【モバマス】P「■■、***、○○○○」 (160)

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 仮令、天が崩れようとも、
 飛び出づる為の穴は在る筈である。

 一縷の希望を通す穿孔が、きっと何処か。




 ────深い夢を見ていた。

 内容はなにひとつも覚えていないのに、しかしそう確信できるぐらいに、頭にうつろな残像が残っていた。夜だった。デスクを灯すスタンドライトの明かりだけを頼りに、辺りを見回した。

 窓の外は見えない。暗い背景のガラスは鏡に変わり、映り込んだ私がこっちを見ている。しんと静まって、自らが立てる音以外は空調の音ぐらいしか聞こえない。

 ……何をやっていたんだったか。我ながら珍しいなと思った。就業時間中に寝落ちてしまうことなんて、これまでなかったのに。

 突っ伏して枕の代用としてしまっていた書類に目を落とす。見たところ、記入欄はすべて埋まっている。雇用契約書だった。それも、三枚もある。履歴書と合わせて計六枚。こんなところに放っておいていいわけがない。

 しかし、雇用にあたっての書類なんてものは一介のプロデューサーでしかない私の管理するところではなかった。ひとまず自デスク内に保管しておいて、明日事務員に渡そう。

 それにしても、どうしてこんなところにこんなものがあるんだ。不思議でならない。誰のためのものだ?

 ────ああ、彼女たちのか。名前の辺りは夜の闇が紛れて見えなかったが、隅に貼られていた顔写真で認識できた。芸能事務所で勤める私が、現在プロデュースを担当している三人のアイドルのものだった。

 覚えていないが、何か確認することでもあったのかもしれない。大切に鍵付きの抽斗にしまって、私はカバンを引っ掛け席を立った。

 こうまで記憶が不確かになっていることを、奇っ怪なことにそのときの私はどうも思わなかった。

 ただひとつ、袖口が湿っていることだけが私の中に引っかかったが、それも乾くのにつれて意識から薄れていった。


一.

 雨が降った。梅雨前線のもたらす五月雨だった。出がけに無数の水滴が地表を叩く音が聞こえたので、ラバーソールの革靴を靴箱から取り出した。右手に傘を、左手にカバンを持つ。両手がふさがった状態で電車に乗るのは好きじゃないが、そうかといって濡れることを選択できるような小雨ではなかった。

 通勤どきの車内で座れることはなかった。ぼうっと突っ立つ退屈な時間を乗り切って、事務所の最寄駅に降り立った。

 どこか不気味な空だった。明るくも、暗くもなく、雲の厚さは不均一。東に雷でも鳴り出しそうなぐらい濃灰色になっているところがあれば、西に晴れ間が見えそうなところもある。

 気を抜けば崩落しそうだ。芽生えた冗談混じりの不安は足の運びに現れ、私は普段よりほんのわずかだけ早く事務所についた。

 オフィスの中は、雨が降ると静まって感じる。節電のために明かりを絞っていることもあって、太陽が出ていないと朝でも薄暗なところが原因のひとつなのだろう。

 自身のデスクにつき、同僚の出勤を待って用件を済ませた。私のサポートをしてくれる事務員の方も、いぶかしげに首をかしげていた。

「はあ……まあ、預かっときますけど。なんでまたこんなもんを持ってたんです?」たずねられたが、応えようがないので曖昧に笑うしかなかった。

 昨夜とは違って、意識の手綱はきっちり握れている。ホワイトボードに書き起こしてある彼女たちの予定を確認して、手帳を開く。

 生来から几帳面と呼ばれる性格だった。しなければならないこと、すべきことは手元にも記しておいて、終わったところからチェックを付けるようにしている。

 ふと思い立って、手帳の昨日の欄を見た。すみずみに目を走らせて、それからボールペンの尻でひたいを掻いた。

 レ点は、すべての項目に丁寧に付いている。なぜ私が眠りに落ちるまで事務所にいて、なぜ私のデスクに彼女らの契約書があったのか。わからないという事実だけが浮き彫りになった。


「────プロデューサー! おはよーっ!」

 背後から不意を突かれて肩が跳ねた。パッション溢れる明るい声が、思考に沈みかけた私の意識を引っ張り戻す。

「どうかしたのー? なんかむっつかしそーな顔してるけど……」

「ああ。いいや、なんでもない」取り繕い応えた。なんとなく、喉がいがらっぽかった。自分の声が自分の声じゃないみたいで、聞き取りづらくさえある。不調の兆しか。そんな私とは違って、

「おはよう、***。今日も元気だな」

「えっへへ、まあね!」

 弾けるように笑うところが魅力的な子だった。小さな悩みなんて吹っ飛んでしまえ。そう言わんばかりの笑顔がショートカットの茶髪とよくなじんで、快活なイメージを強めている。

 ぱくん、と手帳を閉じた。気になる。とはいえ今日は今日で仕事があるわけで、いつまでも昨日のことばかりに拘泥してはいられない。切り替えなければこの子と仕事に対して礼を欠く。

「***。予定通り、今日は営業に行くぞ。時間になったら車、回しておくから玄関の前で集合。オーケー?」

「んっ、オッケー!」

 ぴっ、と敬礼のポーズをして、***はドレッシングルームの方へ駆けていった。

 私の方も用意を整える必要がある。彼女のために作成したリングファイルを一度ぱらぱら確認して、バッグに詰めた。手っ取り早くテレビショーにでも出してあげられればいいのだが、高望みをしても仕方ない。

 今日も地道に草の根を分けよう。

 出がけに事務員さんから追加の業務を投げられ手帳を開き直すはめになったが、それ以外は問題なく、私と彼女は社用の軽バンに乗り込んだ。


 雨足は依然変わらず、まだらな空も変わっていなかった。

「今日はどこ行くの?」せわしなく往復するワイパーに目を行ったり来たりさせながら、助手席の彼女がたずねてきた。

「言ってもわからないと思うが……」耳に馴染んだような有名なところへは行っていられない。地元のイベント下請け会社に、隣の市にある小さな自治体、それから最後、業務上の提携関係にある別事務所。行くことが決まっている今日の予定はとりあえずその三つで、あとは時間次第になる。

 伝えてみたが、彼女の首は斜めに傾いだ。

「あはは、ほんとにわかんない。あっ、最後のとこはわかるけど」

「そこへは何度も行ってるからな」ひとつ頷く。「まあ、まだ新米なんだ。大きなところへ行けないのは仕方ないと思ってくれ」

「仕方ないかぁー」

 うなだれそうになる彼女は、うちの事務所に所属してかれこれ一年ほどになる。大抵の社会人なら新人研修も完全に終わる頃合いだし、そろそろ、もっとと気持ちがはやるのも理解できる。

 話題そらしに彼女の顔に意識を向けた。


「……ところで***、今日のメイクは自分でやったのか?」

「へ? あ、うん。そうだよ?」

「そうだよな」

「うん? ……あれっ、ウソ、もしかしてなんか変だった? 自分では会心の出来だったんだけど!」

「いいや、変じゃない。よくできてると思う。いつも以上に上手いから、ついにうちもお抱えのメイク担当でも雇ったのかと思って」

「あ、そゆこと? よかった~」安堵にはにかんで、一転、彼女は得意げに言う。「まま、今の私にはお師匠様の教えがあるからね。ドヤ♪ って感じ?」

 お師匠様の正体には思い当たる影があって私は小さく笑った。

「その割に不安げだったじゃないか。■■に言っといてやろう」

「むぐ。……や、だってさ。だってほら、■■姉って○○○○と違って結構イタズラ好きだし。もしかしてめちゃくちゃ教えられたかも? ……みたいなね?」

 仲良くなったものだ、と思う。***に、■■、それから○○○○。三者三様に方向の違う個性と嗜好を持っていて、はじめはどうなることかとわずかばかり心配していた。

 杞憂だった。振り返っておかしくなり、小さく鼻を鳴らした。

「あ、もー! 笑わないでよっ!」

「別に***を笑ったわけじゃない」

 目的地までの時間は、もっぱら曲がりかけた彼女のヘソの向きを直すのに費やすことになった。




 私の営業方針は、基本的に狙い撃ちを良しとしていた。方々アンテナを張り巡らせて、需要のあるところにピンポイントで赴く。イベントの運営会社にせよ、隣市の自治体にせよ、近々に企画されている催しの情報を掴んだからこそ行動を起こした。

 それが最も効率的だと考えているし、実際これまでも悪くない結果を出してこれた。有能を自称するのは行き過ぎだとして、しかしおそらく賢しいぐらいの形容は被っても許されよう、というのが自己評価だった。

「……どうですか? イベントのアシにうちの子を使ってみませんか。結構子供への受けもいいですし、ハツラツな感じもイメージに合うでしょう」

「んんー……そうですね。自分はあくまで責任者じゃないので、答えは出しかねるんですが」

「ああ、もちろんお返事は後日で結構です。こちら、私の名刺と***の資料はお渡ししておきますから、頭の隅にでもほんのちょっと、置いておいていただければ」

「あはは、わかりました。お預かりしておきますね」

 職員は朗らかに笑って私の手から諸々を受け取った。よし、と内心で拳を握った。交渉に手応えはあったし、印象も悪いということはなさそうだ。期待できる。ダメ押しに彼女の肩を叩こうとして、

「ぜひ! よろしくお願いしますっ!」

 その必要はなかったので手を引っ込めた。行儀よく頭を下げた彼女に続き、自らも腰を折る。慣れてくれたものだと、嬉しくて自然に口角も上がった。


「お疲れ、***」公民館を出てから、「はぁ~」と深く息を吐いた彼女にねぎらいの言葉をかける。

「いっやあ、何回やってもお偉いさんとお話しするのは緊張するよねー。敬語も難しいし」

「そうだろうな。でも、だいぶ慣れてきたんじゃないか?」

 手皿に受けた雨は勢いを弱めつつあった。それでも傘は持っているわけで、手癖のようにばさりと開く。

「最後も、自分から挨拶できてたろ。ちょっと前までガチガチで何も言えないぐらいだったのに」

「えへへ、まあまあ、ね」彼女は褒められると素直にはにかむ。「もっと言ってくれてもいいんだよ?」

「ちょっと前までほんとガッチガチで出来の悪い機械みたいだったのにな」

「ちょっ。そっちじゃないでしょ! しかもなんか酷くなってる!」

「冗談だ」

 感情の発露が素直な子だった。だからつい、からかいたくもなる。もうっ、と頬を膨らませながら、彼女は私の差す傘の中に入ってきた。体ごとぐいぐい押され、陣地を奪われる。

「ほらほら、もっとそっち寄って。……からかったバツとして傘持ちを命じます。車まで、私を雨から守るよーに!」

 大した命令でもなく、いっそ可愛らしくさえある罰には、私は黙って従った。


 二件の営業を終えて、時間は八つ時になった。どこかで軽く一服して、それから最後に行くか。それともこのまま休憩なしで最後まで回って、早くに帰るか。どちらがいい? とたずねると、彼女はノータイムで前者を選んだ。道沿いにあった全国チェーンの喫茶店に車をつける。

 ……チャージ料はいったいいくらだろうか。メニューに記載されている値段を見て疑問が浮かんだ。自分ひとりなら決して入らない店だが、彼女は嬉々としてオーダーを考えている。無粋なたわごとは噛み殺して「どれにする?」とたずねた。

 ううん、とひと唸りして、「……チーズスフレか、モカチョコレートか。悩みどころ。ね、プロデューサー、はんぶんこしない?」彼女は上目を使う。

「べつに私に半分寄越さなくても。どっちも頼んで両方食べればいいじゃないか」

「えっ、いいの? ……って、ダメダメ。それ絶対太るじゃん!」

「レッスン厳しくやれば平気だろう。○○○○に付き合えばいい」

「それはイヤ……じゃないけどぉ」さっと彼女は目をそらした。「ままま、今日はひとつにしとこっかな」

「そうか。で、何にするんだ」

「うん、決めた。モカチョコ!」

「飲み物は?」

「ノンファットエキストラミルクラベンダーアールグレイティーラテをライトホットのトールで!」

「なんて?」

 注文は彼女に済ませてもらった。


 基本はラベンダー&アールグレイ・ティー・ラテ。その追加注文として、ミルク多め(エキストラミルク)、なおミルクは無脂肪乳で(ノンファット)、やや温かめ(ライトホット)を、四段階の上から三番めのサイズ(トール)で。

「なるほど」

 ざっくりと教えてもらったはいいが、おそらくこの先使うことはないだろう知識を脳の隅っこに押しやって、私はシンプルなブレンドコーヒーを啜った。

「ダメだよープロデューサー。芸能事務所のプロデューサーなんだから、流行りには敏感じゃないと」

「言うほどこの店流行ってるか?」

 もごもご口を動かしながら、彼女はタクトのようにフォークをくるくると宙で回す。右手にフォーク、左手にティーラテの彼女とは違い、私は左手がフリーだった。手持ち無沙汰に手帳を開いて、斜め上がりの自分の文字を眺めた。

 予定は順調に消化したが、予定以上に回るのは無理そうか。


 次の行き先は、ミシロ・プロダクション。……あまり進んでは行きたくない場所だった。仕事の都合で赴く必要がある以上、そんなワガママを通すつもりはないが。

 この国が誇る有数の財閥、ミシロ・グループの傘の下に入る極大規模の芸能事務所。いかような経緯の果てなのか、どう見ても見劣りするうちの事務所と業務提携関係にある────私の、古巣。

 潤沢な資金に、過剰にすら思える設備。向こうに所属していたなら、今のように営業回りに時間を取られることはない。

 一年半ほど前の話になる。こちらのプロデューサーが不足していた。提携関係にある以上は放っておくわけにもいかないと、ミシロの人事は『担当アイドルがおらず、かつそれなりの経験を積んで、異議を唱えそうもない人材』として私を送った。

 自身には未練もないつもりだった。扱いでいえば左遷と言われてもおかしくない異動だったとはいえ、給金も福利厚生も変わっていないし、なにより今の居心地がいい。後ろめたさは、お互いにないはず。

 ならばなぜ、訪れることには後ろ向きなのか────おそらく理屈じゃないのだろう、うまい言語化はできなかった。

「……プロデューサー? なに、こっちじっと見て。……あ、食べる?」彼女がフォークに刺さったモカチョコレートケーキのカケラを私に向ける。

「いらないよ」と私は笑った。


 巨大な赤レンガの門扉を抜け、駐車場に軽自動車を停めた。お城のような建物、と言うと誤解を招きそうだが、外観も内装も本当に西洋の城を想起させるデザインをしている。しかし入り口はしっかり自動ドアだ。

 エントランスの受付で名と用件を伝えれば、よくできた事務員がすぐに取り次いでくれる。

「相変わらずでっかいねー」と彼女が呟いた。

「そうだな」

 相も変わらず、潔癖なぐらいに清掃された玄関ホールに、奥へと続く階段から此方の入り口まで伸びたレッドカーペット。大理の床に意匠の凝った壁面装飾も相まって、どう考えたってやり過ぎだろうと、新入当時呆れ返ったことはまだ覚えている。

「プロデューサー、毎日ここで働いてたんだよね?」

「ああ。昔はな」

「ううん……」と顎に手を当て彼女は低い声を出した。

「変か」とたずねると、「うん。変だね」と即答される。私は喉を鳴らして笑った。

「自分でも変だと思うよ」

 私がこの城の住人として赤絨毯の上を渡っていたのだと思うと、それはもう滑稽な光景に思えて仕方がない。


 ほどなくして、奥の階段から降りてきたとりわけて懐かしくもない顔が「よう。久しぶりだな友よ」とジョークを言った。私が軽く頭を下げると、隣の彼女もつられるようにぺこりとやった。

「べつに、久しくはないでしょう。せいぜいひと月ってところです」

 ついでに友人と言えるほど親しい仲でもなく、応じる声は意図せず硬くなった。私が新卒としてミシロに入ったとき、研修の担当をしてくれた先輩プロデューサーがこの人だった。私はここを離れるまでは、ずっと彼のアシスタントをしていた。『有能』だなんておこがましくて到底名乗る気になれないのは、ほとんど彼のせいでもある。

 端的ですげない私の返事に、先輩はあからさまに肩をすくめた。

「ま、そうだな。積もる思い出話もないし、とっととビジネス話にしよう────あ、***ちゃんも久しぶり。元気でやってる?」

「あ、はい! このとおり、元気ですっ!」応えた彼女に「そりゃよかった」と先輩はくしゃっと笑った。


 彼が押さえた会議室に移り、仕事の話は淡々と進んだ。業務提携と、言ってみるなら聞こえはいいが、実情はうちの事務所がミシロから恩恵を受けているだけに近い関係だった。抱えきれず、余るオファーのおすそ分け。

 よくもまあこんなにも余るものだと、プロデューサーの身になってみてあらためてその凄まじさを感じた。毎度感嘆しそうになる。私が取る仕事と、先輩からもらう仕事と。天秤にかけて重みを測れるとしたらと、そう考えると怖くなりそうでさえある。

 一時間ほど膝を詰めて話し込み、大雑把に話がまとまったところで先輩は椅子の背もたれに体重を押し付けた。勢いよくもたれかかったがさすがはミシロ、事務用椅子まで良いものを使っているから軋む音が鳴らない。

「……よし。ま、こんなもんだろ。あとはそっちで調整して、アレコレやってくれ」

「わかりました。いつもありがとうございます」

「おうさ。つっても、こっちも助かってるし、そもそも協力関係だしな。せっかくのオファー、無下にすんのもなんだし、事務処理とかもそっちに放ってるし」

 こちらが気を揉まないようにと、彼は決まって「気にするな」と言ってくれる。ありがたい反面に複雑でもあって、これもまた、きっと理屈ではない。


 先輩はこのところ忙しいらしく、余談はすぐに切り上げられた。「デキのいいアシが盗られちまったからな。残業増えたよ、ほんと」

「世辞言われてもなんにも出せませんよ」

「世辞じゃないっての。ま、いいや。お前も大変だろうが、精々頑張れよ」

 簡単な見送りのもとにミシロを発った。今の根城へと車を回す。跳ねる水滴の威勢はなくなりつつあって、事務所に帰り着くころには、雨は上がりきっていた。

 定時までまもなくであるというのに未だチェックリストには空きがある。戻ったデスクには出発時はなかった書類が積んである。まったくなかなか、うちの事務員さんも負けじとよくできていることだ。居残りは確定だとして、どこまで後引くことだろう。

「……残業?」

 ひと仕事を終えて大きく伸びをしていた彼女が、私の様子を見てぽつんと言った。

「そうだな」ホチキスで留まった紙の束をぱらぱら数える。そう多くはない。けれど、数えなければならないぐらいには枚数がある。営業の成果のまとめも合わせて、およそ一時間半といったところか。


「***はもう帰っていいぞ。お疲れさま」

 廉価な事務椅子に体を置いて、PCの電源を押し込む。それとほとんど同時に、私の両肩に小さな手が添えられた。

「……***? どうかしたか」

 振り返って仰ぐと、彼女はわかりやすく笑顔を作った。

「ふふん。お疲れになるプロデューサーよ、***ちゃんが肩を揉んであげようっ」

 凝り固まった筋肉をほぐそうと、細い指に力が込められた。程よい指圧が心地よさを連れてくる。

 ***はマッサージが得意だと公言している。本当のところは足のツボがもっともよく理解できているそうだが、対象が違っても指の動きは滑らかで的確だった。

「また急だな」

「予告するのも変じゃない?」

「……まあ、それは確かに」

 しばしばこういうことがある。彼女にとっては趣味のようにもなっているので不思議はない。しかし、自分から進んで私にしてくれるときは、なにか思うところがあったからと相場が決まっている。

「今日はどうした?」とたずねた。

「……鋭いなあ」


 声には、照れた色が聞き取れた。肩はなされるがままに置いて、一方で起動画面からデスクトップに変わったモニタを注視して、私は書類の処理を始める。

 彼女はちょっと恥ずかしそうに心中を明けた。

「……ほら、さっき、帰り際。言ってたでしょ? 残業増えたーって」

「ああ。先輩がな」

 デキの良し悪しはともあれ、雑事を投げられる相手がいなくなったとなれば、それは当然業務にかかる時間も長くなる。彼ほどの要人なら新たなアシスタントを望むこともできそうだが、どうもそうはしていない様子だった。

「プロデューサーも、あの人と一緒に仕事してたときは、絶対今より仕事少なかったんだろうし。ミシロはもっと楽だったのかな、って思ったりするとね。こう、なんか思うところがあったりなかったりー、みたいな?」

「……抽象的が過ぎるな」

「てへ。……まあでも、そんな感じの気分になったんだ、今」

 確かに、彼女の言うとおり私の仕事は増えた。朝八時半から夕五時までPC前でカタカタやっていればいいだけの以前とは違ってしまった。……だからといって、という話ではあるが。

「そうか。まあ、なんだ」ドライブから過去のデータを読み込む。該当ファイルにカーソルを合わせてダブルクリックすると、画面の切り替えのために一度モニタが真っ暗くなった。

「普段からもっとねぎらえ」

「今いいこと言うタイミングだったでしょー!?」

 力を強めた彼女の指が、ぎりぎり快いと言える範囲の痛みを走らせる。どう考えても子供じみた照れ隠しだった────お互いに。


 昔とは違ってしまった。だからといって、悲しんでいるわけでも追慕しているわけでもない。私はべつにあの単調だった過去をこよなく愛してはいなかったし、その上で忙しない今が嫌いではない。

 一瞬の西日が雲間を抜けて窓から差し込み、私は目を細めた。

 いたわりは素直に嬉しいので受け取るが、なにがしかの憂いに駆られたのだとしたら、それは全く無用な勘ぐりであると断じよう。ミシロにいた頃にはなかった、こうした誰かと共に過ごすゆるやかに優しい時間も、私は悪くないと思っているのだから。

 暗転した画面、一瞬だけ映り込んだ自分の顔は、彼女に見られていないことを祈った。


二.

