追われてます! (1000)


【追われてます!】

 追われている。

 夏の日の夕暮れ。
 まだ暑さの残る外気から逃れるように、クーラーの効いた部屋に篭っている。

 もうすぐ夏休みが終わるなあ……なんて、向かいに座る男友達が呟いた。

 テレビでは甲子園の中継。
 蝉の鳴き声はもう聴こえない。

「ていうか、こんな量の課題なんて終わるわけなくね?」

 と俺が声を上げると、

「ありえないだろ、これは紛れもなくいじめそのものだわ」

「でも、やるしかないんじゃね」

 と次々に賛同? が返ってくる。

 三人で集まっているのに、ゲームなんてしている暇なんて一瞬たりともなくて、課題課題課題課題。

 課題のゲシュタルト崩壊。



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 あーあー、と唸り声を出して畳に寝っ転がったのは、幼馴染のソラ。

 幼稚園からの友達で、幼小中ときて、高校までも同じ所へ進学した。

 中学からはなんとなく一緒に帰宅部で、毎年の夏だって二人でぐうたら過ごすことが多かった。

 その気になれば運動やら勉強やらも上位層に食い込める実力は持っているはずなのに、
 その持て余した力を音ゲーとダーツに(主に)費やすという変わった奴だ。

「おまえらどれくらい終わった?」

 彼が半ば諦めたような口調で言う。

「五割がいいとこかな……」

 冷めた口調で答える彼は、俺の隣に座って黙々と数式を解き続けている。

「善くんはさあ──」と、ソラが口を開く。

「サッカー部で忙しいのに、そんな量の課題出されて何とも思わないのかよ!」

「まあでも、俺ら遅れてるし……」

 その通りである。


「でもどうして高一の俺らが微積なんて解いてるんだ?
 他の学校の友達に訊いたら二次関数やってるっていってたぞ」

「指導要領ないんじゃね」

 ないってあるのか。
 進学校の辛いところ、人生は世知辛い。

「ミク、おまえはどうなんだ」

「いや、俺もおかしいとは思うけど。
 てかおまえ、俺の名前はミクじゃねえよ」

「じゃあ未来人か?」

「その呼び方いいかげんやめようぜ。
 おまえらくらい俺のこと未来って呼んでくれよ」

 未来と書いて「みらい」と読む。
 両親は俺が産まれた当時は「みく」と名付けようとしたらしいが、男っぽくないよな、と結局なったらしい。

 そのことを彼らに言ってしまったが運の尽き。
 たまにそういじってくるようになってしまった。


「ほら、おまえ顔かわいいし」

「……ソラってもしかしてゲイ?」

 善くんがすかさず横槍を入れた。

「俺はなあ……ノーマルよりのバイだ!」

 立ち上がって、俺の方へにじり寄ってくる。

 鋭い眼光。手をわきわきと動かしている。

「ま、まて、さすがに男は無理」

「……」

「……」

「冗談だ、俺はノーマルだ」

「……こわっ」

 ちょっと本気で引きかけていた。

 でも、少しおかしくなるのも無理はないのかもしれない。


 いくらやっても終わらない課題をし続けて、ふと気付いたら四連泊もしているからだ。
 寝たやつをぶん殴って叩き起こす約束を三人で取り決めたから、もちろんほぼ寝れていない。

「善くんはモテるからいいよなあ……。
 俺も同い年の彼女が欲しいよ、制服デートとかしてえよ!」

 まーた始まったか、俺と善くんは哀れみにも近い視線を彼に向ける。

 ソラは三徹目あたりからどんどん錯乱していって、
 いきなり、ヤりたい! とか、巨乳より貧乳だよなあ……とか、性欲に塗れた発言をするようになった。

 甲子園のチアに欲情する姿は滑稽ですらあった。

「俺もおまえらと一緒だよ」

「どういうことだ?」

「……俺、この前美柑と別れたし」

「え、マジで」

「なんか悲しくなってきた」

「……うわ、なんかごめん」

 美柑。秋風美柑。
 善くんの、今聞いた事実を踏まえると元カノか。

 俺たち三人と同じ中学出身で、少し離れたでかい駅近郊にある私立のお嬢様学校に進学した子だ。

 一度も同じクラスになったことはないけれどかわいい子だったと思う。


「どうして別れちゃったの?」

「なんか、よくわからないけど振られた」

「……おお」

「つらかったな……」とソラが善くんの頭をぽんぽんと叩く。

 あやしているみたいだ。
 高一の男が高一の男をあやす光景。

 どう考えてもおかしい。眺めているぶんには面白いけど。

「彼女……ほしいなあ……」

「そんなことより勉強しろよ、おまえ俺が合宿とかしてる間なにしてたんだよ」

「……ゲーセンで遊んでた」

「留年するぞ」

「余裕だって」

「じゃああとどれくらい残ってんだよ」

「一割くらい」

「くらい?」

「終わった」

 善くんが頭を抱えた。

 今は三人で、課題に追われています。


【妹】

 ガラガラと音がして、和室のドアが開いた。

 振り返ると、背後に妹が立っている。

「まだ課題なんてやってたの」

「あ、佑希ちゃんお邪魔してます」

「お邪魔してます」

 どうも、と二人にひらひらと手を振る。

 今日は午前中からいなかったから、多分部活が終わって今帰ってきたのだろう。
 妹の佑希は陸上部で、競技はいろいろやっているらしい。

 俺よりもかなり運動神経がいいし、身長は五センチ差ほどしかない。

 顔が整ってるからモテるし。

 あれこれ取り付けてくれ、と男友達に言われたのも一度のことじゃないくらいだ。
 小学校の頃だから今は知らんけど。


「今日もみんなで泊まってくの?」

 鋭い視線で睨まれる、なんでだろう。

「……おにい?」

「ああ、うん。終わらないから、そのつもり」

「うん、みんなで頑張ってね。
 夜食あとで作って持ってくるから」

「ありがとう」

 では、とぺこりとお辞儀をして、佑希は戻っていった。

「佑希ちゃん今日もかわいいな」

 ドアが閉まるなりソラが喋り出す。

「かわいいってよりもかっこいいじゃね?」

「まあ、それもわかるかも。未来の方が女っぽい」

 指をさされる。

「つうか、人の妹を寸評すんなよ」

「いいじゃんいいじゃん、君が男らしくなればいいんだよ」


「俺ってそんなに女っぽい?」

「うん」

「言うまでもなく」

 二人ともノータイムで答えてきた。

「だっておまえ、ただでさえ女顔なのに声も高めだし服だって女っぽいやつだし」

「女っ気ないし」

「高校入るまで一人称僕だったし」

 たしかに、この間までの春に十年ほど寄り添ってきた一人称にさよならを告げた。

 まあ、自然に俺って言ってるけどたまにこんがらがるときもあったりするのではあるが。

「それは別によくね?」

「なかなか似合ってねえよ」

「ねえのかよ」

「要改善だな」

 改善のしようがないと思うんですが。

「歩いてたらさらわれそうだし、おまえ」

「さすがにないだろ」

 俺がつっこむ前に、善くんが代わりに返答した。


【部活】

「そういえばさ、おまえら二人部活どうすんの?」

 善くんが発した言葉で、すっかり忘れていたことを思い出した。

「部活?」

 ソラも忘れているらしい。

「ほら、夏休み開けまでにどこの部活に入部するか決めなさいって、ヒサシが言ってたじゃん」

「そんなことも、なくもなくもなかったような……?」

「あるわ」

 ヒサシは俺たちに大量の課題を出した悪魔のような担任だ。
 いかにもリア充感を漂わせてる男、最初の挨拶でヒサシと呼び捨てしていいぞと言っていた。

 今年の春から俺たちの高校は部活動全員入部制になったらしく、
 帰宅部でフラフラしている俺とソラに部活に入るよう促してきた。


「だってさあ、今更入れって言われても困るよな」

 言いつつ、普通にそう思っていた。
 もう部活内でグループやらなんやらができてしまっているだろうし、あまり興味をそそられる部活もなかった。

 自由な校風を謳っているが、部活はどこにでもあるような古典的なものしかなく、文化系よりもスポーツに力を入れているためだ。

「未来は何部入りたい?」

「俺は楽なところならなんでも」

「だよなあ……。でも、あんまりそういうところなさそう」

「部活体験とか行けばよかったかもね」

「……そういや、最近ギター買ったんだよね」

「え、じゃあ軽音とか」

「それも今一瞬だけ考えたけどガチなのしかいないし、俺は趣味レベルだからなあ」

「何弾くの」

「まずチューニングが合わない」

「それ論外だろ」

 あはは、と善くんが笑った。


「ソラさ、弾き語りできるようになったら弾いてくれよ」

「がんばるぜ」

「あれな、スピッツとか」

「カラオケ行きたいな」

「これが終わったらいこうぜ」

「終わるの?」

 一番進んでいる自分でさえあと二割程度残っている。
 仮に計画的に進めたとして、どう考えても終わるわけがない。

 しかも、こんな量はクラスで俺たち三人だけだ。

「つーか、俺らでつくればいんじゃね?」

 彼は何かいいことを思いついたような顔をする。

「どういうこと」

「だから、俺と未来で部活つくればいいんじゃないかって」

「何部を」

「帰宅部」

「活動は?」

「いかに有意義に帰宅するか」

「アリだな」

 適当に返答した。
 なんだ有意義に帰宅するって。


 うちの家高校の三軒隣だから、歩いたら一分かかんねえし。

 そもそもそんな適当な部活が申請を通るとも思えないけど。

「善くんも名前貸してよ、兼部」

「面白いからいいよ」

「よし、これで三人だな」

 とまあ、流れに身を任せてもいいかなって。

「ヒサシ意外と適当だから通ったりして」

「あるかもなあ……」

「いや、ないだろ」

「とりあえずやってみようぜ、ダメならダメで手はある」

 もはやテンションがおかしかった。


【喫茶店】

 こうして終盤にもなって課題に追われてるとはいえ、夏休み中はずっと遊んでいたわけではなかった。

 ソラはたまに家に来るけれど、基本ゲーセンに入り浸っているし。
 開始早々に補講でかなりの時間拘束されたりと自分のしたいことをする時間が全然とれないしで。

 だからってずっと家にいるのもなあ、と思って外に出かけると、いつも行くのは三駅先の古びた喫茶店だった。

 まあ三駅先と言ってもここはだいぶ都会に属するような場所で、自転車で行けば二十分ほどで着く。

 その喫茶店を気に入った理由は、同世代の客がいない(今まで見たこともない)ことと、勉強をしても怒られないことと、かなりの量の漫画が置いてあることだ。

 あとは店員さんがかわいい。

 歳は同じかちょっと上か。
 きっと高校生。

 俺とですら二十センチ差ありそうな小さい身体にエプロンをつけて、いつも角の席にちょこんと座っている。


 フロアに出ている店員さんはその子しかいない。
 厨房には老夫婦がいるけれど、あまり出てこない。

 ずっと俺がキャラメルマキアートを頼むからか、何も言わなくても目線だけで運んでくれる。
 なんか通じ合ってるみたい、と一人で謎の喜びを感じてたら蔑んだような目で見られた。

 なんか新たな性癖に目覚めそうになった。

 そんなかわいい店員さんにこの前初めて話しかけてみた。

「店員さんって高校生ですか?」

「……」

「……」

「……」

「……あの」

「……あ……わたし、ですか?」

「……いえ、すいません」

 無視されたのかと思った。
 独り言を他に客もいないのに言ってたらおかしいやつだろ。

 目つきが悪いわけではないけれど、ちょっと怖い。

 と言っても、店員さんはいつもぼーっとしていて、客が来てもゆるい感じだ。


 漫画を読むか、高そうなヘッドホンで音楽を聴いて外を見つめている。たまに紙に何かを描いてたりもする。

 バイトだとしたらめっちゃ楽そうだな。

 喫茶店には猫が一匹いて、名前は"うどん"というらしい。

 来るたびに撫でていたらいつの間にか懐かれてしまった。
 カウンターの方から羨ましげな視線を感じたけれど、気付いてないフリをした。

 店員さんも少し猫っぽいし、当の猫には懐かれてはいないみたいだけど。

 何をしていても暇だから店員さんの観察をしてしまうのがいつものことだった。

 こう言っていると変態っぽいが、そういう感情ではないと思いたい。


【終わらなかった】

 八月二十六日、午前八時過ぎ。

 絶望の起床。

 部屋に散乱するエナジードリンクの山、胃薬の錠剤。
 もちろん課題は終わりませんでした。

「終わらなかったけど、どうすんだこれ」

 二人を揺すり起こして、そう言ってみた。

「土下座?」とソラ。

「しかないよなあ……」と善くん。

「いっそこのまま休み続けるってのも」

「それはダメだろ、今日テストあるし」

 半分終わってもないのにテストは受けるのか。

「ていうか、こんなの終わるやついるわけねえから、やる気を見るとかそんなんじゃねえの?」


「ポジティブに捉えすぎだな」

「どっちかといえば主観的すぎる」

 その可能性もないとは言えないけど、だいぶ低いとは思う。

 各科目ごとの課題は一応終わらせた。
 それは今日から二日間の実力テストが終わったあとに提出するはずだ。

 問題なのは、ヒサシから出された謎の量のプリント。
 それも俺と善くんはあと一日でもあれば終わりそうだ。

 ソラは……考えるのをやめたみたいな顔をしている。もう一眠りしたいみたいだ。

「とりあえず、放課後提出しに行くときに期限を延ばしてもらえるように頼むしかないな」

「まあ、そうだね」

「善くんは顧問とかにチクられたら面倒だよな」

「部活出れなくなるのはキツい」

 とにかく家を出ようぜ! と言ってすぐに着替えて外に出た。

 テストは……まあ絶望的だろうなあ。


【呼び名】

「よっ、みらいじーん」

 クラスに入って開口一番、隣の席の友達が話しかけてきた。

「ひさしぶり」

「課題終わった?」

「まあ授業用は」

「おまえら他にも出てたんだっけ」

「ヒサシのせい」

 彼はたしか水泳部だったと思う。

 夏休み前に席替えをして初めて話すようになったのだから、あまり彼を知らなくても無理はない。

「宇宙人くん、机に突っ伏してるけど大丈夫か?」

 言われて彼の机の方を見てみる。

 爆睡。机にだらーっと身体がかかっている。
 ソラの周りは女の子ばかりだ。というかこのクラスの七割が女子。


「朝まで勉強してたから疲れてんだと思う」

「あいつは終わったの」

「なわけ」

「善くんは?」

「俺と同じくらいかな、多分だけどね」

 彼は俺のことを未来人、ソラのことを宇宙人と言った。
 変な呼び名だけれど、クラスの人全員にそう呼ばれている。

 確実にソラの自己紹介が原因だ。

 家がめちゃくちゃ近いというのに、同じ中学校出身でこの高校に進学したのは俺たち三人のみ。
 中高一貫校に高校から入る枠がまず少ない上に、難易度だってそれなりに高いわけで、そのせいかうちの中学での人気はあまりなかった。

 中入生が九割以上を占めていて特進科を除いてほぼ全員が持ち上がりのため、
 最初からみんな知り合いで、見事高倍率を勝ち抜いた高入生は肩身の狭い思いをする……かもしれない。
 今のところあまり感じていないけど。


 ソラはなんとか印象に残りたかったらしく、

「伊原宇宙です! 宇宙と書いてソラと読みます、宇宙人とでもお呼びください!」

 どう考えてもわけのわからない自己紹介をした。

 なぜか歓声が湧いた。

 理由はわからないけれど、中入生達もこのクラスに三人だけの新参者について関心を持っていたとかそんなところだろうとは思う。

 それで。

 ソラの苗字は、彼の言った通り伊原で、あ行で、出席番号三番で、俺の苗字はさ行で。

 そのあとに自己紹介をした俺が「未来」と名前を出すなり、彼方此方から「じゃああいつ未来人じゃん」という声が聞こえてきた。

 こんな形であだ名が決まるだなんて思ってもみなかった。

 考えてみたら善くんだって人を付ければ善人なんだろうけど、そちらはあまり定着しなかった。なぜだ。

 つまり俺は未来人、ソラは宇宙人、善くんは善くん。

 どう考えてもファンタジー。

 そんなあだ名がこの世にあるのか。


「楽な部活って知らない?」

「あー、部活入らないとダメなのか」

 話がはやい。

「そうそう。でもうちの高校って文化系弱そうだしどーしよーかなと」

「中学の時は何部だったの?」

「帰宅部」

「帰宅部って何するの」

「そりゃ帰宅」

「いや、帰宅って……つまり暇してるってことか」

「そうだね」

 まあ、図書館で本読んだり、学校帰りにどこかに寄ったりもしてたけど、基本的にはまっすぐ家に帰ってたしな。

 することといえば勉強かダラダラしてるか、あまり趣味という趣味もなかった。

 そのおかげで、時間が取れたおかげで、こうして良い高校に受かってるわけだから、帰宅部万歳!

 ポジティブに考えるとこうなる。


「水泳部入る?」

「百メートルがギリだけど」

「ははは、それは無理そうだな」

 じゃあ言うなよ、と思ったけれどそれ以外に返しようもないよなと一人で納得する。

 なんだろうな……。

 やりたいことは特にないし、それなりにハードな部活に入れば今でもかなりギリギリな勉強についていけなくなりそうだし。

 いろいろなことに対してぼんやりしている自分は嫌いではないけれど、このまま三年間が過ぎていくのもなんというか。

 いい機会……ではあるのだろうけど。

 と、そんなことを考えていると、出欠表を携えたヒサシが教室にやってきた。

 今日の科目は文系科目。

 国語、二時間は長い。
 日本史、ほぼ履修していない。
 英語、わけがわからない。

 目標としては、寝ないことと解答欄の空欄をできるだけなくすことぐらいにしておこう。

本日の投下は以上です
更新ペースはあんまり高くないと思います


【会いたくない女の子】

 二日間のテストを終え、晴れて自由の身になった。

 数学は前日以上に何もわからなくて、解ききるので精一杯という有様だったが、まあ仕方ない。

 朝学校に来てからソラはずっと机に突っ伏したままで、なんだか話しかけにくいようなオーラを発していた。
 善くんも善くんで今にも死にそうな顔をしてぼーっとしている。

 陰鬱な気分は俺も変わらないので、善くんの方を向き目を合わせて、昼食にでも誘うことにする。

「善くん、お昼持ってきた?」

「いんや」

「じゃあ購買行かね?」

「今日は佑希ちゃん弁当無いの?」

「あー、夜更かししたみたいで作ってくれなかった」

「勉強とか? 特進だもんなあ」

「多分ね」

 違うけど、まあいいか。

「じゃあ行こっか」

 善くんの家も両親どちらも働き詰めで、いつも購買で何か買って食べている。
 オススメは焼きそばパンと言っていた。上に乗ってる紅ショウガは欠かせないらしい。


 廊下には多くの人がいて、やはりみんなテスト終わりというだけあって少し浮ついている。
 まあ、そうでなくても夏休み開け久しぶりに友達と会っているから、というのもあるとは思うが。

「ソラ昨日ヒサシになんて言われたか訊いた?」

 不意に、善くんがそう話しかけてきた。

「なんにも。ソラずっと伏せてるし」

「だよな……なんか面倒なことだったら可哀想」

「面倒なことって?」

「……たとえば、ペナルティとして雑用やらされたりだとか」

「でもまあそれくらいなら」

 自業自得感はあるし。

「二倍に増えたとか」

「……」

「下手したら変な部活に入部させられたりだとか」

「善くんって想像力豊かだね」

「いや、意外とリアルだったりするかもしれないぞ」


 自分で言いながら、想像力について考えてみる。

 俺はあまり想像力を膨らますことがないと自負している。
 目の前に起こったことがすべて、というわけではないけれど、どっちかといえば現実主義寄りだとは思う。

 それも、昔から何かしら予想だったり空想をしてみると、悪い方向にしか物事が浮かばない傾向があって、
 しかも、それがなかなかに的中しやすいという経験からのことだろう。

 遠足の前日に雨降りそう→本当に降った、とか。

 この例えだとたまたま運が悪かったとか思い込みが激しいとでも言われそうだが、こればっかりは経験した自分にしかわからないことではある。

 ついでだし、何か想像してみるか。


 今向かっている購買──高等部だけでなく中等部の生徒も多く使用している。

 それで俺には、中等部にあまり会いたくない子がいる。

 その子は、見た目だけ見れば俺の好みど真ん中で、いつも胸の近くまである亜麻色でふわふわのツインテールを大きい動きでゆらゆらと揺らしている。

 身長はそれほど高くなくて、でもそんなに小さいってわけでもない。

 他人と接する様子を見れば人当たりもそれなりにいいはずで、ここに中学受験で合格したのだから頭がいい。
 少なくとも勉強面では今の俺よりもいいのではないか? とも思う。

 一番最後に会ったのは夏休み前。

 考えるだけで変な動悸がする。
 なぜだろうか。

 その子はいつも、俺のことを「お兄ちゃん」って──。

「お兄ちゃん!」

 あ、やっぱり。

「……」


「……お兄ちゃん?」

「おい未来、話しかけられてるけど」

「……ああうん、久しぶり」

「びっくりしたー……聞こえてないのかなって思った」

 そう言って、ナチュラルに手を握られる。
 俺は固まる。いつもこんな感じだ。

「ちょっとお兄ちゃんのこと借りていいですか?」

「用でもあるの?」

「……いいですか」

「あー、うん。俺のことはお構いなく」

「ちょ、善くん……」

「いや、なんか、いろいろと悲しくなってくるから」

「じゃあお兄ちゃん、どっか二人きりになれるところに行こっか」

「……うん」


【キス】

 彼女と一緒に、中等部校舎の空き教室に入った。

 人通りの少ない場所を通ったからあまり人には見られなかった。
 どうせ誰かには見られているわけだから気にしたって意味はないが。

 てか普通にお昼食べてないじゃん。
 朝も適当なもので済ませたし、腹がへっては戦はできぬ。
 ……戦ってなんだろう。

 どうでもいいことを考えて気を紛らわそうとしたけれど、全く効果がない。

 ガチャリと音がした。ドアの鍵を閉められた。

「お兄ちゃん、どうして会いにきてくれなかったの?」

「課題とかで忙しかった」

「でも、去年も受験なのに来てくれたし」

「奈雨が会いに来てくれればよかったんじゃない」


「いやだよ、わたし佑希のことあんまり好きじゃないし」

「前から思ってたんだけど、なんでおまえら仲悪いの」

「……べつになんでもいいじゃん」

「……」

「ねえ、もしかしてわたしのこと避けてる?」

「いや」

「ふーん」

「ほんとだよ」

「……まあいっか」

 そこに座って、と言われる。
 そう言う彼女の目は据わっている、別にギャグじゃない。

 まあいっか、という言葉の通り本当にどうでもいいような顔をして、彼女は俺の座っている隣の椅子に腰を下ろした。


「お兄ちゃん、ちゅーしよ?」

 肩を掴まれて、彼女のぷるんとした小ぶりな唇が近付いてくる。
 振りほどこうとすればできるけど、なんかもういいや、と思って動くのをやめる。

 すぐに唇が触れる。
 ちゅっ、と、音をつけるならそんな感じで。

 深いわけではない(あまりそっちのことを知らないからよくわからないけど)小鳥がついばむようなキス。

 味はしない。あ、でも少しだけミントの香りがする。

「もっかい」

 また軽いキス。何度も何度もされる。
 そのうち少しだけ体が火照ってきて、ふわりと意識が飛びそうになる。

 座りながら立ちくらみ的な。千鳥足なう、奈雨と。意味わかんねえ。

「今度はお兄ちゃんからしてよ」

 彼女はそう言って瞼を閉じる。
 断る理由もないなあ、と半ば諦めて、すぐに近付いてキスをする。

 漂う義務感。でも、別に嫌ってわけでもない。


「お兄ちゃんってさ、すごくいい匂いするよね」

「……そう?」

「うん、わたしが好きな匂い」

「そっか」

 今度は胸に顔をうずめてきた。
 彼女から香る匂いだって、甘くて十分いい匂いだと思う。

 トリートメントかコンディショナーだよと佑希が言っていたのを思い出す。
 でも、俺が使ったとしても(使ってるけど)そんなにいい匂いにはならないだろうなあ、とも思う。

 興味ないけど香水とか……いや、やめておこう、似合わないし。

「お兄ちゃん」

「なに」

「撫でて」

 彼女から離れて、頭を撫でる。

「そうじゃなくて、抱きついたままでいいでしょ」

 また近くに寄ってくる。
 はあ、とため息が出そうになる。


「ついんてーる」

「ウルトラ怪獣じゃないよ」

「え、いきなりなに」

「わたしなりのギャグ」

 ウルトラマンは観ていない。
 つーかその世代ですらない。

「十五点」

「厳しい」

 しばらく撫でていた。
 そのうちだんだん腕の力が抜けてきて、胸にかかる重さが増していく。

 眠たげに「くぁー」とあくびをする。
 かわいいけど、なんだその声。

「眠いの?」

「眠い」

「寝るな」

「お兄ちゃんがちゅーしてくれるなら起きる」

 じゃあ寝かせようか、となる。
 自然の摂理。進んでしようなんて思わない。


 そりゃ彼女は美少女だけど、俺の好みの顔と体型だけど、なんかこう罪悪感を覚えるというか。
 傷をつけたくないような、今この時点で傷をつけてるのは俺なんだけど、なんというか……。

 言葉ではうまく表せない。

「しないの」

「うん」

「はあ、お兄ちゃんつまんなーい」

 彼女はそう言って起き上がった。
 
「でもお兄ちゃん、さっきから顔真っ赤だよ?」

「そりゃキスされたら」

「え、わたし全然赤くなってない」

「……じゃあ、部屋が暑いから」

「ふーん」

 彼女からは昔から信用されてないような反応ばかりされているような気がする。
 信頼に値する行動なんて取った試しがないから俺が悪いといえば、そうなのかもしれない。

 まあ、今回は嘘。

 普通に彼女がかわいくて顔が赤くなっていた。



 肌が人よりも白いから、そのぶん赤くなったらすぐバレる。
 でも、彼女だって同じぐらいの色白。つまり反論のしようがない。

「こういうのさ、いつまで続けるの?」

「こういうのって?」

「……キス、とか」

 彼女はまた、はあー……、と大きくため息をつく。

「もとはと言えばお兄ちゃんのせいじゃん」

「そうだけど」

「責任とってよ、わたしのファーストキスを奪った罪は重いよ」

「……だから、そういうのは好きな人としなさいって」

「いいじゃん、わたし今好きな人いないんだし」

「……」

「それに、お兄ちゃんだって期待してたんじゃないの?」

「してない」

「……」

 バレバレな嘘をつくと同時に、キーンコーンとチャイムが鳴った。

 助かった、と思った。

 彼女は立ち上がってドアの方へ向かって、ガチャリと鍵を開ける。

「じゃあねお兄ちゃん、夜に電話していい?」

 構わない、という意味で頷くと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
 そして、再びじゃあね、と言ってそのままてくてくと歩き去っていった。

 一人残されて、唇を触る。

 何とも言えないもやもやした感情だけが残った。


【発端】

「さっきの子と何してたの?」

 クラスに戻るなり、善くんが悪戯っ子のような顔をしてそう問うてきた。

「なんも」

「……いやいや、つーかお兄ちゃんって」

 ……あ。

 ……そうか、そういえば、奈雨が友達と一緒にいるときに話しかけてくるのは初めてだった。
 携帯で呼び出されたりとか、その場で会うのがいつものことで、彼らは奈雨のことを知らない。

「なになに、なんかあったのか」

 ソラが会話に入ってきた。
 元気だ。清々しいまでに元気だ。

「さっきまでなんで死んでたの?」

「寝不足」

「やっぱりヒサシに……」

「違う、夜中までウイイレしてた」

「え、じゃあ昨日の話って?」

「まあじきに話すよ」


 彼はなぜか得意げに笑った。
 今だ、と思って話を変える。つっこまれてボロを出したらたまったもんじゃない。

「部活どうするよ」

「あーそれならな……明日の放課後見学に行きたい部活があるんだけど」

「俺も行っていいやつ?」

「うん、多分」

 体育館での集会に向かいながら話をする。

 どうやら部員が一人だけで、需要と供給が一致しているらしい。
 部活名は聞いていないけど、サボっても別に怒られないだろう、と。

 その言葉を聞いてひとまず安心した。
 ゆるい部活があるならそこに入るに越したことはない。

 けれど、昨日もらった紙にそんな部活書いてあったか?


 同好会? 有志の何か? いや、それならちゃんとした部活動に入れとヒサシに言われるはずだ。
 でもまあ、どっちみち入るかは自分次第だから、あとは行ってみてから考えるか。

 体育館の後ろの方に座る。集会はいつも自由席だ。

 先生からの話。大会の表彰。佑希がされていた。

 斜め前の方に、奈雨の姿を見つける。
 女の子の友達数人と固まっている。

 そのなかでも飛び抜けてかわいい。
 身内補正がいくらか入ってるかもしれないが、俺はそう思う。

 ──奈雨。
 三橋奈雨、みはしなう。

 この学校の中等部三年生、今をときめく現役JCと彼女が自分で言っていた。

 父親の姉の娘。つまり、俺からすれば従妹にあたる。
 佑希を除いて歳が一番近いのは彼女だったから、昔から遊ぶことが多かった。


 彼女は俺のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ。
 そう呼んでくるのは、今の今まで彼女しかいない。

 どうしてこんな関係になってしまったんだろう、と考える。
 俺が悪いから、彼女のせいにはできないけれど、常にもやもやが残る。

 発端は、今年のゴールデンウィークのことだった。

 長期的な休みには、親戚全員が一堂に会する。
 父さんも母さんもそこそこ兄弟姉妹がいるから、なかなかの大人数になる。

 周りはみんな成人済みで、未成年の俺たちは少し遠くに離れて食事をとっていた。

 奈雨とはこのとき全く話をしなかった。
 もうちょっと昔みたいにくっついてきてくれてもいいのに、と思ったような覚えがある。


 それから何かの流れでお酒を飲んでしまって、一切の記憶が飛んで、朝起きたら奈雨が隣で寝ていた。
 はー意味わかんねえよと思いつつ、身体をあげようとすると、きっちり腕枕までしている始末。

 奈雨を揺すり起こしてわけを訊くと、酔った勢いで俺にキスされた、初めてだった、と言われた。
 その事件以降、会うたびにファーストキスを返して、と彼女が迫ってくるようになった。

 その場では他の人に見られていないと言っていたし、酔ってたから覚えてないと断るのも手ではあった。


 ……でも、今にも泣き出してしまいそうな彼女の顔を見たら、とてもじゃないが断ることはできなかった。

 それだけ、と言えばそれだけなのだが、俺にとっては重大な問題だ。

 俺だって初めてだったし、記憶に全くないし。
 従妹とそんなことをしているなんて誰にも知られてはならないと思うし。

 一度始めたことで、それを止めるきっかけを今まで持てていないから、どうにもいかない。

 彼女でも作ればいいんだろうけど、作ったからと言って止めてくれるとは限らない。

 そもそも俺に彼女なんてできやしない。

 困ったものだ、と言う他ない。

本日の投下は以上です


【考えごと】

 いろいろと考えごとをしていると、集会やLHRの時間なんてあっという間に過ぎていった。

 LHRはやはり文化祭関係らしく、クラスの展示で何をするかについて話し合っていた。

 俺たち高入生三人は思っていた通りお客さん状態で、メイド喫茶やらお化け屋敷やら定番のものに手を挙げておいた。
 委員たちが話し合って最終的に決めるらしいが、まあ当番があれば引き受けるくらいに思っておけば障りはないだろう。

 一日目がクラスごと、二日目が部活ごとに催し物を出して、昨年は千人近くの来場者がいた。ついでに言えば俺は行かなかったけどソラと善くんは行った、と。

 どうにも県で一番楽しい文化祭らしい。
 家が近いから盛況ぶりは知っていたが、そこまで凄いとは思っていなかった。


 放課後になってまた三人でヒサシのところに行って、俺と善くんは一日遅れの課題を提出した。
 ソラは野暮用ができたとかどうとか言って、そのままヒサシとどこかへ消えていった。

 善くんもこれからすぐに部活、と言うので、特に用もないので帰ることにする。
 自分で考えていても、この学校で何かをするってことは今まで一度もなかったし、逆にしなければならないことがあるのも面倒かもしれない。

 行事、春の運動会(体育祭だったか?)はほぼ座っているだけでスルーした。
 名目は新入生歓迎らしいが、全校でやると人数も多いし肌は焼けて翌日痛いしで最悪なものだ。

 自分は運動は並み、それよりちょい上くらいはできる。人からの評価だから自意識過剰ではないと思いたい。
 帰宅部にしては、という枕詞がつくところではあるものの、中学と今春のスポーツテストでは五段階中の上から四番目の成績だった。


 まあ、だからと言って取り立てて得意な球技があるわけではないし、走るのは苦手だ。
 自分の意識的なものかもしれないが、そう思ってしまっている。

 フォームとか気にするとキリがないし。

 家に帰ると、すでに佑希がリビングに無造作に寝転がっていて「さっさとアイスかってこいやー」とねだられた。
 今日は親が帰ってくるはずだから、料理をする必要もないし、コンビニに行ってさくっと買ってこようと考える。

 とりあえず時計を確認する。十五時ぴったり。
 佑希に確認すると、食後か風呂上がりに食べたいらしい。

 なら、暇だし適当にどこかぶらぶらするか。

 夜飯はたぶん要らないから、と言って家を出た。
 外に置いてある自転車に跨る。ママチャリ、スポーツ用はいろいろと自分には合わない。

 中身が少なく比較的軽めの鞄は背負ったままで、明日からの授業の予習をしにあの喫茶店に行くことにした。


【気だるげ】

 店員さんは変わらず気だるげだ。

 今日は白いひらひらのスカートを履いている。
 普通に絵になる。メイド喫茶にいそうな雰囲気、ちっこいし。

 やはりこの喫茶店は落ち着く。
 店内に二人しか客がいない、ついつい入口付近の幽白を手に取る。

「いらっしゃいませ」と小さな声で言われて窓際に案内される。

 今度こそ何か話しかけてみようか。

「いい天気ですね」

「……」

「……あの?」

「……あ、はい」

 いきなり話しかけられた。なぜだ。
 店員さんにつられて外を見る。普通に曇ってる。


「曇ってますけど?」

「……あ、その。曇ってますね」

「そうですね」

「……ごめんなさい。すぐに、お持ちしますね」

 会話が切れる。
 彼女は耳の先までかーっと赤くして、厨房の方へと歩いて行ってしまった。

 あれ、これどう返すのが正解だったんでしょうか。

 会話のとっかかり? にしては下手すぎるというか、返しようがない質問。

 勉強道具を広げて、取ってきた漫画を読んでいると、すぐにキャラメルマキアートが運ばれてきた。

「お待たせしました」

 ぺこりと礼をして、彼女は定位置に戻っていこうとする。

「すいません」

 呼び止める。

「は……はい」

「俺も曇ってる天気好きですよ」

「……あ、ありがとうございます」

「いえいえ」


 なんだこの会話。
 彼女はいつものようにヘッドホンをかけて、ぼーっと外を見つめていた。

 見てるのもアレかなと思って、漫画を一巻読み終わったあとに予習を始めた。

 うちの高校はテスト返却が死ぬほど速いから、明日には一日目の科目が返ってきて、絶望しながら授業を受けるのだと思うとかなり憂鬱だ。

 来週には英単語五百問テスト、もうあほかと。

 そんで明日の放課後には部活見学か、なんかよくわからないけど面倒そうな気配を察知する。

 文化祭の二日目、さっき聞いたことによると部活単位で動く日。

 客から得た収入は一割の運営回収を除いて全額懐に入るらしい。
 半端ねえ、うまくやれば一儲けできそう。

 代表的な部活だと、硬式野球部はピザ、サッカー部はチョコバナナ、バスケ部は唐揚げセットを出しているらしい。
 佑希の陸上部は喫茶店みたいなのをやると前に聞いたことがある気がする。

 うどんが足もとに寄ってきて、机にあげて撫でる。今日もぽっちゃりしててかわいいな。
 動物は癒し、店員さんがまたこっちを見てる。


「撫でますか」と言おうと思ったけどやめた。
 飼い主はここの店の人だろうし、店員さんはヘッドホンをかけている。

 でも、羨ましげな視線を向けられると、それはそれでこっちも気にする。

「どうぞ」

 近くに寄ってうどんを手渡す。

 彼女は少し驚いた様子で受け取ったが、すぐにうどんがじたばたと暴れて角のほうへ逃げてしまった。

「……あ」

「懐かれないんですか?」

「……そう、みたい」

 彼女はそう言って、大きな瞳をうるうるさせる。
 なんかマジで悲しそうだ。ため息までついちゃってるし。


「どうやったら好かれると思う?」

「どうだろう」

「……だよね」

 彼女が普通に敬語を取ったから、俺も敬語を取ることにした。

 ていうか、今日は今までにないくらい喋っている。
 懐かれないのは店員さんも猫っぽいから同族嫌悪、それは違うか。

「エサをいつもあげるようにするとか」

「……でも、日中は私学校あるし」

「高校生?」

「あ……うん、高校一年生」

「おー、俺と同じ」

「……」

 店員さんは、まずい喋りすぎた、みたいな表情を一瞬した。気がする。

 このままの流れでフレンドリーに名前とか学校名とか訊いちゃおうと考えたけれど、それは憚られた。
 それからなぜかあたふたしながら目をきょろきょろと動かしたので、
 自然に首をかしげると、更に落ち着かない様子で彼女は立ち上がった。


「……あの、飲み物のおかわり要りますか?」

「じゃあ、アイスコーヒーで」

「砂糖とか、ミルクは……」

「ミルクだけでいいよ」

 距離感が掴みにくい。
 喋るのが苦手なのかと思ってたけど、さっきの様子だとそんなにコミュニケーション苦手ってわけでもないようだし。

 自分を引っ張ってくれるタイプとしか深く接していないからか、自分から距離感を作るのが致命的に下手だ。

 佑希も、ソラも善くんも、奈雨も、うちの両親も、友達作りだったり友人付き合いに関しては見習うところばかりだ。

 席に着く。裏にして開きっぱなしの漫画を元の場所に戻した。

「……羊羹、食べる?」

 突然横から声をかけられる。
 彼女の手には、注文したアイスコーヒーと羊羹。


「あ、あの……おばあちゃんが、持ってってあげなさいって」

「おお、ありがとう」

「私も、お腹すいたから半分食べるね」

 プラスチックのスプーンをはい、と渡される。
 半分に切り分ける、どうやら甘いものが好きらしい。

 二人の客はいつの間にか帰ってしまって、店内には俺と彼女の二人だけになった。

「店員さんは、何か部活とかやってるの?」

「……いや、何もしてない、よ」

「へー」

 帰宅部仲間。まあ、この時間にはここで働いてるんだからそれもそうか。

「中学校のときは、び……じゅつぶに入ってて」

「続けなかったんだ」

「……うん」

 美術部の「び」のところで三秒ぐらい間があったけど、部活で何かあったのかな。それとも噛んだだけか。


「あなたは……あ、名前訊いてもいい?」

「未来、しらいしみらい」

「……未来くんは、何部なの?」

「入ってない、中学のときも」

「ええと、じゃあ同じだ」

 ぱん、と手を叩く。少し嬉しそうだ。

「そういえば、店員さんのお名前は?」

「……」

「……」

「……しののめ」

「しののめ」

 しののめ、さん?

 どう考えても苗字だよな。
 彼女は近くにあった俺のペンを手に取って、紙ナプキンに「東雲」と書いた。


「……漢字、こう書く」

「珍しい」

「そう、かも?」

「下は?」

「自分の名前、あんまり好きじゃないから」

「へえ」

 キラキラネームだったりして。
 わたしもじゅうぶんきらきらしている。女の子ならよく居るけどね。

 名は体を表すと言うが、最近の名前は多種多様だから必ずしもそうなるわけではない。

 その点善くんは素晴らしいな。
 善い人、優しいしかっこいいし。

「……急に、いろいろ訊いちゃってごめんね?」

 不意に顔を上げて、覗き込まれる。

「いや、大丈夫だよ」


「……いつも来てくれてたから、おばあちゃんにもっと愛想良くしなさいって言われてて」

「うん」

「この前も、無視したみたいになっちゃってたから」

 この前の、ってあれか。夏休み中のね。

「……そういうわけじゃ、ないって言いたかったの」

「なんか嬉しい」

「あ……いや……ごめんね、邪魔して。勉強、がんばってね」

 そそくさと定位置へ戻っていった。

 東雲さん、か。……仲良くなれたらいいな。


【衝動】

 家に帰ると、ふあー、と大きなあくびがでた。

 休日が恋しい。夏休みが終わってすぐの感想はそんなもんなのかもしれない。

 冷蔵庫にアイスを入れて、リビングを経由せずに自分の部屋に向かった。
 おかえり、と母さんに言われた気がするが、スルーしてしまった。

 ベッドに寝転がる。新調したばかりの枕。まだ硬くて友達になれない。
 あまり寝なくても活動はできるが、睡眠を長く取れることに越したことはない。

 よく寝てよく食え、と親には昔から口うるさく言われたものだった。
 食べても太らない身体は家族揃ってで、みんな細身ではあるのだが。

 ほどなくして、鞄の中から着信音が鳴った。

 そういえば、と思ってすぐに携帯を出して耳にあてる。


「もしもし」

「あ、お兄ちゃん」

「おやすみ」

「えっ……ちょ、ちょっと待って!」

「ごめん、冗談」

 起き上がる。電気をつけたままでも寝てしまいそうだ。

「眠いの?」

「すこし」

「じゃあ、切ってもいいよ」

 柔らかく包むような声音。
 昼のときの奈雨とは全く違っていて、なんでだろう? と思う。

「大丈夫、なんか話あるんだろ」

「あの……えっと、ただお兄ちゃんと話をしたかったじゃダメ?」

「……いいよ」

「うれしい」

「……」


 電話口の向こうから虫の音が聞こえる。
 会うとお互い(というか俺が)変な意識をしてしまうから、電話のほうが幾分かいいのかもしれない。

「近くに佑希いる?」

「いない、俺の部屋」

「そっか」

「……呼ぶか?」

「呼ばなくていいよ」

 ほんと仲悪いのな。
 ドタドタと音がする。俺もベランダに出ることにした。

「……お兄ちゃんはさ、学校の友だち多い?」

「いきなり抉ってくるのやめて」

「え……あ、少ないのね」

「まあ、やっぱり中学上がりの人たちとは壁がある」

「そっか、そうだよね」

 はあ、と奈雨はため息をついた。


「お兄ちゃんは、わたしが友だちと一緒にいるの見てどう思う?」

「どうって……。たとえば?」

「いいなー、とか」

「喧嘩うってる?」

「うってない」

「……まあ、いいか」

「えっとね、ほら、わたしさ……」

「……」

「……あのね」

「うん」

 言われずとも、彼女の言いたいことが何となくわかったような気がした。
 友だちのことで悩んでいる。それか、昔と同じようになっている。

「わたしは……」

「……」


「……やっぱりなんでもないや、ごめん」

「そっか」

「うん、ごめん」

 それきり彼女は黙り込んでしまった。

 数分に渡って沈黙が流れる。
 こういうときに話を始めるというのは、どうにも難しい。

 そんなふうにされると、こっちまで落ち着かない。
 耳から携帯を外して、学校と、その奥のビル群を眺める。

 風が吹いていて、暑さはあまりなかった。

 もっと気の利いたことを言えればいいのかもしれないけど、俺が同じ立場だったら変に気をまわされるのはいい気がしないだろう。

 携帯を元の位置に戻す。

「お兄ちゃん、明日の放課後ひま?」

「要件は?」

「遊びにいきたい」

 また突拍子のないことを言い出す。
 断れないような雰囲気を作られると、こっちもなんとなく身構える。

「いいけど、部活見学に行くからどうなるかわからないよ」

「お兄ちゃん部活入るの?」

「なんだよ、ダメか」


「ちがうちがう! 今まで入ってなかったからだよ」

「高校生は全員入部が義務らしい」

「へー」

 興味ないのか、訊いといて。

「奈雨も入ってないでしょ?」

「……まあ、冬にやめちゃってね」

「そうなんだ」

 初耳。

「ちょっとね、同級生の子とつまんない喧嘩して、続けるのも嫌になっちゃって」

「ふうん」

「……ごめん、わたしの話なんて興味ないよね」

「そんなことない」

「ほんと?」

「うん」

 自分で言っといてかなり無責任だと思う。


 でも、奈雨のことは放っておけないと思う。
 ……今も、昔も、多分これからも。

「明日どこで待ち合わせる?」

「……え、ほんとに行ってくれるの?」

「いいよ」

「お兄ちゃんやっさしーい。えっとね、パンケーキ食べたいから駅まで行きたいの」

「重そう」

「……は」

「なんでもないです」

「わたしは太ってないです」

「英語の授業で出てきそう」

「なにそれ」


 あいあむのっとふぁっと。
 ふぁっとってかわいいな、禁止用語に近いけど。

「明日いろいろ終わったら連絡するから」

「うん、楽しみにしてる」

 それから少し話をして、電話を切った。

 電話だと本当にキャラが変わるような……どっちが本当の奈雨なんだろうか。
 こうして電話をする機会はたまにあるが、キスについては一切触れてこないし。

 リビングに戻ると佑希がパルムをかじっていた。
 美味しそうだったので一緒になって食べる。

 話を聞くと俺が出てからずっと寝ていたらしい。

 試験どうだったのと訊ねると、ばっちし! 時間余ったから寝た! と言われた。
 訊かなきゃよかったと思った。

 その夜は、なぜかすぐには寝つけなかった。

本日の投下は以上です


【ある意味】

 翌日は朝早く目覚めて、自分で弁当を作ってから学校に向かった。

 朝のSHRで、文化祭のクラス委員が4-Eはジェットコースターをやることに決まった、と言っていた。
 なんでも、三クラスとの競合を制したらしいが、人気なんだろうか。

 そこから数分トントン拍子で係が決まっていって、俺とソラは当日の店番をすることになった。
 善くんはサッカー部の友達に誘われて、レーンだったりを造る係をするらしい。

 まあ、恐らくこれから一ヶ月間はずっとこんな浮ついたような雰囲気は変わらないだろう。
 高三生も最後の行事、学年ごとのスポーツ大会はあるらしいが、全校での行事は文化祭をもって最後となる。

 高校生活は何を言っていても過ぎてしまうのは早いのかもしれない。
 うきうき気分(大嘘)で入学をした俺だってほぼ何もせずに半年が過ぎようとしている。

 高校に入ったら何かが変わるかもしれない、と思っていても、実際はあまり変わらない。

 予想通り、一発目の授業からテスト返却。

 国語、解説を聞いてもさっぱりだった。
 漢文なんてほとんど授業でやってないし、明治文語文なんて出されても解けるわけがない。

 でも、なぜかクラスの平均点ぐらいの点数は取れていた。

 他の教科も返却されたが、平均ちょい上ぐらいだった。
 隣の彼は赤点だったらしい、謎が深まる。

 百点満点で平均点が三十二点ってのも問題かもしれないけど。

 ある意味自分の才能かもしれない。


【保険】

 放課後を知らせるチャイムが鳴って、ソラの席へと向かう。

 補習の点数の人数が多すぎたために補習を免れたらしい。
 手で数えられる点数、と言っていたけどさすがに片手では無理だよな。

 点数を自慢するような人はクラスにはいないが、ある程度授業中の様子で成績は予想できる。
 べつに中入生に張り合おうってわけではないけれど、少しは気になるものだ。

 並んで廊下を歩く。

「最近音ゲーできてないわ」

 彼はそう言ってうがー、と唸る。
 掃除中の生徒の何人かがこっちを見ている。

「ここ数日の放課後何してたの」

「課題に取り組んでいる」

「ヒサシと?」

「そう、勉強しなきゃなんなくて」

「マジで」

「……まあ、あれだ。今は大丈夫だけどこの先どうなるかってやつだよ」


「保険」

「そうそう、保険」

 頑張ってるな、とか言おうと思ったけれど、結局言わなかった。

 明日は我が身。俺だって危ないことは危ない。

 もうちょっとしたら進路希望を出して、文理選択なんかも決めなければならない。
 あんまり考えられていない、そういうの考えるの苦手だし、ついつい先延ばしにしてしまうものだ。

 しばし歩いて、職員室に到着する。
 コーヒーの香り、まだ採点が残っている先生は震えながら赤ペンを握っている。

「じゃあ、白石のことを連れてってやってくれ」

「了解っす! ヒサシ先生!」

「先生はいらんぞ」

 彼はビシッと敬礼をして、俺が何か話すタイミングもなく一緒に外に出た。

 俺も来る必要はなかったのかもしれない、と一人で徒労を惜しんでいると、ソラは中学校舎のほうへ足向きを変えた。


「部活見に行くんだよな?」

「そうそう」

「何部なの?」

「行ってからのお楽しみな」

 足取りがやけに軽い。

 隣棟への渡り廊下を歩いて、人気の少ない階段をのぼる。
 奈雨とのことを思い出して、携帯を取り出したが、彼女からの連絡はまだきていなかった。

 一つの大きめの教室の前で、彼は足を止めた。

「じゃ、俺は役目を果たしたから帰るわ」

「え」

「今日ちょっと用事あんだよ! 悪いな、明日は顔出すって部長さんに言っといてくれ」

「ちょっ、ソラ……」

 じゃあな! と彼は手をあげて走り去る。

 きょろきょろとあたりを見渡してみても、人の姿は一つもないし、音だって外から漏れ聞こえてくる部活の音だけだ。

 留まっているのも嫌なので、一思いに教室のドアを開けることにした。


【部?】

 ガチャリ、と鍵のかかっていないドアが開いた。

 見渡す。なかなかに広い。

 部屋の中には、机、椅子、パソコン、電子ケトル、ソファ。

 見覚えがある。
 ……というか、ここは昨日奈雨と二人で訪れた場所だ。

 ここ部室だったのかよ。

 頭を横に振って、変にもやもやとする気分をごまかしながら、人っ子ひとりいない部屋の中をうろつく。

 真っ黒の遮光カーテンを開けるとともに埃が舞った。
 床や入り口付近は綺麗なのに、こっちはだいぶ埃っぽい。

 けほ、と咳が出る。我ながらかわいい咳だ。

 ふと視線を移すと、窓に向けられたソファに、女の人が寝ていた。
 すぴーすぴー言っている。かなり熟睡しているらしく全く気が付かなかった。

 ソラの言っていた部長というのはこの人のことか。
 ネクタイの色を見る限り、高等部二年生。


「あの」

 と言って、起こそうとしたけれど、彼女は一向に起きない。

 大きめのソファにすっぽりと収まる身体。さらさらのサイドテールに長い睫毛。
 見ていても仕方がないので、軽めに揺すってみる。

 起きない。

 彼女はイヤホンを耳にかけている。コードが延びて、ソファの先には型の落ちたウォークマン。

 漏れ出る音楽は、洋楽?

 このまま帰ってしまおうかと思ったけれど、どのみち話しかけることにはなると考えて、少々強引だが無理やり彼女の身体を起こさせた。

 イヤホンを取るとさすがに目が覚めたようで、彼女は目をごしごしと擦る。

「……だれ?」

「この部室に行けと言われまして」

 それ以外に言いようがないし。

 彼女はもう一度目を擦ったあとに、黒縁の眼鏡をかける。
 途端に知的に映る、偏見がすごい。


「あー、君が……。ちょっと待ってね、お茶淹れるから」

 そう言って立ち上がって、ケトルでカップにお湯を注ぐ。
 初対面の俺が見てわかるくらいふらふらしている。

 適当に座っていいよ、と言われたものの、さっきまで人の寝ていたソファに座るわけにはいかず、パイプ椅子に腰かけた。

「……あ、言い忘れてたけど紅茶でいいよね?」

「いいですよ」

「はーい、おまちー」

 すぐに紅茶が出された。

「いらっしゃい、お名前は?」

「白石未来です」

「どうも、部長です」

 彼女は深々と頭を下げる。俺もつられて頭を下げる。

「じゃあ、さっそくこの入部届けに名前を書いてもらおうか」

「……いや、まずここ何部なんですか?」

「え、聞いてないの?」

「ソラに連れてこられました」
 
「あー、そらそらくんね……あのくるくるの」

「そうです、くるくるの」

 彼女はふう、とため息をついた。
 かと思ったらまた眠たげにあくびをする。



「……白石くん入ってくれるよね?」

「ええ、まあ……」

「あ、忘れてた。……ここは何部でしょうか!」

 なかなかに緩いペースの人だな。こっちまで少し眠くなってきた。

 何部。と言われても……。

 彼女からの質問に解答を出すには、どうにも手がかりが少ない。

「パソコン部ですか?」

「ぶー」

「じゃあ、ワープロ部」

「ぶー」

「ええ……睡眠部」

「……それ、ちょっといいかも」

 同意されても困る。

 でもあれか、睡眠部。自分で言っといてかなり良さげだな。
 睡眠合宿、授業をサボって睡眠、放課後に睡眠。

 家で一人でできちゃうなそれ。


「で、正解は何部なんですか?」

「正解は──」

 彼女は、いたずらっぽく微笑みながら、

「この紙とペンです!」

 と、俺にメモ帳程度の大きさの紙と青いシャーペンを渡してきた。

「今から入部テストをしちゃいます」

「あの、ですから何部なんですか?」

「いいからいいから、えっとね、じゃあそこにあるりんごの絵を描いてみよう」

 彼女の指の先には赤いりんご。
 うさぎのかたちに切られたものもおるが、描かせたいのは普通のまんまるのりんごのようだ。

「描け、って……見たままでいいですよね」

「うんうん、いいよ。好きに描いちゃって?」

 渡されたシャーペンの芯を出して、とりあえずメモ帳にアタリをとる。
 中学二年のとき美術の授業でやった覚えがある。

 部長さんは俺が描く姿をまじまじと見つめていた。
 ときどき漏れる「おお」とか「へえ」という声で少し落ちつかない。


 言われるままにやっている自分もあれだけど、これが入部テスト? なら美術関係の部活と思って間違いはないだろう。

 漠然と見たままを写していても普通に難しいから、アウトラインと陰影だけに絞って描くことにした。
 どのみち絵なんて初心者だし、描いていれば彼女もわかるだろう。

 結局三十分足らずで描きあげた。

「これでいいですか?」

「……」

「……あの」

「え、っと……これでいいの?」

「はい」

「……うん、結構うまく描けてるね」

「……あり、がとうございます」

 そう言われるなんて思ってなくて、変な返事になってしまった。

「白石くん、合格! 入部を許可しまーす」

「……」

 ぱちぱちぱちー、と大げさに拍手をして、彼女は誇りのかぶった大きいボードを部屋の端っこから持ってきた。


 それには、ひらがなで「いらすとぶ!」と書かれていた。

「……イラスト部?」

「そう、イラスト部! これからよろしくね」

「俺、絵は全然描けないですけど」

「いいのいいの。みんなで楽しく落書きしようってゆーのがモットーなのです!」

 なのです! ってもなあ……。

「ソラは入るって言ってたんですか?」

「うん、なんかね、自給自足とか言ってたよ」

「それは、どういう」

「……んー、たしか、美少女を描けばオカズ? にできるとかなんとか」

「さすがに絵を見てごはんは食べれないよねー」と笑いながら彼女は言う。

 ていうか普通にオカズってそのオカズだよな……。
 あいつマジで女子(しかも先輩)に向かって何言ってんだよ。


「でも、絵描き初心者の俺とソラを引き入れるなんて、そんなに困ってるんですか?」

「ほら、春に部活紹介と部活体験ってあったじゃない?」

「ああ……体育館でありましたね」

「えっとね、私の二つ上には先輩がいたけど、一つ上は部員がいなかったから、私が去年から部長でね。
 部活紹介のときにうとうとしてこの部屋で寝てたら、イラスト部の時間が終わっちゃったの」

「……はあ」

 そんなに興味はなかったから流し流しで聞いていたけれど、イラスト部について微塵にも記憶にないってことは、本当にそうだったみたいだ。

「で、そんな失敗をしちゃったら私一人しか部員がいないじゃん、となりまして」

「……」

「ヒサシちゃんに頼んだら、なんとかしてくれるって言ってくれてね。
 冬休みまでに私を入れて五人集めれば、廃部にはならないってなったわけですよー」

 ドヤ顔、なぜだ。


「つまり、部活に入りたい俺らと部員が欲しい先輩で、利害が一致してると」

「そう! うぃんうぃんだよ!」

「ウィンウィン……」

「……入ってくれないの?」

 じと目でぷくーっと頬を膨らます。

「い、いや、入りますよ」

「え!」

「……入りますけど、部活あんまり顔出せないかもしれないですよ」

「えー私、幽霊は認めません」

「……」

 こっちが「えー」だ。
 入ってもいいけど、貢献できるかわからない、というか貢献は全くできないのに、わざわざ入り浸る必要性はない。


「活動日は週何日ですか?」

「毎日!」

「冗談ですよね」

「えー、でも、せっかく部員が増えたらみんなでわいわいしたくない?」

「て言っても三人ですよ?」

「あ……お茶飲みにくるだけでもいいよ?」

「……なんか、めっちゃ適当ですね」

「できればお茶を淹れてくれればベストです」

「まあ、それくらいなら」

 なぜか妥協してしまった。
 マクドナルド理論。全く違う。

「明日そらそらくんがくるって言ってたから、白石くんもきてね?」

「わかりました」


 了承すると、ふんふーん、と部屋中をスキップで駆け回る。

 精神年齢五歳くらいなんじゃないか、この人。
 普通に失礼だけど、さっきからずっとそんなテンションだ。

「──あ、そういえば、先輩の名前訊いてませんでした」

「私の名前?」

「はい」

 私の名前はー、とすらすらさっきまで俺がデッサンもどきをしていた紙に整った文字が書かれていく。

「土に時って書いて『ねぐら』って読むの! 珍しいでしょー」

「……下は、こより、であってますか?」

「そう! 胡に依で胡依! かわいいでしょ」

「じゃあ、胡依先輩って呼びますね」

「おふ……先輩っていい響き」

 なんか興奮していらっしゃる。

 苗字も絶妙に決まっているし、言動も不思議な人だ。

 でも、なんだかこの部活にいたら退屈しないかもしれない。

 まあ、胡依先輩の言う通り、お茶汲みくらいなら、家に帰ってぐうたらしているよりも、
 ここで何かをしているほうがよっぽど楽しいことが起こるのかもしれない、とぼんやりながらもそんな考えを抱いた。

本日の投下は以上です

訂正
>>97
誇りのかぶった→埃のかぶった


【夕暮れ】

 それから少し胡依先輩と話をして、部室をあとにした。

「これ持ってっていいよ!」と、いくつかのものをもらって、果物なんかももらった。

 この季節らしい、もうすぐ秋がやってくる。
 暦の上ではまだ八月ではあるけれど、今年の夏はあまり暑くならなかったからか、もう夏と秋の境界と言われても特に驚かないくらいだ。

 秋といえば、まったりと過ごすのが一般的な過ごし方だろう。
 自分だってその枠から外れずに、本を買って読んでみたり、焼き芋を食べたりしてみようかな、と思う。

 自販機で缶コーヒーを買う。さすがにまだあたたかい飲み物は入っていない。
 もうちょっとしたらコーンポタージュなんかもでてくるんだろうか。

 三階まで降りて、中学棟と高校棟を繋ぐ渡り廊下に出た。

 部室を訪れていた間も奈雨からの連絡はなくて、こっちからラインを送ってみるも、「ちょっと待ってて」とひとこと返ってきたっきり、その後の返信はなかった。


 返信があった手前、忘れてるわけではないとは思うけど、彼女は連絡がまめなタイプだから、少し不安になる。

 まあ、何もなくてもそういうことはあるが。

 西の空を眺める。夕日が射している。
 風が冷たく吹いてきて、夏服ではだいぶ肌寒さも感じる。

 なんとなく携帯を取り出して写真に収める。
 いろいろと風景だったり景観だったりを撮ることが多くて、写真フォルダにはそういう写真ばかりがたまってきている。

「おまたせー」と後ろから声がして、振り返った。

「ごめん、ちょっとクラスでばたばたしてて」

「大丈夫だよ」

「……待った?」

「ぜんぜん」

「よかった……じゃ、お兄ちゃん行こっか」

 二人並んで歩き出す。
 夕暮れ時だというのに、ここを通る生徒の姿はない。

 うまく形容できないような、そんな不思議な気持ちになるのはどうしてだろうか。


【重そう】

「なんか、今日ちょっと楽しそうだね」

 かちゃり、とフォークを皿に置いて、彼女は話しかけてきた。

「そう?」

 俺も手を止めて、そう聞き返す。

 駅前の女子ウケの良さそうなパンケーキのお店。
 おしゃれで洋風の内装、デフォルメされたくじらのぬいぐるみが複数置いてある。

 着く頃には外はもう真っ暗になっていて、店内の明かりが目に眩しい。

「うん……気のせい、かな?」

 言いながら、彼女は小首をかしげる。
 すごいかわいい(語彙力)。

 冗談は置いといて、ここにいるとアウェー感が半端ない。

 周りを見渡しても女の人ばかり。見た感じカップルの男もいるにはいるが、服装やらなんやらで女の人と同化している。

「自分ではわからない」

「まあ、そんな感じに見えなくもないってこと」

「どっちだよ」

「……どっちも?」

 そういうことにしておこう。


 前菜っぽいサラダを食べ終えると同時に、お店の人がパンケーキを持ってきた。

「……おおー」

「ん?」

「……いや、そのね。お兄ちゃんのやつも美味しそうだなって思って」

「それなんだっけ」

「いちごきいちごらずべりーばななまうんてんくりーむ!」

 聞き取れなかった。

「俺のやつは?」

「なんだっけ、えっと……イチゴチョコバナナホイップ?」

「見たまんまなのね」

「お兄ちゃんこういうお店来たことないの?」

「ないよ、悪いか」

「……ふーん」

 彼女の皿を改めて見る。

 厚いパンケーキ、同じ。
 果物、まあ同じ。
 ホイップ、……うん。

 普通にボリューミー。SMLのMであれなんだから、Lってどんな魔境なんだろうか。

 全くわからないし呪文のような注文をする他の客にたじろいでしまって、彼女に注文を任せたが、ここではそれでいい。


「奈雨はよく来るの?」

「うーん……ここに来たのは初めてだけど、友達付き合いとかで」

「へえー」

 女の子から友達付き合いなんて言葉が出てくるとは思わないよな、普通にビビる。

「この蜂蜜を、どばーっとかけて食べるとほっぺが落ちるんだよ」

 いただきまーす、と言って、本当にどばーっとテーブルに置いてある蜂蜜をかける。

「んー! おいしー!」

「……」

「お兄ちゃんも食べなよ」

 パンケーキの一切れをフォークにぶっさして俺に向けてきた。

「なに」

「あーん」


「……」

「もしかして、あーんって知らない?」

「いや知ってる」

「……こんなかわいい子にあーんしてもらえるんだよ」

「自分で言うかね」

「いいから、ね?」

 押し付けられる。なんだかんだ言って初めてかもしれない。

 食べてから、間接キスじゃん、とあたりまえのことが頭に浮かんだ。
 直接より間接のほうが緊張する。わけない。

 隣の席の人が五段(五枚?)重ねのパンケーキを食している。
 しかも見た目が華奢な女子大生くらいか? あれ俺は食べきれなさそう。

 ここらへんだと結構有名なオムライスの専門店に家族で行ったときのことを思い出す。
 佑希より食べれなかった。ビーフシチューオムライスが美味しかった。それだけ。

「じゃあ、俺のもあげる」

「いいの? ありがとう」

「どうぞ」

「……んー、あまくておいしー」

「それはよかった」


 えへへー、と彼女が嬉しそうに笑う。

「写真とか、撮らなくていいのか?」

「……んー、わたしそういうのあんまり好きじゃないの。
 食べ物は美味しいうちに食べちゃいたいし、SNSもライン以外やってないから」

「そうなんだ」

 珍しい。
 ぱしゃぱしゃしてる人をよく見るから、奈雨も御多分に洩れずそうなのだと思っていた。

「あ、わたしとのツーショットが欲しいのか」

「ちがうわ」

「またまたー、そんなこと言って。
 せっかくだし店員さん呼んで撮ってもらおうね」

 そう言って、本当に店員さんを呼んで写真を撮ってもらった。

 なんかやけに恥ずかしいな、奈雨につられてピースなんてしちゃったし。


「今日ね、遅くなっちゃったのは文化祭のクラス展示について話し合ってたからなんだ」

「……放課後まで?」

「うん、なんかみんなやるからには最優秀賞を獲ろうって本気になっちゃっててね」

「最優秀賞なんてあるんだ」

「今年はどうか知らないけど、賞金二万円もらえるらしいよ。
 そいえば、お兄ちゃんのクラスは何になったの?」

 どこからそのお金が出ているのでしょうか。
 OB会とかかな、うちの学校無駄にそういうの強いし。

「ジェットコースター」

「人気だよね」

 やっぱりそうだったのか。

「……奈雨のクラスは?」

「えっと、ミュージカルか演劇みたいなのを体育館でやるって決まったみたい。
 五年連続そのどっちかが最優秀賞獲ってるらしいから、それしかないだろ、って委員の子が言ってた」


「随分とベタだな」

「そりゃ、中高生なんてそんなものでしょ」

 達観してるな、中学生のくせに。
 歳は一つしか変わらないのに、どうしてこうも違ってくるのだろうか。

 性別? ではないだろうし。

「それでね、今日の話し合いで、わたしが主演になったの」

「……え、マジで?」

「まじ」

 まっすぐ見つめられる。

「……あんまり自分からやりたいとは思わないけどね」

「……」

「反対する人は一人もいなくて、みんなわたしがやるって決まったみたいになってたから、断るにも断れなかった」

「でもまあ、悪い気はしないよね」と、彼女は仕方なさそうに笑った。


 奈雨も……こんなふうに笑うんだ。
 なんて、拙い感想が頭にぽーっと浮かんだ。

「どうして、クラスのみんなは奈雨にやらせたがるの?」

 訊いてはいけない気もしたけど、訊かずにはいられなかった。
 もしかしたら……が浮かぶ時点で、放置するのは心もとない。

「……あ、ちがうよ? そういうんじゃないから」

「そういう、って?」

 我ながら意地の悪い質問。

「……ただ、わたしがみんなに期待されてる、というか」

「うん」

「わ、わたしがかわいいのが悪いんだよねー」

 俺から目線を逸らして、毛先をくるくると遊ばせる。

 嘘は、まあついてないんだろう。断定ができるほど、俺は彼女について知っているとは言えない。


「お兄ちゃん、もう食べ終わっちゃった」

 奈雨の手元を見る。パンケーキをすでに完食してしまっていた。

「ちょっと食べる?」

「……え! うん、でも太りそう」

「痩せてるから大丈夫」

「昨日お兄ちゃんがわたしのこと重そうって言ったんじゃん」

「あれは料理が重そうって話」

「ほんとに?」

「ほんとに」

 奈雨はじーっと確認するように俺の目を眺める。
 それから数秒そのままだったけれど、結局は諦めたようにため息をついた。


「……じゃあ、遠慮なくいただきます」

「うん、食べろ食べろ」

 正直甘いものは多くは食べられなかったから助かった。

 俺も手をつけながら、目の前でパンケーキを美味しそうに頬張る女の子を見る。

 彼女が自分で言うとおり、容姿も、性格も、人受けするし整っているとは思う。
 だからこそ、と考える。でも同時に、どうせ、とも考える。

「どうしたの? 手止まってるけど、ぼーっとしてるとわたしが全部食べちゃうよ」

「……」

「今こいつ太るなって思ったでしょ!」

「思ってない」

 ちょっと思った。でも、口に出さなければセーフだろ。

 顔に出てたならもろアウト。

 ……まあ、普通に出てたんだろうな。

本日の投下は以上です


【実践あるのみ!】

 家に帰ると、佑希がソファですやすやと寝息を立てて眠っていた。
 テーブルの上の書置きによると、父さんは泊まりで仕事で、母さんはもう寝入ってしまったらしい。

 薄いタオルケットを持ってきて彼女にかけた。

 お値段以上ではなくて西洋風のお店のやつ、超どうでもいい情報。

 彼女は身体が強い割に、風邪をひくと拗らせて長引くことが多い。
 仮に風邪を引いても無理して学校行くだろうし、日中看病できる人もいないしで、なったら面倒だ。

 兄の務め。これくらいはしないとな。

 椅子にだらんと座って、胡依先輩にもらったものを取り出す。

 いろいろな硬さの鉛筆。
 コピック? とにかく色塗るやつ。
 スケッチブック。
 無印のメモ帳、剥がして使える。普通に便利そう。

 帰る間際に、なんでもいいから明日の放課後までに好きなものを描いてきて、と課題が出された。

 実践あるのみ! なんて、横ピースをつくりながら彼女は言っていたけれど、俺は彼女に絵を描くとはひとことも言ってない。


 それでも自然とメモ帳に落書きを描きはじめていた。

 ……というのも単純な理由で、絵を描くのはだいぶ好きなほうだから。

 中学の時はつまんない授業(主に技術家庭とか技術家庭とか)の教科書は落書きだらけだった。
 小学校では校庭でドッジボールをするよりも自由帳に絵を描いたりトランプをするのが好きだった。

 インドア気味の自分にとっては、趣味までとはいかずとも、数少ない楽しいことの一つだ。

 部屋から漫画を取ってきて、キャラの模写をしてみる。
 これも小さい頃はよくやっていたことだ。

 その時はたしか顔だけ描いて満足していた気がする。
 事実を言えば身体のラインを取るのが難しくてうまく描けなかっただけなのではあるが。

 でも、いつからか暇な時間や隙間の時間に軽く勉強をするようになって、そういう機会は減ってしまった。

 りんごのデッサンとは違って、鉛筆がすらすらと進む。
 思い入れのあるキャラ(このあとすぐ死ぬ)は漫画をほぼ見なくても描けた。

 友達の中でこのキャラが好きなのは俺だけだったような覚えがある。

 みんなで楽しく描く、が部のモットー。

 ざっくりとメモ帳四枚分を描いてみた。
 携帯でコピックでの色の塗り方を検索する。なかなかに難しそうだ。

 半紙にさーっと塗ってみても、画面に出ているようなグラデーションがうまく出せない。

 色を塗ってこいとまでは言われなかったけれど、ここは気になるところだ。

 明日胡依先輩に持っていって訊いてみよう。


【逃避】

 ほらね、と誰かが言う。

 わざわざバカじゃないの、と誰かが言う。

 逃げ出したくせにノコノコ戻ってきたんだ、と誰かが言う。

 そういうもの。
 割り切れずにいる嫌な思考。

 諦めたら何も残らない。
 でも、諦めなかったとして、何か残るものなんてあるのだろうか?

 その何かを成し遂げるために、それこそ、大げさだけれど命を懸けて取り組んだとして、それで取り返しのつかない失敗をしてしまったらどうする?

 諦める/諦めない、の間にあるのは自分が満足するかどうか、あるいは他人に認められるかどうかだ。

 ……けれど、その自分が満足するかどうかだって、他人からの評価がつきまとう。

 どうせ負けてしまうなら何もしなければいいよ。
 頑張って努力して、それでも越えられない壁があって、そこで打ちひしがれるくらいなら、最初からやらなければいいじゃないか。

 負け続けることと、負けに慣れてしまうことは、似ているようで全く違うもの。

 "そこ"にぶち当たった時に、自分はどうするのか。
 性懲りもなく努力を続けるのか、向いてなかったんだ、と諦めるのか。

 自分なりに、自分のためにやっているから他人は関係ない。

 どうしたら、そんなことを言えるのだろうか?


【萌え?】

 やわらかな朝の日差しで目覚めた。

 昨日は結局日付が変わるまで絵を描いていて、
 佑希を風呂に入れたあとに自分も風呂に入って、上がってそのままベッドに倒れこんだ。

 起き上がると、携帯から遅れたアラームが鳴った。
 警告音。いつもはこれでよく目覚めるけれど、いかんせん心臓に悪い。

 朝食と少なめの昼食を作って家を出た。
 朝練があるだろうけど、まだ彼女は眠っているはずだ。

 外に出て歩けばすぐに学校がある。

 なんとなく、先輩はもう部室にいるような気がして、中学棟のほうから四階まで上がった。

 体育館からはボールの跳ねる音、こんなに早い時間から外周をしている部活だってあった。

 ドアの取っ手を握る。

 考えてみれば当然かもしれないけど、ドアはしっかり施錠されていた。

 反対側の窓を開けて、冷たい風を廊下に送り込む。
 ずっと閉め切られていた学校はやはり暑い。

 することもなくて、メモ帳とスケッチブックを取り出して自分の絵を眺める。


 漫画の絵。携帯で適当に検索した画像の模写。

 一夜置いてみると、あまりうまく描けたとは思えなくなっていた。
 自信たっぷり解けたと思っていた問題が、試験時間の終わりとともに急に不安になることと似ている。

 学生からしたらありがちなこと。

「おはよー」

 寝惚け眼を擦りながら、階段のほうから声をかけられた。

「おはようございます」

「はやいね」

「……うち、学校のすぐ近くなんで。胡依先輩もこれぐらいなんですか?」

「うん、いつも始発で来てるよ」

 彼女はふわー、とあくびをしながら、鍵を使って部室を開けた。

 そのままふらふらした足取りで部屋の電気をつけて、奥の窓に手をかける。

「お茶淹れますか」

「……おお、ありがとー」

 棚をいじって、紅茶のパックを取り出す。
 あんまりわからないけど、多分いいとこのやつ。どうりで昨日美味しかったわけだ。

 小さい冷蔵庫には牛乳があって、それを入れて欲しいと言われた。
 こういうのは常温のほうがいいと思うけれど、まあ大丈夫だよな。


 カップをテーブルに持っていくと、「ね、そういえば」と胡依先輩に呼び止められた。

「昨日から思ってたんだけど、どこかで会ったことある?」

「……俺と、ですか?」

「うんうん、見たことあるよーな……」

「初めて会ったと思いますけど」

「んー……そっかあ」

 先輩は首をひねる。

「まあ……同じ学校ですし、校内で見たことあるとかじゃないですかね」

「でも、うち中高合わせて千人くらいいるよ」

「そんなにいるんですか」

「……あ、もしかして白石くんって高校から」

「はい、ソラもですよ」

 うんうんと頷かれる。
 ひと学年百七十人で中高合わせて六年だから、単純計算でも千人以上か。

 反応的に、胡依先輩は中学からの人か。
 年によって違うらしいけど、今年は普通科十人、特進五人の募集だったから、高校からの人を見つけるほうが難しい。


「それ描いてきたの?」

「えっと……いくつか、模写ですけど」

「どれどれ、見せてみんしゃい」

 お願いします、と言って、彼女に描いてきたものを手渡す。

 ぱらぱらとページを捲る音が響く。

「先輩はどんな絵を描くんですか?」

「……んーと、ちょいとそこのノーパソの電源入れてみて」

 言われるままに、転がっているノートパソコンのスイッチを押す。

「入れましたよ」

「そしたら、『らくがき』ってフォルダあるから、それクリックすると昔描いたのが見れるはず」

 開くと、画面いっぱいにデジタル絵が並んでいた。
 おお、と思いながらスクロールすると、風景画から人物画まで、幅広くいろいろなものが描かれていた。

 素人目で見てもかなり上手い。
 なんつーか、俺の絵とは違って線が一本ちゃんと取れてる?


