SS【格安!】1K家電付き即入居可!【訳あり】(174)


夏といえば怪談、怪談と言えば幽霊、幽霊と言えば美女。

定石と言える組み合わせだろう。

そして少しだけ採点基準を甘めに設定すれば、彼女の容姿はそれに違わない。

ただ──


「怨み、そろそろ晴れそう?」

《しつこいなぁ、怨みが理由で地縛霊やってんじゃないってば》


──怪談にできるほど怖くない。


この部屋の借主である青年『金太』が通う三流大学から、徒歩でも15分という好立地。

築10年は過ぎていても、まだ『ボロ』という形容をすべき程ではない1Kアパート。

それにしてはとびきり安い賃料に惹かれた彼が不動産屋を訪ねると、事故物件という想像通りの単語が返ってきた。


今から10年ばかり前、アパートがまだ新築に近かった頃に住んでいた女子大生が首を吊り自殺した部屋。

それから数度も部屋主が変わったにも関わらず、不動産屋が金太に対し正直に事故物件である旨を説明したのは『隠してもバレる』からだ。


つまり出るのだ。

そして出たのだ。


金太が不動産屋から聞いた噂は『部屋に独りでいると、気づけば背後に女性が立っている』というありがちにも怖ろしいものだった。


「僕も最初はビビってたんだけどなぁ」


呟きつつ、金太は彼女との出会いを思い返す。

週末の深夜、ゲームをプレイする彼は背後に佇む影に気づいていなかった。

そして前触れも無く、彼女は告げたのだ──


『──そのステージ、墜とせないけど黄色中隊にミサイル当てとくと台詞変わるよ』


その時、驚いた金太のプレイヤー機体は地面とキスした。

そして幽霊は気まずそうに頭を掻き『ごめん、タイミング悪かったね』と詫びた。

驚きはしても、最も怖くない形での遭遇だったと言える。


《だって、やってるゲームがよく知ってるタイトルだったんだもん》

「エースコンバットが好きな幽霊とか笑うわ」

《初めてプレイしたのはZEROなんだけど、一番やり込んだのは04だったんだよ。そりゃ声も掛けちゃうって》


彼女が初めてプレイしたZEROというタイトルが発売されたのは2006年の事だ。

つまりこの部屋で事件が起こった、その少し前に当たる。


「古いゲームだけど、兄ちゃんがPS3持っていかせてくれなかったからさ」

《結構な事じゃない、PS2は名機だよ》


彼女は紛う事なくその3Dシューティングゲームが好きらしい。

しかしそういったジャンルは本来、あまり女性が惹かれるものではないはずだ。


《メビウス1、エンゲィージ♪》

「ネーム機優先でいくよ」


きっと彼女にそれらのゲームをしてみせた、或いは勧めた『誰か』がいたのだ──


《そこSAMいまーす》

「……よく覚えておいでで」


──そう考える度、金太の胸はチクリと痛む。

彼が入居して最初の夏の話だ。


……………
………



「──うーん……どうするかなぁ」

《なに頭捻ってんの?》


スマホを手に唸る金太、その背後から女幽霊が覗き込む。

彼女は金太に対し、自らを『マチ』と名乗った。


「いやぁ……水着イベのガチャ、回すかどうしようか悩んでんだ」

《ガチャ? なに、ゲームセンターの入り口とかにあるやつ?》


マチがこの世を去ったのは今から十年ほど前。

それはソーシャルネットワークゲームなどが広く普及する直前に当たる頃だ。


「そっか……こういうのは知らないのか」


金太はマチに昨今流行りのSNSやソーシャルゲーム、その課金システムなどについて説明した。

元々ゲーム好きなマチは、興味深くそれを聞いていた。

特に彼女が驚いたのは──


《なにそれ! 違法じゃないの!?》

「グレーゾーンかもねー」


──廃課金者と呼ばれる存在についてだ。


《え、まさかチン太はその廃課金!?》

「チン太言うな! 僕なんか軽課金とさえ呼ばれない、微だよ微!」

《だって先月3千円使ったんでしょ? それで微課金……》


新品または中古で数千円払いソフトを購入したら、あとは追加費用なしで最後までやり込める。

それがゲームに対する彼女の認識だった。


《だいたい携帯でできるゲームなんて、そんなにお金かけるほど大したもんじゃないでしょ? 映像だってチャチだし──》

「こんな感じだよ」

《──は?》


金太が見せたスマホの画面には、スペックなりに制限されたものとはいえ最新の技術を用いたゲーム映像が映し出されている。


《……なんでその薄っぺらい携帯で、そんな煌びやかな演出ができるわけ?》

「技術の進歩としか」


《キャラがみんな喋ってるし……ちょっとショック》

「まあまあ、もちろん容量とか考えたら据え置き機の方がずっとすごいよ?」

《いや、それはそうなんだろうけど……ショックなのは、別に勝ったの負けたのじゃなくて》


マチは小さく溜息をつくと目を逸らし、金太に聞こえない位の声で呟く。



《幽霊になってまで年齢を感じさせられるとか、酷だよね……》



「どした?」

《なんでもない》

「?」

《W41CAは名機だったよ──》

【つづく】

季節外れな話ですみませぬ


……………
………



《──あつくVenus♫


……………
………



《──あつくVenus♪ もえてVenus♪》

「………」

《シルクロード愛は千里~♪》


金太は台所で食事の支度。

自分が食べるわけでもないマチは特にする事もなく、卓袱台に頬杖をつき鼻歌を唄っている。

幽霊らしからぬ様子に驚く金太ではない、いつもの光景だからだ。


マチの声は金太にしか聞こえていない。

正しくは『彼女が姿を見せ、かつその時意識を向けている相手』にしか届かないのだ。

それは空気を震わせる『音』ではなく、一種のテレパシーのようなものなのかもしれない。

つまり今の鼻歌を金太が知覚できるのは、マチが彼に聴かせようとしているからなのだろう。


「いつもこの部屋からは、僕の声だけが漏れてるって事なんだよなー」


台所から戻った金太はそう言いながら、野菜炒めとご飯をワンプレートに盛った皿を卓袱台に置いた。


「独り言の多い変人扱いされてないかな」

《いつも電話してるって思われるくらいじゃない?》

「……そっか、そうだね」


《どんだけ携帯代払ってんだ! ……って思われてるかもしれないけどね?》

「今時だいたい定額制だし」

《なにぃっ!?》

「……定額制とか無かった感じ?」

《あ、あったし! ぼ……ソフトバンク同士は夜以外定額とか!》

「今、ボーダフォンって言いそうになったろ」


あっという間の食事と洗い物を済ませ、金太は再び卓袱台の前につく。

年代の事をイジられ機嫌が悪いのか、その間マチは鼻歌を唄う事もせず彼を待っていた。


「怒ってんの?」

《べっつにー》


言葉と裏腹に少し不貞腐れた声での返答。

金太は『感情豊かな幽霊だな』と思い、苦笑いした。


しかし金太はその後、ふとした不安に襲われる。


「なあ、マチ……まさかなんだけど」

《んー?》

「僕が考えてる事も、伝わってたり……?」


彼女の声がテレパシーの要領で届くという事は、読み取る側も同じなのではないか──そう考えたのだ。

焦り顔の金太に対し、マチはニヤリと笑む。


《ふふふ……残念、ご心配なく》

「どっちだよ」

《考えを読み取る事はできないよー、できたら面白いのに》


その返答に金太は深く安堵し、胸を撫で下ろした。


彼の焦り顔を見た事で気が晴れたのか、マチは機嫌を直したようだ。

また歌詞の内容も適当な鼻歌を唄い始めた。


金太はできるだけ早く平静を取り戻そうと、自らの下唇を噛んだ。

今までずっと思考を読まれていたとしたら今度は自分が首を吊る番だ──そんな事を考えつつ、彼女が今の思考を読んで何か反応していないか横目で確かめる。


彼も男だ。

マチの後ろ姿を眺め、あらぬ妄想を巡らせた事など数知れない。

休日の昼間、無防備に寝そべる彼女の小ぶりなお尻を雑誌を読む振りをしながら凝視していた事もある。

そしてもちろん、その記憶を活用した事もあるのだから。


……………
………



「──じゃあ、今日はここまで」

《おおぉ……おのれシーモア、ユウナはどうなってしまうのか……》


金太はPS2の電源を切り、歯磨きなど寝る準備のために洗面所へ向かった。

時刻は午前0時を回った頃。

明日は7時前に起きなければならない彼は、普段より少し早寝をする事にした。


ロールプレイングゲームなら独りで黙々とやるに向いたジャンルではあるが、2人で話しながら進めるのもそれはそれで盛り上がる。

そのせいで頻繁に夜更かしをし、ここのところ彼は少し寝不足気味だった。


「よーし、寝るかー」

《おやすみ、じゃあ45分くらいには起こすからね》

「毎度助かりまーす」

《お安い家賃で》


眠る必要の無いマチは夜の間、ただ静かに過ごしている。

膝を抱え座った体勢で、何も考えなければいつの間にか朝になる。

この10年間の多くを独りで過ごしてきた彼女は、そうしているのが最も早く時が経つ事を身を以て知った。

逆に考えを巡らせていると、それは恐ろしく長いものに感じられるのだ。


《チン太、もう寝た?》

「……のび太くんじゃねーし、目を瞑って1分で寝ないよ」


しかし金太が部屋に住まうようになってからは、マチはそれまでより少し長い夜を過ごしている。

彼が寝返りをうつ度、聞き取れない寝言を発する度に、なにも気にせずにいる事は難しい。

だがマチはそれらを不快だとは思わなかった。


《さっき、朝起こすくらいお安い御用みたいに言ったけど……私にはそれくらいしかできないんだよね》

「うん?」

《お金を払ってここに住んでるチン太にとって、邪魔な居候だろうな……って思う》


幽霊なら自由に姿を現したり消えたりできそうなものだが、実際そうはいかなかった。

最初、マチの姿は誰にも見えない。

ただ彼女が『この人に対して姿を見せよう』とした瞬間から、対象者の視界には映り続ける事になる。


《ほんとは一人暮らしならではの自由とかも、恋しかったりしない?》

「マチ……」


金太より以前にこの部屋を借りた幾人かも、彼女の姿を目にしている。

恐れ慄いて出て行った彼らが再度ここを訪れれば、やはりその姿は見えてしまうのだろう。


「……僕は助かってるよ」

《助かってる? 朝起こしたりするくらい、目覚まし時計でもできるよ?》

「それだけじゃなくて」


独り暮らしなのに話し相手がいる、ただいまと呼び掛ければ返事がある。

それは金太にとって他に代え難い喜びだった。


「僕はマチがいた方がいいや。……マチは? 静かな空き部屋の時の方が良かった?」


マチは慌てて首を横に振り《そんな事ない》と否定する。

安堵した金太は照れ臭さからか彼女に背中を向け、小さく再び「おやすみ」と告げた。


再び部屋に沈黙が訪れる。

数分後、金太は小さく寝息をたて始めた。

それを確かめたマチはいつもの膝を抱えた体勢に戻り、思考を遮断するよう努めた。




──独りじゃない

夜は変わらず長いけど、寂しくない





でも、それを『幸せ』だと思ってはいけない──

【つづく】


……………
………



「──勝ちィ!!」

《うわああぁあぁぁ完敗いいぃいぃぃ!!》


対戦格闘ゲームの5戦目、マチはここまで1勝もしていなかった。

金太がそのゲームを得意としているわけではない。

これは今日の夕方、彼が中古ショップのワゴンセールで購入したソフト。

不公平が無いように、わざわざ互いに初プレイとなるタイトルを選んであるのだ。


「まだやる?」

《もういい! また明日にする!》


悔しさを隠さない彼女の反応に、金太は遠慮なくけらけらと笑う。


「今度は手加減するから」

《やらないよーだ》

「怒った?」


マチはわざとらしい不貞腐れ顔を作り、しかし数秒して表情を緩めると《違うよ》と首を横に振った。


《……そんなに長くはできないから》


幽霊である彼女がゲームのコントローラーを操るというのは、いわばポルターガイスト現象を起こしているようなもの。

それはとても集中力を必要とする、疲れる事なのだ。


「はいはい、だから弱かったって事にしとくよ」

《がるるる……》

「幽霊にも色んな制限があるんだね」

《この部屋から動けない地縛霊だしね、制限だらけだよ》


言いながらマチは自らの下半身に目を遣った。

幽霊らしく先に近づくにつれて半透明になってゆく脚。

その左足首には鉄製と思しき足枷が着けられており、そこから鎖が延びて床に消えている。