 パチン、パチンと、渇いた音が空調の吐息を裂いて鼓膜を揺らしにくる。────△5六玉。

 ▲5三銀。△同龍。▲6二金打。△1三銀打。

「……むう」目の前の初老を過ぎた男が唸る。「ちょいと待ってくれよ」

 私はついと腕時計に目をやる。時間は十二時五十五分。マズイ、と思った────彼女には休憩は十三時までと伝えている。同じ口で遅刻の言い訳はしたくない。自分なりの先読みでは十手ほど前から詰みが見えていたが、しかし社長は今もうんうんと考えを巡らせている。

「社長」

「ちと。時間をくれ。まだ」

「……かなりわかりやすいところまで来てるでしょう。詰んでます。結構前から」

「いや。まだきっとどこか打ちようがだな」

「社長。詰んでますって」

「……待ったは」

「なしです。往生際の悪いことはよしましょう。では、私はこの辺りで失礼しますね」


 むう、納得いかん、と頭をひねり続ける御老を置いて、社長室から早足に飛び出た。アナログゲームは嫌いではない。だから将棋も好きだし、休憩時間に付き合わされてもいい。しかし長考されるのはたまらないな、と私は廊下を駆け抜けるはめになった。すれ違うほかの社員には苦笑まじりの会釈だけを残す。

 ガラス越し、窓の外は美しい青空が広がっている。陽気な夏の気団が陰うつな梅雨前線をすっかり追いやって、ここのところは蝉声の大コーラスがやかましいぐらいに暑い日が続いていた。

 レッスンルームはオフィスの地下階に位置する。社長室は最上階の五階。ここのエレベーターはとんでもなく悠長なペースで仕事をするので、階段を駆け下りた。夏の盛りに入りがかってエアコンが入った屋内を、それでも首筋に汗が滲むほどに急いだが、

「────遅刻よ?」いろいろともの言いたげな目に刺されてしまった。

「すまん、○○○○」

 奮闘むなしく、結局、約束の時間には五分ほど遅れた。彼女のお怒りはもっともな上に、できる言い訳も静かに燃える火に油を注ぐだけな気がしたので、私は目を伏せて謝罪だけを口にした。


 小さくため息を吐いて、彼女は「まあ、いいけど」と言った。「ん……いや、もういいけど、かな」

 時が戻らない以上は許さざるを得ないので許します。そんな内容の言い直しが耳に痛い。とはいえ、いいと言われたからにはこれ以上の謝罪は求めていないのだろうし、たとえしぶしぶであったにしても、許すと言ったらさっぱり許すのが彼女である。

 お昼の休憩で中断したレッスンを再開させるため、ルームに備え付けのCDコンポとスピーカーの電源を入れた。

「……サビからだったよな」

「うん」頷く彼女を確認して私は再生ボタンを押し込み、ほとんど同時に、彼女のローカットシューズのスウェード・ソールが床を蹴った。

 レッスン日だった。もとは午前だけのスケジュールだったが、キリのいいところまでやり切りたいという○○○○の強い要望と、たまたま私の手が空いていたという都合が合致して、予定はフルタイムに変わった。

 ダンスの完成に急ぐ理由があるわけではない。ただ、彼女がずいぶん自らに厳しく当たるタイプだった。いっそ克己的とさえ表現しても良さそうなぐらいに、彼女はひたむきに自身を磨こうとするのだ。


 腰近くまで真っ直ぐ伸びた黒の緑髪を、今日は動きの妨げにならないようポニーテールにしていた。ステップ、ターンに合わせて振り回される綺麗なしっぽに見とれそうになるところ、私はダンス担当のトレーナーが作成した指導要領に目を落とした。

 付きっきりになってくれる人が、いてくれればいいがうちにそんな人はいない。いろんなところを掛け持つフリーのトレーナーたちに頼み込んで、私でもレッスンを見れるようにと冊子を作ってもらっていた。○○○○用のページ、その冒頭には赤ペンで丸文字が走っている。『重箱の隅をつつくつもりで!』

 徹底してミスや気になる点をあげつらえ、ということだ。尖ったワードチョイスに笑いかけながら、私は彼女に指示を飛ばした。

「○○○○。顔がこわばってるぞ!」

 振り付けのさなかに一瞬顔を伏せたあと、彼女の表情は、ふっと力が脱けて柔らかくなった。

 朝からもしっかりやっていたというのに、動きに鈍りはなかった。指示したこともすぐに飲み込んで消化した。私の担当アイドルながらなかなか、大したものだと手前味噌を褒めそうになる。


 ○○○○は努力の人だった。

 つい先日か、***に『ダイエットなら○○○○の自主トレーニングに付き合えばいい』なんてことを冗談半分に言った。しかし、実際に付き合えば冗談ではない効能が得られるのは、およそ間違いない。

 今朝にしたって、私は朝の九時に集合と指定していた。だというのに、八時前に出社した私の元に、ほとんど間をおかずに彼女はやってきた。

『プロデューサー。先に自主練してるから、レッスン場の鍵、貸して』

 なにをしていたのかまでは、わざわざ具体的には私は聞かない。けれど、予定の時間になってここに来てみると、既に彼女の体は熱気を放っていた。年代物とはいえ一応、空調だって完備されているのに。

 オーバーワークにも思えるが、それでいて予定のレッスンはきちんとこなすし、無理はしていないつもりとしれっとした顔で言われる。そうなるともう、私としては黙って見守るしかないのだった。




 腕時計を見て、パンと手を鳴らした。

「────よし。じゃあ十五分休憩」

「……もう?」

 私はコンポの一時停止ボタンを押した。やや不満げな目をしているのが見えたが、知らん顔をした。自主練に関しては黙るしかないが、だからといってまったく何もしないでいられるほど私は無責任な立場にない。管理できる範囲では力を尽くさせてもらうと決めている。

「もう、一時間だ。一時間やって、十五分休憩。妥当なところだろう」

「……まだ余裕あるわ」

「限界ぎりぎりまで詰めて仮にコケたら、それが一番効率悪いぞ」

 何を言われても聞く気はない。その意思表示として先に壁際にどかっと座った。やや遅れて、少し離れた位置に彼女はそっと腰を下ろす。ここまでが、彼女ひとりのレッスンに付き合うときのほとんど恒例のやりとりになっていた。

 何度となく無理はさせないと言外に伝えているのに、毎度のようにまだ平気と強がってくる。このあたりに彼女のどうしようもなく頑固者な性分がよく出ている。

「ちゃんと水分も取ってくれよ」と私は言った。

「取ってるよ……ほんと、過保護」

「過保護にもなる。どこかの誰かが危なっかしいから」

「……***のこと?」

「よく言えたな」

 元気いっぱいに跳ね回るあの子はあの子で確かに危なっかしいが、その年下の***をして『放っておけない』と称されていることを当人は知らない。伝えてみれば、いったいどんな反応が返ってくることやら。


 ○○○○がおもむろに髪を解いた。光の加減で青みがかっても見える黒髪が、しゃらんと垂れた。自身のタオルで軽く首筋の汗をぬぐって、再び髪をシュシュでまとめ直す。……シュシュ?

「……珍しいもの付けてるな。それ」

「え? ……あ、これ?」彼女はポニーテールの根元に隠すように手を添えた。

 長髪な彼女が髪をまとめているのは珍しくない。ただ、今までは機能美オンリーのプレーンなヘアゴムをよくよく用いていたはずで、小花柄が可愛らしいそれは私の目に馴染みのないものだった。

「■■にもらったの。アイドルなんだから、普段から可愛いもの使わないとダメって」

 面映そうに、彼女は頬を掻く。言われてみれば、その髪留めは■■が愛用している手作りのヘアバンドとどこか似ているような気もした。

「へえ。器用だよなあ」

「ね」彼女はこぼれるように、小さく笑みを浮かべた。「私がもらったの知って、***もねだってたよ」

「私にも作ってほしい、って?」

「うん」

「■■も大変だな」

 ***が■■にすり寄って、ちょっと離れたところで○○○○がくすくす笑っている。そんなふうに三人でわいわい賑わっている様子は容易に想像できて、私もつい、つられるように笑ってしまった。

「なんだかんだ、文句言いながらも作ってあげるんだろう」

「たぶんね。■■のことだから」と彼女が重ねた。


 ○○○○は基本的に大きく笑わない。コールドカラーの澄んだ瞳に均整の取れた顔立ち。十六歳のまだ少女である彼女を一言で形容するとして、しかし可愛いや愛らしいは出てきにくい。そこそこに付き合いのある私とて、彼女のありさまを言い表すとなればクールや美人を挙げがちになる。

 しかし、親しい友人について語る彼女の自然な微笑みは、紛れもなく年相応、可愛らしいものだった。

「○○○○」

「うん? あ、そろそろ休憩終わりよね」

「ああ、それもそうだが」

 立ち上がって言った。

「似合ってるぞ、それ。ということを言おうとした」

「……なに言ってるの急に。さっさと始めて」

 そっけない声でそっぽを向かれた。冷淡なことだと、出会った当初のなまじな付き合いならば肩をすくめることもあったろうが、親しくなった今は肩を揺らして笑った。長髪をアップにまとめて朱色の耳を隠すものもなく、感情はいつもよりわかりやすかった。


 多少の動揺が見られても、練習が再開すればいつも通り平静に戻る。適度に休憩を挟みつつ、ダンスレッスンは予定通り十六時に切り上げる手筈となった。

 使用した備品は元に戻し、床のモップがけは二人で済ませなければならない。ところが、ルーム隅の用具入れに手をかけた私を彼女が制した。

「いいよ。あとは私がやっておくから、もう戻って」

 手が空いていたからレッスンに付き合うことにしたとはいえ、デスクワークが一切ないわけではない。好き好んで残業に身を投じる私ではないので、これは嬉しい言葉だった────額面通りに受け取るならばだが。つまり言葉に裏がある。

 ため息をついた。今が十六時十五分。「……私の定時までには、鍵を返しにくるように。十七時半だ。遅れたら、怒る」

 彼女は無言に頷いた。

 一応、一曲分の振り付けの一通りの確認は済んだ。しかしやはりただ一日ですべて仕上がるわけもなく、最後の方はややなおざり。出来に気に入らないところでもあったのだろう。止めるべきなのはわかっているが、止めたとして素直に従ってくれるかは怪しいところだ。目のまったく届かない範囲でどうにかされる方がたまらない。


 去り際に念を押して、ゆっくり昇降するエレベーターで三階のオフィスフロアまで上がった。

 私のデスクは壁際にあって窓辺に横付けされている。左は窓、右手に同僚たちのデスクが並んでいるが、つい最近にすぐ右隣の老プロデューサーが退職してしまった。だから普段、私のデスク周りにはひと気が薄い。

 はずだというのに、戻ってみると今日は二つの騒がしい人影があった。

「王手」「あっ、ちょっと待って! 今のなし!」

「……なにをやってるんですか?」

 隣の空きデスクから椅子を引っ張って、社長と***が私のパーソナルスペースで将棋に興じていた。声をかけると振り向いて、「お、キミか」と社長がとぼけた声を出す。

「いやね、リベンジに来たんだがまだ君がいなかったから。代わりに通りがかった彼女に付き合ってもらってるんだ」「プロデューサー! 助けて、社長さんがいじめてくるの!」「待ってくれ人聞きの悪い。***くんも本気で来いと乗り気だったろう?」

 社長あなた何歳ですかとか、***は将棋のルール知ってたのかとか、まったく年代の差を飛び越して仲の良いことだなとか、浮かんだ言葉はひとまず飲み込んで、私は万感の思いをため息と一緒くたに吐いた。

「……なんでもいいからデスクと椅子を返してくださいとりあえず」


 盤ごと隣に移ってもらい、椅子も返してもらってPCに向かった。今度のオーディション用の資料をまとめ直しておきたい。

「王手!」「ふふふ、甘いな。こっちに逃げよう」

 確認するとデータ容量は小さめ。小一時間もあれば終わりそうだった。おそらく○○○○が戻ってくるころには、片付けられる。

「今度はこっちから王手だ。金も取れるぞ」「あーっ!」

 開いたファイルには審査員たちの好みや実績が図表化されて載っている。なるほど、メインの審査を務める人はクール系統のアイドルが好みらしい。私の担当から出すならばやはり○○○○になってくるだろうか。

「あれ? 詰んだ?」「いや、まだ手はあるぞ」

 審査員はよく見る名前だった。この情報は社内全体で共有しておくべきかもしれない。オフィス内ネットワークで共有のファイルに放り込んでおく。名称を変えておこう、『オーデ資料/P各位一読推奨』でいいか。

「やった! 角成ってドラゴン!」「あっ、しまった。でもまあ大丈夫か」

 ……。

 目をつむって片手で頭を抱えた。


 ……気が散る。よそでやるべきではなかろうかと思わないでもないが、楽しそうに駒を打っている***を見ると邪魔をするのもどうかと飲み込んでしまう。

 こっそり伺うと、戦局は社長の優勢だった。***側は角成りの龍馬がいい位置にいるが、防戦に手いっぱいで攻め込めていない。しかしこの攻撃をいなしきれれば、とまで考えて、改めてモニタに向き合った。まだ仕事が終わっていないのだから────。

「ああ、負けたーっ」「はっはっは」

「────いや負けてないだろうまだ。6三金」

「へっ?」二つ重なった頓狂な声が私へ向けられる。

 まだ残っている手の見逃しに見かねてつい口が出た。ぽかんとするふたりの方へ本格的に体を寄せて、隣のデスクで行われる戦場を俯瞰してみる。

「あっ! ほんとだまだ負けてなかった!」***が慌てて言った場所に金将を移動させた。

「むむ。仕事は終わったのかねキミ」

「終わってませんが気が散るので。こっちを先に終わらせてしまおうと」

「……なかなか言ってくれるじゃないか。ここから逆転できるとでも?」社長が8一に飛車を動かす。

「やってみないとわかりませんよそんなこと。お互いプロじゃあるまいし……***、8七に持ってる金置いて」

「了解っ!」


 予定外に対戦に混じってしまったが、将棋は好きな方である。私はちょっと楽しくなってしまって、***にアドバイスを繰り返した。

 社長はつい先日に打ち始めたばかりで、つまり腕前は素人に近い。私も大きく括れば社長と同じグループに入るに違いないが、一日の長があった。平手差しならばまず負けない。が、今はルールを知っているだけで完全な素人らしい***がこしらえた戦局をひっくり返さなければならない。

 盤面は互いの手が重なるごと白熱の度合いを増した。私もいつになくヒートアップして頭をひねっていたところ、不意にふわりと制汗剤の甘い匂いが鼻孔をくすぐった。おや、と意識がそれて、

「────なにやってるの?」

 ○○○○の凛とした涼やかな声に我に返った。

「あ、○○○○! おつかれさま~」「おや、○○○○くんか。レッスンだったかね、お疲れさん」

「ありがとうございます。***も、ありがと。……将棋?」

「うん! 今プロデューサーに手伝ってもらって社長と戦ってるトコ!」

 ○○○○は「ふうん」と言って私の方を見る。

「……お疲れ、○○○○」

「うん。……ごめん、待たせたのかな」


 仕事は終わり、○○○○を待ちがてらに将棋に付き合っていた。彼女にしてみれば、私たちの送っていた光景はそう見えたかもしれない。……申し訳なくなる。『なにやってるの』というシンプルな疑問が耳に痛い。私は仕事を放っぽりだして『なにやってるの』かという話である。

「いや。べつに待ってないから気にしなくていい。……満足はできたか?」

「おかげさまで、ね。はいこれ」

「ああ」差し出されたレッスンルームの鍵には、有名な洋ドラマのロゴ・ストラップが付いている。それは○○○○からもらったもので、彼女は姉からもらったらしい。受け取って机上ラックに取り付けたフックに引っ掛けた。

「***も、待たせてごめんね」と○○○○が言った。

「あ、ううん! 私が早くに来てただけだし! 社長さんたちと遊ぶのも楽しかったから、平気ヘーキ!」

「なんだ、なにか予定があるのか?」口を挟むと、えへへ、実はねー、と***が嬉しそうに笑った。

 そういえば、出勤予定のなかった***がなぜここにいたのか。その理由はレッスン上がりの○○○○と出かける予定だったから、らしかった。

「ああ、そうだったのかね。……あまり遅くなってはいけないよ」と社長が言った。

 今は夕五時半。まだ日は高いとはいえ、社長の忠告ももっともである。「なにするのかは聞かないが、行くなら早く行ったほうがいいな」


 途中なのにゴメンね、と手を合わせる***と軽く会釈する○○○○をその場で見送って、あとには私と社長だけが残った。

 若い子らがいなくなって高い声が聞こえなくなると、途端に静かさが身に染み入るよう。

「……夏草や、かな」と社長が呟いた。△7八銀打。

 すぐにこういう表現が思いつくあたりは、年の功なのだろうか。私にはまだできそうもなかった。「ですね」と苦笑いを返した。▲7六玉。

 エアコンのため息の合間に、パチン、パチンと音を鳴らす。△7三香。▲7五歩打。

 規定の終業ベルが鳴り、社長はダメ押しの一手を打った。△同香。痛いところだった。巻き返しは、もはや効かない。参りましたと一礼し、自身のデスクに戻ると、モニタにはスクリーンセーバーのシャボン玉が揺れていた。ひとつ弾けるのを見届けて、私は途中で放ったらかしにしていた画面を表示した。

 窓越し、見上げた眩しい色の空に、白い入道雲が見事なコントラストを描いている。

 ────つわものどもが、夢のあと、か。


三.

