ヴィーネ「愛妻家の朝食」 (167)




「そうですね、こう言って始めるのがいいでしょうか」

「これは、私たちの過ちのおはなしです、と」

                、
                 丶
             、  `、ヽ、
            丶`、  `、;;`` -、

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prologue: ある悪魔の告白


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dawn 1: 決別の日へようこそ(一)


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「ほらガヴ、朝よ。起きなさい」


私は熟睡するガヴをいつもと同じように揺さぶって起こす。

僅かに開いた口からよだれのこぼれた幸せそうな寝顔を見ていると、

いつまでも寝かせていてあげたくなるが、そうはいかない。

早起きは三文の徳、長寿の秘訣でもある。


「うぅん、あと二十分……」

「だめよ、朝食が冷めちゃう。早く顔を洗ってきなさい」

「へい……」


ガヴがのそりと体を起こす。

起こす前に朝食を用意しておくという私の作戦はかなり有効みたいで、最近はいつもこうしている。

くうたら天使様も胃袋には勝てないらしい。

ガヴは手を口の前にあて、間の抜けた声を出してあくびをしながら洗面台の方へ向かっていった。





私はふらつく彼女の姿を見送り、こっそりと手の中の「それ」を確認する。

闇を成型してできたみたいに暗い色をした、蛍光灯の光を反射して鈍く光る、それを。







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dawn 2: 下界へようこそ


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ガヴが天使であることを知ったときには、ああ道理でと、すんなりと受け入れることができた。

第一印象は清廉。

さらさらと風になびく美しい金髪を携えた彼女は、まさに聖女のようだと思った。

たまたま道案内をしてもらった相手がクラスメイトだなんて出来すぎた話だが、それだけに気になる相手。

自ら善行を積み、周囲の人を善い方向へと導く。

天使としての理想を体現したような彼女は、私の憧れだった。

そんな彼女に、私が人間だと欺き続けることができず、あるとき私は悪魔であると告白した。

敵対されるという懸念もあったが、ガヴは、数奇なこともあるものですね、これも何かの縁です、と言ってくれ、

それは私の杞憂に終わった。

悪魔でありながら、悪魔らしい振る舞いのできない私は彼女に対して、どうしても拭いきれない劣等感を感じていた。






思えば、私の心はいつも夜だったと思う。

悪魔らしくない私に魔界で光が当たることはなく、闇の中では誰しも見分けがつかない様に、その他大勢の一人だった。

寒さに凍えながら、周囲にあるものをそっと抱き寄せて暖を取り、夜明けを待つ。

私はきっと生涯をかけて、ありもしない夜明けを夢見て匿名の夜の中に静かに沈んでいくのだと考えていた。

だからこそ、彼女の突然な変貌には、天地がひっくり返ったかのごとく仰天した。







あるときガヴは三日も学校を無断で休み、携帯に連絡を入れても返事が返ってこなかったため、

プリントを届けるという名目で家を訪ねた。

何回もインターホンを鳴らしても中で彼女が動いている気配はなく、

いよいよ警察に連絡するべきかと迷っていると、がちゃりと鍵の回る音が聞こえ、ゆっくりとドアが開いた。

そこには、ぼさぼさに乱れた髪に、汚れた大きめのジャージを羽織った彼女の姿があった。

それからというもの、ガヴの生活は日増しにひどいものになっていき、

部屋にはいつしか空き缶などのごみさえも放置されるようになった。







初めは色々と説得した。


「天使としての誇りはどうしちゃったの?」

「私はもう、そういうことにうんざりなんだ。風の強い河原で小石を積み上げるようなものだよ。だったら、水切りをして遊ぶ」

「お父さんやお母さんもきっと悲しむわよ」

「バレなきゃ問題ないでしょ。うまくやるよ」

「仕送りも減っちゃうんじゃないかしら」

「それは確かに問題だな……。もし困ったら、ちょっと借りてもいい?」


私だってがっかりした、そうも伝えたが、彼女は生活を改善するそぶりも見せず、

むしろネットゲームの世界にさらにのめり込むようになっていった。







それは、ほんの些細な、そして純粋な心配からだったと思う。

きちんと学校に来させるためだといって、私は登校する前にガヴの部屋に寄るようになった。

そういうところが悪魔らしくないと言われ続けてきたが、人の役に立つことは、自分の喜びでもある。

しかし、自分よりダメな存在になってしまったガヴに、そしてそんな彼女に必要とされることに、

薄汚れた優越感も感じるようになったのだと思う。






人のお世話をすることは昔から好きだった。

困っている人は放っておけない、友達を助けるのは当然、そう言い訳をして私の行動はエスカレートしたのだと思う。

一度頼りにすることの味を覚えれば、いつしか味覚は順応し、さらに強い味を求める。

心のそこでは、そのようなことを期待していたのかもしれない。







ガヴの食生活が不健康そのものであることを聞いた私は、一度晩ご飯を作ってあげることにした。

朝起こしに行くのとは違って、料理は手間のかかる、立派な仕事だ。

積み上げたタスクを崩す間には、周りの景色なんて目に入らない。

ごちゃごちゃと内省する暇があれば、野菜を切り、火加減を調節し、焦げ付かない様にかきまぜる。

私の手に余る何かから逃れるためのシェルターとして、彼女を利用している側面もきっとある。

そして、黙々と完食してくれる彼女を見ると、自分を肯定されるような、満たされた気分になった。

それ以来、私は週の半分ほどは彼女と夕食を共にするようになった。






夕食を振る舞うようになってから、私は料理本を買い込み練習を重ねていた。

その甲斐あって、料理の腕は少しくらいは上がったと思う。

ガヴは無口なのであまり感想をくれないが、たまにおいしいと言ってもらえた日には、鼻歌を歌いながら食器を洗った。

彼女がカレーが好きだと言えば、欧風カレー、グリーンカレーとヴァリエーションを増やした。







下界に来て驚いたことがある。それは、スーパーの商品の豊富さだ。

はるばる海を越えてまで用意された食材もだくさんあり、毎日のように新商品は発売される。

さらに、電車で数駅ほどの駅前にあるデパートに入ったときには、多種多様なデザインの服に気の遠くなる思いがした。

もし記憶から辞書を作るのだとしたら、動詞や形容詞なんかと比べ物にならないくらい、

名詞、それも固有名詞が圧倒的な割合を占めるのだと思う。








ある日の登校前、いつも通りにガヴを起こしにアパートの部屋の前に立つ。

チャイムを鳴らしても反応がないので電話をかけたが、それにも応答はなかった。

私は、なんとなくドアノブに手を掛けた。

さすがに勝手にドアノブを回されるのは恐怖そのものだと思うので、いつもはしないのだが、

まぁ、なんというか、ちょっといらついていたのだ。

すると予想に反して、ドアは私に抵抗せず、音もなく開いた。

無断で入るのも悪いかと思った。


「……やむなし、かな」


しかし、起こすなら手早く済ませたいと、また、少しだけ悪魔っぽい行動かもしれないと考え、

上がりつつある心拍数に平静を装いながら侵入することにした。





どうせガヴには目覚めてもらうというのに、私は足を忍ばせてまだ眠っているガヴのそばへと近づいた。

瞬間、私は息をのむ。

まじまじと彼女の顔を眺めるのはこれが初めてだった。

小鳥の羽さえ乗せられそうな長いまつげ、まるで上等な絹のような、きめの細やかな肌。

幸せそうなその寝顔に、私はしばし見とれていた。

だがしかし、本当に私を揺さぶったのは、この後だった。




「ガヴ、朝よ。起きて」


優しくガヴをゆする。

彼女はよくわからない言葉をむにゃむにゃとつぶやき、ゆっくりと瞼を開けた。

アクアマリンのような、寝起きでうるんだその双眸が私をぼんやりと捉える。


「あ、ヴィーネだ。おはよう」


私は、ゆっくりと開く小さくて柔らかそうな唇に釘付けになった。

体に電流が走るとは、この時のような感覚を言うのだろう。

頭の中に彼女の少し甘えたようなハスキーな声が、まるでエコーがかかったかのように響く。

足場が急になくなったかのような、軽い眩暈を覚えた。






はっと我に返り、慌てて返事をする。


「お、おはよう。ガヴ」


ぽかんとしてしまったかもしれないと思い、意識して口元を引き締める。

にっこり笑顔、いつもの私だ。


「それじゃ、おやすみなさい、ヴィーネ」


私が動揺していると、ガヴは布団を口元まで引き上げ、再び眠ろうとしていた。






「ちょ、ガヴ。おやすみじゃない。遅刻する!」

「えー、今日は日曜でしょ?」

「違う!」

「大体、なんでヴィーネがうちにいるのさ。不法侵入は3年以下の懲役または10万円以下の罰金だよ?」

「玄関の鍵が開いていたからよ。気を付けなさい」

「ふーん。テーブルの上に鍵あるから、出ていくときにかけといて。学校終わったら返しに来て」

「なんで引きこもる前提なのよ。もう、こうしてやる!」


私はガヴの布団をひっぺがし、強制的に登校させることに成功した。








その日は一日中、挙動不審だったと思う。

ガヴが目覚めて初めて見るものが私。

その体験の余韻はなかなか私のもとを去らなかった。





人は一日に一生が対応するのだという。


ぼんやりと目を覚まし、朝食をとることで活力を得る。

午前中はどんな仕事だって明晰な頭脳でこなすことができる。

正午を回るころには手が鈍り、疲れ切って帰宅。

昼間にしたいと思っていたことも、夜になれば取り組む気力は失せ、死んだように眠る。







ひな鳥が生まれて初めて見るものを親として刷り込まれるように、

無意識にでも、ガヴに私を強く認識させることができたら。

その日は頭にかすめただけだったその欲求は、同じようなことが二度、三度と繰り返されるたびに強くなった。

あるとき堪え切れなくなった私は、夕飯の買い出しに行くときにガヴの家の鍵をこっそりと拝借し合鍵を作った。

それ以来、私はほとんど毎朝ガヴを直接起こしに行くようになった。



そして、ガヴを起こすついでに朝食を作ってあげるようになった。





朝食は大事だ。物事を始めるエネルギーを獲得できる。

何かに目覚めたら、まずは朝食。

いきなり働き始めるのではなく、栄養を吸収することから始めるべきである。



例えば、書道には臨書という手本を忠実に真似て書く行為がある。

すでに何人もの手によって構築された美意識を吸収し、そのうえで自分が美とするものを選ぶ。

自分の中に無いものを生み出すことはできない。

創造力の大きな部分は記憶力が占めるのだ。



目の前に横たわる未来さえも、その原材料は無から生じることは無く、私の手の中にあるとさえいえる。

どんな子供だって、母親の、あるいは母親の一部だったものから生まれる。

望む未来を手にするためには、潤沢な過去を得る必要がある。








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_,..i^{  .j     . / `:7 / / !.}_,.. '.{ . . '、 ヽ  ノヘ.     'ミト、::;::1 }::i::;:^T ´    Vl {:;::/ }::/   `'‐
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    ヽ、_,..   .j   . .l     .}     _,/    ,r   ヾ   ./´   ./、...,_   _,,..。 -/     ./   ヘ
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dawn 3:鳥籠へようこそ


