モバP「中野有香と怪しい武術プロデューサー」 (59)


"流天"はここにはなかったのか。
どうやら俺も潮時らしい。

この事務所には退職願のフォーマットが用意されているので大変助かる。
手書きと三つ折りを強要する旧態依然の会社は今すぐ滅びなくてはならない。

俺はワードファイルを一通り見返して、間違いがないことを確認した上で、

印刷ボタンを、

「プロデューサーさんっ! 今日こそご指導願いますっ!」

押さなかった。

ばんっと開かれたドアを背に、中野有香が泰然と立ち尽くしていた。
彼女は俺の担当アイドルで、俺のただ一つの心残りだった。


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俺つえーというジャンルは世に溢れている。
ザ・デストロイと呼ばれるお兄様や、どんな強敵もワンパンチで屠る禿頭などその例は挙げればきりがない。

しかし現実には魔法は存在しないし、いかな格闘技をもってしても大人数に囲まれればそれまでだ。
結局それらはフィクション限定の机上の存在でしかない。

柔道相撲合気道、カポエラムエタイ太極拳、そして空手に至るまで。
この世に格闘技は数あれど、実戦の色をそのままに残しているものはあまりにも少ない。
そのほとんどはスポーツや興業を目的とした表層だけに骨抜きされていて、単なる会社員のストレス発散の場と化している。

自然、新たな達人が排出されることもなく、新たな俺つえーが世に出ることもない。
現代の宮本武蔵はもちろん、塩田剛三も独孤求敗もこの先現れずに終わるだろう。

とどのつまり、もはや武を極めるなど時代遅れなのである。

「でも、早苗さんが言ってました!」

"早苗さん"とは片桐早苗のことである。彼女は武道全般に覚えがある。

「プロデューサー君は、かなり"使う"わねって……」

困った。

余計なことを。

中野有香を前に、その発言は地雷でしかない。


中野有香はカワイイを求めている。アイドルをしているのもそのためだ。

同時に中野有香は強さを求めている。空手を学んでいるのもそのためだ。

最近はようやくカワイイにベクトルが向いてくれたと思っていたのだが、強さを追求することも忘れてはいないらしい。
走り込みや鍛錬も欠かさず続けているし、正座でもって小一時間黙想する姿を見たこともある。
なんと腹筋も六つに割れているとの噂だ。俺は見せてもらったことがない。ぜひ見たい。

要するに彼女は強さに敏感で、いつでも強くあろうと努力している。
そんな彼女の隣にいる男が結構な"使い手"だと知ったらどんな行動にでるか。察するにあまりある。

だからこそ俺は今まで自分の出自をひた隠しにしてきたし、隠したままとんずらを決め込んでいた。
こうなることは火を見るより明らかだから。

そのままカワイイだけを追い続けてくれてたら、俺も気持ちよく引き継ぎできたのに。
アイドルに強さはそれほど必要ないのではと思う。なんとかカワイイ方面で行ってほしい。
彼女があさっての方向を向いたまま辞めなくてはならないのが、最後の心残りではある。

辞めなきゃいいじゃん。そうかもしれない。

しかし、このままでは彼女たちを、なにより有香の身を危険に晒すことになる。
その前に俺自身が身を引いて、なすべきことをなさねばならないのだ。

結局、ここも俺の居場所ではなかったということなのだろう。

もう何年もプロデューサーをしてきて、有香もそれなりに有名になり、
アイドルとしての地位も確立した。先に話したこと以外に未練はない、はず。

「お願いします! 少しだけでいいんです!」

とはいえ俺も一人の人間であり、今はまだ彼女のプロデューサーでもある。
だからこんな顔されたら。

ちょっと。

断りにくい。


――


レッスン場のど真ん中、フローリングに沿って俺と有香は相対していた。

彼女が慣れた様子で礼をする。俺も遅れて礼をした。お願いします。

道着に黒帯を締めた有香がゆっくりと構えをとる。
両手を上げて左足をすっと前に差し出した。神誠道場特有の構えだ。
一般的な空手とはやや趣が異なるらしいが、俺には違いがよくわからない。
アイドルの彼女にはない気迫をまとっていることだけはわかる。

たんなる組手と思っていたが、どうも実戦形式のように見える。
素人に拳を向けていいのだろうか。俺は嘘偽り無く素人だ。

とにかく早めに終わらすべきだ。

俺も構える。腰を落として有香と同じように左肩を前に立つ。
違うのはだらりと下げたその腕だ。物理で使う振り子のようにゆっくりと所在なく揺らしている。
適度に脱力したこの姿は"流天十勁"は"戴天"の構えと呼ばれている。どん引きしないで欲しい。

「いきますっ!」

始まった。

有香が一足飛びで間合いを詰めてくる。
左足で強く踏み込んで、渾身の正拳が放たれた。

矢のようなその拳を、俺はすんでのところでかわす。予想外に速い。

避けられることも折り込みずみなのか、有香は勢いそのままに体をひねり、
一度背中を見せたかと思うと後ろ回し蹴りを繰り出してきた。

これも体を屈めてぎりぎりのところで避ける。
するどい蹴りが頭頂部の髪をじゃっとかすめた。これは。

強い。

有香が続けざまに下段回し蹴りを放ってくる。
後ろに半歩下がって彼女の蹴りをひらりと受け流す。
ここまで一度も攻撃はおろか、スーツに触れられてすらいない。

"流天十勁"は防御を是としない。衝突をさけ流れのままに身を逸らす、それが"流天十勁"だ。
恥ずかしいのであまり流派の名前を口にしたくない。いかがわしい新興宗教っぽさがある。

「くっ!」

まったく自分の拳が届かないことに業を煮やしたのか、彼女がまた一歩間合いを詰めてくる。
もう肩と肩が十センチの距離にある。

左、右、左の腰の入った連撃。通常ならば防御せざるを得ない場面。

しかし。

次の瞬間、俺の姿は彼女の背後にあった。
初撃の左に合わせてくるりと回転し、彼女の背中をとったのだ。

これが回避の極意、"霖天翻身"である。


なんだって?

り、"霖天翻身(りんてんほんしん)"です……。

あの、攻撃を回避するときに使う技なんですけど、脱力した両腕に勁を(オーラみたいなもの)練り込んで、
相手の勁と同調あるいは反発させて攻撃の流れを逸らすっていうか、そういうのです。
うまくいくとあたかも胡蝶のように術者の体が翻身するらしいが、控えめにいっても暗黒舞踏にしか見えないから困る。

一応由来もある。流天なんちゃらの開祖である老師が霖雨の中で演舞を披露したところ、
見物人はびしょびしょに濡れてしまったにも関わらず、演舞を終えた老師一人だけが一滴も雨に打たれていなかったという。
そういう逸話があるので"霖天翻身"というわけだ。開祖が誰かは誰も知らない。

ここでこの技を使うことになるとは思ってもみなかった。
不覚をとったというべきだろう。

でも辞めるのなら今何を見せてもおんなじことか。
俺の心中に一抹の寂しさが去来した。

有香は突如として視界から消えた俺に困惑しているようだった。
きょろきょろしてる後ろ姿を見ているだけで一時間は過ごせそうだ。

残念なことに気付かれるまで一秒もかからなかった。振り向きざまにしゅっと裏拳が放たれる。
ぎゅるんという腰の音が聞こえてきそうな激しい拳が襲いかかった。

「やあっ!」

俺はまた屈んで避ける。
後ろ回し蹴りといいなぜか執拗に顔面を狙ってくる。こ、怖い。

だが、これで終わりだ。

しゃがんだまま右手に勁を流し込む。
そして、立ち上がる勢いそのままに有香の小さな顎に掌底を――。

とん、と。

寸止めした。

打拳の精粋、"天青仰掌"だ。


なんだって?

