男「元奴隷が居候する事になった」【安価有】 (596)


書き溜めなし、安価有、地の文有。

思いつきのみで形成されております。

ゆるくまったり進めていけたらと思いますので、お付き合いの程をよしなに。 

 

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浮気調査、動物探し、盗聴器ハント、簡易的な身辺保護。

平々凡々な探偵業をこなしていると、しがない依頼しか大抵は来ないものだ。

自分の掲げていた理想のハードボイルドと呼ぶには程遠い。

まだサラリーマン時代の方が楽だったのかもしれないとまで思っている。

霞でメシを食わないと仏様になってしまうような日々を過ごしていた。

だからこそ、今日の依頼人が提示してきた仕事には度肝を抜かれてしまう。


「マフィア殲滅のために情報収集を依頼したい。
 報酬は貴方が会社員を続けていた頃を基盤とした生涯年収分で如何ですか」


内容から察して詳細なんか聞かずとも、超弩級にきな臭い案件以外の何物でもないじゃないか。

それにこんな赤貧探偵に頼むなんて、どう考えても鉄砲玉のようにしか扱われないに決まってる。

即々でノーと返事を出してお引き取り願おう。

頭じゃ理解していても、心に宿る愚かな自分が吠え猛るのだ。

これこそがハードボイルドの真骨頂だろう、と。

震える指先を誤魔化すように煙草に火を点け、大きく吸い込み、溜め息のように煙を吐き出す。



「その仕事、請け負いましょう」


退路は断った。

後は野と成れ山と成れ、だ。

 


依頼の概要はこうだった。

“マフィアの元締めが来日する日付は七ヶ月後。
 それまで構成員に成りすまして内部調査を行なってほしい。”

俗に言うスパイというやつだ。

ターゲットとなる組織内に従属して、武器の貯蔵や構成員数、幹部のマル秘ネタなど、

出来得る限りの事柄を詳細に報告してほしいとの事。


有り体に言って自分には無理だと思った。

素人に毛が生えたくらいの人間に、そんな大それた事が出来るものかと。

ただ、向こうはどうやら自分が今までこなしてきた依頼を調べ上げており、

その功績や実績を何故かやたらと高く評価してくれていた。


先方は言う。

出来得る限りでいい。それに、構成員の中には既に君と同じように潜り込んでいる人が複数人いるから安心してくれと。

なるほど自分と同じような境遇の輩がいるのか。

先駆者がいるなら多少は安心だ。きっと同じように蓮っ葉な扱いをされている人達なのだろう。

ちなみにどういった経歴の方が紛れているのか訊ねてみた。


「FBIです」


この仕事を断るのは今からでも遅くないのではないかと本気で考える良いキッカケになる一言だった。

吐いた唾を飲めないのがハードボイルドの辛い所である。

 



先駆者のスパイらしき人物からの勧誘により、組織内には割とスムーズに侵入する事が出来た。

様々な人種がいたが、みな流暢に日本語を喋っている。

どうやら自分が潜入したのは日本支部のような扱いをされている場所のようで、

そこにイタリア本部からボスが視察にくる所を一網打尽にする予定なのだとか。


それからというもの、地獄のような日々が始まった。

ミスしたら即座に消される。正に文字通り。

不安と緊張が鎧のように体を重くして、血と硝煙の香りが鼻腔と脳内を率先して狂わせてくる。

依頼達成のための意地と根性で篩い立ち、親しくなりなくもない奴らとコミュニケーションを取って、

幹部の情報や武器の売買先を確認して定時連絡を取る。

お金と酔狂という飾りのようなモチベーションで、どうにか毎日を過ごしていた。

そんなある日の事、麻薬中毒者(ジャンキー)の構成員がいきなり後ろからガッツリ肩を組んでくる。

内心では死ぬほどビビっていたが、なんだよブラザーとヘラヘラ笑いつつも平静を装う。

すると、虚ろな目をしたそいつは、誰にも聞こえないようにこそこそと話してきた。


「Hey,bro. 聞いたか?今日ようやく本商品が届くんだってよ」


一体何の事だ?

あまり良い予感はしなかったが、そいつの次の一言で予感は確信に変わった。


「糞以下の金持ち共に売り払う用の、愛玩動物(クソガキ)共の事だよ」

 


なるほど、本商品とはそういう事か。

確かに組織は潤沢な金銭を抱えている。潤沢すぎるほど、金の流動を見せていた。

その謎の財源はどこから来ているのかと思えば、その子どもたちの人身売買が出処だったのか。

なるほど、なるほど。

握り拳の隙間から血が滴るのを隠しつつ、そのジャンキーに詳細を聞いてみた。

現状は船のタコ部屋で軟禁状態。

船に乗せる前から長期間“しつけ”を行なっているので、暴れる奴はいない。

ボスの到着と同じ日に〇〇港に着く予定なので、ボスが子ども達を出迎える手筈になっている、との事。

貴重な情報が聞けた事の小さじ一杯ほどの感謝をしつつ、どうして只のジャンキーがここまで情報を握っているのか訊ねてみた。

曰く、彼は幹部と飲み仲間で、且つこういう情報を小耳に挟んで組織内を立ち回る情報屋だった。

ある日新人から勧められた薬が非常にハマってしまい、

そいつから薬を貰う代わりにこういう情報を喋ってしまうので、ついつい口が滑ってしまったんだ。

わひゃわひゃわひゃ、と心ここに在らずのような笑い方をしながらそのままジャンキーは去っていった。

どうやら自分の同業者には素晴らしいマキャベリストが居るようだ。

手段はさておき、顔も知らない彼の手練手管に感心しつつ、ホットな報告を依頼人に送った。


「承知しました。つい先ほど貴方と同じ情報が入ったので、信憑性はヒトマルですね。
 不審な船の調査を急ぎます。元締め退治と奪還は同時に行う作戦に変更です」


了解、と残して通話終了。後はもう少しだけ情報を探るとしよう。

この組織の壊滅も近い。

なんとなく、そんな気がする。

 
 



運命の日。それはあっけなく終わった。

元締めが来日し、そのまま港に足を向け、そこで待ち構えていた警察たちに彼はあっけなく捕縛される。

彼の両手に手錠がかけられたタイミングで船が寄港し、その際に多少のドンパチはあったものの

こちら側に然したる被害もなく収まった。

そのドンパチに加担した身としては、弾が当たらなくて何よりだった。

久々に撃った感覚は変わらず気持ちの悪いもので、相変わらず苦手意識は変わっていない。

船に乗り込んだ際、どうやら配置の都合上、自分が子どもたちのいるタコ部屋に一番近かったらしく保護の役目を担う事になった。

これは依頼内容に含まれていないから後で追徴しようなどとボヤきつつ、その部屋に突入する。


そこには三人の子どもがいた。

どの子も将来は見目麗しい素敵な女性になるのだろうと思わせるような見た目だった。

体中に刻まれた夥しい数の傷跡さえなけば。

その子ども達は、自分を見るや否や震え出した。

何か恐ろしいものを見るような目で見つめられ、うち二人は頭を抱えて泣き出した。

ごめんなさい、ごめんなさいと絞り出すような嗚咽を漏らしながら。

そして自分の前に一人の少女が両手を広げて立ちはだかった。

手入れのされていない黒髪を振り乱し、澱んだ瞳孔をこちらに向ける。

後ろで泣いている子を庇うかのような立ち振る舞いだったが、

小鹿のようにやせ細った両足が大仰に震えており、必死で恐怖と戦っているのが見て取れる。


「いたいこと、するなら、わたしが、うけます」


その惨たらしい献身を見て、体中の力が抜けた。

守れて良かった、という思いと。

護れずに済まなかった、という想いで。


気付けば自分は、大粒の涙を零しながら、その子どもを抱きしめていた。

 



しばらくして抱擁を解くと、少し息苦しかったのか、けほけほと咳き込んでいた。

すまないと思わず謝った。力加減が分からなかったのだ。

その黒髪の少女は一体何をされていたのだろうといった表情で呆気に取られている。


「君たちを、助けにきた」


そう伝えて、髪をくしゃくしゃと撫でてみる。

眼前の黒髪の少女の瞳に一瞬だけ光が戻り、その子が逆にこちらの胸に飛び込んできた。

そして、そのまま大声で泣き始めた。

奥で震えていた子どもたちも次々に抱き着いてきて、しゃくりを上げて大泣きしてきた。


目先のお金と恰好つけで始めた仕事にしては、随分と貰える報酬の多さに驚いている。

死ぬほど辛くて、何度か本当に黄泉路を歩きそうになったけれど。

請けて良かった。あの時の自分の判断こそが正しかったのだと、ようやく実感できた。


 



それから約一か月後、日射しの気持ち良い秋晴れの頃。

依頼人が自分の事務所を訊ねてきた。


「依頼達成、お疲れ様でした。請け負ってくれて有難うございます」


事務所の安革ソファに腰を下ろし、労いの言葉をかけてくる。

気にしないでください、お役立てできて何よりです。

そんな言葉を返すと、眼前のスーツ姿の青年は、にこりと会釈を返してくれた。


「貴方が身を粉にしてくださったおかげで、一つの大きな組織が滅びました。
 子ども達も無事に保護できて何よりです」


あの子達は元気かどうか聞くと、今はまだ療養中との事だった。


「元々あの三人は、組織お抱えの娼婦たちがそれぞれ捨てた孤児だったのです。
 身寄りどころか戸籍もなく、組織内で文字通り飼われていた子でしたから……。
 劣悪な環境下で育っていたので、日本の病院の綺麗さを天国だと言ってました。
 まぁ確かに天国へ繋がっている人も居るかも知れませんがね。 はっはっは」


いや、はっはっはじゃないだろう。地味なブラックジョークは止めてほしい。


 



「世界にはお金で狂った人が大勢います。
 道徳心を亡くした小金持ちは子どもを愛玩や嗜虐の道具で欲しがる、歪んだ人々もいます。割といます。結構います」


神妙な面持ちで、スーツ姿の青年は語りかけてくる。


「あの子たちは、奴隷として飼われており、奴隷として買われるところでした。
 貴方はその子どもを助け、世界を美しくする一端を担ってくれました。
 本当に、本当に有難うございます」


そういって、深々と頭を下げてきた。

流石に恐縮してしまう。

いえいえ、人として当然の事をしたまでです。頭を上げてください、というので精一杯。

そういえば、あの子たちはどうなるのですか。

気恥ずかしさで話をすり替えるために別の話題を振ってみた。


「そうですね……あの中の二人は、アメリカの孤児院に行く事になっていまして……」


何故か急に歯切れが悪くなった。あまり聞いてはいけない内容だったのか。

では報酬の話にでも移ろうかと思った瞬間、スーツ姿の男が洗練された営業スマイルを向けてきた。



「ところで少々話は変わって、物は相談なのですが。追加依頼を受けて頂けないでしょうか」

 



「助けて頂いた子のうち二人はアメリカに行く事が決まりました。
 ただ、もう一人の子はこの国への残留を強く望んでおりまして。
 それで、この国の戸籍を準備するのが少々手間取っている現状ですね」


ほぅほぅ、難儀な事ですね。

そう言いつつも手元のコーヒーを優雅に啜ってみる。


「それでですね、こちら側が戸籍を準備するまで、その子を預かって貰えないでしょうか」


飲んでいたコーヒーを盛大に噴出した。

男一人で侘しくものんびり暮らしていた生活なのに、そこに住人一人増えるのはたまったものではない。

断固反対、絶対不可。これを心情に断ろう。


「その子、いたく貴方を気に入っているんです。
 実は今日も連れてきていまして……。入っておいで」


スーツの青年が事務所の出入り口に声をかけて、少しだけ間の空いた後、おずおずと入ってきた一人の少女。

変わらずボサボサだが、変わらぬ綺麗な黒髪。華奢な肢体に少しだけ血色の良くなった顔。


あの日、船の中で自分が助けて、抱きしめた子だった。


「……迷惑だったら、断ってください」


その子は、涙を浮かべて不安そうな瞳を向けてくる。

自分の事は自分が一番よく分かる。

ノーだというのは、きっと無理だろう。

 
 



……期間は、どのくらいですか。


諦めたように依頼人に告げた。

ぱぁっ、っと少女の表情が明るくなり、依頼人はネクタイを正して商談に入るような姿勢を向けてきた。


「まぁ、組織内の情報を洗う意味で少々時間を空けて、一年です。
 延びるかもしれないし、短くなるかもわかりません。」


報酬は如何ほどになります?


