鷺沢文香「とある国語辞典にまつわる思い出」 (22)


自室の書棚、その最上部左端。

そこあるのは一冊の国語辞典。

何の変哲もない、ごく普通の辞典です。

しかし、私にとっては少しだけ特別なものなのでした。

ええ、そうですね。

今から語るのは、その辞典にまつわるお話です。


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書棚から取り出した国語辞典を机上にて開き、ぱらぱらと目的の語句まで頁を進めます。

目当ての語句を発見し、その語釈と用例を食い入るように眺めます。

しゅ-み【趣味】
①職業や専門としてではなく、個人が楽しみで愛好していること。
「―と実益を兼ねた仕事」
②物事の持っている味わい。おもむき。
③物事の味わいや美しさ感じとる能力。また、その好みの傾向。
「―のいい服」「悪(あく)―」

四度、五度と繰り返し読んだ後に、椅子の背もたれに身を投じると口から「はぁ」というため息がこぼれました。




アイドルとなることを決意して、事務所と契約を交わしたまでは順調でした。

その後の宣材写真の撮影や、採寸なども順調とは言えないまでも、初めてながらになかなかに健闘したのではないかと自賛します。

けれど、その次に待ち受けていたプロフィールの作成で躓きました。

名前、年齢、身長、体重、と順番に埋めていったところ、最後の項目である趣味の欄で悩み込んでしまいました。

考えれば考えるほど、思考は袋小路に迷い込むようで答えが出せぬまま、うじうじとペンを回すばかり。

あまり長く考えてプロデューサーさんをお待たせするのも忍びないと思い半ば投げやりに、“読書”と記入しました。

そうして書き終えたプロフィールシートをプロデューサーさんのデスクに提出しに行きましたところ、やはり趣味の欄を見て「うーん」と言われてしまいました。

「鷺沢さんの趣味が読書っていうのはわかるんですけど、こう……なんて言ったらいいかな」

「華がない……のですよね」

「もちろん、素敵な趣味だとは思います。ただ、ありきたり……というか」

「あの……すみません。一日だけ、持ち帰らせていただいてもよいでしょうか?」

「急ぐものでもないし、大丈夫ですよ。困ったことがあったら連絡してくださいね」

このように、プロデューサーさんは私の申し出を快諾してくださり、持ち帰って一晩考えてから提出ということになりました。

「プロフィールなんてすぐに書けるでしょう」などと叱責されるかもしれない、と身構えていただけにとても安心しました。

急かすことなく私に歩調を合わせてもらえるのだということがわかり、ありがたいことだなぁ、と思ったのです。




というものが、およそ数時間前の出来事です。

ええ、そうなのです。

考えに考えを重ね、ああでもないこうでもないとしている内に、ど壷にはまってしまいました。

もはや何度目かもわからないため息を吐いてから、開いていた辞典のページに栞を挟んで、ぱたんと閉じます。

趣味の欄だけ空白となったプロフィールシートから目を逸らすと、コルクボードに留めてあったとある名刺が目に入りました。

ある日、叔父の書店での店番の最中にプロデューサーさんよりいただいた名刺です。

縋るようにして、そこに記されている電話番号を携帯電話に打ち込みダイヤルボタンを押しました。

数コールの内に、プロデューサーさんが電話に出て『お電話ありがとうございます』という挨拶の後に事務所と自身の名前を一息に続けました。

その声が普段よりトーンが高いもの……所謂作った声であったので、少しおかしくて、吹き出しそうになります。

『お忙しいところすみません……。お疲れ様です。鷺沢文香です』

私が名乗ると、電話先のプロデューサーさんは『あー!』と声を上げて、いつもの声の調子で『どうしたんですか?』と言いました。

『実は、そのプロフィールシートのことでご相談が』

『ああ。鷺沢さん、悩んでましたもんね。いいですよ。そろそろ上がれそうなので、せっかくですしどこかでお話でも?』

『あの、そこまでしていただくのは……』

『スカウトした時以来、あまりゆっくり話せていないなぁ、と思いまして。それに、会社の方からも担当アイドルとはちゃんとコミュケーションを取るように、なんて言われているもんで』

