橘ありす「二人ぼっちのアリス」 (97)

 名前、それは燃える生命。

 ひとりぼっちでいた頃、私はアリスという自分の名前が嫌いだった。
 だいたい、私は典型的な日本女で、しょっちゅうからかわれた。

 私は目立たないよう目立たないよう、おっかなびっくり日々を過ごしていて、
気がつけば重荷を背負うような猫背が癖になっていた。

 ひとつの救いは、私の名前をからかうのはもっぱら教師や大人ばかりで、
同世代の人間はごく普通に接してくれたことだった。

 子供のうちは、いいけどね……――なんて言う人も、過去にはいた。

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 アリスという名前が、いまは好きだ。
 三十の坂を越えようかというところ。
 歳を重ねていくごとに、名前が自分自身に馴染んでいくような気持ちがしている。

 私は現在、小学校の教員として働いていて、
生徒たちはみんな親しげに「アリス先生」とか「アリスちゃん」とか、そう私を呼ぶ。

 大学を卒業してすぐ勤め始め、なんだかんだと長いこと勤めてきたわけだが、
私はこの仕事を選んでよかったと思う。

 印象深い生徒がたくさんいた。
 その中でも特に印象深いひとりについて、書こうと思う。

 橘ありす――。

 いまや押しも押されぬ人気アイドルとして、様々な業界から引っ張りだこという話だ。
 けれど、あの頃の彼女の夢は、歌手になることだった。
 芸能界で活躍しているとはいえ、必ずしも思い描いていたままの夢を叶えたわけではないのだと思う。

 はてさて、夢という言葉が、いったいどれだけの人を迷わせただろう。
 ありすの姿をどこかで目にするたび、私は、彼女にもう一度会えたら何を話そうかと考える。
 もし会えたら、またあの頃のように、夢を打ち明けてくれないだろうかと。

「アリス」と名前を呼ばれるたび、私は、あの少女を思い出さずにいられない。

 ありす、同じ空の下のアリス。二人ぼっちのアリス。

 ずっと迷っていてほしい。迷って、傷ついて、それでも夢を忘れないでいてほしい。
 そして願わくば、彼女の夢が尽きることのないように。

 ――――

 雨――、夏休み明けの一週間は雨が続き、暑い夏をゆっくりと冷やしていた。
 この雨に残暑の残り香がさらわれたら、きっと秋になるだろう。

 帰りの会を終えて職員室へ戻り、それからすこし経った頃、
女の子たちがぞろぞろと私の机を訪ねてきた。

「あのぅ、アリスせんせえ」

 彼女たちはいつも遅くまで残っている組だったので、
こうして訪ねてくるのが珍しいこととも思えず、
私は「はて、なにかしら」とノンキに構えたまま、
話を聞くまで彼女たちのただならぬ表情に気がつけなかった。

 喧嘩らしい。いまは口論に留まっているが、一触即発の事態だという。
 私は焦った。どうも、長い休みのあとで、すっかり平和ボケしてしまったようだ。

「それで、誰が喧嘩を?」

「橘さんが……」

 その名前を聞いて、私はいささか驚いた。
 橘――橘ありすは、とても喧嘩なんてするようには見えない。
 同年代の生徒よりも大人びている一方、普段はちょっと極端なくらいおとなしい子だった。

 慌てて教室へ向かうと、たしかにピリピリとした雰囲気が漂っていた。
 窓際の席のあたりに橘ありすと、彼女に向かい合って立つ男子は泣いていた。
 そして、それを遠巻きに見つめる居残りの生徒たち。

 どうやら、すでに一触即発の状態は脱してしまったらしい。
 推察するに、ありすが男子を言い負かした、ということだろう。

 二人の衣服に乱れはなく、机がぶっ倒れていたり、なにかがひっくり返ったりしているわけでもない。
 とりあえず、掴み合いに発展しなかっただけよかった――私はホッとため息をついた。
 同性同士ならまだしも、ここはデリケートな部分なのだ。

「とにかく」と、私は口を開いた。「喧嘩した二人だけ、来なさい」

「喧嘩じゃありませんよ、先生」と、ありすは言った。

 それはあまりにきっぱりとした言い方で、私はついつい面食らってしまった。

「ちげーよ! こいつが泣かせたんだよ!」

 生徒たちが口々にわめいた。
 声変わり前とは言え、大人顔負けの理屈と汚さの混じるそれは、まさしく怒声だ。

「静かに!」

 私が大きな声で言うと、水を打ったようになる。

「とにかく、二人だけ、来なさい」

 私はそれだけ繰り返して、他の生徒を帰らせた。
 全員が昇降口を出たかを見届けたあと、私は二人を適当な席に座らせ、そのあいだに私も座った。
 そうこうしているうちに、泣いていた彼も落ち着いてくれたようだ。

「それで、なにがあって喧嘩したの?」

「喧嘩じゃありません」

 ありすはまたピシャリと言った。

「とにかく、先生が行くまでのあいだに、なにがあったか話してくれるかな」

 私はできるだけ柔らかく話すよう努めた。

「二人を叱るとか、お説教とかしたいわけじゃなくってね、二人の話が聞きたいの」

 だが、ありすはツンと口をつぐんでしまった。
 代わりに、喧嘩相手の男子が一部始終を説明してくれた。

 ことの発端は橘ありすの持っているタブレット端末だった。
 放課後、タブレットを操作するありすを、彼が咎めた。
 規則上、タブレットは学校に持ってきてはいけないものだ。
 そうして、口論に発展したそうだ。

「ありすちゃんは、どう。いまの事実に間違いはない?」

「橘です」と、ありすは短く言った。

「え?」

「ありすと呼ばないでください。いやなんです」

「え、ああ、……ごめんね。それで、橘さんは?」

「話に嘘はありません。だけど、先につっかかってきたのは向こうです」

 ありすの言い方に、私は思わず苦笑してしまった。
 その話しぶりだけでも、彼女が大人顔負けの理論家であることがよくわかる。

「せんせぇ、オレ、もういいかなぁ?」

 さて、粗方話し終えるとさっぱりしたようで、相手の男子はさっさと帰りたがっていた。
 後の裁定は私にお任せといった感じで、ありすに対し暴言を吐いたことについても、私が促すとあっさり謝るくらいだった。

