【モバマス・新田美波SS】≪黒白鳥≫ (23)

1

新田美波はいつものランニングコースを走っていた。川沿いのコースだ。

ここでは美波と同じようにジャージを着た人がまばらに走っている。

すれ違い様に会釈をされた。

美波も会釈を返した。

相手が知らない人でもきちんと返す。

彼女にとって当たり前のことだ。

夕方に走ることは美波の日課だった。

大学に入ってからできた習慣だ。

走っている間、美波は充実感を感じていた。

足を前に出す。

アスファルトを蹴る。

また足を前に出す。

単純な繰り返しが心地よかったのだ。

走ることだけを考えるこの時間が美波は好きだった。

3キロほど走ると美波は足を止め、息を整え、来たコースを折り返した。

また3キロのランニングだ。

クールダウンでは1キロほど歩く。

美波は毎日7キロほど走っていた。


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2

ひとり暮らしをしているアパートに戻ると、彼女は500mlの水のボトルを飲み干した。

口元から水が少し溢れ、手の甲で口元をぬぐった。

ジャージは汗でびっしょりだった。彼女は上着とシャツを脱いでカゴの中に投げ入れて、それからベッドに座った。

身体は火照っている。

疲労感がある。

それでも嫌な疲労感ではなかった。

美波にとって「生きている実感」だ。

走り続けている間だけ、美波は自分の存在を感じられた。

走るとは実際の運動のことだけではない。

勉強をしている時や、行事のまとめ役を任されている時も、「走っている」状態だと考えていた。

美波はシャワーを浴び、風呂上がりにストレッチをした。

大腿四頭筋、ハムストリング、内転筋、ヒラメ筋。

伸ばすべき部位を意識して順番に丁寧にゆっくりと伸ばした。

明日はラクロス部の活動がある。

怪我には気を付けなければいけない。

大学でプレゼンの課題がある。

準備はとっくに終えていた。

きちんと用意して本番に臨むだけだ。

美波はいつでもベストを尽くしていた。

それが彼女の生き方だった。

3

夏休みになると美波には時間ができた。

自由に使える時間だ。

美波の時間の使い道は決まっていた。

自分の成長のために使う。

美波は自分の選択に迷いはなかった。

ラクロス部の活動のない日、彼女は資格習得のために勉強をした。

夜には本を読んだ。

コツコツと積み重ねることは得意だった。

それを苦に感じたことは一度もなかった。

小さな目標を作る。

そしてそこへまっすぐ進む。

美波の日々はその繰り返しだった。

美波の軌跡は、点と点とを結んでできている。

点の位置はバラバラで、結ぶ線は直線だった。

描いているのはジグザグな模様だ。

4

美波は友人が多かった。

大学の構内を歩けばどこにでも知り合いがいる。

美波。

新田さん。

美波ちゃん。

新田くん。

学生、教師に関わらず声をかけられた。美波はそのたびに振り向き、微笑んだ。

その日も大学の食堂で声をかけられた。

大学で鳥類の研究をしている先輩だった。

「コーヒーでも飲んでいきたまえ。奢ってあげよう」

先輩はおどけた口調で言い、座っているテーブルに美波を招き寄せた。

先輩は楽しそうに鳥について語った。

彼女の話を要約するとこうなる。

鳥は可愛い。

鳥は愛くるしい。

鳥は興味深い。

鳥は人間の友達だ。

「先輩はどうして鳥を好きになったんですか?」

美波は興味を持って聞いた。

先輩は微笑んだ。

「鳥の研究を始めたのが大学に入ってからだったよ。おまけに最初はイヤイヤだった」

「そうなんですか?」

「うん。ゼミの抽選で外れたの。本当はニホンザルの研究がしたかった。でも、いまは鳥が1番好きだよ」

帰り際、先輩は「美波ちゃんもあたしと同じ大学院にこない?」と誘ってきた。

「美波ちゃんなら歓迎するよ」と目を輝かせた。

美波は考えておきますねと苦笑した。

鳥好きの先輩には興味を持てたが、鳥自体には興味は持てなかった。

「ところで美波ちゃんは将来、何かやりたいこととかないの?」

