒りとで、思わず両手で彼を突き飛ばす。

「わっ! いやごめんって、反応が新鮮で、つい」

「プロデューサーがヘンなことするからっスよ!」

 ついつい昔の呼び方が出て、言ってから自分の間違いに気づいた比奈は、小さく口の中で彼の名を呼び直した。

「なんか、手つきが慣れてるっスね」

 目を背け、口をとがらせて言ってやると、彼は両手を合わせて比奈に頭を下げた。

「いやごめんって」

「はいはい、どーせ干物っス。生娘反応でめんどくさくて申し訳ないっスね、っていうか、アタシからしたらそっちがリア充で困ってるんスから」

「そりゃ、まぁ……」彼はちょっと言いよどむ。「こっちは、初めての相手ってわけじゃないし」

「……えっ、そうなんすか?」

 以外、というか、考えたことがなかった事実に、比奈はつい視線を彼のほうへ戻す。

「あー、まぁ……比奈たちのプロデュースをするより前だよ、だから十年以上前、プロダクションに就職してすぐくらい」

「お相手は、どんな人だったんスか?」

 比奈の疑問は、嫉妬ではなく純粋な興味だった。欲目分を多く見積もっても、彼は容姿も性格も平均以上だ。女の影がないほうが不自然なくらいである。
 比奈との約束が無ければ、もっと早く誰かとくっついていただろう。

「あー……」彼は少し目を細めた。「同僚だよ」

「社内っスか。入社早々やるっスねぇ、プレイボーイ」

 茶化してやると、彼は困ったように笑った。

「若かったからさ。でも、続かなったんだよ。あいつはこだわりが強かったからな。最高の女優を育てるって言って、根を詰めて、お互い仕事にのめり込んだこともあって自然消滅みたいなもんだったよ」

「……なるほど。社内ってことなら、誰かはまぁ、聞かないことにしておくっス。……そのうち好奇心に負けて聞いちゃうかもっスけど」

「了解。ま、気まずくはない、普通に話せる仲だよ。先日もちょっと機会があって話した。比奈は? この部屋に誰か男が入るくらいのことはなかったのか?」

「スカウトにきた最初のプロデューサーが入ってるっス。アタシは漫画手伝いに来てくれた人だと勘違いして部屋に通して、知らずに朝まで漫画手伝ってもらったんスけど」

「そういうことじゃないんだけど、その面白話どうやったらそうなるの」

「修羅場だったんで……」

 そのまましばらく、昔話へ。

 一通り話すと、また、会話が途切れた。
 途切れた瞬間、比奈は目の前にある彼の顔を見る。
 さっきと同じ距離だった。さっきほどの緊張は感じない。
 自然と、彼を見つめる。そっと、彼の手が比奈の肩を支えた。
 ああ、来る、と比奈は思った。彼には経験があるのだから、リードしてもらえるのだろう、と、適度に脱力を心がける。
 ほんのすこし顔が近づく。そういえば眼鏡をはずしていない。……邪魔にならないだろうか、と思ったが、そのまま意識の外に置いておくことにした。

「目、閉じて」

 息がかかるくらい近いところからささやくように言われて、くすぐったく思いながら目を伏せる。
 上唇に温かいものが触れた。心臓が大きく跳ねる。身体は強くこわばり、思わず左手で彼の右腕を掴んだ。
 それから脳内を電気信号が駆け巡るのを実感できるかのような長い長い二秒が経過して、比奈はようやく、もう一度脱力する。
 比奈は想う。唇は体内、内臓へ続く、人体の急所への入り口。それを支配されたならば、動くこともままならない。
 支配されても構わない、すべてを預けられる相手で良かった。
 そう思った瞬間だった。
 彼の手はゆっくりと比奈の背中に回り、空いている方の手は比奈の腰から、する、と下へ――