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「え、その黒いのって、拭けば落ちるの?」

「そうだよ。知らなかった?」

「てっきり、ほくろみたいなものかと」

「そんな人間みたいなものじゃないよ。たまにきれいになってることあったでしょ?」

「たまにじゃ、よくないと思うんだけど……」






あるとき、私はガヴの持つ天使の輪っかについて聞いてみた。

食事の後の、なんということはない世間話だ。

しかし、私には天界のことを聞きたがる傾向はあったように思う。

生き物とは、タンパク質やリン酸カルシウムの単なる集合体ではない。

その人の見た風景、聞いた音色が記憶として形を変えて詰まっているのだ。

一人の人はひとつの世界であるとさえいえる。

ガヴという湖がどんな水を湛えているのか、どんな魚を住まわしているのか、それが私には気になった。






「そもそも、その輪っかって何?」

「蛍光灯」

「け、蛍光灯!?」

「私のは20型蛍光灯として使えるんだよ。定期的に落ち替わって、その落ち殻が製品化されたものがこれ」


そう言ってガヴは部屋の照明を指差す。


「いやいや、ヘビの抜け殻みたいに言わないでよ。そんなばかな」

「いわゆる天使の神秘ってやつだね」

「神秘が電気屋さんで二本セットで売られててたまるか! それで、本当は何なのよ」

「薄い骨にオーラが滲んでるみたいな感じ。ヴィーネたちの角と一緒。力が強いほどまぶしくて、校長とかヤバい」

「じゃあ、くすんでたら困るんじゃ」

「能ある天使は後光を隠すんだよ。校長はありゃダメだね」




「ちょっと拭いてあげるから出しなさい」

「え、いいって」

「何でよ。減るもんじゃないでしょ?」

「いや、その……。ヴィーネだって、角を触られるのって恥ずかしくない?」


ああ、そういうことか。

ちょっとデリカシーがなかった。

悪魔の角は動物の角とは違い、天使の輪っかと同じく、ほとんど「気」のようなものだ。

言ってみれば、自分の最も内側の部分を露出させている。

汚れを拭きとるとは、耳掃除のようなものなのかもしれない。

あるいは、歯磨きを手伝ってもらうとか。

……。

いや、歯磨きをちゃんとしないのはよくないんじゃないかな。

これは別に、私がやりたいとか、そういうのではなく、ほら、衛生上の問題であって……。





「私は、ガヴだったら気にしないわよ。ほら、割らないように優しくするから」

「そんなに簡単に割れないし」

「じゃあ、いいじゃない。ちょうどタオルも洗いたてがあるし」

「えー……」

「それとも、私ってそんなに信用ないかな」

「え?」

「そうよね。私は悪魔だもの。みすみす寝首を掻かれるようなことになったらって考えちゃうよね……」

「いやいや、そんなことないから! うー……。じゃあ、ちょっとだけ、お願いするよ」

「本当? ぃよっしゃあ!」

「おい、元気じゃないか! なんだよその握りこぶしは!」






ガヴはちょっと怒ったようにそう言ったが、素直に輪っかを出現させた。

座っているガヴの後ろに回り込み、膝立ちで、部分的に黒くなっているその輪っかをそっと拭き始める。

力を入れず、ほとんど撫でるだけで輪っかはきれいになっていく。

その黒いものはミルフィーユのように層をなしているらしく、はがれた薄膜は光を反射してきらきらと虹色に輝いた。

人間界には、これに似た鉱石があると聞いたことがある。

確か、雲母といっただろうか。

私がその輝きに見とれて手をとめていると、タオルに付着したその黒い汚れはいつしか空気に溶けるように消えた。

残りも終わらせようと、再び輪っかに手をかける。

ガヴの輪っかはじんわりと温かく、手を触れようとすれば抵抗をなくし、

何もしようとしなければ吸い付いてくるような、不思議な感触がした。


「んぁっ……」

「あ、ごめん。痛かった?」

「いや、大丈夫。こっちこそ変な声出してごめん」

「できるだけ優しくするからね」

「今のでいいよ。……ちょっとだけ、気持ちいいし」







輪っかを拭いてあげている間のガヴはしおらしくて、普段のやさぐれた彼女とのギャップもあり、なんだかかわいかった。

私は一人っ子だが、妹ができたらこんな感じなのかもしれない。

それから私はたまにガヴの輪っかの掃除を申し出るようになり、ガヴも特別に拒むことはなかった。

ガヴの反応に味を占めたともいえるし、彼女と私は違う生き物であることを自らに戒めるような、

儀式的な意味合いもあったのかもしれない。





天使を着実に堕落させているので仕送りは増えそうではあるが、実際には大きく減っていた。

魔界で習った、人間を堕落させる方法としては、堕落させたのちに見捨てるところまでが一連の流れだからだ。

ガヴと私の関係は、はたから見れば単なるお手伝いさんなので、悪魔らしい行動とはいえない。





悪魔の行動目的は人類の牙を抜くことである。

文明を発展させすぎた人類は、もはや自家中毒に陥ろうとしている。

悪魔は堕天使ともいわれるように、元々は天使であったが、神に逆らったために獣に近い姿へと変容させられた。

そもそも従順に作られているはずの天使が謀反したのは、おそらく神にそう仕組まれたためだと思う。

ある種の必要悪だ。






悪魔の目的は人間の魂を奪うことではなく、人間を無力化することにある。

サターニャの宿題をやってこないという行為は、クラスメイトに宿題をやらない空気を作るためのもの。

例えば、集団の中で本質的にポジティブ、あるいはネガティブである人間は実は少なく、大多数はどちらでもない人間だ。

この大多数は、空気によってどちらの態度をとるか決める。

空気というものは、見えないし簡単に混ざってしまう。

例えば、今教室のロッカー内の酸素が全て無くなったとしても、影響はない。

教室内には酸素が十分に存在するからだ。

だが、クラス中の酸素が無くなってしまうと話は別だ。

人間は極端に酸素濃度の薄い気体を吸収すると失神する。

しかし、気体の拡散は速いため、すぐに外から酸素が流れ込み、意識を取り戻すだろう。

だが、もし日本中、あるいは世界中の酸素が一斉に消え失せたとしたら?

神は人間たちの中に天使と悪魔を紛れ込ませることにより、この空気の舵取りを行っている。







悪魔たちの間でも公言されてはいないがおそらくは、いわゆるマッチポンプというやつだと思う。

だから、悪魔と天使はおおむね同じ場所に派遣される。

空気という言葉がわかりづらければ、他の言葉に置き換えてみることもできる。

例えば、思想。あるいは、信仰。

母から学ぶ道徳は、精神の朝食である。








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dawn 4: 追憶へようこそ


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ある日の放課後、私はいつもと同じようにガヴの家に寄ろうと考えていた。

