【ミリマス】ライアー・ルージュ (49)


皆さんこんばんわ

先に予告しておきます、いつもより読みづらいです

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 ――あの人の視線を、思い出せない。
 
 学校がお休みの土曜日、私は決まって早めに事務所に行く。朝早いせいか、町も眠ったようにしんとしている。我ながら早く出過ぎたかな、と思わないでもなかったけれど……それでも、早めに行くことをやめようとは思わなかった。
「途中で引き返すのも面倒だし」
 そんな風に自分に言い訳しつつ、先を急ぐ。言い訳するような事を自覚すると、心なしか足が速くなった気がした。
しばらく町を行くと、ようやくお目当ての場所に着く。765プロ事務所。劇場と併設されたとはいえ、まだまだ小さいと思うのだが……これは、私たちの頑張りが足りないせいだろうか。少しばかり申し訳ない気持ちを感じつつ、その中に入った。
 いつもの喧騒が嘘のような静けさ。まだ明かりも全部ついているわけじゃない通路を進む。カツンと音を立てる靴が、何故かシンデレラが履いているガラスの靴のように思えた――この年にもなって、絵本の中のお姫様に憧れてるのって、おかしいのかな。
 呆れるような自分の思考にため息を漏らしつつ、目当ての部屋の前までやってきた。
 ――胸が苦しい。何故だろう。
 鼓動を抑えつけるために、一度大きく深呼吸して、ノックする。
「失礼します」
 返事を待たないままに、私は静かにドアを開けた。

―――――

「おはよう、志保。今日も相変わらずだな」
「愛想がないとでも言いたいんですか」
「まさか。だが、そう思うなら改善してみるのも手じゃないか?例えばほら、この前の小学生メイドとかみたいに――」
「お断りします」
 内心を隠して、そっけなく応対する。応対された当人は、諦めたように手を開いて天を仰いでいた。少し、強く言い過ぎただろうか。少し謝罪の気持ちも込めて話に乗ってみる事にする。
「……プロデューサーさんは、小学生メイドの演技が好きだったんですか?」
「勿論」
 即答だった。唇を噛んで、顔がにやけてしまいそうになるのを抑える。どうしてだろうか、私はこんなに演技が下手ではなかったはずなのに。ここまで表情を隠すのがつらいとは思わなかった。

 対して、プロデューサーはといえば回答し終えたといわんばかりに、机に向き直っていた。カタカタとキーボードを叩いている。まだ始業の時間ではないはずなのに、何をしているのだろう。何故だか、ふつふつと興味が沸いてきた。
「何してるんですか、プロデューサーさん」
「ああ、これか?アイドル皆のデータベース……的な奴かな」
「……亜利沙さんの真似でも始めたんですか?」
「なんで微妙に刺々しいんだよ……お前たちの長所とか短所とかのデータまとめてるだけだよ。大事なんだぞ?これが外に漏れてみろ、オーディションとか勝てなくなってもおかしくないんだからな」
 少し拗ねたように吐き捨てるプロデューサー。子供っぽく唇を尖らせながらも、手を休める事はない。何かをひたすらに打ち込んでいく。そんな彼の表情は、カッコイイ社会人……ではなく。秘密基地を見せびらかしたけれどあまり驚いてもらえなくて拗ねる子供の表情だった。
 ――いつもはカッコいいのに、どうしてたまに子供っぽくなるんだろう。
 クスリ、と笑ったのが、目の前に彼にばれていなかったと信じたい。

「おはようございまーす!」
 隔絶された私達だけの空間が、切り替わる。物音がした方を見ると、リボン姿がよく似合う大先輩がトコトコと歩いてくるところだった。
「おはよー、志保ちゃん!」
「おはようございます、春香さん」
 春香さんはにこやかに笑う。不思議だ。この人の笑顔は、どうしてこんなにも人を引き付けるのだろう。私にも少しくらい、そんな才能が有ってくれればよかったのに。
「お、春香!おはよう、今日は一番乗りじゃなかったな!」
「志保ちゃんが早かったんですよぅ……プロデューサーさん、おはようございます!」
 元気な挨拶を受けて、彼は満足そうに微笑んでおはようと返した。にこやかに笑い合う二人。それを見ていると、私の中で何かが凍った。胸の中で嫌なものが蠢いてるような感覚。そんな違和感に嫌悪感を覚える。

 でも、絶対に悟られたくない。だから、なるべく自然な笑顔を装って――
「……ん?どうした志保」
 ――そう思っていても、彼は見抜いてしまうらしい。
「別に、何でもないですよ。まったく、プロデューサーさんが心配しすぎなんじゃないですか」
「そうか?困ったことがあったらきちんと俺に頼るんだぞ?」
「はい、ありがとうございます。プロデューサーさん」
 勿論、こんな程度では彼をごまかす事なんて出来ないだろう。けれど、私には、そう返すのがやっとだった。
 悶々と思考をしていると、
 