「きちんと話してくれてありがとう。先生も一生懸命、このことを考えるからね」

 そう言って、私は彼を先に帰してやったが、ありすはそれに不満を募らせている様子だった。

「決着がまだついてません」

 決着、と私はありすの言葉を繰り返した。

「でも、先生、今日のことは勝ち負けじゃないって思うから」

 結局、喧嘩そのものは口論の範疇で済んでいて、残る問題はタブレット持ち込みの是非だけなのだ。
 私は本腰を入れるような気持ちで、椅子を引っ張って、深く座った。

「私が悪いんですか? 私が悪者だから、あの子を先に帰らせて、じっくりお説教っていうことなんですか?」

「ううん、そういうことじゃなくて、いろいろ聞きたいのね、先生。
 ……橘さんは、いつからタブレットを持ってきていたの?」

「夏休み明けからです。誕生日に……両親の、プレゼントなんです」

「そっか、プレゼントかぁ。大切なものなんだね」

 ありすはぷいっとそっぽを向いた。

「別に、休み時間とか授業中に使ったりは、してません。
 迎えにきてもらったりとかするときに、……ただの連絡手段です。
 スマホを持ってきている子だっているじゃないですか、それと同じです」

 私はそれを聞いて困った。
 確かに、連絡手段としてのスマホ、携帯電話は黙認に近い形で見逃されている。
 小学生とはいえ、いまどき珍しくない。が、タブレット端末となると、ちょっと微妙なラインだろうか。

 なにしろ、大きい。畢竟、目立ってしまうから、今日のように(良く言えば)正義感のある子を刺激してしまう。
 しかし、良い悪いで片付く話ではないのだと、私は思う。
 ありすのようにけじめをつけて使うことができる生徒がいれば、
 他方、際限なくのめり込んでしまう生徒もいる。

 できない生徒に合わせてルールを作らざるを得ないのが、とどのつまり学校というものであり、押し広げれば社会なのだ。

「今日は、すこし遅くなるからって連絡をしたんです。ただそれだけですよ」

「うん。ありすちゃんの使い方に悪いところはないって、先生も思う」

「そうですよね」と、ありすはホッとしたようだった。

「だけど、その……先生が心配なのは、ありすちゃんが使っているタブレットって高価なものでしょう?
 トラブルになったら、って考えると、どうかな? ありすちゃんも心配じゃない?」

「トラブルですか?」

「そう。たとえば、誰かがたまたまぶつかって壊れたりとかね」

「でも、親に買ってもらったもので、……いまさらスマホのほうがよかったなんて言えないし、
 これ以外に連絡手段もないんです」

 ありすはちょっと俯きがちに答えた。

「あっ、持ってきちゃダメって、先生言ってるわけじゃないんだ」

「じゃあ、どうすればいいんですか?」

「提案があるんだけど、……橘さんが朝、登校してくるじゃない?
 そうしたら、私が鍵のついた引き出しに、タブレットを預かるの。
 で、帰りの会が終わったら返す、っていうのはどう?
 これなら安心だし、ルールも守ってるって堂々言えるでしょう」

「まあ、……でも、私、特別扱いっていやなんです」

「特別扱いじゃないわよ。
 むしろ、橘さんを含めて、みんながフツーに学校生活を送るためのルールのひとつだと思うな」

「そうですかね。ルール、……ルールなら、まあ」

「それじゃ、決まりね」と、私もようやく胸をなでおろした。

「わかりました。それじゃあ、あの、そろそろ、いいですか?」

「うん、今日は遅くまでごめんね、さようなら」

「はい。さようなら」

 ありすはぺこりと礼をすると、教室を出て行った。
 その後ろ姿に、私は「ずいぶん真面目な子なんだな」と思った。

 いま、私が受け持っているクラスは6年生。
 12歳――意外に大人びた部分と、まだまだ子供らしい部分とが入り混じる難しい年齢。
 けれど、みんないい子ばかりだ。「アリス先生」と私を慕ってくれている。

 思い返せば、ありすとまともに話をしたのは今日が初めてかもしれない。
 彼女は教師である私と意図的に距離を置いているようなところがあり、必要以上の言葉を交わしたことはなかった。
 それに、問題を起こすわけでもなく、学習面や生活面にも問題はなく――、
 しいて挙げるならば、友達を作らないことくらいだが、好き嫌い以前に、単に気の合う人間がいないことが理由のようだ。
 休み時間にはひとり席で本を読んだりしている。

「あれだけ大人びてれば、そうなっちゃうのかな」

 私はため息をついた。
 自分が12歳の頃は、どんな風だったか……――アリスという名前が、ぐるぐると頭の中を巡った。

 ――――

 あれから、毎朝、ありすは約束通り私にタブレットを預け、放課後に受け取って帰る。
 お願いします、ありがとうございました、といちいち丁寧な子である。
 しつけが行き届いているのだろう。
 それはつまり、家族に愛されて育ったということに違いない。

 ある日の放課後。
 ありすはタブレットを受け取ったあと、珍しく、すぐに帰らなかった。

「どうしたの?」と、私は訊いた。

「あのう、先生。すこしのあいだ、ここに居てもいいですか」

「ええ、構わないわよ。どうぞ、座って」

 私はパイプ椅子を取って、デスクの傍に置いた。

「あ、……すみません」

「雨ばっかりで気が滅入るねぇ。今日はお迎え?」

「母が来てくれるそうなんですけど、仕事で遅くなるらしくて。
 教室でタブレット使って、またなにか言われるのいやだし」

 ありすの母親とは面談で会ったことがある。
 綺麗な人で、目元がよく似ていた。
 共働きの家庭で、娘と触れ合う時間が取れないことを気に病んでいる、愛情深いお母さんだった。