「ん、む、あっ!」比奈は思わず顔を話す。「ちょ、ちょっ!」

「へっ」

 彼は驚いたような表情をする。

「えっ、いやっ!」思ったよりも近かった限界に自分で驚きながら、比奈は首をぶんぶん振る。「ま、マジっスか、そんな踏み込むっスか!?」

「どちらかといえば踏み込むべきじゃないでしょうか!」

 彼の目はマジだった。

「ちょ、ちょっ! 待つっス!」比奈は自分を守るように両手を彼のほうに向ける。「こ、心とかの準備が……」

「……」

 彼はじっと比奈を見る。観て、待っていた。

「う……」比奈は自分の勇気のなさをふがいなく思ったが、それでもこれ以上進まれれば、正気で居られるとは思えなかった。「も、申し訳ないっス……」

 項垂れると、彼はふっと笑って比奈の髪を撫でた。

「了解。ちょっとがっつきすぎた。ごめん」

「そんな、アタシのほうこそ……その、今度はちゃんと心とかの準備、しとくんで……」

「はいよ」

 そう言って、彼は比奈の右頬に軽く口づけた。それから彼は立ち上がり、大きく伸びをする。今日はここまでにする、という合図のように、比奈には思えた。
 ソファーの近くに置かれた麦茶の入ったグラスの氷が融けて、カラン、と涼やかな音を立てた。
 そうして実際、その日はそこまでで終わった。
 のちのガールズトークという名の先輩アイドルたちによる尋問会参加者の間では、彼の評価は「押しが足りない」と「紳士的」で二分されたが、それは彼の耳に入ることはなかった。


[『初めてのチュウ』のトロフィーを獲得しました]

つづきはまた書いたら投下します。
二カ月以上経ってたとは

>>8
これいる?

>>15
ご容赦ください

ここまでのあらすじ
~荒木比奈とプロデューサーは雑談のさなかに「比奈が三十歳になるまでお互い独身だったら結婚する、それより先に結婚できた方は相手をあざ笑う」という不用意な約束をしてしまう。それから九年。埋まった外堀に甘えずるずると結論を引き延ばしまくったお互いの気持ちにようやく決着をつけた比奈と元プロデューサー。元プロデューサーは、比奈ともう一度「三十歳まで独身だったら結婚しよう」と約束した。前に進んだ二人を、二人の周りの人々も応援している。「絶対に絶対に、幸せになってくださいね(例:佐々木千枝)」と。~

 約束の期日まで、あと五ヶ月――

「……連絡、まだこないっスね」

 窓際に置かれたスマートフォンを眺めて、つぶやく。

 中部地方某都市のビジネスホテルの一室で、荒木比奈は何をするでもなくただ、待ちぼうけていた。時刻は夜の十一時を少し回っている。
 人気のピークは過ぎたとはいえ活動中の芸能人と、巨大芸能事務所のプロデューサーという二人では、お互いのプライベートの時間を合わせることすら困難だった。食事に行く程度のことならなんとかできるが、一昼夜を水入らずで共に過ごせるようなタイミングは、この二か月間、得られていなかった。

 ようやく待望のチャンスが訪れ、旅行の予定をねじ込んだところ、当日になって日中で終わるはずだった彼の仕事が長引いてしまった。夜の八時にはホテルで合流して、翌日は朝から観光の予定だったが、彼からの連絡は乗る新幹線の発車時刻の連絡を最後に途切れている。
 連絡がないのは、彼が疲れているのと、比奈が信頼されているのと両方だろう、と比奈は想像する。比奈とて仕事が忙しいときには彼と連絡を取るのさえ煩わしく思う。新幹線の車内くらいは、すべてを遮断して一人になるくらいのことが許されていいはずだ。この職種で仕事が忙しいのは比奈にとっても彼にとっても有難いことでもある。

とはいえ、比奈はアンビバレントな感情を抱えてもやもやしていた。

「やっぱり仕事道具、持ってくればよかったっスかねぇ……」

 旅行地の情報検索用にタブレットは持っているが、休暇中は仕事のことを考えないようにするためにスタイラスペンは置いてきていた。
 机に突っ伏す。夕食も風呂も済ませた。もうほとんど準備することはない。スマートフォンで新しいゲームでもダウンロードしてみるか。それとも――部屋の端にある冷蔵庫に入っていた割高のビールにでも手を付けるか。

「勢いが必要になるかも、しれないっスからね――なんて、へへ」

 声に出してみるけれど、実際に動く気力はない。笑い声も空しく壁に吸い込まれた。
 その時、スマートフォンが卓上で荒く振動した。
 比奈はがばと起き上がり、画面を確認する。
 彼からのメールだった。駅に着いたから、十数分程度でホテルに到着するという連絡だった。