「ハニー!おはよーなのー!」

 扉が勢いよく開く音共に、黄色い何かが彼へと突っ込んでいった。彼は、それをかわすような仕草をするでもなく、ただ受け止めるように両手を広げる。それを分かっていたかのように、彼女は勢いよく彼に飛びついた。

「おはよう、美希……危ないから突っ込んでくるのはやめろよ?」
「そんなの、ハニーが受け止めてくれるから問題ないって思うな!」
 元気よく答えたもう一人の大先輩は、頬を彼の胸に押し当てて機嫌良さげに答えた。その姿は、さながら猫のよう。愛らしさに満ち溢れたその姿を、私はそれを心底妬ましく――
 ――え?私……み、美希さんになんてことを。
 自分の思考が理解できない。自分が何をしたいのかが分からない。
 星井美希というアイドルは、私にとって尊敬する先輩の筈だ。いつもはゆったりとマイペースでも、いざ自分の出番となったら他の誰よりも輝く765プロきってのトップアイドル。
 ――わ、私は……
「――ほ?」
「へっ?」
「志保、どうしたの?さっきから、なんか苦しそうだよ?」
 気づけば、さっきまでずっと胸に顔を埋めていた先輩がこちらを注視していた。混じりけのない、その純粋な視線に込められた疑念が、私の心を更に締め付ける。

 必死の思いで、言葉を絞り出す。
「何でもないです。ちょっと、今日寝不足なのかもしれないですね」
「寝不足なの?それは大変なの……今度、美希がキモチ良く眠れる方法をデンジュしてあげるね!」
「あ、ありがとうございます……ふわぁあ」
 寝不足であることを強調するために欠伸する……誤魔化せただろうか?そう思って目をやると、春香さんは生暖かい笑みをこぼし、美希さんは同じように欠伸を零していた……ただ、彼だけは真剣な目つきで私を見つめていた。
 やめて、私の心を覗かないで。
 その視線を見てしまったら、私はきっと今以上に縛られてしまう。
「なぁ、し――」
「そういえば!今日はまだ誰も来てませんよね!じゃ、空いてるレッスンルーム使って自主レッスンしてきます!」
「あっ、おい!待て志保――!」
 彼が叫ぶ声を置き去りにして、私はすぐさま扉の向こうに駆け出した。レッスンをしたくて早く来たわけじゃない。昔はそうだったかもしれないが、今はそんな風に思って来たわけじゃなかった。


―――――
 どうして、こんな風に。
 胸の奥がズキズキと痛む。残念ながら、身体の表面とは違って心臓は触って慰める事なんて出来はしない。いや、心臓が触れたとしても私のこの痛みは癒えることはないのだろうけれど。
 ……すーはー、すーはー。
 高鳴る鼓動を、深呼吸で抑える。幸い、身体の構造はきちんと人間のままらしい。こんなに落ち着かないのに、少しだけ呼吸は楽になった。
 でも、まだ胸が痛い。
「どうして、こんな事に……」
 目尻に何か水っぽいものが溜まるのにも気に留めず、私はおとなしくレッスンルームの方へと向かって行った。


―――――

 1、2、3、4、1、2、3、4。
 テンポよく身体を動かそうとする。けれど、身体はついてきてくれない。元から、運動神経は良くないかもしれないけど――
「……あっ」
 気づいた時には、身体が横向きになっていた。ズシンと言った音と共に、衝撃が私に伝わってくる。どうやら、知らぬ間に足をもつれさせていたらしい。
 唇を噛む。こんな事ばかりしていては、いつまで経っても先輩たちには追い付けない。それどころか、静香にすら――
 ネガティブなループに陥りそうになった思考を、首を振る事で強制的に断ち切る。こんな事を考えていても、埒が明かない。
 ――無理はするな。
 頭の奥底で、この世で最も聞きたくない、頼りがいのある声が聞こえた。さっきよりも、強く頭を振るが、彼は一向に話しかけるのをやめない。
 やめて。話しかけないで。聞きたくない。
「……お願いだから、やめて」
 一人でに漏れ出た言葉は、私の声色で話されていても、私自身とは到底思えなかった。


―――――
 「……ふぅ」
 私は静かに壁にかけてある時計を見る。時刻は7時を指していた。この部屋に窓はないが、なんとなく身体が夜であることを感じ取っている。少し、肌寒くなったからだろうか?
 今日も今日とで自主レッスン。競う相手などはいない。ここにいるのは私一人だ。それも当然だろう、皆と一緒に自主レッスンに取り組んでいたのでは、彼女達より上を目指すことなどできはしない。
 私は、自分が周りより才能がないと分かっていた。いつも憎まれ口を叩いてくるような同期も、歌を歌うのが大好きな同期も、それぞれ何か光るものを持っていたのに。私には、決定的に“それ”が欠けていた。
 だから、私は人より努力することで、それを何とか補おうと――
 
