伊織「誰もガブリエルを見ていない」 (15)

「美希、入るわよ」
プロデューサーに頼まれた書類を無造作に片手で掴んだまま、私は美希の部屋のドアをそっと開いた。
返ってくる言葉はなく、締め切られていた暗い部屋のぬるい空気が私の方へと流れてくる。
美希は部屋の奥で、頭まで布団を被り、ベッドをこんもりと膨らませてる山になっていた。

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「美希ちゃんってば寝てるみたい。さっきまで起きて、お昼におにぎりパクパク食べてたのに」
おばさまはそう言うと、部屋の中を覗きこんで「美希ちゃん、寝ちゃったの?伊織ちゃんが来てるわよ」と声をかけるが、返事はない。さらに重ねて何事か言おうとするのを慌てて小声で制止し、
「いいですよ、おばさま。今日は仕事の資料を持ってきただけでしたし、今年の風邪はタチが悪いって聞きますし」
「ごめんなさいねぇ、せっかく来ていただいたのに」
「いえいえそんな」

私が「竜宮小町」で、美希が「フェアリー」同じ事務所の、同い年の、ライバルユニットのリーダー同士。それが私と美希の関係だ。
だからといって別に仲が悪いわけでもなく、競い合っていくうちにだんだんと親しくなり、今では気の張らない、遠慮のいらない間柄だ。
絶対に本人には言ってあげないけれどもね。
だからこそ顔を見ずに帰るのにも躊躇いはない。
美希はまたいつも通り事務所に来て、いつも通りにレッスンして、そしていつも通りに昼寝をしてる。
想像しなくたって、きっとそうなる。

だからプロデューサーに頼まれた時も、逆に「なーに風邪なんかひいてんのよ」と言うつもりだった。ただ予想より具合の悪そうな美希を見たら、そんな気持ちもしぼんでしまったけれど。
しかし、そっとドアを閉ざし、おばさまの後に続いて階段を下りかけたその時、

「ごめぇん、なんかぁ」

美希が顔を覗かせた。

「なんかぁ、ふわふわしてて、……ママぁ~、ミキ、お水ほし~」

はいはい、とおばさまは一階のキッチンに向かい、私は階段の途中に取り残された。
振り返って美希を見上げたまま、どうしていいか分からず立ちすくんだ。
やっぱり帰りましょうか。
それとも。

熱のある美希はドアの隙間から、こっちもどうしたらいいのかわからないのか、ぼんやりと私を見下ろしていた。
その、赤い顔。薄い緩んだ唇。エメラルド色の瞳。
私は頼まれた書類を握りっぱなしだったのを思い出し、

「これ、次の生っすかの台本。あいつが無理はしなくてもいいけれど、一応確認しておいてくれって」

私の言葉を聞くと美希はスッと部屋の中に引っ込んでしまった。
私に持ってこいってことね。いい度胸じゃない。
私も美希にならうように暗い部屋に足を踏み入れる。

「美希、あんた、息」

その時思わず声をついた私の言葉に、美希はパフ、と自分の口元を覆って、振り返った。

「くさい?」

「違うわよ、あついのよ。息、すっごく熱い」

明かりをつけない部屋で私と美希は座った。
美希は今まで寝ていたベッドの上に、私はほとんど枕にしか使われていないビーズのソファーに。
腕を伸ばせば、持ってきた台本も渡してやれる。
しかし美希は受け取った台本を膝の上に抱え、開こうとはしなかった。
片手でもう一度自分の口を塞ぎ、口臭を気にする人のように、はあはあと息を吐いてみせている。
確かめているのは、きっとその熱さだろう。

