新田美波「わたしの弟が、亜人……?」 (650)

『アイドルマスターシンデレラガールズ』と『亜人』のクロスオーバーSSです。地の文あり。
『シンデレラガールズ』の世界観はアニメ版を準拠、時間軸は最終回以降。クロスオーバーに際して
・新田美波が永井圭、慧理子の姉(正確には異母姉)に。その影響で、新田家と永井家の家庭環境の諸々を変更。
・『シンデレラガールズ』側の登場人物の一名が亜人
の二点の設定変更があります。


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1.あの外国の人はいないんだ



「おまえはのべつ死を口にしていて、しかし死なない」--フランツ・カフカ [創作ノート]



その生物は死なない……

その生物は亜人と呼ばれている

その生物はーー


--七月二十二日・埼玉県・永井家

永井圭が玄関の扉を開けると、玄関に母親のものではない女性ものの靴が一足、ていねいに並べられ、つま先を圭の方に向けていた。

圭はその靴を見た。見て、靴があること以上のことは思わず、自分もスニーカーを脱いで、靴箱にいれた。

真夏の日差しは、夕方近くになっても弱まらず、白い光線から放射された熱が、学校から帰ってくるあいだに圭の身体からすっかり水分をぬきとってしまっていた。太陽が西に傾き、輝く線の角度が水平に近づいていっても、紅色とオレンジ色が入り混じった、夕暮時にふさわしい色彩に空は染まらず、住宅街の無機質な並びに熱を浴びせつづけていた。蜃気楼が生まれそうなくらい暑い。なのに、住宅街の輪郭はあいかわらず固まったままだった。圭は喉を渇きを我慢しつつ、リビングを抜け、キッチンにむかった。

リビングのソファには、やはり姉が腰掛けていた。姉といっても、血のつながりは半分だけだったが、今更そんなことを気にするでもなく、圭は姉の後ろを通り過ぎた。姉はキッチンへ向かう弟を追って首を回し、その背中に向けて声をかけた。


美波「おかえり、圭」

永井「姉さん、今日は早かったんだ」


圭は手に持ったガラスのコップに水が満たされるのを見つめながら、美波にこたえた。浄水器から出てくる水をコップの四分の三程まで注ぎ、口をつける。美波は圭がコップの水を飲み干すまで待ってから返事をした。


美波「今日はオフだから。夕飯もこっちで食べてくつもり」

永井「母さんは買い物?」

美波「うん。もうすぐ帰ってくるんじゃないかな」

永井「そう」


圭は飲み終えたコップを流しに置くと、ふたたび姉の後ろを通り過ぎ、二階にある自分の部屋に向かおうとした。圭がリビングのドアを開け、廊下を通り、階段の一段目に足をかけようとしたとき、おなじようにドアを抜けた美波が、追いかけるようにして圭に声をかけた。


美波「あ、待って、圭」

永井「なに?」

美波「これ……今度発売されるCDのサンプルなんだけど」


美波は一枚のCDを差し出した。白い隊服に身を包んだ美波を先頭にして、同様の隊服を着たほかのアイドルたちと並んで、それぞれどこか別の方向を指差している。彼女たちの背後には光が差し込む巨大な扉があって、そこからは光とともに吹き込んでくる風があり、その風が美波たちの髪や服を翻している。そのような光景がCDのジャケットに印刷されていた。


美波「慧理ちゃんにはもう渡したの。圭にも聴いてほしくって」

永井「あの外国の人はいないんだ」

美波「これはラブライカとは別のユニットだから」

永井「ふうん」


圭の興味はCDを裏返したあたりで尽きた。


永井「あとで聴いておくよ」


それだけ言うと、圭は二階へ上っていって消えてしまった。弟との会話は、これが平均的な長さだった。ここ一年でかわされた会話では、これより長い会話も、短い会話も、美波の記憶にはほとんどなかった。弟の背中を見送りながら、美波は取り残されたような気持ちになった。


約二〇年前、美波が生まれてまもない頃、彼女を産んだ母親は病院内でなんらかの感染症に罹り死亡した。なぜそんなことになったのか、いま現在になっても美波は詳しい事情を知らない。母親が自分を抱きしめたのかどうかすら、美波が知ることはなかった。

分かっているのは、それが父の勤めていた病院での出来ごとだということだけだった。父は失意のどん底に落ちた。そこから這い上がることもできず、生後間もない美波をつれ、生まれ故郷である広島から離れた。友人の紹介で次の勤め先である病院はすぐに見つかった。その病院は東京にあり、職員用の託児所もあった。だが、託児所といっても、そこは多忙を極める外科医にとって、いつまでも幼い娘を預けられる場所ではなかった。どうしても深夜まで働かなければならないときは、子育ての経験がある友人の家庭に美波を預けることもあった。それは、父と娘双方に大きなストレスをもたらした。

しかし、その問題はやがて解決することになる。美波が生まれてから二年が過ぎようとしていた頃、暦上では秋に入ったが、気温や湿度も、公園や街路に植えられた樹の葉っぱも、その緑色をした葉に当たる太陽の光も、その葉が歩道に落とす影の濃さも、まだ夏の風情を残しているときのことだ。秋雨前線の到来もまだ先で、快晴の日々が続いていた。 父親と同じ病院のER勤務の女性医師が、すべての事情を知り、またそれをすべて受け入れて、美波の父親と結婚することを決意した。そして、またたくまに休職を決めてしまうと、家庭で美波を育て上げることまで決断してしまった。同僚たちは、この彼女の突然の思い切った決断に、当然驚きを隠せなかった。合理性に固まった性格で、内部の感傷性をまったく吐露しない彼女が、いったいどのような理由でこの新しい同僚とその幼い娘に同情し、人生を共有することを決めたのか? 結局のところ、それは本人と美波の父親しか知らない事実となった。


かれら夫婦が離婚したのは、美波に弟ができて九年が経ったときのことだった。臓器売買。ある患者の生命を救うために、違法な手段で切り取られた臓器を購入すること。

裁判では父親に執行猶予付きの有罪判決がくだされた。腎臓の購入をブローカーに持ちかけられ、それを承諾したものの、実際の売買が未遂であったこと、医師としてドナーの発見に奔走し、すべての取りうる手段や可能性に当たっていたこと、患者の状態を鑑みるに移植を早期に行わなければ重篤な状態におちいり、生命の危機に瀕するだろうことが病院から提供されたデータから明らかであったことなどから、医師としての職務を遂行しようとする思いが強過ぎたあまりの犯行であることは明白だと弁護士は強弁した。

執行猶予の判断材料には、過去、美波の母親が彼の勤める病院で亡くなったという事実も考慮に加えられていた。その出来事によって、彼がこうむった打撃が、法の枠組みを越えてさえ患者の生命を救うという思いを生んだのだと、弁護士は裁判長に向かって訴えたそうだ。

過去の精神的打撃のことを裁判長から尋ねられたときーーと、美波は想像したことがあるーー父はきっと何の罪で裁かれているのかよくわからなくなっていのたでないだろうか? もしかしたら、妻を亡くしてしまったことが罪に問われているのだろうか、と不安に苛まれた瞬間もあったはずだ。いまにして思えば、父が医師の仕事に打ち込んでいたのは、わかりやすいくらいの代償行動だった。妻を喪った悲しみが、いつしか罪悪感に変質し、その感情をモチベーションにして救えなかった人の代わりに患者を救おうとする。そのような深層にひそむ動機を暴かれてしまったことは、父にとって罰を受けることよりつらいことだったのかもしれない。


結局、父親は職も家庭も失い、広島に戻ることになった。そして、誰にとっても予想外なことだったのだが、美波も父親といっしょに生まれ故郷に戻った。母親はもちろん、美波を引き取るつもりだったし、父親の方もそのことに異論はなかっただろう。

そのような事態の推移に対して、強くはっきりと反抗したのが美波だった。そのとき美波はまだ十一歳だったが、今振り返ってみても、あれほど強硬な態度をとったことはなかったし、おそらくこれからもないだろう。あれは、人生で一度きりの決定的な意思表示の瞬間だった。美波の父親は本来なら、妻が死んだ時点で残りの人生を健全に過ごすことはできないくらい心に打撃を受けていた。そうならなかったのは、ひとえに産まれたばかりの娘の存在があったからだ。だから、今回もわたしがいっしょにいてやらねばならないのだ。


美波「わたしはパパといっしょに暮らす」


そう宣言した美波を、義理の母親である律はただ黙って目を細めてじっと見つめていた。しばらく沈黙が続き、律がやっと口を開いたとき、美波が耳にしたのは、彼女の考えがいかに幼稚で情動的なものかを合理立てて批判する義母の説明だった。それは説得ではなく、否定だった。もちろん、反対はされるとは思っていた。自分はただの子供でしかないし、親の庇護下になければ生活などしていけない。そして執行猶予が付いたとはいえ、罪を犯した父親よりも義母の方が子供の育てるのにふさわしいのは明らかだった。当時の美波からしてもその事実は否定しようがない。




美波「ほんとうのお母さんじゃないくせに」


美波の口から突然そんな言葉が飛び出した。人を傷つける言葉を口にしたのはそれがはじめてだった。義母がどんな顔をしているのか眼に映るまえに、美波は椅子を倒し、父親が制止するのも無視して二階にある自分の部屋へ逃げ込んでいた。心臓が逸っていたのは、階段を駆け上がったせいばかりではなかった。

あんなことを言うつもりはなかった。美波は誰に言うでもなく、心のなかで自分に向かって言い訳をした。

義母の律は、世間一般的にみれば優しい母親ではなかったが、愛情がないわけでなかった。合理的で厳しくはあったが、それは、母親として、という形容が前につく類いのものだった。だから、ちゃんと説明さえすれば娘である自分の気持ちもわかってくれるはず、と美波は思ったのだ。夫婦のことはわからないけれど、家族のことは十一歳の子供なりにわかっているつもりだった。だが、うまくいかなかった。子供の論理と大人の論理は、それぞれ別の機能で働いていて、そしてよくあることだが、違いがあることを忘れたまま互いに論理をすり合わせようとする。そういうとき、たいていの場合は互いに相手を思いやっていたりする。だがその結果生まれるのは、相互不信だけだ。

美波は床に座って、ベッドの端に頭を沈み込ませていた。左腕をベッドに置き、その上に右腕を交差させる。瞼を閉じた両目を上になったほうの腕で押さえ込む。左右の手はそれぞれ反対側の肘をつかんでいて、かなり力を込めていたのでつかんだところが白っぽくなっていた。


これでなにもかも終わった、と美波は思った。人生は続いていくけれど、それはこれまでの十一年間と連続したものではない。凧は糸が途切れ、地面に落ちてしまった。糸の短くなった凧をもう一度空にあげるには、よほど良い風が吹くのを待つか、自分から糸を結びなおさなければならない。前者を選べば、待っているあいだの時間を周囲の人びとをよそに、ひとりで膝を抱えて耐えなければならない。後者の場合は、凧をふたたび風に乗せても、糸が途切れたという事実はずっと残る。

ベッドの上には窓があった。その窓は閉められていたが、そこから通りを行く子供たちの声が聞こえてきた。近くの公園で遊んでいた子供たちが、それぞれの家に帰っていく時間だった。太陽は西に傾きはじめ、だんだんと水平に近づいていく陽光の線が、これから空の下の方を赤色に染め上げていく。空の上の方はといえば、対照的に濃い藍色から闇に染まっていくだろう。

圭と慧理子も、家の近くの公園にいるはずだった。ふたりはそこで話し合いが終わるのを待っている。両親と姉のあいだに漂う不穏な空気を察して、圭は落ち着かない様子で不安がる慧理子を外に連れ出したのだった。もしかしたら、圭の友達である海斗もそこにいるのかもしれなかった。



律「美波」


ドアの向こうから、義母の声が聞こえてきた。


律「ドアを開ける必要はないわ。そのまま聞いてちょうだい」


美波は顔だけ上げ、義母の言うとおりにした。


律「あなたはお父さんに似てるわね。極めて情動的」


その言葉の意図が美波にはよくわからなかった。普段なら言われてうれしいはずの言葉だが、いまのこの家の雰囲気のなかでは皮肉の調子がまとわりついていてもしかたのない言葉だった。


律「瞳の色や髪質といった形質的な面でもそうね。あなたのお母さんの写真を見たことがあるけれど、ほんとあなたにそっくり。それはつまり、わたしは生物学的な意味で、あなたの母親ではないということの証明なのだけれど」


先ほどの発言を根拠づけるかのような言葉に、美波は被告人のような気分になった。事実に基づいた証拠を提示され、行為の責任を取らされようとしている。美波の否定を律はいままさに肯定しようとしていた。美波にはそう思えた。


律「でもそれは、生物学的に、という限定的ないち条件にすぎないわ。あなたのお父さんとの結婚を決めたとき、わたしは同時にあなたの母親になることも決めたのだけど、それは決して結婚による副次的な決定ではなかった。言ってる意味がわかる?」


事件に対して誤った見方をする警部にその間違いを逐一指摘する探偵のように、律は美波に自分が持つ前提を理解させようとした。


律「わたしは倫理的にあなたの母親であろうとし、そして今では本能的にもそうだと断言できる。あなたがどう思っていようがね」


律と美波は、しばらく互いに沈黙していた。ふたたびドア越しの声が聞こえたとき、あたりは薄暗くなっていた。夕暮れと夜とのあいだの時間。宵よりはちょっと明るい。光の状態は、標高の高い山の空気がそうであるように薄くなっていた。山の高いところのように家のなかが静まりかえっていた。律の声はさっきより低い位置から聞こえてきた。律は廊下に座って、美波と同じ目線から話を続けようとしていることがわかった。


律「美波、お父さんが刑務所に入らなかったからといって、それは罪を犯さなかったからというわけじゃない。違法な手段で臓器を購入しようとしたことは事実なの。だから、医師の仕事をやめざるをえなかった」


義母の説明は、あいかわらす温度を感じさせない冷静な口調だった。だが、美波には律の声が身近になったような気がした。


律「起こしてしまったことはなかったことにならないわ。これからのお父さんの生活には今回のことが必ずついて回る。順調に、問題なく過ごせているようにみえても、それは必ずどこかで顔を出して物事を破綻させる。そのお父さんといっしょに暮らすということは、あなたの生活にもそれがあてはまるということよ。思わぬ場面であなたの人生に打撃を与えるようなことが起こる確率があがるということなの」

律「あなたはそんな人生を選び取ろうとしている。親なら絶対に選ばせたくない選択肢を、お父さんがかわいそうだからという理由だけで」

律「かわいそうと思ってるだけでは人は救えない。誰かを大切するということは、その人のために行動し実現することではじめて成立するのよ。美波、厳しことを言うようだけれど、子供が実現できることなんてたかが知れてるわ」


美波はドアを開けた。義母は両膝を立てて座り、そこに肘を置いていた。背中を壁につけた姿勢のまま、美波と視線を合わせた。


美波「おかあさん」


美波は義母から目線を逸らさなかった。


美波「ごめんなさい」

律「何について?」

美波「さっき、ひどいことを言ったことについて」

律「他には?」


律の眼の光は鋭いままだった。美波は怯まなかった。


美波「わたしは、やっぱりパパといっしょにいようと思う」

律「そう」


律は尻を上げ、美波のまえに立った。


律「とりあえず晩ごはんにしましょう」

美波「うん。手伝う」


美波が律と共に食事の準備をしていると、父親が圭と慧理子を連れて帰ってきた。美波は作業の合間に、キッチンから三人の様子を伺ってみた。ぎこちなさを見せるものの、隣りあってソファに腰掛け夕食の匂いを堪能している父と妹。弟はそんな二人から離れたところにいて、背中を向け窓の外に目を向けている。

美波は、弟はいったいなにを見ているのだろうと不思議に思い、同じ場所に視線を向けた。窓の外には何も無かった。圭は食卓につくまで背中を向け暗闇だけが広がっている外の世界をじっと見つめていた。手元が照らされたキッチンから弟のいる場所を見ると、そこだけ光と闇の境界がなくなっているように思えた。弟はまるで洪水みたいにに押し寄せてくる暗闇をその身で受け止めながら、黒く染まる空間を肺が裂けるまで飲み込もうとしているかのようだった。

少しして夕食の準備が整った。父や慧理子、それに圭も灯りに包まれた食卓についた。五人で食卓を囲んだ。かちゃかちゃと食器の鳴る音がするだけで、会話はほとんどない。それが家族全員での最後の食事になった。


結局、美波は父といっしょに広島に帰ることとなった。父親は民間の海洋研究所の臨時職員として再就職が叶い、それはまたしても同研究所に勤める彼の友人のおかげであったのだが、同時に彼の過去の行いのおかげでもあった。以前、日本外科学会の学会誌に掲載されたヒトデの体細胞を用いた移植組織の拒絶反応にも関わる体細胞免疫の研究発表をその友人と共同で執筆したのだ。そのことをきっかけに生まれた交流のおかげで、美波の父親は故郷の海の近くで海水や砂浜に生息する生物の研究に時間を費やすことになった。娘ふたりとの生活は、贅沢をしなければなんとかやっていける。

普通の生活水準こそ取り戻せたものの、そうなるまでには当然多少の時間がかかったし、その時間は美波に「優秀であること」の重要性を認識させることになった。高い技能を持ち、人との繋がりを強く多く持てば、なにかあったときにも助けてくれる人たちがいる。それが「優秀であること」の教訓だった。それは父親を見ることで感じたことであったし、義母からの言葉から受け継いだことでもあった。

学校の成績は常に上位をキープした。スポーツも心地よく種類をこなし、委員会や生徒会などにも参加した。柔和な表情と、人付き合いの良い性格もさいわいして、友人は多かった。大学進学後は多くの資格試験に挑戦し、そのほとんどに合格した。昔の友人との交流はいまでも途絶えず、新しくできた仲間との絆を強く感じる日々を美波は送っている。上京してからは、家族と会う機会も当然多くなった。義母や妹との会話も増え、特に妹は姉としてだけでなく、アイドルとしての美波も誇らしく思っている。

弟は違った。


現在の美波が、あのとき、キッチンから覗いた九歳の弟の背中を脳裏に浮かべると、その像は頭のなかでふたつの詩のあいだに置かれている。そのふたつの詩は、どちらもウィリアム・ブレイクのもので、同じ美城プロダクションに所属しているアイドル鷺沢文香から借りた『対訳 ブレイク詩集』によって知ったのだった。美波が文香からこの詩集を借り受けたのは、冬のライブが終わった後のことで、文香と同プロジェクトに参加しているアイドル速水奏が最近観た興味深い映画のことを話題にしたことがきっかけだった。その映画とは、ジム・ジャームッシュが監督したモノクロ西部劇『デッドマン』のことで、主人公の会計士ウィリアム・ブレイクをジョニー・デップが演じている。デップが扮する主人公の会計士の名前が詩人ブレイクと同じ名前であることからわかるように、この映画はブレイクと彼の詩が主題になっている。

こんなシーンがある。会計士ブレイクは、賞金が懸けられた自分の首を追ってきた保安官に向かって引き金を引く。「ぼくの詩を知ってる?」という台詞を吐き、銃弾が保安官の胸の真ん中に黒い穴をあける。白黒の映像だから、流れる血も黒い。

同様のことが美波にも起きる。『対訳 ブレイク詩集』のなかのふたつの詩が、まるで銃弾のように作用し、美波の内に黒いちいさな穴をあける、ということが。


美波の虚を衝いた二篇の詩はーーというより、詩に撃たれたことによって虚が生まれたともいうべきかーー映画のなかには引用されていない。

詩集『無垢と経験の歌』のなか、『無垢の歌』と『経験の歌』にそれぞれ収めれているその詩の題は、「失われた少年」と「一人の失われた少年」といい、前者には定冠詞が、後者には不定冠詞がついている。

『無垢と経験の歌』は、一七九四年に出版された。一七八九年に『無垢の歌』が出版されていて、その五年後に出版されたこの詩集は、『経験の歌』との合本の形をとっている。この詩集は、「人間の魂の相反するふたつの状態を示す」という副題を持ち、生まれながらの汚れのない魂の状態としての「無垢」と、その「無垢」を阻害する場としての「経験」ーー制度としての法律・戒律・慣習などが「経験」の場に存在するーーが、副題の通り、対立する概念として置かれている。

『無垢の歌』の「少年」は、夜の露が身体を濡らす冷たい暗闇のなか、父親を求めてこう訴える。


《父さん、父さん、どこに行くの。
ああ、そんなに早く歩かないで。/父さん、話して、この小さなぼくに何か話して、/そうしないと迷子になっちゃうよ》


『無垢の歌』の八番目に収録されている「失われた少年」は、次の「見つかった少年」と連作になっていて、そこでは、狐火に誑かされ沼地を泣きながら彷徨っていた少年の前に、父親の形象をした神が現れ、母親の元に連れていく。『無垢の歌』の内にある少年は、はなればなれになった家族とふたたび出会い、そしてその時点で神に対する信仰も獲得している(と、美波は解釈しているが、宗教理念や当時のイギリスの状況、さらにいえばネオ・プラトニズムなど、あきらかに背景知識が足りないうえでの解釈なので、あまり自信がない)。


一方、『経験の歌』で詠まれる、不定冠詞のついた少年は、このような「無垢」の状態にある少年とは対照的に、自立した性格を見せ、父親に挑発的な態度と言葉をぶつける。


《自分を愛するように他を愛する者はいませんし、そのように他を敬う者もいません。/また思想が自分よりも偉大な思想を知ることはできません。/父さん、どうしてぼくは自分以上にあなたを/また兄弟のだれかを愛することができるでしょうか。/ぼくはあなたを愛しています、戸口でパン屑を拾っている小鳥を愛するくらいには》


このふたつの詩にそれぞれ登場する少年が同一人物なのかどうか、『対訳 ブレイク詩集』を読んだ限りではわからない。しかし美波には、『無垢の歌』の父親の消失を嘆くしかなかった少年が、『経験の歌』の父親や家族といった制度に挑発的な態度を示す少年に時間をかけて変わっていったとしか思えなかった。


圭は九歳のとき、医者になると宣言した。当時六歳だった美波と圭の妹慧理子は、命に別状はないものの、治療法の無いめずらしい病気に罹っていて、検査、入院、退院を繰り返していた。慧理子はいまでもそのサイクルのなかで生活している。病院の白いシーツがかかったベッドの上で、入院生活用の使い古しが現れてるTシャツを着た妹が、うれしそうに自分の歌を聴いている姿を見ると、美波はよろこびのあとにかなしさを味わう。ステージから見る光景を知っているだけに、この病室のなかで反響するだけで、妹を外に連れ出す力のない自分の歌にかなしさを覚え、それをどうしよもない自分の無力さをかなしむ。

だから、美波は弟に期待していた。

圭の宣言を義母からの手紙で知らされたとき、弟の優秀さを当然ながら知っていた美波は、圭が父親とおなじ道に歩むのは自然なことだし、父親の事件に打撃を受けたろうに(いや、受けたからこそ)、父親が中断せざるをえなかった役目をーー当然ながら、父親も慧理子の病気の治療法を探していたーー受け継ぐ意志を圭が示したことに、誇らしさと安心した気持ちをもった。

病気それ自体が患者に引き起こす身体の苦痛、病気を取り除けないことに対する患者の家族の心の苦痛。美波の父親は、このふたつの苦痛を癒す優れた治し手だった。圭もまた、そのような人物になれる、と美波は思っていた。



慧理子「兄さんは、そんな人なんかじゃない」


妹がそんな言葉を口にしたのは、冬に開催された一大ライブ「シンデレラの舞踏会」が成功に終わってから数週間後、美波がお見舞いに来た病室でのことだった。

空に積み重なった雲がその青黒い腹を見せながら、太陽の下半分を隠す、強い肌寒さを感じさせる日だった。灰色をした冬の翳りが病室に侵入してきて、電動ファンヒーターの熱した赤い部分が翳りによってその赤さを濃くしている。

慧理子は床に置かれたヒーターの放熱をくつ下越しの足で感じながら、ベットに腰掛けていた。ひざとひざをくっつけて、身体を美波の正面に向け、ライブの話をするよう姉にせがんだ。

美波はすこし躊躇したが、期待に満ちた目を向ける妹は裏切れない。話していくうちに、美波は、自分の口調に熱が帯びていくのがわかった。あの日の光景は、まるで記憶が結晶になったかのようにくっきりと細部まで覚えている。煌めき、歓声、歌、仲間たち。あの日の記憶を形作っているあらゆる要素は、熟達の宝石職人によってカットが施されたダイヤモンドのファセットのようなもので、どんなことを語ってもその輝きの美しさを余すところなく伝えられる。


慧理子「いいなあ。わたしもいつか姉さんのライブに行ってみたい」

美波「行けるわよ」

慧理子「病気が治ればね」


ちいさな諦めが、慧理子の顔に乾いた微笑みをつくった。


美波「大丈夫だよ。まだ時間はかかるけど、圭がきっと病気を治してくれるから」


自分が直接妹のためにできることがないのをもどかしく思いながら、それをおくびにも出さず、ただ自分が確信していることを口にして、美波は慧理子を慰めようとした。

姉の言葉をきいた慧理子は、一瞬で不快とわかる表情に顔を歪め、そしてさきの言葉を吐いた。兄のことを耳にした途端、まるで兄の存在そのものが美波の大切にしている思い出を台無ししまったかのように、忌々しさを現しながら慧理子はベットに戻った。


美波「どうしちゃったの、慧理ちゃん」


美波は、慰めがこんなふうに作用するとは思ってもみず、戸惑いが押し寄せるなか、なんとか妹に尋ねた。


慧理子「信じらんない。あの人、姉さんにもそんな態度なの?」

美波「あの人って……ダメよ、慧理子、兄さんのことそうなふうに言ったら。圭は……」

慧理子「そんなの自分のためよ」


慧理子は美波が続ける言葉を予想し、吐き捨てるように遮った。美波が言葉を失うなか、慧理子は言葉を継いだ。


慧理子「兄さんが医者になろうとしてるいるのは、自分の評価のためよ。それだけなの」

美波「そんなわけないじゃない。圭は必死であなたの病気を治そうとしてるんだよ?」

慧理子「見せかけよ。兄さんの本質は合理的でどこまでも冷たい。そういう人なの、兄さんは」


美波は絶句した。病弱だと思っていた妹が、こんなのにも強い嫌悪を放つとは思ってもいなかった。それも、実の兄に対する嫌悪を。


慧理子「信じられないなら、カイさんのことを聞いてみて。そうしたらわかるから」

美波「海斗くん?」


美波も海斗のことは知っていた。圭の子どもの頃の友達で、慧理子ともよく遊んでいた。美波も何度かいっしょに遊んだことがある。活発な男の子で、教室では人気者なのだろうと思わせる少年だった。


美波が上京してから、海斗の姿を見たことはなかった。彼のことはすっかり忘れていたくらいだ。妹が海斗の名前を口にした途端、美波のなかで子どもの頃の記憶が、鮮やかな輪郭をともなって蘇ってきた。記憶のなかの季節は夏で、圭と海斗が虫とりにいく様子を二階の自分の部屋から眺めていた。麦わら帽子をかぶり、虫とり用の網とカゴを持った海斗のあとを、弟がついていっている。風を呼び込もうと開けた窓から、笑いあいはしゃいでいるふたりの声が聞こえてきて、部屋に遊びに来ていた友達に呼び戻されるまで、ずっと聞き入っていたことが思い出された。

その海斗のことが、いまなぜか問題になっていた。

美波は、妹にいったいなにがあったのか問いただそうとした。慧理子はなにも応えなかった。妹は、せっかく姉と楽しく過ごせるひと時を、余計なことをしゃべって台無しにしてしまったことを後悔しているようだった。足にかけたシーンをギュッと握りしめて、気まずそうに沈黙している。美波も、それ以上なにも聞き出すことはできなかった。


病院から出ると、青黒い分厚い雲が太陽を完全に隠してしまっていた。集合した雲はひとつの生き物のようで、上空を吹き荒ぶ強風に運ばれる様子は、まるで空を蛇行する蛇のようだった。風の唸りは、鈍く光る蛇の運動によって引き起こされているかのようで、その振動が地上に降り注ぐと病院の窓を一つ残らず揺さぶった。ガタガタっとうるさい音が病院全体から響いている。明日の天気が不安になるような空模様だった。

埼玉の家に戻ってくると、玄関にスニーカーが爪先を揃えて扉の方に向け、置かれていた。美波がリビングへ行くと、まだマフラーを巻いたままの圭が、IHヒーターの上にヤカンを置き、コーヒーを淹れるために加熱をしているところだった。厚めのカーディガンの分だけ着膨れした学生服の袖から、寒さで青白くなった手のひらを出し、ヤカンからの放熱を受け止め、手のひらを温めている。


永井「姉さんも飲む?」


圭が沸騰したお湯でインスタントのコーヒーを淹れながら、美波に聞いた。美波がうなずくと、圭は戸棚からカップを出し、お湯を注いでもう一杯コーヒーを淹れた。美波が手渡されたコーヒーをゆっくり啜りながら圭を見やると、弟は片手でカップを持ち上げながら、もう片方の手で単語カードを器用にめくっていた。


ブラックのまま手渡されたコーヒーの味にいよいよ舌がうんざりしてきた美波はソファから立ち上がり、キッチンに砂糖とミルクを探しに行った。弟が座っているキッチンの椅子の背に、すでに首から解いたマフラーがかけられている。弟のカップのコーヒーは黒い液体のままだった。ぬるくなって湯気もたたない黒いコーヒーとは対照的に、圭の手のひらはカップの温度が移ったのか、しっとりとしたピンク色に染まっている。

単語カードを繰る音と、コーヒーをかき混ぜるスプーンがカップに当たるカチャカチャ音が交互に、そして十回に一回くらいの割合で同時に鳴った。カップの中身が乳白色で中和されきった。美波がカップから弟に視線をやると、手元の単語カードは残すところあと数枚というところだった。


美波「そういえば、海斗くんって最近どうしてるの?」


たったいま、記憶にのぼってきた事柄を無意識に口に出してしまったみたいに聞こえるよう気をつけながら、美波は圭に尋ねてみた。


永井「さあ。たまに見かけるけど」


圭は単語カードから視線をあげないまま、あっさり答えた。


美波「子どもの頃、よく遊んでたよね」

永井「今はもう、そんなことはしてない」


圭の二度目の返答を聞いた美波は、唐突に理解した。弟は、わたしの求めるものを求めていない。

圭はコーヒーを飲み終わると、カップを手に持ったままの美波の横に立ち、空になったカップを水で濯いだ。流しで水を切り、食器乾燥機に洗ったコーヒーカップを置くと、椅子にかけてあったマフラーと床のバッグを手に持ち、二階の部屋へと消えていった。

美波はひとり、溶けきらなかった砂糖が沈殿するカップに視線を落としながら、自らの思い違いにやっと気づいた。この八年間ーー年が明ければ九年になるーー、わたしたちがはなればなれになった八年という時間は、どうあっても取り戻しようがないのだということに、なぜいままで気づかなかったのか。


圭は姉のことを嫌っているわけでも、非難しているわけでもない。美波が圭と結び直したいと願っている関係性に、単に関心がないだけだった。弟は、家族の枠組は守られているのだから、なにも不満に思うことはない、とでも考えているようだった。呼びかけられれば、応える。それだけ。子どものころの思い出の品物がふたたび目の前に帰ってきたとして、それをなつかしむことはあっても、それをふたたび子どものころのように使うことはあるのだろうか。その品物が存在することだけに満足して、またどこか押入れにでもしまい、現在の生活に戻るのが、大方の人間のすることだろう。

弟は、現在の生活に過去の面影がなくても平気なのだ。

美波がブレイクの詩を知ったのは、このような出来事があった直後のことだった。「一人の失われた少年」の最初の八行、ーー少年が父親に向かって挑発するような言葉を突きつける部分ーーを初めて読んだとき、美波の手の動きも、目の動きもピタリと止まり、左側のページの英詩と右側の訳詩に釘付けになった。まるで魔術の力が作用したかのように美波は動けなくなり、弟の内面がすべてそこに記述されているようにしか思えなくなった。「経験」的な少年の言葉は、まるで「無垢」なる態度そのものへの反抗のようでもあり、ついさっきまで無根拠に抱いていた美波の家族再生の物語が、圭が幼少期の友情を否定したことで間接的に否定されたことでもあるかのようだった。


そんなふうに読めるのは、あまりにも個人的な事情に引きつけて詩を読んだせいだ。しばらくしてから美波はそのように思い直し、止まっていた手を動かして詩の続きを読んだ。また美波の手が止まった。ブレイクの詩によって動揺の次にもたらされたのは、恐怖だった。詩の後半で、先の言葉を側で聞いていた司祭が少年を引っ立て、両親の懇願もむなしく、涙に咽ぶ少年を火刑に処してしまう。


《そして少年を聖なる場所で焼き殺した、/そこは多くの者がこれまで焼き殺された場所。/両親が泣き叫んでもむだであった。/こんなことがアルビヨンの岸辺で今でも行われているのか。》


恐怖の感情は一瞬で落ち着いた。いくらなんでも、こんなことはありえない。さっき、個人的な事情に引き付け過ぎていると反省したばかりなのに、すぐこのような読解をしてしまうとは。

美波はブレイクの詩集を閉じ、年末から年始にかけてのスケジュールを確認することにした。スケジュール帳を開き日程を確認していくと、少年が火刑になったことへの予言的な恐怖は、吹きつける風が灰の粉を川へ掃いていくかのように、次第に消え去っていった。

恐怖は去っていった。だが美波の心の内には自分でも自覚できないほど微かに、澱のように沈殿する不安がこびりついていた。灰と化した少年の身体が火刑場となった広場の地面の溝を埋め、火刑場が廃れてもなおそこにこびりついているかのように、その不安はいまでも確実に彼女のなかに存在していた。


ーー七月二十三日・美城プロダクション・CPルーム

美波はソファに身を沈めて、深く息を吸い、気持ちを切り替えようとする。

美波の脳裡には、六ヶ月以上前に読んだブレイクの詩がまだこびりついていた。「無垢の歌」の少年と「経験の歌」の少年。はじめて詩を読んだ冬から春を経て、季節が夏に移行するあいだ、韻文が生み出す詩のイメージに美波の当時の記憶と想像が流入し、極めて個人的なイメージに変化していった。幼い少年のまえから去っていく父親の隣には連れそってゆく子どもがいる。年月が経ち、成長した子ども同士が再会すると、片方の子どもの愛情はパン屑を啄ばむ小鳥ときょうだい家族に区別をつけなくなっている。そんな子どもの存在は、司祭によって糾弾され火をもって消し去られる。火は子どもの肉体を食み、皮膚や筋肉や骨や細胞は黒い粒子と化して、狼煙のように空に昇ってゆく。

混在する赤と黒がおどろおどろしく踊り跳梁する悪夢のイメージは、まるでそれがほんとうの記憶であるかのようにたびたび美波の脳裡に浮上してきた。ブレイクの時代ならともかく、現代の日本で火刑などまずありえないというのに、この言い知れぬ不安はなんなのだろう、と美波は思った。いや不安というには、あまりにも生々しいリアリティがブレイクの詩から想起させられた。


記憶野と想像野にどっちつかずのまま架け橋のように横たわる火刑のイメージ。それはやがてもうひとつ変化を遂げた。黒く焦げた肉体が千切れて一部となり、その一部がまた千切れ、粒子の段階まで分解される。周囲に漂いはじめた粒子は、風もないのに運動を見せはじめ、洪水のように押し寄せてきては視界いっぱい黒に染め上げる。ここ一ヶ月、美波が夢を見るときはこのようなノンレム睡眠と見分けがつかない、深海のような暗黒の光景ばかりが夢に出てきた。なにも見えないのに、これは夢だとわかるのは奇妙だな、と美波は朝起きるたびに思った。

夢を見た日にアナスタシアと会うことになると、夢と彼女の対照に美波はそのたびごとに驚いた。透き通った結晶体のような容姿をしたこの少女はけっこう子どもっぽいところがあり、昨夜電話で話したときも美波とおしゃべりできるからという単純明快な理由を隠すこともなく、声を弾ませていた。リビングのテーブルに置きっ放しにしていたスマートフォンをさきに夕食を済ませ自分の部屋に戻ろうとする圭が持ち上げ、美波に手渡した。画面にははじめて見る番号が表示されていた。通話ボタンをタッチし、スマートフォンを耳にあてる。スピーカーから聞こえてきたのは親しい馴染みの声だった。


アナスタシア「こんばんは、ミナミ」

美波「アーニャちゃん。あ、そっか。スマホ、新しくするって言ってたね」

アナスタシア「ダー。前のは、スメールチ……お亡くなりになりましたから」


パタンという音がして、見ればリビングの扉が閉められていた。廊下を歩く音がして、弟が二階に行くのがわかった。


アナスタシア「ミナミ……?」

美波「ううん、なんでもない。新しいスマホはどう?」

アナスタシア「調子、いいです。ミナミの声、よく聞こえるから」


まっすぐ情を向けてくるアナスタシアの声に、美波は微笑みを浮かべる。他愛ない会話をしばらく続けていると、美波は気持ちが浮遊していくのを感じた。

冷えているが寒くはない冬の日、風は起こらず、控えめであるだけに心地良い鈍い陽光を浴びていると、周囲の空気がもっと気持ちの良い場所があるよとでもいうふうに身体を持ち上げ上空のところまで運んでくれる。地上の風景は色や形で家々や工場や公園や森や海などを見分けられるが、浮上にしたがいそれも難しくなっていく。地上のものの輪郭はだんだゆとぼやけ、色彩も薄くなっていき透明に近づいていく。上空での鳥類は地面や木に止まっているときとは異なる、大気によく浸透する声を使って会話していた。上空では雲がソファに、太陽の光がブランケットになっている。

リビングのソファに腰を下ろしていた美波は、気づかぬうちに足を伸ばし、楽な姿勢をとっていた。


アナスタシア「ミナミ、気持ち……落ちつきました?」


まるで美波の様子が見えているかのようにアナスタシアは言った。


美波「そんなに疲れた声してた?」

アナスタシア「アー……というより、オビスポクォニー……悩んでる、と感じました」

美波「ほんとに?」

アナスタシア「ダー。悩みごと、ありますか、ミナミ?」

美波「えっーと……」


美波は黙ってしまった。黒黒とした不吉なイメージは映像として確固としているものの、それをどう言葉に置き換えればいいのか、さらに不安を感じてるといっても、その原因はほとんど杞憂に等しい予感でしかないのだ。美波が言葉に詰まっていると、アナスタシアがさきに口を開いた


アナスタシア「いまじゃなくてもいいですよ?」

美波「アーニャちゃん?」

アナスタシア「話したいときに、話したいひとに、話してください」

美波「……」

アナスタシア「わたしならいつでも大丈夫です。いまでも、いいです」

美波「ふふっ。さっき、いまじゃなくてもいいって言ったのに」

アナスタシア「いつでも、とも言いました。わたしは、いつだってミナミの助けに、なりたいですから」

美波「……ありがとう、アーニャちゃん」


電話を終え、美波は夢についてひとり考え込んだ。精神分析に頼らなくても原因は、弟を中心にした家族の現在にあるのは明らかだった。もはや、過去は取り戻せないのだということを認めるべきなのだろう。弟ほど極端でなくても、わたし自身、過去の出来事から優秀であろうとし、それを実践してきたのだから。わたしたち家族は、すでに離散してしまったのだ。その過去を都合良く忘れ、むかしの家族を理想化し、その再現を試みることほどむなしい行いもないだろう。

過去は牢屋のように堅固としているかと思えば、煙みたいにかたちがなくなったりもする。資料が残っているような歴史的な過去の出来事についてならまだいい。それならやりようはある。だが記憶だけが頼りの、個人的な思い出の場合はそうはいかない。思い出はひどく気まぐれで、子どもが裏切ったときみたいに手酷い痛手を与えることもしばしばだ。

だから美波はいま、CPルームのソファに背を預けながら、空気のなかに黒い絵具を溶かしたかのようなあのおそろしいイメージを取り払うことから始めようとする。構図の取り方に失敗した風景画の下書きを画家が投げ捨てるように、黒一色のイメージを美波は打ち消そうと努力した。イーゼルに乗せられた真新しい白いキャンバスに新たな像を描こうとするが、筆が触れる前に染みのようにキャンバスが黒に染まっていく。何度か同じ試みを頭のなかで繰り返す。結局、それはすべて失敗におわる。試みの最後には、いつも黒が染み出してくる。割れた地面から溢れる毒を含んだ地下水のように。


徒労をおぼえた美波が、逃避的に考えを別のことにむけたときーー自分自身のすこしさきの未来、七月二十七日。美波の二十歳の誕生日のことーー部屋のなかに三人の少女が入ってきた。レッスン終わりのニュージェネレーションズだった。


凛「お疲れさま。美波もレッスン終わり?」


先頭にいた凛が美波に声をかけた。


美波「うん。もうすぐCD発売初日のイベントがあるから」

卯月「アインフェリアですよね。とってもカッコいい曲でした」

未央「それにその日はみなみんの誕生日だしね。お祝いごとがふたつもあるなんて、ほんとおめでとうだよっ」

美波「ありがとう、未央ちゃん」

未央「プロデューサーがここをパーティーに使ってもいいって言ってたし、美嘉ねえたちも顔を出すって」

凛「手巻き寿司パーティーはアーニャがやりたいって言ってたよね」


美波「でも、なんだか大げさじゃない?」

卯月「そんなことないですよ! 美波ちゃんはシンデレラプロジェクトのリーダーなんですから」

凛「二十歳の誕生日なんだし、大げさなくらいがちょうどいいんじゃない?」

未央「そうそう。わたしたちみんな、みなみんのことお祝いしたいんだよ」

美波「みんな……ありがとう。その気持ちだけでも、すごくうれしい」

未央「本番はもうちょい先だよ、みなみん?」


未央がそう言うと、凛と卯月が軽く笑った。美波もつられて笑顔になった。

夕暮れが近づき、太陽から放たれる光線がだんだん水平になってくると、部屋のなかは眩しさに包まれた。視界は鮮明すぎて逆にものが見えづらくなり、ブラインドを下ろし光量を調節しなければならない。電気を点け、部屋がちょうどいい明るさを取り戻すと、蛍光灯に照らされた時計が夕方のニュースが放送される時間帯を示していた。凛が明日の天気予報を見ようとテレビをつけた。

そのとき美波のスマートフォンが鳴った。着信はプロデューサーからだった。美波が席を外し通話ボタンを押すと、特徴的な低い声が聞こえてきた。



武内P「新田さん、いまどちらに?」


いつもと変わらない丁寧なしゃべり方。だが、美波にはその口調に抑制されたものがあると感じた。落ち着きを意識的に課したような口調。声の速度もいつもよりわずかに速いような気がする。