「……」

 思わず口角が上がっていた。今まで心の中にかかっていた霧がすっと晴れていくように、自分の心が軽くなっていく。
 現金なものだ、と比奈は単純な自分をおかしく思った。

「……っと」

 比奈は立ち上がり、部屋の入口近くにある姿見の前に立つ。荷物を減らしたかったが、さすがにホテル備え付けのガウンだけでは腹が冷えそうだったので、持参した部屋着のジャージのパンツを履いている。風呂は浴びたが、化粧は再度整えた。ざっと見て、しておくと宣言してあった『心とかの準備』の『とか』の部分に不足はないはずだ。

「まー、あっちも疲れ切ってるでしょうから、なにもないかもっスけど」

 ベッドサイドのテーブル脇に置いた旅行鞄を意味もなく探り、スマートフォンを取って、彼になにか返信しようかと考えているうちに、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
 比奈はドアスコープから廊下を見る。魚眼レンズで歪んだ景色の中心に、スーツ姿の彼が見えた。扉の鍵を開ける。

「お疲れ様っス」

 眠たげな顔がそこにあった。

「ごめん、遅くなった、新幹線の中でちょっと寝落ちちゃって駅まで連絡もしてなくて」

「気にする事はないっスよ」

 一歩後ろに引いて彼を室内に招き入れる。扉が閉まった瞬間に、鞄を持っていないほうの手でぐいと引き寄せられた。

「っん」

 やや乱暴に口を塞がれたので、そのまま目を閉じる。
 鍵をかけていない。いや、ホテルの扉だから、オートロックだった。ああ、これでは眠る前に、もう一度歯を磨かないといけない――
 とりとめのない思考をしながら、比奈は首をちょっと前に出して彼を押し出した。
 展開が早すぎる。いくら心とかの準備をしていても、そんなにスタートダッシュで引っ張られては転んでしまう。
 比奈は自分の額で彼の胸を軽く小突いた。

「お仕事でしたし、しょうがないっス。アタシだってそういうこと、あるでしょうし」

「うん。その代わり、明日はちゃんとオフを確保したから」

 顔を合わせ軽く微笑みあって、部屋の奥へ。

「ご飯は食べたんスか?」

 ベッドに腰かけながら、彼に尋ねる。

「移動中に駅弁を食べたよ」

 彼はジャケットを脱いで椅子にかけ、ネクタイを外す。

「じゃあ、お風呂っスね。上のフロアに大浴場が――」

 比奈が言い終わる前に、彼はベッドに座る比奈の前に膝立ちになったかと思うと、そのまま比奈の両腿に顔をうずめ、深く息を吐いた。

「はぁぁぁぁぁぁ」

「あはは……ほんとに、お疲れ様みたいっスねぇ」

 彼の後頭部を撫でる。

「もぉぉぉおさあぁぁぁぁぁぁ」彼は大きな抑揚をつけて言った。「せっかくの休暇だったのになぁあああ」

「あはは、明日があるっスよ」

「そうだね、もう仕事用のケータイの電源は落とした。二十四時間は音信不通」

「じゃあ、アタシが独り占めっスかね」

 言いながら比奈は、でもきっと彼は明日の朝に、仕事の携帯電話を入れるだろうと考えていた。眠らない業界は、対応の速さがそのまま成果につながる。そうして比奈たちも支えてもらってきた。
 仕事の携帯電話の電源を落とすほうがかえってソワソワして落ち着かない休日を過ごすことになる。彼はそういう人間だ。

