【艦これ】Fatal Error Systems (544)

これは鎮守府ができる前。
まだ、人類が一つにはなれていなかった頃の話。
一つになれるとは決まってもいないけれど。
なぜなら、この世界は……

※『風の色、海の声』で広げた風呂敷畳みにきました。
【艦これ】風の色、海の声 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1480080940/))
 一応、そちらを読まずともなんとかなるとは思います。

 あちらが外伝、前日譚。こちらが本編という形です。 
 
 地の文多め、というか例によって小説形式です。

 そして長くなります。
 今回は何度かに分けての投下になりますので、気長にのんびりとお付き合いくださいませ。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1484192755


《序  両舷後進微速》


 たった十年前。

 もしくは十年も昔。

 海上輸送にその生活の基盤の大半を任せていた人類は、唐突な出来事によって緩やかな滅亡への道を歩むことになった。

 深海棲艦。

 後にそう呼称される未知の敵によって、人類は海を失ったのだ。

 最新鋭の技術を持って作られたあらゆる現代兵器は、その敵の前にほぼ無力だったからだ。

 当時の最強国家であった大国ですら、その敵にはどうすることもできなかった。

 彼らは最後の切り札を使い敵の一掃を図ったが、敵はそれによって失った数よりもさらに多い数をどこからか生み出す。

 キリのない戦いの末に、人類の万策は尽きた。

 切り札の多用が、やがて自らの首をも締めることを知っていた人類には、もはや打つべき手など存在しなかった。

 海に出ることをしなければ、敵に襲われることなどほとんどないと知った人類は、陸上でひっそりと暮らすことを選んだ。

 そうやって、世界は閉じられていく。

 資源のない国は、わずかな量のそれを手に入れるために、釣り合わないほどの危険を冒すことで、かろうじて生きながらえていた。

 そんなある日。

 資源のない極東の小さな島国に一人の少女が現れる。

 七十年以上も前のその国の軍艦の名を名乗った少女は、不思議な力で海面を滑走し、身につけた武器を使って、深海棲艦を屠って見せた。

 艦娘と呼ばれることとなる、その少女が現れた日。

 それは、人類にとってわずかな希望が見えた日。


 ――そのはずだった。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 一ヶ月に及ぶ航海を終え、あきづき型護衛艦はづきはその母港である横須賀に錨を下ろしていた。

 入港すれば、それで乗員たちの仕事が終わりというわけではない。

 物資の積み込みや艦の点検項目のリスト化など、やることはたくさんだ。

 その作業の大部分を担うのが、砲雷科という戦闘に関わる職種を担う乗員たちだ。兵器システムは多岐にわたるため、関わる乗員の数も多い。戦場にいなければ、それだけの数が当然手隙になるのだ。

 たかだか二五〇名ほどの乗員で運用されている護衛艦では、暇を弄ばせてくれるほど人員に余裕などない。

 それらを取りまとめる砲雷長という役職にある男もまた、クリップボードを手に甲板へ出てきていた。そして、ぐるりと艦を見渡す。

 艦首甲板に据え付けられた六二口径五インチ速射砲の周囲には、空になった薬莢が散乱している。百はあるだろう。これでも一応は片付けが進んでいる。

 何せ弾庫にあった砲弾の全てを撃ち尽くしている。幾つかはその途中で海上に落下しているはずだ。これが陸上自衛隊であれば、その捜索に何日もかけるのだろう。

 だが、広く深い海でそれをやるのは無理だったし、そもそも今は戦時。薬莢ごときで艦を危険にさらすようなことはしない。ただし、再利用できるものは可能な限り集めて再利用するのが、資源不足の今では当たり前になってもいるのだが。

 艦橋の方に視線を移す。

 そこには五〇口径の機関銃が据え付けられ、その周囲にも、まるで艦内のゴミを全て掃き集めたとでも言わんばかりに薬莢が小山を作っている。

 増設分を含めて、全ての機関銃座が似たような状況だ。

 乗員がそれらをスコップですくい、帆布でできた回収用の大きなカゴに流し込んでいる。

 そして、その背後。

 護衛艦の無機質で飾り気のない灰色の艦体に、赤いペンキをぶちまけたような跡が残っている。別の乗員がそれをデッキブラシで擦り落としているが、なかなか落ちない。

 さらに力を入れようとデッキブラシの柄を短く持ち替えたせいで、赤いシミに顔を近づけてしまった若い乗員が何かに気づく。

 そして顔が一気に蒼白になり、狂ったように泣き叫びながら嘔吐を始めた。

 砲雷長はその乗員のそばに行き、救護室で休憩するよう促す。

 そして、彼が去った後の壁を見て、その原因を理解する。

 赤いペンキのような染みは血だ。

 そしてそれを糊代わりにして、壁に人を構成するパーツの一部が貼り付いていた。
 
それがどこの部分なのかはわからない。ただ、青白いそれが血の気の失せた人の皮膚であることは間違いない。

 その近くに開いた、大人の指が三本ほどは入ろうかという穴には、ちぎれた指が引っかかっている。

 決して普通の精神状態で正視できる類のものではない。

 平和な国に生まれ育ってきた、まだ年若い乗員にとっては衝撃的な光景だっただろう。

 だが、そう思う砲雷長自身もまだ二十八という若さだ。そんな若さで砲雷長などという大役を任されるほどに、人員の損耗は激しい。

 はづきの艦体には同様の穴が無数に穿たれ、各所に血糊が残っていた。

 敵空母艦載機五十機あまりと駆逐艦四隻。それらとの二十五分間の戦闘でもたらされた被害は、戦死八名、負傷者十五名。いずれも男の部下だ。

 だが、これでも被害は少ない方だ。

 はづきより少し離れた位置に投錨している、同型艦のきよづきを見る。

 きよづきの艦橋はその半分ほどが吹き飛び、外板の大きく裂けた後部のヘリ格納庫からはうっすらと煙が立ち上っていた。艦首の主砲もない。

 さらに艦長以下、乗員の半数が死傷している。

 きよづきの戦闘能力は完全に失われ、自力での航行がやっとという有様だ。

 だが、敵の攻撃がきよづきに集中したおかげで、はづきの被害が小さく済んだのだ。

 明暗を分けたものが一体何だったのか、それは誰にもわからない。

 ボディバッグが不足し、艦内からかき集められた毛布に包まれた遺体が後部甲板に集められていく。

 そして、そこでパレットに載せられ、クレーンを使って降ろされていくのだ。まるで荷物の様に。

 そこには死者に対する気持ちなど見受けられない。

 いや。本当はあるのだ。けれどそれを持ち出してしまうと、この現実に耐えられない。

 だから、誰もが感情を押し殺し、これを作業としてこなしていくしかないのだ。

 報道ではこの被害は決して明かされない。

 ただ、輸送作戦が成功し何十日分かの資源の獲得に成功したと発表されるだけだ。

 現実を知っているのはその場に居た者だけ。

 敵の攻撃は激化し、行動も巧妙になってきている。

 いずれ輸送作戦が立ち行かなくなるのは目に見えていた。

 男の全身を無力感が蝕んでいく。

 何より、疲れていた。

 もともと、戦いの現場に身を置くことを望んでいたわけでもなく、国を守るという義憤に駆られたわけでもない。

 全てを失い、ただ食うためにこの道を選び、成り行きでこうなってしまっただけだ。

 そんな人間が、多数の命を預かる立場にいるべきではない。

 だから、男は艦を降りるつもりでいた。

「砲雷長。現時点までの報告書を持って艦長室へ」

 そんな無線が流れてきた。

 ちょうど良い機会だと、男は艦内へと向かった。

 《第一章  天気晴朗なれど》

 《1》

 あきづき型護衛艦はづきの後部格納庫には、台車付きの二十フィートコンテナが二本鎮座していた。

 本来であれば、ここには護衛艦の目となり耳となるはずの対潜哨戒ヘリコプターが格納されている。

 そもそも護衛艦とは戦うための船だ。貨物船ではない。

 にもかかわらず、こんな状況になっている。

(なんとも、おかしな話だね)

 時雨はそのコンテナの上でため息をつく。

 本来であればこれは輸送船の仕事。

 だが機材にトラブルが起きたため、横須賀に戻る護衛艦が替わりにコンテナ輸送をする羽目になったのだ。

 それだけ重要で急ぎの荷物ということなのだろうか。

 おそらく違う。それだけではないはずだ。

 とにかく、呉を出て三日。

 食事と生理現象の解決に向かう以外は、この上で過ごしている。

 それが仕事だ。

 多分、それを知るものはこの艦にはいない。

 誰もそうは思わないだろう。

 紺色のセーラー服姿の少女が、このコンテナの監視をしているなど。

 乗員たちが作った噂話がその証拠。

 曰く。


 ――兵器メーカーの偉いさんのご息女。


(まぁ、僕がここに来た時に同伴してた人が関係者だからね)

 スーツ姿の男は名刺を艦長に手渡し、時雨の乗艦を求めた。

 荷物と同じ扱いで構わないから、と。

 だが、そんなはずがないだろう。

 何も危険な海を通る必要などない。陸上を行った方がはるかに安全で確実、そして早いのだから。

 だからその噂はすぐに消えた。

 今、ささやかれている噂はまた違うものだ。

 曰く。


 ――深海棲艦に襲われ、唯一生き残ったかわいそうな子。接触があった可能性が高く専門の検査ができる場所へ移送する必要がある。


(なんだか、とても面倒なことになってるんだけど。どうしたものかな)

 もう一度、今度は大きく深いため息をつく。

 時雨とて艦娘だ。

 深海棲艦とは何度も遭遇しているし、戦ったことだってある。

 ただ、深海棲艦に唯一対抗できる艦娘という存在自体が公にされていない以上、それを持ち出して否定することもできない。

 だから、時雨は沈黙を保つ。

 その結果。


 ――あまりに凄惨な現場を見たショックで心を閉ざしている。治療して情報を探るのだろう。


 面倒な噂に、余計な信憑性を与えてしまう結果になっていた。

 もう一つ言えば、乗艦の際に同伴して来た別のスーツ姿の男が、一風変わった身分証を提示したのが、そんな憶測を呼ぶ致命的な原因になったのだろう。

 海上幕僚監部特殊運用支援調査部。

 それが正式な名称だが、大抵は『情報部』の一言で呼ばれてしまうような組織だ。

 やっていることも似たようなものだ。

 そもそも情報を扱う組織には内向きと外向き、二つの役割がある。

 一般的に情報部と言われて誰もが思い浮かべるのは外向きの仕事。すなわち情報の収集とか、対外破壊工作や情報操作など、そう言ったもの。

 内向きの仕事というものは、情報の漏えいや叛乱といった内部での不穏な動きの監視、把握、阻止だ。

 ただ、この国に新設された情報部は海上自衛隊の一組織に過ぎず、敵である深海棲艦に関わる部分のみを引き受けていた。

 対外的には敵情報の収集。

 そして、艦娘に関する情報の統制が内向きな仕事だ。

 実のところ、時雨はその組織と関係が深い。

 別に諜報員というわけではない。あくまでも協力者という形で、だ。

 海に出られない人間に代わって、敵の拠点を探し回ったり、動きを監視したり。時には単独で敵と一戦交えることもあった。

 そうやって、敵に関する情報を収集する役目が与えられていた。

(だから、これもそうなんだろうね。きっと)

 コツコツと指先で叩いたコンテナの中身は時雨にも知らされていない。

 だが、それを推測できないほど愚かでもなかった。

 出されている指示はたった一つ。


 ――このコンテナを横須賀基地まで護衛すること。不測の事態が生起した場合は如何なる手段を持ってしても国を守るべし。

 
 ため息。

 中に入っているものが自身の想像通りなら、その指示は最悪の結果を招くかもしれないのだ。

 だからこそ、時雨は乗員との接触を避けていた。

 決断をするにあたって、情はそれを鈍らせるからだ。

 そして。

 そうしなければならない程、時雨自身が葛藤している証拠でもある。

(なんというか、割り切るっていうのは大変なことだね)

 だが、いくら自分がそういう意識で行動していたとしても、周りにそれを喧伝するわけにもいかないのだから、当然、好奇心という名の邪魔は入る。

 例えば。

「気分はどうかな?」

 コンテナの下の方からかけられた声に、時雨は身を乗り出して覗き込む。

 声の主はこの艦の艦長だ。

 時折こうして姿を見せては、時雨との会話を試みようとする。

 なんでも、似た年頃の娘がいるのだとか。

 気になって仕方がない気持ちはわかるのだが、正直迷惑だ。

 こうやって意図せずに送り込まれる情報の数々が、時雨の決断を鈍らせていくのだから。

「問題ないよ」

 それがわかっていても、邪険に扱うことができないのが、また時雨を苦しめる。

「別に、医務室のベッドを使ってもらったって構わないんだよ?」

「大丈夫だよ。迷惑はかけられないから」

 この会話も何度目だろうか。

 大抵はこの後、彼の家族のことや陸での何気ない日常など、時雨にとって拷問のようにすら感じる情報が溢れ始める。

「艦長さんがこんなところで油を売っていていいのかい?」

 だから、今日は先手を打つ。

 いつもならただ聞いているだけの時雨が、自発的に話しかけてきたことに一瞬意外そうな表情をした艦長は――

「艦が何も問題を抱えてなければ、私に仕事なんてないよ。乗員はみんな優秀だからね」

 そう言って微笑んだ。

「だから、こうして艦内を見回る。日課みたいなもんだよ」

 そのまま壁際まで歩き、スイッチを操作して格納庫のシャッターを解放した。

 ゆっくりと入ってくる外の光が刺さるようで、目を細めてしまう。

 そして、格納庫内にこもっていたエンジンオイルと航空機用燃料の匂いが一気に潮の香りと入れ替わっていく。

「そんなところにいても退屈だろう? 今日は天気もいい。嫌じゃなければ、海でも見てみないかね」

 時雨にとって海に出ることは当たり前で、見慣れてしまったものだ。

 それでも、なぜかその言葉に逆らえなかった。

 海を見ていれば話す必要はなくなると感じたからかもしれない。

 とにかくコンテナから降りると、艦長の後に続いて後部甲板へ出る。

 まず出迎えたのは、梅雨時期だというのに雲ひとつない青空。

「今日は富士が見えるな」

 そう言って艦長は右手の方向――はづきの左舷側を指差す。

 水平線の向こうにそれが見えた。まだ雪の残る山頂が何もない空に突き出している。

「今、どのあたりなのかな」

「御前崎の沖合四十キロと言ったところだろうね」

 それ以外は何もない、ただ広い海が広がっている。

 世界がまるで、海だけになってしまったかのように。

 こんな光景など見慣れているはずなのに、何かが違って見えた。

 おそらく目線の位置が違うからだろう。

 ただそれだけなのに、新鮮に見えた。

 まるで子供のように周囲を見回す時雨の視界に、少し寂しそうな顔をした艦長の姿が入る。

「陸に上がってしまえば、もしかすると二度と見ることはできないかもしれないものだよ。今のうちに焼き付けておくといい」

 深海棲艦が現れ、人が海を恐れるようになって十年以上。

 今ではこんな光景を見られるのは命をかけて物資を輸送する船員か、それを守る護衛艦乗りだけだろう。

 けれど、彼らにはこの景色を見ている余裕などあるはずがなかった。

 隣に立っている艦長でさえ、艦の状態をその目で確認する作業をしているだけだ。海を見てなどいない。

 だから、これはとても貴重ものだ。

「ありがとう」

 感謝の言葉が自然に出てくる。

 おそらくそれもまた、自分の心を痛めつけるものになるに違いない。

 それでも、言わないわけにはいかなかった。

「どういたしまして。チェックにもう少し時間がかかるから、ゆっくり見ていてくれて構わないよ」

「うん。そうさせてもらうね」

 波の音。

 潮の香り。

 海鳥の声。

 時雨はそれに身を委ねることにした。

 たとえ束の間でも、心が休まる瞬間だったから。

 《2》


 午前十時。

 カチャリと、見た目通りの軽い音を立てて金属製のドアノブが回る。

 極力音を立てないように、足柄はそっと基地司令執務室の札がかかったドアを開け、室内を覗き込んだ。

 部屋の主は、梅雨時期だというのに窓もカーテンも閉め切ったまま、部屋の中央に置かれた応接用のソファの上に寝転がり、静かな寝息を立てていた。

 資源不足の影響で電力使用の制限がかかっているのだから、当然エアコンは止まっている。

 それでも眠れてしまうほどに疲れているようだった。

 だからなのか、海上自衛隊の第三種夏服に身を包んでいるが、その制服が持っているはずの凛々しさなどどこにもない。

 あちこちにシワも入り、ヨレヨレになったそれを着込んだ姿は、まるで残業明けのサラリーマンといった風情。

 実際に足柄はそれを見たことはないが、時折届く雑誌や新聞などの記事から拾い集めた知識をフル活用して、そんな形容にたどり着いた。

 おかげで、肩についた一佐の階級章もどこか色あせて見える。

「……まったく、もう」

 小さな声で一人ごちてから、窓際へと音を立てずに向かう。

 まず、厚手の青い遮光生地のカーテンを開け、外の光を迎え入れる。

 窓越しに規模の小さな港が見え、そこには一隻の護衛艦が錨を下ろしていた。

 先週帰港したばかりの、むらさめ型護衛艦あきさめ。

 この横須賀第二基地に配備された唯一の護衛艦だ。

 甲板では、乗員たちが補給や整備といった作業に走り回っているのが見える。

「こんな姿見せられないわね、まったく」

 突如として差し込んだ光に、眉根を寄せて不満げな表情をしたまま、器用にもソファの上で寝返りを打つ部屋の主を見て、ため息をつく。

 窓を開け放つと、ムッとするほどの潮の香りと、外構の舗装路面で温められた空気が部屋の中に入り込んできた。

 ついでに、外の騒音もだ。

「……なんだよ。もう少し寝かせておいてくれよ」

 ようやくここで部屋の主が不満の声を上げる。

「一応言うけど、もう十時よ?」

「帰ってきたの、六時だぞ……まだ四時間しかたってないじゃないか」

 彼の立場上、もっと上の方からの呼び出しは頻繁だ。

 そして呼び出されれば、出向かねばならない。

 首都――東京にある海上幕僚監部の建物まで、だ。

 横須賀第二基地は、その名に反して三浦半島の突端にある。

 その任務は周辺海域の警戒。

 そういえば聞こえはいいが、実際のところは敵に対して横須賀基地と首都が対応を整えるまでの時間を稼ぐ捨て駒でしかない。

 他に作られた第二と名のつく基地も似たような役割だ。

「これでも気を使ったつもりなんだけど?」

 起こすだけなら、ズカズカと入り込んで体を揺すればいい。

 そもそも課業開始時刻から二時間以上も寝坊などさせておかない。

 足柄の気性からして、本来であればそうしている。

 だから嘘はない。

「文句なら、意味のない会議にあなたを呼び出す側に言うべきね」

「そりゃ、ごもっともだ」

「で、その会議はどうだったの?」

 足柄は濃いめのお茶を入れながら問う。

 本来であればコーヒーを出すところなのだろうが、輸送路がまともに機能していない以上、手に入るはずもない。

 嗜好品の順位ははるかに下だ。

「時期はまだ未定だけど、また輸送船団を出すつもりだよ。今度はさらに規模がデカい」

「調子に乗ったのね」

 ため息が出る。

「そこまで言ってやるなよ。この間のが見かけ上はうまく行ったんだし、仕方ないさ」

「……見かけ上は、でしょうが」

 その裏で艦娘たちがどれだけ血を流しているのか。

 実際、佐世保で秘書艦をしている金剛は、かなり危険なところにまで追い込まれたと聞いている。

「佐世保はなんて言ったの?」

「輸送船団に近づく敵艦影、機影はこれを一切認めず――だとさ。笑えるね」

 足柄も思わず鼻で笑ってしまう。

 実際には艦娘たちが先回りをかけて、すべてを排除した結果でしかない。

 それに。

「そもそも、敵が輸送船団を狙ってたのか怪しいところなんだがね」

 足柄が知る限り、敵の狙いは佐世保の戦力そのものだった節がある。

 戦力投入のタイミング、編成、ルート。手に入る限りの情報すべてがそれを指し示していた。

「上の人たちはなにも?」

「作戦は大成功。前路哨戒が有効に機能して敵が手を出せなかった。そう言うことにしたいらしい」

 さすがに一部の人間は気がついているだろう。

 それでも話をそうしなければならない理由など限られてくる。

「政府の意向ってやつね」

「そう言うこと」

 今までの輸送作戦自体も、物資を持ち帰ることはできているのだから、成功と言っても差し支えはない。

 ただ、それに付随する被害が拡大の一途をたどっていることで、マスコミや国民からの突き上げが激しい。

 その批判をかわすためには、見かけだけでも大成功というストーリーが必要ということだ。

「一応、忠告はしてきたんだけどね」

 それは無駄に終わっただろう。本人も首を横に振っているのだから間違いない。

 敵の襲来もなく、仕事といえばほぼ椅子に座って書類を承認していくだけの横須賀第二基地司令官とは、その程度の存在だ。

 それゆえに、定年間近の幹部や中央に行く人材が箔をつけるためだけに、ここへやってくる。

 唯一の例外が目の前でお茶をすすっているこの男だ。

 いくつかの不幸な出来事が重なってしまったために空いた椅子を、とりあえず埋めるためだけに送られてきたのだから。

「飾り飾りって言うけど、一応提督なのよ? その意見を聞かないなんてね」

 ただ、それでもだ。

 誰もかれもがその椅子に座れるというわけではないだろう。

 それなりの理由や実力があったからこそ、そこにいるはずなのだ。

 たとえこの基地の司令官職が安楽椅子であったとしても。

 そこに据えるためだけに、三十路を前に破格の地位へ昇進させられたとしても、だ。

「年功序列ってのはそう言うもん――で、その提督ってのはやめてほしいんだけどね。尻が落ち着かなくて困る」

「数は少なくても艦娘艦隊の司令官なんだから提督でいいの。そもそも、なんと呼ぼうがお前たちの勝手って最初に言ったのはあなたよ?」

「艦長経験もなしに艦隊司令なんてのがおかしい。第一、佐官だぞ、俺は。そもそも、ここに来る前にやってた砲雷長だって、人材不足のせいだって言うのに……」

 乗務していた護衛艦の砲雷長が任務続行不能になってしまったがために、その場で最上級だった彼が臨時で指揮をとった。ただそれだけのことだと、何度も説明を受けている。

 それでも、その護衛艦はその後の窮地を無事に切り抜けたし、正式に砲雷長として参加したその後の作戦においても生還を果たしている。

 だから、彼自身にそれだけの才覚があったと言うことに違いはない。

 そして何より、この国の中でも深海棲艦との戦闘経験が豊富な人間の一人だ。

 その意見に耳を傾ける価値は充分にあるはずだと足柄は思う。

「まぁ、その話はいいや――それで。起こされたってことは、頼んでいたものが届いたってことでいいのかな?」

「ええ、前回の輸送作戦に関する金剛の戦闘詳報。写しだけどね」

 そう言って、書類袋を手渡す。

 取り出された紙束に紛れる形で、美しい文字が流れるように踊る封書も出てきた。

「鳳翔さんにまで危ない橋を渡らせて……」

 それを見とがめて、足柄は愚痴をこぼす。

「仕方がないだろ。金剛には余計な目やら耳やらがくっついて歩いてるんだから」

 一瞬、その言葉の通りの光景を想像してしまい、全身を寒いものが走ってしまう足柄だったが、もちろんそんなわけはない。

 監視が厳しいということだ。

 流れの中とはいえ、司令官に暴言を吐き、脅迫するような態度をとったのだから仕方のないことだ。

「鳳翔からのこれは礼状ってやつかな。艤装修復の資材提供に感謝します、とさ。機会があればお食事でも、だって。本当にマメな人なんだな」

「間宮が一流レストランの味なら、鳳翔さんのはまさにおふくろの味ね。期待していいわよ、それ」

「そいつは楽しみだ」

 そう言って提督は微笑み、鳳翔からの手紙を丁寧に元の封筒へ戻してから戦闘詳報の写しに手をかけた。

「それ、別に佐世保のでっち上げのでも大体はわかるんじゃないの?」

 たとえ作戦を立てたのが誰であろうと、沈めた敵の数に変わりはないし、敵の位置に変化があるわけでもない。

 一番問題になるであろう、作戦の後半に至っては金剛から大体の経緯を聞いていたし、それは提督が想像していた通りだったのだ。

 わざわざリスクを冒してまで、取り寄せる必要などあったのだろうか。

 足柄が不思議に思っているのはそこだ。

「大体は、ね。ただ、現場がその時に何を考えたか、何を見たか。俺が必要なのはそっちなんだよ」

 そう言った提督からは表情が消えていた。

 この男がそういう顔をするのは、何か引っかかることがある時だ。

 たった一年とはいえ、側で見てきたのだからそのくらいはわかる。

「一体、何を気にしてるのかしら?」

「敵の別働隊。太平洋を迂回してきたグループだよ」

 輸送船団の位置を追撃隊に調べさせ、自分たちは太平洋側から攻撃に入ろうとしていた別働隊。その本当の意図は赤城隊の足止めと、赤城隊に引導を渡すべく迫っていた本隊への補給だろうと足柄は見ている。

 金剛たち佐世保の艦娘もそう考えていたようだし、おそらく上層部もだ。

 だが、この男は何か別なものを見つけ出そうとしていた。

「何か不審な点でも?」

「些細なことだけどね。タイミングを合わせて突入するだけなら、あの海域に足を踏み入れるのはもう少し遅い方がいいはずだ。それだけ発見されるリスクが減る」

 確かにそのせいで鳳翔と瑞鶴の索敵網に引っかかり、奇襲を受ける羽目になっている。

 あれがなければ、赤城隊は三個艦隊を相手にして、大きな損害を被ることになっていたのは間違いない。

「だからバシー海峡を哨戒していた艦娘が引き上げた後くらいに、あそこへ侵入するべきなんだよ。そうすれば邪魔は入らない」

 提督は戦闘詳報の一部を指して説明を続ける。

「金剛はそれ以前に踏み込んで隠れられれば、と思っていたみたいなんだけど、実のところそれはリスクが大きすぎる。もし見つかれば、最悪それらすべてが戦闘に加入してしまうんだから。そうなったら本来考えていた作戦は達成率が相当に低くなる」

 事実、金剛隊は敵を粉砕し、その意図を完全に挫いた。

「だから、それだけのリスクを冒す何かがあったと考えていいんじゃないかなってね」

「具体的には?」

「さてね。それを探すためにこれが欲しかった――赤城隊への攻撃は間違いなく計画の一つだろうと思うけど、同時に何か別のこともしていたんじゃないかなって、今はそんな気がするだけって所だね」

 そう言って戦闘詳報に集中し始める提督。

 足柄は再びお茶を淹れ、いつものように書類の整理に入る。

「しかし、今日はやけに静かじゃないか?」

 提督がポツリと漏らす。

 一瞬なんのことかと思う。

「この時間なら、駆逐艦の子たちが大騒ぎしながら外を走ってるだろ」

 体力錬成というやつだ。足柄が艦娘たちに課した日課でもある。

 何せ、横須賀はそれほど実戦の機会が多いわけでもない。有り余る体力をそう言う方向で消費させなければ、この基地内の平和が危うかった。

 特に駆逐艦娘たちはやたらと活きがいい。

「ああ、そうだった」

 そこで一つ連絡事項を思い出す。

「音響ブイのいくつかが稼働停止したの。提督は会議で不在だったけど、放置するわけにもいかないでしょ? それで、由良たちを修理に行かせたのよ」

 その言葉を聞いた提督の顔から、再び表情が消えるのを足柄は確かに見た。

「このタイミングで、か?」

 頻繁とは言わずとも、これまでも何度か起きた出来事だ。

 けれど、提督はそれに何かを感じたらしい。

 音響ブイの配置図と書類一式を持ってくるように言いつけられ、足柄は執務室を出る。

 《3》


 伊豆半島の沖合は雲ひとつない青空だった。

 遮るもののない海の上、刺すような太陽の光がジリジリと肌を焼く。

 さらに悪いことに、海面で反射したそれが下からも襲いかかる。

 まるでオーブンの中にでもいるような気分だ。

 いや、湿気を帯びた空気が体にまとわりついているのだから、もしかすると誰かが言っていた蒸気加熱式オーブンとかいうやつの方が的確かもしれない。

 まだ六月だというのに、今からこれではこの先はどうなるのだと、要らぬ心配をしてしまう。

(やっぱり真っ黒になっちゃうよね)

 穏やかな波に揺られる小型の遊漁船の上で、軽巡洋艦娘の由良はぼんやりとそんなことを考えていた。

「由良さん、何か考え事ですかー?」

 後ろの方から呑気な声をかけてきたのは駆逐艦娘の村雨だ。

 ちらりとそちらを見遣ると、村雨の着ている濃紺のセーラー服が目に入り、思わずうめき声が出そうになる。

 いくら薄手の生地とはいえ、あの色でこの状況下では拷問器具のようなものだろう。

 実際、村雨は胸当てを摘み上げてパタパタと風を送り込んでいた。

 今度こそはため息が由良の口から漏れる。

 自分が年頃の女の子の姿をしていることに自覚があるのだろうかと不安になったのだ。

 村雨はタダでさえ女性らしさを主張する部分が大きいし、小柄な体格と相まってそれが余計に強調されている。

「ちょっと、村雨。暑いのはわかるけど、はしたない真似はしないの」

 羨ましくもあり、妬ましくもある。由良はそんな個人的な感情を少しだけ込めて注意する。

「大丈夫ですよー。さすがに男の人がいる前ではやりませんって」

 その存在自体が隠されている由良たち艦娘が接する男など、数は限られている。

 せいぜいが基地内に居る関係者くらいなものだ。

 その数少ない男たちも、由良たちの素性を知っているだけに、そういう対象としてではなく、畏怖の対象として見ている様だった。

 たった一人を除いては。

「でもー、そもそも興味持ってきたの、提督くらいなんですけどねー」

(ああ、やっぱり)

 由良は軽いめまいを覚える。

「提督が着任してから半月くらいの時に、それホンモノかって触られちゃいましたー。あはは」

 能天気な村雨とは逆に、由良の表情はみるみるうちに怒りに染まる。

「それ、セクハラってやつじゃない! というか、もう犯罪行為!」

「指先でつつかれた程度ですってー」

「程度の問題じゃありません!」

 勝手にヒートアップしていく由良。

 敵艦隊への切り込み役でもある水雷戦隊旗艦として、駆逐艦娘たちをまとめる立場というせいもあるのか、気がつけばいつも保護者的な役回り。

 外見的にはそれほど年齢差があるわけでもないのだが。

 村雨はカラカラと屈託なく笑いながら――

「いやまぁ、そうなんですけどねー。艦娘見るの初めてだから、気になったんじゃないんですかねー」

 などと、それほど気にした風でもない。

「そんな理屈が通るわけないでしょうに……」

 呆れて頭をかかえる由良に向かって、右手の人差し指を立て、片目を瞑る村雨。

「だいじょーぶです。きっちり海軍式で根性叩き直しておきましたから」

 ちょうどそのくらいの時期に提督の左頬が腫れ上がっていたのはそれが原因かと、由良は一年近くも経った今日になって、ようやく得心した。

 しかしその割には、あまり改善していない気がする。むしろ味を占めたのではないかとさえ思える。

 悪戯の種類は様々だが、提督が憤怒の形相をした艦娘の誰かしらに追いかけ回されている姿など、基地内では日常の一部だ。

 だが、そんな日々が繰り返されていくうちに、由良の中にこびりついていた『自分たちは兵器』という考え方が希薄になっていた。

 それに気がついたのはつい最近だ。

 今の提督がやってくる前に比べて、他の艦娘たちにもそれぞれの個性が表れてくるようになっている。

 語弊があるのかもしれないが、自分も含めて人間らしくなったと感じる。

 それが良いか悪いか、今の所由良にはわからない。

 ただ、昔より充実しているのは間違いないし、そんな仲間たちを見ることも嬉しいことなのだと知った。

 けれど、方法のいくつかに問題があるせいで素直に感謝するわけにもいかず、悶々とするのだ。

「それで、何を考えてたんですかー?」

 そんな由良の葛藤などどこ吹く風。村雨は何事もなかったかのように話を元に戻す。

 気苦労の無意味さを知り、めまいを通り過ぎて、由良の頭は痛みを訴えている。

「……日焼けは嫌だなぁ、ってね」

 こめかみを軽く揉み解しながら由良は答えた。

「あー、確かに……」

 村雨が空を見上げる。

 つられて、由良も同じように顔を持ち上げた。

 雲のない空が遥か遠くまで青いままに続き、太陽は憎らしく思えるほどに輝いて、洋上を照らしている。

 時折海鳥が空を舞うくらいで、他は何もない。

 四十キロも沖合に来てしまえば、山々が遥か彼方に霞みながら頭を出すくらいで、他は水平線の向こうだ。

「今日はずっと晴れだそうですよ」

 横合いから声がかかる。

 由良が視線を向けた先で大事そうに工具箱を抱えているのは、駆逐艦娘の五月雨。

 涼しげなノースリーブの白いセーラー服が目に眩しい。

「あら、梅雨は中休みなのね」

「あはは……私はお仕事してるんですけどね」

 梅雨を雅な言葉に言い換えたのが『五月雨』だ。

 頓知を聞かせた由良のからかいに、そんな名前をもらった五月雨が優雅さとは懸け離れた、疲れの滲む声を返す。

 それもそのはず。

 一日の大半をこんな小舟の上で過ごしていれば、誰であろうと疲労を感じる。たとえそれが、普通の人間に比べていくらか頑健な体を持つ艦娘であってもだ。

 だから冗談を言ったり、どうでもいいことの一つくらい考えてみたくもなる。

「もうすぐで終わるから頑張ってね、五月雨ちゃん」

 そう言いつつ操舵室から姿を現したのは工作艦娘の明石。

 両手で大事そうに抱えているのは、白い円筒形をした音響探知ブイ――海中の音を拾って不審な移動物体を見つけるための装置だ。

 人類はこれを沿海域に設置することで、数の少ない戦力の穴埋めを図っている。

 一度洋上に投下されれば、あとは太陽光パネルで充電しながら、長期間に渡って自動的に監視を続け、内蔵されたモーターとスクリューによって、ある程度の海流であっても自分の位置を保持し続けることができるという。

「それ、直りました?」

「直すって言うか……請求できても手間賃くらいなもんよ」

 つまらないといったふうに、明石は由良の問いに答える。

 ゴトリと甲板に置いたブイは、四日前に正常動作を知らせる定時通信を絶ち、行方不明になっていた八基のうちの一つだ。

「質の悪い電池なんか使ったせいで、しなくてもいい苦労をさせられてるだけなのよねぇ」

 明石の見立てでは、蓄電池が電力を異常放電してしまったせいで機能が停止。広い海を宛てもなく漂流することになったようだ。

 だから電池の交換さえすれば問題はない。

 が、肝心のブイ本体を探すのは骨が折れる。

 救難信号でも出ているならまだしも、海流と風向を計算して漂流している範囲を予測しているだけなのだから、その精度などタカが知れている。

 本来であれば、新しいものを設置し直してしまう方が手っ取り早いし、効率的なのだ。

 だが、資源不足という重い枷はいたるところに影響を及ぼしている。

「あと、いくつ、あるんだっけ!? っと!」

 村雨がそんな感じで勢いをつけ、最後の点検が終わったブイを海上に投下する。

「あと一つですね」

「うえぇ……」

 屈託のない笑顔で即答する五月雨に対して、村雨はうんざりした顔だ。

 それを見て苦笑いをしながら、由良が口を開く。

「夕張の方も、こっちも三つ目。頑張れば勝てるわよ?」

 最初の一つを見つけ、電池の交換だけで修理作業が終わることが分かった時点で、もう一つの捜索隊を指揮している軽巡洋艦娘の夕張との競争が始まっていた。

 そうでもしなければ、広い海域のどこにあるのかわからないものを探す気力など得られるわけもない。もちろん秘書艦の足柄から許可も得ている。

 残り七基のうち、より多く見つけた方が勝ちという簡単なルールだが、向こうには勘の良い駆逐艦娘の夕立と、実直な春雨が一緒だ。由良たちの方が一人多いとは言え侮れない。

「欲しいものを買ってもらえるんですよね?」

 そう言って由良を見る五月雨の目は真剣だ。

「うん。提督さんが外出した時に持って帰ってこれる程度のもので、あんまり高価なものはダメって条件付きだけど」

 街に出ることができない艦娘にとって、そこでしか売られていない物は貴重だ。わずかばかりに入ってくる雑誌や新聞の情報を見て、想像を巡らし、ため息をつくくらいに。

「あ、私はさっき決めましたー」

「あら、何にするの?」

 一番最後まで迷うだろうと思っていた村雨の声に、由良は少しだけ驚き、その選択に俄然興味がわいた。

 五月雨と明石も、じっと村雨を見つめ答えを待っている。

「夕立が言ってた、日焼け止めっていうやつです」

「ああ……『これを塗れば日焼けしないっぽーい』って言ってたやつね」

 声音を少しだけ変えた由良の声に、他の三人が噴き出す。

「そうそう、それです。っていうか由良さん、夕立の真似うますぎでしょ」

 楚々とした印象を漂わせる由良と、そこから出てきたおよそ真逆とも言える性格の夕立の口調や声とのギャップに、村雨はついに腹を抱えて大笑いを始める。

「ありがと。でも、艦娘に効果あるのかしらね? 夕立のあの語尾だとなんか怪しく聞こえちゃって」

 とは言うものの、由良自身は試してみる価値があると思っている。

 何よりも、先ほど真っ黒に日焼けした自分の姿を想像してしまい、すがれるものには何でもすがろうという結論に至った。

「疑問系の『ぽい』じゃなかったので、大丈夫だと思いますよ?」

 何とか笑いを収めながら、息も絶え絶えに五月雨が言う。

 けれど、その関係者だけには理解できる衝撃的な一言に、他の三人が声を失くした。

「えーっと……五月雨には、あの語尾の違いがわかるんだ?」

 しばしの沈黙の後、ようやく村雨が声を絞り出す。

「え? あの……わからないんですか?」

 動揺した様子の五月雨。

「……普通、わからないと思うんだけど」

 と、由良。

「私も夕立とは長いこと一緒だけど、わかんない……」

 由良の問いかけるような視線を受けて、村雨はお手上げとばかりに両手を広げるジェスチャー付きで答える。

「私もわかんないなぁ」

 最後の希望とばかりに、五月雨のすがるような視線を受けた明石も、申し訳なさそうに首を横に振る。

 自分や明石はともかく、夕立とは姉妹艦でもある村雨にもわからないのであれば、それはもう五月雨だけが身につけた特殊能力のようなものだと、由良は結論づける。

「よし、五月雨ちゃん。今度から通訳ヨロシクね」

「はい、お仕事増えたー」

 由良と村雨が五月雨をからかう。

「ええっ! なんでっ!? なんでみんなわからないんですか!?」

 泣きそうな五月雨の抗議の声に、三人の笑い声がかぶる。

 ――と。

 操舵室の方から、警報音が響く。

 耳に残る甲高い電子音は何度聞いても慣れず、いつ聞いても嫌なものだ。

 村雨と五月雨が、操舵室に駆け込む明石の背を見ながら息を飲む。

「ほら、ぼやっとしてないで準備して!」

 言葉で二人の尻を叩き、由良も明石の後に続いて操舵室へ入る。

 明石は幾つかの端末の画面に視線を走らせながら、キーボードを操作していく。

「音響ブイに反応が一つ。方位二六七、距離三十五キロ。針路は〇九七――こっちに向かって十五ノットで接近中」

 後ろに立つ由良を見ることもなく、明石は目の前のデータを読み上げていく。

「敵ですか?」

 音響ブイは衛星回線を通じて、陸上のデータベースと接続されている。

 そこには敵である深海棲艦を含めた、様々な艦船の音紋データが記録されており、照合は瞬く間に行われる。

 船が発する音には、人の指紋と同じようにそれぞれの特徴があるからだ。

 たとえ合致する情報がなくても、比較的似た音を拾い出して推測することも可能だ。

 それを踏まえた上での由良の問いに、明石は首を横に振る。

「ごめん、それはわからない。今は接続を切ってるの」

 ああ、そうかと由良は思い出す。

 自分たち艦娘がここにいるのだから、接続されているはずがないのだ。

 万が一に敵に出くわして、出撃せざるを得なくなった艦娘の音紋など拾おうものなら、それを知らされていない人々は上へ下への大騒ぎになる。

 おそらく大量の艦艇と航空機を繰り出して、それが何なのかを意地でも調べようとするだろう。

 何せ、この国最大の人口密集地域が近いのだから。

 だから今は明石が操る端末に送られてくるデータだけが、得られる情報のすべてになる。

「由良さん」

 背後からかけられた声に振り向くと、背中に艤装と呼ばれる大戦期の軍艦の構造物を模した装備を背負った村雨が立っていた。

 少し形は違うが、似たようなものをその両手に抱えている。由良の艤装だ。

 それは艦娘という存在が、その能力を発揮するために不可欠なものだ。

 身につけることで、海面に立ち、滑走し、武器を扱い――軍艦のように戦うことができた。そしてそれは深海棲艦に対して、人類の手の内にある唯一と言っていい対抗手段だ。

「なんか、その情報だけだと漁船かなーって感じですけど」

 由良の準備を手伝いながら村雨が言う。

 確かに与えられたデータだけなら、その可能性を考えるのが妥当だ。

 十五ノットという速力や、陸地から四十キロほどという沿海域を移動していることがその推測の根拠になる。

 けれど何よりも、それが単独で行動しているというのが理由としては一番大きい。

 深海棲艦は複数での行動が基本だ。その理由はわからないが、所属艦隊が壊滅したとか、偵察任務の潜水艦という特殊な例を除けば、単独行動というのは一例も報告がない。

 その最初の例が今だという可能性もないことはないが、それが相手の本拠地の近くというのはできの悪い冗談にも使えない。

 こういった場合には大抵、後続の艦隊がある程度離れた位置に控えていたし、もしそれらがいれば別の手段で捕捉され、もっと前に警告が届いているはずだ。

 一方、味方である海上自衛隊も深海棲艦に対しての攻撃に効果がほとんどないとわかってからは、単艦での行動を極力控えていたし、もし通過の予定があれば事前に通告がある。

 たとえどちらかに急な任務の変更があった場合でも、それだけは抜かりなく行われるはずだ。

 艦娘の存在は最重要機密なのだから。

 だからこういった突発的な遭遇は、深海棲艦の出現以降、値を上げている魚介を獲ることで一攫千金を狙う無謀な漁船であることが多かった。

「でも、最近は燃料の供給もおぼつかないって、補給担当がぼやいてたけど」

 明石の言う通りだ。

 先日の輸送作戦が久々の大成功を収めたと大々的に報道していたくらいだから、備蓄量はかなり厳しいはずだ。

 そんな状況下で出漁できるだけの燃料を確保するなど、ただの漁船にできることなのだろうか。

 そこまで考えたところで、由良はコツンと自分の頭を叩く。

 疑念は数限りなく浮かぶが、今はそれにかまけている場合ではない。

「とりあえずは静観。発見されたとしても時間的に余裕はあるはず」

 相手が長大な射程を誇る戦艦だとしても、この距離では無視できる程度の砲撃精度にしかならない。

 仮に相手が航空母艦であっても、この風で十五ノットの速力では発艦できるほどの合成風力を得ることもできないし、今から慌てて飛ばしたところで、単機で突入するわけではない。ある程度の数を集めて攻撃態勢に入るまではしばらくの時間が必要だ。

 その間に由良たちは速やかに撤退し、あとは自衛隊機の出番。

 相手が艦載機であれば、人類の兵器でも充分な効果が得られることは実証済みだ。

「もし護衛艦なら素直にブイの修理中ってことで通すね」

「敵だったら?」

「……言う必要ある?」

 村雨の問いに、由良の目が妖しく輝く。

 いくら人間らしい日常を送っているとはいえ、秘められている艦娘としての本能がなくなったわけではない。

「そうこなくっちゃねー」

 村雨もそれを刺激されたのか、嬉々として操舵室を出て行く。

「なんか、張り切ってるなぁ……」

 そんな後ろ姿を見ながら、ぽつりと明石がつぶやく。

 当然、艦娘である以上、明石にも艤装はある。

 だが、工作艦の役目は他の艦娘たちの破損した艤装の修理だ。自身の戦闘能力など艦載機や小型の船を追い払う程度。

 だから、明石は戦うことに関してはあまり積極的ではない。

 由良たちはそれを充分に理解していたし、それについて不満などあるわけもない。

 それぞれに戦う場所が違うだけのことだ。

「実戦となれば久々ですからね。それにあの子たちも自分が役に立つことを実感したいんですよ」

「そういうものなのかしらねぇ」

「そういうものです。明石さんには面倒をかけてしまいますけど」

 傷ついた仲間を戦える状態にして、再び戦場に送り出す。それは道義に反するような行為だ。

 場合によっては送り出される側よりも精神的に堪えることもあるだろう。

 それを表に出すこともなく、ただ一人でそんな戦場に立つ明石は充分に強い。どんな巨砲でも魚雷でも叶わぬほどに。

 由良も、他の艦娘たちもそれを知っている。だからこそ明石を信頼し、尊敬している。

「面倒ついでに、もう一つお願いしてもいいですか?」

「うん?」

「夕張たちにも今のプランを伝えて、待機させてください。私は二人と打ち合わせてきます」

「了解。あんまり無茶しちゃダメよ?」

 操舵室を後にする由良の背に、明石の言葉が投げかけられる。

 由良は少しだけ顔を横に向け、口元に笑みを浮かべながら軽く頷いてみせた。

※今回はここで一時停止。

 それほど時間を開けずに、続き投下できると思います。


前スレも見てたよ

>>58
前回も読んでいただいのですね、ありがとうございます。
そして、いつものように、一括で投下できなくてごめんなさい。

※本日分投下開始します。
 ちょっと少ないかもですが、お許しください。

 《4》
          

 提督の執務机に大きな海図が広げられていた。

 相模灘を中心としたそれには、百数十に及ぶ緑色の印がつけられている。

 それが、この海域に配置された音響ブイの位置を示すものだ。

「足柄、トラブルを起こしたブイはどれだ?」

 そう促され、足柄は手元の書類と海図を見比べながら、鉛筆で印を書き込んでいく。

「報告があったのはこの八基ね。ご覧の通りバラけてるし、何かの意図があるようには思えないけど?」

 どこか一箇所に集中しているわけでも、隣り合って並んでいるわけでもないそれを示し、提督の懸念が無駄なものだと説明する。

 けれど提督の顔からは不信が消えることはない。

「明石の見立てはバッテリーの消耗だったか?」

「ええ、そうよ。実際、交換したら元通り」

「すまないが、ブイの製造ロット一覧を貸してくれ」

 設置されたブイの製造番号や製造時期、設置された日時などは、そのすべてが記録されていた。もちろんそれは消耗品である電池に関してもだ。

 何か製造上のトラブルが起きれば、同じロットのものには同様のそれが起きる可能性があるからだ。記録しておけば対応が効率化できる。

 提督は足柄から手渡されたリストと、トラブルを起こしたブイとを突き合わせてチェックしていく。

「それから、ブイの停止が確認された時刻を海図に書き込んでくれるか?」

「はいはい」

 実際に稼働が停止した時間と、データとしてこちらが把握した時間とでは時間差ができる。

 二時間ごとに行われる稼働状態の報告が行われなかったことが、今回のトラブルの発覚に繋がったのだから。

 それで一体何がわかるのだろうかと思いながらも、指示に従う。

「ロットが違うものが四基混じってるな」

「そのくらいならあり得るんじゃないの?」

「比較的近いロットならそうも言えるんだけどね」

 そう言って提督が指し示したデータを見て、足柄もハッとする。

 四基すべてのロットが違う。

 これを偶然と呼んでいいのだろうか。

 迷いを見せる足柄に、提督はさらなる事実を突きつけてきた。

「この時期、この辺りの海流はこうなっているはずなんだ」

 もともと護衛艦乗りであり、横須賀に長く勤務していた提督によって矢印が書き加えられていく。

 伊豆から相模灘に向かって進み、大島を迂回するように流れ、房総半島へと抜けていくそれは、トラブルを起こした音響ブイの位置とほぼ重なった。

「これって……」

 海流の流れと、稼動を停止したブイの時系列も一致していた。

「敵潜が警戒網の内側に浸透してる可能性がある――深海棲艦の障壁と接触すると、電子機器が異常を起こすらしい。具体的に何がとか、どうしてかと聞かれても困るけど。でも、わからないだけに、電力の異常な消費ってのもあり得る話だろ」

「ちょっと待って。どうやって侵入できるのよ? 外側のブイは生きてるのよ?」

 足柄が指摘する通り、何重にも形成された警戒網の外縁部に異常はない。

 その海域の海流は陸から大きく離れていく方向に流れているのだから、無音潜航で侵入することなど不可能だ。

 だから、侵入するにはどうしても自力で航行するしかない。

 そうすれば外縁部のブイに探知されるはずだし、それを防ぐためにはブイの機能を停止させる必要がある。

 しかし、現実にはそれが起きていないのだから、提督の言う可能性は成り立たないはずだ。

 それこそ、いきなり海の中にでも現れない限りは。

「足柄。大事なことを忘れてるよ」

 提督がそんな足柄の考えを見透かしたように言う。

「大事なこと?」

「二週間前に、この航路を大船団が通過してるんだよ」

 その言葉で、足柄はまるで雷にでも打たれたような気分になる。

 大きな被害もなく、無事に母港へと向かう大船団。意識していたとしても、どこかに必ず気の緩みはある。

 そんな大船団の真下に、まるでコバンザメのように潜水艦が張り付いていたとして、誰が気付くと言うのか。

 音響ブイにしても、スクリューの音や多少の雑音など、直上の船団が発するそれに紛れてしまえば判別などできるはずもない。

「輸送船団を通したのはそう言うことってわけ」

 ギリっと足柄の奥歯が嫌な音を立てる。

「それだけじゃない。その前の輸送船団の大被害も、対抗して前路哨戒が強化されることも――その上で何も起きなければ、こちらの警戒心が緩むことも全部計算に入れてる」

 提督の顔がみるみるうちに、苦虫の連合艦隊をかみつぶしたような渋いものへと変わっていく。

 度重なる輸送船団の被害対策に、艦娘による前路哨戒の強化を上申したのは提督だ。

 何度にもわたる説得の結果、ようやく通った計画を逆手に取られた格好なのだから、胸のうちは相当に複雑なはずだ。

「どこからついてきたのかしら」

「南西諸島海域……屋久島あたりか。艦娘の哨戒と音響ブイでの監視とが切り替わるのはその辺りだ」

 比較的安価に生産できる音響ブイだが、長大な海岸線のすべてを一度にカバーすることは、現在の資源状況では困難だった。

 順次増設されていくことは決定されていたが、必然的に要所を狙っての配置となる。特に大小様々な島で構成される南西諸島海域ではなおさらのことだ。

 その穴を埋めているのが、多数の艦娘を擁する佐世保第二基地。

 だが、彼女たちとて輸送作戦に駆り出されたのだから、どこかに必ず穴は開く。

「それに、この潜水艦隊を連れてきたのは例の別働隊だ。そう考えれば、あの時間帯にバシー海峡へ接近していた理由にも説明がつく。潜水艦隊を分離したあとは、本来の作戦に加入して赤城隊を粉砕する」