美波「いまですか? CPルームにいますけど」

武内P「新田さん、あなたに至急連絡しなければならないことがあります。すぐそちらに向かうので、待機していてください」


電話の向こうのプロデューサーは言いながら立ち上がったのか、電話口からガタンという音が聞こえてきた。声の抑制もさっきよりすこし綻んだのがわかった。


美波「それは構わないてますけど……連絡しなければならないことってなんですか?」

武内P「それは……電話では話かねますので、直接お伝えします。とにかくすぐ向かいますので……」

卯月「み、美波ちゃん!」


大声に振り向くと、慌てた様子の卯月がドアの近くに立っていた。開いたドアからは部屋のなかにいる凛と未央が見える。ふたりともテレビと美波のどちらに視線を向ければいいか、本気で迷っているようだった。卯月は美波を呼んだものの、それからさきに続ける言葉を見失っていた。

美波が不審に思っていると、部屋のテレビからアナウンサーのものとおぼしき声が聞こえてきた。臨時ニュースのようで、原稿を読み上げる音声はまだそこに書かれた文章に馴染みきっていない。さっきのプロデューサーの話し方と似てる、そう思いながら美波はドアを通った。背後から卯月の、あ、あのーー、という躊躇いが滲んだ声が聞こえてきたが、美波は足を止めなかった。テレビは国内三例目の亜人発見のニュースを伝えていた。三例目の亜人は高校生で、下校中にトラックに轢かれ死亡したが生き返ったところを大勢の人間に目撃されていた。亜人の名前は永井圭といった。


美波「……え?」


まだ通話中のスマートフォンからプロデューサーの声がもれていた。美波はスマートフォンを持った手をだらんとさせながら、テレビの液晶画面に見入っていた。同時に飛び込んできた画面のテロップやアナウンサーの声は、ーー亜人・永井圭の姉は美城プロダクション所属のアイドル、新田美波さんとの情報もあり……ーーもう美波のなかから消えていた。美波は立ち尽くしたまま、テレビに弟が映っているのはなにかの間違いではないかと思った。だがそこに映し出されていたのは、まぎれもなく美波の弟、永井圭の顔だった。

美波の弟は死んで、そして生き返った。死なない生物、亜人としてーー。

今日はここまで。設定を説明するために地の文が多くなってしまいました。次からはもうすこし読みやすくするよう心がけます。
そういえば新田さんと永井の妹慧理子の声ってどちらも洲崎綾さんなんですね。書きながら気がつきました。

ブレイクの詩は岩波文庫から出てる松島正一編『対訳ブレイク詩集』から引用しました。

乙。
読みやすいけど横に長いかなとは思った

コメントありがとうございます。ほんとに励みになります。

>>42
スマホからの打ち込みですのでパソコンからだと見づらいのかもしれません。うちにパソコンがないもので…。スミマセン…。


2.いちばん辛いのは永井圭のほうだろう


「あいつは全囚人の中でいちばん向う見ずな、いちばん命知らずな男だよ」とMは言った。「どんなことでもやりかねない男なんだ。ひょいと気まぐれを起こしたら、どんな障害があっても立ちどまることを知らない。ふとその気になったら、あなただって殺しますよ、あっさりね、鶏でもひねるみたいに。眉一つうごかすでもないし、悪いことしたなんてこれっぽっちも思いやしませんよ。頭がすこしへんじゃないか、と思うほどですよ」ーードストエフスキー『死の家の記録』


ーー七月二十三日、二二時三十二分・美城プロダクション前

美城プロダクションの前にはもう大勢の報道陣が詰めかけていた。道路一面に中継車が並び、報道各社のリポーター、テレビカメラマン、ブームポールを持つ音声担当、照明担当らが、西洋的な城の門構えを思わせる装飾が施された建物を背景に、それぞれが良いと思うアングルを確保しようと陣取っている。

美城プロダクションは伝統ある大手芸能プロダクションにふさわしく都内の一等地に建てられいて、この区画は多くの企業ビルが連なる区画なので夜になっても明るい。今夜の照明はいつもより濃く、道路の隅々まで照らし出していた。カメラが映像をちゃんと中継できるよう、バッテリーライトが道路のアスファルトに黄色い光を投げかけていたからだ。

テレビ局の報道陣が陣取った以外の場所では、一眼レフカメラを首から下げたカメラマンや記者たちは群れをつくっていた。出版社に所属しているものもいればフリーランスの活動者もいたが、その区別はむずかしい。


テレビリポーターや記者たちの活動がもっとも活発になったのは永井圭が協力者とともに警察から逃亡したという情報がもたらされた午後八時過ぎのことだった。記者たちはプロダクションに出入りする人間すべてに詰め寄り、マイクやICレコーダーを突きつけ内容などなんでもいいからとにかくしゃべってくれとうるさくせっついていた。増員された警察官によって記者たちの動きが抑えられたのはついさっきのことで、現場の整理を指示していた刑事は、記者たちが地面から生えてきた有象無象にみえて仕方がなかった。

ーー放っておいたらどんどんつけあがる奴らだ。まったく。奴らをみてると報道とタレコミの違いがわからなくなってくる。奴らがほんとにアスファルトでできてたらよかったのに。それなら躊躇ってものは必要なくなる!ーー

警官が防波堤の役目を果たしはじめたころ、社員たちはようやく帰宅できるようになった。なかには強引に記者たちの群れをかき分けて帰っていく者もいたが、たいていはエントランスで様子をうかがっていたり、部署にもどり効率悪く残業したりしていた。


レッスンや撮影などでプロダクション内に残っていたアイドルたちもこの騒ぎのせいで帰るに帰れなくなっていた。当然ながらマスコミはアイドルたちのコメントを貰おうと躍起になり、社内に侵入しようとするものまで出てくる始末だった。先頭を走る記者ひとりに対して五人の警官が後を追う。追いかけっこは、さながら鳥の群れの移動のようだった。

こういった騒ぎが本格的になる前に、アイドルたち、とくに未成年者は優先して専務よって帰宅が指示された。ビル駐車場に送迎用のワゴン車が集結し、帰宅の方向をおなじくするアイドルたちが手当たりしだいに車にのせられていく。警備員や制服警官たちが仕事に躍起になるなか、送迎車が連結した列車のように一列になって駐車場から出ていく。何往復かの送迎のあと、最後にのこったアイドルを送り出したのは最初のワゴン車が出発してから数時間後のことだった。そのあいだ、記者たちの動きをとめるのにプロダクションの社員までもが投入された。


車列に群がろうとする記者たちを押さえつけるのに全力を使いきった警備員や警官たちが疲労で肩を重くしていると、黒いセダンが入れ替わるようにプロダクションの駐車場にすべりこんできた。まるでさっきまでの喧騒など存在しなかったかのような運転のしかただった。その公用車はビル入口近くの駐車スペースにとまった。車から降りてきたのは、若いスーツ姿の女性とテンプルの部分がV字型の眼鏡をかけ、黒い革の手袋をした三十代前半と思しき男性で、男性の方は案内しようと呼びかけてきた巡査部長に姓が濁らないことを指摘し、巡査部長を謝罪させた。男が眼鏡の位置を直したとき、駐車場の明かりが反射してなめらかな表面をした革手袋が鋭く光った。

三人は巡査二名が警備している社員通用口を抜け本社ビルにすすみ、エレベーターに乗り込んだ。エレベーターが上昇するあいだ、巡査部長はすでに聴取した内容を眼鏡の男におおまかに説明した。眼鏡の男は大量のミントタブレットを口に入れながら、巡査部長の話を聞いていた。亜人捕獲に関する有益な情報はなく、男は話を聞きながら、亜人研究のサンプルになりうる幼少期の性格、態度、振る舞いなどを聞き出すことと、亜人発覚直後の親族の反応を観察することを目的にしようといまからおこなう聴取のプランを立てた。


エレベーターが目的の階に到着すると、二人は巡査部長の案内によってCPルームの前までやって来た。ドアの両側にはまたもや二名の巡査が待機していた。敬礼する二名を気にもとめず、眼鏡の男とあとにつづく女性は部屋にはいった。

部屋のなかには三人の男女がいた。三人ともスーツ姿で、このプロダクションの社員らしい。目つきが鋭い背の高い男がいちばん若く、眼鏡の男よりすこし年下にみえた。その男は顔を伏せて表情に影を作り、刺すような視線をだれに向けるでもなく沈黙している。陰鬱さがよく似合う男だった。もうひとりの男性社員は老齢で、腰にはまだあらわれていないものの背中の丸みが年齢による筋力の衰えを物語っていた。この初老の社員も若い社員とおなじく暗い表情をしているのが横顔からでもうかがえた。

かれらに対面する位置で腕を組んでいる女性は二人の男性社員の中間にあたる年齢だったが、初老の男より高い地位にいることが眼鏡の男には一目でわかった。役員クラスの地位なのだろう。命令する側特有の有無を言わせぬ雰囲気が女性からは漂っていた。いまの彼女はその雰囲気を意識的に態度にあらわしーー言葉でもあらわしたのだろうーー目の前の二人をまるで押し寄せてくる波のようにみずからの意思決定に従わせようとしている。


部屋にはいってきた眼鏡の男と女性役員の目が合った。女性役員のほうが眼鏡の男よりはやく進み出て、自分とあとの二名の紹介をする。


美城「美城プロダクション専務の美城と申します。弊社部長の今西、新田美波参加プロジェクトのプロデューサーも同席しております。失礼ですが、厚生労働省から派遣された方でよろしかったでしょうか?」

戸崎「はい。私は亜人管理委員会の戸崎と申します。こちらは秘書の下村です」


戸崎の発音は姓が濁らないことをことさら強調していた。

同席していた部長の今西とプロデューサーの表情はともに険しかったが、戸崎と会話する美城専務は淡々と今後の対応について話を進めていた。


美城「新田美波はあちらの応接室にいます。このあとすぐに聴取を開始されますか?」

戸崎「ええ。彼女の聴取はできれば私たちだけで行いたいのですが、構いませんか?」


プロデューサーの表情に懸念の色が浮び、身体が前に傾いた。美城専務は彼が迂闊に発言するまえに話を続けていた。


美城「もちろんです。よろしければ聴取が終わった後、今後の対応について助言を頂くことは可能でしょうか? なにしろこのような事態は弊社にとっても初めてなので」

戸崎「どのような対応をお考えで?」

美城「弊社は芸能プロダクションです。マスコミの前に晒さられるのは、まず弊社所属のアイドルたちになるでしょう。そのほとんどが未成年者であり、今回の事態の重大性について十分な理解があるとは言えません。彼女たちの不用意な発言が弊社のイメージを損なうおそれもあるでしょう。そこで、弊社としましては早い段階で社の内外に対して事態への対応姿勢をアピールしたいのです」

戸崎「その具体的な方法は? 記者会見などを行うのですか?」

美城「ええ。すでに明後日の正午に会見が行われるようセッティングし、マスコミ各社へも通達済みです。多くの人間が会見を見ることになるでしょう。弊社の人間がその場に現れるとなればなおさら」


戸崎は美城が何を言いたいのか理解した。これは亜人管理委員会にとってもメリットのある話だった。もし記者会見の場に永井圭の姉が現れれば、多くの人間がそれを見ることになるだろう。正午に中継され、夕方のニュースで放送され、翌日にもまた流される新田美波の映像。隠しきれない沈痛を顔に浮かべながら、気丈に弟の安否を気遣う姿。

協力者がいるとはいえ、日本中がその行方を捜索している孤立状態の亜人にとって、肉親の訴えはどれほど効果的だろうか。内容によっては自ら出頭することも考えるかもしれない。二人の利害は一致した。


戸崎「わかりました。では聴取のあと、簡単にですが助言いたしましょう」

美城「ありがとうございます。では、聴取が終わった後、社の者に会議室まで案内させます」


プロデューサーはすれ違うとき、何かを言いたげに戸崎にむかって顔を向けた。戸崎の仕事に弱々しい思いやりは必要なかったから彼はそれを無視し、美波が待機している応接室へとはいっていった。

まず戸崎の目に入ったのはシックな黒のマガジンラックだった。芸能情報誌やテレビマガジンが各種取り揃えて並べてあり、そのなかの多くがこのプロダクションに所属しているアイドルたちなのだろう。誰もかれもが笑顔だった。中央部に美城プロダクションのエンブレムが輝くマガジンラックの隣には、観葉植物が鮮やかな緑色をしていて、空調が葉をかるく揺すっている。大きな葉を持つ植物は黒で統一されている調度品と好ましい対照を示していた。

戸崎はすぐに視線をおとし、永井圭の姉がソファに一人、消えかけているような儚さで座っているのを認めた。戸崎が美波のまえに腰をおろす。美波は目を伏せたまま戸崎に顔を合わせず、あわせた膝のうえで重ねるようにして置いてある拳にぼんやり虚無的に視線を落としていた。握りしめた拳の指の先だけが赤く、それ以外の関節は白くなっていた。


美波の様子は弟の安否を心配する気持ちはあったが、自分にはそれだけしかないことも理解しているといったふうだった。苦しみによって意志を挫かれた人間の様子にふさわしく、美波もなにも求めていなかった。求めても求めても、なにも得ることはできないと美波はこの数時間で知り尽くしてしまっていた。


戸崎「新田美波さんですね?」

美波「はい……」


美波はかろうじて戸崎の質問に応えることができた。


戸崎「厚生労働省から派遣されました亜人管理委員会の戸崎です。あなたの弟、永井圭についていくつか質問したいことがあります」


美波がさっと顔をあげた。眼に消えかけていた光がふたたび宿り、涙に潤んでいるようにもみえた。もしかしたら、という思いが美波のなかに引き起こされたが、それは亜人管理委員会という戸崎の肩書きのためだった。

亜人となった人間がどんな扱いを受けるかを、聴取をしにやってきた警察官はだれひとりはっきりと答えることはできなかった。


隔離と管理。聴取の合間合間に美波が弟が見つかった後のことについて、答えに詰まる警官たちにくい下がって聞くことができたのは、かれらが口ごもりながら言ったこの二語だけだった。亜人と発覚した者は国の施設に収容され、研究協力が求められる。それ以上のことを警官たちはけっして口にしなかった。

美波は喚きたくなった。そんなことはだれもが知ってることじゃない。わたしが知りたいのは“わたしたちのその後”のことであって、あなたたちがどうするかではないのだ、と。家族が追い立てられ、追い詰められようとしているのに、あなたたちはわたしに協力を要請してくる。何の保証もないまま。もし弟を捕らえた人間がいたら、あなたたちはその人に懸賞金を支払うというのか?……

巡査部長は聴取がこうなってほしくないと思っていた方向に進み始めていると感じた。動揺や困惑がもっと表にあらわれていると思われていた亜人の関係者は、興奮を抑えつけながらしだいにそれを敵対感情に変えようとしていた。そういう反応自体はたいしてめずらしくない。警察がやってくるということは、警察が取り扱う領域に多かれ少なかれ取り込まれてしまうことなのだ。だから、それにたいして動揺するのは当然で、あとは信じないという気持ちを泣くか怒るかどちらの態度であらわすかの違いしかない。そして関係者たちの感情的な反応が時間が経つにつれ落ち着いていくのもよくあることだった。警察が頼りにするのは複数の目撃証言や証拠であり、家族や親しいものたちは思い出しか味方になってくれるものがないのだから……



専門家の意見が一般のそれと相違するのはよくあることで、意見の正当性にではなく相違があることそれ自体に文句がつけられるのも同じくらいの頻度で存在する。そのため専門家はそういった文句の受け流し方や対処の仕方を多少なりとも身につけていたりするのだが、今回の場合、警察は専門家とはいえなかった。なぜなら、亜人が発生したのは十年ぶりの出来事なのだから。

深刻な病状の患者に事実を伝えるのは経験を積んだ医師ではなくてはならないのに、その役目を不条理にも警官が任されてしまった。美波が問いかけてくるたびに、巡査部長はそんなふうに思わざるをえなかった。

やがて美波も目のまえの警官に訴えかけるのは無駄なことだと気がついた。かれらも何も知らないのだ。命令を受け仕事をしに来ただけのいち公務員に過ぎないかれらは、保証も確約もできない。できるのは捕獲すること、それだけだった。


美波「あの、でも、刑事さんにはもう話をしたんですけれど」


美波は多少警戒しながら言った。眼にもどってきた光に失望を与えたくなかったし、そうなった瞬間の暗闇を戸崎に見られたくなかった。


戸崎「それはわかってます。ですが、亜人に関する一切はわれわれ亜人管理委員会に決定権があります。現在、警察によっておこなわれている永井圭の捜索、そしてその身柄の保護もわれわれの進言によるものとお考えください」


美波はふと助けを求めるかのように視線を部屋にさまよわせた。部屋の中に美波を助けてくれる人間はだれもいなかった。戸崎は話をつづけた。


戸崎「あなたの弟はすでに県外に逃亡したものとみています。そこでまずあなたにお聞きしたいのは、永井圭と行動をともにしている協力者についてです。どなたか心当たりのある人物は?」

美波「協力者、ですか」

戸崎「高校のクラスメイトの所在はすでに確認済です。ほかに弟さんと親しい人物はいませんでしたか? たとえば、子どもの頃によく遊んでいた人物などは?」


美波は既視感のある問いかけにたいして、さきほど巡査部長から質問をされたときとおなじように記憶を探ってみた。二回目の質問だったせいか、海斗のことがより鮮明に頭に浮かんできた。そして妹の病室を訪れた陰鬱な冬の日のことが連想され、かれではないのだろうという否定的な思いがいっそう強くなった。


美波「いえ、やっぱり心当たりはありません」

戸崎「そうですか」


美波は尋ねられたことに答えられないこと、協力者の正体に思いあたりがないことに自責を感じていた。それは戸崎や警察に協力したいからではなく、弟の行方にまったく見当がつかないことに対する愕然とした思いのせいだった。

圭が亜人だと発覚したあと、弟についてのあらゆる質問が美波に投げかけられた。 ーー普段の生活態度は? 最近変わったと思うことは? 夜中に出かけたりは? 問題を起こしたことは? あるいは最近なにかに悩んでいたりとか? 離婚についてどう感じていたと思いますか? 家族関係は? あなたとの関係は良好でしたか? 母親とは? 妹とは? 友人関係は? 協力者にほんとうに心当たりはないのですか? どんな場所に潜伏すると思います? これまでに亜人だと示す兆候はありましたか? 亜人だったと、ほんとうに気づいていなかったんですか?……


記憶を総ざらいにして巡査部長や戸崎からの質問の答えを導き出そうとしたのは、彼らの関心、永井圭は現在どこにいて、これからどうするのかという疑問の答えを美波自身がなによりも欲していたからだった。記憶の細部が見えるように画像や映像のかたちで蘇らせ、脳内でズームやスロー再生などの処理を施し情報を得ようとする。思い出をキャビネットのようにひっくり返し、瑣末な会話の切れ端から弟がどんなことに興味があり、どこで遊んでいたかだれと楽しさを共有していたのかを探り当てようと必死になる。その結果わかったのは、そこにはーー美波の記憶、思い出にはーー答えが存在しないということだった。

壁にかかっている時計の針の音が驚くほど大きく部屋に響いた。時刻はすでに二十三時を過ぎていて、白く光る天井の灯りに照らされている美波の身体が事態の発生時点から現在進行で緊張と疲労を積み重ねていた。そのせいで眼のまわりの皮膚が張り、痛みを訴えていた。このままでは眠るというより意識が切断されるということになりかねない状態だったが、美波にそれを感じ取れるだけの余裕はなく、この危機をどのように脱するかという問題に全神経を集中した。問題は内面的なものだけにとどまらなかった。姉である自分から弟についてたいした情報が得られないことが悟られてしまったら、戸崎は形式的な質問だけ行って聴取を早々と切り上げてしまうだろう。そうなってしまえば、弟がいたとう事実そのものが、朝の目覚めが夢を奪うようにきえていってしまう気がした。

美波は審判されるのが恐ろしかった。他人に審判されるのを恐れているのは、なかば自分自身を審判してしまっているからだった。


美波「あの、亜人管理委員会とはどんな組織なんでしょうか? 警察の方に聞いてもよくわからなくて」


美波は不安の種類を個人的なものから一般的なものにみせようと努めながら質問した。その成果があるのかどうかを判断するには、美波はまだ混乱のなかに居すぎていた。


戸崎「当然の疑問でしょうね」


戸崎は手袋をした手で眼鏡の位置を整えた。眼鏡が上に動いたとき、レンズの下半分のところが光を受け、反射した白い輝きが美波にむかって飛んできた。


戸崎「われわれが亜人の管理、研究を目的とした団体であることはもう理解されていると思います。活動内容は亜人関連法案に基づき規定されており、研究者や一部の政府関係者をのぞき、その内容は原則非公開となっています。たとえ亜人の親族であろうとも、面会や手紙のやり取り等はほぼ許可されないと考えてください」


言葉が刃のはたらきをして美波の心臓に突き破った。息の仕方を忘れてしまったかのように美波は口を開けたが、求めているのは別のものだった。


戸崎「これは亜人の安全の守るための措置です。十七年前にアフリカで初めて亜人が発見されて以降、世界各地でも発見されるようになった亜人に対して各国政府はその対応を早急に決定しなければなりませんでした。あらゆる分野において重大な研究価値を持つ亜人を違法な売買目的で捕獲しようとする、いわゆる“亜人狩り”が横行するようになったからです。これは亜人の発見率が高いアフリカや中東などの紛争地域にかぎらず、先進国においても報告されている事態なのです。それを専門とする職業的な密猟者や他国の工作員が亜人捕獲のために活動を開始していると考慮しなければなりません。ご自分が国家レベルの案件に関わっていることをどうかご理解していただきたい」

美波「懸賞金のことはどうなっているんですか? ニュースを見るたびに、その話が毎回といっていいほど出てくるんですよ?」


官僚的な語り口で事実を羅列する戸崎の話法は威圧することを目的としたいて、それは確かに効果をはたしていた。実際、美波は戸崎のしゃべり方や話す内容にかなりのところ怯んでいた。だが怯みっぱなしでいるわけにはいかなかった。このまま押しつぶされるようなことがあっては従えられてしまうと美波は漠然と信じていた。おそらくこれが、弟に起きたことについて関与できる最後のチャンスなのだ。故に、とにかくなんであれ問いを発しつづけなければならない。


戸崎「それはよくある誤解です。政府は一般市民による亜人捕獲を推奨したことは過去一度もありません」


戸崎はすこしの焦りもなくすぐに訂正の言葉を繋げた。


美波「でも、ニュースでは……」

戸崎「公的報奨金の支給はいっさいありません。亜人は犯罪者ではありませんから」


圭が亜人だとわかったとき、美波のなかに混乱と戸惑いの渦が起こった。その感情の渦には憤りも含まれていた。弟はふたたび命を吹き込まれた。なのに一体なぜ、わたしはそのことを喜べない状況にいなければならないのか。美波はさっきの戸崎の言葉によって、奥底に沈んでいた自身の憤りに気づき唇を噛んだ。

戸崎はその様子を観察していた。家族が亜人だった人間が表す感情のパターンを知識として記憶していたが、見るのははじめてだった。戸崎は美波が肩に力を入れ、指を強く握り、怒りに眉を寄せ唇を噛むのを見て、いまから言う言葉とその後の対処を決定した。


戸崎「もちろん、われわれも現状がベストであるとは考えていません。亜人本人の安全を最優先にした結果、プライバシーや人権に抵触する部分もでてきたのはまぎれもない事実なのですから。われわれとしても今回のようにある側面だけが誇張して取り沙汰され報道されるのは不本意なことなのです。亜人の保護管理というわれわれの活動に支障をきたしかねない」

美波「じゃあ、どうしてそう公表しないんですか?」

戸崎「公表はしているのです。ただ、だれもこの問題を知ろうとしていない」


空調が咳き込んだような音を出した。戸崎はその音を耳障りに思ったのかいったん言葉を切り、首をすこし傾け天井を見上げた。美波は戸崎が話を再開するのを待った。必死に。意識を耳に集中しているのに、時計の針の音や空調がごうごう鳴る音はどういうわけか聞こえなかった。


戸崎「厚生労働省のホームページにも記載されていることですが、一般人はおろかマスメディアの人間もこのことをほとんど知らない。公的機関による情報公開の限界を感じますよ」


その後の聴取は型通りに進んだ。聴取の最後に、戸崎は弟が亜人だったことについてどう思っているか率直な質問をした。美波はそれには答えず、すこしの沈黙を挟んでから言った。


美波「家族でも会えないのは、あくまで現状ではということなんですよね?」


戸崎は、もちろん、とだけ言い残して応接室から出ていった。聴取がおわったあと、美波は戸崎の言ったことの意味をじっくりと時間をかけて考えてみた。多くを望めない状況だということをあらためて思い知らされた。諦めなければならないことはあまりに多かった。人生がおおきく変わる出来事で、良くない方向にハンドルが切られている。すでに。美波の意志とは関係ないところで。

だが自分のやるべきことも見つかった気がした。それを考えるために必要な力を身体から絞りだそうと努力してみたが、疲労を積み込み過ぎた身体はそれを拒否した。

瞼が自然に落ちて、連鎖するように上半身が前のめりになり頭が膝の上にゆっくり沈んでいった。美波は意識が消える瞬間の暗闇を見た。ーーああ、またあの夢ーーそれだけが最後の残り火のように思い浮かび消えた。まるで死んだように美波は眠りに入っていった。


専務室の見事なくらい磨かれた床は光を受けて白く光り輝いていた。天井の明かりが部屋を満遍なく照らし出し、一目で高級品とわかる黒のビジネスデスクやパソコンモニターの反射しているところが白い斑点のようになっている。美城専務がページを繰っているホッチキス留めされた会議用の資料も例外ではなかった。さらさらした紙の上に黒くはっきりした文字が濃く印刷されている。

資料には亜人関連法案の概要と、それにもとづいた対応策の提案、事態解決までプロダクションがとる措置の指示などが書かれていた。ネットからひろった新聞記事をプリントアウトしたものもある。

記事は亜人の家族や友人知人に対するインタビューを集めたもので、オーストラリアの白血病で息子を亡くした母親、中国の交通事故で弟に死なれた兄、イギリスの暴動に巻き込まれ父親を失ったティーンエイジャーの娘、アメリカのコンビニエンスストアを営む夫を目の前で強盗に殺された妻、シエラレオネの同じ部隊の戦友の脳みそが顔にかかった元少年兵など、インタビュイーは国も年代も性別も様々だった。かれらの共通点はふたつ。愛する家族や友人を喪ってはいなかったという点、もうひとつは家族や友人を奪われたという点だった。

プロデューサーがデスクに座る専務に歩み寄って言った。ひかえめな一歩のせいで身体の大きさに比してわずかに頭部の影がデスクにかかった程度だったので、プロデューサーが口を開くまで専務はなんの反応も示さなかった。


武内P「専務、やはり私は新田さんを会見に出させるのは反対です」

美城「きみの意見は聞いていない」

武内P「聞いてください」


視線も向けず、にべもない態度の美城専務に、プロデューサーは食いさがった。


武内P「わが社の今後の対応についてならこの資料だけでも十分説明できます。会見場に新田さんが登場してもいたずらに騒ぎがおおきくなるだけかもしれません。マスコミはそのことだけを報道し、わが社の方針がむしろ伝わらないおそれもあります」


専務はぴくりとも動かなかった。それでもプロデューサーの言っていることをちゃんと耳で受け止めていたのが目を細めたことからわかった。しかし、専務がプロデューサーからの具申を聞いていたのは、検討するためではなく反対するためといった様子だった。美城専務はフラットな声で話をはじめた。


美城「むろんそのリスクも承知している。だが問題はアイドル部門だけにとどまらない。プロダクション全体の業務が見直しをしなければならない状況だ。それだけではない。永井圭が新田美波の弟だと報道されてから、株価にも影響が出始めている。講じれる対応策は講じなければならない。永井圭が早急に保護されること、それが事態収拾のためには必須だ。それは理解しているだろう?」

武内P「しかし……!」

美城「そもそもきみにこの件に関する決定権はない。きみも美城の社員ならば上からの命令には従ってもらおう」


議論の余地はなかった。プロデューサーをこの部屋に呼んだのは議論するためでも意見を聞くためでもなく、命令するためだった。プロデューサーは美波が所属するプロジェクトの責任者であったからここに呼ばれたにすぎなかった。

専務室にはプロデューサーの直接の上司である今西部長もいた。彼は苦悩が痛覚を刺激しているような面持ちで沈黙を守っていた。今西には美城に言うことが理解できたし、プロデューサー言うことも理解できた。理解だけにとどまっていることが彼に痛みをもたらしていた。

プロデューサーは祈るような声で言った。


武内P「新田さんはいまもっとも辛い立場にいるんです。どうか……」

美城「きみは妙なことを言うな」


美城専務はそこではじめて資料から目線をあげ、プロデューサーを見た。


美城「いちばん辛いのは永井圭のほうだろう」


そのひとことがプロデューサーの動きを完全にとめた。雷に打たれたという表現がぴったりくる有様だった。美城専務はそんなプロデューサーの様子を気にもとめず言葉をつづけた。


美城「それに、新田美波本人が会見に出たいと言ったらきみはどうするつもりなんだ? 今回の事態に対する私の対処は美城プロダクションの専務取締役としてのものだ。私にはプロダクションに所属する従業員やアイドル、株主たちに対する責任がある。私はそれを放棄するつもりはない。新田美波にしても、アイドルとして活動を続けるのならなんらかの声明を求められるだろう。彼女にとっては家族の問題なのだから、どうしたってついて回ってくる。それくらいの自覚はあるはずだ。たいしてきみはどうなんだ? さっきの言葉は一従業員としての提言か? それとも、個人的な感傷による発言なのか?」


ドアをノックする音がした。断りを入れ部屋に入ってきた社員が聴取が終わったことを伝えた。戸崎たちを会議室に案内したという報告を聞いた美城専務は席をたち、凍りついたように固まっているプロデューサーの横を通りすぎた。


美城「会議が終わったら、新田美波に会って話を聞くことだ。きみの仕事はまずそこからだ」


プロデューサーが振り返ったとき、専務はもう姿を消していた。彼の目に入ったのは、なにも言わず閉じたままになっているマホガニー製の黒いドアばかりだった。


駐車場ではコンクリート柱が陰鬱そうに光を吸収し、不吉な緑色に染まっていた。目に見えるほどの大きさの粒子が降り注いでいるかのようなざらついた雰囲気の空間のなかに戸崎たちが乗ってきた公用車はあった。駐車されているセダンはおとなしく動きをとめたまま、黒い車体のつややかさをアピールしていた。

会議が終了し、駐車場まで戻ってきた戸崎はこの光景に微かな違和感を覚えた。間違い探しをしているかのような感覚。類似した二枚の絵を並べて、ほんのわずかに異なる点を挙げる。どことはいえないがたしかに異なるところが駐車場の風景にはあった。

とはいえ、人間の認識の曖昧さをあげつらって遊ぶゲームに戸崎は興味がなかったし、そもそもゲームをする暇がなかった。戸崎はセダンの助手席に乗り込んだ。運転席についた下村が戸崎に聞いた。


下村「次は埼玉の永井宅ですね」

戸崎「ああ。運転を頼む」


下村はシリンダーに差し込んだイグニッションキーを回し、エンジンを点火した。エンジンの唸り声がして、かすかな振動が椅子から伝わった。


下村「懸賞金のこと、説明してよかったんですか?」


セダンを出発させるまえに、下村は気になっていたことを戸崎にたずねた。


戸崎「かまわん。懸賞金の噂は亜人の目撃情報を集めるのに役立つからいままで訂正してこなかっただけだ。彼女が記者会見で情報を呼びかけるというなら、懸賞金より効率的に集まるだろう」


戸崎は素っ気なくこたえ、下村に視線をむけた。


戸崎「新田美波の携帯はすでに傍受しているな?」

下村「はい。すでに警察が準備を整えています。永井圭から連絡があれば、すぐに位置を割り出せます」

戸崎「そうか。それと、新田美波を亜人擁護思想者のリストに加えておけ」

下村「彼女は、ただ弟の心配をしてるだけでは?」

戸崎「新田美波は亜人擁護思想者だ。二度も言わせるな」

下村「……はい」

戸崎「余計な感傷は捨てることだ。きみは私と契約を結んだ。その完遂だけを考え行動しろ。それがきみのためだ」

下村「わかりました」

戸崎「目的を達成したければ、感情を封じ行動を目的にあわせて最適化せねばならない。良心や善意だけでの行動はときとして歪んだ結果を招く」


戸崎が例にあげたのは、スーダンで活動する奴隷反対を使命のに掲げるとあるNGOのことだった。かれらは第二次スーダン内戦以降悪化する国内情勢のなか、暴虐をふるう民兵たちによって誘拐され、虐待され、奴隷として売り払われる人びとを救うために行動を開始した。

人間の尊厳と権利を守るためにかれらが最大の力をいれおこなったことは、奴隷の買取だった。不幸にして奴隷に身をやつした人びとを自由へと解放するのに、かれらは金で解決するならと、すすんで誘拐者や奴隷商人に金銭を支払った。役にたちそうにない奴隷でも、いやだからこそ、善意のかれらは金を支払うことをためらわなかった。そして買い取られた奴隷たちは自由になった。NGOの人びとの善意は満たされた。奴隷商人たちはあらたな上客ができたことをよろこんだ。需要があれば供給がある。システムに無理解な善意あるいは良心はこういうことを引き起こす。


戸崎「われわれ公人は国民全体の利益、最大多数の最大幸福を追求するため、感情に流されることのない冷静な判断が必要とされる。少数を切り捨てることがあったとしても、それを実行できる人間でなくてはならない」


下村は戸崎の話を聞いていたが、肯定の返事をしない口実にするため車の運転に集中した。下村の意識はフロントガラスに一瞬だけ映ったかと思うともう上に飛んでいく車道の灯りとヘッドライトに照らされた車体の下を流れていく道路から、さっき戸崎が自分に言い聞かせたことにむかっていた。

戸崎さんはああ言ったけれど、と下村は考えた。功利を定めるのに、良心や善意といった利他的感情はけっして無力というわけではないのではないか。現代における社会では相互互助が目指されている。建前にすぎないと笑うのは簡単だが、すべての人間が笑い飛ばせば、それは誰ひとり笑う者のいない最悪のジョークになってしまう。利他的感情は万能とはいえなくとも、それらはある種の基準となりうるはず。わたしがそれらを押さえ込む場面を想像するのはむずかしいが、そうしなければ仕事はできない……


セダンは県境を越え、永井の家がある埼玉県へと入っていった。都心からはなれ、明かりもビルもかなり減っていたが、それでもまだ高速道路を走る車の数はまばらに存在し、セダンが車両を追い越したり、反対車線の車のヘッドライトがフロントガラスから飛び込んできたりした。

後方に流れていく車や光を眼鏡のレンズ越しに眺めながら、戸崎は駐車場での違和感に突然思いあたった。駐車場からビルへの通用口を警備する警官二名が不在だったのだ。

運転席の下村はハンドルを握りながらじっと前を向いて、いささか横道にそれた考えにふけっていた。それはある種の仮定だった。良心や善意のない人間がもしいるとすれば、と下村は思ってみた。そのひと、いったいはどんなことをするのだろう、と。


美波は決断を下していた。すくなくとも、プロデューサーにはそう見えた。

じっと呼吸をこらえ海の底にでもとどまっているかのように、美波は応接室の革貼りのソファに、背中を丸めながら前を見て座っていた。頭の働かせるのに視線が役にたつと思っているのか、美波は正面にある誰もいないソファを凝視している。

プロデューサーが応接室にはいってきたときも、美波は微動だにせず、なんの反応もみせないまま座り続けていた。


武内P「新田さん」


プロデューサーに呼びかけられたとき、美波ははた目でもわかるようにおおきく息を吸い彼のほうを向いた。


美波「……プロデューサーさん、記者会見について詳しく聞かせてくれますか?」


プロデューサーはすぐには口を開かなかった。彼は美波の正面にある来客用の黒いソファに腰をおろし顔をあげた。顔をあげたとき、プロデューサーの目は美波の視線とぶつかった。美波はさっきの言葉を言い終えるとすぐに顔の向きを戻し、プロデューサーの動きを目で追うことなくふたたびずっと正面を見続けていた。プロデューサーは、ふと腰をおろし息をついたとき、突然目の前にあった彫像が目に飛び込んできたかのような錯覚に陥った。ややあってから、彼が美波にたずねた。


武内P「出席されるおつもりですか?」

美波「はい。反対なんですか?」

武内P「いまこの段階では、リスクが大きいかと……」

美波「亜人管理委員会の戸崎さんに話を聞きました。圭はいま危険な状況にいることを。だから、いまじゃないとダメなんです」

武内P「私も同様のことは会議で聞きました。弟さんが無事に保護されるために正しい情報が報道されなければならないこともわかります。私が懸念しているのは、新田さんの登場によってそういった情報が正しく報道されるかどうかという点です」


美波は黙ったまま話を聞いていた。美波と対面するかたちでプロデューサーはソファに腰掛けていた。目の前の美波は顔をあげ、プロデューサーと視線を交えている。そこにあるのは綱引きのような緊張関係だった。美波はプロデューサーの協力を求めていたが、無条件になんでも受け入れることはできなかった。自分の意志が最大限に尊重されることが前提で、それが認められないなら別の人間に助けを求める意志があること彼女の眼は語っていた。美波の視線が鋭さと潤みを増すのを見てとりながら、プロデューサーは話を先にすすめた。


武内P「いちど拡散された情報は回収ができないどころか、恣意的な編集によって情報が歪められる恐れがあります。悪意をもってそう意図するわけではなく、ただ単に放送しやすくするためという理由でおこなわれた編集でもそういったことは起こりえるのです。すべてのメディアが内容にも配慮するという保証はありません。映像それ自体に重きを置いた加工がなされても、それは報道する側の自由なんです」

美波「なにもせずにこのまま黙っていることが得策だと言うんですか?」

武内P「戸崎氏がおっしゃったことなら、わが社の広報からでも伝えることは可能です。新田さんは、それでも会見にお出になられるとおっしゃるのですか?」


いっときの沈黙ができた。応接室は時計と空調と観葉植物の葉が壁にこすれる音に満たされた。すこししてふたたび美波が口を開いたとき、その声には切実な感情が滲みでていた。


美波「プロデューサーさんのおっしゃることはよくわかったつもりです。わたしの心配をしてくれていることも、いまの状況について冷静な意見をおっしゃてくれたこともわかっています。でも、わたしにとって、問題は圭がどう受け止めるかってことなんです。警察や政府の人たちが圭を追って、一般の人たちも大騒ぎしているとき、安全が保証されるから政府に保護されるべきだとニュースで報道されたとしても、それを信じるでしょうか?」

武内P「新田さんのおっしゃることなら信じてくれる、と?」

美波「……わかりません。でも、もしかしたら信じてくれるかもしれない」


美波は正直に自分の思ってることを言葉にした。そのことを実際の音声で聞いたとき、それほどショックを受けていない自分に気づいた。あいまいな希望だとわかっていても、なにかをしないではいられなかった。美波の言葉を聞いたプロデューサーはうつむいていた。ややあってから、プロデューサーが口を開いた。


武内P「政府に保護された亜人は、たとえ家族といえど面会はできないと聞いています。新田さんは、それでもかまわないのですか?」

美波「そのことも考えてみました。圭が安全な場所にいることが、わたしが最優先にすることなんです」


プロデューサーはまた沈黙した。だが、今度はうつむかなかった。


武内P「私は、あなたのプロデューサーとして意見を述べたにすぎません。あなたが私の意見を聞き、そのうえで会見に出ると決断されたのなら、私はあなたを全力でサポートします。それが私の仕事です」


美波は鼻を啜り、とめていた呼吸を再開したかのように息を吐いた。潤みに満ちた声で、ありがとうございます、と礼を述べた美波に、プロデューサーはこう応えた。


武内P「新田さんのプロデューサーですから」


プロデューサーの言葉は、美波の味方でいることを決断したと伝えていた。


武内P「会見で発表する声明ですが、できるだけ改編が難しいような文章を書かせましょう」


なんの前触れもなくドアが開いた。


「あ、いた」


応接室に姿を現したのはハンチング帽をかぶった初老の男だった。年齢は今西と同程度だったが、体躯を支えるしっかりとした筋肉がそなわっていて、一七三センチ程度の年齢からしてはかなりの背丈をしていた。帽子の下からは白髪がのぞいていて、半袖のシャツの裾をサスペンダー付きのズボンのなかに入れている。その男はナイフでいれた切れ目のような細い目をしていた。穏やかな表情をしているのに、目の奥がまったくうかがえない。


「あなたが新田美波さん? 永井圭くんのお姉さんの」

武内P「記者の方は立ち入り禁止です。すぐにお引き取りを」

「私は記者ではなく、永井君のことを心配する者です」


めずらしく威圧感を発し、おいかえそうとするプロデューサーを帽子の男はやんわりと制した。帽子の男は背をそらし視界を遮っているプロデューサーの身体をよけた。そして美波をみて、言った。


「私は亜人の市民権獲得をめざす団体の一員です。ここへは亜人の権利を守る活動の一環としてきました」

美波「厚労省のかたではないんですか?」

「ええ。亜人保護委員会という名称の民間団体です」

美波「それで、あの……」

「ああ! 申し遅れました」


帽子の男は一歩前に出て言った。応接室にはいってきたときから変わらず、部屋のなかでただひとりだけ、深刻さとは無縁の穏和な表情をうかべていた。


「私は佐藤と申します」


帽子の男はそのように名乗った。

今日はここまで。仕事が忙しかったり、書きためが消えたりして(そんなに量はなかったですが)、更新がだいぶ遅れてしまいました。もともと遅筆なので2週間に1回更新できればといいほうだと、どうか大目にみてください。

わりと余談なんですが、ベトナム戦争ではフェニックス作戦という秘密作戦が展開されてたそうで、内容をみるかぎり、佐藤さんは確実にこの作戦に従事してたなあ、と思います。


3.サービスにするのもいいかもね


完全に黒い物体ならばどんなに鋭敏な視覚でも捕えることができないし、見ることができない、と彼は主張した。

「透明。すべての光線を通過させる物体の状態もしくは性質」

ーージャック・ロンドン「影と光」


佐藤とのみ名乗った帽子の男が差し出した名刺にも、姓である佐藤の文字が明朝体で印刷されているだけで、下の名前はいっさいわからなかった。ほかには亜人保護委員会という団体名と事務局長という役職名あるのみで、玄関の表札をそのまま名刺に移し替えたかのようにシンプルでそっけなかった。

佐藤が名刺を渡すためシャツの胸ポケットから名刺入れを取り出そうと頭をさげたとき、ハンチング帽の庇の先が下を向いた。帽子を真上から見下ろしたかたちになるそのシルエットはどことなく爬虫類の頭部を連想させ、佐藤の顔の上にある穏和さと食い違う印象をあたえた。


