P「moratorium」 (14)



「兄ちゃんに真美の気持ちなんか分かんないよ」


真美の言葉が頭の中でひたすらリフレインされる中、一歩、また一歩と薄暗い階段をゆっくり上る。

建物の中とはいえ、じっとりと汗が滲み、背中に張り付いたシャツは不快感だけを与えてくれた。


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事務所を飛び出して行った少女。

一瞬の間を置いて追い掛けると、屋上に続く階段に向かう後ろ姿が見え、後に続いた。

年頃の少女に関わり合うという事はつまり『突発的な衝動によるトラブルを未然に防ぐ』という大人として当然の配慮であると日々考えている。

感受性の強い心は常に刺激に敏感で、すぐに傷付き、尚更、慎重に真摯に向き合わなければいけない。

気を使っている事を悟られてはいけないし、気を使わせてると思われてもいけない。


信頼こそが互いの関係を繋いでいくのだから。

所謂、『思春期の少女』への対策を怠るとプロデュース業にも支障をきたし、禍根を残せば、その心は一生閉じたまま、そんな事もありえるのだから。


何が言いたいかといえば、つまり、コミュニケーションの取り方を失敗した。


思想伝達の不具合は偶発的な事故だったが、それを言い訳には出来ない。


彼女は今、その人生の中でも、特に尊い時間を生きているのだから。

有り体の言葉で括れば、青春。
誰しもが体験し、大人になれば懐かしむ。

大人になるまで絶え間なく続く一瞬の中で、何かを見つけ、何かを感じ、何かに抗い少しずつ成長していく。

何ものにも代えられない、その一瞬を台無しにしてしまったかも知れない。

これから先、やがて過去になった『今日』という日が彼女の心に影を落とし、縛り続けるかもしれない。


そう遠くない未来、彼女が心から幸せと思える瞬間も、きっと訪れるだろう。
それでも、有耶無耶にして無かったことになんか出来ないほどの傷を残した可能性に心が締め付けられる。

後悔だけが募り、足取りもどんどんと重くなるが、罪過を禊ぐために屋上へと続く階段を上った。


選択を間違ったのは自分。彼女は何も悪く無い。


遠回りしながら結論に至った時、磨り硝子がはめ込まれたドアの前に居た。


ひとつだけ溜め息を吐き、ゆっくりとドアを開けると視力を奪うほどの強い光に思わず目を細める。

それと同時に風の流れを身体が感じ、陰鬱とした気持ちが少しだけ晴れた。

夏の匂いを感じながら、一歩を踏み出すと暗転したはずの世界が光彩を取り戻していく。

切れ目の無い空と、まちまちの高さの建物と、光の残骸が生み出す目の中の影。

そして、広がり続ける青の中に溶けてしまいそうなほど儚くどこか虚ろ気な様子の少女がひとり。


「こんな所に居たのか。探したぞ、真美」


探しモノは少しだけ錆びたフェンスに寄り掛かったまま、憂うような視線を遠く離れたビルに向けている。

時折吹く風が、頭の横で纏めた髪をふわりと持ち上げた。

右手で陽の光を遮りながら近付くものの、こちらに関心を示さないので所在無く、少女の隣で頭をもたげる。



夏の空は眩しくて、とても澄んでいた。


視線を戻し、少女の瞳を観察するように見つめると、その視線に反応したように長い睫毛が少しだけ揺れる。


『恥ずかしいから、あまり見つめないで』と言われたような気がした。


事務所を飛び出した時よりは落ち着いた様子だが、まだ安心は出来ない。

次に彼女が口を開くときこそが正念場なのだと覚悟を決めて、その時をじっと待つ。

互いに無言のまま、また『一瞬』が通り過ぎた時、ビルの群れを見つめる少女は頭上に広がる蒼空に、投げ掛けるように呟いた。


「真美も、少しは大人になってきてるのかな?」


毎日の様に見てきたはずの横顔を見て、はっと息飲む。

もの憂げな表情のまま唇の端だけで切なく微笑んだ姿は、すっかり大人びて見えたから。



モラトリアムの空の下、その『一瞬』に置き去りにされた気がした。



少しだけ逡巡したのち、問い掛けに対する答えは先送りにする。


「どうかな……? 毎日見てるから分からないな」


意地悪するように返し、背中をフェンスに預けると気持ちの良い風がすり抜けていく。

さっきの対応が正解なのか間違いなのかは分からない。

グッドコミニュケーションなんて、少女が見せる一瞬の煌めきの様に、その時その状況によって目まぐるしく変わっていくのだから。

そうやって、気付かないうちに成長していく少女が遠くない未来、いつか振り返るかもしれない『一瞬』

その隣に自分が居れる、そう考えただけで自然と頬が緩む。


「早く……大人になりたいな」


そう微笑みながら空を見上げた少女の瞳は、まるで未来を見据えるように輝いて見えた。


また、『一瞬』に、置き去りにされる。


少女を倣うように見上げれば、いつの間にか青空を覆っていた入道雲。
これからたくさんの思い出が入道雲のように心を埋め尽くしていくのだろうか。



「ねぇ兄ちゃん。真美が大人になるまで、待っててくれる?」


彼女が守られるだけの少女でいられる猶予はあとどれくらいあるのだろうか。


そして、この感情が愛に変わるまで、あとどれだけの猶予があるのだろうか。



モラトリアムの空の下、そんな事を考えた。




P「moratorium」        了────。

短いですが、投下終了となります。

ありがとうございました。

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