【モバマス】もしも、明日晴れたなら (27)

・アイドルマスターシンデレラガールズの二次創作です。
・独自解釈を含みます。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1515058751

きっかけ、ですか。

 扇風機がね、落ちてきたんです。

 あっ、違いますよ? お部屋に置いて夏に使う小さいのじゃなくて、天井についていて、照明と一緒になっていて、いつものんびりくるくるまわっている、あの……そう、それです! へえ、あれってシーリングファンという名前なんですね。

 あの冬の日、それが私たち二人の上に落っこちて来たんです。

 ふふ、びっくりですよね? 実は私も、あのときはとてもびっくりしました。

でも、それが私―――高森藍子が白菊さんのことを知りたいと思ったきっかけだったのは、間違いないことです。

 実のところ、それまで私は白菊さんに何か、特別の興味を持っていたわけではありませんでした。

 私の所属しているプロダクションは大きくて、白菊さんとは担当プロデューサーさんも違います。 その上、あのころ白菊さんはスカウトされてから間もなくて、ほとんど接点なかったんです。

 だから、これはおそらくですけれど、あの日シーリングファンが落ちてこなかったら私と白菊さんは『あまり親しくない同僚』のままだったんじゃないでしょうか。 そう考えると、人の縁って不思議ですね。

 私達のプロダクションが入っている建物は大きなビルディングで、毎日いろいろな人が出入りしています。 私がお世話になってるPさんの事務所は10階なんですが、エレベーターはいつもめまぐるしく動いていて、一階に降りようとしてもけっこう待つって感じでなんです。

 あの日、レッスンを終えた夕暮れ時もそんな感じ。 一度20階まで上がったエレベーターが19、18、17……って、各駅停車でゆっくりゆっくり降りてきて。

 ようやく乗り込んだ帰りのエレベーターで、私は白菊さんと一緒になったんです。


 何の偶然か、乗っていたのは白菊さんただひとり。 とはいえさっきお話しした通り、まだお互い顔を知っているかどうか―――というぐらいでほとんど面識はありません。

 二人で『おつれさまです』とか挨拶して二言、三言やりとりしたら、それで会話がもう続かなくて黙りこくっちゃって。 

 珍しく10階から1階までどこにも止まらなかったので、黙ったままあっという間に1階に到着です。

 そのまま二人並んでエレベーターから吹き抜けになっている玄関ホールに出て、別々に歩きだそうとして―――そしたら、ふっと頭上が暗くなったんです。

 あれっと思う暇も、見上げる暇もありませんでした。

 だって次の瞬間、白菊さんが私を思い切り突き飛ばしたんです。

 突き飛ばされたことにも気付かないほど、突然のことでした。私は驚きでまんまるになった目で白菊さんを見ながらたたらをふんで、エレベーター前からすこし離れたところでぺたん、と尻餅を付いてしまいました。 

 ついさっきまで自分が居たあたりに物凄い音を立てて『何か』が落ちて来たのは、そうして私が尻餅を付くのとほぼ同時ぐらいだったと思います。

 ―――私はその一瞬、自分を突き飛ばした姿勢のままでその場に立つ白菊さんにすっかり目を奪われていました。

 白菊さんは、先ほど私たちが立っていたところから、一歩も動いていませんでした。


 いえ、正確には動かなかったんじゃなくて―――たぶん、私を突き飛ばしたあと、白菊さんはそこから逃げる時間がなかったのだと思います。 つまり、動けなかった。逃げ遅れたんです。