「あの、先生。……先生の名前、アリスっていうんですよね」

 ありすはもじもじとしながら言った。私はフフフと笑って、

「そうだよ。ありす……橘さんとおんなじ名前ね。
 だから私、橘さんの担任になるって聞いたとき、結構楽しみだったんだ」

「私、……ありすって自分の名前、あんまり好きじゃないんです」

 ありすはちょっと目をそらして、苦笑混じりに言った。

「そっか、好きじゃないんだ」

「先生は好きですか? 自分の名前が」

「いまは、そうかな」

 私が答えると、ありすはちょっと身を乗り出した。

「昔はそうじゃなかったんですか? からかわれたり、しましたか?」

「うん。からかわれることもあったし、もっと別の、フツーの名前がよかったって思った」

「私も、そう思います」

「橘さんはからかわれるの?」

「いまは、あんまりですけど。
 その、……いまはそもそも関わらないようにしているので」

「ああ、休み時間とか本を読んでるもんね」

「先生はアリスって名前が嫌じゃなくなったのは、どうしてですか?」

「それはね」と、私は照れくさくてちょっと笑った。

「なんですか?」

「好きな人ができたからよ」

 ありすはちょっとあてが外れたような顔をした。

「でもね、やっぱり昔はアリスって名前、嫌だったなぁ」

 高校のときの英語教師は、私をチャンピオンと呼んだ。
 それが嫌で嫌で仕方がなくて、なるべく目立たないよう目立たないよう、できることなら透明人間になりたいとさえ思っていた。
 それを変えたのは、同じクラスの男の子だった。

「好きな男の子が居てね。高校生のとき。
 その人は特別だったけど、アリスって呼ばれるたび、名字で呼ぶよう訂正したりね。
 大好きだったのに、ツンケンしちゃってたな」

「――さん、って……?」と、ありすは私の現在の名字を言った。

「そんな感じ。でも、ある日、アリス、お前が好きだ、ってね、……キスされちゃった。
 そのときから自分の名前がなんとなく好きになったのよ」

「そうなんですか」と、ありすはちょっと顔を赤らめた。「それで、その人は……?」

 まんざら興味がないわけではないらしい。私はフフンと鼻を鳴らした。

「いまの旦那さん」

「それは、……素敵ですね」

「私もそう思う」

「でも、やっぱり私はこの名前が好きになれそうもないです」

「名前の由来は訊いたことある?」と、私は言った。

「えっ?」

「ありすって、名前の由来」

「先生は?」

「フォークグループ」私は笑ってしまう。「流行ってたらしいのよ」

 ありすはいまいちピンと来ていない様子だった。

「あなたは? 名前の由来」

「ええ。恥ずかしいんですけど、母に聞いたら……」

 ――と、そのとき、ありすのタブレットが、短く振動した。
 彼女は操作をして、腰を上げた。

「迎え、来てくれたみたいです。今日はありがとうございました」

「あ、よかった。気をつけて帰ってね、濡れないように」

「ええ。失礼します」

 ありすはペコリとお辞儀をして、

「そう、名前の由来はですね」と、ちょっとはにかんだ。

「ただ、かわいいからって。それだけですよ」

 そのときの彼女の表情に、私は思わず言葉を詰まらせてしまった。
 私が12歳の頃、きっと同じ顔をしていたから。

「また、明日――」

 ありすが職員室を出て行ったあと、私はその姿を追うように窓の外を見つめた。
 藍色に淀む空から落ちた雨は、アスファルトを青く青く覆った。
 水たまりの上を小さな影が通ると、街灯の光が細い糸のようになって波紋を広げた。

 秋の雨は穏やかに長く降る。しばらくのあいだ、なかなか晴天が見られなかった。

 ――――

 秋口、ありすと放課後を一緒に過ごすことが多くなった。

「母は心配症なんです」と、ありすはよく話した。

「私だって、もうそこまで子供じゃありませんから、ひとりで帰ってもいいんですけど、
 ……でも、家へ帰ってもどうせひとりで退屈ですから、
 学校で迎えを待ってるあいだに宿題をするくらいがちょうどいいっていうか」