「これ、ペンタブで描くんですか?」

「……どの絵?」

「向日葵畑のやつです」

「あー、それはたしか液タブで描いたやつかな……?」

 液タブ……液晶タブレットか。
 iPad的な。機械を使って絵を描いたことはもちろんないから、そこらへんには疎い。

「てかてか、白石くん絵上手いじゃん!」

「そうですか?」

「うん、さすが私が見込んだだけあるなって思ったよー」

 見込んだというか、俺が勝手に来たんじゃなかったっけ。

 きっとお世辞だろうけど、それでも褒められると嬉しいな。

「この漫画、私も好きなやつ」

「うちに全巻ありますよ」

「……え、読ませて」

「今度持ってきます」

 へんな約束。

 まあ、先輩がかなりフレンドリーな人だから、こっちも気疲れしなくて済むみたいだ。


「白石くんって手首を使って描くタイプ?」

「手首……」

「あ、えっとね。絵を描くときには、紙を固定して手首で描くのと、腕を移動して描く二つがあるの」

「先輩はどっちですか?」

「うーんと、腕を動かすほうかな、私はデジ絵だとそのほうが描きやすいと思うから」

 手首か腕か。

 その場でいつも絵を描いているときの様子をイメージしてみる。

「……よくわからないですけど、多分手首で描いてますね」

「そうだよね。あれでしょ、チラシの裏とかに落書きするタイプ」

「あってます、すごいですね」

 でしょー、とドヤァなんていう効果音がつきそうな目を向けてきた。

 やっぱり、見る人が見ればわかるものなのか。


「なんか、見てて思ったんだけど」

「はい」

「白石くんは、どっちかと言うとかわいい絵柄が好きでしょー。
 目の描き方とか、身体のラインとか、男なのに女らしく見える気がするよ」

「それは、意識したことないですね」

「……なんだろう、深夜アニメとかよくみる?」

「いえ」

「えー、そっか……。輪郭の丸さとか、女の子がきゃっきゃうふふしてジャンプするアニメっぽいなって」

 百合アニメですね、はい。

 ソラが音ゲーからハマったとかでそういうのが好きだからおすすめされて何作か見たことはあるけど、そんなんで影響されたりするんだろうか。

「先輩はそっち系のアニメみるんですね」


「うん、みるみる」

 あれは大きいお兄さん向けだと思っていた。
 まあ、あれか。ニチアサのとかショッピングモールのゲームコーナーに並ぶなんちゃらおじさんと同じ類。

 女の人向けのはずなのに男の人が多い謎。

 胡依先輩は、ちょっと待ってね、と棚から漫画を何冊か取り出して、俺の前に持ってきた。

 見たことがあるタイトルもいくつか。やはり絵柄はかわいめだ。

 出版社を爆破する漫画もあった。
 これは違うだろ、ちょっと面白いしラインのスタンプ買ったけど。

「貸してあげるから、何冊か読んでみて」

「布教ですか?」

「そうです!」

 予鈴が鳴って、渡されたなかから数冊を鞄の中に入れて教室に向かうことにした。

 胡依先輩は今から睡眠をとると言っていたが、あの人は授業出なくていいのかな。

本日の投下は以上です


【真似できない】

 次の日も、その次の日も、胡依先輩に指南してもらいながらパソコンに向かった。

 それなりに人気のあるイラストレーターの書いた入門書をぱらぱらと見てみたものの、やはり人に直接訊く方が早いだろうと思うだけだった。先輩の教え方が上手かった、というのもあると思うけれど。

 ソラもちゃんと学校にも部室にも顔を出したが、
 教室では授業以外全ての時間を睡眠に費やし、部室では終わっていない夏休みの課題を進めていた。

 その姿について、胡依先輩は特に咎めることはしなかった。
 
 まあ、先輩も俺に呼んだとき以外は別のパソコンでシューティングゲームをするかソファで寝るかしていたから、同じようなものだ。
 肝心の部長が絵を描いていないんじゃどうしようもない、と自分にしてはらしくないことを考えたが、そもそもこの部活のコンセプトはそういうところではなかったことを思い出した。



 先輩は寝ているときは整った身なりも相まって綺麗に見えるが、起きているとなんだかんだうるさい。

「思ったんだけど、なんか味気ないよねー」と言ったかと思えば、空き教室からテーブルをくすねてきて部屋の隅っこに設置してみたり、
「なんとなく寂しいなー」と言ったかと思えば、資料室からコンポを持ってきてそれなりの音量で音楽を鳴らし始めたりしていた。

 曲名がわからないものも多かったが、「はっぴいえんど」や「aiko」「perfume」「YUKI」「筋肉少女帯」などが流れた。多分。

 この人いつの人なんだろう。つーか選曲センス面白いな、と心の中で笑っていたら顔に出ていたのか「CD持ってくる友達が入れた曲だもん!」といーっと口を大きく横に開けて睨まれた。

 ちょっとかわいいと思ったのは内緒だ。

 今日も今日とて家で描いた絵に色彩を加えながら、朝のことを少し思い出した。


 SHRで文化祭の告示プリントが渡された。
 それは、部活の方はまだ不確定ではあるものの、クラス展示は全クラス決定したようで、学年ごと一覧表になっているものだ。

 奈雨の言っていた通り、3-Aはミュージカル。佑希のクラスは脱出ゲームと紙には記されていた。

 彼女の様子がなんとなく気がかりではあったけれど、あまり踏み込んでほしくはなさそうにしていたから、その思いは留めるべきだろう。

 ただ、忘れないうちに一応「がんばれよ」とラインを送っておいた。すぐに「なんのこと?」と返信がきた。
「いろいろ」とそれに返すと、すぐに既読がついてウサギのスタンプで返された。

 なんと返信したものかな、それともこれは打ち止めの意味でのスタンプか、要領の得ないことを言ったのは俺だしな、と頭を悩ませていると後ろから善くんに声をかけられた。

 どうにも、最終予選で見事勝利をおさめて県大会出場が決まったと。
 興味がなくて知らなかったけど、善くんもベンチから試合に出たらしい。

 一年生で、それも高校からチームに入ったのにもうレギュラーだなんてすごいなと思った。

 素直におめでとうと言うと、彼は嬉しそうにはにかんだ。
 一瞬夏休みの終わりに聞いた元彼女のことが頭によぎったものの、どうにかして押し込めた。


 屋上での胡依先輩との会話も思い出した。

 あのとき、彼女はなんて言ってたんだっけ?

「……どうしたの? 分からないところでもある?」

 不意に横から手をひらひらと振られた。

「……いえ。ちょっと休憩してました」

「もー、ならいいんだけどさ。そらそらくん帰っちゃったし、暇だなーって思って」

「え、ソラ帰ったんですか?」

 言いながら後ろを振り返ると、さっきまでパイプ椅子に腰掛けていた彼の姿は消えていた。

「そらそらくんって不思議な子だよねー」

「そうですね」

「私が言えたことじゃないけど常にぼーっとしてるところあるし、話しかけても反応薄いし……」

 いや、多分それは女性のいる空間だからで。よく知らんけど。


 でもそれを胡依先輩に言ったところでなあ。先週は普通に話をしてたから違う可能性もあるし、迂闊なことを言うのは控えたい。

「まあ、きっと胡依先輩の美貌に怖気付いてうまく話せないんですよ」

「……はあ、私かわいいもんね」

「……」

 そういう返しか。軽口にそういう返しをされると戸惑う。

「……とりあえず、大丈夫だと思いますよ?
 あれでかなり人付き合いのいいやつですし、先輩みたいなタイプの人も別に苦手とかじゃないと思いますよ」

「私みたいなタイプ!」

「たとえですよ、たとえ」

「私みたいなタイプってどんなタイプ?」と彼女は繰り返す。

「すぐ寝てるタイプ」

「いや、そりゃそうなんだけどさー。
 もっと、こうなにかあるでしょ」

「美少女アニメが好きとかですか?」

「えー」


「……あの、じゃあ逆に俺ってどんなタイプですか」

 出会って数日レベルの相手の印象なんて容姿と口調くらいしか掴めていないはずだ。
 でもまあ、人の容姿についてあれこれ言うのも避けたいことではあるし、心の中で思うだけなら制限なんてないけれど。

「えー……白石くんは救いようのないシスコンでしょ」

「……」

「それでいて、女の子の扱いはけっこう手慣れてて、でもちょっと拗らせてるところがある。
 基本やさしいけどいろんなことに少しずつセーブをしてるような感じ。面倒なことにもとりあえず手を出してから考えるタイプ。
 知り合って少しだからあんまりわからないけど、まあ、ここの部員としての適性はばっちりだね」

 俺はどう返せばいいんだろう。
 シスコン……。シスコンか……。

「あと、私と趣味がかなり合う」

 そう言って、彼女は笑う。


「あたり?」

「勝手に分析しないで下さい」

「しろって言ったのは白石くんじゃん」

「そうですけど……」

「話したら眠くなってきた」

「じゃあ寝てください」

「やっさしー」

 今度は真顔でそう言った。

 あたっているかどうかは抜きにしても、すらすらと言葉が出てくるだけですごいものだ。
 それに、自分からしてみれば少しエスパーかと思うような発言ではあった。

「きみはお兄ちゃん力が高いんだよ。私と話してても、どっちが年上かわからないってたまに思うよ」

「でも、敬語使ってますよ?」

「それはかたちだけでしょー。
 ……あ、別に責めてるとかじゃなくて、接しやすくていいと思うよって言いたいんだからね?」

「それは……ありがとうございます」


 それにしても、お兄ちゃん力か。
 意識したことはなかった。佑希にはあまり兄として慕われてるわけではなさそうだし、奈雨に対しても最近は受動的になってしまっている。

 と思ったところで一旦思考をストップさせた。

 そんでもって、いやいやちょっと待てよ、と自分につっこみを入れる。
 ……奈雨に対しても?

 自分で考えながら引っかかりを覚えた。なぜか奈雨をカウントしてしまっている。
 いや、意味は分かる。従妹で年下で小さい頃から妹みたいに扱ってきたとは思う。

 でも、会うとキスをする。される。
 こう考えるとよく分からない。妹とキスなんてするんだろうか。
 普通ならしない。じゃあ奈雨との関係はアブノーマルなものなのかというとそういう気はあまりしない。

 心配に思う。兄と妹のような関係だから。
 けれど、別に佑希のことはほっといても大丈夫だろうし心配することはほぼない。どちらかと言えば俺が心配されているような気もする。


「ここはひとつ、先輩がお話をしてあげましょう」

「ええと、はい」

「具体的なことを言う人よりも、抽象的なことを言う人のほうが頭良さそうに見えない?」

「なんの話ですか?」

「うんと、友達と話をしてて、昨日のテレビでやってたこととかをそのまま喋られてもつまらないじゃないってこと」

「はあ……はい」

 これまでと何かつながりのある話なんだろうか。

「私は、結構具体的な話を避けるタイプだよ」

「つまり、他人に頭良く見せたいってことですか?」

「……ちっがうよー。でも、そういうことにしておこっか」

 結局何が言いたいんだろう。
 抽象的な方が何かと都合がいい、とかか?

 フレンドリーだけど、どこか掴みづらいところもある。
 それは年上だからかもしれないけど、狙ってやっているのならそれはそれで十分納得できる。


「白石くんまたなんか考えてる」

「……」

「おーい」

「……すみません、聞いてますよ」

「言っといてあれだけど、あんまり気にしないでよ?」

「ああ、はい」

「……ほら、続きやろうよ」

 絵の続きを描くことを促された。
 クッションのついた椅子を俺の隣まで持ってきて、それに腰掛ける。

「先輩は描かないんですか?」

「んー、白石くんの絵を見てると楽しいから、今は見てたいな」

「あんまり見られてると緊張するんですけど」


「いいじゃない、私も人に教えてると学べることもあるなあって思うし、自分の絵を見つめなおしたりもできるから、一石二鳥どころか一石三鳥だよ」

 でも、でもなあ……。

 デッサン崩れてるとかパースめちゃくちゃとかグサグサ刺してくるし。
 背景まで描いてくると消失点がどこかとかの話にまでなってくるし。

 彼女に言わせると、俺の上達スピードはかなり早いらしい。
 前にそう言われたときはちょっと嬉しかった。

 楽しくお絵描きをするのにも見せるに値するものなのかを考えてしまうあたり、自分がとてつもない完璧主義者に思えてしまう。
 そこに的確にアドバイスをくれる胡依先輩はありがたい存在だ。もっと肩肘張らなくてもいいのに、とも言われたけど。

「じゃあさ、当面の目標をつくろうよ」

 長い髪を手櫛で梳かしながら彼女はそう口にする。

「私も、夏コミのロスであんまり絵を描く気が起きなくてさー、なにかやろうとは思ってたんだよね」

 夏コミ、初耳だ。
 やっぱりあれだけ上手いんだから外に出したりはしているのか。


「なにか、って言いますと?」

「うーん……すぐには思いつかないや。でも、なにかやるってなればモチベもアップするかなって思わない?」

「……まあ、はい。胡依先輩の絵、もっと見たいですし、そういうものがあるなら喜んで」

 単に上手いから、色彩が綺麗な絵だから、絵柄が好きだから。
 そういう"要素"ではなく、彼女の絵にはどこか惹かれるところがあった。

 これもまた抽象的ではあるけれど、それは、"どこかで見たことがある絵"ではないような気がした。

 線から、塗り方から、多くの人が見過ごしてしまうような細部にまで、彼女らしさが宿っている。

 人それぞれ見てる世界、見えてる世界が違うと言ってしまえばそれまでだが、それを叙述・描出できるだけでも俺からは離れたことだ。

「そう言ってもらえると私も嬉しいよ」

 なんでもないように、あたりまえのように彼女は笑うけれど、それってほんとうに凄いことだと思う。
 絵に限らず、俺には真似できない。


【よくわからない】

 家に帰って夕食を作っていると、佑希に後ろから抱きつかれた。

 正しくは、腰に手を回された。
 ふんふーんと喜びを露わにするように、彼女は笑う。

 米を研いでいるときはシャワーを浴びたまま髪も乾かさずに床の上にぐでーとなっていたが、どうやら目を覚ましたらしい。

 密着度が増して、背中にやわらかいものが当たる。
 おいおい、とさすがに思って彼女の手をつつくも離そうとはしてくれない。

「料理しづらいんだけど」

「いいじゃんいいじゃん」

「よくねーから、離して」

 言ったところで離してはくれないのはわかっているけど、一応言ってみた。

「やだ」

 案の定離れる素振りを見せてはくれない。
 はあ、と短いため息が出た。


 昔からそうだ。佑希は俺の事情なんて考えてくれやしない。
 俺のことも考えてくれよ、と主張する気はさらさらないけれど、ちょっとは考えてくれるとありがたいのに。

「ごはん一緒につくろーよ」

「いや、もうできるからいいよ。あとはサラダの盛り付けだけだし」

「じゃあそれをあたしがやってあげよう」

 身体から手が離れた。流しで手を洗ってから皿を取り出して、野菜とチキンを盛り付けていく。

「そういえば、お母さん今日も遅いって」

「知ってるよ」

「だから、今日は家におにいとふたりっきり」

 意味のわからないことを言ったあと、運ぶねーと言ってキッチンからお皿をテーブルに持って行った。


 俺も炊飯器から米を茶碗によそってから佑希の向かいに腰掛けた。

 米。味噌汁。サラダ。青椒肉絲。

 佑希が美味しそうに食べてくれる。
 まあ、青椒肉絲は佑希の好物だし、それもそうか。

「ふたりっきりって嬉しいの?」

 かかっているテレビがつまらなかったから、さきほどの発言を掘り返した。

 "ふたりきり"とか"ふたりだけの"は甘美な響きを持つ言葉だ。前にもこんなことを考えたような気もする。

 箸が一瞬止まって、「今更なに言ってんだこいつ」とでも言いたげな視線を向けられた。

「あたりまえじゃん」

「そう」

「ひとりよりはマシじゃん、あたりまえだよ」

「まあ、そうか」

 そっちか。そっち以外だったら引く。主に俺が俺自身に。


「てゆーかおにい、部活入ったんなら教えてよ」

「言わなかったっけ?」

「昨日の夜にお母さんから聞いた。
 相談してたくせに報告しないのはどうかと思いますよ」

「それはごめん」

 心にもない謝罪をした。
 俺の中では相談というよりも可能性の模索くらいの気持ちだったから、そんなことを言われる謂れはないのだ。

「で、部活は楽しいの? イラスト部だっけか」

「まあ、それなり」

「ふうん、部員に女の子いるの?」

「……その質問意味ある?」

「あるよ」と大真面目な顔で返される。

「部員は三人、そのうち部長が女」

「へえ、名前は?」

「ねぐらこより」

 先輩をつけなかったことを心の中で謝罪した。断罪、アーメン。


「ほー、身長高めで髪長めの人?」

「うん、多分そう。てか知ってんの? 胡依先輩のこと」

「えー、だってあの人有名人だし」

 ずずずっと味噌汁を飲み込んだ。
 胡依先輩が有名人、あまり像を結ばない。

 サボりで有名。謎の行動で有名。どうしてこんなことばかり浮かぶんだ。
 胡依先輩に対して変人フィルターという名の偏見を持ちすぎている。

「有名人って?」と俺が問うと、
「絵がすごい上手いんだって、中等部のときからよく名前を聞いた」と。

「でも、最近は聞いてなかったかな。
 一昨年の文化祭のポスターとか、入場門とかつくってくれたんだよね。あたしそのとき文化祭実行委員だったから、なにかやってるのは見てたんだ」

「へえ」と感想にもならない声がもれた。

「あ、でもその人美術部だったはずだけど、今はそのイラスト部ってのに入ってるんだね」

「そうみたいだな」


「あんまり覚えてないけど、よくわからない絵だったような?」

「なんの話?」

「文化祭のポスターの話」

 よくわからない絵。
 その言葉がよくわからない。

 キュビズムとかか? でも、胡依先輩の話にはそういうのは出てきていない。

 中学のときは風景画をよく描いていたとは言っていた。
 美術部だとすると油絵とか水彩画が想像できる。

「そいえば、どうしておにいがイラスト部に入ろうと思ったの?」

「ああ……いや、なんとなく、だな」

「えー、そんなでいいの?」

「いいんだよ、楽しくお絵描きしようって部活だから」

 そう言うと、佑希はそれ以上何も言ってこなかった。


 食べ終わったものを流しに運ぶ。
 佑希がわたしのぶんもよろしくと言うので素直に了承した。

 洗い物をする。こういうときに手伝ってくれるのがやさしさだと思うんだ。

 だから佑希はやさしくないのだ。人類の敵だ。

 洗い物をするのはパパの務めです。
 ママが普段家事をしてくれるので、これぐらいはやらないとな、という気持ちになるのです。
 だから、慈しみの念を持ってやりなさい(暗黒微笑)。

 そううちの母親が言っていたのを思い出した。

 子供はもう母さん父さん呼びのくせに当の両親がお互いをママパパで呼び合うのってどうにかしてるよな。


「おにいさ、もう少ししたらコンビニいこうよ」

 また近くに寄ってきて話しかけられる。

「食べたばっかじゃん」

「いいじゃーん。ほら、夜のデートだと思ってさ」

「誰とだ?」

「あたしと」

「ふっ」と俺は鼻で笑った。なんてこといいやがる。どきっとしちまっただろうが。

「かよわい少女をひとりで外に出させるなんてマネ、お母さんとお父さんが許さないと思うんだけど」

「……」

「おにい、いこうよー」

 普通にかわいいから困るんだよな。
 かわいい子に上目遣いで見上げられると思考がパニックになる。当然。


 これは妹萌え。ただのシスコンじゃねえか。俺はシスコンじゃねえ。胡依先輩恨むぞ、まじで。

「わかったけど、ちゃんと服着ろよ」

「えー、やったー! おにいなにか奢ってね!」

「奢らねえよ」

 きゃぴきゃぴとスキップを踏んでリビングに戻っていった。
 ほら、こういうときに早く終わるように洗い物を手伝うとかね?

 思っても佑希には何も言わないけど。
 これが"救いようのない"シスコンである。

 妹にやさしくするのは兄として当然のことだ。
 まあ、それにしたって限度はあるが。


【食えない】

 コンビニったっていろんな店舗がある。

 元氷屋からアニオタ御用達の店、店名が感謝そのもの、ホットスナックの美味しいところ、アイスが美味しいところ。
 好きだったご当地コンビニは消滅した。

 今はそんなだけど、ちょっと前まではコンビニに行くとホットスナックを買っていた。
 ジュースだけを買うつもりだったのにレジ前の美味しそうなホットスナックに欲を刺激されてしまう。実に単純な消費者である。

 三本柱プラス1。
 揚げ鳥。ファミチキ。Lチキ。(骨なしチキンプレーン)。

 誰になにを言われようとも俺の中では揚げ鳥が圧勝だ。
 最後のなんて「骨なしチキンのお客様~」で軽くトラウマになっている。


 彼女が行きたいのは学校の裏(つまり家から一番近い)にあるコンビニではないらしく、少し歩いたところにあるところらしい。

 佑希は財布を持つ気配を見せなかったので、仕方なく俺が財布を部屋から取ってきた。食えない女だ、ほんとに。

 外はさすがに二十二時過ぎだと冷える。
 着ろよ、と言ったのに薄手のTシャツにホットパンツだ。おまえの頭ん中は年中夏なのかよ。

「手をつなごうか」

 シスコンか確かめるためにそう言ってみた。

「うわ、きも」

「待って傷つくんだけど」

「まあ、べつにいいよ」とすっと手が出てきた。

「や、俺はピュアだからやっぱいいや」

「なんなの」


「佑希がつなぎたいならいいよ」

「なにその上から目線、うざい」

「……泣いていい?」

 今の俺はメンタル最弱だ。

「ね、奈雨にもそんなこと言ってるの?」

「……は?」

「や、だから、奈雨とふたりでいるときも手をつないだりしてるの? って質問してるんだけど」

「そんな歳じゃないだろ」

「はあ?」

「いや、『はあ?』と言われましても。
 お互い手をつなぐ歳じゃないでしょうに」

「ああ、そっちですか」

 他にどっちがあるんですか。
 と思ったところで彼女は大きなくしゃみをした。

「さむい」

「上着貸す?」

「やさしい」

「語彙力低下してんな、おまえ」

「おまえとか言うな、佑希って呼べ」

 どこにちがいがあるんですかね、それ。


 そうこうしているうちにコンビニに到着した。

 ほい、と買い物カゴを渡されて、それに飲み物やらお菓子やらが瞬く間に詰め込まれていく。

「あのな、俺の小遣いが消えるんだけど」

「だって使い道ないでしょ?」

「あるわ、漫画買ったりメシ食べに行ったり」

 言いながら悲しくなったので俺も好きなものを買うことにした。

 子持ちししゃも。酒のつまみだ(飲まない)。

 元からあまり持ち歩かないタイプだけど、財布の中の金の半分が消えた。
 半ば絶望しながらコンビニの外に出ると、佑希が「あれ」と声を上げた。

「どうした?」

「いや、あの子ってさ」

 人差し指の先には制服姿の女の子。
 こちらの存在に彼女も気付いたようで、じっと俺ら二人を見つめてきた。

 県内でも人気の制服。その制服目当てで入学する不心得な輩もいるらしい。ちなみにそこは女子高だ。


「ひさしぶりー」

 と佑希はその女の子に近付いていく。フレンドリーさに目眩がする。

「……あ、佑希ちゃん? ひさしぶりだね」

「うんうん、美柑ちゃんってここらへんに住んでるんだっけ?」

「うん、すぐ近く」

 中学振りに見た。そう言っても半年振りくらいだけど。

「未来くんもひさしぶり」

「うっす」

 ひさしぶり、と言われてもな。
 美柑ちゃん──秋風美柑と中学時代に話をしたのは二度か三度しかない。

 善くんの彼女、という漠然としたイメージで、廊下で二人でいるところにすれ違ったら冷やかしていた。
 顔も朧げにしか覚えていなくて、今目の前でみてはっきりとしたくらいである。

「佑希と秋風さんって知り合いだっけ?」

 訊くと、二人は顔を見合わせた。


「知り合いもなにも、小学校同じじゃない」

「そうそう、小三と小五で同じだったんだよね」

 へえ、と俺は思った。

 うちの中学は普通の公立だから、小学校からの持ち上がりがほとんどだ。
 それでも、三つから集まっているから、善くんはひとつ隣の小学校だったと記憶している。

「そいえば、彼氏さんとはどうなの?
 名前は、なんだっけ。よくうちに来る人」

「善くんな」と横から補足をした。

「そう、その人! たまに道とかで会ったよね」

 佑希が興味のない人について覚えないのは昔からのことだった。あまりいいとは思えない。

「えっと、別れちゃったの」と秋風さんはすぐにそれに返した。

「え……えー、ごめん」

「いいよいいよ、もう終わったことだし」


 それから二人はどちらからともなく話を始めた。

 俺が入る話じゃないなと思ってゴミ箱の前でホットスナックを食べたり飲み物を飲んだりしていると、
 十分間くらいか、それくらい話をしたあとに佑希と連絡先を交換してから、「じゃあね」と秋風美柑はうちとは反対の方向へと歩いていった。

「そんなに仲良かったの?」

 帰り道を進みながら訊ねると、佑希は肩をすくめた。

「いや、そんなに。普通の友達だったよ?」

「でも、小学校のときはいろいろと張り合ってきてたかなあ?」と続けた。

 秋風美柑について、あまりそういうイメージはない。
 初めて会ったときからほんわかおっとり系オーラを発していたし、誰に対してもやさしいと評判だったから。

 でも、成績はいつも上位だったはずだ。善くんと同じかそれ以上に。
 そのことについて嘆く善くんの話を聞き流しながら聞いていた。


「ね、帰りは手つなごっか」

「なんで?」

「昔を思い出したから?」

「いや捏造すんな、佑希と手をつないだ記憶なんてないぞ」

「じゃあいっか、チャンスだったのに」

「チャンス?」

「なんでもないよばーか」

 家に帰ってから、佑希は借りてきた映画を見ながら俺に買わせたものを食べていた。

 部屋で生ものを食べるとゴミの処理が面倒だから俺もリビングでだらだらすることにした。
 そのうちなにもしないのにも飽きてきて、来週提出の課題をだらだらと解いた。

 風呂から上がっても佑希はテレビに夢中だった。


 なんだかな、と思う。

 善くんは気落ちした様子を見せるほど落ち込んでいたのに、当の元彼女はさほど気にはしてなかったようで。
 振る/振られるを経験したことがないからよくわからないけど、性別もあるだろうし。

 男の恋愛は名前をつけて保存で女の恋愛は上書き保存だとなにかで聞いたことがある。

 どっちも不義理だろ、と思う。

 上書きにしろ名前をつけてにしろずっと取っておくなら軽々しく好きになんてならなければいいのに。

 別れたらゴミ箱にトラッシュかつガベージでウエストでリターなものをシュートしちまえばいいのに。
 そのあとゴミ箱を開いて修復不可能にするためにもう一度消すまでやるべきとは思わないけど。

 考えすぎだぜ、と一人で呟いた。


 寝る直前にスマホを開くと、奈雨から「明日の昼」とラインが来ていた。

 それに「わかった」とだけ返信をしてすぐに寝ることにした。

 明日は週末だ。明日が過ぎれば惰眠を貪り続けられる休日がやってくる。

 ワクワクで眠れなくなった。
 ドキドキが、止まらないよ!

 こよりちゃんが頭の中でそう言っていた(胡依先輩ではない)。

 あてもなくもう一度スマホを開くと、今度はソラから「そういえば、部員のアテが見つかった」と通知が表示されていた。

 明日返信しよう、と思いつつ瞼を閉じると、案外すんなりとまどろみに落ちていった。

今回の投下は以上です。


【簡単でも】

 妹が泣いている。
 俺は素直に喜べない。

 すうっと冷めていく。
 どうしたらいい。どうしたらいい。

 少しずつ調整する。
 窮屈でも、そのほうが心が痛まない。

 募るフラストレーション。
 子供だったのかもしれない。けど、今の今まで抱えたままでいる。

 安定した(ような)学校生活。
 それも、一年後に反転する。

 それで、今に至る、と。

 俺が考えているよりもずっと単純なことなのかもしれない。
 彼女が考えていることは、もっとずっと普通のことなのかもしれない。

 でも、だからと言ってそう簡単に割り切ることはできない。


【伝わらない】

 ゆさゆさと身体を揺すられる感覚で意識が浮上すると、胡依先輩がすぐ近くに立っていた。

 慌てて立ち上がって周りを確認する。

 カーテン越しに見える景色は真暗闇で、部室の掛け時計は二十二時を指し示していた。

「白石くん寝すぎ!」

「ああ、すみません」

 マジかよ、と俺は思った。

 そりゃあ更け過ぎた時間にもだけれど、先輩が濡れた髪をタオルで拭き取っているのだから無理もない。

「それ、どうしたんですか?」

「それって?」

「髪」

「……あー、今日は週末だしお泊まりしようかなって思って!
 体育館のシャワールーム借りてきたんだ」

「いいんですか」

「ふっつーにダメだけど、バレなきゃ大丈夫だよ?」

「まあ、ですね」

 電気を消していると見回りが来ないとこの前言っていたけど、ここまでくるとさすがに杜撰すぎませんかね……。


 ちょっと動いただけで頭が痛い。俺は今まで何をしてたんだ。

 できる限りで、寝る前のことを思い出してみようとする。

 たしか、ラフ画を描きながら胡依先輩を待っていたら、ソラが「今日は晩飯カレーだから帰る」と言って帰ろうとして、
 でも勝手に帰るのもなあ、って思って俺はここに残ったんだっけか。

「にしても白石くんって幸せそうな顔で寝るんだね。ちょっと起こしにくかったんだよ」

「そうなんですか」

「ありゃ私を凌ぐよ、動画に収めたかったくらいだよ」

「……」

 不意に、お腹がきゅるるー、と音を立てた。
 そういえば夜飯食べてねえな、と思ったものの、佑希は今はどうか知らないけどいないしな、と思った。

「……お菓子食べる?」

「ありがとうございます」

 手渡された木箱に入っていたお菓子はキットカット。至福だ、頭の中ではあのCMが流れ出していた。


 食べてから気が付いたけれど、朝飯からろくに食べていなかった。昼休みはあのままずっと奈雨と一緒にいたし。
 もともとあまり食べるタイプじゃないから、二食抜いたくらいじゃ倒れたりはしないけど。

「ヒサシに相談したんですっけ」

「あ、そうそう。なんか喜んでたよ。活動してくれると残すのにも理由ができるから、みたいな感じで」

 ヒサシも存外適当だな。
 俺が入部するのに驚いた反応を示したり、部誌の提案を普通に許可したり。

「……そう言っても、どうするんですか? さっきも訊きましたけど、そこまで適当ってわけにもいきませんよね」

「いいんじゃないのかなー、そこまで根詰めすぎずに楽しくやれれば」

「美術部と違って何かつくらされるわけじゃないし」とぽしょっと彼女は付け加える。

 美術部、という単語で佑希が言っていたことが想起された。

 でもまあ、詮索するのはあまりいいとは言えないだろう。


「胡依先輩はどんなのを?」

「……わ、私? 私は、うーん……迷うけど、この前見せたようなのとか、今まで描いたやつにしようかなって」

「コミケで出したようなものですか?」

「あれ、私コミケの話したっけ」

「この間言ってましたよ」

「え……そう」

 彼女は照れたようにかりかりと頬を掻いた。
 その様子を見つめていると、突然ぐわーとか言いながらそこらへんをぐるぐるとまわり始めた。

「し、白石くん! ちょっと席替わって!」

「あ……はい」

 その言葉のまま席を離れると、胡依先輩は緊張したような面持ちでパソコンを操作しだした。

「私の絵、見たい?」

「……見せたくないならいいですけど、見せてくれるなら、はい」

「うん、うん……そうか」


 なら仕方ない、とマウスで『17夏』と書かれたファイルを開くと、かわいい女の子の描いてある漫画が表示された。

 メインキャラクターは二人の女子高生。
 おちゃらけた三枚目タイプの一人が、もう一人のクール系眼鏡っ娘優等生の弱みを握って──。

「胡依先輩の漫画、初めて見ました」

「まあね……って言っても、私は絵だけで、内容とか文章だったりは同じサークルの他のメンバーが考えてくれたんだ。
 私は、絵には吹いたら飛ぶくらいのちっぽけな自信はあるんだけど、お話とか考えるのはからっきしで、二次創作ならまだしもオリジナルを描くのはもっとひどいものでね……」

「……そうなんですか」

「いろいろとかおすちゃん状態なんです」

「かおすちゃん状態……?」

「混沌です」

「ああ、なるほど」

 先輩は胸を張っているけど、普通に意味わかんねえ。
 けれど、その前に言っていたことはなんとなく察しがつく。


 絵が上手い=漫画が面白い、とそう単純にはいかない。

 数ページのなかでも矛盾点を見つけようとすれば見つけられるし、大長編のくせに冗長でつまらないものもあれば、短編で見ている人にグサッと刺さるものもある。
 文章にしても漫画にしても言葉にしても、何かをクリエイトするには様々な能力を同時に使う必要がある。

 とまあ、そんな感じなのかな。一概には言えないけれど、おそらくそうだろう。

「その、サークルの人って」

「この部の先輩。私が入ったときにはもうここを卒業してた人なんだけど、いろいろ趣味も合う人だから、かなりよくしてもらってるんだ」

「おお、なんかいいっすねそういうの」

 趣味を通じて卒業後も関係が続くなんて素晴らしいことではないか。
 そう、月並みな感想を抱いた。体育会系だと年末年始長期休暇に元気のよくなるOBが煩くてかなわない、と誰かが言っていた記憶もあることにも気付いた。なんとも恨めしい。


「一応、二次創作も描いたには描いたんだけど、それも読みたい?」

「それは、私がストーリー考えたんだけど」と少し身を揺すりながら口にする。

「えっと……見ます」

 そう言うと、意を決したようにふうと深呼吸をして、『17夏/JS』と記されたファイルを開いた。

 めくるめく水着の世界。女の子同士の戯れごと。
 一ページ目から勢いがすごい。あまりに画面が肌色すぎてすごいとしか言いようがない。

 ていうか、これって……。

「これって18禁ですか?」

 もしそうならば、続きを見るのは躊躇うものだ。
 一人でもあまり露骨なのは好かないだけに、女性と見るなんて恥ずかしいし。

「……ち、ちがうよ! 健全図書だよ! 全年齢対象だよ!」

「あ、そうなんですか」

 どうやら違ったらしい。良かった。


「前までは結構オリジナルも出してたんだけどね。
 やっぱり広がらなくて、描きたいことがあっても奥行きまで届かなくて、それがもどかしくて……」

「去年は漫画も載せたんですか?」

「うん、ちょっとだけね」

「それは、どんなのを?」

「えっと……」

 胡依先輩は一瞬迷ったような顔をした。
 それでもすぐに、諦めたようにいつもの微笑みを戻した。

「……わかりにくい、とか。キャラがかわいい、とか。
 そういう感想しかもらえなくてさ、結構しょげちゃったんだ」

 感想もらえるだけですごいですよ、って言うのは野暮な返しなんだろうな。

「どういう内容だったんですか?」

「……えっとね、私が描きたかったのは、『誰かが喜んでくれると思ってした行為が、かえって自分を苦しめることになった』、みたいな」

 まあ詳しくは今度バックナンバーを渡すからさ、と胡依先輩は話をそこで打ち切った。


【偏見】

「そういえばさ、シノちゃんってどんな子なの?」

 今思いついたかのように(というか多分そうなんだろうけど)胡依先輩は東雲さんについての質問を俺にぶつけてきた。

「どんな子……って難しいですね」

 実際どんな子なんだろう。
 あんまり喋らないけど思ったよりも気さく。ちっちゃくてかわいい。

 それくらいしか知らない。

「あんまりよく分からないんですけど、ぼーっとしてるタイプだと思いますよ」

「ふうん」

 カタカタとキーボードを打つ音が部室に響く。
 帰る気もあまり起きないし、いざ帰るとなっても近いし、とそんなことをふと考えた。

 机の上には先ほど東雲さんの描いた絵がそのままにされていて、なんとなくそれを手に取ってみた。

 なんの変哲もない四角と丸。
 見たままだ。でも、胡依先輩はそれをじっくりと見ていたように思えた。


「シノちゃんは謙遜してたけど、あの子相当絵を描くの得意だと思うのよね」

「そういうのって、やっぱりわかるものなんですか?」

「ううん、なんとなくかな」

 けど、絵を描くのはあんまり好きじゃないのかな、と彼女は言った。

「中学のとき美術部に入ってたとは言ってましたよ」

 ベラベラ喋っていいものなのかとも考えたけれど、そこまで重要なことだとは思わないし、部長になら言っておいても……。

 違うな、勝手に口に出てしまった。

「まあ、白石くんが好きそうなタイプだよね」

「……はい?」

「なんでもなーい」

「……」

 いや、東雲さんは……。
 やっぱり胡依先輩には偏見を持たれているような気がする。

 それから、少しひっかかりを抱えたまま三十分ほど漫画を読んだ後に帰ることにした。


 学校の校門を飛び越えるという初の経験をした。チェーンはあるだけで閉まってないので、押せば普通に開くのだが、なんだかそういう気分だった。

 家の灯りはさすがに点いていて、佑希はいつものようにリビングに寝そべっていた。

「おにい、おかえりー。どこ行ってたの?」

「学校」

「お、おー。なんかよく分かんないけど、聞いて聞いて。今日食べに行ったところすっごく美味しかったんだ」

「……なに食べたの?」

 眠たげに目をこすりながら、佑希は食べたものや今日あったことについて話をしてくれた。

 少しだけ間延びしたような口調で、思ったとおり話をしながらウトウトと首を上下させ始めた。
 佑希の眠っている顔を見ると安心する自分がいる。

 朝にはそんなこと感じなかったはずなのに。

 またか、と思った。
 でも、少し嬉しい、とも思った。

 かけっぱなしのテレビを消してから、彼女を部屋まで運んだ。

 ふわあ、と俺もあくびが出た。

 どうせ明日は休みだ。一人の時間をゆっくり過ごそう。

今回の投下は以上です。


【構想】

 まっさらなノートを広げて、画集に載せる絵の構想を練ってみることにした。

 べつに描いたやつを出せばいいとも思うけれど、なんとなく人目につくものならば真面目にやりたいという気持ちが出てきてしまったから。

 絵。と字を書いた。すぐに消した。

 二次創作の絵。色をほどほどに塗って、悪くない程度にまで仕上げられればベターだろう。

 一次創作の、オリジナルの絵を描いたらきっと胡依先輩は喜んでくれるだろう。たぶん、単なる予想だけど。

 いろいろなポーズ。正面絵。横向き。座っている姿。走っている姿。ペンを握る姿。体を寝せながら伸びをする姿。読書をする姿。つまらなそうにケータイを弄る姿。
 そんなふうに考えていると、結構楽しいものだ。

 ──それで、具体的に何を描こうか。

 今まで女の子の絵ばかり描いていたからか、浮かんでくるのは胡依先輩に借りた漫画のようなイメージが多い。
 描きたいと思うものも、好きなキャラクターに好きなポーズを取らせていけば、それなりにカタチにはなるはず。

 表現したいことがうまく絵となって出てこなくても、それはそれだ。
 技量とか以前に、自己完結してしまっていても特に問題はない。

 おそらく、"その物をしっかりと見れているか"、が重要なのだと思う。
 一番とは言わずとも、二、三番目くらいには。

 "ある種の記号"を、自分なりに噛み砕いて、消化して、絵に"落とし込む"ことができれば、自ずと納得できるものは描けるのではないか、と。

 とりあえず、思いついたものからノートに書き出して、キリがいいところまでいったらあみだくじでもしてみるか。


【お出かけ】

 翌日の土曜日、俺の目が覚めたのは十一時過ぎのことだった。

 少しずきずきする頭に手をあてながら階下に降りると、予想通りそこには誰の姿もなかった。
 佑希は部活で、親は仕事か。

 昨日の夜はそこそこ充実していた。

 胡依先輩から借りた漫画を読んで、録画していたお笑い番組を観て、少ししたら親が帰ってきて、でも、ほぼリビングに滞在することなく寝に行って。

 俺が未成年でなければ安い酒を用意して肴と一緒に流し込んでいたのかもしれない。
 いろいろなものを忘れるための手段なのかな、そういうのは。
 
 ベーコンエッグトーストを作って昼食代わりにする。半熟にするのって意外と加減が難しい。

 テレビの電源を入れる。面白くなさそうだからすぐに切る。
 今日はどうやら妹の日らしい。愛でる対象がいないのは寂しい。



 週末の課題も授業中に済ませたし、じゃあどこかに出かけようかな、と頭に浮かんだ。
 外の天気は雲ひとつない青空。絶好のお出かけ日和。

 東雲さんのところへ行こうかと思ったけど、昨日の今日で会いに行くような真似はさすがに気持ち悪いのではないか。
 いや、でも普通に行きつけの常連客って体なら。彼女も何も言わないだろうし。

 とそんなことを考えつつ外に出ることにした。

 まず向かうのは学校裏のコンビニ。
 ガムを買いたかったのだ。あとついでに水も。

 レジに並んでいると、「やー」と後ろから声をかけられた。

 振り返ると、栗色のワンピースを身にまとった胡依先輩が立っていた。

 ワンピースが昔からなぜか好きだった。萌えポイントいち。


「ほんとに泊まったんですね」

「うんうん。あ、コロッケ二つとポテトお願いしまーす」

 すちゃっと長財布を取り出した。
 スマートすぎて惚れ惚れするぜ。

 ──じゃなくて。

「えっと、俺の会計中なんですけど」

「もち奢り! 先輩面してみたいから!」

「悪いですよ」

「いーからいーから」

 店員さんに怪訝な目を向けられた。
 それに、後ろが時間のわりに混んでいるし。

 ……諦めて胡依先輩に場所を譲ることにした。

 会計を済ませた彼女と外に出る。

 コロッケにはソースを、ポテトにはケチャップをつけないで食べる派らしい。
 立ちながら食べようとしているからかもしれないけど。


 そのままさよならをしても良かったのだが、なんとなく二人で敷地内のベンチに腰掛けた。

「ガムひとつもらっていい?」

「どうぞ」

 ガムを口に含んでから、んうー、と大きく伸びをした。
 揺れる髪の毛で今更気付いたけど、今日の胡依先輩は桜色の髪留めをしている。ポニテ女子、萌えポイントに。

「白石くんの家って近いんだっけ」

「ああ、はい。あそこです」

 目と鼻の先。別に隠す理由もないし。

「ほんと近いねー。ここ受けたのも近いから?」

「そうですかね」

「……ん」

 彼女はじとりと俺の目を見た。

 五秒も持たずして目を逸らす。あまりそういう経験がないのだ。

「ま、いいか」

「……はあ」

 ため息が出た。それを聞いた胡依先輩はくすくすと笑った。


「白石くん今日おひま?」

「えっと……まあ」

「じゃあ、どっか遊びに行こうよ」

「どういう意味ですか?」

「そのままの意味だよ! 暇どうし仲良くしようぜー、って意味!」

「……」

「あ、どこか行きたいとこでもあった?」

 あっさり決められるのはどうなのか。
 行きたいところ。特にない。一人でいるよりは二人でいた方が楽しいかもしれないけど、相手は先輩だ。

 ふと思いついたことがあった。
 一人なら躊躇するところだけど二人なら大丈夫かもしれないという話。

「東雲さんのお店に行こうと思ってたんですけど」

「シノちゃんの……なんのお店?」

「漫画とか置いてある喫茶店ですかね」

「えーっと、ここからどれくらい?」

「ちょっとかかりますけど、そんなに遠くもないです」

「じゃあ、行きましょう」

 ゴミ箱に縛ったポリ袋を捨ててから、歩き出すことにした。

 風が冷たくてくしゃみが出た。
 不釣り合いなほどにからからと晴れた空を見上げると、胡依先輩も同じように目線を上向かせた。


【リハビリ】

 お店につくと、いらっしゃいませ、といつものように東雲さんが迎えてくれた。

 けれど、ひょっこりと後ろから顔を出した胡依先輩を見るや否や、彼女の顔は強張った。

「やー、シノちゃん」

「……こんにちは」

 一瞬だけ睨まれた。気がする。多分気のせいだ。

 東雲さんのパーカー姿を胡依先輩はカメラに収め出した。
 ぱしゃぱしゃうるさい。東雲さんめっちゃ困ったような顔してるし。

 適当に四人がけのテーブルに座る。
 なぜか隣に座ってきた先輩を反対側に行かせる。

 くすくすと笑いながら「冗談だよー」なんて言われた。


 キャラメルマキアートと、胡依先輩は抹茶ラテを注文した。

 彼女はおもむろに立ち上がって、本棚からグラップラー刃牙を持ってきた。
 俺は鞄から昨日ちょっとだけ描いた絵を取り出して、続きを描こう、と思った。

 店内は暖房を入れていて、ほうっと吐息が漏れる。

 そのうち東雲さんが注文したものを持ってきた。

「じゃ、私はこれで」

 とヘッドホンを掛けようとする東雲さんを、

「待ち待ち、一緒にティータイムを楽しもうじゃないか」

 と胡依先輩が呼び止めた。

 明らかに面倒そうな顔をしているのに、そんな様子を見ても先輩はにこにこ笑うのみだった。
 話にならない。もしくは取り合ってくれない、と観念したのか、東雲さんは首にヘッドホンを戻した。


「……未来くんは、私がいても平気?」

「ああ、うん。かまわないよ」

「そっか。なら、私も何か飲み物もらってくるから」

 そう言って、キッチンから本当にコーヒーを持ってきて、あたりまえのように俺の隣に座った。

「隣?」

「……あ、ごめん」

「いいよ」

 女の子って百パーいい匂いするのな。ふわふわ系の匂いだ。

 狭いからもう少しで肩が当たるくらいまで近付いたせいだ。
 どうにも最近は女性と関わる機会が増えている気がする。

 モテ期か? あの生きているうちに三度は来るってやつか?

 ……やめよ。なんとなく悪い結果を生みそうだから。

「お二人は初々しいカップルかなにか?」

「ちがいますよ」

 隣の彼女に目を向けると、きょろきょろと視線をさまよわせた。
 が、何か言いたいことでもあったのか、胡依先輩を正面から見据えた。


「あの、思ったんですけど」

「どうしたの?」

「私なんかが、部活に入っていいんでしょうか?
 ここのお手伝いもあるので毎日は顔を出せないですし……それに、絵を描くのもあまり……」

 そう言って、苦々しい表情を浮かべる。

 質問を受けた先輩はカップの中をスプーンでくるくると回してから、もう片方の手を前に差し出した。

「シノちゃんはさ」

「……はい」

「絵を描くの、嫌い?」

 昨日の夜俺に言っていた質問をぶつけた。
 得意ではあるだろう、と言っていた。

 でも、得意だからといっても好きとは限らない、とも。

 他人から見て相対的に自分の優れているところを伸ばすように努力すると、自然に好きになったりするものだろう。

 勉強しかり、運動しかり。


「嫌いでは、ないです……」

「なら、大丈夫だよ」

「でも……」

「……でも、なに?」

 きょとんとした顔で問われて、彼女は困ったように眉を寄せた。
 
「嫌いでは、ないんです。なにかを描きたい気持ちも、たぶん、あります。
 でも、そんなふうに思っても、手が思うように動かなくて……」

 そう言ったきり、沈黙が落ちた。
 なんとなく気になって、東雲さんの左手を見たけれど、傷とか何かの痕とか、そういうものは見受けられなかった。

 となると、心理的な問題か。
 言うなれば身体の拒否反応。うまく動かないというのにも辻褄は合う。

 胡依先輩も胡依先輩で、どう言ったものか、と口元に手を置いた。
 天井を向いて、外を向いて、キッチンの方を向いて、それから目の前に座る東雲さんに視線を戻す。

 その場にいていいのか分からなくなって、俺はストローに口をつけた。



 そうしたまま数分経った後、彼女はなにかを思いついたようにうんうんと頷いて、東雲さんに向けて微笑んだ。

「よく分からないんだけどさ、リハビリってことにしようよ」

「……えっと」

「私は、この前シノちゃんの描いてる姿見て、一緒の部活に入ってくれたら嬉しいなって思ったよ。
 まあ……白石くんもいるし、私も教えられる範囲ならいろいろ教えられると思うし」

「それもこれも、シノちゃんが決めることなんだけどさ、入ってくれたら私は嬉しいよ」と表情を崩さずに結んだ。

 対象者でない俺が息をつくのも忘れるくらい、真剣な口調だった。
 鉄は熱いうちに打て、みたいな。ちょっとどころじゃなく違うけど。

「……ちょっと、考えさせて下さい」

「うん、わかったよ」

 部員が増えないと困るってのもあると思うが、それ以上に東雲さんを入部させたいような節があるように感じる。


 東雲さんが入部してくれれば嬉しい。胡依先輩はもちろん、きっとソラも喜ぶだろう。
 知り合いが増えて、まだよく分からないけど絵の上手い人が増えていけば俺が得られるものも多い。

 ちょっとお手洗い借りるね、と胡依先輩はその場からいなくなった。

 また沈黙が流れる。
 飲みきってしまったカップを眺めていると、彼女もまたぼーっとしている様子で、しきりに手をぐーぱー開いたり閉じたりを繰り返した。

「なんかごめん」

 とりあえず、謝ることにした。

 俺の意思ではないにしろ、連れてきてしまったのは俺だ。

「ううん」

 と彼女は首を横に振る。そう言われてしまうと、何とも返しようがなくて、俺は口を噤んだ。

「……あんな感じだけど、先輩は悪い人じゃないよ」

 知りもしないくせに分かったようなことを言った。


「うん。なんとなく……だけど、それはわかるよ」

「でも、ほんとうに……」と彼女は何かを言いかけて、そこから固まった。

 訊いてしまえばいいと思った。
 人助けだと思って、できるだけ軽い感じで。

 本当に言いたくないのなら、キリの悪いところで言い淀む必要性も薄いし、まず口に出すことすらもしないだろうから。

「ほんとうに?」

 少し迷ってから、俺は訊き返すことにした。
 なんとなく。極めて意識的に。どっちかはあまりはっきりとしなかったけれど。

「……自分のためでも、人のためでも、私は変なことを考えちゃうんだ。
 途中までは描けたり、最初から描けないときもあって。
 でも、気分とか、そういうのじゃなくて、ペンを握ると……どうしようもなく怖くて」

 核となる材料が無かったからか、その言葉を聞いても、俺は何かしらの判断を下すには至らなかった。
 訊ねたとはいえ、俺に話してしまうのもどうなのだろうか。


 悩んでいたら、きっと思考して内省して、その繰り返しで当初よりも悩みが肥大化していって。
 自分の経験上そうなる。現に今もだ。

 大きくなると、それを潰すのが難しくなる。
 重大な病気の治療のように、早期発見早期切除ができなければ、どんどん自分の身体は蝕まれていく。
 仮に少し消せたとしても、それは微小なもので、根絶するには足りえない。

 だから、悩みを打ち明けることには不安が伴う。
 いつか肥大してしまうような、そんなものを外部に委託するような行為は、相手が思っている以上に重いし辛い。

 際限がないから。目処があるようなことでなければ、縋っているのと変わらない。

 だとしたら、やはり彼女の言うことに何かを返すべきでない、とそう思った。

「ごめんね、こんな話して。たぶん、だけど……入部はすると思う」

「よろしくね」と不安混じりのような声で東雲さんは呟いた。


【ずるい】

 閉店間際になるまで居座ってから、先輩と二人で外に出ることにした。

 お手洗いから戻ってきたあとは思ったよりも普通で、部活以外の会話では二人は盛り上がっていた。

 漫画の話とかアニメの話とか。盛り上がっていたというのには言い過ぎかもしれないけど。

 胡依先輩のフレンドリーさにはいつも感心させられる。
 話題を提供して、相槌を挟みながら、流れが途切れない程度の時間で次の話題へと移る。

 生まれ持ったものか。だとしたらすさまじい。

 俺も絵を描いたりしながらそこそこ会話に参加して、東雲さんについてもいくらか知ることができた。

 最寄り駅までの道を歩く。
 月が出ていることに気付いた。

 風は昼と変わらず冷たく乾いている。
 嫌いではない、でも寒いのは嫌だった。


「白石くんってずるいよねー」

 ちょっと拗ねたような言い方に首をかしげた。

「……なんのことですか?」

「だって、ほら。顔が……」

「……」

 男っぽくないから。
 なんとも自虐的な想像をしてしまった。

 たじろいだ俺の様子を見て、先輩はけらけらと笑った。

「女の子でも壁がないっていうか、話しやすいっていうか」

「顔と関係ありますかね」

 童顔ってわけではない。ソラとか善くんに言わせれば中性的で女顔らしいけど、それで特に良かったことがあったという記憶はない。

 肌が白い。体毛が薄い。つうか産毛程度しか生えてこない。
 親も佑希もそうだから、呪うならばDNAを呪え。

 彼らには馬鹿にされるし。教師とか他の友達にも、「こいつになら何言っても良い雰囲気がある」と思われているような気もするくらいだ。


「あるよ、大ありだよ!」

「なるほど」

「相談事とか、よくされるって言ってたよね?」

「……はい、言いました」

「だよね、うんうん」と彼女は自信ありげに言った。

 俺はめちゃくちゃ分かりやすいのかな。言われること全てがあっている気もする。

「でも、シノちゃんのことは私に任せてね」

「……はあ」

 任せるも何も。

「ちょっと思うところがあるし。シノちゃんのこと好きだったらごめんなんだけど」

「好きじゃないですよ」

「え、好きじゃないの?」


「……」

 顔が赤くなるのを感じた。
 寒空がそれを際立たせているのも、言わずともわかる。

 好きってなんだ(哲学)。
 ラヴ。キザな言い方。ラブでいいのに、ちょっと自分にイライラした。

「胡依先輩への好きと一緒ですね」

 言ってから後悔した。
 誤魔化そうとしたけど失敗した。

「なるほど、フィリアということですか」

「そういうことです」

 そういうことだっけ?
 友愛。朋友愛。勝手に友達認定しているけど仕方ない。

「でも、フィリアのまえに何かをつけると異常性癖の意味合いになっちゃうから、難しい言葉だね」

「……そうですね」

 突拍子もないことを言い出す人だ。


 駅に到着すると、ホームに下り方面の電車がやってきた。

 今日はありがとうございました、と軽く挨拶をして、電車に乗り込んだ。

 降車駅に降り立つと、こほ、と小さな咳が出た。

 疲れなのかなんなのか。休日なのに平日よりも疲れた気がした。
 人と一緒にいるのも考えものだ。

 退屈はしなかったけど、会話するだけで疲れる。口を開くのにも労力が必要だ、言葉選びとか。二人とも異性ならなおさら。

 身体がだるいのも相まって、いつもより時間がかかって帰宅した。

 もう一度咳が出た。がらがらうがいをしたら喉が痛くなった。

 これもしかしたらもしかするなと思いつつ、なにもしなかった。

 明日は外に出ないようにしよう、とぼんやり考えた。

今回の投下は以上です。


【花嫁修行?】

 シャワーを浴びて、髪を乾かし、あたたかい服に着替えてからリビングに向かうと、奈雨はソファに寝転んでテレビを観ていた。

 俺が戻ってきたのが分かると、すいすいとフローリングを滑るようにして駆け寄ってきて、椅子に座るように促される。
 厨房から持ってきたのはたまご粥とコンソメスープ。彼女も一緒に食べるらしい。

 時計を確認すると、もうお昼はとうに過ぎていて、針は三時を指し示している。

 いただきます、と正面に座る彼女が小さな声で言った。
 俺もそれに続いて同じようにいただきます、と言った。

「奈雨もお昼まだだったの?」

「うん。おにぎりとかは十時くらいに食べたけど、ちゃんとしたのは、そうだね」

「……あ、これ生姜」

「そうそう、はやく風邪良くなるようにって思って」

 なるほど。
 喉に良いとか、身体があったかくなるとか、そんな効果があったと思う。


 普段自分が料理をする時は、大抵レシピ本に載っているような同じようなものしか作らないし、
 どの野菜がどんな効能がある、というのもあまり気にしていない。

 とりあえず、野菜は多めにすることだけは心掛けている。
 なんとなく、佑希に合わせて。俺も嫌いじゃないけど。

「お兄ちゃん」

 食べ進めていると、箸を置いた彼女が、何かを言いたげに口をもごもごと動かした。

「どうした?」

「……えっと、なにかわたしに言うこととかないの?」

「なにか、って?」

 訊き返すと、わざとらしくぷくーっと頬を膨らませた。
 その様子を見て、意味もわからないまま表情を崩すと、彼女は軽い溜め息をついた。

「わたしに言わせるの?」

「……」

 いろいろ頭に浮かんだが、どれも間違っているようで答えづらい。
 視線を外しつつも、俺の言葉を待っている。

 ……まあ、いいか。
 合ってなかったとしても、そこまで機嫌を損ねさせることはないだろう。


「うまくできてるし、おいしいよ」

 答えると、彼女はくすりと笑った。

「……も、もう。わかってるなら、最初から言ってよね」

「ごめん」

「家族以外の人に食べてもらうの初めてだったから、ちょっと緊張してたの。
 でも、お兄ちゃんの口にあったなら、練習した甲斐があったかも」

「嬉しい」と付け加えて、もう一度笑った。

「練習したんだ」

「うん、いろいろできた方がいいかなって」

「へえ」

「料理とか。掃除も、そうだし、洗濯とかもひとりでできるようになれたらなって思って」

 ごく普通の家事スキル。性別でどうこう言うのは良くないけど、女性ならできていて損はないような技能。

 でも、奈雨の性格からしてあまり好んでしそうなものとは思えない。

「花嫁修行か」

「なんでそうなる」


 いつになく冷めた口調で返される。
 ちょっとした軽口のつもりだったのだが、その言葉は言ってはいけないものだったみたいだ。

 呆れ半分の吐息を漏らして、テーブルに頬杖をついた。

「じゃあ、お嫁さんにほしい?」

「……はい?」

「そのままの意味。わたし、優良物件だと思うよ」

「自分で言うのはどうなんですかね」

「……じょ、冗談だよ」

 言いながら、彼女は頬を朱に染めた。
 口に出してから自分の言ったことが恥ずかしくなったらしい。

「もしかして本気にした?」

「うん」

「だよねー。こんなの冗談だって、誰でも……」

 固まった。


「いま、なんと……?」

「『うん』って」

「え、えっ……お兄ちゃん、あたま大丈夫?」

 身を乗り出して、額に手のひらを押し付けられた。

 きっと体調を心配して言ったのだろうけど、その言葉じゃまるで俺が頭のおかしな人みたいじゃないか。

 ……日本語って難しい! でも、こういう答え方をしてしまうあたり、俺からはどうにも言えないよな。

「まあ、がんばれよ」

「……お兄ちゃん、普通にうざい」

「はいはい」

 話を広げるのも好ましくない状況だったので、無理やり打ち切った。
 奈雨はまだ何か言いたげにしていたものの、俺の意思を汲み取ったのかどうなのか、結局何も言わなかった。


 それからほどなくして、二人とも同じタイミングで食べ終えた。
 一応、感謝の意味をこめて、ごちそうさまをしたあとに、おいしかったよ、と告げた。

 洗い物はわたしがするから、と彼女は俺のぶんの食器まで重ねて、流しまで歩いていく。

 このままでいいのだろうか?
 ふと、そんな思いが頭を過ぎった。

 ──いや、駄目だろ。
 そこまでお世話になるわけにはいかない。

 母親が父親に口うるさく言っていることは関係ないにしろ、奈雨はこの家にとってはお客さんなのだ。

 料理を作ってもらって。
 そこまでは、彼女の厚意に甘えて、まだいいとしても、洗い物まで任せるのは筋違いな気がする。

「洗い物くらい俺がするよ」

 彼女の前に手を出した。
 すると、皿のうち半分を俺に差し出してきた。


「じゃ、半分こにしよっか。わたしが食べたのはお兄ちゃんが、お兄ちゃんが食べたのはわたしが洗うことにしよ」

「……いいけど、普通逆じゃない?」

 自分のことは自分で。最低限それくらいはするべきだろうに。
 食べた後の食器なんてべつに誰のだって気にならないし。

「だって、半分こっぽくしたいじゃん」

「……」

 ああ、そういう……。

「洗い物をするまでが料理をするってことなんだよ、お兄ちゃん」

 人差し指を突き立てて、得意げな顔で言い切られる。
 そういう表情は、昔から彼女によく似合っている。

「じゃあ、そうするか」

「うん、それでよし」

 年下の女の子に、うまく言いくるめられてしまった気もする。
 まあ、彼女がそうしたいなら俺が断る理由なんてない、と思ったからでもあるけれど。

 二人で洗い物なんて効率的ではないし、余計に時間を食うことが目に見えている。

 でも、今回に限っては、それでもいいのかもしれない。


【嬉しい】

 片付けを済ませてしばらくリビングでだらだらとしていると、食後の眠気に襲われる。

 ちゃっかり俺の隣に座る彼女は、することもないのか、スマホを眺めながら肩にもたれかかってきた。

 会いたい、と彼女は言っていたものの、会ったからといって特別話すようなこともない。

 俺が風邪を引いているから、それを気にしているのかもしれないけれど、テレビを観ながらとりとめのない会話をするくらいはできる。
 それでも、しないならしないで俺としては助かるけど。

 首元にかかるあたたかさを感じながら、目を瞑る。
 どうやら、自分で思っていたよりもだいぶ頭がぼんやりしているようだ。

「なんか、こうしてるとさ」

 と、彼女は目をこちらには向けずに呟く。

「うん」

「……こうしてると、なんていうか、不思議な感じ」

「……というと?」

 んー、と唸り声のようなものをあげながら、彼女は俺の腕を取る。
 そのまま抱えた腕を天井に向けて上げて、限界まで行ったところで自分の指を絡ませた。

「こういうこと?」


「なんで疑問形なんだよ。全然意味わかんねえし」

 家に二人きり。看病、料理。手をつなぐこと。
 とりあえず、意味わかんねえとしか言いようがない。

「いや、ちがうか」

「なんなの」

 ますます意味がわからない。
 思いつきかなんかか。よくやられる気もしなくもない。

「手、かなり熱いよ。やっぱり部屋に寝てたほうがいいんじゃないの?」

「いつもこれくらいじゃない?」

「ううん、お兄ちゃんはもうちょっとひんやりしてるよ。
 いつもはわたしと同じくらいだから、わかりやすい」

 自信ありげな声で言い切って、なぜか手のつなぎ方を変えてきた。
 自分の認識では奈雨のほうがちょっとだけ冷たい気がするけど、まあいいか。

 俺はつないでるときに熱くなって当たり前かもしれないし。


 しばらくぼーっとしていると、「あ」と彼女はまた声をあげる。

 また変なことを思いついたのだろう。そんな気配が感じ取れる。

「今度はなに」

「今思ったんだけど、お兄ちゃんと会うの、普通になってきてる」

「ああ、うん」

「一年のうちに会っても二、三度だった去年までからは考えられないなぁ」

 えへへ、と彼女は笑う。
 きゅっと指にかかる力が強くなる。

「まあ、同じ学校になったし」

「そうだね」

 だからなんなの、とは訊かない。

 たぶん、これも後ろめたさなんだろうな。
 少しは解消されたと思っていたのに、いざ彼女の眼前まで来ると、そう単純にはいかないらしい。


「わたしが次になんて言うか予想してみて」

「わかるわけなくない?」

「いいから、とりあえず適当に」

「適当でいいの」

「いいのです」

 いいのか。

「じゃあ、おなかすいた」

「さっき食べたばっかじゃん。わたし結構少食なんですけど」

「明日学校めんどいなー」

「いや真面目に考えてよ」

 逆に面倒じゃないのか。

 考えてみる。思い浮かばない。
 姿勢をマシなくらいに正して彼女の顔を覗く。
 両目を閉じていて、これと言ってわかりやすいような表情もしていない。

 さっきの続きだったら「(会う機会が増えて)嬉しい」とかか。
 いや、さすがにそれは自惚れすぎか? もしそうなら嬉しいけれど、本人に言うのは気が引ける。


 奈雨と一緒にいても、他愛のない話をするか、彼女のしたいことをさせてあげるだけだ。
 妹みたいに甘えられると嬉しい。年下の子は好きだし、彼女は普通の女の子よりも随分とかわいいのだ。
 キスをされたり、逆にやらされたりするのはどうかと思うけど、それはそれだ。

 そういうことを考えていると、唇に目がいく。当然のことだ。キスのことばかり考えている。
 頭がぐらぐらする。どうしてだろう。

 ま、あれだ。
 そういうことが思いついたなら、あまり考えずにその通り口にしてみよう。

「いつもみたいにキスしたい」

 言うと同時に、ぴくりと細めの眉が動く。
 瞳を開けて、怪訝そうに目を丸くして、少し距離をとられた。

「……いや」

「……あ、う……」

 口をぽかんと開けたままその場に硬直する。
 様子から想像するに、返しが予期していなかったものだったらしい。

「……」


「いや……冗談だ。冗談。どうせ当たると思ってなかったから、奈雨の言った通りに適当に言っただけ」

 なぜか俺は必死だった。
 頬を汗がつーっと滴った。ような気がした(実際はしていない)。

 彼女は再び瞳を閉じて、ふうと息を吐く。
 そして、繋いでいない側の手で自分の頬をつねった。

「いったあ」と小さく叫ぶ。

「なにしてんの」

「気が飛びそうになった」

 そんなに痛くつねる必要はないだろうに……。

「……えっと、結論から言うと、まあハズレなんだけど」

「はあ、ですよねー」

「なにその棒読み」

「気にしないで」

 けほ、と咳が出た。
 喋りすぎはまだ良くないらしい。

「それで、お兄ちゃんはどうしてそう思ったの?」

「どうって、いつもしてるから」

「……なるほど」

 顎に手を当てて考えるような仕草をする。
 いや、どこをどう考えてもなるほどではないと思うんですけど。


「風邪引いてるしうつすといけないから、今日のところは我慢していただいて」

「なに、わたしがしたいみたいじゃん」

「……え、ちがうの?」

 反射的にぶんぶんと首を横に振られた。
 どっちなのかわからない。けど、たぶん違うという意味だろう。つーかそうとしか捉えられない。

「ま、まあ……今日のぶんはもう、えっと」

「……ん?」

「い、いや……なんでもないです」

「なぜ敬語」

「ああもう……なんか今日のわたし駄目だ! 変だ!」

「もう喋らないから!」と宣言される。

 つないだままでいた手を離されて、彼女はテレビのリモコンを手に取る。


 時間帯が悪いのか、旅番組かニュースしかやっていない。
 この時間の放送枠のアニメはもう終わってしまったらしい。

 奈雨はチャンネルを変えては、その度につまんなそうに眺めて、終いには電源を落とした。

「そろそろ部屋戻って寝たいんだけど、夜食べてく? 佑希が作ると思うけど、奈雨がいいなら食べてけよ」

「……」

 彼女は無言のまま肩をすくめる。

「じゃあ、部屋戻るから。伯母さんも心配するだろうから、早く帰りなよ」

 立ち上がって部屋に向かうと、荷物を抱えて後についてきた。
 あーもう分かりにくい。まだうちにいたいならそう言えばいいのに。

 ベッドに寝転がって毛布にくるまる。
 彼女は勉強机の椅子に座って俺の部屋をじろじろと見渡した。

「あのさ」

「……」


 無視か。じれったい。
 さっきまで彼女も寝てたベッド。気にしないわけにもいかない。
 彼女の服から香った匂いがじんわりと掛け布団に染み付いているかもしれない。こう言うと途端に変態っぽさが増す。

 が、訊きたいのはそれではない。

「さっきの答えってなんだったの?」

「……」

「奈雨?」

「わたし、しゃべらない」

「喋ってるじゃん」

「……うるさい、寝るまで見ててあげるから、早く寝なよ」

 身体を横に倒す。彼女はベッドの脇にやってきて、フレームに背中をつけてため息を漏らした。


「やさしいな」

 と本心からの言葉を伝えると、

「わたしはいつでもやさしいよ、常に感謝なさい」

 と返された。釈然としない。

 "不思議な気持ち"とはこういうものなのだろうか。
 よくわからない。わからないことばかりだ。

「お兄ちゃん、おやすみなさい」

 言葉と共に、軽く頬にキスをされる。

 されないとタカをくくっていたから、必要以上に驚いてしまった。
「さっきの仕返し」と言って彼女はくすくす笑う。

 ああもう、考えることをやめてしまいたい。
 何から何まで、おかしくなってしまいそうだ。

 寝よう。寝て忘れるのがいい。
 彼女に背を向けて、壁の方を向いた。

 目を瞑ると、すぐにまどろみに落ちていくような感覚を得た。

 ぼんやりする意識のなか、

「さっきはね、"嬉しい"って言いたかったんだ」
 
 と、そんな言葉が、耳元で聞こえたような気がした。


今回の投下は以上です。


【SS-Ⅵ/Mimosa】

「わたしは、あなたのことが好きよ」

 そう、彼女に言われたことがあります。

 記憶の限りでは、私の家で勉強をしながら遊んでいたときのことでした。
 私のものよりも数段難易度の高いであろう問題を飄々として解く姿を、なぜか鮮明に覚えています。

「私も好きだよ?」と、私はとぼけます。

 ちょっとむっとした顔をされました。私はそれをみていないふりをして、飲み物のお代わりを取りに行きました。
 たぶん、表情筋が緩まないように抑えるのが大変だったからです。

 そしておそらく──いえ、おそらくじゃありません──確実に、彼女の言う好きは恋愛感情での好きなのだとわかりました。古い言い方にすればLIKEではなくLOVEということです。

 女の子同士だとか、そんな野暮なことは考えません。好きになった人の性別がどうであれ私が非難していいものではありませんし、私も同じようなものですから。

 でも、どうしてでしょうか。
 その好意を受け取るのことは、私たちの「終わり」を意味しているように、感じてなりませんでした。

 私にとって彼女から向けられる好意ほど怖いものはありません。


 釣り合わないんです。彼女と私は。
 私には寄る辺がなくて、頼る誰かもいなくて、ただ息を吸って吐いてを繰り返して生きているだけでしかなくて。
 弱くても、情けないと思っても、そういう自分をどうにかして肯定して生きてきました。

 知らなければ、ただ彼女の隣で笑っていることができるかもしれない。
 けど、私は、彼女のことを知ってしまったから。彼女がどのような人で、なぜあの場所に来たのか。

 私は。私は……。
 彼女と──。

 放っておいたら噴き出してしまいそうな感情に蓋をするつもりで、何度も、何度も瞳を閉じては彼女の言葉を反芻します。

 そうすると、「やっぱり駄目だ」と思えてきて、自分が安心するのを感じることができます。

 駄目だ。駄目だ。駄目だ。
 心の中で唱えます。あまりにも辛いときは言葉にもします。
 誰もいない部屋で、小さな声で叫びます。

 今までいくつものことを教えてくれたあなたなら、私がどうすればいいのか、どうすればこの感情が消えてなくなるのか、教えてくれますか?


