モバP「拓海おまんこゴリラ」 (22)

階段の手すりはとてもつるつるとしていて、そこを掴んでしまっては、きっと永遠と滑り落ち続けるに違いないと、とっさの判断で尻餅をついてみたのだが、これがどうにも失敗だったようで、尾骶骨だとかいう骨を折ってしまった。
この尾骶骨骨折というやつはなんともやっかいな骨の折り方で、座れば痛いし、立っても痛い。おまけに寝ていても痛むときたもんだから、どうしようもない。上半身はぴんぴんと健康そのものであったので、仕事にでようと思っていたのであるが、上司から休めといわれたので、仕方なしにベッドに身体を預けている次第である。

休めといわれたので休んでみてはいるものの、なんとまあ退屈なこと。我が家のテレビは二ヶ月前からうんともすんともいわなくなって、買ったまま放っていた本は一昨日に読み終えて、携帯ゲーム機の類は持ち合わせていないし、くそったれ、暇というものがこれほど辛いことだとは。
枕元のスマートフォンがひっきりなしに鳴って、それもそのはず、事務所のアイドル達は皆一様に優しい娘であるので、確認するまでもなく我が身を心配するメールの報せなのだが、確認しないわけにもいかんので、一通一通をじっくりと時間をかけて読んでみた。それがいい暇つぶしになって、いや、暇つぶしという言い回しは失礼なのだけれども、上手いこと時間を消費することができた。

その中の一通に拓海からのものがあり、これを読んでみるに、仕事が終り次第、見舞いに行ってやる、とのことであった。エクスクラメーションマークの散りばめられた本文は、変に動揺せず、いつも通りの向井拓海であることを示しており、この胆の据わった娘に、また信頼が深まるのを感じていた。プロデューサーとしては、アイドルを家に上げる、というのは避けたいところなのだが、何を言ったところでアイツは来る。絶対に来るだろう。拓海にとって、仲間の苦しみは己の苦しみであり、アイツのいう仲間のカテゴリーには俺も含まれていて、自分を犠牲にして仲間のために尽くす、というのが暴走族時代から向井拓海の根幹に聳え立つ信条なのであった。というわけで、俺がどんなに来るな、といっても来るのである。
こういう時に面倒な記事でも書かれたら、それはもう面倒なことになってしまう。俺は顔見知りの週刊誌ライター数名に連絡を入れた。日ごろの“お付き合い”というものはとても重要である。一様に「次は書かせてくださいよ」と言い残し、面倒事は未然に回避されたのであった。

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壁掛け時計に目をやると、二時をほんの少し過ぎたところで、確か拓海は三時までは少年誌のグラビア撮影であったはずである。来訪までには余裕があるので、受信メールには目を通し終えたし、さてとインターネットをちらほらと散策。
これもプロデュース業の一環であると、アイドル達の世評を見て回って、好評多数、悪評少数、といつも通りの景色が広がるばかりであったが、とあるSNSの某氏による「向井拓海はおまんこゴリラ」という一文が目に留まり、スクロールを止めざるを得なかった。
某氏の他の投稿を見るに、拓海に対しての投稿が比較的多く、そのどれもがとても好感的なものであった。つまるところ、この「向井拓海はおまんこゴリラ」とは某氏なりの冗談を交えた褒め言葉なのであろう。技量の凄さの度合いを「ゴリラ」という言葉で表現する手法が若者の間で流行っていると聞く。以前も、智絵里は太鼓ゴリラとの発言を見かけたし、比奈などは画力ゴリラだし、夏樹なんかはギターゴリラであるらしかった。
ようするに、この某氏の「おまんこゴリラ」とは「凄いおまんこ」を意味しているのだが、この人は拓海のなんなのであろうか。拓海のおまんこのなにを知っているのであろうか。適当な発言をしよってからに。


しかしまて。こうして憤っている俺も、拓海のおまんこの具合を知っているわけではないのだ。プロデューサーとアイドルの恋愛など(セックスに恋愛感情など必要ないのかもしれないが)言語道断であると、拓海のおまんこの具合など今まで考えもしなかったことだが、こうして見ると途端に意識してしまう。アイツのことならなんでも知っているつもりであったのに。落胆と言うと大げさであるが、落胆である。

そうこうしていると、玄関のチャイムが鳴った。そして、ノック数回。拓海だ。
ドアを開けてやろうと立ち上がるが、激痛でその場に倒れ、しかし鍵を開けてやらないとどうにもならないので、まるで芋虫のようだな、と思いながら玄関まで這っていった。鍵を回すと、ゆっくりとドアが開き、その隙間から怪訝そうな顔で拓海が覗いているのであった。

「なにやってんだ、プロデューサー」

「知ってるはずだぞ。痛いんだ、尾骶骨とかいうのが。くそっ、さっさと入れよ」

「入れよって……邪魔だ、そこに倒れたまんまだと」

「うるせぇな、待ってろよ、大変なんだ、こうやって這っていくの」

「ったく、しょうがねぇなぁ……ほら、掴まれよ」

そうして拓海は、俺をほとんど抱きかかえるようにしながら運び出し、ベッドに俺を放り投げると、冷蔵庫の中を勝手に漁りだし、なにやら準備し始めた。ザックザックと包丁を振るっている。この鼻に纏わりつく青臭さから察するに、長ネギなんぞを切っていやがる。