「そこは要相談で。ああ、ちなみに彼女の生活費はこちらで出しますので、そこは気にしないでください」


ふぅ、と思わずため息をついた。

腹をくくったからには、まぁそれなりに過ごしていこうと思う。

それに、あの船で出会ったときに感じた、あの気持ちは未だに忘れていない。この胸で燻っている。

大人として未熟な身だが、出来得る限りこの子が幸せになれるよう、自分なりに最善を尽くそう。

出入り口で立ったままの少女に向き合い、言葉をかける。


「初めまして。君の名前は何ていうんだい?」


少女は、おずおずと口を開いた。




「わ、私の名前は……>>14です……」



 

サンディ


>>14


「私の名前は……サンディ、です……」


少女は俯いたまま、ぼそりと呟く。

可愛い名前だね。

そう率直な感想を告げると、さらに身を縮こまらせて耳を真っ赤にしていた。


「仲睦まじいようで何よりです。では、私はこの辺りで失礼させてもらいますね」


ああ、そうだ。報酬は忘れないでくださいよ。

そう釘を打つと、彼は微笑みを返してくる。

謎の不安が胸をよぎるが、まぁここは信用しておこう。


そして依頼人は去り、中に残されたのは自分と、少女……サンディの二人。

これから一年間の同居人に向かって、とりあえずは声をかけてみよう



「ずっと入口に立ってると寒いでしょ? 汚い事務所だけれど、まぁお入りなさい」

「お、お邪魔します……」


「これから宜しくお願いするよ、サンディ」

「は、はい、ご主人様……」


変な言葉が聞こえてきたのは気のせいだと願いたい。

前途多難になりそうだが、まぁ楽しくやっていきたいところだ。
 

彼女がほんの少しでも幸せで在るよう、祈りを続ける日々がこうして幕を開けた。


 



今日はここまで。お目通し、安価協力に感謝を。

のんびり書いているので、ゆるりとお茶でも飲みつつお待ちください。

感想やご意見などあれば是非ぜひ。


【作業用BGMより一曲】

https://youtu.be/P20NA5_nMfw

 

今帰宅。早速書こうと思いましましたが、
いかんせん頭が回らないので、恐縮ですが今宵はこのまま眠ることにします。
目覚めてからちょこっとだけ書いてみます。




ハードボイルドの朝は穏やかだ。

外に広がる曇天の空模様は、太陽を隠すことで夜を長く見せてくれているのだろう。

未だ少し寝惚けた頭を覚ますために、空気の入れ替えがてら窓を開ける。

仄かに香っていた金木犀はなりを潜め、今は凛と澄んだ冬のアトモスフィアが呼吸を心地よく満たしてくれた。

そのまま軽く背伸びをして、腰を左右に一捻り、肩をぐるぐる回して、メンテナンスのように体を動かしてみる。

痛みや重さは感じる事無く体調は普段通りの模様。

ふと、奥のキッチンから何やら香ばしい匂いが漂ってきた。

今日はサンディが朝食の準備に挑戦している。

以前に「私も料理を覚えたい」という事を告げられ、

いくつか簡単なレシピを教えてみたら割とすんなり覚えてくれたのだ。

昨晩眠る前に、今日は卵焼きに挑戦してみると意気込んでいたから

この油とバターの香りはきっとそれなのだろう。

まだ教えていない料理ではあるが、お兄さんの横でずっと見てたから上手くいくと思います、とはサンディの言葉。

出来上がるのが実に楽しみである。

それまでに時間もかかるだろうから、どれタバコでも吸おうかと先端に火を点けた辺りで、


< うひゃぁっ!?


と可愛らしい悲鳴がキッチンから聞こえてきた。

次の瞬間には、煙を一吸いすることなくタバコを急いで揉み消して彼女の元へ駆け出した自分がいた。



ハードボイルドの朝は穏やかだ。

たまに賑やかな事もある、というのを注釈しておこう。


 



今日の朝食は、トースト、サラダ、こんがりベーコン、スクランブルエッグ。

最後の一品に関しては、スクランブルというかエマージェンシーな焦げ具合になっている。

たぶん強火にあてすぎた事と、卵を巻くタイミングが分からずに戸惑ってしまったのが要因か。

これはこれで食べごたえがあって良いものだ。

当のサンディは、肩をしょんぼりと落としている。

美味しいよと素直に伝えてみるが、俯いて何度も溜め息をついていた。


「私、本当にダメな奴隷で……申し訳ありません……」

「自分を奴隷だと思っているのはダメな点だけれど、それ以外は最高だよ」

「あ、申し訳ありません……」


またしてもサンディは肩を落とす。ずーん、という効果音が聞こえてきそうだ。

さてはきっと元卵焼き、もといスクランブルエッグを味見してないなこの子。

味付けそのものは本当に美味しいのだ。

だからこそ多少カリカリでも食べ甲斐が出てくる。

僕はスプーンで少量を掬って、彼女が火傷しないように軽く息を吹きかけて覚ましてみる。


「ほれ、サンディ」

「え?」

「あーん」

「…………え!?」


彼女の頬がみるみるうちに真っ赤になっていく。色合い的には秋の紅葉と良い勝負をしているかも知れない。

やってはみたものの、かくいう僕も実は結構恥ずかしかったりする。

気障(きざ)だと思うなかれ、ハードボイルドなら当たり前の所業なのだ、と自身に言い聞かせた。


 


「あーん」

「……」

「あーん」

「……」

「ほら、口開けてみて」

「……ぅ、……うぅ」


匙を出してしまった手前、もはや後には引けない僕の心境。

ごり押し気味にでも食べさせてやろうという気概すら生まれてきた。

サンディは落としていた肩をきゅっと縮こまらせて、手元をもじもじさせている。

何かを躊躇っているようだ。

何を躊躇うことがある、さぁ、ぱくっと、パクッと来るんだ。

セクハラじゃありませんように。

そう願うクールな自分を尻目に、彼女の口元にスプーンを差し出してから大よそ三十秒。

意を決したような顔つきを一瞬見せて、サンディは目を瞑ったまま、はむっとスプーンを咥えた。


「あ……、美味しい……」

「でしょ? 味付けが満点なんだから、気にしなくていいよ。これからもっと上手になるよ」

「は、はい!」


そして朝食は再開した。サンディは美味しそうにパンを齧りながら、ベーコンと卵を胃に詰めていく。

もっきゅ、もっきゅ。本当に美味しそうに食べている。

彼女の表情筋が一番動くのは、もしかするとご飯のときなのかも知れないな。微笑ましい。

そう思いながら、僕はサンディが淹れてくれたコーヒーをごくりと飲む。凄まじいエグ味が舌を襲う。

そして盛大に吹き出した。 


「サンディ、なにこれ」

「お兄さんはコーヒーには砂糖を入れないみたいなので、代わりに塩を入れてみました」


屈託のない顔でそう言われたら、有難うとしか言えない弱気な自分が大好きだ。

だがこれは後でやんわりと訂正しておかねばなるまい……。

 



朝食が片付き、今度は何も混入されていないブラックのコーヒーを食後の一杯で飲んでいる。

サンディはホットミルクだ。砂糖とハチミツを入れてまろやかに仕上げてみた。

ほぅっ、とした穏やかな顔でそれを飲む彼女は、実に年相応だ。

あの子の心に負った様々なものが、僕との暮らしで少しでも削がれてくれたのなら嬉しい。

美味しいかい、とつい聞きたくなってしまう。

はい、と首を二度ほど軽く縦に振ってサンディは綻んだ顔で答えてくれた。

二人で暮らし始めてから一か月ほど経ったが、

住み始めた当初と比べると笑顔の数が少しずつ増えてきているような気がする。

 





彼女はまだ、治っていない。

時折フラッシュバックで体がガチガチに硬直したり、滝のような脂汗を流しながら青ざめた顔をする事もままある。

ぶるぶると震える彼女は、嫌でも昔を思い出しているのか、「ゆるしてください、ごめんなさい」と虚に唱えてしまう。

その都度「大丈夫だよ」と軽く抱きしめ、頭を優しく撫でてみる。何度も、何度も。

容体が落ち着いたら、組織から二週間ごとに投函される薬の中の一種にある安定剤を飲ませている。

そも簡単に治るのならばトラウマなどという言葉は生まれない。

医療機関で診断させろと組織に言いたいが、連絡手法もなく、向こうから一方的に封筒が届くだけ。

戸籍のない少女を病院に連れて行けば別所の輩に目を付けられますと事前に釘をさされている事もある。

僕が最善の治療薬になっている、とはたまに送られてくる封筒に添付された汚い字の文面に書かれているが、本当だろうか。

そうとしか信じるものもないのが現状だ。

とかく、サンディを一所懸命に守ってあげたい。

優しいこの子が幸せになりますように、と祈りながら護るのだ。

 



「お兄さん、どうされましたか?」


ふと気づき、意識が再びサンディに向けられる。

ぼんやり考え事としていたのが顔に出ていたのか、対面に座る彼女から不安な目線を送られる。

大丈夫、気にしないで。そう伝えて、誤魔化すようにコーヒーを一啜り。

それなら良かったです、とサンディも僕を真似るように手元のホットミルクに口づける。

飲む仕草の際に、長い前髪がぱさりと垂れて、彼女の表情を隠してくる。

改めて彼女をまじまじと眺めてみた。

うん、やはり気のせいじゃないな。


「サンディ」

「はい?」

「髪、伸びたねぇ……」

「そうでしょうか?」

「どのくらい切ってないの?」

「日本に来るときに切られて以来なので、だいたい二ヶ月くらいです」


出会った当初は無造作に切られていた印象の強いボサボサの髪の毛だったが、

それゆえ現状は変な部分が長かったり、ボリュームが出過ぎてサイドがもっさりしている。

それに何よりも前髪だ。

目隠れ、という昨今で流行しているヘアスタイルのジャンルを聞いた事はあるが

流石に前髪が鼻先についた状態だと日々の生活でも邪魔になってしまうだろう。

綺麗な顔なのに隠れているのも勿体ない。

これは近いうちに美容室にでも連れて行ってあげなくちゃいけないな。

 




わたしが生きていた轍には、吹きさらしの傷口が無数にある。

冷たい風を浴びるとじくじく疼くから、同じ痛みを持つ者同士で寄り添いあい

温め合ってそれを誤魔化すしかなかった。

ヤマアラシのように体に針がなくて良かったと思う。

もしそうだったら、私たちは血塗れで抱きしめ合う事になっていただろうから。


コンクリートの冷たい床、薄手の毛布、首輪と鎖。

自分が過ごしてきた寝床として思い出せる記憶だ。

寒さとひもじさで最初は泣いていた。

泣いていると折檻をされるから、次は笑うようになった。

笑っていても折檻をされるから、次は怒るようになった。

怒っていても折檻をされるから、次は喜ぶようになった。

喜んでいても折檻をされるから、もうどうしようもなかった。


もう、どうしようもなかった。

 


だから、心を空っぽにした。

そうして一日が早く過ぎますようにと願いながら

寒さをしのげるように、奴隷だった私たちは固まって眠るようになる。

ドブ鼠のような様だなと前のご主人様は笑いながら、真冬の夜に冷水をその集塊に浴びせてくることもあった。

その時は体温が下がるのを防ぐために一層固まって擦り寄った。

唇が真っ白になる子を輪の中心に、体を一所懸命こすり合わせて温めた。

他の子にそうしてもらい、他の子にそうしてあげていた。

死なないように生きる事に、私たちは必死だったのだ。

最初は十五人いた。

別所へ競売にかけられたり、冷たくなっていった子がいたりして、どんどん人数は減っていく。

結局そうして生き残って無事に日本に来れたのはたった三人。

たった三人だった。

一緒に船に乗ってきた子以外の顔立ちを頭の中で描こうとすると、ペンで塗りつぶされたような漠然としたものに仕上がる。

散った皆の事を考え出すと心が砕けそうになるから。

今は思い出せない。思い出してはいけないのだろう。

 


ふと思う。

お兄さんに保護されて、私だけこの国に留まらせてもらうことになったけれど。

離れ離れになったあの子たちはちゃんと温かい毛布で眠れているんだろうか。

どこか知らない土地で寂しく泣いていないだろうか、と。

そう思うと無性に顔を見たくなった。

あの二人を振り返るために想起すると、泣いている顔しか思い出せないのが、とても悲しい。

 



サンタはいない。

でも、もしいたとしても、プレゼントはいらない。

たった一つだけお願い事を聞いてほしい。


“孤児院に行った二人が幸せに暮らせていますように”