 ありすは早口に言ったあと、必ず、ちょっと不安そうな顔をする。

「私、いつも居残って、迷惑じゃないですか?」

「ううん、そんなことないよ。先生も、橘さんとお話できて、嬉しいもの」

「そうですか」と、ありすはやっと表情を和らげる。

 放課後、私たちはいろいろな話をした。
 彼女の好きな小説や、私の昔話。
 以前話したきり、ありすという名前については話題に出さなかった。

「あの、……ところで、先生は、音楽は好きですか」

 ある日、ありすはふっとそんなことを言った。

「うん、好きだよ。橘さんは?」

「私も、好きです。だから、先生、ピアノ弾けて羨ましいです」

「習ってみるのも楽しいんじゃない? きっとすぐ弾けるようになるよ」

「ずいぶん前、母に勧められたんですけど、断っちゃって」

 ありすはちょっと目を伏せて、それからためらいがちに言葉を続けた。

「あの、私、将来、歌手になりたいんです」

「歌手に……」

 引っ込み思案な子だとばかり思っていたせいか、すこし意外な気がした。
 けれど、こうして接すると、もともとは活発な性格の子なのかもしれない。

 それから、ありすはいつもよりずっと饒舌に話してくれた。
 音楽への憧れや、自らの夢について。毎日、歌の練習までしているらしい。

「私、歌には力があるって、そう思うんです」

 熱に浮かされたような話しぶりに、私も夢中になって彼女の話を聞いた。
 ありすがその胸にこんな情熱を秘めているとは、思いもかけないことだった。

「このあいだ、母に話したんです」

「歌手になりたいっていう夢を?」

「はい。オーディションを受けたいって」

「オーディション! すごいわね」

 そう言ってから、私はありすの浮かない表情に気がついた。

「もしかして、反対されちゃった?」

「いえ、むしろ応援してくれて」

「いいお母さんね」

「そうでしょうか?」と、ありすは自嘲的に言った。

「どうしてそう思うの?」

「だって、反対するじゃないですか、フツウ。
 歌手なんて厳しい道で、……それに、調べてみたら私の年齢じゃ、条件に合わないところも多くて」

「ああ、12歳だと受けられないところもあるのね」

「そうなんです。歌手にこだわらなければ、他にもあるんですけど、別に、……私、タレントになりたいワケじゃないので」

「そうなんだ」と、私は言った。

「でも、私、どうしても受けてみたいところがあって。
 私の、尊敬しているアーティストが所属しているところなんです。
 だから、ダメ元でいいから受けてみたいって話したんです。
 年齢は届いてないんですけど、……そうしたら、母は簡単にオーケーしてくれて。
 でも、変ですよね。思うようにやってみなさいって」

「変かな、……私はいいお母さんだと思うけど」

「反対するのがフツウじゃないですか。
 夢みたいなことだって、条件だって満たしてないのに。
 母は……ちょっと親バカなんです。話を聞いてすぐ申し込んじゃうし、問い合わせまでしちゃって」

 そんな風に、ありすはポツポツと愚痴をこぼした。
 私には、子供の夢に一生懸命な良い母親と思えるのだが。

「来週、そのオーディションがあるんです。
 ……困りますよね、ホントに。困るんです、私……」

 同じような問答を行ったり来たりしているうちに、私はようやく合点がいった。

 要するに、ありすは不安なのだ。
 トントン拍子で決まってしまったオーディションに、緊張しているのだった。

「橘さん」と、私は彼女の言葉を遮った。

「オーディションが急に決まって、しんどいよね」

「いえ、……あの、私が言い出したことなので」

「それでも、やっぱりプレッシャーあると思うんだ。自分が気づかないところでも」

「その、……たしかに、緊張はすこししてるんです」

「橘さんの立場からすると、やっぱりお母さんはちょっとせっかちだよね。
 ……でも、橘さんの夢を叶えてあげたいって、応援したいって思ってるんだよ」

 私がそう言うと、ありすはちょっと顔を赤くした。

「そうですよね、……私、頑張りますから」

 私はその言葉を聞いて、ホッと胸をなでおろした。

「先生ってすごいですね」

 そう言って、ありすは頬を掻いた。

「どうしてそう思ったの?」

「私、先生には素直にお話できるんです。だから、すごいと思って」

「ううん、特別なことじゃないよ」

「そうでしょうか。私の母とか、他の人は自分が話してばっかりで、私の話なんか全然聞いてくれないんです」

 そうだろうか、と私は思った。

 きっと違う。ありすは誤解している。
 たぶん、ありすの母が、ありすをすこしだけ誤解しているように。
 けれど、それを知らせることは私の仕事でないような気がして、言葉を飲み込んだ。
 教師というのは、こういうとき損な役だ――、と思った。

 言わなきゃ、言わなきゃとわかっていることを、それでも黙っていなければならない。

「気をつけて帰ってね」

 私が手を振ると、ありすは恥ずかしそうに手を振り返した。
 雨の音は廊下の暗闇に散ると、風に舞う砂のように響いて行った。

 ――――

 週明け、秋雨は乾いた。
 窓にはピンと張った布のように凪いだ空――、どこまでも透き通って、宇宙まで青い色を届けそうだった。
 雲が細く連なって、風の形を描いているのを見ると、気持ちもなんだか清々しい。

 けれど、空模様と裏腹に、ありすの表情は朝から沈んでいた。
 訊くと、やはり先週末のオーディションは、芳しくない結果に終わったらしい。

「不合格でした」

 私があんまり残念そうな顔をしていたせいかもしれない。
 ありすは大人びた笑いを浮かべて、延々とオーディションの話を続けた。

「でも、……いい経験にはなりましたよ。
 これから次に向けて、努力あるのみです、次は。
 ……まるで、眼中にないって感じでしたけど。
 でも、ダメで、もともとって、思って受けたオーディションですから」

 興味を持ってくれる人もいたようだが、一次選考の時点で弾かれた。
 実力の差ははっきりしていて、中でも二人、図抜けて上手な女の子に注目が集まっていたそうだ。

「母も、ずいぶん残念がってましたけど、……だけど、甘いんですよ。
 そうは思いませんか?」

「どうかな、先生は……」

「先生は、……なんです?」

 私は思わず口をつぐんだ。言わなきゃ、言わなきゃ、とわかっているのに。
 ありすは怪訝そうな顔で言葉を待っていた。
 けれど、それで話は終わってしまった。

「私、ひとりぼっちなんです」

 オーディション以来、それはありすの口癖になった。

「先生だけですね、私の味方は……」

「味方」

 彼女自身がそう感じているのだから、私が否定しても仕方ないとは思うけれど、やはり寂しい気がした。
 オーディションに不合格だからといって、音楽に嫌われたわけではないのだが。

 私は笑みを浮かべると、ありすの背中をポンと叩いた。

「それなら、二人ぼっちってことかな」

「二人ぼっちですか」

 ありすはなんだか困ったように笑い返した。

「アリスとありすで、二人ぼっち。ひとりじゃないから、寂しくない。ね?」

「――――」

 ありすが言いかけたらしい言葉は、はらりとほどけて宙に舞い、口元へ幼いはにかみだけを残した。
 本当はもっと、教師として、ありすに伝えるべきことがあった。
 きっと、たくさんあった。