「……ほんとだぁ。やばいの、いき、あつい」

納得したみたいに頷いて、薄い眉を寄せる。あれってかんじなの、と舌ったらずに言葉を継ぐ。

「辛いモノ食べた後に、『ヒ~☆』って火をはいちゃうあれみたいなの」

「ひーっ、って、火をはくわけね」

千早がいたら大笑いしてたことでしょうね。

「そうなのー。ヒ~って火を。ミキ、あんな感じ。火をはいちゃうって感じの」

ちょっと背をそらして勢いをつけ、はーっ、と息をはいてみせる美希は、休んでたわりには元気そうに見えた。

「ちょっと前から?」

「うーん、そうなの」

「風邪ならはやめに言いなさいよね、そういうのは。熱が出てからじゃ遅いでしょうが」

「かぜじゃーないと思うの」

「じゃあ何よ。喉とか、痛くないの?」

美希は不意に笑うのを辞めた。問いには答えず、そのまま私を見つめた。
笑ってたから弧をかく線になっていた瞳が、くっきりとしたその形を突然見せ、そういえば美希ってこんな顔だったっけ、と私は妙なことを思ったわ。
美希が憂鬱そうに目を伏せる。

「……なんかミキ、やっぱり汗くさいかもー」

「そう?全然、気にならないわよ?」

「頭も臭いかもぉ……。お風呂も入らなかったし、昨日」

寝巻きにしているTシャツの襟首を両手でぐっと開き、そこに鼻先を突っ込むようにして、美希は自分の身体のにおいを確かめている。

その体重移動でベッドが傾き、タオルケットの下から丸めたティッシュが一つ、落ちた。
鼻をかんだゴミだろう、と見るでもなしに目をやって、それがただのゴミでないことに気がついた。
床に落ちた拍子に、中から黄色の錠剤が三つ、飛び出してきていたのだ。
市販の風邪薬じゃないか、と思った。
美希を見ると、美希も、美希を見ている私を見ていた。
そして、ゆっくりと、落ちた風邪薬を拾った。
ティッシュに包み直し、それを掴んだおずおずと私に差し出してきた。
確かに言われれば脂っぽくも見える長い髪を、美希は顔に垂れるままにしていた。
その髪の隙間から、美希の灼けるように赤い唇が見えていた。

「これ、あのぉ……ゴミ箱に捨てるとママに見つかるの。ママはいいけれど、お姉ちゃんは鋭いから。だから……持って帰って、でこちゃん、お願い」

「なんで飲まないのよ」

「おねがい……」

美希の口から、チロチロっと蛇の舌が見えたような気がした。私に何かを唆すように。
さっき見た顔から変わってないはずなのに、えらく大人の女性のように見えた。
美しい悪女のような、そんな顔。
その美しさに怖気付き、私は美希の差し出すゴミを受け取ってしまっていた。
受け取ってしまってから、

「美希。……ねぇ、美希。なんでなのよ」

「……」

たずねても遅い。美希は何にも答えてくれない。
どさっ、と美希はベッドに身を横たえた。
見る間に目蓋がピクピク震え、耐え切れない、と言いたいみたいに閉ざされていく。

「……なんかねぇ……ミキ、すっごくね……眠たいの……」

いつものことでしょ、なんて軽口を言えなかった。
寝るな、なんて言えはしなかった。
寝る前に話せ、とも言えずにいた。

「ほんとに、ほんとに、……すっごく眠たくて」

「……いいわよ、無理しないで、寝てなさいよ」

もう返事はなかった。そっとその手に握りしめていた台本を外してやる。
ベッドサイドに置こうとマットに片膝をつき身体を伸ばしたそのとき、横たわった美希の胸が、大きく柔らかく揺れるのが見えた。
長袖Tシャツの布地の下で、美希のすべてはゆるやかに、丸く、たわわに実っていた。

美希の水と、私のためのジュースを持って、おばさまが部屋に入ってくる。
にこやかに私に何事か話しかけ、そして眠り始めた美希を見て、すこし、息を詰めたのがわかった。
結局私が美希の姿はそれが最後だった。
プロデューサーの姿も見なくなった。
誰もガブリエルは見ていない。

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