 幸い『何か』……シーリングファンはすんでのところで白菊さんを逸れました。彼女は無事です。

 だけど、それは『運良く』の話です。

 なにが落ちてきたのか、どこに落ちるのか―――正確に見る余裕は、たぶん白菊さんにもありませんでした。 
 
 ただ、私たちの上に何かが落ちてくる、と漠然と察しただけでしょう。


 それなのに白菊さんはためらい無く私を突き飛ばして、自分は逃げ遅れました。

 そして、たった今自分の側で起きた出来事が、すこしも恐ろしくないみたいでした。

 ぐしゃぐしゃになった残骸の側にたたずむ彼女はその瞬間、とても静かで、落ち着いるように見えて。

 その彼女の表情が、私の中に焼き付いて離れなくなりました。

 その表情の、なにかが変だと思ったのです。 似つかわしくないと思ったのです。 だって白菊さんはあのとき、とても、とても―――

 ―――寂しそうだったのです。


 だけど、その表情はほんの一瞬でかき消えます。

 はっ、と我に返るように、白菊さんの表情に生気が戻って、戸惑い、驚き、恐れ―――そんなごく当たり前のものに変わります。

 その変化にもまた、目を奪われて。私は白菊さんに目を凝らそうとしたのですが、それ以上白菊さんを見ていることは出来ませんでした。 

 だってあわや大けがの落下事故です。

 派手な音もしました。 

 すぐにまわりは大騒ぎになって、騒ぎを聞きつけた私のPさんも、白菊さんのPさんもすぐ駆けつけてくれて……私たちの周りはあっという間にすごい人だかり。 

 白菊さんの表情はすぐに人混みの影に隠れて、すっかり見えなくなってしまったのです。

 だけど、たった一瞬でかき消えたあの寂しげな表情は私の脳裏に焼き付いていて―――知りたい、と思ったんです。

 あの表情の理由を。

 そして、白菊さんがどういう人なのか、ということを。


●あの子について、思うこと

 白菊さんがどういう子なのか、知りたい。

 そう思った私は、まずそれまで自主的に行なってきたダンスの自主レッスンの時間を変えることにしました。

 もちろんそれは白菊さんと一緒にレッスンを受けるため。

 まずとにかくあの子に近づいて、親しくなりたいとそう思ったのです。

 最初はなかなか会話をする機会もありませんでした。

 今思えばあの事故の後ということもあって、白菊さんは私を避けようとしていたのです。

 ただ、幸い―――というわけでもないのですが、きっかけがありました。

 当時の白菊さんは、あるステップを物にできず、苦しんでいました。

 何度も挑戦して、だけど、うまく行かなくて。 何故うまくいかないのかも良くわからない―――そんな感じ。

 そして私は、どうすればそのステップを物に出来るのか、知っていました。

 だって―――実は私もかつてそのステップが物にできなくて、とっても苦労したんです。

 私と白菊さんは似通ったところがありました。

 余り運動神経がいいほうとはいえないこと。

 直感よりは、地道に積み重ねていくことで何かを物にしていくタイプであること。

 先日スカウトされたばかりの白菊さんのダンスは、以前の私に良く似ていました。

 だからつまづくところ、克服できないところがよく似ていたりして。

 今彼女が何を克服できないでいるのか、解ることがあって……

 やがて私の小さなアドバイスがきっかけで、白菊さんはそのステップを物にしました。

 白菊さんと私が一緒にレッスンする機会が増えてきたのは、それからです。

「高森さん、少し、ステップを見てもらっていいですか」

「高森さん、この課題についてなのですが……」

 一度そうなれば、白菊さんは熱心でした。

 折につけそんな風に声をかけてくれるようになって、嬉しくないわけがありません。

 ちょっと目立たなくて内気だけど、素直で熱心。可愛い後輩―――最初のうち、私の感じた白菊さんの印象はそんなところ。


 だけど、すぐに彼女の美点がそれだけではないと気が付きます。

「高森さん。あの……」

 ある時レッスンを始める前、白菊さんは不意にわたしを呼び止めました。

 靴ひもが切れ掛かっている、というのです。
 
 私はそれに気が付いてもいませんでした。

 いえ、履く時にもちろん一度チェックしていましたから、その後確認しようとも思っていなかったのです。

 私が気づいた白菊さんの美点そのいちは、周囲にとても気を配っていること。

 彼女はトラブルにとても敏感で、ともすれば当人よりもよく注意しています。

 ある時なんか、固定金具が壊れて倒れ掛かってきた資料棚に誰より早く気付き、同期の子を助けたりしていました。

 もしかしたら、私が助けてもらったような事は日常茶飯事なのかもしれません。

 そして、私が気づいた白菊さんの美点、そのに。

「もう一度―――もう一度お願いします!」

 皆がへたばりかかって、本人も汗びっしょりで、くたくたで。

 それでもトレーナーさんの指導に喰らいついて行く白菊さん。

 しばらくレッスンを共にしてすぐに気がつく彼女の美点は、その熱心さ、真剣さ。
 
 白菊さんはとりたてて運動神経が良いわけでなく、飲み込みがいいというわけでもありません。だけどとても練習熱心で、何かにつまづいてもそこで挫ける、ということが無いのです。
 
 練習熱心ということにかけてはきっと茜ちゃんといい勝負。
 
 大人しく物静かなタイプなので見誤りがちですが、むしろ人一倍強く情熱を持っている子なのです。

 トレーナーさんの言葉も一言も聞き漏らすまいとし、何度も何度も出来ないことに挑戦し、克服する。

 その姿勢は、すこしのんびり屋の私自身、見習いたいと思うほどでした。

 気配りができて、素直で、とても熱心。

 あの一瞬の寂しそうな表情とは、結びつかないと思えるぐらいです。 

 だけど長くレッスンを共にするうちに、気がかりはむしろ増えていったのです。


              ◇


「白菊さん。今日はもう、このぐらいにしておいたほうがいいよ……?」

「いいえ、もう少し。もうすこしだけ、やってしまいたいんです」

 消灯の近づいた、誰もいないレッスンスタジオ。すっかり暗くなった窓のそばで、白菊さんがもう少し、もう少しとレッスンを続けようとする。

「もう、消灯が近いから―――ずっと残っているとスタッフの人のご迷惑になっちゃうよ?」

 ようやく時間に気付いた白菊さんが、荒い息をついて、ようやくレッスンを中止することに応じる――― 

 白菊さんはデビュー前。

 だんだんとレッスンは難易度が上がっていきます。

 そんな中、私と白菊さんの間で、こんなやり取りをすることは増えて行きました。

 彼女は与えられた課題を絶対にあきらません。

 自主的に居残りをして、『できない』をそのままにせず、必ず克服しようとします。

 その姿勢自体は、とても素晴らしいことでした。

 だけど、白菊さんのその姿勢は徐々に行き過ぎとなっていきます。

 与えられた課題がどうしてもできないとき。
 
 自分の中で満足がいかないとき。
 
 そんなとき、白菊さんは何かに突き動かされるように、鬼気迫る様子でレッスンに打ち込みます。

 どんなに時間がかかっても、どんなに疲れても、『できない』を克服しない限り絶対にレッスンをやめようとはしない。

 そんなことがだんだんと増えてきたのです。

 もしも誰かが止めなければ、彼女は文字通り倒れるまでレッスンを続けるでしょう。

 今はまだ、私達の制止を聞いてくれます。

 だけど、いつか私達が制止しても、ひそかにレッスンを続けるようなことになってしまうのではないか? 

