【ミリマス】千鶴「懐古」 (47)

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 合いびき肉、ジャガイモ、タマネギ。バター、塩、胡椒、ナツメグ。小麦粉、卵にパン粉。

 この具材をずらっと用意して、さあ何ができるかなと問えば、料理のできる人はたぶんおおかたピンとくる。

 コロッケである。トンカツ、カレーライスと並んで『大正の三大洋食』の一角とされた、今となってはポピュラーな大衆料理。廉価な合いびき肉で作れるため、精肉店の店頭にできあいのお惣菜として並ぶのをよく見かける。

 溶かしたバターに合いびき肉とタマネギを加えて炒め、水分が飛んだら塩と胡椒をお好みで。そこにマッシュしたジャガイモと刻んだゆで卵、ナツメグを投下してよく混ぜ合わせる。小麦粉を足した溶き卵に小判型に成型したタネをくぐらせ、パン粉をまぶしてカラッと揚げればできあがり。

 ────さて、ここで疑問を持ってほしい。あれ、と思わなかっただろうか。上述の手順からわかるとおり、コロッケのメイン材料は合いびき肉、タマネギ、ジャガイモだった。割合は、およそ一対一対三。

 具材がこうであるのに、どうしてよく見かけるのが精肉店なのだろう。

 なるほどたしかに肉は使われているのだから、精肉店が商品として売り出すことに理由がないとは言えない。そこはまったく認めよう。具材の一端は合いびき肉だ、混ざりはあれどまぎれはなく、肉屋の取り扱いに入る。

 しかし、である。

 全体として見れば、コロッケの中身で肉が占めている割合はちっぽけなものなのである。一般的なコロッケのレシピならばジャガイモの量ははるかに肉を凌駕する。肉の割合なんてせいぜいがタマネギとどっこいだ。こんなことは見ればわかるし食べてもわかるというもの。

 だというのに、コロッケを販売するのは精肉店、肉屋ばかりである。さも当然のような顔で、あたかも肉料理ですよとでも言いたげに店頭に並べている。

 これはまったくもって遺憾な話ではなかろうか。コロッケは肉料理と呼ぶにはあまりに肉の割合が少ないではないか。極端な話がジャガイモ料理、もとい野菜料理と言ってもいいはずだ。野菜料理を肉屋がしたり顔で売り出すなどちゃんちゃらおかしくはないか。


 つまりあたしはこう言いたいのだ。

 コロッケを売るのは精肉店よりも八百屋の方が適しているのではないか? 平気な顔でジャガイモベースの料理を売りさばくことに、肉屋として思うところはないのか? と。


「────そのへんどうなの? 二階堂精肉の」

「知りませんわよ! いきなりなんですの!?」

 コロッケが名物の肉屋・二階堂精肉店。良心的な価格設定がウケ、我らが商店街ではなかなかに評判のいい、ついでに売り上げも良好な個人経営の店だ。ところがおやおや店員の愛想は悪いらしい。あたしはおどけて肩をすくめてみせた。

「お客に向かってその態度はいただけないんじゃないの?」

「……お客だと言うなら何か買っていただきたいものですわね。あなたは卸しにきただけでしょう八百吉青果の」

「……じゃコロッケ。四つ」

「買うんじゃありませんか!」

「なによ売らないつもり?」

「そうではなく! 肉屋がコロッケを売るのはダメだとかなんとか! 今言ってたでしょう!」

「別にダメとは言ってないって」

 そもそも精肉店がコロッケを売っているのは惣菜のためのフライヤーを持っていたからなわけで(唐揚げ、カツレツ、エトセトラと多岐にわたるそのラインナップのひとつがコロッケだったに過ぎない)、文句垂れるなら八百屋もフライヤー入れれば、と言われたら話は終いだ。あたしの主張は詭弁を通り越してほとんど無理くりなインネンである。