先輩は何気なく聞いてきた。

「お父さんはS大の新田先生だったよね。もしかして海洋研究の分野に進むことを考えたりしてる?」

「いまはまだ決めてないです。色々、資格を取ってみたりはしてるんですけど―――」

美波は歯切れ悪く答えた。

先輩は微笑んだ。

「そっか。何か合うものが見つかるといいね」

「ええ」

美波は自分について考えた。

美波は目標を設定してクリアするのが好きだった。

だが、「これが自分だ」という信念はないのではないかと思った。

美波はふと不安になった。

走り続ければ何か変わるだろうかと考えた。

わからなかった。

進むべき道がぼやけていた。

5

その日、美波はテレビを見ていた。

昼間にはラクロス部の練習試合があった。

美波は活躍した。

2試合に出場した。

勝って、負けた。

勝てば嬉しい。

負ければ悔しい。

さすがの美波も疲労が溜まった。

だが、日課のランニングは続けた。

走らないと気持ちが悪かったからだ。ランニングは日課として定着していた。

美波は走り終えてシャワーを浴びた。

下着を履き、シャツを着て、ベッドに腰掛ける。

コップに冷たい水を注いで口をつけると、リモコンを手に取ってチャンネルを変えていった。

どれとつまらなそうだった。

美波は適当なバラエティ番組で止めた。

興味が惹かれたわけではない。

気を紛らわせるものならなんでもよかったのだ。

「俺にはね。信念があるんだ。だから俺の料理はうまいんだよ」

60歳を超えた男性芸能人が鼻を膨らませて言った。

彼は料理が趣味だ。

スタジオでは彼の作った料理が振舞われている。

カレーだった。

カレー粉、スパイス、そして高価な具材を使ったこだわりの一品らしかった。

毒舌で売り出している司会者がひとくち食べてケタケタ笑った。

「普通ですね」

「最高って言えよ。馬鹿野郎」

「あはは。うまいです。うまいです」

「だろ?」

「普通ですけど」

「てめぇ」

言葉は乱暴だがにこやかなやりとりだった。

美波は少し笑った。

番組が進行してしばらくすると背の低いアイドルが登場した。

「双葉杏でーす。よろしくお願いしまーす」

人気急増中のアイドルらしかった。

双葉杏の生活が特集された。

彼女の家が映し出された。

部屋は広いが散らかっている。

コードの絡まったゲームコントローラー。

干しっぱなしの乾いたタオル。

飲みかけのコーラ。

開けたままのスナック菓子。

ほつれたぬいぐるみ。

美波はすごい部屋だと思った。

録画されていた映像で双葉杏は終始気だるそうに話していた。

「汚ったねぇな。アイドルなんだから、タオルくらい畳めよ」

「だって面倒なんだもん」

背の低いアイドルは悪びれもせず言った。

司会者は笑った。

「全国の売れないアイドルのみなさん。部屋を汚くすれば売れるかもしれません」

「あんまり参考にはしないほうがいいと思うよ。杏が言うのもなんだけど」

「安心しろ。誰も参考にしねえよ」

「だよね」

スタジオが笑いに包まれた。

双葉杏の口調はざっくばらんだったが、不愉快さはなかった。

新田美波はすごい子だとぼんやり思った。

テレビのスイッチを消してベッドに横たわった。ふと部屋を見渡した。

隅々まで掃除が行き届いた綺麗な部屋だ。物は少なく、整理整頓がきちんとされている。

明日は予定が何もなかった。

彼女は目を閉じて眠りに落ちた。

覚醒と浅い眠りを繰り返す。

まもなく朝が来た。

美波の1日がまた始まった。

点と点とを結ぶ日々だ。

6

「初めまして。いま時間いいかな?」

部活帰り、美波が街中を歩いていると男に名刺を渡された。

男はアイドルのプロデューサーをしている者だと自己紹介してきた。

「キミには光るものがある。ぜひアイドルになってほしいんだ」

男は熱を込めて美波を説得してきた。

美波は戸惑った。

名刺に目を落とすと【346プロダクション】と書かれていた。双葉杏が所属する事務所だ。

美波は3日ほど考えて返事をした。

「やってみます」

アイドルをやってみたいと思ったことはなかった。