「あーあ。私が12歳だった頃に、ありすが居てくれたらなぁ」

 私が本心から言うと、ありすはクスクスと笑った。

「その頃はまだ、母のお腹の中にも居なかったでしょうね」

「私も、歳取っちゃったなぁ」

「ふふっ。……ああ、すみません、時間なのでそろそろ行きます」

 そう言って、ありすは腰を上げた。
 すっかり長話が習慣になってしまった。

「さよなら」と、言いかけて、私は慌てて彼女を呼び止めた。

「あっ、橘さん、言いそびれてたゴメン! ちょっといいかな?」

「え、はい、なんでしょうか?」

「あのね、卒業式の合唱のことなんだけど……」

 私は幾つか楽譜のコピーを取り出して、机に並べた。

「あの、曲はもう決まってるんですよね?」

「決まってるんだけどね、ひとつ頼みたいことがあるのよ」

「なんですか?」と、ありすは首を傾げた。「私、ピアノはできませんよ」

「あのね、パートリーダー、やってくれないかしら」

「パートリーダー」と、オウム返しにして、ありすは怪訝そうな顔をした。

「みんなのまとめ役と言えばいいのかなぁ。パートでわかれて練習することもあるでしょ?
 そういうとき、私、手一杯になっちゃうから」

「そ、そんな大それたこと……私……」

 ありすは頭を振った。

「できたらで、いいんだけど。それに、……橘さんがあいだに入ってくれると先生も助かるなぁ、って」

 私がそう言うと、ありすは俯いてじっと黙りこんだ。

「あの、いますぐ決めなくていいんだけど……」

 私が楽譜を片づけようとすると、その手を遮って――ありすは顔を上げた。

「や、やります!」

「本当? ありがとう!」

「せ、先生に少しでも恩返しできるなら……」

「ありすは律儀ねぇ」

 私が名前を呼んでも、ありすはもう、なにも言い返さなかった。

 それから、翌日。
 音楽の授業で、いよいよ合唱の練習が始まろうというとき、ありすはちょっと不安そうな顔をして、私を呼び止めた。

「私で大丈夫なんでしょうか」

 無理もない。いままで、クラスメイトとは意図的に関わりを避けていたのだから。
 私はポンとありすの肩を叩き、そして笑いかけた。

「大丈夫。みんな、ありすのことが好きなのよ」

「なんですか、それ」と、ありすは苦笑した。

 実際、彼女の心配は杞憂に終わった。
 パートごとの練習中、ピアノの陰からこっそり覗くと、なんてことはない。
 しゃちほこばった感じはしたけれど、きちんとクラスメイトをまとめていた。
 頭のいい子なのだな、と改めて思う。

 ありすの長かった小学校生活も残すところあとわずか、いまのまま終えてしまうのはあまりにもったいない。
 最後に、みんなと関わる機会を作ってあげたかった。

 わざとらしいかなと、自分のおせっかいを気恥ずかしくも思った。
 けれども――、善良なおせっかい焼きでなければ、とても教師など務まらないのだ。
 言い訳がましいだろうか。

小休止を挟んで、後半戦は明日までに投下しますーン。

 ――――

 秋の落とした陰から煙が立ち上るように、冬がやってくる。
 中には、すでに湿っぽくなっている教員もいて、

「冬休みに入ると、あの子たちと会えるのが、本当にもう、すこしなんだと思ってね」

 などと、ため息をつくのだった。

 一方の子供たちはクリスマスや冬休みの予定に胸を躍らせ、
自分たちが小学校を卒業することさえ忘れているようだった。

 そして、それは毎年のことだった。
 あと三ヶ月で、六年間の教育を修了するというのに。
 時間感覚に鈍感なのか、それとも大人が勝手なのか。きっと、両方だろう。

「冬休みは兵庫のおばあちゃんの家へ行くんです」

 終業式のあと、ありすはタブレットを胸にウキウキとした様子で言った。

「兵庫ねぇー。雪遊びとか、する?」

「もう、そこまで子供じゃありません」

「そうかしら? 私、高校生くらいまでずーっと雪遊びしてたのよね。
 実家が東北の田舎でね、冬になると雪まみれになってさ」

「なんだか、先生らしいですね」

「そうかな?」と、私は笑った。「冬休み、楽しんでおいでね」

「はいっ」と、ありすはニコニコ答えた。

 合唱のパートリーダーを任せたことが、いい方に作用してくれたのだろうか。
 オーディション以来の陰はほとんど見られない。

 ありすの後ろ姿を目で追っていると、思わず鼻がツンとした。
 あまり感傷的になる質ではないのだが。

 頑張り屋の彼女なら、きっといつか、夢を叶えられる。
 けれど、教師は、損だ。
 私はこの学校という場所に留まり続けなければならない。

 生徒が夢を叶えるとき、傍には居られない。

 しかし、冬休みの二週間は、そんな感傷に浸る暇もなかった。

 卒業式や、新学期のカリキュラム、来年度の準備など仕事は山積みだ。
 それに加えて実家への帰省。日々の雑事もなくなるわけではない。
 かえって、普段より忙しいくらいで、バタバタ働いているうち、あっという間に冬休みは終わってしまった。

 雪も、降らなかった。

 冬休み明けの始業式。
 私はすっかりヘトヘトの状態で登校した。

 教室へ入ると何やら騒がしい。
 見ると、何やら雑誌を回し読みしているようだった。

「こーらっ、何読んでるの」

「あっ、アリス先生」

 雑誌を囲むひとりがバツの悪そうな顔をした。
 私は注意の言葉を続けるより先に、その雑誌に目が行った。

「あれっ、この子……」

 そこには、橘ありすの姿があったのだ。

「これ、橘さんですよね。アイドルになるんだって!」

「アイドルって……」

 私はすっかり面食らって、生徒たちと一緒になって雑誌を囲んだ。
 ありすはカラーページの一角で、なんだかぎこちない笑顔を浮かべている。

 はて――、事情が飲み込めないうちにチャイムが鳴った。
 騒ぎをよそに、当の本人――ありすはいつの間にやら登校してきていた。
 ちらちら視線を投げかけるクラスメイトなんか、まるで見えていないように平然としている。