 私はそれが心配で、白菊さんを目で追うことが増えていきました。

 最初はただ『熱心で真剣』と見えた表情に、いまは焦燥が混じっているように思えます。

 そう、私には白菊さんが何かを急いでいるように見えます。

 いつか、白菊さんはそのせいで取り返しの付かない怪我でもしてしまうのではないでしょうか―――私はそれが、心配です。

 でも何故?

 白菊さんは、何を急いでいるというのでしょう。 

 アイドルとしてスカウトされ、デビューの機会を掴んだ13歳の女の子がそれほどに焦る理由を、私は想像もできずに居ました。

           ◇


 二つ目と三つ目の気がかりは、同じ根を持っています。

 そのひとつは、彼女が一本線を引いて他人と接している、と感じたことです。

 私と白菊さんの関係は、決して悪くないと思います。
 
 二人でレッスンすることも言葉を交わすことも増えて、正直あの時間一緒にダンスレッスンをしているメンパーの中では、私はもっとも白菊さんと会話する機会が多いと思います。

 だけど、白菊さんは決して私的な話はしませんし、レッスンの後を私や誰かと過ごそうとすることはありません。

 自主的にレッスンに打ち込む日が増えるにつれ、その傾向はより強まってきたようです。
 
 決して誰かと協力することを拒むわけではありません。

 ただ、まるである一点を超えて誰かと親しくなってはいけない、と自分に課しているように思えるのです。
 
 ―――もちろん、私達は友達になるためにここにいるのではありません。

 私達は同期であるとともに競い合うライバルであり、場合によっては一つの座を争う敵ともなります。

 決して誰かと慣れ合わない―――という姿勢は考えようによっては、正しいこと。
 
 それが彼女の選んだ道であれば、全体の和を乱さない限りにおいて口出しするべきではないのかも知れません。

 だけど、それなら。

 彼女はあの時、どうしてあんなに寂しげだったのでしょう。

 そして、最後の気がかり。

 それは、私が参加する以前から白菊さんとレッスンを共にしていた子たちの多くが白菊さんを避けはじめている事でした。

 その中には白菊さんと同期の子、同年代の子、白菊さんの気づきによって怪我を免れた子までが、含まれていました。 

 本人が線を引いているのですから、むしろそうなっていくことは当然とも思えます。

 だけど、白菊さんを遠巻きにする子たちの表情を見るうちに、私は違和感を覚えます。

 そこにあるのは不満でも、無視でも、敵意でもありません。

 それは、恐れ。
 
 そう、まるで彼女たちは、白菊さんを恐れているように見えたのです。

 
 


