速水奏「カエルの面に××」 (30)

 風邪をこじらせて臥せっているはずの彼女は、
 プロデューサーだけにそのメッセージを送った。

 速水奏のプロデューサーは、とにかく馬鹿正直だと、もっぱら評判だった。
 細やかな気配りができない代わりに、裏表のない快活な人物だ。

 奏のほうもそれをよく知っているからこそ、短い言葉で済ませた。

「アイドルを辞めます」

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「なぜ」

 時間をおいてプロデューサーの返事が来る。

「とにかく」

 と、奏はひどく不器用な手つきで文章を打つ。

「なんでも」

 プロデューサーが奏の住む賃貸アパートを訪ねてきたのは、日が暮れたあとだった。
 インターホンの音に、もそもそと布団の中でスマートフォンを操作しはじめる。

 以前の自分だったら――と、奏は考える。
 すぐにでも、来てほしかったのだけれど。
 そう言って、悪戯っぽく笑うこともわけなかった。

 馬鹿正直なプロデューサーの困った顔をからかっては、
 さて、この人にはどこまで伝わっているのだろう――
 そんなスリルのようなものに身を捩っていた。

「どうして」

 冷たく湿った指先では、うまく文章が打てない。

 結局、自分のしようとしていることの結果は同じなのだから、
 と思うけれど、すぐに玄関へ向かうことも、迂遠な言い回しを止めてしまうことも、
 奏にはできなかった。

「どうして来たの」

 いままで、ずっとそうだった。
 面倒な手続きを経なければ、プロデューサーとのコミュニケーションはうまく取れず、
 迂遠な言い回しでもって、馬鹿正直なプロデューサーをからかっていなければ、
 今度は自分が馬鹿なことをしでかしてしまいそうだった。

 それも、いまの自分には似つかわしくない――そう思いながらも、結局、奏はこのやり方しか知らなかった。

「速水、部屋に居るのか」

 そして、プロデューサーは、奏の期待通りに戸を叩いてくれた。

「鍵なら」

 いつもなら、もっと時間をおく。が、そうも言ってられない。

「鍵なら開いてるわ」

 プロデューサーはためらいがちにドアを開け、奏の部屋へと入った。
 床に、洋服と下着とが散らばっていた。

「速水」

 彼は部屋の隅で塊になっている布団へ声をかけた。

「風邪で顔でも変わったか」

「その通り」と、奏はプロデューサーのスマートフォンへメッセージを送った。

「声が出せないのか?」

 頭から被った布団の中の暗闇、奏の目に涙が滲んだ。
 微かな震えに気づいて、プロデューサーは戸惑った。

「どうしたんだよ。急に、辞めるなんて、びっくりするじゃないか。なにか、嫌なことでもあったのか……?」

 すすり泣く声が、布団の塊から漏れた。
 その声は、以前の細く美しい声ではなく、太く、痰の絡まったような泣き声だった。
 プロデューサーはぼんやりと、なにかを察した。

「病院、行ったか」

「行ってないわ」と、ようやく布団の中から返事が返ってきた。
「行けるわけない。こんなんじゃ、外にも出られない」

 すすり泣きは、慟哭に変わった。
 その泣き声は、ワー、オウッ、オウ、……こんなところであろうか。

 プロデューサーは塊の傍へ屈みこんだ。そして、布団をそっと撫でた。

「いやっ、やめて……」

 奏はかなり強く抵抗した。が、プロデューサーは無理やりに布団を剥がした。

「速水、お前……どうした」

「だから、いやなのよ……」

 そこには、涙で顔中を濡らした大きなカエルが、居た。

「たまげたな」

 プロデューサーが呆気にとられていると、そのカエルは顔を覆って泣きに泣いた。

「私、なにか悪いことしたかしら。どうしてこんなことが起こるのよ、ねえ、プロデューサー……」

「いつからだ?」

「昨日から……」

「ふぅむ」

「夢だと思ったの。寝て起きたら、元に戻ってるって……でも夢じゃないのね、プロデューサーがここに居るってことは……」

「ああ、そうだなぁ」

「そうだなぁ、じゃないわよ。貴方ってホントのんきね」

「一緒になって慌てても仕方ないだろ」

「そこは、頼もしいけど。ゲロゲロ。ねえ、この姿、気持ち悪いでしょう……」

 大きなカエルはうつむいて、また涙をボロボロと落とした。

「俺、爬虫類は好きだぜ」

 プロデューサーはペタリとカエルの肩に手を置いた。

「慰めになんか、ならないわよ……!」

「ごめん」と、プロデューサーは立ち上がった。
「ところで、速水。ごはんは食べたのか」

「…………」

「食べてないんだな。なんか買ってくるよ」

「待って、置いてかないでよ!」

「あ、一緒に行く?」

「行けるわけないでしょ!」

「じゃあ待っててくれよ。大丈夫、すぐ戻ってくるから……」

「そういう問題じゃなくて……」

 結局、奏の押し負けだった。プロデューサーは言葉通りすぐに帰ってきた。
 大量のミネラルウォーターとインスタント食品を袋いっぱいに入れて。

 二人は床へ直に座って、カップ麺を啜った。

 プロデューサーは不思議な気分だった。
 奏は顔だけでなく、体までがカエルそのものだった。
 頭髪どころか体毛もなく、わずかに湿った皮膚が筋肉の動きに伸び縮みしている。