私はお兄さんから渡されたメモ紙にそう書いて、

事務所の中に準備してくれた『サンタさんへのポスト』へ就寝前に投函した。

もうサンタなんて信じる年頃ではないが、優しさを無碍にしたくないのでそれは置いておこう。

願い事は何でもいいとは言われたものの、我ながら漠然とした内容だ。

これは叶えるのが難しいな、と少し困った顔をするであろう人物が思い浮かぶ。

それはふくよかで白鬚を口元にたくわえた虚像ではなく。

柔らかい笑顔の似合う、とっても素敵で、ソフトマイルドなサンタさんだった。

 



投函した次の日から、お兄さんは色々な所に電話をかけていた。

そして電話をかけた数に呼応するかのように外出する事が多くなった。

曰く「今まで探偵業を休んでいたから、年明けに再開をする為の準備中」との事だ。

手伝えることは何かありませんかと訊ねてみれば、じゃあお留守番を頼むと言われた。

頑張りますと答えたら、彼はにっこりと私の大好きな微笑みを向けてくれる。

そして大きな手で頭を撫でられた。

私は非力だけれど、全力でお兄さんのおうちを守ろうと心に決めた瞬間だった。


それから、あれよあれよという間に時間は過ぎて。

気付けば暦は十二月二十四日。クリスマスを迎えていた。

 

今回はここまで。小出しで恐縮です。
次回はクリスマスの話で。

>>1
申し訳ありませんが貴方の過去作を教えてください。

是非とも読みたいのですが見つけられない作品があります。どうか宜しくお願いいたします。

>>215
以前書いた話に興味を持って頂けて嬉しい限り。
見つけられない作品がどういう内容だったか私自身も忘れている可能性があるので
拙作ばかりで恐縮ですが、覚えてる分の一部を羅列させてもらいます。
どれかに当て嵌まれば良いのですが……。


【オリジナル】

・貴方の読みたい物語
・男「ここが君の、終の棲家でありますように」
・男「昔話のついでに」
・男「ど、童貞じゃねーし!」女「しょ、処女じゃないわよ!」


【二次創作】

<艦これ>
・ていとくがこわれるはなし
・ボンクラ提督とぽんこつ系ビッグセブン

<シュタインズゲート>
・鳳凰院凶真のオールナイト円卓会議

<Angel Beats!>
・音無「オペレーション・ラブエクストリーム…?」
・音無「平和な日常って、いいよな」


その他もろもろ。
初見の方は上記の小話が暇つぶしのお供になれば幸いです。
探偵と元奴隷の話は近日中に投下する予定。
 



クリスマスイブ。薄曇りの空模様で、普段よりも少し肌寒い気温が世界を包む。

今日はお兄さんの提案で出かける事になった。

行先を訊ねてみれば、内緒の一言だけ。

どこへ行くのかもちろん気にはなっている。

ただそれ以上に、お兄さんと一緒に外出できるだけで心が弾んでしまうのだ。

駐車場に向かう自分の足が浮いているような気さえする。


「スキップするのはいいけれど転ばないようにね」


後からお兄さんの声が聞こえてきた。……スキップ?

どうやら本当に浮いていたようで、心どころか足さえ無意識に弾んでしまったらしい。

はしゃいでいるのを見られてしまい、否が応にも心拍数が上昇する。

顔中が火照るように熱い。両手でパタパタと扇いでも治まる様子はない。

自分の頬と耳が赤くなっているのが手に取るように分かってしまう。

恥ずかしさを隠すために車の元まで駆け出してみた。

お兄さんが到着するまでに早く浮かれた熱を冷まさなければ。

 


深呼吸を幾度か繰り返して平静に戻る。

ちょうどその頃合を見計らったかのように、お兄さんも車の駐車してあるスペースに辿り着いた。

そこに停めてある桃色の車に乗り込む前に、

サイドミラーを覗き込んで手櫛でサッサッと前髪を整える。

髪型はおかしくはないだろうかと自問自答。

答えは当然返ってこない。

初めて出会ってからずっとボサボサの髪で過ごしていた手前、今更という感はある。

でも、お兄さんは髪を切り終えた私に向かって綺麗だと言ってくれた。

嬉しかった。とても嬉しかったのだ。

だから、あの時の気持ちを忘れないように、不慣れな手付きで髪をセットする。

そうするとまるで自分が女の子だった事を思い出すようで、少し照れくさくなる。

それと同時に胸が温かくなるのだ。

とっても不思議な感覚。

何度か前髪の分け目を弄っていると、ふと後ろに視線を感じた。

サイドミラーの視線を自分の髪から後ろに少しずらしてみると、

ほほぅ、と何か感心したような顔立ちでお兄さんが覗き込んでいる。


「綺麗だよ、サンディ」


そう言ってお兄さんは運転席側に移行して、車の中に入り込む。

私は思わずしゃがみ込んだ。

頬の熱さがぶり返してきたから。

 



それから一呼吸だけ間を置いて私も助手席に乗り込む。

私がシートベルトを着用したのを確認し、お兄さんは今回の目的地に向かうために車のエンジンを点火した。

しばらく走っているうちに、この車は郊外に向かっている事が分かった。

道路の案内板から察すると市街地のテーマパークらしき場所が目的地のようだ。

未だ行ったことのない場所なので、そこに何があるのか皆目見当がつかない。

車が風を切っているその間、私は車窓の内側から外の景色を眺めている。

街路樹に巻かれた電灯が美しいイルミネーションになっていてとても綺麗だ。

天国へ続く道は、もしかするとこんな光景かも知れない。

歩道を歩く人達はみな寄り添いあって、それぞれが幸せそうな顔をしている。

本の中でしか見た事のない尊い世界を覗いているようだ。

もし本当に神様がいるならば、この中に私が一人くらい混ざっても許容してくれるだろうか。

隣で車をのんびり運転する私の神様に、そう訊ねてみたくなった。

 


車を走らせること大よそ一時間ほど。

“遊園地”と呼ばれている大規模なテーマパークに辿り着いた。

目的地に着いてその中に入場をした私は思う。

地球にはこんなにも人が居たのか、と。


「うはぁ、凄い人の多さだ……」


お兄さんも絶句していた。どうやら人の多さに関しては予想外だったようだ。

 


「いやぁ、最近ちょっとバタバタしていたからどこにも連れて行けてなくてさ。
 今日はクリスマスイブだから何かしようと思ってたけれど……裏目に出ちゃったかな?」

「いいえ、とても素敵なところに連れてきてくださって嬉しいです」

「サンディは優しいなぁ……」


お兄さんは大仰にほろりと泣くような素振りを見せて、私の手を繋いでくれる。

その大きな手をぎゅっと握り返した。離さないように、離れないように。

 


人の多さが影響しているのだろう。

遊園地のアトラクションは軒並み待ち時間が多かった。

特にジェットコースターという乗り物には、どれも約三時間待ちという看板が立っている。

さてどこから回ろうかとお兄さんはパンフレット片手に悩んでいた。

貴方と一緒にいれるだけで私は嬉しいのに。

現在地は遊園地の中央区にある噴水前。

噴き出す水が光に照らされて彩り鮮やかに変化していく。

綺麗だなぁ。ずっと眺めていても飽きない。

ふと視線を外して周りを見ると、様々な人が楽しそうに往来している。

カップルと呼ばれる男女のつがいよりも、親子連れの家族の方が多かった。

子どもはみんな嬉しそうに親と手を繋いで、暖かい恰好ではしゃいでいる。

そんな子どもを見て、親は嬉しそうに目を緩ませている。


瞬きするだけで世界はこんなにも美しい。

私の視界は今、幸せで満たされていた。

 



お兄さんが熟考をして出した結論は、

『とりあえず空いているアトラクションを端から回ろう』という内容だった。

ただ、観覧車にはとりあえず乗っておきたいという彼の要望で、

一番最初に観覧車の整理券をもらい、順番が巡ってくる二時間後までは別所を巡る段取りに。


そして今、私はメリーゴーラウンドという乗り物の順番待ちをしていた。

曰く「年を取った男は乗れないもの」だそうだ。

なのでお兄さんは外で待機して、私が乗る様を楽しむとの事。

改めて一緒に並んでいる子を見ると、小さい子ばかり。私が最年長のような気がしなくもない。

順番が回ってきて係員の方から案内をされる。

馬を模倣した乗り物に跨るように言われ、言葉のままに乗ってみる。

そのまま手すりのポールを離さないでという注意喚起を告げられたかと思うと

途端にファンシーな音楽が流れ始めた。


「えっ、えっ、えっ……!?」


あたふたしながらポールをギュッと抱きかかえる。

そして地面と乗り物が動き始めた。

地面は地球の自転のように回り、それに呼応するように馬は上下に動いている。

ちょっと楽しい。

周りの風景は緩やかに移行して、遊園地の煌びやかなイルミネーションを楽しめる様になっていた。

そんな幻想的な風景を楽しんでいると、ふと何か呼びかけられたような気がする。


「おーい、サンディー! こっちこっちー!」


お兄さんがアトラクションの外側で、手を振りながら迎えてくれる。

なんとなく気恥ずかしいけれど、少し浮かれた私はおずおずと手を振り返してみた。

お姫様みたいでなんだか照れてしまう。

 



そのままお兄さんのいた景色を置き去りにして、回転木馬はのんびり回る。

そして二周目、再びお兄さんの待っている景色へ。


「サンディ、こっち向いて!」


言葉のまま彼の方を向いて手を振ると、パシャリと彼の携帯電話で写真を撮られた。

ちょっぴり気恥ずかしさを残しながら三周目。

次はいつの間に持っていたのか本格的なカメラを向けて私を待ち構えていた。

パシャ、パシャ、パシャ、パシャ。連続したシャッター音が聞こえてくる。

お兄さんは周りの人の注目を浴びているのに気づいていないのかも知れない。

流石にもう撮られる事は無いと思っていた四周目。

録画状態のハンディカムを持って、キラリと光る大きなレンズを私に向けていた。


「可愛いよ、サンディ! 手を振って、ほらほら!」


周りの人はお兄さんの大きな声に驚いていて、必然的に私も注目を浴びることに。

顔から火が出そうだ。でも、お兄さんの要望には応えたい。

作り物の白馬のうなじに顔をうずめながら、ぱたぱたと頑張って手だけは振ってみる。

後の周回は、お兄さんの待ち構える付近になったらポールを抱きしめて

恥ずかしさで死にそうになっている様をビデオカメラで撮られ続けていた。


メリーゴーラウンドから降りたあと、私は一目散にお兄さんの元へと駆け出した。

そして何故か満足げな顔をした彼の背中に回り込み、ぽかぽかと軽く叩いてみる。

恥ずかしかったけれど、楽しかったのもまた事実。

なので、これは私なりの照れ隠しと抗議の合わせ技だ。

次の乗り物は一緒に乗ろう。そう決めるのには充分な出来事だった。

 


その後はコーヒーカップという乗り物の所へ行き、お兄さんと一緒に乗った。

ぐるぐる回るそれも楽しくて、ついはしゃぎすぎた結果、二人して思わず回し過ぎた。

アトラクションから降りる際にお兄さんの足元がふらふらしていたのも

何だかとっても面白くて、つい笑ってしまった。

そして遊園地の中にある売店で軽食のサンドイッチと温かい飲み物を購入した。

私はホットココア、お兄さんはコーヒー。ハードボイルドのこだわりは相変わらずだ。

再び中央区の噴水前に戻り、そこに備えられてあるベンチに座ってサンドイッチを食べた。

パンに挟まれてあるのは、レタス、ハム、チーズという至極シンプルなものなのに

どうしてこんなにも美味しいのだろうか。

私はつい率直な感想を呟いてしまう。


「サンドイッチ、美味しいです」

「お、じゃあ今度一緒に作ろうか」

「はい、これなら私も間違えずに作れると思います」

「随分と頼もしい返事だね。これは最高のサンドイッチを期待しても良さそうかな」

「あ、えと……そこまでは、ないかも知れません……。
 美味しくなるよう、お兄さんへの気持ちは多めに挟んでおきますね……」


急にハードルが上がると自信を無くしてしまう。

愛情だけは劣りません、という上手な言い回しが分からないので、つい語尾が弱くなる。

お兄さんは優しく微笑んで告げる。


「ありがとう、サンディ。お腹よりも胸がいっぱいになりそうだなぁ」


そう言いながら、私にむけてカメラのレンズを向けて、パシャっと一枚シャッターを切る。

サンドイッチを食べている状態だったので、凄く無防備なところを撮られてしまった。

急いでもふもふとサンドイッチを詰め込んで、ホットココアで流し込む。

ようやく食道に収まった頃に、お兄さんから急に抱き寄せされた。


「ほら、携帯のレンズを見つめて……はい、チーズ!」


カシャ、と無機質な音が鳴る。

そこに映っていたのは、にこやかで楽しそうなお兄さん。

そして、急な出来事で大混乱していて、グルグル眼の真っ赤な顔をした私だった。


なんとなく。

なんとなく、だけれど。

年の離れた兄と妹で撮ったような。

まるで、家族みたいな写真だった。

 