 私はどうも、腑に落ちないような気持ちで半日を過ごした。

「アイドル事務所の方に、声をかけられたんです」

 放課後になってようやく雑誌のことを訊くと、ありすはこともなげに言った。

「じゃあ、ありすちゃんはアイドルになるの?」

「オーディションのとき、目にしてくれていたらしくて、……それで、あんまり熱心だったから」

 そう言って、ありすは気まずそうにちょっと目を伏せた。

「先生は雑誌、見ましたか」

「うん、見たよ」

「大人って嘘つきですね」

 ありすは自嘲的に笑った。大人を信じた自分がバカだった、とでもいうように。

「どうして?」

「本当は、別の名前でデビューするはずだったんです」

「別の? 別の名前って?」

「本名はイヤだって。ちゃんと言ったんです。
 他の名前でなら、アイドルになってもいいです、って」

 話しているあいだ、ありすは私と目を合わせてくれなかった。

「結局、口だけでした。大人なんて、そういうものです」

「なんて言われた?」

「えっ?」

「その人に、名前のことで」

 私が訊くと、ありすは躊躇いがちに答えた。

「素敵な名前だって」

 それから、困ったようにひとつため息をついた。

「だから、自分の名前を好きになってほしいって」

「先生もそれは同じ気持ちだけどな……」

「先生まで。みんな、勝手です。私の気持ちなんて、全然考えてくれない」

 ありすはがっかりしたような顔をして、それから、申し訳なさそうに言葉を続けた。

「ごめんなさい。名前、好きになれなくて」

 私は、何も言えなかった。

 橘ありすがアイドルに。

 そのことで、クラス全体がどことなく浮き足立っていた。
 クラスだけでなく、学校中が彼女の話題でもちきりだった。

 すでに、二月である。
 卒業まで残すところほんの一ヶ月、登校の日数だけ数えれば二十日ほど。

 この時期はどうしても学校中が浮足立つものだが、
それに拍車をかける新人アイドルの存在は、職員のあいだでやはり目につくようだ。

「先生のクラスの橘という子ですがね」

 同僚に先輩、果ては教頭から校長まで。
 世間でもよほど話題なのか、あるいは単に好奇心で訊いているだけなのか。
 学校に勤めていると、どうも世情に疎くなる。

 さて、私は台風の目の中に居て、平生通りに授業をこなした。
 そうするより他ない。

 台風の目たるありすもまた、淡々と学校生活を送っていた。
 彼女の話では、仕事やそれに伴うレッスンが本格的に始まるのは春以降。
 つまり小学校を卒業してからだそうだ。

 だからといってノンビリしているわけではなく、すでに中学校の教科課程を勉強しはじめているという。
 それに独学の歌の練習も変わらず続けているらしい。

「やるからには、全部、ちゃんとやりたいんです」

 私はそれをありすらしい言葉だと思い、
アイドルとして活躍する彼女の姿を想像して、なんだかワクワクした。

 クラスメイトも似たものらしく、ありすの写真が載った雑誌を繰り返し回し読みしたり、何やら噂しあっていた。

「ねえ、橘さん……」

 あるとき、ひとりがおずおず声をかけると、それを皮切りにクラスメイトたちはありすの机を囲んだ。
 ありすはすこし気難しいところがあるけれど、もともと気立ての良い女の子だ。
 すぐにクラスメイトたちとも打ち解けて、様々な質問に答えてあげていた。

 中には気が早い生徒もいて、ノートに彼女のサインなどねだっている。

「まだ、ちゃんとデビューもしていないのに……」

 ありすはちょっと困ったように言っているが、特にこだわらず自分の名前を書いたようだ。

 そんな風に、クラスメイトに囲まれておしゃべりを楽しむ彼女を遠目に、私はすこし切ない気持ちになった。

 ね、ありすは、ひとりぼっちなんかじゃないんだよ――。

 いつもは喉に引っかかって、矛盾を感じながら飲みこんだ言葉が、いまは私の胸を温めてくれる。

「お母さんは、なんて?」

「喜んでくれてますよ」

 放課後、私が訊くと、ありすはちょっと照れくさそうにした。

「あの、笑わないでくださいね。いま着てる服、母の選んだ服なんです」

「いつもは、違う服なの?」

「ええ、普段は自分で選んで買ってもらった服なんですけど。
 ……母はこういうの着せたがるので、嫌だったんですけど」

 確かに、普段着ているような服と比べて、今日は思い切ったデザインの可愛らしい服だった。
 エプロンスカートを彼女が着ると、まさに不思議の国のアリスといった感じだ。

「これからは、仲直りのつもりで着てあげるんです」

「仲直りねぇ」

 私はありすの表情に自虐的な陰を見た気がした。
 ありすは、いつだって後ろめたい気持ちを抱えているみたいだ。

「タンスの肥やしにしておくのも、もったいないしね。着られるうちに、どんどん着るといいんじゃない」

「そうします。前は、こういう服ばっかり着せられるのが、まるで着せ替え人形みたいで、嫌だったんですけど、
 ……いまもそれは変わらないんですけど、でも、まあ、いいかなって」

 ありすが中学生になり、大人になっていくその過程で、いまある洋服は着られなくなっていくはずだ。
 身長が伸びて、胸も、お尻もいまより大きくなっていく。

「私、早く大人になりたいです」

 ありすがそう言って笑うのは、間違いなく無邪気さゆえだった。

はたまた続きは明日に。
次の投下分で完結です。よければ最後までお付き合い願います。
よろしう。

俺が育てる。

 ――――

 ありすは激怒した。
 それは合唱のパート練習の最中に起きた。

「いいかげんにしてよ!」

 突然の大声に、私は思わずピアノを弾く手を止めた。
 その残響がかき消えると、沈黙が床を濡らしたようになった。

 ありすはクラスメイトたちの視線を目で手繰り、
最後に私と目を合わせると悲しそうな表情になり、音楽室を出て行ってしまった。

「どうしたの?」

 私はその場に残った生徒に訊いた。
 本当は、すぐにでもありすを追いかけたかったけれど、教師という立場がそれを阻んだ。

「よくわからないけど、急に、橘さんが……」

 生徒たちの話は要領を得ず、気まずい雰囲気だけが何かの間違いのように続く。
 すこしして帰ってきたありすに声をかけると、彼女は「トイレに」と、それだけ言った。
 とにかくその日は、早々にパート練習を切り上げたけれど、大方、予想はついていた。

