【モバマスSS】世にも奇妙なシンデレラ (344)


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世にも奇妙な346プロ
世にも奇妙な346プロ - SSまとめ速報
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SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1503835332



杏「杏、週休8日を希望しまーす」

杏「……なんて言ってたけどさ」

杏「まー当然だけど、1週間は7日しかないんだよね」

杏「で、じゃあどうやって週休8日にするか、って考えるとまぁ色々あるよね」

杏「1週間を7日から8日に変えるとか。これが杏的にはベスト」

杏「あとは1日を21時間にすれば、今までと同じ括りで1週間を8日に出来る。これがベター」

杏「……ま、だいたいこう言うのって思った通りにはいかない訳でさ」

杏「楽をしようとすると、大体面倒ごとの方が増えるんだよ」

杏「例えば……こんな世界とかね」

「週休熔化」





「ねープロデューサー、杏だけ週休8日にしてよー」

「馬鹿言うな、1週間は7日だろ」

「えー、アイドルの夢を全力で応援してくれるのがプロデューサーなんじゃないの?」

「1日も働かない奴はアイドルじゃないだろ……」

いつも通り、レッスンを終えた後にプロデューサーと駄弁ってた。
もちろん杏だって本気で言ってる訳じゃないよ。
1週間は7日しかないんだから、週休8日なんて無理だって事くらい分かってるし。
でもまぁ、持ち歌持ちネタだしね。

あー、1週間が8日になってくれれば杏の野望も実現するのに。
そしたら毎日家でグータラして暮らすんだ。
労働?そう言うのはやりたい人がやればいいんだよ。
杏は週休8日とって幸せになるから。

「……取り敢えず専務に掛け合ってみるか」

「……ん?いやいや自分で言っといてなんだけど無理でしょ」

「夢は諦めなければ叶う」

「うん、限度がある」

「俺もそんな気がする」

まぁほんとに叶ったらいいなとは思うけどさ。
どんな事にも限界はあるんだよ。
人は空を飛べないし、アイドルはカレーになれない。
過去には戻れない様に、1週間毎にひょっこりどこからか1日が追加されるなんて事も無い。

「……まぁ、週休8日くれるならそれ以外の日はいくらでも働いてあげるけどね。それ以外の日なんて無いと思うけど」

「よし、言質取ったからな。アイドルとプロデューサー間の言葉に二言は無しだぞ」

「はいはい、そんな事よりお腹すいた。カレーかラーメン食べに行かない?」

「飴ならあるぞ」

「飴じゃ腹は膨れないよ」





翌日、完全に寝不足だった。

あー……4時までゲームしてたからなぁ……眠い。
結局2時からずっと周回してたのに目当てのアイテムは落ちなかったし。
今日、確か撮影とかないよね。
レッスンだけだった気がするし、キャンセル出来ないかなー……

『おーい、今日杏休みって事になったりしない?』

ダメ元でプロデューサーにラインしてみる。
もちろん、ちゃんと出る準備もしながらね。
朝ごはん……んー、食欲わかない。
クマは出来てないし、まぁ今日は午前中だけだしさっさと終わらせて寝よ。

ピロン

あ、プロデューサーからライン来た。
朝ごはんがわりのゼリーをすくいながら、スマホのロックを解除する。
あー、アップデートしなきゃよかった。
めっちゃくちゃ使いづらい。

『いいぞー、週休8日って約束したしな。好きな時に使ってくれ』

うん、知ってた。
まぁ無理だよね、分かってるさ。
さて、さっさとゼリー食べて向かお。
遅刻してレッスンハードになるなんて笑えない……し……

……え?

落ち着くんだ、杏。
もう一回深呼吸して文面を読み返そう、落ちたスプーンを拾うのは後でいいから。
文字が読めないなんてプロデューサーだけで充分だからね。
あははー、疲れて目がぼやけてるのかな。




『いいぞー、週休8日って約束したしな』

……ん?

何回見直しても、文字は変わらない。
え、つまりどーゆー事?
杏は今日、休んでもいい。
まぁそれはありがたいんだけどさ。

……週休、8日?
え、マジ……?
は?え?!
うっそでしょ?!

思わずプロデューサーに電話掛けちゃった。

「ね、ねえプロデューサー?!ほんとに週休8日でいいの?!」

『もちろんだよ、約束しただろ?その代わり、休みの日以外は全部働いて貰うぞ』

「いやだって毎日がホリデーじゃん!裏があったりしない?!」

『無いって、俺が約束を破った事あったか?』

「今まで食べたパンの枚数なんて覚えてないでしょ?そう言う事だよ!」

『まぁまぁ、これは本当さ。専務からもオッケー出たから、好きな時に休みを取ってくれ』

「じゃあ今日から8日間!」

『あいよー、それじゃまたな』

ピッ、と通話が切れた。

マジかー……ほんとに週休8日が叶っちゃったんだ。
プロデューサーが偉い人たちに持ちかけてくれたのかな。
明日にでもお礼しに行こ。
なにさ、杏だってそれくらいはするよ。

さてと、何しよっかな。
今日からずっと休みになった訳だし。
記念すべき週休8日開始日初日だし……
……うん、まぁ寝よう。




やっば、寝すぎた。
もう日付変わってるじゃん、2時じゃん、どんだけ寝てんのさ。
せっかくの休みの日だったのに……あ。
そっか、これから毎日休みなんだ。

週休8日、ねぇ。
意味はよく分からないけど、まぁ多分毎日休みって意味でいいんだよね。
それじゃ、起きちゃった事だしオンラインゲームでもしようかな。
……あれ?人が全然いない、今日は土曜日だから何時もだったら沢山いる筈なのに。

そう言えば、と。
ちょっとだけ不安なことが一つ。
杏の給料とか、どうなってるんだろ。
有給がある職種じゃないし……んー、印税?

あ、考えれば考えるほど不安になる。
流石に生活費は無いと休みだからって無職と変わらないしね。
レッスンの日だけ休みとって、撮影とかはちょいちょい出とこうかな。
あ、プロデューサーに色々話聞きたいし今日の天気確認しとこ。

ピッ

『それでは、今日の天気です。各地は曇り、気温は最高でも27度と、連日の猛暑に比べれば比較的過ごしやすい1日になるでしょう』

お、ラッキー。
曇りだしそこまで暑くないし、家から出るには丁度いいね。
それじゃ、ゲームはやめて寝とこうかな。
今日は10時くらいに起きて……



……え?

テレビに映された、天気予報の画面。
高頻度で目にする、気象予報士がマップを指しながら気圧の変化を説明してるシーン。
それ自体は、別段変な事じゃない。
杏が違和感を覚えたのは、別のこと。

あれ?今日の日付はあってる。
でも、なんで曜日が金曜日になってるんだろ?
まだ日付変わってなかった……なんて事はないし。
なんだろ?テレビ局のミス?

あれかな、杏が勘違いしてたのかな。
本当は昨日は木曜で、今日はまだ金曜だったとか。
だとしたらオンラインゲームに人が少ないのも納得かな。
……いや、そんなミスする筈無いや。

まーいっか。
さっさと寝ないとお昼過ぎまで寝ちゃいそうだし。
……別にそれでもいいんだけどね。
だって週休8日だし!今日も明日も明後日も休みだし!

『それでは、明日明後日の天気です』

あ、だったらここ数日以内で一番涼しそうな日に行けばいいや。
なーんて、気楽に。
能天気に考えながら、テレビ画面を見て。
杏は、絶句した。



……曜日が、全部金曜日……?

なんだこれ、なんだこれ。
流石にこれはありえないミスでしょ。
なにこれ、毎日金曜日とか。
社会人にも休みをあげなよ。

写真とってツイッターにあげればかなりバズるんじゃないかな。
なんて思いながら、スマホのカメラを起動して。
パシャり、と。
シャッター音と同時に、耳に入った。

『土曜日が始まる9月19日まであと少しです。みなさん、頑張りましょう』

……は?



めっちゃ焦った。
あれだよね、夏休みが終わって学校で宿題回収が始まった時、周りのみんなが自分の知らない宿題を取り出した時みたいな感覚。
落ち着け、落ち着くんだ杏。
まずはグーグル先生に尋ねないと。

……なんてググればいいんだろ?
1週間?頭悪すぎでしょ。
でも、他に何も思いつかないしなぁ。
しょうがない、人生の汚点だね。

『1週間   検索』

ポチ

当たり前だけど一番上にはウィキの旦那が出てきた。
頼れる旦那だね、まさか1週間のウィキを見る日が来るとは思わなかったけど。
でも、そのページに書いてある内容は。
杏にとって、とても信じ難い事だらけだった。

『1週間=365日』

……大丈夫かこのウィキ編集した奴。
1週間が365日な筈……
なんて、考えてたけど。
さっきの気象予報士の言葉を思い出して、ハッとした。

土曜日は、9月19日から。
365日を月火水木金土日に7分割した場合、確かに土曜はそのあたりからになる。
って事は……この記事、本当って事?
急いでスクロールし、情報をかき集める。

月曜日、1月1日~2月21日
火曜日、2月22日~4月16日
水曜日、4月17日~6月7日
木曜日、6月8日~7月30日
金曜日、7月31日~9月18日
土曜日、9月19日~11月9日
日曜日、11月10日~12月31日

なんだこれ。
なんだこの一覧、やっぱり編集した奴気が狂ってるでしょ。
……なんて、言ってられないよね。
手当たり次第、片っ端から1週間で引っかかったサイトを覗く。

どこを見ても、1週間は365日だった。




えーっと、つまりだよ?
社会人たちは、このふざけたカレンダーに従って働いてるって事?
週休2日、土日休みの会社とか9月に入るまでほぼ休みないじゃん。
だからオンラインゲームに全然人いなかったんだね。

しかも、それがさも当たり前の事みたいになってるし。
変な世界に迷い込んだとしか思えない。
どうやら杏は夢を見てるみたいだね。
お約束のごとくほっぺを引っ張る。

……痛い、多分。
脳の処理が追いついてなくてなんにも分からない。
お茶飲んで落ち着こ。
取り敢えず冷静に……

……ん?

今、物凄く嫌な予感がした。
何か、忘れてる気がする。
ほんのついさっき、プロデューサーと話した内容だった気がする。
えっと、確か……

『週休8日って約束したしな』

そっちじゃなくて……
……あ。

『その代わり、休みの日以外は全部働いて貰うぞ』

……あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
あのプロデューサー、分かってて言ってやがったな?!
だからあんなに嬉しそうだったのか!
365日中357日も出勤する事になってるじゃん!!

……寝よ。
そして絶対ぶん殴る。




「おいこら!プロデューサー!騙したな!!」

「何を言ってるんだ、杏……1週間が365日なんて幼稚園生でも知ってる事だろ?なのに週休8日でいいとか言い出したから俺すごく感動してたんたぞ……」

「何言ってるのさ!1週間は7日だよ、常識でしょ!」

「それこそお前何言ってるんだよ……1週間が7日なら週休8日なんてありえないじゃないか……」

む。
何も言い返せない。
……じゃなくって。

「ねぇプロデューサー、本当に1週間って365日だったの?」

「4週間に1回は366日になるけどな。それこそ周りの奴に聞いて来いよ。天才アイドル双葉杏、1週間の日数を把握できていなかった!なんてネタにされるだけだと思うけど」

それは笑えない。
お馬鹿系アイドルなんて路線で売り出された日には他のバラエティ組と同じ仕事持ってこられる。
考えろ杏、こんな世界になっちゃったんだからもう諦めて。
少しでも楽できる方法を探せ。

「あ、ちなみにお前今週既に7回休んでたよな。昨日も併せてぴったり8日だ。今週は残り毎日働いてくれよ」

「ふざけんな」

もう全部ないじゃん。
それ知ってたら昨日は寝るだけなんて無駄な事で一日を溶かしてなかったよ。
と言うかそれ以前に365日中8日しか休めないとかほぼ無い様なもんじゃん。




「杏が週休8日でいいって言ったじゃん?あれ聞いた専務が涙流しそうになってたんだぞ。今更やっぱりやだとか言ってみろよ……俺たち首がポーンだ」

最悪だ。
12月31日まで休み0とかどうなってんだよこのブラック企業。
辞めた方が絶対に楽な暮らし出来るわ。
この歳で辞表抱えて事務所に通う事になるとは思わなかったわ。

「あ、事務所辞めるなんて事考えるなよ……?今週は全部仕事入ってるから、辞めてもタダじゃ済まされないぞ」

「エグくない?」

「専務がはりきって大量に用意してくれたんだよ。双葉杏週休8日宣言ライブなんてものも何回かあるらしいぞ。あの双葉杏だ、もう昨日からずっとトレンド入りしてる」

労基法とかその他諸々どうなってんだ。

「おかげで俺も仕事まみれだ。今週はろくに家に帰れそうにない」

「二人でバックれない?」

「346プロからは逃げられないだろうな……まぁ、俺は杏を全力で応援するよ。アイドルを全力で応援するのがプロデューサーだからな」

……やるしか、ないみたいだね。
今が8月の終わりだから、ここから約90日間は休みなし。
この世界の人たちからしたら割と当たり前の事かもしれないけど、1週間が7日の世界に生きてた杏からしたら地獄以外のなんでもない。
かと言って、多分逃げ道は無い。

あー、恨むぞ過去の私。
あとプロデューサーと専務。





それから杏は、死ぬ気で働き続けた。
9月の上旬までは良かった。
まぁまだ15日くらいしか経ってないけど。
そのくらいなら何とかなる。

問題は9月の19日からだった。

みんなが、休みなんだ。
そう言えばそうだよね。
この世界では9月の19日からは土曜日なんだもん。
と言うかここから12月31日までずっと休みの人も結構いる訳だ。

そんな人たちを見ながら、杏はずっと働き続けた。

レッスン、撮影、収録、撮影、レッスン、撮影、ライブ、レッスン、撮影。
時折混ざるライブに向けてレッスンしてる暇なんて殆どない。
何せほぼ毎日撮影があるんだから。
撮影がない日はCDの収録だったり雑誌の取材だったり。

仕事自体が辛い事は……時たましか無いけど、休みが全く無いのが辛い。
海外にロケ行って、東京に戻って休む日も無く次の収録。
10月の半ばあたりから、杏の心は良い感じにすり減ってた。
家にはもう泣く為に帰ってたと思う。



11月の上旬は記憶がない。

寝不足なんて当たり前。
一応色々な条例で夜遅くまで撮影なんて事はないけど、家に帰ったら1人でボイトレしたりストレッチしたり。
仕事用のアカウントでライブに向けて頑張ってるアピールするとき目に入る、フォロワーの遊んでる画像は殺意がわく。

そして11月20日、世間一般的には日曜日が始まった。

杏はもう苛立ちなんて覚える余裕もなく、ただ壊れたミシンみたいに毎日をガタガタ突っ走った。
涙を流す余裕も体力もない。
ひたすらに用意されたタスクとハードルを飛び越え、時には薙ぎ倒しそうになりながら進んだ。
そして……

12月、ラスト31日間。

ここへ来て人の心を取り戻した杏は、今になって事務所に恨みが湧いて来た。
来年は何もしない、絶対休む。
専務だろうが常務だろうがぶん殴る。
一発殴って杏は休む。

それだけを希望に走り抜けた。
1人だけだったら、多分途中で折れてたと思う。
でも、なんなかんやプロデューサーも頑張ってたから。
杏が仕事って事はプロデューサーも動いてる訳だし、元はと言えば一応杏の週休8日発言に付き合わされてる訳だし。



そして迎えた、週末のカウントダウンライブ。
ちゃんと申請してるから、杏は24時まで出演出来る。
あと2時間で。
今週が、終わる。

「なーにが週末だよ。杏からしたら終末だったよ」

「よく頑張ったな、杏」

「プロデューサーこそ、めっちゃこけてるじゃん」

「明日から少し休めるから大丈夫だ……いけるか?杏」

頑張った、かなり頑張った。
一生分どころか末代分まで働いたと思う。
でも、なんでだろ。
変な達成感はあるんだよね。

「来週の豊富はあるか?」

「ライブ終わったら専務殴る」

「おいおい、もうちょい平和なので頼むよ。それで……来週もまた週休8日にするか?」

「まっさか。週休367日を希望するよ」

「はは、一応専務に掛け合ってみるよ。そのくらいふざけた冗談でもまぁ許されるだろ」

「それじゃ」

「ああ」

「「よい週末を」」




あー、疲れた。

週末のカウントダウンライブが終わった杏は、直後に沼に沈むみたいに眠って起きなかったらしい。
今は1月5日、まるまる4日は眠ってた訳だ。
スマホを開くと、大量に通知が溜まってる。
とりあえず、プロデューサーからの連絡だけ……

『杏!週休367日、オッケーだぞ!』

「っあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

叫んだ、めっちゃ叫んだ。
泣いた、めっちゃ泣いた。
やっと、やっとだ……
やっと休める、元の世界で言う週休8日がやっと叶った……

テレビをつけると、どのニュース番組でも未だに杏の働きざまが特集されてた。
CDもライブ映像も出演したドラマも取材を受けた雑誌も全部品切れ状態が続いてるらしい。
って事は。
冗談抜きで、今後一切働かずに一生暮らせる。

『これから更に寒い日が続きます。みなさん、防寒対策はしっかりーー』

あれだけ頑張ったんだから、凄く頑張ったから。
それに、これで。
プロデューサーも、ちゃんと休める様に……





『土曜日まであと26084日です。みなさん、頑張りましょう』

……は?

嫌な予感しかしない。
1週間、でググる。
ウィキを開く。
そして杏は、全てを悟った。

『1週間=36525日』




終わり
こんな感じで投下してゆきます

『影』

 時刻は夜の11時半、そろそろ寝ようかと思い、明かりを落とそうとしたときだった。私は視界になにか、わずかな違和感を覚え、電灯のスイッチに伸ばした手を止めた。
 きょろきょろと辺りを見回す。私の部屋だ。とても散らかっている、つまりいつも通りの私の部屋だ。

「うーん?」

 鏡に自分を映してみる。ちっこい体、ボサボサの髪、襟ぐりの伸びきったTシャツ、なにもおかしくない、どっからどう見ても私、双葉杏の姿だ。

「気のせいかな?」

 足で散乱してる物をかき分けながら、部屋の中をぐるぐると歩きまわる。
 それにしても汚い部屋だ。足の踏み場もありゃしない。

「――ああ、わかった」

 電灯から反対方向に、足元から伸びる影、違和感の正体はこれだ。
 大きかった。それも並大抵の大きさじゃない、どう見てもこれは私じゃない、別の誰かの影だ。
 ベッドの枕もとに置いていたスマートホンを拾いあげ、電話をかける。

『……にょわ』

「きらり? 寝てた?」

『うん……少し前に、うぅん……杏ちゃんなにかあった?』

「起こしちゃって悪いんだけどさ、ちょっと電気つけてくれる?」

『きらりのお部屋の? いいけど……』

 電話の向こうから小さくカチカチと音がする。

『つけたにぃ』

「うん、そしたら影を見てくれる? きらりの影」

『影? ……うっきゃあ! 影がちっちゃいにぃ!』

「あ、やっぱり? なんか入れ替わっちゃったみたいで、きらりの影がこっちに来てるんだよね。それ確認したくてさ」

『でもこれ、杏ちゃんの影でもないゆ?』

「え?」

『きらりよりはちっちゃいけど、杏ちゃんにしては大きいにぃ、髪もショートだし』

 ショート?

「おかしいな、誰のだろ? えっと、その影はどんな様子?」

『ちょろちょろ動き回ってるにぃ』

「どんなふうに?」

『んー……なんかスキップしてるにぃ』

「へえ?」

『電灯のヒモの影を引っ張り始めたにぃ』

「ふむふむ?」

『突然びしっとポーズ決めたにぃ』

「あのさ……夕美さん、じゃないかな? それ」

『あっ! そっか、夕美さんのシルエットだにぃ!』

「すると夕美さんに杏の影がついてるのかな? 杏、明日の午後事務所行くから、そこできらりの影かえすよ」

『わかったにぃ☆ 杏ちゃんおやすみー』

「うぃ、おやすみー」


 ――翌日

「杏ちゃん、夕美さん連れてきたにぃ」

「杏ちゃんおはよっ。影のこと、朝気付いてびっくりしちゃったよ」

「おはよー。じゃ、ちゃちゃっと戻そうか」

 3人の影が重なるように立つ。これで私の影をきらりに、きらりの影を夕美さんに、夕美さんの影を私にと、ぐるっと一周させれば――

「……違う」

「違うにぃ☆」

「うん……違うね」

 きらりと夕美さんはそれでいい。ぴったりジャストサイズの影をつけている。だけど私のこれは、明らかに違う。

「けっこう背高いよね、誰のかな?」

 夕美さんが言う。私に移ってきた影は、並べると夕美さんの影よりも身長がある。もちろんきらりほどじゃないけど、それでもなかなかの長身だ。

「なんとなく見覚えはあるから、知ってる子なのは間違いないにぃ」

 きらりが言うように、シルエットはたぶん知っている。誰とまではわからないけど。
 しぐさになにか特徴はないかな? と様子をうかがってみるも、この影はあまり動かない。おとなしいというよりは、悠然と構えているといった感じだ。

「うーん、これの持ち主はまだ気付いてないのかな? ちょっとみんなに聞いてみるよ」

 スマホでメールアプリを立ち上げ、『自分の影を確認して、異常があったら双葉杏まで』と、メールアドレスを登録しているアイドルたちに一斉送信した。
 346プロ所属の全員を登録しているわけじゃないけど、ウチのアイドルたちはだいたい仲がいいから、誰からスタートしても友達の友達あたりで全員に行きつく。私がメールを送ってない人にも、身近な誰かから話は行くだろう。

 1分も待たずして早速返信があった。凛ちゃんからか、内容は……

『私の影がない!』

「マジか」

「杏ちゃん? どうだったぁ?」

「……思ったより複雑になってるのかもしれない。とりあえずふたりはもうだいじょうぶだから、杏は適当に探しに行くよ」

「なにか手伝えることがあったら言ってねっ」

「うん、たぶん平気だと思うけど、そのときはよろしくー」

 きらりと夕美さんのふたりと別れ、何度か凛ちゃんとメールのやりとりをする。
 凛ちゃんは宣材写真の更新をするために事務所内のスタジオで撮影をしているらしい。
 私についてるコレは凛ちゃんのじゃないけど、一応行ってみようかな。

「杏! 私の影は!?」

 撮影スタジオに入ると、凛ちゃんが慌てた様子で駆け寄ってきた。

「わかんない、いま情報集めてるから」

「そう……どうしよう、これじゃ撮影できないし……」

「ん? なんで?」

「影がないから、写真が変になっちゃうんだよ」

「そーゆーもん? むしろ撮影のときってレフ板とかで影消そうとしない?」

「薄くする分にはいいんだけど……全くないとそれはそれで変なの。顔とか特に」

 凛ちゃんがカメラマンさんを手招きし、ノートパソコンについさっき撮ったらしい写真を表示させてもらう。
 資料としての使い勝手を考えてか、ウチは宣材写真の撮影にはデジタルカメラを使用している。デジタルでもこれはなかなかお高いカメラで、画質は申し分ないはず……なんだけど、
 なるほど、平面的とでもいうのか、どこか顔がのっぺりとしているように見える。普通ならあるはずの細かな陰影がなくなっているせいだろう。

「だったら、杏についてる影使ってみる?」

「……それを?」

「誰のかわかんないけどね、どことなくクールっぽい雰囲気だから」

「うん……それじゃあ、少し借りるね」

 凛ちゃんが私についていた影を持っていき、カメラマンさんに何枚か写真を撮ってもらう。撮ったばかりのそれをノートパソコンに転送し、画面いっぱいに表示する。――へえ、これはなかなか。

「どう?」

「うん、なかなかいいと思うよ。なんかいつもよりキリッとして、大人っぽく見えるね」

「そう、かな?」

 と、そのとき、ポケットの中でスマホがぶるんと振動した。メール着信、発信者は……乃々ちゃんだ。

『もりくぼの影がもりくぼの影じゃないんですけど!!』

「おっ」

「なに? 私の影みつかった?」

「たぶんね、いまこっちに呼ぶよ」

 ほどなくして、ロングヘアーの影を引き連れた乃々ちゃんがスタジオにやってきた。背丈も雰囲気も間違いない、凛ちゃんの影だ。

「よかった、私の影だ」

 凛ちゃんがほっと息をついた。やっぱり自分の影がいるというのは安心するものなのだろう。
 凛ちゃんに貸していた影を私に戻し、乃々ちゃんから凛ちゃんに影を移動させる。

「写真、どうしよっか? 自分の影で撮り直す?」

「ん……いや、さっきのやつでいいかな。自分の影でならいつでも撮れるし、その影も、まあ悪くないから」

 凛ちゃんはうつむき気味にそう言った。なんだか照れてるみたいだ、大人っぽいって言われたのが嬉しかったのかもしれない。実際のところ普段の凛ちゃんではなかなか撮れない写真なのは確かだから、残しておく価値はあるだろう。

「あの……それで、もりくぼの影はいったいどこに……」

 そうだ、今度は乃々ちゃんの影がなくなってしまったことになる。私についてる影はどう見ても乃々ちゃんのじゃないし、乃々ちゃんのもみつけてあげないと。

「乃々ちゃん、昨日誰と会ったか覚えてる?」

「き、昨日は……事務所でまゆさんといて、お仕事に連れ出されました。現場は凛さんといっしょで、会ったのはおふたりだけだと思うんですけど……」

「じゃあまゆちゃんに連絡とってみてよ、『影を見て』って」

「は、はい……あ、返事来たんですけど」

「早いね、なんて?」

「えっと、『影がありません!』って……」

「えー……」

「も、もりくぼの影はいったいどこに……?」

 今のところ、私についてる影は持ち主不明、乃々ちゃんとまゆちゃんには影がない。
 影が2つ足りてない。入れ替わるならともかく、ないというのはどういうことだろう? どこかに影を2つか3つつけてる人がいるのかな?

「まゆちゃんと合流しようか、いま事務所にいる?」

「いえ、今日はオフみたいですけど……呼びますか?」

「あ、だったらまだいいかな。影がないのはわかったんだし、まゆちゃんの影みつけてからでいいでしょ。昨日乃々ちゃんの他に誰と会ってるか訊いてくれる?」

「はい……あ、返ってきました」

「どうだって?」

「えっと、事務所に来る前に外で、歌鈴さんと会ったらしいですけど」

「歌鈴ちゃんか、連絡先わかる?」

「……ごめんなさい、わからないです」

 私も歌鈴ちゃんの連絡先は知らないから、さっきのメールも送れていない。
 さて、誰か知ってそうな人は――

「おっ、杏ちゃんにぼののじゃん」

 ちょうどいいところに、歩く電話帳がやってきた。

「未央、歌鈴ちゃんに連絡とれる?」

「とれるよー、さっきのメールの話?」

「うん、杏が送ったのそのまま伝えてくれればいいから」

「ほいほい、ちょっと待ってね」

 未央はスマートホンを何度かぽちぽちといじくって耳に当てた。

「あ、かりりん? ちょっと影を見てくれる? そうそう、自分の影」

「びっくりして転ばないようにって付け加えて」

「もう遅いかな」

「……おだいじにって言っといて。あと、その影、杏か乃々ちゃんかまゆちゃんのじゃないか訊いてくれる?」

 しばしの間、未央は電話で歌鈴ちゃんについている影の動作や輪郭について話し合っていた。未央側の声しか聞こえないけど、どうやら私の影ではなさそうだ。

「たぶんまゆちゃんみたい」

 と未央は言った。
 歌鈴ちゃんは今日はオフで、女子寮にいるらしい。すぐそこだ。
 乃々ちゃんからまゆちゃんに連絡を取って現在位置を教えてもらう。今はカフェでお茶をしばいているらしい。店名で検索してみると、そこもそう遠くない、歩いて行ける距離だった。

「も、もりくぼはどうしましょう?」

「乃々ちゃんの影はまだ行方がわからないから、事務所のどっかで待機してていいよ。みつけたら連絡するね」

 私は未央と乃々ちゃんと別れ、事務所を出た。
 女子寮で歌鈴ちゃんを拾い、ふたりでまゆちゃんのいるカフェに向かった。
 そこで歌鈴ちゃんについていた影をまゆちゃんに戻し、今度は歌鈴ちゃんが影なしになった。
 ……いまいち事態が進展してる気がしないな。着実に戻せてるはずなんだけど。

「ふたりは昨日、いっしょに事務所に行ったの?」

「いえ、まゆは事務所に向かうところでしたけど、歌鈴さんは逆方向に向かってました。時間もなかったので、ほとんど挨拶しただけでしたねぇ」

「私は昨日もオフだったので、そのときは駅に行くところでした」

「会った場所は?」

「このカフェを出て、ふたつめの交差点を右に曲がって少し進んだあたりだったでしょうか?」

「たしかそのあたりです」

「うん、わかった。歌鈴ちゃん、そこ行くよ」

「はっ、はい」

「影、届けてくれてありがとうございましたぁ、皆さんのもみつかるといいですねぇ」

 まゆちゃんと別れ、歌鈴ちゃんとまゆちゃんが昨日会った場所へと向かう。

「あの……私がまゆさんと会ったところに、なにかあるんですか?」

「いや、たぶんそこにはなにもない。でも歌鈴ちゃんとまゆちゃんの影が入れ替わったのはその場所だろうから、そこから事務所まで、まゆちゃんの通った道をたどる」

「な、なるほどー」

「んっと……このへん、でいいのかな?」

「はい、ここです」

 スマホで地図アプリを開き、道順を確認する。
 この位置から最短で事務所にたどり着く道筋はひとつしかない。まゆちゃんは「時間がなかった」と言っていたから、寄り道や遠回りはしていないだろう。
 歌鈴ちゃんと連れ立って事務所への道をてくてくと歩く。そして――

「……みつけた」

「えっ? ど、どこでしゅか?」

「ほら、そこの電柱の影。いちおう確かめてみて」

 道の端に、電信柱の影に重なって、小さくうずくまるようにした少女の影があった。

「ほ、ほんとだ! 私の影です、間違いありません!」

 影も歌鈴ちゃんに気付いたらしく、両者は抱き合うようにしてひとつになった。
 ……ひとつになったってのはちょっと違うかな? くっついたって言えばいいのか、どうなのか。

「でも、よくみつけられましたね? よっぽど注意して見ないと気付かないですよ?」

「珍しいものがあったからね、それ。……近づかないでいいからね、杏が捨てとくから」

 私は道の真ん中に落ちているバナナの皮を指さした。

「……それが、なにか関係が?」

「昨日からあったんだろうね。まゆちゃんは歌鈴ちゃんじゃないから、当然こんなものじゃ転ばない、よけて通ったはず。でもそのとき引き連れている影は歌鈴ちゃんの影だから、きっと転んだ。……バナナの皮の影を踏んで転んだことになるのかな? で、まゆちゃんはそれに気づかずに先に歩いて行っちゃってて、起き上がっても影だから日の照ってる中を追いかけることはできない。それから日が傾いてきて、電柱の影がバナナの皮に重なったところで、すみっこに避難したってところかな?」

 歌鈴ちゃんの影がこくこくとうなずく。正解だったらしい。
 それにしても本当にバナナの皮が落ちてるのなんて初めて見たよ。捨てた人はいったい、どんな必要に迫られて歩きながらバナナを食べたんだ?