「もちろん、明日は全力で満喫する」彼は言いながら立ち上がる。「でも、今日もまだ、残ってるから」

「へ?」自分の前に立った彼の顔が近づき、両肩に手が置かれる。比奈は何が起こるかを理解した。「あ」

 声を挙げたのと同時に、彼に両肩を押されてベッドに背中から沈んだ。直後、比奈の顔の左耳のあたりに、彼の顔が飛び込んできて、体重の何分の一かが比奈の身体にかかった。
 心臓が大きく鼓動する。その心臓もそれを守る脂肪も、彼の体重で押しつぶされている。きっとこの強すぎる鼓動は隠しようもなく彼に伝わってしまっているだろう。
 彼の左頬はほんの少しだけ脂っ気があった。部屋に入ってくる前にすでに拭いてあったのだろうか、一日仕事をしていたにしてはちょっと少ない。
 その意図するところを想像しながら、比奈は目の前に来た彼のワイシャツの左の肩口に鼻を寄せて、ゆっくりと息を吸う。こちらには隠しようもない、強い強い彼の匂い。脳天を刺されるみたいな刺激が比奈を襲った。
 志希ちゃんが匂いでトビそうになると表現するのもわかると、比奈は思っていた。もっとも、比奈の場合は相手が限定されるが。
 彼はすうー、と音を立てて、ベッドに広がった比奈の髪の匂いを吸った。比奈はたまらなく恥ずかしくなる。万全に用意をしてきたはずが、シャンプー類だけは持参を失念して不本意ながらホテルのものを使うしかなかった。
 彼が顔を起こし、右手で比奈の左手を指を絡める。比奈の顔に覆いかぶさるように唇を重ねてくる。頬、耳の下、顎先、首元と順番に、彼は比奈についばむように口づけをした。

「う、あ」

 口から自分で思ってもいないような声が漏れ、比奈は恥ずかしさで思わず首をすぼめた。
 顔を離した彼から優しい目で見下ろされて、比奈は天井の照明で逆光になった彼を見ていた。

「……お風呂とかは、いいんスか」

「もう明日の朝で、いいかなって、チェックアウト遅めのプランにしてあるし」

 どうやら手を緩めるつもりは無いらしい。

「ええと、だいぶお疲れでは」

「ご存じだと思うけれど」彼は真剣な目で比奈を見る。「お疲れのほうが元気です」

 そりゃあ、知識としては知っていたけれど。比奈は思わず笑った。
 それから彼を見つめ返して、思う。きっと今、もう一度比奈が拒んだら、彼は素直に引いてくれるだろう。
 正直に言えば、怖い。けれど――
 比奈は右手でそっと彼の頬に触れた。
 きっと今だ。

「そ、その……」

「超優しくする」

 先回りされた。それならもう言うことはない。比奈は脱力することで、意志を示した。
 比奈が目を閉じると、間を置かず彼の唇が、舌が、比奈を求めてくる。
 それと同時に、押し倒されてガウンがはだけかけていた臍のあたりから、彼の手が比奈の腹部の肌を這い、腰から背へゆっくりと回る。比奈がほんのすこし背を浮かすと、数秒で胸の締め付けが緩んだ。

「その」ほんの少し目を開けた比奈は二重の眩しさに目を細めて、視線を横に逃がす。「電気……」

 彼は何も言わずに、ベッドの時計のところについているスイッチに手を伸ばし、実にスムーズにベッドサイドランプ以外の照明を落とした。

「ちょっとちょっと」比奈はついつい突っ込んでしまう。「自分の部屋じゃないんスから、なんで入ったばっかの部屋でそんな手慣れた、アタシだってこのスイッチが部屋の照明だなんて知らないっスよ」

「いやー、先週仕事で使ったんだよね、このホテル」

「は……」

「下見がてら?」

 彼は悪戯っぽく笑う。

「用意周到っスね」

 比奈も笑う。この分なら、必要になると思ってバッグの中に忍ばせてあるものも、彼がちゃんと準備してくれているだろう。

「根回しと事前の準備が仕事だから」

「さすが、敏腕っス」

 言って、二人で笑う。それから彼は、ベッドサイドのランプの照明も最小まで小さくした。
 そうして、薄明りの中で彼はもう一度比奈に触れる。
 比奈も、彼の肌に触れた。固くて、脂肪の少ない、比奈のものとは全く異質の肌だった。
 比奈は思う。不安はあるが、これ以上なく幸せでもある。今はこの夜を噛みしめ、忘れないようにしようと。
 そうして、二人で宵に沈み、おちていった。

[『はじめて』のトロフィーを獲得しました]
[『はじめて』のトロフィーを獲得しました]