またゲームで夜更かしをしたのか、眠そうに教室の机にあごを載せているガヴに話しかける。


「ねぇ、今日の晩御飯の希望とかってある?」

「なんでもいい」

「それが一番困るのよ。肉か魚かくらい言ってよ」

「ヴィーネの作るごはんなら、なんだっておいしいよ」

「もう、そんな調子のいいことばかり言って。それじゃ、全部平等においしくないっていうのと同じじゃない」

「いやいや、それは違うと思うけど」





「ガヴリール、行くんでしょ? 早く準備をしなさい!」


かばんを持ったサターニャが近付いてきた。


「ガヴ、何か用事?」

「うん、ちょっとね。今日はちょっと遅くなるかもしれないから、晩ご飯はいいよ」

「どうせ一人分も二人分も変わらないわ。作り置きしておくから」

「本当にいいのに。それじゃあね」

「うん、また」


ガヴはサターニャに引っ張られるように、ずるずると教室を出ていく。

サターニャはいつもガヴに突っかかっていくようだが、ガヴが書店に寄り道する際についていったりしていて、

二人でも遊んだりするぐらいに仲がいい。







二人と入れ違うようにしてラフィが教室に入って来た。


「ガヴちゃんとサターニャさんの組み合わせなんて、珍しいですね」

「そうね。ガヴがサターニャに付き合わされてるんじゃないかしら」

「たまには、私たちも二人で遊びませんか? うちに招待したいのですが」

「え、いいの? ラフィの家って入ったことなかったし、嬉しい」

「構いませんよ。それに、お見せしたいものがありまして」


なんだろう。ラフィも映画をよく見るって言っていたし、おすすめの紹介でもしてくれるのだろうか。






ラフィの家は学校から十分ほどの場所で、アパートというよりはマンションと呼ぶ方が適切な、小奇麗な住居だった。

オートロック付、玄関ホールには監視カメラあり。

お嬢様とは聞いていたが、さすがだ。

エレベーターで5階まで上がる。

そういえば、ラフィはたまにサターニャと一緒に登校してくる。

学校から見てサターニャの家とラフィの家は正反対だが、そのあたりを深く考えるのはよそう。

ラフィが玄関ドアを開けると、花のように甘い、それでいて控えめな香りが私たちを出迎えてくれた。







「おじゃまします」

「いらっしゃいませ。ヴィーネさん、お風呂にしますか、お食事にしますか、それとも……」

「どっちも結構よ。それとも以下も、もっと却下!」

「それとも、お菓子を食べながらお話しでもしますか?」

「あ、じゃあそれで……」

「お話しといっても枕話的なアレではないのですが、ご満足いただけるでしょうか」

「その説明必要ないから。暴露話みたいに言うな!」

「暴露話ならする予定ですよ」

「そ、そう」







居間に通され、ローテーブルに着く。

ラフィは何やら準備があると言ってキッチンへ向かった。

脱ぎっぱなしの衣類はなく、もちろんスナック菓子の空袋が転がってもいない。

もっと落ち着いた大人の雰囲気かと思っていたが、

パステルカラーで統一された室内は清潔さと少女らしさを感じさせる。

DVDはガラス扉のキャビネットにシリーズごとに整理されており、

ディスクが裸のまま転がっている、なんてことはない。

天使とは、かくあるべきと、私は一人うなずいていた。

ガヴにはせめて靴下を脱ぎ散らかすのだけはやめてもらおうと心の中で誓っていると、

トレイに皿とコップを乗せたラフィが帰って来た。







「ジャムをクラッカーで挟んでみました。すみません、少々時間がかかってしまいまして」

「いえいえ、言ってくれたら手伝ったのに」

「それでは面白くありませんから」

「ん?」

「一つだけ当たりがあります」

「またそのタイプか!」

「私にもどれが当たりかわからないので、一緒に選びましょう」






クラッカーは深めの皿に入れてあり、何が挟んであるかわからない。

私は手前にあった一つを選ぶことにした。


「じゃあこれ」

「では私はこれを」

「うげ、これは……」

私の選んだクラッカーには緑色の不透明なジャムが挟んであった。

いや、色からして、これはワサビでは……。








「あ、それ当たりですね」

「食べる前に言わないでよ!」

「覚悟を決めて、一口でいっちゃってください!」

「えー……。本当に食べないとダメ?」

「ルールですから」

そんなルール初耳だけど……。

まあ、ワサビの辛さは唐辛子と違って喉とか舌に残らないし、一時をしのげば大丈夫かな。

仕方ない、食べよう。

ラフィはにこにことサーカスが始まる直前の子供のように私を見守っている。

ああ、こういうときラフィはいきいきするわね……。






ワサビ特有の吹き抜けるようなつーんとした辛さに身構えながら、恐る恐る口に運ぶ。


「ん……これは」


頭のてっぺんまで貫く衝撃……ではなく、上品な甘さ、わずかな苦みを感じた。

なんというか、ワサビと同じく和風なこの味は――。

カシャリと軽快な音が響き、思わずラフィを見る。


「当たりの抹茶クリームはいかがでしたか?」


そこには満面の笑みで携帯を構えるラフィの姿があった。






拍子抜けしてしまって、また安堵もあって、急に怒る気にもなれず混乱したままクラッカーを食べ終えた。


「も、もう。当たりとかいうから、緊張しちゃったじゃない!」

「当たりは当たりですよ。かわいらしいヴィーネさんの姿に私は満腹です」

「こっちは立腹よ! もう、ラフィったら」

「ごめんなさい、ヴィーネさんにツッコんでもらいたくて、つい」

ラフィはウインクしながらぺろりと舌を出す。

楽しげなラフィの姿を見ていると、怒る気も失せてきた。


「もういいわ。おいしかったし」

「ジャムもクラッカーもまだありますから、どんどん食べてくださいね」







それからしばらくは、野菜の適切な保存方法とか、今日もサターニャが担任に怒られたこととか、他愛もない話をした。

誘われるときにラフィが言っていたことを思い出し、聞いてみることにした。


「ラフィ、そういえば、見せたいものって何?」

「ああ、そうですね。楽しくてつい忘れていました。今、取ってきますね」


うっかりしていたとばかりにラフィは握った手でもう片方の手のひらをポンと打ち、手を拭いてから席を立つ。

ラフィは背中でドアを開け、寝室から何冊かの分厚い本を両手にかかえて戻って来た。





「これは、私とガヴちゃんの子供のころの写真です」

「へぇ、そうなんだ。見てもいい?」


二人の子供時代を想像してみる。

きっとお人形さんみたいにかわいかったんだろうなぁ。


「私のことはどうかわかりませんが、ガヴちゃんのことなら、ヴィーネさんは興味津々かと思いまして」

「いやいや、二人とも興味あるわよ。でも、ガヴとサターニャがいなくてよかったの?」

「今日はたまたまヴィーネさんだけでしたし、ゆっくりお話しできそうだと思いまして」

「ああ、なるほど」


確かに、あの二人もいると騒がしすぎてゆっくり話が聞けないかもしれない。


「今度また四人で見ましょうね。ガヴちゃんも普段しない表情をしてくれそうですし」

「あんたは誰に対してもブレないわね……」





それからは、ラフィの昔語りに相槌を打ちながら、さっぱりとした上品な甘さの紅茶をすすった。

めくったページの中のある写真で、パイにかぶりつくガヴの目が腫れていることに気付き、聞いてみることにした。


「このガヴの目、少し赤いわね。ケンカでもしたの?」

「ああそれは、ガヴちゃんが泣いたからですね」


ラフィは、アルバムを押さえている、ほっそりとした自分の指に眼を落とす。



「パイに乗せる果物を切るときに、私が手を切ってしまったんですよ。

深くはありませんでしたし、すぐにガヴちゃんのお母さんが治癒してくれましたしね。

でも、結構血が出たんです」


「へぇ、そんなことが」





「私は驚いてしまって急に涙は出てこなかったんですけど、

ガヴちゃんが泣きだしてしまいまして、つられて私もちょっと泣きました。

ガヴちゃんったら、あんまりひどく泣くものだから、

お母さんは勘違いをして私より先にガヴちゃんに治癒の術をかけたんですよ」



ラフィはおかしそうにくすくすと笑う。


「ガヴちゃんは、他人の痛みのわかる優しい子です」

「なんだかガヴらしいわね」


にこやかなラフィにつられて、私も微笑みながらうなずき返す。



今から百年ほど前に下界の画家が、パイプたばこの絵を描いた。

その絵が衝撃的だったのは、そのリアルさでも、あるいは色使いでもない。

画家は、精密に描いたパイプの下に「これはパイプではない」という文字を描いた。

その表現が斬新だったのである。

絵は絵であり、現実のものではないため、吸うことなどできない。

よってこれはパイプではなく、パイプのイメージだと、そう言いたかったのだろう。

確かに、絵だけをもってすればそうかもしれない。

しかし、私たちの手にした最大の英知は言葉だ。

それがあるからこそ、賢者への道は開かれる。

現実を砕いて作った言葉というレンガで再び世界を構築することができる。

写真の中のガヴの、今より少しだけ高い体温を、私は確かに感じ取ることができる。






「ガヴちゃんの家のそばには、きれいな湖があるんですよ。魚釣りをしたこともありまして……」


しかしそれでも、と私は考える。

当たり前のことではあるが、私は悪魔で、ガヴやラフィは天使。

私は彼女たちの育った天界の景色のほとんどを知らない。

氷山はその大半を海の中に隠し、月は裏側を地球に見せることはない。

陸上で生活する私たちが水中での生活を想像できないように、知らない世界というのは必ずある。

透き通る青の世界を優雅に泳ぐ美しい魚たちを想い、地べたに這いつくばるわが身を恨めしくも思う。





ラフィはアルバムを次のページへとめくる。

レースの施されたノースリーブのワンピースを着ているところを見ると、季節は夏らしい。

考え事に耽ってしまって、返事を忘れていたかもしれない。


「ねぇ、ラフィって、好きな人とかっている?」

「おや、恋の話ですか? 誰か気になる殿方でも?」

「ううん、そうじゃなくって……。人を好きになるのって、どんな気持ちなのかなって思って」


「そうですね……。きっと、難しく考えることなんて、ありませんよ。

もっと食べたいと思う気持ちがおいしいということ、もっと嗅ぎたいと思うことがいい匂いだということです。

もっと知りたいということが、好きっていうことなんじゃないでしょうか」





「なんだか一方的ね」

「そうですね、好意は一方通行だと思います。その矢印が輪になって循環することが愛ではないでしょうか」

「愛ねぇ。ラフィは気になる人とかっているの?」

「私は……そうですねぇ。気になる人はいますかね」

「そうなんだ! どんな人か、聞いてもいい?」

「なんというか、汲めども尽きぬ面白さの源泉といいますか」

「ふーん、明るい人なのね」

「出会いからして衝撃でしたからね。犬と対等に争うなんて」

「ん? それって」





「言葉遣いは勇ましくても、根っこは優しい子なんだなっていうのが最近よくわかって、もっと深く知りたいと思っています。

本当に、不思議な方……」


ラフィは遠くを見るような目つきをして、言葉を舌でゆっくりと味わうように、

まるで自分に確認しているかのように語った。

うっとりとした、夢見る乙女という形容がぴったりなその表情に、見ている私がどきどきしてしまった。

サターニャは不器用だけど寂しがり屋で、その分友達を大事にする。

ガヴが休んだ日には決まって「なんだか今日は静かね」なんて言って、私に探りを入れてくるのだ。

いつも騒がしくしているのは、サターニャの方なのにね。

でもきっと、私の知らないサターニャを、ラフィは知っているのだろう。






「もちろん、他にも好きな人はいますよ。例えば、献身的で、まるで天使のような方がいるんですよ」


ラフィは一転して、胸に秘めた秘密を告白するように、やけに深刻な、ともすれば人を食ったような口ぶりで言った。


「へぇ、そう。その人なら、私にも心当たりはあるわ。ふふふ……」


私は力なく笑った。


「あ、いやいや、籠絡する手腕が悪魔的といいますか、まさに魔性といいますか」


ラフィが慌てて取り繕う。

いいのよ、自覚あるから……。





「ヴィーネさんも、恋愛という意味でないなら、好きな人はたくさんいるんじゃないですか?」

「そうね、この部屋の中にもいるわ」


ラフィはいい天使だ。

いつもわたしたちをかき回すのは――かき回される対象の八割はサターニャだけど――、その方がみんなで盛り上がれるからだ。

天候を操作しちゃうのはちょっとやりすぎな気もするけれど……楽しかったから良し。







しかし、物事は往々にして、つるっとした単純な皮をかぶっていても、中身は懐中時計のように複雑だ。

例えば、私が誰かを好きであることと、誰かが好きな自分が好きであることは違う。

また、誰かの一部分だけが好きであることと、そうでない部分も認めた上で好きであることは別のこと。

人は好きを純化させることに労力を惜しまない。

長い試行錯誤の末に、種を持たないブドウさえ生み出してしまうのだ。







「なんで生き物は、感情みたいな複雑なことを考えちゃうのかしらね。もっとシンプルでいいのに」



「天界でなんやかんやと習いましたね。感情とは、神様にとっては果物のようなものです。

神様が蒔いた種、つまり人間が自発的に作り出したもの。

神様としては想定外の出来事なんでしょうね。だからこそ、興味深い。

もしかしたら、神様は人間で自分たちのシミュレーションをしているのかもしれませんね。」



「確かに果物は二つの別の個体があって初めて生まれるものだしね」






「愛とはきっと、二人でボートを漕ぐようなものです。一人は右の、もう一人は左のオール。

もし片方の愛情が過剰であれば、その場をぐるぐると回ってしまう。かといって漕がなければ流されてしまう」



「一人が両方のオールを漕げばいいんじゃないかな」

「左右のふたつのことを一緒にするのは難しいものです。それに、きっとすぐに、くたくたに疲れ切ってしまいますよ」

「難儀ね」

「ええ、全くです」






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dawn 5: 夜更けへようこそ


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それからとりとめもない話を少しして、続きはまた今度ということになった。

