双葉杏「特別だけど、特別じゃない日」 (31)

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 台風が来た。とてもでっかい奴らしい。
 テレビのレポーターが波止場でレインコートを翻しながら、深刻な顔で言っていたのだからそうなのだろう。

 それにしてもどうして中継先が波止場なのか。街中じゃダメか? ダメなのか。
 高波に襲われたりでもしたら、労災なんかは下りるのかな……。

 現在時刻は朝でもなく昼でもない中途半端な時間帯。
 要するに十時、十時半。お腹はまだちょっとしか空いてない。

 部屋の姿見には小奇麗にお洒落をした自分の姿が映ってた。
 ……でもどうだ、全ては無駄になってしまったぞ。

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 前日の夜更かしだって程々に、今朝も早めに起きたってのに。

 僅かな期待を心に浮かべ、一応は身支度を済ませた自分の姿が滑稽だった。
 なので、私は抵抗する。この日の為におろした真新しい髪留めを解き、腰まである長い髪をぼさぼさと乱暴に広げてやった。

 折角セットだってしてやったのに、こんな展開は望んじゃないぞ!

 友人からのアドバイスを受け、わざわざ新調したチュニックだって脱ぎ捨てる。
 代わりにいつものシャツを羽織れば、姿見に映る私は驚くほどに私になった。

 その変わりようは、まるで魔法の解けたシンデレラ。
 しかし私に、ガラスの靴を落として来たような記憶はない。


「人に迷惑をかけた記憶なら、持ちきれない程あるのになぁ」

 ぼやけども、聞かせるような相手はいない。私だって、聞かせるためにぼやいたんじゃない。
 ただなんとなく、今の気持ちを確認してみたかったというだけなのだ。

 言葉に乗せれば、事実は途端に現実味を持ち、私に実感となってのしかかる。

 行き場のないこの気持ちをどこにぶつけてやろうかと部屋の中を見回しながら、
 私はやりきれないという感情を今、まざまざと感じさせられていて。

 現在時刻は十一時。

 テレビのアナウンサーの話だと、台風はますます勢いを増してこちらに向かっているらしかった。

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 大体、初めから乗り気しない話だったんだ。
 普段の自分のキャラから見ても、受けたのが不思議なほどの柄にない話なのである。

 営業先で貰っただとかなんだとか、チケットを持って来たアイツは
 子供みたいにはしゃぎながら、自慢するように私にこの話を持ちかけた。

「やだ、めんどくさい。そもそもその日がオフなの知ってて聞いてるの?」

「当たり前だろう? だから誘ってるんじゃないか」

 曰く、それは労いらしかった。労う相手の予定を一切考えないその行為を労いと呼ぶのなら、
 世の中には有難迷惑なんて言葉は生まれないな、なんてどうでもいいことを考える。


「とにかく今度のオフ、決定な!」

 一分にも満たない話し合いの末、押し付けるように渡されるチケット。
 ちょっと待て、まだ私は了解したとも言ってない! 

 嵐のように去ってゆくアイツの背中を見送りながら、
 私はせめて「分かった」の一言も待てないのかと不機嫌に悪態をついたのだった。

 このムードもへったくれも無いやり取りについて、友人に愚痴をこぼすと慰められるどころか諭された。
 あちらは常に忙しいのだ。そのくらいの寛容さは持ちなさい、と。

「女はいつも損だ」

 ふてくされたようにそう言う私を、彼女は困ったように笑って見てたっけ。
 今思うと随分と勝手なことを言ったような気もするけど、その時の私はそれぐらい怒ってたんだからしょうがない。

===

 そして今、テレビの前でぼんやりと過ごす私も同じぐらいに怒ってる。
 原因はもちろん台風だけど、未だ連絡を返してこないあの馬鹿野郎にも私は腹を立てていた。

『台風だって』

『見た』

『……どうすんの?』

『確認してみた。中止だそうだ』

『それはそうだろうけど、そうじゃなくてさ』

 今朝行われたやり取り以降、私のスマホはずっと沈黙を貫いている。
 こちらから電話を掛ける手も残っていたが、それはダメ。負けた気がするし、何よりどうせ繋がらない。


 窓を叩く雨の勢いが、私の感情に合わせるみたいにその激しさを増していた。
 窓を閉め切っていても分かるぐらいなんだから、きっと外は大変な風と雨なんだろう。

 私は無言でテレビの前から立ち上がると、ベランダに続く扉の前へ移動する。
 窓越しに見える外の風景は凄まじく、空はめい一杯の荒れ模様。

「……ん?」

 そうして私は、ソイツを見つけた。

 エアコンの室外機ぐらいしか置いちゃあいないベランダに、ポツンと居座る鳥が一匹。
 カラスでも、スズメでも、ハトでもないソイツはしかし、何かと聞かれて鳥以外のなにとも答えられない生き物だった。


