ミカサ「まだ名前はない」 (21)

窓の外を見ると、空には抜けるような青空が広がっている。

遠くに見える深緑の山々の稜線は空の青に浮かび上がり、やけに立体的に見える。

時折強く吹く風がカーテンをなびかせ、差し込む陽射しを揺らめかせた。

先ほどまで教官の点呼を取る声が聞こえていたが、今では夏虫の声だけが響くにぎやかな静寂が部屋の中に満ちていた。

目を閉じてじっとしていると、森の木立の中に佇んでいるような錯覚を覚える。

これほどに気持ちが落ち着いているのはいつ以来だろうか。

もっとも——。

目を開けてベッドに横たわるエレンを見つめる。

——状況としては落ち着いていられるものではないのだが。

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小さく嘆息していると、目を覚ましていたエレンが私を見ていた。

「ミカ……サ?」

「おはよう、エレン。気分はどう?」

答えようとしたエレンが途端に咳き込んだ。

額に乗せていたタオルがその拍子にずれ落ちる。

ちょうど空いた額に手を当てると、まだだいぶ熱があるようだ。

「今日の訓練は休むと伝えてある。ゆっくり休むと良い」

タオルを拾って水に濡らし、額に乗せ直した。

「……お前は?」

「何が?」

エレンが何を聞きたいのかはわかったが、あえてとぼけて問い返す。

それが伝わったのか、彼は苛立たし気に眼光を鋭くした。

「お前はなんでここにいるんだよ。訓練はどうした?」

「私も体調不良で休み」

「……じゃあ人の看病なんてしてないで休んでろよ」

「私は訓練ができるほどではないけれど、エレンより元気。だから看病をする」

私の言葉にエレンは何か言いたそうだったが、「そうかよ」とだけ言って、それきり黙ってしまった。

言っても無駄と諦めたのか、喉が痛くて喋りたくないのか。

おそらくはその両方だろう。

「夏風邪だって」

返事はない。

「エレンは毎年夏になると風邪を引く」

ぴくりと眉間に皺が寄ったのが見えた。

聞こえてはいるようだ。

「お母さんから聞いたことがある。夏風は馬鹿が引くんだって。毎年のように夏風邪を引き続けるエレンは、昔から変わりなく馬鹿」

「うるさいな! 去年は引いたかもしれないけど一昨年は夏風邪なんて引いてないぞ!」

堪りかねたエレンはそう叫んだ後、苦しそうに咳をしだした。

喉が痛いのに大声を上げるからだ。

「エレンは一昨年も夏風邪を引いた。エレンのことで私の記憶違いはない」

私が断言すると、エレンは憮然とした表情になった。

「今年は何が原因で風邪を引いたの?」

「……なんだっていいだろ」

突き放すように呟いた後、エレンはそっぽを向いてしまった。

これ以上は話さないという意思表示だろう。

小さく嘆息する。

川で水遊びをして、濡れたまま過ごしていたのが原因だということはアルミンから聞いて知っている。

だが、そのことをとやかく言えばエレンが完全にへそを曲げてしまいそうなのでやめておくことにした。

風があるとはいえ、暑いことには変わりなく、浮かんでいた汗が滴となり、頬に沿って流れた。

エレンはと見ると、彼もまたベッドの上で暑そうに眉をしかめている。

手近にあった薄手の教本を手に取り、扇いで風を送ってやると何か言いた気にこちらに視線を投げたが、結局は何も言わずに目を閉じた。

窓の外に目を向けると、先程まではなかった白い雲が山の向こうから顔を覗かせていた。

夏虫の声は少し小さくなった気がする。

彼らもこの暑さに参ってしまったのだろうか。

部屋にはいつの間にかエレンの寝息が響いていた。

寝苦しそうな寝息を立てるエレンを見る。

少しは大人っぽくなったが、昔と何も変わらないエレンだ。

以前、誰かにエレンとの関係を聞かれたことがあった。

私は迷うことなく、私とエレンは家族だと言った。

あるときは、エレンのことをどう思っているのかと聞かれたことがあった。

私は迷うことなく、エレンのことは家族だと思っていると言った。