「なに作るつもりだよ」

「決まってンだろ。看病っつったら、おかゆだろうが」

「俺は別に風邪引いてるわけじゃないんだぞ」

「分かってるよ」

「熱だってない」

「分かってるっつの。腰だか尻だかが痛ェんだろ?おかゆが出来るまで、黙って待ってろよ」

なにも分かってない。病気じゃないんだから、わざわざ消化に良いものを作らなくたっていいのに。拓海にとって看病とは、おかゆを作って食べさせることなのだろう。エプロンなぞ着だしてまあ、張り切っているご様子である。こうまで張り切られてしまうと、こちらもこれ以上言えなくなる。黙って待つことにした。


拓海のエプロンは以前のバレンタイン企画のものであるらしく、またああいった企画をやりたい等と思考を巡らせながらベッドに横たわれば、部屋の間取りによって必然的に目線の先に用意される拓海の尻をまじまじと見つめていると、先ほどの「向井拓海はおまんこゴリラ」が脳裏に過ぎり、企画案を押しのけ、おまんこゴリラのパワーワードだけが脳内を埋め尽くした。
向井拓海はおまんこゴリラ。拓海はこれを聞いたらどう思うのだろう。照れるだろうか。怒るだろうか。本当にたくみのおまんこはゴリラなのだろうか。
担当プロデューサーでも知らないことはある。例えば、プロデュースを始めた当時は、拓海が子供相手に面倒見のいいヤツだなんてのは知らなかったし、意外と押しに弱いことも知らなかった。そのように、日々の積み重ねから未知の部分を取り除いてゆくのだが、この件は別に知らなくてもいいことであるはずなのだ。俺は拓海のプロデューサー。拓海のおまんこの具合など、俺にとって関係のないことなのである。それなのに――――それなのに、何故こうも拓海のおまんこのことばかりが気になってしまう。気になって仕方がない。もう俺の脳みそは、「拓海おまんこゴリラ」で今にもはち切れんばかりである。台所の、ガスコンロの前で揺れ動くその尻と、それを支える腿の間の、アイツのみが知りえる、いや、アイツでさえ知らないのかもしれない、機密事項。
くそったれ、俺はいったいそんなことを知って、いったいどうしたいんだ――――。


「おい、おいって」

気づけば拓海から声をかけられていた。

「鍋しきは?」

「もう出来たのか」

「まあ、おかゆだしな。それより鍋しきだよ。そっち持っていきてぇんだ」

「悪いけど、そんな上等なものは置いてない。適当な雑誌でも敷いてくれ」

「なんで鍋はあんのに鍋しきはねぇんだよ」

眉を顰めながらも、床に放置してあった週刊誌をローテーブルに敷き、湯気の立ち上るおかゆを運んできた。長ネギと油揚げに卵を混ぜたおかゆであった。
ローテーブル越しに対面する拓海との間に立ち昇る湯気が、まるで白いレースカーテンかのように見えた。薄ぼんやりとしていて、実態もないはずのそれが、なんとなく俺と拓海を隔てているかのように思えて、いまいち、匙に手を伸ばすことができないでいたのだが、拓海はそれをいとも簡単に、一息で吹き散らしてみせると、俺の手元にあった匙を強引に奪い取り、それを鍋に潜らせ、口元まで運んで、ふぅふぅ、と冷ます仕草をしてから、ふんだくった時と同じ強引さで、俺の口へ匙を突っ込んできた。

「ったく、なんでこうまでしてやんなくちゃ……。そんな悪いわけじゃねェんだろ?」

突き刺すような視線とは裏腹に、拓海の頬は薄紅に染まっていた。おかゆは全然冷めておらず、口の
中が火傷しそうであったが、俺はなにも言わずに咀嚼し、飲み込んだ。
また拓海がおかゆを、ふぅふぅ、と冷まして、口元に運んでくる。俺もそれを口に含む。
それは静かに、おかゆを平らげるまで続いた――――。


―――腹も満ちてそこそこ。拓海がもう帰るというので、では見送りにでもと立とうとしたが、再びの激痛にその場に崩れこんでしまった。
おとなしくしてろよ、バーカ、と拓海は俺にデコピンを食らわせ、玄関へと向かっていく。
今だじんわりとした痛みを感じながら、視線を玄関に向けると、そこには再び、靴を履くために中腰になったために強調された拓海の尻が細かに揺れていた。

俺は痛みに押されるかのように、

「拓海のおまんこはゴリラなのか」

と口に出していた。

すでにドアを半分ほど開けていた拓海は、数秒停止した後、みるみる顔を真っ赤に染め上げ、声を裏っかえしながら、「はぁ!?」と。
まあ、そりゃあそうだろう。

「バカ言ってねェで、さっさと寝ろ!」

「あ、うん」

短く息を吐き、拓海はドアを乱暴に閉めていった。やっちゃったなあ、と思っていると、玄関が再び、ほんの少しだけ開いた。誰の姿も見えなかったが、

「早く治せよ。お前が事務所にいないと、なんか調子狂う」

とだけ聞こえてきた。

そして、閉まっていくドア。階段を駆け下りる音。エンジン音。

俺はゆっくりと身体を起こし、ローテーブルに肘をつきながら、走り去るバイクの音を遠くに、日が暮れるまで玄関を見つめていた。


このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2017年04月14日 (金) 15:36:52   ID: t3bePt7w

シュールレアリスム過ぎてよく分からなかった

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