 大きさはハトより小さく、スズメより大きく。

 全体的な色はそう、灰か、黒か、茶色みたいで、
 ガラの悪そうな鋭い目つきだってのに、丸みのある可愛らしいくちばしは随分とミスマッチ。

 そんな鳥の奴が私の家のベランダの、室外機の影に暴風から身を守るようにしてちょこんと身を寄せていたのである。

 大方強風から逃れるためにウチのベランダを避難所にしたんだろけど、
 私はその鳥の奴をなんとはなしに眺めつつ「珍しい出会いだな」なんて、そんなことを呑気に考えていた。

「まっ、勝手に雨宿りしてってよ」

 鳥の奴に向かって呟いて、私は再びテレビの前に座り込んだ。
 雨宿り代を徴収しようとしなかったのは、せめてもの恩情だと思って欲しい。

 時計を見れば、現在時刻は十二時ちょうど。
 なんとタイミングのいいことに、私の腹時計も正午がやって来たことをお腹を鳴らして知らせてくれた。

 ついでに言うとあの馬鹿からの返信は、まだ、無い。

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 朝食はパン、昼食はカップ麺、そして夕食はスーパーで買ったお惣菜。
 それが基本のローテーション……だった、ほんの数ヶ月前までは。

「偏った食生活はダメー!」と、何気ない会話の流れから
 私の食生活を知った友人に咎められてからというもの、一応は自炊をするようになった私。

 今日だって茹でたパスタにミートソースかけて、簡単な昼食を済ましてやった。

 えっ? カップ麺とそう変わらない?

 ……それは多分、気のせいだよ。
 どっちも麺類だから、多少は似てても仕方ないよね。


 食後の麦茶を飲みながら、私は今日持って行く予定だったトートバッグを引き寄せる。
 中から取り出すのは、あの日渡されたチケット。

 長方形の紙っぺらに、レトロフォントなアルファベットで『CIRCUS』の文字。
 しかも隣には薄気味の悪い笑顔を浮かべたピエロのイラストのおまけつき。

 正直な話、ドキドキワクワク夢の世界というよりも、
 スリルとサスペンス悪夢の世界って感じのデザインだ。


 とはいえ台風のせいで観に行けないなら、幻想的な世界への招待状もただの紙切れ。
 テレビはどこも台風中継しかしてないし、予定の潰れた私には、差し当たってやらなきゃならないことも無い。

 私はテレビの前に置いてある、古いゲーム機の電源を入れて慣れ親しんだコントローラーを手に取った。
 現実世界で叶わないなら、せめてバーチャルなスリルとサスペンスを。

「ばぁいぉはざぁぁどぅ……」

 タイトルコールを真似しながら、私は生涯何度目かになる洋館探索に乗り出した。

===

 ゾンビの闊歩する洋館の探索は順調で、気づけば二時間近くが経過していた。現在時刻は、午後三時。
 依然としてあの阿呆からの連絡は無く、私はこのままゾンビと戯れて今日が終わることを想像して身震いする。

 普段の私ならそんなだらけた休日はむしろ喜んで受け入れたことだろう。けれども今日は違うじゃないか。
 本当ならば特別な一日になるはずだったのに……い、嫌だ! そんな台風の日の度に思い出し、寂しい気持ちになるような休日は!

 だがしかし、このダラダラと停滞した雰囲気に風穴を開けるような突発的なイベントも、台風直下の状態では起きるはずも無く。
(むしろ雨漏りだとか停電だとか、そんなイベントは断固拒否する!)