「おい」

「!?」
 いきなりかけられた声に、肩を思わず震わせてしまう。勢いよく振り向くと、そこには良く見知った顔があった。私はその顔を見て、深くため息をつく。
「……なんですか、プロデューサーさん」
「なんですか、じゃない。志保、まだ帰ってなかったのか」
「別に、アイドルが自主レッスンするのはおかしな事じゃないでしょう?」

 少し挑発するように、私は口角を上げてみせた。彼からしたら、私はお金を稼いでくる道具でしかない。そんな彼が、わざわざ自分の努力の外で育つのを止めるわけがない。そんな考えだった。
 ――なんでもいいから、邪魔をしないで欲しい。
 そんな意図を分かっているのかいないのか、彼は黙ったままこちらを見つめる。そして、彼はゆっくりと瞬きをした後に、口を開いた。
「……志保、今日どれくらい踊った?」
「関係ないじゃないですか、そんな事」
「関係なくない。思い出せる限りで良い、全部言え」
 どうしたのだろう。少し怒っているのだろうか?彼は、いつもアイドル達の前で見せているような、柔らかい笑みを捨てていた。眉間に皺を寄せ、私の方を睨みつけるその姿は、優しい優しいプロデューサーのそれではなかった。
「……自主レッスン分だけでなら、1時間です」
「1時間か。だが、今日のレッスンの時間は午前2時間、午後3時間を予定していたはずだ……いつもより多めにレッスン時間を取ったのに、まだ踊るのか?今日は帰って休むように、って俺話しただろ?」
「そうでしたっけ。よく覚えてません」

 素っ気なく返す。だからなんだというのだろう。彼からすれば、無理にレッスンさせたというレッテルを貼られる事なく、予定以上にアイドルが成長してくれるのだからよい事ではないのか。
 だが、彼はそんな素っ気ない返答が気に入らなかったらしい。声をかけるかかけないか逡巡した後、静かに私に向けて言葉を投げてきた。
「体に不調はないか?」
「不調なんて出るようならすぐにわかりま――」
「どうした?」
「何でもないです。弟に色鉛筆買って行ってあげるのを忘れてたの、思い出しただけなので」
 しれっと嘘をつく。出来る限り自然に。アイドル活動には全く役に立たないと自分では感じているものの、これだけが私が昔から出来る事だった。

 ――だが。
「ウソをつくな。志保、足痛めてるだろ」
「え?そ、そんな事は」
「良いから。座って待っててくれ。今、救急箱を用意する」
 そう吐き捨てると、彼は部屋の片隅にある棚から救急箱を取り出した。そして、私が何かを言う前に救急箱を持ったまま近づいてきて、しゃがみ込んだ。
「……早く座ってくれないか。負荷をかけたまま、包帯とか巻きたくないんだけど」
「は、はい……」
 言葉に込められた、普段とは違う感情に少し震えつつ指示に従う。彼は、靴と靴下を脱がすと、足首を触った。
「……ッ!」
「なんで今更声を殺すんだ。もうバレてるんだから隠す事ないぞ?」
 少しだけいつもの調子を戻しつつ、彼は私の治療を終えた。その手際の良さに、私は思わず息をのんでしまう。
「……もう痛くないか?」
「えっ?あ、はい。もう大丈夫です」
「それは良かった」
 プロデューサーさんは、少しだけいつもの柔和な笑みを取り戻すと改めて私の方に向き直った。

「なぁ志保。自主レッスンだからって遠慮する事はない。俺に声を掛けに来てくれよ。そうしたら俺が見るから、俺が見ている時だけに、レッスンの時間を限定してくれないか?」
「嫌です。時間が決められてたら、出来るところも出来なくなっちゃうじゃないですか」
「頼むよ。お前が下手に怪我するのなんて、俺は見たくないんだよ」
「別に、いつも怪我するって決まったわけじゃないでしょう」
 知らず知らずのうちに唇を尖らせる。少し、苛立ってきている自分を自覚しつつも、これ以上ちょっかいをかけられるのが耐えられなかった。
 ――私の事を何も知らないのに、そうやって勝手に踏み入ろうとしないで。
 そんな私の無言の威圧に怯んだわけではないだろうが、先ほどとは違う眉のひそめ方をした彼は静かに立ち上がると、私に悲し気な目を向けて去っていった。
「……余計なお世話よ」
 感情が抑えきれず、思わず声が漏れた。