 そうか、と足柄も納得する。

 船団が近付いてからでは遅すぎるのだ。そうなってしまえば、艦娘たちが海域の哨戒と掃討を始めてしまう。

「もしその前に別働隊そのものが見つかっても、戦闘中の騒音に紛れて離脱すればいい……今回みたいにね」

 戦力の不足のため僅かばかりにできる隙。そこへ潜水艦部隊を展開し、潜ませる必要があった。

「けど、その辺の手口は後回し。まずは敵の意図を探る方が先だ」

「情報収集じゃないの?」

 敵の動きを知るには、できる限り早い段階から情報を獲得するのが一番だ。そして、それをやるのであれば相手の根拠地に近い方がいい。

 今の状況はまさにそれだし、潜水艦はその手の任務に長けている。

「普通に考えるとそうだ。けど、洋上を航行する何かがいたとして、それを壊すようなヘマをするか? 情報を集めるなら、できる限り長期間存在がバレない方が好都合だろ」

 提督の言う通りだ。

 自分の位置を保つために、自分で移動できる能力を持つブイなのだから、必ず音が出る。

 気がつかないわけがないだろう。

 それがなんなのかは知らなくても、隠密行動を旨とする情報収集任務の最中に、自分の存在を知らせるような行動をするはずがない。

「じゃあ、次の船団を狙うとか?」

「確かに目鼻の先で船団が大打撃を受ける様は、政治的に効果があるだろうね……でもこちらが護衛船団方式をとってる以上、次を待つのは無理がある。向こうの潜水艦がどう言う理屈で動いているのかは知らないが、何がしかの消耗資材はあるだろう? それにブイの破壊はやっぱり余計だ」

 数の少ない護衛艦の戦力を有効に活用するには、ある程度の輸送船を揃え、船団を仕立てる方が効率的だ。それには相応の準備期間が必要だったし、そのせいで船団が常にいると言うわけではなかった。

 だからこそ、いつ通るかわからないそれを待つと言うのは賭けに近い。

 下手をすれば、それらが通る前に自分が燃料切れなどと言う、冗談のような結果さえ起こりかねない。

 二度目がない作戦を計画するならば、そういった不確定要素はまず最初に排除される。

「ああ、もう! 私にわかるわけがないじゃない!」

 ひねり出す想定が次々に否定され、足柄はついに匙を投げる。そもそも考える仕事は向いていないのだ。

 それを理由に何度も秘書艦を降りたいと告げているのだが、提督はそれを一向に受け入れてはくれなかった。

「いいから、思いついたことはなんでも言ってくれ。一人で追求できる可能性には限りがあるんだよ」

「そんなこと言ったって……でも、考えてみたら攻撃が目的なのかしらね。由良たちの特務艇は無事なわけだし」

 ブイの移動よりもはるかに騒々しい音を撒き散らしているはずの特務艇には何も起きていない。

 移動速度が早く狙いがつけづらいと言う理由もあるかもしれない。

 ブイを回収するために停船した位置も、潜んでいる場所から離れていれば手は出せないだろう。

「特務艇に手を出さない……けど、ブイにはダメージを与えた……」

 提督はぶつぶつと呟きながら、海図をじっと見つめる。

「でもなあ。やっぱり、停船した時が唯一の狙い目かしら。あの程度の船なら魚雷で木っ端微塵、敵発見の報告を入れる間もないはず」

 何気なく放たれた足柄の言葉。

 だが、提督は掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る。

「足柄、今なんて言った?」

「あの程度の船なら魚雷で木っ端――」

「違う、その後だよ」

「ちょっと、何よ……近すぎ……」

 あまりに接近してくる顔に、余計な感情が芽生えてしまいそうになる足柄だが、提督にはそれを構う気などないようだ。

「いいから、さっきのをもう一度だ」

「えぇと、確か――敵発見の報告を入れる間もない、よ」

 上気した顔の足柄を放置して、提督は再び海図に向き合う。

 そして伊豆沖を指差し――

「この海域を航行する予定の船はあるか? 官民問わず、大きなやつだ」

「……朝の時点では何も聞いてない。聞いてたら由良たちに帰投命令を出してるもの」

「なら、まだ間に合う――即応隊は?」

 横須賀第二には軽巡阿武隈を長にした、もう一個の水雷戦隊が残されている。もちろん即応隊の名称の通り、緊急時に備えた待機部隊だ。

「艦娘だけなら五分で出られるわよ」

「いや、あきさめに緊急出港準備を。阿武隈をここに呼んでくれ」

 了解の声もそこそこに、足柄は執務室を飛び出した。

 《5》


『艦長、戦闘指揮所。至急お越しください』

 時雨の心の休息は、スピーカーからのそんな音声で終わりを告げた。

 艦尾にはためく自衛艦旗を見ながら、そろそろ交換時期かなどとぼやいていた艦長もその声に即座に反応して、艦内へと駆け出す。

「すまないが、海を見る時間は終わりだ。戦闘にでもなったら大変だからね」

「わかったよ。格納庫の扉はどうするんだい?」

「操作盤のスイッチを操作すれば――と言ってもわからないか」

 自分の頭を軽く叩いて、艦長は自分で操作に向かう。

 時雨が飛び込むと、シャッターはすぐに降り始め、再び薄暗い空間に戻ってしまった。

「私はいかなきゃならんが――」

「うん。僕はまたあそこにいるさ」

 そう言ってコンテナを指差す。

 だが、艦長は首を横に振る。

「戦術運動をすれば艦が大きく傾く。一応固定はしっかりしているつもりだが、万が一コンテナが動いたら危険だ」

「大丈夫だよ。それにそんな状況になれば、僕が艦内にいても邪魔になるだろうしね」

「それはそうなんだが……」

 艦長は何やら考え込む。

「呼び出されてるんだから、早く行かないとまずいんじゃないのかな?」

 戦闘指揮所からの呼び出しということは、それなりの事態の可能性があるということでもある。

 こんなところで何かを考え込んでいる余裕などないはずだ。

「一緒に来なさい」

「どこへだい?」

「邪魔にならず、安全な場所だよ」

 艦長はそう言って、時雨の手を掴み駆け出す。

 制止する暇も、抗議をする余裕もなかった。

 …………

 ……

 分厚い扉を開けると、そこは薄暗い部屋。

 いくつかのモニターが刻一刻と移り変わる状況を表示し、何人もの隊員がそれを見つめながら、手元の端末を操作していく。

 ここが護衛艦はづきの頭脳、戦闘指揮所だ。

 部外者どころか、乗員ですら許可がなければ立ち入れない場所でもある。

 そこに時雨は連れ込まれてしまった。

 他の乗員が制止するが、艦長がただ一言。

「見たところで理解できなければ、隠す意味なんかないんだよ」

 まさか、座学で基本的な知識を学んでいると言うわけにもいかず、時雨は抵抗することを諦めた。

「それで、状況は?」

 自分の席に腰を落ち着けた艦長は即座に問いかける。

「二十四キロ先に所属不明の船舶二隻。停船しているようです」

「こちらからの呼びかけには応答がありません」

 電測員と通信員が状況を伝えてくる。

 艦長はその間に時雨を隣の席に座らせようとするが、それだけはと固辞し、隣に立った。

「――漁船かと思われますが」

 そんな時雨に一瞬だけ視線を向けてから、副長が自分の憶測を艦長に伝える。

 だが艦長はそれを苦笑いで受け止めた。

「副長。お前はもう少し世間の情報を仕入れる努力をした方がいいな」

「は?」

 艦長の言葉を今ひとつ理解できなかった様子で、副長が間の抜けた声を出す。

(護衛艦ですら燃料の確保に不自由しているのに、民間の船にそれができるわけがないじゃないか……)

 その話は何も高い地位にいる人間や、時雨のように情報に携わる人間でなければ聞こえないと言うような代物ではない。

 少なくとも、ラジオのニュースでも聞いていれば手に入るような、ごくありふれた話だ。

 そう言った簡単に手に入る情報の中には、国民を統制するための欺瞞情報も混じっているだろう。

 でも、それはこの話には関係がない。

 それが本当に燃料不足のためなのか、それとも国が何らかの意図で隠しているからか。

 どちらであろうと、そんなものは結論に関係がない。まったく別の話だ。

 燃料が一般に出回っていないという事実には変わりがないのだから。

(たとえラジオを聴けなくても、輸送作戦の頻度や獲得資源量は大体でもわかる立場にいるんだし、現状はわかりそうなものなんだけど)

 気づかれぬようにそっとため息を吐いて、副長を見る。

「そもそも、この海域は音響ブイが設置されている海域だ、と、なればあの船の所属と目的も絞られると思う」

「……通信、護衛艦用の周波数で再度呼び出しを」

 艦長の言葉でようやく察した副長が、新たな指示を出す。

 モニターのひとつの光を浴びたその顔がはっきりと見え、時雨は面食らう。

 若かった。

 二十代後半から三十代前半といったところだろう。

 とにかく、この立場に付くにはあまりにも若い。

「副長、今は間違えることで学んでいけ。自分の艦で間違いを犯さないためにな」

「はっ!」

 一礼すると、副長は通信員の席に歩み寄り、やり取りを始める。

 その背中を不安げに見つめる時雨に、艦長が言葉をかける。

「彼は艦長になるんだよ、きよづきっていう艦のね。今はその勉強中というわけだ」

 護衛艦きよづき。

 はづきと同型の護衛艦だ。

 一年も前に、艦長以下の指揮要員を含む乗員半数以上を喪う大損害を受け、それからはずっとドックの中だ。

 資源が限られている現状では、修理が進むわけもない。

 さすがにそのままでは残った乗員の技量維持もままならないということで、他の艦へ分乗し、任務についていた。

 それが時雨の知っている情報だ。

 もちろん口に出すことはしないが。

「副長はまだ若い、艦長をやるにはもう少し経験が必要なんだがな……」

 艦長もまたその若い指揮官候補の背を見つめて呟く。

「それを待てるような状況でもないんでしょう?」

 黙って頷く艦長。

「定年間近の私まで現場に引っ張り出すんだ。いよいよ――かもしれんな」

 ポツリと呟いた艦長の声はとても小さく、おそらくは誰にも聞かせたくないものだったのかもしれない。

 だが、艦長が思わずそう漏らしてしまうほどに、人員の損耗が激しいのだ。

 際限なく現れる敵に対して、有効な打撃すら与えられないのだから、それは当たり前と言えた。

 次代の指揮要員となるべき人材は戦闘で次々と失われ、その過程を見続けることで、現在の要員もまた、心を壊され現場を去っていく。


 ――深海棲艦は人を喰う。


 幾度かの戦いの後に流れた噂は事実だ。

 その現場を時雨自身、何度も目撃している。

 沈みゆく船から逃れ波間を漂う乗組員を、敵はその巨大な口で次々と攫っていくのだ。

 あるものは鋼鉄の顎門に噛み砕かれ、あるものは丸呑みに飲み込まれ――だが、深海棲艦がなぜそうするのか、まだ誰にもわからない。

 何にせよ、そんな光景を何度も見せられ、耐えられるほどに、人の心は強くない。

 もしかすると、それも敵の狙いなのかもしれないと、時雨は思っている。

「艦長、返答です。横須賀第二所属と言っていますが」

 こちらに繋げと手で軽く合図して、艦長は手元のマイクを引き寄せる。

「こちらは横須賀基地所属、護衛艦はづき艦長」

『横須賀第二基地所属、特務艇二号です……とは言っても小型漁船を改装して工具を搭載しただけの代物ですが』

 スピーカーを通して流れてきた声が若い女性のものであることに、指揮所内が少しだけざわつく。

 横須賀第二はこの周辺海域の防備のために作られた基地で、監視機器の保守管理専門部隊が配置されているというのが、表向きに公開されている情報だ。

 前線に出ることのない比較的安全な後方部隊だが、海の上に出てしまえばその限りではない。

 艦長にも基地司令にも当たり前に女性がいる世の中ではあるし、それはもはや一般的なこととして浸透してはいたが、それでもやはり若い女性を危険な場所に送り込むことには、本能的な部分で抵抗があるのだろう。

 だが、もし艦娘が一般的に認知され戦いの場に身を置いていることを知った時にも、彼らは同じ反応をするのだろうか。

 時雨はそんなことを思い、次の瞬間には頭を軽く左右に振る。

 これは、随分と意地の悪い問いかけだ。

「状況を見るに、音響ブイの修理かね?」

『その通りです。当船の半径十キロ以内を、もう一基漂流中と思われます』

「それはまた大変だな」

 捜索範囲は広大だ。何の目印もないままに、小型のブイを探すのは相当に骨の折れる作業だろう。

 だが、それだけの苦労をしてでも維持しなければならないほどに重要なものだ。

 この先、相模灘を抜ければすぐに浦賀水道だ。万が一にでも東京湾に侵入されてしまえば、この国の中枢に砲弾の雨が降りそそぐことになる。

『いえ、これが任務ですから。そこで、大変申し訳ないのですが、はづきには十五キロ程沿岸よりを航行していただきたいのです――万が一接触してしまうと、ブイが破損してしまう可能性がありますので』

 そうなってしまえば、当然ブイは新しいものと交換だ。

 始末書を書かされた上に、しばらく嫌味を言われることになる。

 おそらくは指揮所の誰もがそれを想像したのだろう。何とも居心地の悪い顔をして、艦長を見ていた。

「こちらでも探すことはできるが?」

 その視線を苦笑いで受け止め、艦長は決して不可能ではないそれを提案する。

 水上レーダーの感度を調整すればいいのだから、それほど難しいことでもない。

『いえ、お気持ちだけで。そちらのような大型艦が何かをしていれば、敵も気になって仕方がなくなるでしょうから』

 艦長が感心したように目を細めてため息を一つ付いた。そっとマイクを塞いでから、時雨に向かって呟く。

「若い割に冷静な判断ができる。彼女はいい指揮官になるぞ」

「そうだね」

 彼女の正体を知っている時雨にとっては、それは意外でも何でもない。

 声の主は軽巡洋艦娘の由良。駆逐艦娘を率いて敵艦隊の中へと突入していく、切り込み部隊の長だ。必要であれば、部下に自滅覚悟の命令を出すことさえ厭わない。

 それが水雷戦隊旗艦というものだ。

『それに、僚船とどちらが先に見つけるか競争をしております』

 だが、スピーカーから聞こえてきた声は、軽やかに、弾むように、冗談を言ってクスクスと笑っていた。

 時雨はそれに何とも言えない違和感を覚えた。

「なるほど。勝負に水を差すのは無粋だな。了解した、進路を変更して邪魔にならないように通過させてもらう」

『ありがとうございます』

「そうだ――後でどっちが勝ったか教えてくれ。勝者には何か進呈しよう」

『わかりました、楽しみにしております。それでは』


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 何とかボロを出さずに済んだと、由良は胸をなでおろした。

 横では、明石が珍しいものを見るような目で由良を見ている。

「明石さん?」

「……いや、よくもまぁ、あんなに淀みなくやれるなぁ、ってね」

「別に嘘を言ってるわけじゃないですよ。事実を言うのにためらう必要なんてないですし」

 確かに由良は嘘を言っていない。

 幾つかの情報を抜いただけで、あとは本当のことを伝えたのだから、問題になることもないだろう。

「うん、まぁ、そうなんだけど……」

 釈然としない顔で明石は何かをつぶやいている。

 戦闘が本来の仕事とはいえ、それだって敵との駆け引きの上に成り立つものだ。

 相手の考えを読み、欺瞞し、有利な状況を作り出す。

 実際に砲火を交えるのはそれから。

 だから、駆け引きは部下を率いて戦う立場になれば必要とされる技能だ。

「……ねぇ、由良。これ、なんだと思う?」

 先ほど投下したブイの動作確認のために端末を見ていた明石が、画面上の小さな点を指し示す。

 それは由良が視線を向けた瞬間に消え、また現れた。

 注視していると、はづきの左舷側、一五〇〇メートル程のところで不定期に明滅を繰り返す。

「これだけじゃ、なんとも」

 音響ブイから得られるのは、そこで何か音がしているという事実だけだ。

 データベースから切り離された状態では、明石の端末に記録されているわずかなデータとの照合しかできない。

 具体的に言えば、それが船であるかどうかがわかる程度だ。

 それが何の答えも提示しない。

「音が聴ければわかるかも、ですけど」

 由良のその言葉を受けて、明石は端末を操作する。

 圧縮されて送られてくるデータを展開、音声に変換してスピーカーから流す。

 ノイズに紛れて、水が流れるような音と鈍い金属音がかすかに聞こえ――

 その後に続いた音に由良が反応する。

「はづき! 左舷一五〇〇に突発音! 感六! 魚雷!」

『くそっ! こちらでも確認した! 両舷前進一杯、取舵!』

 画面上ではづきが大きく左に進路を変えていく。

 魚雷に正対し、その間を抜ける教科書通りの操艦だ。

 現代の魚雷と違い、自動追尾式ではない敵の魚雷に対抗するにはこれが最善の策だ。

「雷速四十六ノットに到達! 急いで!」

 発射された魚雷は、はづきの回避運動を予測してそれを覆うよう扇型を作って接近している。

 艦尾方向への二発と艦首への一発はすでに軸線を外れているが、艦中央部へ向かう三発はまだ命中コースに乗っていた。

 あと三十秒ほどで最悪の事態になる。

『左舷後進一杯! 右舷そのまま!』

 はづきは左右の推進力を変えて、強引に艦の進む方向を捻じ曲げる。

 画面を通して見ていることしかできないのがもどかしい。

 それは由良だけではなく、横にいる明石も、いつの間にか後ろに来ていた村雨と五月雨も同じだろう。

 それぞれが祈るような気持ちで画面を注視している。

『艦中央部に接近中の魚雷、速力低下!』

 祈りが通じたのか、無線越しに聞こえてくる声が魚雷のトラブルを告げている。

『艦首へ接近中の魚雷、軸線を外れます!』

 残るは艦尾へと向かう一発だ。それさえかわせば、あとはなんとでもなる。

『総員、衝撃に備え!』

 はづき艦長の声が、その望みが薄いのだと告げる。

 画面上で二つの光点が重なった。

 無線からはノイズだけが流れ、沈黙する。

 少しの間をおいて、スピーカーから流れた鈍い音が最悪の結末を知らせてきた。

※本日はここまで。
 短くてすみません。
 (雪かきでボロボロ。こんなに降るとは思ってなかったよ……)

※乙ありです。
 安全帯と命綱装備で屋根の雪下ろししてました。

 というわけで、日が空いて申し訳ありません。
 本日分投下します。

 《6》


金属のひしゃげる音と、わずかな振動。

 はづきを襲ったのはそれだけ。予想していたような破壊的な爆発も、艦体を引き裂く断末魔の叫びもなかった。

 けれど戦闘指揮所の誰も、自分が生きているという実感は持てなかったはずだ。

 おそらくは、何も感じることなく一瞬にして別の世界の入り口に送られたのだと、そう思っている。

 だから、静寂が支配していた。

 全ての明かりが消え、闇に包まれたそこで耳につくのは自分の呼吸の音。

 一つ、二つとそれをするうちに、非常用の電源が立ち上がり、室内を明かりが満たす。

 ついで目の前のディスプレイや端末が息を吹き返し、様々なデータを表示していく。

「各部の損害を把握! 応急班は即応待機!」

 我に返った艦長の命令に、要員たちがそれぞれの端末に飛びつき職務を再開する。

 自分たちの幸運を噛み締めるのは後だ。

 端末から読み取られたデータや、甲板に上がった乗員たちからの報告が矢継ぎ早に入ってくる。

 それが蓄積されていくごとに、噛み締めるべき幸運がまやかしに過ぎないものだと時雨は知った。

「吹っ飛んでいた方が、よほど気楽だったかもな……」

 艦長の口から出た言葉に、副長も頷く。

 高速で艦尾へと向かい、躱しきれなかった魚雷は不発。

 それが磁気信管か触発信管かはわからないが、とにかく何らかのトラブルで爆発しなかった。

 その代わりにスクリューを二軸とももぎ取っていた。

 機関は生きているが、衝撃か何かのせいで不具合が起き、電力の供給が止まっている。その影響でレーダーや通信機器どころか、兵装のほとんどが使用不能。

 はづき自体はそれほど旧い艦ではなかったが、それでも度重なる輸送作戦への参加や資材の不足で整備が滞っているはずだ。ちょっとしたことで、どこかに不具合が起きてもおかしくはない。

 要するに、今のはづきは惰性で進むだけの、海に浮かぶ鉄の塊に過ぎない。

 逃げることも、戦うこともできない。

 魚雷を放った相手にとっては、いかようにでも料理できる獲物が目の前に浮かんでいる格好だ。

 この先にあるのは最悪の結末だけ。

「電力の回復を急げ。通信を最優先、続いて火器管制だ」

 それでも、艦長にはそれをただ座して待つつもりはないらしい。

 通信が回復すれば救援を呼べるし、武器が使用できればそれを待つ時間くらいは稼ぐことができるかもしれない。

 たとえ救援が間に合わなくとも、敵に一矢くらいは報いたい。そう考えている様だ。

「手隙の者は全員甲板に出て周囲を警戒。五〇口径にも人をつけろ」

 そのためにはまず、周囲の状況を把握して、あわよくば敵を見つけること。電子の目が頼りにならない以上、人間の目を使うしかない。

「こんなところに敵が潜んでいるとはな……」

「ブイの回収と修理の真っ最中ですから。少数なら容易に侵入できるでしょう」

「だろうな。上層部ご自慢の防衛網に意外な弱点か」

 艦長と副長がそんな会話をしている。

「ここは護衛艦や輸送船が必ず通る。待ち伏せには最適だしな」

 だが、時雨にはそう思うことができなかった。根拠を問われても提示できないほどの漠然としたものではあったが、違和感だけは確実に存在している。

 ふと視線を上げて未だディスプレイに表示されている、魚雷のコースや特務艇の位置をじっと見つめる。

「どうした?」

 その様子が目に入ったのか、艦長が問いかけてくる。

「……変だ」

「何がだ?」

「単に攻撃が目的なら、特務艇を見逃す理由がない」

 時雨の呟きに、艦長と副長が互いの顔を見合わせる。

「特務艇は小さな船だよ。吃水――海の下にある部分も浅いから、魚雷での攻撃には向かないんだ。船の下を通り過ぎてしまう」

 副長が至極まっとうな説明を、おそらくは一般人にもわかりやすくしたつもりでしてくれる。

 それは確かに正しい。調整できる深度にも限界はある。

 けれど。

「魚雷の信管は触発だけじゃない。磁気感知型もあるし、小型船なら時限信管を使って近くで炸裂させるだけでも致命的な一撃にできるよ」

 妙に専門的な言葉が出てきたことで、艦長と副長の表情が複雑なものに変わっていく。

「たとえそうでも特務艇は足が早い。魚雷の回避は――」

「追いかけ回す必要なんてないじゃないか。漂流しているブイの近くにいれば、獲物が向こうから近寄ってきて、そこで勝手に止まってくれる」

 副長の反論を最後まで聞くことなく、時雨はそれを否定する。

 さすがの副長もその態度に鼻白む。

「じゃあ、なんだっていうんだ?」

 きつい口調で時雨の真意を正そうとする。

 しかし、それに明確な答えを提示できるわけではない。答えを得るにはまだ情報が不足していた。

 これ以上は邪魔になるからと、時雨を戦闘指揮所から出すよう抗議する副長を艦長が押しとどめている。

 その間も、時雨は不足する情報を獲得するためにディスプレイを見続ける。

 そのうちの一つ。敵からの攻撃と回避という、一連の動きを繰り返し表示するディスプレイが目に止まる。

 艦中央部に向かった一発と、最初に躱した艦尾への一発。その航跡に乱れがあった。

 それを何度も目で追う内に、もやの向こうにあった一つの答えが見えてくる。

「……魚雷は炸薬量を減らしていた」

 乱れている魚雷の航跡を指でなぞり、時雨はそれを指摘する。

 海中を高速で進む魚雷は、そのバランスが重要だ。

 偏りがあると、水流の影響で大きく進路を乱して迷走することがある。

 それを防ぐために、訓練用の魚雷には炸薬と同じ重さになるように水を入れたり、コンクリートのバラストを入れて調整するのだ。

「調整が甘かったせいで、バランスを崩して迷走したり、不発を起こしたんだ」

「魚雷の件に関してはそれで理解できる。しかし、それをする理由がわからないな」

 そういう艦長の目をまっすぐに見つめ、時雨はさらに推論を述べていく。

「たぶん、敵にとって誤算だったのは、修理に来たのが特務艇だったってこと。特務艇の乗員はどんなに多くても十人に満たない。炸薬量を調整してこれを攻撃、航行不能に追い込んだとしても、救援はヘリコプターで充分――でも、これが護衛艦だったら?」

 護衛艦の乗員は二〇〇人を超える。それを救助するには、当然何度も往復する必要が出てくる。作業空域も限定されているのだから、大量のヘリを派遣してもさほど能率が上がるわけでもない。

 釣り上げと、後部デッキへ着艦しての移乗を同時に進めたとしても数時間は必要だ。

 もちろん、その間にも敵潜はそこに存在し、いつでも攻撃が可能という条件下。そんな猶予があるはずもない。

 ならば、行動はたった一つ。

「横須賀から別の護衛艦を呼ぶ……」

 副長の呟きに時雨が頷き、さらに最悪のシナリオを続けていく。

「その航路に他の潜水艦を潜ませておけば、救援のために出てきた護衛艦隊を叩けるんだ」

 指揮所の全員がその最悪のシナリオを思い浮かべたのだろう。

 ゴクリと誰かが唾を飲んだ音がした。

「レーダーやソナーを使って敵を先に見つけて回避することで、船団を守るのが護衛艦の仕事。敵が航空機を使っても、それだけが相手ならば護衛艦の兵装も有効に機能する。直接的な脅威ではなくても目障りな存在――確かに私なら最優先の破壊目標にするな」

 艦長が納得したように呟いた。

 続けてもう一つの可能性も提示してくる。

「それに、たとえ壊滅できなくても、首都の近くで護衛艦を喪失するような戦闘が起きれば、それだけで国全体が動揺する。戦闘が起きたというだけでも、護衛艦隊は上層部によって首都防衛にかき集められて、輸送路の維持は難しくなる」

「そういうことだね」

 戦闘指揮所内の空気が一層重くなる。

 自分たちの命の問題ではなく、国全体が大きな危機に陥ったのだから。

「待ってください。一隻や二隻なら音響ブイの監視を抜けて侵入することもできるでしょうけど、護衛艦隊を叩き潰せるような数がどうやって侵入したんですか?」

 副長が最後の希望とばかりに、最も重要な問題を提起する。

 防衛網を構築している音響ブイは、何層かのラインを形成している。

 今、はづきがいるのはその最も内側にあたる部分だが、そこまではかなりの距離がある上、海流頼みの無音潜航では集団で統制された行動を取るのは難しい。

 もちろん外縁部のブイも損傷を受けて停止していれば話は別だが、そうなれば敵侵入の可能性ありという警報が行き渡っていなければおかしい。

 しかしそのような報告はなく、特務艇が二隻で修理を行っていた。

 それこそが緊急性のない、いたって偶発的な事象という判断が行われた証拠でもある。

 副長はそう言って、最悪のシナリオにある欠点を突いてきた。

 だが。

「簡単だよ。他の船を隠れ蓑にすればいいんだ。この間、それができるだけの大船団がここを通過してるんだ」

「だが、そんなことが――」

「できるよ。君たちがそれを証明した……『こんなところに敵が』『ブイがなければ侵入は容易』そう言ったんだ。それが音響ブイの力を過信して、警戒を緩めていたことの証明だよ。警戒を厳重にしなければならないはずの、単独行動中の護衛艦ですらそうなんだから、船団が同じことを考えていても――ううん、もっと緩んでいただろうね」

 時雨の指摘は完全に的を射ていた。

「副長。この子の言う通りだ。我々はソナーすら打たず聴音だけで航行していたんだからね」

 艦長の一言で、この推測は完全に裏付けられ、反論の余地はなくなる。

「何としても通信を復旧させなきゃならないな」

 一刻も早くこの可能性を横須賀に伝え、対応を考えなければならない。

「艦長、モールスを音響ブイ経由で特務艇に送っては?」

 そんな副長の思いつきは艦長によって即座に却下される。

「ダメだ。敵は作戦の初期段階が成功したと思っているから静かなんだ。もし作戦が看破されたと知れば、この艦を撃沈するだろう。副長の案を使うのであれば夜を待って、乗員を離艦させた上で、だ」

 時計を見る。

 昼をわずかに過ぎたところだ。

 だが、敵はそれほど長くは待ってくれないだろう。

 おそらくは日暮れがタイムリミット。

 それまでに横須賀で動きがなければ、作戦失敗と判断してはづきを撃沈、離脱を図るだろう。そうしなければ、組織的な反撃を受ける可能性が高くなるからだ。

 護衛艦の装備する通常兵器に全く効果がないわけではないし、水圧のかかる海中を主戦場にする潜水艦にとっては、そのわずかなダメージでも致命的なものになりかねない。

「せめて特務艇が近づいてくれれば、発光信号が送れるんだがね」

 艦長が祈るように呟く。

 この状況を打開する手が、時雨にないわけではない。

 艦娘としての力を使えば、敵を沈めてはづきを救うことはできた。

 だが、その力を揮うことは許されていない。

「しかし、君は一体何者なんだね?」

 艦長が思い出したように、そんな問いを投げてくる。

 もちろん、答えることはできない。

「情報部の見習いみたいなもの。情報分析の研修を受けてる最中なんだ。あんまり言っちゃいけないって言われてるから、秘密にして置いてくれると助かるよ」

 だから、あらかじめ用意された偽情報の一つでごまかす。

 調査をかければ、時雨に関しての情報は今言った通りのものが吐き出されてくることになっている。

「なるほどな……陸も人手不足なのは変わらんか」

 艦娘の存在は機密扱い。

 それを破れば、最も害を被るのははづきの乗員たちだ。

 どこかに監禁されたり、命を奪われると言うことはない。おそらくは監視付きの状態で、戦力不足に喘ぐ佐世保第二に配置転換だろう。

 そして、横須賀第二に配置されている護衛艦あきさめと同じように、艦娘たちを戦場へ運ぶための戦闘輸送艦として使われる。

 それはもしかすると乗員たちを今よりも大きな危険へと誘うことになる。少なくともあの佐世保の司令官の下では、いくら命があっても足りることはないはずだ。

 情報収集に向かう先が南方であることが多いために、時雨は佐世保に籍を置いていた。情報部付きの艦娘という独特な立ち位置のため、直接関わることはなかったが、それでも司令官がどんな人物かくらいかは知っている。

 だから、どちらを選んでも訪れる結果に変わりはない。いつ、どこで、その違いだけだ。

 それでも、時雨には決断を下すことができなかった。

 このまま絶望するのと、一度希望を見た後に地獄へ叩き落とされること。果たしてどちらがいいかなど、時雨が勝手に決められるものではないのだから。

(本当に、割り切るっていうのは大変だね)

 ただの兵器にはあるはずのない感情という存在。それが枷になっている。

 切り捨てようとどれだけ努力しても、自身が思っている以上に強固にまとわり付き、行動を縛り付ける。

「通信、復旧します」

 だが、今回の苦労はここまでで終わりだ。少なくとも自分が決断することはなくなった。

 内心で胸をなでおろす。

『――応答を! はづき、状況を知らせよ!』

 機能を回復したばかりの無線から、若い女性――由良の悲痛な呼びかけが聞こえてきた。

「こちら護衛艦はづき。タチの悪い運命の女神に気に入られた」

 艦長はそれに冗談を交えて応答する。

 指揮所の一部からは、こんな状況にもかかわらず笑いが漏れた。

 そうでもしていなければ、これからの長丁場は耐えられない。

『ああ、よかった! しかし、タチの悪い女神とは?』

「艦尾に被弾したが、不発だったようだ。けれどスクリューを損傷、航行不能。同時に電源を喪失、現在復旧作業中だが、完了するまでは戦闘能力もない」

『冗談にしてはかなりキツイですね……とにかく横須賀第二基地へ救援の手配をします。護衛艦あきさめならば緊急出港可能ですから』

「いや、その件で横須賀第二基地司令と話がしたい。取り次いでくれるか?」

『了解。すぐに繋ぎます』

 わずかな間があった。

 ノイズが少し大きくなる。艦娘たちとの通信に使う秘話装置を通しているのだろう。

 やがてその向こうから声が聞こえてきた。

『こちら横須賀第二基地司令。乗員は無事ですか?』

 聞こえてきた若い男の声に、なぜか艦長が席を立ち、同時に指揮所内のあちこちから驚きの声が上がる。

「こちらははづき艦長。音沙汰がないと思えば……そこに座るのは私の方が先のはずなんだがね」

 驚きを悟られまいと、艦長はあえて不機嫌な口調で言う。

 不穏な言葉だが、決して年功序列を問題にしているのではないようだ。

 艦長の表情がそう言っている。

 時雨にはわからない何かがこの二人の間にあったのだろう。

 そんな怪訝な顔を見た副長がそっと耳打ちする。

「彼は一年前まで、この艦の砲雷長だった人だよ」

 時雨は納得した。

 一度海に出れば、長い間寝食を共にする乗員の間には、不思議と強固な結束が生まれる。もはや家族のようなものだと表現する者がいるほどに。

 幾度もの戦いを共に乗り越えてきたとなれば、それはさらに揺るぎないものになっているだろう。

『譲る気はありませんよ? 話したいことは山ほどありますが、その前に厄介ごとを片付けませんか?』

「そうだな。まずは護衛艦あきさめの出航を待つように進言する」

『そう言うと思ってました。その根拠を聞いてもよろしいですか?』

 艦長は時雨の組み立てた推論をそのまま伝えた。

 無線の向こうはそれを聞いてしばし沈黙する。その可能性がどれほどのものか考えているのだろう。

 時雨は願う。

 無線の向こうの司令官が、冷静な思慮のできる人物であることを。

『……失礼ですが、これは艦長のお考えではありませんね?』

 クスクスと笑いながらそう言ってきた。

 艦長は不満げな顔をしてから口を開く。

「その通り……まったく、お前さんに隠し事ってのは通じんな。たまたま当艦に乗り合わせた情報部員の推測だよ。今もそばにいる」

『なるほど、ではその方に聞くとしましょうか――もし貴官が敵の立場で、相模灘に潜ませた潜水艦への攻撃が始まったとしたら、どうしますか?』

 そう問いかけられ、時雨は迷わず即答する。

「作戦は失敗と判断。僕なら最低限の戦果を獲得するために、まずはづきを撃沈。可能ならば特務艇にも攻撃を加えつつ、防衛網の再構築を妨害。音響ブイを破壊しながら離脱するよ」

 控えめで落ち着いた声が、一切の感情を排して最悪のシナリオを読み上げていく。

『驚いたな。随分と若い声だ』

「忘れているようだから言わせてもらうが、お前さんもだよ」

 艦長が苦笑いをしながら言う。

 確かに司令官という職についている割には若い声だ。

『それはどうも。とにかく自分も彼女と同意見です。普通の手段では手が出せないと言っていいでしょうね』

「時間稼ぎが精一杯だ。こちらの兵装が復旧すれば、何かしらの手は打てるだろうが」

 だが、そう言う艦長にはすでにプランがあるのだ。

 乗員を離艦させてから、はづきを囮として使うつもりでいる。兵装の復旧を急がせているのはそのためだ。

 それさえあれば、多くの乗員を安全な位置まで逃すだけの時間は作れる可能性があった。

 時雨もそれしかないと感じていたし、その際には自分が残るつもりでいた。コンテナの処分を確実に行う必要があったし、艦娘である自分ならばその後でも逃げることは可能だ。

 何より、人目さえなければ敵を始末することだってできる。

 どうやって全員を説得するか。そこが問題なだけだ。

 そこを横須賀第二の司令官に伝えることができれば、問題は解決できる。ただ、これだけ人がいてはそれすら難しい。

 それに。

『艦長が何をお考えか、だいたいの察しはつきます……ただ、それでは護衛艦一隻と少なくない数の乗員に被害が出ます』

 横須賀第二司令が言う通り、それで乗員全てを救うことはできない。決して少ないとは言えない規模の被害が確実に出る。

 資源の乏しい現状、護衛艦一隻は貴重だ。そしてそれ以上に人命は取り返しがつかない。

 それでも全滅よりはマシだったし、護衛艦隊の壊滅という最悪の事態は、はづきという餌をなくすことで防げるのも確かだった。

 どちらを選ぶべきか。

 答えなど決まっている。

 そもそも、どちらかという選択肢すらないはずなのだ。

 感情というものが邪魔さえしなければ。

 だが。

『実は、こちらはすでに作戦を準備して実行段階にあります――若干の手直しが必要な状況になりましたが、艦長とそこにいる情報部員さんに一つだけ約束をしていただければ、誰も、何も失わずに済みます』

 横須賀第二司令は時雨の予想を裏切って、まったく別の答えにたどり着いたらしい。

「……約束とは?」

『今起きていること、これから起こること――はづき乗員は誰も、何も見ていない。そもそも敵潜に襲われてもいない。そういう話です』

 横須賀第二司令が何をするつもりなのか。

 時雨はその言葉ではっきりと悟った。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 部屋に入るなり、執務机に寄りかかって立つ提督の姿を目にした足柄は、その顔がまるでイタズラを思いついた子供のようだと思った。

 別に身近に子供がいるわけでもないし、実際にそんな顔を見たことがあるわけでもない。

 例によって、いつかの機会に読んだ本にあった表現を思い出し、これに違いないと思っただけだ。

 やり取りをしていたはずの無線が沈黙している。

 いったい何を話していたというのだろうか。

(だいたい想像はつくけどね)

 手にした書類を提督に差し出す。

 周辺海域に配置された音響ブイと沿岸監視レーダーの一時停止指令書だ。提督の署名が入れば正式な命令として通達され、効力を発揮する。

 指令が実行されれば、浦賀水道、相模湾、駿河湾――関東から東海の一部に至る太平洋沿岸部の警戒網の接続が遮断され、その間はそこで何が起きても、誰もわからない。

 ――横須賀第二基地、第三種即応訓練のため。

 理由として記載されているのはそれだけだ。

 敵潜水艦を含む敵艦隊の浸透によって、レーダーもブイも無力化された状態を想定して行われる演習だ。

 実際、三ヶ月前に一度実施している。

 だから、この命令は何の疑念も抱かれることなく処理され、艦娘たちには行動の自由が与えられることになる。

 姿を見られるなという制限はつくが。

『短期間なら確約できるが、長くは無理だ。絶対に漏れる』

 はづき艦長の声が無線から響く。

 それを聞いて、足柄は自分の推測が間違っていないことを確信する。

 相当に難しい決断だろう。

 人の口に戸を立てることはできないと、昔から言うのだから。

「それで充分です。少しお待ちください」

 提督はそう言って、机の上から万年筆を拾い上げると、足柄が持ってきた書類に署名を入れる。

 それはいたって何事もなく、ごく当たり前のように、何の気負いもなく行われた。

 無線の向こうとこちらでは、まったく対称的に物事が決められている。

 足柄はそれに少しだけ嫌悪感を感じた。

 きっと過去にも繰り返されてきたのであろうそれは、実際に現場に出ている者にとっては、あまりにも残酷な現実だ。

 だが、提督にそれを言うつもりはない。

 根は優しい人だ。それを指摘してしまえば、命令を下すことができなくなってしまう。

 何よりも、本人はすでに知っているはずだ。知った上で抱え込んでいるだけ。

 それが司令官職というものだ。

「なぁ、足柄。止めるならここが最後だ――もし失敗すれば、間違いなく俺とお前は南の海で深海棲艦の餌になる」

 署名を終えた書類を手に、提督はそう言って足柄の瞳を真っ直ぐに見ていた。

 もちろん答えなど決まっている。

「私はあなたの秘書艦。間違えていない限りその決定に従う。そして、あなたのやりたいことは間違ってないと思ってる。だからどこまでもついて行く――たとえ行きつく先が地獄の果てでも、海の底でもよ」

 寂しそうな笑みを浮かべる提督。

 できることなら巻き込みたくないと思っているのだろう。

 だから。

「これは私が決めたことだから文句は言わせない。それにね、あなたと居ると退屈しないの」

 そう言って提督の手から書類を奪い取る。

「それ、どう言う意味だよ。まったく……毎度、秘書艦降りたいって言ってるくせに」

「うるさい。それを拒否したのはあなたなんだから、責任はきっちり取りなさいな」

「……そうかい。なら、始める――これが、第一歩だ」

 観念した様子で、提督は通信機を取り上げる。

「由良、夕張。特務艇ではづきに向かえ。七〇〇〇でエンジン停止、指示があるまで惰性で進め。可能な限りはづきを挟むような形でだ」

『由良、夕張、了解。指定位置まで三十分です』

「阿武隈、事前の打ち合わせ通り駆逐っ子たちとヘリで相模灘に展開。タイミングを合わせて敵潜を駆逐しろ。数は不明だが一隻も逃すな」

『了解しました! ご期待に応えてみせます!』

 次々と出されて行く指示に、艦娘たちが弾むような声で応答する。

 ここまで本格的な作戦行動をしたのは、いったいどれくらい前だろうか。

 それぞれが、久々に艦娘としての本能を呼び起こされ、奮起しているに違いない。

 足柄はその場に立てないことを悔やむ。

 今では自分がこの基地に残る最大の火力だ。

 けれど、潜水艦が相手ではそれを発揮することなどできないのだから、ここに残るのは当たり前のこと。

 後方待機をしているのは性に合わないが、この場合は仕方がない。

 そんな足柄の気持ちを見透かしたのか、提督が言う。

「足柄、艤装を持ってあきさめに乗れ。俺もすぐに行く」

「でも潜水艦が相手じゃ……」

「おいおい、東京湾に突っ込む予定の敵の水上艦隊がいる可能性だってあるんだ。そうなれば、夜戦になるからそのつもりでいろ」

「あ――了解」

 自分の力を揮う機会が来るかもしれない。

 飛び上がりそうなほどに弾む気持ちを抑え、いつもと変わらぬ調子の声で答える。

「あのさ、足柄……顔に出てるよ」

 どうやら見透かされていたわけでも、気持ちを抑えきれていなかったわけでもないらしい。

 苦笑いとともにその事実を告げられ、一瞬で顔が赤くなるのを感じる。

「……隠し事は苦手なの! だから、秘書艦は嫌だって言ってるのよ!」

 照れ隠しに少々きつい口調で吐き捨てて、頬を膨らませながら部屋を後にする。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


『横須賀第二よりはづき。状況はいかがですか?』

 二十分ほどの沈黙を破ったのは、無線からのそんな一言だ。

 その間に、艦内の応急班は損傷箇所の特定を終え、処置に取り掛かっている。

「今しがたいくつかの兵装が復旧して、システムのチェック中だ。戦闘は可能だろう」

 とは言っても、深海棲艦に対して有効な兵装は艦首の単装速射砲と高性能対空機関砲、それと五〇口径の機関銃くらいなもので、それらは相手が海面に姿を見せていなければ意味がない。

 その速射砲にしても、撃沈までに百近い数を命中させる必要がある。これが戦艦相手というならばまだ話もわかるが、駆逐艦相手でその数だ。

 それに現代戦の花形、護衛艦の主力である誘導装置搭載の兵器群は深海棲艦には通用しない。

 それがどういう理屈かはわからないが、一定の距離まで近づくと誤作動を起こし、あらぬ方向へ飛び去るか自爆して終わりだ。

 実質的に護衛艦の攻撃能力など、深海棲艦相手には無力だと言う他はない。

「武器が役に立つかどうかは別だがね」

 艦長の言葉はそれを皮肉るものだ。

 実際、護衛艦の仕事は高性能な探索装置とヘリコプターを駆使して、敵をいち早く見つけ、回避すること。

 砲火を交えるのは、避けられない相手から輸送船団を守るための囮となった時くらいなものだ。

『砲戦は別の機会にしましょう。必要なのはソナーと投射式ジャマー、自走式デコイ――それからIRフレアです。使えますか?』

 それを聞いた副長が首を横に振る。

「ジャマーのランチャーがダメです。応急での修理は難しいそうです」

 投射式ジャマーはロケットで一〇〇〇メートルほど離れた位置へ飛翔し、着水後は大音響を数分間海中に流す――簡単に言ってしまえば、スピーカーを海の中に放り投げるようなものだ。

 この装置自体に移動する機能はないし、攻撃的な機能もない。あくまでも音響探知式魚雷を回避するための防御用兵器。

 そもそも、先ほど横須賀第二司令によって列挙されたものは、どれもが防御用のものだ。

 そんなもので一体何をするつもりなのだろうか。

「だそうだ。海に放り投げて使うことはできるかも知れん」

『いえ。ある程度距離を取らないと逆に危険です――特務艇はたどり着けないだろうしな……デコイで代用するか』

 描いていた計画の変更をさらに求められる結果になり、無線の向こう側で何やら呟いている。

 彼が考えていることが自分の想像通りならば、ここが出番かも知れないと時雨は思った。

 ただ、それには少しばかり情報が不足している。

「ねぇ、それって大きさや重さはどれくらいなんだい? 内火艇で運べないようなもの? 写真でしか見たことがなくてわからないんだ」

『大きさ重さは五インチ砲弾程度、コムボートでも運べる。その手を考えなかったわけじゃないけど、設置したあとすぐにそこを離れなければ攻撃を受ける可能性があるんだよ』

 はづきから一〇〇〇メートル離れた位置となれば、場合によっては敵潜の方が近いかもしれない。そうなれば当然戦闘の只中になる上、飛来する機関砲弾や至近弾の爆風ですら、小型の船艇には致命的な一撃だ。

 敵にとっては砲弾を使うまでもない相手。体当たりで充分だろう。

「そういうことか……うん、それならなおさら僕がやるべきだね」

 なんでもないことを決めるように、さらりと時雨は言ってのけた。

 ここが出番だと確信したからだ。

『下手をしたら死ぬぞ?』

「これから横須賀第二がやることは、誰も見ていない、何も起きていない――そうだよね?」

『ああ』

「なら問題ないさ」

『意味がわからないが?』

「僕は時雨。白露型二番艦の時雨だよ」

『……なるほどね。艦長、ボートとジャマーの用意を。その子にジャマーの設置をやってもらいます』

 はづき艦長には事態が飲み込めないようだ。

 だがそれが当たり前だ。

 艦娘の存在は、ごく限られた一部にしか知らされていないのだから。

『艦長、はづきは最高についてますよ。何しろ、あの”佐世保の時雨”が乗っているんですから』

 時雨自身、その謳い文句を久々に聞いた気がする。

 ただ、ここで持ち出す話ではないだろうとも思う。

(それを持ち出すと、僕しか残らないって話になるんだけど……)

 思わず苦笑い。

 今は彼のようにいい方向に考えるべきなのだ。

 そもそもはづき自身、何度もの戦いを乗り越えてきた艦だ。

 そして自分を含め、状況を変えられる手札が揃ってもいる。

 だから、この場で幸運を引き寄せているのは、きっとはづきだ。

 問題はない。

「艦に艦が乗ってる? 何を言ってるんだ?」

 横須賀第二司令の一言は、艦長の混乱を余計に増幅させただけのようだった。

 時雨はそれを横目に、後部デッキへと向かう。

 今回は全員を救ってみせる。

 そう、心に決めて。

※本日分、ここまでとなります。
 細切れで申し訳ないです。
 今週中に、もう一度投下できればと思っておりますが、できなかったらごめんなさい。

 皆様、風邪など召さぬようお気をつけください。

※乙ありです。
 本当に寒くなってきましたね。
 なのに、あまりホットになれるような展開ではないのが心苦しいです。

 本日分投下開始致します。

 《7》


 何艘もの小型ボートが海面を静かに進んでいた。

 隊列も速度もバラバラのまま進むその群れからは、小型のエンジンの音だけが洋上に響いている。おそらくそれは海中にも聞こえているだろう。

 時雨はその中の一艘に、砲弾のような形をした投射型ジャマーとともに乗り込んでいる。

 そのほかのボートに人影はない。

 舵と速度を固定され、意思もなくまっすぐに突き進むだけだ。

『いいか時雨。できるだけ、はづきから離れた位置にジャマーを降ろせ』

 念を押すように、無線の向こうから横須賀司令の声が聞こえる。

「うん、わかってる。陸を目指すふりをすればいいんだね」

『その通りだ』

 ボートの群れは囮だ。

 音だけを頼りに状況を判断するしかない敵潜水艦からすれば、水上を走る小型船舶の群れに誰も乗っていないことなど知りようもない。

 だから乗員の脱出と判断するだろう。

『敵は確実に陸よりにいる。狙うのは先頭の船だろうが、気は抜くな』

 横須賀司令が無線の向こうで断言する。

 敵の狙いはあくまでもはづきの乗員をこの場に留め置くこと。そうすることによって救援艦隊の出撃を促し、別に潜んでいる潜水艦がそれらを撃沈するつもりでいる。

 それを忠実に実行するならば、はづき乗員の脱出は絶対に阻止しなければならない。

 だから、先頭を走る船を沈めることで、それを目撃した後続が引き返すことを狙ってくるはずだ。

『大丈夫ですよ、提督。先ほどの音はこっちの端末に登録しておいたから、攻撃の予兆はつかめますって』

 音響ブイにかかりきりのはずの明石の声が割って入る。

 作戦の要の一つだという自覚のせいか、言葉の割には声が少し硬い。

 敵潜の正確な位置を掴むためには、はづきのアクティブソナーだけでは情報が不足する。

 音響ブイからのデータも使って、三角測量の要領で位置を割り出さなければ、決定的な一撃を叩き込むことはできない。時雨たち艦娘の使う唯一の対潜兵器である爆雷は、それほど効果範囲が広いものではないのだから。