『でしたら……ええ、はい。よろしくお願いします』

『よかった。断られちゃったらどうしようかと』

『そろそろ上がれる……ということはまだ事務所にいらっしゃるのですよね』

『ええ。あ、でもホントにすぐに出られるので』

『でしたら、事務所の付近のどこか、場所を指定していただければ……と』

『えっ。なんか申し訳ないなぁ』

『私のわがままですので、それくらいはさせてください』

『んー。では、そういうことで。駅の近くの喫茶店、分かりますか?』

『駅を出て目の前にある、喫茶店ですか?』

『それです。どうでしょう。一時間後にそちらで……というのは?』

『はい、問題ありません。よろしくお願いします』

『じゃあ、また後で。失礼します』




通話が切れ、すぐさま私は支度を始めます。

支度と言っても、お洒落に疎い私の支度などたかが知れています。

あれこれと思い悩むこともなく、手近なトートバッグに荷物を詰め込むだけなのでした。

お財布と携帯電話、それから読みかけの本を二冊ほど。

それから、なんとはなしに、先ほどの国語辞典も。

持ってみると、ずしっとした重さが私に襲いかかります。

でも何故か持っていかねばならないような気がして、置いていくことができませんでした。




重いトートバッグを肩にかけ、靴を鳴らして街の雑踏へ。

そういえば、先程お聞きした話によると、プロデューサーさんのお仕事には担当アイドルとのコミュニケーションも含まれるとのことでしたが、ともすればこれからの私との時間はサービス残業にあたるのではないでしょうか。

申し訳ない気持ちで胸がいっぱいでしたが、今更断ることもできませんし、できるだけ楽しい時間を過ごしていただけるように努めなくては、と思います。

私などの話が、面白いとは思えませんが、それでも、誠意は見せるべきでしょう。

何より、プロデューサーさんには私の、アイドル鷺沢文香のこれからの一切をお任せする方ですから、良好な関係を築くのは大切です。

そんなことを考えながら最寄駅に辿り着き、ホームへ出ると程無くして電車がやってきました。

乗り込みながら、電車というものは何か妖怪に似ているな、とくだらないことを考える私なのでした。

でろでろと乗客を吐きだして、代わりに新しい乗客を食べる妖怪です。

通勤通学時や帰宅時のラッシュのそれは、殊更に妖怪じみていると思います。




空いている座席に腰掛けて、トートバッグから持参した本の内の一冊を取り出します。

ぴょこっと飛び出している栞の案内に従って本を開き、ぱらぱらと数頁だけ戻りこれまでの記憶を振り返りました。

ああ、ああ、今は丁度こんな状況だった、と思い出して、そこから先は書の世界へと没頭しました。




車内のアナウンスが二度ほど事務所の最寄駅を告げます。

少しして思考が追い付き、降りなければいけないことに気が付きます。

本に栞を挟んで、トートバッグを肩にかけ、慌てて電車を降りました。

あわや乗り過ごすところでした。

やはり電車は書を読むのに適していない、なんて責任転嫁して改札を抜けました。




駅を出て、喫茶店の方を見やると、プロデューサーさんは既に待っていてくださるようでした。

トートバッグから携帯電話を取り出して時間を確認すると、約束した時間にはまだ少し……いえ、かなりあるようでしたが。

おそらく、プロデューサーさんは律儀な方なのですね。

いざ、と意気込んで喫茶店の方へと歩き出します。

そんな私に気が付いたプロデューサーさんは手を振りました。

控えめに手を振り返すと、にこーっと笑って私のもとへと小走りで来てくださいました。

「早いですね」

そっくりそのままお返しします、とは言えず「はい。電車のタイミングが良かったもので」と返します。

プロデューサーさんに「じゃあ、入りましょうか」と促されるままに喫茶店へと入りました。




「飲み物、何にします?」

開かれたメニューを眺めて、少し考えるふりをして「では、アイスコーヒーを」と言いました。

店員さんがおしぼりとお冷を運んで来ると同時に、プロデューサーさんが注文をしてくださいます。

「アイスコーヒー二つ。あと」

あと?