鎖の長さは部屋の中を移動する事はできるが、ベランダや玄関に達するには足りない。

まさしく彼女は『この部屋』に繋がれた、地縛霊なのだ。


《壁抜けもできないし、世界が狭いよ》

「それは意外だったよね」

《お風呂も覗けやしないんだから》

「見たいのかよ」

《面白いかなって》

「脱ごうか?」

《いいよ、カモン》

「嘘ですごめんなさい」


「んじゃ、一人用モードで練習しよっかな」

《ダメだよ! そんなの余計に上手くなっちゃうじゃない!》

「えー」

《ほら! それよりFFの続き、はよ!》


マチに急かされ、金太はしぶしぶディスクを替える。

振り返った時、改めて彼女の足枷を見た彼は『満足に窓の外を見る事もできない孤独な10年間』を思い、ぞっとした。

【つづく】


……………
………



金太が暮らす部屋には、一人暮らしに見合ったコンパクトサイズの冷蔵庫が備えつけられている。

破格の家賃ながら他にも照明、空調、小ぶりなTVも元々設置されており、彼が惹かれた理由のひとつでもあった。

しかし国産家電製品の寿命は約10年というのは、やはり間違ってはいなかったらしい。


「──さすがに夏場の冷蔵庫故障はキツいっすよ」


壊れた冷蔵庫を外部の階段から地上に降ろし、金太は額の汗を拭う。

その白物家電を一段ずつゆっくりと降ろすのは、実に5分ほどもかかる作業だった。


「すまなかったね、今度は自動で氷のできる最新型だから」


大家である中年男性は、代わりに仕入れた新しい冷蔵庫をぽんぽんと叩いて言った。


「腰を傷めないようにね」


いかにコンパクトな製品であっても、やはり冷蔵庫は軽いものではない。

しかし降ろす時も上げる時も、大家の男性はその作業を手伝おうとはしなかった。

理由は単純、彼はできるだけ金太の部屋に入りたくないのだ。


「動作チェックはOKですよね? 何遍も上げ下ろしとかしたくないですよ」

「もちろん、バッチリ冷えるよ」


息を整えた金太は腰を落とし、新しい冷蔵庫を抱えるようにしてなんとか階段の1段目に上げた。


「──うあぁ……疲れた……」


冷蔵庫を設置し終えた金太は、すぐに寝室まで戻る気力も無くその場に座り込んだ。


《お疲れ様、大変だったね》


大家が部屋に寄りつかない理由である幽霊が金太を労う。

ただしその声は居間からかけられたもの、マチの鎖は台所の隅までは届かないからだ。


「息が落ち着いたら行くから、TV視てて」

《はーい》


金太は少し安定しない声で彼女に告げ、ちらりとシンクに目を遣る。

そしてマチが指示通り視線をTVに戻した事を確認してからシンク上に手を伸ばし、そこに置いておいた一通のハガキを取った。

古い冷蔵庫を避けた際に見つけたそれは、携帯電話会社からのダイレクトメールだ。


普通の葉書なら切手が貼られるところには『料金後納郵便』の表示。

裏面に大きく描かれたキャンペーンのお知らせ、その開催時期は平成19年5月となっている。

つまり10年前の部屋主に届いた郵便物なのだ。

個人情報を盗み見るのは褒められた事ではない──そう思いつつも、金太は葉書の宛名を確かめた。


『児玉 千秋 様』


数秒の間にその名を何度か脳内で読み上げる。

コダ『マチ』アキ、それがこの部屋に住まう幽霊の本名なのだ──金太はそう確信した。


『児玉さん』と呼んでいた友人を、親しくなるにつれ『児玉っち』から略して『マチ』と呼ぶようになる……そんなパターンがあっても不思議ではない。

別に本名が判ったからといって何をするつもりでもないが、金太は少しだけマチの生前を垣間見られた事を嬉しく思った。


《あ、来てきて! チン太の好きなアーティスト出るよ!》

「はいはーい」


いつか『マチの本名知ってるぞ』などと言って驚かせてやろう──そんな事を考え、緩む口元を隠しながら彼は寝室へ向かう。

取り出しておいた食品を新しい冷蔵庫に戻し忘れている事に気づいたのは、その音楽番組が終わってからだった。


……………
………



《──チン太、ゲーム以外に趣味とかないの?》


食事中、対面するマチに問われた金太は内心焦った。

無いと答えれば『つまらない奴』と思われてしまうのではないかと危惧したからだ。

中学でやっていたバドミントンも高校では続けなかったし、現在趣味と呼べるほどのものは無い。


「釣り……かな」

《おおー、男の子っぽい》


そう答えはしたものの実際には小学校時代に祖父と共に数度、あとは高校の友人とキャンプがてら数時間糸を垂れた事があるだけ。

詳しく突っ込まれても答えようがない、金太は話題が変わる事を祈った。


《どんな釣り?》


しかしその祈りは通じなかった。


金太は窮地に陥る。なにせどんな魚が釣れたかなど覚えてもいない。

だから彼は対象の魚種ではなく釣法を答える事にした。


「……ルアー釣り」


もちろんそれも聞いた事がある言葉というだけなのだが。


《ますますヤンチャ坊主、若者の釣りって感じだねぇ》

「お、おう」


幸か不幸か、マチの反応は好感触だった。

ここで終われば『上手くやり過ごせた』と言えるだろう。


《で、何を釣るの?》


だが終わらない。

興味を引く内容だっただけに、マチの質問は続く。


ルアーで釣れる魚──金太の脳裏にパッと思い浮かんだのは、やはりブラックバスだった。

しかしバスは外来魚、あまり良い評判を聞く魚では無い。

マチが生態系の保全など環境に対し意識の高いタイプならマイナスイメージを与えかねない──そう考えた彼は、ひとまずその名前を飲み込んだ。

実際には管理されている特定の釣り場もあるし、必ずしも禁じられた釣りではないなどという事を金太が知っている筈がない。


そして追い詰められた彼は、その釣りに詳しい者が聞けば驚愕するであろう答えを返した。


《どしたの、なんか不味いこと訊いた──?》

「──ヘラブナ」

《え?》

「ヘラブナを、ルアーで」


この魚種の名が浮かんだのは、祖父がその釣りを好んでいたからだ。

ただ絶対ではないが、ヘラブナはルアーで釣れる魚種ではない。

更に言えば、ヘラブナも原種のゲンゴロウブナが在来しない多くの水系では外来種にあたる。


《ヘラブナ……聞いた事はあるなぁ、食べられる魚?》

「うん、刺身に向いてる」


出鱈目は更に続く、ヘラブナは鮒寿司などの食用にもされない魚だ。

小骨だらけ、生なら寄生虫だらけだろう。


《どのくらいの大きさなの?》

「……1mくらい?」


世界記録どころではない。


《……でも、釣りに行ったって話は聞かないね》

「一緒に行ってたツレは就職しちゃったしな、大学入ってからは行ってないよ」

《また行きたい?》

「ここからじゃ、実家からより海が遠いしな……」


ヘラブナは淡水魚だ、だが幸いそれらの知識はマチも持っていない。


「それに──」


彼は早くこの話題を終わらせたかった。

そのためには『マチが言葉を続け難い方向』へ話を持っていく必要がある。


「──今は、マチと過ごしてる方が楽しいからね」

《……っ!》


普段の金太なら言えないであろう、半ば口説き文句に近い発言が飛び出す。

焦った彼は深く考えもせず、それを言い放ったのだ。

しかし目論見通りマチは会話を途切れさせ、金太から目を逸らした。


《そ、そっか……びっくりした、でもまた釣りの話も聞かせてね?》

「うん、また今度な」


彼が今の発言の軽薄さに気づくのは数分後。

食事を終えて落ち着いた後、再度このやりとりを思い返す時だ。

そしてマチが『一緒に話しながら釣りに行けたらな』と呟くのは今夜、ぼんやり金太の寝顔を眺めている時だった。

【つづく】


……………
………



「──で? 散々はぐらかしてたけど、お前カノジョいんの?」

「はぐらかしてないっすよ、まっさん飲み過ぎ」


大学生にとってはライフワークのひとつ、飲み会。

幸い金太の周囲には未成年者に無理な酒を勧めるような人物はいない。

しかし酒は飲まずとも、時にはその席に参加せざるを得ない──つまり『断り切れない』というケースに陥る事はある。


飲み会後、金太は帰る方向の同じ先輩と二人で夜道を歩いていた。

彼が金太を含む仲の良いグループの間で『まっさん』と呼ばれているのは、名字が『真島』だからだ。

特に後輩に対する絡みが強めで少々面倒くさがられてはいるが、憎めない兄貴肌の男だった。


時刻は日付が変わる頃で、普段は人通りの少なくないこの道も静まり返っている。

金太の通う大学は都市部外れのちょっとした山裾にあり、この辺りも割と閑静なエリアだ。

たまに耳に届くのは、遠い国道を走る車のノイズだけだった。


「ほら、観念して答えろよ。はぐらかして無いなら言えるだろ」

「うーん……」


もちろんこの時、金太の頭には共に暮らすマチの事が浮かんでいた。

ただ彼らは恋人と呼べるような関係ではないし、何よりマチは今を生きる人間ではなく幽霊だという大きな問題がある。

しかしその大問題すらも棚に上げ、金太は間違いなくマチに惚れている──という状況なのだから、余計に複雑だ。


困った金太は話を逸らそうと、前からここを通るたび気になっていたものを指差して尋ねた。


「あの木、すごいっすよね」

「ん?」

「ほら、街路樹の……銀杏?」


それは樹高20mに迫るほどの大きな銀杏の木だった。

ただ彼が『すごい』と言ったのは、その大きさだけを指しての事ではない。


「幹が途中まで裂けたみたいになって、なんで片側だけ枝が無いんでしょう?」

「あー、そっか……聞いた事ねーか」

「何をです?」

「あの木は昔、雷が落ちたんだってよ」


説明を受けた上でよく見ると、確かに街灯に照らされた幹の裂け口は少し焼け焦げた風にも思えた。


「そうなんだ……この辺、すぐ近くには高いビル無いっすもんね」

「雷が落ちる前はもっと高かったろうしな」


確かに銀杏の幹は先端部で直径30センチ程度もある。

この姿になる前は、更に数メートルも樹冠に続きがあったのだろう。


「その落雷の時、枝下に女の人がいて亡くなったらしいぜ」

「マジすか」

「そういう噂だ……っていうか、またはぐらかしやがったな? もう、なんとしても聞き出してやる」


残念ながら質問は止まなかった。

真島は金太の首を絞める真似をして「吐け!吐いて楽になれ!」と戯けている。


仕方ない……と金太は観念し、嘘にならない程度の内容だけ話す事にした。

なにせつい先日、マチに対し趣味の件で嘘を吐いて余計に厄介な事になった記憶は鮮明だ。


「彼女ではないですけど」

「お?」

「その、仲良くしてる子ならいる……かな」

「なにそれ、遊びに行ったり?」

「えーと……家で一緒にご飯食べたり、ゲームしたりとか」

「それで付き合ってねーの?」


正確には食事しているのは金太だけだが、その時一緒にいるのだから嘘ではない。

真島は「告白しちまえよ」と呆れ、無責任に「襲われるの待ってんだって」などと金太をけしかけた。


「そのうち考えます」と曖昧な返事をし、金太は頭を掻いて続きを誤魔化す。

それでも多少の情報を聞き出せた事に満足したのか、真島は「がんばれよ」と金太の背中を叩いて笑った。


「その子、名前は?」

「マチって呼んでます」

「おいおい、呼び捨てにできるくらいには親しいんじゃねーの」

「ま、まあ……そのくらいは。じゃあ、僕はここで」

「おう、お疲れ!」


彼女が実際にそうする事はないが、マチが部屋で一人の時に照明の点灯を禁じてはいない。

ゲームのコントローラーに触れられる彼女は、同じように壁のスイッチを操作する事もできるだろう。

金太は『この交差点からアパートが見えない位置関係でよかった』と胸を撫で下ろした。



《…………マチ──?》


.


……………
………



「──マチってさ」

《うん?》


いつも通りの夜。

二人でゲーム画面を映すTVの前に座りながら、金太はふとした疑問を尋ねた。

マチが常々続きを急かすRPGをプレイ中ではあるが、今はレベル上げのために雑魚戦をループしているだけ。

黙ってやる必要も無く、少し退屈だったのだ。


「疲れるんだろうけど、コントローラーとか触れるでしょ?」

《うん、長くない間なら何でも》

「その時って感触もある? あったかいとか硬いとか」

《あの、それ……》


問われたマチは視線を泳がせ、返答に不自然な間を開ける。

疑問に思った金太が彼女の顔を見ると、心なしか?

