森久保「私に似ているプロデューサーさん」 (70)

デレマスの森久保SSです

初投稿

地の文あり

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書きためてあるので手直ししながら投稿していきます。

俺の名前はP。とある小さなアイドルプロダクションに勤務している。

といってもプロデューサーという訳ではない。事務員の補佐をしたり、他のプロデューサーの都合がつかなかったときにアイドルの送迎をしたりしている。いわゆる雑用だ。

季節が来ればシーズンの仕事があるので事務の手伝いとしてそこそこ忙しく仕事をしているが、会社の業績が傾いてリストラという話になれば真っ先に切られる人員だろう。

別に新人だからこの役回りって訳でもない。入社して4年が経つが、同期と後輩はみんな担当を受け持つプロデューサーか、事務をこなす事務員になっている。

俺がこうなった理由は理解している。

俺はアイドルとの接し方がわからない。
というより、俺はアイドルという人種が苦手なのだ。

今から4年前、大学生だった俺は就活に失敗した。

スタートは遅れ、履歴書に書けることは車の免許くらいなもので、加えて大学の単位にも追われていた。

切羽詰まった俺は手あたり次第に履歴書を送り付け、やっとの思いで一社の内定を確保した。それがこのアイドルプロダクションである。

なんでこんな人間が採用されたのかは全くの謎だ。渾身の嘘面接が功を奏したのだろうか。

しかし職を手に入れた喜びもつかの間、入社した俺は今まで自堕落に過ごしてきたツケを払うことになる。

最初の業務はアイドル活動の見学だった。研修の一環として新人に現場を知ってもらおうということだろう。

少ない同期と共にアイドルたちのレッスンを眺めた。レッスンは5人のグループで行われていたが、別にユニットを組んでいるわけではなく、デビューもまだらしい。

音楽に合わせて踊る。言葉にすればそれだけのことだが、俺の頭にはそれを遥かに凌駕する情報量が入り込んできた。

十代半ばの女の子が鬼気迫る表情でステップを踏み、少しでも乱れればトレーナーから名指しの怒号が飛ぶ。それに凛とした返事を返したかと思えば、すぐさま自身のダンスの弱所を認めて修正に腐心する。

俺が目を背けていた世界がそこには広がっていた。

ゆくゆくは彼女たちのようなアイドルを自分の手でプロデュースしていくと思うと、気が張り詰めるような感覚に襲われた。

「あのっ、すみません!」

レッスンが終わって次の研修に向かおうとした俺たちに、さっきまで踊っていたアイドルの一人が声をかけてきた。

「私は…アイドルになれるでしょうか…デビューは…」

彼女の目には疲労を押し殺すのに十分な情熱があった。

…つい視線を反らしてしまう。

どうやら彼女は俺たちについて勘違いしているようだ。平のペーペーですらない研修中の俺たちにそんなことを決める権限も、彼女のセンスを見抜くだけの鑑識眼もあるはずがない。

まだ十代半ばの少女なのだから仕方がない。冷静に物事を分析する力より、恥をかく勇気の方が役に立つ年頃なのだろう。

どう返事すればいいか困っていると俺たちの教育係の上司がやってきて対応してくれた。
狭い事務所だ、彼女の良く通る声が事務室にも届いたのだろう。

どうにか事なきを得たが、俺は嫌なものを見てしまったと虫を噛み潰した気分だった。

レッスンの疲れを押して俺たちに取り入って貰おうとした彼女の目、さらにその後ろの「その手があったか」という四人の顔。

そして今日のレッスン。

自然な流れで、俺の中に彼女たちを拒絶する感情が生まれていた。

自慢じゃないが俺はなかなか友好的な人間だ。友達も多いし、気兼ねなく話せる奴も結構いる。

だがそれは意識的にも無意識的にも、俺と合わない人間を視界から締め出した結果だ。

例えば勉強ができる奴。なんにでも手を挙げる奴。これだと思ったものに一直線な奴。

そういう人間をいない者として過ごした結果、俺のような人間にとって居心地の良い世界が構築されて、その中で俺はそれなりに楽しくやってきた。

そんな俺に彼女たちアイドルの在り方は眩し過ぎた。目も当てられない程に。

入社して1年が経った頃、プロデューサーとして初めてアイドルを担当することになった。

彼女は明るい性格で、ダンスも上手く、そして情熱に満ちた目を持っていた。

仕事自体は順調そのものだったが、俺は彼女の目を見れなかった。

送迎の時も言葉少なで、このままではいけないと思ってはいたが、居心地の悪い静寂は俺の舌と目線を強張らせた。

初めてのLIVE、他のプロダクションとの合同だが規模は大きかった。

楽屋で衣装に身を包んだ彼女は震えていた。いつもの快活な笑顔は無く、無理矢理張り付けたような微笑に不安が見え隠れしていた。

励ますべきだろう。だがどうやって。

大丈夫だ、いつも通りやれば良いと、そんなような意味の言葉を繰り返しかけると、彼女はその度に「はい」と返事をした。

その「はい」は、いつもスケジュール確認をするときの返事と同じ文字列だったが、どこか欠けた、何かを求めているような声だった。

初めてのLIVEの後、彼女はプロダクションを去った。

LIVEは大失敗という程でもなかったが酷い出来だった。呂律は回らず、足がガクついていてダンスは練習の半分ほどの実力しか出せていなかった。

合同ライブの広告塔である大手プロダクションが最後のトリを盛り上げてくれたためイベント自体は成功したが、彼女のステージは明らかに失敗だった。

彼女が一生懸命練習していたことは俺が一番よく知っている。学校を休んでトレーナーの指示を煽り、トレーナーが捕まらないときは事務所で自主レッスンに励んでいた。

一切の弱音を吐かずに。

……いや、もしかしたら彼女は一度だけ弱音を吐いていたのかもしれない。

明るい彼女が発した最初で最後の救難信号を、俺は見過ごしていたのではないだろうか。

「大丈夫だ、お前ならできる」そんな言葉を何度もかけた。

果たして俺は「お前」の何を知っていたというのか。

彼女の瞳の色も、あの日の瞳の揺れも知らない俺が。

彼女の一件以来、俺にプロデューサーとしての役が回ってくることは無かった。

アイドルとのコミュニケーションに著しく問題を抱えているとの評価を受けた俺は、事務員の補佐として働くことになり現在に至る。

不満はない。もともと向いていなかった。事務仕事は人並みにこなせているので、他の事務員も仕事が減って助かっているようだ。

だがこの事務所で働いている以上、たとえ視界に納めなくてもアイドルに関する話は耳に入ってくる。

そのたびに俺は唯一担当した彼女のことを思い出す。
目を合わせず、ろくに向き合ったことはなくとも、彼女の声は今でもはっきり思い出せる。
俺は彼女の声が好きだった。
明るい声だ。他の人を元気にできる声だ。

そしてその可能性を摘んだのは俺だ。

LIVEステージに立った時の彼女の口元は、まるで彼女を送迎しているときの俺のように強張っていた。

彼女はあのときどんな目をしていたのだろうか。何をその目に映していたのだろうか。

千を超える観客に圧倒されていたのか、自身を見つめるカメラに足を竦めていたのか。

暗幕の陰にいた俺に、目線で助けを求めていたのだろうか。

アイドルの話を聞くと気持ちが沈む。
だから俺は他の職員とはあまり関わらないようにして過ごしていた。

仕事をする上では関わるが、それ以上は踏み込まない。仕事が終わればすぐに直帰する。

そうして一人暮らしのアパートの中に逃げ込むことで、俺はようやくホッとすることができた。

その日はいつもの業務とは少し違っていた。
オーディションの合格者があいさつに来るそうで、施設の案内という名目で事務から人員が一人駆り出されていた。

つまり一人分の仕事を事務のみんなで切り分けるので、やることが増えるのである。

この事務所に新入りのアイドルが来るのは結構珍しい。小さなプロダクションであるので、そう多くのアイドルを囲うことができないのだ。

一般的に、スカウトで入ってきた子よりオーディションを突破して入った子の方が売れる公算が高い。今回の子も会社に期待されていることだろう。

…そういえば彼女もオーディション組だったか。
いかんいかんと雑念を追い出し、いつもより少し多い仕事に手を付け始めた。

「あの…、いきなりで申し訳ないのですけど、私、もうアイドルなんか辞めようかなって思ってて…」

先ほど社長室に連れていかれた少女は、事務所に来るなりえらいことを言ってきた。

オーディションを受けておいてその合格を辞退したいと言い出したのだ。
流石にそうですかと帰す訳にもいかず、今は社長が話を聞いているところだ。

彼女は一体どういうつもりなのだろうか。

彼女の声と頼りない足音が何故だか耳に残っていた。

彼女の名前は森久保乃々。14歳の中学生だった。

社長が話を聞いたところによると、彼女は自分の意思でオーディションを受けたわけではなく、親や親戚の人たちに担がれて話を合わせているうちにあれよあれよとここまで来てしまったらしい。

