クラリス「あたたかで素晴らしい日々に」 (74)

地の文有り モバマスssです。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1506750222

 今年最後の仕事を終えて、小さく息を吐いた。

 年末進行のスケジュールのせいで連日働き詰めで、身体がくたくただった。

 今年も大事なく過ごせたことに安堵し、社用車を転がして事務所に向かう。

 年始は、少しだけどまとまった休みが取れる。


 夕方から、雪が降っていた。

 彼女のトークショーが終わったのが十八時頃で、諸々の後片付けを終えた今は十九時に差し掛かっていた。

 彼女も片付けを手伝うと申し出てくれたが、今年最後の仕事が終わったのだから、先に帰した。

 年の暮れぐらい好きなところで、ゆっくりさせてやりたい。

 トップアイドルと呼ばれるようになってから、彼女は息もつけないほど忙しくする日々が続いていた。


 途中で寄り道して、私用の買い物を済ませてから、プロダクションに帰り着く。

 珍しく雪の勢いは強く、融けていくそばから振り落ちる。

 きっと明日には積もっているだろうと思った。

 エレベータを上がり、事務所の鍵を開けようとして、部屋に明かりが灯っていることに気付く。


 てっきり、ちひろさんが残っているものだ思った。

「お疲れさまです」

 そう言いながら部屋の中に入ったものの、彼女の姿はなかった。荷物も置かれていない。

 だけど部屋の中は適度に暖房がかかっていて、思わずため息が漏れた。


「お疲れさまです、P様」

 ソファの方から声がかかる。

 ついさっきまで聞いていた声だった。

「クラリス」

 自分の名前を呼ばれて、彼女は心なしか嬉しそうに微笑んだ。

「先に帰っていいって言ったのに」

 コートを脱ぎながらそう言うと、彼女は少し呆れたような、優しい表情を浮かべる。

「P様がまだ働いていらっしゃるのに、一人だけ先には休めませんわ」

 労いの言葉が、心をくすぐってくれるようだった。

「僕だってもう仕事は終わってるよ。いらない荷物を置いたら帰るつもり」

「そうでしたか」

 のんびりとした口調で彼女が答える。


「でも、ありがとう。部屋が暖かくて生き返った心地だ」

「でしたら、幸いです」


 彼女がいやに静かなのが気になった。

 彼女は普段から口数が多い方ではなかったが、それでも今はどこか妙に言葉をおしとどめているような印象を受ける。

 なんとなくそう思えるだけだったけど。

「あー、クラリス」

「なんでしょう?」


「温かいココアでもいれようと思うんだけど、良ければ君の分も用意しようか?」

 彼女の表情がぱあっと輝く。

「お願いできますでしょうか」

 頷いて、給湯室に向かう。


 その後ろを、なにやらお洒落なロゴの印字された紙袋を抱えた彼女がついてくる。

 ココアパウダーと少量の牛乳を雪平鍋に入れて、よく練る。

 ペースト状になってきたら、そこに砂糖を加えてもう少しかき混ぜ、弱火にかける。

 少しずつ牛乳を足していき、沸騰する手前で火を止める。

 あらかじめ用意していたマグカップに、ゆっくりと注ぐ。

 仕事が遅くなる日には、決まって作って飲むようにしていた。

 お湯に溶かすだけのものと比べて手間はかかってしまうけど、丁寧に作るだけその味は素晴らしい。

 ココアを作る僕の横で彼女は紙袋から取り出したバゲットを薄く切って、それをオーブンで温めていた。

「どうしてそんなものが?」

 ふと気になって聞くと、薄く頬を染めて彼女が答えた。

「さっき、帰り道に買ったんです。とっても美味しそうだったので」


 話している内に、いい香りが漂ってくる。

 それらをテーブルまで運ぶ。

 テーブルを挟んで向き合う形で、ソファに腰かけた。

「それじゃあ、まあ、今年もお疲れさまでした」

 マグカップを持ち上げて、こつんと合わせる。


「今年も大変お世話になりました」

 愛らしく微笑んで、彼女は頭を下げた。

 ココアを一口飲んだ彼女が驚いたように僕を見る。

「なんか味、変だった?」

 心配になって尋ねると、彼女は小刻みに首を振った。

「美味しいです、とっても」

 どうやら、いたく感動していただけのようだった。


 バゲットに手を伸ばす。熱かったから、端っこを持って齧った。

 ほんのり焦げ目のついたパンの風味が、口の中に広がる。

 さくさくとした食感がたまらない。それがココアに絶妙に合っていて、つい止まらなくなってしまう。


 空いていたお腹が満たされていくと、どうしてこんなにも穏やかな気分になれるのだろう。

 それはひとえに、目の前で幸せそうにココアを飲む彼女のおかげなのかもしれない。

「そうだ、クラリス」

 バゲットを齧りながらアイデアを一つ、思いついた。

 それを少しだけ自分の中で膨らませる。すると、考えるほどに素晴らしいもののように思えてくる。


「なんでしょう?」

「事務所でこんなことしちゃいけないんだけど」

 言い訳のように呟きながら、帰り道に買ったものを取り出す。

 彼女はわけがわからないといったように、首を傾げている。

「ほんとは家で飲むつもりだったんだけど、君さえよければ、一緒に飲まないか?」

 掲げて見せたのは、赤ワインだった。

 今日は車で帰るのを諦めることにする。

「まあまあまあ!」

 彼女が驚いた声を上げる。

「ささやかだけど、今年も無事に終わったことのお祝いに」


 断られるかもと思いはしたが、ややあって彼女は困ったように笑いながら、頷いた。

「ご一緒させていただきます」

 耐熱グラスにワインを注いで、ついでに共用の冷蔵庫に入っていたいちごジャムをひと匙掬ってかき混ぜる。

 それを電子レンジにかけてホットワインにする。


 僕と彼女だけの、ささやかな忘年会だった。

 窓の外は相変わらず雪模様で、夜ばかりがしんしんと更けていった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 出会った当時の彼女は、二十歳だった。

