追われてます!' (341)

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↑の続き

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【届けたい何か】

「それでさ」と部長さんは本題に入ろうと話を切り替える。

「これだけってわけではないんでしょ?」

 両手に掴まれていたノートはすでにダイニングテーブルの上に置かれていた。
 そして、目を移した先にある彼女の視線は私をまっすぐとらえて離さない。

「文の良し悪しについては、私が畑違いなこともあってあんまり分からないし、さっきみたいに率直な感想しか言えないんだけど……」

 少しばかりの間をとり、吐息混じりに軽く頷いて、

「これはわかるな」

 と言う。目からはかなりの自信が窺えて、最初から話そうとは思っていたけれど、それを加味してもちょっとだけ話しやすくなったように思えた。

「わかるって、何をですか?」

 だから、彼女の誘導に従って、そう訊き返す。
 すると彼女はその言葉を待っていたように、ふふんと鼻を鳴らしてから、もう一度ノートに目を戻した。


「私も何かでストーリーを考える時によくやるの。
 まず最初に頭の中でイメージを膨らませて、それからそれを絵にしたり、文字に起こしたり、
 一次創作は勿論そうだし、原作のある二次創作ならなおさらね」

「……そういうふうに見えますか?」

「うん、とても」

 見ただけで、と素直に感心してぱちぱちと数回手を打った。
 お姉さんぶったような笑みを向けられて、何が何でも見透かされすぎている、と少しだけムッとしたけれど、こうして言い当てられているわけで……。

「その通りです」

 と答えるほかない。私ってそんなにわかりやすいのだろうか。

「じゃあつまり、この文に絵をつける……いや、この文のもとになった絵を描きたいってことで間違いない? よね?」

「……はい」

「そっかそっか、なるほどねー」

 文はあくまでも、絵が描けないと思ったから代用的に使っただけで、それだけでは不完全だ。
 絵をつけて、書くにあたって排した情報を補って、それでようやく完成したと呼べる。

 文から絵ではなく、絵から文を、であるから、完成するために文があることは必要条件ではあるものの十分条件にはなり得ない。


「いわゆる、イラストノベル? みたいな形にできたらなって思うんです。
 それだったら、文を書き終えさえすれば、普通の短編にはなりますから」

 "私"ではなく"締切"という面での完成に焦点を当てた場合の保険を口にする。

 それが私の本心でないことは、どうせ彼女には見透かされているだろう。 

「ん、わかった。そういうことなら、間に合うようにちゃんと決めないとね」

「あの……それは一応おおまかには考えてました」

 見切り発車ではなく以前から考えていたことだと伝えたくて、私は口を開く。

 まず、十一編全てに絵をつけるのは時間的にも部誌のレイアウト的にもやめておくのが賢明だろうから、二ページに一枚。偶数でぺージを切り上げるのが良いだろうから、プラス一枚の計六枚。

 そして、デジタル絵は描けないわけではないけど、慣れとスピードを考慮して手書きにすること。塗りにはコピックを使うこと(塗り心地や色の混合をする際に水彩と近いはずだから)。

 スキャナーにかけた後の補正(ゴミ取り、色味の差異修正)については、その経験がないのもあってあまり上手くできる自信がないから、できるだけ自分でやろうとは思うけれど最初のうちだけ手伝って欲しいということ。

「……と、これくらいです」

 話し終えると、彼女はふむと頷いた。



「一枚にかける時間は?」

「えっと、三から四のつもりです」

「それは、どういう見積もり?」

 本当にできるの? と問うかのような難しい顔をされる。
 一瞬息の詰まる感覚を覚えたが、それでもここで黙ってはいけないと、何とか言葉を捻り出す。

「集中しているときは、昔はそれぐらいで描けていたので、描き込みにこだわりすぎないなら、それぐらいでできるのかなって」

 今は、とは言いたくなかった。
 腕とかそういうことを言い出すなら、能力全般落ちていることは自明で、昔通りに描けるはずがない。

 思い入れとともに完成するまでの時間が伸びていたことも、本来私が遅筆なことも、すぐに描き直したいと思ってしまうだろうことも、自分の弱いところは全てわかっていて、それでも、

「……頑張ります。頑張りたいです」

 これは気持ちの問題のはずだから。私次第でどうにでもなるはずだから。
 そこに不安や迷いが生じたとしても、描けないことに比べればはるかにマシで、きっと受け入れられるから。

 いつからか苛まれていた、どこまでも沈んでいく感覚を断ち切るために、数秒前に考えたことをすぐさま否定する。

「描けると思うんです。今の私は……欲しかった理由を、あなたにもらえたから」

 ただ描くことが好きだから、と胸を張って言えるように、
 理由がなくても描けるようになるための、仮置きの理由。


 そんなのおためごかしではないかと問われれば、たしかにそうなのかもしれない。
 でも、私は届けたい。私の精一杯を、側で見ていてくれる彼女に届けたい。

「うん」

 と彼女は満足げに頷く。発した言葉に悩む余裕を与えてくれないまでの早さで。

「ね、シノちゃん。私からも一つだけお願いしていいかな」

「……はい」

「私がシノちゃんを見てる間は、シノちゃんも、私のことを見ててほしいの」

「……」

 何も考えずにそのまま受け取っていいはずなのに、そこに他意はないはずなのに、私は彼女の様子に若干の据わりの悪さを感じた。

 いつも通りの、明るい声音。
 包み込むような、柔らかな笑み。
 癖なのだろうか、言葉を切ると同時にくいっと手を引かれる。

 一見すると何も変わらないように思えて、けれど唯一いつもと違っていたのは、私と目線が合っていないこと。


 彼女は私を見下ろしていて、私は彼女を見上げている。
 背伸びしなくてもいいように屈んでくれている状態が、いつのまにか普通になっていたことに気がついた。

「それって」と言いながら、私は椅子にもたれていた背中を外して、彼女の手を引っ張る。
 予期していなかった行動だったのか──私自身も無意識のものだったけれど──彼女の身体は存外簡単に、てこのようにこちらへと近付く。

「べつに、今と変わらないですよね?」

 肩の位置を合わせてそう発すると、部長さんはじっと私を見つめて、先に窓の方へと目を逸らした。

「うん。……よろしく」

 頬をぽっと朱に染めて、ごにょごにょと小さい声で紡ぐ言葉に、私まで少し気恥ずかしくなる。

 彼女がたまに見せる素の反応は、とても少女的で、かわいらしくて、
 口元が自然に緩むと同時に、自分の心のなかの一部が、静かに揺らめいたように思えた。

少ないですが今回の投下は以上です。
完結までもう少しだけお付き合いください。


【変化】

 もうすぐ十九時を回ろうかという頃になると、部室には全員が揃っていた。

 すぐ左には誰も座っていないパイプ椅子。そこから二人分くらい空けてソラ。
 背中側には女の子三人がソファに腰掛けていて、ここ数日と同じなら二手に分かれているはずだ。

 そして、そのうちソファの最大辺に、ほぼ密着しながら座って絵を描いているであろう二人が戻ってきたのは、今から数時間前の、日が沈もうかという時のことで、
 今ここにはいない優しい優しい先輩に絶えなく見えない日本刀を眼前で振り回すように容赦なくビシバシと文句……絵の指導を受けている間、ずっと気がかりだったことは、どうやら俺の杞憂に終わったようだった。

 まあ、直接何かを訊いたわけでもないし、彼女達から特に何かを言われたわけでもない。
 可能性から照らしてみると、ひょっとしたら、胡依先輩はそれを回避したかもしれないし、もう少しちゃんと考えてから実行に移そうと、俺への『確認』はそういう含意があったのかもしれない。

 けれど、帰ってきてからの東雲さんの様子を鑑みれば、それはうまくいったんだろう、と確信できる。


 彼女は絵を描いていた。
 あんなに、描けないと言っていたはずの。

 すらすらと、脇目も振らずに、ただまっすぐ目の前の紙に鉛筆を滑らせるその姿からは、以前彼女が語っていた"恐怖"は一切見受けられなかった。

 どんな魔法を使ったんだ、と胡依先輩を振り仰ぐと、彼女はふふんと胸を張って親指を突き立てた。

 こちらからは何を描いているのかは窺い知れなくて、けれど、東雲さんが描いているものなら、きっといいものなのだろう。

 時折手が止まると、先輩が落ち着いた声音で「大丈夫?」と声を掛け、それに対して東雲さんは「大丈夫です、ありがとうございます」と柔らかな微笑みを返す。
 こういう会話を四、五回していた。

 もはやこの時点で驚きはかなり大きいものだったが、それでもまだ、ほっとした気持ちの方が強かったように思える。

 あまりの衝撃でメーターが振り切れてしまったのは、さて自分の作業に戻ろう、と身体の向きを直そうとした時だった。


「これ食べる?」と。
「あ、いただきます」と。

「はい、あーん」と。
「んっ……」と。

 僅か十秒にも満たない語らい。
 なんてことのない、今までに何度か見たことがあるようなやり取り。
 普段と違っていたのは、東雲さんの対応。

 抵抗しなかった。ほぼ。ツンとした態度は鳴りを潜め、チャームポイントとまで呼べてしまうような、あの射竦めさせる鋭い視線ではなく、
 あくまで「まったく……仕方ないですね」とでも言いたげな、照れの入り混じった視線を彼女は先輩に向けた。

 俺は、え? と一瞬固まり、遅れておお、となる。単純に。
 ソラも同じようにちらりと彼女達を見てから、こちらに生温かい目を向けてくる。やっぱり単純。

 そしてただ一人萩花先輩は、口をぽかんと開けてその場にフリーズした。
 と思ったら数秒後に俺を外に連れ出して、スカートの端を摘みながらぷんすか地団駄を踏みだした。

「なんか、……なんかっ!」

「……」


 いや、あれは甘すぎる。キャンディーよりもチョコレートよりも、
 メイプルシロップとホイップクリームがこれでもかというくらい乗ったパンケーキよりも、だだ甘い。

 目の前の先輩のことなんて気にならずに(おもしろいとは思ったけれど)、先ほどの光景を反芻していると、ネクタイをぐいっと掴まれる。

「……なんか言ってよ」

 目がうるうるしていた。

「どんまいです」

「ううっ……」

「まあ、……どんまいです」

 他にどう言えばいいんだ。

「……でも、でもね」

「……はい?」

 一呼吸おいて、

「……わ、私も素直になりたい」

「……」

 掴んでいた手を離される。

「私も胡依ちゃんにあーんしてもらうのっ!」


 そう宣言するように叫んで、萩花先輩はつかつかがらっと扉を開け、迷わず隣へ座り肩を寄せた。

「それ、私も食べたい」

「ん、これ?」

「うん」

 はいどうぞ、と胡依先輩は手のひらにお菓子を置いて渡す。

「ね、ねぇ……」

「あー、食べさせてほしいの?」

「ち、ちがっ……わなくて、……うん」

 すると、胡依先輩はにこにこ顔で萩花先輩の口へお菓子を運んだ後に、飼い猫をかわいがるように頭を撫で始めた。
 どういう因果か、ワンチャン計画が計らずも達成された瞬間だった。

 数分間撫でていると、萩花先輩はだんだんと脱力していき、なぜかぶるぶると身を震わせたりもしていたのだが、
 そのうち恥ずかしくなったのか何なのか、耳の先まで真っ赤にして荷物を抱えて部室から出ていった。

「なにあれ、どうしたの?」ときょとんとした顔で俺に訊ねる胡依先輩に、
「……さあ?」とこっちが訊きたいという意味を込めて返答した。

 ちょろい。ちょろすぎる。……いろいろと不憫だけど。
 てか胡依先輩絶対分かっててやっただろ。悪どい。


 気付けば甘い空気は消えていた。砂糖菓子の匂いは残っていたけれど、空気という面で考えれば、そこで何かしらの行動を東雲さんが取れば甘さは持続したのに。残念。
 彼女は先輩二人のことなんて気にも留めずに、イヤフォンをかけて音楽を聴いていた。

 まあそれもそうか、とまた自分の作業に戻ろうとしたが、今度は反対側からのノックの音で遮られた。

 はーい、と胡依先輩が扉の先へ返事をすると、今はソファの小辺にお行儀よく座っているであろうもう一人の女の子が顔を出した。

「こんにちは」

 中央にいる先輩に向かって挨拶をしてから、入り口に程近い俺に会釈。

「もー、奈雨ちゃん。そんなにかしこまらなくても、ただいまくらいの感じでいいんだよ」

 と言い迎える先輩に、

「わかりました。次からはそうします」

 と割合明るめの表情で頷き、そのまま空いている場所に移動し腰を下ろす。


 場の空気に溶け込んではいるから、まったくもって慣れていないわけではないんだろうけど、
 ここにいるのはみんな年上だし、一人を除いて黙々と作業をしているから、声をかけづらいことは間違いない。

 俺もここに来てからは寝る前と朝起きてからの挨拶くらいで、ほとんど会話らしい会話を交わせていない。

 今は何をしているんだろう、と向き直ると、彼女もまた文庫本を片手にこちらを見ていた。

 目線でどうしたのかと訊ねると、奈雨は「お」と口を開けて手をひらひら振る。
 それからきょろきょろ辺りを見回して、すーっと部室の扉を指差す。
 どうやら外に出たいらしい。

「どっか行くか?」

「うん。ちょっとお腹すいた」

「ファミレス?」

「えっと、軽くでいいかな」

「じゃあコンビニでいいか」

「ん、わかった」

 短いやり取り。それでも周りが静かだったから目を引く。
 じとっとした目。生温かい目。戸惑ったような目。なぜか気まずい。


「お金渡すから私の分もよろしく」と胡依先輩が手をあげて言えば、
「私のも、ちょっと手が離せないからお願いできるかな」と東雲さんがそれに続く。

 二人がそうなら、みんなの分を買ってくるのが正解かと頭の向きを変える。
 その視線の先、ソラはニヒルな笑みを浮かべたかと思えば、大きめの手提げ紙袋をガサゴソといじりだした。

「鍋したい」

 そう言って取り出したのは黒い土鍋。
 ご丁寧に、菜箸やらおたまやらも後から出てきた。

「お泊まりといえば鍋だろ」

「そうか?」

 訊き返すと彼はあからさまにむっとする。
 女子達を見やると、東雲さんは頷きを返すのみだったものの、胡依先輩は目をキラキラさせていた。奈雨は言わずもがな、どっちでもいいよ、という顔。

「そんで、材料買ってこいと?」

「おう」

「まあいいけど」

 コンビニの食材では心許ないから、スーパーまで行くのが賢明か。


「おまえは?」

 五人分ともなると、結構な荷物になるだろう。
 それほど距離はないから二人でも問題ないが、部員以外の(関係ないかもしれないけれど)奈雨に重いものを持たせるのはあまり気が進まない。
 つーかソラは優しい先輩が帰ってからずっとノーパソでネットサーフィンをしているし、作業もほぼ終わりに差し掛かっているだろうから、暇を持て余しているに違いないんだよなあ……。

 などと、抗議の意味も込めての問いかけに、けれど彼はちらりと横へ視線を移してから、大仰な身振りで両の親指を突き立てる。

「どうぞお気になさらず、お二人で仲良くおてて繋いで行ってきなさいな」

「あっはい」

 余計な気を回されてしまっているらしい。反射的に頷いてしまった。
 どうせ面倒なのも理由のうちなんだろと考えつつも、「俺ぐらいになると行間を読むなんて容易いことだよなー」と彼が会心とでも言うべき誇り顔をしたがために、強いて頼むことも馬鹿らしくなった。


 奈雨は既に上着を羽織っていて、もう外へ行く準備は万端らしい。
 続いて立ち上がったところで、目の前に何かが差し出された。

「これでよろしく!」

「なんすかこれ」

「なにって、ゆきち」

 受け取る。普通に一万円札。

「またの名を、まんさつ」

「いや、わかりますけど……えっ、これで買ってこいってことですか?」

 先輩は、自分を指差し、俺を指差し、

「私、部長。君たち、後輩。パーティー、奢る。おーけい?」

 まじすか! とソラが手を合わせて頭を下げ、東雲さんは何かに納得したように顎に手をやってふむと頷く。
 そういえば、先輩は前にちょっとした小金持ちだと自称していた。まあ、そうでなくたってわざわざ固辞する理由もない。

「あんまり寄り道しちゃダメだよ」

「そうだぞー未来。まっすぐ行ってまっすぐ帰ってこいよ」

 何を言いたいんだか。放浪癖がありそうなのは言ってる二人だろうに……。

 空笑いで受け流して、ありがたく一万円札を頂戴してから、部室の外に出た。


【食紛争】

 鍋たって材料は決まっているようなものだしさっさと済ませよう、と考えてはいたのだが、スーパーを出て時刻を確認すると二十時をとっくに過ぎてしまっていた。

 まあ、俺と奈雨は何も悪くない。まっすぐここまで来てまっすぐ帰ろうとしている。
 悪いのは忠告をしてきたはずの二人。

 ここに到着したまではよかったんだ。
 一般家庭の買い物のピークはとうに過ぎている店内で、ほどほどに安くなった野菜と肉を適当に見繕っていたところで、スマホが振動した。

『大きい飲み物何本かよろしく』

 と、胡依先輩がイラスト部のグループラインに。

 ほとんど買いたいものはカゴに入れていたから、ナイスタイミング、とかそういうことを考えた。ちょうど連絡を入れようと思っていたんだ。
 スープを何にするか、つまり何鍋にするかについて意見を仰ぎたかった。

『わかりました。そんで、何味にしますか?』

 これが間違いだった。俺と奈雨の会話の中では、オーソドックスに水炊きが食べたいなという話になっていた。
 だからわざわざ訊かずして、何食わぬ顔で買って帰るべきだった。

『トマトチーズ鍋』とソラ。
『もつ鍋』と胡依先輩。
『何でもいいです。』と東雲さん。

 意見が割れた。東雲さんはどうでもよさそう。そんな感じがする。

『それかキムチ鍋』と追撃。
『豆乳も捨てがたい』とこちらも。

 数分の沈黙の後、

『いま、少し揉めてる。』と。

 これが紛争……食の好みの違いを舐めていた。
 それから四十分近く、俺たち二人は待ちぼうけを食わされてしまった。

 幼稚園児のじゃれあいみたいだったと、東雲さんが後から教えてくれた。


【確認】

 行き道はそうではなかったが、帰り道では荷物を持っていない方の手を繋ぐことにした。

 部室を出てからずっとそうしてほしそうな顔をしていたことや、先に指を触れさせてきたのは奈雨からだったこともあったけれど、手を取ったのは俺からだった。

 広い歩道を並んで歩く。この時間帯になると、行き交う人の中に学生らしき姿は窺えない。

 月明かりに照らされた彼女の頬は僅かに上気していて、目を合わすとぱあっと笑顔を向けられる。

 正直に言えば、ソラのお節介──気遣いはありがたいものだった。
 もっと言えば、彼と胡依先輩の返信を待っていた時間も、全てが無駄というわけではなかった。

 というのも、二人で他愛のないことを話す時間を取れて、よそよそしくも感じられた距離感を平常のものにまで戻せたから。

 ただ、あのときのことを思い返すと、部屋で二人きりになる以前の佑希との諍いについてもセットで考えてしまう。


 佑希に対して何らかのアクションを起こすのなら、奈雨にもそれを告げるのが筋だろうと思う。
 けれど、どう言ったものかな、とも思う。

 部室に寝泊まりすることについて、奈雨本人が「いいよ」と了承してはくれたが、さすがにこれ以上続けるわけにもいかない。
 ちゃんとした布団で寝ないと疲れは取れないし、文化祭の練習が毎日あるのならなおのことだ。

 わざわざこっちにまで文化祭のために来たのに、本番も迫っている今に体調を崩されたのでは、どうにも申し訳が立たない。

 大通りを抜け、赤信号で立ち止まる。
 彼女が口を閉じたタイミングで、話を切り出す。

「あのさ」

「うん」

 彼女は頷く。緊張している雰囲気が感じられる。

 そして自分の声音も彼女と同じものだと気付き、
 なんとなく、そういう重苦しい雰囲気にはしたくなくて、

「そろそろお風呂に入りたくなったりしないか」

 発した言葉に、奈雨はじっと俺を見つめ、あははと目を逸らしながら苦笑した。


「わたしはシャワーでもいいよって言ったら?」

 その返しは予想していたものとは違ったけれど、どうやら言いたい内容は伝わっているらしい。
 信号が変わりそれほど長くもない横断歩道を渡りきってから、続きを話す。

「俺は入りたくなってきた」

「なら銭湯にでも行けばいいじゃん」

「一緒に行く?」

「誘いは嬉しいけど、また今度ね」

 あしらわれた。わかっててこう言うのだから、まどろっこしいのは抜きにして簡潔に言ってほしいということだろうか。

「家に戻ろう」

 今度は単純に言う。

「どうして?」

「……駄目か?」

 ううん、と彼女は首を振る。


「理由が知りたいの。お兄ちゃんが戻りたいならわたしもついていくけど、それだけは教えてほしい」

「奈雨の体調が心配だから」

「……本当に?」

「本当に」

 足を止めて、俺の顔を覗き見る。

「……でも、わたしだけじゃないよね」

 いつも通りにころころ表情が変わる。今はなんとなく切羽詰まった表情だ。

「お兄ちゃんは、佑希のことも心配なんでしょ?」

「……どうだろうな」

「……別に誤魔化さなくてもいいよ。お兄ちゃんは昔からそうだし、わたしもそれくらいわかってるから」

「『そう』って?」

「なんだかんだ言って、いっつも佑希のことを気にかけてる」

 小さくため息をついた。そう言われると否定はできないけれど、ずっと考えていた通り、型にはまったお兄ちゃんをしているだけであって、気にかけるとは違う。


「奈雨は、佑希のこと嫌いか?」

 ついついそんなことを訊ねてしまう。
 奈雨は「またその質問か」とでも言いたげに首を左右に振る。

「お兄ちゃんは?」

「……いつも迷惑掛けられるし、何かとめんどくさいやつだけど、好きじゃないって言ったら嘘になる」

 だってそういうものだろ、兄妹なんて。
 悪感情しか持っていないんだったら、最初から会話すらしようとも思わない。
 どこかで好きな気持ちがあるから、いろいろと困らせられるときも、まあ仕方ないかで済ませられる。

 十分納得できる理由だし、これなら彼女もわかってくれるだろうと思ったのだが、

「え、まって」

 と戸惑うように言って、ぎゅっと手に込める力を強くした。


「好きなの?」

「……逆に嫌いってある?」

「いや、ないとは思うけど。え、いや……好きってどの好き?」

「普通の」

「普通ってなに」

「え?」

「わたしへの好きと同じ?」

 どうにも話が噛み合っていない。
 ていうか、めちゃくちゃ聞き捨てならないことを言われている気がするのだが。

 明らかに奈雨への好きとは違うし、そうと言えるけど、果たして本人に言っていいものなのか。

「……わたし、図々しいこと言ってる?」

「言ってる」

 だって、もし仮に「違う」と答えたら、それはもう告白しているのと同じじゃないか。

「あいつへの好きは、家族愛とか、兄妹愛とか、そういうものだよ」

「……」

「いや、他にないだろ?」


 同意を求めたのに、彼女は押し黙った。
 そして何か後ろめたいことでもあるのか、視線をあちこちにさまよわせる。
 どうしてなのかは皆目検討がつかない。

 それ以外の好きとなると、佑希に奈雨と同じく恋愛感情を持っていることになる。
 ……ないだろ。いや、普通に。同い年とはいえ実の妹を好きになるわけがない。

「そうだよね」

 そう頷き顔を上げた彼女は、一転にこやかな笑みを作る。
 少し考えてさすがにそれはないだろうと思い至ったのかもしれない。

 軽く手を引いて、歩こうと促す。
 すると彼女は引かれた手に力を込めるようにくるっとターンをして、俺の前に出た。


「どういう話をするの」

「佑希と?」

「うん」

「確認したいことを確認して、佑希の話を聞いて、あとは場の流れでかな」

「わたしもいた方がいい?」

「それは……」

「わかってる。ちゃんと待ってるから」

 くすっと微笑んで、彼女は歩き始める。
 すぐに信号に差し掛かるも、つかまることなく渡れた。

「けっこう、単純なことだと思うよ」

 半歩前を進む彼女の表情は見えない。足を早めて真隣まで追いついてから、訊ね返す。


「単純?」

「うん。……いや、ごめん。そんなに単純じゃないかも」

「どっちだよ」

「でも、えっと、ややこしかったり入り組んでたり、いろいろ複雑な部分はあるかもだけど、話の根幹はシンプルなことだと思うってこと」

 奈雨の言ってることは、やっぱりよくわからない。
 もしかしたら俺よりも佑希のことをわかっていたりなんてことも。……なんとなく、そんな気がする。見ている気になっていた分のツケだ。

「あんまり気負いすぎるなってこと?」

「それでもいいよ」

「違うのか」

「……ううん、合ってるよ」

 それから特に会話もなく、部室へと戻った。
 騒がしい二人は「遅い!」とぶー垂れてきたものの、「誰のせいで」と言うとすぐに口を閉ざした。

 準備をしつつスマホを取り出して、佑希に、

『ちょっと話がある。いまどうしてる?』

 と送信する。
 数分して既読がついたものの、返信が来る気配はなかった。

今回の投下は以上です。
あと四、五回の投下で終えたい。


【答え】

 部室を出て廊下を歩きながら、小さくため息をついた。
 ひとけのないひんやりとした空気が、今の自分には妙に心地がいい。
 
 ここ数日いろいろ考えて、最後に下した結論は『考えても仕方がない』だった。

 俺がどう思索したところで、その真偽は佑希本人に訊いてみない限り分かりっこない。
 話をしなければ、踏み込む覚悟を決めなければ、進むも退くも何も決まらない。

 ただ、ある程度の推測、ないし目星はつけていた。
 これまでの俺は、彼女のことを自分にとって都合の良いフィルター越しに見ていて、それ以外の選択肢に目を向けようとしてこなかった。
 母さんのことはあくまでも要素でしかなく、間違った選択をし続けてきたのは俺自身だというのを、頑なに認めてこなかった。

 そして、だからこそ見落としていた。
 思い返してみると、彼女の言動は違和感だらけだった。矛盾だらけだった。

 最初から間違えていたのだと、それだけは確信できてしまう。

 そこまで頭に浮かべて、もう一度息を吐き思考をリセットさせる。これ以上は考えるだけ毒にしかならない。前提から覆さなければいけないのに、これまでのやり方で考えていたって無駄なことだ。



 階段を降り、渡り廊下から校門へと抜ける。家の前まで至って、明かりが灯っているか確認する。……点いていない。
 見上げた先──二階にもカーテンの隙間から漏れる光は確認できない。

 家の中に入る。リビングの電気を点けようとスイッチに手をかけると、静かな室内にすうすうと寝息のような音が響いていることに気付く。
 佑希はテーブルに上半身うつ伏せになって寝ていた。風呂上がりらしい薄着で、手にはぎゅっとスマホが握られている。

 少し悪いと思いつつも、明かりを点けてから彼女の身体を揺する。
 数秒して、とろんとした目をごしごし擦りながら、視線をこちらに上向ける。

「あ、おにい。おかえ──」

 言い終える前に、はっとした表情で口元に手をやり目を伏せる。
 立ち上がる素振りは見て取れないけれど、このままいてはすぐに逃げられてしまいそうだ。

「ただいま」

 できるだけ優しい声音で言うと、佑希はびくっと肩を跳ねさせる。


「なんか飲むか、身体冷えてるだろ」

 確認をとらずにキッチンに移動して、電気ポットに水を入れる。
 洗い物が外に出されていないから、今日は料理をしていないか、もしくは何も食べていないのだろう。ミルクティーの粉末袋を捨てる際に開けたゴミ箱の中には、やはり何一つとして物が入っていなかった。

 俯いたままの佑希を横目に、数分で沸いたお湯をマグカップに注ぐ。
 琺瑯のティースプーンでかき混ぜ、表面の泡立ちが収まるのを待って、佑希の前に置いた。

「いらない?」

「……ううん。いる」

 対面の椅子に腰を下ろす。何度か息を吹きかけて冷ましてから自分のカップに口をつける。
 背中側の棚に掛けっぱなしになっていたひざ掛けを手渡すと、彼女は納得しかねるといった顔で、「どうして」と零した。

「……怒ってないの?」

「何を?」

「この前の、……あたしが、奈雨にしたこと」

 目からは、少しの怯えが窺える。
 なんとなく、というよりいつものことだから、こうなるだろうとは考えていた。


「そんなには」と答える。思った通りに、彼女はほっと胸をなでおろす。

 あの行為にあまり怒っていなかったのは本当で──それ以前の奈雨への態度には思うところがあったけれど──佑希自身が内省すべきことで俺が咎めることではない。

 けれど、今日ばかりはここで終わらせてはいけない。
 悪い意味でのいつも通りを終わらせるためには、ここで明確に"否定"しなければならない。

 ようやくカップに口をつけた彼女の表情は、ことさら明るく目に映る。
 優しい言葉を掛けると、決まってそういう表情をされる。それで、俺は続く言葉を言いくるめられてしまう。

 だから、「でもな」と呑み込まれないうちに否定に入る。

「怒ってないわけじゃない」

「……」

「何か気に障ることをされても、手を出していい理由にはならない。
 奈雨の対応も棘があったとは思うけど、別にそこまでおまえを怒らせるものではなかった」

 彼女の思考なんて全くわからない。
 ……わからないから、彼女の側に立って予想する。それでは、また間違ってしまう。


「見てて嫌だからやめてほしいって思うなら、おまえが伝わらないと思う相手じゃなく、最初から俺に直接言えばいい」

 手を繋いだ状態でリビングに入ってきたことだけに腹を立てたとは考えられない。とすると、あれ以前から佑希は奈雨に苛立っていた。
 つまり奈雨に怒りをぶつけられれば、きっかけは何でもよかったに違いない。

「奈雨には、ちゃんと謝るべきだと思う」

 言い終えて、佑希を見ると、彼女は俺から目を逸らして浅く唇を噛む。
 思いつく限りの主観を並べた。佑希の気持ちを考えずに、俺は自分の思っていることをそのまま発した。

 それに驚いたのだろう、と思う。その証拠に、奈雨に連れられて部屋から出ていこうとしたときとまるっきり同じ顔をしている。

「……あたしより、あの子のことが大事だからそう思うの?」

「そうじゃない」

「じゃあどうしてよ。……あたしがいらないから? 二人にとって邪魔だから?」

「それも違う」


「……嘘でしょ。どうせ、そうに決まってる」

 自分に言い聞かせるように、彼女は俺の返答を待たずに、

「奈雨が、悪いんじゃん。あたしだって、同じはずなのに、ずっとずっと我慢してるのに」

 要領の得ない言葉が続く。
 佑希の表情は、どんどん縋るようなものへと変わっていく。

「べつに、奈雨が、とか……お父さんがとか、お母さんがとか、
 そういうことじゃなくて、あたしはそうじゃないんだって、だから、それは仕方ないって、でも……」

 奈雨、父さん、母さん。奈雨と母さんはわかるとして、……いや、全くわからないけれど、どうして全く関係ないはずの父さんが話に出てくるんだ?

 何の話を、と言いかけたが、それはすぐに遮られる。
 彼女の目尻から、一筋の雫が、頬を伝うように流れていく。

「……だって、こうでもしないと……いらないって、言われてるみたいで、あたしだけの場所まで、何も失くなって」

 両手で自分の肩を抱いて、すんと鼻を鳴らす。

 意味がわからないからちゃんと話せ、と冷静に言えればよかったのかもしれない。現にそういう事態に陥ったらそうしようとも考えていた。


 でも、実際目の当たりにしてみると、身勝手に泣いているとは思えなかった。
 佑希はいつも誤魔化したり言い繕ったりはするけれど、表情は一度も嘘をつけていなかった。

 それに、俺が、俺を含めた他人が遠因となっているのは確かで、
 目の前で妹が泣いていて、そのままにできるわけがなかった。

 手を伸ばして、彼女の頭に触れる。
 結局俺は、それがどんなに利己的な行為だと知っていても、困っている人がいたらなんとかしてあげたいと思ってしまう。

 奈雨に顔向けできないな、と思う。
 言いたいことは何一つ言えていない。確認しようとしたことも確認できていない。

 彼女のペースで、されるがままの状態が続いていく──そう思っていた。

 佑希は唐突に俺の手を払った。そして赤くなった目元を拭って、少し悲しそうに笑う。

「こういうとこ……だよね」

 何かを覚悟するように、あるいは荒くなった呼吸を整えるように、彼女は腿の辺りを見て小さく息を吐く。

「おにいは優しいから、こういうふうに甘えたくなって、困らせちゃうんだよね」

「……」

「……あたし、酷いこと、たくさんしてるよね」


 返す言葉に窮していると、彼女はすっと立ち上がる。
 向かう先はすぐ近く。俺の背後に回り、肩に軽く体重をかけられる。

「つらいことがあったら、慰めてくれる。今みたいに、頭を撫でてくれる。
 ……何かがあるたびに、あたしのことを考えてくれて、いつも優しくしてくれる」

「そんなこと」

「……あるよ。あたしはずっとおにいに守ってもらってた」

 遮るようにして、彼女は呟く。
 それでも否定したくて振り返ろうとしたところを、

「……見ないで、お願いだから」

 と制されてしまう。
 上ずった涙声に気がそがれ、仕方なく瞼を閉じると同時に、彼女は再び口を開いた。

「あたし、ばかだから、どっちかしか選べなかったんだ。
 それで、でも、どうやったっておにいは大っ嫌いになってくれないって考えて、……困らせる方を選んだ。何をしても許してくれるおにいが悪いんだって、思い込むことにした。
 そうでもしないと、あたしは、いつまで経っても折り合いをつけれないって思ったから」

 訥々とした語りに、黙ったまま頷く。言われていることの意味は、微塵にもわかっていなかったけれど。


「きっと知らなくたって、……結局そうなってたんだと思う。
 だって、おにいみたいな人、他にいるわけないから」

 肩に置かれていた手が、ゆっくりと椅子の笠木へと移動する。
 単純だと思うと奈雨は言っていた。だが、どう考えてもそうとは思えない。

「嫌って、ほしかったの。ありえないって、甘えるなって、突き放してほしかったの。
 あたしのせいで、おにいがいつも退屈そうにしてるのも、全部わかってた。
 ……わかってて、知らないふりをしてた。どこかで、拒絶してくれるんじゃないかって、そんなばかみたいなことを期待して」

 細部はまだ全然わからなくて、けれど輪郭のようなものはぼうっと頭の中に浮き上がってくる。

 以前から想像していた佑希の行動原理とは違う、とそれだけははっきり言える。
 そして、それを認めてしまうと、俺の予測が正しいであろうことも、恐らく言えてしまう。


「おにいが同じ高校を受けるって聞いたとき、すごく嬉しかったんだ。
 昔みたいに、なってくれるんじゃないかって。あたしが奪っちゃったものを、もう一度取り戻してくれるんじゃないかって」

 もしそうだったら、と彼女は消え入りそうな声で、続ける。

「今までのことを、ちゃんと謝れるかなって、思って……」

 ふっと椅子にかかっていた力が抜け、きいとフローリングが音を立てた。

 一連の言葉で、思い至る。
 全てがばらばらだと思っていた数多の点が結びついて、一本の線が形作られていく。

 やはり、俺はずっと間違い続けていた。
 そしてその間違いを検証することなく──疑念を感じることすらなく──彼女に押し付けていた。

 迷わず振り向いて、深く項垂れる彼女の隣に腰掛け、

「佑希」

 と名前を呼ぶ。
 涙を堪えるように両手で目元を覆って、佑希はこくりと頷いた。


 もう訊かずともわかっていることだった。
 確認したかったことは、直に訊ねることなく確認できてしまっていた。

 でも、それでも彼女の口から俺が訊ねたことへの答えを聞きたかった。
 そうでないと、これまでと何も変わらないから。

「ずっと『頑張らなくてもいい』って言ってほしかったのか?」

 最初は、"勝ちたい"や"頑張りたい"などの気持ちが理由だったことは間違いない。
 それは確信している。……確信した上で、それが今の今まで続いているとも思っていた。

 他人からの評価を気にせずに、敵はあくまで自分だと、決して満足することのなかった佑希。
 その驕らない姿勢を、多くを語らずにもっと上を目指すような在り方を、彼女の飽くなき向上心の現れだと思っていた。

 実際は、まるで違っていた。
 "わからなかった"んだ。自分がどこまで頑張ればいいのか、どこまで行けば終わりが見えるのか。
 自信があって道を切り拓こうとしていたのではなく、後ろを振り向けないがゆえに進んでいくしかなかったんだ。


 そして、その原因を作っていたのは俺に他ならない。

 佑希は、俺がほぼ全ての物事に対して手を抜き始めたのを自分のせいだと思っている。
 確かにそれは完全に否定することはできないけれど、母さんとのことや俺自身が疲れていたことの方が割合としては大きい。『おまえだけが悪い』なんて、とてもじゃないが言えない。
 でも、俺が言葉にして彼女に「違う」と言わなければ、そう思われたっておかしくはない。

 奪ってしまったと感じた俺の分も、頑張ろうとしてくれていた。
 だから、俺が褒めるたびに、頑張りを認めるたびに、それは彼女にとっては全く逆の言葉として響いていた。

 もっと、と。
 まだまだ、と。

 そう考えさせてしまっていた。

 止めることができるのは俺しかいなくて、けれどその俺が数々の言動の裏に隠された真意を汲み取ろうとせずにいたから、彼女はどこまでも止まることができなかった。


 変化が起きかけたのは佑希の言う通り俺の高校受験だろう。
 思い返してみれば、志望校を決めてからの期間、彼女とそれほど会話をしていなかった。

 きっと彼女の目には、"俺が自分の意思で頑張っている"と映ったのだろう。
 それで、もしかしたら長い間囚われていた呪縛から解かれるかもしれない、とそんな期待を抱かせてしまったのかもしれない。

 結果、俺は変わらなかった。
 俺のゴールは、あくまでも受験に合格することだったから。
 奈雨と一緒の学校に入ることが何よりの原動力であって、それからについては何も考えていなかったから。

 ソラに言われたことを思い出す。
 あいつは春からの俺の状態を『魂が抜けてるみたいだ』と言っていた。

 佑希もそう感じて、どうにか変わってほしいと、焚きつけようとした。

 けれどそれも、彼女からしたら表立って言えることではなくて、
 気付いてもらえるまで待つか、いっそのこと嫌われてしまうか、どっちつかずの行動しか取れずにいたんだ。


 長い沈黙を破って、佑希は頷いた。
 そして、ごめんなさい、と微かな声を上げ、弱々しく俺の胸に身体を寄せた。

「……謝るなって」

「ううん。……ごめんね。ずっと、嫌なことばっか、してたと思う」

「そんなことない」

「……何年も一緒にいるんだから、おにいが嫌がってることくらい、わからせて」

 言って、これ以上反論させまいと、ぐいと頭を押し付けられる。
 こんなストレートに甘えてきたのは、いつぶりだろうか。

 こうしたかったんだろうな、と奇妙な納得がいく。
 顔を上げた彼女の横髪に触れると、あっ、とくすぐったそうに声を上げられた。


「これから、どうするんだ?」

「……どうするって?」

「わかんないけど、いろいろ」

 今まで通り頑張り続けるのか? と訊きたかった。
 でもそれは、彼女が決めることだ。俺が意見するとしても、それもまた彼女から俺に言うべきことだろう。

 佑希は考える間をためて、それから真剣そうな表情を浮かべた。

「まずは、奈雨に謝んないとね」

 決心したように頷き、ぱっと身体から離れる。
 拭った目元からは、雫は消えていた。

「おにいの好きな人と喧嘩したままじゃいられないもん」

「……まあ、そうだな」

 否定しても意味がない気がして、素直に認めた。
 佑希はコンマ数秒ほどだけ驚いた顔をしたかと思えば、なぜか大人びた雰囲気で首肯する。


「二人っきりで、話がしたいな」

「奈雨と?」

「うん。謝るのも、もちろんそうだけど、これからのことも、ちょっとだけ話したい」

「……例えば?」

「ずっと嫉妬してたって。あと、それはもうやめるからって。
 ……他にもあるけど、おにいには言わない。奈雨と二人だけの秘密にする」

 それは歩み寄りと呼べるのだろうか?
 ──わからない。けれど、今の状況よりは少しでもマシであることは確かだ。

 俺は頷いた。すると彼女はまたしても一瞬だけ驚いた顔をして、今度はもの寂しげに微笑んだ。
 
「わかったら、ゆっくりでいいから呼んできて」

「……ゆっくりで、な」

「こんなぐちゃぐちゃな顔、おにい以外の人に見せられるわけないじゃん」

 ばか、と佑希は俺の腕をつねった。
 別にかわいいと思うぞ、と何の気なしに言うと、つねる力が倍の倍ほどに強くなった。



【解放】

 二十分ほどして家の外に出てきた奈雨は、落ち着いたような、肩の荷が下りたような表情をしていた。

「仲直りできたか?」

 俺の質問に、奈雨は親指を立ててにこりと笑った。
 実は結構心配だったけれど、どうやら上手くいったらしい。

「どんな話をしたの?」

「話しちゃだめって言われたからだめ」

「そっか」

「でも、これからは仲良くしようねって、そんなのだよ」

「嬉しい?」

「んー、どうだろ。嬉しいといえば嬉しいけど、これから次第って感じ」

「ま、それもそうか」

「あとは、あれだ。昔みたいに『お姉ちゃん』って呼んでほしいって言われたよ」

「……おー、そっか」

「あ、話せるのはこれだけ。……まだ、作業するの?」

「おう」

「帰ってくる?」

「キリがいいとこまでいったらな」

「じゃあ、またお兄ちゃんの部屋お邪魔するからね」

 おやすみなさい、と奈雨は手を振ってまた玄関へと入っていく。
 その姿を見て、俺も少しだけ胸のつかえが取れたように思えた。

今回の投下は以上です。

体調不良につきまだ更新できそうにありません。
長らくお待たせしてしまい申し訳ないです。

更新分はもう少しで書き上がります。ご心配をおかけして申し訳ないです。


【架】


 ハードルを飛び越えるのは難しい。
 けれど、先へ進むための手段なら、そこらじゅうに転がっているのだと思う。
 意識するたびに、遠ざかっていく。

 他者と比べた公正さや、側にいてくれない誰かに向けた想いは、確かな慰めにはなってくれない。


【Le Langage des Fleurs】


 花を見ると、気分が落ち着いた。
 なんとなく、昔からそうだった。

 蕾がひらくときよりも、散りゆくときよりも、ただ単純に咲いているときが一番美しい。

 新たな期待や、失う切なさは、未だ好きになれそうにない。
 ……でも、"自分はここにいる"という説得力は、どんなときだって変わらなかった。

 駄目だ、なんて考えるだけ無駄なことだ。
 続けることに続ける以上の意味なんて持ってはいけない。


【一進一退】

 うたた寝から目が覚めると、うっすらと腿に広がる痺れに気が付いた。

 眠りに落ちそうになる前の記憶ははっきりしているから、今あえて確認をしたりはしない。

 彼女を起こさないように、ゆっくり肩を引いて痺れていないところへ移動する。
 その手で触れたとき、左手に懐かしいような、あるいはまわりまわって新鮮とも呼べるような感覚を覚える。

 腱が、微かに痛んでいた。

 手を下向かせながら寝てしまったときや、何か多くの文字を書くために利き手を長い時間使っていたときの痛みとは明らかに違っていて、
 覚えていないほどずっとずっと昔のこととなんら変わりのない、私が、絵を描く際に手首を使いすぎてしまう悪癖から来るもの。

 ペンを握るのはやっぱり怖かった。
 けれど、握ってからは今までとは違った。


 描けた。
 描くことが、できた。

 どうしてかは分からない。
 でも、描くことができた。

 部長さんは私の手を握ってくれた。
 ……想いが、通じたみたいだった。

 反対の手の甲で目元を擦ってから、パソコンの明かりに照らされたテーブルの上を見る。

 色塗りまで済ませたイラストが三枚。
 四枚目は下絵まで。本当なら一発描きになるかもしれないと覚悟していたけれど、全くそんなことはなかった。

 一日描かないと二日分の差になるだとか、描いたら描いた分だけ上手くなるだとか、
 何にでも言えるようなありふれた言葉はどうだっていいとまで思えてしまった。
 だから自分の指針や感覚が狂ってしまっていたとしてもそれはそれでかまわない。

 描けている実感がなによりも嬉しかった。
 嬉しいだなんて、そんな綺麗な感情を持てるとは思っていなかったから。

 一枚一枚を見返してみる。
 春の絵、秋の絵、冬の絵。書いていた文が助けになって、頭の中で描いていたイメージを余すことなく表現できている、と思う。

 色の重なりも悪くない。部長さんが多くのコピックを持っていてくれて助かった。

 手に取り、またテーブルに戻す。
 自然と私の腕はペンの方へと向きを変えていた。


【意味なんてなくてもいい】

 かたりと音を立てて、紙の斜め前に缶の飲み物が置かれた。手元を照らせる程度のクリップライトの明かりを頼りに作業をしていたから、少しだけ驚いてしまった。

 手を止めて見上げた先には未来くんが立っていて、缶を指差してからどうぞと私に向けて手を差し出した。

「てっきり、今夜はもう帰ったのかと思ってたんだけど」

「いろいろやること残ってて」

「そっか。……終わりそう?」

 二、三秒の沈黙。

「……終わらないことはないよ、多分」

 どうやらそれなりにやばいらしい。
 描きあぐねている様子は前々から見て取れていたから、ちょっとはわかっていたけれど。

「東雲さんはどう?」と問いかけられて、
「私も未来くんと同じ」と答えると、彼はなぜかほっとしたような吐息をもらす。

 怪訝に思い首をひねると、取り繕うような苦笑いをして「いや」と彼もまた首をひねった。


「すごい、なんていうか、夕方からずっと集中して描いてたみたいだったから」

「……そう?」

「あ、違った?」

「んー……」

 そうなのかな、と考えてみる。

 集中はしていたといえばしていた。
 が、あれくらいは普通というか……。いつも一人で描いていたから自ずと周りは静かで、集中せざるを得なかったというか。

 たしかに部長さんのように集中とはかけ離れている人と比べれば、そう見えてしまっても仕方がないかもしれないが、
 そのときの気分で一枚の絵の中でムラが出るのは嫌だと思ってしまうから、どのみち描き終えるまではそれを切らさないように努めようとはしていた。ほぼ無意識に。

 だからどう言うのが正解なのか逡巡しつつ、

「描けるうちに描いとかなきゃなって」

 と返事をする。嘘ではない。

「未来くんだって描くときは集中してるように見えるよ」

 続けると、彼は「そうかな?」とうなじのあたりをくしくしと掻いた。
 意地悪な返しだったけど誰だってそういう反応になるよね、と思う。

「萩花先輩がかなり怖くて」

「ふうん。あの人怖いんだ」

「まあそれなりにね」

 でもそんなに怖くはないよ、というニュアンスで言って、彼は自分の飲み物に口をつける。
 遅れて私も「ありがとう」と言ってからプルタブを上げる。


「これ飲んじゃったから、もっかい歯磨きしなきゃ」

「朝まで起きてればいいんじゃない?」

「……でも私、夜更かし苦手なんだけど」

 そう言って私はテーブルにだらんと上半身をすべらせる。
 絵を描いているならまだしも、それが途切れてしまうと途端に眠気が襲ってきそうだ。

 うーん、と彼は顎に手を置き、

「何か食べ物でも買ってくる?」

「何かって?」

「軽くつまめるものとか」

「……んー」

 まともな返しもせずに口元を手で隠しながら小さく欠伸をすると、控えめな笑い声が耳に届いた。

「その感じだと、帰ってくるまでに寝てそう」

「……たしかに」

 否定できないのが悲しい。
 ちらと自分の腿へと目を落とすと、部長さんはすうすう寝息を立てて寝付いている。
 
「私も行く」

 と言うと、彼は一瞬何かを考えるようにして口元に手をやったが、すぐに私に視線を合わせて頷いた。



 貰った飲み物のお返しと自分用のガムを買い、お店の外に出た。
 私のことを気にしてか、彼は部室を出てからずっと一歩前を歩いてくれている。

 視界が心許ないとは言わなかったのに。もしかしたら部長さんとそういう話をしたというのは……まあ、ないよね。

 吹きさらしの渡り廊下に夜風が吹き抜けていく。
 彼が何も羽織らなかった流れで私もほぼ寝間着のような格好で外に出たから、ちょっとだけ肌寒い。

「少し寒い?」と前方から声が掛かる。
 そう言葉にして問われると、余計に寒気が忍び寄ってくる。口を手で覆ってはあと息を吐いてから、頷く。

 あのさ、と言おうと距離を詰めると、同じタイミングで彼が振り返った。

「どうかした?」

「あ、うん。……えっと、歩きながらでいいかな?」

 確認を待たずして、彼の隣に並ぶ。
 訊きたいことはたしかにあったけれど、顔を見られている状況で話せることでもない。

 いや、普通に考えてもう流れてしまったことだし、あの時点で私は部長さんに何も訊ねなかったのだから、今になって未来くんに訊ねたところで何一つわからないとも言える。
 言える……が、あの行動の意味を──普段から意味なんてあるかわからない人だけれども──知りたいと思ってしまうのは間違いではないはずだ。

 校舎に入り、息を整えてから口を開く。


「キス……を」

 されそうになったんだけど……、と続けたかったのだが、彼が突然立ち止まったことにより遮られた。

 びくりともしないくらいに固まっているけれど、そこまで引っかかりのあるワードとは思えない。

「あ、未来くんもなうちゃんと」

 しまった、と思ったときにはもう遅かった。口に出ていた。
 申し訳なさと気恥ずかしさが相まって、横を見られない。

「まあそれはおいといて」

 と彼が殊更に低いトーンで無理やり話題を飛ばそうとしたのは十数秒後のことで、そういう関係でしかも否定しないのか……などとは思いつつも、そこは掘り下げずに本来の話題に戻すことにした。

「昨日部長さんの家にお邪魔したときに、こう、いつもみたいに身体を近付けられてね」

「……へえ」

「それだけだったらまあって感じで……いや、それでも結構削られるから、許せるとかじゃないけど……なんていうか……」

「……勝手にどうぞ?」

「あ、うん。そうそう。そうだったんだけど、……首に手をまわされて、押し倒されるみたいに唇を近付けられたらさ、誰だって身構えるし、されるって思って……」


「そのまましたの?」

「いや、しては……ない」

「なら別に」

「……」

「……良くはないか」

 ははは、と未来くんはため息混じりに乾き笑いを浮かべた。
 つられて私もひきつった顔をした。誰もいない校舎がまた一層冷たさを増したように感じる。

「抱きつくまでなら、スキンシップだからって納得はできるけど、キスとなるとさすがに……ね?」

 同意を求める形になってしまったが、彼は数秒遅れで頷いた。

「つまり、からかいではないと仮定して、そうしようとした真意がわからなくて困ってると」

「……うん」

「そっか」

 言い出すか言いださまいか、彼は口を開いて閉じてを繰り返す。
 沈黙が耳に痛くて、隙間を埋めるように私は両手を自分の胸のあたりで数回振った。


「やっぱり、なんでもない」

「……」

「……でも、こういうこと。未来くんは分かっちゃうんだね」

「いいや。そういうわけじゃない」

「だって、いつもお見通しだから」

「それは──」

 もう一度、彼は逡巡の色を見せた。
 しかも、先程よりも明瞭に。まるで何か他のことを思い浮かべているように。

 どこかで彼の忌諱に触れてしまったのではないかと思い、慌てて取り繕おうとする。
 けれど、それはやはり形をなさなかった。どう謝るかどうかを判断する材料がないのだ。

 やがて彼は視線を下に落としつつ、おもむろに話を始めた。

「そういうのは、思い込みなんだよ。……すべて正しいってわけではないし、
 わざわざ推測しなくともわかりやすい人は本当にわかりやすいんだ。
 それに、恒常的に嘘をついている人なんてフィクションならともかく現実にはそういないから……、
 逆の意味で一貫しているというか、意識せずに出る言葉はそこまで簡単に揺れ動いたりはしないはずなんだ」

 だから見通しているとは言えない、と彼は首を横に振る。


「少なくともあの人は、相手によって対応を変えてる。
 俺の目線と東雲さんの目線は違う──だから、軽率なことは何も言えない」

「……けど、そんなの」

 当たり前のことじゃないの、とは言えなかった。
 相手の感情を感じ取るためのサンプルが私の場合少なすぎる。
 それに、ケーススタディだと言うなら、私はそもそもの前提から欠けてしまっている。

 私が続きを発することなく黙っていると、彼はそれまでの硬い表情を崩して、別の言葉を呟いた。

「……あんまりさ、早とちりすることでもないと思うよ」

「どういう意味?」

「内に向けた言葉か外に向けた言葉かなんて、当人以外には分かりっこないって話」

 そう言って彼は再び歩き始めた。何のことを言っているのかが分からなくて、様子を窺おうと後に続く。
 二階から三階へと上がりきるタイミングで隣に並ぶと、その先の一段に足をかけた彼は、また何かを思い出したのか「あ」と呟きこちらに目を向けた。

「ひとつ、質問していい?」

「う、うん。……どうしたの?」


「一歩目が出ると二歩目が出てしまうのは、自然なことなのかなって」

 こういうふうにさ、と右足を一段目に乗せる。

 一歩目。二歩目。歩いているのなら、それは自然なことで間違いはない。

 ただ当たり前のことを答えてほしいわけではないことは分かるけど、それだけ分かっていたって意味はない。
「大喜利?」と訊ねると、「真面目に考えて」と諭されてしまった。

 いや、真面目にって言われてもなあ……。
 いつもの未来くんならもう少し分かりやすく話してくれるのに。

 こういう含みのある言い回しはあの人が好みそうだな、と無駄なことが頭に浮かぶ。

「……足を合わせることは、できたりする、かも」

 捻り出した答えだったが、口にしてから気付く。

「あっ、でもそれだと、二歩目を出してるのと変わらない」

「そうだね」

「……ごめん。それしか思いつかなかった」

 緊張と、恥ずかしさも相まって目を逸らす。
 少しばかり微笑む声が聞こえたと思えば、

「まあ大丈夫だよ。今の質問に答えなんてないし」

 私がさっき言ったように、左足を右足の隣に並べた。


「え、そうなの?」

「うん」

 ……じゃあどうして訊ねたりしたんだろう。
 そういう内心が顔に出ていたらしく、未来くんは私に隠す素振りも見せず、

「東雲さんはそれでいいと思うよ」

 と言い楽しげに笑った。

「そう言われても分かんないよ」

「分からなくてもいいんだよ、きっと」

「……なんか今日の未来くん、すごく意地悪だよね」

「そう?」

「だっていつも優しいから……もしかして、今のが本当の未来くんなの?」

「本当の、って……いや、本当とか嘘とかないからね」

 ……。

「『お兄ちゃんはたまにスイッチ入るとすごいんですよ』ってなうちゃんも言ってたし」

 ぴくりと彼の眉根が動いた。これは……。


「『体調が優れないときは本音が聞けるからレアですよ』とも言ってた」

「待って」

「待たない。あとは、えっとね……」

「いや言わなくていいから。本当に、マジで」

 暗がりでよく見えないが耳や頬は真っ赤になってるのだと思う。
 なんだ、いつもの未来くんだ。安心している自分がいる。

「未来くんの話をしてるときのなうちゃん、とっても楽しそうだったんだよ」

「はあ、そうなの」

「部長さんとソラくんの方がぐいぐい訊きにいってたけどね」

「……仲良くなられたようで何よりですね」

 弱点なのかな。気にはなるけど、今後はできるだけ控えた方がいいかもしれない。
 触れられたくないことを訊けるほど、私が彼に心を許されているとは思えない。
 そうでなくとも、私には縁遠い話だとも思う。誰にも聞こえない言い訳。


「私からも、もういっこ質問」

 気を取り直すようにして声を掛けた。
 彼はまだ何か言われると思ったのか、いくらか身構えたように映る。

「好きな花を教えてほしいの」

「……花?」

「うん。なかったらないでもいいんだけど、もしあるなら」

「花」と彼は繰り返した。いくら何でも胡乱すぎたかもしれない。

「えっと、ちなみに東雲さんは?」

「私はスミレとかミモザみたいな、派手すぎなくて綺麗な花が好き……かな?」

「なぜ疑問形」

「だって……好きなものを人に言うのって結構勇気のいることじゃない?」

「まあ、たしかに」

「それに、好きだったものを嫌いになったとしても、言葉にしてなければ罪悪感もないかなって」

「嫌いになるのが怖いの?」

「ううん」と私は首を振った。
「そっか」と彼は頷いた。
 じゃあどうして? と訊かれなかったのは幸いだった。それこそうまく言語化できそうにない。


 一時的な、短絡的な好きを好きと言ってしまいたくない。
 ましてやその好きを嫌いになるだなんてもってのほかだ。
 理屈付けられはしないが気にせずにはいられない。それだけのことだ。

「秋桜と紫のアネモネ。ぱっと思いつくのならその二つ」

 この流れで言うのはアレだけどね、と彼は肩をすくめる。

「どう? センスある?」

 沈黙が生じる前に言葉を続けられたので、

「どうかな」

 と笑ってみせた。

「ああでも、花言葉の類は全く知らないんだよね」

「大丈夫だよ。私もそこまで知らないし」

「込められた意味があるなら知っておいた方がいいのかな」

「……いや、それもどうだろうね」


 私も前までは、花言葉の存在を気にしていたと思う。
 図鑑には絵とセットで載っているし、花について何かを語る上で外せないことだとも思っていたから。

 けれど、いつの間にかほぼ気にしなくなっていた。

「きっと意味なんてなくてもいいんだよ」

 私の言葉に、彼は不思議そうな顔をした。

「花言葉はたいていが観たまま感じたままを表現したもので、ひとつの花をとっても意味が決まってるわけじゃないの」

 たとえばミモザなら、"友情"や"感受性"もしくは"秘密の恋"。
 繋がりがないわけではないが、誰が、どこで、それだけでも変わってきてしまう。
 三つ目の"秘密の恋"は、どこかの民族が想い人に愛を伝えるために用いたからだったと思う。私たちには馴染みのないことだ。

「ほかにも、名付けた人の出身地の歴史伝統を踏まえてだとか、そういう難しいタイプの名付け方もあって……。
 でもどっちにしたって見知らぬ誰かの定めた意味よりは、実物を目にしたときの自分の感覚の方が信用できると思いたいなって」

「なるほどね」と彼は頷いた。
 それから何かを思い当たることでもあったのか、微妙に口角を上げる。


「四葉のクローバーは"幸運"を意味するってどこかで聞いて、今までそれを疑いもしなかったけど、
 そうだな……あれを十字架に見立てて言ってるとしたら、キリスト教徒でない限り当てはまらないってことだよな」

「うん。四葉のクローバーはなかでも意味が多かったはず」

 クローバー ──白詰草自体がそもそも意味を持っていて(通常の白詰草は葉が三枚で、一枚一枚に意味があり)、
 四つ目の葉が"幸福"を示す葉、おそらく四葉の希少さと掛けてそう言われている、というのが一般的な解釈だろう。
 昔聴いた曲で、"一枚は希望、一枚は信仰、一枚は愛、残る一枚は幸福"とも歌われていた。

 彼の言う十字架に見立てているという説もどこかで目にしたことはあるが、
 キリスト教ならどちらかと言えば三葉の三位一体の方が近いのではないかと思う。

「幸運と別にあるんだ」

「"約束"とか"復讐"とかね」

「そっか……それは言われないと分かんないわ」

「ね」

 交わした"約束"が守られる、すなわち"幸福"、
 破られる、反転して"復讐"、
 というのはちょっと無理矢理かな。連想ゲームではないし。

 肝心要の"約束"の内容については、また別の意味があったはずだ。


 そこで、彼に好きな花を訊ねようとした理由を思い出す。
 私個人の花言葉に対する考えは抜きにして、物語の補助道具として花言葉を用いた。
 別にあってもなくても構わない。章の内容と乖離はしていないが、すべて後付けだ。

 まだ書けていない──これから書くつもりでいる──最後の章に付けるに相応しい花。
 前の章を書き終えた時点ではそれを君子蘭にしようと考えていた。
 一番好きな花であるのは勿論、私が大まかにイメージしていた内容にも合致している。

 ただ、ここまでの章に使ってきた花に込めた意味は、どこかで調べれば簡単に出てくるものにしていた。
 となると、君子蘭では少し分かりづらくなってしまう。私が観て感じた意味と調べた意味が違っていたから。

 意味が通る花で、かつ好みのものは出し尽くしてしまった。
 でも意味から逆引きして探すのは白々しいから──だから参考にしようかと訊いたんだった。

「そろそろ戻ろっか」と言うと、未来くんは「ああ」と時計で時間を見ながら頷いた。

 秋桜、紫のアネモネ、四葉のクローバー。
 彼らしいな、と思う。

 ありがとう、と心のなかで呟く。
 眠気覚ましもだけど、彼と話をしていろいろ整理できた。

 今は、続きをはやく描かないと。

今回の投下は以上です。

前作見直そうと思ったらブログが消えてる…


【疑念】

 佑希の話は、俺が前提を見誤ってたとはいえ概ね納得のいくものだった。

 俺は佑希を妹として見られずに──同時に奈雨を妹のように思いたくて──二人に対してぶしつけな態度を取り続けていた。

 二人の確執は俺が原因だ、と個々の事象のみを考えた場合言ってしまえるだろう。

 けれど佑希は"俺が悪い"ではなく"奈雨が悪い"と言った。
 そして、"同じはずなのに"、"結局はそうなっていた"と続けた。

 奈雨と俺の関係についても、"付き合っているならいい"と言っていた。

 ひとつひとつの事象を切り離して考えるのではなくすべてをひとつの流れとして捉えたとき、それらを無条件に信じてしまっていいのだろうか?
 ただでさえ俺たちは同い年であるのに、そこまでして妹という場所にこだわる必要はあるのだろうか?
 俺に突き放してほしかった理由は何だったのだろうか? 普通に甘えたかったのなら何をそこまで気にしていたのだろうか?

 俺の人との接し方では、何かを推察するところまではできても最終的な結論に至ることはない。
 実際に自分が見聞きした内容でしか判断を下せないことは勿論のこと、大きな見落としがあったとしても気が付けないから。

『もしも』の可能性は内に留めておくべきものであり、迂闊に外へさらすべきではない。
 一番近くにいると思っていた人でさえ全く見通せていなかったのに、ましてや他人に手前勝手な想像を押しつけるわけにはいかない。


 でも、それでもまだ彼女の語っていない、もしくは嘘をついている何かがあると思ってしまってならない。

 佑希は俺と目を合わせるのを嫌がった。
 俺が優しさを見せた途端、それまでと調子を変えた。

 現状を変えたいと願ったのは、俺だけじゃなく彼女もそうだった。

 これまでの自分なら、どうにかして知ろうとしただろう。
 決して核心部分に触れることなく、何気ない会話の中に含みを持たせて。

 けれど今は彼女から話してほしいな、と思う。
 何かがあったとしても。なかったとしても。

 それは、きっと諦めではない。思考を放棄しているわけでもない。
 今までとは違うのだと、これまでの歪な関係から少しでも変われるのだと思いたい。

 都合の良い側に流されてしまっているとしても、俺はそれを受け入れたい。
 やっと解けかけている糸をまた絡ませてしまいたくないと、ただそれだけのことだ。


【着々と】

 暗幕の張られた教室の入口から、何やら怪しげな台車が顔を覗かせていた。

「これに乗ればいいってこと?」

 と真正面にいるクラス委員長に訊ねると、彼は爽やかな笑みで頷いた。

「そう。なかなか来てくれないから、せっかくだし試運転に付き合ってもらおうかなってね」

 サボっていると暗に言われてしまった気がする。
 ごめん、と平謝りすると、

「あー、いいっていいって。補習とか部活とかいろいろあったんだろ」

 と肩をぺしぺし叩かれる。

 べつに呼ばれれば行ったと思うけど……あんまりこの学校の文化祭のノリが掴めていない。
 ていうか補習かかったのはソラだけで俺は大丈夫だったんだけどな……。


 休日の昼下がりだというのに、この教室以外のそこかしこから様々な音が耳に届いてくる。
 そんな行事に対して本気な人の集まりによく分かっていない俺が入っていってもな、と考えていた。
 決して面倒くさいと思っていたわけではない。

 ……七割くらいそう思っていたというのは隠し通そう。

「ミクちゃんや、ビビっているのが丸見えじゃぞ」

 そんなことを考えつつ台車の方へ目を向けていると、隣からため息混じりで声を掛けられた。

「いやビビってない」

「昔からおぬしはビビりじゃからのう……わしがついてないと心細いじゃろ」

 ほれ、とかなんとか言いながらソラは台車に乗り込む。
 どうせ自分が乗りたいだけだろうな。

「てかおまえそれ何キャラだよ」

「広島弁」

「嘘つけ」

「じゃあ江戸時代の人」

「知らねえよ」


 寝起きだからかソラが相手だからか、対応が雑になっていく。
「出た出た。宇宙人未来人のコント」とその場にいた数人に笑われる。

 ……変なイメージを持たれているな。
 ソラと善くんと、指で数える程の人としか話していないのがここで効いている。

 意外と見られているのも驚きだ。
 まあ、アレか。高入組だからってのもあるか。

 ソラに場所を詰めてもらってから台車に乗り込む。
 俺もソラも特段小柄ってわけではないが、この台車の大きさなら三人まで乗れそうだ。

「よし。スピードは三種類あるけど今回は一番速いのでいくからな。
 あと手すりは絶対離すなよ。めっちゃ揺れて危ないだろうから」

 と簡単な説明を受け終わると、ガテン系のクラスメイト三人(柔道部、ラグビー部、バスケ部)が手袋を嵌めて俺たちの後ろについた。

 せーのっ、という掛け声が掛かり、台車を三人がかりで教室の中へと半ば押し投げるようにして入れる。
 初速だけめちゃくちゃ速いやつか……、と思った通り最初の下り坂を下るスピードを活かして最後まで進んでいくらしい。


 トンネル、緩やかなカーブ、その後はトロッコのようにガタガタと揺らされて教室の出口でうまく停止する。
 道中に配置されたクラスメイトもスピードが出ていれば見ているだけのようだ。店番より楽そう。

「どうだった?」と降りてすぐに感想を求められたので、
「凄い。文化祭レベルじゃないよ」と素直に返答した。

 周りからは嬉しそうな声が上がる。
 出来について自信はあったものの、それを内輪で評価するのは適切ではないと考えていたらしい。

「俺たちにもっと技術があればネプリーグみたいにしたかったんだけどな」

「トロッコのやつ?」

「そうそう。クイズに答えて一攫千金的なやつ」

「でもあれジェットコースターじゃなくね」

「うん。まあ、アトラクション部門で一番取るにはあれくらいしないとなって、夢みたいな話」

 そんな賞もあったのか、初めて聞いた。


 告示プリントに書いてあったものでそれらしいのは、
 お化け屋敷(定番)、コーヒーカップ(どう造るんだろう)、脱出ゲーム(謎解きだろうか)
 のあたりか。他にもあるだろう。

 クオリティよりもどれくらい楽しめたか──つまり満足度で票が分かれそうだ。
 となると、短時間で終わってしまうジェットコースターは弱いか。

 時間的に長いものを創ると、内容云々よりもその長さだけで満足してくれる人は少なくない。
 それでは投票してください、と言われて真っ先に思い浮かぶのは時間をかけたものに違いない。

 短いなら、ごまかしが利かない分クオリティを追求するしかない。
 長くてクオリティの高いものは一朝一夕で創れるものではない。文化祭には不向きだろう。
 時間をかければ良いものができるとは言わないが、長いものを創るならそれ相応に時間をかけるべきだ。

 創作物の作者性は細部に宿る、と誰かがそんなことを言っていた。


「乗っててどっか気になったところはあった?」

 問われて、乗った時の様子の思い返してみる。

「中は今みたいに暗いままなの?」

「いや、洞窟風にするから電球色のライトを何個か置くつもり、
 台車もこれから色を塗ったり飾り付けしたりするかな……他には?」

 おまえからはないの? ともう一度乗りに行こうとしているソラに視線を飛ばす。
 大満足でございますよー、と近くの人とハイタッチをし始めたので、「ないよ」と俺は首を横に振った。

「じゃあ、これからも今日明日と完成度上げるようにやってるから、暇な時間ができたら乗りにきてくれな」

 そう言って、クラス委員長の彼はもう一度爽やかに笑った。


【癖】

「どうだ、楽しめてるか?」

 部室の前の柱にもたれかかりながら、ソラはそんな質問を俺に向けて言い放った。
 何のことをさして言っているのか分からず答えずにいると、

「質問が悪いか……。うんと、最近楽しいか? とかそんな感じだ」

 と彼はまたしても抽象的で分かりにくいままニュアンスだけを変えて問い掛けてきた。

「さっきのジェットコースターのこと?」

「いんや、それも含めていろいろと、だな」

「うーん、べつにこれまでと変わりはないけど。……あ、もしかしてめっちゃつまんなそうにしてたとか?」

「いや、おまえそういうのあんま表に出さないし」

「……」

 顔に出やすい、とよく言われるし、
 なかでもソラが一番言ってきていた気がするのだが。


「でも勝手に決めつけると怒るだろ」

「……そうか?」

「ああ。そういうことでイラついてる時は口数が増える」

「マジか」

「おまえ自体分かりづらいけど、付き合いも短くはないから癖っぽいのはいくつか分かるんだよ」

「うそつけ」

「まあ善くんはちっとも分かんないって言ってたから、俺の愛の為せる業かもしれないけどな」

「……」

 愛かどうかは置いといて、そんなこと初めて言われた。普通にショックだった。

「でも、なんつーの? そういうの分かんない人たちからすれば、
 ミステリアスっつーか、飄々としてるのに実は何でもできるやつみたいな、そんな感じに映るらしいぞ」

「いきなりどうした?」と言うと、じとっとした目で「まあ聞けよ」と制される。


「勉強も運動もそこそこできるし、容姿だって童顔を中性的って言えば聞こえは良い。
 あんま話さないうちはちょっと近寄りがたいけど、会話の端々で面白いこと言うから話せば人好きのするタイプだ」

「さっきのあいつらも、おまえと仲良くなりたいんだってよ」と彼はけらけら笑う。

「……それならそうと言ってくれれば」

「いや言えねーよ。高校入ってからのおまえ近寄るなオーラ出しまくってるし、何か話を振っても広げようとしないし」

「そうかな」

「そうだ。そう言われた」

「誰に?」

「いろんな人に」

 そんなことあるのだろうか、と半信半疑で彼の様子を窺ったのだが、どうにも嘘をついている気配は感じ取れない。
 自分から話しかけない上にとりあえず聞き手に回ろうとしていることをだいぶ曲解されている気がする。


 したところで身にならない話は聞いている側からすれば苦痛になりかねない。
 何か他人に誇れるものや知識量が豊富なものでもあれば、それについて語ることはできるかもしれない。

 ただ、それだって実際のところ難しい。
 人付き合いなんてそんなもんだろと思ってしまうのは簡単だけれど、境界を探りながら会話を続けるくらいなら最初から自分の話をしなければいい。

 意味のないことをさも意味ありげに話すのには、どうしても苦手意識を持ってしまう。

「そういえば、アオイちゃんって未来のこと好きだったらしいよ」

 いきなり何を言い出すんだと反応せずにいると、ソラは、

「あ、好きっていうか気になってるくらいだったと思うわ、たぶん」

 と顎に手を当てながら首をかしげる。

 アオイちゃん……と頭を巡らせる。
 葵、蒼井、あおい、まず名字なのか名前なのか。

「えっと、誰だっけ?」

 少し考えても浮かびそうになかったので訊ね返すと、「本気で言ってる?」と信じられないものを見たかのような呆れ顔をされる。


「え、なに。俺と関わりある人?」

「関わりも何も同じクラスだぞ」

「いやだから俺クラスの人とそんな話さないって。さっきまでそういう話してたじゃん」

「まあ、たしかに。でも結構目立つ子だし、佑希ちゃんと部活一緒だよ」

 陸上部。女子部員多い。

「ていうか、おまえと席隣なはずだけど」

「え?」

「コミュ英の読み合わせとかペアでやってない? こう、身長高めでショートカットの」

 あー……、と。
 そこまで言われればさすがに分かる(めっちゃ遅い)。

「川内さんか」

 普通に隣の席の子だった。


「そうそう。川内アオイちゃん」

「名字かフルネームで言ってよ」

「みんなアオイちゃんアオイちゃん言ってるから伝わると思った」

「……まあ、そんな気も」

「だろ? んでそのアオイちゃんにちょっと前に『どうやったら未来くんとそんな仲良くなれるのー』って訊かれたわけよ」

 そういえば、川内さんはうちのクラスでは珍しく普通に名前で呼んでくる人だったな。
 あだ名長いから未来くんでいい? って訊かれたはずだ。文字数同じじゃね、と思った気がしなくもない。

「それはアレだろ。あの人めっちゃ社交的だから、クラス全員と仲良くなりたい的なサムシングだろ」

「『未来くんって好きな人いるのかな?』とか『授業中の眠たそうな顔がめっちゃタイプ』とか言ってたけど」

「ソラ、嘘は良くない」

「嘘じゃねーって。嘘つく必要がどこにある」

 そう言われてしまうと何一つ思い浮かばないとはいえ、
 気になって"た"と過去のことなら多かれ少なかれ気まずくなりそうだから言わないでいてほしかった。


「川内さんからの質問にはなんて答えたの?」

 話を終わらせてもよかったのだが、なんとなく悪い予感がしてそう訊いてみると、

「んー、……ははは」

 と、案の定俺から目を逸らしてごまかし笑いをした。

「変なこと言ってないよな?」

「言ってない言ってない」

「本当に?」

「……ごめんちょっと言ったわ」

「おい」

 俺がため息をつくと、彼は少しだけ申し訳なさそうな顔をした。

「いやさ、善くんと二人でいるときに話しかけられたからさ、
 その場のノリみたいな感じで『あいつは妹ラブなシスコンだから好きな人はいないと思うよ』って言ったんだよ」

「……はあ。そしたら?」

「『そっか……佑希ちゃんなら仕方ないかー』って」


「まて。どうしてそうなる」

「それな。俺もめっちゃ驚いたわ」

 彼の声音がいつもの調子に戻る。

「でも正直おまえがシスコンなのは間違ってないから弁解する必要はなかっただろ?」

「いやあるだろ」

「なら俺が『好きな人はいないと思うよ』ってそれだけを言ってたとしたら面倒そうじゃん」

「……」

 悔しいけど一切否定できない。

「それとなく訊いてみようかなとも思ったけど、おまえそういうの妖怪並に察しがいいし、
 本気で好かれでもしたらめちゃくちゃ気にしそうだなって、いろいろとそれどころじゃなさそうだったから」

「そうか」

「おう。……まあ、勝手なこと言ったのはごめん」

「ああ。……うん、べつにいいよ」

 ありえないだろうけど、好きでもない相手に好かれたら困るというのは事実だった。


「あとはなんつーか、おまえはまず恋愛に興味ないんじゃないかと俺と善くんは考えてだな……」

「……」

「でもまあ、結果的には違ったわけだ」

 そうか。今までの話は前置きか。

 ……いや、気になるのは分かる。
 俺が同じ立場だったらかなり気になる。

「奈雨のこと?」

 先手を打って言うと、彼はうんうんと小刻みに頷いた。

「まさか俺たちが知らないところに好きな子がいたなんて……しかもめっちゃかわいい子ときた」

「訊かれてないのに自分から言う必要はないだろ」

「興味ないですーって顔をしてるおまえが悪い」

「いやそれは知らねえよ」


 ただ軽口に軽口を返したつもりだったのだが、
 ソラは笑みを浮かべるでも頷くでもなくじっとこちらを見て、

「そうか。つまりあの子以外に興味がないってことだな」

 と大真面目な顔で言った。

「あれ? 違う?」

 おそらく俺がものすごく呆気にとられたよ顔をしたからだろう、彼は戸惑ったように目をぱちくりさせる。
 自信がないなら(それに適当なことなら)言わない方がいいのに、と思ったが、その推測は違うことなく的を射ていた。

 俺は、少し迷って、

「うん。まあ、そうかな」

 と答えた。否定するのは彼女に対して嘘をついているようで嫌に感じてしまった。

「好きで好きでたまらないわけか」

「好きで好きでたまらないわけではないけど好きだよ」

 なんだこの会話。


 てっきりしてやったりとでも言いたげな表情をされるだろうと踏んでいたのだが、彼は柔和に笑うだけだった。
 そんな顔をされては何も言い返せず、僅かながら気恥ずかしくなるような沈黙が落ちる。

「……で、話は戻るけど、最近楽しいのか?」

「今の話と関係ある?」

「あることはある。じゃなきゃこんなこと訊かない」

 最近、という言葉がどの範囲を指しているのかは分からないが、
 今年──高校入学以降、もっと狭めれば夏休みが終わってからだろうか。

「ソラから見てそんなにつまんなさそうに見える?」

「まあ、部分的にはそう」

 ランプの魔神かよ。まあいい。

「でもあの子はおまえが最近楽しそうにしてるって言ってたわけよ」

「あの子って、奈雨が?」

「うん。詳しくは言ってなかったけど、それが嬉しいんだって」

 俺はあんまり変わってないと思ってたんだけどな、と続けた彼の表情は心なしか固かった。


 昨夜部室を空けた際に奈雨と三人が話をしたというのは知っている。
 共通の話題といえば俺のことくらいなもので、東雲さんも言っていたが結構ノリノリで話していたらしい。

「変わってないと思うよ、俺も」

 当初の答えをそのまま変えることなく言う。
 変わっていない。人間そうそう変わらない。変わるとしたら表層的なところだ。

「奈雨とは今年になって会う機会が増えて……だからじゃないかな」

 ここ数年はつまらなさそうにしている姿を見られていたと思う。
 お互い避けていた、というか、俺の場合楽しさよりも自己嫌悪が勝ってしまっていた。

 今だって二人でいても彼女が何を考えているかは分からない。
 考えようとしていないのもあるが、会うたびころころ変わる態度に混乱している。お互い様だけど。

 ふと昨日と部室に寝泊まりしていた間は求められなかったな、とそんなことが頭に浮かぶ。
 欲求不満なのか、俺。というか会うたび毎回のようにキスしていた状況がまずおかしかったわけで……。

 条件反射、パブロフの犬状態……なぜかものすごく悲しい。
 同時に、彼女の身体に触れる際に感じていた罪悪感がいつのまにか小さくなっていることにも気付く。


 ちゃんとわたしを見てくれるなら──、奈雨はそう言っていた。

 買い出しの帰り道で、話の流れに従ったとはいえ奈雨への好意が恋愛的なものであると告げた。
 それが答えになったのかもしれない。だから、と考えるのはさすがに短絡的だし自惚れすぎか。

 でもこんなことばかり考えていたら、次会ったときに絶対唇を見てしまうと思う。
 そういうふうには──いまさらどうこう言えないとは再三思っているけど──思われたくない。

 これ以上は危険だ、と左右に頭を振ると、

「おい色惚け。妄想してんじゃねえよ」

 と目の前からため息が飛んでくる。

「妄想はしてねえよ」

 回想はした。
 ソラはもう一度、今度は俺に見せつけるようにため息をつく。

「……まあ、その様子だと楽しんでるっぽいな」

「そう?」

「おう。一緒にいて楽しい相手がいるのはいいことだ」


「当たり前だけど、ソラといるときだって楽しいよ」

 何気なくそう口にすると、彼は「うーん」と首を捻りながら呟いて、それからおかしそうに笑った。

「そういうのさ、もっと言ってくれよ」

「楽しいって?」

「ああ」

「そりゃ楽しいよ。言わなくても伝わってるかと思ってた」

 つまらなかったらこんな長い期間付き合いが続くわけないだろうし。

「でもおまえ……そういうときあるだろ。親しき仲にも礼儀ありみたいな」

 言って、彼は気恥ずかしそうに目を逸らす。

 え……、と一瞬考えて、
 なるほど、とすぐに思い至る。


「ごめん」

「いいってことよ。まあ、それさえ心に留めててくれればな」

「……楽しいよ、ふつうに」

「あんま言い過ぎると価値が半減するぞ」

 おまえが言えっていったんだろ、と思ったが、要は使い方か。
 浅く吐息をついてから「そっか」と呟いた俺に、彼は鼻で笑うことで返事をしてくる。

 それから、彼は部室の扉の取っ手に指を掛けて、

「いちゃつくのはいいけどできればほどほどにしてくれ。親友二人が彼女持ちとかメンタルズタボロだから」

 と言いつつ、反対の手の人差し指をこちらに向けて突き出した。
 恨み言のような言葉とは対照的なやさしげな声音に呆気にとられて、俺は軽口のひとつも返すことができなかった。

今回の投下は以上です。

>>86 ブログの使い勝手が悪かったので移転しました。
リンク http://blog.livedoor.jp/vso2a/
ブログには主に短編を載せようと思います。前に書いたものはこれが書き終えてからまとめ直そうと思います。ごめんなさい。

今回の投下は以上です。
あと二回で終わります。


【前日】

「集客用のポスターを描いてもらいます!」

 文化祭まであと一日と迫った放課後、厚紙とマッキーを手に持った先輩が部室全体を見渡してそう言った。

 部室には俺と先輩と、それから東雲さんがいた。
 二人は一昨日から連日夜通しでゲームをしてたらしく、明らかに眠たげな顔つきでいた。

「掲示板に貼ったりするものですか?」

 と訊ねると、当たり前です! とでも言わんばかりに大きく頷きを返される。

「部誌はみんなのおかげで完成しました。それはちゃんとここにあります」

 彼女の指の先、テーブルの上には製本の済まされた部誌が積み重なっている。
 レイアウトは東雲さんが、表紙のイラストは先輩がやってくれたらしい。ここから見ても綺麗に目に映る。

「でも、売れないことにはねえ……」

「まあ、そうですね」


「去年は完売したからさー、なんとなくそんな感じでいけちゃうんじゃないかって思うじゃん?」

 話が長くなると思ったのだろう、東雲さんが噛み殺したようなあくびをした。
 いや俺に言われても知らねえよ……、と思いつつ、とりあえず首を縦に振る。

「それが売れないんだなー、って思うわけですよ、私は」

「はあ」

「白石くんもそらそらくんもシノちゃんも頑張って描いてくれて、手に取ってくれれば、こりゃすげえ! ってなること間違いないの。
 けどね、ここのフロアまで足を運んでくれる人ってそんなにいないの。……てか全然いないのよ、悲しいことに」

「あ……はい」

 たしかに。

 いつだか読んだ文化祭パンフレットに書かれていた通り、大抵の部活は高校棟の教室を使用するらしく、
 こっちを使うのは文化系の、それもごく一部の部活だけで、校舎全体が閑散としてしまうのは容易に納得がいく。

 許可を取れば向こうの教室を借りることもできたはずだが、まあ忘れていたか気にしてなかったかのどちらかだな。
 極力もともと割り当てられた教室を使いなさいと指示が出ていた可能性もあるけれど。


「この教室に連れて来さえすれば無言の圧力で勝ったも同然よ」

「ですね」

 値段も手頃だし場所が場所だし、わざわざ来て帰る人もいないだろう。

「私はもう二枚描いたから、あとの三枚を一人一枚ずつで、ね?」

「ビラじゃ駄目なんですか?」

「うん」

「配るのくらいは大丈夫な気もしますけど」

「ああいうの許可取らないで勝手に配っちゃうと出店禁止にされちゃうんだよ。
 うちの文実結構厳しい……っていうか、当日張り切っちゃうから」

 なんとなく分かる。生徒主体のサガ。
 文実には中等部一年で入るほか中途参加はできないとも風の噂で聞いた。


「東雲さんは?」

 とりあえず俺はいいとして先輩の隣に視線を飛ばすと、彼女は腕を組んでうーんと唸った。

「役割を分担するなら……まあ、いいかな」

「分担?」

「うん。たとえば、部長さんが人や物、私が背景、未来くんが文字デザインとか。
 一人ずつで描いてもいいんだけど、ほら、部誌はずっと個人作業だったなって思って」

 何か一つくらいは共同作業をしてみたいな、と言って彼女は胡依先輩に目を移した。

「シノちゃんの絵に私の絵を乗せるってことね」

「はい」

「……んー、そうだなあ」

「……駄目ですか?」

「いやまあ……」

 てっきり即答で頷くと思ったのだが、先輩の反応は少し薄いように思える。


「べつに駄目ならいいですよ」

「えっと、うーん」

「……」

「……あ、でもそうか。順番的にシノちゃんが描いてるの見てられるってことか。
 そっかそっか、ならいいかも。ていうかむしろ大ありっていうか!」

「……」

「シノちゃんの絵を汚しちゃわないかなとか考えてたけど逆にそれもいいかなって思ってきた」

「……汚すんですか?」

「やだなあ、比喩だよ比喩。推しの妄想をしすぎた時に申し訳なくなるアレとおんなじなの」

「は、はあ……そうですか」

 気のせいか。気のせいだな。
 苦笑いしていると、東雲さんがちらりとこちらを窺ってきた。


「俺もいいよ」

 乗っておくべき、このビッグウェーブに(てきとう)。

「そっか……じゃあ、そうしよう」

「あ、白石くんは私よりも暇になっちゃうかもだよ」

「大丈夫です」

「待っている間はゲームしよっか! エアライドしようエアライド!」

 そう言ってテレビの方へ歩いていこうとする先輩を、

「あの、真面目にやりましょう」

 と東雲さんはちょっとだけむっとした声音と表情で言い咎める。

「わかってるわかってるー」

 くるっと向き直した先輩は、そのまま東雲さんに抱きついた。


 うん。
 なんつーか、うん。

「未来くんどうして笑ってるの?」

「ん?」

「いや、あの、笑ってる」

「……あー、仲良いんだなって」

「……そ、そう」

 東雲さんがふいっと目を逸らすのと同時に、胡依先輩は顔だけで振り向き、ふふんと得意げな笑みを浮かべた。

「そうそう。意外と白石くんの責任は重大だからね。ちゃんとお客さんを呼び込める文章を考えなきゃだよ」

「明朝体ごり押しで駄目ですかね」

「いいかもしれない」

「いいんですか」

「刻明朝おすすめだよ」

「はあ」


 図らずも仕事がどんどん楽な方向に吸い寄せられている。
 文章を考える、と言っても部誌一部何円とかしか書くことがないだろうし。

「当日って売るだけなんですか?」

 そう考えてしまうと、ほかに何かすることはないだろうかと思考が及ぶ。

「どうして?」

「部誌を売ります、ってだけだと情報量が少なすぎるかなって。
 あとはここの部室の場所と部の名前くらいしか書けないですし」

 たしかにそうかも、と先輩は頷く。

「でも、たとえば?」

「たとえば……えっと、そうですね。
 お題とか好きなキャラクターを言ってもらって、描いて渡すとか」

「スケブみたいに?」

「そんな感じです。やれることって限られてると思うので」


「即興かー。私はそれでもいいけど、白石くんはできる?」

「やっぱ難しいですかね?」

「イチからってなると難しいと思うよ」

「ですよね」

「でもまあ、いいんじゃない。書けることが多いに越したことはないし」

「わかりました」

「それに、リクエストがなくても当日暇なら一人で勝手に描いてるだろうから変わんないよ」

 書いちゃっておっけーだよ、と先輩は再度頷いた。

「じゃあ、各自作業に入りますか」

「うん。そいじゃがんばろー」

「がんばりましょう」という東雲さんの声とともに、ポスターの制作作業が始まった。


【前夜】

 夕飯時を少し過ぎたあたりで家に帰ると、奈雨がリビングのソファにもたれかかっていた。

「ただいま」と声を掛けると「おかえりなさい」と心なしか眠たげな返事が返ってくる。
 キッチンにはラップのかけられた一食分の食事が置いてあり、それを持ってダイニングテーブルにつく。

「佑希は?」

「ん、あれ、聞いてない?」

「なにを」

「部活の友達の家に泊まりに行くって」

「聞いてない」

「わたしは今日の朝に言われた」

「そっか。……え、佑希が?」

「うん」と彼女はなんでもないように頷く。


「話しかけてくるし、なんかやたらと」

「……」

「まあ気にしたら負けだと思うよ、こういうのは」

 よいしょっ、と口に出しながら彼女は立ち上がり、俺のすぐ向かいに腰を下ろす。

「今日も部活だったの?」

「うん」

「たいへん」

「まあ、それなりに」

 原稿を提出してから、ほぼ初めてのちゃんとした部活だった。
 文化祭が終われば、またここ数日のようになるのだろうと思う。忙しい方が珍しい。

「そういえば」と奈雨は何かを思い出したようにはにかむ。

「お兄ちゃんの部活の先輩ってやさしい人しかいないよね」


「そう?」

「すごく話しかけてもらえた」

「よかったな」

「……あ、それと入部しないかって」

 そうだ、すっかり忘れてた。
 部員……東雲さんは入るとして、それで四人。あと一人必要だ。

「奈雨が入りたいならいいと思うけど」

「お兄ちゃんはいいの?」

「いいって、何が?」

「なんていうか、その……わたしがいても邪魔に思わない?」

 真剣な表情で、奈雨はまっすぐにこちらを見る。
 どうして、と言いかけて、訊いても仕方ないのではないかと俺は首を横に振った。

「思わないよ」


「ほんと?」

 窺うような問いに、「うん」と目を見て頷く。
 すると、数秒した後に、彼女は「そっか」と呟き、頬を緩ませた。

「お兄ちゃんはわたしに入ってほしいのね。わかったわかった」

「そうなるのか」

「え? 入ってほしいんでしょ?」

「……」

「ちがうの?」

 なんだろう、この恥ずかしいことを言わせたがってる感は。
 ……まあ奈雨らしいと言えばそうだけど。心のどこかがくすぐられたのか嬉しそうだし。

「俺がとか以前に奈雨が入りたいならな。……ま、なんつーか、入ってくれたら嬉しいけどな」

「お兄ちゃん微妙に素直じゃない」

「じゃあなんて言えばいいんだよ」


「『放課後も一緒にいたいから部活も同じがいい』とか?」

「放課後も一緒にいたいから部活も同じがいい」

「うわあ、まったく心がこもってない」

 手をぽんぽんと打ち鳴らしつつ、奈雨はけらけら笑う。
 それから少し気分が良くなったようで、うーんと伸びをしてから小首をかしげた。

「わたしの作ったご飯はおいしいかー」

「おいしいよ」

「この前みたいに勝手に食材使わせてもらったから、かなり簡単なものだけどね」

 そう言いつつもきちんと一汁三菜(ひとつは出来合のものだけど)が用意されてるあたり、
 普通に料理を知ってるというか、いつもちゃんと栄養周りを気にした食生活をしているのだと思わされる。

 伯母さんがかなり料理上手な人だから、あの母にしてこの娘あり、という感じだ。


「今月だけでお兄ちゃんに二度も手料理を振る舞っちゃった……」

「じゃあ今度お返しに何か作ろうか?」

「え、ほんと? ……でもわたしよりお兄ちゃん料理上手じゃん」

「そんなことないよ」

「なくない。見てて手際がちがう気がする」

「……」

「まあそういう料理が上手なとこもお兄ちゃんのいいとこなんだけどね」

「……はあ」

 反応に困る俺に対して、わざとらしいため息をついて、

「女たるもの、男の人の胃袋は確実に掴んでおきたいのですよ」

 顎に手をやり、ちらとこちらを見てから、

「……がんばろ。もっと練習しよ」

 と彼女はぼそりと呟いた。


【夜更かし】

 ここ数日のように、日付を回って少し経ってから自室へと足を運んだ。

 ベッドは奈雨が使っているはずで、俺はその下──床の布団で寝るつもりでいたのだが、
 彼女の姿はそのどちらにもなく、部屋の電気を入れようとリモコンへ手を伸ばしたときに、ぬるくも冷えた風が足下に伝わる。

 出処である窓へと目を向けると、ひらひらとレースカーテンが揺れていて、
 薄着の肌に若干の寒さを感じながらも近付く。なぜか足音を立てないように。

 外を覗くと、ベランダのデッキチェアに寄りかかり、眠っているように目を閉じる彼女の顔がはっきりと見える。
 耳を澄ますとゆったりとしたメロディが聴こえる。どうやら鼻歌を歌っているらしい。

「風邪引くよ」

 声を掛けると、彼女は首だけをこちらに向けて「うん」と頷く。
 僅かに間をあけて、すぐ隣のデッキチェアの背もたれをぽんと叩いて、

「さっき出たばかりだから、大丈夫」

 と俺も外に出るように促してきた。


「眠れなかったの?」

「うん」

「……緊張?」

 問いつつ、彼女の隣に腰を下ろす。
 近いようで近くない距離。ちょっとだけ身体を彼女の方へ近付ける。

「そうじゃないって言いたいけど、多分そうかな」

「そっか」

「うん」

「よく緊張するんだっけ?」

「わたし?」

「そう」

「するする。めっちゃする」

 学校のテストの時とか、初対面の人と話す時とか、と言って奈雨は笑う。


「練習はたくさんしたけど、本番は本番だから……ね?」

「うん」

「お兄ちゃんはそういう時でも緊張しなさそうだよね」

「そう?」

「なんとなく、そんな気がする」

「じゃあそうしておこう」

「あはは、なにそれ」

 軽快な声とともに彼女の髪が風でなびく。
 ふわりと香る匂いに吸い寄せられるように、また少し近付く。

 何か話したいことがあったはずで、でも、それは今でなくてもいいのかもしれない。
 明日は文化祭で、クラス展示当日だ。

 肘掛けに置かれている彼女の手にそっと自分の手を重ねる。


「なに?」

「緊張。少しでも取れたらいいと思って」

「ふふっ……そーかそーか」

 奈雨は触れあっている手を軸にして向き直り、俺を見上げる。
 んっ、と息を呑む音がしたかと思えば、それからすぐに気を取り直すような吐息が聞こえた。

「あのさ、お兄ちゃん」

「ん?」

「ちょっとだけ、昔の話、してもいい?」

 俺は彼女と目を合わせて、首だけで頷きを返した。

「……あのときのこと、ずっと言わなきゃなって、思ってて」

「うん」

「あの頃のわたしは……ううん、ちがう。今でも、少しだけそうなんだけど……」

 ──人の視線が怖かったんだ、と彼女は途切れ途切れに言う。


「わたしの周りの人はみんなやさしいし、すごく恵まれてるのもわかってる。
 学校に行けば話しかけてくれる友達がいて、家に帰れば気に掛けてくれる家族がいて……でも、それでもわたしはわからなかった」

「……なにを?」

「……自分が周りの人にどう振る舞えばいいのか、とか」

「……」

「自分じゃない誰かの期待通りに振る舞うしかなかった。人に好かれるための行動はしなきゃいけないことだとも思ってた。
 人のことがわからないならわからないなりに、そういう折り合いをつけるしかないんだって考えてた」

 お母さんとお父さんに心配をかけたくなくて、作りたくない友達を作ったり、外に遊びに行ったり、
 誰かひとりにでも嫌われるのが怖いから、関わる人みんなに愛想よく接して、自分なんて持たないようにして。


「そんな毎日のなかで一番つらい時間は、夜にベッドに横になって真っ暗な天井を見上げて、
 今日のわたしは上手くできてたかな、誰にも迷惑かけてないかな、ちゃんと笑顔を作れてたかな、って一日を振り返る時だった」

「……うん」

「だからかな。いつのまにか、わたしは寝ることが怖くなったの」

 いくら悩んだところで、朝起きれば学校に行かなくちゃならなくて、また気を張らなきゃいけなくて、
 でも、眠らなければ、ずっと自分の部屋に閉じこもっていれば、わたしはわたしのままでいられる。

 ほんとうの、ただ弱いだけのわたしなんて誰も受け入れてくれないし、求められもしない。
 だから──夜になると、明日への不安で押しつぶされそうになって、目を、閉じられなくなって。


「……お兄ちゃん。あのときわたしが言ったこと、覚えてる?」

 訥々と続けてきた言葉を止め、彼女は小さく首をかしげる。
 ほのかな微笑は強がっているのだろう、手にかかる力がほんの少し強くなる。

「こんなふうに二人で夜に話したことだよな」

「……うん。そうだよ」

 彼女からの返答に安堵のようなものを感じつつも、一呼吸置いて、

「覚えてるよ」

 と口にした。

 あのとき──俺が、奈雨の家に泊まったときのこと。

 彼女の様子は思っていたよりも普通だった。
 それこそ、学校に行けなくなってしまったとは信じられないくらいに。

 ただ、今の話を聞くと一つ合点がいくことがある。
 夜になって、奈雨は俺に『一緒に寝てほしい』とお願いをしてきたはずだ。

 今にも泣き出してしまいそうな表情で俺の寝ていた部屋に来て、
 怖い夢でも見たの? と訊ねたら、ただ曖昧に頷くだけで、何も答えてはくれなくて。


「じゃあ、お願いも……覚えてる?」

「うん。……覚えてるよ」

「……そっか。よかった」

「……うん」

「……いちおう、何て言ったか訊いてもいい?」

 最後の確認だとばかりに、奈雨はそう言って俺の表情を窺う。
 覚えてないだろうと思われていたのかしれない。俺の今までの態度と照らし合わせれば、そうなってしまっていても不思議ではない。

 俺も奈雨に対してそういうことを考えていたから、どこかのタイミングで訊いてしまいたいと思っていた。
 でも、それは出来なかった。俺から見た奈雨は十分強くなっていて、そんなお願いなんて無効だと勝手に諦めていた。

 言われたこと自体は鮮明に覚えている。一人で何度も思い返していたから。


 ──もし、わたしが"みー"に追いついたらさ。

 自分の言ったことは何一つとして覚えていない。
 気の利いたことを言ったかもしれない。言わなかったかもしれない。

 半ば自戒のような言葉を彼女に投げかけて、
 結果的にそれを押しつけてしまっていたかもしれない。

 ──そのときは、わたしと……。

 でも奈雨は「ありがとう」と頷いてくれた。

「"またこういう風に二人で話してほしい"」

 今は自信がないけど、そのときはきっと言えるから、って。
 だから、わたしが自信を持てるまで待っててほしい、って。

「……」

「……間違ってる?」

「ううん、合ってる。合ってるよ」

 覚えてくれてたことが嬉しいの、と彼女は本当に嬉しそうに笑う。


「わたし、もう言えるよ。お兄ちゃんに言いたかったこと、ちゃんと言えるよ」

「……」

「まだちょっとだけ怖さはあるし、それはなくそうとしてなくせるものじゃない。
 あのときよりは怖くなくなった、って証明をするのも難しいことなんだと思う」

 だからさ、と彼女は言葉を繋いで、

「明日、わたしのことをちゃんと見ててほしい」

 俺がどんなことを考えてるかをわかった上で、奈雨はそう言っているのだと思う。
 誰かと何かを比べれば答えは簡単に出る。でも、そんな答えはすぐになくなってしまう。

 きっと奈雨が比べたいのは"過去の自分"だ。
 だって今の自分を認めるには、それ以外の手段なんてないのだから。

「わかった」と俺は頷いた。

「ちゃんと見てるから」

「……うん」


 まだ話をしたい気持ちもなくはなかったけれど、さすがにもう遅いし寝ようと、
 文化祭やあれこれについて二、三やり取りをしてから室内に戻ることにした。

 話しているうちに自然と奈雨の手のひらは上を向いていて、しっかり俺の手をとらえていた。
 繋いでしまうと離したくなくなるのはいつものこと。それは奈雨も同じようで、ベッドに乗ると俺の手をぐいと引いてきた。

 今更ながら逡巡する俺に「わたしの緊張をほぐしてくれるんじゃなかったの?」と言った奈雨の顔は暗闇で見えなくて、
 売り言葉には買い言葉だろうと「そっちの方が余計緊張するんじゃない?」と返すと拗ねたような声とともに手を引く力が強くなった。
 俺はさして抵抗しなかった。

「そういえば……」

 と横向きで向かい合ったまま、奈雨は口を開く。

「お兄ちゃんって寝相いいよね」


「奈雨が悪いだけだと思うよ」

「なにしても基本起きないし」

「……何かしたの?」

「してないです」

 なぜ敬語。
 まあいいけど。

「うつ伏せで寝る人よりも仰向けで寝る人の方が独占欲が強いんだってさ」

「ふうん」

「つまりお兄ちゃんは強めってことだね」

「奈雨だってそうだろ」

 今は話をしているから正面を向き合ってるけど、寝るときはどうせ仰向けになるだろうし。
 ……と思っていたのだが、

「わたしは──」

 と奈雨はくすっと笑って、俺の足に自分の足を絡めてきた。


「横向きで何かを抱いて寝る人が一番すごいんだってさ」

「あ、そう」

「……てことで、はい」

「なに」

「……」

 手が離れて、そのまま首元に手をまわされる。
 仕方ないか、と俺も腰の辺りに腕をまわす。

 顔が触れそうなほどに近い。というか触れてる。

「じゃ、じゃあ……おやすみなさい」

 やってみたらやってみたで恥ずかしかったのか、奈雨は声を小さくしながら目を瞑った。
 なんだよ、と指摘してみたい気持ちもあったが、俺だって普通に──いや普通以上に気恥ずかしいわけで。

「おやすみ。また明日」

 と隣で寝るのには少しだけ不釣り合いなような言葉を返して、俺も目を閉じることにした。

今回の投下は以上です。
もしかしたら次で終わらないかもしれません。


【文化祭 1ー1】

 文化祭は想像以上の賑わいを見せていた。
 生徒が盛り上がるのはもちろんのこと、お客さんもみんなテンションが高い。

 教室の入口付近に設置している受付の椅子に座って人を捌きながら、広い廊下を先の方まで見渡してみる。

 制服姿の中学生、他校の高校生、子供連れの家族、とりあえずいろいろな人がいる。
 他のところと若干時期をずらしているのはこのためだろう。こんなに人が来るなんて思いもしなかった。

 俺に課せられた仕事は簡単で、パンフレットにスタンプを押し、気持ち程度のお金を受け取り入口に向かって「どうぞ」だのと言うだけ。
 アトラクションでお金って取るのか……と少し考えたが、うちのクラスはお代はお客さん自身に決めてもらうという形をとっていた。
 となると無料でもいいのだが、まあ、律儀に五十円から百円くらいはみんな払ってくれている。中には千円札を入れてきた人もいた。

 全部でどのくらい入っているだろうかと箱の中身を見ようとしたところで、ビラ配りへと駆り出されていたソラが戻ってきた。

「どうよ、お客さん入ってるか」

「まあぼちぼち」

「そっか。あ、店番代わろうか?」

「なんで?」

「……ん、あの子とは?」

「奈雨は今ステージにいるはず」

 腕時計を確認する──十時過ぎ。
 午前の部が始まる時刻はもうすぐだろうか。


「あー、そういやそうだったな。おまえ見に行かないの?」

「来るなら午後に来てくれって言われたから」

「体育館今でもめっちゃ混んでたぞ」

「ステージ人気らしいね」

「じゃあ俺遊んできていい?」

「なぜそうなる」

「え、だめ?」

「いやいいけど」

 特にすることもないが、ここにいてもそれは変わらない。
 一人であちこちをうろちょろするよりはクラスに貢献した方がいいだろう。

 何か昼飯買ってきてやるよ! などと言って足早に去っていくソラの後ろ姿を見送り、
 手元のパンフレットを広げ、近くの階の模擬店と、それからステージの予定表を確認する。

 午後の部の一回目は……十三時半からか。
 こういうときの待ち時間は決まって時間が長く感じる。世の定め(なんだそれ)。

 そういえば東雲さんと胡依先輩はどうしているんだろう、とぼんやり考えていると、次のお客さんがやってきた。


【文化祭 1ー2】

 耳に届く賑やかな声も、漂う美味しそうな匂いも、この部室の中ではどこか遠いものに感じられる。
 文化祭は始まった。けれど、何もすることがなければ実感はやってこないらしい。

「私たちもどこか行きますか?」

 ためしにすぐ近くで死人のような寝方をしている彼女にそう声を掛けてみると、

「ねむい」

 とただ一言だけが返ってきた。目を向けてすらくれないのだから本当に眠いようだ。 

 立ち上がり、窓辺に身を寄せ、手持ち無沙汰をあらわすようにため息をつく。
 クラスの方も、べつに私が出ても出てなくても変わらないし、すすんで行きたくもない。

 だから部長さんがここから動きたくないなら、私も同じように動かないのが一番かもしれない。



 けどまあ、

「どこか行きましょうよ」

 とは言っても、私だって少しくらいは楽しみたい。
 高校初の文化祭なのと、それと、楽しませてくれそうな人が近くにいるから。

「んー、クラスの人に会うの気まずい」

「どうしてですか?」

「クラスサボってるからさー、誰かに見つかっちゃうと面目ないしー」

「はあ」

 どうしてもここで寝てたいのかな。ばれないようにもう一度息を吐く。

「そういえば、なうちゃんのクラスが演劇やるらしいですよ」

「え? ……へえ、そうなんだ」

「見に行きませんか?」

「……」

 模擬店に行ってもどうせ二、三店が関の山だろうと長い時間楽しめそうなものを提案したのだが、
 何かを考えるように、部長さんは私から目を背けて少しのあいだ口籠った。


「ちょっとだけ聞いたんですけど、たしか、内容は──」

「わかるよ」

「……え?」

「なうちゃんのクラスがするのは知らなかったけど、どういうものなのかってのは、まあ」

「あー、そうなんですね」

 私が知らないだけで、多分どこかで読んだりしたことがあるものなのだろう。
 文化祭でやるくらいだから結構有名なのかもしれない。この人はそういうの見なそうだけど。

「他にシノちゃんの行きたいところは?」と彼女は言って、ぱんと手を叩く。乗り気になってくれたのだろうか。

「じゃあ、お昼食べに行きますか」

「学食?」

「でも。コンビニでも屋台でもいいですよ」

「パフェとか食べちゃおっか」

「いいですね」

 それまでの気だるげな様子から一転、調子づいたような勢いで彼女は腰を上げた。


【文化祭 1ー3】

「や、この間ぶり」

 お昼時になり客足が疎らになってきた頃に、すぐ近くからそう声が掛かった。
 この声はたしか、と思いつつ顔を上げると、やっぱり秋風さんが立っていた。

「隣いい?」

「どうぞ」

 自然な(自然か?)流れで彼女は俺の隣のパイプ椅子に腰を下ろす。
 そういえば他校の生徒も制服姿が多い。彼女もご多分に漏れず緑のリボンが特徴的な制服を着ている。

「今日は一人で来たの?」

「ううん、友達と。気を遣われたのかいなくなっちゃったけど」

「ああ、善くんと」

「そうそう」


「呼んでこようか? 中にいると思うよ」

「あー……まだいいよ。仕事中でしょ」

 抜けたら連絡するって言ってたし、と。
 それを言ったら俺だって仕事中なんですけど。……まあいいや。

「どこか面白いところとかあった?」

 俺からの質問に、秋風さんは意外そうな顔をした。

「うん。どこも楽しかったよ」

 と彼女は一瞬俺の表情を窺って、

「……ごめん、嘘かも」

 とすぐに翻した。顔が少し強張っている。

「つまらなかったの?」

「いや、えっと……楽しいには楽しいんだけど」

「うん」

「"こんなもん"かなあ、って思っちゃってさ」

「……そっか」

 "こんなもん"、か。


 言わんとしていることがわかるからこそ、軽率な反応は取れない。
 目線が平行なら見える景色も変わるし、考え方が変わればなおさらだ。

「ごめんね。こんなこと言って」

 彼女は苦笑しつつ頬を掻いて、前を通り過ぎていく人たちに目を向けた。

「……この前のことも、ごめんね」

「……いや」

「私、勝手なことばっか言ってたよね」

「そんなことないよ」

 自分で言っておいて、その言葉の白々しさにため息が出る。
 すぐ取り繕おうとするのをやめたいと思ってもなかなか上手くはいかない。最近はいつもそのことを考えている気がする。

「本当のことを言うと──」と、言い訳のように前置きして、

「あながち間違ってもなかったから。全て合ってはいないけど、どちらかといえば……」

「……」


「だから、こっちこそごめん」

「……うん」

 うん、と彼女はまた頷いて、それからどうして自分が謝られてるんだろう、というような顔をした。
 説明するのが筋かと思ったが笑って誤魔化した。これ以上はべつに言わなくたっていいことだ。

「あ、あとね。これソラくんが持ってけって」

 沈黙を埋め合わせるように、彼女はビニール袋を机の上にのせた。
 中にはたこ焼きやら焼きそばやらが入っていた。いかにも文化祭らしい。

「秋風さんも食べる?」

「えっと……いいの?」

「いいよ。どうせソラの奢りだし」

「……じゃあ、ありがたく」と彼女は控えめに笑った。

 あとで、ソラに礼を言っておこう。


【文化祭 1ー4】

 受付の仕事を終え、高校棟の廊下を歩いていると、階段のところに零華の姿を見つけた。
 看板を手に持ちあからさまにぶすっとしていたから、気付かないふりをする。

「ちょっと待ちなさいヘタレ先輩」

 呼び止められる。
 というより付いてこられている。

「ヘタレってなんすか」

「泊まりなのに何もしなかったんですよね」

「……あの場所に立ってなくていいの?」

「サボります」

「はあ」

「奈雨ちゃんを見るために!」

 ふんす! と荒い鼻息を立てる。
 やっぱブレねえなこいつ(呆れ)。

「で、どうなんですか。今のところはBまでとか?」

「古風な言い回しだな」

「そんなことはどうでもいいです」

「あっはい」

 自分で言ったんじゃん。


「奈雨ちゃんわたしに何も教えてくれないんですよ」

「そりゃそうだろ」

「今朝なんか先輩と何か──ナニかあった? って訊いてみたんですよ」

「なぜ言い直す」

「そしたら『ふふふ、どうでしょー』って……。それはそれで表情とかめちゃくちゃときめくんですけど、ぼかされると気になっちゃうじゃないですか。
 ほら、見えそうで見えない女子高生のスカートとか…………ってなに見てるんですか警察に通報しますよ」

「見てねえよ」

「……ま、先輩はわたしに興味ないですもんね」

 歩きながら、彼女は人差し指を突き立てる。
 ふっと呆れ笑いをするように緩んでいた口元は、段々と楽しげなものに変わっていった。


「奈雨にさ、昨日言われたんだよ」

「なんてですか?」

「『わたしのことをちゃんと見ててほしい』って」

「あ、お惚気ですね。もっと聞かせてください」

 ここでいっちょ言っときましょう! と零華はなぜか必死だった。

「言いません」

「どうしてですかー。けちすぎますよ」

「どんなことされるかわかんねえし」

「なっ! そ、そんなやばめなことが……?」

「なにもないです」

 零華になら言えないことでもないけど、なるべく自分の心に留めておきたいと思った。
 なおも不満そうな零華をあしらいつつ校舎の外に出ると、

「あれ。れーちゃん?」

 と、うちの学校の女子生徒が近付いてくる。


「あっ」

「サボり? ダメだよれーちゃん。持ち場に戻らないと」

「えー、だって」

 零華は助けてくれと言わんばかりにちらと俺を見る。
 と、俺の存在に気付いたらしい。目を向けられる。

「……っと、彼氏さん?」

「え」

「ああ、デート中……」

「……ま、まあそんな感じ、かな?」と腕を取られる。

 何やってんだこいつ。深刻なツッコミ不足。
 真面目そうな零華のクラスメイトはふむふむと頷いて、

「ならいいっか。せっかくの文化祭だしね」

 と言って、零華の持っていた看板を受け取った。

「……いや、あの、零華?」

「……えっと、先輩が抵抗しないのが悪いと思います」


「俺が悪いのか」

「いや、ちょっと奈雨ちゃんの気持ちがわかった気がします」

 意味のわからないことを言うとあっさり腕を離して、嘘だという旨を説明しはじめた。

「この人は、わたしの好きな人の好きな人!」

「そうなんだ」

「今からうちのやつ見てくれるらしいから、一緒に行こうとしてたの」

「なるほど」と顎に手をやりながら零華のクラスメイトは言って、

「あ、奈雨ちゃんの、ってことね」

「そうそう」

「ふふ、そっか。わかったわかった。れーちゃんも見てらっしゃい」

 失礼しました、とその子はぺこりと頭を下げてその場から立ち去った。

「零華の好きな人の好きな人で伝わるんだな」

 真偽はともかくとして公然の事実として定着しているらしい。

「あっはい。いつも愛を伝えているので」

「冗談に聞こえないんだが」

「いやいや、わたしはいつだって本気ですからね」

 わたしを見習って先輩もはやく素直になってくださいね、と言って零華はにこりと笑った。


【文化祭 1ー5】

 カーテンの閉め切られた体育館は僅かに暑さが篭っている。
 入場規制がかかるまでではないにしろお客さんはかなり入っていて、椅子に座れず立ち見の人まで出ているくらいだ。

 零華が言うには文化祭中の体育館はずっとこんな感じらしい。
 ステージ部門がうちの文化祭で一番の華ですから、と。たしかに納得できる。

「あ、みーくん。零華ちゃん」

 不意にかけられた言葉とともに、肩に手が置かれる。

「おひさしぶりです」
「こんにちは。奈雨ちゃんのお母さん」

 伯母さんは微笑して、「こんにちは」と俺たち二人の隣に腰を下ろす。

「こんなに良い席取っててくれるなんて。ありがとね、零華ちゃん」

「いえいえ。奈雨ちゃんを間近で見るためですから」


「ふふっ、そうね。……そういえば、身体の方はもう大丈夫なの?」

「はい! おかげさまでもうピンピンしてますよ!」

 ご心配おかけしました、と零華がやや申し訳なさそうに頭を下げる。
 そこで話は一旦終わったようだったが、零華の何について話をしていたのだろうか。

「みーくんも、うちの娘がお世話になりました」

 と、そんなことを考える余裕もなく視線がこちらに向く。

「いろいろ迷惑かけなかった?」

「えっと、はい」

「佑希ちゃんとも?」

「それは、まあ……」

 あることにはあったけれど、結局のところ雨降って地固まったというか。
 佑希が歩み寄ろうとする態度を示した。当の奈雨は、それをあまり受け取りたくはなさそうだったけれど。


 答えあぐねる俺の様子で何かを察したのだろう。
 伯母さんは、うんうん頷きながら頬のあたりを掻いて、

「ちゃんといちゃいちゃしてた?」

 と言った。

「……はい?」

 世界(俺の表情)が凍りつく。

「二人で寝たりした?」

「なんでそうなるんですか」

「えっ、……その、自然な流れ?」

 どういう流れだ。全くもって自然じゃない。

「どうなの、みーくん」

「先輩。どうなんですか」

 心強い味方を得たとでも言いたげな、少し悪戯っぽい声音で零華も質問を重ねる。

「うちの子はぐらかすからさあ」

「ですよね」


「みーくんについて訊くと返事来なくなるのよね」

「あ、わたしもです。めっちゃ話逸らされます」

「もう知ってるんだから今更恥ずかしがってもって感じなのにね」

「わかります」

「でもたいがい顔を赤くするからバレバレなのよね」

「実際それを楽しんでるところはあります」

「あら零華ちゃんお目が高い!」

「ふふふ、ありがとうございます」

 勝手に盛り上がってる。
 内容はかなりひどい。相性は抜群(なんだこの二人)。

「で、どうなの?」

「……いや、えっと、寝はしましたけど」

「けど?」と零華が囃し立ててくる。


「……何もないですよ」

「何もって、その何もとはって話になっちゃうけど」

「やめてください」

「まあ、二人だけのヒミツってことね」

「いや本当に何もないですって」

「……ふうん」と伯母さんは茶化したように笑う。

「怪しいですよね」

「ねー」

「でも素直に照れるなんて先輩も案外かわいいとこありますよね」

「わかるわかる」

 ……。
 もう聞く耳を持たないことにした。


 俺がいくら訊いても答えないとわかってからも二人の会話は尽きなかった。

 話題が急にあちこちに飛ぶ人たちだから半分くらい聞き流していたけれど、
 今からする劇の脚本がオリジナルであることだとか、衣装や小道具作りにかなり凝ったということを言っていた。
 なんでも、その方がポイントが高いんだと。許可を取るのがすんなりいってよかった、とも言っていた。

「あ、始まるみたいですよ」

 と零華が声を上げるとすぐにアナウンスがなされ、追ってブザーが鳴る。

「そうそう。みーくん。これお願いできる?」

 伯母さんから手渡されたのはお高そうなカメラ。

「旦那が撮ってこいってうるさくってさあ」

 ということらしい。

「まあ、みーくんが奈雨を見るのに集中したかったら切っていいからね」

「はあ」

「うちの娘をかわいく撮ってね」とこそっと耳元で囁かれた言葉に、「わたしもほしいです!」と零華が耳ざとく反応した。


【文化祭 1ー6】

 水を打ったような静けさの中で、舞台の幕が上がる。

 ナレーションが終わると同時に、奈雨の演じる少女──「わたし」が舞台上にやってくる。
 緊張をほぐすためなのか、もう演技が始まっているのか、奈雨は衣装の胸のリボンを軽く摘まんで息を吐き、客席に向けて儚げに微笑する。

 目を閉じ、開き、左右に首を巡らせる。
 その視線が、一瞬だけこちらに向けられたように思えた。


 物語は「わたし」のモノローグを中心に展開していく。

 陽の射さない部屋。少しばかり広い屋敷の、以前まで使用人が住んでいた一室に「わたし」は居る。
 家族は「わたし」のことを腫れ物のように扱っていた。
 母と父は彼女を壁一枚隔てたような、他人行儀な振る舞い方をし、たった一人の姉は彼女と関わること自体を避けているようだった。


 前まではこうではなかったんです、と「わたし」は言う。
 そして顔を俯かせ、消え入りそうな声で、

「それがどうしてなのかも、何一つわからないんです」

 彼女は自分を責めた。そうされた理由がわからなくとも、どこか自分に悪いところがあるのだと思って。

 食事の際には、彼女の姿が見えるとすぐにそれまでの談笑が止み、部屋をあとにするとまた楽しげな声が耳に届く。
 休日になると家族は彼女を置いてどこかへ出かけていく。彼女は屋敷で一人過ごす。
 唯一話をしてくれていた人もここから居なくなってしまった。あまり大きいとは言えない部屋には無機質な家具のみが残っている。

 長期的にそんな状態が続けば、家族の一挙一動に対して恐怖に似た感情を抱くことになる。
 食事も外出も何もかもを一人でするようになる。頼れる誰かなどいないのだから。

 家族に笑っていて欲しい、というのは建前で、本心ではただ辛いだけだった。でも、そうすることが最善だと思わざるを得なかった。

 毎日夜が更けてくると、「わたし」は椅子に浅く座り、手に持った人形にその日あったことを詳らかに話す。


「こんなことに意味なんてないのかもしれないです。──けれど、こうしていないと怖くてたまらなくなるんです」
「忘れたいことばかりでも、わたしは忘れたくはないんです。何の面白みのないようなことでも、それは変わりません」
「あなたがいたときのこと、わたしはもう覚えていません。楽しかった、という朧気な印象しか残っていません」
「だから──そういうふうになってしまうなら、何もないことよりは、何かがあった方が少しでも救われるんじゃないかって考えてしまうんです」

 だって、そうじゃないと……と「わたし」は人形を強く抱きしめる。

「ほんとうに何もないのなら、……ずっと、目を閉じ、眠っていた方がいいでしょう」
「でも、そんな単純なことではないんです。それは、わたしだってわかっています」
「楽しいことだって、わたしが見つけていないだけであるのかもしれません」
「……ただ、『ある』を指し示す何かすらないのなら、わたしは……わたしなんて──」

 わたしなんて──。

 これ以上言ってはいけないと思ったのか、彼女は口元を手で覆う。
 数秒の沈黙の後、緊張の糸が切れたようにはっと息をつき、そして自嘲を含んだため息をついて、

「……いえ、ここでやめておきましょうか」

 おやすみなさい、と彼女は言う。抱えたものから手を離し、こちらに背を向ける。
 わざとらしい欠伸も、眠たげに目を擦るのも、"本当は眠りたくない"という心理を表しているようだった。


 場面が切り変わる。

 彼女が目を覚ますと、顔を上げた方向から陽が注いできていた。
 その光に誘われるままに部屋から出る。
 庭(緑があるから多分そうだろう)の井戸の縁に座り誰かが本を読んでいる。

「ここで何をしているんですか」

「……何って、本を読んでるんだけど」

「わたしの家です。勝手に入られても困ります」

「そんな怪しいかなあ、アタシ」

 彼女よりも背が高く大人びていて、後ろで束ねられた髪が特徴的な少女。
 二人にスポットライトが当たる。隣で零華がぼそりと何かを呟いたが聞き逃した。

「まあ、あなたも座りなよ」

 少女は自分の横をぽんと叩く。
 怪訝な目を向けつつも、「わたし」はそれに従う。


「ここの家の子なんだ」

「……はい」

「歳は?」

「……十四です」

「じゃあアタシの方が下か。もっとくだけた感じでいいよ」

「いえ、初対面の人にそんな馴れ馴れしくできません」

「あ、そー……変わってるねえ」

「あなたの方こそ……」

 知ってる知ってる、と少女は笑う。つられたのか「わたし」の頬が僅かに緩む。

 それから「わたし」と少女は途切れ途切れの会話を続けた。
 そして、陽が完全に落ちた頃に、

「また来てもいい? あなたすっごく面白いし」

「……」


「……え、ダメ?」

「……お、お好きにどうぞ」

 ふーんそっかあ、と満足そうに頷いて、少女は立ち上がる。
 遠ざかっていく後ろ姿を、「わたし」は追いかけ、呼び止める。

「どうしたの?」

「……えと。その、えっと」

「うん」

「……わたし、おかしくないですか?」

 少女は呆気にとられたような顔をしたあと、少し考える素振りを見せて、

「おかしいかも」

 けど、と続けて、

「そんなでもないと思うよ」

「……本当に?」


「だって、こうしてちゃんと話せてるじゃない」

 目線を合わせて、「わたし」の頭を撫でる。
 なぜかそのとき観客席の一部が沸いた。気を取られている間にも、話は進んでいる。

「なに? まだ訊きたいことでもあった?」

「……あなたの名前、知りたいの」

「アタシの名前? いや、べつにいいけどさ」

 エリ、と少女は言った。
「わたし」は一文字一文字を確かめるように、"エリさん"と少女の名前を呟いた。

 それから二人はたまに庭で会っては、何てことのない話をするような関係になった。
 シーンが変わるにつれて「わたし」のエリに対する警戒心も解けていき、最初は一人分程開いていた間が徐々に詰められていった。

 エリは「わたし」のことを知っているかのような振る舞いをした。
 反対に、「わたし」はエリのことを知りたがった。どうして? と訊ねられると、何となくです、と言っていたが多分そうではないだろう。


「わたし」はエリに会う前の晩はよく眠れなかった。
 けれど会うまでに睡眠を取っていたから、最中は眠たげな様子を見せていなかった(二人の会話でそういうものがあった)。
 エリと触れあっている時間を反復するように、それまでは椅子の上に置いていた人形を胸に抱えて眠るようになっていた。

 示唆的な、というと疑って見すぎかもしれないが、そうとも取れるようなシーンが連続する。

 中盤から終盤にかけて、その頻度は高くなっていく。
 エリの言動が最初の飄々としたものから段々と崩れていく。

 特にそう感じたのは物語も佳境か、という頃で、
 椅子代わりにしていた井戸の中を二人が覗き、

「もうこの井戸は長く使われてないんですよね」と言う「わたし」に、
「こういうのを見ると、もし落ちたらどうなるのかなって思わない?」とエリが珍しく真面目な反応を見せたところだった。


「誰にも見つからないまま死んでしまうんじゃないですか」

「うん。……落ちてみたいって思わない?」

「……エリさん?」

「……」

「どうしたんですか。今日、ちょっとだけ変ですよ」

「アタシは……あなたとなら落ちてもいいって思ってる」

「えっと、冗談ですよね?」

「……知ってるんだよ。アタシは、あなたのこと」

 エリは「わたし」の肩をぎゅっとつかんで、

「ここであなたがしようとしてたことも、全部知ってる」

「……」

「あなたの事情も全部ではないにしろ知ってる。あなたが知らないことだって知ってるかもしれない。
 アタシはあなたのことを側で見てた。……でも、アタシじゃ何もできなかった。あなたがここに足を掛けるところを見てるだけだった」


「……どうして」

「ねえ……ここから落ちたら、気持ちよくなれるのかな。つらくなくなるのかな。アタシには、それが全然わかんないよ」

「……」

「でも、あなたが一人でそうするなら、アタシも一緒に落ちてしまいたい。そうしたら、何かが変わるかもしれないから」

「わたしは、エリさんがいれば……」

「ううん、そうじゃないの。…………だって、ずっとこのままってわけにもいかないでしょう?」

 あなたも薄々気付いてるんじゃないの? とエリは苦しそうに笑う。

「あした、ここで待ってるから」

 答えを聞かずにエリは踵を返す。
 取り残された「わたし」は井戸を一瞥して、崩れるように地面に座り込んだ。

「エリさんが『あなたとなら』と言ったところで、わたしはそれを信じ切れる自信がありません。
 けれど、エリさんがどうしてもとわたしにそうすることを望むのなら……」

 ごめんなさい、と「わたし」は言葉を宙に向けて放った。

「わたし"は"、あなたじゃなくてもいいなんて思いません。それはあなたがどう思っていようとも変わりません」


 翌日の夕暮れ、「わたし」が庭に向かうと、エリはもう既に井戸の縁に座っていた。
 いつもなら手にしているはずの本も何も持っていなく、「わたし」の姿を捉えた時にやっと表情に温度が戻った。

「ねえ、落ちても死ななかったらどうしよっか?」

「……そのときはそのときじゃないですかね」

「……ふふっ、そうかもね」

 二人が揃ってしまったのだからもう不必要な言葉は交わさないのではないかと、「わたし」がエリの手を取った時には考えたが、
 彼女たちの双方が、死を恐れるように──別れを惜しむように、顔を俯かせる。

「アタシはわかんないけどさ、あなたはきっと生きてるよ」

「……そう、ですか」

「……そんなしみったれた声出さないの。アタシだって、できるならこのままでいたかった」

「……」

「あなたにだっていたでしょう? アタシみたいな存在が。ほんの少し前までは」


「……」

「いろいろつらいことがあったから忘れているんだと思う。『本当につらかったら──』って、あの人はあなたに言ってたはずだよ」

「……」

「そっか。思い出せないか。…………でも、それでも大丈夫」

 その答えは今もここにあるから、とエリは「わたし」の手を胸元に押し当てる。

「……じゃあ、アタシが先導するから、あなたはそれに付いてきて」

 言葉の通りにエリは背中を下へと滑らせていく。

「……エリさん」

「……どうしたの?」

「……また、会えますか」

「そうだなあ……」

 くすりと悪戯っぽくエリは笑う。

「うん、会える。……でもその時は、一つだけお願いしたいことがあるんだけどさ」

「……何ですか」と「わたし」は目元を擦りながら今にも泣き出しそうな声で訊ねる。


「アタシに、名前を付けてくれないかな」

「……え?」

「馬鹿らしいことかもしれないけど、今も昔も、アタシはあなたのことがずっと好きだよ──」

 ──"エリ"。

 エリは微笑むと、ぐいと強く「わたし」の身体を引く。
 二人の姿が見えなくなると同時に、舞台が暗転した。

 陽の射さない部屋で、「わたし」は目を覚ます。

 目と、頬と、首筋を指でなぞる。涙の跡を縫うように。
 胸に抱えている人形を見つめて、何かを思い出したのかその服のリボンの結びを解く。

「……そっか」

 中から何か紙切れのようなものを取り出す。
 それを見て頷き「わたし」は起き上がり、ぺたぺたと音を鳴らして舞台袖の方へと歩いていく。

「……行ってきます」

 声とともに、徐々に舞台が暗くなっていく。
 ドアの開閉音がすると、それ以降は何の動きもなくなった。

 終わりですよ、と隣から零華の声がしたかと思えば、客席の誰かがぱちぱちと拍手をし始め、
 体育館の照明が点灯し演者の二人が現れると、一気にどっとその数が増え、大きな拍手で劇は締めくくられた。


【文化祭 1ー7】

 外に出て話をしていると、伯母さんはすぐに「明日も来るからね」と帰っていった。

 零華も何も言わずともわかるほどに上機嫌だったが、一番嬉しそうだったのは伯母さんかもしれない。
 しばらく奈雨を直視できないかも、と言っていた。親馬鹿が過ぎる(知ってた)。

「先輩。どうでしたか?」

 頬をにへへと緩ませながら、零華は校舎の柱に身をもたれさせる。なぜか口元がめちゃくちゃ艶めいている。

「すごかったよ」

「ふふふ。そうですよね」

「内容もそうだし、衣装とか小道具もよかった」

「みんな頑張ってましたから」

「あとは、エリ……って言っていいのかわからないけど、すごく演技上手かったな」

「あの子は演劇部なんですよ」

「どうりで」

 わたしもあと十センチ身長があれば……、と零華はぼやく。


 かと思いきや数秒後には不満げに口をとがらせて、

「そんなことはどうでもいいんですよ」

「はあ」

「わたしが訊きたいのは奈雨ちゃんがどうだったかってことなんですけど。
 てか先輩ぜったいわかっててはぐらかしてたでしょ。性格悪いですよねーほんと」

「下手に反応すると止まらないから」

「誰がですか?」

「零華が」

「ああ、そうですね」

 いつものことじゃないですか、と。
 それもう発作かよ。自覚してるならやめてほしいものだ。

「……まあ、とりあえずひとつ言えることは」

「はい」

「めっちゃかわいかったな」

 はまり役だったというよりは、それこそ奈雨だけにしかできない役だったというか。


 役柄も、そうだし、演技の方もモノローグではなく会話をするシーンでは、相手の演劇部の子に助けられてる感じはよく見受けられたけれど、
 それが逆に「わたし」っぽいなあ……と、二人の女の子の関係について、台詞、言い方、間の取り方全てがしっくりきた。

 評価は身内の贔屓目もあるかもしれないが、そこら辺はきりがないから、
 見て伝わるくらい頑張っていたしよくできていた、と素直に褒める言葉がすっと出てくる。

「わたしのこと無視するくらい集中してましたもんね……」

 と零華はちょっとむっとしてため息をつく。

「先輩ってどうせ映画とか一人で集中して観たいタイプでしょ?
 奈雨ちゃんといるときにやっちゃダメですよ。わたしは別に気にしませんし怒りませんけど」

「初めて見たんだから仕方なくないか」

「……はあ、でも若干好き好きオーラが出てたんで許してあげます」

「そんなもん出てねえよ」

「いえばっちり出てましたよ」


 やれやれとばかりに零華は両の手のひらを上向ける。
 視線を前に向け、それから何かを思いついたのか「んー」と軽く唸って、

「なんていうか、先輩って付き合っても波がなさそうなところはいいですよね」

「……どういうこと?」

「相手を好きって気持ちは絶対ちょっとやそっとで振れたりしなさそうじゃないですか。
 いい意味で執着しすぎてないっていうか、まあ奈雨ちゃんに関しての執着はかなりしてるでしょうけど……」

「……」

「ま、あれですよ。どうか早く結ばれてくださいってことです」

「ああ、そういう……」

「奈雨ちゃん娶り計画が頓挫したいま、わたしが望むのはお二人の幸せただひとつなんですからね」

 冗談めかして言ってるけど全くそうは聞こえないところが零華らしい。
 だいいち娶るっていつの時代の話だよ。


「そして機が熟したらあわよくばわたしも間に入って、ふふっ」

「それはマジでやめて」

「な、なんでですか!」と零華は瞬時に反応する。
 これはあからさまにわざとらしくてついつい笑ってしまう。

「前も言いましたけど、また三人でデート行きましょうね」

「ええ……」

「両手に花って感じでいいじゃないですか。奈雨ちゃんとわたしが両隣にいるなんてかなり役得ですよー」

「片方だけでも身に余りそうだからいいよ」

「その体のいい感じの断り方やめてください。水族館とか行きましょう」

「あー、はいはい。誘ってくれれば行くよ」

「……」

 零華はちらっとこちらを見て、口の端だけで笑う。そして顎に人差し指を当てて、うーんと首を捻る。

「どうした?」


「なんていうか、先輩ってやっぱり……」

「……」

「奈雨ちゃんの言うとおり、先輩は押せばなんとかなるしちょろいですよね」

「……はい?」

「もうちょっとぐいぐい来てほしいらしいですよ?」

「そう言ってたの?」

「はい。主張していきましょう」

 って何回も同じようなこと言ってますよね、と零華は苦笑する。
 何度も言われても変わらないと言われてるみたいで気が滅入るけど、事実そうだからなあ。

「でも、ゆっくりで大丈夫だと思います。先輩は今のままでも十分素敵ですから」

 親指を突き立ててやけにはっきり言い切られる。呆気に取られた俺を見て、気恥ずかしそうな表情をする。
 何か言うべきかと思ったが、手をぶんぶんと胸元で振って固辞された。俺を褒めるのはそんなに恥ずかしいのか。


「ていうか、ラストのあれどういうことかわかりました?」

「何の話?」

「劇のです」

 話が変わった。というより逸らされた。

「だいたいはな。合ってるかはわからんけど」

「ですよねー。台本読んでたならまだしも、って感じですよね」

 ということで、と零華は気を取り直すように息を整えて、きらっと目を光らせる。

「もう一回観に行きましょう」

 そして、「ね?」と笑ったかと思うと、ぽんと俺の肩を叩いて、

「今度はじっくりねっとり奈雨ちゃんを視て癒やされましょう」

 と言って、体育館の方へとすたすた歩いていく。

「もう少し時間ありますし、今の相談料で何か奢ってくださいよ!」

 が、すぐにくるっとターンをして戻ってくる。騒がしい。

「かき氷はちょっと寒いかなー。あ、唐揚げとかチョコバナナでもいいかなー」

 るんるんスキップでもしそうな雰囲気で進んでいく。
 ……なんだろう、やっぱり零華って。

「先輩。わたしは友達ちゃんといますからね?」

「はいはい」

 エスパーなんだろうか。

今回の投下は以上です。次回で終わると思います。


【文化祭 1ー8】

 二度目の公演を終え、ふらっと部室に立ち寄ると、俺以外の三人の部員が揃って談笑していた。

「やー、白石くん。楽しんでる?」

 と胡依先輩がこちらに向けて手をあげる。

「シノちゃんがどうしても私とまわりたいって言うからさ、いっぱいいろんなとこ行ってたの」

 その言葉の通り、たしかにテーブルには景品っぽいものや食べ物が置かれている。
 ちらと東雲さんの様子を窺うと「違うよ」と首を横にふるふる動かしている。

「……で、そらそらくんと出くわしてさー。ジェットコースター乗ろうとしたらシノちゃんが隣でビクビクって……」

 こらえきれなかったようにふっと吹き出す。
 俺に目を向けていた東雲さんの顔はみるみるうちに赤く染まっていく。


「白石くんは奈雨ちゃんのこと見に行ってたんでしょ?」

「そうです」

「どうだった?」

「えっと、まあ、面白かったです」

「おー」

「二回見ましたけど、脚本がしっかり作り込まれてる感じでよかったですよ」

 素直な感想を言うと、胡依先輩は虚を突かれたようにぽかんと口を開けた。

「……それはよかったね。さぞ奈雨ちゃんもかわいかったのでしょう」

 と思ったらいつものような緩い笑みをたたえて、うんうんと相槌を返してくる。

「私も見に行けばよかったなー」

「誘ったじゃないですか」

 と東雲さんが冷ややかな目線を先輩に向ける。


「でもシノちゃんがダウンしてたからどのみち行けなかったけどね」

「部長さんが『最大スピードで』って言ったのが悪いです」

「えー? だってその方が楽しめそうだったじゃん」

「苦手な私のことも考えてください」

「はいはい。ごめんなさーい」

 胡依先輩はにっこり笑う。東雲さんは困ったようにため息をついた。

「あ、そうだ白石くん。さっきまで明日のシフトをどうするかって話をしてたところだったのね」

「はい」

「三人とも初めてだから、今日みたいにわりかし自由にしてもいいかなって」

 とりあえず私一人はここにいると思うし、と先輩は言う。

「そらそらくんは途中から用事があるんだったよね?」

「そっすね」とソラは頷く。

 どこかの部活の手伝いでも買って出たんだろうか。


「シノちゃんは私といるとして、白石くんは何か予定あったりする?」

「今のところはないです」

「そっか。……じゃあおっけーかな。最初はみんな揃うってことね」

 そう言って、彼女はふむと頷き、今度は東雲さんの頭部へと手のひらを持っていった。

「どうしたんですか」

「んと、明日も楽しくいこうね。シノちゃん」

「……え? あ、はい。楽しみましょう」

「そうそう、楽しくね。楽しく楽しく!」

 ね? と視線を向けられて、俺とソラは首肯する。
 手を置かれたままの東雲さんだけが、胡依先輩を怪訝げな表情で見ていた。

「みんな今日はしっかり寝ること。……って、私以外夜更かしするタイプじゃないから大丈夫か」

「ですね」


「うわ白石くんひどーい」

「自分で言ったんでしょ」

「……まあ、そうなんだけどね」と先輩は苦笑する。

 今日は少しだけ雰囲気が暗い気もするが、きっと気のせいだろう。

「大丈夫だよ未来くん。部長さんがゲームをしないように私が見張ってるから」

 ぐっと拳を握りしめて宣言される。
 お母さんか。それか嫁か。視覚的にはすぐに絆されそうで説得力が薄いような。
 そのまま頭を撫でられてるし。なんなら若干嬉しそうだし。

「とにかく明日はがんばろーね」

 東雲さんから完全に目を逸らして、先輩は棒読みで「おー」とかなんとか付け加える。

 そんなにゲームがしたかったのかこの人、と一瞬思ったけれど、
 こちらへと顔を背けて表情を整える仕草をするのを見て、ああそういうことか、と勝手に納得した。


【ライバル】

 ソラとクラスに寄ってから家に帰ると、すでに食事の支度を済ませた佑希がソファに身をあずけていた。

 こういう気の抜けている姿を見ていると──二人は全然違うけれど──昨夜の奈雨と少しだけ似ている。
 まあ、でも似ていたところでそこまでおかしくはないか。仲が悪い(悪かった?)とはいえ血の繋がりはあるわけで。

 と、なぜかそんなことを考えた。無意識に。
 二人に言ったら普通に怒られそうだからこれ以上はやめておこう。

 二階に行こうとすると、「おかえりなさい」と声を掛けられる。
「ただいま」と返すと、佑希は俺のいる方を振り向いて、「もしかして食べてきた?」と。

「いや、まだ食べてないよ」

「そう。……あ、奈雨と一緒じゃないの?」

「クラスの打ち上げだってさ。ちょっと遅く帰ってくるって」

「ふうん。そういうの、先に言ってくれればいいのになあ」


「俺に連絡したからそれでいいと思ったんじゃない」

「……まあ、うん。わかってるよそのくらい」

 佑希は少しつらそうに苦笑して、身体の向きを正面に戻した。

「あたし、あの子のことを勘違いしてたのかな」

「どうして?」

「あの子の行動全てが、なんていうか……媚びてるように見えてた。
 けど、あたしだって、あの子から見たらそうだったんじゃないかなって、なんとなく思うの」

「……どういうこと?」

「おにいを縛り付けてたのはあたしだから。あの子のことがずっと好きなおにいを独占してたから。
 二人が好き合ってるのをわかってて、それをあたしの気持ちのために押さえつけようとしてたから」

「それは……」

「違わないよ」

 と佑希は俺が否定する前に首を横に振る。
 そして、何か言葉を続けようとした。──続けようとして、やめた。


 奇妙な沈黙が流れる。
 佑希は感情を押し止めるように、俯いていた顔を上げ、自分の肩を抱いている手をそっと下へと移す。

 小さく息をつき、また俺の方に向き直って、

「今日ね、あたしも見に行ったんだ」

 と微笑み混じりに言う。

「……奈雨のこと?」

「うん。人前に出るのとか苦手だと思ってたから、ちょっと気になって」

「そっか」

「……これは間違ってないよね?」

「合ってるよ。奈雨もそう言ってた」

 頷くと、佑希はそこで言葉を選ぶように一拍間を置いた。

「なんか、すごいなって思った。苦手なことでも、その、逃げてないなって。
 遠くから見てても緊張してるのが伝わってきたけど、でも、最後までまっすぐやりきってた」

 そういうふうに思ってなかったから、本当にすごいなって思った。


「あたしも、もうちょっとだけでも苦手なことをがんばろうって思っちゃった」

 佑希の苦手なこと、というのがいまいちしっくりこなくて、つい微妙な表情をしてしまった。
 すると彼女は、「あー」という形に口を開けて、遠慮がちに笑った。

「おにいはあたしのこと過大評価しすぎ」

「そうかな」

「そうだよ。あたしだってできないことばっか。いつも自分にできることをできると思った範囲でしてる。
 もともとできることの広さとか多さで言ったら絶対おにいの方がすごいと思うし、あたしは全然すごくないよ」

 だって、と佑希は言葉を続ける。

「おにいはずっと昔からあたしの憧れなんだよ」

 言って、佑希はふーっと気を取り直すような息をつき、ソファの背もたれに腕を乗せて振り返る。


「……冗談だろ?」

「なわけないじゃん。嘘ついたって意味ないし」

「……」

「……あたしのこと信じられない?」

「いや」

「なら信じてよ。本当のことだから」

 ちょっと恥ずかしそうに頬を触って、佑希は目を逸らす。
 が、すぐにこちらへと視線が戻される。今度はじとっと俺の様子を窺うような表情。

「佑希だって、俺のことを過度に評価してる気がするな」

 信じられなかったわけではないけれど、口をついて出てきたのはそんな言葉だけで、でも、

「わかった。……じゃあ、お互い様ってことでいいよ」

 と彼女はなぜか小さく笑いはじめた。


「この前さ、これからどうするのかって、おにい聞いてきたよね。
 あのときからさっきまでずっとそのことを考えてた。だから、今の話だけはちゃんと知っててほしかったの」

「そうか」

「だから、その……」

「……」

「……おにいに憧れるの、あたし、もうやめにするよ」

 そこまで言って、佑希は一度言葉を区切る。
 そして、言いたいことが伝わってるかどうかを確認するように──俺からの反応を待つように──かすかな笑みを引っ込める。

「……うん。俺もそうするべきだと思う」

 答えると、佑希は小さく頷き、さっきの続きを話そうと口を開きかける。
 俺は、少し考えてから、それを手で制した。

 細い肩がぴくと震え、きょとんとした表情で見つめられる。
 変な緊張感が生まれてしまう前に、今の俺の思っているままを言葉にする。


「……俺は、何に対しても頑張ってる佑希のことが好きだし、普段の抜けてる姿もそれはそれでいいと思ってる。
 今までのあり方を変えても、変えなくても、これからも佑希のことを応援してるし、大切な妹だってことは変わらない」

 佑希と同じように、俺も考えていたことがあった。
 今までのこと。そして、これからのこと。

「だから、佑希がもし自分の意思で頑張り続けるなら──」

「ちょ、ちょっと待って!」

 と彼女は続きを言わせまいと声を荒げる。

「あの、……えっと、ちょっと待って、ほんとに」

「いや、あのな……」

「い、いいから! いきなりそんなこと言われても……その、困るし」

 腰を上げて、つかつかと足音を立てて近付いてくる。


「なに、どうしたの」

「……あたし、今のままでもいいの?」

「え? いやまあ……」

「本当に?」

「……って言われると、そりゃあ思うところはあるけど」

「はあ……だよね、うん。たとえば?」

「……たとえばって?」

「いや、その、直す……えと、直そうとするから、参考に」

 本当かよ。目が泳いでるけど。

 ……とはいえ、そう言うなら答えるべきかと、「まず」と口に出すと慌てた様子で「うん」としきりに頷かれる。
 なんでさっきから挙動不審なんだろう。


「自分以外の人に対して無関心すぎるとこだろ」

「そんなこと……」

「ない?」

「……うん。だってあたしおにいには興味あるよ」

「そういう話じゃなくて」

 本人に面と向かって言うかなあ……。

「……特別仲良い友達っているの?」

「いきなりなに?」

「気になったから」

 わかんない、と佑希は首を振る。

「……あのね、なんていうか、あたし妙に距離取られてるっていうか」

「それはあれだろ。ちょっとした崇拝対象なんじゃねえの」

「冗談やめてよ」

「いや真面目に。さすがに崇拝は言い過ぎかもしれないけど、そういう節は多分あるだろ」

「……」

 佑希は俯いて考え込んでしまった。


 表面上は気さくな雰囲気で、でも、佑希は自分のことを一切話さないだろうし。
 部活も学校生活も全般的にストイックで、家での姿を見せることなんてほぼないだろう。

 友達はいる。けれど、べつに仲を深めたいわけではない。
 俺としてはそれはそれでいいとは思うけど。佑希だし。かっこよさげ(こういうのがよくない)。

「……まあ、視野は広くした方がいいんじゃない」

 と沈黙を破るように俺が言うと、

「……それは、うん。わかってる」

 でも、と佑希は続けて、

「おにいだって、結構そういうの狭いと思うよ」

「……そうか?」

「うん。基本的にいつも奈雨のことしか考えてないし」


「……」

「あの子以外のことを見てるのか見てないのかわかんない。
 ってあたしがそう思うんだから、あの子のことを知らない周りの人はもっとそうなんじゃない」

「いや、それは……」

「あるから。絶対ある。けどその割にいっつも優しくしてきたり思わせぶりなことするから……」

 ほんとにたち悪い、と佑希は俺の腕を掴む。

「さっきもいきなり好きとか言ってきたよね」

「言ったな」

「……」

「……悪かった?」

「……ばか。おにいってほんとばか」

「好きは好きなんだから、いいと思ってだな……」


「ああもう! そういうところなの!」

「どういうところだよ」

「好きとか軽々しく言わないで」

「えっ……ああ。じゃあもう言わない」

「……はあ?」

「……言わないでほしいんだろ?」

「……そ、そうとは言ってないじゃん!」

 彼女は眉間に皺を寄せて俺を睨み付け、握っている手首に掛ける力を強くする。

 話がだいぶ噛み合ってない。
 俺が悪いんだろうか? 反応を窺うにそうらしいから迂闊にため息すらつけない。

「いい? おにいは自分のことにすっごく鈍感なの」

「……ああ、うん」

 佑希だって、と言いそうになったが、やめた。
 間違ってはないし、そういう自覚もしていたから。

 それに、この前ソラにも同じようなことを言われたばかりだった。


「普段はそういうことに全然興味ないですって澄ました態度なくせに、
 奈雨が絡んだ途端に頭の中がお花畑になるのは、まあ、わかりやすくていいけどさ」

「……」

 かなりひどい印象を持たれている。
 なんだよお花畑って……。

「奈雨のことが好きなら、あたしにはあんまり言わない方がいいよ」

 と佑希は短くため息をつき、ちょっと不満そうに──けれど明るく笑って、俺の手を解放した。

 そして、続けて一歩下がって距離を取り、笑みを引っ込ませ真面目な表情を作る。

「……そんでさ、さっきはなんて言いたかったの?」

「さっきって?」

「あたしが今のままでいるならって話」

 そうだ。話が逸れていたんだった。


「ああ。……なんだ。俺も、ちょっとずつ頑張ってみようかなって」

 単純なことだけど、と付け加えると、すぐに彼女は首を横に振る。
 そんなことないよ、とでも言いたげに。それは一方では合っていて、もう一方では間違っているように思えた。

「今まではそれが最善だと思って、いろいろ曲げることもあったけど、……結局周りばかり見てても仕方ないんだよな」

 あれこれ理屈をこねても、つまりは自分が信じられなかっただけで、自信はどうにかして付けていくしかない。
 どうせどこまでいっても付かないことが分かっていても、力を積み重ねる姿勢くらいは持っておきたい。

 それに、と気が付けば口にしていた。

「いつまでも佑希に負けてもいられない」

「……え?」

 呆けたような声を返すとともに、怪訝な目でこちらを見て、

「おにいらしくない……」

 と佑希はぼやく。

 が、すぐに何かに合点がいったのかうんとひとつ頷いた。


「それってさ、あたしがおにいのライバルってことだよね?」

「……ああ。まあ、そうなるな」

「ふふふ、そっかそっか」

「……どうして嬉しそうなの」

「いや、だって、ずっとあたしだけが勝手にライバル視してると思ってたから。
 だから、正式に認められた感じ? ……じゃないか。言質が取れた、みたいな」

 上手く言い表せなかったようで、そのせいか佑希は顔を少し赤くして「と、とにかく!」と声を張り上げた。

「おにいの特別ってことでしょ」

「あー、いや……そうなるか?」

「だって奈雨はライバルじゃないじゃん」

「どうして奈雨の名前が……」

「じゃあライバルなの?」

「それは、まあ、ちがうけど」

「けどなに」

「いや……」

「なんですか?」

「……なんでもないです」

 なぜ敬語になったんだろう。
 ……いや、普通に気圧された。声怖いし。あと顔も。般若かよ。


 つーか、そもそもの話だけどライバルって俺程度でいいのか。

「ん? どうしたの?」

 と思い目を向けると、反論は一切許さないとでも言いたげな満面の笑みを返される。

「なんでもない。……まあ、これからも頑張れってことだ」

「それ、もう間違ってるじゃん」

「どこが?」

「おにいも、あたしも、お互い頑張ろうねって言うべきだよ。
 ……てかまず"頑張れ"なんてライバルに言われてもなーって感じだし」

 それもそうだな、と頷く。迷っているような目で見られたのだから、そう反応してやるのが筋だろう。
 これからそういう振る舞いをすると決意を固めようとしているのだから、背中を押してあげるのは俺の役目だ。

 佑希は何か言いたそうに口を開いたが、首を軽く横に振って、言葉にすることはなかった。


 そうしてしばらくお互い無言でいたが、
 やがて、佑希はふいっと目を逸らしてソファの方に歩いて行き、読んでいたらしい文庫本とスマホを手に持ち、こちらへと戻ってくる。

「ごめん。ちょっと疲れたから部屋戻るね」

「あ、うん。大丈夫か?」

「へーきへーき。クラスで朝からめっちゃ動いたからだと思う。
 それと、えっと、あたしあとで食べるからごはん冷蔵庫入れといて」

「ああ」

 と俺が言うのも待たずして、佑希は上へ上へと階段を昇っていく。
 姿が見えなくなるかというところでぴたりと立ち止まり、一瞬だけ俺を見て口早に告げた。

「あの子のこと、迎えに行ってあげなよ。暗いし、雨降るかもだし」

「大丈夫。約束してたから」と俺は返した。

「そっか……じゃあ、がんばれ」と小さくうわずったような声が耳に届いた。


【任せました】

 時間より少し早く待ち合わせの場所に向かうと、すでに奈雨と零華がそこで待っていた。
 零華は俺の姿を捉えるとすぐにいえいとピースサインを作って微笑み、近くまで駆け寄ってくる。

「今回はあまり待ってないですよ」と言って、もう一度緩やかに笑む。

 夕方までの様子との違いに、なんだこいつ……などと思いつつ彼女の後に続く。

 奈雨は手を胸元で握り、ちらっと俺を見ては逸らしてを繰り返す。
「帰ろうか」と言っても生返事で、どうにも落ち着かないらしい。

 特に会話らしい会話をせずに歩く。
 いつもならやかましいくらいに喋っている零華も、俺と奈雨を交互に見てくすくす笑うだけで俺まで落ち着かない。


「じゃあ、わたしあっちなんで」

 と、駅に着くなりあっさり帰ってしまおうとするのを、

「れ、れーちゃん……」

 と奈雨が呼び止める。

 零華は「うっ」とずっきゅんハート射貫かれましたとでも言いたげに左胸を押さえて息を漏らす。
 そのわざとらしさに思わず口元が緩むと、零華は俺をじとりと睨んでちょいちょいと手招きしてきた。

「先輩、ちょっと耳貸してください」

 言われるままに身を屈ませると、不満げにぷくっと頬を膨らませてから顔を近付けてくる。

「お二人と一緒にいたいのはやまやまなんですけど、わたし明らかに邪魔者なんで早く退散したいんですよ。
 ていうか、さっさと二人っきりになってください。今日は枕を濡らす予定が入っているので帰らなくてはならないのです」

「なんだそれ」

「先輩を和ませるジョークです。いやマジです。……ってそんなことはどうでもいいんですよ。
 あ、ビデオ通話でもしますか? しませんよね。なんだかわたしまでそわそわしてきてます」

 早口で言い募りながら、ばたばたと足踏みをする。
 落ち着けよ、と言おうとしたところで、奈雨からきょとんとした目が飛んでくる。


「……まあ、先輩。奈雨ちゃんのことをよろしくお願いしますね」

 と俺から間合いを取り、向けられていた視線の方へ歩いていく。
 そこで二、三やり取りを交わした後、零華は「がんばれー」と俺に口パクで伝え、改札へとつま先の向きを変える。

「……あ、零華」

「なんですか?」

「傘、持ってけよ。雨降るっぽいから」

 折りたたみの傘を手渡すと、「先輩にしては気が利きますね」と嬉しそうな声が返ってくる。

「それじゃ先輩、奈雨ちゃん。またあした」

 ひらひらと姿が見えなくなるまで手を振って、そのまま奈雨の前に手のひらを持っていく。

「俺たちも行こっか」

「……ん」

 奈雨はこくっと頷いて、ちいさな手のひらを重ねてきた。


【シンプル】

 駅を出て地上に上がると、しとしとと降り始めらしい雨が降っていた。
 十五分とも経たぬ間に、外気はぐっと冷えてしまったらしい。やけに肌寒い。

 これ、と傘を開いて渡そうとすると、ぼうっと窺うような視線を向けられる。

 ……まあ、言いたいことはわかるけど。

 ちゃんと傘を二本持っているのに、わざわざ狭い折りたたみ傘に二人で入るなんてのも変な話だ。
 濡らさないようにしてもこの感じだと濡れるし、奈雨は制服だし。

 などと思っていると、奈雨の方から、

「相合傘でいいでしょ」

 と言ってきたものだから、傘を上向けて彼女を手招いた。

 すぐに聞こえた「やった」という呟きは、きっと心の中でのものだったんだろう。

 曖昧な相槌だけを返して、二人並んで雨の中を歩く。


 乗っているときは眠たそうにしていたけれど、今はそうでもないらしい。
 何かを言いたげに俺を見ては、こうじゃない、とでもいうように俯く。

「どうかしたか?」と訊ねると、奈雨は少し間をとってから、覚悟を決めたように口を開いた。

「……今日の、どうだった?」

「……すごかったよ」

 それについて訊きたいのだと薄々感じていたのもあって、はっきりしない言葉にも躊躇わずに返答した。
 奈雨がまた何か問いを重ねようとする前に、足を止めて顔を彼女へと向ける。

「すごく良かったって簡単に言うのが申し訳ないくらい、俺は良いと思ったよ」

「う、うん。……それは、えっと、ありがとう」

 ありがとう、ともう一度言って、奈雨は頷く。


「お兄ちゃんにそう言ってもらえるの、他の誰に言われるよりも嬉しい」

「そっか」

「……うん。それと、なんていうか、安心した」

「安心?」

「全部終わったあとに、クラスの友達とか、先生とか、いろんな人から褒めてもらえて、
 ……でも、お兄ちゃんからはまだ聞けてなくて、どうだったんだろうって思って、けど、直接聞きたいなって、思って」

 不安だったんだからね、と彼女は頬を膨らませ、俺の二の腕を掴んで揺する。
 俺だって直接言いたいと思ってた、とはわざわざ答えるべきではないのかもしれない。

「そういえばさ、始まるときに目が合ったじゃん」

「あー、そうだな」

 やっぱり合ってたのか。


「あのときね、ほんとはものすごく緊張してて、駄目だって思いながらお兄ちゃんのことを探しちゃって、
 それで、たまたま目をとめたところにお兄ちゃんがいて、やばいはやく集中しないとって切り替えられたの」

「隣に零華と伯母さんが座ってたの気付いてた?」

「ううん。打ち上げの時にれーちゃんに言われて、そうだったんだ、って」

「零華悲しんでただろ」

「んー……いや、あんまり。それよりはむしろ見つけられて良かったじゃんって、そんな風なこと言われたよ」

「そうか」

「うん。でも一応謝っといた」

「そうしてもらえたならありがたい」

「……え?」

 首をかしげる彼女に、なんでもないよ、と俺は首を横に振る。
 零華のことだから奈雨の反応がどうであれ、どのみち明日あたり愚痴を言ってきそうだ。

「……そう。そっか、わかった」

「うん」


 それから少しの沈黙が流れる。
 奈雨はまたしても何か考え事をしているようで、視線を足下に落としていた。

 俺は黙って奈雨が話し始めるのを待った。
 訊いてほしがっているようにも見えた。言いたいことも何となく想像がつく。

「れーちゃんとお兄ちゃんって、すごく仲良いよね」

「ああ……いや、どうだろうな。別に仲が良いわけではないと思う」

 これも違う、というのが顔に出ている。

「二人でいるときどんな話してるの?」

「たいした話はしてない」

「そういうことじゃなくて、話題、とか」

 歩調を緩めて目を向けると、彼女はばつが悪そうに視線を泳がせた。

「ほぼ奈雨のこと。それ以外はほとんどしてない」

「そ、そうなんだ」

「まあな。共通の話題って言ったら奈雨のことくらいだし」

「陰口かなにか?」


「……いや、かわいいなー愛してるぜーって」

 と、一見なんでもないような返答に、

「は」

 奈雨は呆けたような声を上げた。

「あ、愛してる……」

 なぜか(なぜかではない)続く声は震えていた。
 どこからどう考えても俺が悪い。嘘は言ってないけど。

「それ、ほんと?」

 と奈雨は顔を手で覆いながら言う。

「……ほんとって?」

「……わたしのこと、愛してるの?」


 ついこの間、同じようなことを訊かれて戸惑った気がした。

 その時はたしか、"好き"の種類についての話だったと思うけど。
 そういえば、"好き"と"愛してる"ってどう違うんだろうか。

 相手に何か見返りを求めるのが"好き"なのか。
 相手さえいれば何も要らないという意味で"愛してる"なのか。

 "愛してる"のなかに"好き"が内包されているのか。
 "好き"が昇華して"愛してる"になるのか。

「ねえ、お兄ちゃん」

 むっとした顔つきで、奈雨は俺の腕を引く。
 少し意識が飛んでいた。反応が斜め上すぎて──いや、俺が迂闊すぎて普通に告白紛いのことをしてしまっていた。

 なんだよ愛してるって。……たしかに思ってはいるけど。
 そんな、零華みたいにひょいひょいと言えるわけではない。実際言われはしても言ってはいない。


 ……ああ、いやでも零華は"一回一回が本気"みたいなことを言っていた。
 そうしないと伝わらないかもしれない、とも。……って、いまそんなことはあまり関係ない。

 お花畑って的を射すぎているな、と苦笑いすらも出ないほどに納得してしまう。
 それくらい、頭が混乱しかかっていた。俺が悪いのに。そう、俺が悪いのに……。

「お兄ちゃん」と今度は頬をつねられる。

「ああ、うん」

「うん、じゃなくて。……なに、わたしの聞き間違い?」

「そうじゃないけど」

「けどなに。もしかして、まだダメだった?」

「……ダメって、何が」

「わたしが」

「ダメじゃないよ」

「じゃあ、どうして……」

「……」


 俺は何と言えばいいのだろう。
 ため息が出そうになる。のを抑える。

 その様子を見たのか見てないのか、奈雨はわざとらしくため息をついて、

「わたし、お兄ちゃんのこと好きだよ」

 と少し拗ねたように言った。

 言葉が頭に入ってくると同時かそれよりも少し遅く、するりと手元から傘が落ちた。
 一拍かそこらの間ができて、慌ててそれを拾い上げようとすると、同じくそうしようとしゃがみ込んだ奈雨と手のひらが重なる。

「あ……」

 と声を上げたのは奈雨の方で、すぐにぱっと手を引っ込められる。

 そして顔を上げてから気付く。手だけじゃなく顔も近い。
 かあっと耳まで赤く染め、奈雨は俺の口元をまじまじと見て、平静を失ったようにあたふたしながらのけぞる。

 俺はその、彼女の遠ざかっていく肩を、半ば無意識につかんだ。


「……あの、いや、まって」

「……」

「えっと、その……ここ外だし」

 と言いつつも奈雨は僅かにこちらに顎を突き出して、ゆっくりと目を閉じる。

「……なにしてんの」

「……」

「……奈雨?」

 混乱しているんだろう、と思った。
 俺だって混乱している。彼女といて心を乱されていないときはほぼないけれど、今は特別そう感じる。

 ──わたし、お兄ちゃんのこと好きだよ。

 ついさっき言われた言葉が頭の中で何度も反響する。
 そしてその度に心臓が波打つ。自分のものじゃないのではないかと思うくらいに。

 疑いようがないまでの好意を感じていたとしても、それを言葉にされるのとされないのとでは全く違うのだ。

 俺がそうなのだから、奈雨もきっと同じなのだと思う。
 とそう思ってしまうのは暴論か──べつに、というより無論、いまさら翻すつもりはないけど。


「あのさ、奈雨」

 と、俺は彼女の名前を呼んだ。

 目を合わせて気持ちを伝えたいと思った。
 だから、彼女が目を開くまで待つことにした。

 体感では長い時間のように思えたが、おそらくかなり早く彼女は片目を窺うように開き、そしてもう片方の目を開けた。
 いつの間にか準備していたはずの言葉はどこかへ消えてなくなってしまっていた。

 言いたいことはシンプルに。
 まず言ってから、それにまた言葉を重ねればいい。

「俺は奈雨が好きだよ」

 昔からずっとそれだけを言いたくて、けれど、今の今まで言えずにいた。
 待っているつもりが、逆に待っててもらっていた。

 ……いや、お互いがお互いを待っていて、待っててもらっていると思っていた。


「……"も"でしょ」

 沈黙とも呼べないような沈黙の後、奈雨はそんなことを言った。
 どこかむっとしたような声音で、けれど、殊更に嬉しそうな表情で、

「……わ、わたしもお兄ちゃんのことが好きだから」

 と続けて、耐えきれなくなったように顔を両手で覆う。

「わたしのこと、好きなんだよね?」

「うん」

「……じゃ、じゃあ好きって言って」

「好きだよ」

「う……、もっかい言って」

「もう一回?」

「……もっかい、お願い」

 指の隙間からこちらを覗きながら、奈雨はそうせがむ。


「奈雨のこと、好きだよ」

「……あ、う……わ、わたしも好き!」

「うん」

「……えっと、わたし、いま幸せすぎてやばいかも」

 なんだろう。
 いままで見てきた奈雨も十分にかわいかったけど、うん。

「そうだな。……やばい、な」

 もはややばいとしか言い表せない。
 瞬間瞬間のかわいさがキャリアハイだと思えてくる(深刻な語彙力不足)。

 しばらくこの多幸感に浸っていたい気持ちもあったが、立ち上がって歩き出すことにした。
 話しているときは全く気付かなかったけれど、二人とも雨で身体がずぶ濡れになっていた。

 もう大して意味のない傘を差そうとすると、奈雨は俺の腕にがっちりと抱きついてくる。

 目で理由を問うと、寒いから、と。
 いや、と何かに気付いたように首を横に振って、好きだから、と。


 その言葉を聞いてすぐに、彼女を抱きしめたい気持ちが襲ってくる。
 我慢しろよ、という心の声に、我慢する必要なんてあるのか? と答える。

「……あー、なんだ」

「……うん?」

「……」

 なんというか。
 理性とは違う別の何かが邪魔をしている気がする。

 そう、余裕がないんだ。いつもだけど。
 我慢すべきではないけど、我慢しなさすぎもよくないというか。
 ……いや、どの口が言ってるんだか。

「抱きついていい?」

 と口に出してみてから気付く。
 どうやらこれまで本気だと思わないようにしていた反動が来ているらしい。

「わざわざ訊かなくても……いいよ」

 抱きつきやすいように、彼女は掴んでいる腕を軸にして俺の前へとターンする。
 確認のためなのか再度言われた「いいよ」という声は、無駄な思考を完全に断ち切らせるほどに、甘く聞こえた。

思ったよりも長くなったのと、前回投下からの期間が空きすぎたのでとりあえずここまで更新します。
続き(というより終わり・エピローグ的なもの)は数日中に更新します。


【今日、もしくは昨日】

 それからしばらくの間、じゃれあったり立ち止まったり歩き出したりを繰り返しながら家に帰り、
 ひとつの灯りもついていない家の中を通り脱衣所にタオルを取りに行き、そのままの流れでお互いシャワーを浴びることにした。

 はやめに済ませようとは思っていなかったのに、気付いたら自室に戻っていた。時計を見たら十五分とも経っていなかった。
 当然のように奈雨はまだ浴室にいるらしい。戻るときに二階の脱衣所から光が漏れていた。

 テレビを付ける。ぼーっとながめる。水を飲む。テレビを消す。本を開きかけて閉じる。

 なんとなくそわそわして、部屋の窓を開けて雨空を見上げてみる。
 今日は雨が降り出してくれて良かったな、なんて思いながら。

「もしかして夢か」

 とふと呟いてみる。

「いや、なんで夢とか言ってんだろう……」

 冗談めかして言った自分の言葉になぜか落ち込みかける。
 夢であってほしくない気持ちなのかどうか。


 なんていうか、あほだ。今の俺はだいぶあほになっている。
 俺ってこんなだっただろうか。

 でもまあ仕方のないことなのだ、多分。

 少しでも気を抜くと悶えかねないこの状況。
 ずっと好きだった女の子から"好き"と言われたのですから、多少そうなってもいいでしょう。

 ぱんぱんと自分の顔を叩いて、

「夢じゃないな、うん。夢じゃない」

 と言いながら窓を閉め、振り向く。

「……あ、えと、上がったよ」

 奈雨がドアに手を掛けて立っていた。

「……お、おう」

「うん」

「……」

「……なに?」

「あの、もしかして見てた?」

「うん」

「どこから?」

「喋り始めたあたりから」


 くすくすと奈雨は笑い、部屋の中に入ってきて、ちらっと俺を見てからベッドに腰を下ろす。
 ルームウェアに身を包み、髪はもう結ばれていて、もう寝る準備は万端ということらしい。

「飲み物、もらっていい?」

「……え、なんで」

「下降りるの面倒だし、いいでしょ」

 と奈雨は足下に置かれていた水を手に取り飲み始める。

 自然とボトルのキャップ付近やら首筋やらに目がいく。
 喉が動く様子も目に入ってくる。そう、自然と(だめだこれ)。

 やっぱり細いなあ、とか、そういうことを考える。

 ──いや、ていうか。

「飲みすぎじゃない?」

「え」

 よく見たらなくなりかけている。
 俺は一口しか飲んでなかったはずなのに。


「……じゃあ、はい」

「いや、もう全部飲んでいいけど」

「……わたしも、もういいよ。お兄ちゃん飲んでよ」

「……」 

「……」

 そのままなぜかお互い視線を飛ばしたまま固まる。

「……べ、べつにヘンなこととか考えてないし!」

 そう言って奈雨は沈黙を破り、派手に赤面する。

 自爆だ。
 見事な自爆だ。

「あーはい。そういうことにしておこう」

「そういうことってなに」

「……いやまあ、単純なことだよ」

「……」

「ヘンなこと考えてるのはお互い様ってこと」

 近付いて、手から半ば奪うようにしてペットボトルを受け取り、口をつける。



「あっ……」

 奈雨の驚いたような、戸惑ったような声を感じつつ飲み干し、机に空になったペットボトルを置く。
 そしてその流れのまま彼女の隣に腰を下ろす。

「もう寝るか」

「うん。……てか、あの」

「よし、じゃあ電気消すか。今日も一緒でいいよな」

「それは、うん。でも、えっとさ」

「リモコンリモコンっと──」

 近くに手を伸ばすと、「ねえ」と奈雨に腕ごとつかまれる。

「お兄ちゃん、さっきから顔真っ赤だよ」

「……うん。だから電気消さない?」

「消さない」

「消さないのかよ」

「うん。お兄ちゃんのこと見てたいし」

「……奈雨も赤いけど」

「知ってる。なんかすごくドキドキしてる。お兄ちゃんの顔をただ見てるだけなのに」


 言葉の通り、奈雨はまっすぐ俺を見据える。
 どうやら奈雨は仕方のないことだと割り切ってしまったらしい。

 ……いや、割り切ったというよりも、我慢しなくなった、素直になった、みたいな。
 さっきまで外にいたときのようなテンションだ。

「……わかったよ」

 頑張ろう。なくなれ俺の理性。
 違う、理性じゃない。好きな子相手に張りがちな見栄のようなもの。

 慣れないことでもしてみるべきだ、とは思う。
 でも、不用意に慣れないことをすると当然失敗はつきもの。

 攻撃してたと思ったら自分がやられてた的な。
 普通に恥ずかしいあれそれ。もう過ぎたことは諦めよう。

「で、起きてて何をするの。このまま話してる?」

 軽めの提案。

「キスしたい」

 重めの提案!


「な、なにを言ってるのかね」

「お兄ちゃんが水飲むの見てたらしたくなった」

「はあ」

「抱き合うだけじゃ物足りないし、間接でもめっちゃドキドキするし、さっきしてくれなかったし」

 あと、と奈雨は言葉を続けて、

「……ここ最近してなかったし」

 外のときと同じように、言い切った後に彼女は目を閉じる。

 考えてる余裕も暇もない。
 でも、そういえば俺からしたいって言ったことあったかな、とか考えてしまう。

 ひと思いに、彼女の方へ顔を近付ける。

 いつもならすぐに離してしまいたいと考えていたはずなのに、今はこのまま離さずにいたいとまで思ってしまう。
 数秒経ち、顔を離して目を開けると、これまでとは明らかに違うことがあった。

「えへへ……」

 奈雨の顔が今まで見たことがないほどに緩んでいる。
 というか蕩けている。締まりなんてものはひとかけらも感じ取れない。


「……そんなに嬉しいの?」

「嬉しいよ。もう我慢しなくていいからそのぶんもっと嬉しい」

「我慢って、好き同士ってわかったから?」

「ううん。それもだけど、今までは顔保つので精一杯だったから」

「だからあんなしかめっ面してたのか」

「そうだよ」

 それなら納得した。
 けれど少しだけ、いや待てよ、と思う。

「じゃあ、その、俺とのキスはどうしてしてたんだ?」

「……それ、訊く?」

 うーん、と僅かにうなり声をあげ、
 仕方ないか、とでも言うように彼女はため息をつく。

「わたしのことを妹とか親戚の子とかじゃなく、女として見てほしかったから」

「……」

「……最初のうちはね」

「……ん?」

 最初のうちは?


「お兄ちゃんの唇を見てるとね、吸い込まれそうになるっていうか、したいなってなるというか、
 もうわたしがお兄ちゃんとしたいと思ってしてた。最初の目的なんて忘れてたんだよ」

「なら、ファーストキスを返してっていうのは」

「……あ」

 奈雨はさっと視線を逸らした。

 俺がまた何かを言おうとすると、つぎはわたしから、と若干焦ったように言って口を塞がれる。
 肩に腕をまわされ、ぐいっと力をかけられて、そのままベッドに押し倒される。

 今度は数秒と呼べる長さではなかった。
 離れてから見上げた彼女の表情は、どうだ、とでも言いたげなものだった。

 ……そっちがその気なら仕方あるまい。

 元の姿勢に戻ると見せかけて、奈雨の身体をベッドに倒した。

 何も言わずにキスをして、離して、甘く香る髪を撫でる。
 腕を広げてきた彼女の背中に自分の腕を回し、ぼんとベッドになだれ込む。

「寝ながらしよっか」

「うん」

 即答。

「どんだけしたいの」

「……すごく。とっても」


「あー、えっと、キスだけでいいよな」

「……まあ、今のところはね」

「……今のところは、なの?」

「……だって、これからいくらでも時間はあるじゃん」

 なんだかものすごいことを言われている気がする。

「何か言ってよ」

 と彼女は遅れてきた恥ずかしさを抑えるように言う。

「……幸せ?」

「……へえ、疑問形なんだ。へー」

「いや、幸せだよ。大好きな奈雨にそう言ってもらえて」

「そう、大好き……。そっかそっか、えへへ……」

「……」

「……わたしも大好きだよ」

 ……その顔の緩みどうにかしろよ。俺が言えたことではないが。
 かわいいからいいか。俺しか見られないものって思うとまあ。そうじゃなくてもまあ。

 それからもう少し探るようなやり取りを交わして、雰囲気だけじゃれ合ってから、電気を消して寝ることにした。
 が、思った通り布団に入ってからも奈雨との絡みは続き、朝目が覚めたとき、いつ目を閉じていつ眠ったのかを全く覚えていなかった。


【文化祭 2ー1】

「未来くん、ちょっと眠そうじゃない?」

 と、部室に入ってすぐに東雲さんに声を掛けられる。
 軽く寝坊をしてしまっていたから、まだ開場前であるとはいえ部室には俺以外の全員が揃っていた。

「ああ、うん。なかなか寝られなくて」

 そう答えると、窓の方に立っている胡依先輩が反応を示した。

「ほらやっぱりー」

「……やっぱり、って?」

 先輩はほかの二人に目配せをする。
 ソラは笑いを抑えるように、東雲さんは少しだけ申し訳なさそうにこちらを見る。

「俺は馬に蹴られて死にたくない」とソラが言う。
「ま、遅刻しなかっただけ許してあげましょう」と胡依先輩が言う。

 それとなく察する。
 とりあえず平謝りするほかない。

「未来くんが来ない間に、準備とかいろんなの、もう済ませちゃったから」

「そうそう。今日は白石くんにいっぱい働いてもらわなきゃね」

 そういえば、かくいう先輩はちゃんと寝たのだろうか。

 部室のなかを見渡すと、当たり前だけどゲームの類は出されていない。
 だからまあ、そこらへんは東雲さんがうまくやってくれたのだろう。

「今日はまったりがんばりましょう」

 と、胡依先輩が声を上げると同じタイミングで、出展開始の校内アナウンスが鳴り響いた。

 文化祭の二日目が始まった。


【文化祭 2ー2】

「それじゃあ私は、白石くんにお願いしようかな」

 と、部誌を数冊手に持った萩花先輩が、ペンをこちらに向けて差し出してくる。

「俺ですか?」

「うん」

「……いいんですか?」

「いいよ。好きなふうに描いてくれていいからさ」

「逆にそう言われると難しいですね」

「……まあ、そうね」と萩花先輩は頷く。

 そして、二、三人の列が出来ている胡依先輩の方をちらと見る。

「なら、そうだね。……身長差カップルとか?」

「一応訊きますけど、カップルって男女ですよね?」

「え、なんで」

「わかりました」

 これ以上深くは訊くまい。


 俺が描いている間、萩花先輩はペラペラと部誌を見ていたが、その中の数ページに目を留めた。

「これ、あの子が描いたの?」

「あの子って?」

「東雲さん」

「そうですよ」

「……なるほど。なるほどね」

 と神妙そうな面持ちで頷いて、部誌の並んだ机よりも後ろでお金を整理している東雲さんのところに歩いていく。
 少し心配になって様子を窺うと、先輩は自然な笑みを浮かべて東雲さんに声を掛けた。

「ねえ、うちの部にこない?」

「はい?」

「しゅかちゃん、それはダメ」

 反応早すぎないか。


「どうして胡依ちゃんが答えるの?」

「どうしてって、私のシノちゃんをとろうだなんて……」

「いや、違くて。引き抜きとかじゃなくて、道具とかの話」

「それでもダメ」

 強い否定に「そっか」と顎に手にやり考えるような仕草を見せたものの、萩花先輩はあっさり引き下がった。

「あ、えっと、東雲さん」

「は、はい」

「いつでもいいから暇なときに美術室に来てみてよ。美術部としてでなくても、画材とかは貸せるからさ」

 そして、その言葉に驚いたように、

「……あ、はい。わかりました」

 と東雲さんは頷く。
 心なしか表情を硬くした胡依先輩と視線が合ったが、すぐに逸らされてしまった。


【文化祭 2ー3】

 最初こそ高校棟の混雑を避けるようにお客さんが入ってきていたが、時間が経つとそういう人たちはめっきり減ってしまった。
 今のところ売れ行きは問題ない。ほぼ萩花先輩と、ぞろぞろと連れられてきた美術部員のおかげではあるが。

 四人で他愛のない話をして暇を潰していると、不意に部室のドアが開く。

「こんにちは、先輩」と零華がドアの方をちらっと見ながら近付いてくる。

 ドアが閉まる前に、奈雨と伯母さんが部室に入ってきた。

「お、みーくん」

 と、伯母さんもこちらに歩いてくる。
 そしてその半歩後ろほどで、奈雨が眠たげに目をしょぼしょぼとさせている。


「どうも」

「どうも」

「三部でいいですか?」

「うん。そうね」

 ありがとうございます、と部誌を手渡すと三人はその場でそれを見始めた。
 ソラが三人分の椅子を用意してくれて、なにせ暇なので部室内のみんなで会話が始まった。

「これ、先輩が描いたんですか?」

 零華は本気で驚いているようにそう言ってきた。

「ああ、まあ……」

「けっこう好きです。てか、絵が描けるだなんてこれまた意外な特技ですね」

「特技ってほどでもないけどな」

「わたしも小学生の頃はお絵描きとかしたんですけどねー」

 と、ぽろっと零華が言うと、

「お、入部希望?」

 と胡依先輩が耳ざとく反応する。


「いえいえ。わたし全然うまく描けないと思いますし」

「んー……部活は何か入ってるの?」

「今は入ってないです」

「なるほど。じゃあ入部しようね」

「なるほど……?」

「あ、そういえばお名前は?」

「え、あ、零華です」

「そう、零華ちゃん。かわいい名前だね」

「……あ、ありがとうござい、ます?」

 若干首をかしげる零華を見て、先輩はくすくすと笑う。
 零華がたじろいでいる姿なんて初めて見たかもしれない。


「見境ないですね、胡依先輩」

「まあかわいい子だからね。声は掛けとかないと」

「はあ」

「奈雨ちゃんも入部してくれるんでしょ?」

 と横を見る先輩につられて奈雨の方を見やると、東雲さんと部誌を片手に何かを話していた。

「え、奈雨ちゃんも入るんですか?」

「そうだよね? 白石くん」

「ですね」

「じゃあわたしも入ります」と零華はあっさり意見を翻す。

「入ってくれると思ってたよ」と胡依先輩は嬉しそうに頬を緩ませる。

 いいのかこれ。
 まあ、面白そうだからいいのか?

「──あ、そういや未来って付き合ってるんだっけ?」

 いきなり向こうから質問が飛んできた。
 その主は、ソラと、にやりと笑っている伯母さん。


 ソラの声が少し大きかったから、急にみんな静かになる。
 というより俺に注目が集まる。なんとなく緊張する。

 奈雨は俺をきょとんとした目で見つめてくる。
 もう既にある程度知っている人たちだしべつに隠す意味もないしな、と、

「えっと、そんな感じ──」

 と言いかけてから気付く。

「──あれ……あ、付き合っては、ない、のか?」

 思い返せばそういう話を一切していなかった。
 好きだとは言ったけど。言われたけど。
 この先もあるみたいな言い回しをされたけど。

「すっかり忘れてた」と奈雨はうんうん頷く。

「そんな大事なこと忘れたら駄目ですよ」と零華に叱られる。

「……いや、なんつーか、昨日はそれで満足だったというか」

 と焦ったのかひとりでに感想のようなものがこぼれてくる。


「そうなのね。奈雨、よかったじゃない」

 伯母さんは特に言葉尻を捕らえてはこなかった。
 これまでの傾向からして、それよりも奈雨の反応を見て楽しもうとしたのだろうと思う。

「うん、よかった」

 だから、普通に肯定してしまうのはあまりいい反応とは呼べないだろう。

「わたしとしてはどっちでもいいってことにしとく」

 と奈雨は視線を俺に向けてくる。
 その時は少し照れが見え隠れしていたようで、伯母さんは満足げに頷く。

「先輩! ここはヘタレ脱却のチャンスですよ!」

「野次るな」

「あ、はい」

 零華を見るときに東雲さんやら胡依先輩の表情が目に入る。
 みんなそこそこ笑っていた。


 ただようおめでとうムードのようなもの。悪い気はしない。
 俺は零華に、奈雨は伯母さんに背中をぽんと押されて、お互い向き合う。

「それで、お兄ちゃんはどうしたい?」と奈雨はにこりと笑う。

 久しぶりに見た気がする。こういう小悪魔的な微笑み。
 "どうしたい?"ってそりゃ付き合いたいとは思うけど。

 とりあえず今は場所が場所だ。
 そういうことを言うとしたら、昨日みたいに二人きりがいい。

「明日って空いてるか?」

「うん」

「じゃあとりあえず、そのときに」

 と俺は会話を打ち切った。
 零華とソラは残念そうな顔をしていたけど、後で訊いてきたら答えればいいのだ。確実に訊かれるだろうし。

 それから少しだけ俺と奈雨の話をされて、もう別の話題に移ろうかというところで、
 そんななか胡依先輩は一人顎に指を当てて、何か思い出したいことがあるように「なーんかなあ」と唸っていた。


「ちょっと、白石くんと奈雨ちゃん。そこの椅子に座ってくれない?」

「なんでですか?」

「なんとなく」

 言われるままに二つ並んでいる椅子に腰掛ける。
 もっと近付いて、肩に手を置いて、という注文にも一瞬はてなとなりつつも従う。

 顔もっと近付けて、と言われてさすがに「なんですかこれ」と言おうとすると、

「……あ!」

 何かがピンときたのか先輩はぱんと手を打つ。
 そして、てくてくと部室の壁側、掃除ロッカーのある辺りまで歩いていく。

「奈雨ちゃんって、いつもはその髪型なの?」

「そうですよ」

 なーるほど、と大仰に頷いて、

「夏休み明けすぐに、ここで白石くんとキスしたりいちゃついてなかった?」

 と先輩は言った。


「え……あ、えっ?」

 一瞬で場が凍り付く。
 奈雨だけ慌てている。

「……」

 零華はなんつーか、固まっている。
 と思ったら俺に怖いぐらいの睨みを向けてくる。

「どうなの白石くん」

 こっちにも飛んでくる。

「えっと……」

 そういう覚えは……あるにはあるが、ていうか普通に覚えているが、
 めちゃくちゃ鮮明に覚えているが、ちゃんと部屋に人がいないことを確認してた気がするのだが。

「あ、ちなみに私はこのなかで寝てた」

 そう言って先輩は掃除ロッカーを開ける。

「ええ……」

「狭い場所って落ち着くからね。……で、してたの?」


「はあ……まあ、はい」

 正直に答える。
 すると、「お兄ちゃん!」と奈雨は声を荒げた。

「どうして言うの!」

「ダメだった?」

「いや……」と奈雨は俺ではなく、ちらりと伯母さんの様子を窺う。

 伯母さんは「なるほど」とこれまた合点がいったように頷いて、何かを喋り出そうとする。

「そういえば、春先にも──」と伯母さんが続きを言いかけると、奈雨は必死にそれを止めようとした。
 でも、言い始められた言葉はもう止まらなかった。

「寝てるみーくんに何回もキスしてたことがあったわね」

 奈雨は耳を塞いで、顔を真っ赤に染めながらその場で俯く。

「お、お母さん! それは言わないでって……」


「いいじゃない。どうせもうそういう間柄なんだし、みーくんだって承知のうえなんでしょ?」

「お兄ちゃんは……い、いや、お兄ちゃん。信じなくていいからね? お母さんの嘘だからね?」

「でもさっき言わないでって」

「そんなこと言ってないし!」

 昨夜の会話を思い出す。
 え、じゃあつまり……とすぐに察する。自然と頬が持ち上がる。

「……れ、れーちゃん行こ!」

 俺の方を一瞬だけ見て、首をものすごい勢いで振ってから零華の手を取る。
 そして荷物を持ってそそくさと二人で出て行ってしまう。

「あれ私言っちゃいけないこと言った?」

「……いや、むしろありがとうございます」

 そう答えると、伯母さんは「ならよかった」と笑って、奈雨のことを追いかけていった。
 残された俺は、ソラと胡依先輩からの質問責めに困り果てた。


【文化祭 2ー4】

「あー、また女の子連れてる!」

 高校棟の廊下を歩いていると、後ろからそう声を掛けられた。
 隣にいる部長さんと声の方に振り向く。すらっとした綺麗なお姉さんが立っていた。

「来てたんですね、ひかげ先輩」

「うん、暇だったから」

 どうやら部長さんの知り合いの人らしい。
 じっと見ていると、簡単な自己紹介を受ける。

 お姉さん──ひかげさんは、イラスト部の前の部長で、今は近くの大学に通っているらしい。
 部長さんとはイベントとかに一緒に参加する仲だという。大学では漫研サークルに入っている、と。

