【デレマス】あやめ「バックストリート・ニンジャ・パフォーマンス」 (53)

 薄紫色に染まった雨雲が重く空に蓋をする首都、東京。乱立するビル群を白く靄がかったベールに覆われるが如く、ざぁざぁと雨は降り注ぐ。幸運にもこの時間帯に仕事を切り上げることが出来、意気揚々と帰宅するはずだったサラリーマン達もこの天候には顔を顰める。不幸にも、否、日常的にこの時間帯にすら会社で会議が待っているサラリーマンは更に顔を陰鬱に沈める。

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 大通りを埋める人の群れは皆均一に距離を空け、互いの傘がぶつかり合わないよう注意して歩く。顔を上げることを許されず、同一のペースで道路に流れていく彼らは、工場のベルトコンベアに乗せられ順々にプレスされていく工業部品のようであった。あちこちのARデジタルホログラム広告から流れる、アンドロイドアイドルユニットの新曲だけが異様に明るく鳴り響いていた。

 しかし、それは大通りだけの話だ。大通りの人波からやや外れた飲み屋街、その更に店と店の間に血管の如く伸びる路地裏。排気ダクトと錆びたパイプに彩られ、空き缶や菓子の袋が無造作に放り捨てられた野良猫と鴉のテリトリーを、男が走っている。

「くそがっ」男は息も絶え絶えに、しかし決してスピードを緩めることなく街の血管を駆け抜ける。常人には不可能な俊敏な動きは、その筋から見れば一目で芸能関係者だと看破できるだろう。彼は時折後方を確認し、誰の気配もしないことを祈りながら排気ダクトとダストボックスの間にしゃがみ込んだ。

 薄汚れたトレンチコートで雨を防ぎながら、男は肩に下げた鞄からカメラを取り出した。それは男のみすぼらしい格好に似つかわない、プロ仕様の高級一眼レフであった。彼はカメラの電源を入れ、先程彼が手に入れたデータがまだ存在しているか確かめた。

 在る。消えていない。あれは現実だった。男は繰り返しその事実を自分に言い聞かせる。長年丁寧に扱ってきた相棒であるこのカメラだが、今日はことさら繊細なガラス細工の如く脆く壊れやすい物のように思えた。男はカメラを仕舞い再び走りだす。

 彼の職業はフリーのジャーナリスト。やや古臭い俗語を持ち出せばパパラッチと言い換えることが出来るだろう。社会の闇に隠された真実を暴き出すなどという高尚な趣味は彼は持ち合わせていない。彼は自分の役割が、メディアに露出する有名人の私生活からあらを探し、あるいはでっち上げ、愚かな大衆の自尊心や妬みを解消させる為にあることを知っている。

 現代社会はパパラッチのような狡い職業に厳しくも、しかし優しく容易い。“素材”さえあれば大衆の悪意は容易に伝染し、素材はより洗練に加工され、ネットワークの海に拡散してその波は止めようが無くなる。対象にされた人間の、メディアからの商品価値はたちまちに暴落するだろう。CMスポンサー企業の株価と共に。

 芸能人のネタのスッパ抜き合戦はやがて企業間闘争の体を成していく。彼のようなフリーのジャーナリストは言わば傭兵であり斥候。そして致命の一撃を放つ毒矢とも成りうる職業だ。当然、それぞれの企業、特に芸能プロダクションが抱える企業戦士により社会的に命を落とすことも多い。……薬物乱用で廃人同然となった状態で、ブタ箱にぶち込まれた同業者もいる。

 だが彼はこの生き方以外に改める気は無かった。自身が命がけで手に入れた“素材”が、ネットワークを通じて巨大な怪物になっていく様を眺めるのはなかなかに良い気分だった。まるでプロデュースしたアイドルが大成功を収めるような錯覚──彼は足を止めた。

 角を曲がった直後、太いゴム製の紐が乱雑に張り巡らせられている。これがもし鋼鉄製の細いワイヤーであったのなら、彼の身体は膾切りにされていたことだろう。彼は今来た道を振り返る。やはり同様にゴム紐による封鎖がされていた。この数瞬の間に。

 最早男が自由に動き回れる空間は畳三枚分かそれ以下か。彼の持つ常人の三倍の脚力であれば問題なくここを抜け出せるだろうが……彼は上空を見上げた。粘り着くような雨が湿気とともに彼の顔を濡らす。そして彼は見た。屋上からこちらを見下ろす影を。