 その時もたしか十二月だった。

 その年の十二月は、今思い返せばことさら寒かったような気がする。

 都心にも何度か雪が積もったし、なによりも空気が冷ややかだった。

 安物のマフラーと手袋では、誤魔化しきれないほどに。


 雪でもちらつきそうな曇天の下を、僕は歩いていた。

 午後八時を回っていただろうか。営業先から事務所に帰り着くまでに、身体すべてが凍えてしまうような寒さだった。

 コートをすり抜けてくる冷気は、一つの容赦もなかった。


 周りにいる誰もが身をかたく縮こませて足早に歩いていた。

 僕もその中の一人に紛れて、心許なくひかる街灯を頼りに歩き続けた。

 それはまるで無声映画の一場面のような、音と色のない行進だった。

 そんな中で彼女は、ちかちかと明滅する一本の街灯の下に佇んでいた。


 はっとして僕は、歩くのをやめてその場に立ち竦む。

 橙の灯りが降りしきるその下で、彼女の周囲だけが、鮮やかな色彩を帯びているように見えたからだった。

 僕は再び歩を進めながら、彼女を見つめた。

 身を包んでいる簡素な服はとうてい防寒具には見えなかったし、袖から覗く手は、寒気に晒されて真っ赤だった。

 それでも控えめに笑顔を振りまく彼女は、紙きれのようなものを配っていた。

 正確にいうなら、配っているのではなくて、配ろうとしているに過ぎなかった。


 行進に参列する人間は誰もが下ばかりを見つめていて、受け取るどころか彼女の存在に気付こうとさえしない。

 やがて、彼女の表情が克明に見て取れるほどの距離になる。

「寄付をお願いいたします」

 修道服姿の彼女が僕に差し出してきた紙には、端整な字と、少しばかりの絵柄とがあった。

 微かに触れた彼女の指先は、彫像のように冷えきっていた。

 僕がそれを受け取ると、彼女は会釈をして、小さく微笑んだ。まだ手元には厚い紙の束があった。


 渡された紙に、目を走らせる。

 この寒空の下で、まだ彼女はこれを配り続けるのだろうか。

 ふと、そんなことを考えた。

「あの」

「はい、なんでしょう?」

 彼女の、絹のようにすべらかな髪が揺れるさまを見つめる。

 首元には大きなブローチが赤々と輝いている。


「僕で良ければ、寄付します」

 気付けばそう言っていた。

 僕の言葉を受けても、はじめ彼女はきょとんとした表情を浮かべるばかりで、言葉の意味を飲み込めていないようだった。

 それから氷が融けてゆくように、彼女の表情が弛緩していく。

「ありがとう、ございます」


 愛らしい、花のような笑顔だった。

 心が温まるような、不思議な丸みがあった。


 普段からアイドルの傍で仕事をしているはずなのに、つい見とれてしまうほどには。

 事務所に帰り着くと、まだちひろさんが残っていた。

 どこだって大抵はそうなんだろうけど、うちの業界も年末は忙しい。


 デスクの脇に自分の鞄を置き、脱いだコートをハンガーにかける。

 ふと視線を感じて後ろを振り返ると、珍しいものを見るような表情の彼女と目が合った。

 疑問符と、少しばかりの好奇心の混じったような顔だった。

 気になってわけを尋ねると、逆に尋ね返された。


 そんなにぼんやりとして、なにかあったのか、と。 

「え、僕、ぼんやりしてます?」

「ええ、心ここにあらずって感じですけど」