自己主張が苦手な子なのだろう。確かに中学生の身で大人の意見に逆らうには勇気がいる。

しかしそれでここまで来れたというのは間違いなく才能があるということだ。自分の意思でオーディションを受けて通らない子もいるのだから。

とりあえず今日のところは帰ってもらうことになった。といっても合格の辞退を受け入れる訳ではない。

森久保本人もアイドルが具体的にどういうことをするのか知らないということなので、一時的にこの事務所に所属してアイドル活動の内容を知ってもらってからまた話しを聞くことになった。

速い話が社長の口車に乗せられたのだ。

オーディションの合格には必ず社長の承認が必要になる。つまり森久保乃々は社長に見込まれてここまで来たということだ。

内気で頼りなくとも、磨けば光る素材だとみなされたのだ。そんな原石を社長が易々と手放す訳がない。

それこそ俺のような問題児でもなければ。

一か月後、社長は眉間にしわを寄せていた。
しわの原因はやはりというか森久保である。

あれから森久保には学校が終わってから事務所にきてもらって色々やらせていたが、結果は散々なものだった。

入りたてのアイドルにはある程度の実力が付くまでは集団ではなく個人でレッスンを行うことになっている。足手まといになったり他のアイドルのモチベーションを下げてしまう恐れがあるからだ。

しかしうちは弱小プロダクション。個人レッスンに多くのコストと時間と部屋を割く余裕は無いため、集団レッスンに上がるためのハードルは比較的低く設定されている。
運動部の子であれば数回のレッスンで集団に合流するケースも少なくない。

だが森久保は一か月経ってもその目途すら立たなかった。

絶望的な運動能力もさることながら、一番のネックは彼女の人見知りだった。

人と目を合わせられないため意思の疎通が難しく、それがレッスンでの伸び悩みにも拍車をかけていた。

森久保のプロデューサーを任された男、俺の先輩にあたる人も、彼女のプロデュースに困っている様子だった。

このプロダクションでは、アイドルのプロデュースの流れは学校のカリキュラムのように決められている。
プロデューサーを教育する余裕がないため、不確定要素の多い自由なプロデュースよりも、ある程度実績に裏打ちされた方法で統一した方が効率的ということなのだろう。

俺のような人間が入社して一年で担当を持つことになったのもこの方針のおかげだ。

しかし森久保は、今までこのプロダクションでかかえていたどのアイドルとも異なる性質の女の子だ。愛想と最低限の運動神経を前提とした今までのやり方では売れる目は薄い。

彼はカリキュラム通りにプロデュースを進めるために森久保の人見知りを直そうと手を尽くしたが、結果は思うように出ていないようだ。

ならば彼女に合った方法でと思うが、それも難しい。
事務所が定めた以外の方法となると、前例が無いので完全に模索から入らないといけない。そんなアテのないプロデュースには、事務所としては経済的な理由でゴーサインは出せないだろう。

それに本人がアイドル活動に乗り気じゃないのも大きい。
そんな人間のためにこの零細プロダクションがいくらかかるか分からないようなプロデュースに踏み切る訳がない。

森久保乃々は間違いなくここに来るべきではない人間だった。
…それはもう、俺と同じに。

森久保がここに来てから二か月と少しが経った。

彼女のプロデュースは相変わらず難航しているらしい。

事務室では森久保のプロデューサーと社長が苦い顔で話をしていた。
話題はおそらく森久保のことだろう。

彼女はまだ個人レッスンから抜け出せていない。
あまりアイドルのことを見てこなかったから確かなことは言えないが、多分この事務所始まって以来の遅さだ。

事務所としては、もうなんでもいいからこの疫病神をどっかにやってしまいたいことだろう。

移籍というのも手だ。彼女の才能を十全に生かせるようなプロダクションに引き取ってもらえれば、アイドルになりたくないという森久保以外はみんな幸せになれる。
だがオーディションを通しておいて何の成果も上げられないまま移籍と言うのは事務所の沽券に関わる。なんとかして拍をつけたいところだが。

後は普通に辞めさせるという方法だが、森久保の親御さんはアイドル活動に乗り気だ。
金がもったいないから辞めてくださいなんてことでは納得しないだろう。正当な理由が必要になる。

ちょうど二人もそのあたりのことを話しているようで、移籍やらクビやらの単語が俺の耳まで届いてきた。

アイドルとしての才能はあるようなのにもったいない。モノは良いのに入れてみたら会社に合わないだなんて。
俺のことと言い、実は社長には人を見る目が無いんじゃないのか。

なんとはなしに社長を見る。その瞬間今まで森久保のプロデューサーと話していたはずの社長と目が合った。

俺が軽く会釈をすると、社長は俺のデスクに向かって歩き出した。

……やめてくれ。
嫌な予感がしていた。

さっきまで苦々しい顔をしていた社長が、俺と目が合ったとき、そして今、笑っているのだ。

窓際の席で足を止める。言うまでもなく俺のデスクだ。

「ちょうど君の話をしていたんだ」

このとき俺はすべてを察した。社長の思惑も、これから俺がどうなるのかも。

「例のオーディション上がりの子、君が担当してみないか?」

こうして俺は森久保のプロデューサーとなった。
森久保の性質を考慮して、俺には事務所が定めるカリキュラムを無視してもいいという特例が認められた。

もちろん反対はしたが、俺はしがない事務員補佐。森久保のように社長の口車に乗せられるまでもなく社長の支配下に位置する人間だ。逆らうことなどできなかった。

アイドルの目を見れない俺にプロデュースは無理だ。社長もそういう評価を俺に下したはずだ。

にもかかわらず彼は俺に森久保のプロデュースをしろと言う。これにはさっき言った彼の思惑が関係している。

社長は俺が彼女を成功させることなどはなから期待していない。十中八九失敗すると踏んでいる。

そして一度でも仕事を失敗させれば、それをネタに森久保を事務所から追い出すことを狙っているのだ。

そして二人のアイドルの未来を閉ざした俺は、晴れて社長の手でクビを言い渡される。

この事務所に来るべきではなかったお荷物と疫病神をまとめて処理できるという訳だ。よくできた作戦だ。

しかもこの作戦にはさらに「もう一段階」ある。だがそれは俺には関係が無いというか、今の俺にはどうでもいいことだった。

俺にとってどうでもよくないことは、森久保の仕事を一つでも失敗させれば俺はクビになるということと、プロデューサーの真似事が果たして今の俺にできるのかということだった。

三年前から全く褪せない彼女の声が、頭の中で耳鳴りのように響いていた。

俺はアイドルと目を合わせられない。これは俺が心地よい生活を続けるために、勤勉な人間を視界から締め出し続けた結果だ。

だが果たして森久保乃々は勤勉な人間だろうか。
答えは否だった。

「…あ、あの……」

新しくプロデューサーになるということで、今は顔合わせも兼ねたミーティングをしている。
前に担当していた彼女以来、こうしてアイドルと仕事の話をするのは初めてだった。担当時代はスケジュール確認によく使っていたこの会議室も、えらく懐かしいものに感じる。

ここに来るまではどうこの子と付き合っていこうかと気を揉んでいたが、考えてみれば森久保は他のアイドルと違って輝いていない。
その目にも情熱は宿っておらず、鈍い茶色の光を返すだけだった。