武内P「佐藤さん、あなたが記者ではないということはわかりました」


プロデューサーは佐藤から渡された名刺を見て言った。


佐藤「それはよかった」

武内P「ですが、現在我が社は外部の方への応対まで手が回らない状況です。申しわけ有りませんが後日またアポを取ってからお越しいただけますか?」

佐藤「いや、私もそうすべきかと思ったんですがね」


佐藤はソファに腰をおろしていた。その表情はいつのまにか真剣なものに変わっていた。


佐藤「永井君が政府に捕まってしまうまえに、なんとか彼の安全を確保したいのですよ」


美波「それはいったいどういうことなんですか?」


美波は押し込めていた感情に突き飛ばされたかのように身を乗り出し、佐藤の言葉にたいして過敏に反応した。佐藤が美波をほうをむいた。帽子の影が額にかかり、佐藤の細い眼は光があたっている部分と影とのちょうど境界線にあたるところにあった。


佐藤「政府は亜人を使って違法な人体実験をしてるということです」


と、佐藤は言った。


美波「まさか……そんなこと……」

佐藤「二〇〇五年に映像が流出し問題になった、米軍による敵軍捕虜の亜人に対する人体実験をおぼえておいでですか? 拷問のような非人道的行為です。あの映像流出を機に、ネット上では亜人研究に関する機密情報や内部告発が多く見られるようになりました。それでも各国政府は、政府が管理する亜人について、情報公開をいっさいしていません」

武内P「ちょっと待ってください。そのニュースなら私も知っていますが、あれは軍が独断でおこなったことでしょう? なぜ政府が亜人の人体実験をおこなっているということになるんです?」

佐藤「事実、おこなっているからですよ」


佐藤はプロデューサーの質問を断ち切るような答えを返し、話を続けた。


佐藤「亜人が死んだ回数を測定する方法をご存知ですか? 亜人に痛みを与え、そのときの脳の反応を見ることでその亜人が何回死んだか予測することができるんです。亜人研究は、亜人であった者に苦痛を与えることが前提になっているのです」

美波「でも、亜人管理委員会の方は亜人狩りの危険から守るためだって……」

佐藤「その言葉に嘘はないでしょう。亜人の研究は大きな利益を生み出しますからね」


プロデューサーも美波も佐藤の話す内容に困惑するしかなかった。プロデューサーは話の内容よりも佐藤の行いについて、佐藤が見計らったかのようにここへやって来て、戸崎の嘘を暴くかのように話すことへの困惑のほうが大きかった。それが事実なのかどうかを判断するほどの材料がこちらにはなく、相手側もそのことを知っている。情報についての階級差がありすぎた。

佐藤の指を組んだ手が膝のあいだに浮いていた。帽子の男の声音はちょうどこの手のような静止状態をあらわしていた。事実とされる言葉の連なりが淡々と宙空に放り出される物体のように提示されると、それらはまるで静物のように動きを止め観察と検討を強いてくる。

佐藤はさらに言葉を重ねた。それは、耳を疑うような内容だった。


佐藤「私たちの願いはささやかなものです。だが重要でもある。それは平和です。普通の人々が享受しているささやかな平和をわれわれは欲しているのです」


佐藤の顔つきは真剣そのものだった。“われわれ”という主語は、意識的に選択されたものだということがその顔からわかった。だが、その語が意味する範囲は、美波やプロデューサーにとって不確定で、同定しえないものを含んでいた。

“われわれ”。その“われわれ”のなかには、いったいだれが、どれほどの人数が、含まれているのだろうか。これまでの説明から、佐藤は亜人である永井圭を“われわれ”の一員としてむかえいれようとしていることは美波にも推測できた。問題は佐藤の言う“われわれ”のなかで、佐藤自身がどのような位置にいるのかという点だ。美波の目の前にいるこの帽子の男は市民団体の事務局長でしかないのか、あるいは……

もしこの人のいうことが真実で、そして圭とおなじ身体をしているのだとしたら、と美波は思った。この人のほうが圭の味方にふさわしいのかもしれない。ともすれば、わたしよりも。

美波のこころは佐藤のほうに傾きかけていた。軽挙を避けるべきだという考えはあったとしても、佐藤からふたたびはたらきかけがあればひかえめな一歩を踏み出してしまいそうな気持ちになっていた。


美波「でも、わたしになにができるんでしょうか?」

佐藤「まずは永井君のことを聞かせてください。大丈夫。どんなにささいな行動でも、それが真剣なものなら、かならず変化のきっかけになりますよ」


佐藤の表情はドアが開きこの部屋に入ってきたときのような微笑みにもどっていた。美波はその変化をつぶさに見てとった。それは表情筋のはたらきだけに還元可能な、まるで笑顔の作り方を指導するかのような口角の上げ方だった。


武内P「変化とは?」


プロデューサーが思わず口をはさんだ。理由はわからないが、佐藤のいう変化が美波や彼女の弟が望んでいる類いのものだとは思えなかったからだ。そんなプロデューサーの考えを知ってかしらずか、佐藤の返答はいやにあっさりしていた。


佐藤「亜人にとって住み良い国になるということですよ」


そこでノックの音がした。ドアを開けて部屋にはいってきたのは事務員の千川ちひろだった。蛍光緑の上着がきらきらと光をはね返している。プロデューサーが立ち上がり、彼女に近づいた。ちひろは声をひそめて早口に喋っていた。緊急に伝えることが起きたようだ。

美波もそちらに目を向けていたが、横から聞こえきた息のぬける軽い音に首をまわした。佐藤だった。言いつけのせいでゲームを中断せざるをえないときのような残念そうな表情を一瞬だけ浮かべていた。


佐藤「なにか問題が起きたみたいですね」


ちひろはそこで美波のまえに座っている帽子の男が見知らぬ人物であることに気づいたようだった。すこしだけばつの悪い顔をすると、すぐに表情をもどして言った。


ちひろ「申し訳ありません、慌ただしいところをお見せしてしまって……」

佐藤「いえいえ、アポもなしに来たのはこちらのほうですから」


そう言うと佐藤は腕時計に目を落とし、ソファから立ちあがった。


佐藤「ではそろそろ失礼します」


美波はあっけにとられた。佐藤の表情から波でさらわれたかのように真剣さが消えていた。目当ての品物が店に置いてなかったときにみせる足取りで部屋を横切り、あっという間にドアの前まできた。

かろうじてプロデューサーが去ってゆくのを思いとどまらせようと、佐藤の背中に声をかけようとした。つぎの瞬間、佐藤は首をめぐらし部屋のなかにいる三人を視界におさめながらふたたび口角をあげた。


佐藤「そうそう。政府による亜人虐待の証拠ですが、近いうちにお見せできると思いますよ」


佐藤は帽子のつばを持ち上げると、応接室から去っていった。残された三人はそれぞれ種類のちがう困惑を胸に浮かべていた。そのなかでもとくに美波は、なにかに見捨てられたような気持ちに陥っていた。感情そのものが錨になったみたいに、美波はソファに座ったまま、身動きがとれないでいた。


プロダクションからすこし離れたところに位置しているコインパーキングは、病気にかかったみたいな緑色をした街灯に照らされていた。光は、その駐車場に停めてある一台のワンボックスカーの運転席に座っている男の額にもあたっていた。オールバックにした黒髪が艶やかに緑の光線を反射している。男の眼つきは凶暴そのもので、解放されてからずっと眼に映る人間すべてにナイフを一突きしたくてたまらないようだったが、いまは眠気が瞼になっているみたいに眼を閉じかけていた。

男はなんとか瞼を押し上げ、腕時計を見て時刻を確認した。夜の十二時を過ぎていた。男は腕時計に視線を落としたまま腕を上げ、デジタルの標示盤を囲みを目の下に押し当て、眠気を追い出そうとした。できるだけ眠りたくはなかった。眠れば、記憶が夢のもとになって蘇ってくる。男の人生の三分の一ほどを占める十年という時間は、苦痛の記憶だった。男の脳はこれまで何度も潰されたり、切り取られたり、撃ち抜かれたり、破壊されてきたが、それでも苦痛の記憶はひとつも欠落することはなかった。

男は半分ほど飲み干した缶コーヒーに口をつけた。砂糖とミルクもないブラックコーヒーだったが、しばらくすると眠気との戦いには役に立たないことがわかった。


佐藤「おまたせ、田中君」


車のドアが開いた音がした。声のしたほうを向くと、帽子の男が助手席に乗り込んでいた。田中の眼がぱっちりと開いた。


田中「すいません、ちょっとうとうとしてました」

佐藤「いいよ。もう夜も遅いからね」


田中はハンドルに両手を置き、腕を伸ばした。筋肉が伸長し、関節がぽきぽきと音をたてた。そして今度は車の時計を見た。さっき腕時計で確認した時刻から十分程度過ぎたくらいだった。


田中「けっこう早かったすね」

佐藤「残念ながら時間切れでね。思ったりよりはやく気づかれちゃったよ」

田中「それじゃ話は聞けなかったんすか?」

佐藤「うん」


佐藤はこともなげに言った。


田中「佐藤さんなら、ふつうに忍び込むくらいできたんじゃないですか?」

佐藤「それじゃあ、おもしろくないじゃない」


田中はため息をついた。


田中「まあでも、どうせたいした話は聞けなかったと思いますよ。姉っていっても、長い間離れて暮らしてたらしいですし」

佐藤「え? そうなの?」

田中「知らなかったんすか……」

佐藤「なるほど、それで名字が違ったのか」


佐藤の態度にさすがの田中もすこし呆れた様子だった。


田中「それで次はどうします?」

佐藤「永井君には妹さんもいたよね」

田中「はい」

佐藤「じゃ、日が昇ったら妹さんのところに向かおう。今日のことできっと警備もすこし厳重になってるかもしれなけど、田中君に任せていいかな?」

田中「問題無いです」

佐藤「今日、私がやったようにすればいいから」


佐藤は首をくいっとかるく動かし、トランクのほうを示した。そこには大型のクーラーボックスが二つあった。バックドアからみて右側の奥に横向きにして並べて置かれている。市販されているものでは最大容量のもので、押し込めることができるのなら人間くらいならはいりそうな箱だった。クーラーボックスの蓋はぴったり閉じられていた。蓋の周りには灰色のダクトテープが何重にも巻かれていて、箱の中身いっぱいに液体が詰まっていたとしてもそれが漏れ出る心配はなさそうだった。


佐藤「操作のコツはもう掴んだかい?」

田中「はい。任せてください」


そう言うと、田中はさっきの佐藤よりも大きく首をめぐらし、クーラーボックスに顔を向けた。


田中「でも、あれどうするんですか?」

佐藤「適当に処分してもいいけど、サービスにするのもいいかもね」


田中はよくわからないといった様子で、佐藤の顔を見やった。


佐藤「いろいろ入用になるだろうし、使える臓器は猫沢さんにあげちゃおう」


佐藤は柔和に微笑みながら言った。 そして、ワンボックスカーが駐車場から出発した。発進するときの揺れで、トランクのクーラーボックスがガタンと音をたてた。だが、佐藤も田中も、クーラーボックスの中にいるものは決して生き返らないことを知っていた。ワンボックスカーは街灯に一瞬だけ照らされた。光が車体のうえをなめらかにすべっていく。だがそれもわずかなあいでのことで、二人の亜人を乗せた車は闇になかに消え、すぐに見えなくなった。

章の途中ですが、今日はここまで。

デレマスの曲で佐藤さんにぴったりのやつがあるかなぁと考えた結果、「絶対特権主張しますっ!」が歌詞の内容的にすごい合うと思いました。

>>88 の文章が一部抜けてたので訂正


プロダクションからすこし離れたところに位置しているコインパーキングは、病気にかかったみたいな緑色をした街灯に照らされていた。光は、その駐車場に停めてある一台のワンボックスカーの運転席に座っている男の額にもあたっていた。オールバックにした黒髪が艶やかに緑の光線を反射している。男の眼つきは凶暴そのもので、解放されてからずっと眼に映る人間すべてにナイフを一突きしたくてたまらないようだったが、いまは眠気が瞼になっているみたいに眼を閉じかけていた。

男はなんとか瞼を押し上げ、腕時計を見て時刻を確認した。夜の十二時を過ぎていた。男は腕時計に視線を落としたまま腕を上げ、デジタルの標示盤を囲みを目の下に押し当て、眠気を追い出そうとした。できるだけ眠りたくはなかった。眠れば、記憶が夢のもとになって蘇ってくる。男の人生の三分の一ほどを占める十年という時間は、苦痛の記憶だった。男の脳はこれまで何度も潰されたり、切り取られたり、撃ち抜かれたり、破壊されてきたが、それでも苦痛の記憶はひとつも欠落することはなかった。心理学者ウィリアム・ニーダーラントの指摘するところでは、犠牲者は凄まじいエネルギーでわが身が嘗めたことを記憶から締めだそうとするが、たいていの場合それに成功しない。

男は半分ほど飲み干した缶コーヒーに口をつけた。砂糖とミルクもないブラックコーヒーだったが、しばらくすると眠気との戦いには役に立たないことがわかった。


佐藤「おまたせ、田中君」


車のドアが開いた音がした。声のしたほうを向くと、帽子の男が助手席に乗り込んでいた。田中の眼がぱっちりと開いた。

更新遅くて申し訳有りません。いま頑張って続きを書いてます。

今日はとても驚いたことがあったのでそれだけお伝えします。たまたまYouTubeで見てたこのサイレント映画→(https://youtu.be/BVSFlSxNvLg /D・W・グリフィス『見えざる敵』An Unseen Enemy/1912)に、佐藤がフォージ安全社長の甲斐を殺害した方法そっくりそのままのシーンがありました。壁の穴からリボルバーが出てくるだけでなく、ドロシー・ギッシュの顔に銃口が向くシーンまであるんですよね。

オマージュか、偶然の一致かは分かりませんが。

日本語字幕付きの動画があったので貼っておきます。
https://youtu.be/ITk2FkRdbcA

専務のセリフで明後日の会見とありましたが、明日の会見の間違いでした。脳内訂正お願いします。


七月二十四日午後二時三十八分


テレビの液晶画面に美波の姿がふたたび映る。プロジェクトルームには美波をのぞくすべてのメンバーがいて、正午頃に行われた会見の様子を何度も繰り返し流している番組を無言のまま迷ったように見つめている。横長の画面のなかで美波は装飾のない白いブラウスに身を包み、昨夜戸崎から受けた説明を記者たちにむかって淡々と語っていた。この映像の意味はつまり、美波は亜人管理委員会の側についたということだった。

戸崎たちが去った直後にあらわれ、自身を亜人だとほのめかしながら、かれらの欺瞞と亜人管理の実態を暴露しに来た佐藤に心情的に傾きながらも、美波が会見で亜人管理委員会側の論調をなぞったのは、あのとき帽子の男がプロダクションビル内にいたと証明できるものが佐藤を直接目にした三人、美波とプロデューサーと千川ちひろ以外には誰もいなかったからだった。

佐藤が美波たちの前に姿を見せた時刻を前後して、駐車場からビル内への通用口を警備する二名の警官が突如として姿を消していた。その二名の消息は現在も杳として知れないままで、何が起きたのかを記録しているはずの駐車場に設置されていた複数の監視カメラはすべて破壊されていた。


昨日事情聴取にやって来た巡査部長が早朝から、美波たちがプロダクションに着くより先に待機していた。巡査部長は口を苦々しくきつく一文字に結び、顔の筋肉のこわばりが唇に続く筋を頬に作っていた。巡査部長の唇は鮮やかな桜のように血色の良い色をしていたが、こわばりのせいで見えなくなっていた。事件を説明した巡査部長は美波たちに気になる点や怪しい人物を見なかったか質問した。プロデューサーが真っ先に事実を報告した。佐藤が現れたとおぼしき時刻、美波とプロデューサーにむけて語った会話の内容、ちひろが異変を報告しにきた途端に会談の途中にかかわらす切り上げ去っていったこと、これらを簡潔に事実とそうでない部分を峻別しながら質問に答えた。巡査部長はちひろと美波にも同様の質問をした。ちひろはプロデューサーが言ったことに間違いはないと答えた。美波は答えるのにすこし迷っていたが、事実を曲げるようなことは言わなかった。

話を聞いた巡査部長は、帽子の男の正体を亜人狩りを生業とする密猟者の一味ではないかと推測し、プロデューサーらに警戒をより厳重にするよう忠告し去っていった。プロデューサーとちひろも巡査部長の推測、すくなくとも帽子の男は危険人物と見なすべきだという意見に賛成だった。美波も、状況証拠が匂わせる容疑の濃さを認めざるを得なかったし、実際プロデューサーやちひろにほぼ同意していた。しかし、美波にはもうひとつの可能性を検討する必要があった。佐藤が事実を語っていたという可能性。佐藤は亜人で、亜人管理委員会は亜人の虐待を行っていて、世間はそのことに無関心だという可能性のことだ。


この可能性は、佐藤が警官の失踪に関係があるという推測と矛盾しない。むしろ、上記の理由がそのまま動機となり得た。その場合、弟を佐藤に預けるのは安全といえるのだろうか。ある意味では、安全といえるのかもしれない。だがその安全とは、確保するために身分を偽ることや、ことによったら人を殺す必要性がある類いのものだ。社会的弱者が権利を拡大するのに、暴力が主張を訴える手段として選択されるのはどんな社会においても為されてきた。それはテロリズムとは別の文脈で検討されなければならない(しかし、家族がその運動に参加するとなると話は違ってくる)。

極端なこといえば、亜人管理委員会か佐藤のどちらかを選択することは、社会か周縁か、どちら側の味方になるのかを表明することだった。亜人管理委員会を選べば、弟は実験体にされる。佐藤が語ったような生体実験の事実がなかったとしても、亜人は貴重な生物であることにかわりはないから、呼吸や心拍音ですら研究のために計測され記録されるだろう。亜人と発覚した者は、研究対象されることによってはじめて社会の内側に存在することを許される。


佐藤の場合はどうなのだろう? 圭も監視カメラを破壊したり、人間の失踪に関わったりするようになるのだろうか? それとも佐藤はやっぱり亜人の味方で、圭に畳の上に蒲団を敷いた居心地の良い寝床を用意してくれるのだろうか(圭が安心できる部屋の風景のイメージが和風だったのは、おそらく研究施設に和室がないだろうと美波が想像していたからだった)?

いや、でもやっぱり、正直に言ってしまおう。わたしは不安を感じていたのだ。あの人の微笑みは穏やかでやわらかかった。ぎこちないところは少しもなくて、頬が上がると目尻の皺がいっしょになっていままさに線が描かれているかのように曲線が深くなった。でもあの表情は内面の感情から起こされたものではなかった。それはどこまでも顔筋の作用に還元できた。あの人は笑顔を操作していた。佐藤さんの笑顔は、空欄のある数式に正しい答えを書き込むことを思わせた。そうすれば、わたしから圭のことを聞き出せるから。なんでこんなことを考えているのだろう? 考えることと不安を感じることは頭の別々のはたらきで、考えてみると不安という感情には根拠がないとわかってくる。違和感だけでは、佐藤さんがほんとうはどんな人なのか判断できない。そう、わたしは佐藤さんのことが、全然わからない……

美波はこれ以上このわからなさに留まって、自分なりの答えを出すことはできなかった。映像が記録しているとおり、美波は亜人管理委員会の方針に則った。美波が思考を働かせた可能性やわからなさは、どちら側の選択がおわったあとでも消えてなくなったわけではなく依然としてこの世に存在していて、空気のように見えなくてもなんらかのかたちを持ってあらわれてくるのを待っていた。美波だってその可能性やわからなさを放棄したわけではなかったが、会見を見る多くの人間にとってそんなことは関係なく、こちら側にいる人間として発信されたメッセージを、主にかわいそうだねとかるく同情しながら安心して受け取った。

シンデレラプロジェクトのメンバーたちは、安心したとはいえなかった。



李衣菜「美波さん……大丈夫かな?」

みく「そんなの……」


前川みくの言葉はそこまでだった。

プロジェクトルームは明るかった。窓から差し込んでくる陽の光が最も強烈になる時間帯だったし、天井のライトは白く人間の眼にやさしく受容し易い光線を部屋の中のあらゆる場所に届いていたから、部屋に暗いところはいっさいなかった。テレビはつけっぱなしになっていたが、彼女たちはもうテレビに視線を向けていなかった。彼女たちは、床や膝やスカートの模様やそのうえに置かれている手ーーもっと正確にいえば指の第二関節のあたりーーなどにぼんやりと霧消する感覚をともなって眼を向いていた。

失語症患者のリハビリが行われているかのような雰囲気のなかで、緒方智絵里が不意に、自分でもわからない理由で顔を上げた。見えたものといえば、石像のように固まっている自分たちの姿だった。どうしようもなくなり、智絵里も石像に戻っていった。


部屋の中には千川ちひろと今西部長もいた。二人は立ったままで彼女を視野に収めるくらいのことはしていたが、それは眼の位置がそうさせているだけのことであってそこに見守るという大人らしい態度は希薄だった。亜人について、大人も子供もほとんどなにもわかっていなかったからだ。わかっていないということを自覚する以前の無関心さは、この部屋いるすべての人間が共有していた。

プロジェクトルーム入り口のドアが開いた。プロデューサーが会見場から帰ってきた。プロデューサーは無言状態が重くのしかかる部屋の様子を見て一瞬止まった。慎重にドアを閉め、部屋の中央、テレビのあるところまで歩いていく。プロデューサーは視線がまず歩いている自分に向けられ、それから後方の無人の空間に流れていくのを感じながら部屋を横切った。断りをいれてからテレビの電源を切り、 部屋のなかを見渡す。アイドルたちは、喉に言葉が詰まっているかのように自分を見ている。部長とちひろは聴く姿勢を整えていた。


みりあ「美波ちゃんは?」


メンバー最年少の赤城みりあが訊いた。


武内P「新田さんは亜人管理委員会の方といっしょに病院に向かいました。妹さんの聴取に同席されるそうです」


プロデューサーは視線をみりあから全体へと戻し、他に質問がないかと数秒のあいだ待ってみた。質問はなかった。彼女たちはプロデューサーの言葉を待っていた。


武内P「今回発生した事態に対して、プロダクションから対応に関する指示がありましたので、皆さんに説明致します。すでに会見で発表された内容と重複する点もありますが、どうか訊いてください。まず新田さんに関してですが、事態が沈静化するまで活動はすべて休止となります。予定されていたライブやイベントはすべてキャンセルとなり、活動再開時期も不明です。これまで発売されたCDや写真集などは今まで通りで、予定されているアインフェリアの楽曲も発売時期は少し遅れますが、こちらも発売中止にはなりません。
続いて皆さんのスケジュールですが、多少の調整はありますが基本的に予定されていた通りに進めていくと考えてください。調整後のスケジュールは可能な限り早く皆さんにお伝えします。不明な点があれば、私か千川さんに質問してください。それとしばらくのあいだ、送迎はすべてプロダクションの人間が行うことになります。アポイントの無い記者との接触を避けるための措置でして、息苦しさはあるかもしれませんがどうかご了承ください。
最後に新田さんの女子寮への入居の件を説明します。現在の状況を鑑みるに彼女のプライバシーを保護するには、このような措置を取るのが最も良いと判断されました。実際に入居されるのは四日後になります。また、現在寮生活をされている方に新田さんについてなにかお願いすることもあるかもしれません。このような状況の只中で皆さんに負担をかけるようなことをお頼みするのは申し訳ないのですが……」

みく「負担とかそんなこと言わないで!」


前川みくが立ち上がり、叫んだ。


みく「美波ちゃんは仲間なんだから、助けるのは当然でしょ!?」

智絵里「でも、なにができるのかな……?」


智絵里がぽつりと声をこぼした。思いがけず心に浮かんだ自問が外に転がり落ちたみたいな言い方だった。


かな子「智絵里ちゃん……?」

智絵里「あっ……ごめんなさい……」


智絵里のほんとうの失言は、この謝罪の言葉の方だった。彼女たちは今回の事態に対する自分たちの位置がこのひと言で明瞭に把握できたからだ。事態の中心は美波ではなくて美波の弟で、亜人であることからその反響が社会全体まで広がっている。亜人の発見とその亜人が新田美波の弟であるという事実は水平の水面にどぱん、どぱんと立て続けに大きな勢いで石を投げ込んだようなもので、続けざまに発生した波紋はたがいに相乗して疲れを知らない波と化し、水面の面積を広げるのかと思えるほどサァーっと進む。

そういった状況において、シンデレラプロジェクトのメンバーたちの位置は微妙なものだった。彼女たちは中心からひとつ隔てられていて、水の下に潜り込むとか、とにかく回避に専念してしまえば波に攫われてることもなさそうだった。未成年の個人や少人数の集団が、社会的な問題に巻き込まれている人物とどうコミットするか、というよりコミットが可能なのか、李衣菜がおずおずと意見を出した。


李衣菜「やっぱりさ、余計なことはしないほうがいいんじゃない?」

みく「美波ちゃんのことが心配じゃないの!?」


みくは驚きながら、李衣菜に声で詰め寄った。


李衣菜「心配に決まってるじゃん!!」


李衣菜は叫んで反論した。


李衣菜「でも、わたし、美波さんになんて言えばいいえのか全然わからない。弟が亜人で、日本中から追われてるんだよ? わたしは亜人のことなんてなにも知らない、美波さんがどんな気持ちでいるのかもわからない」

みく「だからそれは、心配で不安でしかたなくて……」

李衣菜「そんな言葉で気持ちがわかるの?」


李衣菜の問いに、答えることは誰もできなかった。


卯月「美波ちゃんの弟さん、どうなっちゃうでしょう?」


どうすればいいのかわからない気持ちのまま、島村卯月が不安げに言った。


凛「国の研究施設で暮らすっていわれてるけど……」

みりあ「研究?」

莉嘉「研究って、美波ちゃんの弟を? どんなことするの?」


年少メンバーの二人が発した疑問には不気味なものに対するおぼろげな怖いという感情が漂っていた。十年前の田中のときの報道の過熱化のことは全然憶えてない二人だったけれども(それは他のメンバーも同様だったが)、昨日からの騒ぎで二人は死なない生物が死なないことを確かめるための方法を想像することができた。とはいっても、それは言葉の上の意味だけに留まるもので、具体的なあれこれがイメージとして浮かぶまでにはいかなかった。


未央「だ、大丈夫だって! みなみんは政府の人と話をして会見に出るって決めたんだし」

きらり「そうだにぃ、きっと痛いことはしないにぃ」

みりあ「注射も?」

蘭子「注射……!」


こういうことは度々起こる。思考を一定の方向に進めていると、道を外れ溝に落ちるかのように思考は別の事柄に入り込む。でもそれが解決の糸口となったり思考を別の発展的な方向に導くかといえばそうことはなく、落ち込んでしまったことでそこから集中し直して態勢を立て直すと、前後方向に進んでいたときの限られた視界が運動にともなうブレが消えたことで風景を横方向、というか上下左右、眼球の丸みが光を受容できる範囲いっぱいまで視界が広がりそれまで見えていなかったことが見えるようになる。

アナスタシアは停止したままだった。アナスタシアの表情は垂れかかる銀髪に隠れて見えなかった。無言で固まっている姿は、まるで凍らせた水だった。唇も視線も固まったままで、ペットボトルに入れてあった水が凍らせたことによって体積が増えて飲み口から出てこれないように、アナスタシアは外界に内面を放っていなかった。どんな感情や考えが内面に渦巻いているのか外から伺い知ることできなかったし、それとも心の中は氷の張った湖面のようになっていて渦巻くことすら不可能なのかすら確認のしようがなかった。陽射しはどんどん強くなっていくなか、アナスタシアに向かって降り注ぐ光は当たるというより通り過ぎているといった感じで、このまま光を浴び続ければ、氷のように溶けてなくなってしまうように思えたが、アナスタシアは消去されていくのを受け入れているようにも見えた。


武内P「皆さんが混乱される気持ちはよくわかります。私たち三人も、今回の事態に対して十分な理解もないまま、ただ目の前の対応に追われているのが現状です」


プロデューサーは沈黙の中に自分の声を浸透させるように話し始めた。沈黙をうち破るためではなく、沈黙の層を厚くしなにかのきっかけになればと願っているというふうな話し方だった(その「なにか」がなんなのかは彼自身にもわからなかったけれども)。


武内P「現在美城プロダクションでは、事態への対応に部署の内外を問わずにあたっている状況ですが、混乱を収める目処は立っていません。私や千川さんや部長のように個人的感情を伴って行動する者も、そうでない者も終わりの見えない作業に疲労しています。しかし、それは組織に属する者の義務であり、新田さんの力になることが私たちの責任であるのです。
今回のこの事態に対して、皆さんにはいかなる責任も義務もありません。皆さんはまだ未成年で、亜人が世界で初めて発見された十七年前といえば、皆さんはまだ生まれていなかった方がほとんどでしょう。なのに、このようなことに直面せざるをえなくなった。その不安や不条理に戸惑ったままでいるのは大変なことです。私たちもそうなのですから。
私は皆さんに、自分の心を見つめ直してくださいとしか言えません。私たちはあなたたち一人ひとりのあらゆる決断を全力で支持します。あなたたちがしたいと思っていることの中には、現状では困難なこともあるかもしれません。もしそのときは私や千川さんや部長、あるいは他の信頼できる方でも構いません、話してみてください。もしよければ困難なことは、私たちにまるごと託してくれてもかまいません。私はこの混乱の中にあなたたちまでが孤立し、飲み込まれたままなのはつらいのです」


杏「やるよ」


双葉杏が手を挙げていった。


杏「杏は仕事はキライだけど、これは仕事じゃないからね」


智絵里「わ、わたしも……!」


緒方智絵里がおずおずと、しかし他の誰よりもはやく杏に続いた。それがきっかけとなって次々に同意が波のように広がった。李衣菜は躊躇っていた。声や手があがる部屋のなかで、半分開いた手が宙吊りになったみたいに身体の前にあった。


李衣菜「プロデューサー……わたしは……」

武内P「多田さん、あなたのおっしゃったことはまぎれもない事実でした。あなたは勇気を出して避けて通ることのできない事実をおっしゃった。そのおかげで、私は皆さんにちゃんと話すことができたのです」


李衣菜の表情が変わった。内側から押されるように唇が前に出て、鼻が持ち上がり眼が細まった。李衣菜は唇を噛み、震えをおさえてから言った。


李衣菜「わたしも、美波さんの助けになりたい」


プロデューサーはうなずくと、視線を李衣菜からアナスタシアに移した。アナスタシアはまだ最初の姿勢のままでいたが、眼のなかの光の色が変わっていた。


アナスタシアがプロデューサーと話したのは一同が解散した後のことで、彼のデスクがある個室でプロデューサーが面談の時間を設けようとする前にアナスタシアの方から部屋にやってきた


アナスタシア「プロデューサー、捕まった亜人は……ミナミはもう弟と会えないのですか?」


アナスタシアはドアを閉じてすぐ、ドアの側に立ったまま、単刀直入に訊いた。


武内P「……現行の法律では、たとえ親族でも政府が管理する亜人に面会することはできません」


プロデューサーは躊躇いながらも事実を伝えた。アナスタシアは頭を下げ両手を握りしめた。固まった拳が身体の左右に浮いたままアナスタシアは耐えるようにして少しのあいだその場に立ちっぱなしでいたが、プロデューサーが声をかける前にアナスタシアは部屋から出て行った。その動作は勢いがあって決然としていた。プロデューサーはしばらくのあいだ、アナスタシアの質問と動作について考えていた。ドアを開け部屋から出て行くアナスタシアを思い出すと、その動きの記憶には、不安定さの印象が加えられていることに気づいた。ドアを通り抜けるときの運動の軌跡に、黒いざらついた輪郭が不気味な分身のように重なっている。プロデューサーは得体の知れない思いをしながら、もしかしたら自分は、美波以上にアナスタシアを心配しているのかもしれないと思い始めていた。


ーー榎総合病院


慧理子はいらいらしていた。


慧理子「さっきの刑事が帰ったと思ったら、また? 協力者なんて、わたし知らない!」


慧理子は病院のベットの上で身体を起こしていて、すぐに隣には美波が椅子に座って身体ごと慧理子に向けている。美波は妹の表情を心配そうにうかがっていた。そこからすこし離れた位置には下村が座っていて、慧理子の視界の縁側に収まっていた。役人らしい、平静な表情をしている。病室から廊下へとつづく入り口の扉の左右には二名の警官がかなり前から立ったままで、いまも慧理子を見張っていた。


美波「慧理ちゃん、落ち着いて。病院なんだよ?」


美波は妹にやさしく話しかけたが、こうかはないようだった。


下村「私は亜人管理委員会の者で警察ではありません。あくまで亜人の研究・管理が目的で……」

慧理子「わけわかんない!」


慧理子は下村の説明を最後まで聞かなかった。


下村「私はあなたに永井圭の私生活について伺いたいだけなのです」

慧理子「なんでわたしがこんなめんどくさい目に……」


慧理子は言葉尻をちいさくしながらぶつくさつぶやいた。


下村「それは、あなたが永井圭の妹だからです。慧理子さん」


誰に向けられたわけでもない慧理子のつぶやきを下村は聞き取っていた。聴取の理由をはっきりと突きつけられた慧理子はばつが悪そうに押し黙った。美波は唇を結ぶ慧理子にすこし顔を寄せて語りかけた。


美波「すこし話をすればすぐにすむから、ね?」

下村「療養中のところ、申し訳ないとは……」

慧理子「キモイ」


自分をなだめようとする美波や下村へというよりは、兄との記憶に向かって、慧理子ははき捨てるように嫌悪をぶつけた。


慧理子「自分を人間だとカンチガイしてたやつが、家族にいたなんて……キモすぎる」

美波「慧理子!!」


さっき妹にした注意も忘れ、美波は怒鳴った。


美波「自分がなにを言ってるのかわかってるの?」


刺すような厳しい視線が慧理子に向けられた。慧理子は姉の激昂に一瞬びくっと身体を震わせながらも、言い返すことをやめなかった。


慧理子「姉さんだって兄さんのせいで大変な目にあってるじゃない!」

美波「それとこれとは……」

慧理子「ほんとに!? このせいでアイドルを続けられなくなってもほんとにそう思う?」


美波は言葉を続けることができなかったが、慧理子に向ける視線だけは維持していた。自分でもそれはするべきでないとわかっていたが視線を下ろすことができない。慧理子も黙りこみ、シーツの上に置かれる自分の手を見つめている。職務としてここにいる警官たちも当然口を挟めない。病室は気まずい沈黙の場所になっていた。


会見が終わり、下村とともに車で病院へ向かっているあいだ、美波のスマートフォンに義母からの着信がはいった。美波は画面の表示を見ると、すぐに通話ボタンをタッチしスマートフォンを耳にあてた。


律『会見見たわよ。なかなか様になってたわね』


義母の声音はいつも通り平静そのものだった。美波は呆れたような安心したような気持ちで義母に聞いてみた。


美波「圭は来ると思う?」

律『おそらく逃亡を続けるでしょうね』


律はきっぱりと言い切った。


律『騒ぎが収まるまでは身を隠すのが最も安全だと考えるだろうし、私と同様、政府を信用していないから』


信頼しているだけに義母の答えに美波は不安になった(でも、あわてふためくというようなことはなかった)。


美波「信用してないの? お母さんのところにも亜人管理委員会の人が来たんでしょ?」

律『亜人の希少価値と十年前の田中のときの騒ぎから考えたら、私たちに嘘をつく価値は充分過ぎるほどあるわ』


美波は胸がつかれたように悲しくなった。喉に痛みに似た感情が込み上げてくるのを感じなら、美波は義母に尋ねた。


美波「わたしのしたことは間違ってたの?」

律『そんなことはわからないわよ』


と、律は言った。


律『そもそも私が政府が信用ならないと考える理由も、証拠というほど確固したものではないから。あなたは亜人管理委員会の言いなりなったわけじゃなくて、自分で考えて行動したんでしょう?』


美波はすこし迷ってから「うん」、と答えた。


律『だったらいまのままでいなさい。自信を持てとも後悔するなともいえないけど、あなたはいまも圭のためを思って行動してる。それだけはしっかり憶えておきなさい』


美波はひとつ鼻をすすりひと呼吸おいてから、ちいさくささやくようにまた「うん」と言った。病院に向かう車に揺られながら、美波は窓に目をやった。街路樹の葉の光があたっている部分の照り返しと陽射しによってできた影の部分が、明暗をはっきりしながら窓に映っては後方に流れていった。目に映る光景にシャーっという音が重なる。耳にあてたスマートフォンから聞こえてきたその音は、おそらくカーテンレールが引かれる音で、美波は窓の外に視線を向ける義母を思い浮かべながら、「やっぱり、いっぱいいる?」と尋ねた。「ええ」という律の声が電話口から聞こえた。美波はなんとなく義母がうなずきながら「ええ」言ったのだと感じた。


美波「いま慧理ちゃんのところにむかってるんだけど、体調は大丈夫なの?」


美波がこの質問をしたとき、車が見覚えのある道に入った。窓から景色を見ると、はっきりと言語化されない日常化した馴染みの感覚が美波のなかに起こった。


律『今朝病院に電話して聞いたけど、いつもと変わりないそうよ』

美波「圭のこと、なにかいってた?」

律『いいえ』


赤信号になり、車は信号待ちに入った。反対車線では病院前のバス停からバスが出発するところだった。


律『慧理子のこと、頼むわね。今日はそっちに行けそうにないから』

美波「でも……」

律『あれでも、ほんとは兄さんのことを心配してるのよ』


律がそう言ったとき、車は病院に到着した。バス停のベンチには乗り遅れたのか、男がひとり腰を下ろしていた。車を降りるまで美波は義母と電話をしていたが、それ以上たいした話はできなかった。病院のロビーを抜け、エレベーターに乗り、廊下を歩いているあいだ、美波はどうしたら妹の意固地を解きほぐすことができるのだろうと考えていた。いまではこの考えが可能性から不可能性に傾き、美波の心に影を作っていた。美波はうつむき、そのせいで視線は弱まったが、沈黙の重さも増していった。病室の誰もが口をあげられないなか、下村がぽつりと言葉を発した。


下村「……私は、親族が亜人だった人を知っています。私に、その人の苦しみを推し量ることなど到底できません。ですが私は、その人やあなたたちのような人をこれ以上増やしたくはないのです。だから亜人のことをもっと詳しく解明したいのです」


美波は頭を上げ下村を見た。慧理子も頭は動かさなかったが、瞳は下村のほうへ向いていた。下村の言葉にはせつない実感が滲んでいて、言ってることに嘘はないように美波には思えた。


下村「どう生まれるのか、完全に不死なのか、本当に人間でないのか……どんなささいなことでも結構です。なにか人と違ったことなどありませんでしたか?」


慧理子は眼を下村から自分の手に戻した。さっきの感情の昂りの潮がまだ引ききっていないのか、慧理子の手の甲はうすいピンク色をしていた。その手の上をなにかが通り過ぎる感触がして、慧理子は窓の方を見た。レースカーテンが風に持ち上げられ、ふわふわ揺れていた。いちどカーテンは元の位置まで戻ったが、ふたたび風で浮き上がった。窓からの差し込んでくる光量が増え、壁やシーツの白さがより目立つようになった。慧理子の手がまたなでられた。やさしさを示すような感触で、シーツを握る指がすこしゆるむ。 今度は慧理子は両眼で下村を見た。


慧理子「……ほんとにどーでもいいよーな、話ならあるけど……それをいったら帰ってくれる?」

下村「はい」

慧理子「むかし、飼い犬が死んだとき、おかしなことを言ってたのが印象に残ってる……」


それは両親が離婚し、圭と慧理子が美波とはなればなれになって暮らすようになった直後の思い出だった。寂しさをまぎらわすため飼い始めた飼い犬が動かなくなり、そしてすぐに死んでしまった。横たわる子犬を前に泣きじゃくる慧理子に圭はお墓をつくってあげようと言った。シャベルと飼い犬の亡骸が入ったダンボールを抱え、二人は河沿いの土手道を歩いた。夕暮れどきで、自転車をこいで下校する学生たちと何人もすれ違った。しばらくすると野球グラウンドが見えてきた。圭よりすこし年上の小学校高学年か中学生くらいの少年たちが草野球にもなってない気楽なプレーを楽しんでいる。

二人は野球グラウンドがある反対側の河岸まで降りて、川面が反射する光が眼に届くところまでやって来た。そこは雑草もあまり生えていない乾燥した地面があるところだった。圭がシャベルを地面に刺した。ざくざくという土を掘り返す音に混じって、野球少年たちの笑い声があたりに響いた。

飼い犬の墓ができあがっても、慧理子の眼から涙は溢れ続けた。手のひらや手首をつかって涙をぬぐい、眼の周りに引き延ばしてはまたぬぐう。圭はシャベルを手に持ち、慧理子の横に立ったままだった。抽象的な概念について考えてるというふうに黙っていると、圭はふと背後の気配に振り返った。


永井「慧理、にげて……」


兄の声につられ、慧理子も涙をぬぐうのを一旦やめ、振り返った。


永井「幽霊が、来る」


慧理子の眼には兄のちいさな背中が映るのほとんどで、ほかに見えるものといえば、天頂の部分が藍色とのグラデーションになりかけているオレンジ色の夕焼け空と黒い腹を地上に晒しているいくつかの雲ばかりだった。
わけがわからずにいる慧理子をよそに、圭は視線をなにもない空間から自分の左腕へと移した。そして運動の軌跡を目で追うようにふたたび視線を前方の空間に戻すとこう言った。


永井「いや……出てる……?」


話を聞いた下村は咄嗟に身を乗り出し、問い詰めるようにして慧理子に聞いた。


下村「永井圭が黒い幽霊を見たといったんですね!?」

慧理子「は? 黒かは知らないけど」


下村はゆっくりと椅子に腰を戻した。さっき立ち上がった勢いで椅子はがたんと音を立てて動いたが、元の位置からそれほど動いていなかったので、下村は無事に尻を椅子に落ち着けることができた。下村はそれからゆっくりうなだれた。


下村 (口が……スベった……)


美波「あの、下村さん?」


下村 (あとで戸崎さんに怒られるかも……)


下村は自分でも顔が赤くなっているのがわかるくらい恥じ入っていたので、美波の声に反応することはできなかった。うつむいたままの下村に美波は戸惑ったし、慧理子もおとなっぽくないいまの下村にすこし呆れていた。気がぬけた慧理子は現在の状況につきあう気になれなくて、兄とよく遊んでいた時期のことをふたたび思い出していた。


慧理子「あ……まさか、協力者って」


慧理子は突如、兄に協力する人物に思い当たりがあることに気がついた。


慧理子「あの、もしかしたら……」


今度は慧理子が身を乗り出して下村に話しかけた。妹の突発的な行動に美波もつられて下村のほうを見る。顔をあげた下村は返事をするかわりにひとつ咳き込んだあと、身体の内側からのぼってきた血を口いっぱい分吐いた。飛沫がシーツや美波のスカートにかかり、赤い染みをつくった。