私はその後立ち寄ったスーパーで、つい癖で食材を買いすぎてしまい、

来なくてもいいと言われていたが結局、ガヴのアパートに来た。

少し遅くなってしまったが、彼女はまだ家に帰っていなかった。

時間が経ってもいいようにと、今夜はカレーにする。

私のお母さんは、私が怒られた時には決まってカレーを作ってくれた。

隠し味にすりおろしたリンゴを使ったそのカレーは、一口目には不思議な安心感があって、

でも後味は少しばかり刺激的で、罪と、赦しの味がした。

食事を作る側になって考える。

あれはお母さんにとっても大事な儀式のようなものだったのではないか。

親の心子知らずとはよくいったもので、相手の立場に立つというのは、そもそも不可能だ。

だって、私は私であり、誰かではないのだから。

まあ、だからこそ終わりのない想像をしてしまうのだけれど……。

カレーが焦げ付かないように、ゆっくりとかきまぜる。

野菜に味がしみ込むように、私のため息もルウに溶け込んでいくような気がした。





ラフィの話は、ガヴやラフィの知らない一面を知ることができて嬉しかった。

その一方で、私の知らないガヴをラフィは知っているということを改めて感じ、私の心にはさざ波が立った。

もしも、私が天使に生まれていたとしたら、どうだっただろうか。

でもきっと、ラフィにだってガヴの知らない一面というのはあって、きりのないことなのだと思う。

仕方のないことだ、そうは思っていても、今度はガヴがサターニャの家から帰ってこないことに、

なんとなくもやもやしてしまうのだ。






今日はメークインではなく男爵イモを使ったので、ジャガイモが溶けて小さくなってしまった。

ちょっと失敗したかな、と思っていると、ポケットの中の振動が着信を告げた。

携帯に表示されているのは、ガヴの名前。


「あ、ガヴ。今どこ?」

「サターニャの家。ヴィーネは?」

「ガヴの家よ。もう帰ってくるの?」

「来なくていいって言ったのに。ごめん、今日はサターニャの家に泊まっていく」

「そう、わかったわ」


火を止めた鍋をちらりと見る。

まあ、朝食にでもしてもらえばいいか。






少しがっかりしていると、遠くから賑やかな声が聞こえてきた。


「ちょっとガヴリール、ロフトでお菓子こぼすのはやめてって言ったでしょ!」


「ちょ、サターニャ、電話中だから静かにして! ……騒がしくてごめん。

もう遅いし、ヴィーネも泊まりたかったら好きに使ってくれていいから」


「うん、ありがとう。……あのね」

「それじゃ、またね。……うん、何か言いかけた?」

「あ、いや、なんでもないの。あんまりサターニャに面倒をかけるんじゃないわよ」

「いっつも面倒をぶつけられてるのは私だし。じゃ、おやすみ」

「まぁ、そっか。じゃあね、おやすみなさい」


彼女が電話を切るのを確認し、携帯をポケットにしまう。

よほど握りしめていたのか、ふとももが妙に生暖かく気持ち悪かったので、やっぱりテーブルに置くことにした。






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それから、ガヴの部屋で一人でカレーを食べた。

部屋に音を満たすためにテレビを流していたが、暗闇の中の蝋燭が際立って明るいように、

軽薄な騒々しさが何かを浮き彫りにするような気がして、途中で消してしまった。

別にそう決めたわけではないが、食事の際は、なんとなくいつも同じ来客用のスプーンを使っている。

食べ終えた皿にこびりついた油汚れを、少し多めの洗剤を使って洗い流す。







私の思考はきっとこんがらがってしまってメビウスの輪のようになってしまっている。

鋏を入れて小さく分解しようとしても、元の輪より大きい輪になるばかり。

もっと絡まっていくばかり。



悪はもっと大きい善をなすためには許容される。

合鍵を勝手に作ったことは悪いことだ。

しかし、それにはガヴの更生――あるいは堕落――という大義名分がある。

そして、これが同時に欺瞞であることもわかっている。

ラフィの昔語りを聞いては、サターニャがガヴを泊めると聞いては嫉妬する。

そんな自分に嫌気がさしていた。






悪魔はは両性具有である。

より正確に言うと、性別による対格差はあるが、生殖に性別が無関係である。

そもそも、悪魔の本体はオーラのようなもので、実体化した姿は仮初めである。

二人の悪魔が魔王様の名のもとに愛を誓うことで、個人の本体である、

いわゆる「気」が放出され、混ざり合うことで子を成す。

だから、悪魔たちの間では、同性で結婚することも多い。

天使のことはよく知らないが、そもそも悪魔は天使に由来するため、

同じような形式なのではないかと思っている。

下界での修行を終えた多くの悪魔は、魔界で生涯を過ごし下界とあまり関わりを持たない。

天界と関わる悪魔はもっと稀である。

過去には天界と魔界で戦争もあったらしいが、今の世界間の壁というのは結構厚く、

表面上の不干渉ゆえに比較的平和が保たれている。


もし、私が天使だったなら。

意味のない仮定だとはわかっていても、ついつい私は想像してしまうのだ。




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なんとなく一人で家に帰る気になれず、カバンから文庫本を取り出し、栞を挟んでいたページを開く。

視線はページの上を滑り、私は記憶の海を、静かに深く深く潜っていく。



人はだれしも、誰かそのものに触れることはできない。

私がガヴだと思っているものは、ガヴそのものではなく、私が目や耳を通して心の中に再構成したガヴだ。

その心の中の像を自分と地続きだとみなし、痛みや喜びを共有すること、それが愛することだと思う。

だから多分、相関図のような矢印はそもそも無い。

そんな風に考えてしまうのは、私が愛されることに鈍いからだろうか。






人を好きになるのに理由なんてないとはいっても、無を好きになる人なんていない。

理由がないのではなく、言葉にならないだけだ。


下界は言葉で満ちている。

身の回りのどんなものにも名前がついている。

だから、私たちはどんなことも言葉で説明できると思ってしまう。

名前を付けて満足してしまう。

言葉は確かに思考の礎ではある。

言葉は人類の沈黙の夜を明かし、文明を花開かせた。

でもきっと、言葉の網目をすり抜けるものだって、世界にはたくさんある。






私はガヴに対していろいろな感情を持っていると思う。

怠惰な生活は改善してほしいと思うし、放っておけない。

その一方でこのまま私を当てにしてほしいとも思っている。

ガヴは自立したとしても私と友達でなくなることはないだろうが、今みたいな近い距離ではなくなるだろう。

ふとしたタイミングでみせる不器用なやさしさは大好きだし、

優等生として振る舞えるのにそうしないところに嫉妬したりもする。


だから、私はこの感情を、ただ一言に乗せる。


「ガヴ……」


固有名詞でも、ましてや動詞、形容詞でもない、彼女の名と同じ響きの感嘆詞を、

誰にも気づかれぬよう、こっそりと呟くのだ。




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気付けば舟を漕いでいた。

ガヴのベッドを借りてもよいのだろうが、私はそうする気になれなかった。

それはつまり、持ち主の不在を確かめることになるからだ。





方位磁石を手に、北へ北へと進めば、いずれ全方位が南である点に到達する。

聞いた話では、そこには夜が存在しないのだという。

天国とは、そのような場所を言うのだろうか。

だから、どんな苦しみにもいつかはきっと終わりが訪れる。

その最大の苦しみに耐えることができたなら、私にはもう恐れることなどないのだ。

強くなるにはまず敗北する必要がある。

激しい運動を行うと筋肉は一度切断され、再生するときに前よりも増強される。


それに、味を感じなくなるのは病気、目が見えなくなるのは病気。

だとすれば、痛みを感じることは健康である証拠だ。





だがしかし、である。

気持ちは目に見えない。

だから、目に見える何かを求める。

私のことが嫌いでないという、証がほしい。

結局のところ、私は自信がないのだ。

私の認める誰かが私を認めるという、間接的な方法でしか、自分を肯定できない。

かといって、他人をそんなに信じることができているだろうか。




私はただ、居場所が欲しかった。

居てもいいって言ってほしかった。





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dawn 6:鳥籠の外へようこそ


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誰かの気配で目を覚ます。

首を持ち上げると肩から毛布が滑り落ちた。

どうやら、本を読みながらテーブルで寝てしまったらしい。

枕にしていた腕が少ししびれている。


「あ、ヴィーネ、起こしちゃった?」

「おはよう、ガヴ。ごめん、勝手に泊まっちゃった」

「いいって。もうちょっとで朝ご飯ができるから待ってて。茹で卵とトーストと、後は作ってくれたカレーだけど」


ガヴはいつも朝食を億劫がり、私が作らなければ抜いたりもする。

わざわざ作るなんて、何かいいことでもあったのだろうか。






「それより、テーブルで座ったまま寝落ちなんて、ヴィーネはまだまだオールの初心者だね」


珍しくガヴが饒舌だ。

徹夜明けだからかもしれない。


「本を読むならペラペラめくれる漫画じゃないと。

小説なら、展開が派手で、舞台が現代に近い話かな。

頭はあんまり動かさなくても、手は動かしている方がいい。

まあ、展開が気になる話ならなんだっていいと思うけど。

でも、あんまり激しいと疲れちゃうから、ほどほどにね」



「何事にもコツはあるのね……」


前に、ネトゲの回復待ちがどうとか言っていたので、ガヴはわざわざ徹夜することもあるのだろう。





「いい? 徹夜するときは常に、何か動いているものを見ていないといけないんだよ。

例えば、目の前を虫が横切ったら無意識にそっちの方を見ちゃうでしょ?

これは、本能が目をそっちに向けているんだよ。人は何かが動いている場所では眠れない」



そう、私はオールのビギナーだ。

どうすればいいかもわからず、ただ力任せに……。

ガヴは歌うように演説を続けていた。

彼女は純粋に私のために朝食を用意しようとしてくれている。

いつもとは反対の、そうだ、全く反対の状況だ。

彼女が白い光、熱をくれる存在なら、私は薄暗い影、熱を奪う存在。

目頭に熱を持った何かがこみあげてくるのを感じる。

後悔とか、罪悪感とか、形容しきれない何かを溶かしこんだ、海水と似た成分の何かが。



「あ、でも規則的な動きじゃだめ。眠たくなっちゃうから。

これって多分、母親の胎内にいたときの鼓動を思い出すからだと思うんだけど……」




「ガヴ、ごめんね……」

「え……、ど、どうしたの、ヴィーネ? 泊まっていいって、昨日言ったでしょ?」


ガヴがテーブルの対面に慌てて駆け寄って来た。


「そうじゃなくて……ぐすっ。ガヴを縛り付けるようなことをして、ごめんなさい」

「そんな風に思ったことなんてないよ? むしろ感謝してるくらいだし」

「合鍵を勝手に作ってごめんなさい。これは、もう返すね……」


私はポケットから鍵を取り出すと、それが砂でできているみたいにそっとテーブルに置いた。


「ヴィーネ……?」



「私ね、昔から花を育てるのが苦手だったの。

ついつい水や肥料をあげすぎて、根腐れを起こさせてしまって。

のどが渇くことや、おなかがすくことは苦しい。

そんな誰かの姿を想像することも苦しい。

だから、そうならないように、つい注ぎすぎてしまう。

そんなの、お互いのためにならないのにね」




「もう、やめにしましょう。ごめんなさい、重くて……」


またやってしまった。

私は昔から、信頼できる人には罪の告白をせずにはいられなかった。

赦しを求めているのだと思う。

きっと私は、重荷に耐えられるほど、強くないのだ。





「こんなこと、一回しか言わないから、聞き逃さないでよ」


ガヴは小さくため息をつくと、少し恥ずかしそうに話し始めた。


「ヴィーネが世話を焼いてくれるのには、これでも結構感謝してる。

面倒なことを代わりにやってくれるっていうんじゃなくて――いや、それもちょっとは、というか、かなりあるんだけど――

ダメな私のそばにいてくれるっていうのは、なんというか、安心感がある」






「下界に来てすぐのころに、私は積極的に外に出ていた。

それは、そうしていないと、私が世界から切り離されて、四角い箱の中に閉じ込められたように感じていたからだと思う。

ほら、下界って、なんでも包んだり、箱に入れてしまうでしょ?