 また「駄目だ」と私は考えます。
 きっと、失望されちゃうから。つまんない人間だって看破されて、どこかへ行っちゃうから。
 彼女にとっては、私への感情なんて一時の気の迷いに違いないのです。

 たまたま私と知り合って、たまたま気が合って、時間が経つにつれて恋愛感情だと勘違いをしてしまった。
 それだけだと、それでしかないのだと、私は思いたいのかもしれません。

 もっと、彼女とお付き合いするに相応しいような、そんな人がきっと現れます。

 かたちが変わるだけで、本質は変わらないかもしれない。
 でも、もし失敗してしまったら、取り返しがつかないことも考えなければなりません。

 いつも考えていました。いつも痛いです。いつも私の心は痛いです。

 頭では、そう思っていても、どうしても彼女から離れられないのはなぜなのでしょうか。
 私だけが痛みを抱えるのなら、それもまた大切な経験なのでしょうか。

「ちがう」と心の中で答えても、私には何もできません。

 彼女の水晶のように澄んだ目が、うっすらと赤みがかった頬が、柔らかく艶やかな唇が、私を責めているように思えてしまいます。

 ほしかったもの。ほしくなかったもの。
 あげたかったもの。あげられなかったもの。

 あと、猶予は一年もありません。
 次の春になれば、私は、もとの私に戻ってしまうでしょう。


【静けさ】

 外から射し込む柔らかな陽射しで目覚めた。
 昨日の夜は十一時前には寝た。素晴らしいまでの健康優良児である。

 そして今の時刻は七時半過ぎ。どう考えても家が近くなければ遅刻確定の担任への土下座待ったなしルートである(言いすぎ)。

 寝すぎてあくびやらも出ないし、起きたばかりなのにお腹がぎゅるるーと音を立てて部屋に鳴り響く。

 彼女のせいなのか、それとも彼女のおかげなのか、火曜日の朝にはすっかり体調は回復した。

 鼻水も咳も出ない。この分ならマスクをしなくても大丈夫そうだ。

 学校を休むのは久しぶり、というか中学以来のことで、高校では初めてのことだった。

 と言っても、皆勤賞とか平常点を気にしていたわけではないし、中途半端に具合が悪いのなら、家にいて寝ているよりも学校にいた方が自分にとって良いと考えていたからそうしていた。

 休んだときの、あの、なんとも言えない感じが嫌だった。
 家族や友達に心配されるのも嫌だった。


 それだけ。学校にいて友達と話すのは楽しかったし、そういう要素もあったかもしれない。

 リビングに行く前に洗面台で顔を洗う。
 髪切りに行かないとな……伸びてると邪魔だし。こういう季節になってくると首元や耳付近は寒いけれど。
 
 秋なんてあっという間だ。
 すぐ冬になる。最近そればかり考えている。

 まあ、人間そんな数日やら数ヶ月で考えてることは変わらないか、なんてことを考えながら洗面所をあとにする。

 俺の姿を見るやいなや、佑希が朝食を運んできた。
 今日は自分の当番の日だったのに、咳とか入ったら家族みんなに「うつるかもしれないじゃん!」という謎説得のもと彼女が作ってくれることになった。
 よくよく考えると、それもそうかとは思う。

「おはよ、元気になった?」

「おはよう。うん、おかげさまで」

 椅子を引いて自分の席に腰を下ろすと、彼女も向かいに腰掛けた。

「あ、飲み物いる? 麦茶か、抹茶か、コーヒーか、紅茶もあったかな」

「いや、味噌汁あるしいいや」



「あ、そう」と短い相槌を返され会話も切れたので、食事を口に運ぶことにする。

 卵焼き。甘々のやつ。塩味のあるやつもあれはあれで美味しい。
 ゆっくりと咀嚼、嚥下を済ませてから前を見ると、佑希もまた俺の食べている様子を見ていた。

「どうしたの」

「……んや、なんでも」

「見られてると食べにくいんだけど」

「気にしないで」

 言いながら、佑希は頬杖をついて、品定めでもするかのように俺の顔をじっくりと眺める。
 あっさり言われたところで、そうは問屋が卸さない。

 そう考えたものの、この状況で返す言葉なんて出てこないのだ。
 見るのは彼女の自由。俺が何か文句を言ったところで、べつに聞いてももらえないだろう。

 はぁぁ、憂鬱オブジイヤーです~。
 と心の中で呟くも、同時に動じない人オブジイヤーでもありたい気持ちが強まってきた。


「学校は?」

「……ん?」

「学校。もう行けばいいんじゃねえの」

「まだいいかな」

「そっか」

「あ、口元にごはんつぶ付いてるよ」

「……ほんとだ」

 なんだか熟練夫婦のようなやりとりを交わしてしまった。
 フィクションだとぺろりと舐めとられるまでがテンプレだ。自分で考えておいてどうかと思うが寒気がするな。

 かわいい子とそれに近しいことをしている自分が言うのも説得力がないが、俺のしている(されている)ことだってリアリティの欠片もないごくごく稀なケースだ。


「そいえばさ」と佑希が口を開く。

「あの子ともこういうやりとりしたんだよね」

「……」

「ねえ」

「……何の話?」

 あの子。あの子と言えばあの子だよな。佑希との会話で出てくる女の子は一人しかいない。
 さっき頭に思い浮かべた子。何かと距離が近くなってしまった子。

 あまりにも突飛なタイミングで口を開いたから、ひょっとしたら最初からそれを言いたかったのではと、そうも思ってしまう。

「あたし、お母さんに聞いたんだよ。
 土曜日に奈雨が家に来たって。それで、ごはんとか作っておにいの看病をしてくれてたって──」

「──どうして? わざわざ呼んだの?」と俺の返答を待たずして言葉を続ける。

 少しの間をとってから、「べつにいいだろ」と俺は答えた。

 他に返しようがない。
「勝手に来た」と言っても良かったけれど、結果的に呼んだと言っても差支えはないはずだ。あれで来るのもなあ、とは思うけど、ありがたかったことには齟齬は生じない。
 ただ、それを佑希に咎められる謂れはないとも思う。


 そりゃあ、部屋に勝手に入られたとか、家の中のものをいじられたとかなら気を悪くするのもわかる。
 でも、奈雨がそういうことをするとは思えないし、家には何度も来ているわけで、個人的な好き嫌いなら俺が関知する必要はない。

「あたし、言ったよね。自分でおひる作れないくらい悪いなら、部活休んで看病するって。それくらい心配してるって。
 ……でも、おにいが大丈夫だって言うから、あたしも本当に心配だったけど、仕方なく家を出ることにしたの」

「……」

「……嘘つき」

 吐き捨てるように言って、俺から目を逸らした。
 すんと鼻を鳴らして、目元に指を持っていく仕草に、思わず身震いしてしまいそうになる。

 いつもと違って余裕がないというか、何をそこまで拘る必要があるのだろうか。

「あたし……馬鹿みたいじゃん」

「どうして?」

「……嫌なの。わかんないけど、とにかく、おにいと奈雨が近いのは嫌なの!」

「……意味わかんねえよ」

「あたしだってわかんないよ!」

 大声とともに、お茶の入っている湯呑みをダンとテーブルに叩きつける。
 そして、数秒の沈黙の後、伏目がちに、でも、こちらの様子を伺うような素振りを見せる。


「好きなの?」

「誰を」

「……奈雨のこと。好きなの?」

「……はあ?」

 いや、好きって……それは今の話に関係ないだろ。
 仮に好きだとしても、どうだと言うのだろうか。

「ねえ、答えてよ。好きだから距離が近いの?」

 声音は鋭く、凛とした表情を崩して、俺を睨みつける。長い睫毛がまばたきと同時に揺れるのが視界に入った。

 分からない、というのが正直な感想だった。
 奈雨へ向ける感情については、あまり考えないようにしていたことだったから。

 そういうのは、まだ早いというか、いろんなものが足りないというか、俺がもっと……。

 そう長くはない時間ではあるが、答えられずにいると、佑希は小さいため息をついた。

「……おにいが、奈雨のことを好きなら、あたしはべつに止めたりなんてしないし、何も言わない。
 あたしがあの子のことを嫌でも、おにいが違うなら、それは……許せる」

「でも、それなら、あたしはいらない?」と、ぽつりぽつり言葉を選ぶようにして俺に問いかける。


 じとりとした眼差しは、震える声とはかけ離れたように強く、視線を交わすのも戸惑ってしまう。
 ただ、それも長くは続かなく、佑希自身もその言葉が出てきたことに戸惑いを感じているのか、口元を手で押さえて、その続きを語ることはしなかった。

「それって、どういう……」

「ごめん」

「いや、だからさ」

「……ごめん、忘れて」

 取り合ってはくれなさそうだった。
 湯呑みを流しへと運んで、荷物を持ってばたばたと駆け足で部屋から出て行く様子を、終始無言のまま見つめる。

 掛け時計を見上げて、俺も家を出なければいけない、という考えに至る。
 ……でも、どういうわけか、すぐに立ち上がる気にはならなかった。

 だって、昔からそうだったのだから。
 気持ちを自分勝手に俺にぶつけて、最後に「なんでもないよ」とか「ごめんね」と言って謝る。

 言葉に出せば、佑希自身は何かが解消できるのかもしれない。
 ストレス。孤独感。閉塞感。満たされない心。
 発せられた言葉は耳によく残る。忘れようと思っても、ふとした時に思い出してしまう。

 佑希から感じられる脆さ危うさを支えることが、自分に与えられた役目であると思っていた。
 不安定な感情の渦を、サンドバッグのように受け止めて、心配する素振りを見せて、優しい言葉をかけて。

 そういう意味で、白石佑希にとっての白石未来は、他に変えの効かない存在なのかもしれない。

 俺がやらなければ、他の人がやる。なら、俺がその役目を負うのが最善であるだろうと、そうも思っていた。

 でも、こんな歪な関係は、いつまで続くのだろうか。

今回の投下は以上です。
訂正>>401 土曜日→日曜日

訂正>>394
受け取るのことは→受け取ることは


【ラブレター】

「体調、もう大丈夫なのか?」

 教室に入って自分の席に座ると、窓際から手をあげながらソラがやってきた。

「まあ、一日寝てたら治った」

「ちょっと心配した。連絡こないから」

「……あー、昨日はリビングで充電したままだったかも」

 電源を落としたままでいたスマホを取り出して起動すると、何件かの通知が来ていた。
 胡依先輩とソラからひとことずつ、「おーい生きてる?」「サボりか?」と。

「なんのための部活ラインだよ。反応ぐらいしようぜ?」

 そういえばそうだった。
『イラ部』というグループがいつの間にか発足していて、胡依先輩から招待されたから入ったんだった。

「悪い、気をつける」

「って胡依先輩に伝言を頼まれた」

「なるほど」

「ん?」

「いや、ソラは無断欠席とかよくするから、人のこと言えないって話」

 言うなり、はははと彼は口角を上げた。
 そう言われるだろうと予期していたらしい。


「俺は優等生じゃないから、たまに息抜きが必要になるんですよ」

「ふーん」
 
「この学校が寛容なところで良かったとは思うわ」

 昨日は自分でお昼前に学校に欠席連絡を入れた。
 入れたら入れたでヒサシに「お大事にな、欠席にしとくか?」なんて微妙な反応をされたが。

 あのぶんだと朝の出欠もかなり適当にやっていると分かってしまう。
 普通机が並んでて誰かが座ってなかったら気付くとは思うけど……。

 まあ、どうでもいい話だ。
 いつか自分もその適当さを活用する日が来るかもしれない。

 朝練帰りの野球部員が教室に入って来て、部活のことが頭に浮かんだ。

 土曜日のこと。胡依先輩と東雲さん。
 先輩に「私に任せて」と言われて、その言葉の含意を何度か繰り返し考えてみたものの、どういう意図があったのかは全く掴めなかった。



 もう一度スマホを取り出して電源を入れる。
 ソラと会話している最中に内ポケでブルブルと振動したから、誰かから連絡が来ているのは分かっていた。

 相手は……まあ、佑希だろうなあ。それ以外に考えづらい。連絡先を持っている人自体少ないのだ。
 クラスのグループに入れば一人一人登録する必要なんてなくなるし、いちいち登録しましたと送るのも面倒だし。

『ごめんなさい』
『ほんと、忘れていいからね』

 予想通りすぎてため息が出た。
 セットというか、ここまで全て予定調和というか、そんな感じだ。

 無駄に引き摺ったりせずにすぐ謝ることのできる良い子だ。
 謝られる謂れも、そこまで誤魔化す理由も、俺には見当がつかないが。

 とはいえ、本当に朝のことを謝りたいと思われているとは考えられないから、結局自分の気持ちを抑えるために送ってきたのだろう。

 そう思うと、少しだけ胸がざわついた。
 でも、深く考える前に思考を断ち切る。

 俺の佑希への認識が間違っていないとは言い切れない。
 佑希が、俺の思っているよりもかなり単純で、後に引くことを無意識に恐れて送ってきたのかもしれない。

『うん』とだけ返信をしておく。
 これはこれで向こうがどう取るかによるが、それはお互い様だ。


 自分のことでも大変なのに、他人のことばかり気にしてもいられない。

 家族でも、深い付き合いのある友人でも、他人の考えていることなんて分からなくて当然だ。
 それを無理に訊くことで藪蛇にならないと断言することはできない。

 佑希とのトークを閉じて、部活のグループを開く。
 今気付いたけど人数が四人だ。あたりまえなことに東雲さんだった。

「登録していいと思うか?」

 とソラが俺のスマホを覗き込みながら言う。

「いいんじゃない?」

「やっぱやめとこ」

「どっちだよ」

「かわいい子は遠巻きに見てるのがいいのですぐへへー」

「どっからその声出してんの」

「ハラ」

 俺はあまり考えずに登録ボタンを押した。
 携帯とか全然見てなさそうとか、そんなことを考えながら。


 プロフィール画像はマグカップで、ハート型にラテアートがなされているものだった。
 実に女の子らしい。胡依先輩なんてどこかの夜景の写真だぞ。
 それはそれで趣深いかもしれないが、一見すると真っ黒に見えて少し怖い。

「俺登録したから、ソラもしたら?」

「……え。ああうん、あんがと」

 一瞬だけ変なものを見るような目で見られたが、それを気にしないでいると「やりー、女の子の連絡先ゲット!」と言いながら彼は画面を操作しだした。

「あ、そういや未来に渡すものがあってさ」

 思い出したかのように彼は呟く。
 渡すもの? と首をかしげると、自分の席まで戻って机から何かを取り出してから俺の席へと戻ってきた。

「これ」

「なにこれ」

 薄ピンクの小さめな便箋。
 表面には「白石先輩へ」と書かれている。


「果たし状?」

「いや、ラブレターじゃね?」

 なるほど。
 いや、全然なるほどじゃねえ。

「中身見た?」

「いや?」

「これ、誰が渡してきたの」

「中等部の子かなあ、多分」

「へえ」

 先輩、と書くあたりそれで間違いないはず。
 でも、当の中等部の知り合いは奈雨しかいない。

「どんな子だった?」

「うんと、身長低くて黒髪ショート。俺は結構好き」

 そこまで訊いてねえよ。
 ただまあ、その特徴からして奈雨ではないと。

 だいいち、奈雨はそんなまどろっこしいことをする子ではない。

 そうなると、面倒だなと考える。
 処理に困るな。中身がどうであれ、知らない人だろうし。


「開けないのか」

「なんかめんどいしソラが開けて」

「じゃ貸して」

 渡すと、そのまま封を切って、中に入っている紙を取り出した。
 ほう、とソラは感嘆のような声をあげる。

「なんだって?」

「『放課後中学校舎の中庭に来てください』だってさ」

 言葉とともに、紙を目の前に出される。
 そこには彼の言葉の通りの文字が書かれていた。

「行かないのか」

 と彼は目を細める。
 その割には、好奇心に溢れたような言い方だった。


 面倒だなあ、と口に出すか迷っているうちに、予鈴がなった。
 部のジャージ姿の善くんが教室に入ってくるのを見て、ソラから紙を受け取ってポケットにしまう。

 手持ち無沙汰になって再びスマホを取り出す。
 意外にも佑希から返信が来ていた。

『怒ってる?』と三件くらい同じような内容が表示される。
 それを流し読みしつつ『怒ってないよ』と俺は打ち込んだ。

 お年頃なのかね、みんな揃って。
 そういう言葉が浮かんだが、俺だって同い年だ。

 黒板を見つめていると、SHRが終わり、授業が始まってしまった。

 当然のように授業は頭に入らない。
 俺もこういうところだけはお年頃なのだろう。

 仕方がないので窓の外を眺めた。
 それから少しだけ、部誌に載せるために描く絵のことを考えた。

 新幹線が通っているのが見える。
 自分の好きなものを好きなようにカタチにすることができればいいのに、と思う。

 板書を写しているふりをしながら、傍に落書きをした。
 上手く描けたかもしれないし、そうでないかもしれない。

 教卓から見えないように、レモン味のタブレットを口に含んだ。


【後輩】

 指定通りに放課後に中等部校舎の中庭に向かうと、一人の少女がベンチに座っていた。

 中庭には風ひとつ吹いておらず、陽もあまり射していない。
 なので少し寒い。分担区の掃除をしていた中等部の人たちの姿を見送ってから、彼女の元へ近付く。

 容姿はソラの言う通り、身長は低めで黒髪のショートカット。
 彼女は俺の姿を捉えてすぐに、照れたようにはにかんで顔を俯かせる。

 なんというか、どこかで会ったことがあるような。

 ……あ、奈雨の友達? だろうか。
 先週の金曜日に購買前で。あとはもう何度か見たことがあるように思える。

「こんにちは。えっと、この手紙は君が?」

「……こ、こんにちは。えと、はい、わたしが出しました」

 頬を赤らめながら、隣に座るように促されて、人ひとり分くらい開けて、ベンチに腰を下ろした。

 え、いやこれ普通に告白されるんじゃね?
 そう考えてしまうあたり、俺の頭はいつだって単純思考だ。


「何か俺に用事でも?」

 と、気取ったように声を掛けた。
 実際のところ、内心ではかなりビビっていることを隠すためでもあったのだが。

「あ、あの……えっと、えっとですね……」

 びくりと彼女の肩が跳ねる。
 そのあと見るからに悩ましげな顔をして、口を開いては閉じてを繰り返し、終いには黙り込んでしまった。

「……わたし。えっと、そうですね。
 ごめんなさい、ちょっと……いや、かなり、緊張してます」

「ああ、うん……自分のペースで大丈夫だよ」

「ありがとうございます。あの、先輩って優しいんですね」

「いや、そんなことはないと思うけど」

「あ、ありますよ!」と彼女は突然大きな声を出した。
 そして、言ってから自分の声の大きさに恥ずかしくなったのか、両手で顔を覆って、あわあわ言いながら口をもごもごと動かす。

 ちょっとだけその仕草をかわいいと思った。
 ていうか、これでかわいいと思わない男はいないのではないかというくらいにあざとい。


 か弱いような容姿も、華奢な身体に似合った高めな声音も、ころころ変わる表情も、モテない男の理想のような女の子だ。

 友達だからだろうか、奈雨に少しだけ似ている。
 ……でも、奈雨のそれとは明らかに違っているようにも思える。

 怪訝な目を向けたことに気付いたのか、こほんとわざとらしく咳払いをして、彼女はそれまで斜めに向けていた身体を捻って、真正面から俺を見据える。

「わたし、雪村零華って言います。えっと、漢字はこんな感じで。
 ……今日はですね、先輩にどうしても言いたいことがあって、呼び出させていただきました」

 胸元にはたしかに『雪村 零華』と書かれたネームプレートがあった。
 ほう、と頷くと、うううと小さな声で言いながら身じろぎして、きゅっとブレザーの裾を握り直した。

「えと、いま……気になってる人とかって、誰かいますか?」

「どうして?」

「さ、参考までに……?」

 参考。参考か。
 彼女の言う気になってる人はどれくらいの範囲を意味しているだろうか。
 単に気になるだけであれば、初対面の男にこんな態度を取るこの女の子のことだってそうなのかもしれない。

 まあ、無理に考える必要性は皆無だ。それにさっさと済ませたいことに変わりはない。


「いるよ」

 と俺は答えた。
 いないと言ったほうが良かったかもしれない。
 自分のペースで、とは言ったものの、あまりに胡乱すぎるのは困る。

「……なるほど。その人は、彼女さんとかですか?」

 俺が首を横に振ると、彼女は一瞬だけ口元を緩めた。
 注視していないと気付かないほど短い時間だったが、そういうのはなぜか分かってしまう。

 そしてその様子で、違和感程度であった俺の中での疑念がはっきりとした確信に変わる。
 これは告白とかではなく、もっと他の何かである、と。

 やっぱり果たし状じゃね?
 だってめっちゃ怖えもんな、告白以外での呼び出し。
 同性なら分かるけど。むしろ怖さ増すなそれ。

 頭のなかではおどけてみたが、彼女が何かを口にしない限り、依然として状況は変わらない。

「それで?」

「あ、はい」


 気を取り直したように、数秒だけ足元を見た後、彼女は潤んだ瞳で吐息混じりに口を開く。

「わたし……」

「……」

「……わたし、先輩のことが、す」

「ちょっと、ストップ」

 言い切る直前で、手を彼女の前に出してそれを制した。

 なんというかね、後から負けたみたいに感じるのが嫌なもので。
 ……いや、勝ちも負けもないけど、どのみち彼女に対しても申し訳ない気がするから。

「……は?」

 途中で遮られたことが不満だったのか、呆けたような、先程までと比べて明らかに低いトーンで聞き返された。

 俺はどうしたものかと苦笑した。
 そうだと思っていても──実際その通りになったらなったで──続きについては思いついていなかったから。

「……あ、や、違うんです」

「違うって?」

「……」

「まあ、どうでもいいけど」


 きっとした鋭い眼差しで、俺を睨めつける。
 べつに視線を逸らしても良かったけれど、彼女としばらく目を合わせたままにしていると、観念したように前髪を弄りながらため息をついた。

「……普通、告白遮りますか?」

「声作るの忘れてるよ」

 ちっ、と小さく舌打ちをする音が聞こえた。

「あー、なんかごめん」

「いえ……思ったよりもうざいですね」

「初対面の先輩にうざいとか言う?」

「……さすがに失礼ですかね、ごめんなさい」

「いいよ、べつに」

「はあ……なら、謝って損しました」

 あっさり演技を止めたな。取り繕おうとしたのも最初だけか。

 本性はサバサバ系か? それなら納得がいく気もする。
 加えて、何気に自分の予想が的中していたことに驚きを感じている。

 俺の洞察力半端ねえな。ただ彼女が嘘っぽくて分かりやすかっただけだけど。


「……で、本題は何?」

「えっと、そのまえに」

「ん?」

「どうして気付いたんですか?
 わたし、自分で言うのもなんですが、かなり演技上手いと思いますけど」

 自分で演技とまで言っちゃうんですね……。
 どうして、って。そりゃあ。

「や、なんか嘘っぽかったから」

「なんですかそれ」

「まず、会ったことない人に告白する時点でありえないだろ?」

「……は、はあ。でも、無いとは断言できなくないですか」

「じゃあその場合って、好きになった理由はどうするんだ」

「ベタですけど、一目惚れとかですかね?」

「俺に?」

「……あー、いや無くはないとは思いますよ」

「ないだろ」

「自虐ですか、それ」

 つまんないですよ、と付け加える。
 そう言われたところでよく分からない。


 彼女のイメージした惚れ方をされるのは、もっとこう、運動部のイケメンエースとかそんなんじゃないすかね。

 そんな人と比較して、俺は何だ。
 頭は普通。運動も普通。総合して並よりちょい下? いやちょい上……自己評価は低いくらいがいいかもしれない。

 人それぞれ感性や好みがあるから一概には言えないが、俺にそれを求める人はいないとは思う。
 僅かにでも関わりがあれば、それは相手次第ではどうか分からないけど。

「それに」

「……それに?」

「さっきまでのきみは奈雨が嫌いなタイプだと思うから、ないなって」

 言うと、鳩が豆鉄砲を食ったような、かなり間抜けな顔を拝めた。
 と思ったらすぐに、にこにこぽわぽわの笑顔を作った。

「あはは、たしかに。こんな感じの笑い方とか嫌いそうですもんね」

「うん、とても」

「……はあ、でもそう言われると複雑ですけどねー。
 大抵の人はあんな感じで騙せるんですけど、ふふふ」

「怖いな」

「そりゃどうもです」

 小悪魔めいた笑いはどういうわけか見てて飽きを感じない。
 その代わりに、こういう子なら奈雨とも反りが合いそうかな、と感じる。


 俺も素直な子は嫌いじゃない。
 ここまで素直だと、いろいろ困ることがあるんじゃないかと思うくらいではあるが。

「それで……。ああ、本題でしたっけ」

「そうだな」

「……うーん。なんですかねー、先輩も色惚けってわけでもなさそうですし、ちょっと期待半分だったんですよー?」

「……」

 内容が掴めなかったので、そのまま続きを待つことにした。

「告白して、好意的な反応をされたらとりあえず笑えるかなって。
 ……まあ、失敗したんですけど。
 てことは、もしかしてわたしのことタイプじゃなかったんですか?」

 いや、知らねえよ。
 容姿だけで言えば(勝手に品定めするのはいけないことに思えてならないけれど)いくつか当てはまるように思える。
 でも、まずきみ自体のことを知らないわけで、前提が揺らいでいる。

「それで?」

「え、タイプじゃないんですか……」

 がっかりした様子で肩を落とす。
 こいつアレだ。誰にでも好かれたいタイプの人間だ。


 お世辞を言われたら心の中で「はーお世辞かよ」と思いつつ、言われなかったら「はあ? なにこいつ」とか思っちゃうような感じだ。

「かわいいとは思うよ」

「その言い方うざいですね」

 ほらこの通り。
 ここまでくると笑えてくるな。

「いいから本題。はよ」

 と俺は急かした。
 言い方はこの際気にしない。フレンドリーにはフレンドリーに対応だ。

 フレンドリーというか一方的に平手打ちを食らっているような感覚だけどあんま気にすんな。

「そうですね……」

「そんな勿体ぶることなら帰るけど」

 立ち上がる素振りを見せると、彼女は待ってください、と言って俺の肩に触れた。


「わたしはただ、奈雨ちゃんと校内でキスをする人がどんな人なのかなーって、危ない人だったら嫌だなーって、そんな興味本位ですよ」

「……」

「おお、固まってる。ややウケですかね」

「何のことだ?」

 ぷくく、と彼女は吹き出した。
 最初に間を挟んだ時点で、とぼけたってバレバレなのは分かっている。

「いやいやー、今さら誤魔化さなくてもいいですって。
 ちゃんとこの目で見ましたし、そういう反応したらもう負けですよ」

 息をつくことすら忘れていたのか、いつの間にか口内に唾液が溜まっていた。
 どうにかそれを飲み込んでから、再びベンチに座って肩をすくめる。

「……いつ見たの」

「先週。中学棟の最上階で。すみません、あとつけちゃいました」

 いや、マジか……。

「……奈雨に、このことは」

「やだなあ、言ってないですよ。
 先輩のこと隠してるみたいですし、わたし奈雨ちゃんのこと結構好きなので、変な感じになるのは避けたいんですよね」


「本当か?」

「はい。嘘はつきませんよ」

「いや信じられんな」

「……そんなこと言っていいんですか?」

「駄目だな」

「ですよね」

 出かけたため息をどうにか堪えた。
 見られても、奈雨が知らなければどうってことない……かもしれない。

 その一抹の望みに賭けて、少し言葉を選んでから、

「それで、何が望みなの?」

 と、彼女に訊ねた。

「望み……。わたし、任侠映画の借金取りの三下か何かですか?」

「そういうのいいから」

 言うと、良いものではない感情を抑えるように眉をひそめて、人差し指を眼前に突き立てられた。


「……あのですね、小学校から知り合いの友達がそんなセフレみたいな扱いをされてたら、誰だって止めたくなりますよね」

「いや、セフレって……」

「じゃあキスフレですか?」

「……よくそんな言葉知ってるな」

「いえ、わたしも初めて使いましたけど」

 むしろそういう扱いをされているのは俺の方ではないか。
 奈雨が望まないなら、俺がすることはない。

 彼女が俺にそれを望むから、心は痛むけれど、何とか我慢していた。

「でも、何か違ったみたいですね。
 あの時も、奈雨ちゃんからしてたみたいですし、先輩も見境ないってわけでもないんですよね」

「……はあ、まあうん」

 本当はそんなこと考えたくはないのだが、言っちゃえば、需要と供給の関係なのかもしれない。
 奈雨とそういうことをするのは役得だと思わなくはないから。

 是非は抜きにしても、求められたら俺からは断れない。
 断るだけの理由を持ち合わせていない。


「ほんとに付き合ってないんですよね?」

「そりゃ従妹だし、いろいろ」

「……あれ、先輩と奈雨ちゃんって従兄妹だったんですか」

「ああ、ごめん。知ってるものとばかり」

「じゃ、じゃあ、奈雨ちゃんとの会話に本当にたまにですけど出てくるお兄ちゃんって、先輩のことなんですか?」

「多分そう」

 答えると、彼女は絶句したようにぽかんと口を開けたままフリーズした。

「大丈夫?」

「……え、えっと。つまり、佑希先輩と奈雨ちゃんも従姉妹の関係であると」

「……佑希?」

「佑希先輩です。先輩のお姉さんじゃないんですか」

「妹な」

「ああ、失礼しました」

 よくされる間違いだ。
 今年に入ってからもう十回以上されている。

 あっちはなにかと有名人だから、仕方がないことではあるんだけど。


「委員会が何度か同じになりまして。
 それで佑希先輩には良くしてもらってたんですよ」

「……へえ」

「先輩と違って優しいですし、なんでもできちゃいますよね」

「さっき俺のこと優しいって言ってなかったか?」

「……あ、じゃあそれでもいいです」

 人から佑希のイメージを聞くと、だいたい同じような反応を得ることができる。

 一に優しい。二になんでもできる。三にかっこいいやかわいいなど容姿について。

 容姿については言わずとも感じているが、最初のについてはそうだろうか? とその度に思うけれど、それは俺から見てのことだ。
 俺が佑希と他人で、彼女を遠巻きに見たとすれば、きっとそういう風な感想になるだろう。


「えっと、わたしとしては驚きが凄いんですけど、話が逸れましたね。
 奈雨ちゃんと付き合う気はないんですか?」

「ないな」

「なんか嘘っぽいですねー」

「知らねえよ」

 ついつい語気が荒くなってしまった。
 慌てたのだと勘違いしたのか、彼女は手を唇に運んでくすりと微笑んだ。

「なんか先輩っておもしろいですね」

「どこが」

「いえ、どことは言いませんけど、全体的におもしろいです」

「……そろそろ帰っていい?」

 妙に絡んでくるけど普通に疲れる。
 彼女が自分で言ったように、奈雨にはきっと言わないだろう。

 それなら、下手に出なくてもいいのでは? とも思う。


「あー、じゃあまた会いに行きますからね。
 お話しましょうね、協力しますから」

「話すことなんてある?」

「奈雨ちゃんのこと。わたしもっと知りたいんですよね。
 それに先輩だって、自分の知らない奈雨ちゃんのことを知りたいって思ってるんじゃないですか」

 ──例えば。
 小学校の時のこと、とか。

 小五の奈雨。もしくはそれ以前の奈雨について。
 年に数回しか会わなかったのだから、あのことを除いて、あまり記憶には残っていない。

 でも、この子なら何か知っているのではないか。

「悪くないな」

 と俺は答えた。
 その提案に利はあっても損はないと感じたから。


「わたしのことは、零華でも雪村でもお好きに呼んでください」

「どっちでもいいな」

「……れーちゃん、でもいいですよ?」

「じゃあれーちゃんで」

「むず痒いし気持ち悪いのでやめて下さい」

「なら最初から言うなよ」

「普通言うなんて思わないんで、先輩が特殊なんですよ」

 彼女は鞄の小さいポケットから、チュッパチャプスを取り出した。
 コーラ味をベンチに置いて、俺にはグレープ味を渡してきた。

「お近づきの印です」

「ありがと、れーちゃん」

 ああいうことを言われたら、それなりにやり返さなくてはと思うのは、子供っぽいだろうか。
 ポケットにそれを入れて、彼女に背を向ける。

「……じゃあ、また」と後手に声を掛けられて、それに頷いた。

今回の投下は以上です。

訂正
410
思われている→思っている


【同盟】

「どうだったの、白石くん!」

 部室に入ると開口一番に胡依先輩が声を上げた。

 先輩と、ソラと……東雲さん。
 見事に全員揃っている。
 そんで、ソラはなぜか笑いを堪え切れないような顔をしている。

 若干の居心地の悪さを感じながら定位置に腰を下ろすと、なおもにこにこ顔を崩さない胡依先輩が近くに寄ってくる。

「いまどきラブレターで呼び出しってロマンあるよねー」

「……はあ。まあ、違かったんですけど」

「あれ、そうなの?」

「そうです。何でもなかったですね」

 偽告白をされかけたから何もないってわけではないけど、説明すんの面倒だしな。

「どういうことだ! そらそらくん!」

「……いや、あんな手紙貰ったら普通告白っしょ」


「えー、でも違ったわけだ。つまんなーい」

「そうですね。ミクちゃんつまんなーい」

 コントのようなやり取りが目の前で交わされる。
 やっぱ仲良いな、この人たち。

「でも、その子かわいかっただろ?」

「まあ」

 けどあれを見ちゃうと。うーん。
 弱みを握られている(ことになっている)し、これからも会うだろうし。

 俺の中で雪村零華はすっかり危険人物だ。
 見られたのは他でもなく俺のせいで、身から出た錆かもしれないけど。

「どう思いますか! シノちゃん!」

「……え、私ですか?」

「胡依先輩」

「もー、いいじゃんいいじゃん。どう思う?」

 あちこち視線をさまよわせる東雲さんに、先輩は微笑みのようなものを向ける。
 それを横目でちらりと見た東雲さんは、慌てたように首を横に振って、

「……あ」

 と目が合った。


 なんだこの気恥ずかしさ。
 彼女が挙動不審すぎてこっちまで変になりそうになる。

「えっと、未来くんは……おモテになるんだね」

「……」

「あ……イヤミとかじゃなくて、単純に凄いなあって」

「いや、告白されたわけじゃないって」

「うん、あの……ごめん」

「べつにいいよ」

「……うん」

 胡依先輩とソラが俺たち二人を見てくすくすと笑う。
 俺は居たたまれないような思いを抱く。多分東雲さんも同じだろう。

 何か話題を変えようと思う。
 が、話題らしい話題も思い浮かばないんだよな。

 あんまり互いを知らない間柄だと、しかも四人だと、誰かが入れないかもしれない話題は避けるべきだろう。

 とすると、一人だけに話し掛けるか。
 でも先輩もソラも今は構うのが面倒そうな雰囲気だし、なんとなく嫌だ。


「東雲さん」

「……な、なに」

 見るからに警戒されている。
 胡依先輩は本を読みだして(多分フリ)、ソラはパソコンの方を向いてマウスをカチカチやっている(これもフリだろう)。

「東雲さんってA組だよね?」

「うん」

「同じクラスにうちの妹がいると思うんだけどさ」

「……えっと。白石……あ、佑希ちゃん?」

「そうそう。話したりする?」

「うん。いま席がとなりだからたまには。
 ……それで、佑希ちゃんがどうしたの?」

 どうしたの、とも。
 ただ言ってみただけでしかない。

 まあ、少し。少しだけ気がかりなことはあるけれど。

「今日のあいつどうだった?」

「……」


「あ、いや、変わった様子とかじゃなかったかって」

「……んー、よく分からないけど、普通だったと思うよ」

「そっか、ありがとう」

「……うん?」

 そういうのを学校とかで出す子ではないのは知っているものの、少しだけ気にはなっていた。
 俺との朝のこと。あの連絡。怒らせてしまったかな? とも思う。

 気にしない。なんて思いつつ、完全に気にしないわけにもいかないのだ。
 ほっとくといろいろと面倒だから先に対処をするべきでは、という極めて利己的な考えで。

 何か続けようとしたところで、胡依先輩が、隣に座る東雲さんの耳に顔を近付けた。

「……なんですか」

「シノちゃんシノちゃん。白石くんはね、かなりのシスコンなんだよ」

 言いながら、胡依先輩は「そうだよね?」とでも付け足すように首をかしげる。

 さっきから攻撃、もとい口撃をされている気がしてならない。


 否定できないところが悲しいけど。
 だって、クラスメイトに妹のことを訊く兄なんて心底気持ち悪いのでは?

 うん、気持ち悪い。
 自問自答する。俺は気持ち悪い。

 さっきれーちゃん(憎たらしいのでそう呼ぶことにした)にも言われたな。
 あれは反射的なものだと思いたい。

「へえ、初耳です」

「──ね、そらそらくん?」

「そうですねー。山より高く海より深い繋がりを感じますね」

「おまえ何言ってんの」

「事実だろ」

「さすがに違う」

 否定すると、胡依先輩とソラは顔を見合わせて笑い出した。
 さっきからなんなんだ。

 二人をわりかし軽く睨む。心の中でくらい今の俺は怒ってもいいんじゃないか。

「怒った?」

 と先程から一転申し訳なさそうな表情をされる。


「いえ」

「あの、白石くんを見てると、私の中の嗜虐的な部分がこう……昂ぶってきて、って話をそらそらくんとしたから、一度やってみたくて」

「……」

「距離感を掴もうと、ね?」

 もしかして、この人。
 いや、前から何となく感じてはいたけど。

 大抵のことにずばっと言い切るのはそういう性格だからとかではなくて。

「まあいいですけど、先輩って人付き合い苦手ですよね」

「……うぐ」

 図星か。赤面してらっしゃる。

「シノちゃーん! 白石くんがいじめる!」

 そう言って、胡依先輩はがばっと抱きつく。

 これこれ、とソラは二人めがけて指をさす。
 何気に部室に入ったときから感じていた距離の近さに妙な納得がいった。

 実に百合百合しい。
 身長差も相まってめっちゃ微笑ましい光景を拝んでいる。

 あからさまに嫌な顔をする東雲さんを除けばの話だが。


「部長さんが悪いと思いますけど」

「えー」

「……はあ。分からなくもないですけど、ちょっと分かりますけど、それを本人に言うのは駄目じゃないですか?」

「……え?」

 聞き過ごせないようなワードが聞こえて、思わず間抜けな声が出た。

「それって、つまり?」

 と胡依先輩が訊き返す。
 彼女の腕の中の東雲さんは「やっちまった」という顔になる。

「も、黙秘します」

「……シノちゃんはほんとにかわいいなあ。
 もう、私たちは今から同盟だよ!」

「……はい?」

 そこでまた訊き返してはいけないと思うんだ。


「白石くんをいじりたい人同盟!
 私とそらそらくんとシノちゃん三人で白石くんをいじり倒すのです」

 東雲さんは絶句したような顔をする。
 普通の反応だ。普通すぎて一層胡依先輩とソラを恨めしく思う。

「先輩、反省してますか?」

「ふふふ、三人いれば何とやらだよ!」

「意味違くないですか?」

「じゃあ包囲網だ」

 どうやら俺の言葉は聞き入れてもらえないらしい。

「だからね、みんな仲良くね」

 ああ、そういうこと……なのか?

 いじられること自体は大して嫌だとは思わないけど。
 シスコンはちょっとな……そこらへんデリケートなところですし。

 ソラの方がよっぽど俺よりもいじりがいがあると思うのだが、
 三人の意見が一致したとなれば、俺が口を挟んでも関係なくなってしまうかもしれない。


「白石くんをいじりましょう!」

 前言撤回。
 この人分かってねえわ。

 とはいえ、ここで俺の取るべき行動は決まっている気がして、

「……お手柔らかに」

 と答えた。

 胡依先輩はにこりと口元を緩める。
 あれ、やっぱりそういう意図を含んでいたのか?

 どっちなのかはっきりとは分からないが、それで仲良くできるのなら越したことはない。

「東雲さんも、少しくらいなら」

「え? いや、しないよ」

「あ、そう?」

 沈黙。
 したいのかな、やはり。

 やっぱり訊き返すのは良くないな。


「ごめん。少しだけ」

「……あ、はい」

 どんどん最初の冷淡なイメージが崩れていっているが、きっと気のせいだ。

 東雲さんにいじられるなんて、そんな……!
 あのぼーっとしているときのゴミを見るような目で言われたら危うく何かに目覚めてしまいそうだ。

 ……想像しただけで嫌になってきた。
 やっぱやめてくださいって言うべきなのかな。

「未来や、唆したのは俺だから先輩は悪くないぜ」

「知ってる」

 まったく、こいつは昔から。

「恨むなら俺を恨め!」

「いつも恨んでる」

「え、マジ?」

「うん」

 横目で捉えた胡依先輩は、俺らのやりとりを見てなぜか嬉しそうにしていた。


【儚いもの】

 夕方五時を回った頃に、胡依先輩から部誌についてのプリントが配られた。

 短時間でざっと目を通す。
 こういうの作ってくれるあたり、やっぱり先輩は律儀だ。

 提出は三週間後の日曜日までを目処に。
 媒体はデジタルでもアナログでも可。
 描けるぶんだけ描いて、カラーページは一人二ページずつ。
 一応こういう時のために部費はあるけど、あまりにも赤字の場合は自腹切りも覚悟しておくように(多分大丈夫だろうけど)。

 他にもあるが、重要なのはここらへんかな。
 期限が文化祭の日から逆算するとギリギリすぎるのだが、この前決めたばかりだから、こればっかりは仕方がない。

 それにしても、意外ときちんと決めてある。
 何度もやっているのだから、前例に従えばそれもそうか。

 部活単位ならお互い知り合いだし大丈夫かとは思うが、合同誌を出すときにトラブルはつきものだと聞いたことがある。

 期限まで原稿が入稿されない。連絡メールが届かない。参加者同士で喧嘩になる。

 お金が絡んだりするともっと面倒だ。
 ずぼらな人がいるとなれば目も当てられない。


「先輩、これってページ数ですか?」

「そうだよ」

「多くないですかね」

「そこはほら……気合いで」

 つべこべ言わずにやってみてから考えろということだろうか。

「もしダメそうなら私が前描いたやつ載っけるから、あんまり気負わなくても大丈夫だよ」

「助かります」

 とは言ったものの、どうしようかな。
 この前自分なりに構想を練った時にも考えたけれど、特に描きたいものはない。

 正確に言えば、胡依先輩に習ったような絵を描きたいのだが、それを載せるのか? みたいな、謎の葛藤。

「まあ、好きなように描こうね」

 と先輩はひとりひとりに確認するように呟いた。


 少し経ってから「あの」と東雲さんが目を伏せながら手を胸元に小さくあげた。

「私はどうしたらいいですか」

 その言葉を聞いて、俺の隣に座っていたソラは首をかしげた。
 そういえば、と思う。東雲さんは怖くて描けないと言っていた。

 でも部室には来ている。
 もう入部したのだろうか? 入ると土曜日に言っていたはずだ。

「シノちゃんはどうしたい?」

「……」

「描けたら描くで、私はいいと思うけど」

「……でも、もし描けなかったら」

「大丈夫だよ」

「……」

「この前も言ったけど、リハビリ」

「ね?」と胡依先輩はなんでもないように言う。

「自分でもやれることはやってみて、それでも無理だったら私に相談して。
 きっと、シノちゃんの力になれると思う」

 堂々とした物言いに、東雲さんは戸惑いの色を隠せずにしていたものの、十秒後には諦めたようにこくこくと頷いた。

「……がんばってみます」

「うん、よろしい」

 言わされたような感じは見受けられなかったのに、俺は少しの間、どこか儚げな彼女の表情から目を離すことができなかった。


【鬼ごっこ】

「鬼ごっこってさ、よくよく考えてみると、ちょっと不思議じゃない?」

 金曜日の昼休みに部室に向かうと、胡依先輩がお弁当を箸でつつきながら、そう話し掛けてきた。

 特に不思議ポイントを感じなかったので、とりあえず首をかしげてみる。

「……鬼ごっこ、知ってる?」

「馬鹿にしてますか?」

「……じょ、冗談だよ」

 遅れて、東雲さんに会釈をした。
 二人仲良く昼食を摂っていたらしい。

 胡依先輩のが「お弁当」なら東雲さんのは「おべんと」とでも言いたいくらいに小さかった。
 あのときはカレーを頬張っていたけど、いつもは見かけ通りの少食なのかな。かわいい。

 俺はというと、佑希があの日以降お弁当を作ってくれないせいもあって、コンビニでおにぎりを二つ買って手に持っている。

 鮭バター醤油といくら。
 なぜか魚介系を選んでしまうタチなのです。


「なんでしたっけ?」

 と席に座ってから問うと、

「最近よく夢で見るんだよねー」

 と腕を組んで真面目そうな顔で返された。

「何かに追われてるんじゃないですか?」

「んー、夢診断にもそう書いてあった気がする」

「怖いですね」

「そうかも」

「それで、どこが不思議と?」

 うん、と胡依先輩は頷いた。

 人差し指を立てて、今にでも哲学でも語り出しそうな雰囲気だ。

「シノちゃんとも話したんだけど、国によって呼び名が違うんだよね」

「へえ」

「ヨーロッパだと、狐とがちょう。
 イランだと、狼と仔羊。
 中国だと、何だっけ?」

「鷹と鶏です」

「あ、シノちゃん物知り。白石くんは、日本で何て言うかって、考えたことある?」

「えっと……」


 鬼ごっこ。追いかける側は、まあ鬼だろう。
 じゃあ、追いかけられる側は?

「鬼と子ですか?」

「そうだね」

「でも、鬼は他の呼び名もあるらしいんだよね」と胡依先輩は続ける。

「私は言わなかったけど、鬼のことを親とも言うらしいよ。
 それってさ、結構不思議だと思わない?」

 親(鬼)が子を追いかけて捕まえる。
 鬼なら解る。逃げる子供を捕らえて、何をするんだっけ?

 それは思い出せないけれど、理にはかなっている。

「不思議ですね」と東雲さんが呟いた。

「ちょっと調べたらさ、昔は親と子と鬼の三つの役割があったらしいんだ。
 親は後ろに子供を隠して、それを巧く切り抜けながら鬼は子供を捕まえるって、そういうルールだったらしいの」

「そうなんすか」

「でも、いつの間にか鬼イコール親になっちゃった。
 昔はそうではなかったのに、今ではそうなってるんだよね」


「親は、子供を追いかけるもの」

 東雲さんは胡依先輩に対して言葉の意味を確認するようにゆっくりと言ったが、納得できない様子で口元に手をやって考え始めた。

「反転──逆転もし得るってところがまた不思議なところだよね。
 子だったつもりが、鬼に捕まえられたら、今度は自分が鬼になってる」

「それって怖いと思うな」と言って、胡依先輩は一拍間を置いた。

 ミイラ取りがミイラになるとはちょっと違うか。
 あとは、遺伝とか? それも違う気がする。

「夢のなかで私を追いかけてるのが誰なのか、きっと知ってる人だとは思うの。
 でも、朝起きると誰だったのか忘れちゃう。
 誰かに"追いかけられた"っていう朧げな記憶だけ残って、ずうっともやもやするんだよね」


 ふうん、と思った。
 夢は「人間の抑圧された潜在的な願望」を表すと物の本で読んだ。

 俺は夢をあまり見ない。
 見ても、草原で走っているものとか、青空の下で凧を揚げるものとか、意味のないものだ。

 それも何かしらの意味は持っているのかもしれないが、気にしたいとは思わない。

 違う本には「夢は無意識・集合的無意識、あるいは元型から意識への申言」とも書いてあった。

「これはしてはいけない」「しなければならない」というストッパーが外れていて、普段の自分なら絶対にやらないであろうことをする夢を見ることもあるらしい。

 かじった程度の浅い知識だからあれこれは言えないけど、夢と願望についてはある程度の連関性はあると見ていいだろう。

 予鈴が鳴って、先輩と別れて東雲さんと二人で一緒に外に出る。

 並んで階段を降りていると、不意に呼び止められた。

「未来くんって、親御さんと仲良い?」

「どうして?」

「なんとなく、じゃ駄目かな?」

 かまわない、と俺は首を横に振る。


「共働きでほとんど顔会わせないけど、仲が悪いわけじゃない」

「そうなんだ」

「東雲さんは?」

「私……私は、どうなんだろう。
 良いのか悪いのかも分からないかな」

「けど、私は嫌いじゃないかな」と東雲さんはため息混じりに呟いた。

 訊いてから、彼女が居候をしていることが頭に浮かんだ。
 まあ、俺が訊いたのも「なんとなく」だ。

「未来くん、何か描けた?」

「……いや、全然」

「うん……私も、全然」

「そっか」

「やっぱり、駄目かもなあ……」

 ぼそっとこぼされた言葉は、言い表せない悲痛が滲んでいるようだった。

 どうして、彼女は描けない"だけ"でそんなに悲しい顔をするのだろう。
 理由はきっと、彼女にとっての描けないことがそれ"だけ"で片付けられることではないのだ。

 描けなかったら、自分の存在自体が揺らぐと、存在意義が分からなくなると、そう言っているように俺には聞こえた。

今回の投下は以上です。


【描いていた】

 描いていた。
 描いたつもりでいた。

 紙を広げた。ペンを握った。
 文字を書くのと同じだと左の手首を右手で支えた。

 線を描いた。丸を描いた。
 震える手を、私は止められなかった。

 私は間違ってない。
 ……きっと、間違ってない。

 描くことが好きだった。
 自分の描いた絵が嫌いだった。

 描いたあとすぐに破ってしまいたかった。
 ぐちゃぐちゃに黒で染めて、全てなかったことにしてしまいたかった。

 描きたいから描いていて、義務感とか誰かに肯定してほしいとか、そういう気持ちで描いているのではない。

 私は知りたかった。
 知っているふりでも良かった。
 何かを変えたかった。

 描いていたら、何かが変わると思っていた。
 私のことを見てくれて、私のことを構ってくれて、私のことを好きって言ってくれるって。


 許してほしかった。
 何も悪いことはしていないのに、とにかく許してほしかった。

 多分、心の奥底では分かっていた。
 そんなことは何も関係ないし、私は許してもらえないことには。

 描いていたところで、何も変わらないことも分かっていた。
 描いていなくても生きていけるし、描いていたって私が生きている理由にはならないし、描いていたって辛いだけだとも思っていた。

 そういう"要素"ではなくもっと根本的なところで、私は不必要なんだって、ずっと前から分かっていた。

 だから、止めることはできなかった。
 ……"だから"? いや、"けれど"かもしれない。

 切り離せないものだと思い込めば──そう理由付ければ──誰にだって責められるはずはないと考えた。

 評価なんてほしくなかった。
 描けていさえすればそれで良かった。

 私の描くものは、私のなかで完結するべきものであって、外に出すには相応しくない。
 誰かに向けた絵なんて、描いたことないし描きたくもない。
 上手いと言われても、綺麗だねと言われても、私自身は少しも変わっていない。
 私自身を肯定してあげられるのは私しかいなくて、誰かの言葉なんて必要ない。


 でも、本当に。本当にそうなのかな?

 誰かに褒められた時に、私は心のどこかで嬉しいと感じてはいなかっただろうか?
 もしかしたら、もっとがんばったら、私は誰かにとって必要な存在になれるんじゃないかって、そんな想いを抱いてはいなかっただろうか?

 私は誰かに必要とされたくて、その思いを絵に落とし込むことを無意識のうちにしてしまってはいなかっただろうか?

 それでも、描いていた。描かずにはいられなかった。
 私じゃない私に出会いたかった。

 私が私じゃないように思えることが嬉しかった。
 絵を描いている間だけは、私を縛るものなんて一切なくて、自由に振る舞うことができた。

 ──だからこそ、なのかな。

 ペンを置いた時点で、ピリオドを打った時点で、誰かの目に触れた時点で、それはきっと違うものなのに。
 納得できないのは私がおかしいからで、他の人はそんなことを気にも留めずに先に進んでいくのに。

 意味なんてない。
 わかってるけど。
 わかっているつもりではいるけど。

 描けなかった。
 描いているつもりにもなれなかった。


【りんごと芋虫】

「ていうか、本気で奢ってくれるとかお人好しがすぎませんかね」

 と俺の隣で肉まんをはふはふと頬張りながら雪村零華は呟いた。
 時刻は十三時。曜日は日曜日。

 彼女の手元にはミルクティー。かわいらしいスカートで細い足を組んでいるから目のやり場に困る。

「み、みえ」とか呟きたい気持ちや思わず視線が向かいそうになるのを持ち前の精神力で堪え、ふっと彼女の上半身へと目を移すことに成功した。
 けど上の服も上の服で露出がやばい! 今もう秋ですよ! 肩なんか出しちゃって、現代の中学生ってこうなんですかね……。

 というふうに脳内で実況をしてしまった。深刻な病気。
 俺も彼女も学校に私服で来ているけど大丈夫なのだろうか。あいにく俺はジャージだけど。

 首から下全て駄目だとなれば、顔に目を向けることになる。

 見てくれはかわいいんだよな。
 この調子で性格も良ければな。

 自分がかわいいと自覚している子はむしろ好感が持てるが、この子に関しては……ノーコメントを貫き通すつもりだ。


 俺の観察するような視線に気付いたのか、じとっとした不機嫌さを隠そうともしない目を向けられる。

「わたしの顔に何かついてますか?」

「何も」

「じゃああんまりこっち見ないでください、妊娠します」

 ……何を言っているんだか、こいつは。

 数回しか会っていない先輩にコンビニでものを奢らせるあたり、こいつがいかにいい性格をしているかが分かってしまう。

 奢ってしまう俺も俺だけど。

「あ、せんぱーい、これもお願いしまーす」と言われたら、
「はいはい分かりました」と反射的に言っていた。

 なぜだ。語尾にハートが見えた(錯覚)。
 言わばツーカーの関係。寒気がする。

「そんなこと言うならそれ返せ」

「やですよー。今度何か買ってあげますから、ね?」

「べつに要らねえよ」

「言うと思いました」

 くすくすと意地の悪いような笑みを浮かべる彼女を見て、思わずため息が出た。


「れーちゃんはさ」

「うっ」

「……零華はさ」

「……うえ」

「じゃあなんて呼べばいいんだよ」

「れーちゃんでいいですよ」

「うぜえ」

 なんだこのやり取り。

「で、なんですか?」

「……休日にいきなり家を訪ねて来るとか、正直めっちゃ怖いんだけど」

「えー、だってお話したかったですし」

「そもそも家の場所言ったっけ?」

「いや?」

 そんなこと訊くとか馬鹿ですか、とでも言いたげに小首をかしげる。
 まあ、何かで知ってたのか。それでも普通に怖い。

 佑希だろ。多分。それ以外考えられないし。


「ここ寒いんですけど」

「だからって家に入れるわけにはいかないだろ」

「……たしかに、か弱い女の子がキス大好きな男の人の家にいたら襲われちゃいますね」

「……あのさ」

「やだなあ、わたしなりの小粋なジョークですよ」

 そう言って、ばしばしと俺の二の腕付近を叩く。
 気持ち悪いとか妊娠するとか言いつつ自分は軽々とスキンシップしちゃうんですね。

「つーか、俺はべつにキスが好きなわけじゃない」

「なら、どうしてしてるんですか?」

「……どうしてって、そんなこと言われてもな」

「はい」

「……」

「……」

 答えあぐねていると、ボトルのキャップをくいっと捻りながらやれやれとばかりにため息をつかれた。


「気になってたんですけど、実際どうなんですか」

「何が」

「そりゃ奈雨ちゃんの唇ですよ」

「お、おう……」

 普通そういうこと訊くかね。
 やっぱりこの子には常識は通用しないらしい。

「あんま覚えてないな」

「……えー、何回もしてるんですよね」

「してないよ」

「嘘ですね」

「嘘じゃない」

 嘘だ。
 ……思いっきり嘘だ。

「ねえどうなんですかー。わたしも知りたいですよ、奈雨ちゃんの唇の味」

 彼女は自分の唇に指を押し当てながら、確認するように反対の手で俺の背中に触れた。

「わたし、まだキスとかしたことないんですよ?」

 ふふんと微笑む姿は妙に艶っぽい。
 声のトーンも、それまでより甘えたものになっている。

 ──けどまあ……。


「嘘だな」

 それは通じないって前に学ばなかったのかな。

「……なっ、わたし嘘付きませんし!」

「いや、行動が男慣れしてるようにしか思えない」

「処女ですし!」

「嫁入り前のうら若き乙女がそういう恥じらいのないことを言うでない」

「そういうのマジでうざいですよ」

「どっちがだよ」

「先輩がに決まってるじゃないですか。女の子にそういうこと訊くのはデリカシーなしって言われちゃいますよ!」

 両手を握りしめてぷんすか怒られる。
 俺はどう返事をすればいいのやら。

「むしろ先輩の女慣れ感の方がやばいです」

「……そんなに?」

「そうですね。だってわたしとか奈雨ちゃんと話すクラスメイトの男子とか超ビビってますし」

「そりゃかわいいからな」

「あはは……そういうところですって」

 顔をほころばせて少しだけ嬉しそうにしている。
 やっぱりかわいいと褒められるのは好きらしい。


「まあ、妹みたいな感じだから」

「わたしを勝手に妹認定するのやめてもらえませんか?」

「……さっきからめっちゃ突っかかってくるな」

「これがわたしです!」

 そう胸を張られてもね。

「奈雨のことを言ったわけで、きみのことは言ってないよ」

「うざっ……てかわたしのことれーちゃんって呼ばないんですか?」

「話進まないんだけど」

「えー」

「えーじゃない」

「れーちゃんって呼んでくださいよ!」

「……あのさ、れーちゃんはそんなことを話すために俺の休日を潰してまで呼び出したわけ?」

「あなたの休日が潰れているとき、わたしの休日もまた潰れているのです」

「ほっぺたつねっていい?」

「でぃーぶいは駄目ですよ!」

「俺ときみはいつから家族になったんすかね」


 問いかけると、彼女は「うーん」と考え込むような表情をした。
 また何か面倒なことを言われるのだと思ったが、それを止めさせようとは不思議と思わない。

「おにいちゃんって呼んでもいいですか?」

「なぜ」

「思いつき」

「なら駄目だな」

 とりあえず断ることにした。
 こんな妹いたら普通に嫌だな。

「ですよねー。その呼び方は奈雨ちゃんの特権ですもんね」

「特権ではないけど、一応」

「佑希先輩には何て呼ばれてるんです?」

「『おにい』って」

「あ、ふつう」

「そうかな?」

「同い年だとお互い名前で呼んだりが多いと思いますけど、家庭それぞれじゃないですか?」

「へえ」

「でも、おにいちゃんならおにいちゃんって呼ばれたいですよね!」


 たしかに歳も変わらないのだし、お互い名前で呼ぶのがオーソドックスなのかもしれない。
 だからって佑希に名前で呼ばれるのは今更感があるし呼ばれたところで嫌だと思うだろうけど。

 呼び名は何かを意識するにはうってつけだ。
 けれど、それはただの記号であって理由にはなり得ない。

 奈雨は俺のことを「お兄ちゃん」と呼ぶけれど、それにだって理由らしい理由はないだろう。

 それを嬉しく思うのは、俺の身勝手な都合だ。
 反面それを嬉しくなく思うのは、俺の身勝手な勘違いだ。

 俺だって本当は、昔みたいに……。

「──先輩?」

 昔の記憶に引きずられそうになったとき、俺の顔の前でひらひらと手を振る彼女の声に引き戻された。

「女の子と二人っきりなのにぼーっとするとか死罪ですね」

「ごめん」

「素直に謝れるところは褒めてあげますよ」

 俺の彼女や母親かなんかなんすかね、ほんと。


「れーちゃんはさ」

「はい?」

「佑希のこと、すごいって思う?」

「えと、見てるぶんには。……それがどうかしたんですか?」

 こういうの、なんて言うんだっけか。

「ううん、なんでもない」

「なんですかー、もー」

「……」

 言葉の接ぎ穂を探しながら僅かな間を取ると、彼女は小首をかしげながら訝しげな視線を送ってくる。
 何かを察しようと試みるような瞳で見られてもこちらは困ってしまう。

「まあ……でも、諦める側の気持ちは分からないかもしれませんね」

「どういうこと?」

「いえいえ、こっちの話ですので。
 あ、ちなみに先輩はどっちですか?」

 抽象的な問いかけに、はて何のことやらと首をひねると、

「往生際は良いタイプですか? それとも悪いタイプですか?」

 とすぐに続きが言い渡される。


 軽口で返しても良かったのだが、何気なく真剣そうな眼差しを見てしまって、言葉通りに考えてみることにした。

 崖っぷちに立たされたときにどんな行動を取れるか、そういう時にこそ真の自分が現れる。
 漫画やドラマでありがちで使い古された言い回しだ。

 他にもスポーツをやっていれば幾度となく経験するかもしれない。

 はっきりと勝負のかかった場面で日和って勝負から逃げるか、相手に立ち向かっていくか。
 対人スポーツでなくても、どれだけ自分を追い込めるか、記録を伸ばせるか、良いものを作れるのか。

 まだ高校生の身の上で人生経験が浅いからそういう経験が全くない。
 強いて言えば高校受験前くらいか。
 それもギリギリだとは思うけど、一応勝負事の範疇だろう。

 けど、あの時だってかなり余裕を持って取り組めてたし。ここの学校だって自分のレベルにも見合ってはいたと思う。

 ソラに言わせれば死ぬ気だったらしいが、俺はそんな自覚は持っていなかった。
 何事にも絶対はないから少しは緊張していたし、仮に落ちたらと考えなかったことはないけれど、それ以上にもっと他のことを考えていた。

 奈雨のことや佑希のこと。母さんのこと。あとはほんの少し自分のことも。


「俺なら着地点を見つける、かな」

「……ええと」

「結局なるようになるから、焦ってもがいたりするのは良くないかなって」

「……なるほど。でも、それって諦めているのとどう違うんですかね?」

「何も違わないかも」

「ですよねー」

 言いながら、俺はりんごと芋虫の童話を思い出した。

 りんごと一緒に川に流されて、何とか生きながらえて、最後には蝶になって羽ばたくとかいうアレだ。
 あまり鮮明には覚えてない。原著を読んだわけではないから。

 あれはどこで聞いた話だっけ。
 そんなに昔のことではないはずだが。

 ──そうだ。

 中三の受験前に担任の教師が偉そうな口調で語っていたんだ。
 当時の俺は「何だこいついきなり語り出して」と思って聞き流していた。

 年は開けていて、私立の滑り止めの受験も終わっていた。
 優等生ぶっていたのは二学期の評定が出るまでで、三学期からは抜くところは抜いていた。

 でも、今思い出した通り不思議と耳には残っている。
 腑に落ちないと思ったからだろうな、きっと。


 その場しのぎでも何もしないよりはマシなのかもしれないし、やれることをやって自分が納得できればそれでいいのかもしれない。

「でも、そういう場面にすら出くわさない人が、本当にできる人なのかもしれませんね」

「そんな人いないよ」

「……まあ、そうですよね」

「そう見えるとイラっとくるけどな」

「あ、すっごくわかります」

「案外俺たちって相性いいのかも」

「テンションガタ落ちするんでマジでやめてもらえますか?」

「はいはい」

 男友達並みにノリいいな。扱い方が分かってきた。
 軽口を言えば罵倒してくれるし、形式は違えども胡依先輩とソラの掛け合いを彷彿とさせる。


「そいえば、今教室で文化祭の練習してると思うんですけど、奈雨ちゃんのこと見に行きますか?」

「れーちゃんは役ないの?」

「木とかですかね」

「嘘おっしゃい」

 幼稚園のお遊戯会みたいじゃねえかそれ。

「……あれです。わたしちょっと運動とか控えているので、裏方にまわされました」

「ふうん、そんな大掛かりなのやるのね」

「ですです。みんな入賞するんだって気合い入ってますし、主演は奈雨ちゃんですし!」

「奈雨のことどんだけ好きなんだよ」

 思ったままを口に出すと、彼女はぽっと頬を染めて、俺から目を逸らした。

「がんばってる奈雨ちゃん、ほんと尊いんですよ?
 見てると言葉で表せないほど愛おしくて胸がはうっ……ってなります。まじです、最近のわたしの原動力です」

 なにそれちょっと見てみたい。


「セリフ間違っちゃってシュンとしてるのを見ると庇護欲がそそられますよ!」

 この前もだけど、奈雨のことになるとめっちゃ語るのな。

 胡依先輩が食いつきそうなことを何でもないように言っている。
 (見てくれが)かわいい子が(普通に)かわいい子について語っている。

 それにしてもこの学校ちょっと百合空間広すぎないですかね……?
 女の子が多いけど、一応共学なんですが。

「で、行きますか? 奈雨ちゃんのこと視姦しに行きますか?」

「だからどこでそんな言葉覚えるんだよ」

 もうやだこのJC……。
 変なボキャブラリー貯めすぎ。男子高校生でも言わないわそんな語彙。

 さすがに冗談か言葉の意味をよく理解していないだけだとは思うけど、こんな友達が近くにいるとか寒気がするな。


「奈雨ちゃんと先輩が話してるのもちょっと見てみたいですし」

「見てどうするの?」

「癒されます」

「癒し」

「奈雨ちゃんの恥じらう姿を見たいです!」

 あの子俺の前で恥じらってるかな。

 ちっとも恥じらってないだろ。
 むしろ恥じらってるのは俺の方。男の恥じらいなんて誰も求めてねえな。

 ふと、なぜか奈雨に会った途端に抱きしめてしまった時の感覚を思い出した。

「今日はパスで。帰ってやることあるし」

 そんなことをしているより借りた教本を読みながら原稿を描かなければならないんだ。
 あーでも時間的に部室に行けば先輩がいるかもしれない。

 飲み物も飲み終えていたからそろそろ動きたかった。
 ここ寒いしね。天気はカラッとしてるけど。

「つれないですねー。先輩が行かないならわたしだけ行って雑用押し付けられると面倒なんでやめときますか」

「クラスに貢献しなさいな」

「まあ、今日は今日で収穫があったので、わたしとしては満足です。
 先輩への接し方とか、その他もろもろ」

 ……へえ。意外と考えて会話を運んでくれたのか。
 伊達に演技派気取ってねえぜ、ってことな。ちょっと見直した。


 まあ俺の言葉は普通に無視されたんですけどね。
 ちょっと考えてみると一度もジェットコースターの手伝いしてない俺が言えなかった……。

 そういう自戒を込めた視線は黙殺されて、ぱしぱしとスカートの上を手で払ってから、彼女は足元に置いていた動物柄のトートバックを肩に提げた。

「あ、そうだ」

「おう」

「今度デートしましょうね」

「……は?」

「あーもちろん先輩と二人なんてありえないので奈雨ちゃん含めて三人でですよ!」

 有無も言わせぬタイミングで彼女は俺にびしっと大きな動作で敬礼して、そのままてててっと校門へと駆けていった。

 彼女に向けてばいばーいもう来んなよと手を振っていると、念が通じたのか、10メートル先くらいで立ち止まりくるりとターンをしてこちらを向いた。

「約束ですよ! 破ったらキスのこと佑希先輩に告げ口しますからね!」

 俺に選択権はないんですね。
 やっぱり、こいつ嫌なやつだわ。

今回の投下は以上です。
感想ありがとうございます。


【意外に??】

 コンビニでお布施を買ってから部室に向かうことにした。

 小悪魔系後輩(笑)の歩いている方向に呪いの視線を数分に渡って向けたあと胡依先輩にラインを送ると、
 部室で作業中だったらしく、邪魔にならない程度にいろいろ教えてもらおうと考えた。

 だってなあ、ここ二日三日教本読んでても目が滑るし……。
 胡依先輩に直接訊いた方がすっと頭に入ってくるような気がする。

 そのぶんダメ出しもされるけど、黙って聞くべきだ。
 教えてくれるだけありがたい。
 使えるものは使うというスタンスでいよう。

 できるだけ気分を上げようと思って一段飛ばしで階段を昇っていると、後ろから「おーい」と声が聞こえた。

「あ、先生」

「おう白石、先生って呼ぶな」

「……すみません」

「この休日にどうしたんだ?」

 問われてから、自分が制服でないことを思い出した。


 指定ジャージはあってないようなもの(体育の時はみんな自分のジャージや部活のジャージを着る)だから、
 ジャージを着て学校に来たからといって怒られないだろうけど。

「ヒサシこそどうしたんですか?」

「俺はまあ……この学校ブラックだからな、若手に仕事押し付けられるんだよ」

「どうぞ労基へ行ってください」

「はは、行きたくても行かねえよ。
 ……ああそうか、イラスト部か?」

「そうです」

 そうでもないけど。

「ふーん、意外とちゃんとやってんのね。
 ま、白石はそうか。んで伊原は?」

「今日は来てないと思いますけど、いつもはちゃんと来てますよ」

「へえ」

 と頷きながら、彼は驚いたようなそうでないような顔をした。

 ソラにイラスト部を勧めたのはヒサシだから、少しくらいは気になっていたんだろう。
 あとは一応担任だし、そこらへんも考えてくれていたようだ。


「そいや、部誌作るんだってな」

「ですね」

「胡依が言ってたけど結構スケジュールパンパンだと」

「胡依……ですか?」

 ヒサシは生徒のことを名前で呼ぶ人だっけ? と感じたままに彼の言ったことを復唱する。

 俺のそんな様子を見て、彼は眉をひそめた。

「えっと、おまえらの部長な?」

「あ、はい」

「入ったばかりだしあんまり無理はすんなよ。最悪落としちゃっても仕方ないって胡依も言ってたからな。
 ……あー、でもあいつ負けず嫌いだし変なところでプライド高いから、尻叩いてでもやらされるかもしれない」

「そうですか?」

「ん、そんな感じじゃないか? あいつ」

「あんま何考えるか分からないです」

「そっか」

 彼は髪をガシガシと掻きながら苦笑した。


 ちっとも知らなかったけどヒサシと胡依先輩は仲が良いのか。
 部員一人でも半年以上あの部屋を与え続けてきたのだから、昨年の担任とかだったのだろう、と一人で納得することにした。

「でも、あいつが楽しくやってるみたいで良かったよ。
 部誌を作るって伝えに来た時のあいつ、かなり嬉しそうにしてたから」

「……」

「あいつにあんまり遅くまでいるなよって言っておいてくれ」

 それじゃあな、と俺の前に手のひらを出してから階段を降りていった。

 部室の前まで辿り着くと、中からはテレビの音声が漏れ聞こえていた。

 あの人はまたアニメでも観てるのか。


【Pounding the Rock】

「絵の上達はね、階段を昇るみたいに単純じゃないんだよ?」

 そう言って、胡依先輩はパソコンに向かう俺の肩を掴んだ。
 窓際のスピーカーからはRIZEの「なんでもない日の祝い方」が流れていて、暖房も相まってのほほんとした雰囲気があたりに漂っている。

「いきなりどうしたんですか?」

 ペンを握る手を止めて答えた。

「白石くんは結構上達が早いし、そういうことを考える時期かなあ……って思ったからさ」

「……はあ」

 と不承不承頷いて見せてから振り向くと、誰かに話したいことが溜まっていたとでも言うように、彼女はえへへと口角を上げた。

「簡単に描いてるようにも見せたいけど、ちゃんと描いてるんだよってのもわかる人にはわかってほしかったりするものなのですよ。
 人それぞれ自分だけのデッサンがあって、パースがあって、塗りがあって、構図があって、デザインがあって……」

「ね?」と微笑みを向けられる。

 数秒考えてから、なんとなく首肯する。
 胡依先輩の話はだいたい面白い。尖った意味で、俺には考えつかない視点から話をしてくれることが多い。


「今日はこれの練習をしよう! って決めて、それを分野ごとに積み重ねていくと、自分の成長が見えやすいと思うの」

「体験談ですか?」

「うん。私は……えっと、自信を持てるようになるまで少し時間かかったし、
 日ごと週ごとに中ボスを設定して、『よしじゃあ一匹ずつぶっ倒していくぞ』って感覚でやってたかな」

「RPGみたいですね」

「そうそう。ちょっとずつでもさ、自分が上手くなってるって思うと、明日もがんばろってやる気が湧いてくる」

 自分はまだそういう域に達していないとも感じるけれど、胡依先輩が言葉にすると、納得とは言わずとも共感はできるような、妙な説得力がある。

「結局何かを創るってことは自分との戦いなんだよ。
 いつも自信を持って描いてるけど、たまにものすごく自分の絵が下手に見えて、なんでこんなものしか描けないんだろうって思うの。
 でも、逆にそんな時にこそ『自分がレベルアップしてる最中なんだ』『もっと上手くなれる』って思うようにすると、今よりもっと楽しくいろんなことができる気がするんだ」

 俺の反応を確認してから、これは友達の受け売りなんだけどね、と彼女はぽつりと囁くように言った。


 雪村零華に言われたことに通じる話なのかもしれない、と思う。
 ちょうど文化祭で何かを創る機会を持っているから、いつもよりも創作に対して各人が向き合っている時間が多いのかもしれない。

「──私ね、どこで見たのかは忘れちゃったけど、好きな言葉があるんだ」

 先輩の取り出した一枚の紙には、少し長めの英文と和訳が記されていた。

 "When nothing seems to help, I go look at a stonecutter hammering away at his rock, perhaps a hundred times without as much as a crack showing in it. Yet at the hundred and first blow it will split in two, and I know it was not that blow that did it, but all that had gone before."
 (「 救いがないと感じた時、私は石切工が岩石を叩くのを見に行く。
 おそらく百回叩いても亀裂さえできないだろう。しかし、それでも百と一回目で真っ二つに割れることもある。
 私は知っている。
 その最後一打により岩石は割れたのではなく、それ以前に叩いたすべてによることを」)

 俺も見たことがある言葉だった。
 それで、何でもないような言葉とは到底思えない。


 この言葉はもともとはアメリカのジャーナリストのもので、どこかの強豪スポーツチームの監督がそれを引用したことで有名になったとか。

 勝負の世界における巧者の名言を見ることが好きだった。
 あれこれ馬鹿にされるかもしれないけれど、勝者のメンタリティは自分には決して思いつかないものだ。

 肝心なところで言い訳をしてしまった自分を責めるつもりだったのかもしれない。

「そんなに詰まってるように見えましたか?」

「見えた!」

「そんなことないと思いますけど……」

「そんなことある! だって全然進捗状況見せてくれないんだもん!」

 ヒサシの言ってたのってこういうことか。
 ありがたいにはありがたいけど。

「まだ線画の段階でしてですね」

「でも見たいし。そらそらくんなんてもう八枚出してくれたしぃー」

「マジすか」

「マジす」

 いやいやあいついつの間に。
 全然描けてねえっすわガハハ、とか言って笑ってたのに。


「あいつは何描いたんですか?」

「えーっと、カラーとモノクロ両方の車の絵かな。
 あとは女の子の絵を何枚か描くって言ってたよ」

「すごいっすねあいつ」

「何気にね」

「……じゃあ胡依先輩は?」

「うんと、私は、四コマ漫画と普通の漫画のプロットを書き終えて、カラー絵はペン入れまで終わったよ」

「……俺めっちゃ遅れてるじゃないっすか」

 この線がもっと柔らかく、うぐぐ……となって一時間、とか。
 夜な夜なペンタブを使って描いていると、選択範囲ミスったりとか髪の毛先を閉じ忘れていたりだとか、そういう初歩的なミスをしてしまったりしてやり辛い。
 それでなくても体調を崩したばかりだから夜更かしばかりもしていられない。

「私も表紙とかレイアウト考えたりしなきゃならなくて、全然間に合わなそうだから大丈夫ですよ」

 項垂れて見せると、彼女はぱちっと指を鳴らして言った。


「昨日なんて、好きな漫画描いてる先生のお絵かき配信見てたら夜も更けてて、
 そっから撮り溜めてたアニメを消化してから眠ったら昼に目が覚めるしで」

「つまり今日何もやってないじゃん!」と胡依先輩は頭を抱えて唸り始めた。

 今気付いたんですか。それに普通に昨日も泊まってたんですか。
 まずさっき作業中って言っていたのに作業をしているような姿は見受けられないし。

 なんだこのひと……でもこれが平常運転か。

「先輩アニメ好きすぎでしょ」

「今期は女スパイ物のやつが私の中ではキテるの。
 あ、部誌にイラスト描いて載せるつもりだから、何もしてないわけじゃ……なくなくない?」

「なくなくなくないです」

「白石くん返しが雑すぎ」

 だって結構どうでもいいし。


「……じゃあ、どうしてそういうアニメが好きになったんでしたっけ?」

 問うと、胡依先輩は「どうだったっけ」と小さい声を出して顎に手を置いた。

「……絵を描くときに流してると集中できて作業効率が上がるから?」

「カフェ勉が集中できる感じですか?」

「そうそー、あんまり情報量多いのだと見入っちゃうから、声と絵で心が潤うようなのを流してたいんだよね」

 たしかにちょっと分かるかもしれない。
 ある程度の雑音は心地よかったりするし、静かな部屋に一人で作業をしていると無音が苦痛に感じたりする。

 何より飽きる。
 息抜きは大切だ。

「話は戻るけど」

「はい」

「シノちゃんもまだ描けてないって言ってたし、締め切りまで時間はたっぷりあるよ」

「二週間しかないですよ」

「んー、なんとかなるって」


「それに──」

「うん?」

 ──東雲さんは描けないんじゃないですか?
 そう口に出しそうになって、慌てて口を噤んだ。

 金曜日のあの様子だと、かなり行き詰まっているに違いない。
 事情はよく知らないし、あまり踏み込みたいとは思わないから、わざわざ無理してまで描く必要もないのでは、とも思う。

 それに、先輩に「私に任せて」と言われた手前俺が口出しするのも良くないと黙っていることにしたが、

「あー、シノちゃんのこと心配してるのか」

 と物の見事に看破されてしまう。
 やっぱりこの人はエスパータイプなのか。

「まあ、描けないって言ってたんで」

「……ふうん。ま、なんとかして描けるようにしてあげたいよね」

「ですね」


「描きたい気持ちはあるけど、いざ描くとなると手が止まっちゃう。
 でも、描きたい。描きたいけど描けない。だって、描くことをやめてしまったら……」

 最後まで言いきることはなく、彼女は虚空へ向けてどこか寂しげに息を吐いた。

 その姿に少しの引っかかりを覚えて見つめたままでいると、やがてこちらに向き直ってにこりと笑う。
 それはいつもの澄まし顔に見えなくもないが、どこか歪に思えてしまう。
 瞳は俺を捉えているようで、まるで過去に想いを馳せるかのように、今現在の事象ではない何かを見ている。

 連れ戻す気持ちで、あまり考えもまとまらないまま口を開く。

「……先輩は、もし描けなくなったらどうしますか?」

「……」

「胡依先輩?」

「……うん、私なら……」

「……」


 もう一度「私なら」と呟いて、彼女は考え込む顔をした。普段俺に何かを語るときよりも真剣そうに見える。

 だが、あまり考えても意味がないと言いたげに彼女は頭を横に振って、

「──死んじゃうかもね」

 と言い放つ。

 俺はその、いくらか嘲りを含んだ言い方に声を失う。
 あのため息混じりに沈んだ様子を見せてきた東雲さんと、胡依先輩が、今のこの時だけ寸分狂いもなく重なって見えてしまった。

 何か言わなくては、と声を上げようとしたとき、彼女の優しい声音がそれを遮った。

「まあ」

「……」

「……もちろん、冗談だけどね?」

 ぺろりと舌を出しながら微笑む。
 それが嘘であると思ってしまって、俺は全く笑えなかった。

今回の投下は以上です。

訂正
>>476
年は開けていて→年は明けていて
>>490
「──私ね、どこで見たのかは忘れちゃったけど、好きな言葉があるんだ」

「──私ね、どこで見たのかは忘れちゃったけど、好きな言葉があるの」


【SS-Ⅶ/Gentian】

 もうすぐ、出会ってから三度目の冬が訪れようとしていました。
 何かが変わったようで、何も変わらないいつもの一年が終わろうとしていました。

 私は高校三年生で、彼女も高校三年生でした。
 学校は相変わらず退屈で、何度か休んでは彼女と朝から会っていました。

 肌寒い季節になるにつれて、彼女は私に会うたびに「寂しい」と口にするようになりました。
「私はここにいるから」とそのたびに返します。

 その返答が彼女の求めるものであったのかはわかりません。ただ、私がそう言ったあとの彼女はいつも笑顔でした。

 それで私はというと、言いながらその寂しさを埋める相手が私だとすれば、それは嬉しいことではないと思っていました。

 いえ、その場にいる時はたまらなく嬉しいのです。
 彼女に必要とされているように思えて、ぎゅっと抱き寄せられて、どきどき胸が高鳴って。そういう気持ちはいつでも持っていました。

 けれど、一人になると、やっぱり私は考えてしまいます。

 結局私は一人ぼっちになると。
 どうせ彼女だって私の前からいなくなると。
 今が幸せでも、きっと帳尻合わせのように不幸がやってくると。


 彼女はラブソングばかり聴くようになりました。邦楽でも洋楽でも、チープな歌詞だと思うものも、片っ端から聴いているように思えました。
 私にもそれを聴かせながら、彼女は歌詞を口ずさみます。

 でも、それは私の上を滑っていくだけでした。
 私にはなにも響きませんでした。

 秋も終わりかけで初雪が降った日に、彼女はいつものように「寂しい」と口にしました。

「私は──」といつもの台詞を言いかけたとき、彼女は私を抱き寄せました。
 手を取られて無理やり繋がれて、唇を奪われました。気が動転して、視界がぐるぐると回りました。

「やめて」と口にすると、彼女は縋るような目を向けてきました。

 溜め息が出るのを抑えきれませんでした。
 そうなってしまってはいけないと、私はずっと思っていました。

 気が付いたときには、彼女の身体を引き剥がして、知っている限りの酷い言葉を吐き出してしまっていました。

 私は都合のいいお人形ではないと、そう主張したかったのかもしれません。
 そのときの私は自分がわかりませんでした。


 彼女は涙を流しました。
 つらいだけだから会うのはもうやめにしよう、と言いました。

 ごめんね、と彼女は続けました。
 私もごめんなさい、と返しました。

 彼女がその場を立ち去ってから、雫が頬を伝うのを感じました。
 勢いよく当てられた口付けのせいで、私の口のなかには血の味が広がっていました。

 それを拭う余裕すらありませんでした。

 雪が降っていました。夜空に月は見えませんでした。
 いつのまにか氷のように冷えてしまっている手の震えを止めることができませんでした。

 これでいいのでしょう。
 私自身長い間煩わしく感じていた問題から解放されて、彼女だってきっと私を忘れて新しい地で新しい友達と新しい生活を送れるでしょう。
 ほんとうにこれが最後だとしても、きっとこれでよかったのです。

 おかしかったのは私です。
 遅かれ早かれ愛想はつかされていました。

 頭には言い訳ばかり浮かびます。
 ……罪悪感です。好意じゃないです。嘘でどうしても心が痛むから、もっともらしい理由を作ろうとしているだけです。

 でも──、

 何度も何度も息を当てても、寒さは消えませんでした。
 涙が止まりませんでした。後悔なんてしたくなかったのに。

 何度も出かけた声を引き止めていました。
 最後まで見て見ぬふりしかできませんでした。

 でも、彼女はこんな私を好きでいてくれました。

 どうしてだろう、と思いました。


【殴打】

 帰宅してすぐにシャワーを浴びてベッドに寝転ぶ。
 めっちゃ疲れた。明日学校だってのに、ちくしょう。

 目がチカチカするし右手は細いペンを握っていたから痛いし。

 終電時刻って何時だ。二十三時か。
 てことは胡依先輩もほぼ寝れないんじゃないかな。

 ……いや、先輩の心配はひとまず置いておこう。

 ただ進むには進んだのだ。
 いや進んだけど、うん。

 ネームを描く先輩の横でひたすら下絵を描いていた。
「俺には厳しさが必要なんです!」とぽろっとこぼすとすぐに鋭い視線を飛ばされて「じゃあ今日からスパルタだ!」と。

 ああいう話をされたからってわけじゃないけど、期限も迫っているし真面目にやらなくてはなと思ってしまって。
 手を動かして自分の考えたことを描けるだけでも幸せなのではないか、と思ってしまって。


 やっぱり一日少しずつにでも模写を重ねていたから、描くことにも慣れてきていた。

 思いつくままに描いて、見開き二ページ半分の絵を書き終えた。

 下絵のペン入れをするだけのつもりだったが、胡依先輩の目に怯えながらしていると二倍くらい時間がかかってしまった。

 借りた漫画の好きなキャラを、ページに収まるほどにアングルと構図を変えて描いただけだが、先輩はそれでも気に入ってくれたようだった。

 あとは、
 ざっくり配色決め→トーン/グラデーション→仕上げ……(背景描く場合は背景も)
 最後に手直しと続いていく。

 よっぽど行き詰まってしまったらこれまでに描いた絵をスキャンしてごまかすことにするが、描けるうちは部誌の制作期間中に描いたものを提出しようと思う。

 きっとそれが俺のできる最大限のことだろう。


 一階に降りると佑希がテーブルに勉強道具を広げていた。

 思えば、あの日以降これといって話をしていなかった。
 話はするけど、中身のある会話はほとんどなくて、かといって無視されているわけではなくて。

 俺としてもあの朝の日の会話は気にはなったが、続きを訊くことはいくらかの戸惑いを感ぜざるを得ないものだった。
 また刺激するのも嫌だったし、佑希も積極的には話したくないことだろうから。

 明日の授業の予習をしなければいけないから今日も徹夜だ(べつにやらなくてもいいんだけれど)。
 自分のなかでより重要な原稿はまた放課後になってからやらなければいけない。

 となると三日分くらい一気に終わらせておくか?
 この思考をもっと早くからしていれば金曜日の夜のうちだったり、今日の午前とかにやっていたはずだ。

 まあ、考えたところで絶対やってないけど。
 あとから思いつくんだよなー、ほんとなー。

 無駄なことを考えているうちにお湯が沸いた。
 二人分のココアを作って、向かいに腰掛ける。

 カップを差し出すと、ちらりとこちらを一瞥して何も言わずに口をつける。
 びくりと身体が震えるのを見て、彼女が猫舌だったことに気付いた。


 せっかく二人でいるのだし、何か話しかけるべきなのかもしれない。

 彼女もそれを待っているのだろうと思う。
 昔から佑希のことは大抵分からないのに、そういうことだけは感じ取ることができていた。

「課題やってるの?」

 五分ほど迷った末に、結局そう問うことにした。
 数学の参考書を開いているから、訊かずともわかることではあったけど、取っかかりとしてはそれしかないように思えた。

「うん」

「ごめん邪魔して」

「うん……べつにいいけど」

 佑希は眠たげな顔をしていた。
 いつもより目がとろんと垂れていて、ちょっとばかし甘えたように見える。

 冬眠から目覚めたばかりの熊のような。イメージであって見たことないけど。

 ふう、と息を吐いた。
 同じタイミングで、彼女もため息をついた。


「……あの、さ」

「ん」

「おにいさ」

「……どしたの?」

 なんとなく"くる"と思った。少しだけ胸がざわつくのを感じる。
 どうしてなのかは全く説明がつかないけど、それでもやはり分かってしまう。

 もう一度彼女はため息をついた。
 俺はその姿をじっと見ていた。

「……やっぱり、この前のこと怒ってる?」

 ……ああ、なるほど。
 そう捉えてられていたのか。

「何も怒ってない」

 すぐにそう答えた。

 けれど、佑希は納得しきれない様子で──きっと、ハナから「納得」なんてする気もないのだろうけど──不機嫌そうな表情をした。


「あんなことで怒る理由にはならない」

 本当に怒っているつもりなんてなかったから、そう付け加えた。

 俺自身のことに干渉されるのは嫌だけど、べつに佑希の発言自体にムカついてるとか、そういうんじゃない。
 個人として掘り下げることを避けたい話題であった。ただそれだけのことだ。

 普通にしてれば他よりちょっと接する機会の多い兄妹だ。
 だから穏便に済ませたいと思うのは理に適っている。

「……でも、あたしおにいに酷いこと言っちゃった。
 ほんとはそんなこと思ってないのに、ぐるぐる変なことを考えちゃって、あんなふうに……」

「……」

「べつに、あの子のことだって……嫌ってわけじゃないし」

 いやいや待てよ。

 さすがにそれは嘘を言っているとしか思えない。
 あれが嘘じゃないなんてよっぽどじゃない限りありえない。


 あんな状況で、声音で、口調で、何よりもあんな目で嘘をつけるわけがない。
 あの目をされては、俺は何も言えなくなってしまう。

 わかっててそうしたなら、それが嘘ではないということだ。

 それに、佑希のあの様子は、溜まっていたものを解放しているようにも見えた。
 行動ではそれとなく感じていたが、嫌悪感を口に出したのは初めてだった。

 佑希も奈雨も「向こうが一方的にこちらを嫌っている」というスタンスをとっていたはずだ。
 内側から滲み出してくるものは双方から感じてはいたが、あえて指摘することはしなかった。

 ──それなら、あたしはいらない?