だからこそ、やってみようと思った。

自分にできるかどうか試してみたい。

合わなければ辞めればいい。

明確なゴールがある仕事ではないのだから。

美波は事務所と契約をした。

男は大げさに喜んだ。

その様子に少しだけ気圧された。

怪しい男だが悪い人ではないのだろう。

美波はそう判断した。

目標に向かう時に抱くような「熱」を彼から感じたからだ。

契約書にサインをすると美波は自宅に戻った。

ベッドの脇に名刺が置いてある。

彼女は指先でつまんで弄んだ。

名刺入れの中に丁寧にしまった。

7

学生とアイドルの二足わらじを履くのは大変だった。

それでも時間を上手く使えば両立は可能だった。

そして美波にとってアイドルの仕事は「できないもの」ではなかった。

ボイスレッスン。

ダンスレッスン。

ビジュアルレッスン。

トレーナーにはいずれも褒められた。

真剣に臨めばどんなハードルでも越えることができる。

彼女自身、そう自負していた。

努力は必ず報われる。

できないことはいずれできるようになると。

それは美波に限っては正しかった。

彼女は恵まれていた。

環境にも才能にも意志にも。

アイドルの世界でもそれは変わらなかった。

だから彼女は安堵した。

自分は大丈夫だ。

美波は新しい世界でも自分が強く立っていられることに胸を撫で下ろした。微笑んだ。

美波は歌うことが好きだ。

体を動かすことも好きだ。

美しくなることも好きだ。

私はアイドルに向いている。

美波は確信した。

プロデューサーも美波を褒めた。

「見込み通りキミは金の卵だ」

何が孵るか楽しみだとプロデューサーは続けた。

美波は期待されているとわかった。

期待には応えなければならない。

8

レッスンが終わって美波は事務所に戻った。

そこで双葉杏と出会った。杏とは簡単な挨拶を交わしたことがあるだけの関係だ。

美波は新人。

一方、杏は売れっ子だ。

だから今までスケジュールが合うこともなかった。

「おはよう。杏ちゃん」

「お。美波ちゃん。お疲れー」

杏はソファに寝転んでいた。

【働いたら負け】と書かれたシャツを着ていた。

シャツは見たところLサイズだった。

明らかに杏の体型に合っていない。

ぶかぶかだった。

それでも彼女は気にしていないようだった。

身なりについても、美波が新人であることについても。

「レッスンはどう? トレーナーさん厳しいでしょ」

「うん。厳しいわね。でも、私たちのことを考えてやってくれていることだから」

「ふぅん。美波ちゃんは優等生だね。あ、これ別に嫌味とかじゃないから」

美波は微笑んだ。

気を悪くしてはいない。

しばらく2人で話した。

杏は自然体だった。

心地よい時間だった。

帰り際に杏はソーダ味の飴玉をくれた。

美波は口の中に放り込んだ。

久しぶりに食べたなと思った。

舌で飴玉を転がした。

歯に当たってカラリコロリと音を立てた。

どうせなら甘くない飴がよかったなと思った。

飴玉が小さくなると奥歯で噛み砕いた。

9

初めてのライブはアウトレットの中央広場だった。

ミニライブだとプロデューサーは言ったが、人は多かった。

休日で客足は伸びている。

美波の友人が最前列にいるのが見えた。美波は照れたが手を振った。

まもなくライブは始まった。

「346プロダクション期待の新人女神アイドル・新田美波さんの登場です。どうぞー!」

観客のまばらな拍手を浴びて美波はステージに上がった。

司会者の大げさな言い回しに苦笑してしまう。緊張はしていなかった。

無遠慮に向けられる観客の視線を堂々と受けた。

美波は微笑みマイクを握った。

「みなさん初めまして。新田美波と言います。駆け出しのアイドルです! 今日はこんなに素敵な舞台を用意していただけて本当に嬉しいです!」

「いまも私を支えてくれている友達。指導してくださっているトレーナーさん。ライブの準備をしてくれた関係者の方々。そしてこんな私をアイドルの道に引き込んでくれたプロデューサーさん。すべての人に感謝しています!」