 しかし、プロデューサーにとって、カエルへの変身以上に不思議だったのは、
 どうして彼女が速水奏だとわかるのか――そのことだった。
 カエルはカエルだが、彼女はいまもなお速水奏で、そのことに違和感もなく腑に落ちてしまっている。
 そして、それはきっと自分にとってだけなんだろうな、と妙な確信があった。

「味、変わらないか」

「ン……いつもよりおいしいくらい」

「そうか」

 プロデューサーは、まだなにか入ったままのビニール袋を隅に追いやった。
 一応、ソレ用の食べ物も買ってきていたのだ。

「ねえ、プロデューサー」と、奏は大きな口を開いた。
「気持ち悪いでしょう」

「俺は平気だぜ」

「そうね、そう見える」

「これからどうする?」

「どうしたらいい?」

 そう言って、奏はパカっと口を開けた。
 それはどうやら微笑らしい――、が、すぐにまた泣き出してしまった。

「どうしたらいいのよ。一生このままだったらどうしよう、アイドルなんて無理。
 外へだって一生出られない。どうしよう、ねえ、プロデューサー」

「とにかく、食ってから泣けよ。悪かったよ、俺も」

「なにが悪いの? プロデューサー、悪いこと言った……?」

「先のことは、もう少し落ち着いてから話そうってこと」

 そう言って、プロデューサーはカップ麺のスープをぐいっと飲み干した。

「健康に悪いわよ」

 腹を満たして、なんとなく映画など観始めると、その状況に慣れてきたらしい。
 プロデューサーと奏は肩を並べて、テレビ画面に見入っていた。
 俳優の顔がアップになって、奏はポツリと呟いた。

「もう、私はダメね」

「そうか」

「あんな風にはなれないのね」

「映画の登場人物みたいに?」

「そう。憧れだった」

 なんでもない場面なのに、奏は泣いた。

「今日は泣いてばかりだな」

「いつも、独りで泣くからね」

 彼女はパカっと口を開け、微笑した。

「泊まっていくよ」

「布団、ないわよ」

「昨日は眠れたのか」

「……ぐっすり」

「嘘が下手になったなァ、そこはずっとそのままでもいいんだぜ」

「ひどい人」

 ぐすん、と奏は水かきのついた手でプロデューサーの肩を叩いた。

 奏の好きな映画を2本観終わってから、風呂に入った。
 順番はプロデューサーが先で、石鹸などと一緒に置いてあるカミソリに、少しだけ影のような心配事が湧いた。
 けれど、彼は奏を信じることにした。

「熱いお湯は、やめておいたほうがいいかもな」

「優しいのね」

 プロデューサーはいい加減に髪を乾かすと、ベッドに寝転んだ。
 そうして、ある童話を思い出そうと努めた。
 詳しい話の筋はほとんど忘れてしまっていたけれど、ともかく、
 カエルの変身はキスで魔法が解けるものと相場と決まっている。

 彼の心は奏との出会いにまで遡った。
 出会ってすぐ、キスをせがまれた。

 年頃の娘さんが……、馬鹿正直に言って聞かせて、奏はきょとんとしていた。
 二度、三度と繰り返して、ぷーっと吹き出した彼女に、ようやく彼は気づいた。

 なーんだ、冗談だったのか。

 あの日交わされなかったキスは、互いにとって特別で、
 プロデューサーにとっても、奏にとっても、忘れがたい思い出だった。

「プロデューサー、上がったよ」

 奏の口は、あの日と違う。けれど、プロデューサーには同じのような気もした。

「寝よう」

「うん、寝よう」

 二人で寝ると、そのベッドは狭かった。
 抱き合って、ようやく体が収まるくらいだ。
 体をよじるたび、パイプがギシギシと唸った。

「プロデューサー、あったかいね」

「お前の肌は冷たいな」

「カエルだもの」

「なあ、奏」

「なによ」

「一緒に暮らさないか」

 奏はぎゅっとしがみつくように、彼の体を抱いた。

「アイドルができなくて、一生外に出られないなら、俺が面倒見るから、一緒に暮らそう」

「ありがたい申し出ね」

「そうだろう」

 暗闇の中で、お互いの瞳を覗くと、心の底まで見えるような気がした。

「でも、ダメよ」

「どうして」

「カエルだもの。私は醜くなったから」

「綺麗なときだって、そう変わらんぜ」

「結果としてはね」

「愛してるんだ」

 プロデューサーは、奏の冷たい肌をあたためるように、自分の体をこすりつけた。

「カエルを?」

「お前をだ」

 彼は彼女を抱き寄せて、湿った口にキスをした。

 触れた瞬間から、お互いに目を閉じて、透明な言葉が音もなくすり抜けていくのをじっと聴いていた。
 そうして、魔法は解けた。

「奏……」

 奏は自分の頬に両手を当て、それから慌てて裸体を隠した。

「私ったら」

 顔を赤らめる奏から、目をそらして、プロデューサーはベッドを出た。

「帰る」

「カエル?」

「帰宅します」

「あら、泊まっていくんじゃなかった?」

「そんな嘘に、騙されるなよ」

 彼は身繕いを済ませると、部屋を出て行った。
 部屋を出る直前、後ろを振り返って、奏に言った。

「明日から、また仕事だぜ」

「ねえ、プロデューサー」

「なんだ」

「もう一日、おやすみを貰ってもいい?」

「……いいとも、風邪、こじらせたんだものな」

「それともう一つ」

「なんだよ」

「キスしてくれない?」

「馬鹿」

「おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 ベッドのシーツに湿気が残っている。
 奏は暗闇に白い手のひらを浮かべた。
 水かきは、ずいぶん小さい。

以上です。読んでいただきありがとうございました。

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