『明石、聞きもらすなよ?』

 万が一にでも討ち漏らせば、この後に待っているはづきの曳航作業が難しいものになる。

 提督の言葉はそれを明石に言い聞かせるものだ。

『任せてください――っていうか、性能に関しては私じゃなくて、メーカーに言ってもらえます?』

 重圧から逃れようと軽口を叩いてみせる明石。

『それもそうだな……後でレポートあげとけ』

 提督もそれを察したのか、さらに冗談めかした口調で返す。

『ええっ!? それも私の仕事なんですか!?』

『機械のことはわからないからな』

『……後で工廠にどうぞ。みっちり仕込んで差し上げます』

 戦いを前に、なんとも間の抜けた会話が繰り広げられる。

 聞いているものは皆、苦笑いをしているに違いない。

『気が向いたらな。こう見えても色々と忙しいんだよ――艦娘の検査なら立ち会いたいけどな』

『また、そんな事言って……結局提督さんは、艦娘にイタズラしたいだけじゃないですか』

 由良がさらに割って入る。

『ちょっ――人聞きの悪いことを言うな。はづきの乗員も聞いてるんだぞ? それにあれはスキンシップの一環だ』

 慌てる横須賀司令の声に、クスクスと笑う声がいくつも重なる。

 時雨が横須賀第二から異動して三年ほど。

 その間に何度か基地司令が変わり、最近では雰囲気もかなり変化したと噂で聞いていたが、想像していた以上だ。

 これはきっと良い方向の変化なのだろう。

 自身の張り詰めていた緊張の糸が適度に緩むのを感じ、時雨はそう思った。

『おしゃべりはここまで。発射管注水音を探知』

 明石の声で、空気が一気に締まる。

『時雨、行け。作動は合図を待つように』

「了解」

 その数少ない言葉が終わるよりも早く、時雨はジャマーを抱いたまま海へと飛び降りる。

 その様子を、おそらくは見ていたであろうはづき乗員たちは、心臓が止まるような思いをしているはずだ。救命胴衣もつけないまま、背中に大きな荷物を背負った少女が海の真ん中に身を躍らせたのだから。

 いくらジャマー自体に浮力があるとはいえ、到底支えきれるものではない。普通に考えれば海の底へまっしぐら。

 この辺りの水深は三〇〇メートルはあるのだから、助かるはずがない。

 水柱が上がり、時雨の姿がかき消える。

 けれど。

 タービンの唸る低い音が聞こえ、徐々に晴れていく水煙の向こうに人影が見える。

「機関正常――」

 時雨の囁くような声が聞こえてくる。

 やがて水煙が晴れると、そこには時雨の姿があった。

 髪も服も濡れておらず、何事もなかったかのように、まるでそこは元から地面だったとでも言うように二本の足で立ち、二度、三度と踏みしめて、その感触を確かめている。

 そして、その周囲を覆うように、僅かばかりに色のついた――不規則に色を変える、まるでシャボン玉のような半球体が現れ、空間が少しばかり歪んで見えた。

 それが障壁と呼ばれる、艦娘たちにとっての装甲だ。

「いつでもいけるよ」

 その時雨の言葉が作戦開始の合図になった。

『はづき、アクティブソナーを発信。探知後即座にデコイを射出してください。明石は音響ブイからのデータをはづきに送信。解析後のデータは共有』

 データの解析は明石の手元にある端末でも可能だったが、はづきに搭載されているシステムは専用に設計されているだけに、処理速度に大きな差がある。

 戦闘の最中ではその差が命運をはっきりと分けるし、何よりも得られたデータを共有する能力に関しては、深海棲艦対策として改修を繰り返し、本当の意味でのミニ・イージスと呼ばれるほどの性能を持つに至ったはづきに分があった。

『はづきCIC、アクティブ用意……発信』

 海中を甲高い音が駆け抜ける。

 数千メートルを伝わるその音波は、海中にある物体に反射して、エコーとしてはづきに返っていく。

 その角度や方向を解析し、即座にその物体に関する情報がはじき出されていく。

 もちろん音波の反射は特定の方向だけに向かうものではないから、拡散した反射波を付近に設置された音響ブイも拾う。

 それをはづきに送り解析させることで、さらに精度の高い情報が獲得できる。

『はづきCIC、コンタクト! 方位三四六、距離一八〇〇、深度二十! 続いてデコイ射出!』

 報告と同時に、はづきの右舷から魚雷のような形をしたデコイが発射される。

 それは護衛艦のスクリュー音を真似た音波を撒き散らす囮。本来は追尾してくる音響探知魚雷を回避するためのものだ。

『時雨、ジャマーを作動させろ』

 横須賀司令の静かな声を合図に、時雨は抱きかかえていたジャマーの電源を入れて海上に投棄。着水すると同時に、海中へ様々なノイズを混ぜ合わせた大音響が響き渡り、はづきの放つ音も、デコイの音も埋もれてしまう。

 ノイズを分離して求めている音を探し出すには、高性能なコンピューターを使ってもそれなりの時間が必要になる。

 そんなものを持たない敵が得た情報は、ノイズが入る前に短時間だけ聞こえた、デコイが放つスクリュー音と位置、移動方向だけのはずだ。

 だから、次に敵が取れる手段は潜望鏡深度まで浮上し、目視で確認すること以外にない。

 もちろん、横須賀司令はそれも計算に入れていた。

『はづき、IRフレア発射。特務艇は煙幕を展開しつつはづきに接近』

 指示に従い、はづきの艦橋後部にある発射筒から、高温で燃焼する金属塊が発射される。本来は熱探知ミサイルを回避するために使われるものだが、同時に多量の煙も生じさせる。その濃密さは数メートル先が見えなくなるほどだ。

 さらに、はづきの左右から特務艇二隻が煙幕を展開しながら接近していくことで、長さ五〇〇〇メートルほどに渡って視界を遮ってしまう。

 これでは、視覚でも情報を取得することは困難だ。

『由良。やることはわかってるな?』

『もちろんです』

 夕張と明石の操る特務艇が交差するあたりで、その二人を除いたすべての艦娘が海面に飛び降りた。

 春雨と五月雨はその場に留まり、万が一に備えてはづきを護衛。残りは由良を先頭にして、村雨、夕立の順に並んで敵潜が探知された位置へと向かう。

 特務艇の音も艦娘たちの音も、すべてがジャマーによってかき消されているのだから、遠慮する必要もない。揃って最大戦速でまっすぐに海面を突っ走る。

『由良より提督さん。水雷戦隊の展開完了、対潜戦闘を開始します』

『了解した。こちらは阿武隈隊とともに帰路の掃除にかかる、そちらの指揮は由良に任せる』

 そのやり取りを聞きつつ、ゆっくりとジャマーの側を離れ、由良隊との合流に備えていた時雨の視界の端に、嫌なものが見えた気がした。

 もう一度。

 今度はしっかりと視線を向けた先に、五つの白い航跡が見えた。一定ではないが、ある程度の間隔を保ち、横並びに海中を進んでいる。

 潜水艦にとって、最大の武器となる魚雷だ。

 それが由良たちに向かって伸びていこうとしている。

 けれど、それは敵が犯した致命的な間違いだ。

 おそらくは状況を確認するべく潜望鏡深度まで浮上したのだろう。そこで自分に向かってくる艦娘の姿を見て慌てたのだ。

 魚雷の間隔は乱れていたし、回避先を覆うような扇状の射線でもないのがその証拠。

 この状況下では、何もせずに深く潜って身をひそめるべきだった。

 そうすれば、この後に決定的な機会はいくらでもあったはずだ。

 魚雷を放ったことで、己の位置を晒し、逃走するための時間をも無駄にしたことになる。

『雷跡確認。どうせ苦し紛れだから無視する』

 由良はそう言って、まっすぐに突き進んでいく。

 けれど。

「由良さんたちはそのまま進んで」

 時雨はそう言って、その射線に交錯する進路をとって加速する。

『時雨ちゃん!?』

 その行動を見た由良がその意を図りかねて叫ぶ。

 何もせずとも由良たちはこの攻撃を回避できるからだ。

「この先に行かれるとちょっと厄介なんだ」

 あっ、と無線の向こうで由良が息を飲むのがわかった。

 自分たちの後方に、身動きが取れないはづきがいる可能性に気付いたのだ。

 惰性や海流で移動したはづきの位置は煙幕の向こうでわからない。可能性は低いが、当たらないとも言い切れなかった。

 そうなった時、五本の魚雷を春雨と五月雨の二人で対処するのは難しい。はづきとの距離もそれほど離れているわけではないのだから。

(三本……できれば四本はここで止めなきゃ、ね)

 全速力で射線の前に躍り出た時雨は、背中の艤装から小さな容器を連続で投下し、そのまま突き抜ける。

 魚雷が時雨の残した航跡と重なる直前。

 鈍い炸裂音が海中に響き、海面が盛り上がり、続けて一度くぼむ。

 そして、次の瞬間に大きな水柱が屹立する。

 それが四つ続けざまに起きた。

 時雨の目はそれを見ていない。

 見ているのは海中に刻まれる航跡だ。

 沸き立った海面を抜けた先に、まだ二本の航跡が見える。

『すごいっぽい!』

 夕立が何かのアトラクションでも見ているかのような感想を漏らして、はしゃいでいるのが目に入った。

 すでに時雨は舵を切り返して、魚雷の進行方向にもう一度割り込みをかけている。

 機関を限界まで回して、目一杯にまで加速。

 背中の艤装からは悲鳴のような甲高い音が聞こえている。この状態を長く続ければ機関が破損して、航行不能になる可能性もあった。

 それが万が一魚雷の射線の上で起きたなら、時雨の命運はそこで尽きる。

 けれど、時雨はそんなことに一切関心を持っていない。

 それならそれで、はづきへ向かう魚雷が一本減るだけ。その程度の考えでしかない。

 すれ違いざまに、由良と村雨が引きつった顔をしているのが見えた。時雨のやっていることが相当の無茶だと理解しているのだろう。

「由良さんたちはそのまま敵潜に」

 時雨の真似をしようと、爆雷の準備を始めた二人を制して、再び爆雷を投下する。

 敵潜を確実に沈めるために、由良隊は爆雷の無駄な消費を抑えるべきだ。

 それに。

 もう一度天を衝くような水柱が上がり、航跡の一つがそこで断たれた。

 残ったもう一本を追うことは流石に無理だ。

 けれど、その先には春雨と五月雨が待ち構え、時雨がやって見せたのと同じ方法で爆雷を投下していく。

 今度は密度が倍だ。確実に魚雷は無力化されるだろう。

 そちらを最後まで見ることなく、時雨は先ほど投棄したジャマーに向かう。

「時雨より各員。ジャマーを回収するよ」

 予定より早いが問題はない。作戦上はもう用済みだ。

 作動時間が数分とはいえ、敵潜を探すにはむしろ邪魔になるだろう。

 敵には動力を使って逃げる以外の方法はないし、それを探すのであれば静かな海の方が好都合だ。

 由良たちなら、それほど時間もかけずにやってのけるだろうし、もう自分の出番もない。

 同じことを思ったのだろう。特務艇に乗った明石と夕張が、ボートの群れの回収に動き始めているのが見える。

 爆雷の炸裂音が響く中、時雨はジャマーを拾い上げ電源を静かに切った。

 それは敵潜に最期を宣告するものであり、それを執行するスイッチだ。

 相手がこれをどう捉えたかなど、時雨の預かり知るところではない。

 だが、それは確実に訪れる。

 くるりと身を翻して、時雨もボートの回収に向かった。

 《8》


 戦闘終了から一時間が過ぎたころ、護衛艦はづきの上空にヘリコプターが飛来した。

 周囲をくるりと二周ばかりして状況を確認しながら、はづきへの着艦許可を取り付けたそれは、ゆっくりと後部甲板へその身を降ろす。

 機体が安定したのを見計らって後部のドアが開き、人が降りてくる。

 まずは横須賀第二司令。

 その後ろには、長い髪をダウンウォッシュの手荒い洗礼でもみくちゃにされながら、大層不満げな顔つきで秘書艦の足柄が続く。

 二人がある程度離れたのを確認すると、ヘリは再び出力を上げて空へと戻っていく。この後はそのまま東側の海域の哨戒をしながら、横須賀第二司令を待つことになっている。

「ご無沙汰しておりました」

 格納庫から近づいてくる人影を見つけ、横須賀第二司令は直立不動で敬礼をする。

 なぜか、足柄も反射的にそれに倣っていた。

 艦娘は協力員という立場なのだから、その義務はない。

 実際、艦娘たちには自衛隊の制服も階級も与えられていない。

「おいおい……階級は同じ、役職はそっちが上だぞ」

 苦笑いをして皮肉を言うのは、その敬礼を送られたはづき艦長だ。

「染み付いた癖というのは、なかなか抜けないものですよ」

 組織の都合で一気に階級を登りつめ『させられた』のだから、こればかりは仕方がない。

 実際にはもっと時間をかけて登っていくはずのものであり、それにまつわる様々な儀礼を覚えていくものだ。

「まぁ、年齢は艦長の方が上ですし、これでいいんじゃないですか?」

「敬礼の順番を譲るくらいで若返れるなら、私は若さを選ぶぞ?」

「それこそ譲るつもりはありません」

 互いに冗談を言い、大笑いをしてそれで終わり。そこには彼らを縛り付ける権威などない。

 あるとすれば、同じ修羅場をくぐり抜けてきたという仲間意識。

 互いを尊敬する気持ちがあれば、物事はそれなりに上手く進むものだ。

 権力というものが必要になるのは、どちらかにその気持ちが欠けている時になる。

 にこやかに繰り広げられる会話が、時雨には少し羨ましかった。

「久しぶりね、時雨。まさかこの艦に乗っているとは思わなかったわ」

 横合いからかかった声にそちらを振り向けば、いつの間にか足柄が立っていた。

 一見するとにこやかな雰囲気を漂わせているが、瞳の奥は決して油断をしていない。

 明らかに時雨を警戒し、値踏みをしている。

 自分の関わっている組織のことを考えると、そういう判断が当然だし、仕方のないことだ。

 表向きには情報の取得と精査を持って国に貢献している情報部とはいえ、その裏では、それ以上に汚い仕事もこなしているのだから。

 例えば今回のような――。

「あれのせいさ」

 そう言って、時雨はヘリ格納庫を占拠している二本のコンテナに視線を投げる。

 時雨に与えられた命令は、このコンテナに収められたものを横須賀基地まで届けることだ。

 中身は試作新兵器だという噂だが、本当はわからない。

 少なくとも、情報保全のための監視という任務が与えられるほどのものが入っていることだけは間違いない。それは情報部にとってはごく当たり前の任務の一つだ。

 けれど、それはあくまでも表向き。

「積荷の監視、ね……本当かしら?」

 だから、秘書艦という立場上、組織内の裏事情にも通じている足柄は、その任務をあからさまに疑っているようだ。

 口調は穏やかだが、視線は鋭さを増している。今にも時雨を射抜いてしまうのではないかと思えるほどに。

「どういう意味だい?」

「積荷の監視くらいなら、艦娘にやらせる必要なんてないと思うけど」

 足柄の指摘はもっともだ。

 ただし、それができるのは艦娘という存在を知っているからだ。

 上層部は横須賀第二に何も伝えなかった。

 本来であれば、事前に航行する事を伝える決まりがあるにもかかわらず、だ。

 恐らくは、それを知った横須賀第二の司令官が何かをすると考えたから。彼はその程度には組織内で疎まれているということでもある。

 結果として、稚拙な隠蔽工作が事態を複雑化し、無用の危機を招き寄せた。

 そして、上層部が最も警戒する人間に情報を与えることになる。

 その事実を、隠蔽した側が知ることもなく。

「足柄が思っている通りのものが入っていると、僕も思うよ」

 時雨はあっさりと足柄の考えを肯定する。

 隠しようなどないのだから、これ以上事態を複雑にして、自分の立場を危うくすることだけは避けたい。

 艦娘として戦うとなれば、横須賀第二や足柄とも肩を並べることもあるだろうから。

 その時に信頼を得られないのは、色々と問題になる。

 けれど。

「そうね……でも、それだけじゃないでしょう?」

 足柄はさらに一歩先まで見通していた。

 その命令こそが、情報部という組織の裏の顔を最も体現したものだろう。

 自分以外のものに知られれば、確実に関係が悪化する内容だ。何より時雨自身が、その命令を実行することだけは避けたいと思うほどに。

 心の内で起きた一瞬の葛藤が、誰にでもわかるほどの間となって現れる。

「――何がだい?」

 ようやくひねり出した言葉がこれでは、ますます状況が悪化するだけじゃないかと、時雨は自分に失望する。

 こんな時くらい、多少感情が表に出てもいいじゃないかとも思う。

 しかし、それは無駄だ。

 情報部は時雨のそんな部分を見込んで囲っているのだから。

「命令。他にもあったんじゃないのかしらね」

 思った通りの言葉を足柄が放つ。

 もはや隠し通すことも、シラを切ることもできはしない。

 ただ、この事実をこの場で告げることだけは何としても避けたかった。

 少なくとも、はづきの関係者にだけは知られたくない。

「足柄、そのくらいにしてやれ。時雨なりに気を使ってるんだよ」

 助け船は横合いから突然にやってきた。

 艦長との談笑を終えた横須賀第二司令が、時雨と足柄の間に立つ。

「時雨も、はづき関係者に気を使ってるなら無用だよ。艦長もすぐにわかってくれる。そのくらいの度量がなきゃ、艦長なんてやってないよ」

 ちらりと視線を向けた時雨に、大きく頷いてみせる艦長。

 その表情には時雨の葛藤を知って、それを労うような優しさが混じっていた。

 覚悟を決めて口を開く。

「――不測の事態が起きた場合は、どんな手を使っても確実にコンテナを破壊処分しろ。それが命令だよ」

 その言葉で、三人の顔に納得の表情が浮かぶ。

「残念だけど、コンテナの中身は僕にも知らされていない。だからこれは憶測での話になるけど、足柄が言う通り監視に艦娘が必要な理由なんてたった一つしかない」

「深海棲艦――サイズから考えると駆逐艦クラスだろうな」

「うん。それ以外に考えられないと思う」

 横須賀第二司令の言葉を肯定する。

「しかし、それならば陸送の方が確実だと思うがね」

 確かに艦長の言う通り、敵と遭遇するリスクのある海路よりは、内陸を通った方が確実に目的に送り届けることができる。

 けれど事はそれほど簡単でもない。

 横須賀第二司令がそれを説明する。

「我々は敵のことを何も知りません。何度か経験した戦いにおいても、砲弾をありったけブチ込んで、敵を蜂の巣にした後、それがゆっくりと沈んでいくのを見たことがあるだけです」

 そこで一旦言葉を区切り、広い海原に視線を移す。

「……言葉が適切かどうかはわかりませんが、深海棲艦がそれで死んだのか、それともただ単に一時的な機能停止に陥ったのか。それすらもわからない。それが我々の認識の限界です」

 海上、海中、空。様々な手段で襲いかかってくる多数の敵と交戦し、同時に多くの輸送船を護衛しながら、沈み行く敵をサンプルとして鹵獲する。

 そんなことが現実に実行できるかなど考えるまでもない。

 だからこそ、これまで人類は敵に関する基本的な知識すら獲得できていないのだ。

「そんなものを陸路で運んでいる時に、万が一にでも息を吹き返したらどうなると思いますか?」

 それは悪夢だ。手の打ちようがない。

 艦娘たちは海の上にいなければ、その能力を発揮する事はできない。

 主砲や魚雷を撃てる事は撃てる。ただ、それが本来持っているはずの威力を発揮させるには、障壁の作る空間を通さなければならない。

 そして、その障壁を作り出せるのは海の上だけ。

 そんな艦娘たちと深海棲艦が同じ制約の下にあるなど、誰が言い切れるのか。

 実際に、上陸して基地的機能を果たす深海棲艦を見たと言う話もあるくらいなのだから。

 それが本当だとすれば、陸上――海から遠く離れた内陸部で活動する敵に対して、時雨たち艦娘は何もできないことになる。

「だから海路を使うしかないんです」

 艦長に対して、艦娘の能力に関する簡単な説明をした後、全員の想像がそこに至る時間を待ってから、横須賀第二司令はさらに話を続けていく。

「海の上であれば万が一そう言う事態になっても、船の燃料や弾薬を誘爆させれば駆逐艦娘一人でも、確実に敵を破壊できます。この場合、輸送船を使えばそのあとが色々と面倒なことになりますけどね」

「それで護衛艦か……」

「ええ。護衛艦ならば作戦行動中に敵と接触、勇戦するも武運拙く……なんてストーリーが使えますから。危険な作戦を内密に実行していた証拠も隠滅できて、上層部も安泰。これを教訓に以降の作戦を立案する」

「無茶苦茶だな」

 二五〇人からなる護衛艦の乗組員を使い捨ての道具と考える作戦を評するには、艦長のその言葉はかなり控えめな表現だ。

 実のところ、組織の枠に収まっている横須賀第二司令と艦長には、それ以外の言葉が思いつかなかったのかもしれない。

「狂ってるのよ。イカれてるでもいいわ」

 吐き捨てるように言った、足柄のその言葉が適切だろう。

「俺としては、そこまでやらなければならないくらいに切羽詰まったんだと思うことにしたいね。じゃなければ……」

 横須賀第二司令はそこで口をつぐんだ。

 そのあとに続く言葉は誰にもわからない。きっと永遠の謎になるだろう。

 そして、それは知らなくてもいいことだ。

「とにかく。この状況は現場の我々としても、あまり愉快ではないな」

「ええ。そこで一つ、状況を変えてやろうかと思います」

 艦長の言葉に横須賀第二司令がニヤリと笑って返す。

 その笑みはとても危険で――そして、不思議なことに魅力的な輝きがある。

「それを始めるにあたって先ほどお願いした通り、はづき乗員は何も見ていない、何も起きていない。自分と足柄は当然のこととして、横須賀第二の人間は誰もここに来ていない。それを通してください」

「しかし、デコイやIRフレアはどうするね?」

 時雨が回収したジャマーに関しては、ものがそこにある以上いくらでもごまかしが効く。

 けれど一度発射してしまったデコイがどこにあるかは不明だ。動力が切れた時点で、おそらくは海底に沈んでいるに違いない。

 IRフレアに至っては、燃えて煙になってしまっている。

 当然これらの不足は整備の段階で発覚するし、何かがあったと言うことは間違いなく伝わるだろう。

 補給を受けるにしても決済がいるのだから、隠しようがない。

「それらは護衛艦あきさめから補充します。どのみち相模灘で対潜戦闘をしているので、使っていてもおかしくないものです。これらを頻繁に消耗している有事の最中にロット番号までチェックもしないでしょうから」

「了解した。しかし、隠すにしてもそんな長期間は無理だ……あんなのを見せられて口を噤んでいられるほど、乗員たちも大人しくはない」

 護衛艦乗りたちは、苦戦し、仲間を喪いながら戦い続けてきている。

 その状況を一気に変えられるかもしれない存在を見たのだから、語らずにはいられない。

 一昔前ならば、海上を滑走する人型兵器の話など、アニメか漫画の見過ぎだと一笑に付されただろう。けれど、深海棲艦という現実離れした存在が現実に猛威を振るい、それを相手取っている今ならば話は別だ。

 一度この手の話が出れば、間違いなくあっという間に組織内に伝わっていく。

「噂は必ず広がるものです。むしろ広めていただきたい」

「なら、なぜ今ではダメなんだ?」

「情報部が保全に動きます。噂の出所を探して、我々横須賀第二と、我々と接触があったところから調査に入ります。今、噂が広がれば、この海域にいたはづきも間違いなくその対象になります、いくら当人たちが否定したとしても」

 横須賀第二司令の狙いが時雨にはよくわかった。

 時間が開けば開くほど、情報部が辿るべき可能性は増え、調査に時間がかかる。

 その間に噂は組織内に行き渡っているだろう。

 これを打ち消すには偽の情報を作って流すしかないが、それ自身扱いがとても難しい。

 対応に苦慮している間に、噂は組織の外へ流れ出しているだろう。

 公式見解を持ってこれら一切を否定するという光景はよくあるが、大抵の場合には逆効果にしかならない。単なる噂に対して必死になる様は、わざわざ信頼性を裏打ちしてやるようなものだ。

「でも、横須賀第二にも情報部の関係者がいるかもしれない」

 時雨の指摘に横須賀第二司令が頷く。

「陸に上がればその可能性はある。けど、この状況を知っているのはあきさめの乗員だけだし、彼らの素性は把握している。それに彼ら自身も犠牲を払い続けているんだ。手を貸そうという気になるわけがないだろうね」

「なるほどね。それなら大丈夫かもしれない」

 納得した時雨とは違い、怪訝な顔をしたままのはづき艦長。

「情報部が動いて何か問題があるのか? それにあきさめの連中が犠牲というのは?」

 その問いに答えるのは横須賀第二司令ではなく、その視線を投げかけられた時雨だ。

 情報部の一員として、ある程度の事情には通じているのだから。

「艦娘との接触が発覚すれば、護衛艦はづきは戦力不足の佐世保第二に配置転換、情報部の監視下に入ることになるよ。あきさめが横須賀第二に配置されたのと同じように、艦娘を乗せて最前線への戦闘輸送任務に就くことになるんだ。もしその網を潜り抜けて何かしようとしたら……」

 時雨はそこで言葉を切って、首を横に振る。

「我々は戦闘員ですからね。消えた理由は民間人よりも作りやすいんです」

 という横須賀第二司令の言葉に。

「まさかそこまでは……」

 言いかけた艦長の言葉がそこで途切れる。

 自分たちの乗っていた護衛艦に対する撃沈許可が出ていたことを思い出したのだろう。

 否定する言葉を続けることができなくなり、ただ唇を噛む。

「最初の一歩を踏み違えたせいで、この事実が管理されないまま一般に漏れると、間違いなく国はひっくり返ります……少なくとも、犠牲を減らすことができたのに、それをしてこなかったと追求される者が出ますから。政治家たちが恐れているのはそれだけでしょうけどね」

 最初から艦娘たちの存在を明かし、投入すれば、間違いなく輸送船団や自衛官の犠牲は少なく済んだはずなのだ。

 なぜ人間はそうしてこなかったのか。

「一番の問題は、艦娘の技術を転用したいと考えている連中。それができれば間違いなく莫大な利益が生まれます……だから、諸外国や同業者にできる限り知られたくない」

 コンテナに描かれたロゴマークを見つめる横須賀司令。

 確かにそれが可能になれば、状況は一気に好転するだろう。

 けれど、それは夢物語だ。

 何年もかけて基本的なこと一つすら解明できていないのだから。

 時雨自身、何度その実験に付き合ってきたか。おそらく他の艦娘もだ。

 この先いったいどれだけの時間が必要になるのか。

 その裏でどれだけの血が流れるのか。

 それを呑気に待っていられる余裕など、この国にはない。

「政治家たちは彼らの腹づもりを知っていても、それにぶら下がるしかない。うまくいけばそれまでの負債は帳消し。世界を数歩リードする立場にもなれるんです……金と権力。この二つが組み合わさっているんですから、血迷う人間が出てきてもおかしくはない」

 それは人間の歴史の中で何度も繰り返されてきたことだ。

 どうやっても否定することなどできはしない。

「そもそも、艦娘という存在が我々だけに与えられたなんていう都合のいい話もないでしょう。だからこうなった……きっと海の向こうでも似たようなもんでしょうね」

 自分の生きている時代だけ、すべての指導者が清廉潔白などという都合の良い状況など起こるはずもない。

 もちろん、事の大小に差はあるが。

「こんな時勢に、そんなことを考えている余裕があるのかね」

「余裕があるからこそなんですよ。ですが、ここらあたりで本来の道に立ち返らないと手遅れになります。その先に待っているのは勝ち目のない総力戦――人間にも艦娘にも犠牲が増える、そんな馬鹿げた救いのない未来です。だから目を覚ましてもらう必要がある。自分はそう思います」

「しかし、下手を打つとクーデターと見なされかねんぞ?」

 艦長の懸念を横須賀司令はあっさりと笑い飛ばす。

「かもしれませんね……でも、誰かがやらなきゃいけない。なら――」

 そのあとに続いた言葉を聞き取ることはできなかった。

 おそらく、艦長にも足柄にも、だ。

「この一年で随分と変わったな」

 艦長が眩しそうに横須賀司令を見る。

「昔のお前は絶対にそういうことは言わずに、むしろ逃げ回ってたはずなんだが」

「――やりたいこと、やるべきことを見つけただけですよ」

 横須賀司令に浮かぶのは寂しそうな笑み。

 そんな顔をする人間が大勢いた。

 時雨の遠い記憶の中にあるそれらが蘇ってくる。

 彼らの末路とともに。

 時雨は声をかけるべきか迷う。

 そもそも、どう聞けばいいというのか。

 そうしているうちに、その笑みは消えてしまった。

 はづきの通信士官が、プリントアウトされた通信文を手に駆け寄ってきたからだ。

「相模灘の掃除が終わりました。うちの明石が補充品を届けた後、横須賀へ救援を要請してください。スクリューの破損については、適当にごまかしていただくことになりますが」

「なんだ、もう暫くいるんじゃないのか?」

 積もる話があるのだろう。艦長は心から残念そうに言う。

「自分は一足先に基地へ戻って、相模灘の件を上層部に突きつけてやりますよ……多少、誇張したり内容は改変したりはしますけどね」

 その傍らでは、足柄がヘリと連絡を取り始めた。おそらく、ものの数分でやってくるだろう。

 このままであれば、彼と接触を持てるのはこれが最後になるかもしれない。

「横須賀司令」

 だから今度こそは意を決して、時雨は話しかける。どうしても聞いておかねばならないことが他にあるのだ。

「なんだ、時雨」

「僕、今の話を聞いていてよかったのかな?」

「なぜ?」

「情報部だよ、僕の所属」

 艦長はさほど気にしていないと言うような顔をしているが、足柄はどうしたものかという顔をしている。

 そして、横須賀司令は怪訝な顔をして、時雨を見つめていた。

 何を言っているのか理解できないとばかりに。

「なぜ、お前は自分を危険にさらしてまで、はづきを救った?」

 ――人を守るのが艦娘の存在意義だから。

 そう口にしようとして、時雨はそれこそが提督の言わんとしていることだと悟った。

 時雨の表情の変化に気がついたのか、横須賀司令はニヤリと笑う。

「それが答えなら、俺がさっき話したことの重要性だって理解できるだろう? それを理解できるなら、どう動けばいいのかなんて説明するまでもない」

 ちらりと後ろを見て、さらに続ける。

 恐らくは足柄の態度を気にしたのだろう。

「それでも、残念ながらまだ確信は持てない。それも理解できるはずだ。だからこれは簡単なテストだと思ってくれればいい」

 この話を聞いたところで情報部に与えられる選択肢は限られている。

 情報操作には限度があるからだ。

 人間は希望にすがる。希望を打ち消す話よりも、希望があると言う話を信じたいものだ。

 そして、今はそれを容易に受け入れてしまえるだけの環境も揃っている。

 そうさせない為には、速やかに直接的な対処をするしかない。

 その動きがあれば、話の出処が時雨だと言うことはすぐにわかるし、その結果、横須賀司令や他の艦娘たちとの関係もそこで終わりになるだろう。

 たとえ情報部とのつなぎを維持しつつ、横須賀司令のそばに近づいたとしても、状況が大きく変化して情報統制の意味などなくなっている。

 その時、時雨にはなんらかの制裁措置があるだろうし、横須賀司令からの庇護を受けることもできない宙ぶらりんな存在になってしまう。

 何をするにしても勝手だが、中途半端な立ち位置だけは許されない。旗色ははっきりさせなければならないだろう。

「俺としては必要ないと思うんだけど……後ろのオオカミさんの手前、な」

 時雨だけに聞こえるように小さく囁く。

 確かにその後ろでは、剣呑な表情をして足柄が成り行きを見守っていた、が。

 時雨のその視線で何かを感じ取ったのか、足柄が横須賀司令の肩をトントンとつついて――

「また、私をダシに使ったわね?」

「気のせいだ、気のせい」

 もう一度ニヤリと笑うと、横須賀司令は近づいてくるヘリに向かって歩き出す。

 おそらくは常日頃から繰り返されているであろう、そのやりとりを聴きながら、時雨は自分の立つ場所を決めた。

「ああ、そうだ。明石から爆雷と燃料の補充を受けておくように」

 何も起きていないのだ。艤装に使用された形跡が残っていては都合が悪い。 

「わかったよ。整備もしておくね、提督」

 背中からかけた了解の声に、なぜか横須賀司令こと提督はズルリと足を滑らせ、足柄は腹を抱えて笑っていた。

 あんな風に心から笑える日が、自分にも来るのだろうか。

 時雨はそんなことを思った。

※今回分はここまでとなります。
 次からは第二章になります。
 できるだけ日を開けずに投下したいと思いますが……。
 ゆっくり目の更新で、本当に申し訳有りません。

※乙ありです。
 本日分投下開始します。

 《第二章  作戦計画》

 《1》


 東京。

 一国の首都であるにもかかわらず、夜の街は闇が支配していた。

 深海棲艦が現れる前と比べてしまうと、まるで別の国の街のようで落ち着かない。

(これが我々の望む現状維持、か)

 自らを乗せた車のヘッドライトが闇を切り裂いて行くのを、海幕長たる海将は忸怩たる思いで見つめていた。

 深海棲艦の艦載機による空襲を恐れ、灯火管制でも敷いているのかと勘違いしてしまうが、実際は違う。

 敵艦載機の迎撃は人類の手でも可能だ。

 高性能なミサイルも、機関砲も、音速で飛ぶジェット戦闘機も。そのすべてが有効に機能する。

 よって敵機は迎撃を恐れ、本土上空に近づくことは稀だ。

 ――たとえ近づいても、一つ残らず叩き落としてみせる。

 幕僚会議で航空自衛隊のトップである空幕長が鼻息も荒くそう言っていたのを思い出す。

(それに比べて我々は……)

 首都がまるでゴーストタウンのようになっているのは、海上輸送路の確保が困難だからだ。

 強力な対艦ミサイル、追尾性能に優れた魚雷、精度の高い速射砲。その一切が深海棲艦には通用しなかった。

 海という国家の生命線を維持するために、海上自衛隊がするべきことが何一つできないのだ。

 握った拳に力が入り、手のひらに爪が食い込む。

 国家の存亡をかけた状況下に、縄張り意識を持ち出したり手柄を自慢するようなつもりはない。

 ただ、何もできないことが悔しい。それだけだ。

 曲がりなりにも服務の宣誓をした身。その気持ちに嘘偽りはないのだ。

 ないからこそ、これほどまでに苦しんでいるのだ。

「到着しました」

 運転手役の若い士官の声がした。

 海将を乗せた車は静かに減速し、わずかほどのショックもなく一軒の建物の前で止まった。後部ドアは正確に建物の門扉の前。

 これが操艦であれば拍手喝采もの。

 だが、ここは陸だ。

 船乗りが車の運転ばかり上達していく。

 そんな些細なことさえ、海将の心を痛めつけていく。

「ありがとう。それほど時間はかからないだろうから、駐車場で待っていてくれないか?」

 だが、彼に罪はない。だから、ただ静かに次の指示を与える。

「わかりました」

 海将は運転手の返答を聞くと、自らの手でドアを開けて、すぐに門扉をくぐっていく。

 外からは見えないが、中は煌々と明かりが灯されていた。

 ここは都内でも有数の老舗料亭である。

 今時、料亭政治などあまりにもナンセンスだ。

 張り込んでいるマスコミもいないだろうが、できる限り誰かに姿を見られたくもなかった。下手に見られれば、余計な波風が立つ。

 少なくとも中で待っている人物はそういうものを引き寄せる人種だ。

 すぐに主人が現れ、海将を奥の座敷へと案内していく。


「それで、状況はどうなのかね」

 案内された部屋に入るなり、海将を一瞥しただけで挨拶もないまま、上席に陣取った男は話を切り出す。

 苦虫を噛み潰しすぎて、その表情がそのまま張り付いてしまったような顔をしたこの年配の男は政権与党の幹事長。

 この部屋では歴代の大物政治家たちが、世界の情勢や国内の世論を肴に酒を酌み交わしてきたのだろう。

 もちろんその味が常に極上だったとは限らない。

 例えば今のように、どんな銘酒でも不味くなるような肴の時もある。

 その前に座らされ、小さく縮こまったまま真っ青な顔をした防衛大臣は、吹き出す汗を必死に拭いながら、どう説明するべきかを必死に考えている。

(見慣れた光景とはいえ、なんともね)

 このような決断力に欠ける男が今の地位にあるのは、与党内で最大派閥を形成している幹事長の力があってこそ。選挙を控えたこの時期にその機嫌を損ねることだけは何としても避けたいだろう。

 頭の中で様々な想定問答を繰り返し、その度に行き詰まる。だから、酸欠の鯉のように口をパクパクとさせるだけで、言葉は出てこない。

 よくよく見てみれば、その顔がどことなく鯉に似ている気もしないではない。

「だいたい、君が私をここに呼び出す時はロクな話ではないんだ」

 そんな幹事長のぼやきなど、恐らくは耳に入っていないだろう。

 何を言うべきか。どう伝えるべきか。海将にはわかっている。

 だが自身にはまだその権利は与えられていない。

 そして、そのもどかしさは自分以外の人間にも表情となって現れている。

 例えば、少し離れた位置でため息をつく官房長官。

 例えば、部屋の隅で居住まいを正しているスーツ姿の若い男。

 その顔にはどこかで見覚えがあったが、果たしてどこでだろうか。

 とにかく、時間だけが無為に過ぎていく。

 喫緊に迫った問題にどう対処するかを決めねばならないはずなのに。

 官房長官がグイと盃を煽り――

「まずいよ」

 と、渋い顔で一言。

 決して酒の味のことではない。

 置かれた現状を端的に言っただけだ。それは国の置かれた位置でもあるし、この場の雰囲気でもあったかもしれない。

 とにかく、口火を切ってくれただけでもありがたい。

 そんな顔をして、長官をちらと見てから、大臣は説明を始める。

「相模灘に潜んでいた敵は十二隻。いずれも潜水艦ですが、横須賀第二基地の機転でなんとかこれを排除しました」

「排除できたのなら問題はないだろう」

 さほど考えることもなく言い放つ幹事長は、あくまでも政治の世界の人間だ。

 人を相手の政治的駆け引きなら、それこそ一目でも二目でも置けるが、残念ながら軍事方面に関しては素人同然だった。

 もっとも、日本人の軍事音痴は戦後教育の賜物なのだから、この場にいる他のものも同じだ。だから、取り立ててこの言葉を責め立てるつもりは誰にもないだろう。

「排除できたのはいいのですが……」

 再び大臣は口ごもる。

 どうにも腹を決めると言うことができないタイプのようだ。

 国防の一切を担う省庁の大臣としては明らかに不適格という他ない。おそらく他でもダメだろうが。

「何か他にもあるのかね」

 焦れた幹事長が語気を荒げて問う。

 その声で完全に萎縮してしまった大臣は、ついに思考停止に陥る。

 やれやれと言った具合に官房長官がその後を継ぐ。

「敵は排除されたがね、幹事長。敵が首都圏近くまで入り込んできたということ自体が問題なんだよ」

 その言葉に今一つ実感がわかないのであろう。幹事長はとりあえず手元の盃を煽る。

 その中身が完全に呑み下されるのを待って、長官が話を続ける。

「万が一これが続いて、敵が東京湾内なんかで姿を現してごらんよ……国民の不安と不満は一気に爆発するよ。当然その矛先がどこに向けられるかなんて説明するまでもないね」

「そうならないために、無理やり予算をつけて防衛網を構築したんじゃなかったのかね」

 音響ブイによる警戒網のことだろう。

 資材不足が影響していて、その完全な構築にはまだ数年かかるという説明を何度、この男にしただろうか。

 おそらく何度しても無駄なのだろう。

 金と票を数えることだけが生きがいのような男なのだから。

「そうはいうがね幹事長。まだ不完全な網に絶対の信頼を寄せられても、現場は困るだけだよ。それに、あれは音を聞くだけしかできない代物だ。我々の耳と同じように、小さな音がより大きな音に紛れて聞こえないのは、機械だって一緒だよ」

 その点、官房長官は現場からの説明をきちんと理解し、自分のものにできるだけの能力があった。

 役職から考えれば、当然持っていてしかるべき能力ではあるが。

「それじゃ、無駄金じゃないか」

「いやいや、役に立っていなわけじゃないよ。事実、今回のような奇策でもない限りは、敵の侵入を防ぐことができているんだから」

 だからこそ、幹事長が放った身も蓋もない一言に対しても即座の訂正ができる。

 事実、装備を整えるには莫大な時間と労力、そして金が必要だ。

 小銃一つにしたって、全部隊に行き渡らせるためには二十年以上が必要になる。

 下手をすると、最初に配備されたものが耐用年数を迎えて廃棄になり始めても、末端の部隊は未だにそれを手にしていないということも起こる。

 自国のみで配備することが前提である以上、生産数は限られ単価は跳ね上がる。そしてそれを買い付ける唯一の組織の予算は有限であり、そんな高価なものをポンポンと買えるほど潤沢とはいえないのだ。

 それに今に限っていえば、たとえ金があっても作れる数に制限がかかっている。

 幹事長の一言は、それらの事情をまったく考えていない愚かなものだ。

「では、何が問題だっていうんだ」

「横須賀第二だよ。あそこの司令官が戦力の増強を求めてきた。今後も似たような手法で侵入されることが予想されるし、その対処には現有戦力ではどこかに必ず穴ができるってね。その見解については我々も同じだよ」

 官房長官が自分の方に視線を送るのを見て、海将も即座に同意の頷きを返す。

 つい先日の幕僚会議で出た結論でもある。

 今回の敵の狙いがなんだったのか、正確にはわからない。

 だが、予測はつく。

 船団そのものか護衛艦。潜水艦で狙うならどちらかだ。

 官房長官が言うような政治的効果は、敵から見ればそれで起きる余波でしかない。

「では、回せばいいじゃないか。佐世保には多めに配置しているんだから」

 さすがにその話は覚えていたらしい。

 生粋の政治家である幹事長らしい単純明快な答えだ。

 だが、実際はそんなに簡単な話でもない。

「多めとは言っても、余力があるわけじゃないよ。必要だから配置してるんだ。佐世保の戦力を横須賀に回せば、その分海上輸送路が手薄になる」

「そうは言っても、首都を守れなければなんの意味もなかろう? それに工業地帯だって……そうか、資源がなければ戦うこともできんのか」

 ようやく気がついたらしい。

「ええ。ですからまずいんですよ。どちらも重要で、どちらかに偏らせることはできない」

 ため息をつく官房長官。

 非常に遠回りではあるが、人脈を駆使した影響力が大きい相手だけに、こうでもしなければ後々面倒なことになるのを承知しているのだ。

 そんな相手と渡り合って、ため息程度ですむ官房長官も大した人物だとは思うが。

 おそらくは、この政府の中で一番の食わせ物。

「何かうまい方法はないのかね?」

「そう言われても、我々は政治家だ。兵隊をどう動かせばいいのかなんて知識はないよ」

「ううむ……」

 官房長官の一言を受けて、幹事長は言葉に詰まる。

 しばしの沈黙が場を支配した。

 そして、結局。

「……餅は餅屋だ」

「だろうね」

 幹事長と官房長官の視線が海将に集まる。

 わざわざ時間を割いてここまでやってきて、すでに出来上がった脚本に乗るだけ。いつものことだ。

 だが、今回の脚本を書いたのは官房長官だ。

 幹事長に要らぬ口を挟まれれば、状況がさらに危うくなると考えてのことだろう。

「わかりました。微力を尽くします」

 そうは言ったものの、戦力の不足は変えられない事実だったし、それで国の中枢と輸送路の双方を守るのは、かなり困難な任務になるだろう。

「頼んだよ」

 そう言って幹事長は杯を差し出す。

「いえ、私はこれから主だったものと対応を考えねばなりませんので」

 やんわりとそれを断り、席を立つ。

 これから先は、どれだけ時間があっても足りないくらいだ。

 悠長に酒を飲んで舞い上がっている暇はない。

「では、私はお客様をお見送りしてきますよ」

 官房長官も続いて席を立ち、二人は連れ立って部屋を後にする。

 静かに閉じた障子の向こうでは、また別の密談が始まるのだろう。

「海将、面倒をかけて申し訳ない」

「いえ。これが仕事です」

 廊下を歩きながら二人も密談を始める。

「実際のところ、どう対応するつもりなのです?」

「横須賀第二には限定的にでも増援を出さなければならないでしょう。その辺の根回しをお願いしたいのですが」

 後にしてきた部屋をちらりと見る。

「なるほど。わかりました、そちらは私が引き受けます――」

 同じ方向を見た官房長官が、声のトーンを一段落し、さらに声を潜める。

「むしろ厄介なのはあの男でしょうね……」

 誰にも聞こえないように呟いたつもりなのだろう。

 官房長官が言っているのは部屋の隅にいた男のこと。

 一見すると、なんの害もなさそうな感じに見受けられたが。

「何か?」

 だが、あえて海将は聞こえないフリをする。

「いえ、なんでもありません」

 取り繕う様子を見る限り、その対応は正解だったのかもしれない。

 中枢部の闇には深く関わらない方がいい。

 いざという時に、正しい道を選ぶことができなくなってしまうのだから。

(あの男、どこかの社長だったな……)

 その顔が新聞か何かで見たものだったことを、海将はようやく思い出す。

 そしてその記事が、急成長を遂げる会社の経営者を紹介するものであったことも。

 けれど、この時勢に急成長できる会社など、ごくごく限られていることにまでは、その想像が辿り着くことはなかった。

「もう一つ、聞いてよろしいですか?」

 官房長官が足を止め、まっすぐに海将を見つめている。

 将来を憂いている弱々しい光がそこにはあった。

「今のままで、この国はあとどれくらい持つと思いますか?」

 そんな質問を投げかけた男は、政界の大物と渡り合っている食わせ者ではなく、本心からこの先を不安に思う、一人の人間になっていた。

「政治や経済に関しては、私は門外漢ですよ。自分たちの組織の限界についてならお答えできますが」

 この現状では、それはおそらく直結している。

 だから。

「それで構いません」

 官房長官は目を閉じる。

 答えを聞き逃すまいと。

「……二年。それが限界です」

「そうですか……」

 それすら、おそらくは甘い見込みだ。

 今すぐにでも手を打たなければ間に合うことはない。

 だが、何もできないのだ。

 今のままでは。

「海将、少し時間を頂けますか?」

 官房長官はそう口にしたきり、その場に立ち止まったまま何かを考え始めた。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ”会議は踊る、されど進まず”という言葉がある。

 堂々巡りを繰り返し、遅々として進まない話し合いを揶揄したものだ。

 それはナポレオンが消えた後のヨーロッパを巡って、諸侯が互いの利害をぶつけ合った結果によるもの。

 けれど統合幕僚監部の一室で開かれている会議においては、互いの利害は共通していたし、参加者はそもそも同じ旗を仰いでいた。

 だから、本来であれば粛々と進み、ごく短時間でなにがしかの決定がなされる性質のものになるはずだ。

 にも関わらず、静まり返った会議室はただ時間を浪費するだけの空間になっていた。

 原因はたった一つ。

 何を話し合おうと、何を決めようと、それらはすべて無駄になる。結局は上の意向で覆る。それがわかっていて、積極的に議論をしようなどという者はいない。

 だから、この状況を先の名言風に表現するならば”会議は踊らず、故に進まず”と言ったところだろう。

 海将は大きく一つため息をつく。

 手元の書類を引き寄せ、目を通す。

 それが何度目かなど数えてはいない。どれだけ目を通しても内容が変わることはないが、そうするしかなかった。

 それは横須賀第二から提出された、今後の哨戒計画と必要戦力、それに付随する必要物資の見積もりだ。

「このままではラチがあかない。まずは横須賀第二のコレをどうするか、だ……もう一度説明をしてくれ」

 その言葉に促され、一番遠い席の若い男が立ち上がる。横須賀第二の司令官だ。

 現状、この国で最も重要な役割を担っているはずの人物が一番遠い席にいるのは、能力や地位の問題ではなく、ただ単に彼がこの場の誰よりも若いからでしかない。

「まず、今回の敵潜水艦の浸透についてですが、これは露払い。敵の本命は水上艦による対地攻撃と見て間違いありません」

「その根拠は?」

 先刻届けられた小さなメモを見ながら、若い司令官は口を開く。

「先程になりますが、哨戒に出していた足柄以下の艦隊が、御蔵島の沖合で敵の小規模艦隊を発見、これを排除しています。恐らくは潜入した潜水艦隊と本隊とをつなぐ連絡中継役だと思われます」

 その事実の公表に室内がざわつく。

 小規模とはいえ、敵の水上艦が首都まで七時間余りの距離にまで迫っていたというのは、危機感を煽るには充分だ。

「それだけでは、敵の本命が水上部隊だとは断言できないのではないかね?」

 海将は内心の動揺を抑え、できるだけ平静を装って言葉を発する。この場で最上級の自分が取り乱しては、組織全体への影響があまりにも大きすぎる。

 下手をすれば、艦娘に関する情報開示への動きにもつながりかねない。

 海将自身、その必要性は重々承知しているが、今はその時ではないとも考えていた。

 現時点での情報開示は国家の存亡に直結する可能性がある。

 今は襲い来る敵に対して力を向ける時期であって、内側での政治闘争は敵を利するだけ。

 もしやるのであれば、その被害を極力小さくする方法を見つけてからだ。

「これが国家間の戦争だとすれば、海将のおっしゃる通りです。しかしながら、敵は深海棲艦――こちらの船や人、街、そういったものを破壊するのが基本的な行動です。政治的意図でこちらに揺さぶりをかけるような作戦を展開するとは思えません。それを考慮しているのはあくまでもこちら側の都合というものです」

 やんわりと自分たちの置かれた現状を非難する言葉に、その場の誰もが渋い顔をする。

 その現状の中で困難な作戦を展開し、流血を強いられているのは、この場にいるものの同胞であり部下だだからだ。

「それは理解できるとしよう。それで、この戦力増強案はどういうつもりなのか、説明をしてくれるかね?」

「まずは、近海に潜む敵戦力を一掃します。放置してもいつか押し寄せて来るでしょう。いずれの道を選ぶにせよ、横須賀第二の現有戦力では砲撃戦を主体として考えている敵に太刀打ちできないのは確実です」

 確かに横須賀第二の戦力――重巡一、軽巡三、駆逐艦十隻、その他補助艦艇数隻と護衛艦一隻では、想定される敵水上艦隊に対して挑むのは自殺行為以外の何物でもない。

 それに万が一、この後に控えている輸送作戦の最中にことが起きれば、横須賀第二は他の艦娘隊からの支援を受けることもできない。

 だとしてもだ。

「しかし、駆逐艦四隻はまだ分かるとしても、戦艦四、航空母艦六、重巡三というのはやりすぎだろう。輸送路の維持に影響が出る」

 輸送路の維持は作戦中だけに限ったことではない。

 常に何組かの艦娘隊が情報収集に出ているし、特に輸送船団の航路となる南西諸島海域は敵の出没が多く報告されている。常時、哨戒部隊を展開していなければ、事前の掃除に時間がかかる。