「新田美波。歌います! 曲は『ヴィーナスシンドローム』です!」

イントロが流れた。

美波はマイクに口を近づけた。

息を深く吸い込んだ。

吐息が漏れた。

熱を込めた。

レッスン通りだった。

4分程度の時間はあっという間に過ぎた。

またまばらな拍手を浴びた。

美波は高揚した。

ひと言、ふた言、話してから笑顔でステージを降りた。

額に汗がにじんでいた。美波は手で拭った。

「大成功だ。初めてとは思えなかったよ」

プロデューサーはまた美波を褒めてくれた。

美波は嬉しかった。

ああ、私は大丈夫だ。

美波は自分にそう言い聞かせた。

漠然とした不安が湧き上がった。

水飴のようにねっとりとした黒い不安だ。

それでも美波は微笑んだ。

「プロデューサーさん。ありがとうございます」

どんな気持ちでもやるべきことは変わらなかった。

信じてまっすぐ進めばいい。

不安はいずれ消えるはずだ。

美波はそう願った。

それはただの願望だった。

10

美波はアイドルとして順風満帆に知名度を伸ばしていった。

トントン拍子に人気を集めていった。

時々、テレビにも出るようになった。

テロップには毎回同じ表示がされた。

【女神系アイドル・新田美波】

この肩書きについてどう思うかと言われるたびに美波は苦笑した。

「恐縮です」

「大袈裟です」

「私は女神なんかじゃありませんから」

「でも、呼んでもらえるのは嬉しいです」

美波は虚実を織り交ぜて答えた。

美波の言葉の真偽を確かめようとする人はひとりもいない。

美波の言葉はすべて真実だと受け止められた。

新田美波は女神のようなアイドルだ。

新田美波は白鳥のような人間だ。

新田美波は優雅に見えるが努力家だ。

新田美波は周囲への気遣いが自然にできている。

新田美波は育ちがいい。

新田美波はアイドル活動を楽しんでいる。

注目されるようになると、美波のプライベートや性格はメディアを通じて発信された。

美波は否定しなかった。

間違っていなかったからだ。

美波は努力家だった。

美波は人を気遣う性格だ。

美波は優しい。

美波はアイドル活動を楽しんでいる。

当たっていた。

自負もしていた。

ただ、自分のことを女神だとは考えられなかった。

それでも白鳥という形容は当たっているのかもしれないと考えていた。

白鳥は一種ではない。

皆が思い描く姿とは限らない。

11

美波はくだんの先輩に白鳥のことを聞いた。

ただし白ではない。黒白鳥のことだ。

ああと呟き、先輩はそれほど熱もなく話し始めた。二日酔いなのだと言った。

「コクチョウ。いわゆるブラック・スワンね。魅力的な存在に思えるかもしれないけど、鳥類の中では特別変わった鳥ではないんだよねぇ」

コクチョウはオーストラリアの固有種だ。

コクチョウは世界各国で見ることができる。

日本でも関東圏を中心に繁殖している。

外来種だ。

ブラックスワンは繁殖力が強い。

ほかの水鳥類との競合が懸念されている。

生態が特に変わっている鳥でもない。

どちらかといえば文学の分野で注目されることが多い。

人間が「スワンは白しかいない」と勝手に思い込んだことで、風評被害を受けている鳥だ。

先輩はそう説明してくれた。

「ひどいよねぇ。ブラックスワンは最初からブラックスワンとして生きてたのに。『白くない!』って驚かれちゃうなんてさ」

美波はそうですねと相槌を打った。

「『まるでブラックスワンを探すようなものだ』っ言い回しが昔の外国にあったのよ」

「どういう意味です?」

「白鳥は白しか存在しない。だから黒い白鳥を探すなんて意味のないことだってこと。日本にも『干し草の山の中から針を見つけるようなものだ』って比喩があるでしょう。それと同じね」