              ◇


「高森さんも、白菊さんにはあまり近寄らないほうがいいと思います」

 白菊さんを避ける子の一人―――仮にA子さんとしておきます―――は、白菊さんと同時期にスカウトされた子です。

 たしか以前、白菊さんの気づきによって資料棚から助けられたのも、この子です。

 そのA子さんに面と向かってそう告げられたのは、更衣室で偶然その子と二人きりになった時の事でした。

 多分、私と二人きりになれるときを、待っていたのでしょう。

 誰かと親しくしない方が良い―――などと勧めるのは、正直関心しないことです。

 だけど私は、それをたしなめようと思う前に、まず驚いて―――あっけに取られてしまいました。

 彼女は、決してこういうことをするタイプの子では無かったからです。

 とてもまっすぐで、頑固すぎるところがあるけれど、優しくて気遣いの出来る、そんな女の子―――

 決して短くない期間レッスンを共にする中で、私はA子さんにそういう印象を抱いていました。
  
 それに―――そう告げる彼女の顔はあまりにも深刻で、苦しげに見えました。

 何が、彼女をそれほど苦しめているのでしょう。

 簡単に否定したり、たしなめたりしてしまって良い話ではない。

 その時私には、そう思えました。

「―――どうして?」

 だから私はできるだけ穏やかに、静かな調子でそう問います。

「……高森さんは『不幸の子』の話を聞いたことがありますか」

 そして、彼女から帰ってきたのは、そんな奇妙な言葉でした。

 聞いたことはありました。

 それは『芸能界の怪談』とでも言うような、不思議な噂です。

 いわく、次から次に事務所を潰す、不幸の申し子がいる。 
 
 申し子は抜けるように色が白くて、少し紫がかった瞳をしていて。


 もし自分の事務所にその子が来たら、様々な不幸な事が起きるようになって、事務所はつぶれ―――おしまいになってしまうんだ、って。

 知ってはいましたが、無論本気で信じていたわけでもありません。

 芸能界というのは、噂や伝説の多いところです。

 そして噂には、すぐに面白おかしい尾ひれがつくものです。

 私は『不幸の子』の噂も、小さな何かに尾ひれのついた、ただの噂に過ぎないと思っていました。

 そんな噂は、信じていませんでした。


「でも、あれはただの噂―――だよね?」

 私は出来るだけ穏やかに言葉を継ぎました。

 だけど、A子さんの表情は深刻そのもの。

「あたしもずっと、そう思っていたんです。 最初は白菊さんと、仲良くしていたし。 だけど―――ただの噂じゃないんじゃないか、って」

 私から目をそらして言葉を続けるA子さん。

「高森さんも、事故にあったって聞きました。私も、です―――だれでもわかるじゃないですか。あんな事故、本当は滅多に起きないって」

 A子さんの言うことは、解ります。

 自分めがけて照明が落ちてきた―――なんて、私には初めての体験でした。

 このプロダクションに所属して、短くない期間を活動してきて、あんな事故に遭ったのは初めてのこと。

 靴紐が切れたりすることも、なかなかあることではありません。

 だけど。

「だけど、貴女を事故から助けてくれたのも、白菊さんだよね? 私も、白菊さんが助けてくれなかったら、きっと大怪我をしていたと思う」

「もし、その事故が、白菊さんが居なければ起きなかったとしたら?」

 A子さんは、真剣です。

「白菊さんと一緒に居るようになってから、いろんなことが起きるんです。 物が落ちてきたり、停電したり、すぐそばで交通事故が起こったり―――そして、そんな事が起きるたび、白菊さんは謝るんです。謝って、言うんです」

 だんだん、A子さんの言葉が早口になっていきます。

 私から顔をそむけて、硬い、震えるような言葉で、続けます。

「『私が不幸を呼んだから』―――って」

 自分が不幸を呼ぶ。

 誰かを不幸にする。

 それが私なのだと―――白菊さんは言ったというのです。

「だから、避けたほうがいいんです。あの子のそばにいると、きっと高森さんもまた危ない目に遭います」


 A子さんの言葉は、続きます。

 口を開いたら止まらなくなってしまった、そんなふうです。

「事務所でなにか良くないことが起きると、まっさきに『それは自分のせいだ』と言うのはほたるちゃん。 人が不幸に巻き込まれそうになったら、自分の身も省みず助けに入るけど自分はいつも無事で……巻き込んでごめんなさい、と謝る。 まるで―――まるで、不幸を呼んでいるのが自分だと確信してるみたいに」

 そんなことが、沢山あったのでしょうか。 

 もしかしたら私の時も、白菊さんは自分の周りで何か悪いことが起きるに違いないと思っていて―――だから頭上に異変を感じたとき迷わず私を突き飛ばしたのでしょうか。

「だから、離れるのがいいんです。きっとそうなんです。白菊さん自身が私達から離れようとしているんだし、それが一番いいじゃないですか。 お互いのためじゃないですか!」

 最後のほうは、叫ぶみたいでした。

 俯いたままぜいぜいと息をついて沈黙するA子さんの肩に、私はそっと手をおきました。
 
 彼女の身体がびくっとすくんだのが、解ります。

「私のためを思って、言ってくれたんだね―――でも、そんなことは言わないほうがいいと思う」

 私の言葉に、A子さんの身体がこわばります。

「どうしてですか。 不幸なんて、偶然に違いないからですか。 同じ事務所の仲間同士、仲良くしなくちゃいけないからですか」

「ううん、違うよ?」

「じゃあ、どうしてそんな事を言うんですか」

「貴女が、とっても苦しそうな顔をしているから」

「―――!」

 彼女は私に白菊さんの話をしている間、ずっと苦しそうでした。 言いたくないことを無理に口にしている、そんな顔を、していたのです。

「こんなことを言いたくない、って顔をしていた。ずっと辛そうだった。 だから―――言わないほうがいいって思う。貴女が傷つくから」

「私は、白菊さんのことで傷ついたりしません。苦しんだりしません」

「さっき、白菊さんの事を『ほたるちゃん』って呼んだでしょう?」

「―――!」

 無意識の事だったのでしょうか。 A子さんは目を丸くして、さっと口元を隠しました。

「白菊さんの事、本当はそう呼びたいんだなあ、って思ったの。離れたくないんじゃないかって―――違った?」

 だって、本当に恐がって、嫌いなら。 苦しむ必要はありません。

 苦しむのは気になっているから。

 苦しむのは、嫌いになりたくないからではないでしょうか。

「私だって―――」

 A子さんはぶるぶる震えて、小さく、小さく声を絞り出します。

「私だって、私だって、私だって! こんなこと言いたくない! 信じたくない!」

 彼女の瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれます。

「だけど、だけど―――もう今は、恐いんだもの―――」

 A子さんは人目を気にせず、わんわんと泣き出しました―――

 


              ◇


「―――私とほたるちゃんは、同じ日に事務所に入ったんです」

 事務所にほど近い喫茶店のボックス席。

 更衣室から場所を移してしばらく時間がたって。

 ようやく落ち着いたA子さんは、ぽつぽつと思い出を語ってくれました。

「ほたるちゃんは、誰かを幸せにできるアイドルになりたいんだって言っていて―――歳も近いし、一緒に頑張って夢を叶えようねって約束したんです」

 私は、聞き役に徹します。 A子さんの鼻がくすんと鳴りました。

「一緒にレッスンして、色々な話をして。楽しかったな……だけど、ある時、変わったんです」

「……変わった?」

「私達のすぐ近くで、交通事故があったんです。 二人とも無事だったし、私はびっくりしただけだったんだけど―――ほたるちゃんの顔は真っ青でした。 ごめんなさいって言って、駆け出して……それからほたるちゃんは、みんなと距離を取るようになったんです」
 
 ごめんなさい。

 私はふと、ぐしゃぐしゃに潰れたシーリングファンの傍らに、ひどく静かに佇む彼女の横顔を思い出しました。

「仲良くなってた子たちとも距離を取るようになって―――どうしたのか聞く私達に、不幸の子の話を、自分の身の上の話をしてくれたのは、他ならぬほたるちゃんでした。 だから、近づかないほうがいいんだって―――私たちは、『そんなこと気にしない、きっと偶然だ』って言ったんです。 そしたら、ほたるちゃんが……」