―――――
 
 次の日、今日はいつもより早く来て自主レッスンをすることにした。丁度日曜日だったし、なによりもプロデューサーさんに邪魔されたくなかったからだ。
「……ホント、迷惑なんだから」
 心底嫌になる。あの人の事は、同期の子も先輩たちも信頼している。中には、恋愛感情だって持っている人だっているかもしれない。でも、私はどうしても好きになれなかった。
 ――大人への不信感、なのかな?
 少し頭の中に疑念が浮かぶが、頬を叩くことでそれを打ち消す。私は、今から皆に追いついて、追い越すためにレッスンしにいくのだ、不真面目にやっていては、追いつけるものも追いつけない。
 私は、メトロノームを使ってテンポを確認しにかかる。静寂の中に、カチカチと一定のリズムが刻まれていく。私は、もう一度大きく息を吐くと、昨日もやっていたダンスの振付を始めた。

 1、2、3、4……
 私は一心不乱に踊る。昨日のケガはまだ癒えきったとはいえないが、こんな所でへこたれてなんていられない。まだ踊れるのだから、やれるだけのベストを尽くさなくては。
 無心にリズムを取りつつ舞う。ダンスの得意なアイドルとはうってかわって、まだまだたどたどしいという自覚はあったけれど、それでも少しずつ上手くなっているのを感じていた。
 ――よし、これなら!
 汗の玉ばかり浮かんでいた顔に、喜びの表情が現れる。他の人が見ても、ほんの少ししか変わらないような成長も、今の私には宝物のように見えた。
 テストでいつもより10点多くとった子供のように心が弾む。やっぱり、この自主レッスンは無駄なんかじゃ――
 
 ガチャリ。

 急な物音に振りかえる。視線の先では、人影が扉を閉める様子が展開されていた。
「……何やっているんですか、プロデューサーさん」
「別に。ちょっと踊ってる様な音が聞こえるなーって思ったから来ただけだ」

 彼は淡々と答えると、部屋の後方の壁に寄り掛かった。どうやら、このまま見続けるつもりらしい。その手には何かが握られていたが、私には何が握られているのかは見えなかった。
「……止めに来たんですか」
「止めになんてこないよ、志保が嫌がったからな。ただの観察だ、観察」
「……なんでですか?」
「プロデューサーが、担当のアイドルの能力を把握しようとするのはおかしいか?」
 プロデューサーさんは、いつもより少し邪悪にほほ笑んだ。そう言われては、私にはどうすることもできない。いや、邪魔されないのなら別にいても問題はないのだが。
 憤ってしまった心を、深呼吸を一回することで押さえつけ、向き直る。
 その後、メトロノームと私の音が再び交差した。

 時計を眺める。8時30分。もうすぐ、集合時間になってしまう。シャワーを浴びたりする時間を考えれば、そろそろ切り上げる時間だ。
 振り返って、部屋から出ようとする。そこには、彼の姿はなかった。観察すると言いつつ、途中で帰ってしまったのだろうか。
 見ていて欲しいとは一片たりとも思っていなかったが、そそくさと帰ったというのは、それはそれでつまらないと鼻を鳴らす。私の踊りに飽きたから?そんな事を少し考えると、何故か無性に腹が立った。
 さぁ、もう引き上げ――
 「……えっ?」
 私は思わず声を漏らしてしまう。入ってきた時にはなかったはずなのに、ボトルと紙きれが置いてあったからだ。下敷きにされるように置かれていた紙切れだったために、下の紙は結露で湿っていた。これでは、コースター代わりにもなっていないだろう。

「もう、きちんとゴミ処理位はしてほしいわ……」
 私は、余計な観客に不平を零しつつ、それらを手に取った……よく見れば、下敷きになった紙には何か黒いインクがにじんでいる気がする。ここまで嫌がらせをするのだろうか。プロデューサーさんを拒んだ私を、彼は嫌ったのかも――
『サビのステップ・いつも半拍遅い。初動は早すぎるくらいに動いても構わないので、リズムを重視してステップを踏む事』
「……え」
 チラリと文字が視界を横切ると、今まで、彼への不平を浮かべる事で精いっぱいだった脳みそがリセットされた。その紙切れに目を近づけてみると、すべて私へのアドバイスで埋められていた。私はそれを必死に解読する。時折、黒ずんだ染みになっているだけの部分であっても、その貴重な一言一言は、私の胸に染み込んでいった。
 そして最後に。
『P.S. ダンスレッスンに傾倒しすぎないこと。発声練習を繰り返し行っておかないと、アイドルとしての声量を確保するのは難しい』
「……余計な、お世話です」
 更に、紙に染みていたインクが滲んだ。いや、これは私がどうこうしたからじゃない。きっと、滴り落ちた汗だろう。そう、そうに決まっている。
 その文字を徹底的に視線で追う。しかし、滲んでしまった文字は私に全貌を伝えているかすら、把握することを許してくれなかった。
 ――でも、せっかく貰ったアドバイスなら。
 私は、それでも必死に解読し続けた。