つづきはまた書いたら投下します。
あと2エピソードくらい。

ここまでのあらすじ
~荒木比奈とプロデューサーは雑談のさなかに「比奈が三十歳になるまでお互い独身だったら結婚する、それより先に結婚できた方は相手をあざ笑う」という不用意な約束をしてしまう。それから九年。埋まった外堀に甘えずるずると結論を引き延ばしまくったお互いの気持ちにようやく決着をつけた比奈と元プロデューサー。元プロデューサーは、比奈ともう一度「三十歳まで独身だったら結婚しよう」と約束した。前に進んだ二人を、二人の周りの人々も応援している。「ペア眼鏡とか、どうですか?(例:上条春菜)」と。~

 約束の期日まで、あと四ヶ月――

「……面白いっスね」

「自覚はある」

 隣を歩いている比奈へ、比奈のほうは見ないまま言った。

「なんていうか、スーツもいつもよりちゃんと着てる気がしますし」

「うん」

「アタシはなんかこんな普段着のワンピースでちょっと申し訳ないっていうか」

「いや、いい」

「……面白いっスねぇ」

 二度目の比奈のその言葉は、さっきよりも深い感慨を持って発された。

「うう」

 呻きながら立ちどまり、恨みがましい目で比奈を見てやった。

「いやー、アタシの両親に会うというお約束のイベントでここまで弱るとは」比奈はにんまりと笑う。「これまでもっと気まずい相手ともいくらでもやりあって来たじゃないっスか」

「そうだけども」

 そうだけども。自分でも心の中で緊張するようなことではないと理解しているのに、身体がそれに反している。
 比奈の話では両親は結婚についてとくに反対するようなことはなかったらしいし。
 むしろ、やっと比奈に浮いた話が出たと喜んでいるとのことだし。
 付き合いの深い人ならなお安心だという話も伝え聞いているし。
 これからのための単なる顔合わせに過ぎない。そのはずなのに。
 それでも足は不思議と重くなる。

「営業とは違うんだよ……営業はどんな場面でも究極、仮面をかぶる訓練と覚悟はできてる。場数も踏んだ。でも今日の顔合わせは、作った自分じゃだめだし、なにより初めてなんだよ」

「そりゃ、そうそう回数あっちゃ困るイベントっスね」

 比奈は子どもでもあやすかのように、頭をぽんぽんと叩いてきた。

「ま、申し訳ないっスけど、それはアタシには配慮はできても実感はできない感覚っス。向こうはいつでもいいって言ってるんで、ちょっとくらい遅れたって大丈夫っス。気持ちが落ち着いたら行きましょう」

「面目ない」

 ひとつ深呼吸して、また歩き出す。

「あいさつとか考えてきたんすか?」

「いや。手土産はあるけど」

「なんかそれも、代金っていうか、アタシと交換みたいっスね」

「そうなんだよなぁ。でも手ぶらもおかしいでしょ」

「確かにそうっス。悩ましいっスね」

「悩ましい。でも挨拶だから買ってくることにした」

「一緒に渡しましょう」比奈ははっきりとそう言った。「あー、でもアタシが選んだものでもアタシがお金出したものでもないから、それも変っスかね?」

「いや」少し軽くなった心で比奈に感謝する。「助かる。そうしよう」

「了解っス」

 再び、二人で住宅街を歩く。

「現代なんて伝統っていうか、父親に筋を通すみたいな価値観ってもうそんなに耳にしないじゃないっスか。それでも、こういうときにはやっぱり両親に挨拶したとか、顔合わせしたとかっていう話も聞くんだから、面白いもんっスよね」

「きっちり緊張してる人間もここにいるしね」

「ちょっと余裕でてきたっスか?」

「や、強がり」

「胃とかは」

「痛くはないけどストレスは感じる……そうなんだよ、別に、お嬢さんをくださいとか、絶対幸せにしますとか、そういうこと言う時代じゃないって判ってるんだけどな」

「あれ」比奈はしめたとばかりに嬉しそうに笑う。「幸せにしてくれないんスか?」

「それはそういうことじゃなくて」

「へへへ、わかってるっス」比奈は一歩前に出てこちらを笑顔で見る。「幸せになりましょう。共作っスから」

「……そうだね」

「……アタシが気楽でいられるのは、何も心配が要らないと思ってるからっスよ」

 ぽつりと比奈が言う。黙っていると、比奈は続けた。

「両親のことっスから、アタシはもちろんよく知ってるっス。よく知ってる人とよく知ってる人の顔合わせっスから、どうなるか、ある程度は想像できますし。それでアタシが気楽でいられるって言うのは、そういうことっスから。だから気後れする必要はないっス」