ミス


「疲れるんだろうけど、コントローラーとか触れるでしょ?」

《うん、長くない間なら何でも》

「その時って感触もある? あったかいとか硬いとか」

《あの、それ……》


問われたマチは視線を泳がせ、返答に不自然な間を開ける。

疑問に感じた金太が彼女の顔を見ると、心なしか紅葉を散らしている風に思えた。

それも無理はない──


《チン太、もしかして……えっちぃ事、考えてたりする……?》

「ねーよ」


──金太はマチがどんな行為を思い浮かべたのかを想像し、心乱れた。


「いや、もしかして同じ要領で物を食べる事もできたりするんじゃないかなって」

《あー、それは試した事ない》

「お腹は減らないの?」

《そういう感覚はないよ、満腹感も空腹感も》


金太は「ふーん」と相槌を打ち、ゲームの戦闘が一区切りしたタイミングで台所へ向かった。


「どれか好きなのある?」


そう言って彼が持ってきたのはスナック菓子やパンなど、そのまま食べられる食品だった。


《食べなくて平気なんだから、無駄に消費しなくていいよ?》

「いいから、お試しだよ」


金太は遠慮するマチに少し強引に勧める。

彼は『試して欲しい』のだ。


《じゃあ……じゃがりこ》

「OK、開けられる?」

《うん》


カップ容器の蓋を開ける際、マチは表情を真剣な時のそれに変えた。

やはり集中力を必要とするのだろう。

だがもしマチが物を食べられるとすれば、例えば誕生日にはケーキでも用意する事ができる。

だから金太は試させたいと思った。


スティック状の菓子を一本摘んで取り出し、マチはしげしげと眺めた。


《まさかまた物を食べようとするとは思わなかったよ》

「大丈夫そう?」

《わからないけど……失敗しても笑わないでね》


彼女は意を決し、それを口へ運ぶ。

ひと齧りすると普通に音を立てて菓子は折れた。

口を動かす、噛み砕く音も人間がそれを食べる時と何ら変わらない。

あとは飲み込めるか、味わう事はできているのかどうか──金太は緊張した面持ちで見守った。

ごくん……とマチの喉が動く。


《……美味しかった》

「やった、食べられるんだ! おめでと!」

《あ、ありがと?》


「これならケーキも食べられるな。マチ、誕生日いつ?」

《あはは……そういう事だったんだ。11月よ、13日》

「ちょっと先だね、でも楽しみにしてて」


はしゃぐ金太、思わずマチも顔を緩める。


《ふふ……もう死んでるのに誕生日を楽しみにするって──》


──それと同時に集中力も緩んだ、その時だった。

ぽとっ……という音と共に、マチの足元の床に何かが落ちる。


「ん?」

《!?》


「これ……」

《ちょっ……!!》


それは咀嚼されたスナック菓子の欠片だった。

物体に干渉する──いわゆるポルターガイスト現象が解けたせいで、彼女の体内にあるものも束縛から解放されたのだ。


「なるほど……」

《見ないで!自分で片付けるからっ!!》

「ケーキの時は何か敷いた方がいいな」

《介護するみたいに言わないでよ!》


マチは顔を真っ赤に染め、ティッシュを探す。


《うぅ……死にたい……》


金太は『お婆ちゃんもう幽霊でしょ』と突っ込むか悩んだ。

【つづく】


……………
………



知らない女性と目が合った──と表現すれば、自意識過剰を疑われても仕方ない。

しかし今、金太が置かれている状況は違った。

明らかに女性は金太を見ているし、金太もまた帰宅の歩みを止めて彼女の姿をじっと眺めている。

雷に撃たれたという大きな銀杏の袂に、彼女は佇んでいた。


金太が彼女に目を奪われたのはその姿のせいだ。

顔立ちは器量好しとは言えるだろうが、並外れた美人という程ではない。

少し背が低いのも平均よりは幾らかという程度だろう。


普通と違うのは先に近づくにつれ透過してゆく脚、そして足首に着けられた輪とそこから延びる鎖。

彼女はマチと同じ、地縛霊なのだ。


幽霊の姿はその者が『見せようとした相手』にしか見えない、金太はマチからそう聞き知っていた。

だとすればこの幽霊は彼に対し姿を現そうとしたという事だ。


普通の者なら下半身が半透明な彼女を見れば恐れ慄いてしまうだろう。

だが当然というべきか、金太は驚く様子を見せなかった。


幽霊はそれが不思議だったのか、首を傾げ金太の出方を窺っている。

人通りの少なくない夕方だが、金太以外には誰も彼女を気に留める者はいない。

話しかけようにも、そのままでは金太が妖精さんとお喋りする危ない人になってしまう。

彼はしばらく思案した後、ポケットからスマホを取り出した。


「──もしもし、聞こえるー?」

《……?》


通話のふりをすれば周囲の者も怪しみはしないだろう──彼はそう考えた。


「聞こえますかー?」

《あの……?》


地縛霊の女性は指で自分の顔を指し、きょとんとした表情を浮かべている。

その仕草に対し金太は『うんうん』と頷きつつ、更に呼びかけた。


「そうです、貴女でーす」

《あ……はい、聞こえてます》

「どーも、はじめましてー」


「よかった、電波が落ち着いたみたいだから普通に話すよ?」

《はい》


彼は周囲の者に対し『大きな声を出していたのは電波が悪かったせいですよ』というアピールをした上で、本題に臨む。


「えっと、僕に何か用だった?」

《用……というか、ちょっと前に見かけて気になったので》

「ん? まさか、ナンパされてる?」

《そ、そんなつもりじゃないです!》

「必死に否定しなくてもいいんだけど……」


目立たない程度に肩を竦める金太、戯けてみせるのは取り敢えず打ち解けるためだ。

功を奏したか、彼女はくすくすと笑った。


《あの……貴方は私を見て怖くないんですか?》

「うん、同じような人を知ってるからね」


金太の回答に、幽霊は合点がいった様子で顔を綻ばせた。

その表情は嬉しさと共に、どこか安堵を滲ませた風に金太の目に映る。


「なんか幽霊が人間を怖がってるみたいで変な感じだね」

《ほんと、おかしいですよね》

「とりあえずたぶん僕は怖くないよ」

《……よかった》

「やっぱり怖がってた?」

《はい、前に不用意に姿を見せて失敗した事があるから……》


《地縛霊なんてやってると、やっぱり退屈で寂しくて……でも何度かのそういう失敗で懲りてたり》


自らの脚に着けられた鎖を恨めしそうに眺め、彼女は力無く笑った。

マチと違い、行き交う人を眺める事だけは許された彼女。

だが話す事も気づいてもらう事もできなければ、それはそれで辛いだろう。


「失敗って、人に姿を見せたから何か不味い事が?」

《はい、もう何年も前になるんですけどね》

「それでよくまた僕に見せる気になったね」

《ほんと自分でもびっくりです。『あ、あの人だ』って思って、気づいたら姿を見せてました》

「……やっぱりナンパされてない?」


《ふふ、じゃあナンパって事にしてもいいですよ》

「遂に僕にもモテ期到来!?」

《あははは……笑ったのなんて、すごく久しぶりです。ありがとう、あの……》

「金太って呼んでくれたらいいよ」

《金太さん……ですね。私はタマって呼んで頂けたら、懐かしくて嬉しいです》


この雰囲気からして、これから通りがかる度に言葉を交わす事になるだろう。

今の通話のふりをした談笑も初日だからとあまり長く続ければ、他の通行者から妙に思われかねない。


「これからちょくちょく電話かけるよ、暇潰しになればいいけど」

《はい、待ってますね》


「じゃあ今日はそろそろ。また明日、タマ」


金太はスマホをポケットに戻し、バイバイと手を振ろうとしてやめた。

その様子を察したタマはくすくすと笑い、彼の代わりに小さく手を振って見送る。


歩き始めた金太の足取りは軽い。

時に憂鬱な通学の合間に、新たな楽しみができたのだ。

ほんの少しだけ、彼はマチへの罪悪感を覚えていた。


……………
………



「──もしもし? おはよ!」

《おはようございます、金太さん》

「ちょっと出るの遅くなっちゃって、早足でギリギリなんだ」

《ふふふ……いいですよ、そのまま止まらなくて》

「また帰りにかけるからね!」

《はい、行ってらっしゃい──》



………
……………


……………
………



「──もしもし、ただいま」

《おかえりなさい。さっきにわか雨降ったけど、大丈夫でした?》