 盛りの太陽を照り返し、アスファルトと接する大気が炎のように揺らめいている。前をのろのろと走る車のナンバープレートがはっきりしない。陽炎はそこかしこから立ち上っていて、外気がいかほどな酷暑であるかをわかりやすく主張していた。

 数珠つなぎに連なった各々の自動車、その排気パイプからこぼれ落ちる熱の塊もいいだけ地表面を灼いている。この光景を見てみれば、そりゃあ地球も温暖化するというものだと、ひとり納得ができるようだった。

 そんな灼熱の真っ只中にいてしかし快適な肺呼吸を許されているのだから、まったくエアコンは人類の宝であると言って言葉の過ぎることもないだろう。

 動きの止まった流れの中、私もブレーキを踏み込まざるを得ず、また停車。シートにもたれて一息をついた。

 道路の少し先、アーチ状にかかった電光掲示板が現況を掲げている。『この先渋滞七キロ/二五分』

 遅刻の心配まではないとはいえ、あと四半刻もこの調子が続くのかと思うとうんざりしそうだった。

「ねぇプロデューサーさん。私、お腹空いたなぁ」

 赤みがかった茶色のセミロングヘアをかき上げ、■■が可愛くぶった声を上げた。キュートな桃色のヘアバンドがよく似合う彼女は、助手席に座っている。この退屈な時間をひとりで過ごしているわけではないというのが、唯一救いだった。


「残念だが、まだしばらくは下りられそうもない」

「えぇ~。なにかないの? この辺とかっ」彼女がダッシュボードをがばっと開ける。そこには確か車検証しか入っていない。「……なーんにも入ってない」

「だろうよ」

 仮に入っていたとしても、いいとこチョコレートか飴玉ぐらいだ。夏真っ盛りのこのシーズンに車中に放っておけば、どのみちそれはもう食べられたものではない。

「私のカバンの中に、ミントタブレットならあるぞ」

「それは……いらないかな」

「いらないのか。わがままめ」

「わがままじゃないでしょお? お腹空いたところに、普通タブレット食べないってば」

「……まあ、そうだな」

 近場のスタジオならばわざわざ高速道路に乗ることもなく寄り道もできたのだが、半端な遠征のためと乗ってしまった以上は仕方がない。サービスエリアもついさっきに通り過ぎたところだし、しばらくはない。

「我慢してもらうしかないな。向こうに着いたら昼にするから、食べたいもの考えておいてくれ」

「はぁい。……あ、ねぇ、時間は大丈夫なの?」


 問われ確認した時計の表示は十一時前。現場の集合は午後一時なのだから、「まあ平気だろう。あんまり時間のかかるところには入れないが」

「コース料理とか?」

「行列のできる名店とかな」

「あ、プロデューサーさん、私ここに行きたいなぁ」

「ああ、どれだ。……話聞いてたか■■?」

 差し出されたスマートフォンにはグルメサイトで多量の星が付いた海鮮コース料理の有名店が映っている。彼女は「冗談ジョーダン♪」とくすくす笑った。

 行き先は隣県の海浜公園だった。雑誌モデルの撮影ということで決まったロケ地は、港も近く海産品が名高い。一時集合の三十分後に撮影開始として、撮影にかかる時間は正味で三時間程度だろう。

「……夕飯にもできないな」ぼそっとひとりごちた。彼女の提示した店は高価すぎて足も心も向かないが、もう少し手頃なところなら行ってもよかった────というのは完全に私情が入っている。


 緩慢なストップ&ゴーを繰り返し、十分ほどするとやや長めの都市トンネルを抜けた。視線の先でやたらに陽光が乱反射していて、海が近いことがわかった。

「わぁ……いい眺めだね、プロデューサーさん」

 素直に感嘆した声を出す彼女には「そうだな」と応えつつ、あまりに眩しくて目をすがめた。サンバイザーを下ろす。もう少し日差しがキツければ運転にも障りそうなほど、オーシャン・ビューは輝いていた。

 高速道路は、その多くがドライバーのために直線になることを避けている。走りやすいよう意図的に曲げられたクロソイド曲線にハンドルを沿わせ、ひとつのカーブをゆるりと過ぎたところで、わざとらしいシャッター音が鳴った。

 音源は隣の■■で、見るとスマートフォンを顔の前に掲げていた。サイドウインドウ越しの海を背景に、インカメラで自身を撮影している。

「んん~……ブレるなあ。プロデューサーさん、車停めてくれない?」

「無茶を言うな。……まあ、まだ渋滞抜けてないからそのうち自然に停まるよ」

 言っている間に前が詰まり、ブレーキを踏み込んだ。「ちょっと窓開けるね?」と許可を出す前にパワーウィンドウは下げられ、異常な熱気が入り込んでくる。


 二、三度のフェイク音ののち、彼女は満足げに「よし♪」と頷いた。

「満足したら早く閉めてくれよ。暑い」

「うん。……あ」

 なにかを思いついたような声をぽんと上げたあと、彼女の手が私の腕を強めに引っ張った。不意のことに抵抗を忘れ、彼女の方にもたれかかってしまう。

「プロデューサーさん、はいポーズ♪」

 とっさにできるかそんなもの。と言いたくなったが、カシャッという撮られた証明音が無情にも先に鳴った。

「あはっ、変な顔~」画面をこちらに向けつつ、空いた手で私を指差しけらけら笑う。目を見開いた私と、完璧に表情を決めた■■のいびつなツーショット。

「そりゃ変な顔にもなるだろう。……というか、おいアイドル。軽率なことをするんじゃない」

「あははっ、ソーリー♪」

 ふっと顔をそらして、空いた車間を詰めるためにアクセルに足を移した。

「消してくれるとありがたいな」

「うーん、それはもったいないよね~」

 横目に伺うと既に加工アプリを開いてあれやこれやといじくり回している。私は諦めてハンドルにもたれかかって、フロントガラス越しの青空を仰いだ。


 渋滞を抜けてしまえばあとは早いもので、集合の一時間前には海浜公園に到着した。潮の香りがした。内陸部出身の私には馴染みの薄いもので、頭に立ち返るような記憶もなかった。

 昼食は下道のルート上にある適当な店で済ませようかと話していたが、同一車線上には全国チェーンの牛丼屋とカツ丼屋しかなかった。これから衣装モデルとしての撮影を控えているアイドルを、連れて入れるようなところではない。

 ないものは仕方がない。ここの公園は一応観光地として名の挙がる場所だし、なにかしらがあるだろうと判断してひとまず現地入りを先に済ませることにした。今はふたりして鳴きだしそうな腹を押さえている。

 遊歩道を形作る植え込みには、彩りも豊かにジニアが咲いていた。吹きさらしの塩っ辛な風と太陽の炎熱をものともしない花は、可憐な見た目に反していたく強いらしい。

 持って来ていた白の日傘を開いて彼女に渡す。

「ありがと」

「ああ。しかし暑いな……」

 インナーを越えて、ワイシャツまでじっとり湿っている感覚があった。できれば、冷房の効いた店内でなにか冷たいものが食べたい。


 カレー屋は論外として、ファミレス、喫茶店には食指が動かない。天ぷら屋、寿司屋は休日昼だけあって列ができている。飲食店の並ぶエリアを五分ほど歩いて、見つけたノボリに私と彼女の「あっ」という声が重なった。

『冷やし中華はじめました』

 店内をのぞいてみたが、そこまで混み合ってもいない。

「……ここにするか」

「そうだね。時間もそんなにないし」

 あらかじめ決まっていた注文を入店と同時に伝え、念のため奥のテーブル席に座らせてもらった。

「はい、冷やし中華ふたつね。うちはキムチが無料だから、よければどうぞ」

 柔らかく笑う老婦が愛想よく言って厨房に戻って行った。せっかくなので専用コーナーで白菜キムチを小皿に盛ってテーブルに戻ると、彼女が苦い顔をこっちへ向ける。そういえば、苦手だったか。

「……食べなければいいだけだろう。においもダメだったか?」

「そこまでじゃないけどお。無理に食べさせようとしないでよ?」

「誰がするかそんなこと」

「***が面白がってするんだってば……」

 小さく笑って小皿をつつく。赤色の辛味が舌を刺激した。

「まあ、あれでも親しき中の礼儀は持ってるだろ?」


 そのやりとりを直接に見たことはないが、私にはただじゃれているだけの様子しか想像できない。***は悪ノリすることもあれど、本当に人が嫌がるようなことはしない子だ。

 困った妹分だよ、本当。とでも言いたげに、■■はため息を吐いた。

 まもなく、老婦人がトレイを二つ持ってテーブルまで来た。

 蒸し鶏にキュウリ、錦糸卵とミニトマト。ごく一般的な具材が乗った冷やし中華は、体の中から私たちを冷ましてくれた。

「……ああ、そういえば」私はおもむろに言った。

「うん?」

「○○○○たちに、ヘアアクセ作ってあげたんだって?」

「あー……うん。まあね~」

 つるると麺を吸い上げ飲み込んでから、彼女は唇をほころばせた。

「○○○○はさ、普段からすっごいオシャレなのに、ちょっとした小物とかに気を遣わないでしょ。そういうとこ、もったいないじゃない? で、まあ作ってあげたんだけど。そしたら***も欲しいって言い出してね! ショートじゃシュシュも使いづらいかなって思って、あの子にはヘアピンを……プロデューサーさん?」

「ん?」

「どうしたの、変な顔して」

「変な、って……遠慮がないな、まったく」

 自覚はなかったが、どうやら顔がゆるんでいたらしい。


「どうかしたの?」と繰り返したずねられるが、べつに何か特別なことがあったわけでもなく、

「いや。仲良いよなぁ、本当。と、思っただけだよ。微笑ましい」

 思ったことを素直にそのまま言っただけだった。意図のまったくない単なる感想に過ぎなかったそれは、しかしちょっとした意趣返しになったようだった。皿に向けていた顔を上げると、彼女がウェーブがかった毛先を指先でいじくっているのが目に入った────親しくなるにつれてわかった、照れたときの彼女の仕草。

「そりゃ仲はいいけど。……普通でしょ」

 噴飯、ならぬ噴麺しそうになる。しれっとした表情をしているのがなおさらにおかしい。

「べつに照れるようなことじゃないだろうに」

 行儀悪く箸で指してみると、うるさいっ、と彼女が言った。

 ちょっとした田舎の出身である■■は、都会的なイメージの付きまとう芸能事務所に入ることにやや緊張していた(うちのような小規模事務所にそんなイメージを持つのが適切なのかどうかはさておいて)。その相談を持ちかけた相手である私に、同じ口で心配がまるで不要だったと自己申告していたと考えるのならば、照れる気持ちも理解できないことはなかった。


 お互いに三十分もかからず食事は終えた。そろそろ行かないとな、と荷物をまとめたところで、隣席に座っていたいかにも体育会系な体格の男二人組の会話が耳についた。

「────そういや、知ってるか? 今日ここで、どっかの雑誌の撮影あるらしいぜ」

「へえ。誰か可愛い子くんの?」

「詳しくは知らねー。けど、なんかアイドルも来るんだとか。ほら、あのー……ミシロプロ?」

「マジ? 有名どこじゃん。ちょっと見に行ってみっか……って、そうだ、ミシロで思い出した。なあおい、こんなウワサあんの知ってるか? あそこ今度さ、なんか社長か専務かが変わるらしいぜ」

「んなお偉いがぁ? 不祥事もねーのに、んなことならんだろフツー。どこ情報よ、デマだべそれ」

 しばし耳を傾けていたが、嘆息して立ち上がった。会計を済ませて店外に出ると、彼女は「なかなか上がらないよね。知名度」とぼそり言った。

「……まあ、事務所のネームバリューがな」


 今回の撮影はミシロから回してもらった仕事のひとつだ。企画書に載っていた向こうから出されるアイドルは、この春に事務所に入ったばかりの新人。曲がりなりにもデビューしてしばらくが経つ■■と比べたなら、その人気度合いは優っているはず。

 だというのに、噂に流れるのはミシロのアイドルだった。劣っている場所があるならばそれは事務所としての力に他ならず、そう思うと情けなさやら申し訳なさやらで涙もちょちょぎれそうになる。

「あっ、そんなに大げさに気にしてないよ? 私たちは私たちでやっていくしかないんだし……」

 くるんとターンして、彼女は私に背を向けた。

「ちょっとずつでも、やっていくしかないもんね。ちゃんとわかってるよ」

 まったく、本当に────と言いたくなったが、咳払いでごまかした。■■にせよ、***と○○○○にせよ、私にはもったいないぐらいにできた子たちだった。

 横に並び、店内に入る際に預かっていた日傘を再び開いて渡す。

「じゃ、今日も地道に頑張ろうか」

「うん。……もしさ。もしほんとに見に来たらね」受け取って、彼女はポーズを決めてウィンクした。「さっきの人たちも、まとめて私が魅了しちゃうから♪」

「……頼りにしてるよ」


 ジニアの植え込み通りをもう一度通って、予定の集合場所まで赴いた。噴水がキラキラしぶきを散らして涼やかさをアピールしていたが、実情は焼け石に水だった。

 すでに他所のアイドルもモデルもあらかた集まっている。中へ混じって簡単な挨拶を交わした。噂のミシロのアイドルもいた。そのプロデューサーも隣についていたが、私に見覚えのない顔で、おや、となる。

「こんにちは」声をかけてみると、やや硬めの声で律儀な挨拶が帰ってきた。年若い。もらった名刺は角がピンと鋭く尖っていた。

「……失礼ですが、最近入ったばかりの方、でしょうか?」

「あっ、はい! この春入社してばかりで……右も左も分からない若輩ですので、ご失礼あったら申し訳ありません」

 頭を下げた相手には無難な返答をして、また少しばかり複雑な気分に陥りそうになる。

 私が新卒として入社したときは、新人全員が分け隔てなく一年間はアシスタントだった。先輩プロデューサーにつき従って、現場研修を行っていたはず。体系が変わったのか、あるいはこちらの彼が飛び抜けて有能なのかもしれない。

 しかしどちらであったにせよ、ちょっとしたしこりが私の中に生まれたのは間違いなかった。そんなものが生まれてしまったのが、情けなく、また惨めったらしくもある。

 自分たちは自分たちでやっていくほかない。アイドルたる彼女が理解して納得しているのに、そのプロデューサーである私がこんなことでどうする。


 眉間にシワが寄ったのが自分でわかった。目ざとく察した隣の■■が「どうかした?」と訊いてくる。

 なんでもない、と返して首を振るった。

「ふーん……?」彼女はさっきまでの私の視線を追うように、ミシロプロのふたりを見やった。それから私とを見比べて、にこりと笑う。

 私が首をかしげたところに、嘘をつけと言わんばかり、唐突な彼女の平手打ちが私の背中をばちんとやった。薄着越し、背中への衝撃がただ単純に痛い。

「……なにを」

「よくわかんないけど」こっちの言葉は遮って、彼女は小慣れたウインクを私に飛ばした。「プロデューサーさんは、ちゃんと私を見てること! ……ね?」

 集合の声に呼ばれて、彼女は足取り軽く駆けていく。その背中が、すすけたような私にはいたく頼もしく映った。……本当に、私のような馬鹿者には過ぎたぐらい。いや、ひょっとしたらそれでかえってバランスが取れているのか?

 こんなことを口に出すとまた叩かれてしまう気がしたので、私は黙って撮影に臨む彼女を見守ることにした。


四.

 順調だな。呟きはするりとすべり出た。モニタに映る今月の収支表の最下段は、黒色の数字が並んでいる。作成した資料を保存のち社内ファイルに放り込む。手帳のメモにチェックを入れて、一度大きく伸びをした。ロールアップタイプのカーテン越しに、オレンジに光色を変えた西日が当たっている。

 本来ならば経理関係の仕事なんて私のいたすところではない。とはいえ、小さな会社で人も少ない。足りないところは手の空いた者が務める、という暗黙の了解のもとに、すっかり門外漢だった作業にも慣れてしまった。

「ていっ! ツーペア! どう?」

「残念。はい、スリーカード♪」「うそっ!?」「まだまだね~、***」

「……えっと、ごめん。私、フルハウス」

「え、うそでしょ!?」「○○○○強ーい!」

 そして、この近い距離感にも慣れたものだった。

 右隣の空席はいつの間にやら私の担当アイドルたちの遊び場のようになっていた。どこからか持ってきたパイプ椅子も並べて、今は三人、ポーカーに興じている。仕事の邪魔にならんのですか? と以前同期の同僚に呆れ混じりにたずねられた。確かに気は散るが、これが案外邪魔ということもない。


 お揃いじゃない四つのマグが置いてあった。私のデスクにひとつ、隣の彼女たちのところに三つ。すでに干してしまっているが、もとはコーヒーが入っていた。淹れてくれたのは彼女たちで、そんなやさしい気遣いが私は嬉しいのだ。

「あれ? プロデューサー、仕事終わった?」

 ***の言葉に「ああ」と頷くと、■■が「もぉ、遅いよプロデューサーさん」と不満げに言う。

「待っててくれなんて言ってないだろう……しかも遊んでたじゃないか楽しそうに。文句を言われる筋合いがない」

「まあまあ、プロデューサー。■■は待ってたのよ。これで結構健気だから」

「ひゅーひゅー♪」

「ちょっと、○○○○? 変なこと言わないでよ。***もヘタな口笛やめるっ」

「えっ、ヘタじゃないしっ!」

「変なこと……? 待ってたのは本当よね」

「みんなで待ってたんでしょ!?」

 やんややんやと騒がしくなる三人に苦笑しつつ、とりわけヒートアップしそうな■■を中心になだめた。

「で、どうした? ……なにかあるんだろう


 あらためてたずねてみると、一度、三人顔を見合わせる。代表して口を開いたのは***だった。


「……もうじき、夏が終わっちゃうよね?」

 まだ日中は暑苦しいぐらいだが、暦上の夏と秋の境はもう結構前に過ぎた。「そうだな」

「最近、仕事は順調だよね?」

「そうだな」考えるまでもない。ついさっきに結論が出た。

「……ご褒美、ほしいよね?」

「……そうなのか?」

「と、いうわけでっ! 私たちは遊びに行きたいのです、プロデューサー!」

 かなり強引に『と、いうわけ』で繋げられた気がするが、要するにここのところ頑張ってるんだから休暇をよこせと、そういうことらしかった。


 必携品である手帳を開く。ありがたいことに、またあいにくに、スケジュールは埋まりがちで書き込みのないマスは少ない。誰かが休みでも別の誰かが出勤になっている。三人でどこかに行きたいと言っているのだろうから、それでは意味がない。

「次に三人の休みが重なるのは……」

「重なるのは?」

 ページをひとつまたいだ。「……一ヶ月後、ぐらいか」

「遠いよっ!」

「そうだよな」

 自然の成り行きでは満足してもらえそうもない。調整するしかないかと、一週間後の営業予定にボールペンを当てた。

「……じゃあ次の土曜日。なんて、どうだ?」

 三人それぞれにスマートフォンや手帳を開いた。予定を確認して揃って頷く。

「いいね!」

「では、そのように」


 二本線で自身の字を消し、忘れてしまわないように日付の上にバツ印を入れた────ところ、のぞいた■■が「あ、違うよ?」と私の手帳をひったくった。

 ノック部分にキャラクターがあしらわれた彼女のペンが、私の手帳を走る。

「……これでオッケー。はい、プロデューサーさん」

 返ってきた手帳には、ピンク色の丸文字がちょこんと書き足されていた。

『四人でデート(ハートマーク)』

「……■■?」

「うん?」

「なんだこれは」

「えっ、なにって」さも当然だと言わんばかりに彼女は首をかしげた。「プロデューサーさんも一緒に行くに決まってるよね?」

 ────決まってはないんじゃないか。という主張は完膚なきまでに黙殺されてしまった。




 じきに秋めくということで、実際の気温はともあれ世は納涼のシーズンである。催事の多くなる時期の中、私が指定した休日は偶然にも都下の花火大会の日を撃ち抜いていた。

 住んでいる地域からは近いとはいえ、開催地は徒歩で気軽に行ける距離ではない。電車もイベントとなれば当然に混む。彼女らは運転免許など持ち合わせていないから、つまるところ出かけるにあたっての足も欲しかったのだろう。

 自家用の青いミニクーパーは四人乗せるとかなり厳しい。うるさく唸る古びたエンジンに申し訳なく思いつつも、アクセルを踏み込んだ。

「あと二十分もあれば着くな。……今さらだけど出発早くないか?」

 まだ太陽は東の雲の裏側で佇んでいる。花火の打ち上げ開始は夕方からで、場所取りの必要はあったにしてもさすがに早すぎるように思える。

「早くない早くない」ヘッドレストに手をかけながら後部座席の***が言った。「向こうで遊ぶもん。ねー■■姉?」

「そうね。出店とかは朝からやってるみたいだし?」

 バックミラーに映る■■はスマホをいじっている。下調べをしているのかもしれない。

「レインボーアイス、っていうのが毎年出るらしいの。屋台で。それ食べたいなぁ、写真映えもしそうだし。○○○○も食べたいよね?」

「え……うーん。べつに?」助手席の○○○○が応える。

「そ、そこは行きたいって言うべきところでは!」

 ■■へと返されたマイペースな正直さに、***が突っ込んで三人の笑い声が重なった。

 足扱い、と考えたならばそれは大概愉快じゃないが、反して私の表情はゆるんでいるような気がした。


 やがて湾が見えた。埋め立てて作られた地面を走る道路はとことんまで人工的で、合理的に私たちを連れて行く。時間が早いだけあってそこまで人混みはなかったが、会場に近付いて屋台が路端に並んでくると、途端に進みが悪くなった。