 なんなんですのもう、とぷんすかしながらも、二階堂千鶴はほかほかのコロッケ四つを包みにくるんで突き出してきた。対価を支払い香ばしい匂いのするそれを受け取る。

「……毎度ありがとうございますわ」

「はいどうも。今日もおいしいんだろうね?」

 たずねると、千鶴は自信満々な笑みを顔に貼り付ける。

「決まってますわ。なんせ」「────ああ、まあウチで卸した野菜が具の大半か、そりゃおいしいわ」

「セリフを被せないでもらえませんこと!?」

 雑な打ち方でも響いてくれるのは千鶴の魅力である。フトコロが広いというよりは、たぶんシンプルにそういう性格なんだろうと思う。

 包装紙の中をのぞくと、ひとつぶんだけ紙ナプキンで持ち手が作ってあった。さすが長い付き合いだけあってよくわかってくれている。

 あたしはそれをひっつかんで取り出し、行儀も何もなくその場でかじった。誰がなんと言おうと、コロッケは外で食べるのが一番おいしいというのがあたしの持論である。

 二口、三口と咀嚼しながら、「最近はどうなの?」とあたしはざっくりたずねた。レジカウンターに背中でもたれかかると「営業妨害ですわ」とじとっとした目の千鶴が言う。

「というか、さっきのコロッケうんぬんの話はもういいんですの?」

「ああ。あんなの会話の枕でしょ」

「それにしては長すぎですわよ……」

「ま、ヒマだしね。いいじゃん」

 日は高く、昼過ぎの午後二時。昼食のための買い物は終えて夕食のための買い物にはまだ早い。必然、商店街は落ち着いてくる。八百屋の看板娘(一応、公称)たるあたしがコロッケ片手に油を売っていられるのも通りが閑散としているがゆえだ。


 細くため息を吐いて千鶴は言った。

「どうと言われても、別にこれといった変わりはありません」

「あ、ないんだ。ふうん……もうあれからひと月ぐらいになるんじゃなかった?」

「いえ。そろそろ二ヶ月も近いですわね」

「あれ、そっか。まあいいや、二ヶ月も近いのにそんなもんなの?」

「そんなもん、ですわ」

 ふうん、とあたしはもう一度ボヤけた返事をして、コロッケの最後のひとかけらを口に放り込んだ。彼女の事情についての仔細を知らないからそんな反応しかできないのだ。詳しくは知らないけどなかなか簡単にはいかないらしい、という感嘆だった。

「よくやるよね、ほんと」とあたしは言った。

「放っておいてくださいな」と千鶴は言った。

 あたしが着ている青いエプロンのポケットが鳴った。正確にはその中に入っているものが。右手を突っ込んで取り出すと、スマートフォンの画面には『父親』の文字。拒否ボタンを押して再度ポケットにすべり込ませる。

「……出なくていいんですの?」

「うん。用件わかるしね。早く帰ってこいって電話だよ、どうせ」

「余計出た方がよさそうですが」

「ウチ、すぐそこだよ? 電話するあいだに帰れるって。……言われなくたってぼちぼち帰るしさ」

 くしゃっと丸めた紙ナプキンを千鶴に差し出す。

「捨てといて」と図々しく頼むと、千鶴は「はいはい……」となかば呆れたようにそれを受け取った。


 思えば、あたしと千鶴の立場は近しかった。商店街に店を構えている、八百屋の娘と肉屋の娘。営業形態が似ているとはいえ、なにも商売敵ってわけじゃない。親同士いがみ合う必要もなく、子ども同士に年の頃も似たり寄ったりだったから、幼い時分からよくよく付き合いがあった。

 成長につれても幸い仲はこじれなかった。徐々に価値観こそズレてはいったが、立場は大きな部分が一緒。いずれ実家業を継ぐんだろうなと昔から薄ぼんやりだったあたしは、だから千鶴も同じく思っていると決めてかかっていた。

 しかし、それはどうやら違っていた。

 野暮ったいデザインの白いエプロンと同色の三角巾────おしゃれや可愛らしさからはほど遠い格好の肉屋の看板娘(公称)は、いつからかこの狭いホーム・タウンを飛び出そうと企てていたらしい。

 アイドルになりますわ。言われたときは頭でも打ったかと心配したものだが、どうやら本気も本気だったようで。

 よくやるよね、ほんと。それはあたしの偽らざる素直な感想だった。




「おい、おもてのシャッター閉めといてくれなー」

「はーい」

 店主、つまるところの父親の指示に従って軒からよろい戸をがらがら引きおろす。日が沈めば即店じまい、なんて殿様商売が認められるほどの名店ではないので、すでに太陽は地平の果てにどっぷり沈んでブラジルあたりに朝を告げている。