て、"天青仰掌(てんせいぎょうしょう)"です。

要するにアッパーカットの掌底バージョンである。
勁に裏打ちされたこれを受けたが最後、相手はなす術なく倒れ込み、仰向けになって雲一つない蒼穹を見つめざるを得なくなる。
ゆえに"天青仰掌"というわけだ。顎は人体の急所であることはご存じの通りである。

基本技なので特に由来はない。いつの間にかできていた技だ。

これも本気で打ち込めばただではすまないだろうが、当てるなんてとんでもない。
有香の顔に傷でもつけたら罪の意識で眠れなくなる。

しかし彼我の実力差は明らかになったはずだ。
状況は完全に俺の支配下にある。ナイフを喉元に突きつけたようなものだ。

掌底が彼女の顎に触れたまま、しばし二人は膠着する。
有香の頬を一筋の汗が流れていき、俺の手のひらに落ちてきた。

「ま」

ま?

「参りました……」

間。


有香はすっかり意気消沈してしまったようだ。
肩を落としてしゅんとした顔をしている。

悪いことをした。あたら拳を振りかざすとは大人げない。俺は深く反省した。

でも強くなりたいという話なら、これから頑張っていけばいい。
そう伝えると彼女はふいっと顔を上げて、

「本当ですかっ! じゃあ、またお願いしてもいいですか?」

と期待と不安の入り交じった声で聞いてきた。
それはまあ、やぶさかではないが。でも俺はそろそろ……。

「あのっ、他の技も教えてもらいたいのですけど……」

ずいっと有無をいわさぬその勢いに押されて、俺は反射的に頷いていた。
頷いたけど空手はいいのだろうか。他流派学ぶのは教義的に許されるのか。

一転して明るい笑顔を取り戻した彼女にそんなことを聞けるはずもなく、
二人して手帳を取り出して次の"レッスン"の日取りを決めることになった。

そういえば。
たしか退職願には日付を記載する欄があったはずだ。

どうするか。
また、書き直さなきゃならない。


帰りの電車でスマホを開くと、いくつか非通知の着信履歴が見えた。
二時間おきぐらいに規則正しくかけられている。

しつこいな、あいつ等も。

"流天"がどうとか訳わからんことを言ったが、職を辞す理由ははっきり別にある。

アイドル界は世間が思っているほどに清廉潔白な業界ではない。
いや、世間も馬鹿じゃないし薄々気がついているとは思うけれど。

放送業界とも広告業界とも通じているし、その間では泥臭くて生々しい交渉が日常茶飯事に行われている。
彼等はアイドルを商品としてしか見ていないし、彼女らの価値は常に数字でのみ判断される。
いつも隣にいて、少なからずその人となりを知るプロデューサーとしてはなかなか厳しいものがある。

厳しいことはそれ以外にもある。
通じているのは、表の業界だけに限らないということだ。

非通知の並ぶ着信履歴を眺める。
重苦しい気持ちが、澱のように堆積していく。

俺はスマホを捨てて手帳を開いた。
有香との次のレッスン日が二重丸で囲まれていた。

それが少し、救いになった。



なんじゃい。その格好は。

「いえ、その、なんというか……」

赤を基調としたシルクに似たなめらかな生地、両サイドに入った深いスリット、頭についた団子が二つ。
紛れもないチャイナ服姿の有香がそこにはあった。

「ゆかりちゃんと法子ちゃんに話したら、これを着ていけって、カワイイからって」

かわいくはある。道着よりいい。

俺たちは再び"レッスン"すべく事務所の中庭にいた。今日は風が強い。
チャイナ服の前掛けみたいな部分が風にあおられ、ぱたぱたとはためいている。
そのたびに有香の太股がちらちらと……。俺はふいっと目を逸らした。

「それにプロデューサーさんの流派は、中国にルーツがありそうだったので」

ないよ。

完全に日本発祥で、日本で発展したエセ中国クンフーである。
実家の隣にあるみすぼらしい道場が本部で、ほかに支部があるとかも聞いたことはない。
師範もよぼよぼのおじいちゃんで、れっきとした日本人だ。

それでもお隣さんだからってことで小学一年生から高校卒業まで無理矢理に週五で通わされて
本当は吹奏楽部に入りたかったのに部活をする暇もなく兄弟子にはったおされて道場の床をなめるだけの侘びしく孤独な高校生活を……。

やめようこんなはなしは。

チャイナ服姿の有香を見て心を落ち着ける。
顔がちょっと赤い。恥じらいがあるのが最高だ。眼福眼福。

俺は手に持ったボウルを有香に差し出した。

中にはピンポン球が八つ入っていた。


「なんですか? これ」

もうお気づきのように"流天十勁"は天候になぞらえた技をもつ。
天の向きをとらえ、気象の奔流に身を任せ勁を放つ。この流派の基礎である。

曰く"天青仰掌"。曰く"霖天翻身"。これから見せる技もその一つだ。

俺は有香にピンポン球を投げるようにと指示した。
彼女はなんだかわからないといった様子で首を傾げていたが、
やがてボウルから一つ球をつまみ上げると俺に向かって振りかぶり――。まったまった。

そうじゃない。

一斉にぶちまけてほしい。

「こ、これ全部ですか?」

俺は"戴天"の構えをとった。
久しぶりなのでうまく行くかわからない。

大きく息を吸って腰を落とす。勁をその身に練り込ませる。

彼女はピンポン球と俺とを交互に見ていたが、やがてためらいがちにボウルを振りかぶった。
柄杓から打ち水が蒔かれるように、ピンポン球が雨あられと飛んでくる。

「えいっ」

えいってかわいい。


一息八撃、それこそが"曇天看破"の要諦である。

体内に練り込んだ勁を外部に放出し、周囲360°(正確には立体角で4π)すべての状況を即座に把握して、前後左右に目にも留まらぬ八連撃を浴びせかける。
外部に発した勁を外勁と呼ぶが、これがレーダーの役割を果たし目標の位置座標と予測進路を教えてくれるのだ。
なんちゃらガンダムのマルチロックオンと似たようなものだと思ってくれればいい。

八つの球を一挙に補足する。後は両手を動かすだけで事足りる。
最低限の速さは必要だが重要なのは勁の流れだ。流れを掴めばピンポン球の方から自然と手の平に吸いついてくる。

ぱぱぱぱぱぱぱぱっ。

左に四つ、右に四つ。

見事に手中に収まった。

「す……!」

久しぶりだが成功した。ほっとする。

ぽかんと口を開けて唖然とする有香を横目に、俺は得意げに解説を始めた。

"曇天看破"の由来はこれまた謎の開祖にある。
ある年のこと、厚く雲が張り二月もの間日の光が現れないという異常気象に見舞われたとき、
老師がはるか剣山の頂まで飛ぶように舞い上がり、一息八撃を繰り出して雲中に切れ目を作ったという逸話が元となっている。

敵に包囲されたときに放つとたいへん効果的な技であり、また連続攻撃としても応用できる。
しかし現実に使う機会はまずないので宝の持ち腐れもいいところだ。せつない。

「ど、え、え……?」

とてもいい反応で嬉しくなってしまう。有香の反応は本当に素直だ。
他人に見せる機会なんてめったに無いからなおのこと気分がいい。
教える側はいつだって楽しいものだ。

よし。まずは四つから始めてみよう。

「い、いえっ、三つからで……!」

やはりチャイナ服は似合っている。

俺はピンポン球を五つ手に取った。


……白熱したので帰りが遅くなってしまった。

しかも次のレッスンの予約まで入れられる始末だ。

有香は覚えがいい。結局、今日一日で五つ同時に取れるまでになってしまった。
まず内勁を練ることができる、その時点で常人とは違うことがわかる。

彼女には間違いなく天賦の才がある。
それも"流天十勁"に最適な体の軽さと柔の精神を兼ね揃えている。
ともすれば達人の域まで行くかもしれない、いや、ことによっては――。

だめだ。

いけない。

俺はそれを望まない。彼女には彼女の"流天"があるはずだ。
あと一回、一回教えたらそれでお終いだ。退職の準備はすでに整った。

ヴーヴーと、スマホが唸りを立てた。俺はちっと舌打ちをして応答する。

「おい、いつまで"プロデューサーさん"を続けんだい?」

ドスの利いた電子声ががなりを立てる。この業界は本当に奥が深い。
そっちの筋の人が、堂々と脅しにかかってくるってんだから。

空は鈍色、雲が重く立ちこめている。

逸話には諸説ある。
老師が放ったのは実は一息八撃ではなく、一息十二撃であったという話もある。
晴れ間を導く縦横無尽の天連打。もしそれが本当だったとしたら。

"曇天看破"は、未だ成らずか。



なんじゃい、その格好は。

「いえ、うう……」

スニーカーに白ソックス。紺のハーフパンツに白の名前入りの半袖……つまりは体操服だ。
額にはしっかりと赤ハチマキが巻かれている。運動会かな?