「―――どう、したんですか?」

「……笑ったんです。とっても、とっても寂しそうな顔で―――そしてそれ以来、ほたるちゃんとの距離は、離れる一方になりました」

 無力感や苦しみが混じったような深いため息が、A子さんの口から吐き出されました。

「私達は、ほたるちゃんのことがだんだん解らなくなっていきました。 いつでも線を引かれていて―――何かトラブルがあると、いつもほたるちゃんが助けてくれて……だけど、それが恐かったんです」

 助けて貰ったのに、何が恐かったのか。

 私がそれを問う前に、A子さんは言葉を継ぎました。

「どんな危険なときも、迷わず助けてくれて―――でも、いつも平気な顔なんです。 まるで、『不幸』を少しも恐れていないみたいに。 その不幸で自分が死ぬことはないとでも思っているようで―――恐かったんです」

 彼女たちが感じたという『怖さ』を、私は否定できませんでした。 あの時私を助けてくれたように、白菊さんはきっと不運な事故があったとき、誰かを助けようとして来たのでしょう。

 そして、いつもあの時のように静かな顔をしていたのかもしれません。 今目の前で起きたことに微塵の恐怖も覚えていないような、あの顔を。

「ほたるちゃんが、解らないんです」

 物理的な痛みを堪えるような顔で、A子さんは言います。

「焦っているみたいに、おかしいぐらいレッスンに打ち込んで。 何も恐くないみたいで。 夢が叶うって喜んでいた、あのときの笑顔がまるでウソみたいで。 どうしていいかわからなくて―――でも、『不幸』は確かに起きていて、ほたるちゃんはそれが自分のせいだと確信してるみたいで―――」

 だから、彼女たちは白菊さんを恐れるようになった。

 だけど、ただ白菊さんが不幸の子だから恐がっているのでは、ありません。

 白菊さんが理解できなくて、恐がっているのです。

 気にしないというのに自分たちからどんどん離れていく白菊さんが、不幸をまるで恐れないように見える白菊さんが、度を越してレッスンに打ち込む白菊さんが、決して理解されようとしなくなった白菊さんが、理解できなくて―――恐れるしかなくなったのではないでしょうか。

 私に、できることは無いのでしょうか。

 目の前で冷めていくカフェオレを眺めて、私はそんなことを考えます。

 喜んで、皆と仲良くしていた白菊さんはかつて確かに居て。

 白菊さんを恐れて、でも、そうはしたくないと心を痛めている子が確かにいる。

 誰も望んでいないのに、皆が苦しい―――なんていうのは、おかしいのではないでしょうか。

「白菊さんと、話したいな」

 私は心の底からそう思いました―――。


●あの子と話せたときのこと

 色々考えていたんです、色々。
 
 一生懸命考えたんです、本当です。

 白菊さんたちのために何かしたい。
 
 そのために、白菊さんときちんと話をしたい。

 そう思っても、それはとっても難しい。

 だってこれは心の話なのです。

 おせっかいに踏み込んでいっても、おおきなお世話どころか問題をこじらせるだけかも知れません。

 私がこうしてねって言ってどうなる話ではないのです。 

 年長の先輩に間に立ってもらって、じっくり話す機会を持つべきでしょうか。

 プロデューサーさんたちの知恵を、お借りするべきでしょうか。

 白菊さんたちの仲を取り持つために、何かの催し物に誘うとかどうでしょう。

 それとも下手なことは考えず、どーんと体当たりをするべきなのでしょうか―――

 煮つまり気味ではありましたが、本当にいろいろ考えていたんです。

 だけど、それらの思案はたった今、全部無駄になってしまいました。

 年末も近づいた土曜の昼下がり。

 ここはプロダクションのエレベーターの中。

「―――業者さんが来るまで二時間ぐらい、かかるみたいです」

 なんだか手馴れた様子で通報装置を使って管理会社に連絡して、状況を知らせてくれるのは白菊ほたるさん。

 そう、私達は今、二人きりでエレベーターに閉じ込められているのです!!

 いつものようにエレベーターを待っていたらそのエレベーターに白菊さんが乗っていて。

 ぎこちなく挨拶を交わして乗り込んだら、そのエレベーターが止まってしまって、これから二時間ふたりきり。

「あの、使い捨てカイロも携帯トイレもありますから……」

 そう、やたら準備万端な白菊さんと二人きりなのです!!

 これは、覚悟を決めるしかないのではないでしょうか。

 とはいえ、何を話せばいいのでしょう……?