 頷きながら彼女は、くすくすと笑っている。


「なにか良いことでもありましたか?」

 そう言われて一番に思い浮かんだのは、彼女のささやかな笑顔だった。

「Pさん?」

 黙り込んでしまったのを気遣うように、彼女が顔色を窺ってくる。

「……僕、さっき見つけてしまったかもしれないです」


 それは閃きに過ぎなかった。

「なにをです?」

 たった一瞬の笑顔だった。


「アイドルの、原石を」

 それでも鮮やかなその輝きを、たしかにこの目で捉えた。

 目には未だに、まばゆいばかりのブロンドの髪色が焼き付いている。

 神様の存在を信じるという感覚が、今一つ理解できない。

 なぜって、その姿を見たことがないから。

 頭の中で明確に像を結べないものに頼るということに、違和感を覚えてしまうからだった。


 それでも、神様と呼ばれるものが、どこかにいればいいとは思うことはある。

 世界のあらゆる場所に、その存在を心から信じ、祈り続ける人がいる限り。

 その支えになる限り。


 スカウトの話をするために、彼女のもとを訪ねた時のことだった。

 その日は朝から分厚い雲が垂れ込めていた。相も変わらず滲むような冷えが厳しかった。

 プリントした地図を頼りにと思っていたが、大して迷うこともなく辿り着くことができた。


 小さく、素朴で、どこにでもありそうな教会がひっそりと建っている。

 教会に入るなんて、初めてのことだった。


 礼拝堂には平日の朝から自由に入れるとあったが、扉を開けるのには少なからず躊躇いがあった。

 扉の前に立って逡巡していると、中から微かな歌声が聞こえてきた。

 讃美歌だろうか、女性の声で、のびやかで綺麗だった。


 重量のある扉をそっと引いてみると、仄かに木の匂いがした。

 いっそう鮮明に歌声が耳に届く。声はどこまでも透き通っていた。

 教会の中に入る。

 外に比べて、遥かに空気が暖かい。


 広くはなかったが静かで、穏やかな雰囲気だった。

 小さな木枠の窓からは陽光が差し込んでいる。

 入ってきた扉から真っ直ぐ正面にある祭壇まで通路があり、それを基準にして線対称に、長椅子や小窓や簡素なシャンデリアが配置されている。


 奥まったところに据えられた祭壇はステンドグラスを越して、何色にも彩られていた。

 壇上のすみには、赤茶けたオルガンが置かれていた。

 そのオルガンのそばに立っているのが、歌声の主だった。

 歌いながら、修道服の背中が揺れている。

 気が付けば、その声に聴き入っていた。

 心が洗われるような感覚だった。

 その存在は、その歌声は、教会の中に完全に溶け込んでいるような気さえする。

 その声音からでも、心の底から気持ち良さそうに歌っているのがわかる。

 僕の気配に気付いてか、不意にシスターがこちらを振り返り、歌声が止まった。


 彼女だった。


 彼女は我に返ったように何度か小さく頭を振り、こちらへやってきた。

 足音に合わせて、こつこつと木を叩くような音が鳴った。

 あの晩と同じ、濃紺の修道服に身を包んでいる。


「おはようございます」

 そう言って彼女がお辞儀をする。慌ててそれにならって頭を下げた。

「あら、あなた様は」

 顔を上げた彼女と目が合うと、向こうは口元に手を当てて、なにかを思い出しているようだった。