俺が恐れていた輝き、アイドルらしさを微塵も感じない。俺でもしっかりと目を見ることができた。

しかし対する森久保本人は俺を前にして警戒しているようだ。目を合わせようと努力していることはわかるが、一瞬合えばすぐ目線が泳いで明後日の方向に向かう。

…はたから見たら俺もこんな感じだったのだろうか。

「話は聞いていると思うが、担当プロデューサーが変わることになった。今日から森久保の担当になるPだ。これからよろしく頼む」

あ、はいよろしくお願いしますと返事をしてから森久保は言う。

「あの…私、アイドルとかになるつもりはなくて…ここに来たのも色々な巡り合わせが悪かったからで…だからその…」

「大丈夫だ。わかってる。意外に思うかもしれないが、俺は森久保を積極的にアイドルとして活動させていくつもりは無いんだ」

森久保の顔がわかりやすく反応する。彼女の表情からは7割の期待と3割の困惑が見て取れた。

「ほ、ほんとですか?」

「ああ、本当だ。第一本人が乗り気じゃない状態でアイドル活動はできない。だけど事務所を辞めるなんて極端なこともできない。君の親御さんは乗り気みたいだし、俺にも上司がいるからその人の方針には逆らえない。わかるか?」

はいと返事をする森久保の声は明らかにワントーン上がっていた。

「それでこれからのことだが、とりあえずレッスンは今まで通り受けてくれ。トレーナーさんの話では、スピードこそ遅いが最初の頃と比べれば見違えるような出来になっているそうだ。早ければあと一か月くらいで集団レッスンに混ざれるとも言っていたぞ」

うえ…と嘆息を漏らす森久保を嗜めて続ける。

「大丈夫、外部に向けた活動はしばらく控える予定だ。その代わり毎回のレッスンの後に俺と少し話をしよう。レッスンが終わってシャワーを浴びたらこの会議室に来てくれ」

「面談ですか…?やっぱり私にアイドルを……」

「話は最後まで聞け。大きな声では言えないが、この面談は俺が森久保を説得しているということを上司にアピールするためのものだ。実際にお前がやる気になる必要はない」

キョトンとした瞳が俺の目を捕らえる。なんだ、俺の目見れるじゃないか。

「正直なことをいうとな、俺はお前の担当になれてラッキーと思っている。俺は担当のいない間は事務の補佐として働いていたが、森久保の担当になったおかげでその仕事が減った。その上お前にはやる気がないから、プロデューサーとしての仕事もほとんど無い。いいことづくめだ。」

森久保の顔に明るさが宿る。そうだろう、お前はこういうプロデューサーを望んでいたんだろう。ならば俺たちはwin-winの関係になれる。

「俺に仕事をサボらせてくれ。そうこうしているうちにお前の親御さんや俺の上司の気が変わって、事務所がお前を手放す気になるかもしれないしな」

最後のは少し嘘だった。事務所はとっくに森久保を手放したがっているのだから。

俺は森久保のプロデュースに失敗すればクビになる。そして俺の生半可な知識で彼女をアイドルとして活動させれば必ず失敗する。
ならば俺のとるべき行動は一つだ。森久保をアイドルとして活動させなければいい。
要は時間稼ぎだ。こうすれば森久保が仕事で失敗することも、その結果俺と森久保がクビになるのも最大限先送りにできる。

幸いなことに時間稼ぎの材料は豊富にある。本人のやる気、レッスンの成績、プロデュース方法の検討、先輩のプロデューサーが二か月もの間成果を出せなかったという事実。

クビになるまでの猶予期間、俺は楽に過ごしてやる。

森久保の担当になってから三週間弱が過ぎた。

顔合わせのミーティング以来、森久保は俺に気を許してくれているようだった。
2人で結託して仕事をサボっているという背徳感が、夢見がちな幼い心を掴んだのかもしれない。まだ目はなかなか合わないが。

あれから森久保とは色々な話をした。毎回のレッスンの後に目的が破綻した面談を実施しているおかげで、二人で話す機会は多かった。

森久保の話、俺の話、社長にプロデュースを急かされたときにどう乗り切るかという話。

森久保は人見知りだが、話せばユーモアがあって、たまに出る突拍子もない言動が俺の心を和ませてくれる。
事務所に気のおける相手がいない俺にとって、森久保は貴重な存在になっていた。

これまで通りの事務仕事も、今では一人でやってる気がしなかった。
森久保のレッスンが無い日はなんとなく仕事にやる気が出ないし、ある日は不思議と頑張れた。

一人でないことがこんなにも何かを変えるなんて。
学生時代以来失っていた感覚を取り戻したようだった。

「じゃあPさんは、もりくぼの同類ですね」

今日の面談では俺の話をしていた。俺がどういう経緯でこの事務所で働くことになったのかを話すと、森久保は俺を自分の同類だと言ってきた。
否定の言葉は出なかった。俺も今までに同じことを思ったことが何度もあったからだ。

「アイドルになりたくてなった訳じゃないもりくぼと、プロデューサーになりたくてなった訳じゃないPさん。同類です」

「ああそうだな。それと人の目を見るのが苦手なところも共通だ」

「Pさんは微妙だと思いますけど…」

「それは相手が森久保だからだ。事務所の他のアイドル相手だと、どうもね。自堕落に生きてきた俺には眩しくて」

森久保が食い気味に同意を示す。ああやっぱりお前もか。

柱の時計に目をやると結構な時間が過ぎていた。そろそろ会議室を明け渡さないといけない。

「またお仕事、サボっちゃいましたね」

「違うし、これも仕事だから。森久保のやる気を引き出すための面談だし」

2人でくすくすと笑う。

「まあ何はともあれ、集団レッスン合流決定おめでとう。よく頑張った」

森久保の頭を軽くなでる。

今日はちょっとした記念日だった。早くてもあと一か月はかかると言われていた個人レッスンの卒業を、このたび森久保は三週間弱で達成したのだ。

やる気がないと思っていたので正直この結果は意外だ。

「トレーナーさんも褒めてたぞ。やればできるじゃないか」

「あ、いや、でも…こんなに時間がかかったのは私だけって聞きましたけど…」

「そんなのは個人差なんだから関係ない。確かに他の人よりは遅かったかもしれないが、予想を上回ったってことは、森久保がそれだけ頑張ったってことなんだから」

何度か後ろで見ていたからわかる。トレーナーさんも今までのレッスンとは気の入り方が違うと驚いていた。

「え…いや、あの…」

「森久保は頑張ってたよ。これはお前の努力の成果だ」

「あの…ほんとに違うんです…もりくぼは頑張ってなんかないです」

森久保が奇妙なことを言い出す。

「これは…Pさんのおかげです」

「俺のおかげ?」

「はい、なんかこう、上手く言えないんですけど、そうです」

「…?」

どういうことだろう。俺は仕事をサボっているだけだが。
森久保なりに「おかげさまで」と社交辞令を言っているのだろうか。

首を傾げていると、会議室のドアが叩かれた。気が付けばすでに五分も時間をオーバーしている。
謝りながら森久保と共に会議室を出て今日は解散となった。

翌々日、今日は森久保が初めて集団レッスンに参加する日だ。

既に森久保がレッスン室に入ってしばらくが経過している。あと十数分もすれば出てくるだろう。

正直森久保の性格的に集団レッスンは不安だった。心配で今日はいつもより早く仕事を切り上げて、会議室で森久保が来るのを待っている。

だがトレーナーさんの太鼓判を頂いた以上、森久保にもあそこでやっていけるだけの技術や体力は身についたということだ。個人レッスンにも真面目に取り組んでいたようだし、やってやれないということは無いだろう。心配だが信じるしかない。

時計を見ると、最後に時計を見てから40秒しか経ってなかった。我ながら神経質なことだ。

ただ待っているだけでは不安に殺されそうだったので、俺はスマホを取り出す。しかし思ったような効果は得られず、外でアイドルたちの声がしようものならレッスンが終わったのかと聞き耳を立ててしまう。そのたびに時計を確認してそれは無いことを確かめる。


少し前から俺は、アイドルの話や彼女たちの声を聴いても以前のように気持ちが沈むことは無くなっていた。
事務所にいるときでも、「彼女」のことを思い出すのは本当にわずかな時間になっていた。

気が付いたらそうなっていた。そしてその変化を促したのは、おそらく森久保なのだろう。
森久保と過ごすぬるま湯のような日々が、渇いてガビガビになった傷跡をゆっくりとふさいでいったのだ。
自分でも驚いた。罪悪感による僅かな痛みもなく自分が変わっていくことに。