 合議の結果ちょっと遠めのパーキングに入れて、そこからは歩いて行くこととする。三人それぞれ一応に軽い変装をした。■■はベージュのハットに黒縁の眼鏡。***はデニムカラーのキャップ。○○○○はフレームレスの丸眼鏡をかけて、普段下ろしている髪をおさげにしてシュシュで留めていた。

「プロデューサーは変装しないの?」と***が訊く。私がする必要がどこにあるのか。

 その日は比較的涼やかな気候だった。日差しは弱く、海沿いに風があることもあって、熱暑極める日々の中にあってはかなり過ごしやすい。


 駐車してから歩くこと五分ほど、先頭を行く***の琴線が最初に反応したのは屋台奥で銃把を握る人影だった。

「おー、射的っ! やりたーい! みんなやろうよ!」

「あ、コラ。走らないの***。危ないでしょ?」

「ととと……えへへ、ごめんね○○○○。■■姉ー! 早く早くっ」

「急ぎすぎだって……お祭りは逃げないから。……で、射的? やるの?」

「やるっ」

「○○○○も?」

「私は、やるなら付き合うけど……」

「んー……なら、私は見てるね。特に欲しいものもなさそうだから。……せっかくだし、二人で勝負! とか、してみる?」

「むっ」「……いいわね」

「勝負○○○○! おじさん一回!」

「あいよ」

「受けて立つわ***。……おじさん、私も」

「あいあい、っと」

「……んんん……よぉく狙って……撃つ! 撃つ!」

「えっ、どこ狙ってるの***……?」

「うるさいなー■■姉!」

「Shoot! ……うん、悪くないわね」

「おっ、こっちの嬢ちゃんはうめえな。緑のブサイクが一撃だぁ」

「……なに狙ってるの○○○○……?」

「……■■、うるさい」

「なるほど、勝負に勝って試合に負けた○○○○……」

「黙って、プロデューサー」

「勝負に負け、試合にもべつに勝ってない***」

「プロデューサー?」




「あっ、見てみて! レインボーアイスの屋台!」

「あー……んー? ……うーん」「すごい色……ね」

「えっ、二人ともなにそのびみょーな反応」

「いや、……■■姉、正直に言っていい?」

「なによ」

「おいしそうではなくない?」

「そんなこと言わないでよっ! ○○○○も頷くのやめる!」

「おもちゃみたいな色してるよね」

「おも……○○○○、今から食べるんだから言い方考えて。もう、私は買ってくるからっ。ちょっと待っててよね」

「ああ、私も買おう。***と○○○○は待っててくれ」

「さっすがプロデューサーはわかってる! こういうのが女子力だよね~」

「ああ、ええと……いやすまん、怖いもの見たさが本音というか」

「サイテー」

「私に女子力を求めてくれるな。……ああすみません、ふたついただけますか。ふたつで……六百円ですね。ちょうどで。……ほら、■■」

「あ、ありがと」

「おかえりー」「……近くで見るとなおすごいわね」

「そうだろう。……しかし困った、コレなかなかうまいぞふたりとも」

「えっ」「……本当?」

「ふんだ、あげないからね。んー……うん、この角度かな。……よし。ほら見てこのセルフィ! 超いいでしょ!」

「ほんとだー」「写真はいいね」

「味もいいんだってばっ!」




「私ねぇ、屋台のソースものは最強だと思うんだ」

「うん。口元に青のりついてるよ***」

「ウソッ。どこ? 取って取って○○○○」

「もう……ふふ、子どもみたい」

「もうお昼だね~。***と○○○○は焼きそば食べてるけど、私たちはなに食べよっか? プロデューサー」

「ああ、ソースもの最強説は私も推したいところだからな。たこ焼きか、お好み焼きもいい」

「あっ、『本場の味! ジャージャー麺』だって。私あれにしよっと」

「……参考にすらしないならなぜ訊いた? おい■■待て」

「私たちも焼きそばだけじゃ足りないよね。なにかないかなー」

「えっ……私はべつに。足りそうかな」

「あっ、見て○○○○、ハリケーンポテト! あれおいしそう買いに行こ!」

「待って***私はお腹いっぱいなの。いらない……ちょっと待って、ねえこっちの言うこと聞かないならどうして話振ったの?」

「おじさ~ん、ジャージャー麺ふたつくださ~い」

「コラ待て■■それふたつって私のぶんも入ってるよな? 私はソースものを」

「おじさん! ポテトふたつ!」

「***? それ私のも買ってるよね? 食べないよ私はっ」




「お。スマートボールか」

「なにそれ」「なにこれ」「初めて見たかも」

「……まさか三人とも知らないのか? 嘘だろう……」

「わぁ、プロデューサーさんが崩れ落ちそう」

「ええと……四×四の穴を狙ってボールを弾いて、入った穴で列を作れたら景品?」

「解説ご苦労○○○○くん。へー、要はパチンコみたいなものなのかな?」

「***パチンコしてるの? ダメよ未成年なのに」

「やらないよっ! 変なこと言わないでよ○○○○! イメージだから! イメージ!」

「……まあ、パチンコに似てるっていうのはそうだな。パチスロが出回る前はパチンコ屋にあったりもしたらしい。面白いぞ、私が子どもの頃は屋台の定番だったんだ」

「わぁ、プロデューサーさんが復活した」

「……あれ、そういえば。ねぇ○○○○、パチンコとパチスロってどう違うの?」

「……さあ……? 私に聞かないで、***」

「これが世代差か……」

「わぁ、プロデューサーさんがまた崩れそう。ていうか、そりゃそうだって。私たちが遊技場に詳しかったらそれもどうかって話じゃない。でしょ?」

「まあ……確かに。■■の言う通りか。そうだな。ちょっとやってみるか?」

「いやあ」「ううん……」「べつにいいかな」

「傷ついた」




 ぴちょん、と水が跳ねた。平べったな水槽の中で、赤い金魚が一匹跳んで落ちた。波紋がふわふわと広がって、壁にぶつかってほどける。

 ペラの紙が貼られたポイは、水が染み込んで魚影を捉える前にやぶれてしまった。

「……難しいな」と私が言うと、隣にしゃがみこむ○○○○の口角がゆるく上がった。

「ヘタだね、プロデューサー」

「うるさい。……まあ、取れたとしても返す予定だったしな。うちじゃ飼えないから」

「事務所で飼ったらいいんじゃない?」

「それも……どうだろうな。今日みたいな日は世話できないだろう。他の社員に任せるって手もあるが、自分たちで面倒見れないなら飼うべきじゃないと私は思う」

 店への邪魔にならないようにと早々立ち上がる。まじめね、と彼女は呟いた。言い方次第で良くも悪くも取れそうな言葉だったが、悪い気はしなかった。そもそもすくえていないから無駄な話ではある。

 隣の屋台では■■と***が亀釣りに挑戦していた────はずだったのだが、ひょいとのぞいてみると姿がない。どこに行ったろうと○○○○と顔を見合わせたところで、ちょっと離れたあたりの人混みから呼び声が聞こえた。混んだ人波の合間を抜けて、駆け寄ってくるのが見える。


「どうした?」と言う間も与えてくれず、

「面白いとこ見つけたの!」と***が私を引っ張り、「○○○○も、ほら!」と■■が○○○○の手を取る。

 連れて行かれた先は、出店が立ち並ぶ通りに構えられた呉服屋だった。祭りの熱気に客を吸われた他の実店舗とは違って、その店は取り扱いのものゆえ比較的客足がある。

 呉服屋。玄関口に立てられた宣伝ノボリには『貸し浴衣あり?』の文字────なるほど、私は財布の口を開いてみせた。

 動きにくそう、とややゴネかけた○○○○もふたりがかりの説得には頷かざるを得ず、レンタルは三人ぶんを頼んだ。着付けもサービスに入っているそうで、三人が着替えているあいだに会計は済ませた。

「あ、領収書ください。宛名は……」

「はいはい、はいっと。
 ……いやあしかし、あーんな可愛らしい子を三人も連れてるったあ色男だね。いったいどういう関係だい?」

 店主らしい妙齢の女性は、ずいぶんフレンドリーだった。親しみを込めて投げ込まれたその言葉が、私としてはちょっと痛い。

「……さて。どんな関係でしょうね?」

 変装はあくまで簡易的で、ついでに着替えるにあたって一旦眼鏡も帽子も取り払って、それでもなおまったく気づかれないのはどうなのかという話である。


 曖昧な返答でお茶を濁すと、店主は片眉をつり上げて首を傾げた。しかしそれきり何もたずねてはこなかったあたり、間合いを取るのは不得手ではないらしい。会釈だけ残して、先に店からは出ておく。

 十分と待たず、真っ先に着替えを済ませて飛び出してきた***は、白地にオレンジのアサガオが咲く浴衣を着ていた。「じゃーん! プロデューサー、どうどう!?」

「走ってこけないでよ、***……」次に出てきたのは○○○○、「お会計、プロデューサーが済ませてくれたの?」と言ったのが■■。それぞれ黒地に白ユリ、赤に花山吹を合わせた浴衣を立派に着こなしている。変装用のアイテムはもう付ける気もないようだが、……まあ、仕方ないか。

「似合ってるぞ。三人とも」と言った。「会計は気にしなくていい。経費で落とすから……ああ、その代わり■■は撮った写真をいくらか私に転送してくれ」

 資料としての衣装レンタルだと説得できるだけのものがあれば、なんとかなってくれるかもしれない。というのは希望的観測だ。


 人が多くなってきていた。歩道にレジャーシートを敷いて場所取りをしている人もちらほらと見えて、もうそんな時間かと時の相対性を感じる。

 南西の空は雲が銀色を拡散している。直射する日光がないせいか日の暮れが平生より早いように思う。とはいえ花火大会開始の規定時間が変わることもないはずなので、私たちはゆるやかに辺りを巡った。一応の下調べはしている。この近辺ならば、そう良い場所にこだわらなくても花火は綺麗に見えるはずだった。

 海風が吹いた。太平洋を渡ってくる風は、あまり冷たくない。楽しそうに前を歩いていた三人組が各々に髪を押さえて横風をやり過ごしている。私は自身のスマートフォンで、その後ろ姿を撮影した。

 きちんとしたカメラでも持ってきておけばよかったか。小さく肩を落とした。なんせ私のそれは型落ち旧式の安物である。画質は決してよろしくなかった。

「あー、プロデューサー。撮るなら撮るって言ってからじゃないとダメでしょ?」

 振り返った■■がちょっと怒ったふうに言う。すまん、と謝りながらも、私はラフな写真を保存した。


 薄暮が迫るにつれて、立ち並ぶ屋台に灯が点きはじめた。背景の海に提灯が浮かんでいるようで、さながら灯籠流しのようだと思った。精霊は、薄ぼんやりの明かりに乗って海の向こうへ帰っていく。そういえば、今年の盆も忙しさにかまけて実家へは帰っていない。不意にやたらとセンチメンタルな気分になった。

「……そろそろ落ち着けるところを探そうか」

 ○○○○はモチーフが今ひとつよくわからない緑色のぬいぐるみを抱いている。射的で射止めたそいつをはじめとして、それなりに手荷物があった。彼女らがおそらく慣れてはいないだろう草履を履いていることもあるし、立ち見はあまり望ましくない。

 ぶらりと露道の屋台を冷やかしながらスペースを探した。あてどのない足任せだったが、幸いにしてすぐに良い場所が見つかった。

 場所取りが活発に行われている大通りから、ひとつ曲がったその角に見るからに個人経営らしい店が構えていた。掲げられた看板はかすれている上にサビが浮いているが、文字は読み取れる。『烏山商店』。『ウサン』なのか『からすやま』なのかはっきりしないが、それはまあ、いい。

 重要なのは瓦屋根の軒先にペプシ・コーラの青いベンチが置いてあったことだ。奥にいた愛想のいい老主人に伺うと、どうぞ使ってくれて構わないと快諾を得られた。


 詰めて座らなくても三人は座れる。詰めて座っても四人は厳しい。自然の摂理、当然の帰結として私が立つことになるのは仕方がない。代わろうかと言ってもくれるが、女の子を立たせて私が座っているなんて状況は外面が非常によくない。横向きに首を振るった。

「花火、まだかな」と○○○○が言った。彼女にしては珍しく、感情がむき出しでわかりやすかった。拾った■■がふふっ、と笑う。「もうあと三十分ぐらいだね~。○○○○がうきうきしてるの、珍しいね?」

「……そう? 珍しくは、ないと思うけど」

「あ、そっち否定するんだ。『うきうきなんてしてない……』って言うかと思ったなー」

「わ、***結構モノマネ上手ーい」と■■が囃すと、すかさず○○○○が反論する。「えっ、上手いかな。下手じゃない?」

「ヒドイっ!」

 賑々しい。その様子を背にしつつ、私は烏山商店のガラス戸を引いた。

「元気な子らですな」

 手狭な店内に足を踏み入れると、店主が顔のしわを深めつつそう言って笑った。

「……騒がしいですかね。申し訳ないです」

「いやいや」と店主は首を振る。「若い子というのは、こうでなくてはいけませんよ。元気であることは、なにより素晴らしい。そうは思いませんか」

「……そうですね。思います」


 でしょう、と笑みを深め、店主は大きく頷いた。視線が合った。真っ黒い店主の瞳は、ぞっとしそうなほど澄んでいる。

「子どもの口から出るものこそが真理ですからなぁ。それが笑い声であったならば、幸せの証明。悲しみの泣き声だったとしたらば、悲しみの証明。……どうかすべての人の子らが、幸せに笑っていられる世界であってほしい。そう願ってなりませんな」

 スローペースなその口調は、やけに諌めるように響いてくる。詰まりつつも返事をしようとしたが、まるで思考を読まれたように、店主は私の言葉を事前に差し止めた。「ま、じじいのたわごとですな。失礼いたしました」

 ────さて、なにかご入用ですかな? あらたまってのその言葉に、私はため息を吐かされた。

 場所代の代わりに、というにはあまりに安っぽいが、私は人数分のアイスバーと飲み物を買った。

「毎度ありがとうございます。……いやあ、毎度ではありませんかな」

 からから笑う店主からは、さっきのある種異様な雰囲気はすっかりなくなっていた。

 外に出ると、すぐさま明るい声が飛んできた。「プロデューサー! ……それはアイスだねぇ?」と***が言った。私はその様子にちょっと安堵して、「目ざといことだな」と応えた。


 スイカ味の氷菓をかじった。強い甘味が舌で弾けて、冷たさが頭を冴えさせる。ただ心地よいだけでなく、少しばかりの寒気も感じた。日は暮れて、風向き変わった陸風が熱気を海へ掃いていく。秋を見つけた、というのは言葉が過ぎるだろうか。

「んまーい……」

「結構、涼しくなってきたね」

「もう夜だしね~。そろそろかなぁ」

 時計の長針は、まもなく十二を指し示す。そろそろだな、と言おうとしたところで、地面にひとつ丸いシミが落ちて意識がそっちを向いた。アイスが垂れたか、と右手に掴むスイカバーを見るが、溶けた様子はない。

 ────雨か? まさかと見上げると、夜になった空はのっぺりと黒い。昼間も晴天ではなかったが、予報の降水率は低かったはず。

 きょろきょろと辺りを見渡すうち、不意にひゅるる、と間の抜けたような音が鳴り響いて、雑踏の賑わいが一気に沸いた。

 夜空に大輪の黄色い菊が咲く。炸裂音が轟いて、人の声を消しとばした。

 視覚と聴覚に余韻を残して、また空は黒色に閉ざされた。「わあ……」という漏れ出た感嘆の声は誰のものだったろう。

 しかし、それきりだった。ひとつの爆発をきっかけとしたように、アスファルト上のシミが加速度的に増えていく。立ち並ぶ家屋の屋根をばらばらと叩く音も、比例してその強さを増していった。

「えっ……嘘でしょー……」

 祈るように言ったのは、***だった。そんな彼女をあざ笑うかのように、嘘ではない雨の雫は無情にも空から注いで止まなかった。


 ついぞ雨はおさまることがなかった。当然に、花火大会は延期。私たちからすれば、つまり中止になった。

 呉服屋で浴衣を借りていたのが幸いとなった。着替えがあったおかげで彼女らが濡れたままに帰ることは避けられる。

 ヘッドライトが暗闇の中に雨粒をちかちか浮き彫りにさせていた。車内は静かだった。ちょっと沈んだ気分になってしまった三人は会話が弾まず、それぞれが知らずのうちに寝入っている。

 楽しい一日だった。間違いなく────けれど最後にケチが付いてしまった。どうやら神様というのは、なかなか盲目的に優しくはしてくれないらしい。

 烏山商店の老爺の言葉が、かすかに頭をよぎった。

 車体を叩く水滴の勢いは弱まらない。

 長く続きそうだ、と私は漠然に思った。




 夜来の雨が止まなかった。まるで梅雨が戻ってきたかのように、あるいはそれ以上に、太陽は顔を見せない日が続く。

 日が現れない街は、こんなにも暗い。

 世界は灰色に包まれたようだった。

 鉄筋コンクリートのビル群。アスファルト舗装の道路。モノクロームに、鈍に輝く水滴がしきりに落ちた。

 それはなにか予兆のようだった。

 明るいものは、やってこない。


五.

「────は? どういうことですか」

「いえ、どういうことと言われましても……」

 詰め寄っても効果はなく、受付の男性には困ったような表情をされるだけだった。困っているのはこっちだ。そしりたくなる気持ちを抑えて、私はライブ会場となるはずだった市民ホールを早足に出た。ビニール傘を持ったジャージ姿の三人が小走りに寄ってくる。

「プロデューサー。……どうだった?」

 たずねながらに私の顔色で察したらしく、○○○○の声は尻すぼみだった。首を横に振って応える。

「今日ここでライブが行われる予定なんてないんだそうだ。いや、実際にはあったが、ついこのあいだになくなった、とか」

「なにそれどういうこと?」■■が噛み付く。私は答えを持っていないから、なにも言うことができない。

「中止になったってことだよね? ……連絡忘れ?」と***が言った。

 もしもそうなのだとしたら、致命的なミスにもほどがあった。こっちはひと月以上も前からずっとこの日を視野に入れて動いていた。準備した衣装や機材、アイドルたちのレッスンがそのまま無駄になることはないにせよ、ひとつの仕事が潰れるというのは生なかなことではない。

 念を入れた確認として、手帳に記入しておいた今日のためのメモを見る。イベント会場も日時も間違っていない。主催者は……ミシロプロ。先輩が企画した合同ライブだった。


 先に社用の軽バンに戻っているようアイドルたちには告げ、私は先輩の連絡先に電話をかけた。彼はいつも、仕事中ならばスリーコール以内に電話に出る。ところが、その日の呼び出し音はやたらに長く響いてから途切れた。

『……悪い、待たせた。どうかしたか?』

 どこか疲れが滲んだような声だった。苛立ちに任せて問いただそうとしていたところ、その声色で少し平静に戻る。

「……お疲れ様です。聞きたいことがあって連絡しました」

『なんだ? 悪いけど、今忙しくてな。手短に頼む』

「では前置き抜きで。……今日の合同ライブ、中止になったんですか? こっち、なにも聞いていないんですが」

 たずねると、先輩は『はぁ……?』と呟き、そこから少し間が空いて、バツの悪そうな声が届いた。『……悪い。伝えられてなかったな。完全にこっちのミスだ、本当に申し訳ない』

「終わったことです、謝罪はもういい。事の経緯を教えてください」

『ああ、悪い。実は……』応えようとしたところで、電話口の奥で先輩の名を呼ぶ大声が聞こえた。彼の舌打ちを初めて聞く。『わかってます、すぐ行きますから! ……くそ、すまん、本当に悪いんだけど、後にさせてくれ。余裕がないんだ。今、ミシロがヤバい』


 早口にそこまで言い切って、こちらの返事は待たず通話が閉じた、向こうの都合で振り回されたあげくにこのないがしろ。立腹して当然なその状況で、しかし私に怒りの感情は薄かった。それよりももっと私の意識を引っ張る言葉があったせいだ。

 ……ミシロがヤバい?