 やがて、彼女の目尻が少しだけ下がる。

「先日は当教会に寄付をいただき、本当にありがとうございました」


 募金をしたのはもう何日も前のことで、覚えていないものだとばかり思っていたから、驚いてしまった。

「この教会にくるのは、初めてですか?」

 彼女が遠慮がちに尋ねてくる。

「教会にくること自体、初めてなんです」

 素直に答えると、彼女の表情が華やいだ。


「ようこそいらっしゃいました。歓迎いたします」

 何度も、彼女の笑顔に見惚れてしまう。

 ただ、彼女の笑みがあの夜に比べて弱々しく見えたのが少し気にかかった。

「先ほどは拙いものをお聞かせしてしまいました」

 彼女は照れを隠すように、自分の頬に触れた。

「とんでもない、綺麗な歌でした」


「いえ、下手の横好きなんです」

 どうやら彼女は、本気で自分の歌が下手なのだと思い込んでいるようだった。

 それから彼女は、この教会の案内をしてくれた。

「ここでは、祈ることができます」

 最初に彼女はそう言った。

「祈らず、座るだけでも構いません」

 柔らかな声が耳に心地良い。

「いつでもここには入ることができますが、毎週日曜には礼拝を開いております」

「このところ諸事情によって開けておりませんが、いつか開いた折には是非、お越しください」

 僅かに彼女の声色が曇る。


「失礼ですが、あなた様のお名前を頂戴しても?」

 彼女は胸の前でぽん、と手を合わせて、そう尋ねてきた。

「この教会では、参列にきてくださった方のことをお名前で呼ぶようにしているのです」

 もちろん無理にとは申しませんが、と付け加えられる。

 拒む理由はなかった。


「Pと申します」

 そう言って自分の名刺を一枚取り出して、彼女に差し出す。

 受け取った彼女は、それをじっと眺めた。

「まあ、芸能関係の方なのですか」

「アイドルのプロデュースをしています」


 アイドル、と彼女が囁いた気がする。

 吐息に紛れてしまって、言葉の殆どは聞き取れなかったけど。

 それから彼女は、紙片に向けていた視線を僕に移して、薄く微笑んだ。

「申し遅れました。私はクラリスと申します」

 クラリス。頭の中で何度かたしかめるように繰り返す。

 彼女に対して勝手ながら築いていたイメージにそぐう名前だった。


「P様。たしかに覚えました」

「なにかあれば、いつでもこの教会にいらっしゃってください」

 彼女の首元にはブローチが、匂やかにひかりを放っている。

「ええと、本日はこちらに、どのような御用でいらっしゃいましたか?」

 思い出したように、彼女がそう切り出した。


「……そのことについてですが、すみません」

「今日は、あなたにお話があってここにきました」

 短く息を吸って、覚悟を決める。一度頭を下げて、彼女の目を見た。


「私に?」

 彼女が呆気に取られた表情を浮かべるのも、無理はないと思う。

 教会を訪ねる人は大抵、神様に用があるのだろうから。

「クラリスさん」

 小さな声でも、この教会の中では僅かに響く。

「アイドルに興味はありませんか」


 僕は、自分の声が建物のあちこちを行き交い、彼女の元に届くさまを想像する。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 アイドルには、二通りの生まれ方がある。

