多田李衣菜「サバの味噌煮」 (19)

みくりーなへの挑戦

前作
塩見周子「ぜんざい」

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秋風がしっとりと冷たい、10月の夜。

多田李衣菜はダイニングルームで、前川みくの帰宅を待っていた。

2人はユニットを組んで長いが、ここのところ、個別での出演が増えている。

だがそれによって、かえって李衣菜は、

みくへの思いやりが深まっていくような気がする。

寮のルームメイト、仕事仲間、どれにも当てはまらない温かな気持ち……。

テーブルの上には、李衣菜が用意した夕食がある。

収録で疲れていて、なにかと食生活が偏りがちなみくのために、

腕によりをかけて作られた料理。

だが、李衣菜はかすかな不安を感じていた。

扉が開く音。

李衣菜はぱたぱたと玄関に向かった。

「たっだいまにゃ〜!」

みくが帰ってきた。

「おかえり。収録はどうだった?」

「ばっちり!
 
お茶の間のみんなもみくに夢中になること間違いなしにゃ!!」

みくは意気揚々をダイニングへ向かう。

「良い匂いがするにゃ〜」

「うん…ご飯もちょうど炊き上がるようにしておいたから」

李衣菜は新妻のように甲斐甲斐しく、みくの後ろを追った。

だが、ダイニングに入った途端、みくは声を低くした。

「これ、どういうこと?」

みくが目にしたのは、李衣菜が用意した夕食。

普段のみくなら、李衣菜の献身をねぎらうなり、感謝するなりしただろう。

テーブルの上に、魚料理さえなければ。

「りーなチャン、みくがお魚嫌いなの知ってるよね」

あからさまに不機嫌な顔をして、みくが言った。

それに怯えたわけではないが、李衣菜はか細い声で返事をした。

「うん…でも、お魚には栄養がいっぱいあって、

 私は…ただみくちゃんの身体のことが心配で…」

「健康管理くらい、自分でできるよ!!」

李衣菜はみくの怒りと、自分の迂闊さに心が苦しくなった。

みくは他のアイドルと比べて、デビューが少し遅れた。

その影響か時々、異様なほど他者からの干渉を嫌う。

腫れ物のように扱われた時期が、彼女の自立心をささくれ立てせてしまったのだろう。

だが、本来のみくは心優しい少女である。

李衣菜が怯えているのに気づいて、顔をそっと伏せた。

「…大声出してごめん。

 でもみくは、疲れたときは好きなものを食べたいの…にゃ」

外で食べてくる、とつぶやいて、みくは部屋から出て行った。

1人残された李衣菜は、がっくりと肩を落とした。

けれでも胃袋は空腹を訴えていたから、夕食をとることにした。

ほかほかの炊きたてご飯を、お椀によそってテーブルへ。

一人分の「いただきます」が、やけに部屋に響く。

李衣菜はまず、小鉢に箸をのばした。

ほうれんそうの胡麻和え。

きちんと水を絞って味付けをしたので、箸あたりがしんなり優しい。

口に含むと、青臭さを一切感じさせない、

ほうれんそうと胡麻のおだやかな風味が舌に広がった。

野菜の調理で腕前が知れるというが、その点で李衣菜は、

かなりの水準に達していた。

次に彼女が食したのは、野菜のオーブン焼き。

塩を軽くふって、ただ焼いただけの料理だったが、

その“焼いただけ”が良い仕事をしていた。

キャベツやパプリカは、砂糖をまぶしたのかと疑うくらい芳醇な甘み。

子どもたちに敬遠されがちなピーマンとナスも、御馳走へと変わっている。

李衣菜自身でも驚くくらい、ご飯が進んだ。

三品目はまいたけのお吸い物。

スーパーで特売であったため追加した料理であったが、

出汁は粉を使わず、昆布とかつおぶしから煮出した。

それが功を奏し、身体にしみじみと行き渡る、良い仕上がりになっていた。

そして彼女は、とうとう、みくと自分を引き裂いた相手と合間見えた。

サバの味噌煮。

今回の料理の中で、李衣菜がもっとも自信を持っていた一品である。

みくの嫌う魚臭さを最小限にすべく、最大限の努力をした。

わざわざ郊外の魚屋に出向いて、パックにされる前の新鮮なサバを手に入れた。

血抜きや臓物抜きも手際よくこなし、霜降り(お湯のまわしかけ)で身を締めた。

酒、生姜、味噌を絶妙なバランスで使い、時間をかけてゆっくりと煮込んだ。

少なくとも、調理は完璧だった。

それでは味の方はどうか。

塩分が気になって味噌を少し減らしたが、生姜が味のボリュームを支えている。

それでいてわざとらしくなく、きちんと味噌の旨味と調和している。

手間をかけた分、魚の身はほろほろとやわらかく、口の中でとろける。

今晩の夕食はすべて、最高の出来だった。

だからこそ、李衣菜は悲しかった。

みくちゃんに食べてほしかったなあ…。

李衣菜はゆったりとサバを味わいながら、

改めてみくの存在が、出会ったころよりも、

自分の中で大きくなっているのを感じた。

夕食後、李衣菜はみくの分を、自分のお弁当箱に詰めた。

明日の昼食にするつもりである。

だが、みくが食べるはずだったサバの味噌煮を、箸で持ち上げた時、

不意に涙がでてきた。

私は、いらない。

みくは、アスタリスクではなく、

前川みくという1人のアイドルとして、十分以上に活動できている。

健康や食事だって、李衣菜がいなくても、1人でなんとかするだろう。

李衣菜は知っている。

他のアイドルや、みくのファンよりも、知っている。

前川みくは、すごい女の子なのだと。

むしろ自分の方が、みくを必要としている。

憧れのロックなアイドルは、まだ遠い。

いや、ひょっとしたら、

アイドル人生を全てかけても、見つかるかどうかわからない。

親友の木村夏樹は

「その“わからない”に、“だけど”を返せるのがお前のロックだ」

と言ってくれた。

だが、どうしようもなく心細いときがある。

「塩分注意…なーんて…」

李衣菜は、涙がお弁当箱に入らないように、

顔をしばらく上げていた。

翌日、李衣菜はテーブルから顔を上げた。

お弁当箱におかずを詰め終わって冷蔵庫にしまったとき、

どっと疲れがやってきて、ダイニングで眠ってしまったのだ。

時計を見ると、プロダクションに行く時間が迫っていた。

立ち上がると、猫柄のブランケットが床に落ちたが、

李衣菜は気にもとめずに身だしなみを整えた。

そして部屋を出る直前、お弁当のことを思い出して、

冷蔵庫を開けた。

けれども、お弁当箱はなくなっていた。

おかしいな。

李衣菜は台所を探した。

そしてまさかと思って引き出しを開けてみた。

みくのお弁当用の箸が、なくなっていた。

李衣菜はきゅうと胸が苦しくなって、その場にうずくまった。

レッスンに遅れるのもロックかな…。

李衣菜はしばらく、痛いくらいにあたたかい気持ちを、抱きしめていた。

おしまい

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