野菜だって、そのままで売ってもらうことなんてないし」


その心細さには覚えがある。

人はたくさんいても、それは一人がたくさんいるだけ。

ガヴに声をかけてもらって、下界に来て初めて人と会った気になったものだ。





「中にあるものは外からはよく見えないし、気付かれない。

中に何かあるのかどうかさえも、意識の外にある。

だから、一所懸命に頑張って人の役に立って、そうしないと、口をきいてもらう資格も与えられないと思ってた。

ネトゲからゲームにはまったのも、プレイヤー同士が交流している様子が楽しげに見えたからだと思う」


ガヴは口調こそぶっきらぼうだが、意外と寂しがり屋なところがある。

私が遊びに誘うときも、照れ隠しで一度は断るが、なんだかんだと毎回参加してくれる。


「ゲームは時間をかけたらかけただけ返ってくるものがあったし、あっという間にのめり込んだ。

気が付いたら私は優等生でもなんでもなくなっていたし、いよいよネトゲの中にしか居場所はないのかなって思った。

箱から出たくて、箱に入れ込むなんて、皮肉だよね」





「でも、ヴィーネは私を見捨てなかった。

ヴィーネが説得しに来てくれなかったら、多分ずっと引きこもってたと思う。

実は、私は昔から朝が弱くて、お母さんに毎朝起こしてもらってたんだよ。

だから、ヴィーネに毎朝起こしてもらうようになって、なんというか、解放されたような気持ちになってた」


気付かないうちに私の思惑通りになっていたらしい。

だが、それで本当にいいのだろうか。

幸福とは、目的ではなく指標、方位磁針のようなものだ。

幸福を貪るとは、固めた油に人口調味料で味と香りだけをつけて、栄養満点だと言い張るようなものではないのか……。


「私からヴィーネにしてあげられたことなんて、何もないと思うけど、それでもヴィーネはそばにいてくれた。

そんなの、嫌いになるはずないというか……その……」






「……好きに、なっちゃうでしょ」


ガヴは口ごもりながら、ぽつりとそう言った。

その言葉の、優しく耳を震わせる甘い響きに、私は思わず顔を上げる。


「私も、ずっとヴィーネのそばにいたい。

だから、そんな風に謝らないでよ。

私がちゃんとしなかったのが悪かったなら、これからはちゃんとする……と、思う。

その、多分ね……おそらく……一歩ずつだと、思いますけど……」







ガヴはこほんとわざとらしく咳ばらいをして、優しい眼差しを私に向けた。


「それに、ヴィーネも結構私と似ているところがあると思うよ。

私は、天使の仕事が嫌になったからゲームに逃げ込んだ。

ヴィーネだって、悪魔としてのしがらみとか、将来とか、もろもろの難題を考えずに済むから、

私の世話をしているところ、あるでしょ?

結局、私たちは強くなんてないんだよ。

でも、私は受け入れるよ」




「そんなヴィーネが好きだよ」


彼女は、自分が天使であると名乗るように、私の眼を見つめて、さも当然とばかりに今度はさらりとそう言ってのけた。

隠し通せていると思っていたのは、私だけだった。

彼女には、全てお見通しだったのだ。

思いがけず心の奥まで見透かされたことが恥ずかしく、つい顔を伏せ、憎まれ口を叩いてしまった。


「そんなの、口では何とでも言えるわ」

「ヴィーネ、ちょっと目をつむって」

「え?」


驚きと、少しの期待とともに顔を上げる。




それから先は、混乱もあって、あっという間だった。

その華奢な指先で、ガヴが少々強引に私のあごをつまむ。

ガヴの顔が迫って来て、唇に何かが押し当てられる感触。

まるで熟れたオレンジのように薄皮に包まれたゼリーみたいな、それでいて確かな芯を感じさせるような。

私の顔にガヴの髪がかかり、ふわりと甘いミルクと、微かに汗の混ざったような匂いがした。

その香りは、天使も私と同じく生き物であることを感じさせた。

私が硬直していると、ガヴが少し顔を離した。

ガヴも息を止めていたらしく、そのときに私はガヴの温かく湿った吐息を感じた。

あまりのことに言葉が出てこない。

はたから見れば、二人してリンゴのように真っ赤になっていることだろう。

時が止まってしまったかのように、部屋は静寂に包まれていた。

聞こえるのは、心臓の音。

見えているのは、何か言いたげに口をもごもごと動かすガヴだけだ。





「今日の所は、これで勘弁してくれ」


ガヴは目を逸らしながらそう言うと、私の口を覆っていた手をどけた。

私たちは、ガヴの手一枚を隔ててキスをした。

そのことに、私は千の言葉よりも深い安らぎをおぼえた。

長い闇夜に、ようやく一筋の光が差し込んだ気がした。

それが例え、夜明けなどではなく、雲が晴れただけの月明りであったとしても。

月は自ら光るのではなく、太陽の光を反射する。

月の明るい夜は、小規模な昼間なのだ。





わざわざお互いに傷をつけては舐めあうような、こんな関係は何の解決にもならないことはわかっている。

引いていく波打ち際のぎりぎりまで近づいて、つま先を濡らしては慌てて引き返すような。

あるいは、時計の針がメトロノームのように振れるような。

来もしない夜明けを、ただ二人で身を寄せ合って待つ、こんな関係は長続きするはずがない。

だが、それの何がいけないのだろうか。

私たちには、そもそも私たち自身ではどうしようもない別れというのが確定している。

だからそれまでは、たとえ仮初めであったとしても、どうかゆるしてはもらえないだろうか。

だから、もう少しだけ……。






「……配膳」

「え?」

「料理は作ってあげるから、皿を並べるのは手伝って」

「えー……。ん、わかった」

「あと、靴下は揃えて脱衣かごに入れて」

「覚えてたらね」

「カップ麺のスープは三角コーナーを通して捨てて」

「あー、つい忘れちゃうよね」

「……私のことは、忘れないで」

「ヴィーネ……。うん、約束する」

「ありがとう、ガヴ……」

私はよほどひどい顔をしていたのだろうか。

ガヴは、熱にうなされる我が子を看病する母親のように、優しく私の頭を撫でた。







逆さまに数えよう。

いずれ結する、私たちの日々を。

定めが分かつその日まで。

そのときに、ちょうど終わるように。

そして、空っぽの容れ物に還ろう。

ありったけを吐き出し、結晶化した、宝石のようなそれを大事にしまいこみ、ときに眺めよう。

そうすればきっと、また新しく始められる。

失うことなど、きっとこの世にはないのだ。

だから今は、目の前のごちそうを平らげることに夢中になろう。






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         { :レ' :7 ヾトix、`'7x,´ .{:1{:./i
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          / . . '、 . . :ヾ'vii}TV'} : 、.jヘ
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         ' . . : . . : ノ . . : : : . :1.} . : : :} .!
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dawn 7: 鳥籠の中へようこそ


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予定は未定とはまさしく真理で、世の中何が起こるかわからないもの。

決定論は量子物理学の到来によって葬られたとか、いや初期条件がわからないだけで矛盾しないだとか、

色んな理屈はあるけれども、昔の人の言う一寸先は闇という言葉に共感しない人はいないと思う。

まだ捕まえてもいないワイヴァーンの鱗を売りさばいて得たお金で飲む予定のエール酒の銘柄など考えようものなら、

悪魔に鼻で笑われてしまう……いや、つまらない話はもうよそう。

私がこうしてごちゃごちゃと言い淀んでいるのも、これから先は、熟れすぎたリンゴの辿る末路のようなものだから。

自分の醜い部分は隠したいもの。

でも、話そう。

懺悔とは、そういうものだと思うから。

あなたなら聞いてくれる、そうでしょう――?






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その日は、雲がすべて落下してしまったかのように晴れ渡った、暖かい、というよりは生ぬるい日だった。

私たち四人は偶然登校途中に出会い、ホームルームが始まるまで私の教室に集まっていた。

まるで今日は午後から雨が降るとでも言うみたいに、ガヴは何気ない調子で告げた。


「私、天界に帰ることになったから」


そのあまりの平然とした様子に、私はてっきり、ごく短期間の里帰りなのかと思ってしまった。




「またゼルエルさんに怒られたの? それで、いつごろ戻ってくるの?」

「いや、もう下界には来られないと思う」


私はそのセリフをとっさに理解できなかった。

明日から二度と太陽は昇って来ないからと言われて、すぐに信じられる人なんていない。

ガヴが、もう下界には、居られない?



「中等部の主席がこんなんだと、スキャンダルになるらしくて。

飛び級で進学という名目で天界に連れ戻されることになった。

まあ、高校生活は元々、長期休暇みたいなものだしね。

問題ないんだと」



脳がその言葉の意味を理解することを拒む。

まさか、そんな。

うまく思考がまとまらず、そんな言葉ばかりが思い浮かぶ。




「も、もう、ガヴったら。エイプリルフールなんて、何か月か前に終わったわよ。ねぇ、ラフィ?」


ラフィは静かにかぶりを振った。

厳かなその仕草は、さながら臨終に立ち会う医師のようだった。


「サターニャも、何とか言ってやってよ」

「ヴィネット……」


すがるようにサターニャに話を振るも、苦い顔をして目を逸らされてしまった。




「一週間後くらいに私は引き上げるから。それじゃ、この話はおしまい」


ガヴは相変わらずこちらに顔さえ向けず、けだるげに頭を机の上で組んだ腕に載せた。


「そんなの、急に言われても……。いつから決まっていたの?」

「……三週間前」

「そんなに前なの!? どうして!」


私はお腹の奥の方がかっと熱を帯びるのを感じた。
私には、彼女がどうしてそんなに冷静でいられるのかわからなかった。





「別に、関係ないだろ」


ガヴは興味のない話をするときみたいに、ぼそぼそとつぶやくように話す。


「関係なくない! どうしてもっと早く……」

「それじゃあ、ヴィーネに相談してたら、何か変わったっていうの!?」


ガヴは急に立ち上がりながら大声で叫び、ゆっくりとこちらを向いた。

その鋭い目つきとは裏腹に、口元は必死に何かをこらえているようだった。



「色んな天使に掛け合ってみたよ。ラフィにだって、

ゼルエル姉さんにだって協力してもらった。でも、ダメだったんだ」





言われてみれば、前兆はあった。

あれだけ引きこもっていた彼女は、ここ最近出かけることが多くなっていた。

食欲も少し落ちているようで、物思いにふけることも増えていた。

もうすぐ、こうやって言い争うことさえもできなくなるのだ。

そのことをようやく理解し始めると、頭の中からじわじわと凍り付いていくように感じた。

私と彼女は、私たちには壊すことのできない柵で区切られている。

私たちは出会ったのは、こんな思いをするためだったのか……?