「ええ。ですからその案は輸送路護衛の作戦に影響が出ないよう、ごく短期間で始末をつけるためのものです」

 理にかなった言い分だ。

 けれど海将はそれが腑に落ちない。

 いつもならば、情報開示をした上で積極的な艦娘の運用をするべきだと訴えて来るのが、この若い司令官だ。

「君にしては随分とおとなしい物言いだな」

 それを踏まえた上での皮肉だ。

 だが。

「事態はそれだけ切迫しています」

 そのたった一言が、この場の全員を納得させる理由になり、それならばという空気が室内に満ち始める。

 それはもしかすると、最初からこの男の作戦だったのかもしれない。

 普段は頑迷な人物が、その意志を自ら曲げて折ってみせる。その様は差し迫った事態がいかに深刻かを訴えるには、最高の演出となる。

 だとすれば、随分と都合よくことが運んだものだ。

 若い司令官の顔を見る。

 表情に変化はない。だからこそ、ここからは成り行きを見守るという意思が垣間見えた。

 海将は考えを改める。

 あの男はそうするべき機会をひたすら待っていたのだと。いつか必ずその日が訪れると信じて。

 流れを作るのでも、力ずくで引き寄せるのでもなく、訪れるのを待つ。自分の都合の良い方向に流れるように、誰にも悟られぬように、ただ一人でコツコツと水路を作りながら。

 けれど、ただ黙って彼の思い通りになることだけは避けねばならない。

 横須賀第二司令の最終的な目的に変わりはないはずだから。

 それは、この国の土台を揺るがしかねない。

「会議を一時中断、三十分の休憩を挟む」

 海将の宣言を受けて、幹部たちが部屋を出て行く。

 そして海将もまた部屋を出た。

 行く先は自分の執務室。官邸とのホットラインがあるところだ。

 与党幹事長が要らぬ口を挟んでくる前に、官房長官と対応を打ち合わせる必要がある。

 《2》


 外は今日も晴れ。

 梅雨は一体どこへ行ったのかと問いかけたくなるほど清々しい日。

 だが。

(これこそ本当の青天の霹靂、だね)

 齧り付くように書類に目を通していた足柄の肩がワナワナと震え始めるのを見ながら、時雨はそんな言葉を思いついていた。

「これはどういうことなのよ!」

 予想通り足柄の怒声が、まるで落雷のように響き渡る。

 朝の執務室。一日の業務が始まって一時間ほど経った頃だ。

 ダンダンと一歩一歩を踏み鳴らして、提督の執務机へ詰め寄る足柄。

 そこへ体を落ち着けている提督もまた、この事態を予想していたらしく、黙々と別の書類に目を通している。

「ちょっと! 聞いてるの!?」

 その態度が癇に障ったらしく、足柄はさらに大きな声で吠える。

「どうもこうも、その通りだよ」

 面倒臭そうにちらりと一瞬だけ足柄に視線を向けると、それだけを言って、再び書類相手の戦いに身を投じる。

 一方の足柄は手にした書類をバンバンと手で叩きながら、さらに詰め寄った。

 今にも噛みつきそうな勢いに、さすがの時雨も内心でハラハラするが、提督は顔色ひとつ変えない。

「その通りって、あなたねぇ!」

 今度は手にした書類を執務机に叩きつける。

 その弾みで、積み上げられた書類の一部がぐらりと傾き、提督は慌ててそれを抑えにかかる。

「こんな戦力でどうやって敵と渡りあえっていうのよ!」

「それが上の決定なんだから、従うしかないだろう? それだってかなりごねて、ようやく引き出した数だよ」

「なんで今回に限っておとなしいのよ! いつもならあなたが私と同じことを言ってるはずでしょうが!」

 足柄が叩きつけた書類は、佐世保からの増援として送り込まれる艦娘たちに関してのものだ。

「これじゃ敵艦隊の捕捉すらおぼつかない!」

 書類の数は七枚。

 戦艦一、航空母艦が二、駆逐艦が四。

 作戦実行に必要だとして要求した数には遠く及ばない。

 なおも喚き散らす足柄の言葉を要約するとそういうこと。

 気に入らないのはそれだけではないらしい。

 だからこそ「それにね!」と付け加えて、後を続ける。

「誰を寄越すのか、向こうが決めるってのも気に入らない!」

 ちらりと書類の内容が目に入る。

 そこには艦娘の名前はなく、ただ艦種が記載されているだけ。添付されていた別の書面には『着任を持って通達の代わりとする』とだけ書かれている有様だ。

 極秘の存在である艦娘の動向を、誰にでも拾える電波に乗せて通達することができないのは理解ができる。

 だから、こう言った場合には古風だが確実なやり方として、人間に直接書類をもたせた伝書使を使う。

 今回はその手間すら省かれた。

 上層部から見れば、横須賀第二の司令官などその程度だという無言の通告だろう。

「何も来ないよりはマシだろう?」

「あなたね……こんな扱いされて悔しくないの?」

「別に。いつものことだよ」

 涼しい顔をしてお茶をすする提督を見て、もはやダメだと悟ったらしい足柄は自分の席に戻る。

 そして時雨に視線を向け。

「ああ、悪いわね時雨。それで、村雨たちに挨拶に来たんだっけ?」

 近くまで来たついでという理由があるのだから、そうすることに問題はない。

 この間は姉妹艦の村雨たちと、ゆっくりと話す機会もなかったのだから。

「あ、うん。そのつもりだけど――」 

 もっとも、この間の接触がなければそんな風に思うこともなかった。

 そんな具合に、何か行動を起こすには、きっかけとなるようなことが必ずあるものだ。

 余計な詮索を避けたい時雨にとっては、この行動は絶対にあり得ないものと言える。

 だからこれは、第三者の考え。

 そうしたらどうかと、情報部から提案があったのだ。

 もちろん、そんな話をタダで提供してくれるような組織ではない。

 間違いなく何かを企んでいるはずだ。

「いつもこんな感じなのかい?」

 その辺の事情は、はっきりとしてから告げるべきだ。

 時雨は一切を胸の内にしまいこんで話を続ける。

「そうよ。なんというか、もうちょっと漢らしくてもいいじゃないのよ……少なくとも、この私の上官なんだから」

 なんだか、問題にするべき根本が違うような気もするのだが。

 それでも。

「楽しそうだし、賑やかでいいじゃないか」

 目を細めて微笑む時雨。

 一方の足柄は書類への書き込みを途中で止めて、頭を抱える。

「どこがいいのよ、どこが」

「佐世保はもっと機械的。命令が伝達されて終わりだよ。僕がいた頃のここと同じ」

 ふっと陰った時雨の表情を見て、足柄はため息をつく。

「……それは嫌ね。雰囲気の変わった今だから思えることなんだろうけど」

「そうだよ。それで、戦力不足でどうにかできるのかい?」

 この件に関して時雨ができることはほとんどない。

 せいぜいが横須賀に有利な情報を拾って来て渡すくらいだろう。

 だからこれは、その必要があるかどうかの確認でもある。

「なんとかするしかないわよ……というか、あの人がなんとかするんだろうけど」

 ポツリと呟く足柄。

 なんだかんだと言いながらも、提督を信頼しているのだろう。

 そして、はづきに関しての情報を暴露していないことで、時雨もまた足柄からある程度の信頼は貰えているようだった。

「情報が必要ならいつでも手を貸すよ」

「その時はお願いするわ」

 向けられる表情も柔らかくなっている。

 それでも、それはある程度であって、決して全面的にではない。

 情報部があえてそうなることを計算に入れて、行動を保留しているだけかもしれない。そう考えるのは当然だろう。

「――それで、入る許可が出せるのは艦娘たちの宿舎だけになるけど、それで構わないわね?」

 足柄の言葉がその推測を裏付ける。

「うん。自分の立場はわきまえてる」

 時雨の立ち位置は微妙なのだ。

 籍は佐世保にあっても、指揮系統は情報部に属する。だから他の艦娘たちとは違って、ここでは部外者の扱いになる。

 本来であれば基地への立ち入りですら制限されるし、艦娘たちへの接触などもってのほかだ。

 自身が艦娘である以上、その辺への制限は比較的緩やかになるとはいえ、基地内を自由に行動することまでは許されない。

 何より、現状を変えると言って、裏工作をしている横須賀第二となれば、その行動を制限したくなるのは当然だ。

 時雨自身、それに直接関わるつもりはなかったし、知る必要もない。

 そうすることが横須賀第二――ひいては艦娘すべてや国のためになると思っている。

 何かをすることだけが、良い結果をもたらすとは限らない。何もしないことこそが重要になることも世の中にはある。

「話が早くて助かるわ。今書類を用意するから、もう少し待ってて」

 足柄はそう言って、手元の書類へいろいろと記入を始めていく。

「ごめんね。忙しい時に」

「いいのよ。秘書艦の仕事なんてこんなのばっかりなんだから、一つや二つ増えたところで、大したことないわよ」

 とは言うものの、思っていたより記入すべき項目があるようで、それなりの時間がかかるのは間違いなさそうだ。

 その間をただ立って待っているのも、急かしているようで気が引ける。

 仕方なしに、時雨は部屋の中央にある応接セットへ腰を下ろした。

「そういえば時雨。白露と涼風はどうだ?」

 書類に目を通しながら、提督が話しかけてくる。

 話に出て来た二人は、時雨にとって姉妹艦だ。

「二人とも、最近着任した改白露型――海風と江風の錬成をやってるよ」

 半年前に佐世保へ派出された白露と涼風は、専属で同型艦の教育担当になっていた。

 基本的な性能が同じなのだから適任だろうと言う判断があったらしい。

 佐世保にいた唯一の白露型駆逐艦娘の時雨は、情報部の指揮下にあるため候補としては数えられていなかったこともある。

 お調子者の白露と何事にも大雑把な涼風の組み合わせに、当初は誰もが不安に思ったものだが、今では充分に戦力として計上できるだけの結果を残している。

「戦力不足だって引っ張って行った割には、教育担当ねぇ」

「そうでも言わないと、返さなきゃいけないだろうからね」

 実際には、臨時の駆逐隊を編成しての周辺哨戒任務も並行している。

 先の輸送作戦ではバシー海峡の制海権確保もやってのけた。

 佐世保としては、あらかじめ戦力の一部として組み込む事を想定していたのは間違いない。

「ま、どっちにしろ返せって言ってるんだけどな」

「二人もそれを望んでるだろうしね」

 口にしないだけで、精神的に窮屈な佐世保から異動する事を望んでいる艦娘は多い。

 提督と関わりを持っていた時間の長い白露や涼風はさらにその思いが強いに違いないし、彼女たちのもたらす話を聞けば、誰だってそうなる。

 時雨ですら、今の横須賀を知った後では、佐世保に戻るのは気が重いと感じるくらいなのだから。

 けれど、現状ではそれが叶うことはないだろう。

 補給や整備も含めた諸々のことを考えると、同型艦を一つの隊にして構成した方が都合がいい。横須賀でさえ睦月型の四人、白露型の四人といった具合に駆逐隊を編成し、揃えている。残りの二名ですら吹雪型の白雪と磯波だ。

 そういう理由もあって、佐世保が二人を簡単に手放すとは思えない。

「こっちに来る子たちは、きっと羨ましがられるだろうね」

 ポツリと時雨が呟く。

「そんなに酷いのか」

「うん。僕たちは兵器だから、そんなこと考えちゃダメなんだろうけど」

 その言葉に提督が反応した。

「そういう発想が出てくる時点で、お前たちは兵器じゃないんだ」

 語気を強め、感情を垣間見せる。

 兵器として自分を割り切ろうとする艦娘に対しての怒りだ。

 提督は本気で艦娘を人間と同じように、対等の存在として見ているのだろう。

 そして、おそらく艦娘に対してこういう態度で接することができる人間はそう多くない。

 畏怖であったり、警戒であったり、不安であったりと様々だが、大半の人間が抱く感情は、どれも負の感情であることに違いはなかった。

「ここの艦娘たちは本当に幸せだね」

「ええ。提督が変な悪戯さえしなきゃね」

 時雨の言葉を足柄が茶化す。もちろん書類仕事は続けながらだ。

「悪戯とは失礼な。あれはスキンシップだと言ってるだろ?」

 一方の提督は書類から目線を外し、足柄の方に向き直っている。

「そういうことをする人はみんな同じこと言うんだってよ? 気をつけなさい、時雨。隙を見せたらお尻を触られるどころじゃ済まないから」

「……そこまでするのかい?」

 さすがの時雨も不安になり、無意識に自分の体を抱きしめて距離を取る。

「おい足柄。時雨が蔑むような目で俺を見てるんだが?」

「因果応報、自業自得、自縄自縛。せっかくだから好きな言葉を選びなさいな」

 一顧だにせず言ってのける足柄に抗議の声を上げようとする提督。

 だがそれは、手元の電話が騒々しく撒き散らす呼び出し音によって遮られる。

 市ヶ谷の海上幕僚監部――総司令部と横須賀第二をつなぐホットラインだ。

 これが鳴るのは緊急性を要する事態が起きた場合のみ。例えば近海に深海棲艦が現れた、とかだ。

「足柄、非常呼集の用意を」

 そう言って提督は受話器を取り上げ、何事かを話し始める。

 恐らくは呼び出した相手が間違いないことを確認するための符丁のようなものだろう。この国で最も安全に会話のできる通信設備だが、それでもこう言った古典的な手順は必要だ。

 それが聞こえ始めた時点で、足柄は出撃に関する必要書類の一式を取り出して記入の準備にかかる。

 この電話が海幕からの正式な連絡であり、戦闘が始まる可能性があると言うことなのだ。

 時雨も近海の海図を引っ張り出すために書棚へと動く。

 けれど。

 提督はそれらの行動を片手で制する。

「了解しました。ただ、以後はこう言った用件でこの回線を使うのはやめていただきたい。それでは」

 手荒く受話器をどした提督は、椅子の背もたれに寄りかかり天井を見上げて息を吐く。

「足柄。時雨への入構許可は取り消しだ。そこまでやらせておいて申し訳ないが、書類一式を破棄してくれ」

 怪訝な顔をする足柄をそのままに、提督は時雨に向き直る。

「今のは情報部からだよ――堅苦しいのは嫌いだから儀礼は省略するが、駆逐艦娘時雨は現時刻をもって、横須賀第二基地へ転属。俺の指揮下に入る。後日、正式な書面がお前の私物と一緒に届くそうだ」

 提督の言葉は、多くの艦娘にとって喜ばしいものに違いない。

 例え同じ戦いの場に身を置くにしても、自分たちのことを心から案じてくれる上官の元で動けるのだから。

「随分と急な話だね」

 だが、時雨の表情は晴れない。むしろ曇っていく。

「戦力不足だろうから返してやる。ついでに近海の敵戦力の情報を探って寄越すように伝えてくれ、だとさ」

「まさか、それを信じたわけじゃないよね」

「当たり前だ。こっちの動きに探りを入れるつもりだろ。あれだけド派手に戦力を要求したんだ。その上、俺の様子がいつもと違ったわけだし」

 それに、と。

「情報部はお前の身元を明かした上でこっちに送り込んできた。何をするつもりかくらい想像がつくだろう?」

 情報部の仕事は敵の情報を探るだけではない。

 内側の情報統制も任務だ。

 当然、指揮官や艦娘たちそのもの動きや考えを把握するのもその一つとなる。

「僕はカモフラージュってことかな」

「その通り」

 それをするには艦娘を仲間として潜ませる方が好都合だろう。

 ただ、目立たないようにするのは難しい。

 そこで情報部と繋がっていると言うレッテルを貼った時雨の出番というわけだ。

 普通に考えれば、注意はそちらに向く。

 だが情報部は、時雨がすでに横須賀と接触を持ち、提督の側に立っているということを知らない。

 すべてを覆い隠そうとしたその一手こそが、相手に手の内を晒すような結果になってしまったなど、夢にも思っていないはずだ。

「このタイミングでそれをやるってことは、佐世保から来る増援の中に情報部の息がかかった艦娘を紛れ込ませるつもりなんだろう」

 おそらく艦名の記載がない異動書類はこのためのもの。

「時雨。あなたになら誰かわかるんじゃないの?」

 足柄の問いには、首を横へ振るしかない。

 この類の役回りにあてがわれている艦娘は、巧妙に秘匿されていなければ意味がない。時雨でさえ監視対象なのだから。

 見破ることは決して簡単ではないし、相手も尻尾をつかませるようなことはしないだろう。

「どうするつもりだい?」

「今考えてる」

 突如として放り込まれた出口のない思考の迷路。沈黙が重苦しい空気を生んで、室内を満たしていった。

 やがて。

 提督が立ち上がり、足柄をまっすぐに見る。

「足柄、怒るなよ? お前の能力が不満とかそういうわけじゃないからな?」

「なんの話?」

 いきなりの発言に、足柄は首をかしげる。

「怒るなよ?」

 念を押す再びの問いには、首を縦に振るしかないだろう。そうしなければ提督がこの先を口にすることはないのだろうから。

「時雨、たった今から秘書艦に任命する。足柄は補佐に回ってくれ」

 突然の命令に、時雨は自分が何を言われたのかを理解できなかった。

 足柄もそれは同じようで、まるで時間が止まったように硬直している。

 だが、立ち直るのは足柄の方が早い。そこはやはり慣れだろう。

「何を考えてるの? 大きな作戦を控えてるっていう時期に、経験がない時雨に秘書艦をやらせる余裕なんてない。おまけに、今こうやって面倒ごとを突きつけてきた連中とも関わりがある」

「もちろんわかってるよ。わかってて言ってるんだ」

 両者の言葉を聞いて、時雨はその意図を理解した。

 提督は時雨を秘書艦にすることで、すべて見抜いているという警告をするつもりなのだ。

 その推測に提督は「その通りだ」と、大きく頷く。

 足柄が言う通り、秘書官という立場になれば様々な情報に触れる機会も増えるし、他にもデメリットはある。

 けれど、秘書艦はその時間の大半を提督の側で過ごすことになるし、今回に限れば、足柄の補佐がつくことになる。

 それは言ってみれば常時監視体制下にあるようなもの。時雨の動向に特段の注意を払う必要はなくなる。

 そして、注目を集めることができなければ、カモフラージュとしての機能も果たせない。

 当然、そこまでやる相手には手の内を読まれたと考えるし、それが本当かどうか、どこまで見抜かれたかなど、関係なくなる。

 そこに考えが及んでしまった段階で、諜報員を送り込むことは心理的に難しい選択になるからだ。

 だから、おそらく情報部はその選択を避けるだろう。

 情報組織は賭けをしない。

 一度の失敗は警戒を呼び、求めているものから大きく遠ざかることになるのだから。

 そんな具合に相手の深読みを誘うために、あえてリスクを冒して見せる。それが提督の考えだ。

「なるほどね……」

 時雨の説明を聞いて、足柄も納得する。

「でも、これは時間稼ぎにしかならないわよ?」

「それで充分。少なくとも情報部を警戒しつつ作戦準備をするなんてことをしなくても済むだろう?」

 ただ、この一手は確実に情報部の警戒心を煽ることにもなるだろう。

 提督が何をするつもりなのかはわからないが、チャンスはこれ一度きり。それも制限時間付きで、だ。

 その狙いが、足柄の言葉にあった『大きな作戦』に関わるのであれば、その制約は想像以上に厄介なものになる。

「提督。これは命綱無しの綱渡りになるよ」

 時雨の心配を提督は軽く笑い飛ばす。

「綱って言えるくらい太いなら充分だ。渡り切れるさ」

「……身体能力が並以下の人がよく言うわ」

 呆れた顔をして、足柄が茶化す。

「うるさい。そもそも基準がお前じゃ、誰がどうあがいても並以下だ」

「あなたは特別よ。銃も格闘技もダメって、それで本当に自衛官?」

「俺たちが相手にしてるのは、そんなもん持ち出してどうにかなる相手なのか?」

 先程までの重い空気は何処へやら。

 二人の掛け合いで、執務室内は元の状態に戻っていく。

 おそらく、これがいつもの横須賀。

 そして、自分が守るべきもの。

 柔らかな微笑みの裏で、時雨は固く決意する。

 《3》


 私室の机の上に広げられた地図を前に、提督は思案にふけっていた。

 その地図のほぼ中央に印がつけられている。

 フィリピン海。

 太平洋の付属海として国際機関によって正式に定められた名称ではあるが、日本人にとっては馴染みが薄い名前だ。

 だが、日本、台湾、フィリピン、ミクロネシアに囲まれたそこは、間違いなく生命線へと繋がる重要な海だ。

 例えば。

 現代において最重要資源の原油もここを通る。

 日本における石油精製能力の七割がこの海に面した地域に集中し、直接運び込めるようになっている。

 提督の指が地図の上をなぞっていく。

 フィリピン海から台湾南方のバシー海峡を抜け、大小様々な島が点在する南シナ海を通過。

 やがて見えてくるマレー半島の先端、狭くて浅いシンガポール海峡を通り、スマトラ島に挟まれた難所であるマラッカ海峡を抜けてインド洋へ。

 そこからさらにアラビア海、オマーン湾、ホルムズ海峡、ペルシア湾と辿り、ようやく世界最大の産油地帯に至る。これが一般的な航路だ。

 言葉にすると短いが、これを実際の距離にすると片道だけで一万二〇〇〇キロ。日数に換算すると、およそ二十日間の旅になる。

 そしてそこで数日をかけて原油を積み込んだ船団は、元来たルートを逆に辿って日本へと戻っていくことになる。

 だが、この生命線はいくつかの場所でバッサリと断ち切られていた。

 例えば、インド洋モルディブの最南端、アッドゥ環礁。ここを拠点とした敵艦隊により、インド洋の制海権は奪われつつある。

 現在ではそこからの敵戦力流入を遮断すべく、いくつかの国が主体となって、様々な種類の機雷をミックスした防衛線がマラッカ海峡に敷かれ、封鎖された状態だ。

 ある意味では、人類自らが己の首を締めた状態とも言える。

 それが是か否かはともかく、これによって日本と中東をつなぐ線は絶望的な状況にある。

 ちなみに敵はマラッカへの侵入を保留し、セイロン島への圧力を強めているという。もしセイロン島が陥ちれば、状況はさらに一段悪化するだろう。

 とりあえず、現在は東南アジアの産油国を頼ることでかろうじて生き延びているが、これもアナンバス諸島あたりに拠点を構えた敵勢力によって、危機にさらされている。

 そして、こういった拠点は各所にあると目されている。

 もちろん日本が接している、フィリピン海にもだ。

 その正確な位置を把握しているわけではなかったが、深海棲艦の侵攻とともに打ち捨てられた島を、敵がそのまま利用している可能性は高いはずだ。少なくともそこには、ある程度整備された港があるのだから。

 この状況を覆すことは決して容易ではない。

 おそらく一気に情勢を変えることは無理だ。

 一つ一つ拠点を抑え、じわりじわりと勢力圏を広げていくしかない。

 確実に血と涙、無数の死を撒き散らしながら、だ。

 今のままではそうなる。

 だから、周囲の状況を変える必要がある。悲劇の数を一つでも減らすために。

 そのためには、決定的な勝利を見せつけるしかない。

 ならば。

 最初に手をつけるべきは――。

 何度も地図上を行き来する指が、ある一点で止まる。
 

 決断は音もなく下された。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 横須賀第二の朝はいつものように始まる。

 一足早く朝食を済ませた足柄が執務室に入り、青い厚手の遮光カーテンを開け、窓を開く。

 一晩をかけて淀んだ空気が、朝の新鮮な空気と一気に入れ替わったところで、その日に処理しなければならない書類の束を机の上に広げる。

 そうしてから、秘書官が処理できるものと、提督の決済が必要なものに分けていく。

 それが片付く頃には、食堂を任されている給量艦娘の間宮か、ほとんどの場合は朝食を終えた駆逐艦娘の誰かが、お茶の入ったポットを持ってくる。

 ちなみに今日は睦月だ。

「ありがとう」

「いえいえ。今日も張り切って参りましょー」

「相変わらず、朝から元気ねぇ」

「それだけが取り柄にゃしぃ、いひひ」

 そんな具合に、他愛もない会話を軽く済ませた頃、食事を終えた提督が執務室に入ってくる。

 睦月はそれと入れ違う形で執務室を後にしようとするが、すれ違いざまに尻を触られ、提督の向こう脛に蹴りを一発。

 悶絶する提督をため息交じりで足柄が見つめる中、睦月は顔を真っ赤にして執務室を出ていく。

 だいたいこれがいつもの朝の光景だ。

 ただ、今日はここからが違う。

 提督の傍らには、新たに秘書艦となった時雨が付き従っている。

 着任初日に任命されたとはいえ、実際には様々な手続きが必要だったし、基本的な業務内容を把握したり、基地内の各部門への挨拶など、それなりに時間はかかるものだ。

 だから、あれから一週間が経過した今日になってようやく、全員が揃う朝食の際に時雨の着任と秘書艦就任が正式な決定事項として伝えられたのだ。

「で、どうだった?」

 足柄が問うたのは、その発表に関しての艦娘たちの反応だ。

「何も問題なしだな」

 特段変わったこともないと付け加えて、提督は自分の椅子に腰を下ろし、執務机の上に用意された書類に目を通し始める。

 そもそもこういった話は、変化のない日常を送っている艦娘たちにとっては好奇の対象だし、そもそも人数も少ない。あっという間に噂になって広まっている。

 だから正式発表とはいっても、驚きを持って受け止められる段階はとうの昔に過ぎてしまっていた。

 ただ、時雨は納得がいかないようだ。

「僕はあまりにも簡単に受け止められて拍子抜けしたんだけど?」

 一年近く秘書艦を務めた足柄に変わって、着任したばかりの艦娘が秘書艦に任命されるなど普通では考えられないし、何が起きてもおかしくないと考えていたのだろう。

 けれど、実際は違う。

「新入りが貧乏くじを引いた、くらいにしか思ってないから大丈夫よ」

 足柄は苦笑いをしながら言う。

「それ、どういう意味だい?」

「そのうちわかるわよ」

「それじゃ、覚悟のしようがないじゃないか」

「覚悟したところで、どうにかなるもんじゃないから安心していいわよ」

 珍しく食らいつく時雨をバサリと斬り伏せて、足柄は書類の山を崩しにかかる。

 取りつく島もないとはまさにこういう状況を指すのだろう。

 足柄の言葉は時雨の不安を一つ増やしただけかもしれない。

 だが、そうするしかないのだ。

 底もなければ天井も見えない。提督はそういう種類の人間だ。

 そんなものを相手にするのに、覚悟や常識などなんの意味もない。

 むしろそういった既成の枠で捉えてしまえば、彼の持っている力を奪ってしまうことになる。

 時雨はそういうものに気付くことができる。その上で一歩引いた位置から冷静に物事を見つめることもできる。

 カッとなりやすい自分よりも数倍、彼の補佐役には向いているはずだ。

 ようやく肩の荷を降ろすことができる。

 それが足柄の嘘偽りのない気持ちであった。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 佐世保からの増援が到着したのは、食堂の方から夕餉の支度の香りが漂い始める頃になってからだ。

 最初に執務室の扉を開いて姿を見せたのは、黒い髪をツインテールにして、白い弓道衣に身を包み、袴を短くしたようなデザインの赤いスカート姿の艦娘。

 それを見て時雨は彼女が航空母艦娘であることを悟る。

 何より印象的なのが、生命力に満ち溢れた目だ。

 強い意志を感じさせるその目は佐世保にいた艦娘にしては珍しい。時雨の知る限り、ほんのわずかな例外を除いて、こう言う目ができるのは着任からまだ日の浅いものだけ。

 あの環境に長くいると、たいていの艦娘には諦観の色が見えてくる。

 ――翔鶴型航空母艦二番艦、瑞鶴。

 彼女はそう名乗り、執務机の前に立つ。

「遠路はるばるご苦労様、歓迎するよ」

 一度席を外した足柄が、ポットと湯呑みを持って戻ってきたのを見計らって席を勧める。

「失礼します」

 瑞鶴はそういって一礼をすると、提督と向かい合わせの位置に腰を下ろす。

 その動きは少しぎこちない。恐らくは緊張しているのだろう。

 この場にいる全員が瑞鶴にとって初対面のはずだ。

 佐世保にいた時雨も、ここしばらくは南西諸島海域や南シナ海への偵察に出ていたために、顔を合わせたことがない。

「翔鶴とは何度か話したことがあるが……印象はまるで違うな」

「よく言われます。先日は修復用資材の提供をありがとうございました。翔鶴姉――じゃなかった、翔鶴と瑞鳳からもよろしく伝えておいてほしいと」

「あの程度でそこまで言われちゃ、逆にこっちが申し訳ない。面倒な儀礼は嫌いなんだ。そういうのはやめて気楽にいこう」

「はぁ」

「それで増援艦隊の旗艦は、瑞鶴でいいのか?」

「いえ、別の艦娘ですが……初対面の相手に身だしなみくらいはと、化粧室にこもったきり出てこなくて。兵器である艦娘がそう言うのを気にするのはおかしいと思うのですが」

 恐縮して小さくなっていく瑞鶴の姿を見て、提督は声を出して笑う。

「女が身だしなみに気を使うのは当たり前だろ。ここの子たちなんて『日焼け止めよこせ』とか言ってるくらいだぞ? そこの足柄も時雨も、塗りたくって厚化粧してる」

 その言葉に、引き合いに出された二人が即座に反応する。

「提督! 私はそこまでしてません!」

「提督? 僕は化粧なんてしたことないよ?」

 それぞれに、似ているようでいて決定的に違いのある否定のセリフを同時に吐いた後、互いの顔を見合わせる。

 少しだけ間をおいて、なぜか足柄が無言のままがっくりと肩を落とした。

 時雨にはその理由がわからない。

 ただ、足柄からはなんとも形容しがたい真っ黒な気配が揺らめきながら立ち上っている。

「……後で覚えておきなさい」

 そう呟く言葉は果たして誰に向けられたものか。

 時雨はしばし考え、結論を導き出す。

「ねぇ、提督。僕も化粧をするべきなのかな?」

 足柄が「後で覚えておけ」と言ったのだ。秘書艦には必要なことなのかもしれない。

 それが時雨の導き出した答えだ。

「……お前、意外と天然物か?」

 そう言って提督は苦笑い。

「まぁ、お前にはまだ必要ない。瑞鶴もだな。何事も過ぎたるは及ばざるが如しだ」

 その言葉に反応して、足柄の肩がピクリと動く。

 同時に真っ黒な気配がより一層激しさを増して、執務室に満ちていく。

 正面に座る瑞鶴の頬が引きつっているのが見えた。

 提督もそれに気が付いたのか、慌てて言葉を付け足す。

「あ、足柄みたいに、上手にやれば元の魅力をさらに引き出すこともできるからな! 興味があるなら教えてもらうといいぞ!?」

 足柄の放つ雰囲気が一気に変わる。

 あまりの急激な変化に時雨がそちらに視線を向けると、足柄の周りにキラキラとした光が見えたような気がした。

 そして満面の笑みを浮かべながら「そうね! 二人には明るい桜色のリップが似合う――」などと、時雨には理解不能な言葉をまくしたて始める。

 一人、幸せな世界に埋没している足柄をそのままにして、提督は瑞鶴を見る。

「うちはこんな感じだからな。瑞鶴も肩肘張らずに普段のままでいいよ」

 言われた瑞鶴の顔に浮かぶのは戸惑いだ。

 それまでに関わってきた人間たちとは明らかに違う態度なのだから、そうなるのは無理もないだろう。

 一週間ほど先に着任した時雨でさえ、まだ違和感は拭いきれていないのだ。

 それでも比較的慣れが早いのは、周りにいる艦娘たちの言動のせいもあったし、何より秘書艦として提督のそばにいる時間が長いからだ。

「なんか、変わった人」

 そう言ってクスクスと笑いだす瑞鶴。

「よく言われるよ」

 つられて全員が笑っているところへ、新たなノックの音。

 提督が入室の許可を出す。

「なんだか楽しそうデスネー」

 扉を開けるなり、巫女風の装束に身を包んだ艦娘が呆れた声を出した。

 妙なイントネーションが特徴的な彼女には時雨も面識がある。

 金剛型高速戦艦のネームシップ、金剛。

 佐世保では実質的に艦娘たちをまとめる立場にあった彼女が、ここへ増援として送られてくるとは意外だった。

 当然、金剛も時雨の所属を知っている。ちらりとこちらを見た目には、あからさまな警戒の色が見えた。

「時雨を警戒する必要はないよ。自分の立つ場所を決めてる」

 提督の言葉に、金剛は腰に手を当て大きなため息をひとつ。

「またこの人は……どうやって口説いたんデス?」

「おいおい、人聞きの悪いことを言うなよ」

「何を言ってるデス? ワタシもアナタに口説かれたんデスヨ?」

 詳しい経緯はわからない。

 だが金剛もまた、提督によって選択肢を与えられた一人なのだろう。

「しかし、このタイミングでお前を増援に出すことを認めるとは、佐世保も大盤振る舞いだな」

「フン……作戦前に厄介払いといったところデショ。別に好かれたくもないケド」

 鼻息も荒く金剛は言う。

 確かに前回の輸送作戦で独断専行をした金剛の立場は微妙になっていた。

 それが結果的に輸送作戦の成功に貢献し、多くの艦娘を救ったとはいえ、佐世保で指揮を執っている男はそれを手放しで喜ぶような人間ではない。

 出世の道に戻りたい男にとっては、自分の能力を誇示することの方が大事なのだ。

「そんなコトより……提督、ちょっといいデスカ?」

 金剛はそう言って、何やら少しばかり思いつめたような顔をして、提督の手を取って
立ち上がらせる。

「何をするつもり――」

 提督の言葉はそこで遮られた。

 金剛の唇によって、だ。

 突然に起きたそれによって、執務室内の時間が止まる。

 足柄も瑞鶴も、そして時雨も何が起きたのかを理解できない。

 理解できないまま時間が過ぎる。

 長い。

 とても長い一瞬だった気がする。

 やがて。

 ゆっくりと唇を離した金剛が提督の目をまっすぐに見つめる。

「あの時、提督が手を打ってくれていなかったら……ワタシはまた、台湾沖で沈んでいマシタ」

 金剛が言っているのは、先の輸送作戦の終盤で起きた戦闘のことだ。

 彼女が率いる艦隊は、台湾海峡を通過してきた敵艦隊を迎え撃ち、輸送船団を守れという、佐世保第二司令から発せられた命令を実行した。

 だがこの時、輸送船団はすでに危険域を離脱しつつあり、この命令は全くの無駄なものだった。

 船団位置情報システム不備による誤認と、報告書には記載されている。

 それが事実かどうかは怪しいところだと時雨は思っている。

 実際、現在も調査が行われているシステムには何の異常も見つかっていないのだから。

 とにかく。

 それが無意味な命令であるとは知らずに実行し、窮地に陥った仲間を逃がすために、金剛はただ一人その場に残り、撤退を支援した。

 圧倒的な戦力差を前に、戦闘力を失い撃沈寸前まで追い込まれた金剛を救ったのは、すんでのところで駆けつけた佐世保の艦娘たち。

 その命令を下したのもまた、佐世保司令ということになっている。

 だが実際は違う。

 少なくとも、あの佐世保の司令官にそんな采配ができるとは思えなかったし、前後の状況から考えれば、それをする意味だってないのだから。

「金剛」

 我に返り、離れようとする提督に金剛が強く抱きつく。

 その腕が――身体全体が震えていた。

「ダカラ、これは感謝の印ネ。艦娘相手じゃ不満かもデスガ……でも黙って受け取ってクダサイ」

 瞳からは大粒の涙がポロポロと溢れているのが見えた。

 艦娘たちのリーダーとして、絶対的な自信と強さを見せ、明るく振舞っていた金剛しか知らない時雨にとっては、それだけでも驚くべきことだった。

 だが、同時に理解もできた。

 艦娘は軍艦であった頃の記憶を有している。

 だからこそ、自らが沈んだ時の記憶は何よりも重くのしかかる。

 そして、その場所に近づくことで、不安や恐怖を呼び起こされることもある。

 金剛にとっては、それが台湾海峡だ。

 その場で何を思い、耐えてきたのか。

 それは金剛にしかわからない。

 だから、誰にもそれを咎めることはできなかった。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 金剛が落ち着いたのは、すっかり日も暮れた頃になってからだ。

 すでに艦娘たちのほとんどが夕食を済ませ、それぞれの時間を過ごしている。

 だが、執務室の中では、艦娘たちの今後を決める重要な話し合いが行われていた。

「それで、増援の詳細は?」

 提督の問いに答えるのは金剛の役目だ。

「まずはワタシと瑞鶴……瑞鶴は航空母艦の中で一番練度が低い艦娘デス。まだ着任から四ヶ月しか経っていないからネ。佐世保が瑞鶴を手放したのはそれが理由ヨ」

 金剛の言葉に、がっくりと肩を落とす瑞鶴。

 その背をバンバンと遠慮なく叩きながら、先を続けていく。

「デモ実戦の経験もあるし、実力はワタシが保証シマス。他は軽空母と駆逐艦なのデスガ、これがちょっとトラブルがあってデスネ……」

「トラブルってのは?」

「横須賀に向かう直前になってカラ、急に人選を考え直すって言い出しマシタ」

 それを聞いて、提督と足柄がニヤリと笑う。

 表には出さないが、時雨も内心では安堵している。

 時雨の秘書艦就任は、狙った通りのタイミングで効果を発揮したのだ。

「ワッツ? どうしたんデス?」

「後で話す……ちなみに最初に予定されていた艦娘が誰かはわかるか?」

「ノー。人選は佐世保の司令がしてマシタ。ダカラ、ワタシ達は厄介払いされてここにいるんデス。ケド、最終的にワタシに一任するということにナッテ……」

 佐世保司令の立ち位置はわからないが、実際に誰を選ぶかは情報部の裁量になっているはずだ。

 それを放棄して金剛に選ばせたということは、この件には情報部が関わっていないということを示して見せるため。

 もちろん、金剛が最初に予定されていたのと同じ艦娘を選ぶ可能性もある。

 だが、そんな幸運にすがるようでは、情報を扱う組織としては失格だ。おそらくは別の手段を考えているに違いない。

「それで、誰を選んだ?」

「軽空母鳳翔、それと駆逐艦朧、曙、漣、潮の第七駆逐隊デス。理由は言うまでもないヨネ?」

 佐世保でもかなり練度の高い艦娘達だ。

 駆逐隊に関しては最精鋭と言ってもいい。

 それに前回の輸送作戦で金剛隊を構成したメンバーでもある。一連のトラブルの渦中にいたのだから、少なくとも佐世保司令の意に従って、邪魔をするようなことはない。

「ただ、彼女達は哨戒任務に出ている最中だったノデ、到着は明後日の朝になりマス」

 願ったり叶ったりだ。

 任務に出ていたのであれば、情報部の息がかかった艦娘である可能性は低い。

 何名が関わっているのかわからない以上、完全に可能性を排除できたわけではないが、それでも警戒のレベルは数段落とせる。

 囮として使われている時雨とは違って、実際に行動する艦娘には、連絡手段の確保や符丁の打ち合わせなど、どうしても準備期間が必要だ。

 互いに正体を知らないままの行動が原則である以上、本来潜むはずだった艦娘からそれを告げるという手段も使えないし、移動中に外部との接触を図ることもできない。艦娘という存在の露見を避けるために、専用の車両が用意されているくらいなのだから。

 だから、金剛が到着時間を把握している以上、打ち合わせをする猶予はない。

 もし、大幅に遅れるようならば改めて警戒すればいい。

 慎重に考えを巡らせてから、時雨は提督に頷いてみせる。問題はない、と。

 もっとも、提督は別の方向から問題はないと考えていたようで、苦笑いをしていたのだが。

「けどさ、金剛。この戦力じゃ敵の艦隊を見つけるのは難しいんじゃないの? 偵察に使える機体も私と鳳翔さんだけじゃ、作戦予定の海域をカバーするのには不足よ?」

 瑞鶴の指摘はもっともだ。

 だが。

「心配は無用だよ、瑞鶴。首都圏を狙う敵艦隊なんて存在しない」

 さらりと放たれた提督の一言は、艦娘たちにとって衝撃的なものだ。

 提督は間違いなく、上層部が集まる会議の場でその存在を告げ、上層部はその排除を目的として増援を認めたのだ。

 だから、時雨や金剛、瑞鶴がここにいる。鳳翔や第七駆逐隊だってこちらに向かっている。

 その前提を、報告した当人が否定した。

「ちょっと待って。それじゃ提督さんは嘘を言ったってこと?」

 瑞鶴が慌てる。

 いくら増援が必要だとしても、嘘をつくのは流石にまずい。

 発覚すれば即座に懲戒なのだから、当たり前の反応だ。

「嘘は言ってない。放置しておけば敵はいつか必ず押し寄せる。ただ、それが今すぐにとは言ってないよ」

「デモ、事態は切迫してるって言ったと聞いてマス」

「言ったよ。ただ、切迫してる事態ってのが何かは言い忘れてな……ちょっと興奮してたからかな。とにかく俺が言いたかったのは、状況を変化させられるリミットが迫ってるってこと。言葉が足りなかったのは認めるけど、それを指摘しないで勝手に解釈したのは向こうだし、そこは俺の責任じゃないよな?」

 言葉の端々に白々しさが残っているのは、おそらくわざとだ。

 とにかく、そんな具合に一気にまくし立ててから、提督は足柄を見る。

 この話を聞いて顔色ひとつ変えていないところを見ると、やはり関わっているのだろう。

「ええ。御蔵島の沖合に小規模艦隊がいたのは事実だし、それを私が沈めたのも事実。付近の海域で水上偵察機が戦艦を主体とした敵水上打撃艦隊を見つけてもいる。だから、その艦隊が東京湾への突入を考えていた可能性も否定できない。そうじゃない可能性もあるけど、とにかく嘘はどこにもないわね」

 足柄も提督と同様、一気に話す。

 その上ですました顔で茶まですすって見せた。

 そして、何かを思い出したように付け加える。

「ああ。ちなみにその打撃艦隊が後退して行ったのが、作戦の立て直しのためか、それとも撤退なのか、それともまったく別の理由かなんてのは、提督や私の知ったことではないわよ? まさか聞きに行くわけにもいかないでしょうし」

 時雨は二人の顔を交互に見て、ため息をつくしかない。

 彼らは言葉だけで自分たちの望む状況を作り出して見せたのだから。

 不完全な情報を渡すことで相手のミスリードを誘うのは、駆け引きではよく見受けられる手段の一つだ。

 よく使われるということは、それだけ効果的だということでもある。

 ただ、使いどころは難しい。相手が少しでも冷静さを保っていれば、簡単に見破られてしまうのだ。

「……なんというか、これを知ったら上の人たち、怒るんだろうなぁ」

 瑞鶴がポツリとつぶやいた。ただし、言葉の割には楽しそうではあるが。

 ただ、その言葉の通り、向こうが怒るのは間違いない。

 表面的には何も間違ったことをしていないのだから、責めることもできない。

 だから、報復はたいていの場合、真っ当な手段ではなくなる。そこには生命の危機を伴うようなものも当然含まれてくる。

 しばらくは提督の周囲に注意を払う必要があるかもしれない。

 そして、それは自分の役目だと、時雨は自分に言い聞かせた。

「じゃあ、提督はワタシたちを呼んで、何をするつもりなんデス?」

 金剛の問いに、提督は静かに、けれど強い意志をその瞳に宿らせて答える。

「輸送作戦を隠れ蓑に敵拠点を急襲、南西諸島海域の制海権を掌握する。奴らがやろうとしたことを、そっくりそのままお返しというわけだ」

 ゴクリと誰かが唾を飲む音がした。

 提督は地図を広げ、テーブルの上に置く。

 指し示すのは台湾から九州付近の海だ。

「ここ最近、輸送船団の被害は復路の南西諸島海域に集中していた。主に潜水艦による待ち伏せだけど、水上艦の出現報告も増えてきた……つまり、この海域の近くに敵の拠点が作られたのは間違いない」

「それはわかりマス。でもその拠点がどこにあるかはマダ……」

「そうよ。それがわからないから、輸送船団が出る時期が近づくと海域哨戒を強化するのよ。鳳翔さんと曙たちもそれで出てたんだから」

 金剛と瑞鶴がすぐに反論を提示する。

 だが提督は自信を持った表情を変えない。

「敵の出現頻度や範囲、地理的、環境的条件から見て、拠点があるのは大東諸島で間違いない。もちろん島民はすべて疎開していて、現在の状況は不明だけどね」

 国内の主だった離島からは、すでに島民のすべてが疎開している。四百近くにも及ぶそれらを防衛するのも、物資を運び込むことも難しいからだ。

「……確かに、南北の大東島は断崖に囲まれていて防御に適してるね。補給拠点として物資を集積していても、その位置は空からじゃなければ特定できない。僕らがそれを破壊するにしても観測機が頼りで、それも対空砲火を躱しながらだから簡単にとはいかない。言った通り、地形的要因から着弾観測員を上陸させるのは難しいし、たとえ上陸できても、観測に向いた高い場所もない」

 過去の戦争においても攻め手は上陸をためらい、当時、南大東島中央部に建設が進められていた飛行場に対して、艦砲と航空機による攻撃を繰り返している。

 時雨の話はそう言った歴史的な事実も含めてのものだ。

「ソレに大東島の周囲は急に深くなりマスネ……潜水艦が拠点にするなら最高の場所デス」

 そしてこの島からなら、南西諸島海域はもちろん、関東の太平洋沿岸までを活動範囲として設定できる。

 すべてにおいて最高の条件が揃っていた。

 だが、難攻不落の要塞と化した島を二十名足らずの艦娘で攻め落とせるのか。

 そんなことを考える時雨の顔に表れた不安を見たのだろうか。

 提督がニヤリと笑って口を開いた。

「さっき瑞鶴が言ってたけど、資源の備蓄状況から見て近々輸送船団が出るのは間違いない。こっちの上層部は前回の成功もあって相手をなめてかかってるし、船団規模も過去最大になるようだ」

 かなりの数の船を用意しているという情報は、横須賀で修理を受けている護衛艦はづきの艦長から得たものだ。

「そして今回、敵は資源を満載している船団を総出で狙わなきゃいけないんだよ。前回の作戦でかなりの数の艦を失ったし、つい先日も潜水艦を大量に喪失している。おまけに戦力の立て直しには資源が必要だろ?」

 艦娘たちと同じように、深海棲艦にも艤装のようなものがあり、それを作るためには資源が必要なのではないかというのは、あくまでも提督の推論だ。

 だが、それ以外に敵が資源を備蓄する理由など思いつかない。

 ただ訳もなくリスクを冒して資源を集めているという方が、よほどナンセンスだろう。

 それに、人類を兵糧攻めにするためというならば、集積地を作る必要はない。

「敵も過去の例から考えて、輸送作戦に全力を注ぐ我々がその最中に拠点を襲うなんて思ってないだろう。だから、拠点にはわずかな守備隊を残す程度になるはずだ。それを釣り上げて叩き潰した後、空になった拠点を物資ごと消し飛ばしてやれば、さすがに向こうも退くしかない。島で補給を得られない以上、反転攻勢に出ようと思っても、いったんは他の拠点まで下がる必要がある」

「どうせなら火事泥すればいいじゃん? もったいない」

 瑞鶴が呆れた顔をして言う。

 強襲した後に物資を奪えと言いたいのだろう。確かにそれはこの国にとって何よりも必要とされているものだ。

 けれど、それはリスクが大きすぎる。

「それをやれば、敵は間違いなく物資の奪還を目指して、死に物狂いで襲いかかってくる。輸送船団に差し向けた戦力のほぼすべてで、だ。瑞鶴はそんなの相手にしたいか?」

「う……お断りします」

 輸送路に近かったために、強奪した物資を大量に集積できていると言う点が、この拠点の重要性だ。

 そしてその事実が選択肢を生み出す。

 選択肢がある限り、どれかを選ぶと言うことができる。

 この場合、備蓄物資を使って戦力を再編、とりあえず海域の支配を続けると言う選択だ。

 だから、提督はそれを潰すことで、撤退という道しか相手に残さないつもりなのだ。

「ま、これは全部、推測の上に成り立ってるから、確実とは言えないけどもね」

「その推測は間違ってないと思いマス。でもこの作戦は、下手をすれば輸送船団が大被害を受けますヨ? 上手く行ったとしても素直に喜べまセン」

「そう思うなら、可能な限り早く敵拠点を粉砕して敵を撤退させて見せろ。お前ならできるだろ、金剛?」

 試すように金剛の瞳を見つめる提督。

 金剛は口の端を持ち上げ、不敵な笑みでそれに応じる。

「……フフン。オーケー、提督。ご褒美の用意、忘れないでネ」

「それなら心配するな――」

 提督も同じように口の端を持ち上げる。

「これを綺麗に片付ければ、上の連中はお前たちの存在を公式に認めなければならなくなる」

 それを聞いた金剛の瞳が異様な光を帯びる。

 金剛だけではない。瑞鶴も足柄もだ。

 確かにそれは艦娘たちにとって、これ以上ない報酬だ。

 けれど、それはまた別の問題を呼び起こす可能性がある。

 提督はそれに気がついているのか。

 作戦の詳細を語り始めた彼の表情から、それを知ることなどできなかった。

 《4》


『一体これはどういうことなのかね!?』

 電話の向こうでそう怒鳴っているのは、政権与党の幹事長だ。

 どういうことも何も、海将自身その話を聞いたのはつい今しがた。

 その対策を指示する前に、この電話が鳴ったのだ。

 少なくとも「何がですか?」と聞き返す羽目にならなかっただけでもマシだ。

 だから言えることなど何もない。あるわけがない。

 ただ、電話の向こうはそれを素直に聞き届けてくれるような相手ではない。

「目下のところ調査中です」

 臆測でモノを語ることができない以上、定型的な返答を口にするのが精一杯だ。

『そんな呑気なことを言っている場合か!』

 だからと言って怒鳴ればいいというものでもないだろう。

 そんなセリフを代わりに突きつけてやりたい衝動にかられるが、これも言ったところで意味などない。

「何か分かりましたら、すぐにお伝えします。それまでお待ちください」

 このまま会話を続けていても、時間を浪費するだけだ。

 もう一度、手持ちの情報がないことを遠回しに告げる。

『急ぐんだ。出所を潰さないと、我々は終わりだよ』

 そう言って、電話は乱暴に切れた。

 椅子の背に体を預け、大きくため息をつく。

 身体全体に重くのしかかっているのは、まるで一日の終わりを迎えた時のような怠さ。

 しかし、時計はまだ午前九時を指したばかりのところだ。

「お疲れのようですね」

 執務机を挟んで対面している情報部員が、そう言っていやらしい笑みを浮かべる。

「原因の半分は君たちのせいじゃないかね」

 まるで他人事のように話すのだから、嫌味の一つも突きつけてやりたくなる。

 朝一番に訪れたこの男のもたらした情報が、事の発端だ。


 ――艦娘のことと思われる噂が、海上自衛隊内部に広まりつつある。


 たったそれだけの報せが、政府や組織上層部を揺さぶっているのだ。

「それで、出所に心当たりはあるのかね?」

「先ほどの言葉をお借りするならば、目下調査中、ですね。どこか一つの基地で広まっているのならば、それほど難しい話でもないのですが」

「一つじゃないのか」

「ええ。横須賀、佐世保、呉、舞鶴、大湊――こういった大きな基地だけではなく、地方の航空隊などにも広まりつつあります。おそらくそう遠くないうちに、他の組織へも届くでしょう」