「どうも、記者さん。困りますよー、社内にいらっしゃるときは来客用のネームプレートを下げてもらわないと」

 その声は明らかに若い、そして高い。少女だ。男が一度瞬きをした。少女は男の目の前にいた。(早いな)男は瞬時に何百通りもの戦闘シミュレーションを行い、その内『隙を見て逃げる』パターンを捨てた。相手から視線を離さないまま、視界の隅でスマートフォンの画面を確かめる。圏外。(ジャマーは設置済み……当たり前か)

 男は声には出さず悪態をつく。(クソファッキンクライアントめ。何が『フェイス・トゥ・フェイスでの生データの受け渡しが条件』だ。時代遅れのセンチメンタリスト! 転落した少女アイドル好きの変態ジジイ! よりにもよって“あの”プロダクションに目をつけやがって!! ファックファックファック!!)

 雨脚が強まる。男は鞄を壁際に置き、自己紹介をした。ビジネスの基本である。「どうも。ペンネーム『悪徳』。所属は無し」「どうも悪徳さん。私は『あやめ』です。所属は346プロダクション」「ふん、どうせ情報部の奴らだろ。“美城の草”、有名だぜ」「お褒めに預かり……」「皮肉だ。目的は」「データ。目的は」「そのデータ持ってとんずら」

「では」あやめが構える。空気がピンと張り詰め、互いの時間認識が脳内伝達物質の加速によって鈍化し始める。悪徳は改めて彼女の姿を観察した。この状況を作り出した時点で小娘などと侮る気はさらさら無い。だが、あやめの服装はまるで冗談めいていた。

 ニンジャ装束である。黒髪を一つに括り後ろに長く伸ばし、身につけたる装束も墨を落としたかのような暗黒。だが、それは本格的に闇に溶け込むためのものではない。胸元は大きく開き、至る所に肌を露出する切れ込みも見られる。そう、扇情的に過ぎる。

 悪徳は目を見開いた。彼は飛び道具等の武装を見抜くつもりだった。だが実際に彼が見ていたのは、いや、魅入られていたのは彼女の蠱惑的存在感! ビジュアルレッスンの賜物! つまり、彼女は!

「イヤーッ!」「グワーッ!」ニンジャの……アイドル!!

 強烈なボディへの一撃! 肺から空気が一気に絞り出される! 一瞬、視界が白く染まりかけるが奥歯を噛み締め、耐える! 二撃目! 顔面への左ストレート! 悪徳は必死に体勢を整え内側からあやめの腕を弾き、捌く。しかしあやめは弾かれた動きにあえて逆らわず、その勢いをもって後ろ回し蹴りを繰り出した。悪徳は右肘を立ててこれをガードする。

 重くはないが鋭く、速い! 流麗かつ淀みない体捌きであやめは悪徳のワン・インチ距離に潜り込み、細かな打撃を矢継ぎ早に繰り出す。ならばと、悪徳は体格差を利用し抑えこみにかかる。だがしかしそれこそがあやめの狙い! 

 掴みにかかる悪徳の手首を取り、自身は身体を沈め、投げる! 合気道だ! 「グワーッ!」悪徳は張り巡らされたゴム紐に叩きつけられ、反動で前へ! あやめは沈めた身体をバネのように開放し飛び膝蹴りを放つ! 悪徳はわざと体勢を立て直さず泥臭く転げ倒れる! 悪徳の頭部皮一枚分の上空を、あやめのナイフめいた膝が刈り取っていく! 悪徳は首筋から死神の気配を感じ取る!

 起き上がった悪徳と着地したあやめは再び畳三枚分を挟んだ距離を維持。冷や汗と雨に額を濡らす悪徳とは対象的にあやめは涼しい顔で彼を見据える。冷たく機械的でありながら、悪徳は彼女から目を離すことができない。彫像美めいた全身から放たれるしなやかな手刀が悪徳を襲う! 悪徳は彼女の一挙一動に魅入られつつもあやめの攻撃を丁寧に捌く! フリーのベテランとして今まで芸能界を生き残ってきた彼の生存本能が、彼の意を超えて彼を動かす!

(くそっ! くそっ! アイドルってやつぁ何だってこうも誘ってきやがる! 豚どもから金を巻き上げるために造られた身体の癖をして!!) 油断できないコンビーネーションの最中にも、視界にチラつくのは瑞々しい少女の肢体! 肌色! 性癖をくすぐる隙間の数々! 悪徳は不覚にも下半身に熱を覚える!