「うん、やり過ごしてから出たよ」

《……せっかく銀杏の傍にベンチあるのに、濡れちゃってますね》

「大丈夫、少しくらい立ち話して帰ろうか──」



………
……………


……………
………



《──おはようございます、少し早いですね》

「もしもし、おはよう。暑くって目が覚めたよ」

《今日も晴れてますから、水分補給はこまめに……ですよ?》

「うん、気をつける」

《もう行きます?》

「出たばっかだけど、少し休もうかな──」



………
……………


……………
………



「──もしもーし、ただいまだよー」

《おかえりなさーい》

「今日、学食で事件があったんだ」

《事件? どんなです?》

「ふたつ向こうの席で女子が食べててさ、そこに三年の男子が来てなんと公開告白!」

《すごい、上手くいきました──?》



………
……………


……………
………



《──金太さん、おかえりなさい!》

「ただい……も、もしもし」

《ふふ……携帯を取り出してすぐ話し始めてたらおかしいですよ?》

「だって、そっちからかけてきて手を振ってるからさ」

《あはは、たまには私からと思って──》



………
……………


……………
………



大学への行き帰り、特に行きがけは短い時間とはいえ彼らの交流は続いた。

最初こそ金太がその日の出来事を話して聞かせる割合が高かったが、次第にタマもよく話すようになっていった。


マチと同じように長い間を孤独に過ごしてきたであろう彼女だ。

さぞ話し相手が欲しかったに違いない。


金太は意識してタマの生前について訊く事はしなかった。

地縛霊である以上、その生涯の終わり頃には想い遺す『何か』がある筈だ。

マチと交流を持ち始めた頃に自ずとそう考え、彼女に対してはそれを詮索しないよう接してきた。

同じ地縛霊ならば、同じように気遣うべきだろう。


逆に彼女らが過去の事を聞いて欲しいなら、交流を深めていけば自ら語る時が来るかもしれない。

この場所に縛られたタマは、おそらくこの銀杏の幹が雷に裂かれた時に命を落とした女性だと考えるのが自然だ。

彼女の死因が誰を怨む事もできない天災によるものならば、地縛霊になった理由は生前にある。

それを自分がわざわざ知りたがる必要は無い──金太はそう考えていた。


彼がマチとタマそれぞれに接した時間や打ち解け具合は、まだ比較にならないほどマチの方が長く強い。

そのマチですら、過去の事について金太に打ち明けてはいないのだ。


既に金太がマチに対して抱く感情は『ほのかな』という表現を要しない明らかな『恋』と呼ぶべきものになっている。

彼の胸中には想う相手の過去を知りたいという感情こそ多少はあっても、それ以外の女性の素性を探るつもりや余裕は存在しなかった。


「──ただいま」

《おかえりー!》


金太がアパートの玄関を入れば、タマからのそれよりずっと活発で砕けた返事が届く。

彼にとって愛しくて堪らない声だ。


「マチは元気なー」

《ん?》

「なんでもない」

《……今、誰かと比較しなかった?》

「し、してないし」

《なにやら浮気の匂いがしますなー?》


金太をからかったマチは《なーんてね》と続け、悪戯に笑う。


《ふっふーん、ちゃんと彼女ができたらお姉さんに言うんだよ?》

「できないんだなーこれが」


もし彼女が『冗談めかして』ではなく自分の浮気を心配してくれたなら、金太はそう願わずにいられなかった。

そして──


《……じゃあ、できなくていいよ》

「なんて?」

《何でもなーい》


──それは既に叶いつつある事に、彼はまだ気づいていない。

【つづく】

キンタマチンタマ


……………
………



『──フォックス2!!』

『ナイスキル!』


『よーし、あとは黄色1機!』

『ふふふー、マチも慣れてきたわね』

『こういうゲームもやってみたら面白いねぇ』

『でしょう? 私も最初、彼の隣で見てた時は画面がぐるぐる回って酔っちゃいそう……と思ったけど』


『その彼氏さん、最近は?』

『九州に出張中、明後日戻るらしいんだけど』


『じゃあ、その日は駅まで迎えに行くのかな?』

『それが営業車で高速使って行ってるの、機材が多いらしくて』

『うわぁ、何時間かかるんだろ』

『同僚の先輩は新幹線なのに……って、ボヤいてたわ。そうそう、それとマチの分のお土産も買って来るよう伝えてあるから』

『もー!変な気を遣わないでよ!』


『大丈夫よ。彼、マチがいてくれて嬉しいみたいだし』

『へ? なんで?』

『マチがずっと一緒にいてくれれば、私が浮気しないだろうって。まったく、元々しないってば!!』


『はいはい、ごちそーさま。彼氏さんにベタ惚れですもんねー』

『えへへー、惚気たつもりじゃなかったんだけど』

『ええい、涙で霞んで高度計が見えやしねぇ!』


『そこ、SAMいるからね』

『覚えてますよーだ!!』

『マチ-1、敵車両破壊──!』



………
……………


……………
………



『──マチ、私……どうしたら』

『しっかりして、何も貴女が悪いんじゃない』


『だって、私、早く……会いたかった』

『うん……』

『だから……急かしちゃった……早く帰って……って』

『…………』

『ちゃんと……休んでたら……事故なんてしなかった』


『自分を責めないで、早く会いたいのは当たり前の事でしょ』

『でも、でも……』

『仕方なかったの、誰も悪くない……ね?』


『マチ……私、死にたい……彼の所へ行きたい……』

『そんな事、彼氏さんは望んでないよ』

『ぅ……うぅ……っ』

『しっかりして、タマ──』



………
……………


……………
………



《──どしたの、今日は言葉少なだね?》


夕食後、ゲームを始めるでもなくぼんやりと部屋の宙空を眺めて過ごす金太を不思議に思い、マチは尋ねた。

金太は「なんとなく」とだけ返し、テーブルに置いたアイスコーヒーのグラスをからからと揺すり混ぜた。

しかしその言葉とは裏腹に、やはり彼は物想いに耽っていた。


『──どうよ、マチちゃんに告白はできたんか?』

『そんなすぐには思い切れないすよ……』


何度となく脳内で反復するのは今日の夕方、偶然会った真島と家路を歩みつつ交わした言葉。

金太の周囲で唯一マチの名を知る彼は、他者がいない時のみ彼女の事を話題とするようになっていた。


『お前な、たった一言を切り出すだけだぞ?』

『だからその一言を言うのに思い切りが要るんじゃないすか』

『ぐずってたら女なんて、すぐ手の届かないとこへ逃げちまうぞ──』


お節介な話ではあるが、彼は真剣に金太の背中を押している。

しかしそれも無理はないだろう。

通常なら度々自宅に招いて過ごすような間柄であれば、告白が玉砕に終わる可能性は低い。


しかしマチが金太と生活を共にしている最大の理由は、彼女がその部屋から動けないという特殊な事情が絡むものだ。

2人での暮らしは彼女の意思と関係なく、金太が退去しない限り強制的に続いてしまう。

それはつまり告白の結果が玉砕に終わった場合でも、変わらず毎日顔を合わせる事になるという意味だ。


ぎくしゃくとした気まずい日々を送るなど、想像しただけで恐ろしい。

もしフラれたら彼は傷心を負う上に、引越しまで強いられる。

躊躇するのも当然かもしれない。


《まあ、たまにはボーッとして過ごす夜も良いかもね》


そんな男の葛藤など露知らず、マチは彼の向かいで頬杖をつきTVを視ていた。

金太にしてみれば腹立たしい筈のその様子さえ、恋のフィルターを透かせば可憐に映る。

言葉を躊躇うなら、いっそ押し倒してしまえばいい──などという妄想を実行に移す度胸も彼には無い。


ふと金太は、そういえば自分は『自ら彼女に触れようとした事も無いぞ』と気づく。

押し倒すにしても触れられなければ不可能だ。

以前に『ほっぺに蚊がいる』とマチから金太に触れた事はあったが、それはゲームのコントローラーを使うのと同じ要領の話かもしれない。


対面して座る2人を隔てるテーブルは小さい。

金太が手を延べれば、マチの頬杖をついた細腕には届く。

すぐに告白をする勇気を持てなくとも、彼女を押し倒す思い切りはつかなくとも、せめて一歩近づくだけでもいい。

『触れられるのか気になって試した』という程度は許されるのではないか──?