「ゆかりちゃんと法子ちゃんに話したら、これ着ていけって、プロデューサーさんが喜ぶだろうって……」

俺の評価……。涙が出そうだ。
いいよもう好きにしてくれ。体操服も好きだよ俺は。

ぱんっと両頬を叩いて有香が気合いを入れる。凛々しい顔が現れた。
やる気十分といった具合である。赤色のハチマキが音もなくなびいていた。

「プロデューサーさん、次の技は何ですかっ!」

しゅしゅっと突きを繰り出しながら彼女が聞いてくる。
こんなに乗り気だと逆に困ってしまう。きっとがっかりさせることだろう。

今日教える技は、打撃技でもなければ回避技でもない。もちろん防御技でもない。

ただひたすらに後退する、いわゆる逃げ技なのだから。


「――雷天脱兎"?」

遁走の奥義、"雷天脱兎"。真の達人は無益な勝負を好まない。
闘わずして勝つ、逃げるが勝ち。どこの格闘技でも結局いきつくところは同じである。

やり方は簡単で、足裏に内勁を溜めてジャンプの瞬間に解放させるだけ。
これだけで常人の二倍も三倍も高く跳躍することができる。
それでもってただ逃げる。背中を向けてひた走る。脱兎の如く飛び回る。これこそが"雷天脱兎"である。

「はあ……」

やはりあまりウケがよくないようだ。

ただ実際のところは少し違う。

由来について話す。
要するにFFXの雷平原みたいなもので、雷鳴渦巻くまっただ中において、
老師がタイミング良く○ボタンを押し、すべての雷をジャンプで避けきったという逸話が元になっている。
追っ手はことごとく落雷にやられその場に倒れ伏してしまったそうな。

重要なのは最後の一文であり、これは逃げ一択の技ではないのである。
勁を溜めて、大地に解放する。これは震脚という技も兼ねている。
周囲にいる人間は震脚により、全身の勁の流れを乱されあたかも落雷を受けたかのように体が麻痺してしまうのである。

つまり"雷天脱兎"は逃走術であると同時に、足止めの技でもあるのだ。

「なるほど、いわれてみると!」

有香は顎に手をおいてうーんとうなっていた。
こんなに反応してくれるなんて……! 大抵笑われるのに。優しいな。

よし、さっそくやってみよう。


事務所の中庭には噴水があって、その中心にはマーライオンを模した彫像が立っている。
マーライオンの身長はざっと二メートルってところだろうか。練習にはちょうどいい高さだ。

まずはお手本から。

俺は呼吸を整えて足裏に内勁を集中させた。大地をめぐる勁が踵を伝って流れ込んでくる。
ふーっと息を吐いて、跳ね板を蹴るようにばんっと地面を踏み切った。
有香がいるので震脚はなしだ。ただジャンプするだけに留める。

ふわりと体が浮きあがり、体操選手のように中空で一回転する。
勢いを殺しつつそのままマーライオンの頭上に着地した。

「すごい、すごいですっ!」

有香の反応はどこまでも素直だ。
再び勁を込めて跳躍し、彼女の元に戻ってくる。すとんと軽い音がする。

だいたいこんな感じである。はいどうぞ。

「えっ?」

やってみよう。

「あ、あの」

有香は噴水を見つめて何か言いたげにしている。何が言いたいかはわかる。
失敗したらどうなるの? ということだろう。

俺はバッグの中から大きなバスタオルを取り出した。
手を左右に振って、心配無用のジャスチャーを送る。

「……え?」

体操服はナイスチョイスだった。
着替えもあるだろうし問題ないだろう。


「押忍! 中野有香、いきますっ!」

どうやら覚悟は決まったようだ。

有香が目を閉じてふー、はーと深呼吸する。
足下に膨大な勁が蓄えられていくのを感じる。やはり彼女には才がある。
もし本気で鍛えたらどうなるか。俺は有香の中に潜む怪物を幻視した。

大蛇か虎か、はたまた龍か。いずれにせよ――。

彼女がかっと目を見開いた。

「はっ!」

発声、からの飛跳。

大地がガォンと轟いた。びりびりと激しく大気がうなりをあげる。
震脚――紛れもない"雷天脱兎"だ。事前に勁を練ってガードしていなかったら俺もどうなっていたか。
この勢いでは痺れるだけではすまないだろう。恐るべき天性。ここまでアイドル要素皆無である。

彼女は空高く舞い上がり、マーライオンの遙か上、事務所の二階の窓がゆうゆう覗けるほどに高高度に達した。
最高点は俺よりも高いかもしれない。赤いハチマキとツインテールが遅れがちについていく。

そして。
マーライオンの頭上を飛び越えて。

水中に。あー。

どぼん。水柱。

俺はバスタオルを片手に、いそいそとバッグの中をまさぐった。
黒い固まりが取り出される。

一眼レフはこういうときに役に立つ。


――

全行程、終了。
レッスンもこれでお終いだ。
本当はまだ教えていない技もあるけど、もういいでしょう。
概要は掴んだと思うので、あとは各自で復習なりなんなりしてくれ。解散!

普段着に着替えた有香にその旨を伝える。
本当によくできた弟子だった。自慢の一番弟子だ。
俺は乏しい語彙でもって、彼女をやたらめったらにほめたたえた。

これまでの充足の日々が脳裏をよぎる。もう何年、彼女と一緒にいたことだろう。
あのステージも、このステージも昨日のことのように思い出すことができる。
……やめだやめだ、感傷に浸るのは。

ふと見ると有香は浮かない顔をしている。両手を握りしめ、うつむき加減に動かない。
免許皆伝がそんなに嫌か。水を浴びたせいで具合でも悪くなったのか。
彼女はふるふるとかぶりを振った。

「もう、おしまいなんですか?」

……。

そろそろ帰ろう。宵が近い。
きびすを返して歩き出そうとしたそのとき、スーツの袖がぎゅっと握られた。

「……」

じっと彼女が見上げてくる。
日が沈み、薄暗くなってきた中でもそれははっきりとわかった。
彼女の目が潤んでいること。何かを訴えかけてきていること。

この袖を離す気は、さらさらないということ。

おかしいと思った。空手一筋の彼女がなぜ突然教えを請うてきたのか。
カワイイにベクトルが向いてきた彼女が、なぜまた強さを求め始めたのか。

彼女は俺の意図に気付いていたのだ。自ら退こうという、俺の意図に。
だからレッスンにかこつけて俺を足止めしようとしていたのだろう。

もはや"雷天脱兎"は叶わない。


ここはあまりにも居心地がよすぎた。
"流天"はここにあると心の底から信じてしまうほどに。

"流天"とは天職とも、悟りとも、生き甲斐とも言い換えることができる。
そいつにとっての生涯をとして追い求めるもの、常に流動し変化を繰り返しながら、
いつ何時もそばにありしかし決して手にできないもの、それこそが"流天"だ。

山男は際限なく高い山を求め続ける。冒険家はいつでも未踏の地を夢見てる。
山はすぐそこに見えるというのに、地球儀はAmazonにだって売ってるのに、それでも彼等は止まらない。
彼等にとっての"流天"がそこにあるからだ。