―――――

 あの後、私はプロデューサーさんに詰め寄った。こんな事をしてもらっては他の子と比べて不公平になる、そもそも私はこんな事を望んでいたわけじゃない。そう言われた彼は、少年のように目をそらして淡々と答えた。
「別にあれは俺が早く来たから暇つぶしにやっただけだよ。それに、志保を手伝ったんじゃなくて、俺がアイドルの分析をするために自主的に練習しているだけなんだから、志保に文句を言われる筋合いはないだろ?」
 呆れた言い訳だった。では、何故飲み物まで用意したのか。
「俺が飲む為に持ってきただけだよ。今日はたまたま飲まなかったけど」
 もう、言葉もなかった。


―――――

 次の日。同じように早朝から劇場のレッスンルームに来ると、用意されたかのようにCDプレイヤーが置いてあった。中身を確かめると、確かに私に任された曲だった。
 ここまで露骨にやっておきながら、なお偶然と言い張るのか。憤慨しつつ私が勢いよく振り向くと、案の定、彼は音もなく壁の際に立っていた。
 ――やるなら、ボーカルレッスンをした方がいいって言ってたんだっけ。
 少しだけ思考した私は、前に向き直り、姿勢を正して口を開いた。

 ――我ながら、なんてザマ。
 私は、静かに絶望していた。後ろに見ている人が居なければ、少し涙ぐんでいたかもしれない。
 久々の声出しは、 ボロボロだった。音程はずれているわ、リズムはガタガタだわ……しまいには、声量ですらまともに出せなかった。
 悔しさに身を震わせつつ、背後から見守っているであろう男の方を見る。すると、意外な事に人影は既になかった。仕方ない、あの出来だ。呆れられたとしても、私には何も文句を言うことは出来なかった。
 ――けど、もしかしたら。
 折れそうな心は、昨日あれだけ拒絶した物を求めた。心のままに、私は彼が立っていたあたりを捜索する。
「あっ、これ」
 今日もやっぱり置いてあった。地獄で蜘蛛の糸を見つけたような心境に至りながら、私はそのメモを手に取る。今日は結露するほど時間が経っていなかった為か、メモ用紙に綴られた文字が滲んでいることはなかった。
 すでに何かでぼやけた視界を必死にクリアにしつつ、そのメモ用紙に目を通す。
「……あはっ」
 声が漏れる。更に視界にフィルターがかかる。ここにはもう、私しかいないという思いが、ストッパーを緩ませたのだろうか。どんどん視界が曇る。

 メモ用紙には、私が感じていたような不安の箇所を罵倒するような事は何一つ書いていなかった。かといって不安から目をそらさせるような言葉は全くもって存在していない。そこに綴られていたのは、私の不安に感じた部分だけでない、すべての弱点と、それに対する対処法が明確に示されていた。
 ――悔しい。こんな事ばかり、書かれているなんて。
 唇を噛む。いつもより強く噛まれた唇からは、少し鉄の味がしたが、私は気に留める事はなかった。
 差し入れられた(置いて帰った、とは思わない)ドリンクを、数口分口に含んで飲みこむと、私はメモを持って元の場所へと戻った。
 ――絶対に、上達して見せる。いつか、見返してやるんだから。
 この小さな紙きれを握りしめ、私はもう一度声を張り上げた。

 その日のボイスレッスン。今日は、可奈と可奈の憧れている千早さんとのレッスンだった。どうやら、プロデューサーさんは先輩と後輩を一緒にレッスンさせたいらしい……どれほど上手くならなければならないかを、実感でもさせたいのだろうか?私としては、心が折れるシアターアイドルがいてもおかしくはないと思うのだが……
「千早さん!今日は、よろしくお願いします!」
「可奈。ええ、今日は伸び伸びと歌いましょうね」
「わーい!楽しくのびのび~♪やる気もモリモリ~♪」
 可奈がいつものように元気に歌っているのを、千早さんは嘲笑するのではなく、心底楽しそうにほほ笑んで聞いていた。朗らかな笑み。昔の千早さんは、笑う事を滅多にしないで歌っていたというけれど、それが疑わしくなるくらい、良い笑顔だった。
 私も、改めて声をかける。
「千早さん、今日はよろしくお願いします」
「志保もあまり緊張しないで。楽しく歌いましょう」
「……はい」
 言われても、そう簡単に緊張が解けるはずもない。いつも硬い表情をさらに硬くして、私には返す事しかできなかった。
「じゃあ始めましょう。まずは、基本の発声練習からだけど――」