彼はごくりと唾を飲んだ。

こんな時は長く悩んではいけない。

想いを告げる事をずっと躊躇い続けてきた金太は、それを解っている。


マチがTVに目を奪われている今なら、試すにはうってつけだ。

彼は死角になる側から手を伸ばし、その白い肌を湛える腕を狙った。

思いがけずそれを握られた時、マチはどんな顔をするのか──


《あはは、山崎邦正は変わんないねぇ》


──しかし、金太の手には何の感触が伝う事も無かった。

せめてその仕草を見られる前に腕を引き戻す。

なにも気づかず笑うマチの声が、今の彼には無情なものに感じられた。


『ぐずってたら女なんて、すぐ手の届かないとこへ逃げちまうぞ』


別れ際に真島の残した言葉が、また金太の脳裏を過ぎる。


「変わってるよ」

《え?なにが?》

「山崎……今は月亭方正って、改名してる」


TVは下らなくも愉快な映像を流し続けている。

マチはそれを眺め、時おり無邪気に笑う。


「まっさん……最初から手が届かない時はどうすればいいんすか」


そんな彼女の横顔を見つめて、金太はぽつりと呟いた。

人間と幽霊、秘めたる想いの非現実さ加減を彼は尚更に痛感した。


しかし本当は2人の間に『その存在の違い』以外の障壁は既に無い。

今は酷く落ち込んだ金太だが、それに気づき開き直る機会は間も無く訪れる事になる──


……………
………



「──立直!」

「はえーよ、なに切りゃいいんだ」

「すまんな、やけに金太が調子いいからさ。安い手でも和了って流れを寄せねーと」


ずっと避けてきたが、とうとう断れなかった。

独り暮らしの金太の部屋は、常々友人達から『新たな雀荘候補』として目をつけられていたのだ。


彼らと連れだっての帰り道、金太は「度々は駄目だぞ!」と念を押しはしたがそれだけでは不安だ。

こうなれば『この部屋で打つと、やけに金太が強い』という印象を与えて、足を遠退けてやればいい。

そのための秘策は──


《んーと、三萬と六萬の両面待ち》


──当然、マチだ。


「こんなん解らんし」


諦めたような芝居を打ち、金太は九萬を切る。

そして狙い通り、その筋だけを頼りに下家は六萬を切り餌食となった。


「ロン!」

「かーーー、やってらんねーー!」


マチは金太以外に聞こえない声で《綺麗に引っかかっちゃって》と言い、悪戯に笑った。


「しっかし、独り暮らしとは思えん綺麗な部屋だなー」


じゃらじゃらと牌を混ぜつつ、友人達は部屋を見回した。


「まあ、物も少ないからね」

「それでも俺ならもっと散らかってると思う」

「これは女の気配よな」

「だったらもっと華やかにしてるって」

「いやいや、実は知ってんだ。彼女候補いるんでしょ?」


友人の一人が、やや下卑た笑顔で金太に問う。

急に嫌な鼓動を覚えた彼は『知ってる訳ない』と言い聞かせ、自分を宥めた。


もし友人がその情報を持ち得るとしたら──


「まっさんから聞いたんだけど」


──そう、それしかない。

金太はその一言で窮地に陥った。


「で、告白はできたん?」

「……な、なんの事やら解らんな」


何しろその『彼女候補』と呼ばれた女性は、それがまさか自分の事とは考えもせずにニヤニヤと聞き耳をたてているのだ。

しかしその笑みも、友人による次の発言で失われる事になる。


「マチちゃんだっけ?」

「バッ……!?」

「そうそう、マチって言ってた」

「あー、もう……最悪」

「なに大袈裟な、好きな子がいるくらい全然フツーじゃん」


手で顔を覆い、指の隙間から恐る恐る彼女を窺う金太。

マチはきょとんとした表情、思考停止しているようだ。


「ちょ、ちょっと飲み物でも出すわ! 待ってて!」

「逃げんなよー」


まさかずっと秘めてきた想いを、こんな形で本人に知られるなど──金太は居た堪れずキッチンへと向かう。


「なんか菓子とか食べ物あるー? 小腹減っちゃった」


そんな金太のよそに、友人は呑気に注文をつけた。

だがこうなっては腹を括るしかない。

本心と裏腹に彼女への恋心を否定したりするのは男らしい事ではないだろう。

深呼吸ひとつ、心を落ち着ける。


「源氏パイとか、食べるー?」

「食う食う、なんでもいいよー」

確か買ったばかりだったはず、金太は台所と部屋との境にあるレンジ台の扉を開けた。


「あれ?」


その袋が開封されている。

しかも個別包装された中身は、残り僅か2枚ほどしかない。


「……ごめん、ちょっとしか無かった」

「いいよ、少ししたら何か買いに行くべ」


レンジ台は台所の入り口、現在雀荘と化している部屋から最も近い位置にある。

がんばればなんとか『鎖』の届く範囲かもしれない。

勝手に菓子を食べた犯人と思しき者を金太が睨むも、知らないとばかりに彼女は目を逸らした。


彼女がしたであろう行為は、とても無遠慮なものだ。

そして今の仕草はごく自然なものとして金太の目に映った。

ただの部屋主と居候ではなく、もっと慣れ親しんだ間柄の者達でなければ成立しない関係。

彼は理屈ではなく感覚として『それは既にあるのだ』と理解した。


「……台所のもの勝手に食べるとか、よっぽど親しくないとやらんよな?」

「なに? マチちゃんが食べてたん?」


ふう……と、再度の深呼吸。

そして金太は、友人に宛てたそぶりで言い放った。


「いいわ。もうあいつカノジョ候補じゃなく、カノジョって事にする」

「ひゅーーー♪」


今度はマチが顔を覆い、その場に崩れ落ちる。

金太に見られないよう隠したその顔は、幽霊とは思えない血色の赤に染まっていた。


人間と幽霊、その存在自体が違うものであろうと2人はこうして同じ部屋で暮らしている。

時と共に慣れ親しみを育んで、こんなにも気の置けない相手になったのだ。

もはや金太の意識に自分と彼女を隔てる障壁は無い。

満足に触れられなくても、共に歳を重ねる事はできなくても、この生活が続くならそれでいい──


「今度、マチちゃん紹介してくれよな」

「……そうだな、びっくりするかもしれないけど」

「おいおい、そんな美人なのかよ」

「まあな、可愛いよ」


──だからどうかずっと続きますように、そう金太は願った。

【つづく】


……………
………



「──なあ、ほんといい加減こいつらにも姿を見せてやってくれよ!勿体つけやがって!」

「もういーよ、ここに女の子がいるんだろ? 信じるって」


大学からの帰り、金太がいつものようにタマの元へ立ち寄ろうとすると、そこでは少々柄の悪く見える男たちが大きな声をあげていた。


「くそ、目も合わせようとしねえ……最初に見つけた時は、喋ってたんだぞ」

「お前、怖くて逃げたって言ってたじゃん」


「でも通る度にいるからよ……改めて見りゃ怖くなさそうだったから、からかってみたんだよ」

「パンツ覗き込もうとしたんだろ? そりゃ口きかなくなるって」


男たちは大学生にしては若干老けている、三十歳前後というところか。

つまり中心になって喚いている男こそが、タマが言う『昔、不用意に姿を見せて失敗した相手』なのだろう──と、金太は察した。


「こっちからは触れねーの?」

「触れたらイロイロと楽しいんだけどな──」


「──あの、ここに誰かいるんですか?」


金太は男に声を掛けた。

その声に顔を上げたタマは、この状況を見られた事への気恥ずかしさからか涙目で視線を泳がせる。


「あ?なんだって?」

「聞こえちゃったんですけど、もしかして幽霊でもいるのかな……って」

「そう! いるんだよ! オメーにも見えないんだろうけど……」


「その幽霊って女の子ですよね?どんな見た目ですか?」

「は? なに馴れ馴れしく訊いてんだ、誰だよお前?」

「もしかして肩くらいの髪の色白な子じゃないです? ここで亡くなったの、僕の親戚で……」


男は『親戚』という単語に急にバツが悪くなったのか、ぼりぼりと頭を掻いた。


「そ、そんな感じだよ! 親戚のアンタからも愛想よくするように言っといてくれや!」

「それはすみません、でもそっかぁ……ここにいるんですね。またお線香あげなきゃ」


金太はさも自分がタマの身内であるよう装い、男に対してぺこりと頭を下げた。


「チッ……邪魔したな」


男はまだぶつぶつと何か呟きつつも、友人と共にその場を去ってゆく。

その姿が見えなくなってから金太はスマホを取り出し、いつものように耳に当てた。


「……もしもし、親戚なんて嘘ついてごめんな」

《ううん、ありがとうございました。あの……》

「だいたい事情は察せたよ、あれが『失敗』でしょ?」


落雷による事故があって間もない頃、さっきの男がここを通りがかり『可哀想に』と銀杏と供えられた花束に向かって手を合わせた。

それは決して悪意によるものではない、普通の行動だっただろう。

ただ幽霊になって日の浅いタマは、それだけで男を『いい人かもしれない』と思ってしまった。


タマは静かな口調で、ぽつりぽつりと過去を語った。

その失敗以降、彼女は幼い子供相手くらいにしか姿を現していないという。

聞きながら金太は『ならばなぜ自分には姿を見せてくれたのか』という疑問を抱かずにいられなかった。


《あら……もうこんな時間です》


近くの駅から届く列車の出発を伝えるアナウンスが、現在時刻を2人に知らせる。


「今日は買い物をしてきたから、もともといつもより遅かったんだ」


金太は手に提げた買い物袋を見せて言った。

とはいえ独り暮らし分の買い物量だ、長く持ち続けたからといって辛いほど重くはない。


《源氏パイ買ってますね、お好きなんですか?》

「ん、友だ……彼女がね」

《ふふ……懐かしい、私の友達が大好きでした》

「ふーん?」


タマやマチが生まれるよりずっと前から、変わらず存在する菓子。

それは思いがけず、先の金太の疑問に対する答えを引き出す鍵となった。


《そうそう……私が金太さんに姿を見せたのは、その友達に関係してるんですよ》

「タマの友達に?」

《私が姿を見せた少し前、金太さんが偶然その子と同じ名前を口にしてるのを聞いたの》

「え、いつだろう?」

《男性のご友人と一緒で、確かかなり遅い時間でした》


偶然の一致とはいえ懐かしい名を聞いた彼女は、次に金太を見かけた時なんとなく姿を現してしまったのだという。


《本当に、たった一人の親友で──》


そして金太は、耳を疑う事になる。


《──決して取り返しのつかない事をしてしまった相手》


銀杏の木に雷が落ちた頃、タマの親友だった女性。


《私はその子の事を──》


彼女は源氏パイが好物だった。


《──マチと呼んでました》


駅を出た電車が近づく。

金太はそのノイズに紛れそうに小さな声で、無意識に呟いていた。


「児玉千秋……」

《えっ!?》


驚きに染まるタマの表情。

しかしその直後、彼女から返された言葉は金太が予想するいずれのものとも違った。


冷蔵庫の裏で見つけたハガキの宛名、あの部屋の主だった者の名前。

それは──


《──児玉千秋は、私の名です》


……………
………



タマの元から自宅まで、金太はいつもよりゆっくりと歩く。


あの後、彼は一時間以上もタマの元にいた。

日暮れ時とはいえ、暑い時期だ。

一箇所に立ち止まっての長時間通話など、周りの者は不自然に思った事だろう。

しかしその時の彼は周囲の視線など気にもならなかった。


タマが語った内容は、そう簡単に気持ちの整理がつくほど単純な話ではない。

金太は自宅の僅か手前の公園で足を止め、ベンチに腰掛けた。


買い物袋からペットボトルのコーラを取り出し開栓する。

ぬるいそれなど美味いはずはない。

ただ、やけに渇く喉を潤したかったのだろう。


児玉千秋はタマの名だった。

過去にあの部屋に住んでいたのはマチではなかったのだ。

二人は親友であり、マチは度々その部屋に泊まっていたという。


そして当時、タマには少し年上の恋人がいた。

彼女は恋人の影響で気に入ったゲームを、マチにもプレイさせていたという事だ。


しかしある時、タマの恋人は自損事故で亡くなってしまう。

社会人の彼は社有車での出張の帰り、居眠りをしてしまったのだとタマは言った。

そしてそれは自分のせいなのだ、と。

マチは悲しむタマの元へすぐに駆けつけ、懸命に慰めた。

だがその傷はすぐに癒えるものではない。


自分が彼の帰りを急かしさえしなければ──タマはそれを悔い、嘆いた。

やがてタマは彼の後を追う事さえ望むようになる。

マチは彼女がそれを口にする度に叱り、また励ました。

そして半月ほどが経ち、タマが少し落ち着きを取り戻したように『装っていた』頃、ある雨の日の事だった──


『──タマ、なにこれ?』

『あはは……見つかっちゃった』

『なに笑ってんの?だいぶ元気になったと思ってたのに、なによこの封筒……遺書ってどういう……』

『元気に見えたでしょ? だってそうしないとマチが帰ってくれない』

『タマ……!』

『ごめん、マチ。私、やっぱりダメみたい──』


マチは烈火の如く怒り、タマの頬を打ったという。

そしてタマの遺書を床に投げつけ、ぼろぼろと泣きながら玄関へ向かった。


『マチ……外、雨だよ』

『……泣いてるのがバレなくていい』

『どこに──』

『──勝手にあの世に逝こうとしてる人に、なんで言わなきゃいけないの?』


その後、タマは独りになった部屋で膝を抱えて泣き続けた。

窓を叩く雨の音はマチが出ていって少しした頃、一層激しくなった。

やがてタマは『親友に嫌われたまま死ねない』という想いに辿り着く。

マチはどこかで雨宿りしているだろうか──彼女がそう考えた時、閃光とほぼ同時に落雷の轟音が響いた。


「──ただいま」


公園でまた一時間ほども過ごした後、金太はアパートに戻った。


《おかえり、遅かったね》

「ん、買い物してた」

《それにしても普段より遅くない?》


マチはニヤニヤと笑いつつ《あんな口説き文句を言っときながら早速浮気ですか?》と、金太をからかう。

未だ気持ちの整理がつかない金太は、食欲が無く夕飯も遅々として進まなかった。

向かいに座りTVを眺めるマチの横顔を見ては、さっき聞いた話を頭に巡らせる。


彼女の本名は『桜木真知』。

児玉千秋の親友であり、銀杏の下で雷に撃たれ意識不明のまま数日後に亡くなった女性。


マチが息を引きとる前日、タマはこの部屋の天井から垂らしたロープを前に神に祈った。


『私の命を捧げます、どうかマチを救って下さい』


恋人を死なせてしまった事、そして更に親友まで失うかもしれない事。

そのどちらも自分のせいだと考えた彼女には、もはや生きる気力は残っていなかった。


そして二人は、別々の場所で幽霊となった。

タマは『マチをすぐに追いかけていたなら』という後悔の下、あの銀杏の傍に。

マチは『部屋を飛び出したせいで、タマに更なる罪の意識を負わせてしまった』という想い故に、この部屋に縛られたのだろう。


金太が食事を終えたのは、夜9時が過ぎる頃だった。

夏休み前のテスト期間に当たる今、彼は翌日の科目によって早寝するか勉強をするかのどちらかである事が多い。

しかし、今夜はその限りでは無かった。


「よし、ゲームやろっかな」

《そうなの?明日はよっぽど自信あり?》

「テストだからこそ、気がかりを残しててもね」

《なにそれ》

「FF、終盤で止めてるだろ? 気になっちゃって」

《え、最後までやる気? そんなに残り少しなのかな》

「解らない……でも、見せときたい」


金太は言いながら、タマと別れ際に交わした会話を思い返していた。


『──マチに伝えたい事、マチが伝えたい事、僕が伝言するよ』

《ありがとう……でも、ダメです》

《地縛霊がこの世に存在できるのは、想い遺す事があるから……そしてその対象がこの世にいるから》

《きっとその『伝えたい言葉』こそ、私達が想い遺した事だと思うんです──》


それを叶えてしまえば、マチはこの世から消えてしまうかもしれない。

タマはそう危惧し、そうなる事を望んではいないであろう金太に忠告した。


「何時になってでも、クリアしてやるからな」

《無理しちゃダメだよ? 明日もあるんだから》


きっと今日も、マチはストーリーに対してもバトルの展開にも大袈裟に感情を表す事だろう。

金太はマチの少し後ろに座り直した。

彼女の全てを目と耳に、心に焼きつけるつもりで。

【つづく】


……………
………



「うおぉ……強えーなコイツ」

《全体攻撃ばっかとかズルい!》


終盤となれば、中ボスさえ手強い。

あまりにレベルを上げ過ぎてバトルが味気なくなる事を嫌う金太のプレイスタイルなら尚更だ。


《エリクサー使っちゃう?》

「ここまできたら使っちゃう」

《いっちゃえーっ!》


《そこだ!バハムート!》

「まだOD溜まってねー!」


とうに日付は変わった、深夜独特なテンションの二人。


「マチ、源氏パイ買ってあるから食べていいよ」

《う、でも》

「大丈夫だよ『ぽとっ』する時は目を逸らしてるから」

《やめて、言われると余計恥ずかしい!》


ゲームのシナリオは想像より長く残っていた。

ラストバトル前と思われるシーンを迎えたのは、既に午前3時を回る頃の事。


「いよいよ最後っぽいぞ」

《ドキドキしてます》


偶然にもそのシナリオは最後の戦闘を終えた後、主要なキャラの一人が消滅する事を匂わせるものだった。


マチとタマが遺し、この世に縛られる原因となった想い。

互いに『伝えるべき言葉』を交わす事が叶った時、タマの言う通りであれば彼女らは消滅してしまうのだろう。


逆に言えば、それが果たされなければ金太はこれからも同じ部屋に住まう限り、ずっとマチと共に過ごす事ができる。

ただしそれはこの世に想いを遺し、不自由にも別々の場所に縛られてしまった2人の悲しき地縛霊を『そのままに繋ぎ止めて』の事。

成仏する事のできなかった彼女らを、成仏させない行為なのだ。


ラストバトルを終え、シナリオはエンディングを迎える。

物語の中心となったキャラが一人消滅し、大団円でありながら哀愁を帯びたシーンが続く。

いなくなった人達のこと、時々でいいから思い出して下さい──ヒロインの台詞に、金太は『時々どころじゃないだろうな』と呟いた。


《悲しい話だけど、良かったね……》

「うん、面白かった」


画面に浮かぶ『THE END』の文字、マチに見せておくべき物語は遂に終わった。


《もうこんな時間だよ。チン太、少しでも寝なきゃ》


彼女が気遣うも、金太は答えない。

彼はその時、もうひとつの終わりに対する覚悟を決めていた。


「マチ、聞いてくれる?」

《ん? なに、改まって》

「僕はこうしてマチと過ごすのは、すごく……すごく楽しいんだ」

《……照れますな》

「できる事ならずっと、このままがいいと思ってる」


《チン太……もしかして、引っ越す?》

「いや、違う」

《じゃあ、なんでそんな言い方をするの?》


「……マチが地縛霊でいるのは、やっぱり『想い遺した事』があるからだよな?」

《それは……うん》

「だからマチは、その想いを果たすために存在してるんだと思う」


彼女もこの生活を楽しんでくれている──その位の自負は、金太にもある。

だがそれは比較すべき話ではない。


《私は……ね?》

「うん」

《確かに想い遺した事があって、それはすごく大切なもので……その想いを果たすために存在してるってのは、間違いじゃないよ》


寂しげに目を伏せ、マチは語る。

しかしそれから彼女は、表情を明るく変えて《でもね》と続けた。


《ダメだな……隠し切れないや。私、幸せなの》

「マチ……」

《それまでが孤独で寂しかったから……っていうのもあるけど、チン太が来てくれてからの日々はすごく楽しい》

「……照れますな」


《できるだけそれを認めないようにしてたけど、私もこんな日にずっと続いて欲しい》

「認めないようにしてた?」

《うん……無理だったけどね》


努めて軽い調子で話すマチは、笑顔を崩さない。

しかしその顔は、金太の目に泣き顔よりも悲しく映った。


《あのね、軽蔑されるかもしれないんだけど──》


そしてマチは一拍の間を置き、自らの過去の傷に触れた。


《──私は大切な友達を傷つけて、死に追いやってしまったの》


その出来事を語る事は、マチにとってまさに傷口を抉るにも等しいだろう。

しかし痛みを伴う彼女の言葉は、金太の一言によって遮られた。


「児玉……千秋さんだよね」

《……っ!!》


「ここから先は言葉を選びながら伝えなきゃいけない。マチ、僕は……タマを知ってる」

《なんで……どうして?》


マチもタマも、互いに伝え損ねた言葉という想い遺しによって存在している。

そしてタマのそれを、全てではなくとも金太は知っている。

その内容をマチに伝えてしまえば、もしかしたらタマが今この時に消えてしまうかもしれない。