「歌鈴ちゃんは今日オフだったよね、ここまででいいよ、お疲れさま」

「あ、ありがとうごじゃいましゅた!」

 歌鈴ちゃんと別れ、再び事務所へと向かう。乃々ちゃんの影はまだみつかってないけど、私の考えが間違ってなければ、それはまだ事務所の中にいるはずだ。

「あ、杏さん。どうでしたか?」

 事務所のエントランスに入ると、乃々ちゃんが駆け寄ってきた。

「なんとかまゆちゃんと歌鈴ちゃんの影は元に戻せたよ」

「歌鈴さんの影もみつかったんですか? その……もりくぼの影は……?」

「それなんだけどね、ちょっと案内してほしいところがあってさ」

 346プロダクションはとにかく大きい。アホみたいな数の部屋がある。
 だけど、関わりのない部署の部屋には当然、普段立ち入ることはない。乃々ちゃんに連れられてきたこの部屋も、私は入るのは初めてだった。間取りや備品はどの部屋も大差ないみたいだね。

「乃々ちゃんのプロデューサーの机は?」

「えっと……そこ、ですけど」

「ここね、どれどれっと――あ、いた」

 机の下を覗き込む。奥の方に、よくよく目を凝らさないと気付けないような人影があった。どこか私を警戒しているようにも見える。

「えぇっ!?」

「もともと影になる場所だから、わかりづらいんだね」

「そ、そんなところに! でも、なんで?」

「昨日、乃々ちゃんはここからお仕事に連れてかれたんだよね、抵抗はした?」

「もちろんしましたけど……でも、もりくぼが泣こうがわめこうが、その気になった男の人に抗うなんて到底かなわず……全てをあきらめて天井のシミを数え続けたんですけど……」

「ちょっと言い方に気をつけようね。まぁそれで、乃々ちゃん本体は残念ながら連れていかれちゃったけど、影のほうは抵抗し通したんだろうね」

「……そんなの」

「ほら、乃々ちゃんの影、もうお仕事は終わったよ」

「あ……」

 小動物が威嚇するように身構えていた影は、乃々ちゃんの姿を確認するや否や、飛びつくようにその足元に飛び込んでいった。

「なにか、言ってあげたら?」

「うう……もりくぼがお仕事させられているのに、影だけのがれるなんて、ずるいんですけど……許せないんですけど……けど……けど……」

「けど?」

「……おかえりなさい、ですけど」

 乃々ちゃんはそう言って床に映った影の、頭のあたりにぺたりと手を当て、ゆっくりと、なでるように動かした。

 うんうん、なんかよくわかんないけど、イイ話っぽく落ち着いたね。

「じゃ、そろそろ日が暮れるし、今日はもう帰ろっか」

「あ……でも、杏さんの影、みつからなかったですね。その影の持ち主も……」

「ん――いや、これはもう見当ついてるから、明日でいいよ」

「そうなんですか?」


 ――翌日

「おいーっす」

「おはようございます双葉さん……少し、よろしいですか?」

 私が事務所にやってくると、プロデューサーが首の後ろに手を当てながら話しかけてきた。
 このポーズはなにか困ったことがあったときの癖らしい。いつも困ってるなこの人は。

「なに、プロデューサーかしこまっちゃって、どうかしたの?」

「実は……美城専務が『もう仕事はしたくない。有休を全消化する』と言って休んでいるらしいのですが、なにか、心当たりはありませんか?」

「あー、影に引っ張られちゃったんだね。元に戻してくるから、専務の住所教えてよ」



   ~Fin~

終わりッス。
ありがとうございました。

少しだけお借りします

乃々「人生には……どうしても選択を強いられる時があって……」

凛『乃々、今日は一緒に服を見に行こうね』
まゆ『乃々ちゃん、輝子ちゃんと一緒に映画を見に行きましょうね』
乃々『うぅ……服を見に行ってから映画に行く折衷案は……』
凛&まゆ『ダメ!』

乃々「まだこういうのはかわいい方で……いや、もりくぼ的には選ばれなかった方に対する罪悪感に押しつぶされそうなんですけど……」

乃々「……本当はこんな話している場合でもなくって。だって」

カチッカチッ

タイマー『残り3分』

乃々「目の前に……爆弾が……」

森久保乃々

『紅か蒼か――』

 どうしてこうなったのか、私にもわかりません。机の下でウトウトとしていたまでは覚えているんですけど……気が付けばこんな密室で目の前には如何にも爆弾です言わんばかりのビジュアルの物体……。自分でもびっくりするくらいの速さで扉まで駆け出しましたが、やはりというべきか重くて開きそうにありません。

「どうして……私がこんな目にぃ……」

 爆弾処理なんてむーりぃー……と言いたいところですが、ご丁寧にペンチまで用意してくれていて、紅いコードと蒼いコードが並んでいます。何も言われなくても察しました。どちらかのコードを切れば爆弾は止まるけど、もし間違えたら……BOMB。

 正解は二つに一つ。今私は、人生最大の選択を強いられることになったんです……

「そ、そうです……こういう時はどこかにヒントが」

 前に凛さんがスマホでプレイしていた脱出ゲームを思い出しました。あの手のゲームはプレイする以上必ず脱出の鍵となるヒントがあります。そうじゃなければ遊びとして成り立ちません。現実に起きている非日常と一緒くたにするのもナンセンスくぼな気がしますが……私は震える足で部屋の中を隅から隅まで探しました。カチカチと規則正しく刻まれる時計の音に急かされるように。机の下、カバンの中、新聞の隅、こんなところにあるはずもないんですけど……。

「くそげー……です」

 結論、何にもありませんでした。だけどここで諦めるもりくぼではありません。アイドルをやっていくうちに、自分に少しだけ自信を持った私は次なる手を考えていました。それは二択なら絶対に外さないであろう相手にコンタクトをとること。

「茄子さんなら……」

 鷹富士茄子さん。彼女の幸運、を通り越した豪運ならばきっと正しいコードを選べるはず……そう思って携帯電話を開いたんですけど……。


「け、圏外ぃ……」

 無常にも画面には圏外の二文字が出ていました。これは諦めて死を選べということでしょうか……。それがもりくぼの運命ならば受け入れるしか……。

「……いや、そんなのはむーりぃ-……」

 この爆弾の威力がどれだけのものか分かりませんが、もし私以外にも犠牲者を出したとしたら……そうなれば森久保は人類の戦犯です。末代まで恨まれます……いや、その末代になる可能性が大きいんですが……。二択のフィフティフィフティなんですけど……。

 ほかの人を巻き込まないためにも、私は考えます。どちらのコードを切れば助かるのか……ヒントがない以上、これは最早ギャンブル。直感で選ぶしかないです。

「ど・ち・ら・に・し・ま・し・ょ・う・か・か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り」

 私の指は紅いコードを指していました。神様が言うんだからこれは正しいはずです。だから私は紅いコードを……。

『運命の紅い糸を、切るんですかぁ?』

 切ろうとした瞬間、まゆさんの声が脳内に響きました。そう、紅い糸なんです。運命の、という枕詞がつくことに定評のある紅い糸なんです。

「で、でも神様が選んだわけですし……あれ?」

 ふと思いました。そもそも神様が選んだのは、切るべきコードなのか残すべきコードなのか――。どっち、でしたっけ?

「いや、こういうのは普通切るべきコードで……でも現実というのはフィクションのように行かないことがままあるわけですし、運命の紅い糸を切ったら爆発するって映画もあったような……だから切るべきコードは蒼いコード……」

『ふーん、乃々は蒼いコードを切るんだ。ふーん』

 今度は凛さんが脳内に出てきました……もう、勘弁してぇ……。

 そんなこんなで、爆弾のタイマーは残り3分を切ったんです。ラーメンを作っても間に合いません。コードを切ろうとするとその度に頭の中で不安やら良からぬ考えがよぎって、なかなか行動に移せずにいました。いっそ机の下というシェルターに隠れるべきかと思いましたが当然守ってもらえるわけがなくて。覚悟を決めなきゃと思ってはいるんですが……。

『紅いコードを切ったらダメですよ、乃々ちゃん』
『蒼いコードが正しいよ、乃々』

 脳内まゆさんと脳内凛さんは合いも変わらず自己主張を繰り返します。そのうち取っ組み合いに発展するのではと言わんばかりです。

「うぅ……どうしたら……」

 コードを切ったからといってお二方との縁が切れるわけじゃないんですけど……いや、間違えたら爆発して何にも残らないんですが……。刻一刻と迫るタイムリミットの中、私は目をつぶりました。あれこれ考えても先に進めないのならば、直感を信じるしかないと。

「大丈夫……今日のもりくぼはやれる気がします」

 ペンチを持つ手の震えは止まりませんが、それでも少しはマシになったと思います。気が付けば脳内の2人も黙って私を見てくれています。そうです、また服を買ったり映画を見たり……お仕事をしたいから。

「ここで死ぬなんて、むーりぃー!」

 どちらのコードを切ったのか、暗闇の中の私にはわかりません。ただ目を開くと、そこには残り3秒の時点で止まったタイマーと切られた蒼いコードがあって……。

「凛さん……ごめんなさい」

 この部屋から出たら一緒に服を買いに行こう、と強く思うのでした。

「無事に帰れそうです……生き残りくぼです……」

 ガチャリ、と鍵が回る音がするとあれだけウンともスンとも言わなかった扉が自動的に開いていきました。私は軽やかな足取りで扉の向こうに待っている、外へと足を踏みだし……。

「あれ?」

 ガチャリと閉まる重い扉と私を照らすのは太陽の光……ではなくうす暗い電灯の光。無機質な部屋に響くのはカチカチと言う音。

「え、えぇ……」

 紅いコードと蒼いコードと……黄色いコード。密室の中に、爆弾がありました。

森久保乃々

『紅か蒼か黄か』

以上です。失礼いたしました

少し長いですが、投稿させていただきます。


安斎都「おお、この雰囲気……」

都「まるで探偵が、事件の謎を解き明かすための独白のような……!」

都「はっ、失礼失礼。で、でも、ドラマやマンガに出てくるような探偵って、本当にカッコいいですよね!」

都「私もあんな風に、すらすらと事件の全貌を暴いてみたいものです……」

都「おっと、いけないいけない!」

都「探偵の道は長く険しいもの……!」

都「毎日ちゃんと、頑張らなきゃですね!」

都「……あ、でも今日はもう遅いので、ちょっとお休みしちゃっていいでしょうか?」


『睡眠探偵』



「謎は全て解けました!」

そう叫んだ安斎都は、公園の遊具の中を覗き込んだ。

「迷子のネコちゃんは、ここに……あれ?」

「おいおい都、またハズレかぁ?」

呆れるように呟いた拓海に頭をいじられながら、都は首を捻った。

「うーん、おかしいですね……、私の推理では……って拓海さん! 頭をわしゃわしゃしないでください!」

「ん? ああ、悪い悪い、ちょうどいいところにあったもんで」

「しかし、どこにいるんでしょう……」

「それがわからねぇから探してるんだろ?」

ピピピピピ

「おっと、すまねえ、アタシだ。……もしもし? ああ、夏樹か、お、本当か! わかった、事務所の裏の路地だな。サンキュ!」ピッ

「夏樹が見つけてくれたみたいだ。戻るぞ」

「わ、私も、今から聞き込みをしようと思っていたところで」

「はいはい、わかったわかった」


安斎都は、世にも珍しい探偵アイドルだ。

いや、珍しいというか、そもそも競合相手なんているのか。という話ではあるのだが。
アイドルとしてのレッスンやお仕事の傍ら、事件を探しに東奔西走。
事件に出会えば、真相を探しに東奔西走。
とはいっても、ここはアイドル事務所であって、探偵事務所ではない。事件と言っても小さなものばかりだ。


~~~~~

「はぁ~……」

「都ちゃん、ため息ですか……?」

「はっ! よ、頼子さん! お恥ずかしい……」

「いえこちらこそ、いきなり声を掛けてしまって」

「そ、それで、どうしましたかっ! 事件ですか!」

「いいえ、違いますよ。少しおしゃべりでも……と。何か悩みがあるなら聞きますが……?」

「いえいえ! 私に悩みなんてないですよ! さっきのは……、そう! 深呼吸!」

まあ冷静に考えて、先ほどの"お恥ずかしい……"という反応こそため息を認めているようなものなのだが、頼子は言及しないことにした。

「それならよいのですが。……何か話したい時には話してください。私でも、聞き役くらいにはなれるでしょうから」

「ありがとうございます! その心遣いだけで十分ですよ!」


実のところ、安斎都は悩んでいた。
アイドルとしては、まあいい。
仕事がそこまで多いわけではないが、それでも着実に前に進んでいる実感はある。
歌も、ダンスも、最初は酷いものであったのだが、それなりに形になっているように感じる。
また、"探偵アイドル"という(多少ニッチな)キャラクターもあり、万人受けとは言わずとも、多少のファンだっているのだ。
プロデュース方針にも不満はなく、都自身の意志を尊重してくれている。

しかしながら、探偵としての自分はどうだ?

前に進んでいるか? 「探偵です!」と胸を張って言えるか?
人捜し、身辺調査、捜し物、ケンカの原因究明、などなど……
探偵として、全力で取り組んでいるつもりではある。しかし、それが解決に繋がることはほとんどなく、空回りすることばかりだ。
"探偵は勘が鋭いものだ"と、よく目にするが、残念ながら都の直感は当たらない。
このままでは"探偵アイドル"ではなく、"探偵の真似事をしているアイドル"になってしまう!
そういう焦りが都の中にはあった。

……ファンや仲間はそんなことを承知の上で、都を応援しているのだが。


~~~~~


(ふぅ……、疲れました)

この日、レッスンが少し長引いた都は、帰り道を歩いていた。
ドラッグストアの前を通りがかったタイミングで、ふと足が止まる。

(ああ、そういえば、変装用のマスクを切らしていましたね)

外の暗さと対比されて、ドラッグストアの中は眩しいくらいだった。
初めて入った店ということもあり、目当ての棚がなかなか見つからない。

(この棚は……、違いますね、しかし広いお店です……)

(こっちは……? ああ、睡眠導入剤ですか、寝つきの良さには自信があります。私には不要ですね)

そんなことを考えながら、別の棚へ目を移そうとした都であったが。
ふと、視界の端に、引っかかる文字列があった。

(?)

しゃがみこみ、目を凝らす。

「睡眠探偵剤……?」


『この薬を服用するだけで、眠っている間にどんな難事件でもたちまち解決!』

『迷子探し、つまみ食いの犯人当てから、暴行、強盗、殺人事件まで!』

『さぁ! これであなたも名探偵だ!』

「……はい?」

説明を読みながら、都は呆れていた。

(まったく……、マンガじゃないんですから)

袋を裏返すと、そこには赤字で注意書きが。

『※1日に服用できるのは1回だけです。1日に2回以上服用すると』

「目が覚めないことがあります……?」

背筋が少し、冷たくなるのを感じた。

(な、なるほど、冗談にしてもよくできていますね……)

(……まあ、何か話のネタになるかもしれませんし)

そう、自分に言い訳じみた言葉をかけながら、都はそれを、カゴに放り込んだ。


~~~~~


翌日、お昼を少し過ぎたくらいの時間に事務所に入った都であるが、なにやら事務所が騒がしい。
見ると、悲しそうな顔をした龍崎薫と、慰めるように神谷奈緒、北条加蓮が立っていた。

「おや、どうかしましたか?」

「おお、都か、おはよ」

「ちょっと、薫ちゃんが、ね」

「?」

本人に聞くのが早いということなのだろう。

「どうしたんですか?」

「かおるの……プリンが……」

「ほほう……」

どうやら、冷蔵庫に入れてあった薫のプリンが、誰かに食べられてしまったらしい。

薫の話では、昨日の仕事帰りにプロデューサーに買ってもらったのだが、交通渋滞に巻き込まれたせいで事務所に戻るのが遅くなってしまい、翌日食べようと冷蔵庫に入れておいたとのこと。
しかし、薫が先ほど出社した時にはなくなっていたようだ。

「なるほど、任せてください! 必ずやこの事件、解決してみせます!」

「ホント!? みやこちゃん、お願いしまー!」

純粋な目で都を見つめる薫。
これで何もわからなかったら申し訳ないのだが、そんなことは考えていられない。


「それで、午前中にこの事務所に来たのは……」

ちらとホワイトボードに目を向ける前に、すでにチェックを済ませていた奈緒が口を開いた。

「杏ときらり、夏樹と李衣菜、周子と紗枝の6人みたいだな。ちょうど2人ずつで、1人で来た人はいないみたいだ」

「みなさんから話は聞いたんですか?」

「あ、それは私が聞いた。さっき電話でね」

加蓮が声を出す。

「もちろんみんな、食べてないって。杏とか周子が怪しいかなって思ったけど、証人がそれぞれいるからね」

「なるほど……」

「あ、あと杏が、"冷蔵庫は開けたけど、プリンはなかった気がするんだよね"って言ってたよ」

「ほう……、杏さんときらりさんは、1番早く事務所に来ていたようですが」

「そうなんだよなー、朝早くだから、その時点からなかったのかな? 昨日の夜、薫のプロデューサーが帰る時には、まだあったみたいなんだけど」

「それは……」

「23時くらいだって」


「むむむ……、これは難事件ですね……」

「みやこちゃん、はんにんわかった……?」

「えっ!? あ、も、もちろんです! この名探偵・安斎都はお見通しです!」

「ホント!? だれ? だれ?」

「うっ……」

「おい都……わからないならそう言っても……」

その時、都は昨日のことを思い出していた。

(た、確かカバンに入れっぱなしだった気が……)

カバンをガサゴソと探ると、その袋が見えた。

「す、すいません、ちょっと座ってもいいですか?」

「あ、来てから立ちっぱなしだもんね、ごめんごめん」

「いえ……よいしょ」

都の手には、袋から取り出した薬が1つ。

(まあ、ダメでもともと……ですしね)

ちょうど、3人が都から目を切った瞬間、ゴクリ、と飲み込んだ。

カクン

「むぅ、ここに書いてない人がふらっと立ち寄ったのかなー……?」

「それだと見つけるのは難しそうだよね」

「うーん……、あれ? みやこちゃん?」

異変に気がついたのは薫。さっきまで普通に座っていたはずの都が、顔を下に向けている。

「お、おい、都、どうした?」

奈緒も慌てて声を掛ける。

「え? このタイミングで寝ちゃったの? 疲れてたのかな」

と、加蓮が言い終えるのと、都の口が動き出すのは同時だった。


「謎が解けました」



「えっ!?」

薫と奈緒の声が重なる。
しかし、その次の発言を待たずに、都は言葉を続ける。

「昨日のプロ野球、見ましたか?」

「大変盛り上がっていましたね。特にキャッツのゲーム」

「日を跨ぐほどの延長大熱戦の末、12回のウラにキャッツの劇的なサヨナラ勝ち! 凄まじいゲームでした」

いきなり昨日の野球の結果を語り出す都に、他の3人は口を挟めない。

「そういえば、このゲーム、始球式を務めたのは、この事務所の誇る野球大好きなあのアイドルだったそうです」

「きっと、最後の最後まで、試合の行く末を見守っていたことでしょう。まさか始球式だけやって帰るなんてそんなことはありえない」

「彼女のプロデューサーさんは、試合後に彼女を車で引き取りに行ったのだと思います。しかしここで問題が起きます」

「……泥酔した彼女が車の中で眠ってしまったのです」

「彼女のプロデューサーさんは困りました。女子寮に送るにしても、自分は中には入れない。他の部屋のアイドルも寝ている時間だ」

「そこで彼は苦肉の策を取った。ひとまず、彼女を事務所に寝かせるという手段です」

「そして早朝に目を覚ました彼女は、冷蔵庫で見つけたプリンを食べ、帰宅した……」

「昨日の夜中から、杏さんときらりさんが来るまでの間が犯行時刻なら、これ以外にありえません。それに……」

「ほら、今日のレッスン予定表、お昼からのレッスンが1件、中止の×印が書き込まれていますよ。"体調不良"って」

「……姫川、という文字の上に」


「な、奈緒」

「あ、ああ! 電話してみる……。あ、もしもし! 友紀か!?」

『う、うぅ……奈緒ちゃん……? 声、おっきいよ……』

「今朝、事務所来たか!?」

『事務所……? 来たというか……いたというか……』

「手短に聞くぞ、プリン食べたか?」

『プリン……? ああ、食べちゃった……。お腹空いてて……』

「はぁ……」

『あれ? もしかして、奈緒ちゃんのだった……? ごめんごめ』

「もしもし!!! 友紀お姉ちゃん!!!」

『は、ひゃい!?』

「かおるのプリン、食べたの!?」

『うぇ!? あ、あれ薫ちゃんのだったの!?』

「もー!!!」

『ご、ごめん! い、今から買ってくから! ね?』

「こんどから、ちゃんと確認しなきゃダメ!」

『は、はいぃ……』


さて、20歳が9歳に叱られているという、なかなかレアな状況ではあるのだが、それを見た都は、とにかく混乱していた。
目を覚ました瞬間、薫が電話に向かって怒っていたのだ。どうやら、相手は友紀で、しかも犯人だったらしい。
あの薬を飲んだ瞬間から今までの記憶が全くない。
もちろん、そんなこととはつゆ知らず、奈緒は都に声をかける。

「おい都! お手柄だな!」

「ふぇ!?」

加蓮も、心からの賛辞を送る。

「すごいじゃん、見直したよ」

「え? は、はい」

「いやー、推理を披露する都、まるで本物の探偵みたいだったぞ!」

「そ、そうですか! そうでしょう、そう……でしょう」

「みやこちゃん! すごい! たんていさんだ!」

「! は、はは……」

「お、そうだ、ついでに、あたしの髪留めがどこにあるか、捜してもらえないかな? 昨日、事務所でなくしちゃって……」

「も、もちろんお安い御用です! この安斎都に……」

そこまで口にしたところで、注意書きが脳裏に走った。

『1日に服用できるのは1回だけです』

(1日に2回以上服用すると……)

続く言葉を思い出し、冷たい感覚が蘇る。

「お、おおっと! 急用を思い出しました! すみませんが私はここで!」

「え? お、おう。気をつけてな?」

直前の言葉を覆し、走り去る都。少し、気持ちを整理したいという思いもあった。


~~~~~


夜、驚きと、混乱と、そして少しの期待で、都はなかなか眠ることができなかった。
いろいろ考えてみたのだが、やはり結論は出ない。
あの後、何人かに"お手柄だったらしいね"と褒められた。どうやら、薫が言って回っているらしい。
それ自体悪いことではないのだが、なにぶん記憶がなく、詳細を聞かれても答えに窮してしまうのは問題だ。
それでも、薫の笑顔と"すごい! たんていさんだ!"という言葉は、都の気分を高揚させるに十分足るものであったのだが。
幸い、袋にはまだたくさん薬がある。

(も、もう1度、機会があれば確かめてみましょう……)

そう思いながら、都は眠りに落ちていった。


~~~~~


次の機会はすぐにやってきた。
ある日、女子寮の廊下を歩いていた都は、不安気に話をする美穂とみくの2人とすれ違った。

「おはようございます。なにかお悩みですか?」

「あ、都チャン」

「お、おはよう……」

「はい、おはようございます! それで……」

「あのね、あ、あんまり大きな声で言わないでほしいんだけど――」


「ふむ、ベランダに干していた美穂さんのタオルが盗まれた……と」

「う、うん……」

「みく、最初はね? ドロボーかなって思ったんだ。でも、今のところ被害はそのタオルだけなんだって。ドロボーなら、普通下着とか持っていくよね?」

「み、みくちゃん、下着とか言わないで……」

「にゃっ、ごめんごめん」

「なるほど……。詳しく話を聞いてもいいですか?」

そう言いながら、3人は共有スペースへ移動し、ソファへ腰掛けた。
しかし、都の目的はもちろん、話を聞くことではなく、"座る"ことだけだ。
1通りの話を2人から聞いた都は、わざとらしく眉をひそめる。
そして薬を口に入れ……、飲み込んだ。

「なんでタオルなんだろうね?」

「わ、わたしの服なんて盗っても……」


カクン


「謎が解けました」



「……え?」

みくは驚きで声を上げ、美穂は言葉の意味がわかっていない様子だ。

「み、都チャン?」

「みくさん、以前、寮の裏にネコが捨てられていたことがありましたね。その時、みくさんがそのネコの段ボールに、ご自身のタオルを入れました」

「え? そ、そうだけど、もうだいぶ前だよ? そのネコチャン、もう大人だし」

「話は変わりますが、先ほどおふたりと話していて、私はある感覚を覚えました。……同じ匂いがしたんです。美穂さん、最近、洗剤を変えましたね?」

「う、うん! この前、みくちゃんに勧められたやつに変えたけど」

「みくがずっと使ってるやつだよ」

「捨てネコにタオルをあげた時から、同じものを使っていた……ですよね?」

「うん……えっ? まさか……」

「みくさんの部屋は寮の2階にあります。また、この建物の周囲には木などがあまりなく、1階以外のベランダから誰かが入るのは至難の業です……。それがたとえ、ネコであっても」

「ど、どういうこと?」

「あのネコにとって、この洗剤の匂いはまさにお母さんのようなものです。そして、美穂さんの部屋は1階」

「そ、そっか……! わたしのタオルから、みくちゃんのタオルと同じ匂いがしたから……!」

「おや、ちょうど……」

「み、美穂チャン! 見て! 窓の外!」

「あ! ネコちゃん! わ、わたしのタオル咥えてる!」

「都チャン! すごい! すごいにゃ!」

「ん、んん……?」

「ありがとう都ちゃん!」

「え? ……あ、お、お安い御用ですよっ」

まどろみの中で目を覚ました都であったが、2回目であるために理解は早かった。
どうやら、またしても自分の意識が失われている間に、事件は解決を迎えたらしい。

(この薬……本物なんですね……!)


~~~~~


この一件を皮切りに、都のウワサは瞬く間に事務所内に広がっていった。
これまで都をあまり頼っていなかった者も、都の凄さを目の当たりにして、驚くばかりだ。

そして、都にとっての転機が訪れる。


ある時、ウワサを聞きつけたのか、都にあるテレビ番組への出演オファーが舞い込んできた。
何年も前の未解決事件についていくつか取り上げ、情報提供を呼びかける番組だ。
場合によっては改めて捜査のやり直しがなされ、この番組によって解決に繋がる事だってある。
もちろん、都に事件解決を求めているわけではない。緊張感のあるスタジオで、多少なりとも雰囲気を良くしてくれれば。
あわよくば、新しい視点からのコメントが1つでも飛べば。というくらいの期待値ではあったのだが。

撮影が開始され、最初の事件について司会が語り始めた。当然のことながら、警察が何年かけても真相にたどり着けない事件だ。
都が概要を聞いた程度で何か得られるものはない。それでも懸命に、聞き、考え、時にコメントを求められ、的外れな回答だってたくさんあったが、撮影は進んでいった。
お守り代わりにポケットに捻じ込んだ薬も、使う機会はなさそうだ。こんな難事件をいきなり出てきた自分が解決するなんて現実的ではなく、下手な注目を集めてしまう。


(次が最後の事件ですか……)

最後の事件まで番組が進むと、スタジオに現れたのは少女。見るに年齢は都より少し下くらいだろうか。
自己紹介を済ませた少女は、どうやらこの事件の遺族らしい。

少女が事件の概要を語り始める。他の事件と同様に聞いていた都は、その事件が紐解かれるにつれて、自分が聞き入っていることに気がつかなかった。
聞けばその少女は、まだ小学校低学年のころ、父、母、兄、妹の家族全員を、押し入った強盗に殺されてしまったという。
寝静まった深夜に犯行がなされたが、偶然にも友人宅に泊まっていた少女は助かったということだった。
その日家に帰り見た、血濡れた寝室と無残な家族の姿を、少女は今でも夢に見るという。
涙ながらに語る少女。歳の近い都の目には、涙と、怒りの色が浮かんでいた。

(どうしてあの子がこんなに悲しまなければいけないんでしょうか? 何をしたというのでしょうか)

(どうして犯人は……のうのうと逃げ暮らしているのでしょうか?)

都の指先が、ポケットの中の薬に触れる。
不自然とか、注目を浴びるとか、そんなことは問題ではない。
目の前に困っている人がいて、それを解決する力があるのに、使わないなんて。

(探偵として、ありえません!)