だが驚くのと同時に、これからの俺と森久保のことを考えると複雑な感じもした。

俺はスマホを机に置いて目を閉じた。
考えるのは森久保のこと。
森久保の担当になってからの三週間と、森久保と出会うまでの四年間。

もしあの日々に戻ることになったらと思うと、少しゾッとする。

だけどそれは決して「もし」の話などではない。いずれそうなる。そうなることを俺は知ってしまっている。

森久保のプロデュースを失敗させれば俺と森久保は事務所を追い出される。

そしてもし俺が森久保のプロデュースを成功させ、彼女の名を売ることに成功したとすれば、社長はそのブランドを利用して森久保を他所のプロダクションに移籍させるだろう。

それもかなり早い段階でだ。最初のLIVEを成功させたあたりと言ったところだろう。
社長には森久保乃々という馬券を買うつもりは無い。不利益が小さいうちに森久保を切り離すつもりだ。

俺は残り、森久保はいなくなる。俺はまた雑用として働きながら日々を消費していくだろう。

森久保が訪れる前の事務所に戻るのだ。

これが社長の作戦の「もう一段階」。つまるところ俺が森久保の担当になった瞬間に、既に別れは約束されていたのだ。今はその時までの時間稼ぎをしているに過ぎない。

いずれ離れると知っていたから彼女に深入りする気はなかった。しかしこの事務所で初めて出会えた理解者、同類という存在に俺の心は引き込まれて、気づけば森久保は俺の胸の深い場所に巻き付いていた。

「……」

離れたくねえなぁ。

子供の我儘のような感情が噴き出る。遊園地から帰りたがらないガキを幻視した。

みっともない。仕事に私情を持ち込むな。

それでもそう思うことは止まらなかった。


何故だか森久保は最近頑張っている。以前の森久保をあまり知らないから分からないが、トレーナーさんが言うには、レッスンに対する姿勢が前とはまるで別人らしい。

そんな森久保の歩みをこの俺が止めていいわけがない。
たとえそれが二人の別れを早めるものだとしても。

森久保のレッスンが終わる時間まで、俺はスマホの黒い液晶とにらめっこして笑顔の練習をした。
こんな情けない顔、あいつには見せられないから。

しかし時間になっても会議室に森久保が現れることはなかった。

レッスンが終わって20分が経った頃、心配になった俺は会議室を出てレッスンルームに向かった。
もしかしたら居残りを喰らっているのかもしれないと思ったからだ。

しかしレッスンルームには誰もいなかった。照明は消され、時計の針が静かに音を立てている。

行き違いになったことを考えて一度会議室に戻るが、やはりいない。

俺はスマホを取り出して森久保の番号にコールした。
心臓が速く鳴っていることを自覚する。胸に黒い穴が開いたような鈍い感覚がある。

繰り返される電子音はやがて途切れ、留守番電話の案内に繋がった。

こんなことは初めてだった。森久保がレッスン後の面談をすっぽかすことは今までに一度も無かった。
集団レッスンでなにかあったのか?

電話を切ってロビーに向かう。ソファーにもエレベーター前にも森久保の姿は無い。
手のひらが汗ばむ。次にどうするべきかが定まらない。

周りを見渡すとカウンターの先に俺がいつも仕事をしている事務室が見える。
受付はいないようだが中に人は数人いた。
森久保が帰ったならばこのロビーを通る。事務室の誰かがそれを見たかもしれない。

「すまない!誰かさっき森久保を見たって人はいないか?」

カウンター越しに尋ねると事務所が一瞬静まり返った。

「あ……」

言ってから気付いて顔が熱くなる。
普段事務所であまり喋らない俺が急に大きな声を出したものだから驚かれているのだ。

だが一度言った言葉が口の中に戻ることはない。彼らは、見ていないという旨を一人ずつ俺に伝えた。

嫌な汗をかいた。一斉に俺に突き刺さる視線を思い出して背中に寒いものを感じた。

だがおかげで少し冷静になれた。
なにか用事があって、それを伝え損ねていただけかもしれない。
レッスンを終えてすぐに事務所を出たなら多分今頃は電車の中だ。それなら俺の電話に出られなくてもおかしくない。

溜め込んだ息を吐くと俺は職員の入り口から事務室に入った。

とりあえず今は様子を見よう。そのうち電車を降りた森久保から電話があるかもしれない。
だがしばらくしても連絡が来ないようなら集団レッスンで何かあったと考えるべきだ。
トレーナーさんは帰ってしまったようだから話は聞けない。最悪森久保と一緒にレッスンを受けていたアイドルのプロデューサーに話をつけて、電話でその子に森久保の様子を聞き出すことになるだろうか。

落ち着いてこれからのことを整理する。

だが結論から言うとそれらの想定はすべて無駄になった。

入り口付近の窓際の席に座って引き出しに手をかけようとしたとき、

机の下にしゃがみ込んでいる森久保と目が合った。

時が止まるという表現を理解した。

今俺の机の下にいる少女は、さっきまでの俺が一番求めていた少女で、それは今も変わらなくて、その少女は森久保だった。

混乱・驚き・安堵、発露するはずのそれらの感情は、吸い込まれるような森久保の瞳に凍結していた。

見つめあった時間は最長を記録したか。それとも脳内物質がもたらす遠大なる時間感覚の引き延ばしにつままれ、実際には刹那に満たない時間であったか。

目を奪われている間、まるで世界に俺と森久保の二人しかいないような感覚に脳が翻弄されていた。

やがてどちらかが瞬きをして、その世界は霧散し、口が開く。

「森久保…だよな?」

「もりくぼです…」

そうだろう。そうでなきゃおかしい。そしてそうじゃないだろ俺。

聞きたいことがたくさんあるのだ。話したこともないアイドルに電話して回ってでも。

いま事務所には人が少なく、窓際の席は多くの職員から離れた位置にある。俺たちに気付いている者はいないようだ。

「レッスンで何かあったのか?面談に来なかったのはそれが原因か?」

なぜ俺のデスクの下にいるのかはとりあえず置いておこう。

森久保は控えめに頷いた。

「…馴染めませんでした。他の人たちはみんな真剣で、私だけそうじゃなかったです。何度もミスして曲を止めて…。そのたびに他の人たちに睨まれて…もりくぼは小さくなるしかありませんでした…」

森久保の説明を聞いた俺は、その場面を克明に想像できてしまった。

研修で俺たちに声をかけてきた女の子の後ろで、四人の眼がギラついていたことを知っている。

「その手があったか」「抜け駆けしやがって」、あの眼はそう言っていた。

レッスンの間森久保は、彼女たちの獣のような視線に晒されていたのだろう。

「足を引っ張るな」「邪魔だ」「私たちはこんな奴と同じレベルだと思われているのか?」

そんな声なき声を背中に受けながら、この子は時間まで耐え抜いたのだ。

「……よく耐えたな」

机の下の森久保に手を伸ばして頭をなでる。誰かに相談できて少しはホッとしたのか、肩の力が抜けていた。

「…トレーナーさんは何か言っていたか?」

「はい…最初だしあまり気にするなとみんなの前で庇ってくれました…でも…」

「ああ」

そう、それは大人の意見だ。

事務所の予算の都合で個人レッスンを早めに切り上げるという事情を知っているから出る言葉だ。
そんな理屈は未成熟な子供には通じない。これからも森久保は視線の暴力を受け続けるだろう。

この事務所に所属する以上は仕方のないこと。我慢するしかない。

それにしたってその子たちの親はどういう教育をしているんだ。
新入りの出来が自分たちより悪いと見るや陰湿な攻撃か。偉いもんだな。大したプロ意識だ。
それとも女の子っていうのは自分と違う性質をもった人間を排斥しなきゃ気が済まない生き物なのだろうか。

小学生のときに、クラスの可愛い女の子が担任から贔屓を受けていると女子グループが難癖をつけて学級会議が起きたことを思い出した。

先生側がいくら正論を並べようと彼女たちは聞かず、自らの正当性を無条件で認めることを求め続けた。

あの時の彼女たちの醜悪さが森久保を睨みつけた女の子と重なり、胸糞悪さが食道まで登ってきた。

「あ、あの…」

「えっ、あ…すまない…」

気付かないうちに森久保をなでる手に力が入ってしまったようだ。

「大変だったな…。そのアイドルたちにガツンと言ってやりたいが、俺が言っても森久保が告げ口をしたってことでエスカレートする可能性がある。トレーナーさんにはしばらく森久保に目をかけてもらうように頼んでおくから、もう少し頑張れるか…?」