 最後に出た言葉は、いらない飾りを全て排した本心からの言葉だったのだと思う。

 俺にとって自分の存在が不必要なのかどうかを問うてきたのだろう。

 つまり、佑希の考えでは、彼女ではなく他の"代わり"がいるということ。
 会話の流れからして、その"代わり"は奈雨ということだ。

 ……止めよ。どう考えても馬鹿らしすぎて目眩がする。


 "代わり"を求める行為は馬鹿らしいものだ。
 手に入れられなくなったりどこか遠くへ行ってしまったならまだしも、彼女は生きて目の前にいるのだから。

 欲しているわけでもない。
 彼女を何かの模造品になんてしてしまいたくない。

「代わりなんていないよ」

「……うん」

「佑希は一人しかいないし、奈雨だって一人しかいない。
 だから、二人を一緒には思えないし、思おうともしてない。思う理由もない」

 言っても、彼女はまだ不満そうでいた。

 もうどうしようもない。

 俺は自分の意見を口にした。
 信じるかそうでないかは彼女の判断次第だし、それに干渉しようとは思わない。

 彼女はふいっと僅かに俯いて、それからまた正面を向く。そして俺と視線が交錯すると、また目を伏せた。


「佑希?」

「……ね」

「ん」

「……あたし、がんばれてるかな?」

 急に話が転換した。
 でも、それもいつもの予定調和だ。

 こういう夜に二人でいると、佑希は口癖のように俺に問いかけるものだった。
 この言葉を聞くと、俺は後ろめたくて自分が嫌になる。

 そういう気持ちは察されないように隠しているけど、当然のように彼女も察してはくれない。
 頑丈な縄で縛られて身動きできないところを一方的に殴られている。

 彼女が俺を必要とするのは、何をしても抵抗しないから、なのかもしれない。


「がんばってるだろ」

 いつもの答えだ。
 そう答えたことしかない。

「そうかな」

「俺なんかより、全然がんばってる」

「……うん、そっか」

 俺はいつもどう答えるべきなのかが分からなかった。

 佑希はがんばっている。俺とは比べ物にならないほどに。
 そういう姿をずっと見てきた。見せられてきた。

 彼女はほぼ全てのことが人より出来る子だ。

 それでいてその高い評価に驕らず努力を怠らない。現にこうやって遅くまで部活があった後に夜遅くまで課題をこなしている。

 鬼に金棒ってこういうことを言うのだろうな。


 どうしてそこまでするのかは理解できない。
 常人ならすぐに疲れてしまう。投げ出してしまう。ひょっとしたら壊れてしまうかもしれない。

 でも、佑希は続けることを止めようとしない。

 学年上位の成績を取った。
 だからなに、という態度。

 部活でいいところまで進んだ。
 もっと上がいるし、という態度。

 その詳細を言葉にして俺に語ることはなかった。
 ただ「がんばってるかな?」と訊いてくるのみだった。

 昔はそこまで酷くはなかったはずなのに、いつしかそれを責められているようにしか思えなくなっている自分に気が付いた。
 けれど、一旦決めた態度を変えようとは思わなかった。

 それが彼女が俺に求めることなのだから。
 結局俺も求められることを嫌だとは思っていないのかもしれない。


 彼女は俺よりも上だ。
 書類上は妹でも、何から何まで上回っている。

 価値があるのは彼女の方だ。
 強者の前に於いて弱者はあまりにも無力だ。

 行動と心理がイコールにならないのは、そこまで珍しいことではない。

「でも、あんまり無理すんなよ。最近寒くなってきたし、俺も体調崩したから」

「ありがとう」

 おにいもがんばろうね、という言葉は、思っていた通り言われることはなかった。

 まあそうだよな、という気持ちをごまかすために腕を伸ばして彼女の髪に触れると、和んだような表情で小さく笑みを向けられた。
 どうしてだろう? と胸がちくりと痛んだが、それを振り払うように続ける。

 しばらくすると勉強を再開しなきゃと言われたので、俺は部屋に戻ることにした。

 またベッドにぽすんと落ちる。
 ぼんやり天井を見上げると、蛍光灯の明かりが目に痛く感じた。

 何かをする気は既に失せてしまっていた。

今回の投下は以上です。


【合宿だ!】

「そうだ! 合宿だ!」

 放課後の部室に胡依先輩の声が部室内に鳴り響いて、俺はパソコンから目を離した。
 描きかけの女の子は今日もかわいい。我ながら良い出来かもしれない。

「合宿?」と彼女の横に座る東雲さんが首をかしげると「うん、合宿!」とほわほわの笑顔で頷く。

「このままだと終わりそうにないです。
 落とすとこの部が廃部になるかもしれません。
 それに白石くんには厳しくしてほしいと言われました」

 目だけで同意を求められて、頷きを返した。

「でも、いつするんすか」

「今は火曜日でしょ。んでんで、来週の水曜日は?」

 何かあったっけ。

「祝日ですね」

 俺が答えずにいると東雲さんが答えた。

「そう、祝日! 白石くん常識だよー?」

 二人は嬉しいとあんな顔するんだ。
 あそこらへんには百合時空が発生している。パステルカラーの景色が見えた。


「その次の日、木曜日は?」

「開校記念日」

 光の速さでソラが答える。
 ソラのことだ、きっとゲーセンに行く予定でも立てていたんだろう。

「そう、そらそらくん当たり! 白石くん減点!」

「なんすかその制度」

 ふふっと東雲さんが笑みをこぼすのが見えた。

 彼女からいじりたい願望を口にされたけど、今まで一度もいじってはこなかった。
 むしろ胡依先輩との会話を聞いて笑っていることが多い。

「じゃあ、白石くん。金曜日はどうかな?」

「普通に学校ですよね」

「ぶぶー、文化祭期間に入ってるので三時間授業です」

 ええ……それ合ってるんじゃないすかね。


「だから!」と胡依先輩は制服のリボンの前で握りこぶしをつくりながら叫ぶ。

「日曜日の締め切りまでみんなで制作合宿をしましょう、というわけですよ」

「ここに泊まるんですか?」とソラが問いかける。

「とりあえずはそのつもり。
 私の家でもいいけど、ここからはちょっと遠いから、朝とかきついかもしれないし」

「なるほど、未来の家は?」

「俺の家?」

「ここから近い、でかい、お泊まりセット完備」

 夏休みの課題地獄を思い出して頭が痛い。
 何やら俺に言ったソラもアレを思い出したようで、一瞬表情を歪めた。

「てかまず何で合宿することになってんすか」

「そりゃ部活といえば合宿じゃん。昨年も先輩たちとここで修羅場を乗り越えて絆を深めたんだよねー」

 しみじみと感慨に耽るように呟く胡依先輩は楽しげに見える。


「白石くん、どう?」

「えっと……」

 学校からの距離を踏まえるとうちでもいいけど、ソラはともかく他二人は女の子だ。

「うちは無理そうです」

「えー、理由は?」

「妹が機嫌悪くなるんで」

 男友達二人であれだ。
 よく知らない人が家にいるのは佑希を刺激しかねない。

 あとで文句言われるのも嫌だし、文化祭前は陸上部の人が毎年何人か家に来ていた気がしなくもないけど。

「……あー」

「……あー、うん。なるほど」

 ソラと胡依先輩に同じような反応をされる。

 いやシスコンとかではなくてですね、あの子めんどくさいんでトラブルは避けたいんですよ。

 などと、心の中で言い訳を考えていたが、結局それを使わずに終わった。


 というのも、東雲さんが「佑希ちゃんって怖い子なの?」と口を挟んだから。

「怖くないな。かわいくてやさしい、未来とは大違い」

「なんでおまえが答えんだよ」

「ふっ……これでも小学校の時一緒だったしな」

 得意げに言うが、同じクラスになったこと一度もなかったと思うのだが……。
 俺とソラは六年間(中学高校も含めると十年間)奇跡的な確率で同じなわけで、兄妹だとクラスは離されるわけで。

 頻繁に家に遊びに来てたから、どんな感じなのかはよく知ってるだろうけど。

 東雲さんが指先を唇に当て、何かを思いついたように俺を見た。

「でも、未来くんもかわいいしやさしいと思うよ?」

「それ全く嬉しくない」

「あ……そう?」

「うん」


 やさしいは置いといても、かわいいって言われて嬉しい男がいるか!
 かわいい(ナヨナヨしてる)(弱そう)(対象外)(なんでも言うこと聞いてくれそう)ってニュアンスを含んでいるように思ってしまうのは俺が色眼鏡で見ているからなのか。

「普通に東雲さんの方がかわいいと思うよ」

「……え、うん……ありがとう」

 頬を染められた。なぜだ。
 だって普通にかわいいんだもんな、致し方ない。

「ちょっと!」と声がして目をすぐ横に移動させると、先輩が慌てた様子で俺を睨みつけていた。

 おいおい何か悪いことでもしてしまったのかなー、と首をかしげる。東雲さんも俺と同じような顔をしていたと思う。

「私のシノちゃんとイチャイチャしないで!」

 ……。


「してないですけど」

「私は部長さんのものじゃないです」

 先程から一転、東雲さんは冷めた目で先輩を横目で見る。
 THE・ゴミを見るような視線。あんな目は人に向けたらいかんですよ。
 ほう、と隣に座るソラが感嘆の声を漏らした。

「……うう、私もシノちゃんとイチャイチャしたいのに」

「じゃあしますか?」

「え、え……ぐ、具体的に日時は? 場所は? 内容は?」

「……いや、冗談ですけど」

「ううー、シノちゃん反抗期だ……」

 なんかよっぽどイチャイチャしてるように見えるんですけど。
 てか胡依先輩焦りすぎでしょ、東雲さんはいつのまにか笑いを堪えるような顔をしているし。

 めそめそ泣くふりをしつつ、先輩は立ち上がる。
 そして、ホワイトボードの何も書かれていない側を表にして、マーカーでカンカンと音を鳴らした。

「とにかく! 日取りは決めたから、あとは各自の進捗状況を確認して、細かいスケジュールを考えていきましょう」

 そう言って先輩はホワイトボードに縦線を三本引いて、一番上に各々の名前を書いた。

 やっと真面目なターンに入ったのか、と俺たちもいくらか気持ちを引き締めようとすると同時に、部室の扉がノックされた。


【訪問者】

 四人で顔を見合わせてから、どうぞ、と胡依先輩が扉の向こうへ声を掛けると、数秒おいてガラッと勢いよく扉が開いた。

 小柄な一人の女子生徒が顔を出す。
 ここを訪れる人はそういないからヒサシかもと思ったがそうではなかった。

 東雲さんが「あれ、この前の……」と小さく呟くのを耳にした。

 女子生徒(多分先輩)はつかつかと足音を立てて、胡依先輩へと歩み寄る。
 
 そして、

「聞いてない!」

 と怒りを露わにした。

「うん、しゅかちゃんどうしたの?」

 対して、先輩の反応は落ち着いたものだった。
 それを見て"しゅかちゃん"と呼ばれた彼女は、顔を真っ赤にして激昂する。



「部誌出すなんて聞いてないし!」

「いや、だってまず部員じゃないじゃん」

「それはそうだけど!」

「……あ、もしかして寄稿してくれるとか?」

「しないよ!」

 がるるーと吠えるように彼女は言う。
 胡依先輩は頭痛を抑えるようにこめかみに手をやった。

「あのさ、とりあえず落ち着かない?」

 お茶よろしく、と視線を向けられて、頷きを返してから電気ポットを準備するために腰を上げた。

「まあ、まず座りなよ。シノちゃんちょっと詰めて」

「えっと、私が退けます」

 東雲さんが俺の席側のパイプ椅子に座って、当の二人は並んでソファに腰掛けた。

「どうぞ」

「……」


 俺の言葉が聞こえていないのか、彼女は落ち着かなそうにかわいらしい留め具で束ねられた髪をくるくると指で巻く。
 胡依先輩はそれを見て無表情で湯呑みを手にしていた。

「で、部誌を出すからどうしたんですか?」

 誰も何も口にしないから、仕切り直すためにそう問いをぶつける。

 キッとした視線でしばし見られたが、その視線を逸らして、先輩に向き直った。

「絵を描きたいなら、うちでもいいじゃん。
 先輩たちだってもう引退していないし。今は私が部長だから、ああいうことをする人もいないし」

 はて? と三人並んで首をひねる。
 ただ一人胡依先輩は苦々しい表情を浮かべて、目を細めた。

「美術部に戻れってことなら、それはお断りだよ」

「どうして」

「もう終わったことだから」

「……」


「……べつに、いいじゃない。もう終わったことでしょ」

「違う?」と子供をあやすようにゆっくりと問いかける。

 彼女は言葉に詰まって目を逸らす。
 所在なさげにきょろきょろと辺りを見渡して、最後に視線を下向けた。

「……でも」

「しゅかちゃんのことは好きだよ。……けどもう終わったことだし、それとこれとは違う話だよ」

 二人の会話を聞き取りつつ、俺はそれに少しの違和感を感じた。
 なんというか、先輩の応答が俺たちと関わる時とはまるで違っている。

「それに、今年の担当はしゅかちゃんなんでしょ?
 こんなところで油売ってていいの? 文化祭までもう時間ないのに、あんまり進んでなさそうに見えたけど」

「気にはなってるんだ」

「ううん、たまたま見ただけ」

 言って、先輩はちらりとこちらを一瞥してふわりと微笑する。
 そして、彼女の手を握って立ち上がらせた。


 彼女は驚きを隠せずに鋭い視線で睨めつけるが、胡依先輩は動じない。
 俺たちに聞こえないくらいの声量で何かを耳元で囁くと、彼女は呆けたように口をぽかんと開けた。

 そのまましーっと人差し指を立てると、彼女はついに何も言わなくなった。

「邪魔になるといけないし外に行こっか」

「……」

「ね?」

「……うん」

 こくこく頷き混じりに上目遣いで先輩を見やる。
 顔をぽっと朱に染めながら。いや、なんで赤くなってるんでしょうかねえ……。

 前に言っていた"小さい子"ってもしかして。

 ぽんと頭を撫でるとまた赤くなる。さっきまでの威勢はどこかに飛ばされていったようだ。

「今日は早いけど解散でいいから、残っても帰ってもいいよ」

 そう言い残し、ばいばいと手を振りつつぐっと反対の手を引いて二人で扉の向こうへ行ってしまった。


 残された俺たち三人は事態が全く理解できずに途方に暮れる。

「今のなんだったの?」

「……さあ?」

「先輩の元カノじゃね」

「なら痴情の縺れ?」

「ワクワクしてくるな」

「……いや、ないだろ」

 自分で言っといて馬鹿らしくなった。

 辞めた部活の現部長。
 先輩の先輩。戻るつもりはない。

 そこまで考えて、やめることにした。

「……ソラはもう帰る?」

 今日やろうとしていたことは家でもできる。
 質問をしようと思っていたけど、戻ってこないならここにいるだけ手間かもしれない。

「あー、未来が帰るなら」

「東雲さんは?」

「私は、うん。そろそろ帰ろうかな」

「そっか」

 湯呑みは洗ってもらうことにして。
 戸締りは……まあ大丈夫だろう。

「じゃあ、帰ろうかな」


【寄り道】

 校門を出て東雲さんと別れると、ソラに「どっか寄ってから帰ろうぜ」と声を掛けられた。

 まずはコンビニな、と彼はすいすい進んでいくので、とりあえず歩みに従う。
 俺も夕食まで暇といえば暇だった。

 学校裏のコンビニ。学生の憩いの場。行事の際は裸足で入ったりしても怒られないらしい(運動祭は始めから終わりまで全員裸足だ)。
 店内にはクラスメイトがいて、軽く会釈をする。店員はソラの知り合いらしく、ようと手を挙げると手を振り返されていた。

「最近フーセンガム売ってねえんだよな」

「ふうん」

「あれ、なんだっけな。バブリなんちゃら、あれ好きだったんだけど生産終了しちゃったらしくてな」

「ま、これでもいいか」と彼はよくCMでやっているガムを手に取る。

「未来は買わんの?」

「なんか買って」

「いいけど、五百円までな」

「いやいいのかよ」


 小学校の遠足の上限金額。
 弁当以外持って行かなかった記憶。ソラの持ってきた一五〇〇円分のお菓子を二人で山分けしていたら先生にめっちゃ怒られたな。

「夕食入らなくなるからいいや」

「へえ、じゃあちょっと待ってて」
 
 店の外に出て彼を待つ。
 日が落ちてきてちょっと寒い。

 すぐに出てきた彼はガムを口に含んでからうちと反対の方向に歩き出す。

「どこいくの」

「ゲーセン行かね」

「目的は?」

「太達やりたい。あとノスタルジアとjubeatとmaimaiも」

「見てるだけでいいなら」

「うん、俺がやりたいだけだからそれでいいぜ」

 それ一人で行けばいいんじゃないの、とも思ったが付いていくことにした。



 駅からすぐ近くのアーケード街までの道のりで、だんだんと人の数が増えていった。
 学校帰りの制服の学生、会社終わりのスーツ姿のリーマン。この時間は特にここら辺は混み合っている。
 それを掻き分けながら歩くことしばし、県下一の大きさのパチンコ付設のゲームセンターにたどり着く。

 パチンコ特有の煙草の匂いと大音量で垂れ流された音楽に眩暈を感じつつ、

「いつも思うけど、ゲーセンってうるさいよな」

 と俺が言うと、

「俺は慣れたぞ。流行りの曲とか流れてると、あーこの曲かってなるし、好きな曲とか流れるとノれるし」

 と楽しそうに言われてしまった。
 そういえば、彼と一緒にゲーセンに来ること自体久しぶりのことだ。

 数プレイ太鼓を叩いて、すぐに音ゲーに移動する。
 集中した顔つきですると思いきや、愉しげに笑いながらやっている。

 ガムを買ったのは集中するためらしい。ドラム型洗濯機のような筐体の前で彼は見知らぬ女の人に声を掛けて、プレイを始めた。

 協力プレイ? の相手の女の人は手袋をはめて踏み台に乗りながら無表情で機械的にぬるぬると手を動かす。

「ぐあーまじかよ」

 とソラがミスったのか声を出すと、相手は驚いたようにちらと横を見る。
 すいませんと頭だけで謝る彼の姿を見て、なんだかおかしくなって笑ってしまった。


 数十分に渡って複数の音ゲーをプレイしているのを見た後、メダルゲームコーナーに移ることにした。

 俺もこれくらいならやるか、と千円を五百枚に換える。
 それから比較的静かめな恐竜のゲームを彼と隣り合わせでしていると、キリのいいところで話しかけられた。

「部誌の原稿、進んでるか?」

「いいや、まだ全然」

 答えると、ソラはふっと笑った。

「俺も同じだ」

「でも、何枚か提出したって胡依先輩が言ってたけど」

「つっても車の絵だからな。俺の求める美少女は未だに描けてないんだよ」

「そっか」

「未来はまるっこい絵が上手く描けるし、胡依先輩も褒めてたよ」

「ふうん?」

 彼の言葉が少し意外に思えた。
 褒められているニュアンスなんだろうけど、俺に対してそういった言葉を口にすること自体少ないことであった。


「初めはどうなんだろって思ってたけど、先輩の言う通りに続けて描いてると楽しいよな。
 車を描いてる時はほぼ感覚で描いてるけど、人間を描くなら身体のつくりとかを理解してないとめっちゃ歪になっちゃうし」

「楽しいんだ」

「……ん、未来は楽しくないの?」

「いや、俺も楽しいけど。ソラは部活自体が楽そうだし先輩が美人だから入ったと思ってたから」

 正直に言うと、彼は拍子抜けしたような顔つきになって肩をすくめた。
 と思ったらげらげらと腹を抱えて笑いだした。

「俺ってそんなふうに見える?」

「見える。てか言ってたし」

「ありゃ先輩と東雲さんが悪い。癒しの世界にいるような感覚になる」

「わかる」

 ん~わかる! すごくわかる! 今日は新キャラが登場して東雲さんがちょっと寂しそうな顔をしてた!(見てないからバイアスのかかった予想です)。

 そういう漫画ばかり借りて読んでいたから、そういう思考に耽りがちだ。
 つまり胡依先輩はこれを見越して俺に百合の素晴らしさを仕込んでいた……?


 などと馬鹿なことばかり考えていると、自分のメダルが底を尽きそうになっていた。

「これ、俺は苦手みたいだな」

「へー……未来に苦手なものってあるのか?」

 きょとんとした顔で問われた。
 答えが明確すぎて一瞬わけがわからなかったが、とりあえず「あるよ」と返しておく。

「佑希ちゃんとおまえは本当なんでもできるからな」

「そう?」

「うん。なんだ、育った場所とかは俺と変わらないし……DNAか?」

「違うだろ」

「なんだっけな……小学校の時、数学、いや算数で解けた人からどんどん次のプリントに行くみたいなのあったじゃん」

「……そんなのあったっけ?」

「伝説の百枚プリントってやつ。誰も終わった人いないとかなんとか」

「……覚えてねえな」

 本当に覚えてなかった。
 というか、小学生の頃の記憶がごっそり抜け落ちてしまっている気がする。


「俺もそれなりにできたけど、未来はひょいひょい次のやつに行くからすげーって思ってたんだよ。
 んで、担任の尾形が未来くんの妹さんも同じくらいすごいんですよーって言ってた。
 たしか、ほぼ同じタイミングで百枚終わったんじゃなかったっけかな」

「へえ」

 本当に同じくらいだろうか?
 ……違う、と俺は自答する。

 その頃は多分、きっと俺は。
 今よりは、マシに過ごしていた。

 どうでもよかったから。
 どうでもよくなくなるまでに、俺は成熟していなかったから。

「それで、結局何が言いたいの?」

「うん、なんだっけ」

「なんもないのかよ」

「……ごめんごめん、忘れちまった」

 言うとすぐに、彼のメダルも無くなった。

 それからソラは他の話を始めたから、何が言いたかったのかは結局分からずじまいだった。

 クレーンゲームでフィギュアを取ろうと有り金を溶かすのを見守ってからこの場所を後にすることにした。
 パンツが見たかったらしい。ちなみに性癖だとも言っていた。


 建物から出ると、耳がきーんと鳴った。
 外の空気は寒さが増している。
 この時間に出歩くことも少ないから、余計にそう感じるのかもしれない。

 行きとは違うルートを通った。
 俺たちの母校である小学校の近くを通るルートだ。

「ラーメンでも食べてくか?」

「この辺美味い店ないじゃん」

「そういえばそうだな」

 好きでソラと善くんとよく通った店は駅近に移転してしまった。
 食べログの評価が2.6くらいのまずい中華料理屋しかないから、外食しようにも戸惑う。

 家の方向へ歩いていると、「あ」とソラが声を上げた。

「わかったぞ、共通点が!」

「……なんの?」

「ちょっと考えさせて」

「……はあ」

 返答を待たずして、彼はうむむと頭を抱えて唸りだした。

 俺はその様子を、近くに置いてあったアーチ型の車止めに座りながら眺めていた。


【感覚】

「やっぱり、感覚なんだと思う」

 ソラがそう口にするまでに、結構な時間が過ぎていた。

 犬の散歩をするおばさまに変な目で見られたり、婦警さんに早く帰りなさいよ、と言われたりした。
 待っている間に自販機で買っておいた飲み物を渡すと、彼はくしゃっと笑う。

「俺が絵を描くのが楽しいって思う理由、やっぱり感覚なんだよ」

「……感覚?」

「うん、感覚だ」

 一拍おいてから、彼は話し始めた。

「たとえばさ、さっきやってた音ゲーも、暗譜してるところとかばっかなんだよ。
 たまにはアドリブで何とかせざるを得ない部分もなくはないけど、フラットな状態でやるなら、やっぱり自分の感覚が頼りになるんだよ」

「……」


「善くんにサッカーのこと訊いたらさ、あのボールが足に吸い付く感覚? は、そう簡単に身につけられるものじゃないって。
 あとバスケ部のハンドリングとか、野球部の送球とか、部員のやつらに訊いたらみんな同じこと言うの」

「それで?」

「絵も同じだよなって。俺そういうの好きなんだよね」

 感覚。
 経験と言い換えられるかもしれない。
 あるいは経験に基づく判断基準や咄嗟の時に勝手に身体が動くことの理由と言ってもいいだろう。

「数学の公式を習ったばかりのころはそれに当てはめることばっか考えるけど、
 ちょっと経つと公式の名前なんて忘れてても使えるようになってる、みたいなことか?」

「そうそう、そんな感じ」

 いい例えだったのか、彼は感心したように頷く。
 適当だったけど、意思の疎通ができたのなら結果オーライだ。


「あの、身体に染み付いてて、それが出るってのが好きでさ」

「なるほどね」

「『紅』は目を瞑っててもフルコンできるし、車を描くときもやっぱり何も見なくても描けちゃう」

「……ふうん」

 さっきもそんな話をしてた気がする。

「マリオの一面は目隠ししてもクリアできるし、ときメモは電話を使わずともクリアできる」

「どっかで聞いた話だな」

「なぞのばしょには行きまくったから何歩でどこに出るかも覚えてる」

「……なぞのばしょ?」

「ポケモンのダイパだ。中古で買った」

 俺はドラクエかFF派だった。
 まず世代が違うと思うし、よく知らんけど。


「感覚で出来るようになるまでは大変だけど、それを出来るようになるとめっちゃ気持ちいいんだよ、これがまた」

「まあ、ちょっとわかるかも」

「だろ? だから、絵はそういうところあるし、やり込みがいがある。
 この手が、この目が、いろんなものに触れて学ぶと、もっと自分の感覚が広げられるかもしれない」

「だから楽しいんだ」と彼は言う。
「たしかに」と少し経ってから俺は頷いた。

「"チャンスは最大限に生かす、それが私の主義だ"って、有名な偉人も言ってた」

「それシャアの言葉だろ」

「ばれたか」

 彼は周りなんか気にせずに笑った。
 俺もつられて笑った。そういう理由でもいいのかもしれない。


 遠くから赤ん坊の鳴く声が聞こえる。
 安眠を妨害してしまったのかな、普通に近所迷惑だ。

「まあ、先輩のためにもがんばろうぜ」

「ソラってやっぱり先輩のこと好きなの?」

「……建前だ」

「どうだか」

 どちらともなく歩き出して、ゴミ箱に空き缶を捨ててから帰ることにした。

 二人並んで歩く。
 月と街灯と家の灯りを残して街はもう真っ暗である。

 ソラの家の近くまで近付いた時に、彼は先ほどのように「あ」と声を上げた。

 視線の先には、制服姿の女子生徒。

「あの子ってさ、たしか──」

今回の投下は以上です。


【提案】

 パソコンの電源を落としてソファに身を預けた。
 L字型ソファの大きい面には佑希がむにゃむにゃ言いながら寝ている。学習しないやつめ。

 今まで三時間ほど電子画面とにらめっこをしていたからか、照明の眩しさがいつもよりつらく感じて、窓の方へ目を移す。

 特に何も思わずに眺めているとだいぶ目がマシになってきた。
 ブルーライトカットの眼鏡でも買うべきなのかな、胡依先輩がしてるのはそれっぽいやつだし。

 そんなことを考えつつ、先程のことを思い出してため息をついた。
 面倒くさいことを押し付けられてしまいそうだ。ソラはうきうきしてたけど、俺はあんまり乗り気にはなれない。

 人との出会いは偶然ではなく必然なのですよ。

 掛けっぱなしにしていたテレビに出ているスピリチュアル系女子が真剣そうな声音で話しているのが耳に入る。

 ほんとかよ、と思う。
 ばからしいな、と鼻で笑った。

 かわいらしいセーラー服の女の子にナンパされて、そのまま連絡先を交換した。

 いや、全くの嘘だ。
 たまたま会って相談……もとい語りを聞いて、ソラが「この際だし協力できることがあるなら力を貸すぜ」と口を滑らせて。
 でも、なぜか彼女が指名したのはソラではなく俺という謎の状況に至ってしまった。


 プルルルル、と電話が鳴った。
 来てしまった。何も考えていない。

 佑希が起こしてしまうと嫌だから、自室に戻りながらスマホを耳に当てる。
 電話は金かかるしラインでいいのでは、とも思うけれど、彼女の負担だから関係ないか。

「こんばんは」

 涼しげな声で彼女は言うので、

「こんばんは」

 とオウム返しをした。

「……こんな夜遅くにごめんね」

「いや、大丈夫」

「さっき話したことなんだけどさ、どうかな?」

 いきなり本題に入った。
 電話だし、それもそうか。

「どうって言われても、あんまり俺はきみたちの関係についてよく知らないから、なんとも……」

「うん。でも、そのほうがいいのかも」

「……」


「形はなんでもいいから、取り付けてもらいたいの」

「自分で言うってのは?」

「さすがに、私から連絡取るのは気がひけるよ」

「……ああ」

 知らねえよ、と思う。
 だが、曲がりなりにも友人の友人だから、変な態度は取れない。

「一つ目はまだいいけど、二つ目の提案には乗れない」

「どうして?」

「暇じゃないから」

 本当は面倒だからだけど。

「でも、二人は不安っていうか……その」

「……連れてくならソラにしてくれないかな。それか、俺でもソラでもないきみの友達とか」

「中学校の頃から、あの二人が話してると間に入っていけなくて、ちょっと……。
 友達は女の子ばかりだから言いにくくて、でも未来くんなら緊張しないし距離感も大丈夫かなって思って」

「俺ときみって話した回数自体少なくない?」

「うん」

「だよね」


「……なんていうか、未来くんなら私の気持ちを少しくらいはわかってくれるかなって」

 言って、彼女はそれきり無言になった。俺が答えるまで沈黙を貫き通すつもりらしい。

「俺ならわかる」と言われても全くわからないのだが。

 まず彼女の個人的な情報をよく知らなくて、付き合いがどのようなものであったかも、聞かされたことでしか覚えていない。
 ソラはぐいぐい茶化したりしてはいたけど、俺はそこそこの興味程度に留めていた。

 忙しいのは事実だし、面倒事に首を突っ込んでる余裕はないのだが、その「理由」だけは気になっていた。

 離れてみて初めて気付いた、とか、
 やっぱりあなたがいいの、とか、
 そういう中途半端な理由で話を持ちかけてきたのではない、と直感で思う。

 彼は気にしていた。落ち込んでいた。
 いや、現在進行形でどこか沈んでいるように見える。

 同じように、彼女も蟠りを解消できずにいたのかもしれない。
 その選択を後悔していたのかもしれない。

 そう思うと、無下にはできない気持ちもある。
 何より、互いが互いを求めているのなら、それに手を貸してもいいのではないか。


 直接は何も関係のないことだけれど、三年近く遠巻きに見てきたから、少しだけ勝手に期待していた部分もあった。

「まあ、いいよ」

「ほんと?」

「……うん、そうだな。了承してもらえたらってことにはなると思うんだけど」

「あ、うん。ありがとう」

「それで、いつにするの?」

「……えっと、できれば今週末かな。
 来週再来週あたりはそっちの高校は文化祭とかで忙しいでしょ?」

「よく知ってるね」

「……嫌味?」


「……どういうこと?」

「そっか……ううん、なんでもないや。
 えと、じゃあ早いうちにどうか聞いてもらって、返答がどっちでも連絡くれるかな」

「了解」

「ありがとね、ほんとに。私のわがまま聞いてもらっちゃって」

「いいよ」

 まず成功はするだろう。
 それで、その先は俺が知ることではない。

「もう夜遅いし切るね」

「うん」

「おやすみなさい」

 うん、と頷いてから電話を切った。
 明日の朝にでも言って、早いうちに片付けるか。


【繋がり】

 そういうわけで、朝練帰りの彼にジュース奢るから自販機行かない? と声をかけた。
 一限の予習やんなくちゃいけないんだけど、と返されたが無理やり連れ出すことに成功する。

 飲み物を手渡してから、どう言ったものかと考える。
 まあ、誤解を生むと面倒だし単刀直入に話をすることにした。

 昨日話された内容を多少彼女側を考えつつ話すと、彼は「マジで?」と目を丸くする。

「嘘なんかつかないよ」

「美柑が遊びたいって言ったの?」

「うん、なんならソラも一緒に聞いてた」

「おまえらが俺を嵌めようとしているとかじゃなくて?」

「なわけないだろ」


 彼は懐疑心を抑えきれないように、何度も俺に問いかけた。
 そんな悪趣味なドッキリとかする仲じゃないでしょうに。

 いやまあ、振られた女の子にいきなり遊びたいって言われたから疑わないわけはないけど。

「でさ、今週の土日ってどっちか空いてるの?」

 埒があかないから、そう切り出した。
 
「土曜は部活だけど、日曜はオフ。
 マジで遊びに行くの? 場所は?」

「聞いてない。遊べるかどうかだけ聞いてくれって」

「なんで未来を通してなの?」

「……俺も知らない。けど、二人で会うのは気まずいんじゃないかな」

 知ったようなことを言った。

「まあ、そうだな。俺もいきなり二人きりは厳しいかもしれない」



 繋がりが切れてしまった相手ともう一度繋がりを結ぶことは難しい。
 会ったら会ったで言いたくないことを言ってしまったり、お互い遠慮をして言いたいことを言えなかったりするだろう。

「秋風さんは、俺も一緒にって言ってたけど」

「おう、そうしてもらえるとありがたい」

「いいのか」

「むしろこっちからお願いしたい」

「デートの邪魔になるかもしれないよ」

「未来はそういうことしないだろ」

 ……そうだろうか?
 いや、しないけど、意識せずとも邪魔になってたりってこともあり得る。

 空気のような存在でいよう。
 そう両の胸と頭に固く誓った。

「善くんは、今でも秋風さんのこと好きなの?」

「……そりゃまあ、な」

 あたりまえのことを訊くと、彼は照れたように頬をかりかり掻いて言った。


「なんだかんだ、別れてから調子出ないし、ふと気付くと美柑のことばっか考えちゃうんだよ」

「それ病気じゃ?」

「いやそもそも恋愛って病気と変わんねえだろ」

 そういう返しをしてくるとは思わなかったから、俺はすぐに返答することができなかった。

 恋愛をしているとドーパミンが分泌されると。その代わりにセロトニンが減少すると。
 何かの本で読んだ時に、これは躁鬱と変わらないのでは、と考えた記憶がある。


 恋人に会えないとイライラしたり、振られて自暴自棄になったりするのは、身体の内部からも説明がつく。
 心の問題であると思っていても、実は身体の問題であったりするものらしい。

「ほら、恋の病って言うじゃん?」

「少女漫画かよ」

「恋煩いなんて言葉もあるし」

「……わかったわかった、どうしても好きなんだな」

「うん、好きなんだよ」

 はっきり言える彼を羨ましく思う。
 それまで長く一緒にいたから言える発言で、嘘偽りのない感情の吐露だ。

「もう一回付き合えるといいな」

「そうだね」

「今から緊張してきたわ」

「当日体調崩したりすんなよ」

 そうなることは確定だとは思うけど、彼がちゃんと成功したら、ソラと二人でお祝いでもしてあげようかな、とそんなことを考えた。


【雨上がりの私】

「たまには一緒に帰らない?」

 と言われて、慌てて頷いてしまったところまではまだ良かった。
 誰かといるよりも一人でいる時間の方が好きだけど、今日はあいにく音楽プレーヤーを自室に忘れてきてしまっていたから。

「ちょっと寄り道していかない?」

 と言われて、まだ時間も余裕があるしと頷いてしまったところまでも、まだ良かった。
 知り合いと帰り道にどこかへ寄り道をするという経験をしてみたいという気持ちは、私だって女子高生なわけでちょっとばかし持っていたから。

 ──けど、さすがに……。
 さすがに、次の言葉を言われたときは頭が真っ白になった。

 べつに嫌だったわけではないけど。
 本当にこの人は突飛なことばかり言ってくる。

 いや、でも冗談かもしれないし。
 部長さんは茶化してくることが多いし。
 けどもう親しげに話を済ませてしまってるわけで。

 ぐるぐると回る思考回路。


 それを打ち破るために意を決して、にこにこ顔でストローを咥える部長さんを見て口を開く。

「あの、どういうことですか」

「え、どういうことって? シノちゃんのお祖母ちゃんには許可とったけど?」

「私は何も言われてないんですよ」

「あ、えー。今さっき言ったからいいじゃん」

「いや、あの……」

 話の通じなさに、思わずこめかみに手をやった。
 それを見て、部長さんは肩をぷるぷる震わせはじめる。

「いいじゃんいいじゃん女同士なんだしー。
 来週の特別合宿の予行演習だと思って、ね?」

「……それ部長さんがしたいだけでしょ」

「かもね」

 "どこかに寄る"の"どこか"の最後が私の居候先で、せっかくだし今日はここで作業をさせてもらう、なんていきなり言われても困ってしまう。

 お祖母ちゃんは私が知り合いを連れてきたことに喜んで、すぐに二つ返事で了承してしまった。


「あ、そうだ」

「どうしたんですか?」

「私が描いてる様子、隣で見ててよ。
 お客さんが来たらそっち行っていいから」

 言われて店内を見渡すと、部長さんの他にお客さんは四人。うち三人がぐーぐー寝ている。いつも半日くらい居つくおじいちゃんの友達だ。

「誰かに見られてないと集中できないのー。頼むよシノちゃん」

 わざとらしく目をうるうるさせる。
 部長さんを見ていると、ちょっと猫っぽいって思う時がある。

 それでなんとなく、未来くんと部長さんは似ている気がする。
 どこが、と問われると言い表せないが、とにかく似ている。

 それに二人は仲が良い。
 ソラくんも二人と仲が良い。

 私はというと、うまく溶け込もうと模索している途中だったりする。
 三人中二人は癖の強いタイプだから、結構やり辛いと思わなくもないのだ。

「はあ、わかりました」

「んんっ、シノちゃん好き……」

 隣に腰を下ろすと同時に身体をがっちりホールドされて頬をすりすりされる。


「……部長さんは、すぐそうやって」

「あっ、もっと……もっとその蔑むような目をお願いします」

「私ってやっぱり目つき悪いですかね」

「でも私は好きだからおーるおっけー!」

 締め付ける力がちょっと強くなる。
 ふわりと香る素敵な匂いに気を取られて、不思議と抵抗する気も失せていく。

 そういうのは前から抱きつかれる度に思ってたけど。
 今日は一段と距離が近い。二人だからかもしれない。

 てか……否定してくれないのね。
 睨んでるように見えるのは目が悪いからなだけなのに。

「ようし」と私を解放してから呟くと、彼女は漫画を描き始めた。

 そのままぼけっと頬杖でもつきながら部長さんのタブレット端末を見ていても良かったのだが、あんまり見られてても集中できないと思って、たまに見る程度におさめる。

 どうやら四コマ漫画のネームはもう終えているようで、今からペン入れを進めていくらしい。
 大部分はすらすらと、時折毛先をくるくる遊ばせてちょっと悩みながら描き進めていく姿を見ていると、時間が過ぎるのがやけに速く感じた。


 部長さんは絵が上手だ。
 私よりも。まず比較対象にならないかもしれない。

 まあそれはいいとして、部長さんの一番のすごさはどういうところかと問われれば、私は真っ先に『パターンの豊富さ』と答えるだろう。

 人であったら表情、髪、服など、参考資料はどこかにあるんだろうけど、描き分けがとても上手く出来ている。
 
 今回描いているのは、2.5頭身程にデフォルメされたキャラクターが動き回るものであるが、
 そういうデフォルメキャラは通常の頭身のキャラと違って頭を大きく描かなければいけないので、見ているぶんには簡単そうだけど描いていると案外難しいはずだ。

 でも、彼女はすいすいやってのけている。なんでもないことのように。
 楽しそうに描く姿を見ていると、ちょっとだけ羨ましい。

 もしそういうふうに描けたら、私はもうちょっとうまくやれたのかなって、ずっとそう考えていたから。

 でも、私には無理だった。
 楽しく描くなんて、私とは正反対のことだ。



 目を戻すと、彼女は私の顔をぐいっと覗き込んだ。

「シノちゃんも描く?」

 部長さんはそう言って、ペンを私の前に持ってくる。
 私はそれを受け取ってしまいたい気持ちもあったけど、うまく手を伸ばすことができなかった。

「いえ、いいです」

「笑ってたから、描きたくなったのかなって」

「……私笑ってましたか?」

「うん、すっごくかわいかったよ」

「部長さんってナンパ男みたいですよね」

「そんなことないんだけどなー」

 だって、この前の美術部の先輩にだってあの短時間であんなにベタベタしてたのに。
 ……いや、べつに部長さんがチャラチャラしていようがいまいがどうでもいいけど。

 気分を紛らわそうと飲み物に手を伸ばすも、中身は空っぽ。
 部長さんの飲んでいた飲み物もすでに中身は氷だけになっていた。

「……おかわり、コーヒーでも淹れてきましょうか?」

「ありがとう。だいぶ進んだしちょっと休憩しようかな。
 アイスコーヒーで、ガムシロとミルクひとつずつでお願い」


「わかりました」

 と言っても、厨房にいるお祖母ちゃんに声をかけるだけだけど。

 お祖母ちゃんは、飲み物と一緒にこれも食べなさい、とフレンチトーストを準備してくれた。
 私自身料理は苦手ではないし、向こうにいるときは全部自分でやっていたから同級生の子たちよりはできるはずだ。

 でも、お祖母ちゃんとお祖父ちゃんは私が料理をすることにあまりいい顔をしない。
 曰く「子供は黙って食事が出てくるのを待ってればいいんだよ」と。

 それが少し嬉しくて、今までずっと頼りきりになっている。
 お弁当もいつも作ってもらってるし、何でも自由にさせてもらっているし、本当に頭が上がらない。

 入部届けには保護者の同意が必要で、それを見せた時はちょっとだけ詰まったような顔をされた。
 あたりまえなのかもしれない、と思う。

 それでも私の意思を尊重してくれた。
 だから、何かを描けるならば描きたいと思う。私は違うんだって思ってもらいたいとも思う。

 たとえその奥に見えているものが、私とは全く違うものであったとしても。


「どうぞ。あとこれ、一緒に食べましょう」

「うん、ありがとう」

 部長さんと一緒にフレンチトーストをつつきながら、私は鞄からノートを取り出した。

 まっさらなノート。スケッチブックは見るのが嫌で、自由帳のようなものを買った。
 何かを描こうとして、何度もページを破ってぐしゃぐしゃにしたから、ページ数は少なくなってしまっている。

「どうしたの?」

 彼女は不可解そうに首をひねる。
 全然食べてないけどもういらないの、とでも言いたげに。

 部長さんが描いてて、ソラくんも描いてて、未来くんも描いてて、私は描けない。
 このままだとなにも描けなくて、誰にもなにも証明できなくて、私はなにも変われなくて。
 部活に入った意味もなくて、考えていた意味もなくて、ここに来た意味もなくて。

 このままでいいの? と私は自分に問いかける。

 答えはわかっているはずなのに、胸がずきずき痛んでうまく言葉に出てこない。


「えっと……」

 と沈黙を埋める言葉を発しかけて私は口籠もった。
 なんとなく、言うべきでないのかもしれないとも思う。

「描きたいんです」

 でも、私はペンを握りながらそう口にした。
 彼女には何度か言っていたことだったけど、そうとしか言いようがなかった。

「ふうん」

 真剣な目で私を見据えて頷く。
 確認するような目にどきりとしたが、がんばって目を逸らさないようにした。

「じゃあ、私の言うようにしてみてほしいの」

「……わかりました」

 彼女はふふんと微笑んだ。
 ちょっと得意げな顔。やっぱり美人だな、と場違いなことを考える。

「じゃあ、おっきく丸描いて」

「……」

「で、こことここにぐるぐるーって黒丸を描いて」

「……」

「それでそれで、ここに半月を描いて。
 最後にツノを四本生やして……完成!」

 私の様子など一切気にせず平然と言うので、思わず言葉を失った。
 完成、完成、完成……。完成?


「裏返してみると、じゃじゃーん。カービィが描けましたー」

「あの、え?」

「描けたじゃん」

「いや……」

 そのまま彼女は私からノートを奪い取る。
「返してください」と言うと「返さないよ」と言われた。

 私はため息をつく。
 苛立ちを感じて怒鳴ってしまいそうだった。どうせ言葉は出てこないのに。

「こんなの絵じゃないです」

「ううん、絵だよ」

「……馬鹿にしてるんですか?」

「馬鹿にしてなんかない」

「してますよ」

 彼女は傷付いたような表情をした。私の心は痛む。
 けれど、すぐに首を振って真剣な眼差しに戻る。

 落書きにも満たないような、そんな絵を私が描いた絵と言ってしまいたくない。
 もっと手を加えれば、あるいは描きなおせば。
 辻褄合わせでも、帳尻合わせでも、私は、だって、今までずっと……。


 藁にもすがる思いで私がノートに伸ばす手を、彼女は黙って払いのける。
 そして、もう一度確認するように「私は馬鹿になんてしてないよ」と繰り返した。

「私はこれでもいいって思う。シノちゃんは難しいことを考えすぎだよ。
 棒でも丸でも線でも、簡単なものだとしても、私は私にしか描けないものがあるって思うし、シノちゃんにはシノちゃんにしか描けないものってあると思うの」

「……」

「もしこれを部誌に載せても、私はなにも言わない。
 むしろ、よく描けたねって褒めるよ。それはシノちゃんにしか描けないものを描けたんだって思うから」

 言ってることがめちゃくちゃだ。
 ほんとにこれでいいですよと私が言ったらどうするというのか。

 でも、彼女の目は真摯で熱のこもったもののように思えた。
 私のことを考えて、私のためを思って言ってくれた言葉なのだと素直に感じた。


 "難しいことを考えすぎだよ"

 その言葉が、耳から離れない。

 部長さんの言い分が正しいなら、考えることはいけないことなのかな?
 部長さんは描ける側の人間だから、描けない私のことなんてちっともわかってないんじゃないかな?

 私が描けなくても世界は回るし、私が描けなくても誰も困らないし、
 私が考えていても誰も得をしないし、私が考えていてもきっと何も起こらない。

 私はつまらない人間だから、それが露呈するのが怖くて、ずっとそれに怯えてて。
 テクニックを磨いて、技巧を凝らせるようになれば、私は私を誇ることができると思っていた。

 いつか自信を持てて、私は私だけの絵を描けるって、ずっと信じてたつもりだった。

 ──あなたの絵って……。
 ──お母さんは賛成しないな。
 ──おまえにはおまえ自身のやりたいことはないのか?


 だから──。

「部長さんの言うことは、間違ってます。
 私が描きたいのは……うまく言葉にできないですけど、もっと他のものです。
 イラスト部の理念は『描きたいものを描く』。あなたが言ってたことです」

「そうだね」と彼女は自然に笑みを浮かべる。

「これは、部活の枠から外れた私の考え。私のスタンスって言い換えてもいい。
 だから、それに反論されたところで私にとってはどうでもいいことなの」

「……」

 つまり、どういうことだろうか。
 そう首をかしげそうになったところで、彼女はいつものように人差し指を私の前に突き立てる。

 にこりと微笑んで。
 なぜか目頭が少しあつい。


「でも、何か反論があるなら、議論の余地がある」

「……」

「シノちゃんの考えからまた別の解決方法を見出していけばいいんだよ。
 ちょっと手荒なことをしたかもしれない。でも、シノちゃん自身の考えを話してほしかったから、避けては通れなかったの」

「ごめんね」と彼女は頭を下げる。

 目上の人にこんなに丁寧に頭を下げられるのは私にとって初めてのことだった。
 戸惑いとともに、感嘆の念を覚える。

「描きたいって気持ちさえあれば、私は何だって描けると思う」

「どうしてそう言い切れるんですか」

「私がそうだったから」

 思わず目を逸らしてしまうくらい、自信たっぷりな言い方だった。
 そうなると、私は言い返せない。


 きっと、さっき出た言葉は、紛れもない私の本心だったから。

 浮かんだ記憶も、誰かの視線も、もう過去のことだ。
 過去であって今現在ではない。もっと言えば未来でもない。

 ずっと嫌いだった。
 もしかしたらそういう意味が込められているのかもしれないと思っていた。

 雨が上がって虹が架かって。
 人は綺麗だと言う。私はそうは思わない。

 それでいいじゃないか、と彼女は言うのだ。

「一晩だけ考えさせてもらってもいいですか?」

「うん」

「私の今の気持ちを整理してみます。
 問題は何なのか、どうしたらいいのか、どうすべきなのか。まとまらないかもしれないですけど、それを聞いてください」

 後にも先にも、どうしてこう言ってしまったのかはわからないだろう。

「うん、楽しみにしてる」

 ただ、"部長さんなら私のことをわかってくれる"のだと、そう信じることが、
 今の私にとっての、何よりの近道であるように思えた。

今回の投下は以上です。
訂正 >>549 佑希が→佑希を


【それだけ】

 どうしてなのかな。

 ノートの後ろのページを開く。
 文字が並んでいる。それだって、今思えばなんてことのない暇つぶしだった。

 何が違うのかな。
 絵を描くことと、何が違うのかな。

 きっと私は、言葉に出せない想いを絵に乗せようとしていたんだ。
 それができなくなってしまったから、口籠ることを止められなくなってしまったんだ。

 そこにあったから。
 近くにあったから手に取った。

 それだけだ。
 それ以上でもそれ以下でもない。

 私が煩わされているのは、もっと低俗で卑怯で愚蒙なことなのだ。

 繊細な絵だね、と言われたことを思い出す。
 だけど、そうじゃないのに。怖いから、何度も描き直しただけなのに。

 伝えたいことは伝わらなくて、伝わってほしくないことだけ伝わってしまう。

 明るい色が好きだった。
 私を洗い流してくれそうだったから。

 でも、気付いたら黒の絵の具で塗りつぶしていた。
 黒は私を安心させてくれた。染まっていくイーゼルの上の水彩紙は私ではないと、そう教えてくれた気がした。

 でも、必死に糊塗して覆い隠しても、どこかで誰かが本当の私を見つけてくれるかもれない。
 そう願っていた。他人からは、覆い隠した姿が"私"として映るのに。
 浅ましくて醜い存在だと知って、みんな私を嫌っていくのに。

 縋りたいのに、縋れなかった。
 弱いのは、そういうところだ。

 私は、怖いんだ。
 どう取り繕っても、怖いだけなんだ。


【レディ・メイド】

「今よりもずっとずっと前から、わかってたことなんです」

 ふと部室の扉の先からそんな声が聞こえて、俺は取っ手を握る手を咄嗟に引っ込めた。

 廊下を吹き抜ける風は冷たい。
 早く部室に入って温まりたいのだが、この状況ではそうもいかない。

 ソラはクラスの手伝いをするから今日は部活に顔を出さないと言っていた。
 それは俺も同じで、五時前までネジ打ちを手伝っていた。

 となると、声の主は東雲さんで、話の相手は胡依先輩だ。

「きっと私は、描いたものに自分が透けて見えてしまうことが嫌なんです。
 絵を描いていると……自分の嫌な所ばかりが浮き彫りになるみたいで、気持ち悪くなって、やめてしまいたくなるんです」

 そんなに大きな声ではないと思う。
 けれど、この階の部屋は空き部屋ばかりだし、普通に声が漏れている。

 何か大事な話をしているようだし、盗み聞きはよくない。

 でも、その声が、俺をその場から動かさせずにいる。


「怖いんです。自分のからっぽの中身を見透かされるのが怖いだけなんです」

 "怖い"と彼女は言う。

 見透かされること。
 からっぽの中身。お茶を濁すように、だましだまし続けること。
 外側から塗り固めないと、すぐに壊れてしまう脆いもの。

 彼女から感じる儚さは、昔の奈雨に似ているように思える。

「やっぱり、考えすぎなんだと思うな」

 今度は胡依先輩の声が聞こえた。
「やっぱり」という発言から、俺が来る前からこの話は続けられていたのかもしれない。

 部室横の柱に背中を預ける。
 ほうっと息を吐いて耳をすませる。

「作品に作者の精神性が出るのは、あたりまえのことだよ。
 だって、僅かにでもそれが見えないんだったら、それはもう職人技と変わらないんじゃないかって思わない?」

 返事をする声は一言も聞こえない。


「ラブコメを書く作者が恋人欲しさに書いてるとか、人間関係のゴタゴタや恋愛関係のドロドロを書く作者は心に闇を抱えてるとか」

 そういう勝手な判断をされるのは困ることだけどね、と先輩は補足を入れる。

「部長さんの言ってることはわかります。でも……それが綺麗な感情なら、私はここまで悩んでないんです。
 私が感じているのは、もっと汚くて、もっと低次元なことなんです」

 扉一枚隔ててもわかってしまうくらい、切羽詰まった声音だった。
 東雲さんの抱えているものは、やはり内面的なもので、絵が描けないことと分かち難く結びついている。

 綺麗な感情。
 それは一体どんなものなのだろうか?

 人はある程度成熟すると、自身の物差しで目の前の事物を測ることができるようになる。
 それまでの経験から、それまでに得た知見から、様々なことを加味して判断を下せるようになる。

 優先順位をつけたり、取捨選択をしたり、きっぱりと諦めて投げ捨ててしまったり。

 時折それを「大人の目は濁っている」と表す場合がある。
 比喩ではなく事実としても、大人の白目は太陽や紫外線で傷つけられ、黒目とのコントラストが曖昧になってしまい、俺たちの目にはどんよりとしているように映るだろう。


 何にも侵されていない純粋な目、澄んでいる目。無邪気な子供はそう表現されるかもしれない。
 子供の頃のように、深く考えずにただ目の前のことだけを考えていることができるならば、それはきっと幸せなことなのだろう。

 などと考えていると、中から聞こえる声で急に現実に引き戻される。

「すみません、やっぱり抽象的にしか言えないです。
 ごめんなさい、狡いですよね」

「いやいや大丈夫。うんと、そっか……。でもさ、私はシノちゃんが──」

 それきり、部室の中から聞こえている声が止んだ。
 世界が止まったかのように、フロア一帯に静寂が訪れる。

 かと思ったら、ガラッと急に扉が開いた。

「おお、白石くんじゃん」

「おわっ」

 思わず変な声が出た。
 はろはろー、と先輩が手を振る。


「やだなー、入ってくればいいじゃん」

「すんません、入りづらかったんで」

「あ、うん。冷えるし中に入りなよ」

 何も咎められなかった。
 気まずさを抱えながら扉をくぐると、すぐに東雲さんと目が合う。

「未来くん……」

 彼女は呆然と呟く。
 一層増してしまった気まずさから逃げるように、視線だけで挨拶を済ませてさっさと自分の席に座る。

 もう一度ちらと目を向けると、彼女は肘に手を回して自分の身体を抱き、どこか所在なさげに顔を俯かせていた。

 その様子を見て、胡依先輩はにこりと微笑む。

「白石くんにも聞いてほしい話だったから、ちょうど良かったかも」

「あ、いえ……何の話ですか?」

「もう、聞いてたんでしょう?」

 そう言って、確信めいた目を向けられる。


 俺はできるだけ平静を装って頷く。
 東雲さんは、ばつの悪そうな顔でこちらを睨め付けた。

「ごめん」

「……うん」

 聞くつもりはなかったんだ、と重ねたかったが、胡依先輩の声がそれを遮る。

「続きを話そっか」

「でも……」

「シノちゃん、大丈夫」

 宥めるような優しい言い方で、先輩は東雲さんの肩を抱く。
 俺が出ていけば済む話だ、と立ち上がろうとするも、胡依先輩が「座ってていいよ」と先に釘を刺される。

「えっとね、たとえばの話なんだけど」

 言いながら、先輩はテーブルに置いてあるメモ帳と鉛筆を取り出す。
 そして、それを真っ黒になるまで塗りつぶして、東雲さんに手渡した。


「なんですか、これ」

 と東雲さんが眉を寄せて問いかけると、

「これじゃわからない……か」

 と呟いて、先輩はパソコンの画面を表示させる。
 真っ白な画面を墨汁の入った硯をひっくり返したような黒色に染め上げて、また東雲さんに視線を戻す。

「これならわかる?」

「……いえ、わからないです」

 ふむ、と先輩は頷く。
 俺もわけがわからない。

「じゃあ、これはどうかな」

 フルーツバスケットから一個のりんごを取り出しから、またパソコンをカチカチと操作して、画面に熟しかけのりんごの絵を表示させた。

「これは──」と東雲さんが小さく呟く。

「『これはリンゴではない』ですか?」

「そうそう、シノちゃん物知りだなあ」

 はて、と胡乱げな視線を向けると、胡依先輩はずびしっと俺の前に指を突き立てた。


「絵の中のりんごがどんなにりんごに似て見えても、それはりんごじゃなく、ただの観念でしかない。
 ルネっていう有名な画家の『イメージの裏切り』って作品群のひとつなんだ」

 と言われても、画面に表示されている絵はりんごにしか思えない。
 だから、それはきっと皮肉を含んでいるのだろう。

 絵は絵であって、それは"本物"にはなり得ない。
 それは"虚像"であって、誰かの物差しによって測られた「観念」にすぎない。

 私たちの目に映る青空は現実なのか。
 口付けを交わす恋人は本当に存在しているのか。

 そんな絵を前に見たことを思い出す。

 同時に、パースの記号論を思い出した。
 だからなにって話だけど。

「もし私がこのりんごをかじって、県美術館のフロアにガラスケースの中に入れて展示するとしたら、見にきた人の多くは足を止めると思う。
 さっきの私が塗りつぶしたものだって、『無』とかそれっぽい名前を付ければ、美術作品として成立しちゃうんだよ」


 評論家気取りの人が「複雑な心情を表現してますね」って言うかもしれない。
 逆に、何も知らない人が「こんなの適当じゃん」って言うかもしれない。
 もちろん、しかるべき場所に展示することが条件だけどね。

 どこかうたうように胡依先輩は言葉を紡ぐ。
 その姿は普段の彼女よりも楽しげで、少女のようなあどけなさを感じる。

「デュシャン」

 と東雲さんがぼそっと言うと、先輩はうんうんと大げさに頷いた。

「シノちゃんってやっぱり物知りだよね」

「……いえ、知っててあたりまえです」

 じゃあ知らない俺は……と一人で落ち込んでいると、彼女はそれに気付いたのかあわあわと狼狽える。
 手をひらひらと振って大丈夫だと伝えると、彼女はほっと胸を撫で下ろした。

「ちょっと毛並みは違うけど、『4分33秒』も似たことが言いたいんだと思うな」

 また知らない話だ。
 けれどそれは東雲さんも同じようで、そんな俺たちに対して胡依先輩はくすりと微笑む。


「美術作品は場所で定義されるものなんだよ。
 でも、ここは美術部と違って制約とか制限なんてものは存在しない。
 描きたいものを描いて、それがどんなものであったとしても、私は──この部活は、それを認めるよ。
 そういう部活にしてほしいって、ヒサシちゃんにも、前の部長にも言われたんだ」

 なるほど、と思った。

 美術館の展覧会には何度か足を運んだことがあるけど、あそこは"印象派"という宣伝文句を出すだけで満員御礼だ。
 したり顔で鑑賞して、いい気分になって帰っていく。画家の名前だけ見て帰ってしまう人だって少なくはない。

 何度も見ないとわからないものだってあるのに。
 両親の知り合いの家のトイレには浮世絵が飾られているらしい。真意がどうかはその人に聞いてないから知らないけど。

 場所で判断されるとしたら、ここは言っちゃ悪いけど定義が曖昧すぎる。
 イラストと言っても多種多様であるし、部誌に関しても、「絵でも文字でも何でもいい、昔からそうだった」と彼女は言っていた。


 だからこそ、ということだろう。

 わざとらしい咳払いが聞こえて、先輩に向き直る。

「それで、ここからが本題」

 言い切ると時を同じくして、東雲さんが息を呑む音が聞こえた。
 どこか楽しげな話から、真面目な話に移ると思って俺も少しだけ身構えたのだが、依然として先輩の態度は変わらなかった。

「シノちゃんは、作品に自分が透けて見えることが嫌だって言ったけど、
 それを決めるのは絵を見た人であって、シノちゃん自身じゃない」

 東雲さんは目を伏せて頷く。
 まるで、最初からわかっていたというふうに。

「作者の体験談を少しの脚色もなく文や絵にするとしたら、それはただの自伝だと私は思う」

「……そう、ですね」

 沈んだ表情を浮かべる彼女の面を上げさせて、正面から目を見つめながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。


「でも、自分の体験や感情を落とし込むことは、なにも間違ってない」

 その言葉に、彼女は目を丸くする。
 確信を突かれたか、全く予想だにしていないことであったのか、あるいはその両方か。

「想像でしか描けないものがあることと同じように、経験していないと描けないものだってある。
 無機質なものよりは、どんな精神性が見え隠れしていたとしても、何倍も価値がある」

 自分の脆さ危うさを表現してもいいし、自分の理想を表現したっていい。
 絵柄が好みなだけで満足してくれる人もいるし、作品や登場人物にバックボーンやストーリー性を求める人だっている。
 無意味なものでも良いって言う人もいるし、無意味なものに価値はないって断言する人だっている。

 ──決めるのは、作品を見てくれた人自身だよ。

 そんな言葉は信じられない、というように東雲さんは首を横に振る。
 そして、ため息混じりに口を開く。

「でも、それは……よく考えずに丸投げすることと何が違うんですか」

 問うとすぐに、胡依先輩は「違わないよ」と気迫のこもった口調で言った。


「だって、言ったじゃん、見た相手に任せればいいんだって。
 それで何を言われたって、創ったものを一番知ってるのは作者なんだから」

「……」

「だから、どんと構えてればいいんだよ」

 真摯な表情で、でも、簡単なことのように彼女は言う。
 けれど、それは誰もができるほど簡単ではないと思ってしまう。

 目を瞑ること。
 口を閉すこと。
 耳を塞ぐこと。
 そうして見えないように蓋をしても、どこからか溢れてしまうもの。

 いい加減にではなく、一途に取り組んだからこそ、自分と分かち難く結びついたもの。

 自分の領域に土足で踏み入られて、勝手に優劣をつけられて、あれこれ知ったようなことを言われて。
 自分の嗜好や個性、果ては内面までを推察されて、白日の下に晒されるかもしれない。

 それを、気にしないでいることなんてできるのだろうか。


「でも、それでも……私は、私が描くものをきっと気持ち悪いって思ってしまいます」

 東雲さんは目に涙を浮かべてそう言った。
 拭うことすら忘れたように、両手を胸の前できゅっと握りしめて、胡依先輩から目を逸らす。

 今日はもう帰ります、と続けて、荷物を抱えて足早に部室を後にする。
 扉の閉まる音がしてから、先輩は緊張の糸がほどけたように、肩をすくめて、さらりと髪を撫でた。

「どうだった? 白石くん」

「あ……泣いてました、よね?」

「泣いてたね」

 女の子泣かしちゃったなー、と彼女は息苦しさを我慢するように呟く。

「……でも、わかった気もする」

「なにをですか?」

「子ライオンを崖から突き落とす親ライオンの気持ちかな」

「どういう気持ちですか、それ」

 意図はわかっていたけど、確認の意味を込めて問いかけた。

 でも、胡依先輩は俺の質問に答えることはなく、ほのかな微笑をたたえるのみだった。


 数分の沈黙の後、何かを思い出したように先輩は口を開く。

「私と白石くんは共犯だよ」

「……えっと」

「あの子は、誰にも頼らずに自分で自分を変えるしかない。
 だから、勝手に手伝っちゃダメだよ。きっと、それじゃどこにも進めないから」

 種は蒔いた。
 芽が出るかは、彼女に依る。

「先輩は優しいですね」

「……そうかな?」

「そうですよ」

「ううん、それは違うよ」

 嘘でも誇張でもなく、ただ思ったままを言ったのだが、彼女は頑として認めようとはしなかった。

「私は、誰にでも優しくすることなんてできない」

「……」

「私なんかより、白石くんの方がよっぽど優しいよ」

 その、彼女の透き通った瞳の前では、俺の浅ましさが見透かされているように思えた。

 ……だから、俺は何も答えることができなかった。

今回の投下は以上です。


【もっと】

 正午を過ぎてから動き出すことにした。

 結局男女どちらにも連絡をして、適当にジャージを着て外に出た。
 今日は風もなくあたたかい。寝るのに絶好の休日だというのに、どうして外に出なければならないのか。

 これも運命か。読み方は"さだめ"。
 まあ、秋風さんの言ってたことも気になったし。

 学校に吸い込まれていく野球部やバスケ部を横目に駅の方角へと歩みを進める。
 日曜日のお昼時なのに学生以外の人が全くいない。車はよく通ってるけど。

 ちょうど中間地点ほどにある善くんの家のインターホンを鳴らすと、彼はすぐに出てきた。

「おっす」

 すーっとつむじからつま先まで眺められる。

「あ、そんなにジャージ?」

 彼は普通に私服だった。
 かっこいい。着崩し方がプロい。

「普段運動しないから、シャカシャカにスウェットしか持ってないんすよ」

「わりー、じゃあ俺も合わせるわ」

「うい、待ってるね」


 彼とこうして二人で遊びに行くのは初めてのことかもしれない。
 中学時代の彼は部活とか生徒会活動で忙しかったし、遊ぶとしてもソラと三人でだった。

 秋風さんとのことを相談されてから暫く間を置いて、志望校が同じだと判明してそっから仲良くなった。
 一応今も含めて四年間クラスが同じだから、知り合ってからは長いのではあるが。

 待っている間にスマホを開く。

 彼女からの連絡は何も来ていない。
 橋渡し的なことはもう疲れた。
 お互い連絡先は持ってるんだから自分たちで連絡を取ってほしいものですよ。

「ごめん。待たせた」

「うん」

「もう時間だし行こうか」

 爽やかに言う彼はアンダーシャツまで着ていた。ガチすぎるんじゃなかろうか。
 めっちゃ関係ないけど、アンダーアーマーのジャージってかっこいいよな。運動しないのに欲しかったりする。


 地下鉄駅まで行き、上り線に乗車して数分揺られると、すぐにここのあたりで言う駅近くの"モール"に到着する。

 鈍行もあるにはあるのだが、駅から五分程度離れているため、地下鉄の方が時間を少しだけ短縮できる。
 人の数も地下鉄は少ない。値段が高いのが少々ネックではあるが、気にしなければ遅延やらなんやらとも無縁で使い勝手もいい。

 噴水前噴水前……と半ば迷いながら歩いていると、ベンチに秋風さんの姿を見つけた。

 ちょっとこの季節には肌寒そうなスポーツウェアにオレンジ色の運動靴。
 こちらも真面目に運動をしそうな服装。そういや運動部だったっけな。

 彼女はこちらの存在に気付くと、はっとした顔をして、たたたっと小走りで駆け寄ってくる。

「こんにちは」

 俺はまず挨拶をした。会釈される。
 二人はお互いを見て変な顔をしている。

 緊張感を拭えないのか、善くんはしきりに頬を掻く。
 が、このままでは埒があかないと思ったのか、息を飲んでから口を開いた。


「久しぶり」

「うん」

「でも……ないな」

「そう、だね」

 うん。何だこれ。
 さながら三流映画の再会シーンのようだ。

 善くんは会ってからどういう態度を取ろうか練習していると言っていたが、それも吹き飛んでしまったらしい。
 それは秋風さんも同じようで、彼の目を見たまま無言で固まっている。

「……まずはどこに行くの?」

 添え物とはいえ、こういう時に役立たなくてはな。
 自分がこの気まずさに何時間も耐えられないだろうから、早めにパンチを打っておきたい。

 彼女は俺をちらと見、ほうっとため息を漏らす。


「あ、うん。えっと、どうせだから身体動かしたいなって思って」

「ここからまた歩くの?」

「七、八分くらいかな。スポーツセンターだよ」

「そっか。……じゃあ、歩こうか」

 俺が勝手に歩き出すと、彼女は案内するように少し前に出た。
 すぐさま善くんが隣にやってきて、うーんと首をひねる。

「どうしたの?」

「……ああ。なんでもない」

「やっぱり緊張してるのか」

「正直ちょっとな」

 これが初々しいカップルなら「なんと微笑ましいことよ」とでも言えるのだが、いかんせんどうとも言いようがない。

 てか、なんだよ運動したいって。
 普通こういう時って時間潰すために映画をチョイスして、さりげなく隣で手が触れて、
 映画の終わる頃には仲良くなってる、とかそんなんじゃないんすかね……?


 歩調を早めて三人で並んで歩く。

 適当な話を振られて、相槌を打つ。
 二人は会話をしないから、両方から違う聞こえてよくわからない。
 聖徳太子ってやっぱすげえんだなあ……と歴史上の偉人に悠久の思いを馳せていると、目的地にはすぐに到着した。

 名前はそのままスポーツセンター。
 本当に小さい頃に何度か来たことがある。

 ボーリングに温水プール、トランポリンに人工芝の開放運動場。身体を動かすにはもってこいだ。
 ついでに上階にはゲーセンやらレストランもあるらしく、子供から大人まで幅広く利用者がいるらしい。

 中に入って券売機で一日券を買って窓口に提出する。
 千円ってのがまた。そんなに長い時間いるわけでもないでしょうに。

 財布の札の残り枚数を数えていると、ふいに秋風さんに声をかけられた。

「未来くんって運動できるよね? 佑希ちゃんの兄妹だし」

「まあ、それなりには」

「ボーリングとか、よく行く?」

「行かない」

「ふうん……最初はどこで身体動かす?」


 俺に決めさせんのかよ……と思う。確実に顔に出ている。
 それを見て、彼女はごめんねと視線で言ってくる。

 なんだかこちらが申し訳なくなる。

 まあ、いいか。
 俺も動ける格好をしてきたわけだし、風邪予防の運動と捉えればギリいける。

「善くんはどれがいい?」

「……ああ、うん。空いてそうだしボールでも蹴りにいくか」

「だってさ」

「よし、行こう」

 おー、と拳をあげて秋風さんが運動場へ足を向ける。
 一歩、二歩と歩く姿を見ていると、急に善くんが俺の横をすり抜けて、彼女の肩に手を触れた。

 そして、「美柑さ」と彼は比較的冷静な口調で口を開く。

「なんか話あるんじゃないのか。いきなり呼び出して」

「まあ、あるけど」

 彼女の反応はそっけない。
 善くんは額に手を当てて、またしても小さなため息をつく。


「……ここでいきなり運動しようなんて言われても、訳がわからない」

「そうだね。ごめん」

「そう謝られても……いや、俺のほうこそごめん」

「ううん。話については、あとで言うから今は遊ぼう」

「ああ、わかった」

 彼は納得することにしたようで、それ以上は追及しなかった。
 生殺し状態ってこういう時のことを言い表すんですかね、きっと。

 靴は履き替えなくてもいいらしく、土足で入ってボールを入口で借り、端に荷物を下ろす。
 善くんは心なしかさっきよりも面持ちが良くなっている気がする。

 仕切りで区切られた反対側では、バスケットコートの半分で三人対三人(スリーオンスリーって言うんだっけ?)をしている人たちがいる。
 こちら側の芝のコートでは、十数人の学生とおじさんの入り混じった集団がフットサルをしている。

 秋風さんは「ちょっと走ってくる」と言ってコートの脇を周り始めた。
 善くんはフットサルを眺めつつリフティングをしている。

 俺はスクワットでもしてればいいんすかね、と彼に視線を向けると、上にボールを蹴り上げキャッチして、こちらに向き直った。


「未来もやる?」

「いや、サッカーあんま得意じゃない」

「なんだよ運動得意だろ」

「……わかった、貸して」

 ボールを受け取って、二十回程右足で蹴り続ける。
 左足に移し替えても意外とできた。才能があるのかもしれない。

 サッカーやってたら百年に一度の革命児として世界に名を轟かせていたかもしれない。
 いやあやってなくてよかった。
 と思ったところでボールが落ちた。ころころと転がって、善くんが足でそれを止める。

「上手いじゃん」

「なんかできた」

「サッカーの授業んときもっとやればいいのに」

「キーパーが一番楽しい」

「いつも通り変わったやつめ」

 とはいえ、スキルテストはちゃんとやったけどな。
 初心者に優しく十五回でA判定だったからクラスの人もだいたいできていた気がする。


 フィールドプレーヤーをやると、足の内側で蹴るのに慣れていないから、ついついつま先で蹴ってしまって爪を殺してしまう。
 ということで、俺はいつもキーパーだ。校庭を広く使っているから暇な時には座ってサボれるしホワイトな職業である。MFとかブラック企業の社畜でしょアレ。

 まあ、ドリブルで相手を躱すのは楽しいけど。
 サッカー部のボール捌きを見ると魔法使いみたいだ。洗練されていて、無駄な動きが少ない。

 ソラの感覚の話を思い出す。
 たしかに、善くんは足にボールが吸い付いているように見える。

 それから何回かパスをし合っていると、秋風さんが戻ってきた。
 はあはあ息を切らして上着の裾をきゅっと握りしめている。どうやらこちらもこちらでかなり緊張していたらしい。

 善くんはその様子を見てくすりと笑うと、彼女に向けてボールを蹴った。

「ここ場所あるし、鳥籠やろーぜ」

「うん、でも三人で?」

「まあ、できなくもないだろ」

 断る理由もないので了承する。
 彼女も同じように頷いて、俺にボールを蹴ってきた。

「最初は俺が鬼。取られたらチェンジで、五分後鬼だった人がジュース奢りでいこう」

 腕時計を見ながら善くんが言った。
 やはりサッカーをしていると楽しいのだろう。顔つきもにこやかになっている。


 さあて、と秋風さんに向けてボールを蹴る。
 一瞬で取られる。あれれー? おっかしいなー。

「あはは、未来くん下手!」

「上手いも下手もないと思います」

 チェンジする。追いかける。なかなか取れない。
 そうだ。善くんの頭上を越える高さのパスをすれば良かったんだ。今更感。
 てか秋風さんパス上手いし、普通に体育会系じゃねえか。

 俺が必死にもがいていると、パスをしながら二人は会話を始めた。

「美柑ってサッカーするの好きだったっけ」

「うん。いつもは見てるだけだけど、やるのも好き」

「言ってくれればこういうとこ来たのに」

「県スタに試合観に行ったりしたじゃん」

「あー、でもそん時ちょっと退屈そうに見えたから」

「そんなことないよ。楽しかった」

「そっか」

 まてまてなんか普通にイチャイチャし始めてませんか。

 なるほど、これが会話のキャッチボール。比喩でもリアルでも。
 普段ほとんどドッジボールしかしていないから、素直に羨ましい。


「あ」

 簡単に取れた。
 つーか善くんが珍しくぼうっとしてた。

「チェンジ」

「未来もやるな」

「いま何分?」

「あと二分半」

 言うとすぐに、めっちゃプレッシャーを掛けられる。
 慌てて蹴り上げる。今度はうまくできた。

「うわっ」

 と思ったら今度は秋風さんが取られた。
 三人なんだから相手の方で待ち構えてれば余裕で取れてしまうのだが、
 まあそこは気にしないということで。
 秋風さんの動きは俺よりも全然機敏だし。運動不足がすぎる。これだけで疲れている。

 その後は一進一退の攻防を繰り返し、善くんの声でようやく勝敗がついた。

 結論から言うと、俺が負けた。
 足がついていかなかった。あと二人のパスがうますぎた。


 五分と言わず三分も持たなかった。
 俺はウルトラマンか。
 あれは戦闘シーンを撮るのにお金がかかるから三分がギリだったという話だ。つまりそれ以下。

 二人はにこにこにやにや笑っている。
 最後の情けとばかりに善くんがチャンスボールをくれたのに、反応できなかった。

「俺オレンジジュースで」
「私は炭酸で」

 よろしくー、とひらひらと手を振られる。

「わ、わざと負けてあげたんだからね!」とツンデレごっこをしようと思ってやめた。負け惜しみっぽいし。
 いや、ほんとに。悲しくなるくらいに息が上がっている。
 てか、秋風さん負けず嫌いすぎる。目がマジだった。佑希が言ってたのはそういうことか。

 自販機まで歩く途中に後ろを振り返ると、彼と彼女の距離は近付いていて、お互い笑みを浮かべながら違和感なく会話をしていた。

 いや、本当に俺いらなかったんじゃね……?