 自分からそうなりたいと願い、オーディションを経て選ばれるものと、

 スカウトによって、本人の意志とは遠いところから選ばれるものと。


 前者の場合は、本人自らがトップに立つことを目指すのだから、後衛としてはそれを後押しして背中を支えてあげるだけで良かった。

 ところが後者になると途端に事情が変わってくる。

 たとえ逸材を見つけたとしても、本人にトップアイドルになりたいと思ってもらわなければ意味がなかった。

 その気持ちは、アイドルのアイドルたる骨子であり、強ければ強いほど良い。

 ひるがえって、その気持ちを抱けないのなら、アイドルを続けることは難しい。

 スカウトした相手にも、それまでに送っていた人生がある。


 学校、仕事、家族、恋人。

 アイドルになるということは、住む場所や、過ごす時間や、関わる相手が変わるということを示している。

 時にはそれまで大切に抱えていたものを、捨ててしまわなければならないこともある。


 教会を訪れるまでに、何度となく考え続けた。

 スカウトの話を、彼女に持ちかけてもいいのかということを。

 彼女と初めて会った晩に手渡されたコピー用紙には、経営の行き届かなくなった教会に対しての寄付を募る旨が書いてあった。


 端正な文字で、迂遠に記されてこそいたけど、このままだと遠くない先に売り払わなければならなくなるとも。

 暗く寒い中を、手を真っ赤にして寄付を募る彼女の姿が目に浮かぶ。

 彼女の内を、その教会という存在がどれほど占めているのかはようとして知れない。

 ただ、大切なものとして向き合っているということだけは、痛いくらい感じ取れた。


 彼女をスカウトするということは、彼女から教会を取り上げてしまうということに繋がっている。

 それでも彼女の笑顔には、温かさがあった。

 その歌声には、心を震わせる魅力があった。

 なににも代えがたいひかりが宿っていた。


 彼女が世に出なければ、この世界はよりつまらないものになってしまう。

 まさしくそれは直感だった。

 だけど、その直感が当たっていることを、僕はほんの少しも疑わなかった。

「私が、アイドルに、ですか?」

 口をぽかんと開けて、彼女が尋ねてきた。

「はい」

「あの、テレビに出ているような?」

「そうです」

 彼女は当惑したような表情を浮かべて、僕の目と手にしている名刺とを交互に見つめた。

 暫くして、そこから当惑の色が薄れ、徐々に真面目さを帯びてきた。

 かたくなに彼女を見つめ続ける僕を見て、どうやら狂言の類ではないと判断してくれたのだろう。

 下世話な話だけど、アイドルだって職業である以上、仕事ぶりに応じて給料を得ることができる。

 彼女がトップアイドルとして活躍できるようになれば、時間をかければ教会を立て直すことも不可能じゃない。


 正直なところ、その言葉は彼女にとって、相当な殺し文句になったと思う。

 だけど僕はそれを口に出さなかった。脅すようにも取れてしまう言い方はしたくなかった。

 それになにより、アイドルというものを楽しんでもらえなくなるような気がしたから。

 彼女はくちびるを強く結んで、真剣な表情を浮かべている。

 じっと、なにかを考え込んでいる様子だった。


 一度だけ、彼女が後ろへ振り返った。

 僕と彼女は、祭壇へと続く通路の上に立ち尽くしている。

 彼女を越して見える祭壇には、小さな十字架が立っている。


「この教会は」

 やがて、向き直った彼女が口を開く。

「私を育てていただいた、大切な場所です」

 決して言葉の調子は強くはなかったが、はっきりとした輪郭を帯びていた。


「家庭の事情で物心が備わるよりも前から置いていただいて、何不自由なくというわけでもありませんが、幸せは満身に受けました」

「神父様は優しい方で、お年を召して体調を崩されるまで、毎週開かれていた礼拝には沢山の方がいらっしゃいました」

「……今では年を経るごとに、思うように運営が立ち行かなくなってきています」

 僅かな間があった。



「私には、一つとして取り柄がありませんが、それでもここの修道女です」

「ここに立ち、教会を守る役割があります。……或いは、教会の行く末を見送る役割が」

「たとえ、なにもできないとしても」

 痛みに耐えるように話しているようにも聞こえる。

「お尋ねしても構いませんか」