「ん……まぁ、そうだよね」

 比奈の言うことに疑問はない。
 それでもこうして心が重く感じるのは、比奈の両親と会う、ということが、自分と比奈にとっての大きな転換点の瞬間であるからだ。きっと、婚姻届を提出するよりも、指輪や杯や誓いを交わすよりも、なによりもこの瞬間。比奈という人間の所属が両親から自分と新しく作る家族へと移る儀式になる。
 それは、比奈の両親と自分の人格が上手く合致するかどうかとはまったく別の、重大な事項、重大な瞬間だ。
 だから、緊張はする。緊張して臨むべきことだ。
 ふっと、比奈とつないでいた手が離れた。

「着いたっスよ」

「……着いたかぁ」

「ハイ、深呼吸しましょー」

「すぅ……」

「わっ!」

「ぶっ!?」

 吸いきったところで背中を叩かれ、盛大にむせる。恨みがましく比奈を見ると、してやったり、という顔で笑っていた。
 抗議の目で見てやると、比奈は歯を見せて笑う。
 その気遣いが有難い。

「じゃ、いきましょうか」

「はい」

「大丈夫っスよ、そのままで」

「うん。……行こう」

 そうして、二人で並んで門をくぐった。


[『はじめまして』のトロフィーを獲得しました]

次で最後にする予定でございます。

ここまでのあらすじ
~荒木比奈とプロデューサーは雑談のさなかに「比奈が三十歳になるまでお互い独身だったら結婚する、それより先に結婚できた方は相手をあざ笑う」という不用意な約束をしてしまう。それから九年。埋まった外堀に甘えずるずると結論を引き延ばしまくったお互いの気持ちにようやく決着をつけた比奈と元プロデューサー。元プロデューサーは、比奈ともう一度「三十歳まで独身だったら結婚しよう」と約束した。~

 約束の期日が過ぎ、数か月――

「お待たせしたっス」

 白無垢に身を包んだ比奈が庭園へとやって来た。

「こっちの着替えもさっきまでかかってたから、そんなに待ってないよ」

「それはよかったっス。見るからに暑そうですもんね、紋付袴は」

「実際暑い」

 言って、二人でカメラマンに招かれて指定の位置へと移る。

「それじゃー、はじめますよ。まず花嫁さん、このあたりへ……」

 まずは比奈単体での撮影が始まった。


 日程の関係で、式は約束の期日よりも数か月遅れ、夏になった。ウェディングは衣装撮影で着たことがあると言う比奈の要望で、式は和式で挙げることになった。とはいえ、披露宴のお色直しの衣装のひとつにウェディングもあるにはあるのだが。

 式に先駆けて衣装を着ての撮影が入り、今はその撮影中だった。天気には非常に恵まれたが、恵まれすぎてこの夏一番の晴天を引き当てた。つまり酷暑だった。ふつう、晴れていれば嬉しいものだが、朝いちばん、比奈は快晴の空を窓から観て「うへぇ……」と落胆したような声を挙げていた。

 撮影されている比奈を見てると、どうしてもプロデューサー目線になってしまう自分に気づく。こういうときくらいは仕事の気分から離れたいが、どうにもならないらしい。比奈にそう話した時も「アタシもプライベートで撮られてるときでも、写りを意識しちゃいますから、しょうがないっス」と笑われた。そういう仕事で出会った相手だと思えば、嫌だとは思わないものの、この感覚は一生付き纏うのかと思うと複雑な気分だった。

「はぁ、さっすがに暑っついっスね……」

「水分摂ります?」

「まだ大丈夫っス」

 アイドル時代はどちらかといえばその雰囲気のゆるさで売っていた比奈ではあるが、それでもカメラを向けられればスイッチが入った状態になるのは、アイドル引退後も変わっていないようだ。姿勢も様になっている。

「つぎ、花婿さんです」

「あ、はい」

 比奈はカメラマンに頭を下げて、日陰へと移動した。比奈と交代で撮影位置へ立つ。ただでさえ黒い紋付袴にこの炎天下。一気に汗が噴き出してきた。

「表情辛そうっスよー、笑顔っス、えがおー」

 比奈がニヤニヤ顔で煽ってくる。こっちが素人であることを判って全力で煽ってくるのだから可愛げがない。アイドルのプロデューサーは芸能人ではない。比奈をあしらうように手を振って、カメラへ目を向ける。