 他の組織というのは陸上や航空自衛隊のことだ。

 そうなってしまえば、海将や情報部にできることはない。

 そもそも情報部は、防衛省の組織である情報本部とはまったく別。深海棲艦と艦娘の情報統制のためだけに作られた、海上自衛隊傘下の組織だ。

 他の組織に対しての権限などない。

 もっとも、その力があったとしても、情報部に対する権限は政府によって実質的に掌握されているのだから、海将が何もできないことに変わりはない。

 ただ、責任だけを取らされる立場なのだ。

「止められそうか?」

「無理でしょう。噂の源にたどり着く頃には、民間にまで知れ渡っていてもおかしくはないですよ。まぁ、出所自体に目星はつきますが、証拠がなければどうにも」

 自分たちの不手際、失態。そう言われてもおかしくはない状況にもかかわらず、目の前の男は顔色一つ変えない。

 それどころか、ニヤリと笑ってさえ見せた。

「何事にも、限界、潮時って物はあります。情報に携わる者として言わせてもらうならば、そもそも隠すべきではない情報を隠そうとした時点で間違いなんですよ」

 そして、公然と政府の批判をする。

 この国において、それをすることは別に罪ではない。

 だが、その手先となって情報統制に勤しんできた者が言うべきことではない。

 それによって、どれだけの人間が辛酸を舐めさせられてきたのか。

 男は睨みつけた海将の視線をまったく意に介さず、むしろ真正面から平然と受け止める。

「まぁ、私はあくまでも下っ端。上からやれと言われたことをやるだけですから」

「なら噂の出所と証拠を掴んで来るんだ」

 噂を止められないのであれば、噂を打ち消す事実を作る必要がある。

 そのためには、その首謀者となるべき者が必要だ。

 もし掴みきれなくても、その責を誰に負わせるかはすでに決まっている。そのために彼はあの安楽椅子に座っていると言っても過言ではない。

 けれど、彼が海将の想像通りの人物であれば、間違いなく関わっている。

 その証拠が欲しかった。

「必要であれば捏造することもできますが?」

 そんなモノでは、火に油を注ぐだけで終わることになる可能性もある。

 最悪、政府はそうするつもりだろうが。

「いや。確実な証拠を探して来るんだ。この上さらに嘘を塗ってもいつかは剥がれ落ちる」

 だが、海将はこの状況をさらに利用しようと考えていた。

 国の置かれている状況を考えれば、あの若い司令官のやろうとしていることは、決して間違いではないのだから。

「わかりました。それがあなたの役に立つとは思えませんが、私には充分メリットになりそうですし、食いっぱぐれたくはないですから」

 墜落を胴体着陸程度の被害にする。

 それが海将の選ぼうとしている道だ。

 緩衝材になる自分の命運などわかりきっている。

 だが、自分はこの国と国民に対して宣誓した身なのだから、それも覚悟の上だ。

「指示は以上だ。行きたまえ」

「はい。それから、海将にお会いしたいという人を連れてきましたので、宜しくお願いします――では失礼します」

 一礼すると、くるりと踵を返して扉をくぐっていく。

 入れ替わるように、スーツ姿の男が姿を見せる。

 それが見た顔であることに海将は思い至る。

「この間は、ご挨拶もできずに申し訳ありません」

 敵の侵入についての対策を協議した、あの料亭にいた男だ。

「私に用というのは?」

 政府の要人と懇ろなのだから、今更自分に擦り寄る意味などないはずだ。

 どうせ、幹事長が面倒ごとを押し付けてきたのだろう。

「私は政治家でも軍人でもない、ただのビジネスマンです。そんな人間が持ち込む用事など、あえて言わなくてもおわかりいただけるかと」

「ならば相手を間違えているよ、君は。口説き落とすのは予算を出す方だ」

「そうとも限りません。実際にうちの製品をお使いになるのは現場の方々ですし、その意見は是非とも聞いておかねばなりませんから」

 そう言って男が差し出した名刺には、経済に疎い海将でもよく知る企業の名前が書かれていた。

 何しろ、そこが作っているのは自衛隊において必要とされる装備の大半なのだから。

 使用できる資材や電力が制限されている現在では、個々の企業が分担して何かを作るということをしていては効率が悪い。国の後押しもあって、いくつかの企業が手を結び、それが連鎖的に広がっていく形で、その軍需専業の会社は生まれた。

 もちろん寄せ集めであったがゆえに、内紛もあったらしい。何度かの経営陣交代劇の末に、もっとも派閥から縁遠かったこの男がトップの座に着いた。

 それからあっという間に業績を伸ばしたのだから、この男には運だけではなく、才能もあったのだろう。

「しかし、随分とお困りのようですね」

「何の話かね」

「警戒なさらなくても大丈夫ですよ。艦娘に関してはうちが研究してますから」

 政府が艦娘の技術転用を計画しているという噂は海将の耳にも届いている。数年前から、何度もだ。

 だが、何の成果もないのだからあくまでも噂だろうと、本気で取り合うことはしなかった。

 しかし、それは本当に行われていたのだ。

 艦娘たちを所管する組織に――それも、その組織の頂点に立つ自分にすら一切隠されたまま。

 所詮、自分も駒の一つにすぎないのだと、改めて思い知らされる。

「ならば、商談をしている暇などないことくらいわかるのではないのかね?」

 そんな胸の内を見せぬように言葉を紡ぐ。

「いえいえ。だからこそなんですよ」

 薄い笑い。

 見透かされているのだろうか。

「さっきの彼が言ってませんでしたか? もう手遅れだ、と」

「随分と気心の知れた仲のようだな」

「さあ、それはどうでしょう。いずれにせよ今日の商談には関係のないことです」

「では、さっさとその商談とやらを始めてくれないか。こっちは後がつかえているんだ」

 男はそうしましょうと言いながら、いくつかの資料を机の上に並べた。

 数字や技術者向けの難解な単語が並ぶそれらの中には、海将にもよくわかる図が何点かある。

 主に護衛艦に搭載されている主砲に関してのものだ。

「当社は艦娘の技術を使った兵器の開発を進めています。今ここに出したものは現在最後の試験段階に差し掛かっていて、実用化は一年以内に可能と見込んでいます。これを運用するシステムはほぼ現行のまま、一部の兵装だけを変更することで、深海棲艦の持つ『障壁』と呼ばれる装甲を、今より簡単に貫通することが可能になります」

「誘導兵器の類はないのかね?」

 並べられた資料の中に望むものが見つからず、海将は問いかける。

 装甲防御力のない護衛艦にとって主力となる兵装は、安全な距離を保ちながら攻撃のできる誘導兵器だ。それらが有効になれば、深海棲艦側の射程外から一方的に攻撃することが可能になる。

「もちろんそちらも開発中です。が、さすがに当社も最近は懐事情が厳しくて、遅々として進んでいないのが現状です」

 当たり前の話だ。国としても一向に成果の上がらないものに対して、気前よく予算を出せるほど余裕があるわけでもない。

 だから、今ある技術で一定の成果を上げて予算を勝ち取りたいのだろう。

「わかっていると思うが、最終テストも済んでいないものを搭載して戦うことはできんし、予算を無心することもできんよ」

「ええ、存じてます。これらに関しての基礎研究は終わっていますし、先日、貴重な被験体も手に入りました。近々そちらが望む結果をお見せできると思いますし、そうなれば、まず間違いなくお買い上げいただけるでしょう」

「では、何がしたいんだね、君は」

「先ほども言いましたが、艦娘の存在が露見するのは止められません。そう遠くない将来に艦娘は公式に存在を認められ、活躍するようになるでしょう……ただ、あまりに活躍されて、深海棲艦に対抗するには艦娘だけで充分という流れになってしまっては、うちの商品が売れなくなってしまいます。これは大変困ります」

「大多数の国民は困らないがね。我々も隊員の犠牲者を減らせる――正直な話を言えば、私だって艦娘を積極運用すべきだと思っているし、その際に誰かが今までの責任を取らなければならないのであれば、私がそうするべきだとも思っている」

「さすが。海将なんて地位につく方は人格者ですね」

 そう言って男は笑う。

 ひとしきり笑った後、その表情を急変させる。

 まるで仮面でも脱ぎ捨てるように。

 一切の感情が消えた顔で。

「――ですが海将。現状、一〇〇名足らずの艦娘だけで、この国を守れるのですか?」

 即答できる。

 無理だ。

 たとえその規模が倍になったとしても、到底カバー仕切れるものではない。

 国土を守るというだけならば、充分と言えるかもしれない。

 だが、この国を守るという定義には、海上輸送路の確保という問題も含まれてくる。

 そうなれば、圧倒的に戦力が不足するのは目に見えていた。

「ですから、現実的に考えれば、我が社の兵器を搭載した自衛隊艦艇も主力となるべきです。ですが政府の役人たちの考えはそうならないでしょう。国民の大半も、艦娘たちに全てを委ねれば安心といった風潮になるはずです。そうなってからでは遅いのですよ」

 平時の自衛隊が置かれていた状況を考えれば、この理屈は当然と言えた。

 要するに無駄な組織という捉え方が一般的だったのだ。

 確かに、戦いのない時には無駄な存在かもしれない。だが、いざ事が起きてから準備を始めたのでは、到底間に合わない。

 準備をするには、莫大な時間が必要なのだから。

 そして事が起きた時。

 真っ先に批判を始めるのは、それに対する備えを否定してきた人間だ。

 何度もそういった事例に直面しながら、ごく少数がそれを理解せず、ただ声高に叫び、何も考えない大多数はそれに追従する。そして現実を理解し、それを訴える少数を批判してきた。

 そんな状況下では国の指導者層ですら、何が真理かを理解していても大多数へ迎合するしかない。

 そんな光景を長い間見続けてきた海将にとって、男の言葉は妄想や夢物語などではなく、リアルなものとして受け止められた。

「要するに、君はこの国の未来を売り物として、ここに来たのかね」

「まさか。そんな大それたもの、うちでは取り扱えませんよ。あくまでも私は自社の製品を買って頂きたいだけです。その結果が国の未来に関わってくるというなら、それは大変ありがたい評価をいただけたというところですかね」

 煮ても焼いても食えないとは、まさにこの男のことだろう。

「まあ、今のは艦娘たちに活躍されたら嬉しいけれど、大変だっていう世間話ですよ。例えば次の輸送作戦が完全成功したり、関東を狙っていた敵艦隊を殲滅したとか――それさえなければ、うちの兵器が活躍する場も与えられるかな、と」

「それは艦娘たち自身の力によるところだから、私には何もできんな。まさか戦うなというわけにもいくまい?」

「ええ、もちろん。ただ、戦場では色々起きることもあるでしょう? 何かが起きて戦力が分散されてしまい、結果として輸送船団が被害を受けたりとか。特に佐世保第二の司令官は問題があるようですし……作戦前に交代した方がいいんじゃないですか?」

 そう言って、男はコピーされた書類を差し出す。

 何も書かれていない表紙の下には、組織外に漏れる事があってはならない文書――艦娘たちが書いた、前回の輸送作戦に関する戦闘詳報があった。

「どうやってこれを……」

「そんなことは気になさらず、どうぞ読み進められてください。きっと新たな発見があるはずですよ」

 男の言う通り、海将が受けた報告とはまったく違う事が記載されていた。

 評価の高かった作戦中における要所での判断は、そのすべてが佐世保司令ではなく、金剛によるものという、幾人もの艦娘による証言があった。

 もちろん、艦娘たちが口裏を合わせて、佐世保司令を貶めるために話をでっち上げた可能性もある。

 だが、それをするメリットがあるのかと問われれば、答えは否だ。

 新たな司令官が送り込まれたとしても、彼女たちを取り巻く状況は何も変わらないのだから。

 特に目に付いたのは、金剛自身の手による報告書。

 一連の作戦中における判断の根拠が詳細に書かれており、筋は完全に通っている。

 佐世保司令が提出してきた報告書よりも、はるかに。言ってみれば完璧に、だ。

 最後には、この戦いにおける佐世保司令の一連の行動は私怨を元にした利敵行為そのものであり、これまでの作戦における指揮能力の問題と合わせて、解任を要求するという一文が添えられていた。

「どういうことだね、これは」

「ご覧になった通りですよ。こんな人が指揮官では色々とまずいんじゃないかとは、私でも思いますよ? まあ、すでに報告書は承認されていますし、今お持ちなのもコピーですからね。追求するのも難しいでしょうから、どうしたものか」

 海上輸送路の防衛拠点になる艦娘部隊指揮官がこれでは、今後の安全など確保できるはずもない。一刻も早く交代させる必要がある。

 だが、その鍵は恐らくこの男が握っている。

「原本はどこだ?」

「さすがにそこまでは……佐世保の報告書ですから、佐世保にあるものだとは思いますが。こういった廃棄書類というものは、後でまとめて処分しようとして、そのまま忘れてしまうこともありますしね。そういうご経験はありませんか?」

「そういうことか……」

 これを使えば、たとえ海将が馬鹿げた指示を出して実行させ、後でそれを否定したとしても、そのすべてを佐世保側の偽装工作として処理することができる。

 一つ嘘が発覚すれば、その他のすべてが真実だとしても、そう思ってもらうことは難しい。

 男はそうしろと言っている。

 汚い手だ。

 だが。

 艦娘の件が発覚すれば、海将が責任を取ることになるのは間違いない。

 もちろん政府もだ。

 国内はかなり混乱するだろう。

 それでも敵は存在し、国を脅かし続ける。

 ならば、できることはただ一つ。

 国を守る力を絶やさないこと。

 それが自分にできる最後の奉公だと、海将は改めて覚悟を決める。

※今回の投下はここまでとなります。
 少し駆け足で第二章を通過してしまいまして、次からが第三章になります。
 なお、現在地はちょうど中間地点となっております。
 長くてすいません。
 続きは、また近日中に投下します。

 数年ぶりにもらってしまい、寝込んでいる自分が言うのもなんですが……
 みなさま、風邪などお召しにならぬよう、どうぞご自愛くださいませ。

(他人からもらった風邪って、なんでこんなに凶悪なのか……)

※乙ありです。
 少し時間が空いてしまいました、申し訳ありません。
 本日分、投下します。

 《第三章  想定外》

 《1》


 情報部からの接触が増加していた。

 横須賀に入り込めた工作員が時雨だけとなった以上、そうなることは予測していた。

 だが、その頻度は想定をはるかに超えている。

 昼夜の別なく。そして今のように海の上にいても催促はくる。

 艦娘として、一人海の上を進んでいるならまだしも、狭い護衛艦の艦橋、他人の目がある中で、そんなものに受け答えができるわけがないのにだ。

 囮として使うつもりだったくせに――。

 文句の一つでも送ってやりたいところだが、そうもいかない。

『横須賀第二は予定通り作戦を実施中。

 敵艦隊の捜索は艦娘と航空機の不足で難航。

 二度捕捉するも、遠距離のため触接を継続できず失探。

 直前の針路より敵艦隊の移動方向を推測、索敵範囲を南西に拡大。現在は種子島から喜界島にかけての沖合を索敵中。

 なお、敵針路次第によっては、輸送船団との接触の恐れあり』

 あらかじめ用意されていた電文を手早く暗号化し、送信する。

 ここ数回は、その時点での索敵範囲くらいしか変更する内容もない。

 読む方も飽きるだろうが、書く方だってそれは同じだ。

 行動を強要されている分、時雨の方が精神的疲労の度合いは大きいだろう。

「やれやれ、だね」

「何というか……ご苦労さん」

 大きくため息をついた時雨に、提督がねぎらいの声をかける。

「これを見ても、また夕方には『新しい情報を』ってくるんだから、いい加減にして欲しいよ」

「尻に着いた火の大きさに慌ててるんだろうさ」

 提督の言葉の通り、情報部には明らかな焦りの色が出ている。

 艦娘に関する噂が広まり始めたのがその原因だ。

 もちろんそれを操っているのは提督と、横須賀で艦の修理に当たっている護衛艦はづきの艦長だ。

「あれだけいろんな基地で噂がたったら、元を辿るなんて無理だろうしな」

 提督はしてやったりとばかりに笑っているが、やられた方はたまったものではない。

 噂を広めるのに重要な役割を果たしているのは、練度維持のためにはづきに乗り込んでいた護衛艦きよづきの乗員たち。

 訓練のために乗り込んでいたはづきも修理に入り、しばらく身動きが取れない以上、きよづき乗員たちは再び各地の基地へ移動し、別の艦に乗ることになる。

 そうやって散っていった彼らが、噂を広めているのだ。

 彼らの元々の乗艦であるきよづきは、無理な作戦の挙句に廃艦寸前の被害を受け、仲間も多く喪っている。

 その怒りが彼らを突き動かしていた。

「慌ててると言うよりも、火元がわからなくて途方に暮れてるんだろうね」

 そうなる気持ちは時雨にも大いに理解できた。

 同時発生的に広がり始めた噂の元を辿ろうにも、互いが互いを指差し、向こうから聞いたと言い合っていれば、埒など明くはずもない。

 それに加え、艦娘に関しての情報開示を声高に叫んでいた第一容疑者が、噂の広まる前に護衛艦あきさめに乗り、陸を離れていた。

「しかし、お前さんも律儀に返事をしなくていいんじゃないか?」

「そういうわけにはいかないさ。下手に行動を変化させれば、余計な疑念を抱かせるからね」

 ここまで話が大きくなってしまうと、打てる手など限られてくる。

 たとえ首謀者を作り上げたところで、本当の首謀者が残っている限りその次の手を警戒する必要があるし、証拠をでっち上げても、信憑性に欠ければ逆効果になりかねない。

 一番確実なのは首謀者を捕まえ、証拠を見つけ出した上で『組織を混乱させる風説を流布し、利敵行為を行った』と断罪すること。

 だから、その前に大きな戦果を上げる必要がある。

 それも人類が成し得ない――艦娘が存在しなければ得られるはずのない戦果をだ。それが噂を否定のできない真実に変える。

 それこそが提督の考えてきた、状況を変える一手だ。

 そして時雨は魔の手が彼に迫るのを、可能な限り先に伸ばす役目を負っている。

「そろそろネタ切れしてるんじゃないのか?」

「……それは否定できないね。いい案があれば随時募集してるよ」

 時雨の思案顔をしばし見つめていた提督が、ポンと軽く膝を叩く。

 何かを思いついたようだ。

 もっとも、こういう時の提督の思いつきがロクなものではないことなど、このわずかな期間でも充分に理解できている。

「いっその事、天気でも報告してやれ。それなら毎回変化はあるぞ」

 予想通りの発言に、時雨は再び大きくため息をつく。

「せめて毎食の献立、とかくらいは言えないものかな」

「それは名案だな。やつら腹が減って、仕事やる気なくすぞ」

「もう……提督がもう少し動きを見せてくれれば、報告する内容にも困らないんだけどね」

「そんなの敵に聞いてくれよ。向こうが動かなきゃ、こっちだって何もできやしない。おかげで金剛と足柄、それに瑞鶴まで退屈だとふてくされてる。この上、時雨にまでヘソを曲げられたら、俺はいよいよ孤立無援だ」

 輸送船団が出発して、すでに二十六日。シンガポールで荷を積み終えた船団はすでに復路に入っているはずだ。

 位置の露見を防ぐために無線は封止され、前回の作戦中に不具合が起きた船団位置情報システムも、完全に問題がないと分かるまでは使えない。

 だが、スケジュール通りならばそろそろバシー海峡へ差し掛かっているはずだ。船団からの連絡はそこを抜けてからとなる。

 これまでのところ、大きな戦闘はないという報告も各要所の哨戒にあたる艦娘たちから届いていた。

 いつもであれば、小規模の艦隊だけでも繰り出して輸送船団の何隻かをさらっていく南シナ海の深海棲艦も、今回はまったくの沈黙を保っている。

 恐らく、大東諸島の艦隊のためにあえて見逃したというところだろう。

 ここまでの提督の読みは当たっていることになる。

「まぁ、そろそろ動いてるはずなんだがね」

 しかし、南西諸島海域を哨戒中の艦娘たちからは、敵艦隊発見の報告はない。

「提督はどこで敵が待ち構えていると思うんだい?」

「沖縄と宮古島の間だね。まずは敵の別働隊が前路哨戒の部隊にそこでしかけて、これを東シナ海へ引きずり込む。そのおかげでフィリピン海はガラ空きに見えるから、船団は直進。そこに時間差を置いて敵本隊が突入――結果は一方的だな」

「本隊が先に見つかってしまえば作戦が崩れるけど?」

「その可能性は考えなくてもいいくらい低い。俺なら大東諸島に艦隊をギリギリまで置いておくよ。バシー海峡通過に合わせて本隊の行動を開始しても充分間に合うんだ。それに燃料の余裕がある分、その後の行動に制約が少なくなって、状況の変化にも対応しやすい」

 言ってしまえば典型的な陽動作戦。

 今の上層部ならそんなものでも簡単に引っかかる可能性が高い。

 前回の成功ももちろんだが、今回も敵の出現がないことで、相手の戦力を完全に見くびっているだろうから。

「ということを踏まえた上で、哨戒部隊には、あえて陽動にかかったフリをしてもらう。その上で我々は、敵艦隊を発見したという情報を流すことで、船団を与那国と西表の間で転針させる。その後、それを追った大東島の敵本隊を佐世保の主力が丁重におもてなしする間に、大東島を叩いて奪還する」

「なるほどね。それなら多少こちらが手間取っても、輸送船団に被害は出ない」

「そういうこと。発奮してもらうために金剛にはああ言ったが、被害が出たら、さすがに寝覚めが悪いよ」

 そう言っておどける提督に時雨は微笑み、安堵する。

 自分たちはこの人に従えば間違いない。

 この人ならば、絶対に誰かを犠牲にするようなことはしない。

「ま、今のうちにメシでも食っておけと他の子達にも伝えてくれ。お前もだからな? 動き始めたらそんな暇はなくなるぞ」


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


『宮古島沖で敵艦隊と接触』

 哨戒部隊旗艦の青葉からその一報がもたらされたのは、二時間ほどが経った、正午過ぎのこと。

 それを受け、護衛艦あきさめは速力を上げて、大東諸島近海への針路とり一五〇キロの地点まで進出を図る。

 それが作戦開始の合図だ。

『輸送船団がバシー海峡を通過。敵機を排除。偵察機の模様』

『名取隊が与那国島近海の敵潜排除。予定航路クリア。音響ブイ設置完了』

『青葉隊、針路三一〇で敵艦隊追撃中。距離は三万のまま縮まらず』

 次々とあきさめの艦橋に情報が届く。

 提督はそれを確認しながら、艦娘たちへ密かに指示を出す。

 おおっぴらに指示を出せば、佐世保司令を刺激することになる。そうなれば作戦全体をぶち壊すような事態を招きかねないからだ。

 そして出せる指示も限られる。向こうの作戦計画を大幅に乱すようなことはできない。

「青葉隊はどっちに移動した?」

「接触地点より四十キロ西に移動。二十四ノットで追撃中です」

「やっぱり陽動だな――適当なところまで追わせろ。ただし尖閣には近づくな。別の敵艦隊が待ち構えてる可能性がある」

 あきさめ艦長を含めた多くの幹部が情報や資料の集まる戦闘指揮所に移ることを勧めても、提督は「そこは艦長の場所ですから」と、艦橋に残ることを宣言している。

「足柄たちを出せ。島の北側から接近、敵を誘引して東に抜けるように厳命。その後に金剛たちだ。これは島の東側から接近させろ。瑞鶴は偵察機を出した後、金剛と合流。全員偵察情報を待ってから攻撃開始だ。それまでは対潜警戒を密にして進め」

 矢継ぎ早の指示は、地図など一切見ることなく出されていく。

 提督の頭の中には、この海域すべてが刻み込まれているのだ。

 どれだけの間練り続けてきた計画なのかが、それだけでもわかる。

「佐世保の歓迎艦隊は?」

「奄美大島東方沖二〇〇キロで待機中」

 追いすがる敵本隊を粉砕するための主力艦隊は、金剛型高速戦艦榛名を旗艦とした戦艦三隻、重巡二隻の打撃部隊。赤城と加賀を基幹とした空母二隻、軽空母二隻の臨時航空艦隊。そして軽巡、駆逐艦四隻の小規模護衛艦隊で構成されている。

 これらは、前路哨戒として南シナ海各所の警戒にあたり、一足先に帰還した部隊から再編成、幻の敵艦隊を警戒して配置されたものだ。

「よし。ここまでは順調……後は瑞鶴が敵艦隊を見つけてくれることを祈るだけだ」

 それに関しては問題ないだろう。

 瑞鶴の航空隊はかなりの練度を誇る、一線級の部隊だ。

 だが、時雨の中には言いようのない不安が黒い影となって蠢き始めていた。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「なんだかイヤな予感がシマス」

 そんなことを金剛が漏らしたのは、偵察機を放って一時間になろうかという頃のことだ。

「ええっ?」

 それを聞いて、瑞鶴は思わず声を出してしまう。

 金剛のこういう勘だけは妙に当たるのだ。

 例えば、台湾海峡の時のように。

 その勘のおかげで、他の艦娘たちは難を逃れている。

 だから、それを知っている瑞鶴が思わず呻いたのは、当然と言えるだろう。

「ちょっと、勘弁してよ? うちの子たちになんかあっても困るんだから」

 瑞鶴の抗議の声は金剛に届いていない。

 その瞳は南西の方角をじっと見つめ、何かを感じ取ろうとしている。

 少なくとも、自分たちの主戦場となる海域の方角ではないことを知って、瑞鶴は内心で胸を撫で下ろす。

 だが、何故か自分にまでその嫌な予感が伝染してきたような気がして落ち着かない。

「っていうか、何なのよ? 戦闘前だっていうのに、らしくないじゃない?」

 それを振り払おうと、茶化してみせる。

「それがわかれば、私は予言者になれますネー」

 金剛も冗談を言ったつもりだろうが、いつものキレがないし、表情も硬い。

 普段とはまったく違うその様子に、さすがの瑞鶴もこれ以上は笑い飛ばす気になれない。

「しっかりしてよ。いつもみたいにちゃんと考えて、はっきりわかるように答えを出してくれる?」

「そうですネ……今この状況で起きると困ることを並べてみまショウカ」

 そう言われても、思いつくことなどそれほど多くはない。

 一番困るのは、出撃しているであろう敵主力が引き返してくることだ。

 だが、それはないだろう。

 それをする動機が敵にはない。

 たとえ瑞鶴の放った偵察機が発見されたとしても、こちらに結びつかないように、時間がかかることを承知で侵入コースを正反対にしているし、リスクが跳ね上がることを覚悟した上で、離脱も同じ方向にした。

「敵が出撃していないとかは嫌よね」

 思いついたもう一つを口にしてみる。

「それはないでショウ。提督の言う通り、戦力の回復には資源が必要デス。そう考えなければ、他の海域で船団に手を出していないコトの説明もつきまセン。それに輸送船団を発見した敵機がいるナラ、敵が出撃したのは間違いないと思いマス」

「だよね。とすれば、あとは……」

「……船団が直進スル。榛名や赤城たちが動カナイ。どっちも最悪デス」

 金剛がポツリと口にした。

 それこそまさか、だ。

 あえて虎口に足を踏みれる者などいない。

 瑞鶴の偵察隊が敵の位置をつかんだ直後に、その報は総司令部に伝えられ、そこから間を置かずに当該海域の司令部にも伝達される。

 当然、そこを経由する形で船団にも情報が入り、艦娘たちには命令が下る――

「待って。佐世保のバカがまたなんかやらかすかもってこと?」

 前回の顛末を考えれば、ないと言い切れる話ではない。

 ただ、今回はもみ消すことなどできない規模の被害が発生する。

 これで沈むのは、資源を満載した船団であって、あの男が個人的かつ、一方的に敵意を持っている金剛ではない。

「さすがにあの男もそこまでバカではないと思いマス……ケド」

「けど、なによ?」

「今感じてる嫌な空気は、それと同じデス」

「ちょっと……また人間側の裏切りってことじゃないの」

「そうですネ」

「あのバカ以外に、今この状況でそれができるのは一人しか――」

 ふと、自分に向けられた殺気によって、瑞鶴は言葉を詰まらせる。

 まるで押しつぶされそうなほどの圧力で、息さえもできない。

 その殺気の主が静かに告げる。

「瑞鶴。言っておくけど、それは違いマス。たとえ冗談でも口にしないでクダサイ」

 目は本気だ。

 だが瑞鶴も黙っているわけにはいかない。

 事は自分たちの身に関わるのだから。

「……たまたま救われたからって、変に肩入れしてると足元すくわれるわよ。だいたい、人間を信用するなって言ったのは金剛、あんたよ?」

「確かに言いマシタ。デモ、提督は――」

「待って。偵察機から入電」

 金剛の言葉を制して、無線に耳を澄ませる。

 ノイズに混じって、かすかにモールスが聞こえる。

「敵艦隊発見。南大東島南西八十キロ、針路二二〇で航行中。その後方を輸送艦が続く。守備隊は少数。巡洋艦三、駆逐艦四。島内滑走路に敵機なし――だそうよ」

 敵の動きは提督が事前に予測した通りだ。

 鹵獲したこちらの輸送船から資源を積み替え、もしくは曳航するための輸送艦が続航しているなら間違いはない。

 幸運なことに、島内の飛行場には敵機の姿もない。これならば敵の守備隊に対して、近海で砲撃戦を仕掛けても問題はないはずだ。

 思ったよりも早く敵の拠点を粉砕できる。

「オーケイ。うるさいハエがいないならやりやすいデス。島上空の偵察機は離脱、敵本隊のストーキングは継続。提督に今の情報を打電するネ」

「了解――金剛、話の続きだけど」

「ワタシが説明するよりも、現実になにが起こるか見た方が納得できると思うヨ。だから今はワタシに命を預けてクダサイ」

「わかった、けど、もし何かあればその時は……」

 金剛から答えはない。

 また、南西の方角をじっと見つめているだけだ。

 《2》


 瑞鶴艦載機による敵艦隊発見の報は、提督の手により多少事実を歪められた上で上層部に伝えられた。

 提督の言を借りれば、歪めたという言い方は違うということになる。

 続航しているのが輸送艦だと確認できなかったために、それまで追っていた敵艦隊が増援を受けたものと誤解しただけ。戦場ではよくあることだ。

 提督からの伝聞情報を送信している時雨が、それをそのまま情報部に送りつけたところで、何の責めを受けるいわれもない。

 結果、上層部へは複数筋からの情報ということで、それが確度の高いものとして扱われることになり、各所へ通達されていく。

 事態は提督の思い描いた通りに進んでいく。

 だが。

 情報を操るということは誰にでもできるのだ。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 瑞鶴の手元から矢が放たれる。

 二十メートルほども飛んだあたりで一瞬だけ燃えるような光を放ち、全体が包まれる。そしてその光が消えると、そこには九七式艦攻の姿が現れる。

 最初は手のひらサイズだったそれは、距離を進むごとに大きくなる。

 そして充分に加速すると、わずかに左へ進路を変えつつ緩やかに上昇していく。

 隣では同じ手順で、鳳翔が九六式艦戦を空に解き放っていた。

「瑞鶴より艦隊各員。間も無く艦載機の発艦作業を完了」

 了解の声が帰ってくるのを確認して、瑞鶴は空を見上げる。

 雲はない。

 これだけ空の見通しが良ければ、航空隊はまず間違いなく発見され、激しい砲火を浴びることになる。

 手持ちの機体には限りがある。今後のことを考えれば、損害は可能な限り抑える必要があるだろう。

 何かいい手はないかと、瑞鶴は思案を巡らせていた。

 そこへ。

『瑞鶴。艦攻隊は手筈通り残してあるか?』

 提督から再度の確認。

「ええ。言われた通りに、爆装した九七式、四個小隊が待機中よ」

 島内の施設を叩くためのものだ。

 敵守備隊への攻撃と前後して、島の敵通信設備を吹き飛ばし、来援要請を出させないようにする必要がある。

 敵機の姿はないが、滑走路も使用不能にしておいた方がいい。

 念には念を入れるべきだというのは、提督の考えでもあった。

『足柄たちが敵を引きずり出して、敵の通信に妨害をかけながら移動中だ。通信施設の位置はあきさめで割り出すから、残りを出して待機させろ。一撃で決めろよ?』

 戦力を割いてしまったことで、敵艦隊への攻撃が若干手薄になる。手薄になる分、砲火が集中してしまうのだ。

 提督の要求は言葉で言うほど簡単ではない。

 けれど。

「期待してていいわよ」

『任せたぞ』

 難しい要求ほど、こなしてみせたくなるものだ。

 それだけ自分を信頼し、期待していると言うことなのだから。

「それで、そのあとは?」

『敵の出方次第……艦攻隊の半数は滑走路へ、残りは敵本隊に攻撃をするつもりで準備をしていい』

「了解。通信終わり」

 さっとノイズが消え、無線はそれきり沈黙する。

「――私も」

 誰も聞いてはいない無線に向かって、瑞鶴はポツリと呟く。

「信じていいんだよね? 提督さん」

 答えが返ってくることはない。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 後方から飛来する砲弾の下を足柄たちは全速力で駆け抜ける。

 大きく広がって水柱を作っているそれらは、次第にまとまりつつある。

 目標は先頭を行く足柄だ。

「うわっ」

 その目の前に着弾した砲弾が海水を吹き上げ、足柄の身体を手荒く洗い流す。

 もちろん、海水だけなら濡れるだけで済むのだが。

 頬に走る痛み。

 手を当てると、ぬるりとした感触。指先には赤いものが付着している。

 海面で炸裂した砲弾の破片の仕業だ。

「女の顔に傷つけたな! この雑魚が!」

 自分なら一撃で沈められるような相手から、偶然だとしてもこんな傷を負わされるとは思っていなかった。

 だが囮という役割である以上、反撃も許されず言葉で罵るしかない。

「いや、そのセリフがすでに女っぽくないんですってば」

 足柄の咆哮に、後ろから続く村雨が苦笑いをしながら呟く。

 無線を通さなければ聞こえないとでも思ったのだろう。

「……村雨、後で覚えておきなさいよ?」

「うげっ? ぜひ忘れてください。私も忘れますから……あはは」

 いつもの調子で軽口を叩いたせいで、さらに足柄の視線を真正面から浴びることになった村雨は、無意識に距離を取ろうとする。

「ほら、隊列乱してんじゃないわよ!? 由良。金剛との距離は?」

「二万四〇〇〇。敵は後方四〇〇〇――これ以上増速されると厄介です」

 最後尾を行く由良が即座に応答する。由良には敵情の把握と、それを金剛たちに伝える役目を任せてある。

 すでに前方で待ち構えている金剛の射程内ではあるが、精度を考えるともう少し引き付けたい。随伴している他の艦娘たちの射程にも入れば、投射火力は一気に増える。

 それを考えれば、あと一万。互いが三十ノットで接近しているのだから、時間で言えば五分強は粘りたい。

 だが、あまりに近寄られては、その一斉射撃に巻き込まれかねない。

「村雨、このまま先頭に出て適宜回避運動を。ただ、あまり派手なのはダメよ?」

「ちょっ! これだけ砲弾降ってるのにですか!?」

 村雨の抗議を聞き届けるつもりなど毛頭ない足柄は、さっさと右へ舵を切り、追いすがる敵艦隊へ正対する。

「フラフラしてたら、金剛たちと合流する時間が遅れるのよ!」

 続けざまの着弾と水柱。

 その間を縫うように進む村雨が、はたと気付いて問い返す。

「もしかしてさっきの仕返しですか、これ!?」

「そうよ! 仕返しは忘れる前にやっとくことにしたの!」

 足柄が右腕の主砲で敵を指向すると、両肩の砲もそれに追随して、同じ方向を向く。

「なんですかそれぇっ! そんなの全然足柄さんっぽくない!」

「うるさい! 全砲門、撃て! 撃てぇっ!」

 斉射一連。足柄はそれで踵を返し、由良に続いて最後尾につく。

 もとより命中など期待していない足柄の砲弾は、敵先頭艦の周囲に着弾して、派手な水柱を上げるだけだ。

 敵はそれで勢いづく。苦し紛れの反撃と見て取ったのだろう。

 砲撃の頻度を上げ、追い込みにかかった。

 自然と動きは直線的になる。

「村雨、取舵反転! 夕立、面舵反転!」

 それを逆手に取るべく、足柄が即座に指示を出す。

 弾かれるように左右に分かれた二人は、足柄と同じように後ろを向いて砲撃体制に入る。

「当てようなんて考えるな! 鼻っ面に落として冷や水をぶっかけてやんなさい!」

「了解!」

 声と同時に発砲。

 砲弾の行方を見ずに、二人は足柄の後ろにつく。

 代わりに見守ったのは足柄と由良だ。

 ろくな狙いもつけずに放たれた砲弾ではあったが、一発が敵の先頭艦に直撃し、炎を吹き上げる。

「夕立、あんたは相変わらずどんな勘してんのよ」

 細かい計算は苦手で面倒な手順は適当に切り上げるくせに、感覚だけでこういう芸当をやってのけるのが夕立。

 決して天才肌というわけではない。どちらかというと動物的な何かだ。

「当たったっぽい?」

「大当たりよ」

 とはいえ、駆逐艦の主砲弾では被害などそれほどでもないだろう。もう一撃加えるべきかもしれない。春雨と五月雨も合図を待っている。

「敵艦、速度落とします。後方四二〇〇。金剛隊まで一万六〇〇〇」

 由良が状況の変化を告げる。少なくとも夕立の一撃は敵の勢いを削ぐには役立ったようだ。

 ここまで引き付ければ充分だろう。こちらの意図には金剛も気がついているはずだ。

 だが、音沙汰がない。由良からの連絡を受けている以上、撃てないわけがないのにだ。

 さすがに不安になった足柄は通信回線を開いて、金剛を呼び出す。

「金剛! そろそろ真面目に仕事しなさいよ!?」

『オウ、足柄。ワタシは別にサボってないヨー』

「なら、ちゃっちゃと撃ちなさいな!」

 答えの替わりに大きな水柱が二本、敵艦の後方に立ち上る。

 金剛の主砲弾だ。その破壊力を見て敵の行動がさらに鈍る。

「撃ったんならそう言って! 二発とも遠! 下げ三!」

『了解。着弾まで二十秒――マス。我慢――ヨ、我慢』

 ところどころが途切れ、最後にはひときわ大きいノイズが入り、それきり無線は沈黙する。

「ちょっと! 撃ったら言いなさいってば!」

『あー、今発砲したわよ。なんか無線の調子が良くないってさ。さっきも発砲の合図は出してたけど、多分そのせいで聞こえなかったんじゃない?』

 遠雷のような轟音を背景に、代わって入ってきたのは瑞鶴の声だ。

「前回の大破の影響ね……後で明石に見せるように言っといてくれる?」

『了解。以降は私が通信を代行するわ。で、足柄。そのまま敵の針路を固定してくれる? うちの子たちが行くから』

 ふと見上げれば、十機あまりの機影が一丸となって敵艦隊の上空を目指し、高い空を飛んでいる。

 それを目掛けて、敵艦が対空火網を形成し始めた。

 だが、その火網は明らかに薄い。

 一部の敵が足柄たちと航空機、どちらを狙うかで戸惑っているのだろう。

「艦隊一斉回頭、右一〇!」

 もちろん、そんな隙を見逃すような足柄ではない。

 全員が一斉に右へ舵を切り、敵と正対。

 それぞれの主砲が一斉に狙いを定める。

「こんないい女目の前にして、よそ見してんじゃないわよ! 撃て! 撃てっ!」

 一斉に放たれた砲弾が次々と敵艦隊の周りに着弾していく。もはやどれが誰の砲弾なのかわかるわけがない。

 せいぜい見分けがつくのは、金剛と足柄のもの。

 敵が一気に混乱状態に陥る。

 空と海、どちらの敵を優先するべきか、決断ができないのだ。

 統制のとれていない対空砲火では脅威にはならない。

 航空機たちは緩やかに降下を開始、増速しながら突入位置についた。

 このまま高度四〇〇〇メートル付近から反転して一気に降下、五〇〇メートルで投弾、身軽になった機体を引き起こして、低い高度で退避する。それが急降下爆撃だ。

 その教科書通りに急角度で降下を始めた艦爆隊が、一気に敵艦へ迫る。

 この頃になって、ようやく仰角をつけて撃てる火砲が、集中した攻撃をかけ始めた。

 だが。

 降下をはじめた艦爆隊は一〇〇〇メートル付近で機体を引き起こすと、頭上をそのまま飛び去って行く。

「瑞鶴! 艦爆隊は何をやってるの!」

『足柄が気づかないんなら、うまく言ったわね』

「はぁ?」

『急降下した子たちをよく見てみるといいんじゃない?』

 言われた通りに目を凝らして、飛び去って行く機体を追う。

 急降下爆撃に使われる九九式艦爆は、その急降下時に速度を抑えるためのエアブレーキとなる板が取り付けられているのが特徴だ。それがなければ、速度がつきすぎ、機体を引き起こした際に分解したり、操作が間に合わず海面に激突する恐れがあるからだ。

 だが、急降下した機体にはそれがない。

「あれって、九六式艦戦!?」

『そう。制空戦闘がなさそうだから、鳳翔さんの艦戦に囮になってもらった。こっちの攻撃隊は数が少ないから、できるだけ温存したいの』

 確かにパッと見ればよく似ている。だが、よくよく見れば誰にでも気がつく。

 けれど戦闘中という特殊な条件下では、そんな余裕があるはずもない。

『本命は敵左舷側低空。突入開始の信号を受信したから、砲撃を停止して』

 言われた方向に視線を向けると、海面スレスレを二十機以上の九七式艦攻が、魚雷を抱いてまっすぐに突っ込んできていた。

 下手に砲撃をして水柱を立ててしまえば、それに引っかかってしまいそうな低さだ。

「全員、砲撃停止! 砲撃停止!」

 慌てて命令を出す。

 一方で、敵も艦攻隊の存在に気がついたようだ。

 慌てて高空に向けた火砲を水平線に向けて動かすが、想像以上に時間を取られる。

 その間に艦攻隊は一気に距離を詰め、魚雷を次々に投下していく。

 敵の対空砲がまともに機能を果たし、濃密な火網を形成しはじめたのは、四個小隊が十六本の魚雷を投下し終えた頃だ。

 残りの二個小隊が集中砲火を受け、そのうちの三機が海面に激突する。

 それでも怯むことなく、残った機体が魚雷を投下し離脱していく。

 それらが敵艦の頭上を通過し、大きく旋回を始めた頃、敵艦隊の中に巨大な水柱が上がり始める。

「砲撃再開! 瑞鶴だけに美味しいとこ持って行かせてたまるか!」

 回避運動を始めた敵艦隊に向かって、足柄たちの砲撃が集中する。

『悪いわね足柄。私が全部食ってやるわ』

 そう言っている瑞鶴がどんな顔をしているか。目の前にそれが見えた気がして、足柄は舌打ちする。

 左後方の上空から、今度こそ二十機あまりの九九式艦爆の編隊が現れ、あっという間に足柄たちを追い越す。

 それらは最初の艦戦隊と同じように急降下を始め、敵が水平に向けた対空砲を再び動かしているのを嘲笑いながら、次々と爆弾を投下していく。

 激しい爆音、いくつもの水柱、炎、煙。

 それらが消えた後、洋上に残っているのは、沈みゆく敵の姿だけ。

「ちくしょう、全部持って行かれた……瑞鶴のやつ、どこでこんな手を覚えたのよ」

 翼を振りながら飛び去っていく艦載機たちを見送る足柄の顔に浮かんでいるのは、言葉とはまったく裏腹の笑みだった。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


『敵守備隊の壊滅を確認、大東島までの航路上に敵影なし』

 足柄の報告に護衛艦あきさめの艦橋がにわかに沸き立つ。

 作戦の第一段階が成功したのだ。

 だが、時雨の心は晴れない。

 むしろ嫌な予感は一層強まっていく。

「瑞鶴。島の施設を叩け。通信設備を最優先で変更なし」

『滑走路も叩いていいのね?』

「余力があればもちろんだ。どこかに隠れていたなんてのは困る」

『了解。しばらく使い物にならなくしてあげるわ』

「ただし、民家や民間の施設に被害は出すな。無理なら目標を変更して構わない」

『また無茶なことを……』

「できると信じてるからこそのお願いだよ」

『なんだか、いいように操られてる気がするわ……まあ、いいけど』

 瑞鶴の第一次攻撃隊が、敵の対空砲を含む防衛施設と通信設備を破壊。もし効果不十分ならば第二次攻撃隊として、九九式艦爆がさらに攻撃をかける。

 その間に近海まで接近した金剛隊と足柄隊が水偵をあげ、観測射撃でとどめを刺す。

 それが第二段階の作戦であり、仕上げとなる。

 提督の推測が正しければ、拠点を失った敵本隊は撤退に移るしかなくなる。どれだけ物資を手に入れても、帰る場所がなければ意味はないのだから。

「瑞鶴。触接を続けている偵察機からの連絡は?」

『そういえば……おかしいわね、全然連絡がない』

「通信状態は?」

『問題なし。島影になるってほど近づいてもいないし、妨害を受けてるような形跡もない。向こうに何かあったのなら話は別だけど』

 いくら奇襲とは言っても、敵機見ゆを意味するヒ連送、空戦中のク連送、戦闘機の攻撃を受くのセ連送など、そう言った通信を寄越すことくらいはできるだろうと、瑞鶴は付け加えた。

 そもそも、そういった状況に対応し、伝えるための通信略号なのだから。

 可能性として残るのは通信設備の故障くらいなものだ。

 提督がそれを口にしてみたが、瑞鶴は即座に否定する。

『まさか。敵艦隊の位置を捕捉した以上、複数を張り付かせてるもの。全部が一度に壊れるなんてありえない』

「あまり褒められたことじゃないけど、こっちから連絡を取ったほうがいいかもしれないね」

 時雨が懸念するのは逆探知による位置発覚もだが、それ以上に通信周波数帯への制限が怖い。

 一度使ってしまったものは妨害される可能性が出てくる。もちろん周波数を変更すればいいだけのことだが、それには限りがあるし、それらを特定され帯域すべてを妨害されれば厄介だ。

 妨害を打ち破るには、相手よりも強力な電波を送信するしかないが、船や航空機で得られる電力には限度がある。

 だが、時雨の意見に瑞鶴が同調する。

『そうね、こっちから呼びかけてみる。少し待って』

 ノイズが途切れる。

「何が起きたと思う?」

「さすがにわからないよ……ただ、嫌な感じは作戦が始まった頃からしてる」

「お前が言い出すと、シャレにならないな」

 大戦末期まで、数々の戦いをくぐり抜けてきた幸運の駆逐艦。時雨はその魂と記憶を引き継いでいるのだから、その勘は決してバカにできるようなものではない。提督はそう言って苦笑いする。

「歓迎艦隊は動き出してるんだよな?」

「うん。それは佐世保からの指示もあったし間違いないよ。赤城が行動開始を電文してるしね。船団に対しても警告と転進の命令を出してる」

 こういう状況であれば、誰もが気にするのは佐世保の出方だ。一度問題を起こしている以上、完全な信用はできない。

 だが、今のところは想定に則った行動をしている。

「瑞鶴。連絡はついたか?」

『なんとか、ね。出所は不明だけど電波妨害みたい』

「影響範囲から考えて船団の先頭を行ってる護衛艦かもな――それで、敵本隊の状況は?」

『針路、速度ともに変わらず。そろそろ転進してもいい頃合いなんだけど……向こうも妨害の影響で情報不足なのかしらね』

「それならそれで、構わないが……」

 船団と敵本隊が鉢合わせするようなことさえなければ、作戦は成功と言っていいだろう。

 敵本隊を痛めつけたという戦果は得られないかもしれないが、迎撃に向かう佐世保側の艦娘にも被害は出ずに済む。

 だが、提督には何かが引っかかるようだ。

 難しい顔をして考え込んでいる。

『とりあえず、私たちは島の方を叩くわ。攻撃隊がそろそろ突入する』

 待つ時間が惜しいと、瑞鶴はそう言って無線を切った。提督の無茶な要求がある以上、指揮には繊細さが要求されるのだ。

 入れ替わるように、今度は時雨の通信機が呼び出しを告げる。

 また情報部からの催促かと、端末を見た時雨の表情が狐につままれたようなものになった。

 それが艦娘間の個人連絡用に使われる周波数だったからだ。

 到達距離がそれほど長くない代わりに、艦娘ごとに割り当てられたチャンネルがあるのだが、艦隊に組み込まれることのない時雨のそれが呼び出されることなど滅多にない。

 だから、それがなんなのかを思い出すまで、わずかとはいえ時間を必要としたほどだ。

『時雨ちゃん――える? 名取――聞こえ――か? 聞こえ――返事を――さい』

 大量のノイズに紛れる微かな声。

 与那国と西表の間にある小さな島で、船団の通過を確認するために待機している名取だ。

 そういえば昔、艦隊行動を取った時にこの回線を使って夜襲の打ち合わせをしたことがあった。名取はそれを律儀にも覚えていたのだろう。

 彼女らしいといえば彼女らしい。

 位置を考えると送受信の限界範囲ギリギリか、もしくは少し超えている。ノイズが酷く、聞き取りづらいのはそのせいだ。だがかろうじて会話は可能だろう。

「どうしたんだい?」

『よかった――も応答――なくて』

 それはそうだろう。ほとんどの艦娘は受信圏外にいるはずだし、こちらの艦娘たちも作戦中はチャンネルを内輪だけにしか解放していない。

「なんで、この回線を?」

『こちらの――ほぼ全域が――害されて――生きてる――これくら――提督さん――いらっしゃいますか?』

「もちろんだよ。回線をつなぐね」

『お願い――す』

 護衛艦あきさめの通信士が時雨の指示に従って周波数を合わせる。

「いいよ、名取。話して」

『仲御神島――で船団――待っていましたが、予定――を過ぎても確認――ません。もちろん両島の間には――警戒――ブイも――反応がなく――時間ほど――したが、輸送――は転進しなかった――』

 ところどころ途切れ、ノイズに紛れる声。

 だが、状況を理解するのには充分だ。

「名取。この周波数帯以外の通信は不能か?」

『――です。かなり強力――船団を含む――帯域が――不能。こちらか――にも――しない――かと』

 提督の表情がみるみるうちに険しくなっていく。

「わかった、名取は麾下の艦娘を集めて東へ向かえ。船団に先回りできるか?」

『もう一度――します』

「麾下の艦隊を集めて宮古島方面へ。その後は金剛の指示に従え。船団に先回りはできるか?」

『了解――頑張って――ます。通信――ます』

 無線は最後に大きなノイズを放ち、沈黙する。

「こんな広い帯域に妨害なんて、護衛艦の設備には無理だ……それに、こっちは普通に使えてる。向こうが直進してるなら、こっちにも影響が出ないとおかしい」

 ぎりっと提督が奥歯を噛みしめる音が響いた。

「……与那国の設備を使いやがったな」

 放棄され、無人となった設備が勝手に無線妨害をかけるはずがない。それも必要な周波数帯を狙うなどどうひっくり返ってもありえない。

 もちろん遠隔操作などできるようなシステムでもなかった。

 誰かがそこに入り込んで、設備を動かしている。

 それができるのは――。

「情報部の人間かな」

「だろうな。おそらく前回の船団位置情報システムの不具合にも関わってる」

 そこへ乗り込む名目などいくらでもあるし、リスクを無視して夜陰に紛れれば密かに上陸することもできる。

 実際、名取隊の補給物資を与那国と仲御神島に用意したのは情報部だ。

「施設を制圧させなくてよかったのかい?」

「陸戦に関しては素人同然の艦娘が、丸腰で一人、二人行ったところで、返り討ちがいいところだ。それに艦砲射撃だって、もともとそういった攻撃を受ける可能性を想定して作られた施設だからな。駆逐艦や軽巡の砲撃程度では無駄だろう」