 なにかが動いていたらしい。私はそのなにかをすぐに感知できる場所にはいなかった。

 なにがどうなっているのかわからないが、先輩の様子はただ事ではなかった。一刻も早く事情を知りたい、というよりも、知るべきだと思った。けれど、かけ直した電話は一向繋がらず、メッセージへの返答もない。

 ひとまずは帰るしかないのか。私は雨の中を軽バンまで走った。


 事務所に着くと、ほとんど同時に私のスマートフォンが鳴った。ただ、電話のためのコールではない。メッセージを受信したことの通知音。先輩からだった。『午後三時、そっちに行く』『都合悪かったら言ってくれ』

 待っています、とだけ返信して、車に積み込んでいた諸々を下ろした。

 ***たちにはとりあえず今日は解散と伝え、報告のために社長室へ向かった。ノックをしても返事がなく、ドアノブは回そうとしても動かない。留守か。思わず扉を殴りつけてしまって、自分が想像以上に参っていることに気づいた。

 どうしようもなくて自デスクに戻ると、私服に着替えた三人が待っていた。

「……帰ってよかったんだぞ?」

「帰れるわけないって」と■■が言った。

 デスクにはマグが用意してあった。「プロデューサーは、なににする?」***の気遣いにコーヒーを頼んだ。各々の好みで買ったせいで不揃いになった四つのマグは、角砂糖を落とすとそれぞれに違った音を鳴らす。オフィスフロアの角には給湯ポットがある。お湯を注いで持って来てくれたインスタントコーヒーをひと口含んだ。


「とりあえず、今日のライブは結構前から中止になってて、その連絡が来てなかった。っていうことなんだよね?」

「ああ」頷いた。***の確認が、今日に起こったことを端的にそのまま表している。

「ありえなくない? 中止になったのはまだしも……いや、それもありえないんだけど! 連絡ないのはもっとありえないって」と■■がぶっきらぼうに言った。○○○○もそこに乗っかる。

「うん。正直ちょっと、愉快じゃない……よね。ちゃんと説明してもらわないと。ことの次第によっては怒るよ」

「わかってる。ちゃんと説明もしてもらう。……ただ、どうもワケありらしい。まだ詳しく聞けてないが」

「ワケなくこんなことになってたんなら問答なしで責任者ひっぱたくから」

「連絡しなかったワケってなに。理由があったってなにしてもいいことにはならないわ」

「……私に突っ込むな。私だって知りたい」

 明らかに不機嫌なふたりと私とを見比べながら、黙っていた***が「あはっ」と不意に笑った。声は渇いていた。

 笑おうと努めていると直感でわかって、自己嫌悪する。

「あのー……ね、プロデューサー。先輩さんは、三時に来るんだったよね」

「……ああ。そう連絡があったな」

「じゃあさ、えっと……お昼、どうしよっか。ほらほら、私お腹すいたなー! みんなももうじきお腹すくころでしょ? でしょ?」


 空気を変えようとしている。それがあからさまにわかって、いたたまれなくなる。痛いぐらいなトゲトゲしさを作り出したとして、今はどうにもならないのだ。私は最年少の彼女よりも未熟だった。

「……出前でも取るか」

 出かけていく気にならなかった。空模様も居残れと言っている。

 ■■と○○○○のふたりも、私と同じ心境になっている────ような顔をしていた。***と合わせて三人ともが頷いたので、自分のスマートフォンをポケットから取り出す。

「なにが食べたい?」

「……ピザ」「お寿司」「うぅん……中華」

「ちょっとぐらい合わせる努力をしよう」と私は言った。

 途端、空気がぱんと弾けた。申し合わせたように四人で一緒に吹き出して、それに救われた。みんなして寄って集まって難しい顔で食事をするなんて、そんなのは御免だった。

 最終的には***リクエストの中華を取ることになり、昼食はいつものように和やかに過ぎる。ほかの人の食べているものを欲しがる***も、付け合わせのキムチをかたくなに嫌がる■■も、ひとり淡々と食べ終えてみんなの食事風景を眺める○○○○も。よく見る光景は安心できるようだった。


 そののち、午後三時をやや回ったところで、事務員さんが私のデスクへと走ってきた。

「プロデューサーさん、なんかお客来てますよ。ミシロプロの人です。応接室Bに通してるんで」

「わかりました。ありがとうございます」立ち上がると、なにも言わずとも三人も椅子を蹴った。同席する気概は満々らしい。拒む理由もないので引き連れて二階のB室へ向かった。

 好きには入れとばかりに開け放してあったので、とば口に立って中をのぞいた。黒貼りのソファに座る先輩は湯のみのお茶に手をつけていなかった。こんこんと木製の扉を甲で叩くと、肩を小さく跳ねさせて立ち上がる。彼にはとても似合わない所作だった。

「……いつもお世話になっております。このたびはこちらの不手際により大変な迷惑をおかけしましたこと、心より謝罪いたします。申し訳ございませんでした」

 まだ室内にも入っていないというのに、他人行儀に深々と腰を折られた。彼の対面のソファへと移動してから、「謝るのに慣れてないですね」と皮肉を言ってやった。

 顔を上げた先輩は、痛い顔を私へ向けた。

「……ほんっとすまん」

「相手が違います」私への謝罪はもう聞いて飽いた。

 あとに続いて入ってきた三人を見て、先輩はすぐに得心して「……その通りだな」ともっと痛い顔になった。

「本当に申し訳なかった」

 再度深く下げられた頭は、アイドルたちに向かっていた。

 長い付き合いの私ですら先輩のこんな殊勝な姿は見たことがない。彼女らも当然に普段の様子しか知らないので、ちょっと面食らった顔を三人ともが浮かべていた。


 場を整えて向き合った。テーブルの向こう側の先輩は、頬骨が浮いているようだった。もともと痩せ型だった彼だが、さらに肉が落ちてしまったようで、いっそ不健康そうにも見える。

「……さて。なにがあって今日みたいなことになったか、だよな。わりと大ごとだし、たぶんもうじきに知れ渡るだろうことなんだけど」

 先輩がおもむろに口を開く。私は頷いて続きを促した。

「とりあえず、最初に俺の説明を全部言わせてくれ。質問はあとでいくらでも受けるから。いいか?」

 構わないともう一度頷く。


「ありがたい。じゃあ、まあまず電話で伝えてたとおりだ。ミシロが今、相当ヤバい……っと、これじゃ語弊があるか」

 ミシロ・グループはなんら変わらず健在だ。ただしその傘の下、芸能事務所ミシロ・プロダクションの、そしてとりわけアイドル事業部が、今大いに揺らいでいる。それが先輩の口から出た最初の説明だった。

「……いったいなにがどうなれば」そんなことになるんだと、言いかけて飲み込んだ。質問はあとにする約束だ。先輩は少しだけ顎を引いて、再度言葉を紡ぎ出す。

「うちのアイドル部すべてを統括・管理する常務取締役が、ちょっと前に帰ってきたんだ。それまではアメリカに出向してたんだけど……それで一気にえらいことになった」

 統括・管理を担う常務取締役……その存在は私には馴染みがない。私がミシロに在籍していた頃はアメリカにいたということなのだろう。

 ミシロプロは、なんせ多様なアイドルを大量に抱えている。正統派アイドルから、旧態的正統派なアイドル、バラエティ特化、ボーイッシュ、マニッシュ、ガーリッシュ、パンキッシュ、アダルティな人もいれば、十に満たない子までいる。果ては自称異星人やサンタクロースなんていう、いわゆる『イロモノ』まで現れてくるほど。この暴力的なまでの個性を推していくやり方がミシロの特色でもあった────ところが。


「常務は、グループ創業者の直系血族な上にやり手のエリートで、若いうちから渡米を繰り返していろいろ学んでた人なんだと。今回やっと本格的に帰国して、ミシロプロの現状をしっかり把握して、それが気に食わなかったらしい。気に食わないっつうと狭量に聞こえるけど、……まあ統括だからな。いわく、『現状は不合理だ』と」

 すべてアイドルはアイドルたれば良い。それが帰ってきたらしい常務とやらの主張だったのだという。アイドルは、アイドルらしくあれ。かつての芸能界のようなスター性を、別世界のような物語性の確立を、今に求めた。

 現状の個性を活かすやり方をそのまま否定するわけではない。しかし、それではあまりに遅い。結果が出るまでに時間がかかりすぎる。不合理は、排除せねばならない。

 だから一度、すべてを効率的に組み直すためのリセットを。展開していたアイドル事業部のプロジェクトはすべて白紙に戻されたのだと先輩は続けた。こたびの合同ライブが中止となったのも、その影響のひとつ。

 すべて私の思い通りにあれ、ということか。ミシロほどの大企業ならば、上層部と末端との距離は遠い。トップの決定は余程のことがなければ覆らない。下った命令が、重い意味を持つ。


「そんな、……そんなのって!」***がテーブルを叩いて勢いよく立ち上がった。その反応を予見していたかのように、先輩が手だけで制する。

「本当申し訳ない。……俺たちも、納得はできてないんだ。それになにより、アイドルたちが収まらない」

 立ち上がった***は感情のぶつけどころを失って、怒ったような顔はそのままにすとんと座った。

 先輩はとうとう湯のみに手をつけた。ひと口だけ飲んで、それから再度頭を下げる。

「……そういうわけで過去にないぐらい社内がごたついてまして、白紙になっちまった仕事の連絡をするの、すっかり忘れてました。ほんとすみません」

 嘆息をひとつ落とした。ミシロがヤバい────そこには嘘も誇張もなく、本当にとんでもないことになっている。

「内部分裂してるってことですね」

「ああ……まあ、そういうことになる。みんな不満は持ってるけど、言ってもトップダウンの指示だ。飲むやつはそりゃあ飲むし、その一方で俺みたいなのもほかにもいっぱいいる」

「ミシロのアイドルたちはどうなるんですか」と○○○○がたずねた。

「常務の望みに合ってないタイプは? ってことだよな。……現状、わからんとしか言えない。契約や外ヅラの問題もあるし、すぐさまクビとはならんと思うけど」


「そんなに過激なんですか?」

 私の問いでは首をひねった。「過激……っつうか、意固地で、短気だな。あの人は。その上で言ってることが間違っちゃないから困ってる」

「……先輩も、個性なんていらないと思ってらっしゃるんですか?」

「そうじゃない。そうじゃないけど……やり方として、感情を排して一番効率的に利益を回収するっていうんなら、常務の言ってることはたぶん間違いじゃあないんだと思う。……当のアイドルたちが反発してるんだから、正解ではあり得ないとも思ってるけどな。
 ただ、経営者の目線に立つならあの人の言うことには明確な矛盾とか欠陥がない。つつくとこがないから困ってるんだよ」

 間違っていない。────そうなのだろうか。ぐらりと視界がズレた気がした。……なんだ? 先輩の言葉になにか既視感めいたものを感じた。こんな状況は初めてであるはずなのに?

 そんな不思議な感覚からは、■■のいつになく不安げな声で引っ張り起こされた。おずおず手を挙げて、

「あの。質問なんですけど」

 先輩はどうぞ、と促した。


「……プロジェクトが白紙に戻って、今回の合同ライブもなくなった、んですよね?」

「ああ」

「だったら」その瞳は怯えるように揺れていた。「これから先の私たちの仕事はどうなるんですか? ミシロからもらった仕事、……ほかにもいっぱい、あるよね。プロデューサー」

 背筋に冷たいものが走った。言われるまで気づかなかったなんて、私はいったいどれだけ鈍い。ばっと先輩の顔を見るが、俯いていた。

「……詳細はあとで追って報せるけど、間違いなく消えるものもいくつか」

 いや、と先輩は頭を振った。「いくつも。あると思っていてほしい。重ねて謝る」

「そんな……」

「な、なんとかできないんですか!?」ほとんど叫んだような***の声に、しかし先輩はただ応えた。

「できない。と思う。今……いや、常務が帰ってくることを知ってから、だから実は結構前からなんだけど。ほんとに手が足りてないんだ。余裕がない」

「あんまり勝手じゃありませんか」

「申し開きもできない」

 尖った○○○○の追及もいなされた。そこで気づく。先輩の顔色がない。ひどく冷たいものに見えた。

「謝りに来て、そのうえ仕事を取り上げるみたいなことになって、言葉以外になんの詫びもないことは心から悪いと思う。だけどそれでも、わかってもらうしかない。納得してもらうしかない」

 伏せていた目をそっと上げて、彼の視線が私を貫く────ああ、だからこの人は有能なんだろうとひしひしわかった。優先順位と取捨選択を間違えない。それは仕事ができる人間の必須要項だ。

「俺はお前に好意的だ。***ちゃんたちのことも気に入ってる。……でも、わかるだろ」

 突き放しの言葉は残酷なぐらい愛に溢れる。

「俺はお前らよりうちのアイドルたちの方が好きだから。大切だから、あいつらのためにもこっちのことにまで骨身を削ってはいられない」

 ごめんな。

 彼はそれだけ最後に言い残して帰っていった。


 その日、退勤して家に帰ったあとに先輩からメールが届いた。ミシロの現状をあらためてわかりやすくまとめてあった。その末尾にファイルが添付されている。開いてみると、ミシロから回してもらった仕事のうち、キャンセルとなったものが日付順に羅列されていた。

 スマートフォンのスクリーンと手帳とを見比べながら、訂正の棒線を引いていく。すべて引き終える前に、ぼそりとひとりごとが出た。

「……全部じゃないか」

 なにが『いくつか』。なにが『いくつも』。

 右肩上がりの字体で書きこんだ仕事の予定のほとんど半分近くを、自身の真っ黒なインクが塗りつぶした。


六.

 雲の切れ間に太陽がのぞいていた。久方ぶりの青みが頭上に割れた灰色の奥に見える。たたんだビニール傘で地面を突く。水たまりができている。映る私の表情は、光の加減で黒く潰れていた。

 出勤して、デスクに向かう前に手洗いに寄った。小用を済ませて手を洗っていると、鏡の中にふたつめの虚像が現れて目が合った。

「……っと。おはようございます」

「ああ、おはよう」

 彼は同期のプロデューサーだった。といってもここに入社したのが同期だというだけで、私の方がいくぶん歳上だ。彼が「同期だとはとても思えない」と私を先輩と呼ぶので、私も彼のことは後輩のように扱っていた。

「珍しく早いな」とハンカチで手を拭きながら言った。オフィスへの一番乗りは、基本的にいつも私だ。誰がどんなタイミングで来るかはある程度把握している。彼は普段は遅刻間際を狙ったように出勤していたはず。

「ああ……まあ、大変なことになっちゃいましたしね。早めに片づけておきたいこともあったので」

 小便器につきながらの彼の声は、朝ということもあってか、かすれていた。

「そうか」

 あの日から、私たちの事務所もてんやわんやだった。大樹が揺らいだのだとしたら、そこから伸びる枝葉も到底無事ではいられない。ミシロという業界最大手の事務所が揺れているのだから、その影響は甚大に決まっている。

 事態は、ミシロから回ってきた私たちの仕事が消えた、それのみには尽きていない。


「やばいっすよねぇ」どこかひとごとのように彼は愚痴を漏らした。

「結構な。頼むぞ若手よ」

 おどけて言うと、責任重いなあ、と彼は困ったように笑う。

 切れの悪い彼を置いて先に出ようとすると、呼び止めの声が私の後ろ髪を掴んだ。

「先輩。今度どっか飲みに行きましょうよ」

「……えらく急だな」

「まあまあ、いいじゃないですか。おごってください」

「図々しいにもほどがあるだろう」

 苦笑いだけを残して、確約はせずにトイレを後にした。

 オフィスフロアに着いてみると、いつもはいない先客がいた。もこもことした等身大サイズの青いのが床に転がっている。昨夜は泊まりになったらしい。事務員方の仕事はここ数日で爆増していた。踏んづけてしまわないよう慎重にまたいで通路を渡って、自デスクにカバンを下ろした。

 PCに電源を入れて上着を脱いだ。メールボックスのアイコンには通知を知らせる赤いバッジが点灯している。開いてみると、ずらっと未読の新着メールが並ぶ。中身の確認だけで済めばいいのだが、とまで考えて、そんなわけがないと自分で鼻で笑った。

 メールの内容は、おおかたが予想通りに仕事のキャンセルの連絡だった。ミシロの異変は、すでにうちだけでなく業界内全体を騒がせている。


 ミシロプロは今、部門全体の大改変のためにほとんどの仕事を突っぱねている。立場と資本力が強固な大手だからこそできることだ。

 直近のミシロプロ主催のイベントごとが軒並み中止になった。それをファースト・インパクトであるとすれば、第二波はさらに広範に影響を及ぼす。他社の主催によるところのイベントでさえも、ミシロのアイドルが参加しないのならばと中止を余儀なくされたものが多々あった。

 中止が中止を呼び、震撼はなかなか収まってくれない。ひとつ世界の屋台骨が不安定になるということが、どれだけ大変な意味を持つのか。そして、私たちの立場がいかようであるのかを、痛いぐらいに理解させられていた。

 方々への連絡対応や書類仕事だけで大いに時間を取られてしまう。それはまるでひと昔前に戻ったようだった。

 上層部の決定でいいように使われたあげくにこちらの事務所へ送られた。その私がまた、向こうの決定に振り回されてミシロのためにデスクにかじりついている。

 考えてみればなんて皮肉な運命だろうと奥歯を噛んだ。


「……栄養ドリンク、冷蔵庫にダースで買ってますよー」という惚けた声が不意を突いて背中に飛んできた。

「え?」

「……はようざいます。完徹ですか? お疲れですね……」

 ちょっと粗っぽさの抜けない口調。振り向いてみると、青色のいもむしがむっくり上体を起こしてこっちを見ていた。普段から薄くしかメイクをしていないようで、すっぴんでも印象は変わらなかった。

「おはようございます。……寝ぼけてますね」

「んー……? ……やぁ、寝ぼけてないですけど」寝癖のついた頭を粗く掻いて、彼女は大きめのあくびをひとつ、天井に向かってやった。「……あー。そういや、昨日はプロデューサーさん先帰りましたっけね。思い出してきた思い出してきた」

 顔洗ってきます、と寝袋からのっそりと羽化して、フロアの出入り口へ歩いていった。スウェット姿だった。着替えを持ち込んでいたのかと少し驚く。すれ違いで入ってきた同期の後輩がぎょっとした様子で私の方へ早足にやってきた。

「ちょ、見ました? 『おざーす』って言われたんすけど『おざーす』って。あの人普段あんな感じなんすか? 雰囲気全然違いません?」

「彼女、昨夜ここに泊まりだったみたいだからな。寝起きなんだよ」

 それにしたってまあ、と彼は驚いた様子を引っ込ませなかった。

 仲間の普段見れない様子を見られたというのに、そんな微笑ましいはずのできごとを心から喜ぶこともできない。こんな形で見てしまうことになったのが、不本意でならなかった。


 昨日の退勤から今日の出勤まで、自動で勝手に溜まったデスクワークは昼前に終わった。予定していたよりは早く、■■に宛ててメッセージを送った。『午後三時に集合の予定だったが、前倒しで来られるか?』

『ヘーキだよ』『お昼食べたら行くね』絵文字で可愛らしくデコレートされた返信を確認して、私は手帳の中の予定を書き換えた。早めに営業に出られる。事務員さんにも伝えておいた。

「あい了解です。白板だけ書き直してもらっといていいですか、一応」ちらり一瞥くれただけで、彼女はキーボードを叩きながら言った。

「わかりました。……ほどほどに休んでくださいよ」

「あたしの身体の具合はあたしが一番知ってますって。まあ、ご心配は素直に嬉しいんですけどね」

 力のこもっていない苦笑は彼女らしかった。しかし、────しかしと思ってしまうのは、きっと私のエゴなのだろう。

 そう長時間を待つこともなくやってきた■■を捕まえて、私たちは営業に出た。

 車内は暗かった。実際の光度の問題ではなく、雰囲気が、である。

 ***は、ややオプティミストなきらいがある。○○○○はその向こうっ気の強さでかえって奮起した。あの場にいたなかで、誰よりショックを受けていたのは■■だったように思う。


 メッセージの文面を見た限りでは、ある程度回復したのかと安心していたが。しかし彼女の表情はまだ、あの日からずっと暗い。

 ……こういうときになんと言ってあげればいいのかわからないことが、情けない。

 安心しろ────大丈夫。自信を持って言ってあげられたなら、きっと彼女の不安げな顔を晴らすこともできるのだろう。けれど、私はそんな大言を吐けるだけの器量を持ち合わせていない。