ボサボサになってしまった髪を直しながら言うと森久保は静かに頷いてくれた。

「それと自分は真剣じゃなかったなんて言うな。経験の量がそいつらより少なくて実力が追いついてないだけだ。森久保はこの三週間頑張ったからこそ予定より早く集団に合流できたんだ。仕事ならともかく、レッスンに対する真剣さはそいつらにだって負けちゃいない。むしろ発展途上の森久保を笑うそいつらの方が不純だ」

「……それは少しちがいます。私は頑張ってないんです」

その言葉は一昨日にも聞いた。どういうことだろうか。

「もりくぼはいつも普通にレッスンをやってたつもりなんです。でも私の担当がPさんになったあたりから、今まで難しくてできなかったステップが何故かあっさりできるようになったり、何回もやり直しになっていた歌が一発で合格がもらえたりしたんです。」

その現象には覚えがあった。森久保のプロデューサーになってから俺の身に起きたことと似ていたからだ。

事務所に気のおける相手がいない俺は、森久保と面談をしているうちにその面談が楽しみになっていった。
森久保のレッスンが無い日は何となく仕事を憂鬱に感じ、レッスンがある日は不思議と仕事が捗った。

森久保も同じだったのだろう。
周りはアイドル活動に燃えている子ばかりで、森久保に共鳴できる人間がいなかった。
そんな寄る辺のない場所で受けるレッスンは14歳の少女には険し過ぎたのだ。

俺という同類を見つけてやっと、この事務所は森久保の居場所として機能し始めた。つまりはそういうことなのだろう。

「だからやる気を出したという訳じゃなくて…もりくぼは、いつも通りのもりくぼなんですけど…」

森久保の口調には誤解をした俺を咎めるような響きがあった。
もしかするとコイツは、俺が森久保のやる気に揺れていることを前から感じ取っていたのだろうか。
「やる気なんか出してない」「勘違いでこのサボり同盟を壊さないでほしい」
森久保の目はそう俺に訴えかけているようだった。

そうか。じゃああの笑顔の練習は俺の一人相撲だったということか。

……あー恥ずかし。

「じゃあいつも通りバリバリサボりますか」

俺は仕事を放り出して、両手で森久保の髪をぐしゃぐしゃにした。

あうあうと声を出す森久保を照れ隠しの気が済むまでいじくりまわした。

机の下の逢瀬から三か月、森久保がこの事務所に来て約半年が経った。

レッスンでのいびりは森久保の上達と共に次第に落ち着いていき、今ではほとんどなくなっているそうだ。

あれ以来森久保は面談が終わってから俺の机の下にくるようになっていた。
最初のうちは戸惑ったが、残念なことに幸いながら俺のデスクは入り口付近の窓際なので、続けているうちにバレなきゃいいかと思うようになった。

無論俺は仕事をするのであまり構ってはやれないが、森久保は満足しているようなので、あっちから来る分には拒まないようにしている。同類のテリトリーは自分のテリトリーで落ち着くということだろうか。

仕事の方は森久保がいるから捗らないということもなく、むしろ他の職員と業務連絡をするときなどは森久保がいてくれた方がハキハキと喋れている気がする。我ながら見栄っ張りなのだ。

学校の机の引き出しでハムスターを飼っていたバカがクラスにいたが、まさか同じようなことを社会人になってから俺がすることになるとは思わなかった。
しかも始末が悪いことに、俺自身がこの状況を悪く思っていない節がある。机の下に森久保がいるという非日常的な日常にワクワクしている俺が心のどこかにいるのかもしれない。

いつもは適当な時間になったら帰るように促すのだが、この状況に慣れすぎたためか、この日仕事に集中していた俺はそれを忘れてしまっていた。

「P君、すこしいいか?」

振り向くと、そこに立っていたのは社長だった。

―――しまった。
時計を見ると時刻は七時半。社長がいつも帰ってくる時間を回っていた。
最近は大人しかったから油断していた。俺は自分の迂闊さを呪った。

俺はいつも七時には森久保を帰している。これは森久保が心配ということもそうだが、俺にとって最も大きな理由は、社長がそのあたりの時間に会社に戻るからだった。

「はいっ、ただいま…」

「ああいや、ここでいい。要件はわかっているね?森久保乃々のことだ」

針のむしろのような時間だった。

当然だが、森久保は社長が去るまで俺の机の下で黙っていた。

ひと月ほど前から、社長からの圧力が一層強くなってきた。
森久保がこのプロダクションに所属して半年が経ち、外部の仕事をせずにぬくぬくとしていられる時間が終わったのだ。

俺は森久保のやる気を理由にもう少し時間をくれと社長に要求し続けていた。そのたびに社長は真面目に面談をしているのかと俺を問いただした。

そしてそれを今、森久保に聞かれた。これがまずかった。

「…あの…Pさん。私…Pさんとならアイドル活動してもいいって……前に言いました」

その通りだった。

少し前から森久保はアイドル活動に前向きな姿勢を俺に見せていた。俺の態度や事務所の雰囲気からタイムリミットを悟ったのだろう。サボり同盟に固執して俺を困らせることがないように、森久保は自分からアイドル活動を受け入れたのだ。

それでも俺は動かなかった。
つまりすべて俺が悪いのだ。

社長と森久保を欺いてまで、ぬるま湯に浸かっていたいと駄々をこねた。

この三か月で、俺の中で森久保はますます大きな存在になっていた。

気持ちが落ち込んでいるときも、森久保と話せば楽しい気分の自分になれた。
思うように仕事が片付かないときも、机の下にいる森久保をなでれば頑張るぞという気になれた。

森久保がいる。それだけで俺は自分を奮い立たせ、降りかかる火の粉を払うことができた。

だが、森久保を失うことを受け入れること、それだけはできなかった。

どれほどの勇気を持ってしても、森久保を失うための第一歩を踏み出すことはできなかった。

「…」

「…Pさん?」

森久保の目は俺を非難などしていない。純粋に疑問なのだ。

なぜ俺が嘘をついてまで森久保のプロデュースを先延ばしにしているか。それが森久保には分らないのだろう。

森久保は知らない。プロデュースの先に待っているのが別れだということを。

失敗しようが成功しようが俺たちの関係はどんづまりだということを。

森久保は感受性が強く、空気に敏感な子だ。

この場をごまかしてもこのまま森久保と接していれば、いずれ真実を悟られてしまうかもしれない。

そして森久保は、俺の同類だ。

真実を知ってしまえば、俺のように腑抜けてしまうかもしれない。
俺のように、いつまでもぬるま湯に浸かっていたいと、駄々をこね始めるかもしれない。

それはだめだ。
それだけはだめだ。
森久保には才能がある。今の森久保なら必ず結果を出せる。

俺と森久保は同類などではない。
俺は二十代後半の窓際おっさんで、あいつは十代前半の未来ある少女。
俺がこの事務所にいるのは自業自得で、あいつがこの事務所に来たのは才能を買われてだ。

森久保を本当の意味で俺の同類にしてはいけない。

「……はぁ」

俺は森久保に聞こえるようにため息を吐いた。

ここから先の一語一句、一挙手一投足にミスは許されない。
少しでも綻べば森久保に見破られ、最悪の結果を招くことになるだろう。

「最初に言っただろ?お前のプロデューサーになれてラッキーだって。やる気のないお前と組めば俺の仕事が減るからだ。なのにお前ときたら変にやる気出しやがって…」

森久保の俺を見る目が、変わる。親愛と安心から戸惑いと恐怖に。
俺が次にいう言葉が、どうか優しい言葉であるようにと祈っているようにも見えた。

「俺の同類ならわかるよな?俺は今まで不都合で面倒くさいことから逃げ続けて生きてきたんだよ。アイドルのプロデュースなんてかったるいこと、俺はやりたくないんだ。それをお前なぁ…もう少し察してくれてるもんだと思ってたよ」