彼は言葉ひとつひとつを脳内で確かめつつ、ゆっくりと語った。


「これは言ってもいいと思う……タマは、マチと同じように地縛霊になって存在してる」

《……うん、なんとなくそう思ってた》


『想い遺す相手がこの世にいるから幽霊として存在できる』という、死者のルール。

タマと同じように、マチも不確かながらも感覚としてそれを理解していた。


《タマは……どこにいるの?》


その問いに答える事に問題はないか、金太は慎重に考えを巡らせる。


「あの銀杏の下だよ」


そして彼は一度頷き、ある提案を口にした。

恐らくは『マチが消える』という、彼自身が望まぬ結末を招くであろう提案を。


「マチ、手紙を書こう。タマに宛てて、伝えたかった言葉を詰め込んだ手紙を」

《……それを書いたら、チン太がタマに届けてくれるの?》

「そうだよ、そんな方法じゃ想いは果たせないかな?」

《ううん、たぶん……でも……》


恐らくそれで想いは果たせる、そう思うからこそマチは躊躇った。

手紙を書いた後、自分がどうなるか想像がつくからだ。


《……チン太といるのは楽しい、ずっとこうしてたい》

「うん」

《幽霊が自分の想い遺しを果たす事に躊躇っちゃうくらいだもん、すごく……すごく幸せなんだよ》


しかし躊躇った結果それを諦めれば、タマまでこの世に縛られたままという事になる。

マチもまた、それを解っていた。


《私がどうして死んだか、それもチン太は知ってるんだよね?》

「うん……知ったばかりだけど」


マチは切なげに微笑み、十年前からの話を掻い摘んで語り始めた。


《……記憶は無いけど、雷に撃たれてから私は数日間生きてたみたい》

《意識を失って、次に見たのはこの部屋の光景だった》

《警察の人がいて、大家さんがいて……すぐに何が起こったかは解ったんだ》

《間に合わなかった……って、すごく悲しかったよ》


《自分が幽霊になった事も、いつの間にか理解してた。でもその時は人に姿を見せる事はできなかった》

《まだ幽霊としての存在があやふやだったんだと思う》

《物に触れたり、たぶん姿を見せられるようになったのも自分の四十九日の頃からだった》


《でも、それから一年以上もここは空き部屋のままだったよ》

《やっと入居したのは女の人で、私は最初の夜に姿を見せたの》

《……何も言えない内に部屋を飛び出して、戻らなかった》


《それから3年くらいの間に二度……かな、同じような事があった》

《その後はチン太が来るまで空き部屋だった。毎日ずっとタマの事を考えて過ごしてたよ》


彼女はそこで語るのを止める。

何を考えていたかまで触れてしまえば、想い遺しの内容を伝えた事になりかねないと思ったからだ。


《でもね──》


マチが両手で金太の手を握る。

感触はあるのに体温や重さは無い、不思議な感覚だと彼は思った。


《──チン太と話してる時、ゲームを見てる時……私はタマの事を考えなかったと思う》

《薄情だよね……だからチン太がいない間や寝た後、タマの事を想うようにしてた》

《幸せだと思っちゃいけない、タマを死に追いやった私が楽しく過ごすなんて許されない》

《ごめんなさい……って、タマに謝るつもりで》


繋いだ手を離す、それは僅かに震えていた。

マチは一度俯いた後、また顔を上げ金太の目を見て告げる。


《だから……行かなきゃ》

「……うん」

《手紙、書きます──》


金太が便箋とボールペンをマチの前に置くと、彼女はひと呼吸してそれを手に取り書き始めた。

物体を持っていられる時間は長くはない。

あまり飾り気のある文章を考える時間は無いかもしれない。

1枚目はすぐに書き損じたのか、そこで便箋をちぎり内折りにして机の端によけた。


ペンを走らせる白い指、言葉を確かめようと揺れる唇。

それら全てを決して忘れない──金太はそう誓い、ただ見守っていた。


2枚目は上手く進んだらしく、便箋の行も半ばを過ぎる。


「あ……」


その時、異変に気づいた金太は思わず声を発した。


いつの間にかマチの周りに漂い始めた、大小の金色がかった光の玉。

僅かに彼女の姿は透き通り、その腕越しに机の縁のラインが見えるようになっている。


《……まだ、もう少し待って》


文章がタマに伝えるべき言葉、その核心に触れたという事だろう。

次第に光の玉は数を増し、彼女の肌は少しずつ更に透明度を強くしていった。


「がんばれ、マチ」

《書き終えてから、チン太と話したいのに》

「いいから、集中して」

《よくないよぅ……》


マチの目から涙が零れ、便箋に落ちる。

しかしその雫は紙を濡らす事もせず、幻のように消えた。


《書け……た……》


ペンを置く時、既にマチの指はほとんど色を失っていた。


「お疲れ様、必ず届けるから」

《……お願いします》


無数の光の粒が彼女を包み込んでいる、残された時間は僅かだろう。


「言いたい事なら、沢山あるんだけどな……」

《私も……でも纏まらないや》

「会えて良かったよ」

《うん》

「忘れないからな」

《……うん》


「それと……ええと──」

《──手紙を書く事、勧めてくれてありがとう》

「うん、どういたしまして」

《でも……チン太が『やめろ』って言ってたら、私たぶん書くのやめたよ?》

「そんなの、言えないよ」


《それと……うん、タマによろしく》

「自分がすぐに会うだろ」

《……そっか》


マチの姿は既に輪郭しか判らないほど薄れ、そこにもノイズのような揺らぎが現れ始めている。

金太は最期に自らの想いを伝えるべきか迷った。


《そろそろみたい……》

「マチ、僕は──」


だが今まさに成仏しようとしている幽霊に恋心を伝えるなど、新たな足枷になりかねない。


「──楽しかったよ、ありがとう」


彼女の唇が《それだけ?》と動いた事に、金太は気づかないふりをした。


《チン太、元気でね》

「マチ……!」


マチの姿が掠れる。


《さよ……なら──》


最後に伸ばした金太の手は、光の粒ひとつ掴む事もできなかった。


部屋を静寂が支配する。

金太が力無く腕を下ろす。

下唇を噛み、熱いものがこみ上げる目尻を親指で拭う。

マチとの生活は今、終わった。


「……まだだ」


だが彼女のためにすべき事は、まだ終わっていない。

テーブルの上には書き上げられたばかりの手紙がある。

彼はそれを掴み、立ち上がった──


……………
………



「──タマ!」


急に名を呼ばれ、彼女はひどく驚いた。

無理もない、人影も無い明け方だからこそ大きな声はよく響いてしまう。


《金太さん!? 通話のふりをしないと!》

「はぁ……はぁっ……よかった、いた……」

《……なにを? 私はいつもここにいますよ》

「タマ……これ、読んでくれ」


金太は手に持つ手紙を、押しつけるようにタマに渡した。


《読む……手紙?》


息を切らせるほど急いだ様子の金太、さっき彼がタマに対し使った『いた』という表現。

そして、封筒に収められてさえいない手紙。

彼女がその意味を察するには、数秒も要さなかった。


《なんで……ダメって言ったのに! マチは、どうなったんですか!?》

「……先に逝った、タマを待ってる」

《そんなの……金太さん、マチの事好きだったんでしょう!? なのに、どうして──》

「好きだったからだよ」

《──解んないです! ああ……もうっ!》


「……マチは自分で『幸せになっちゃいけない』って、抱え込んでた」

《え……?》

「それを聞いたのは、手紙を書く事を勧めた後だけどね──」


金太はまた言葉を慎重に選びながら説明する。

タマが手紙から知らされるべき情報は、自分の口からは語らないよう努めた。


「──それを聞けば尚更、アイツが好きだからこそ……書くのを止める気にはなれなかったよ」

《でも……》

「すまない、とにかく手紙を……早く!」


タマが想い遺した言葉を伝えるべき相手であるマチは既に消えている。

急がなければ、じきにタマも消滅してしまうかもしれない。


《マチからの……手紙……》


タマは恐るおそるそれを開いてゆく。

彼女が伝えたいと願う言葉は、もう聞かせる相手を失ったのだ。

自発的な手段の無くなったタマが成仏できるかどうかは、手紙に書かれた内容によるだろう。

『想い遺した事』は言わずともマチに伝わっていた──そう安堵し、納得できるものでなければならない。


『──親愛なるタマ へ


何から書けばいいか、すごく迷ってしまいます。

あんなに毎日たくさんタマの事を考えたのに、それを文章としてまとめた事は無かったからでしょう──』


胸の前で大事そうに手紙を持つタマは、その独特な丸っこい文字に懐かしさを感じた。


《マチの……字だ……》


『──まずはやっぱりあの日、私が怒って部屋を出て行った事を謝らなきゃいけないね。

そのせいで雷に撃たれて、タマに余計な罪の意識を着せてしまった。

きっと貴女が自ら命を絶つ、最後の一押しをしてしまったのは私なんだと思う。

謝って済む事じゃないけど、本当にごめんなさい──』


《違うよ……マチ、悪いのは私なの》


今のところタマの姿が薄らぐ様子は無い。

マチが消えた以上、何もしなくとも彼女は自然と消滅してゆくのだろう。

しかしできるなら想いを果たし、同じように成仏できる事が望ましいに違いない。

金太は何も言わず、ただ彼女を見守った。


《……あぁ、やっぱり》


そして、手紙の内容も後半に差し掛かった頃だった。

タマの周りにぽつりぽつりと、あの光の玉が浮かび始めたのだ。


『──きっと私が想い遺したのは、呆れるくらい身勝手な望みだった。

タマに「そう思って欲しい」という、ただの我儘みたいな──』


《そうだよね、マチ……ごめんなさい……》


タマは、ずっと悔やんでいた。


『──私はタマに生きて欲しかった』


なぜ嘆く事しかしなかったのか、そして。


『タマに「マチがいるから死なない」って言って欲しかった──』


なぜ、親友がいれば生きられる……と、思えなかったのか。

タマの目から涙が溢れる。

光は急速に眩さを増し、代わりに彼女の姿は透明に近づいてゆく。


《やっぱり同じだった……それなのに……私は》


マチは絶望する親友に対しそう願い続け、タマは絶望の果てに気づくも互いに伝えられなかった。

それが二人の心遺りだったのだ。