 苛立ちを抑えるように、拳を握り締める提督。

 確かに海の上でなければ艦娘の力など発揮できない。陸に上がってしまえば、その能力など人間とさほど変わらない。

 おまけに自衛火器など持ち合わせてもいないし、せいぜいがサバイバルキットに入っている小型のナイフ程度だ。

 どうやっても、それなりの訓練を受けた工作員に敵うはずがない。

「でも、どうやって僕たちの計画を知ったんだい? 少なくとも大東諸島の敵に関しては一切漏れていないはずだよ?」

「漏れてはいない。けれど艦娘の噂に俺が関わっているなんてことは、ちょっとの想像力があればわかることだ。そんな人間が輸送船団の航路に近づいていれば、何かを企んでいるってことも……島の間を重点的に哨戒している艦娘たちの動きから、こちらが望んでいる船団のルートもわかる。だったらそれに乗せなければ、こちらの意図が何かを知らなくても、結果的に作戦を崩壊させることはできるんだ」

 敵本隊の存在の真偽などどうでもいい。

 いや。むしろ信じていたのだろう。

 提督がその敵をフィリピン海で仕留めようとしていると考え、あえて船団を直進させた。そうすれば、少なくとも提督の思い通りにことは進まない。

 船団を守るために、無理をしてでも敵を追わなければならないのだから。

 有利な状況を設定できない艦娘たちには、当然被害が出る。最悪、船団にもだ。

 それで果たして、情報部は何を得られるというのだろうか。

 時雨には想像がつかなかった。

 ただ、今はそれを知る必要もない。

「くそっ!」

 提督が拳を振り上げ、肘掛に思い切り叩きつける。

「完全に俺のミスだ。まさかここまでやらないだろうと、勝手に線を引いた――その可能性すら考えなかった。ちょっと思い通りに物事が進むからっていい気になってた」

 己を罵る提督。

 だが、今はそれをしている場合でもなかった。

「提督。後悔っていうのは、全部が終わった後でするものだよ。今はまだ、やるべきコトがあるんじゃないのかい?」

 時雨の一言に、提督の表情が変わる。

 普段の冷静さを取り戻し、何かを考え始めた。

「……足柄と金剛を呼び出してくれ」

 その目には、いつものように強い意志の炎が灯っていた。

 《3》


 海将の元に続々と作戦の経過が報告されてくる。

 とは言っても、砲火を交えたのは最初のうちだけだ。

 まずは、沖縄本島と宮古島の間での遭遇戦。これは未だ付かず離れずで、東シナ海を舞台にした追撃戦が展開されている。

 それに続いて起きたのは、与那国と西表島の間での対潜掃討戦。こちらは艦娘側が敵潜を完全に排除、海域の安全は確保された。

 これで船団が通る二つ目のルートが確保された。

 本来であれば必要のないものではあったが、横須賀第二が追っている敵艦隊が南西諸島海域に侵入した以上、そうせざるを得ない。

 だからこれも、中途で付け加えられた作戦とはいえ、予定されたものと言えるだろう。

 だが、問題が起きたのはここからだ。

 敵潜を排除した直後から、この海域で強力な電波妨害が開始されたのだ。

 それがどこから行われているのか見当もつかない。

 結果として、輸送船団の現在位置は不明だ。

 指示がなければ、船団は直進することになっている。

 そして最悪なことに、横須賀第二が追っている敵艦隊はその航路上を正対するように進んでいるのだ。

「これは、君たちの仕業かね?」

 海将は目の前のソファに腰を下ろしている二人の男に問いかける。

 だが、二人は揃ってどちらともつかない微妙な笑みを浮かべているだけだ。

「我々としては敵の通信を妨害して、敵の連携を阻止しているつもりなのですよ。ただ、どうにも使い慣れていない設備ですからね。ミスはあるかもしれません」

 そう言ったのはソファに座るうちの一人、情報部の男だ。

「ならば、その装置を止めてしまえばいいじゃないか」

「ええ。その命令は出しているのですが、生憎とこちらの通信も届かないようでして」

 当然でしょうというような顔をして答える。

 そんな訳がないだろう。不測の事態に備えてなんらかの対策は講じているはずだ。

 癪に触るが、あえて飲み込む。

「うちの通信機なら、ひょっとすれば対応できたかもしれませんね。今更ですが」

 もう一人の男。軍需企業の社長が口を開く。

 この期に及んでさらに商売だ。

 見上げた商人根性である。

「……それで、この先はどうするつもりだね」

 ギロリと睨みつけた視線に、首をすくめて見せる死の商人。

「どうすると言われましても。私は素人ですから……このままだと船団は敵に襲われるかも、というのはわかりますが」

「そうなったら、この国が終わりだということもわかるだろう」

「ええ。ですから、横須賀第二の艦娘たちと護衛艦隊に期待するしかないですね。佐世保からは、当社の試作砲弾を搭載した試験艦も急派されるそうですから」

 そう言って笑う。

 試験艦の話は初耳だ。

 おそらく人脈を使って無理矢理にねじ込んだのだ。敵の撃破に関わることができれば、それだけで絶大な宣伝になる。効果がなかったとしても、研究段階の試作品だという言い訳ができる上、無理矢理に引きずり出したのは国だということにして、責任を転嫁することさえできる。

 その裏で、一体どれだけの人命が危険に晒されるのかなど知らないのだろう。

 いや。

 知った上で、この態度。

 知っているからこそ、それを駆け引きのテーブルの上に乗せた。

 横須賀第二の司令官がそれを見過ごすことなどしないと思っているからだ。

 事実、横須賀第二にできることは総力を挙げて敵艦隊に追い縋り、準備を整える間もなく、攻撃を加えることだけ。

 それでも敵艦隊が船団に対して攻撃を始めるまでに間に合うこともないだろう。

 当然、艦娘にも被害は出る。

 そうなれば、目の前の二人が思い描いた通りの結末になるという訳だ。

 だが、それは横須賀第二の若い司令官が、彼らの思う通りの人物であれば、だ。

「では、私も横須賀の奮戦を祈ることにしようか」

 そう言って、手元の書類を片付け始める。

 何枚かの書類に決済の判を押しサインを入れていく、いつもの仕事だ。

(横須賀第二の司令官は、君たちが思っているよりも曲者だよ)

 ふと、一瞬だけ笑みがこぼれる。

 横須賀の司令官の本質は軍人ではない。

 むしろ、この状況を作って利益を出そうとしているあの二人と同じ。商売人に近い。

 だからこそ、彼らが勝手に作り上げた軍人という枠にはまらない行動をしてくるはずだ。

 そうなった時に、この二人どんな顔をするのだろうか。

 見ることができないのは残念だ。

「そういえば、はづきの修理はいかがですか? うちでやりたかったんですけどね」

 世間話のつもりなのだろう。軍需企業のトップらしい話題ではあるが。

「先週の頭に終えたよ。輸送船団の出発には間に合わなかったがね」

「スクリューの破損でしたか? 随分と早く終わったものですね」

「ああ。おかげできよづきの復帰がさらに遠のいた」

 新造して取り付けることは、資源や戦力の関係から見送られ、大規模修理中の同型艦のものをそのまま流用することとなった。

 それゆえの修理の速さである。護衛に使える戦力は一つでも多く欲しいという海将の一言もあってのことだ。

「なるほど。それでは大した儲けにはなりませんね……試験はこの作戦の後ですか」

「五日前に呉へ向かったよ。君のところのコンテナを積んだおかげで、ヘリを置き去りにしてきてしまったんだ。その回収も兼ねてる」

「ヘリだけを飛ばせばよかったのでは?」

「空荷で飛ばすのは、現状を考えると気がひけるだろう。問題がなければ、帰路の船団護衛につけるつもりだったが……君たちのおかげで、確実にそうする必要が出てきた。この判断は結果的によかったと言うことになるな」

 戦闘になれば、護衛艦の何隻かは確実に被害を受ける。その補充には、復帰直後のはづきを当てるしかない。

 余計な仕事を増やしやがってと言わんばかりに、たった今サインを入れたばかりの書類を持ち上げ、ひらひらと振ってみせる。

「そもそも、うちは海運業ではないんだよ」

「おや。言っていただければ、ヘリを飛ばすくらいの燃料はうちで用意したのですが」

 当然、そのつもりなどこの男にはない。海将の冗談にヘラヘラと薄く笑うその顔が何よりの証拠だ。

 ビジネスマンという生き物の、そういうところが海将は嫌いだ。

 だからあえて無茶な注文をつけてやる。

「運賃がわりに、ご自慢の新兵器とやらを少し安くしてくれるというなら、喜んで戴くよ」

「それはご勘弁を。その売り上げを誘導兵器の研究に回すつもりですからね」

 想像していた通りの答えが返ってくる。

 だから返す言葉も予定通り。

「そうか。では、代わりというにはあまりに安すぎる頼みだが、私の秘書にここへ来るよう伝えてくれるかね」

 それはここを出て行けという意思表示でもある。

「それならばお安い御用です……では、私たちはそろそろお暇しましょう」

「お暇、ね……多分、君たちと会うのはこれが最後だよ」

「そうですか。では、第二の人生が良きものであることを祈りますよ」

 いやらしい笑みを浮かべ、部屋を出て行く男たちの背。

 それに向かって海将はさらに意地の悪い笑みを返す。

「ああ。素晴らしいものになるさ……だが、君たちはどうだろうね」

 代わって入ってきた秘書に書類を手渡し、最優先で処理するようにと告げてから、海将は残りの書類に手をつける。

※今回はここまでとなります。
 次はなんとか週内に……。

※乙ありです。
 本日分投下開始いたします。

 《4》


 大東島を射程内に捉えようかという位置で、足柄たちは急な進撃停止命令を受けた。

 命令である以上、それに従うしかない。

 だが、納得はいかない。

 わずかに手を伸ばせば、島の施設を破壊できる位置にいるのだ。

「一体どういうことか、説明をしてもらえるかしら!」

 事情がわからぬ以上、怒りの矛先は提督に向けるしかない。

『輸送船団が直進している。このままでは敵主力と正面からぶつかることになるんだ』

 作戦計画では、与那国付近で哨戒に当たる艦娘たちの指示を受けて、船団は西へ転進。東シナ海へ入る予定のはずだ。

 それがどうして。

『無線が妨害されてる。おかげで指示が届いていない』

 一瞬の間を、その問いだと解釈し、提督は先に答えを告げて来る。

「そんなことできるはずが……」

 だが、考えてみれば予兆になるようなものはあった。

 例えば、瑞鶴の偵察隊の沈黙。

 それに金剛の無線も修理が終わったばかりで調整不足。影響を受けやすいはずだ。

 けれど深海棲艦にそんなことができるとは思えない。

 そんな大規模な周波数帯へ同時に妨害をかけるには、相当に大きな設備が必要になるからだ。

『与那国だよ。あそこの施設が使われてる――犯人が誰かは言うまでもないし、理由を追求しても意味はないぞ』

 それならば、確かに作戦の継続は難しい、こちらの行動をある程度推測して、邪魔を続ける手段くらいは用意しているに違いない。

「じゃあ、どうするつもり?」

『敵に追いついて粉砕する。それしかない』

 提督は簡単に言ってのける。

 だが、現実的に不可能だ。

「距離的に船団との接触までに追いつくのは無理よ」

『あきさめのヘリを使う』

 だが、それでは一度に送りこめる戦力が激減する。

 兵力の逐次投入は最も避けなければならない。送り込んだところで各個撃破されるだけだ。

 もしそれを何らかの手段で回避できたとしても、問題はさほど変わらないかもしれない。

「戦力差が大きすぎるわ」

 敵の主力は戦艦が三、航空母艦が二。随伴として重巡、軽巡が合わせて六、駆逐艦に至ってはその三倍だ。

 それを戦艦、空母、重巡が各一、駆逐艦八で相手取れというのは、幾ら何でも無茶が過ぎる。

 あきさめの護衛に回る予定の鳳翔と、秘書艦としてサポートに回っている時雨を引っ張り出したところで焼け石に水。

 敵は接続する海域の制海権を掌握しているのだから、増援を送り込むことだって容易い。

『そこが一番のネックだ。現状、援軍になり得るのは名取麾下の一個水雷戦隊。それもギリギリ間に合うかどうか』

 軽巡一と駆逐艦四では、夜戦に持ち込まない限り決定打にはなり得ないだろう。そもそも、その前に輸送船団は壊滅している。

「ヘイ、提督。榛名や赤城たちはどうなのデス?」

 金剛がいうのは、当初の予定通りならば輸送船団を追いかける敵本隊を迎え撃つために待機している、佐世保第二の艦隊のことだ。

 確かに戦艦や空母をずらりと揃えたその艦隊ならば、充分に敵を粉砕する火力を持っている。

 無線の向こうに、わずかな間。

 位置を確認しているのだろう。

『一時間前の情報だが、与論島沖合を南下中――状況への即座の介入は難しいだろう。そもそも敵が東シナ海へ入り込むことを想定しての布陣だ。それにあの規模の艦隊だと、佐世保のやつに隠れて指示を出すのは難しい』

 プライドの高い佐世保第二の司令官を下手に刺激すれば、作戦全体をぶち壊すような真似をしないとも限らない。

 手詰まりだ。

 足柄たちには損害を覚悟で突入し、輸送船団が危険域を離脱するまでの時間稼ぎをする以外にできることはない。

 だが。

 足柄は笑みを浮かべ、舌なめずりを一つ。

 もともと持っている闘争本能が大いに刺激されたのだ。

 周りを見れば、金剛や由良、駆逐艦娘たちも同じような顔をしている。

 そう。

 この作戦を考えた人物は、おそらく戦闘というものを知らない。

 ここまで完全に逃げ道を塞いでしまっては、逆に頑強な抵抗を呼ぶだけだ。

 ――窮寇は迫る勿れ。

 かの兵法家、孫子もそう言っている。

「了解よ、提督。私たちはこれから敵主力を追う。追って徹底的に痛めつけてやる――そのあと、地の果てまで追い詰めてでも、このくだらない悪戯をした連中にツケを払わせてやる」

 だが、そんな足柄を冷ややかに見つめている者がいた。

 瑞鶴だ。

「あのさぁ……」

 そして、大きなため息をついてから、緊張感が全く感じられないほど気楽な感じで口を開く。

「なんで、みんなそんなにお人好しなわけ? 特に金剛、あんたよ。普通、ここまでされたら放り投げて帰っちゃってもいいんじゃない?」

 金剛は一度、人間側のつまらない理由で窮地に追い込まれている。

 それだけではない。

 それまでにも、様々な理由で不満を抱いていたのが佐世保の艦娘たちだ。

「別に提督さんに恨みはないんだけどさ。でも、さすがにここまで繰り返されたら、頭にくるじゃん?」

 それは人間に対する不信感。

 艦娘としてこの時代に姿を現してから半年に満たない瑞鶴だからこその言葉でもあった。

 もしかすると、囮としてエンガノ岬沖に沈んだ、艦としての記憶がそうさせているのかもしれない。

 それとは関係なしに、憤りというものは確かに足柄の中にもある。

 全てを放り出して、あとは御勝手にと言いたい。

 だが、それをやってしまえば――。

「瑞鶴はパイレーツにでもなるつもりデスカ?」

 金剛が笑いながら言う。

 けれど、それは決して冗談ではない。

 衣食住だけではなく、燃料や弾薬といった消耗品、壊れた艤装の修理に至るまで、主だった支援は自衛隊の協力員としての艦娘に与えられているものだ。

 協力を拒むということは、それらの一切が得られなくなるということだ。

 そうなれば海賊行為でもして生きていくしかない。

 そして、そうなった艦娘を人はなんと呼ぶだろうか。

「私たちがそれをやっちゃったら、海賊じゃなくて深海棲艦と同じ扱いになるわね」

 足柄の一言に、その場の艦娘全員が露骨に嫌な顔をする。

 あんな見た目のと一緒にされるのはごめんだ。

 理由はきっとそれだけなのだが。

「オウ! 瑞鶴は今から空母ヲ級デース」

「そ、それはちょっと――ううん、かなり嫌! 今のなし、忘れて。提督さんも忘れてちょうだい」

 からかう金剛に瑞鶴が慌てて取り繕う姿を見て、全員が一斉に笑い出す。

 ただ、無線の向こう。

 提督は笑うどころか一言も発しない。

 部下である艦娘たちが反旗を翻すかもしれない。そんな状況であるにもかかわらずだ。

 それに言い知れぬ不安がよぎる。

「提督さん? 今のは冗談よ?」

 さすがに全員が押し黙る。場合によっては解体処分すらあり得るようなことを口走ったのだから。

 解体された艦娘がどうなるかなど、誰も知らない。知らないからこその恐怖だ。

『瑞鶴』

 怒りを抑えるような、静かな声が無線から響く。

 全員が一気に凍りついた。

 顔が見えているわけではないのだから、どんな感情を実際に抱いているのかはわからない。

 それでもそう感じさせるだけの冷たさがそこにあったのは間違いない。

 提督の様々な面を見てきた足柄ですら、背筋に走る冷たいものを感じたほどに。

「ひゃ、ひゃい!?」

 だから瑞鶴の口が緊張で固まり、呂律が回らなくなるのは当然だ。

 もちろん顔面も蒼白。

『いいことを言った』

「ご、ごめんなさ……え? はい?」

『実にいいことを言った。あとで好きなだけ奢ってやる。今から食いたいものを考えておけよ?』

「は、はあ……」

 ポカンと口を開けたまま、事態の推移に取り残される瑞鶴。

 瑞鶴だけではなく、他の艦娘たちも同様だ。何が起きたの理解できていない。

 そんな中、ただ一人。

 足柄だけには活路が見えた。そして、提督がニヤリと笑っている顔もだ。

『作戦を通達する。指揮は足柄が執れ』

「了解」

 彼は事態を打開する何かを間違いなく思いついたのだ。

 それはおそらく、とんでもなく陰険な一手だ。

 だが、そうでなくては面白くない。

 意趣返しとはそういうもの。

 窮寇は迫る勿れ、だ。

 《5》


『榛名、赤城の両艦隊は沖縄本島の西方沖を最大速で南下する模様』

 あきさめ艦橋に報告がもたらされた。

 艦長の椅子に腰を下ろしていた提督が、時雨の方を見てニヤリと口角を吊り上げる。

「ヘリを出してくれ。できる限り低く飛んで足柄たちを拾いに行かせろ」

 想定した行動とばかりに、感嘆のため息ひとつなく次の指示を出す提督。

 即座に後部デッキで待機中のヘリに発艦命令が通達され、艦内の各所が一気に慌ただしくなる。

 時雨は内心でほっと胸を撫で下ろしていた。

 佐世保や情報部が対応を一つ間違えれば、状況だけがさらに悪化しかねない。そんな綱渡りのような作戦だからだ。

 提督のとった行動はいたってシンプルなもの。

 主役の座を降りた。ただそれだけだ。

 もちろん瑞鶴の言った通りに「頭にきたのでやめます」では、後々問題になるのは間違いない。

 だから、降りざるを得ない状況を偽装したのだ。

『護衛艦あきさめ、機関不調のため現在十ノットで航行中。応急修理中につき、周辺警戒のため先行する艦娘隊を呼び戻す。また、寄港の要ありと認む。作戦の継続は困難』

 これが、あきさめと時雨から送られた電文だ。

 主役の病気降板。良くある話だ。

「こんなにうまくいくとは思わなかったよ」

「動かないことでデメリットがあるのはこっちだけじゃないんだ。状況設定を厳しくしすぎた向こうの落ち度だな」

 それはそうだ。

 これがただの演劇であれば、公演を先延ばしにすることもできる。

 だがこれは戦争だ。延期もやり直しもきかない。

 それに輸送船団が壊滅すれば、その代役はいない。

 けれど。

「いいのかい? 起きてもいない故障なんて報告して」

 時雨の抱いた危惧の一つがそれだ。

「いいんだよ。こう言ったトラブルってのは突然起きて、突然治るもんだ。症状に再現性もないから、結局は原因不明にするしかない。何度それで泣かされてきたか……」

 時雨にはよく理解のできない例えだ。

 そもそも原因不明で片付けるわけには行かない話だろうと思う。

 何せ、戦闘艦とは重要な局面で使われるものなのだから。

 だが、艦橋にいる他の要員たちは「パソコンとか、よくあったよな」などと、互いに頷きあっている。

「そういうわけだから、あきさめ乗員諸君。この戦いが終わればしばらく陸に上がれるぞ」

 しまいには提督の言葉で、わっと盛り上がる。

「どういうこと?」

「故障内容が原因不明のままじゃ都合が悪い。だから究明のために完全整備することになるんだ――船団位置情報システムみたいにな」

 提督は、やられたことをそっくりそのままやり返したのだ。

 それも、前回の金剛の分と、今回自分たちが受けた分を合わせることで、致命的な一撃に変えてだ。

「輸送作戦やらなんやらで、長いこと休みなしだったからね。丁度いい機会だろ」

 けれどもう一つの危惧がある。

 この状況下、さらに今までの行動もある。意図を看破しての行動だと見られてもおかしくはない。

 と言うよりも、それを期待しての反撃だ。

 裏で動いている何者かに対して、その存在や手口は今までの分も含めて知っていると言う意味を込めた脅しなのだから。

 だからこそ余計に危険。

「問題はないさ」

 時雨の顔に浮かんだ不安を見て取ったのだろう。提督はそう言って笑う。

 その顔がいつもの、悪戯をする時のものに見えて腹がたつ。

 またロクでもないことを言い出すのだろう。

「その根拠を是非、ご教授願いたいね」

 軽い気持ちで言ったその一言に、提督の目がギラリと異様な光を放った。そんな気がした。

 それは、奈落を思わせるような深い闇の色。闇が光るはずはないのに、だ。

 冷たい汗がこめかみから頬を伝っていく、その感覚がはっきりとわかる。

 体はピクリとも動かない。動かせない。

「簡単だよ――連中は頭がいい。想像力もある。そして逃げ道もね」

 自身を縛り付けるそれが何か。時雨が理解するには何度かの呼吸ができるほどの時間が必要だった。

 そして答えにたどり着く。

 ――恐怖。

 それも、たった一人の人間に。

 海の上だけとはいえ、無類の力を誇る艦娘がそれを感じるなど、信じられることではない。力の差がありすぎるのだから。

 けれど、現実にそれは起きている。

 肉食動物に獲物として認識された時のような緊張感。

 体を動かすどころか、目をそらしただけで、次の瞬間には食い殺される。そんな感覚だ。

 誰がこの人間をそこまで追い詰めたのか。

 これが何をもたらすのか、その誰かは少しでもその想像力をまわして考えたのだろうか。

「ここまでの件に関して記録は詳細に残してある――もちろんこっちの偽装工作なんかは省いてるけどね。そこに我々の憶測をつけたものが、万が一、世間に流れたらどうなる?」

 事の真偽など関係がない。

 広まりつつある艦娘の噂話と合わせることで、それくらいやっても不思議ではないと、誰もが考えるだろう。

 屋台骨はそれだけで大きく揺らぐ。

 要らない腹まで探られ、次々に明るみに出る不祥事。連鎖反応のように、あらゆる業界に火種は飛び移って行く。

「それを阻止したければ、俺とあきさめ乗員、艦娘たち。このすべての口をふさぐ必要がある」

 それだけでは済まない。

 そういった事態になることを想定して、外部の様々なところに情報を隠蔽し備える。

 それは誰でも思いつく手段だ。

 実際にそれをしなくても、向こうはそれを警戒し、探す必要に迫られる。その備えがないと断言できるまでだ。

 それにどれだけの時間と労力が必要か。

 現実的に不可能だ。

 だから懐柔するしかない。身の安全を保障するという利益を与えることで。

 だが。

 提督はそこで急にため息をついて、頭を抱える。

 いつもの様子に戻ったことで、時雨にも余裕が生まれる。

「けど、面倒なのはその先だ。俺の下には望んでもいないもの――間接的とはいえ強大な権力が流れ込むことになる……厄介だよ」

 政府の人間ですら操ることが可能になるほどの力。

 それをどう使うか。

 この国をどうするかが、たった一人の考えで決まる。

 だから持て余しているのだ。この人間は。

 動機が利他的なものであったがゆえに。

「……何も考えてなかったんでしょう?」

 冷ややかな視線で見つめてやる。

「時雨よ……それはあまりにも失礼な言い方だと思うぞ?」

 提督ががっくりと肩を落とす。

「ああ、ごめん。ここまでになるとは思っていなかった、に訂正しようか」

「そうしてくれ……言い訳のように聞こえるかもしれんが、逃げ道を用意してくれなかったのは向こうだ。こっちとしては艦娘が公式に認められて、自由に戦える環境を用意することで、国を守ろうとしただけだ。それだけでよかったんだよ」

 攻囲するだけが敵を攻め落とす方法ではない。力攻めは結果として大きな損害を生み出すことになる。

 追い詰められた相手は死力を尽くすしかないのだから。

 状況によっては、あえて相手を逃すことも必要だ。

「まあ、今さら後には退けないよね」

「正直、やめて帰りたいよ」

 提督は思い切り迷惑そうな顔をして、本気で訴えている。

『輸送船団の通信回復! しきりに佐世保を呼び出しています!』

 だが、すでに動き始めている現実がそれを許してくれるはずもない。

 この状況を作り出した者たちが、最後の切り札を手放したのだ。

 そうしなければ、すべての責任を負うことになるのだから。

 提督は気持ちを切り替えるために、一度自分の頬を張る。

「十五分待っても佐世保が対応しないようなら、こちらから敵艦隊の存在を通告、船団を東シナ海へ向かわせろ」

 状況や環境が英雄を作る。それは歴史上において、何度も起きたことだ。

 けれど、その裏では同じくらい――もしかするとそれ以上に、罪人や独裁者を作り出しているはずだ。

 この若き司令官は、果たして何になるのか。

 その行く末を見届けることが、自分にはできるのだろうか。

 少なくとも、この先を生きてみたいと思う動機が時雨の中にできたことだけは確かだ。

 《6》


 足柄たちの眼前、高度十五メートルほどでヘリがホバリングしている。

 機体の横から釣り上げ用のワイヤーが伸び、そこに村雨と夕立がぶら下がると、あっという間に巻き上げられ、機内へと収容されていく。

 それを緊張した面持ちで見つめているのは、佐世保から来た第七駆逐隊の面々だ。

「佐世保じゃ、ヘリは使ってなかったの?」

 足柄はその様子をニヤニヤと眺めながら、隣に立つ金剛に問いかけた。

「使いませんネ。そもそも護衛艦やそれに付随する装備は横須賀第二にしかないですカラ。せいぜい高速艇を使うくらいデス」

 そう話す金剛の表情も心なしか固い。

 仕方のないことだろう。

 この手法は、艦娘の数に限りのある横須賀第二ならではと言える。

 わずかな人員で、広い海域の面倒を見るにはこれが一番だからだ。

 蜘蛛の糸のように、再び天空から下されてくるワイヤーを引っ掴みながら、他の艦娘たちを呼ぶ由良の声が響く。

 その声に引っ張られるように、及び腰の第七駆逐隊の面々がワイヤーにしがみついた。

 だが、いまいち覚悟を決めきれないのか、曙がためらう。

「曙ちゃん! 早くして!」

 由良が急かすが、それでもダメだ。

『誰でもいい――』

 状況を無線で聞いていた提督が割り込んで来た。

 いつもの悪戯をするときの声で、だ。

『曙のパンツが見えた奴はいないか? 柄が知りたい、最優先事項だ。今ならダウンウォッシュでスカートがめくれてるだろう?』

 その一言で、曙は側にいた潮へしがみつく。

 このわずかな期間で、提督の魔の手に何度も襲われた結果だ。特に曙は反応が大変面白いと集中攻撃を受けていたのだから。

「えい」

 潮の手によって、カチャリと音を立てて落下防止のフックが曙の艤装に取り付けられた。もちろん提督の言葉に動揺している曙はそれに気がついていない。

「残念! 誰も見てない――ひやあぁぁぁぁっ!」

 由良の合図でワイヤーが一気に巻き上げられ、駆逐艦娘たちが絶叫する。ローターの音に負けず一際大きく響いたのは、一本釣りよろしく宙ぶらりんになった曙の声だ。

『うまくいったみたいだな』

「お、おお、お――覚えてないさいよ! このクソ提督!」

 涙目になりつつも悪態を忘れないあたり、神経は図太くできているようだ。

 とはいえスカートの中が丸見えなのだから、滑稽極まりない。

 足柄の悪戯心もむくむくと芽を出してくる。

「提督、よく聞いて。白よ、白。生意気なことに可愛いレースの縁取りまでついてる!」

「あ、足柄のバカ! 余計なこと言うな!」

『ここ最近で、最も素晴らしい報告だな。おかげでやる気が出た』

「ふざけんなぁっ!」

 足柄と由良、瑞鶴が堪えきれずに吹き出す。

 ただし、金剛だけは顔色が真っ青だ。いつもの余裕もない。

「ヘ、ヘイ足柄。ワタシたちもあれをやるのデス?」

 声も若干震えている。

「なに? 見られちゃまずい下着なの?」

「ノー。そう言うわけではアリマセン……ケド」

「けど、なに?」

「……足柄は意地悪デス」

 涙目になっている金剛を見て、さらに大笑いする足柄と瑞鶴。

「安心していいわよ。私たちは別の手段だから」

 ロクマルと呼ばれるヘリの最大収容人員は八名。

 艦娘用に若干の改修を加えているとは言っても、艤装が場所を取ることもあって、その数は減る。

 比較的コンパクトな艤装を扱う駆逐艦娘でも六人が限界だ。それも、二人はドアの縁につかまって体を半分さらけ出すような状態になる。

 金剛のような大型艤装を持ち込むとなれば、一人でも難しいだろう。

 だから解決方法は他にある。

 ヘリがさらに高度を下げ、腹部に吊り下げたボートを静かに海面へ下ろす。

 RHIB<リブ>と呼ばれるゴムボートの一種だ。

 普通のゴムボートとは違い、船底が硬い樹脂でできているために多少の波でも高速を発揮できる。

 足柄はそれを指差して、ニッコリと笑う。

「あれに乗るのよ」

 みるみる回復していく金剛の顔色。

 慣れ親しんだ海の上ならば、戦艦娘金剛に怖いものはない。

 まるでそう言っているかのようだ。

 手早くチェックを済ませた由良に誘われ、金剛はいち早くボートに乗り込む。

 もちろん瑞鶴と足柄もだ。

 全員を乗せたことを確認した足柄が合図を出す。

 エンジンが力強い音を出し、ヘリは高度を上げ始め――

 そこで金剛が気づく。

 ボートとヘリをつなぐワイヤーが、未だ切り離されていないことに。

「ヘイ足柄。ワイヤーが繋がったままデス!」

 このままでは宙吊りになる。金剛が慌てるのは無理もない。

 だが。

「いいのよ。このボートじゃ四十五ノットしか出ないんだから」

 目指すのは敵の本隊だ。遠く離れたそれに追いつくには相当の時間がかかってしまう。

 それでは間に合わない。

 輸送船団が針路を変えたとしても、足の遅いそれらは必ず追いつかれる。

 それを防ぐためには、何としても敵の背後を脅かすしかない。

 けれど、戦力不足の足柄たちがまともに攻撃を仕掛けても、下手をすれば返り討ちになるだけだ。

 その決定的な戦力差を埋めるためには、陽があるうちに距離を詰め、瑞鶴の航空隊を可能な限り反復攻撃させる必要があった。

 一三〇ノットで飛べるヘリなら、確実にその時間を作り出すことができる。

 もちろん、敵の位置を完全に捕捉して、時間を稼ぐことができれば、赤城たちの援護も得られるようになるし、榛名たち水上打撃艦隊の到着を待つこともできるだろう。

「ノーキディン<冗談でしょ>……このまま飛ぶつもりデスカ?」

「そうよ。提督から伝言――特別席<エクストラシート>で快適な空の旅を――だそうよ」

 ふわりと浮き上がったボートの端に捕まったまま、金剛が叫ぶ。

「こういうのは補助座席<ジャンプシート>って言いマス!」

「なんでもいいけど、しっかり捕まって伏せてないと、本当にジャンプする羽目になるわよ」

 慌てて船底に伏せる金剛。

「騙したネ、足柄――ノオォォォッ!」

 宙を舞うボートに揺られ、金剛が悲鳴をあげる。

「意地悪って言ったのはあなたじゃない」

 足柄の言葉は金剛に届かなかっただろう。

 反論はなく、ただ金剛の悲鳴とエンジンの爆音だけが、広いフィリピン海に響いた。

※本日分ここまでとなります。
 次からは四章になります。

 ホントはSH-60Jに乗せたかったんですが、構想してた頃に護衛艦の公開がありまして。
 実機を見て、中に乗ってみた結果、金剛は絶対無理かなと……
 かなりトンデモな方法ですね、はい……。

 ロクマルやら、艦に関して色々丁寧にご説明してくださった、海上自衛官の方に大感謝です。

※乙ありです。
 時間開いてしまい、申し訳有りません。
 本日分投下致します。

 《第四章  選ぶ道、賭けるもの》

 《1》


 事態は少しづつ自分たちの手の中に収まりつつある。

 次々と送られてくる報告に目を通すたびに、時雨はそれを実感していく。

 輸送船団はあきさめのからの警告で転進。東シナ海へと向かった。

 この動きで、敵本隊と船団が接触する時間は遅らせることができた。

 それでも稼げた時間は二時間がいいところだろう。何も障害がなければ夜の闇が訪れる頃には射程内に入ってしまう。

「足柄たちが間も無く到着、展開を始めるよ」

 それを阻止するために、足柄たちはなんども牽制攻撃を繰り返すことになる。被害を極力抑えるためには戦力の出し惜しみはできない。

 だから、足柄たちが行うはずだった敵施設への攻撃は、護衛艦あきさめが引き受けるしかない。

「了解だ。春雨と五月雨、鳳翔は?」

「鳳翔はすでに制空隊の発艦を完了。春雨、五月雨とともにこちらへ向かってる。合流は二十分後だね」

 そんな状況下にもかかわらず、三名の艦娘を返してよこしたのは足柄だ。

 全員はヘリに乗せられない。

 そう言ってはいたが、やはり島が気になるのだろう。

 攻撃が中途半端だったがために、反撃してくる可能性が残っていた。

 それがどちらに向くかはわからない。

 敵本隊を追う足柄たちに向かえば挟撃になるし、島へと接近するあきさめに向かってくれば、対処は決して簡単なものではない。

 敵の拠点に対する攻撃も、時雨一人では効果が上がるまで時間がかかるだろう。

 だから、足柄の判断は堅実だと言える。

「そのまま、あきさめの護衛に当たらせてくれ。名取たちは?」

「指示通り、敵本隊へ向けて移動中。接触はおよそ一時間後。それまでに瑞鶴の航空隊が牽制攻撃を加えている手筈だよ」

 佐世保所属の名取隊は、船団を守るべく奇襲を仕掛けるということを一方的に通告して、無線封止という建前を取っている。これは佐世保第二の元秘書艦、金剛が裏で指示を出した。

 もちろんこの行動に対して上層部も異論はないだろう。放っておけば船団が攻撃されるのだから。

「よし。我々も動くぞ。ただし、内密にだ」

 速度を上げて大東島へと向かうあきさめの乗員の間には、大きな仕事を成し遂げるという気概と、戦闘を前にした緊張感が入り混じった、独特な空気が漂っている。

「こうなることがわかってたら、夕張や睦月たちも連れてきたんだが」

「それを言っても無駄さ」

 何が起きるかわからないのが戦場というものだ。

 決して予定通りに進むことはない。ないからこそ、その個々の状況を把握して、迅速に解れを繕っていくのが司令官の仕事だ。

 それに、いくら敵がこちらに集中しているとはいえ、この国の中枢の防備を手薄にするわけにはいかない。上層部がそれを認めるはずもない。

 ただ、明石だけはあきさめに同乗している。

 もちろん戦闘中に破損した艤装を修理する必要があった場合に備えてだから、戦力として計上はできないし、活躍するのはこの一連の戦闘が終わった後になるだろう。

「島に動きはないのか?」

「今のところ何もないね。本当に予備の航空隊を残してなかったのかもしれない」

 瑞鶴の報告では滑走路への攻撃が不十分であり、損傷箇所を避けることで離着陸は可能ということだった。

 これは通信施設と防衛設備の破壊を最優先したためだから仕方がない。滑走路は第二次攻撃で叩く予定だったのだ。

 とにかく、そんな状況にもかかわらず、敵は偵察機すら上げていない。

 航空戦力は不在と考えていいはずだ。

「……敵機影がないようなら、鳳翔の制空隊を足柄たちの方に回そう。戦闘機が必要なのは向こうも同じはずだ。来ないかもしれない敵を待つよりは、確実に来るものを優先しよう」

 提督が言うように、確実に戦闘機が必要になるのは向こうだ。

 敵の本隊には二隻の航空母艦も含まれているのだから。

 おそらく、すべての航空戦力はそこにある。

 それらを蹴散らすのは戦闘機しかないし、瑞鶴が搭載している分だけでは間違いなく不足だ。

「でも、制空隊の燃料が厳しいことになるよ。戦闘空域に居られるのは二十分がいいところだね。それと、一個小隊は僕たちのそばに残したほうがいい」

「だな。燃料に関しては瑞鶴をこき使う。それ込みの奢りだよ……ということに今決めた」

 これを聞いたら、瑞鶴がどんな顔をするのか。

 時雨の脳裏には鮮明に浮かんだ。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 足柄たちの空の旅は一時間ほど。海の真ん中で終わりを迎える。

 静かに海面へと降ろされるボート。今度こそはワイヤーが切り離された。

 続いてギリギリまで高度を下げたヘリから、駆逐艦娘たちが次々と飛び降りて来る。

「全員、補給を急いで」

 ボートには弾薬と燃料、それから申し訳程度ではあったが、戦闘糧食と水が載せられていた。いわば急ごしらえの洋上補給基地、もしくは補給船といったところだ。

 足柄と由良がそれら物資を手早く分配していく。

「お。さすが提督さん、わかってるじゃん!」

 別の箱を開け、嬉々とした声をあげたのは瑞鶴だ。

 束になった矢をごそりと持ち上げ、結束を解いてゆく。

「九七式に九九式……これでバッチリね」

 先の戦闘で損傷を受けた機体と交換ということだ。

 鳳翔と瑞鶴の異動にあたって、在庫一掃とばかりに旧式機しか寄越さなかった佐世保だが、その分、予備機として充分な数を確保することができた。今となってはありがたい話だ。

 あとで佐世保第二司令には礼を言う必要があるだろう。

 できる限り丁寧に、嫌味ったらしく、だ。

「瑞鶴……なんでそんなに元気なんデス?」

 ボートの舷側にぐったりとしたまま寄りかかる金剛。

 初めての経験は散々だったようだ。

 本来であれば少しづつ慣らしていくのだが、この状況で否応を問うこともできない。

 申し訳ないことをしたなとは思うが、謝罪はあとだ。

「え? だってうちの子たちが普段どんな景色を見てるのか、自分の目で見れたんだから。今度、瑞鳳に自慢してやろうかしら」

 そんなことを言う瑞鶴は満面の笑みだ。

 ご機嫌なところ申し訳ないが、彼女にはすぐに仕事が待っている。

「瑞鶴、悪いんだけど艦載機をすぐにあげて。名取たちを裸で突っ込ませるのはかわいそうだから」

「わかってる。ちょっと村雨と夕立を借りるわね――二人とも対潜警戒よろしく」

 二人を連れてボートを離れていく瑞鶴。すぐに風をつかまえて発艦作業に入るだろう。

 その間に、残った面々が補給を済ませていく。

「ヘイ足柄。この後のプランは?」

「敵を叩く」

「……アバウトすぎデス」

 握り飯を口に入れているのを見ているクセにそれはないだろう。

 ギロリと一度金剛を睨んで、口に入れたものを嚥み下す。

「私たちはあくまで助攻。攻撃の主力になる榛名たちが来るまで、船団に向かう敵の足を引っ張ってやればいいの。そのためならなんでもやる。それだけよ」

「アァ……さては足柄、主攻になれなかったカラ不満なんですネ?」

 図星を突かれて言葉に詰まる。

 今まで秘書艦としての立場があったせいで、おいそれと戦場に出られなかったのだ。

 久しぶりの戦闘も小規模艦隊が相手で歯ごたえがなかったり、瑞鶴に美味しいところをすべて持っていかれたりと、決して満足できるものではない。

「うるさい。あんただって戦艦なんだから、この気持ちくらいわかるでしょ」

「オフコース――でも今回は我慢ヨ、足柄。ここでミスすれば、全部無駄になってしまいマス」

「わかってる」

 横槍が入ったおかげで、作戦達成への敷居が何段も高くなっている。

 損害がゼロというのはもはや不可能だ。

 ならば、その損害は横須賀がすべて引き受ける。そうしなければ、また色々と難癖をつけられるだろう。

 だが、誰も沈ませる気はない。

 提督の要求はさらに高い位置にある。見上げるほどに高い位置だ。

 だからこそやって見せる価値がある。

 それこそが、この国を救う唯一の方法だというのならば。

 それは足柄たち、艦娘にしかできないことなのだから。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「なぁ、時雨……」

 提督がポツリと呟く。

 その顔色はいまひとつ冴えない。

「なんだい?」

「どうにも静かすぎやしないか?」

 足柄たちは順調に作戦を進めていた。瑞鶴の航空隊は鳳翔制空隊と合流し、間も無く攻撃に入る。

 鳳翔と春雨、五月雨もこちらへ合流し、周辺の警戒に当たっている。

 なんの異常もなかった。

 予定通りで喜ばしいくらいに。

 だが。

「あれだけ面倒ごとを起こした連中もそうだが、深海棲艦も静かすぎる」

 拠点に迫るあきさめの姿は、おそらく捉えているだろう。

 島の断崖からは三十キロ先くらいまでは見通せるはずだ。ちょうど今、あきさめがいるあたりまで。

 航空機の類がなくても、固定砲台くらいは用意しているはずだし、一度の爆撃でその全てが壊滅したとは思えない。射程を考えれば、そろそろ攻撃して来る頃合いなのだ。

「何かある。そう思うんだね?」

「ああ。ヘリをあげて警戒させておけばよかったかもしれないな」

 いかに現代の護衛艦のレーダーでも水平線の向こうを見ることはできない。

 代わりにヘリがその役目を負う。高度をあげれば、その分だけレーダー波も遠くへ届くからだ。

 しかし、そのヘリは足柄たちを運び、戻って来る途中。

 間に島がある分、遠回りをする必要もある。

「鳳翔の制空隊を使うしかないだろうね」

 もっともそちらは人間の目と同じ程度の能力しかない。対象物の大きさにもよるが、航空機相手ならばせいぜい二十キロが限界だ。

「それしかないな。鳳翔に――」

 提督は軽く頷いて、指示を出す。

 けれど、それが完全な形になることはなかった。

『艦橋、CIC。対空レーダーに感……五十以上! 島の上空、三十二キロ!』

 戦闘指揮所からの報告。最後の方はすでに悲鳴に近い。

「どこから来た?」

『おそらく島の反対側です! 一六〇ノットでこちらに向かって来ます!』

「海面近くを飛んで来たか……艦長! 全兵装使用を許可、指揮は任せます!」

 総員戦闘配置を告げるアラームが鳴り、乗員が一斉に行動を開始する。

「提督、僕たちも――」

 いくら人類の攻撃が艦載機に効果があるとは言っても、数が数だ。

 火力は大いに越したことはないはずだ。

 艦橋の隅に置いてある艤装の元へ向かおうとした時雨を提督が制する。

「待て……ソナー、艦橋。アクティブを打て。かくれんぼに興じてる奴がいる。数は少ないだろうが、見つけ出せ。情報は時雨に一元化。春雨と五月雨は時雨の指揮で対潜戦闘に集中。上ばかり見て足元を掬われるのはゴメンだ」

 そうかと、時雨は納得する。

 島の施設の大半は破壊している。滑走路は使用可能だが、離陸する敵機は確認されていない。そんなことがあれば護衛艦のレーダーでも把握できるし、上空の直掩機からも見えるはずだ。

 だが、現実に航空隊は現れた。

 おそらくは敵本隊の空母艦載機。

 しかし、島からは救援を呼ぶことはできないし、サポートがない状態で航空隊があきさめの位置を把握しているはずもない。

 可能性を突き詰めていけば、潜水艦による位置通報と誘導。

 そうしてこちらが空に気を奪われている間に、海中からとどめを刺すつもりということだ。

「わかったよ。でも、提督は何をするんだい? 潜水艦は僕、航空機はあきさめ艦長に任せてるけど」

「……赤城と加賀を口説いて来るんだよ」

 言っている意味が全く理解できない。

 その二人は佐世保の艦娘。今も艦隊を率いて敵本隊へ向かっている最中だ。

 提督は面識がないから知らないのかもしれないが、あの二人は最古参の艦娘でもあり、自分の中に確固とした信念を持ってもいる。

 金剛の陰に隠れて見えないだけで、あの二人もなかなかに曲者なのだ。

 確かにこの戦局で重要な鍵を握っているのは間違いないが、下手な真似をすれば二度目はない。

「これはチャンスだ、時雨。敵本隊の航空隊は半減してるんだからな」

 次々と白煙を曳きながら敵機へと飛んでいくミサイルの行方を目で追う提督の顔には、絶対的な自信が見て取れた。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「変ね……」

 艦載機からの報告を受け取った瑞鶴がそんなことを言い出す。

 間も無く戦闘開始という段になってから耳にしたい言葉ではない。

「どうしたのデス?」

「いや、ね……敵の迎撃機がやけに少ないって。電探に捕まってるのは間違いないし、その準備をするだけの余裕はあったはずなんだけどな」

 反撃が少ないのは願ってもないことだ。

 だが、それは予定が狂ったということでもある。

 横須賀組にとって、必ずしも良いこととは限らない。

 喜ぶべきことを素直に受け入れられない。

 それはこれまでの――少なくとも今回の一件において、様々な邪魔を入れられてきたことによる悪影響とも言えるだろう。

「少ないって、どのくらい?」

「予想してた数の半分より、少し多いくらい」

「どこかに隠れてるんじゃないの?」

「……雲があるなら、その可能性も考えるんだけど」

 足柄は空を見上げる。

 雲などまったくない。憎らしいくらい清々しい青空。

 隠れる場所がないなら、答えは二つ。

 すでにこちらへ向かっているか、飛んでいないかだ。

 前者はありえない。向こうはこちらの位置をつかめていないはずだ。

 偵察機にも潜水艦にも一切接触されてはいない。

 そして後者もありえない。

 攻撃されようとしているのに、防御をしないというのは、作戦として成り立たない。たとえ狙いがあったとしても無謀すぎるだろう。

 ――いや、敵が攻撃すべき対象はもう一つある。

「あきさめが危ないデス」

 同じ考えに至ったのだろう。金剛が渋い顔をしてこちらを見ていた。

 だが、こちらは無線封止中だ。下手に電波を出せば存在を気づかれてしまう。

 奇襲効果がなくなることを覚悟の上で、あきさめに警告を出すか。それとも――。

 悩む必要はない。

「……このまま、作戦を続行する」

「いいのデスカ?」

 すぐにでも助けに向かいたい気持ちをこらえているのは金剛も同じだ。

 口調はいつも通りでも、握られた拳が微かに震えている。

 けれど、艦隊の指揮を執っているのは足柄だ。

「提督はこの好機を生かせって言う。敵艦載機が減っているなら、夜を待つ必要もない。ここで一気に崩してしまえば、輸送船団が追われる可能性を考える必要もなくなるわ」

 一年とはいえ、近い位置で提督を見てきたのだ。誰よりも彼を理解しているつもりだ。もちろん完全にとはいかないが、考えもある程度はわかる。

「艦隊、最大戦速! 一気にいくわよ!」

 返ってきた了解の声は重苦しいものだ。

 だが、それでも足柄は前に進む。

 速力を上げて。

 迷いを振り払うように。

 《2》


『敵航空隊、一次防衛ライン突破。距離二十キロ、速度は一六〇ノット』

 戦闘指揮所からの報告が、艦橋のスピーカーから流れる。

 一次防衛ラインはあきさめから二十五キロの位置に設定されている。

 本来であれば、もっと遠くに設定すべきだが、探知した時点で三十キロあまりの距離だったのだから仕方がない。

 まずはこの段階で敵機を一気に叩き落とす。

『シースパロー発射完了。残弾なし』

 あきさめに搭載されている対空ミサイルは一種類。最大射程が五十キロ、音速の三倍で飛翔する発展型シースパローミサイルだ。

 あきさめ自身の性能限界により同時目標指定は二個までと制限があったが、敵機は密集した隊形を維持して飛来してくる。

 あきさめの艦長はこれを一個の目標として見立て、そこへシースパローを撃ち込んだのだ。

 ミサイルは相手に直撃させる必要などない。

 直近で炸裂し、破片で敵機に損害を与え、撃墜する。密集隊形の中に飛び込んだミサイルがそうなれば、その効果は絶大だ。

 瞬く間に多くの敵機が海面へと落ちてゆく。

 だが、そのすべてを撃墜するには至らない。そもそも十六発のミサイルでは足りない。

「鳳翔隊が突っ込みます!」

 双眼鏡で状況を観察していた艦橋要員の一人が叫ぶ。

 さらなる攻撃を警戒して散開しつつあった敵機に、直掩として付いていた鳳翔の九六式艦戦が満を持して突っ込んでいく。

 一個小隊――四機ではあったが、上空からダイブしての一撃離脱で、はぐれていた数機を屠る。

 護衛の敵戦闘機が気づいてこれを追い回そうとするが、ミサイルの初撃でその多くを失い、統制のとれた攻撃にはならない。

 旧式機だが、鳳翔によって鍛え上げられた九六式艦戦は、あざ笑うかのようにこれらを躱しながら、逆に敵機を追い回し、もう一度一つの群れへと仕立て上げていく。

『二次防衛ライン到達。主砲対空戦闘。CIC指示の目標、攻撃始め』

 次なる防衛線は十五キロ位置に設定されている。

 ここを担当するのは、艦首の七十六ミリ速射砲だ。

 単装ではあるが、毎分百発ほどの発射速度で砲弾を吐き出す。もちろんこの砲弾も対空戦闘用だから直撃の必要はない。近づくだけで炸裂し破片を撒き散らす。たった一発の砲弾が何倍にも膨れ上がるようなものだ。