いや、果たしてそうだろうか。

本当に、このまま事態を飲み下す以外にないのだろうか。

脳裏に、ある考えがひらめき、慌てて否定する。

こんなおぞましいことを思いつくのも、気が動転しているせいだろうか……。





「あ……。ひどいこと言ってごめん。

でもさ……ほら、こういう雰囲気になるのがイヤだったんだよ。

変わらない、いつもの生活を最後まで続けたかった。それって、いけないこと?」



ガヴの声が少し震えているのがわかった。

これ以上、彼女に言わせてはいけない。


「……ごめん、ガヴ」

「ああ、ほら、またこんな……」


張り詰めた空気を破るように、がらりと大きくドアが開けられ、先生が教室へ入って来た。

ホームルームが始まるらしい。






「ガヴリール、しばらくヴィネットを借りるわよ。……先生、ちょっと保健室へ行ってきます!」


サターニャはぐいと私の腕をつかみ、強引に教室の外へと連れ出した。


「ちょ、ちょっとサターニャ……ひゃっ」


混乱したまま廊下を数歩踏み出した私は、あるはずの床の感覚が急に失われたことで、

間抜けな声をあげて前方へ倒れ込んだ。







私はガシャンと勢いよく金網にぶつかった。

見下ろした先には、見慣れた住宅やお店が、見慣れない角度で配置されている。


「サターニャ、転移札を使うなら、先に言っておきなさいよ!」


サターニャと私は屋上に来ていた。

悪魔は天使のように自在にワープすることはできないが、

魔力を込めた陣を描いた札を張っておけば瞬間移動ができる。

多分、サターニャはそれを使ったのだろう。


「ああ、ごめんヴィネット。二人でってあんまりしたことなかったのよ」

「もう……」

「でも、部屋の中にこもっているよりは、ちょっとはマシな気分になるでしょ?」


校舎の周囲には、視界を遮るような高い建物は無い。

確かに、涼しい風が火照った頭を冷やしてくれるようだった。






「ここは鍵がかかっているし、多分誰も来ないわ」

「どうやって札を張ったのよ」

「それは、入学したころに昼食を食べようと思って……いや、今はそれはどうでもいいじゃない」


サターニャは腕を広げ、大の字に立った。


「さあ、泣くのよヴィネット! 胸を貸してあげるわ!」

「え、いや、そういうの、別にいいけど……」


私はさっきまでの暗い気持ちを忘れてしまっていた。

いや、忘れたというより、サターニャの突飛な行動に、ただただあっけに取られていた。







「無理にでも泣きなさい」

「そんな無茶な」

「最近テレビで見たんだけど、泣くと、なんとか神経が、なんかこう、いい感じになって……なんかいいのよ!」

「雑な説明だ……」

「つべこべ言わずにさっさと泣く!」

「あ、そのセリフ悪魔っぽい」

「え、そう? えへへ、改めて言われるとなんか照れるわね……」


サターニャは少しうつむいて、にやける顔を隠すように手で前髪を漉く。


「いや、誤魔化されないわよ! こうなったら実力行使。うりゃ!」


掛け声とともにサターニャが飛びかかって来た。

背後は金網なので、逃げたら危ないだろうか。

そんな心配をしていると、あっという間に私は捕まった。





サターニャは、そのまま私を締め上げた……訳ではなく、包むように優しく抱き寄せた。

一定のリズムで背中をさすられていると、煮詰められた感情の鍋の蓋が少しずつ開いていくようだった。

こんなはずじゃ、ないんだけどなぁ。



「うぇっ……うぅ……ぐすっ」

「いいのよ、ヴィネット。我慢しないで」



私もサターニャのおなかに手を回し、抱きしめ返した。

しゃくりあげる私が落ち着くまで、サターニャは何も言わず、静かに付き合ってくれた。

なんだか最近の私は泣いてばかりだ。

それは、泣くことが許されている環境にいるということで、恵まれてることなんだと思う。

ありがとう、本当に。






「ごめんなさい、みっともない姿を見せてしまって」

「いいのよ。誰だってこういうことはあるわ。これも、悪魔の宿命よね……」


サターニャは、なんでもないという風に笑ってくれた。

その笑顔を見ていると私の心も少し軽くなるようで、ありがたかった。


「それに、気持ちも少しはわかるもの。私だって、高校生活が終わったら、好きな人と離れ離れだし」

「え、意外ね。サターニャが男子に興味があったなんて」

「まさか。人間なんか、相手に選ぶわけないじゃない」


この辺りにいる、人間以外といえば。


「あ……。今のタイミングでこんな話するべきじゃなかったわね。口が滑ったわ、ごめんなさい」

「世の中は悪魔に厳しくできているのね」

「まあそれは、天使にも、だと思うけど」

「お互い苦労するわね」

「ええ、本当にね……」


私とサターニャは小さく笑った。

本当にどうしようもないと思った時には、無意識に笑ってしまうものだ。






「それじゃあ、授業に戻りましょうか」

「保健室って言ったし、せっかくだからこの時間はサボってみない?」

「え、そんなことしたら、不良みたいじゃない」

「あんたも悪魔でしょ……? それに、今日は風が気持ちいいし」


サターニャは地べたに座り込んだまま、うーん、と伸びをした。


「それもそっか」


正直なところ、今からすぐに教室に戻っても、先生の話は耳を素通りするだけだろう。

サターニャとふたりっきりで話すことはあまりなかったし、意外といい機会かもしれない。

私はサターニャの隣に腰かける。




「じゃあ、何の話する? ガヴの壮行会に何をするかとか……」

「ああ、ダメよダメ。ガヴリールの話は禁止」

「何でよ」


「ごはんを食べたときと同じよ。

こういう時に冷静になるには、しばらく手を付けないで待たないといけないの

それは放課後に、みんなでしましょう」


「そういうものかしら」

「せっかくだし、ヴィネットの話を聞かせてよ」

「そんな、大雑把なことを言われても」

「じゃあ最近読んだ小説の話!」






「そうね……。じゃあ」

私は小説のタイトルを告げる。

サターニャは読んだことがなさそうだったが、気にせず話してほしいとのことだった。


「ネタバレって私、あんまり気にしないのよ。なかなか面白そうなタイトルじゃない」


私はあらすじを軽く説明した。

今風に言うと、収集癖のあるオタクっぽい男性が砂浜の大穴の底にある家に女と閉じ込められる話だ。

せっかく下界に来たのだから、もっといろいろな場所を冒険する物語を読めばいいと思うのだが、

表紙の鳥とも天使ともとれるシルエットが気になり買ってしまった。

男は初め、さまざまに脱出を試み、一度は成功しかけるも連れ戻される。

砂浜の現状維持のために、誰かが穴の中で生活をしなければならないのだという。

穴の中での生活に順応した男に再び脱出の機会が与えられるも、今度は自ら穴で暮らし続けることを選ぶ。


「ふーん、なんだかぱっとしない話ね」

「サターニャはもっと熱い話が好きそうだものね」





「ヴィネットは、どうして男がそのまま穴の中で暮らしたのだと思う?」

「そうね。それは、二つ理由があると思っているわ」

「ふたつ?」

「一つは、その穴の中でしかできない趣味を見つけたことだと思う」


相手の行動を制限するのではなく、進んでそうしたくなるように仕向ける。

誰かの手練手管と似ているような気もするが、それは気のせいとしておきたい。





「趣味ねぇ。男なら、もっと大きな野望をもつべきよ。それで、もう一つは?」

「多分、諦めたんだと思う」


もう一つはきっと、諦観。

鳥籠を出たところで、そこはさらに大きな鳥籠の中。

本質的に同じことがスケールを変えて繰り返されるだけだと、男は悟ったのだ。

だがそれでも、と私は考える。

もし鳥籠の外に美しい鳥を見出したなら、そして、その鳥が一度でも男の名を呼んだならば、

それではきっと満足できなかったのではないかと思う。

自らを閉じ込める檻を壊し、攫いに行かずにはいられなかったのではないだろうか。

もしそういう、かけがえのないものが男にあったならば、爪が割れ、足の皮がめくれたとしても、

外へと向かうことを諦めなかったに違いない。




「なんだか情けない男の話ね」

「そうね、私もそう思う。もし、その男の人に、愛する妻とか、子供とか、大切な人がいたら、違っていたんじゃないかな」

「私は魔界の支配者となるもの。私だったら、そんな穴なんかには、到底収まらないわ」

「サターニャは大悪魔になりたいのよね」

「当然」

サターニャは腰に両手を当てて胸を張る。

羨ましいくらいに、サターニャはいつだって自信満々だ。







「もし強大な悪魔になれる代わりに、何か大切なものを犠牲にしないといけないなら、サターニャはどうする?」



「それは、大切さによるわね。大事な選択は必ずあるし、

同じような物をもう一度得ることができるものなら、犠牲もやむなしかもしれないけど……」



サターニャがずいと顔を近づけ、心配そうに私の瞳を覗き込む。


「ヴィネット、何かおかしなことを考えてない? すっごく怖い顔してるわよ」


ちらっと例の考えが脳裏をかすめたからだろうか。

ちょっと顔がこわばっていたかもしれない。

誤魔化すように声が漏れた。


「あ、あはは……」







「まあでも、二者択一みたいに視野が狭くなるのは、レンズのゆがみといって考えすぎているときなのよ。

私なら、皆で笑える最高のハッピーエンドにつながる第三の選択肢を目指すわ」



「サターニャらしいわね」

「当り前よ。なんたって私は偉大なる闇の統治者となる者、胡桃沢=サタニキア=マクドウェル……」

「はいはい。あと、レンズのゆがみじゃなくて、認知のゆがみよ。それだと、ただの度があってない眼鏡じゃない」

「えっ、そうなの? あぁー、またガヴリールに騙されたぁ!」

「ふふっ」

こういうやり取りも、あと一週間だ。







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dawn 8: 決別の日へようこそ(二)