 死闘にそぐわない邪念を感じ取ったか、あやめは僅かな隙を突き地面を這う蛇の如きローキックで軸足を獲りに行く! 「しまっ……!」転倒こそ免れたが、崩された体勢により股ぐらの急所ががら空きになる!

 悪徳の脳内をアドレナリンが駆け巡り走馬灯を回し始める! 同時に体感時間が急激に鈍化! 避けられないだろうあやめの攻撃の軌跡を、残酷なほどはっきりと知覚してしまう! 下から掬い上げる軌道を描く、手首のスナップ柔らかく迫る逆手の掌底! ボールブレイカー!

 だが……おお、何たることだろうか!? その軌道は強引に上向かれ悪徳の腹筋へ叩きつけられる! 「グワーッ!」クリーンヒットではあるものの、致命傷には程遠い一撃! 湧き上がる疑問を意識の下に押しとどめ、悪徳は九死から一生を拾いにかかる! 技の出し終わりを狙い、両拳を合わせハンマーの如く振り下ろす!

「ンアーッ!?」鈍い打撃音! あやめは地面に叩きつけられた! 彼女の背中に悪徳のストンピングが襲いかかる! この体格差では技にも満たない大振りの打撃ですら彼女の身体を破壊するには十分だろう。圧倒的な質量が彼女に届く、その時!

「イヤーッ!」突如あやめは身体を天地反転させ、回し蹴りを放った! カポエイラ! 高速独楽の如き恐るべき回転数により、悪徳は弾き飛ばされる! 受け身を取りながら悪徳は目を見開いた。驚くべきことに彼女の指はアスファルトに無理やり穴を開け、以てがっちりと彼女の体勢を支えているではないか。なんたるアイドル万人握手会組手によって培われた指力と握力!

 だが、やはり解せない。それだけの力を持ちながら何故彼奴はそれを活かすような立ち回りをしない? わざと避けた致命打……そしてこの戦いが始まってからずっと抱いていた違和感……それは殺意の欠如。舐められている、見くびられている。悪徳のベテランとしての矜持が、普段は鼻にもかけない小馬鹿にすらしてきた自らの職業に根付く意地に、ぽつりと火がつく!

 リスタートは悪徳が先に切った! 「イヤーッ!」「ンアーッ!」両者再び接近! 超至近距離戦闘に移行する! 悪徳はあやめの片足を踏み、縫い止める! 逃げ場なしの短打合戦が始まった! 上半身の捻りのみを使った、空手の応酬! 捌き、叩き、流し、突く!

 残虐な急所攻撃が来ないことを見切った悪徳は、多少のダメージと引き換えに強引に攻撃を当てていく! 一方のあやめは体格差から一発でも拳を喰らえば動きが止まるのは必至! さすればたちまちに両者の間に吹き荒れる空手台風に巻き込まれることになるだろう! 故にあやめは全神経を集中し、直撃を避けながら的確に細かいカウンターを仕掛けていった。どちらも消耗戦。決着はほんの数瞬後に訪れるだろう。だが……(何だ、何だこれは!)

 悪徳の違和感が最高潮に達する。自身の空手のキレは良い、過去最高だ。だが、良すぎる。脳から分泌された興奮物質が全身を駆け巡り、空手を通じて昇華していくこの心地良さ! 高揚! 寂れた路地裏に響き渡る、打撃音、気合の一声、衣擦れ、雨の水滴がビートボックスPVめいて彼らの周囲を雄弁に彩る! まるでライブだ! 空手のライブ・ミュージック!

 しかし、このライブの主役は自分ではない。悪徳にはそれが分かってしまう。分からされてしまう。故に、この舞踏に付き合うのは危険だ! だが悪徳の身体と思考は既にぷつりと途切れされている。幼児の手を離れて飛び立つ風船めいて、悪徳は上空から自らの顛末を眺めた。音楽はサビを経て、クライマックスへ! ここで、ここで彼が一打逆転の大振りを狙えば、そこに──(やめろ、やめろぉ!!)音楽は、あやめは悪徳の抵抗を拒否する! 「イイイヤアアアーッ!!!」

 天を上る龍の如き電光石火のカウンターが、悪徳の顎を貫いた! 世界が白く爆ぜ飛び、散る! 最早声を上げることも出来ず悪徳は地に崩れ落ちた。深く沈みゆく意識に、雨音だけが染みて、それも消える。