カクン


「謎が解けました」



~~~~~


その日から、都の生活は一変した。

探偵のようなアイドルか、アイドルのような探偵か。
いずれにせよ、テレビにドラマに引っ張りだこ。その合間に、謎を次々と解き明かしていく。
1日に1回という制限はあったが、"集中力を使うから"などと誤魔化し続けた。
眠った彼女が決まって使う『謎が解けました』というフレーズは瞬く間に流行語。
決まって顔を下に向け、事件の真相を語る都についた呼び名が。

「"睡眠探偵ミヤコ"さん、お疲れ様です」

「……頼子さん。普通に呼んでください」

「……お疲れのようですね、都ちゃん」

「そう……ですね、忙しくなっちゃいましたので」

失礼します。
と言い残して、都は事務所を後にした。


人気が爆発してから早数ヶ月、もちろん疲れはあったのだが、都の心は2つの感情で支配されていた。
まず1つ、焦燥感。

「あと3つ……」

薬の残りが少なくなってしまっているのだ。
ここまで都が出世できたのがこの薬のおかげであることは間違いない。
それだけに、この薬がなくなってしまったらどうなってしまうのか。
何度もあの店に通っているのだが、同じ薬が姿を現すことはなかった。

しかし、その焦燥感よりも強く、都の心には、大きな、大きな、罪悪感が生まれていた。
"自分はみんなを騙している"という感覚が、ジワジワと都の心を蝕んでいる。
事務所だけならまだいい。しかし、ファンやスタッフまで、みんなが自分を名探偵だと信じて疑わない。
"探偵になりたかった"都は、奇しくも"探偵であることを望まれる"という状況に苦しんでいた。

この日も雑誌にラジオにテレビに大忙し。
1つの事件を解決して事務所に戻る頃には、すっかり暗くなっていた。


(ふぅ……あれ、明かりがついていますね)

「お疲れ様です」

「ああ、都ちゃん、遅くまでお疲れ様です」

「よ、頼子さん、こんな時間までどうしたんですか?」

「……」

「確か、明日はソロイベントでしたよね? 早く休んだ方が……」

頼子は少し言い淀み、やがて、意を決したように口を開いた。

「都ちゃんを、待っていました」

「……え?」


「単刀直入にお聞きします。都ちゃん、何か、隠していることがありますね?」

「なっ……」

「最近の都ちゃんは、とても……苦しそうなんです」

「そ、そんなことは……」

「何というか……、これは私の傲慢なのかもしれませんが……、まるで助けを求めているような」

「……っ!」

「私は以前、こう言いました。"何か話したい時には話してください"と」

「……」

「……私では、頼りになれませんか?」

「そ、そんなことは」

「都ちゃんの、力になりたいんです」

真剣な目で都を見つめる頼子。
心から、都のことを気遣ってくれている。

(これ以上……頼子さんを騙すのは……)

都が、ゆっくりと語り始めた。


~~~~~


「……そう……だったんですか」

薬について、一連の話を聞いた頼子は、袋の注意書きを読みながら、目に見えて絶句していた。
無理もないだろう。本人以外にこんな話を信じさせるのは難しい。
それでも。

「……信じられませんよね?」

「いえ、都ちゃんを信じます」

「軽蔑……しないんですか?」

「誰にだって、悪い夢を見ることはありますよ」

きっぱりと言い放つ頼子。さらに続ける。

「……辛かったですよね?」

そう言って、都の頭を優しく撫でる。
初めこそ堪えていた都であったが、次第に、涙が溢れてしまった


~~~~~


「お恥ずかしいところをお見せしました……」

落ち着きを取り戻した都は、バツが悪そうに目を逸らす。

「いえ、お役に立てたのなら、何よりです」

「わ、私はここで失礼しますね。明日のイベント、見に行きます! 頑張ってください」

「はい、ありがとうございます。ああ、都ちゃん」

部屋から去ろうとする都の後姿に、頼子は言葉を掛けた。

「薬がなくなってしまったら、次は都ちゃん自身の力で進む時です。都ちゃんなら絶対、大丈夫ですよ」


~~~~~


「謎が解けました」


翌日。
珍しく、この日の都は完全にオフ。
夜からの頼子のイベントを見るため、一旦事務所へ立ち寄り、リハーサルが終わるであろう頃合いを見計らって、夕方くらいに向かおうと考えていた。

さて、昼くらいに事務所に着くと、何人かが捜し物をしている。
聞けば、事務所のどこかで李衣菜がギターピックを落としてしまったらしい。
有名ギタリストから譲り受けたもので、何としても見つけたい、と。
当然ながら、都にその依頼が飛び込んできた。
どちらにせよ今日は仕事はないし、断る理由もない。
それに、一刻も早く、薬を使いきりたいとも考えていた都は、これをすぐに解決し、イベント会場へ向かった。


「ええっと、控え室は……」

会場に入った都は、関係者区画を歩いていた。
といっても、きっと頼子は集中していることだろう。顔だけ見て、すぐに引っ込むつもりと決めていたのだが。

しかしながら、どうも人の流れがせわしない。まるで何か……

(トラブルでもあったんでしょうか……?)

そして、頼子の控え室に辿り着いた都は、なぜか開けっ放しのドアを覗き込み、言葉を失うことになる。


そこには、無残にも引き裂かれた衣装と、壊されたアクセサリが散乱していた。
傍の椅子に座っている頼子の表情は悲痛と、そう呼ぶ他にない。

「え……? な、なんで……、よ、頼子……さん……?」

「……都ちゃん」

「……何が……起きたんですか」

「……わかりません。リハーサルを終えて戻ると……このような」

「だ、誰が……」

頼子は、黙って首を横に振ることしかできない。


許せない。許せない。許せない。


絶対に許せない。
こんなことが許されていいはずがない。
思わず、カバンの中に手が伸びる。しかし。

『1日に服用できるのは1回だけです』

あの注意書きが、都の手を止める。
さらに。

「……都ちゃん、あの薬を使おうとしていますね? 大丈夫です。私は、大丈夫ですから」

気配を察した頼子が、都を気遣う。

(頼子さんは、こんな時にも私を気遣ってくれる)

(辛いはずなのに、悔しいはずなのに……!)

しかし、今に限っては、その優しさは、逆効果だったのかもしれない。

「やっぱり、許せません……!」

都が、既に指先に触れていた袋を取り出した。


都が薬を取り出すのを見て、当然頼子は止めにかかる。
しかし、その前に、気がついた。
昨日、見せてもらった時と比べて、間違いなく……、減っている。

「都ちゃん、昨日、話をしたときには残り2個だったはずです。もう1つはどこへいったんですか」

「……いえ、不注意で落としてしまい」

「ウソです。……今日、既に服用したんですよね?」

「……」

「それなら、余計に使わせるわけにはいきません」

「で、ですが! 頼子さんの大事な……!」

「大丈夫です。衣装も、装飾品も、いつかは壊れます。今、事務所から替えの衣装を届けてもらっています。間に合わないとは思いますが、その衣装でなんとか」

「ダメです!!!」

突然の大きな声に、思わず頼子も驚く

「だって、頼子さん、今日に向けてずっと、ずーっと、頑張ってきたじゃないですか! レッスンも、衣装合わせも、一生懸命に!」

「……都ちゃん」

「だから、許せません……、そんな努力をあざ笑う犯人を……!」

「で、ですが、落ち着いてください……!」

「大丈夫です。100%覚めないとは書いてありませんし。このままじゃ、私なんかにはどうせ……」

「み、都ちゃんは、そんな薬なんてなくても名探偵のはずです」

「いいえ、言ったじゃないですか……。私は名探偵なんかじゃないんです。私は普通の女の子で、事件解決は全部この薬のおかげ」

「そんなこと……」

「怖いんです」

「え?」


俯いた都が、か細い声で言葉を続ける。

「みなさんが、私に期待してくれています。それが、その期待を裏切るのが、とても怖いんです」

「何度も、何度も打ち明けようと思いました。"実は全部ウソだ"って。"私はみんなに期待してもらえるような人間じゃないんです"って!」

「でも言えなかった……! 私は卑怯者です。自分で手に入れていない栄光を、さも自分のものであるかのように振り回した。とんでもない卑怯者なんです」

「だから、これは報いなんです。もし私が目を覚まさなくても、それは仕方のないことなんです」

「ちょうどこの薬がラストです。見ていてください、頼子さん。探偵安斎都、最期の――」


パシィ!!!!!


「……」

「痛い……ですよ」

「……」

「どうして、頼子さんが泣いているんですか」

「どこへ……行ってしまったんですか?」

「……どういう」

「あの頃の都ちゃんは、どこへ行ってしまったんですか」

「……私は私です」

「困ってる人がいたらすぐに駆けつけて『任せてください!』って大きな声をかけていた都ちゃんは……」

「……」

「謎を解くために、どんな小さな手がかりも見逃さないために、服が汚れるのも厭わず、皆の為と奔走していた都ちゃんは……!」

「……」

「私が大好きだった都ちゃんはどこへ行ってしまったんですか!」


頼子からこんなに大きな声を聞くのはいつぶりだろう。
いや、初めてのことかもしれない。
目に涙を浮かべる頼子は、口を開き、次の言葉を紡ぎ始める。

「……覚えていますか? 始めて私と都ちゃんが話したときのこと」

まるで懐かしむように。

「事務所の廊下で落し物を探す私に、都ちゃんが声を掛けてくれたんです。『どうかしましたか』と」

都はまだ俯いている。

「まだ事務所に入ったばかりの私にとって、あの時の『任せてください』が、どれだけ嬉しくて、どれだけ心強かったことか」

「都ちゃんは、とても一生懸命に、探し物を手伝ってくれました。私の通った廊下や部屋をくまなく、這いつくばるくらいに」

「そして、見つけてくれたんです。……見つけ出してくれたんです」

「その時の喜びは、言葉では言い表せません。探し物が見つかったことはもちろんです。しかし、それ以上に」

「私のために、こんなにも真剣に悩んで、考えて、探してくれる。そんな都ちゃんと出会えたことが、仲間になれたことが、本当に嬉しかった!」

「……っ!」

頼子の一言一言が、突き刺さる。

「思い出してください、都ちゃん。まだ遅くありません」

そうだ。なぜ忘れていたんだ。

「思い出してください、皆の為に、たとえ解決できなくても、懸命に謎に立ち向かう都ちゃんを」

カッコいい探偵に憧れた。
スマートに事件を解決に導く探偵に憧れた。
でもその探偵だって、地道な調査と、細かい推察を重ねて、重ねて、重ねて。
やっとの思いで真相を暴き出す。
だからカッコいいんだ。だから、憧れたんだ。

今の私は

こんな私は


――探偵なんかじゃない!!!


「探偵・安斎都を、思い出してください!!!」



少しの沈黙。そして。

「ふふふふふ……」

俯いていた都が、顔を上げた。
そこに浮かぶのは……笑顔。

「ありがとうございます、頼子さん」

どこか吹っ切れたような、そんな笑顔。

「……もう、大丈夫ですか?」

「ええ! 安斎都、完全復活です! もうあんな薬には頼りませんよ!」

「……ふふっ、よかったです」

「ご心配をおかけしました! 探偵アイドルとしてまだまだ活躍しなければですからね! こんなところで眠ってはいられません!」

「それでこそ、都ちゃんです」

「さてさて、早速、目の前の謎に挑まなくてはですね!」

「あ、で、でも、今しがた、事務所から新しい衣装が届いたみたいですし、多少開演を推してはいますが、このままなら支障はないかと……」

「いえ! それとこれとは別問題です! 悪を見逃すなんて探偵失格ですから!」

「ですが、手がかりもないですし……」

「そうですね……、ですが、探偵の武器は足だけではないんですよ!」

「え?」

「頼子さん、1つ、お願いを聞いてもらってもいいですか?」


~~~~~


――大変長らくお待たせいたしました。ただ今より開演となります。


予定の時間を過ぎても始まらないことに観客が疑問を抱き、そろそろ苦情の1つでも飛んでこようかというタイミングで、放送が響いた。
ステージの上には人影が1つ。
カッ! という音と同時に、スポットライトがその人影に注がれる。
そこには。

「みなさんっ、こんにちは! 安斎都です! あっ間違ってないですからね! これはちゃーんと、頼子さんのイベントですからっ!」

唖然とする観客達。
無理もない。待てども始まらないイベントが開演したと思えば、ステージ上には何かと話題の探偵アイドル。
まさか、頼子の身になにか……? トラブルが起きたのか……?
そんな空気を感じ取ったのか、都は続ける。

「心配いりませんよ。頼子さんは舞台袖で、今か今かとスタンバイしています!」

安堵する観客の顔が見える。

「むむっ! "じゃあなんでお前はいるんだ!"と思った方がいますねっ! 説明しましょう!」

「実は先ほど、"落し物"をしている人を見かけたんです。"顔はわかっている"のですが、いかんせんこの人数から探すのは至難の業……!」

「そこで、こうして呼びかけることで"自首"してほしいんです!」

わざと事件めかした言い方をしていると思ったのだろう。観客から笑い声が聞こえた。
……もちろん、特定の人物に向けたものであるのだが。

「ああ、警備員さんに特徴は伝えてありますので、逃げられませんよ~?」

「まあ私も鬼ではありません。自首してくれれば罪は軽くなりますからね!」

またも笑い声。

「私からは以上です! さてさてみなさんお待ちかね、頼子さんの時間ですよ! 安斎都でした!」

笑顔で深々と頭を下げた都は、闇に消えていった。


~~~~~


翌日の事務所。

「お疲れ様です、都ちゃん」

「あっ頼子さん! 昨日は本当にお疲れ様でした!」

「いえ、こちらこそ。……おかげ様で犯人も捕まりましたし」

「本当によかったです……」

「でも、あの場に犯人がいなかったら、どうするつもりだったんですか……?」

「いえ! "犯人は現場に戻ってくる"と言いますし! 犯人なら、イベントが壊れる瞬間までその場にいるだろうと考えたんです」

「なるほど……。流石、名探偵さんですね」

「えへへ……。そ、それより! イベントの後、私はすぐに解放されましたが、頼子さんは警察から話を聞かれていたんですよね……? あっ、決して探偵として1回受けてみたかったなあなんて思ってないですよ!」

「ふふっ、そうですね。……ああ、そういえば」

「?」

「犯人は自首した理由について、こう言っていたそうですよ」

『まさか安斎都がいるとは思わなかった。逃げられないと感じた』

「ふふん! ……ま、まあ、その名声は私の力ではないですが」

「たとえそうでも、追い詰めたのは都ちゃんですよ」

「て、照れます……。探偵は話術も武器ですからね!」

「これから先も、活躍を期待していますね? 名探偵さん」

「はい! 任せてください!」


「……頼子さん」

「はい?」

「ありがとうございました」

「都ちゃん?」

「私は、ずっと眠っていました。この薬を初めて手にした時から」

都が薬を取り出す。

「目を覚ましてくれたのは、頼子さんです。本当にありがとうございました」

「……力になれたのなら、嬉しい限りです」

「でも」

「?」

「1つだけ、謎が残っています」

「そ、そうなのですか……?」

「昨日、聞き間違いでなければ頼子さんは『私が大好きだった都ちゃんは』と言っていましたよね?」

「えっ!? あ、ええと……」

まさか掘り返されるとは思ってもみなかったのだろう。明らかに頼子がうろたえている。

「それを聞いてから、いえ、それよりも前からだったかもしれません。頼子さんの顔を見ると……ドキドキして……」

「え?」

「……そこで、この謎を解くことを、睡眠探偵ミヤコの最後の仕事にします」

そう言って、都が最後の薬を口に含む。

「……まあ、自分でもわかっているんですけどね」

小さな呟きが頼子の耳に届いた時にはもう。

カクン

目の前には、何度も見た姿勢の都が。


「謎が解けましたよ」


「頼子さん。私は――」



――少し震える都の手には、まだ最後の薬が握られていた。




おわり


ありがとうございました

ちょっと書かせていただきます





恋人に刺された。





モバP(以下P)「参ったな・・・こういうのはヤンデレキャラの領分だろうに」



俺は自室用のデスクチェアーに腰掛け、そう呟いた

カーペットを汚している液体の赤さがまゆのことを思い出させる

決して「ヤンデレ」というワードに反応したのではない、あの子はいい子だから


腰から包丁の柄が生えたまま、もう30分になる

ちなみに刃の方は背骨の近くの太い血管に食い込んでいるのだろう

清良や早苗に見せるまでもなく致命傷である

少なくとも刺された直後は間違いなく致命傷だった





なのに、スタミナドリンクを飲んだらちょっと治った











モバP「○○まで死ねません」







俺はこれでも延べ183人のアイドルをプロデュースしてきたプロデューサーである。

同僚のサポートだったり、提携している他事務所の子を短期プロデュースしたり

ただでさえ多めの自分の担当アイドルに飽き足らず大なり小なり手を貸してきた

プロデューサーの能力は豊富な経験で決まると信じて居た俺はそういう風に実績を積んだ

そして今日までのところそれは成功していた

担当中のアイドルとの仲も上々だし、

引退したアイドルとも、良き友人としての関係を改めて築けた

だから毎年200枚近い年賀状が届く


そこそこの彼女も出来たし、出世したし、いいマンションに部屋も構えた。


P「まあ、その自宅でその彼女に刺されたんだけど」


今、立ち上がると出血が悪化して死ぬ

俺は椅子のキャスターを利用して座ったまま部屋を移動した。

動いた軌道に沿って赤いラインが野太くついてくる。

沙紀ならこれもアートというだろうか

P「こうして見るとまるで俺が血抜きされているみたいだな」

しかし葵や七海がここでマグロ解体ショーを実演してもここまで部屋は汚れないだろう




彼女が俺に対する刃傷沙汰に及んだ原因は俺にある


長くアイドルと接し、彼女らの魅力に当てられ、または磨き上げている内に俺の女性観が変わってしまったのだ

”魅力あるものは独占せず、世界に知らしめすべし”

プロデューサーとしてはそれは褒められたことだろう


ゆかり、桃華、雪乃、紗枝、琴歌、星花、千秋、詩織らのような清楚さ

加奈、美里、美由紀、菲菲、ライラ、芽衣子、薫、みりあ、のような愛嬌

瑛梨華、フレデリカ、あずき、仁美、アヤ、聖來、ヘレン、亜季、美羽、いつき、柚のような溌溂さ


俺はそれらを飾り立て、磨き上げることに喜びを見出していた

いつの間にかそれがプライベートにまで侵食していたのだろう

アイドルではない、どこに見せびらかすでもない恋人に対して俺はひどく冷めていたのだ



彼女は言った。

「かわいいアイドルに囲まれて、わたしに飽きたんでしょう!」

俺は言った

「そんなことはない、だって君と彼女らはそもそもステージが違うんだから」



ありすでも自重するであろう論理だった

論破でもなんでもない途方もない失言だった

なので言葉ではなく暴力でやり返され今に至る


P「そりゃ・・・長いこと、セックスレスだったし、不満もたまるかぁ・・・」


独り言でも喋ってないとつらい、黙ると腰の激痛に意識を向けそうになる

俺は飛鳥の饒舌さを再現するつもりで話しながら椅子で移動する

P「一度美しいもの目を焼かれてしまうとそれ以外のものが色あせて見える・・・果たして本当にそうだったのだろうか。

美醜は相対的なものに完結してしまうのか?自身にとってのみありうる絶対的な美の存在は許されないのか?

そうだ、俺はもっと気の利いた言の葉を以て恋人を繋ぎとめ、剣を突き立てることもなかったのではないか?

『僕は世界に通用するアイドルを育て上げているが、君は僕の中ではずっと一番さ』なんてそれぐらい囁くこともぼろろろろろろろろげれぼろろろろろろろろろろ」

思わず嘔吐した

セリフが臭かったからとか、飛鳥に全然似てなかったとかではなく体に無茶をさせすぎたらしい

慌てて、胸ポケットから取り出したスタドリを一気飲みした

せり上がっていた嘔吐物がドリンクの清涼感を打ち消しつつ食道を下る





P「・・・・・・・・・ふうっ」



はい、回想と反省はおしまい

真奈美やあいを真似た指パッチンで頭を切り替える

ここからは生きるための話をしよう



俺は後ろから腰を刺された。

なぜなら自宅にもかかわらず机で仕事をしていたからだ



彼女は本気で怒っていたというのに俺が相手していたのは画面に表示されたエクセルだった

パソコン、と聞くと泉やマキノを思い出したが彼女らに連絡はとれない

なぜならこのパソコンはあくまで事務作業用なので漏洩を危惧してオフライン設定のままなのだ



なので刺された直後、俺にできたのは部屋から出て行った彼女を追うのでもなく通報するのでもなく

机の引き出しに入っていたぬるいスタドリを飲むことだけだったのである



どうせ死ぬのなら飲み残しのないようにしようと呷ったところ寿命が延びたのだ



楓や志乃にあと礼子が言っていた。「酒は百薬の長」だと

俺の場合スタドリのおかげで致命傷を遅延できている



だがそれも体感で2,3分くらい。実際はもっと短いだろう

さっきの椅子移動でカラーボックスの上に転がっていたスタドリをチャージしたがその効果も長くない

都のような探偵なら部屋を歩き回りながら考えるのだろうが、

俺は動けない、椅子を動かせても椅子の上から動けない

歩いて病院には行けないのだ




P「つまり、そういうこと・・・」




スタドリが切れたら死ぬ






パンが切れたみちるのように、メガネが尽きた春菜のように、ドーナツが朽ちた法子のように

ヒロイン補正の消えたほたるのように、ギャグ補正の消えた加蓮のように、電池が切れたのあのように




P「オーケーオーケー、まずは物資確保だ・・・俺の家のスタドリ在庫は?」



今俺がいるのは仕事部屋の壁際

元々窓際にいたのを移動したのだ

ここまで確保したスタドリは3本、摂取したのは2本


P「そーっと動け、そーっとだ・・・」



部屋の入り口に向けてつま先歩きで椅子を動かす

出入り口のそばには小型冷蔵庫がある。そこにはスタドリのストックがあったはずだ



P「といっても少ないだろうが・・・」



でも最終目的地はリビングだ。

そこにある通常サイズの冷蔵庫ならもっとたくさんのスタドリを補充できる

大事の前の小事というのかはともかくまずはそこに至るまでのスタドリが必要だ

ゴツリ、とキャスターが何かに食い止められた

振動が腰に伝わる、出血が増えた気がした

慌てて三本目の蓋を開ける、星型の飾りが指にくい込んだがどうでもいい


P「しまった・・・手持ち最後を飲んでしまった」

キャスターがボールペンを踏んでいたらしい

これを無理に乗り越えるリスクは冒せない

万にひとつ、椅子が転倒したら死ぬからだ

俺はふーっと息を吐くと、たった一本のペンを迂回して冷蔵庫に向かう

壁に貼られていた智香のポスターと目があった。どうやら応援してくれているらしい

ちなみにその隣では友紀がキャッツを応援していたし茜がボンバーのポーズをしていた

腰の血管がボンバーしているので笑えない



俺の仕事部屋は無駄に広い。壁から入口まで5メートル以上はある

手持ちのスタドリがなくなったせいで背筋が寒くなってきた

血が足りなくなってきたのを感じる

P「着いた・・・!」

思わず手を伸ばそうとして、腰に激痛が走った

嘘である。

激痛はずっとそこにいる。それがよりひどくなっただけだ

高級マンションの部屋は大きいが冷蔵庫は予想外に小さい


P「座ったままでは開けられない・・・」


そうだ、いつもはしゃがんで開けていたんだった

俺はさながら車椅子生活中の腰痛持ち、前傾もできない

バリアフリー、という言葉が浮かんだ

あとクラリスの慈愛顔も連想した。あまねく人々に平等な愛を

P「何か、何かないか・・・」

ピチョン

滴った血がやけに大きな音を立てた

タイムリミットは近い、スタドリを切らすとゼロになる

汗が止まらない。首が痒くなってきて思わず掻いた

指にネクタイが引っかかる。ニュージェネの子達が選んでくれたものだ

自宅でも仕事スタイルだったことに今更、思い至った


P「・・・・・・」

案を一つ思いついた。



ネクタイを慎重に解いていく

噴き出す汗で指が滑る


響子が整えてくれた結びをほぐす

そして体から外したネクタイを一本の紐のように構える

むつみがロープを持ったときのように

そして時子の鞭のように振るった




かちりと冷蔵庫の取っ手にタイピンが引っかかる



あれはニューウェーブが選んでくれたものだ

そのままゆっくりと後退していくと軽い抵抗の後、冷蔵庫は開いた。


P「よしよし・・・蓋さえ開けば何とかなる」


”本当に困ったとき、身の回りの物を有効活用すればなんとかなるのだ”

幸子が体を張ったロケでそう学んだらしい。

冷蔵庫の中にはびっしりと小瓶が詰まっていた

その全てがスタドリ、その全てが延命剤、命綱


P「まるで宝石箱やぁ・・・なんでやねん」


智絵里や笑美を思い浮かべながらセルフツッコミ

気を取り直して瓶を取得しようと手を伸ばすが、俺は甘かった

扉ですら手が届かなかったのに、その奥に手が届くわけがない


P「(まずい、まずいぞ・・・スタドリを眺めながらスタドリ不足で死んでしまう・・・)」


焦りすぎて声が出ない、目も掠れてきた

スタドリがなければもっと早く訪れていたであろう死に至る症状

こんなとき舞や千枝みたいな背の小さくて気が利く子がいれば取ってくれるのだが・・・

ここにはアイドルはいない。俺は自力で命を繋ぐのだ



そうだ、仕事と一緒だ


仕事がなければ生きていけない


スタドリがなければ仕事ができない




だから、スタドリがなければ生きていけない



腰から血を滝のように流し、


血液の代わりにスタドリを摂取して延命している


この状態はそんな世界の縮図だ







気がついたら足の感覚がなくなっていた

震えるばかりで満足に地面を蹴ることもできない



P「(そりゃ腰を刺されているんだ・・・足腰が立たなくなるのは時間の問題だった・・・)」



目眩がする、きらりに抱きつかれた時のように視界が揺れた

もしかしたら地震かも知れない、





俺はバランスを崩し椅子から振り落とされた

小さな冷蔵庫も巻き込んで倒れこむ




あ、死んだ




捻転していく視界の中、レナがコイントスをしていた

ピンチの今こそ逆転のチャンス、とでも言いたいのか?








いつもアイドルの傍にいた

後ろから背を押してやった

前に立って手を引いてやった

横に座って励ましてやった


いつもスタドリを備えていた

飲めば元気が沸いてきた

アイドルに取り残されないように

アイドルと共に戦うために

アイドルと壁を乗り越えるために


アイドルプロデュースが俺の喜びで

スタドリがなければそれも果たせない

だからスタドリは俺の喜び

本質はその液体にあらず

生きる意味なのだ


食欲、睡眠欲、性欲、出世欲、承認欲、顕示欲etc、etc・・・


人間はいつも形なき喜びを求めている



ラブとピースを謳歌する柑奈のように

女性の胸部を登頂する愛海のように

ロックを希求する李衣奈のように

未来からの予兆を待つ朋のように

女子力を探求する美紗希のように

はっぴーを振りまくそらのように



P「(リビングだ・・・そこなら携帯電話も冷蔵庫も玄関への道も・・・)」



果たして俺は生きていた

椅子から倒れ、冷蔵庫の瓶も盛大に転げていったのにも関わらず

今こうして、少しずつスタドリを飲み、腕の力だけで床を移動している



P「(歌鈴がスタドリの空き瓶で転んだ時のことを思い出すぜ・・・)」



エジプトのピラミッドの時に、イースター島のモアイの時に

それは大昔の人間が巨大な岩を運搬するための手段



俺は床にうつぶせに倒れてしまったが、そこから床と体の間にスタドリの瓶を敷いていったのだ

空き瓶が転がると同時に体が前に進むように、いくつもいくつも敷いていく

こうして床と自分の間の摩擦を無効化すれば弱った腕の力でも進めるというわけだ

一本飲んでは体の下に押し込んで、腕の力を振り絞って床を押す


P「(うおお・・・根性だ・・・地面を泳ぐんだ・・・)」



櫂の水泳や麻理菜のサーフィンをイメージする

飲みながら廊下に置いていく、飲みながら廊下を進む

どうしてこんなに広い廊下なんだろう、広い家を買ったからか

イヴのように質素な住まいにしておくべきだったのか

乃々や輝子のように狭いテリトリーに満足しておくべきだったのか、答えはわからない


P「(体重がかかってお腹が痛い・・・しかし背中には包丁が・・・)」


妙な諺だが「腹に背は代えられない」ということか


だが、腰の方がもっと痛いので耐えられる

菜々だって腰痛に悩まされながらもステージに立ったのだ、プロデューサーの俺が弱音を吐くわけには行かない



うつ伏せのままガブガブとスタドリをラッパ飲み、こぼれた液体が顎を濡らす


血液とスタドリの混じったなにかの液体がカーペット用に廊下を汚した

気の遠くなるような体感時間の末、ようやくリビングに通じる扉に着いた

這いつくばった態勢ではノブに届かないのではと気を揉んだが

彼女が出て行くときにちゃんと閉めなかったらしい。扉は薄く空いていた





進み方はそのままに扉を頭で押しのけるようにして


ついにリビングにたどり着いた



俺はスタドリを転がしながらカーペットの上を滑っていく




P「(助かった・・・冷蔵庫も、そして携帯電話もある・・・!)」




冷蔵庫までまっすぐ行こうとして、この態勢では扉が開けられないことに気づく

予定変更、さきに携帯電話を手に入れる



ソファのそばに置かれたテーブルなら地面からでも手が届く

確か私用の携帯電話はそこに置いていた。

広い部屋を盛大に汚しながら横断する

恐らくとっくに血は足りていない、

スタドリの回復分だけで動いている

小梅の好きなゾンビのように這っていく、這っていく



残り5メートル

~卯月「頑張ってください!」~


残り2メートル

~恵磨「いっけーーーーー!!!!」~


残り1メートル

~珠美「忍耐ですぞ!P殿!」~


アイドル達の幻聴に頭がくらくらしながらテーブルの上を五指で探りまわる


リモコンや雑誌に紛れて、確かな感触があった

携帯電話に手が届いたのだ




P「あっ、そうだ充電切れてたんだ・・・」




アイドルのケアも兼ねて仕事用の携帯電話ばかり使い、私用のものは自宅に放置していたからだ

それで彼女からの連絡も彼女への連絡も蔑ろにしていた


そういう態度も刺される原因の一つだったのだろう



P「俺はここで死ぬのか・・・」


俺はできる限りみんなの顔を思い出そうと最後に脳を振り絞った


有香、ゆかり、亜里沙・・・

沙理奈、千夏、瑞樹・・・

藍子、夏樹、久美子・・・


思い返せない数のアイドルの顔を思い出す

走馬灯をアイドルだけで埋め尽くさんと




”今回の俺”はどうやらここまでだ・・・




P「ところで何人くらい名前出せた?」



こずえ「えっとねー・・・きゅーじゅーにん・・・」



P「90人か・・・半分ってとこかー・・・」



こずえ「けーたい・・・じゅーでんしてたらもっとできたのー」



P「そうだな、あの辺で精神的にガクっときたからなー・・・そこで意識切れちゃったよ」



P「・・・よし!もう一回だ!」



芳乃「了解でしてー」



P「よーし次は183人全員の名前出すぞー!」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


恋人に刺された



モバP「参ったな、こういうのは巴の好きな任侠映画や小梅の好きなスプラッタ、あとはあとは・・・」



俺は自室用のデスクチェアーに腰掛け、そう呟いた

カーペットを汚している液体の赤さがまゆのことを思い出させる


・・・・・・あとレッドバラードの千夏、アヤ、礼子、千秋、あいも思い出した


決して「ヤンデレ」というワードに反応したのではない、あの子はいい子だから



腰から包丁の柄が生えたまま、もう30分になる


・・・・・・響子や蘭子が台所に立ったときに使っていたものとよく似ている


ちなみに刃の方は背骨の近くの太い血管に食い込んでいるのだろう

清良や早苗・・・・・・あと喧嘩慣れしてそうな拓海に見せるまでもなく致命傷である

少なくとも刺された直後は間違いなく致命傷だった





なのに、スタミナドリンクを飲んだらちょっと治った















モバP「アイドル全員の名前を挙げるまで死ねません」








元々単発であげようと思っていたネタなのですがついこちらに書いてしまいました

ありがとうございました


テーマは不条理コメディです

完成しましたので投稿します。
一部の方にとって不快な内容かもしれませんがこらえてください。

まゆ「まゆはプロデューサーさんのためだったらなんだってできます。」
まゆ「いつだって、私はプロデューサーさんのことを想っています…。」
まゆ「時々、『愛が重い』っていう人もいますけど、まゆにとってそんなことはどうでもいいの。」
まゆ「まゆは一番好きな人を想っていればそれだけで…。」