 飲み物を四本(老体には二本必要だった)買って戻ると、秋風さんは芝の上に座っていて、善くんの姿はなかった。

「善くんは?」

「あそこ。人数合わせで呼ばれちゃった」

 彼女の指をさした先で、善くんは大人に混じってボールを蹴っていた。
 見た途端に簡単にゴールを決める善くんに感心していると、隣からぷしゅっと缶の開く音がした。

「ごちでーす。ありがとね」

「どうも」

「かんぱいしよ」

 缶を向けられる。
 いえーいと言って合わせる。擬似的なアレ。頭がおかしくなってきた。

「次はなにして遊ぶ?」

「まだやるんすか」

「まだ……ってまだ三十分も経ってないよ? 運動不足やばくない?」

「やばいですね」

「善が戻ってきたら、上のバッティングセンター行こうね」

「ええ……」

 そんなのあったんすか。
 ストラックアウトもあるんだよー、と言ってにこにこ笑っている。


 普通にかわいい。そういえばちっちゃくておしとやかだから好みだったんだ。
 友達の彼女じゃなきゃ今頃惚れてるわ。
 何かに一生懸命な女の子って素晴らしい。

「おー」とか「あー」とか「うわー」とか言いながら善くんを応援していると、急に秋風さんが話しかけてきた。

「そういえば、未来くん」

「なに?」

「身体動かすの、やっぱ得意じゃん。
 運動部じゃないのにすごいと思うよ」

「えー、照れるな」

「ふふふ、照れるなんて思ってないでしょ」

「……ん?」

「だって、未来くんはもっとやれるはずなのに」

「……」

 ……。
 ……もっとできる?

 意味がわからなくて俺が黙ると、彼女も黙った。
 遅れて、まずいことを言ったという顔をされる。余計わけがわからない。


「ごめんごめん! もう試合終わったから次行こうぜ」

 が、それも一瞬のことで、善くんがタオルを肩にかけていい汗をかきながら戻ってきた。

「どうしたの?」

 彼は俺と秋風さんを交互に見て、首をかしげる。

「善くんすごいって話してた。あとこれ、オレンジジュース」

「おー、ありがとう。……んで次はどこ行く?」

 善くんが秋風さんに問いかけると、彼女の表情はいつものゆるふわな感じに戻った。
 俺は少しほっとした。どうしてだろう。

「バッティングセンター行こ」

「お、未来くんもやる気出てきたの?」

「勝負しよう。次は俺が勝つ」

 言うと、二人の目がマジモードになる。その場の空気が変わる。
 口からでまかせで言ったはいいが、どんなスポーツでも勝てる気はしなくなってしまった。


【疎外】

 数時間に渡るスポーツ対決の末、待ち合わせ場所のモールに戻ってカフェに入った。

 ぐーっと大仰に伸びをしてもまだ身体が痛い。
 普段使わないようないろんな筋肉を使った。

「はいこれ、お返し」

 アイスコーヒーとホットドッグを善くんが持ってきてくれた。
 ありがとうと言って受け取って、ミルクを入れてから飲む。

「いやあ、最後はぼろ負けだったな」

「未来くんダンスゲーム強すぎだよ」

「たまたまだと思う」

 今目の前にあるものは、二人からの奢りだ。
 なぜかと言うと、最終対決のDDRでなぜか大勝してしまったから。

 ちなみに全スポーツを含めた通算戦績は二勝五敗だった。生粋の体育会系の二人から二勝あげただけでも褒めて欲しい。
 勝ったのがボーリングとDDRだからあんまり運動神経関係ないかもしれないけど。


 勝負とは関係ないけど、ひとつ気になったことがあった。
 どことは言わないけど勝負中に揺れが気になって集中できない俺と涼しい顔をしている善くん。

 どこで差がついた?
 いやまあ、うん。どうでもいいな。

「善がダンス苦手だって初めて知ったよ」

「……やる機会ないし」

「ふふ、新たな発見だね」

「そうだな」

 微笑ましい光景を見て、向かいに座る俺は心が浄化される気分になる。
 ホットドッグに口をつける。ちくしょう、美味しいじゃねえか……。

 二人は対決を重ねるにつれてだんだんと打ち解けていって、チーム戦じゃないのにチームのように攻めてきた。
 カップルと 俺。結局楽しかったからいいけど、二人が眩しいからなあ。

「未来は運動するべきだな。三時間かそこらで足攣るのはさすがに運動不足じゃ済まないと思うぜ」

「……返す言葉もないです」

「運動部入ったらいいじゃん。たしか帰宅部だったよね?」

 俺のことを意外とよく知られておる。善くんから聞いてたのかな。


「いや、最近ソラと部活入ったんだよ。文化部だけど」

「何部?」

「イラスト部」

「へー。美術部みたいな感じ?」

「まあ、うん」

 ちょっとだけ胡依先輩の言っていたことが脳裏をよぎったが、一般的な認識としてはそれで間違いではないから訂正はしなかった。
 実際俺も先輩の発言を聞くまでは、何が違うのと問われても答えられなかっただろう。

「あ、そうそう。月末に文化祭あるんだよ」

 と善くんがフルーツジュースを飲みながら言うと、

「知ってる」

 と光の速さで秋風さんが答えた。謎の速さだ。

「サッカー部って何やるんだっけ?」

「毎年恒例のチョコバナナ。
 今年はビンゴとかもやるらしいけど、それについては一個上に任せてる」

「ふうん。なら善くんは店番とか?」


「そうそう。イラスト部は?」

「部誌を作って販売。だから今作ってる途中」

「あ、じゃあ今日ももしかして」

「いや、大丈夫だけど」

 言わないけど、大丈夫じゃないんだよなあ。
 昼までに少しやったが、今日一日の遅れは結構でかいかもしれない。

「美柑の高校は文化祭いつなの?」

「来月の終わり。初めてだからわからないけど、ミスコンとかあるって聞いた」

「ああ、女子校だもんね」

「未来くん知ってたんだ」

 口を挟むと意外そうな顔をされた。
 ストーカーじゃないです。なんか知ってただけです。

 つーか女子校ってどんな百合ワールドが展開されているんだろうか。
 いやけどネットで見た記事とかだと平気で下ネタとか話すし色気も微塵にもないとかなんとか……。

 わたし、気になります! 折木さん教えてください!
 思わず好奇心の塊である黒上美少女を想起してしまった。
 胡依先輩は京アニで一番好きらしい。俺は人が飛ぶアニメが好きだ。


 うちも大概女子が百合百合している思うけど(大部分は先輩と東雲さんのせい)一応男子の目はある。
 その下卑な視線(誇張)から解放された時、女の子達はどうなってしまうんでしょうかね。

 れーちゃんとかいうガチっぽいのもいるし。あの子危険だから奈雨は絶対に俺の手で守らねばならん。

 などと実用的な妄想を繰り広げていると、俺を他所に二人は会話を続けているようだった。

「うちの文化祭くるか?」

「……どうしよう。予定が合えば行けるけど」

 秋風さんは答える時に少しだけ顔をしかめた気がした。二秒ほどではあったものの、彼女はいつもにこにこしているイメージだから気になってしまう。
 けれど善くんは隣に座っているから、その表情を見てはいない。

 なんのこっちゃと思ってたら彼女と目が合った。
 あっ、と驚いた顔をしてすぐにくすくすと笑われた。

 年上女子感すらある微笑み。
 ……でも、なんだろう。

 少しだけわかってしまった気もするけど、善くんはあえて話題に出したのだろうか?


「うちのクラスの出し物ジェットコースターだからさ、良かったら来てよ」

「うん。考えとく」

 なるほど、ますますわからん。
 べつに知らなくてもいいんだけど、それが俺ならわかるってわけではないと思うし。

 それ以上の広がりがないと判断したのか、善くんは話題を変えた。

 お互い連絡先を消していたらしい。
 交換している。現代っ子って怖い。

 ほどほどに会話があったまってきた頃に時計を確認すると十八時を過ぎていて外も暗くなり始めている。

「明日も学校だしそろそろ帰らない?」

 長居してもアレなので簡潔にそう伝えると、秋風さんは頷いたが、善くんは渋るような態度を見せた。

「あー、俺だけ帰ってもいいけど」

 話については俺がいると面倒かもしれない。
 いや、確実に面倒だ。どっちかからは知らないけど告白するだろうから。

「大丈夫だよ未来くん、みんなで帰ろ」

「そうしよ?」と隣の善くんに彼女は甘えたような口調で言う。

「美柑がそう言うなら」

 頭を掻きながら言う。そういう反応をする人だっけか。

 まあ何はともあれ、三人で帰路につくことにした。

今回の投下は以上です。


【核心】

 最寄り駅から家の方角へと歩く。
 夜になったからなのか少し風が出てきて肌寒い。

 四、五歩前に秋風さんと善くん。
 どういうわけか雰囲気が悪かった気もして、スマホをいじるフリをしつつ距離を取った。

 耳を澄ますと会話が弾んでいるようでなによりだ。
 身長差も程よい。お互い後ろ姿まで(ジャージなのに)決まっているから絵になる。

 秘技隠し撮り。トレスしよう。
 手とか繋いだらもっと映えるのに。

 黒子に徹していると、すぐに善くんの家の前まで到着する。
 秋風さんの家はもう少し先らしい。
 じゃあねと手を振りあっているから、話とやらは次に会う時になるのかな。

 俺も俺で善くんに目掛けて手を小さく上げて、秋風さんともここで別れようとしたのだが、彼女からは待っててと視線で促される。


「この際だし送ってよ」

「善くんに頼めば……もう中に行っちゃったけど」

「えーいいじゃん。こっからあんまりかからないし、この前会ったコンビニの近くだから、そこまででいいよ」

「まあ、そこまでなら」

「あー未来くんやっぱり優しい」

「そりゃどうも」

 この子警戒心とかないのだろうか。
 ……いや、警戒されても困るけど。送り狼にならんとも限らない。

 自然と並んで歩き始める。
 実際問題、この辺は暗くなると街灯間隔も広いから、女の子一人だと危ないかもしれない。
 車の通りはいつもどおり多いんだけどね。無灯火が多いので警察もパトロールしてるし。

 とはいえコンビニまではさして遠いわけでもなかった。
 小学校の時は地区わけなんかもあって、運動会は地区対抗だった。秋風さんの家のあたりの地区(ソラもそのあたり)が圧倒的に強かった記憶。うちの地区は同級生が佑希と俺だけだったような気もする。

 送れと言ったのは彼女なのに、何も話しかけてはこなかった。
 無論ほぼ顔見知り程度だから共通の話題もないし、無言の時間が耐えられないわけではないが、この時間はやけに長く感じる。


 路地を抜けて大通りに出たところで、仕方なく俺から会話を切り出すことにする。

「秋風さん」

「うん?」

「結局善くんとより戻すの?」

「うん、たぶん」

「おー、それなら良かった」

「……そう言っても、あんまり私たちのことに興味ないでしょ」

 あっさり見透かされている。俺ってやっぱ顔に出やすいのだろうか。
 否定するわけでもなく苦笑いをすると、彼女は夜空に向けてふふふと笑った。

「……でも、今日はありがとう。
 久しぶりに部活以外で身体動かせたし、善のことを抜きにしても楽しかったよ」

「何も役に立たなかったけど、どういたしまして」

「ううん。未来くんがいてくれて助かったよ」

「……そうすか」

 素直に感謝を受け取ったつもりだが、俺の返事を不満に思ったのか、彼女は首をかしげながら立ち止まる。
 合わせるようにしてその場で足を止めると、俺の一歩前に出てくるりとターンをして振り向いた。


「私が善のことを振った理由、わかってるでしょ?」

「……いや」

 薄々気付いてはいるけど、それを本人に面と向かって言うのはお門違いな気がする。
 間違っている可能性もなきにしもあらずだ。下手なことは言えない。

 彼女は「そっか」と呟いて小さく咳払いをする。

「未来くんなら、わかると思ったんだけどな」

「どうして?」

「……どうしてって、私と同じ気持ちを抱えてそうだからに決まってるじゃん」

「なんのこと」

 俺はとぼけた。次に言われる言葉なんてわかっているのに。
 その様子を見て、彼女はゆっくりと首を振る。


「私が善に感じてる気持ちは、たぶん未来くんが佑希ちゃんに向けているものと同じだと思うんだ」

「……」

「……違う?」

 そうくるだろうとはわかっていたのだが、いざ言われてしまうと、咄嗟の判断ができなかった。

 カフェで感じた違和感。うちの高校の話を避けている。
 でも、うちの高校についてよく知っている。
 そこから導き出される結論は、ひとつしかない。

 俺が黙っていると、彼女はひとりごとのようなものを語り始めた。

「善って、かっこいいし優しいけど、ちょっと無思慮なところがあってさ。
 私はいつも笑うようにしてるけど、いろいろ考えてることだってあって、付き合ってるなら言わなくても気付いて欲しいことも多かったの」

「……」

「高校の話をされるとさ、本当に付き合ってていいのかなって思うの。
 善は楽しそうに行事の話とかをしてきて、私は駄目だったのにって思って、なんとなく気分が沈んでさ」

「秋風さんは……」


「うん、そうだよ。一緒に目指してたのに、私だけ落ちちゃった。
 たしか未来くんとは入試の席近かったよね」

 言われて思い出す。彼女は頭が良かった。でも、今通っている高校はお世辞にも進学校とは呼べないところだ。
 首都圏に比べればこっちは田舎だから、私立ではなく公立至上主義なところがある。

 彼女はひとつのターニングポイントで、彼と違う道を進むことになってしまった。
 だから、会うことが億劫になって、耐えきれずに別れてしまった。

 受験の合否は友情ですら簡単にヒビが入る。
 仮に俺は受かってソラや善くんが落ちたとしたら、こちらとしても顔を合わせにくくもなる。

 それでも、男女交際を続けているのなら、彼と会わずにはいられない。
 学生なのだから会話の端々に学校の話題が織り込まれる。その度に少しずつ嫌な気持ちが溜まっていく。

 何より彼は受かった"が"私は落ちたという明暗がはっきりと分かれてしまった。

 恥ずかしいと思うかもしれない。
 惨めだと思うかもしれない。
 もしかしたら嫉妬するかもしれない。

 対等な関係で付き合っていたのならそれは尚更だ。


「でも、それと俺の何が関係あるんだよ」

「……佑希ちゃん。すごい子だよね。
 勉強もスポーツもなんでもできるし、私は何ひとつ勝てなかった」

「それで?」

「実は私さ、未来くんたちの学校の中学受験もしてたんだ。
 高校でまた受けたのは、善と同じが良かったのもあるけど、小学校の時のリベンジマッチって意味もあったの」

「……」

「佑希ちゃん、やっぱりすごいよね。
 私たちの小学校ちょっとレベル低かったから、受かったのあの子だけだし」

「ああ、すごいな」

 取り合わないように適当な相槌をすると、彼女は見てわかる程の苛立ちを面に出した。
「俺ならわかる」というのは、こういうことが言いたかったのか。

「私は模試でもボーダーぐらいだったから、先生にも博打ですねって言われてたんだ。
 それで、悔しかったから、受かりそうな人はいるんですかって先生に聞いたら、
 佑希ちゃんと未来くんはたぶん余裕で合格するだろうって言ってたの」


「ねえ、どうして受験しなかったの?」と彼女は俺を見ずに言う。
「自信がなかったから」とすぐさま俺は答える。

「嘘でしょ」

「嘘じゃないよ」

「だって、小学校の時は佑希ちゃんと二人で競い合ってたじゃん」

 そうだっけ? 覚えていない。
 同じぐらいのレベルではあったけど、俺は別に真面目にやってはいなかったし記憶にない。

「未来くんは、佑希ちゃんと比べられるのが嫌だから受けなかったんじゃないの?」

 まるでそうでないと困るとでも言いたげに、彼女は俺を見据える。
 俺は舌打ちを堪える。こういうのは相手にしたら駄目だ。

 けれど、仮に俺が佑希に嫉妬して受験しなかったからといって、それが何なんだ。

 俺が高校を受けて合格したから、それにもまた悪い感情を抱いているとかか?
 それか、落ちた自分と回避した俺を重ねて、勝手に同類だと決めつけているのか?


 どっちにしたって、彼女の稚拙な妄想にすぎない。
 佑希は喜んで受けていたけど、勉強をしたくない俺がわざわざ受ける必要は微塵にもなかった。

「悪いけど、秋風さんは何か勘違いしてると思う」

 冷静に言うと、彼女は押し黙った。
 またしても出かける舌打ちを抑えて、再度口を開く。

「俺は、べつに佑希が受けようが受けまいが中学受験はしなかったよ。
 あんなとこ入って中学から勉強漬けなんて嫌だし、小学の友達はみんなそのまま同じ中学校だったから、新たな関係を築く手間も省ける」

「……」

「言い方は悪いけど、中学なんてどうでもよかったんだ」

 これは本心だった。
 受験して落ちたわけでも、直前まで迷ってて止めたわけでもない。

 ハナから受けるつもりなんてなかった。

「──なら、どうして」

「なにが」


「なら、どうして高校は受けたの。
 わざわざ佑希ちゃんと比べられる場所になんて行く必要ないじゃん」

 ……ああ、そういう。

 この子俺の話聞いてないな。
 どうして受けたって、そんなの俺も知らねえよ。
 第一、俺のことを知った気になっている他人に咎められることでもない。

「近かったから」

「ほんとうに?」

「ほんとうに」

 真面目に勉強に取り組んで落ちてしまった側からすれば、俺の言い分は最低かもしれない。
 でも、俺が受かったからといって彼女に実害は出ていないし、つまるところ落ちたのは彼女の実力不足という四文字で片付けられる。
 俺が受けなかったからといって彼女が受かったとは言い切れないし、何を言われたって俺には関係がない。

 彼女はまだどこか信じられない様子で俺の表情が崩れないかを観察する。

 それでも無表情を貫き通すと、やがて彼女は諦めたようにため息をひとつついた。


「……ごめんなさい。私の思い違いだったんだね」

「うん。まあわかってくれればいいよ」

 遅くなると面倒で、風も吹き付けていて立ち止まっていると寒いから、歩き出すことにした。
 彼女はまだ何か言いたげにしていたが、構わず歩き進めると俺の半歩後ろを進み始めた。

 フォローくらいしようかと思った。
 だが、それ以上に聞いておきたいことがあった。

 俺に勘違いを押し付けてきたのだから、彼女は今何を質問しても答えてくれるだろう。

「……秋風さんは、これから付き合うとしてつらくならないの?」

 一度駄目になって、でも好きで。
 復縁したとしても、言わなければ彼のスタンスは変わらないだろう。

 ひょっとしたら、言ったとしてもつらくなってしまうかもしれない。

「なると思う」と彼女は沈んだ声音で答える。


「だけど、あんまり気にしないように……がんばる。
 善のことは好きだから、周りは関係ないって思うことにする」

「そっか」

 彼には、きっと言わないのだろう。
 彼女にだってプライドはある。負けず嫌いならばより一層高いだろう。

 早足で進むとあっさりコンビニの前に辿り着く。
 中の時計をチラ見して時間を確認すると、いつのまにか結構経っていた。

「ここまででいいや」

「うん。いい結果になるといいね」

 それじゃあ、とだけ言って帰ろうとすると、彼女は「待って」と俺を呼び止める。

「聞き流してもらって構わないし、未来くんに自覚はないかもしれないけど」

 反応するか迷っているうちに、彼女は少しだけ間を置いた。


「何に対してだって、露骨に手を抜くのはやめたほうがいいと思う。そういうの、わかる人はわかるから。
 これも勘違いだったらごめん。でも、前から言いたかった」

「……お説教?」

「ごめんね」

「……まあ、それも勘違いだよ」

 答えると、彼女はもう一度「ごめん」と言って取り繕いの笑みを俺に向けた。

「今日はありがとう。今度はソラくんも誘って遊びに行こうね」

 手をひらひらと振りながら、俺に背を向けて去っていく。
 その姿を見えなくなるまで送ってから、彼女の言葉を反芻する。

 月の綺麗な空に渇いた笑いを放つ。
 どうして見抜かれたんだろうな。やっぱり、俺も"そっち"なのかもしれない。

 最初が全くの誤想であったから、次も頓珍漢なことを言うのだと油断していた。
 すんでのところで我慢できたが、かなり危ないところだった。

 彼女は俺の核心をついていた。
 それも、極めて正確かつ的確に。


【そこがまた】

 家に帰り、佑希と二人で夕食を食べてから自室に戻る。
 身体がとにかく痛い。マラソン大会並に引きずるかもしれん。

 佑希に「スポーツセンターに行ってきた」と会話の流れの中で言うと、意外に食いついてきた。
 よく部活の友達と行くらしい。今日は行かなかったけど運動後にはカラオケをすると。

 善くんからの連絡を適当に切り上げて荷物をベッドにぶん投げる。
 気を抜いたら眠ってしまいそうだ。シャワーはあそこで浴びてきたけど、それにしたって身体がべたついている気がする。
 秋風さんとの会話中に嫌な汗をかいていたのかもしれない。

 ああいうことを言われたのは初めてだっただろうか。
 ……いや、初めてではないな。二回目だ。

 部室で、胡依先輩に俺の印象を聞いた時にも、ほぼ同じようなことを言われた。
 そしてその時も否定した。自分の頭の中ではそれが正しいかなんてわかりきっていたのに。

 絵を描くことにおいて直面している問題でもあった。
 手の抜きどころがわからない。ほぼ初心者だから"一から十まで丁寧に"が理想なのではあるが、それをするには時間が足りない。
 一度手を抜いてしまうと、他のもっと詰められる部分にまで影響を及ぼしそうだと思ってしまう。


 とはいえ感覚でちょろちょろっとごまかせる部分もあるし、胡依先輩もそれでいいと言っていたが、ますますやめどきがわからなくなってしまう。
 線を引いていると、どれが正しいのかわからなくなってしまう。
 マーク試験で二択を迷った時のように。大抵最初にマルをつけたほうが正しいらしい。

 感覚を身につけることは簡単だ。
 少なくとも俺にとっては、そういうコツを掴むことやテクニックを見つけることは造作もないことだった。

 でも、問題なのはその"感覚で動く自分の身体"を信用できるか否かだ。

 勝手に身体が動く。
 自分の親しんできたスポーツでの慣れや経験なら、完全にとは言わずともほぼブレなく信用できると思う。

 ただどうしようもないことに、俺のそれはいつだって曖昧だった。
 0か100かで物事を捉えていた期間が長かったからか、答えがひとつで確定している問題については得意だが、各々の判断を要する問題は少しだけ苦手意識を持ってしまいがちだ。

 コンコン、とノックの音でふっと頭をあげる。
 ベッドの上でペンタブをいじるのはよくない。もう少しで落ちてた。


「おにい、電話」

 と、扉の向こうから佑希の声が聞こえる。

「入っていいよ」

「あ、うん」

 すぐに入ってきて、家の固定電話を手渡される。
 彼女はそのままぽすんと俺のベッドの上に腰掛ける。どうやら電話を聞いていたいらしい。

「誰から?」

「伯母さんから」

 珍しいな電話なんて、と思いつつ保留機能をオフにする。
 もしもしと言うと、電話の向こうから「みーくん?」と伯母さんの声がした。

「こんばんは」

「おひさー! 元気してた?」

「はあ、ぼちぼちです」

 そっか、と彼女は言う。
 件のGW以来あっちには行っていない。


「今日電話したのはさ、ちょっとお願いがあってね」

「うん」

「月末に文化祭あるらしいじゃない。
 それでうちの子、朝早く学校行かなきゃならないって言うんだけど、ここからじゃ始発間に合わないし、私も毎日は送れないのよね」

「……うん」

「だから、火曜日から一週間と少しそっちに預けることにしようって思って、みーくんのお母さんにはもう了承貰ったから。
 だから、ちょっとだけの間奈雨の面倒を見てほしいの」

「それお願いって言わなくないですか?」

「だって、頼れるのみーくんしかいないし、仕方ないじゃない。
 佑希ちゃんと奈雨は仲悪いでしょう?」

 ちらりと佑希を見る。
 ん? と小首をかしげてきょとんとしている。どうやら漏れ聞こえてはいないらしい。

 ちょっと待って下さい、と言って保留ボタンを押す。

「なに?」


「ああえっと、奈雨が一週間くらい泊まりに来るって」

「……そう」

「べつにいいよな?」

「あたしは……。うんと、おにいはどうしたいの」

「母さんがもう受けたって」

「そっか……お母さんが。なら、仕方ないね」

 それだけ聞いたらもう大丈夫だと思い、しっしっと手をはらって彼女を部屋から出させてから、再度通話ボタンを押す。
 怪訝な目を向けられたが、伯母さんは何かまずいことを言ってくるかもしれない。

「いいですよ」

「そっか、良かった。奈雨とラブラブな一週間を過ごしてね」

「……はい?」

 ほら言わんこっちゃない。普通に声大きいし。


「え、なに。まだ付き合い始めてないの?」

「うん」

「……あれ? お兄ちゃんが来てくれるって今年の春に喜んでたから、てっきりそうなったのかと。
 あの子、みーくんの話を出すと途端に機嫌悪くなるから、てっきり照れてるのかと思ってたんだけど」

 はあ、なに言ってんだろこの人。
 アレだろ。雪村零華的反応。俺マジでれーちゃんのこと好きすぎるな。

「そういえば、昔はみーくんのことお兄ちゃんじゃなくて"みー"って呼んでたよね。
 いつからお兄ちゃんって呼ぶようになったんだっけ」

「知らないよ。気付いたらそうなってた」

 本当は覚えているけど。
 なんとなく答えてしまいたくはない。

「ふうん。みーくんが呼ばせてるの?」

「そんなフェチはないよ」


「あらやだ。こんなおばさんにフェチだなんて」

「失言でした」

 言葉通り失ってはいけない何かを失ってしまった気がする。
 電話口からは、あららうふふとマダムな微笑みが聞こえる。

「昔は"みー"って言って甘えてたのにね。
 いつからうちの娘はあんなにかわいげがなくなってしまったのかな……お母さん悲しいのよ」

「反抗期ですよ」

「でもぷんぷん怒ってるあの子かわいいわよね」

「ですね」

 そうだ、この人親バカだった。
 うちとは正反対。奈雨も少しうざがっている。
 まあ、過干渉とかではなくて、この歳の娘がいたら誰だってなるくらいの軽いものではあると思うけれど。


「なら奈雨のこともらってくれない?」

「……いきなりなにを言い出すんですか」

「あ、婿入りでもいいよ? 旦那の家だって由緒正しいところだから」

「あの……」

「だって、みーくん以外に奈雨をお嫁さんに出してもいいって思える男の子いないんだもん!」

 もん! って……。
 ちょっと買い被りすぎやしないか。
 俺も彼女もまだそういう年齢に達していないのですが。

「俺はそんな立派な人間じゃないですよ」

「えー……でも、あのとき奈雨を助けてくれたのはみーくんじゃない」

 あのとき。あのときか。
 ……いや、そうなのかな。

「あのときも、きっとたまたまですよ」

「なんかみーくん、今日は一段とネガティブじゃない?」

「ていうかまず、奈雨の気持ちもあるでしょ」

「ずっとみーくんに向いてるはずだよ?」


「いや、俺には好きな人いないって言ってましたよ」

「……なるほどー。あの子も意外といじらしいところあるのね」

「……え?」

「こっちの話」

「……はあ、まあちょっと生意気になりましたよね」

「そこがまたかわいく見えちゃうんだけどね」

「親バカ拗らせすぎでしょ」

「言うようになったねー」

 それから取り留めもない話をして、「あとはあの子に任せるから、よろしくね」と電話を切られた。

 少しして思い出したけれど、俺合宿あるから家を空けると思うんですが。
 てことは奈雨と佑希が家に二人。大丈夫か? いや、俺と接触している方がかえって危険かもしれない。
 表立って仲悪くしているわけでもないし。電話の内容からは普通にバレてるみたいではあったけど。

 いやまあ、大丈夫だろ。
 さすがにうちに来てまで奈雨がせがんでくるとは思えないし。

 なってしまったことは仕方がない。
 先にどうなるかは、なってみてから考えよう。


【計画】

 昼休みの教室でソラと善くんと三人で昼食をつついていると、不意に後ろからズドンという感覚を背中に得る。
 昨日のことを根掘り葉掘り聞かれて俺の痴態が暴かれていたから、その心理的ショックが身体にダメージを与えているのかと思ったのだがそうでもないらしい。

 視線を肩に落とすと、女の子っぽい細い指が確認できる。

「あ、黒髪ショート」
「あ、未来を拉致した子」

 というソラと善くんの同じような呆けた声とともに振り返ると、雪村零華が俺の肩を掴んでいた。
 目が合うとかわいらしくはわわーと笑い出す。そのまた後ろには奈雨がばつの悪い顔をして俯いている。

「先輩。デートの予定を立てにきました」

「帰ってください」

「えー、せっかく奈雨ちゃんも連れてきたのに、先輩のいけずぅー。
 約束破らないでくださいよ、わたしみたいな女の子とのデートなんですから」


「約束したっけ」

「しましたよ! あ、録音聴きますか? ちょっと待ってくださいねスマホ出しますから」

「あのさ……」

 と文句を言おうとしてから、男二人の方へ向き直る。
 善くんはやれやれと笑っている。ソラは泣き真似をしつつ目を抑えている。

「ついにミクちゃんにも春が来たのか……」

「来てねえから。あとミクやめろ」

「なあ善くん……俺の春はいつくるんだい?」

「きっとそろそろ来るよ」

 爽やかな善くんが戻って来ている!

 いや、昨日も充分爽やかだったけど、今日は何だか三割増しくらいで爽やかだ。

 さっき聞いたけど今週また二人で会うらしいし。
 まあ、彼の男を見せる相手は秋風さんだけだろうけど。


「あのう、先輩。無視しないでくださいよ」

「あ、うん」

「ここじゃあれですし、いつもの場所に行きましょうよ!」

 なぜかテンションが高い。
 奈雨は「いつもの?」と首をひねっている。

「ややこしい言い方やめてくんね」

「はいはい。じゃあささっと立つ! 歩く!」

 無理やり立たされて引っ張られる。
 男二人からひらひらと別れのジェスチャーをされる。

 心なしか教室がざわついている気もするが、きっと気のせいだな。

 渡り廊下を通って中学校舎側の階段を降り、いつもの場所(二回しか来ていない)の中庭に到着する。

 今日も今日とて日陰で寒い。
 女の子二人は何やら内緒話をしている。あ、奈雨の顔が赤い。

 伯母さんの言う通りかわいいなと思っていると、ベンチに俺と奈雨を隣り合わせで座らせて、うるさい後輩は腰に手を当てて不満げな顔をつくる。


「てかてか、先輩のおうちに昨日も行ったんですけど、いなかったじゃないですかー」

「……え、れーちゃんお兄ちゃんの家知ってるの?」

「ほら、佑希先輩の家だし」

「あ、あー。うん、ごめん……そうだよね」

「え! ううん。謝らなくて大丈夫だよ奈雨ちゃん」

 全ての語尾にハートマークがついてそう。
 てか雪村零華のことを何と呼べばいいんだろうか。
 れーちゃんか? あや、奈雨の前だと普通に恥ずかしい。奈雨はれいちゃんっぽいれーちゃんだった。ちょっと舌ったらずっぽいんだよな。

「で、先輩。昨日はどこ行ってたんですか?」

 頬をぷくーっと膨らませてぷんすか怒っている。
 奈雨はあははと半ばお姉ちゃんのような笑みを浮かべている。


「零華は?」

「……い、いきなり呼び捨てとかきもくないですか?
 れーちゃんって呼んでくださいって言いませんでしたっけ」

「はあ……れーちゃんはどこに行ったんですか?」

「うわれーちゃんとかちょっとアレですね。ぞくっとします」

「このやり取り何回目だよ……」

 三回目くらいか? もはや天丼化している。
 他の人が見ているならまた違うけど、二人でゼロ人の観客の前で漫才をやったって誰も笑ってくれませんよ。

「れーちゃんはわたしと一緒に学校で文化祭の練習してたよ」

「あ、そう。変なことされなかった?」

「……う、うん。なにが?」

 あれ? 伝わっておられないのか。

「ちょっと先輩。わたしのことどんなふうに思ってるんですか!」

「変な女」

「奈雨ちゃんの前では、わたしはいつもかわいい美少女でありたいんです。偏見はやめてください」


 ぶつぶつ文句を言ってくる零華に「れーちゃんはかわいいよ」と奈雨が微笑み混じりに言うと、うへへと嬉しそうに笑いながら俺に視線を向けてくる。

「それで、どこ行きますかー?」

「俺の昨日の話はどこいった」

「だってどうでもいいじゃないですか。
 今のわたしは奈雨ちゃんとのデートに注力しているので、はやく決めましょ」

 じゃあ最初から訊かないでくれませんかね……。

「奈雨はどこがいい?」

「お兄ちゃんが行きたいところならどこでもいいよ」

 あっ、はい。一番困るやつ。

 というかいつもと態度違くないですか。同級生の子もいるし、二人きりの時のような態度はとってはこないかもしれないけど、それにしたってなあ。

「うち来る?」

 妥当な選択肢を提供すると、零華は「はぁー」と大きくため息をついてやれやれと両の手のひらを曇り空に向かって上向けた。


「家デートってなくないですか。しかも三人ですよ」

「え、そう?」

「わたしはいいけど」

 奈雨はふふんと笑う。
 えー、と零華に睨まれる。でも奈雨を気にしてかキレがない。

「そういえば、火曜からうちに泊まるんでしょ?」

「うん。お世話になるね」

 え? とまた驚きを体全体で表現する零華に、奈雨がざっくり説明をする。

「だったらなおさら外に行きましょうよ。
 二人はおうちでいちゃいちゃしててください」

「いちゃ……」と奈雨は口籠る。

 俺はため息をつく。勝ち誇った笑みを向けられる。
 視姦とか犯罪並に怖い行為だからな、わかってるんだろうか。


「モールとかか?」

「いいですね! わたし冬に向けて買いたい服があるんですよー」

「いや訊いてないけど」

「なんか今日の先輩棘強くないですか。
 ……まあ、どうでもいいしそれはいいとして、いつにしますか?」

 きみの言葉の方が鋭利だし刺さるんですがね。
 ん、と零華は奈雨に目をやる。俺の意見は採用される見通しは立っていないらしい。

「今週はほぼ練習あるけど、水曜日はお休みだよ」

「じゃあ水曜日と。先輩ももちろん空いてますよね?」

「普通に予定あるよ」

「空けるんですよ!」

 はーわかってねえなこいつ、という顔をされる。表情筋柔らかすぎるだろこいつ。


 逡巡していると、零華は俺の隣に腰掛けて、奈雨から見えないように口パクで何かを伝えようとしてくる。

 い、う。いう? え、違う。
 あっ……キスですか。わかりづれーよ。

 ゆ、き、せ、ん、ぱ、い、に……。

「ああもうみなまで言うな。
 わかったから、予定空けとくから」

「あはは、先輩さいこーですね」

 手のひらクルックルだなおい。
 さながらドリルだ。穴が開いちまうかねじ切れちまう。

「あ、せっかくだし奈雨ちゃん先輩に服選んでもらったら?」

「うん、そうしよっかな。お兄ちゃんよろしく」

 二人だけで会話を成立させるのやめてもらえる?
 だが何かしらの波動を感じて強くは言えない。俺は年下の女の子に弱い生き物だ。


「お兄ちゃん。わたし楽しみにしてるから」

「うん」

「えと、お泊まりも……うん」

 なぜ頬を赤らめる。
 あ、やー……。もういいや。
 零華こっちみんなあほ。あとで呪う。

 まあ、そうだな。かわいい従妹と(一応)かわいい後輩の頼みと思うことにしよう。
 問題は水曜分の作業をどこに持っていくかだ。俺はできる男、さすがに抜かりはない。

 解決策は思いつきはしないんだけどな。
 今日はとりあえず部活に早く行って塗りを進めるとしよう。

「俺も楽しみにしとく」

「あ、えへへ……嬉しい」

「……ちょっと、わたし忘れられてませんか!」

 素手でべしっと叩かれる。
 ……本気で呪おうかなこの子。

今回の投下は以上です。


【統合】

 ふーんそっかあ、と胡依先輩が紅茶を嗜みながら頷いた。

 かと思ったら、

「許せるわけないでしょ!」

 と声を荒げられる。服に溢れてますよお嬢さん。
 それにしても実に耳にきんきん響くボイスをお持ちで。

「待ちに待った合宿初日から! 女の子とデートするから! 来れないなんて! 部長は許さないぞ!」

 胡依先輩はぷんぷん怒っている。
 ソラはゲラゲラ笑っている。
 東雲さんはまだ来ていない。

「昨日もずっと待ってたのに誰一人として来てくれないし!」

「すみません」

「夜にププのアプが尊いんじゃ! とか大声で叫んでも私は一人だし!」

 ププのアプ。ププノアプ?
 呪文か何かだろうか。全くわからない。


「あ、胡依先輩。ちなみに女の子は二人でした」

「ええっ? そらそらくんその情報は正しい情報かい?」

「はい。未来にラブレターを出してきた黒髪ショートともう一人は茶髪ツインテっす。
 どっちも未来の好きそうなロリっ子でした」

「俺はロリコンじゃねえよ」

 なるほどうんうん、と先輩が頷く。
 本当に俺のイメージどうなってんだよ。

「でも、そらそらくんは少し間違ってる!」

 おお?

「白石くんはロリコンじゃなくて妹好きなだけだもん!」

「どっちみち違いますから」

 なんだよ……期待して損した。
 してやったりという顔を二人から向けられる。

「そらそらくんはどっちの子が好みだった?」

「え、俺は黒髪ショートの方ですかね。
 あの子は絶対性格いいっすよ。ノリもよさそうだったし、お近付きになりたい」


 勝手に寸評しているけれど、あっさり零華の外面に騙されているな。
 にこにこの笑顔の裏で腹はドス黒いからな、あいつ。

 あの、人の話を聞かずに俺を連行した様子も、彼の美少女フィルターを通せばノリのいい子として映ってしまうらしい。

 三人の後ろ姿を映した盗撮写真をソラが胡依先輩に見せている。
 いつのまに撮ったんだよそんなの。

 普通に怖いわ、と思っていると、先輩が写真を指差しながら「かわいいー」と言っている。
 上半身しか映っていないのにわかるものなのかそれって。

「白石くんは? どっちが彼女?」

「どっちも違います。片方は従妹ですし」

 もう片方はやかましい後輩な。
 奈雨と零華じゃ妹レベルが違う。

 俺がどう思いたいかを抜きにしても。

「あ、もしかしてお兄ちゃんって呼ばせてた子?」

「……えっ?」


「ほらほら、白石くんのスマホの画面がちらっと見えたことあったじゃん。
 あれ、そんとき私忘れるって言った気もする」

 あー……そんなこともあったようななかったような。
 つーかなぜ覚えているし。やっぱ妖怪並に怖えよこの人。

「なるほどー。妹だけでは飽き足らず従妹にも手を出しているのかー。
 白石くんって見かけによらずたらしだよねー」

「その棒読み口調やめて下さい」

 あははごめんごめーん、と謝られる。
 それも棒読みなんですけどね……。

「つーか未来と佑希ちゃんにあんなかわいい従妹いるとか聞いたことねえし」

「言う機会ないだろ」

「いや、おまえ隠してたんだろ」

「……はあ?」

「俺にいじられるのが怖いからだな! 善くんがツインテと未来が逢引してるの見たって言ってたぞ!」

「いや逢引って」

 まあ意味の上ではそうだけど。


 その後もいかにモテたいかを無限に語り続けるソラを軽くいなしていると「白石くん」と先輩に名前を呼ばれる。

「デートたってどこ行くの? 場所によっては私も許せる」

 許す許さないの話なのか。

「えっと……多分駅前のモールです。服買うって言ってました」

 言うと、先輩はそっかそっか、と小さく呟いて顎に手をやる。

 ソファに背中を当てて外してを一定のリズムで繰り返すのを見ていると、
 急に何かを閃いたように顔だけこちらに向けた。

「白石くんの絵ってかわいいじゃない」

 はあ、ととりあえず返す。
 すると、先輩は立ち上がり俺の席へと寄ってきて、先ほどまで色を塗っていた絵を指でさした。

「この上目遣いでキスをせがむ女の子の絵。ものすごく艶っぽくて好き」

「あ、はい」

 隣のソラも覗き込んでくる。
 たしかにえろい、と言っている。
 いやエロ絵ではないからな。健全。全年齢対象。まずそんな絵部誌に載せられねえよ。


「未来ってそういう絵得意だよな。なんでこのシチュエーションにしたの?」

「無意識で」

 まあ、理由は知られると困る。
 奈雨とキスした翌日に頭に浮かんだから、だなんて口が裂けても言えない。

「でも、未来くんの絵にはひとつ問題点があります」

「はい」

「二次絵はいろんな服を描いてるけど、オリジナルで描くといつも制服じゃない?」

「……あ、たしかに。無意識ですかね」

 それもいいけどだめだよー、と先輩は言う。
 言われるまで気付かなかったけど、顔と首を描き終えるといつもブレザーかシャツばかり描いていた気もする。

「女の子の服に詳しくなると、白石くんの描ける幅も広がっていくよ?
 ネットで検索するとかして、好きな服があったらそれを自分の描いてる子に着せる!」

「白石くんにはちょっとはだけた服とかを描いてほしい!」と胸を張る。


 それ完璧あなたの趣味じゃないですか。
 制服だってはだけさせようとすればはだけられるし、零華が着ていたような服は描くだけでこっちが恥ずかしくなりそうだ。

 ともあれ、絵のバリエーションという点では、ありがたいアドバイスではあるのだが。

「それで、実際に服を見てこいというわけですか」

「そうそー。男の子一人だと女の子向けの服屋さんには入りにくいからね。
 かわいい子にかわいい服を着せて参考にするのが一番手っ取り早いよ」

「わかりました」

 これぞ一石二鳥。服選びでさえも合宿には必要ということにしてくれた。
 先輩って天才か? と思っていると、にやりと笑ってポケットからスマホを取り出した。

「あ、でも写真を撮ってくるんだよ」

「なんのために?」

「私に横流しするために」

「撮らせてくれるかわかんないですよ」

「じゃあ撮れたらでいいや」

「……ああ、了解です」

 仮に撮れても危険だから渡さないけどな。
 てか横流しって麻薬の密売人か何かなのかよ。胡依先輩は東雲さんの服もぱしゃぱしゃ撮ってたっけか。


 お話もそこそこ、各自の作業に移る。

 ソラはカラー絵を、俺は白黒塗りを、胡依先輩は部誌のレイアウト決めを。
 十八時を回った頃に、ソラが晩飯だからと帰ってしまって、先輩と二人きりになる。

 紅茶を淹れなおしてカップをテーブルに置くと「そういえばさ──」と先輩が口を開く。

「はい?」

「今日はシノちゃん来ないね」

「ああ、たしかに」

「でも私は待てる女だから待たなくてはいけないのだ」

 勝手に自己完結しないで。
 そういうわけで──どういうわけで?──何と言ったものかと返答を考えていると、再度先輩が後ろ髪に触れながら俺を見据えた。

「この前言ったのはね、本当は理想なんだ」

「……この前?」

「あ、うん。創る側はどっしり構えてればいいんだよって、シノちゃんに言ったじゃない」

 言いながら先輩はごまかすように笑った。スイッチの入ってない状態の先輩だと思う。


「厳しいこと言ってましたね」

「かもねー。でも、シノちゃんには期待してるからさ」

 これ見て、とパソコンをちょいちょいと示されて、先輩の後ろに回り込むと、画面にはブラウザが立ち上げられていた。

 そこには複数の絵と描いた人の名前が載っている。
 スクロールを目で追うと、中盤付近で先輩はマウスを止めた。

「これ」

『会長賞 題:流線型 ──中学校二年』

 名前は……。
 去年まで住んでいたと聞いた県のページで、フルネームまで見事に一致している。

 東雲さんだ。この絵を描いたのは。

「いやこれって……」

 離れて見てもわかるくらいに様々な色を使った水彩画。

「シノちゃんの名前で検索したら出てきてさ、私も驚いたの」

 カチカチとクリックをして、全画面にその絵を表示させる。


 曇り空とも青空とも言えない風景。
 建ち並ぶビル群。少し遠くには川に架かるアーチ。すぐ近くには両親二人の間で手を繋がれている小さい子供の影。

「すごいと思わない?」

「思います」

「こういう絵は私には描けないから、最初見たとき感動したんだ。
 シノちゃんはこんな絵を描ける子なんだって」

「いつ見つけたんですか?」

「おとといかな」

 名前検索したら出てきちゃうとか普通にアレだけど、これは……。

「……水面とか、めっちゃ綺麗ですね」

「配色がセンスぴかいち。私の好みにぶっ刺さりなの。
 しかもこれを中学二年の春に描いたっていうんだから、たいした子だよ」

 他の作品を見ても、東雲さんの絵だけ際立ってよく見えてしまう。
 それらとは違う"言い表せないなにか"があるように感じられる。


「肉体に理想を統合させること」

 絵に見とれていると、不意に先輩がそう呟いた。

「白石くんがメジャーリーガーだとするじゃない。野球の、大リーグの」

「……あ、はい」

 話題の移り変わりについていけなくて思わず反応が遅れた。

「そんで、メジャーリーガーになりたいっていう子供が、どんなことをすればなれますかって聞いたら、なんて答える?」

「……無難に考えると、寝る間も惜しんで練習しろ、とかですかね」

「普通だね」と言われる。
「そうですね」と返す。

「あるメジャーリーガーは"まずは自分の持っている道具を大切にしろ"ってインタビューで答えたらしいの。
 どこかのネット記事で見た話だから英文も見てないんだけど、ニュアンスは間違ってないと思う」

「……それがどうしたんですか?」

「理想は理想であって現実ではない。
 けど、私たちの生活は結果の連続ではないと思う」

「……」

「いくら練習したってメジャーに行ける人なんて一握りもいないじゃん。
 でも、それを結果だけ見て『俺は駄目だった』って落ち込んでしまうのは、とっても悲しいことなんだよ。
 練習においてだって、体格とかでいろいろ違ってくるから、一概に"とにかく練習しろ"とは言い切れないの」


 結果が駄目だったら過程は見られない。そういうことが多々ある。

「"道具を大切にする"ことは誰だってできる。
 貧乏な子、体格的に不利な子、初めたばかりの子──それが誰でも平等にすることができる」

 ──いくら簡単に見えても、それは自分の達成したいことへのプロセスになる。

 言い終えると、先輩はにこりと微笑む。
 きっとこの前の先輩の話は、東雲さんの一歩目を踏み出させようとしていたのだろう。
 淡々としているようで、ちゃんと深くまで考えられていたらしい。

「いい話ですね」

「所詮私の解釈だけどねー。実際はもっと、親から買ってもらったものを大切に、とかもあるとは思うし」

「まあ、そうかもしれないですけど、先輩の解釈好きですよ」

「あはは、ありがとう。そう言われると照れるな」

 あつーい、と先輩は頬に手を置く。
 そして、何かを思い出したように、ほうっと息を吐く。

「私だって、渾身の絵を批判されたら落ち込むし、昔の自分の絵を見てうぐぐってなることはあるよ」


「……ありそうですね」

 コミケの絵を見るときやたらと躊躇っていたし。

「でも、進んでいくしかないんだよね。立ち止まったら、きっとそこで成長は止まってしまうから」

 進む先に何が待ち構えていたとしても、頑として譲らない信念。
 自らの確定したスタンスを持って、理想を現実の中に内包させる。

 ずっともっていないもの。
 そして、もっていないから今まで困ってきたもの。

 俺が何かを答える前に、先輩はパソコンの画面をスタジオに戻して、ペンをくるくると回し始めた。

 二十時を回って、お腹もすいたしそろそろ帰ろうかと腰をあげる。
 胡依先輩も「今日はここまでにしよ」と帰りの支度をし出した。

 廊下を歩いて校門の前で別れるまで、先輩とは一言も話をしなかった。
 また明日、と手を挙げると、先輩は何かを言いたげに俺を見つめて、結局じゃあねと手を振って駅の方へ駆けて行った。

 "だから白石くんもがんばろうね"

 きっと先輩が言いたかった言葉はそういうものなのだろう。

 記憶の淵で燻るいつかの記憶が、頭痛となって俺の額を疼かせた。


【びしょびしょ】

「てかまじでかわいくないですか?」

 知らない番号からの電話を取ると、第一声がそれだった。
 俺はこめかみに手を当てる。そんなことしたって向こうには伝わらないけど。

「どうした」

「先輩と電話したかったので」

 きゃぴるんとした口調で言われる。
 俺は間髪入れずに通話終了ボタンを押す。

 またすぐに電話がかかってくる。
 四コール置いてから通話ボタンを押す。

「あ、せんぱ」

「おかけになった電話番号は現在使われておりません」

「あの、つまらないですよ?」

「なんだよ」

 はぁー、という大きなため息が聞こえる。


 いや俺だって面白いとは思ってないけどさ、彼女だったらもうちょいウィットの効いた会話をしてくれると期待したんだ。

「今日の奈雨ちゃん、ばりかわじゃなかったですか?」

「ばりかわ」

「めっちゃかわいいってことです」

「知ってる」

 どうしてこうコントみたいになるのかね。

「あのはわはわっとゆるい表情、いつもより割増で優しい声音、今日もかわいいふよふよついんてーるも!
 なんですかあれ人間国宝ですか世界無形文化遺産に登録ですか」

「いや形あるから」

「うるさいですね」

「お、おう……」

 感想を共有できる相手がいないから俺に電話をかけてきたのね。
 てかどうして電話番号割れてんだよ……俺のプライバシーはどこ行った。

 とりあえず三橋家のお母様の連絡先をお教えすればいいのでしょうか。
 テンションが同じ。いや同じ小中だしもう知っている可能性もあるな。

 電話口からぶつぶつ聞こえるが聞き取れない。
 正確に言うと俺の耳が聞き取ろうとしていない。

「せんぱーい、聞いてます?」

「……なに?」


「ほんとにほんとにかわいかったですよね。
 奈雨ちゃんに『れーちゃんはかわいいよ』って言われただけでわたしはびしょびしょになるって発見をしました」

「び……どこが」

「まじでデリカシーないですねー。先輩は変態ですか」

「どっちがだよ」

 まずそれを俺に報告するな。
 普通に冗談だろうけど。

 ……冗談、だよな?

「ていうか泊まるってなんですか」

「奈雨が言った通りだよ」

「おはようからおやすみまで奈雨ちゃんですか!」

「その言い方最高だな」

 こいつと話してるとIQがどんどん下がっていく気がするわ。

「奈雨ちゃんに玄関で迎えられたら、有無を言わせずすぐにベッドインする自信あります」

「いくらなんでも今日振り切れすぎじゃない?」

「あ、直接じゃなくて電話だからですきっと。
 あと、今バスに一人なので、先輩とおしゃべりして暇つぶしです」


「俺は便利屋じゃないですよ」

「でも付き合ってくれてるじゃないですか」

「切るぞ」

「わわっ、待って待って。待ってください!」

 こう言わないと用件を話さないのは経験済みだ。そろそろ改善してほしい。
 無駄話は嫌いじゃないけれど、それにしたって人を選ぶ。

 零華と喋っていると、芋づる式に奈雨のことを考えてしまって駄目だ。

 かわいいとか言われると、たしかにかわいいけど、うん。ボロが出るかもしれない。

「それで、明日って空いてますか?」

 奈雨を介さない。
 つまり、二人きりってことか。

「夜なら少しは。何時頃?」

「終電が九時過ぎなんですけど、その前くらいまでなら大丈夫です」

「なに話すの」

「デート前なのでわたしがアドバイスを伝授します!」

「いらないっす」


「……ってのは建前で、ちょっと先輩に相談がありましてですねー」

 わざわざ建前を言う必要ってあったのだろうか……。
 なんとなく、話しづらいことではあるらしい。
 
 零華には佑希に言うと脅されているから、聞き入れられる程度の頼みなら了承せざるを得ない。

 べつに佑希にバレようが奈雨と俺の問題だから関係はないはずだが、両方の親に伝わったりしようものなら面倒なことになる。
 向こうは伯母さんがいるから大丈夫だろうけど、こちらの方はどうなるかわからない。

 姓は父方だけど、奈雨はどちらかと言えば白石家の本家側の人間で(祖父母宅からほど近いところに住んでいる)、うちの両親は向こうにへこへこしているきらいがある。

 まあ、そこらへんはあまり詳しくは知らなし、大人の世界のあれこれだとは思うが、リスクヘッジのためにも下手な行動は取らない方がいいだろう。

 普段見ていない人に文句をつけられることは是が非でも避けたい。



「七時頃まで部活出るから、その後に待ち合わせ場所教えて」

「はーい。先輩優しいですね」

「どうも」

「お礼と言ってはなんですが、先輩の質問も聞きますよ」

「……今でもいい?」

「内容によってはですけど、いいですよ」

 "質問"というワードで思い出した。

 雪村零華に対して優しく扱っている理由は、さっき考えたことや彼女自身のかわいらしさもあるが、一番は奈雨のことについて訊きたかったからだ。
 あのときの、俺の知らない奈雨について、ずっと近くにいる彼女なら知っているかもしれないと、そう思ったからだった。

 べつに時間は用意されているのだし明日でもいい。
 だが、直接訊かれても零華は答えにくいかもしれない。

「先輩? もうバス停着きましたよ」

「ああ、うん。あのさ──」

今回の投下は以上です。

訂正
>>665
解決策は思いつきはしないんだけどな。
→解決策を思いつきはしないんだけどな。


【待てない】

「もう我慢できない! 無理だ!」

 という胡依先輩の甲高い声が、中学棟四階フロア全体にわたってこだました。

 合宿を明日に控えた火曜日。
 朝から降り続くあいにくの雨に気分がどんよりするなか、今日は二人で作業をしていた。

 先輩はずっとそわそわしていて、コンビニに行こうと言ってきたり、紅茶が残っているのに自販機に行こうと言ってきたりしている。
 そして今はその帰り。濡れた廊下は歩くたびにきゅっきゅっと音を響かせる。

「シノちゃんどうして来ないし!」

「先輩がいじめたから」

「あ、あんなのジャブだし! 私はもっと濃くなるし!」

 意味わかんねえ。

「私は待てる女私は待てる女私は待てる女私は待てる女……」

 壊れたスピーカーのようにぶつぶつ念仏を唱える姿は物寂しい。
 これがわびさび。全然違う。

「明日からの合宿。東雲さんが来なかったらどうしますか?」

「ハラキリ」

「え?」

「私のモチベの八十割が失われる……」

 それ800%じゃ……?



「明日は昨日言った通りもしかしたら日中全て空けるので、俺今日は泊まりがけでやるつもりですよ」

「白石くんじゃ癒しになり得ない……」

「なっても困ります」

「だ、だよねー」

 先輩は「はあー」とわざとらしく大きなため息をつく。
 両手で握りしめられたコーンポタージュの缶は今すぐにでも破損してしまいそうなくらいミシミシと音を立てている。

「私のシノちゃん籠絡計画が……ぐうう。これからって時なのに……」

「なに考えてるんすか」

「実を言うと、まだ入部届けをヒサシちゃんに出してないのね」

「胡依先輩が?」

「そうそう。入部仮置き、預かり置き? ってところなのよ、シノちゃんは」

「どうしてですか?」

「ほら、シノちゃんが自分の意思で描けないまま入部しちゃっても、あとで困っちゃうかもしれないじゃない」

「……」

「私は部室に来てくれるだけでも嬉しいけど、シノちゃんはそうじゃないかもしれないし」


 たしかに。
 みんなが作業をしていて、それを見ているだけでいるのはつらいかもしれない。
 描けないことを突きつけられているようで、ここにいていいのかと思うかもしれない。

「あの、全然関係ない話なんですけど」

「なに?」

「この前来た"しゅかちゃん"って人って、美術部の部長なんですよね?」

 今日の朝登校中に高校棟一階の屋根のある場所で入場門やら何やらを作っているのを見かけた。
 十数人で、でも、その中でテキパキと指示を出していたから、上に立っているのは間違いない。

 部活を辞めるという気持ちは経験したことがないからわからない。

 東雲さんと胡依先輩に共通するもの。
 それは何らかの原因で中学時代に美術部を辞めたことだ。
 お互い絵が上手く、東雲さんについては市の表彰まで受けているのにも拘わらず、美術から離れてしまっている。

 先輩は俺からの質問に答えあぐねているように見えた。


 けれど、部室に入り深く息を吐き、「そうだよ」と真面目な面持ちで言った。

「しゅかちゃんとは、まあ中学の時にいろいろあってね」

「美術部の頃にですか?」

「あれ、私言ったっけ」

「……あー。えっと、小耳に挟んだので。
 あと、この前も美術部には戻らないって先輩言ってましたよ」

 先輩は取り繕いの笑みを浮かべた。
 そして、気まずさを紛らわすように窓の方を見つめた。

 つられて俺もそちらを振り向くも、依然として雨が打ち付けていて空は暗いままだ。

 前から先輩のことが気になってはいた。
 絵に対する情念。東雲さんに対する態度。哲学的な思考回路。殆どのことなら先回りできる聡明さ。

「……先輩は、どうして美術部を辞めたんですか?」

 びくりと彼女の肩が跳ねた。
 でも、それも一瞬のことで「そうなるよね」と言いたげな表情で俺を見て頷く。


「私はね、ただ描けてたらそれで良かったの。
 まあ私も昔は尖ってたっていうか、一人でいるのが好きだったから、馴れ合いとかがすごく嫌いだったの」

 ほんの僅かにだけ、その言葉は納得がいった。
 先輩は人好きのする印象だけど、人付き合いは苦手そうであったから。

「この学校に入って一番最初にできた友達がしゅかちゃんでさ。
 あの子も絵を描くことが好きだったから、一緒に中一から美術部に入部した」

「……」

「ここに入ってなにをしようなんて考えてなかったから、授業も勉強もつまんなくてさ、
 友達もしゅかちゃん以外いなかったし、私の学校生活の中心は美術部だったの」

「そうですか。そいえば中学受験したんですよね」

「……意外?」

「まあ、ここ難易度高いですし」

「そんなこと……あるかも」と言ってうっと唸る。何かを思い出してしまったらしい。


「なんで受けたんですか?」

 秋風美柑が俺にした質問を問いかけてみた。

 彼女は顎に手をやり首をかしげる。
 やっぱり、普通の人なら受験することにちゃんとした理由を持っているに違いない。

「ヒサシちゃんがいたから」

 先輩はどこか自虐的に微笑みながら言った。

「ヒサシ……」

「うん」

「ヒサシって、この部活の顧問のヒサシですか?」

「そうそう。ヒサシちゃんがこの学校の教員だったから、私はここを受験した」

 言葉の意味がよく掴めない。
 ヒサシと、何か古い付き合いでもあるのだろうか。

 そう思ったところで、先週ヒサシと階段で会った時にした会話を想起する。

 胡依。
 と彼は彼女を下の名前で呼んでいた。

 白石、伊原、若松、とかクラスメイト全員のことを苗字で呼ぶ人なのに。


「あ、いや好きとかじゃないよ?
 ヒサシちゃんと私は十二? 三? 個離れてるわけだし」

 瞑目する俺に、慌てたように手をわちゃわちゃさせながら補足を入れる。

 俺は何も言ってないのに。勘違いされたくないのだろうか。

「それに私が好きなのは女の子だし!」

「さらっと爆弾発言しないで下さい」

「えっ……冗談だよ?」

 言いながら彼女は目を泳がせる。
 クロールというよりバタフライ。そう思ったけどなぜかは説明できない。

 俺の中の激しいイメージかな、多分。

「本当ですか?」

「ほ、ほんとうです」

 確認すると、彼女は突然敬語になった。
 いくらなんでもわかりやすすぎる、と思わず笑ってしまった。


 ……やっべ。俺の目に広がっていた百合ワールドって虚像じゃなかったんだ。百合漫画を薦めてくる先輩がそうだったのか。
 最近できた知り合いにガチ勢が二人もいるとは……この学校侮れないな。いや零華くらいまでハードになるとこっちも引くけど、先輩はノーマルだろ、たぶん。

 などと脳内で頭の悪いことを考えている間も、先輩はどうにかして弁解しようとしていた。
 焦っている先輩。ああ、よきかなよきかな。

「あーもう! 何かと話したくさせる白石くん嫌い!」

 うがーと吠えられる。叩かれる。
 今日は子犬のように思えてならない。

「よく言われます」

「ずるいんだよほんとにさー。そうやって弱みを握って悪さをしようとしてるんでしょ」

「してないです」

 訊いたら勝手に話してくれるだけだ。
 大抵の人は訊かずとも喋りだすけど。

 超高性能感情サンドバッグ。都合よく聞き逃したり忘れたりするのはお手の物。
 実際はどうでもいいこと/取るに足らないことがいつのまにか記憶から消し去られているだけではあるが。


「話戻しますか」

「もう私は話さない。白石くんの話をしよう」

「しませんよ」

「シノちゃんに手を出したら許さないんだからね! めっ!」

 これはこれで冗談なのかガチで言っているのか判別がつかないな。

「俺は別に東雲さんのことは」

「知ってる」

 言い終わらないうちに断言される。
 そういえば、そういう話を前にもしたっけか。

「でも」と彼女は口を開く。

「白石くんはシノちゃんに頼ってほしそうにしてる。
 それが、私はちょっとだけ気になる」

「そういうふうに見えますか?」

「うん。まあ、白石くんの優しさってそういうところだと思うよ」

「ちっちゃくて庇護欲が唆られるんじゃないですかね」

「今真面目な話をしてるつもりだけど」

 それまでよりトーンを落としてじいっと目を見て言う。
 逸らしちゃいけないと思ったが、結局耐えきれずに逸らしてしまった。

 だが、俺の様子を見て彼女は「ふふふ」と笑う。
 は? と思って目を戻すと、先輩はいつもの笑みを取り戻していた。


「ひとつわかったことがありました」

「なんですか?」

「私は待てない女らしいのです」

「はあ、そうですか」

 からかわれていたらしい。
 それにしては、真面目な表情と声音だったけれど、案外先輩は演技派だ。

 優しげに映る外側に包まれたその内部を見せてくれない。
 さっきの話だって、全部が全部正しいとは思えない。

 俺の警戒を解くために、わざと隙を作ったか、話がそっちに行くように誘導したか。
 どのみち、このまえ釘を刺されたことと、内容的には一致している。

 ……まあ、いいか。疑いすぎはよくない。

「さて、それじゃあ行きますか」

 先輩はぐいっとコーンポタージュを飲み干してゴミ箱に投げ入れる。
 荷物は置いたまま、パソコンの画面をスリープモードにして、俺に立ち上がるように促す。

「どこへ?」と俺が問うと、彼女は「決まってるでしょ」と言って腰に手を当てながら人差し指を突き立てる。

「シノちゃんのところに直談判。白石くんも一緒に行こう」


【雨音】

 というわけで、東雲さんの家に向かうことになった。

 駅までの道を二人並んで傘を差して歩く。
 先輩がそうしたように、俺も荷物は財布しか持ってきていない。

 昨日の帰り道と同じく何も話しかけてはこなかったので俺も黙っていると、彼女は小さく歌を口ずさみながら軽快に足を進める。

「涙は流線形 こぼれて悲しい順に雨になる
 いつだって僕等は淋しい夜をすれちがう」

 それは、どこかで聞いたことがあるような、そうでないような。
 今の天気が雨だから、そんな歌を口ずさんでいるのだろうか。


 本当についていっていいのだろうか、と思った。
 自分一人で変えるべきだと彼女は前に自分で言っていたのに。

 俺が東雲さんに手を貸す可能性を消したかったから、わざわざ一緒に話を聞かせた。
 それを言われたときには「胡依先輩が東雲さんを気にかけているから」だと思ったのだが、どうやらそうではないようだ。

 彼女は曇り空が好きらしい。
 少し雨が降っているときに傘を差して街をぶらぶらと歩くのが好き、と知り合って間もないときに言っていた。

 昨日の絵だってそうだ。
 雨は降っていなかったものの、空は厚い雲で翳っていて。
 でも、所々には雲のない青が見え隠れもしている。

 あそこに東雲さんの言う"自分"が潜んでいるとすれば、彼女の気持ちは一体どういうものなのだろうか。

「白石くん、もう降りるよ」

 ぼうっとそんなことを考えていると、すでに降車駅に到着していた。


 ホームから下に降りて改札をくぐり、駅からほど近い東雲さんのカフェへと向かう。

「直談判たって、なにを言うんですか?」

 もうひとつ信号を渡れば着くというところで、学校を出てから初めて話し掛けた。
 するとすぐに彼女の鼻歌は止んで、前を向きつつ苦笑いを浮かべて、あははと肩をすくめる。

「なんだろうね」

「無策」

「そうだよ!」

「考えてから行きましょうよ」

 テンションでごまかされないぞ。
 無策でピラニアの池(言いすぎ)に飛び込んでいくのはあまりにも危険すぎる。

 先輩がそんなヘマをする様には見えないけれど、どこに地雷原があるかは彼女でもわからないだろう。

「一番伝えたいことは?」

「好きって気持ち!」

「……真面目に考えてくださいよ」

「えーだって、私はシノちゃんと会って話をしたいだけなの。
 それに、愛の言葉にはリリックは必要ないんだよ」

「じゃあ行きますか」

「……あの、つっこむところだよ?」

 信号が青に変わって、その言葉を無視しつつ前へ進む。

 どうせ俺はいるだけで、直接何かを言うのは先輩だから、もう任せることにしようと思う。
 先輩はちらと俺を確認して、また隣に並んだ。


【過去】

 お店の扉を開けると、いつものようにカランカランと音が鳴る。

 迎えてくれる店員さんは、東雲さんのおばあさんだった。
 それで、ざっと店内を見渡しても東雲さんの姿は見受けられない。

「あの子はまだ帰ってきてないよ」

 案内された席に腰を下ろすと、彼女は俺と胡依先輩にそう告げた。
 コーヒー二つで、と先輩が俺を見ずに言う。スマートに奢ってくれるらしい。

「待ってますか?」

「うーん」

「……行き違いですかね」

「そうかもね」

 三分ほど経って、席にコーヒーが運ばれてくる。
 これを飲む間だけは待っていようかと考えていると、何を思ったのか先輩は東雲さんの祖母を「あの!」と言って呼び止めた。

「どうしたんだい?」とすぐに怪訝な目を向けられる。


 先輩はいくらか緊張しているように見えたが、一拍間を置いてから、

「あの、お孫さんについて教えてもらえませんか」

 と言った。マドラーを回す手が止まった。

 まずいだろ、と思ったが案外気さくな様子で話を聞いてくれるらしく、彼女はひとつ隣の席に座る。
 お孫さんの部活の部長です、と先輩が遅れて挨拶をすると、孫がお世話になっています、と深々と頭を下げられる。

「今日は、お仕事はしていないんですか?」

「ええ。あの子にはおうちにいる時だけ注文取りをしてもらっているのよ。
 私らも頼んでいるわけではないんだけどねえ、ここにいるのが楽しいみたいで」

 なるほど、と先輩が頷く。

 あの窓際の席で、空を見つめながらぼーっとしている東雲さんが思い浮かぶ。

 それからお客さんは他にはいないからなのか、不思議と世間話のようなものに移行する。

 学校でうまくやってるかい?
 人間関係とか、大丈夫なのかい?
 あの子、人見知りだけれど友達とかいるのかい?