 ゲームのエンドロールを眺めながら、私は続編のソフトを探し始めた。

 頭ではダメだと考えながら、体は無意識のうちにシリーズ制覇の記録に挑戦しようと動き出す。
 なるほど、これが酒を飲まずにはいられないお姉さま方の心境だな。


「わかっちゃいるけどやめられない~♪」

 鼻歌を歌いながらソフトを探すこと数分。私は途方に暮れていた。
 理由は簡単、必死に捜索したにも関わらず、ゲームソフトが見つからない。

 一作目の次は二作目と決まってるのに、肝心の二作目が無いのである。
 ……一応三作目は発見したが、一作飛ばしちゃ意味がない。あくまで私の目的は、シリーズ制覇なのだから。

「おかしいなぁ……確かにここにあったのに」

 そう呟きながらゲームソフトが入った棚を眺めていると、
 私は唐突にある日の会話を思い出した。あれはそう、アイツが家に来た時のこと。


『おっ、懐かしいゲームやってんな』

『なに、興味あるの?』

『あるある大あり! 特に2は何度も遊んで思い入れが深いな。裏シナリオはもちろんだけど、何といっても思い出すのは――』

『……豆腐?』

『豆腐!』

 そう、思い出すのは豆腐のこと……じゃない。
 アイツがあんまり懐かしそうにしてたから、私はソフトを貸したんだった。

 だから家には、ソフトが無い。分かってみれば、バカバカしくて笑っちゃうような消失理由。
 けれどもこれで、私の目的は潰えてしまった。やる気を失った私はゲーム機の電源を切り、その場にパタリと倒れ込む。

 何をするでもなく天井を見上げ、聞こえて来る雨音のリズムに耳を傾ける。
 いつしか私はウトウトと、睡魔に抱かれ夢の中へ――。

===

 夢を見ている時に「あっ、これ夢だ」と気がつくきっかけ。今回のソレは、自分が空を飛んでいると分かった瞬間だった。

 灰色の曇り空の下、強い風に弄ばれるようにしてなんとか飛んでいた私は、
 とうとう降り出した雨にも辟易しながら休める場所を探してた。

 そうして辿り着いた先は、なんだかやけに見覚えのある場所で。
 室外機の影に飛び込んだ私のことを、なにやらジッと見つめる奴がいる。

 そいつは窓越しに私のことを眺めてたけど、その顔の間抜けさといったら酷いものでさ、
 ポカンと口を半開きにして、ボーっとこっちを見てたんだ。

 途端に、沸々と沸き上がる怒り。お前なぁ、いくら自分の家だからって、なんてバカ面を晒してるんだ。

 それにトコトン気も利かない。もう一人の自分が目の前で雨風に吹かれてるんだぞ、家に上げてやろうって気にはならないのかと、
 抗議の視線で睨み返してやった瞬間「ふがっ」なんてヘンな声を上げ、私は夢から目を覚ました。


 そうしてそのまま体を起こすと、あの鳥の奴の様子を確かめるためにベランダの扉の前まで移動する。

 チラリと覗くと、奴はまだ室外機の影に居た。
 最初に気づいたのがお昼だったから、かれこれ三時間以上は雨風に晒されていたことになる。

 本当ならこのまま放っておいても良かったけど、あんな夢を見た後だ……。
 なぜだか私はあの鳥を、家に上げてやらなくちゃならない気がしてた。

 鳥の奴の仮宿にするために、通販商品が入っていた手ごろな段ボール箱を用意する。
 中にはタオルを敷き詰めて、寝床の準備も万端だ。

 私はベランダの扉に手を掛ける。外は雨、台風通過の真っ最中。
 鳥の奴が私に気づき、その不愛想な顔をこっちに向けた。


「よしっ」

 小さく気合を入れると、私は扉をガラガラっと開けた。途端に、室内に雪崩れ込んで来る雨と風。
 びゅうびゅうと凄い勢いのソレは、小さな私の体を容赦なく打ち、気を抜くとそのまま倒されそうになるほどに強い。

 なんとか踏ん張りを利かせてベランダへ。鳥の奴が私を見上げる。私が奴に一歩近づく。
 雨が容赦なく体を濡らし、着ていたシャツが肌に張り付く。一歩、もう一歩。鳥の奴も自分から私に近づいた。
 目と目が合い、意志の疎通ができた気がした。私はそっと手を伸ばし、その体を抱き上げようとする――。


 バサバサと、羽ばたく音が聞こえたのは一瞬だった。

 次にはあの丸っこいくちばしが目の前にあり、私は反射的に両腕で顔を守った。
 腕に何かが勢いよくぶつかり、私はベランダに尻もちをつく。お陰でシャツだけじゃなく下着までぐっしょり。