『愛の重さ』

佐久間まゆはライブツアーの最中である。
たった今、3カ所目の公演を終え、ちょうど折り返し地点というところまできた。
P「まゆ、お疲れさま。今日のライブは今までで最高の出来だ。」
まゆ「ありがとうございます…♪最高のまゆをお届けできました…♪」
気分の高まりか、はたまたライブの疲れか、息が上がっている。
しかしその顔は満面の笑みであった。
P「プレゼントボックスもこんなに来てるぞ。こりゃ全部読むのは大変だなぁ」
まゆ「まあ、うれしい♪ちゃんと読んで、ブログも更新しなきゃですね…♪」
プレゼントボックスの中は色とりどりのファンレターや地元のお菓子など、さまざまなものであふれていた。
P「ほら、これなんて見てみろ。まゆのイメージにぴったりって感じの封筒だぞ。」
まゆ「本当ですね。最近、こういうファンレターが増えましたね…♪」
白のメールに、赤のリボンがぐるぐる巻きにしてある、いかにも『まゆのファン』からのファンレターだ。
P「量が多いから、明日事務所でゆっくり読むといい。とりあえず冷えるから着替えておいで。」
まゆ「はぁい♪」

その夜、まゆは自室で日課になっている日記をつけていた。
まゆ「今日はプロデューサーさんに…うふふ♪」
ご機嫌で日記を書き終え、翌日の持ち物を整理していると、かばんの中から一通の封筒が出てきた。
まゆ(あら、誰からだろう…それにいつの間に…?)
見覚えのある封筒。プロデューサーがプレゼントボックスから取り出して見せた、あのファンレターである。
まゆ「プロデューサーさんったら、おちゃめなんだから…♪」
ぐるぐる巻きのリボンを丁寧にとり、封筒を開ける。
一枚の真っ白な便箋に、まるで印刷したかのようなきれいな明朝体で一言

『まゆすき』

と書かれていた。
まゆ「…?」
この他に何か入っているかもと思い、封筒を逆さにして振ってみたり、中をのぞいてみたりしたが何も出てこない。
四文字のひらがなが書かれた便箋一枚、ただそれだけが入っていたのだ。
まゆ(どういうことかしら…?)
あまりにも唐突で、あまりにも短い愛の告白にまゆは困惑した。
考えてもわからないので、今日は寝て明日プロデューサーに聞いてみよう。そう思い、まゆは就寝することにした。

……
翌日、事務所について真っ先にプロデューサーに聞いた。
まゆ「プロデューサーさん、おはようございます。」
P「おう、おはよう。昨日届いたファンレター、まとめておいたぞ。」
まゆ「ありがとうございます。ところで、昨日まゆのかばんにお手紙入れたりしましたか…?」P「手紙?」
プロデューサーの反応を見て、手紙を入れたのは彼ではないことを悟った。
まゆ「…いえ、何でもありません。」
つまり、『プロデューサーではないだれか』が、かばんの中に手紙を入れたのだ。
いったい誰が、何の目的で入れたのか、皆目見当がつかない。考えすぎると気味が悪くなってしまうので考えるのをやめた。
何かの拍子にいたずらのつもりで入れたファンレターが混じってしまったのだ。そうに違いない。
まゆはそう言い聞かせ、このとは忘れることにした。

『まゆすき』


みくと美穂、そしてまゆの3人でランチに行く約束をしていた。
店員「こちら、メニューでございます」
みく「ここ、カルボナーラがすごくおいしいの!」
美穂「すっごいおしゃれなお店…もうちょとおめかししてこればよかったかな…」
まゆ「うふふ…美穂ちゃん、あまり気を張らなくても、とってもかわいいですよ。」
みく「ねえねえ、何頼む?」
美穂「どれもおいしそうで目移りしちゃう~…」
3人でページをめくっていると、メニューの間から何かの紙が落ちた。
みく「あ、なんか落ちたよ?」
美穂「これは…手紙?」
真っ白な便箋に、リボンの形のシールで封がしてある。
ふと、昨晩の出来事が脳裏に浮かぶ。
恐る恐る美穂から手紙を受け取り、封筒を開ける。
中からは花柄のかわいい便箋に、丸くて小さい文字で一言

『まゆすき』

と書かれていた。
みく「まゆチャンそれ何?」
まゆ「さあ…なんでしょうね?さあ、早くメニュー決めましょう」

なんとかその場はやり過ごし、食事後二人とは別れ、一度事務所に戻ることにした。
まゆ「プロデューサーさん…」
P「ん?どうした。」
まゆ「これ…」
先ほど店で拾った手紙を渡す。
P「…まゆ宛てのファンレターか?」
まじまじと手紙を見る。
まゆ「…開けてみてください…」
P「なんだおいちょっと怖いな」
プロデューサーが封筒を開ける。

花柄の便箋に件の4文字。

P「…何かのいたずらか?」
まゆ「今朝、プロデューサーさんに話そうとしたことは、それについてなんです…」

昨晩あったこと、先ほど起こったことについて話した。
P「二つ目は店員の小粋なジョークなんじゃないのか?」
Pはどこか抜けていた。
まゆ「だとしたら、なぜ店員さんはまゆがお店に行くのを知っていたのでしょうか…」
P「うん、さっきの撤回。おかしいわ。ちょっと一ノ瀬探してくる。」
まゆ「志希さんですか…?」
P「あいつならDNA鑑定とかさらっとやってくれそうだ。たぶん喜んで飛びついてくるぞ。」

……
志希「なるほどねー。誰の仕業か調べたいってことねー。」
P「やってくれるか?」
志希「最短でも一日はかかるから、ゆっくり待っててねー。」
まゆ「できるんですね…ありがとうございます、志希さん。」
志希「いやー、こっちとしても久々に面白い材料が見つかってホクホクだよー。」
P「じゃあ、頼むぞ。報酬は弾む。」
志希「期待しないで待ってるよー。にゃははー。」

……
まゆ「……」
P「不安か?」
まゆ「はい…ちょっとだけ、手紙が怖くなりました…」
P「何かあったら頼ってくれていいから、かまわず俺を呼ぶこと。いいな?」
まゆ「はい…ありがとうございます…」
いつでも連絡してくれていい。
いつもならこれほどうれしいことはないのだが、今は不気味さと恐怖があり、喜べるどころではなかった。
P「何なら、今日は収録の打ち合わせだけだから、終わったら送るよ。」
まゆ「プロデューサーさん、すき」
P「とりあえず、終わるまではここで待っててくれればいいぞ。」
まゆ「……はい」
ジョークのつもりで言ったがスルーされてしまい、少し頬を膨らませてみた。

プロデューサーが打ち合わせに行き、一人になってしまった。
さすがに数時間一人なのは心細かったので、プロジェクトルームに行くことにした。
ルームでは桐生つかさが台本を読んでいた。
つかさ「お、まゆ…どうした?」
まゆ「つかささん、こんにちは。」
つかさ「何があったか話してみろよ。何か手伝えるかもしれないだろ?」
まゆ「…つかささんにはお話しします。実は…」
何かにすがりたかった。つかさは信頼できるので話すことにした。

つかさ「なるほど、知らない間に誰からかわからない手紙か。」
まゆ「ええ…」
つかさ「本当に手紙のほかには何も入ってなかったのか?」
まゆ「はい、手紙だけですけど…」
つかさ「毛髪とかチリとか、本人を特定する材料は?」
まゆ「そこまでは…今志希さんに調べてもらっていますけど…」
つかさ「なんかあってからじゃ遅いから、誰でもいいから頼れよ?」
まゆ「はい…じゃあ、甘えちゃおうかしら。」
つかさ「なんだ?できる範囲なら力になるぞ?」

まゆ「飲み物、一緒に買いに行きませんか?」

『まゆすき 尊い』

……
P「まゆ、お待たせ。打合せ終わった!」
まゆ「…!」
プロデューサーに駆け寄り、強く腕にしがみつく。
つかさ「気をつけて帰りなー」
プロデューサーに連れられてまゆは寮に帰ることにした。

事務所の駐車場。営業用、ロケ用、さまざまな車が止まっている。
最新の車もあるが、各部署に割り当てられている車は異なる。
P「すまんな、ぼろいセダンで」
まゆ「プロデューサーさんとなら、どんな車でも大丈夫です♪」
少しだけ強がってみた。
P「そうかい……」
プロデューサーが助手席に目を落とす。
ドアを開けず、その場で固まってしまった。
まゆ「……プロデューサーさん?」
まゆもプロデューサーの視線の先を見る。
P「……冗談きついぜ…」
助手席に白い封筒が置いてある。
P「車の鍵は適当にとった。まゆと一緒なのは誰も知らない」
まゆ「ここにまゆ達が来るのは誰も知らないはずなのに…」
扉を開け、封筒を手に取る
P「……中身、見るか?」
まゆ「プロデューサーさんが見てください…」
P「開けていいのか?」
まゆ「お願いします…」
封筒をプロデューサーが空ける。
中からはリボンで装飾された便箋。
やや乱雑な文字で一言

『まゆすき 尊い』

とだけ書いてある。

P「少しパターンが違うな。」
まゆ「誰がどうやって仕込んだのでしょうか…」
P「まあ、ここにとどまっていても埒が明かん。」
まゆ「…そうですね…」
車に乗り込み、寮方向へ向かう。

その後は何事もなく、寮についた。
まゆはいつもと同じように日記を書き、就寝。
しかし、手紙の差出人が気がかりでどうにも寝付けなかった。
まゆ(一体だれが何の目的でこんなことをしているんだろう…)

しばらくの間、このようなことが続いた。
ある日は学校の机の中に、ある日は靴箱にぎっしりと、ある日は郵便受けに。
どれも同じような白い封筒。赤で縁取りがしてあったり、シールが貼ってあったりと、少しずつ違った。
ただ、中身はいつも、1枚の便箋に一言

『まゆすき』

とだけ書いてあった。
まゆは不可思議で奇妙な現象によって疲弊していった。

……
とある朝
?「まゆチャン早く起きるにゃあ!!」
まゆ(みくちゃん…?)
寝起きの目をこすりながらドアを開ける。
みく「どうしたのこれ!?すごい数のファンレターだけど…」
まゆの顔が青ざめていく。
自室の扉を開けると、山のような手紙が置いてある。
恐怖のあまり腰が抜けてしまった。
まゆ「みくちゃん、今すぐプロデューサーさんを呼んでください…」
みく「ヴェ!?い、いきなりどうして…」
まゆ「お願いです…」
まゆは今にも泣きそうであった。
みく「わかったにゃ。Pチャン呼ぶけど、その前に着替えておこ?」

しばらくして、プロデューサーが女子寮に駆け付ける。
P「何があった!?」
みく「Pチャン、これ…」
床に散乱した大量の封筒を指さす。
気味が悪くて誰も触らなかったのだ。
プロデューサーはそのうちのいくつかを手に取り、中を確認する。

『まゆすき』
『まゆすき…まゆすき…』
『まゆすき!!!!!』

表記にぶれはあるが、どれも同じ内容。
それが111通。一晩の間に、まゆの部屋の前に置かれたのである。
みく「これ、警察に通報したほうがいいんじゃ…」
P「さっき一ノ瀬から手紙の分析が終わったって連絡があったから、それを聞いてからでも遅くない。」
みく「でも早くしないと…」
P「犯人を刺激しかねないから慎重にやらないといかん。」
みく「それは…そうだけど…」
まゆ「まゆも、通報はちょっと待ったほうがいいと思います…」
みく「まゆチャンも!?」
まゆ「今はまだ実害はないですけど、通報したことがわかったらどんなことをされるかわかりませんから…」
P「とにかく、事務所まで行って、一ノ瀬から結果を聞こう。」

プロデューサーとまゆ、そしてなぜかついてきたみくの3人で、志希が勝手にラボにしている事務所の一室まできた。
P「来たぞー。」
志希「お、よく来たねーふた…3人?」
みく「みくは付き添いだよ?」
志希「まあいっか。じゃあ、分析の結果、教えるねー」
P「ああ、頼む」

志希「まず、手紙と封筒からは、まゆちゃんとプロデューサー以外の指紋や体液の後は見つからなかった。」
P「…マジか」

志希「手紙以外に毛髪とかも見つからなかったよ。」
まゆ「そうですか…」
志希「で、これが一番面白いんだけど…」

志希「この文字、インクとかじゃなくて紙が直接黒くなってるんだよねー」
みく「それ一番わからないにゃ…」
志希「つまり、誰が作ったかも、どうやって作ったかもわからないってこと。」
P「ここまで来て手掛かりなしか…」
まゆ「じゃあ、一晩で111通もの手紙を、誰にも気づかれずにまゆの部屋の前に置くのは…?」
志希「同じ女子寮のだれか、って考えるのが自然だけど、たぶん違うよねー。」
P「車内に手紙置いておくとか普通に考えてできないもんな。」
まゆの瞳からは光が失せている。
P「…まゆの今日のスケジュール、断っとくよ。」
まゆ「いえ、今日のレッスンは合わせの日なので…まゆのわがままを通すわけには…」
志希「うーん、やめといたほうがいい気がするけどー、行くなら止めないよー?」

レッスンルーム
P「レッスン着、持ってたんだな。」
まゆ「予定は変えられませんから…」
P「さすがにロッカー空けて手紙出てきたら引くな。」
まゆ「…プロデューサーさん?」
P「すまん、ジョークのセンスがなさ過ぎた。」
ロッカーの中からは手紙は出てこなかった。
まゆが着替え終わるまで、プロデューサーは暢気にコーヒーを飲んでいた。

しばらくして、付き添っていたみくが出てきた。
みく「Pチャン、やっぱりまゆチャン帰ったほうがいいにゃ…」
P「…まさか」
みく「着替え入れた袋から出てきた…」
P「…トレーナーさんに入っておく。今日はまゆと一緒にいてやってくれ。」

顔面蒼白になったまゆを支えてみくが出てきた。
プロデューサーの運転する車で寮まで戻った。
車の中で、小刻みに震える彼女は、さながら狼に怯えるウサギのようでもあった。

寮に着き、まゆが落ち着くまで3人はまゆの部屋にいた。
昼前にプロデューサーは打ち合わせのために事務所に戻り、昼過ぎにはみくもレッスンのため事務所に行った。

再びまゆは一人になった。
先ほどの手紙は開封するのが怖くなり、そのままごみ箱へ捨ててしまった。
まゆ(こんなのが毎日続いたら、気がおかしくなっちゃう…)
現時点でも十分に神経は衰弱していた。
食事をとる気にもなれず、自室のベッドの上で数時間座りっぱなしだ。
このままでは、プロデューサーに心配をかけてしまう。明日からは普通にふるまおう。
顔を洗って気分を変えようと立ち上がった時だった。

カサッ


机のほうから、紙の擦れる音がした。
先ほど捨てた手紙がごみ箱から出ている。
できればもう触れたくはないが、中身を確認しないとまたごみ箱から出てくるような気がしてならなかった。
恐る恐る手を伸ばし、糊付けされた封を丁寧にはがし、震える手で便箋に書かれた文字を確認する。

『まゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきまゆすきま文字数』

まゆ(!!!!!!!!!)

恐怖のあまり手紙を落とす。
それと同時にごみ箱の中から大量の封筒があふれ出してくる。
さながら、大雨の際に行き場をなくし、マンホールから噴き出す雨水のようであった。
まゆ(なに!?なんなのこれ!?)
何が起きているのかわからない。ただ、目の前のごみ箱から出てくる封筒は止まる気配がない。
まゆ(逃げなきゃ!このままじゃ埋もれちゃう!)
慌ててドアを開けようとする。
ドアノブに手をかけると、郵便受けからあふれんばかりの封筒が部屋に投げ込まれてくる。
あっという間に入り口がふさがれてしまった。
まゆ(そんな…ベランダからなら!)
既に封筒が山のようになった机の近く、ベランダに通じる窓を開ける。
しかし今日に限って滑りが悪く、少ししか空かない。
隙間から手紙を外に出してやり過ごそうとするが、それもすぐいっぱいになってしまった。
既に部屋の3割程度が手紙で埋め尽くされている。部屋が埋まるのも時間の問題だ。
まゆ(そうだ!クローゼット…!)
クローゼットに身を隠してやり過ごす。我ながら名案が浮かんだ。
急いでクローゼットを開ける。

まゆ「あっ」

……
「次のニュースです。人気アイドルの佐久間まゆさんが、寮の自室で大量の手紙の下敷きになっているのを、同じ寮のアイドルによって発見されました。
佐久間さんは病院に搬送されましたが、死亡が確認されました。
封筒に差出人は書かれておりませんでしたが、手紙の内容からストーカー殺人の可能性もあるとみて、警察では犯人の特定を急いでいます。 次のニュースです…」

後日
つかさ「なあ、ちょっといいか」
P「なんだ…」
つかさ「あの一件の後、アタシなりに調べてみた。」
P「何をだ…」
つかさ「まゆの部屋の前に111通の手紙が置いてあった日、あったろ?」
P「……あったな。」
つかさ「それと、まゆの部屋にあった手紙の中に一枚変なのがあって、もしかしてと思ってマキノに調べてもらった。」
P「…ほう。」

P「あの日、Twitterに投稿された『まゆすき』に関するツイート数が111件だった。」

おわりです。
長くなっちゃいました。
あと、まゆP、ごめんね。

小梅「自分に似た人は世界に3人いる……なんて話があるよね」

小梅「この広い世界で3人だから、会う確率なんてすっごい低いんだろうけど……それでいいと、思う」

小梅「ただの似てる人なら大丈夫だけど……そうじゃなくて、本当にもう一人の自分だったら、死期が近いってことになるから……」

小梅「私? 私は、本物の白坂小梅だよ……えへへ……」


「ドッペルゲンガー」

「そういえば小梅さん、昨日はショッピングでもしてたんですか?」

「えと……昨日は溜まってたDVDを観てたから、ずっと寮にいたよ……?」

「あれ、そうなんですか。むむむ……」


レッスン後のロッカールーム。
私の返事を聞いた幸子ちゃんは、着替えの途中で動きを止めて首をかしげた。
どうしたんだろう?


「昨日、駅前で小梅さんらしき人を見たんです。でも人違いだったみたいですね」

「小梅ちゃんのそっくりさんって、なんか珍しいね……」

「輝子さんが言いますか……でも、そうなんですよねぇ。遠目とはいえ見間違えるわけないと思ったんですが」

「ファンの子が、服装も真似してるとか……? このあいだの雑誌で私服公開とか、好きなブランドの話題とかも載せたし」

「ありましたね。そういうことなんでしょうか?」

「それより、DVDはなにを観たんだ……? キノコが出てくるものもあった?」

「えっと、キノコは出てきたかな……あれ、よく覚えてないや……」


こんな風にそれきりお終いになって、別の話を始めたんだけど。
この話はここで終わらなかった。

「おい小梅、お前夜中にコンビニにいたろ。あんな遅くまで出歩くと危ねェから気ィつけろよ?」

「先週のあの映画、小梅も観に行ってたのね。席も離れてたし、観終わったあとはいないんだもの。目が合ったけど私と気付かなかった?」

「喫茶店の奥の席でパフェ食べてるところ、お店の外から見つけたんだけど……小梅ちゃん、ひとりであんなにおっきいパフェ頼むんだってびっくりしちゃった。今度一緒に食べようね♪」


最近、こんな風に私を見たと声をかけられる機会が増えた。
その全てが記憶にないものだった。

自分で言うのもおかしいかもしれないけど、
私くらいの身長で、片側目隠れの金髪なんて、あんまりいないと思う。
それに、みんな『私そっくりな人』じゃなく『私』を見たと言ってる。
いくら似てても、そんなことって……あるのかな?

そうやって、覚えのない目撃談が日に日に増えている。

1度なら、珍しいなって。
2度なら、こんな偶然もあるんだって。
でも、それが何度も起こると、もうこれは単なる見間違いでも偶然でもない。

「この街に……私のドッペルゲンガーがいる……?」

……


「――それで、ドッペルゲンガーがいるとして……小梅ちゃんはどうしたいんだ?」


休日。私の部屋に遊びに来ていた幸子ちゃんと輝子ちゃんに、いままでのことを話してみた。
私の話を一通り聞いたあと、輝子ちゃんがメロンソーダを飲みながら訊ねてくる。


「うーん……会って話してみたい、かな……」

「駄目ですよ! 本人がドッペルゲンガーに会ったら死んじゃんですよ!」

「幸子ちゃん、よく知ってるね……」

「小梅さんのおかげで幽霊とかゾンビに詳しくなりましたよ……ボクの瞳の黒いうちは会わせませんからね!」

「でも、せっかくならお話ししてみたい……」

「駄目ったら駄目です!」


こうなった幸子ちゃんは中々折れない。
私のことを心配してこんなに止めてくれるってことが嬉しくもあって、でも、会って話してみたい気持ちも確かにあって。


「ぐ、偶然出会ってもマズイし……まずは、どこで見かけたかを詳しく知っておくのがいいんじゃないかな?」


間に入った輝子ちゃんの提案に幸子ちゃんは「居場所がわかっても会わせませんからね」と、念を押しながらしぶしぶ頷いた。

それから3人で事務所に行って、みんなに話を訊いて回った。
私を見かけた日、場所、時間、何をしていたか。
傍から見たら自分のことを訊いていることになるので、みんな不思議そうな顔をしてた。

街の雑踏、駅のホーム、ゲームセンター、図書館。
時間や場所もバラバラに、私が目撃されている。


「妙なことを訊くなぁ……そうだ、先週の小梅のオフの日、街で服屋に入っていくところを見たぞ。いつもとジャンルの違うブランド店だったから印象に残ってるよ」


プロデューサーさんですら、私だったと信じて疑っていない。

決定的だったのは、藍子ちゃん。
散歩中に公園へ立ち寄ったとき、花壇のお花を見つめる『私』を見つけたみたい。
もちろん、私は公園に行ってもいない日のこと。


「小梅ちゃんを見つけて、思わず写真撮っちゃいました。そのあとすぐ奥へ行ってしまったから、声をかけることもできなくて……勝手に撮ってごめんね」

「あ、ううん、いいよ……そのときの、写真……見たいな……」

「データはまだカメラにあるはずだから……あ、これです」


カメラの液晶画面に表示された一枚の画像。
真横から少し遠めに撮られた構図で、花壇を見つめる人がぽつりと立っている。

重ねてになるけど、断言する。その日、私は公園に行っていない。
この日は新曲のレコーディングに備えて、自室でデモテープを聴き込んでいた。

だから……本当にびっくりした。
みんなが『私そっくりな人』と言わないのも無理ないと思う。

自分で見ても写真の横顔は……間違いなく、白坂小梅だったから。

事務所にいたみんなから一通り話を聞けたから、情報をまとめてみることにした。
地図アプリで目撃された場所にピンをさしていくと、普段私がお出かけする範囲とほとんど同じだった。
時間は朝から深夜までと、かなり幅広い。
ただ、平日の昼だけはほとんど目撃証言がなかった。
昼に現れるのは基本的に土日だけど、全く姿を見せない日も多い。


「現れる条件や順番、何でもいいので気付いたことはありますか?」

「同時に別の場所で現れたことはないみたい、だね」

「確かにそうみたいですね。つまり小梅さんのドッペルゲンガーはひとりだけ?」

「いや、単に見つかってないだけかもしれない……小梅ちゃんは、なにか気付いたこと、ある?」


会議室のホワイトボードに箇条書きされた目撃情報に視線を移す。
曜日や時間に偏りがあるけれど、その偏りがどんな法則なのかまではわからない。
でも、何かが引っかかってる感じがする。
目の前に書かれた偏り方に、何だか覚えがあるような……。

「あれ……これって、もしかして……」


バッグからスケジュール帳を取り出したら、ホワイトボードと交互に眺めて照らし合わせてみる。

やっぱり。引っかかっていた違和感の正体が、見えた。
土日で現れなかった日は、私が終日お仕事の日だった。

手帳とホワイトボードを照らし合わせるとよくわかる。
もうひとりの私は、私がお仕事をしている時間には現れない。

さらにわかったのは、オフの日でも誰かと一緒にいた日も現れてない。
平日の昼は学校だから?

「小梅さん? なにかわかったんですか?」


でも、これってつまり。


「……小梅ちゃん、大丈夫?」


私がひとりの時にだけ現れるってことは。
ドッペルゲンガーは。
もうひとりの私は。


「……ううん、なんでもない、よ……今日はもう終わろっか……」


覚えてないだけで、自分なのかもしれない。

幸子ちゃんと輝子ちゃんにこれ以上心配されないように普段通りのふりをしながら、寮まで帰ってきた。
こんなときに演技のレッスンが役に立つなんて思わなかったなぁ。

部屋に戻ったら、必要なものを準備するために棚を漁る。
たしかここに仕舞ってる筈なんだけど。


私は、ホラースポット巡りをするときに記録は特にとらない。
自分の眼で見て、肌で感じて、そうして出会えたのが良い子だったらお話しできればいいと思ってる。
それに、カメラを構えると寄ってきて写りこもうとするのは、生きてる人を羨んでたり、何か強い思いを持ってたり……そんな、ちょっとよくない子が多い。
だから、一応持ってはいてもほとんど使っていなかったもの。

「あった……」


専用の真っ黒なバッグは、棚の奥の暗闇に融け込んでいた。
薄らかかった埃をはたいて開けてみると、中身はほぼ未使用のビデオカメラ。
取り出してかちゃかちゃとボタンを押したり開いてみても、電源はつかなかった。
ずっと放置してたから、バッテリーが自然に放電して無いのかもしれない。
バッテリーパックを取り外して、充電器に差し込んでみると、充電中のランプが点滅し始める。

途中、食堂で晩ごはんを食べようと輝子ちゃんが部屋のドアをノックしたけど、食欲がないと断った。
明日の朝ごはんは一緒に食べると約束すると、わかった約束だよと言い残して、輝子ちゃんがドアから離れていく気配がする。
次第に小さくなる足音を聞きながら、私は規則的に瞬く充電器のランプをぼうっと眺めていた。

充電を終えたバッテリーをビデオカメラに入れ直して動作確認をする。
うん、壊れたりはしてないみたい。
机の上に本を何冊か置いて高さや角度を調節したら、ビデオカメラをセットする。
画面を覗きながら、ベッドが映るように微調整。撮影モードをナイトモードに設定すれば、準備完了。
寝る直前に録画をすれば、夜明け前くらいまではバッテリーも持つ……と思う。


その日の夜、無機質な視線と緊張が交じり合って中々寝付けなかったけれど、そのうち規則的な秒針の音に意識が吸い込まれて、眠りについた。

………
……


アラームの音が私の意識を無理やりに覚醒させる。
目を覚ましてからしばらくは、ぼんやりとした頭でまどろんでいたけれど、カメラのことを思い出して飛び起きた。
確認してみるとビデオカメラはまだ録画を続けてたけど、バッテリー残量が残り少ないことを警告するマークが点滅している。
録画を止めてそのまま再生。途中で切れちゃうかもしれないけど、バッテリーが持つ分だけでもすぐに確認したかったから。


映ったのはベッドで横になる自分。
早送りで流し続けても、時々寝返りをうつ以外に画面に動きはない。
考えすぎだったかな……なんて、少し安心しながら画面を見つめてたら。


いつの間にか、白いモヤのような何かが枕元に集まって、ゆらめいていた。

ハッとして早送りを通常再生に戻す。
煙のような、霧のような、輪郭なんてまるでない白いカタマリ。
まるで、私を見下ろしているかのように。

そうして、しばらく漂っていたモヤが拡がったかと思うと……私の体に、纏わりつく。
そのままモヤは私に重なって……内側に吸い込まれるように消えていく。

モヤが完全に消えたら、画面は前と同じ風景に戻った。
まるでそんなものなかったみたいに。
だけど。次の瞬間。
無表情のままゆっくりと体を起こす、私の姿。


でも違う、違う!
いま写っているのは、私じゃない。
私だけど、私じゃないもの。

そんな『私』は、ベッドから起き上がると歩き出して、画面から見えなくなった。
空のベッドを映し続ける動画から聞こえるのは、布の擦れる音。多分、パジャマから着替えてる音。
やがて、ドアの開く音が小さく聞こえたかと思うと、画面が暗転する。操作してみても全く動かない。
バッテリーが切れたんだ。

私も電池が切れたみたいに体が動かなくて、立ち尽くす。
ドッペルゲンガーはやっぱり私だった。体は私だけど、意志は私じゃないもの。

そして、私に憑りついたあの白く写ったモヤのようなものの正体。
普段は写らないよう気を付けてくれているのに、憑りつこうとした為に写ってしまっていたのは――


『そっか、気付いちゃったんだね』

声が聞こえる。頭の中に直接語り掛けられたような、内側から響く声。聞き覚えのある声。
聞き間違えるわけない。いつも一緒にいて、お話ししてる……あの子の声。
でも、どうして……。


『羨ましくなっちゃったから、かな?』

口に出していないのに、まるで質問に答えるようにその声がまた聞こえる。
もしかして……思ってることも、全部伝わってる?

『うん、そうだよ。まだ小梅ちゃんの中にいるから。最初はね、寝てる間にちょっと体を借りてお散歩したり、それだけで良かったんだけど……何回かしたらコツも掴んで、それで欲が出ちゃった』

コツ……ってなに? それに欲って?

『小梅ちゃんが体を動かさないで何かに集中してるときは、気付かれないで入れるようにもなったんだ。だから、お日様の光を生身で感じたり、美味しい物を食べたりしたくなって』

最近DVDを観てたのに内容を思い出せなかったり、歌詞や台本が中々覚えられないのは、こういうことだったんだ。
時間を忘れるほど観たり読み込んだ気がしていただけで、実際は観ても読み込んでもいなかった。
その間、私の体はあの子が使っていたんだ。

『……怒らないの?』

知らない間に体を使われてるのはびっくりしたけど……。
でも、いつも近くにいて私のこと見てたから、羨ましくなっちゃったのかなって……多分、逆だったら私もそう思うかもしれないし。

『小梅ちゃんは優しいね……実は、もっとしたいことがあるんだ。これで最後にするから、聞いてくれる?』

うん、いいよ。

『私ね、小梅ちゃんになりたい』

え……私にって、どういうこと……?