「花嫁さんに対抗しようと思うと逆に固くなります。リラックスしてください」

 カメラマンが柔和な笑顔で言う。こちらは知識はあるとはいえ、経験はまったくない、ズブの素人なので従うのが最適解だ。カメラマンに言われた通りに動く。
 そうして、撮影は滞りなく終わった。

 式の開始までの時間には両家が顔合わせする時間があり、それも屋外のテラスで行うこともできたが、さすがに気温が高すぎるため、室内に変更してもらった。顔合わせ後、両家の親類から写真を撮られたあとは、自分と比奈はむしろ放っておかれ、両家の談笑が続いている。

「……この前、ブルーナポレオンのみんなと会ったっス」

 ぽつりと、比奈が言った。

「みんなと、いろんな話をしました。千枝ちゃんとのことも……聞いたっス」

「うん」

 ブルーナポレオン時代に担当していた佐々木千枝の気持ちを断ったことは、すでに比奈に話していたことではあった。

「まぁ、千枝ちゃんだけじゃなくて、ほかの皆も、それぞれ狙ってたみたいっスけどねぇ」

 比奈は呑気な声で言う。

「え、そうなの?」

 返事の代わりに、比奈から肘で小突かれた。

「よ、女殺し。……死語っスかねさすがに。どのくらい本気かは人それぞれっぽかったっスけど、アタシとの約束が無ければもっと踏み込んでいたかも、というお話もありました。やっぱり、プロデューサーって一番近い人ですし、辛い時にいちばん頼らせてもらえる男性っスから。他の人よりもずっと、安心できる相手っスよね」

「あー……」

「妬み嫉みとかはなくて、みんな本当に心から応援してくれたんで、安心してください。でも、籍入れてからでなんなんスけど、なんていうか……いいプレッシャーを貰いました。幸せにならなきゃいけないって。そういう縛りがあるのって、ほんとは有難いことっスよね。きっとこれから、ちょっとくらい喧嘩したり仲が冷えたりすることだってあるでしょうけど、きっとみんなの顔を思い出して、今日の日のことを思い出して、仲直りできる気がするっス」

 比奈は談笑する両家の家族を眺めながら言う。

「……比奈の言う通り、恵まれてるよね。この仕事、本当に人に恵まれる。恵まれて、この仕事は初めて成り立つ。だから、自分の背筋も自然に伸びる」

「アタシたちは二人だけじゃなくて、ずっとみんな一緒に歩いてきたっス。これからも同じっス。今日はそう思って臨ませていただくっス」

「同じく、そうするつもり。それでも、こうして儀式を通れば、何かは確実に変わる。たぶん、楽しい変化だと思うけど」

「そうスね。はじめてはいつも、刺激的っス。アイドルになったときも、なってからも、公私に渡ってたくさんのはじめてを経験させてもらいました。今日もまたそのひとつっス。これからもきっと、たくさんあると思うっス。そういうたくさんのはじめてを積み重ねていきたいっス。なんか、ゲームのトロフィーみたいっスね」

 そう言って、白無垢に角隠し姿の比奈はいつもの顔で笑った。

「人生ゲームかな。じゃ、またここははじまったばかりってことか」

「そうっス。まだまだ、たくさんはじめてのことを経験しましょー。白無垢には相手の家の色に染まるなんて由来があるみたいですが、現代では、そこまでイエのしきたりがあるでもなし、ここは都合よく、またあたらしいはじまりと解釈させてもらうっス」

 待合室の扉が開き、係員の女性が部屋に声をかけた。

「それでは、そろそろお時間ですので、新郎新婦のお二人はこちらへ、両家の皆様もご案内させていただきます」

「はい」

 比奈と揃って立ち上がる。

「よし、行こう」

「新しいスタートっすね」

 そうして、皆の待つ式場へと、二人で並んで歩いていった。



[『はじまり』のトロフィーを獲得しました]
[このお話におけるすべてのトロフィーを獲得しました。おつかれさまでした]
[ここからのトロフィーは、また別のおはなし]

長くかかりましたがこれで終わりとします。ありがとうございました。

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