誰に問われても、私はそう答える。

けれど、エレンに「お前は俺のことをどう思っているのか」そう問われたならば、私はなんと答えるだろうか。

エレンと出会ってすぐの、彼の家に引き取られたばかりの私なら、迷うことなく家族だと答えただろう。

では、今は——。

エレンが大切なことには変わりはない。

エレンと一緒にいたい。

エレンと離れたくない。

家族だからそうなのだと思っていた。

強く吹いた風に目を閉じる。

まぶたの裏に浮かんだのは、ここに来てからのエレンだった。

エレンがアニと対人格闘の訓練をしている。



気持ちが落ち着かない。

エレンがクリスタと馬術について語っている。



胸が締め付けられるようだ。

エレンがサシャと楽しそうにご飯を食べている。



心がざわつく。

エレンがミーナと——。



エレンがユミルと——。



エレンが——。



エレンが——。

目を開けてエレンを見ると、熱で上気した頬は林檎の様に赤い。

タオルを手に取ると、すでに温くなっていたので、もう一度水で濡らして乗せ直す。

エレンは寝息を止め、少しだけ身じろぎをしたが、すぐにまた寝息を立て始めた。

彼は診察の結果、単なる夏風邪と診断された。

寝ていれば治る程度の、大したことのない状態だそうだ。

それでも私は不安だった。

私は二度家族を失った。

もう大切な人を失いたくない。

エレンに対して抱いているのはそんな気持ちが混じった親愛の情だ。

けれど、それだけではない。

そのことはエレンと彼女らのことを思うときに波立つ心が教えてくれる。

その気持ちを何と呼ぶのかわからない。

それは親愛の情に似た、全然違う想いだ。

けれど、それにはまだ名前はなくて、私はその気持ちが、想いが、感情が、どういったものかわからないのだ。

布団から出ているエレンの手をそっと握る。

私の冷たい手に驚いてぴくりと一瞬だけ震えたが、やがて優しく握り返してくれた。

窓の外では、白く大きな入道雲が山から立ち昇り、晴天を塗りつぶそうとしていた。

夏虫の声はほとんど聞こえなくなっていた。

きっと雨が降るのだろう。

遠くの方から点呼の声が聞こえた。

午前の訓練は終わりのようだ。

エレンに食事を持ってこようと、名残惜しくも手を離そうとしたが、思いのほかエレンは強く握っておりそれは叶わなかった。

「エレン、食事を持ってくる。手を離して」

その声にも反応せずエレンは手を握り続けていた。

——仕方ない、食事は誰かが戻ってきたらお願いしよう。

おそらくアルミンが心配してきてくれるはずだ。

あと少しだけ続く二人の時間。

寝ているエレンを起こさぬよう、昔カルラお母さんが歌っていたのを思い出しながら、小さな声で歌う。

エレンを見ると、寝苦しそうな様子はなく和らいだ顔になっていた。

私は思わず笑みが零れた。

何となく思う。

今の私の微笑みは、カルラお母さんがエレンに向けていたものとそっくりなのではないか、と。

きっと今はそれでいいのだ。

私の、自分でもわからないこの気持ちに名前がついたなら、今とは違う微笑みをエレンに向けることができる。

いつか来るその時を思い、私は優しくエレンの手を握った。






終わり

エレンとミカサの話を書こうと思ったらこうなった。

皆も夏風邪には気をつけてください。

ミカサはエレンに対して家族以上の好意を抱いてるけど無自覚なのだそうです。

とにもかくにもこれで十篇。



アルミン「襲い来るモノ」

ハンジ「あなたの言葉を胸に、私は生きていく」

ライナー「俺は、こんなことには負けない」

アニ「陽だまりを歩く」

エレン「お前らやる気出せよ!」

エレン「涼しき夏、暖かき冬」

ミカサ「残酷で美しく、淡々とした世界」

ジャン「ミカサと付き合うまでの十五日間」

クリスタ「秘密は言えなかった」

ミカサ「まだ名前はない」New

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