『そのままの意味だよ。私もアイドルになって歌ったり踊ったりみんなとお話ししたり、小梅ちゃんとしてもう一回生きたくなっちゃった』

私として生きたいって、それじゃあ私はどうなるの?
さすがにそれはダメだよ。落ち着いて。

『大丈夫だよ。いつも見てたから上手くやれると思う、安心して』

待って、私はまだ

「いただきます……ん、美味しい……」

「小梅さん、今朝はちゃんと食べてますね。昨晩から様子がおかしかったんで心配しましたよ!」

「なぁ小梅ちゃん、今日もドッペルゲンガー探しする?」

「するならボクたちもお付き合いします」

「それなんだけど……もういいんだ、解決したから」

「解決って、どうやったんだ?」

「うん……あの子がちょっと、ね……」

「こ、これ以上は聞かないほうがいい気がするのでいいです!」

「そっか……何はともあれ解決してよかったね、小梅ちゃん」

「うん……」

「そういえば小梅さん、右手でもお箸使えたんですね」

「あ、そっか……今日から右利き、なんだよ……えへへ……」

終わりです。
おつかれ様でした。

お借りします。



由愛「食欲の秋、行楽の秋、スポーツの秋……いろんなことが楽しくできる季節になりました」

由愛「でも……私にとってはやっぱり芸術の秋です」

由愛「昔から……絵が好きで、私にとって大切なものです……」

由愛「絵を描いてるときは楽しくて……夢中で……」

由愛「まるで、魔法でもかけられたみたいに……」

由愛「絵の世界に、入り込んでしまうんです……」


「ゆめを広げて」


ある日、閑散とした事務所のテーブルにスケッチブックと絵の具のセットが置いてありました。
新品のスケッチブックは、私が持っているものより、ずっと大きい紙が重なった分厚いものでした。
これなら、どんな絵を描いてもすっぽりと収まるような気がしました。

隣に置いてある絵の具のセットは、私の鞄に入っているものより、たくさんの色が詰まったものでした。
これを使えば、どんな絵も描けるような気がしました。

ですが、この絵の具とスケッチブックの持ち主は誰なのでしょう。
ちひろさんもプロデューサーさんも、絵を描いているところは見たことがありません。そもそも、私がいる事務所で絵を描く人は、私だけです。

きょろきょろと周りを見渡しても、誰のものなのかヒントになるようなものはありませんでした。書類が山積みになっている二つの事務机の前にはからっぽの椅子が寂しそうに置いてあります。
お客さんが来たとき用の皮張りのソファーは、蛍光灯の青白い光を跳ね返すばかりで、皴一つありません。
 
あるのは、私が使っている小さな椅子と、綺麗に整えられて置かれた分厚く大きなスケッチブックと、新品の絵の具だけ。


……少しくらいなら、使ってもいいよね?

私の中から、ちくりと悪い声が聞こえてきました。

事務所には私だけ。
絵を描くのは私だけ。
なら、あの絵の具とスケッチブックは――

気が付けば、私はテーブルの前に腰かけていました。スケッチブックは目の前です。

私は、鞄の中からパレットと筆を取り出しました。

そしてスケッチブックに手を伸ばしました。
そのまま――ちょっといけないことをしてる気がしたけど――表紙を一枚だけ、めくってしまいました。

スケッチブックを開くと、誰もいないスキー場みたいに真っ白な画用紙が目の前に広がりました。
どこまでも広くて、ずっとずっと奥までどこまでも広がっているように思えました。

いてもたってもいられなくなって、大急ぎで筆洗を取り出し給湯室に飛び込んでいきました。
袖口が濡れることも気にしないで蛇口を思いっきり捻って水を溜めます。勢いよく跳ね返る水飛沫がシンクのあちこちに飛び散りました。
びしゃびしゃになったシンクをほったらかしにして私はすぐにスケッチブックの前へ戻りました。


私が知っている色、いいえそれ以上に、まるで世界中のなにもかもが描けるくらいの種類が詰まった絵の具のセットを前にしてわくわくしないわけがありませんでした。

何を描こうかな……私はまたきょろきょろとあたりを見わたします。
事務所の壁は真っ白で、たまに白黒のプリントやカレンダーがあるだけ。
絨毯も天井も、真っ白。蛍光灯の青白い光は元気ですが、今の私にはずいぶんとつまらなく感じました。


どうしようかな、と迷っていると窓のすぐそばにある緑色が目に入ってきました。
白い壁を背に、おひさまの暖かい光りを精一杯浴びようと葉っぱを一生懸命伸ばした名前の知らない観葉植物です。
細長くて、ひらべったい葉っぱは生き生きと緑色を放っています。
葉っぱを支える茎や幹は、大きい葉っぱの影に隠れながらも、弱弱しさや寂しさを感じない力強さを感じます。
影の薄い青と、茎の薄い緑が混ざったような、不思議な色です。
根を張っているであろう、丸く太った、大きなくまさんみたいに可愛い植木鉢は、根っこと茎と葉っぱを支えてくれる、優しい土の色をしています。
そして、葉っぱの先にある窓の外は、透き通るような青空が広がっていました。


私は絵の具が詰まった箱から、緑と茶と青を持てるだけ引っ張り出して、パレットに乗せていきます。

絵を描き始めてからは一瞬でした。何も無かった真っ白のスケッチブックに瑞々しくて力強い、生きている一本の木が生まれました。
葉っぱが伸びた先にある窓の外は、まるで自分で描いたとは思えないほど、透き通る青色で、本当におひさまの暖かさを感じるような気がしてくるくらいでした。
私は完成した絵を眺めながら目の前にある絵の具の素晴らしさに心を奪われていました。
もっと描きたい。何か描きたい。この絵の世界に入り込めるほど……


吸い込まれるほどに絵を眺めていると、なんだか変な感覚になりました。
植木鉢はやさしさに溢れた色をしています、茎も葉っぱも生きていることを力強く感じます。
絵の中の窓の外は突き抜けていくような青空です。

少し考えて、違和感の正体に気付きました。
本物の空にしてはあまりにも小さすぎるのです。当たり前のことでした、せっかく素晴らしい絵の具があるのに自分で窓枠を決めて広がっていくはずの青空を閉じ込めているからでした。
私はスケッチブックから画用紙をちぎり、テーブルの隙間から余計な色が見えないくらいに広げました。

私は絵の具をありったけ絞り出し、思うがままに絵を描いていきます。

窓枠を塗りつぶし、私が思う青空を描いていきました。
青空を閉じ込めた窓枠がおかしいなら、根っこを閉じ込めている植木鉢だって変です。
植木鉢をそのまま塗りつぶして、私が思う地面を描いていきます。


地面があったらもっといっぱい草やお花が生えているに違いありません。広げた画用紙に何本も何本も、たくさんのお花を描きました。
私が描いたお花は本物顔負けの、いいえ、絵の具の素晴らしさも手伝って本物以上に生き生きとして鮮やかなものでした。

私は次々に色んなものを描いていきました。
花があれば虫もいるはず。
虫がいればそれを食べる動物がいるはず。
動物がいれば、住処になる森があるはず。

私が描いたものは今にも動き出しそうなくらいです。じっくり見たことも描いたこともない動物や植物も、今ならなんでも描けるに違いありません。

ずっと絵を描き続けていましたが、あっという間に画用紙は白い部分が無くなってしまいました。思うがままに描いた私の世界はテーブルいっぱいに広がった、色に溢れた素敵な世界でした。

ですが、私が思う世界はこんなに狭いはずがありません。窓枠の外の青空みたいに、勝手に閉じ込めているはずです。


テーブルいっぱいの画用紙を見つめて、また周りを見渡して、繰り返しながら考えました。
散々見わたした事務所の風景は、私が描いた世界と違ってずっと変わらない退屈な真っ白のままでした。

真っ白い壁を見て、絵の世界の窓枠に気が付きました。

私は、茶色の絵の具を持って部屋の隅っこの植木鉢に近づいて、近くの壁と床ごと地面の色に塗り替えました。

私が描いた世界のほうが、この真っ白で何もない事務所より正しいはずです。

絵の具を筆に付け、壁と床を地面に描き変えていきます。真っ白でつまらない壁と床は、
草花が生える豊かな土に変わりました。
そして、テーブルの絵を私の世界の設計図にして私の世界へと描き変えていきます。
真っ白な空間は次々と溶けていき、絨毯は地面となって、観葉植物は根を伸ばします。
絨毯に筆を入れるたびに、草と花が育っていきます。


生い茂る草原をさらさらと歩いていき、壁だった場所を森に描き変えていきます。
いつしか、蛍光灯の青白い光はおひさまの暖かな光に変わって、描いた森の奥からふんわりと心地よい風が吹いて来ました。

もう真っ白で何も無い壁はどこにもありません。書類が積まれてたデスクは塗りつぶして苔の生えたごつごつした岩に描き変えました。
お客さん用の革張りのソファーは森の中でどこにあるかわかりません。
最初に窓があったところは、カーテンの上からもっと広い青空に描き変えました。

見わたしてみると、私は私の描いた……私の生み出した木々に囲まれていました。
全てが本物以上に本物の、絵の世界へと変わっていました。

どこまでも続く青空と、どこまでも続く草原、森。
少し歩いてみると、描いた覚えのない動物や、鳥の鳴き声が聞こえてきました。
私は走り出したくなりましたが、まだ一か所描き変えていない場所があります。


冷たくてこの世界で一番変な、事務所のドアです。
少し迷いましたが、残り少ない絵の具を全部パレットに絞り出しました。

そして、事務所のドアを絵の具で青空に溶かしてしまいました。

これで、全部私の世界に描き変えました。
私は筆とパレットを放り投げて、どこまでもつづく草原へ駆け出していきました。



どこまでも、どこまでも――



以上です。
ありがとうございました。

ほたる「なぜトップアイドルを目指しているのか、ですか?」

ほたる「私は不幸体質でまわりに迷惑ばかりかけて……」

ほたる「だからこそ、こんな私でもファンの人を幸せにできたらって思うんです……!」

ほたる「それが叶えば……いえ、叶えるまで、絶対にあきらめません!」


「目的」

広いライブ会場は開演を待ち望むファンの期待感に満たされていた。
袖から顔を出すことはできないが、その熱気は十分に伝わってくる。
舞台袖から回れ右をして廊下へ進むと、揃いのTシャツを着たスタッフが慌ただしい様子ですれ違う。

開演前のこの空気が何とも言えず好きだ。薄暗くスポットライトの当たらない舞台の裏側は、客席とはまた違う熱気を帯びている。
観客もスタッフも、ただ一人の女の子のためにここにいる。それがまたいい。
そしてそれは、プロデューサーの俺も変わらない。

廊下の角を曲がり、進んではまた曲がる。
「私の不幸をステージに持ち込まないようにしたいんです」と、彼女の強い希望で一番遠い部屋を楽屋にしているので、入り組んだバックヤードをちょこまかと進み続けなければならない。
ようやく『控室』のプレートが挟まれたドアの前までたどり着くと、一呼吸おいてから扉を開ける。

部屋の主、つまり今夜の主役は一人部屋にも関わらず一番隅の席に座っていた。
そんな担当アイドルが部屋に入った俺に顔を向ける。


「あ、プロデューサーさん……」


白菊ほたるが、微笑んだ。

扉を閉めると客席の喧噪はここまで届かないようで、部屋はシンと静まり返る。
それでも、備え付けのモニターテレビにはステージを俯瞰する角度で映しているので、最前列付近の様子は確認できた。


「いよいよだな。緊張してないか?」

「私……ワクワクしてます。早くステージに立ちたいです……どうかしましたか?」

「いや、ほたるの口からそんな台詞が聞けるとは。今回のライブ、かなり気合入ってるみたいだな」

「はい、今日の日のために頑張ってきましたから」


そう言っても過言ではない。ほたるのこのライブにかけるストイックさは目を見張るものがあった。
彼女のなかで、今回のライブの成功が大きな転機と考えているのだろう。
いまも伏し目がちな瞳に、確かに熱を秘めているのが見てとれる。


「白菊さん、そろそろスタンバイお願いします!」


ノックのあと、ドア越しにスタッフが声をかけてくる。
ほたるが「わかりました」と投げかけると、また慌ただしく足音だけが去って行った。

「よし、行くか。今までの頑張りを見せて、ファンの度肝を抜いてやれ」

「はい! あの、プロデューサーさんにお願いがあるんですけど……聞いてくれますか?」

「俺に? そりゃ構わないが」

「さっき私が座ってた場所に、手紙を置いておいたので……プロデューサーさんに、このライブが一番盛り上がってるときに、読んでほしいんです……ダメですか?」

「つまり一番の盛り上がりは楽屋にいなきゃならんわけか……それはちょっと惜しいが、ここまで頑張ってきたほたるのお願いだしな。約束するよ」


そう答えるとほたるは心底嬉しそうに笑って、


「ありがとうございます。約束ですよ……いってきます」


上機嫌で楽屋を出て行った。

こんなに喜んでくれるなら、この約束は破るわけにいくまい。
ちらりと部屋の隅に視線を泳がせる。なるほど、先程までほたるの座っていた椅子にちょこんと封筒が乗っている。
今すぐ読みたい気持ちを抑えつつ、俺も舞台袖に向かうため部屋を後にした。

………
……


彼女をスカウトしたのは半ば勢いだった。

遠征先の慣れない土地で道に迷い、携帯の充電も切れあてもなく彷徨い行き着いた、人気のない廃ビルの立ち並ぶ一角。
あとで調べてわかったことだが、その辺は一昔前、所謂バブル経済の頃に建設されたまま放置されている商業区域らしかった。
行けども行けども打ちっぱなしのコンクリや剥き出しの鉄骨、投げ出された建設資材しかなく途方に暮れていたとき、かすかな足音が風に交ざって確かに聞こえたのだ。

人に会えたら道を尋ねることができる。最寄駅までの距離があるようなら、携帯を拝借してタクシーを呼ばせてもらおう……そんなことを思っていたが、足音の聞こえた方を向いたときそんな考えもすぐに吹っ飛んだ。

向いた目の前には4階建ての雑居ビルの影が伸びている。正確には、文字通りひとりの人影がくっ付いて。
影の元のビルを見上げると、金網もない屋上の縁に少女が立っていた。
つま先の裏がかろうじて見える。つまり、靴を履いていない。

「待てッ!」


反射的に叫んだ。
屋上の少女はびくりと体を引いて、下からは見えなくなる。
と、恐る恐るといった風に小さな頭が伸びてきて覗き込んできた。
思った通り、まだ子供じゃないか。


「そのままそこにいろ! いまそっちに行くから、話をしよう!」

「話すことなんて……ないですよ……」


少女の返事。か細く、それでいてよく通る声だ。


「君になくても俺にはある! いいから待ってろ!」


わざわざ此方を伺いに顔まで出してくるのだから対話はできると踏んで、俺は少女の待つ廃ビルに駆け足で侵入する。
階段を一段とばしで駆け上がる。息が上がるのも構わず。
急げ。もっと急げ!

屋上の扉を勢いよく開け放つと、日暮前の低くなった夕日に視界を奪われた。
目を細めた先、逆光の中立ち尽くす少女に訊く。


「まずは自己紹介。俺はアイドルのプロデューサーをやってる者だ……君の名前は?」

「私は……白菊ほたる、です……」


こうして、俺はほたると出逢ったのだ。

何が幸せで不幸せかなんてものは一概には言えないのだろうが、それでも、白菊ほたるは不幸体質といっても差支えなかった。
幼いころから身の回りでは良くないことが頻発して、周りからも疎ましがられているようだった。それは両親にアイドル活動をする許可をもらいに実家へ訪問したときにも感じた。
実の家族からもまるで腫物を触るかのような扱いで、逆にプロダクションに迷惑がかかりますがそれでもよろしいんですか、と念を押されたときは怒鳴り散らしてやろうかと一瞬頭をよぎった。

誰からも愛されず、そして誰よりも優しい彼女は、思いつめた結果廃ビルへ足を運んだのだろう。
もう迷惑がかからぬよう自らの命を絶つために。
そんな結末はあんまりだ。


「こんな私でも……みんなを笑顔にさせることができますか?」


スカウトをしたとき、そう訊いてきた彼女のいじらしさにこちらが泣きそうになった。
こうして、白菊ほたるは俺のプロデュースの元、薄幸の美少女アイドルとしてデビューする。

守ってあげたくなるような少女に、男は弱い。
その儚げな中に時折垣間見える芯の強さも、彼女の魅力だ。

もちろん、すぐに上手くいったわけではない。
現場に向かえば渋滞やダイヤが乱れ、やっと到着したかと思えば機材が故障して撮影が中断したことも、1度や2度ではない。
低俗な週刊誌に『不幸を呼ぶアイドル』と評されたこともあった。

それでも。
それでも、ほたるはくじけなかった。
不幸をはねのけ、懸命に仕事に取り組んだ。
そのひたむきさが次第に評価され、人気も徐々に上がっていった。
そして今日、初のソロライブを満員御礼で迎えたのだ。

………
……


ライブも終盤に差し掛かり、熱狂が渦となって会場を包む。
ここまで舞台袖で見守っていても、心配することがないくらいに完璧なパフォーマンスを魅せている。
次の曲が盛り上がりのピークかなと感じ楽屋に向かった。

楽屋に到着したタイミングで、歓声が背後から廊下に響く。
一番奥の部屋まで聞こえてくるのなら、ステージに立つほたるは割れんばかりの歓声をその身に浴びているだろう。
部屋のモニターには歌い、踊るほたるがライトに照らせれ輝いているのが映る。

置かれた封筒を拾い上げると、彼女らしい遠慮がちな小さな文字で『プロデューサーさんへ』と書かれていた。
中にはスズランのイラストが施された可愛らしい便箋が綺麗に折りたたまれている。

会場のボルテージが最高潮なこの瞬間に読ませたかった、その内容とは何なのだろうか。
はやる気持ちを抑え、丁寧に便箋を広げる。

『プロデューサーさんへ

こんな形でしか伝えられなくてごめんなさい。
私をここまで連れてきてくれて、本当にありがとうございます。
お願い通り、一番盛り上がっているときに楽屋で読んでますか?
もし我慢できなくて早めに読んでたり、舞台袖で読んでいたら、続きはちゃんとその時その場所で読んでほしいです。
……なんて、信じてますので心配してないですけど。

プロデューサーさんは、私と最初に会った日のことを覚えてますか?
私はよく覚えてます。もしプロデューサーさんが私を見つけなかったら、声を掛けなかったら、私はあのまま飛び降りていました。そのつもりでした。
それでも多分、私は死ねなかったと思います。

私はいるだけで、まわりの人を不幸にします。そばにいる人ほど、深く傷つけてしまいます。
だから周りから疎まれて、消えてくれと思われていて……そんなある日、自分が死ねばいいんだと思いつきました。
そうすれば、みんなを傷つけずにすむし、周りのみんなも私がいなくなって幸せになれるから。
溺れた人がパニックになって助けようとした人を巻き込んで2人とも溺れるくらいなら、私はひとりで底に沈みたかったんです。

でも、駄目でした。
首を吊っても、縄が切れました。
手首を切ろうとしても、刃がなまくらみたいに切れなくなりました。
薬をたくさん飲んでも、意志とは無関係に吐きました。
飛び降りも、入水も、感電も、練炭も、全部駄目でした。
怪我をして苦しくて痛くて、それでも不思議と死ねなかったんです。

何度試しても駄目で、それでも早く死にたくてまた試して。そうして、プロデューサーさんが現れて。
本当はアイドルに興味なんてこれっぽっちもなかったですけど、話を聞いてる内に気付いたんです。

私がみんなに消えて欲しいと思われてるのに、死ねないことが不幸なんだと。
疎まれて、私自身も死にたいのに、死ねないことそのものが不幸なんだと。

だから、変えればいいんです。
いなくならないで欲しいと、みんなから愛される存在になれば、私はようやく天国へ旅立てるはずだって。


ここまで読んでくれたプロデューサーさん、ライブは盛り上がってますか?
プロデューサーさんは、私に死んでほしくないと思いますか?
そう思ってもらえたら嬉しいです。

だって、それで私は死ぬことができるんですから』

気付くと俺は走り出していた。
廊下を、長いバックヤードをがむしゃらに駆け抜ける。
舞台袖までが馬鹿に遠い。当然だ。楽屋は一番遠い部屋なのだから。

それでも走る。廊下に置かれた物を蹴飛ばしひっくり返しながら。
曲がり角でも減速せずに壁にぶち当たりながら。息が上がるのも構わず。
急げ。もっと急げ!


『みなさん!もっと私と一緒にいたいですか!? なら、私の名前をもっと叫んでください!』


ほたるの声が聞こえる。
普段の彼女があまりしない、観客を煽るようなマイクパフォーマンスに、ファンの歓声は一層爆発する。
ほたる、ほたると彼女の名前が繰り返し響き渡る。
やめろ、やめてくれ!

舞台袖に到着し、そのままステージまで飛び込もうとする。
が、地を這う配線に足を引っ掛け倒れ込んだ。痛みと衝撃で、体を起こすこともできない。


「待てッ! ほたるッ!!」


反射的に叫んだ彼女の名前は、観客の発するそれと寸分違わぬタイミングで重なり、ひとつとなって聞こえた。
同時に、頭上から鉄のひしゃげる金属質の悲鳴が轟いて、ほたるの真上の照明が大きく傾いていく。
鉄とガラスの塊が落ちゆくステージに立つアイドルは、舞台袖の俺に顔を向ける。


「あ、プロデューサーさ


白菊ほたるが、微笑んだ。

以上です。
ありがとうございました。

投稿いたします。30レス程です。


本田未央「あ~面白かった!」

未央「まさか最後にあんなどんでん返しが待っているなんてねぇ」

未央「あっ! こんなトコで会うなんて奇遇だねっ!」

未央「え? 私? そうそう、みんなで映画見てたの!」

未央「最後までハラハラドキドキしちゃった! ……詳しくは言えないけどさ?」

未央「えー? そりゃ、現実じゃ起こりえないから面白いんだけど、そーゆーのって『ブスイ』って言うんじゃないの?」

未央「わかるけどさ、起こらないって思ってるから、起こったときに驚けるんでしょ?」

未央「うんうん、わかればよろしい! じゃ、未央ちゃんはレッスンにでも……え? 中止? そんなぁ……」


『どんでん返し症候群』


「うーん、いい天気!」

窓から差し込む光で目が覚めた私は、体を起こし、腕をぐぐぐーって伸ばした。
いつものように顔を洗って、いつものように朝ごはんを食べて、いつものように事務所へ行く支度をして。
ここで、いつもは家を出る時間までゆっくりテレビでも見るんだけど、今日はなんだか歩きたい気分!
ちょっと早く家を出て、ちょっと駅まで遠回りしよっと。
いってきます!


普段は曲がらない道を曲がって、大きめの公園を横切ったんだ。
そしたら、ちっちゃい女の子が、並木道で泣いてたの!
えーん、えーんって。

「ねえ、どうしたの?」

そりゃあ無視はできませんよ! なんてったって未央ちゃんは正義の味方だもんね!
女の子は泣いたまま、真上を指差して。

「?」

よくわかんないけど、とりあえず私も見上げたら。

「あー、なるほどなるほど。風船が木に引っかかっちゃったんだね?」

赤い風船が、木の枝に行く手を遮られながら、ちょっと風で揺れてたんだ。

「もう大丈夫! お姉さんが取ってあげよう!」

声を聞いた女の子が泣き止み、一瞬こっちを見たのを確認してから、私は風船に手を伸ばす。
よかった。女の子には遥か遠い上空だけど、私には背伸びすれば届く場所。
これがもっと高かったら、早苗さんみたいに木登りしなきゃだったね。

「はいっ。もう離すなよ~?」

「うんっ! ありがと!」

うんうん、気持ちのよい返事ではないか!
あ、でも、ちょっと時間を使っちゃった。
女の子に手を振って、カッコよく、駅への道を足早に……

「うわーん!!!」

進もうと思ったところで、後ろからまた女の子の声が。
びっくりして振り向いたら、また泣いてる!
両手で目を覆って……
両手?
えっ、だって風船……
そう思って見上げたら、青い空に赤い丸が。
どんどんちっちゃくなって、見えなくなっちゃった。


「ど、どうしたの?」

もう1回駆け寄って、話を聞くと。

「む、虫が……」

「あー、そっか……」

気がつかなかったけど、さっきの風船に虫がついてたみたい。
それでびっくりして離しちゃったのかな。

「おーよしよし、泣くな~」

頭を撫でながら声をかけるけど、なかなか泣き止んでくれないよ……
そしたら。

「ウチの子に何してるんですか!」

「わっ!?」

お、お母さんでしょうか……?
あ、あのですね、未央ちゃんは決していじめていたとかそういうわけでは

「やめてください!」

そういうと、私から女の子をひったくるように、そしてその場を去って行った。


「んー……」

すっきりしないけど、まあしょうがないかー……
うんうん、こんなこともあるって!
そんなことを考えながら、再び公園を進む。
すると、空き缶が落ちているのを見つけた。
まったく、最近の若いモンは困りますなぁ! 私の若い頃は……あ、まだ若者だっけ?
とかなんとか考えながら、その空き缶を手にする。
大人気の炭酸飲料が入っていたことを示唆する赤いラベルはまだ綺麗で、恐らく買って飲んでからそう時間は経っていないみたい。
ちょっと辺りを見渡したら、自動販売機とゴミ箱が目に入ってきた。

「これでおっけいと」

空き缶をゴミ箱に捨て、今度こそ良いことしたなあとか思いながら歩き始め……

「「「あー!!!」」」

「うおう!?」

いつの間にか、男の子の集団に囲まれてる!?

「み、未央ちゃんのファンなのかな! 悪いんだけどサインは事務所を」

「缶ケリしようと思ってたのにー!!!」

「……へ?」

あちゃー……、そうきたかー……

「ごめん! ごめんって!」

「どうしてくれんだよー!」

「わ、わかった! 買ってあげるから缶ジュース!」

「「「いえーい!!!」」」

「いやいや全員とは言ってないぞ!?」

……はい、結局全員分買ってやりましたよ。もう。


ちょっとモヤモヤもあるけど、電車に乗って事務所の最寄り駅へ。
ま、未央ちゃんはポジティブだからさ? 前を向いて生きていくのさ!
……そ、それはそれとして、時間がけっこうヤバめだ!
とりあえず事務所まで全力でダーッシュ……あ

「うんしょ、うんしょ……」

ううう、おっきな荷物を持ったおばあさんが歩道橋を登ろうとしている……
で、でも、急がないと遅刻……

「……」

なーんてっ。決まってるでしょ?

「おばあちゃん! 手伝いますよ!」

言うや否や、私は重そうな荷物を担ぎ上げた。
あ、案外重いぞ……。数段登ってるだけで敬意を表するよおばあちゃん……

「あとちょっとですよ! 頑張ってください!」

まさかレッスン開始を歩道橋で迎えることになるとはねぇ……
ま、まあ、トレーナーさんも人助けに悪い顔はしないと思うし、もしかしたら褒められちゃうかも?
なんて考えてたら、いつの間にか歩道橋を渡りきっていた。

「はい、荷物どうぞ!」

「ありがとねぇ……」

「いえいえ! それではお気をつけてっ!」

うんうん、やっぱり良いことをしたら気持ちがいい!
今日のレッスン、ノリノリでできるかも!


「……」

「……」

「……」

こんにちは、本田未央です。
私はただいま、固いレッスン場の上で正座をしております。

「あ、あの……、ひ、人助けを……」

「遅刻は遅刻だ」

「ううぅ……」

き、聞く耳を持ってくれない……。なんで……。

「トレーナーさん、なんだか今日は機嫌が悪いみたいなんだよなー、ま、ご愁傷様」

目を盗んでかみやんが囁いてくれたけど、納得いかないー……
た、確かに遅刻したのは私が悪いけど、少しは"じょーじょーしゃくりょー"みたいなのがあっても

「本田、足が崩れてる」

「はい……」

結局マトモにレッスンできなかったよ……


その夜、ベッドの上で、頭の中で、プチ反省会。
とは言っても、今日の未央ちゃんに反省することなんてないと思うんだよね……?
うんうん、明日は明日の風が吹く! おやすみっ!
はい、反省会終わり!
だって考えてもしょうがないもん。明日も正直な私で行こう!


今日はお仕事!
流石にまた遅刻なんてしたら……
せ、背筋が凍るよ……
1回事務所に向かってから移動だから、早めに行こっと。

昨日とは違って、真っ直ぐ駅へ向かって、電車に乗る。
今回は特に何事もなく、事務所の最寄り駅まで着けたね。
しっかし最近なんか暑すぎないかなー?
特に東京はアスファルトの照り返しが酷くて……
ち、ちょっとコンビニに避難しちゃお! 大丈夫、時間はヨユーだし!
飲み物を買ってー、あ、事務所に置いておくお菓子も買っちゃおっと。
それと、みんなのジュース……は重いから、アイスをたくさん買って~

「ただいま、500円ごとにクジを引いていただけます。4枚どうぞ」

あ、そうなんだ、って、それ以前に2000円も買ってたのか……。栄養ドリンクは余計だったかな……
ま、いいや、本田未央、引きまーす!

「おめでとうございます、4枚全て当たりです! ここで引き換えますか?」

お! やーりぃ! 見たか未央ちゃんの運の良さ! 日頃の行いだねえ!

「はいっ! お願いします」

「ではこちら、2Lのお水2本、2Lのお茶1本、2Lのスポーツドリンク1本です」

ゴトッ

「……はい?」


「お、重い……!!!」

くそう……、ラッキーだと思ったのに……
いきなり8キロの荷物が……
なんなの……
ひいひい言いながら、私は事務所へたどり着き、冷蔵庫に入れようと思ったんだけど。

「あっ、未央ちゃん」

「ち、ちひろさん……」

「ど、どうしたんですかそんなに息を切らして」

「な、なんでもないよ……。冷蔵庫、使うね」

「あっでも今は」

……冷蔵庫の中身はいっぱいだった。

「ごめんなさい、5階の冷蔵庫に入れてきてもらってもいいかしら?」

「ええぇ~……」


でも、私が持ってきたやつだし……
え、エレベーターまですら辛い……

「ようやく着いた……」

「ああ、本田。ん? 差し入れか? 良い心構えだな。しかし」

トレーナーさん、なんか言いたげですけど……

「しかし……?」

「そこの冷蔵庫、壊れてしまってな。飲み物なら地下の倉庫に置いといてくれ」

「えええ~……」


「疲れた……」

ホントに疲れた……
こうなったら、あの飲み物たちが美味しく飲まれるのを期待するしかないよね……
うん、疲れたのは確かだけど、良いことをしたわけだし……
そんなことを考えながら待機していると。

「お、未央じゃん、おつかれー」

「はるちんだー、おつかれー……って、どうしたのそのヒジ! 血が出てるじゃん!」

「そーそー、だから絆創膏ねえかなって」

「ええっと、確かこの箱に……あった!」

「お、さんきゅ」

「貼ってあげるからちょっと来て?」

「なんか悪いな」

「いいっていいって。またサッカーしてたの?」

「あー、今回は違うんだよな」

「ありゃ、そうなの? よし、貼れた」

「さんきゅーな! いや、さっきプロデューサーの手伝いで地下に備品取り行ったんだけどな?」

……地下?