「い、今のところ大丈夫かな―――白菊さん、準備いいんだね」
 
「時々あることですから―――」

 手馴れたものです、と言うように小さく笑って、白菊さんは壁にもたれてちょこんと座り込みました。

 私もその隣に座らせてもらいます。

 二人ならんで、エレベーターの窓の外が見える位置。

 見えるのはあいにくの重苦しい曇り空でしたが、開かないドアや壁を見ているよりは、いくらか息が詰まりません。

 エレベーターの中とは言え空は曇りで季節は冬。 壁や床にじんわり体温を取られるみたいに、しみじみと寒いです。

 少し黙ったまま、白菊さんの横顔を見詰めます。

 白菊さんは十分に着込んでいましたが、何故か不思議に寒そうに見えます。

 どこか思い詰めた表情やか細い首。 あのときの酷く寂しげな表情が重なって、そういう風に思わせるのでしょうか。

 二人とも口を開けず、エレベーターの中はしんと静まりかえっています。

 話しかけたいことは、聞きたいことは、いくらでもありました。

 だけどなかなか、きっかけがつかめなくて。

 結局。

「―――ごめんなさい。 私のせいでエレベーター止まってしまって……」

 曇り空を見詰めたまま、視線を合わせないまま口を開いたのは、白菊さんの方。

 聞き様によってはちょっと冗談のような謝罪です。

 私は一瞬、そんなことないよと笑おうとして―――すんでのところで踏みとどまりました。

 だって、白菊さんの表情があまりにも真剣だったから。

 そう、本当に、真剣で―――

「……あっ」
 
 私は、呟きました。
 
 白菊さんの表情を見るうちに、唐突に。

 何かがぱちん、とまはった音が聞こえたような気がしたのです。

 誰かを幸せにしたいと願う彼女。

 迷わず自分の身を投げ出す彼女。

 自分の噂を決して否定しない彼女。

 ―――明日が無いかのように、レッスンに打ち込む彼女。

 今まで私が見聞きした色々な『白菊ほたる』が、私の中で渦巻いていた色々な疑問が、唐突にその一言でぴたりと纏まった気がしました。

 どっ、と背中に汗をかきました。

 そうです、私はとても当たり前の事を、忘れていたと気付いたのです。

「ああ―――もう、もう……!」

「た……高森さん?」

 不意にわけのわからない嘆息を吐き出す私に、白菊さんは戸惑いを隠せないようでした。

 そうですよね、わけが解らないですよね……!

「ごめんなさい白菊さん。 私いま自分の鈍さにちょっとあきれているところなんです……!」
 
「は、はあ……」

 どう反応していいかわからない、という顔の白菊さんを尻目に、私は覚悟を決めました。

 ぶっつけ本番。言葉がうまくまとまっていません。

 でも、行ってしまおうと決めたんです。

「白菊さん―――私ね、A子さんと話したの」

 びくっ、と白菊さんが身を硬くしました。

 それはそうでしょう。

 いかにも唐突ですし、私がA子さんから聞いた様々なことは、白菊さんにとってあまり触れられたくないところだったに違いありません。

 だけど、言わなくてはいけませんでした。

「心配、してたよ」

「―――知ってます」

 ひどく硬い言葉とともに、白菊さんの視線が揺らぎます。

 そうです。知らないはずはありません。 感じてないはずがありません。

 人を幸せにしたいと言う子が、自分かに向けられる心に気付かないはずはありません。

 その上で彼女は、人から離れる道を選んだのです。

 その理由は多分―――

「私も、心配なことがあるの」

「……私は、一人でいるべきなんです。皆と話したのなら、噂のことも、わかっていますよね……」

 私の言葉を遮って、白菊さんが言います。

「ううん。聞きたいことはそれじゃないの。その上で、聞きたいの……白菊さんは何故、あれほどレッスンに打ち込むの? まるで―――明日が無いみたいに」

 何か、白菊さんが言おうとしました。

 私は、白菊さんかの瞳から目をそらしませんでした。

 白菊さんは一度目を伏せて、沈黙して、再び瞳を上げて―――

「高森さんは―――今、自分が死んだと思ったことは、ありますか?」
 
 とても静かな声で、そういいます。

 白菊さんの、長い告白が始まりました。


              ◇


 高森さんは、『今、自分が死んだ』と思ったことは、ありますか?
 
 物心ついてからずっと、私の周りではいろいろな事故が起きていました。

 小さいこと、大きなこと、本当に色々で―――どれも私や、私の周りの人を傷つけるものでした。

 私はそれがつらくて、辛くて―――
 
 いつしか人と、距離をとるようになりました。

 そうすれば、傷つくのは私だけです。 それでいい、と思ったのです。

 ―――ある日、学校からの帰り道。

 私のすぐ前に、植木鉢が落ちてきました。

 真っ赤なポインセチアが植わった、私の頭の倍ぐらいある鉢でした。

 その鉢が、私の鼻先を掠めて落ちてきて、私の目の前でぐしゃりと潰れました。

 今までも、何かが落ちてくることはありました。

 だから私は、そういう事故にすこし、鈍感になっていたんだと思います。

 ただ、その時は、真っ赤に散らばるポインセチアの葉を見て―――思ったんです。

 ああ、あの鉢が当たっていたら、私は今死んでいたんだな、って。

 あまりに鉢がすぐそばに落ちたので、その想像は強い実感を伴っていて―――突然、身体が震えました。

 私は家に帰って、布団にもぐりこんで、震えながら泣きました。


 私は、『不幸』が原因で死ぬかもしれない。

 そんなことはずっと前から知っていました。
 
 では、何故震えているんだろう。

 私は考えて―――気がつきました。

 私はずっと、不幸を呼ぶものだと言われてきました。

 それが辛くて。

 だから、人を避けて。

 どこか世界の果てでたった一人になって、消えてしまいたい。 
 
 そしたら誰にも迷惑をかけないのに―――

 
 そんなことを考えていました。
 
 だけど今死んだら、私はただの、人を不幸にするだけのものでしかなかったことになって。

 二度とそれを覆せなくなって―――

 その時私は、ひどく後悔するだろうと、気付いたんです。

 誰かのために、何かがしたい。

 誰かを幸せにしたい。

 私が居て良かった、といわれることをたった一つでも作りたい。

 そうできないのなら、私は何のために産まれてきたんだろう。 強く強く、そう思ったんです。

 それから私は、たびたび『明日の夜、自分が死ぬとしたらどうするか』と考えるようになりました。

 テレビを見ていて、あるアイドルを知ったのも、そのころです。

 画面の向こうで輝いてるアイドルを見て、心が温かくなって、幸せな気持ちになって―――

 私もあんなふうになりたい。

 誰かを幸せにできる、そんなアイドルになりたい。

 そう強く思ったんです。


 それまでの私なら、多分そう思ったところで止まっていたでしょう。

 だって、できるわけがありません。

 息を潜めるようにして暮らしても、結局誰かを苦しめるのに―――って。

 でも、明日の夜死ぬのだとしたら、どうでしょう。

 私はやってみようと決めました。

 反対もされましたけど、きっとアイドルを諦めたまま死んだ『明日の夜の私』はとても後悔していると思ったんです。

 挑戦はもちろん簡単じゃなくて、何度も何度も失敗して挫けそうになって―――だけど、挫けて諦めたその夜の自分が後悔すると知っていたから、挑戦を続けました。

 ……そして私は、このプロダクションに拾ってもらいました。

 同期の友達もいて、夢を語り合って。

 とてもとても楽しくて、夢みたいで―――

 私はあのとき、もしかしたら不幸は自分から去ったのかも知れない、って思いました。

 これからは幸せにやっていけるんじゃないかって―――

 私たちのすぐそばで事故が起きたのは、そんな時でした。

 それは、何かの宣言のように見えました。

 お前の『不幸』は消えてなんていないんだぞ、と言う宣言です。

 私は、みんなから距離をとることにしました。

 同じゆめを見て、競い合う仲間を、もし巻き込んでしまったら、どれほど後悔するか知れないのです。

 みんなは気にしないって、偶然だって言ってくれたけど―――そうじゃないって、私が一番知っていました。

 だから、後悔しないようにしよう、と思ったんです。

 私の不幸でに巻き込まれそうな人は、絶対に助けようって決めました。

 明日やればいい、とは思えなくなりました。

 今日やりきったんだって。

 明日死ぬんだとしたら―――今日の私は全力でやったんだって、満足を抱いて今夜の眠りにつきたいって、そう思ったからです。

 私が急ぐのは、だからです。

「高森さん、今度は高森さんが教えてください」

 長い告白の後、白菊さんはまっすぐに私の目を見て、問いました。

「明日の夜高森さんが死ぬとしたら、高森さんは今日と明日をどう過ごしますか?」

              ◇


 ―――結局私は、皆は、知らず勘違いをしていたのだと思います。 

 長い告白を終えて俯く白菊さんを見詰めて、私は自分の気付きが正しかったことを知りました。

 不幸。

 白菊さんにまつわる不幸を他の誰よりも深刻に受け止めているのは、白菊さんなのです。 

 自分が誰かを不幸にするという体験をし、それを誰より信じているのは、白菊さんなのです。

 だけど、私達にとって、それはただの『噂』だった。

 だから無意識のうちに、白菊さんが自分の不幸をどう思っているか、軽く見積もっていたのではないでしょうか。

『偶然だ、私達は気にしない』というのは、白菊さんにとって慰めではなく、目の前に迫る嵐を『見えない』と言われているのに等しかったのではないでしょうか。

 白菊さんは、自分の不幸を誰より真剣に受け止めている。
 
 自分の不幸で自分が傷つかないなんて思って居なくて―――むしろ逆だったから誰かを助けに飛び込もうとした。

 明日が無いかのように―――ではありません。

 明日がないなら今日どうするか、と考えていたのです。

 だから、人を巻き込みたくない。

 だから、今日に悔いを残したくない。

 今日に思い残しを無く生きて、今夜の眠りにつきたい―――

 明日死ぬとしたら、どうするか。

 私、高森藍子が明日の夜死ぬとしたら、どうするのか?

 どうしたら思い残しの無い明日を迎えられるのか?

 恥ずかしい話、13歳の白菊さんが何度も考えたというその問いを、今まで私は真剣に考えたことがありませんでした。
 
 16歳の私にとって、死はまだとても遠い、姿も見えないものだと思われたのです。

 明日が無いなら決して人を自分の不幸に巻き込むまい、決して思い残しを作るまい。

 白菊さんの決意は、苦しんだ果てに下したものでしょう。

 白菊さんがどういう人生を送ってきたかを知れない以上、本当の意味で私がその判断の軽重を図ることはできません。 

 では、私が明日死ぬとしたら。

 悔いの無い今日は、どういうものなのか。

 私は多分、このとき初めて真剣にそれを考えました。

 ―――そのとき、ふと。 ぐしゃぐしゃに潰れたシーリングファンの傍らに佇む白菊さんの表情が、私の脳裏に再び浮かびました。

 あの、寂しげな表情を。

 私は、そのとき自分がどうしたいか、解った気がしました。

「―――もしも、明日晴れたなら」

 私は、ゆっくりと微笑んで、口を開きます。

「私は白菊さんと散歩に行きたいかな」

「え……」

 ぽかん。

 まさにそんな擬音が浮かびそうな顔をする、白菊さん。

「白菊さんといろんな話がしたいし、私のことも知って欲しい。あのね、西の路地裏にとても可愛いカフェがあって、その近くにいつも猫が―――」

「いいんですか、それで」

 咎めるというよりは面食らったような顔で、白菊さんが私を問い詰めます。

「明日―――死ぬんですよ。それでいいんですか。 もっと大事な友達と過ごしたり、遣り残した大事なことをしたり―――せずに。 私と散歩とか、猫とか―――本当に、それでいいんですか」