「なるほど」

「いまはブラックスワンが見つかっちゃったから、『先入観や思い込みに囚われるのは良くないですよ』って意味で使われてるんだ」

美波は先輩のミニ講座を受けた。

そのうち先輩はカモノハシの話を始めた。

トンビとタカとワシの違いについて話し始めた。

とりとめもなく話は移り変わった。

先輩の話には熱がこもっていた。

それを聞いているのは心地よかった。

「美波ちゃんはアイドル続けるの?」

いつのまにか鳥の講座が終わり、美波の話に移った。

美波は頷いた。

「自分でも意外なんですけど楽しいんです。しばらくは続けようかな、と」

「そう」

合うものが見つかってよかったじゃんと先輩は肩を叩いてきた。

美波は微笑んだ。

胸の奥でとくとくと黒い水が溢れている気がした。

泉のように絶え間無く湧き出ていた。

もう止まることはなかった。

12

仕事を終えて事務所に戻ると杏と会った。

「久しぶり」

「久しぶり。杏ちゃん」

「同じ事務所なのに久しぶりってのも変だよね」

「ふふ。そうね」

「最近、お仕事増えてきたみたいだね。さすが女神様」

「こら、茶化さないの」

「怒った?」

「それくらいじゃ怒らないわよ」

「だよね。それより大丈夫なの?」

「何の話? 杏ちゃん?」

「周りの環境が急に変わるとしんどくなっちゃったりするじゃん。自分が変わらなくても周りの目は変わるでしょ」

「美波ちゃんなんて特に人気者なんだからさ、『あんなことする人だったのね。意外』なんて思われそうだなーって」

「そういうのは平気なの?」

「心配してくれるのね。ありがとう」

「別にそんなんじゃないけど」

杏は照れた。

頭をかいた。

「平気よ。最初は少しだけ居心地悪かったけれど、もう慣れちゃった」

美波は嘘をつかなかった。

杏の心配は杞憂だ。

的外れだ。

周囲の目は変わったが気にならない。

自分も変化していなかった。

ただ、美波は自分の持っている一面に気づいてしまっただけだ。

いまの自分の置かれた環境に不適当な自分の一面だ。

13

その日は朝から身体が重かった。

脚に力が入らなかった。

美波は風邪かなと体温を測った。

電子体温計には「36.5℃」と表示された。

平熱だ。

頭痛もない。

吐き気もない。

ただ身体が重いだけ。

動きたくないだけだ。

最近は忙しかった。

もしかしたら疲労が溜まっているのかもしれない。

美波はそう考えた。

身体は重かったが、動けないわけではなかった。

台所へ向かった。

卵を焼こうとしてやめた。

億劫だった。

バターを塗った食パンを1枚焼いて、半分だけ食べた。

口の中でモソモソしているのが不快で、オレンジジュースで流し込んだ。

残った分はゴミ箱に捨てた。

今日も頑張らなければと美波は自分を鼓舞した。

スケジュールを確認した。

スケジュール帳を閉じた。

美波は出かけたくないと思った。

14

美波はいつも通り生活を続けた。

部活は時々休むようになった。

アイドルとして依頼された仕事を時々断るようにもなった。

誰にでもあることだ。

だから部員は何も言わなかった。

プロデューサーも何も言わなかった。

「いままで休みなく続けてきたことがすごいんだって」

友人は美波の変調を軽く受け止めた。

女神様はようやく休むことも覚えたのだ、と良い方へ解釈した。