「……よかったよ」

《まだです、手紙……まだ少しだけ続いてる》


タマは手の甲でごしごしと涙を拭い、文章の続きを目で辿った。


《なあんだ……私の事じゃないや》

「え?」

《そのまま読み上げますね──追伸、チン太と浮気してたらあの世で怒るからね……だそうです》


「毎日立ち寄って話してたのは、浮気に当たるかな?」

《あはは……どうでしょう?》

「下心が全く無かったかと言われると、自信ないな」


マチの時と同じように、その姿は見る間に薄くなっていった。

光に包まれ輪郭にノイズが混じり始める。


「彼氏さんと、マチとも再会できるよ」

《そうですね……でも──》


タマの声はもう掠れてしまっている、それでも2人は最後に幾つかの言葉を交わした。

やがえそれさえも途切れると、金太は手を振り消えゆく彼女を見送った。


明るさを増す、東の空。

大きな銀杏の木が、更に長く延べた影を道に落とす。


「……マチ」


他に覚えている者のいない彼女との生活は、終わってみれば幻と変わらない──金太はそう思った。

だが彼だけは決して忘れない。

ゲーム好きな女幽霊と過ごした、ある夏の出来事を。


……………
………



「──ただいま」


早朝のアパートに戻った金太は、敢えていつも通りそれを言った。

当然、誰の返答も無い。


いつもマチと向かいあって座ったテーブルの前に腰を下ろし、空調のリモコンを押す。

少しして風が送られ始めた時、金太は『こんなに音が大きかったのか』と気づいた。


大学へ行く準備をするには、まだ二時間ほども間がある。


「そっか……もうこの部屋で着替えればいいんだな」


いつも着替えはマチの目を避け、台所との境の戸を締めた向こうでするようにしていた。


「……たぶん、マチが姿を見せる前は何度もストリップして見せたんだろうけどさ」


声にする必要の無い事を、金太はわざと口に出して言った。

返事をする者はいないと自分に言い聞かせるためだ。


「想像以上にキツいな……」


マチがいなくなれば悲しくない筈が無い、それを解った上での行動だった筈だ。

長く迷いたくないから、少し強引に手紙を書く事を勧めた。


彼女らは幽霊、成仏すべき存在だ。

事情を知りながらそれをこの世に繋ぎ止める事は、自分の我儘に過ぎない。

だからそうするのが正しい、正しかったのだ──何度も頭の中で念じ、思い込もうとする。

ただ本当に独りになってみると、その寂しさは彼が覚悟した以上のものだった。


《──チン太》


ふと、名を呼ばれた気がして金太は目を覚ました。

どれだけ悲しくても徹夜明けだ、いつの間にか彼はテーブルに伏せ眠っていたらしい。


意識を手放していたのは僅か数分ほど、それでも寝起きの視界は霞んでいる。

彼は一瞬、その端に舞う光を見たように思った。


薄暗い部屋にカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。

埃が光に照らされただけか──そう思いつつも、金太は立ち上がり遮光カーテンを全閉した。


「マチ……?」


目を凝らすと、テーブルにほんの小さな光の粒が浮いている。


それが舞うのは、マチが書き損じたと思われる一枚目の紙の上。

金太は内折りにされたそれを手に取り、開いてみた。



『チン太、ありがとう。大好きだったよ』



彼の心臓が強く脈を打った。

マチは限りある時間の中で、その短いメッセージを遺していたのだ。

なんの装飾も無く、だからこそ最も本心を表す言葉を。


「僕は……言わなかったのに──」


友人が部屋に集った時、マチに真実を打ち明けた時、いずれも好意を匂わせこそしてもその表現は間接的だった。

これじゃ、今度は自分が想い遺してしまう──彼は唇を強く噛む。

テーブルの上に舞っていた光の粒は、既にその姿を消していた。


金太は消えゆくタマとの最後の会話を思い返した。


『──彼氏さんと、マチとも再会できるよ』

《そうですね……でもマチとゆっくりは話しません》

『どうして?』

《ふふ……追い返したいから、です──》


そしてタマは『きっとマチはまだこの世にいます』と言い残し、消滅した。

金太はタマの言葉に期待は抱かなかった。

何せマチは自分の眼前で消えたのだ。


「マチ……まだ、いるのか?」


だが、姿は見えなくともそこにいるのなら。


『ぐずってたら女なんてすぐに手の届かないとこへ逃げちまうぞ』


たとえ元から手が届かなくても、言葉だけなら──


「──僕だって、マチが好きだったよ」


伝わるかどうか確証は無い。

ただ遅すぎるとしても自分はそれを言葉にする必要がある──金太はその想いに従った。


「楽しそうにゲームを見てるマチが……TVを視て笑う姿が! 音楽を聴いて自然と身体を横に揺らしてる仕草も、全部好きだったよ!」


「料理してたら見にも来られない癖に口出してきたり、洗濯物の畳み方に文句つけたり!」

「まだ洗面所にも向かってないってのに、人の寝癖を笑ったり!」

「そんなのも、後から思えばすごく愛おしいよ!大好きだったんだ!」


どれもその時には『五月蝿い』と文句を言った事だった。


「もっと色んなゲームを見せたかった! 映画だって借りてきて、一緒に観たかったよ!」

「FF10には続編があるんだ! あのキャラがどうなるか、本当はそれも一緒にやるつもりだった!」

「夏休みにはバイトして、PS4でも買って! 今時のゲームを見せて驚かせようと思ってた!」


「源氏パイくらいいくらでも食べさせてあげたかったよ! ホームパイでも、うなぎパイでも!」

「せっかく物が食べられると判ったんだ!僕の料理も毒……味見して欲しかった!」

「大学からの帰りがけにある揚げ物屋さんのコロッケはすごく美味しいんだ! マチだって昔は食べたんじゃないか!? また食べたかったろ!?」


「それから、もしもだけど……マチがどこにでも行けるようになったら!」

「温泉とか! 海の見える宿とか! 旅行にだって連れていきたかったし!」

「もっと小さな……僕の実家近くの風景だって、一緒に散歩して教えたかった!」

「海やプールでマチの水着姿、見たかったんだ!」


「もういい、もしものついでだ! 僕はいつか船で世界旅行してみたいと思ってる!」

「エアーズロックに登って、グレートバリアリーフで潜って、360度に広がる水平線を見渡して!」

「そんな旅で、隣にマチがいてくれたら……って! すっごい妄想だけど、考えた事もあったよ!」


「……こっ恥ずかしいけど、妙な心配だってしたよ」

「ずっと一緒に生きられたら、マチはそのままで僕だけ歳をとってしまうのかな……って」

「前に読んだSF創作でロボットの少女と人間の少年が一緒に生きてく話があった! そんな風なら、それも素敵だなって考えたりしたんだ!」


とにかく金太は、考えつく限りマチへの想いの丈を捲し立てた。

だが用意していたわけでもない愛の言葉は、やがて底をつきはじめる。


「それから……くそ、それから──」


彼女への想いは、こんな一時で語り尽くせるはずがないほどにあるのだ。

なのにそれを表す言葉が余りに足りない。


「──まだ……もっとあるんだ」


金太は拳を握り締め、下を向いた。

堅く瞼を閉じ、悔しさに顔を顰めながら更なる言葉を探す。

しかし上手く見つからない。


やがて彼は諦め、ゆっくりと目を開けた。

そして、その視界に映った自らの脚に違和感を覚える──


「──ん?」


『まさか自分は死んだのか?』彼は一瞬、そう考えざるを得なかった。

自らの右脚に見覚えのある鉄の枷が、そこから延びる鎖があったからだ。

気づかない内に死んで、告白できなかった事を想い遺しとする地縛霊になってしまったのか。

だとしたらこの鎖はどこかに繋がっている──金太はその先を目で追った。


延びた鎖は左脚に繋がっていた、ただしそれは──


《充分だよ》


──彼の左脚ではない。


《それ以上なんて、照れ臭くて改めて死んじゃう》


光の玉が漂う中、彼女はふわりと舞い降りる。

肌は透き通り、しかし周囲の光が少なくなるにつれ次第に透明度を失ってゆく。


「おい……嘘だろ」

《本当、嘘みたいだよね。でも……ただいま》


微笑むマチ、金太は考えるよりも先に彼女を抱き締めた。

感触はあるのに体温は判らない、不思議な感覚を彼の腕が捉える。

数秒も遅れて彼はその事を不思議に思った。


「……あれ?なんで触れてるんだ? 髪も……肩も、控えめなおっぱいも触れる」

《こらっ》


不躾に身体を触る金太の手を払い、マチは《そうじゃなきゃ鎖が意味ないでしょ》と答えた。

周囲の光は既に消え、足の先を除けばマチに透明な部分は無い。

以前と同じ、はっきりとした姿で金太の目に捉えられている。


《……さっきタマに会ってきた。真っ白な世界で、気づくと向かいあってたの》

《すぐに『全部、伝えあえたんだな』って解ったよ。でもね──》


彼女らの想い遺しは、噛み砕けば『仲直りする事』だったと言えるだろう。

特に怒って部屋を飛び出したマチは、その意味が強い。

だがその真っ白な世界で、タマは歩み寄ろうとするマチに向かって言い放った。


『──自分の恋より友情を優先するなんて、見損なったわ』

『え?』

『そんなの許さない、絶交よ』


しかし言葉とは裏腹に、タマの表情は柔らかなものだった。


『何十年か、金太さんの傍で反省してから来るといいよ──』


《──私、仲直りできなかったんだ。だから想いが果たしきれなかったの》


少し形を変えた想い遺し、それを叶える為には『ある条件』が課せられている。


《チン太と一緒にいたい……って、それを果たさなきゃタマは許してくれないみたい》


実際にはタマが許さなかった事よりも、金太の告白によってマチに『新たな想い遺し』ができた事が彼女が完全な形で復活した理由かもしれない。

悪く言えば『消えようとする地縛霊の未練を増やした』のだ。


《まさか鎖で本人と縛られるとは、びっくりだよ》

「……責任とるよ」


きっと不便も多いだろう、それは仕方ない──金太は覚悟を決めた。


「でもこれなら、世界旅行だって行けるだろ」

《ふふ……楽しみにしてるね》


彼が一人の女幽霊と文字通り結ばれた、ある夏の話だ。

【おわり】

キンタマチンタマ

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