―――――

 ――え?
「志保ちゃん、そんなに良く声出るようになったねぇ……私、もうげんかひぃ……」
「やるじゃない志保。まだまだ伸びるところはあると思うけれど、今の時点で、そこまで基本がしっかりしてるのは、凄いわ」
「あ、ありがとうございます」
 どうしてこうなったのか。
 今日の自主レッスン。プロデューサーさんのメモを見て、書かれてあったところを注意してやっただけだったのだが、どうやら二人には良く出来ている風に見えたらしい。
 可奈がこちらにキラキラと視線を向けてきている。
「ね、ねぇ志保ちゃん!私にも教えて!」
「後でね」
「え~!もぅ、ケチぃ~」
 唇を尖らせる可奈も可愛らしいと思ったが、勿論口には出さない。少しだけ笑って、正面に立つ千早さんの方に向き直った。

 千早さんは、顎に手を当てて、何かを考えているように見えた。
「……どうかしたんですか?」
「志保、さっき注意していた箇所を口に出して言ってもらえる?」
「え、ええっと……」
 真剣な目で見る彼女に対して、私はメモに書いてあった内容を漏らさず話した。話し終えると、彼女は目を閉じて静かにほほ笑んだ。
「――あの人は、やっぱり見ててくれるのね」
「?」
「あ、あの千早さ――」
「大丈夫よ、志保。きちんと分かってるから」
 何かを懐かしむように、歌姫は目を細める。しかし、それを長く続けようとはしなかった。

―――――

 それ以来、私とプロデューサーの奇妙な関係は慣習として続けられることになった。別に、どちらから始めたわけでもなかった為に、どちらから打ち切られることもなかったのだ。私が朝早く来た時には、彼はどこからともなく現れて見守ってくれていた。遅くに自主レッスンを行う時も、何故か彼は後ろで観察していた。
 私は、いつの間にかそれが当たり前のように感じるようになっていった。
 私がレッスンを終えると、部屋の隅にはいつも、ドリンクとメモが置いてある。夜自主レッスンをするときには、補食もおまけされていた。ドリンクを飲んで、自前のタオルで汗を拭きつつ、メモに丹念に目を通す。それに書いてある事を忠実に守――

「あれ、いつもと違う……」
 それが数日続いたある日、メモの内容がいつもと違うという事に気が付いた。いつものように項目分けて書かれているわけじゃない末文に疑問を持った私は、その文章を先に確認してみた。
 すると。
 
 『ダンスのキレが良くなってる。ステップのタイミングも合わせられるようになってきてるぞ』

 「……味気ないんだから」
 ぼそりと声を漏らす。こんな一文じゃなくて、面と向かって褒めてくれたら――
 「――え?」
 思考が、停止した。私は今、何を考えていたというのだろう。
 今まで、あれだけ嫌がっていたというのに、面と向かって褒めてもらいたい?私が?要らないと言ったお節介ばかりをかけてくるプロデューサーに?
 ――ダメ。私じゃないみたい。
 未熟な私に分かるのは、この一文が私を高揚させているという事だけだった。
「……よし」
 大きく息をつくと、私は再びメモ用紙を読む。一文褒めてもらっていたといっても、他に直すべきところは沢山ある。まだまだ、彼が注意してくれるところは沢山ある。それらを直さなければ、先輩たちには追い付けない。
 いつの間にか、彼と共に歩んでいる私自身を、私は何故かとても心地よく感じていた。


―――――

 またまた別の日。私は、ウキウキしながら、普段のレッスンを終えた後、いつものレッスンルームへと足を運んでいた。
 ――別に、彼が見ててくれるから浮ついてるんじゃない。ステップアップできる自分が、嬉しいだけだから。
 そんな、見え透いた言い訳を自分の中で繰り返す。それでも、浮ついた気持ちは止まらない。まるで遠足に行く前の日の小学生の様だった。
 今日は、いったい何をしようか。出来る事なら、彼が見た事のないようなものを練習してみたい。ボイスレッスンやダンスレッスンに、なにか捻りを加えてみようか――
 その時、違和感に気が付いた。彼が、入ってこない。後ろを見てみても、扉が開くような気配は全くなかった。
 体の中に、穴が空いたような気がした。急に、心が沈むのが分かる。どうやら、雨天で遠足は中止になってしまったようだ。

 訳も分からず肩を落とすと、息を一度だけ大きくついて踊り始めた。
 ――今日は、なんで来ないんだろう。
 身体と心が通い合わせられない。身体がステップを踏む間、心は宙に浮かんでいた。
 集中できない自分が嫌になる。こんな程度で。こんな程度で集中できなくなっていて、アイドルなんてやっていられるのだろうか。
 ――ダメ、しゅうちゅ