 花弁に触れるような、慎重な言い方だった。

 緊張を覚えつつ頷く。


「あなた様はどうしてアイドルをお勧めくださったのですか?」

「ただの修道女である、私に」

「祈ることしかできない、この私に」


 彼女は心の底から不思議でならないといった様子だった。

 おぼろげな笑みを浮かべて、そう呟いた。

「あなたの笑顔と歌声に、とても美しい輝きを見つけたからです」

 理由なんて、本当にシンプルだった。

 どんなに手練手管を弄して、いくら着飾った言葉を使うよりも、思ったままに伝える方が良いと思った。

「そこに、なにも誤魔化すことのできない魅力を感じたからです」

「あなたがアイドルになれば、遥か高みまでのぼることができます」


「……お会いしたばかりなのに、どうしてそのようなことがわかるのでしょうか」

 彼女の言葉は冷静さを繕っているようだったが、小さく震えていた。

「確証と呼べるものは、ありません」


 自分の言葉を少しずつたしかめながら、ゆっくりと話す。

 彼女は黙ったままで、言葉の続きを待っているようだった。


「だけどわかるんです。それが、あなたにしか持ちえない価値だということが」

 虹色にも感じられる、そのひかりを。

「僕はそれを、一人でも多くの人に教えてあげたい」

 知らず自分の手に力がこもる。

「とりわけあなたの歌は素晴らしい。本当に、本当に、僕は感動しました」

「人を幸せにする力が備わっていると、心の底から思います」


 彼女は息をつめて聞いている。

 線の細い身体が、いっそう頼りなく感じられた。


「幸せな気持ちになってほしいんです。あなたを応援する人にも」

「他ならない、あなた自身にも。僕がそうなったように」


 効率や障壁や、立ちはだかるすべてを軽々と飛び越えて、アイドルになるべくして生まれた人は、たしかに存在する。

 彼女は俯いてしまって、それから暫く言葉を返さなくなった。

 首元のブローチが揺れている。

 その姿はどうしてだか、祈っているようにも見えた。


 ここでは、祈ることができる。

 僕の頭の中で、彼女のその言葉がリフレインした。


「少し、お時間を頂けませんか」

 やがて彼女は、声を絞るようにそう言った。

 それから数日が経過した朝のことだった。

 デスクで資料をまとめていると内線がかかってきて、繋ぐとプロダクションの受付からだった。

 なんでも僕と連絡を取りたいと話す人がきているらしい。誰とアポイントがあるわけでもなかった。

 誰なんだろうと訝しんでいると、受付が言葉を続けた。

 相手はクラリスと名乗っていると。


 僕は慌てて上着を掴んで、彼女を迎えに走った。

 空いていた会議スペースをおさえて、そこに彼女を通した。

 彼女からチェスターコートを預かる。彼女は品の良い薄桃色のブラウスを身に着けていた。

 雪のように白い肌によく映えている。

 首元には、赤いブローチが留められている。きっと大切なものなのだろう。


「突然押しかけてしまい、大変申し訳ありません」

 椅子を勧めると、彼女は座るよりも前に謝った。

 それから彼女は何度か深く息を吸って、緊張した面持ちで話した。

「一つだけ、確認させてください」

「私がアイドルになったとして、誰かを幸せにすることは本当にできるのでしょうか?」


 深く頷く。

「あなたがそう願うなら、必ずファンを幸せにすることはできます。だけどそれには、相応の努力が必要になります」

「僕にできることは、あなたの活動のサポートです。スケジュールを組み、ライブをセッティングすることはできます」

「レッスンをこなし、ライブに出演するのはあなた以外にいません」


 僕がそう答えると、彼女は小さく頷き返した。

「努力することでしたら、自信はあります」

 芯のある言葉だった。

「僕は、あなたが輝くためだったら、なんだって協力します」

 当時は、彼女のためにどうしてこんなにも行動できるのかが、我ながらうまく説明できなかった。

 でも少し考えてみれば、それは当然のことだと気付けた。


 一人目のファンとして、彼女に心を奪われてしまっていたのだから。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 奮発して購入したワインは酸味と甘みのバランスが取れていて、とても飲みやすかった。