俺にとってのプロデューサー業も、中野有香という存在も、ひとつの"流天"であると信じていた。

そう、あいつ等がくるまでは。


芸能界がその筋の人々とつながりがあることは前々から知っていた。
互いに蜜月の関係にあることも。それらがいかがわしい意味を持つことも。

中野有香はそんな輩に目を付けられた。

ここ数年のめざましい活躍により、彼女の影響力はいまや無視できないものとなっていた。
そんな彼女をかどかわす不逞の輩が一人や二人いたところでいまさら何の不思議もないだろう。

しかし、今回ばかりは相手が悪かった。

関東最大規模の暴力団、○○組(名前は伏せる)。そのOBで構成される蛇老会が彼女をマークし始めたのだ。
彼等は"援助"という巧みな言葉をひっさげて俺たちに近づいてきた。
蛇老会のバックアップにより、いかに俺たちが利益を被るか、アイドルをしていく上で有利に働くか、
芸能界にコネが効くか、彼等は甘い言葉でもって幾度となく誘惑を重ねてきた。

もちろんすべて突っぱねた。ふざけるなといってやった。

中野有香は正々堂々とアイドルをやっている。カワイイを目指し、最強を求めて闘っている。
何が援助だ。蛇老会だ。侮辱もいいところだ。俺は片時も耳を貸すことはなかった。

すると彼等の態度は急変した。
一転して強い言葉で迫ってくるようになったのだ。

脅しに屈するような俺ではない。来るなら天を仰がせてやるまでだ。
俺は一貫して毅然とした態度を貫いた。しかし、おそらくそれが彼等の逆鱗に触れてしまったのだろう。

ある日、俺の部屋に写真の束が送られてきた。
無造作にポストに投函されたそれには、有香の実家や彼女の通う学校、
神誠道場の内部に事務所のロッカー、レッスン場そして、

彼女の自室が写っていた。

つまりそれは。

"ここまでできるんだぜ"という合図だった。


はらわたが煮えくり返る思いだったが、もはや無視することはできなかった。
最終的に俺は交渉に応じることにした。

黒服に囲まれた事務所の一室、いかにもという面をした組長(会長?)を前に、俺は粛々と彼等の話を聞いていた。
"曇天看破"の絶好の使いどころだったが、そこはぐっと我慢した。

彼等の要求を要約するとこうだ。

プロデューサーを辞めろ。それだけだ。

彼等にとってどこまでも頑なな俺の存在は邪魔でしかなかったのだろう。
他のプロデューサーであればいくらでも籠絡できる。札束でも見せればころりと落ちる。ハニートラップをしかけるのでも構わない。
実際他の事務所では、そういう手段で丸め込まれた奴が何人もいると聞いたことがある。

つまり俺でなければいい。おまえがいなくなればいい。
そうすれば中野有香も"悪くはしない"。彼等はそう言ってきたのだ。

「わかった」

俺は短く答えた。


いや、お前が辞めても状況はよくならないのでは?

確かにその通り。俺が辞めても何も変わらない。
有香がアイドルとして活躍すればするほど、蛇老会の魔の手はより激しく彼女に襲いかかることだろう。
それはプロデューサーが変わろうが、変わらない不変の事実だ。"悪くはしない"などという言葉を信じる方がどうかしている。

だったらどうする?

潰すしかない。

蛇老会とかいうふざけた奴らを、一人残らずみんな全員。

俺はあのとき一息八撃を放たなかった。
それは俺が有香のプロデューサーだったからだ。
プロデューサーの肩書きが、俺に"流天十勁"を使うことを許さなかった。
有香に迷惑がかかる。彼女のアイドル活動の妨げになる。
そう思ったからこそあのときは踏みとどまったのだ。

しかし、ひとたびプロデューサーの肩書きを外したとすれば。
俺は晴れて流転の身に戻る。何をしてもよいという自由を手に入れられる。

そうなれば次こそ容赦はしない。後顧の憂いを根本から絶ってやる。
有香を脅しに使ったこと、マジで許さんからな、生きて帰れると思うなよ。
"流天十勁"の真髄、その身にとくと味わうがいい。

前も言ったかもしれないが、俺は俺つえーがしたいんじゃない。
武林の極みを目指しているわけでもない。

俺はただ彼女を守りたいだけだ。
有香に"流天"を見せること、それだけが俺の望みだ。

代償は大きい。俺は全てを失うだろう。だが。

有香の笑顔が、目に浮かぶ。

――それでも。


……結局、俺は肝心なことは何一つ言わなかった。

実家の都合で郷里に戻らざるをえなくなったこと、長男に代わって親父の跡を継ぐ意思を固めたことなど、
数々の嘘をでっち上げてその場その場を取り繕った。
そりゃ当然も当然で、このタイミングで「蛇老会、ぶっつぶす!」なんつったらやばいでしょ。

有香は俺の話を黙って聞いていた。

両目に涙をためながら、けれども俺から視線を外すことはしなかった。
どこまでも純粋なその瞳を前に、嘘をつかねばならないことが辛かった。

でも別離であっても今生の別れではない。
プロデューサーを辞めたとしても、またどこかで会うこともあるだろう。
すこし遠くに行くけれど、俺は変わらず有香を応援している。そう言って彼女を慰めた。

もちろん俺がテレビを通じて勝手に見るだけで、
もう二度とあいまみえることはないのだろうけど。LINEも退会する。

有香の眼から涙がこぼれていく。
嗚咽をこらえているのか、肩が大きく上下していた。
小さい体がいっそう小さく見える。

泣くことはない。るろ剣でもやってたことだ。
"流浪人"だったか。台詞も思いだした。

また流れていくでござるだ。

俺は彼女の手に自分の手を重ねた。
有香の勁が手の平ごしに伝わってくる。優しくて、暖かい。

噴水の音だけが響いていた。
水は、たしかに流れている。


――


さて。

もうしがらみはない。

背後に不穏な気配を感じた。
尾けられている。それも一人ではない。

あの日から一週間。そちらから出向いていただけるとは。非常に好都合だ。
大丈夫、今の俺に枷はない。さっそく"こと"に及ぶとしよう。

よくよく考えてみれば、交渉の場で敵意をむき出しにしていた俺を彼等が放っておくわけがなかった。
辞めようが辞めまいが、遅かれ速かれこうなる運命だったのかもしれない。

俺は周囲をうかがいつつ路地裏に身を踊らせた。
なるたけ狭いところの方がやりやすい。

埃をかぶったエアコンの室外機、横倒しになったでかくて青いポリバケツ。
薄暗い路地の中を一匹の黒猫が横切っていった。喧嘩にはおあつらえむきの場所だ。

でてこい。

ガタイのいい男が五人、指をポキポキと鳴らしながら現れた。
どいつもこいつも示し合わせたかのように眉根を寄せて俺をにらみつけている。
なるほど視力が悪いらしい。ここは暗いので仕方がない。

前の五人は雑魚だ。気になるのはその後ろ。

黒いスーツ姿の丸眼鏡。

長身痩躯、目も細い。他の奴らとは明らかに雰囲気が違う。
丸眼鏡の奥で三日月をひっくり返したように両目がつり上がるのが見えた。不気味な笑み。
あいつにだけは要注意だ。まとっている勁からしてただ者ではない。

「どこ見てんじゃコラァ!」

お決まりのセリフを吐いて雑魚の一人が殴りかかってきた。

"目にもの"見せてやる。



二分。

意外とかかった。

どう、と大きな音を立てて五人目が仰向けに倒れ込む。
予想していたとおり、こいつらは大したことない雑魚だった。
最初の威勢はどこへやら、最後の一人など完全にびびって後ろ足を踏んでいた。