 ようやく視界が開けても、私は鳥の奴がベランダから飛び立っていくのをぼけっと眺めることしかできなかった。

 呆然自失、しばらくの間何が起きたのか理解できずに、私はただ雨と風に吹かれてた。
 そうして鳥の奴に逃げられたのだと分かった時、私は思わず叫んでた。

「ば、ばっきゃろー! 恩を仇で返しやがってーっ!!」

 だがしかし、言いながら自分でも分かってる。
 そもそも私は、鳥の奴に恩なんて貸しちゃいなかった。

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 恩を貸している相手と言えば、アイツからの連絡は未だ無い。ついでに私は運も無い。水も滴るいい女、違うな。
 見事なまでの濡れネズミになった私は、床に真新しい染みを作りながら脱衣所へと一直線。

 洗濯機の中に着ている物を放り込むと、仮宿に敷いていたタオルで体を拭いた。

 それから素っ裸のまま濡れた床の始末をつけると、冷えた体を温めるために浴室へ。
 熱いシャワーを浴びながら、ため息交じりに呟いた。

「ホント、何やってんだろな」

 けれども物はついでとそのまま髪を洗い体も洗い、ちゃっかり浴槽にお湯まで張って湯船に浸かる。至福だ。
 私は全身をふやかしながら、このままお湯に溶けてしまいたいなんてことまで考える。……これがホントの溶解人間、なんちて。

「うぐぁ~」

 余りに下らな過ぎる冗談に、自分で悶絶。

 私は行き場の無い恥ずかしさを誤魔化すために、
 湯船に顔を沈めてブクブクと水面を泡立てるのだった。

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 お風呂から出た私はサッパリしていた。

 苛立っていた気分の方も、幾分か晴れやかになった気がしないでもない。流石はお風呂、命の洗濯。

 新しいパンツに足を通すと、首にタオルを引っ掛けた状態で台所へ。
 一人暮らしだとこういう時に人目を気にしなくっていいから楽だ。

 私は冷蔵庫から取り出した牛乳を飲みながら、スマホの画面を確認する。

「ぶふぅっ!?」

 思わず噴き出した牛乳が白い霧となって宙を舞う。『着信 一件』の画面表示、相手は件の阿呆だった。
 どうやら私が風呂に入っている間、僅か数分前に掛けて来たらしい。なんて間の悪い奴。

 私は動揺でスマホを取り落としそうになりながら、すぐさま連絡を取るためにかけ直す。

 コールが一回、コールが二回……出ない。うんともすんとも。
 それから三十分の間、私は数回に分けて連絡を取ろうと試みたけど、結局奴が掴まることは無く。

「……せめてメールの一つも寄越せっての」

 テーブルに頬っぺたを乗せながら愚痴っても、もちろん誰も聞いてない。現在時刻は午後五時半。

 今日という日の三分の二が、既に過ぎ去っていることに驚愕する。
 そして同時に、私はそろそろ夕食の支度もしなくちゃならない。

 ……おかしいな、さっきお昼を食べたばかりのハズなのに。

 意識してない時の時間ってやつは、流れていくのがやけに早い。例えそれが楽しい時間じゃなくてもだ。

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 夜、外は相変わらず雨が降ってたが、風の勢いは少し弱くなったらしい。
 お天気お姉さんが言ってたんだから、多分間違いはないんだろう。

 台風はこのまま北上し、次の街へ雨と風を運んで行くと、きっと今日の私にしたように誰かの予定を狂わせるんだ。
 そして私の予定というやつは悲しいかな、現在進行形で狂い続けている。

「あー……しまった」

 夕飯の用意をしようと開けた冷蔵庫。中身は見事に空っぽだった。そういえば、今日は買い出しに行ってない。
 本来の予定じゃ二人でお出掛けした後は、荷物持ちをアイツに任せて日用品を買い込む算段だった。

 けれども予定はあくまで予定。現実は台風によってパー。

 食べる物が無いと分かった途端、お腹はひもじさを訴え出した。
 外は雨、カッパを着込んで近所のコンビニにでも駆け込むか……。

「はぁ……折角お風呂も入ったのに」

 私は渋々そう呟くと、姿見の前まで移動する。

 鏡の中には髪をまとめることなく放り出し、シャツと下着しか身に付けてない私。
 とてもじゃないが、外へ出ていける恰好じゃない。


「さて、と」

 私は着ていたシャツを脱ぐと、朝から放置されていたお洒落なチュニックを手に取った。

 これは普段パーカーだったりシャツだったり、とにかく「気軽に着れたらそれでいい」なんて私の服に関するこだわりを
 友人に窘められた結果、一時の気の迷いで購入に踏み切った一品だった。