 全く知らないはずなのに、先輩はそれっぽい返答をする。
 最後には「私は親友です!」と言っていた。一個上だろうに。


「それで、聞きたいことがあるとか」

 五分くらい学校での東雲さんの様子について問われた後に、間を埋めるような形で話題が当初のものに戻った。

 何を言うのだろう。
 そう思っていると、先輩が真面目な顔をつくっておばあさんの方へ体を向ける。

 少しだけ緊張した雰囲気が流れ、店内はかかっている音楽が終わるタイミングを見計らったように、胡依先輩は喉を鳴らす。

「親御さんのことです」

 言うなり、彼女の眉根がぴくり動く。
 眉間にしわを寄せ、表情が強張ったものに変わる。

 それまで柔和な表情を浮かべていただけに、その変化がとても大きなもののように見えてしまう。

 だが、先輩は目を逸らさない。
 最初からそう言おうと決めていて、どういう反応をされるかも予期していたとでも言うように。

「あの子から、何か聞いてるのかい?」

「いいえ。でも、なんとなくは伝わってきます」


 親については聞いたことがないな。
 でも、中学の時は他県に親と住んでいたとは言っていた。

 高校になってこっちに来たとなれば、当然今は両親とは暮らしていないということで間違いない。

「たしか、あなたたちは美術部だったわよね」

「あ、いえ、イラスト部です」

「何か違うのかい?」

「ほぼ同じですけど、ちょっと違います」

 胡依先輩に続いて頷くと、おばあさんは言おうか言わまいか逡巡するような顔をした。

「たぶん、大事なことなんです」

「……大事なこと?」

「きっと、避けては通れないことなんです」

 おばあさんはなおも困った顔をしていたが、
 何か思い当たる節があったのか、深いため息をついてから問われたことについて語り出した。


「あの子の両親は、どちらも美術に関係する仕事をしていてね」

 その言葉に、先輩は確信めいた頷きを返す。
 そこまで予想していた……わけないよなさすがに。そこまできたら妖怪だ。サイキッカーだ。

「それが親譲りなのか、ただの見よう見まねだったのか、あの子は絵を描くことが昔から好きでね。
 小さいころにここに遊びに来たときなんて、外に一度も出ずにずっと絵を描いてたの」

 まるで絵を描くことに執着しているみたいにね。

「そうなんですか」

「たぶん、あの子なりに親に振り向いてほしかったんじゃないかと思うのよ。
 うちのバカ息子とバカ嫁には私とお父さんからも口うるさく言ったんだけど、話半分で全然聞き入れなくて、仕方なく私らが預かることにしたのよ」

「……はい」

「それで、いざこっちに来てみたら、絵を描くでもなくずうっとぼんやりしているものだから、あの子に訊いてみたのね」

 絵は描かないの? と。

「……でも、あの子は何も言わずに首を振るだけだったのよ。
 部屋のゴミ箱には、くしゃくしゃに丸められた紙がたくさんあったから、何かを描こうとはしていたとは思うのだけどね」


 描かないのではなく、描けない。
 手が震えて、うまく動かせない。

 俺と胡依先輩の知っている少ない情報と照らし合わせても、何れもずれているところはない。

「シノちゃんは──」と先輩はおそるおそるというように口を開く。

「──ずっと、昔住んでたところでは、家にひとりぼっちだったんですか?」

「そうよ」とおばあさんは頷く。

 聞くと、先輩の表情はどこか悲痛を感じたようなものに変わった。
 懐古するような、後悔するような、そんな姿は冷静さとはかけ離れていた。

「そうですか。やっぱり、そうなんですよね」

 先輩はそのまま、誰に対してでもないような言葉を呟く。

「うん?」とおばあさんに訊ね返されると、テーブルの木目を見るように目を伏せて小さく頷き、ささっと前髪を整える。

 その仕草が、なんとなく気になってしまう。


「いえいえ、なんでもないです。それだけ訊けたら満足です」

 それ以上は訊いても何もないと思ったのか「ありがとうございます」と先輩は一方的に話を締める。

 俺は助け舟を出すつもりで、そのまま席を離れようとするおばあさんを呼び止める。

「先輩。明日からのこと言わなくていいんですか」

「……え?」

「合宿についてです」

「あー。そっか、それもあったか」

 本当に頭になかったのか、えらくしどろもどろになりつつ、明日から数日間東雲さんを借りることを説明しだした。
 まだ彼女が来るかどうかはわかっていないが、連絡ミスによるトラブルは早めに回避するべきだろう。

「それについては、もう聞いてたわよ」

「……はい?」

「あの子が、部活で何日間か学校に泊まるって昨日の夜に言っていたのよ」


「あ、そうなんですか。じゃあ話は早いですね」

「そうね。あの子をよろしく頼みます」

 任せてください! と先輩は胸を叩く。

 数分後には二人ほぼ同時にコーヒーを飲み終えて、用件も終えたから帰ろうということになった。

 時計を確認すると、もうだいぶいい時間になっていた。

「また来てね」と言われて、それに頷いてから二人で外に出る。

 すっかり暗くなってしまった道を歩く。

「雨、止みませんね」

「そうだね」

「このまま戻りますか?」

「白石くんは?」

「ちょっと用事があります」

「りょうかーい」

 先ほどトイレに行った時に確認すると、零華から学校の最寄り駅前で待っていると連絡が来ていた。


 交差点で足を止めると、彼女はふうと息を漏らす。

 ぐいと服の裾を引かれる感覚にどきりとして隣を向くと、彼女の指は信号の向こうを指し示している。

「シノちゃんだ、あれ」

 うちの高校の制服。黒色の傘。
 顔ははっきりとは見えないけれど、背丈と姿格好からして東雲さんだろうと思う。

 信号が変わると足早にこちらに向かってきて、俺ら二人を目で捉えたのか、渡りきった後に足を止めた。

「あれ、未来くん、と部長さん?」

 先輩はふいっと目を逸らす。
 その様子を見て、東雲さんはきょとんと首をかしげる。

「東雲さんが部室に来ないから、明日どうするのかなって思ってこっち来てみたんだ」

「えっ……と。部長さんにはラインしたんだけど」

 先輩はここにスマホを持ってきていない。
 というか、今日使っていることすら見ていない。


「シノちゃん」と先輩が口を挟む。

「……どうしたんですか?」

「もう来てくれないかと思った!」

 その場に傘を落として、がばっと東雲さんを抱きしめる。なぜか涙目で瞳をうるうるさせながら。

「シノちゃんあったかい、好き」

「……こ、こんなところで抱きつかないでくださいよ。
 今日はクラスの手伝いをしていたんです。ちゃんと言いに行けなくてすみません」

 東雲さんがよしよしと頭を撫でると、先輩の表情はぱあっと晴れやかになった。
 ……いや、本気で好きなんですかねこの反応は。

「シノちゃん、荷造りは済ませた?」

「いえ、まだです」

「手伝おっか?」

「……そんなに荷物ないですけど」


「とりあえず家に行こう!」

 よっぽど会いたかったらしい。
 やっぱり、彼女なりに罪悪感を感じていたのかな。

「先輩。俺もう戻りますけど、どうしますか?」

「私は、とりあえずシノちゃんのおうちに戻る」

 東雲さんは「え、来るんですか?」と驚いている。
 普通の反応すぎて逆に安心する。

「じゃあまたあとで部室行くので、ひとまず失礼します」

「おっけー。またあとでね」

 胡依先輩の言葉とともに、ひらひらと隣の彼女からも手を振られる。

 そのまま落ち着いた様子で傘を拾った先輩は、東雲さんと二人で踵を返していった。


【自然】

 駅前で零華と合流して、近くのバーガーショップに入る。

「遅いです」とか「女の子を待たせるのは最低です」とかうだうだ言われたから、餌付けをして黙らせた。

 それで、今目の前でもきゅもきゅとチーズバーガーとポテトを食べている。この時間に食うと太るぞ。

「で、相談ってなに」

 言いながらメロンソーダを差し出すと、ありがとうございますと素早く喉を潤した。

「メインディッシュはあとにとっておくものですよ」

「もうお腹いっぱいなんだけど」

「昨日のことについてですけど、一晩思い出してみても、わたしには原因はわからなかったです」

 前菜はこっちだとばかりに、零華は話を変えた。
 俺にとってはそれが会う目的だったのではあるが、この際順番なんてどうでもいいことだ。


「つーか、足どうしたのおまえ」

「……足?」

「引きずってるように見えたけど、怪我でもしたのか?」

 真面目に話をしたいし食べ終わるまで待ってやろうと他愛のない話を振ると、
 零華はぽかーんと呆けた様子で俺を見つめてきた。

「そ、そこに気付くとはさすがですねー。
 わたし雨の日は足が痛くなる病を抱えているんですよ」

「……偏頭痛的な?」

「気圧の変化ですかね。てかわたしのこと見すぎですよ、きもいです」

「いきなり攻撃しないでくんね」

 明らかに足を引きずりながら歩いている子を見たらそりゃあ気になってしまうでしょう。

「まあ、ちょっと昔の古傷ですよ」

「お大事にな」

 言うと、零華はくすくすと笑って恥ずかしそうに目を外へ向けた。

「なるほど。これがナンパ入門ですね」

「俺の心配を返せ」

「……でも、ありがとうございます。
 気付いてくれる人ほぼいないので、困ったりした時にこき使えますし」


「使われないぞ」

「現に今使ってますし、感謝ですよ」

 うへへと邪悪な笑みで見られる。
 感謝の気持ちが足りないなあ、まったく。

 零華が食べ終えたことを確認してから、ゆっくりと口を開く。

「さっきの話だけど、本当になにも知らないのか?」

「はい」

「奈雨が学校でいじめられてたとかは?」

「え、ないですないです。まずひと学年に二クラスしかないですし、わたしと奈雨ちゃんはそのとき同じクラスでしたから」

 俺が小六、奈雨が小五の時の話。

「じゃあどうして、奈雨は学校に行けなくなったんだ?」

「なんていうか、そのときのことを奈雨ちゃんに言うと、お茶を濁されるといいますか、露骨に嫌な顔されるんで訊けなかったんですよ。
 それで、どうして先輩がそのことを訊きたいんですか?」

「……いや、ただ気になって」

 ずっとそうだと思っていたから、違うと言われてしまうと続く言葉に詰まってしまう。


「今のクラスでは?」

「わたしが奈雨ちゃんに変な虫がつかないように警戒してます」

「それ頼もしいな」

「えへへ」

 褒めてねえから。若干引き気味だから。皮肉だから。

 まあ、零華が違うと言うなら違うのだろう。
 奈雨があのとき外に出れなくなったのは、他者からの攻撃ではないということだ。

 あのとき以降の奈雨は、ちょっとした変化かもしれないけれど、俺の目には、かわいい自分を作らなくなったようにも映った。
 自然体でも充分かわいらしいから、その方が俺もいいと思う。

 伯母さんは俺が奈雨を助けたと言っていたが、本当にそうなのかな、と思う。

「奈雨が外に出ようとしないからどうにかしてやってくれ」と母さん伝いに聞いて、三橋家に泊まったついでに説得して彼女を外に出した。
 と言っても、誰も入れないはずの部屋の中には簡単に入れてくれて、三日くらいはかかったものの、俺が何をしたっていうわけでもない。

 彼女が笑っていなくて。
 俺は彼女の笑っている顔が一番好きで。
 彼女にはいつも笑っていてほしくて。


 何を話したかとかは全く覚えていないが、ただ最後に交わした約束だけを覚えている。
 もしかしたら彼女は忘れてしまっていて、今は俺だけが盲信しているものなのかもしれないとは、いつも思っているけれど。

「ごめん時間取らせて。それだけ」

「それだけ、ですか?」

「うん。ありがとう」

「どういたしまして」

 訊きたいことは他にもあったが、彼女の相談とやらに話題を移すことにした。

「零華の相談は?」

「あ、はい。先輩と奈雨ちゃんが一緒に寝るなら奈雨ちゃんの寝顔を」

「撮らないぞ」

「なんでですか」

「自分で撮らせてもらえよ」

「オフショットがほしいんですよ」

 俺はため息をついた。


「まあ、冗談はさておき本題に入りますよ」

「最初からそうしてくれ」

 彼女は苦笑した。
 これから言うのは真面目な話だから、緊張をやわらげるジョークが必要だったというように。

「……えっとですね、明日のことなんですけど。
 わたしのことは気にしなくていいので、奈雨ちゃんと楽しく遊んでもらえませんか?」

 その言葉に、俺はなんとなくの据わりの悪さを感じてすぐに「どういうこと?」と訊き返した。

 彼女は所在なさげに笑う。

「わたしもいますけど、いないものだと思ってくれてかまいません。
 本当に、わたしのことは気にせずに、奈雨ちゃんのことだけを見てあげてください」

 言葉の意味をうまく咀嚼することができない。
 誘ってきたのは零華で、場所を決めたのも零華なのに。


「わたしは二人のいちゃいちゃを見たいので、お邪魔にはなりたくないんです。それだけです」

「いちゃいちゃなんてしないけど」

「じゃあ自然に、ナチュラルにでいいんで、奈雨ちゃんと絡んでください」

 怪訝げに彼女を見ても、いつもと違う表裏のない表情でにこにこと笑うだけだった。

 ……いったいどういうことなのだろうか。

「とりあえず普通にしてればいいんだよな」

「そうです」

「……でも、普通って言われてもな」

「なんですか」

 普通が、一番難しいんだ。
 奈雨の前では普通でなんていられない。


 ふと気を抜いたら、すぐに駄目になってしまいそうだから。
 まだいけないことのはずなのに、もういいのではないかと錯覚してしまいそうになるから。
 俺は彼女にとっての"お兄ちゃん"なのに、それ以上を求めてしまいそうになるから。

 いくらかの動揺を感じ取ったのか、零華はぐぐっと身を縮こまらせる。
 そして、触れてしまいそうな距離にまで顔を近付けられる。

 思わず反射的に仰け反ると、席に身を乗り出して俺の肩に手を置いた。

「先輩は、もうちょっとだけ素直になった方がいいと思います」

 薄茶色の凜とした瞳が揺れる。

「ちゃんと、奈雨ちゃんのことを正面から見てあげてください」

 それだけは、わたしと約束してください。


【閉塞】

 家に帰る。玄関には見慣れない靴。
 奈雨がすでに来ている。
 一階では佑希がソファに寝転がってゲームをしている。

 自室から少し物音が漏れている。
 零華の言葉が頭に響く。

 目を瞑って、胸に手を当てて息を吐いてから、ゆっくり開ける。
 そうすると、なんとなく大丈夫な気がした。

 意を決してドアノブをひねる。
 床に座る彼女と目を合わせると、にこやかに微笑をたたえる。

「おかえり、お兄ちゃん」

「ただいま」

 自分が"普通に"返答できたことに驚いた。目を合わせられたことにも驚いた。

 というのも、彼女が髪を結っていなかったから。
 もっと言うと、風呂上がりで彼女の色白の肌が上気したように赤く色っぽくなっていたから。

 どうしてここにいるの、とかそういう野暮なことはこの際訊かない。


 どうせそうなるだろうとはわかっていた。

「今日ここで寝るの?」

「うん。そのつもりだよ」

「そっか」と返して勉強机の椅子に座る。

 奈雨はあたりまえのように俺に近付いてくる。人に懐いている猫のように。
 警戒心など全くなく、俺の意思など意に介さずに。

 指先が触れる。なんだかもどかしい。
 諦めて彼女へ向けて両手を広げると、勢いよく身体に飛び込んでくる。

「……したいの?」

「……うん」

 自分で言ったのに、断ろうかと思った。
 普段なら問題なく──していること自体が問題ではあるのだが──やれていたのに、今日はえらく気が滅入っている。

「お兄ちゃん」

 背中に手を回される。
 奈雨の服が薄着だから、やわらかい感触が直に伝わってくる。
 湯冷めしていないのか、まだ身体があつい。あつくて、こっちはくらくらする。


 髪の匂いがふんわりと香る。
 いつもと違う匂い。でも、好きな香り。

「せっかくだし、お兄ちゃんのシャンプー使ったの」

「うん」

「ボディーソープも同じだから、今のわたしはお兄ちゃんと同じ匂いがするよ」

「佑希も同じだけど」

「お兄ちゃんと同じなだけだもん」

「そっか」

「そうなの」

 しばらく抱きしめられていると、今度は手を引かれる。
 椅子から立たされて、彼女はベッドに座って横をぽんぽんと叩く。

「座って」

「……なにするの」

「ちゅーする。してもらう」

 そんなことを言われて、素直になれるわけなんてない。
 佑希が家にいるんだぞ。一応鍵はかけたけど、音なんて出さないけど。


「まずはわたしからするね」

 こくりと頷くと、すぐに唇を塞がれる。
 だが、いつものようにすぐに離れる。

「お兄ちゃんもして」

 とろんとした上目遣いをされては、それを断れる気なんて微塵にもなくなってしまう。

 俺からキスをする。離すと、彼女は切なそうに唇を動かす。
 もどかしさは消えない。もう一度唇を触れさせると、ほうっと熱い吐息が彼女の口から漏れた。

「立って」

 言われるがままに起立すると、彼女は背伸びをして俺の肩に触れてキスをしてくる。
 頭がまわらない。というか、まわすのを脳が拒否してしまっている。

「お願いがあるの」

 うん、と屈んで目線を合わせる。
 分けられていない前髪を横にはらうと、少しだけ彼女が大人っぽく見える。

「なに?」

「耳塞いで」

「こうか?」

 自分の両の耳を塞ぐと、彼女は「ちがうちがう!」とぶんぶん首を横に振った。


「わたしの耳」

「いいけど、なんの意味があるの」

「なんか、よくわからないけど、れーちゃんがすごいって言ってた」

 れーちゃん。
 その言葉で頭が活動を始める。

 全くわからないけど、彼女が言うことは危険性を孕んでいるように思えて仕方がない。

「やめよう」

「いいじゃんいいじゃん」

 はあ、とため息をつく。
 でも、すぐにただをこねられるくらいならばさっさと終わらせてしまいたい。

「座ってじゃだめ?」

「立っててがいいらしいよ」

「わかった」

 彼女の耳を塞ぐ。
 ゆっくりと唇が近付いてきて、目を瞑ったまま俺の唇を捉える。

 それまでとは違って長いキス。
 両肘を彼女の肩にスライドさせて、頭に手を回す。

 油断していると舌が入ってくる。
 拒もうとしたけれど、なぜか拒めない。避けようとすると舌が彼女の舌と絡む。


「んあっ」と彼女が出すとは思えないようなだらしない吐息が聞こえる。
 身動きがとれなくて、されるがままになる。

 一分半ほど経つ頃には、彼女ははあはあと肩で息をしながら、体重のほぼ全てを俺に預けていた。
 頭がぼーっとしてあつくなってくる。
 彼女とそういうキスをしたことは二、三度あるが、ここまで激しくされたのは初めてだった。

「おにい……ちゃん。やら……いっ」

 やめてと言いかけても、彼女は自分で続けている。
 俺はもう何かを考える余裕なんて持ち合わせていない。

 数分に渡って続けていると、不意に奈雨の腰がかくかくと痙攣し、かかっていた力が完全に抜けた。

 慌てて耳から手を離すと、彼女はその場に座り込んだ。

「……た、立てない」

「え?」

「やっ、ごめんなさい。……腰抜けちゃった」

 唇を戦慄かせながら涙目で見上げられる。
 言葉に詰まる。わけがわからない。


「あ、あははっ……立たせて、お願い」

「どうしたんだよ」

 腰を掴んで立たせたものの、彼女の息は荒いままで、俺が支えていないとすぐにでも倒れてしまいそうだ。

「いまの、もうやっちゃだめだからね」

「ああ。……うん」

「……ぜったい、だめ」

 自分に言い聞かせるように唱えていたから「自分からやってきたのでは」とは言えなかった。
 彼女は涙を指で拭いながら、俺に向けて心なしか嬉しそうに笑った。

「お手洗い、連れてってもらってもいいかな」

「トイレ?」

「……まあそんなとこ。ごめん、お兄ちゃん」

 二階のトイレの前まで彼女をそのままの姿勢で運ぶ。
 運び終えてベッドに腰を下ろすと、俺の心臓も落ち着いてきた。

 彼女は五分程度でさっぱりした顔で戻ってきて、また俺の隣に腰掛けた。
 顔色も良く見えるし、体調が悪くなったわけではないようだ。

 小声で「れーちゃんに文句言わなきゃ」という声が聞こえた。
 何か反応すべきかもと思ったが、聞き逃したことにした。


 時計は二十三時を示していた。
 もうこんな時間にまでなっていたのか。

「お兄ちゃん学校戻るの?」

「あーうん」

「明日九時に出るから、朝起こしにきてくれると嬉しい」

「できたらな」

「ありがとう」

 手持ち無沙汰をごまかすように、頭にぽんと手を置く。
 彼女は戸惑ったようにじとっとした目を向けたが、すぐに目を閉じて首をこちらに倒した。

 これでいいのかな、と思う。
 だめ。ではあるはずだけれど、彼女を前にすると、何も言えなくなる。

 しばらくすると彼女は俺の布団にごろんと入って、数分とも経たぬ間にすやすやと寝入り始める。

 あの、蕩けた目。声。表情。
 ……はあ、とことんだめだな俺は。

 結局家を出たのは(シャワーを浴びたり着替えたりしていて)日付が変わるまでにずれ込んでしまった。

今回の投下は以上です。


【人それぞれ】

 ウェルカム休日。さらば休日。
 ということで、七時半過ぎに家に戻る。

 出るとき胡依先輩とソラは爆睡していた。
 東雲さんは午後から少しだけ来るとか来ないとか。
 二人は夜中一時頃からテレビゲームをやりだして、俺はパソコンの上で寝ていた。
 絵はほんのちょっとだけ進めた。家にいたらできなかっただろうから結果オーライかもしれない。

 ……いや、疲れたんですよ。
 奈雨の表情しか頭に浮かばない。
 完全な病気です。あの子が悪いんだけどね。

 佑希はもう起きていた。
 昨日と同じくリビングでごろんとしながらスマホを操作している。

「奈雨は?」と一応訊ねる。
「知らない」と返される。

 そりゃそうか。
 今日も午後から部活らしい。たいしたものだ。

「昨日の晩飯ってどうしたの?」

「べつに。普通に食べた」

「二人で?」

「ううん、一人で」


 まあ、そうか。
 ちょっとでも仲良くしてくれることを期待したのが悪かった。
 期待するのは俺の勝手な都合だけど、一週間以上もいるなら少しでも良好な関係でいてほしい。

 でないと困る。
 主に心労的な意味で。板挟みってこのこと(もうやだ)。

「午前中出掛けるから」

「……どこに?」

「モールに買い物」

「あの子と?」

「奈雨と友達と三人で」

 ふうん、と俺を見ずに相槌をうつ。
 どうでもいいやと思って階段の手すりに手をかける。

「やっぱり好きなの?」

「……だったらどうなんだよ」

「べつに」

 この前はそれなら何も言わないって言ってた気がするのだが。


 俺は答えないまま部屋に上がる。

 ベッドは大荒れだった。
 掛け布団、落ちてる。枕、抱きしめてる。奈雨、半分床に落ちてる。
 こいつ寝相悪すぎだろ、と思いつつ彼女の身体を揺する。

 規則正しい呼吸音が聞こえる。
 寝息ですらそれっぽく思えてしまう。

 しているときは顔が近いけれど、緊張とかでそれどころではない。
 だから、こうして無防備な姿で彼女を見ると、いつもとは少し違って見える。

 思わずぱしゃり。
 最近はシャッター音が聞こえなくてよろしい。
 横流しはしません(断言)。

 彼女はなかなか起きなくて、その場にいると昨日の焼き増しになりかねないと感じて、上半身も床に落としてみた。

「へやっ」と声がする。どんな鳴き声。かわいいけど。

 持ち上げてベッドに戻す。
 身体が軽いといろいろ楽そうだ。
 そうこうしているうちに、彼女はぱちりと目を開ける。

「おはよ」と声を掛けると、眠たげな表情で「おはよ」と返事される。

「起こしにきた」

「……おはよ」

 目をごしごし擦る。声は甘ったるい。


「顔洗ってこいよ」

「ん、わかった」

 すっくと立ち上がりすたすたと部屋の外へ歩いていく。

 外ではちゅんちゅん鳥が鳴いている。

 今日は太陽さんさんの青空である。
 ふと考えたが、太陽さんさんのさんってSUNなのだろうか。愛燦燦のさんかな。
 どうでもいいや。公共広告機構がキーボードで右手だけで打てるくらいどうでもいいや。

 そういえば奈雨は起こされても平然としているけど、寝顔見られたりして恥ずかしくないのかな。

「おまたせ」

「うん」

 彼女はきょろきょろと部屋を見渡して、照れたように笑みをこぼす。

「めっちゃ部屋荒れてるね」

「寝相悪すぎない?」

「あ、うん。お母さんによく言われる」

 言って、ふふんと鼻を鳴らした。
 もしかして毎朝起こしてもらってるのでは?


「奈雨って愛されてるな」

「そうかな?」

「愛に飢えている俺とは違う」

「ふふ、なにそれ」

 彼女は腕を伸ばして俺の頬をつねる。

「なに」

「愛のかたちは人それぞれだよ」

「……そう?」

「そうだ」

 そうなのか。
 釈然としない。

「でも、たくさんの人に愛されるよりも、ひとりからその全員分の愛を受けたいかな」

「……」

「って、れーちゃんが言ってた」

「言いそう」

「ね」

「俺もそのほうがいいかもしれない」

「わかってるよ」

 彼女は窓の向こうへと視線を移して、どこか楽しげに笑った。


【繋ぎ方】

 少し余裕を持って家を出て、地下鉄に乗って零華との待ち合わせ場所へと向かう。

 道中はなんでもないような話をしていた。不思議と途切れなかった。

 文化祭の話。
 イラスト部の話。
 今日の話。

 昨日の話はしなかった。
 単純に俺も彼女も話さなかったからだけれど。

 今日の話については、とりあえずウインドウショッピングをするらしい。
 実に女の子的な楽しみ方。買わなくても見ているだけで満たされちゃうのね。

「れーちゃんは買いもの長いから」と奈雨はくすくすと笑っていた。
 自分は短いらしい。比較的、らしいけど。


 噴水の近くのベンチに本を読みながら座る零華を見つける。

「遅れてごめん」と俺が言う。
「はー、待ちました待ちました」と手をはらう。

「れーちゃんごめんね」と奈雨が言う。
「いやいや、わたしも今来たところだよ」とにこにこ調子になる。

 こいつほんといい性格してるな。
 逆に裏表ないのかとまで思ってしまう。奈雨には出してるっぽいし。

 俺の周りにはどうにも外面が完璧な人が多すぎるようだ。
 内面を出されるのは信頼されているのかどうでもいいと思われているのか。

「楽しみで二時間しか寝てません!」

「嘘つけ」

「嘘です!」

 あっさり否定するのな。

「ささ、二人とも手を出して」

 そう言われて、考えなしに手を出す。
 奈雨も続いてすっと手を出す。

「今日は手を繋いでてください」

 二人で目を見合わせる。
 零華は俺たちを見てけらけら笑っている。奈雨は無表情だった。


「奈雨がいいなら」

「いいよ」

「なら繋ぐか」

「……うん」

 はい、と出された彼女の手の指を自分の指に絡めると、零華は鳩が豆鉄砲を食ったような顔を俺らに向ける。

「恋人つなぎですか」

「どっちでも変わんないよ」

「そういうことにしときましょうか」

「そうしてくれ」

 反応が満足するものだったらしく、彼女は「行きますよ!」と俺たちを置いていくように建物の入口に吸い込まれていく。

「台風みたいだな、ほんと」

「でも、れーちゃんいい子だよ」

 そうだろうな。

「……じゃあ、俺たちも行こっか」

「うん」

 そのとき、ぎゅっと指にかかる力が少しだけ強くなるのを感じた。


【責任】

 零華が一歩先を歩いて、俺と奈雨がその後ろを歩く。

 あてもなくエスカレーターを乗り降り。内装が以前とは変わっている。
 休日とだけあってモールは混み合っている。この時間なのにふと通り過ぎたフードコートには行列ができていた。

 目星でもつけていたらしい店に入って出てを繰り返す。
 それを十店舗くらい続けるうちに零華の手にはいくつもの袋がかけられている。

 いや、買いすぎ。
 明らかにシーズンじゃないものも買っていた。
 奈雨も買っていたが、片手に収まるくらいだ。

 手を繋ぐ男女とその前にいる女。
 モール内の光景としてはだいぶ奇怪に映るらしく(カップルや家族連ればかりなのに)、歩いている途中に何度もちらりと見られる。

 奈雨が試着をするのを待っているときに、店員さんに「彼女さんかわいいですね」と話し掛けられる。
 ははは、と適当な相槌をうつとそれ以上は続けてこなかった。

 ……まあ、べつにいいんだけど。
 零華が彼女だと思われてしまったりもした。どっちともそうではないのだが、それはなんか嫌だ。


「お兄ちゃんは、これとこれのどっちが好き?」

 質問がわかりやすい。選んできて、と言われないのはすごくありがたい。
 自分の服のセンスについては沈黙せざるを得ないが、彼女から提示される二択ならぎりぎりいけなくもない。

 好みな方を指差すと、選ばなかった方を戻して、もうひとつ違う服を持ってくる。

 ひと店舗でそれを五回ほど繰り返して、最後に残ったのを奈雨は購入する。

 気付くのに時間を要したが、どうやらオーバーサイズやモコモコ系の服が好きらしい。
 対して零華は露出強めのVネックセーターやら柄付きのミニスカやらを買っていた。
 タイツ履けば余裕ですよ! と言っていたが奈雨曰く痩せ我慢らしい。

 乙女ってたいへん。ヒートテック完備でも寒いとかなんとか。
 冬はとにかく着込んで身体おっきくしないと!

 男って楽だわ。だっせえジャージで出歩いてもいいんだから。
 柄シャツにジーンズでも可。全年齢が手を抜ける。男最高!

 まあ俺に関して言えば、まず家から出ないから買っても服を着る機会がないんだな、これが。


「先輩ってこういう服似合いますよ」

 奈雨を待っていると、零華が近くにあった服を俺の前に出してきた。

「それ女物じゃん」

「こういうビッグシルエット系って、先輩みたいな顔立ちの人が一番似合うんです」

 なるほどわからん。
 首にかけるアクセサリーまでついて4500円か……安いのか高いのか微妙だ。

「ていうかさ、きみ奈雨に変なこと吹き込まないでくれないかな」

「はい? なんのことですか?」

「耳塞ぎながらしたら、あいつ具合悪くなったんだよ」

 昨日キスをしたのだとそのまま言っている気もしたが、文句をつけなければならないと思った。

 だが案の定、

「キスしたんですか!」

 と零華は叫んだ。

 店員さんが怪訝な目を向けてくる。
 ただでさえ片身が狭いんだから、ほんと勘弁してくれよ。


「詳しく! 詳細ぷりーず!」

「落ちつけよ」

「ここで落ちついたらわたしのアイデンティティが崩壊します!」

「黙ったら話す」

「黙ります」

 変わり身の早さにため息が出る。

 アイデンティティの崩壊する瞬間を見た。実にあっさりだった。
 おお れいかのあいでんてぃてぃよ! しんでしまうとは なさけない……。

 それでも、零華の目は好奇心できらきら輝いている。

「なんか、五分くらいしてたらいきなり力がすーっと抜けていった」

「ほう」

「腰抜けたらしい」


「ほう」

「……ほう?」

「いや、先輩。その情報だけでわたしは今日の夕飯五杯はいけますありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げられる。
 初めて心から感謝された気がする。

「どういうことなんだ」

「わかりませんか」

 考えてみる。
 ……わからない。

「簡単に言うと、女の子って例外なく耳が弱いんですよ」

 うん。

「耳触りながらだったからってこと?」

 違います、と零華は即答する。

「響くんですよ、音が」

「……音?」


「水音がですね、ぴちゃぴちゃって。
 わたしはしたことないのでわからないですけど」

「試しに耳塞いで歯をカチカチやって見てください。よく響きますから」と言われてその場でやってみると、たしかに音が鮮明に聞こえる。

 耳を塞がれて、奈雨は目を瞑っていたから目隠しをされている状況で、
 キスをしている音だけが耳に響いたら…………考えただけでぞっとするな。

「そのあとはどうでしたか?」

「そのあと?」

「え、あの……奈雨ちゃんの腰が抜けたあとです」

「えっと、トイレに行った」

「……あ、あー。あはは、ちょっとそれはあれですね」

 動揺の色を隠せないように、零華は「やっちまった」とでも言いたげな苦笑いをする。


 そんな顔をされては、俺は気まずくなる。

「もうやっちゃだめっても言われた」

「ですよねー」

 手に持っている紙袋をくるくるまわしながら彼女は頷く。
 意味がうまくつかめない。やらなければいいのだからやらないけど。

「そこまでしちゃったら、もう責任とらなきゃだめですよ」

「なんの?」

「奈雨ちゃんの」

 はあ、と俺は戸惑う。
 責任。言われてみればたしかに。

 拒まない俺が悪かったと言われても仕方がない状況だった。

「善処する」

 と答えると、

「ならいいんですけど」

 と零華はそっけない口調で言った。


【帰り道】

 お昼時になって、最上階にあるレストラン街で食事を済ませる。

 奈雨と零華の足元にはたくさんの袋が転がっている。
 結局奈雨もいろいろ買っていた。うちに置くのだろうか。

 俺も一応お金は持ってきていたから、現役女子中学生二人に服を見繕ってもらった(ちょっと嬉しい)。

 二人とも俺の服を選ぶ点では意見が一致していて、言われるままに上から下まで買ってしまった。
 札が消し飛んだ。さよなら諭吉……しばらくは野口と友達でいるよ。

 ほぼ並んでいない店に入って三人とも軽食を頼んだからか、十四時前にはモールを出ることができた。
 立体駐車場の出入りを見ても、この時間から一気に専門店街が混雑するようだったので、早めに出られたのは幸運だった。

 奈雨と手を繋いで、零華は繋いでいない側を横並びで歩く。


「このあとどうします?」

 と歩道橋についたところで零華は言う。
 奈雨とともに俺を見て首をかしげている。二人とも今日はずっと休みだといっていた。

「俺は部活で学校行く。奈雨は?」

「わたし暇だし、学校行こうかな」

「それならわたしも行きますか」

 というわけで、目的地が学校に決定する。何をするのだろうか。

「あ、この荷物どうするの」

 自分で買ったものの他に、奈雨が重そうにしていた袋を受け取って持っていた。
 ほぼ役に立たなかったから、荷物持ちくらいはさせてほしいと考えたから。

 零華にも持つか訊いたが、意外にも「べつにだいじょうぶでーす」と返される。
 けれど、彼女のような華奢な身体では肩にかけるのがそこそこきついようで、道の途中でひとつだけ持ってあげることにした。

「お兄ちゃんの部屋に置かせて」

「いいよ。零華はどうする?」

「あー、どうしましょうね」


 そう言いながら俺を見て、数秒後にその横を見る。
 奈雨は何かに気付いたようで「ああ」と首を縦に振る。

「お兄ちゃん、佑希いま家にいる?」

 ……佑希?

「部活だからいないと思う」

「ならお兄ちゃんの部屋に置かせてもらおうよ」

「大丈夫だよ」と奈雨は付け加える。
「ありがとう」と零華は笑いかける。

 どうしてそれを気にするのかは全く見当がつかないが、
 佑希が家に人が来るのを嫌がっていることを奈雨が察してくれたのかもしれない。

 けれど、わざわざそういう気遣いなんてしなくていいのに。
 彼女には心配をかけさせまいと思ってしまうのは、やっぱり俺の浅ましさが起因しているのではないか。

 ぐらり、とする。なんとなく。

 彼女はそういう存在ではない。
 深く考える必要はない。彼女がそれでいいなら──俺がそう思いたいからね──構わないのでないか。

 いつもだ、と思う。
 いつもこうなんだ、と思う。

 俺の心配はいつになったら終わるのだろうか。
 自分勝手なのは彼女なのに、どうして俺がここまで気を揉む必要があるのか。
 本当に心配したい相手がいて、でも、俺が何を求められているかは俺が決めることではなくて。


 互いの求めるものを押し付けあって、ほどほどのところで満足して、それでいいんじゃないだろうか。

 彼女が俺に求めるものがそれであるなら、今の関係でも構わない、と思う。
 彼女の体温を感じるだけでも、俺は充分に安心することができる。

 でも、それこそ、代替可能なものなのではないか?
 俺が彼女に求めるものって、どんなものなのだろうか?

 あの、朝のことを思い出す。
 彼女だって、もしかしたら気付いてしまっているのかもしれない。
 気付いていて、"都合の良い"存在がなくなるのが嫌だから、あんなことを言ってきたのかもしれない。

 進めない、と思う。
 進んでいない。進んでいた気分になっていただけ。

 息を吐く。空気が冷たい。

 なにか嫌なことが起こりそうな気がした。昨日からずっとふわふわ浮いているような感覚でいる。
 もしくはずっと前からそうだったのかもしれないけれど、俺が何か致命的な思い違いをしているように思えて仕方がない。


 手を握る力が強くなってしまったのか、奈雨はこちらを見上げる。
 心配そうに俺の顔を覗き込む。彼女の瞳はしっとりと濡れている。
 身体が熱くなりそうな感覚に耐えきれなくなって目を逸らす。

 不意に反対側の服の裾が掴まれる。

 隣にいる零華が、何か言いたげに立ち止まる。
「抱きしめちゃえばいいんですよ」と勝手に口が動いているように錯覚する。

 そうなのかな? と考えて、
 いやちがうだろ、と答える。

 血の気が引いて手の体温がどんどん冷めていく感覚を得て、俺はゆっくり手を離した。
 彼女は力無さげに離れた手を空に彷徨わせる。

 どうしてこんなことばかりなのだろう。

 切符を買って階段を降りて、ホームの椅子に二人を座らせる。
 少し疲れている様子が見え隠れする二人に飲み物を買って手渡す。

 落ちついているように装いたかった。見栄っ張りは止められない。


 それにしても。
 零華ははしゃいでたが、奈雨はずっと俺の隣にいてあんまり動いていないはずだ。

 この疲れようはおかしい。
 昨日の姿が眼に浮かぶ。
 零華の言った言葉。自然に。責任。
 心配しているだけなのに、自分が自分でないように思えてならない。

 本当は彼女のことを心配したくなんてないのではないか。
 一方的な想いを押し付けているのは俺の方じゃないのか。

 荷物を下におろして地下鉄が来るのを待っていると、バッグの奥底でスマホがぶるぶると振動する。
 同時に、下り方面の地下鉄が来るとアナウンスが聞こえてくる。

 悪いタイミングだと思った。
 でも、なんとなく今は二人から離れてしまいたかった。

「電話?」と奈雨に問いかけられる。

 手を突っ込んで取り出して誰からのものかを確認し、二人に「先に乗って帰っていいよ」と告げて荷物を持ち上げる。

 一階に上がってからため息が出た。
 買った飲み物を一気に飲み干すも、気持ちは落ちつかない。

 さっきまでなんともなかったはずの気分は、一瞬にして沈んでしまった。


【コール音】

「もしもし、未来?」

 静かな場所へ移動して掛け直すと、母さんは窘めるような口調で俺の名前を呼んだ。

「……もしもし、どうしたの?」

 滅多に電話なんて掛けてこない人だから、こういう場合は面倒ごとかもしれない、と直感で思ってしまう。
 今は仕事……休憩中だろうか。ここ二日ほど家に帰ってきていない。

「うんとね、ここ二週間くらい厳しくて、泊りがけになるから帰れそうになくてさ」

「……ああ、うん」

 わざわざ連絡しなくても多々あることだったから、どう返したものかと困った末に適当に頷く。
 家に留守電でも入れておけばいいのに。

「お父さんもそうだって」

「ふうん」

「その態度はなに?」

 どうやら癇に障ってしまったらしい。
 額を手で押さえる。これもいつものことだから気にしない。

「なんでもないよ」

 それ以外に言いようがない。


「……なにか私に文句でもあるの?」

 口数が少ない割に、考えて発言をしないから、聞いている側からは不快に取られてしまう。
 こういう場合の母さんと佑希は似ている、と思う。

 昔は俺も上手くやれていたはずなのに、今は上手くやれていない。

「いや、いつもそんなこと言わないから、どうしてって思って」

 ふうん、と電話口の向こうから声がした。
 自分が怒ったことを自分がしてしまうのも、昔から変わらない。
 母さんがもし今デスク周りにいるとしたら、指先でコンコンと叩いているだろう。貧乏ゆすりもしているかもしれない。

「だってほら、奈雨ちゃん来てるじゃない。お父さんじゃなくて私の方に連絡来たのよ」

「そっか」

「ちゃんと仲良くね?」

「うん」

 じゃあ──と電話をこちらから切ろうと言いかけた時に、母さんは半ば遮るようにして続きを話し始める。


「もしかして、もうなにか問題でもあった?」

 問題。

「どうして?」

「だって、佑希と奈雨ちゃん、仲悪いでしょ?」

「それをわかってたなら、お願いされても断ればよかったんじゃないの」

 伯母さんも気付いていたし、二人を知っている人ならみんなわかってるのか。
 あそこまで露骨に話したり遊んだりしなければ、まあわかって当然かもしれないけれど。

「だって、お義姉さんからのお願いでしょう?
 私の立場では、断るに断れないのよ」

「……よくわかんないけど、まだなにも起きてないよ」

 どうせ良い顔したかったんだろ。
 それを言わないのは、親のエゴやプライドか。

 それに、問題はこれから起きるかもしれない。

「そっかそっか。でも、もしなにかあったら、あなたが止めてあげるんだからね」

「……」


「あなたは、お兄ちゃんなんだから」

「……」

 ──あなたは、お兄ちゃんなんだから。

 ああ、やっぱり。
 普段なら適当に相槌を返して聞き逃したことにするはずのに、
 今その言葉を受けてしまうと、他の何よりも的確に俺の内面を抉られてしまう。

 コンクリートの壁に身を預ける。
 避けては通れない、と昨日誰かが言っていた。

 そうだよな、と心の中で笑う。
 何ひとつ変わってすらいない。
 他の部分をいくら磨こうとしたって、いくら覆い隠そうとしたって、俺は俺の問題を解消しないことには何も変わらない。

 スピーカーから何か聞こえる。お兄ちゃんがどうとか言っている。
 聞こえているはずなのに、耳には入ってこない。どうしてだろう。

「未来? 私の話聞いてる?」

「うん、聞いてるよ」

「で、返事は?」

「……わかった」

 半分も聞いていないのにそう言うと、母さんは満足したように深くため息を漏らす。


「じゃあ、くれぐれも近所迷惑になることとかをしないように。
 あとはいつも通り好きにしていいから」

 それが親の台詞かよ、と思う。
 でも、それを言葉には出さないし、彼女も何も察してはくれない。察されても困る。

「うん」

「じゃあね」

「うん、じゃあね」

 プツッと電話が切れる音がする。
 行き交う人の群れ。親子連れが多い。休みだからかな。

 すれ違いざまに学生にぶつかる。
 ぺこりと謝られる。舌打ちを我慢する。
 俺はこんなに性格が悪かったのだろうか。

 親との関係は良好だ。
 信頼されていると思いたい。
 親は俺や佑希に干渉しないし、初めはなんでも自由にやらせてくれている。

 その代わり何か失敗をすると、いつまでも同じことを言われ続ける。

 親からの愛に飢えているわけでもないし、もっと放置してくれてもかまわないとまで思ってしまう。


 東雲さんは、昨日の話を鑑みると、親との関係が大分悪いらしい。
 反応からして、もしかしたら胡依先輩もそうなのかもしれない。

 うちはきっと彼女らに比べたらまだ良いのだと思う。
 俺が身勝手に比べてしまっているだけで、比較対象にすらならないほど二人の家の状況は酷いものなのかもしれない。

「でも」と俺は考えてしまう。

 "完全に放置されること"と、"中途半端に放置されて、後からあれこれ文句をつけられること"だったら、どっちがマシかだなんて、簡単に決められるのだろうか。

 中途半端なことが一番嫌いだった。
 そのくせ、自分が一番中途半端なことには、とっくの昔から気付いていた。
 
 心理と行動は必ずしも一致するわけではない。
 "心"で思っていても、"体"が動かないことなんてざらだ。

「わかっているなら行動で示せ」と口うるさく言われた。俺が悪いのだろうか。他者を気にして口籠ることは罪なのだろうか。

 自分のしたいことばかりしている人間がいれば、その周りが必ず割りを食う。
 光があれば影があるように、勝者がいれば必ず敗者がいる。

 光の中で生まれた存在は、光がどんなものであるかを知らない。
 成熟するにつれて影の有り様を知って、初めて光の存在を確定させる。



 だから、二人の人間がいれば比べられて当然だ。
 その距離が近ければ近いほど頻度は増していく。ずっとそうだった。

 そんなことはわかっている。
 わかっていて、

 ──でも。
 
 でも、俺にはその両者の乖離が、酷く惨たらしいものに感じてならない。
 そう思ってしまうのは、きっと、俺もどこかで誰かと誰かを比べてしまっているからに他なかった。

 地下鉄に乗る。
 なんとなく昨日胡依先輩が歌っていた曲を口ずさむ。

 改札を抜ける。
 昔の佑希の泣き顔が心中をかすめる。

 地上に上がる。
 歩いているうちに背中にズドンと重い感触を得る。

 振り向けば奴がいる。
「先輩」と彼女は俺を呼ぶ。

「さてと、今日のデートの採点をしましょうか」


今回の投下は以上です。


【焦点】

 人混みを避けるために、高架下の商業施設に向かう。

 零華に半ば引っ張られるようにして、適当に付設のそれっぽいカフェに入ることにした。
 一息つける所ならどこでもよくて、それでこの施設にはここしかなかった。

「あの、わたし買ってきますから席取っててください」

 言って、彼女は二人がけの小洒落たソファーの席を指差す。
 ひとつだけ絶海の孤島のようにポツンとあるものだから、お客さん誰も座らないんじゃないかな、くらいにも思ってしまう。

「あそこでいいの?」

「あそこしか空いてないので」

 言われた通り見渡すと、たしかに他の席は全て埋まっていた。
 老若男女人数問わず、パソコンを操作したり本を読んだりしている。

「アイスコーヒーでいいですか?」

「うん」

 それだけ訊くと、さっさと行けと手をしっしっと返される。俺は虫とかなんですかね。


 零華を待っている間に、部活のグループラインに少し遅れる旨を連絡する。
 胡依先輩から「大丈夫だよ!」とすぐに返信がくる。反省したのかもしれない。

 ふう、とため息をつく。
 上着を羽織っているには暖かすぎる室内、近くのスピーカーから流れるゆったりとした音楽、カフェ特有のあまったるい匂い。
 もうちょっと人の入りの少ないところならなおいいのだが。

 戻ってきた零華は、二人ぶんの飲み物が乗ったトレーをテーブルに置いて、少し動けば肩が触れそうな程の位置に腰を下ろした。

 お金を、と思って荷物から財布を取り出そうとしたが、手でそれを制される。
「さっきと昨日のお返しです」と。

「そういえば、学校行くんじゃなかったのか」

 俺からの問いかけに、彼女は「ああ」と笑う。

「よく考えたら、学校行ってもやることないじゃないですかー」

「たしかに」

「奈雨ちゃんとふたりっきりは正直心躍りますし大歓迎なんですけど、
 学校までの距離を往復するのはめんどいですし、このまま帰ろうかなーと思いまして、先輩を待ってました」


「……待つ必要ある?」

「いや、わたしの買ったもの持ったままですし」

 言われて、自分の持ってきた荷物を横目で見る。
 電話がかかってきて急いで階段を上がったし、それ自体が黒い袋だったから、彼女の服を持ってあげていたのを思いっきり忘れていた。

「それに先輩の様子がおかしかったので、ちょっと気になってですね」

 大丈夫ですかー、と肩をポンポン叩かれる。
 昨日から何かあるたびにボディータッチされるけど、こういうところが男を勘違いさせるのでは……。
 いや、でもこの子は奈雨ちゃんスキーだしな。男に興味ない可能性もなくはない。

 そんな俺の心中を察したのか、彼女は慌てて手を離す。
 気恥ずかしさをごまかすかのようにストローを咥えてちゅーちゅーと飲み物を飲む。


「それで、採点結果は?」

 問うと、彼女はうーんと唸った。

「三十点ってとこですかね」

「高いな」

「……高いですか?」

「わざわざ言うんだから、もっと低く言われるかと思った」

「あくまでわたし目線の話ですし」

「まあ、そうか」

 それっぽく適当に頷く。
 本当は彼女に対してだってそんなふうに振る舞いたくないのに、さっきの電話が尾を引いている。

 意味もなくマドラーを回す俺に対して、零華は胡乱げに目を細める。

「どうして、駅の近くで奈雨ちゃんの手を離したんですか」

「なんとなく」

「じゃ、ないですよね」

「……どうしてそう思う?」

「あんなひきつった顔見てたら誰だってわかります」

「今だってそうです」と彼女は言う。


 いやそんなことないだろと愛想笑いをしようとしたが、顔の筋肉がうまく動いてくれない。

「気を悪くさせたならごめん」

「否定しないんですね」

「しても意味ないだろ」

「……ま、そうなんですけど」

 かたり、と彼女はソーサーにカップを置く。

 怒っているわけではないと思う。
 けれど、何かを告発するようなその語気は、今の俺には鋭くも感じられてしまう。


「今更ですけど、わたしは猫かぶりで性格が悪いです」

「……いきなりどうしたの?」

「いえ。……でも、そう思いますよね?」

「まあ」と答えると、「ですよね」と彼女は苦笑する。

「わたしは、できれば初対面の人にはよく見られたいですし、仲良くしたい人ならなおさら自分を飾ろうとしてしまいます」

「……」

「でも、だからこそ先輩を見ていてわかったのかもしれません」

「何を」

「先輩も、わたしと同じですよね?」

「どういうことだよ」

「わたしと同じで、先輩も猫かぶりってことですよ」

 自分でも理解していますよね? とでも言うように、彼女は俺の目をじっくり見つめる。
 俺は目を合わせたまま答えない。零華は待たずに話を続ける。


「奈雨ちゃんと先輩が一緒にいるのをそばから見ていると、ちょっとだけ違和感を感じます」

「……」

「わたしと二人のときの先輩はもっとぶっきらぼうですし、奈雨ちゃんはもっと……なんていうか、クールです」

「まだ二回しか会ってない」

 そう返すと、零華はくすりと笑った。

「それでも、わかります。二人が何かを演じているってことは、回数はどうであれわかります」

「……」

「わたしは、奈雨ちゃんをずっと見てたから」

 彼女は確信している。それで、その推測は的中している。
 だから「それ以上言うな」と言いかける。

 けれど、その言葉は俺の喉を通過しないまま消えてしまう。
 感覚的に、けれど、自分の意思で。


 まだ数回しか会っていない子にさえ、あっさり見透かされてしまっている。
 ……違う、俺が自分で見せつけていたのだろうと思う。

 俺はとっくの昔から気付いていて、きっと誰かにそのことを糾弾されたかったのかもしれない。

 彼女にそういう役目を押しつけているのは俺で、彼女は俺に合わせて演じてくれていて。
 対等でいたいとずっと考えていたはずなのに、俺の方から対等でない状態を強要させていることに。

 距離を離されることが嫌だから、佑希と同じ扱いをされたくないから、そういう何かを比較するような目で見られたくないから。

 黙ったまま続きを促すと、彼女は気まずそうに俯いて、胸元できゅっと手を握りしめる。

「先輩だって、わかってますよね」

 俺に確認するように、言葉を区切る。
 こくり、と喉を鳴らす音がする。

「──奈雨ちゃんの世話を焼いていないと、そんなに不安ですか?」


 思わず声を失った。
 その瞬間だけ世界が止まってしまったかのように思えた。
 秋風さんに言い当てられた時と似ている。核心をつかれてしまった。

 そう言われるだろうと予想していたことなのに、実際言葉にされるとどう反応すればいいかわからなくなってしまう。

 答えずにいる俺に、零華はコーヒーの残りを一気に流し込んでから話し始める。

「どういう事情があるのかはなにも知りません。
 でも先輩は、お兄ちゃん然としていないと嫌なんじゃないですか?」

 そうじゃない、とは言い切れない。

「先輩はすごく優しいです。奈雨ちゃんもそう言ってました。
 ……わたしも、会いませんかって言ったらすぐに会ってもらえましたし、何かを買ってほしいって言ったら、やっぱり買ってもらえました」

「……」

「誰かの頼みを受けたら、先輩は拒まないんじゃなくて、拒めないんですよね」


 ──私なんかより、白石くんの方がよっぽど優しいよ。
 ──白石くんはシノちゃんに頼ってほしそうにしてる。

 胡依先輩の忠告はこういうことだったのだと思う。
 ここ最近で覚えているだけでこれだ。他にも言われたかもしれない。ずっと言われてきたことだった。

 ──あなたは、お兄ちゃんなんだから。

 昔からよく優しいと言われた。
 人に優しくしなさいと言われた。
 優しくしていることが"普通"で"自然"だと思い込むようにしていた。

 そのうち、誰かに優しくしていないと怖くなってしまった。
 誰かに頼られている自分が見えないと、自分がここにいていいのかとばかり考えてしまうようになってしまった。

「優しさだって一長一短です」と零華は言う。

 そうだよな、と思う。

 相手に押し付ける優しさは、多分優しさではない。
 本当の優しさは、相手が求めてきた時に与えるものだ。
 相手のことをよく観察して、理解して、適切なタイミングまでに手を貸すための準備を整えている人が、きっと本当に優しい人だ。


 俺は違う。そういう優しさは持ち合わせていない。
 一度彼女を頼ったらどんどん駄目になってしまう自分を見ることが怖いから、あらかじめ優しい自分を装っているだけだ。

「奈雨ちゃんのことを本当に妹としてしか見ることができないなら、きっぱり拒絶してほしいんです」

 妹としてしか見れない。
 かわいさ、子供っぽさ、わがままさ。
 無意識に求めてしまっていた。否定はできない。

「そうじゃないと、お互い困るだけだと思いますよ」

 いつのまにか、隣にいる彼女の視線は冷たく鋭いものに変化していた。

 今だって、俺は困っている。
 奈雨も、困っているかもしれない。

 家族愛? 兄妹愛?
 俺が彼女に向けている感情は、本当にそういうものなのか?

「違う」とはっきり言えた。昔なら。
 今は……どうだろうな。

 俺はわけもなく頷いた。
 零華の言葉にというより、自分の中の感情に折り合いをつけるために。

「佑希先輩も同じですよね」と彼女は耳にかかる髪をはらいながら言う。


 その名前が出たのは意外だった。
 何かがあるのだろうとは思っていたけれど、とにかく驚いた。

「あの人は、自分のことばっかり。それが他の人を傷付けるだなんて、微塵にも思ってない」

「よく知ってるな」と俺は言った。

「事実ですから」と零華は答えた。

「佑希先輩も、先輩のことをアテにしてるんですよね。
 よく聞きました。なんでも言うことを聞いてくれる優しいお兄ちゃんがいるって」

「……」

「まあたしかに、先輩以上にそういう役目が適任な人はいないと思います」

「そうかな」

「先輩は、頼られたら甘やかしちゃいますもんね」

 嘲るような声音は、でも、彼女自身の芯の強さをうかがわせる。

 酷いことを言われている気もするが、苛立ちも何も感じなかった。
 嫌な気分になる。でも、発散はせずに溜めたままでいる。そういうのが、多分癖になっている。

「奈雨と佑希が従姉妹ってことは知ってたの?」


「もちろん、知ってましたよ。
 でも、先輩経由で佑希先輩まで伝わるとわたしとしては面倒なので、嘘をつかせてもらいました」

 全く知らなかった、と。
 それにどういう意味があるのかは、限られた情報では理解が追いつかない。

「先輩は──」と彼女は言葉をためる。

「なに?」と訊き返すと、うーんと数秒唸ってから閃いたように手をうって、

「そんなに迷っているなら、その気持ちをぶつけちゃえばいいんですよ」

 と言った。

「誰に」

「奈雨ちゃんに」

「……」

「きっと、そんなことでなくなってしまう関係じゃないと思いますよ」

「そうかな」とまた彼女に訊ねる。
 すると彼女は、それまでの作りものの表情を崩して、彼女らしい狡知な笑みを浮かべた。


「いっそのこと、いま以上のことをしちゃえばいいんじゃないですか?」
 
「……は?」

「えっと、奈雨ちゃんとですよ?」

「知ってる」

 知ってるけど。
 そういうこと言うか普通。

「そういう対象として見れるか見れないのか、はっきりすると思いますよ」

 零華はあっけらかんと言う。
 でも、バカ言えよとしか思えない。

「わたし目線だと、先輩はそういうふうに見てるとは思いますけどね」

「……さあな」

「本当に妹としか思えないのなら、罪悪感でキスなんてできませんよ」

 そう言ってふふんと笑う。

 それはそうだろうな、と思った。
 余計なことを考えなければ、そうなのだと思う。

 何かに気を取られているから、そう思えないだけの話だ。

 でも、だからってどうしたらいいんだろう。
 進む方法。方針。指針。欠けてしまっている。



【rewind】

──たとえばさ、

──たとえばもし、わたしがみーに追いついたらさ、

──そのときは、わたしと……。

今回の投下は以上です。


【投影】

「一回家に戻ります」と言って部室を出る。

 眠気のように視界が霞む。もやもや感。ぼやけ。
 本当は眠気ではなくて考え事のせいかもしれないけれど、何を描いていても、それがいいものであるとは思えないまま時間だけが経過していた。

 まず今日の精神状況で部活に来たこと自体が馬鹿げた行為だったのかもしれない。哀愁。
 先輩は昨晩と同じくソラと二人でマリオパーティをしていた。夜に本気出すらしい。もう夜だけど。最強。
 東雲さんはパソコンをいじっていた。編集作業を手伝っているらしい。健気。

 絵を描いている間も歩いている間も零華から告げられた言葉がぐるぐると頭のなかを支配する。

 もしかしたら東雲さんに対してもそういう目を向けていたのだろうか。
 自分にとって何かを感じる女の子に対してなら、誰にでもそう思ってしまうのだろうか。

 だとしたら最低だな、と思う。
 気持ち悪い、とすら思う。

 それを意識していたならまだ救いがないこともないと思うが、このことに関しては全く意識していなかった。

 そう思うと、ため息すら出てこなかった。俺はひどく落ちこんでいた。
 ひょっとすると俺は人のことを記号としてしか見ていないのではないか。


 容姿、性格、性別、価値観ら雰囲気、家庭環境。それらの優劣を頭ごなしに決めつけて勝手に羨んだり見下したりしているのかもしれない。

 お年寄りがテレビゲームやらスマホやらタブレットやらを諸悪の根源と一緒くたにするように。それはちょっと違うけど。

 今まで描いてきた絵にだって、それは言えるのかもしれない。

 胡依先輩と東雲さんの会話を聞いても、あまりピンとはこなかった。
 けれど、今になってなんとなく理解するに至っていた。

 描いているものには俺自身の願望が投影されている。
 描きたいものを描く、というと、奈雨のような女の子の絵ばかりを描いてしまっていた。

 それ以外も描いたりはしてみたけれど、一番筆が乗るというか、やる気が出るのはそういう絵を描いている時だった。

 奈雨は俺にとって理想の女の子だ。
 いや、逆だ。理想の女の子が奈雨だった。それが奈雨であるならなんでも良かった。

 彼女がもし同い年でもひとつ上でもふたつ下でも、俺は確実に同じ想いを抱いていたと思う。
 彼女に甘えられると嬉しく思う。心に平穏が訪れる。そういう所作を求めてしまう。ある意味依存している。

 まあ、気付いたらそうなっていた。
 というより、そうなってしまっていた。
 会わないうちに、俺が立ち止まっていて彼女が進んでいるうちに、いつのまにか変わってしまっていた。


 御託を並べても仕方がないので結論から言うと、零華の予想は的中していた。

 俺は彼女をそういう目で見ている。
 というか、そういう目以外で見ていた時間の方が少ない。

 だから、キスをすれば当然のように胸の鼓動は早まるし、終わってしまえば切なく感じたりもする。
 昨日の夜のように蕩けた表情を向けられたり、色っぽい声を聞かせられれば、彼女に対して色欲に近い感情を抱いてしまう。

 俺だって"普通"の男子高校生なのだから、そういうことに興味がないわけではなかった。

 クラスメイトが数人集まってそういう会話をしていれば、聞き流さずに当たり障りのない返答をしようとは思うし、会話の流れ次第ではおどけてみせたりもする。
 どういうタイプの女の子が好みなの? と問われれば奈雨を思い浮かべてそれっぽい特徴を並べたりもした。


 ただ、そういった感情は俺にとって行き場のないものだった。
 彼女とキスをするまでは。あるいは、同じ学校になるまでは。

 そして、俺はその溜まってしまったものを発散する方法を持ち合わせていない。

 彼女以外の女の子に対して一度もそのような感覚になることがなかったのに、その彼女と会える機会は限られているとなると、そういう欲求は自然と立ち消えになってしまう。
 それが関係したのかは定かではないが、俺には性欲というものが殆どなかった。

 これもまた同級生の話を聞くと、ほえーそっかあとはなるものの、だからといってそれを試してみようとはならなかった。

 変なところで潔癖なのだ。多分。
 処理しようとしたところで収まりがつかなくなるのが怖いだけなのではないかとはいつも思っている。


 家の前まで歩いていくと、ちょうど奈雨が玄関から出てくるのが見えた。
 結構暗くなっている時間なのに。なぜか門をくぐるまでの間が長く感じる。

 彼女は俺の姿を捉えるなり、少し驚いた様子で駆け寄ってくる。

「お兄ちゃん帰ってきたんだ」

 慣れていたはずなのに、今はお兄ちゃんというワードですらも胸がちくりと痛む。
 けど、気のせいだと思い込むことにする。

「少しな。……奈雨は?」

「夜食べなきゃなって、買い物」

「食べてないのかよ」

「……まあね。勝手にキッチン使うのはまずいでしょ」

「佑希は奈雨のぶんの夕食作ってないの?」

「なかった」

 なかった、って……呆れすぎてため息すら出てこない。
 あいつほんとなにしてんだよ。嫌いとかそういう話じゃなく常識の問題じゃないのか。

「俺が作るから中に入ろう」

「悪いよ」

「お客さんだろ。もてなしてあたりまえだって」


「でも……」

「でも?」

 問うと、彼女は困ったように視線を逸らす。

「遊んでるとき、ちょっと疲れてるみたいだったから」

「そんなことないよ」

「そんなことあるでしょ」

「じゃあ何か買ってくるから。奈雨は部屋に戻ってろ」

「なら一緒に行く」

 はい、と目の前に手を出される。
 俺は幾分か戸惑う。

「なに?」

「繋いで」

「どうして?」

「ちょっと寒いから」

「……」


「あと、わたしが繋ぎたいから」

 そう言って、ポケットに入れたままでいた右手を彼女の左手に強引に繋がれる。
 昼と違って普通の繋ぎ方だった。だからって何もないけれど。

 知っての通りコンビニまでは目と鼻の先だ。
 店内は暖かい。というか、外だってたいして寒くはない。

「お兄ちゃんはもう食べたの?」

 右手でバタースティックパンを手に取りながら彼女は小首をかしげる。

「食べた」

「嘘でしょ」

「なぜわかった」

「なんとなく」

 買わないの? とじとりとした目を向けられたので、俺も近くにあった惣菜パンを買うことにした。


 飲み物コーナーでひとつ、お菓子コーナーでひとつ、レジ前のホットスナックをひとつずつ適当に選ぶ。

 会計をする間はさすがに手を離して、店を出てからまた手を繋ぐ。
 今度は指を絡ませられた。どういう心境の変化だろう。

 数分前のように家の門をくぐり、手持ちの鍵を使って家に入る。
 部屋に行くにはリビングを経由する必要があるので、仕方なく手を離そうとする。

「離したくない」と彼女は呟く。

「どうして?」

「どうしても」

「わけがわからない」

「……わからなくていいよ」

 と俺の様子を気にせずに、ぐいと引っ張っていかれる。
 何かを決心したような表情が目に焼きつく。いつになく、真剣な表情だった。


【VS】

 ドアを開けると、彼女は二階へ向かうことなくテーブルにつく。
 そして、目の前の様子を気にせずに、買ってきたものを袋から取り出す。

 佑希はイヤホンを付けていたが、誰かが座ったことに気付いて面をあげる。
 視線はすぐに正面から逸れて俺に向かってきたが、それが下に向かうと彼女の表情は瞬く間に苛立ちを含んだものに変わった。

「なにそれ」と佑希は射竦めるような目を俺の隣に向ける。

「なにが」と奈雨は涼しげな声音で応答する。

「どうして手なんて繋いでるの」

「わるい?」

 冷めた口調を崩さない奈雨に、佑希は少しだけたじろいだ様子を見せる。
 その様子が少しだけ意外に思えた。彼女はどうでもいいと思っている人の感情なんて気にも留めないと思っていたから。

「わたしとお兄ちゃんのことなのに、佑希に何の関係があるの?」

 衒いもなくそう続けると、佑希はまたしても鋭い視線を彼女に向ける。


「おにいと付き合ってんの?」

「答える必要ある?」

「……うるさい」

「うるさいって、どこも理由になってないんだけど」

「はあ? 何その言い方」

 このままだと確実に喧嘩になると直感して部屋に戻ろうと立ち上がるも、彼女は腰を上げようとはしない。

「行くぞ」

「……どうして?」

「いいから戻ろう」

 彼女は咎められたと思ったのか、顔を俯かせて唇を浅く噛む。
 思わず語気が強くなってしまっていたことに、その反応を見てからようやく気付いた。

「あんただけ戻ればいいじゃん」

 立ち上がりかける奈雨を、佑希が怒気を含んだ声音で呼び止める。

「ここはあたしとおにいの家で、あんたが邪魔者なんだから、あんただけ消えればいいじゃん」

 その言葉に、奈雨はくすりと笑う。
 強がっている、と思う。でも、佑希はおそらくそれに気付くことはない。


「お兄ちゃんが、わたしに一緒に部屋に戻ろうって言ったんだよ?
 それをとやかく言う筋合いがどこにあるの?」

「はあ?」

「だから、そういうの理由になってないって」

 奈雨は先ほどと変わらないうんざりした様子で肩をすくめてため息をついた。

「ほんとになんなのさっきから!」

 バン、と勢いよくテーブルを叩いて、佑希は激昂する。
 彼女のそういう様子は、随分と久しぶりに見たように思える。

 今にも前傾になって掴み掛かりそうな彼女を、佑希と名前を呼んで制そうとする。
 それでも彼女は手を正面に向けて突き出したが、奈雨が後ろに下がったためにそれは空を切った。

「自分の思い通りにならないとすぐに手を出すところ、昔から何も変わってないのね」

「……なんなの」

「お兄ちゃん、いこ」

 取り合わずに深く息を吐いて、奈雨は足を前に出す。

 今するべきことは二人をこの場から離すことだと考えて足を前に出そうとする。


 でも、いくら踏み出そうとしても足がうまく動いてくれない。
 吐きそうになるほどの不快感。金縛りにでもあったように、身体が強張る。いつもそうだった。

 佑希がこちらに縋るような目を向けている。
 それだけで、俺は彼女を慰めなくてはならないと思ってしまう。

 ──あなたは、お兄ちゃんなんだから。

「おにい」と弱々しい声で呼ばれる。
 ぎりぎりと頭が痛む。俺はどうしてこんなにも罪悪感を感じているのだろうか。
 
「……お兄ちゃん?」

 と奈雨が振り返る。
 心配するような目を向けている、ように思える。
 けれど、俺の目は佑希に向いたまま動いてくれない。

 彼女はぽろぽろと涙を零していた。
 いつもの大人びた雰囲気とはひどくかけ離れた、迷子になった幼子のような表情で。

「おにいは、やっぱりあたしのことはいらないの?」

「……」

「……奈雨のほうが、あたしよりもいいの?」

 俺は彼女のこういう表情を見ることがたまらなく嫌だった。
 過保護なまでに優しくしていた理由はそれだ。彼女にこういう表情を見せてほしくなかったからだ。



 そして、それは優しさではなく俺の利己的な思考に基づく態度だった。
 俺がやるしかなかったから、今まで彼女を支えてくれる人は現れなかったから、誰も使い物にならなかったから。

 ──先輩以上にそういう役目が適任な人はいないと思います。

 俺は、きっと、こういうふうに頼られることに義務感のようなものを感じてしまっている。
 そうしていないと、強い不安を感じる。"兄"をしていないと駄目なのではないかと思ってしまう。
 ずっとしてきたことだったから、俺の中でもはや性質化してしまっている。

 いつからか彼女に"妹"をされることを不快に思うようになっていた。
 普段は邪険にしているくせに、弱ったときにだけ頼ってくる相手を、それでも優しくしてしまう自分が嫌だったから。

 たまたま俺がそういう役回りを引き受けているだけであって、ずっと彼女だけを見ていることなんてできない。
 彼女が他の誰かを見つければ、そこで俺とはおさらばだ。
 ……でも、もし見つけられなければどうなる?

 それに、相手にとって都合の良い存在であり続けることは、相手が思っているよりも神経を使うことだ。
 常に気を遣って、わかるわけない相手の気持ちを推し量って、本心を口に出さないで。

 そういうことばかりしてきた。
 上手くいっていたと思っていたのは俺だけだろうか。

 佑希は俺の知らないところでとっくに強くなっていると思っていた。
 強いのにも関わらず──ひとりで立っていられるにも関わらず──どこかで溜まったフラストレーションを俺にぶつけることで発散しようとしているのだと思っていた。


 だが、今の様子を鑑みるに、その認識は全くの誤りであったことに気付いてしまう。
 いくら自分を磨いて外面を取り繕っても、肝心の弱い内面までは矯正できていない。
 心の何処かで誰かに選択を委ねている。

 昔から何ひとつ変わっていないのは、俺だけではなく彼女もだったのだ。

「お兄ちゃん」と俺を呼ぶ声が再度聞こえてくる。

 気付かないうちに手を握る力が強くなる。俺にはこれくらいしかできない。
 どういうわけか、彼女にこの手を離されたらおしまいだ、と思う。

「おにいがいないと、あたしは……」

 悲痛に滲んだ声を聞いて、都合の良い言葉を掛けそうになってしまう。
 習慣とはそういうものなのだろう。自分の意思とは正反対に身体が動いてしまおうとしている。

 けれど、不意に風が吹いたような感覚を得て、俺の思考は引き戻される。

「もういいよ」

 目の前には、つんと背伸びをした奈雨が立っている。
 彼女は俺ら二人の間に飛び込んできて、反対側の席へ向かう俺の視線を遮った。


「……お兄ちゃん。もういいよ」

 目が合う。
 言葉を続けようとして、彼女の口が何度か形を変える。

 彼女のあどけない顔つきを見ていると、それまで硬直していた身体が自然と動きはじめる。

 何か言ったら変わってしまう。この状況で対話を試みることは俺にとって害になり得る。
 まず部屋に戻ろう、と思った。手を引くと、彼女は俺に聞こえる程度の大きさで安堵の息を漏らした。

 すれ違うとき佑希は呆けたようにこちらを見つめたまま、何も言うことも動くこともしなかった。
 階段を上がる最中も、後ろ髪を引かれる思いを感じていた。

 戻らなくてはという思いは少なからずあった。
 当たり前だと思う。俺はずっと彼女の抱える問題について近くで見て考えている振りをし続けていたのだから。

 疚しさは肥大化していく。
 彼女がこうなってしまった責任の一端は俺にある。

 俺が彼女を蔑ろにできなかったのは結局自分が楽をしたかったからだ。決定を先延ばしにしたかったからだ。誰かに文句をつけられることが嫌だったからだ。

 彼女を蔑ろにすることは、俺が今までとってきた言動が全て欺瞞だったと認めることになる。

 今この行動を取ったからといって、この後にどうすればいいのかなんて、俺には何も判断できない。


【1/4】

 佑希の過去について語ることは、この家の問題点について語ることに通じるかもしれない。

 昔の佑希は、今よりも不器用で無思慮な子供だった。
 すぐ泣いて怒って喚き散らしては、それが終わるとこてっと寝てしまうような、そんな子供らしい子供だった。

 俺もよく喧嘩をふっかけられたし、陰口を言わずに相手の正面から正論をぶつけてしまう性格が災いして、毎年のように周囲と軋轢を生んでいた。
 クラス替えで昨年度佑希と同じクラスだった人の話を聞くと、俺の知らない所でも随分と問題を起こしていたらしい。

 ただ、幸か不幸か彼女の容姿は頗る端麗であることから、取り巻きの女子や好意を持って丁重に扱ってくる男子もそれなりにはいたようだった。

 そういう意味では、教師の手を煩わせる結構な問題児ではあった。


 彼女は他者から認められないことにひどく怯えていた。
 いつも誰かに褒められていないと、自分の存在意義を疑うような言動を取ることも少なくはなかった。

 だから、彼女は自分の弱い内面を鎧を纏うために、すべてのことに全力で取り組むようになっていった。

 でも、そんなに躍起になっている佑希よりも、俺の方ができてしまった。
 そりゃあ同じ環境で同じようなことをしていれば、同程度の実力にはなるし、そうなってくると向き不向きの問題になってしまう。

 男女差もあるかもしれないけど、小学校くらいだと女の子の方が成長していることが多いだろうかは、あんまり関係はないだろう。

 佑希は俺よりできないことがあると、決まって母さんに泣きついた。
 父さんは今と同様仕事で忙しくて、家に帰って来るのは俺たちが寝てしまってからだった。

 それで、母さんは佑希のその態度を見て、いつもうんざりしたような顔をしていた。


 母さんは仕事が好きな人だ。職場に復帰してからは昔よりも楽しそうにしている姿を見ることが多い。

 だからあの頃に関しては、家事育児によって仕事ができないストレスを抱えていたのかもしれない。
 父さんはいい顔をして働いていて、俺と佑希は学校で外に出ていくのに、家に一人で残されていたことがつらかったのかもしれない。

 それで、佑希のことを考えると、母さんにとっての俺は都合の良い子供だったに違いない。

 あまり自分の意見を話さないこと。
 母さんの言うことを必ず聞いて、学校でも問題を起こしたりしないこと。
 何より、うるさくせずに静かにしていられること。

 母さんは佑希が泣きつくたびに、「できない自分が悪いって思わないのかな」と愚痴を俺に零していた。
 徹底した成果主義。母さんのスタンスは昔からそうだった。

 佑希は周りのことを気にせずに自分の世界が全てという子供だったから、その母さんの機敏にはまるで気付いていなかった。
 自分の話を最後まで聞いてくれるお人形のように自分の母を扱っていることに、違和感などまるで感じていないように思えた。

 母さんも、きっと初めはそれが親の務めだと考えて、それを表には出そうとはしなかった。

 ──でも、あるとき。


 佑希が泣き散らかして自室に戻った後、母さんは額を手で押さえながらうんざりした顔で俺の名前を呼んだ。
 疲れ切った顔だった。話は三十分以上続けられていた。俺は聞いていない振りをしていた。

 娘は母親に一番影響を受け、一番似てしまうものだ、とそこかしこで聞いたことがある。
 その通りだと思う。佑希と母さんの性格は酷似している。

 溜まったストレスを発散するために、誰か都合の良い存在を求めてしまう。

 佑希の愚痴人形が母さんであるように、母さんの愚痴人形は俺だった。

 ──あの子、いつになったらあなたに勝てるんでしょうね。
 ──それまで、私はずっとこんなしたくもない慰めをかけなきゃならないのかな。なにか、きっかけがあればね。

 ──……そうだ。

 ──お兄ちゃんなんだから、負けてあげなさい。

 母さんのふと呟いたそのひとことが、この状況のすべての始まりだったように記憶している。


【2/4】

 ──あなたはお兄ちゃんなんだから。
 ──お兄ちゃんなんだから、わざとでも負けてあげなさい。

 ──お兄ちゃんなんだから、我慢しなさい。

「あの子はわがままだけど、あなたはお母さんの言うことをよく聞くし、聞き分けのいい子なの」
「担任の先生も嬉しそうに言ってたわよ。あなたはすごく優秀で落ち着きのある子だって」
「初めから失敗しないように努力しなさい。辻褄合わせなんて一番してはいけないことよ」

 ──お兄ちゃんなんだから、しっかりしなさい。

「あなたはできる子なんだから、これくらいできて当たり前よ」
「家事や料理の練習をしなさい」
「言われなくても未来はできるだろうから、お手本を見せたりしなくていいわよね」
「お母さん、二人が中学校に上がったら職場に戻ろうと思うんだけど」
「訊かなくても大丈夫よね」
「しっかりものの未来がいるから大丈夫よね。佑希とちゃんと足並みを揃えてあげるのよ」

 ──お兄ちゃんなんだから、譲ってあげなさい。

「佑希がこれをほしいって言ってた?」
「あなたにはあんまり好みもないし、好き嫌いの多い佑希に買ってあげるのが無難かもね」
「そういう子供っぽい遊びはやめなさい」「外で遊ぶなら、佑希も連れていってくれない?」
「二人でいるときは、甘えさせてあげなさい」
「あなたは我慢できるいい子ね」

 ──お兄ちゃんなんだから、妹に優しくしてあげなさい。

「あの子に何をされても怒ったりしちゃ駄目よ。すぐ癇癪を起こすから大変じゃない」
「佑希が泣いてるときは、あなたがなぐさめてあげなさい」
「お母さんよりも、あなたの方が佑希のことをわかっているでしょう」
「それがお兄ちゃんの役目。私がいないときも、佑希のことを頼んだわよ」


【3/4】

 その言葉の数々は、俺の行動に影響を及ぼした……かもしれない。よく覚えていない。
 よく覚えていないくせに、言われた言葉だけが耳から離れない。

 そのときの俺は子供ながらいろいろなことを考えたのだと思う。
 母さんの様子。徹底した成果主義。後付け。認められるためにがんばっている佑希。適当にやってもなんだかんだできてしまっている自分。

 俺は自分のことを井の中の蛙か何かだと思っていた。どうせ世の中には俺よりもっとできる人はいるし、たまたま自分の成長が人より早かったり、やり方が効率的だっただけなのだ、と、
 それと同時に、佑希を井の中の蛙にすらさせないでいるのは他でもなく自分の存在であることにも気付いていた。

 100まで到達したとしても、佑希は101を目指そうとする。
 たとえそれ以前の80や85で足踏みしたとしても、そこを突き破ろうと努力を重ねることができる。
 俺は頭打ちになった時点で踏ん切りをつけてやめてしまう。そういう姿勢が染み付いてしまっている。


 俺と彼女の何が違うんだ? できているのは俺の方なのに、どうして俺が責められている感覚にならなきゃないんだ?