だが、それでも奴らは逃げずに向かってきた。

おそらく背後に丸眼鏡がいるためだろう。逃げようとすればあいつにやられるというわけだ。
敵前逃亡するようなやつに慈悲はない。まったく非情な世界である。

"流天十勁"は、そういう教えじゃないはずなんだけどな。

丸眼鏡がぬらりと蛇のような動きで近づいてくる。
左腕をだらりと垂らしたその構え。間違いなく"戴天"の構えだ。

もうわかっていた。こいつも"使う"。
こんなところで同門に会うとは驚いた。不覚にもわずかに感動してしまう。
支部は本当にあったのか。ぜんぜん俺は知らなかった。

とはいえ、力量差を見誤るような俺ではない。

はじめに見た限りでは、確実に俺の方が強い。
なにも心配することはない。普段通りやれば勝てるはずだ。

丸眼鏡が音も立てずに疾駆した。
俺が知覚するよりもはるかに速く、一瞬で懐に潜り込まれる。

――なに、も。


"天青仰掌"。
"曇天看破"。
"霖天翻身"。
"雷天脱兎"。

これらは"流天十勁"が有する奥義の一部でしかない。
有香にも教えていない本当に重要な技が一つ残っている。

それが練勁の絶技、"万天響命(ばんてんきょうめい)"だ。

この世の全ての事象そして万物には勁があり、それらは常に絶えることなく流動している。
一見すると永久不変に見えるこの空も、火も土も、木も水も、実はその内部では激しい伏流が渦巻いているのである。
平衡状態にある物質の中でも、実際のところ化学反応はちゃんと起こっていて、
その正逆の反応速度が一致しているから見かけ上何も変わっていないように見えるというそういう話だ。

"万天響命"は万物の脈動を感じ取り、体内に取り込んで響かせるという最大の絶技なのだ。
これを使うと術者は一時的にではあるが爆発的な勁力を得ることができる。
つまりはバフ技である。言い換えればチャージである。
ありていにいってしまえばバイキルトである。バイキルトは大事だ。

由来、由来なんて言ってる場合じゃない。

俺の眼下、すぐ下で鋭い殺気を放つ丸眼鏡。
そいつの外勁がびりびりと肌に突き刺ささってきた。

明らかに初対面の時よりも増している。二倍、いや三倍かもしれない。
体内にとりこめない分の勁が溢れ出て、あたかもドライアイスのように周囲に広がっていく。

背筋がひやりと寒くなる。

こいつ。

"万天響命"を。


バイキルトには必ず一ターン必要だ。チャージをするにも時間がかかる。
そしてバフ技の詠唱時は必然的に無防備になってしまう。都合のいい技はゲームの中でも存在しない。

"万天響命"も例外ではない。
体内に勁を響かせるとき、術者は完全に空の状態になる。
内勁も外勁も練ることができず、むざむざと己の弱点を晒すハメになってしまう。
だからこそ使いどころが難しく、上級者向けの技として知られている。

ということは、この丸眼鏡は。
五人の雑魚を犠牲にしたのだ。
時間稼ぎのために使ったのだ。

自分が勁を溜める、ただそれだけのために。

人を人とも思わないその所業。モノとしてしか扱えないずさんな精神。
俺のもっとも嫌いとする奴らとおんなじだ。数字でしか物事を判断できない奴らと。上から目線で甘言を弄してくるあいつらと。

目と目が合う。
丸眼鏡がにやりと笑った。
勝利を確信したときに使う、不敵な笑みだ。
じゅるりという舌なめずりの音が聞こえてきた。

――てめえ。


丸眼鏡の両腕が、あたかも二匹の蛇のように襲いかかってくる。

翻す。受け流す。俺の体には当たらない。
再び打突が繰り出される。一見無造作に放たれるそれらはしかし正確に俺の勁口を捉えていた。
一撃でも喰らえば内勁が乱され体が動かなくなってしまうだろう。

間断なく放たれる正確無比の乱撃に、俺は防戦一方を強いられた。
回避するだけで精一杯だ。相手はあまりにも速く、あまりにも強い。

"雷天脱兎"、使えない。

自ら袋小路に入り込んでしまった手前、ここから逃げ出すのは至難の業だ。
それに同門である丸眼鏡がこの技の存在を知らないとは思えない。
足下に勁をためこもうものなら次の瞬間俺の体は傀儡と化しているだろう。
つまり闘う以外の選択肢は、俺には残されていない。

油断だった、慢心していた。
一人でもいけると思い込んでいた。

結局俺は、俺つえーがしたかったのか。
ヒーローになってみんなにほめたたえられたかったのか。

「シィッ!」

内息とともに丸眼鏡がひときわ大きく腰を落とす。
丸眼鏡を中心に外勁がドーム状に広がっていくのがわかった。
俺の体を巻き込んで、なおドームはその規模を増していく。

勁をあたかもフェイズドアレイレーダーのように使う技。

完全に全身を補足されている。まずい。

"曇天看破"。


目にも止まらぬ縦横無尽の天連撃。
ひとつひとつが致命傷となる恐るべき攻勢に晒される。

そうやすやすと当たってたまるかよ。俺は両腕に内勁をそそぎ込む。
命の奔流を見極めろ。いくぞ、"霖天――、

一、二、三、四、五、六、七、八。

――翻身"。読み切った、看破せり!

「お見事」

にたりという笑みが目に入る。
何がおか――、

九、十、十一、十二。

ドドドドッ。

右腕右脚左腕左脚。
四つの勁口めがけて神速の打拳が突き刺さった。

一息八撃、さらに四。数えていわば計十二。

まさか、こいつが"曇天看破"の肝要に通じていようとは。

内勁がぐちゃぐちゃにかき乱される。体の制御がきかない。
両足の感覚が薄れていく。もう指先一つ動かせない。万事休すはまさに今。

俺はなす術なく直立不動の姿勢を強いられた。
勁の流れはもはや読めない。ここまでか。


「無様だな」

悪役っぽいセリフ。普段の声は結構高い。

丸眼鏡が訥々としゃべり始める。大勢は決したという様子だ。
事実、俺は未だに勁を整えることができないでいた。
体全体が目眩しているようにぐわんぐわんする。頭が揺れて気持ち悪い。

「もう少し歯ごたえがあると踏んでいたが」

悪役のセリフやめてほしい。お前バイキルトかけてただろ。
それにしても、歯ごたえがあるとはどこかで俺の噂でも聞いていたのか。

「"孤龍戴天"が聞いて呆れるな」

おああ。

狭いコミュニティ内でしか通じない二つ名で呼ぶんじゃねえ。
昔ネトゲしてた時につけたハンドルネーム思い出して死にたくなるだろ。

俺の叫びは声にならない。
くそ、まだ間に合う。勁を練れ。

ふん、と丸眼鏡が鼻をならして身を屈めてきた。一挙に距離を詰めてくる。
ふり仰げば視線の先には俺の顎。そして天。次の瞬間。

俺も天を仰ぐことになった。

薄れゆく意識の中で、最後に俺が見たものは、
きらめく星々の大海などでは決して無く。

ステージの上で、スポットライトを浴びる彼女の姿だった。


有、香――。


――

「プロデューサーの反応が、消えた!?」

「あわてるな、すぐにドローンを飛ばして周囲を探ってみる!」

「大丈夫よ、データは全てそろってる。私もログを確認するわ」

「任せてください! サイキックパワーをもってすれば……むむむむ~ん!」

「うちの若い衆もすでに動いとる。心配は無用じゃ、時間の問題だろう」

「燃えてきたね~! プロデューサー救出大作戦だね!」

「ほら、有香ちゃん。ドーナツ食べて元気だして!」

「うん、ありがとう!」


「みなさん、どうぞよろしくお願いしますっ!」

「私の大事な人を、プロデューサーさんを見つけてくださいっ!」


「有香ちゃん、パトカー借りてきたわ! 乗って!」

「……まったく、プロデューサー君も罪深いんだから」

「こんなカワイイ子を置いて、一人で行っちゃうなんてね」


――



――



潮の香りがして目が覚めた。

月明かりがまばらに床に差し込んでいる。

周囲にはうずたかく積まれた土嚢に、錆のはいったドラム缶の群れ。
遠くからはかすかに波の打ち付ける音が聞こえてくる。
見上げると所々はげ落ちた屋根から、きれいな月が覗いていた。

湾口近くの廃倉庫か、これもよくあるパターンだな。

俺は粗末な椅子に座らされて、両手両足を縛りあげられていた。
胴体もがっちり椅子にくくりつけられている。
口にはやっぱりガムテープ。むがむがむがむが喋れない。

後ろを振り返ると黒服が二人。仁王のようにそびえ立っていた。
体格がいい。腕もそれなりだ。こいつらも蛇老会か。

やがてごごごごっと音を立てて、倉庫の入り口が開かれた。

いくつもの影が俺に向かって伸びてくる。逆光のせいで誰が誰だか判別不能だ。
十人あまりはいるだろうか。影の長さからやせっぽちの丸眼鏡がいることだけはわかった。

「お目覚めかい」

おかげさまで。


たかが一般人相手にこんなに雁首揃えてやってくるとは。
蛇老会とはよほどやることがないと見える。いつも麻雀してるのか。

俺は間近に来た組長(会長?)にそう訴えかけた。
声が出せないので視線でのみだが。

「いや、そうともいえねえよ」

なに。

「"孤龍戴天"の名は、その筋じゃ有名だぜ」

「聞いてるぜ、お前さんの華々しい武功の数々は」

……。

プロデューサーに就く前、俺は"流天"を求めてあてもなくさまよっていた。
職を転々としながら、やにわに"流天十勁"を奮ってはチンピラやヤクザ相手に鬱憤をはらしていたのだ。
弱きを助け、悪をくじく。そういう建前のもと、はりぼてのヒーローを演じていた。

ただ単に俺つえーがしたかっただけだったのに。自分の腕試しがしたかっただけなのに。
そいつが俺の"流天"だと信じて、かけらも疑わなかった。

ついたあだ名が"孤龍戴天"。たった一人で組織を壊滅させる恐るべき"龍"として、
俺の名はブラックリストの一面を飾るようになった。という噂だ。真偽のほどは定かではない。

だが、それも何年も前の話だ。今更持ち出されても困る。
というかさっきから俺のことばっか話しているけど、そもそも狙いは俺じゃないはずだ。
有香のことを話せ。有香はめっちゃカワイイと、そう話せ。

「おいおい、勘違いしてもらっちゃ困るな」

「あんな小娘一人に、そこまで固執するはずがねえだろう」

「お前、自分の首にいくらかけられているか、知らねえのか?」

――。

まさか。

有香ではなく。

プロデューサーの肩書きが邪魔だったのは、俺だけではなかった。
社会的な地位を持ったまま行方不明にでもなれば、しかるべきところが捜査に動くはずだからだ。
彼等にとってもそれは好ましくなかったのだろう。

しかし流転の身になった俺ならばどうとでもなる。
全て踏まえた上でプロデューサーを辞めろなどという、迂遠な要求をしてきたのだ。

つまり最初から、狙いは俺だったと。



なんだ。

じゃいいじゃん。

有香の足枷になっていたのが、他ならぬプロデューサーその人だったというのは、
まったくとんだお笑い草で、情けない話ではある。
何の疑問も持たずに気づけなかった俺も馬鹿だった。

しかしだとすれば、こんなに嬉しいことはない。
だって俺一人が犠牲になればそれですむというのだから。

この分なら有香にも迷惑はかけないですみそうだ。
ああ、辞めてよかった。本当。

有香の笑顔がフラッシュバックする。

辞めて――。

目元のすぐ下、涙腺のあたりが刺激される。
死ぬのが惜しい訳じゃない。どんな拷問を受けようがそれが何だってんだ。

でも、すげえ居心地がよかったんだ。プロデューサー業は本当に最高だった。
俺の"流天"はここにあるんだって。今が一番幸せだって確信できるそれほどに。

守るべきものがそこにはあったから。中野有香が俺の隣にいてくれたから。
彼女が大観衆を前に歌い踊るその姿を見ているだけで俺は満足だった。

あの日々はもう一生戻ってこない。

その事実が今になって辛く重く俺の中にのしかかってきた。
視界が徐々ににじんでいく。月の形がぼやけていく。
もはや天を望むことは、叶わないのか。

「命乞いの時間だぜェ~!」

するかボケ。何だそのセリフは。
黒服の一人が角材を振り上げた。

その時。

廃倉庫の入口で、赤と青の光が交互にまたたいた。
これは……パトカーのランプ?

続けて三つの影が俺に向かって伸びてくる。
いや、三つではない。俺は目をこらしてそれを見た。

ツインテールと、一人の少女。
龍の仮面をかぶった149cmの小柄な体。
顔は見えないが間違いない。

それはアイドル、中野有香だった。


「なんじゃあテメェは!!」

「どこの組のもんだコラァ!」

「そのけったいな仮面外せやオラァ!」

「見張りはなにしてんでェエイ!」

どう見ても有香でしょ。脳筋の集まりかよ。あと警察でしょ。

「ここにいた人たちなら、早苗さんがやってくれました」

龍の仮面を被った少女がゆっくりと告げる。
"早苗さん"って言っちゃってる。

彼女は周囲を見回して、縛り付けられた俺の姿に目を留めた。
両拳を握りしめる音がここまで聞こえてくる。肩をいからせて、わなわなと体を震わせはじめた。

「プロデューサーさん……!」

だめだ、この人数を相手にかなうはずがない。逃げろ! 
叫んだつもりだったが、ガムテープのせいで"んぇお!"という変な声になってしまう。

それでも彼女は動じる様子もなく近づいてくる。俺の言葉は届いていないようだ。
目が慣れてきて彼女が道着を着ているのがやっとわかった。
神誠道場ってめっちゃ書いてあるけど……。

「プロデューサーさん、私は怒っています」

有香が低い声で話し始めた。語気が強い。

怒っている? 怒っている彼女なんて見たことがない。


「どうして、何も言ってくれなかったんですか」

彼女の歩調は変わらない。ゆっくりと大地を踏みしめて近づいてくる。
一歩ごとに彼女の内勁が強まっていくのが感じられた。これは、練勁――。

「おい、お引き取り願いなっ!」

恰幅のいい組長(会長?)が竿を投げるように黒服たちをけしかけてきた。
近くにいた数人が金属バットや鉄パイプを手に迫りかかってくる。
彼女の体を砕くべく渾身の痛打が放たれる。少女にも容赦ないのすげえな。しかし、

どんっ。

震脚。からの跳躍。

振りかぶった姿勢のまま黒服たちは石像のように、いや、まさしく石像となった。
彼らの勁は完全に崩され、大道芸人の一員と化した。お金を渡されるまで動かない。

彼女は空高く飛び上がり、空中で一回転したかと思うと、すたっと軽い調子で着地した。

黒服たちの集う、敵陣のまっただ中に。

「そんなに、私が信用できなかったんですか」

彼女の呟きだけが、奇妙に落ち着き払っていた。
仮面の下、その表情はわからない。


"流天十勁"。名前の通り十の技がある。

うち五つはすでに紹介した。
だが、実はすでに技は"紹介し終えている"。

全ての技には"明"と"冥"の対となる二種がある。陰陽術における"陽"と"陰"と同様に。
時とともに急変する天候を模した、異なる性格を持つ二つの技。
"明"と"冥"の概念はそこから生まれている。5×2なので十個だ。

彼女が放ったのは"雷天脱兎"に違いない。ただし、"明"の"雷天脱兎"だ。

――"雷天脱兎"は単なる遁走術ではない。
退路を断たれた兎はときに鼠よりも恐ろしく牙をむく。
必ずやその身を翻し火中に活路を見出すだろう――

中野有香は悠然と黒服の中に立ち尽くしていた。

「私、闘えます」

驚愕を露わにしていた黒服たちがはっと我に返る。
いきなり眼前に現れた有香に理解が追いつかない。

本人たちも何を言ってるかわかっていないのだろう。
ありゃあ! と奇声を発しつつ四方八方から彼女を攻めたててきた。

「どんな困難だって、乗り越えてみせます」


――"霖天翻身"は単なる回避技ではない。
雨のように降り注ぐ矢を翻し、絶体絶命の状況に身を置きながら、
それでも前進を止めようとしない、不退転の意志の表れだ――

有香の姿はまさに胡蝶。彼女ひとりが桃園にいる。
誰ひとりとして触れられない。黒服の虫取り網はことごとく空を切った。

なんてことだ、ここまで"使う"のか。
俺は思わず両足でぐっと地面を踏み込んだ。汗がにじんでくるのがわかる。

周囲を取り囲む黒服たちを前に、有香がふわっと"戴天"の構えを取る。
内勁が激流となり彼女の体内を渦巻いていく。
小さい体が腰が落とし、さらに小さくなっていくのが見えた。