慧理子「え?」


下村は激痛に喘ぐ声を口から漏らしながら、頭を下げた。下村の身体を貫いていたのは鳥類の三前趾足に似た三本の大きな爪だった。太めの枝くらいあるその爪は、下村の背中から腹部を貫通していた。下村が苦痛に塗れた呼吸をするたびに爪と傷口の隙間から血液が染み出した。


下村「く、あ゛あ゛あ゛」


下村の身体が突然持ち上がって宙に浮き、天井近くで停止した。蛍光灯の光が近すぎて眼が痛い。下村は、ぶるぶる震える手で苦しみながら三本ある爪のうちの左右にある二本に手をかけた。首を背後、つまり床に向かって回し、自分を襲っているものの正体を見た。


下村「てめえ……!」


下村を持ち上げていたのは、眼も鼻も耳もない人間のような黒い幽霊だった。後頭部まで裂けた口に鋸のようなギザギザした歯が並んでいる。黒い幽霊の口が笑ったように歪んだ。幽霊は腕を振り下ろし、下村を床に投げつけるようにして爪を引き抜いた。落下する下村の身体は床にぶつからず、上半身が慧理子のベットに引っかかった。



慧理子「きゃ、あああ、あ!」


痙攣の回数が増え、光のない黒い瞳孔が拡大する様子を慧理子が見てしまう前に美波は妹にむかって飛びついて腕を回した。腕を交差させて慧理子を胸元できつく抱きしめると、ヘルメットのように背中を丸め、慧理子の視界を覆った。

病室入口の扉の右側にいた警官の身体が縦に割れたかと思うと、次の瞬間には三本の横線を入られていた。同僚の肉体が六つの肉の塊になって床に落ちる音も聞かないうちに、残ったもうひとりの警官はようやく自分に迫ってくる黒い幽霊が見えた。彼はその幽霊が殺戮を引き起こしたと理解する時間もなく壁に磔にされて死んだ。後趾にあたる短い爪が、胸の下と頭頂部に突き刺さっていた。

美波は慧理子の連続した浅い呼吸を胸に感じながら、塊が床に落ちる音を聞いた。音がした瞬間から部屋の中に漂う血の臭いがさらに濃くなり、美波は吐き気を抑えるため頬の内側を血が出ても噛み続けた。過呼吸気味の口の動きにあわせて歯がかちかち鳴り、呼気に恐怖が混じった。美波は勇気を振り絞り顔をあげた。窓にかかるレースカーテンが風に浮き光が差し込んできた。窓から外の景色が見えた。

背後で床に飛び散った液体を踏むぴちゃり、という音がしたとき、美波は本能的に窓へ走った。左腕を慧理子の右肩から太腿の下にまわし、妹を抱き上げとにかくこの部屋から脱出しようとする。

上半身をあげた瞬間、美波の側頭部が打たれた。美波は壁に向かって跳ね飛び、壁に額をぶつけると、身体が壁に沿ってずるずる滑り落ちていった。気絶した美波が床に落ちたとき、美波の頭がかくんと傾いてベットの影に隠れた。



慧理子「姉さん!!」


シーツの上で身を起こした慧理子は、四つん這いの格好で美波まで駆け寄ろうとした。ベットが軋んだ音を立てた。シーツに人間の足のような窪みができるのを見た慧理子は、視界が開け、同時に自分がいる空間の状況をよく見ることになった。白地の壁や床に赤い血が飛び散っている光景と嗅覚を苛む臭いを、慧理子は一気に受け止めることになった。

慧理子は気を失い、頭をベット横のサイドテーブルに落とした。黒い幽霊はしゃがみ込み、傷をつけないように慧理子の頬をかるく撫でた。


IBM『怖がらなくてよかったのに。佐藤さんから永井の家族は殺すなって命令されたからな』


黒い幽霊は床に倒れる美波を一瞥して言った。


IBM『よくやるよ、この姉ちゃん。ここは四階だってのによ』


黒い幽霊を使用した殺戮は思った以上に簡単で圧倒的だった。黒い幽霊の口角が上がり、はっきりと歪んだ笑みが浮んだ。田中は亜人管理委員会の女と警官二人を殺したことに大きく満足していた。国のために奉仕している職種の人間は、それだけで殺す理由を埋め尽くすのに充分だった。

病院前のベンチに座り眼を両手の手のひらで覆いながら、田中はまた笑った。黒い幽霊を操作していたときの興奮はすでに落ち着いていたが、それと同時に反比例で達成感が田中の心を満たし始めた。田中はこの気持ちをより完璧なものにしようと、達成した仕事の結果を見るため幽霊の首を巡らして部屋のなかを見渡した。


田中「……どういうことだあ?」


女がひとり、起き上がっていた。腹部にあいた傷口からは血の代わりに黒い幽霊と同じ色をした粒子が湧き出ていて、粒子が傷口に渦巻き纏わりつくと、損傷箇所が肉と皮膚で覆われ修復されていく。女が頭を上げると、その眼に光が射した。女はベットに立つ黒い幽霊を睨みつけながらこう言った。


下村「あなたは、そこをどくべきだ」

今日はここまで。

ほんとは19日の日曜日に更新するつもりでしたが、更新する分のテキストを全消ししてしまい今日になっちゃいました。


IBM『人間ぶってやがった……わけか……』


曲げていた膝を伸ばし、ベットの上に立ち上がった黒い幽霊は復活した下村を見下ろしていた。下村は視線を幽霊から外さないまま腕を後ろに回し、穴の開いたスーツのジャケットの袖から腕を抜いた。右手首から袖からするっと抜けると重みが偏り、スーツはブランコのように弧を描いたが、下村は床に落ちる直前に左手首をくっと振って、足で踏みつけないようにスーツを壁の方に投げた。赤く汚れた腹部があらわになった。


IBM『知ってるか? 亜人は大きな肉片を核に散らばった肉片を集め再生する。だが、遠くに行き過ぎた肉片は回収されず新しく作られる。もしそれが、頭だったら?』


下村の動作を見ていた幽霊は、ゆらゆらしながら身体の向きを調節した。幽霊の身体は窓から射し込む逆光を隠したが、黒さは変わらなかった。
シーツとマットレスを間に挟んで、ベットの上と下に、慧理子と美波の姉妹がどちらも窓のある壁の方を向いて倒れていた。



IBM『ゾッとするだろ! おい!!』


黒い幽霊は右腕を脅迫するように素早く振りかぶった。斜め上から下村の首めがけて振り下ろされ、断頭を目論んだ爪の攻撃は、黒い手によって受け止められていた。手は左手で、下村の左肩の隣にあるその手は、下村の身体から放出された黒い物質で構成されていた。その物質は空気の中は水の中とでもいうように大気に染み込んでいったかと思うと、だんだんと人のかたちを形成していった。


IBM『なんだよ……てめえもかよ』


ほぼ直角二等辺三角形的な頭部をした幽霊が、田中の幽霊の腕を掴み相対し頂角を突きつけ睨み合った。正三角形的な牙を持つ田中の幽霊は手首を掴んでいた下村の幽霊の手を振り払い、ベット脇まで跳び退いて距離をとった。足裏についた血がスタンプみたいに床についた。



田中 (どおすんだあ、この場合……これ同士の戦い方は教わってねえぞ)


田中は予想外の事態に眼を手のひらで覆ったまま思考を進めた。


田中 (だがコレの精神的な何かは頭にある。現におれの視野はアレの頭部とリンクしてる……となると、攻めるべきは頭か?)


黒い幽霊を発現した下村も、次の行動に出れないでいた。


下村 (クロちゃんをだすのはいつぶりだろうなあ……いや、そんなことより、アレをどうやったら撃退できるの? そもそも撃退自体可能なのか……人の形をしている以上狙うべきは……)


幽霊を持つ者同士が同じ思考の筋道を辿っていると、部屋の位置関係のせいで、下村はベットの上下に分かれて寝ている姉妹に気づいた。ふたりとも気を失っているので動いていなかったが、吹き入ってくる風に髪が震え動いてた。ふたりに気を取られた一瞬の隙に、田中は幽霊の腕を振った。長く鋭い爪が横から飛来し、下村の幽霊の首を素早く切り落とした。


下村「!?」

田中 (は……?)


三角形をした頭部は床に落ちなかった。切り離され、重みで後ろに落ちていくその直前で頭部は空中で静止し、首の断面から磁力のような引っ張り合う力が発生しているのか、元の位置まで戻った。


下村 (……っ、なんでもやってるみるしかないか……!)


万全になった幽霊は指をかるく閉めて拳を作った。左手の指は伸ばして身体の前に構え、右拳を胸によせ攻撃に備える。次の瞬間、田中の幽霊が突進してきた。引いていた腕を下村の幽霊の頭部めがけて、三叉の槍のように突き出した。田中の黒い幽霊の腕は長く鞭のようによくしなり、それが威力を生み出していたが、このときばかりは鞭ではなく三つの黒い点にしか見えなかった。まるで三発連続で撃ち放たれた狙撃のようだった。下村の幽霊はその動作に俊敏に対応し、爪の刺突を構えていた左手で捌くと、いなされた勢いで身体が開いた田中の幽霊の前に自分の身体を入れた。田中はすぐさま黒い幽霊に二撃目を命令するが、腰を回すだけで右拳を突き出せる下村の幽霊の方が速かった。ぎゅっと指を締め石のように拳を固める。体重移動は完了していて、回転力の加わった右ストレートが勢いよく打たれた。田中の幽霊の左顔面にまともにぶつかり、パンチの当たった箇所が剥がれたように失われた。


IBM『な……に……!?』


リンクしていた視界の半分が消えたが、異変はそれだけではなかった。


田中 (なんだ……? 再生しねーじゃーか……!?)


剥がれた顔面から黒い粒子が溢れては空中に散っていく。


田中 (視野の伝達が、悪く……意識が……散る……粉砕……!?)


田中は離していた左の手のひらを異変を探しているとでもいうように見たあと、ふたたび目にあてた。こうすると、ふつうは黒い幽霊の視野とリンクした光景が見えるのだが、視野の左側は黒い覆いが掛けられたかのように失われたままで、徐々にその範囲を広げていった。田中は追撃に焦燥しながら、残った視野で下村の幽霊をなんとかその範囲の中に収めようとする。すると、田中は下村の幽霊にも異変が起きていることに気がついた。


田中 (!……いや)


下村の幽霊の右手の手首から先も同様になくなっていて、そこから物質の崩壊が観察できた。


下村 (相殺……!? なら、打撃が……有効……!?)

IBM『!』

強い踏み込みのあとに、強烈な左フックを繰り出す。頭部から粒子の拡散が止まらない田中の黒い幽霊は、命令の伝達機能が不全になっていたせいで反応が鈍く、拳を避けることができなかった。口を開けなんとか牙を剥いたが、拳が通り抜けるほどの開口は見せず、まともにフックとぶつかる。爆発したかのように粒子が弾け、飛び散って、散り散りになり、黒い幽霊の頭部が粉砕した。


田中「あら? 途切れた!」


病院前のベンチに座っていた田中が叫んだ。目の覆いを外し、拳を握ってベンチを殴りつける。田中のいらだちに反応する者は周囲に誰もおらず、蝉が鳴き喚くほかには目の前の道路を二三台、車が通り過ぎていくだけだった。しばらくして、いらだたしさをおさめたあと、田中は下唇を指で引っ張りながら考え込み、さきほどの戦闘について振り返った。


田中 「やはり頭が弱点だったか……考えは間違ってなかったが……切っても意味なし、打撃による粉砕か……」


田中が考え込んでいるあいだ、歩道に植えられている街路樹の緑の葉っぱがそよと吹き抜ける風に、さわさわと涼しげな音をたてながら揺れた。歩道にかかる光と影のモザイク模様も葉っぱの動きにあわせてちらちらしていた。ちらちらした影の動きは風とともに止まり、そのころには田中の気持ちは切り替わっており、歯のあいだから息を洩らすように笑っていた。


田中「勉強になったぜ」


病室で、自律を失った田中の幽霊を見下ろしながら、下村が息をついた。


下村「ふぅ……」


幽霊の身体は頭部が失われたことによって、崩壊は加速度的に進行し、もう腰のところまでしか残っていない。下村は消滅していく幽霊から、床に散らばっている警官の断片に目をやった。真っ赤になった床の上で、途切れた血管から血がすべて流れ出した断片は、肉本来のピンクに近い色をさらけ出していた。意外なことにその色は、赤い床の上でかなり目立っていた。


下村 (事後処理に特別班を呼ばなくては……でも戸崎さんがいなかったのは幸い)

下村「それに、あの娘たちも守れた」


下村は視線を前方に戻した。ベットの上に窪みが見えた。その窪みの上にいたはずの慧理子はいなかった。


下村「! くっ、そ……!」


下村は爪が手のひらに食い込むほど、強く拳を握り締めた。


下村 (あいつは、オトリ……)

下村「もうひとりいたのか……!」


窓にかかっていたレースカーテンは窓の端のところまで引かれて束になって集まっていた。遮るのものがなくなった陽射しが窓からまともに入り込んできた。そこから見える風景は病院に到着したときと同様何の変哲もなく、遠くに青みがかかった山が見えるくらいの風景からもたらされるものといえば、暑気と蝉の声だけだった。


病院のベットの上で目覚めるというのは美波にとって初めての体験で、天井の灯りをまともに見てしまった。眼が光線を受け止めた瞬間、反射的に瞼を閉じると左のこめかみに痛みが走った。かなりの疼痛で声を出すのも躊躇われた。美波はしばらく目を閉じたままにして、痛みが落ち着いてからゆっくり瞼を開けてみたが、眼に見える光景には見覚えがなく、視覚が機能していてもそれが認識に結びつかなかった。眼が覚めた瞬間、自分のいる場所に見覚えがまったくないと人はとてつもなく不安になり、危険とさえ思えてくる。美波もそうだった。視界が焦点を結び像を描く、白くのっぺりした天井とシルバーに光っているポールタイプのカーテンレールと薄いライトグリーンをしたカーテンの上部が見えて、病院の診療室めいてみえたが実際に診療室だった。

眩しくて眼を光から避けようと視線を下げると薄いライトグリーンで視野いっぱいになった。じゅわじゅわと浸透するように居残る痛みを揉みほぐしたかったが手を顔まで持ってくるのが億劫で、美波はしかめた表情を作るときみたいに顔の筋肉を動かしてその代わりにしようとした。



下村「あっ、すみません、だれか」


美波の表情の動きに気づいた下村は、首をまわしてカーテンの向こうに呼びかけたが、だれかがやってくる気配はなかった。下村がキョロキョロと医師か看護師を探しているあいだに、美波の意識は記憶と結びつき、爆発的な化学反応を起こしたみたいに横たわっていた身体が跳ね起こした。


美波「えりっ、慧理子は!?」


勢いよくベットから落ちそうになる美波を下村が受け止めた。肩を押さえてなだめながら美波をベットにもどす。


下村「落ち着いてください、妹さんは無事です」

美波「どこですッ?」


美波は妹の姿を求めて首を大きく動かした。カーテンの向こうを透視しようとするかのように目を強く細めている。


下村「山梨との県境のあたりで発見されました。救急車で近くの病院に搬送されて、いまは状態も安定しています」

美波「山梨……」


美波はほっとしてベットに倒れこんだ。そこへちょうど看護師がやってきて意識が回復した美波の状態を確認した。とくに問題はなく、額にちょっとした痣があるくらいで、その痛みも徐々に引いていった。


下村「慧理子さんは搬送先の病院で一日経過を観察したあと、こちらに移送されるそうです」

美波「よかった、ほんとに……」


安堵のため息が言葉になったかのようなひとりごとだった。


下村「新田さん、お体は大丈夫ですか?」


下村の確認に美波は頷いて答えようとした。ベットの隣に座っているだろう下村に目を向けてみると、下村は黒いスーツと白いシャツという格好ではなく、カジュアルで安っぽい半袖のチェックのシャツを着ていた。


美波「その服……」

下村「これは、その、汚れてしまったので……」


誤魔化そうとして誤魔化しきれてないしどろもどろの答えを聞きたかったわけではもちろんなかった。できれば記憶に頼らず遠回しな問いでほんとうのことを知りたかった。それが美波の無意識だった。


美波「怪我はなかったんですか?」

下村「私がですか?」


下村は不思議そうに美波に問い返してきた。その態度が自然なものか装われたものか、美波には判断できなかった。後者だと思うのだが、自信がない。病室で下村に起きたことは鮮明に記憶しているが、その鮮明さ故に間違った記憶ではないのかと不安になってくる。記憶のなかにいる死んだ下村と、いま美波の目の前にすわっている下村はその実在感において、ほとんど遜色がなかった。間違い探しをしているようなものだが、二つの光景は似ても似つかない。ただリアリティにおいて、記憶は現実と同じレベルの強度を持っていた。

診療時間を過ぎた院内は、静かで寂しげだった。ときおり通路に移動する看護師の足音が聞こえるくらいで、患者たちはおとなしく、医療機器は無機質な音を出している。時刻は午後五時半をまわり、病室での出来事から三時間が経過していた。


下村「今回の事件についてですが、亜人管理委員会の調査案件となりました」


気を取り直した下村は美波の状態が落ち着いたと判断したとき、つとめて事務的な口調で言った。


下村「事件に関するあらゆる情報に亜人管理法が適用され、マスコミ等第三者に口外することは禁止されます。もし口外すれば刑事罰の対象になる可能性も発生します」

美波「慧理子を誘拐した犯人は亜人だっていうんですか?」

下村「お答えすることはできません」

美波「あの佐藤という人がやったんですか?」


下村が驚いて眼を丸く見開いたのを美波は見逃さなかった。美波は黙ったまま視線を下村にぶつけた。睨み合いというには、下村の視線は同情的過ぎた。しばらくしてから下村は口を開き、静かに言った。


下村「亜人管理法に違反し情報を漏洩した場合、最悪だと懲役刑が科せられます。いいですか、事件のことは決して話さないでください」

美波「それは脅しですか?」

下村「忠告です」


美波は身体をベットの上に起こしたまま黙り切っていた。美波は下村の送迎の提案もすげなく断ると、さっきからシーツを強く掴んでいる自分の手に視線を落とした。


下村「では、あなたのプロデューサーに迎えに来るよう連絡します。いいですね?」


美波は返事をしなかった。下村はその場から立ち去り通話可能エリアまで移動してプロデューサーの名刺を取り出したとき、タイミングよく戸崎から着信がはいった。


戸崎『まだ病院にいるのか? 別種についての詳細な報告はどうした?』


戸崎の口調はきつく、美波に時間をかけて対応している下村の仕事に苛立っているようだった。


下村「いま、新田さんに今回の件に関して口外しないように忠告したのですが……」

戸崎『それはもうどうでもいい。早く合流しろ』

下村「なにか起きたんですか?」

戸崎『永井圭が捕獲された』


下村は思わず美波のいる部屋の方を見た。


戸崎『警察から受け取りが完了したらすぐに研究所まで移送し、実験を始める。きみも実験の様子を見学しろ』

下村「しかし、彼女をこのままにするのは……」


戸崎『私が何を言ったか聞いてなかったのか?』


戸崎の詰問に下村は屈した。


戸崎『早く来い。捕まった亜人がどうなるか、その眼でよく見ておけ』


通話が切れた。空は暗く、あたりは灰色に染まっている。病院内の照明は必要な箇所以外は消えていて、下村がいまいる場所も暗さが増しつつあった。下村は左手に名刺を持ったままでいることを思い出した。スマートフォンのキーパッドを表示し、名刺に書かれている番号を押した。耳にあてたスマートフォンから呼び出し音が鳴り続ける。煙草が無性に吸いたかった。通路を行く看護師が下村を見やった。下村は一瞬、注意されるかと思ったが看護師はすぐに前に向き直り、そのまま通り過ぎていった。

今日はここまで。

4.待って、行かないで


死の残酷さは、臨終の現実的苦痛をもたらしながら、真の終りをもたらしてくれぬことにある。ーーフランツ・カフカ「八つ折り判ノート」

首の出来る所はただ一ヶ所ほかない
ーーギルバート・キース・チェスタトン「秘密の庭」


永井圭は山梨県で捕獲された。その足取りは誘拐された慧理子の携帯電話から捕捉された。誘拐以降、慧理子の携帯が一度だけ使用されたとき、基地局から通話先のエリアが特定され、そのエリアが永井圭の現在地と推測された。

戸崎はその地域のどこかで永井圭と帽子が接触し行動を共にするだろうと予測していたのだが、警察の捜索が開始される前に永井圭は勝沼分署の前で意識不明で倒れているところを発見拘束され、同日中に都内にある研究所に移送された。戸崎は帽子がなぜ永井圭をこちら側に差し出すような真似をしたのかその意図を掴みかねた。帽子と永井圭が接触したと思われる神社で神主の惨殺死体が発見されたのは、永井が研究所に向けて移送されてから数時間経った後のことだった。

研究所の前には当然ながら大勢の報道陣が詰め寄かけていたが、この集合にはもうひとつの極があって、美城プロダクションの前にも彼らのざわめきと光源が群れを成していた。弟の捕獲について新田美波から何らかのコメントをもらうことが彼らの関心であり目的でもあったのだが、その可能性がほとんどないことにプロダクション前にいる報道陣たちは薄々感づいていた。美波はプロダクション所有の女子寮にいて、この女子寮の所在地は外部の人間には当然ながら明らかにされていない。

美波はラウンジでテレビに見入っている。まわりには寮に住んでいる美波より少し年下の女の子たちがいて、ここにいてもいいのかそれとも立ち去るべきなのかわからないといったふうに少し距離を取っていた。いちばん近くにいるみくにしても、美波の視界に入らない位置に腰を下ろしている。

美波の視線はずーっと真っ直ぐ、テレビを貫くように向けられていて、まるで山頂から向こうの山頂の青く霞んだ景色の中にいる動くなにかを探し出そうとするかのように画面を凝視している。あるいは、念じることで遠く離れた場所に何かの力を作用させようとするかのように。

レポーターが永井圭が捕獲された状況を説明している。彼女の背景には研究所の白い外壁がぼんやりと浮かんでいて、スクリーンのように投げかけられた光の中に過る人々や機器や車の影を映している。ざわめきの波がレポーターの左方向ーー画面を見るものには右側ーーからやって来て、彼女のところまで到達したとき、レポーターは首をめぐらし振り返った。警察車輌に先導された黒塗りのワゴン車が群がる記者たちをゆっくりとだが、確実に無視の態度をあらわしながら走行してきた。研究所の警備員にとって、カメラのフラッシュはほんとうに厄介だった。次から次へとまるで失明を狙うかのように瞬く光を頭を下げて避けながら、押し寄せてくる人波を懸命に押し戻す。研究所のゲートが開き車が敷地内に入っていく。レポーターはその様子を説明しながら、あの車に永井圭が乗っているのでしょうか、とわかりきったことを口にする。

美波は画面を凝視したまま、自分自身の肉体を締め付けるかのように身体を強張らせた。期待というより願望していた光景とテレビからもたらされる映像はまるで違っていた。リモコンでチャンネルを変えると、別の放送局が別の角度で同じ中継映像を届けている。カメラはゲートのすぐ横から記者の群れを掻き分けて進むワゴン車を見下ろしている。カメラは赤いテールランプを追いかけてパンしたが、その映像はスタジオに返され見れなくなった。美波はまたチャンネルを変えた。まるで機械を演じているかのような動きだ。美波は作動する部分と固定した部分を身体で分割しながら、いまこの夜だけでなくその後何日も同じ動作を反復していた。

永井は意識を取り戻し眼は光を受容したが、視界は白一色に染まり何も見えなかった。眼に覆いをかけられているせいだった。瞼に触れる覆いの感触からそれが包帯であることがわかり、さらに全身に包帯がきつく巻かれていることがだんだんとわかってきた。腕に力を入れてみたが、すこし震えただけで上がらない。全身が手術台の上で固定されていた。永井がもがき身を捩るあいだ、自分の喉から出てくる音が声でなくなっていることに気がついた。喉はただの風穴になっていて、隙間風のような空気が漏れ出てくる音しか出さない。声帯が切り取られていたせいだった。


研究員1「トラック事故の現場に残された左腕のDNAと一致」

研究員2「間違いなく亜人だ」

研究員3「よし、始めよう」


仰向けに横たわる永井の上に研究員たちの声が降ってきた。そのうちの一人が永井の左側に回ると、手に持った機器のスイッチを入れた。きいぃぃんという恐怖を掻き立てる高音が痛みを伝えるように響いた。研究員はそれを永井の腕にあてた。皮膚と包帯が同時に裂け、筋肉が千切れた。手に持てるサイズの電動の丸のこだった。血が撒き散らされないように止血を施されていたが、それでも、血管を切断したときは火花のように赤い血が飛んだ。苦痛にもがく永井をまるで存在していないみたいに研究員は腕の切断を続行した。やがて、刃が骨にあたった。研究員は丸のこに体重を掛けて回転する刃を骨に食い込ませた。しばらくそのままの体勢で力を入れ続けていると、すとんと底が抜けたかのような感覚が研究員の手に伝わった。


研究員3「これ、岩崎さんに送っといて。再生前のと見比べるらしい」


切断した左腕を渡してから、研究員は丸のこを金切り鋏に持ち替えた。


研究員3「今度は脳の活動を観察しながらだ」


研究員は今度は右側にまわった。右手の包帯を解くと鋏を開き、中指に刃をあて、研究員は脳波モニターに視線を向けた。


研究員3「痛みに対する反応の仕方で、これまでに何回死んだかをおおよそ予測できる」


研究員は鋏を閉じた。ぱちんと刃と刃が噛み合わさる音がして、永井の指が切り落とされる。研究員は慣れた手つきで剪定するかのように永井の指を落としていった。五本の指を落とす鋏の音はリズム良く、軽快とさえいって良いほどだった。切断のあいだ、永井の意識はずっとあった。


研究員3「数回程度しか死んでないな……次は」

背後からがりっという硬く耳障りな音がして振り向くと、手術室の中を見通せる見学室とのあいだに設置されたガラスに爪痕のような四本の線があった。このガラスは強化ガラスだった。ガラスの向こうにいる人物は影になっていて、そのうちの一人の腕が上がりスピーカーのスイッチを入れた。『どうした?』という声に研究員は聞き返した。


研究員3「いや……ガラスの傷、最初からありましたっけ?」


『ああ、最初からあったが?』


スピーカーの声はとぼけるような調子だった。


研究員3「そうですか。すみません」


研究員はとくに気にするでもなくふたたび実験に戻った。ガラスの向こうの見学室では亜人管理委員会のメンバー、もっとも高齢の岸博士を中心とする上位の研究員三名、自衛隊のコウマ陸佐、Nisei特機工業の石丸武雄、戸崎と下村も合わせて合計七人が見学室から永井圭の実験の様子を観察している。研究員たちが次々に感嘆の言葉を口にするなか、戸崎は冷ややかに眼を細めながら下村に聞いた。


戸崎「見えるか?」

下村の視線の向いている場所は、研究者や自分を計るかのように見つめる戸崎とは別のところだった。実験中の研究員たちの手前、だれもいないはずの空間に下村は眼を集中させている。


下村「……はい」

下村「います」


下村の眼には、黒い幽霊が映っていた。永井の幽霊の形状は下村や田中と違ってプレーンといっていいほど無個性で、頭部の形や手は人間のそれと良く似ていた。


岸「この傷……超音波か何かか?」

研究者1「違う。帽子襲撃現場には足跡のようなものが残されてたんだぞ。それはどう説明する」

コウマ陸佐「はっ、足の生えた幽霊でもいるってのか?」

もっと痛みを与えて観察しよう、という研究者の声がして、実際にスピーカーから指示を与えていた。黒い幽霊は何もかもに無関心な様子でぼおっと突っ立ったままで、ぼそぼそと呟きを発している。


戸崎「なぜだ……」


戸崎は滞りなく進む実験の様子に不満があるように言った。


戸崎「なぜ永井圭は、あの研究員達を攻撃しない……ガラスに傷を付けてから、あまり動きが無いように見えるが?」

下村「……もしかしたら自覚してないのかも」


下村はすこし考えこんだあと、戸崎を見上げて答えた。


戸崎「無自覚のほうが本能的に攻撃しそうな気がするが……」

下村「いま自覚してないとすると『幼少期からずっと』ということになります。長期間干渉しあわないまま過ごした結果、彼と黒い幽霊のリンクは、極めて不安定なのかもしれません……例えるなら、電波状況の悪いところで通話する感じでしょうか。ですから、いずれは彼らを攻撃する可能性が……」

戸崎「いまは?」

下村「え?」

戸崎「いまはどこで何をしている」

下村「いま、ですか……その……」


戸崎は口を閉ざし、冷たく沈黙したまま下村の答えを待った。下村はやがて遠慮がちに言った。


下村「戸崎さんを、見てます」


一瞬、戸崎の眼が丸くなり驚きを現した。首を少し後ろに引き、ガラスと眼の距離が離れた。


戸崎「……見てる……か……」


だがすぐに戸崎の視線は細く鋭いものに戻り、透明なガラスの向こうの戸崎には見えない幽霊に、忌々しいものを見つめるときのような侮蔑と憎しみに染まった眼を突きつけた。


戸崎「偉そうに」


戸崎はぼそりと呪詛の言葉を吐いた。


戸崎「お前らのおかげでどれだけ私の人生設計が崩れたか……わかってるのか……?」


下村は戸崎の言葉を視線を床に落としたまま聞こえないふりをしていた。そうすれば戸崎に見つからないとでもいうように頭を下げてじっとしていたが、儚い希望をあっさり無視して戸崎は下村に声をかけた。


戸崎「よく見ておけ、下村君」


下村の肩がびくっと震えた。

戸崎「きみがここでそうしていられるのは、私が秘密裏にかくまっているからにすぎない。しっかり働けよ。さもなくば……きみもああなる」


下村は頭を上げられなかった。じわじわと恐怖によって玉のような汗が滲んできた。実験室の音声がスピーカーから聞こえてくる。実験道具が出す高音と肉が掻き分けられる湿った音、低く響き渡る苦痛の音声が恐ろしいハーモニーを生んでいた。


戸崎「情け容赦無しだ」


戸崎は無感情な眼で永井を見据えながら言った。永井は左腕と右手の指が全て切断され、両脚に釘が打たれて赤い血の筋が包帯に染み込み手術台に落ちていた。顔に巻かれた包帯は涙や鼻水でべたべたになっていたが、永井自身の嗚咽や痙攣はピークを過ぎだんだんと間隔が広くなっていった。永井の腹部が割られている。開腹手術の真っ最中だった。永井の臓器は活動する様子を外部に晒しながら、灯りに照らされて健康的なピンク色に艶やかに光っていた。

研究者1「反応がにぶくなってきたな」

研究者2「リセットするか」


見学室の上級研究員がふたたびスピーカーを入れ、指示を出す。


『よし、一度殺して休憩にしよう』


研究員3「はい」

研究員1「ふう……トドメよろしく」

研究員2「お先」

研究員3「お疲れ様です」


残った研究員が先の尖った金属こてを頭の上まで持ち上げる。こての位置は永井の胸部の真上にあった。床や手術台の上に滴り落ちた永井の血はまるで火のように赤く、そこから黒い物質が煙のように立ち上り出していることに研究員は気がつかなかった。

下村「あっ」


下村がそれ以上反応を見せるのを戸崎は睨みつけることで抑えた。実験室内の黒い幽霊が永井の感情に感応したのか、研究員の背後へゆっくり近づいていく。研究員は狙いを正確に定めようとこてを持ち上げたまま動かない。黒い幽霊は研究員に近づきながら腕を上げ、手で鉤爪を作るように指を折り曲げた。下村は研究員が引き裂かれると思い、眼をつむった。瞼の裏の暗いスクリーンの中に慧理子の病室での出来事が今このときのようにありありとよみがえる。戸崎の眼は冷徹に前に向けられたままだ。

黒い幽霊が腕を振り抜いた。と同時に幽霊の身体の構成が根本から分解されたのかというように幽霊の節々が瞬時に崩壊し、研究員はそのあおりを食らったが傷ひとつ負うことはなかった。


研究員3「風?」


研究員が室内にも関わらず風が吹き付けてきた現象の原因を求めるように腰をまわして大きく振り返った。しばらくのあいだ部屋の中のあちこちに視線をやったが結局何が原因だったのかはわからない。もしかしたら気のせいだったのでは、と研究員は思い始めたとき、見学室からまたリセットの指示が来た。研究員は気を取り直し、永井の胸部に金属こてを真っ直ぐ突き落とした。

永井はふたたび意識を取り戻し眼は光を受容したが、視界は白一色に染まり何も見えなかった。眼に覆いをかけられているせいだった。瞼に触れる覆いが包帯であること、さらに全身に包帯がきつく巻かれていることを今度はあらかじめ知っていた。腕に力を入れてみたが、すこし震えただけで上がらない。全身が手術台の上で固定されていた。永井はもがくのやめこれから到来する苦痛に呼吸を荒くしていると、自分の喉から出てくる音がやはり声でなくなっていることに気がついた。喉はただの風穴になっていて、隙間風のような空気が漏れ出てくる音しか出さない。声帯が切り取られていたせいだった。


研究員1「よーし、後半戦いくぞー」


ふたたび研究員の声が上から降ってきた。


研究員3「上の命令はとにかく痛みを与えろだと」

研究員2「何の実験ですかね」

研究員1「さあな。おれらは従うだけだ」

研究員3「さてと……歯からいくぞ」


永井の喉から洩れる音は声とはいえないほど掠れてくもぐっていたが、それでも苦痛に苛まれている者が発する悲痛な音声であることは誰の耳にもあきらかだった。

実験室の使用を示す赤いランプはそれでもずっと灯り続け、掠れた空気の洩れる音も点灯と同じだけ鳴り続けていた。

十日後、雨がしつこく篠突いている中、今日も各報道局のレポーターがレインコートを羽織りカメラに向かって報道している。

この日はアメリカからオグラ・イクヤ博士が来日・視察のために研究所を訪れる日だった。生物物理学者であるオグラは九九年に渡米し、同地で亜人研究トップクラスの地位を得ていた。亜人研究は各国競争状態で、基本的に他国の亜人事情にはノータッチが原則なのだが、日米の一部の研究機関は協力関係を結んでおり、日本で新しい亜人が発見捕獲された場合オグラ博士が視察することになっている。

博士を乗せた車両が研究所のゲートを通り抜けるあいだ、レポーターたちはこれらの情報を説明していた。ゲート周辺は幾つもの光源が寄り集まり、ひとつの大きな光のドームを作っていた。そこでは雨筋が白い糸となり、垂直機織でもしているかのように上から下へと送られ続けている。ゲートのすぐ横には二メートル程の高さの植込みが光を遮る壁となっていて、黒い葉を雨で揺らしながら敷地の内と外を区切るフェンスを光から遠ざけていた。

雨滴はフェンスの網目に沿ってしとしとと植込みの向こうに広がる草の上に流れていて、それを目で確認するのは暗闇のせいでかなわない。唯一その様子を見て取ることができるのは敷地内を巡回する警備員がライトでフェンスを照らしたときだけだ。ライトは防水式LEDタイプのマグライトで直線的な黄色の光線を遠くまで延ばして草の上に落ちていた。光線の長さにつられるように、光が当たっている草の影も長く延びている。光線はフェンスの方向を照らしていたが、地面には網目模様の影はうつっていなかった。フェンスは四角く切り取られていて、そのすぐ横に首から顎、そして顔面にかけて深い裂傷を負った警備員が倒れていた。警備員の眼に雨が当たる。その眼は光を失ったまま、雨滴に無反応で瞼が壊れたガレージのように開いたままだった。


佐藤「絶好の反逆日和とはいかないなあ。雨の中じゃ黒い幽霊の操作はしにくくなる」


警備員の死体の横に田中の幽霊が立っていた。警備員の首を切り落とすはずだった黒い幽霊の右腕はすでに消滅していて、幽霊は片腕にもかかわらずなにか他に気になることでもあるかなようにブツブツ独り言を切れ目なく続けている。

佐藤はナイロン生地のボストンバッグを開けると中からこれから起こす出来事に必要なものをを取り出して、田中も佐藤といっしょにそれらの銃器を身につけていった。装備にまだ時間のかかる田中を佐藤はいつものように微笑みながら待っていた。

佐藤「田中君は作戦C、オグラ博士の誘拐担当! 私は作戦B、永井君の救出担当だ!」


オートマチックの拳銃を腿のホルスターとコンバットベストに収め、動作確認をしたショットガンを手に持った田中に向かって佐藤は言った。二人はズボンの裾を撫でる草むらから水たまりが光るアスファルトへと歩いていった。佐藤は躊躇いのない歩みで水たまりを平然と踏みしめたので、水跳ねの音が強い雨音の中でも耳に届いた。降りしきる雨はふたりのコンバットベストに染み込み、身体に引き寄せ持った銃器を黒く輝かせた。


佐藤「さて、どうすれば城を落とせるか」


二人が分岐するポイントまで到達したとき、出し抜けに佐藤が口を開いた。田中が視線をやると、佐藤は内部を透視するかのように研究所に視線を固定している。帽子の庇からは雨が粒となって尾を引きながら垂れ落ち、後ろでは吸い取りきれなかった雨粒から首を伝って佐藤のシャツの襟の中へ流れていた。

佐藤「単純! 敵の想定する火力を上回ればいいんだよ。いま私たちが持てる最大火力で、圧し潰す」


田中は自分達の重装備を見ながら、武器を調達したとき佐藤が言ったことを思い出していた。田中はトランクに積み込まれた銃器の量に、こんなリスクを冒してまでして永井圭を助ける価値があるんすか、と佐藤に尋ねた。永井圭を人間側に差し出したのは、佐藤が仕組んだことだった。人間への憎悪を育み、殺人へのハードルを下げさせたうえで恩を売り仲間にする。少なくとも田中はそのような目論見だと考えていた。佐藤はトランクを閉めながら田中の疑問に、ないよ、とあっさりした調子で答えた。

最優先事項じゃあないんだよ、永井君の救出は。そのように言う佐藤に、田中は、やっぱりこの人はよく分からない、と正直な気持ちを起こした。


佐藤「小細工などいらない」


そう言う佐藤の声はあのときよりいくらか楽しそうだった。それについては田中も同様で、銃器の冷たい感触に密かに興奮していた。二人は別れ、田中はオグラ博士がいる地下の駐車場へ向かって歩いていった。佐藤も自分が担当する侵攻箇所まで歩き始めた。ストラップの付いたM4のグリップが右手で押さえられ、下を向いている。ストラップは左手にも握られていて、掌の中で折りたたまれ握られているそのストラップも火器に付けられたものだった。歩くたびに前後に揺れるその火器は、太い筒の形をした対戦車用の携帯火器だった。

研究所内を警備する警備員の数は永井が移送された日から通常の倍に増員されていて、警備室の監視モニターにはいたるところに配置され、警戒を強めている警備員が映っている。永井圭が亜人と発覚してから、研究施設と契約している警備会社は社員に麻酔銃の訓練を受けさせた。

麻酔銃の使用には銃砲所持許可が必要で、麻酔薬として麻薬に指定されているケタミンも使用するので麻薬取扱者の許可も同時に必要になってくる。現在の日本の法律では、麻酔銃を取り扱えるのは獣医師くらいしかいないのだが、亜人管理委員会を擁する厚生労働省はこの違法を黙認していた。

警備室の近くにはガラス張りの喫煙室が設けられていて、そこでは連日の出勤に疲労する四人の警備員が一時のリラックスを求めて煙草を吸っていた。四人の中でいちばん若い警備員は入ったばかりで、いきなりの特別出勤と違法行為にまだ折り合いがつけられないようだった。

警備室のモニター画面の一つがパッと明るくなった。研究所の東側の入口に設置されている人感センサーが反応し、ライトが灯ったためだった。そこには一人の男が黄色い色をした光の円の中心に立っていて、なにか筒状の物を肩に担いでいる姿が映っていた。警備室近く東入口の喫煙室でタバコを吸いながらたむろしていた四名の警備員は、雨の中にいる男の姿を正面から見た。男は帽子を被っていた。佐藤だった。

佐藤が肩に担いでいる無骨な筒はAT4と呼ばれるもので、直接の見覚えがなくても警備員たちはそれが携帯式の対戦車火器であることがわかった。発射音による空気の弾性波が津波のように轟き渡り、火器後方から塩水が噴き出すと成形炸薬弾が東入口で爆発した。火と金属片と衝撃波が警備員たちを襲った。黒い煙といっしょに吹き飛ばされたガラスが通路を満たし皮膚に突き刺さる、壁や床を這いまわる火が倒れて這いつくばって苦しんでいる警備員たちの背中や腹と床との隙間に流れ込み、オレンジ色をした火が流された赤い血と混じって強く発光した。火が彼らを苛む、皮膚と筋肉と血管を焼いて焦がす。

佐藤は無反動砲を濡れた地面に投げ捨てると、M4アサルトカービンを火の中へ向けてフルオートで撃ち始めた。銃声が警備員たちの絶叫を打ち消した。銃弾は熱せられた空気の中を飛び回った。残っていたガラスを割り、穿った壁に埋まって粉塵を飛ばし、天井のライトを吹き飛ばし、床を削り取って火の中に飛び込み、警備員の身体を貫通し、爆発で穴が空いた壁の向こうの警備室まで到達した。銃弾は様々な物体とぶつかり、物体の素材ごとに異なるあらゆる音が警備室周辺の空間に乱れ鳴っていた。

佐藤は銃弾をばら撒きながら前進した。狙いはつけず、通路の左の壁から右の壁まで線をなぞるようにして銃口を動かした。帽子に当たる水滴が、空から落ちてくるものから天井に備え付けてあるスプリンクラーによって散水されたものに変わった。ガラス片を踏むぎしゃりという音がした。爆風で吹き飛んだ警備員たちに銃弾は容赦無く降り注いいだ。四人の警備員のうち二名はもう事切れていて、身体に空いた穴の数が増えていってもまったく気にしてなかった。水に浸された床にタバコが数本浮いていて、そのすぐ側に皮膚の焦げた死にかけた警備員が蹲って身をよじらせていた。佐藤は歩きながらその男の頭に弾を撃ち込んだ。水と煙と火の中を抜けると、通路の奥で片腕が千切れた警備員が炸薬弾からも銃弾による大数の法則からも奇跡的に生き延びて壁に寄りかかって懸命に息を吸っていたので、佐藤はいちばん若いその男の胸部と頭部に二発一発と銃弾を叩き込んだ。廊下を左に折れて警備室に入っていく。部屋の中は廊下の状況ほど酷くなく、煙と熱が苦しいくらいで、熱気のほうはスプリンクラーが冷まそうとしていた。軽傷の警備員がモニターの向こうに話しかけている。佐藤はその男の頭部に照準を合わせた。銃を持ち上げたときの気配と音でその警備員は自分に狙いをつける佐藤を見ることになった。佐藤は眉間を撃ち抜かれた死体を跨いでモニターに顔を寄せると、画面の向こうにいる戸崎に向かって、やあ、と話しかけた。