それから少し遊園地の飾りつけを見て回り、気が付いたら観覧車に並ぶ良い時間となっていた。

係員の方に整理券を渡して、優先列に並ぶ。

ものの十分と待つ事も無く、ゴンドラに乗り込むことができた。

ゆっくりと頂上に上がるそれは、人工的に色づいた夜光を置き去りにしていく。

私の足元には、先ほどまで見上げていたイルミネーション。

気付けば燭光のように小さくなっていた。

空が近づいているのだろうが、夜闇ではどの程度まで高くなっているのか分からない。

ふと、夜の黒に白色が紛れてくる。

あまりに綺麗な真白だったので、星が落ちて来たのかと思った。

よくよく目を凝らしてみると、どうやら雪が降り始めたようだ。

牡丹雪のようで、一粒一粒が大きい。明日は積もるかも知れない。


「綺麗ですね、お兄さん」

「うん。まさかのホワイトクリスマスになったね」


そう言いながら、お兄さんは鞄の中を漁り始めた。

そして少しの間を空けたあと、ラッピングされた何某を私に手渡してくる。


「メリークリスマス、サンディ。サンタさんからのプレゼントだよ」

「あ、ありがとう、ございます……!」


私はそれをおずおずと手に取る。

薄手ながらに固い感触のするそれは、CDケースのようだった。


「家に帰ったら空けてね。サンタとの約束だよ」


ふぉっふぉっふぉ、とでお兄さんは笑いながら、

生えていない白鬚を触るような仕草でそう告げる。

私はコクコクと頷くので精一杯だった。

 



プレゼントに対して、私は何か返せるものがないのか訊ねてみた。

お兄さんは「気にしないで」の一点張り。

そして私の頭を軽く撫でて、伝えてくれる。


「君がプレゼントの中身を見てくれたら、僕はそれだけでいいんだ」


それから、私はお兄さんと他愛もない事を話した。

明日のクリスマスは雪が積もるのか、とか。

お兄さんの好きな映画の話、とか。

どうやったら美味しいご飯が作れるのか、とか。

そうこう話し込んでいると、観覧車のゴンドラはあっという間に一周を終えた。

外の景色は綺麗だったけれど、それ以上にお兄さんの顔を見ていた時間の方が長かった気がする。

雪は牡丹雪から粉雪へと変わり、いつの間にかすっかり止んでいた。

私たちが観覧車に乗っているときにだけ降ってくれたかのようだ。

お兄さんとしては先ほどの物を私に渡すのが一番のミッションだったようで、

さて後のプランはどうしようかと悩んでいる様子。

だから私は答えた。

「家に帰って、プレゼントの中身が見たいです」と。

 



素敵な時間はあっという間に過ぎていく。

遊園地にもっと長くいたいという気持ちは強い。

だからこそ、名残惜しいくらいが丁度いいのだろう。

去年の今頃は、明日さえ分からないような刹那を生きていた。

奴隷だった身からすれば、楽しすぎるのは怖いのだ。

満たされ過ぎると悲しくなる。

だから、今はこの場所に願いだけ置いておこう。

きっとまた、お兄さんと一緒に来れる機会がありますように。

 



家に戻ると、お兄さんはいそいそと何かの準備を始めた。

その間に私はラッピングされたプレゼントを開ける事に。

包み紙の形を崩さないように丁寧に開けると、そこに見えたのはやはり簡素なCDケースだった。

ただ、『親愛なるサンディへ』と書かれているのが気になるところ。

お兄さんはどうやらテレビにDVDプレイヤーを接続しているようだ。

ではこれはCDではなくて、何らかの映像が記録されているDVDなのか。

中身を知らないので、私は恐る恐るそれをセットして、再生ボタンを押してみた。

 



まず最初に映っていたのは、どこかの大きな施設。

色んな人種の子どもたちが楽しそうにはしゃいでいる姿が映し出されている。

ふと、カメラがとある子どもに向かってズームを始めた。

そこに映っていたのは。

私と一緒に日本へ来た、孤児の生き残りの二人だった。

彼女たちは朗らかに、声をあげて笑っている。

どうやら友達が出来たようで、ボールを蹴りながら一所懸命にそれを追いかけていた。

そしてカメラは一度暗転したかと思うと、次は食事のシーンを映してくる。

子どもたちは机に向かって美味しそうにご飯を食べている。

あの二人もしっかりパンとスープ、お肉やサラダなど好き嫌いなく食べていた。

とても、とても美味しそうに食べていた。


楽しそうだった。

幸せそうだった。

 


そして次の場面転換では、空いた部屋に二人が並んで座っていた。

二人はまじまじとした顔でカメラを見つめている。

物珍しい、を体現するとこうなるのか。

カメラを回している人が小さな声で、オッケー喋って喋って、と言ってるのが聞こえてきた。

 



“あー、いま、もう撮れてるの? 撮れてる? なら良かった。

 サンディ。元気にしてる?

 私たちは今、アメリカの孤児院で暮らしているわ。

 ここの先生たち、とっても優しいの。神様みたい。

 お行儀が悪いと怒るけれど、鞭で叩かないし、

 意味もなく生爪を剥がしてレモン汁に浸して泣かせてくる、みたいな事もないの。

 今のところはね。

 人間なんて分からないから信頼なんて出来ないけれど、

 ちょっとだけ、ちょっとだけ信じてみてもいいかな、って思ってる。

 今ね。

 人生で、一番幸せなのかも知れないわ。”

 



『やっほー。サンディ、私のこと忘れてないよね?

 私もイザベルと一緒の孤児院にいるんだ。

 ここはね、温かいよ。

 身を切らずにご飯も出るし、それぞれにベッドとふかふかの毛布が分配されてるから

 寒くて死んじゃうこともないんだー。

 この前はすっごい雪が降ったけれど、院のみんなで雪かきして、集めた雪で遊んだんだ。

 すっごい面白かったよ!

 ここにいる子どもたちもね、私たちとおんなじような子ばかりでね。

 夜に泣いている子がいると、みんなで集まってぬくぬくするんだ。

 私たちが生きてたあの部屋を思い出しちゃうけれど、

 サンディたちと温め合ってこうして生きて来れたこと、いっつも感じるの。』

 



“それとね。あたし達、貴方にどうしても伝えなくちゃいけない事があるの”


『うん、どうしても伝えたかったの』


せーの、と息を合わせる合図の後、その言葉は紡がれた。

 




 サンディ、助けてくれて、ありがとう。



 



『辛かったとき、一緒にぬくぬくしてくれて、ありがとう』


“日本にくるとき、あの船の中で私たちを庇ってくれて、ありがとう”


『サンディ泣き虫だから、きっと誰よりも怖かったのに』


“貴方がいてくれたから、きっと私たちは生きていられたの”



“生きていれば、また会えるから。

 きっといつか、会いましょうね。”


『私たちは適当に幸せに過ごしているから安心してね。

 優しいサンディが、幸せに過ごせていますように、って祈ってるよ。ずっと。』

 



二人は満面の笑みで、カメラに向かって手を振っている。

映像はそこで終わっていた。

私は途中で二人の顔が見えなくなっていたから、もう一度見直さなければならない。

ただ、今の所は、何度見ても最後まで顔を見据える自信が無い。


幸せな二人を見る度にきっと私は泣いてしまうだろうから。


 



涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになってしまった。

お兄さんはティッシュの箱を持ってきてくれたが、それを使い切りそうな勢いだ。

泣きすぎて息ができないから、おぅ、おぅ、とオットセイみたいな声が出る。

もはや恥も外聞もなく、私は枯れ果てるまで涙を流そうと決めた。


それからしばらくの間ののち、ようやく少し落ち着いた私に向けて

お兄さんはホットミルクを差し出した。


「いやぁ、そこまで感激してくれるとサンタ冥利につきるね」

「いづ、グスッ……、ずみ゛まぜん、いつ、の間に……、準備したんですか?」

「きみが願い事を投函した翌日から準備を進めてたよ。
 組織の連絡先を調べていたら、色々と時間かかっちゃってさ」

「ありがとう……、ありがとう、ございます……。叶うなんて、思ってませんでした……」


未だ涙が少し溢れる私をお兄さんは優しく抱きしめてくれる。

温かい。ぬくぬくだ。

お兄さんは、私を腕の中に収めながら告げてくる。


「実はね、この映像をくれる代わりに一つだけ取引があったんだ」

「とり、ひき……?」

「それを聞いてくれるかい?」

「何でもいいです。私で出来ることは、何でも受け入れます……」

「“あの二人にサンディの現状を伝えてほしい”ってさ。
 今日撮った写真、送っていい?」

「恥ずかしいからダメです」

「手の平大回転!? なんでもって言ったじゃんサンディ!」

「それはそれ、これはこれ、です」

「便利な日本語を知ってるね……!」

 




それから数日後。年の瀬も近づいた頃。


「じゃあ、カメラ回すよ」

「えっと、どのタイミングで喋ればいいですか?」

「ゴメン、もう回ってる」

「ええ!?

 



ええ!? もう始まってるんですか!!

あと、その、えーと。


イザベル、クロエ。元気ですか。

えっと、サンディです。

私は今、あの船で助けてくれたお兄さんの元で居候になっています。

お兄さんはとっても優しくて素敵です。

普段はにこやかなのに、キリッとした時の表情が凄く恰好いいです。

とっても良い匂いもします。

それに私の知らない事をいっぱい教えてくれて、

沢山の愛をいつも注いでもらっています。

え、あ、ちょっと、お兄さん、照れないで……。

私も本人が目の前なのに本音を言い過ぎました……自重します……。

あ、え、えと、そうだ!