息を吸うと同時に、かっと内側から外側に勁の流れが転じられる。
外勁が彼女を中心としてドーム状に急激な広まりをみせる。
こうなってしまっては、もはや誰にも止めることはできまい。

補足、補足、補足。
マルチロックオン。

「プロデューサーさんに教わったこの技で、過ごしてきたその日々で――」


――"曇天看破"は、単なる連続技ではない。
暗中模索の末にあり、己の雲を解き放つ。
迷いを捨てた天連打。数多降り注ぐ光明だ――

一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二。

「今度は私が、あなたを救ってみせますっ!!」

ドドドドドドドドドドドドッ。

一息十二撃が雲間を切り裂いた。

あたかも皇女を前に平伏する衆民のごとく、誰も彼もが膝から崩れ落ちる。
彼らはゆっくりとその頭を垂れて、有香を中心に幾何学的な文様を作りながら、
どしゃっと前のめりに倒れていった。

「だから――」

「だからいなくなるなんて、言わないでください」

俺は思う。怒っているなんて嘘だろう。
もうほとんど、泣き声に変わっているんだから。

「ずっと、そばにいてほしいんです」

「――私の、プロデューサーさんでいてほしいんです」

今気づいた。とっくに組長(会長?)はいなくなっていた。彼らは逃げ足だけは早い。
しんとした廃倉庫の中、ただ一人立ち尽くすのは胡蝶か皇女か、大蛇か虎か、それとも龍か。

違う。アイドル中野有香だ。

俺は、俺は――。
もがもがもがもが、あー喋れない。ごめん。

その時、ぞわりと物陰から冷たい勁が流れてくるのが分かった。
ドライアイスのように溢れ出た外勁が俺の足首までひとのみに覆い尽くす。

長身痩躯、細目の丸眼鏡。
おぞましい勁を携えたそいつが、にたにたと有香を見つめていた。


何時間か前にも見た余裕の表情。もう十分"溜め終えた"って顔だ。
また隠れてバイキルトをかけていたらしい。卑怯者め。
出てくるタイミングを考えろ、空気がぶち壊しだ。

予期していなかった新手を前に、有香が構えをとりなおす。
これまでの雑魚とはわけが違うことを悟ったのか、警戒の色を強め後ずさりをする。

有香はどういうわけか以前より遙かに強くなっている。
勁の総量も俺に比肩するほどには増している。

しかし、俺に比肩するくらいではまだ力不足だ。
バイキルト時の丸眼鏡はその上をいく。今回ばかりは相手が悪い。

早く有香を逃がさなくては。

俺だってただ唯々諾々と縛られていたわけではない。
目が覚めたその瞬間から"溜め続けていた"。この状況を打開するために。
"万天響命"ははっきりいって苦手な技なので、チャージは遅々として進まなかったが。

もう少し、もう少し時間があれば彼女を助けることができるのに。

……?

なんだ? 違和。違和感がある。

足裏から止めどなく注ぎ込まれるこの暖かい勁は一体……?

丸眼鏡が"戴天"の構えを取る。外勁が巨大な大蛇となって鎌首をもたげてきた。
獲物を捉えるときに使う威嚇のポーズだ。攻撃が来る。

「ジャアァッ!」

一息で間合いを詰め、必殺の打突が有香の側頭部に滑り込んできた。
目では追いきれないほどのスピード。30fpsではほとんど映らないだろう。

やられる。思わず目を背けてしまった。が、

からんからんっ。

まるっきりでたらめな超反応を見せて有香の体が翻る。
丸眼鏡の一撃は彼女がつけた龍の仮面をはじき飛ばすだけに終わった。
有香のカワイイ顔が露わになる。きりりとした眉、きゅっと結んだ口。いい……。

丸眼鏡の攻撃を避けたのも驚きだが、それ以上に俺を驚愕させたのは、
有香の勁がほんの数秒前より何倍にも膨れ上がっているという事実だった。

ありえない。

でも、そうとしか考えられない。


"流天十勁"は"明"と"冥"の二つの技を持つと言ったが、実は例外がある。
"万天響命"だけはただ一つ"明"と"冥"の区別を持たないのである。二転三転して申し訳ない。

つまり、"万天響命"は"万天響明"であり、そして"万天響冥"でもあるのだ。
万物の流転だけは時刻時節の境を持たずに常にそこに在ることを示している。

では、"流天十勁"は十の技、最大の奥義とは一体何か?

それは"万天共鳴"だ。

心を通わせた一心同体の二人にだけが可能な超絶技巧。
甲が乙を、乙が甲を互いに響かせ合いながら音叉のように共鳴させる。
絶え間ない正のフィードバックがそこにあり、増幅がまた増幅を呼んで、ネズミ算式に両者の勁を積み上げていく。
その増加量は単なる万天響命とは比較することすらおこがましい。
指数関数的な上昇は、いつでも線形な変化のはるか上を行く。

これまで数多くの達人がこの技の習得を試みてきたが、いずれも失敗に終わっていた。
達人とはいつの日も孤独であり、また孤高な存在であったからだ。
彼らは木や水とは通じていても、ついに一人の人間も理解することができなかった。

そう、在りし日の俺のように。
"孤龍戴天"と呼ばれ、あてもなく天をさまよっていたあのときの俺のように。

だが。

俺はこの暖かい勁に心当たりがあった。
噴水の夜、俺は確かにその手を握っていたのだから。

俺は逃げ出したのに。責任を放棄したのに。
目の前であんなに嘘をついたのに。見捨てたのに。

――それでも有香は、俺を信じてくれていたのか。

勁の増幅が止まらない。俺たちは共鳴する。
有香の勁が俺の体を循環し、全身にすさまじい力がみなぎってくる。

丸眼鏡は突然パワーアップした有香の姿に戸惑いを隠せないようだった。
攻撃を試みながら、それでも次の一歩を踏み出せないでいる。お前はつまり、その程度だ。

俺はもう逃げない。俺の居場所はここにある。
彼女の隣が定位置だ。"孤龍戴天"、いまこそ返上するときだ。

よく聞け。

俺は、中野有香担当、プロデューサーだ。


"雷天脱兎"、"明"。


ガォン! というすさまじい音とともに大きなクレーターができあがる。

縛り付けていた縄を椅子ごと粉々にぶちこわして、俺は空高く飛翔した。
くるりと中空で一回転するお決まりの動作で、有香のすぐ隣に着地する。

「プロデューサーさんっ!」

心配をかけたな(むがむがむがむが)。

だがもう大丈夫だ(むがむがむがむが)。

有香が口に付いたガムテープをぺりぺりとはがしてくれた。どうも。

しばし俺たちは見つめ合う。何か言うべきことがある気がする。
すでに共鳴しあっているのだから、会話なんて必要ないのかもしれない。

だが彼女は俺を救ってくれた。口に出して言わなくては。
気を利かせた一言を、彼女を落とす必殺のセリフを。いけ。

「――ありがとう、有香」

再び彼女の手を握る。やはり優しくて、暖かい。
すまない俺にはこれが限界だ。だからどうか許してほしい。
危急の時なのであんまり頭が回らないのだ。

ところが彼女といったら破顔一笑。満面の笑みをたたえて俺を見上げていた。
握られた手に力がこもる。この距離だとまつげが長いのがよく分かる。

「はいっ……はいっ!」

振り切れるんじゃないかという勢いで有香の首が上下する。
毎回ツインテールが遅れてついてくるのが微笑ましい。
これこそが俺のよく知る中野有香だ。カワイイ彼女を取り戻せて本当によかった。

よし、これにて大団円。閉廷!