 気づいた時には、目の前が暗くなっていた。


―――――

 ―――あれ?
 まず初めに、自分が横たえられているという事を知覚する。ふんわりと、自分を包んでくれているような柔らかさは、絵本の中に出てくる雲みたいだった。
 ――私、天国にでも来たの?
 目を開く。見知らぬ天井。視界には、広がった白しかなかった。
「気が付いたか。どこか痛い所はないか?」
 はたと聞こえた低い声の音源を探す。彼は、ベッドの脇の椅子に腰かけながら、こちらを心配そうに見つめていた。
「特に痛い所はありません」
「それならいいが……貧血で倒れたそうだからな。急に動くなよ、またクラっとくるかもしれないから」
「はい……?」

 この前の時のように、痛みについて追及してこないプロデューサーさんを少し不思議に思いつつ、私は姿勢を楽にする。さっきよりも少しだけ、安心できた。
 目を細めて沈黙していると、彼が口火を切った。
「なぁ志保。こんな事は、もうこれっきりにしよう」
「――え?」
「元々、負荷がかかりすぎていたんだ。今回はただの貧血程度で済んだけれど、次は頭を打って倒れるかもしれない。事実、俺が見れていないというだけで、こんな事になってしまっているんだ」
「そ、そんな事言わないでください!」
 先ほどのゆったりとした動きとは対照的に、私の心臓は早鐘のようになり始めた。彼は、そんな私の反応は予想していなかったといわんばかりに、目を見開いてこちらを見ている。
「私は!私は……」

 言葉を探す。今、この瞬間でプロデューサーさんを納得させられるような意見を模索する。でも、そんな意見見つかるはずもなかった。いや、それを口に出せるはずもなかった。
「そうは言ってもな……」
「プロデューサーさんが教えてくれたから、私はここまで出来るようになったんです!」
 必死に、言葉を繰る。量さえぶつければ何とかなるんじゃないか、というそれこそ子供じみた発想。そんなか細い理由でも、今の私は縋るしかなかった。
「一人でやっていたら……私は、もっと大きなケガをしていたと思います。プロデューサーさんのおかげなんです。補助してくれなきゃ、きっともっとムリをして――」
「馬鹿言うな。無理させてたから、こんな風に倒れたんだ」
「そ、それは……」
 黙り込むしかなかった。黙り込んだ私に対して、彼は更に畳みかける。
「もうやめよう。お前が無理してるのに気付けなかった、俺が無能だった。これからは、きちんとレッスンのやり方そのものを見直す。トレーナーさん任せだけじゃなくて、俺もきちんと見るから」
「む、無能なんかじゃ――」
「だから、志保」


 ――無理はするな。

「あっ……」
 思いついた言葉が、一瞬で霧散した。彼は自身の顔を手でたたくと、私にゆっくり寝てろと言い残して、部屋を去っていった。私には、それを黙って見送る事しかできなかった。
 ――きっと、上達するかどうかは関係なかったんだ。
 私は、もう取り返せない事象を振り返る。意味がないと分かっていた。それでも、私は考えた。なんで、プロデューサーさんとのレッスンを続けたかったのか。
 上達したかったから?それならば、レッスンのやり方を見直してもらうという言葉だけで十分だったはずだ。
 それなら、理由はなんだったのだろう?
 ――あ。
 自主レッスンの日々を思い出す。いつも彼は、後ろで支えてくれていた。私が断ったから表に出てこなかっただけで、最初から見てくれていたのだ。
 出来ていないところはどうすればいいかを指摘してくれた。出来た時には、褒めてくれた。
 彼は、ずっと私だけを見てくれていたのに。
 「……一人でも、大丈夫だったはずなのに」
 いつからだろうか、彼が居ないと無性に心が落ち着かない。彼が見ていてくれると分かっていただけで、いつもより元気になれた。いつの間にか、目的が代わってしまっていた。
 ――嘘をついてでも、一緒に居てほしかったのに。
 「………うぅ、うぁああ」
 自覚した瞬間、涙があふれてきた。もう帰ってこない時間の貴重さに気付いた私は、静かに掛布団を濡らす事しかできなかった。


―――――

 ――素敵で儚い夢を見ていた。今では、そう思っている。そう思わなければ、自分自身を許せなくなってしまいそうだから。
 私は、あの日のようにレッスンルームで自主レッスンを続けていた。あの後、一人での自主レッスンは朝だけ、終業後にレッスンする時は、誰かがついているようにするというルールが設けられた。その理屈から言うなら、彼もわざわざ文句を言いには来ないだろう。
 ステップを踏む足は、あの日と違って時に舞うように、時に突き立てるように動いている。メモに書いてあったことを、いまだに続けている成果だろうか。未練は、奇しくも私を育て続けていた。
 先ほどまでの動悸は、いつの間にか消えていた。
 時計へと目を向ける。そろそろ、引き上げる時間の様だ。
 私は静かに振り返る。勿論、そこには何の変哲もない、いつものレッスンルームしかなかった。