 曰く「特別な日にはそれなりの恰好を」

 確かに彼女の言う通り、今日は特別な一日になったとも。

 履き慣れたズボンも身に付ければ、まぁ、外には出られる格好だ。
 同じくこの日の為に用意した髪留めを使って髪をくくれば、そこには朝と全く変わらない自分が映ってた。

 まるでタイムスリップして来たかのようである。
 できれば今すぐ時間を戻り、今日という日をもう一度朝からやり直してやりたいとこだ。

 そうすればもう少し有意義に、一日を使えたんじゃないだろうか? 
 ……電話にだって、でられたハズだし。


「……なんてね」

 誰に聞かせるでもない呟きだ。私は小さくかぶりを振ると玄関へ。
 靴を履き、カッパを着込み、マンションの扉に手を掛けた。……しかし、ドアノブがなぜか回らない。

「んんっ?」

 いや、違う。既にドアノブは回ってたんだ。だからこれ以上は回せない。
 私が怪訝に思うより早く、ガチャリと扉は開かれた。ドアノブを掴んだままいた私は、そのまま引っ張られるように外へ出て。

「おっと!」

 ポンと、体を抱きとめられた。それから濡れた衣服の匂いがして、ずっと聞きたかった声がする。

「なんだ、危ないじゃないか」

 そう言って笑うアイツの顔を見上げる私は、きっと呆けた顔をしてたハズだ。
 ……それこそ昼間夢で見た、あの恥ずかしすぎるバカ面でさ。

 だから私はそのまま頭をアイツの体に押し付けて、自分の顔を隠したんだ。
 だって今、どうしようもないほどのにやけ顔になってるのが自分自身で分かるから。

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「ふぅん、随分とめかしこんでるな」

 それが玄関で私の恰好を見たアイツの最初の一言だった。

「どこかに出掛ける予定だったのか?」

「……コンビニ」

「夕飯は?」

「まだだよ」

「よっしゃ!」

 アイツがポンと手を叩く。

「どうやらタイミングはバッチリだったみたいだな!」

「はぁ?」

「昼間、電話かけただろ? 元々の予定が流れちゃったから、お詫びに食事を奢ろうと思ってさ。
 ……けどお前、全然電話に出ないんだもん」

「タ、タイミングが悪いんだよ! その時ちょうど、お風呂だったし……」


 するとアイツは「あぁー!」と合点がいったみたいに声を上げ「どうりで良い匂いがするわけだ」なんて言いやがる。

 その何気なくかけられた一言に、私は自分の顔が赤くなるのを感じてた。
 そうして自分だって電話に出なかったじゃないかって私が言いだすきっかけを、はぐらかされた事にも気がついて。

「んじゃ、行くぞ。下に車も停めてあるから」

 けどさ、差し出された手を握り返したら、そんなことどーだって良くなるんだからズルいよね。

 朝からずっと続いてたなんともパッとしない時間さえ、
 これからのたった数時間で帳消しに出来そうな気がし始めちゃうから不思議なものだ。

「それで……今日もやっぱり忙しかったの?」

「今日か? 今日は特に大変だったぞー。何せ台風の影響でイベントが――」

 雨の中走り出す車と一緒に、私の時間も動き出す。聞きたいことは山ほどあるし、話したいことだって沢山あった。
 彼が元から聞いていた、車のラジオが気象情報を読み上げる。

『台風はその勢力を急速に弱めながら北上。なお、明日の天気は晴れの見込みです。それでは続いて今日のニュースを――』

===

 杏ってネタ曲のせいで忘れがちだけど、キュートでも屈指のキュートガール。
 スローライフ・ファンタジーを聴いてなんかのんべんだらりとした話が書きたくなり、出来たのが今回の話です。

 以上、お読みいただきありがとうございました。

>>5 訂正
×嵐のように去ってゆくアイツの背中を見送りながら、
○嵐のように押しかけて、風のように去って行くアイツの背中を見送りながら、

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