「ジャアアッ!!」

うるせえな。


見ると丸眼鏡はさらに力を溜めているようだった。
ところかまわず勁を垂れ流しながら、憤怒そのものといったていで俺たちをにらみつけてくる。

どうやらムスカ気取りのようだ。確かあのとき弾丸を補給していたはずだ。
この状況で自分をムスカと同一視できるとはだいぶ頭がハッピーといえる。

丸眼鏡が掃除機もかくやといった勢いで息を吸い込んだ。
あたかもコブラのようにその上半身が膨れ上がっていく。

続けざまに低く腰が落とされる。もうほとんど四つん這いと言った具合である。
必ず丸飲みにしてやるといった強い殺意が感じとれる。

ぶわっと球状の帳が俺と有香とを一気に覆い尽くした。
丸眼鏡の放つおどろおどろしい外勁が、二人を同時に補足する。

こいつ何にも分かっていないな。

消化試合なんだよ、すでに。


「シュァアッ!!」

壷を逆さにしたように、十二匹の蛇が現れる。
幾多の軌跡が複雑怪奇に絡み合い、俺たちの勁口めがけて牙を剥く。
逃げ場はどこにも存在しない。網目のような緻密な打突だ。

あの時は二本しかなかった。しかし今は四本ある。
互いを補う四本が、二人の背を押す四本の腕が。

命の奔流を見極めろ。行くぞ、

「はいっ!!」

一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二。

"霖天翻身"。

今ここに、看破せり!

瞠目、瞠目。
丸眼鏡の奥からでもわかる。

技を出し切った後の間抜けな表情、体中の勁を放出し、がらんどうになったお前の姿。
言わせてもらうぜ無様だな。もう大蛇はどこにもいない。脱皮して隙だらけになった"皮"だけがそこにある。

これがターン制バトルなら、お前の番はもう終わり。
攻撃の権利はこちらに移った。

俺と有香は一糸乱れぬ呼吸で互いの内勁を高め合う。
一定の周期を保ちながらエネルギーをさらに倍増させていく。

刹那、どちらが合図したでもなく鏡写しに二人の腰が落とされた
(身長差がかなりあるので俺ががんばってしゃがむ)。
二人が発した外勁のドームが巨大なひとかたまりとなって爆発的に爆発する。
廃倉庫全体を包み込み、なお留まることなく空間そのものを埋め尽くす。

その大きさに比して、しかし不幸にも標的となったのは、長身痩躯の窮蛇ただ一匹だけであった。
まことに運が悪かったというべきだろう。二匹の龍、いやアイドルとプロデューサーに同時に目を付けられてしまったのだから。

補足する。

十二と十二、二十四。

一息、二十四撃。


ドドドド(中略)ドドドドッ!

全身の勁口という勁口が、突くともなしに貫かれる。
丸眼鏡の細い体躯が、壊れたマリオネットのようにぶるぶると蠕動する。
全ての打突を終えたとき、残されたのは串差しにされた直立不動の蛇一匹。
その顔は苦悶に呻くでもなく、なぜだか少し晴れやかな顔をしていた。

残心、俺と有香は背中合わせに息を吐く。

まだこちらの攻撃は続いている。
これはプレスターンバトルだからだ。WEAK。

俺たちは寸分違わず後ろに半歩下がった。
一挙手一投足あやまたず横並びになって前転する。
シンクロ率200%の完璧なユニゾンアタック。愛と友情のツープラトン。

一瞬のうちに丸眼鏡の懐に潜り込む。
お前は確かに強い。俺たち一人一人では敵わないかもしれない。

だが二人ならどうだ。

心を通わせた二人なら、どうか。

しゃがんだまま俺は右手に、有香は左手に内勁をため込んだ。
勢いをつけて互いの腕を交差させながら伸び上がる。
両手首から先が一体化して蓮の花のように開かれた。

二重の螺旋を描きながら、天を裂くべく飛翔する。

――"天青仰掌"は単なる攻撃技ではない。
自ら天を仰ぎ見て、その頂を掴まんとする、断固たる決意そのものだ――

丸眼鏡の丸眼鏡が、空のかなたに飛び去った。

そう、二人なら。


二人なら、最強だ。



――あたりに静寂が戻ってきた。

倉庫中を飛び回っていた埃が落ちていき、視界が徐々に開けていく。

俺と有香は、天に手を突きだしたまま静止していた。

一度互いに目を合わせ、再び天に目を戻す。

有香は笑顔だった。きっと俺も同じ顔をしているのだろう。

月明かりの光柱が二人を照らし出す。俺たちはこれからも同じ空を見続ける。

二匹の龍ではなく、ただのプロデューサーとアイドルとして。



片桐早苗は、廃倉庫の入り口に背を預けてその様子を見守っていた。

パトカーのランプはすでに切ってある。彼らには月光以外は不要だろう。

「――まったく、手間がかかるんだから」

彼女は一つ、大きく息を吐いた。



――
―――



復帰しました。

ご迷惑をおかけしました。


だいたいこんな内容のメールを一斉送信して、俺は席を立った。

プロデューサーに復職してから数日、事務所は歓迎ムード一色かと思いきや、
アイドルたちの反応はなんか冷めてるというか、ふつうに淡泊だった。

「あら、旅行にでもいってはったんどすか~?」

「出戻りやね、出戻り」

「元鞘ね、元鞘」

どうもこの展開は彼女らの想定通りだったらしい。ここ数週間の俺の苦悩はいったい。
とりあえず信用されていたということだけは間違いないはず。俺はポジティブに受け取ることにした。元鞘?

そんな中、有香だけががっつり喜んでくれたのが唯一の救いではある。

さて、そんな彼女はどこにいるのだろう。


レッスン場のど真ん中、有香の姿はすぐに見つかった。

彼女は正座をしたまま、眼を閉じて微動だにしない。
いつものように黙想をしているようだ。話しかけるのは厳禁である。

俺は彼女の正面に座り込んだ。正座もあぐらも苦手なので、片膝をたてて座る。
じっと彼女を見つめてみる。今日はなぜかステージ衣装を着ている。でもこれが一番似合っているのかもしれない。

結局、有香は"流転十勁"を会得する気はないようだった。
また空手一筋、カワイイと強さの両立を目指す彼女に戻ったようだ。

少々名残惜しいが、これもまあ当然の結果だ。
だって彼女はほかならぬアイドルなのだから。
そして俺は彼女のプロデューサーなのだから。

こんな怪しい武術、継承させたところでロクなことにならないし。

……だったんだが、困ったことに。

有香と一緒にいると、有無をいわさず発現してしまうみたいで。
そいつをどう制御すべきか悩んでいる。"万天共鳴"のその技を。

今座っているだけでも、彼女の勁が否応なく流れ込んでくるものだからたまらない。
当たり前だがめっちゃいい。穏やかで心地よく、ずっとこの暖かな勁を感じていたくなる。

でも、彼女の方はどうだろう。
俺の存在に、無理やりに注がれる俺の勁に迷惑しちゃいないだろうか。

「いいえ」

いつのまに眼を開いていたのか、有香は俺に向かってにっこりと微笑んでいた。

「私、好きです。プロデューサーさんの思いが伝わってくるようで」

「……私、好きです」

それだけ言うと、彼女は顔を赤らめてうつむいてしまった。
こほこほと不自然な咳をして再び眼を閉じ黙想に戻っていく。
ちらちらをこちらの反応を伺っているのが傍から見ても丸わかりだった。

そっか、そうか。

ならいい。

レッスン場にまた静寂が訪れる。
この短い間に、俺は有香のいろんな顔を見てきた。喜怒哀楽の、そのすべてを。

"生涯をとして追い求めるもの、常に流動し変化を繰り返しながら、いつ何時もそばにあるもの"
今この時もいつまでも、とどまることなく鳴り響く。


空は快晴、曇り無し。


二人の"流天"は、ここにある。








中二爆発、妄想全開、最強偶像、中野有香。

我要html化。

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