千歌「私のぴっかぴか音頭・タイムトラベル」 (329)

サンシャイン長編
地の文あり


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千歌「みんな! そろそろ準備できた?」

曜「ばっちりであります!」

浴衣姿の曜ちゃんがびしっと敬礼を返してくれた。

8月15日、桟橋の上、日は既に傾きかけ。

予報通り熱帯夜を迎えつつある内浦の海を、熱を孕んだ空気がもやりと包んでいた。


果南「ほらほら、早く船に乗ってよー」

善子「クク……! 箱舟の主は、この堕天使ヨハネよ……」

花丸「船は果南さんのおじいちゃんのだよ」

お決まりの雑談を交わしながら船に乗り込む。


鞠莉「hmm...」

果南ちゃんの帯を締めなおしながら、不意に鞠莉さんが呟いた。

鞠莉「なんだか変な感じね。やっぱりお盆は慣れないわ」

果南「そう? ずっとこうだからわかんないや」

鞠莉「にぎやかなのに、sentimentalっていうか……」

ルビィ「過去を想う日、でしたっけ」

梨子「千歌ちゃんによればね。ちょっとロマンチック……。ふふっ、千歌ちゃんっぽくはないかも」

千歌「ちょっと、失礼だよー!」



Aqoursに盆踊りに出てほしい。

地区予選出場が決まった直後、そう頼まれた。

もともと盆踊り風の曲を作りかけていただけに、二つ返事で了承した。

「過去を想う日」

それが今回のコンセプトだった。

私が提案したらしいという話に胸を張ったが、実はよく覚えていない。

練習に、ラブライブに、歌詞に、ちょっぴり夏休みの宿題なんかやってみたり。

忙しい生活のせいか、気がついたらぼうっとしていることが増えていた。



花丸「マルは素敵だと思うずら。ご先祖様と関わるお盆らしさもあって……」

ダイヤ「ええ。これまでのことを、つい思い返してしまいますわ」

梨子「私は、今ここにいることを不思議に思うかな。昔の私が知っても絶対信じないよ」

梨子「やっぱり、考えちゃうな。もしも、こうだったらって」

ルビィ「ルビィたちが9人一緒にいるの、すごい確率だったのかな……?」

千歌「そうだよ、奇跡だよ!」

善子「もう、千歌さんはそればっかりね」

曜「すっかり口癖だもんね」

千歌「え、そうかなー…?」

皆が静かに笑う。私も笑って、配置につく。

そういえば、船の上で踊るなんて無茶な案が実現したのも、鞠莉さんと果南ちゃんがいたからこそだった。

このメンバーで、この場所で。本当に奇跡だ。

地方予選だって、この9人なら、きっと。


――本当に、そうなのかな。



ドンドンと太鼓の重い音がした。

船の先頭で、提灯を掲げて目を閉じる。


千歌「……」


私は梨子ちゃんの言葉を胸の中で反芻していた。

Aqoursの皆の顔を想うたびに、妙な気分になった。

くすぐったいような、縮み込むような、浮いていくような、沈んでいくような。

嬉しいような、恥ずかしいような、そして、不安なような。


そうだ、私はこの時、不安だった。


太鼓が鳴り続けている。

数拍、心で数えた後に目を開ける。



「「「あっちから こっちから よっといで――――」」」



ギイギイ揺れる船の上、控えめに袖を振る。

ぽつりぽつりと、海がランタンの光で埋まっていった。



海から見る淡島の岸は、海上の明かりと屋台の電飾で輪郭がぼやけて見えた。

私たちは曲に合わせて足を運ぶ。



「「「あっちから こっちから よっといで――――」」」



くるくると回るたび、暖かいオレンジ色の光が尾を引いた。

曜ちゃんと目が合った。

にこりと笑いかけてくれた。

私は妙な気分を抱えたまま、また回った。

蝶が飛んでいた。

私の持つ提灯の近くを、ひらりひらりと舞っている。

思わず目で軌跡を追おうとして、今度は梨子ちゃんと目が合った。

集中しなさいと目が言っている。

なぜか心がざわついた。

また梨子ちゃんの言葉が頭をよぎった。


――2人は、どうしてここにいるんだろう。

もし、2人が。ううん、皆が。

もし、もし―――



唐突に、ぐにゃりと不気味な音を立てて視界が歪んだ。


千歌「あ、れ……?」


強烈な眩暈に襲われる。

明るいオレンジ色だった視界が痛々しい白に染まる。


千歌「う……くぅ……っ!」


手から提灯が落ちる。

足が空を切る。


千歌「ぇ……! や、やだ、助け――…!」


皆の声も、太鼓の音も、だんだんと聞こえなくなっていく。

船も、光も、夜の海も、すべてが白く溶けていく。



千歌「ぁ……」


浮遊感に目をつむり、いっそう強い眩暈に意識を失いかけて――


そしてまた目を開けた。


千歌「ほぇ……?」


最初に目に入ったのは、くすんだ白だった。

ところどころに染みがあるが、やけに見覚えがある。


千歌「ここ、は……?」

私は何か柔らかいものに包まれていた。

先ほどまで私を襲っていた浮遊感は、もう消えていた。

太鼓の音は聞こえず、代わりにカチコチと時計の針の動く音が響く。


千歌「あれ、ここ……!?」


身を起こすと、赤い甲殻類のぬいぐるみがこちらを見つめ返していた。



まぎれもなく、私は私の部屋にいた。


#1「私とAqours」



◇―――――◇


千歌「え、えええ、な、なんで!? 私たち、船の上で……!」

あたふたと布団をめくる。ぬいぐるみは床に転がった。

千歌「私の部屋、だよね……でも、なんか、変……」

少しずつ意識がはっきりしてくるにつれ、私は言いようのない違和感を抱き始めていた。

昨日まで寝ていた自分の部屋。それなのに自分の部屋ではないような。


千歌「あれ、千歌、長袖だ……」

自分の着ている服も妙だった。衣替えなど、とっくの昔に終わっているはずだった。

千歌「お母さん、わざわざ出したのかな……」

私はどうなったんだろう。

船の上で踊っていて、急に眩暈がして、あのまま倒れたんだろうか。

それで家に運ばれて、パジャマも着せられて。


千歌「いやいや、それなら病院だよね」

千歌「うーん……とりあえず、誰かいないかな」

裸足のまま部屋の扉を開けて、廊下に出た。



廊下は最近にしてはひんやりしていた。

ぺたぺたと歩いていると、黒いスーツを着た美渡姉がいた。

変だ。最近はクールビズだとかで、ジャケットは脱いでいるのに。

美渡「おー、寝坊助。早く降りていかないと遅刻するぞー」

千歌「え……?」

美渡「あ? あんた今何時か分かってないの? ほら早く顔洗って! 新年度だからって曜ちゃんと待ち合わせしてるんでしょ!」

千歌「え、ど、どういう……。曜ちゃん?」

美渡「は…? 昨日あんたが言ってたんじゃん。2年生最初の日は曜ちゃんと登校するんだーって、嬉しそうに」

千歌「新、年度……?」

千歌「い、いや、いやいやいや、盆踊りは? 私どうなったの!?」

美渡「千歌、何言ってんの……?」

美渡姉は訝しげな目を私に向けた。



志満「あら千歌ちゃん、やっと起きたのね」

階段を上ってきた志満姉も、新学期がどうとか、曜ちゃんがどうとか声をかけてきた。


美渡「志満姉、千歌がおかしい。いや、いつも変だけど、なんというか……」

志満「え? 大丈夫? 熱があったり……」

ぴとっと志満姉が私の額に手を当てる。


志満「おかしいわね、熱はないみたいだけど……」

千歌「志満姉! 私どうなったの? ほら、志満姉たちも盆踊りの会場いたよね?」

志満「……盆踊り?」

千歌「ほら、この前言ったじゃん! 盆踊りに私たちが出るよって! Aqoursの皆で踊るって!」

志満「ええ……?」


あまりにも話が通じない。

美渡姉にはからかわれているのかと思ったが、志満姉はいたって真剣そうだ。

何かがおかしいという思いで、徐々に鼓動が速くなっていた。


千歌「ねえ、志満姉!」

つい大きな声を出してしまう。

志満姉は少し黙り込んだ後、遠慮がちに口を開いた。






志満「あー、千歌ちゃん? 今日、まだ4月よ?」



◇―――――◇


曜「ねえ千歌ちゃん、2年生になってもよろしくね!」

鞄をふりふり、曜ちゃんが笑いかけてくる。

千歌「う、うん……」

曜「……」

曜「……一緒のクラスだといいね! って、私たちの学年は1クラスしかないか、たはは!」

千歌「…あは、はは……」

曜「……」

曜「千歌ちゃーん……さっきの話、やっぱり気になるの? その『あくあ』がどうとかってやつ」

千歌「……っ」

曜ちゃんの何気ない言葉に、ざらりとした感情が胸を撫でる。

結局、美渡姉と志満姉の言う通り、8時ごろに曜ちゃんが迎えに来た。

新学期だから一緒に行こう、そう約束したのは私からだったそうだ。


曜ちゃんが来る頃には、私は携帯の画面も、テレビのニュースも新聞も、全部チェックし終わっていた。

そのどれもが、今日は4月8日であると言っていた。

どうやら私は、今日から2年生になるらしかった。

そして何よりも、曜ちゃんは何も覚えていなかった。



千歌「ねえ曜ちゃん、ほんとに何も知らない? Aqoursだけじゃなくて、盆踊りとか……」

曜「盆踊り? 去年一緒に行ったやつ?」

千歌「そうじゃなくて、ほら、サンシャインぴっかぴか音頭を……」

曜「な、なんか変な名前だね。誰が考えたの?」

千歌「誰って……! 誰って、Aqoursの皆だよ! 皆でこれがいいって、決めたじゃんっ!」

急に声を荒げた私に、曜ちゃんはびっくりしたようだった。


曜「え、え、ごめん千歌ちゃん。嫌なこと言っちゃったなら、謝る……」

しゅんと俯いたあと、曜ちゃんは小さく声を出した。

曜「その、『あくあ』についても、私全然わからなくて……。でも、千歌ちゃんが真剣なのわかるから、ごめん……」

千歌「曜ちゃん……」

曜ちゃんは本当に申し訳なさそうだ。

追求したい気持ちをぐっと飲み込んで耐える。


曜「『あくあ』、『あくあ』かあ……」

千歌「……っ…」

ぴんと来ていない曜ちゃんに、無性に腹が立った。

その『あくあ』で悩んで、すれ違って、結局曜ちゃんが真夜中にわんわん泣いたのは、ついこの前なのに。

違った、今日は4月8日だったんだっけ。

私だけ。私だけが、4か月も先の時間を歩んでいた。



曜「そ、そういえばさ、転校生の話」

不機嫌そうな私を見て、曜ちゃんは話題を変えた。

千歌「転校生?」

曜「うん、昨日部活の子たちが言ってたじゃん! 東京から来るんだって」

千歌「それって……」

東京からの転校生。4月。今日から2年生。もしかして。

千歌「梨子ちゃんだ……」

曜「えっ! 千歌ちゃんもう名前まで知ってるの?」

千歌「あ、ううん、えっとね」

曜「……?」

梨子ちゃんは、覚えてるかな。

家が隣なこと。お互い悩みを打ち明けたこと。一緒に曲を作ったこと。9人で想いを1つにしたこと。

千歌「覚えてるかな……」

曜「……千歌、ちゃん?」

心配そうに曜ちゃんが覗き込んでくる。



曜「あ、あのさ! 今日の部活のことだけどさ!」

曜ちゃんは、無理矢理出したような明るい声でまた切り出した。

千歌「部活? 曜ちゃんの水泳部のこと?」

曜「そうそう。千歌ちゃん今日も来るよね? 後輩も来るかもしれないしさ、頑張ろうね!」

千歌「……え?」

来るって、水泳部に?

曜「あれ、でも千歌ちゃん水着は? 荷物少ないけど……」

千歌「み、水着?」

曜「うん。今日はタイム更新するんでしょ? せっかく一緒に選抜合宿いけるんだからって」

千歌「ちょ、ちょっと待って、ちょっと待って……」

タイム、選抜合宿。

馴染みの薄い言葉に理解が追い付かない。



千歌「私が水泳部? 選抜合宿?」

曜「え、そ、そうだよ! 部内で何人か選ばれるやつ。ほら、絶対一緒に行こうねって、パパと練習したじゃん!」

千歌「……」

千歌「……スクール、アイドルは……」

曜「え……ご、ごめん。私、ほんとにわからなくて……」

千歌「……」

曜「ねえ千歌ちゃん、その、今日は変だよ。何かあったの?」

千歌「……何でも、ない」

変なのは、曜ちゃんの方だよ。美渡姉の、志満姉の、学校の方だよ。

スクールアイドル部も、Aqoursも、何にもない。

代わりに私は水泳部で、しかもそれなりに好成績?

千歌「もう、わけわかんないよ……。何でこんなことに……」

ただ過去に戻ってきただけじゃ、ないのかな。



学校に着いた後も、私は違和感と闘っていた。

例えば自動販売機。

以前はなかったはずの場所で、ぴかぴかと赤い体を光らせていた。

例えば校舎の壁。

ひびが入っていたはずなのに、知らない間に真っ白に塗りなおされていた。

例えば教室の机。

剥がれた木片や表面に開いた穴に困っていたのに、樹脂製の軽い机に変身していた。


千歌「私の知ってる浦女じゃない……」

ぐでんと机に頬をつける。

慣れない感触に、すぐ顔をあげた。


教室はいつもよりざわついている。

新学期なうえに、転校生まで来るとなれば当然だった。

入って来い、という先生の言葉に、一瞬まわりが静かになる。



梨子「あの、こんにちは……」

おずおずと入ってきた梨子ちゃんに、どきりとした。

曜ちゃんと話がかみ合わなかったことを忘れて、梨子ちゃんに期待してしまう。

大丈夫。きっと覚えてる。だって、梨子ちゃんだもん。


梨子「桜内梨子です。音の木坂から来ました。ピアノが好きで、コンクールにも出ています」

コンクール。

どくんと心臓が高鳴った。

やっぱり、梨子ちゃんは覚えているんだ。

だって、梨子ちゃんがコンクールに出られるようになったのは最近のことだ。

それまでは気持ちの上で問題があった、そう言っていたんだ。


千歌「梨子ちゃん……!」

嬉しくて、安心して、思わず声を上げる。

驚いた顔をした梨子ちゃんと目が合った。


梨子「あ、えっと、この前の!」

千歌「……え?」

梨子「ほら、道案内してくれた……。えっと……」





梨子「お名前聞いても、いいですか?」



◇―――――◇


千歌「……」

家に帰って、自分の部屋。

無言でどさりと鞄を落とす。

出迎えてくれた志摩姉にも、一言も声をかけずに来てしまった。


千歌「……嘘だ」

ぽつりと漏れた言葉とは裏腹に、私はわかってしまっていた。

千歌「嘘だ」

曜ちゃんは、Aqoursのことを覚えていない。

梨子ちゃんは、私のことさえ覚えていない。

千歌「嘘だ……っ!」

違う、そうじゃない。

覚えてないんじゃない。知らないんだ。

私は、今4月8日に来ているんだ。


千歌「嘘だ!!」

叩きつけるものさえなくて、拳をただ握って、また開いた。




千歌「だって、おかしいじゃん! さっきまで、踊ってたじゃん!」

千歌「Aqoursでラブライブに出ようって、そういう話だったじゃん!」

千歌「こんな、魔法みたいな、こんな、こんなの……っ!」

なんとか否定したくて、手当たり次第に引き出しをひっくり返す。


千歌「……!」

とさっと、ノートが床に落ちた。淡いみかん色の表紙だった。


千歌「歌詞ノート……! そう、そうだよ! 私歌詞書いたもん! 皆で歌って、踊って――」

表紙にあったはずの、Aqoursの文字はなかった。

裏表紙に書いたはずの、自分の名前はなかった。

ぺらりとページをめくる。

何も書かれていなかった。


千歌「みんなも忘れちゃったのかな……。Aqoursのこと」

呟いた途端、もしそうだったらと、恐ろしくなった。

千歌「花丸ちゃんも、ルビィちゃんも、善子ちゃんも……」

千歌「果南ちゃんも、ダイヤさんも、鞠莉さんも……」

ぶるりと震える。



新品の歌詞ノートを見て、よろよろと椅子に座る。

まっさらなページに目を落としているうち、視界がぼやけてくるのがわかった。


千歌「私の書いた、歌詞が……。みんなで歌った、曲が……」

理不尽だと言う思いが、ぽつりと漏れる。

何もなかった。真っ白だった。


千歌「何もない、なんにもないよ……っ! 何で、どうして!!」

ふつふつと怒りが沸き起こって来た。

拳をノートに叩きつける。


千歌「わけわかんないよっ! 4月? 始業式? だって、だって、踊ってたんだもん! 私、ちゃんとAqoursやってたんだもんっ!!」

ぽたりぽたりとページに無色の染みができる。

千歌「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!」

ノートのページをぎゅうっと握る。

1ページ目が、くしゃくしゃになって千切れていく。


千歌「わかんないよ! 帰してよ! 千歌をもとの場所に帰してよぉ……っ!」


子どもみたいに、手当たり次第に物を投げた。

ガンガンと音を立てて、そこらじゅうに傷ができる。

手元にものがなくなると、声にならない声を上げて、枕を思いっきり殴りつけた。

物音を聞き付けた志満姉に抱きかかえられるまで、ずっとずっとそうしていた。





―――――――

―――――

―――



―――


夢を見ていた。光の海だった。

私たちは、9人で浴衣を風になびかせていた。

くるりと身体をひねると、手に持った灯りがちらちらと瞬いた。

私は不安だった。

でも、何が不安だったんだろう。


『もし―――』


誰かの声が聞こえた。

それは私のようにも、Aqoursの皆の声のようにも聞こえた。



くらりと眩暈がした。

視界が白くなった。

動かない身体の先に、誰かの人影が見えた。


『諦めないで。会いに来て』


『もう一度、走り出して』


誰かの声がした。変に聞きなれた声だった。

千歌「待って…! 誰なの? 皆はどこにいるの!? 待って、待ってよ――――」

曜ちゃんの浴衣、梨子ちゃんの目、夕焼けに染まったAqoursの皆の顔――様々な景色が波打っている。


そのまま視界はだんだんと薄れていき、私は気だるさに包まれながら、意識を失った。






―――――――

―――――

―――



―――――


むくりと身を起こす。頬に手を当てて、濡れた跡をごしごしとこする。

千歌「……夢」

夢。私が過ごしたはずの時間。

必死に手を伸ばすのに、夢の残滓は炎のように揺らめいて消えた。

頭がじんと重かった。

「夜ごはん、置いてあるからね」

志満姉が書いたメモが机の上に置いてあった。

あちこちに投げつけたペンやぬいぐるみは、きちんと拾われていた。


ぽろんぽろんと、音がする。

もう真っ暗になった部屋の中、どこからかピアノの音が聞こえてくる。


千歌「梨子、ちゃん……?」

窓をガララと開ける。

少し大きくなった音色は、不思議と心地よく聞こえた。


千歌「諦めないで、会いに来て。もう一度、走り出して……」


夢で聞いた言葉を口にする。

漏れた言葉は、夜闇の中へしゅるりと消える。



あの声は、何だったのだろう。

いつも聞いている声だった。

千歌「私の声、だったような……」

励ますような、叱りつけるような、慰めるような、突き放すような。

甘さと苦さの入り混じった夢が、とくとくと胸で脈打っている。


千歌「もう一度、走り出して」


また、夢の言葉を繰り返す。

走り出す――どこに?

諦めない――何を?

机の上には破れたノートがあった。

携帯のカレンダーは、相変わらず4月8日を表示していた。


ああ、私はこの日から走り出したんだ。

曜ちゃんと学校に行って、梨子ちゃんに出会ったこの日から。

「もう一度」

そういうことなのだろうか。




千歌「もう一度、Aqoursを……」

千歌「もう一度、皆を……」

夢で聞いた言葉が、皆との思い出が、しゅわしゅわと心に染み込んでくる。

もう一度、走り出すんだ。

あの暑い暑い日に。輝いていた日々に。

そう、まだ4月8日なんだ。


軽やかなピアノの音はまだ続いている。


千歌「ねえ! 梨子ちゃん!」


大きな声で叫んでみた。

不意に音が止み、カーテン越しに人影が近づいてくる。

窓が開き、怪訝な顔をした梨子ちゃんが顔を出した。

梨子「……え? た、高海さん!? お隣だったの!?」

千歌「ねえ梨子ちゃん。お願いがあるんだ」

梨子「え、う、うん。何?」

千歌「私と、スクールアイドルやろうよ!」



梨子「……へ?」

千歌「スクールアイドルだよ! 歌って、踊るの! 梨子ちゃんの曲で! 私の歌詞で!」

梨子「……」

目をまん丸にして、梨子ちゃんはしばらく言葉を失っているようだった。

そして。

梨子「……ごめんなさい!」



千歌「そっか、そうだよね。……そうだったもんね!」


なくなっちゃったんじゃない。まだできていないだけなんだ。

また、ここからだ。

もう一度、走り出すんだ。



千歌「待っててね、皆。千歌、絶対帰るから」


方法すらわからないけれど。

取り戻すんだ。大好きな、Aqoursを。




―――――

―――




◇―――――◇


次の日から、私は毎日音楽室に通った。

はじめは苦笑いしながら受け入れてくれていた梨子ちゃんも、3日目には遠慮なくしかめっ面をするようになった。

梨子「千歌ちゃん。私にアイドルなんて無理だってば。だから、ね?」

千歌「そんなことない! 梨子ちゃんは絶対人気出るもん。知ってるもん」

梨子「……千歌ちゃんって、たまに不思議なこと言うよね。知ってる、とか」

千歌「え、そ、そう?」

梨子ちゃんには、事情を言えないでいた。

言ったところで信じてもらえないと思った。

千歌「とにかく、梨子ちゃんが必要なの!」

梨子「曲が必要?」

千歌「違うよ! 梨子ちゃんが必要なの!」

梨子「ごめんね。私、もうすぐ春のコンクールがあって」

きっぱりと梨子ちゃんは断った。


―――――


梨子「千歌ちゃん、また来たの?」

千歌「毎日来るよ、だって、一緒にやりたいんだもん」

梨子「そ、そう……」

梨子「でも、私はアイドルなんてやらないよ?」

千歌「いいよ、いつかやるから。千歌知ってるもん」

梨子「……」

千歌「今日はピアノ弾かないの?」

梨子「誰かさんのせいで弾けてないの」

こつんと額を叩かれた。

ピアノを第一に考えて、邪魔をされたと口を尖らせる梨子ちゃんは、なんだか新鮮だった。



梨子「千歌ちゃん、毎日毎日私のピアノを聞いて、飽きちゃわない?」

千歌「えー、私、梨子ちゃんのピアノ聞くの好きなんだけどなあ……」

梨子「クラスの他の子は、ちょっと聞いたら帰っちゃったよ」

千歌「そうなんだ」

梨子「それに、今日は美容院の予約があるから弾けないの」

千歌「そうなの? ……あ、私が道案内しようか? 梨子ちゃんまだこっちのことあんまり知らないでしょ!」

梨子「それはありがたいけど、恩を売っても入らないよ?」

千歌「今はそれは関係ないよー! 内浦の案内は地元民に任せなさい! って、もう梨子ちゃんにとっても地元か!」

梨子「……」

梨子「変な人」



ピアノのこと、音の木坂のこと、梨子ちゃん自身のこと。

たくさんの話を、梨子ちゃんに聞いた。

すでに知ってる話も、知らなかった話も、以前に聞いたことと違う話もあった。

そんな話は、すべて優しい音に乗って聞こえてくるのだった。

胸の奥がざらざらと荒れる。

梨子ちゃんのピアノ。私はそばでうんうん唸って、考え事。

Aqoursの記憶と今を重ねては、ずきりとした。


私は何も話さなかった。

話そうとすると、いつもいつも、Aqoursの影がちらついた。

口を開くと、すぐにあの日々の話がふよふよ飛び出して行きそうだった。

だから、私はこう言うんだ。


千歌「梨子ちゃんとスクールアイドル、やりたいな」

梨子「……ごめんなさい!」


梨子「ふふっ」

千歌「あ、梨子ちゃん笑ったなぁ!」


――――


梨子ちゃんは、私の知ってる梨子ちゃんと似ているのかな。違うのかな。

曜ちゃんは、私の知ってる曜ちゃんと似ているのかな。違うのかな。

私が梨子ちゃんの所に行き始めてから、曜ちゃんはあまり元気がない。

水泳部はどうするの。

一度だけ小さな声でそう聞かれた。


千歌「私のせいだよね……」

けれど、どうしても水泳部には足が向かなかった。

じろじろと上から皆が見る中で、無様に足をバタつかせていた自分を思い出して、顔をしかめた。


梨子「何だか、今日は浮かない顔してる」

千歌「あ、ごめんね」

梨子「ううん、気にしないで」

梨子「気が乗らないときはね、好きな曲を弾くの。まあ、今はコンクールの曲ばっかりなんだけどね」

千歌ちゃんは好きな曲とか、あるの? そう聞かれて、またAqoursと答えそうになった。

μ'sの歌を挙げると、梨子ちゃんは口の中で「みゅーず、みゅーず」と数回繰り返した後、またピアノを弾き始めた。



今目の前にいる梨子ちゃんは、あの頃、好きなはずのピアノに恐怖を抱いて、迷っていた梨子ちゃんとは違う。

コンクールに向かって、ただひたむきにピアノを弾いていた。

梨子「そ、その、あんまり見られると恥ずかしいんだけど……」

それでも、たまに見せる照れた顔や、じとっと睨むような顔は、記憶にある梨子ちゃんのままだった。

千歌「ね、じゃあコンクール見に行ってもいい?」

梨子「え、ええ!? それは、別に、いい、けど……」

手をわたわた振っている。

梨子「そっか……。千歌ちゃん来るのかぁ。頑張らなきゃ、ね」

ぽそりと呟いて、梨子ちゃんはぎゅっとこぶしを握った。


――――


4月12日。梨子ちゃんのところに通って一週間。

今日も梨子ちゃんを誘った。今日も断られた。

それでも、最近は何も言わなくても一緒に帰ってくれるようになった。

音楽室の鍵を返してくるから待ってて。そう言われた。


曜「千歌ちゃん」

夕焼けに染まった下駄箱の前で靴を履き替えていると、曜ちゃんがやって来た。

頬を上気させ、髪はしっとりと濡れている。


曜「また、行ってたの?」

咎めるような言葉に、自然と顔が下を向く。

千歌「……うん」

曜「ねえ千歌ちゃん。この前言ったよね。部活に来てって」

千歌「……うん」

水泳部には1度だけ顔を出した。散々だった日を思い出してまた顔をしかめる。

めちゃくちゃなフォームで泳ぐ私を、鬼と名高いコーチは思いっきり怒鳴りつけた。

それ以来、水泳部には行っていなかった。



曜「調子が悪かったのはたまたまだよ。皆気にしてない。コーチだって、きっと言い過ぎたって思ってるよ」

私は競技用の正しいフォームなんて知らなかった。

もう一度行ったところでうまく泳げるとはどうしても思えない。

曜「それに、今日は後輩の子も来てくれたんだよ。津島善子ちゃんって言ってね。私、バスがたまたま一緒で。誘ったら見学に来てくれたんだ」

千歌「え、よ、善子ちゃんが……?」

曜「あれ、知り合いだった? おかしいなあ。善子ちゃん、そんなこと言ってなかったけど」

ここ数日で気づいていた。自分の周りの、何もかもが記憶と異なっている。

梨子ちゃんはピアノを弾き続けているし、私は水泳部だし。善子ちゃんもどうやら登校を続けているようだった。

学校だって、私の記憶とはかなり違っていた。


曜「ねえ、千歌ちゃん。水泳、嫌いになった……? それとも私のこと、嫌?」

千歌「ううん、そうじゃなくて、そうじゃないの!」

曜「だったら何なのっ!」

千歌「……っ…」



千歌「ね、ねえ曜ちゃん。曜ちゃんは、私と一緒に、その……」

曜「……スクールアイドル?」

千歌「う、ん……」

はあ、と大きなため息をつくと、曜ちゃんはくしゃくしゃと髪を掻き混ぜた。

曜「この前、見たよ。μ'sの動画。凄かった。キラキラして、楽しそうで……千歌ちゃんが憧れるのも、わかるな」

千歌「じゃ、じゃあ!」

曜「でもさ」

曜「でも、ずっと一緒にやってきたじゃん! 水泳だって、水から顔を上げたときのキラキラが好きなんだって、そう言ってたじゃん!」

言ってない。私はそんなこと、言ってないんだよ、曜ちゃん。

曜「パパと練習だって一緒にしてさ! 昨日だって、パパ、千歌ちゃんのこと心配してたんだよ」



曜ちゃんのお父さん。普段はあまり会えないが、会うたびによくしてもらっていた。

千歌「お父さん、帰って来てるんだ……」

曜「え、そりゃ夜になったら帰ってくるよ」

千歌「え? 曜ちゃんのお父さん、フェリーの船長で……」

曜「へ?」

千歌「だ、だって曜ちゃん、あんまり会えなくて、少しだけ寂しいって、お父さんあんまり家にいないって、言って――」

曜「……何、それ」

しまった、と思った時にはもう遅かった。これも「違った」んだ。

曜ちゃんの声は、今まで聞いたことがないほど、低く、冷たかった。


曜「何それ、千歌ちゃん」

千歌「あ、あの、違うの。その、千歌、知らなくて」

曜「知らないって、何」

千歌「ご、ごめん、曜ちゃん。ごめ――」

バシンと、頬に衝撃が走った。



曜「バカ! バカ千歌ちゃん! あんなに一緒に練習したのに! パパにだって、たくさん泳ぎ方教えてもらったのに! こんなに真剣に話してるのに!!」

曜「もう知らない! 千歌ちゃんなんか梨子ちゃんとずっとアイドルやってればいいんだ!」

ぽろぽろと涙を流し、くるりと背を向けて、曜ちゃんは走って飛び出していった。

泣いているところはごまんと見てきたけれど、あんなに驚いた目は、傷ついた顔は初めてだった。


千歌「ぁ……曜、ちゃん、待って、待ってぇ!!」

追いかけようとして、足がもつれて転んでしまう。

千歌「曜ちゃん、曜ちゃんっ!!」

曜ちゃんの姿はすぐに見えなくなってしまう。

千歌「う、ぐっ……うぅ……うぅぅぅぅっ……」

よたよたと立ち上がり、じんじんと痺れる頬を押さえながら、下駄箱に寄りかかって泣いた。


梨子「お待たせ、千歌ちゃ――って、千歌ちゃん!? ど、どうしたの!?」


◇―――――◇


梨子「ほら、これで大丈夫。消毒も終わり。それで、曜ちゃんと喧嘩したって?」

千歌「……うん」

梨子ちゃんは私を家に連れ込んで、怪我の治療をしてくれた。

家は隣なのだからと断っても、ぐいぐいと腕を引かれた。

梨子「もう、そんな顔しないの。アイドルやるんでしょ?」

千歌「梨子ちゃんは?」

梨子「私は……」

梨子ちゃんはどこか遠い目をしていた。すぐに断られないことに違和感を抱く。

千歌「梨子ちゃん?」


梨子「……最近ね、夢を見るの」


千歌「夢?」

梨子「うん。夢の中でね、私は千歌ちゃんと……ううん、千歌ちゃんだけじゃなくて、曜ちゃんと、あと、他にも……」

梨子「9人で、踊っているの」

千歌「……っ!」

息を呑む。


梨子「ねえ、千歌ちゃんは知ってるの? これも、知ってるの?」

千歌「……そ、それ、は……」

どくんどくんと動悸が止まらなかった。

それは、Aqoursだ。Aqoursの夢だ。


梨子「毎日見るの。千歌ちゃんに誘われてから、毎日」

梨子「知っているなら、教えてほしいの」

千歌「梨子ちゃんは、ピアノのコンクールが、あるから……」

気づけば断っていた。

教えることで、梨子ちゃんの何かを決定的に変えてしまうような気がした。

ここ数日で、この梨子ちゃんがどれだけピアノを大切に思っているか、わかってしまっていた。



千歌「今は、そっちに集中した方が、いいんじゃ、ないかな……」

梨子「嘘。毎日勧誘に来る人の言う台詞じゃないよ」

千歌「……」

梨子「千歌ちゃん」

千歌「……あの、今日はもう……」

梨子「逃げないで、千歌ちゃん」

千歌「…っ!」

まっすぐな目から、視線が外せなくなる。

千歌「……わかった。話す、話すから……」

力なくそう言った。

千歌「その、すっごく長くなるんだけど、一言にするなら、ええっと……」


千歌「私、未来から来たんだ……」


梨子「……へ?」



―――――

―――



――――


梨子「え、っと……。予想外すぎて、何も言えないんだけど……」

話を聞き終わった梨子ちゃんは、頭を押さえて呟いた。

梨子「千歌ちゃんは、私たちがスクールアイドルをやっている未来から、跳んできたってこと?」

千歌「うん、たぶん……。でも、私の知ってる過去と違うし、詳しいことは全然わからなくて……」

梨子「そうだよね。ごめんね」

千歌「り、梨子ちゃんが謝ることじゃないよ!」

梨子「……」

梨子「そっか……、そうだったんだ……」

梨子「千歌ちゃんは、それで、私を誘ってたんだね」

千歌「……うん。だって、私の知ってるAqoursはあの9人だから」

梨子「……そっか」


それからしばらく、部屋は静かなままだった。

ちらちらとこちらを窺ったあと、梨子ちゃんがまた口を開いた。



梨子「ねえ千歌ちゃん」

千歌「……ん?」

梨子「私がスクールアイドルを始めたら、千歌ちゃんは帰れるの?」

千歌「……わかんない」


もう一度、走り出して。


ヒントかどうかもわからない、そんな言葉を頼りにしてしまっている。

千歌「わかんないよ、全然。でも……」


でも、それでも。


千歌「Aqoursが楽しくて、ずっとやっていたくて」

千歌「ほんとに、幸せで! みんなで先に進みたくて……っ!」

千歌「Aqoursって、すごいんだよ! すっごく仲良しで、休みの日も一緒にお出掛けしてさ! 練習だって、大会だって、いつも一緒で!」

気づけば、腕を振り回していた。何かを掴もうと、手を伸ばしていた。

けれど、手は梨子ちゃんの部屋の冷たい空気を掻くだけだった。



千歌「……」

千歌「たぶん、それだけなんだと思う。千歌には、それだけなんだ」

千歌「でも、ダメダメだ。絶対取り返すんだって誓ったのに。想ったのに。曜ちゃんを傷つけて、梨子ちゃんには迷惑かけて。ダメダメだよ……」

梨子「千歌ちゃん……」

梨子「ねえ、千歌ちゃんは、どうしたいの?」

千歌「……」

私は、どうしたいんだろう。

曜ちゃんと喧嘩をしてまで、戻りたいのかな。

梨子ちゃんからピアノを奪ってまで、帰りたいのかな。


ゆっくり考えていようと思うのに、気がついたら言葉が零れ落ちていた。

千歌「私は、帰りたい。またみんなで踊って、笑って、そんな日を過ごしたい」

梨子「……」



梨子「……私に、入ってほしい?」

千歌「それは! そう、だよ……。あ、でもでも! ピアノもやってほしいっていうか!」

梨子「……ふふっ、千歌ちゃんって、やっぱり変な人」

千歌「ええっ! そんなことないよ! 千歌なんて、ほら、普通だよ。普通星人だよ!」

梨子「えー? そうかなあ?」

普通の人は未来から来ないと思うけど。そんな冗談を言いながら、くすくすと梨子ちゃんが笑う。

梨子「……」

梨子「千歌ちゃん、もっと聞きたいな」

千歌「へ? Aqoursの話?」

梨子「うん。だって千歌ちゃん、さっき見たことないくらい素敵な笑顔をしてたから」

梨子ちゃんに頬をつつかれる。じんと痛んだ。

千歌「そ、そう、かな。えーっと、じゃあ……」





―――――

―――


――――


その後、梨子ちゃんにAqoursのことを話した。

何時間もかけて、一つ一つ丁寧に。

この世界のことは何もわからないけれど、Aqoursのことはびっくりするくらい詳しく覚えていた。

誰が、いつ、どこで、何をして、何が楽しくて――。

そんな話を、梨子ちゃんは文句も言わずに聞いてくれた。

梨子ちゃんは一つ一つの話に興味を持ち、質問し、驚いた。

善子ちゃんの堕天使話には手を叩いて笑い、曜ちゃんとの話では照れたように髪をいじった。


梨子「千歌ちゃんは、本当にAqoursが大好きだね」

千歌「……うん。大好き」

梨子「……そっか」

梨子ちゃんがにこりと微笑んだ。

梨子「ね、千歌ちゃん。コンクール、見に来てね」

千歌「う、うん、絶対行く」

梨子「あと、曜ちゃんとも仲直りすること。お昼休みのたびに気まずい空気とか、嫌だからね?」

千歌「うっ……。頑張ります……」

よろしい。そう言って梨子ちゃんはまた笑った。


――――


千歌「はあ……話しちゃったなあ……」

部屋に帰って、仰向けに寝転がる。

梨子ちゃん、一度も疑わなかったな。

Aqoursの夢を見ていたからだろうか。

それでも、救われた。


千歌「これからどうしよう……」

梨子ちゃんは結局入るとは言わなかった。曜ちゃんとは大喧嘩してしまった。

メンバー集めは、最初の一歩から大失敗だ。

どうして、あの頃は上手くいったのだろう。

何も言わないのに、曜ちゃんが名前を書いてくれて。結局梨子ちゃんも入ってくれて。

花丸ちゃんとルビィちゃんとも出会えて、善子ちゃんも来てくれて。

3年生なんて、あんなに反対していたのに、最後には……。


奇跡だよ、なんて口癖が、随分と重く感じた。


千歌「はあ……」

千歌「曜ちゃん、やっぱり怒ってるかな……」

曜ちゃんの、あの反応。

お父さんは、ここではフェリーの船長じゃないのかな。毎晩、家に帰ってくるのかな。

曜ちゃんは、そんなお父さんと楽しく、幸せに暮らしているのかな。


ピロンと音を立てて、携帯が鳴った。

千歌「あ、メール……よ、曜ちゃんからだ!」

慌てて開いてみると、真っ白な件名の下に、短い本文が書いてあった。



『千歌ちゃん 今日は叩いちゃってごめん。痛かったよね。でも、やっぱり心配だよ。詳しい話、いつか、いつかでいいから、絶対聞かせてね』



千歌「曜、ちゃん……」

千歌「やっぱり、曜ちゃんは、すごいや……」

じわりと潤む目を指で拭って、ポチポチと返信を打った。


『曜ちゃん 私こそごめん。……うん、絶対。絶対話すから、待っててね』


――――


4月14日。

コンクール会場は、格式ばった姿をした人ばかりで、少し気後れしてしまいそうだった。

梨子「あ、千歌ちゃん、こっちこっち」

声のする方を見ると、梨子ちゃんが桜色のドレスに身を包んで手を振っていた。

隣には梨子ちゃんのお母さんが静かに佇んでいる。

千歌「梨子ちゃん! ……すっごく、綺麗」

梨子「え、ええ……? て、照れちゃうな」

満更でもなさそうにそう言うと、梨子ちゃんは私の手を取った。

戸惑いながらも手を引かれて歩く。


千歌「梨子ちゃん?」

梨子「ね、千歌ちゃん。来てくれて、ありがとう」

千歌「え、う、うん……」

ぎゅっと梨子ちゃんの手に力が入る。

少し汗ばんでいるようだった。



千歌「……緊張してる?」

梨子「……正直」

困った顔をして、梨子ちゃんは手を離した。

梨子「毎回、緊張はするの。でも、今日は特に。今日だけは、最高の演奏がしたいから」

千歌「今日だけ?」

梨子「あ、いつもちゃんと全力だよ? でも、今日は特別」

千歌「どうして?」

梨子「……ふふ、内緒」

千歌「え、き、気になるよー!」

梨子「終わったら、教えてあげる。だから、ちゃんと見ててね」

千歌「うん……絶対に見てる」

もう一度、梨子ちゃんの手を握る。ふるふると、小刻みに震えていた。



千歌「梨子ちゃん。梨子ちゃんなら、大丈夫」

梨子「そう、かな……。だって、千歌ちゃんの知ってる私は、怖がりなんでしょ?」

千歌「確かにそうだよ。梨子ちゃんは控えめで、怖がりで……。でも、強いんだ。1人でも、仲間と遠く離れていても」

千歌「私は、それを知ってるよ」

手にぎゅっと力を込める。

梨子「……そっか」

短く呟くと、梨子ちゃんはそっと手を握り返してくれた。

梨子「千歌ちゃんは、不思議な人。急に現れたと思ったら、わけのわからないことばっかり言って。本当に、不思議……」



梨子「千歌ちゃん」


梨子「私のピアノ、聞いていてね」





―――――

―――

――



◇―――――◇


誰もいないステージの上。

梨子ちゃんと2人。

授賞式を済ませ、梨子ちゃん以外の出場者は全員が控室に戻っていた。


千歌「梨子ちゃんは着替えなくていいの?」

梨子「うーん、もう少しだけ」

千歌「……本当におめでとう。凄かった。その、千歌バカだから、こんな感想しか言えなくて、あれなんだけど……」

梨子「ううん、ありがとう千歌ちゃん。すっごく嬉しい」

つうっとステージ上のピアノを撫でながら、梨子ちゃんは微笑んだ。

梨子「ね、今日私が言ったこと、覚えてる……?」

千歌「今日が、特別だってこと?」

梨子「そう」

梨子「私ね……」

梨子ちゃんはふと客席の方を見た。

千歌「梨子、ちゃん……?」

一瞬、泣いているように見えた。

梨子「私ね、ピアノのコンクールに出るの、しばらくやめようと思うの」



千歌「え……」

千歌「な、なんで!? だって、凄かったじゃん! 来月にもう1回あるんでしょ? 今日授賞式で、役員の人がそうだって――」

梨子「出ないよ」

千歌「どう、して……?」

梨子「……」

梨子「千歌ちゃん」

千歌「う、うん……」



梨子「あと一曲だけ。聞いてほしいな」



それだけ言って、梨子ちゃんはピアノの前に座った。


梨子ちゃんはしばらく目を閉じて、深呼吸していた。

やがて薄く目を開けると、すぅっと息を吸い込んで――




梨子「―――ユメノトビラ ずっと探し続けた―――……」

トンと鍵盤を叩き、歌いだした。



千歌「ぁ……」



梨子「――君と僕との……つながりを探してた―――……」



ぽろぽろと流れる音が、梨子ちゃんの優しく力強い声が、全身から流れ込む。

μ'sの曲が好きだと話した時から、ずっと練習してくれていたのだろうか。


嬉しいような、つらいような顔をする梨子ちゃんを見つめながら、ただただ想う。

あの頃の思い出。Aqoursの思い出。梨子ちゃんとの、曜ちゃんとの、9人での―――



梨子「―――Yes 自分を信じて みんなを信じて―――」


梨子「―――明日が……待ってるんだよ 行かなくちゃ―――……」



行かなくちゃ。帰らなくちゃ。

梨子ちゃんの弾くピアノに合わせて、呟いた。





―――――

―――



梨子「……ふぅ」


千歌「梨子、ちゃん……」

最後の一音が鳴り、ステージはまた静かになった。


梨子「私、スクールアイドル、やるね」


千歌「どうして……?」

梨子「千歌ちゃんに会えたから」

千歌「私に……?」


梨子「千歌ちゃんと、友達になったから。たったの一週間だけど、一緒にいてくれたから」

梨子「Aqoursのことを話す千歌ちゃんの顔を、見ちゃったから。光り輝く舞台を、思い描いてしまったから」

梨子「千歌ちゃんにあんな笑顔をさせる経験を、私もしてみたいって。……そう思ったから」


梨子「だから、私……スクールアイドルになりたいな」


梨子ちゃんの言葉に、ほろりと頬が温かくなった。

千歌「うん……うん! 一緒にやろう、一緒に……」



梨子ちゃんに手を伸ばした、その瞬間だった。



突然、白い光が辺りを包んだ。



梨子「きゃあっ!」

梨子ちゃんが短い悲鳴を上げる。


千歌「り、梨子ちゃん!?」

梨子「だ、大丈夫……!」

千歌「梨子ちゃん! 服が、光って……」

梨子ちゃんのドレスの胸に近い部分が、淡く、白く光っていた。

その光は、軽く、柔らかだった。


千歌「あれ……何だろう……」


眩しさに細めた私の目に、ちらっと何かが映る。

ひときわ強く辺りが光った後、何かがひらりひらりと落ちてくる。


梨子「あれ……」



『入部届 桜内梨子』



綺麗な文字でそう書かれた短冊みたいな紙が、頭上を舞っていた。



梨子「これ、どこから……?」

梨子「でも、入部届だもんね。千歌ちゃん、はい、これ」

梨子が不思議そうにそれを受け取り、差し出してくる。

綺麗な手につままれた長方形の紙は、それは、まるで―――


千歌「梨子ちゃん……ありがとう……」

端の方が淡く輝くそれに、ゆっくりと手を伸ばす。



千歌「うっ……っ…!」

梨子「ち、千歌ちゃん!?」


ぐらりと眩暈に襲われた。

視界が白く染まっていく。

梨子ちゃんの顔が見えなくなっていく。


あの夏の日。船の上。

あの時も、同じ眩暈を感じていた。



梨子「千歌ちゃん……やっぱり、行っちゃうの……?」


千歌「梨子、ちゃん……」

だんだんと梨子ちゃんの声が遠くなっていく。


梨子「ねえ千歌ちゃん。前を向いて。止まらないで」


梨子「でもね、もし疲れちゃったら、私を――、私にAqoursの話をしたときの気持ちを、思い出してね。」


梨子「私、曲作り頑張るから。アイドルも、頑張るから。……ああでも、やっぱり、寂しいな―――」


私の視界は、真っ白になった。






―――――――

―――――

―――



◇―――――◇


目の前に、教室があった。

私は声も出せず、体も動かず、ただ意識だけが漂っていた。


ぼんやりと窓から明かりが差し、教室が仄かに赤く色づいている。

梨子ちゃんが静かな瞳で鉛筆を走らせる。

曜「ねえ梨子ちゃん、できたー?」

梨子「んー、もうちょっと……」

梨子「よし、できたよ」

トントンと梨子ちゃんが机を指で叩く。


なんだか、見覚えのある光景だった。

けれど、いつ見たのかはどうしても思い出せなかった。

いったい、いつ―――…。



『……』

薄い紙を手でさっと払うと、梨子ちゃんが顔を上げた。



『千歌ちゃん』


どこからか声が聞こえた。

優しい、桜色の声が。


『ずっとずっと、思ってたんだ。もしあの時、ちゃんと弾けていたらって』


『もう少しだけ、強い私だったらって』


『でもね、弱いから気づけたことがある』


『弱いからこそ、分かち合えたものもある』


『そういうの、全部含めて私なんだって。千歌ちゃんに出会った今なら、Aqoursで過ごした今なら、そう言える気がするな』


千歌「梨子ちゃん……?」


だんだんと、ぼやけていく。

机や窓が、雲のように尾を引いて溶けていく。

最後には、梨子ちゃんの姿もさらりと溶けた。


――――――――――#1「私とAqours」 



◇―――――◇


目が覚めた。

ざわざわと騒がしいどこかで、私の目の前には梨子ちゃんの顔があった。

千歌「う、うわあっ! り、梨子ちゃん!」

千歌「――あれっ? ここ……教室?」

辺りを見回すと、2年生の教室だった。

まだ見慣れないピカピカの机が乱雑に並んでいる。


梨子「そうだよ。もしかして、まだ寝ぼけてる?」

曜「相変わらずだなあ、千歌ちゃんは」

千歌「曜ちゃん……?」

千歌「あ、あれ? こ、コンクールは!? 梨子ちゃんは!?」

梨子「え、わ、私? 私なら、ここだけど……」

曜「えっと、ひょっとして夢でも見てた?」

千歌「夢……?」

千歌「梨子ちゃん、コンクールは?」

梨子「こ、コンクール? ピアノの? 変わった夢を見たんだね」

梨子「でも、実は私、コンクールにはそんなに出たくないと言うか、出られないと言うか……」

千歌「……」



梨子ちゃんだ。目の前にいるのは、控えめで、怖がりで、実は強くて。

それでもまだピアノを怖がっている、私の記憶の通りの梨子ちゃんだ。

一瞬、ほんの一瞬だけ、トロフィーを両手に抱えて満面の笑みを浮かべる「梨子ちゃん」の顔が、頭の中に浮かんで消えた。

寂しいと、「梨子ちゃん」は最後にそう言っていた。

千歌「……」

ちらりと携帯を見る。

「4月22日」

そう、表示されていた。一週間以上も時間が進んでいる。


ひらりと舞う『入部届』を思い出す。

「梨子ちゃん」から受け取った途端、眩暈がした。


梨子ちゃんは元通りになり、時間が少し進んだ。

千歌「戻って、来たのかな……」



ちらりと窓の外を見る。

少し曇り空。

梨子ちゃんが何かを一所懸命に書いていた、あの光景とは少し違うようだった。

あれは何だったんだろう。

「4月」に来てしまうもっと前に、あんなことがあった気がする。

思い出そうと首をひねっても、薄ぼんやりとした記憶しか出てこなかった。

おかしいな。Aqoursのことならなんでも覚えていられるはずなのに。



梨子ちゃんが、考え込む私の肩を遠慮がちに叩いた。

梨子「それより千歌ちゃん、もう練習の時間だよ。行こう?」

千歌「練習……?」

梨子「そう。やっと1曲目ができたんだから、踊りを考えないと」

千歌「1曲目……。スクール、アイドル……」

曜「そうだよ千歌ちゃん! これでも私、千歌ちゃんたちのステージを見るの、楽しみにしてるんだからね」

ばんばんと机をたたきながら、曜ちゃんが笑っている。

その笑顔には、少しだけ陰があるような気がした。


千歌「曜ちゃん……?」


曜ちゃんはスクールアイドルはやってないのかな。

頭はまだ混乱していたが、これだけははっきりわかった。

私は、また「違うところ」に来てしまっていた。



#2「私と幼馴染」


――――


梨子「1,2,3,4,1,2,3,4……」

体育館で、カウントに合わせてステップを踏む。

体育館には、硬めのマットを敷いた練習のしやすそうなスペースがあった。

私には見覚えのない場所だった。

学校も、変なままだった。


梨子「す、すごい千歌ちゃん! もう踊りを考えてたの?」

千歌「え、えっと……」

梨子ちゃんが見せてきた曲は、既に知っているものだった。

踊りも覚えている。

梨子「でも何だろう。少し違和感がある、かな」

梨子ちゃんが首をひねりながら動画を確認している。

違和感の正体はわかっていた。

この振り付けは、3人向けだから。

私と梨子ちゃんと、そして曜ちゃんと踊った曲だから。

浦女のスクールアイドルは、今は私と梨子ちゃんの2人だけのようだった。



千歌「曜ちゃん……」

梨子「もう、まだ言ってるの? それは、私も曜ちゃんがいてくれたら心強いと思うけど……」

千歌「喧嘩、してないんだよね。私と曜ちゃん」

喧嘩はどうなったのかと聞いても、梨子ちゃんは目を丸くするだけだった。

私が経験したこと全部が、なかったことになっているかのようだった。


梨子「うん、千歌ちゃんが誘って、断られただけだったよ。結局、曜ちゃんは衣装だけ手伝ってくれるって」

千歌「それじゃあ……それじゃあ意味ないのに」

小さく呟くと、梨子ちゃんは困ったように眉を下げた。

梨子「曜ちゃんだって、ずっと迷ってたんだからね。でも、最後にはやっぱりお父さんとの約束がって」

千歌「お父さんとの約束……?」

梨子「ほら、世界一の飛び込み選手になるって」

千歌「……」

話を聞くに、ここでも曜ちゃんのお父さんはフェリーの船長ではないようだった。

曜ちゃんはスクールアイドル部には入らず、水泳部で泳ぎと飛び込みの練習を続けている。


戻ったのは、梨子ちゃんだけ。

梨子ちゃん以外は、戻っていない。



梨子「ほら、ぼーっとしてるとダイヤさんに怒られちゃうよ」

千歌「うん……うん?」

ダイヤさん?

梨子「いつも千歌ちゃんは怒られてばっかりなんだから、ちゃんとしないと、ね?」

千歌「待って、待って! 何でダイヤさんが……?」

梨子「何でって、部長さんだし、来ると思うけど……」

千歌「ぶ、部長? 誰が? 何の?」

梨子「ダイヤさんが、スクールアイドル部の」

千歌「えええ!?」

梨子「ちょ、ちょっと千歌ちゃん、どうしたの?」

千歌「だ、だってだって! ダイヤさんだよ! そりゃμ'sの大ファンなのは知ってるけど、部長って――」

思わず大きな声が出た瞬間、重い音を立てて体育館のドアが開いた。



ダイヤ「誰が、何ですって?」

千歌「だ、ダイヤさん!」

ダイヤ「あら千歌さん。今日は準備体操をさぼってはいませんわね?」

千歌「え、あ、は、はい……」

梨子「生徒会のお仕事、お疲れ様です。ダイヤさん」

ダイヤ「ありがとうございます、梨子さん」

ダイヤ「さて、このままお2人の練習を見ていてもいいのですが……今日はお話がありますの」

ぽかんと口を開けている私を、ダイヤさんは部室に引っ張っていった。

部室は記憶通りの場所にあったが、少しだけ片付いていて、綺麗になっているような気がした。

ホワイトボードをコツコツ手で示しながら、ダイヤさんは私たちに座るように促した。



梨子「それでダイヤさん、話って……?」

ダイヤ「ええ……我が部存亡の危機なのです!」

梨子「そ、存亡の!?」

ダイヤ「……いいですわね、わたくしたちはこれから……」

ダイヤ「勧誘活動を行わなくてはなりません!!」

千歌「……はあ」

ダイヤ「舐めてますわね千歌さん! 皆が皆、あなたたちのように楽々入ってくれるわけではありませんわ!」

あ、楽々だったんだ、私たち。

ダイヤ「とにかく、今のままでは人数も十分ではありません。先ほど外から見た所、千歌さんの振り付けは素晴らしいですが……」

ダイヤ「それは、奇数を前提に作られたものでは?」

千歌「え、う、うん……」

梨子「千歌ちゃん敬語、敬語! 先輩だよ!」

横でこそっと梨子ちゃんがつついてくる。



ダイヤ「では、センターが必要ですわね。当然、あなたたちのどちらかにやってもらって、残りは新入部員が……」

てきぱきと文字を書いていくダイヤさんを、ぼんやりと眺める。

ダイヤさんが、部長。

ダイヤさんと、自分と、梨子ちゃんと。

普段あまりない組み合わせに、そわそわしてしまう。

「ここ」ではこれが普通なのかな。

毎日他愛もない会話をしながら、3人一緒に4月を過ごしてきたのかな。


前の世界でもそうだったのかな。

私は浦女にはスクールアイドル部はないと思い込んで、梨子ちゃんと話していた。

探せば、ダイヤさんがいたのかな。


千歌「あ、あの!」

ダイヤ「はい、千歌さん」


千歌「ダイヤさんが踊るんじゃ、ダメなんですか?」


しんと、部室が静まり返った。

ダイヤさんは少し驚いたような、それでいて困ったような顔をしてこちらを見つめていた。



梨子「ち、千歌ちゃん!」

千歌「あ、わ、私、その……ごめんなさい」

また何か傷つけてしまったのだろうか。

下駄箱で涙を流す曜ちゃんの顔が浮かんできた。


ダイヤ「……いえ」

ダイヤ「気にする必要は、ありませんわ。ただ……」


ダイヤ「ただ、わたくしはもう踊りません。それだけですわ」

きっぱりと、ダイヤさんはそう言った。

千歌「……」

ダイヤ「……」



果南「やっほ、皆やってるね……って、あれ、何この空気?」

千歌「か、果南ちゃん? な、何でここに?」

果南「部員が部室に来ちゃダメ? あー、それで、どうしたの?」

部員?

果南ちゃんもそうだったんだ。ますます変だ。

「今日」はまだ4月。この頃は、3年生はまだスクールアイドルに消極的だったはずだ。

だというのに、こうしてスクールアイドル部に顔を出す。

それどころかきちんと所属し、ダイヤさんに至っては部長まで担っている。

梨子「果南さん……」

妙な空気におろおろとしていた梨子ちゃんは、あからさまにほっとした顔で果南ちゃんを迎え入れた。


ダイヤ「何でもありませんわ。果南さん、ビラ配布の成果はありましたか?」

果南「うーん……ファンみたいな子はたくさんできたんだけど……」

ダイヤ「あなたは、本当にもう……」

ダイヤさんが呆れたように首を振る。

少しずつ、空気にも動きが戻ってきていた。



ダイヤ「とにかく! 新入生獲得は急務ですわ! 千歌さんと梨子さんもポスターの配布、声掛け等、ぬかりのないように」

果南「そうそう。あとちょっとしたら私たちもいなくなるしね。2人だけだと不便でしょ」

梨子「……」

梨子「先輩方が引退したら、寂しいです……」

果南「梨子……」

ダイヤ「梨子さん……」


千歌「……」

ダイヤさんたちは、近々引退するつもりらしい。

重い空気が場に落ちていた。


何だろう、この雰囲気は。

まるで今という時間が消えてなくなってしまうような。

もうすぐ吹き飛んでしまうような顔をして。

新入生を獲得するなんて言っているダイヤさんも、どこか沈んだ顔を見せている。


千歌「違う、違うよ。こんなの、Aqoursじゃない。Aqoursはもっと明るくて、楽しくて、騒がしくて―――」

私の呟く声は、誰にも聞こえていないようだった。


――――

果南「それで、ダイヤと何言い合ってたのさ」

千歌「あー、その、ちょっとね」


校門近くで果南ちゃんと話す。

梨子ちゃんとダイヤさんは、必要な物の買い出しに行くと言って先に帰っていた。


果南「ふふっ、何それ。どうせ千歌が余計なこと言ったんでしょ」

千歌「そ、そんなことないもん! ただ、ただ、ダイヤさんも踊ったら、どうかって……」

きっとこの言葉の、何かが触れてしまったんだ。

「ここ」での過去を知らずに、自分勝手に発した言葉が傷つけたんだ。


果南「……」

言葉が消えたことを不審に思い見上げると、果南ちゃんは真剣な顔でこちらを見下ろしていた。



果南「……千歌」

千歌「へ?」

果南「……それ、本当に言ったの?」

千歌「あ、うん……。でも! 反省は、してて……」

果南「ううん、怒ってるわけじゃないんだ。それで、ダイヤは何て?」

千歌「もう踊らないって。それだけ」

果南「……そっか。……そっかぁ……」

何だか寂しそうな目で、果南ちゃんは空を見上げた。

千歌「果南ちゃん?」

果南「んー?」



千歌「果南ちゃんは……」

果南ちゃんは、踊らないの?

そう聞こうとした。

けれど、果南ちゃんの顔は、さっきのダイヤさんとそっくりで。

千歌「……ううん、何でもない」

果南「……そっか」

少しの間、お互いに黙ったまま。

果南「……」

果南「ほら、千歌! 新入生を勧誘しないとだぞ! 誰か一緒に踊りたい子はいる?」

からかうように、果南ちゃんは背中を叩いてきた。

千歌「一緒に踊りたい子……」

千歌「うん、いるんだけどなぁ……」


まだ梨子ちゃんが入ってくれただけ。

ダイヤさんと果南ちゃんも、どうやら踊る気はないらしい。

あと7人。先は長い。



果南「ま、千歌はそうだよね。ほら、その子が来たんじゃない?」

千歌「へ?」

くるりと振り返ってみると、見慣れたくせっ毛がふわふわ跳ねていた。


千歌「……曜ちゃん」

曜「あ、千歌ちゃん! 果南ちゃんも!」

果南「曜も部活? お疲れさま」

曜「うん、ありがとう」

果南「あれ、そっちの子は?」

曜「あ、そうそう! 水泳部の新入部員であります! ほら、善子ちゃん、こっちが私の幼馴染の松浦果南ちゃんと高海千歌ちゃん!」

曜ちゃんの隣に、つんと澄ました顔で歩いているお団子の女の子がいた。

見慣れた顔のはずなのに、何だか懐かしく感じてしまう。



善子「津島善子です。よろしくお願いします、先輩」

千歌「おおぉぅ」

変な声が出た。

え、これ本当に善子ちゃん? なんて、心の声も出そうになった。

善子ちゃんはにこりと笑顔を浮かべてお辞儀をするなんて、初対面の見本みたいな対応をしてくれた。


果南「うわっ、また美人な子連れてるね……。よろしく、えーっと、善子ちゃん」

善子「はい!」

千歌「突っ込まないんだ……」

だからヨハネよ! というお馴染みの台詞も出てこない。

善子「突っ込む?」

千歌「あ、ううん、何でもない」

曜「この2人はね、スクールアイドル部に入ってるんだ」

善子「あ、他の先輩から聞きました。高海先輩は、もともと水泳部だったんですよね」



曜「あー、えっとね、それには事情があってね」

善子「ふーん……?」

その時、おーい、と誰かを呼ぶ声がした。

声の方を見ると、黄色のタイを付けた1年生が数人で手を振っている。初めて見る顔だ。

どうやら善子ちゃんを呼んでいるようだった。


善子「あ、今行くわよー!」

善子「じゃあ曜先輩。あと、皆さんも、失礼します!」

千歌「あ、うん」

ぺこりと一礼して、善子ちゃんは去っていった。

途中でくるりと振り返る。

善子「曜先輩、その、お大事にしてくださいね!」

それだけ言うと、同級生の所に走っていった。


善子「あ、ちょっと! 待ちなさい! 置いてかないでってば! ちょっとぉ!」

楽しそうに、1年生たちが去っていく。



果南「いいなあ……。若いなあ」

曜「果南ちゃんだって、そんなに変わんないじゃん」

果南「いろいろ思うんだよ。この歳になるとね」


千歌「善子ちゃん……。うーん、あれが善子ちゃんか……」

私は善子ちゃんについて考えていた。

あんなににこやかに話しているところは初めて見たかもしれない。

それに、堕天使だとか、天界だとか、「そういう」ことは一度も口にしなかった。

一緒に帰っていった生徒だって、水泳部の仲間たちだろう。


千歌「花丸ちゃんや、ルビィちゃんとは一緒じゃないのかな……」

善子ちゃんの周りも、変わってしまっているのかな。

千歌「諦めないで、会いに来て。もう一度、走り出して……」

いつか見た夢での言葉を、呪文のように呟いた。


――――

千歌「そういえば曜ちゃん、どこか怪我したの?」

去り際の善子ちゃんの言葉を思い出して尋ねると、曜ちゃんは露骨に嫌な顔をした。

曜「うっ、き、聞こえてたか……」

曜「ターンの時、ちょっと距離感間違えちゃって……。足の指、ぶつけちゃって」

果南「え、大丈夫? ちゃんと診てもらった?」

曜「大丈夫だよ! 歩いてても痛くないし、ちょっとぶつけただけ」

果南「なら、いいけど。でも珍しいね。曜がそういうミスするの」

曜「あー、うん。最近はそうでもないんだ……」

やけに歯切れが悪い。


果南「曜? なんかあった?」

曜「……ううん」

ほんの少しの間だったけれど。

曜ちゃんはちらりとこちらを見た。

私の、せい?

「前の」喧嘩がちらついた。

ううん、「ここ」では、喧嘩なんかしてなくて、でも、私は水泳部をやめてスクールアイドル部で。

じゃあ、喧嘩も出来なかった曜ちゃんは、今どんな想いで――。


千歌「曜、ちゃん……」

曜「……」



果南「……あー、もう! いい加減にしなさい!」

千歌「え、か、果南ちゃん!?」

果南「ほら、2人とも言いたいことがあるならさっさと言い合って。ほら!」

曜「え、ええっ!? いや、別にそういうのじゃ……」

千歌「そ、そうだよ、言いたいことなんて」

果南「嘘。そうやって、何でも我慢すると、後悔するよ。取返し、つかないよ」

千歌「……」

果南ちゃんが言うからこそ、重い言葉だった。

けれど、私がそう思うのは「元の」果南ちゃんを知っているからだった。

この果南ちゃんはどうなんだろう。

何か後悔をしたのかな。しているのかな。


――――

結局、私たちは静かなままだった。

果南ちゃんも口を出したのは1回きりだった。

バス停に着いた頃、ふと気づくと曜ちゃんが私をじっと見つめていた。


千歌「……曜ちゃん?」

曜「1つだけだよ」

曜「私が言いたいのは、1つだけ」

曜「千歌ちゃん、帰ってきてよ。一緒に泳ぎたいんだ。一緒にいたいよ。これまでみたいに」

千歌「……っ」

不意にぶつけられたまっすぐな言葉に、息を継げなくなる。

返せない、返せないよ。

一緒に泳いだ記憶すらない私には、その言葉に何も返せない。

千歌「わ、たしも、一緒には、いたいけど……」



曜「じゃあさ千歌ちゃん」


曜「スクールアイドル、やめる?」

果南ちゃんがはっと息を呑んだ。


千歌「……やめないよ」

曜「……だよね」

それだけ小さく呟くと、曜ちゃんは到着したバスのステップに足をかけた。

曜「バイバイ千歌ちゃん。また明日」

ぷしゅっと音を立てて、バスの扉が閉まった。



―――――

―――



◇―――――◇


千歌「どうなってるんだろう……」

帰宅するなり、机に頬をつける。

長い一日だった。

梨子ちゃんとコンクール会場で話していた。

梨子ちゃんがスクールアイドルを一緒にやってくれると言ってくれた。

強い眩暈を感じたのは入部届に触れた瞬間だった。


その後、教室を見た。

だんだん思い出してきた。あれは、たぶん夏の初めの思い出だ。

8月の盆踊りに向けて、準備をしていた時の。

でも、何を準備していたんだっけ……?


それに、梨子ちゃんは、あんなことを言っていたっけ。

どうしても晴れない記憶の靄を振り払う。

梨子ちゃんの言葉は、何か関係があるのかな。

ピアノを弾けなかった過去を悔やみ、それでも最後は前を向いていた、あの言葉は。



私が「4月」に出会った梨子ちゃん。

ピアノに力を注ぐ梨子ちゃん。

コンクールで、ピアノを弾くことができた梨子ちゃん。

今も、ピアノを弾いているのだろうか。

それとも、別の私とスクールアイドルをやっているだろうか。

そもそも、あの世界はどうなったのだろう。

考えても、何も思いつかなかった。


千歌「あああ、もう!」

わからないことだらけだ。

目を覚ましたら、誰もが何もかもを忘れていた。

なかったことになっていた。

梨子ちゃんにも、コンクールに出た記憶はないようだった。



千歌「……」

歌詞ノートを取り出してみる。

相変わらず、表紙にAqoursの文字はなかった。

裏表紙には、失くさないようにと私の名前が書いてあるだけだった。

けれど1枚ページをめくると、数曲分の歌詞が書いてあるのだった。


千歌「ここの私は、スクールアイドル、やってるんだね……」

少なくとも、今の私はスクールアイドルだった。

ちょっとは、近づけたのかな。

あの夏の日に、少しは戻れたのかな。

このままメンバーを増やせば、戻れるのかな。


「梨子ちゃん」の言葉が胸に残っている。


―――『私を――、私にAqoursの話をしたときの気持ちを、思い出してね。』

そうだよ、私はAqoursが大好きなんだ。

いつも元気で、たまにやりすぎちゃうような日々を過ごしたAqoursが大好きなんだ。

だから。


千歌「一緒にいたいのは、私も同じなんだよ、曜ちゃん」



――――


翌日、4月23日。

私は曜ちゃんに避けられているようだった。

授業は一緒に受けるし、お昼は一緒に食べるし。

休み時間は話をするし、笑顔も見せてくれるし。

それでも、避けられているようだった。


千歌「はあ……曜ちゃん……」

おかげで私は、放課後には部室で項垂れていた。

梨子「これは、重症ね……」

ダイヤ「千歌さん、今日はため息ばかりですわね」

果南「……もう」

不満そうに果南ちゃんがため息をつく。

果南「毎日誘うんだ、って昨日電話で言ってたじゃん。どうしたの?」

果南ちゃんには、昨晩に電話で決意表明していた。

千歌「だってぇ…曜ちゃんがぁ……」

けれど、肝心の曜ちゃんがするりと逃げてしまうのだ。



果南「曜もそういうところ、無駄に器用なんだから」

千歌「やっぱり、スクールアイドル、やりたくないのかな。怒ってるのかな」

果南「そんなことはないと思うけど」

千歌「そうかな……」

やけにはっきり言い切る果南ちゃんを睨む。

果南「とにかく、納得するまでやること! 昨日そう言ってたでしょ」

千歌「……うん。じゃあ、行ってくるね」

梨子「え、い、今から!?」

ダイヤ「はあ……、仕方ありませんわね。このままでは練習になりそうにありませんし」

千歌「ありがとうございます!」

果南「ふふっ……、その方が千歌らしいよ。ちゃんと2人で戻っておいで!」

梨子「えっと、千歌ちゃん、頑張ってね?」


――――

茜色に染まった校内を歩く。

千歌「曜ちゃん、どこかなあ……」

やはり水泳部だろうか。

千歌「あれ、そういえば千歌、水泳部途中で辞めたんだよね……」

行きたくなくなってきた。

どんな視線を浴びるかわかったものではない。

とりあえずプールに向かって歩いていると、見慣れた鞄が目に入った。

千歌「あれ、これ……」

校舎の端、保健室の扉の前に置かれている。

コンコンとノックをし、返事を待たずに扉を開ける。


曜「あ、はーい……って、千歌ちゃん!? どうしてここに!?」

千歌「あー、どうしてって言われると、そうだなあ……」

曜ちゃんは靴下を脱いで、絆創膏をぺりぺりと剥がしている。

千歌「曜ちゃん、怪我してるの?」

曜「あ、うん。プールサイドで転んじゃって。あはは、ドジだよね」

水がしみるから嫌だなあ、なんて笑いながら、曜ちゃんが膝に絆創膏を貼りなおす。

夕日で目元が影になる。



千歌「ねえ、曜ちゃん」

好都合だった。

今は2人だ。逃げ出す先も、話を逸らす友達もいない。

誘うなら今だった。

曜「……」

観念したように、曜ちゃんはこちらを向いた。


千歌「一緒に、スクールアイドルやろうよ」

曜「さすが千歌ちゃん。有言実行だ」

千歌「曜ちゃん、どうかな」

曜「……」

曜「衣装なら、ちゃんと作るよ」

千歌「……っ…! 違う! 私は、曜ちゃんと、皆と一緒に!」

曜「……ごめん、意地悪言った」

曜ちゃんは目を伏せて謝ると、そのまま続けた。



曜「千歌ちゃんは、水泳部には戻ってこないの?」

千歌「……うん、私は、スクールアイドル、やめないよ」

曜「そっか……」

曜ちゃんは、なぜか少し嬉しそうな顔をした。そしてすぐ、また顔を伏せた。

曜「嬉しい、千歌ちゃん。私を誘ってくれて。でも無理だよ。私は水泳を辞められない」

千歌「お父さんとの、約束……?」

梨子ちゃんに聞いた話を思い返す。

曜「約束……ううん、これはパパと私の夢なんだ」

千歌「夢?」

曜「代わりに叶えるって、そう決めたんだ。パパの代わりに、私は私の夢を叶えるって」

千歌「代わりに?」

曜「そう。パパがね、たまに言うんだ。『俺は諦めちゃったから、曜には自分の夢を叶えてほしい』って」

千歌「……」



曜「私が、諦めたくないんだ。世界一の飛び込み選手になって、パパの期待に応えたいんだ」

千歌「その、お父さんが諦めた夢って……」

曜「フェリーの船長、だよ」

曜「今は会社で働いてるけどさ、海が恋しいからって、私たちに水泳を教えてたんだって」

千歌「……!」

どくんと心臓が鳴る。

曜ちゃんのお父さんがフェリーの船長ではない。

その事実が急に意味をもって聞こえ始めた。


「ここ」では――ううん、きっと「前の世界」でも――曜ちゃんのお父さんは夢を諦めてしまった。

だからフェリーの船長にはなっていないし、私と曜ちゃんは小さいころから毎日水泳を教わることができた。

そのまま水泳部に一緒に入り、そして――。


曜「だからさ、私は諦められないよ。スクールアイドルはできないよ」

曜ちゃんは、泣きそうな声でそう言った。



千歌「曜ちゃん、どうして……」

諦めないと言うのなら、どうしてそんなにつらそうな顔をするんだろう。

曜ちゃんは絞り出すように、昨日と同じことを言った。


曜「ね、千歌ちゃん。私を誘うの、やめない?」

千歌「やめない」

千歌「明日も明後日も、その次の日も、毎日誘うよ」

曜「どうして、そこまで」

千歌「行かなくちゃいけない場所があるから。辿りつかなきゃいけない時間があるから。9人でいたときに、戻りたいから」

きっと、「この世界」の私は、一旦曜ちゃんを諦めてしまったんだ。

でも、私は違う。

9人でいたときの思い出がある。

「梨子ちゃん」にもらった言葉と歌がある。


千歌「私は、諦めないよ」

曜「千歌、ちゃん……?」

千歌「……」



曜「何か、事情があるの?」

曜「もし、もしそうなら―――」

千歌「……ねえ曜ちゃん」

千歌「私の話、聞いてくれる……?」

いつか話すと約束したから。

この曜ちゃんと私は喧嘩していないけれど。

この曜ちゃんは、その約束のことを知らないけれど。



曜「うん、うん……聞かせてほしい」

千歌「うん、話すね。えっと、えっとね―――」

あのね曜ちゃん、私ね、未来から来たんだよ。




―――――

―――


―――


話し終わったとき、既に辺りは真っ暗だった。

下校時間を告げるチャイムが虚しく響く。

曜「……」

曜ちゃんは何も言わなかった。

千歌「……曜ちゃん、あのね」

曜「千歌ちゃん、ごめん。今整理してる」

曜「千歌ちゃんは、別の未来から来た千歌ちゃん。だから、今までの記憶は、今までの、記憶は――」

次第に曜ちゃんの声が震えていく。

千歌「……」

曜「それで、それでっ! 千歌ちゃんのいた未来では、私のパパはフェリーの船長で、あんまり、帰ってこれなくて……」

千歌「……信じて、ほしいな」

曜「無理、だよ……。いきなりそんな話……。だって、そんなの――」

曜「……」



しばらく上を向いて黙っていた曜ちゃんは、くしゃくしゃに顔を歪めて、吐き捨てるように叫んだ。

曜「い、やだ。いやだ、嫌だっ!」

曜「だって! だって、私にとって、千歌ちゃんは! たった1人なんだよ!」

曜「パパも、そうだよ! 私にとっては、たった1人、たった1人の―――」

千歌「……曜、ちゃん」

曜「ねえ、千歌ちゃん、本当に? 本当に何にも知らないの? 一緒に泳いだことも? パパが教えてくれた釣りも?」

曜「一緒に……一緒に水泳部に入ったことも?」

千歌「……うん」

曜「ほんとに何にも? バーベキューに行ったことは? お祭りに行ったことは? 中学校は? 小学校は?」

千歌「……お祭りでも、バーベキューでも、小学校でも中学校でも、私は曜ちゃんと一緒だったよ」

曜「違うっ!! そんなこと聞いてない! 私と、『私』とっ!!」

肩をがしっと掴まれる。

千歌「痛いよ、曜ちゃん……」

痛かった。肩なんかより胸の方が、ずっとずっと。



曜「前の、『私』の知ってる千歌ちゃんは、どこに行ったの」

千歌「……っ」

たったそれだけで、わかってしまった。

曜ちゃんにとって、私は「違う」んだ。

胸が締め付けられるように苦しくなった。

ずきずきとした痛みに、思わず怒鳴り返す。

千歌「ち、千歌だって、わかんないよ!! 急に4月とか言われて! 周りの状況も全然違って!」

千歌「戻らなきゃいけないの! 入って! お願い、Aqoursに入って――」


曜「入りたいよっ!」


千歌「え……?」



曜「やりたいよっ! スクールアイドル、千歌ちゃんと一緒に! じゃなきゃ、あんな聞き方しない!」

曜「千歌ちゃんが『やめない』って言うの知ってて、私――」


曜「でも、でもっ! パパとの夢も大事で! もう私、どうしたらいいか、わからなくて……っ!」

千歌「曜ちゃん……」

曜「そしたら、今度は千歌ちゃんがわけわかんないこと言い出して……っ! もう、わかんない、わかんないよ!」

千歌「……」

曜ちゃんの手が肩から離れる。

最後は私に縋りつくようにして、泣いていた。

千歌「曜ちゃん……ごめん」

何に対してかもわからないまま、謝った。



それからしばらく、曜ちゃんは私にひっついたまま何も言わなかった。

やがて小さな声で尋ねてきた。

曜「千歌ちゃんが行っちゃったら、千歌ちゃんは消えちゃうのかな」

千歌「……わかんない」

曜「私は、どうなるの。私ごと、この世界ごと、消えちゃうのかな」

千歌「わかんない」

曜「……怖いよ、千歌ちゃん」

千歌「そう、だね。私も、怖いよ」

曜「じゃあさ、……じゃあ、戻ろうとするの、やめる?」

千歌「……やめない」

曜「だよね」

曜ちゃんはゆっくりと身体を離した。



曜「…………1つだけ、教えて」

千歌「……うん」

曜「千歌ちゃんにとって、私は何人?」

千歌「……っ」

曜ちゃんは、私のことを1人だと言った。

お父さんのことを1人だと言った。

じゃあ、私は?

私にとって、一緒に生きてきて、一緒に生きていきたくて。

それは……。


千歌「……1人、だよ」


曜「そっか……」


曜「1日だけ、考えさせて」



◇―――――◇


曜ちゃんは、今何を考えているのかな。


自分の部屋の天井のシミを眺めながら思う。

家族と話しているのかな。

1人で部屋で悩んでいるのかな。

「この世界の私」と撮った写真を見ているのかな。

その写真には、曜ちゃんのお父さんも映っているのかな。


曜ちゃんは、お父さんとの夢に向かって、走っているのかな。


私は、そんな曜ちゃんを「なかったこと」にしようとしているのかな。


―――『……ああでも、やっぱり、寂しいな―――』


「梨子ちゃん」の言葉がよみがえる。


千歌「……」


たかをくくっていたんだ。

曜ちゃんなら分かってくれる。受け入れてくれる。

そう思っていたんだ。

私は、別の世界の人間なのに。


「梨子ちゃん」は今、どうしているのかな。踊っているのかな、ピアノを弾いているのかな。

それとも、なかったことになっちゃったのかな。


何回寝返りを打っても、2人の顔は消えてくれない。

他の皆は、どうしているのかな。


千歌「私はこれから、きっと皆を――」



――――


「明日、放課後に教室に残っていてほしい」

曜ちゃんからそう連絡があったのは、もう日付が変わる直前のことだった。


言われた通りに、チャイムが鳴っても教室に残る。

だんだんと、周りの雑音が減っていく。

先生や友達が、話しながら教室から去っていく。

時折、そよそよと木の枝が揺れる音が聞こえてくる。


授業中も上の空の私と曜ちゃんを、梨子ちゃんは何も言わずにじっと見ていた。

そして最後まで気になるそぶりを見せながらも、結局何も聞かずに歩いて行った。

言葉の代わりにポンと叩かれた肩が、妙に温かかった。


千歌「……」

曜「……」

曜「千歌ちゃん」

前を向いたまま、曜ちゃんが話しかけてきた。


曜「昨日ね、パパと話したんだ」

千歌「……うん」

曜「今から何でもやり直せるとしたら、どうするかって」

平坦な声で、曜ちゃんが話す。

私も、ただただ黒板を見つめながら聞いていた。



曜「そしたらさ、そしたら……もう1回、受けるって。もう1回チャンスがあるなら、やるって」

曜「全然、諦めきれてないんだ。パパ、諦めなんて、ついてなかったんだ」

目を横に向けると、曜ちゃんは顔に力を入れて斜め上を見ていた。

曜「ずうっと、ずうっとさ。夢を叶えられなかったこと、悔しくて。それで、せめて私だけでもって。そう思ったって……」

千歌「……」


曜「だから、私は、パパの夢を叶えたい。そして、私の夢も」

曜ちゃんはまっすぐ私に目を合わせてそう言った。


千歌「曜、ちゃん……」

曜「千歌ちゃんなら、それができるんだよね? 私は、私たちは消えちゃうかもしれないけど……」

千歌「曜ちゃんは、どうするの……?」

曜「私、は……もし、消えなかったら」


曜「両方やるよ。水泳部も、スクールアイドルも、どっちもやる」

曜「どっちもやりたいんだ。パパとやってきた水泳も。千歌ちゃんとやるスクールアイドルも」

曜「両方やってもいいんだって、千歌ちゃんのおかげで気がつけたから」

曜「きっと、『千歌ちゃん』一緒だったら飛べるから。どっちも、諦めたくないんだ」


曜「千歌ちゃんが知ってる私も、そうしてたんでしょ?」


曜「だから私は、『千歌ちゃん』を待ってるよ」


にこりと笑うと、曜ちゃんは私に近寄って―――


ぎゅっと抱きしめた。



曜「千歌ちゃん。私を、入れて。それで、約束して」

千歌「約束……?」


曜「たった1人の私に、出会って」

千歌「……っ」

曜「きっと、待ってるから。何日、何か月、何年でも、いつでも、どこでも、千歌ちゃんのこときっと待ってる」

曜「だって、それが『私』だから。それが、渡辺曜だから。千歌ちゃんの、幼馴染だから」

頭の後ろで、声が聞こえる。

優しい声が聞こえる。

曜ちゃんは強い。

どこまでもまっすぐで、強い。



曜「だから千歌ちゃん。私、スクールアイドル、始めます」




眩い光が、辺りを包んだ。



曜「……っ」

突然の明るさに曜ちゃんが呻く。


千歌「あ……」

曜「これが……」

ひらひらと、光を受けて輝きながら、白い短冊が落ちてくる。


『入部届 渡辺曜』


千歌「曜、ちゃん」

曜「うん、千歌ちゃん。気を付けて」


ゆっくりと手を伸ばす。

梨子ちゃんの時と同じなら、これに触ればまた「戻る」。


千歌「いいの、かな」

触れば戻る。

曜ちゃんの想いは、決意は、夢は、なかったことになる。

曜ちゃんのお父さんは滅多に帰ってこなくなる。

そのことを本当は寂しいと思っていたことを、私は知っている。


曜「千歌ちゃん」


直前で震えた私の手を、曜ちゃんが掴んだ。

そっと、手を『入部届』に押し付けられる。


千歌「くっ……!」


強い眩暈に襲われる。


視界が真っ白に染まっていく。


曜ちゃんの声は、どんどん遠く。



曜「躊躇わないで。諦めないで」


曜「私たちは、一緒に踊っているから。歌っているから。泳いでいるから。千歌ちゃんも、探し出して」


曜「それで私の手を取ってくれたなら、きっと嬉しいから」


申し訳ないような、寂しいような感情がぐちゃぐちゃと絡み合っていく。

こらえきれず、叫んだ。

口をついて出るのは、簡単な想い。



千歌「曜、ちゃん! 曜ちゃんっ! 私、いつでも、どこでも、曜ちゃんのこと―――」


世界が白に包まれた。



千歌「―――大好き」




―――――――

―――――

―――



◇―――――◇


ぼんやりと、部室が現れる。

私はまた、ふわふわとどこかを漂っていた。

見知った8人が、にこにことこちらを眺めていた。


千歌「――――というわけで、これ、配るね!」

口を開いたつもりはないのに、自分の声が聞こえてきた。


鞠莉「Letter、ね。随分ロマンティックね!」

果南「ほんと、千歌らしくないかもね」

千歌「失礼な! これでも歌詞係なんですー!」


あ、この会話、したことある。

急に強い既視感に襲われる。

でも、いつ―――…。


視界の端で、曜ちゃんがペンを握る。

誰よりも早く、カリカリと紙に何かを書いていた。

教室で何かを書いていた梨子ちゃんの姿と重なって見えた。


『千歌ちゃん』


声が響いた。

強くて優しい、波のような声が。


『たまにね、思うんだ。もし、パパが家にいたらどうだったんだろうって』


『毎日お話して、ご飯をつくってもらって。たまには喧嘩して。そんな日々が過ごせたらって』


『でもね、船長は、パパの夢だったんだ』


『叶えたい、夢だったんだ』


『夢を叶えて頑張ってるパパのこと、本当は自慢に思ってるんだ。だから、寂しくても大丈夫』


『私は千歌ちゃんと、大好きな仲間たちと、話しきれないくらいの思い出をつくって、待ってるよ』



じっと紙を見つめる曜ちゃんが、さらりと溶けた。


――――――――――#2「私と幼馴染」


◇―――――◇


目が覚めた。

急速に、周りに音が増えていく。

梨子「あ、起きたみたい」

ダイヤ「千歌さん、たるみすぎですわ!」

スパンと頭を叩かれる。

千歌「痛いっ! こ、ここは……部室?」

果南「ええ……寝た場所も覚えてないの?」

曜「あはは、千歌ちゃんは相変わらずだなあ」

千歌「……っ」

千歌「曜、ちゃん……」

曜「へ?」

曜ちゃんがいた。

机に衣装を広げて、自分も妙なコスプレをして。

9人いたはずの部室には、今は5人しかいなかった。

また、夢だったのかな。



千歌「ねえ、曜ちゃん。今日お父さんは……?」

曜「え、急だね。うーん……、しばらくはいないかな。夏には1回帰ってくると思うであります!」

びしっと敬礼のポーズ。


千歌「そっか」


千歌「……そっか……っ」


ずっと我慢していた何かが溢れ出す。

千歌「うっ……く…うぅ……っ」

ぽたりと垂れた滴に、全員が息を呑むのが聞こえた。


千歌「ふっ……うっ……ごめん、ごめんね…っ、曜ちゃん……!」


曜「え、ええ!? 千歌ちゃんどうしたの!?」

千歌「なんでも、ない……っ!」

曜ちゃんの肩にひしと抱き着いて、わんわんと声を上げた。


あと6人。


#3「私と夢」


――――


5月10日

千歌「うーん、ルビィちゃんたち、いるかなあ……」

数日後の昼休み。

突然泣き出したことをからかわれるくらいになった頃。

私は1年生の教室に足を伸ばしていた。

このへんてこりんな旅が始まってから、一度も出会っていない仲間を見に行くためだった。


千歌「それにしても、なんか損した気分」

目を覚ましたらいつの間にかゴールデンウィークが終わっていた。

「私」は曜ちゃんと梨子ちゃんと出掛けていたらしい。

楽しそうに思い出を語られて苦笑いしかできなかったことを思い出す。



「ここ」では、私と曜ちゃんは言い合いをしていない。

曜ちゃんのお父さんは私たちに水泳は教えていない。

私は水泳部に入っていない。

何の部活にも入らないまま2年になり、スクールアイドル部に入りたいと言った私に、曜ちゃんがついてきてくれた。

転校してきた梨子ちゃんは、私と曜ちゃんで半ば無理矢理引き込んだ。


「元の」記憶にだんだん近づいてきている。

やっぱり、あの『入部届』に触ると、戻るんだ。


千歌「もう一度、走り出して……」

口の中で呟きながら、教室のドアに手をかける。

開けないうちに、近くで声がした。



花丸「あの、何か御用ですか?」

千歌「あ、花丸ちゃん……」

花丸「え……?」

しまった。「私」はまだ花丸ちゃんに出会っていない。

どう言い訳をしようかと考えていると、教室から小さな頭がひょこり覗いた。


ルビィ「どうしたの、花丸ちゃん?」

千歌「……え?」

千歌「る、るるるルビィちゃん!? その髪どうしたの!?」

きょとんと首を傾げるルビィちゃんは、記憶にあるツインテール姿ではなく、腰まで髪を下ろしていた。

ルビィ「あ、ち、千歌さん! いつもお姉ちゃんがお世話になってましゅ!」

ぶんぶんと頭を下げたルビィちゃんは、舌を噛んで痛そうに目を潤ませている。

ばさりと長い髪が跳ねる。髪型以外は記憶のままだ。



花丸「あ、ルビィちゃんのお知り合いずらか」

ルビィ「う、うん。お姉ちゃんと同じスクールアイドル部で、2年の高海千歌さん。前うちに来た時、お茶をお出ししたから知ってるんだ」

千歌「えっと、ごちそうさまでした?」

とりあえず話を合わせておく。

ルビィ「えへへ。ルビィお茶入れるの得意なんです!」

嬉しそうにルビィちゃんが笑う。

花丸「ルビィちゃんは本当に偉いずら! よくお弁当も作ってきてるもんね」

ルビィ「お姉ちゃんと交代で作ってるんだぁ」

千歌「え、そうなの?」

そんな話、ルビィちゃんから聞いたことあったかな。

記憶を掘り返しても、特に思い当たることはなかった。


ルビィ「あ、千歌さん、そういえばどうしてここに?」

千歌「あ……」

全く考えていなかった。

千歌「え、えーっと……、る、ルビィちゃんたちとお昼を食べに」

ルビィ「うゅ?」

結局出てきたのは、そんな苦しい言い訳だった。


――――


千歌「ほえー……。ここが文芸部かあ。初めて来たな……」

花丸「今はルビィちゃんと2人で使ってるんです。1つ上は誰もいなくて、2つ上の先輩は受験勉強があるからって」

狭い室内をぐるりと見渡しながら、花丸ちゃんが説明してくれる。

ルビィちゃんと花丸ちゃんは、文芸部に所属していた。


千歌「でも、本当にいいの? 急にお邪魔しちゃって……」

ルビィ「び、びっくりはしましたけど……。お姉ちゃんのお友達だし、大丈夫です!」

花丸「マルはルビィちゃんがいいならいいず……いいです」

千歌「あー……、気は遣わなくて大丈夫だよ、花丸ちゃん」

花丸「ずらっ」

ルビィ「……千歌さん、お姉ちゃんはご迷惑をかけてはいませんか?」

千歌「いやいや、千歌は叱られる側だよ……」

ルビィ「ご、ごめんなさい! お姉ちゃん厳しくて……」

千歌「ううん! 私がぼけっとしてることも多いし! ダイヤさんには感謝してるんだ」

花丸「ルビィちゃんのお姉ちゃん、綺麗だし、かっこいいもんね……」

ほうっと、花丸ちゃんが湯気の立つお茶を飲んでいる。

なぜかルビィちゃんは複雑な顔をしていた。



千歌「そういえばルビィちゃん、髪型はいつもそんな感じなの?」

揃えた前髪に、長い髪。

ダイヤさんとそっくりな髪型だった。

ルビィ「え? これですか? そうですね。いつもこうです。黒澤家の者として相応しくしないといけなくて……」

千歌「……」

どうやらこの世界のルビィちゃんは、家の方針に従って髪を伸ばしているらしい。

嫌々ではありそうだけれど。


千歌「花丸ちゃんたちは、ここでどんな活動をしているの?」

花丸「色々ずら! 放送で本を紹介したり、図書室の管理を手伝ったり、あとはたまーに、校内新聞に小説を載せたり」

千歌「小説? な、なんかすごそう」

ルビィ「花丸ちゃんの書いてる小説、大人気なんです! 『先生』なんて呼ばれてるもんね!」

花丸「は、恥ずかしいよ……」

千歌「へえ! 千歌にも読めるかな?」

ルビィ「もちろんです! むしろ気に入ると……あ、ここにコピーがあるんですけど!」

花丸「ルビィちゃんやめるずら! は、恥ずかしいって!」

鼻息も荒く部室をガサゴソやりはじめたルビィちゃんを、花丸ちゃんが必死に止める。

千歌「……ふふっ」

スイッチが入ると意外とアグレッシブ。ルビィちゃんらしいと思った。



千歌「でも、そっか、残念だな……」

花丸「え、何がですか?」

千歌「あー、2人はとっても可愛いし、アイドル出来るんじゃないかなって思って」

それとなく口に出してみる。

曜ちゃんとの一件で、私は随分臆病になってしまっていた。

花丸「へ!? お、おお、オラがアイドル!? む、無理ずら無理ずら!」

ルビィ「……」

真っ赤な顔で、花丸ちゃんはあわあわと顔の前で手を振っている。

けれどルビィちゃんは、途端にすっと表情を消した。

千歌「へ……る、ルビィちゃん?」

初めて見るルビィちゃんの表情に、どうしたらいいかわからなくなる。

ルビィ「千歌さん、お姉ちゃんに言われてきたんですか」

それまでとは違う低い声。



千歌「え、ち、違うけど……」

ルビィ「隠さなくても大丈夫ですよ。わかってます。お姉ちゃんに言われたんですよね? ルビィのこと、勧誘して来いって」

花丸「ルビィちゃん……? 顔がちょっと怖いずらよ……?」

ルビィ「正直に話してください、千歌さん」

ぐいっと、一歩距離を詰められる。

千歌「え、い、いや、ただ私が、一緒にやりたいって、思って……」

いつも撫でていたはずの頭が、やけに近く感じた。

気圧されて、数歩下がる。

ルビィ「……」

千歌「……ほんとだよ」

ルビィ「そう、ですか」

ルビィ「……ごめんなさい。千歌さんは、悪くないんです。悪いのは―――悪い、のは……」

やっと表情を取り戻したルビィちゃんの顔は、寂しそうに沈んでいた。



―――


千歌「うーん……」

ルビィちゃんからは結局何も聞き出せないまま、放課後を迎えていた。

千歌「ダイヤさんと、何かあったのかなあ……」

ダイヤ「わたくしが、何ですって?」

千歌「わわっ、ダイヤさんっ!?」

ダイヤ「廊下を歩いていたら浮かない顔をした部員がいましたので。スクールアイドルがそんな顔をしていてはいけませんわ」

千歌「あ、うん、ごめんなさい……」

ダイヤ「それで、どうしたんですの?」

千歌「あー、えっと……」

ダイヤ「……もう」

ダイヤ「何かあったなら話してみなさいな」

千歌「ダイヤさん……それじゃあ」

千歌「ルビィちゃんの、ことなんですけど」




―――――

―――


ダイヤ「なるほど……ルビィをスクールアイドルに誘ったと」

千歌「はい。でも、様子がおかしくて……」

ダイヤ「……」

少し思案するように、ダイヤさんは空に視線を彷徨わせた。

ダイヤ「あの子は……」

ダイヤ「あの子は、スクールアイドルにはなりたくない、と……」

千歌「えっ!? る、ルビィちゃんが!?」

Aqoursの中でも1、2を争うアイドル好きだったのに。

一緒にライブを見に行ったことだってある。

ダイヤ「わたくしにも、理由はわかりませんの。あんなに好きだというのに」

千歌「昔は好きで、今はそうでもないとか……」

ダイヤ「まさか。ルビィは夜な夜な隠れて雑誌を読んでいます。本人は気づかれていないと思っているようですが……」



ダイヤ「まったく、詰めが甘いのですわ。最近少しは頼れるようになったというのに」

困ったように笑うダイヤさんの顔は、少し寂しそうだった。

千歌「でも、何でダイヤさんに隠すんだろう……」

毎晩隠れて雑誌を読んでいたという話は、「元の」ルビィからも聞いたことがある。

ダイヤさんに見つかって没収された、とも。

それでも、変だった。ここでは、ダイヤさんはなぜかスクールアイドルに協力的だ。というか、部長だ。

「元の」世界のように、人目を気にする必要もないのに。

ダイヤさんも不思議そうに首をひねる。

ダイヤ「あの子も反抗期なのでしょうか……」

千歌「ルビィちゃんが、反抗期?」

とても想像できなかった。


千歌「とにかく、ルビィちゃんはまだアイドルが大好き。そうなんですよね?」

ダイヤ「ええ、間違いありません」

自信たっぷりにダイヤさんは頷いた。


――――


千歌「はあ……」

放課後、部室で肩を落とす。

ルビィちゃんについては、ダイヤさんも詳しくはわかっていないようだった。

千歌「もうちょっと話を聞かないとなあ……」


―――『お姉ちゃんに言われたんですよね? ルビィのこと、勧誘して来いって』



千歌「ほんと、どうしちゃったんだろうなあ」

うーっと唸って首の向きを変え、またため息をつく。

花丸ちゃんと話す様子は、記憶と変わらなかった。

それでも、何かが違うのだろう。

コンクールに出る梨子ちゃんのように、お父さんと泳ぐ曜ちゃんのように。

ルビィちゃんは、何か理由があって髪を伸ばしているのだろう。



曜「千歌ちゃん、最近ため息多いね」

梨子「また歌詞に詰まってるの? あんまり根を詰めすぎちゃだめだよ?」

千歌「うーん、そういうわけじゃないんだけどさ……」

曜「……」

梨子「……」

2人は何か言いたげだった。

曜「まあ今はさ、とりあえず今度のライブに集中しようよ」

千歌「はぁい」

私たちは近々、体育館でライブを行うことになっているらしい。

ここ数日はその練習にかかりっきりなのだ。


梨子「うぅ、今から緊張するなぁ……」

曜「大丈夫だって! 梨子ちゃん、ちゃんと出来てるよ!」

千歌「そうだよ、千歌もそう思う!」

梨子「え、ほ、ほんとかな……?」

なんて、お互いを励まし合いながら練習の支度をする。



梨子「千歌ちゃーん、いつまで寝てるのー?」

曜「ほら千歌ちゃん! 一緒に体育館行こう?」

梨子ちゃんが困ったように足踏みし、曜ちゃんがゆっくりと私の手を引いてくれる。

千歌「……」

千歌「うん、今行くね!」

2人がいる。一緒に踊っている。

それだけで心強いはずだった。

焦っちゃダメだ。少しずつ、戻っていけばいいよね。

千歌「……」

自分に言い聞かせるようにして、立ち上がった。


――――


ダイヤ「はい、今日はこのくらいですわね」

果南「3人ともお疲れさま」

梨子「ありがとうございました!」

ダイヤさんの号令で練習が終わった。

踊らない代わりに、ダイヤさんは部長として、部のマネジメントをしていた。

果南ちゃんはダンスのコーチをしてくれている。

見本だと言って踊っている姿は本当に楽しそうで、いつかの朝に神社で見た光景を思い出した。

ここでも、アイドルをやっていたのかな。

やめちゃったのかな。

曜「結構良くなってきたかな! どう果南ちゃん?」

果南「うん、だいぶいい感じ。でも、お客さんの前に出るんだから、油断しちゃだめだよ?」

千歌「そうだよね。少しずつ有名になって、入学希望者を増やさないと!」

たとえ少し「違う」場所だとしても、愛すべき浦の星女学院であることに変わりはない。そう思った。



曜「おお、千歌ちゃん大きく出たね?」

梨子「入学希望者かあ……。十分たくさん来ると思うけど」

千歌「……え?」

梨子「え、いや、聞いたことない? 来年の1年生は2クラスになるんじゃないかって」

千歌「に、に、2クラスぅ!?」

曜「え、千歌ちゃん知らなかったの? 教室のどうしようって大慌てらしいよ」

千歌「じゃ、じゃあ廃校にもならないの?」

梨子「いや、なるわけないでしょ……」

呆れたように梨子ちゃんが肩を落とす。

予想もしなかった状況に頭が真っ白になる。

「ここ」では、浦女は廃校にならない?

まさか、でも、何があってもおかしくは――。



ダイヤ「……千歌さん」

千歌「は、はい」

ダイヤ「……廃校の噂でも、聞いたのですか?」

ダイヤさんは普段よりも硬い声だ。

果南「……」

果南ちゃんも、隣で眉を寄せて黙り込んでいる。

千歌「……えっと」

果南「千歌」

厳しい声にびくりとする。

曜「ち、ちょっと、そんなに怒らなくても……」

梨子「そうです。千歌ちゃんですよ? ただ知らなかっただけだと思いますけど……」

千歌「う、うん、急にごめんね」

失礼なフォローに合わせて、咄嗟に頷く。

ダイヤ「まあ、いいですけれど」

ダイヤ「とにかく、廃校はあり得ません。来年度も、新入生は入ってきます」

有無を言わせぬ言葉に、その場では何も言えなかった。



◇―――――◇


週明け、5月13日。

千歌「やっぱり、おかしいよ。あの反応、絶対何かあるもん」

私はぶつぶつ呟きながら校内を歩いていた。


千歌「ダイヤさんも果南ちゃんも頑固だからなあ……」

あの後、様子のおかしい2人に詳しく事情を聞こうとしても、「何でもない」の1点張りだった。

詳しく話す気はなさそうだ。

それならと、たまたま練習が休みなのをいいことに、理事長室に向かっていた。

思い返せば鞠莉さんは元の世界でもいろいろ助けてくれた。

今回も、何か教えてくれるかもしれない。

何も変わっていなければ、の話だけれど。


千歌「鞠莉さん、いるかな」

コンコンと理事長室のドアをノックする。


「はーい」

中から鞠莉さんの声が聞こえてくる。

少し懐かしく思いながら、ドアを開ける。


ああ、そうだ。私たち、初対面かも。

千歌「失礼します! 2年の高海千歌です!」



鞠莉「ハァイ! いい挨拶ね」

鞠莉さんは紅茶を飲んでいた。

ひとまず友好的な反応にほっとする。

鞠莉「あら……? あなた、School Idol Club の……」

千歌「そ、そうです! ダイヤさんと果南さんと同じ!」

鞠莉「そう」

鞠莉さんは2人の名前が出た瞬間、少し顔をしかめた。

鞠莉「それで、何か用かしら? 私、困ったことにあんまり暇じゃなくて」

書類の山を指さしながら、鞠莉さんは片方の眉を上げてみせた。

千歌「紅茶を飲んでいるのに?」

鞠莉「Performance があがるのよ」

千歌「そうなんですか……」



千歌「えっと、今日は聞きたいことがあるんです」

鞠莉「聞きたいこと?」

千歌「その、廃校についてです」

鞠莉「……廃校」

途端に、鞠莉さんの目つきが変わった。

かちゃりとカップを置き、まっすぐこちらに身体を向ける。

千歌「……っ」

矢のような目つきに、ごくりと唾を呑む。

鞠莉「穏やかな話じゃないわね。どうしてそれを?」

千歌「その、噂で、聞いて」

咄嗟に嘘をついた。

鞠莉さんはじっと私の目を見つめたままだ。



鞠莉「……噂、ねえ」

鞠莉「まあ、私たちが1年生の時の話だから、知っていても不思議ではないわね」

千歌「じゃ、じゃあ、廃校の話はある……?」

鞠莉「正確には、あった」

千歌「過去形……?」

鞠莉「Yes! このマリーの目の黒いうちは廃校になんかさせまセーン!」

ふっと雰囲気を和らげ、鞠莉さんはおどけて両手を広げて見せた。

でも、どうやって。

私たちAqoursは、廃校を止めることは出来ていなかったはずだ。


千歌「なんで、なくなったんですか?」


鞠莉「それ、聞いちゃう?」


ぞくりとした。

にこにことこちらを見る鞠莉の顔は目だけが笑っていなかった。



千歌「……えっと、その」

鞠莉「……ぷっ。あはは、Sorry! ちょっと怖がらせちゃったかしら?」

千歌「へ?」

鞠莉「joke よ joke! まあでも、それは企業秘密デース!」

千歌「も、もう、鞠莉さん!」

慌てて冷や汗を拭う。


鞠莉「それじゃあ、んー、千歌さんだから……千歌っち! 他に何か聞きたいことは?」

千歌「えっと……」

スクールアイドルに誘うべきだろうか。

口を開きかけて、さっきの目つきを思い出して閉じた。

本当に冗談だったのかな。


千歌「大丈夫です」

鞠莉「そう。それなら、See you! 気をつけて」

千歌「ありがとうございます」

ぺこりとお辞儀をして、扉に手を掛ける。



鞠莉「ああ、そうそう。1ついいかしら」

千歌「……?」

鞠莉「2人は、元気?」

誰のことを聞かれたのかはすぐに分かった。

何気ない言葉だった。

けれど、それまでの鞠莉の言葉とは何かが違っていた。

再び傾けているカップで顔は見えない。細い声だった。


千歌「……なんだか、寂しそうだと思います」

鞠莉「……そう」

鞠莉さんはそれきり何も言わなかった。

千歌「失礼しました」

ゆっくりと扉を閉める。

鞠莉さんの姿が隠れていく。

最後まで紅茶のカップを傾けたままだった。



――――


千歌「あー……」

お腹の底からため息をつく。

やはり3年生はややこしい関係になっているようだ。

千歌「ほんと、他人の世話焼いてる場合じゃないでしょ、果南ちゃん」

「前の世界」で私と曜ちゃんにやきもきしていた果南ちゃんを思い出して、独り言。

廊下を歩いて、下駄箱で靴を履き替える。

もわりと湿った空気が身体を撫でた。

千歌「あ、雨……。傘、ないや」

さあさあと霧雨が降り始めていた。



途方に暮れていると、誰かの話し声。次いで、見知った顔が隣を通り過ぎた。

思わず声を掛ける。

千歌「……善子ちゃん」

善子「えっ?」

千歌「あ、ううん、何でもないよ。大丈夫」

善子ちゃんは怪訝な顔をして、一礼すると去っていった。

鞄を頭の上にのせて、濡れるのもお構いなしに、友達と悲鳴を上げながら駆けていく。

やっぱり、花丸ちゃんやルビィちゃんとは一緒ではないようだった。


善子ちゃんも、違うのかな。

私の知ってる善子ちゃんじゃないのかな。

鞠莉さんも、違ったのかな。

私の知っている鞠莉さんよりも、少しだけ怖かった。

慣れ親しんだ相手のふとした違和感が、余計に目立って見えた。



千歌「……」


それからしばらく、空を見上げて立っていた。

千歌「……寂しいなあ」

ぽつりと呟きが漏れる。

それも、次第に激しくなる雨に音を吸われてしまう。

雲の継ぎ目もわからない真っ白な空と、雨の音しかしない柔らかい風の中で、静かな孤独感に駆られていた。

しばらく雨はやみそうにない。

何となく、歌詞ノートを取り出した。

表紙にAqoursの文字はない。

ただ裏表紙に私の名前が書いてあるだけだった。

ページをめくる。

千歌「大好きだったらダイジョウブ……」

いつか踊った、それでいてまだ踊っていない曲の歌詞が書かれている。



あの時も、雨だったっけ。

今度あるという体育館ライブは、晴れるといいな。


千歌「……私は、これをどんな気持ちで書いたんだろう。いつ、どこで、誰と書いたんだろう」

どこからどう見ても私の字。

それでも「私」はこれを書いていない。

ぺらりと前のページをめくる。

歌詞につながるようなメモがぐちゃぐちゃと並んでいる。


千歌「私は、どうしてこの言葉を思いついたんだろう。どうやって、歌詞を紡ぎだしたんだろう」

一瞬、浮いているかのような気分になる。

「梨子ちゃん」と「曜ちゃん」の声が頭の中に響く。

床が急に消えてなくなって、私はゆっくり、くるくると回りながら落ちていく。



私は、一人ぼっち。私は――。



ダイヤ「千歌さん?」

こらえきれず、ずるずるとへたり込もうとした脇を、ダイヤさんが支えてくれた。

千歌「あれ……? ダイヤさん、どうして?」

ダイヤ「生徒会の仕事で残ると言ったではありませんか」

ダイヤ「それより、大丈夫なんですの? 体調がよくなさそうですが……」

千歌「体調は、大丈夫です」

ダイヤ「……本当に?」

千歌「はい。でも、傘がなくて」

ダイヤ「あら、そうですか。それじゃあ」

つい、と開いた傘を差しだされる。

千歌「へ……?」

ダイヤ「ほら、帰りますわよ。お入りなさい」

腕をぐいと引っ張られた。

千歌「わっとと! ちょ、ちょっとダイヤさん!」

ダイヤ「文句があるならびしょ濡れで帰りなさいな」

千歌「ええ……」

ダイヤさんはぷいと顔を背けてみせた。



千歌「じ、じゃあお願いします……」

おずおずと傘の下に入る。

たいして大きくもない傘から、2人の肩がはみ出してしまっていた。

ダイヤ「……」

意味もなく猫背になりながら、隣で無言で歩くダイヤさんを見上げる。

退屈そうな目でぼうっと前を見つめている。


ダイヤさんは、どんな過去を抱えて生きているんだろう。

このダイヤさんも、もう踊らないと決めているのかな。

それなのにスクールアイドル部の部長までやって、普段は、今は、何を思って過ごしているのかな。

ダイヤ「千歌さん」

視線に気が付いたのか、ダイヤさんが目を合わせてきた。

ダイヤ「この後、お時間はありますか?」

千歌「え……?」



―――


ダイヤ「はい、千歌さん。粗茶ですが」

ことっとダイヤさんが湯呑を置いてくれた。


千歌「すみません、ダイヤさん。服まで貸してもらっちゃって……」

ダイヤ「部員の世話くらいしますわ」

千歌「あはは……」

ダイヤさんは、私を家に連れて行って、お風呂を貸してくれた。

制服が乾くまで、とゆったりした服を着せられる。

ルビィちゃんは、連れ立って現れた私たちにいい顔をしなかった。

お稽古があるから。そう言って奥の部屋に入っていった。


千歌「ルビィちゃん、お稽古をやっているんですか?」

ダイヤ「ええ。最近文句も言わなくなりました。成長……しているのでしょうか」

何となく、ダイヤさんは浮かない顔だ。



ダイヤ「……千歌さん」

ダイヤ「先日は、すみませんでした。廃校のことで、つらくあたってしまって」

千歌「え、べ、別に気にしてませんって!」

ダイヤ「いえ、部長として、褒められた態度ではありませんでした」

千歌「ダイヤさん……」

千歌「何か、あったんですよね。果南ちゃんと、鞠莉さんと」

鞠莉さんの名前が出たことに、ダイヤさんは驚いたようだった。

ダイヤ「どうして……」

千歌「今日、会ってきたんです」

ダイヤ「鞠莉さんは、何か……?」

千歌「廃校はもうなくなった、って」

ダイヤ「そう、ですか」

また浮かない顔。



千歌「何があったんですか?」

ダイヤ「……」

千歌「ダイヤさん」

すぅっと短く息を吸うと、ダイヤさんは言葉を続けた。

ダイヤ「千歌さんたちはご存じないかもしれませんが……」

ダイヤ「わたくしは、以前……スクールアイドルをやっていました。今のように口を出すだけでなく、実際に踊る方です」

ダイヤ「ユニット名は―――」

千歌「―――Aqours」

ダイヤ「……!」

ダイヤ「そう、そうですわ! Aqoursです。どうして、それを……?」

千歌「私、知ってるんです。Aqours、ダイヤさんと、果南ちゃんと、鞠莉さんで……」

ダイヤ「……いいえ」

ダイヤ「わたくしと、果南さんです」

千歌「え?」



ダイヤ「Aqoursは、2人でした」



千歌「う、そ……」

ダイヤ「……」

私の驚きを余所に、ダイヤさんは遠い目をしていた。

ダイヤ「そして、東京で挫折を味わった。わたくしは怪我をした。それだけの話です」

千歌「ダイヤさんが、怪我……?」

ダイヤ「ええ。もう治っているので、心配はいりませんわ」

さらっとダイヤさんはそう言った。

これも違う。怪我をしたのは鞠莉さんのはずだった。

それがそもそも、Aqoursは2人だった?


ダイヤ「わたくしから話せることは、それほど多くありません。果南さんと、鞠莉さんの許しがなければ……」

千歌「あ、は、はい……」

ダイヤ「それでも、わたくしたちは仲の良い……そうですわね、親友、といっても許される関係だったと、思っています」

千歌「……」

歯の奥にものが詰まったようないいように、もどかしくなる。



千歌「ダイヤさんは、だからもう踊らないんですか?」

ダイヤ「……わたくしは」

小さな声で言った後、ダイヤさんはずいぶんの間、黙り込んでいた。


ダイヤ「……待っているのかもしれませんわね」

何をとも、誰をとも、言わなかった。

きっと、果南ちゃんだけじゃなくて、2人を待っているのだろう。

ここでも、果南ちゃんと鞠莉さんの間に何かがあって、ダイヤさんは2人を待っているのだろう。

物憂げなダイヤさんの瞳を見ながら、そう思った。


ダイヤ「ああ、でも、今はおバカな後輩の世話で手一杯ですわね」

千歌「え、それって千歌のこと!? ひどい!」

ダイヤ「……ふふっ」

くすくすとダイヤさんが笑う。

私がよく知るダイヤさんの優しい笑顔だった。



ダイヤ「……千歌さん」

千歌「はい」

ダイヤ「千歌さんは、どうしてAqoursのことを? その名前は、果南さんと鞠莉さんと、ルビィしか知らないはずですわ」

真剣な顔でダイヤさんが私を見る。

千歌「それは……」

ダイヤ「……」

口ごもった私に、ダイヤさんはすっと近づいてきた。


ダイヤ「やはり、不思議ですわ」

千歌「不思議?」

ダイヤ「知るはずのない情報を知っている。それに、知っているはずの情報を知らない」

ダイヤ「確か千歌さん、つい先日、前から計画していたはずの体育館ライブのことを知りませんでしたわね?」

どきりと心臓が跳ねる。

「ここ」に来てすぐ、体育館ライブのことを聞かれて答えられなかったことがあった。



ダイヤ「……千歌さん」

ダイヤ「責めるような言い方になってしまっていたらすみません。ですが……」

ダイヤ「何を隠しているのですか? わたくしは……そう、心配、なのです」

千歌「心配って、どうして」


ダイヤ「千歌さんが、何か悩んでいるかもしれない。千歌さんが、何か身体の調子が悪いのかもしれない」

ダイヤ「何かに巻き込まれているのかもしれない。どこかに行ってしまうかもしれない」

ダイヤ「わたくしだけではありません。曜さんが、梨子さんが、果南さんが、全員が心配しています」

千歌「皆が……」

気づかれていたのか。

千歌「……」

ダイヤ「千歌さん、教えてくださいな。これでも、部長なのです。あなたの、友人なのです」

ずきりと胸が痛む。

曜ちゃんの叫び声が頭をよぎる。

違うんだよ、ダイヤさん。

ダイヤさんの想う私は、違うんだよ。



千歌「私、は……」

それでも。

それでも、きっと私は話すんだろう。

優しい目で微笑む仲間に甘えて、泣きながら抱きしめてくれる友人に甘えて、何度でも話すんだろう。

それが高海千歌で、私だと思うから。みんながいないとダメだから。

みんなに手を伸ばさないと、立っていられないから。

千歌「ダイヤさん、私は―――」





―――――

―――



――――


ダイヤ「……」

ダイヤ「その話は、本当、ですの?」

千歌「……本当です」

ダイヤ「わたくしの予想とは、全く違いましたわ……」

千歌「あはは、梨子ちゃんもそう言ってました」

ダイヤ「梨子さんには話したのですか?」

千歌「あ、えーっと、『前の前の所』で」

ダイヤ「な、なるほど……ややこしいですわね」

ダイヤさんが頭を抱えている。

めったに見られない光景に、思わずおかしくなった。



ダイヤ「それで、ええっと、何でしたっけ。サンシャインぴっか……?」

千歌「ぴっかぴか音頭です」

ダイヤ「え、ええ、それです。その妙な――いえ、斬新な曲を、あー、わたくしも含めた皆で踊って……?」

千歌「はい、ノリノリでした」

ダイヤ「なんてこと、なんてことなの……」

恥ずかしそうに顔を覆い、ダイヤさんはしばらく震えていた。


ダイヤ「ま、まあいいでしょう。それで、その最中に気が付いたら4月に来ていた、と?」

千歌「はい……」

千歌「本当に、それ以上はわからなくて……」

ダイヤ「ふむ……わからないことを考えても仕方ありませんわね」

ダイヤ「それなら、今わかっていることを考えましょうか」

千歌「今わかっていること……」

ダイヤ「千歌さんは将来Aqoursに入るはずの仲間を集めている。誰かの勧誘に成功すると――『移動』する」

わたくしも含まれているのでしたね、とダイヤさんは複雑な顔をした。



千歌「はい。それに『移動』するとき、不思議な光景を見るんです」

千歌「8月までにあったことみたいなんですけど、私は全然覚えていなくて」

ダイヤ「既視感だけを持つ、と」

要領を得ない私の話をきちんと聞いてくれるダイヤさんに感心してしまう。

千歌「……あれは、何だったんだろう。梨子ちゃんと、曜ちゃんの声は、何だったんだろう」

ダイヤ「……」

ダイヤさんは考え込むように俯いた後、ふと顔を上げて言った。

ダイヤ「『もし』」

千歌「え?」

ダイヤ「千歌さんのお話には、もし、という言葉が何度も出てきましたわね」

千歌「あ、はい。梨子ちゃんも、曜ちゃんも『もし』って……」

ダイヤ「そしてそれが、実際に反映されている」



千歌「そう、そうです。梨子ちゃんは『もしもピアノが弾けてたら』って……。私が会った『梨子ちゃん』はコンクールでピアノを弾いていました」

ダイヤ「そして千歌さんは、お父様が家にいるという『曜さん』に会った」

千歌「それじゃあ、ここは……」

ダイヤ「ええ、ここは『もし』の世界――『千歌さんの知るAqours』のメンバーが描いた、夢のような世界かもしれません」

千歌「皆の、夢……」

千歌「でも、梨子ちゃんも曜ちゃんも、最後には今のままでいいって……」

ダイヤ「それが『戻る』ということではないでしょうか」

ダイヤ「もしもという夢を描いて、それでも納得し、前に進む……。夢から醒める」

千歌「私が、梨子ちゃんと曜ちゃんをスクールアイドルに誘ったから……?」

ダイヤ「ええ、おそらくは。そして、それに成功したからですわ。成功するたびに、少しずつ戻っていく……」

ダイヤ「千歌さんのやってきたことは、間違っていないはずですわ」

千歌「ダイヤさん……」



千歌「本当に、そうなのかな……」

ダイヤ「千歌さん?」

千歌「本当に、よかったのかな」

千歌「『梨子ちゃん』からピアノを奪って、よかったのかな。『曜ちゃん』からお父さんを奪って、よかったのかな」

千歌「全部全部なかったことにして、よかったのかな」

千歌「それに『ここ』では廃校の話はなくなってるんだよ。もう、学校はなくならないんだよ」


千歌「私が変えちゃっていいのかな。本当は私の世界が『夢』で、ここが『本物』じゃないのかな」

口をついて、そんな弱音が零れ落ちた。



ダイヤさんはしばらく顎に手をあてていたが、やがて小さく呼びかけてきた。


ダイヤ「……胡蝶の夢、という話を知っていますか」

千歌「胡椒の夢?」

ダイヤ「胡蝶、ですわ。自分が蝶になって飛んでいる夢を見たとき、『蝶』が夢なのか」

ダイヤ「それとも実は自分は『蝶』で、『起きている今』が夢なのか。そんな話です」


脳裏に、船の上で踊っていた光景が浮かんでくる。

私が持っていた灯りの先に、蝶が飛んでいた。


千歌「……」

千歌「今が夢なのか、私がいた未来が、ただの夢だったのか……」

ダイヤ「それは、誰にもわからないことですわ。『本物の今』などというものは、実はないのかもしれません」

千歌「でも、だったら、どうしたら――」

声を上げようとした私の唇を、ダイヤさんは指で押さえた。

ダイヤ「千歌さん」

ダイヤ「帰りなさいな」

きっぱりとダイヤさんは言い切った。



千歌「どうして……?」

ダイヤ「胡蝶の夢。わたくしはこの話を聞くたび、思うのです」

ダイヤ「たとえわたくしの世界が夢であったとしても、もし何かの拍子に反対側に行ってしまったら、どう思うのだろうかと」

ダイヤ「そしてそれは、ひどく寂しいことに違いない、と」

千歌「寂しい……」

ダイヤ「ええ。わたくしにとって、過去とは、東京での挫折でした。練習中の怪我でした。果南さんや鞠莉さんとの思い出でした。ルビィと過ごした日々でした」


ダイヤ「千歌さんにとってはどうですか? 千歌さんにとっての過去は、どこにありますか?」

千歌「私の、過去……」

それは、私にとっては9人揃ったAqoursであり、船の上で盆踊りを踊ったあの夏の日だった。


ダイヤ「でしたら、帰りなさいな。どんな犠牲を払っても。帰ることを選びなさい」


千歌「でも、帰るためにはダイヤさんが必要なんです。ダイヤさん、Aqoursに入ってくれますか?」

ダイヤ「……」

はいともいいえとも言わずに、ダイヤさんは傍らの湯呑に視線を落とした。


ダイヤ「……夢を見ました。わたくしが、わたくしに語り掛ける夢でした。Aqoursの活動を止め、失意のうちにあったときのことでした」

千歌「……!」



ダイヤ「『ルビィのことを応援するように』そう、言われました」

ダイヤ「わたくしは、スクールアイドル部を存続させる道を選びました。ルビィが入学した後、大好きなアイドルを始めることができるように、と」

ダイヤ「嫌がる果南さんにも頼み込んで、部室まで確保して」

まあ、ルビィは結局入ってくれませんでしたが。そう言って、ダイヤさんは少し困ったように笑った。


そうか、だから。

だから、ダイヤさんは部長なんだ。スクールアイドル部を続けていたんだ。

全部全部、ルビィちゃんのためだったんだ。

でも、それは、それって―――。


ダイヤ「千歌さんのお話を聞いて思ったのです。あれは未来のわたくしからのメッセージではないかと」

ダイヤ「『わたくし』はどこかでルビィを蔑ろにしてしまって、それを悔やんでいるのではないかと」

千歌「ダイヤさん……」

ダイヤ「きっと、ここは『わたくし』の夢でもあるのでしょう。曜さんと梨子さんは醒めたのかもしれません。それでも、残りはまだ夢の中」

呟いた後、ダイヤさんは湯呑から顔を上げた。

ダイヤ「わたくし、スクールアイドルをすることは、嫌ではありませんわ」

千歌「ダイヤさん、本当ですか……!」


ダイヤ「しかし」


千歌「え?」

ダイヤ「1つだけ、お願いがあるのです。ルビィのことで」



◇―――――◇


千歌「たのもー!」

5月14日、昼休み。

私はまた文芸部に来ていた。


花丸「ずら!? ち、千歌さん!?」

ルビィ「……千歌さん」

慌てた花丸ちゃんが本を取り落とす。

ルビィちゃんは静かに顔を私に向けた。

花丸「今日はどうして?」

千歌「これを渡しに来たんだ。2人に、来てほしいから」

花丸「ポスター? 『体育館でライブします』……?」

千歌「うん! 来週やるんだ」

ダイヤさんは私に、ルビィちゃんをスクールアイドル部に入れてあげてほしいと頼んだ。

自分の言葉はきっと届かないから、と。

だから、歌を届けるんだ。

踊りを見てもらうんだ。

そうして想いを伝えるんだ。



ルビィ「……」

ルビィちゃんはしばらく無言でポスターを眺めていた。

ルビィ「これは、お姉ちゃんのお願いですか」

千歌「そうだよ」

ルビィ「だったら……!」

震える手でポスターを突き返される。

花丸「ルビィちゃん、どうしてそんなに……」


千歌「ねえ、ルビィちゃん。スクールアイドル、嫌い?」


ルビィ「……っ」

私の言葉に、ルビィちゃんは唇を噛んでうつむいた。

ピンで留めた長い髪が肩にかかる。


ルビィ「……きら、い、です……っ」


毎晩アイドル雑誌をめくるルビィちゃんは、スクールアイドルを嫌いだと言った。

ルビィちゃんは、泣いていた。



花丸「る、ルビィちゃん……?」

ルビィ「スクールアイドルなんて、やりません! だって、だってお姉ちゃんは――」

千歌「ダイヤさんが……?」

ルビィ「……」


黙りこくったまま、ルビィちゃんは何も話さなかった。

話すかどうか迷っているようにも見えた。

やがて、小さい声が聞こえてきた。




ルビィ「……嘘です。好きなんです。スクールアイドル、大好きなんです。だから、行けません」

ルビィ「行ったら、憧れてしまうから。行ったら、ルビィも踊りたいって、想ってしまうから」

千歌「それのどこが……」

ルビィ「意地なんです」

強い声で、ルビィちゃんは言った。


ルビィ「ちっぽけで、何もできないルビィの、たった1つの意地なんです」

ルビィ「お姉ちゃんとの、意地の張り合いなんです。だから、だから――」



くいくいと、ルビィちゃんは私の腕を押した。

意地の張り合い。ルビィちゃんはそう言った。

きっと、ルビィちゃんが意地を張るのはダイヤさんのためなんだろう。

「元の」世界でもそうだった。

ルビィちゃんはいつもダイヤさんのことを考えていた。

ダイヤさんをスクールアイドルに誘おうとした私を止めたこともあった。

きっと、「この」ルビィちゃんもそうなんだ。


だからこそ、見てもらいたかった。

だからこそ、来てもらわないといけない理由があった。

本当は、内緒にしていてと言われていたけれど。



千歌「ね、ルビィちゃん。今度のライブ、ダイヤさんがセンターなんだ」



ルビィ「え……?」



はっとルビィちゃんは息を呑んだ。

花丸「わあ……! ルビィちゃん、行かなきゃ。見に行かなきゃダメずらよ」

優しく手を取る花丸ちゃんを余所に、ルビィちゃんは呆然と立ち尽くしていた。

ルビィ「お姉ちゃんが、踊る……。嘘……」

千歌「嘘じゃない。これでも私、苦労したんだからね」


3人で踊る予定だったライブ。

5人で出たいと、ダイヤさんに頼み込んだ。

ダイヤさんは練習不足だの、公私混同だのとごねていた。

ルビィちゃんのためだと言うと、たっぷり30分間黙り込んだ後、こくんと頷いてくれた。

巻き込まれた果南ちゃんはずっと苦い顔をしていたけれど、その日の練習後、嬉しそうに隠れてダンスの練習をしていた。


千歌「ルビィちゃん」

私が呼びかけると、ルビィちゃんはゆっくりと顔をあげた。


千歌「来てほしいな。私、ルビィちゃんに見てほしいんだ、ダイヤさんのこと。ダイヤさんの友達として。ルビィちゃんの友達として」

千歌「Aqoursの、メンバーとして」

ルビィ「千歌さん……」



ルビィ「……行きたい。踊っているお姉ちゃんを見るのが夢だったから。でも――」

ルビィ「今さら、ルビィが行っても……」

踏ん切りがつかないらしいルビィちゃんは、私に差し出したままのポスターに目を落とす。


花丸「ルビィちゃん、一緒に行こう?」

ルビィ「花丸ちゃん……。でも、ルビィ……」

花丸「ダメずらよ、ルビィちゃん」

ルビィ「だ、ダメって、何が……」

花丸「マルは、何もわからないけど、何も知らないけど……」

花丸「好きなことを我慢しなきゃいけないなんて、そんなのダメずら」

静かに、けれどしっかりとした口調で話す花丸ちゃんは、自分に言い聞かせているようにも見えた。

ルビィ「……花丸ちゃん」



花丸「ね、ルビィちゃん。スクールアイドルが好きなのは、ルビィちゃんだよ。憧れているのは、ルビィちゃんだよ」


花丸「マルにスクールアイドルのお話をしてくれるのはルビィちゃんだよ。本屋さんでいつも雑誌をちらちら見ているのはルビィちゃんだよ」


花丸「ふとした瞬間に歌をうたっているのはルビィちゃんだよ。ノートの隅っこに衣装の絵を描いているのはルビィちゃんだよ」


花丸「マルの小説を褒めてくれたのは、ルビィちゃんだよ」


ルビィ「……」


花丸「ね、一緒に行こう? 見に行こうよ。憧れの、スクールアイドル」


花丸「きっとそこからは、ルビィちゃんにしか見えない景色が見えるはず」


ルビィ「……ルビィにしか、見えない景色……」

花丸「そうずら! ね、ルビィちゃん。行こう?」



ルビィ「……」

花丸「ルビィちゃん」

ルビィ「……うん、わかった……」


千歌「……!」

ずいっと身を乗り出した花丸ちゃんに向かって、ルビィちゃんはこくりと頷いた。


花丸「えへへ」

花丸ちゃんがにこりと私に笑いかける。

花丸「千歌さん、マルたち、ちゃんと2人で行くね。だから、頑張ってほしいずら!」


千歌「花丸ちゃん、ありがとう。本当に、ありがとう――」

やっぱり私、皆がいるからやっていけるんだ。



―――――

―――



◇―――――◇


5月24日、体育館。

曜「どう? お客さんたくさんいる?」

梨子「うーん、まあまあ、かな。3年生も結構来てるよ」

曜「ダイヤさんたちも踊るもんね……。本当、5人で踊ろうなんて、よく言ったよね千歌ちゃん」

千歌「え、そ、そうかな、えへへ……」

ダイヤ「本当ですわ。しかもわたくしがセンターなどと。練習も不十分ですのに」

千歌「もう、ダイヤさんそればっかり! 隠れて練習してたくせに……」

赤い衣装に身を包んだダイヤさんは、耳を赤くしながらストレッチをしている。


梨子「うぅ……、知ってる人がいると緊張しちゃうよ。クラスの子も皆来てるし……」

千歌「うんうん、たしかに……。ルビィちゃん、来てるみたい、よかった……あ、あれ鞠莉さんかな」

果南「へっ!?」

集まってくれた観客の中に目立つ金髪を見つけると、横で果南ちゃんがびくりと震えた。



果南「や、やっぱりやめる! 踊るのやめる!」

曜「ちょ、果南ちゃん! 衣装脱ぐのやめて! せっかく作ったのに!」

梨子「え、えええ……」

舞台裏でがたがたと騒ぐ。


ダイヤ「……」

ダイヤ「……千歌さん」

ダイヤさんが声を抑えて話しかけてきた。

千歌「はい、ダイヤさん」

ダイヤ「サンシャインてっかてか音頭ですが」

千歌「ぴっかぴか音頭」

ダイヤ「それです。……果南さんと、鞠莉さんも踊っていたのですか?」

千歌「はい! それはもう、仲良く、楽しそうに!」

ダイヤ「そう、ですか……」

一瞬、きらりとダイヤさんの目が光ったように見えた。

不格好に歪んだその光は、すぐに瞬きによって掻き消える。



ダイヤ「ほら、果南さん。諦めて踊りますわよ。後輩に頭まで下げさせてしまったのです」

果南「何で急にそんなやる気なのさ、ダイヤぁ……」

曜「ふぅ、もう果南ちゃん、一番ダンス上手いんだし、本当は好きなんでしょ?」

果南「そ、それは、その……」

梨子「ふふ、大好きだったらダイジョウブ、ですよ」

果南「わ、わかったよ……。今回だけだからね」

ダイヤ「ええ、きっと、楽しめるはずですわ」

千歌「じゃあ――」

ダイヤ「ええ、行きますわよ!」

ステージへ駆ける。



幕が上がる。

ぱらぱらとまばらな拍手が体育館に響く。


中心でマイクを持ったダイヤさんが、口を開いた。

ダイヤ「お集まりの皆さま。本日はお日柄もよく……」

千歌「もう、堅苦しいのなしっ!」

ダイヤ「う、うるさいですわね!」

くすくすと笑い声。


ダイヤ「と、とにかく! わたくしたちが、伝えてもらったこと。伝えたいこと。すべて、この歌と踊りに込めますわ」



ダイヤ「それでは――『大好きだったらダイジョウブ』」







「「「―――キラリ ときめきが 生まれたんだと―――……」」」




――――――

――――

――



――――


ダイヤ「……千歌さん、そろそろ……」

千歌「ううん、絶対来るよ。絶対」

ライブの後。制服に着替え終わり、私とダイヤさんは体育館にとどまっていた。

薄暗くなった体育館は少し冷えてくる。


ダイヤ「待つなら、部室の方が――」

ダイヤさんが急に言葉を切る。

外から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

花丸「――ほら、ルビィちゃん」

ルビィ「う、うん、でも……」

花丸「もう、それなら……えいっ!」

ルビィ「ぴぎぃ!!」

倒れこむようにして、ルビィちゃんが入ってきた。



千歌「ほら、来たよ、ルビィちゃん」

ダイヤ「……ルビィ」

ルビィ「……千歌さん、お姉ちゃん」

ゆっくり身を起こすと、ルビィちゃんはダイヤさんと向き合った。

乱れた髪を手で払って直す。

やがて、ルビィちゃんが遠慮がちに口を開いた。


ルビィ「お姉ちゃん、今日のステージ、楽しかった?」

ダイヤ「……ええ」

ルビィ「そっか」

ダイヤ「ルビィは……」

ダイヤ「ルビィは、楽しかったですか?」

ルビィ「……うん。楽しかった。お姉ちゃんたちきらきらしてて、楽しそうで……。一緒に踊りたいってそう思ったよ」

ダイヤ「そう、ですか」

嬉しそうにそう言った後、ダイヤさんは目線を下げた。



ダイヤ「どうして、今まで……」


ルビィちゃんは少し迷った後、一言だけ答えた。

ルビィ「お姉ちゃんが、泣いてたから」

ダイヤ「わたくしが?」


ルビィ「ルビィに、スクールアイドルやらないのって聞くたびに、やりたい、やりたいって、お姉ちゃんは心で泣くの」

ダイヤ「……!」

ルビィ「ルビィに、この雑誌はどうですか、このCDはどうですかって聞くたびに、自分も踊りたい、歌いたいって、お姉ちゃんは心で泣くの」

ルビィ「ルビィはね、気づいてほしかったんだ……。お姉ちゃんが、ルビィに自分を重ねてたこと」



ぽつぽつと語るルビィちゃんの言葉を、ダイヤさんはじっと目を閉じて聞いていた。

ルビィ「Aqoursをもう一度やりたいのは自分なのに、それをルビィに押しつけちゃってたこと」

ルビィ「お姉ちゃんに、もう一度好きなことをしてほしかった。それで、ルビィも一緒に踊れたらって思ってた」

ルビィ「一緒に踊りましょうって、またそうやって誘ってくれるまで待とうと思ったの。それが、ルビィの精一杯の意地だったんだ」


ダイヤ「そう、だったのですね……。わたくしの、わたくしの後悔は、もしもという夢は、全て……」

呆然と、けれど納得したように、ダイヤさんは呟いた。


ルビィ「どうしたら本心を話してくれるんだろう。ルビィが頼りないのがダメなのかな。そう思って、だから――」

ダイヤ「確か、ルビィが急に家のことに積極的になったのは……」

ルビィ「うん……。髪も伸ばして、お弁当も作って、お洗濯も、お皿洗いも、習い事も、全部やったけど、お姉ちゃんは本心を話してくれなくて」


ダイヤ「わたくしも、同じでしたわ。どうしたらルビィは本心を見せてくれるのだろうと思っていました」

ダイヤ「あなたは家事をこなして、やりたくもない習い事もまた始めて。それなのに夜な夜な雑誌を広げて」

ダイヤ「普段厳しくしすぎたのかと思いました。不思議な夢も見ました。毎日ルビィにスクールアイドルの話を振りました」

ダイヤ「それでもルビィは本心を話してくれませんでした」



ルビィ「ルビィたち、似た者同士、なのかな」

ダイヤ「ふふ……姉妹ですからね」


ルビィ「でも、もう大丈夫。お姉ちゃんは素敵な友達に背中を押してもらえたから。ルビィも、大好きな友達に背中を押してもらったから」

ダイヤ「そうですわね……」

ダイヤさんがごほんと咳払いをして、私の方に向き直った。



ダイヤ「千歌さん。ありがとうございます。これで、十分です。これで、千歌さんを送り出すことができます」

千歌「ダイヤさん……」

ルビィ「……?」

千歌「そっか、ルビィちゃんは、全部は聞いてないんだよね」

ダイヤ「わたくしと千歌さんで説明しますわ」


千歌「えっと、簡単に言うとね、私―――」



―――――

―――



――――


ルビィ「えっと、千歌さんが盆踊りを踊って、今が夢で、ルビィたちが……?」

ルビィちゃんは目をぐるぐる回して疑問符を浮かべている。

ダイヤ「やはりルビィには難しすぎましたか……」

ルビィ「そ、そんなことないよぉ!」

呆れるダイヤさんに、ちょっぴり困り顔のルビィちゃん。

見慣れた光景に、つい和んでしまう。


千歌「あはは、仲良くしてね」

ルビィ「千歌さん……」

ルビィ「これで、お別れなんですか?」

千歌「うん、私は『先』に行くよ。ダイヤさんが、背中を押してくれたから」

ダイヤ「ええ、歩みを止めてはいけませんわよ」

千歌「……はい、ありがとうございます」

ルビィ「うゅ……。せっかく、仲良くなれたのに……」

ルビィちゃんがうるうると目を潤ませている。



千歌「ルビィちゃん」

千歌「ルビィちゃんと私はね、同じユニットになって、とってもとーっても仲良くなるんだよ」

ルビィ「そ、そうなんですか……?」

千歌「うん、だから泣かないで」

ルビィ「でも、千歌さんが行っちゃったら、千歌さんはどうなるんですか。ルビィたちは、どうなるんですか」

千歌「……ごめんね、千歌バカだから、わからないんだ」

ダイヤ「きっと、それは誰にもわからないことだと思いますわ。それでも、千歌さんは進もうとしているのです」

ダイヤ「それでも、千歌さんは選ばなくてはならないのです。……わたくしたちは、応援しなければ」

ダイヤさんの優しい声が響く。


ダイヤ「……ルビィ。そろそろ……」

ルビィ「……」

ルビィ「……うん」

2人が手を握り合い、まっすぐに私を見る。



ダイヤ「親愛なるルビィ……わたくしと、そして千歌さんたちと、スクールアイドルをやってくれませんか?」


ルビィ「うんっ! 喜んでっ!」


体育館が、光に包まれた。



ルビィ「ぴっ……!」

驚いたようにルビィちゃんが叫び声をあげる。

ダイヤ「なるほど、これが……」



ダイヤさんの視線の先、ゆっくり交差しながら、2枚の紙が落ちてくる。



『入部届 黒澤ルビィ』


『仮入部届 黒澤ダイヤ』



音もなく床を滑った『入部届』を、ダイヤさんが拾う。

ダイヤ「仮……わたくしは、もう少し後から、というお話でしたわね」

千歌「うん……ダイヤさんは、大事な友達をずっと待ってるんだ」


千歌「でも、もう千歌が予約しちゃったよ! いくらダイヤさんでも、逃げられないのだ!」

びしっと指を突き付けて、ありったけの力を込めて叫ぶ。


ダイヤ「……っ」

ダイヤ「……まあ、それは、困ってしまいますわね」

ダイヤさんが笑う。

ダイヤ「ふふ……」

本当に可笑しそうに、お腹に手を当てて、くるりと後ろを向く。



ダイヤ「……ふふ、うふふ、うっ……くっ……」

口に手を当てたまま、ダイヤさんは微かに身体を震わせている。

ルビィ「お姉ちゃん……」

ダイヤ「な、なんですの……っ」

千歌「ダイヤさん……」

ダイヤ「早く、早く……っ、その入部届をっ……受け取りなさいな」


掠れた声を聞くうちに、私まで胸がよじれそうだった。

言われた通りに、『入部届』に手を伸ばす。


千歌「ダイヤさん、ルビィちゃん、ありがとう。千歌、行くね」


ゆっくりと手を伸ばし、紙に触れた。



強烈な眩暈に襲われる。


千歌「……っ」


視界に見えるものが、白く形を失っていく。


ルビィ「千歌さんっ!」


ルビィちゃんが腰に抱き着いてくる。

その感覚もだんだんとふわふわ溶けていく。


ルビィ「千歌さんなら、きっと大丈夫です! 大好きだったら大丈夫……。ルビィに、そう教えてくれたから」


ダイヤ「目指す先を、見失ってはなりません。信じて、選び続けなければなりません。それでも、貴方ならきっと……」


ルビィちゃんの優しい声が、ダイヤさんの震える息が、周りの音が重なり始め、意識が遠のいていく。


最後に見たのは、まっすぐ私を見上げるルビィちゃんと、おずおずとこちらを振り返るダイヤさんの、同じ色の潤んだ瞳だった。





―――――――

―――――

―――



◇―――――◇


カリカリとペンが動く音が聞こえる。

少し止まって、またカリカリ。


ダイヤ「過去への手紙、ですか……」

ルビィ「うぅ、迷っちゃうなあ」

花丸「お盆らしいと言えば、そうなのかな……?」

果南「なるほどね……。あー……、私たちは、言いたいこといっぱいだよね」

まったくですわ、とダイヤさんが笑っている。


狭い部室の中、皆が思い思いの方向に身体をむけている。


一瞬訪れた静寂を、蝉の声が埋める。

やっぱり私は、強い既視感を感じていた。



『『……千歌さん』』


声が聞こえる。

きらきらと穏やかに乱反射する、宝石のような声が。


『ずっと、思っていました。もしも、ルビィに優しくできていたら、どうなっていたのだろうかと』


『つらくあたらなければよかったのに、ルビィの趣味を咎めなければよかったのにと』


『ですが、あの時期。あの苦しかった時期は、わたくしのルビィへの甘えであり、同時にそれまで本気であったことの証左でもありました』


『そして、甘えるわたくしを支えてくれたルビィへの感謝を、わたくしは忘れたくはありません』






『ずっと思ってたんだ。もしあの時、お姉ちゃんを助けられていたら、もっとよかったんじゃないかって』


『家事とか、生徒会とか、家のこととか、もっとお姉ちゃんの負担を減らせたんじゃないかって』


『でも、お姉ちゃんが怒ったり、泣いたり、そういう弱音を吐くのは、黒澤家の中で、いつもルビィの隣だったんだ』


『ルビィも、助けになれていたんじゃないのかな。ちょっとくらい、特別な場所だったって、うぬぼれてもいいんじゃないかなって、思うんだ』



2人の影が、混ざって溶けた。



――――――――――#3「私と夢」



◇―――――◇


目が覚めた。

千歌「う、うーん……」

木の感触を感じる私の頬の上で、穏やかな声が交わされている。

曜「あ、千歌ちゃんおはよーそろ!」

曜ちゃんの声。

ルビィ「もうすぐ衣装ができます! ふんばるびぃ!」

ルビィちゃんの声。

顔を上げて辺りを見回すと、そこは少しだけ物が増えた部室だった。

梨子ちゃんは楽譜と睨めっこしていて、曜ちゃんとルビィちゃんはチクチクと衣装を縫っている。

ルビィちゃんの髪は2つに括られている。

ダイヤさんと果南ちゃんは、部室にいなかった。



梨子「歌詞係さん、よく眠れた?」

とげとげした梨子ちゃんの言葉に目を下ろすと、書きかけの歌詞ノートがあった。

少しずつ、歌詞が埋まっている。

私の記憶にあるところまで、少しずつ近づいている。


千歌「その先には、何があるんだろう。1つ1つ、思い出を取り戻していって、白紙のページを全部埋めて」

千歌「最後のページには、何があるんだろう。その先には、何が待っているんだろう」

梨子「何だかロマンチックだね。それ、歌詞?」


千歌「……ううん、違うよ」


ちらりと携帯を見る。

6月10日。

あと4人。


#4「私の今」



――――


「この」世界で、私たちは4人でスクールアイドルをやっているようだった。

Aqoursという名前も復活していた。

歌詞ノートの表紙を見て、じんと胸が熱くなった。


梨子ちゃんと、曜ちゃんと、ルビィちゃんと。

4人で使う部室は、にぎやかなようで物足りなかった。

相変わらず廃校の話は聞かなかった。

私たちは、ただラブライブ出場という目標を掲げて活動していた。


千歌「それでも、立ち止まったらダメなんだよね、ダイヤさん」


ダイヤさんに会いに生徒会室に行ったが、用がないなら邪魔をするなと追い返された。

その裏で砂浜にAqoursなんて書いていたことを、私は知っている。



花丸「いつもありがとうございますー」

私たちが部室で集まっていると、花丸ちゃんがのほほんとした声で部室に入ってきた。

ルビィ「あ、花丸ちゃん! さっきぶり!」

花丸「ルビィちゃん、さっきぶり」

梨子「取材、いつも大変そうだね。お話はだいぶ進んでるの?」

花丸「うーん、なかなか難しくて」

困ったように花丸ちゃんが笑う。

花丸ちゃんは、文芸部に所属している。

校内新聞に小説を掲載していて、クラスでは冗談交じりに『先生』なんて呼ばれているそうだ。

「前に」聞いた話と変わっていない。



曜「花丸ちゃんの小説、本当に面白いよね! 私いっつもわくわくしちゃって!」

ルビィ「うん! 特にハナちゃんが初めてライブをしたときなんか、ルビィ泣いちゃったよぉ……」

花丸「えへへ……照れるずら。でもそれも、先輩方とルビィちゃんのおかげだよ」


花丸ちゃんの書いている小説は、スクールアイドルを目指す女の子が主人公だった。

名前はハナちゃん。花丸ちゃんそっくりの名前ではあるが、黒髪で大和撫子、合唱部という設定だ。

花丸ちゃんはたびたび取材で部室を訪れるのだと、ルビィちゃんが教えてくれた。


千歌「……」


これも、花丸ちゃんの描いた夢なのかな。

花丸ちゃんは、文芸部に入りたかったのかな。

スクールアイドルは、やりたくなかったのかな。


千歌「ううん、迷わない。そう決めたから」

まずは、花丸ちゃんのことを知らなくちゃ。



――――


千歌「お邪魔しまーす」

花丸「あ、ようこそ千歌さん!」

6月13日。文芸部の部屋を訪ねると、花丸ちゃんが迎えてくれた。

小説を見せてほしいと頼んでみたのだ。

千歌「急にごめんね」

花丸「ううん。読んでもらえてうれしいずら」

ごそごそと棚を漁りながら、花丸ちゃんが微笑む。


花丸「そういえば、千歌さんは文芸部室は初めてですよね」

千歌「え? 前に一緒に――っと、そうそう、初めて初めて」

花丸「ちょっと前まで先輩がいたんですけど……受験があるからって辞めちゃったずら」

少し寂しそうに、花丸ちゃんが椅子の背を撫でる。

「前」は、ルビィちゃんと2人でこの部屋を使っていた。

けれど、今は。


千歌「……」

ごめんと言いかけた口を閉じる。

文芸部からルビィちゃんを奪ったのは私だった。



花丸「でもね、スクールアイドル部に行ったらルビィちゃんがいるし、千歌さんたちもいるし、マルは寂しくないずら!」

千歌「花丸ちゃん……」

花丸「あ! あったずら!」

花丸ちゃんは棚の下の方から、埃をかぶった封筒を取り出した。

花丸「はい、どうぞ。マルも本を読んでいるので、好きなだけ読んでください」

照れたようにはにかみながら差し出された封筒を、丁寧に受け取る。

中にはびっくりするくらい多くの紙が入っていて、封筒はずっしりと重かった。

これが、花丸ちゃんの「もしも」の夢なんだ。


千歌「これを読んだら、わかるかな」



主人公のハナちゃんは、高校2年生。

黒髪の大和撫子で、自称、地味な子。

合唱部に入っているが、小さい時に見たアイドルの輝きが忘れられない。

無類のアイドル好きだと言う同級生に引っ張られて、何となくスクールアイドル部への転部を決める。

厳しい練習の日々。運動が苦手なハナちゃんは何度も折れそうになり、そのたびに小さい頃に憧れたアイドルに、友達に支えられ、立ち上がる。

はじめて立った文化祭のステージで、自分のやりたいことに心から気づき、歌の才能も開花して――


千歌「……」

ぺらりぺらりと原稿用紙をめくっていく。

花丸ちゃんの文章はとても丁寧で、細かくて。

ハナちゃんの揺れ動く心情が、アイドルに憧れる熱い想いが、自分への自信のなさが、鮮やかに描かれていた。

それはまるで、まるで―――



千歌「よかった、やっぱり、やりたいんじゃん」



聞こえているのかいないのか、花丸ちゃんは穏やかな顔でずっと本を読み続けていた。



――――


千歌「ごめんね。すっかり遅くまで」

花丸「大丈夫ずら! マルも本に集中しちゃってたし……」

慌てて封筒を抱えて、花丸ちゃんは部室の鍵を閉める。

千歌「それ、持って帰るの?」

花丸「はい……」

なぜか花丸ちゃんは浮かない顔だ。


花丸「その、実は今、執筆が上手く行ってなくて。家でもう一回読んでみようと思うんです」

千歌「そうだったんだ……」

花丸「ごめんなさい、急にこんな話」

千歌「ううん、私こそ、何のアドバイスも――」

話しながら、職員室を目指して角を曲がる。



花丸「ひゃっ!」

曲がり角で何かにぶつかった花丸ちゃんが、どさりと封筒を落とす。

中の原稿が飛び出て宙を舞った。

善子「ご、ごめんなさい!」

花丸「あ……善子ちゃん……」

善子「は、はなま――えっと……」

ぶつかったのは、善子ちゃんだった。

花丸ちゃんの名前を呼びかけた善子ちゃんは、なぜか黙り込んでしまった。

気まずい沈黙が廊下に落ちる。


善子「あ、あの、拾うわ。ごめんなさい」

花丸「……ありがとう、善子ちゃん」

ちら、とお互い視線を合わせた後、2人は屈んで原稿を拾い始めた。



千歌「私も手伝うよ!」

善子「あ、確か、曜さんの友達の……」

千歌「そう、高海千歌!」

善子「1年の津島善子です」

床に張り付いた原稿を折らないように拾い上げながら、善子ちゃんは器用に会釈した。

千歌「……」

やっぱり、「この」善子ちゃんはやけに普通だった。

善子ちゃんは黙ったまま原稿を集め、トントンと揃えて花丸ちゃんに渡す。

憮然とした顔で、原稿を睨んでいるようにも見えた。


花丸「ありがとう。ぶつかっちゃってごめんね。怪我はない?」

善子「大丈夫よ。こっちこそ、ごめんなさい」

花丸「……」

善子「じゃあ、私は行くわ」

花丸「よ、善子ちゃん!」

善子「えっと……?」

花丸「あ、ううん、何でもない……」

善子「……そっか」

善子ちゃんはくるりと踵を返して廊下を歩きだす。



何となく、止めなければいけない気がした。

このまま善子ちゃんを見送ってはいけない気がした。

千歌「善子ちゃん!」

善子「え?」

私に呼び止められるとは思っていなかったのか、善子ちゃんは驚いた顔で振り返る。


千歌「えーっと、その、スクールアイドル、興味ない?」

花丸「えっ!?」

善子「は……?」

私の言葉に、隣の花丸ちゃんは短い声を漏らし、善子ちゃんはきょとんとして固まっていた。

そうしてしばらく経った後。


善子「高海先輩って、変わった人ですね」

それだけ言って、善子ちゃんは去って行った。



――――


花丸「どうしてあんなことを?」

千歌「うーん、Aqoursに入ってほしかったから」

花丸「善子ちゃんに?」

千歌「2人に、かな」

花丸「2人……?」

千歌「ね、花丸ちゃん」


千歌「花丸ちゃんは、興味ないの? アイドル、やってみない?」

花丸「え゛」

千歌「ほ、ほら、小説のためにもなるかもしれないし!」

花丸「……」

花丸ちゃんは意外そうな顔で、ぽかんと私を見上げていた。

千歌「あ、ごめんね、急に……」

Aqoursのメンバーが増えれば「移動」する。

それがはっきり分かっただけに、どうしても先を急いでしまっている。

花丸「……」

千歌「ほら、取材だったら、いつでも」


花丸「千歌さん」

強い声で呼び止められる。

花丸ちゃんは、どこか熱っぽいような、それでいて遠い目をしていた。


花丸「お試しでも、いいですか?」




―――――

―――



◇―――――◇


ルビィ「うわあ! かわいい! かわいいよ花丸ちゃん!」

花丸「う、うぅ、オラ、恥ずかしいずら……」

曜「いやあ、こんなに似合うと何を作ろうかわくわくしちゃうね!」

翌日。

律儀に部室に来てくれた花丸ちゃんは、使っていない衣装を試着していた。

感激したルビィちゃんがぴょんぴょんと跳ねている。


千歌「ね、やっぱり大丈夫だって、花丸ちゃん」

花丸「そ、そうかな……」

梨子「千歌ちゃんが急に連れてきたからどうしたのかと思ったけど……。よかったの、曜ちゃん?」

曜「私は花丸ちゃんさえよければ大歓迎だよ!」

花丸「え、えへへ……」

ルビィ「でも、どうして急に来てくれたの?」

花丸「ち、千歌さんに誘われて」

ルビィ「むーっ、ルビィが誘っても来てくれなかったのに……」

花丸「ごめんずらルビィちゃん! 別に、変な意味はなくって……!」

ルビィ「えへへ、わかってるよ。一緒にやれて、嬉しいんだぁ」

2人は仲良く笑い声をあげた。


――――


ルビィ「千歌さん!」

練習後、ルビィちゃんがたたっと駆け寄ってきた。

花丸ちゃんは衣装の採寸をすると言って、曜ちゃんと一緒に帰っていった。


千歌「ルビィちゃん、どうしたの?」

ルビィ「あの、花丸ちゃんについてなんですけど……、どうして来てくれたんですか?」

千歌「へ? あー、私が誘って、そしたら来てくれるって」

ルビィ「でも、ルビィがAqoursに入るときは、文芸部の活動が大事だからって」

ルビィ「まだ小説出来てないのに、よかったのかなぁ……。嬉しかったけど、ちょっぴり心配なんです」

千歌「うーん……」

昨日の花丸ちゃんを思い返す。

最後、遠い目で花丸ちゃんは何と言ったんだったか。


千歌「あのね、実は、お試しなんだ」

ルビィ「お試し?」




―――――

―――


―――

ルビィ「そっか、そうだったんだ……。だから、花丸ちゃん」

千歌「……?」

妙に納得した様子で、ルビィちゃんは俯いた。

ルビィ「花丸ちゃんと津島さん、幼馴染らしいんです」

千歌「……そうなんだ」

聞いたことがある。確か幼稚園が一緒だったと言っていた。


ルビィ「それで、花丸ちゃんは仲良くしたいみたいなんですけど、クラスでは少しグループが違っていて……」

千歌「花丸ちゃんと善子ちゃんが?」

「元の」世界では、いつも一緒だった。

善子ちゃんと、花丸ちゃんと、ルビィちゃん。

3人が一緒にいないというだけで、違和感があった。


ルビィ「津島さんはクラスの中心で、いつも楽しそうなんです。ルビィたちは、どっちかというと、端の方で……」

ルビィ「でも、きっと花丸ちゃん、一緒にやりたいんじゃないかなぁ。だから、千歌さんの言葉を聞いて来てくれたんじゃないかなって、思うんです」

2人とも、入ってくれたりしないかなぁ。

ルビィちゃんはそう言って、また笑った。



「この」世界の善子ちゃん。

普通な善子ちゃん。

クラスの中心にいる善子ちゃん。

それが、善子ちゃんが描いた「もし」なのかな。

堕天使はやめちゃったのかな。


千歌「だとしたら、ちょっと寂しいな……」

あれは、善子ちゃんの輝きだったから。

私たちは、そんな善子ちゃんが好きだったから。

花丸ちゃんの小説に出てくる「幼いころに憧れたアイドル」は、きっと善子ちゃんのことだから。


千歌「だからさ、誘いに行かなくちゃ」

ルビィ「うゅ?」

毎日だって、通うんだ。

どこかで「梨子ちゃん」がくすりと笑った気がした。



――――


善子「驚きました。本気だったんですね」

6月17日。善子ちゃんに会いに来た。

教室に現れた私に善子ちゃんは目を見張り、そしてちらちらと友達を気にしながら近寄ってきてくれた。

千歌「本気だよ。善子ちゃんとやりたいんだ、スクールアイドル」

善子「……どうしてですか、高海先輩」

千歌「千歌でいいよ」

善子「じゃあ、千歌先輩。なんで、私なんですか?」

千歌「うーん、綺麗だから?」

善子「……」

釈然としないとばかりに、善子ちゃんは腕を組んだ。


善子「あの子は、どうするんですか?」

千歌「あの子?」

善子「えっと、はなま、その……」

千歌「花丸ちゃん?」

そう聞くと、善子ちゃんは恥ずかしそうな顔でこくりと頷いた。



千歌「昨日ね、練習に来てくれたんだ」

善子「ほ、ほんとですか!」

千歌「善子ちゃん?」

善子「あ、ご、ごめんなさい。でも、そっか。アイドル、始めたんですね」

千歌「まだ、お試しだけどね。私は善子ちゃんにも入ってほしいな」

善子「……」

善子ちゃんは目を落とした。

善子「少し、考えさせてください」

千歌「……うん、わかった。また来るね。Aqoursに関係なくても、何でも言ってね!」

善子「……」


善子「あの、千歌先輩!」

千歌「へ?」


善子「千歌先輩は、曜さんと、仲いいんですよね」

千歌「曜ちゃんと? うん、小さいころからずーっと一緒で――」

言いかけて、「曜ちゃん」の叫び声が胸を刺した。

私が仲良しだったのは、「違う」曜ちゃんだった。

この世界の曜ちゃんも、なかったことにしてしまうのだと、わかっていた。

それでも。


千歌「私は曜ちゃんのこと、大好きだよ」

善子「……そう、ですか」

善子ちゃんは、少し羨ましそうに目を細めた。



――――


その日から毎日、善子ちゃんはAqoursの練習を遠くから眺めるようになった。

本人は隠れているつもりのようだったけれど、バレバレだった。


曜「今日も来てるね。善子ちゃん」

梨子「ほんとだ。ふふっ、お団子見えてる」

花丸「善子ちゃん……」

ルビィ「えへへ」

言葉には出さないけれど、花丸ちゃんは嬉しそうだった。

曜「はいはい、じゃあ今日も練習終わり! 千歌ちゃんはまた善子ちゃんのところ?」

千歌「うん、ごめんね」

曜「大丈夫! こっちは任せて!」


練習が終わるたびに善子ちゃんと話に行くのが日課になっていた。

善子ちゃんは毎回、偶然ね、なんて白々しいことを、目も合わせずに言ってくる。

そういう所は「元の」善子ちゃんと変わっていなかった。



私が善子ちゃんを気にしているからだろうか、練習は曜ちゃんが仕切ってくれていた。

千歌「やっぱり、曜ちゃんは頼りになるなあ」

盆踊りがあった「あの日」から、随分長い時間が過ぎた気がする。

少しずつ形を取り戻していくAqoursに、安堵のようなものを感じていた。


善子「曜さんが?」

「偶然」会った善子ちゃんが聞き返してきた。

千歌「うん、そうなんだ! 曜ちゃんはすごいんだよ。水泳も上手だし、衣装も作っちゃうし」

善子「器用なのね」

だいぶ打ち解けたらしい善子ちゃんは、最近少し乱暴な口調になった。

千歌「そんなに曜ちゃんが気になるなら、直接話せばいいのに」

善子「曜さんとはバスでたまに話すわよ」

ぷいっと顔を背けられる。


善子ちゃんは、なぜか曜ちゃんや梨子ちゃんの話を聞きたがった。

どこに遊びに行ったとか、普段どんな話をしているだとか、詳しいことまで興味を持った。



千歌「ねえ善子ちゃん。どうしてそんなに2人のことが気になるの?」

善子「……」

善子「バスの中でね、曜さんが話してくれるのよ」

千歌「曜ちゃんが?」

善子「そう。千歌さんのこと、梨子さんのこと、スクールアイドルのこと。たくさんたくさん、飽きちゃうくらい」


善子「私ね、今まで誰かと何かに打ち込んだことなくて。部活もしてないし……」

「前の」世界では、善子ちゃんは水泳部に入っていた。

それは「曜ちゃん」が誘ったからだった。


善子「色んな部活を見ても、どれも違う気がして」

千歌「スクールアイドルには、興味あるの?」

善子「す、少しだけよ」

善子「とにかく、千歌さんたちみたいなの、憧れて……」

千歌「でも、クラスにはたくさん友達がいるんだよね?」

善子「……たぶん。皆だって、大事よ」

善子ちゃんは照れたようにはにかんだ。

千歌「……そっか」



善子「でも、あの子とは、あんまり……」

千歌「花丸ちゃん?」

善子「実は、1回だけ文芸部も見てみようと思ったの。あの子がいるから」

千歌「え、そうだったんだ」

花丸ちゃんやルビィちゃんは一言も話さなかった。

会わなかったのだろうか。

善子「でも、途中で辞めたわ」

千歌「……どうして?」

善子「小説を、読んだから」

千歌「小説?」

聞き返したけれど、さあさあと流れる風の中、善子ちゃんは黙ったままだった。


善子「だからね」

帰り際、善子ちゃんは小さく呟いた。

善子「千歌さんが誘ってくれて、嬉しかった」


千歌「……」

千歌「ねえ、善子ちゃん、今度よかったら――」



――――――

―――



――――


梨子「えーっと、これが紙で、糊付けはこうで……」

梨子ちゃんが和紙をくるくると丸めながら、眉を寄せている。

ルビィ「曜さん! こっちはできました!」

曜「こっちも完成! 綺麗に飛ぶかなあ……?」

ルビィちゃんと曜ちゃんが完成品を並べている。さすが衣装組、仕事が速い。

6月21日、私たちはランタンを作っていた。

ダイヤさんに学校を宣伝するためのPR動画を作ってほしいと依頼されたのだと、曜ちゃんは言った。

ランタンを使おうと言ったのは私だった。

徐々に記憶と重なっていく活動に、浮き立つような気持ちだった。

私はしょっちゅう、わいわいとランタンを作っていた「あの頃」を思い出していた。


花丸「ランタンを飛ばすなんて、素敵な案ずら!」

梨子「そうだね。千歌ちゃんらしくはないかも」

千歌「失礼な!」

どこかでしたような会話をしながら、紙に糊をつける。



「し、失礼します」

コンコンというノックの音とともに、扉が開いた。

善子「えっと、その……」

千歌「善子ちゃん! 来てくれたんだ!」

善子「その、見学っていうか、手伝うっていうか……」

口ごもる善子ちゃんに、私たちは顔を見合わせてくすりと笑った。


曜「ようこそ、善子ちゃん!」

ルビィ「津し――ううん、善子ちゃん! ルビィと一緒にランタン作ろう! ほら、花丸ちゃんも!」

善子「ちょっと黒澤さん!」

ルビィ「ルビィでいいよ!」

善子「えっと……る、ルビィ」

ルビィ「えへへ」

ルビィちゃんが善子ちゃんの制服の裾を引っ張り、花丸ちゃんのところへ連れて行く。



花丸「……善子ちゃん」

善子「は、花丸」

花丸「別に、昔のあだ名でもいいずらよ」

善子「あれは、もう……!」

花丸「冗談ずら! オラ、善子ちゃんが来てくれて、嬉しいよ!」

善子「……そっか」

ルビィ「よかったね、花丸ちゃん!」



梨子「……なんだかあの3人、前から仲良しだったみたい」

ほわほわと笑う花丸ちゃんと、優しい目をしたルビィちゃんと、そっぽを向く善子ちゃんと。

穏やかに、暗くなるまで3人でランタンを作り続けていた。



―――――

―――



◇―――――◇


コツコツと、2人分の足音が廊下に響く。

スピーカーからは、下校を促す鞠莉さんの声が流れていた。

私の前を歩く善子ちゃんは、ぼうっと廊下の壁を眺めていた。


花丸ちゃんと善子ちゃんは楽しそうだった。

このまま、スクールアイドルを始めてくれるかな。

揺れるお団子を目で追いながら、そう考えていた。


善子「……千歌さん」

千歌「なあに、善子ちゃん?」

善子「ありがとう」

千歌「へ?」

善子「今日、楽しかったから」

千歌「……そっか、よかった」

善子「でも、1つだけ教えてほしいことがあるの」

千歌「教えてほしいこと?」

善子「千歌さんは、どうして私を誘ったの?」

千歌「……」

なぜだか、その質問には答えたくなかった。

私が必死で隠してきたものがばれてしまうような、そんな気がした。




善子「千歌さんは、私が、その、綺麗だって」

千歌「うん」

善子「でも、おかしいわ。こんな時期に誘うなんて、普通じゃない」

千歌「そう、かな」

善子「それに一週間練習を見ていて、思ったの」

善子「千歌さんは、どこか一歩、引いてるんじゃないかって」

千歌「え……?」

善子「なんだか、たまにぼうっとして、皆と違う方向を向いて……」

善子「まるで、どこかに行っちゃうみたいに」

千歌「……っ」

どきりとした。

善子ちゃんの言う通りだった。

Aqoursが記憶に近づいていくにつれて、練習中ふとした瞬間に思い出がよみがえることが増えていた。

その度に、私ははるか昔の未来を想って、動きを止めてしまうのだった。



善子「だから、教えてほしい。千歌さんは、どうして私に声を掛けたのか」

まっすぐな視線を受け止めきれずに、下を向く。

どうして、こんなに苦しいのだろう。

私は信じて前に進むだけなのに。

「梨子ちゃん」の寂しそうな顔が、「曜ちゃん」の絞り出した声が、「ダイヤさん」の震える瞼が、「ルビィちゃん」の零した涙がよみがえってきた。


千歌「……どうしても?」

善子「どうしても」

千歌「善子ちゃんには、信じられないかも」

善子「信じるわ」

千歌「……」


善子「お願い、千歌さん」

縋りつくような善子ちゃんの声に、私は目を閉じた。


あのね、善子ちゃん、私ね―――






―――――――

―――――

―――



――――


善子「……」

善子「私たちの、『もしも』の夢……」

善子ちゃんは、それ以上言葉が出ないようだった。


千歌「隠してて、ごめんね」

善子「……」

千歌「でもね! 善子ちゃんがいい子だって知ってるし、堕天使だって、善子ちゃんの魅力だったし!」

善子「堕天使……」

千歌「そ、そうだよ! 善子ちゃんは堕天使ヨハネって名乗ってて、それで」

善子「何よそれ……」

千歌「でも、それが善子ちゃんの魅力なんだよ! だから私、善子ちゃんを――」


善子「千歌さん」

千歌「……っ」

私の言葉をさえぎって、善子ちゃんは震える声を出した。


善子「そうじゃないかって、思ってた。何か隠してるんじゃないかって。おかしいおかしいって、思ってたわ」

善子「でも、信じたかった。一緒にスクールアイドル、やりたかった」


善子「ねえ千歌さん」

善子「私、やっぱりスクールアイドルはやれないわ」



千歌「どう、して……?」

善子「だって、だって……!」

善子ちゃんが、壁に貼られた校内新聞をくしゃりと握る。


善子「だって、結局同じなんじゃない! 千歌さんも、花丸も! 結局一緒じゃない!」

千歌「え……?」


善子「昔の私が輝いてた……? 知らないわよそんなの! 堕天使ヨハネ……? そんなの中学校に上がる前に卒業したわよ!」


善子「『私』を見てよっ!」


力強い善子ちゃんの声が、私の肺をきゅっと鷲掴むようだった。



善子「変わりたくて変わったのよ! 変わる努力だってしたのよ!」

善子「それを何よ、今さら、幼稚園の方がよかったとか、他の私の方が輝いてるだとか……!」

善子「だったら、今の私は何なのよ! これまでの私は何なのよ!」


善子「どうしようもなく普通だったけど……っ、これまでの思い出はどうなるのよ……っ!」

千歌「善子、ちゃん……」


ぽろぽろと頬を濡らす善子ちゃんを見て、言葉が出なかった。

そっか。だから小説を読んで、文芸部に入らなかったんだ。

だから、スクールアイドルはできないんだ。

わかっていたはずなのに。

「元の」世界と「ここ」とは違うと、「曜ちゃん」に教えてもらったはずなのに。



善子「嬉しかった! 私のこと誘ってくれて、普通な私でも必要としてもらえてるんだと思えて、嬉しかった!」

善子「一緒にやりたいと思ったの! 花丸とだけじゃないわ、ルビィとも、千歌さんとも、スクールアイドル……っ!」


善子「なのに、千歌さんが誘ったのは『私』じゃない! 花丸が書いているのは『私』じゃない!」


善子「私はキラキラしたアイドルでも、堕天使ヨハネでもない!」

善子「皆が想う私なんて、もうどこにもいないのよっ!」


善子「なのに……っ、なのに…っ――」



善子「千歌さんになんか、会わなければよかったっ! あんな小説、読まなければ――……っ!」


そこまで善子ちゃんが言いかけた時だった。

どさりと、何かが落ちる音がした。


花丸「――善子、ちゃん」


善子「ぁ……」


振り返ると、スクールバッグを落として立ち尽くす花丸ちゃんがいた。

隣でルビィちゃんがおろおろしている。



花丸「ごめん、ごめんね、善子ちゃん……。マル、気づかなくて。善子ちゃんのこと、傷つけて」


善子「はな、まる……」


花丸「もう、いいから。無理にマルと話さなくても、小説も、読まなくてもいいから。もう、書かないから。だから……っ」

善子「ち、ちがう、違うの花丸、私、ただ……!」


花丸「…っ!」


善子「花丸!」

ルビィ「は、花丸ちゃんっ!」

2人の制止を振り切って、花丸ちゃんは姿を消した。



善子「ごめ、ごめんなさい……っ」

善子ちゃんは伸ばした手をだらんと下ろす。


千歌「よ、善子ちゃん……」

善子「私、私、ひどいこと……花丸にも、千歌さんにも……っ」

善子「このままじゃ、花丸がやめちゃう。あんなに小説、人気だったのに。あんなにアイドルに、憧れてたのに」

善子「私のせいだ、私の――」


違う。善子ちゃんは悪くない。

善子ちゃんにそれを言わせてしまったのは、私なんだ。

そうやって声を掛けようとしたが、喉が震えて上手く動かなかった。


ルビィ「善子ちゃんっ!」

善子「ルビィ……ごめんなさい、私、花丸に……」

ルビィちゃんが善子ちゃんの手を握る。



ルビィ「善子ちゃん。ルビィね、善子ちゃんとは高校からだし、花丸ちゃんとのことはよくわからないけど……」

ルビィ「でもね、楽しかったよ! 今日一緒にランタン作って、お話して、どんな曲が好きとか聞けて、楽しかったよ!」

善子「ルビィ……?」

ルビィ「何でもない会話だったかもしれないけど、ルビィは善子ちゃんと話したかったんだもん!」

善子「……でも、私は花丸に、あんなこと……」


ルビィ「花丸ちゃんがね、言ってたんだ」

ルビィ「善子ちゃんに会ったら、お礼を言いたいって。小さい頃に、善子ちゃんに憧れたから今の自分があるんだって」

善子「……でも、それは」

ルビィ「結局自分は恥ずかしがり屋で、踊りも上手じゃなくて、善子ちゃんは幻滅しちゃうかもしれないけど……」

ルビィ「それでも色んな事を経験してきた、だからまた、善子ちゃんと仲良くしたいって」

ルビィ「あんなこともあったかなって、笑い合えるような友達になりたいって!」

善子「……!」


ルビィ「だから、追いかけてあげて? 花丸ちゃんは、きっと待ってる。きっと、待ってるから」

ルビィ「ルビィは、3人一緒が楽しかったから」



善子「ルビィ……」

ルビィ「大丈夫だよ。善子ちゃんなら話せるよ。花丸ちゃんと話せるよ」

ルビィちゃんが善子ちゃんを抱きしめる。

善子「……」

善子「……ルビィ、私、行くから。ちゃんと、話すから。次に会うときは、3人だから」

ルビィ「……うん」

それだけ言うと、善子ちゃんは花丸ちゃんの消えた方に走っていった。


ルビィ「……千歌さんも」

千歌「え……?」

ルビィ「花丸ちゃんと善子ちゃんを結んだのは、千歌さんだから」

千歌「ルビィちゃん……」

ルビィ「2人のこと、お願いします」

ぺこりと、ルビィちゃんが頭を下げる。


千歌「……ありがとう」


千歌「私、行くね」





―――――

―――



――――


文芸部室は、既に足元もよく見えないくらい真っ暗だった。

息を整えて入ろうとすると、善子ちゃんが恐る恐る部屋の奥に踏み込んだところだった。


善子「花丸……?」

花丸「……」

花丸ちゃんは背中を向けて椅子の上に体育座りをしていた。


善子「あの、はなま――」

花丸「善子ちゃん」

花丸「マルは、ダメずらね」

善子「え……?」

花丸「『アイドルが大好きな友達』のこと、困らせて。『小さい頃に憧れたアイドル』のこと、傷つけて」

花丸「マルは、やっぱりただのマルだったずら。『ハナちゃん』にはなれない、ただのマル」

善子「花丸……」



花丸「ごめんね、善子ちゃん。マル、ただお礼が言いたくて。こんなに大事な思い出なんだよって、言いたくて」

花丸「小説だって、そのためだったんだ。気づいてほしくて、思い出してほしくて、マルを見てほしくて。それで、仲良くなりたくて」

善子「私、普通の高校生よ。何の特技もなくって、何の特徴もない、ただの善子。それでも……?」

花丸「……うん。マルが仲良くなりたいのは、善子ちゃんずら」


善子「花丸は、昔の私じゃないとダメなんだと思ってた。夢だって見たわ。黒い服を着て、蝋燭なんか振り回してる、変な夢」

善子「私も、そうならなきゃダメなのかと思ってた。なれなくて、つらかった」

ゆっくりと花丸ちゃんが振り向いた。


善子「ごめん、あんなこと言うつもりじゃなかった。ただ、私を見てほしかった。今の私でも、もう一度仲良くなれたらそれでいいって……」

花丸「善子ちゃん……」


花丸「ふふっ、マルたち、ちゃんと話してなかっただけみたい。お互い、勝手に想像し合って、すれ違って」

善子「……そうね」



花丸ちゃんと、善子ちゃん。

ゆっくりと、自分のことを伝えあっている。

これまで抱いてきた想いを伝えあっている。


それぞれが生きてきた過去が積み重なって今がある。

確かに今を生きている。


なかったことになってるんじゃない。

「梨子ちゃん」や「曜ちゃん」や、「ダイヤさん」や「ルビィちゃん」は消えてない。

その想いが、言葉が、私の中に残っている。「皆」は確かにあの時を生きていた。


そして私も、ほんの一瞬でも一緒に生きていた。

今までたくさんのAqoursと出会って、別れて。

そうやって、私は今ここにいるんだ。全部全部、繋がっているんだ。



向かい合って、2人が話し続けている。

お互いの過去を交換している。


善子「ルビィがね、3人一緒がいいって、そう言うの」

花丸「ルビィちゃんが?」

善子「ええ、そうよ……だから、あー……、ごほん」

善子「く、ククク……! 今からあんたは堕天使ヨハネの、そのー、そう、リトルデーモンよ! もちろん、ルビィもなんだから!」

花丸「……」

花丸「大丈夫?」

善子「な、ななっ! たまには付き合ってあげてもいいって、そういう話じゃない! 普段は今の私でいいなら、たまにはって、そういう……!」

花丸「マルにそんな趣味はないずら」

善子「なっ、ちょっと!」

花丸「……ふふっ」

善子「……もうっ」

目を真っ赤にして、2人がふっと笑みをこぼした。





――――――

―――



――――


善子「……千歌さん」

千歌「善子ちゃん、ごめんね。私、善子ちゃんのこと……」

善子「許さないわ」

千歌「善子、ちゃん……」

善子「だからね千歌さん、話しましょ。これまでのこと、お互いのこと」

花丸「うん、千歌さん。話したら分かり合える。マルたちはたった今、それを学んだずら」

千歌「……うん!」


それから、私たちはずっと話していた。

警備員のおじさんに見つかってからは、近くのバス停に腰かけてまで。


私の話、善子ちゃんの話、花丸ちゃんの話。

何でもない日常の話、家族の話、Aqoursの話、私の不思議な旅の話。


たくさんたくさん、話し続けた。



私たちは、自分の奥の奥に手を伸ばして、少しずつ見せては引っ込め、見せては引っ込めを繰り返していた。

2人の想いが、しとしと私の胸に染み込んでくる。刻み込まれていく。

それは「元の」2人と同じようで違っていて、違うようで同じだった。


私が行ってしまっても、2人の想いは無駄じゃない。

2人は生き続ける。

そして2人の想いは、それぞれの過去と結びついた「皆」の想いは、私を通して続いていくんだ。


だからだろうか、自然と言葉が口から漏れた。


千歌「私、皆ともやりたかったな、スクールアイドル」



善子「千歌さん……」

一瞬言葉を詰まらせ、善子ちゃんは寂しそうに笑った。


善子「……ありがとう。私、それだけで十分よ」

千歌「……」


善子「……平気よ! 千歌さんがいなくたって、平気なんだから」

善子「花丸とルビィが言ってくれるの。私と仲良くしたいって」

善子「だからきっと、大丈夫。私、やっていける」

善子「だから、ね、花丸」

花丸「……うん」



「「私たち、スクールアイドル、始めます」」



少しだけ枯れた声が響いた瞬間、光が満ちた。



花丸「これが、千歌さんが言ってた……!」

善子「お別れ、なのね」

花丸「どうしても、行っちゃうの……?」

千歌「ごめんね、私、行かなきゃいけないんだ」

花丸「せっかく、話せたのに……」

千歌「話せたから、大丈夫。皆の言葉を聞けたから」


白い光はどんどんと強くなっていく。


善子「……あれは」


角が錆びついた標識の上、ひらひらと紙が落ちてくる。



『入部届 津島善子』


『入部届 国木田花丸』



花丸「……」

受け取った花丸ちゃんが、不思議そうに栞のような『入部届』を眺めている。



善子「これを渡したら、お別れなのよね。千歌さんは、そのために来たのよね」

千歌「……うん、そうだよ」

善子「じゃあ、はい、これ」

花丸「千歌さんは、不思議な人。マルの話を聞いてくれて、善子ちゃんを連れてきてくれて。マルたちを、繋げてくれた。なんだか、魔法使いみたい」

千歌「私は、何もしてないよ」

花丸「……ううん。千歌さんにもお礼を言いたいんだ。千歌さんは行っちゃうのかもしれないけど……、マルの話を聞いてくれて。マルと、お話してくれて」

花丸「だから、はい、これ」


善子ちゃんと花丸ちゃん。

2人が『入部届』を差し出してくれる。


これに触れば先へ進める。

また、Aqoursを少し取り戻せる。

けれど、同じくらい大事な2人が目の前にいる。同じくらい大事な8人が「この世界」にいる。



2人に手を伸ばす。

ぐらりと視界が歪む。



千歌「―――ありがとう……」


善子「……忘れないで、私たちのこと。私たちが過ごした時間は、消えないから。目にした景色は、交わした言葉は、消えないから」

善子「『ここ』も、千歌さんの過去だから。『ここ』も、消さないでほしいから」

千歌「……うん。絶対に消さない。2人のこと、Aqoursの皆のこと、絶対に忘れない」



花丸「……忘れないよ、千歌さんのこと。千歌さんと過ごした時間は、マルたちの中からも消えないから」

千歌「……花丸ちゃん、ありがとう。私ね、小説最後まで読みたかったな」

花丸「うん、うん……。でも、千歌さんなら見つかるよ。自分の物語、見つけられるよ」

花丸「ページを埋めて、その先まで。きっとその先に、奇跡があるから」



どんどんと光が強くなっていく。

視界には何もうつらなくなっていく。

自分の声が何重にも響いていく。


きっと、すぐにまた会える。

だけど、違うんだよね。「ここ」も、消しちゃダメなんだよね。なかったことにはならないんだよね。

だから。


善子「……それじゃあ」

花丸「千歌さん」




千歌「……さよなら」


私は初めてそう言ったんだ。





―――――――

―――――

―――



◇―――――◇


見慣れた部室の中、私のそばには8人が座っている。

紙を丸めたり、糊をつけたり、紙に何かを書いていたり。


善子「それにしても、ランタンの材料が余ってて助かったわね」

花丸「うん、本当ずら!」

ルビィ「このランタンに手紙を書いて海に流すんだよね! うわあ……! 綺麗だろうなあ……!」

鞠莉「シャイニーな日になりそうね。小原家も全面バックアップするわ! ……あ、私たちも船に乗るとか、いいんじゃない?」

梨子「そんな適当な……」


くすくすと、笑い声が響く。

その「適当」な案が採用されたことを、私は知っている。

それでもやっぱり、この時のことは覚えていなかった。

痛いほどの既視感だけが、頭をガンガン殴りつけていた。



『『千歌さん』』


声が聞こえる。

天使の羽のような、本のページをめくる音のような、しなやかで、静かな声だった。


『ずっと思っていたの。もし、堕天使じゃなかったら、もし、中学で普通な私になっていたらって』


『教室で何でもない話をしながら盛り上がって、はしゃいで、騒いで。そんな私もあったんじゃないかって』


『でもね、そんなことを想うとき、一緒にいるのはあの2人なのよ。それと、変な格好をしてまで追いかけてきてくれた、千歌さんたちなのよ』


『だから私は、自信を持ちたい。今までの自分に、今までの時間に、育った景色に。きっとそれは、美しいはずだから』







『ずっと思ってたずら。もし、小説なんか書いていたら。もし、スクールアイドルにならなかったらどうなっていたんだろうって』


『皆の足を引っ張っちゃうことも、なかったのかな。練習やライブで迷惑かけちゃうことも、なかったのかなって』


『でもね、善子ちゃんとルビィちゃんが――2人がいるから。友達に憧れて、友達に手を握ってもらったから。世界を見せてもらったから』


『だからマルは何度でも、ふらふらふらふら、この世界に入り込んでしまうんだって、そう思うな』





―――――――

―――――

―――


――――――――――#4「私の今」



◇―――――◇


目が覚めた。

私は何かふわふわしたものに包まれていた。

天井のシミが見える。

カチコチという秒針の音が聞こえる。

私の部屋だ。


志満「千歌ちゃーん? ちょっと手伝ってー!」

志満姉が私を呼ぶ声がする。


千歌「はーい! 今行くね!」


布団をめくり、廊下に出る。

私の部屋で目覚めたのは2回目だ。

最初はもっと混乱していたことを思い出して、くすりと笑う。



志満姉は台所で作業をしていた。

ナスやらきゅうりやらが辺りに散乱している。

志満「おはよう、千歌ちゃん。これ、玄関に置いてきてくれる?」

千歌「これ……」

志満「もう、毎年置いてるでしょ。これに乗って、ご先祖様が行き来するのよ」

大小さまざまな野菜に、4本ずつ割りばしが刺さっている。


志満「月曜は7月盆。8月盆と、どちらの慣習の人も泊まりに来るから、出しておかなきゃね」

千歌「……そっか」

受け取って、玄関へ向かう。

7月12日。

月曜は7月盆。

あの暑い夏の夜は、1か月後。



千歌「何だか、すっごく長い旅をしている気がする……」

それも、あと少しなんだ。

あと2人。

志満姉に言われた通りに、玄関に野菜でできた精霊馬を置く。

何だか前にも、同じことをした気がする。

ずっとずっと前。「4月」に来るより、もっと前。


あの時、私は何を考えていたんだっけ。

千歌「あの時は、東京から帰って来たすぐ後で……」

私は、どうしようもなく悔しくて、不安だった。


千歌「でもね、今なら知ってるよ」

それから3年生が入ってくれること。

9人になって、また歩き出せること。


千歌「まずは皆に出会わなくちゃ」


別れの後には、出会いがある。

それを繰り返して、今の私は「ここ」にいる。

だから、次の挨拶は決まってるんだ。



千歌「そうだよね、皆」


#5「私とスクールアイドル」



◇―――――◇


学校は変わっていなかった。

相変わらず校舎の壁や机は新しかった。

それも初めて「4月」に行った時と比べれば、ところどころに傷が入っていた。


私が呼んだ8人は、不思議そうな顔をしながらも部室に集まってくれた。

気だるそうに椅子に座っている善子ちゃんは、黒いマントを身に着けていた。


果南「千歌、どういうこと? 何で鞠莉までいるわけ」

不機嫌そうに果南ちゃんが指をさす。

鞠莉「私だって呼ばれたんだから仕方ないじゃない」

果南「だいたいここ、スクールアイドル部の部室でしょ。私には関係ない」

曜「でも果南ちゃん、前はスクールアイドルやってたって……」

果南「ちょ、ダイヤしゃべったの!?」

ダイヤ「ええ」

梨子「ま、まあまあ、ここは千歌ちゃんの話を、ね?」



記憶そっくりの会話を繰り広げる3年生に、苦笑いしてしまう。

きっといつでもそうなのだろう。

不器用にすれ違って、お互いのことを変に気遣っている。


曜「それで、千歌ちゃん。今日はどうして?」

千歌「あのね、今日は大事な話があって、呼んだんだ」


千歌「信じてもらえないかもしれないけど、信じてほしい」

千歌「この9人じゃないとダメなんだ。この9人で、したい話なんだ」

千歌「長い長い話になるんだけどね、聞いてほしいんだ」

梨子「千歌ちゃん……?」



千歌「まずは、自己紹介から」



千歌「はじめまして、高海千歌です」




―――――――

―――――

―――



――――


「「「…………」」」


どこかで、蝉の鳴く声がする。

赤みがかった陽光が机を彩る。

しばらく、誰も声をあげなかった。



一番最初に立ち上がったのは、果南ちゃんだった。

果南「……悪いけど、信じられない。帰る」

鞠莉「意気地なし」

果南「なっ、どういうこと!」

ダイヤ「お止めなさいな。鞠莉さんも、わざわざ煽らなくてもよいはずですわ」

鞠莉「……」

果南「……」

ダイヤ「果南さんも、わかっているのでしょう? わたくしも、到底信じられません。ですが、ですが……。千歌さんは知るはずのないことを知っている」

果南「……」

ダイヤ「わたくしは、Aqoursの名前については話していません。鞠莉さんに留学の話が来たことも、話していません」

ダイヤ「それなのに、千歌さんは知っている。それなのに、千歌さんは知らない。鞠莉さんが帰ってきたのは、去年の話ですわ」

千歌「え……?」

鞠莉さんの留学の時期がずれている。

それが、違いなのかな。

果南ちゃんか鞠莉さんの「もし」のヒントなのかな。



ダイヤ「全て千歌さんのお話で説明がつきますわ。千歌さんは、わたくしたちと一緒に過ごして、そして……」

梨子「別の過去に移動した……?」

果南「それが今ってこと? 信じられない」

ルビィ「ルビィは、何がなんだか……」

善子「ぐぬぬ……タイムトラベルだなんて、このヨハネを差し置いて……!」

花丸「善子ちゃん、千歌さんはしたくてしたわけじゃないんだよ」

善子「わ、わかってるわよ!」

ざわざわと、部室が騒々しくなる。

信じる、信じない、そんな言い合いが続いている。


曜「千歌ちゃん」

曜ちゃんの静かな声が部室に落ちた。


曜「千歌ちゃんは、どうしたいの?」


千歌「私は……」



千歌「私は、9人でスクールアイドルがやりたい」


曜「それは、帰れるから?」

千歌「……正直に言うと、それもあるんだ」

千歌「でもね!」

千歌「私は、今ここにいる皆ともやりたいんだ! スクールアイドル!」


梨子「私たちは、千歌ちゃんの知ってる私たちじゃないのに?」

千歌「うん」


たくさんの皆に出会って、別れて、ここまで来た。

出会った仲間は、なかったことになる仲間なんかじゃない。

「皆」との関係が、思い出が、出会いが、別れが、ずっと残り続けるんだ。


千歌「私は皆と踊りたい。今はまだよく知らないけど……。お互い大好きになれるって、知ってるから」



曜「……」

曜「……わかった」

曜「……ううん、本当は難しくてわからないけど、それでも」

梨子「曜ちゃん……?」

曜「私は、千歌ちゃんを信じるよ」

千歌「よ、曜ちゃん! ありがとう……!」

曜「だって、千歌ちゃんが出会った『私』もそうしたんだよね。千歌ちゃんと喧嘩してまで、そうしたんだよね」

千歌「……うん」

曜「たくさんの私が今に繋がっているなら、『私』も信じなきゃ」

梨子「はぁ……」

梨子「曜ちゃんがそこまで言うなら。それに、私も千歌ちゃんのこと、信じたい」

千歌「梨子ちゃん……」

2人の言葉を聞いて、1年生の3人も静かに頷いてくれる。



果南「……」

果南「やっぱり、帰る」

千歌「果南ちゃん!」

果南ちゃんは部室の扉に手を掛けたところで、立ち止まった。

果南「……」

何も言わずに、果南ちゃんは部室から出て行った。


ダイヤ「……」

鞠莉「……バカ」



千歌「話して、くれませんか。ダイヤさん、鞠莉さん」

前は、聞けなかったけれど。

まだ何も、知らないけれど。


千歌「知りたいんです。それで、一緒にやりたいんです」


ダイヤ「……わかりましたわ」



ルビィ「お姉ちゃん……!」

ダイヤ「どの道、近々話さなければと思っていました。あなたたちが東京に行ったからですわ」

ダイヤ「Aqoursは、今苦しんでいる。挫折を味わい、悔しくて、もがいて……だからこそ、話さなければと思っていました」

ダイヤ「わたくしたちも、そうだったから」

鞠莉「……ダイヤ」

ダイヤ「鞠莉さん、よろしいですか?」

鞠莉「私は、別に」


ふいと外を向いた鞠莉さんを横目で見ながら、ダイヤさんは話し始めた。


ダイヤ「そうですわね、どこから始めればいいのか……ですが、やはりここからですわね」



ダイヤ「わたくしたち3人は、親友でした」



◇―――――◇


ダイヤ「高校に入り、また一緒になりました。しかし、廃校の噂を聞きました」

花丸「廃校? この学校が、ずらか?」

ダイヤ「ええ、そうです。今では信じられないかもしれませんが……」

ダイヤ「その噂を聞いたわたくしは、果南さんと鞠莉さんを誘ったのです」

千歌「……スクールアイドル」

それで、3人でAqoursを始めたのだと聞いていた。

けれど、「ダイヤさん」はAqoursは2人だったと言っていた。


ダイヤ「反対したのは果南さんです」

ダイヤ「果南さんは……鞠莉さんは留学するべきだと、そう言いました」

鞠莉「……パパの伝手よ。千歌っちの知ってる私は、ずっと断っていたみたいだけど」

後ろを向いたまま、鞠莉さんが口を挟んだ。


ダイヤ「鞠莉さんは、すぐに留学に行きました」

千歌「……」



ダイヤ「わたくしたちは、約束をしました」

ダイヤ「鞠莉さんが帰って来たら3人でやろうと。一緒に廃校をなくそうと」

鞠莉「……嘘つき」

ダイヤ「……」

一瞬、2人の目が合った。


ダイヤ「……残ったわたくしたちは、2人で活動をしていました。曲を作って、練習して……。順調でした」

ダイヤ「しかし……」

ダイヤさんが物憂げに目を伏せる。

ルビィちゃんが、そっと肩に触れた。


ダイヤ「わたくしが、怪我をしました。練習中のことでした。オーバーワークが祟り、足首を……」

鞠莉さんは留学に行った。

ダイヤさんが怪我をした。


少しずつ「違い」が明らかになっていく。



ダイヤ「果南さんは気づいていました。それで、東京で歌わないことを決めました」

ダイヤ「わたくしたちは、大喧嘩をしました。果南さんと喧嘩したのは、はじめてでした」

ダイヤ「最後の機会でした。早期に廃校を阻止しようと思えば、そこで結果を出すしかありませんでした」

梨子「え、でも……」


ダイヤ「果南さんは、諦めないと言いました。まだ大丈夫、鞠莉さんがもうすぐ帰ってくる。3人でやり直せる。そう言いました」

ダイヤ「そして、去年の夏、鞠莉さんが帰ってきました」



ダイヤ「廃校は、なくなりました」



鞠莉「……」

鞠莉「私が帰ってきた時、浦の星女学院はもうボロボロだったのよ」

鞠莉「ダイヤたちはまだ間に合うと思っていたようだけれど、無理だった」

曜「どうして……?」


鞠莉「……私のせいよ」

鞠莉「私が留学に行ったから、パパは向こうの学校にかかりきりだった。この学校のことが後回しになった」

鞠莉「せめて1年、1年でも私が在籍していれば、もう少し延ばせたかもしれないのに」

千歌「そう、だったんだ……」


鞠莉「帰って来てすぐに、2人のことを聞いたわ。怪我があって、厳しい状況だって」

鞠莉「廃校を止めるために他の手段も考えているって。それこそ、生徒会とかね」

鞠莉「だから、投資したの」

鞠莉「パパに頼み込んで、校舎の外装から、備品や、学校周辺の施設にまで」

千歌「だから……、だから『ここ』は……」


だから、学校は変わっていたんだ。

新しい机と椅子。見たことのない自動販売機。真っ白の塗装。

きっと細かいところはもっと変わっている。

鞠莉さんだったんだ。



善子「何でそこまでして……」

鞠莉「廃校がなくなれば、続けられるでしょ?」

ダイヤ「……」

鞠莉「きっかけは廃校阻止のためだったわ。でも、2人がSchool Idolをやっていたのはそれだけが理由じゃなかった」

鞠莉「ダイヤと果南はSchool Idolが大好きだった。続けたかった。私もやってみたいと思った。だから、続けられるように手を打ったの」



ダイヤ「……果南さんは、怒りました」

ダイヤ「今まで見たことがないくらい、怒りました。もうやらないと言って、スクールアイドルを辞めました」


ダイヤ「それからは……」


鞠莉「ご覧の通り、ね」

おどけた調子で、鞠莉さんが結んだ。

部室にまた沈黙が落ちる。


違いは、驚くほど単純だった。

鞠莉さんはすぐに留学に行った。果南ちゃんはそれを後押しした。

たったそれだけで、大きな違いが生まれてしまった。



鞠莉「私は、失望したの」

いつの間にか、鞠莉さんがまっすぐこちらを見ていた。

鋭い視線に、いつかの理事長室でのように息が継げなくなる。


鞠莉「School Idolに、果南に、失望したの」

千歌「……」

鞠莉「School Idolは、その程度だったの? 廃校阻止っていう目的がなくちゃ、続けられないの?」

鞠莉「ただの手段だったの? 目的を達成したら、辞めてもいいの?」

鞠莉「3人でやろうと言ってくれたのは、嘘だったの?」

鞠莉さんが早口でまくし立てる。

瞳が夕日を映して鈍く光った。

ダイヤさんが、眩しそうに顔を逸らす。



鞠莉「School Idolがその程度なんだったら、やる意味なんかない」



鞠莉「ねえ千歌っち。……どうして、School Idolなの?」



―――――

―――



――――


私はどうしてスクールアイドルをやっているんだろう。

私たちは、どうしてAqoursをやっていたんだろう。


あの暑い暑い夜、私はどんな気持ちで内浦の海の上に立っていたんだろう。


千歌「なんだか不思議な気持ちだったような……」

Aqoursの皆と踊ったことを思い出す度、きゅうきゅうと胸が締め付けられた。

私は楽しかったのかな。嬉しかったのかな。それとも――。


帰り道でも、ずっと考えていた。

歩きながら、ぺらぺらと歌詞ノートをめくっていた。


1曲1曲、頭の中で歌いながら歩き続けた。

この世界の私は、どんな想いで歌詞を書いていたんだろう。

そして私は、どんな想いで……。


千歌「……」

家について、ドアを開けた。



志満「あら、お帰り千歌ちゃん。果南ちゃんが来てるわよ」



――――


果南「千歌」

私の部屋のベッドの上、果南ちゃんは座ったまま首をこちらへ向けた。

千歌「ひどいよ果南ちゃん。勝手に乙女の部屋に入るだなんて」

果南「志満姉が案内してくれたんだよ。それに乙女って……?」

千歌「あー! 失礼な!」

果南「……」

果南「……ふふっ」

困ったように果南ちゃんは笑った。


果南「あー、千歌が相手だとやりにくいな。鞠莉相手だったら、ずっと真顔でいられるのに」

千歌「ほんとに?」

果南「どういう意味?」

千歌「べっつにー。果南ちゃんは相変わらず変なところで意地っ張りだなって」

果南「……帰る」

千歌「冗談だよ。いや、冗談じゃないけど」

千歌「でもさ、どうして急に?」

尋ねると、果南ちゃんはきゅっと眉を上げた。



果南「聞きたいことがあるんだ」

千歌「うん、なあに?」

果南「千歌は、どうしてスクールアイドルをやってるの?」


千歌「……」


果南「今日言ってたよね。千歌は別の未来から来たって。私は、信じてないけど」

最後の一言だけ、語調が強い。

果南「でもさ、もしそうなら――」


果南「千歌は、廃校になるかもしれない世界に戻ろうとしてる」

千歌「……うん、そうだよ」


果南「どうして?」


千歌「また、9人で踊りたいから」



そう言うと、果南ちゃんは苛立たし気に息を吐いた。

果南「千歌、ダイヤと鞠莉から話聞いたんでしょ?」

千歌「うん、聞いたよ」

果南「だったらわかるでしょ。スクールアイドルじゃ廃校は止められない」

千歌「わかんないよ」

果南「わかるよ。あれだけ頑張って、不安で、怖くて、悔しくて」

果南「それなのに、無駄だったんだよ」

果南「私たちのやってきたことは、鞠莉が一瞬で解決しちゃった」

果南「はじめから、そうしておけばよかった。はじめから、スクールアイドルなんか――」

千歌「果南ちゃんっ!」

果南「……っ」


千歌「ダメだよ、果南ちゃん。それは言っちゃダメ」

果南「どう、して……? 私は……っ」

果南ちゃんの目尻が、どんどんと湿り気を帯びる。



果南「私は……っ! 3人でやりたかった!」

果南「鞠莉が帰って来て、3人でだったら何でもできるって、そう信じてた!」

千歌「果南ちゃん……」

果南「それなのに、鞠莉は、鞠莉は……!」


果南「私たちの活動が無駄だったって言うみたいに、お金で全部解決して……っ!」

果南「曜たちだってそうだよ。あんなに頑張ってたのに。東京で悔しい思いして……」

果南「スクールアイドルを続けても、意味なんかない。奇跡なんか、起きない」

千歌「……そんなことないよ」

果南「どうしてそう言い切れるの」

拗ねたような声で、果南ちゃんは聞いた。


果南「どうして、信じられるの? それとも千歌の知ってる私たちは、すごいスクールアイドルなの?」

千歌「ううん。おんなじだよ、果南ちゃんたちと、おんなじ」

千歌「それでも、私はスクールアイドル、辞めないよ」



果南「不安じゃないの……?」

果南「どうして、ここまで来たの? 苦しくて、寂しくて……それなのに、どうして」


私は、どうしてここにいるんだろう。

私たちはあの始まりの夜、何を思っていたのだろう。

嬉しいような、楽しいような、ううん、それだけじゃない。


千歌「不安だったよ。ううん、今も」

そうだ、私はあの時、不安だった。


千歌「このままでいいのかなって思って。これでよかったのかなって不安に思って」

千歌「だから、私はここに来たのかも」

果南「……どういうこと?」

千歌「あの日……私の旅が始まった日」

千歌「私たちは『過去を想う日』を過ごしてた」

果南「……」

千歌「私たちは皆、過去を想ってた。ううん、過去に憧れてた」

果南「憧れてた……?」

千歌「こうだったらよかったのに。こうだったら、もっと上手くいったかもしれないのにって」

千歌「もしもこうだったらって、手紙なんて送って。だから私は、『4月』に着いたんだと思う」

真相なんて、わからないけれど。



果南「もしも、こうだったら……」

千歌「そこには、Aqoursはなくて。皆の『もしもの夢』だけが叶ってた」

果南「そこから、どうしてここまで……」


私は、どうしてここまで進んで来れたんだろう。

どうして、今ここにいるんだろう。「9人」という奇跡を、諦めずにいられるんだろう。


千歌「……」

果南「……」


静かな時間が部屋に流れる。

不意に、どこからか音が聞こえてきた。

ぽろぽろと、零れるような音だった。


果南「……この音」


千歌「……梨子ちゃん」


梨子ちゃんが、ピアノを弾いていた。

千歌「最初も、そうだった。梨子ちゃんのピアノを聞いて、思い出したんだ」

千歌「そこからまた、私は走り出したんだ。梨子ちゃんに会って、曜ちゃんに会って、そして――」


途端に、全部を伝えたくなった。


ねえ果南ちゃん。

私ね、こんな素敵な仲間に出会って、素敵な言葉をもらって、それで今、ここにいるんだよ。



千歌「皆がいたからなんだ」

果南「皆?」

千歌「そう、皆が。果南ちゃん、さっき奇跡は起きないって言ってたよね」

果南「……うん」


これまでの旅が、「皆」の想いがぐるぐると私の中を巡っている。


千歌「やっぱり、そんなことないよ。果南ちゃんが必死にもがいてきた先に、私たちが必死に走ってきた先に、奇跡はあるんだよ」

―――『千歌さんなら見つかるよ。自分の物語、見つけられるよ。きっとその先に、奇跡があるから』



果南「たしかに私は必死だった。でも、それは全部無駄だったんだよ」


千歌「果南ちゃんのやってきたことは、無駄じゃない。無駄なんかじゃない。消えたりなんか、しない」

―――『私たちが過ごした時間は、消えないから。目にした景色は、交わした言葉は、消えないから』



果南「でも! 結局廃校は鞠莉が解決したんだ。私たちは、何もできなかった」


千歌「果南ちゃんが踊っていたのは、本当に学校だけのため? 他に大事なものは、あったんじゃないかな。見失っちゃダメだよ」

―――『目指す先を、見失ってはなりません。信じて、選び続けなければなりません』



果南「私は……不安だったけど、つらかったこともあるけど、ダイヤと笑っている時間が、踊っている時間が楽しくて」

果南「でも、ダイヤとも、鞠莉とも喧嘩を……」


千歌「ううん、大丈夫。2人のことが大好きなままなら、絶対大丈夫」

―――『大好きだったら大丈夫……。ルビィに、そう教えてくれたから』



果南「でも、今さらだよ。今さら、そんなこと言ったって2人は……」


千歌「行ってあげて、鞠莉さんのところ。ダイヤさんのところ。2人とも、きっと待ってる」

―――『きっと、待ってるから。何日、何か月、何年でも、いつでも、どこでも、千歌ちゃんのこときっと待ってる』



果南「……そうかな。私、行ってもいいのかな。スクールアイドル、辞めなくてもいいのかな」


千歌「……うん。思い出して。始めて踊ったときのこと。スクールアイドルを始めたときの気持ち。鞠莉さんとダイヤさんとの約束を、思い出して」

―――『私にAqoursの話をしたときの気持ちを、思い出してね』



果南「私は、本当は――――」






―――――――

―――――

―――



◇―――――◇


屋上には、他に人はいなかった。


3人と、私と。4つの影だけがゆらゆらとアスファルトに揺れていた。




果南「鞠莉、ダイヤ」



ダイヤ「まったく……」



鞠莉「遅すぎよ、バカ」



7月13日。乾いた風がふわりと身体を撫でた。


3人は手を握り合って一度笑い合うと、長い間じっと黙っていた。





―――――――

―――――

―――



――――



果南「……千歌」

照れくさそうに、果南ちゃんが私の目を見た。


果南「私たちがスクールアイドルを始めたら、Aqoursに入ったら、千歌は元の世界に帰れるんだよね」

千歌「……うん」

ダイヤ「最後、ですのよね。千歌さんの長い長い旅の、最後ですのよね」

千歌「……うん、最後なんだ。これで、9人なんだ」


鞠莉「ねえ千歌っち。1つだけ教えて」

少しだけ赤くなった鼻をこすりながら、鞠莉さんがまっすぐこちらを見た。


鞠莉「どうして9人にこだわるの? 帰るのに必要なんだってことはわかってるわ。でも、それを抜きにして――」


鞠莉「千歌っちにとって『9人』はそんなに大事なの?」

探るような、けれど乞い願うような瞳だった。



千歌「……」

千歌「同じだよ」


鞠莉「え……?」


千歌「果南ちゃんとダイヤさん、そして鞠莉さんの『3人で』と、同じなんだよ」


果南「……」

ダイヤ「……」


鞠莉「……」

長い間、鞠莉さんは何も言わなかった。

浅い息で、言葉を探しているようだった。



鞠莉「……そう、そんなに」

一粒だけ、ぽたりと雫が落ちた。

鞠莉「そんなになのね、私たち」



千歌「うん……そんなになんだよ、私たち」


屋上に、光が溢れた。



ダイヤ「これが……!」

果南「うわっ……! 千歌、本当だったんだ……」

眩しそうに目を細めながら、果南ちゃんは呆けていた。


千歌「ひどいなあ、信じてなかったなんて」

果南「いや、そうじゃなくて、そうじゃないけどさ」

鞠莉「ダイヤと果南は頑固だからね」

果南「うるさいなあ。ダンスの練習は覚悟してよね」

ダイヤ「鞠莉さんは経験がありませんし、苦労するかもしれませんわね」

鞠莉「Oh……」


3人が言葉を交わしている。

影が重なったその上に、ひらひらと紙が落ちてくる。



『入部届 黒澤ダイヤ』


『入部届 松浦果南』


『入部届 小原鞠莉』



千歌「……」

最後なんだ。

これを取れば、終わりなんだ。



千歌「皆、待っててくれてるかな……」

『入部届』に手を伸ばす。


千歌「……っ」

くらりと頭が揺れる。


ガタンと、どこか遠くで音がする。


曜「千歌ちゃん!」

屋上の鉄扉が開いて、曜ちゃんたち5人が駆け寄ってくる。


千歌「曜、ちゃん……!」


薄れる意識の中、8人の目が見えた。

皆が口々に私の名前を呼ぶ。


眩暈はどんどん強くなっていた。

もうすぐ、戻るんだ。



鞠莉「千歌っち」

鞠莉「きっと、理由なんかないのよ。School Idolじゃなきゃいけない合理的な理由なんか、1つも」

鞠莉「だから、信じて。どんな想いで、どんな顔で踊っているかの方が、きっと遥かに大事だから」



果南「先のことは、わからないよ。不安にもなる。それでも、無駄になることなんかないって、千歌が教えてくれたんだ」

果南「怖さも不安も抱きしめて、進んでいける。千歌なら、大丈夫」




千歌「鞠莉さんっ! 果南ちゃんっ! 皆――」



千歌「千歌、帰るから! 皆のおかげで、帰れるから! だから……ありがとう、さよなら―――…」





―――――――

―――――

―――



◇―――――◇


音を立てて、海水が皆の足に掛かる。

8人が砂浜に立っていた。

波の音が聞こえる。船が海上を走る音が聞こえる。

遠くの方から誰かが笑う声が聞こえる。


千歌「もうすぐ、お盆だね」

また、勝手に私の口が動いた。相変わらず身体は動かない。

鞠莉「そうねえ……。盆踊り、楽しみね!」

果南「それが終わったら、もう地方予選だっけ。早いなあ」

千歌「……よかったのかな」

曜「え、何が?」


千歌「私たち、ここまで来て、よかったのかな。もっと、何かできることはなかったのかな」

梨子「……千歌ちゃん?」

千歌「えへへ、ごめんね。ちょっとだけ、考えちゃうんだ。もしもあの時、もしもこの時……って」

私の言葉を聞いて、皆は考え込んでいた。

相変わらず、覚えていない会話だった。

けれど相変わらず、既視感だけが強く残った。


果南「もしも、もしも、ね……」


「「「もしも、かあ……」」」




『千歌』

『千歌っち』


声が聞こえた。

海のように深く、雲のように軽やかな声だった。


『ずっと思ってたんだ。もしも、最初から鞠莉を留学に送り出していたらどうなっていたんだろうって』


『その方が、鞠莉の将来のためになったんじゃないか。少しでもスクールアイドルをやったことで、鞠莉を縛り付けてしまったんじゃないかって』


『でもさ、その度に鞠莉に叩かれた頬が痛むんだ。私の気持ちを馬鹿にしないでって、そう言われるんだ』


『きっと、先のことなんて考えても仕方ないんだよ。大事な人と今何がしたいか、それだけじゃないのかな』





『ずっと思ってたの。本当は、すぐに留学に行くのが正解だったんじゃないかって』


『そうしたら、喧嘩しなくて済んだんじゃないか、自分のためにも、パパのためにもなったんじゃないかって』


『でもね、思いきり悩んだあの時期に、私は大事なことを学んだのよ。一生消えない、大事な記憶』


『正解ばかりじゃ学べない。悩みながら、選んで選んで、私は今を生きるのよ』



青い海に、青い空に、8人の影が溶け込んだ。




―――――――

―――――

―――


――――――――――#5「私とスクールアイドル」



◇―――――◇


目が覚めた。

ちゅんちゅんと鳥が鳴いている。

カーテンから漏れる陽の明かりが優しく部屋を照らす。

色とりどりの箱が目に入ってくる。


『千歌ちゃん誕生日会』

見慣れた筆跡のカードが床に落ちている。


私の部屋だった。私は床に転がっていた。

隣では、曜ちゃんと梨子ちゃんが行儀よく寝息を立てていた。


千歌「……」

窓の近くでは、ダイヤさんとルビィちゃんがもたれ合ってうとうとしている。

果南ちゃんと鞠莉さん、花丸ちゃんはベッドの上で狭そうにもぞもぞ動いていた。

善子ちゃんは何やら寝袋のようなものにくるまっている。

全員いる。


千歌「戻って、来た……?」

もう一度人数を数えた。

9人いる。



自信が持てなくて、しばらくぼうっとしていた。

何度数えても、9人だった。


千歌「戻って、きたっ!」

小さく、叫び声をあげた。

千歌「私、私、戻ってきた……!」

9人の世界に。

私の知っているAqoursがいる世界に。


こらえきれなくて、立ち上がった。


パジャマのまま、部屋の外に出る。

まだ明け方だった。

夏らしい暑さを感じながら、家の外に出る。


携帯の画面を見る。

「8月1日」

今日は、私の誕生日だった。



曜「千歌ちゃーん?」

梨子「もう、いっつも変な時間に起きるんだから……」

目をこすりながら、曜ちゃんと梨子ちゃんが歩いてきた。

曜「あ、千歌ちゃん」

梨子「どうしたの、こんな明け方に」


千歌「……」


言葉が出なかった。

この2人は、私の知ってる曜ちゃんと梨子ちゃん。

今まで出会った「2人」が頭に浮かぶ。


うん、わかってる。

消えちゃったんじゃない。

今までの「2人」の想いは、今目の前の2人に繋がっている。



千歌「曜、ちゃん……っ! 梨子ちゃん……っ」

曜「え、え? 千歌ちゃん?」

梨子「なんか、嫌な夢でも見た……?」

ぽろぽろと涙を流して抱き着く私を、2人は優しく受け止めてくれた。


千歌「やっと、戻ってきた! 今度は、もう不安にならないから」

千歌「『皆』に教えてもらったから! 私は、1人じゃないから!」

曜「千歌ちゃん……?」

千歌「私、皆と一緒に、進み続けるよ!」

千歌「頼りないかもしれないけどさ」


曜「……」

梨子「……」

2人は顔を見合わせて、可笑しそうに吹き出した。

曜「頼りないなんて、そんなことないよ。千歌ちゃんの歌詞、私は大好き!」

梨子「もう少し早く書いてくれてもいいとは思うけど、ね」

千歌「ええー」

わざと不機嫌そうな声を出す。

こんなやり取りも、久しぶりだった。



梨子「でも千歌ちゃんがこういうこと言うの、珍しいね」

千歌「そうかな?」

不思議そうな顔で、梨子ちゃんは私の顔を眺めた。

曜「確かに、どっちかって言うと私の方が多いかもね」

梨子「そうだよね……。だってさ――」



何となく、嫌な予感がした。

これ以上、聞いてはいけないような。

ずっと引っかかっていた痛みに気づいてしまうような、そんな気がした。





梨子「だって、Aqoursのリーダーは、曜ちゃんだもんね」


#6「私」



◇―――――◇


練習には、身が入らなかった。

練習開始の合図は曜ちゃんが出していた。

練習終了の合図も曜ちゃんが出していた。

メニューは曜ちゃんとダイヤさんが相談して決めていた。

全て、私がやっていたはずのことだった。


彷徨っていたのは、Aqours全員の夢の世界。

そして「ここ」は、私の夢の世界。

きっと、ずっとそうだったんだ。

これまで歩んできた世界でも、私はずっと夢の中だったんだ。



千歌「どうして気が付かなかったんだろう……」

1つ目の世界。私は梨子ちゃんと曜ちゃんとしか話さなかった。

2つ目と3つ目の世界では、ダイヤさんが部長をやっていた。練習はすべてダイヤさんが仕切っていた。

4つ目の世界。曜ちゃんが練習を仕切っていた。私はその間、善子ちゃんや花丸ちゃんに注意を向けていた。

曜ちゃんは、気を遣ってくれているのだと思い込んでいた。

5つ目の世界では、そもそも練習に出ていない。


何とか否定しようと思い返すも、気がつかなかった理由だけがボロボロと出てきてしまっていた。



千歌「私の『もしも』……」

内容は、考えるまでもなかった。

自分のことだから。

私が一番わかっているはずだった。


あの夏、私はリーダーであることに不安だった。

曜ちゃんだったらって、そう思ってた。


曜「千歌ちゃん、どうしたの?」

練習後、鞄をふりふり、曜ちゃんが顔を覗き込んでくる。


千歌「……」

曜「……千歌ちゃん?」

千歌「あ、ご、ごめんね。何だった?」

曜「……」



どうやったら、戻るんだろう。私は戻りたいのかな。

今までは簡単だった。

Aqoursの誰かが、夢の中にいた。

その誰かが夢から醒めれば、先に進めた。


けれど今回は違う。

夢の中にいるのは、私なんだ。


千歌「私は忘れてない。全部全部、覚えてる」

私はAqoursの一員だった。

「元の」世界の思い出だって、全部覚えている。


千歌「本当に、全部……?」

ううん、違う。私が覚えていない記憶があった。

「移動」するたびに見る景色。

既視感は抱く。けれど、記憶にはなかった。


曜「……千歌ちゃん!」

千歌「え……?」

曜「やっぱり、変だよ。今朝からずっとぼーっとしてさ」

千歌「ご、ごめん」

曜「何かあったなら、話してほしい。こんなでもさ、私リーダーだし。それに何より、千歌ちゃんの友達だから」


ずきりと胸が痛んだ。



――――


千歌「私、どうすればいいのかな」

ベッドに横たわり、天井を見上げる。

迷いながら、旅をしてきた。やっとここまで来た。


千歌「9人、揃ったんだよね」

千歌「もう、いいのかな。私がリーダーじゃなくても」

練習は、上手く行っているように見える。

曜ちゃんは、ダンスもうまいし、人気だし。


千歌「もう、いいよね。千歌、頑張ったんだもん。ここまで、来たんだもん」

千歌「Aqours、取り戻したんだもん」


『諦めないで。会いに来て』

『もう一度、走り出して』


いつか夢で聞いた言葉がよぎる。


千歌「ここまで、来たんだもん……っ! ちゃんと走り出したんだもん! もう、いいじゃん、これで、いいじゃん!」


歌詞ノートを取り出してみる。

私が知っている曲は、全て書いてあった。




千歌「Aqoursは、もうあるんだよ」




――――


練習にはやっぱり身が入らなかった。

皆は必死だった。

8月4日。もうすぐ予備予選だった。

Aqoursはもがいて、もがいて、何とか結果を残そうとしていた。廃校を止めようとしていた。

曜ちゃんは完璧なんかじゃなくて、たくさん悩み事を抱えていた。

それを少しずつ分け合いながら、Aqoursは心を通わせていた。



曜「皆が教えてくれたんだ。悔しいって。このままじゃ終われないって。この学校を、守りたいって」

東京での思い出があるから頑張れる。だから、想いを1つに。

曜ちゃんはそう言った。



皆が東京での思い出を口にするたびに、内浦の海を思い出した。

梨子ちゃんに抱きしめられながら、みっともなく声を上げて泣いた、あの時を思い出した。



皆が廃校の話をするたびに、屋上での夜を思い出した。

温かい光を放つランタンが空を満たした、あの震えるような夜を思い出した。



皆のおかげだと曜ちゃんが口にするたびに、Aqoursの皆の顔が浮かんだ。

この旅で出会った、「皆」の顔。それよりずっと前、一緒に浴衣を着た皆の顔を思い浮かべた。



そんな時、私はふらふらと、海辺で波を眺めるのだった。



千歌「これで、いいんだよ」

チリチリと胸が痛かった。


千歌「皆、頑張ってるじゃん。Aqoursは、輝きかけてる。輝ける。私だって、ここなら、9人でなら――」


曜「……」



――――


8月8日、夜。

私はまた、海を眺めていた。


細い月が夜空をぼんやりと照らしている。

ぽつりぽつりと瞬く星が、海の黒いうねりに呑み込まれる。


もわりとした風が吹く。

潮の香が漂ってくる。


千歌「……」


明日からは、忘れよう。

だって、予備予選があるんだ。

それが上手く行ったら、盆踊りだって、地方予選だって。

何も、変わらない。私の記憶と、何も変わらない。


Aqoursは9人。

皆が私を助けてくれる。

誕生日会だって開いてくれる。


これ以上、何があるんだろう。これ以上、何を望むんだろう。



曜「……千歌ちゃん」


ざざっと、砂を踏む音がした。



曜「毎晩、ここにいるね」

千歌「曜ちゃん」


曜ちゃんが潮風に吹かれて髪をなびかせている。

表情は暗くてよく見えなかった。


曜「どうしてここにいるの?」

千歌「……どうしてだろうね」


ぼんやりと答えた私に、曜ちゃんは何も言わなかった。

代わりに私の隣に腰を下ろした。


千歌「砂、ついちゃうよ」

曜「いいの」


千歌「……」

曜「……」



曜「千歌ちゃん、今何考えてるの?」

千歌「うーん、曜ちゃんは、すごいなって」

曜「……そんなことないと思うけど」

千歌「そんなことあるよ。水泳だって上手いし、衣装づくりだっていつもすごいし。おまけに――」


千歌「おまけに、Aqoursのリーダーだし」

曜「……」

曜「千歌ちゃんはさ、どうしてここにいるの?」

千歌「え?」

曜ちゃんは、同じ質問を繰り返した。


曜「どうして、ここで立ち止まっているの?」

千歌「曜ちゃん……?」

曜「行かなきゃいけないところが、あるんじゃないの?」

千歌「どうして、どうしてそんなこと……」

一言だって、話していないはずなのに。

何も口にしていないはずなのに。



曜「私もさ、よくはわからないんだけど……」

困ったように頭を掻きながら、曜ちゃんはしばらく下を向いていた。

曜「私と千歌ちゃん、春にさ、喧嘩したっけ?」

千歌「……してない、と思う」

していないはずだった。

この世界では曜ちゃんと私は喧嘩をしていないはずだった。


曜「……だよね」

曜「でもさ、なんかした気がするんだ」

千歌「……!」


曜「最近さ、変な気分なんだ」

曜「千歌ちゃんがずっと苦しんでるような気がしてさ」

曜「どこかに行きたい行きたいって、ずっともがいて……。周りには言わないんだけどさ、ここじゃないどこかに、行きたいって」

曜「私はそんな千歌ちゃんとさ、喧嘩したり、言いあったり、千歌ちゃんがつらそうなのを、横で見ていたり」



曜「……もう1回聞くね」

曜「千歌ちゃんは、どうしてここにいるの? どうして、ここで海を眺めているの?」

どうしてここにいるんだろう。

答えを辿ろうと手を伸ばす。

もっと前に。もっと過去に。私の、最初の場所に。




千歌「……私ね、μ'sに憧れたんだ……」

曜「うん」

千歌「……それでね、スクールアイドル、始めたんだ」

私は、どうしてここにいるんだろう。

きっとその始まりは、そこだから。



千歌「千歌はおバカで、頼りないんだけど、曜ちゃんが助けてくれるんだ」

千歌「梨子ちゃんも、花丸ちゃんも、ルビィちゃんも、善子ちゃんも」

千歌「果南ちゃんも、ダイヤさんも、鞠莉さんも、助けてくれるんだ」

曜「……」

曜ちゃんは、黙って耳を傾けていた。


千歌「たくさん失敗だってしてさ、悔しくて、叫びだしたくて、それでも必死でもがいて」

千歌「先のことが不安で、どうしようって思って」


それで、気が付いたら「4月」にいた。


千歌「それからだって、同じだよ。必死で立ち上がろうってもがいたんだ。Aqoursを、取り戻したくて」

千歌「そのたびに、また皆が助けてくれたんだ」



曜「……Aqoursは、取り戻せた?」



千歌「……うん、取り戻したよ」

曜「ほんとに?」

千歌「……」

曜「本当に、取り戻した? 『千歌ちゃん』は、全部取り戻したの?」

千歌「……っ」


息ができなかった。

何かがお腹からせぐりあがって、私の胸を詰まらせていた。


私は、全部取り戻したんだろうか。

私の知ってるAqoursを、全部、全部。


「皆」にもらった言葉が、頭の中に響く。

皆で踊って歌った曲が、歌詞が響いてくる。

歌っている皆の声が、踊っている皆の表情が浮かんでくる。

それだけじゃない。

歌っている時の想いが、踊っている時の想いが、皆と一緒にいるときの想いがぷくぷくと泡のように浮かんでは消えた。


全部、取り戻したんだろうか。



千歌「……違う、違うっ! 取り戻してなんか、ない……っ!」


千歌「私が、憧れたんだ…っ! 私が、スクールアイドルを始めたんだ……!」


千歌「私が、輝きたかったんだ! 私が、学校を守りたいって思ったんだ……!」


千歌「私が、悔しかったんだっ! 私が、苦しかったんだ……っ!」


堪えきれずに、立ち上がって叫ぶ。


胸の中で膨らんだ想いのあぶくが、次々と弾けていく。


ぼうぼうと燃え盛るような熱が、私の胃を、肺を、喉を、焼き尽くしていく。


頬を熱いものが伝った。



千歌「私が、不安だったんだ! 私が、それでももう一度って思ったんだ……っ!」


千歌「私が『皆』と出会ったんだっ! 私が、大事なこと、教えてもらったんだ……っ!」


千歌「私が、帰りたいって思ったんだっ! ずっとずっと、私が選んできたんだっ!」


千歌「全部全部、私なんだ……っ! 私の想いなんだ……っ!」





千歌「私が、『私』がっ!!」



絞り出すように、ねじ切るように、叫んだ。



千歌「私が、Aqoursのリーダーなんだ……っ!!」





曜「……やっと、言えたね」



そっと、曜ちゃんは私を抱きしめた。


夜の海が、眩い光に包まれていく。

煌々と辺りを照らす光は、私の胸から広がっていた。


眩暈と、体中を巡る熱で、くらくらと視界が歪む。




曜「千歌ちゃん」


曜「それが、千歌ちゃんだよ」


曜「私は、ううん、私たちは――」


曜「いつでも、どこでも、何があっても、千歌ちゃんのこと、信じてるから」



曜ちゃんの腕が白く光っている。

海が白く光っている。

世界が、白く光っている。



そして、私の意識は―――





―――――――

―――――

―――


『諦めないで、会いに来て――』



◇―――――◇


白かった。

床も、空も、周りの景色も、全てが真っ白だった。


『やっと来たね』

どこかから、声が響いてきた。


千歌「……ここ、は……?」


『うーん、私もよくわかんないんだ。ほら、千歌バカだから』


千歌「私の、声……?」


『そうだよ。私、高海千歌』


千歌「私、どうなったの?」


『もうすぐ、帰れるよ。旅が終わるよ』

私の声は、そう言った。


千歌「そう、なの……?」



あの日。あの盆踊りの日から始まった旅。

「過去を想う日」

そう言いながら踊った日だった。


『色んな条件が重なっちゃったんだ』


『まず、私――ううん、あなたたちは、船に乗った』


ギイギイ揺れる船の上を思い出す。



『手紙を送った。ランタンにして、たくさん、たくさん……。それが、道になった』


淡島はオレンジ色に包まれていた。柔らかい光だった。

私たちは、そのランタンに過去への手紙を書いた。



『思い浮かべた。もしもこうだったら……。過去を、想った』


もしもの夢。9人分の夢を、私は見てきた。



『そして何より、お盆だった。過去との橋が架かる日だった。道と、乗り物と、想いと……。全部揃えたあなたたちは、過去へ飛んだ』



千歌「ちょ、ちょっと待って、『私たち』ってことは、皆も……!」


『そうだよ。千歌だけじゃない。皆も違う過去に飛んだ。それぞれ迷って選んで、たどり着いた』


「私」が一番遅かったみたいだけど。

私の声が可笑しそうに笑った。


千歌「そう、だったんだ……」


千歌「どうしてそんなに詳しいの? あなたは、私なんだよね」


『そうだよ、私は高海千歌。詳しいのはね、私だったから。全ての始まりは、私で、あなただったから』


千歌「どういう、こと……?」



『7月15日、私はあなたのところに行った』


千歌「7月、15日……?」

千歌「それって志満姉が言ってた……」


『そう、7月盆。もう1つのお盆なんだって。詳しいことはわかんないけど』


千歌「その時……」


『覚えてるんじゃないかな。「元の」7月15日、あなたが何をしたか』


千歌「私は……」


7月15日。私は、不安だった。

東京でのライブがあったばかりだった。

悔しい思いをして、海の中で泣いたばかりだった。

自信を無くしていた。


千歌「私は、ナスとか、キュウリとかを並べて……」



『そう、精霊馬に、あなたは願った。曜ちゃんがリーダーだったら、上手く行ったのかな。そう願った』



『だから、私が来たんだ。私は、過去のあなた。あなたが選ばなかった、高海千歌。精霊馬に乗って、私はあなたと一緒になった』


千歌「私と、一緒に……?」


『そうだよ。私は、あなたの中からあなたを見ていた。あなたの願いも、逃げ出したい不安も、全部わかった』


『だから、揃えたんだ。手紙も、想いも。Aqoursの皆に提案までして、過去に戻れるように』


千歌「Aqoursの皆に、提案……。ひょっとして、あの夢の……!」


『そうだよ。あれは、私がやったんだ。あなたはその間、私と交代して眠っていた。だからあんまり覚えてないみたい』


千歌「そういえば、あの時期、たまに気がついたらぼうっとしてた……」


『まさか、あんなにぐちゃぐちゃになるなんて、Aqoursがなくなるなんて、思ってなかった。焦って、ちょっとした言葉しか残せなくて……』


千歌「会いに来て、って……」


『うん、でも、会いに来てくれた』


千歌「……」



『あなたは、選べるよ』


千歌「え?」


『ここから進むか、ここから戻るか。リーダーだって、辞められるよ。責任だって、負わなくていいんだよ』


『「私」は、どうするの?』


千歌「……」

千歌「梨子ちゃんが、教えてくれたんだ」


『梨子ちゃんが?』


千歌「私は、Aqoursのこと、大好きなんだって」


千歌「曜ちゃんが約束してくれたんだ。いつでもどこでも、絶対待ってるって」


千歌「ダイヤさんが背中を押してくれたんだ。諦めないで、選び続けなさいって」


千歌「ルビィちゃんが励ましてくれたんだ。大好きだったら大丈夫って」



千歌「善子ちゃんが気づかせてくれたんだ。無駄なことなんかないんだって」


千歌「花丸ちゃんが見せてくれたんだ。その先に奇跡があるんだって」


千歌「鞠莉さんが叱ってくれたんだ。スクールアイドルを信じるんだって」


千歌「果南ちゃんと一緒に考えたんだ。不安も、怖さも……全部全部抱きしめて、先に進んでいけるんだって」



千歌「私は、気づいたんだ。今までの私が……今までの想いが、経験が、過去が、全部全部積み重なって、私になるんだって」


千歌「どれか1つでも欠けたら、私じゃないんだよ」


千歌「そんな私を、皆は信じてくれてるんだ」



『……そっか。見つかったんだね』


千歌「うん、私、先に進むよ」


『うん、千歌は――あなたは、先に進んでいける』


千歌「あなたは、どうなるの? これまでの世界の千歌は、どうなるの?」


『私は、たくさんの私たちは、また戻るよ。これまで通り、私の世界で過ごしていくんだ』


『でもね、私たちの想いは、あなたの一部になる。あなたが残した想いは、私たちの一部になる』


『全部の想いが混ざり合って、私になるんだよ』



千歌「私、全部背負っていけるかな」


『大丈夫。あなたはもう、皆から受け取ってるよ』


千歌「え?」


『旅の途中で、もらったはずだよ。8人分の、入部届を』


『あなたはずっと埋めてきたはずだよ、自分の、Aqoursの、歌詞ノートを』


何もない真っ白な空間から、みかん色のノートがゆっくり落ちてくる。

その周りを踊るように、8枚の小さな紙がひらりひらりと舞っている。



ノートを受け取る。


表紙には、Aqoursと書いてあった。ページをぺらぺらとめくって、また閉じる。

裏表紙には「高海千歌」


――私の名前。


『想いを乗せて、歌詞を書いて、日々を積み重ねて……そうやってページをめくった先には、あなたがいるから』


『皆が悩んで選んだ想いが、入部届には詰まっているから』



『それがあれば、大丈夫』


『それは、あなたの、皆の、大切な――――未来へのチケットだから』


千歌「未来への、チケット……」


『願って。Aqoursの想いに』


千歌「うん」




千歌「私、皆の所へ帰りたい。皆と、未来へ進みたい」






―――――――

―――――

―――




―――――

―――




◇―――――◇


8月15日、桟橋の上、日は既に傾きかけ。

予報通り熱帯夜を迎えつつある内浦の海を、熱を孕んだ空気がもやりと包んでいた。


梨子「……なんだか、不思議な気分」

浴衣を着た梨子ちゃんがぼそりと呟いた。


曜「ほんとだよね。とんでもないことに、巻き込まれてさ」

ルビィ「だ、だだ大丈夫だよね、また飛ばされたりしないよね」

千歌「……大丈夫。私たちは、もう大丈夫」


果南「おーい、そろそろ船が出るよー!」

鞠莉「もう、果南ったらまた帯が曲がってるわよ」




全員が目を覚ました時、私たちは浴衣を着たまま、お祭り会場の控室で肩を寄せ合って眠っていた。

時計を見た誰かが大声を上げた。

私たちはお互いの旅の経験も話し合えないまま、慌てて船に乗り込んだ。


でも大丈夫。これから、いくらだって時間がある。

私たちは9人一緒に、未来に向かって進んでいくんだから。



千歌「ねえ!」

曜「どうしたの、千歌ちゃん?」

千歌「今日が終わったらさ、歌詞を作ろうよ! 次の曲は、皆でさ!」

花丸「皆で、歌詞……楽しそうずら!」

ルビィ「わあ……! 今からわくわくするね!」

善子「ククク……ッ、このヨハネの刻を超えた黙示録が聞きたいって、そういうことね!」

梨子「それは少し違うと思うけど……」

ダイヤ「ええ、でも、いい案ですわね。わたくしたちの、再出発ですわ!」

千歌「ね、でしょでしょ!」


きゃあきゃあと騒ぎながら船に乗る。

私たちを、過去に連れて行った船。


今度は、未来へ。

皆、悩みながらここへ辿り着いたんだ。

私たち、これからなんだ。


千歌「もう、迷わない!」

全部全部抱きしめて、新しい世界へ出発するんだ。



果南「ふふっ、それも楽しみだけどさ、今日は、まず……」

鞠莉「Yes! 前は途中でくらっとしちゃったけど……盆踊り、楽しむわよ!」


にこにこと笑顔で、私たちは配置につく。

私は先頭で提灯を掲げる。




「「「あっちから こっちから よっといで―――」」」




くるりと回る。

8人分の笑顔が目に入る。


「皆」はどうしてるかな。

それぞれの時間を過ごしているのかな。

それとも、盆踊りに誘われて、見に来てくれているのかな。



蝶が飛んでいた。

ひらひらと、楽しそうに飛んでいた。

私、帰ってきたよ。

大切な世界に。大切な皆の隣に。



「「「あっちから こっちから よっといで―――」」」



ふわふわと上下に揺れるランタンの灯りの中、私たちの船が出た。



不思議な旅だった。甘くて苦い旅だった。

きっと、ずっとそうなんだろう。

これから味わうこと全部、甘くて苦いんだろう。それでも。

それでも、私たちは感じたもの全部を胸に抱いて、少しずつ少しずつ、歩んでいく。



これは、そんな旅だったんだ。


私のぴっかぴか音頭・タイムトラベル。


―――私が私に出会った物語。









End



おわりです。長々とお目汚し失礼しました。

以下過去作です。


ダイヤ「あ、この写真…。」

曜「見て!イルカの真似ー!」

花丸「今日も練習疲れたなあ…。」

梨子「ほ、本当にこのメンバーなの…?」

果南「これだから金持ちは……」

鞠莉「果南が…」千歌「戻ってこない…?」

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2019年10月20日 (日) 23:45:46   ID: TpswLfGX

読んでるときずっと泣きっぱなしだったわ

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