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それから、三日が経過した。

その数日はまるで、熱湯と冷水を交互に浴びせられるように落ち着かなかった。

自宅で一人になると、気が付いたら熊のように部屋をうろうろしていた。

しかし、その日の朝に目覚めたときには、すっきりした、というよりはむしろ空虚さが私を満たしていた。

私が今どう考えていようと、いよいよ実行に移してしまうのだな、という直感があった。

思えば全ては必然だったのかもしれない。

きっと、私が帰省した時にふと大図書館へと足を向けたその日から、

いや、それよりもずっと前から歯車は回り始めていたのだ。





その日、魔界の図書館の中で私は悪魔の歴史についての本を探していた。

悪魔が元々は天使だったことは知っていたが、

教わるのはその一行の文章くらいで、詳しい事情というのは特に習わなかった。

閉架にあった一冊の古い歴史書にあらすじが書いてあり、簡単に説明するとこんな感じだ。

あるとき、ある天使が神に謀反した(なお、この理由については特に書かれていなかった)。

激昂した神は、手元にあったフォークでその天使の輪を砕いた。

輪はねじ曲がった角へと変貌し、白い翼の羽はすべて抜け落ち、コウモリのような翼へと姿を変えた。

神はフォークを不浄の武器として堕天使へと投げつけ、魔界へと追放した。





現在の悪魔の武器は不定形で各人が好きに実体化させているし、

そもそもこの話はおそらく作り話だが、私はこの話の一点に興味をひかれた。

天使を強制的に堕天させるという部分だ。

これについてさらに別の書物を紐解くと、これはどうやら事実であるらしいということがわかった。

天使の輪は悪魔のフォークで、悪魔の角は天使の矢で砕くことができ、

天使は悪魔に、悪魔は天使に変容させることができるらしい。

このシステムは一見して天使と悪魔の区分を無意味にするようだが、これはむしろ安全装置であるらしかった。

天使が堕天するときに、その元天使は瀕死といえるほど弱った状態になる。

そして、天使と悪魔には、ギリギリまで弱った同胞を吸収する能力がある。

この際に、吸収される側の自我は失われるが、記憶は統合されることになる。








天使と悪魔の間で争いが起これば、まず急所である輪っかや角を狙うだろう。

そして、組織内にスパイを生まないためにも、瀕死になった敵を吸収せざるを得ない。

どんな強靭な精神を持った者でも、果たして自分を憎悪する記憶を背負ってまで意志を貫けるだろうか?

事実、過去にあった天使と悪魔の大規模な抗争では、帰還した者の多くが精神に異常をきたしていたという。

それ以降、天界と魔界の間では表面上の不干渉が徹底されることとなった。

だから、この機能は神にとって無意味な争いを防止する役割があるのだろう。





私はこの事実を知ったときに、あるおぞましい考えが頭をもたげた。

私とガヴは、高校を卒業してしまえば、おそらく二度と会うことはない。

実質的に死別とさえいえるかもしれない。

だが、もし私がガヴを吸収したとしたらどうだろうか。

きっと、死さえもふたりを分かつことなどできない。

かけがえのないものを、手放さずにすむ。

そのときの私は、わざわざ一人で頭を振ってその考えを否定した。




きっと今日、私はガヴにフォークをつきたてることになるだろう。

どこか他人事のように、しかし私はそれを確信していた。

私はいつも通りに軽く身だしなみを整え、ガヴの家で朝食を作り、彼女を起こした。

それは何度も繰り返された光景であり、ハムスターが滑車を回すように、延々と続いてくれるような錯覚さえ覚える。


「お、今日は目玉焼きの下にベーコンが敷いてある。豪勢だね」

「確か、ベーコンエッグ好きだったでしょ?」


顔を洗ってきたガヴがテーブルのベランダ側に胡坐をかく。

私は反対側には座らず、ガヴの背後へと回り込んだ。




「何、急に」

「輪っか出して。拭いてあげるわ」

「いいよ、食べてからで。冷めちゃうよ?」

「輪っかがきれいな方がおいしく食べられるでしょ」


ちょっと強引だが、私は早めに済ませてしまいたかった。

ガヴと一緒にご飯を食べてしまっては、また一日先延ばしすることを了承してしまうような、そんな気がしたのだ。


「何その理論……わかった」


ガヴは渋りながらも天使の輪を出した。

いつもならそれだけなのだが、今日はなぜか――確かトゥニカというのだったと思うが――いわゆる天使の服装をしてくれた。






「わざわざ正装なんて、しなくてもいいのに」

「そういう気分なんだよ」

「ふーん」


最後にこの姿が見られてよかったかもしれない。

でも、できれば私はいつものガヴのままでいてほしかったかな……。


「それじゃあ、拭くから」






前に掃除してからそれほど経っていないので、ガヴの輪はあまり黒ずんではいなかった。

いよいよこの時がきたのだ。

その黄色がかった光は私を問いただすようだった。

わがままな私が早くしろと頭に火でも浴びせるように囃し立て、

無気力な私がやっぱりやめようと背中に冷や水を浴びせる。

心臓が早鐘を打つ。

荒い呼吸を気付かれないように、私は意識して息を止めていた。

酸素の不足は思考の混乱を加速させる。

天使の輪っかがぐんぐんと大きく広がって、私を飲み込もうとしているかのように感じた。





ここで立ち止まって何になる。

例えガヴの別れを我慢して乗り越えたとして、どうせもっと辛いことが待ち受けているに違いない。

死ぬまできっと、私はたくさんのものを失い、打ちのめされ続ける。

そんなのはもう、たくさん。

命に代えてでも手に入れたいもの、それがガヴだ。

……いや、こんなことをしても、多分、彼女が私のものになんて、なりはしない。

そんなことは、わかっている。

それでも、もう後には引けない。

もう、何も望まない。

だからもう私は、なにも、いりません……。






私は覚悟を決め、両手を振り上げ、フォークを実体化させる。

両手で握るその様は、図らずも神への祈りの姿勢と似ていた。

さらば、光よ。

かつて私を照らし、今は身を焦がす、白くまばゆき光よ。

一瞬だけ、ぎゅっと強く目を閉じる。

さあ、運命を食らいつくす一撃を――。




「ヴィーネ!」





ガヴの突然の叫びに、スイッチを切られたロボットのようにピタッと動きかけた手をとめた。

思わずこぼれそうになる驚きの声を噛み殺し、慌ててフォークを解除する。

まさか、何をしようとしていたか、勘付かれた……?


「あ、ごめん、ヴィーネ。ちょっとむせてしまって。びっくりさせちゃった?」

「い、いや、大丈夫……」


ガヴはわざとらしくケホケホと言ってみせた。

私はその仕草にすっかり毒気を抜かれてしまっていた。




……なんだか、疲れた。

体が鉛に変わってしまったかのようで、だらりと下げた腕を持ち上げるのも億劫だった。

一応、まだ数日の猶予はある。

そう考えて茫然としていると、ガヴはベッドの下から袋に入れた何かを取り出した。


「これ、ちょっと早いけど、誕生日プレゼントだから」


ガヴは包装を解き、リボンのかかった箱と、シンプルでかわいらしい封筒を机の上に置いた。

封筒には海をイメージさせる幾何学模様が描かれていた。




「ガヴ……」


私はうまく言葉が紡げなかった。

なんということをしようとしていたのだ。

私は先程の企てが失敗に終わったことに心から安堵し、一時でも恐ろしい考えにとり憑かれたことを悔やんだ。

取り返しのつかない失敗を犯さずにすんだ。

もう、あんなことはやめよう。

いつも通りの、傍から見たら少し退屈で、でも私たちにとっては大切な、そんな日々で終わらせよう。

我ながら即物的だとは思うが、確かに存在するものを見ていると、私の中の赤黒い心はみるみるうちにしぼんでいった。





「これ、開けてもいい?」

「うん、どうぞ」


私はそっとリボンをほどき、破かない様に包装紙をはがして箱を開けた。

中身は山羊をモチーフにしたネックレスで、透明な青色の鉱石のようなものがはめこまれていた。



まるで、体に大きな穴が開いて、穢れが風に洗い流されていくかのようだった。

全ては流れていく、流されていく以外にない、そう感じた。

そして、流れの矢印は確かに循環していたのだ。

そのとき、私は初めて他者を他者として認識したように思う。







「これ、前から用意してたの?」

「うん。サターニャにちょっとだけ相談した。一応悪魔だし。でも、選んだのは私だよ」

「この手紙も?」

「それも、その時の気持ち。家じゃ集中できなくてサターニャの家で書かせてもらった。恥ずかしいから、今は読まないで」


前にサターニャの家に泊まったのはこのためだったのか。

変な勘繰りをしていた自分の方が恥ずかしい。


「わかった。家でゆっくり読むね」





「書いてあることは、嘘じゃないから。……ずっと、持っていてほしい」

「え? そんな、捨てたりなんてしないわよ」

「うん……。あー……えっと」


先程からガヴは何やらもじもじして落ち着きがない。

そんな照れ屋なところもかわいらしいと思う。

それとももしかして、まだ何か隠しているのだろうか。




「……そうだ、このネックレス、今つけてみてよ」

「そうね。学校行くから外しちゃうけど、じゃあちょっとだけ」

「せっかくだし、私がつけてあげる」


ガヴはネックレスの入った箱を持って私の背後に立った。


「ヴィーネも、角を出してみてよ。角の色に似あうかと思って選んだんだ」

「そうなの? はい、これでいいかしら」

「うん、きれいな角だ。……本当に、きれい」

「もう、どうしたのよガヴ。そんなに褒めても、私は何も用意してないわよ」








「ごめん、ヴィーネ……。さようなら、愛しき影」

「え、ガヴ? 一体……」


私はガヴの方を振り返ろうとする途中で、これまでに感じたことのない感覚で言葉を中断した。

頭の中に、薄いガラスが割れるような、小さく澄んだ音が響く。



その後すぐに、全身が燃えるような感覚に襲われた。

まるで、細胞の一つ一つが爆ぜているようで、体内で炎で出来た化け物が荒れ狂っているみたいだった。。

視界は強烈な光で覆われ、瞼を必死に閉じてもなおその光が消えることは無かった。

その一方で耳はほとんど何もとらえておらず、血液のどくどくと巡る、音というよりは振動というような何かだけが聞こえた。

唸り声をあげていたかもしれないし、絶叫していたのかもしれないし、呼吸さえできなかったのかもしれない。

平衡感覚はとうに失われ、自分がどんな姿勢でいるのかさえわからなかった。

熱い、熱い、熱い!

考えられるのはただそれだけだった。

ああ、なんて熱いのだ――!