 日本の今日はなかなかいい天気だった。夏はとうに過ぎ、秋も半ばだが宵の空に吹くそよ風は寒くない。めいっぱい伸びをしてから二階が実家、一階が店舗の我が家に入った。

 バックヤードのハンガーラックに適当にエプロンを吊るし、クツは上がり口に揃えて脱いで階段を上がる。その途上で一階の父親から呼び止められ、肩を落として中ほどまでのぼった段を一足飛びに下りた。

「なに?」

「これ、今日の売れ残り。その辺におすそ分け行ってきてくれ」

「はーあ? そんなん自分で行きなよ」

「バカお前、おっさんにキュウリ貰うより若い女にトマト貰えた方が嬉しいだろが。ほれ、いいから」

 そりゃトマトのが値段高いから喜んでんだって、と言ってはみたが聞きはしない。頑固親父は変なところで頑なになる。しぶしぶ野菜の詰まったコンテナを引っさげた。

 おすそ分けという行為そのものが嫌いなわけではない。ただただ荷が重いので気が重いのだ。かよわい乙女、なんて可愛らしく自称するのは少々恐れ多いが、一応生物的には女である。そう力持ちじゃあない。

 とりあえず、と真向かいのお花屋さんで大盤振る舞いに放出し、荷を軽くした。それからなじみの店を順繰り巡る。

 商店街という特異な世界は、その特性上おすそ分けをするとだいたい何かしらが返ってくる。義理と人情の温かさだ。手の中の重みが思うように減っていかないのもご近所さんに血が通っているおかげなわけで、これがまったく複雑である。

 よく服を買う縫製店の前で一旦コンテナを置いた。その時点の中身は、
・タコ刺しふたパック(魚屋から)
・コスモスのフラワーポット(花屋から)
・スパークドリンク(雑貨屋から)
・ミルクプリン三つ(洋菓子屋から)
・アンパン四つ(パン屋から)
・クリーニング屋の割引券(クリーニング屋から)
・縫製店の割引券(縫製店から)
・キャベツ(ウチから)
・ミニトマト(ウチから)
・イタリアナス(ウチから)

 ……あたしはなに屋の娘だっけ? 八百屋を名乗るのがはばかられるラインナップである。軽く手をぷらぷらさせて、もう一度「よいせ」と荷を持ち上げた。

 あんまり小分けに配るのもいかがなものか、次で最後にしておこうかな。現在地と店への関わりの深さを考慮した上で、二階堂精肉へ足を向けた。

「こんばんはー……」と下りかかったシャッターの隙間から声をかけた。

 半開きってことは、閉店してからそう時間は経ってない。だからまだそのあたりに看板娘がいるかもと思ったが、出てきたのはそのお母上様だった。目尻や首元にどうやっても隠せないシワが出てきているものの、千鶴を産んだだけあって相応の美人さんである。

 ああどうも、これおすそ分けです。と野菜を突き出すと、お礼にとタレで漬けた手羽先が返ってきた。コンテナの中からはグリーンの色味がなくなり、いよいよもって手持ちからは八百屋の痕跡が完全に消える。

 まるで行商屋みたいな荷物を抱えて、ちらりと店舗の中をのぞく。

「千鶴は出かけたんですか?」とたずねた。

「閉店してから、ちょっと前にね」という返答。「ジャージに着替えてたから、いつもの公園じゃないかしら」

「ああ。そうでしたか」

 ありがとうね、いえこちらこそ、とありがちな別れのやり取りを済ませ、あたしはスタート時よりは軽くなった荷物を引っさげてちょっとばかり考えてみる。夕飯はまだできないだろうし、────まあまあ冷やかし半分にね。自宅の方角とは逆向きに歩きだした。


 商店街のメインストリートを北側に抜けて最初の交差点を左に折れると、こぢんまりした市民公園がある。

 狭さのせいでなまじな遊具もなく、なのにそこそこ立派なイチョウの木が一本大きな顔して立っている。名称だけが公園で実態はほぼ空き地だが、想像力にたくましい子どもはこんな場所でも遊んでみせる。地元の子なら幼少期の思い出が染み付く場所であり、それはあたしも多分に漏れない。