―――――

「志保!今日はヨロシクなの!」
「美希さん、よろしくお願いします」
 午後からの合同レッスン。一緒に踊る美希さんは、珍しく未だにキラキラしたままだ。いつもなら、昼寝の時間と言って欠伸をしていてもおかしくない時間なのだが。
 ガチャリと、扉が開く音がした。
「!待ってたよ、ハニー!」
「うわっ!?お、おい美希!扉を開けた瞬間抱きつくなって!」
「ハニーなら受け止めてくれるって、信じてたのー!」
 頬ずりをするトップアイドルを見て、彼は大きくため息をつく。ただし、ため息はついても引き剥がそうとはせずに、そのまま頭を撫でている辺り、彼らの信頼関係が強固であることを表していた。
 少しだけ、心に靄がかかった。

「プロデューサーさん、早くレッスン始めませんか。時間、勿体ないですから」
「やる気だな、志保。よし、美希も離れてくれ。レッスン始めよう」
「もー、仕方ないの……後でゴホウビのいちごババロアで許してあげるの!」
 美希さんは名残惜しそうに離れると、とぼとぼと私の隣まで歩いてきた。
「ハニーもイジワルなの……」
「れ、レッスンですから……」
 心なしかアホ毛までいつもより下がっているように見える先輩は、私から見ても可愛かった。当然だろう、そうでなくては765を引っ張るトップアイドルなどやってられないだろうから。
 美希さんは、立ち尽くしてからも唇を尖らせていたが、プロデューサーさんの視線に気づくと、もう一度だけ悲しそうな顔をして、表情を真剣なものへと変えた。その切り替えは、さっきまでと同じ人ではないように思えた。


―――――

 踊る、踊る、踊る。
 練習した成果は確かに出ていた。いつもよりも動きにキレがあるのは分かっていたし、ダンスの途中で息切れすることもなかった。
 しかし、隣で踊るアイドルと比較したならば、それは遊戯にも等しいようなものだった。
 星井美希がステップを踏むだけで、辺りの空気が変わる。何故だろう、ダンスは得意分野ではないはずではなかったのか。そんな疑念を私が浮かべようものなら、それは違うと言わんばかりに勢いを増す。私は、それにつられて突っかからないようにするので精いっぱいだった。
 一段落つく。私は、息も絶え絶えに隣に立つアイドルを見上げる。彼女は、笑顔を浮かべて、ただ一点を見つめていた。目を輝かせて、そちらへと走り寄っていく。

「ねぇ、ハニー!今の、見ててくれた!?」
「ああ、しっかり見てたぞ。流石、俺の自慢のアイドルだな!」
「――!やったやったやったー!」
 美希さんはそのままプロデューサーさんにダイブ。プロデューサーさんも、かわさずに受け止める。抱きしめられた美希さんは、心底嬉しそうだった。
 ――他の人となんて話さないで。
 鼓動が早くなる。疲れているせいなのか、いつものように表情をコントロールできない。目を見開いている自分を客観視はできても、それを止めることは出来なかった。
 ――いつもいつも、私にあの視線を向けていてくれたなら。
 美希さんを見つめる彼の目を見る。抱き着かれて恥ずかしそうであっても、彼はそれを受け入れていた。彼女の髪を撫でる彼の瞳は、とてもやさしかった。
 心が絞られるように痛い。心は考える能力を持っている脳みそにあるって聞いたことがあったけれど、今だけは心は心臓にあると痛感していた。だって、こんなにも胸が痛い。
 ――私が、あの時。素直に心を開いていたなら。
 終わらない悔恨を続ける。あの時は、私だけを見ていてくれた瞳は、もう一人占めできるようなものじゃなくなっていた。
 それでも、届かない思いを込めて彼の瞳を見つめる。ようやく向き直って見つめた彼の瞳は、当然のごとく、私の方を見つめ返してはくれなかった。


歯切れ悪いですが、これでおしまいです

見ていただいた方には多大な感謝を

悲しいねえ、志保の今後が気になるな
乙です

>>3
北沢志保(14) Vi/Fa
http://i.imgur.com/vjiYt2W.jpg
http://i.imgur.com/3iRIlK5.jpg

>>5
天海春香(17) Vo/Pr
http://i.imgur.com/npnVCHE.jpg
http://i.imgur.com/7RYWSze.jpg

>>6
星井美希(15) Vi/An
http://i.imgur.com/Elsu0Bq.jpg
http://i.imgur.com/Y9rxA2F.jpg

>>25
如月千早(16) Vo/Fa
http://i.imgur.com/z4Cbz8I.jpg
http://i.imgur.com/lYCAN8h.jpg

矢吹可奈(14) Vo/Pr
http://i.imgur.com/kQHQF7j.jpg
http://i.imgur.com/R0w6Puf.jpg

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