「そしたらなんか下に飲み物が置いてあって、コケちゃったんだよ……は、恥ずかしいから誰にも言うなよ!」

「……」

「未央?」

「えっ、あっ、うん、そうだね!」

「?」

「ご、ごめん、私、お仕事行ってくる!」

「お、おう、気をつけてな?」


私は、逃げるように今日の撮影場所へ向かっていた。

おかしい。なんかおかしいぞ。

なんというか……、良いことをしようとするとダメな結果になっちゃう。

ラッキーって思っても結局アンラッキーだ。

なんで? なんで? なんで?


この日、仕事を終えて家に帰った時、私の気分は最悪だった。

やることなすこと裏目に出る。
荷物を運ぶ手伝いをすれば、後で中身が壊れてたと問題になる。
電車で席を譲ったら、降りるときに近くに立ってた人が「なんで俺に譲らなかったんだ!」とか。
道端で募金してたからお金を入れたら、なんか写真撮られててネットで"偽善者だ"とか。

明日こそ、明日こそ。
って、何とか切り替えようとするんだけど。
そんな日は続いていった。

1つ1つは小さなことだけど、こうも重なると気が滅入るなんてものじゃない。
脳裏からみんなの顔が離れない。
泣く女の子の顔が。怪我をした晴ちんの顔が。

極めつけは、雑誌取材の写真撮影の時。
後ろに予定が詰まってる茜ちんに順番を譲ったら、突然地震が起きて。
機材が茜ちんに倒れてきた。
本人は大丈夫って言ってたけど、その瞬間の痛そうな顔が、私の網膜にこびりついている。


私は悪くない。私は悪くない。
そう言い聞かせても、やっぱりダメだ。

でも違う。一番ダメなのは、違う。
動けなくなってしまったことだ。

困っている人を見た時、足がすくんで、動けなくなってしまったことだ。


「――ちゃん?」

「―央ちゃん?」

「未央ちゃん!」

「わっ!」

「未央、大丈夫? 最近、なんか気が抜けてるというか……」

「未央ちゃん、具合が悪いなら、早退しても……」

しまむーとしぶりんが、それはそれは不安そうに、私の顔を覗き込んでいる。
無理もないよね。自分でもわかるもん。最近、元気ないって。
でも、ここで甘えるわけにはいかないんだ。

「う、ううん! 大丈夫大丈夫!」

まったくもう! 元気がとりえの未央ちゃんが2人を不安にさせちゃダメでしょ!
そう、自分に言い聞かせる。

「……ならいいけど」

しぶりんは何か言いたそうだったけど、言葉を飲み込んだみたい。
……優しいね。

「先、レッスン室行ってるから」

そう言い残して、2人は部屋から出て行った。
私も、いつまでもボーっとしているわけにはいかない。
重い意識と、重い体をなんとか持ち上げて、部屋を後に……
瞬間、机の上に、何か見慣れないノートを見つけた。
うーん、見たことあるノートだけど、どこで見たんだっけ……?
……あ、そうだ、乃々ちゃんが前に抱えてた気がする。
ということは、ポエム帳かな?


……先に言い訳をさせてもらうと、ほんの気の迷いで。
どうせレッスン終わったらすぐ戻ってくるし、上手くいかないことばかりでちょっとむしゃくしゃしてたのかもだけど。
そのノートを、手にして。
棚の1番上に隠しちゃった。
軽いイタズラみたいな……ね?
も、もちろん、後で謝るよ?
だから、良いことをさせてもらえないなら、ちょっとくらいは。
そんな気持ちで。

「レッスン行ってきます」

誰が聞いてるわけでもないけど呟いて、扉を開け……

ドンッ

誰かが勢いよく入ってきた。

「み、未央さん、ご、ごごごめんなさ……」

「乃々ちゃん……!」

「へ? も、もりくぼの顔に何か」

「う、ううん! レッスン行ってくるね!」

そう言って、逃げるように。いや、実際逃げてたんだけど。その場から離れた。


当然なんだけど、慣れないことはするものじゃない。
レッスンの間、ソワソワしっぱなしで、何回も怒られてしまった。
最近の元気のなさと相まって、トレーナーさんも心配そうな顔を向けている。
でも、こっちはひとまずそれどころじゃなくて、とにかく早く戻って謝んなきゃって。

いつもより何倍も長く感じたレッスンを終えて、私は駆け出していた。
ようやくたどり着いた部屋のドアを開けて。

「あ……未央さん」

「の、乃々ちゃん」

「あの……も、もりくぼ、未央さんを待ってました」

ま、そうだよね……。犯人かどうかわからないとしても、直前まで部屋にいた私に聞くのは正しいし……

「もりくぼのポエム帳を棚の上に隠したの……未央さん……ですか?」

「……うん。乃々ちゃん、ごめ」

「あ、ありがとうございます……!!!」

……

「……んんん?」

「本当に助かりました……。あのままだと、誰かに読まれてたかも……」

「……えっ、え?」

「レッスン中に、机の上に出しっぱなしだと気がついて……。急いで戻ってきたら隠してあって……」

「い、いや、私は」

「あ、あの後すぐにきらりさんに取ってもらったので、困ったとかもないですし……」

「ち、ちが……」

「では、もりくぼは失礼します……。ありがとうございました」

またお辞儀をして、乃々ちゃんは去って行った。
一方私は、なんか……よくわからない。
気持ちの整理がちょっと難しい。
最近ずっと、良いことをしようと思ったら裏目に出て。
今回は……

そして、1つの仮説が頭に浮かんできた。
この1回だけで判断するのは危ないってレベルじゃないんだけど、何かすがれるものが欲しかったのかもしれない。

……ふと窓から外を見ると、誰かがランニングをしていた。


「3人とも、おっつかれー!」

できるだけ元気な声で、私は千枝ちゃん、仁奈ちゃん、みりあちゃんに声をかけた。
ランニングをしていたのはこの3人で、ちょうど休憩に入ったらしい。
よく見るドリンクで、喉を潤そうとしている。
……今からすることに対して、少し不安で、申し訳なくて、でも確かに、ワクワクしている自分は、いた。

「あ! 未央おねーさん!」

「未央ちゃん! おつかれさまっ!」

「おつかれさまです」

口々に挨拶を返してくれる。優しい子たちだよね。


「休憩中かな?」

「そうでごぜーます!」

「3人でランニングをしてたんです」

「ほうほう、いい心がけだね!」

「未央ちゃんは何してるのー?」

「え? わ、私は……えーっと……」

「?」

「あ! み、みりあちゃん! 美味しそうだね! そのドリンク!」

「えー? いつもみんな飲んでるやつだよ?」

「ちょっとちょうだい!」

そう言って、私は半ばひったくるように、みりあちゃんの手からドリンクを奪った。
ごめんみりあちゃん! 今度ごはん奢るね!

「み、未央さん……?」

なるべく3人の顔は見ないようにして……

「あ! 手が滑った!」

私はみりあちゃんのドリンクを開け、地面へ落とした。

「あー!」

横になったドリンクの口からは中身がこぼれていく。

「未央おねーさん! ひどいです!」

「……」

「み、未央さん、手が滑っただけ……ですよね?」

「……」

私は黙っている。ごめんね、ごめんね。と心で呟きながら。


「も、もー、未央ちゃん、次から気をつけてね?」

みりあちゃんは私を責めない。本当に優しい子だ。胸がズキズキ痛む。いっそ土下座でもしようかって思った、その時。声が聞こえて、こちらに駆け寄る影が1つ。

「3人ともー!」

「ちひろおねーさん!」

「はぁ……はぁ……」

ちひろさんはだいぶ息を切らしている。大急ぎでここに来たらしい。

「だ、大丈夫ですか……?」

「ちひろさんもランニングしてるの?」

「ち、違います……」

「なにかあったでごぜーますか?」

「そ、そうなんです! さっき3人に渡したドリンクなんですけど、間違えて期限が過ぎた廃棄用を渡してしまって!」

「え! そうだったのー?」

「はい! ごめんなさい……! も、もう飲んじゃいましたか?」

「ええと……まだ……」

3人が、すっかり中身のこぼれたドリンクを一瞥した後に、私の顔を見つめる。
私はどんな表情をしているんだろう? 残念ながらわからない。展開的にはドヤ顔が正しいんだけど、まあそんな気分じゃないし……


「未央ちゃん、もしかして知ってたのー!?」

「え? 未央ちゃんが教えてくれたんですか?」

「未央おねーさん、いきなりみりあちゃんのドリンクをこぼしやがったですよ! でも、ダメなドリンクって知ってやがったでごぜーますか?」

みんなが驚いた顔でこっちを見ている。……1番驚いてるのはこっちなんだけどさ。
でも、ここは乗っかるしかない……よね?

「もー、ちひろさん、大きな声で話しすぎだって! 廊下まで聞こえてたよ?」

「ご、ごめんなさい……」

「みりあちゃん、ごめんね? いきなりこぼしちゃって」

「ううん! それより未央ちゃん、助けてくれたんだ! ありがとー!」

ズキン、と痛む胸に見て見ぬふりをしながら、賞賛の言葉を受け取る。

「ごめんなさい、千枝、少し未央さんを疑っちゃいました……」

本当に申し訳なさそうな顔で頭を下げる千枝ちゃん。
そんな顔しないで。悪いのは私だから。千枝ちゃんの感覚は間違ってないんだよ。
……なんてことは思っても、口に出せるわけもなくて。


雰囲気はね? "未央ちゃんありがとー!"って。そういう感じだったんだけど、やっぱ、そのままそれを受け取ることはできないよね。

「じゃ、ランニング頑張りたまえ!」

心の重さを隠すように、大きな声で告げて、その場を去ることにした。


……まあ、確定と言っていいんじゃないかな。

なんでかよくわかんないんだけど、善い事をすると悪い方向に、悪い事をすると善い方向に転がってしまうみたい。
いやはや、我ながらなんと意味のわからない……
でもまあ、さっきまでの。全部が裏目に出ていた時に比べれば、ちょっとは気分も晴れてる……と、思うけど。

こうして、"善い事をするために悪い事をする"という、なんとも奇妙な私の生活が始まった。


仲間のファンレターを破けば禁止ワード満載の捨てるべきやつで。
プリンを勝手に食べて「美味しかったよ」とやや高圧的に言っても、"初めての手作りで食べてもらう自信がなかった。嬉しい"だってさ。
撮影の邪魔をしたら「その表情、いいね!」って次の仕事に結びつくし。
寝てる人を起こすといつもレッスン10分前で、決まってみんな「ありがとう」って。


じゃあ、そんな良いことをし続けた未央ちゃんは、とびきり悪いことをずっとしていた未央ちゃんは、さぞご機嫌だったのでしょうって思う?
もちろん、そんな訳ないんだよねぇ。


「……はぁ」

最近はもう、ため息がクセみたいになっちゃってる。
そりゃあ、さ? みんなには感謝されるよ。そこは単純に嬉しいけど。
でも、その行動をするときには、まだわからないんだよ。どうなるのか。
結果がどうあれ、私がしているのは間違いなく悪いこと。もちろん、本当に困ってる人と正面から向き合えないのは変わらない。
やってみて初めて「ああ、こうなるんだ」ってわかるの。
これって、とっても怖い。
ともすれば、単なる加害者だもん。

でもやっぱり、こんな回りくどい方法でも、人助けができるのなら。
それならいいのかもって、思い始めてた。


そんな重苦しい気持ちに蓋をしながら、この日も事務所への道を歩いていた。

「おっ」

ふと道端の自動販売機を見ると、見覚えのある後ろ姿が、お金を入れてたんだ。
あの金の髪は……、見間違えるはずもない! ゆいゆいだ!
ゆいゆい、確かこの前コーラにはまってるとか言ってたような!
ってことは、ここで未央ちゃんがすることは1つ!

「おっしるこ~!」

なんだかふざけた掛け声で、ゆいゆいの後ろから自販機のボタンを押した。

「わっ! 未央ちゃん!?」

ガコン

「やあやあゆいゆい、元気かい?」

「もー! ゆい、おしるこなんて飲まないよ!?」

「あれー? めんごめんご!」

そもそもなんでこの季節におしるこが売ってるのかとか言っちゃダメだよ?

「酷いよー! ……あれ?」

取り出し口からゆいゆいが取り出したのは、まぎれもない、コーラだ。
よかった……、今回も成功したみたい。

「いやあ、なんか入れ替わってる気がしたんだよねぇ」

不安だった心を見せないように振るまう。
でも、ゆいゆいの表情は……なんというか……

「……」

「……あれ?」

「ゆい、今日はメロンソーダ飲もうと思ってたんだけどなー」

「……え?」

「ま、いいや! おしるこよりはマシかな! じゃ、お仕事あるから先に事務所行ってるね!」

「あ、う、うん」

「じゃーね!」

ごめんね。という声が喉から出る前に、ゆいゆいは見えなくなっていた。


残された私は、今までにない感覚に困惑している。
あれ? 今の、失敗?
悪いことして、良い結果になると思ったんだけど……
結果は……

……あれれ?

首をかしげながら再び歩き始める。
リアクションの小ささとは裏腹に、動揺は大きくなるばかりだった。


「ひ、ひったくり!!!」

突然響いたその女性の声は、私の思考を現実に引き戻すには十分すぎるものだった。

ってか普通にビックリした! え? ひったくり? どこ?
……もしかして、前から猛然とダッシュしてくる人……!?
ど、どうしよう、どうしよう!
以前までの私だったら、そりゃタックルの一つでも決めてやるところだけど。
今はそんなことは、そんな良いことはできない。
でも、さっきのゆいゆいのパターンだったら? 良いことが良い結果になるなら?
いやいや確証がないよ。でもだってああ。

そんなことが頭を駆け巡る間に、犯人はこちらに一瞥もくれないまま、横を走り去って行った。
……罪悪感に潰されそうになる。で、でも、いつもの流れなら、これが良い結果につながるはずだし!
犯人の姿を再度捉えるために振り向くと、大柄な男性が、その犯人を取り押さえているところだった。
正直に言えば、安心した。これで犯人が逃げ延びちゃったら、私は一生後悔することになっただろう。
なんだ、やっぱり、悪いことをしたらいい結果になるじゃないか。
あの男性だって一瞬でヒーローだ。
そうだ、たとえ腕から血が流れていよう……と……

「……あ、え……?」

この距離でもわかる。あれは血だ。取り押さえている男性の腕から血が。
よく見ると傍にナイフが落ちている。犯人が持っていたのか。取り押さえる際に切られたのか。
どんどん増える野次馬に紛れるように、その場から去ることを、体が決断していた。


「ひ、ひったくり!!!」

突然響いたその女性の声は、私の思考を現実に引き戻すには十分すぎるものだった。

ってか普通にビックリした! え? ひったくり? どこ?
……もしかして、前から猛然とダッシュしてくる人……!?
ど、どうしよう、どうしよう!
以前までの私だったら、そりゃタックルの一つでも決めてやるところだけど。
今はそんなことは、そんな良いことはできない。
でも、さっきのゆいゆいのパターンだったら? 良いことが良い結果になるなら?
いやいや確証がないよ。でもだってああ。

そんなことが頭を駆け巡る間に、犯人はこちらに一瞥もくれないまま、横を走り去って行った。
……罪悪感に潰されそうになる。で、でも、いつもの流れなら、これが良い結果につながるはずだし!
犯人の姿を再度捉えるために振り向くと、大柄な男性が、その犯人を取り押さえているところだった。
正直に言えば、安心した。これで犯人が逃げ延びちゃったら、私は一生後悔することになっただろう。
なんだ、やっぱり、悪いことをしたらいい結果になるじゃないか。
あの男性だって一瞬でヒーローだ。
そうだ、たとえ腕から血が流れていよう……と……

「……あ、え……?」

この距離でもわかる。あれは血だ。取り押さえている男性の腕から血が。
よく見ると傍にナイフが落ちている。犯人が持っていたのか。取り押さえる際に切られたのか。
どんどん増える野次馬に紛れるように、その場から去ることを、体が決断していた。


「はぁ……はぁ……」

しばらくの間走っていた私は、知らない住宅街で、ようやく我に返ることができた。
体力には自信があるが、こんなに息が切れている。相当走ったのかもしれない。

……自分のことなのに"かもしれない"だなんて恥ずかしいけど、それだけ余裕がなかったってことだと思う。

しばらく、何も考える気になれなかった。
息を整えながら歩く。ふと気がつくと公園の周りにいた。

「ちょっと休もうかな……」

公園ならベンチの1つはあるだろう。別にブランコに座ってもいい。それは良いことでも悪いことでもないんだし。

そう思いながら、公園の入り口に近づいた瞬間。

ポーン ポーン

「……え?」

私の横を、ボールが、多分サッカーボールだと思うんだけど、そんなことはどうでもよくて。
公園から目の前の道へ飛び出していった。


一瞬、思考に空白が生まれる。


そこから、私の脇をすり抜ける、小さな1つの影。
止まっていたアタマを無理やり現実に引き戻す。
ボールを追うように飛び出す影なんて。相場は決まっているから。
反射的に振り向き、目に入ってくる情報を無理やり飲み込んでいく。道路の向こうにボールが転がり、それを追う、子ども。
さらに視界の端からは大きな、大きな。

「危ない!!!!!」

叫ぶと同時に体は動いていた。
さっきまでの悩みとか、体の重さとかそんなものは置き去りだ。
迫り来るモノに子どもが飲み込まれそうになる。

届け! 届け!

ドン! と、必死に手を伸ばして、子どもを突き飛ばした。
その子が道路の向かい側で尻餅をつく姿を見届けて。

ザザザッ!

道路の真ん中に滑り込む。
自分の体を向こうまで持っていく余裕はなさそうだ。

ブレーキの音が、これでもかというくらいに耳に突き刺さる。

ああ、走馬灯なんて、見えないんだな。とか思い、なが、ら――


……

……

……

……あれ?

天国にしては地面が硬いね?
なんか焦げた匂いもするし……?

……あれれ?

「よい……しょ……」

力を入れ、体を起こす。マヌケな顔で周囲を見渡すと。
公園があって、反対側に男の子がへたり込んでて。目の前には。

「ナンバープレート……」

ということは、目の前で止まったのか! ラッキー!
……いやいや、そんな緩いスピードじゃなかったよね?
よーく見てみると、そのナンバープレートは車体の後ろについているもので。
え? 未央ちゃん、すり抜けた!? この車……いや、よく見るとトラックだ。を、すり抜け……
それもありえないでしょ。なんてセルフツッコミを入れながら、そう考えると答えは1つだけしかない。

「下……?」

大きい大きいトラックの下を覗きこむと、確かに、少しのスペースが存在した。
ここに入って、トラックが通過したタイミングで止まったの……?
焦げ臭いのは、タイヤのブレーキ跡みたいだ。

改めて、自分の身に起きたことを反芻して、汗が流れ始める。

よかった、よかった!
ようやく、少しずつだが頭が動き始めた。
なるほど、子どもを助けようとした未央ちゃんは、トラックに轢かれかけるも、九死に一生を得る!
なるほど! なるほど!
安堵感もあって腰が抜けてしまっているが、まあ仕方ないって。トラックが大きくて本当によかった……
こういうどんでん返しも、まぁちゃちに見えるかもだけど、悪くないよね?


それにしても大きいトラックだ。ナンバープレートの、さらに上。荷台を見上げると、そこには大量の棒のようなものが積まれていた。
鉄パイプかな……?
これだけの量を積めるトラックはあまり見覚えがないけど。まあその大きさのおかげで助かったんだし。
当然ながら、その大量のパイプはロープで留められていた。
うへえ……、弱そうなロープだなあ……。
切れたりでもしたら大惨事だよ?

ほら、あの結び目のところなんて、今にも千切れ……そ……

ブヂィ!!!

「……え?」

嫌な音が。

聞こえた。

残念ながら、目でも。

それを捉えていた。

降ってくる。

転がって。


降って


ポコポコポコポコ!

「あいたたたたたた!!!」

……んん?

こ、これ……

「プラスチック……?」

……

……

「はぁ~……」

そのまま、大量のパイプの中で。起き上がる気力はもう、なかった。



おわり


ありがとうございました。

よろしくお願いします。

タイトル:高垣楓「ばけもの」

「……えま……か?」

 べったりと張り付くような空気が漂っていた。
 月は雲に隠れ、星も見えない息苦しい夜空が世界を覆っている。地上に広がる都市は不出来なランタンのように灯りを散らす。
 駅前の雑踏。ぼんやりとした灯りに照らされる人々の顔は、幽鬼のようであった。

 仮に、ここに幽霊が居たところで、人と見分けはつかないだろう。
 仮に、ここに異界への入り口があったとしても、誰も気付かないだろう。
 仮に、ここに人ではないモノが徘徊していたとしても、誰も気にもとめないだろう。

「おまじないは、いかがですか?」

 雑多な音を切り裂いて、童女のあどけない声が聞こえた。
 偶然、一人の女性がその声を聞き取った。
 
「素敵な素敵な、恋のおまじないはいかがですか?」

 女性は立ち止まり、蒼と碧の瞳で声の主を見る。

 まるで造り物のような容姿の少女が居た。
 透き通るような白い肌。金色の瞳に金色の髪が夜の闇に浮かんでいる。
 それは、不確かな灯りの下では人形と錯覚してしまう程に異様だった。

「世界中の人々が祝福する、素敵な恋をしたくありませんか?」

 引きこまれる様な声だった。金色の瞳に囚われ、そこから逃れられなかった。

「そうですね」

 そして、気が付けばそう答えていた。

「それでは、お名前を教えてください」

「高垣楓」

 ――その日、『ばけもの』は生まれた。

◆◆◆

 翌日、高垣楓は同僚の川島瑞樹に、夜の出来事を語った。

「楓ちゃん、いくらなんでも不用心じゃないの?」

 呆れながらも窘める友の言葉の温かさを感じ、意地が悪いと思いつつも楓は微笑む。
 しょうもない子、思わず瑞樹の口から洩れた呟きは、優しい声色だったから。

「悪い人には見えませんでしたから」

「とは言っても、密室に連れ込まれて強制的に怪しい壺とか買わされることもあるのよ」

 と、ひとしきり注意をした後、瑞樹はふと言った。 

「それにしても、恋ね……私たちにはちょっと身構えちゃう言葉よね」

 遠くに置いてきた青春。恋、と言う言葉を噛みしめる。

「アイドルですからね」

 高垣楓も川島瑞樹もアイドルである。職業柄、恋愛事は御法度である。

「そうそう。でも、世界中が認める恋だったら、素敵よね」

 それでも、一人の女性として恋に焦がれることはあった。
 もし仮に、世界中が認めてくれる恋があるとしたら――それは、アイドルにも許されるだろうか。
 そんな、都合のいい考えが昨夜の楓の内にもあった。

 ――『ばけもの』は育つ。

「もし仮に、だけど」

「なんですか」

「恋をするなら、どんな相手がいい?」

「そうですね。瑞樹さんみたいな人でしょうか」

 唇に指をあてて、悪戯小僧のように狡賢い微笑みをする。

「もう、お世辞を言ったって、お酒はおごらないわよ」

「はい」

◆◆◆

 季節は流れる。
 夏は過ぎ、気が付けば秋の暮れ。

 充実した日々を過ごす楓は、いつしか呪いの事を忘れていた。

 そんなある日の事だった。
 事務所に入ると、社員が慌ただしく走り回っていた。
 盛況とは違う、明らかに殺気立った空気が漂っている。

 どうしたものか、と立ち尽くしていると、彼女のプロデューサーが駆け寄ってきた。
 目の下にはクマがあり、シャツも汗で萎びている。明らかに、疲労していた。

「何があったんですか?」

 彼から差し出されたのは、一冊の雑誌。明日発売予定のモノだった。
 問題は、その表紙に踊る文字。

『高垣楓に熱愛発覚か!?」

「……これは?」

 困惑しながらもページを捲る。
 該当の記事には、高垣楓と芸能関係者の男が一緒に居る写真が何枚も載っていた。

 男は、同じ事務所に所属するプロデューサーだ。
 目の前に居る男性とは別の仕事を請け負っているプロデューサー。
 同じ事務所なので顔を合わせたことは何度かある。だが、それくらいだ。

「これはたしか」

 一枚、男に向かって大判の封筒を差し出している写真があった。
 数日前、事務所に忘れていた書類を、たまたま現場が同じになった楓が届けた時の写真だ。

 本当にそれくらいの関係であった。
 他にも幾つか写真もあるが、どれも大したことはない。

 偶然、一緒に出退勤の時間が被っただけの時。たまたまオフで出会って挨拶した時。そんな些末な内容である。
 だが、写真の下には細かい文字でビッシリと、『親しい人に向ける顔』『プレイベートでの付き合い』などと書かれている。

 ――実は、元は担当のアイドルとプロデューサーだった。
 ――過去に、恋愛関係であったが、事務所の都合で分かれた。

 元関係者やら過去の関係やら、まったく根も葉もない話題が延々と書かれている。
 よくまあ、ここまで出鱈目を書けるのかと楓も呆れるほどであった。

「そのような事実はありません」

 プロデューサーにそう告げる。彼は、ホッとしたように表情を緩めた。

「それで、これからはどうします?」

 雑誌の流通を止めることは、既に不可能であった。
 とりあえず、事務所からその話題は根も葉もないことだと伝えよう。
 もちろん、このような記事を書かれた以上然るべき処置はとるが、高垣楓はアイドルであると伝えることになった。

 ――『ばけもの』は育つ。

「ふふっ、はじまるよ――世界で一番素敵な恋が」

 その声は、誰にも聞こえなかった。

「世界中の人が納得する恋の始まりだよ」

◆◆◆

 ――『ばけもの』は育つ。

「――と言うことで、このお話は事実ではありません」

 高垣楓の口からハッキリと、事実ではない、と世間に公表をした。
 けれど、人々は止まらなかった。

「あの高垣楓に恋人?」
「もう三十近いんだから当たり前だろ」
「でも、本人は否定してるだろ?」
「恋人います、とか言うアイドルは居ないだろ」
「うわ、必死だな。ファンの立場で拘束するのか。アイドルが恋しようが勝手じゃないか」
「そうそう、俺たちは広い心で認めてやろうぜ」
「――そうだ――認めない人間は、悪だ」

◆◆◆

 ある日のこと、楓は事務所で不自然に汚れた白いシャツを見つけた。
 首筋に、赤いシミが付いている。
 
 血の跡だった。

「あ、それは洗物に出すんで、放っておいていいですよ」

 後ろには、真新しいシャツに身を包んだ彼女のプロデューサーが立っていた。
 顔には、傷があった。

「プロデューサー……それは」

「はは、気にしないでください」

 笑ってごまかしてはいるが、楓にも心当たりはあった。

 ――『高垣楓』の自由を奪うプロダクションは、悪だ。

 世間一般で流布している噂である。
 時々、事務所のスタッフに対する非難を認めた手紙が届くことがある。
 それどころか、面と向かって悪だと断じられたこともある。

 数日前、事務所の代表が、亡者のような顔で通路を歩いていた。
 プロデューサーも、大分疲れているようだった。

◆◆◆

 数日後、プロデューサーが倒れた。
 原因は過労だった。

 『高垣楓』の噂は、まだ消えていなかった。

 それどころか、噂は加速をしていた。

「――あの人は、これだから素敵なんだ」
「そうそう、『高垣楓』にふさわしい人間は、こうなのだ」
「『高垣楓』も、好きすぎて会うたびにアプローチしてるんだよ」

 人々は、熱狂する。

「事務所の都合があるのに、真実を言えるわけない」
「真実を知っているのは、自分たちだけだ」
「俺たちが『高垣楓』を応援しよう」
「つまらない社会の常識を、俺たちの声でかき消すんだ」
「それが、『高垣楓』のためだ」

 声は、大きくなっていく。

 ――『ばけもの』は、大きくなっていく。

◆◆◆

 プロデューサーが倒れた後も、楓は仕事を続けた。

「ファンの皆さんを、不安にしたくありません」

 休業を勧められたが、この段階で下手に動けば余計な誤解を生むと、続行することにした。

 日々は、過ぎていく。
 灰色のような、白のような、曖昧な光が指先から零れる様に実感がない時間だった。

 そんなある日のことだった。
 高垣楓は、男――世間でで恋仲であると噂された男性と鉢合わせになった。

 事務所側でも、接触しないように細心の注意はしていた。
 だが、それでも偶然。本当に、偶然に顔をあわせてしまう。

「申し訳ありません」

 会うなり、深々と頭を下げて謝罪の言葉を口にする。

「いえ、顔をあげてください」

 これ以上責めないでほしい、そう、顔に書いてあった。

「ですが」

「いえ。悪意はないのでしょう?」

「……はい」

「ふふ……今日のお仕事も、頑張りましょう。お仕事が楽しみで、わーくわーくしてるんですよ」

 本当は、そんな心境ではなかった。けれど、せめて笑顔でいようと冗談を言う。

「わかりました」

 それで納得したのか、男は立ち去る。その先に、彼が担当するアイドルたちが居る。
 何やら話し込んでいたが、楓はそれを気にせず立ち去った。

 ――『ばけもの』は育つ。

◆◆◆

「すごいなあ、ファンの前ならちゃんと個人的な感情は抑えるんだ」
「やっぱり『高垣楓』は素敵だ! どんなことになっても応援するよ」

 声が消えなかった。

「もう、彼と結婚すればいいじゃない」
「高身長だし、美男美女のカップルなんて素敵じゃない」
「友達も言っていたし――」

 外見が似合うから。
 周りがそうだから。
 気が付けば、疫病の如く"それ"は広がっていた。

 誰もが、そうであると信じていた。
 誰もが、そうであると望んでいた。
 誰もが、そう、信じこむことを『信じ込んで』いた。

 ――『ばけもの』は育つ。

◆◆◆

 その年のクリスマス、珍しく都心にも雪が降った。
 夕暮れの空に、白い光が舞う。

 高垣楓は、事務所の屋上でそれを眺めていた。

 彼女は戸惑っていた。
 いくら自分がこうであると言っても、周囲は自分が恋していると疑わない。
 それが幸せであると、言っている。

 それが違うと言うと、聞いたファンは悲しそうな顔をする。
 それを見るのが、たまらなく嫌だった。

「楓ちゃん」

 川島瑞樹の声が聞こえた。振り返ると、屋上のドアによりかかり、声の主が立っていた。

「元気ない……わよね」

「ええ」

 瑞樹は、硬い床を靴で叩く。苛ついているように、荒い音が寒空に響く。
 瑞樹は楓の隣に立つと、黙って空を見る。

 つられて、楓も空を見る。

 茜色の空は徐々に暗くなり、世界は夜の色に包まれる。

 
 星が、瞬いた。 

「星座」

 ゆっくりと、瑞樹が口を開いた。

「夜空だと近く見えるけれど、実はとっても離れてるよのよ。まったく関係がない」

「はい」

「一括りにされている星でも、本当はとても遠くまで離れてるの」

 楓は、瑞樹が言わんとしていることを理解した。

「見た人が、そこに意味を求めてそうなった」

 よくできました、と微笑むと、瑞樹は楓の肩をそっと叩く。

「そう。そして、意味を求めることに、悪意はないの」
 
 今回の事件において、悪人は居る。
 売名や商売のためだけに高垣楓の名前を利用した人間だ。

 だけど、それだけではない。
 そう、悪意なんて殆どの人は持っていなかった。
 誰もが、そうあったら素敵だと言っただけだった。

 アイドルにだって恋をしてもらいたい。ただ、その行く先がちょっとずれていただけなのだ。

「みんな、引っ込みがつかなくなってるだけだから」

「……私は、皆さんに愛されていると思っていいんでしょうか」

「もちろんよ」

「ありがとうございます」

「お礼は全部終わってから。楓ちゃんの好きなようにしないと」

 ――けれど、『ばけもの』はまだ居る。

◆◆◆

 高垣楓は意を決すると、すぐに事務所の代表の元へと足を運んだ。
 執務室で書類と格闘するその人は、半年前に比べると大分老け込んでいた。

「私の声を、ちゃんと届けたい――」

「と、言うと」

「高垣楓はここに居て、ファンの人達と一緒に歩いていきたい」

「彼らと一緒に居たいと」

「はい」

 そうか、と代表は短く返した。
 何かを決めたような。また、何かを諦めたかのようだった。

「明日、もう一度話し合おう」

 ――けれど、『ばけもの』はまだ消えない。

◆◆◆

 翌日、改めて代表の執務室に呼び出されると、そこには男性――高垣楓と恋仲であると噂された男が居た。 
 彼の傍には担当しているアイドルたちが居た。
 皆、不安そうに大人たちを見守っている。