 ついてみて自分の浅はかさにやや後悔した。一旦帰りゃよかったかな、荷物の重さをちょっとナメすぎ。コンテナを木製ベンチにどかっと置き、乳酸が溜まってだるくなった腕はぐるんと回した。

 ひと息つき、はてさて彼女は、と探す必要はない。入り口に立てば公園の全景は視界に収まる。それぐらいに狭いのだ。でんと立ち尽くすイチョウに並び、申し訳程度に敷地内には一本の照明、その下に人影。栗色の髪を後頭部の高い位置でまとめたポニーテールが激しく揺れていた。


 向こうはあたしに気付かなかった。千鶴の名を呼んでみても、一定のリズムで動く身体はこっちに正面を向けない。耳に押し込まれたイヤフォンの白いコードは腰元から伸びていた。あたしはコンテナの隣に腰を下ろした。

 イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ。

 メトロノームの針のように、正確なテンポで千鶴の足はステップを刻む。上手くなったもんだねとざっくり思った。ダンスのイロハなんてイの項目だって知らないけれど、そんな素人目にも見てわかるぐらい千鶴は上手くなった。

 たまたま郊外まで遊びに行った日のことだった。夜も更けつつある中、足早に自宅を目指していたあたしは、つたない足さばきで月夜の下に踊る人影を見かけた。

 ちょうどそれが千鶴が通う大学の学祭があるシーズンだったから、なにか妙なイベントに出ることになったのかと笑って茶化した。彼女は真面目な顔をしてかぶりを振って、

 ────わたくし、アイドルになりますわ。スカウトされましたの。

 それから、千鶴はひと気のない時間にヒマを見つけてはここで自主練習にと踊っている。あたしは時たま気まぐれを起こしては冷やかしにきていた。結構失礼なことをしているような、その自覚はあるが負い目は感じないようにしている。


 踊り続ける千鶴をぼんやり眺めていて、おっと、と思った。そろそろ気づかれそうだ。千鶴の練習するダンスは日によってちょこちょこ変わるが、今日のこれは何度か見ている。

 振り上げた右腕をくるっと回して振り下ろす、────このあとの振り付けはたしか。

 ラストの決めポーズ前に溜めを作るため、身体をひねって上体だけがほとんど後ろ向きになる────その千鶴の視界があたしを捉える。彼女の時間がぴたっと止まった。やや間をおいて、

「……いつからいましたの?」体勢そのままに千鶴は言った。

「んーと、二分前ぐらい?」あたしは平然と応えた。

「……早く言ってくださいな……」

「いやいや。この距離よ? 気付きなさいな」

 目算おおよそ十メートルも、たぶんない。千鶴はちょっとばつが悪そうな顔でイヤフォンを外した。手の甲でひたいの汗をぬぐい、こちらへ歩いてくる。

「仕事の途中……では、なさそうですわね」

「うん。もうアガった。ちょいとおすそ分けに行脚しててさ」

「こんな町のはずれまで?」

「そりゃあもう、あなたのための出張サービスですよ」おどけて言った軽口に千鶴は軽く笑う。「何かいります?」

 どれ、とコンテナの中をのぞいた千鶴は今度こそしっかり吹き出した。

「あなたはいったいなに屋さんなんですの?」

 あたしは肩をすくめた。

「ま、このへんじゃよくあることでしょう」

 ともあれ、オススメはアンパンとスパークドリンクです。


「いただきます」

 千鶴は律儀に言い置いてからアルミのふたをひねった。アンパンはいらないと言われた。さすがはアイドル候補生、摂取カロリーに気を払っているらしい。

「いえ、アイドルどうこうは関係なく。女性ならば気にすべきでは?」

 手厳しい言葉を添えて、鋭いまなざしがこっちを向いた。……あたしはパン屋の店長にもらった紙袋をそっとコンテナの中に戻して、両手をひらひら挙げた。

「やれやれ。昔はもっと素直で可愛げがあったのにねえ」

「余計なお世話ですわよ」

 ぴしゃりと言い切られる。昼過ぎにコロッケをひとつ食べたっきりなのだから、空腹に耐えかねるのは無理からぬことではなかろうか。ちくしょう可愛くないやつめ、とくちびるを尖らせてみるが、知らん顔をされた。