「みんな、おしゃべりばっかりしてるんです」

 放課後。いつものように、ありすと二人になって、ようやく話を聞くことができた。

「何回言っても聞かなくって、それで、つい、かっとなってしまいました。すみません」

「ううん。気にしなくていいわよ」

 生徒たちは合唱の練習中も、ありすに話しかけては、何やら囁き合ってばかり。
 はしゃぐ気持ちを抑えられないところは、やはり子供だな、と思うけれど、無理もない。

 生徒にとって、彼女はもう、クラスメイトの橘ありすである以上に、アイドルの橘ありすだった。

「パートリーダー、……辞退したほうが、いいでしょうか」

「それより、どうすれば、みんなをまとめられるか、先生と一緒に考えよう」

 ありすをなだめすかして、二人であれこれ方策を考えた。
 実際、私たちは頑張ったのだ。

 話しかけられてもできるだけ相手にしないとか、私から注意をしてみたり、パート練習の間隔を短くしてみたり……。

「もしも、私の名前がありすじゃなかったら、こうはならなかったのに」

 あるとき、ありすはうんざりした様子で、ため息をついた。

「そうしたら、クラスメイトに見つからなかったし、こんな変な風にならなかった」

 ここ最近、ありすはクラスの中ですこし浮いた感じになっていた。
 そのことは、私も気づいていたけれど、どうすればいいのか、わからなかった。

「でも、悪いことばかりじゃないでしょう」

 そう言った私を、ありすはきっと見つめた。

「どうして、わかってくれないんですか」

 アイドルになったことがきっかけで、クラスメイトと打ち解けた。
 ありすという名前が私たちを結びつけた。
 それに違いはない。

 けれど、わかっている、そういうことではないのだ。
 よくわかるから、てんで方向違いのことを言ってしまう。

 ありすは目に涙を溜め、吐き捨てるように続けた。

「それなんです、みんなそうです。プロデューサーの方も、言うんです。
 珍しい名前の子がいて気になったって。
 ……そればっかり。誰も私をちゃんと見てくれない。
 先生だって、おんなじですよね。ありすって名前じゃなかったら、私のことなんてどうでもよかったんじゃないですか?」