「季節のフルーツタルト、二つ」

あの、それは頼んでいないのですが。




「……あの」

「ここのタルト、おいしいんですよ」

屈託のない笑顔でそう言うプロデューサーさんなのでした。

あまり健啖でない私は、夕飯が入らなくなってしまうかもしれませんが、致し方ありません。

何より、甘いものは好きな方でありますから、純粋に楽しみでもあるのです。

「それで、相談というのは? やっぱり読書以外に思い当たらないとか?」

「はい。……やはり、読書以外となると……」

「そうですか……」

当たり前ですが、相談したところですぐに答えが出るはずもありません。

うーん、と二人して考え込んでしまうだけなのでした。



アイスコーヒーとタルトケーキが二つ運ばれてきた段階で、一旦中断しましょうということになりました。

「いただきます」をして、タルトケーキに手をつけました。

さくりとした小気味の良い感触がフォークごしに伝わります。

切り分けて、口へと運ぶと無意識の内に「おいしい」と言葉が漏れました。




取り留めのない談笑を交えながら、タルトケーキを食べ終えますと、またしても議題は例の物へと戻ります。

そう、私のプロフィールシートです。

「んー。鷺沢さんの趣味が読書なのは、わかるんですよ?」

「ええ、はい。そう、ですね」

「その重そうなトートバッグの中身も本ですよね」

「はい」と返事をしてトートバッグから本を二冊と国語辞典を取り出します。

「わ。思ったより入ってた……ってそれ辞書?」

「ええ、その、恥ずかしながら。趣味というものがどういうものであるかわからなくなってしまい……」

「辞書を引いたんですね?」

「……はい」

「見せてもらってもいいですか?」

「どうぞ……あまり面白いものではありませんが」

辞典を手渡したあとで、栞を挟んだままであることに気が付きました。

受け取ったプロデューサーさんも気付いたようで、それに従って辞典を開きました。

おそらく趣味の語釈が記されている頁です。

「……職業や専門としてではなく、個人が楽しみで愛好していること」

「趣味の語釈、ですよね」

「栞が挟んであったので……。っていうか、素敵な栞ですね。本物の押し花かな」

「そうですか? ありがとうございます」

「……あれ? もしかして手作り……?」

「はい。その、一応は」

「いや、これですよ!」

とてつもない剣幕で、身を乗り出してプロデューサーさんは言いました。

「趣味、栞作りでいいじゃないですか」




若干興奮気味のプロデューサーさんをよそに、きっとこういうことを灯台下暗しと言うのでしょうね、などと一人で思考を巡らせます。

プロデューサーさんが他の栞も見せて欲しい、と言うので二冊の本に挟んであった栞を抜き取り、手渡しました。

「めちゃくちゃクオリティ高いじゃないですか」

「その、なんと申しましょうか。これは読書に付随したものでありまして」

「読書のおまけみたいなものってことですか?」

「端的に言えば、そうです。私はたくさんの書を並行して読むので……」

心惹かれた書を机上に積み上げて、それらを読むというものが家や書店などでの私のスタイルでした。

読書の息抜きに読書をするといったふうに、多くを並行して読むため、どこまで読んだのかという目印がたくさん必要になります。

つまり栞です。

この栞というのも、少々こだわりがありまして、できることならオリジナルのものが好ましいのです。

お気に入りの書に、自作の栞を挟みこむ。

簡単なことではありますが、そうすることで、私の分身が書の世界に入り込んだように感じられて、幸せな気持ちになります。

という旨を、プロデューサーさんにお伝えしたところ「素敵な理由ですね」と真剣に聞いてくださいました。




「たぶんわかりました」

「え?」

「本と出会って、読んで、それに対応する自作の栞を挟む。ここまでが鷺沢さんにとっての読書なんじゃないですか?」

「そう言われてみれば……」

そんな気がしてきます。

出会う、すなわち、図書館や叔父のお店、それから行く先々の街の書店。

心惹かれる出会いを経て、その書を読み進め、栞を挟む。

私の読書という行為を分解してみると、そのような要素に分けられるようです。

「趣味の欄、埋まりそうですか?」

「ええ、はい。おかげさまで」

「それはよかった」

最初に待ち合わせたときと同じ、満面の笑みでプロデューサーさんはそう言いました。




というものが、私のとある辞典にまつわるお話です。

自身のことであるはずなのに、言われてやっと気が付く。

難儀なものです。

けれど、プロデューサーさんは「文香のそういうところ、俺は好きだけどね」なんて言うので、プロデューサーさんが「好き」と言うのなら、私はそれでいいとも思うのでした。




すき【好き】
①物事や人が気に入って心が強く引かれる思い。
「彼は酒が―だ」「次第に彼(のこと)が―になってきた」




国語辞典に栞を挟んで、書棚へ戻しました。

栞をどこの頁に挟んだのか。

それは、内緒です。



おわり

ありがとうございました。
鷺沢文香さん、お誕生日おめでとうございます。

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