森久保の顔が悲痛に歪む。俺も歪みそうだった。そのたびに頬の内側を噛んで感情を塞き止める。

「なにが悲しくてガキの輝くお手伝いなんかしなきゃいけないんだ。こっちは毎日食つなぐだけで精一杯だってのに。サボりたいに決まってんだろ」

俺はもう森久保の顔を見れなかった。机の陰に森久保を押しやって、互いの姿を互いの視界から締め出す。そうしなければ口が動かなかった。

「ちょっと優しくしたらわかりやすく懐いてきやがって。なにが机の下が落ち着くだ。普通に仕事の邪魔なんだよ。何考えてんだ」

思い出を汚す決定的な言葉を吐き出す。鼻の奥がジンとする。
こらえろ。鼻をすすってはだめだ。涙声もだめだ。全ての感情と凍らせろ。

「帰れ。もう事務室には入ってくんな。面談ももういい。社長にクビまでチラつかせられたら仕事せざるを得ないから、お前のプロデュースはしてやる。次のレッスンまでにプロデュースのプランを考えておくからレッスン後にミーティングだ。いいな」

椅子を引いて、机の下から出ていくように促す。
しかし森久保はまるで死んでいるかのように、そこから動こうとはしなかった。
しかたないので腕をつかんで無理矢理森久保を引きずり出す。

「ほら、帰れよ」

突き放して言うと森久保はとぼとぼと歩きだし、エレベーターに乗って、今度こそ俺の視界から消えた。


森久保が「真実」にたどり着く前に、真実ではない「答え」を用意する必要があった。
これで森久保は真実の存在に気付くことなく、「俺がサボりたかったから」という答えを得た。
強く当たってしまったが、もうじき切れる関係だ。

全身の力が抜ける。それと同時に目から大量の涙が込み上げてきた。
森久保の腕をつかんだ右手の感触が消えてくれない。

森久保の袖は濡れていた。

森久保の顔が見たくなくて俺は途中から彼女を見ることを放棄した。
だがその感触は、森久保の感情をこれ以上なく克明に俺に教えてきた。

嘘だと言ってほしい。
俺の手に残った水気はしきりにそう訴えていた。

嘘だとも。

俺はデスクの引き出しを開けて、ホチキス止めしてある資料を取り出した。
内容は森久保のプロデュースプラン。もう三か月も前から用意していたものだ。

森久保のような気の弱い子でも、比較的無理なく一端のアイドルになれるように工夫に工夫を重ねた。

俺が森久保をプロデュースしたくない訳がない。
移籍だとかクビだとか、そんな大人の事情抜きに彼女をプロデュースできたらどんなに…

俺は必死に泣くのを堪えた。
森久保と違って俺は大人だ。職場でみっともなく泣くわけにはいかなかった。

そこからは早かった。

以前プロデュースした彼女と同じように、目を合わせず、業務連絡以外では口を利かずに、淡々とアイドルとしての仕事をこなしていく。

仕事自体は軌道に乗り、森久保はネガティブアイドルとして順調に知名度を上げていった。

そして今日、初めてのLIVEを迎える。

俺は控室で衣装合わせしている森久保を扉の外で待っていた。

LIVE会場に関係者として訪れるのはこれが二度目だ。

今回はあの時とは違い、比較的小さな会場の小さなLIVEだ。出演者も他にいて、森久保の負担を最大限小さくするように色々手を尽くした講演内容にしたつもりだ。

しかし俺の心は森久保を心配する気持ちに支配されていた。

プロデュースを始めてから森久保とはまともなコミュニケーションがとれていない。

時折表情を盗み見たが、明るい表情はまったく見られず、目つきには深い影が感じられた。

こんな状態の森久保をLIVEなどに出して大丈夫だろうか。

こんな風に森久保を突き放さなくてもやっていく道はあったんじゃないか?
たとえ森久保が真実を知っても、どうにか説得してここまで来ることもできたんじゃないのか?

そんな後悔が俺の頭と胸の中で暴れていた。

「衣装終わりましたー! 入って大丈夫ですよ!」

衣装合わせを終えた女性スタッフが俺を呼んだ。

スタッフと入れ替わりで控室に入ると、白と青を基調にしたドレスに身を包んだ森久保と目が合った。

「…」

「…」

こうして目が合ったのはあの日以来だ。

視線を外しながら森久保に近寄り、衣装の最終チェックを行う。

衣装を纏った森久保はまるで妖精のようで、他のアイドルと比べても遜色ない、いや、ひときわ輝いて見えた。

だが…

「…調子はどうだ? 大丈夫そうか?」

「…はい」

足が震えていた。当然だ。規模が小さいとはいえ、それは業界人である俺の主観だ。初LIVEの森久保にとってはそうではない。規模がどうであろうと、大勢の観客の前で踊ることに変わりはない。それは森久保の小さな心臓を押しつぶすのに十分なプレッシャーだろう。

「…」

なんとか、してやれないものか。
なんとかして森久保が感じているプレッシャーの一割でも肩代わりしてやることはできないだろうか。

2人の間に沈黙が続く。
先に耐えきれなくなったのは俺だった。

「…ちょっとステージの方を見てくる。何かあったら近くのスタッフに言ってくれ」

ここは一時撤退だ。下手に変なことをすると森久保に怪しまれる。
手が空いてるスタッフがいれば森久保の相手をしてもらえないか頼んでみよう。

そう思い扉に向かって歩こうとした俺の袖を、森久保が掴んだ。

「…」

「…どうかしたか?」

どうかしてない訳がない。森久保の震えは袖を通しても伝わってきた。

「…」

森久保は何も言わない。

俺は森久保の手を振り払えなかった。

言葉を交わさず、そばにいるだけで森久保が少しでも安心できるというのならそれでもいいかと思ったのだ。

扉に向いていた体を戻して森久保と向き合う。

そのとき一瞬見えた森久保の目に気圧されたのか、俺は反応が遅れた。

森久保が俺の胴に両腕を回して抱き着いてきたのだ。

「なっ」

突然の出来事に面食らうと同時に、一瞬、森久保を引き離すかどうか迷った。
森久保は震えており、今も全身を介してその震えを感じることができた。
ここで引き離してしまえば森久保に致命的な傷を負わせてしまう予感があった。