「……これ以上、混乱を広げないようにしましょう」

「ええ、ですから――」

 男も男で困難があったのだろう。その迷いない瞳には、艱難辛苦を乗り越えてきた人間のものだった。

「こうなったからには、責任を取ります――」

「は」

 この男は何を言っているのだろう、と。

「あなたを、必ず幸せにします」

「は?」

 楓は、その言葉の真意が理解できなかった。

「恥ずかしがることはなんてないよ!」
「そうだよ、高垣さんとプロデューサーなら、みんなが祝福してくれるよ」

 困惑する楓に、周囲のアイドルたちから言葉が浴びせられる。

 ――『ばけもの』が、そこに居た。
 ――『誰かに思いを寄せる高垣楓』はもう、育ちきっていた。

「だって、そうでなければおかしい」
「プロデューサーなら、きっと幸せにしてくれる」
「見た目もお似合いだし、大丈夫」

 高垣楓には理解できなかった。

「どういう事でしょうか?」

 高垣楓の顔が、声が、険しくなる。

「――僕は、改めて思ったのです。貴女には笑顔であって欲しい。そうすれば、世界中の人が笑顔になれる。そのための努力を、惜しみません」

 表向きは誠実な言葉だ。だが、その言葉の先には高垣楓は居なかった。

「笑顔は、どうやって生まれると考えているんですか?」

「貴女が笑顔であれば、皆が自然に笑顔になれます」

「それは、私の顔を見て言っていますか?」

「はい」

 何を言っているのだろう、と叫び声が喉の奥まで競りあがる。
 吐き気がする程薄っぺらで傲慢な言葉だった。

「よく言ってくれた」
「うんうん、やっぱりプロデューサーはすごいよ!」
「それなら、みんな安心だね」

 なのに、この場に居る人間は、高垣楓以外にその言葉を賞賛する。

「もう、そうする他ないのか……」

 代表は何かを諦めたようにしていた。

「仮に認めなければ、わが社はアイドルの自由を奪う存在となる」

 それは、この半年間、何度も言われてきた。
 一人の女性の自由を奪う悪。

「プロデューサーさんなら、絶対に大丈夫」
「悔しいけど、お似合いだって」
「それに――そうでないと、『高垣楓』を誤解していたと言う結果しか残らないよ」

「はい――貴女の笑顔を、守ってみせます」

 ――『ばけもの』は、見ていた。 

 高垣楓は、理解した。
 もう、人々が求めているのは高垣楓の皮を借りた『ばけもの』なのだと。
 想像の中で肥大化し、それでいて自分たちの思い通りになる化け物なのだと。

 もう、私は『高垣楓』として求められていない――そう、悟ったのだ。

 僅かに考え込む。
 答えは、決まっていた。

 ――『ばけもの』は、もう、高垣楓ではなかった。

「私が居たら、『高垣楓』は誰の隣にも居られませんね」

◆◆◆

 年が明ける前に、高垣楓はアイドルを引退した。
 皆、それを予見していたかのように大いに騒ぎ立て、彼女に関連する情報は年明けのお茶の間を散々にかき回す。

 冬は終わり、春も瞬く間に通り過ぎた。
 気が付けばまた蒸し暑い季節になっていた。

 そんなある日の仕事帰り、川島瑞樹は男に呼び止められた。

「あら、どうしたの?」

「貴女は、あの『高垣楓』と親しかったそうですが」

 またか、と内心、毒ずく。この数か月、同じ切り出しの質問は山ほど受けた。

「申し訳ありません。川島瑞樹としての回答は、事務所を通して行いますので」

「ですが」

 情けなく追いすがる男を置き去りにし、瑞樹は帰路を急ぐ。
 瑞樹の胸に、苦い感情が溢れる。もう少し若ければ、殴り倒していただろう。

 ――まだ、『高垣楓』の名は忘れられていなかった。
 ――まだ、人々は『高垣楓』を幸せにしようとしていた。

 曰く、誠実な男に断られ、姿を消した。
 曰く、内縁の妻として男を支えている。

 人々は口々に言った。
 どんな結果であっても、自分たちは『高垣楓』の幸せを祈る、と。
 彼らの中で、高垣楓は理解ある人々に囲まれて幸せに過ごしている。 

 ――『ばけもの』は、まだ、居る。

「まったく……これじゃあ、あの子が外に出れるのはまだ先かしら」

 帰路を急ぐ。その先には、信じられるのは貴方だけだと告げた、一人の女性が待っている。


以上となります。
ありがとうございました。

投下いたします。

ほたる「あの……白菊ほたる、です……」

ほたる「この世には、不思議なことってたくさんありますよね」

ほたる「私も、今朝は不思議と犬に吠えられなかったです。……不思議じゃないですか? ……そうですか」

ほたる「他には……お風呂で触れてもいないボディソープが倒れたりとか、急にシャワーが冷水になったりとか」

ほたる「お風呂って怖いですよね。裸で、無防備で。顔を洗おうと目を閉じたときとか」

ほたる「背後に――いえ、目の前に、なにかいるんじゃないかって思ったことはありませんか?」

ほたる「なにかってなんだ? その、なんでもいいんですが……そうですね、たとえば」

ほたる「『自分』がいた、なんてどうでしょう?」

ほたる「……こんな感じ、でいいのかな?」



『エル』


 加蓮は浴槽に張ったお湯に手を浸し、その温度を確認した。
 少し熱いかな? と思い、水を継ぎ足しながら、差し込んだままの手でゆっくりとお湯をかき回す。
 水を止め、なまぬるくなったお湯から手を引き抜く。たぶんこのぐらいでいいだろう。
 浴槽のふちをまたぎ、普段入浴するときよりは少なめに張ったお湯に身を沈める。
 底面におしりをつけ、脚を伸ばすと、おへその上あたりまでぬるいお湯が上がってきた。かすかに揺らぐ水面が肌をなでているようで、少しこそばゆく感じた。

 加蓮は、半身浴というものを試していた。
 ダイエットや美容にいいと、一時期流行っていたものだが、なんとなく機を逸してしまい、これまでにやってみたことはなかった。
 しかし先日、事務所で先輩アイドルの川島瑞樹から勧められたこともあって、いちどくらい試してみようかな、という気持ちになった。なにも難しいことはない、ぬるめのお湯におなかのあたりまで浸かり、20分から30分ほど待つ、ただそれだけだ。

 手でお湯を掬い、ちゃぷちゃぷともてあそぶ。
 ……うん、そんな気はしていたけど、やっぱりこれはなかなか、

「退屈だね」

 思わずひとりごとがこぼれる。
 なにもしない20分というのはなかなかに長い。近々捨てるつもりの雑誌でも持ってくればよかったか、しかしお湯に入る前だったらともかく、今から取りに行くのは面倒だ。

 特にできることもなく、基礎代謝の重要性について熱心に語る瑞樹の顔をぼんやりと思い返した。自分よりはむしろ、いっしょにその場にいた奈緒のほうが真剣に聞いていたような気がする。そういうの興味あったりするのかな? そういえば、そのあと2日前の夕食を覚えているかという話になったのは、いったいなんだったんだろう。

 シャンプーのボトルの隣に並んだ、防水のデジタル時計に目を向ける。表示は『17:52』、お湯に入ってから5分が経過していた。
 早めに切り上げるにしても、5分はあまりに根気がなさすぎるだろう。お試しの1回とはいえ、せめて10分以上は続けないと格好がつかないし、効果もあるとは思えない。できればキリよく18時までとしたいところだけど。
 ……なにもすることがなく、ただじっとしているというのは、どうも昔を思い出してしまって好きじゃない。

「アタシにはあんまり向いてないかなー」

 代り映えのしない浴室の風景を眺め続けるのにも飽きて、ふぅと息をつく。
 ……あー、ダメダメ、眠っちゃいそう。
 意識が遠のいていくような感覚を振り払い、いつの間にか降りていたまぶたをこじ開ける。
 景色が一変していた。

 自宅の浴室であることは間違いない。だけど、なぜかタイル張りの床が見えた。それから浴槽が見えた。
 浴槽には人が入っていた。加蓮だった。
 加蓮は、加蓮を上から見下ろしていた。

 思わず悲鳴を上げた。
 上げたつもりだった。
 しかし、「きゃあ」とも「わあ」とも、発したはずの声は出ていなかった。

 ――なにこれ!? どうなってるの!?

 そう叫んだつもりの声も、やはり空気を震わせることはない。
 真上から見下ろすようなアングル、この視点が本当なら、今自分のいる位置は天井付近だ。つまり、浮いているということになる。
 そんなことってある?

 戻らないと、と思った。状況がわからず頭は混乱していたが、視界は意思の通りに、浴槽の中の加蓮に向かって移動していった。
 体当たりでもするように、もうひとりの自分に突っ込む。一瞬、頭の中が白く光った気がした。 

 ぱちりと目を開く。見慣れた浴室の風景がそこにあった。
 下半身にお湯のぬるさを感じ、深い眠りから覚めたように五感が働き始める。
 胸に手を当てる。どくんどくんと早めの鼓動が伝わってきた。

 ……生きてるね、うん。

 お湯に浸っていない上半身からは汗が流れていたが、半身浴の効果ではなく、今この瞬間にドッと湧き出たような気がする。冷や汗というものだろう、これは。
 加蓮はシャワーで軽く体を流し、浴室を出た。
 視界の端にちらりと映った時計には『17:55』と記されていた。

 動悸はしばらく治まりそうにない。



「あら加蓮ちゃん、半身浴やってみた?」

「あー、あれ一応やってみたんですけど、すごい汗かいて、しばらくぐったりしてましたよ、あはは」

「体力を消耗するものね、わかるわ。最初のうちは短い時間から慣らしていったほうがいいわよ」

「そうですね、そうします」

 後日、加蓮は事務所で会った瑞樹とそんな会話を交わした。
 しかしこれは口先だけの社交辞令であり、加蓮は再び半身浴に挑むつもりはなかった。
 変に心配されても面倒だからと、誰にも相談することはなかったが、あんな恐ろしい体験をするには、一度だけで充分だ。

「……って、思ってたはずなんだけどねぇ」

 あの不思議な出来事から1週間が経過したその日、加蓮は浴槽に張ったお湯の温度を調整していた。
 日が経って恐怖心が薄れてきたのか、あれはいったいなんだったんだろうという、好奇心が上回った。
 全く怖くないと言えば嘘になるけど、あのときは戻ろうと思って戻れたんだから、おそらく危険はないはずだ。

 お湯の温度も量もほぼ同じ、時間帯もおよそ同じぐらいにした。
 浴槽に入り、脚を伸ばす。あとはどうしたんだっけ? そうそう、目を閉じるんだったかな。
 現実的に考えれば、あれはきっとうたた寝でもして、短い夢を観ていたのだろう。
 それならそれでいい、夢だったと確認できれば納得もいくし、怖くもなくなる――んだけど、

 ――まさかホントにできちゃうとはね。

 つぶやいた声は声にならない。
 恐怖がぶり返しそうになるのを必死に抑えながら、目の前に手を持ってくる。手は見えなかった。
『あっちに動こう』と念じる。視界はするすると空中を泳ぐように移動した。
 動いた先は洗い場の鏡の前。鏡には浴室の、後方の壁が映っていた。
 なるほど、透明人間ってことだね。

『幽体離脱』という言葉がふと浮かぶ。たぶん知っている言葉の中ではそれが一番この状況に近い。
 幽体とはいっても、漫画やアニメで描かれる幽霊のような人型はとっていない。足どころか手もないわけで、どうやらなにかを動かすようなことはできない。
 思い立って、浴室のドアに向かって動いた。目の前にぐんぐんとドアが迫る。視界いっぱいが磨りガラスのドアで埋まる。そして、景色は脱衣所になった。ドアをすり抜けた。 
 再度ドアをすり抜けて浴室に戻り、浴槽の自分の姿を確認する。胸がかすかに上下していて、呼吸している様子が見て取れた。どうやら体は眠っているのと変わらないようだ。前回と同じなら、この本体に触れることで目が覚めるはず。

 ……だけど、その前に、

 加蓮はドアの反対側、浴槽の接している壁をすり抜けた。この向こうは建物の外になる。
 お隣の家の外壁が目の前にあった。壁と壁の隙間にそって、念じるままに移動し、家の前の道路に出る。
 とっくに見飽きた街並みを、沈みかけた夕日が橙色に染めていた。
 どこか遠くの空で、カラスの鳴き声が響いていた。

 もっと上へ、と思ったら空高く飛び上がった。
 あっちの方向へ、と思ったらその通りに空中を泳ぐことができた。
 もっと速くは?
 速度が上がる。『風を切る』ではなく、風が自分の中を通り抜けていく感覚があった。

 声が出せたなら、笑っていたと思う。
 高揚していた。こんなに楽しい気分になったのは、いったい、いつ以来だろう。

 ――すごい! アタシ、空を飛んでる!!

 しばらく辺りを飛び回った加蓮は、浴室で眠る自分の体に戻った。前回と同じく、なにごともなかったように、ただ時間だけが経過していた。
 お湯から上がり、浴槽のふちをまたぐときに若干体がふらついた。意識が離れているあいだも肉体はずっと半身浴の状態にあったから、長くお湯に浸かりすぎたのだろう。時計を見ると開始から30分が経っていた。

 じっとりと汗をかいた全身をシャワーで流し、浴室を出る。
 髪を乾かし終える頃には、もう指一本も動かしたくないほど疲弊していた。
 ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めながら、先ほどの体験を思い返す。
 楽しかった。そしてこの現象はどうやら、条件を整えれば、自分の意志で起こせるようだ。
 体は疲れていても、心はこれ以上ないくらいに晴れやかだった。


 翌日になっても疲労は抜けきらず、加蓮はレッスンで多くのミスをやらかし、トレーナーから散々に怒られた。

「調子、悪いのか?」

 レッスン終了後、加蓮と共にレッスンを受けていた奈緒が問いかけた。

「風邪とかじゃないよ、半身浴ってのやってみたら、思ったより疲れちゃって」

「ああ、こないだ川島さんが言ってたアレか。けっこう体力消耗するよな」

「奈緒もやってみたんだ? どうだった?」

「どうって……普通だよ。汗かいて疲れた、体重は変わってない。そんなすぐ効果が出るようなもんじゃないだろ?」

「そうだね」

 そういえばダイエット効果なんてものがあるんだっけ、すっかり忘れていた。美容のほうも忘れていたぐらいだ。
 そして、奈緒は幽体離脱はできなかったようだ。当たり前かな、誰でもできるようなら、もっと大騒ぎになってるだろうし。きっとあれは、アタシだけが特別なんだ。

「体って、重いよね」

「アホか、加蓮はもう少し太れ」

「じゃあ今から食べに行こっか? 最近この近くでみつけたお店、お客さん少なくて居心地いいんだ」

「……いちおう訊いとくけど、何屋?」

「誰でも知ってるハンバーガー屋さん」

「やっぱりか、うーん……駄目だ、あたしはパスで」

「えー、なんで?」

「ダイエットしながらファストフード食ってどうすんだよ。意味ないだろ」

 奈緒も全然太ってないのにな。

「だったら、アタシひとりで行こうかなー」

「でも、もうすぐ雨降るぞ」

 レッスン室の窓に目を向ける。暖かな陽光が差し込んで、きらきらと輝いていた。

「……いい天気に見えるけど? 天気予報でそうなってた?」

「予報とかは見てないけど、湿気の具合でなんとなくわかるんだよ」

「エスパーみたいだね」

「軽率に召喚ワードを口にするな。来たらどうする」

「これで来たらむしろ本物だよね」

 加蓮は笑った。奈緒もつられたように笑った。エスパーは、どこかでくしゃみでもしているかもしれない。
 超能力か、今だったらそれも信じられる気がする。奈緒の天気予報だって、見ようによっては一種の予知能力みたいなものだろう。

 だけど、アタシのは、もっとずっと面白いよ。


 加蓮はレッスンでの反省を踏まえ、離脱は3日以上の間隔を置くこと、時間は最大でも30分までとルールを定めた。いくら楽しいからといって、アイドルの活動に悪影響は与えたくない。
 それと、離脱中はきっと、なにをされても起きることはない。たとえばお風呂の外から家族に呼びかけられた際に、全くの無反応では心配するだろう。戻ってきてみたら本体が病院に担ぎ込まれていたなんて事態にもなりかねない。
 だから、離脱をするのは家の中でひとりきりのときだけと決めた。加蓮の母は専業主婦であるため、チャンスはそう多くない。自然と『3日以上の間隔』というルールにも合致した。

 何度か試してわかったのは、最大の飛行速度はだいたい全力で走るのと同じくらい、ただし長時間飛んでいても疲れるということはないので、結果的に走るよりもずっと速い。
 それから、交通機関は使えない。いちど駅で電車に入ってみたら、動き出した車両が体を貫通して走り抜けていった。あのときの光景はなかなかのホラーだった。
 つまり、移動の手段は自身の飛行のみ。ルールで決めた時間制限もあるから、それほど遠くまで行くことはできない。

 奈緒の家は距離がありすぎて無理だ。だけど、凛の家ならそんなに遠くないので、ちょくちょく覗きに行ったりもした。
 ふだんは格好つけてるけど、自室でひとりのときはけっこうだらけてるとか、なかなか気合いの入った下着を隠し持ってるとか、よく知っていたつもりでも、意外な顔が見えたりして面白かった。幽体離脱様様だ。
 もちろん、それでからかったりはしないけどね。


 最初のような感激こそ徐々に薄れていったものの、空を飛ぶというのは、他の何物にも代えがたい快感だった。

 解放されて初めてわかった、人間というものは苦痛に苛まれながら生きている。常に、絶え間なく。
 体の重さ、呼吸をする苦しさ、それから痛み。
 生まれてからずっとそうだから気にならないだけで、人間は、生きているというだけでいつも痛みを感じている。それは健康であってもだ。

 思えば、自分は普通の人より多くの痛みを味わいながら生きてきた。今でこそ日常生活に不便を感じない程度には健康になったものの、昔はなにもなくても常に自覚できるほどの苦痛があった。他人の『体調を崩した』が、自分にとっての日常みたいなものだった。
 なんでアタシだけ、と世界を呪ったこともある。そして、大人になるまで生きていられないのではないかという恐怖もあった。

 だから、これはきっと神様がくれたご褒美だ。
 あんなに苦しんできたんだもの、このぐらいの見返りがなくちゃ、割に合わないよね。


 加蓮は、ふだんは立ち寄ることもない駅の前を、上空から見下ろしていた。
 少し経って、ひとりの男性が改札口から出てくる姿が映る。それは加蓮の担当プロデューサーだ。
 急な残業とかはなかったみたいだね、よしよし。

 何日か前、ちょっとした世間話に交えて「プロデューサーって、どのあたりに住んでるんだっけ?」と訊いてみた。
 彼はプライバシー意識が高いのか、日頃から自身の情報を漏らすことがなかった。加蓮の他にも数名のアイドルをプロデュースしているが、その誰もが、彼の住所については知らないようだった。
 ひとり暮らしである、ということだけ、以前耳にしたことがある。346プロは福利厚生に手厚いと有名で、住宅手当なんかもかなり出ているだろうから、わざわざ遠くから通っているという可能性は低いはず、おそらく都内だろうとまではアタリをつけていた。
 プロデューサーの目にかすかな警戒心が宿るが、加蓮はそれには気付かないふりをして、「この仕事だと遅くなるときもあるでしょ、終電逃したりはしないの?」と続けた。
 彼は少し迷った様子を見せつつも、最寄り駅の名前を口にした。それぐらいでは住所の特定まではできないと思ったのだろう。
 加蓮は心の中で拍手を贈った。その駅は、降りたことはないが通り過ぎたことは数えきれないほどある。加蓮の家からもそう遠くはない、まっすぐ飛んで行けば往復してもまだ時間の余る距離だった。
 その後は、「そのあたりって行ったことないな、近くに遊ぶようなとこあるの?」などと適当な話題を振って話を終わらせた。

 ――では、ご案内してもらいましょうか。

 てくてくと歩くプロデューサーの横をぷかぷかと浮かんでついていく。
 駅から遠かったらどうしよう、という一抹の不安は杞憂に終わり、彼は、あまり大きくはないが新しめに見えるアパートの前で足を止めた。
 加蓮はエレベーターに向かう彼にはついていかず、郵便受けを見て部屋番号を確認した。そしてまっすぐ上に飛び、プロデューサーよりも早くその部屋の中に入った。

 へえ、意外と綺麗にしてるんだね、というのが第一印象だった。
 しかし、よく見てみるとそれは、片付いているというよりは物がない。物がなさ過ぎて散らかしようがない、という部屋だった。
 そこそこ広めのワンルーム、だけどせっかくの面積を無駄にするように、机がひとつと小さなタンスひとつ、あとはベッド、それしかなかった。備え付けのクローゼットが開いていて、ワイシャツやスーツが掛けられているのが見えた。机の上にはノートパソコンが乗っている。つまり最低限の衣類とパソコンしかない。
 いかにも、寝に帰るだけの部屋という感じだ。日頃から「仕事が恋人」と言っている彼らしいかもしれない。

 恋人といえば。

 うん、どう見ても女の気配はないね。
 この部屋に通い詰めるのは、いくらなんでも不便すぎるだろう、付き合っていれば多少なりとも私物を置くはずだ。それに……
 加蓮は部屋の壁を眺めた。正確には、壁にある加蓮のポスターを眺めた。それも壁紙に直接貼っているのではなく、簡素なものではあるが額縁に入れて飾られていた。
 なーんか嬉しいな、こういうの。……まあ、隣には奈緒のポスターがあって、更に隣には美嘉のポスターが飾られてるんだけども。
 職業がアイドルのプロデューサーだと知っていても、仏のように慈悲深い女でない限り、この部屋は嫌がるはずだ。そんな女はいない。

 玄関の方からカチャカチャと音がする。上がってきたプロデューサーが鍵を開けているのだろう。
 もうちょっとゆっくりしていきたいところだけど、そろそろ時間がヤバイかな。
 加蓮は玄関に向かい、ちょうどドアを開いたプロデューサーの胴体を突き抜けていった。

 ――また今度ね。


 加蓮は、離脱時間をもっと延長してもいいのではないか、と考えていた。
 最近は体が半身浴に慣れてきたのか、自らが課したルールの30分いっぱいまで離れていても、それほどの疲労は感じなくなっていた。少なくとも前のように翌日のレッスンにまで影響が出るということはない。
 不安があるとすれば、お湯の温度だ。30分離脱してから目覚めたとき、お湯はかなり冷めている。あれ以上温度が下がったお湯に浸かっていたら風邪を引いてしまうかもしれない。
 だったらお湯を多めに、普通に入浴するときと同じくらいの量でやってみたらどうだろう? 多少は冷めにくくなるはず、だけど体力の消耗は大きくなるかな?
 なにごともやってみなくちゃわからない、失敗したら失敗したで、今後の糧にすればいいんだ。だって人生は長いんだから。

 そもそも、それで離脱はできるのだろうか? という疑問もあったが、実際にやってみると、あっさりと体から抜け出せた。どうやら離脱の条件にお湯の量は関係なく、温度が重要らしい。

 その日、加蓮が肉体から離脱して10分ほど経ったころ、突然ぐらりと視界が揺れた。
 めまい? と思いながら空中に静止する。違う、幽体にめまいなんて起こるはずがない。
 揺れてるのは加蓮ではなかった、地面が揺れていた。

 地震……けっこう大きいかな?
 
 空中にいる加蓮は振動を感じることはない。だが自分自身が揺れに含まれることなく、景色だけが揺らいでいるというのは、どこかゾッとする光景だった。大地や建物がゆらゆらと揺れるさまは、なにか得体の知れない巨大な生き物が身をくねらせているようにも見える。
 地震は、30秒もかからずにおさまった。道中で足を止め、様子をうかがっていた人々がわらわらと動き始める。遠くの方では、止まっていた電車も走り出した。
 建物が倒壊するほどの規模ではなかったにしろ、まるで一時停止していた動画を再生したかのように、さっさと動き始める地上の人々の姿が、加蓮には、なんだか異様に映った。

 加蓮は、はっと我に返って反転し、元来た道を全速力で飛んだ。
 自宅から現在地まで、およそ10分の時間がかかっていた。当然、帰りにも同じくらいの時間がかかる。

 体は! アタシの体は大丈夫!?

 ほぼ一直線に自宅の浴室に戻り、即座に自分の体に飛び込む。
 これで目が覚めるはずだった。今まではずっとそうだった。
 しかし、今回に限っては、そうはならなかった。加蓮の幽体は、体を素通りした。

 揺れで体勢が崩れたのか、加蓮の体はいつもより深く浴槽に沈んでいた。今日は普段より多くお湯を張っていた、その水面は、ちょうど顔の半分あたりにあった。鼻も口も、その下だ。
 眠り続ける加蓮の顔は、穏やかに目を閉じたまま、紫色に染まっていた。
 
 ――嘘でしょ。

『窒息』という単語が脳裏をよぎる。
 体に戻ることはできなかった。何度繰り返しても、建物の壁や他の物質と同じようにすり抜けてしまう。
 どうする? まずお湯から出さないと。それから、人工呼吸? 心臓マッサージ? 救急車を呼んで……
 思考が氾濫する。その全てが、今の加蓮にはできないことだった。すべての物質をすり抜けるこの状態では、浴槽から体を出すという、ただそれだけもかなわない。
 家の中に人はいない。加蓮は離脱の際は家族のいない時間を選んでいた。当分家に帰ってくることはない。
 壁を抜けて屋外に出る。そこから少し飛んだ先にある大通りでは、たくさんの人が、地震なんてなかったような顔をして歩いていた。

 ――助けて!

 声の限りに叫んだ、つもりだった。

 ――向こうの家にアタシがいるの! お風呂でおぼれてるの! 誰かきて、助けて!

 反応はない。道行く人の目の前をめちゃくちゃに飛び回っても、体の中を突き抜けても、誰ひとりとして、そこにいる加蓮に気付くことはなかった。

 どうしてこんなことになっちゃったの? 空なんて飛んだから? みんなの家を覗き見したから? アタシそんなに悪いことしたの?

 ――無視しないでよ!!