「うーん、どうなのかな」

「ど、どうなのかなって―――!」

 私の答えがあんまりおかしく聞こえたのでしょうか。

 白菊さんは困り果てているようでした。

 けど、しょうがありません。

 その答えは、私の本心だったんですから。

「私ね、明日の夜私が死ぬなら―――なんて、いま初めて考えたの。 だから、白菊さんは凄いなって思う」

 曇った窓の外を見ながら、私は告白します。

 年下の白菊さんの方が真剣にこういうことを考えているなんて、年上としてちょっと恥ずかしいですね。

「だから、いっぱい考えました。悔いの無い今日ってどういうことか。何を選んだらいいのか―――って」

 本当です。 とてもいっぱい、考えたんです。

「でもね、困っちゃったんです。 大事なものは本当にいっぱいあるから……どんなふうに過ごしても、どれだけものを片付けても、何を選んでも、私はやっぱり最後は心残りでいっぱいなんだろうなあって」

 白菊さんの瞳を、見詰めます。

「だから、いま気になってる白菊さんをお散歩に誘いたい。 そんな普段通りを、大事にしたい。そして失うものを惜しみたい―――それが、私の答えだったの」

 白菊さんが、口を噤みます。

 ほんの一瞬、その表情に痛みが見えたような、そんな気がしました。

 ―――何を選んでも。

 
 どんなに準備をしたとしても、心残りはきっと消えません。 

「白菊さんが選んだ道は、立派なんだと思う―――だけど、思うの。 白菊さんもきっと、同じなんじゃないかって」

「同じ―――?」

「だって、私を助けた後の白菊さんの顔は、とても寂しそうだったもの」

「……」

 白菊さんは俯いて自分の膝に顔をうずめました。

 細い肩が、震えています。

 ―――あのとき白菊さんは、寂しそうでした。

 人を助けられたという安堵でもなく、思い残しはないという満足ではなく。

 ただ、寂しそうに見えたのです。

 白菊さんにも、思い残しがあった。

「でも、それはきっと、当たり前の事なの」

 そっと、そっと、思ったままを紡ぎます。
 
「どんなふうに過ごしても、どんな人でも、きっと悔いは消せないんだと思う。だから適当に生きていいってことじゃなくて―――いつもどおりの自分を好きでいることも、とっても大事なんだって、思うよ」

 悔いが残らないように過ごすには、どうしたらいいんだろう。

 今日を大事にするって、どういうことなんだろう。

 そういうことにおいて、私が思ったことと白菊さんが思った事は、同じことだったと思います。

 それはきっと、カップの内側と外側のように同じ事柄の2つの面なのです。

「だから、自分が笑顔になれること。 心が温かくなることを今日選んだっていいって、私は思ったの―――ね、明日、一緒に散歩に行きませんか?」

「―――でも、きっと明日は雨です。 窓の外はあんなに曇っているんですもの―――」

 顔を伏せたまま、震える声で言う白菊さん。

 私はそっと手を伸ばして、おそるおそるその手を握りました。

「そしたら白菊さんの部屋にお邪魔したいな。 私のおうちにご招待して、一緒にお夕飯するのも素敵―――もし、白菊さんが『うん』って言ってくれたら、私は明日がとっても楽しみ」

「―――」

 白菊さんは小さく肩を震わせながら、頷いてくれました。

「―――ねえ、今日から貴女のことを『ほたるちゃん』って、呼んでいい?」

 白菊さんは小さくしゃくりあげていて、頷いてはくれませんでした。

 そのかわり、きゅっと私の手を握り返してくれたのです。

 ありがとう、と小さく言って、私は窓の外の曇り空を見ました。

 窓の外、遠い空には触れることが出来ません。

 人の心もきっと同じです。

 本当に誰かの心を理解して、それを導いてあげるなんてことは、私にはきっと出来ないのでしょう。

 もしかしたら、誰にもできない事なのかもしれません。

 だけど、せめて少しだけその心を暖かくすることができたら。

 そう思わずにはいられませんでした。

 私とほたるちゃんは、ドアが開くまでの間、ずっと手を握り合っていました。

 握り合った手がとても暖かかったことを、私は今でも覚えています―――。


●おしまい

 ―――それでどうなったのか、ですか?

 何かがすごく変わったわけじゃありません。

 ただ、私は彼女を『ほたるちゃん』と呼ぶように。

 ほたるちゃんは私を『藍子さん』と呼んでくれるようになりました。

 一度頑なになってしまったいろいろなことはそう簡単には変わらなくて、ほたるちゃんと同期の子の関係だって、そうそう元には戻りません。

 ただ、ほたるちゃんの普段には、少し笑顔が増えていて。

 ほたるちゃんが変わって全てが変わったように、もういちどほたるちゃんが変わっていけば、少しづつでも物事は良く変わっていくのだと思います。

 私は、そんなほたるちゃんを応援したいって。

 少しづつ物事が良くなっていくお手伝いができたらいいなって思っているんです。

 だから―――ねえ、貴方も手伝ってくれませんか?

 いつか機会があったら、ほたるちゃんの手を取ってあげてください。
  
 あの子が笑顔になったら、きっと貴方や、私や、色々な人の今日も輝くって思うんです―――


(おしまい)  

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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