最近はご飯も少しずつだけれど作れるようになりました。

昨日はサンドイッチを作ってみました。二人にも食べてもらいたいです。

あと、えーと、あとは……。

話したいことが沢山あって、全然まとめられません。ごめんなさい。

たまにこうして、やりとり出来たら嬉しいです。

また会いましょう。

ぜったい、ぜったい会いましょうね。



ふたりとも。たすけてくれて、ありがとう。


いま、わたしは、しあわせです。


 



~~~~



それから大晦日を越えて、年の始めの元日を迎えた。

明けましておめでとうございます。

二人でそう伝えあい、年越し蕎麦というものを食べる。

お兄さんお手製のお蕎麦は薄口でとても美味しかった。

鐘の音が鳴り響く境内、深々と降る雪の中を参拝する人々がテレビに映される。

とても厳かに感じるが、それ以上に私が感じているのは眠気だ。

時間を見ると午前零時を少し跨いだあたり。

お兄さんの下でお世話になって以来、こんなに遅くまで起きているのは初めてだ。

先に眠る旨をお兄さんに伝えると、明日はごろごろ過ごすから好きな時間に起きていいとの事。

お兄さんはしばらく夜更かしをしてテレビを見るらしい。

おやすみなさい、と私は先に伝えて就寝。

彼がいつ潜り込んできても良いように、お布団を温めておくのだ。


そして次に目が覚めたのは、午後三時。

久しぶりに飛び起きる。いくらなんでも寝すぎてしまった……。


 


「おはようございます……元日早々から寝坊して申し訳ありません……」

「おはよう、サンディ。僕も起きたばかりだし気にしないで」


お兄さんは朗らかに笑いながら、ご飯の準備を進めている。

おせち、というものを取り寄せていたようで、お雑煮というのを作り終えるまで

それを摘まんで待っていてほしいとの事。

私は重箱に入っている彩り鮮やかなその中から、不思議な形の食べ物をぱくりと食べてみる。

おお、かまぼこだ。美味しい。


「それにしても、よく寝てたねぇ。今日の夜が初夢になるから、その調子だといい夢を見れそうだね」

「あ、はい……」


私は夢を見ない。

お兄さんにそれを伝えていないから、もちろん知る筈も無く。


「今日はお兄さんの夢を見れたら嬉しいです」


と付け足してみる。


「嬉しいこと言うねぇ。じゃあ僕はサンディの夢を見ようかな。
 あ、お餅は何個ほしい?」

「えっと、六個です」

「いいねぇ、僕は餅あまり食べないから助かるよ」


少々食い意地が張ってしまったような気がしなくもない。

運ばれてきたお雑煮が大きいドンブリに入っていた辺りで、少しだけ後悔した。


そんな穏やかな元日をお兄さんと過ごす事が出来た。


 






潮騒の音が聞こえてくる。

気が付くと私は、砂浜に立っていた。

足元には海水が寄せては引いている。

私の来ている服装は白いワンピースに麦わら帽子。

随分と肌を露出する恰好だ。

気になって左手を水平に上げてみると、拷問を受けた際に付いた大きい切り傷がなくなっているではないか。

よくよく見てみれば、体に刻まれた鞭の痕が随分と薄くなっている。


ふと後ろから声が聞こえてきた。

私を呼ぶ声なのだろうか。

耳を澄ますと、少年の声が聞こえてくる。

おかあさん、おかあさん、と。

はて一体誰を呼んでいるのだろうか。

そう思いながら振り返った直後、腹部にどしんと振動がくる。

先ほどの声の主であろう男の子が飛び込んできたのだ。

そして私に向かって告げる。

「おかあさん」、と。

なんとなく、腑に落ちる。

よく分からないが、私はきっとこの子のお母さんなのだ。

その子に手を引かれるまま、私は何処かへと足を進める。

どこへ行くのか訊ねてみれば、僕らのおうちへ帰るんだと言う。

おとうさんも待ってるよ、と嬉しそうに言うから、なんだか私も嬉しくなる。

砂浜から歩いて間もない所に建っている白い家。

そこの玄関を開けて、ただいまと男の子は元気に入っていく。

私も、なんとなく、ただいま、と言ってみる。

家の間取りは分からないのに、足の赴くままに進むと、リビングに通じていそうなドアの前まで来ていた。

男の子の声が聞こえる。お母さんが帰ってきたよ、お父さん。

お父さんと呼ばれた人は答える。よし、じゃあ二人で出迎えようか。

私は恐る恐る、そのドアを開ける。

そこには。




「おかえり、サンディ」



お兄さんが、その男の子を抱きかかえて、私を迎えてくれた。



 



ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ。

目覚まし時計のアラームが枕元で鳴っている。

私はむくりと起き上がり、寝惚けた頭でおもむろにそれをオフにする。

横を見ると、とても気持ちよさそうな顔でお兄さんが寝ていた。

いったい何の夢を見ているのだろうか。

良い夢だといいな、と思ってしまう。


顔を洗うために起き上がろうとしたその時、ふと頬が濡れているのに気付く。

何故に私は泣いていたのだろう。

原因を思い出そうとするが、分からない。

ただ、なんとなく、幸せだった事は分かる。

潮騒の心地良い港町で、不思議な男の子に出会っていたのだ。



ああ、なるほど。


私は夢を見たのだ。



――あれはきっと、初夢だったのだ。


 


 


読んで頂いてありがとうございます。

とりあえず、第一部完という事で。



【エンディング曲】

https://www.youtube.com/watch?v=A-D3pRQMiNw

 


乙レス、感想など有難うございます。嬉しい限りです。

「虐げられてきた者が夢見る少女に変わるまで」という当初の脳内目標までは書けました。

スレはこのまま残して二人の幕間などをつらつら綴ろうとも思いましたが

内容的にキリも丁度良い頃合でしたし、一旦ここで〆ておくことにします。

次回作、または探偵と元奴隷の小話続編でお会いしましょう。

重ね重ね、お時間をかけて読んでくださって本当に有難うございました。 依頼を出してきます。



夜明けの空に蛍が哭いた。

時刻は午前四時を少し過ぎた頃。

薄い青を纏う空は雲一つ無い。淑やかな景色だ。

窓を開けると、白みがかった月の横に寄り添うような星が見える。

それと同時に、人肌程度のぬるい湿気を重ね着した風が部屋に忍び込む。

香水のように仄かに鼻腔をくすぐる朝露の香り。

季節が巡る。

彼女と過ごす初めての夏は、いつの間にか本格的に始まっていた。

 


早起きをしたので寝室の窓際で夏の朝を噛みしめていると、

ベッドの方から「うぅん……」と声が聞こえてきた。

そちらの方に振り返って音の出処を確認してみると、

同居人のサンディから発せられていた声だったようだ。

寝汗で冷えているかも知れない。

近づいて軽く頬を撫でてみるが、特に汗をかいたような形跡はなかった。

頬を撫でた際、寝ている彼女は軽く微笑んだ。

起こさない程度に冗談半分で顎の下を少し擦ってみると、

嬉しそうな、くすぐったそうな顔をしてむにゃむにゃ声を上げている。

日々の修行の成果か、徐々に猫の魂がインストールされているのかも知れないな。


それにしても、幸せそうな寝顔をしてくれるなぁ。

ここに来た時は毎夜の如く魘されていて、ひどい歯ぎしりをしていた彼女が

今はこうして穏やかな眠りを享受できている。

本当に喜ばしいことだ。

きっと彼女を怖がらせるような外敵がいないという、安心した環境下がそうさせてくれるのだろう。

そこに少しでも僕が介添え出来ているのなら、それだけで良い。

いつか僕の元を離れて、それから先の世界を生きる彼女。

今のように安寧で過ごしてくれるよう、少しずつ整えていかなければならない。


サンディと過ごし始めてから早九ヶ月。

当初の予定だった一年契約は、今のところ相手先からの変更は無し。

季節が巡る。時の流れは寄せては返す波のように。

出会いの季節に近づいて、別れの季節へ還っていく。



「おはようございます、お兄さん」

「おはよう、サンディ」


目を爛々と輝かせたサンディは元気よく挨拶をしてくれる。

よく眠れた証拠だろう。

彼女は颯爽と台所に向かい、朝ごはんの準備を始めた。

料理の楽しさを知ったのか、居候なりの気遣いか。はたまた両方か。

もはや我が家の朝食に関してはサンディの領分と成っていた。

僕としては非常に有り難い限り。

まぁ任せっぱなしも何なので、洗い物くらいは担わせてもらってはいるが。


コトコトとお味噌汁がうっすら噴きそうな、美味しそうな音が聞こえてくる。

エプロンを着けたサンディは慣れた手つきでコンロを止めて、お玉で軽く中身を一掬い。

ふーっ、ふーっ、と息を吹きかけて熱を冷まし、ずずっと啜る。

次の瞬間には花が咲くような目映い笑顔。どうやら美味しく出汁が取れたようだ。

やたら素敵な表情をするので、ちょっとだけ味見をしたくなる。


「サンディ、サンディ。僕もちょっと味見がしたいな」

「はい、勿論です。味の濃さは如何でしょうか?」


そう言いながら同居人は再びお玉に汁を掬い、

またしてもふーふーしながら一所懸命に冷ましてくれる。

これは何とも至れり尽くせり。

息を吹きかけるサンディに、からかいがてら擽るように告げてみた。


「なんだか新婚さんみたいだね」

「ふーーーーーーーーーーーー!!!???」


サンディの吐く息の量が凄まじい事になり、お玉の中身は全てキッチンの排水溝に吸い込まれた。


目線は宙を浮き、握ったお玉を剣道の竹刀の構えのように僕に向けてきた。

しどろもどろの擬人化、とは今の彼女を指すのかも知れない。


「いや、え、あの、その、そ、そんなつもりでは……その……!!」

「いやゴメンゴメン、驚かせちゃったね」


耳まで真っ赤にしている彼女が何とも可愛らしい。

僕がカラカラ笑うと、サンディはもうっと言いながら改めて一口分だけお味噌汁を掬う。


「はいお兄さん。ご自身でふーふーしてくださいね」


どうやらちょっぴり拗ねてしまったようだ。それすらも愛おしい。


僕は自分で軽く二息ほど吹きかけ温度を覚まし、さっそく味見をしてみる。

うん、良い出汁が出ている。これは随分と料理上手になったもんだ。

年齢的にはまだ幼いという言葉が当て嵌まるのに、本当に君はしっかりしている。

思わずサンディの頭に手を置いて、くしゃくしゃと軽く撫でてみた。

彼女はうひゃっ、と声を上げて驚いてはいたものの、少し俯きがちに僕の手を享受してくれた。


「うん、美味しい。サンディは良いお嫁さんになるよ」

「ほ、本当ですか!!」


とても嬉しそうな顔で喜んでくれるサンディ。

良いお嫁さんになるのは本心だ。確定事項と言ってもいい。

まだまだ小さいけれど、もう数年もすれば

世の男性が放ってはおけない素敵なレディになるだろう。

あとは悪い虫が寄って来ないよう、撃退方法を伝えておくのが僕の役目か。



サンディはもじもじしながら、僕に一つ質問を投げかけた。


「お、お兄さんは、私のそういう姿を見たいとか、思いますか……?」

「勿論だよ。君のウェディングドレスを見る事を、僕の人生目標にでもしようかなぁ」


なんて冗談交じりに言ってみる。

するとサンディは大きい目をキラキラさせたかと思うと、とたん僕の胸に飛び込んできた。

顔を胸元に埋められて後頭部しか見えないゆえ、どういう表情をしているのか読み取る事はできない。

うずまってきた胸の内側で彼女は言葉を紡いだ。


「じゃあ、いちばんちかくで、みてくださいね……!!」



バージンロードを歩く父の代役という意味だろうか。

とりあえず、うんと答える。

すると彼女はうずめた顔を僕の胸にぐりぐり摺り寄せてきた。

僕の後ろに回されている手もギュっと力が入って、抱きしめられているような感じになっている。

ここまでサンディが表現するのは珍しい。嬉しいのだろうか。

とりあえず頭を再び撫でながら僕は言う。


「とりあえず、朝ごはんの準備しよっか」

「…………は、はいっ!」



和食で彩られた朝食。今日も彼女の料理の上達具合を味と共に楽しめた。

僕は食器洗い、サンディは食後のお茶の準備をこなし、穏やかな朝の時間が始まる。

テレビを点けると朝のニュースが流れている。

サンディは食い入るようにゴシップに見入っていた。君って割とそういうネタ好きだよね……。

その合間に僕はポストから朝刊を取る事に。

ポストの中には新聞に紛れて、町内会のチラシが投函されていた。

内容は「夏祭りにおける道路規制について」。

そういえば今日は夕方からお祭りだったな、と思い出す。


お祭りは特に花火に気合を入れていて、近くの湖に面したところで打ち上げる事になっている。

割と規模の大きい打ち上げ花火が見られるから、近隣住人における夏の風物詩にもなっているのだ。

そのチラシを片手に事務所へ戻り、

芸能人の飲酒問題に興味津々のサンディさんの背中に向かって問いかける。


「サンディ、今日はお祭りに行かないかい?」

「……はい?」


お祭りが何たるかいまいちピンと来ていないのだろうか。