 加え入れたジャムの果実感も味を濁すことなく、むしろ鼻に抜ける香りが良かった。

 それを少しずつ飲みながら、ぼんやりと昔のことを思い出していた。

 もう何年も前のことなのに、つい先日のことのように感じられる。



「P様」

 それは、まるで布を織るように丁寧な声だった。

「うん?」


「お伝えしたいことがあります」

 耐熱グラスの縁あたりに視線を落としながら、彼女はそう言った。

 まだグラスの半分ほどしか飲んでいないのに、彼女の頬は染まりつつあった。


「あなたが事務所に帰ってこられる少し前に、教会から連絡がありました」

「無事、経営を立て直すことが叶い、平穏に年を越えることができるようになった、と」


 えへへ、と彼女が笑う。

 涙がこぼれ落ちる一歩手前の、笑顔だった。

「P様がいなければ、今頃教会はどうなっていたともわかりません」

「本当に、ありがとうございます」

 かしこまって深々と頭を下げる彼女を、ただ見つめる。

 プラチナブロンドの髪が柔らかくひかりを放っている。


「そうじゃない」

 手を振って否定した。

「ここまで頑張ってくれたクラリスのおかげだから」

 実際、僕にできたことなんて、彼女を支えることくらいだった。

 本当に頑張ってきたのは彼女の方だった。

 アイドルになって、彼女の生活は大きく様変わりした。

 プロダクションの女子寮に引っ越し、他のアイドル達と寝食を共にするようになった。


 歌唱力こそあったものの、どうも運動は苦手なようで、最初は簡単なステップを踏むのにも苦労したようだった。

 だけど彼女は苦手なレッスンに音を上げることなく、むしろ意欲的に取り組んだ。

 自身の言葉通り、人一倍の努力を重ねていた。

 その度に彼女はめきめきと上達し、できることを増やしていった。


 メディアに出演すると、その出自について驚かれる機会は少なくはなかった。

 それによって好奇の眼差しに晒されることもままあったが、彼女はそれらすべてを受け止め、静かに微笑んだ。

 自分という存在の特殊性を恥じることも隠すこともしなかった。


 舞台に立てば真摯に歌い、踊った。表現することの喜びを、アイドルらしく発露した。

 そして彼女は自分がアイドルとして稼いだ給料の殆どを、教会に寄付した。


 ときおり空いた時間を見つけては、教会に赴くこともよくあった。

 たまに僕も彼女についていくことがあった。いつだって教会は、訪れた季節の雰囲気をまとっていた。

 長椅子に腰かけて、ステンドグラスから降りしきる色を眺めているのが好きだった。

 彼女はよくオルガンを弾き、いつかのように身体を小さく揺らして歌ってくれた。


 彼女はアイドルでありながら、シスターでもあった。

「今日は事務所じゃなくて、教会に行った方が良かったんじゃないか」

 そう言うと、彼女は形の良い頭をふるふると振った。

「教会にはいつでも行けます」

「それよりも今は、この喜びをなによりも先にP様にお伝えしたかったんです」

 鈴を鳴らしたような、清らかな響きがあった。


 それから暫く、沈黙が訪れた。

「クラリス」

 僕は小さく彼女の名前を呼んだ。

 テーブルに目線を落としている彼女からの返事はなかったけど、耳をそばだてているようだった。



「君をスカウトしたことを、僕は少しも後悔していない。むしろ自分を誇りに思う」

「そして君は本当に素敵なアイドルになってくれた。数えきれない人を幸せにしてくれた。君自身、幸せになってくれていると嬉しい」

 その言葉に、彼女は頷いてくれた。


 残りの少ないグラスを傾けて、くちびるを湿らせる。