 不確定性の高いことをいいように言い放って、あとで裏切ってしまったならと、そう思ってしまった。

 ……それでも言ってあげたほうが、よかったのだろうか。

 営業中の彼女の表情はあくまで笑顔だったけれど、そこには注釈がついた。心からは笑えていなかったことは、相手方に伝わってしまっただろうか。

 わからなかった。


「……ねえ、プロデューサー」帰りの車中で、彼女は低い声で私を呼んだ。

「……どうした?」

「私たち、大丈夫なの?」

 ためらいのない真っ直ぐな問いに、心臓が強く鼓動を打った。ハンドルを握る手に嫌な汗が浮く。答えに逃げるな、そう言わんばかりに交通信号は赤色のシグナルを灯して、私は向き合わざるを得なくなる。

 綺麗に澄んだ瞳の奥に隠せない不安が見て取れた。

「……大丈夫だ。とは、ごめん、強く言えない」

 瞳孔が開いて揺れる。力が脱けたようにうなだれ、目は伏せられた。「……そっか」

「待て。最後まで聞いてくれ」

 言いたいことを頭の中でまとめて繋ぐ。確かなことがなにもわからなかったとして、だからって■■の心をこのままにしておいていいわけがない。

 仕事は消える一方だ。そのうえ今日の営業だってすこぶる上手くいったとは言い難い。こんな状態で大丈夫だなんて無責任なこと、私の口からは端が裂けたって言えない────それでも。

「頑張らせてくれ。大丈夫になるように。私は……」いや、と首を一度振るった。「私たちは、この急場だって乗り切るために頑張るから。だから、……信じてくれないか。格好いいことは言ってやれないけど、力を尽くすことだけは約束するから」


 頬が熱を持っているのがわかる。カーエアコンは入っているはずなのに、暑い。それでも目はそらさない。それは自分なりの覚悟のあらわれだったのかもしれない。

 長い時間を見つめ合っていたような気もする。実際にはほんの少しのあいだだったのだろう、後続車のクラクションで我に返った。信号は早く進めと緑色を照らしている。私は慌ててアクセルを踏み込んだ。

 エンジン音と街の風景が流れゆく音に混じって、ごく小さな笑い声が聞こえた。

「ふふっ……プロデューサーさん、慌てすぎ」

「うるさい。いいか、後続車ってのは運転するにあたって一番か二番くらいに怖いんだぞ」

「知らないけど……」彼女はほそやかなため息をついた。「……うん。信じるよ。プロデューサーさん」

 横目に伺ったその様子は、やはり不安げだ。それでも彼女は言ってくれた。

「頑張ってね。……一緒に。営業とか、できる限り付き合うし、どんな仕事もするからさ。いつでも呼んでね」

「ああ。……頑張ろうな、一緒に」

「うんっ」

 私が選んだ言葉が正解だったかどうかなんて、ひっくり返ってもわからない。けれどきっと誤りではなかったろうと、浮かんだ彼女のはかなげな笑みを見て信じることを決めた。


 事務所に戻ると、オフィスフロアの入り口で事務員さんと鉢合わせた。

「おや。おかえりなさい、ふたりとも」

「戻りました」「ただいま~」

 事務員さんはトートバッグを抱えていた。時間は定時をすでに回っている。「アガリですか?」

「ええ、まあ。キリいいとこまで終わりましたし、昨日は頑張ったんで今日はいいでしょ」

 彼女を引き止められる人などいるわけがない。事務員の筆頭として仕事の多くを受け持ち、処理の早さには定評があり、かつ無理も利かせてくれる。

 お疲れ様でしたと見送ろうとすると、彼女は立ち止まったままにぽつんと言った。その口元は、ニヤリという擬音が聞こえそうなほどに弧を描いていた。

「……元気になりましたねぇプロデューサーさん。■■ちゃんに会って元気百倍ってとこですか?」

「へ?」不意に名前を呼ばれた■■が惚けた声を出す。

「……唐突になにを言い出すんですかあなたは」

「あっは、怖い声出さないでくださいな。……ま、自覚あんのかは知らないですけど、行く前よりはいい顔してますよ、ほんとに」

「あなたもですけど」

「あー、いやあ、あたしは単に目ェ冴えただけですね。その節は見苦しいモンをお見せしまして」

 ぺこりと下げた頭をすぐに上げて、今度は彼女は■■の方を見た。表情はわざとらしいぐらいに胡乱げだった。


「■■ちゃんたちさぁ……ってか、まあアイドルみんなかな。ここんとこ、あんまし事務所来てくんないね?」

「それは……うん。だって、お邪魔じゃないかなって思って。めちゃくちゃ忙しそうにしてる横で、私たちにできることってないでしょ?」

「……いい子だなぁ。めちゃ健気だ。そりゃまあ気になるよね」

 事務員さんはからからと快活に笑った。普段よりいくぶんテンションが高いのは、徹夜の影響が残っているのかもしれない。

「でもさ、なぁんもしなくていいから。あたしたちなんて、気にもしなくていいから。前みたいに、ただ遊んでてくれてればいいからさ」

 事務員さんは■■の耳元に口を寄せる。その動きに反して声はそこまで絞っていない。内容はすべて筒抜けだった。

「よかったら、事務所には来てよ。プロデューサーさんも寂しそうだし、あたしたちも賑やかな■■ちゃんたち見てると、元気出るからさ」

 ね? と言って、事務員さんの口角がまたつり上がった。

「……うん。わかった、遊びに来るよ。***と○○○○にも伝えとくね」

「よろしくよろしく。そんじゃ、お疲れ様でした~」

 ひらひらと手のひらを振り回して、彼女はエレベーターホールの方へ消えていった。


 ■■がこちらを見上げている。「ね、プロデューサーさん」

「寂しがってない」と私は言った。

「否定早っ! ていうか、聞こえてたの?」

「あの声の大きさで聞こえないわけがあるか……」

 いつまでもそこに留まっているわけにもいかないので、ガラス扉を押し開けた。入ってみると、フロアはがらんとしている。いくらかの人影はあるが、並ぶデスクの数と比べればかなり寂しかった。

「……みんないないね」と■■が言った。

「ああ、プロデューサー組はみんな営業に行ってるんだろうから」

 現状の最優先が仕事の確保だ。消えて失くなったぶんをできる限り補わなければならない。できなかったときの想像は、したくなかった。

 私は自分のデスクに、■■は隣の空きデスクについた。

 ルーティンめいた動きでパソコンの電源ボタンを押す。出ていた隙に処理するべき案件は順調に増えていて、眉間をこねたい気分になった。それでも私はやらなければならない。両手で頬杖をついた■■が、「頑張ってね」と言ってくれるのだから。

「頑張るよ。約束だからな」

 笑ってみせると、彼女も柔らかく微笑んだ。




 約束は守られなければならない。

 どれだけ肉体が苦しもうと、精神が擦り切れようとも、私は立ち止まるわけにはいかなかった。止まろうという選択肢も浮かばなかった。自身が思っていた以上に、私はこの居場所を大切にしていたらしい。

 失いたくなかったのだ。ほとんどかりそめの関係だけしかなかったミシロから流れて、行き着いたこの居心地の良い場所。私が初めて能動的に力を尽くそうと思えたこの場所が、もしも喪われてしまったならと、そんなことは考えるだけで胸に疼痛が走った。

 約束を、守りたかった。

 あの言葉を違えるつもりはなかったし、事実、違えなかったつもりだ。

 けれど、……足りなかったのかもしれない。それは覚悟か、実力か? あるいは、そのどちらもだったのだろうか。


 PC上、図表ソフトに作り上げた収支のまとめを見て下唇を噛み締めた。支出が収入を上回っている。要は、赤字だった。

 デスクの周りには誰もいない。

 ……クソ。ちくしょう。

 漏らした言葉は誰にも届かない。倦怠感が私の体を包んでいた。慢性的な眠気でまぶたまで重い。

 手帳を開いた。チェックを入れたそばから新たな項目を書き足す。やらなければならないことがなくなるのが怖い。書いてレ点を付けて書いて訂正して書いて消して書いて書いて書いて消して書いて書いて書いて消して消して────どのページもしわくちゃになった。

 ペンと手帳が手からこぼれて、デスクの上で跳ねる。なにも掴めない両手で頭を抱えた。食い込む爪がどれだけ頭を刺激しても、このろくでもない脳みそはなにひとつも答えを出してくれなかった。

「……先輩? なにやってんすか」

 自分を呼ぶ声が唐突に聞こえた。いや、唐突ではなかったのか。けれど、後輩が近づいてくる気配にも足音にも、まるで気づかなかった。

「……なんでもない」と私は言った。

「なんでもなくは見えないっすよ。根詰めすぎじゃないですか、最近。……や、まあ、気持ちはわかるつもりなんすけど」

 彼の目元にはクマが見えた。お互い、状況はおよそ似たようなものなのだろう。


 いたたまれなくて、「なにか用なのか?」と突き放すように言ってしまった。彼は鼻白んだ様子になった。

「べつに用がなくったって、窓際で死にそうな顔してる同僚いたら声ぐらいかけるわ。……んなハクジョーなんすかね俺って」

「……いや。すまん。当たった」

「勘弁してくださいよねぇ、俺だってまあまあ参ってんすから。ま、用はあるんすけども」

「あるのか」

「あります。社長が呼んでたんすよ、ちょっと来てくれって」

「……社長が?」

「ええ」と彼は頷いた。「……ここんとこ見てませんでしたけど、なにやってたんすかね?」

 彼の言うとおり、私も最近は社長の姿をとんと見ていなかった。もともとあの人から直接に指示を受けることなどもなかったから、姿をくらましたところで大した影響はなかったが。

 なんの用件だろうか。このタイミングでいつかのように将棋をやろうと言われたら、さすがに私も拳を握ってしまうかもしれない。

 階段で最上階まで上がって、廊下の突き当たりの扉を軽くノックした。おお、入ってくれ、と暗さを知らないような声が届いた。

「失礼します。……お久しぶりですね、社長」

 いつからだったろう、と考えて、思い当たる。初めて異変に気づいたあの合同ライブの日、一応は上司に報告しておこうとしたが不在だった。あの日以来会っていなかった。


「そうだね。……いや、ずっと空けていてすまなかった。まあ、君たちには私の存在などさして必要ではなかったろうが」

 からからと音が鳴りそうに、社長は肩を揺らして笑った。────現状を知らないのか、この人は? 瞬間的に頭に血が上った。

「……今、どういう状況だか、わかってますか社長?」

「うん? ああ、もちろん。こちらへ顔を出すことこそできなかったが、送られてくる報告書には目を通していたからね」

「だったら……!」私の声は、叫ぶようだった。「あなたにはもっとなにか、すべきことがあるんじゃないんですか? どうしてそんなふうに笑っていられるんです!」

 構えられたエグゼクティブ・デスクに平手を落とした。打ちつけた手のひらが痛む。しかし痛みで頭は冷えるどころか、余計に加熱して焼けつきそうなぐらいだった。

 それでも、社長は平然と笑顔だった。

「君の言うとおりだね。私には、この事務所のためにすべきことがある。しかし」

 デスクの抽斗をおもむろに開け、社長は一枚の書類を取り出してこちらへ差し出した。

「まずは、君にこれを渡さなければならない。……今まで、本当にありがとう。そう言わせてほしい」

 なんだそれは。クビだとでも言うのか? ふざけたことを! 感情任せにひったくって目を走らせ────そして、固まった。この書類には記憶がこびりついている。


 出向命令書、兼同意書。二年ほど前の記憶がフラッシュバックする。あのときとまったく同じ……いや、間違いがひとつだけ。あのときにサインしたものとの差異は、出向元と出向先の社名がそっくり入れ替わっていること。

 帰ってこい。そう言われているのか、今度は。

「当然の話だよ」と社長は言った。「二年足らずの短い時間だが、ずっと見てきた。君は優秀なプロデューサーだった。きっと、優秀なアシスタントでもあったんだろう。この有事に、そんな人材を出向先でくすぶらせている理由がないだろうさ」

 言葉を遮りたくて、力任せにデスクの上に叩きつけた。こんなものを、受け入れられるわけがなかった。

「……やめてください。帰りませんよ、私は」

「よく考えたのかね?」

 社長はあくまでおだやかに、諭すように私に向き合った。細いまぶたの奥、その瞳は優しく揺れているのに気づいた。

「ミシロプロは、今確かに大変な状況下にあるよ。しかしそうはいえども、あそこは大手だ。崩れ切ることなど、まああるまい。リストラクション(再構築)はなされているようだが、いわゆるリストラはしていない。戻ってしまえば、きっと悪いようにはされないと思うよ」

 対してこちらは、とまでは言って、社長はそれきり口をつぐんだ。それは無駄な気遣いだった。ぼかす必要はない。私もその真ん中にいるのだから。


 わかっている。どちらの選択が利口なのかぐらいは、私の目にも明らかだ。

 それでも、私はその書類をひと息のためらいもなく裂いた。縦に横に、二度、三度。私を拘束するはずだった命令は、細切れになって宙に散る。

「いいのかね」と社長が言う。

「構いません」と私は応えた。

 約束をしたのだ。頑張らせてくれ。信じてくれと、いいだけ聞こえのいい言葉を吐いておいて、こんな中途でハイサヨナラ、なんてできるわけがない。していいわけがない。

 そしてもしも、約束がなかったとしても。それでもきっと、私はここに居残ることを選んだろう。

 彼女らがいて、私が笑っていられる。

「……ここが私の在り処ですから」

 社長は、鼻からため息を抜いた。そうまで言ってくれるなら、遠慮なく頼むよ。ミシロの方には私から言っておこう。……これからも、よろしく。彼はいろんな意味がこもっていそうな苦笑いを浮かべて言った。

 それから、社長は出向の書類をしまっていたのと同じ抽斗から青いカバーのリングファイルを引っ張り出した。「これはプレゼントだ。受け取ってもらえるかな」

「……なんです、それ」

「ファイルだね」

「そうじゃなくて」

「わかってるともさ」

 くつくつと好々爺然に笑っている。……本当に、掴めない人だ。受け取って適当な箇所をばっと開いた。目に飛び込んできた情報に、私はひどく狼狽した。


「私とて、この有事になにもしていなかったわけではないということだね」

 社長の言葉が耳を揺する。けれど、目は釘付けにされて離せなかった。

「あとは君の好きなように、よろしくやってくれ。手腕は知っているし、安心して任せよう」

 そこには、ライブの企画情報がファイリングされていた。都下にある結構な規模のホールで、参加者にはうちの所属のアイドルたちの名前が連なっていた。もちろん、私が担当する三人の名も。

 ばらばらとめくれば、そのどこにも仕事の資料が入っている。……私たちではなかなか営業も成功しなかったというのに。

「あなたは……」

「昔取った杵柄、というやつかな。……キミは若いんだ、こんな老いぼれに負けないでくれよ?」

 こんなにも嬉しい皮肉を、初めて聞いた。

「……申し訳ありませんでした。とんだ失礼を」

「構わんさ。……ああ、ちょっと待ってくれ。君、仕事に戻る前に」

 はやる気持ちに任せて踵を返したところを呼び止められる。まだなにか、と振り向くと、社長は床を指差していた。

「……それは片付けてから行ってくれるかな。私は歳だから、それはもう、最近は腰が痛くてね」

 指の先には、私が千切ってばらまいた出向の指示書。なんて格好のつかないことかと、思いつつも自業自得である。顔を熱くしながら切れ端をすべて拾い上げて、処分してから社長室をあとにした。


「……もったいないことしますねえ」

 扉から出ると、事務員さんがいた。横の壁にもたれかかって、所在なさげに枝毛を探していた。

「……聞いてたんですか」

「あんだけ大声でやってりゃ聞こえますって」彼女は呆れたように言った。「ここを捨ててミシロに戻れるって、そんなの勝ち組でしょうに。よく突っぱねましたね?」

「まあ。私は、ここが気に入っているので」

「そうですか……」

 そっけなく言って、彼女は社長室の扉を指差した。「……じゃ、あたしも呼ばれてますんで。失礼をば」

 事務員さんは、ノックのあとに返事を待たず、するりと社長室へ入っていった。

 そうですか、と言ってから扉を指差すまでに、彼女はなにかを呟いていた気がする。しかし、その言葉は私の鼓膜までは振るわせなかった。


七.

「────ライブ!? やったあ!」

「ほんとに!?」

「嘘だったら、怒るよ。プロデューサー」

 嘘なわけがあるか、と私は肩をすくめた。

 社長と久々の再会を果たした翌日、予定はないのにおのずから来てくれた彼女らに、社長とのあいだであったことを軽いフィルターを通して伝えた。

 笑顔は満開に咲くようで、嬉しかったと同時にその原因とはなれなかったことが少し悔しい。

「……というか、ライブのほかにもいろいろあるからな。そっちにばかり気を取られるなよ」

「わかってるわかってる!」と***が元気に返事をするが、ほかの仕事の資料には目もくれていない。くだんの日にライブが中止になって以来あまり明るい話もなかったし、無理はないのかもしれない。

 ひさかたぶりに事務所の中は賑やかだった。***だけでなく、私の担当アイドルだけでなく、出勤しているほかのアイドルたちもみな各々のプロデューサーの元へ集まって笑みを浮かべている。

 ほっと安心ができるようだった。


 ……それでなにか、気が抜けてしまったのか。なぜか無性に、異常なぐらいに目頭が熱くなった。手で押さえてみたが、────これはダメだと確信できた。耐えられそうにない。

 わいわいと陽気なフロアを背に、ひと気のないエレベーターホールまで歩いた。

「……なんだ、これ」

 止まらない。ハンカチを湿らせる滴が、無限にも思えるぐらいに目の奥から湧いて出た。どうにかなってしまったのだろうか。

 コツ、コツ、と背後で音が響いた。ヒールの底が床を突いている。

「……プロデューサー?」推し量るような声は○○○○のものだった。

 振り返ることはできず、声は潤んでしまう気がして、ただ立ち尽くした。○○○○は私の前へと回り込んでくる。私はひたすらに顔を背けて、いたちごっこのようになった。

 ふた回りほどしたあたりでらちがあかないと判断したようで、○○○○は「……泣いてるの?」と背中越しに訊いてきた。

「……泣いてない」

「でも、涙声になってる」

「なってない」

「どうしたの?」

 私が訊きたかった。いったいどうしてしまったというのか。なぜこんなにも涙腺が緩んでいる? ごまかし切れる気もしなくなって、白状した。

「……わからん。どうしたんだろうな」

「ハンカチ……あ、持ってるね」

 寄り添う手に背中をさすられる。さいわいしゃくり上げることはなく、ただただひたすらに涙がこぼれるだけだった。


「……大丈夫? はい、これ」

 ホール横のスツールチェアに場所を移して、ほどなくして涙はおさまった。手渡されたホットミルクティーが、正直なところありがたい。唇をなめてしまうぐらいに渇いていた。どれだけさめざめ泣いたのかと自分で不安になる。

 ○○○○は隣に腰かけた。覗き込んでくる顔から読み取れる感情はあからさまで、自身の頼りなさに嫌気がさす。

 二百五十ミリボトルをひと息に半分ほど飲んだ。

「……すまん。変なところを見せた」

「謝らなくていいけど……」

 言葉尻に感じた含みには心配が入っているのだろう。さっきまで笑いあっていた人がなにがあったわけでもなく唐突にふらり席を外して外した先でひたすらに泣いていた。これでなにひとつも相手を想わないとしたら、その人の血は赤くない。外面から冷淡に見える○○○○だが、実際のところはあたたかな子だ。