首を傾げる動作がキュートで愛らしい。

後ほど祭りの活気と花火の綺麗さを軽くレクチャーする必要がありそうだ。



僕と君はいつか離れる事になっている。

それまでに、うつくしいものを一つでも、君に差し上げたいんだ。

今宵はここまで。今回は幕間がてらの二人の近況の話。
次回こそ夏祭り編。

夏休みだしアメリカの孤児院に住んでる子がホームステイ(?)に来たらサンディ慌てそうだな
と、夏休み編きぼんぬ



耳に届くは夏の風物詩。

遠くから太鼓の音が聞こえてきた。

実際に叩いてはおらず、どうやら町内放送用の

大きいスピーカーで流しているようだが、

それだけでも祭りの雰囲気をこれでもかというほど増幅してくれる。

湖畔の傍にある公園のベンチで、僕はのんびりと空を仰いでいた。

薄橙色の黄昏だったカーテンはゆっくりと黒を纏い始めている。

夕暮れ頃に浮かんでいた入道雲も夜に染められているようで、

今は蝉の声と共に鳴りを潜めているようだ。

 

 
周りを見渡せば人の波が視界に飛び込んでくる。

中々に壮観な混雑具合で、人混みが苦手は僕としては

この中に後から飛び込むのかと考えると少しだけ肩が重い。

只、がやがやとしているが、その実なぜだか妙に心地良い。

祭りの賑わい故だろうか。

下駄足が奏でるカランカランという音と共に、

耳に入ってくるのは笑い声を基調とした穏やかな喧騒。

家族か、友人か、或いは想い人か。

様々な人間模様が目の前をゆっくりと通り過ぎていく。

 


ふと、下駄の音が背後から自分に近づいてくるのを感じた。

振り返ってみると、そこには一人の女の子。


「お兄さん、お待たせしました」


和装の定番とも言える浴衣に身を包んだサンディがそこにいた。

日焼けした褐色の肌、烏の濡羽色を想起する黒艶な髪からのぞかせる、ほんのり紅潮した頬。

何やら少しもじもじしているのは、着慣れない服装に戸惑っているのかもしれない。

そんなしおらしい動作も兼ね揃えていて、奥ゆかしい大和撫子を体現しているようだ。

 

 
濃紺の藍色を基調とした浴衣に身を包んだサンディ。

それを見た僕は率直な感想を告げてみた。


「うん、綺麗だね」

「………………っ!!!」


彼女はぼっと顔を更に真っ赤にして、しゅんしゅんと肩を縮こませるような素振りをする。

俯きがちに口元をもにょもにょさせる仕草もこれまた愛らしいというか何というか。

お祭りのために慌てて浴衣の買い出しにいったのは、どうやら正解だったか。

 


サンディの分だけ買うと彼女は気後れするだろうから、

いちおう僕も大人用のそれを購入して、いま実際に着ていたりする。

和の心を形だけでもと整えてはみたが、こうして実際に袖を通してみると

なかなかどうして粋なものだ。


「お兄さんも、とっても似合ってます……」

「え、本当!? 似合ってる?」

「ほ、本当です! すっごく、すっごく格好いいです!!」


両手をグーの形にして胸元に構え、ふんすと鼻息を荒げつつサンディは褒めてくれる。

なんだが言わせちゃったみたいで申し訳ないなぁと、頭を軽くかいてみる。

そのまま余った方の手をサンディの頭に添えて、整えられた髪を乱さない程度に少し撫でてみた。

ふふ、と少しくすぐったそうに顔をほころばせてくれる。

困ったことに、どうにも可愛い以外の言葉が出てこない。

彼女の微笑みは、見た人の語彙力を無くす効力でもあるのだろうか。

 


「そ、それにしても思ったより時間がかかって申し訳ありません」

「気にしないで。少しは下駄に慣れたかい?」

「む、難しいところです……」


彼女は浴衣用の下駄を初めて履くものだから、

玄関を出た先の足取りなんてそれはもう覚束なくて危なっかしい。

なので近隣にある公園の周りを少し歩いて練習してくるとの事で遅くなっていた。

僕は祭りのために備え付けられていた公共用ベンチから腰を上げ、

さてどこから屋台を周ろうかなと思案をしながら一歩二歩と歩みを進める。

すると後ろから「うわっと、とと……」とこけないよう慌てるような声と共に

不規則なリズムの下駄音が聞こえて来た。

サンディはやはり歩き慣れていないようで、少しフラフラしながらも

カルガモの赤ちゃんみたいに一所懸命ついてくる。

靴擦れ防止のため、鼻緒が当たる指間にはバンドエイドを貼ってはいるものの、

それでもこすれて痛まないように歩く歩幅には気をつけておきたいところ。

 


目線を下にして足元を注視しながらも、わたわた歩きをするサンディは実に可愛い。

だがそれ以上にハラハラしてしまう……。

折角の楽しい場でケガをさせてしまうのは保護者失格。

浴衣と下駄を見立てたのは僕だし、そこはしっかり責任を持たねば。

支えになるため、彼女の左手を優しく握ってみた。

手が触れた驚きからか、下を向いていたサンディは顔を上げ、

まん丸になった彼女の目が僕の視線とぶつかる。

すると途端にまた俯いて、ぽつりと呟いた。


「あ、ありがとう、ございます……」


身長差も相まって彼女の表情は見えないが、耳元がこれでもかというほど赤くなっている。

一足早い秋の訪れか。まるで紅葉のようだった。

 


まぁ、おじさんに片足を踏み込んだような僕と手を繋ぐのは恥ずかしいのだろう。

中々に慣れてくれないから何だかこっちも妙に照れ臭くなってしまうのは困りもの。


「ゴメンね、嫌だったら離してもいいからね」


そういうとサンディは首を勢いよくブンブンと振って、

繋がっている手を少し強く握り返してくれた。


僕らは人込みの中にゆっくりと歩みを進めていく。

今日はお祭り。荘厳な意味合いではなく、人の笑顔で包まれる賑やかな世界。

美味しいものでも食べながら、ぶらりと歩いてこの空気を堪能してみよう。

その中で、一秒でも長く彼女の笑顔が続くよう

喧騒が好きな神様へ向けて少しだけ祈ってみた。

 


ちんとんしゃん、と祭りの雰囲気を色濃く醸し出してくれるBGMが聞こえてくる。

そんな中でダラダラ歩みを進めていると、くぅぅと横から可愛らしいお腹の音が聞こえて来た。

発信源になった子は、それはもう恥ずかしさでいたたまれないような表情をしている。

そういえば夕飯を済ませていなかった事を思い出し、

僕とサンディは屋台の並んだ通りを歩くことに。

当の彼女はチョコバナナ、綿菓子、林檎飴と見慣れない食べ物に非常に興味をそそられており、

おのぼりさんの様に首を忙しなく左右に振っていた。

 



「お兄さん、あれはなんですか?」

「あれはヒーローを催したお面だよ」

「食べられるんですか?」

「食べられないよ」

「え、でもアンパン〇ンのお面があります……」

「彼は稀に食べられない顔を持っているからね」


「あ、ではあれは何をしているんですか?」

「あれは型抜きだよ。くりとった型の出来で賞金や商品がもらえるよ」

「食べられますか?」

「素材的に食べられなくはないけれど、たぶん止めといた方がいいよ」


「じゃあ、あれは何ですか?」

「金魚すくいだね。掬った金魚を持って帰って育てたりできるよ」

「食べられますか?」

「お刺身の文化はあるけれど、あれは食べられないよ」


今日のサンディさんは突然の腹ペコ属性を手に入れてしまったようだ。

このままでは射的の屋台を見ても食べ物の可否判定をしそうな勢いじゃないか。
 


「へい、サンディ」

「な、なんでしょうか?」

「お好み焼きとタコ焼き、どっちが好き?」

「ど、どちらも好きですが……強いて言えば、たこ焼きです」

「よっしゃ任せて、どっちも買ってくる」

「え、お兄さん!? お兄さん!?」


何故に一回泳がせる質問をしてしまったのか、それはきっと祭りの魔力。

ハードボイルドらしからぬ言動だが、そこはそっと目を瞑ってほしい。

たぶん僕も空気にあてられ、少し浮かれているのだろう。

お祭りとは得てしてそういうものか。童心をふっと思い出してしまうのも已む無し已む無し。

 


少し離れた屋台にて双方の食べ物を購入し、サンディの所へ戻ろうと振り返ってみると。

遠目だと分からないが、どうやら浴衣姿の女性と話し込んでいるようだ。

知り合いなのだろうか? 屈託のない笑顔を浴衣の女性に向けていた。

例の事件のこともあるし、心内で少しだけ警戒レベルを上げながら元居た場所に歩みを進める。

だが、近づくにつれて自分の心配が杞憂なのが分かった。

サンディと話し込んでいるのは、よく買い物に行く洋服屋の店員だった。

確かサンディと初めて会った頃、動物園に向かう前に寄ってからあの店は贔屓させてもらっている。

当然僕も顔なじみになり始めていたので、まぁ互いに見知った仲ではある。

浴衣姿の店員がこちらに気付いて手を振ってくれた。

少し気恥ずかしさを覚えながら、食べ物の入った袋を片手に一任し、空いた手で手を振り返してみた。


その時にふと、気がつく。

その店員の背中に隠れるように、サンディと同年代の子どもがいる事に。

 


「あら、お兄さん。偶然ですね!」

「いや本当に。店員さん、浴衣姿も似合っていますね」

「本当ですか!? いやー、イケメンから言われると悪い気はしませんね!!」


はっはっは、と互いに笑いながらも邂逅する。

こちらとしては偽りなく褒めているつもりだが、まぁ向こうの返しは社交辞令だろう。

アパレル系の方は何かとお上手なものだ。

ふと何やらピリッとした視線を感じる。

店員の後ろから発せられるそれは、子どもから生じていたものだった。

なんだか敵意のようなものを向けられているような気がする。

知らぬ間に嫌われるようなムーヴを見せてしまっていたのだろうか……。

 


大きな目、クリっとした癖毛、中世的な顔立ち。

例えがあまり思い浮かばないが、芸能人の有名子役と言われても違和感のない子だ。

まぁ、うちの子も負けてはいないが。

背丈と雰囲気から察するに年齢はサンディと近いと予想する。

……ただ、この子は男の子か?女の子か? 一体どっちだ?

とりあえず質問してみることに。


「あの、後ろの子はご家族ですか?」


店員はからから笑って答える。


「この子は従弟ですよ。年の離れているのもあって可愛いのなんのって」

「そ、そうですか……」


男の子であったか。

うむ、探偵としてのカンが男の子と告げていたからね。やっぱりか。

などと誰にも聞こえない謎の強がりもとい勝利宣言を頭の中だけで考えていた。

 


そういえばサンディは、日本に同じ年頃の子の友人が今の所いなかったのを思い出す。

もしこの子が友人になってくれたら、きっと彼女は喜ぶだろう。

いつの間にやら僕の背中に隠れるように収まっていたサンディの頭を軽く撫で、

そっと背中を押して前に出す。


「ほら、自己紹介」

「あ、え、あ……、さ、サンディです。 こ、こちらのお兄さんにお世話になっています」


よく言えました、と褒美のように手元のたこ焼きを手渡しする。

えへへ、と笑顔を見せる彼女は可愛い。

何でこんなに可愛いのかよ、と孫を歌う某演歌の歌詞の一部が想起されてしまう。


負けじと店員さんも、背中にいた子をグイグイ押し出してきた。


「ほら!あんな可愛い子が挨拶してきたんだから、アンタも自己紹介しなさいな」

「……みなせ、まお、です。真っすぐ生きるって、書きます」


なるほど、真生(まお)君か。良い名前だな。

確か中国の猫も、マオと呼ぶんだったか。そちらの意味も妙にしっくりくる。

サンディにとって、こっちでの初めての友達になってくれたら嬉しいけれど、

まぁそこまで干渉するのは庇護が過ぎるか。

両人でどこか気が合う所があればいいのだけれど、などと思ってしまう。

 


店員のお姉さんは、よくできましたと言わんばかりにマオ君をぐりぐり撫でくりましている。

当の彼は、やめろよと口では言いながらも、嫌がる事無くされるがままだった。

どことなく照れているような素振りすら伺えてしまう。

……おや、これはひょっとして?

ひとしきり撫で終えたあと、店員はこちらを振り返って笑顔を向けてくる。


「それにしても、お互いに子ども連れって奇遇ですね。
 お兄さんは彼女さんとかいらっしゃらないんですか?」

「いやぁ、あいにく縁が無いものでして」

「モテそうなのに意外ですねぇ」

「それを言うならそちらこそ。彼氏さんとは予定が合わなかったんですか?」

「謙虚に地雷を踏むタイプの人ですか、お兄さん……!
 彼氏なんてもう長いこといませんよ……」


店員のお姉さんは、げんなりと肩を落とすような仕草で、これみよがしに大きなため息をつく。

僕はこういう男女が絡む話は苦手なんだ、ハードボイルドだから。

 


「で、でもお姉さんはきっとその内いい人ができますよ。お綺麗なんですから」

「いいんです、いいんです……。その優しさにしばし癒させてもらいます……」

「何なら僕が嫁さんにしたいくらいですよ」

「えー、ほんとにですか……?」


何となくお姉さんがまんざらでもない顔を向けてくる。

と、同時に空いた片手がギュッと握られた。

なんぞと思いながら視線を向けると、無表情でたこ焼きをもぐつかせながら