 だが、砲弾はミサイルと違い、一度発射されれば真っ直ぐに飛ぶだけ。

 ふらふらとあちこちに敵機が分散されていれば、それを追う度に砲塔や砲身を動かす必要がある。わずかな時間ではあったが、積み重なれば相当なものになる。

 そのために鳳翔隊は敵機を追い立て、可能な限り狭い範囲に集めたのだ。

 砲弾が炸裂し、再び敵機が火や煙を噴きながら海面へ落ちていく。

 現れた時には八十機を超えていた敵機が、その数を二割近くまで減らしていた。

 ここまでわずか五分程度。

 そのわずかな時間でもたらされた結果には、目を見開き、息を飲むしかない。

「これが現代の戦闘だよ、時雨。互いの姿を見ることもない。敵機にしても実際に姿を見ることは稀で、一〇〇キロを超えた彼方からミサイルを撃ち合うだけ。現代の戦闘艦艇は七〇〇ノットを超えて飛んでくる、そういうものを相手にするためにあるんだ」

 いつの間にか艦橋に戻っていた提督だ。

「一六〇ノットの敵艦載機じゃ、相手にもならない?」

 時雨の問いに、提督は冷めた笑いを見せる。

「そうでもないさ。現にシースパロー残弾がなし。七十六ミリは即応砲弾を撃ち尽くして再装填中――完了に五分は必要だ」

 そう言って艦橋の窓越しに見える空を見上げる。

 黒い点がいくつか、くさび型の隊形を作っている。残った敵機の集団だ。

「提督。ここは危ないよ」

「どこにいても同じだよ。爆弾だろうが魚雷だろうが、一発もらえばこの艦は沈む。誘導兵器に管制レーダー、ヘリ、主砲。そういったものを詰め込んだこの艦が三十ノットを出せるんだ、代わりに装甲なんてものはない」

「でも!」

 時雨の悲痛な叫び。

『敵機、間も無く最終防衛ラインに到達。CIWS、AAWオート。攻撃始め』

 最終防衛線。敵機は五キロの位置まで来たということだ。

「提督! 後ろに下がって!」

 時雨は提督の腕を引く。

 けれど頑として動こうとしない。

 時雨がどれだけ強く引いても、まるで杭にでも縛り付けてあるかのようだ。

 他の艦娘たちから聞いた話を思い出し、時雨は凍りつく。

 昔の戦争で乗艦と運命を共にした、数々の人間たちの話だ。

「……提督、お願いだから!」

 そこで気がついた。

 提督の体が小さく震えていることに。

 だが、それがどうしてかを確かめる前に、蚊の羽音を大きくしたような――もしくは小型のプロペラ機が飛んでいるかのような音が響く。

 同時に、敵機の集団へオレンジ色の光を放つ筋がまっすぐに伸びていくのが見えた。

 曳光弾だ。

 五発ないしは十発に一発の割合で混ぜられるそれが、ほぼ一繋がりになって見える。

「この艦最後の防衛線、二十ミリの対空機関砲だ。発射速度は毎分三〇〇〇発……これを抜けてこられるようなら、どうしようもないさ」

 そう静かに告げる提督が見つめる視線の先――青空の中で、いくつもの黒煙と爆煙が生まれる。あきさめへと近く敵機が、一瞬にしてバラバラに砕け散っているのだ。

 攻撃は先ほどものよりもさらに精密で、わずかな瞬間に数十もの砲弾を叩き込まれる致命的なものだ。

 だから幕切れはあっけない。

 最後に攻撃を受けた二機が、腹に抱いた爆弾を投棄。黒煙を吐きながら左右に分かれていく。

 恐らくは不時着水をするつもりだ。そうなれば腹に抱いた爆弾は邪魔にしかならない。

『敵性目標を排除。攻撃やめ。弾薬再装填急げ』

 攻撃手段を放棄した敵にまで砲弾を撃ち込む必要はない。二波、三波と攻撃が続く可能性も否定できないのであれば、弾薬の浪費は避けるべきだ。

 一気に静寂が戻る。

 響くのはあきさめの機関が回る音と、波を切り裂く音だけ。

『五月雨です。敵潜一隻撃沈確実、脅威の排除を完了しました』

 五〇〇〇メートルほど後方で展開されていた対潜作戦も終わったようだ。

 その報告を受けると当時に、提督はがっくりと膝をつく。

 全身には脂汗。

 そこまでして危険な位置に立つ必要などない。

 むしろ、作戦を最後まで遂行するためには、何が何でも生き残ってもらわなければならないのだ。

「どうして後ろに下がらないんだい」

 時雨が感情を表に出して不満を言う。

 提督はそれを見て、へらへらといつものように笑った。

「時雨、そんな顔もできるんだな……もう少し感情は表に出せ、今度は笑ってるところが見たいぞ」

「バカなことを言ってないで、答えてよ」

「……部下に危ない真似をさせてた張本人が、真っ先に逃げ出せるわけがないだろう? それに俺は元々砲雷担当、兵器の性能くらい知ってる。航空機だけが相手なら大丈夫だと確信もしてる」

「なら、なんでこんなに……」

「トラウマってのは、誰にでもあるもんだよ……動かなかったんじゃなくて、動けなかった」

 時雨にだけ聞こえるように、そう小さな声で囁いた。

 きっと護衛艦に乗っていた頃の話なのだろう。

 伊豆沖での一件のあと、はづき艦長から聞いた話を思い出し、そう結論づける。

 思い出したくない話を蒸し返すのは流石に気がひける。

 提督は時雨の肩を借りて立ち上がると、すぐにいつもの様子に戻り、指示を出していく。

「五月雨たちを直衛に戻せ。今度敵が来た時は対空戦闘に加入してもらう。鳳翔隊は燃料と残弾の報告。必要ならば着艦収容だ」

「第二波が来たら、僕も出るよ」

「おそらく来ない。来たとしても島からの散発的なものだけだよ。向こうだってさすがに余裕はないだろう。足柄たちの所在が掴めない以上、自分たちに向かってくる可能性を考えなきゃいけない。これ以上損耗すれば――」

「左舷敵機! 突っ込んで来ます!」

 提督の言葉が、艦橋要員の叫びで遮られる。

 そちらに視線を向ければ、先ほど爆弾を投棄した敵機が黒煙を吹きながら、フラフラとあきさめへ向かって来ている。

 誰もが着水するものと思い、疑うことをしていなかった。

 だから、接近に気づくのが遅れたのだ。

 海面へ向かって大きく沈み込んだ機体が、気流に乗って再び持ち上げられる。

 それが意図したものかどうかはわからない。

 だが、あきさめへとまっすぐ向かっているのは確かだ。

『機関砲、即応射! 攻撃始め!』

 数百メートルまで近づいた敵機に、再び二十ミリ砲弾がそれこそ豪雨のように降り注ぐ。

 三秒ほどの射撃。

 一〇〇発以上が叩き込まれ、今度こそ敵は四散する。

 だが。

 大小様々、幾つもの破片になったそれがあきさめに向かって突っ込んでくる。

 その中でも一際大きな破片が、まっすぐにあきさめ艦橋へ迫り――

 次の瞬間。


 時雨の視界は真っ黒な闇に包まれた。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 足柄の周囲で一斉に水柱が屹立する。

 大きさに差はあれども、そのどれもが破壊的な力を持っていることに違いはない。

 夾叉されたのか、それともまだバラけた弾なのか、それすらわからない。

「ちくしょう! これじゃ近づこうにも――!」

 叫びを途中でやめ、足柄は右に急転舵する。

 何かが見えたわけではない、聞こえたわけでもない。ただの勘だ。

 だが、それまで進もうとしていた位置に、一際大きな水柱が上がる。

 おそらくは戦艦の砲撃だ。

 あんなものを食らってしまえば、いかに重巡洋艦でもただでは済まない。

「足柄さん! これ以上は無理です!」

 後ろに続く由良が悲鳴をあげていた。

 だが、立ち止まるわけにはいかない。

 砲弾が降り注いでいるから。そういう理由もある。

 けれど、何よりも。

「ここで止まれば、全部台無しよ!」

 そう。

 ここで諦めてしまえば、今までのすべてが無駄になる。

 おそらくは、あきさめも敵機を相手に奮戦しているはずだ。

 可能な限り打撃を与え、敵を引き下がらせる。

 そうしなければ、あきさめが――提督が危ない。

「回避は最小限! できるだけまっすぐ! 黙って私に続きなさい!」

 幸いなことに、まだ被弾したものはいない。

 火力はまだ最大限に発揮できる状態だ。

 だから一気に間合いを詰め、懐に飛び込む。

 後続の由良たちは、どんな巨艦相手にでも痛烈な一撃を叩き込めるだけの武器を持っているのだから。

 それができる位置まで、彼女らを連れて行くのが足柄の仕事だ。

「ヘイ足柄! ハリアップ! 目標の指示を寄越すネ!」

 速力の関係で後方に控える金剛の要請は何度目だろうか。

 だが、それに答える余裕がない。

「瑞鶴! 空から適当なのを見繕って指示を出して! こっちに余裕はない!」

「了解。大物と小物、どっちを優先するかだけは決めてくれる?」

 瑞鶴も金剛と共にいる。

 航空隊の初撃により敵艦のいくつかを沈め、今は再度の攻撃に備えて艦載機の準備中だ。

 その間は偵察隊をあげて、空から情勢を追っている。

「私たちが進むのに邪魔なやつよ!」

「それ、全部じゃん……んじゃあ、厄介そうな左の小物から」

 ちらりとそちらを見る。

 軽巡と駆逐を主体にした敵水雷戦隊が突入の機会をうかがっている。

 もしこちらに手を出せなくても、瑞と金剛を狙うこともできる位置どりだ。

 確かに厄介。

 だが、許可を出そうとしたところに別の声が割って入る。

『右を狙ってください! 左は私たちが抑えます!』

「名取!?」

『遅れてすみません! 突入します! 左砲戦、左雷撃戦用意!』

 その声から間も無く、敵の動きが一気に乱れた。

 敵の艦列の間に煙幕が広がり、水柱と砲火が見える。

 煙幕で視界を遮ることで敵を撹乱、さらに足柄たちへの砲撃を困難にしたのだろう。

 周囲に上がる水柱の数があからさまに減った。

「名取! 無茶はしないで! いいわね!」

 圧倒的に数で劣勢のはずだ。

 時雨からは、睦月型の四隻を率いているだけと聞いている。

『もちろんです。撹乱で手一杯だと思いますので、急いでください』

 心配する必要はなかったらしい。

 むしろ、この場で一番心配されているのは自分たちなのだと気付かされる。

「そういうわけだから、金剛と瑞鶴は右を――」

 すべてを言い終える前に、右の敵艦隊を大きな水柱が包み込む。

 この一撃で、突出した足柄たちを半包囲すべく動いていた両翼が崩れたことになる。

「だから、撃ったら言えって……もう、いいわ。好きにやっちゃいなさい!」

 もはや、命令など不要だ。

 援護に回っている連中には好きにやらせたほうがいい。それだけ自分たちのことに集中できるのだから。

「由良、七駆の子たちは任せた。出番まで極力被害を抑えて」

「了解」

 この艦隊の中で最も足の速いグループを編成する。

 それが切り札だ。

「村雨と夕立は私についてきて! 地獄の蓋をこじ開けるわよ!」

 一気に最大戦速まで速度を跳ね上げる。

 水平線の向こうには旗艦と目される戦艦の他に、重巡、空母を揃えた敵中核艦隊。距離はざっと見積もって一万というところだろう。

「それはちょっと嫌だなー、とか言ったら怒りますよね?」

「わかってるじゃない、村雨。いい子だから一番槍を譲ってあげる」

「それをご褒美って言っちゃうあたりが、足柄さんですよねー」

 そう言いながらも、村雨の口元には不敵な笑みが浮かんでいる。

 無線にカチンという機械のクリック音が響く。

 上空の偵察機が敵艦の発砲を伝えてきたのだ。

 そのタイミングを足柄は冷静に待っていた。

 最小限の動きで進路を変え、着弾予想位置をかすめるように回避する。

「精度が高いってのも、案外とダメなものよ?」

 後方に水柱だけがいくつも立ち上がる。

 発砲から着弾までの時間差を見越した回避。艦ではなく、小回りの効く艦娘だからこそできることだ。

 何度かそれを繰り返すうちに、敵艦隊との距離は詰まっていく。

 残り五〇〇〇。水平線の向こうに敵艦隊の姿が見えてくる。

 ここまでくれば主砲弾の他に、副砲や機銃といったものが火を吹き始め、そのすべてを躱すことなど困難になる。

 障壁を前面に集中展開し、それらを弾き飛ばしていく足柄。

 もちろん無傷とはいかない。

 破片となって突き抜けてきたいくつかが、肌を浅く切るし、すぐそばで水柱を上げる砲弾もある。

 だが、直撃さえ防げればいい。

「村雨! いくわよ!」

 敵艦隊と足柄の間に遮るものはない。

 なかった。

 けれど、すぐに敵の重巡リ級が割って入ってくる。足が遅く、動きが鈍い戦艦では魚雷をかわせないと判断したのだろう。

 最悪、自分が盾となるつもりだ。

「上等じゃないの!」

 リ級が一斉砲撃。射角をつける必要のない、ほぼ零距離射撃だ。

 足柄は瞬時に障壁を格納。舵を左へ切る。

 この距離で食らってしまえば、障壁は用を成さなくなってしまう。

 それは装甲としてだけではない。砲弾は障壁の中を進むことによって本来の力を得るのだから、攻撃力にも影響が及んでしまう。

 低くした頭の上を砲弾が掠め飛ぶ。その衝撃波だけでも昏倒するほどの力があるが、艤装自体が持っている最後の障壁が和らげてくれた。

 砲弾は後方に着弾。派手な水柱を上げる。

 村雨がいたあたりだ。

 砲弾の行方を見る限り、リ級は先頭の足柄に躱されても、後続に被害が与えられればいいと判断して発砲したのだろう。

 だが、そこには誰の姿もない。

「村雨のちょっといいとこ、見せたげる!」

 左へ舵を切った足柄のすぐ後ろから、村雨が一気に飛び出した。

 最大限に加速して、リ級の脇を突破。その後ろに展開しつつあった軽巡と駆逐に肉薄する。

「一番槍いただきます!」

 魚雷発射。距離八〇〇。

 避けることなどできない。

 二本ずつの直撃をまともに受けた敵が悲鳴をあげて海中へ沈む。

「知ってるかしら」

 わずかな瞬間とはいえ、それに気を取られたリ級の目の前。

 すべての砲口を指向した足柄が、不機嫌極まりない顔つきで立っている。

「勝利っていうのはね――」

 砲口から噴き出す炎。

「よそ見をしていると、逃げていくのよ」

 リ級が最期に聞いたのは、多分その一言だ。

※本日分ここまでとなります。

 皆様のイベント海域攻略成功、お祈りしております。
 (自分は出張で出遅れる模様……)

※遅くなりました、すいません。
 本日分投下します。

 《3》


 天と地がわからなくなるほどの激しい衝撃。

 ひしゃげる金属の悲鳴。

 砕け散るガラス。

 煙。

 炎。

 それらが一瞬にして、時雨に襲い掛かった。

 いや、もう一つ。

 自分の上にある、柔らかく温かな感触。

 衝撃で朦朧とする頭の中で理解できたのはそこまでだ。

 深みに落ちかける意識をつなぎとめているのは、臀部と背中に走る鈍い痛み。

 それを感じるということは、少なくとも死んではいないということだ。

 だが、視界は戻らない。

 目を負傷したのだろうか。

 その割に痛みはない。

『応急班、至急艦橋へ!』

 けたたましいアラームの音と、艦内放送が耳に飛び込んでくる。

 意識がゆっくりと周りの状況を認識し始めた。

 頬に何か、液体が落ちてきては流れていく。

 配管から何かが漏れ出しているのだろう。

 正直、気持ちの良い状況とは言えない。

 起き上がろうと、上半身と腕に力を入れる。

 動けない。

 何かが体の上にある。

 暖かく、柔らかな――。

 瞬間的に意識が覚醒する。

 時雨の目の前には、提督の顔があった。

 ススで汚れ、埃にまみれ――頭部から血を流す提督の顔が。

 血液は頬を伝い、時雨へ一雫、また一雫と落ちてくる。

「……無事か?」

 一瞬だけ苦しそうな顔をして、すぐにいつもの笑顔。

 けれど、呼吸は明らかに乱れている。

「僕のことはいい! 提督はどうなの!?」

「……正直言うと動けない。かなり痛い。背中と脇腹が熱い」

 今は時雨の上に提督が覆い被さった格好だ。

 その背の向こうに崩れた艦橋の一部や、敵機の破片が見える。

 時雨は提督の苦痛の原因を確かめるために手を伸ばす。

 焼けた金属でも触れているなら、どけたほうがいい。

 だが。

 提督の背中にはいくつもの金属片やガラス片が食い込んでいた。

 一つ一つの傷は浅いのかもしれないが、これだけまとまれば相当な出血になるはずだ。

 何より時雨を動揺させたのは脇腹の傷。

 細い棒のような金属片が体内へと潜り込んでいる。

 提督の体の前へ慌てて手をまわす。

 ――あってはいけない感触。

 金属棒は脇腹を貫いていた。

 脇腹を突き抜けた金属の先端からは雫が落ち、制服がめくれ上がって露出した時雨の腹部を赤く染めていく。

 時雨がその金属に触れるたび、提督は低く呻く。

「あまり触らないでくれるか? 死ぬほど痛い」

「喋らないで」

「なんだ……そんなにやばいか?」

「いいから!」

 提督を制止してからその下を抜け出し、近くに転がっていた通信機を手に取る。

「明石、すぐに艦橋に来て! 提督が――」

 そこまで言ってから気付く。

 なぜ自分は明石を呼んだのか。

 艦娘ではない提督を救うために、工作艦娘ができることないだろう、と。

 自分が思っている以上に動揺しているのだと、それを理解するのでさえ、恐ろしく長い時間がかかったような気がする。

『了解! 医務官を連れていく!』

 明石はしっかりと状況を把握してくれていた。当然、こういった状況には慣れているのだから。

「時雨……戦況はどうなってる?」

「そんなことはいいから、静かにして。傷に響く」

「……そうもいくか。寝込むにしたって、指示は出しておかなきゃダメだろう?」

 提督はそれをやり終えるまで、おとなしくする気はない。

 時雨が折れ、通信機に耳をすませる。

「足柄たちは敵主力を捕捉。突出した足柄と由良たちを半包囲しようとした敵に対して、左側を名取たち、右を金剛が攻撃中。中央部の敵中核艦隊に足柄たちが猛攻をかけてるけど、戦況が混乱してるみたいだ」

 伝えながら、何かできることはないかと模索する。

 だが、人間相手の応急医療の講習など受けてはいない。

 こんなことならばと、今さら思ったところでどうにかなるものでもなかった。

「そうか……問題はなさそうだな」

 痛みに耐え、朦朧とする意識を保ちながら話す提督。

「そうだよ。だからもう喋っちゃダメだ」

 時雨にできることはそれを制止することくらいだ。

 下手に体力を消耗すれば、それだけ命の危機につながる。

「ヘリが戻ったら、島に攻撃を始めろ。弾着観測はヘリに任せるんだ」

「わかったよ、わかったから」

「何があっても作戦は止めるな……もうすぐ勝てる。指揮は時雨、お前が執れ。何をすればいいか、わかるな?」

「それはあきさめ艦長が……」

「この作戦を理解して、最後までやり遂げられるのはお前だけだ。艦長に説明している余裕もない。もし迷ったら足柄に聞け。付き合いが長い分、俺の考えもある程度――」

「わかったから、もう大人しくして! これ以上はダメだよ!」

 ポロポロと溢れる涙。

 感情を制御できていない自分に驚く。なぜそうなるか、自分にもわからない。

 ただ目の前の、この人間がいなくなるのが怖かった。

「もう一つだけ」

「ダメだよ……」

「周りにいた要員が無事か確認して、必要なら手を貸してやってくれ」

 提督の手が伸び、時雨の涙を拭う。

 その指先は冷たかった。

 出血とともに体温も少しづつ失われているのだ。

 時雨はその手を握りしめ――

「艦橋要員! 状況知らせ!」

 俯いたまま発せられた時雨の号令に応え、各所から報告が上がってくる。

 負傷したものは多いが、命に関わるような状態という者はいない。

 提督以外には。

 その提督は乗員たちの無事を知り、安堵の表情を浮かべていた。

「時雨ちゃん! どこ!?」

 ようやく艦橋に駆けつけた明石の声が響く。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 決め手に欠けていた。

 捨て身のリ級を沈め、敵旗艦を追おうとした足柄たちの前に別の敵が立ちふさがる。

 もちろん、それも捨て身。相応の覚悟を決めたその攻撃は苛烈なものだ。

 対処には時間がかかる。

 その間に敵旗艦は足柄たちを引き離し、輸送船団を目指す。

 立ちふさがる敵を無視してそれを追えば挟撃されるだけ。

 どうするべきか。

「足柄! こっちもマズいヨ!」

 金剛の慌てた声が足柄の思考を中断させる。

「観測射撃で二隻撃沈。数隻に被害は与えたケド、残存艦が転進を始めてマス」

「何がマズいのよ」

 むしろ戦線離脱してくれるならば、ありがたい話ではないか。

 その分、金剛たちの火力をこちらに振り向けられる。

「島に向かってマス! 提督に連絡したケド、聞いてるのか聞いてないのカ……」

 おそらく、あきさめは対空戦闘中だ。応答をしている余裕はないだろう。

 繰り返し送っている戦闘の経過に対しても反応がないのを見ても間違いない。

 敵の狙いは、島に対して攻撃を加えている部隊の排除。向こうも拠点との連絡くらいは取っているはず。それに応答がなければ、何かがあったことくらいは気がつくだろう。

 駆逐艦娘三人で対処できる数ではないし、射程に入るのは日が暮れてからだから、鳳翔を頭数に入れることはできない。

 確かに、金剛の言う通りまずい状況だ。

「追いかけないと、今度こそ提督が危ないヨ!」

 金剛の言いたいことはわかる。

 その敵艦隊を殲滅するには、足柄たちも全力を振り向けなければならない。

 だが。

「瑞鶴より足柄。敵中核艦隊も間も無く砲撃射程外に出るわ。追いかけるならこれが最後のチャンスね」

 瑞鶴の言うチャンスとは、立ちふさがっている敵をねじ伏せる時間も考慮に入れてのものだ。

 これ以上引き離されれば、追いつくまでに輸送船団が食われてしまう。

 敵中核艦隊を殲滅すれば、あるいは島に向かう敵も諦めるかもしれない。

 けれどそれは賭けだ。

 それも、恐ろしく分の悪い賭けだ。

 島の備蓄物資と施設さえ押さえておけば、そう時間をかけずとも再起は可能。

 そう考えている敵が引き下がることはないと見ていいだろう。

「一応、攻撃隊はもうすぐ発艦準備完了よ」

 敵中核艦隊への攻撃を企図していた第二次攻撃隊は、数で劣勢の名取たちを援護。その甲斐あって、名取たちはようやく互角に戦える状況になり、敵を釘付けにしている。

 とにかく、その攻撃隊の補給が終わり、どちらへも攻撃を仕掛けることは可能だと瑞鶴は言いたいのだ。

 戦果としては数隻の撃沈にとどまり、その場で状況を左右する決定的なものにはならないだろう。それでも若干の時間稼ぎ、もしくは敵戦力のそぎ落としにはなり、どちらへ向けても効果的ではある。

 だが、時間的に見てこれが最後の航空攻撃だ。再補給後には完全に日が暮れている。

「なんなら、手分けして両方やっちゃう?」

 瑞鶴がバカなことを言い始める。

「私が単独でどっちかを相手取って、足柄たちは残った方をドカンと」

 戦力の分散は一番やってはいけないことだ。

 下手を打てば、どちらにも影響を与えられず、状況だけが悪化する。

 望んだことではないとは言え、今まで自分たちがやってきたことがそれだ。

 だからこそ、ここまで状況が悪化している。

「ま、そんなうまく行くはずないんだけどさ」

 本人もわかってはいるらしい。

 だが、そんなことを口にしたくなる気持ちもわからないではない。

 できるものならそうしたいのは、足柄だって同じなのだから。

「だからさ、足柄」

 瑞鶴の声のトーンが一段落ちる。

「敵中核は任せた。みんなでいけばなんとかなるでしょ?」

「何を考えてるのよ?」

「簡単。艦載機を全部あげてそっちの援護に回した後、私は島に向かってる艦隊と鬼ごっこしてくるわ。どうせこの後することなくてヒマだし」

 どこか遊びにでも出かけるような口ぶりだが、正規空母単艦で囮になる。瑞鶴はそう言っているのだ。

 敵からすれば空母は高価値目標。目の前になんの防御手段も持たないそれが現れれば、追いかけるのは確実だ。

「私、こういうの慣れてるからさ。足も速いし適任でしょ?」

 だが、敵艦隊の編成は戦艦一に重巡二、駆逐艦六、いくら瑞鶴の足が早くても、巡洋艦と駆逐艦が相手では分が悪い。

「ちょっと、何よ。みんなで黙っちゃって――あのね、沈むつもりなんかないわよ? これでも一応、提督さんがなんでも奢るって言ったの楽しみにしてんのよ?」

 その提督がこの作戦を聞いたらどう思うか。

 ――間違いなく激怒する。

 誰かを犠牲にした上で得た勝利になど、なんの価値もない。

 そもそも足柄の辞書には、それを勝利と呼ぶなどとは書いていない。

 だからまずは輸送船団を守るのが先だ。提督は間違いなくそう判断を下す。

 速戦で片を付け、返す刀で島を目指す艦隊を磨り潰す。最後はあきさめにいる三人も含めての夜戦だ。

 できるかどうかではない。

 やる。

 やって見せればいいだけだ。

 だから瑞鶴の案は却下だ。

「瑞鶴。その案――」

『いい加減、その口を閉じなさい瑞鶴。聞いていて不愉快極まりないわ』

 突然無線に割り込む冷めた声。そこには感情のかけらもない。

「ぅげっ! その声は……」

『私の声に何か問題でもあるのかしら?』

「……大あり。あんたの声聞くと頭が痛くなるの。というか、盗み聞きとはいい趣味してるわね、加賀」

『お粗末な計画を無線で垂れ流したのはあなたよ、瑞鶴。聞きたくなくても耳に入るわ』

「なら、無線切りなさいよ。こっちとしてもその方がありがたいし」

『今は作戦行動中。馬鹿げた提案にもほどがあるわね。そもそもあなたは――』

 突如として始まった舌戦に、当事者以外はあっけにとられる。

「二人ともストップ! 今は作戦中デス!」

 恐らくは佐世保でもこのような感じだったのだろう。

 金剛は割と手慣れた様子で、個人チャンネルを駆使して二人をなだめていく。

『足柄。赤城です』

 それをよそに、佐世保機動艦隊旗艦の赤城が話し始める。

「どうぞ。戦闘中だから手短にお願いするわ」

『これより我が機動部隊は敵中核艦隊に航空攻撃を仕掛けます。時間的に見て最初で最後の一撃になりますが、足止めは可能でしょう。その後に榛名率いる打撃部隊が掃討戦に移行します。すでに高速艦を抽出して再編成、先行部隊として向かわせています』

 打つ手に抜かりがない。

 さすがは艦娘の間でも最古参の一人と言われるだけのことはあるのかもしれない。

『ですから、そちらはもう一つの艦隊を追ってください。これは横須賀第二司令の命令でもあります』

 どうやら実際は提督の手回し。そういうことのようだ。

 あの男はいったいどれくらい先までを見通していたのだろうか。

 とにかく、赤城たちの手が借りられるのならば、悩む必要などない。

「了解した。この件は佐世保司令にバレないようにお願い。一つ借りでもいいわ」

 嫉妬をかえば後が面倒だ。

 それだけは何としても赤城たちにお願いしておかねばならない。

『その件ですが』

 そう言った後、無線の向こうで赤城が笑ったような気がした。

 姿が見えるわけでも、何かが聞こえたわけでもないのにだ。

『佐世保第二基地司令は職務遂行に怠慢があるという理由で、つい先ほど解任されました。船団への転進命令の遅れが原因のようです――』

 ここ最近の出来事の中で、暫定的ではあるが一番喜ばしい知らせだ。

 少なくとも、この後の戦いに邪魔が入ることはない。

『後任人事が確定するまで、佐世保第二所属の艦娘は横須賀第二基地司令の指揮下に入ります。これは海幕長たる海将の命令による、正式なものです。ご安心を』

 もはや、やることも考えることも一つだ。

 後ろを気にする必要も、今後のことを考える必要もない。

 ただ、目の前の敵を粉砕し、勝利を掴むだけ。

『まあ、折角ですから一つ貸しておくことにしましょうか』

 今度こそ、はっきりと赤城の笑う声が聞こえた。

 余計なことを言ったかもしれない。

 だが、一度口にしたことを反故にするのも、足柄の美学に反する。

「了解! 足柄隊、転進する!」

 一際大きく声を張り上げ、足柄は迷いを断ち切る。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 提督の状態を見た医務官は言葉を発しない。

 ただ、時雨と明石を見て首を横に振っただけだ。

「なんで……」

 明石が絶句する。

「この艦の設備じゃ無理だ。すぐに陸の病院へ運ぶ必要がある」

 だが、ヘリが戻るのはもうしばらく先の話だ。

 さらにそれから給油してとなれば、一時間は必要だろう。

 それを聞いた医務官は再び首を横に振る。

「ヘリはダメだ。観測射撃に使う」

 荒い呼吸を繰り返しながら、喘ぐようにしか話せない提督は、この段になってもまだ作戦を優先している。

「どのみち、飛んでも間に合わないんだろ?」

 鎮痛剤を打つ手を止め、医務官は頷く。もはや嘘を言っても無駄だ。

「なら、やることは一つだ」

 時雨を見つめる。

「時間をかけると、他の海域から敵の増援が来る。すでに南シナ海で動きがあるそうだ」

 そんなことはわかっている。

 どうするのが正解かもわかっている。

 答えは最初から一つしかない。

 両方を追うことなどできはしない。

(だから嫌なんだ――深く関われば、決断ができなくなる……!)

 また、瞳から雫が溢れる。

 提督の手が再びそれをすくい上げた。

「……意外と欲張りだな、お前。そういうのは嫌いじゃないし、期待に応えたくなる」

「どういう意味だい」

「考えて後で答えを聞かせろ。何年かかってもいいぞ」

「どうやって聞かせろっていうんだい。石に話しかける趣味なんて僕にはないよ」

「……ひどいな、おい。もう死んだことにされてるぞ」

 誰も笑わない。

 笑えるわけがない。それが差し迫っているのは間違いないのだから。

「ったく、揃って勝手に通夜みたいな顔しやがって……明石」

「……はい」

「入浴剤は持ち込んでるんだろ?」

「はい?」

 この場の誰にも意味など分からなかったはずだ。

 もちろん時雨も含めて。

 そのくらい場違いな単語が提督の口から出てきたのだ。

「無いことはないでしょうが……何に使うつもりですか?」

 気を取り直した医務官の言葉に、提督はかぶりを振る。

「……まさか、提督!?」

 明石が何かに気付いた。

「あれはあくまで艦娘に効果があるのであって、人間が使ってどうなるかなんて、分からないんですよ!?」

「なら、これが最初の実験だな……結果は記録しておけ。ただし、成功してもしばらくは秘密だ。ロクでもないことを考える奴が必ず出るからな」

 それで時雨も理解した。

 艦娘たちも人と同じように傷を負うし血も流す。回復にかかる時間にもさほど違いはない。

 だが、それを待つ余裕などない。

 深海棲艦に対して、唯一と言ってもいい対抗手段である艦娘たちの数は少ないからだ。

 だからその傷を短期間で癒すために使う薬剤がある。それが入浴剤だ。

 もちろん正式な名前はある。ただ、その溶液に浸かる様を入浴と表現しているうちに、この俗称がいつの間にか定着してしまっている。

「成功したって、後でどんな副作用があるか――」

「これでわかる」

 艦娘ですら、将来的にその影響がどう出て来るのかわかっていない代物だ。

 そもそも艦娘が現れてからたった七年だ。蓄積されたデータなどないのと同然。

 少なくとも効能から考えれば、自然治癒力を無理やり向上させていることになるのだから、その代償は必ずある。

 恐らくは、肉体的に成長しない――老いることがない艦娘だからこそ使えるもの。そう考えていい。

「しかし!」

「明石……このままなら確実に消えて無くなる命だ。だったら可能性のある方に使わせろよ」

 その一言で、明石の表情が一層険しくなる。

 何かを考え、選び取るために。

 そして、決めた。

 キュッと口を真一文字に引きしぼり――

「……いいでしょう。準備します」

 そう言って、立ち上がった明石の腕を時雨は掴む。

「明石! 何を言ってるのかわかってるの!?」

 掴んで、感情を爆発させた。

 二人の決断に異を唱えるために。

 それまでの時雨にはなかった、きつい口調と大きな声に誰もが驚いている。

 ただ一人、明石だけを除いて。

「わかってる。でも、提督の命は提督のもの、どう使うか決められるのは本人だけ。違う?」

「そんな理屈で認められるわけがない! 提督は人間だよ!? 僕ら艦娘とは違うんだ! 入浴剤の副作用が出たらどうなるかなんて、明石にだってわかってるはずだ!」

「そうよ、提督は人間……艦娘とは違う。それでもこれは彼が望んだこと。だったら、私はどんなことをしてでも治して、再び彼を戦場に送り出す。それが私の存在する意義だから」

 明石は泣いていた。

 今まで、どれだけの艦娘たちを同じ思いで送り出してきたのか。

 時雨には想像もできない。

 けれど、認めることもできない。

「それは任務だから!? 役目だから!? そう言うのかい!? だったら尚更ここは譲れないよ!」

「違う! 私だって本当はこんなことしたくない……今までだって誰かの命令で、傷ついた仲間を治して送り出してたんだから。無事に帰ってきてくれることを願いながら」

 艦娘たちは誰かの命令で動いてきた。

 戦う相手も、場所も、方法も。

「でも、そうならなかった……その度に、自分の修理が中途半端だったせいかもしれない。出撃を拒否するべきだったかもしれない。そう思ってきた。それでも何もできなかった」

 それは明石のせいではない。誰もそう思っていないはずだ。沈んだものでさえも。

 致命的なダメージを受けたにもかかわらず、応急修理だけで出撃させたのは人間だ。

「変えることもできなかった。結果がどうなるのかわかっているのに」

 それで沈むことがわかっていたのは、出撃した艦娘たちだ。

 それでも、何も言わずに命令に従ってきた。

 理由はただ一つ。

 兵器だから、だ。

 もちろん、金剛のような例外もいる。

 ――違う。

 例外などではない。あれが当たり前のはずだ。

 それぞれが何かを思い、考え、選び取る。その力は皆にあったのだから。

 それでも命令だからと。自分たちは兵器だからと、一切を押し込め従ってきた。

 そうすることが自分たちの存在意義、人を護ると言うことに繋がると信じて。

 けれど、それは違う。

 誰かの思惑に従って生きること。

 そんなものはただの怠惰だ。

 自分で何も決めず、責任すら負わず、誰かが作り上げた世界に間借りしているだけ。

 その代償として、戦い続ける。血を流す。

 時にはそれを傍観することさえ求められる。

 そんな世界が心地いいはずがない。

 だからそれに抗おうとするのが普通だろう。変えたいと願うだろう。

 今の自分のように。

「じゃあ、どうして……」

「ねぇ、時雨ちゃん。提督が艦娘たちにイタズラする理由、わかる?」

 もちろんわかるわけがない。まだ、そこまで付き合いが長いわけでもないのだから。

 何より、まだ時雨はその対象になったことがない。

 首を横に振る時雨を見て、明石が笑う。瞳から涙をこぼしながら。

「最初の頃にね、村雨ちゃんが提督の頬を張っちゃったんだ。胸を触られて、つい反射的にね……その頃は、それにどんな罰が与えられてもおかしくなかった。理由がどうあれ、上官に手をあげたんだから。だから怯えてる村雨ちゃんを連れて、私も一緒に謝りに行った。そうしたら、この人は笑いながら――なんだ、お前たちだって嫌だと思うこともあるし、言えるじゃないか。安心したぞって……嫌なことは嫌だと言わなきゃ、誰にもわからないし、何も変わらない。この世界に存在するなら、その権利は艦娘にもあるはずだって」

 明石は再び腰を落とし、提督の頭を自身の膝の上に乗せる。

 彼は眠っていた。

 その左の頬を愛おしげに、明石の指が撫でていく。

「この人はね、私たちに嫌なものは嫌だって、そう言っていいことを教えてくれてるの。あんなバカで、幼稚で、どうしようもない方法で――その度に追いかけ回されて、叩かれて、怒られて。それでもやめない。それが、私たちのためになると信じてるから……歪んでるとは思うし、たぶん、よこしまな気持ちもあるだろうけどね」

 そんな物事の善悪だって同じだ。

 結局は自分の理想を基準にしている。

「だから、この件に関してだって、私は嫌だって言うことができる。言っていいんだよ……でも言わない。言えない」

「それは、どうして?」

「誰に強制されたわけでもなく、彼自身が戦うと決めたから。可能性に賭けると決めたから……なら、私も自分を曲げるわけにはいかない。私がこの世界に存在するために」

 きっと個々の理想の正誤など関係ない。

 間違っているならば、別の誰かが指摘をしてくれる。きっと後悔だってさせてくれる。

 嫌だ。許せない。間違っている。そんな言葉を真正面からぶつけてくれるはずだから。

「それにね。自分で決めて責任を持つ。それができないことがどれだけ辛いか、私は……ううん、艦娘ならみんな知ってるはずでしょう?」

 ただし、それができるのは自分の意志で、自分の理想のために責任をもつと決めた存在だけ。何かに依存して、片隅で生きながらえているような存在ではない。

 真正面から相手と向き合うことができるものが、言葉を――時には力をぶつけ合いながら、考え、選び、行動する。

 より良いものだけが集められ、誰が見ても満足できるものを目指して。

 たくさんの決断と後悔の積み重ね。

 きっと世界はそうやって作られている。だからあちこちに欠陥がある。

 むしろ、欠陥だけで作られている。

 欠陥だらけだからこそ、誰にでもそれを正す機会が与えられている。

 そこに己の理想を掲げることができるのならば。たった一歩を踏み出せるなら。

 だから、提督の理想を間違いだと告げたいなら。

 この欠陥だらけの世界を――人を護るなら。

「――明石、提督をお願い。絶対に死なせないで」

 まずは相手の理想を認めなければならない。

 そうしなければ理想のぶつけ合いになどなるはずがない。

 何かを変えることなどできない。

 そんなことでしか前に進めない、欠陥だけで作られた世界だから。

「提督には言いたいことがたくさんあるんだ。それを聞いてもらうまでは絶対に」

「もちろん。この件に関して散々文句を言ってやらなきゃ」

 鎮痛剤の効果で眠りに落ちた提督の顔を覗き込む。少なくとも今は苦痛から解放されているようだ。

「まったく。こっちの気も知らないで……」

「今に限ったことじゃないけどね……それで、時雨ちゃんはどうするつもり?」

「提督のやろうとしていたことを続けるよ」

 この世界に関わるために。

「この戦いに勝たないと文句を言う機会がなくなるから。それにね――」

 色が変わり始めた空の向こう。

「僕たちがどんな存在なのか、それをみんなに見せつけなきゃいけない」

 水平線からわずかに見える島影を見つめながら。

「僕たちだって自分の考えを持ってる――人と同じような存在なんだって」

 時雨は宣言した。

 《4》


 足柄たちから離れ、四〇〇〇メートルほど先を行く村雨の声が無線から響く。

「敵艦隊視認! 戦艦を先頭に駆逐一、重巡二の単縦陣! 二時方向、距離四五〇〇……島への針路をとってます!」

 追いついた。

 そう言っていいのか。

 日没前、最後の攻撃をかけた瑞鶴の攻撃隊からの報告では、駆逐艦二隻を沈めたのは間違いない。

「敵戦艦はダメージがあるらしく、船足が鈍くなってます。おそらく十五から十八ノット」

 それも瑞鶴航空隊の報告通り。

 艦爆隊の攻撃が少なくとも二発命中、一発が至近弾というものだ。

 だが。

「他に艦影はない?」

「少なくとも視界内には何も」

 駆逐艦三隻が所在不明。

「足手まといを切り捨てたわね……」

 何を狙っているかは口にするまでもない。

 足柄たちにとっては足の速さと、魚雷さえ気をつければ良いだけの相手だが、護衛艦にとっては大きな脅威だ。

「というよりも、お供がいますカラ、典型的な遅滞戦術デスヨ」

 それがわかっていても無視することはできない。

 戦艦の長射程と、足の速い随伴艦の組み合わせは厄介だ。

 高速艦に足止めされたところへ、大口径主砲弾の雨が降る。

 かと言って、真正直に相手をしていては島の攻略に残った提督の身が危ない。

「悩んでいても始まらないネ。速戦あるのみデース」

 金剛の主砲が敵艦のいる方向をめがけて一斉に揃っていく。

「目標、敵先頭の戦艦。一番、二番砲塔試射用意、弾種徹甲――村雨、着弾観測よろしくデース!」

 例によって、村雨の返事を待たずに発砲する。

 爆風によって空気が揺れ、壁となったそれが足柄の横っ面を張る。

 思考の迷路に迷い込んだ意識を現実世界に連れ戻すように。

「そんなチマチマなんてやってられない! 金剛! 目標変更、敵重巡! 二隻相手でもあんたならいけるわよね!?」

「ワッツ? ……ああ、アンダスタン。そういうことナラ、負けていられまセン。金剛の実力見せてあげるネ!」

 言うが早いか、敵艦隊に向けて増速。一気に間合いを詰めにかかる。

「夕立、ついて来なさい」

 その後方に足柄、夕立が続く。

「村雨、悪いけどもう一仕事よ」

「今日はこんなのばっかり。聞こえないフリがしたぁい」

「敵戦艦の気を引いて。ご自慢の胸の出番よ」

「……そんなので釣れるの、提督だけですってば」

「なら、何か考えて」

 直前の戦闘と、そこからの離脱のために、村雨は魚雷をすべて消費している。

 残っている武装は小口径主砲と対空火器の機関砲のみ。敵艦隊のどれにとっても豆鉄砲のようなものだ。

 それで相手をしろと言うのは少し酷かもしれない。

 だが、やってもらわなければならない。

「えぇ……これ、一つ貸しですよ?」

 口では色々言っているが、何かを思いついたのは間違いない。

「了解。借りてあげるから、頼んだわよ」

 今日は方々に借りを作っている気がする。

(誰のせいよ、これ)

 そんな自問自答に、提督のやけにニヤついた顔が思い浮かび、無性に腹がたつ。

 確かにこれは、彼と彼の理想のためだ。

 けれどそれと同じくらい、過去に自分たちが果たせなかった誓いのためでもある。

 国と国民を護る。

 そのための借りだ。

 だが、借りた以上は返さなければならない。借りっ放しも足柄の流儀に反する。

 今の所、足柄に返せるものはない。

 だから今回は提督に丸投げしてやろう。

 そのためにも、提督にいなくなられては困る。

「由良! 七駆を連れて、分離した敵駆逐艦を追って!」

「それじゃ、戦力分散になってしまいます!」

 何をいまさら。

 今日はどのみちそればかりだ。

 それに。

「こっちは私と金剛に夕立、村雨もいる。あの程度の敵なら、そのくらいハンデをあげてもまだ不足って言い出すわ」

 絶対的な自信。

 根拠があろうがなかろうが構わない。そんなものは勝利と一緒に掴めばいい。

「了解しました。ご武運を!」

 由良たちは切り札だ。ここまでできる限り戦闘への直接加入を避けさせ、温存して来た。

 そもそもは敵中核との夜戦に備えての一手だったのだが。

 おかげで、弾薬にも燃料にも余裕がある。

 最高速で敵を追いかけることも、火力的に優位を保つこともできる。

「で、私はどうすればいいわけ?」

 不満そうな一言は護衛の由良たちに置いていかれた格好の瑞鶴だ。

「今日の出番は終わり。そこらへんで油でも売ってなさいな」

「はぁ? 釣りでもしてろっての?」

「冗談よ。戦闘中の通信代行をお願い。他部隊やあきさめの状況を確認して」

 砲戦の最中に全体の状況を把握して、指示を下すのはなかなかに骨が折れる。

 できないことはないが、可能な限り戦闘に集中したい。

「……釣竿持って来ればよかったわ、マジで」

 瑞鶴には退屈な仕事だろう。戦闘海域からも離れている。

「やってもいいけど、潜水カ級を釣ったとかはお断りよ? 煮ても焼いても食えないんだから」

 海域の安全は確保したつもりだが、絶対ではない。だから、それが万が一現れても、自力で対処しろと言う意味を込めた冗談だ。

「うえぇ……とにかく了解」

 これで指示はあらかた終わった。

 あとは敵を始末するだけだ。

 一分一秒でも早く。


「全砲門撃ちマス! ファイアー!」

 仕切り直しの口火を切ったのは、やはり先頭を行く金剛。

 戦艦の前に出て、こちらを牽制しようとする重巡二隻に対して一斉砲撃を始める。

 もはや視界の中に敵を捉えている以上、弾着観測も必要はない。

 だが、初弾はすべて敵前に着弾し、派手な水柱を上げる。

「ウップス! ちょっと近すぎたネ」

 そう言って苦笑いした金剛の副砲群が火を噴き始めると、反撃とばかりに敵も盛大に撃ち返してくる。

 彼我の間に無数の水柱が上がり、向こうを確認するのが困難になってくる。

 頃合いだろう。

「村雨!」

「はいはーい!」

 左側から村雨が全速で敵戦艦に向かって突入を始める。

 直前で回頭する雷撃コースだ。

 敵艦隊は一斉にそれへ正対するように舵を切ろうとする。

 雷撃に位置につかせないためだ。

「主砲、第二斉射デース!」

 轟く砲声。

 針路を変えつつあった敵重巡に数発が直撃、一隻の行き足が鈍る。

「さっきのは当てなかっただけヨ!」

 狙いが狂った金剛の初撃は、あくまでもこちらに意識を向けさせるための挑発。

 その間を使って、村雨は一度水平線の向こうへ離脱。敵の視界外から再度突入位置についた。

 その結果がこれだ。

 一撃必殺の武器を持つ高速の駆逐艦が接近してくるのは、大型艦からして見れば悪夢だ。どうあっても対処をしなければならない。

 こちらへ砲の照準が合いつつある以上、目標変更はしたくない。だから回頭することで対応する。

 おかげで、こちらからは止まっているように見える敵艦へ一撃を放つだけ。

 とは言っても、敵艦からの砲弾は飛来しているのだから、簡単ではない。

 それを難なくやってのけるのは、金剛の経験と実力、胆力のなせる業だ。

「村雨、敵の出方をよく見てて」

「了解」

 さらに接近を続ける村雨と、的確な一撃を放り込んでくる金剛。どちらを脅威としてみなすか。

 こちらを向くためには、重巡はもう一度転舵しなければならない。

 そうなればまた砲撃を叩き込める。

 次は確実に撃沈が出る一撃。相手は何もできずに一隻を失うことになる。

 だから、おそらくは――

「敵艦、そのままこちらに向かってきます」

 予想通り。

 そのまま行って、単艦で向かってくる村雨を沈める方が確実だ。

「金剛!」

「第三斉射! ファイアー!」

 この砲撃には足柄も同調する。

 狙いは頭一つ抜けた敵駆逐艦。村雨に向かい増速しつつある。

 敵艦の周囲に水柱が林立。その向こうにいる敵艦の状態は見えない。

「敵重巡一隻沈みます! 駆逐艦大破、減速中! 村雨、突入します!」

 戦果を報告する村雨の声が熱を帯びていた。

 火中に飛び込むのが駆逐艦の本分。その魂に火がついたのだろう。

 ようやく見通せる向こう側で、村雨が突入を始めるのが見えた。

 煙幕を焚き、重巡と戦艦の間に割って入る。

 周囲に副砲群と機銃の水柱をまとわりつかせながら。

「ちょっ! 服がボロボロー! 最悪ー!」

 炸裂した砲弾の破片の仕業だ。恐らくは傷も負っているだろう。

 敵艦の間をすり抜けるために、障壁を最低限にして突っ込んだのだから当たり前だ。

 それでも一切迷うことなく直進する。

 迷ったり躊躇ったりすれば、途端に敵弾の餌食だ。

 砲塔の旋回速度に限界がある以上、接近してしまえば速度こそが最大の防御手段になる。

 おまけに敵は同士討ちを恐れて、不十分な照準での砲撃はできない。自然と射撃頻度も落ちていく。

 一方の村雨はそういった危惧を抱く必要がない分、高速で駆け抜けながら、行き掛けの駄賃とばかりに左右の敵艦へ次々に砲弾を見舞っている。

 大きなダメージにはならないだろうが、副砲や機銃といった兵装を黙らせるには充分だ。

 やがて敵が軽い混乱状態に陥る。

 来るはずのない魚雷を恐れ、回避行動をとったせいだ。

「足柄さん! もうちょっと待ってね!」

 敵戦艦を少しばかり通り過ぎた位置まで到達した村雨は、そういって一八〇度の右回頭をする。

 視界が遮られている戦艦はともかく、重巡からの攻撃は苛烈だ。

 かなり無茶と思える行動だが、被弾は覚悟の上だろう。

 今度は障壁を最大限に展開しているのだから。

「ヘイ、村雨! 大きいのは胸だけじゃないんデスネ! 気に入りまシタ!」

 そこへ金剛の援護が入る。

 副砲群が一斉に火を吹き、重巡の後方に水柱の林を出現させる。

「みんな揃って失礼しちゃう! 一番大きいのは肝っ玉ですよ!」

 その陰に隠れた村雨は悠々と回頭を終わらせ、今度は足柄たちと敵の間に煙幕を張っていく。

「村雨は肝っ玉かーさんになるデスネ!」

「誰の子ですか、誰の――あ、もしかして提督のだったりして!? やだもう、うふふ。ちょっと期待しちゃうなー」

 そんな場合でもないだろうに、本気で悶え出す村雨。先ほどの金剛の一言に対する反撃のつもりだ。

 とにかく、敵の砲撃の中を縫って進むはずのその針路が、若干ふらつき始めたのは気のせいではないだろう。それだけに敵の狙いもなかなか合わないらしく、盛大な水柱だけが天を衝く。

「ノー! 提督のハートを掴むのは私ネ!」

 村雨の発言に触発された金剛も、そんな具合に叫んで本気の砲撃を始める。

 あっという間に敵重巡が砲弾の雨に包まれ、戦闘能力を失っていく。

 執務室での一件を知らない村雨ではあったが、うまいこと金剛を刺激する形になったわけだ。

(こういうのは、相乗効果と言っていいのかしら――)