 しかし、自分で自分の具合がわかっていないのだからどうにも応えようがない。

「無理、してるんじゃない?」

「……そんなふうに見えるか?」

「見えるよ。見えないわけない」ばっさりと切り捨てられる。「……■■から聞いたわ。頑張るって約束したって」

 私とほとんど高さの変わらない目線が、近くから真っ向ぶつかってくる。鋭い目つきは、しかし優しげに私を慮っていた。


「それはもちろん、嬉しいんだけど。でも、……プロデューサーが、私にいつも言ってくれることよね? 度を越した無理だけはするな、って。」

 オフホワイトの床に視線を落とした。笑えない話だ。日頃から口酸っぱく言っていた言葉がそのまま返ってくると、これ以上なく耳が痛い。

「……プロデューサーは、いつもこんな気持ちになってたんだね」ちょっとだけ苦そうに笑って、○○○○は立ち上がった。廊下の向かい側にある窓辺に寄って、クレセント型の鍵を外す。開け放されたガラスの向こう側から入ってきた風を冷たいと思った。いつの間にか夏は過ぎ去って、秋も半ばに差し掛かって、冬の気配が見えた。

 振り向いた彼女の長い髪がなびく。青空に広がった濃紺が重なって輝いていた。

「プロデューサーには感謝してるの。
 凝り固まった頭で、自分にとっての未来を決めつけてた。そんな私に、新しい道を拓いてくれたのはあなただから」

 あなたに出会わなければ、空の広さを知らないままだったかもしれない。独白するような○○○○は、しかし演じる様子もなく、感情をありのままに口元をゆるませる。


「私は、みんなと一緒に進んでいきたい。自分で決めた、きっと楽しいはずの未来へ。そう思わせてくれた、この場所が大切。失くしたくない。頑張りたい。
 ……だけどね、プロデューサー。無理はしないで。なんて、私が言えたことじゃないのかもしれないけど……私も、これからは気をつけるようにするから。私にとってこの場所が大切なのは、大切なみんながいて、……大切なあなたもいるから、なのよ」

 見上げた青色がたまらなく眩しくって、私はまたつま先を見つめざるを得なくなる。

「○○○○……お前なあ」

「うん?」

「泣き止ませたいのかもっと泣かせたいのか、いったいどっちだ……」

「え……? 私は、ちゃんと励ます……ねぎらうつもりで。だって、わけもなく涙が出るのはストレスとか、疲れとかが原因って。さっき調べたら書いてたのよ?」

 飲み物を買ってきてくれるあいだに検索していたらしかった。慌てて差し出されたスマートフォンには、どこまで信じていいのか怪しいトレンド情報サイトが表示されている。

 私は引きつるように笑って、ちょっと冷めてしまった残るミルクティーを干した。




 頑張れ。しかし無理はするな。言われてみれば難しいこの二重の約束は、社長や事務員さんのおかげでなんとか守れていた。営業の一部は社長が担ってくれ、事務の一部を事務員さんがやってくれる。

 社内はある程度の安定を取り戻していた。もちろんミシロの異変が起こる前とは比べるまでもないが、社長が帰ってくる前ともまた、真逆の意味で比べるべくもなかった。

 レッスンにも顔を出す余裕ができた。無理してない? アイロニックなことに○○○○からことあるごとに言われるが、歌って踊る姿を見るのが好きなのだと返してみると納得してくれた。

「ワン、ツー、スリー……で、ここで回って……キメっ! ……どう!? いい感じだったでしょ!」

「ステップあやしい」

「ターン遅い」

「■■姉も○○○○もきびしくない!? プロデューサー、なんとか言って!」

「そうだな、***はまだ振り付けを確認しながらになってるだろ。完璧に覚えきれてない。だからテンポが遅れるんじゃないか?」

「そうじゃなくって! ……いや、アドバイスはちゃんと聞くけどさ! もー!」

「次、私やるから、○○○○見ててくれる?」

「いいよ」

「ねえ、もう、淡々と無視されてるんだけど。これよくないよプロデューサー。ほら、なにか言って?」

「楽しそうでなによりだ」

「もーっ!」

 ただ彼女らの進歩を見てご機嫌になっていた。あまりに能天気だった────だから私は、水面下で起こっていたことに気づけない。

 それは、私にとっては唐突なことだったのだ。


 レッスン上がりの十七時、橙の日差しを横身に受けながら、後輩はその頭を深く下げた。

「……と、そういうわけで。今日付けで退職することになりました。今までほんと、お世話になりまして、ありがとうございました」

「……は?」

「一応、簡単な引き継ぎは終わってるんで。先輩に余計な手間かけることはないと思います」

「ちょ、ちょっと待て」ひどい不意打ちに、私はわかりやすく困惑した。「退職……? 辞めるって、そう言ってるのか?」

「退職に辞める以外の意味はないでしょ」

 彼は小さな苦笑いを顔に貼り付けていた。

「まあ、……潮時っすよ。ここらが」

「……潮時?」

「です。いやあ、もう厳しいですって。……先輩だってわかってるでしょ? いや、わかってないはずない」

 彼は肩をすくめた。

「この事務所に未来があるとは思えない」

 反射で腕が動いた。吐き捨てるような言い方を捨て置けなくて、無意識のうちに彼のネクタイを根っこから掴み上げていた。

「……今、なんて言った?」

「べつに、何度だって言ってもいいすけど」彼はあくまで毅然として、「この事務所はもうキツイっすよ先輩」


 穏やかでない様相に気づいた周囲がざわつき始める。騒ぎになるのは好ましくない。それでも手を離すわけにはいかなかった。

「社長のおかげで、いっぺんは持ち直しましたからね。もしかしたら可能性あるか? とは俺も思いましたよ。でもね、業績はゆるやかに下降してんじゃないすか。祈りを込めた予想業績も横ばいがいいとこ。こんだけいろんな奴が残業して、必死こいてやってて、横ばいでいいわけない。でしょうが」

「……だから辞めるのか」

「潰れるならその前に出ないとでしょ。退職金とかの問題もある」

 徹底して合理的な主張に、否定を挟む余地はない。彼は冷静に、自身の未来を考えて最善と思われる選択を取った。そこに口出しをするのは筋違いかもしれない。

 しかし感情はたかぶって、収められなかった。

「良いように言ってるが、要は保身だろう。お前、それでいいのか?」

 当てこするような言い方になる。

 舌打ちが聞こえて、明確な敵意が向いた。

「うるっせえよ!!」

 私と彼の腕が交差する。私の胸ぐらも捻じ上げられ、気道が詰まる。

「我が身大事でなにが悪いココ倒産したらどうすんだよ! その日以降の俺の生活は誰が保証してくれるってんだ? 生きていくにはどうやったって金がいる、そうだろが!
 ……綺麗事だけで世の中渡っていけるか!!」

 返答に窮した。その隙をついて「……離してください」と強引に手を振り払われる。


「……そりゃあんたらはいいっすよ。今も給料恵まれてんだろうし、ここ潰れても受け皿があるもんな」

 唐突に、意識の外からなにかが飛んできた。視認するより前に彼の横面を張って、ばさっと床に落ちる。クリップで留めた書類の束。

「……っ痛ぇ……なにしやがる!」

 彼が叫んだ先には、事務員さんがいた。彼女はひょうひょうとして言う。「忘れもの、です。それ、あなたのでしょ」

 デスクワークをこなしながら、彼女は平然とした顔で続けた。黒の留め具から外れて散った書類は、確かに彼の担当していた子たちの資料だった。

 彼女の力のないため息がキーボードに落ちた。

「べつにね、あたしはあなたが辞めようが、もうどうだっていいんですけど。……ここ、アイドルも顔出すんですよ。聞かせていい話じゃないでしょ、普通に考えて」

 気づく。さっきまではいなかった、地下のレッスンルームから戻ってきた***たちが入り口で固まっていた。ちょっと外してくれ。そんな意図を持って手を大きく振るうと、察した■■がふたりの手を引いて廊下を戻っていった。

 彼女に対して思い切りに言い返そうとして、しかし彼はその激情は飲み込んだ。誰へ宛てたのかもう一度大きく舌を打ち、ばらばらの書類を一枚ずつ確かめるように拾い上げて、フロアから出て行こうとする。


「……お前、担当の子たちにはちゃんと言ったのか?」去り際の背中に、そう問いかけた。彼は振り向くこともなく応えた。

「担当アイドル? ……誰のことかわからないっすね」

 言い方は唾棄するような。けれど頭には来なかった。口ぶりがそうなってしまった裏側を、そのときばかりは感じ取れていたのかもしれなかった。

「……辞めたんですよ。あの人の担当してた子たち」

 彼がプロデュースを担当していたアイドルたちは、彼が退職を社長に申し出る数日前に、静かな引退を決意していたらしい。決め手は、仕事の少なくなってしまった現状を嘆いて。

 私はそんな大事なことさえも、事務員さんに教えてもらってやっと初めて知ったのだ。

「まあ、それぞれ事情はありますって。そんな気にしなくても」

 慰めにはどう返せばいいのかわからない。少なからずショックで、私は別の話題を探した。頭の中を探し回って、しかし結局は似たようなところに落ち着く。


「……そういえば、彼、あんたらはいい、って言ってましたけど」

 それはほとんど確信めいていた。私のほか、別の誰かに対しても不満か羨望かを口走った。『ら』に入っているのは、おそらく彼女だ。予想は果たしてその通りだった。

「ああ……いや、まあそこそこもらってましたけど。結構前に減らしていいかって言われたんで、今は大概薄給ですよ?」

「そうでしたか……」私も同じだった。

「んでまあ、一応、ヘッドハントのお話があったんですよね。二、三社ぐらいから」

 彼女の仕事ぶりを鑑みれば、それだって納得のいく話である。彼女がいなければもはやこの事務所は回らない。

「っても、もう蹴っちゃったんで、あいにく受け皿にはなりませんけどねー」

「それも同じ、ですね」

 ミシロの人事から家に書留が届いている。業務的な連絡のために表現は婉曲的だったが、内容はかいつまむと『もう戻る席はないと思ってくれ』と、そんなところだった。

「よかったんですか?」と私はたずねた。

「はあ……まあ。残った理由は、おおかたプロデューサーさんとおんなじですし」

 うっとうしそうに長く伸びた髪をかきあげて、彼女は言う。

「福利も厚生もどうでもよくないですか? お金だってどうだっていい。あたしは……死ななきゃいいや、ぐらいのスタンスっていうか。だからここでいいんです。仮に倒産したってまあ、そんときはそんときでしょ。べつに働き口が失くなったとして、そんな大仰な話じゃない。
 この国で息してる限りは、ぶっちゃけ生きるより死ぬ方が難しいんだから」

 なんて考え方だ。しかしどこか彼女らしい。そんなふたつの思いが胸中に同居して笑ってしまいそうになるが、

 続く言葉に笑えなくなった。

「……だからこそ、プロデューサーさんは頑張らないといけませんよね。応援してますんで」


八.

 ***の顔から汗が滴り落ちる。その都度ハイカットシューズが木目の床にまだらに浮いた模様を拭った。

 素敵な笑顔をしていた。心底から沸き立つ楽しさが体内のいかなるフィルターにもかからずに表面化すれば、きっとこのような表情になれるのだろう。

 思えば、私のはじめての担当アイドルは***だった。出会った頃の、まだなにも知らないただの女学生だった彼女が想起された。慣れない街で道に迷っていた彼女に声をかけられ、私はほとんど衝動に任せてスカウトした。

 混じり気のないその愛らしさに見惚れた。あのときに見せた笑顔と、変わっていない。

 一方で私はきっと、大きく変わったのだろう。***と出会い、○○○○と出会い、■■と出会って、この価値観にはあの頃の影すら見えない。

 変えられたのだ。これ以上の変化は、望まない。

「ファイブ・シックス・セブン・エイト……っと。うん! よかったでしょ、プロデューサー!」

「ああ」私は偽りなく頷いた。「……一度、休憩にしようか」

 ***は壁にもたれるように座った。室内には微量の温風が吹いている。私にとっては心地よく感じるその空調も、全力でレッスンに励む彼女にしてみれば暑い。お気に入りのヘアピンを外し、タオルで顔と頭をわしわしかき回してから、彼女はドリンクボトルをあおった。


「ぷはーっ。……あ。なくなっちゃった」

「水分はちゃんと取らないとダメだぞ」

「わかってるよー。えっと、今何時だっけ、まだ結構レッスンできるよね? お財布お財布、買いに行こ……あれっ、お財布がない!」

 小さめのデイパックの中身を漁りながら、わたわたとしている。「更衣室に置きっぱなしなんじゃないか。私が買ってくるよ」

「あー……そうかも。ゴメンねプロデューサー、あとでちゃんと払うから!」

 レッスンルームを出てすぐの通路に自販機が設置されている。スポーツドリンクは二種あった。どちらにするかで一瞬迷って、甘さが控えめな方を選んだ。戻って手渡すと喜んでいたので、どうやら悪い選択ではなかったらしい。

 ***は私が買ってきたペットボトルに一度軽く口をつけると、ひょいと立ち上がった。きゅっ、きゅっ、と床を蹴って、小刻みなクラブ・ステップを繰り返す。それは彼女にとって得意ではないはずの足さばきだった。徐々に上半身の動きを足して、ひとつの振り付けが完成していく。

「……休憩の切り上げにはまだ早いぞ?」

「うん。わかってるんだけど、ね」

 言葉は濁された。彼女らに、具体的な社内の状況は伝えていない。伝えられていない。しかし彼女らは馬鹿ではない。察して、調べて、ある程度は把握されているのだろう。


「……私は、まだ子どもだからさ」キリ良いところでダンスを止めて、彼女は言った。「今がちょっとマズいっていうこと、わかってても、どうしたらいいかはわかんないよ」

 彼女はこちらに背を向けていた。声は笑っていた。

「難しいことは知らない! ……だから、私でも知ってる確かなことをやろうと思ったの。悩む暇があるなら、いっそ動いてみせなくちゃ! ってね。
 今までどおりに笑顔で、今まで以上に、お仕事を頑張ること。これはきっと、どれだけのものが変わったって、いつまでも大切なまま、揺るがないと思ったから」

 かかとを軸に、回れ右。「だから私、頑張るよ!」***は私に笑いかけた。その裏側にある想いを知る。────重い。詰まりそうになる胸をひと撫でして、私も笑おうと努めた。

 素敵なアイドルになった。本当に。「大げさだよっ」と***は照れたように言うが、それは私の本心だった。

 ***の気持ちとその意欲に圧されて休憩を少し早めに切り上げそうになった。すると不意に、出入り口の扉、その下部が荒っぽい音を二度鳴らした。

「よっ……と。お邪魔しますよー」

「あれっ、事務員さん?」と***が言った。

 彼女は重いスチールドアを肩で押し開けて入ってくる。両手には段ボール箱を抱えていた。どうやらノックは足でやったらしい。


「どうも、お疲れ様です」手の中の荷を床に下ろし、彼女は手をぷらぷらと回した。「お届けものですよ。プロデューサーさん宛て。急ぐ必要もないかと思ったんですけど、まあ***ちゃん来てるわけだし、ちょうどいいかと」

 貼り付けられた伝票を確認して、「もう来たんですか」と少し驚いた。

「プロデューサー? ……なにそれ?」

「ちょっと待ってな」

 ジャケットの胸ポケットからボールペンを抜いて、フタを閉じるガムテープに切れ込みを入れた。真ん中から裂き、ビニルで個別に包装された中身を取り出す。

 届けられたそれは、海兵モチーフのアイドル衣装だ。ベースとなる白色が映えるよう、ジャケットの下襟や裏地はチェリーピンク、アクセントとして黄色の装飾を要所に施してある。割り振られた予算に自力で色を付け、どうにかフルオーダーで注文した。女性にしては軒並み高身長な彼女らには、レディ・メイドでは合うものがなかった。

 サイズ表記を確認して、***に差し出す。生地も、縫製も、廉価なりだ。それでも。「着てみてくれるか。……お前たちだけの衣装だ」

 ***はこれ以上ないくらいにきらきらした目で受け取って、更衣室へ駆け込んで行った。


「喜んでもらえて、よかったですね」

 扉の向こう側へ消えた***を見送ってから、事務員さんが言った。

「……本当に。業界としてのトレンドなら調べればわかりますが、女の子の個人的好みまではわかりませんから」

「だーからってあたしに聞きますかあ? あたしだって若い子のスキキライなんてわかんないですよ」

「わかってたじゃないですか」

「結果論でしょうが」

 呆れ混じりの視線から目を外すと、あからさまなため息を吐かれた。「……ま、彼女らのモチベが今一番大事ですしね。その糧となれたなら本望ってとこですか?」

 仰々しい言い方だが、その内容に誇張はない。私は黙って頷きだけを返した。

「さて、用事も済んだし。じゃ、あたしは上に戻りますね」言い残して、彼女もレッスンルームから出て行った。

 入れ違いで戻ってきた***は、グローブからダンスヒールに至るまで全てを装備していた。

「ピッタリです、プロデューサー!」ひたいの上でピースサインを作って、***はウインクした。「どおどお? 似合う?」

「ああ。似合ってるよ」

 虚飾なく言える。カタログを見ながら、事務員さんと話しながら、縫製店の人と電話をしながら、頭をひねり倒した甲斐があった。


 これでレッスンしたい! と言い出した***を嬉しく思いつつもなだめて、軽く動きに問題がないかどうかだけを確かめた。

「■■姉と○○○○と、早く並んでみたいなぁ」

 ***の呟きにスケジュールを開いた。次に三人のレッスンが重なるのは、「……三日後だな。すぐだ」

「ほんと? ……って、うわあ」覗き込んできた***が妙な声を出す。「プロデューサー、手帳ぼろぼろだね?」

「ん……まあ、いろいろ書き直したりとか書き足したりとか、あったからな」

 ここまで古びたようになったのは、初めてかもしれない。しかし、今年度もずいぶん過ぎた。買い直すには惜しいし、べつに使ってやれないわけでもない。

「頑張ってくれてる証拠だね」

 面映くなって、私は頬を掻いた。「……まあ、そうなのかもな」




 この事務所の命運は、彼女ら三人の肩にかかっている。

 そこまで言い切ってしまうことはできないにせよ、それに近しい状況にはあった。経営は、再び大きく傾きつつある。きっかけは、先日のひと騒動だった。

 後輩の彼が辞めてしまったこと、それ自体にはそう大きな影響はなかった。しかし、彼の行動が強い意味をまき散らした。

 本音の怒声は、小さからぬ衝撃を同僚たちの胸中に残していった。空いたデスクの数は、もはやひとつやふたつでは済まなくなっている。

 減った人員の数が、そのまま予想業績にも反映される。そのぶん人件費が小さくなるから拮抗すると、そんな単純なことにはなってくれない。

 それぞれの背負うものが大きくなった。しかしそれはみな等しくではなく、受ける期待に比例して質量が増す。曲がりなりにも事務所内で有望株と見られていた私の担当アイドルたちは、言うに及ばない。

 伝えるつもりはなかった。彼女らのことはよくわかっているつもりだ。その事実を知ってしまえば、彼女らはきっと重たい責任を意識する。そんなことには、なってほしくなかった。

 夜眠ろうとするたび、朝目覚めるたびに恐怖に押しつぶされそうになって吐く。それは私が弱いからだとしても、こんな思いを背負う必要は、彼女らには微塵もない。


 日々は過ぎゆく。私は噛みしめるようにその時間を過ごしていた。それは権利であって、しかし義務のようでもあった。

「……じき、ライブか」打ち合わせのさなか、社長がぽつりと言った。窓の外は夜の垂れ絹がすっかり街を覆っている。ここのところの退勤は、夕飯時よりもなお遅い。

「そうですね。……もう、来週ですから」

「早いものだねえ」

 もう、月をまたげば新年だった。一年の尺はいつだって変わらないはずだが、今年は、とんでもなく短かった気がする。

 その日の訪れは、小さな待ち遠しさの反面に大きな憂いをぶら下げていた。

「……怖い、ですね」言ってからはっとした。なにも考えず、喉から滑り落ちるように出てきたそれは、つまり私の飾り気ない本音なのだろう。

 社長は困ったように笑って、「……夕食でも食べに行こうか」と言った。

 男ふたり、なにを遠慮することもない。入った牛丼屋はがらんとしていて、電源の入ったテレビだけが眩しいようだった。

「怖いよなあ、本当」

 注がれたお冷で唇を潤しつつ、社長は言った。内容に反して、あくまで彼は頬をゆるめていた。

「ライブの日に楽しみ以外の感情を抱くのは、長い人生初めてかもしれん」

「……私もです」

 上昇の軌道に乗れなければ────それはもう、おそらく取り返しのつかないことになる。

 そして、軌道に乗せるならばこのライブが最大のチャンスであることは、もう間違いないのだ。


 社長は笑っている。そのことに対してあの時は激昂した。しかし今となっては、笑っていられる彼がどれだけ強いのかがよく理解できる。私よりも、よほど怖いはずだろうに。

「まったく、まだウルトラオレンジも買えていないよ。キミ、用意はしたかね」

「当然です。ピンクもブルーも買いましたよ」

「おお。分けてくれ」

「いや、自分で用意してください」

 軽口に応えた。私もそうありたいと思ったのだ。

 注文した京風うどんが来たので割り箸に手を伸ばすと、「……5二竜で決まりかな」と社長がぼそり言った。

「は?」

「いや、ほら。あそこのテレビ」

「……ああ」

 割り箸で指された先を見て得心がいった。液晶画面の中では、将棋の対局が行われていた。昨今話題の中学生棋士とベテラン名人が向かい合っている。こんな時間に放送されているあたり、生放送ではなく収録なのだろう。

「ん……いや、まだ、じゃないですか。4二に香車を打てば」

「2五に桂馬を打てばいい。詰みだよ」

 言われて気づく。少しの間考え込んだが、王の逃げ場は、もうすでになかった。「……そうですね。詰んでましたか」

「今ならキミにも勝てそうかな?」社長が陽気に笑った。

 少し悔しく思いつつも、否定はせずにどんぶりをつつく。誰が食べても七十五点程度の味。それはチープではあったけれど、確かに美味しかった。

 どうか逆流しないようにと、そう願う。


九.