佐藤「そこにいるのかな? トザキ君」

佐藤はさの音節を濁らせ、冗談でも言うみたいにわざと読みを間違えた。


佐藤「私がなぜここに来たかまだわかるまい。だが、今夜日本の亜人事情は大きく覆る」


佐藤の眼が薄く開いた。降り注ぐ水滴が白い条を何本も描くなか、佐藤の眼が刺すような光を放った。


佐藤「そう宣言させてもらうよ」


モニターが黒くなった。沈黙する画面を苦々しく見つめる戸崎に、コウマ陸佐が詰め寄った。

コウマ陸佐「戸崎、どう対応する! 永井圭は初日以降、別種の力を見せず究明はまったく進んでいなんだぞ!?」

戸崎「警備を大幅に増やしてます」


戸崎の表情は締め付けられたかのように動かなかった。


戸崎「麻酔銃が一発当たりさえすれば……何十人犠牲になろうと、眠らせさえすれば、我々の勝ちです」

コウマ陸佐「麻酔の有効性は認めるが、そこまでして殺害を回避したい理由は何だ?」


コウマ陸佐は多少落ち着いて尋ねた。


戸崎「強化ガラスなどで守られているわけではないこの部屋では、我々にまで危険が及ぶ可能性……」


戸崎は陸佐に顔を向けた。うって変わって、その表情は苦渋に滲んでいた。


戸崎「亜人の殺害は『中村慎也事件』……つまり最悪の事態の引き金になりかねないと考えられているからです!」

スプリンクラーはまだ水を撒き続けていた。研究所の三階、サンプルの保管室へと繋がる通路の前に、十五名の警備員がピストルタイプの麻酔銃を構えて侵入者を待ち構えていた。警備主任が、順番に撃てよ、過剰投与は結果的に殺害になりかねない、と荒っぽく声をあげる。主任は保管室の前、つまり最も後方にいた。前方にいる警備員たちの手が震えていた。さっきから、ぱん、ぱん、ぱん、と散発的に、ときには連続して発砲音が聞こえてきたからだ。その音はシャッターに阻まれてこもって聞こえたが、明らかに保管室に近づいていた。ごん、という金属を金属で思いっきり叩いたかのような音が響いた。前方の警備員たちの身体がびくっと跳ねて、一人が麻酔銃を手から落としそうになる。銃弾が分厚いシャッターに当たった音だった。それから少しの間、銃撃は止んで、スプリンクラーの散水音しか聞こえなくなった。片膝をついて麻酔銃を構える若い警備員が、必要以上に力を入れて麻酔銃を握り直す。防火シャッターは、一瞬震えたかと思うと、ゆっくりと左右に扉を開けてゆく。そこから見えるのは同僚たちの死体だ。皆、頭か胸を撃ち抜かれ、床に倒れている。床を浸す水は血の赤色を薄めて、警備員たちのいる通路に向けて洗い流そうとしている。シャッターすでに半分以上開いたが、侵入者の姿はまだ見えない。先頭にいる警備員は彼から見て右側のシャッターのすぐの横の床に近いところに、小さな黒い穴がぽつんとあるのに気がついた。その警備員は眉間を撃ち抜かれ、死んだ。


佐藤「いくよー」

佐藤はシャッターから身体を出し、バキン、 バキン、と空間が限られた場所なのにセミオートで一発ずつ発砲しながら通路を進んだ。佐藤は銃弾ひとつで警備員一人をきちんと殺す。発射された麻酔ダートを躱し、また引き金を引くと六人目が死んだ。

ハンドガードを持つ佐藤の左腕に麻酔ダートが突き刺さった。麻酔銃を撃った若い警備員が思わず、よし、と言ったとき、佐藤は腰からブッシュナイフを引き抜いて、左腕を切り落としてしまっていた。佐藤は素早い動作でブッシュナイフを拳銃に持ち替えると、切断面を晒している左腕を拳銃を持つ手の支えにして、その警備員の顔に三発叩き込む。警備主任も死んでしまった。佐藤と対峙することになった二人の警備員はパニックになり、当てずっぽうで麻酔銃を撃った。麻酔ダートは佐藤の右半身、脇の下と胸に刺さった。佐藤はまだ熱い銃口を首の下に押し当てた。皮膚が火傷を負った。

脳天から血が飛び散り、帽子が吹っ飛ぶ。佐藤は死んで、だらんと仰け反り崩折れる。身体が床につくまでの僅かな間に、黒い粒子が集合し無くなった腕を再生した。残された警備員たちはほんの一瞬、驚いただけだった。床に背中がついた瞬間、佐藤は上半身を跳ね起こし、残りを一気に始末した。佐藤が引き金を引いているあいだ、かれらの身体は揺さぶられ続け、まるでダンスを踊っているみたいだった。噴き出す血煙がスプリンクラーから撒かれた水に反射し、ピンク色にてらてら光っていた。

ア レ
佐藤「黒い幽霊いらずだね」

すみません。

>>173 のルビが大きくズレてしまいました。「アレ」のルビは黒い幽霊の上ということでお願いします。

佐藤は濡れた帽子を拾い上げ、被り直しながら言った。帽子に穴は開いていなかった。


佐藤「さて、永井君。お迎えだよ」


佐藤は保管室に入っていった。その部屋は殺風景で、遺体安置室そのものだった。佐藤は「003」と通し番号がふってある埋め込み式の金属製の寝台を引き出した。

永井は死体のように静まりかえって横たわっていたいたが、上下する胸の動きや微かな呼吸の音が確認できる。腕の静脈から注入されている麻酔のせいで眠っているだけだった。佐藤はブッシュナイフの柄を両手で持つと、刃先が永井に対して垂直になるように構えた。


佐藤「君はどう仕上がるかな?」


佐藤がナイフを突き下ろした。刃物は深々と突き刺さり、やわらかい喉元を貫通した。ナイフを前後に動かし傷口を切り開いてからずるりと刃を引き抜くと、血が噴き出すかわりに黒い粒子が放出され、再生が始まった。佐藤は永井の生き返りが完了するまえに顔に巻かれた包帯を剥ぎ取った。包帯を床に捨てると、ちょうど永井が眼を開けたところだった。

永井はゆっくりと身体を起こした。

佐藤「永井君わかるかい? 助けに来たんだ」

永井「どれくらい……僕はここに……」


永井はなかばぼうっとした意識で佐藤に尋ねた。


佐藤「そうだな、十日以上はいたのかな?」


頭の中で佐藤の答えが反響しているのか、永井は茫漠とした表情をしていた。


永井「それしか経ってないのか……」


永井の眼に涙が滲んだ。永井は瞳から滴が零れそうになるのをぐっとこらえ、佐藤に顔を向けて、佐藤さん、と呼びからけてから大変申し訳無さそうに言葉を続けた。


永井「お手数おかけしてすみません」

佐藤 (この仕上がりは……失敗だな)


佐藤はつまらなそうな無表情で永井の言葉を聞いていた。佐藤の手にはまだブッシュナイフの柄が握られたままだった。

フード付きの青いレインコートを頭からすっぽり被ったその人物が報道陣から離れた西側の林の中を慎重に歩いていると、草の上に引かれた黄色い真っ直ぐな光線が爪先にかかり、反射的に脚を引っ込めるのと同時に研究所の反対側から爆発音がした。

レインコートの人物は十日前から可能な限り研究所を訪れていた。はじめはうっかりして研究所を眺めるために周辺を徘徊してしまい、応援に駆けつけた報道局の人間か警備員に見つかってしまうこともあった。その場からすぐ離れれば問題は起きなかったが、自身の不用意さにひどく恥ずかしくなった。

次の日からはもっと思いきった行動を選択した。研究所の中に黒い幽霊を忍び込ませたのだ。黒い幽霊は人間には見えないし、撮影機器にも映らない悪さをするにはうってつけの存在だった。とはいえ、そのうってつけのためにその人物は後ろめたさに悩んだ。父親との約束を破り自ら一線を踏み越えてしまったことへの罪悪感から、黒い幽霊の操作に躊躇いが生じ、研究所の一階部分を見て回るのにも数日かかった。一階の捜索では、美波の弟を見つけることはできなかった。

五日目になって、二階の探索にかかろうとしたとき、通路の奥に若い女性の後ろ姿を幽霊を通して見た。研究所の中で唯一の女性だったので、わずかにスーツを着たその女性の背中に意識が向いた。ミディアムの外ハネの黒髪が揺れたかと思うと、下村は首の後ろを指で触れられたかのようにばっと振り向き、それとまったく同じタイミングで幽霊の派遣者は幽霊の身体を壁に隠した。理由の分からない焦燥に急き立てられ、黒い幽霊をもっと見つかりにくいところに隠さなければならないという思いが全身に広がった。

黒い幽霊をとっさに跳躍させると、幽霊は通路の角の壁に静かに着地した。音を出さないように素早く動かしながら、階段まで戻る。階段に足を置かず手摺を掴んでぶら下がると、直線に一度折れ曲がった階段の隙間に身体を通しまた音もなく着地する。顔を上げると、ファイルが詰まったダンボールを抱えた研究所のスタッフと眼があった。スタッフは脚を上げ腿でダンボールを支えながら右側にある資料室のドアを開けると部屋の中に入っていった。

膝を曲げたままの姿勢で固まっている黒い幽霊の頭部が崩壊を示しはじめた。拡散する黒い粒子が空気の中へ消えていく。消滅までやり過ごそうとまだ閉まりきっていないドアを抜けまっすぐ突き当たりまで進み、三列に並ぶスチールラックの上に、ラックが揺れないよう慎重に幽霊を乗せた。ラックの上からスタッフが背に貼られた通し番号順にファイルを整理している様子が見えた。

閉まっていたはずのドアが風に揺れるカーテンのように静かに開いた。三角形の頭部を持った黒い幽霊が部屋の中に入ってきた。下村の幽霊は浮き上がったように身体を持ち上げ、資料室を見渡そうとした。派遣者はラックの上にいた幽霊の身体を回転させ、床に落とした。着地音を吸収するように両手両足が床に張り着いたまま、幽霊は動かなくなった。着地の瞬間には、頭部がもう完全に消滅していたからだ。

下村の幽霊はラックから下りると、今度は部屋のなかを歩き出した。首を動かし、ラックの間に頂角を向ける。幽霊とのリンクが途切れた派遣者はただ祈ることしかできなかった。下村の幽霊が頭部の無い幽霊がいる奥のラックの方へ進むと、ファイル整理を終えたスタッフと対面し、一歩後退ることになった。スタッフはそのまま真っ直ぐ幽霊の方に歩いてきた。下村はさらに後退し幽霊の背中をラックにつけてやり過ごすと、スタッフが出て行ってから資料室の捜索を再開した。何かの存在の痕跡は、跡形もなく消えていた。

それから五日間、黒い幽霊が研究所内を歩くことは無かった。

二度目の失敗は一度目のときより遥かにこたえたが、しばらくすると希望的な観測が派遣者の中に生まれていた。あの亜人の女の人が美波と話をした政府の人といっしょにいるのなら、美波の弟だって外に出られるのかもしれない。いまはまだきっといろいろな検査をしているときだから、すぐではないにしてもその可能性がある以上、それを確認して見届けなければ。でも、黒い幽霊も送り込めないのにどうやって?

レインコートが雨を弾く音を聞きながら、その人物は光線が放たれてる場所を見ていた。ライトは地面に直線に走ったまま動かない。その光は目印のように固定され、誰かを導くのを待っているかのようだった。光線と爆発音がレインコートの人物の頭の中で明滅と反響を続けていた。

レインコートの人物は右側から回り込むように光線の根元へ近づいていった。フェンスに身体を付けながら腰を落として草を踏みながら進んでいくと、ライトがフェンスが四角く切り取られている部分を照らしていることに気がついた。レインコートの人物は唾を飲み込み、フェンスの穴を一気に通過しようと決めた。

切断されたフェンスをくぐり抜けたとき、地面にうつ伏せている警備員の眼を見た。警備員の眼は虚ろで死体の眼をしていた。顎から眼の下のあたりまで深い傷が刻まれていて、それが致命傷なのだとすぐに理解できた。恐怖がレインコートの人物を刺し貫いた。冷たい恐ろしさが骨格の代わりになってしまったかのようにその場から動けなくなり、喉が閉まり呼吸するのも苦しくつらい。剥き出しになった死を目の当たりにするのは、これが初めてだった。

ふたたび研究所内からさっきの爆発音と同種の音が響いてきた。その音が鳴り続けているあいだ、誰があの建物の中で死んでいる。レインコートの人物は苦しみながらなんとか口を開け、必死になって息を吐き出した。渇きを癒すために水を喉に流し込むかのように空気を大量に吸い込むと、息を止め一気に駆け出す。燻りと灰と焦げ臭さが残る東入口に彼女がたどり着いたとき、銃声はすでに止み、冷たくなった静寂が研究所をすでに満たしはじめていた。

今日はここまで。やっと『シンデレラガールズ』側の亜人を登場させることができました。

それと、亜人実写版の慧理子役の人、浜辺美波さんという方なんですね。アニメ版の慧理子と美波の中の人が同じなのはそんなに珍しくもないんですが、今回の偶然の一致にはさすがに声が出ました。


緑色の照明に照らされた駐車場にショットガンで撃たれた四人の死体が転がっている。ダブルオーバックの鹿撃ち弾に撃たれ頭部か胸部が大きく欠けた死体は、警備員とオグラ・イクヤの護衛で、護衛のふたりはアメリカ人だった。


田中「銃ってなあ……結構疲れんだなあ……」


ひと息ついた田中は、とりあえず佐藤のアドバイス通りにできたことに安心した。


佐藤「きみはまるでミシシッピだねえ」


田中が銃の訓練をはじめたとき、銃弾が飛んでいった場所を見ながら佐藤がいった。銃弾は的から右に二メートルほど逸れ、細長い濃い緑色の葉を茂らせた夾竹桃の木の枝をひとつ吹き飛ばすと、背後にあるノウゼンカズラの茂みの中へ消えていった。弾倉が空になるとあざやかなピンクや白やオレンジ色の花びらたちが、木陰がかかった黒い地面を彩っていた。


田中「生まれは川沿いの病院っすけど」


田中は拳銃を握った両手を下げ、銃弾のそれ具合に気まずくなりながらいった。


佐藤「ますますミシシッピだね」


その名称が州や川のものではなく、映画の登場人物のあだ名であることはあとから知った。佐藤は田中に、まずはショットガンの練習からはじめようにアドバイスした。


佐藤「大丈夫。ジェームズ・カーンものちにウィーバースタンスを身につけるから」


どうやらそれは励ましの言葉であるみたいだった。肩にあたる銃床は硬く重かった。


田中は息を落ち着かせ、はじめてのときのようにショットガンのフォアグリップをスライドさせ、空薬莢を排出し、薬室に次弾を装填した。弾薬を使い過ぎた気がしつつも、田中はオグラ・イクヤを乗せた黒いワゴンの側面に近づいていった。


田中「出て来い」


田中はショットガンを構え、車のドアを開けた。車内は無人だった。


田中「あら?」


田中は振り返り、駐車場を見渡した。四角いコンクリートの柱が立ち並ぶほか、四つの死体が転がっている。緑色の光の中、生きているのは田中ひとりだけだった。


田中 (失敗……)


田中は首を押さえながら頭をさげた。おおきくため息をつくと、ショットガンを手持ち無沙汰にしながら、やることがなくなってしまった時間をどうするか頭を悩ませた。


ーー
ーー
ーー


コウマ陸佐「不死身とか……それ以前の話だ。この亜人は何者だ!」


佐藤が警備員を突破し、永井圭が保管されている部屋に悠々と入っていく様子をモニターで見ていたコウマ陸佐は、苦渋に表情を歪めながら叫ばずにはいられなかった。


研究者1「なぜ別種の力を使わなかった?」

研究者2「そう見えなかっただけじゃないのか?」


「見えなかったもなにも、アレははなから見ることができない」


その声は水を踏むぴちゃんという音とともに、ドアのほうから聞こえてきた。


「まったく、なんでこんなに騒がしい」


部屋の入り口近くに立っているその男は口にタバコを咥えていた。中年で短いボサボサの髪、ジャケットの下は安っぽいTシャツ、ジーンズは色落ちしていた。男の背後には、金髪を短く刈り上げたアングロ・サクソン系のボディガードがいてサングラスをかけている。


オグラ「このオグラ・イクヤ様が来日したってのに」


戸崎「すみません……緊急事態でして」


戸崎はタイミングの悪さに悪態をつきたい気分だった。


コウマ陸佐「待て博士、さっきはなから見れないとか言ってたた。どういうことだ?」

オグラ「んんっ? あぁ?」


オグラはタバコの煙を肺いっぱいに吸い、受動喫煙を推奨するかのように、部屋中に行き渡るようタバコの害を撒き散らすと逆に聞き返した。


オグラ「きみたちはIBMの話をしてたんじゃないのか?」

岸「アイ・ビー・エム?」

研究者2「別種の力のことを合衆国の研究者はそう呼ぶんだ」

オグラ「IBMは人の目に見えないくせに人の形をしているクールな奴なんだ」

研究者1「またバカなことを……」


研究者たちは久しぶりに聞かされるオグラの突拍子の無い物言いにあきれ返った。


コウマ陸佐「じゃあ別種の力とは……霊的な何かだというのか!?」

オグラ「陸佐……“バカ”かね? 君は」


両手の人差し指と中指を二回チョンチョンと動かし、ダブルクォーテーションを意味するジェスチャーをしながらオグラはいった。


オグラ「IBMは物質だよ」


ーー
ーー
ーー


赤く濡れた通路に二十体以上の死体が倒れていた。仰向けの死体に、うつ伏せて四肢を投げ出している死体、普段なら曲げないであろう限界まで関節が曲がり奇妙なオブジェのように壁に寄りかかっている死体、張りつめて伸びた脚のあいだに背中を丸め頭を垂れ、額を床にぴったりつけている死体など、さまざまな姿勢の死体が廊下の前後どちらにも続いていて、冷たくなった身体の下にあるぬめった血溜まりの周縁部は水に溶け、形状をあいまいにしていた。

血溜まりは天井の灯りを反射して白く輝いていたり、反対に光を吸い込んでいるように黒く見えるものもあり、赤、黒、白の色彩はそれぞれコントラストを作っていて、それ以外の光がちらちらと散っているところは小川のようだった。二人が歩くと踏まれた箇所に波紋が広がり、濡れた通路の床はほんとうにせせらいでいるように見えた。

佐藤は銃を水平に構えたまま移動し、開いたドアがみると部屋の中を確認した。無人であることを見てとると、銃口を斜め下に下げて通路を眺める永井の背中に向かって声をかけた。


佐藤「気になるかい?」

永井「え? 別に」


永井はさしたる動揺もあらわさず、振り返って佐藤に答えた。


>>188は投稿ミスです


永井「ココを守るのがこの人達の仕事でしょうし、もう死んじゃってますしね」


永井はあらためて通路を見やった。その視線はただの小川を眺めるときのように思考や感情のはたらきのない視線だった。


永井「そんなことより、こんなところ絶対脱出したいので、よろしくお願いします」


そう言う永井はあからさまに態度を変え、生体実験に恐れをなしているといった表情をしながら佐藤に頼んだ。


佐藤「じゃあ急ごう」


永井を先導するかたちで研究所内を、パシャパシャと水音を鳴らして進みながら、佐藤は神社で交わしたやり取りのことを考えていた。


佐藤 (初めて話したときに感じた違和感を思い出した。妹の心配をしているが、どこか嘘くさい感じ……亜人になったからとかじゃない。もっと根本的にこの子はおかしい。この仕上がりは失敗と言ったが、もう少し様子を……)


通路の左側から、がたんと物音がした。そこには備品室のドアがあり、物音はそこから聞こえてきた。佐藤は左手を拳を作った状態で上げ、後方の永井に向かって停止のサインを送った。


永井「待ち伏せ?」

佐藤「確認する必要があるね」


佐藤がドアを開ける。備品室の中には三人の研究員がいて、手術用ガウンを着たまま、怯えた様子で両手を挙げ、降伏のポーズを示していた。


研究員3「撃つな……われわれ三人は警備員じゃない……」


マスクをした研究員の声は震え、くもぐって聞こえた。永井は研究員たちの怯える様子に安心し、ほっと息を吐き、佐藤に話しかけた。


永井「先を急ぎ……」


佐藤は引き金を引いた。銃弾は佐藤から見て左側にいた研究員の頭部を貫通した。隣にいたマスクの研究員が発砲音がした瞬間、身体を震わせ、身を伏せるように瞼を閉じた。


永井「あ」


永井は首を動かさず、横たわる死体と声も上げられないほど恐怖している二人の研究員を横目でちらと一瞥してから、佐藤にたずねた。


永井「殺すんですか?」

佐藤「万全を期す」


マスクの研究員はもう目を開けていた。顔からは玉のような汗が流れ出していた。佐藤はホロサイト越しにこちらを見ていて、さっき同僚が撃ち抜かれたのと同じところが狙われていると感じた。眉間のあたりがやたらと熱い気がする。研究員の視線が、自分を眺めている永井のと交わった。同情も困惑もない、透明なものを見ているような眼をしていた。

研究員はそこですべてを諦めた。仕方の無いことなんだ、と彼は自分に言い聞かせた。おれが上の命令に従ったのも仕方の無いことなんだし、その結果、おれが殺されるのも仕方の無いことなんだ。研究員は自分が殺されることを受け入れるというよりは、自分が殺されることを永井が認めているということを受け入れる、とでもいうようにそっと瞼を閉じた。永井はその様子をじっと見つめていた。


引き金にかかる佐藤の指に力が入る。引き金が引き絞られてから銃弾が発射されるまでの時間は瞬間的で、僅かな秒数でしかない。その一秒にも満たないあいだに、永井は反射的に動いていた。銃身を掴み、ありったけの力で下のほうに抑え込む。銃弾は薬莢よりはやく落ち、床に弾痕を残した。


佐藤「永井君?」


佐藤は銃身を持ち上げようとしたが、永井がさらに力を入れて抑え続けているので、カービン銃はわずかに上下に揺れる程度の動きしかみせなかった。綱引きのような引っ張り合いをしながら、永井が恐る恐るといった調子で言った。


永井「いえ、あの、助けていただいてる身分で大変言いにくいんですが、無抵抗ですし、殺さなくてもいいんじゃあ……」

佐藤「麻酔銃を隠してるかも」

永井「あ! 目を潰すとか、腕を折るとかはどうです?」


永井は、まるで停滞している会議を進展させる良いアイデアを思いついたかのように、声の調子を弾ませながら言った。



佐藤 (永井君、やはり君は……)


佐藤の手がカービン銃から離れた。左手でストラップを外すと、脚を踏ん張り、重心を後ろにして銃身を押さえつけていた永井は、後方へと倒れていった。ストラップを外した佐藤の右手は瞬時にレッグホルスターに伸び、そこに収められていた拳銃を引き抜いていた。


佐藤 (失敗だったよ)


拳銃を握った右手が上げられ、ふたたびマスクの研究員に銃口が向けられる。佐藤に照準を合わせるつもりはなく、拳銃が研究員の頭部のあたりまで持ち上がれば、適当に引き金を引いて銃弾を数発浴びせようとしていた。

永井の眼は、佐藤の右腕が上げられていく運動の軌跡を分割して捉えていて、一つ一つの固定された画像は、映画のように画面が次々に移り変わることによって現実の運動を再現しているというふうに映った。

腕の上昇と身体の落下が、それぞれの結果に行き着く前に、部屋の中に銃声が轟き渡った。


銃撃の音は研究員の鼓膜だけでなく、その皮膚にまで雪崩のように押し寄せてきて、激しい震えを与えた。肌を打ち続ける轟音に、マスクの研究員は、自分が撃たれてしまったのかと思った。瞼の裏が熱く、血潮が脈打っているのがうるさかった。

鼓動と脈拍の喚きがいつまでも止まないことに気づいた研究員は、恐る恐る、眼を開けてみた。細い白煙の一筋が眼にはいった。煙は、M4カービンの銃口から昇っていた。永井は尻もちをついた状態で、ドアに背をつけている佐藤に銃を向けており、永井の周囲にはたくさんの空薬莢がまだ熱を持ったまま転がっていた。

備品室の入口周辺のドアと壁が銃弾に穿たれていて、その中心に背をつけて立っている佐藤の身体にも、ドアや壁と同様に多くの弾痕が刻まれていた。佐藤はちいさく咳き込むように血を吐いて、ぼそぼそ言った。


佐藤「私を……撃ったな……」


佐藤の声は血で濁っていた。血に浸されたコンバットベストに空いた穴はくっきりと黒かった。ベストの上から腹部の銃創を手で押さえる様子は、手のひらに血を染み込ませて、皮膚の色を赤色に染めあげようとしているように見えた。


永井「ごめんなさい、とっさに」

佐藤「永井」


自分自身の行動に戸惑いを隠せない様子の永井が、手のひらをみせて謝罪ともごまかしともつかない言葉を口にしたとき、死にかけている人間が発するものとは思えないほど、輪郭のはっきりした殺意が佐藤の口から放たれた。


佐藤「君も、ブチ殺してやる」


佐藤は笑顔だった。血塗れの口が開き、僅かに残った歯の白い部分が灯りを照り返し、凶暴そうに光っている。狼が獲物の咽喉部を喰いちぎるときはきっと、このように牙を見せるのだろうと思わせる佐藤の笑顔は、永井にまっすぐ向けられていた。


永井 (ああ……いまさら気づいた)


背中がズルズルとドアを滑り落ち、脚が力なく床に伸びる様子を見ながら、永井はようやく佐藤の一端を理解した。


永井 (この人、『静かに暮らすのがモットー』なんて、ウソだ)


佐藤の頭ががくんと落ちた。帽子の上部がかすかに揺れるのが見えたが、すぐに動かなくなり、息が止まったかのように部屋のなかは、しんと静かになった。


永井 (ていうかそんなことより……脱出が、困難に……)


佐藤が事切れる瞬間を目撃した永井は、みずからの行動が現在進行で状況を悪くしていることにいやな汗をかかずにいられなかった。


研究員2「なあ、麻酔銃ないか!? いまのうち! 二発!」

研究員3「え?」


マスクの研究員が同僚の言葉に十分に反応できないでいると、佐藤の身体から黒い粒子が噴き上がり始めた。黒い粒子は、赤く歪な銃創を覆い隠したかと思うと、損傷箇所を修復し傷口を閉じていった。修復が完了すると、佐藤は瞼を開けた。


佐藤「どこに隠れた?」


佐藤は立ち上がり、備品室に並べられているメタルラックの列を見渡した。一列につき六台のラックが並べられていて、永井たち三人は、三列あるうちの中央、いちばん奥に配置されている六台目と五台目のラックのあいだに身を隠していた。


永井 (武器もない。ルートもわからない。どうやって脱出するか……)


永井が荒い音が出ないようにゆっくり呼吸を整えながら考え込んでいると、隣にいる前髪を鶏冠のようにあげた研究員が愚痴をこぼすのがきこえた。


研究員2「まさか亜人と隠れることになるとはなあ」

研究員3「よせ、かばってくれたんだぞ」

研究員2「ふざけんな。そもそもコイツがアイツを呼び寄せたんだ」

永井「えーっ。脱出をふいにしたのに」


研究員2「おまえのせいで何人死んだと思ってんだ!」


声を押し殺しつつ、研究員は永井に責任を押し付けようとした。永井は通路にあった死体の数をざっと思い出しながら、「僕が殺したわけじゃないしなあ」とどうでもよさそうにつぶやいた。永井は小さな黒い眼で隣の研究員を見据えた。瞳の黒さには、どこか冷酷な感じを与えるものがあった。


永井「だいいち、アンタらが僕にしたことを忘れたわけじゃないからな」

研究員2「ぜってえ解剖台に戻してやる」

永井「いやだ。死んでも戻りたくない」


永井は立てた膝のうえに顎を置いて前を見ながら言った。永井は視線の先にある空間を見ているというより、さっき研究員が放った“解剖台”という語が連想させる仮定ーーふたたび仰向けの固定姿勢で痛みが与えられるという仮定ーーが、映像として空間に投影されているというような眼で、恐怖をじんわりと汗をかくように感じながらいった。


永井「そういうアンタらも死なずに外へ避難したいはず。目的は一緒。ギブアンドテイクだ。僕が囮になってアンタらココから出す、アンタらは安全に外まで行けるルートを僕に示す」

研究員3「いいのか? 囮なんて……」

永井「死なないですし」

研究員3「それはちが……」

研究員2「よせよ! やる気になってんだから!」


マスクの研究員が言いかけた内容をその同僚が遮ったことを永井が怪訝に思っていると、復活した佐藤が聞き取りやすい響きを持った声で永井に呼びかけてきた。


佐藤「永井君、聞いてるかな?」


佐藤は入口のドアの近くに立ったままで、首をめぐらし、どこかのラックの裏に隠れているであろう永井に向かって話しかけた。


佐藤「死なない安心感が、あらゆる判断を安易にさせているんだろう。私が殺すといったのは比喩ではない」

佐藤「亜人は死ぬんだ」


さっきマスクの研究員の言葉を遮った男がいまいましげに舌打ちをした。永井は佐藤がいった安易という語に対して言い訳でもするみたいに、漠然としたなにか、自分だけでなく、自分の周りに漂う、空気のように境界線を同定できないあいまいな対象が終わりを迎える瞬間について思いを馳せた。“宇宙の終わり”という言葉が、具体性を欠いた明滅的なイメージしか喚起しないのと同じように、“終わり”についての永井の実感もほとんど湧いてくることはなかった。

佐藤は部屋の奥にむかって足を踏み出し、話を先に続けた。


佐藤「死をどう定義するかにもよるが……亜人は『遠くに行き過ぎた身体に部位は回収されず新しく作られる。もしそれが頭だったら?』」


佐藤は歩きながら腰に差したブッシュナイフの柄を掴んだ。ナイフが引き抜かれていくとき、刃がナイロン製のシースと擦れた。擦過音は一秒にも満たず音自体も微かだったが、それは残響となり、部屋の奥に進む足音と亜人の死について説明する声に重なると、擦過音は通低音と化し、声の底にこびりついた。


佐藤「私はいまから、必ずきみを断頭する」

佐藤「そしてその頭を拾い上げ、すこし離れたところで、新しい頭が作られてしまうさまを、絶命するまで観察させる」

佐藤「さて、新しくできたきみの頭は、脳は、心は、今のきみなのか?……否だ。きみはこっち。ココでおしまい」


佐藤の声がだんだんと永井のほうに近づいてゆき、それとともに音節の明瞭さも増していった。永井の脳は声を聞きながら、佐藤の説明する死についてのイメージを自動装置のように描き出していった。切断され宙に浮く自分の頭部、髪を掴まれ頭皮が引っ張られる感覚、しばらく続く眼球の運動、首の無い死体、切断面から立ち昇る黒い粒子、死と再生、そして“終わり”。永遠に。“こっち”にいる永井は、宇宙に先んじて“終わり”を迎え、宇宙が終わるまで“終わり”続ける。切断、持続、接続、永遠、無縁、という語句が永井の頭に浮かんだ。

佐藤はさっき死ぬまえに見せた凶暴な笑みをふたたび顔に浮かべ、はっきりと明確な意志を感じさせる一歩をさらに踏み出し、締めの言葉で断頭宣言を終えた。


佐藤「私を殺したことを、死ぬほど後悔させてやる」


永井は急に息苦しくなった。実在感を獲得した恐怖の感情は窒息器のように作用し、永井の呼吸を阻害した。自分自身のいやおうのない消滅を避けられず、情け容赦の無い事象が存在の根を切断していこうとするのに、抵抗の努力はすべて敗北する。無力感が巨大で物質的なものに思え、精神でなく肉体までも破壊していくように感じる。佐藤の足音がさらに近づく音を聞くと、毛穴が開き、身体から水分といっしょに空気まで抜け出ていくような脱力に襲われた。


研究員3「永井圭、君」


マスクの研究員が永井にゆっくり呼びかけた。永井は研究員のほうを向いた。


研究員3「やめてかまわないよ」


研究員の同僚が驚いているのを尻目に、永井は首をもとの位置に戻した。それから歯を噛み締め、顎をあげながら静かに口を開いた。


永井「やめない」

永井「アンタを、外に出す。そうするべきだ……たぶん」


佐藤が三列目のラックのあいだを探し終えたとき、中央五列目と六列目のあいだから三本の指がのぞいているのを見つけた。佐藤はラックの側面に左手を添え、床に座っているであろう永井の首めがけてナイフの刃を振り下ろそうと、右腕をあげた。

ラックの陰に残っていたのは、切断された三本の指だけだった。


佐藤「え?」


ラックの上にいた永井が佐藤めがけて静かに落ちてきた。左手に金属こてを握りしめ、親指と人差し指が残された右の手のひらを握りにあてている。


永井 (狙いは首のうしろ。脊椎。うまくいけば殺さず、全神経を断てる)


ふたりの身体が重なり合った。ぶつかったときの衝撃が互いの身体ににぶく響きわたり、刃物はふたりを繋ぎとめるみたいに、一方の身体を貫いた。


ーー
ーー
ーー


オグラ「IBMは物質だよ」

コウマ陸佐「では、なぜ見えない」


オグラは唇をつきだし咥えているタバコを上向けながら、コウマ陸佐に向けて中指を立てた。


オグラ「これが見えるか?」


陸佐は露骨にいらだったが、オグラはそれを了解のサインとでもいうように話をつづけた。


オグラ「おべんきょうタイムだ。光源から放たれた光は物質に反射、それを目が受け取り、人はものを見ている」

オグラ「じゃあなぜ、ガラスは透明なのか」


そこまでいって、オグラは口に咥えていたタバコを指のあいだに挟んだ。


オグラ「それはガラスな光を透過する性質の物質で構成されているからだ。一般的なガラスの透過率は八〇~九〇パーセント……」


オグラは結論の重要性を補強するように、タバコを持っている手で陸佐を指し示した。


オグラ「IBMは、全身が透過率一〇〇パーセントの未知の物質で構成されているんだよ」


ーー
ーー
ーー


ドアが開いた。そこから飛び出してきたのは、手術用ガウンを身につけた二人の研究員だった。先頭にたつ研究員は、一刻も早く佐藤から逃げるため振り向きもせず走った。後から出てきた方、手術帽とマスクをつけた研究員は黒のマジックインキのキャップを外した。


研究員2「何してんだ!」

研究員3「約束しただろ」

研究員2「逃走幇助とか……おれは責任とんねーぞ!」


同僚を無視して、マスクの研究員は左手に持ったマジックの先を壁に当てる。キュッというフェルトの擦れる音がして、研究員の走行に従って壁に黒い線が引かれていく。

備品室のなかにいる永井も、研究員たちと同じ方向に後ろ向きでよろめいて、壁に背をつけると膝がかくんと落ち、ずるっと太い赤線を引きながら、はやくも後悔していた。


永井「やめとけば……よかった……!」


脇腹にはブッシュナイフが貫通した傷があり、出血で意識がなくなるのを防ごうと左手と右肘そして壁をつかって三方向から圧力をかけていたが、新鮮で鮮やかな赤い血はゆっくりと壁に広がり、三つの隙間からたらたらと滴が垂れ落ちていっている。


永井「くそ、くそっ! なんでこんな目に……!」


佐藤が目の前に迫ってきた。あからさまにナイフを持つ腕を大きく振りかぶって、気持ちの良い断頭を目論む佐藤の態度は、その振りかぶりといつもの笑みが合わさったせいで、余裕たっぷりにみえた。


永井 (来る! 断頭される!!)


永井はとっさに左腕を上げた。


永井 (腕で防ぐ。腕には橈骨と尺骨、二本の骨がある。それで防げなかったとしても、勢いは弱まるし軌道もぶれる。断頭は回避できるかも)


ぎゅっと手を握り締め拳をつくったことで、前腕の筋肉が引き締まり強張った。それでも細い永井の腕ごと切断しようとする刃物の軌道は、佐藤の驚きによって停止した。


佐藤「……なんだ、これは?」


佐藤の視線は永井の頭のうえに行き、天井を見上げるように首を傾けていた。その動きにつられ永井は眼を上にあげた。すると、自分の身体から黒い粒子が業火が生み出すどす黒い煙のように立ち昇っているのに気がついた。この黒い粒子は今までにもたびたび、死ぬたびに見てきたものだった。粒子はまだ出血が続く傷口からも放出されていて、赤と黒という色の組み合わせは、それこそ火と煙の関係を連想させたが、血の赤色と火の赤色は比べてみるとまったくちがっていた。


佐藤「なんなんだ、その量は?」

永井「幻覚……?」


天井を覆い尽くす大量の粒子は、隅の方へ流れている。そこでは換気扇が作動中だった。


永井 (いや、換気扇に吸い込まれてる。煙? 粉?)


粒子は雲のようになっていた。黒過ぎるその雲から二本の腕が飛び出してくると、雲は異次元に通じる裂け目のようにみえた。腕は螺旋が巻くように形成され、浮遊的な気体の状態から人間のかたちにそっくりだが、有機体ではない肉体へと組織されていった。黒い幽霊は無意識のうちに発現していた。黒い幽霊は床に着地すると、顔の無い頭部をあげ、佐藤を見上げながらいった。


IBM(永井)『あな……たの、娘さん……殺されちゃうよ?』

佐藤 (これが永井君の……形状はプレーン)


黒い幽霊はしゃがんだまま、動きをみせず黙ったままだった。膠着状態ができあがったが、永井はそれにつきあおうとせず、佐藤の視線が黒い幽霊に注がれて固定されている隙に、幽霊の脇を通ってドアまで真っ直ぐダッシュした。佐藤の反射は速かった。永井が一歩目を踏み出したときにはもう身体が反応し、二歩目で腕を上げ、三歩目で首のうしろに狙いをつけていた。


永井「痛て!?」


黒い幽霊の腕のひと振りが、佐藤のナイフを持っている方の腕を切断した。幽霊の腕の勢いはそれでとまらず、横を駆け抜けていく永井の上腕を鋭くとがった爪がすぱっと裂いて、三本の切り傷をつくった。


IBM(永井)『腕を折る……とかは、どうです?』

佐藤 (なんだコイツは?)


黒い幽霊の振り上げた腕が今度は佐藤の左脚を切断した。ーー確かに黒い幽霊はーー 永井はドアから通路に出ていた。佐藤の身体は上下が反転していて、頭から床に落ちていったが、 ーー命令せずとも言葉を反復したり、ーー 床が佐藤の頭を帽子越しに打つまえに ーー少しうろついたりはするがーー 黒い幽霊の手が佐藤の腹を貫いた。ーーコイツはちょっと……ーー幽霊は佐藤を床に叩きつけると、腹部を貫いていた指がずるりと抜いた。

幽霊は足元の佐藤にもう関心を払わず、背骨を伸ばすと首を上げて天井を見上げた。

永井とまったく同じ音声をした幽霊は、上を向いたまま声帯ではなくなにかべつの構造をしたものを震わせて、叫び声をあげた。


IBM(永井)『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛』

佐藤 (勝手すぎだよ)


腕と脚、腹部からの出血は止まらなかったが、佐藤の唇を広がり、歯が剥いて、死の床に横たわりながら笑顔になっていた。


佐藤 (……おもしろいかもね)

IBM(永井)『あ゛……あ゛……』


黒い幽霊は鎮まると、頭部から崩壊を始めた。


IBM(永井)『お手数おかけしました』


それだけ言い残すと、黒い幽霊はこの世から完全に消滅した。それからすぐ、佐藤が死亡した。黒い粒子の発生とともに、切り落とされた手足が切断面にすべるようにむかって行き、断面同士がくっつくと細胞まで元どおりになった。


一方、永井は壁に引かれた線をたどって、痛みのせいでときおり息を詰まらせながら、通路を走っていた。


永井「ざまーみろ……助かった……アレのおかげで」


同じころ、モニタールームにいるオグラは岸からの疑問、IBMを構成する未知の物質と亜人の不死の関係性について解説をしていた。


オグラ「人は、なぜミカンを食べるのか」


激痛が走るたびに永井は叫ぶように口を開け大きく息をはき、痛みを紛らわしながら前に進んだ。


永井「黒い幽霊……亜人はアレが出せるんだ」


オグラは目に見えないミカンを持つフリをしながら解説をつづける。


オグラ「人はビタミンCを自ら生成することができない。だから果物などから摂取する必要がある。栄養不足で死んだ亜人は、再生時それすら作り出すことができるんだ」


別々の場所にいる永井とオグラは、ほとんど声を合わせるように同じタイミングで、まるっきり正反対のことをいった。


永井「ていうか、不死身とカンケーないじゃん」

オグラ「未知の物質を作り出すことと無関係なはずがない」


永井がその部屋を通り過ぎたとき、それまで壁にまっすぐ引かれていた線はいちど途切れ、曲線を描いて下降していたが、永井は気づかず通路を先へ進んだ。しばらくあとで永井を追う佐藤がその部屋のまえで立ち止まり、部屋の中を透かして見ようとするようにドアを見つめた。佐藤は血の跡に視線を戻し、また歩き出した。


研究員2 (よし!!)