 遠回しなお預けを食らった腹いせに、ベンチの木材に挟まっていたイチョウの葉っぱを投げつけてやった。千鶴は反射に身を引き、しかしイチョウは届くことなくひらひらと地面に落ちる。

「……子どもですかあなたは」

「一応あんたよりは年上……まあ差なんてあってないようなもんだけどさ」

「間違いないですわね」と千鶴が頷く。

「あっれ、そこ否定するとこじゃない?」


 付き合いも長くなると物言いに遠慮がなくなってくる。実際、精神年齢……はともあれ、行動や立場は向こうの方がしっかりしているように自分で思うので、反論の端緒もない。しようがないので、

「……よくやるよねえ」とあたしは呟いた。

 涼やかな夜風が足元を掃いた。落ちてしまった葉はさらさらと地面をこすって夜の中へ消えた。人の営みからはぐれたようなこの時間のこの小さな空間は、照明からちょっと離れればたちまちに何も見えなくなる。

 見えないのは怖いよなあ、と思った。一寸先は闇、なんだったら、たぶんあたしは一寸だって動かない。しかし、

「当然ですわ」と当たり前みたいに千鶴は言う。「努力なしに栄光はつかめませんもの」

 あたしは目をすがめた。

「ま、頑張って」

 ひょいと立ち上がって千鶴の手から空になったドリンクのビンをひったくる。差し入れがてらの冷やかし、これはまあいいにしても、邪魔になってしまうのはいただけない。負い目は持ちたくないし、ここらでぼちぼち退散とする。

「捨てといたげるよ。まだやるんでしょ?」

「ええ。ありがとうございます」

 ビンを入れたコンテナを抱え上げた。

 あたしは暗がりが人並みに怖い。電柱の影におそろしいものを想像してしまったりするし、曲がり角におぞましいものを空想してしまうこともある。

 道端を不規則に照らす街灯をたどるように歩く。夕飯に出るはずの二階堂精肉のコロッケを楽しみに、あたしは夜の帰途をちょっとだけ急いだ。




 千鶴がお嬢様然とした妙ちきりんな口調をするようになったのはいつからだったか。明確に覚えていないけれど、あれが生来のものでは決してないことは覚えている。ためらいなく子どもを自称できていた時代は、彼女はもっと普通の、ごく一般的な女の子の言葉遣いで話していた。

 それが、いつの間にやらあんなことになっていた。

 二階堂千鶴は昔から見栄っぱりな女だった。

 小学校のころにあった話である。千鶴がちんちくりんの一年生の体にぴかぴかの体操服を着て、初めて鉄棒というものに触ったとき、担任の先生は言った。

『連続逆上がりができたらとっても凄いよ!』

 それを聞いた千鶴は、根拠もないのに『あたしできると思う!』とクラスメイトの前で言い放ってしまった。

 けれど残念、できなかった。困った千鶴は当時三年生で運動ばっかり得意だったあたしにも教えを乞うて、毎朝毎朝鉄棒と向き合い、結果、柔らかい彼女の手のひらはズタボロになった。

 中学校のころにあった話である。千鶴は初等科のテストではほとんど満点を取れる優秀な子だった。それと地続きの義務教育、同じようにいくと思ったんだろう。

『平均八十点も取れれば、まあ上等だ』

 そう言う教師に、『八十点で満足なんて』と千鶴は応えた。ついでに自分は九割を取ることさえ容易いと自信満々に豪語した。

 けれど、いざ授業を受けてみて難度の壁で頭を打った。弱った千鶴は毎晩毎晩学習机にかじりついて、テスト一週間前なんて余暇どころか睡眠時間まで削って、結果、ふらふらな頭で試験に臨んでいた。

 高校では頼られるままに生徒会に入ったそうだ。大学では薦められるままにミス・コンテストをはじめとしたいろんなイベントに参加してきたらしい(あたしはおつむの問題で高校が違ったし、大学には行ってないから、このあたりは詳しくない)。


 見栄をはったことがきっかけのこんなエピソードは、記憶をたどればざらざら出てくる。あたしが知ってるぶんだけでもまだまだあるし、知らないぶんだってきっとたくさんあるんだろう。

 見栄っぱり。あたしが千鶴を一言に称するならその単語を使うのは間違いない。その性に引っ張られるように口調まで変化したのかもしれない、というのが、幼なじみたるあたしの二階堂千鶴観だった。