 それは奇跡のようだった。


 ライブの日程は、ミシロを含む大手のイベントが重なる年末年始とクリスマスを避けていた。機会のあるたび、仕事のたびに、しきりに宣伝してきた。SNSも現実の掲示板も、考えうるすべてを使って、その日に備えてきた。

 会場のキャパシティは、私たちの事務所にとっては分不相応なのではないかとネット上で揶揄されもした。

 それでも事前販売のチケットはあらかた捌け、当日券の販売所にも列があった。会場の前には大きな人だかりもできた。立ち見、機材席を全開放した状態を最大限と考えれば十全ではなかったとはいえ、九割近い席が埋まった。

 関係者席は観客に紛れて、社長たちの姿も確認しづらい。


「うああ緊張してきたぁ……」

 舞台裏、ステージと客席はカメラを通してモニタに映し出される。

 ***の声は震えていた。なにか言ったほうが、と思ったが、すぐにそんなものは不要であるとわかる。■■と○○○○が、彼女の肩に手を添えた。

「***、もしかしてぇ、ビビってるの?」

「しっかりやってきたでしょ。きっと、大丈夫」

「……ふたりとも……」

 ***は目を強くつむって、ぱちんと自分の両頬を叩いた。開いたまぶたの奥、瞳は琥珀のような輝きを持つ。

「ふん! ビビってないし! 武者震いだし! 大丈夫、そうだよね、○○○○!」

 ***は、そうでなくちゃ。はつらつとした声を張り上げる***を見て、■■と○○○○は優しく笑った。

 開演のときは刻一刻と近づく。各々衣装に着替えて、それぞれのやり方でそのときを待っていた。ある人はダンスの振り付けを確認して、あるいは声の出を試して、イヤフォンを耳に挿して集中を高めている子もいた。

 彼女らは、三人手を繋いで輪っかになって、談笑していた。

 アイドルの衣装は、その担当するプロデューサーによって見事にバラバラだ。ドレス風、制服風、パンク風、海兵風。それでも心はひとつ、このライブの成功を目指している。


 どうか────。祈るように拳を握った。

 場内の照明が一段階落ち、アナウンスが響く。始まる────もしかしたら、終わりの始まりになるのだろうか。こんなことは思ってはいけない。頭で理性がそう言っても、胸の奥底は不安でならなかった。

 終わってほしくない、始まってほしくない。幼子のような傲慢が私を苛む。

 目を晴らしてくれたのは、底抜けに愛しい私を呼ぶ声だった。

「……プロデューサー!」

 送り出してと、その声は催促するように聞こえた。歯を食いしばった。

 彼女らの晴れの舞台だ。私の感傷など、取るに足らない。送り出せ。なによりも大切にしてきた子たちを!

 情けない顔なんて、見せてたまるか!

 ほとんど意地だけで笑顔を作った。

「行ってこい! 楽しんでこい! 観客に、私に、最高の時間をくれ! きっとできる!」

「────うん! 行ってきます!」

 三つ重なった影が、ステージへと駆け出した。


 それは夢のようだった。


 舞台袖、自前で用意したサイリウムを両手に持ちながら、振るうことさえ忘れて、私はその光景を眺めた。

 スポットライトに照らされ、サイリウムの色に包まれ、歓声を受けて、愛する彼女たちが、舞台の上で歌って、踊っている。数えきれない観客が沸いている。これだけの人たちが、今は彼女たちを応援している。

 確かな足跡で、彼女たちの存在の証明だった。

 自分の魅せ方を知る■■の、カメラに向けた投げキッスに観客は老若男女を問わず湧いた。

 ○○○○が楽しそうに送ったコールに、莫大なレスポンスが返ってくる。

 ***は苦手なステップを平気で越えて、見る人を惹きつけて止まないとびきりの笑顔を見せつけた。


 時間は決して待ってくれない。終わりへ近づく。

『ここから最終ブロックだよー!』

 ***の高らかな声に、好意的なブーイングが寄せる。そんなこともやみくもに嬉しい。

『はあ……』吐息がマイクに乗って会場中を渡る。***が俯いた────なにか異常か、と慌てそうになったが、顔を上げた***の表情は、あの日私が見惚れたものに違いなかった。

『……やっぱり。楽しいなあ……アイドルっ!』

 不意に目が熱を持って、次の瞬間には決壊した。防波堤が壊れてしまったかのように、まぶたの裏側からせり上がる涙がとめどなくあふれる。

 いつか○○○○に慰められたときと、同じ感覚だった。しかしあのときよりもいくぶん勢いが強い。視界が歪む。ステージライトが滴を鏡面に乱反射して、目の前が真っ白になった。

 またか。なんなんだ、これは。手の腹で目元を拭った。拭ったそばから次の波が来る。すぐにサイリウムを持つのは諦めて、視界の確保に努めた。このステージは、一分一秒たりとも、見逃すわけにはいかない。

 ラストへと繋がるポップなイントロが、スピーカーから響き始めた。




 最高のひとときだった。疲労の色をにじませて舞台裏に帰ってきた彼女らに、なんのためらいもなしに、私はそう断言した。

 ***はむき出しの感情そのままに私の方へ飛び込んできた。○○○○には珍しくハイタッチを求められ、喜んで応じた。■■には赤くなった目元をからかわれたが、彼女のまなじりにも滴は浮いていて、痛み分けとなった。

 成功だった。盛況だった。

 それなのに、────どうして。


十.

 燃え上がりそうになった火種は、急速にしぼんだ。

 奇跡は終わる。夢は覚めた。

 ライブ以降も、オファーは増えない。営業も振るわない。当然に業績も上がらない。ないない尽くし。

 社長の用意してくれた仕事は順調にほとんど消化しきって、しかしそれでおしまいだった。次回へと繋がるものが残らない。社長にだって限界がある。徐々に手帳のマスに空きが増えていく。

 うちの事務所の決算は三月末。年末も年始もなく、ひたすらに駆けずり回った。近づくそのときから目をそらすように。迫り来る無慈悲な事実から逃げるように。

 しかし、どれだけ見ないようにしたとして、どれだけ逃げようと必死になったとして、そんなものは無駄だった。

 世界はいつでも、私という一個人の望みとは無関係に回っていく。


 芸能誌をゴミ箱に叩き込んだ。

 ────プロジェクト・クローネ。
 ────シンデレラ・プロジェクト。
 ────ミシロ・プロダクションが巻き起こしたアイドル旋風。

 大きな記事、話題になっているのはミシロのことばかりで、私たちの事務所のことなどほんの片隅にしか報じてくれていない。

 マズい状態だったんじゃなかったのか? ……いや、そこから回帰したからこそのこの扱いなのか。

 私たちは、あのライブですら、まだ不十分だったというのか。

 端的に表せば、潰されたのだ。日程は調整して食われないようにしていたはずだった。けれど、向こうの極大なイベントがそんな小細工を木っ端のように吹き飛ばす。

 どうすればいい? これ以上、なにをすれば……私は、あの子たちのためになれる?

 急激な胸のムカつきに、手洗いに駆け込んだ。最近は食欲も失せてしまった。何も入っていないはずの胃から、ただイヤに黄色い液体だけが逆流した。

 鏡に映る私は、さながら幽鬼のようだった。いっそ、本当にそうなってしまえたなら。込み上げたものを、もう一度呻きながら吐き出した。


 デスクに戻ると、***たちが来ていた。表情を取り繕う。本当に取り繕えているか否かは、定かではない。

「プロデューサー、おはよ! これ差し入れ!」***に、シンプルなラッピングをされた小包を手渡される。

「中身、クッキーだから! ちょっとお腹すいたなーってときに食べてね」

「焦げてるのは***が作ったやつね。私のはハート型だからね、プロデューサーさん♪」

「■■姉はなんでそういうこと言っちゃうかなあ!」

「ハート型じゃなくて、焦げてもないのが私のよ。味は……大丈夫だと思う。味見もしたから、安心して」

 彼女らは、変わらない。きっと、変わらないように振舞ってくれている。

「……ありがとう。あとで、もらうよ」

 三人は連れ立ってオフィススペースから出て行った。見送ってから、包みを開けた。途端に香ばしい匂いが広がる。動物型、星型、丸型、ハート型。ハート型のものと、その他の焦げつきがあるものと、そのどちらにも当てはまらないもの。綺麗に三等分できそうな分量で入っていた。

 ハート型のものを、つまんで口に入れた。次に丸型のちょっと端っこが黒くなったものを、続いて犬型の綺麗に焼き色のついたものを。

 どれも酸っぱい味がした。それでも飲み込んだ。


「おいしそうな匂いさせちゃってまあ」と、ふらり寄ってきた事務員さんが言う。

「……すみません」

「……ま、ちょっとおすそ分けしてくれたら許しましょ。いいですか?」

 どうぞ、と頷いた。彼女はポケットティッシュを二枚抜いて、包みからがばっと掴んで取り出したクッキーをそこに受けた。

「じゃ、遠慮なくいただきます」適当につまみ上げた星型を、彼女は口へ放り込んだ。「……あ、おいしいなにコレ。女子力だなあ……」

 うまいうまいと口を動かしながら、彼女は自身のデスクに戻った。ずいぶんたくさん持って行ってくれた。包みをのぞくと、中には焦げ付いた象型、綺麗な丸型、ハート型のクッキーがそれぞれひとつ、計三つ残っていた。

 少しだけ、笑った。それきりだった。

 ひとつずつ、ゆっくりと食べる。

 ほろ苦くもあり、甘くもあり、酸っぱくもあって、────そして、しょっぱかった。




 寒い冬だった。その上にやたらと長く、暦上の春を通り過ぎても、凍てつきの風が空に巻いた。

 桜の開花は例年よりも遅いらしい。街路樹は、いまだ枯れ木のような風体で立ち並んでいる。はなむけすらも、いただけないそうだ。

 幾重に連なる雲のたなびきは、ひどく不均衡だった。また、冷たい雨が降るのだろうか。




『……もしもし?』

「……お疲れ様です。私です」

『ああ……なにか用か? って、まあ……用件は、正直わかってるけどよ』

「…………」

『無理だぞ。受け入れられない』

「どうしてです……? 余裕は、もうあるはずでしょう」

『ないんだって。春からは新規プロジェクトの始動も決まってる。新しいアイドルを採れるほどの余裕は、本当にない』

「……そこを、なんとか」

『できない。悪いけどな。……結構前に提携も切れちまった以上、そんな優遇もおかしいだろ。上に目ぇ付けられたらたまらない。恨まないでくれ。俺は俺のアイドルたちが大切なんだ』




「……よっ、と。これで持ち込んだ私物は全部かな? ……寝袋すごい邪魔だな……」

「……今日で、最後でしたか」

「ん? ……ああ、プロデューサーさん。まあ、そうなんですよ。あとの事務は自分がやるから早く転職活動に移ってくれ、って。社長がね。言うもんですから」

「……今まで、本当にお世話になりました」

「あはは、こちらこそ、ですよ。……まあ、なんですね。お互いぼちぼち生きて、またどっかで会いましょうよ。そんときゃ安ーい酒でもおごりますから」

「ありがとう、ございます。お疲れ様でした」

「……はい、お疲れ様です。さよなら、プロデューサーさん」




「……そっか。ダメ、だったかぁ……」

「……本当に、申し訳ない。あんな、約束……しといて」

「謝らないでよ。プロデューサーさんは、ちゃんと約束守ってくれたよ。頑張ってくれたじゃない。どこに謝る必要があるの?」

「……ごめん」

「謝らないでってば。……あ、そうだ!」

「……?」

「これ、今まで撮った写真! いっぱいあるんだけど、プロデューサーさんに送ってもいい?」

「それは、もちろん……」

「通信容量、気をつけてよね。……あぁ。いろいろあったなぁ。こうやって、あらためて見るとさ」

「……そう、だな」

「……もっと、続けてたかったなぁ……なんて。……ゴメンね、プロデューサーさん」




「……そう。わかった」

「……申し訳ない」

「べつに、謝らなくていい……あ、ううん。そうね。『無理しないで』っていう約束、あれを破ったことへの謝罪として、受け取るわ」

「……守れなかったな」

「まあ、私も守れていたかは怪しいから。許すよ。……でも、プロデューサー。これだけ言っておきたいんだけど、私は、無理をしてるとは思ってなかったわ」

「……?」

「……楽しかったから、なんだと思う。レッスンも、自主練も、仕事も。体力的に苦しくても、無理をしてるなんて、一度も思わなかった。自分で決めたこと、だったから……楽しくて」

「……そうか」

「うん。……ゴメン、プロデューサー。ちょっとだけ、胸……借りていい?」




「……そうなんだ」

「……ごめん。謝るしか、できない」

「ううん。……こっちこそ、ゴメンね、かも。笑顔で、お仕事、頑張って。それだけじゃダメだったんだね、きっとさ」

「そんなことは……」

「ううん、そうなんだって! ……だって、そうじゃなかったら……あのふたりと、プロデューサーと、一緒でさ。ダメになるわけ、ないじゃん」

「……私が悪い。私が至らなかったんだ」

「そんなこと、ないよ。私がもっと、頑張ってたら……」

「…………」

「……あのとき。スカウトしてもらったとき、これだ! って、思ったんだけどなぁ……」

「……っ」

「ゴメンね、プロデューサー。アイドル、……すっごい、楽しかった。なのに……っ、ゴメンね……?」




「投了、だなあ。詰みだ」

「……本当に、どうしようもないんですか」

「ああ……八方、手は尽くしたんだけどね。これはもう、ちょっとどうにもならない」

「…………」

「銀行の融資も、断られてしまったしね。残念だが」

「……そう、ですか」

「うん。……思えば、キミには迷惑をかけたね。本当に、よくやってくれた。なんにもしてやれないけれど、お疲れ様、と言わせてくれ」

「……いえ」

「……今まで、いい夢を見れた。それは間違いないが……もう少しだけ、長く見ていたかったね。いやはや、なんとも強欲でいけないな。
 ……当事務所は、今月末をもって倒産とする。最後に、この書類だけ処分しておいてくれるかな」




 すべてが、終わった。

 抜け殻のようになった私は、気づけば自身のデスクで呆けていた。薄暗く、がらんどうのオフィスフロア。並ぶデスクも、そのほとんどが人の体温を忘れてすっかり冷たい。

 最後の仕事を、しなければ。受け取ったクリアファイルから、三組の書類を抜いた。それは、彼女らの雇用契約書と履歴書だった。

 彼女らの仔細な個人情報と、ここでアイドルになるという契約の証。足元のシュレッダーの電源を入れて、しかし一旦切った。

 これを処理してしまえば、本当に、紛れもなく終わりを迎える。そう思うと自然に手が止めていた。


 ……寒い。凍えそうだ。指の隙間から、すべてが落ちた。デスクに広がった履歴書の、そこに貼られた彼女らの顔写真が、私を見つめている。

 目をそらした。そらした先に、一枚の写真があった。いつか、楽しかった日を切り取ったワンシーンは、■■のカメラフォルダから現像してもらったもの。

 想いが、あふれた。

 ■■。────リュ・ヘナ。意地悪なようで、本当に優しかったキミ。走りがちなふたりにため息を吐きながらも、決して見放すようなことはしなかった。自分に自信があって、だけどちゃんと現実的で、セルフィが得意だった。キミからもらった思い出の写し、四人並んで笑う姿が、私の透明なデスクマットの下からずっと励ましてくれていた。

 ○○○○。────ジュニー。キミは恥ずかしがりなのに外面は冷然としていて、それはきっと強さの現れだった。そうあるためにどれだけの努力を重ねていたのか、私はよく知っている。キミがあんまり熱心に自主練習に励むものだから、レッスンルームの予備の鍵は私のデスクに置くことになった。付いているロゴ・ストラップは、キミが好きな海外ドラマのものだ。

 ***。────イム・ユジン。私が、初めてスカウトした。私の、はじめての担当アイドル。本当にアイドルの仕事が好きで、アイドルが好きで、キミのその姿は私のしるべのようだった。天真爛漫なその笑顔に、いったい何度救われたことだろう。無邪気に突っ走っているようで、その実よく周りを見ていた。デスクで仕事をする私を、何度となくいたわってくれた。あのひとときが、好きだった。


 思い出が、この空間で、今までの時間に過ごしたすべてが、目に入るなにもかもから掘り起こされる。

 不揃いのマグが。マグネットの将棋セットが。スタンダードなトランプが。緑色のぬいぐるみが。仕事の資料ファイルが。パソコンに貼られた付せんが。ホワイトボードが。彼女らの衣装が。

 デスクの中には、少し前にもらったクッキーの包みまでが、後生大事に取ってある。

 どこに目をそらしても、なにかが私の心に深くまで爪を入れて乱して回る。この場所に記憶が染み付いていないところなんて、ない。

「……ん」

 なんだ……?

 確かめるように、開けた一番上の抽斗。そこにしまっていた薄桃色のシンプルな袋とリボンが、浮かんで見えた。


 取り出してみると、その下にもうひとつの包みがあった。そちらは、白地にシオンの花柄の包装紙でラッピングされている。誰かへ宛てた贈り物。まったく覚えがなかった。

 付せんが貼られている。

『To Producer, From Your idols!』

 震える手で、掴み上げた。間違っても中身を傷つけないように、もどかしい手つきで解く。

「……これ……」


 黒革のカバーがついた手帳が、そこにあった。私が使っていたものによく似た、しかしそれよりはちょっとだけ上質そうな、スケジュール手帳。表紙をめくると、新年度のものであることがわかった。

 進むはずだったまっさらな未来の予定をはらはらとめくる。そのうちに、裏表紙に挟まっていたらしいオレンジ色の小さな便箋が、デスクに落ちた。

 書かれた文字は大きく跳ねるように。

『今年も、どうかよろしくね!』


「────ッ」

 こらえるなんて、無理だった。痛いぐらいの感情が、巡る後悔と混じってせり上がった。なにがなんだかわからなくなりそうだった。袖口で目元をこする。止まらない。止まるはずがなかった。いつかのさめざめとした涙とはまるで違う、しゃくりあげて呼吸ができない。

 今年も、どうか、よろしく。

 そう書き贈ることを選んだ彼女たちが愛おしくて愛おしくて愛おしくて、自身の至らなさが苦しくて苦しくて苦しくてたまらなかった。


 ────ヘナ、ユジン、ジュニー。

 なにより大切に、私が愛したひと。

 キミたちは最後の最後まで、

 私との未来を想ってくれていた。

 それなのに。

 ごめん。

 もう、届かないけれど。

 Dedicated to the memories of Cinderellas in Korea.

 Please, please remember them.

以上になります。

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