前髪をあげている研究員は足音が遠のいていくの聞きながら、自分だけは生還した、もう安全だ、とよろこんだ。


発砲音が二発つづいた。シリンダーとノブの下部が吹っ飛び、鍵が破壊されたドアが銃弾を受けた衝撃ですこし開いた。その隙間から射し込む光は暗闇にうすい切れ目を入れ、部屋の奥の方まで延びたが壁にとどかず、まるでこの空間が安全でなくなったかのように、途中で途切れてしまった。


研究員2「え!?」


ぎいぃぃと、ドアがか細く軋みをあげながらさらに開いた。拳銃を持つ手、黒い色をした、鋭くとがった爪を持つ六本指の手、佐藤が発現した黒い幽霊の手が部屋の中に入り込んできた。


研究員2「いいぃ……?なに……」

IBM(佐藤)『あ、見えるかい?』


ハンマーを元の位置に戻しながら、幽霊は研究員に頭を向けた。佐藤の幽霊は永井のと異なる頭部の形状をしていて、扁平な頭頂は先にゆくほど細くなり、そのかたちはハンチング帽か下顎から上が真っ二つに切断された爬虫類の頭部といった印象をあたえた。佐藤は通路を歩きながら幽霊を通して研究員に話しかけた。


佐藤「強い感情を向けられたとき、人間にもコレが見えることがある」


研究員と同じ部屋にいる幽霊が、佐藤が口にしたことをリアルタイムで再現する。


IBM(佐藤)『殺意、とかね』

研究員2「た、たす、たすけ」

IBM(佐藤)『すまない、無理だ』


研究員の命乞いを、幽霊は穏やかに遮った。


IBM(佐藤)『私はねえ……殺すのが結構好きなんだよ』


黒い幽霊の平べったい頭の先から、細長い蛇のような舌がするすると伸びてきた。舌があるということは口があり、口があるということは喉があり、喉があるということはなにかを飲み込むことができるということだ。飲み込むためには、口内のものを咀嚼するための歯が必要になり、黒い幽霊が蛇が獲物を丸呑みするときのように、顎の関節が人間よりはるかにおおきな可動を見せながら開口すると、口の中には、太く短い、獲物の肉によく食い込みしっかり噛み千切るための牙がきれいに並んでいた。


研究員2「う゛あ゛あ゛ぁ゛……ぁぁ゛……」


研究員の叫び声は通路まで、すこしのあいだ、響いた。それはほんとうにすこしのあいだで、その部屋のあたりはもうしんと静まり返っていたが、よく耳を澄ますと、ドアの隙間から、ぷちりぷちりという、弾性のあるやわらかいものがちぎれる音が、死者からのメッセージと誤解される機器の誤作動のような微かな信号みたいに、静寂のなかに溶け込もうと、しばらくのあいだ、鳴っていた。

ーー
ーー
ーー

いったん離脱します。30分後くらいに再開予定。



永井が屋上へつづく階段の手前までなんとかたどり着くと、階段の前に、星の光をシンボル化したような十字形の頭部を持った黒い幽霊が待っていた。

永井は足を止め、壁にもたれながら警戒するように身体を引くと、目の前にいる幽霊をみすえ、いった。


永井「田中か……!」


この黒い幽霊を発現したレインコートの人物が驚いたのは、幽霊越しに見る美波の弟が、血まみれで、深手を負い、息も絶え絶え、黒いちいさな眼は刺しこむ敵意を向けていたからだった。敵意が誤解であることはわかったが、それを解こうにも、幽霊の持ち主であるレインコートの人物は、永井が自分の幽霊をいったいだれのものと勘違いしているのか見当もつかず、どう対処していいのかわからなかった。

永井は星十字の幽霊を田中のものと思い込んでいて、自らも黒い幽霊で反撃しようと意識を強めた。
永井の肩から黒い粒子が放出され、空気のなかに昇った。次の瞬間、ホウセンカの果実が種子を播種するときのように、粒子が出た永井の上腕が赤く弾けた。


佐藤「あれ? 誰だろう?」


拳銃を両手で構えながら、佐藤は疑問を口にした。だが幽霊の正体にはそれほど気にとめず、腕の銃創を押さえてうずくまる永井に佐藤はふたたび銃口を向け、永井の背中に銃弾を叩き込もうと連続して発砲した。


永井が反射的に眼をつむっていると、星十字の幽霊が佐藤と永井のあいだに割り込み、銃弾をすべて受け止めていた。


IBM(???)『逃げて!』


少女の声をした幽霊に言われるまでもなく、永井はすでに階段を駆け上っていた。星十字の幽霊は佐藤に向き直ると、跳躍し、拳銃を奪い取ろうと突進した。佐藤は身体を半回転させ幽霊の突進をかわしたが、突き出した黒い手が拳銃を持つ佐藤の腕にかすり、血管が断たれた。腕をつたう赤い渓流をみて、レインコートの人物は動揺し、それは幽霊の態度にもあらわれた。距離をあける佐藤にたいして、星十字の幽霊は追撃もせず棒立ちで見送った。


佐藤「永井君のお友達かな」


佐藤は拳銃を持ち替えながら、いった。その言葉にハッとしたのか、星十字の幽霊は両腕をあげ、脇を締め戦闘の構えをとった。様になっているとは言いがたかったが、黒い幽霊が相手となると、佐藤といえども生身での対応は困難だった。


佐藤 (どうしようかな。幽霊はいちど出しちゃったし)


佐藤は血流が皮膚のうえを流れ落ちるのを感じながら、使用者不明の黒い幽霊への対処について考えを巡らせていた。幽霊は足を擦ってジリジリと距離を縮めつつあった。佐藤は突っ立ったまま。傷を負った方の手を、清流をすくうみたいに指を曲げ、血を手のひらに溜めている。


幽霊は一足跳びで佐藤を拘束できる位置まで距離を縮めていた。前に出した右脚に力を集中させ、バネのように弾き出そうと幽霊に意識を伝達するその瞬間、佐藤の左手が突然あがった。十字型の頭部の中心点めがけて銃弾が襲ってくる。幽霊は思わず右に動いた。脚に込められた力が右方向に解放され、壁に激突、ぶつかった箇所が思いっきり凹む。頭を壁から抜いて、衝撃で揺れる視界が修正されると、目前には佐藤がいる。佐藤は血の流れる腕を振り、手のひらに溜めた血を幽霊の顔めがけて投げかけた。

視界が赤一色になり、あわてて血を拭おうと幽霊は両手で顔を擦ろうとする。身体を曲げ、頭をさげる。佐藤は剥き出しになった幽霊の首に腕を巻きつけ、グッと腰を落とし、全身の筋力を利用して幽霊の身体を浮かせると、背中を仰け反らせ、幽霊を後方に投げ飛ばした。床に叩きつけられた星十字の幽霊は、いちどバウンドし宙に浮いた身体を捻ると、爪を床に突き入れ無理やり体勢を戻し、膝をついた。幽霊は顔をあげ、こんどこそ躊躇を捨てて拘束しようと佐藤を探した。


佐藤は通路の真ん中で拳銃の銃口を天井にむかって真っ直ぐあげていた。天井のスプリンクラーは未作動のものだった。佐藤は拳銃を発砲した。銃弾がスプリンクラーに衝突した。機械が作動し通路に降雨した。星十字の幽霊が膝をついたまま動かなくなった。佐藤が拳銃をレッグホルスターにおさめた。佐藤は動けない幽霊に向かっていった。


佐藤「動きはいいんだけどね」


レインコートの人物は佐藤の声を聞いた。その声には、多少の失望感が混じっているように聞こえた。


佐藤「人を殺せるようになったら、またおいで」


佐藤は星十字の幽霊に背を向けて、階段をのぼっていった。佐藤の姿が曲がり角に消えると、通路に座り込んでいる幽霊の頭部が崩れ始めた。レインコートの人物は、いまさっきの出来事が現実だと信じられない気持ちで混乱していた。佐藤が黒い幽霊に生身で対応したことも驚愕だったが、いちばんの衝撃は、佐藤がのこした最後の言葉だった。言葉が伝える内容ではなく、佐藤が語る言葉の響きが、帽子の男が殺人者だと、研究所の人びとを殺して殺して殺しまくってきた殺人者だと、レインコートの人物に確信させた。

階段をのぼる足音が散水の音に混じって反響して、星十字の幽霊まで届いた。レインコートの人物の聴覚はその反響を、理解が届かない存在が現実に存在する証拠として、認識の主体である彼女に冷酷に教え、提示していた。


ーー
ーー
ーー


屋上に飛び出してきた永井の頬を雨粒が叩いた。研究所は屋上緑化を進めていて、鮮やかな緑色の葉をした植物が植込みの中で存分に生い茂っている。その植物を眺めるのに最適な位置に、ベンチが全部で四脚、通路の上に背中合わせで配置されていて、平らなL字型のルーフがベンチにかぶさり、南側の縁にまっすぐ平行に延びるルーフとつながっている。

永井が肩で息をしながらドアに寄りかかっていると、唸りをあげる風の中から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。声のほうを見やると、マスクの研究員が屋上の縁で手を振って永井を待っている。永井は息を吸い、研究員のほうへかけて行った。


永井「なんでまだいるんですか?」

研究員3「これの使い方を教えないと」


研究員は金属製の箱に手を置いた。


研究員3「火災用脱出シュート。これで降りる」

永井「いやいやいらないですよ、僕には」

研究員3「あ、そうか」

永井「この高さで死ねるかな……」

研究員3「……けど、それだけで待ってたわけじゃないんだ」


下をのぞきこむ永井の横顔を見ながら、研究員は永井に話しかけた。


研究員3「きみが外へ出たあと、おれの車でどこかまで送ってもいいよ」

永井「え!」

研究員3「仕事だと割り切っていたが、ほんとうに酷いこたをしたから……あとひとつ、安心してほしいことが」


研究員は永井の肩にゆっくりと手を置いた。


研究員3「きみはきみのままってこと。実験中一度も断頭は行ってないし、トラック事故現場にも脳細胞は残されていなかった……それだけ伝えたかったんだ」

永井「なんで、他人を気遣えるんですか?」

研究員3「ん?」

永井「人の痛みなんて、わかります?」


思ってみなかった永井からの質問に、研究員は戸惑った。永井は対処できない事柄を合理的に放棄したときのような、極めてフラットな無感情を顔にあらわしていた。


研究員3「それは、きみが亜人になってから酷い目にあって、心が……」

永井「いえ」


研究員のわかりやすさを求めるひどく一般的な推測は、永井のつぎの言葉によって退けられた。


永井「僕は、上辺以外で人の心配なんてしたことない」



銃弾が永井の肩に命中した。佐藤が永井と研究員からすこし離れた位置に立っていて、ふたりを拳銃で狙っている。


研究員3「隠れろ!」


研究員は永井に覆い被さるように肩に腕を回し、屋根のある通路に向かって走った。佐藤は冷静に引き金を引いた。銃弾が二発、二人のすぐ横を通り抜けた。通路のすぐ横にある一・五メートルほどの高さを持った潅木植物が植えられている花壇に二人が自分たちの身を隠そうとしたとき、三発目の銃弾が研究員の胸の真ん中を捉えた。銃撃の衝撃で研究員は前につんのめり、通路に仰向けに倒れた。


永井「あーあ……」


動かなくなった研究員を見ながら、さすがに永井もすこし残念な気持ちになった。


永井 (死んじゃあもうたすけようがないなあ……さて)

永井「飛び降りて逃げなきゃ」

永井 (最短距離はあっちだ)


永井は視線を研究員から屋上の南側に移した。南側に転落防止柵は備えられてなかった。研究員の身体が通路に横たわっている。


永井(……うーん、死体が邪魔だな)

永井「が、贅沢言ってらんない」


永井はおおきく息を吸い走り出した。柱のところまで来ていた佐藤が上半身を屋根の下のほうに傾け、逃げる永井を撃った。弾は永井の左脚に掠ったが、逃走をとめるには至らなかった。拳銃にスライドストップがかかり、スライドが後退した位置のまま固定された。


佐藤「弾切れー……」


縁へ走る永井の視界から屋上の景色が退いていく。


永井「もうすこし、もうすこしだ!」


研究員3「ぅ……」

永井「へ!?」


永井は立ち止まり、急いで振り向いた。研究員がかすかに身じろぎしていた。


永井 (まだ、生きてんのかよ!!)


通路に立つ佐藤は空になった拳銃からブッシュナイフに武器を持ち替えていた。横たわる研究員を挟んで、永井と佐藤は向かいあって対峙するかたちになっていた。


永井 (いやいや、この状況……助けようないだろ! だいいちあの人、即死じゃなかったみたいだが重傷! たぶんすぐ死ぬ)


永井の逡巡に待ち切れなくなったのか、佐藤がさきに一歩を踏み出す。


佐藤「最終ステージだ、永井君」


それにつられて永井もスタートを切った。


永井「くそっ、どうすんだよ」


研究員まで走る。腕を振ると、指を三本切断した右手が視界にはいってくる。


永井 (佐藤さんの刃物、重さを利用して叩き切るから大きな振りかぶりが必須、柱の並んだここなら攻撃しにくいかも)


永井「だからって……どうにもなんねー!」


永井は力の入らない右手を研究員の脇に下にいれ、肘を使って持ち上げた。左手は指がすべて使えるので、そちら側の脇は手で支える。佐藤が刃物を手に迫ってくる。永井は研究員の身体を引きずりながら、叫ぶ。


永井「だから、黒い幽霊! もう一度出ろ! 出てくれ!」


黒い幽霊があっさり発現される。幽霊は身体を構築しながら佐藤に向かっていく。


永井「出た!?」


佐藤も幽霊を出す。構築途中の脚が扁平な頭部を矢のように突き出す。


IBM(佐藤)『は、は、はーー』


黒い幽霊は互いに速度を緩めることなく走り続け、通路の真ん中で衝突を開始した。


ーー
ーー
ーー


警備員用のロッカールームはもう使われることのない部屋になっていて、閉じたられたままのロッカーから警備員たちの服や私物が遺品として家族のもとに返されるのはまだ先のことになりそうだった。だから、レインコートの人物が姿を隠すにはそこはうってつけの場所だった。

彼女は、雨滴を滴らせながらロッカーの隅に身を潜めていた。はじめは埃っぽかったが、黒い幽霊のほうに視覚と聴覚を集中させているあいだは埃っぽさを忘れられた。幽霊とのリンクが途切れると目の前が灰色のスチール板だけになり、レインコートの人物は閉じ込められたのだと錯覚した。彼女はロッカーの隅から飛び出し、息を喘がせた。得体の知れない恐怖は落ち着いたが、焦りの感情が潮位を増していた。黒い幽霊はあと一回発現できる。だが、永井がいる屋上は激しく雨が打っている。監視カメラの死角を縫うように移動してみずから屋上に赴くことも不可能で、レインコートの人物に打つ手はないように思えた(ロッカールームまで来れたのも、佐藤の襲撃によってカメラが破壊されていたためだった)。

まるでロッカーから飛び出してきたかのようにレインコートの人物は前につんのめり、床に手をついていた。どうしよう、どうしようと泣きそうになりながら頭をあげると、飛び出した勢いでポケットから床に落ちたスマートフォンが目に入った。ーーもしかしたら、研究所前の報道陣のカメラが屋上にいる美波の弟を映しているかもしれない。ーーレインコートの人物の希望は、手のひらサイズのスマートフォンの画面の中で映像として実現した。


雨脚は弱くなっていて、白い筋が消えた画面の中にいるアナウンサーが、研究所で起きた爆発音についてあわただしく説明している。その背後、研究所の屋上の端に動くものがあるのをカメラマンが気づいた。映像がズームする。画質がすこし荒くなる。レインコートの人物は、手術着姿の研究員を抱えているのが美波の弟だということがズームするまえからわかっていた。

レインコートの人物はロッカールームを掛け出てた。電話するみたいにスマートフォンを耳にあて報道を聴いていると、アナウンサーが、屋上の南側です、といっている。研究所の外壁の南側に回る。角を曲がったところで黒い幽霊を発現すると、硬い材質の外壁に星十字が浮かんだ。幽霊は一階と二階のあいだあたりの高さで発現されたが、雨のせいで動きはぎこちなく緩慢だった。肉眼で星の動きを観察しているときのように、星十字型の頭部の位置に変化は見られない。

はやく、はやく、はやくーーと、レインコートの人物は黒い幽霊への命令を心のなかで唱えていたが、黒い幽霊の動きは遅く、レインコートの人物は命令を実際に言葉にして口に出すまでになってしまっていた。星十字の幽霊の動きが目にみえて良くなったとき、フードが弾く雨音は、研究所に侵入する前に林の中で様子を伺っていたときと比べればほとんど無音といってもいいほど弱まっていた。壁をよじ登る幽霊の動きを追って、レインコートの人物は頭をあげた。顔にちいさい雨滴があたったがまばたきはしなかった。彼女の眼は、もうすぐ屋上に到達する自分の幽霊とともに、縁に立ち研究員を抱える永井が、後ろを振り返り、緊迫から解放されたようになにかに気を取られている様子を見ていた。


ーー
ーー
ーー


真っ直ぐ突き出された打撃をかわした黒い幽霊は、佐藤の幽霊が右腕を引き戻す前に爪を立て腕を振るい、右腕を切断した。切断された腕は一瞬だけ宙に静止すると、黒い粒子が結合を図ろうと活性化し、断面の粒子が磁石に引っ張れられる砂鉄のように逆立った。佐藤の幽霊は再結合途中の腕を引き、くっついた瞬間、攻撃後の隙を狙って永井の幽霊の頭に強烈なアッパーカットを打ち上げた。空中の腕が拳を作ったことを見てとっていた永井の幽霊は、スウェーすることでその攻撃をかわした。


永井 (頭を狙ってる?)


佐藤の幽霊の攻め方を観察していた永井は、自身の黒い幽霊にむかって叫んだ。


永井「おい! おまえも頭を狙ってみろ!」


黒い幽霊は背後から飛んできた命令に振り返らず、愚痴をこぼすように言った。


IBM(永井)『ったく、なんで皮肉……を言われなきゃ……』

永井「ああ?」

佐藤「おお、命令無視もするのか」


佐藤は、余裕がある感じで永井の幽霊の振る舞いを興味深げに観察していた。佐藤の幽霊はボクシングの構えをとったまま、距離をとっている。黒い幽霊はゆっくり永井に振り返った。


IBM(永井)『ひとりでカワイソウだ……から、構って……やってた……だけだ……しね』


真っ黒な無貌が口にした言葉には、何の感情も込められていなかった。それゆえ、永井は自分が実際にその言葉を発したこと、そのときとそれからのことに向き合わざるを得なくなった。


永井「そんな昔のこと、言わないでくれよ……」


永井は研究員を引きずるのを思わず止めていた。意識が朦朧としている研究員は、残った意識が感じている感覚が止んだことに気づき、永井にさらに困難が見舞ったのだろうとおもった。研究員は、か細い声が消え入らないように努力しながらつぶやいた。


研究員3「永井……君、いい……逃げ……ろ」

永井「いやだ」


永井がきっぱりと言い切った。マスクの研究員は、永井がここまでやってくれたことを十分だと感じていたし、感謝の気持ちもあった。あの焼けつく恐怖のなか、前触れもなくいきなり死に連れ去られてしまうよりは、いまみたいに、すべての感覚がしだいに遠のいてゆき、暗闇が訪れといっしょに眠るように最期を迎えることができるなら、十分だと研究員は思っていた。そんな研究員がまだ眼を閉じないでいられたのは、永井が指の欠けた手で研究員を抱きかかえ、息も絶え絶えなのに、彼の身体を懸命に引っ張っているからだった。


研究員3『なんで……おれ……なんか……』


自分の身体がまた引きずられはじめたのを感じた研究員がいった。永井は屋上の端をめざしながら、そちらに顔をむけた状態でまくしたてた。


永井「僕は誰とも関わってこなかったしそんな必要なかったし他人なんてどうでもよかった」

永井「かつやっぱり今でも、他人なんてどうでもいい!」


一気に喋ったせいで永井の身体から力が抜ける。永井はおおきく息を吸い、腕に力を入れ直すと研究員の身体をグッと上に持ち上げる。二歩歩き、また息を吸い、ふたたび研究員を引きずる。


永井「でもアンタは助けたい」


屋上の端に到達した。永井は左手で右手首を掴み、研究員の身体を支えながら縁に立った。


永井「ココから落とす。それしかない」

永井 (「〇〇メートルから落ちたら死ぬ」という明確なデータはない。四十七階から落ちても助かった事例があるくらいだ。だが、やわらかい土や雪の上に落ちれば生還率は確実に上がる)


永井「どこだ……どこがいい」


永井は研究所の中ほどにあるバルコニーに植込みを見つけた。通路では黒い幽霊同士の争いがつづいている。佐藤の幽霊が永井の幽霊の拳に打撃をあたえ、両者の左手が消失する。


永井「いいですか、膝をくの字にしてください。行きますよ!」

研究員3「待て」

永井「え!?」


研究員の思いもよらない強い口調に、永井は手を止めた。


研究員3「アレが……見える、か……?」

永井「アレ?」


研究員は震える頭を動かし、永井に言ったものの方向を示す。


研究員3「車で……送れ……な、かった、から……アレなら……逃げられる、かも……」


佐藤の幽霊の左の肘打ちが、永井の幽霊に残された右拳を奪った。


IBM(佐藤)『それでどう戦う?』


永井の幽霊は失われた両手を見ながら、考え込でいるのか黙っている。佐藤の幽霊は左腕が肘から先が消失していたが、まだ右腕が完全な形で残されている。扁平な頭をした幽霊が、防御も反撃もできない永井の幽霊の頭部にむかって鋭いストレートを放つ。


IBM(永井)『おまえも……頭を……』


黒い幽霊はそのパンチをすばやく右にスウェーすることでかわす。佐藤がその反応に感心した様子を見せる。永井の幽霊は地面を割るみたいに強く踏み込み上体を勢いにのせると、佐藤の幽霊の頭部にみずからの頭部をぶつけた。


『なんだ、四十七人もいるのか』


佐藤「ん!?」


『How many times do I have ーーl you? You've got to learn ーーen!』


永井「!?」


衝突の瞬間、黒い幽霊の頭と頭が一瞬だけ溶け合うようにひとつになり、永井は佐藤の記憶、佐藤は永井の記憶が逆流してくるのを、脳に閃いたイメージの通過として感じ、特別な力を持った人間がはじめて他人と感応したときのように驚きの反応を示した。


永井「佐藤さんの……記憶?」

佐藤 (永井君の記憶の一部が、流れ込んできた……)

佐藤「頭同士だと、こんなことが起こるのか」


頭部を失った幽霊たちは通路に倒れ、首の部分が崩壊し終えたところだった。永井はまだ記憶の逆流に呆然としている。星十字の幽霊が屋上まで登ってきた。屋上の縁から幽霊の肩から上がのぞいている。永井はまだ屋上の方へ振り返っていて、研究員も抱えたままだった。


IBM(???)『待って!』


幽霊の叫びに永井が反応する。永井はふたたび現れた星十字の幽霊にたいして警戒し、その正体を考えてみるが見当もつかない。そもそも、なぜこんなことをするのか。わざわざこんなところまで出向いてリスクを冒してまで自分を助けようとする亜人は、いったいどんな企みを持ってるいるのか。


研究員3「永井……君」


閉じてしまいそうになる意識の最後の力を使って、研究員は言葉を口にした。永井は視線を幽霊から研究員に戻す。


研究員3「行け」


IBM(???)『行かないで!』


星十字の幽霊は、研究員の言葉とほぼ同じタイミングで叫んでいた。永井は手を離した。研究員が落下し、永井は縁を走る。東側の壁と南側の壁の角にいる星十字の幽霊は、南側の壁に移り壁面を踏んで落下する研究員にむかって跳んだ。研究員の身体を右腕で抱きとめ、左手を壁面に突き刺す。バルコニーに降り立ったとき、幽霊の足が植込みの木を折った。記憶の混線から回復した佐藤が西に向かって走る永井にむかってナイフを投擲した。ブッシュナイフは回転しつつ、永井の首めがけて飛んでいった。


永井「う、あ、あーー」


永井は走りながら前につんのめった。膝がかくんと折れ、転ぶようにして縁から跳ぶ。ナイフの刃が首の後ろの皮膚を切り裂くのを感じながら、永井は氾濫する河川の濁流のなかに落ちていった。研究員が示した脱出路は、この川のことだった。この川は放水路で、大雨のときには海まで水門が開くようになっていた。そしていま、茶色い大水に飲み込まれ、水死の苦しさを味わいながら永井は開いた水門へ流されていく。

星十字の幽霊の手は、西側のバルコニーの手摺から暗闇に向かってのびていた。その手のなかにはなにもなく、やがて幽霊の頭部は、ふたたび崩壊をはじめた。


ーー
ーー
ーー


田中「遅いすよ、佐藤さん」


研究所への進攻前に二人が分かれた地点で待っていた田中が言った。田中のオールバックにした髪はすこし湿っている程度で、いまでは雨はほとんど降り止んでいた。


佐藤「いやあ、永井君が面白い感じに動くから遊んじゃったよ。怒ったフリもしてみるもんだね」


佐藤はしゃがみ込み、ボストンバッグを開けた。中に銃器類をしまい込むと、別のバッグから袋詰めにした衣類を取り出す。


佐藤「さて、いろいろやったけどここから本番だよ」


言いながら、佐藤は田中に取り出した衣類のひとつを投げ渡した。


田中「服? なんすかこれ?」


田中に渡されたのは、生地の薄いブルーの患者着だった。


佐藤「戦略というのはだな、状況に合わせ最も適した……」


血塗れのシャツを替えながらの解説は途中でとまった。佐藤はなにか思い出したように口を開けたままにしている。


田中「なにか問題が?」


田中がジャケットを脱いで、着替えながら尋ねた。佐藤はポンと思いつきを口にした。


佐藤「なんか、ハンニバルみたくなってきたなあ」

田中「はあ?」

佐藤「私がハンニバルだとすると、きみは……」

田中「……クラリスすか?」

佐藤「いや、マードックだな。顔的に」


そう言われても田中に思い当たるところはなかった。そもそも田中はトマス・ハリスの小説はおろかジョナサン・デミによる映画も観ていなかったし、佐藤の言うハンニバルが『特攻野郎Aチーム』のジョン・スミス大佐のことだと最後まで気づくこともなかった。


佐藤「それじゃあひとつ始めますかな! 『作戦は気を持って良しとすべし』だ!」


佐藤はハンニバルの口ぐせを真似しつつ、ネクタイを締めたシャツの上にジャケットを羽織った。


ーー
ーー
ーー


研究所からの騒ぎの音が聞こえなくなると、正面ゲートに陣取っていた報道陣がざわめき、ゲート担当の警備員に詰め寄った。雨ガッパを着た警備員は所内との連絡に努めているが、上司や同僚とは一向に連絡がとれず困り果てていた。警備員のひとりがトランシーバーを片手に直接中に赴くべきか悩んでいると、敷地内から車椅子を押す帽子の男が現れた。マスコミのカメラは車椅子の男と帽子の男を映し、アナウンサーがその様子を中継する。

波のように押し寄せてくる報道陣に対し、帽子の男はあわてることなくゆっくりと車椅子を押して進む。車椅子の男はこうべを垂れ、無反応をつらぬいている。


佐藤 (重要だったのは、タイミング)

佐藤 (永井圭捕獲とオグラ・イクヤ来日。多くのマスコミが一箇所に集まる、今日というタイミング)


佐藤がとまったとき、マスコミは佐藤を囲うように周囲に円をつくっていた。マスコミの質問に答えず沈黙したままの佐藤にたいし、報道陣の質問もしだいにおとなしくなっていく。やがてカメラのシャッター音くらいしか聞こえなくなったとき、佐藤は唐突に口を開いた。


佐藤「今日は一般の方々に知ってほしいことがあってここへ来ました。二つだけ、話を聞いてください」


佐藤の突発的な発言の開始に、マスコミだけでなく、テレビの前の視聴者も釘付けになる。


佐藤「私の名前は佐藤……亜人です」


美波の眼はまるで銀盤写真のように見開かれていた。弟の姿が映ってから鏡を見るときの距離でテレビの画面を凝視していた美波は、佐藤の手の動き、話すこと、それらを眼球に感光して、写真記憶として保存しようとしているみたいだった。


佐藤は、永井圭君のお姉さんが会見でおっしゃられたことの繰り返しになりますが、と前置きしてから亜人捕獲の懸賞金がデマであることを説明した。佐藤はそれに加え、デマの発祥が車椅子に座っている田中が発見された当時のテレビ番組にあると語った。そして、今回の永井圭に関する報道は、本質的に田中に懸賞金を懸けた番組と大差ないという旨の言葉を、報道陣の前でひるむことなく言い放った。

報道陣は過敏に反応したが、それは佐藤が二つ目の事実を語ったときに比べればまったくおとなしいもので、二つ目の反応は爆発的だった。


佐藤「知ってほしいことの二つ目は、『政府は亜人で非人道的な実験を行っている』ということです!」


佐藤がその言葉を口にした直後、マスコミから批判の声が湧き上がった。都市伝説、デマ、と罵倒に近い言葉を投げられけても佐藤は微動だにしなかった。


佐藤「証拠はあります」


佐藤がそういったとき、美波の心は緊張感に締め付けられた。ほんの二週間ほどまえ、美波を訪ねてきた佐藤は結局、美波の話を聞くまえに去っていったのだが、その去り際に佐藤が言っていたことは、今日の日まで美波の意識にのぼらないことはなかった。ーー政府による亜人虐待の証拠ですが、近いうちにお見せできると思いますよーー。美波にとって、提出されてほしくない証拠、証明されてほしくない事実のことを、この瞬間まで美波はずっと考えていた。


佐藤「それはすでに、web上にアップロードしました」


美波の腕は、まるで風に吹かれた布切れみたいに音もなくあがり、スマートフォンを操作していた。美波の様子をうかがっている女子寮のメンバーたちは、美波にそれをさせていいのかわからなかった。彼女たちは、その映像は、美波にとってよくないものなのではないかと漠然と感じていた。だからといって、見るなと言うこともできなかった。研究所にいた弟が、そのあいだどのように扱われていたのかを知る唯一の具体的な証拠だったからだ。彼女たちの予感の方向性は映像が再生された途端、正しかったのだとわかった。

アップロードされた映像のなかで、包帯によるがんじがらめの拘束がされた田中が銃で撃たれて死んだ。次の映像で田中は金属製の台の上に寝かせられていて、その台は巨大な機械の一部で、その機械はプレス機だった。機械の作動スイッチが押され、田中の肉体は圧力で潰れた。映像はきちんと音声も記録していた。胸部に杭を打ち込まれた状態の田中が激しい苦痛に咽び泣いている十五秒ほどの映像がそのあとに続いた。

次の映像は自動車の衝突実験の記録映像だったが、美波はもう映像を見ていなかった。トイレに駆け込むと、口を押さえていた手を離し、激しく嘔吐した。最近は食欲があまりなく、吐き出されたのはほとんど胃液だったが、嘔吐は一回で終わらず長いあいだ続いた。最後には胃液すら出なくなり、それでも胃の痙攣と喉のえづきが止まないので、やがて喉が切れ血が混じった唾液を口から垂らした。吐き気が去るとやって来たのは救いようのない絶望だった。美波は嗚咽した。裁判での自分の証言が家族の断頭台行きを決定付けてしまった人間のように嗚咽した。前川みくがおそるおそるといった感じで美波の小刻みに震え続ける肩を抱いたが、それ以上のことはなにもできなかった。


だれもいない談話室ではテレビがつけっぱなしになっていた。佐藤と田中はカメラの前から姿を消していた。アナウンサーがまくしたてるように、佐藤が二日後に厚生労働省前にて抗議活動を行うと言ったと伝えている。テレビの画面はアナウンサーの中継映像から抗議活動を宣言する佐藤の映像に切り替わった。佐藤の口調や身振り手振りは激しく、真剣な調子を帯びている。アナウンサーの声が映像に重なり、アップロードされた映像から実験に協力した企業の名前も確認できるようですと伝える。

アナウンサーの音声が退き、佐藤の映像と音声が同期する。カメラは佐藤の表情にズームしていて、その細かな変化まで捉えていた。佐藤の表情から先ほどの義憤の激しさは消えていて、身に潜む悲しみをこらえきれないような表情に変わっていた。佐藤はその表情のまま、静かに言葉を発した。


佐藤「そして、一人一人の幸せのために」


そんな言葉をつかって人びとに訴えかける佐藤の頬を、一筋の涙が悲しそうに流れていった。

今日はここまで。

冒頭で佐藤がいうミシシッピが登場する映画は、ハワード・ホークスの『エル・ドラド』のことです。ジェームズ・カーン演じるミシシッピはとにかく銃が当たらないキャラクターで、拳銃では話にならないから散弾銃を持たされるのですが、それでも当たらない。やっと当たったかと思えば、ジョン・ウェインの太ももに弾をあててしまういう始末。ちなみに、その後カーンはマイケル・マンの『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』で卓越した拳銃捌きをみせます。

ジョナサン・デミの名前も無理やり出しましたが、『羊たちの沈黙』『ストップ・メイキング・センス』などで有名な彼はつい先日逝去されました。こんなところでいうのもなんですが、安らかな眠りを祈っています。R.I.P.

がっこうぐらしのやつ書いていた人?

>>237
はい。そのとおりです。


5.けっこう旨かっただろ?


けれども、エバンドロ・マノロ・トーレスは、たったの五歳で、そうれはもう一点の曇りもなく、自分が死ぬことを悟ったのだ。おそらく今日死ぬわけではないが。いや、今日死ぬこともありうる。ーーデニス・ルヘイン『ザ・ドロップ』

しかしそれは石で始まって、石で片がついた。ーーレイモンド・カーヴァー「出かけるって女たちに言ってくるよ」


送迎用のミニバンのハンドルを右に切ってかすかな遠心力の作用を肩で感じたとき、プロデューサーの頭から一瞬だけ成長中の竜巻のような苦悩が去っていった。交差点を右に折れ、ゆるやかにミニバンを進める。フロントガラスから真っ直ぐに射し込んでくる日光に街の風景が奪われかけるが、白い光のなかにかろうじて赤い点灯が瞬いたのを見分けることができ、ブレーキを踏む。いつもよりもブレーキが強かった。後部席の白坂小梅が停止時の慣性で上半身がシートベルトに絞められ、息をはくようにちいさく呻いたことからそれがわかる。小梅の右側の顔にかかる前髪が、疾走する二歳馬の尻尾のように跳ねて宙に持ち上がったとき、彼女の髪は光を反射して白銀のように輝いていた。

送迎の際の運転はいつも慎重ににおこなってきたが、とくにここ最近は神経を尖らせて運転するようになっていた。ハンドブレーキを解除するときや、カーブ前に左右の安全確認をするとき、バックで駐車するとき、あるいは発車するとき。そういったときどきに緊張が、鋭い錐かなにかのようにこめかみのあたりを走り抜け必要以上の力が入り、仕事が終わったときには疲弊している。今朝など、指の関節が石のように固くなっていて起きてからしばらく手を開くことができなかったくらいだ。


それでも身体が強張り、動作に多少の不具合が生じる程度のことならば、まだなんとか対処できた。問題はふたたび頭脳に到来したあの苦悩、まるでゴム紐にでも括り付けられているかのように、振り払おうとしても勢いづいて戻ってくるあの苦悩のことだ。それは解決不可能で、巨大で、いまもなお発展し続けている。どこまでも政治的で現実的な問題。

新田美波の弟が亜人だということは、それが発覚した当初より広範な範囲におおきな影響を与えるようになっていて、その余波が台風に飛ばされうねりながら空中を流れる看板みたいに次々とプロデューサーたちに直撃した。

しかし、これでも。プロデューサーは思った。しかし、これでも余波に過ぎない。


マスコミはこの二日間でますます不躾で、無遠慮になってきた。かれらは永井圭が山梨の警察署の前にいたのは美波の会見によるものと断定的に報道していて、永井圭の研究所脱走と亜人虐待映像のウェブアップロードについて美波のコメントを得られればと、昼夜を問わずひっきりなしに電話で攻勢をしかけてくる。まるですべてのテレビ局関係者や雑誌記者たちがグルになって、プロダクションの人間の耳に電話の呼び出し音を永遠に聴かせつづけようとしているかのように。電話線を切ってしまうわけにもいかず、それで受話器を手に取ると、ただでさえうんざりしているのにそこからさらに絶望的な気分にさせてくるマスコミの質問を耳にしなければならない。

「新田美波さんは亜人の虐待映像を見て、永井圭が同じ目にあったと知ったわけですが、どのような反応を見せましたか?」この質問ですら、まだ良心的な質問と言えるだから、マスコミの質問に対応するプロダクションの人間たちは、人類に対して絶望してもいいような気がしてきた。

おそらくだれもが悪意さえなければ、他人にやさしくしたり、気にかけたりしなくてもいいと思っているのだろう。朝仕事に行く道中で出くわした同僚と世間話するとき、たいして関心はないが新聞やニュースで見かけたからという理由で話題になっていることを口にするときみたいに、ちょっと踏みとどまって出来事の背景や人物たちの思惑や感情を気にとめたりしないように、他人に対して思いやりを持つことは、べつにそれをしなくても構わないことになっている。たぶん、とっくの昔からそうなのだ。他人に迷惑をかけることはダメだが、無視することに異をとなえる奴はいない。


今朝、トイレの洗面台でプロデューサーがハンカチをくわえながら手を洗っていたところ、ふたりの社員が彼の背後を通り過ぎ、便器の前に並んで用をたしながら、ここ最近の忙しさについて愚痴を言い合っていた。正面と右側から聞こえる水音に混じって届くその愚痴に、言葉の悪さを感じつつも同調する気持ちもあったのは、鏡に映る自分の目元がいやな感じのする黒い隈をつくっていて、その変色はまるで黒くなったところが腐り出して眼球が転がり落ちてしまうような不吉な予感を彼に与えていたからだった。

このまま隈が広がったら。とプロデューサーは思う。眼球を提供した遺体みたいになってしまうのだろう。黒いからっぽの眼窩に氷を詰められる。それでも、いまのこの呪いがかかったかのような眼つきよりだいぶましになるだろう。

プロデューサーは肩を開いたかたちでまだ水気を帯びている両手を洗面台に置いていた。右手にはくしゃくしゃになったハンカチを持っていて、手を拭く途中で疲労が一気にのぼってきて、眼に重りがつけられたかのように頭をさげている。同僚ふたりがプロデューサーの隣で手を洗い始めた。すぐ右隣の同僚が鏡越しにプロデューサーを一瞥し、疲労困憊といった様子の彼にお疲れと言葉をかけた。プロデューサーはかるく頷いただけだった。


いっそのこと、眼帯でもしてしまおうか。顔をあげ、ふたたび鏡を見たプロデューサーはそのように思った。さっき彼にお疲れと声をかけた社員はハンカチで手を拭いている。もうひとりは洗面台で手を振り水気を切ってから、ハンドドライヤーの方へ歩いて行った。手を入れると温風がゴォーッと唸りをあげた。

早坂美玲がしているようなやわらかくキュートな眼帯はとてもつけられないが、医療用の白い眼帯も気が進まない。昔のハリウッドの映画監督みたいに黒い眼帯をしてみたい。ジョン・フォード、ラオール・ウォルシュ、フリッツ・ラング、ニコラス・レイ、あとアンドレ・ド・トス。アンドレ・ド・トスがトビー・フーパーの『スポンティニアス・コンバッション』にカメオ出演しているのは、彼が五十年代に『肉の蝋人形』を撮ったからだと白坂小梅は言っていた。

小梅はほかにも、『リング2』で中谷美紀が精神病棟に入る際のカメラワークは、『エクソシスト3』でジョージ・C・スコット演じる主人公のキンダーマン警部が入院中の友人の神父が殺害された現場を訪れるシーンのカメラワークとそっくりで、それは意図的な引用だろうと力説していた。『エクソシスト3』は原作者ウィリアム・ピーター・ブラッディが自作『レギオン』を自ら脚色、監督した作品で、公開当時はのちにJホラーの担い手となる日本の映画監督や脚本家からウィリアム・フリードキンの最初の『エクソシスト』よりも恐ろしいと大絶賛された素晴らしいホラー映画だと(『エクソシスト』は本質的にパニック映画であり、『エクソシスト3』こそ真にホラー的な演出によって構成された作品なのだ。これはたしか黒沢清の言葉だったと思う)小梅は輝かしい瞳を爛々とさせながらプロデューサーに語った。

小梅ならこの皮膚に毒が染み込んだかのような隈を喜ぶかもしれないな、と思ったところでプロデューサーの現実逃避は実際の声によって途切れることになった。


ハンドドライヤーがたてる唸った風音が、拗ねた子犬のたどたどしい鳴き声のようになったとき、手を乾かしおわった社員が待っていた同僚にむかって言った。


「このままだと死にそうだな」

「永井圭の身がわりってわけか」


プロデューサーは反射的に首を向けた。ふたりの社員はすでにトイレから出ていて、手を離れたドアが閉まりきらずかすかに揺れていた。彼はそのドアを見たまま、ハンカチを持つ手に力を込めることもできずただ言葉を失っていた。

いくらなんでもそれはあんまりだろう。同僚たちの冗談めいた揶揄に、プロデューサーはそう思わざるを得なかった。彼は、永井圭は、死んでしまったというのに。永井圭は亜人だが、生き返ったことを除いて、彼が亜人であったことは、彼や彼の家族の人生になんらプラスに作用していない。ただそうであるというだけで、損なわれた人生を生きることを強いられる。それは、あまりにもフェアではない。


弟が研究所を脱走した日から、美波の心の大半を自責の念が占めていた。ふさぎこんでいて、この二日間まともに食事もとっていない。軽い鬱のような状態になっていて、意味がわかる明瞭な発音の言葉はほんの二言三言だけしか言わなかった。


美波「あれは助けてた」


永井圭の研究所脱走の翌日、プロデューサーが厚生労働省前で行われる集会に美城プロダクションに所属しているアイドルや社員は参加しないようにという指示があったことを伝えにいったとき、美波はそのことだけが縋りつくことのできる唯一の救いであるかのように言った。美波の声はちいさくぼそぼそと聞き取りずらかったが、悔い改めよ、と罪人に告げる宗教者の声の響きを持っていた。

プロデューサーは一瞬、美波が何をいっているのかわからなかった。だがすぐに、研究所の屋上から永井圭が研究員を落としたことを指しているのだと気がついた。ニュースでは永井圭は研究員を故意に突き落としたと報道されていた。精神錯乱の状態だったという報道を美波はあきらかに信じていなかった。


美波「そうだ、ごはん食べないと」


美波は突然首をまわし、食堂のほうへ顔を向けながら何気ないふうにぼそっとつぶやいた。時刻は午後四時三〇分過ぎ、まだまだ光の状態は日中のときとさほど変わらない明るさを保っていた。突然脈絡の無いことを言い出した美波にプロデューサーは戸惑った。美波は昼食を口に入れいちど嚥下したが、消化する前に嘔吐した、とプロデューサーは寮母から伝えられていた。躊躇いがちに美波に声をかけると、美波はなかば惚けた表情をしたままプロデューサーに向きなおり、力のない声で言った。


美波「おおきな声が出なくて。元気つけないと、集会に参加しても意味がないですよね」


そう言った美波の瞳の中には朦朧とした雰囲気が見てとれた。美波は椅子から立ち上がった。だが膝は身体を支えることができずカクンと折れ、落とし穴にはまったかのように美波は床に手をついた。


美波「レシピは知ってるんです。元気になるレシピ……」


プロデューサーに呼ばれた寮母が手伝い、美波を部屋まで連れていった。ふらつきながら力なくこうべを垂れる美波の姿は、プロデューサーの内面に取り返しのつかない後悔を生み、いまでもその念が彼を悩ませている。


小梅「プロデューサーさん……信号、変わったよ……?」


小梅に話しかけられ、プロデューサーの意識がはっきりと現実にもどってきた。あわてて発車しそうになるが、なんとか息を吐いてからゆっくりアクセルペダルを踏んだ。車は千代田区を走っていた。日比谷公園が見えてきた。桜の樹木の葉が緑に輝いている。公園の向こう側にあるビル群は、陽光を浴びて発光するかのように白い光を反射している。フロントガラスから見える街の景色の眩さに目をしかめたプロデューサーは、とりあえずいまは運転に集中するべきだと考え、ハンドルをぎゅっと握った。


小梅「プロデューサーさん……」


ふたたび赤信号で停止したとき、後部席の小梅が身を乗り出し、ぼそぼそとしたしゃべりを聞き逃さないようプロデューサーの耳元に口を近づけた。


武内P「どうかしましたか?」

小梅「あのね……おしっこしたい」


小梅はいつもとおなじ調子で訴えた。


武内P「……お手洗いですか」

小梅「うん……おしっこ」


プロデューサーはひとりで気まずい思いをしながら首に手をあてた。小梅はまだ身を乗り出したままだ。


武内P「えっと……そうですね、コンビニでも探しましょう」

小梅「あっちに、あたらしくできたところが……あるよ」


小梅が祝田通りのほうを指差した。プロデューサーは小梅の指の先にある建物に目を向けた。地上二十六階建てのビルがあった。中央合同庁舎第五号館。厚生労働省はこの庁舎に入居していた。


小梅「コ、コンビニに行くだけだから……大丈夫、だよね?」


小梅がいたずらっ子の表情を浮かべていった。プロデューサーは小梅を見つめたまま答えられないでいると、ダメ押しするかのように小梅は言葉を重ねた。


小梅「はやくしないと、漏れちゃうよ?」


かるくじんわりと、胸のすく思いがプロデューサーの内側にひろがった。痛快な反則技、というわけではもちろんない。年齢に見合った他愛のない言い繕いといった発想だが、その他愛のなさがプロデューサーの気持ちを楽にしてくれた。深刻な状況のただなかにいることを自覚しながら、深刻さに押しつぶされないよう工夫する。嘘やごまかしが心を守るために必要になるときもある。


武内P「白坂さん……ありがとうございます」


小梅の眼がすこしまるくなった。すこしの沈黙のあと、小梅は口を開いた。


小梅「なんだか……ヘンな意味に、聴こえるね?」


プロデューサーがあわてて、そういう意味で言ったのではないと弁明していると、小梅は正面のフロントガラスを指差していった。


小梅「信号、青になったよ?」


送迎車を祝田通りにすすめると、小梅の言っていた通り真新しいコンビニがあった。駐車場に車を停め、首をめぐらし、通りを見渡す。厚労省前はまだ静かだった。そういえば、集会の開始時刻を確認していなかった。もしかしたら、もう終わってしまったのか? スマートフォンを取り出し、ネットニュースを確認してみる。プロデューサーの心持ちは緊張に染まっている。


ーー
ーー
ーー


誰もいないモニタールームは暗闇に包まれている。戸崎は機器が並ぶ空間へと続く階段に無言のまま腰をおろし、細く引き締まった眼をモニターに向けている。正面の巨大モニターには亜人擁護思想者の個人情報がリアルタイムで更新されていて、この二日間でその数は飛躍的に増えている。


下村「今日ですね」


下村が階段を降りてきて、戸崎に声をかける。が、戸崎は振り向きもしない。下村はしかたなく視線をモニターに向ける。システムがあらたな亜人擁護思想者を発見し加算していく。


下村「どうするつもりですか、戸崎さん。省前は、大変なことになります……」


たまらず下村は不安げに戸崎に尋ねる。それでも戸崎は反応を示さない。


下村「わたしは、どうなるんでしょうか……?」


ついに下村はもっとも不安に思っていることを口にした。戸崎は首だけ動かし下村に眼を向ける。


戸崎「どうって、なにも変わらんよ」


省前に人々は集まらなかった。いるのは興味本位で携帯を片手に動画を撮ろうとする数人。閑散とした様子を見て、手に持っていた携帯はもう閉まっている。取材に来たテレビクルーも手持ち無沙汰だ。


戸崎「あんなことで人間は動かない。それに、ウェブ上には亜人の実験動画のフェイクなど山ほどある」


戸崎はすでに解明済みの数式を解説するかのように淡々と説明をつづける。だが、つぎの言葉にはかすかに怒気がこもっている。


戸崎「なにが『大きく覆る』だ。逃げた奴ら全員を見つけ出してやる。そして必ず、隠蔽する」


ーー
ーー
ーー


プロデューサーはようやく認める気になった。ここにはだれもいないし、だれも来なかった。


小梅「プロデューサー、さん……」

武内P「……帰りましょう」


小梅は口を開きかけたが、なにも言わないまま車に乗り込んだ。通りの向こうでは頭にタオルを巻いた男が電話している。その男はなにかにぶつかったようによろめいた。男はうしろを確認したがなにもいない。男からすこし離れた位置に半袖パーカーの少年がいてフードをかぶっている。彼は男が前に向き直ったあとも首をめぐらしてなにかを目線で追うようにしていた。

窓から通りの様子を見ていた小梅は、フードの少年は自分の乗っている車を眼で追ったのかと思った。そのときだった。いつもそばにいる「あの子」がなにかに反応を示している。


小梅「どうしたの……?」

武内P「なにか?」

小梅「あの子が……」


小梅はあとの言葉を口にしなかった。


小梅 (怯えてる……?)