美波はカウンセリングを受けることにした。

プロデューサーにも話した。

「メンタル面の管理もきちんとしたいんです。どうせなら専門家の方に指導してもらった方がいいですよね」

自分の不調を悟られないようにもっともらしいことを言った。

プロデューサーは疑わなかった。

美波はカウンセラーに話をした。

カウンセラーはぽつぽつと美波に質問をした。

美波はそれに答えていく。

しばらくするとカウンセラーはさらりと言った。

「軽度のアパシーだね」

「アパシー?」

「アパシー・シンドロームのことだよ。耳慣れないかな」

「ええ」

「要するに『無気力症候群』さ」

美波は目を白黒させた。

脚の骨が凍り付くような感覚を覚えた。

口を開いた。

何も言葉は出てこなかった。

「スポーツをやってた子がよくなる疾患だよ。鬱なんかとは違う」

美波は言葉を探した。

ようやく聞いた。

「―――それは確実なんですか?」

「ううん。いま新田さんから聞いた話だけで分析したものに過ぎないよ」

「では、先生の見立てが間違っている可能性もあると?」

失礼な質問だった。

美波には相手を気遣う余裕がなかった。

だが、慣れているのかカウンセラーは微笑むだけだった。

「あるねぇ。ただ、当たっている可能性の方が高いと思う。ぼくがいままで見てきた患者さんの症状の傾向と、すごく似通っているからね」

カウンセラーは親身になって話をしてくれた。

名刺と1枚のメモ用紙を渡してくれた。

信用できる心療内科医と薬剤師の連絡先だと言った。

「信用はできるけど話はすごく長い。それだけが欠点だ」

カウンセラーは口角を上げた。

ユーモアらしかった。

美波は笑うことが出来なかった。

「私は仕事を続けてもいいんでしょうか?」

カウンセラーは頰をかいた。

「続けてもいい」

「ただ、キミには休養が必要だ」

カウンセラーは迂遠な言い回しをした。

15

美波は前と同じように生活を送った。

カウンセラーに話すと「それでもいい」と美波の生活に合ったアドバイスをしてくれるようになった。

意欲のない状態が続くことがアパシーだ。

目的を見失っている。

やる気が失われて身体に力が入らない。

まさしく自分のことだと美波は思った。

その日、美波は1日休みだった。

久しぶりのことだった。

出かけないかとの誘いはすべて断った。

美波はベッドに仰向けになった。

手足に力は入らなかった。

美波は以前、双葉杏が部屋を散らかしているのを思い出した。

美波はそれを真似してみようと思った。

飲んだら飲みっぱなし。

食べたら食べっぱなし。

脱いだら脱ぎっぱなし。

子供の頃、それをやると母に注意された。

美波はあえてやってみた。

身体は重く、頭はぼうっとしている。

それでも部屋を散らかしていると落ち着かない。

結局、美波は部屋を綺麗に整えた。

すぐに洗い物をして、服を畳み、机の上を拭いた。

それからまたベッドに倒れ込んだ。

枕に顔を埋めた。

私は杏ちゃんとは違う。

私は私を変えられない。

美波は自分を責めた。

窓から外を眺めた。

美波の気持ちとは裏腹に空は晴れ渡っていた。

16

プロデューサーは美波の異変に気付き始めた。

美波も勘付かれていることに気付いた。

プロデューサーの態度から読み取れた。

「もしも悩みがあるなら相談に乗るよ」

プロデューサーは会話の中でそれとなく声をかけてくれた。

優しい人だ。

失望されたくないと思った。

不安になった。

だから彼女は微笑んだ。

「平気です。美波。頑張ります!」

「……なんて♪」

冗談めかしてガッツポーズしてみせると、プロデューサーの表情が明るくなった。

美波は笑った。

反吐が出そうだった。

自分を偽っているような感覚が嫌だった。

罪悪感を抱いた。

私は一体何をしているのだろう。

美波はいままで積み上げてきたものが崩れていくのを感じた。

17

グラビアの仕事を終えて事務所に帰ると美波はソファで横になった。

ひどく疲れていた。

周りに誰もいないと思っていた。

「あれ。美波ちゃん?」

だから杏から声をかけられて驚いた。言葉に詰まった。

「―――お疲れ様。杏ちゃんいたのね」

「うん。お疲れ様。飴舐める?」

「今はいいかな」

「そっか。もしかして暇してるの?」

「ええ。今日はもう予定はないわね」

「じゃあさゲーム付き合ってよ。杏も暇なんだ」

「あんまりゲームはやったことないけど」

「いいんだよ。適当に楽しもう」

美波は休憩室でコントローラーを握った。レースゲームだ。

最初は慣れなかったが、すぐに美波は上達した。数レースもすると1位を獲れるようになった。杏は苦笑した。

「美波ちゃん上手だね。ゲームやらないって言ってなかった?」

「ええ。でも、操作がそんなに難しくないもの」

「それにしてもだよ。やるじゃん」

「ありがとう」

美波は微笑んだ。

「でも、どれだけ上手にできてもあんまり意味はないわよ」

「嬉しくないの?」

「嬉しくないわけではないけど。そうね、自信にはならないわ」

「ふーん……ところで美波ちゃん」

「何?」

「悩んでるの?」

美波は黙った。少し考えてから。

「プロデューサーさんに何か聞いた?」

「ううん。でも、何となく感じたんだ。美波ちゃんの様子とそれからプロデューサーの態度を見てて『変だぞ』ってね」

「よく人を見てるわね」

「最初は密会を繰り返すような仲を疑ったんだけど。それにしては暗い感じだったからさ」

美波は笑った。

「コソコソしているつもりはなかったんだけど」

「いやぁ、アレは怪しかったよ」

双葉杏は笑った。

美波も笑った。

「確かに悩んでいるけど……悩みって誰にでもあるものでしょう?」

「まあね。杏も毎日『なんで仕事なんてしなくちゃいけないんだろう』って悩んでるよ」

「それと同じようなものよ」

「…」

双葉杏は何かを言いたそうにしていた。

コントローラーを握り、無言でレースをする。

お互い、ゲームに集中しているようでどこまで踏み込むべきかを探っていた。

人と人との微妙な距離感。

美波がいま一番求めていないことだった。

均衡を崩すように美波は口を開いた。

「言いたいことがあるなら言っていいわよ。杏ちゃん。気にしないから」

「うん」

「私が悩んでいる様子はそんなに変だったかしら?」

「変っていうか……杏の悩みとは違うと思う」

「違う?」

「私。きらりと仲がいいんだけどさ、きらりはよく『自分が悪いんだー』って言うんだ。背が高いことをからかわれたり、着たい服を着ようとしてスタッフさんに『似合わないぞ』止められた時にね。自分が間違ってるって思い込もうとするの。本心と違うはずなのに。杏はさ。そうやって自分を否定してるのを見るのはすごく腹が立つし、悲しいんだよね」

「…」

「自分を責めるような悩み方してない? 杏にはそう見えるんだけど」

美波のコントローラーを握る手は汗ばんでいた。

喉がからからしている。

動悸が激しくなった。

操作している車がコースを外れ、草むらに入ってしまった。

美波の口端は上がっていた。

平静を装おうとしていた。

「そんな悩み方はしてないわ」

美波は言った。

嘘だった。

声が震えていた。

私は大丈夫。

美波は自分に言い聞かせた。

微笑んでやり過ごせばいい。これは心配させる必要がない問題だ。

誰かに負担をかけさせることはない。

頭の中で必死に抑えようとした。

だが駄目だった。

目頭が熱くなって涙が溢れた。

コントローラーが手から離れた。

しばらく泣いて、ハンカチで涙をぬぐった。

泣き終わると「ごめん」と杏が言った。

美波は答えなかった。

カバンを持って立ち上がった。

「―――杏ちゃんにはわからないと思うわ」

杏の方を見ずに言い、美波は部屋から出ていった。

18

美波は真っすぐ帰宅しなかった。

あてもなく街を歩き、公園に入った。

もう夜だった。

鈍い頭痛があった。

ひんやりとした夜風は気持ちよかった。

ブランコに座ると美波は自己嫌悪した。

最低だ。

杏ちゃんは心配してくれたのに。

何様なのか。

子供。

本音を出さない八方美人。

取り繕ったような笑顔の女。

めくらのぼんくら。

夢も目標もやりたいこともないくせに。

美波はこのところ毎日自分を責めていた。

小さい頃から美波は大抵のことができた。

勉強も運動も。

努力すること自体も苦ではなかった。

何かができれば人から褒められる。

それが嬉しかった。

人に認められたかった。

期待に応えてきた。

だが、今になって空虚さを感じるようになった。

できることがいくらあっても満たされない。

できることがあっても自分の道が見つからない。

勉強ができても、運動ができても、資格をたくさん持っていても、何の意味もない。

美波は、杏のようになりたかった。

妬ましかった。

開けっぴろげに、裏表もなく自分のことをさらけ出したかった。

美波にはできないことだ。

それは期待を裏切ることだ。

美波は足を揺らした。

もう帰ろうかと立ち上がった。

鞄を肩にかけたところで携帯電話が鳴った。

ディスプレイには【双葉杏】と表示されている。

美波は躊躇った。

だが通話ボタンを押し、電話を耳に当てた。

咳払いをした。

「もしもし。美波です」

「あ、どうも。杏です」

何故か他人行儀な挨拶だった。

「あのさ……さっきはごめん」

「うん。どうして杏ちゃんが謝るの?」

「泣かせるつもりじゃなかったんだ。悩んでるのはわかったんだけど……どうやって声をかけたらいいのかわからなくてさ」

杏の声からは不安が滲んでいた。

それが美波には意外に感じられた。

どこ吹く風の傍若無人。

自分は自分。

不安や怯えとは縁がない。

双葉杏はそんな強い人間だと思っていたからだ。

「気にしてないわよ」

「本当?」

「嘘。本当はまだちょっと引きずってる。杏ちゃんのせいね」

「げ」

杏が困惑した声を出すと美波はくすりと笑った。

久しぶりに愉快な気持ちになった。

「冗談よ」

「案外。美波ちゃんって意地が悪いよね」

「幻滅した?」

「ううん」

「そう」

沈黙が訪れた。

だが気まずさはなかった。

「あのさ。美波ちゃんが何を悩んでるのかはわからないけど、私は美波ちゃんのことは尊敬してるから」

「え?」

「杏にはできないことができるんだもん。杏は周りに気を遣うのが下手だし、期待されてもやる気出ないし、努力も苦手だからさ。羨ましいんだよ?」

美波は言葉に詰まった。何と言うべきか逡巡している間に杏が続けた。

「ま、だからといって自分の性分を憎んだってしょうがないけどね。美波ちゃんもさ、自分をあんまり責めなくてもいんじゃないかな」

電話が切れると美波はディスプレイを眺めた。

自分には夢も目標もない。

自分は皆が期待するような人間じゃない。

自分は本心を出すのが苦手だ。

それでも。

美波は顔を上げた。

エピローグ

舞台に出ると歓声が上がった。

美波は大きく深呼吸をする。

マイクの前に立ち、観客席を見渡した。

視線がすべて自分に向いていた。

美波は挑発するように微笑んだ。

「今日は来てくれてありがとう」と通る声で言った。

ライブの前、プロデューサーは不安そうにしていた。

「体調は平気か?」

やや的外れなことを聞いてきた。

だが、美波は気にしなかった。

他人の心がわかる人はいない。

プロデューサーがどれだけ仕事ができても美波の腹の内がわかるわけではない。

杏もそうだった。

気丈そうに見えても不安を抱えている。

他人の心がわからなくて悩む。

誰しもそうした不安を抱えながら進まなければいけないのだ。

「もう大丈夫です。成功させますからどっしり構えていてください」

美波はにやりと笑った。

プロデューサーは一瞬怯んだが、返すようにして笑みを浮かべた。

「ああ、信頼してるよ」

不安はなくならない。

夢も目標がないことは怖い。

自分のことを理解してくれる人間がいないと思うと孤独を感じる。

できないことがある。

考えるだけで不安感に押しつぶされそうになる。

だが、美波は自分を責めることはやめた。

それでいい。

それもひっくるめて受け入れなければいけない。

女神と呼んでもいい。

知ったことか。

白鳥と呼んでもいい。

関係ない。

私は清廉潔白な人間じゃない。

だけど私は私のことが好きだ。

好きでいてもいいんだ。

美波は歌いきった。

涙が溢れた。

「みんな……応援してくれてありがとう!」

スピーカーに鼻をすする音が反響した。

美波は観客席に手を振った。

汗が乾いて身体が冷えていく感覚が心地よかった。

終わり

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