 大きめのあくびをレジカウンター上の雑誌に落とした。混雑は混雑で煩わしいが、カッコウが飛んできそうなぐらいに静かでヒマだとこれもまた困る。月末の給料日前、そのアイドルタイムは時間が経つのが遅くって仕方がない。

 小春日和、穏やかな陽気の午後だった。ぼちぼちと冬用のコートを羽織る寒がり屋も出る頃合いだが、今日はそんな人も喜びそうな暖かさである。

 お向かいの花屋の店主はご機嫌な様子でプランターの手入れをしている。その光景がまた、ゆるりと進む時間の拍車に余分なブレーキをかけているように思えた。

 花弁に見覚えがないので、あれはおそらく食用植物ではない。

 そんなことがわかったとして、店主と経理はそれぞれに出払っているので、話し相手もいない。もう一発さらに大きいあくびを放った。

 ……退屈に堪えかねるぞ、これは。目尻に浮いた涙を拭って、あたしはひとりごちた。

 カウンターの一番上の引き出しを開ける。領収書やレシートの替え、小銭ケースに赤色伝票。雑多にとっ散らかっているそこから筆箱サイズのナイロンケースを拾った。メタルボタンをぱちんと開け、中にしまってあったものを抜く。

 すらっと細身なペティナイフの銀色の刀身が、あたしの気だるい目をちょっとだけ覚ましてくれた。

 上から二段目の引き出しからは使い捨ての紙皿を二枚拝借し、どれにするかなあと店内を物色する。ナシにしようか。リンゴもいい。おや、今日はマンゴーなんてものまで仕入れているが、……値段が張る。


 抜き身のナイフ片手に店をうろつくあたり不審者極まりないが、それも閑古鳥ばっかりが来訪するこの時間ならさしたる問題にならない。

 やや迷った末に、あたしは赤色がくすみかけているジョナゴールドをひとつひょいとつかみ上げた。

 誰かお客が来れば試食がてらに話し相手にもなれるだろうにね。するすると赤い皮と黄金色の果肉に刃を通していく。生まれと育ちのおかげで慣れたものだった。

 あまりにヒマだったので、手慰みに八匹ぶんのウサギを作った。そういえば小学校時代は家庭科も得意科目の一つだったな。昔とは違って器用だね、なんて褒めてくれる人もいないのでいや虚しい。一匹をつまんで口の中へ放り込む。

 ────と、そこに不意打ちで影が差した。

「すみません。ええと、少しよろしいですか?」

 ……いっくらヒマだったからって、ちょっと誰か来ないかなと思ったからって、こんな狙いすましたようなタイミングでの来客は勘弁してよと、そう言いたくなった。口はいっぱい、相手に見覚えはない。二重の意味で言えるわけもなく、ばちっと合った目もそらせず、とりあえず頬張ったウサギをしゃりしゃり砕いて飲み込んだ。

「……いらっしゃいませ?」

 千鶴ほどではないにせよ、客の顔は覚えようと励むタチである。そんなあたしの知らない顔。ついでに見てくれを飾るダークカラーのビジネススーツも、商店街にはいかにも馴染んでいなかった。

 お客様っぽくはないかな、とあたしは思った。それははたしてその通りで、

「ああいえ、申し訳ない」と男は言った。「客として来たわけではないんです」


 自分の胸元をまさぐって、男はツヤのある紙切れをあたしによこした。

 社会人としては極端に内輪的で、学生時代の就職活動さえやってない。そんなあたしに経験は薄いが、状況からそれが名刺だということは受け取る前にわかった。

「……へえ、765プロ」

 上質紙に乗っかるシンプルな明朝体を読み上げてみて、ちょっとびっくりする。765プロといえば、そう芸能事情に詳しからぬあたしでもよくよく耳にする名前だ。

「はい。そこでプロデューサーをやっている者です」

 芸能事務所・765プロダクション。大会社とは到底言いがたい小さな規模ながら、現今のアイドルシーンを最前線で引っ張っている有力どころだ。

 あたしでさえそらで名前を暗誦できる十三人のアイドルたち。彼女らを見かけない日はまれだ。一日点け放したテレビから765プロ所属のアイドルの名が一度たりとも聞こえなかったとすれば、翌日の天気予報は槍か斧かである。格としてはそれほどのレベルで、