サンディが僕の手を握ってきていた。

よくよく顔を覗き込むと目は虚ろで、瞳の中にはまるで出会った時のような

感情を殺したようなどんよりとした黒が見える。

えっ、サンディさんこわい。どうしたの?

 


謎のプレッシャーを感じつつ、ふと相手の方を見てみると、マオ君が店員さんの手を握っていた。

彼女はポカンとしながらも握られるがまま。

マオ君は顔を見られないように俯きながら、しかして真っ赤な耳で呟いた。


「姉ちゃんは俺がもらうから、いいだろ」


男前ですやん。なんて分かり易い初恋なんだ……!

敵意の目線を向けられていた事も理解した。

なるほど、お兄さんは全力で君の応援をするぞ。

そんな事を言われた当の本人は。


「はーーーー!! もう、可愛い!!!
 姉ちゃんね、アンタがそんな事を言わなくなるまで、ずっと甘やかしてあげるからね!!!」


それを聞いたマオ君は、サンディと同じように無表情で死んだ魚のような目をしていた。

 


サンディは握っていた僕の手を放して、つかつかとマオ君に近づいていく。

そうして悲しみの抱擁が終わった彼の前に立ち、次はサンディが彼にハグをした。

そして背中を二度三度、ポンポンと叩く。


その後にサンディとマオ君は初めて向かい合い、互いの目を見つめた。

はっ、とマオ君はサンディの何かを察したような仕草をする。

サンディと僕を交互に数度見て、その様子が終わったあとにサンディは無言で彼に向けて頷く。

次はマオ君が無言でサンディに抱擁を返した。

そして背中を二度三度、ぽんぽんと叩く。


抱擁が解かれたあと、彼らはほんの数秒だけ見つめ合い、何故か堅い握手を交わした。

この動作が行われている間、たったの一言も言葉を交わしていないのに。

何故かサンディとマオ君の間には確かな友情らしきものが生まれていた。

二人の表情を見るに、友情というか、同盟というか、仲間意識というか、そういうものすら感じてしまう。


彼らの思いなぞ終ぞ知らぬ僕と店員さんは、きっと同じ事を思っていたに違いない。

最近のシャイな子どもって、何も言わなくても友達になれるんだなぁ、と。

 


そうして僕らは二言三言と世間話をしたあと、

もうすぐ花火が始まるとのアナウンスを機にそれぞれ解散した。

お姉さんは別所に二人分だけスペースを事前に作って陣取ってあるのだとか。

僕たちよりその場を早めに去る二人の背中を見つめる。

目に見えて分かるのは、身長差。

頭一つ少々足りていない背の高さが、きっとマオ君にはもどかしいのだろう。

願わくば、彼の初恋が実りますように。

前を向いてずんずんと歩き、何事もないような振りをしながらも

おそるおそる好きな人の手を握ろうとする、一所懸命なマオ君の姿を応援したくなった。

日本でのサンディの初めての友達。いつか家に招いてみたいものだ。

サンディと手を改めてつなぎ直し、僕らは花火の見える広場へと向かった。

 


温い夏風が頬を撫で、耳を賑わす人込みの喧騒。

祭りのメインイベントとなる花火の打ち上げ会場には、沢山の人でごった煮していた。

これは冗談抜きで油断したらはぐれそうだ。


「ゴメンね、サンディ。人酔いしてないかい?」

「は、はい。平気です。こんなに多くの人が周りにいるのは初めてで、少し楽しいくらいです」

「そっか、良かった。はぐれないように、腕を掴んでもらってもいいかな?」

「え、その……いいんですか?」

「いいんです」


えいっと掛け声付きでサンディは僕の腕に抱き着きながら、下駄の音を響かせる。

最初に比べたら随分と歩き方も慣れたようで何よりだ。


「これから、その、花火が始まるんですね」

「そうだよ。テレビで見た事あるかも知れないけれど、本物は迫力が違うからね」

「楽しみです……♪」


はにかみながら、嬉しそうな声色で答えてくれる。

サンディの片手は僕の左腕、空いた手で広場に向かう途中で手に入れた林檎飴を持っている。

甘い物が好きな彼女は、これを買ったときが一番興奮していた。

林檎一個が丸々包まれたものは流石に入らないとの事で、

カットされている小サイズのものを購入して大事そうにペロペロと舐めていた。

それを見つめるのは、広場でたむろっていた小学校高学年くらいの年頃の少年たち。

まぁ気持ちは分かる。綺麗だもんね。そりゃ目をひくだろう。

実際にここに来るまでに、同年代の男子がすれ違うたび、彼女を振り返っているからなぁ。

ほんと何人かの初恋を奪っていってるのではなかろうか。

 


そんな事を露知らず、サンディは夜空を仰いでいた。

雲は少なめ。視界は良好。

星の輝きは特になく、ぼつんと黄色の欠けた月が申し訳程度に浮かんでいる。


「この真っ暗な景色に、色がつくんですね」

「うん、きっと綺麗だよ」

「はい、ワクワクします」


そう言って、吸い込まれそうなほどキラキラした目で再び空を見上げた。

見えない筈の星空を瞳に映しているかのようだ。

 


彼女が日本に来てから数ヶ月。

そのほとんどは、僕との生活の思い出になっているだろう。

虐げられてきた彼女は、昔の記憶に今も苛まれている。

僕は、サンディに、幸せを一房でも与えられているのだろうか。

誰かの幸せを願うような、幸せな気持ちでいっぱいだから。


彼女の笑顔が続くような日々を思うばかりで、自分がしっかり事を成しているのか自信は皆無で。

蕾のような子に綺麗な花を咲かせてあげることはできるのか。

もうすぐ秋が来る。

別れになるかは分からないが、一つの終わりがやってくる。

もしそうなった際に、僕との思い出が美しいもので彩られますように、と。

愛しい気持ちで僕は祈るのだ。

 



そんなことを考えていたら。

ぱぁん、ぱぁん、と。始まりの音が聞こえて来た。

空に轟音が鳴り響く。

少し遅れて、頭上は色鮮やかな花々で埋められる。

綺麗な花が空で咲いて、僕の横では小さな笑顔の花が咲く。

今日という一日の締め括りには最高だ。

明日もまた、良い日でありますようにと。

喧騒のどこかで微笑んでいるであろう、祭りの神様にお願いをしてみた。

 



~~


   僕「うーん……うーん……」

サンディ「二日酔いですか、お兄さん……」

   僕「み、水がここまで美味しいとは……」

サンディ「買い過ぎた屋台の品を片付けるがてらに、普段飲まないお酒を飲んじゃうから」

   僕「ま、祭りの雰囲気でイケるかなって思っちゃってさ……。
     ビールを二缶空けただけで、まさか翌日まで響くとは……」

サンディ「これに懲りたら、お酒は程々にしておいてくださいね」

   僕「ぜ、善処します……それよりサンディ、一緒に祈ってくれないか?」

サンディ「何を祈るんですか?」

   僕「“二日酔いが早く治りますように”って……」


 

板の復活記念がてら書きましたが、今宵はここまで。
途中で紛らわしい感じの間を空けて申し訳ありませんでした。
頂いたレスとっても嬉しかったです。本当に。
今後ともゆるりと宜しく願います。次回は>>422を書きませう。

作業用BGMを一曲紹介
https://www.youtube.com/watch?v=22mOCjkwQjM

新年あけましておめでとうございます。
今宵どこかで投下をば。

 
秋の兆しよりも、夏の名残が風に乗って頬を撫でてくる。

そんな九月の半ばを迎える暦の頃。

私は探偵事務所のテーブルで、とある同年代の子と一緒に向き合って勉強をしている。


体面にいる男の子の名前は、水瀬 真生(みなせ まお)くん。

先月の夏祭りで知り合ったばかりだが、

なんとなく彼とは非常に気が合いそうな気がしている。

日本語でいう“同好の士”とでもいうのだろうか。

いや、何か違うような気がするが、それに近い空気を感じるのだ。


>>444
 


彼は非常に中性的な顔立ちをしていて、

黙っていると女の子にも見えてしまう。

同じくらいの年の友人なんて殆どいないけれど、

テレビで見るような賑やかな子ども達とは違う、独特の雰囲気がある。

そんな彼を見つめていると、チラッとだけ目が合った。


「……なに?」

「あ、いや、別に……なんでも、ないです……」


ふーん、とだけ言葉を残して、マオくんは再びテーブルの下に目を落とす。

人の動向を見過ぎる仕草は失礼に値する。

昔そう教えられていた事もあり、反省をしつつ

私も机に敷かれた積本を崩す作業に戻ることにした。

カリカリ、カリカリと鉛筆が滑る音に紛れて

ペラリ、ペラリと本を捲る音が、私たちのいる空間に反響する。

とても静謐で淑やかな時間だと感じている。

マオくんとは出会ったばかりなのだけれど、あまり緊張しないのは

こういう空気を共有できるからなのかも知れない。
 


そのまましばらく時が流れて、私は本を一冊読み終えた。

さて次は何を読もうと考えていると、体面で机に噛り付いている子が目に入る。

ふと興味が湧く。マオくんが何を一心不乱に学んでいるのか。

そっと覗いてみると、どうやら国語の四字熟語を覚えるために

何度もノートに書きなぐっていたのだ。


私も日本語は文字通り叩き込まれながら覚えたのだけれど、

当時を振り返ると四字熟語は結構苦手だったりした。

慣用句と違い、漢字のみで形成される言葉の成り立ちがイコールで結び付けづらいから。

設問を間違えた回数分、シャープペンを腕に突き立てられた事もある。

私は無意識に左腕の少し肉厚になった傷跡に手を添えていた。

過去の記憶を思い出しそうになり、思わずぶんぶんと頭を振ると、

訝しげな表情でマオくんが見つめてきていた。


「なに? ……どこか痛いの?」

「え、う、ううん。大丈夫です、大丈夫……」


そっか、と言いながらも、チラチラと私を気にするように、

目が合う頻度が少し上がった気がする。

マオくん、優しいなぁ。
 


ただ、私がいることで彼の気を散らせてしまっているのなら申し訳ない限り。

ずっと勉強を続けているマオくんの息抜きになればと、

ほんの少し勇気を出して話しかけてみた。


「それ、何の勉強をしているんですか?」

「ん、塾。宿題とは別にテスト勉強してるだけ」

「へぇ……すごいなぁ。私、そういうのやった事ないから」

「そうなの?」


マオくんが不思議そうに首をかしげる。

何となく猫を想起させてくる仕草だなぁ。

私は、うん、と首を縦に振りながら、思っている事を口から紡いだ。


「ちょっとだけ憧れているんだ、学校みたいなこと」

「学校に来たことないの?」

「うん」

「そっか……」

「マオくんは、学校楽しい?」

「別に。俺は早く大人になりたいから、学校に居ること自体、なんかもやもやしてる」

「大人になりたいの?なんで?」

「それは、その、そう……何となく、かな。
 せ、背伸びしてるみたいでダサいよな……」


そう言いながらも、彼は耳を真っ赤にしている。

ふと笑顔の素敵なお姉さんが脳裏をよぎった。

きっと、好きな人に一秒でも早く追いつきたいんだ。


「わかります」


私は思わず口に出していた。
 


彼はきょとんとした顔で、私を見つめてくる。

次は私の鼓動が早くなる番だった。

何も考えずに零れた言葉、私の心。

言葉の裏に思い描くのは、私の神様。

あの人の横に並べる女性に成りたいから、私は大人になるまで生きていたい。

生きていたいと、願ってしまうのだ。


「君も、そうなんだ……」


コクリ、と首を振ってマオくんからの質問に答える。

何故か凄く恥ずかしい。耳まで真っ赤になっているのが分かる。


「じゃあ俺たち、戦友だな」


マオくんが、二カッと無邪気な笑顔を返してくる。

私は、ようやく彼が男の子と認識できたような気がした。

何故か不思議と嬉しくなって、返事の代わりに笑顔を向けてみた。


イザベル、クロエ。

わたし、友達ができたよ。
 


それから私とマオくんは、他愛もない話を交わしていく。

マオくんは学校の友達のこと。通っている塾のこと。

そして、お姉さんのこと。

私は基本的にお兄さんのことが話の内容として多くなってしまう。

そんな話の流れは、マオくんが勉強をしている四字熟語の事にスポットが当てられた。


「マオくんは何の四字熟語を勉強していたの?」

「ん、色々。 今は“岡目八目”ってのを覚えていた」

「岡目八目?」

「サンディにはあんまり馴染みないかもね。
 囲碁っていうゲームから生まれた言葉だし」

「それってどういう意味?」

「ああ、それはね……」


マオくんがその解答を告げようとしたその時、

探偵事務所の扉がきぃ、と音を立てて開いた。


「ただいまー。 二人ともお留守番ありがとね。
 アイス買ってきたから、お利口さん方は好きなの選んじゃって」


朗らかな声が私の鼓膜と心を震わせてくれる。

お兄さんの声だ!!
 


「おお、マオくん。勉強いつも頑張ってるね。
 お姉さんから『塾が始まるまでの一時間だけ預かってくれ』って頼まれてるし、
 時間がくるまでゆっくりしていっていいよ」


お兄さんはマオくんにそう告げると、