 焦燥と絶望が怒りに転換され、気付けばそう叫んでいた。
 それから道行く人々に、思いつく限りの罵倒の言葉をひたすら浴びせかけた。そのひとつも、音になることはなかった。

 地震発生から、どれだけの時間が経っただろう? 蘇生措置が間に合うのはどのくらい?
 わからない。
 わからないけど、たいして知識を持ってるわけじゃないけど、そんな時間は、もうとっくに過ぎているだろうことだけはわかる。

 ……嫌だ。

 せっかくアイドルになったのに、まだまだ、これからだったのに。

 誰か……聞いてよ。

 泣けるものなら泣いていただろう。しかし、どれだけ振り絞っても、声も、涙も出なかった。



 ――わたし、まだ、死にたくないよ。 



 その日観測された地震は、震度5強、マグニチュード5.5と発表された。
 地震の多い日本では、さほど珍しくもない規模である。これにより、1人の死者と16人の重軽傷者が出た。
 大多数の日本人にとっては『いつもの地震』であり、大きな話題になることもなく、忘れられていった。
 だが、346プロダクションの内部は、それからずっと重苦しい空気に包まれていた。
 地震による人的被害、その唯一の死亡者が、346プロ所属アイドルの北条加蓮だったからだ。
 死因は水死。地震発生時入浴中だった加蓮は、なんらかの理由で意識を失い、浴槽の湯に沈んで窒息したと見られている。

 そしてもうひとり。
 地震発生時、屋外を徒歩で移動中だった白菊ほたるが、マンションからの落下物を頭部に受け、昏倒。通行人が119通報し、病院に搬送された。検査では脳に損傷や出血は見られなかったが、丸一日以上もの間、意識不明だったという。
 ケガそのものは重いものではなく、入院も3日程度だったらしいが、それ以降、346プロのアイドルたちが事務所でほたるの姿を見かけることはなかった。彼女は寮住まいだったが、寮の自室にも戻っていなかった。

「地震を自分のせいだと思っているのかもしれない」

「アイドルを辞めるつもりでは?」

 そんな噂が流れ、加蓮の訃報によるショックも冷めやらないアイドルたちの表情を、より一層曇らせた。

 地震からおよそ1ヶ月が経過した頃、ほたるが事務所を訪れた。
「みんな、久しぶり」と手を振るその顔は、どこか固く、緊張しているように見えた。
 ほたるが語ったところによると、この1ヶ月、ほたるは負傷の連絡を受けて見舞いにやってきた母親と共に、鳥取県の実家に帰省していたらしい。休養の理由については、頭部に衝撃を受けたことによる、軽い後遺症が残っていると説明した。

 それから数日後、ほたるから担当プロデューサーに「しばらくは仕事は受けずにレッスンに専念させてほしい」と申し出があり、プロデューサーとトレーナーで協議し、これを承諾した。
 休養を明けてからのほたるは、ブランクのせいか、それとも後遺症の一環か、歌にもダンスにも、どこかぎこちなさが見られ、到底ステージに上げられるレベルではないと判断されたからだ。他の寮住まいのアイドルから、「箸の使い方がヘタになった」と言ってスプーンやフォークで食事しているとの報告も上がっている。
 復帰当初は、はたしてカンを取り戻せるのだろうかと危ぶまれたものだが、仕事を取らない代わりに他のアイドルよりも多くスケジュールされたレッスンを、ほたるは執念にも似た熱心さで取り組み続け、歌やダンスの違和感はまたたくまに改善されていった。表現力に至っては、前よりもいいぐらいだとトレーナーは言った。
 また、後遺症のひとつに、自分のロッカーの場所を覚えていないといった軽度の記憶障害があったが、同僚アイドルたち、特に寮住まい組の協力もあり、今では日常生活に困るようなことはないらしい。

 その日、ほたるは予定されていたレッスンを終え、事務所をあとにした。
 346プロの寮は事務所にほぼ隣接して建てられており、歩いて2分もかからず帰宅することができる。しかし、そのときのほたるは、寮の前を素通りした。
 大通りに出たあと、駅とは反対方向の、あまり栄えているとはいえない区画に足を進める。同僚のアイドルたちは、通常このあたりにやってくることはないと、事前に調査を済ませてあった。

 ほたるはひとつの建物に足を踏み入れた。
 そこは全国展開しているファストフードのチェーン店で、立地条件のせいか、客はあまり多くない。ほたるはさっと店内を見回したあと、空いているレジカウンターの前に進み、店員に向けて言った。

「ポテトのLください」



   ~Fin~

終わりッス。
ありがとうございました。

短いですが投稿させていただきます。よろしくお願いします

初めまして。○○大学の文学部に所属している鷺沢文香といいます。趣味は読書です。昔から本を読むのが好きだったので文学部を志望しました。

最近、同じ学部の方に勧められて自分でも物語を綴ることを始めてみました。彼女曰く「自分だけの物語を書いてみるのは楽しいよ。体験談なんか入れてみると感情移入がしやすいから筆も進むしね♪」とのことでした。

「君、アイドルとか興味ない?」

眼鏡を掛けた明るいスーツの男性は私、鶯琴香の手を握りながら興奮気味に尋ねてきた。

「あの…ええと…」

答えあぐねている私に男性は続ける。

「大丈夫!大丈夫!見学してからでいいからさ!連絡先を渡しておくからいつでも連絡してきてよ!じゃあね!」

男性はアイドルのプロデューサーらしく所属事務所はCGプロダクション。CGプロダクションといえば人気アイドルを何人も輩出している大手で芸能界に疎い私でも知っている。







今日はここまでにしておきましょう。明日もう一度見直してみて不要な部分を無くせば読めるものにはなると思います。いつか『私』の物語を読んでくれる人もいるのでしょうか。その日が来るかは分かりませんが。

「まさか来てくれるとは思わなかったよー!! 嬉しいなぁ。ささ!座って、座って!京子ー!お茶を入れてもらっていいか?それに摘める位のお菓子も!」

名刺に書いてあったCGプロダクションを訪れるとそこには何人もアイドルが雑談をしたり、テレビを見たり、電話をしたりとそれぞれが楽しそうに過ごしていた。

「あの…それでアイドルのことなんですけど…お誘いお受けしようと思います。ご迷惑をおかけするかもしれませんがよろしくお願いしますね。プロデューサーさん」

「本当にかい?やった!今日はパーティーだ!ヒャッホウ!」

プロデューサーさんは嬉しそうに跳ねながら手を叩き、アイドルはその様子を見て茶化し、それにプロデューサーさんが「なんだよ!!」と突っ込んだりとプロダクション内の雰囲気は明るいものだった。

『私』もこのプロダクションの一員でいることができるんでしょうか?少し不安です。






「プロデューサーさん…引っ込み思案で何事にも怯えていた私をここまで引っ張ってきてくれたのは貴方です。月が綺麗ですね」

月が照らすのは私達2人だけ。ライトも無い丘の上で『私』はプロデューサーさんに自らの思いを告げる。

「ごめん、君の好意は受け取れない。俺は好きな人がいるんだ。だから…ごめん」

いつも戯けているプロデューサーさんは真面目な表情で『私』見つめる。その眼は『私』ではなく他の子を見ているのだろう。

悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。クヤシイ。クヤシイ。クヤシイ。クヤシイ。クヤシイ。クヤシイ。クヤシイ。クヤシイ。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。

ダカラ

「私こそゴメンナサイ。でもずぅっと一緒、ですよ?」

プロデューサーさんの首筋に2つの牙を持った電気を帯びているスタンガンを当てる。首筋に当たるとそれはパチリと強く光りプロデューサーさんの意識を刈り取った。





「おい、文香!これは何のつもりだ!離せ!この!くそッ!」

檻に必死に掴みかかって『私』に吠えるプロデューサーさん。ああ、なんて可愛らしいのだろう。今は彼の眼は『私』を見ていないが何れはきっと『私』のことしか考えられなくなるだろう。ライターで錐の先端を炙りながら考えていた。

「ああ、文香!文香ぁ!どこに行っていたんだ!寂しかったよぉ…なんで2週間も会ってくれなかったんだ…暗いし寂しいし死にそうだったよ」

ぽっかりと空いた眼孔が『私』を見つめる。これが欲しかった。プロデューサーさんの眼の入った瓶を撫でる。食べてしまいたいほど可愛らしい。

「大丈夫ですよ、プロデューサーさん。『私』だけが貴方のアイドルなんですから。だから貴方も『私』だけをミテクダサイネ?」

『私』だけの物語(プロデューサーさん)。読んでくれる人は1人だけ。作者と読者だけでいい。その関係が続く限り2人の世界は永遠なのだから。

これにて投下は終わりです。ここまで読んでいただきありがとうございました

忘れていました。タイトルは「うつろ」です

上げさせていただきます。少し解釈が異なる場合があります。ご注意ください。

ちひろ「あーあ、この前古本屋で買った紅白シマシマおじさんを探す絵本、答えに赤いマジックでバツがついちゃってる……あ、もうカメラ回ってますか?……コホンッ」


ちひろ「さて、『耳だけ極楽』というお話があります。念仏を聴いた『だけ』で実行はせず、知った気になった男。彼は死後、耳だけ天国に行き、体は地獄に落ちてしまった……そんなお話」


ちひろ「知ったつもりというものは恐ろしいもので、自分はそれを理解していると思い込んでしまうため、それ以上その知識に深く入り込もうと思わない」


ちひろ「場合によっては本当の知識を教えられてもそれを信じることが出来ない、酷いときはそれを嘲笑って断ずる」


ちひろ「これは案外誰にでも起こり得る弊害です。人間は中途半端に頭のいい生き物ですからね」


ちひろ「間違い探しなんて良い例です。一度は思ったことありませんか?『◯つも間違いなんてないよ』と。全部みた つ も りになっているんですね。俗にいうアハ体験などの『変化』も同様で、中々気付けない」


ちひろ「ここで大事なのは、テーブルの上の間違いより先に、自分というそれに気付くこと。決してそのままにしてはいけません」


ちひろ「放置された自分という『間違い』は真実に届くことはなく、それどころか無意識のうちに新しい『間違い』を生み出し肥大化し……」


ちひろ「そのうち、この絵本のように……ふふ♪」


『まちがいさがし』

注・P視点でお送りします。


ガチャリ、という金属音が無人の事務所に響く。


「おはよーございまーす、と……一番乗りだな。さて仕事仕事」


最近現場に出ることが多かったせいか、書類仕事がたまりにたまってしまっているので今日は一日デスクワークだ。俺は現場の方が性に合うのか事務仕事は苦手なのでこうして早めの出勤というわけだ。


「社畜はつらいよっと。書類は引き出しにためてあるから……ん?なんだこれ」


いつもの席に着くと、俺の机の上に明らかに仕事とは関係のない陽気な文面の紙切れが置いてあり、そこにはこう書いてあった


『チキチキ☆抜き打ち間違い探し・全4問


全問正解→おめでとうございます!あなたはアイドルのみんなから信頼してもらえる立派はプロデューサーです


3問正解→惜しい!あなたは特に大きな歪みもなくアイドルを導けるプロデューサーです


2問正解→ピンチ!あなたはアイドルたちと何度もすれ違いをしますが、上手く取り繕うことはできるプロデューサーです


1問正解→残念!あなたはアイドルをトップに連れて行くのにはちょっと相応しくないプロデューサーです


では、頑張ってください!


※明確な間違いがある以上、言い訳等は一切受け付けません』


ひょうきんな書き味とは裏腹に結構物騒な物言だなぁ、と思いながらその文章を読み終えた。


そんなことより、間違い探し?周りを見回してみるが問題のようなものは見当たらない。ちひろさんの悪戯か?いや、彼女は昨日から二日間の出張だ。


……まぁ一応注意しておこう。なにかあったら自然にわかるだろうし。


おっと開始が遅れた。さーて、仕事だ仕事。

ーーーーーーーーーーーーー

ガチャ


「おーすプロデューサー、今日は随分早いな?」


「おう、おはよう拓海。今日はやることが山積みなんでな」


そういいつつ目の前の担当アイドルの一人、元ヤンアイドル向井拓海の方を向く。……間違いとか特にはないな。別に顔が里奈ってわけでもないし、胸部が減ってたりもしてない。


「……ジロジロ見てんじゃねぇ、殴んぞ?」


よし、本物だ。


「すまんすまん。あれ、今日のレッスンってこんな朝からだったか?」


「話逸らしやがって……おう、本当はレッスンまでもうちょっと時間があるんだけどよ、ちょっと調子がいいんで自主練しときたくて、昨日の宿泊先から直で原付きトバしてきた!」


「昨日……たしか海辺での撮影か。うまくやれたか?」


「最高!水着でバイク乗り回す気持ちよさったらねぇぜ!」


「お、おう。海の方はどうだった?」


「あぁ!流石のアタシも海とあったらこの身朽ち果てるまで泳ぎ回るしかねぇってもんよ!」


「で、朽ち果て過ぎて早苗さんに投げ飛ばされたと」


「い、言うな馬鹿!」


「ははっ、拓海らしいよ」


「……おう。じゃ、ちょっくら行ってくる」


P「おう、行ってら~」


バタン


……なんか最後素っ気ない態度取られたか?まぁそんなお年頃ってやつだろう。


別に事務所とかに異常があるわけでもなさそうだし、拓海もいつも通りだったし……やっぱりイタズラか何かだろう。


ブブーッ

拓海が出かけて1時間ほど経った頃。


ガチャッ


「プロデューサー、おっはよ~★」


と、若く元気に満ち溢れた声で挨拶してくれたのはカリスマJKアイドル城ヶ崎美嘉の妹、ちびギャルアイドル城ヶ崎莉嘉だ。


「おう、莉嘉か、おはよう」


「……うん!今日は凸レーションでミニライブだよね!?プロデューサーは来るの!?」


「すまん、俺は今日は一日ここでデスクワークなんだ。きらりの言うことをちゃんと聞くんだぞ?」


「そっか……わかった!絶対盛り上げてくるからプロデューサーも頑張ってね!」


「おう!成功するって信じてるぞ!みんなの力は俺がよくわかってるからな!」


「……」


まるで落ち着かない子犬のようにはしゃいでいた莉嘉が急にその挙動を止めた。


「?どうかしたか?」


「ホントに?」


「?」


「プロデューサー、本当にアタシたちのことわかってくれてる?」


「……勿論」


彼女たちのことを考えなかったことなんて殆どない。それだけは誓って言える。


「……お仕事行ってくるね」


そう一言告げ、自慢の金色のツインテールを揺らしながら仕事に向かってしまった。


……拓海と同じだ。話が終わって出ていくときになると元気がなくなっているように見える。となれば、もっと現場までついていった方がいいのかも知れない。


ブブーッ

昼過ぎ。今日は忙しいのでカロリーとメイトになれる食品で昼食を済ませた。


バターン


「おはようございます。ふふーん、かわいい僕の出社ですよー」


「おはよう、幸子。というわけで巴とイチゴパスタ食レポ行ってら」


「え、僕そんなの聞いてませんよというか誰ですかこの真っ黒な人たちは待ってくださ」


ずるずる、と引き摺られていく幸子。幸子のために村上家のちょっぴりゴツいお兄さん方に送迎をお願いしておいたのだ。


次は何をさせようか……楽屋のお茶請けに百味ビーンズとかを仕込むドッキリとかいいかもしれない。


ブブーッ




卯月「もう一人の私がやっておいてくれたらいいのに」

卯月「皆さんは、そういう事を考えた事はありませんか?」

卯月「夏休みの宿題、もう一人の私がやっておいてくれれば気兼ねなく遊べるのに」

卯月「テスト前の勉強、もう一人の私がやっておいてくれれば徹夜せず寝られるのに」

卯月「体力測定のマラソン、もう一人の私がやっておいてくれれば疲れずに済むのに」

卯月「なんでも言う事を聞いてくれるもう一人の私がいたら、とっても楽に毎日を過ごせると思うんです!」

卯月「でも、もし本当にそうなったんだとしたら」

卯月「……少し、不安になりませんか?」

『another our』





 こんにちは、島村卯月です!

 最近は少しずつ暑さが薄れてきて、過ごしやすい日々が続いてますね。
 夏休みはもう終わっちゃいましたけど、もうすぐまた連休がきます。
 何しようかな。
 せっかくの三連休なんですから、楽しまないと勿体無いです!

 ……なんて、言ってる場合じゃないんです。

 目の前に積み上げられた問題集が、机と私の心に強い圧力を掛けます。
 明日から中間テストなんですよね。
 こんなことなら夏休みももっとちゃんと勉強しておけばよかったのに……
 なんて、後の祭りすぎますよね。

 もっと言うと、この宿題は一週間前に出されたんだから少しずつやっておけば良かったんですが。
 テスト前の宿題っていっぱいありますし……
 でもお仕事忙しかったし、夜はお友達と電話したいもん……

「終わらない……ママー!」

 呼んでも助けなんて来ません。
 当たり前ですよね、もう深夜2時になっちゃってるもん……
 眠いけど、早く終わらせなきゃ……
 でも、そろそろ寝ないと明日起きられない……

「うーん、もう一人の私がやっておいてくれればいいのに」

 疲れてるんでしょうか。
 でも、こういう状況になると多分みなさんも考えた事があると思うんです。
 私が寝てる間に、もう一人の私がやっておいてくれたらいいのになーって。

 ……うん!明日早く起きてやる事にします!

 目覚ましのアラームを五時半にセットして、私は布団に潜り込みます。
 目も身体も疲れていたからか、直ぐに私の意識は薄れていきました。





 ーーピピピッ!ピピピッ!

 うーん……あと五分……はっ!

 急いでスマホをつけると、表示された時刻は七時ジャスト。
 五時半から五分ごとに鳴り続けてたアラームの十九回目にしてようやく起きることが出来た私は、飛び起きて机に駆け寄りました。
 まずいです!宿題終わってないし今日のテスト範囲まだ復習し切れてません!

 どうしましょう!
 今からやって間に合うかな!
 それともいますぐ学校に行って友達に少し手伝って貰って……
 とにかく、早く着替えなきゃです!

 それにしても、なんだかすっごく身体が重いです……
 寝るの、いつもより遅かったからでしょうか……

 ……あれ?

 机の上に広げられた問題集。
 その解答欄全てに、答えが書き込まれていました。
 ペラペラとページを捲ると、それは最後のページまで同じで。
 要するに、私の宿題は終えられていて……

 ……私、寝る前に解き終えましたっけ?
 それともママがやってくれたんでしょうか?
 不思議です、どうしてでしょう?
 うーん……

 と、問題集を捲っていて気付いたんですけど、なんとなく全部の問題に見覚えがあるような気がします。
 こう、一回解いたことがある問題、みたいな感じで。
 って事はつまり……
 ……どういう事なんでしょう?

 あ、悩んでる暇はありませんでしたね!
 急いで支度して朝ごはんを食べて、私は学校へ向かいました。




 一限目は数学Bのテストです。
 開始のチャイムと共に問題用紙を捲れば、確率や数列の問題がズラリ。
 どうしよう、どの公式を使えばいいんだっけ……
 うーん……そもそも、公式がどんな式だったか覚えてないよ……

 ……あれ?

 公式を思い出せず、行き当たりばったりで解き進めていたんですが。
 何故か、解けました。
 なんででしょう?
 理解出来てなかった筈なのに、すらすらとはいかずもそこまでつっかからず答えまで辿り着けたんです。

 その後の問題も、何故かこうすれば解ける気がする、やなんとなくこんな感じかな……で解けて。
 最終的に、解答用紙のほとんどが埋まりました。

 授業で一度習っていたから、頭のどこかできちんと記憶されていたんでしょうか?
 それにしても、テスト問題に似た問題をつい最近解いた気もします。
 えっと……そうです、昨晩睨めっこしていた問題集ですね。
 でも、私は最後までは終わらせられなかったのに……




 私の疑問なんて知らないと言うかのように、テスト終了のチャイムは鳴りました。
 そして疑問だらけなのに解けてしまったテストの解答用紙が回収されてゆきます。
 そしてその後に、宿題だった問題集も回収されました。

「ねぇ卯月ちゃん、どーだった?」

「え、私ですか?!えっと……多分、埋める事は出来たかな」

「結構難しかったけど、宿題と殆ど同じ感じの問題だったよね」

「俺ノー勉だけど8割いったわ」

 テスト後の休憩時間中、クラスのお友達との言い訳合戦タイムです。
 でも、私の頭の中はそれどころではありませんでした。

 終わらせてない筈な問題集が終わってて。
 暗記した覚えのない公式を覚えてて。
 解いた覚えのない問題を、解いたことがある気がして。
 これって……

 ……睡眠学習?
 なんだか意味が違う気がします。
 えっと、つまり。
 これって……

 寝てる間に、もう一人の私がやっておいてくれた……?

 そうとしか思えません。
 でも、本当にそんな事なんてあるんでしょうか?
 確かに、朝起きたとき全然寝れてなかった感じはしましたけど……
 それは、本当に全然寝れてなかったから……?

 考えは全くまとまりませんでしたけど。
 その後のテストも、何故か大体解くことができました。




 テスト期間なので、レッスンはお休みです。
 家に帰ってお風呂に入った後、私は昨日と今日あったことを思い返しました。

 もし本当にもう一人の私がやっておいてくれたんだとしたら、それってとっても凄い事じゃありませんか?!
 だって、勉強しなくてもテストが解ける様になるんです!
 それに、宿題だって気にせず遊ぶこともできますし。
 あと、自分は徹夜しなくてもよくなって……

 さて、そんな事を考える私の前には。
 英語の教科書とノートと単語帳が広がっています。
 明日の最難関科目は英語ですから。
 少しでも沢山、英単語を覚えなきゃです。

 それに、英語のノートも提出しなきゃいけないんです。
 授業中に教科書の英文を和訳したところを、ノートに記入する。
 それ自体は別段大変な事じゃないんです。
 きちんと毎回授業に出てれば、ですけど。

 ……ノート、空白多いなぁ。

 お仕事で出席できなかった回の部分は、和訳をノートに書いていません。
 だから今から、教科書の英文を訳さなきゃいけなくって。
 運が悪い事に、英語の授業がある日は高頻度でお仕事がはいっていて。
 今から全部訳していたら、徹夜でもしない限り他の科目に手が回りません。

 うーん、取り敢えず少しずつ進めましょう。

 




「うぅ、終わらないよ……」

 時計の短い針が真上を差す頃。
 和訳作業は、大体六割くらいしか終わっていませんでした。
 まだ地理と国語もあるのに……
 あと英単語覚えて、古文単語覚えて……

 でも、そろそろ眠くなってきました。
 このまま続けても、きちんと頭に入る気がしません。
 今回こそ、明日早く起きてやりましょうか……

 ……あ、そうでした。
 もう一人の私がやっておいてくれれば、私は寝ても問題ないんじゃないでしょうか?

 そう考えた私は、さっそく布団に潜り込みました。
 もしダメだった時の場合に備えて、アラームは昨日と同じく五時半にセットします。

 お願いします!頑張って下さい、もう一人の私!

 自分自身に願いを託すと、私の意識は直ぐに薄れてゆきました。
 




 ピピピッ、ピピピッ。

 アラームの音で眼が覚めると、時刻は六時半でした。
 急いで英語のノートを開くと……やりました!
 全部和訳して記入されています!
 古文単語と英単語帳をペラペラ捲ると、何故だか大体覚えています!

 やっぱり、もう一人の私がやっておいてくれたんですね!
 その代わり、とっても眼と身体が重いですけど……
 五時半にアラームをセットしてあるのに私が今起きたって事は、ついさっきまで私は勉強していたのかもしれません。
 それでも、辛い過程を飛ばして結果だけで済むのはとてもありがたいです。

 意気揚々と学校へ向かい、テストに臨みます。
 解答欄は大方埋まりました。




 ……眠いです……

 ある日、事務所でレッスンが午前中も午後も入っている日の事です。
 昨晩かなり遅い時間までクラスの友達と通話しててとっても身体が重い日に、ニュージェネレーション三人でお喋りしながらレッスンルームへ向かっている時。
 凛ちゃんと未央ちゃんの声が時折遠く聞こえるくらい、私はかなり疲れていました。
 正直に言えば一時間くらい寝たいです。

 言い訳をさせて貰えるなら、昨日は学校でマラソンもあったんです。
 本当は、帰って直ぐ寝ようとしたんですけど……
 友達と少しおしゃべりしたくなっちゃって……
 遅くまで通話していた昨晩に後悔しつつ、私は歩きました。
 
「大丈夫?卯月」

「え?あ、はい!頑張ります!!」

 二人に迷惑かけちゃいけませんよね。
 でも、今のコンディションでレッスンして最後まで体力保つかな……コンディション管理はアイドルの必須要項なのに……
 反省して、今日はいつも以上に頑張らなきないけません。
 私たち三人のライブも近付いてきてますし。

 ……うぅ、どうせなら。
 このレッスンも、もう一人の自分が受けてくれればいいのに。





「お疲れ様、卯月」

「お疲れーしまむー!」

 ……え?

「あ、あれ?レッスンは……きゃっ!」

 気が付けば、私はレッスンルームの鏡の前に立っていて。
 突然襲いかかってきた疲労に、思わずその場で座り込んでしまいました。

「おっとっと、大丈夫?」

「さっきまで、あんなに頑張ってたからね。少しストレッチしよっか」

「え、えっと……レッスンは……」

「何言ってるのさしまむー、今丁度終わったところでしょ?」

 え?
 つ、つまり……

 また、もう一人の私がやっておいてくれたんでしょうか?

「それにしても凄かったね。卯月、いつもより動きがキビキビしてたって言うか……」

「うんうん!なんだか頑張り過ぎって感じもしたけどね。今になって疲労がきたのかな?」

「あ……え、そ、そうですね!もうすぐライブですから。島村卯月、頑張りました!」

 よくやく頭の整理が追いついてきました。
 やった記憶はありませんが、私たちの曲のダンスを完璧に覚えています。
 今ならバッチリ踊れそうです。
 その分、今になって一気に疲れが襲ってきましたけど。

「部屋に戻って、少し休んでから帰る?」

「そうですね……結構疲れちゃいました」




「三人ともお疲れ様。特に卯月、トレーナーさんが褒めてたぞ」

「お疲れ様、プロデューサー!」

「お疲れ様です、プロデューサーさん!」

 私たちの部屋に戻ると、プロデューサーさんが迎えてくれました。
 ライブが近付いてて私たちよりもハードな量の仕事をこなしている筈なのに、笑顔でこっちに手を振ってくれて。
 それだけで、私の心はあったかくなります。

「ね!ほんと凄かったんだよ、今日のしまむー!」

「あ、何か飲むか?今ちひろさんいないけど、俺でよければお茶淹れるぞ」

「あ、大丈夫です!私が……あれ?」

 自分が思っている以上に、私の身体は疲れているみたいです。
 座ったソファから立ち上がれませんでした。

「座ってなって、疲れてるだろ。時間あるなら少し寝てったらどうだ?」

「そうですね。すみません、少しだけ休ませて貰います」

 プロデューサーさんが淹れてくれたお茶を飲んで。
 凛ちゃんと未央ちゃんとお話ししてるうちに、気づけば私は夢の世界へ落ちていました。




 それから、私は事あるごとにもう一人の自分に押し付けてきました。

 模試前日の勉強や数学の予習。
 長距離走やシャトルラン。
 疲れた日のレッスンや苦手な俳優さんとの収録。
 そしてその全てを、もう一人の私は完璧な形でこなしてくれました。

 私は完全に依存しきっていました。
 都合の良い、全てを押し付けられる私自身に。

 なんて、楽な人生なんでしょう。
 なんて、苦のない人生なんでしょう。
 嫌なこと、辛いことを全て押し付けて。
 私はその結果だけを受け取ればいい、なんて。

 でも、やっぱり。
 私は不安でした。

 本当にこのまま、いつまでももう一人の私が存在してくれるんでしょうか?
 本当にこのまま、ズルし続ける人生でいいんでしょうか?
 ほかのみんなが頑張っているのに、私だけそれをしないでいいなんて。
 みんなが苦労しているからこその喜びを共有してる中、私だけそれを実感出来ないなんて。





 そして、ライブを二日後に控えた私は。
 今までで一番の悩みを抱えていました。

 それは、プロデューサーさんの事です。
 今まで一緒に進んできてくれたプロデューサーさんに、全てを打ち明けるかどうか。
 信じてもらえないかもしれないけど、怒られるかもしれないけど。
 これからは迷うことはあっても、きちんと自分自身の力で乗り越えます、と。

 たとえ何を言われても、どんな結果になっても。
 私は受け入れようと思っています。
 でも、その為には。
 私はきちんと、自分の言葉で打ち明けなきゃいけなくて……

 もう一人の自分が、私の代わりに打ち明けてくれれば……

 ……その考えを、やめなきゃいけないんですよね。
 でも、もうずっと頼りっきりで。
 今更自分を信じる事ができなくて。
 依存してる事は分かってても、抜け出すのは怖くて。

「どうしよう……私……」

 悩んで、考えて、決意は固まらなくて。
 眠りに落ちたのは、かなり遅い時間でした。




 朝、太陽の陽で私は目を覚ましました。
 アラームが鳴るまで、まだ三十分もあるくらいの時間です。
 遅くまで寝れなくて、目が重い筈なのに。
 いつもだったら、二度寝しようかな、なんて考える筈なのに。

 ……よし、頑張ります!

 心はどこか晴れ晴れとしていて、射し込む光は心地よいです。
 決意は固く、今にでも飛び出したいくらい。

 私は決めたんです!

 きちんと全てを伝えて、今後はちゃんと自分の力で乗り越える、って。
 今まででお世話になってきたもう一人の自分とはお別れして、自分を信じよう、って。
 ズルなんてせず、頑張って、今まで以上に頑張って。
 私は、島村卯月は、堂々とステージの上に立ちたい、って。

「行ってきます!」

 かなり早いですが、私はすぐ支度を終えて家を飛び出しました。
 いつも通っている道も、時間と気持ちが違えば全く別の風景です。
 その全てが心地よくて、なんだか楽しくなって。

 私は笑顔で、道を歩きました。





「おはよございます!島村卯月です!」

「お、おはよう卯月。早いじゃないか」

 事務所へ着くと、プロデューサーさんは既にパソコンとにらめっこしていました。
 こんなに早い時間から、プロデューサーさんは頑張ってたんですね。
 改めて、感謝の気持ちでいっぱいです。

「プロデューサーさん!少しだけ、お話ししてもいいですか?」

「ん、いいぞ」

 迷いはありません。
 心は変わりません。

 私は一切合切包み隠さず、今までの出来事を語りました。





「……なるほどな。俄かには信じがたいけど……でも、卯月はそれを俺に話してくれたんだな」

「はい!私、決めたんです。自力で乗り越えなきゃ、意味がありませんから!」

 自分と、プロデューサーさんと約束しました。
 きちんと自分で努力して、これからももっと輝きたいから。

 全てを伝えて、本当によかったです。
 悩んでクヨクヨしながら続けてても、きっと良い結果にはならなかったでしょうし。
 今は、とても心が軽いですから。
 
「ありがとう、卯月。俺は卯月のそう言うところが大好きだぞ」

「……えっ、あ、あの、それって……」

 ぷ、プロデューサーさんの事だから深い意味はないのかもしれませんが。
 もしかしたら、もしかしたりして……

「つまり、あの……!」

 プロデューサーさんは、私のことを……!

 と。

 そう、尋ねようとした時でした。
 




「……あ、あれ?私、なんで事務所に……?」

 私の口が、勝手に動きました。

「どうしたんだ?卯月。何かあったか?」

「……いえ!大丈夫です!」

 ……え?ど、どう言うことですか?!

 急いで頭をまわそうにも、別の思考に邪魔されました。
 唐突に、全く違う言葉と思いが頭に流れ込んできたんです。

『結局、頼っちゃったんですね。でも、これからは本当に自分の力で頑張りますから!』と。

 ……嘘、ですよね?
 私、自分で決意したつもりだったのに……
 自分で覚悟を決めて、自分の言葉で伝えたつもりだったのに……
 私は、押し付けられた側の……!

『それに、本当に今回は自分で決めた事ですから!もしかしたら、もう一人の私が力を貸してくれたんでしょうか?なら、もう大丈夫です!』

 ねぇ!
 私の頑張りは、全部作られたものだったんですか?!
 私の決意は、全部押し付けられたものだったんですか?!
 私は……!

『そろそろ、凛ちゃんと未央ちゃんも来ますよね。明日はライブですから!いつも以上に気をつけて通しのレッスンをしなきゃいけません!島村卯月、頑張ります!』

 届いてよ……!
 ねぇ、私!
 私が少しでも『もう一人の自分がやってくれたら』なんて考えたら。
 それだけで……!

 少しずつ、自分の意識が薄れてきました。
 体も、自分の意思では動きません。
 プロデューサーさんとお話しをする私は。
 とても、幸せそうで。




 ……い、嫌です!
 私、消えたくない……!

 もしかしたら、今まで押し付けてきた私もこうだったんでしょうか?
 願った私が、自分の意思だと思い込んで頑張って。
 新しい私が作られて、結果だけを受け取って。
 こんなのって……!

 そんなの嫌です!
 消えたくない!
 これからも沢山の私が消えていくなんて!
 そんなの……!

 やだ……!やだよ!
 誰か助けてよ!私を止めてよ!
 消えたくないよ……!怖いよ!

 私はーー!






「さ、頑張ってこい!」

「はい!島村卯月、頑張ります!」

 私たちのライブが始まります!
 さっきまで、緊張して足がすくんじゃって。
 もう一人の自分が、なんて考えちゃってましたけど。
 私は自分の力で乗り越えるって決めたんですから!

「最高のステージにしますから!プロデューサーさん、見ていて下さい!」



以上です
お付き合い、ありがとうございました

そろそろHTML化依頼を出してこようと思います
投稿して下さった方々、読んで下さった方々
本当に、ありがとうございました

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