「で、胡依はまた彼女作ってんの?」

 私を見ながら、ひかげさんは言う。


「いやいや、まだこれからです」

「あの子は? なんだっけ、萩花ちゃん?」

「仲良くしてます」

「うわあ……」

 呆れたような顔をしている。

「あ、そういえば先生は?」

「ヒサシちゃんは職員室ですかね。……何か用事でも?」

「うん。まあなんというか、挨拶?」

「ああ」と部長さんは頷いた。

 ひかげさんの後ろで束ねられた髪が揺れる。
 どことなく、優しそうでもあって怖そうでもある。

「夏休みは結局帰ったの?」

「いえ」

「あの子、心配してるんじゃない」

「どうですかね」

 部長さんの表情が曇る。
 ひかげさんはまた何か言葉を続けようとする。


「あの、そういう話はちょっと……」

 と部長さんは戸惑ったように私に視線を向けてくる。

「じゃあ何か食べ物とか買ってきますね」

「ん、ありがとう」

「ここに戻ってくればいいですか?」

「うん。……んー、上で待ってて」

「わかりました」

 去り際に、ひかげさんに「ごめんね」と軽く謝られる。
 いえ、とすぐに答えて歩き出す。私がいるべき場所ではないのかもしれないから。

 部長さんは、自分のことをあまり話してくれない。
 もっと仲良くなったら、時間をかけたら、日々の悩みとか、昔のこととかを話してくれるのだろうか。

 一段一段ゆっくりと階段を昇りながら、そんなことを考えた。


【文化祭 2ー5】

「すごく暇だ」

「たしかに」

 机に乗っている残部はあと少し。
 お昼前でこれなら終了時刻からそれなりの余裕を持って売り切ることができるだろう。

「暇だ」

「同じく」

 お客さんが来なければこういう会話にしかならない。
 漫画を読んでいる姿とかも見せられないし。

「俺呼び込み行ってくるわ」とソラはパイプ椅子から立ち上がる。

 彼のことだから、そう言いつつも普通にサボってどこかへ消えるのかと思ったのだが、

「こんにちは。見てもいいですか?」

 と、五分とも経たぬ間に女の子を連れてきた。
 曰く、美術部の近くにいる人なら誘えば来そうじゃないか、と。


「どうぞ」

「……」

 女の子は熱心に目を通し始めた。

 背格好からして、おそらく中学生だろうか。
 いや、背は東雲さんや萩花先輩より少し小さいくらいだから、高校生の線もあるな。

 ざっと目を通すと、やはり胡依先輩の絵が気になったのだろう。
「これを描いた人は今はいないんですか?」と訊ねられる。

「今はいないですけど、待ってたら戻ってくると思いますよ」

「どこらへんにいるかってわかったりします?」

「それはわかんないです。でも、いるとしたら職員室とか高校棟の売店だと思いますよ」


「職員室……えっと、その人とは別の話なんですけど、森実さんっていますか?」

「森実……」

「ヒサシってそうじゃなかったか?」

 とソラが横から助け船を出してくれる。
 たしかにそんな気もする。普段ヒサシヒサシ言ってるから覚えてないんだよな。

「多分職員室にいますよ」

 学校には来ているはずだから、ヒサシのことなら「面倒くせえ……」とか言って職員室から出ないに決まってる。

「知り合いなんですか?」

 なんとなく、そう訊ねると、

「知り合いっていうか……古い知人みたいなものです」

 と女の子は言い、部誌の代金を置きぺこりとお辞儀をして部室を後にした。

「ああいう子、胡依先輩の好みど真ん中だろ」

 とソラは言ったけれど、容姿ではなく、雰囲気だったり立ち居振る舞いのイメージが、
 東雲さんではなく別の誰かに似ていると感じて、俺は何となく据わりの悪さを抱いた。


【文化祭 2ー6】

「あの、すみません。職員室ってどこにあるかわかりますか?」

 連絡もないし、鉢合わせても気まずいしで、校舎内をふらっと歩いていると、前から歩いてきた女の子にそう声を掛けられる。

 手にはイラスト部の部誌が握られていて、ちょっとだけ嬉しくなる。
 わざわざ「買ってくれてありがとうございます」なんて言うのは図々しいと思うからしないけど。

「えっと、中学のですか? それとも高校の?」

「わからないです。でも多分高校の方だと思います」

「そうですか……。落とし物を拾ったとかだったら、私が届けてきますよ」

「いえ、大丈夫です」

 にこっと微笑まれる。

 渡り廊下を歩いて、階段を降りて、高校棟の職員室へ向かう。
 室内に先生は全然いなくて、でも、女の子は目当ての先生をすぐ見つけたみたいだ。


 その先生──ヒサシ先生は、女の子の姿を視認するとかなり驚いたように目を丸くする。

「東雲、ちょっとコーヒー取ってきてくれないか」

「え、あ……二つでいいですか?」

 ここでお役御免だと思っていたから不意を突かれた。
 応接間に向かったはいいが、棚上から紙コップがなかなか取れずにいると、ヒサシ先生が取ってくれた。

 ていうか、先生も来るなら私がやらなくてもよかったんじゃないかな。
 と思ったら、先生は表からは見えないようにスマートフォンを操作していた。

 そして、ポケットにそれをしまってから、私に話を振ってくる。

「あいつ、何か言ってたか?」

「あいつ、って?」

「東雲が連れてきたやつのことだ」

「いえ、なにも言ってなかったですよ」


 ここに来る途中だって、何一つとして話をしなかった。
 私が口下手だってこともあるかもしれないけれど、それはそれとして、だと思う。

「そうか。東雲は胡依と一緒じゃなかったのか?」

「一人でした。さっきまでは二人でいたんですけど、えっと、ひかげさんと会って……」

「あいつも来てるのか……」

 そう言って、頭痛を抑えるようにこめかみに手をやる。

 なんていうか、本当に迷惑そうな感じで。
 ひかげさんにしても、あの女の子にしても、そういう印象は全く受けなかったのにな。

 コーヒーを紙コップに注ぎ、トレーの上に置く。
 慣れていると言えば慣れていることだ。ミルクはないから、スティックシュガーを何本か付けておく。

「胡依は今ひかげと一緒にいるんだよな」

「はい。……いや、でもひかげさんは職員室に行くって言ってたので、部長さんとはあとで合流するとは言ってました」


「わかった。なら、あいつと会ったら携帯を見るように言っといてくれないか」

「は、はあ……わかりました」

「なるべくすぐに頼む」

 手間賃だ、と五百円玉を手渡される。
 女の子からお礼を言われて、それから部屋の外に出ると、廊下の窓から吹き付ける冷たい風が頬を撫でた。

 きっとあそこだろうと思って、私はもう一度階段を昇った。
 もらったお金は持っていても使いづらくなるだけだろうから、飲み物を買って崩すことにした。

 私はいちごミルク。
 部長さんにはお茶を。

 最上階まで昇るとき、別に混雑をさけたわけでもないのに、誰一人とも会わなかった。
 わからなくなりそうだった。点は点のままでは線になることはない。

 鉄扉はぎい、と重い音を立てて開いた。


「あ、シノちゃん」

 やっぱり、彼女はそこにいた。

「はい」

「部室に寄ってから来たの?」

「いえ、ちょっと用事があって、……待たせましたか?」

「ううん、私も今さっき来たとこだからさ」

 座りなよ、と促される。
 建物で日陰になっているそこは、身体を縮こまらせても寒く感じる。

「ひかげさんは?」と私は訊ねた。

「まだちょっといろいろ周るって言ってたから、お別れしてきた」

「そうですか」

「……さっきは、ごめんね?」

「いや、大丈夫です」

 私の言葉に、部長さんはほっと胸をなで下ろした。

 そんなことじゃ怒らないのに。
 そういうことでは、ないんだろうけど。


「食べ物と飲み物、買ってきましたよ」

「ありがとう」

「ここで食べますか?」

「ん、そうしよっか」

 買ってきたものに手を付けながら、私はゆっくりと足を伸ばす。
 陽が少しずつ雲に隠されていく。

「そういえば、ヒサシ先生が携帯見てって言ってましたよ」

「ヒサシちゃんが?」

「はい」

「珍しいな、なんだろ」

 と上着の内ポケットから、部長さんはスマートフォンを取り出す。

 電源ボタンを長く押していたから、電源自体付けていなかったんだろう。
 私も何通か連絡したのに返信がなかったからわかってたけど。いつも見ていないのもよく知ってる。

 黙っているうちに太陽が完全に雲に覆われた。
 すぐ隣にいる部長さんの、息遣いが少し荒くなる。


 一瞬にして、彼女の顔から色が失われた。
 そして、画面から目を外して、私のことを──私の目をまっすぐ見て、顔を俯かせた。

 その一連の仕草は、どうにか平静を保とうと努めているように見えた。
 手を伸ばすと、強く撥ね除けられる。すぐに、しまった、という驚いた顔で私を見る。

 どうすればいいのかがわからなくて、もう一度彼女に向けて手を伸ばした。

 今度は抵抗されなかった。
 おそるおそる髪に触れると、こちらにもたれかかるように身体を倒してくる。

「ごめん」

「どうして謝るんですか」

「……ごめん」

 そう言って部長さんは、上半身をすべらせ、私の胸に頭を寄せてくる。
 私の顔を見たくなかったのかもしれない。それか、自分の顔を見られたくなかったのかもしれない。

 少しのあいだ、私はあやすように彼女の髪を撫で続けた。
 空を眺めていても、雲はなかなか流れていってくれない。


「……もういいよ」

 と、部長さんは私の手を止めさせる。

「大丈夫なんですか」

「……うん」

「……本当に、ですか?」

「……このままだと、けっこうよくないこと、考えそう」

「べつに、私は……」

「……じゃあ、お願い」

 それからもう少しだけ、部長さんの身体を抱いていた。

 身体を離すとき、ありがとう、と微笑まれる。
 でも、その微笑みはいつものものとはまるで違っていて、調子を取り戻したようには見えない。

 落ちつかなさと遅れてやってきた気恥ずかしさで、私は何も言えなかった。
 吹き付けていた風が止んで、だからだろうか、自分の鼓動が彼女にも聞こえてしまってるのではないかと錯覚する。


 やがて、部長さんは塔屋にもたれて、空に向かって小さく息を吐いた。

「……はあ、駄目だよね。こんなんじゃ」

「……」

「シノちゃんにだけは、こういう私、見せたくなかったな」

 嘲るようなため息は空に消えていく。
 それから、今度は深呼吸のように大きくふうと息を吐く。

「私ね、いまは調子がいいときだと思うの。……いまって言うのは、ここ最近、ってことね。
 特にこの一ヶ月は、すごく楽しかった。いままで生きてきて一番じゃないかって思えるくらいに」

「……」

「でも、そういうのって長くは続かないんだよね。私だって、絵の最後を描き上げる時はいつだって怖いよ。
 それで、いまはこの文化祭が終わってしまうのが怖い。きっと前の私なら、そんなこと思いもしなかったのにね」

「……はい」

 部長さんの言っていることは、なんとなく、わかる気がした。


「シノちゃんは、優しいよね。……優しいから、私もシノちゃんに甘えたくなる。
 だから、いまだって泣きそうになってる。拒まれなかったことを嬉しく思ってる」

「……はい」

「……ね、もうちょっとだけ、甘えてもいい?」

 そう言って、彼女は地面からスマートフォンを拾い上げ、画面を操作する。
 覗いたわけではないが、目に入る。メールの画面だった。

「ここに、"会いたくない"って、打ってくれない?」

「……いいですよ」

 受け取ったスマートフォンの画面には、差出人も宛先も表示されていなかった。
 私が操作している間、部長さんは泣き出しそうな顔を我慢するように、向こうの方を向いていた。


「出来ましたよ」

 と声を掛けると、手だけをこっちに向けてくる。
 さっきのように、今度は後ろから腕を回す。ふわりとした香りが漂う。

 自分のこれがただの優しさなのか、私にはわからない。
 でも、ちがうと思う。漠然と。

 "これは優しさではない"。

 でも──それでも、私はそれでかまわないと思った。

 私にとって、部長さんはそれくらい大切な人なんだと思う。
 嫌われたくない。力になりたい。そう思うのは自然なことだと思う。

 これがべつの何かなのかは、いつの日かわかるときが来ると思う。

 だから、それまでは、知らないでいたい。

 ……きっと、後悔すると思うから。


【文化祭 2ー7】

 クレープを三つ持った零華が教室から出てきた。

「これ、おいしいです。まじおいしいです」

 とかなんとか言いながら。実に幸せそうだ。

「そうか。一つくれ」

「はあ?」

「それ全部自分で食うのか?」

「はい。やけ食いってやつですよ」

「太るぞ」

「うるさいですね……わたし、このとおり痩せ型なんですけど」

「そういうことじゃないだろ」

「どうせ先輩のお金なんですし、いいじゃないですか」

 俺のお金だから一つくらいよこせと言っているのだろうに。
 ため息をつきかけると、食べかけを渡される。


「そっちよこせよ」

「いいじゃないですか」

「じゃあいいや」

「そう言うと思いました」

 手からクレープをひったくられる。
 そしてまたはむはむとクレープを頬張り始める。

「てか、奈雨ちゃんが連れて行かれたのって絶対アレですよね」

「アレって?」

「賞ですよ。実行委員の人だったんで、絶対そうですよ」

「ああ、そうか」

「先輩はデートを邪魔されてご不満でしょうけどー」

 零華はわざとらしくため息をつく。


「さっきの奈雨ちゃんの様子、聞きたいですか?」

「かわいかったの?」

「はい、それはもう。やばいです。やばいんですよね、顔とか」

「顔とか」

「ああいう顔もするんですね。昨日の感じもそそりましたけど、今日のもなかなか」

「どういう顔だ」

「恋する乙女系の。ほら、わたしみたいな」

「……」

 黙っていると、肩をばしばし叩かれる。
 反応に困るだろ、そういうの。

「……で、さっきのってどういう意味だったんですか?」

 と、気を取り直すみたいに訊ねられたから、これまでの経緯をぼかしつつも話した。


 零華の反応は、思ったよりも薄く、

「先輩って酔ってても絶対そういうことしないと思いますし……」

 と鼻で笑われる始末だった。

 まあ、とはいえ、本当のことは奈雨しか知らない。
 伯母さんが目撃する前に、俺からしていたかもしれない。そうじゃないかもしれない。

 今となってはどうでもいいことなのだ。
 さっきは驚いたけど、どこかのタイミングで本人に訊こうとは思うけど。

「でもわたし、もっとすごいこと知ってますよ?」

 零華は悪戯っぽく笑う。

「はあ」

「知りたくないですか? 知りたくないですか?」

「べつに」

「ふふふ、そう言われても勝手に話しちゃうんですけどね!」

 どんだけ話したいんだよ。


「実を言うと、最初からわかってたんですよ」

「何を?」

「奈雨ちゃんが、先輩のことが好きってことですよ」

「あ、そうなの」

「はい」と零華は楽しげに笑う。

「先輩に会いに行くとき、うきうきした表情で休み時間に歯を磨きに行ったりだとか、
 わたしがいくら話しかけてもうわの空で頬を緩ませながらリップを塗ってる奈雨ちゃん、すごくかわいかったので」

「……はあ、そうなのね」

 返答に困る。
 てか、いくらなんでも本気すぎはしないだろうか。

「あのう、先輩。ほっぺたゆるゆるですよ?」

「そうでもない」

「あはは、かわいー。わたしが特別につねってあげましょう」

「やめろ」

「よいではないかー、ふふっ」


 さして抵抗もせずにつねられていたが、「あ」と何かを思い出したように手を離された。

「これから部活でもよろしくです!」

 敬礼のポーズ。
 本気で入るつもりなのか。

「てかてかそういえば、めちゃくちゃ美人さんいましたよね」

「……東雲さんのこと?」

「多分そうです。めっちゃ仲良くなりたいですねー」

「……」

「あ、いやちがいますよちがいますよ。わたしの本命はいつまでも奈雨ちゃんですからね」

「聞いてねえし……」

 でも、なんとなく東雲さんと零華は仲良くなれるだろうと思った。
 胡依先輩と零華も同じく。イラスト部はもっと賑やかになるだろう。

 そのうち戻ってきた奈雨は、やけに嬉しそうな様子でこちらに駆け寄ってきた。

 わけを訊くと、やはり「一番良い賞もらえるらしいから」と。
 零華と二人で喜ぶ。奈雨は照れくさそうに身じろぎした。

 なんでも、票数が圧倒的すぎて早々に決まったらしい。
 エリ役の子と登壇するからね、とも奈雨は言っていた。

 わかった、ちゃんと見てるから、と俺が言うと、
 任せといて、と奈雨は胸に握りこぶしを当てて、得意げに笑った。


【文化祭 2ー8】

 完売したという連絡を受けた後、部室に向かう。

 部室にいたのは東雲さんと胡依先輩の二人で、俺が戻ってくるのを待ってくれていたようだった。

「もう後片付けしちゃう?」

 もう何も置かれていない机を満足そうに眺めて、胡依先輩は問いかけてくる。

「終わったらでいいんじゃないですか」

「白石くんも、終わったら残る?」

「どこかご飯とか行くなら」

「じゃあプチ打ち上げにでも行こっか。奈雨ちゃんと、れーかちゃん? も誘ってさ!」

 どこにしよっかなー、とぱんぱん手を打ちながら、先輩は隣にいる東雲さんに目を向ける。


「シノちゃん、食べたいものは?」

「あんまりないです」

「あんまり、というと?」

「甘いものが食べたい気分です」

「飴あげるよ」

「ありがとうございます」

 東雲さんは飴玉を受け取ると、それを口に含んで机に突っ伏す。
 そしたら、胡依先輩も同じようにだらんと上半身だけ机に寝そべった。

「つかれた」

「つかれました」

「うぐぐ、でもこれからヒサシちゃんに書類を出しに行かねばならんのだ……」

 ぐおー、と怨念味のこもった唸り声を上げる。
 どうしてもここから動きたくないらしい。


「俺、行ってきましょうか?」

 と提案すると、

「……私、先生に用事あるんだった」

 と東雲さんが姿勢を起こした。
 先輩は少し呆気に取られたような表情で彼女を窺う。

「入部届、ちゃんと出してきます」

「あー、でもいま?」

「はい、気が変わらないうちに。ついでに書類も出してきますよ」

「そっか」

 東雲さんが出ていってしまったから、当然のように部室に二人になる。
 身体をあげて、椅子の背もたれに身をあずけた先輩は、どこかへ向けて首を左右に揺する。

 そして、その様子を見ていた俺に向けて、ごまかすような笑みをつくる。
 内緒だよ、と言われてもいない言葉が耳に入ってくるような感覚だった。


「そういえば、よかったですね」

「うん?」

「東雲さん、ちゃんと描けるようになって」

「……あー、うんうん、そうね」

 先輩は微笑み混じりに頷いた。
 けれど、

「でもね」と次の瞬間には暗い表情を見せた。

「これからだよ、シノちゃんも……私も」

「……」

「ねえ、白石くん。約束はこのまま継続でお願いできないかな」

「約束?」

「……覚えてない?」

 いえ、と首を横に振る。
 それはちゃんと覚えている。

「……どうしてですか?」

 訊ねると、先輩はなんとなくつらそうな顔をした。


「描けないままでいた方が最終的に幸せだったかもしれない、って、ありえなくはないと思う。
 それに、時間が経って、元来た道を振り返っても、後ずさりしても、踏み出した一歩は絶対になくならない」

「そんなこと、ないと思いますよ」

「あるよ」

 珍しく、強い口調で裏返される。
 もう、どこか泣き出してしまいそうな雰囲気だった。

「なにかを想う気持ちは、たぶん幻みたいなものなんだよ」

「……幻、ですか」

 うん、と先輩は手のひらを天井に向かってかざす。
 ここが外なら、陽の光を避けようとしているような動作だ。

 でも、ここは室内で、電気もついていない。

 きっと、この言葉だって俺だけに向けられているわけではない。


「それで、好きっていう気持ちは、なかでも特別なものだと思う。
 ……だって、そうでしょ? 自分の見た──錯覚した幻を、さらに美化してるんだから」

「……」

「こんな話して、ごめんね。……私、シノちゃんの様子見てくるよ」

 そう言って部室から出ていこうとする胡依先輩を、俺は呼び止める。

「……東雲さんのこと、好きなんですよね?」

 訊いてはいけないことだと思いつつも、訊かずにはいられない。
 ふっと、つまらなさげなため息が耳をかすめる。

「好きだよ」

 でも──、と彼女が続けた言葉は小さすぎて、うまく聞き取れなかった。
 その代わりにドアの閉まる音だけが、やけに鮮明に聞こえる。

 寂しさを孕んだ、けれど、ひどく冷たい響きだった。


【文化祭 2ー9】

「失礼します」

 職員室に入ると、さっきまで疎らだった先生の数がさらに疎らになっていた。
 そんななか、ヒサシ先生は机に突っ伏している。紙コップの中身は空になっていた。

 私が声を掛けると、先生は慌てて顔を上げる。

「なんだ、東雲か」

「はい。これ、部長さんからです」

 中の書類に目を通すと、少しだけ驚いたような目で見られる。

「完売したのか?」

「はい」

「すごいじゃないか」

「ありがとうございます」


 忘れないうちに、さっき部長さんから受け取った入部届を先生に出した。
 あと一人か、と言われたから、もう二人入る予定です、と言っておいた。

 ヒサシ先生は、「へ?」とまたしても目を丸くして、それから笑った。

「東雲は、部活、どうだ?」

「……楽しいですよ」

「あいつら真面目にやってるか?」

「はい」

「そうか。まあ、そうだろうな。白石も胡依も、真面目なときは真面目なやつだろうしな、伊原は知らんけど」

「ソラくんは、おもしろいです」

「あいついつになったら課題出してくれるんだろうなあ」

 あからさまなため息に思わず笑みがこぼれる。

 それから少し会話をしているうちに、未来くんと、ソラくんの部活での様子を訊かれた。
 一応担任だから、と。授業でも思っていたけど、先生も適当なようでマメな人だ。

「胡依は──」と言いかけて、先生は言葉を選ぶように、言いとどまる。


「ちゃんと部長やれてるか?」

「はい。今回の部誌作成も、かなり引っ張ってくれました」

「そうか」

「……本当ですよ?」

「……いや、あいつのこと、それなりに信頼してはいるからな」

「そうですか」

 じゃあどうして、さっきまでのように嬉しそうにしていないんだろう。

 と、そう思っていると、ヒサシ先生は「ただ……」と視線を書類に向けながら口を開いた。

「ただ、あいつのこと、あんまり頼りすぎるなよ?」

「……え?」

「あいつは、周りが思うほど強い人間じゃない」

「……」


 そんな言葉が飛んでくるとは思っていなかったから、思わず声を失う。
 先生は私の顔を見て、何かを思ったようだった。

 書類と入部届を手に、先生は席を立つ。

 不意に、ドアの開く音が聞こえた。
 振り向くと、部長さんが立っていた。

「なに話してたの?」

「いや、なにも」

「ふうん」

「胡依が昔はかわいかったって話をしてたんだよ」

 戻ってきた先生が、部長さんをからかうように言った。

「……ちょ、ヒサシちゃん! 余計なこと言わないで!」

「今じゃこんなに生意気になって、昔のかわいかった頃が懐かしいよ」

「ヒサシちゃんのばか!」

 ははは、と先生は笑う。
 昔って、どれほど昔なのだろうか。中学生? それとももっと前?


「ていうか結婚なあなあにしてるヒサシちゃんにそんなこと言われる筋合いないし」

「おい、胡依……」

 先生は急に狼狽えた。

「早く結婚すれば良いんだ、ばーか!」

「……今日言われたばっかなんだが」

「ばーかばーか」

「うっせ」

 何が何だかわからない。
 先生と、その彼女さん? の話だろうか。

 お互い言い合い(というよりヒサシ先生のことを部長さんがいじっていた)が続いて、しばらく見ていると、どちらも疲れたらしく自然と会話が止んだ。
 お先します、と言って外に出ようとすると、どちらからも「今のことは黙ってて」と言われる。

 仲良いんだな、と思う。

 これも、私の知らない部長さんの姿だ。


【文化祭 2ー10】

 閉会式は特に盛り上がりもないまま、つつがなくとり行われた。

 周りを見渡しても、ほぼ全員が疲れ切ったような表情をしている。
 やりきった感よりも、それが先に出てしまっている気すらする。俺もそうかもしれない。

 実行委員の話も、誰だよ、と野次を飛ばされる教頭の話もしんとした空気ではあったが、賞の発表になると一変した。

 まずは、部門別の発表。
 4ーEはアトラクション部門の二位で名前が呼ばれた。
 部門二位には副賞がなかったから、ちょっとだけクラスメイトは残念そうにしていた。

 ステージ部門では、奈雨のクラスが一位だった。
 奈雨とエリ役の子が登壇すると、列の一部が沸いた。零華のきゃーきゃーした声も聞こえた。

 そして、奨励賞、特別賞、審査委員賞、優秀賞、と進み、奈雨のクラスは最優秀賞でまた名前が呼ばれた。

 エリ役の子は泣いていた。奈雨はちょっと恥ずかしそうに笑っていた。


 挨拶やら総評を終え、閉祭宣言が出された後、部室に戻ってぐだぐだと片付けを始めた。

 ソラは水泳部の助っ人としてプールで泳いでいたようだった。
 俺の夏はまだ終わってねえ、と言っていたが、普通に寒そうにしていた。

 打ち上げには、部員四人と、奈雨と零華が参加して、ヒサシに車を出してもらい焼肉を食べに行った。
 人の金で食べる焼肉は美味い、と胡依先輩が言っていた。

 帰り道は、零華と奈雨、東雲さんと胡依先輩、俺とソラの三つにわかれて帰った。
 ぐだぐだ話をしながら家に帰って、眠くならないうちに、奈雨と明日どこに行くかを決めることにした。

「どこに行きたい?」

 と俺が送ると、

「うち、来てよ」

 と返信が来る。
 そして、返信を考える間に、続けて、

「お母さんとお父さんが、連れてこいってうるさい」

 俺は少しどころじゃなく緊張した。


【春にはまだ早すぎる】

「コンペしよう! コンペ!」

 部員が二人増え、だらだらと数週間過ごしていると、胡依先輩はいきなりそう宣言した。

「私はもっとみんなの描いた絵が見たいわけですよ」

「そういう胡依先輩が一番だらけてると思うんですけど……」

「うぐ」と先輩は唸る。

「まあ、でもいいですよ。何か締切りがあった方がやりやすいと思いますし」

「みんなは?」

「問題ないっす」とソラが、
「いいですよ」と東雲さんが言った。

「じゃあ、わたしも」「わたしも」と零華と奈雨がそれに続く。

 二人とも(特に零華は)、短期間で東雲さんになついていた。
 お姉さんオーラがいいらしい。あと、単純にかわいいらしい(零華談)。


「今回は初めてだし、テーマを決めてやろっか」

「そうしますか」

「何かこれやりたいーって案とかある?」

 その言葉に、みんなで顔を見合わせて、首を左右に振る。

「じゃあ、私が決めるね。えっと、ええっと……」

 先輩は視線を、東雲さんの方へ向ける。

「そうだ。テーマは"春"にしよっか」

「春ですか?」と東雲さんは小首をかしげる。

「ん、いい季節だよね」

「まあ、嫌いではないです」

「私も、嫌いではないよ」

 俺はそこで"春に三日の晴れなし"という諺を思い出した。
 たしか晴天も、雨も、長くは続かないというたとえだったはずだ。

 "一葉落ちて天下の秋を知る"。

 春にはまだ早すぎる。


【雨の後は上天気】

 部活を終えて、二人で校舎の中を歩いて学校の外に出た。

「今日、いいよね?」

「うん」

 今日は金曜日で、だから、奈雨は俺の家に泊まっていくらしい。
 明日ちょっと遠くに遊びにいくついでというのもあるけど、奈雨は何かと家に泊まりたがるようになっていた。

 理由を訊くと、俺の部屋で寝るのが好きだから、と返された。
 本当に、うちに来るとすぐに寝ている。猫みたいに無意識に身体をくっつけられるから、少しだけ困る。

「ただいま」

 と俺が言うと、奈雨も同じ言葉を言いかけて、何かに気付いたように素早く靴を脱ぐ。
 そして、玄関に上がって、こちらを振り向いた。


「おかえり」

「……」

「……の、ちゅーでもしようよ」

「なんで?」

「え、だめ?」

「だめじゃないけど」

 ちゃんと付き合うようになってからというもの、かなり唇を貪られている気がする。
 さすがに自制くらいはしようと回数を指定すると、"ちゅー"は"キス"ではないからノーカンという謎理屈で通された。

 それに、親公認だよ、実質許嫁だよ、と事あるごとに言ってくる。
 だったら全て許されるというわけではなかろうに。俺が困っている様子すらも楽しまれているのかもしれない。

 などと考えていると、奈雨がそろりと顔を近付けてきた。

 口の前に手を出してガード。えへへばれたか、というような表情をされる。
 ……まあ仕方ないか、と結局本心に従って目を瞑ろうとする。

 と、その瞬間、ガチャリという音が前から聞こえてくる。


「おかえりー、って、なにやってんの?」

「……あ、佑希」

「おお、またいちゃついてたの……」

「いちゃついてはない」

「はいはい。夕飯の買い物行ってくるから、色惚け二人はそこどいて」

 しっしっ、と手で払われる。
 俺はすぐにどいたが、奈雨は頑としてどかない。

「なに? 一緒に買い物行きたいの?」

「うん、行こ」

「お、おー……」

「お兄ちゃんにおかえりって言ってもらいたくなった」

「……ばかだ。おにい、ばかだよこの子」

「佑希には言われたくないなあ」

「だから、お姉ちゃんって呼んでよ」

「佑希は佑希でしょ。ほら行こ、お兄ちゃんバッグお願い」

 この二人もなんだかんだで仲良くなってきたのだろうか。
 今の様子を見ても、たまに話ぐらいはするようになったらしい。

 それを、俺はかなり嬉しく思っていた。


【追われてます!】

 風呂を済ませた後、何か甘いものでも食べようと二人で近くのコンビニに向かった。

 買ったものをコンビニの外のベンチで食べてから、ちょっとの間あたりを散歩することにした。
 住宅街を抜けて、河川敷を歩いて、ビル街に出たところで折り返す。

 その帰り道、家が近付いてくると、

「あ、そういえば」

 と奈雨は急に足を止める。

 振り返ると、彼女は夜空を見上げていた。

「どうした?」


 言いたいことがあるの、と言われたので、頷きを返す。
 奈雨は深い呼吸を何度もして、息を整えてから言い始めた。

「わたしね、やっと追いつけたかな、って思うんだ」

「……」

「もっと強くなって、いつかお兄ちゃんの隣に立てるような女の子になるんだって、ずっと考えてた」

「……うん」

「また差を付けられても、すぐに追いつくから。……隣で、手を握って、つかまえてるから」

 先ほどできた一歩分の距離を詰め、奈雨は俺の手を掴む。


「だから、今はスタートラインなのかな」

「うん」

「こうして並んで歩けてることが、すごくうれしいの。ずっと、ずっと前から夢見てたことだったから」

 だからね、と。

「……お兄ちゃん、もう一歩近付いてもいい?」

 数秒の沈黙のあと、返事の代わりに抱き寄せる。
 すると彼女は、俺の腕の中で、幸せそうに笑う。

 その笑みは、ほかのなによりも綺麗で、愛おしいものだった。

おわり

女の子達周りについてはまたいつか書きたいと思います。今度はもっと落ち着いたのを書きます。
次回作についてはTwitter(@2_ra_ra3)やらブログ(http://blog.livedoor.jp/vso2a/)で言うと思うので、よろしくお願いします。質問とかもあれば投げてくれてかまいません。
ここまで読んでくださった方々、ありがとうございました。

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