その迷いを確認した森久保は、確信を帯びた声でこう言った。

「嘘ですよね?」

核心を突かれた俺は大いに動揺した。その動揺も森久保に伝わる。
顔は俺の胸に押し付けられ、その表情はわからない。

「あの日、私に言ったこと、全部嘘なんですよね?」

「………」

「今、私に抱き着かれて、振り払うか悩みました。私を傷つけないようにするためです」

「………」

「Pさんは、優しいPさんのままです」

森久保は自分を人質に俺を脅迫したのだ。

嘘だと認めろ。私がどうなってもいいのか。

そのやり方はまさに、俺に対して最大の効果を発揮するものだった。

「…はぁ」

止まっていた息を吐き出す。

タイミングも言葉選びも完璧だ。
いや、そうでなくても俺は森久保に屈していただろう。

袖を掴んだまま黙りこくっていても、俺は励ましの言葉を森久保にかけていたと思う。

『このままではこの状態の森久保がステージに上がることになるぞ』という状況自体が俺にとって既に脅迫だったのだ。

どんな道を辿ろうと、最後には俺は嘘がバレることを顧みずに森久保を励ましていただろう。

俺は森久保を一端のアイドルにするために嘘を吐いたのだから。

「ああ、全部嘘だった」

俺の言葉を聞いた森久保は顔を上げて心底安心したような顔を見せたあと、恥ずかしくなったのか顔をもとの位置に戻して両腕の力を強めた。

そんな森久保の頭をなでながら、俺は控室の時計の音を聞いていた。

嘘はバレたが、そんなことはもはや関係ない。

開演まであと十分と少し。あと数分もすればスタッフが森久保を呼びに来るだろう。

それで終わりだ。このLIVEで大量のファンを獲得した森久保は、その成功を手土産に大手のプロダクションに移籍されていく。

一端のアイドルから一流のアイドルへ、

俺なんかの手には届かないところに行く。

俺の同類ではなくなるのだ。

「心配するな。舞台袖で俺がずっと見ててやる。不安になったら一瞬こっちを向け。LIVEが終わるまでずっと見ててやるから」

話をLIVEのことに移す。
最後の最後でクビや移籍ことがバレたらすべてが水の泡だ。俺は慎重に言葉を選びながら森久保を励ました。

森久保は噛みしめるように「はい」と返事をした。

それでいい。LIVEが終わった後のことなんてお前は何一つ考えなくていい。

スタッフがドア越しに森久保を呼びに来るまで、森久保は離れず、俺はなでるのをやめなかった。

森久保は今までの時間を取り戻すために、俺は最後に森久保を感じるために。

時間が許す限り、俺たちはお互いを求め続けた。

LIVEが大成功を収めた翌日、俺は普通に出勤して仕事をしていた。

だがとても仕事には集中できなかった。

机の下には、森久保がいた。

日曜日のLIVEを終えての月曜日。
レッスンも無い今日は本来なら学校で授業を受けているはずだったが、森久保はここにいた。

つまりサボりだ。

学校とレッスンと面談を終えた後に一時間弱過ごすだけだった机の下の時間。それが今日は早朝から行われていた。

大人として追い返すべきところだが、あいにく俺が森久保のサボりを咎めるには説得力が足りなかった。

それに何より、今度こそこれが最後の時間。
森久保によって延長された、最後の同類の時間。

俺は仕事もほどほどに、森久保に構った。

話しかけ、髪をいじくった。
昼休みには二人でファミレスに行き、夜には机の下にコンビニのおにぎりを差し入れた。

そして七時半、

「Pくん。いま大丈夫かい?」

その時がきた。

最近ご無沙汰だった社長室。

森久保に机の下の留守番を頼んでから入室したそこに、俺は罪を裁く法廷のような感想を持った。

「まずは昨日のLIVE、ご苦労だった。カリキュラムにそぐわない彼女をよくここまで引っ張り上げてくれた。おかげで彼女の名に拍をつけることができた」

「はい」

「君は薄々気が付いていたようだが、森久保乃々は大手のプロダクションに移そうと思っている。彼女はうちのプロダクションでは持て余す存在だ。素質はあるが、扱いはガラス細工のように難しい。資金的に余裕があって、もっと彼女をデリケートに扱えるところに移籍させるべきだ。それは君もわかっているだろう?」

「はい。しかし、うちで物にできれば森久保は頼もしい戦力になります。確かに森久保は通常のプロデュースの型にはまらない難しいアイドルですが、それでもここまで大きな失敗なくやってこれたことも事実です。仕事自体も軌道に乗っています。移籍という結論を出すのはもうすこし待ってからでも遅くないのでは」

「いや、遅いんだ。なにか失敗をしてからでは」

俺の反論を想定していたのか、社長は俺の言葉を遮って言った。

「森久保乃々は今だから価値があるんだ。失敗した後では大手のプロダクションに取り合ってもらえない可能性もある。昇り調子の今こそ好機なんだ」

「…森久保のプロデュースに自信があります。どうか、引き続き俺に任せてもらうことはできませんか」

頭を下げると、社長からは困ったような息遣いが聞こえてきた。

「以前君がプロデュースした子は最初のLIVEで失敗して心を病み、ここを去った。だから君にはここから先のプロデュースに実績がない。厳しいようだが、そんな人にそんなことを言われても信じるわけにはいかないよ」

分かっていた。社長だって家族を養うために、この会社という資本の舵取りをする人間だ。
俺のような窓際を信用して経営を揺るがすようなことはしない。

結局は俺の自業自得。眩しいものから目を逸らし、何も積み上げてこなかった自分の責任だ。

昨日森久保を家に送り届けてから、考えていたことがある。

どういうルートを辿れば、俺と森久保がこの事務所に残ることができたか。

俺が最初に森久保のプロデューサーになっていれば、すべてが上手くいって、森久保はこの事務所での活動を続けられただろうか。

だが雑用の俺にプロデュースの仕事が回ってくることはない。

ならば俺が雑用にならなければその目は合っただろうか。
情熱を持った人間と普通に目を合わせられれば、俺は森久保の最初のプロデューサーになれただろうか。

しかしそれでは森久保は俺を同類として見てくれない。森久保は俺を慕ってくれないし、あの事務所が森久保の居場所として機能することもなかっただろう。

そもそもそれができれば俺はあんな零細プロダクションで働いていない。俺は森久保と出会うことすらなかった。

では俺の担当アイドル第一号が森久保なら、ずっと一緒にやって行けただろうか。

それもありえない。森久保はオーディションで社長に期待されて入ってきた。そんな子に新人のプロデューサーをあてがう訳がない。


考えても考えてもそれは望みが無いことで、俺と森久保がこの事務所に来るべき人間じゃなかったことを証明するばかりだった。

「…」

社長の言葉に俺は反論ができない。

なにもしてこなかった俺に社長を説得することはできない。
俺が何かをした人間であっても、その場合俺は森久保に特別な感情を抱かなかった。

ダメな俺だからこそ、森久保と一緒にいたいと思えてる。

八方ふさがりだ。
本当に俺も森久保も、こんな場所に来るべきではなかった。
出会うべきではなかったのだ。

諦めて社長に了承の言葉を伝えようとしたとき、俺の後ろのドアが控えめに開く音がした。

振り向かなくても誰だか分かった。

ノックもせずに社長室に入るなんて、ビジネスマナーを知らない子供のすることだから。

「あの、社長さん、Pさん…私、移籍なんてしたくないです…」

森久保の登場に社長は一瞬面食らっていたが、すぐに冷静さを取り戻した。

「Pくん。説明してあげてくれ」

……担当アイドルへの業務連絡はプロデューサーの仕事だ。

「……」

社長に対抗する武器を何一つ持ってない俺は言われたとおりにするしかない。

社長に背を向けて森久保を見る。彼女の目は突き付けられた真実に揺れていた。

「話、聞いてたのか?」

「はい…」

そうか。じゃあ俺の空振り説得も聞かれてた訳か。

前みたいに森久保を突き放す方法は通じなさそうだ。

「Pさんは、移籍のこと知っていたんですか…? 知ってたからもりくぼに嘘を吐いたんですか?」

「…ああ、知ってた。森久保が知ったらアイドル活動に後ろ向きになると思って隠してた。嘘を吐いたのは万が一にもその真実にお前がたどり着かないようにするためだった。あの日社長との会話を森久保に聞かれて、バレるんじゃないかと焦ったんだ。」

「…」

「俺はお前を一人前のアイドルにしたかったんだ。そしてそれは達成された。森久保はここよりも大きな大手のアイドルプロダクションに行く。そこで今よりもすごいアイドルになれるんだ」