 きっと、俺はそう考えた。
 だから、俺と彼女を天秤にかけた。

「俺よりもがんばっている人が賞賛を得ることができないなんておかしいだろ」

 悩んだ末に出した結論はそれだった。
 俺だってうんざりしていたのかもしれない。

 何か競うことがあっても、佑希のことを思うと急速に冷めていく自分が嫌だった。
 競わなくてもいいことなのに、自分が満足できればそれでいいことなのに、どうして俺は後ろめたくならなければならないのだろうか。

 ちょっとずつ手を抜いた。母さんの言う通りにわざと。佑希が勝って気持ちいいと思えるほど、ギリギリな程度に。
 べつに、それ自体はなんてことはなかった。

 俺はそんな佑希のことを特段煩わしくは感じていなかったし、競っている感覚なんてなかったから、自分が少しでも調整すればそれでいいと、そう思っていた。


 がんばれない俺と直向きにがんばれる佑希だったら、先が見えてるのはどちらかなんて言わずともわかることだった。

 仮に俺が弟で、佑希が姉だったとしても、母さんは同じことを言っただろう。「男なんだから」とか、「ちょっとは考えてあげなさい」だとか理由をつけて。

 俺に負担を丸投げしていることはわかっていた。
 でも、だからって母さんのことが嫌いとは言えない。そういうことではないと思いたい。

 きっと、俺が、俺自身が抱えている不安がどこかで露呈してしまうことに耐えられなかったのだと思う。

 "何をしても続かない"、というのはずっと昔から理解していた。

 自分は「本当の意味で」できるだなんて、一度も思ったことがなかった。
 いろいろなものに手をつけては、そこそこキリのいいところでやめて、でも周りからはある程度の賞賛を受けて。
 一度手を抜くことを覚えると、それ以降は気が楽だった。変な期待をかけられて、本当は大したことないと後で勝手に失望されるようなことは、是が非でも避けたかったから。

 俺が勝たせるようになってからの佑希は凄かった。
 枷が外れたように、いろいろなもので一番の成績を修めて、母さんや父さん、教師や友達問わず誰にでも褒められるようになった。


 けれど、問題が起きるのは早かった。

 あまりに佑希が自分の手に入れた力を誇示するようになって、両親は今度は俺に気を使いだして、佑希を褒めなくなった。
 一番褒めてほしいと思っていた人に褒められなくなってしまった。
 俺は「佑希を褒めてやってくれ」とは言えなかった。それは何か違うことだと思ったから。

 そうすると当然のように佑希が拗ねた。

 親は自分を満たす役割において全くアテにならないと思ったのか、俺に成果を見せてくるようになった。

「今日もがんばったよ」
「先生に褒められたよ」
「張り合ってくる子がいたんだけどね、全然勝負にならなかったの」
「中学校は近くのところを受けようかな。頭いい人いっぱいだって言うし」
「お母さんもあそこに入れたらすごいねって言ってくれた」
「合格した! これからお祝い連れてってもらう!」
「あたしががんばってればみんなに認められるんだってわかってよかった」

 俺はただただ頷く。
 本当は、もっと違うことを考えていたのに。

「おにいちゃんはどうだった?」

 同時に何度も何度も彼女は俺に問いかけた。母さんの気持ちが少しだけわかった気がした。


 けれど、俺の役割はそれを我慢して褒めてあげることなのだろうと考えた。
 俺が"お兄ちゃん"をしていれば、彼女は"妹"として俺に甘えることができる。
 彼女が壊れなくて済む。俺は彼女に必要とされている。

 がんばったな、と頭を撫でてあげると、見てわかる程に頬を緩めて喜んだ。

 いつのまにか差が開いていくのがわかった。
 自分の現状に満足せずに努力を重ねる佑希を褒めてあげようと思った。自分はこういう扱いでも別に構わない。
 勝てないとしても、誰も困らないなら最善の手を打てている。
 中学だって、もしかしたら俺と比べられて何かを言われるかもしれない。

 なら、違うところに行けば佑希は傷つかないだろう。

 俺が我慢すれば、佑希はどんどん強くなれるし、母さんや父さんが困ることもない。
 "できない"側の俺よりも"できる"側の佑希の方がずっと価値がある。

 そういう目で見られても、心無いことを言われても、気付いていない振りの愛想笑いをして、自分の立ち位置や取るべきスタンスを心の中で定めて、認めて、「うちの妹はすごいんですよ」と返答して。

 ……それで、それで良かった。


【4/4】

 そういった状況からの転機は、中学二年生にあがる頃だったと思う。

 中学以降は母さんは仕事が忙しくて──忙しくしていて──滅多に顔を合わせなかった。
 心のどこかで母さんの俺への愚痴が止むことを期待していた。

 けれど、それは悪化した。
 見られなくなった部分を恣意的に補完して、身勝手な妄想で俺の行動を後付けで批判するようになった。


「あなたはどうして最後までやりきることができないの?」
「とやかく口を出す気はないけど、妹に負けたままで悔しくはないの?」
「自分の意見はないの?」「人に合わせてばかりで恥ずかしくないの?」
「何事にもはっきりしているから佑希の方が接しやすいわね」「佑希の方がよっぽど大人ね」「あなたはいつまでそうなの?」

「奈雨ちゃん受かったんだってね。未来はどうして受けなかったの?」
「私が見ていないからって、勉強なんてしていないんでしょう?」
「なにこれ。通知表。ふうん、それなりにいいんだ」「クラスで一番ね。まあまあかもしれないわね」「でも奈雨ちゃんと佑希のところとは違ってレベルの低い子もいるのよね」「昔のあなたの方ができたわよね」
「部活はどこに入ったの?」「え、入ってない? じゃあ放課後なにをしているのよ」「まさか遊んでるんじゃないでしょうね」
「なら、あなたはなにも成長していないじゃない」
「いつからあなたはそういうふうになっちゃったの?」

「三橋さんのところとは比べられて嫌なのよね」「でも、うちには勉強も運動もできる佑希がいるから軽く見られたりはしないわよね」
「もう佑希から聞いた? 来年から学年で上から三十人しか入れない特進クラスになるらしいのよ」「来週は部活の地方大会だってさ」「お母さん休みとって応援に行こうかな」「未来も来る?」
「そっか。あなたは妹思いのいいお兄ちゃんだものね。」
「受かったんだ。ならお祝いにでも行きましょう」「佑希ができたんだから、あなたもできて当然よね」「兄妹二人で同じ学校っていいわね」「佑希に追いつけるようにがんばりなさいよ」
「佑希のことを、これからもお兄ちゃんとしてあなたがしっかり見てあげなさい」


 佑希と比べられることに関しては、無関心を貫き通すつもりだった。
 母さんの感知しない所で佑希が心の安寧を得ているのだし、今更俺がそれを嘆くことは今までの苦労を台無しにすることに繋がるものだったから。

 俺が悩んだのはもっと別のことで、もっと単純なことだ。

 奈雨が佑希の中学に合格した。それだけのことだった。
 でも、その"それだけのこと"が俺の心を苦しませた。

 奈雨は俺を追い越していってしまうかもしれない。
 追われているつもりが、いつのまにか追いつかれて離されていっているかもしれない。
 彼女とだけは他の誰とよりも比べられたくなかったはずなのに、いつのまにか勝手に比べられるようになってしまった。

 ウサギがすやすや眠っているうちに、ずっと後ろにいたカメに追い越されてしまったあの童話のように。


 本当は、カメが追いついてきたら、一緒に並んで終着点まで進んでいけたらいいと思っていたのに。
 無駄なことで競うのはやめにして、ちょっぴり不器用なカメとどうでもいいような話をしながらゆっくり歩いていきたかったのに。
 そういうつもりで、俺は彼女をずっと待っているつもりだったのに。

 自分が誰よりも大事に思っている女の子との約束を、俺は守れないかもしれない。

 怠惰でなあなあの毎日を過ごしているうちに、自分の力はすり減って劣化して、そんな俺なんて誰も求めなくなってしまうかもしれない。

 ……奈雨が、自分から離れていってしまうかもしれない。

 だから彼女に会っても、その約束について確認することが怖かった。彼女はそんな約束なんて忘れてしまって、俺の知らない場所へ行ってしまう。そのことが怖かった。

 ──だから。

 今度は、俺が追いつく番だと考えた。そうでなければ、彼女の隣を歩けない。彼女を守ってあげられない。

 ──お兄ちゃんなんだから……。

 母さんの言葉は、俺を鎖のようなもので縛り付けている。
 俺は佑希の兄で、奈雨の親戚のお兄ちゃんで、なのに、彼女たちよりも劣ってしまっている。

 俺の"お兄ちゃん"は形だけで、中身が全く伴っていない。それはただのハリボテと変わらない。

 このままだと、彼女と正面から向き合うことができない。

 それだけだった。
 俺が自分の意思で初めて何かに取り組もうと思えた動機は、たったそれだけのことだった。


【言葉にすれば】

「お兄ちゃんは悪くないよ」

 と奈雨が口を開くまでに、だいぶ時間が経過していた。
 いろいろなことを思い出して、彼女はその間俺の肩に頭を乗せて目を瞑っていた。

「……でも、佑希は泣いてた」

「あんなの嘘泣きだよ」

「どうして?」

「そう思ってたほうがいいって、わたしは思う」

 そう思えないから、この後の処理について頭を悩ませているわけだが。
 でも、もしかしたらそうなのかもしれない。佑希が必要としているのは、必ずしも俺でなくてもいいのだから。

「佑希は自分のこと以外何も見えてないんだから、あんなの放っておけばいいよ」

 そういえば、零華もそんなことを言っていたっけか。


「それでさ」と彼女は話を変える。

「……今日は、なにかあったの?」

「……なにかって?」

「モールから帰るとき変だった。それに、今もちょっとおかしい」

「おかしいかな」

 復唱するようにして答えると、奈雨は何かを考えたのか少しだけ口籠った。

「れーちゃんも、わたしにお兄ちゃんの様子がどうか訊いてきた」

「うん」

「……会ってたんでしょ?」

「知ってたのか」

「『ごめんなさいって先輩に言って』って連絡がきたから、そうなのかなって思って」

「……まあ、ちょっとな」

「そっか」

 軽めの相槌を返して、彼女はふうっと息を吐き、呼吸を整える。
 そして、にこりと微笑んで、繋いでいる手を天井に向けて持ち上げた。


「どうしたの」

「ううん。なんでもない」

「……訊かないの?」

「なにを?」

「零華と話したこと、とか」

「訊いていいの?」

「まあ」

「でもいいや……訊かない」

「わかった」

 そこで話は途切れて沈黙が落ちる。

 訊きたかったのは帰り道のことで、零華とのことではないのかな、と思った。
 どのみち同じような話ではあるから、片方を話せばもう片方を言うことに繋がるかもしれない。

 そんなことを考えていると、彼女は「んっ」と俺の目の前に唇を突き出す。
 何度目だろうか、零華の言葉が脳裏をかすめる。

 唇を重ねると、彼女の肩がびくりと跳ねて、上目遣いで眉を寄せる。
 おろしている髪の毛が首にあたって少しこそばゆい。

 数秒足らずで離そうとするも、服の裾をきゅっと握りしめて、離さないでほしいというメッセージを伝えられる。


 十秒、二十秒、三十秒と触れている時間が過ぎていくうちに、俺の思考はびりびりとしびれるようなものから、いろいろなものに変化していく。

 目を瞑る。開けたままでいると、目の前のことばかり考えてしまいそうになるから。

 きっと、さっきまで考えていたことは、まだ半分でしかない。
 彼女を、今このとき口付けを交わしている彼女を、零華の言う妹のように扱っている理由が説明できない。

 彼女はたしかに健気でかわいらしくて、周りよりも少し身長が低くて、俺よりも年下で、不器用なゆえの危なっかしさを時折見せてくる。
 少なくとも俺の周りではとびきりかわいらしい女の子であるし、彼女の魅力的なところを問われれば真っ先にそのかわいらしさを挙げるだろう。

 けれど、だからといって彼女に頼られていないと不安になってしまうというのはおかしい。間違っている。矛盾している。


 俺は彼女と並んで歩きたかった。
 お互い一人で立っていられるくらいに強くなって、それでもどこか不安を感じてしまったら、そのときは安心を与えられるような存在でありたかった。

 押し付け。自分のことしか考えていない。我慢していられない。
 その言葉はそっくりそのまま自分に返ってくる。

 口に出さないことで取り繕っていたとしても、きっと心は傷付いていたのだと思う。
 そのうえで、最初は転んだ際にできた擦り傷程度のダメージだったものだから、それを軽視して──自分なら大丈夫だと思い上がって──早急に手当てをしたり休息を取ることを忘れてしまっていた。

 だからこそ、それは外へ放出されることなく蓄積して、今になって可視化できるところにまで大きくなってしまった。

 俺は小さいころから誰かに頼られることに慣れてしまっていた。
 自分が我慢することによって、何かが未然に防げたり守れたりするならば、それは現状での最善の手を打てているのだと思っていた。
 目に見えてしまうと面倒なことを、助けたり肩代わりすることによって先延ばしにしていた。

 だとすれば、問題だったのは、俺がそれを"できてしまった"ことではないだろうか、と思う。


 人には各々広さ大きさの異なるキャパシティが存在する。
 自分のことで手一杯な人は、他者にかまけている余裕はなくなるし、ある程度余裕が持てる人、もしくは自分を蔑ろにしている人は、他者を抱え込めるだけの隙間/余地が残されている。

 誰かに頼られる。それを助ける。
 もう一度頼られる。また助ける。
 それを続けていくうちに、片方はやめどきを見失ってしまい、もう片方は「もっと」「もう一回」と相手に必要以上の期待をかけるようになってしまう。

 その悪循環から解き放たれて嬉しく思うのは、多くの場合頼られる側だろう。

 だが、誰かに頼られることがその人の習慣だとなると、状況がまるで違ってくる。

 頼られる側が、他者を抱え込むために、自分の領域を犠牲にすることによってスペースを確保していたとして、
 その部分があるときごっそりと抜け落ちてしまったとしたら、開いてしまった穴はどうやって埋めあわせるのだろうか。

 一番の近道は、新たに頼ってくれる誰かを見つけることだろう。


 それを求めた。無意識のうちに。

 でも、自分のことですら満足にできなくなってしまった俺が、誰かを助けてあげられるだけの力を有しているとは到底思えなかった。
 たまたま人よりも力を持っていたからそういう人が寄ってきただけで、その力が弱くなれば、俺のことを頼る人なんてどこにもいなくなる。

 それでも、俺は頼られなくなってしまうことが怖かった。
 きっとどこかで頼られることに悦びを感じて、そのことで自らの存在意義を見出していたのだから。そういう自分が見えないと、どう振る舞えばいいのかわからなくなるから。

 俺のことを頼ってくれる人を見つけなければならない。
 奈雨を妹のように扱えば、妹のように甘えてくれる。頼ってくれる。
 そう思って、近くにいた彼女に役割を押し付けてしまった。

 何かに流されていたのではなく、俺が、自らの意思をもってして判断を下していたことだった。


 目を開けると、唇はすでに離れていた。そういう感覚も、頭から抜け落ちてしまっていた。

 奈雨は心配するように俺の顔を覗き込む。
 ひょっとしたら、結構な時間ぼうっとしていたのかもしれない。

「……もうちょっとだけ、近付いてもいい?」

 目を合わせると、彼女は視線を逸らして俯きがちにそう言った。

 頭がくらくらする。意識がぼんやりとしている。
 本当に、彼女とこういうことをしていていいのだろうか。

 逡巡しているうちに、彼女は距離を肩が触れるまで詰めてくる。

「なんでこんなに近付くんだよ」

「……だめ?」

 堕ちてしまいそうな甘ったるい声。
 肩に手を置かれる。その部分だけ、さーっと熱が冷めていく感覚を得る。

「もし俺が押し倒したらどうするんだよ」

 離れてほしい、と言おうと思った。
 けれど、それを言うだけの勇気がなかった。


 こういうことを言えば、彼女の方から離れてくれる。

 それを願った。また押し付けようとした。

 なのに、

「いいよ」

 と彼女は躊躇する様子を僅かにも見せることなく頷く。

「わたしはお兄ちゃんになら、そういうことをされてもいいよ」

 彼女は言葉を重ねる。
 しっとりと濡れた目が、逸らすことを許してくれない。

「冗談だぞ」

「遠慮しなくていいよ」

「……なに言ってんだよ」

 強めの口調で言うと、彼女は負けじと肩が完全に触れるまで距離を詰めてくる。

「お兄ちゃんが安心できるなら、わたしはそれでもいい」


 耳朶を打つ蕩けた声にのまれて、ベッドに彼女を押し倒してしまった。
 我慢しようとした。けれど、身体が言うことを聞いてくれなかった。

 彼女は一瞬だけ怯んだ顔をして、すぐにいつものようにえへへとはにかむ。

「いいよ。我慢しなくて」

 彼女は俺の手を取り、自らの胸部へと誘導する。

 触れるとすぐに彼女の早い鼓動が伝わってくる。
 それがいっそう頭をしびれさせ、流れに身を任せてしまいたくなる。

「でも、ちょっとだけ恥ずかしいから電気だけ消してほしい」

 言いつつも、彼女は俺の腰に腕を回して、ゆっくりとベッドに引き寄せる。

「お兄ちゃんがちゃんとわたしを見てくれるなら、邪険に扱われても乱暴されてもかまわない」

 心臓がばくばくと脈打ち、耳の先まで真っ赤にしている。
 なのに、今にも泣き出しそうな表情で微笑んでいる。


 このままでは駄目だ、と思う。

 そういう対象として彼女を見ることができる。というか見ている。それは否定しない。勢いに任せてしまってもいいと思う気持ちもなくはない。

 俺は、ずっとずっと前から彼女のことが好きだったから。

 でも、これは違う。間違っている。

 好きだから……好きだからこそ、やめなければいけないと思う。
 今に至るまで、ずっと彼女の発言を免罪符にして甘え続けていた。好きな子と身体を触れ合わせる行為を楽しんでいた。自分の致命的なまでの弱さを間違ったかたちで押し付けていた。
 兄妹のように接することによって、溢れ出してしまいそうな彼女への好意に蓋をしているつもりでいた。

 キスまでなら、少しだけ心はちくりと痛んだけれどまだ抑えることができた。

 けれど、これ以上は駄目だ。
 今は良くても、そのあとのことについて考えが及ばない。

 俺は、彼女に対して何も責任を取れない。取るだけのものを持っていない。責任という言葉を出すことすら烏滸がましい。

 そう考えていると、身体は逆方向へと勝手に動いていた。

「離れろよ」

「……やだ」


 ふるふると首を振りながら請い願うような言い方に、優しい声音で諭そうとしたけれど、

「離せって言ってるだろ!」

 と気付けば半ば強引に彼女を突き飛ばしていた。

「きゃっ」という声とスプリングが軋む音が聞こえる。表情を見たくなくて、俺は彼女に背を向けた。

「駄目なんだよ」

「……なんで」

「わかんないけど、駄目なんだよ。
 こういうのは違う。俺は奈雨とそういうことはしたくない」

「……わたしのこと、嫌いなの?」

「違う」と答える。それだけは、はっきりと言える。

 けれど、その続きは一向に出てこようとしてくれない。


 きっと彼女は俺が何を言ったとしても許してくれる。受け入れてくれる。仮にここで彼女のなすがままに身体を求めたとしても、きっと応じてくれる。
 そうなってしまったら、歯止めが効かなくなるのは目に見えている。彼女を際限なく求めて、彼女を困らせて、最後には嫌われてしまうのではないか。

 そして何よりも、

「俺は奈雨にふさわしくない」

 そう思っていて、いつのまにか口に出ていた。彼女がどういう表情をしているのかはわからない。

「……わたしは、お兄ちゃんと誰かを比べたりしないよ」

 彼女はそうなのかもしれない。
 俺は彼女のそういうところが好きだったから。

 ──でも。

「でも、比べられるんだよ」

「……誰に?」

「みんなに」

「……そんなことないよ」

 不意に手を掴まれる。
 けれど、その驚きよりも、否定してしまいたい衝動が打ち勝ってしまう。


「そんなことあるんだよ」

 言いながら手を振りはらうと寂しそうな吐息が聞こえてくる。俺は聞こえていない振りをする。

 話しているのは奈雨なのに、彼女とは離れた他のことまでもが浮かんできてしまう。比べられることで、俺はずっと嫌な思いをしてきた。
 誰かと誰かを比べることに呪われている母親と妹がいたから、俺だけでもそれをどうにかして避けたいと思っていた。

 そんなのは実現不可能な妄想であることはわかっているのに。
 比べられることは当たり前のことなのに。俺も知らず知らずのうちにいろいろなものを比べてしまっているのに。

 だったら誰が悪いんだ? 俺は、それがたまらなく嫌で、そういう自分も嫌で、なにもかもが嫌で。
 でも、嫌な言葉ほどよく覚えていて、記憶から消し去ろうとしてもうまく消えてくれなくて。

 俺だってわかってる。選択をしているのは自分で、言葉に出せないのも自分で、全部が全部俺のせいだってわかってるよ。
 なんとなくである程度出来るから、やめどきがわからなくなって、何かを捨てたくても捨てきれなくなって。


「なら俺が悪いのかよ! 人より出来ることがそんなに偉いのかよ! 黙ってればいい子なのかよ! 何も言わなければ好き放題言っても許されるって思ってんのかよ!
 自分の負担を俺に押し付けて好き勝手に振る舞って、最後に謝ればそれで許してもらえるって思ってんのかよ!」

 こんなふうに怒鳴り散らしたら、彼女に幻滅されるかもしれない。
 けれど、口は勝手に動いて止まってくれない。

 自分が何を言いたいかなんて、ずっとわからなかった。
 俺が黙っていれば、佑希は笑っていて、母さんのうんざりした表情を見ずに済んで、すべてがいいようにまわって。

 でも、俺は。

「俺だってあいつの兄である前に一人の人間なのに。比べて優劣をつけて勝手に同情してんじゃねえよ!」

「……お兄ちゃん」

 うかがうような声音は耳に入ってきて、でも、思考を止めることはできない。


 誰も頼んでないのに、ただの兄妹ってだけなのに、俺とあいつは違うのに。
 兄妹だと知ったら、みんなは二言目にはあいつの話をする。あいつを褒め称えて、俺は頷いて笑みを返す。
 そうするしかないのに、勝手に調子付かれてしまって、三言目にはいつも決まった言葉を掛けられる。

「でも、比べられて大変じゃない?」
「あんなにできる妹がいるとつらくない?」
「妹さんほどじゃないけど未来くんもできるよね」

 その何気ない言葉が、薄っぺらい同情が、いつも胸に突き刺さっていた。俺は我慢したのに、やりたいことも捨ててきたのに。
 それが一番嫌だったのに。そういう目で見られることが気持ち悪くて仕方がなかったのに。

「わかってるよ」

「……うん」

「俺は何かを背負っていないと不安になって、頼られないと不安になって、
 誰かの世話を焼くことで自分の存在意義を確かめようとしてることなんてわかってるよ」

「……」

「でも、でもさ──」

 ──自分の気持ちの押し付けだけじゃなくて、俺の気持ちだって少しは考えてくれよ。

 その言葉は、最後まで出てくれなかった。


 視界がまたしてもぼやける。佑希としていることが変わらないということはわかっていた。
 奈雨に対してだけはこういうことをしてはいけないとも思っていた。困らせたくないって、それだけを思っていた。

「お兄ちゃん、ぎゅっとするね」

 その声が聞こえて、俺の身体は奈雨の腕でつつまれる。

「離せよ」

「離さない」

「……なんで」

「……わたしが考えてるのは、ずっとお兄ちゃんとわたしのことだけだから」

「他の人は関係ないよ」と彼女は額を背中に押し付けながら言う。

 彼女は俺の言ったことをわかっていないのかもしれない。
 わかっていなくて、わかっていないなりに、彼女の言葉にしてそれを伝えようとしてくれているのかもしれない。

「お兄ちゃんが本心を話してくれたこと、嬉しいって思う」

「……」

「わたしだから話さなくてもわかることもあるけど、話さないとわからないことの方が多いから」

「……でも」

「わたしが嬉しいって言ってるんだからいいの」


 熱のこもった声に、考えごとをやめさせられる。
 彼女はいつだってそうだった。俺の言葉を待ってくれている。準備をしててくれる。

 まわされていた腕を外して、彼女の方へ振り向く。
 呆けたようにぽかんとしている彼女の表情を見ると、気持ちが安らいだ。

「ごめんな」

「……ううん、大丈夫」

 ほわっと笑う彼女が愛おしく思えて、抱きしめてしまおうかと思った。
 が、さっきの仕返しも込めて彼女の頬をちょっと強めに引っ張ることにした。

「なに」

「なんでもない」

「……いたい」

「奈雨は、自分を大切にしろよ」

 言うと彼女は首をかしげたが、少しして意図を察したのか照れたように身をよじらせながら、

「お兄ちゃんこそね」

 と、俺の頬をつねり返してきた。


 なんだか気恥ずかしくなってお互い笑う。
 と思ったら、すぐに奈雨はむすっとした顔をした。

「てか、べつにわたしはよかったのに」

「なにが?」

「……わ、わたしに言わせるか!」

 近くに転がっていたレジ袋で殴られる。
 パンと肉まんがぼろぼろと下に落ちる。そういえば、温めてもらったんだけどもう冷めてる。

 拾い集めて渡すと、机に向けてそれを投げた。食べ物は粗末に……ってほどしてないか。

「まあ、いいや。こういうのは急ぐべきでもないってれーちゃんが言ってたし」

 零華? 名前だけで危険な香り。
 ていうか、さっきから混乱してらっしゃるのでしょうか。

「あー、なんだ。風呂でも入ってきたらどうだ」

「それって」

「……それって?」

 訊き返すと、拗ねたような顔をして「ふぎゃー」と胸をぽかぽか叩いてきた。
 ふぎゃーってなんだよ。かわいさの暴力(やっと頭がまわってきた)。


「なんだよ」

「なんでもないし!」

 ドタドタと足音を立ててベッド横のキャリーケースまで移動すると、中から服やらなんやらを取り出してさっさと部屋から出て行ってしまった。

 すれ違うときに白くてふりふりの下着が見えた。
 いや、隠せよ普通に。触れたときを思い出すと意外と……むにゅってなったんだけど。

 結構あるとは思っていたけど、前からあたったりしてたけど、ああいうのはちょっとな……。
 それも、咄嗟の判断を迫られたときには全く頭になくて、今になってから考えていることだけれど。

 まあ、なんだ。
 こっからどうしようか。
 部室に戻れば、家に彼女たち二人になるとか、戻らないと怒られそうだとか。

 佑希をどうするか、とか。
 それは、少し考えることが億劫なことかもしれない。

 ひとまず、奈雨が戻ってきてからどうするか考えよう。

 今はこの、彼女のおかげで少しだけ落ちついた気分に浸っていたい。

今回の投下は以上です。


【温もり】

 ふと外の景色に目を向けると、夜はすでに更けてしまっていた。
 日付がまわる少し前から本腰を入れて私以外の二人が動き出して、でも、数時間とも経たぬ間に部室はめっきり静かになってしまった。

 いくら目をこすっても、眠さは消えてはくれない。
 夜更かしは苦手だった。というより、家だとこの時間まで起きていることはほとんどないのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。

 起きているために。
 コーヒーは甘くないと飲みたくないけど、この深夜に甘いものは控えたい。
 エナジードリンクの類は部長さんとソラくんが冷蔵庫から出して飲んでいたが、私はあまり飲めない。薬品ぽくて苦手なのだ。

 対戦ゲームのタイトル画面のままつけっぱなしのテレビ、
 そこらへんに転がっている本やらレジ袋やら何やら、
 キーボードに手を置いてぽけーっとどこかにトンでいる部長さん。

 いやいや、まだ一日目も終わってないのに。
 あ、いや……もしかしたら今日より前からずっと徹夜してたとか。この人ならありえそう。


 そういうわけで、だいぶ出来心で彼女の耳をつまんでみた。
 ひんやりした感触で、ちょっとだけびびる。

 見た目は和風美人。少しだけ憧れなくもない。日本人形って評するのは普通に悪口だと思う。個人的な感想(私はよく言われるけど嫌)。

「うぎょっ」

 低い声を発すると同時に、彼女の目に生気が戻ってくる。
 思わず目を逸らしながら手を引っ込める。

「私の福耳を触ったな!」

「……あ、はい」

「寝込みを襲うなんてへんたい!」

「襲ってませんよ」

「ショヤ前にキズモノにされちゃったよう……」

 わんわんと目に手を当てて泣き真似をされる。
 寝起きでこのテンション。素なのかな。だとしたら怖い。
 ていうかまずショヤってなんだろう。

「寝るなら椅子じゃなくてちゃんと横になったほうがいいかなと」


「そらそらくんは?」

「それです」

 部長さんの近くに転がっている寝袋とはまた別の、明太子みたいな真っ赤なものが窓際に横たえている。キューピーみたい。

「買おっかな」

「やっぱり変わってますよね」

「んやー、かわいいからね」

「そうですか」

「……あー、でも」

 ふらふらと部屋のあちこちに彷徨わせられていた視線が、言葉を区切るとこちらをまっすぐに捉えた。

 目を合わせると、彼女はなんの躊躇いもなく抱きついてきて、体格差も相まって後ろにバランスを崩す。
 半ば押し倒される形になって、彼女の顔がすぐ近くまで近付いてくる。

 頬がほんのり朱に染まって見える。私もきっと同じ顔をしている。

「シノちゃんの困った顔の方が好き」

 好き、という言葉に戸惑う私をよそに、冗談めかしたように続ける。


「いま呆れてる顔です」

「じゃあ呆れてる顔でもいいや」

「……はあ、軽いですね」

 明らかにからかわれている。
 私をからかう必要なんてないと思うのに。

「てことでさ、このまま寝ようよ」

「はい?」

「人肌の温もりを感じつつ微睡みに落ちていく感覚を味わいたいんですよ」

「……欲求不満なんですか?」

「そうかも」

 いや、そうかもって……。
 軽口に真面目に返されても。

 と、そんなことを思っていると、部長さんは口元に手を置いて楽しげに笑う。

「おお、いまの顔!」

「……これも呆れた顔です」

「呆れた顔も好きって言ったじゃん」

「私ならなんでもいいんですか」

「そうそう」

「そういうの手慣れてますよね」

「……いや?」

 首を振りながら私から離れて、テーブルに置かれた湯呑みに手を伸ばし、それをこくこくとわざとらしく喉を鳴らして飲んで、元の位置に戻してからぷはあと吐息を漏らした。


「シノちゃんと愛を語り合ってたら眠くなくなってきちゃったかも」

「語り合ってないですけど」

「こまけーことはいいんだよ!」

 居酒屋で年下を窘めるおじさんのような口調で言いつつ、私の肩をバシバシと叩く。
 さっきまでのとろんと底まで溶けていってしまいそうだった瞳は、言葉の通り普段のものに戻っている。

「風にあたりにいこっか」

「いまからですか?」

「いいじゃん」

「……もう夜中ですよ」

 どういう意図かも確認する前に真面目に返答すると、彼女はふふんと笑った。

「お堅いことは言わずにさ。風邪引くといけないからあったかい服装してね」

 有無を言わせずに私に立ち上がるように促して、ソファの横に掛けてあった上着を手渡される。

 財布をポケットに入れていたから、きっと行くとしてもコンビニまでだろう。


「お菓子とか奢ってあげるから」

「誘拐犯みたいな台詞ですね」

「ふふふ、それでもいいや」

 れっつごー、とばかりに右手を掲げて、扉へとずんずん歩いていく。

「もたもたしてると置いてっちゃうぞー」

「あ、はい。ちょっと待ってください」

 上着を羽織って、髪をささっと整えて、そこまで寒くはないだろうし前は開けたままでいいか。
 一応身嗜みに気を遣いつつ外に出ると、校舎内は全て窓を閉め切っているからか、部室内とほとんど暖かさが変わらなかった。

 電気を消し、ぴしゃりと扉を閉め切ってから階段へ進む彼女を追いかける。

 が、すぐに違和感に気付く。
 先ほどまでは近くに座る彼女と会話をしていたからあまり感じていなかったけれど、暗さもあってか視界が滲む。

 シャワーを浴びたあとに目が痛くてコンタクトを外したことを今さらになって思い出した。
 遠視気味だからかな、多分。ワンデイしか使ったことないし……部長さんは眼鏡だし。

 戻ることも考えて、でも、まあ呼び止めるのも忍びないしこうなれば仕方ないか、と私の中で早めに結論付ける。


 早足で駆け寄って、ぶらりと自然に下ろしていた部長さんの腕を取った。

 二の腕は細い割にふわふわしていて柔らかい。サボン系のフレグランスの匂いがふわりと漂う。
 いつも思うけど、どうやったらこんなに人を落ち着かせるような雰囲気を出せるのだろうか。
 ついつい甘えてしまいそうになる。こんなこと、今までなかったのに。

 唐突に腕を組まれて立ち止まった彼女は、私をちらと見て少し困ったように微笑む。

 どうしたの、と訊ねられる。
 足元が覚束ないだけではあるのだが、普通に答えるのは一人で何もできないみたいでちょっとだけ恥ずかしい。

「人肌の温もりです」

 誤魔化すつもりでそう言うと、彼女はにこりと笑った。

「あー……なんかこれ、幸せしか感じない」

 反対の手で髪を撫でられる。
 いつもわしゃわしゃと無造作にされるけれど、今回は、サイドの髪を手櫛で梳くようにゆっくり撫でられる。耳にかけられたり、毛先を遊ぶように。
 それで、どういうわけか、私の胸はどきどき高鳴ってしまう。


 腕には私の胸が当たっているから、多分部長さんにもそれは伝わっている。
 そう思うと、ますます募る恥ずかしさで彼女の顔を直視することができなくなった。

 自分から腕を取ったのに、ちょっと近いだけでこのありさまだ。スキンシップに慣れてなさすぎる。

「あの、もう行きませんか」

 軽く息を整えてから、なるべく平静を装って彼女にそう告げる。
 すると、はっとしたように浅く呼吸をして、目の前の暗闇へと視線を戻す。

「うん。だね、行こう」

 ぎゅっと腕を締められて、さらに距離が詰まる。
 彼女の肌のあたたかさが、柔らかさが、それまでよりもダイレクトに伝わってくる。

 取り留めのない話をしながら階下へと進む途中で、窓から少しだけ光が差していることに気付く。

 手摺に手をかけて足を止める彼女を見上げると、微かな月明かりに照らされたその横顔は、心なしか紅潮しているように、私の目には映った。


【つまさきせのび】

「部長さんは、私に訊かないんですか?」

 フェンスに身を預けて鼻歌をうたう彼女に、私は意を決してそう問いかける。

 それは、一日中ずっと言おうと思っていたのに、なかなかタイミングが掴めなくて言えずにいたことだった。

「ん?」

 わかっていないように、彼女は首をかしげる。
 言葉が足りなかった。言うことが億劫だったから、直接的に述べることを避けてしまった。

 けれど、こういうふうに訊き返されてしまっては仕方がない。

「絵のことです」

「うん」

「……いろいろ考えてみて、けど、まだ描けてないです」

「そっか」

 なんでもないように、彼女は頷く。


 頬を刺す冷えた夜風に、お互いぶるぶると身震いする。
 どちらともなく近付いて、アスファルトに座り込む。彼女の体温を、息遣いを、すぐ近くに感じる。

 本当は少しだけ描いていた。描こうとしていた。
 今はどうであれ、先に進むしかないことはわかっていて、それなら自分の取るべき行動は決まっている。

 でも、それを見せる気にはどうしてもなれなかった。
 一部分しか描いていないから完成はしていないし、落書きと呼べるかすらもわからないような代物だったから。

 部長さんは、でも、私の絵を見てくれると思う。
 それは彼女の言っていたことから確実ではあるけれど、それでも、誰かに絵を見せることは躊躇してしまう。

「お祖母ちゃんに、私のことを訊いたんですよね」

「ごめんね」

「……あ、謝らなくてもいいです」

「うん、ありがと」

 昨日部長さんが喫茶店をあとにしてから、私はお祖母ちゃんから「未来くんと部長さんにこういう話をしてしまった」ということを聞いた。

 内容に関しては、別に知られたところで私にはなんともない。
 でも、そこから間違った解釈を付けられたり、勝手な考察をされてしまうのは、少しだけ嫌な感じがする。


 などと考えていると、はい、とガムを手渡される。
 受け取ってから彼女を見ると、薄紫色の風船をぷくーっと膨らませていた。

 それを真似するように、ベリー味のガムを口に含む。
 いつも買っていてブレザーの内ポケットには忍ばせているが、そういえば今日は食べていなかった。

 口に何か入れていないと落ち着かないのは、甘えたい心や気持ちの表れらしい。
 私は、甘いものが好きで食べてるだけだから違うけど。

「どうして、シノちゃんは水彩画を描いてたの?」

 出し抜けに投げかけられた言葉に、私は少しの戸惑いを感じる。
 それも、お祖母ちゃんに訊いたのだろうか。お祖母ちゃんにだって、誰にだって言った記憶は微塵にもないのだが。

 私が水彩画を選んだ理由。
 油絵でもデッサンでもデザイン画でもなく、初めは取っつきやすいものの上達したのかがそれほど定かにならないものを選んだ理由。
 一見するとあまり差が出ないようで、表現や色使いなど作者個人の在り方によってかなりの差が出てしまうものを選んだ理由。

 水彩画特有の手法も多いし(私は結構無視していた)、同じ美術部だった子は、誰も進んで描こうとはしていなかった。

 まあ、いろいろ考えたところで陳腐にしかならない。
 私の答えはひとつに決まっていて、言葉としてすんなり出てくる。


「やり直しが効かないところだと思います」

 小さいころは、紙とペンさえあればそれでよかった。
 単に近くにあったから。それだけの理由だけど、そのままでいられたらどれだけ良かったのだろうと思ってしまう。

「なるほどね」と部長さんは頷く。

「ウォーターカラーを使ってるとガッシュみたいに重ね塗りはできないし、油絵みたいに削ったりもできない」

「強い色で塗りつぶしちゃえば、また別の話ですけどね」

 当たり前のことを言ったのだが、彼女はむふんと得意げに微笑みを浮かべる。

「踏ん切りをつけるのって大変だもんね」

「まあ、そうです」

 だから、ある程度塗ってしまえば諦めのつく水彩画が私には合っていた。
 絵を描いている人なら、多分誰しも通る道で、殊更に言うほどのことでもない。


「んじゃさ、好きな画家は?」

「いろいろいます」

「ぱっと思いつくのは?」

「……えっと、モネですかね」

「モネモネ……あ! 私も『かささぎ』好きだよ」

「『並木道』とか『印象・日の出』とかじゃないんですか?」

 普通の人は、というか、かじっている(そこそこ知っている)人は、だいたいそう言う。
 特に後者は、"印象派"という言葉が生まれたきっかけになったものでもあるし、あまり絵に詳しくない人でも知っているかもしれない。

「シノちゃんのいたところは、どれくらい雪が積もるの?」

 突然話題が変わった。
 と思ったけれど、よく考えてみれば『かささぎ』は雪景色の絵だった。

「ふとももくらいまでは埋まってた気がします」

 言うとすぐに、あはは、と笑われて、頬をつつかれる。

「それシノちゃんだからでしょ」

「足が短いとでも?」

「……そうとは言ってないよ!」

「わかってます。どうせ私はちびっこですよ」

 部長さんは、背が高いし出るところは出てるし……私とはまるで大違い。


 誇れるのは雪国育ちの色白くらい。
 ……だと思っていたのに、未来くんは私より白い気がする。なぜか悔しい。

「拗ねないでよ」

「拗ねてません」

「せっかくのさくらんぼ美人が台無しだよ?」

「なんですかそれ」

「さくらんぼ美味しいじゃん」

「……はあ」

「そういえば、隣の県なのに行ったことないや」

 よく知らないと、そういうイメージを持たれるのか。名産だから少しはわからなくもないけど。

「こっちと違って市内でも田舎ですしなにもないですよ」

 私が出不精だったというのもあるかもしれない。
 でも、なにもないというのは本当のことで、こっちに来て娯楽施設の豊富さに驚いたくらいだ。

 ちょっと歩けばコンビニがあるし、駅の間隔も狭い。地下鉄だってこの地方だったらここにしかなかったと思う。


「シノちゃんはここに来てさ、どこか観光地とか行った?」

「いえ」

「ふうん……。じゃあ、私と行こうよ」

「……どこにですか?」

 問うと、部長さんは「うーん」と何かを思い出そうとするように頭を抱えて考えこんだ。

「これからの季節だと、紅葉狩りとかイルミネーションとか?」

「あー……ちょっと聞いたことあります」

「有名だもんね」

 この人だって、普段の様子を顧みると、そこまでアウトドア派でもないだろうに……。

 そういうことを言いかけて、とどまる。見越して言っているはずだから。

「……行けたら行きましょう」

 誰かと出掛ける予定をつくるなんて、記憶の限りでは初めてのことで、ついついお茶を濁すような言い方をすると、

「約束だよ?」

 と小指を指切りげんまんとばかりにふりふりと振ってくる。


「そんなに行きたいんですか?」

「うん」

「なら、楽しみにしてます」

 言って、宙ぶらりんになっていた彼女の右手に向かって自分の左手を差し出す。

 断る理由がない、というのが半分。

「ゆーびきーりげーんまーん!」

「恥ずかしいので止めてもらえますか?」

「いいじゃんいいじゃん。どうせ私たち二人しかいないんだし」

「それは……まあ、そう、ですけど」

 もう半分は……うまく言葉にできる自信がないから、今よりもうちょっと時間が経ってから再検討してみよう。

 それよりも、今私がすべきことは──。

 ひとつ小さく咳払いをしてから、部長さんに向き直る。

「部長さん」

「ん?」


「明日……いえ今日までは、編集作業のお手伝いをさせてください。
 どっちつかずは、どうしても避けたいですし、私もこの部の力になりたいです。
 お茶汲みでも、文章の校正でも、ゴミ捨てでも、なんでもやります」

 それが、今の私にできる最善のことだと思うから。

「じゃあさ、もし私がダレそうになったら、檄を飛ばしてほしいな」

 彼女はくすりと微笑みながら、私の頭にぽんと手を乗せる。

「部長さんは、あとどれくらいなんですか?」

「スケジュール的には、漫画一日五ページと、背景があと七枚……終わる気がし……なくもないけど結構厳しいかも」

「……他の二人は?」

「えっと、そらそらくんは八割がた終わってると思う。白石くんは、多分私と同じくらい。
 クオリティ的には、私はいいと思うんだけど、渋ってるっていうか、満足できないらしくてさ」

「さっきちょっと見たんですけど、未来くんの絵かわいいですよね」

「それそれ! 雰囲気がもう癒し、本人通り」

 未来くんは癒し枠なの……?
 あ、でも、なんかちょっとわかる気もする。


「私の趣味で、かわいい女の子描いたら? って適当に言ってみたんだけどさ、だいぶ頑なにロリっ娘を描き続けてる」

「執念ですかね」

『適当に』というのは、いい加減の意味じゃなくて、適切の意味だと思いたい。
 この人なら口から出まかせを言いかねないけど、殊更絵に関しては真剣な人だから判別がつかない。

「白石くん真面目だから、私が文句……アドバイスをすると、初めは嫌な顔してもすぐに飲み込んでくれるし、ついついかわいがりたくなっちゃうんだよね」

 部長さんは言いながらその様子を思い浮かべているのか、頬がほにゃっと緩んでいる。

「いい師弟関係ですね」

「んー……だって、せっかくの部活なんだし、部長らしいことしたいじゃん」

「それに私は、みんなより先輩なんだから」と彼女は居住まいを正して、握りこぶしを胸に押し当てる。

 暗がりに咲く笑顔が眩しい。
 向日葵みたいだ、と思う。実際は、花言葉のなかに"笑顔"はなかったはずだけれど。


「私は白石くんとそらそらくんを厳しくして、シノちゃんが私を厳しくすれば、なんかいける気がする!」

「……あの、」

「シノちゃんの蔑んだ目で見られたら、怖くて二十四時間いつでもがんばれちゃう!」

 ……。

 その眩しい笑顔も、こういう発言で台無しになってしまうのはね……。

「まずはゲームを没収しましょうか」

「それは鬼!」

「なら一日三十分に留めましょう」

「……えー、最低一時間」

 ぺたぺたと私の腕を触りながら、彼女はうーっと唸る。
 そういうボディータッチが……女同士だけど、私の判断力を鈍らせるには充分なわけで。

 言ったところで意味がないし、触れられている部分のことを考えないようにして、どうにか再検討してみる。

 先輩の速筆を考慮すると、そこまでハードではないと思うし、そもそも私が管理することでもないかもしれない。
 が、今日の夕方からの様子を見ていると、不安感は拭いきれない。


「もし早めに脱稿したら、いくらでも私が相手になりますから」

「……一日中?」

「それはわかりませんけど、可能な範囲でならお付き合いします」

 部員の中で、私が一番自分が何をできるのかがわからない状態なのに、こうやって人にものを言うのはどうなのか、とは思う。

 でも、部長さんが私にそれを望むのなら。
 何もできない私に、こうして仕事を与えてくれるのなら、その厚意を無下にはしたくない。

「そっか」

「はい」

「……じゃあ、早速続きしにいこっか」

 もうちょっとぼやかれると思ったのに、案外けろっと私の意見を呑んで、彼女はフェンスから身体を離す。

「ようし。シノちゃんに怒られないように、胡依ちゃんがんばっちゃうぞー」

「ファイトです」

 わざとらしく右手を突き上げる彼女に短く返事をして、私も立ち上がった。


【時制】

 寒空にさらされて冷えた身体には、校舎の中でさえ少し暖かく感じる。

 階段を部長さんの腕に掴まりながら一段一段降りていく。
 もうだいぶ暗さには慣れたけれど「はい」と腕を出されたのでは、断りづらいし仕方がない。

 いちいち外と校舎で靴を履き替えなくていいのが土足アリの高校の良いところ。
 この学校は変に自由だから、ローファーに限らずランニングシューズでもいいし、夏前はサンダルで登校している人もいた。

 部室前の扉の磨りガラスから僅かな明かりが漏れている。

 あれ? と二人で顔を見合わせる。
 電気は出るときに消して、ちゃんとパソコンもスリープモードにしてきたはずだ。

 部長さんはふうと息を吐いてから引き手に指をかける。
 そのままぐいっと横に引っ張ると、あっさりと扉は開いた。

「……お、白石くん?」

 前にいる彼女が呆けたような声を出したので、私も部室を肩越しに覗くと、未来くんがパソコンを操作していた。

「あれ、胡依先輩。他の場所で寝てたんじゃないんですか?」


「……あっ、そっか。白石くんは一回家に戻って帰ってくるって言ってたよね」

「家でいろいろあって、遅くなりました」

「そっかそっか。それで、どうしてこんな暗くして作業してたの?」

「えっと……ソラが寝てたんで、起こすと悪いかな、と」

 少しの歯切れの悪さが見え隠れする未来くんの言葉を聞いて、部長さんは顎に手を当てつつも、ずんずんと中央に向かって進んでいく。
 ソファの位置まで着くと、未来くんが「あ、そこは」と慌てたように声を上げるのが聞こえた。

 リモコンを探して彷徨う部長さんを横目に腰を下ろそうとすると、太ももに変な感触。
 ていうかこれ……毛布と……。

「……人?」

 ぱちり、と部屋に明かりが灯る。
 未来くんがわりかし驚いた顔をしてこちらに駆け寄ってくる(当然私はすでに立ち上がっていた)。

 彼の目元は微かに赤みを帯びている。
 暗い中でパソコンとにらめっこをしていれば、そうなって普通なのかな。

 動物柄の毛布をめくると、初めて見る女の子がすうすう寝息を立てて寝ている。


「連れ込み?」と思わず呟く。

「お持ち帰り?」と部長さんが嬉々とした声で私に続く。

「違いますよ」

「じゃあこの子は誰だ!」

「……あの、一応そいつ寝てるんで。多分起きないとは思いますけど」

 かりかりと頬を掻きながら彼は言う。
 いつも通り優しいな、と思いながら女の子に目を戻す。

 緩いウェーブのかかった亜麻色の髪の毛。
 降り積もった雪を想起させるほどの、白く透き通るような肌。
 一見するとそれに似つかわしくないような、鮮やかなに色付く小さめの唇。

 顔まわりを見ただけで、どこかいいとこのお嬢様なのかなと思うような、可憐でかわいらしい子だ。

 それに、未来くんの好みどストライクだと思う……知らないけど、きっとそう。

「このまえ話に出た従妹で、今うちに泊まりに来てるんですけど、いろいろあって家に一人で置いとけないと思ってやむなく連れてきました」

「ほお」


「もしここで邪魔だったら移動するので、一晩だけ泊めてもらってもいいですか」

 言葉に頷きを返してはいるが、部長さんの視線は斜め下に向かっている。

 どこからかビビッとくる電波を受信したんだろう。
 この人は何かとブレないから、大方かわいい子の寝顔を見て変なことでも考えているのだと思う。

「……先輩?」

「あ、うん。まず私たちも無断だし、泊まるのは大丈夫だよ」

「わかりました」

 ぺこっと頭だけで一礼して、彼はソファから女の子を抱き上げる。

 先程の言葉そのままで、動かされているのにも関わらず、目を覚ます気配は全くと言っていいほど感じ取れない。
 それどころか、あどけない口元を幸せそうに綻ばせて、未来くんの腕にぎゅっとしがみついている。

 毛布がはだけて、丈が長くゆったりとした寝間着が覗く。
 ワンピースだから分類的にはネグリジェで、多分ジェラピケとか、そんな感じの。詳しくないからなんとも言えないけど。


 じとっと目を凝らして見ていると、
 なんか、なんていうか。

 いや、今の私がものすごくダサい服装なのは関係なくて、ああいう服を着てみたいな、と思ったわけでもなくて。
 ……うん、ちょっとだけ思った。抱え上げられたいとか、もろに考えた。相手は、まあ、なんでだろうな。

 眠さは消えていても、頭はすでに活動を止めてしまっているのかもしれない。普段ならこんなことなんて考えないはずなのにな。

 ぷかぷかと水に浮かぶような幻想を断ち切ろうとしていると、隣からぱしゃりとシャッター音が鳴る。

「胡依先輩」

 と呆れた顔をつくる未来くんに向けて、部長さんはにひひと邪悪な笑みを浮かべる。

「お姫様抱っこはいい構図。尊みが溢れんばかりに深いの!」

 出た。部長さんが口癖のように言う"尊い"。
 気になって訊いたら、"尊い"は概念らしい。謎がますます深まる。

「ていうか、その私心をくすぐる服は、もしかして白石くんが買ってあげたの?」

「何の話ですか?」

「従妹の子に好きな服を着せるって宿題にしたじゃん」

「……しましたっけ?」

「したよ!」


「……いや、俺好みかは教えませんけど、服は一緒に選んで買いましたよ。
 今着てるのは、なうが家から持ってきたやつですけど」

「なう?」

「この子の名前です」

 なうちゃん。珍しい名前。
 ふうん、と部長さんが私を見ながら頷く。未来くんは少し笑っている。

 ああ、と遅れて意図を察する。
 たしかに、言葉遊びみたいだ。

「それで、なうちゃんの写真は? 私に業務上横領させてくれるって約束は?」

「何が業務上なのかは知りませんけど、もちろん撮ってないです」

「反故だ! 契約破棄だ!」

「いやテンション高いっすね」

 言いながら、彼はなうちゃん(と呼ぶことにする)を椅子に座らせて、ふわふわしたクッションをあてがう。
 それでもなかなか離してくれないようで、少し困った顔をしながら腕を引き抜く。

 部長さんはその様子をふむふむと頷きまじりに見て、ちらと一瞬だけ私に目を向けてから、また彼へと目を戻す。


「でも、絵を描く上での参考にはなりそうでしょ?」

「はい」

「てことは収穫にはなったわけだ。よかったよかった」

「昨日お店で見たような服も、さっきから少しずつ描いてました」

「おー、それはよいよい。じゃあ、あらかた描き終えたら見るから呼んでね?」

「ういっす」

 がんばろー、と未来くんの肩をぽんと叩いて、定位置へと足を伸ばす。

「さてさて、私も描き始めないとシノちゃんに怒られちゃうな」

 今度は私の頭にぽんと手を置く。
 で、もう片方の手には。

「ならまず、そのコントローラーをテーブルに置きましょうか」

「あっはい」

 注意したはずなのに、にへらと彼女は笑っている。

「……なんですか?」

「置く……けど、睨むのはキープで!」

「無理です」

 まったくこの人は……。
 呆れの意味でため息をついて、パソコンへと目を移した。

今回の投下は以上です。


【ちびっこ先輩】

 天井を見上げながら首を数回コキコキと鳴らして、んーっと軽く身体を伸ばす。

 ずっと座っていたせいもあって、背中や股関節周りが少しだけ痛む。
 それでなくても、昨日今日とまだ寝ていないわけであるから、節々は痛んでしまって当然なのかもしれないが。

 三十分程度のお昼休憩を挟んで、午前中の作業を再開する。

 昼下がりの部室には人が三人。
 夜遅くから泊まらせてもらった奈雨は、文化祭の練習のために、七時頃にせっせと教室へと向かっていった。
 人見知り? が発動したのか、起きるなり顔を赤らめていた。朝からめっちゃかわいかった。

 そして、この部活の華々しい女子部員二人は、遅めのランチへと出掛けている。
 デートだ! ときゃぴるんとした声で叫び部室内を大きなステップを踏みながら駆け回る胡依先輩を、東雲さんは冷ややかな視線で睨みながらも、渋々それにお供することにしたらしい。

 そんな凍てつくような表情をしていても、あまり嫌がってはいないし、それどころか少し嬉しそうに見えたというのは言わぬが花か。

 と思ったが、まず言う相手がいない。
 仮に言ったとしたら、もっと冷めた視線が飛んでくることはもとより、他の人物がそれ以上の反応を見せてくるかもしれない。


 二人に、というより東雲さんに向けて、嫉妬の(?)炎を燃やしている人の凄まじい表情を見てしまって、少し居たたまれなくなったくらいだ。

 そんなことを考えていると、後ろから頭をごすっと叩かれる。
 なんだ痛ぇよ……と振り返ると、さっき思い描いたまま不機嫌そうに眉を寄せたちびっこ先輩が立っている。

「休憩終わったんなら早くやりなさいよ」

 そう言いつつ、すっと椅子を引いて俺の隣に腰掛ける。

 コンビニで買ってきたであろうトマトスープをくるくるとかき混ぜながら足をバタバタと動かす彼女の身長は、東雲さんより少し大きいくらいで、足が床に届いていない。
 加えて、動く度に幼い雰囲気を醸し出すサイドポニーが撓るように揺らめき、その都度鬱陶しそうに後ろに流している。

 愛すべき世界のロリっ娘。
 胡依先輩の籠絡対象(違う)。

 そんな彼女は、朝早くに部室の扉を壊れそうなくらいの強さで開けて姿を現したかと思えば、
 すぐに「特別ゲストです!」と胡依先輩に肩を抱かれて紹介を受けた。

 何をするんだろう、と横目でぼんやり眺めていると、てくてくと俺とソラの方へ向かって歩いてきて、今と同じようにちょこんと腰を下ろした。

 どういう経緯かは知らないが、自分の絵で手がいっぱいになっている先輩が協力を求めたらしい。

 それで、後は御察しの通り。


「……どうですか?」

 スタジオソフトからペイントツールへと画面を切り替えて、一応お昼休憩前に塗りまで終わらせた絵を表示させる。

「どうって、何が?」

「午前中に先輩に言われたことを、それなりに意識してみたんですけど」

「……ふうん」

 身を乗り出して、半ば食い入るように──少しだけ品定めをするように──画面を眺めてから、彼女は俺に向けて小首をかしげる。

「パンツは見せなくていいの?」

「ぶはっ」

 反応を示す前に、ソラが吹き出した。
 そのままかつかつと歩み寄ってきて、絵を見てもう一度笑う。

 俺が描いていたのは、椅子に体育座りをする少女の絵だった。
 もう描き終えて提出するつもりだった絵について、直立の体勢が多すぎること、正面から描きすぎだということ(俯瞰/アオリなど構図に幅を持たせるといい)を指摘されて、まあたしかに、と納得した。

 なんというか、これまで通り女の子ばかり描いていたから、見ている先輩に勘違いされてしまっている気もしなくはない。
 そうでなきゃ、パンツを見せなくていいのかなんて訊かないと思う。

 最初にミニスカを履かせた奴が悪い。
 二択で選ばせた奴はもっと悪い。結局俺が悪い。


「未来さあ……しゅかちゃん先輩にこんな絵見せちゃ駄目でしょ」

「おい天パ。しゅかちゃん先輩って呼ぶな」

「えー、べつにいいじゃないっすかー」

「もう一回呼んだら、もうアドバイスとか一切しない」

 いーっと歯を見せて睨むしゅかちゃん先輩──萩花先輩は、健気で俺たちよりも元気が有り余っているように見える。

 指を突き立てて宣告する彼女をからかおうとしたのか、

「しゅかちゃん先輩」

 とソラはノータイムで口にする。

 前から思っていたが、この部室にはコントを発生させる結界でも張られているのだろうか。
 だいたい九割九分くらいソラと胡依先輩二人のせいではあるけど。


「はあ……まずきみはさ、胡依ちゃんに人体の描き方とかを教わってないわけ?」

「教わってないです」

 ええっ……と萩花先輩は呻く。

「白石くんは教わったんだよね?」

「えっと、はい。……いや、俺もソラも教わりました。
 ソラが上手くイメージを掴めないのは、それを話半分だったのが悪いかと」

「駄目じゃん」

 と彼女は呆れ混じりにソラへと苦笑したが、

「……いやでも、二、三週やそこらで描けるようにっても無理ゲーだとは思うけど」

 とすぐさまフォローを入れて、ふむふむと頷いた。

「先輩が『とりあえず楽しく絵を描こう』って言ってたんで、それでいいかなって思ったんすよ」


「それ本当に胡依ちゃんが言ったの?」

「え、そうっすよ。だよな?」

「ああ」

 ソラの言葉には怪訝げな顔をしていたが、俺が重ねて首肯すると、萩花先輩は「なるほどね」と言った。

「胡依ちゃんがそう言うなら、私がその方針についてとやかく言うのもよくないし、それでもいっか」

「あざっすしゅかちゃん先輩!」

「よし。じゃあまず伊原くんは手を動かすところから始めましょうね」

「はーい」

 さすが美術部部長。人の扱いには慣れている。
 美術部の実態については知らないが、上がこれくらいしっかりしている人だと、下につく部員も真面目にやってるんだろうなと思う。

「それで、白石くん」

「はい」

「この女の子、本当にパンツ見せなくていいの?」

 前言を大幅に訂正。
 芸術を嗜んでいる人は変わっている人ばかりだ。


「見えそうで見えない所が良いんですよ」

「もどかしさがそそるのね!」

「その通りです」

 もはや自分でも何言ってるのかわかってない。
 俗に言う反重力/鉄壁スカートと呼ばれるもの。だってもろ見せはちょっとお下品な気がするからな。いやあ、仕方ない仕方ない。

 夜更かしかつ深夜テンションで描き始めた絵は、正気を取り戻すまでにある程度描き終えないと、その先には全消しが待っている。

「俺にはもっとビシバシ文句付けてくれてかまいませんよ」

「今でも充分付けてるよ?」

「多分その方が集中できるんで。お願いします」

「……そう?」

「誰かに見られてることを意識した方がモチベも上がりますし、ずっと喋らずにパソコンに向かってるだけだとどうしてもダレそうなので」

「あー、そっか。うんうん、絵に対してやる気があることは良いことだね」

 萩花先輩は機嫌を取り戻したようで、椅子をずずっと俺の真隣まで寄せてきた。


【人任せ】

「次は髪の塗り方について教えてほしいのね」

 手で促されるままにペンを渡すと、彼女は新規ページを立ち上げて、いくつかの丸を描いて、髪をさっさっと描きたしていく。

「まず最初に言っとくけど、私の中のイメージで話すから、白石くんも自分が好きな塗り方を見つけてくれればいいからね」

「はい」

「えっと、それじゃあ──」

 今までの俺は結構適当に、と言ってしまうと聞こえが悪いが、胡依先輩の塗り方を見よう見まねで、ほぼ感覚的に塗っていた。

 だが、どうすれば立体的に見えるか、髪を柔らかく見せたいのか細く見せたいのか、光/影の方向や明暗の付け方など、それだけでは到底補えないものがあり、そのまま塗り進めて「あれ、おかしい」と後になってから気付くことも多かった。

 例えば、ハイライトの入れ方については、ツヤっぽく見せたいのなら側頭部から中央にかけて三角形を描くように入れ、ふわふわに見せたいのなら水玉を描くように入れると良いらしい。
 影は、"影の伸びる方向"と"どこまで影が伸びるか"を光源直下の点からある程度割り出すことができるらしい。

 午前中から思ってはいたが、この人はガチガチの理論派だ。
 胡依先輩も理論派といえばそうなのだが、あっちは感覚系の理論派という印象を受ける。

 楽しく、という観点からは外れるかもしれないが、そこまで大きくは外れていないとは思う。


「ねえ、胡依ちゃん」

 一通り説明を聞き、それを実際に試していると、萩花先輩はソファに(うたた寝をしている東雲さんの太ももに)液タブを抱えて寝転んでいる胡依先輩に話しかけた。
 さっきちらっと見たが、なかなか眼福な光景。まあ起きたら先輩は確実に怒られる。

「これさ、思いっきり漫画用のソフトじゃない?」

「あ、うん。そうだけど?」

「白石くんみたいに一枚絵を描くんだったら、イラスト用のソフトの方がやりやすいんじゃないかなって思ってさ。
 それに、いちいちフォトショを開いてファイルを読み込むのって面倒じゃない」

「……えー、レイヤー別に読み込めるしいいんじゃない。
 最初のうちはソフト内蔵のやつよりフォトショの方が綺麗に塗れると思うし」


「てか、このソフトもう販売終了してるはずだよね」

「ライセンスがとうとう三月でお亡くなりに……」

「でも胡依ちゃんが使ってるのは最新のやつでしょ」

「そうそう……え、どうして知ってるの?」

「胡依ちゃんのシブアカウントの備考欄に製作環境が書いてあったから」

「……」

 なにやら専門的なお話をしているようだったから聞き流していたのだが、
 いきなり声が止んだのが気になって振り返ると、胡依先輩はタブレットを顔に押し当てて小さい声で唸っていた。

「しゅ、しゅかちゃん。ちょっともう一回言ってもらってもいいですか?」

「あ、ちゃんとフォローもしてるよ」

「……え、え? あれ? 私しゅかちゃんにアカウント教えたっけ?」

「あんなにわかりやすいハンネ使ってたら普通にわかっちゃうよ」

「うわ、え……いや……」

「それに、胡依ちゃんの絵柄と塗り方はだいたい知ってるから」


「……い、いや、ヒトチガイダトオモウナー……」

 初めて見たぞ、ギャグマンガみたくカタコトでしらばっくれる人。

 普段攻めの胡依先輩が受けになっている珍しい光景。
 これが俗に言うリバ……! どんどん俺の頭のなかが変なもので汚染されている。

「そういえば、水着の中だとオレンジのビキニが好きなの?」

「……へ?」

「黒セーラーがはだけてるのも好きなんだよね」

「うぐっ」

 東雲さんの家を訪ねる前に話した時のように、なかなかしおらしくなっている。
 ……いや、下手したらそれ以上かも。

 あの時はいくらかの演技が入っていたはずだけれど、これは紛れもなく胡依先輩の素の反応だろう。

「胡依ちゃんがあんなに肌色が好きだなんて知らなかった」

「……」

 ついに押し黙ってしまった。


 もうやめて! 胡依先輩のライフはゼロよ!
 そう突っ込みたくなるくらいのオーバーキルでクリティカルな攻撃。
 いや、リアルの知人にアカウントを特定されるとこうなるのか。怖すぎるだろ。

 それで、さらに攻めるのかと思いきや、萩花先輩は「わわっ」と手と首を素早く振って、

「いやその、えっちな絵を責めたいとかそういうわけじゃなくて。
 前よりも、描いた絵から楽しそうなのが伝わってきたから」

 と、めちゃくちゃ申し訳なさそうな顔で胡依先輩に謝った。

 なんだか無自覚攻めって心踊りませんか? ませんね。はたから見てるとね。

 面を上げた胡依先輩は、俺をちらと見て、それから萩花先輩をじいっと見つめてにやりと微笑む。

「なんだー……もう少し言われてたら、しゅかちゃんの秘密も暴露しようと思ってたのに」

「……胡依ちゃん?」

 一瞬にして、場の空気が変わった。


「しゅかちゃんは、中学二年までお尻に大きなもうこは」

「うわっ! まじでやめて! ほんとに!」

 言葉を遮って叫ぶ。さながら絶叫。
 まさしくこれが一転攻勢! 胡依先輩はやっぱりジャグラーとかエンターテイナーが似合っているらしい。

「別に恥じることなんてないよー?
 ……ん、もしかして高校二年生の今でもあるのかな?」

「ないよ!」

「あはは、しゅかちゃんはいつでもかわいいなあ」

「なっ……」

 そんなじゃれあいのようなやり取りについつい口元が緩むと、顔を真っ赤にした萩花先輩にキッと睨まれる。

「白石くん。今の話はもちろん聞いてないよね?」

 強張る顔の後ろで、さっきまで攻められていた先輩が爆笑を堪え切れないかのように肩をぷるぷる震わせて唇をビクつかせているのが見える。
 ほんとこの人は……萩花先輩もやり返せばいいのに。

 でもまあ、俺の立ち位置からすると、ここは胡依先輩に合わせた方が面白そうではある。


「俺はお二人の関係について気になりますね」

 と、流れを一切無視して言うと、

「……は?」

 と、萩花先輩は目を丸くする。

「あ、裸の付き合い?」

「なに、それ」

「いや、だってその大きなもうこは」

「うっさい! 黙ってろこのロリコン!」

 俺はロリコンらしい。
 ほぼ初対面の人にまでそんなことを言われるなんて、ひょっとしたら本当にそうなのでは……?

「ぷくくっ、白石くん最っ高! ぱないね!」

 ぱないって、どこかのゴーグル付きヘルメットのドーナツ好きかよ。
 そういやあの子もロリ……あ、実年齢は600歳くらいだっけか。まあかわいいことに違いはない。描きたいです!

 などと、すっげえどうでもいいことを考えていると、胡依先輩はようやく笑いが止んだようで、
 ごほんと咳払いをひとつしてから、わりかし真面目な顔でこちらに目を向けた。


「つまり、導き出される結論はひとつ!」

 横目で萩花先輩を見たが、どうやら、言葉の方向は彼女ではなく俺の方に向かっているらしい。

「……はあ、なんですか」

 先輩に胡乱げな視線を返すと、隣にいる彼女もまた俺に向かって小さく頷いていた。

「私も、わかった気がする」

「お、やっぱり?」

「うん。せっかくこのソフトだし、いろいろと筋はありそうだから、描いてみた方が良いと思うよ、絶対」

「おー、白石くん。現役美術部部長とイラスト部部長のお墨付き頂いちゃったね」

「……あの、だから何の話ですか?」

 釈然としないので、同じことを再び問い掛ける。

 すると、胡依先輩はソファから壁際まで移動してきて、俺のパソコンの前で立ち止まり、
 そして、マウスを左上に移動させ、塗りまで全て済ませた絵を保存して新規ページを立ち上げた。

「この際イラストだけじゃなくて、漫画も描いてみようよ」


「いや無理っすよ」

「いけるいける! 大まかなプロット立ててネーム描いて高速でペン入れしてればあっという間だから!」

「いやいやいや」

 あっけらかんと言い切る胡依先輩自体が何日もかけて描いてないか?

「白石くんが奈雨ちゃんと黒髪ショートちゃんとデートしてたせいでギリッギリになっちゃったページも、そのほうが早く埋まるかもしれないよ?」

「それ言われると痛いですけど、まず漫画描いたことないじゃないですか」

 イラストよりむしろ時間かかるだろ、普通に考えて。

 それに俺が今から何か話を考えるなんて……と思っていると、ぐっと親指を突き立てた萩花先輩が、

「トーン貼りとか背景とか手伝うから描こうよ」

 と、覚悟を決めたように言って、傍に置かれていたトートバックから紙とボールペンを取り出した。


「お、しゅかちゃんがいれば心強いね!」

「いや、」

「もー、負荷はたくさんかけてなんぼなの。
 白石くんだって、そのほうが好みでしょ?」
 
「……はあ」

 ……そういう話したっけ。いや、してないな。
 なら筋トレ話か。ないな。結構頭がまわっていない。

「じゃっ、そういうことで。私はシノちゃんのもちもち太ももで寝まーす」

「ちょっ……」

 四の五の言わせぬ速さで冷蔵庫からエナドリを取り出し机に置き、
 言葉通りイヤフォンとアイマスクを装備して東雲さんの山吹色のロングスカートの上に頭を乗っけた。



 ……あ、これは。

「あのさー、午前中からずっと訊きたかったんだけど、あの子は胡依ちゃんのなんなの」

 予想通り、目には燃え盛る炎。完全に嫉妬。
 "胡依ちゃんはあの子の"ではなく、"あの子は胡依ちゃんの"と言うあたり、少しだけ零華と同じ匂いを感じる。

 いせいれんあいの ほうそくが みだれる!
 きさまら はんらんぐんだな!
 おれは しょうきに もどった!

 無駄なことしか考えられない頭。
 でもDDFFのカインは絶許。流石にアレは許せん。

「抱きついたり手握ったりあーんしたりめっちゃベタベタしてるよね。あんなの不純同性交遊だよ」

 変なボキャブラリー。

「……聞こえますよ?」

「いや、胡依ちゃん寝るの早いからもう寝てるし、音量もめっちゃでかいから聞こえないはず」

「……たしかに」

「……んで、どういう関係なの」

「普通にこの部活の部長と部員だと思いますけど」


「本当に?」

「強いて言うなら、胡依先輩のおさわりの被害者……?」

 それ以外に言いようがないと思ったのだが、すぐに「ああ」と相槌を打たれる。
 どうやら心当たりがあるらしい。……逆に心当たりしかないのでは。

「……でもま、いっか。胡依ちゃんが元気なら、それでも」

「いいんですか」

「うん」

 じゃああんな目をしないでいただきたい。なおさら怖いから。

 貰った缶をぷしゅっと開けて、荒んだ我が身に翼を授ける。なかなかに美味なり。

「さてさて、白石くん。ネタ出しからやってこうか」

「あの、俺も眠いんすけど」

「それ飲んだじゃん。二百円分の働きをしなくちゃだよ」

「どんな理屈ですか」

 やる気を出したと思われたらしい。


「つべこべ言わずやるの!」

「……」

「大体こういうのは、一番初めの取っ掛かりが大事なんだよ!」

 それにしても、どうしてこの人がやる気を出してるんだろう。
 何の見返りもないボランティアなわけではあるし。

「……もしかして、美術部って文化祭で何もやらないんですか?」

「ん、いや、やるやる。入場門とか、ポスターとか、ゴミ箱とか作ってる」

「こういうふうに部誌とかは?」

「それは作らないね。当日は前に描いた絵を美術室に展示して、あとは綿飴ぐるぐるして売ってるだけ」

 すっげえ暇そう。

「要約すると暇なんですね」

「まあね。……それでも、昔はここの部活みたいに、泊まりこみで作業をしてたんだけど」

 と、そこで言葉を止めて、こちらに背を向けている胡依先輩を一瞥する。

「人数がいるなら計画的にやったほうが作業効率も上がるし、役割分担とか締切なんかを事細かに決めれば、
 誰かに全てを押し付けるなんてことにはならないって──そんなことをさ、いろいろあって学習したんだ」

 以前萩花先輩がこの部室を訪れた時に言っていたことを思い出す。
 それに、胡依先輩が美術部を去った事実を照らし合わせると、そのきっかけとなる何かが文化祭であったのだろうと思う。

 "ただ描ければそれでよかった"と先輩は言っていた。


 だとすれば、その『ただ』では済まない状況に置かれたのは間違いないだろう。

「この部活のナントカって人とは大違いですね」

 返事に迷い、結局何ひとつ知らないふりをして言うと、

「ほんとにね」

 と向こうから目を外し、困ったような苦微笑を浮かべた。

「……なら、そのナントカさんの負担を増やさないように、ちゃっちゃと始めちゃいましょう」

 椅子の向きを正して、缶の残りを一気に飲み干す。

 突然やる気が出たとか、迷惑をかけたくないとか、そういう難しい理由ではなく、ただ「描くべきだ」という考えが頭に浮かんだ。

 胡依先輩がどうであれ、東雲さんがどうであれ、ソラがどうであれ、
 好きなものを好きに描けることが、この部活の美点であり、"らしさ"であるはずだから。

今回の投下は以上です。


【果て】

 夜半、冷たい風にでもあたろうかと、部室を出て階段へと向かう。
 廊下から覗く景色はほぼ真暗闇で、微かな月明かりのみが周囲の様子を伝えてくれている。

 水飲み場で顔を洗う。ライトで照らした鏡に映るのはひどい顔。むくみと目の隈が自分とは思えない。

 とはいえ……まあ、作業のキリがいいところと萩花先輩の帰宅する時間が重なり、そこから数時間程の仮眠を取ったので、
 ずっとぽかんとし続けていた頭は少しずつ冴えを取り戻しつつあった。

 それで、そうなると、集中していた(かは実際のところ定かではないが)日中とはうって変わって、様々なことが頭に浮かぶ。

 萩花先輩の協力のもと描いていたものは勿論のこと、水曜の夜の出来事が、俺の思考の大半を占めていた。

 ──水曜の夜、と考えを反芻していると、頭がきりきりと痛むのを感じる。

 その場の雰囲気に流されて良かったことと、逆に流されなくて良かったこともあり、その双方とも、客観的に見れば俺の選択は間違っていなかったのだと思う。

 あのやり取りのきっかけを作ったのは佑希の方に見えて、けれど、奈雨は明らかに彼女が苛立つように誘導した。
 手を繋いでリビングに入ったりしなければ、ひいては手を繋いでいたとしても彼女の視界に入らないように部屋に戻ったとしたなら、ああいう事態には陥らなかった。


 お兄ちゃんは悪くないよ、と奈雨は言った。

 奈雨自身も、佑希に対して何か思うところはあったのだろうと思う。
 それまでの言動からしても、あの時の表情や声音、佇まいからしても、二人はどう頑張ったところで相容れないということはわかっていた。

 でも、直接二人が顔を合わせなければ、家にいたところで何も起きないはずだった。
 もっと正確に言えば、奈雨と俺が二人揃って佑希の前にいなければ、彼女は何も言わなかった。

 同じ部屋で寝ることについて少しの干渉もしてこなかったことが、何よりの証拠だ。
 "目に見える形で"奈雨と俺が接近していることに嫌悪感を覚えただけで、それ以上でもそれ以下でもない。

 兄妹だからというよりも、『飼い犬に手を噛まれた』『ロボットが意思を持ってしまった』から、佑希はああいう態度を取った。取る他なかった。


 そこまで考えて、それはさすがに俺の意地の悪い思い込みか、彼女を悪く見すぎていると感じた。
 前々から思っているように彼女の言動は、全て俺に返ってくるものであるから。

 でも、もう無理なのかもしれない。
 俺は彼女に対して明確に反抗の意思を示した。
 それは奈雨の導きに従ってなのかもしれないが、結局最後に決断を下したのは俺だ。

 いつかは言わなければならないと思っていた。
 それがたまたまあのタイミングだっただけで、遅かれ早かれそうなることは決まっていた。

 先延ばしにすることの有責性。
 親身になっている振りをして、その実何も拾い上げずに、自分の都合の良いように立ち回ることの有責性。

 そういうものを、今になって感じている。


 家に戻る気にはなれなかった。
 どうしてだろう、と思う。

 きっかけを作った奈雨に何かをしてくるかもしれないと思ったから?
 母さんの言葉が頭に過って、それを打ち消したいと思っていたから?

 ……いずれも違う、と思う。

 理由は至極単純で、
 佑希のことが怖かったから。

 奈雨と二人で部室へと向かう途中、彼女の部屋からすすり泣く声が漏れ聞こえてきた。

 どうなんだろうな。奈雨の言う通り嘘泣きだったのかもしれない。違うかもしれない。それは彼女にしかわからない。

 一旦そうなってしまったのなら、最後まで決めた態度を崩すわけにはいかない。
 と、頭ではそう考えていても、実際に彼女と目を合わせたら、俺はまた動けなくなってしまうだろう。

 何度かため息をついた。気付けば足は止まっていた。


【当たり】

 やっとの思いで自販機へ辿り着く。
 部室を出てからたかだか数分のことなのに、その倍の倍も時間がかかってしまったように思える。

 手探りで財布から小銭を掴み、ブラックコーヒーのボタンを押す。

 ガタンと缶が取り出し口に落ちる音とともに、当たり判定の四桁のスロットが起動する。

 どうせ当たらないと思っていても、何となく見てしまう。

 7、7、7……それで期待させておいて6か8だろ。見てらんねえよ。
 が、ピコーン、と少し間抜けな音の後に豪華な音が鳴って電子画面に目を戻すと、一桁目の数字は7が表示されていた。

 ……いや、マジか。
 当たってしまった。無駄に。
 しかもラッキーセブン。今年の運を使い果たしたまである。

 昔テレビか何かで見たことがあるのだが、当たり付き自販機の当たりの確率は景品表示法だかで上限が2%と定められているらしい。
 ジュースを五十本買ってやっと一本当たるかどうか。メーカーによって確率は違うから、大手だともっと低いかもしれない。

 もしかしたらソシャゲの大当たりよりも低確率か?
 すげえ。俺持ってる。フェスまでは石を貯めておこうな。何もやってないけど。

 そんなちょっとした浮かれ気分でココアのボタンを押して、二本の飲み物を両手に持って歩き出す。


 体育館と武道館の間の通路を抜けて、校庭側へと足を進める。
 石段近くのベンチで音楽でも聞きながら、あたたかい飲み物を口にすれば、気分が少しでもマシになるのではないか、という淡い期待を抱きながら。

 ベンチに背中を預ける。ここには俺の他に誰もいない。
 ポケットからコードがグシャグシャに絡まったイヤフォンを取り出して、スマホのイヤフォンジャックに差し込む。

 先に買ったブラックコーヒーを一口飲んで、イヤフォンを耳にかけようとすると、小さな音が俺の近くからではないどこからか耳に入ってきた。

 誰かいるのだろうか?
 部室には……ひょっとしたら。

 校舎付近へ戻るにつれて、耳に伝わる音がどんどん大きくなっていく。
 弦を弾く音。多分ギターだろう。
 中学棟と高校棟を繋ぐ吹きさらしの渡り廊下には、手すりに寄りかかる一人の影が見える。

 声をかけようとしたときに、さーっと冷たい風が吹きつけて、ギターの音と人影が消える。

 ここから話しかけてもな、と校舎に入り階段を昇りきり、横引きの扉を開けると、
 この寒いなか、彼女はスカートで足を伸ばして、地べたに腰を下ろしていた。


【多彩】

「眠れなかったんですか?」と彼女の近くまで寄って話しかけると、
「ううん、ちょっと黄昏てたの」と微笑み混じりに返された。

 ポケットに入れていたココアを手渡す。
 当たったからです、と言うと信じていないような目をされた。普通当たると思わないよな。まあどっちでもいいや。

「ギター弾けるんですね」

「そうそう。私は何でもできちゃうからね」

「かっこいいです」

「えー、ほんとに思ってる?」

 言いながら、胡依先輩は手をパタパタと横に振る。
 弾いているところを見られたことが少し恥ずかしかったのだろうか。

「暇なときに弾く程度だから、あんまり上手くはないんだけどね」

「でもなんか、アレじゃないですか。
 楽器弾けない人からすると、ちょっと触れるだけでも異次元に見えるっていうか」

「じゃあ今度教えようか?」

「マジすか」


「……あ、でも白石くんはすぐに私よりも上手くなっちゃうからダメか」

「……はい?」

「や、白石くんは何でも上達早いからさ。
 そういやしゅかちゃんも褒めてたよ? 飲み込みが早いし、教えがいがあるって」

「……鬼ですよあの人は」

「そのちょっとSっ気はいってるところがかわいいんじゃん!」

「それは、わかりますけど、萩花先輩はちょっとどころじゃなくて……」

 描き直し、描き直し、描き直し、描き直し……。
 澄んだ瞳と笑顔で「だーめ」と言われては、従うしかない。

 俺は年上の女の子には弱いんだ。
 無論同い年にも年下にも弱いのではあるが。


「でも、しゅかちゃん教えるの上手かったでしょ?」

「それは……はい、すごく」

「なら良かったじゃん」と胡依先輩はギターのボディを撫でながら言う。

「どこまで進んだんだっけ?」

「漫画ですか?」

「うん、そうそう」

「……えっと、とりあえずネームは描き終えました。
 全部で十二ページなので、萩花先輩が立ててくれた今日分のところまでは、なんとか」

「おー、そっか。あ、プロット読んだよ。白石くんらしいし、早く絵を描いたのも見たいな」

「……善処します」

「……うん。えと、プレッシャーかけてるとかじゃなくてね? 純粋に楽しみっていうか、期待も込めてっていうか」

 胡依先輩は、愛想笑いに失敗したような、少しだけ取り繕った笑みを浮かべた。


 俺はなぜかいたたまれない気持ちになって「すみません」と謝った。
 彼女は慌てて「だいじょぶだいじょぶ」と繰り返した。

「……何か弾いてみる?」

「え?」

「ギター。簡単な曲なら弾けるけど」

「ああ、はい。じゃあ、胡依先輩のお任せで」

 本当に何も思いつかなくてそう言うと、先輩は眠たげに何度か擦っていた目を大きく見開いた。

 すみません、という言葉を引っ込める。堂々巡りになりそうだ。

 ……まあ、場を和ませようとしてくれていたんだろう。
 失敗させてしまったみたいで申し訳ないけど、いきなり言われても反応ができないものだった。

「んっ、こほん。それじゃあいきます。
 わたくし塒胡依のアコギで弾き語りのコーナーです」

 ラジオのような挨拶をして、ジャッジャッ、と指で弦を弾きつつもう片方の指の位置と音を確認して、俺にぺこりと頭を下げた。

「気休めぐらいになればいいよ 道に迷って引き返して 時間だけ過ぎて行くけど──」


【光と影、その先にあるもの】

 七、八曲歌い終えた後の胡依先輩は、ぜえはあと肩で息をしていた。
 選曲はなぜか曲名縛りらしく、くるりから絢香、果ては尾崎まで多種多様なジャンルから歌っていた。

 途中からテンションが上がってアドレナリン? が出てきたのか、最初はまだ遠慮がちに出されていた声が、終盤には普通の音量になっていた。
 俺は俺でそれに聴き入りつつ手を鳴らしてリズムを取ってみたりして、単純に近所迷惑だった。

「前から思ってましたけど、胡依先輩って歌上手いですよね」

「まあね。こう見えてカラオケ通いに精を出していた時期もあったんです」

 言いながら、ぬるい、とココアに口をつける。時間が経っているのだし当たり前だ。

「最高で96点出したこともあるよ」

「カラオケ行っても採点付けないんで、どれぐらい凄いのかわからないです」

「そうだなー……。人気がさほどの曲だと、全国一位になれるよ」

「……凄いっすね」

 と反射的に答えたはいいが、あまり実感が湧かないのだが。
 まあ、俺が自分の耳で聴いて上手だと思ったのだから、それはそれで良いのだけれど。


「シノちゃんと私ね、音楽の趣味とか多分めっちゃ合うの」

「へえ」

「うんうん。今度カラオケ行こーって言ったら、ちゃんと部誌が脱稿したらいいですよって」

「そうなんですか」

 もうその予定だけできゅんきゅんして頑張れちゃうよねー、と目をキラキラとさせて胸の前で手を握りしめる。
 どこからが冗談でどこからが本気なのかが全くつかめない。

 それに東雲さんのことだから、きっと「そんなこと言ってる暇があったら進めましょう」という意図が含まれているに違いない。
 日中集中力が切れて他のことをやりだそうとする胡依先輩を、何度も健気に止めていたから。

「でも、片耳イヤフォンは萩花先輩が殺気飛ばしてましたよ」

「……白石くんも気付いてた?」

「うわ……」

 わかっててやってたのかこの人。

「ほんっと久しぶりに話したからだと思うんだけど、妙に視線が鋭いよね」

 先輩は大仰に肩を竦めて見せ、ふーっと息を吐く。
 何となく嘘をついている、と思う。隠そうとしたらできるはずなのに、それをあえてしていない。


「いや、あれはそれだけじゃないでしょ」

 だから、思わず敬語も忘れて返すと、

「うん、それはわかってる」

 と胡依先輩はそれまでの笑みをひっこめて、つまらなさげに夜空に手のひらを掲げた。

「いま会ってみたら、そうでもなかったんだけどね。
 ……なんていうか、昔の私は、しゅかちゃんといることがつらかったの」

「……」

「知らなくていいことは、聞こえない振りをして、
 知られたくないことは、気付かれないように気を張って、
 そういうやり過ごし方がだいっきらいで、でも、そうすることしかできなくて」

 何の話をしているのだろう、と思う。
 いつものように胡依先輩の言葉は、俺だけには向けられていない。

「知らなくていいところまで知られることが嫌だった」と彼女は言う。

「知られたくないところまで知られることが嫌だった」と彼女は繰り返す。

「何ひとつ話さずにへらへら笑っている私を肯定してほしかった。
 錯覚でも、演技でも、見掛け倒しのハリボテでも、それは、それで、ひとつの私だと思ってたから」


 そこで、先輩は言葉を区切った。
 数秒に渡って沈黙が流れる。俺が何かを言うべきだという気がした。

「……萩花先輩が、胡依先輩のことを知ろうとしたんですか?」

 訊ねてもいいのかと迷ってしまったから、何を、とは訊けなかった。
 ただでさえパーソナルな部分だ。
 それに、仮に訊いたとしても教えてくれるとは思えない。

 閉ざされた箱の中身は、誰かが観測するまではわからない。

 ため息をつく音が聞こえる。
 彼女と同じように空を見上げてみるも、月は半分以上厚い雲に隠れてしまっている。

「ううん、違うの」と彼女は首を横に振る。

 それじゃあ、と言いかけるよりも早く、胡依先輩が「ごめんね」と手でそれを制する。

「自分のことについて、全部なんて到底不可能で、どう頑張っても中途半端にしか話せないのに、
 それで『私はこれくらい頑張って話したんだから、あなたはそれをすべて認めてくれませんか』って言うのは、あまりにも身勝手で、烏滸がましいにもほどがあるって思わない?」

「……」

「1を聞いたら、2、3、って知りたくなる。逆に、1を話したのなら、2、3、って話してしまいそうになる。
 相手にだって限度があって、許容量があって、一度それを超えたら、もうそれまでの関係ではいられなくなるかもしれないのに、
 "認めてほしい"って願望や幻想を押し付けて、いつしか知ってほしくないことまで知られてしまって」

 壊れてしまうのが怖かった、と彼女は呟く。


「だから私は、あの子のことを一方的に避けたの。
 あとで深く傷付くなら……早いうちに、浅いうちに切ってしまいたかったから。
 私のせいで傷付かせるようなことがあったら、きっと耐えきれなくなるから」

 影があるからこそ、光が映える。
 その影が強ければ、比例して光もまた強くなる。

 多くの場合はそう語られる。
 陰の存在が陽を際立たせる。それは何も間違っていない。

 なら、そのバランスが取れなかった場合はどうだろうか?