「あの、大丈夫ですか?」 体が揺さぶられる感覚。遅れて視覚と聴覚がぼんやりとだが戻ってくる。仰向けにされた視界は、まず東京の曇天を、次にあどけなくこちらを覗き込む少女の姿を捉えた。少女の着ている服は、まるで冗談めいたニンジャ装束。そうだ、自分は彼女と……「グッド、あやめ。良い画が撮れましたよ」人間の気配が唐突に増えた。それも複数。

「師父! あ、いや、プロデューサー殿! それは真ですか!」「ええ、非常に美しいニンジャアイドル空手でした。事前に伝えられていた要件も十分こなせていましたよ。あまりに殺意が高すぎても、ファンは引いてしまいますから。適度な塩梅でした」「へへっ……! 良かった……」 あやめはにへらと笑った。年相応の、柔らかな笑顔だった。

 プロデューサーと呼ばれた男はスーツ姿に黒縁の眼鏡をかけ、鋭い刀めいた雰囲気を纏っていた。それ以外にも、撮影用の機材を抱えた男たちが、狭い路地の四方の闇からぬらりと現れた。悪徳は状況を把握しようとするが、未だに思考は判然とせず要領は得ない。ただ、自分が『してやられた』事実だけは理解できる。

「喋れますか。喋れませんか。では軽い説明だけ」あやめはやや離れてカメラマンと撮れた映像を確認している。「あなたの行動は、あなたが社内に侵入した時点で把握していました。普段でしたら侵入してきた時点でアウトでしたが……今回はこういった形で」プロデューサーはあやめをちらと見た。

「新人です。浜口あやめ。ニンジャアイドル。素材は満点。方向性は……ま、そこは私の腕の見せ所ですかね。デビューMVはそこそこViewを稼げるでしょう、あなたのおかげです」悪徳は不服を咳き込みで応えた。

「あやめ!」「はい!」「インファイトでのアクション撮影はオールオーケーです。また連絡しますが今度は苦無等を用いたアウトレンジでのアクションシーンを撮る予定です。しっかりレッスンしておくように」「は、はい!」「合わせてレコーディングもいい加減完成させますよ。いいですね」「は、はい~……」「では、後ほど」

 あやめは撮影スタッフと共に、風切音を残して消えた。残るは男二人のみ。「しかし……」プロデューサーは悪徳のカメラを手に取り、中のデータを改めて確認する。「こんなものでスキャンダルになるとは、やはりどうかしている」「げふっ……へっ、世間は、ファンには、それで十分なのさ……」

 データには、プロダクション所属アイドルとサラリーマン、背景が社内であることを考えれば仕事上の関係者だと容易に想像がつく二人が、“二人きり”であるかのように切り取られた写真が収められていた。「もう舌が回りますか」「こんな……瞬間でさえ今じゃ誰も隙を見せねえ。それこそ内部でないとな……お前の意見に同意するぜ……どうかしてるよ。これを、少し加工するだけで発狂する野郎共はな」プロデューサーは鼻を鳴らした。

「アイドルの処女性……アンドロイド……」悪徳は、ここに逃げ込む前に見かけたARホログラムを思い出した。「転換点はもう、来てるのかもな……俺もお前も」プロデューサーは応えない。彼は踵を返した。「おい」振り返る。

「出演料、寄越しやがれ」プロデューサーはため息をついた。「あなたの今回のクライアントは既に抑えてあります。失敗のペナルティは、ありませんよ。それで手を打ってください」「はん……」それ以上悪態をつく気力も悪徳には残っていない。「では」プロデューサーは後ろ手に何かを投げて寄越し、消えた。

 それは一枚の販促用ホログラムカードだった。悪徳の顔の横で、浮かび上がった手のひらサイズのあやめが、一定周期でニンジャ空手演舞を繰り返している。彼女の周りをデビュー曲の曲名と発売日がくるくると回っている。

 アイドル……プロデュース……ニンジャアイドル『あやめ』がこの時代にはたしてどれだけの成功を収められるか、悪徳にはその可能性など測りようもない。たとえ体術に、空手に長けていようとも、それが業界の荒波にどれだけ役に立つものか。だが、あの空手乱舞で感じた熱は、まだ悪徳の体内に燻り続けいている。

「馬鹿馬鹿しい……どうかしてるぜ……」自分が撮ってきたスキャンダルによって潰された少女たち。未来、可能性。「どっちにしろ、女の性を商売にかけることにゃ、変わりねえよ……」それは独り言ちて、ただ自分への言い訳めいて誰に届くでもなく中空に消えた。

 雨は未だ、彼と東京を覆っていた。

以上になります。ありがとうございました。

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