 ────そして最近は、版図拡大のために新人を集めていると、あたしは親しい幼なじみから聞いたのだった。

「それはそれは」あたしは首をかしげた。名刺の裏側にまで目を走らせる。そんなところのお偉方がこんな商店街の八百屋さんに。

「……どういったご用件で?」

 実はですね、と説明し始める男の顔を見て、これは見事な営業スマイルですこと、なんて的外れなことにあたしは感心した。詐称じゃなかろうかと小指の先っぽぐらい疑ったが、八百屋を騙したところでどうなるとも思えない。すぐに疑惑の目は捨てた。


 用件は、ライブ告知の宣伝用ポスターを店舗の外壁に貼らせてくれないかというそれのみだった。ウチは商店街の入り口付近に位置していて、かつぽっかりスペースの空いた木造の壁を備えている。なるほど宣伝を貼るならあつらえ向きだ。

「……プロデューサーさん、ってのはだいぶ立場上の方なんだと思ってたんですけど。こんな雑用っぽいこともするんですねえ」

「なにぶん人手不足なもので……」

 男は困ったように眉尻を下げた。資金はあるだろうに、変わった話だと思いながらあたしはウサギを乗せた紙皿を突き出す。ま、どうぞと言ってみると、彼は「これはどうも」と一つつまんだ。よしよし、内心にほくそ笑む。剥いていいのはあくまで試食用のみ、これであたしが店主から叱られることもなくなる。

「ああ、おいしいですね。……ええと、それで、いかがでしょうか」

「構いませんよ。別に大した手間でもなし」

「本当ですか、ありがとうございます!」

 男は嬉しそうに言って、手に持っていた無地の紙袋からくるくる丸めたポスターを差し出してきた。

「じゃあこれ、お願いできますか?」

「はいはい」片手に受け取り、少々考えて、もう一方の手は人差し指をぴんと立てた。「……ちなみに今日のオススメは、そこにあるアップルマンゴーなんですが」

「え?」

 唐突な勧めにぽかんとして、それから男は苦笑いした。一方のあたしはにっこりと笑う。なかなかいい男だ、どうやら察しは悪くないらしい。

「……おいくらです?」

 一つあたりでリンゴ五つは軽く買えるお値段を伝えると、口元が引きつった。


「えーと……あ。このリンゴすごくおいしかったですよね。これはどれでしょう?」

「あら、そっち気に入られちゃいましたか」深追いは、よろしくない。調子よく笑ってあたしは言った。「ジョナゴールドですね。いくつお包みしましょう」

 お買い上げは十五個詰めのケースだった。押し売りの申し出は蹴られたが、結果としちゃ悪くない。お試しとあたしのヒマつぶしにと供されたウサギさんも、きっとこれで浮かばれてくれよう。

 ご購入いただいた以上はお客様、約束を違えるわけにもいかないので、すぐに奥から押しピンを持ってきた。よもやの雨で濡れてしまわないようひさしでかばえている範囲を指差す。

「ここでいいですか?」

「はい、大丈夫です」

 輪ゴムを外し、縦向きにくるくる巻きのポスターを広げてみると、まず目に入ったのはアイドル・双海亜美の無邪気な笑顔だった。ついでその姉の真美に、萩原雪歩、四条貴音、秋月律子と続く。全体に大きく有名な十三人をプリントしてあり、下部にはイベント詳細がポップなフォントで印字してある。

 貼りながら、ふん、と見回した。……二階堂千鶴の二の字も、新人アイドルの新の字もないね。

「ときに」あたしはおもむろに言った。「ウワサに聞いたんですけどね?」


「はい?」

「いや、765プロがですね。新人を集めてるって話を耳にしたんですけど」

「ああ。はい、そうですね」

「このイベントには関係ないんですか?」

「ええと、今回のは、そうですね。新人たちは出ませんね」

「ちょっと興味があるんですよ。その進退とか。まあ、つまりデビューの予定とか?」

 男は曖昧に笑った。

「それは、すみません。未定です」

 男の返答に片目をつむる。そりゃそうである。あたしもまた曖昧に笑って、「ですよね」と応えた。本当に未定なのかもしれないし、仮に定まっていたにしても、部外の八百屋に話すわけもなかった。

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