小梅はふたたび厚労省前に視線を向けたが、なにかがいるようには見えなかった。プロデューサーの運転する車はコンビニをあとにし、祝田通りを抜け、プロダクションに向けて走っていく。送迎車の頭上を空を舞う鳥達が入れ替わるように通過していく。

ちょうどそのとき、ビル群の隙間を行く鳥達に猛烈な空気の乱れが襲いかかる。均整のとれた群れのかたちは頭上から吹きつけてくる風に崩され、集団はばらばらになる。すこしして群れは元どおりになるが、いきなり吹いてきた強い風がなぜ起こったのか、鳥達が理解することはなかった。


なぜなら、黒い幽霊は亜人にしか見えないからだ。

この黒い幽霊は手の代わりに翼を持っていて、翼を広げたときの全長は五メートルにもなる。頭部は首の断面がそのままになったかのようで、先にいくにしたがって太くなっている。

翼を持った幽霊が道路を曲がり厚労省前に飛んでゆく。ビルの窓ガラスに反射した光が翼の幽霊に飛びかかってくる。視界が真っ白に染まり、翼の幽霊はいちど翼をおおきく羽ばたかせ光から逃れる。すると、目の前を黒い粒子が舞い散っているようすを目にする。その光景はまるで大量の雪がしんしんと降っているようだったが、粒子は空からではなく地上から狼煙のように立ち昇っている。

見下ろすと、二十体近くもの黒い幽霊たちが厚労省前に集まっている。翼を持った幽霊は、この光景に興奮と緊張が混じり合った思いで地上に降り立つ。


田中の幽霊が厚労省の正面に立ち、ぞくぞくと集会にやってくる黒い幽霊たちを待ち受けている。田中は佐藤の言葉を思い出す。


佐藤 (田中君、この作戦は人間を集めるためのものじゃない。亜人を集めるためのものだ)

佐藤 (まずあの動画。人間はフェイクと混同してしまうが、亜人なら本物だと見抜く。ポイントは『身体の再生の仕方』。ニセ物とは出来が違う。一般には亜人がどう再生するかなんて知られてないからね)

佐藤 (ダメ押しが永井君ときみが逃げる様子を放送させたこと。『捕まっても逃げられた』。この実例は亜人に安心感を与え、名乗り出やすくする。そして、逃がした私は信頼される)

佐藤 (さあ、ようやくスタートポイントだ。国を変えるぞ)


田中の幽霊の周囲に集会参加者の幽霊たちが集まってくる。田中はかれらに話しかける。


IBM(田中)『よく来てくれた。これから本当の集合場所を教える』


二、三の黒い幽霊が田中の幽霊に話しかけ、亜人の権利獲得について積極的な姿勢をみせる。田中は去っていく幽霊が通行人にぶつからないよう気をつけながらよけるところを目撃する。田中はその光景にいらだちをおぼえる。

やつらはおれたちのことが見えていない。

田中は思う。だったら、見えるようにしてやる。おれたちは、おれたちの存在をどんな手段を使ってでも主張する。

そして必ず、と田中は考える。おれたちは権利を勝ち取る。


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食卓にあがったカレーライスは、いままで家で食べてきたものよりルーの色が濃かった。半分くらいは黒色といった感じのカレーは見た目の通り味も濃く、口に入れた瞬間、芳香な匂いがひろがる。具材のひき肉をごはんといっしょに口の中でかき混ぜると、ほんとうにおいしい。


山中「作りすぎちゃったねえ。こりゃ、夕飯もカレーだね」


カレーにぱくつく永井の隣で、山中のおばあちゃんがいった。髪は白く、腕も細い。サラダを添えるためのちいさめの皿にカレーをよそい、これまたちいさめのスプーンでひかえめに昼食を食べている。


永井「おいしいから大丈夫だよ」


言葉のとおり、永井は夕飯のカレーもあっという間にたいらげる。


昼食のあと、皿洗いや雑事をすませ、ふたりは居間でテレビを見て過ごした。BSのチャンネルではむかしのアメリカ映画(『男性の好きなスポーツ』というタイトルだった)が放送されていて、なんとなしに眺めていたが、スクーターを運転する男が突如出現してきたクマとぶつかると、なぜかクマが人間と入れ替わりスクーターを運転するというシーンを見て、永井はおもわず吹き出した。

映画がおわったあと、チャンネルを地上波にかえる。この時間帯はたいていワイドショーしかやってない。話題は厚生労働省前での集会。集会に参加する人間はまったくいなかった。永井は厚労省前の空いた空間を見ながら、亜人は集まっているのだろうな、と思う。黒い幽霊をつかえば、カメラに映る心配もない。佐藤は亜人の仲間を集め、研究所襲撃より大規模な事件を起こすだろう。おそらく、より多くの人間が死ぬことになるだろう。


永井はあくびをする。冷たい麦茶を一口のんで、手のひらで畳の感触を確かめる。永井は平和だなあ、とほっと一息つく。佐藤が何をしようが、何人殺そうがそんなことはどうでもよく、可能な限りこのセーブゾーンに長く留まりたいと思う。

研究所から脱出するため河に飛び込んだあの日から丸一日かけて、永井はいまいる山村のちかくまで流されてきた。山中のおばあちゃんと出会ったのは偶然であり、幸運な出来事だった。なぜならおばあちゃんは、永井の正体を知ったうえで自宅に招き食事と寝床を提供してくれたからだ。永井はおばあちゃんの善意と提供してくれるものに感謝の気持ちをおぼえた。このふたつはとても大事だ。

しかし、と永井は考える。佐藤が事を起こすとなると、現在逃亡中の亜人として、僕の名前も関連して報道されるだろう。そうなった場合の対策も用意しておく必要がある……


永井「あ」


永井は不意に研究所で遭遇した星十字の幽霊の正体に気がつく。テレビでは厚労省前の集会に関連して、新田美波についてコメンテーターやゲストがてきとうに持論や予想を展開している。画面にはシンデレラプロジェクトの一員としてライブしているときの映像が映っている。永井の眼は美波ではなく、その横で歌っているーーライブの音声は聞こえないーー別の少女を注視している。研究所で耳にした星十字の幽霊が発した声は、子音に強い訛りがあった。


永井「おばあちゃん、お願いがあるんだけど」


翌日、山中のおばあちゃんは永井に頼まれたものを買ってくる。小腹をすかせた永井はちょうど煎餅を齧っているところだった。永井は煎餅を口の中に入れたまま、それーースマートフォンーーを操作して動画サイトで目的の動画を検索する。検索欄に名前を入力し、検索結果からインタビュー動画を探し再生する。十秒ほどで動画をとめ、キーパッドに死の前日ーー七月二十二日ーーに偶然見て記憶していた番号を打ちこむ。

呼び出し音を黙って聞いていると、聞き覚えのあるすこし訛った声が答える。


『もしもし』

永井「研究所できみの幽霊を見た」


永井は出し抜けに発言する。相手は沈黙を返す。発言に対する疑問の声も、電話をかけてきたのがだれかも尋ねず、ただ黙っている。永井はそのその沈黙に手応えを感じる。


永井「僕が指定する場所まで来てほしい。きみの助けが必要なんだ」


ーー
ーー
ーー

黒服のおじちゃん達の死は悲しかったな…


レッスンを終えたアナスタシアは膝に両手をあて、下を向いて息を整えようと努力する。床に汗が滴るにまかせておくと、そのうち呼吸が落ち着いてくるが、それともに身体を動かしていたあいだは感じないでいられた苛立ちと自己嫌悪が復活してきてしまう。


無力感も。


美波はいまも外へ出られない。プロダクション側が現在の状況を鑑みて、美波がメディアに出ないようにしていることもあるが、なにより美波自身から気力が失われてしまっている。亜人管理委員会の嘘と、それを見抜けなかったことはおろか加担してしまった自分自身への絶望。そして亜人虐待の映像。これらが美波の心を挫き、抜け殻のようにしてしまったのだ。

アナスタシアも例の映像を見た。興味本位からではなく、もっと個人的な理由から。田中が眉間を撃ち抜かれる冒頭の映像から頭が理解を拒んだ。次のプレス機による圧殺の映像に変わった瞬間、アナスタシアは手に持っていたスマートフォンを投げ捨てた。まるで実際に拷問に使われ、いまだ血のついている道具を手に持ってしまったかのように。さいわい、床に落ちた瞬間に映像は停止した。それから一時間してから、やっとアナスタシアは床に落ちた携帯をひろうことができた。その日は悪夢を見ることになった。


さらに悪いことが続く。厚生労働省前の亜人虐待への抗議集会への参加者は、ほぼゼロだったと判明した。世間は亜人に関心がないのだろうか? いや、関心はある。だが、行動を起こすつもりがないだけだ。国内に三人しかいない亜人のために行動を起こす者はいなかった。それは永井圭の亜人発覚後の周囲の様子から、うすうすわかっていたことだった。

美波はいま、義理の母親から相談を受けた精神科医の診療と、医師が処方した精神安定剤によって、すこしは持ち直しているようだ。しかし、このことを知ったらどうなるだろう? また、絶望が彼女を襲うのではないか? 今度こそ、救いの可能性は潰えてしまったと思うのではないか? そうなってしまったら、美波は一体どうなってしまうのだろう?


この事実を美波に伝えることは、アナスタシアには許されていない。アナスタシアだけでなく、シンデレラプロジェクトの他のメンバーにも、プロデューサーにも現時点での通達は許可されなかった。当然のことだろうとは思う。いまこの段階で、美波にさらなるストレスを与えることは、どう考えても精神状態を悪化させる効果しかない。

しかし、いつまでも秘密にしておけるわけではない。治療のため、テレビやラジオや携帯を禁止して情報から遮断したとしても、いずれ美波はこのことを知るだろう。そのとき、わたしはどうすればいいのだろうか? 秘密にしていたことを謝罪するのか? それとも、虐待について抗議の声をあげなかったことを? プロダクションの意向に従い、ラブライカとしてではなくプロジェクトクローネとしてレッスンを受けていることを?

美波が活動を休止している現在、自分ががんばることでラブライカの存在を存続させるつもりだった。いまではそれが、自分可愛さの言い訳めいたものに思える……。


奏「ひどい汗よ」


顔を上げると、プロジェクトクローネのリーダー、速水奏がタオルとミネラルウォーターをアナスタシアに差しでいている。アナスタシアはお礼を言おうとするが、酷く乾いた喉が言葉を詰まらせる。結局頷くだけして、タオルとペットボトルを受け取る。タオルには熱中対策用のスプレーがかけられ、よく冷えている。ミネラルウォーターも同様だ。アナスタシアは顔の汗を拭ってから、ごくごくと水を飲みひと息つくと、ようやく奏にお礼の言葉を言えるようになる。


アナスタシア「スパシーバ、カナデ……ありがとうございます」


日本語でお礼の言葉を重ねたのは失敗だった、とアナスタシアは言った直後に思う。過剰な感じがして、何でもないふうを装えなかった。声の出し方も同じようにうまくいってない。おそらく笑顔も。奏はアナスタシアが言葉を発した瞬間、チクっとした痛みが走ったかのように表情を歪めた。次の瞬間には表情は元通りに戻ったが、奏の心にもわたしと同様の感情が浮かんでいるのだと、アナスタシアにはわかってしまう。


奏「午後からもレッスンを続けるの?」

アナスタシア「もうすぐ、お仕事ですから」


奏は黙ってアナスタシアを見つめる。すこしして奏は「わかった」とだけ言う。


奏「トレーナーさんに午後からもレッスンルームが使えるように伝えてくるわ」


奏が部屋から出ていくと、アナスタシアの眼に、壁の鏡に一人で写っている自分の姿が写る。ぽつんと部屋の中心に、孤独に佇んでいるだけの自分。現実の問題に背を向け、逃避しようとしたが、結局行き止まりにぶつかり茫然としているように見える。一人でいることは嫌だったはずなのに、いまでは一人でいることに逃げこんでいる。


奏はそんなアナスタシアを心配している。だが、無理に止めさせようとすることなく、練習に付き添い監視役をつとめることもない。何度か様子を見に来て、休憩だけはとらせるようにするだけだ。アナスタシアは奏の行動に感謝より心苦しさを覚える。

奏だけではない。シンデレラプロジェクトのメンバーにも、プロジェクトクローネのメンバーにも、それ以外のアイドルたちにも、プロデューサーやちひろや今西部長らにも、そして父親と母親や家族たちにも、いまの自分の振る舞いが心配を与えていることに、アナスタシアは罪悪感を覚えている。

だが、ほかにどうすればいいのかわからない。なにもしないでいると、無力感が蘇ってくるのだ。掴み損ねた手のことが蘇ってくる。いまはただ、その手のことを考える時間を減らそうとすることに必死になるしかない。


アナスタシアのスマートフォンに着信がはいる。マナーモードにしているため小刻みに振動する携帯をバッグから取り出し手に持つと、着信を知らせる画面は相手が非通知だと表示している。アナスタシアは通話に出る。


アナスタシア「もしもし」

永井『研究所できみの黒い幽霊を見た』


アナスタシアの呼吸が驚愕のためにとまる。これはなにかの間違いなのか? この声はほんとうに聞こえているものなのか? そうだとしても、この声はほんとうに彼の声なのか?


永井『僕が指定する場所まで来てほしい。きみの助けが必要なんだ』


アナスタシアの内面に渦巻く疑問に答えるというよりは、気もにとめてないといった感じで声は話を続ける。

アナスタシアは理解する。この声は永井圭の声だと。そして、わたしのことを知っているということを。


永井圭は、わたしを亜人だと知っている。

今日はここまで。

幽霊つながりということで、小梅ちゃんに「おしっこしたいbot」こと黒い幽霊のセリフを言わせてみましたが、書いてるあいだめっちゃ恥ずかしかったです。

>>262
黒服たちが感傷的でないだけに余計につらいですよね。生き残った真鍋がこれからどういった行動にでるのか、期待と心配が入り混じってます。

お待たせしてしまって申し訳ありません。筆が止まっているわけではないのですが、書かなければならない要素が多く時間がかかってしまいました。なんとか目処がついてきたので、早ければ今週中、遅くとも来週には更新できると思います。

と、こんな報告だけではなんとも味気ないので、予告代わりに次回更新する内容をちょこっと紹介します。永井とアナスタシアの会話です。


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永井「どうしてわざわざ研究所に?」


永井の口調は、込み入った事件の真相を論理的に解き明かした探偵が、唯一分からなかった事件の動機、犯人の心理の部分への疑問を口にするかのような口調だった。


永井「きみ自身にもリスクはあったはずだ。亜人だとバレたら大変なことになってた」

アナスタシア「ほっとくわけにはいきません」


アナスタシアも永井を真っ直ぐ見据えて言った。いまから自分が口にするのは重要なことだと、アナスタシアは確信していた。


アナスタシア「あなたは、ミナミの大切なムラートゥシィーブラート……弟、なんですから」

永井「そう」


永井は枝の影を一瞥してから、アナスタシアに視線を戻した。目の前の亜人を見据えながら、永井は言った。


永井「僕には理解できないね」

アナスタシア「え……?」


アナスタシアには永井の言ったことこそ理解できなかった。もしかしたら、不用意にロシア語を使ったせいかもしれないと思い、改めて説明を試みようとした。


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では、また次回更新まで。がんばります。



九三年にオープンするはずだったホテルサンヘイリの有様は、二十年近く放置されていたにしては、立派に聳え立っているといってよかった。建物は周囲を鬱蒼とした森に囲まれた場所にあり、真上から降り注ぐ陽射しと森から沸き起こってくる蝉の鳴き声を一身に浴びている。もともとはこの森を切り開き、ゴルフ場やリゾート施設を建設する予定だったが、バブル崩壊を期に開発計画は頓挫。いまでは伸び放題の雑草とスプレーの落書きがこの夢の跡を飾っている。
この廃墟のまえに七人の男たちがいる。かれらはみな亜人で、二日前に厚生労働省に集い、ここに再集合していた。

かれらは大半は二十代半ばから後半と思えた。ストライプの半袖シャツとハーフのジーンズ、サンダルという格好の男と、カーディガンを肘までまくり、長髪を後ろで束ねている男は付き合いがあるらしく、緊張感なく他愛もないことをくっちゃべっている。他の者たちは互いに視線を合わせようとせず、黙りこくっている。眼鏡をかけた坊主頭の者、ショルダーバッグを肩からかけている者、曲がった右足の杖をついたジャージの者などがいた。いちばん若いのは、髪を茶色に染めた十代後半の少年。髪を短く刈り上げた体格の良い男性がおそらくもっとも年齢が上で、腕時計をみて時間を確認している。


突然、背後で手を叩く音がした。


IBM(佐藤)『コレで全員かな』


音がした方向を全員が見た。佐藤の黒い幽霊が手を合わせたままの格好でいる。全員が幽霊の姿を視認していることを確認すると、佐藤の幽霊は言葉を続けた。


IBM(佐藤)『上がってきてくれ』


案内に従って、一同は建物に入り、階段をのぼった。建物の中にはいくつか空き缶やゴミがちらばっていたがか、外観の様子から予想していたより荒れ果ててはいない。

階段を先に上る少年にむかって、体格の良い男が声をかける。


秋山「ガキの来るところじゃない」

中野「え、おれ?」


中野は振り返って、男の顔を見た。その表情には警戒と不審が浮かんでいる。


秋山「なにがあるかわかんねーぞ」


と、秋山は警告する。


秋山「だいいち、あの男……うさん臭い」


秋山はまるで窓から外の様子を伺うように首を動かし、ホテル内部の構造を検分する。佐藤の幽霊に案内され移動してきたルートを思い浮かべ、その構造や設計を頭の中で組み立てている。


秋山「佐藤の分身が案内した部屋……建物の構造上、外へ出にくい箇所に位置している」


中野は感心した様子を見せ、感嘆の息をはく。


中野「おじさん、何者?」

秋山「ただの消防士だ」


一同は目的の階に辿り着いた。佐藤が待ち受けていた部屋は広く、おそらくレストランかなにかが入居すると予定だったのだろう。工事は途中で中止になったのか、部屋は何の塗装もされないまま、剥き出しのコンクリート柱や放置された部材や作業道具が目立ち、壁や床に埋め込まれるはずのケーブルがそのままの状態でぶら下がっている。


佐藤「絶景だね」


佐藤が集まった亜人たちを見渡して言った。


佐藤「初めてだろう、君たち? これだけの亜人が集まるという光景は」

亜人1「佐藤さん、ぼくはまだ仲間というわけじゃない」


眼鏡をかけた亜人が、首をもみほぐすように手を首筋に置きながら指摘した。


亜人1「あなたがどう亜人の権利を訴えていくのか、そのプランを説明していただきたい」

亜人2「そう、それ知りたい」


ショルダーバッグの男が同調する。


佐藤「プランなんてたいそうなものはないよ」


佐藤はあわてることなく、おだやかに言葉を続ける。


佐藤「ただ、できるかぎりのことを、精一杯やるんた」


佐藤はゆっくりと首を動かしながら、一人ひとりの顔を見渡した。かれらは口を結び、佐藤が次になにを言うかを待っている。佐藤がふたたび口を開く。


佐藤「そう、大量虐殺する」


予想だにしていなかった佐藤の提案に、再集合した一同はそろって息を飲み、沈黙した。佐藤の声音はさっきまでの落ち着きを保ったままで、その選択がさも当然のことであるかのように話を続ける。


佐藤「あの放送で猶予は与えた。隠蔽する政府、無関心な国民。私はもう容赦する気がない。自分達が巻き込まれれば、もう無関心ではいられないはずだ。そして、我々の力を認めさせる」


佐藤の言葉に愕然とし、いまだ自分の耳に疑いを持つ者もいれば、昏い興奮を隠しきれない者もいる。


高橋「はは……集まったっつても、この人数だぜ?」

ゲン「算段はついてんのかよ?」


後者の反応を示す二人が佐藤に問いかける。それに対し、佐藤は口角を上げ、にんまりとした笑みを作って答える。


佐藤「やるよ? 私は」

秋山「馬鹿か!? そんなことすべきじゃない!」


秋山は佐藤の計画に強硬に反対した。佐藤は態度を変えなかった。平然と、「もちろん、全員から賛同を得ようなんて思ってないよ」と嘯く。


佐藤「反対派は君と、君と……君は?」


佐藤は手を縦に振りながら、秋山と眼鏡の亜人とショルダーバッグの亜人を反対派へと選り分けていく。次に佐藤は視線を右に動かし、顔を伏せている中野を見つけると声をかけた。声をかけられた瞬間、中野の肩がびくっと震えた。


佐藤「君はどうする?」


佐藤に問いかけられた中野は、怯えたように唾を飲み込んで額から汗を滲ませていた。まさかテロへの参加を呼びかけられるとは夢にも思っていなかったからだ。


中野「反対です」


おそるおそるといった調子で、中野はなんとか反対の意志を伝える。


佐藤「あー……そうか。残念だなあ……」


そう言う佐藤の表情はほんとうに残念そうだ。


佐藤「反対派は帰ってもらってかまわないよ」


その言葉に促され、眼鏡とショルダーバッグの男が出口に向かう。眼鏡の男は秋山に「行きましょう」と声をかけるが、秋山は佐藤を睨みつけたままでいる。


秋山「佐藤……ふざけたことはさせないぞ。必ずやめさせる」


中野が二人のあとをついていく。秋山は去ろうとする気配を見せず、中野は緊張感が漂う視線の交錯につられたのか、ふと佐藤のほうを見た。

佐藤の背後の壁の右側の床の近くに、八〇センチ四方くらいの換気口があった。換気口にはルーバーが取り付けられていた。ルーバーの羽板は薄いアルミでできていて、真ん中あたりにある羽板のあいだから、筒のようなものが中野たちのいる方に伸びている。


中野「あ」


空気が噴出するような音がしたのと、中野が秋山の膝裏を蹴ったのはほぼ同じタイミングでのことだった。秋山の膝がくの字に折れ、体勢が崩れる。次の瞬間、中野と秋山のあいだを麻酔ダートが飛んでいった。麻酔ダートは眼鏡をした亜人の背中に突き刺さり、中野は倒れたその男に駆け寄って「平気か!?」と大声をかける。

ガンガン、と換気口のルーバーを何度も蹴りつける音がする。秋山が音のするほうを見ると、ルーバーの固定部が外れ、内側から蹴り飛ばされた。換気口の中には田中が潜んでいた。ガス式のダートライフルをぴったりと身体に引き寄せてスペースをつくり、コルトM1911を握った右手を秋山たちに向けて突き出している。


秋山「逃げろ逃げろ逃げろ!!」


秋山は叫びながら、覆いかぶさるようにして中野の身体を持ち上げ、ドアに走る。直後に四連射。最初の弾がショルダーバッグの男に命中する。二、三発目は壁に穴を開け、四発目はドアの向こうに倒れこんだ秋山と中野の上を飛び去っていった。

秋山は身体を起こす暇も惜しんで、足でドアを閉めてから、ドアの横にあったロッカーを倒しバリケード代わりにする。


中野「置いてくのか!?」

秋山「ああ!」


起き上がった秋山がロッカーをドアにぴったりとくっつけるように持ち上げながら叫ぶ。


秋山「ココで捕まったら誰が奴らを止めるんだ!」


部屋の中では、銃撃の瞬間に壁に飛びすさった高橋とゲンが息を喘がせている。動揺しているが、同時に興奮しているのか二人とも口の端が上向いている。

田中は逃げた二人を追おうとするが、ノブがガチャガチャいうだけでドアは開かない。


田中「あら? 開かねー……」


田中は振り返って佐藤に尋ねる。


田中「どうします? 佐藤さん」

佐藤「君は本当に射撃が上手くならないなあ。当たったよ」


佐藤のシャツの腹部が血に染まっている。佐藤は腕を開いて、銃撃を受けたところを田中に晒しながら「死んじゃうよー」と嘯いた。田中が佐藤に謝罪する。佐藤はあまり気に留めない様子でショルダーバッグの男に視線を向けて言う。


佐藤「でも、彼の命中箇所はグッドだね」


銃弾は男の左側の上腹部に命中していた。高橋らと違い、彼の呼吸は弱々しく行動不能であることは一目瞭然だった。彼は銃創を手で押さえていたが、そこは射入口の側で、傷口の大きい射出口の方から出血が絶え間なく続いている。床には小便を漏らしたときみたいな血だまりがあり、Tシャツの裾やジーンズの尻を赤く染めている。


佐藤「脾臓が破裂したんじゃないかな。死ぬ度胸のない奴なら、死ぬまで動けない」

田中「こいつらは?」

佐藤「ドラム缶に入れて地下に置いとく」


ロッカーの位置を調節し終えた秋山と中野が、ドア越しに佐藤の声を聞いた。


秋山「聞いただろ。監禁されるだけだ。行くぞ!」


秋山は中野のパーカーの袖を引っ張り、出口を求めて廊下を走って行く。


佐藤「よし、君たちのやる気を見せてもらおう!」


佐藤は部屋に残った高橋とゲンに向かって言う。佐藤の両手にはスピアガンがあり、ワイヤー付きの銛の先端が鋭い光を放っている。


佐藤「逃げた奴を追う。君たち二人は田中君の補佐だ」


高橋とゲンが投げ渡されたスピアガンを受け取る。


佐藤「それでターゲットの動きを封じる」


亜人狩りにふさわしい道具を手にした高橋が、短く口笛を吹いた。


佐藤「そして、もう一人……」


佐藤が杖をついた男を見る。杖の男は佐藤に注目を向けられても、平然とした態度をとっている。さっきの銃撃にもさしたる動揺はみせなかった。


奥山「僕は走れないよ。生まれつき右足の筋肉が弱い。復活してもこの足はこのままだった」

佐藤「どう貢献できる」


奥山はゆっくりと視線を動かす。


奥山「……それ」


奥山は田中が肩にのせているダートライフルの銃身を指差して、言う。


奥山「そのダートライフル、銃身が若干曲がってる。少し左を狙ったほうがいい。あと、CO2ボンベの締めが緩いよ」


奥山の指摘に従って田中がCO2ボンベを捻ると、ボンベはキュッと音を立て固定された。


奥山「機械なら田中さんより詳しいみたいだけど」

佐藤「いいね」


佐藤は笑みを浮かべ、そしてマンハントの開始を宣言する。


佐藤「さあ、CO-OPプレイスタートだ」


秋山と中野は必死に走り続けている。建設途中で放棄されたホテルには表記がなく、どこもかしこも区別がつかずまるで迷路のようだ。二人は外縁にあたるであろう方向に走りまくった。脚を激しく回転させるのと同じように、曲がり角があれば首を左右に動かし脱出のための経路を探る。


秋山「窓があるぞ!」


秋山がついに窓を見つけた。大きな採光窓で、高さも横幅も、成人男性が二人並んでも余裕で通り抜けられるくらいはある。窓から差し込んでくる太陽光が床を四角く照らしている。近寄ってみると、窓には鍵が付いておりはめ殺しになっていない。


中野「外へ出たらどうする!?」


窓ガラスを押しながら、中野が叫ぶ。


秋山「おまえは家へ帰れ、普通の生活をしてろ」


秋山はロックを解除するため鍵に両手をかけているが、年月の経過が窓の鍵を酷く錆びつかせているのか、なかなかロックが外れない。秋山はいちど力を緩め、鍵を握りなおし体重を一気にかける。窓が開き、秋山は中野に向かって言う。


秋山「ガキの仕事じゃない」


湿気混じりのムワッとした暑気が入り込んでくる。二人は纏わりつこうとする暑気を突き抜けるように、窓から身を乗り出して下を覗き込んだ。地上八階の高さ。亜人といえども思わず躊躇する。


中野「コッ……ココから降りるのかよ!」

秋山「亜人だろ」

中野「高所恐怖症なんだけど……」

秋山「さっさと飛び降りろ! 置いてくぞ!」


秋山は喝を入れるように叫びかけるが、中野は怖がって涙目になり、動けないでいる。


秋山「いいか、奴らは死ぬこともなく誰にもバレずに、電車を脱線させ、旅客機を落とせる。そうなればもっととんでもないことに……」


秋山はどれほど事態が切迫しているか、中野に説明しようとする。


秋山「おれには家族が、娘がいる。どうしても奴を止めたい」

中野「押してくれ……!」

秋山「子供を突き落とせるかッ!」


秋山がそう叫んだ直後、二本の銛が秋山の身体を貫いた。ワイヤーが巻き取られると、秋山は後ろへ引っ張られて廊下の床へ倒れ落ちる。銛そのものも、秋山が引っ張れていくと、滑るように身体から引き抜かれそうになったが、先端にある返しが肉に引っかかり食い込んで、銛が抜けてしまうのを防いでいる。


中野「おじさん!」


中野が秋山の手を握り、これ以上後ろへ引っ張られていかないように二人は手に力を込める。


高橋「ワイヤーがかかったぞ」

ゲン「田中さん! 今だ!」


田中がダートライフルの引き金を引く。真っ直ぐ飛翔する麻酔ダートは中野のすぐ横を通り過ぎ、?を切り裂いた。


高橋「本当にヘタだな」

田中「だまれ」


言いながら田中は次の麻酔ダートを装填する。秋山はその様子を見ていた。


中野「抜けねーのか!? それ」


焦る中野に秋山は声を低めて言う。


秋山「おまえしかにいない」


中野にはわけがわからない。


中野「ハハハ、は!?」


あまりにも突然のことに、中野は笑いの発作が起こったかのように息を吐いた。そのあいだにも握った手を懸命に引っ張り続けているが、秋山の身体を窓の外へ運ぶことができない。手の感覚が消えて、腕が震えを見せはじめている。


秋山「おまえがどうにかしろ! もう、おまえにしか止められない!」


秋山の握力も限界に近づいている。激痛と出血のため、普段からの訓練によって築き上げてきた立派な肉体からでも力は失われつつある。このままでは共倒れになる。それだけは絶対にできない。


秋山「絶対にやり遂げろ、行け、行け!」


中野の呼吸が、数瞬止まる。永遠にも等しい刹那が過ぎ去り、中野は息を吸い、秋山に答える。


中野「わ、わかった」


中野は意を決して手を離す。身体を反転させ、窓の外へと向かう。


田中「少し左……」


ライフルのスコープを覗き込みながら、田中は奥山の助言を思い出す。アドバイスに従って銃身の僅かに左にずらす。立ち上がったことで、標的は狙いやすくなっている。田中は引き金を引いた。麻酔ダートは背を向ける中野めがけて真っ直ぐ飛んでいく。無防備な背中に麻酔ダートが突き刺さる数瞬前、黒い手が麻酔ダートを受け止め、握り潰した。


秋山「おまえの相手はおれだぁ……」


苦悶が混じった声で、秋山は田中に応戦を告げる。黒い手がもう一つ形成される。


秋山「馬鹿野郎!」


頭部から三角錐のような五つの角が、上に向かって伸びている黒い幽霊が両拳を身体の前で構え、脇を締め腰を落とし、ファイティングポーズをとる。秋山はワイヤーを腕に巻きつけながら、門番のように窓の前に背中を預け陣取った。


IBM(田中)『お゛お゛お゛』


田中もまた黒い幽霊を発現させる。四足獣のように身体を低くしながら、長い爪を床に突き刺し、ぞっとするような速さで黒い幽霊は秋山と中野へ接近する。秋山の黒い幽霊が拳を固くし、腕を引く。中野は縁に立ち、地上を見下ろす。


中野「マジかよ」


黒い幽霊同士が衝突するまさにその瞬間、中野は窓から跳んだ。飛び降りるとき、中野はなぜか眼を閉じなかった。下から吹いてくる空気の流動、落下の感覚と景色の流転に、中野は眼を閉じておけば、と瞬時に後悔する。だがそれも一瞬の感情として終わる。死の暗闇、感じることのできない暗闇がやって来て、次の瞬間には地上にいた。中野は盲滅法に全力で走り出す。森の中に入り、五分ものあいだ足を止めず、全力疾走を続ける。体力が底をつきると、苦しげに激しく呼吸をしながら、汗まみれの顔を後ろへ向ける。秋山がいるはずの建物は、森の木々に遮られ、上階の部分しか見えなくなっている。


田中「逃げ足の速い野郎だな」


田中は中野を見失っていた。窓から首を出しても見えるのは森ばかりで、動くものは空にいる鳥くらいしかいない。


秋山「田中……」


秋山の声はいまにも息絶えそうな調子がにじんでいた。身体には斜めに深い裂傷が走り、秋山自身は床に広がる血の中に身体を横たえている。


秋山「こんなことで……亜人の権利を認めさせられると……思うのか……」

田中「必ず勝ち取る」

秋山「操られるな……」


呼気になりかけているような声だったが、秋山は田中の返答にすぐに応えた。


秋山「佐藤はたぶん、そんなこと、考えちゃあいない」


田中は鼻腔が閉じるのを感じる。


秋山「政府が、亜人の特別な力を隠す理由……パニックを避けたいんだと思う……だが、テロのようなことをしてこの力が公になってみろ、それこそとんでもないぞ……」

秋山「全国民同意の、亜人狩りが始まる」

秋山「そうなったらおれたちは……本当にお終いだ」


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曽我部「これは先日省前で撮られたテレビカメラの映像です」


細い面長の顔をした若い厚労省職員が言う。眼鏡をかけたこの男は曽我部といって、戸崎の大学の後輩だった。曽我部はパソコンを操作して映像を再生する。液晶ディスプレイに映っているのは、先日の亜人虐待の抗議活動を撮影した映像で、テレビ局から直接借りたものだ。念のため、省前にいた人間の顔を調べ、その個人情報を擁護思想者リストに加えるための優先度の低い作業の途中、曽我部は映像に妙な細部を見つけ、戸崎に報告した。



曽我部「この男、なにかがぶつかったように不自然によろめく……」


曽我部は携帯電話で話している頭にタオルを巻いた男に戸崎の注意を促す。曽我部の言った通り、男の身体が突然バランスを崩し、あやうく倒れそうになる。映像には他にフードをかぶった男が映っているだけだ。


戸崎「いたのか、目に見えないやつらが」


戸崎は目線をディスプレイから外さずに言った。


曽我部「数まではわかりませんが」

戸崎「ズームしてくれ」

曽我部「これ以上見ても……」

戸崎「違う。奥の奴だ」


戸崎はフードの男を指差す。フードの男は前方の男がよろめいたとき、頭を左に向けている。


戸崎「何かを……目で追うような動作」


曽我部が映像をコマ送りにする。左を向いていたフードの男がぎこちない動作で正面を向く。


戸崎「横切るIBMが見えてる」


映像が拡大され、フードの男の顔がはっきりと見て取れる。男の顔立ちは、まだ少年といっていい年頃。


戸崎「亜人だ」


中野攻。


戸崎「ここでなにがあったのか、この男が手がかりだ」


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一夜明け、中野は自宅のあるマンションへと帰ってきた。建物内に入ると、ようやく緊張感が薄れるのを感じる。築二十年以上のそうとう古いマンションで、見た目も味気なく郷愁もなにもあったものではないが、長く住んでると、こうした場所でも心は馴染んでしまうのだ。


主婦「おはよー」

中野「あ、おはようございます」


七階でエレベーターから下りると、顔馴染みの主婦と顔を合わす。四十代半ばの眼鏡をかけた女性で、顔を合わせば世間話をする仲だ(中野にとって、たいていの住人がそうだった)。


主婦「あらやだー、血出てるわよ」


主婦は中野の血に染まったパーカーを見て言う。あまり焦った様子はない。


中野「ハハハ、コレ?」

主婦「救急車呼ぶ?」

中野「いや、大丈夫だから」


と、そこで中野は主婦が手に持っているゴミ袋に気づく。


中野「あ、ゴミ出し……」


中野は何事もなかったかのようにいつも通りの態度で、ゴミ袋を指差しながら言う。


中野「おれどうせすぐ出かけるから、ここに置いといてくれれば持ってくぜ?」

主婦「痛そっ。救急車呼んだほうがいいわっ」


世間話を終えて主婦と別れ、中野は自分の部屋に向かう。疲労のためか中野はだらだらとした足取りで歩いていた。他の住人にまたしたも血まみれのパーカーが目撃されるかもしれなかったが、疲れを癒すために自分の部屋まで慌てて走る気にはなれない。中野はポケットに手を入れたまま、七階の通路を進み、部屋の前まで来た。


中野「お」


ノブを持つと、力を入れるまえにドアが開いた。


中野「カギ開けっ放しだったか」



中野はドアを閉めて、靴を脱ごうとしてふと顔をあげる。部屋の中に四人の男達がいた。いずれも黒いスーツを着ており、土足のまま部屋を物色している。


中野「あれ?」

黒服1「中野君、だね? ここに住んでる」


黒服の一人が中野のほうを向きながら、懐に手を入れる。中野は怒鳴ったり、怯えたり、あるいは繕ったりすることはしなかった。ほとんど本能的に部屋から飛び出し、通路を駆け抜け、逃走する。黒服たちもすぐに追走する。彼らは言葉を交わすこともなく、自然に二組に分かれ、一方は中野の追走、もう一方は階下へ向かい反対側へとまわる。

下村はマンションの前に停めた車の中で、黒服たちが待機している仲間に放つ大声を聞いた。


下村「あのスーツの人たちは?」


下村は助手席の戸崎に質問する。


戸崎「彼らは厚労省の職員じゃない。ある男が雇っていた連中だ。それを私が再び招集した。さまざな仕事をしてくれる。少々荒っぽいこともな」


中野「あ!」


通路を疾走している中野の正面、通路の曲がり角から先回りしていた黒服が現れ、麻酔銃を中野めがけて撃つ。中野は咄嗟に手すりを掴み、滑り込むように体勢を低くする。靴の裏が通路を滑り、中野はあやうく仰向けになって倒れてしまいそうになる。中野にむかって発射された麻酔ダートが追手のひとりに刺さる。