「私は、アイドルなんてやりたくないです。Pさんとだから今までやってきたんです」

「…森久保、嬉しいがこれは仕方のないことなんだ。学年が上がればクラスも変わるし担任の先生も変わるだろ? これは森久保が成長したっていう証拠でもあるんだ」

「Pさんとじゃなきゃ…ここまで来れませんでした」

「それは違う。実際プロデュースが始まってから俺たちの関係は最悪だったが、それでもお前は十分やっていけていた。俺じゃなくても森久保は大丈夫だ」

「昨日のLIVEは、Pさんが励ましてくれなかったら、きっと失敗してました」

「…そもそもお前をあそこまで追い詰めたのは俺だ。他の人ならもっと上手くやれたはずなんだ」

「………違います」

さっきまでと立場が逆転していた。
数分前社長に歯向かって叩きのめされていた俺が、今は森久保を大人げなく言い負かしている。

ほんの少し前まで社内で二人きりの同類だった俺と森久保。
それが今、俺は後ろで黙ってる社長と一緒になって森久保を追い詰めている。

森久保は独りきりだった。
この社長室の中で森久保はただ一人子供で、俺と社長は大人だった。

そのことを自覚したとき、視界が開き、俺の中にある考えが生まれた。

昨日から自問自答していた命題。なにがどうなっていれば俺と森久保はこの事務所に残れたか。

それについては未だ結論は出ない。

しかしそれとよく似た、最初から無理だと決めつけて諦めていた命題の答えがわかった気がした。

どうすれば俺は森久保の同類のままでいられるか。

このまま森久保を事務所から追い出しても、俺はこの会社の雑用のままだ。
アイドルの階段を上る森久保の同類にはなれない。

森久保の同類でいたければ、俺も変わっていくしかない。
森久保がアイドルという苦手な世界で頑張っていくというのなら、俺もそれに準ずることをしなきゃいけない。

それでこそ森久保は新しい環境で強く生きていけるはずだ。

となりに俺がいなくても、同類の俺が同じように頑張ってるという事実があればきっと森久保は輝ける。

そしてそれは、この事務所で引き続き雑用係をこなしていくことではない。


改めて森久保を見る。

森久保は俺に言える言葉を使い果たしてうなだれていた。

伏せられた目は揺れており、その奥に助けを求める光を見た気がした。


覚悟は決まった。
俺はこのプロダクションを退職する。

そしてどうせ辞めるなら最後にヤケを起こすのも悪くない。
この部屋で森久保の味方になるのも悪くない。

俺は森久保の頭をなでると、社長に向き合った。

これから自分がやろうとしていることを想像して頬が引きつる、

それはおおよそ社会人がやることではなく、酷く子供じみていた。


俺が辛い思いをするのは自業自得だ。でも森久保はそうじゃない。

森久保は頑張ったのだ。頑張ってアイドル活動をして、LIVEも成功させたのだ。

その結果がこんな後味の悪い終わり方ではだめだ。

社長に対抗する武器が無くたって、それで俺自身が変わってしまうということはない。

俺が森久保の同類であることに変わりはない。

俺は膝を床につけて腰を下ろし、正座の姿勢をとった。

2人の視線が痛い。特に社長。

その視線から逃げるように、俺は頭を下げて目線を床と垂直にした。

人前で土下座をするのは初めてだ。多分これからもない。

「無理を承知でお願いします。どうか引き続き自分に森久保のプロデュースを任せて頂くことはできませんでしょうか!」

言えることは一通り言ったと思う。

責任は俺がとるとか、給料減らしてもいいとか、どれだけ自信があるかとか、とにかくお願いしますとか。

そういう子供っぽい戯言をすべて出し尽くして俺は社長の説得を試みた。

わかっていたけど、俺と森久保の願いが聞き入られることはなかった。

しかし俺は清々しい思いだった。
少なくともあのまま社長の言う通りに森久保をいじめていた場合と比べれば。

もっともらしい理由をつけたが、結局のところ俺は最後まで森久保の味方でいたかっただけなのかもしれない。


あの後俺はその日のうちに退職願を社長に提出した。

退職と移籍が決まった俺たちは、事務所の前でお互いこれから頑張っていこうと約束をした。

森久保はすこし申し訳なさそうにしていたが、最後にはありがとうと言ってくれた。

この一言だけで土下座した甲斐があったというものだ。
あのまま流されていたら、森久保との別れは悲しいものになっていたと思うから。

あれから三か月が経つ。

森久保は新しいプロダクションでも頑張っているようで、宣伝ポスターやテレビ番組などでその活躍ぶりを見ることができた。

森久保とは週に一度か二度電話して近況を報告しあっている。

職業倫理的に仕事で交換した電話番号をプライベートで使っていいものか悩んでいるうちに森久保から電話があり、それ以来この習慣は続いていた。

最初のうちは森久保も緊張している様子だったが、今はそんなこともなく、会議室での面談のときのように気軽に話せている。

この前なんか急に住所を聞かれてギョッとしたが、数日後にLIVEのチケットが送られてきてなるほどなと一人で納得した。

そのLIVEの終了後になぜか森久保とその両親や今のプロデューサーと食事に行く運びになって緊張した。

今のプロデューサーとも上手くやれているようで、彼とは森久保がいかに可愛いかを酒を酌み交わしながら楽しく話ができた。森久保は嫌がっていたが。

LIVE自体は前の事務所でやったものより規模も大きく完成度も高い、森久保の成長を感じるようなLIVEだった。
観客席ではなく舞台袖で観れたら、なんて思ってしまうのは未練がましいだろうか。

一方俺はと言えば、フリーターをしながら再就職目指して就職活動をしている。

時期が時期で中途採用を受け入れている企業自体が少なく、なかなか思うようには行かないが、必ず森久保に胸を張れるようなところに入って見せるつもりだ。

確かに不安だが、履歴書を片っ端から送り付けていた前の俺とは違う。
今の俺には明確な強みがあるからだ。

自宅アパートのPCの横にはホチキス止めされている資料。
内容はいつかの森久保のプロデュースプランだ。

これを持って面接でこう言ってやる。
「私はあの森久保乃々のプロデュースをしていたんですよ」と。

終わりです。

もしかしたらここから一年後くらいの話を1レス分書くかもしれません。

退職してから一年後、俺は中堅アイドルプロダクションにプロデューサーとして勤務していた。

俺としてはアイドルプロダクションに固執せずに色々な企業を受けたつもりだったが、やはり森久保をプロデュースしていたというアピールはアイドルプロダクションの面接でこそ真価を発揮するものだった。

入社して半年だが、前の事務所での実績があるのですぐに担当を任された。

そして今日はその担当アイドルの初LIVEだ。

大小様々なプロダクションから参加者が出馬する合同LIVEだけあって規模は大きいが、物にすれば社での俺の評価も期待できるだろう。

だが肝心の担当アイドルはというと、

「あぁ~…杏ちょっとお腹すいてきちゃったからもう帰っていい?」

「だめに決まってんだろ。飴やるから出番まで大人しくしてろ」

LIVE衣装を身にまとった彼女の名前は双葉杏。俺の担当アイドルだ。

どうやら森久保をプロデュースしたという実績は、アイドル活動に消極的なアイドルをプロデュースすることに長けていると見なされたらしく、あてがわれた彼女もなかなか曲者だった。

レッスンはサボろうとするわ寝坊はするわで何回こいつのマンションに迎えに行ったことか。

しかし初LIVEだというのに欠片の緊張も感じさせない。豪胆な奴だな。案外こういうのが将来大物になるのかもしれない。

「って…これノンシュガーじゃん…甘くない」

「あんまり甘いものばっかり口に入れてると虫歯になるからな。俺はちょっと用があるから出てくるけど、勝手に変なことするなよ」

「あーい……あれ、なんか今日P髪型キマってない? いつも結構適当なのに」

「えっ!? いや、やっぱLIVEだから下手な格好できないだろ。色々あるんだよ」

「ふーん、出るのは杏なのにヘンなの。あっ、杏の代わりにPがステージ出てくれない?」

「出ないから。とにかく大人しくしてろよ? いいな?」

「んー」

杏に釘を刺して控室を出る。

今日は杏の初LIVEの他に、もう一つ特別な用事があるのだ。

本当はLIVEが終わってからにしようと思っていたが、時間に余裕はあるし、少し顔を見るくらいならいいだろう。

長い廊下を歩きながら控室のドアに張られた「○○様 控室」という張り紙を一つ一つチェックしていく。

彼女に実際に会うのはすごく久しぶりだ。電話は毎週していたが、再就職してから会うのはこれが初めてだ。

どうだろう。少しは立派になれただろうか。

前より上等な会社に入って、収入も上がって、部屋も広くなった。

すべてお前のおかげだ。

辛い就職活動を乗り切れたのはお前がいてくれたからだ。
雑誌を開けば、テレビをつければ、頑張っているお前の姿をいつでも見ることができた。

それがどれだけ俺の心を励ましたかわからない。

俺は見栄っ張りだから電話口では聞こえのいいことばかり言っていたが、本当は不安で寂しかった。

そんな俺を支えてくれたのはいつもお前の活躍だった。

お前が頑張っているから俺も頑張れる。

出会うべきじゃなかったなんて、もう薄皮一枚ほどにも思えない。

会えてよかった。
俺の人生はお前に変えてもらったんだ。


廊下一本分の控室をチェックし終えて突き当りの曲がり角を曲がる。

そこには俺と同じように控室の張り紙を見て回る少女がいた。

LIVEが終わったら会いに行くと言ったのに。考えることは同じだったか。

「さすが大トリは余裕があるな。まだ衣装着なくていいのか?」

からかうように言うと少女はこちらに気付いて見て目を丸くした。

その後、

「思い出させないでください……もりくぼがトリだなんてなにかの間違いですし…」

以前と何一つ変わらない目で俺にそう言った。

終わりです!

お付き合いいただきありがとうございました。

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