 そんなどうでもいい疑問が足柄の頭の隅に沸いたが、それを振り払う。

「夕立、ついて来なさい! パーティに遅れるわよ!」

「主役の登場は一番最後って決まってるっぽい!」

 重巡の視界が完全に遮られたのを確認すると、足柄は一直線に敵へ向けて進む。

 目標は一番の大物、戦艦だ。

 煙幕の向こうにいる敵艦の位置は見えない。それでもある程度の予測はできる。

 左に舵を切れば仲間と接触する可能性がある以上、右へ行くしかない。

 足柄たちから遠ざかる方向だ。

「面舵五! 真正面から行く!」

 宣言して煙幕の中に飛び込む。ついでに魚雷を四本ばかり予想針路上に放った。

 次の瞬間には煙幕を抜け――。

 果たして、予想どおり敵戦艦はそこにいた。

 ただし、足柄にすべての主砲を向けてだ。

 当然、敵だってこのくらいは読んでいたはず。

 距離五〇〇。外しようがない。

 絶体絶命――。

 けれど、足柄の顔には笑みが浮かぶ。

 それでこそ狩りだ、と。

 獲物を前に舌なめずり一つ。

 敵艦発砲。

 その直前。

 事前に放った魚雷の一本が敵の眼前で炸裂した。

 わずかにバランスを崩す敵。

 すぐに体勢を立て直し、発砲して来た。

 すべてがスローモションのように感じられる。

「遅い!」

 左へ体を倒す足柄。

 当然障壁は格納している。

 すぐ横をかすめ飛ぶ砲弾。

 ふわりと浮いた自慢の髪が、幾束か持っていかれるのが見えた。

 わずか後方で派手な水柱が上がり、足柄の体を突き飛ばす。

 幾つもの破片が、艤装だけではなく、宙に浮いた足柄自身を傷つけていく。

 それでも。

「至近弾なんてクソ喰らえよ!」

 傾いたまま着水しかけた体を左腕一本で支え、ついで右足も海中へ突っ込む。

 足首の角度を微妙に変えて――

「右舷前進一杯! 急速回頭!」

 そのまま目一杯に加速。

 海中に入った左手が抵抗を生み、下半身だけが押し出されるような感覚。

 その瞬間に右足を抜いて、膝を抱えるように体を折りたたむ。

 左腕が軸となり、体はそのまま反時計回りに一回転。

 急速回頭どころではない。もはや車のスピンターンのようなもの。艦娘だからこその芸当だ。

「両舷停止!」

 ぴたりと静止した真正面に敵艦の姿を捉え、同時に足柄の主砲が一斉に敵を指向する。

 両手、両足を海面につけ、今にも飛び出さんと低く身構えるその姿は、まさに飢えた狼。

「主砲斉射! ぶっ潰せ!」

 再び障壁が展開され、三基、六門の二十センチ砲が満を持して火を噴く。

 至近距離で放たれた砲弾が敵戦艦の障壁を食い破り、次々と炸裂。副砲の大半と主砲塔二基を吹き飛ばす。

 だが、敵はまだ余裕の表情だ。

 薄笑いを浮かべながら、改めて残った主砲を足柄に向ける。

 今度は躱せないようにと、俯角をつけて。

「妙高型を舐めるなあぁぁぁぁぁっ!」

 一際高く響き渡る咆哮。

 今度は障壁を使って、まともにそれを受け止める。

 艤装が負荷に耐えきれず、主砲や副砲が吹き飛ぶ。

「機関最大! 両舷前進一杯!」

 それでも足柄は前に進む。

 最大速で。

 そして吠える。

 獲物を仕留めろと。

「夕立、行けぇっ!」

 ほぼ同時に、足柄の障壁と敵戦艦の障壁が接触。まるで艦と艦がぶつかった時のような衝撃が走る。

 相手は戦艦。分が悪いのは足柄だ。

 けれど、一歩も引かない。むしろ気迫で相手をジリジリと押し込んでいく。

 障壁が互いに侵食し合い、バチバチと不気味な音を立てる。

 そして。

 ぽっかりと何もない空間が生まれた。

 煙幕から飛び出した夕立が、猟犬のようにそこをめがけて突っ込む。

 意図を感じ取った敵戦艦はそこへと砲撃の構えを見せるが――

「やらせるわけないでしょうが!」

 再度、足柄の砲撃。生き残った主砲は一基、二門しかない。

 それでも、至近距離のそれをまともに受けたことで、敵はバランスを崩す。

 放たれた砲弾は足柄たちの頭上を越え、遥か後方へと飛んで行った。

「これで終わりっぽい。バイバイ」

 障壁の開口部を抜け、肉薄した夕立から放たれるのは六本の魚雷。

 落角を浅くとったそれは、間違いなくすべてが敵戦艦へと吸い込まれて行った。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「オーウ……足柄は随分とセクシーな格好デスネ」

 村雨と夕立の肩を借りて戻ってきた足柄を見て、金剛が放った最初の一言がそれだ。

 確かに服は右側が大きく裂け、背中も肩も露出しているし、胸元からも豊かな膨らみが半分ほど見えている。

 足を保護するためのタイツも裂け、素肌が露出。いたるところに切り傷、擦り傷だ。

「他に言うことがあるでしょうよ……」

「ウーム……提督が見たらきっと大変なことになりマース」

「そりゃあ、もう――ああ、あんたが考えてるようなのとは違う意味で。って、そっちじゃなくて」

「ワッツ?」

「……もういい。瑞鶴、状況は?」

 きっと、金剛は砲撃のしすぎでどこかのネジが緩んだのだろう。元々なのかもしれないが。

 どちらにせよ戦闘で消耗した後に、筋道が通らない会話をする気にはなれなかった。

 それに、こちらの先頭は終わったとはいえ、他ではまだ作戦進行中のはず。

 情勢が気になる。

「そろそろ由良隊が接敵する頃よ。水雷戦隊十八番の夜戦だから問題ないと思う。それから、赤城たちが敵中核艦隊を航空戦でほぼ殲滅、残敵の掃討に榛名隊が当たってる――そろそろ加賀のやつが仏頂面で『やりました』とか言ってるわね。東シナ海で追いかけっこしてた青葉隊も片がつくって」

「あきさめは?」

「応答なし。随伴の子たちからも返答がないから、おそらく無線封止中。一度場所を捉えられたから警戒してるんだと思う」

 一度海域を離れ、夜陰に乗じて攻撃。

 あの提督ならば、確実を期してそう考えるはずだ。

「それと、南シナ海の敵勢力が活発化してる。おそらく他の海域もね。時間をかけると逆撃を受けかねないわよ」

 作戦計画中に提督が漏らしていた不安要素の一つがそれだ。

 時間がとにかく重要になる。だからこそ、足柄は無茶をした。

 何か手を打っておく必要がある。

 だが、現状では司令官も秘書艦にも連絡が取れない。

 ここは独断で動くしかないだろう。

「赤城、聞こえてる?」

 横須賀の指揮下に入った赤城を呼び出す。

 しばしの間があって、応答が返ってきた。

『心得ています。とは言っても、これも横須賀司令の案ですが――現在前路哨戒の任務を終えた佐世保の戦力を再編成して、バシー海峡に急派する手筈を整えています』

 それならば、まず確実に時間は稼げるだろう。

 横須賀方面は夕張たち留守部隊が目を光らせていてくれるはずだ。

 問題はない。

「なら大丈夫ね」

『それが……一応耳に入れておきます』

 赤城の声のトーンが一段落ちる。

『先ほどこちらが相手をした艦隊ですが、敵空母が空荷だったかもしれません――うちの子たちの報告では、そんな気配がする、と。もちろん迎撃の戦闘機も上がっていましたし、戦闘中の印象ですから確証はないのですが』

 出撃できない艦載機を抱えたままであれば、攻撃を受けた際に引火や誘爆などを引き起こし、その最期は派手なものになる。恐らくはその規模が小さかったのだろう。

 けれど。

「敵航空隊はあきさめに攻撃を仕掛けたはずよ?」

『そう考えるのが妥当です。事実、横須賀司令と交信した際も戦闘中でしたから――その上で、これはあくまでも私の感想だと前置きしますが、その割には横須賀司令は冷静そのものでした。悲壮な覚悟とかそう言う雰囲気ではなく、です。空母二隻分の攻撃隊ともなれば、護衛艦一隻と随伴艦数隻には荷が重すぎるはず。とてもそんな余裕があるとは思えません』

 空母ヲ級。艦載機は八十から九十機だ。

 そのうち護衛戦闘機が六個小隊二十四機程度。残りは攻撃隊。

 確かにこれが倍となると、いかに護衛艦とはいえ落ち着いているのは無理だ。

 対処できる数にも、強力な兵器にも限りはある。

 では、消えた航空隊はどこへ――

「金剛! すぐに由良を追って!」

 敵の狙いはあくまでも島だ。

 しかし単独の航空攻撃では、また壊滅させられて終わりと考えるだろう。

 だったら、敵に残された手は一つ。島に向かう駆逐艦を守りきること。

 足柄たちが島へ向かったのを知った時点で発艦、離れた位置で合流させ、潜む。近づいてくる艦娘がいればこれを遮り、そうでなければ護衛艦の注意をそらし、駆逐隊の突入を支援する。

 視界の悪い夜間攻撃になるが、帰るべき母艦を失った航空隊だ。損害など最初から考慮に入れていないはず。

 見方を変えれば、唯一降りることができる場所を取り返すための背水の陣だ。

 どちらにしても苛烈な攻撃になる。

「了解ネ! 夕立、ついてきてくださいネ!」

「村雨も行って!」

「それじゃ、足柄はどうするのデース」

『足柄と瑞鶴の護衛には、名取たちを向かわせます。ご安心を』

 金剛たちが由良に追いつくかどうかはわからない。

 夜陰に紛れた敵機が、自分たちの位置を把握できているかどうか。

 それによって大きく状況は変わる。

 大破状態の足柄にできるのは、祈ることくらいだ。

 それが虫のいい願いだとわかってはいるが。

 そろそろ一つくらいはこちらの願いを叶えてくれてもいいだろう。

 今日は、今までが散々だったのだから。

※本日分はここまでとなります。
 間隔空いてしまい申し訳ありません。
 次は週内に投下できれば……いいな。

※乙ありです。
 こんな時間になってしまいましたが、本日分投下します。
 (何がプレミアムフライデーだ……)

 《5》


「敵駆逐艦隊補足。十時方向、距離四五〇〇」

 右梯形陣を組む由良隊。その一番左、最も先頭を行く由良が敵艦隊発見の報を告げる。

 ほぼ闇夜だ。

 沈みかけた三日月がわずかに輝いているが、光量としてはないのと同じ。

 由良が敵艦を見つけたのは、夜戦が十八番の水雷戦隊を率いる長だからとか、夜目が効くとか言うわけではなかった。

 敵艦隊が燃え盛る何かに群がっていたからだ。

 まるで、火の回りで踊り狂うように。

「あれ、何やってんの?」

 曙が小首を傾げる。

 答えたいところだが、ここからでは確認のしようがない。

 少なくとも、敵はこちらに気がついていないようだ。

 仕掛けるには絶好のチャンスだろう。

「近づきながら確認しましょう。陣形を左梯形陣に変更。針路を敵艦隊へ」

 静かに艦隊の陣形が変化していく。

 由良が先頭なのは変わらず、後続の四人だけがそのまま左へと移動する。

 このまま接近して魚雷を放てば、濃密な槍衾の完成だ。避けることはまず不可能。

 由良たちはそのまま右へ一斉回頭することで、艦隊運動が容易な単縦陣で離脱できる。

 もし再攻撃の必要があれば、即座に対応も可能だ。

「距離三五〇〇。統制雷撃戦用意」

 揺らめく炎に敵の影がちらつく。

 時折、大きく何かが爆ぜ、炎と煙が吹き上がる。

 由良は嫌な予感を抱いた。

「ちょっと……まさかとは思うけど」

 曙も同じ感想を抱いたようだ。

 距離が三〇〇〇を切る。

 かろうじて燃えているものの形がわかる。

 船だ。

 だが、この海域に民間船などいない。

 輸送船団は東シナ海を航行中のはずだし、時間や速度から考えても、ここにいるのはおかしい。

 だから。

 可能性があるのは護衛艦だけ。

 爆ぜているのは弾薬の誘爆せい。そう考えれば繋がる話だ。

「脱出した人の姿は見える?」

 おそらく攻撃を受け、戦闘不能に陥ってからそれなりの時間が経っている。

 逃げ出せるものはあらかた海の上に出たはずだ。

「今のとこ――見えない。いたとしても……」

 単語の間にできた一瞬の空白。曙は何かを見たのだろう。

 想像はつく。

 海に逃れた人々がどうなるかなど、由良も数多く見てきた。

 それは目を背けたくなるような光景だ。

 だからこそ、曙は続く言葉を切ったのだ。

 どれだけ急いでも、間に合うことも、できることもない。そう言うつもりだったのだろう。

 だが、それを口にすることで、何もできないことを肯定するのが許せなかった。そういうことだ。

 たとえこちらに注意を向けさせたとしても、彼らが迎える結末は同じ。

 深海棲艦はあの場を絶対に離れない。そうすることでこちらの攻撃の手が緩むことを知っているから。

 そう。結末へ至る過程に違いが出るだけ。

 それがこの戦場の現実だ。

「艦種は確認できる?」

 言ってはみたものの、上部構造物の大半が失われている。見分けなどつくはずがない。

「あれじゃ、艦種特定は無理よ。クソ提督じゃなきゃいいけど」

 曙の声は微かに震えている。

 誰だってその可能性を頭に思い浮かべているだろう。

 この位置に一番近かった護衛艦は、提督の乗るあきさめしかいないのだから。

 それも、今の所音信不通だ。

「大丈夫。時雨ちゃんたちが付いていて、敵が無傷っていうのはありえない」

「それもそうね。一隻中破させた程度で終わるわけないもんね」

 敵の様子を伺っている曙の言葉に軽い違和感。

 それがなんなのかはわからない。

 だが、由良はそれを口にしない。

 今必要なのは、悲観や迷いではない。

「そうよ、あの子たちなら二隻は確実に沈めてる」

 距離は二〇〇〇を切った。

 もうここまで来れば、敵が気づいたところで無駄だ。

「目標は任意で。ありったけの魚雷を撃っていいわ、確実に始末して」

 了解の声。

「魚雷発射! 全艦一斉右回頭、単縦陣!」

 扇状に放たれた魚雷が静かに敵へと向かう。

 事がそこに至って、敵はようやく由良たちに気がつく。

 海面に浮かぶ獲物たちに気を取られすぎたのだ。

 おそらくはもう現れることのない、それらを探す作業に。

 ゆえに、その結末はひどく簡単なものだ。

 満足な回避をすることも出来ず、すべての敵が水柱に包まれ、消えていく。

「これで仇は取った。そう思ってくれるかな……」

 一層激しく燃え上がる護衛艦の残骸を見つめながら、曙がポツリと呟く。

 それを決めるのは、生き残ったものではない。

「いつかわかるわよ……向こうで会うことがあれば、ね。とりあえず、この護衛艦の名前だけでもわからないと、弔ってあげることも出来ないわ」

「そうね……」

 少し離れた場所で無人のまま漂流しているボートを見つけ、朧が引っ張ってくる。

 それに漂流物――護衛艦と関係のありそうなものを集めていく。

 母港へ帰すために。

 何も遺せなかった人たちのために。

 由良の足にコツンと、何かが当たる。

 引き裂かれ、飛び散った外板の一部だろう。

 その金属片を拾い上げながら、由良は無線を開く。

 もはや無線封止をして所在を隠す必要はない。

「由良より足柄。敵分離艦隊の殲滅を完了。以後の指示を願います」

『ヘイ、由良! やっと繋がったヨ!』

 金剛の声が飛び込んでくる。

「金剛さん? 足柄さんは?」

『それは後デス! 敵の攻撃機がそっちに向かってマス! 急いで――』

「それはおそらく、大丈夫です」

 手にした外板を見ながら、由良はそう口にして金剛の言葉を遮った。

『……ホワイ?』

「敵航空隊はここで壊滅したものと思われます」

 拾い上げた漂流物――敵機の残骸を見つめながら、由良は落ち着いた口調で話す。

『誰がやったのデス?』

 機関砲弾や機銃弾では作れない無数の小さな穴。何かの破片で切り裂かれた断面。

 艦娘たちの攻撃で、そんな痕跡は残らない。

「艦名は不明ですが、状況から見て護衛艦です。当該艦は敵駆逐艦の攻撃を受け、沈みつつあります。今、付近を捜索中ですが、生存者はおそらく……」

『まさかとは思うケド……』

「現在調査中としか。ただ、あきさめが一度空襲を受け撃退したのなら、二度目のそれに対応する火力はないはずです。少なくとも同じ規模のものを壊滅させるほどのものは」

 だから、あきさめは無事なはずだ。

 同時にもう一つの疑問が沸き起こる。それが先ほどの違和感の正体。

(じゃあ、敵駆逐艦を中破させたのは、誰?)

 答えは、おそらく見つからない。

 そんな気がした。


          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 あきさめは地道な戦闘を続けていた。

 ソナーを使って敵潜を探し、春雨と五月雨、時雨がそれを沈めていく。

 一度敵に発見された以上、攻撃開始位置を変える必要があった。

 それを悟らせないために、海中深くに潜んでいる間に見つけ出し、通信可能な位置に浮上する前に叩く。

 確実な戦果を手際よく上げていかねばならない。

 地味だが神経を使う戦いだ。

「あきさめへ。現海域の制圧完了。他に感は?」

『ない。周辺海域はクリア』

「了解。ここから作戦を始めるよ」

 南大東島の北北西四十キロ。

 ここからなら、島に掘られた港がすぐに見えてくる。

 物資の集積地はまずそこにあるはずだ。

 ここまでの敵潜の配置を見る限り、敵の本拠地があるのは南大東島だけと見ていい。

 そこを一気に砲撃で叩き潰す。

 その後は東へ向かいながら滑走路を破壊。同時に島内の物資集積地も始末する。

 だが、日が暮れてしまっていた。

 偵察機の支援が得られない以上、滑走路の破壊はその周辺を含めた、面を制圧する攻撃に頼るしかない。

 大量の砲弾を消費して行われるそれは、付近の無関係な施設にも大きな被害をもたらすことになるだろう。

 戦術面ではそれでも構わないが、心情的にはできればそれは避けたい。

 戦いが落ち着けば、必ず人が戻ってくるだろうから。

『作戦開始を少しだけ待ってください。ヘリが戻ってきました』

 右手、西の空に識別灯のわずかな点滅が見えた。

「了解。給油と整備を済ませたら、本土へ向かう準備をして待機。提督の搬送についての判断は明石に任せるよ」

 とはいえ、南シナ海の敵が動き出しているという情報がある以上、あまり長い時間は待てない。

 自分たちだけでもやれることは、済ませておくべきだろう。

「春雨、五月雨。僕たちは先行して敵の砲台を叩くよ。あれを排除しなきゃ、あきさめの砲弾が届かない」

 了解の声が返ってくる。

 深海棲艦が設置したものであるならば、おそらくは砲台も障壁を持っているはずだ。

 重なり合うことで、防御壁としての機能も有することになったそれを排除しなければ、あきさめの砲弾はそこで弾かれ、島の施設に届くことはない。

「ここで穴を開けるのは二、三箇所でいい。無理に港湾施設に突入はしないで」

 それが終わる頃には、あきさめも射程内に入っているはずだ。

「両舷前進最大戦速。単横陣」

 次の手を考えながら、時雨は前に進む。


「見えました。港湾施設背後、崖の上に敵砲台――全部で四基です、はい」

 春雨が目標を指差す。

 周りを断崖に囲まれ、外部からの侵入を拒絶する島。

 周辺の海も急激に深くなる。

 普通の方法では、港を作ることなどできない。

 だから人間たちは島を切り崩し、港を作ろうとした。

 深海棲艦の出現で、その作業は途中で放棄され、未完のままだ。

 それでも、敵はその港でも充分に利用できる。

 もちろん、艦娘たちにも。

「砲台を破壊したら、二人はあきさめの砲撃を誘導して。そのあとは海岸沿いを東に、滑走路方面へ。同時に砲台の位置をあきさめに通報、安全な位置を保たせて」

「時雨姉さんは?」

 春雨が不安そうな面持ちで見つめる。

「僕は夜陰に紛れて上陸、滑走路に向かう。着弾観測しなきゃいけないからね」

「でも、島にはそんな高台がないから無理って――」

「僕は向いていないって言っただけで、できないとは言っていないよ」

 だから、着弾が見える位置まで近づけばいい。

「でも、敵がいるんですよ?」

 五月雨までもが不安げな顔つきだ。

 陸に上がってしまえば、艦娘など普通の人間と大差はない。

 艤装の能力はほぼなくなるし、障壁を展開できない以上、兵装も一切が使えないのと同じ。

 更にいえば、陸に上がった深海棲艦の能力も未知数だ。

 危険度は跳ね上がる。

 それでもやらなければならない。

「僕は元情報部だよ、五月雨。こういうのも仕事のうちだし、訓練も受けてる。いざとなれば海だって近い」

 嘘だ。

 艦娘を使い捨ての道具としてしか考えてこなかった連中が、そんな手ほどきをするはずがなかった。

 けれど、時雨はただの道具であることをやめた。

 生き残るためにはあらゆる手段を取るつもりだ。

 幸いなことに、わずかに高くなった島の周囲は茂みが多い。いざとなればそこに紛れて崖から跳ぶ。人には無理でも艦娘にならできる。下は海なのだから。

「ヘリは提督のために使いたいんだ。だから、こうするしかない。わかってくれるよね?」

 それで二人は沈黙する。

 肯定の言葉を口にしないのは、きっと二人にとってささやかな抵抗だから。

「さぁ、始めるよ」

 三人の主砲が一斉に火を噴き始める。

 《6》


『間も無く滑走路が射程に入ります』

 そんな無線が飛び込んでくる。

 だが、時雨は動けなかった。

 滑走路の周囲には、びっしりと対空砲が配置され、巧妙に隠蔽されていた。

 上空から見たところで、発見は困難だっただろう。

 瑞鶴の航空隊を責めるのは酷というものだ。

 けれど状況は明らかに悪い。

 洋上の艦娘たちには影響はないが、やはり障壁が邪魔になる。

 精密な砲撃はあきさめの方に分があるのだから。

「滑走路に近づけない。対空砲がびっしりだ」

『無理をしないで、こちらに戻ってください』

 春雨が急かすように言う。

 手がないわけではない。

「春雨、五月雨。僕の指示する座標に砲撃を。弾種榴弾」

 時間はかかるが、観測しながらピンポイントで警戒網に穴を開けていくしかない。

 全部を処分しなくても、あきさめの砲弾が通る道さえできれば充分だ。

「春雨。第一、座標二七二七、六一五八。第二、二七三四、六一六八」

「は、はい」

「五月雨。第一、座標二七〇八、六一九〇。第二、二七一五、六一六五」

「了解しました」

 若干の時間が開く。慣れない座標指定で少し手間取っているのだろう。

 それでも、あきさめがいる。優秀な砲雷科員が手助けしてくれるはずだ。

『春雨、発砲します。第一より順次五秒間隔、ともに試射、各二発』

 無線から砲声が響く。

 それを合図にカウントを開始。

 二十秒ほどで最初の砲弾が着弾。爆煙が巻き起こり、木々をなぎ倒す。

 砂や小石がバラバラと飛んでくるが、それをものともせずに修正値を送信。

「これで決めて。こちらの位置が悟られた」

 短距離ではなく、強力な長距離無線電波を使っている以上、それは避けられない。

 いくつかの機銃が時雨の潜む位置に向けて銃口を向けつつある。

 その場に慌てて身を伏せた。

 頭の上を数発の機銃弾が通過したところで、着弾の音と爆風。

 パタリと攻撃がやむ。

「敵対空砲四門および、機銃座沈黙。観測地点を移動する」

 だが、それは出来そうにない。

 他の銃座が一斉に時雨へ向けて発砲を開始する。

 隠れようにも遮蔽物はない。周囲はサトウキビ畑だった場所だ。

 茂みを伝い、時折倒れるように身をふせ、地を這う。再び立ち上がり駆ける。

 それを何度も繰り返しながら、島の周囲を縁取る小高い丘の茂みへ飛び込む。

「そのまま待機。別の観測地点を探すよ」

 そうは言ったものの、これでは丘を遮蔽物にするしかない。そうなれば茂みが邪魔だ。

『もう、戻ってきてください!』

『これ以上無茶してケガをしたら、提督に怒られちゃいますよ!』

 春雨と五月雨が交互に撤収を求めてくる。

 実際、そうするしかないかもしれない。

 幸い滑走路周辺は大半が畑だ。

 不発弾の撤去や復旧に時間はかかるかもしれないが。

「最後に一度だけ座標を確認して記録するよ」

『急いでくださいね』

 決心をした時雨は、滑走路の位置を確認するために丘の向こうへと静かに移動する。

 時雨の姿を見失った敵が銃口を旋回させ周囲を警戒しているのが目に入った。

 その位置を記録していく。

 何度でもこれを繰り返すことはできるし、その労を厭うつもりもない。

 だが、時間に余裕がなかった。

(ごめんね。できる限り被害は抑えるから)

 この島で暮らしていた人たちのことを思い、謝罪する。

 提督がヘリを使う精密な攻撃を企図していたのは、おそらく同じ理由だったはずだ。

 ちらりと、一軒の民家が目に入る。

 おそらく砲撃の被害は免れない位置になる。

 放棄され、数年が経った建物は蔦や雑草に覆われ、無残な姿になっていた。

 どんな人が住んでいたのか、どんな日常があったのか、時雨にはわかるわけがない。

 けれど、そこにはたくさんの想いが詰まっているはずだ。

(……そうだよ。わかるはずがないんだ。だからこそ守らなきゃいけないんじゃないか)

 決して自分の見える範囲にいることのない人には、謝ることすらできないのだから。

「ごめん。やっぱり続ける」

 もう一度丘を越え、安全な位置に戻った時雨はそう口を開く。

『ええっ!?』

 五月雨の悲鳴のような声が即座に返ってくる。

「この島には、僕らが守らなきゃいけないものがあるんだ。たとえ人が住んでいなくても――それを守るためには、できるだけ被害を抑えなきゃダメだ」

『でも――』

『それで君が犠牲になることを、あの男が認めると思うかね?』

 突然割り込んできた別の声。

 時雨には聞き覚えがある。

 だが、それはここにいるはずのない人間のものだ。

『遅くなってすまんな。護衛艦はづきはこれより戦闘に加入、弾着観測はこちらのヘリで行う。時雨はその場をすぐに離れ、砲撃に加わるように。火力は少しでも多い方がいい』

「でも、島には対空砲がある。だからヘリをすぐに出せるなら、提督を運んで」

『対空砲は問題ない。ヘリには暗視装置と遠距離観測システムがある。闇夜に紛れて観測が可能だ。が、あいつを運べというのはどういうことだ?』

「提督は負傷してる。危険な状態なんだ」

『声が聞こえないし、また陸で悪さをして、我々を引っ張り出したとばかり思ってたんだが――まぁいい。今日の積荷はコンテナ二本じゃない。ヘリが二機だ。US-2も手配する。安全な海域で引き渡せば、ヘリだけを使うよりも早い』

 その手があったかと、時雨は今更ながらに思った。

 確かに水上飛行艇を使って運べば、時間を倍以上短縮できる。

「提督の件はお願いするよ。でも、ヘリで観測するのはやっぱり危険だから――」

『この戦いはお前さんたちだけのものじゃない。我々の未来もかかった、我々の戦いでもあるんだよ。他の誰かに委ねて結果だけを待つのは、生きるのを放棄したのと同じだとは思わんかね』

 そう、それはただの怠惰だ。

 自分たちが置かれていた状況そのものだ。

 それを許せば、今度は艦娘が人の上に立つだけになってしまう。

 そんなことは誰も望んでいない。その先にあるのは同じことの繰り返しなのだから。

 もしかすると、もっとひどい状況になるかもしれない。

 皆が望んでいるのは、互いに認め合う対等な立場のはず。

(そうか。そういうことなんだね、提督)

 そこまで考えて時雨は気付く。

 提督のもう一つの意図。

(どちらか一方だけの力でこの戦いを終わらせてしまえば、同じことの繰り返しになるんだ)

 だからこそ、提督はヘリを使うことにこだわっていた。

 もちろん民間施設への被害軽減も理由の一つではあっただろうが。

 だからこそ、あきさめ艦長ではなく時雨に指揮を託した。

 人の手だけで作戦を計画、遂行したと思われないために。

「わかった。ただし、絶対に無茶はしないでと言い聞かせて」

『了解した。違反したらどうするね?』

「そうだね……上陸禁止二週間にしておこうか」

『だそうだ。どうするね、搭乗員諸君』

『でしたら、嗜好品と娯楽品の用意を忘れないように願います』

 ――まったく。

 無茶をするのは人も艦娘も変わらないらしい。

 やはり、同じような存在なのだ。

 時雨の顔に浮かんだのは苦笑い。

「……甲板の清掃をした後に、そんな余裕があるのかな」

『もちろん!』

 やれやれだ。

 それ以上何かを言うのは諦め、時雨は海へ向かう。

          ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


『時雨、第二目標弾着修正。左二、下げ一』

「了解」

 正確な情報が次々とはづきの艦載ヘリから飛んでくる。

 島の防空圏から六〇〇〇メートルは離れているにもかかわらずだ。

「修正射発砲。二発、着弾まで十五秒」

『了解。続いて春雨。修正値――』

 それだけ離れていることはわかっていても、どこにいるのかは時雨にすらわからない。

 おそらく敵も完全にその位置を把握することはできないだろう。

 いくら無線電波を辿っても、ヘリは常に位置を変えている。

 撃ったところで当たるはずもない。

 ならばできるだけ発砲を控えて、嵐が過ぎるのを待つだけ。

『時雨、命中。敵砲座排除。次の目標――』

 だが、暗視装置を備えたヘリの目から逃れることはできない。

 巧妙に隠蔽されているはずの位置が次々と露見し、砲弾の雨が降る。

 すでに三十近い対空砲が沈黙している。

 艦娘だけであれば、ここまで簡単にことが運ぶことはなかっただろう。

 はづきの参戦は一気に戦況を変えた。

「そろそろ滑走路上の障壁がなくなるはず。あきさめとはづきにも攻撃位置伝達を」

『了解!』

 そのはづきをここへ向かわせるように命令を下したのは、海幕長たる海将だと言う。

 それだけではない。

 横須賀基地で待機していた、白雪と磯波を乗せる指示まで出したのだと言う。

 提督とはづきの接触という事実にたどり着いたのか、それとも心変わりをしただけなのか。

 なんにせよ、そのおかげでこうして有利に戦いを進められている。

 そして、もうすぐ終わる。

「敵の物資集積地を見つけて。滑走路からそんなに離れていないはず」

 それさえ叩いてしまえば、この海域を取り戻すことができる。

 だが。

『了解――おい! あの近づいてくるのはなんだ!?』

『敵機です! 回避! 回避!』

 どこからか現れた敵機がヘリに迫っているらしい。

 無線越しでわかるのはそれだけだ。

「位置と方位、距離を! 近づけちゃダメだ!」

 速度差はそれほどないとはいえ、武装には天と地ほどの差がある。

 敵機の機関砲弾を喰らえば、ヘリは一瞬でバラバラだ。

『西からだ! 方位二四〇、距離は――くそっ! ドアガン、ぶっ放せ!』

 ヘリに搭載されているのは小口径の機関銃だ。少なくとも、こういったケースに使われるものとしては非力だし、射程も短い。

 その発砲を要求したのだから、距離は相当に近い。

 そのままでは、おそらくはづきやあきさめの射撃に巻き込まれてしまう。

 発砲炎が遠くの空に瞬き、ようやくヘリの位置が見えた。

「位置確認! そのまま一気に一〇〇まで降りて左旋回!」

 時雨の力では敵機を撃ち落とすことは難しい。

 だとしても、やれることはある。

『了解!』

 曳光弾の尾を引きながら、ヘリが高度を下げた。

「主砲斉射!」

 それでできたわずかな隙間に、時雨の主砲から放たれた砲弾が割り込んで炸裂。ヘリを追おうとしていた敵機が、それを見て反射的に上昇した。

 護衛艦はきっと意図を理解してくれる。

『よくやった! これなら狙える!』

 護衛艦が続けざまに発砲する。

 飛び込んで炸裂した砲弾が破片となり、敵機を襲う。

 瞬く間に火を吹きながら海面へ落ちていく。

 直後にはづきから数発のミサイルが打ち上げられ、西の空へと飛んでいく。

『助かったよ。あとでビールでもおご……っていい歳なのか?』

「さあ、どうだろうね――さっきのは、どこから飛んできたんだい?」

『まず間違いなく島の滑走路だ。離陸準備しているのがちらほら見える。地上目標を探している間に飛ばれたらしいな……もう少し暗視装置の視界が広ければいいんだが』

 ミサイルの通過を確認して、直ぐに高度を上げたヘリから情報が入ってくる。

 どうやら敵は航空機を温存していたようだ。他に何か狙いがあったのかもしれない。

『ま、通用するのは一度きりだ――砲撃指示。滑走路の座標を送る』

 もう相手に切れる手札などない。

 あったところで噛み砕いてやればいいだけだ。

「了解。敵の備蓄資材の位置も忘れないで」

 人と艦娘が手を携えて、それぞれに持てる力を発揮しているのだ。

『あった! あれだ、間違いない!』

 一切の邪魔を受けることなく。

 自分たちの意思で。

 それを打ち砕けるものならやってみろ。

「全艦、弾種榴弾! この海域を僕たちの手に取り戻すよ!」

 時雨の元に了解の声が一斉に返ってきた。

 《終  あるいは新たな始まり》


 街が炎に包まれていた。

 毎日通った学校も、よくお世話になった病院も、度々買い物に出かけた商店街も。

 慣れ親しんだ風景のすべてが紅蓮の炎に包まれていた。

 男はひたすらに街路を自分の足で走った。

 倒れた電信柱や、家の瓦礫がいたるところで道を狭め、もしくは塞いでいる。

 車など役に立つはずもない。

 通りがかりにある友人たちの家も燃え、いくつかはすでに崩れ落ちているのが目に入る。

 それでも、ひたすらに男は走った。

 自分の家を目指して。

 背負った荷物が重い。

 車に置いてくるべきだったかもしれないと思う。

 けれど、それは男にとって大事な商売道具だ。

 今ではなく、これからという意味で。だから余計に、たとえわずかな間でも手放すことなど考えられなかった。

 大きな通りを右に曲がり小道に入る。火の勢いはまだ弱い。

 時間の問題ではあるけれど。

 次の角を左。二本進んで右、そしてすぐに左。

 子供の頃から使っている道だ。どう進めばいいかなど考えるまでもない。

 最後の角を曲がると、また大きな通り。

 その向こうに店舗を兼ねた住宅があった。

 屋根と外壁の一部がくずれていたし、看板も半分ほどが吹き飛び『写真館』の文字しか残っていない。

 それでも、そこが男の実家であることは間違いない。

 十八年を過ごした家だから。

 家の中から男女の声がする。

 ――オヤジとオフクロだ。

 店舗の前には見慣れた小型のシルバーのバンが止まっている。

 車を見て、声の主が家族であることを確信した男が一歩を踏み出す。

 と。

 空気を引き裂く悲鳴のような音が、立て続けに空から降ってくる。

 ハッとして少しだけ上げた視界の隅に、いくつかの黒い影が一瞬だけ映る。

 次の瞬間。

 男の目の前で白い光と強烈な衝撃が巻き起こる。

 わずかに遅れて轟音。

 二十代前半の男の体が軽々と持ち上げられ、一呼吸の時間も経たずに、数メートル離れたブロック塀へと叩きつけられる。

 まるで肺が押しつぶされたような痛みと、息を吸うことができない恐怖。そして暗く霞む視界。

 無理にでも息を吸おうとしたところで、逆に何かがこみ上げ、口から溢れる。

 それが血であろうということは、なんとなく自覚できた。

 ぐらりと視界が歪む。

 粉塵と煙がうっすらと覆い隠す向こう側で、何かがゆらりと動いた。

 よろめきながら、半壊した店舗入り口から現れたのは父親だ。

 遠目でも、うっすらでもわかる。それが親子だ。

 ぐったりとしてその肩に寄りかかっているのは母親。足元はおぼつかないが、動いている。

 ――二人とも生きている。

 安堵とともに落ち掛けた意識の淵に、ジェット機のような轟音が届く。

 重くなった頭を音の方にゆっくりと向ける。

 昆虫のような姿をした何かが、大通りに向かってまっすぐ降りてくるのが見えた。

 その先端に突き出した何かが、何度か、まるでストロボのように瞬く。

 そして。

 視界の端にいた両親が、シャボン玉のように弾け――。


 消えた。


 赤い霧だけを残して……。

 落ちていく意識の中で叫ぶ。

 けれど、それが声になることはない。

 代わりにどこか遠くから、声が聞こえる。

「――く! ――とく!」

 どこかで聞いたことのある、けれど記憶の彼方ではなく、もっと近い過去に聞いて知った声だ。

 だから、それが自分を呼んでいる声だということは、はっきりと聞き取ることができなくても理解できた。


 目を覚ました提督の目に飛び込んできたのは、今にも泣き出しそうな顔をした時雨だ。

「……どうした時雨?」

 掠れた声。

 それが自分の声だと理解するのに、しばしの時間が必要だった。

「おはよう。随分とお寝坊さんだね」

 右手の窓から差し込む光が、随分と高い位置から注がれてい流。

「喉が渇いた」

 そうぽつりと漏らし、視線を真正面に向ける。

 真っ白な、見慣れない天井。

 色気も洒落っ気もない、いかにもな蛍光灯がいくつも見える。

 エアコンの送風口からは、心地の良い冷風が吐き出されていた。

「僕らを散々心配させておいて、最初の発言がそれかい?」

 時雨の震える声。

 怒らせたのか、悲しませたのか。

 多分、両方だ。

 いや。もっと多くの、様々な感情を無理やり押しとどめているのだろう。

「すまない。頭がまだはっきりしてない……水をくれないか」

「もう……はい、どうぞ」

 そう言って時雨が手にしたのは吸い飲み――自力で動けない入院患者などに使うアレだ。

 なにを馬鹿な真似を。からかうにもほどがある。

 と、体を起こそうとする。

「――っ痛ぅ!」

 左の脇腹に走る激痛。

「まだ動いちゃダメ。完全に傷が塞がっているわけじゃないよ。入浴剤の効果があったのかわからないって明石も言ってた」

 それですべてを思い出す。

 あきさめ艦橋へ突っ込んでくる敵機の破片。

 それから時雨をかばい――

「戦闘はどうなった?」

「終わったよ。三週間も前の話」

 時雨の手を借りて、喉を潤す。

 ただの水のはずなのに喉がヒリヒリするのは、あれから三週間も経っているという事実の裏付けだろう。

「勝敗は?」

 聞くまでもない、馬鹿げた問い。

 自分がここで三週間も寝ていられたのだ。

 それに、時雨がそばで不満げな表情を見せて、座っていられるのだから。

「それを聞く前に、言うことがあるんじゃないのかな?」

 プイと時雨がそっぽを向く。

 望んでいる言葉を聞くまでは、一切の交渉に応じるつもりはないようだ。

「心配かけたな。すまない」

「――君は馬鹿だよ。本当に馬鹿だ……僕は艦娘だよ? 人と違って、怪我をしてもすぐに治せる。君が身体を張ってまで守る必要はないんだ」

「知ってるよ。それでも体ってのは無意識に動いちまうもんだ。頭と体は別物って言うだろ」

「……そうだね」

 わずかな間があって、時雨が小さく呟く。

 ポロリと瞳から大きな雫がこぼれるのが見えた。

 何か、間違ったことを言ってしまっただろうか。

「でもね、それは答えとしては間違ってる……頭で理解できていない事のために、体が動くなんて都合のいいことはないんだよ。訓練がいい例――無意識に動くまで身体を使って頭に叩き込む」

 言われて気づく。

 その通りだ。

 いくら頭の中で艦娘がそう言う存在だと知っていても、体は動いたのだから。

「だからね提督。僕は嬉しかった……提督は僕のことを本当に対等の存在として見てくれているんだってわかったから」

 どれだけ上辺で理解していても、深く根付いた部分は違う。

 だから訓練で刻み込まれた行動のように、体は無意識にそれに従って動いただけだ。

「ありがとう、提督」

 振り向いた時雨が微笑んでいた。

 目尻に大粒の涙を浮かべながら。

 どこか懐かしく、もう一度見たいと思っていたもの。

 そんな不思議な感覚にとらわれる。ありえない事のはずなのに、だ。

「礼を言われるような事じゃないさ」

「そうだね。だから次同じことをした時には怒ることにするよ――ちなみに金剛と足柄は、もう怒ってるから覚悟しておいた方がいいよ?」

「……もう一度、意識不明になっていいか?」

 今の状態であの二人に詰め寄られたら、傷が悪化するのは間違いない。下手をすれば命にだって関わってくる。

「うーん、気持ちはわかるんだけどね。そうも言ってられないと思うよ」

「そりゃまた、なぜ? 勝ったんだろう?」

「うん。勝ったからこそ、かな――」

 時雨が経緯を説明してくれた。


 まず戦況。

 大東島の敵はほとんど組織だった抵抗を見せることもなく壊滅。

 それと前後して、南シナ海で活発化していた動きも沈静化。現在、佐世保の艦娘たちの護衛の下に輸送船団が物資を輸送中だが、敵の攻撃をことごとく跳ね返しながら、来週には戻ってくる。

 島は現在、佐世保の艦娘と陸自部隊が協力して、残存する敵勢力の掃討に当たっている。作戦が完了次第、そのまま共同で警戒を強化する方向で決まっている。

 島に住民が帰れる日はまだ遠いかもしれないが、一歩近づいたのは確かだ。

 そして、その佐世保。

 司令官は判断の遅さを問われ、作戦中に解任。

 さらに金剛に対する一件や、情報の意図的な改ざんも発覚し、かなり危うい立場に追い込まれているらしい。

 後任人事が決まらぬままの佐世保は赤城が取りまとめている。

 今のところは何の問題もなく、平穏とのこと。

 代わりに、大揺れに揺れたのは政府だ。

 艦娘に関する噂が報道で取り上げられたことにより、国民の不満が一気に爆発。

 内閣総辞職で事態の打開を図るも、それで収まるわけもなく、結局は解散総選挙。

 総理をはじめとしたいくつかのポストで、当分打ち破られることはないであろう最短在任期間の記録を打ち立てただけだ。

 選挙を前に、政府の重要ポストを占めていた大物議員が何人も政界引退を表明したのは、裏で政府内の一部と海将が一枚噛んだせいらしい。

 横須賀第二司令が得た影響力を無効化するには、彼に弱みを握られた者が身を引くしかない。そう言って脅して回ったそうだ。

 その海将も事態が落ち着くのを待ってから、責任を取る形で海幕長を辞めることが決まっているという。

 おそらくそのまま退官することになるだろう。

 一部が暴走し、輸送船団を危機に晒した情報部は、艦娘の存在が認知されたことでその存在意義を失った。今後は情報本部に吸収される形になる。

 今は混乱の原因を作った関係者の洗い出しに躍起だというが、その処分が表立ったものになることはない。

 作戦中に由良が発見した護衛艦については調査中だ。

 この護衛艦は敵にあきさめと誤認され、攻撃を受けたものと思われるが、自衛隊には当該海域へ護衛艦を派遣したという記録は残っていない。

 ただしその前日深夜、人目を避けるように佐世保から出航したむらさめ型と思しき護衛艦の目撃情報がある。

 敵駆逐艦が中破していた理由も不明だが、艦娘がその海域にいたという記録もなかった。

 護衛艦であってもそれを成すことは不可能ではないが、敵艦載機群との戦闘をしながらそれが可能かという点で疑問が残る。

 この件に関しては、留意しておいたほうがいいだろう。


「ざっと、こんな状況だね」

「状況はわかったが、これなら俺がいなくても問題ないだろう?」

 すべては自分が関わらずとも動いているのだ。

 これでようやく――

「大有りだよ。まず横須賀の艦娘たちだけど、今日も沖に出てる」

「……音響ブイとか言わないでくれよ?」

「通常の哨戒任務だよ。ただ、この天気だからね。明石が日焼け止めの入手を急かされて悲鳴をあげてる。早いとこ手を打たないと倒れるね、あれは」

 まるで他人事のように時雨が言う。

「いや、その辺は秘書艦のお前が――」

「僕、買い物の仕方とか、そういうのが売ってるお店とか知らないよ」

「元とは言え情報部だろ……知らないわけがない」

「ふふ。さあ、どうだろうね。どっちにしろ僕たちは今、街に出られないんだ。有名になったからね」

 それは一理ある。

 報道は一気に加熱しているはずだ。下手に基地の外へ出れば大混乱が起きる可能性は否めない。

「上の方に要求物資のリストとして出しておけ。自衛官にも女性はいるし、彼女たちに選ばせるようにって一筆添えてな。次の搬入の時に持ってきてくれるはずだ」

「なるほど――それから瑞鶴がね、食べたいものリスト作ってる」

 そういえばそんなことも言った。

「昨日、ちらっと見たけど、A4サイズの紙に小さな文字でびっしり書いてあったから、覚悟はしておいたほうがいいと思う。提督のお給金がどのくらいか知らないけど、財政難はしばらく続くんじゃないかな」

「加減とか遠慮ってものを知らないのか、あいつは……」

「鳳翔隊の受け入れなんかでも負担をかけたからね。それに、制限をつけなかったのは提督の落ち度だよ」

 言われてみれば確かにそうだ。

 だが、どのみち金の使い道などなかったし、口座にどれだけあるのか調べてもいない。海の上にいるほうが多かったのだから仕方がないのだが。

 取りあえずなんとかなるだろう。

「ちなみに、資源供給の関係で今すぐには用意できないものもあるだろうね」

 そうだとしても、それは今の立場でなくてもできることだ。

 艦娘の存在が認められ、いずれ外部と接触することも認められるようになるはずだから。

「それも、今の俺じゃなくてもいいことだろ?」

「うん。そう言うと思ってた――だから、本題はここからなんだ」

 時雨の顔が真面目なものに変わる。

「――この国に海軍が復活するんだ。もちろん艦娘を主力とした組織だし、深海棲艦の脅威が排除されるまでという条件付きでだけどね。もう動き出してるんだ。いずれ横須賀や佐世保をはじめとした、各地の第二基地は『鎮守府』に呼称が変わることになるだろうね」

 諸外国に配慮した。そういうことだろう。

 この国が表立って『軍』と言う組織を抱えることは、大きな国際問題になる可能性が高い。

 たとえこんな状況下でもだ。

 国家と言う存在が、政治的な駆け引きの上に成り立っている以上、避けられないことだ。

 だから、波風は極力小さいほうがいい。

 資源は海路だけで供給されているわけではない。

 港へ至る陸路にも、敵は少ないほうが都合がいい。

「俺はそこで現場指揮官その一ってところか? 年齢的にはそれでも身にあまる地位だろうけど」

「何を言ってるんだい。すでに君は横須賀鎮守府の司令長官に内定しているよ。受諾すれば少将へ昇進、名実ともに提督になる」

 即刻辞退だ。

 もう充分に筋道はつけた。

 ここから先は強い意志で前に進める者に任せるべきだ。その資格がある者に。

 必要とされるのは、食うに困って仕方なくこの道を選んだ人間などではない。

 わずかばかりの復讐心で戦い続けるうちに、それが叶わぬことだと知り、燃え尽きた者でもない。

「君がどんな気持ちで戦ってきたのか、少しはわかるつもりだよ。今、何を考えているかもね。はづきの艦長が教えてくれたから」

「あの、おしゃべり艦長め――なら、もういいだろ?」

 時雨は少しだけ困った顔をした。

 わずかな時間を使って何かを考えた後、思い切ったように口を開く。

「いきなり自由を与えられても、僕らは何をすればいいのかなんてまだわからない――僕らにはこの先の道を教えてくれないのかい? この国の人たちに示したみたいに」

「それは――」

「自分で選び取るものだっていうのはよくわかってる。でも、僕らにはその選択肢を見つける方法がまだわからない。せめてそれがどこにあるのか、教えてくれないかな」

 ここで放り出すのは確かに無責任だ。

 それはわかる。

 けれど、果たしてその資格が自分にあるのか。

 この先、いくつもの道を艦娘たちの前に指し示したとして、その中に彼女たちが正しいと認めることができるものがあるのか。

 おそらく愚行と錯誤の繰り返し。

 その度に後悔し、再びそれを繰り返すのだから。

 そして、多くの血が流れる。

 自分以外の血が。

 罪を贖うために罪を背負う。それはこの世で最も過酷で馬鹿げた道のりのはずだ。

「馬鹿はどっちだよ、まったく」

「それを言ったら、みんな馬鹿さ。この世界自体が欠陥品なんだから。僕はそう思うよ」

「そのぶっ壊れた世界に守る価値があると思うのか?」

 互いに理想をぶつけ合い、時には血を流す。そうすることでしか前に進めない世界がまともであるわけがない。そしてそれは、この先も変わることはないだろうから。

「欠陥だらけだからこそ、なおさら。この先どうなるか楽しみなんだ。それに僕たちがこの世界のために何かができる可能性もある」

 発展途上だからこそ、先に広がる結末も数多く残っている。

 そこへ至る道も同じ数だけある。ほとんど無限と言っていいくらいに。

 だから終わりなどないのかもしれない。

 それでもやらなければならないのだろう。

「……お前ら全員が、自分で納得できる道を決めるまで。俺の出番はそこまでだ。それでいいか?」

「それ以上は求めないよ。選ぶのは僕らだからね」

 より良き失敗を選び取るための道。

 無数の愚行と錯誤の彼方にそれがあるのならば、後に続く者たちが迷わぬように、自分は罪を悔い、そのために新たな罪を背負う。

 何度でも。

 欠陥だけを組み合わせて作ったようなこの世界に彼女たちが船出をするならば、自分が灯台になるしかない。

 彼女たちの舫を切ったのは自分だから。

 それが司令官としての仕事。

 人としての責任だ。

「ところで提督」

「なんだ?」

「僕の太もも。どうして触ってるのかな?」

 それは、おそらく無意識だ。

 だから慌てて手を引っ込める。

 だが、遅い。

 時雨にがっちりと掴まれてしまう。

「いや、つい、いつもの癖で……」

 口にしてから思う。

 これは、言い訳としては最悪の部類だ。

 なぜなら――

「頭で理解していないことのために、体が動くなんて都合のいいことはない。僕はさっきそう言ったよね?」

「お、おい? 一応言うが、俺はけが人だぞ?」

 そう言って、ちらりと時雨の表情を確認する。

 顔は笑っているが、目は笑っていなかった。

「それとも、僕に興味があるの?」

「いや、興味というか、今あるのは脅威かな……とか?」

 起死回生のつもりで放った冗談も通じる様子はない。

 すうっと、時雨の青い瞳が深みを増す。

 まるで深い海を思わせる色。

 出港直後に答えを間違えた。

 北へ行くつもりが、南へ向かったくらいのレベルで。

「あの……時雨さん?」

「……君には失望したよ」

 言葉とともに、すっと時雨の手が伸び――


 頬を思い切りつままれた提督の悲鳴が、しばらく病院内に響いていた。






 艦!(?)

※長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
 また、完結まで時間がかかってしまったこと、大変申し訳なく思います。

 風呂敷畳みにきたつもりが、また別なのを広げてしまった気がします……。
 これもまたごめんなさい、です。


 重ねて、読んでいただいたことに感謝いたします。

 それでは、HTML化の依頼出してきます。

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