「アイドルになってくれて、ありがとう」

「僕を信じてくれて、ありがとう」


 いくつ言葉を重ねても言い足りないくらいだった。

「……私は今まで自分が行ってきた選択を、一つとして悔やんだことはありません」

「修道女として生きてきたことも、アイドルとして生きることを選んだことも」

「お金を稼ぎ、教会を守るためという気持ちがあったことを、否定はしません」

 返ってきた彼女の言葉は、教会に漂う空気のように、穏やかで丁寧だった。


「P様に会うまでの私は、今にも崩れてしまいそうな教会にすがりつく他に、なにもできないでいました」

「自分がなにをするべきなのかもわからないまま、ただ、なにをしたいのかだけは、はっきりとしていました」

 辞書を引くように慎重に話し、彼女はいつものように微笑んだ。両手を小さく重ね合わせている。

「ずっと、誰かの足元にひかりを照らしてあげられる存在でありたかったのです」

「祈ることしかできなかった私に、あなたはアイドルという可能性を提示してくださいました」

「私にしか持ちえない価値だと言って、背中を押してくださいました」

「お礼を申し上げるのは、私の方です」

 キャンドルにひかりを灯すように、彼女の言葉は心を温めてくれる。


 僕には、ありがとうと囁くことしかできない。

 彼女のすべてに。うららかなその輝きに。

「……歌が好きです。歌うことが、小さかった頃から。これだけはずっと変わることはありません」

「あなたがあの日、私が心から愛する歌に人を幸せにする力が備わっていると言ってくださった時に、アイドルとしての私が生まれたのです」

 神様の存在を信じるという感覚が、今一つ理解できなかった。

 なぜって、その姿を見たことがなかったから。


 だけど今は、なんとなく信じられる気がした。

 恐らく神様は、一人の姿として存在するのではなく、信じる人のその心に宿るものだと思う。


 きっと信仰とは頼るものではなく、貫くものだ。

 仮にそうじゃなかったとしても、そうあるべきものなのだ。

「お祈り、しても構いませんか?」

 重ねた手をそのままに、上目遣いに彼女が尋ねてくる。

「あれ、今まで祈る時に許可なんて取ってたっけ」


「他の方のために、本人の前でお祈りをする場合は、お伺いを立てる決まりがあります」

「私とあなたのために、是非ともお祈りがしたいのです」


 断れるはずもなかった。

「なにを祈ってくれるか、聞いてもいいかな」

 対面の彼女は、くすぐったそうに微笑んでいる。

「これからの私達の、あたたかで素晴らしい日々に」

 両手の指を胸の前で組み合わせて、彼女が祈る姿をよく見かけることがある。

 ライブが始まる前の楽屋や、事務所の給湯室など、どうやら祈る場所や時間に決まりはないらしい。

 時折、彼女は祈りながら小さくなにごとかを呟くこともある。

 そういう時の彼女は大抵とても穏やかな表情を浮かべている。


 あまりにそれらしい所作と、あまりにそれらしい立ち姿。

 彼女はシスターでありながら、トップアイドルでもあるのだ。


 クラリス。

 心優しい彼女は今日もどこかで、祈りをささげるのだろう。

以上になります。
読んでくださり、ありがとうございました。

 穏やかで温かい雰囲気で読みやすいSSでした・・・クラリスは個人的に(肇や聖同様)知名度が上がればもっともっと人気面でものびしろのあるアイドルだと思うので、クラリスもっと流行れ♪

よかった……すーッと心に入ってくるSSでした
冬の寒さの描写がよかった

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom