横山奈緒「白い雪に舞う」北沢志保「青色は」 (23)

・アイドルマスターミリオンライブ、北沢志保と横山奈緒がメインのSSです。
・地の文多め。
・ちょっぴりシリアス系。



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 目の前で、ふわり、と一匹の蝶が舞う。私には、その意味がまるで解らなかった。
 気がついたら私は此処にいて、蝶は其処にいて、つまり、今へ至る過程に脈絡なんてものは何もなくて、まるで一つの物語を途中から読み始めたときのような気持ちにさせられる。
 それは決して状況に対する一方的な不快感ではなく、状況に理由を求める感情だった。
 
 しばらく立ち尽くしていたように思う。
 あるいはその蝶を眺めていたのかもしれないけれど、別にそんなことは大して重要じゃないのだから、どうだっていい。
 でも、もしかするとその蝶に目を奪われていたのかもしれないと思った。
 だって、今更になってようやく私は自分がどういう場所にいるのかということに意識を向けられたのだから、きっとそういうことなのだろう。
 
 周囲をぐるりと見回してみる。でも、其処には太陽も月も雲も星もなくて、ただ夜の匂いだけが水入れに澱んだ黒のように重たく横たわっていた。
 自分の手はしっかりと見える。たしかに存在することが感じられる。
 なのに、他に感覚を刺激するものは何一つだって見つけられない。
 ああ、いや、忘れていた。
 あらゆる存在を拒絶するかのような真っ暗闇の中で、しかし、その蝶ははっきりと其処にいた。
 塗りつぶされた黒の上に浮かぶそれは、私を全く別の世界へと、ここではない何処かへと導いてくれる妖精のようにも思えて、私は少し安心する。
 その鮮やかな青の翅はモルフォチョウだろうか、なんて考えるフリをしてみた。
 もしもここが黒色の絵具に染められた水の中だったのなら、その鬱陶しいまでの眩しさを湛えた青はきっと唯一の希望なのだろう。
 一体何にとっての希望なのかとすぐに自問してみるけれど、そんなことは分かりきっていたし、その蝶の意味だって、きっと最初から知っていた。

 ずっと夢を見ていた。
 その始まりが幸せなものだったかと訊かれると返答に困るけれど、でも、色んな人に出会って、色んな経験をして、色んな世界に触れて、色んな宝物を手に入れて、いつの間にか、私の周りにはたくさんの笑顔があった。
 それはとても楽しい時間で、いつまでも醒めなければいいのになんてことを願ってしまうほどに心地よくて、暖かくて、優しくて。
 今では愛おしいとさえ思えるその欠片たちを、忘れたくはない。
 
 でも、夢は必ずいつかは終わる。
 明けない夜がないように、ひとたび朝が来ると、それまでの世界はすべて深い霧の中へと閉ざされてしまう。
 後には漠然とした感覚だけが残されて、それすらもすぐに風化してしまって、そして、いつかはそれが其処に在ったことさえ思い出せなくなる。
 
 そんなことは誰だって知っている。
 
 だから、私は怖かったのだ。忘れたくない記憶を、忘れたくない感情を、忘れたくない誰かを、それでもいつかは忘れてしまうんじゃないかなんて、内から湧き上がる恐怖を抑えつけることができなかった。

 ふと、柔らかな風が髪を撫でたような気がして、後ろを振り返る。
 そんな風なんて此処に在るはずがないのだから、それは単なる言い訳で、ただ何となく振り返りたくなっただけだけれど、振り向いた先には一つの気配があった。
 例に違わず深い黒にすっかりと覆われていて、その姿はまるで見えない。でも、私が背後に目をやるのをずっと待っていたのだろうと直感的に感じとる。

「あなたは、どうしたいの?」

 突如投げかけられた無機質な言葉が、茫然と広がる闇の中へこだまする。
 その聞き慣れた声に、あぁ、やっぱりそうか、と思った。

「……さぁ」

 素っ気なく、まるで返事になっていない返事をする。どうしたいのかなんて、いまの私に分かるはずもない。
 そもそも、それが分かっていたのならこんな夢へは迷い込まなかった。

 視線を前へと戻す。すると、先の蝶が今まさに飛び立とうとしているところだった。
 刹那、途轍もない恐怖心に駆られる。それはつまり、私だけがここに取り残されることを意味していたから。
 慌てて手を伸ばして掴もうとするも、蝶は私の身体をすり抜けてなおも飛んでゆく。
 いや、それはきっと逆で、私がその青をすり抜けているのだろう。だって、間違っているのは私なんだ。その蝶は、彼女は、何も間違ってはいない。
 それでも、私は必死に手を伸ばす。
 掴めないと知っていても、たとえ一瞬でも、触れてみたくて。
 あと、ほんの少しで――

「志保?」

 どこか遠くで、そんな声が聞こえたような気がした。
 緩慢な動作で眼を開くと、途端に少し黄色がかった茜色で視界が塗りつぶされる。
 しばらくして、若干の身体の痺れや、全身を包むフローラルの香りなどが次第に感じられるようになって、徐々に意識が覚醒しつつあるのだと分かった。
 
 どうやら眠ってしまっていたらしいと、思考が現実へ追いつくのにそう時間はかからなかった。
 未だわずかに蕩けたままの意識を掻き分けて、記憶を遡ってゆく。
 先ほどまで奇妙な夢を見ていたような気がしたけれど、その内容については断片的にしか思い出せない。
 寝起きのときは、いつだってそうだ。それまでに見ていた景色も、世界も、其処にいた自分さえも、泡沫のように消えてゆく。
 たしか一匹の蝶がいて、それを私が追いかけているような、そんな夢だった気がする。それ以外のことは、よく覚えていない。
 一方で、どうしてこんなところで眠っていたのかということについてなら、割とすぐに思い出せた。

「魘されてるみたいやったけど……」

 視界はまだぼやけたままだけれど、そう言いながらこちらの顔を覗き込もうとするその人は、他ならぬ奈緒さんだろう。
 その特徴的な声を聞き違えるはずがない。
 最悪のタイミングだな、と内心呟きつつ、私は毛布を思い切り被ることで、何とかその視線に捉えられることを防いだ。
 次いで身を捩らせ、壁の方を向く。奈緒さんには背を向けている体だ。

「えっ、どないしてん」

 奈緒さんは少し困惑しているようだった。誰だってわざわざ声を掛けたのに無言で拒絶されたらそう感じるだろう。
 人によっては不愉快に思うだろうし、傷つくかもしれない。
 だから、悪いのは私なのだけれど、それでも、奈緒さんにだけは今の自分を見せたくなかった。

「何でもないです」
「何や、気になるやんか」

 ぼすん、と音を立てて奈緒さんが私の背後へ座り込む。
 それに合わせて、ベッドが少し軋んだ。

「悩み事があるんなら、お姉さんに相談してみ?」

 ニヤついた表情が目に浮かぶような、それでいて、優しく包み込むような声だった。
 その温もりについ甘えてしまいたくなってしまうのは、それだけの時が経た証左となるに違いない。
 この数年で私は多くのものを手に入れたし、同時に多くのものを失った。
 それは幼さだったり、それ故の信念だったり、そんな何かしらだ。

「別に、何も」

 そうはいっても、私は私のままだ。
 矛盾しているように思われるかもしれないけれど、私は今だってどうしようもないほどに私でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
 失ってしまったと思っている自分自身は、今も心のどこかには残っていて、自分にはそんな彼女たちが見えなくなってしまっただけじゃないか。
 そんな風に考えることがあった。
 
 だから、今だって、きっとそうなんだ。

「ふぅん」
 
 室内には涼しげな空調の音だけが響いていた。
 私も奈緒さんも、その沈黙を破ろうとはしない。
 もしいまこの場所からあらゆるものが消えてしまったのなら、私たちはずっとここで立ち止まったままでいられるのに、その音が邪魔をする。
 冷たく、白々しく、そしていかにも機械らしく、現実という構造を例外なく填め込もうとする。
 私が何も言えなくなったのは、きっとそんなごく普通のことに嫌気が差したからだ。
 そこには、せめて私だけでも、という反発心があったように思う。
 
 そうやってどのくらいの時間が過ぎただろう。
 数十分、一時間、あるいはたったの数分かもしれない。
 いまの私から時計は見えないから正確な時間は分からないけれど、私が感じているほどの時間は多分経っていないのだろうなと思った。
 だって、世界はまだこんなに夕焼け色だ。
 
 煩わしい空調の音にいい加減耐えかねた私は、ゆっくりと口を開いた。

「いつまで、そこにいるつもりですか」

 壁へ向かったまま、呟く。

「邪魔?」
「……邪魔、ですよ」

 服の端をぎゅっと強く握りしめる。
 違う、そんなことを言いたいわけじゃない。それなのに、口は思うようには動いてくれない。

「そうか」

 どこか寂しげなその声は、私の心を深く深く抉ってゆく。
 胸はこんなにも痛いのに、血は一滴だって流れやしない。
 いっそのこと思い切り泣けたのなら、いやに感傷的になっている自分自身も一緒に拭い去ってしまえるのに、なんてことを考えた。
 
 奈緒さんは、いまだそこから動こうとはしなかった。
 それは、つまり、そういうことなんだろう。
 きっと私の言葉を待ってくれているんだ。これまでがそうだったように。
 
 だから、私は、

「いつまで……」

 震えそうになる声を、それでも何とか押し出した。

「いつまで、ここにいるつもりですか」
「やっぱり聞いとったんか」
「……」

 はぁ、と息を吐くのが聞こえた。それと同時に、再びベッドが微かに音を立てる。
 よかった。私の息を呑む音は、きっと奈緒さんへは届いていないだろう。

「まだ色々とせなアカンこと残ってるし、一ヶ月とかそこらちゃうかな」

 一ヶ月。その言葉に私は再び打ちのめされそうになる。
 それは、私がここにいる理由であり、恐らくは奈緒さんがここにいる理由でもあった。

「まさか、アイドル辞める日が来るとはなぁ」

 奈緒さんがぽつりと呟いた。どこか遠くを見ているような声だった。

「それに一抜けやしな。絶対このみさんが一番に引退すると思ってたんやけど」

 奈緒さんはあっけらかんとした調子で言った。
 そんな態度に少し腹が立ってしまう。
 それと同時に、そんな自分のことを身勝手だとも思った。
 奈緒さんは何も間違っていない。拗ねた子供のような我儘を言っているのは、間違っているのは私の方だ。

「いつかはさ」

 奈緒さんは、子供を諭す母親のような口調で続ける。
 それは何かを押し殺しているようにも聞こえるけれど、私の思い違いだろうか。

「こういう日が来るって、志保ならちゃんと分かってたやろ」
「……」
「だから、せめて笑顔で送り出してえや」
「……それは、出ていく側が言っていいことじゃないでしょう」

 何かを言い返したくて、そうして私の口から洩れたのはそんな子供じみた言葉だけだった。
 奈緒さんは、違いないな、と短く笑う。

「別に一生の別れってわけやないんやしさ」

 そう言う奈緒さんの心情は、私からは窺い知れない。
 この人は何を思って、何を考えて、何を願って、其処にいるのか。私にはその程度のことさえ分からない。
 何年も一緒にいたのに、私は何も知らない。
 本当に、何も分かっていない。

「奈緒さんは何も分かってませんよ」

 私は、何も。

「私のことなんて、何も」

「かもな」

 感情のままに放った言葉を、それでも、奈緒さんは優しく受け止めてくれる。
 それがきっと奈緒さんの強さなんだと私は思った。

「たしかに。正直、意外やった」

 これまでよりも少し大きめの声がした。

「てっきりクールに送り出してくれるもんかと思ってた」

 いつもみたいに、と続ける。
 私は、何も返さなかった。

「だから、プロデューサーさんとの話を聞かれたかもと思って、急いで探し回って。そんでここで志保を見つけたときは驚いたわ。まさか、こんなところにおるとは思ってなかったし」

 ベッドがまたも微かな悲鳴を上げる。
 それは、あるいは私の心からわずかに洩れた叫声だったかもしれない。

「志保のこと、何も分かってなかったんかもなぁ」

 それは今にも消えてしまいそうな、いなくなってしまいそうな声で。
 分かってるんだ。
 本当は奈緒さんの言うように笑顔で見送るのが正しいことくらい、ちゃんと分かっている。
 知っている。
 でも、私にそうさせてくれないのは未だ幼い自分自身だった。
 以前は、誰にだって衝突した。静香にだって、春香さんにだって、自分の考えを一方的にぶつけたことが何度もあった。
 そうやって誰かを傷つけて、あるいは傷ついて、でも、それはただの独り善がりに過ぎないと知って、知らされて、そして、ようやくいまの私がここにいる。
 
 それなのに、私はまた同じことを繰り返すつもりなのか。
 
 また、自分勝手に誰かを傷つけるのか。

「絵本やと、最後にハッピーエンドを迎えて、それから先はずっと幸せに過ごしましたみたいなんが多いんやろうけど。でも、現実はなかなかそうも言ってられへんやん」

 奈緒さんはゆっくりと続けた。そうさせているのは、私だ。
 
 私のせいだ。


「やからさ、志保」

 普段の奈緒さんからは全く想像のつかないほどに弱弱しい声が、無音に響く。
 静寂を越えた何かが詰め込まれた部屋の中で、私は、きっとその言葉に溺れていた。
 だって、こんなにも胸が詰まりそうで、息が苦しくて、足掻くほどに絡みついて離れない。
 その声が内へと染み込んでくるにつれて、もっともっと深く、私は水の意識へと沈んでゆく。
 深さを増すにつれ、辺りからは何もいなくなって、ずっと追いかけていた鮮やかな青色だけがただ其処に残される。
 やがては差し込む光も途切れて、その青さえ見えなくなって、いっそ感覚なんて無くなってしまえばいいのに、冷たく暗い海の底で私は独りぼっちになる。
 あるのは真っ暗な孤独だけ。
 そんな未来が酷く恐ろしくなって、私は上空をめがけて手を伸ばした。
 これ以上大切な何かを失うのは、誰かを失うのは嫌だったから。
 
 再び目を開いて映った景色は、さながら私の空想が世界に溶け出して混ざりあったかのようだった。
 空気にすっかり紛れていた茜色はいつの間にか黒へと変わっていて、まだ大した時間は経っていないはずなのに、でも、夜はすぐ足元まで迫っているのだと分かる。
 数秒前の妄想の影が、また脳裏を掠める。
 もしかしたら、もうそこに奈緒さんはいないんじゃないかなんて、真っ暗で冷たい夜が攫ってしまったんじゃないかなんて、まるで夜に眠れない子供を苛むような不安が全身を駆け巡る。
 そんな感情に突き動かされるまま、私は飛び起きた。
 被っていた毛布も脱ぎ捨てて、視界が追い付くよりも先に、手のひらで奈緒さんを感じ取る。

「……っ!」

 手探りで掴んだ奈緒さんの手は、ひどく冷たくて、震えていた。
 瞬間、胸を突き刺すような強い衝撃に襲われた私は、思わずその手を放してしまった。

「奈緒さん……」

 ようやく闇に慣れてきた眼が奈緒さんの姿を捉える。
 その肩は小刻みに震えていて、今にも何かが溢れ出してしまいそうな様子だった。

 そして、そこでようやく、私は奈緒さんの想いへと至る。
 今更だ、と思った。

 遅すぎる。

「私かて、志保と、みんなと別れたくなんかない……」

 嗚咽交じりの声が零れる。少し手を伸ばせば届くような、それだけの先に奈緒さんはいるのに、その声はとても遠くて。

「でも、仕方ないことなんやって。そう言い聞かせとったのに……っ!」

 まるで溢れ出す涙を振り払うように、次第に声は大きくなっていく。
 それは私へ宛てた言葉というよりは、やり場のない感情を虚空へ吐き捨てているように聞こえた。

 その背中に、あぁ、と思う。奈緒さんはそんな風に泣くんだな、なんてことを考える。
 奈緒さんのことを何も知らないなんて言いながらも、心のどこかでは薄らと分かっているような、繋がっているような気がして、自惚れていて、でも、本当に私は何も知らなかったんだ。
 だって、その涙の色一つさえも、私は見覚えがなかったのだから。
 
 夜はますます深くなる。
 其処にいるはずの奈緒さんを隠していく。
 真っ黒な影に埋められた隙間は、たった数センチメートルしかないはずなのにとても離れて感じられる。
 なんてもどかしい距離なんだろう。
 今すぐにでも奈緒さんを抱き寄せられたのなら、こんな暗闇なんてきっと私は何も怖くないのに。
 でも、そうすることなんて到底できるはずがなかった。
 ずっと間違っていたんだ。
 私たちはあまりにもお互いのことを知らなさ過ぎた。
 いまの私には、奈緒さんに寄り添う手も、言葉も、何もなかった。