一瞬とも永遠ともとれる時間の中で、いつしか私は意識を手放していた。






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     rl } }  '^ノ   / ヽ1  '、     , 、   _/   .ノ  |  /   /..  ヽ    ヽ
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    |  {'  く_ /   .. :|. ‘、   .} 、.`_j、  /   /__ .>'^   /           '、
     '  V 弋~ /     | :  l、  |_,.ゝ'/'!  7   / .r ヘY  /       i       ゙、
    /==x、_\...)/   ___ rへ 1  .|  /^`   {  .//   } '´       、 |        ',
.    `|^ |_` i   '、_イ 'ー'゙ { 1  .7  {  ,.イ  /'’     .'     i .i   } }         ',
   .r‐ 宀 ‐-`ヾ   (^つ、 f} | /   >'^  |/      ./     1 { {   1l     1    i
    ̄r'^`''   ヘ、  弋フ  j!/| /  i.    /      ./}j  j  .|  l {   |      i    1
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      `ト 。、..,.. 、,_        ̄`¨^ '' ’      / '-'^/  {  .'    ', /.  {     !   |



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dawn 9: 天界へようこそ


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ゆっくりと私は目を覚ました。

ガヴが私を呼ぶ声が聞こえる。

何か夢を見たようだったが、目覚めとともに霧散してしまい、うまく思い出せなかった。

温かい水の中を浮かんでいくような、柔らかい光に照らされるような、そんな感覚は覚えていた。

瞼は開いているはずなのに、霞が掛かっているように視界はぼんやりとしていた。





どうやらガヴの膝の上に寝かされているらしい。


「あ、ヴィーネ。意識が戻ったんだね。

よかった、本当に……。

ごめんなさい、ヴィーネ。私はとんでもないことをしてしまった。

ヴィーネを天使にしてしまうなんて……」


私は、さっぱりとした気分だった。

それはまるで、買ったばかりのシャツに袖を通すような。

あるいは、日の光で自然に目を覚ました日曜日のような。

これからは素晴らしいことばかり起こる、そんな確信が湧き上がって来た。





「実は、こうしてしまおうという考え自体は、ずっと前からあったんだ。

でも、それは意味が無いともわかっていたから、実行に移すことは無かった。

ヴィーネも嫌だって言うと思ってたし。

それに、試練は、自分で打ち勝ってこそのものだから。

天界でもそう習ったしね……」




私はうまく声が出せず、何か言おうとしてもわずかに吐息が漏れただけだった。

いいのよ、ガヴ。

さっきのはちょっとびっくりしただけ、こっちこそ過剰に反応してごめんね。

ガヴに天使にしてもらうなんて、こんなに嬉しいことはないよ。

でもね、今日本当に嬉しかったのは、そのことじゃないんだけどね。







「別れが近づくにつれて、私は耐えられなくなった。

この先もきっとヴィーネは、自分が悪魔であることに苦しみ続けるって考えたら、居ても立っても居られなくなった。

輪っかを拭かれてしまったら、そのまま袂を分かってしまう気がして……。

……いや、本当は、私がヴィーネと離れるのが嫌だった、直前に頭にあったのは、ただそれだけだった。

だから、矢で角を砕いた。

ごめん、本当にごめんなさい。

自分勝手で。

本当にヴィーネが苦しんでいたかも、苦しみ続けるかも、わからないのにね……」




私はこれまで、自分にとって大切なものを得るために腐心していた。

でも、今は逆。

わたしがガヴにとってのかけがえのないものとして選ばれたのだ。

私は歓喜に打ち震えていた。

まさしく今日は私の誕生日だった。

私のこれまでの全ては、今日のために。

体の隅々まで、穢れなき白の清廉さが行き渡るのを感じる。


「この後だって、どうなるのか、実のところよくわからない。

でも、ヴィーネのことは絶対に私が守るから」



例えば、太陽は絶対的に動かない。

それでも、地球の上に立ってみれば、それは昇っては降りてしまう。

方位磁針が働くのは、地球が大きな磁石だからだ。

指し示すのは空間の方向ではなく、存在を指し示す。

私の中の羅針盤はきっと、いつだってあなたを指し示していた。

大切なものは、昼でも夜でも、いつもそばにあった。


私が夜だと思っていたものは、実は、長い長い産道だったのかもしれない。

いまこうして視界に薄もやがかかっているのも、私の目が開ききっていないせいだろう。





「ああ、そうか。

ヴィーネの大切なものを、根こそぎ奪っちゃったんだもんね。

家族を、故郷を、誇りを……。

こんなの、悪魔の所業としか言いようがない。

本当に軽率だった。ああ、申し訳ない……」






頬を温かな雨が打つのを感じる。

そんなにたくさん、謝らないでよ。

私は気にしてないって。

むしろ感謝してるのに。

そんな風に言われたら、私たちが間違っているみたいに勘違いしちゃうじゃない。






心のどこかが囁く。私はまだ夜を脱してなどいない。

明るい夜が訪れただけだと。

百鬼夜行の列を外れ、一人で白夜の中に取り残されただけなのだと。

待ち受けるのは、薄明るい太陽だけが見守る、凍てつくような白夜行……。





「何度謝ったってゆるされるとは思ってないけど……。

でも、ごめんなさい、ヴィーネ」




やめて、ごめんなさいなんて言葉は、もう聞きたくない。

不安が芽吹き始めるのを感じてしまうから。



ガヴは悪魔たちに報復を受けないだろうか。

ラフィやサターニャはどう思うのだろうか。

私の両親は村八分にあわないだろうか……。



「ああ、くそぉ……。

ごめん、なさい。ごめんなさい、ヴィーネ……」



だから、一言でいいから、大丈夫って言ってよ。

一度でいいから、ぎゅって抱きしめてよ。

お願い、ガヴ。


これが私たちにとっての正解なんだから。

掛け値なしにハッピーエンドなんだから。

気を取り直して、今から一緒に朝食を食べましょう?





「ガヴ……」

私はやっとのことで、絞り出すようにその言葉を口にすることができた。

「ヴィーネ……」

ガヴがぽつりとつぶやく。

テーブルの上では、湯気を立てる朝食と、掛けてもらう相手を失ったネックレスが、じっと私たちを見つめていた。







          r― 、
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        ミ  / 彡     `                |       ミ:i;           ミ  ヘ ミ
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              ミ::i{           ノ         /⌒ヾリ                  /  /' /
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           γi                             ミ;:/;           { / /     ミ;l{
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             ヾリ          }:|;                  }::::l:::::キ      |l:{  `
                 ヽ         ヾリ           `      ,ノ::;/::::::{      ヾリ
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epilogue: 聖者たちの黄昏


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「それで、二人はそのあとどうなったの?」


私がそこで口を止めると、彼女は興奮した様子で催促してきました。

室内はとても静かで、暖炉の中の薪がパチパチとはぜる音だけが聞こえます。



「今日はもう遅いから、そろそろ寝ましょうか」


私がそう言って彼女の頭をなでると、彼女は口をとがらせて、文句を言いました。


「まだ、ラフィエルおばあちゃんの話が出てない」

「これはうっかりしていました」

「でも、おばあちゃんの名前が風変わりな理由は、なんとなくわかったけどね」


彼女はお見通しとばかりに両目をパチリとつぶってウインクの真似をしました。

大方ばれてしまっているようですが、自分のことを話すのは恥ずかしいですからね。

特に、若気の至りというものは……まあ、それが間違っていたとは思いませんが。




「それに、大事なのはその後でしょ?」

「そのあたりはあんまり面白くない話になりますよ」

「気になるの!」

「また明日、お話ししてあげますからね」

「おばあちゃんは、いつだってそう言ってごまかすんだから」

「あらあら、そうでしたか」


彼女は頬を膨らませます。

まるで冬眠前のリスのようだと思っていると、ためこんだどんぐりたちは、

穴が開いた風船の空気のように、ふわぁとは吐き出されました。

どことなく、目もトロンとしています。


「おばあちゃんが忘れていたら、言ってくださいね」

「必ずだよ! じゃあ、おやすみなさい」

「ええ、おやすみなさい」


彼女は目をこすりながら、もう一人の祖母の隣にある自分の部屋へと向かいました。





確かに、私は大事な場面を省略しました。

例えば、私と、燃えるような赤髪をたくわえた彼女との一幕を。

しかしそれらは、また別の機会にお話しいたしましょう。


そして、四人で誓いを立てた後の話は、詳細に話す必要もないでしょう。

そう、それは本当に退屈な話なのです。




世界を変えるとは、うんざりするほど地道で、

手間ばかりかかって、まるで執念に突き動かされる雑巾がけのようなものです。

私たちの起こした事件は、それまであまり表沙汰にはされていませんでしたが、

幼い天使と悪魔たちの間でたまに起こることだったようです。

ですから、私たちは厳罰を受けることもなく、

異様とも思えるほどスムーズに天界と魔界のそれぞれに受け入れられました。

しかし、私たちはあの日にした約束を胸に、懸命に立ち回りました。

もっとも私については、少々どころではなく個人的な感情もありましたが。






それは、築き上げたものを理不尽に、なすすべもなく突き崩されることに対する義憤。

私には、間違っているのが私たちではなく、世界だという確信がありました。

本来なら必要のない過ちを犯してしまったのは、そうせざるを得なくさせる世界が悪いのだと。






以前は厳しく制限されていた天界と魔界の行き来を緩和する取り決めがなされてから、数十年が経ちました。

昔からすると考えられないことに、まだ制限は大きいものの、天界で働く悪魔も、魔界で働く天使もいます。

私たちの先輩方の中に同じ考えの方々も多くいたようで、

そのような方々は親しみを込めて、その締結日を「夜明け」と呼びます。

その本質が天使であるのに悪魔として生まれてしまった、あるいはその反対。

そんな悲劇は、いくらか救済されたと思います。

ですが、私たちが本当に望んでいたことは、もっと個人的なことでした。






明日は、二人の旧友が私たちの家を訪ねてきます。

私たちは月一回の茶会を開くことができるようになったのです。

私もそろそろ寝ましょう。

早めに起きて、とっておきのパイを作らないといけませんしね。

季節の果物をたくさん載せて、そうそう、抹茶のクリームも使いましょうか。

彼女にも、盛り付けを手伝ってもらいましょうね。

いつも通りの素晴らしい時間を思い浮かべると、自然と口元も緩みます。

私たちはいつも、ふたりをこう言って出迎えるのです。

なぜなら、私たちは一度、まあ疑似的にですが、死を経験してこの場所に辿り着いたのですから。

その言葉とは、すなわち――。






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 ヾ:{  ̄}:/リ  / /ニ、`''ニ'^ニニニニニニニニニ|   .三三三三三ミ/!   .!    マ77/1
    ./'    `{ニニニヽニニニニニニニニニニ!    '三三三三三ヲト|   j     V///1
            Vニニニjj=イニニニニニニニニl   .'三三三三ミ/ミi|  .i      V//i}
             'ニニニY:iニニニニニニニニ7}-、_.j三三三彡'^三ミ|{  l       V/j1
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『天国へようこそ』    

         ~おしまい~

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拙文にお付き合いいただき、ありがとうございます。
最後までお読みいただいたこと、とても嬉しく思います。本当にありがとうございました。

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