 あまりにも強すぎる影を前にして、光は光のままでいられるのだろうか?
 傷付けはしないだろうか? 損なわせはしないだろうか? 影という不純物が混ざることによって、光が光でいられなくなったりはしないだろうか?

 混じり合っても輝きを放っているように見えるところは、でも、それは光本来の輝きではない。
 辻褄合わせのようなものだ。ふとした瞬間に、白は黒に反転してしまうかもしれない。

 光は煌々と輝いているがゆえに、そこに実際の価値以上のものを感じさせる。
 きっと俺が彼女に抱いていた想いと根っこでは大きく変わらない。

「どうして俺に話すんですか?」と確認の意味で問いかけた。

 案の定、胡依先輩が発した言葉は、「その先を知ってると思ったから」というものだった。


 俺が彼女に無くしてほしくなかったのは、何の混じり気のない純粋な部分だった。

 うまく先回りして、道に転がっているものはどんなに小さな小石だったとしても取り除いて、
 それでも残ってしまった障害物でできた傷については、後からどうにかして修復するようにして。

 そういう意識が、心のどこかにあったのかもしれない。
 彼女に対して少しの苛立ちを感じることはあっても、それが先行したことは一度たりともなかった。

 きらきらしている彼女を見ることで、どこかで俺は安心していた。
 ただ只管に動いている間は、彼女は彼女で在ることができるから。
 彼女を彼女たらしめているものは、高い志と、それに見合った才能、人一倍負けず嫌いな心である、と思っていたから。

 だからこそ、彼女のことが怖かった。
 俺が肯定してあげなくて、誰が彼女を肯定してあげられるのだろうか。立ち止まってしまったとして、彼女には一体何が残るというのだろうか。


 ──ならば、と考える。

 もしかすると、周りの友人や大人からの「すごいね」「がんばってるね」などという言葉は、彼女には何か別の意味を孕んだものとして耳に入ってしまっていたのではないか。

 どう頑張ったところで、終わりのないもの、果てしのないものだと気付いていても、
 自分の中ではとっくに冷めてしまっていても、周りの目を気にした結果の義務感であったとしても、
 それを一度でも止めてしまったら、期待も、理想も、成し遂げたことですらも、瞬く間に裏返ってしまうから。
 
 思い返してみると、ここ数年の彼女はいつも退屈そうにしていた。

 仮にだ、と思った。仮に。仮に。
 底に溺れないために。間違いを起こさないように。

 もし俺の恣意的な解釈を切り捨てて、他者からの視線というフィルターを外して彼女を見たとすれば、"そう"解釈立てられはしないだろうか?

 もし"そう"なのだとしたら、俺は彼女に対して度し難いまでの思い違いをしているのではないか?



「あの、白石くん」

 不意に耳元で名前を呟かれて、はっと我に帰る。数秒経ってその近さに驚いて、慌てて片手を手すりから離して距離を取ると、胡依先輩は心配そうにこちらを見つめていた。

「いや、なんでもないです」

 何かを訊かれる前に答えていた。
 いまはどうしても、出来合いの言葉を並べられる自信がなかった。

 うん、と先輩は伏し目がちに頷く。

「さっきの続き、って言っても、ちょっと違う話になっちゃうかもしれないけど、聞いてくれる?」

「違うんですか」

「えっと、駄目……かな?」

「……別にいいですけど」

「……けど?」

 胡依先輩の様子が、明らかに普通ではなく見えて。
 何か悪いことをして怒られることを怖がっている子供のような、おもねるような表情と声音は、どこか冷静さが抜け落ちている印象を受ける。

 そしてそれは、ほんの数日前に見た所作と酷似していて、

「東雲さんの話ですか?」

 確信はないのに、そう訊ねていた。


 違っていたら、とは思わなかった。
 彼女が、俺の言葉を聞き終わらないうちに、口をぽかんと開けて、それから忌々しげに微笑んだから。

「白石くんは、超能力者か魔法使いなの?」

「なわけないですよ」

「なら、どうして?」

 どうして?

「そういう顔をしてたから」

 彼女はまた笑う。小首をかしげて、今度は微笑みというよりも苦笑いだった。

「さっきから散々話しておいて、自分を曲げたいって言ったら怒る?」

「……どういうことですか?」

「私は、シノちゃんのことを、もっと知りたいの。
 知って、どうにかしてあげたい。ほんのちょっとでも、力になりたい。助けてあげたい」

 いつかの会話を想起する。
 あの時も「どうにかしてあげたい」と彼女は言っていた。

 焚きつけるようにも言っていた。
 一人で解決しなきゃいけないとも言っていた。

「それは、善意からですか?」

 ううん、と先輩は首を振った。


「どう言い繕っても、結局は私自身のためなんだと思う。
 あの子が悲しそうにしている姿を見たくないから。描きたいのに描けない気持ちは、痛いほどわかるから」

「……じゃあ、先輩も」

「うん。そうだよ。私も絵が描けなくなった時期があったの。
 中二の秋に美術部を辞めてから、イラスト部に入るまでは、何も描かなかった。描けなかった。
 絵を描こうって思うだけで、気持ち悪くて、吐きそうになって、どうにか自分を奮い立たせようとしても……駄目だった」

 それは、東雲さんの「描けない状態」とほぼ完全に一致していた。
 先輩は、描けないと……何て言っていたんだっけ。

「……その、絵が描けない間は、どうだったんですか?」

 具体性を丸投げするような質問で、訊ねてから、戸惑わせてしまうかもしれないと思った。

 けれど、その心配は杞憂なもので、先輩からの返事はすぐになされる。

「うん。それがね、普通なの。驚くほどにね、何もかもがそのままなの」

「……」


「たとえば、勉強したり、歌をうたったり、ギターを弄ったり、どこかに出かけたり、
 そういうことは、容易くできてしまうの。描けなくなったところで、私の生活は、何ひとつとして変わらないの」

 誰にも強制なんてされてない。
 私の代わりはいくらでもいる。
 同じように、それが絵でなくても、何か別のものに代替可能なのかもしれない。

 それでもね、と彼女は顔を上げる。

「……胸が、締め付けられるの」

 ぐっと胸元を握りこむ彼女の拳は、その痛みを表すように戦慄いている。

「ふとしたときに、どうしようもなく苦しくなるの。
 教室の窓から外を眺めてるときに、月明かりのない夜道をひとりで歩いてるときに、
 前までは嫌いだった曲を聴いているときに、こういうふうに誰かと話してるときに」

 どうして私は、こんなことをしてるの?
 どうして私は、こんなところで足踏みしてるの? って。

 音が聞こえて、渇いた風が頬を撫でて。でも、私の内側までは届かなくて。
 欠落しているのは、ただひとつだけのはずなのに、もしかしたら、他のものでもいいのかもしれないって思うのに、
 けど……私が生きてきたすべてが、否定されているように思えて。


 ぽつりぽつりと紡がれる言葉を、俺は黙って聞く。
 声が止まってからも続きを待っていると、一分程過ぎた後に、先輩はこくりと喉を鳴らした。

「だから、あの子を助けたいって、そう思っちゃうのは、駄目なことなのかな?」

 俺の性質を見抜いた上で、先輩は問いかけている。

 無責任な優しさ、無責任な承認。
 先輩の言う、その先にあるもの。

「先輩には、飲み込まれない自信がありますか?」

 きっと東雲さんは、それを望んでいるのだと思う。
 もちろん憶測の域を出ることはない。つまり俺の身勝手な想像だ。

 わからない、と彼女は首を振る。

 難しい質問だと思う。その真偽は誰にだってわからない。
 きみはどうなの、と訊ねられても、俺には答えられる気がしない。

「でも、助けたい」

 続く言葉はそれだった。
 その先に進んでいくこと。選択をすること。何らかの責任を持つこと。

 じっと彼女の目を見つめても、その覚悟の程は窺い知れない。
 けれど、決まっているだろうな、と思う。彼女から感じ取れたのは、そういう覚悟だったから。


「胡依先輩がそう思ってるなら、それでいいんじゃないですか?」

「……本当に?」

 聞き返されるとは思っていなくて、けれど、自信はなくても頷いた。

「多分、助けたい誰かを助けることに疚しさを感じるのは、無駄なことなんですよ」

 いつも彼女がそうするように、俺は、言葉を外に出すことによって、もう一度確認する。

 口をついて出た言葉はなくならない。
 だけど、言えぬままに消えてしまうことや、内に溜め込んでしまうことよりは、少しでもマシなのだろう。

 そのことを、奈雨が気付かせてくれた。

「"自分が見ててつらいから"でいいんだと思います。
 だって、誰もが認めるぐらい正当な理由なんて、きっと、どれだけ考えたとしても思いつかないから」

 共犯、という言葉が頭に浮かぶ。
 それは違うな、とすぐに打ち消す。

 彼女がしたかったのは、おそらく『確認』だ。

 であれば、これでいい。
 この場合の言い足りなさは、秘めているべきだ。


「ありがとう」と胡依先輩は言った。
「私が間違ってると思ったらすぐに教えてほしい」とも言った。

 俺の目が曇ってる可能性は、と言いかけて、押しとどめた。

 この人なら、そんな致命的なまでの間違いは起こさないはずだ。
 もしかしたらのときのための『保険』であって、俺が直接何かをする事態に陥るなんてことはほぼ確実にないだろう。

 だから、それよりも、と思う。

「それだけですか?」と問いかけた。

「何が?」

「胡依先輩が、東雲さんを助けたいと思う理由は、本当にそれだけですか?」

 過去の自分にごく僅かでも重ねて、"見ててつらいから"助けたい。
 理には適っている。俺もそれでいいと思うと彼女に告げた。

 けれど、こと胡依先輩に関しては、それだけであるとは思えない。
 これもただの直感だ。ロジックなんてものは毛ほどもない。


 頭のなかで思い描いたイメージ通りに、胡依先輩は「それだけだよ」と答える。
 だったら無理に続きを問いただすようなことはしないし、こんな卑怯な質問に乗っかってくれるあたり、この質問の意図は彼女に伝わっていると思う。

 なぜなら、それだけ、なんてことはありえないのだから。

「なら、心置きなくお節介を焼いてあげてください」

「……白石くんって、たまに容赦なく発破かけるよね」

 少しだけ照れたように、拗ねたように、彼女は目を逸らす。

「いやこの話を聞いた時点で、乗りかかった船ですから」

「……沈没させないようにがんばらなきゃ」

「大丈夫ですよ、きっと」

「そこは絶対って言ってよ」

「その方が不安を煽りそうじゃないすか」

「あはは、たしかに」と彼女は笑った。

 今夜見たうちで、一番自然に笑っている気がした。


「胡依先輩と東雲さんのやり取り、見てて楽しいんで、もっと仲良くなってほしいです」

「えー、見せ物じゃないのに」

「でも露骨に俺に視線向けてくるじゃないですか」

「シノちゃんは私のものってアピールだよ!」

「独占欲強いですね」

「……つ、強くてなんぼだよ!」

 否定しないのか。

「まあ、今でも仲の良い姉妹みたいに見えるので、そのままでも充分眼福ですよ」

「……」

 ただの返答をしたつもりだったのに、胡依先輩の笑みが、少しだけ途切れた。

「……なんていうか、白石くんはやっぱり魔法使いだと思うよ」

 と思ったら、くしくしと耳にかかった髪を撫でながら、そんなことを呟いた。


「どういう意味ですか」

「えっと、そうだな。んー……白石くんは、妹ちゃんのこと好き?」

「シスコンじゃないです」

「あ、いや、真面目な感じで」

「真面目」

「そう、真面目に」

「……」

 真面目に妹のことを好きか訊かれても困るんですが。
 そんな思いが顔に出ていたのか、胡依先輩は下唇を浅く噛んで、表情を緩める。

「じゃあ質問を変えよう。白石くんは、妹ちゃんのことを、特別な何かがなくても守ってあげたいでしょ?」

「それは、まあ……」

 歯切れの悪い返答をしたのだが、先輩はすぐに小さく息を吐いて、それからあきらめたみたいに微笑んだ。


「これが、さっきの答え」

「……」

「むしろそっちの方が多いのかも」

 意味を確認するために、さっきの答え、と頭のなかで呟く。

 だが、そうしてみてもその言葉がどこに掛かっているのかわからずに、首をかしげると、
「まあ、それはおいといて──」と彼女はいたずらっぽい表情を浮かべた。

「今回の部誌は、ちゃんと四人揃って完成させたいな」

「……そうですね」

「うん。今はちょーっと大変かもしれないけど、みんな頑張り屋さんだから、きっとできると思う」

「はい」

「こういうふうに、みんなでお泊まりしたりとか、同じ目標に向かって頑張れてるときってすごく楽しいし、
 この部の部長になってから、ずっとやってみたかったことだったんだ」

 だから、と先輩は言葉を繋ぐ。

「ほんとにありがとね、白石くん」

 彼女はそう言って、ぺこりと頭を下げた。

今回の投下は以上です。
このスレで完結するかは定かではないですけど、終わりは見えてきました。


【選択】

 胸元に伝わる振動で目が覚めた。

 上半身を起こしてもまだ眠い気持ちは残り、目を瞑りながらポケットに手をやると、何か四角くて硬いものの感触がする。

 なんだこれ、と思いつつ目を開けて斜め上を見上げる。
 掛け時計が指し示す時刻は朝五時。日付が変わる少し前に作業を終えて眠りについたから、まあまあな時間寝ていたことになる。

 ひとつあくびをしてから、さっき握ったものに目を落とす。

 黒色のカバーのスマートフォン。よく見ると兎と狐の絵が描いてある。
 さっきの振動の正体は、これのバイブレーションだったらしい。

 これが誰のものというのは、見覚えがあるというか、私にこういうことをしてくるのは一人しかいない。

 あたりを見渡して、このスマートフォンの持ち主──部長さんがいるかを確認したが、今の部室に彼女の姿はなかった。

 昨晩、寝ようとソファにもたれた時には、彼女は私の隣にいた。隣で本来今日描くはずのものを描いていた。

 そのとき、眠かったのか単に集中していたのか、話しかけても反応があまり良くなくて、いつものちょっかいもかけられなかった。


 ……あ、いや、別にかけられたかったわけではないけど、
 と意味もないのに数秒前の思考を否定しようと考えていると、またしても握っていたものがブルブルと震えた。

 さっきは鳴り止んだ後に見たから気付かなかったが、ロック画面には通知がたくさん表示されている。
 十五分前、十分前、五分前、そして今のもの。全部アラーム。五分おきってどういうこと。

 画面に指を滑らせて、アラーム機能をオフにする。
 そのまま人のスマホを持っているのも何だか気が引けて、電源ボタンを押して机に置こうとしたところで、通知の一切消えた画面が目に入る。

 誰かの、というか……。

 ……。
 ……うん、そうだ。見なかったことにしよう。

 ちょっと驚いて、一瞬だけ思考が停止してしまった。
 まあ、けれど、その代わりに頭が冴えてきた。


 今日は金曜日で、昨日は木曜日で、部長さんと話をしてから一日が経った。

 約束の朝だ、と思う。
 部長さんと交わした、大切な約束。

 その自分なりの答えを、私はまだ決めきれていない。

 私の取るべき選択は、言うべき言葉は、ただひとつに決まっている。
 それを分かっていて、理解していて、それでも少し悩んでいる。

 本当はあのときに言ってしまいたかった。
「お願いします。力を貸してほしいんです」って。「絵を描きたい気持ちはあって、でも、その勇気がどうしても自分ひとりでは出せないから、私を助けてほしいです」って。

 そう言えなかったのは、どうしてだろう。

 恥ずかしかったから。緊張していたから。
 ……というよりもきっと、私がひどく臆病だから。


 もし部長さんの力を借りて場当たり的に絵を描けたとしても、いずれ自分はまた描けなくなってしまう。
 不用意に誰かの力を借りることは、自分を蔑ろにしてその人に依存することと何が違うのだろうか。

 部誌に描いた絵を載せてもらって、達成感や充足感を得れば、何かが変わるのかな──もしかしたら、そのままなんてことなく描けるようになるのかな。
 そういう思考も浮かんだことは浮かんだけれど、私は絵に関してそういった想いを抱いたことがほとんどなくて、それこそ、その場限りのものになってしまうだろうと思ってしまった。

 私は私自身のことに決着──あるいは納得をしなければ、前には進めない。

 部長さんに描けなくなってしまった理由を話して、その上で「助けてほしいです」と言える自信が、どうしても持てなかった。


 軽くため息をついて、先ほどスマホを置いた机に目をやると、パソコンの電源が付けっ放しになっている。

 そしてその近くには、見慣れない付箋が貼られていて、

「寝起きのシノちゃんへ。目が覚めたらひとりで上に来てね。
 朝は寒いかもしれないから、ちゃんと上着は羽織ってくるように!」

 と綺麗な文字で記されている。

「P.S. 待ち受けはいつもじゃないからね! シノちゃんがとってもかわいかったから、ちょっとした先輩ジョークだよ!」

 ちらっと目に入ったこの文については、いつものちゃちゃだとしても全面的にスルーを決め込むことにした。

 彼女からの指示通りに腰を上げて、鞄の近くに置いていた上着を手に取る。

 この呼び出しと私の考えていたこととは、全く別のことなのかもしれない。ただ朝焼けを見たいとか、ただ話したかっただけとか、考えればキリがない。

 でも、それでもなぜか、いまの私と彼女の考えていることが一致しているように思えてならない。

 だれかを頼ること。
 描けないままなこと。
 一歩目を踏み出すこと。
 何かから逃げ続けること。

 選択。天秤。照らし合わせ。
 何かを選べば何かを選べない。

 階段を昇りきり外へと続くドアノブに手を掛けたときに、そんな当たり前なことが頭に浮かんだ。


【指先】

 外気はつめたく、しとしとと降り落ちる秋雨が頬を濡らした。
 もう九月も終盤に差し掛かってきている。こういう雨も、もしかしたらこれから増えていくのかもしれない。

 雨除けのついた塔屋の柱にもたれかかるようにして、彼女は地面に腰を下ろしている。
 フードを深く被って、襟元からコードが伸びているから、きっとヘッドホンをつけているのだろう。

 立ったままで「おはようございます」と声を掛けた。
 近くに寄ってもいつものように音が漏れ聞こえては来なかったから。

 すると、すぐに面を上げて「遅かったね」と返された。寒空に透き通るその声は、私の耳にまっすぐ伝わってくる。

 ひとつ頷きを返してから部長さんの隣に腰掛ける。
 彼女を隔てて反対側には焦茶色のギター。ボーダー模様のついた水色のピックが弦に挟まれている。

「夜からずっとここに?」

「ううん。さすがにそれは凍えちゃうよ」

「……まあ、そうですよね」


「おー、まさか心配してくれたの?」

「いや、そんなバカな人はいくらなんでもいないよな、と思いまして」

「じゃあ私は半分くらいバカってことか」

「……はい?」

「や、白石くんと下で喋ってたら結構時間いってて、今から寝ると起きれなくなりそうだから校内ぶらぶらしてたのよ」

 これとね、と部長さんは横に置いてあるものをぽんと叩いた。

「……未来くん寝てましたよ?」

「あー、うんうん。ギター弾いてるの聴いてもらって、あとはちょっと世間話とかして。三時ちょっと過ぎくらいかな、もう遅いしなうちゃんと一緒に寝たいから戻るー、とかなんとか」

「はあ」

 どうせ最後のは嘘だろうけど、部室を出るとき二人の寝ている様子を見てしまうとなんとも言えない。

「どういう話をしてたんですか?」

「ん?」

「その、未来くんと」

 ついつい、間を持たせるために、彼女の発言の端を拾ってしまった。


 本当なら、こういう話は全てすっ飛ばして私の話をするべきと思ったけれど、それでも彼女から何かきっかけを与えてくれることを願ってしまった。

「ちょっとした昔話とか、白石くんが描き始めた漫画についてとか」

「その昔話は……部長さんの?」

「うん、そうそう。白石くんとなうちゃんの話とかも訊きたかったんだけど、気付いたら私ばっかり話してた」

「聞いてくれますからね」

 話を遮らないし、否定もしない。
 どんなことでも話してもいいよって言われているように思ってしまう。

「話してるうちにね、優しさってなんだろう? って思い始めてさ。
 それを伝え得るような会話をしたわけでもないし、私自身も、そのことについては考えてたつもりではあったんだけど」

 どこかで何かがズレてたのかもね、と部長さんは私から目を外す。

 その言葉の意味と話の内容のどちらも全く読めなくて、私はただただ彼女の表情を見つめているほかなかった。

「もっともらしい理由なんていらないって言われたんだ」

「理由?」

「うん」

「それは、どういう……」

 聞き返しても、彼女はすぐには答えてくれない。


 その代わりに、私との距離を一歩詰め、半身に寄りかかってくる。
 そのままでは取り零してしまうのではないかと座ったまま背筋を伸ばして目を合わすと、彼女の表情はそれまでの真剣なものから慈しむようなものへと変化していく。

「でもね、それだけってわけじゃないの」

 柔らかな微笑みと共に放たれた言葉に頷くよりも早く、彼女はもう一度その言葉を繰り返す。

 私の視界に映るのは彼女だけ。目を逸らしてはいけない。続く言葉に、耳を傾けなければならない。

「ねえ、シノちゃん」

 確認を取るように、彼女は私を呼ぶ。
 同時に、地面に下ろしていた手に彼女の指先がそっと触れた。

「──私は、シノちゃんのことを、もっと知りたいって思うよ」

 どくりと、心臓が波打つ。
 思わず、何の意味もなさない声が漏れ出てしまう。

 彼女が発したのは、一番掛けてほしかった言葉で、一番掛けてくれるとは思っていなかった言葉だった。

「知りたいって……何をですか」


 踏み越えるかどうか決めるのは、私が判断するべきことなのだと思っていた。
 でも、そんな気持ちとは裏腹に、訊いてほしいとも思っていた。……多分、自分のことを自分で語るには、かなりの勇気を必要とするから。

「理由」と部長さんは囁いた。さっき言った言葉と同じようで、意味の異なる言葉。
 後付けではなく、それ自体が既に意味を成しているもの。

「シノちゃんが絵を描けなくなった理由を、私は知りたいな」

「……」

「もし話したくないなら、無理に訊いたりはしないよ。
 そういうことよりも……なんていうか、私が知りたいと思ったことだけは、知っててほしいっていうか……その、ね」

 考えがそこまでまとまっていないのか、彼女は口を開いて閉じてを繰り返す。
 その間も、もっともらしい理由は、飾り立てた言葉は、何一つとして口にはしてこなかった。

 感じたのは、思い込みとは違った、ある種の確信を持った"予感"のようなもの。

 だから……それゆえに、なのかな。

 本当に、私のことを知りたいがために、そう問うてきたことが伝わってきてしまう。
 私のことを話してもいいのだと、そう思ってしまう。


 ふと気付くと、触れていた指をしっかりと握ってしまっていた。最初は小指だけのつもりだったのに、すぐに手を広い方へと滑らせていた。
 それは、いけないことだとわかっていて、けれど、彼女だっていつも私にこうやって触れてきていた。

 反射的なものだと偽ることにした。
 べつに、誰に問われたというわけではない。私なりのごまかしだ。

「……話しても、いいんですか」

 言いながら、「ああ、私って単純なんだな」と思う。でも、それくらい、誰かに頼ってしまいたかったのかもしれない。

 一旦片側へ傾いた気持ちは、抑えられないままじんわりと広がり続ける。
 手の先に体温が伝わるだけで、すぐそばに誰かを感じるだけで、私は不思議な感覚を得る。

 夢に沈んでいくときのような、水に溶け出してしまいそうな、ふわふわとした浮遊感。

「大丈夫だよ」と部長さんは照れたように笑って、手のひらを上向ける。

 深く息を吐いて、目を閉じた。
 変えるなら──変えたいのなら、きっと今しかない。


【救/堕/明け方の虹】

 雨足は僅かながらも弱まる様子を見せ、雲の切れ間から明るみが顔を出し始めた。
 私が口を開くに至るまでの間、彼女は急かすわけでもなく、ただ黙って待ってくれていた。

「もう、お祖母ちゃんに聞いたとは思うんですけど……私の両親は、どちらも美術関係の仕事に就いているんです」

 なら、包み隠さずに全てを明かしたい、でもあまり重い話にはしたくない、と考えた末に出てきた話の糸口はそれだった。

 彼女は無言で頷いて、私に続きを語るよう働きかける。
 いくらかの緊張を解すために、胸に手を当て息をつき、再び彼女に視線を戻す。

「でも、だからってわけじゃなくて、私が絵を描き続けていたのは、一人でいることが退屈だったからなんです」

 兄弟もいなければ、親しくしてくれるような友人がいないわけではないけれど、そう多くもない。むしろ少なかった。
 両親はここ数年ほどではないにしろ家を空けることが多くて、夜に帰ってくるまでの時間を潰すためには絵を描いていることが最適だった。

「誰かに描いたものを見せたいとか、褒められたいとか、好いてほしいとか、そういう気持ちは持っていなくて、
 ただ退屈だったから、描くこと以外に自分が少しでも楽しめることが思いつかなかったから──こういう言い方は悪いとは思うんですけど、仕方なく描いてたんです」


 好き、という気持ちは曲がりなりにもあったはず。
 ……けれど、絵を描くことをおそらく本気で好いている部長さんにとっては、私の好きは好きとは呼べないのではないかと思ってしまう。

 だから、彼女が頷いてくれたことは救いだった。
 咎められるとは思ってないし、彼女のことだから聞いてくれるとは思ったけど、それでも怖かったから。

「中学に上がってからは、入りたい部活もなくて美術部に入部しました。
 それも、私にとっては、数ある部活のなかから楽そうなものを選んだってだけなのに、両親はそれにいい顔をしませんでした」

「……どうして?」

「わからないです。でも、なんとなく……それは、伝わってきました」

 私は私の描きたいものを描いているだけで、評価なんてされたくなかったのに。自分一人で完結していて、それでもよかったのに。
 絵を見せなさいって言われて、見せたくなかったけど見せて、そうしたら、何ひとつ頼んでもないことをいろいろされて。

 それは、たとえば、
 描いた絵への駄目出しだったり、
 そんなことはいいから勉強しなさいと言われたり、
 かと思えば休みの日に美術展を一緒に観に行こうと言われたり。

 両親に嫌われたくないから、その各々にわかったように頷いて、わかったフリをしてやり過ごそうとした。


「中学校はそこそこ美術活動が盛んなところで、公募とか市の展に作品を出すようにしていて、一応自由ではありましたけど、みんなはそれを目標に頑張ってました」

「シノちゃんも?」

「……いえ、私は特には」

 親に見せることですら戸惑ったのに、大多数の目に触れるなんてもってのほかだった。

 どこかへ出してみない? とは顧問の先生に何度も言われた。
 先生には、部活の都合上どうしても見せなければいけなくて。どういうわけか、取るに足らないと言い捨てられるはずの私の絵を褒めてくれて。

「でもさ、シノちゃんの絵、見たよ。
 綺麗な水彩画……私は、いいなって思ったよ」

「……」

「どうして、描こうと思ったの?」

 柔らかく優しげに、でも不安そうにこちらを見つめる彼女を直視することができなくて、扉側へ目を逸らした。

 私が描いたものを外に出したのは、今の今まで一度しかない。
 つまり部長さんが言っているのはあの絵だと思う。


 私が最後にちゃんと描いた絵。
 私が好きなはずの私が描いた絵。
 見てほしい誰かに向けて描いた絵。

 ……これまでで一番上手に描けた絵。

「単純で、馬鹿らしい理由ですよ」

「うん」

 ぐっと指にかかる力が強くなる。
 頷く彼女の顔は、やっぱりまだ直視できない。

「……顧問の先生が見せてくれた、実施要項の選考委員の欄に、私のお父さんの名前があったんです」

「じゃあ、お父さんに絵を見てほしかったの?」

「……いいえ」

 部長さんの問い掛けは、全てが間違っているというわけではなかったけれど、私は首を横に振った。

「あのコンクールで提示されていたテーマは、『この街と家族』でした。
 だから、もし何らかの形で両親の目に留まれば、私の気持ちに気付いてくれるんじゃないかって、そう思って」

 もちろん、絵を見てほしい気持ちもあった。
 けれどそれよりも、私がこのテーマの作品を出したということを知ってほしかった。


 直接言葉にして告げることなんて、私には到底できそうになかった。

 だって、困らせるだけだと思ったから。
 そんなことをしたって、何も変わらないことくらいわかっていたから。

「結果として、私は賞をとりました。
 とりました、けど……それはどうでもよくて、お父さんとお母さんに、そのことを言ったんです」

「……」

「でもやっぱり、私のほしい答えは返ってくるわけなくて」

「……どういうふうに言われたの?」

「はい。……普通に『見ていない』って、ただそれだけです」

「……」

「まあ、そのあとに、お母さんからは『おめでとう』と、お父さんからは『次はもっと良い賞をとれるといいな』とは言われました」

 結果のみを褒め称えるだけで、絵は、その深部に込めた想いについては、何一つとして見てくれなかった。
 仮に見たとしても、作品の粗や私自身の乏しい技術について指摘されるのが関の山だなんてことはわかってるけど、私が求めたのは"それ"じゃなかったから余計に悲しかった。


「それで、描くことが嫌になっちゃったの?」

「……いえ、宝くじみたいなものですし、変わらないって半ば諦めてたので、そのこと自体についてはどうにか納得することにしました」

 外れくじしか入っていないとわかっていても、引かないよりは引く方がマシだって、もしかしたらを願って、変わるんじゃないかって。

 実際には、納得なんて今でもできていないし、もっともっと悩んだけれど、それを嘆いたところでもう終わったことだ。

「褒められて嬉しいって、そういう気持ちを持ってしまったことが失敗でした」

「……」

「良いものを描けば、良い賞をとれば、絵を描くことをもっと好きになれば、また褒めてくれるかもしれない。あわよくば私をもっと好きになってくれるかもしれない。
 今になって思うと、そのときに賞なんてとらなければ良かったんです。そんなものにかすりもせずに、私の空虚な妄想を映しただけのある種独善的なものを、一人で消費して、誰に見せることなく消し去って、それができていれば良かったんです」

 想いは、絵に現れる。
 想いが、絵を塗りつぶしていく。


「小手先の技術を身につけて、自分の感覚を疎かにして……そういうことを続けてふと気付いたら、私は私のための絵なんて描けなくなっていました」

 違う。こうじゃない。こうじゃない。私はそんなものを得てまで描きたくはない。
 評価されたいわけじゃない。でも、評価されなければ、私の想いは形にはならない。意味を持たぬまま消えていく。

 けれど、どうしたらいいの?
 そんなものを描いてて楽しいの?
 それは一番嫌いな自分じゃないの?

 絵を描くことが好きなの? それとも嫌いなの?

 そうやって振り返ることができずに走り続けていた道は、もう人が一人入ることですらも窮屈なほどに狭くなっていた。
 辛くて苦しくて、それでもなお進んだ先はきっと行き止まり。ここで諦めて立ち止まるか、藁にもすがる思いで走り続けるか。

「踏ん切りがつかずにだましだまし続けていたら、美術部員の……友達だと思っていた子に言われたんです」

 ──あなたの絵って気持ち悪いね。


「でも、それは、きっと嫉妬とかも」

 彼女の包み込むように柔らかな声音は、纏う雰囲気は、私の心を落ち着かせる。
 他の人だったら、とっくに泣き出してしまっていた。彼女は何も言わないけれど、私の声はすでに震えていた。

「はい。それも考えました。だけど、そこは……やっぱり重要じゃないんです。
 仮にそうだとしても、私は多分そんなことはどうでもいいって思ったはずです。いや、確実に思いました」

 うん、と部長さんは相槌を打つ。
 その相槌だけで、言いたいことはもう伝わっているだろうと直感する。

「だって、図星だったんです。気持ち悪いって、歪なんだって、わかってたんです。
 私じゃないんです。……描いているのは私なのに、描いたものは私じゃないんです」

 その差異に耐えられなくなって。
 何にも縛られない描き方を忘れてしまって。
 果てには、初期衝動から間違っていたのではないかと疑心暗鬼になって。

 囚われていることが怖くなって、何の理由も見つけられなくて、手の震えが止まらなくて、粗野になる視界に我慢できなくなって──私は、離れることを選びました。


 言い終えて部長さんを見ると、彼女は私の触れていない方の拳をきゅっと胸元で握りしめて、何かを言いたげに瞑目していた。

「……たいしたこと、ないですよね」

 掛ける言葉が思いつかず、出てきたのは自嘲めいた言葉だった。
 語りたいことはこれで全てではなかったけれど、言葉にしたところで──詳らかに語ろうとしたところで──それは私の思考とは別物になってしまうだろうと、打ち止めにしようと決心した。

 どう言い繕っても、つまるところ私の心の弱さが原因であって、対処しようにもそこを避けては通れなくて、そんな状態で何かを表現するなんて、不合理で可笑しくて荒唐無稽としか言いようがないはずで。

 けれど、

「たいしたことないわけないよ」

 小さくそう言って目を開いた彼女の瞳は潤んでいた。


「私さ、シノちゃんのこと好きだよ」

「……」

「言いづらいことも話してくれて、私は嬉しい。
 どう言うのが正解なのかはわからないけど、シノちゃんは一人でも頑張ってきたんだって思うよ」

「私は、べつに……」

 否定の言葉を口に出そうとしたが、部長さんの今にも泣き出してしまいそうな表情に遮られる。

 どうして、私じゃなくて彼女が、他人のことにこんなにも感傷的になっているのだろうか。

「絵を描けなくなっちゃったのも、仕方ないことなんだと思う。
 コントロールのできない感情に不安になるのも、咄嗟のときに声を出せないのも、いろいろなことの積み重ねでシノちゃんが自分を責めちゃうのも、きっと全部仕方のないことなんだよ」

 話していないところまで、彼女は私のことを言い当てる。

「でも、それでも……シノちゃんは『絵を描きたい』って私に言ってくれた。
 それはつまりさ……きっと、」

 くぐもるような、でも一本芯の通った声は、私の心を強く揺さぶる。絡まった糸が、少しずつ解けていく。


「きっとさ、シノちゃんが絵を描き続けてきたことだけは、仕方のないことじゃないと思う」

 それは、初めに私が言った言葉。
 退屈を紛らわすための代替可能なものだと嘯いてしまった。

 本当は、替えの利かないものなのに。

「絵を描くことが好きだから、シノちゃんは続けてこられたんだよ」

「……」

「間違ってる、かな?」

「……いえ、間違ってない、です」

 誰かに、ずっと誰かに、たったそれだけを言ってほしかった。

 私は私の理由を見つけられなかったのではなく、認められるだけの自信を持っていないだけだった。
 好きなものを好きと言うだけの覚悟がなかった。
 両親や周りのことなんて関係なしに、私は絵を描くことが好きなんだって、それは既に私の一部になってるんだって、だからできないと苦しいんだって。

「ならさ、絶対に描けるよ」

 それまでの真剣さを崩した明るい調子で、彼女はその言葉を私に向ける。
 あまりにも平然として言うものだから、そぐわないとは思いつつも、ついつい乾いた笑みがこぼれてしまった。


「描きたいって気持ちさえあれば、どんなものだって描ける」

 先の夜に部長さんから告げられた言葉を、そのまま復唱した。

 彼女は私に確認するように頷いて、それからにこりと彼女らしく口元を綻ばせた。

「うん、シノちゃんならできる! 絶対に! 私が保証する!」

 大きな声を出すと共に身を翻し、私の身体をぎゅっと抱き寄せて、温かい手で優しく頭を撫でてくる。

 包み込まれるような感覚に心地良さを覚えて、思わず目を閉じた。

「……そういうの、無責任だと思いますよ」

 それでも、完全に彼女に身体を預けてしまうのはいけない気がして、憎まれ口を叩いた。

「……じゃあさ、こうしようよ」

「……」

「えっとね、私は、これまで言ってた通り、絵を描くことに理由なんていらないと思うよ。
 でも、シノちゃんがどうしても理由がほしいなら、理由がいらなくなるまでの理由がほしいなら──私をその理由にしてくれないかな」

「……どういうことですか?」


 訊ね返すやいなや、小さな吐息が耳をかすめる。
 ぐっと身体全体にかかる力が強くなる。私だけでなく、多分彼女も緊張している。

「私のために、絵を描いてほしい。
 シノちゃんが望む限りは、私がずーっと近くで見ててあげるから」

 言うと、部長さんは私からぱっと腕を離した。
 そのまま正面を向いて目を合わせると彼女はこくりと頷いた。

「……わかりました」

 彼女がそう言ってくれたことが嬉しかったから、あれこれ考える前に素直に返事をした。
 見てくれる人がいることは、きっと喜ばしいことなのだと思う。

「雨、晴れたね」

 示し合わせたように──部長さんと私が気付かなかっただけかもしれないけれど──空を厚く覆っていた暗い雲は彼方へと動き、所々に青が見られるまでになっていた。

「ねえ、あれ」

 引っ張られるようにして立ち上がり、彼女の見上げる視線の先を追う。
 雨上がりの空には、やはり当たり前のように虹が架かっている。


「シノちゃんは自分の名前が嫌いって言ってたよね」

「はい」

「でも、私はさ、素敵な名前だって思うよ」

「……」

「押し付けがましいって思う気持ちも、わかるんだけどさ」

 そんな話を、いつかしただろうか。
 わかってくれている、と思う。空を仰ぐと、東の空から太陽が見え隠れしている。

「明け方の虹は、決まって西に出るらしいですよ」

「……そうみたいだね」

「朝虹は雨、夕虹は晴れって言葉もあります」

「うん、聞いたことある」

「そんな、馬鹿らしいことを、よく考えます。意味のないこととか、私が気にしたって無駄なことでも、考えずにはいられないんです」

 ずっと一人だったから。
 何かを考えていないと自分の存在を忘れてしまいそうだったから。

「けど、ありがとうございます。そういうふうに言ってくれたのは、部長さんが初めてです」

 同じふうに呼ばれれば、どこかで繋がっていると思えたから、そう呼んでほしかった。


「こより先輩」と私は覚えてる限りで初めて彼女の名前を呼んだ。

「……ん」

「私に、力を貸してください」

 遅れた答えを、彼女に発した。
 胡乱なままにせずに、ちゃんと言葉にして、確定させる。

「うん、わかった」

 晴れやかな表情で、私の前にもう一度手のひらを差し出した。

 その手を、私は躊躇なく手を取る。
 そうしてほしいという気持ちが、どこからか伝わってしまっていたみたいだ。

「そんでさ、どんな絵を描きたい?」

 にこにこ調子のまま、彼女は小首を傾げる。

 その質問に対しての答えは、既に用意しているつもりでいた。

 今じゃなくても、と彼女は言うかもしれない。
 でも、私ができること。あと数日に迫った締切日までに、私が何かを描けるとしたら。

「あの──少しだけ、考えていたことがあるんです」


【SS-Ⅸ/Gypsophila】

「この感情に意味なんてない」

 そう思っていました。

 私のことは私にしかわからなくて、私のことを決めるのは私だけに与えられた権利だと、そう思っていました。

 雪の降るなか家に帰ると、私はまたひとりぼっちでした。

「寂しい」と私は思いました。

 経験することがこんなにも怖いことだなんて、私には想像もつきませんでした。

 洪水を塞ぎとめるのは不可能で、ただ嵐が過ぎ去るのを待つのみです。ダムは決壊し、堪えきれずに溢れ出た濁流は、私の心を黒で染め上げていきます。

 ふと、彼女が家に忘れていったMP3プレイヤーで彼女の聴いていたラブソングを聴きました。なぜか、涙がとまりませんでした。

 経験したことのない、体全体が疼くような、鋭い痛み。
 今までに様々な経験をしてはきましたが、この痛みだけはほんとうに、初めてのことでした。

 朝起きて、学校に行って、早くに帰宅して、目を閉じて、眠りに落ちて。

 ずうっと、気を抜いたら泣き出してしまいそうでした。


 学校では、ピリピリした空気が流れているように感じました。
 それまでは、平気だったのに……きっと、埋めてくれるものは、何もないとわかっていたから。

 クリスマスの日に、私は縋るような想いで、彼女と出会った場所に向かいました。

 案の定、そこには誰もいませんでした。
 育てていた花壇も、かわいがっていた野良犬も、彼女以外は何も変わりなく、でも、それすらもよそよそしく感じてしまってなりませんでした。

 きっと今の私は、正真正銘のひとりぼっちです。ここはすでに、私の場所ではないのかもしれません。

 ベンチに腰掛けて空を仰いだときに、私は気付いてしまいました。

 彼女は私の根底にある意思を汲み取って、「寂しい」と口にしていたのです。
 誰かと気持ちを共有したい私の意思を、彼女は全てわかっていたのです。

 涙がとまりませんでした。
 抑えようとしても、漏れ出た声は消えませんでした。
 私が身勝手に離したのに、私が全て悪いのに、想いは、鋭利な痛みは、何一つとして消えてくれません。

「彼女に会いたい」と寒空の下で、そう思いました。

今回の投下は以上です。


【手玉】

「うーん……」

「……やっぱり、微妙、ですよね」

「いやー……微妙っていうか、悪くはないと思うんだけどね」

 金曜日の放課後。場所はいつもの通り中等部校舎最上階の部室にて。

「ま、そろそろ休憩にしよっか」

 と俺の隣に座る彼女は言葉の続きを語ることなく立ち上がった。

「紅茶でいい?」

「あ、俺やりますよ」

「いいのいいの。ちょっと待っててね」

 念のために一応(と軽快な声音とは真逆の神妙な面持ちで胡依先輩に言われた)バックアップを取ってから、ペン入れを進めていたPCの画面から目を外す。

「今日はちょっとお疲れなの?」

「どうすかね」

「昨日と違ってカメみたい」

「多分寝不足です」

 真面目か不真面目かどちらかを選べと問われたら、真面目派に属していたい俺ではあるが、今日に限っては授業中に居眠りをしてしまった。


 だが、とはいえ不真面目だったのは俺だけではなく、文化祭前の特別日程による三限までの短縮午前授業ということもあって、生徒のみならず教師のやる気もあまり感じられなく、
 二限の地歴の授業に至っては、クラス分けの教室に教師がまず来ない→その場の流れで職員室に呼びに行かない→つまり実質自習(その後確認を取ったところ出張だったらしい)であったくらいだ。

「白石くんのクラスは何人来たの?」

「まあ、四割くらい」

 考え直してみると、俺は授業に出ているだけ、ひいては学校に来ているだけ、比較的真面目と言えてしまうかもしれない。

「おー。なら私のクラスと同じくらいだ」

「この学校って自由すぎますよね」

「ほんとね」

 そう、クラスの約六割が朝に登校すらしてこなく、加えて勤勉な(?)側の四割のうち半数は朝の出欠で帰ったり、授業中にどこかへ行ってしまったのだから。

「今日サボった人たちって何してるんですか?」

「あー、どうだろ。……クラスが同じ友達は、昨日今日と週末で三泊四日の旅行に行ったよ」


「どこに?」

「関東」

「ディズニーとか?」

「だと思うよ」

 意味わかんねえ。

「……他には?」

「部活のお店用の材料を買いに行ったりかな」

 でも、そういうやつらに限って放課後の部活には来るんだからタチが悪いんだよね、と。

 耳を澄ましてみれば、確かに窓の外からは部活をしているだろう声がいつも通りの音量で聞こえてくる。
 ここに来る最中だって、廊下から昇降口にかけてはジャージ姿にエナメルバッグという部活テンプレスタイルの人が多くいた。

「この時期は毎年こうだから、私としてはお好きにどうぞって感じ」

「ははは……」

 どうやら風物詩らしい。

「で、さっきから気になってたんだけど、君の相棒の伊原くんは?」

「さあ?」

「えー……」

 俺が来てから四時間と少し、この部屋には声が一つか二つであり、
 他の三人は──まず、この部活自体が自由なところはあるものの──部室を訪れてはいなかった。


「まあ、ずっとここに泊まってたんで、家に服とか取りに行ったりしてるんじゃないですかね」

「にしては遅くない?」

「えっと、何かあるんじゃないですかね」

「そっかそっか……」

 しばしの沈黙。

「そういえば、あとの二人のことならさっき連絡来ましたよ」

「なに?」

「それが訊きたいんじゃないんですか」

「いや、いやいや、べつに?」

 振り返らずとも、中々に慌てているのが声音だけで伝わってくる。

「二人で胡依先輩の家に行ってくるって言ってました」

「ふ、ふーん……」

「なんか、東雲さんのことでいろいろあるっぽいです。
 わざわざ訊くのはアレだったんで、そうはしませんでしたけど」

「いや、べつに私は興味ないし関係ないし」

「……へー」

「なによ」


「いえ、なんでも」

「白石くんは何か勘違いしてるよ! 私は胡依ちゃんのことなんてどうでもいいし! 呼び出しておいて放置されてもなんとも思わないし!」

「それ飼い慣らされてるってやつじゃないですか」

「うっさい!」

「怒んないでくださいよ」

「先輩をからかう方が悪い!」

「それは……いや、俺何も言ってないですよ」

 直接言及しないだけでからかっている自覚はあったけれど。

「あと、頼まれたからってそれだけで教えてくれる理由にはなりませんし」

「うう……そりゃまあ、ちょーっとは何かあるんじゃないかなって考えてた部分はあったよ?」

「つまり、何かしらワンチャン狙ってたと」

「それ、言い方がイヤ」

「間違ってはないでしょ」

「いや、だって……だってさぁ……」

 ポッドから熱湯を注いだカップをすぐ横に置いて、元の位置に戻った萩花先輩は、
 むすーっと不満げに頬を膨らませ、拗ねたように椅子の上で膝を抱えた。


「昔はよく……な、撫ででくれたりしたのに、今は淡白っていうか、ドライっていうか、今までずっと喧嘩してた感じだから、仕方ないことなんだけど」

「どうにかして甘えたいと」

「……そうとまでは言ってない」

 ふくれっ面から一転、じとっとした視線を向けられる。
 怒られるだろうとは思いつつも、そんないじらしくもかわいらしい様子に笑みがこぼれてしまった。

「どうして笑うの」

「つい反射的に」

「そういう、いろんなことを見透かしてくるの、ちょっと胡依ちゃんに似てるよね」

「そうですかね」

「女の子を手玉に取ってるんでしょ」

「どんな偏見……」

 俺のその、軽口への何気ない返答に、彼女はわずかに口角を上げる。

「だって、今日の朝ここを覗いたら」

「……」

「白石くんは真面目で頑張り屋さんだから、もしかしたら朝から作業してるかなーって期待してたんだけど」

「すみませんでした」

 これ以上言わせてはならないと察知し、先手を打ってこれまでの非礼(?)を謝罪したつもりでいたのだが、

「女の子と一緒の毛布にくるまって寝てるとかね……」

 と両手を頬に当てつつ、冷ややかに、でも少し楽しげにこちらを見て微笑んだ。


「ね、あの子彼女? 付き合ってたりするの?」

「ないです」

「ひゃー……なら尚更タチが悪い。こういうとこも胡依ちゃんそっくり」

「……」

 あんな乙女ゲーの主人公みたいな振る舞いはしてない。

「いやまあ、白石くんの色恋沙汰には興味ないんだけどね」

「ですよね」

「……私が気になったのはさー、胡依ちゃんと東雲さんの二人が、朝六時なのにここの教室にいなかったことなの」

「……」

「あの二人って、ほんとにどんな関係なんだろ」

 彼女はそう言って紅茶に口をつけ、カップの縁を指でなぞりつつ深くため息をついた。

 この人、もしかして結構重い人なんじゃないか。
 朝に部室の様子を見にきたのだって、俺のことはオマケで、実際は女子二人のことが気になったが故の監視目的だったのでは。


「外でいちゃいちゃしてたとか……」

「さすがにないと思いますけど」

「どうして?」

「え? いやどうしてって……」

 胡依先輩との夜の会話が頭によぎって、でもあれから彼女がどういう行動を起こしたのか、はたまた起こしていないのか、今このときに起こしているのかについては聞いていなくて、答えに窮した。

「なんというか、東雲さんは見かけ通りの硬派ですけど、胡依先輩は誰がいてもおかまいなしだから、わざわざ二人きりになる必要はないんじゃないですか」

「ああ、うんうん。……なるほどね」

 ただの適当な出まかせに納得されてしまった。

「胡依ちゃんはその、逆に見られてる状況の方が燃えるってタイプだよね」

「いやそこまでは言ってないです」

「教室で、みんなの前で抱きつかれたり、みんなから見えるように手を繋いできたりとか、胡依ちゃんは何かとスキンシップが過剰なとこあるから」

「惚気ですか?」

「でも、それもどうせ昔のこと……」

 元恋人に未練タラタラの想いを寄せるような言い草と佇まいは、どことなく哀愁を感じさせる。
 胡依先輩……やはり罪な人。この人は彼女が語った好み通りの女の子のはずだし、二人ともどちらかといえば温厚なタイプなのに、どうして喧嘩してしまったんだろうか。


「私からぐっといくのは気がひけるし、てか恥ずかしくて無理だし、
 ちょっと手つきがあれだから言ったらどうされちゃうかわからないけど」

「……」

「昔くらいのスキンシップなら、されてもいいっていうか……」

 不穏なワードが聞こえた気がしたが、胡依先輩のあれこれについてはなんとなく理解が及ぶ。

「むしろされたいと」と思ったままに勝手に続きを言うと、
「ビンタするよ」と耳まで真っ赤にしながら否定された。

「そういうのってさ、言葉にしないことでも伝わってきたりとか、安心できたりとか、いろいろあるじゃない」

「……はあ」

「それに私たちさ、二年とちょっとくらい、ろくに話せてなかったし」

「間を埋めるために、ですか」

「まあ、そういう感じかな」

 萩花先輩はごまかすように笑い、多く語りすぎたと思ったのか、トレードマークの長めのサイドポニーを揺らしながらそっぽを向いた。

 そうされてしまうと、さっきのように茶化す気持ちは起きなくて──というより、堂々巡りな気がして──俺の思考は、先輩の発言の内容にシフトしていた。


 触れていると、安心できる。
 それは、奈雨が言っていたことと重なる。

 聞いてすぐにはあまり判然としなくて、けれど、ここ数日で少しずつ意味を理解してきたように感じる。

 "今まで"が全く別物であったり、"これから"が不透明であったとしても、"今このとき"どこかに触れてさえいれば、
 その瞬間の自分と相手の関係については、他の誰よりも近くにいると保証できる。

 奈雨が伝えたかったのは、恐らくこういうことなのだろうと思う。

 ……それが、肩や手ではなく唇なのはともかくとして。

「えっと、白石くん。あの、さりげなくでいいからさ」

 先輩は呟き声で言って、身じろぎしつつもどうにかして恥じらいを捨てようとしたのか、咳払いをしてから俺に正対した。

「あの……私の教えが良かったー、とか? おせわになりましたー、とか……。
 そういうことを言ってもらえると、私としてはありがたいかなーって」

 あー……。

「いや……私の教えも何も別に大したこともしてないんだけど、一応その、さっき言った通りボランティアじゃない?
 だから、対価って言ったら聞こえは悪いかもしれないけど、うん。そんな感じで、よろしくできないかなって」

 すっげえ面倒な性格してんな。
 まわりくどいにも程がある。


 俺が(胡依先輩の前で)萩花先輩を褒める→胡依先輩が萩花先輩を愛でる(かもしれない)。

 やっぱりワンチャン狙ってるじゃないか……。

 あの人が相手なら、直接言葉にした方が効果があると思うけどなあ……。
 でもまあ、あの人だって持って回った言い方とかまどろっこしいやり方を好むところはあるし、内に秘めし面倒くささは、随所で漂わせてはくるけれど。

 そんなことを考えながら目を戻すと、先輩は制服の裾を浅く握って、子犬のような目でこちらを見つめていた。

 なんだろうな……そういう仕草や表情で向かっていけば胡依先輩なんてイチコロじゃないのかと思う。

「そう! そんな感じですよ!」

 と内心グッときたが故の言葉を胸に押しとどめて、

「わかりました」

 と軽めに答える。
 そのまま言ってしまうのは、何だか惜しい気がして。

 当の彼女は「わかりました」の「わかりま」のあたりでもう口元を綻ばせていた。

 少しのしてやられた感は抱いたが、流れに乗った俺も俺だと、またしても出かけた言葉を押しとどめることにした。


【近い】

 きょろきょろと辺りを見渡してみると、思わずその部屋の広さにため息が零れた。

 主要駅近くの高層マンション。
 階は、確か十五階? そこまで長いエレベーターに乗ったことがなくて、というより高いところがあまり得意ではなくて、ずっと下を向いたままここまで来ていた。

 ……いや、田舎風情の私には驚くことでいっぱいすぎる。

 エントランス広すぎない?
 エレベーターが四つもあるって何?
 鍵が二つに加えてカードキーまであるってどういうこと?
 ちらっと耳に入った『最上階にはシアタールームがある』ってリアルな話?

 この南向きの角部屋(高そう)に入室したあとも、玄関の広さだったり廊下から確認できる部屋の多さだったりに驚きを感じずにはいられなかったりして。

 でも、私が一番驚いたのは。
 表に出ている靴が一つしかなくて、何の気なしに訊ねたら、彼女はここに一人暮らしをしているらしい。

 それに、リビング以外の四つの部屋は寝室を除いて使っていないらしい。外にはバルコニーが二つあるらしい。ベッドがクイーンサイズ? とにかく大きいらしい。

 と、らしいらしい並べてみたが、彼女が言ったことをそのまま羅列しているだけだから、そのすべてが事実で間違いない。


 あっちに住んでた時は、私も一戸建てをほぼ一人で使っていたようなものだけど、ここは他の住人もいる高級感溢れるマンションなわけで。

 なんかすごい。

「シノちゃんごめん。お茶とかあると思ったんだけど、オレンジジュースしかなかった」

 不意にかけられたその言葉とともに、かたりとダイニングテーブルの上にマグカップが置かれる。

「いえ、ありがとうございます」

「マグカップにジュースって変な感じだけど」

「大丈夫です」

 言われてみれば、という感じだ。
 まず気にしないのもあるが、それよりもここの雰囲気に圧倒されている。

「あの、シノちゃん」

「……はい?」

「あんまり綺麗にしてないから、そんなじろじろ見られると申し訳ない感がね」

「あ……ごめんなさい」

「ううん。いいよ」

「……でもその、整頓、されてると思いますよ」


 部屋にあるのは、ダイニングテーブル。大きめのテレビとソファ。あとは、本棚とパソコン、液晶タブレットくらい。

 生活するのに必要最低限のものしか揃えていないようで、だから部屋の広さ以上に広く見えてしまったのだろう。

「あー、うんうん。ここに人をあげたのシノちゃんが初めてだから、いろいろと人一人分しか家になくてさ」

「そうなんですね」

「いつも学校に泊まってるし、ここにいる方が少ない週もあるんだよね」

「ちょっと待っててね」と部長さんは椅子から立ち上がって、廊下へと歩いていく。

 一人取り残されて、出された飲み物に口をつける。
 さっき注意されたばかりではあるのだが、また部屋の中を見回す。

 壁紙やカーテンも、備え付けのものから変えていないようだ。
 そしてそのどちらも白色で(テーブルも椅子も白を基調としているもので)、物の少なさも相まって、部屋全体が白っぽく見える。

 例えるならビジネスホテルのシングルルームだと思う。それくらい簡素で、漂う雰囲気に僅かな物寂しさを覚えた。


 数分して戻ってきた部長さんは、制服から私服に着替え右腕でボストンバッグを抱えていた。

「私ちょっと多くなっちゃったけど、シノちゃんはそれで大丈夫なの?」

「着替えだけ入ってればとりあえずは」

「胸元緩い服とか着ちゃ駄目だよ?」

「それ、部長さんの方が気をつけるべきだと思いますよ」

 などと会話をしていると、彼女はさっきまでと違って私の隣の椅子に腰掛ける。

「なんですか」

「……んー?」

 小首をかしげつつ椅子をずずっと引きずって、一人分くらいあったスペースを詰めてきた。

「……ちょっ、近くないですか」

「えー、なに?」

 聞こえてないよー、というジェスチャーとともに身体を寄せられて、左肩を掴まれる。もう片方の手は、私の顔へと近付いてきて、長い指先で頬に触れる。


 そして彼女の顔もまた、すぐ近くへと迫る。反射的に瞳を閉じてしまう。

 家。二人きり。初めて。初めて?
 ……いや、え? こんなところで?

 余計な思考がぐるぐる回る。
 頬を撫でていた指が、這うようにして下へ下へと移動する。

 不思議と嫌じゃないのは、やっぱり私が単純だからなのかな。
 それとも……、ってなに考えてるんだろ。馬鹿じゃないの。

 首筋にひんやりとした手が触れ、驚いて仰け反りかけた身体をさっと抱えられる。
 息を止めて、飲み込んで、もういいかなと待っていたのだが、そこから一向に動きがない。

 薄目を開けると、前屈みの部長さんの顔が、触れるか触れないかの位置にまで近付いてきていて、私にくすくすとした笑みを向けていた。

「……あの」

「……されたい?」

 なっ……。

「……わけないです」

「ん、そっか」

「……へんたい」

「……なにもしてないよ?」

 目を完全に開くと、身体を解放される。椅子の位置はそのままで、正常な距離感を取り戻す。


「でも、いいのかなー? こういう密室に、ホイホイついてきちゃって」

「そのセリフって、こういうことする前に言うものじゃないですか」

「あはは、ナイスツッコミ」

 再び近付いてこようとする部長さんを、両手を前に突き出して制する。
 心臓に悪い。これ以上は無理。

「それにしても、さっきから顔真っ赤だけど」

「……」

 たしかに、全身が熱い。

「この部屋暑い? 飲み物のお代わりいる?」

「……だれのせいだと」

「ええっ、私のせい? もしかしてドキドキしちゃった?」

「してないです。……そんなの、ありえないですから」

「んー、ありえないとまで言われちゃうと、ちょっと悲しくもなるのですが」

「知りません」

「……ツンデレ?」

「デレたことなんて一度たりともないです」


「でも仮にツンツンだとしてもかわいいから許せちゃうんだな、これが」

「ツンツンもしてないです」

「そんなに睨まれながらだと説得力に欠けるなあ……」

「……」

 もはや何を言っても返されてしまいそうな気がする。

 立ち位置がおぼつかなくなるくらいなら黙っていようと目を伏せたところで、
「さて」と狙いすましたように部長さんは呟いた。

「もう学校戻る?」

「……どちらでも」

「実際問題あんまりゆっくりもしてられないし……どうしようね」

 とは言うものの、部長さんの手提げ鞄には液晶タブレットが入っていて、
 目と鼻の先にはスタンドに取り付けられたいつものよりも大画面のものがある(併せて何円くらいするのだろうという疑問は──すごく高そう)。

 だからきっと、部長さんは自分の都合ではなく、私の都合を気にしてくれている。

 部室には、当然人がいる。
 未来くんと、ソラくんと、萩花先輩となうちゃんももしかしたら。


 部長さん以外の誰かがいると困るってわけではないけど、まだ正式にそうするとは決めていないから、不用意に曝すようなことはしたくない。

「渡したものはどうなってますか?」

「んと、午前中あんまり時間取れなくて、でも半分くらいは目を通したよ」

「そうですか」

「ここで残りを見てから戻ろっかなって思ったんだけど」

「……そうですか」

「シノちゃんさえよければ、ね?」

 確認するように言って、彼女は鞄から一冊のノートを取り出す。

 私が朝に渡した、ここ数ヶ月に渡って手慰み目的にいろいろな用途で使っていたもの。

 見てほしいと、読んでほしいと渡したのではあるが、てっきりもう見終えてしまっているとばかり思っていた。
 どことなくそわそわする気持ちがずっとついて回っていたのは、このせいだろう。

 彼女の言う通り見終わっていないのなら、かなり魅力的な提案だ。


「でも、それだと……」

「うん。シノちゃんはちょっとだけ暇になっちゃうかも」

「……なら、私寝てますよ」

「駄目だよ!」

「さっきからすごく眠たくて……」

「嘘おっしゃい! せっかくこうして隣に座ってるんだから、シノちゃんは読み終えるのをちゃんと待ってるべきだよ!」

「うぐっ……」

 そう。私が書いたものを読んでいる姿を見ていなくてはならない、という簡単かつ重大な点を除いて。

「……や、でも」

「私のこと、人の作品を茶化したりするように見える?」

「……」

「……」

 目が合う。なぜかすぐに逸らされた。

「どうしたんですか?」

「なんか、自分で言ってて説得力ないなって」

「え、いや、そこは自信持ってくださいよ。その、創作については、いつものちょっかいとは違うってさすがにわかりますから」

 今でさえ怖いのだから、不安を煽る言い方はやめてほしい。


「じゃあ、読んでもいい?」

「……」

「沈黙は肯定と受け取っちゃうけど」

 ずるい。というか酷い。だってこんなの、イエス以外の解答なんてないじゃん。

 どのみち半分はすでに読まれていて、しかも、彼女が絵を描く姿をいつも隣で見ていたのだから、ここで私が渋るのはフェアじゃないというのはわかるけど。

 ……もうどうしようもないな。彼女の優しさに甘えてはいられない。

 私が、私の意思で、決めたことだから。お願いしたことだから。
 私の身勝手な都合を、何度も何度も押し付けるわけにもいかないから。

「……わかりました」

 それに、これを本当に部誌に載せるのなら、つまり、もっと大多数の人の目に触れるのなら、今のうちに慣れておくのが最善かもしれない。

 と、どうにか自分を納得させることにした。


【分岐】

「それって、納得できないからなの?」

 描いては消してを繰り返し、手が止まった際に彼女に視線を向けると、そんな言葉が返ってきた。

「ちょっと戻してみて」

「線をですか?」

「うん」

 ファンクションキーを操作して、さっきまで描いていた絵を画面に戻す。
 ネームを透かしたものの上から描いているのだから、そうおかしくはならないのだが、それでもなぜかうまく先へ進めずにいた。

「……どう? 自分でもう一度見てみて、どこが嫌で消したかわかる?」

 問われて、戻した線を隈なく見る。
 なんてことのない線の集合。……けれど、これまで描いていたものより、少しだけ歪な気がする。

「すみません。何となく、としか」

「うんうん、そんな感じだよね」

「……」


「一言で言うと、線にね、迷いが出てる」

「……そういうのって、やっぱりわかるものですか?」

「うーん……どうだろうね。白石くんの線が、すごくわかりやすいのもあると思うけど」

「けど?」

「絵描きなら誰しも通る道っていうか、私もそういう経験はあるから、
『あ、もしかしたらこうなのかもなー』って感じるんだと思う」

「なるほど」

「そんでさ、今の話を踏まえてもっかい訊くよ。
 何度も消した理由は、線の一本一本に納得がいかないから? 満足できないから?
 それとも、何か別の理由があるの?」

 ……どうなんだろう。
 みんなに起こり得ることというのなら、それ相応に解答にも幅があるはず。
 
 納得していないわけでもない。
 満足していない……わけでもない。

 いや、100%完全に満足してるわけでもないけれど──この程度で満足とか鼻で笑われるかもしれないが──許容できないわけでもない。むしろ大いに許容できる範囲だと思う。



「自分で言うと変かもしれないですけど、悪くはないとは思うんですよ」

「私も悪くないと思うよ」

「……でも、良いかって言ったら、それはまた別の話じゃないですか」

「うん」

「それで──」と続けようとしたが、その先の言葉が見当たらない。

 良くないから、描き直した。
 それって、"納得できていないから"/"満足できていないから"、と同じ意味なのではないか、という考えがよぎって。

 次に浮かんだ可能性は"人に見られることを気にしたから"なのだが、これはまずないだろう。

 これまで描いていた時には、上手さの面で他者を気にすることはあっても、それが今の実力なのだから考えたところで仕方がないと思っていて、今もそう思っている。
 そもそも絵を描き始めて日が浅いというのも、その考えの裏付けというか言い訳になってはいるのだが、ここでは特に関係はないだろうと思う。

 答えあぐねる俺に対して「こういうのはかなり大事なことだから、あまり適当なことは言えないんだけど」と萩花先輩は前置きする。


「絵に関しての判断基準が磨かれたってことじゃないのかな?」

「判断基準……?」

「そう。つまり、絵がちょっとずつ上達するにつれて、許せる範囲の下限が上がっていってるってこと」

「あー……」

「範囲の上限はみんな気にするから、レベルアップしている自覚がなくても、数をこなすうちに何となく成長してるって感じられる部分があると思うの。
 でも、下限は曖昧にでも頭の中で線引きできちゃうから、その自覚をしてないと、『違くないはずなんだけど何か違う』みたいな、うまく言い表せないモヤモヤになっちゃう」

 ああ、なんかすげえしっくりくる。

 簡単に言うと、原因は頭と手の"ズレ"だ。判断基準の変化に、手がついていけていないんだ。

「どうかな……違ったかな?」

「いえ、合ってます合ってます。多分萩花先輩の言ったことそのままです」

「なら良かった」と先輩は少し嬉しそうに頷いた。


「……なんていうか、こういうのはさすが胡依ちゃんだなーって感心する」

「胡依先輩?」
 
「うん。ほら、ぜひとも漫画を描きなって言ったじゃない」

「ですね」

「きみは真面目なタイプだし、遅かれ早かれこうなることがわかってたから、描かせようとしたんだろうね。
 私は単に、絵柄の好みとか、描き方のバリエーションを増やすためにそう言ったのかと思ってたけど、ちょっと違かったみたい」

「……」

 また話がぶっ飛んだのは気のせいか。

「白石くんがこれまで描いてたものと違って、漫画にはストーリーが必要不可欠じゃない」

「まあ、はい」

「だから、その分余計に迷いが生じるんだよ」

「……それってつまり?」

「うん。胡依ちゃんが悪どいって話」



 一枚で完結する絵との相違点は、そのコマに至るまでの流れや文脈があることだろう。
 経験したことのないレベルで自分の絵が歪に見えたのは、無意識のうちに以前のコマに引っ張られてしまっていたこともあるかもしれない。

 これまで流れに沿って描こうとしてこなかったから、一枚一枚、ここでは一コマ一コマがぶつ切りに見えてしまう。
 だからと言って全描き直しをするわけにもいかないし、したところでもっと良い絵になるという保証はどこにもない。むしろ考えすぎで悪化する可能性もなきにしもあらず。

 ……少し考えただけでもまずいな。

「こういう時の解決策って、何かあるんですか?」

 到底自分では思いつきそうにないから、ただただ訊ねる。

「一つは、自分の感覚を無理やり信じること。……もう一つは、自信がつくまで理論を学んで、試行錯誤を繰り返すこと」

 でも、と彼女は続ける。

「前者は私としては薦めたくないし、後者はそもそも今からじゃ絶対間に合わないんだよね」

 こんな講釈を垂れてる私だって学んでる最中だし、と。


「じゃあどうすれば……」

 選択肢すらもないとなれば、と藁にもすがる思いから出た言葉だった。
 が、それも、

「もう諦めるしかないんじゃない?」

 という言葉ですぐに崩壊する。

「……え?」

 僅かにも想定していなかった第三の選択肢を提示されて、思わずまぬけな声を上げてしまった。

「……あ、違うの違うの。描くこと自体を諦めるんじゃなくて、無理に落としどころを見つけようとするのを諦めようよって言いたいの」

「……すみません。もうちょっとわかりやすく言ってもらえませんか」

 言うと、萩花先輩も説明不足と感じていたのか、自分の頭を数回小突いた。

「『これくらいならいい』みたいな意識を持たないようにして、描いちゃったものについては、割り切らずに諦める。要らない希望は捨てる!」

「……」

「だって、ポジティブな割り切りは『もしかしたら』に繋がるに決まってるんだもん。
 割り切るにしてもとことんネガティブに。……は難しいだろうから、最初から諦めちゃいなよ」

「はあ……」

「まずは描ききって、それから明らかなミスから順繰りに修正を入れていこう。
 とりあえずは、細部をあまり気にしないで、一枚絵を描いてる時みたいに楽しんで描きていきましょう」


 とまあ、ここまで言い切られてしまうと、考えなしに(とは思いつつもまた考えてしまっている)頷きそうにはなるのだが。

「めちゃくちゃに酷いものができるかもしれないですよ」

 あ……、と発してから気付く。
 どうやら、この思考が萩花先輩の言う"希望"の正体らしい。

 同時に、胡依先輩に言われたことを思い出す。
 理想を現実に落とし込むことが何より難しくて、けれど、とても大切なことなのだと、彼女は言っていた。

 口元に手を当てる俺に、先輩は椅子から立ち上がってにこりと笑う。

 そして──

「それでもね、完成しないよりは何倍もマシに決まってるよ。
 せっかくここまで頑張って進めてきたんだから、それを『描きたいって口では言うけど全く描かない人』とか、
『実力不足で……向き不向きが……って一生悩んでる振りをして逃げてる人』と一緒にされたら、すっごく悔しいじゃない!」

 と多方面に喧嘩を売りそうなセリフを、身振り手振りサイドポニー振りで熱く語った。

「まあ……そうですね」

「もどかしい部分は、また次に描けばいいの。何か一つでも完成まで持っていけば、きっと見える世界も変わってくるよ」

 わかりました、と頷くと彼女は満足したように両手で握りこぶしを作った。


 胡依先輩と同じで、やはり絵に対しては殊更真摯な人なんだな、と思う。
 それぐらい本気で絵に──自分自身に向き合っているから、こうして彼女たちは俺に言葉を掛けてくれる。

 けれど、俺は……。
 俺には、本気になれる何かがあるのだろうか。あっただろうか。
 続けていけば、いつしか見える世界は変わるのだろうか。

 ──あたし、がんばれてるかな?

 そうこう考えているうちに、なぜか佑希の顔が頭をよぎった。

 彼女は、どうなのだろう。
 俺とは正反対に、彼女はいつだって手を抜かずにやり続けてきた。

 そんな彼女に掛ける言葉が、俺にあっていいものなのだろうか。

 けれどもし、昨夜思い至った可能性が正しいとすると、俺以外に、誰が彼女に言葉を掛けられるのだろうか。

 変えたい、と思った。
 変わってほしい、とも思った。

 変わってほしくない、と思っていたのは、
 どこかで希望を捨てきれていなかったからだ。

 自分か、彼女か、
 二つに一つだ。

 だから、諦めてしまおう。希望なんて、いつまで経っても希望でしかない。
 それに、選びたい選択肢と、選ぶべき選択肢は同じだ。

 "いつか"を待っていたって、何も変わらない。

 俺はきっと他の誰よりも、俺自身と向き合わなければならない。


【幸か不幸か】

 読み終えるのを待っていて、と言われても、それはそれで手持ち無沙汰になってしまう。

 お菓子に手をつけて、飲み物に口をつけて、じいっと部長さんを見つめて……やっぱり数秒持たずして目を背けて。

 掛け時計のチクタク鳴る音は普段と変わらないはずなのに、その進みはやけに遅く感じる。

 それくらい落ち着かないし、恥ずかしい気持ちだってもちろんある。

 でも、誰かに絵を見られたときとはまるで違っている。
 あのときは、単純に嫌なだけだった。自分のどうしようもない内側を不用意に曝してしまっているようで、どうにかして隠してしまいたいと思っていた。

 だけど、これはどうなんだろう。

 手段が違うから、なのかな。
 絵で怖いのだから、文章ならもっととばかり思っていたのに、それほど怖いとは思わない。


「これで終わり?」と声が聞こえて、すぐ横へと目線をずらす。
 また近い。……が、動揺を見せないようにしなくては。

「終わりじゃないです」と平静を装って答えた。
 部室での距離感と変わらないのに、なぜかそうは思えない。さっきのことが尾を引いている。

「もっと続くってこと?」

「……いえ。あと一つ書けば、とりあえず終わりの予定です」

「おー、そっかそっか」

 彼女が持つノートに記されているのは、全十一編の小説のうちの十番目まで。
 そこそこ長くなっているから、掌編というよりも、短編やショートショートと称すのがちょうどいいだろう。

「それで、どうでしたか?」

 本題はそれでないにしろ、一応訊いてみることにした。
 書いたものについては、自分ではどうとも思えない、客観視しようにも主観が入り混じってしまう、と思ったから。

「おもしろかったよ」

「そうですか」

「……あ、嬉しそう」

「……まあ、はい。ありがとうございます」

「どういたしまして」


 おもしろかったらしい。部長さんにとっては。
 じゃあ私にとってはどうなのかと再度考えたが、やはりどうとも思えなかった。

 最低限の文章作法。一人称。簡素な文体。会話はほとんどせずに、語り手がつらつらと出来事を語るだけ。

 物語設定にもこれといった工夫やこだわりはせずに、登場人物の二人に名前をつけていない。まず考えてすらいない。
 描写したのは、身なりや背丈のおおまかなイメージと、場面場面の服装くらいで、かといってそれを気に留める人なんていないだろう。

 絶対に必要というわけではないと思った部分は徹底的に排除した。
 というのも、ひとたび何かを書けば、それまでの一本道が枝分かれするように広がってしまうような気がして、
 それで迷いが生じるくらいなら、初めから書かないことを選んだ。

 だから、おもしろさは全くと言っていいほど意識しなかった。ただ何となく書き始めて、ただ何となく終わろうとしているだけのことだ。

 とまあ、"おもしろい"と言われたことが気にはなったのだが、自分の書いたものを褒めてくれるなんて、掛け値無しにありがたい話で、だから素直に嬉しいとは思っていた。

 そして、それはやはり絵のときとは違っていて、驚きつつもほっとしている自分がいることに、少しだけ自己嫌悪した。


「ラストはどうなるの?」

「ラスト……」

「うん」

「どうなるって……どうなるんですかね」

「決めてないんだ」

「はい。きっと、どう転んでもハッピーエンドにはならないので」

 言うと、納得いかなそうに部長さんは首をひねった。
 説明が足りなかったのだと、私は言葉を重ねる。

「だって、会えなければ普通にバッドエンドですし、仮に会えたら会えたでどうしようもないじゃないですか」

「どうしようもないってのは?」

「たとえば、会えて、気持ちを伝えて、二人でずっと一緒にいることを選んだとしても、それでも根本的な問題は何も解決していないんです。
 幸福の度合いをグラフで表すなら、冒頭からずっとマイナスで、多少上下することはあっても、終わりまで一度もプラス側になることはないんです」

「うん」

「気休めの幸せは、緩やかに、でも確実に不幸せへと移り変わっていくはずです」

「それを、ハッピーエンドと呼べるのか、ってことね」

「そうです」


 書いている途中は、会えて、ちゃんと想いを伝えて、二人が幸せになっておしまいにしようと考えていた。
 それが理にかなっているだろうし、私としてもそうあってほしいと思っていた。

 けれど、ラストを書くにあたってそれまでの文を読み返していると、それでは駄目なのだと気付いてしまった。
 
『私』と『彼女』は双方ともに解決できない問題を抱えていて、それをどうにかしない限りは、本当の意味での幸せが訪れはしないだろう。

「シノちゃんはさ、駆け落ちはハッピーエンドだと思う?」

 考え込みそうになったところを、部長さんの声で引き戻される。
 そういえば、読み始めてから今に至るまで、彼女はずっと真面目な表情をしているように思える。

「状況によりますね」

「じゃあ、駆け落ちしたところで話が終わって、それきり続きがないとしたら?」

「えっと、それは少なくともハッピーではないと思いますけど」

「んー、その二人がMAX幸せだとしても?」

「……まあ、そうなりますね」

「そっか」と部長さんは何度か頷いたあと、なぜか楽しげに笑った。



「私は、それもひとつのハッピーエンドだと思うな」

「どうして?」

「んと、それでバッドエンドだと思うのは、こっち側、つまり読者側の意見じゃない。
 だから、当人たちがスタート地点よりもちょっとでも幸せになれてれば、それはハッピーなんじゃないかなって」

「……」

「べつにさ、見る人によって解釈が違くなっても悪くないんじゃないかな?
 ほら、前にも言ったじゃない。こういうのは見る人に任せればいい、って」

 そう言われてしまうと、私は答えに窮する。
 現にこうして解釈違いが起こっているのだし、部長さんが間違っているとは思わないけれど、だからといって合っているとも思わない。

「まあ、あとはシノちゃんの判断に委ねることになるんだけど」

「……」

「ラスト、楽しみにしてるから」

「……はい」

 書けるかどうかはわからないが、とりあえず書いてみるしかないか。

 目下の目標は、どうにかハッピーエンドになるように。バッドエンドは、あまり見てても書いてても気分の良いものじゃない。
 それでもなってしまったら、それは方向修正をうまくできなかった私のせいだということにしよう。

 初めてだ。失敗はつきもの。
 ……しないに越したことはないけれど。

今回の投下は以上です。
次からは新しいスレを立てて書きます。

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