 その、真っ直ぐすぎる言葉に、私は何と返せばよかったのか。

「ごめんね、ありす」

「――――」

 ありすは裏切られたような顔をして、それから、何も言わず、私に背を向けた。

 彼女はどんなに傷ついたか、知れない。私が悪いのだ、と思った。
 私はまた、言葉を飲みこんだ。言わなきゃ、言わなきゃ、と思っている言葉を。

 ――――

 珍しく、ありすは遅刻した。
 朝礼の時刻にも間に合わず、一時間目が始まる直前にようやく教室へやってきた。

 すこし息を切らしている様子で、私が教壇から声をかけると、

「忘れ物、しちゃって……」と、短く答えた。

 始業のチャイムが鳴ってもなおクラスはざわついたままで、私は手を叩いて授業の開始を告げた。

「はーい、今日は教科書最後のところ、ちゃちゃっと終わらせちゃうよー」

 二月の下旬、いよいよ卒業を目前に控えて、授業はまるで消化試合のような趣だ。

 クラス全体の落ち着きのなさは日に日にひどくなる。
 が、一方で、きちんと授業に参加してノートを取る組もいる。

 ありすもその中のひとりだったが、今日はなんだか上の空だった。

 放課後。

「遅刻なんて、珍しいね」

「ええ、まあ……」

 ありすは曖昧に頷いた。
 そして、私からタブレットを受け取ると、そそくさと職員室を出て行こうとした。

「ありす」と、私は彼女を呼び止めた。「朝、何かあった?」

「別に、……何も」

「本当に? 今日、ずっと元気なかったよ」

 ありすは私を無視して行くか、それとも留まろうか、迷うように足踏みをした。

「何か、あったの?」と、私は努めて優しく言った。

「朝は、……その」

「うん」

「上靴が、たまたま見当たらなくて」

 私は、ガン、と頭を打たれたようになった。

 ありすの上靴にひどい汚れはないから、捨てられりしたわけではないだろう。
 が、上靴がひとりでに下駄箱からほっつき歩くはずがない。

「それじゃあ、行きますね。あんまり遅いと、心配されますから……」

 ありすはいつもと変わらぬ丁寧なお辞儀をひとつして、職員室を出て行った。
 私は、はっと我に返ると、慌てて、ありすを追って廊下に出た。

「ありす!」

 私の声は薄暗い廊下に響いて、ありすの足をやっと止めた。
 彼女の後ろ姿は蛍光灯のわざとらしい白と、窓から射す青い夕闇が混ざり合って、消えかかったように見えた。

「どうして私なんかをパートリーダーにしたんですか」

 ありすの声は涙に濡れて、言葉は幾重に輪郭を失い元には戻らなかった。

「大っ嫌い……」

 その声の残響が消える前に、ありすは足早に去ってしまった。

「大嫌い」

 私は胸にしまいこむように、その言葉を繰り返した。

「大っ嫌い、大っ嫌い……」

 ありすは、何に対して言ったのだろう。クラスメイトだろうか、私だろうか。
 それとも、ありすという名前に対してだろうか。

 立ち尽くす私は、行き場をなくした言葉そのものだった。

「私は、そういう、ありすが大好きだよ……」

 廊下には血のついた痕のように、涙が点々と光っていた。


 朝――、出勤してすぐ、ありすの母親から電話がかかってきた。
 体調を崩したので、ありすは学校を休む、ということだった。

「あ、……お忙しい中、連絡ありがとうございます。承知いたしました」

 靴のことがあって以来、ありすには、なんとなく距離を取られている。
 最後の最後で振り出しに戻ってしまったな、という感じがした。

「あと何日もしないで卒業式なのに、すみません。あの、……あの子」

 電話を切ろうとする寸前、彼女は言葉を続けた。
 私は慌てて受話器を耳に戻した。

「なんでしょう?」と、私は言った。

「大変でしたよね、先生……」

 ありすの母親はどことなく、躊躇いがちな口調で言った。

「いえ、大変は大変ですけど、ありすちゃんは、素直ないい子ですよ」

「そう言っていただけると、ありがたいというか。
 ……あの子、家に帰ってからも先生の話ばっかりしているんですよ。
 アリス先生って、同じ名前の先生がいるんだーって、ずーっと。
 先生、特に面倒を見てくれていたみたいで、もう、本当に嬉しそうで……」

「私の話を……」

「先生、ありがとうございました。
 あんなに楽しそうに学校のことを話すありすを見たの、はじめてで。
 ……親としては、情けないんですけど、アハハ」

 電話を切ったあと、なんだか涙があふれた。
 箱ティッシュを使い切るほどの勢いで鼻をかむ私を、先生方が不思議そうに見ていた。

「いやあ、あの子たちも、もうすぐ卒業なんだなぁ、と思うと……」

 私がそう言うと、ウンウン、と皆一様に頷き合った。

 教室では相変わらず、ありすが話題の中心だった。
 例の雑誌は回し読みが過ぎてボロボロになっていたし、誰もが休んだありすを心配していた。

 この教室で、ありすはいったいどんな気持ちで居たのだろう。

 ――みんな、ありすのことが大好きなんだよ。
 私は、そればかり、考えていた。

 ――――

 卒業式当日。
 古くなった空の層が剥がれかかっているような曇天で、ひどく冷え込んでいた。
 体育館には大きなジェットヒーターがいくつも置かれ、轟々と絶え間なく騒音が続いた。
 そのせいで、卒業証書授与式では声を張り上げなければならず、この酷寒の中にあって校長先生は汗をかいていた。

 私はピアノを弾く手が冷えないよう、入念に指を動かした。
 校歌と合唱曲に加えて、五年生の「六年生を送る歌」でも伴奏を任されている。
 教員にとっては一年に一度の行事だが、生徒やその保護者にとって、卒業式は一生に一度のものだ。
 そのことを意識すると、いやでも緊張する。

 ピアノの前に座って、鍵盤に手をかける。
 キリリと冷えたその感触に、私は思わず身震いした。

 緊張すると、私は脇汗がよく出る。パッドを入れておけばよかった。

 息を呑み、ふっと目を上げると、――ありすと目が合った。

「行くぞぅ」

 小声で呟き、私は鍵盤を叩いた。

 生徒たちの声はひとつひとつ混ざり合って、まるで大きな川のように流れていく。
 そして、私も、その川の一部になる。没入していく。

 私は、いい先生でいられたかなぁ……。

 私のくだらない考えは、笹舟のように、流れに飲みこまれていく。

 みんな、いつか私を思い出してくれるのかなぁ……。

 目頭が熱くなった。けれど、泣くまい――泣くまいよ。
 泣くものか。


 教員にとっては、式後が長い。

 体育館内や、その周りで、皆思い思いに談笑したり、写真を撮ったり。
 私もすでに何枚も写真を頼まれた。
 保護者への挨拶、生徒との会話、――それに、様々な雑事が残っていた。
 体育館を片付けるのは、他ならぬ教員である。

 私は怒涛の挨拶ラッシュに耐えかねて、体育館の裏手にある階段へ座りこみ、小休止していた。

 桜が咲くにはまだ、早い。
 立ち並ぶ桜の、ほんのり色づく枝先に誰かの姿を重ねていた。

「先生!」

 声のする方向を見ると、やはり、ありすだった。
 泣くまい、と思った。

「ありす」

「先生」

 ありすは私の傍へ立って、何を言うでもなくただ黙っていた。

「卒業おめでとう」

 それは、あまりに月並みな言葉だった。
 同じ名前を背負った私たちには不似合いだと、わかっていても。

「おめでとう」

「ありがとうございます。先生……」

「うん」

「ありがとうございました。いままで」

「うん……」

「ありがとうございました」

 ありすはそれだけ繰り返して、それから、階段を一段、二段降りた。

「ありす!」

 私は小走りに追いかけて、彼女の肩を抱いた。
 腰をかがめて、真っ直ぐに見つめ合う。

「ありす、……ありすは、自分の名前、好き?」

「――――」

 ありすは答えなかった。私は、構わず言葉を続けた。

「それでもいい。嫌いなままで、いい。でもね、でもね……」

 泣くまいと思っていたのに、どうしても、涙が出た。

「ありすは、ひとりぼっちじゃないんだって、それだけ、……忘れないでいて。
 ありすは、ひとりぼっちなんかじゃないんだよ」

 そうしてうなだれた私を、慰めるように、ありすは私を抱きしめた。

「アリス先生、さようなら」

「さよなら、ありす。さよなら」

 それが、最後だった。


 その日の夜、雪が降った。
 稀に見る大雪で、朝になると街路樹から道路まで、真っ白に埋めてしまった。
 私は仕事でくたびれた体を起こして、ベランダからその様子を眺めた。
 吐息が白々と朝日を掴まえた。

 昨日のうちに降っていたら、みんなで雪遊びができたのかなぁ。惜しいなぁ。
 昨日、降ってくれていたらなぁ。

 ありすと、雪遊びできたのかなぁ……。

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