マオくんは、「……りがとざっす」と、小さな声でお礼を返す。

そしてお兄さんは手元のコンビニ袋を私たちに差し出してくれた。

マオくんが「先にいいよ、サンディ」と気を使ってくれるので

なんだか恐縮してしまって「ま、マオくんからいいよ!」と返事をする。

じゃあ遠慮なく、と言わんばかりにラムネ味のアイスバーを彼は選んだ。

残る一つはなんだろうと袋の中に手を入れ、それを取り出してみる。

私が選んだアイスは、千切ると二つになり、啜るように食べるものだった。

パ〇コと書いてある。

前にお兄さんと分けて食べた事があるが、チョコ味でとても美味しかったのを覚えている。

おもむろに袋からそれを取り出し、二つに分けてお兄さんに差し出す。

お兄さんは嬉しそうにそれを手に取り、余った手で私の頭を撫でてくれた。

嬉しさ半分、こそばゆさ半分。

いや、やや嬉しさが勝っている。体感の比率では8:2くらいか。

マオくんが何か考えながら私たちを見ているような気がするが、気のせいだろう。


「ありがとう、サンディ」


お兄さんは嬉しそうに言う。

わたしは、それが、とってもうれしい。
 



「でもサンディのご褒美で買ったんだから、二つ食べていいんだよ?」

「あ、そ、それはですね……今日読んだ本に……」

「何か書いてあったの?」

「“愛する人には、全てを注ぐの。何も見返りを望まずに。”って……」


視界の端でマオくんが、やるじゃん、と言わんばかりの顔をしている。

お兄さんがパ〇コを返そうとしたから、口から咄嗟に出た言葉なんだけれど。

愛などと大層な言葉を使ってしまい、恥ずかしさが止まらない。


「『献身』か。僕もそう在りたいな。いい本を読んでいるね、サンディ」


そういうと、またしても頭を優しく撫でてくる。

慈しむように触れてくるから、胸がいっぱいになってしまう。
 


アイスをガリガリと齧りつつ、何やら考えていたマオくん。

「ああ……そういう事ね……」と呟きながら、

ハズレの表記が出たまま半分残っているアイスを銜えつつ、テーブルを片付け始めた。

お兄さんはそれに気づいて、事務所に置いてある時計に目を向けた。


「もう塾の時間か。自分で気づけてえらいね。
 またこうしてサンディと一緒に遊んでくれたらうれしいな」

「はい、また来ます。 俺、サンディと気が合いそうなんで」


お兄さんは嬉しそうに、うんうんと頷いている。

そして勉強道具をすべて仕舞い込んだマオくんが、帰る前にそっと私に耳打ちする。


「大変だな……」

「なにが?」

「いや、なんでもない……。二人のおかげで、一つ勉強になったよ」

「?」



「岡目八目、ってやつ」
 

ご無沙汰しております。
またこうして、ゆっくりと綴っていけたらいいな、と。
たまには覗いてくれると嬉しい限り。

感想を頂ける喜びを噛み締めつつ、
話を綴る楽しさを改めて思い出しています。
有難うございます。感謝。


【二人のエピソード】  ※連れて行きたい場所、日常の一コマ、未来の話など

たまには仕事帰りのお兄さんを


【視点:男 or サンディ or その他】

サンディ視点
 

 
六月中旬。夕刻の頃。

どんよりとした空模様から、しとしとと降っている生温い雫がアスファルトを濡らす。

天気予報の週間予想は、一昨日からずっと傘マークを示していた。

これほどまでに雨が続くと、恵みの雨と表するには少々供給が過ぎているようにも感じる。


夏が始まる前の日本の空のカーテンは、グレイの色合いをしていた。

今まで私が居た場所の天井を想起させてきて、何だか少し気が滅入る。

ただ、外の景色を歩く人々は、色とりどりの傘を差していて

灰色の用紙にビビットな色彩の絵の具を撒いたような

高翌揚感のある風景も一緒に見せてくれる。
 

 
街並みを探偵事務所から見下ろしながら、私は一人の影を探す。

探し人は、居候先でお世話になっているお兄さんだ。

今日はお仕事で午前中から外出していて、帰宅が夕方頃になるとの事。

お兄さんを玄関で「おかえりなさい」と迎えたいので、

帰路の姿を見つけられるよう、こうしてチラチラと外を気にしてしまう。

まだ来ない、まだ来ない……。

待ち続けること三十分。

その間、「ただいま」と私に向けてくれる、ほんわかとした笑顔を思い描くたび。

何故だか耳が紅潮してしまい、どうしても落ち着かない。

 
既に家事は粗方片付いており、強いて言えば夕飯をどうするか悩んでいるくらい。

いつも夕方の時間帯はテレビを見ているか、読書、勉強をしているけれど、

今日はそんな気分ではない。

窓の外に映る景色が気分を落ち着かせてくれているのか、

もしくは昔の景色が瞼の裏に映って気分が落ち着かないのか。

お昼寝をしたらお兄さんの帰宅のタイミングを逃すかも知れないので、

何某かの行動はしておきたいところ。

何か良いものは無いものかと事務所内を見渡してみると、

旧型のラジオが目に飛び込んだ。

早起きした時にお兄さんがそれをよく聞いているので、

周波数は合っていると考えられる。


ご飯の準備の片手間に、ラジオでも聞いてみようと思い、

電源スイッチをオンにしてみると、丁度のタイミングで曲が流れてきた。

美しく澄んだ女性の声が耳に心地よくて。

それ以上に、歌の最初のフレーズに私は心を鷲掴みにされた。
 



Someday I want to run away
(いつか私は 逃げ出したい)

To the World of Midnight
(真夜中の世界へ)


曲自体は二分となく、短いものだった。

でも、その歌がずっと頭の中をリフレインしている。

覚えたフレーズだけ、自然と口から紡がれる。

 



「さーむでぃ……あい、うぉんと…とぅ、らなうぇい……」


いつか私は 逃げ出したい。


「とぅ……ざ、わーると…おぶ、みっどないと……」


真夜中の世界へ。
 

 
私が、ずっと、ずっと考えていた事。

逃げ出して、どこかに行きたかった事。

あの時に居た暗がりよりも、暗いところに行きたかった事。
 


堅い木材で頭を殴られた事を思い出すような衝撃だった。

不意に前に居た場所を思い出し、呼吸が少し荒くなる。

苦しさを顔に出すと更に折檻を受けた事を体が覚えていて、もっと息が辛くなる。

いきているのが、つらくなる。

お兄さんから渡されている青い錠剤を、ポケットから取り出し、

台所から水を調達して急いで胃の中へ流し込んだ。
 


ぜぇぜぇ、と肩で息をしながら、ふっと深呼吸をする。

深く息を吸い、ゆっくりと吐く事を数度。

心拍数はやや乱れているものの、先ほどよりも幾分か気分が楽になった。

それでも、あの美しい歌声が、頭の中で優しく響いてくるのは変わりなく。

悲しい曲。けれど、とても美しい曲だな、と感じたから。

つい、ぽつぽつと、私のか細い声帯はその歌を奏でてしまう。


雨音にかき消されるように小さく歌うその曲が、

誰もいない探偵事務所に反響する。


それを数度繰り返していると、その中で一番大きな音が鳴り響いた。

ピンポン、ピンポンというチャイムが二回。

お兄さんが帰ってきた合図だ。
 


私はバタバタと慌てて玄関まで走り、お兄さんを出迎える準備をする。

お兄さんが濡れているかも知れないから、タオルを片手に持ち、ドアのチェーンを外した。

金属を擦る無機質な音が聞こえてから一拍、ドアがきぃ、と開いた。


「ただいま、サンディ」

「おかえりなさい、お兄さん」


優しく微笑む彼の顔を見て、私は嬉しくなり、笑顔を返す。

そして手に持っていたタオルを渡すと、ありがとう、と受け取ってくれた。
 


「いやー、外は思ったより降っていたけれど、大きめの傘だったから殆ど濡れなかったね。
 出かける前に一緒に見ていたテレビの天気予報さまさまだよ」

「ふふ、それは良かったです」

「だからね、サンディ。気になる所は一つだけ」


お兄さんは手に取ったタオルを、優しく、優しく私の顔に添えてくれる。


「君の頬の方が濡れてる」

「えっ?」

「そりゃっ!」


お兄さんはそのまま、私の顔をタオルで覆い隠すようにぐるりと巻いて、

肩と膝裏に手を添え、お姫様抱っこの要領で私を持ち上げた。

突然の事に、うひゃあっ、と声が漏れてしまう。

顔が真っ赤になっているのが直ぐにバレそうだったので

恥ずかしさを隠す為にタオルはそのまま顔に添えて、

後はもうお兄さんの好きにしてほしいと言わんばかりに身を預けた。
 

 
そしてそのまま事務所のソファまで運ばれ、一番フカフカのクッションを敷いた所に私を置いた。

どうやら無意識のうちに滂沱の如く涙を流していたようで、

ようやく首元の襟筋まで濡れていることに気づき、割と新品の服を汚したようで申し訳ない気持ちがある。

お兄さんは心配しながらも、内証について深くは聞かず、

私にホットミルクを作ってくれた。じんわりと心まで温めてくれる、優しい味。

彼は私がミルクに口を少しずつ付けるのを、見守るように微笑んでいたあと、

部屋着に着替えるために自室へ戻った。

ふっと、また歌が頭を駆け巡る。

美しい歌の歌詞が、私の口から零れてくる。


「サンディ、声が綺麗だね」


自室の奥からお兄さんの声が聞こえ、私は気恥ずかしくなって俯いた。
 


恰好を部屋着にシフトしたお兄さんは、片手にコーヒーを持って私の横に腰を下ろした。

そのまま何も言わず、私の頭にそっと右手を伸ばして、自分の肩元に抱き寄せる。

何故だかまた涙が溢れてきた。

雨のような生温さのそれは、私の頬をポロポロと零れてゆく。

ふと、自分の頭の上から、調子が少し外れた歌が聞こえてくる。


「Someday I want to run away、To the World of Midnight……♪」


私が聞いたあの曲を、楽しそうにお兄さんが歌っていた。
 


「サンディ、懐かしい歌を知ってるね」

「え、あの……さっきラジオで聞いていたので……」

「この曲をラジオで流すのもまた凄いな……最近のFMを見くびっていたよ……」

「お兄さんはどうしてこれを知ってるんですか?」

「ああ、前の所長がジャンル問わずで音楽を車内で流す人でね。
 好きな作品で使われた曲だってのを熱弁された事があるんだ」


そう言いながら事務所の天井を見上げるお兄さんは、

どこか遠くの暗い場所を覗き込んでいるような、寂しい目をしていた。
 

 
「サンディ、ハードボイルドが生きる時間帯って知ってるかい?」

「いえ……分からないです……」

「ハードボイルドは真夜中に生きているんだよ」


ハードボイルドは生き物だったのか。

などと一瞬思ったがそうではなく、恐らく活動時間帯の事を指しているのだろう。


「だからね、サンディ」


お兄さんはくしゃり、と私の髪を撫でてくる。


「ハードボイルドたる僕は真夜中の世界にいるからさ」

「逃げてきたんじゃなくて、僕の所に走ってきたと思えばいいさ」


あの歌を聞いて、原因の分からない気持ちを抱えていた私は、

ようやく泣いていた意味を理解する。

あの場所から、この世界から、逃げ出したかった気持ちの後ろめたさを

全て包んでくれるような言葉を貰ったような気がした。

この人は、どうして私の事が分かるのだろう。

私でも分からない所を、分かってくれるのだろう。

色々な感情が混ざり合い、何も思考が出来なくなって。


私はふっと立ち上がり、お兄さんの額を右手で捲り、

そこに唇を当ててみた。

 


その感触で正気に戻り、お兄さんの顔を見つめる事無く、

我ながら物凄い勢いで台所の奥へと駆けだした。

この状態で目が合ってしまえば、きっと息が出来なくなる。

どうしようもないほどに心拍数や脈拍が上がってしまうけれど、

これはきっと、悪い症状ではないのだと、自分に言い聞かせる。


「お兄さん! 今日の晩御飯は何がいいですか!?」

「え、あ、じゃあ、ハンバーグで……」

「承知しました!いっぱい作りますね!」

「おおぅ、急に元気になったね、サンディ……」

「はい、もうずっと元気です!!!」


貴方が居てくれるから、私は元気でいられます。
 

 
 
貴方は自分を真夜中の世界の住人みたいに仰いましたけれど。


それを聞いた私は、貴方の事をそうは思っておりません。


私は生きている。

明るくて、温かい、お日様の世界に。

 

日々なかなかの勢いで忙殺されていて、家の役割が風呂と就寝くらいしか果たせていない今日この頃。
投下が遅くなって申し訳ございません。
ボチボチと書いてはいますので、またゆるりとお付き合い頂ければ幸いです。


※サンディが聞いていた楽曲
https://www.youtube.com/watch?v=6Yg6uDKdvHU

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2018年01月22日 (月) 17:22:28   ID: qfsqadrq

ほっこりしたい時に読みたいね

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