「……ごめん」

 少し落ち着いたような口調で、奈緒さんはそう言う。
 それが何に向けられた言葉だったのか、私にはまるで分からなかった。

「帰ろか」

 ――いつまでもここにおるわけにもいかんしな。そう呟いた声は、まだ微かに震えていた。


「雪や」

 すっかり人の気配のなくなったシアターを出て、奈緒さんが最初に言ったのはそんな言葉だった。
 その視線を追うように、私も空を見上げる。
 その先にあったのは灰色の雲に覆われた不機嫌そうな空と無感情そうな雪だった。
 都会の夜空に星が見当たらないのは街が明るすぎるせいだなんて言うけれど、真っ白な雪が黒い空に描く丸い直線は、街の光も相まってまるで星が降ってきたように見える。
 この街でこんなにも雪が降るなんて決してよくあることじゃない。
 だから、眼前に広がる幻想的な景色はまさに奇跡の産物と言っても過言じゃなかった。

「私、傘持ってないんやけど」

 奈緒さんは真っ白な息を吐き出しながらそう呟いた。
 一方の私はというと、ちゃんと傘を持っている。
 というのも、今日は一日中冷え込むから夜には雪が降るかもしれないと、朝の天気予報で聞いていたからだ。
 奈緒さんは天気予報を見てこなかったのだろう。らしいといえばらしいなと思う。

 くるりと私の方を振り向いた奈緒さんは、手元にある傘へ一瞬目をやったが、すぐにその目線をこちらへ向けて、こう言った。

「駅まで一緒に走らへん?」

 それと同時に、目の前に手が差し出された。
 雪を背にした奈緒さんの目元は赤く腫れたままだけれど、しかし、子供っぽい笑みを浮かべていた。
 まるで誰かに悪戯を仕掛けようとしている小学生のような、純粋で、それでいてどこか寂しそうに見える笑顔だった。
 そんな奈緒さんの様子に、私も少しだけ笑ってしまう。
 別に、その笑みに釣られたわけじゃない。
 ただ、奈緒さんはそうやって誰かに甘えるんだな、と思っただけだ。

「嫌ですよ。やるなら一人でやってください」

 私は、いつも通りの言葉を、いつも通りの様子で返す。

「ははっ」

 奈緒さんも、いつも通りの笑顔を、いつも通りの仕草を交えて返す。
 それが私の、私たち二人の答えだった。

 もし今日が訪れるよりも早くに選択を迫られていたとしたら、私はその手を取ることを選んだだろうか。
 奈緒さんは、私の傘を使うことを選んだだろうか。
 そんなことを考えてみたけれど、何一つだって分かるはずがなかった。
 
 遠くなっていく奈緒さんの背中を見送る。
 まるで少年のように雪の降る中を走り去っていく奈緒さんの後ろ姿が、夢に見たあの蝶に重なった。
 手を伸ばしてみようかとも思ったけれど、当然届くはずがない。
 だから、やめた。
 でも、それでよかった。
 私たちは間違ったままでいることを選んだのだから、たとえこの手が届かなくたって、いつかその青が見えなくなったって、それは私たち二人の意思だ。


「……」

 頬に冷たい何かを感じた。
 最初、それは灰色の空から降り注ぐ雪のせいだろうと思ったけれど、しかし、その何かが頬を伝う感覚は止まない。
 いよいよ鬱陶しくなって手で拭い去ろうと思ったとき、初めて私はそれが涙だったことに気がついた。

「何で私、泣いてるんだろ」

 相も変わらず不機嫌そうな空に向かって呟く。
 奈緒さんの前じゃまるで泣けなかったのに、そんな役立たずの涙なんてもう要らないのに、どうして今頃になって私は泣いているのだろう。
 
 分からない。
 
 自分のことなんて、他人のこと以上に何も知らないのだから、分かるわけがない。
 でも、何となくだけれど、一つだけ分かったような気がする。
 私はきっと、奈緒さんのことが好きだったんだ。

「……本当に、邪魔な人だな」

 伸ばそうとした手を引っ込めて思い切り眼を擦る。
 その間にもう、白い雪に舞う青色は見えなくなっていた。


終わりです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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