中野「また飛び降りかよ!」


中野はすぐに身体を起こし、手すりに足を乗せる。しかし、頭を下に向けて飛び降りようとした寸前、中野は動きを中断する。


黒服2「見えた」

真鍋「落ちたら確保する」


二名の黒服が中野が落下するであろう植込みに待機している。


中野「プロだな!」


対応の速さに焦燥する暇もなく、中野の体勢が崩れる。さっき曲がり角から姿を現した眼鏡をかけた大男が中野の右脚をがっちりと掴み、動きを拘束している。中野は足を抜こうと暴れるが、ビクともしない。大男は禿頭で右耳の上部が欠けており、額に二筋の古傷が残っていた。中野の必死の抵抗にもかかわらず、その大男の表情は閉じ切った古傷のように動かない。


黒服1「押さえておけ! 近距離で撃ち込む!」


中野を追ってきた黒服が、麻酔銃を引き抜きながら叫ぶ。


中野「やばい……やばいやばい!」


焦燥が襲い始める。中野はまるでコマのように無意識的に首を振りまわす。


中野「あ」


中野はあるものに目を止める。首の回転のせいで視界はブレまくっていたが、中野にはそれがなんなのかはっきりと分かる。中野は自由に動かせる左脚と左手を、すぐ側にある雨樋が設置されている柱に打ちつけ、最大の力をこめて思いっきり押し出そうとする。


平沢「力くらべする気か?」


黒服の力がさらに強まる。中野の身体はわずかに震える程度で、身体の位置はすこしも変わらない。中野の右手は水を掻くように振り回っている。


中野「離せ、死ぬぞ」


中野の警告に黒服は訝しむ。その直後、ついに追いついた追手の黒服が通路から身を乗り出し、「離すな!」と叫びながら麻酔銃を撃つ。麻酔ダートが中野の右の二の腕に突き刺さる。意識が消え、力を失った中野の身体が四肢をだらりとしながら落ちていく。脱力した身体の重さは、数字以上の負荷を腕にかける。つんのめるのを防ぐため、黒服の大男は全身の筋肉を締め付けようとする。そのとき、眼鏡の大男は中野の警告の意味を理解する。


マンションのすぐ近くに電柱があった。電柱に張り渡された電線は、手すりのすぐ下を通っている。なぜと思う間もなく、黒服は瞬時に手を離した。 落下する中野が電線に引っかかる。当然、細い電線では落下する人体を受け止められない。電線を固定しているアンカーが耐え切れず、弾けとぶ。


真鍋「おいおい」


下で待ち受けていた二名の黒服が見たのは、頭から落ちてくる中野と苦しみに狂ってのたうちまわる蛇のような電線が自分たちに降りかかってくる様子だった。断線したところから漏れる電流はまるで蛇の舌のようだ。張力から解放された電線は鞭のようで、当たればその部分の肉が引き裂かれることは必至だ。

黒服たちは、頭をかばいながら植込みから飛び退ると、同時に中野が木の中に落ちる。二〇センチ程の枝が脇腹に突き刺さり、黄色いパーカーを赤く染めた。


中野「くッ……そぉ……!」


中野は痛みのあまり目を閉じた。だがすぐに、涙が滲む瞳を開けると上体を起こす。


中野「まだまだ」


そう呟いてから、中野は植込みからマンション前の道路にむかって走り出す。黒服の一人が追いかけようとするが、もう一人の黒服が「よせ、感電するぞ!」と叫びながらスーツの背中を掴んでとめる。中野が道路に出る。


戸崎「はねろ」


中野が逃走する様子をフロントガラス越しに見ていた戸崎が運転席の下村に命じた。


下村「え」


突然の命令に、下村はハンドルも持たずに聞き返すことしかできない。


戸崎「じゃあ替われ」


部下が指示を遂行できないと判断すると、戸崎は冷たい横目を向けながら言った。逃げる中野の耳にエンジンの音が聞こえる。その音の急激な接近と音量の増加に、中野の脳は危険を察知する。危険の正体を確認するため、中野は反射的に後ろを振り向く。それが自動車だと理解する前に、中野の身体がバンパーに追突する。一回転しながら、ボンネットに乗り上げた中野の身体は、戸崎がブレーキを踏み込むと前方に吹っ飛ばされ、地面に落ちて全身がひどく打ち付けられる。
戸崎は顔色ひとつ変えず車から下り、麻酔銃を構える。中野がふらつきながら立ち上がる。額から割れた果物のように血を流し、さらに出血が酷くなった右脇腹を押さえ、戸崎を睨む。下村は痛めつけられた亜人を見ながら、悲痛さを感じている。

この睨み合いに突如して救急車が乱入してくる。


中野「は?」

戸崎「!」


戸崎は麻酔銃を隠した。中野は突然現れた救急車に呆然としながら、ストレッチャーを出す救急隊員にされるがままになっている。


救急隊員1「出血しているとの通報があったが、こんなに重傷とは……」


ストレッチャーに仰向けに寝かせられた中野は、救急車に乗せられる直前、救いの主が誰なのか知る。さっき中野と会話をかわした主婦が子機を片手に電話をしている。彼女は下の様子を見下ろしながら、電話口の向こうに状況を伝えようと身振りも加えて、より大きな声を出していた。


中野「ククク……ハハハ……」

救急隊員1「笑ってるぞ」

救急隊員2「頭を強く打ったのかも」



救急車のバックドアが閉められたあとも、戸崎には中野の笑い声がかすかに聞こえていた。マンションにいた黒服たちが戸崎のところに駆け寄る。


戸崎「あのケガじゃあしばらくは入院になる。どこへ運ばれるか調べろ」


戸崎は黒服たちに指示を出すと、車に乗り込み、バタンとドアを閉めた。


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救急救命室に運び込まれた多発外傷の患者の心臓が停止する。


看護師「バイタルなし」


バイタルサインモニタが表示する心電図はフラットラインを示し、医師たちは蘇生処置を施すが、心電図は反応をしないまま、患者の生命活動の停止を無感情に告げている。


医師「クソ……出血が多すぎた」


可能な処置はすべて施した。だが、命は帰ってこなかった。太く濃い色の口髭を生やしている医師が患者の顔を見た。眼を閉じている彼は十七、八歳くらいの少年だった。患者を亡くしたときに起こる感情に慣れというものはない。経験を積んでうまくなるのは、感情と表情を切り離す術だけだ。


医師「おれにもこの子くらいのせがれがいてな……」


医師は亡くなったばかりの少年が横たわるベッドに背を向けて言う。話を聞く看護師も医師と同様の感情を持っている。看護師は、指示を出す立場と指示を遂行する立場では、前者のほうが自責に悩むのだろうと考えている。看護師は医師に向き合う位置にいたので、ベッドとその横にあるモニターの様子が目に入っていた。彼女は生物と機械が同時に再活動するのを目撃する。心電図が驚いたように飛び跳ね、死んでいたはずの少年がベッドから飛び起きる。


中野「くそっ!」


生き返った中野の意識ははっきりしていて、自らの現状をこのうえなく理解していた。


中野「政府にバレてないのがおれの強みだってのに」

医師「生きてるぞ」


手術用マスクを外していた医師は、中野とは対照的に呆然とした態度のまま、目の前の事態に理解が追いついていない。
中野が現状に対するこれから対応に決めかねていると、自分の身体から発生する黒い粒子に気づく。


中野「じゅわじゅわ……」


中野は昨晩の帰路の途中、電車の窓から見えた光景を思い出す。海辺を通過するとき、遠くの山の麓から黒い狼煙が昇っていた。月の光も星の明かりもないのに、その黒い筋が空に上がる様子がはっきりと見えていた。


中野「あんな遠くでも夜でも見えた。普通の物質じゃない」


中野はもう一度自分の右手から放出する黒い粒子に試験を向ける。


中野「これと同じ物質」


そして、中野はとある結論に達する。


中野「あの方向に、亜人が?」



その直後、ベッドまで駆けつけた医師が中野のすぐ側で叫ぶ。


医師「続行だ! 必ず救うぞ」

看護師「先生、たぶん亜人……」

中野「うるせーな!」


看護師と中野が同時に言う。看護師の口調は戸惑いがちにぼそっとしたものだったが、中野は医師にも負けない大声を出して面倒を終わらせようとする。


中野「裏口は!?」


医師から教えられた裏口から病院を出た中野は、運良くタクシーをつかまえると駅へと走らせる。黒い狼煙があがっていた地域に見当をつけ、切符を買うと電車に乗り込む。


中野 (アレは佐藤達じゃない。方向が違った)


電車に揺られながら、中野はそのように考える。佐藤達以外の亜人。しかしそれが中野にとって味方となるのか、敵となるのか。このときの中野に、それを考える余裕はなかった。

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アナスタシアが五歳のころ、不幸な出きごとがふたつもあった。ひとつは、アナスタシア自身が死んでしまったことである。このこと自体はたしかに不幸なできごとだったが、しかし結果を振り返れば、それほど悲しみにくれる必要のないできことでもあった。アナスタシアは奇しくもその名前の通り(この名前の原義はギリシャ語で復活を意味する)、復活した。アナスタシアは亜人だったのだ。

さて、アナスタシアが死に至るきっかけは、ナラードナヤ山の写真であった。ナラードナヤ山はチュメル州にあるウラル山脈の最高峰で、その名は「人民の山」を意味する。珪岩と変形した粘板岩からなっており、いくつかの氷河をいただいている標高一八九四メートルの山だ。山嶺にある谷にはカラマツやカバノキの疎林があり、斜面は高地性のツンドラに覆われている。
アナスタシアが見ていたナラードナヤ山の写真は春の訪れを感じさせるもので、これは向こう側の山から撮影されたものだった。空にはコーヒーに溶かしたミルクのような薄い雲が広がり、穏やかな青色が黒く見える山肌と対照的に映る。山にはまだ雪が残っている。山肌を縦に走る雪の線が何本もあり、遠くから見ると滝みたいだ。この写真は父親の友人のアルパインクライマーが撮影したもので、彼は医師でありスポーツ医学にも詳しいアナスタシアの父親に登山前にはかならず相談と検診を頼んでいた。こんど、彼はコーカサス山脈の最高峰、標高五六四二メートルを誇るエルブルス山への登頂に挑戦するらしい。


この登山者の友人は、よく山頂から見える光景のことをアナスタシアに話して聞かせてくれた。高いところでは空気が薄い。空気の色も薄くなり、痛みをもたらす寒さに瞬く眼をがんばって見開くと、いままで踏破してきた黒い岩肌や遠くにみえる山肌を覆う雪の色がまるで変わって見える。空の色の濃さ、膨らむ雲のかたち、太陽から降ってくる光は線であり、また拡散する粒子でもある。時刻の移り変わりとともに、それが絶えず変動し一遍たりとも同じ光景は出現しない。すべてが澄み渡って、地上の光景とはまるでちがって見える、と父親の友人は言う。


「途方も無い光景が目の前に現れ、死んでも構わないという感覚が自然に生まれていくる。というより、生きることと死ぬことの構造的な差異が消失し、両者が互いに近づいているとでも言うべきか」


彼は、宇宙に向かってのびる指先の上にいることを許されている、というふうにも語った。そして、彼は夜の星についても話しはじめる。星々の輝きと同じくらい詳細に、夜空の暗黒の美しさについても語る。


「ナースチャ、きみが見てきた夜空の星よりも一億倍は美しいぞ。星たちは空にいるんじゃなく、宇宙に浮かんでいるのだと、はっきりと思い知らされる。星を見上げてる自分も宇宙と浮かんでいるのだと思い出すんだ」

「ママはアーニャってよぶんだよ」


幼いアナスタシアは話に夢中になりなからも、しっかり訂正することを忘れない。それからアーニャは一億倍という数字について想像してみる。


「ストーよりおおきいの?」


アーニャは最近百まで数えられるようになった。お米の粒を使って数えたのだった。次の目標はティースィチャ、千粒まで数えること。


「とんでもなく大きいな」


と、言うのは父親。


「ストーの百万倍だよ、アーニャ」


友人が自分の言うことをちゃんときいてくれたのがうれしくて、アーニャはこの友人のことがますます好きになる。


「アーニャもつれてって」


この言葉には父親も友人も困ったように笑う。でも、本気で困っているわけではない。彼らの笑顔は微笑ましい。一方、アーニャはお願いしたのに笑われたからすこし不満げだ。そこで父親は今度キャンプに行って天体観測をすることを約束する。


アーニャの気分は良くなったが、それでも地上とはちがう風景の話は忘れられない。次の日も、父親の友人が置いていった山頂からの写真を眺めては、この風景を自分の眼で確かめてみたいと思っている。アーニャはカーペットの上に手足をのばした姿勢で寝転がっていて、あごをくっつけながら焦点をあわせるでもなしにぼんやりと写真に目を向けている。半分眠っているようにもみえるが、突然バッと起き出し、写真を床に置くとカーペットに手のひらをのせ、砂場の砂を寄せ集めるように、黒地に白の線が入ったカーペットの生地を寄せ上げた。きちんと山のかたちになるまで指をぴんとのばしたまま手を動かす。やっと、納得できるかたちになったが、手を離すとカーペットはすぐにへたりこんでしまう。もういちどやり直し、カーペットを山にする。アーニャは手で押さえたままお尻を上げ、それからゆっくりひざを伸ばす。手と足をカーペットにくっつけている姿はまるで猫がのびをしているよう。アーニャはすり足しながら手と足を入れ替える。すこしすべってしまったが、カーペットはまだ十分山のかたちを保っている。両手が自由になったアーニャは角の尖った木製のコーヒーテーブルを掴んで、それを重しにしようとふんばる。上等な楢の木でできたテーブルは五歳のアーニャにはとても重たい。指はピンク色になってるし、足元のカーペットはぐしゃぐしゃの有様。アーニャは疲れて腕の力を抜く。そのとき、押さえつけられていたカーペットの生地が、つるつるした床の上を、砂浜に押し寄せる波のようにすべった。カーペットにのかっていたアーニャは、カーペットの動きとは反対の方向につんのめり、頭はテーブルにむかう。


ごん、というものが落ちる音を聞いたアーニャの父親が居間にもどると、位置のずれたカーペットがまず目に入った。次に縁のところが赤くてらてらしているコーヒーテーブルが見え、これも位置がずれている。近づいて、家族三人が腰かけられるソファの陰をのぞいてみると、そこにはおでこから血を流したアーニャが倒れている。カーペットには血が染み込み、黒地の部分は不吉に湿り、白線の部分はいやな赤みになっている。アーニャはぴくりともしない。

アーニャの父親は医者ではあったが、選手達の体調管理やトレーニング法の考案などが仕事のスポーツ医だったから、業務で人の死に接したことはない。彼は喉が閉まり、息ができない思いをしながら、アーニャの額の傷をタオルで押さえようとひざまずく。娘のまぶたは開いていて、青い瞳はいつものようにとてもきれいだったが、光はなかった。脈も測ってみる。指はなにも感じなかった。

父親は娘をソファに寝かせてやった。一分ほどは無感覚の時間がつづき、それから涙が溢れ出てきたが、まだ声は出ない。顎や頬が震えていて、口を開けると歯が舌を噛んだ。喉の奥からちいさく空気が鳴った。慟哭がはじまりそうだった。


そのとき、アーニャの眼がぱっちり開いた。ぼおっとなっていたのは一瞬で、みるみる顔はゆがんでそしてアーニャは大声で泣き始めた。額を打ったことを覚えていたし、それが最期の記憶だったから、怖かったし、痛みもあると思い込んでいたのだ。とてもおおきな声で泣いたから、アーニャは息継ぎをしなければならなくなった。そこでアーニャは自分を見下ろす父親に気がつく。父親は眼を開けたまま微動だにせず、石像みたいに固まったまま。ぜんぜん心配してくれないから、アーニャはまた泣き始める。こんどは大声は出さず、ぐじぐしと洟を啜るような泣き方。

ようやく父親がアーニャの介抱を再開する。娘を慰めながらおでこの傷を確認してみると、裂傷も頭蓋骨の凹みもきれいになくなっている。何事も起きなかったようにつやつやしたまるいおでこだったが、その皮膚の上や銀色の髪の毛には血がこびりついたままで、それはカーペットや床も同様。

と、そこへアーニャの母親と祖父と祖母が帰ってくる。三人は病院帰り。アーニャの祖父の虫に刺されでもしたのか、瞼が赤く腫れ痒みもあるので病院に行っていたのだ。他の二人は付き添いというか、祖父が診察を受けいているあいだの買い物目的で同行していた。

祖父はふたりに待ち時間のあいだに隣だった赤い顔の男が彼に語った内容を披露していた。


「偉大なロシア人というものは、頭を斧で割られて死ぬものだそうだ。たとえばトロツキー、それと『罪と罰』の老婆」

「あの老婆は俗物じゃない」


そう反論したのはアーニャの祖母だ。


「ドストエフスキーが生み出した人物だから、俗物でも偉大なんだとさ」

「その人、アル中患者でしょう?」

「そりゃ病院だもの。アル中はいるさ」


アーニャの母親は日本人だが、流暢なロシア語で会話に加わる。


「ラモン・メルカデルはピッケルでトロツキーを殴ったんじゃなかった?」

「そりゃ、まあ……」


母親は買物袋の中身を冷蔵庫へ移し替え、祖母は電熱式のサモワールで紅茶を淹れ始める。祖父はティーカップを準備するとやることがなくなり、女性陣から台所を追い出される。しかたなく上着を脱ぎながら居間の方へ移動すると、息子が孫を抱きかかえてひざまづいているのに気づいて怪訝に思う。


「どうしたんだ、ふたりして抱きあって?」


と、祖父はたずねる。そのとき、彼はカーペットの血の跡を見つける。視線は息子と孫に移動し、ベソをかいているアーニャの髪の毛の赤いところに眼をみはる。


「亜人だ」

「なに?」


と、祖父は訊き返す。慌てふためいて問い詰めるということをするには、まだ眼に映る現状への理解が足りず、祖父は呆けたみたいに口を開けたまま。アーニャのすすり泣きの声に、祖母と母親も居間にやってきて心配そう。父親は三人の顔へ視線を移しながら、また同じことを答える。


「アナスタシアは亜人だ」


部屋のなかにいる全員がその声を聞き、それは涙と鼻水で顔がぐずぐずになっているアーニャも例外ではなかったのだが、このたった五歳の女の子だけが、父親が言ったことの意味がわからない。ただ、とても怖くて痛い思いをしたという、そのことだけがはっきりと記憶に残っていた。

アナスタシアが亜人だと発覚したのはこういう事情だった。折同じくして、日本でも国内二例目の亜人発見が話題になっていたので、かれらはアナスタシアの秘密を死んでも守り抜こうも心に誓った。


さて、話をふたつめの不幸なできこどに移すが、これはひとつめの出来ごとから半年後の話で、事件といってもいいかもしれない。なぜなら、アナスタシアの祖父の友人である、質屋を営むペシコフという男が、真夜中に後頭部を斧でしたたかに打ちのめされ、砕けた頭蓋骨を歩道に散りばめるはめになったからである。モスクワ郊外の人通りまばらな、雪と泥だらけの小道は、ペシコフの頭があったところがすこしのあいだ、ねっとりとした赤色に染まっていたが、一時間もしないうちに雪に埋もれて見えなくなった。

この事件はさらに悲劇的なところがあった。ペシコフは寒さが厳しくなってくると、古くなった茶色い外套をいつも身につけ身をちぢこませることを習慣としており、これはぬくぬくとした部屋の中でも行われていたのだが、彼の愛用する、というよりキツネやウサギの毛が寒い季節に冬毛に生え変わるように、ペシコフが灰色の空から冷たい突風が吹き荒ぶこの季節につねに彼の肌を覆っていたその外套は、彼の身体からすっかりなくなっていて、あわれなペシコフの亡骸には肌着しか残されておらず、狩りで仕留められ、皮を剥がれた獲物を連想させる有様となって冷たく凍った路面の上に横たわっていたのだった。


さてこの事件の犯人はついぞ発見されえぬままであったが、地域ではちょっとした騒ぎになった。それは残酷極まる殺人というだけでなく、すこし妙なところもある事件だったからだ。ペシコフが殺された現場はかれの質屋の真ん前だったのだが、質屋の鍵は壊されておらず、中にだれも侵入した形跡もなかったのだ。どうやら犯人はペシコフを待ち構えていて、斧で後ろから殴ったあと、辱しめるためか寒さのためか、とにかく外套を剥ぎ取っていったようだ。

とある三文雑誌はこの事件を『罪と罰』と『外套』の不出来な合体と書きたてたが、さすがにこの表現は顰蹙を買った。だいたい、『罪と罰』で斧殺人の被害に遭う老婆は高利貸しだったろう、との指摘も寄せられることにもなった。雑誌側は指摘に対し、もちろん承知していて相違はあえてであり、不出来という語句にその意を込めた、とコメントした。当然、この言い訳はさらなる怒りを呼んだわけだが、しかし、被害者の友人たちは怒りよりも哀しみが勝っていた。ペシコフはこんな馬鹿げた記事の主役になるには、善人過ぎたのだ。

アナスタシアの祖父も怒りより哀しみを感じる側の人間で、その立場のほかの人間と同じく、ペシコフの死を告げられてからの数日間はへべれけに酔っ払っていた。自分の書斎で飲めばいいものを、居間や台所で祖父はグラスを傾けるものだから、酩酊状態の祖父の姿は幼いアーニャにも目撃されることになった。しかし、酔っ払う理由のある酔っ払いは比較的恵まれた存在だろう。理由が多すぎてなんで呑むのかわからないまま酔っ払うしかない人間もいて、それはロシア人の大半がそうなのだ。


さてここで話は(またしても)変わって、彼のあだ名である「半分ロシア人」について説明する。このあだ名は平均的なロシア人が摂取する酒量の半分で酔っ払ってしまう体質から来ているものなのだが、ペシコフの葬式から帰ってきた祖父は、どうやらズブロッカとコリアンダー・ウォトカとジグリ・ビールさらにポート・ワインのせいで、半分どころか二倍のロシア人になっていた。モスクワ発ペトゥシキ行きの列車にでも乗り込むんじゃないか、と見る者をそう思わせざるをえないありさまだった。

アーニャは祖父の「半分ロシア人」というあだ名が好きで、祖父の方も孫娘の前では喜んで「半分ロシア人」らしく振る舞うようになった(もちろん、素面のまま)。まずはグラスを用意する。グラスを持ち上げ、酒をあおるふりをして美味そうに唇を手の甲で拭う。テーブルにグラスを戻したところでアーニャの質問。「酔っ払うってどういうこと?」。祖父はテーブルの上のグラスを指差して答える。「ここにグラスが二つあるだろう。このグラスが四つに見えだしたら酔っ払ってるってことだ」。「グラス一つしかないよ」。グラスの数を祖父に教えるとき、アーニャはくすくす笑っている。


いまの祖父はきっとグラスの数が数えられないだろう。グラスは分裂に分裂を重ね、計上できる段階はとっくに過ぎ去り、おそらく万華鏡を覗き込んだときのように乱反射の小宇宙を形成している。アーニャは心配して祖父に近寄ってみる。祖父はがっくりと項垂れ、魅入られてしまったかのようにグラスを見下ろしていた。アーニャはなんだか見てはいけないものを見ているような気分になった。

と、突然アーニャの身体が宙に浮いた。父親がアーニャを抱き上げて、ベットまで連れていく。アーニャは台所から連れ出されるまで祖父から視線を外さなかった。ベットの上にはきれいに折りたたまれたパジャマがあって、父親がパジャマのボタンを外すあいだにアーニャはひとりで服を脱ぐ。パジャマに袖を通し、上のボタンからとめる。手こずってると下からボタンをとめていた父親がアーニャを手伝う。ベットにはいったアーニャは枕に頭を預けながら、自分を見守っている父親に尋ねてみる。


「死ぬってどういうこと?」

「パパもよくわからないんだ」


父親はそう言いながらアーニャの頭を撫でた。父親はアーニャが眠りにおちるまでずっと髪をすくようにやさしく手を動かしていた。やがて、アーニャはうとうとしだし、瞼が重くなってきた。そして、目を閉じて、いよいよ眠ろうとする瞬間、父親がボソッとつぶやく声が耳に入った。


「おまえは決して死なないよ」


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アナスタシアは暑気にあてられ眼を覚ました。寝起きに一呼吸すると、蒸し暑い空気が鼻から肺に吸い込まれる。タオルで顔を拭き、もう一度深呼吸してから周りを見渡す。後ろに広がる森は深い影を作っていて、奥に行けば行くほど樹間は狭くなり影の濃さが増して不気味な感じがするが、その分涼しそうでもある。視線を眼の前に戻すと、太陽の照り返しで緑色に輝く草の葉がそよ風に揺れている。さらに視線を上げると、地面は途中で途切れ、そこから崖になっていて、十二メートル程下方から川の流れる音が上ってきている。崖の向こう側の景色は、いまアナスタシアがいる場所を鏡で写したみたいにそっくりで、最盛期の蝉の声が前後の森からアナスタシアに降り注ぐ。川がせせらぐ音と蝉の声に混じって、ピーヒョロロロという鳶の鳴き声が聞こえてくる。アナスタシアは鳴き声に顔を上げてみるが、頭上にある小楢の木の枝は存分に葉を繁らせ、空を飛行する鳥の姿は見えなかった。暑さに参ってしまいそうな気がするので、木の陰から出て行くのは躊躇われた。後ろ髪を結んで露出させたうなじにタオルを当て汗を拭くと、タオルがじっとりと汗を含んだ。

アナスタシアがスマートフォンを取り出して時間を確認すると、時刻は午後三時を目前にしていて、約束した時間から二時間以上過ぎていた。永井圭はまだ現れない。


永井圭から連絡がきたのは二日前。オフの日を利用して千葉県までやって来た。距離からすればそれほどでもないが、交通機関がほとんどない地域で、早朝に出発したにも関わらず、永井が指定した地点に到着したのは、待ち合わせ時刻の正午直前だった。山中での合流は、迷ってしまうのではないかと不安だったが、永井は合流地点への道順を交通機関の利用も含めて詳細にメールしてきて、山中の移動は方位磁石の距離測定のアプリを使いながら永井が置いていった目印をたどることでほとんど問題なくすんだ。合流地点には、まるでベンチのように二本の丸太が草の上に転がっていた。

アナスタシアは到着した直後黒い粒子で狼煙をあげ、永井に到着を知らせた。これも永井の指示で、アナスタシアは黒い粒子にこんな使い方があるとは考えもせず感心していたのだが、永井からの返答はなく、現在も待ちぼうけている状態だ。さっきも黒い粒子で何度目かになる到着のメッセージを送っているのだが、空にもケータイにも一向に連絡はない。


もしかして、潜伏していることがバレたのでは?

待ち合わせの時刻から一時間が過ぎたところでアナスタシアは不安になってきた。美波の弟が一向に姿も見せない状況に時間が経つごとに焦燥感が増していく。探すにしてもここがどこだが、このあたりに人が住んでいるのかすらわからない。スマートフォンは圏外で地図の検索もできない。

結局、アナスタシアは待つしかない。寮の門限のことを考えると、もうあまり待つ時間はないが、それでも、とにかく待つことにした。アナスタシアは崖下の川の流れる音を聞きながら、ふと、降りて行って川の近くで涼みながら待ってみようかな、と考えた。ここからそんなに離れるわけではないし、黒い粒子の狼煙をあげればどこにいるかはすぐにわかるだろうし、それに持ってきたスポーツドリンクはからっぽで喉がカラカラなのだ。

アナスタシアはしばらく流水に思いを馳せていたが、やがて膝を抱えて眼を閉じると、唾をゴクッと飲み込んで我慢することにした。もうすこしだけここで待ってみよう。美波の弟なら理由もなく約束を破ることはないはず。きっとすぐにやって来るだろう、たぶん。


アナスタシアの予想は正しかった。アナスタシアが眼を覚ましてから十分くらい過ぎた頃、草を踏む音が静かに鳴っているのに気づき顔を上げると、永井が崖にそって歩いている姿が目に入った。コンビニに買い物に行くかのような足取りで、大きめのワンショルダーバックを肩にかけている。アナスタシアは慌ててタオルで汗を拭き取ろうとしたが、永井は思ったより早くアナスタシアの元までやって来た。


永井「待たせて悪かったね」


アナスタシアは立ち上がろうとしたが、その前に永井が丸太に腰を下ろしたので、アナスタシアも浮きかけた腰を下ろした。研究所で見たとき、短く刈られていた永井の髪の毛は元の長さに戻っていた。


永井「おばあちゃんに急に用事を頼まれてね。こんなに暑いのに草取りすることになっちゃって」


永井はショルダーバッグの中を探りながら遅れた理由を説明した。二時間以上遅れたわりには、その口ぶりに申し訳なさはあまり感じられず、せいぜい十分くらい遅れたような態度だった。アナスタシアが返事をする前に永井はバックから水筒を取り出し、アナスタシアに差し出した。


永井「麦茶でよかったら」


水筒の蓋をコップにして注いだ麦茶はかすかな波を作り、葉の隙間から差し込んでくる光線を跳ね返して揺れている。煎った大麦からできた液体は新鮮な色をしていて、その上透き通っている。アナスタシアは麦茶を一口で半分ほど飲みこんだ。冷たさが喉を通る感覚が気持ち良く、残りもすぐに飲んでしまった。蓋を空にしたあとにゆっくり息をつくと、喉に残っていた冷気が口まで戻ってくる。アナスタシアは永井にお礼を言った。


アナスタシア「スパシーバ……ありがとうございます」

永井「ごはんは食べた?」

アナスタシア「アー……お昼ならもう……」


食べました、と言いかけたところで、アナスタシアのお腹がちいさく鳴り、空腹であることを無遠慮に告げた。永井は、はずかしそうにうつむくアナスタシアにさしたる反応も見せず、バックからプラスチック製の保存容器を取り出しアナスタシアに渡した。


永井「お昼の残りで悪いけど」


容器の蓋を開けると、中にはサランラップに包まれたおにぎりが三個入っていて、底に小型の保冷剤が敷いてある。おにぎりのかたちはどれも不恰好で、ごつごつしていた。


永井「かたちが悪くてごめんね」

アナスタシア「あなたが、作ったんですか?」

永井「握っただけだけどね。村の人たちで草刈りするからって、みんなのお昼を作るのを手伝わされたんだ」

アナスタシア「だ、大丈夫、なんですか? テレビでたくさん……」

永井「案外気づかれないもんだよ。ちょっと田舎に来ただけで誰も僕の顔を知らないんだ。それに、十七、八なんてみんな特徴ない顔してるし」


そう言うと、永井はペットボトルのお茶を一口飲んだ。ペットボトルから口を離すと、永井はアナスタシアのぴったりくっつけた膝の上に置いたままの容器に視線を移して、言った。


永井「冷たいからおいしくないかも」


お腹が鳴ったすぐあとにパクつくのはなんだかはしたない気がして、アナスタシアはおにぎりに手をつけるのを躊躇っていたのだが、永井のひと言によって一口食べることに決めた。口に入れた白米は、たしかに永井の言う通り冷えていたが、お米は固すぎず柔らかすぎず、芯までしっかりとした食感があり噛むのが楽しい。具材はきのこの煮付け。だし汁と醤油とみりんの風味が噛むごとに染み出し、ご飯とのあいだに染み渡る。きのこそのものの味もとんでもなく美味しい。


アナスタシア「オーチニ フクースナ……!」

永井「そう。よかった」


アナスタシアが視線をおにぎりから目の前の永井に向けると、永井はアナスタシアがおいしそうにおにぎりを食べる様子を見て、安心したように薄い微笑みを作っていた。アナスタシアはその微笑みを見て驚いた。

アナスタシアは直接的にはじめて見る美波の弟がどんな顔、表情をしているのか、じっくりとよく見てみたい気持ちだったのだが、自分の顔がさんざん報道され、政府や警察はおろか一般の人びとにも追いかけられ、追い立てられている状況にあっては、そうした態度をとるのは失礼だろうと思い、永井が腰を下ろしたときにひかえめに一瞥したあとは、視線を二人のあいだの地面に向けていた。

目や鼻、眉の形といった形質的な類似はそういった理由から、しっかりと見て取れなかった。ただ、口角の角度や頬の持ち上げ方といった形式的な部分は、姉である美波の笑い方にそっくりだった。アナスタシアの驚きは、微笑みのかたちが類似していたことだけに留まらない。表面上は似ているはずの微笑みがもたらす効果は、真逆といっていいほど異なっていた。美波のそれと違い、永井圭の笑みは技術的な点が目について、なんだか落ち着かない気持ちになる。アナスタシアはそんな気持ちにを振り払うように二個目のおにぎりを食べ始めた。小枝を拾い、地面に刺す永井の表情から笑顔はもうなくなっていた。

結局、アナスタシアはおにぎり三個をすべてたいらげた。


アナスタシア「ごちそうさま、でした」


アナスタシアは手を合わせながら言った。


永井「口にあったようでよかったよ」

アナスタシア「中身は、キノコ、でしたね? なんていうキノコですか?」

永井「なんだっけな。このあたりでよく採れるんだけど」

アナスタシア「おばあちゃん、と言ってました。その人が、採ってきたのですか?」

永井「まあね。この近くの村に流れ着いたときに出会ったんだ。それからお世話になってる」

アナスタシア「ハラショー。それは、とってもいいこと、ですね」


アナスタシアはさっきたいらげたおにぎりの味を思い出し、いままで食べたこともないくらい美味しいきのこの名前をぜひ知りたいと思った。


アナスタシア「ンー……ショウコに訊けば、わかるかな」


アナスタシアがぼそっとつぶやくと、その声を聞いていた永井が疑問の表情を浮かべたので、アナスタシアは簡単に説明をする。


アナスタシア「アイドルです。同じ寮に住んでて、キノコにとっても詳しくて……」

永井「姉さんはいまそこに?」


永井は、その人物の個人的なことまで知るつもりはないとでもいうように、アナスタシアの言葉を遮った。


アナスタシア「アー……はい」

永井「様子はどう?」

アナスタシア「心配、しています。あなたのこと……」

永井「そう」


永井は視線を斜め下の地面に落とすと、黙りこくってしまった。


アナスタシア「あの……」


しばらくして、アナスタシアは永井に声をかけた。永井は声に反応は示したが、顔は地面に向けたままだ。


アナスタシア「今日のこと、ミナミには話しても……」

永井「駄目だ」


なおも顔を上げないまま、永井はアナスタシアの提案を最後まで聞かないうちにきっぱりと否定した。その否定の明瞭さに、アナスタシアはどぎまぎしてしまう。永井が顔を上げてアナスタシアを正面から見据える。その眼から、冷たいと言えるほどの意志が見て取れる。


永井「亜人管理委員会は現在逃亡中の僕の行方を最優先に捜索しているだろう。僕の家族や知人は確実に監視されているし、電話の傍受や盗聴だって行なわれているかもしれない」

アナスタシア「でも、ミナミはほんとうに、とても心配して……」

永井「相手は国だ」


永井はまたしてもきっぱりと言ってのけた。アナスタシアが沈黙していると、永井は淡々と言葉を続けた。


永井「僕の消息に関することがわずかでも洩れたら、政府はふたたび関係者を聴取する。母さんはともかく、姉や入院中の妹を煩わせたくない。ああ、それに下手すればきみも追及されるだろうしね」


言い終わると、永井はまたペットボトルのお茶を口に含んだ。斜めから降り注ぐ太陽の光が小楢の影の位置をずらし、永井が座っているところは明るくなっていた。地面に挿した木の枝は真っ直ぐな影を作っていて、枝と影による二本の線は時計の長身と短針のようだった。永井の位置から影をみると、どれだけ時間が経過したわかるようになっている。

アナスタシアはこれ以上自分がなにかを提案するより、永井が自分をここに呼んだ理由を説明するのを待ったほうがいいと思った。永井のほうが事態を冷静に判断しているし、それに頭も良い。

アナスタシアは永井が話し始めるのを待った。永井は膝の上に肘を置いて、手を脚のあいだに力を抜いた状態で垂らしながら垂直に立っている枝を見つめるばかりでいっこうに口を開こうとしなかった。アナスタシアはちらっと腕時計を見た。永井が来てから三十分が過ぎていた。そろそろここを出発しないと、寮の門限に間に合わないかもしれない。



アナスタシア「あの……電話は言ってました、わたしの助けが必要、って」

永井「そのまえにひとつ聞きたいことがある」


永井は顔を上げて、ふたたびアナスタシアを見据えながら言った。


永井「どうしてわざわざ研究所に?」


永井の口調は、込み入った事件の真相を論理的に解き明かした探偵が、唯一分からなかった事件の動機、犯人の心理の部分への疑問を口にするかのような口調だった。


永井「きみ自身にもリスクはあったはずだ。亜人だとバレたら大変なことになってた」

アナスタシア「ほっとくわけにはいきません」


アナスタシアも永井を真っ直ぐ見据えて言った。いまから自分が口にするのは重要なことだと、アナスタシアは確信していた。


アナスタシア「あなたは、ミナミの大切なムラートゥシィーブラート……弟、なんですから」

永井「そう」


永井は枝の影を一瞥してから、アナスタシアに視線を戻した。目の前の亜人を見据えながら、永井は言った。


永井「僕には理解できないね」

アナスタシア「え……?」


アナスタシアには永井の言ったことこそ理解できなかった。もしかしたら、不用意にロシア語を使ったせいかもしれないと思いあたり、改めて説明を試みようとした。そのとき、激しいめまいがアナスタシアを襲った。


永井「けっこう旨かっただろ?」


草の上に倒れるアナスタシアに向かって、永井は座ったまま、すこしも身動ぎせず説明してやった。


永井「そのキノコはイボテングタケっていってね、このあたりの針葉樹林帯にコンスタントに自生してる。イボテン酸というアミノ酸が、旨味のもとであると同時に毒成分でもあるんだ。中毒症状は二〇分から二時間で発症。腹痛、嘔吐、幻覚、痙攣、精神錯乱。意識不明に陥ることもある。きみが不死身でも、無力化する方法はあるんだよ」


永井の説明口調は、まるで妹に諭すかのようで、これは毒キノコだから、決して食べないように、と注意しているようだった。


アナスタシア「な……なん、で……どう、して……」

永井「国内四例目の亜人が、知名度のある現役のアイドル。三例目の亜人発見のすぐ後にその事実が発覚すれば、マスコミはいま以上に騒ぎ出す。そうなれば、現在僕を捜索している警察や政府の追手も、きみの捕獲に人員を割かざるをえない」


永井の声音は先ほどと少しも変わらず、やはり妹に説明するような口調だった。その声を聞いたアナスタシアの青い瞳が、毒によるものとは別の種類の揺れを見せはじめたのとは対照的に、立ち上がり、アナスタシアを見下ろす永井の瞳は、黒曜石のように小さく固まり、いっさい揺れることはなかった。アナスタシアは永井の眼を見た。その眼は、いままで見上げてきたどんな夜の空よりも、暗い色をしていた。


永井「アナスタシアさん、きみは最良のスケープゴートだ」


アナスタシアは反射的に黒い幽霊を発現していた。それはどことも知れないところから、だれともわからない人物が自分の顔面めがけて硬いボールを投げつけてきたとき、咄嗟に眼や鼻を腕を交差させて守るという動作に似て、反射的であっただけに正確さに欠けていた。発現したきり沈黙し立ちぼうけているアナスタシアの幽霊に、永井が発現した黒い幽霊が襲いかかり、その頭部を砕いた。


永井「その状態じゃあ、幽霊はまともに操作できないみたいだな」


制御を失ったアナスタシアの幽霊が地面に倒れる。崩壊していく星十字の幽霊の側に、右腕をなくした永井の黒い幽霊は膝をついている。黒い幽霊は頭を右に向けると、浅い呼吸を何度も繰り返しているアナスタシアを見つける。その黒い顔に、アナスタシアは恐怖を見る。


永井「待て! 殺すな」


黒い幽霊は首を巡らし、永井に向いた。黒い幽霊は一瞬無言だったが、すぐにアナスタシアに向き直り、永井の命令を無視して爪を開きながら残った左腕を振り上げた。永井は舌打ちし、幽霊とアナスタシアから目線を外し、次の無力化の手段を取り出そうとバッグを探った。


永井が水がせせらぐ切り立った崖の反対側、光を遮る緑の森に背を向けたとき、木々の間に生い繁る瑞々しい青草を踏む音が聞こえてきた。その草を踏む者は森のなかから飛び出してきたかと思うと、アナスタシアの身体に鋭い爪を突き刺そうとする黒い幽霊めがけて跳躍し、その背中に両足で蹴りを食らわせた。


中野「逃げろっ!」


バランスを崩した幽霊は、押しだされたようにアナスタシアを跨ぎ超えた。幽霊が背中をおこし振り向くと、ドロップキックを食らわせた張本人は草の上に倒れていて、肘を地面について身体を起こそうとしている。幽霊はすぐさま左手を開き、腕を振った。アナスタシアの目の上を、黒い線が横切る。中野は肘をついた体勢のまま、黒い幽霊に左手に貫かれてしまった。

身体を貫通し地面に刺さった血に濡れた黒い手が、陽光を受け緑に輝いている木々の枝と手を繋ごうとするかのように上に向けられる。中野の身体が宙に浮く。猛暑日にも関わらずやけに涼しい風が吹いてきて、まるで暑さを運び去ろうというように静かに吹く風に乗って、腹部の傷口、というか穴から溢れた血がまるで風に落ちた葉っぱのようにアナスタシアの目の前の草の上まで運ばれた。青く瑞々しい草の葉にひとつ、赤いアクセントが加わる。黒い幽霊は腕をハンマーのように振り下ろし、中野の身体を地面に叩きつけようとする。黒い幽霊の肩があがるその瞬間、二人してそれで死んだと思われていた中野が、息を吹き返したかのように黒い幽霊の頭部を両手で押さえ込むと、勢い額を幽霊の顔にぶつけた。

頭突きを喰らった黒い幽霊は思いっきり仰け反り、数歩後退すると、崖から足を踏み外した。


IBM(永井)『あ』


その一言を残し、黒い幽霊は崖から落ちていった。永井は目の前で起きた想定外の事態に困惑を隠せなかった。


永井「ええ……なんだ、このひ……」


言葉を切った瞬間、永井は死んでいる中野に向かって駆け出した。突然現れたこの男は、黒い幽霊が視認できていた。腹部に開いた傷口から黒い粒子の放出が始まっている。永井は足を上げ、中野の顎めがけてサッカーボールよろしく蹴りを放つ。

つま先が顎を打つ直前、中野の復活が完了した。中野は反射的に両手で顎を庇い、永井の右足を掴んで引き倒そうとする。だが、蹴りの威力を受け止めきれず、両手を弾かれながら中野は肩を回しながら後ろへ倒れた。永井のほうも足を掴まれたせいで、まるで氷で滑ったみたいに背中から地面に落ちた。中野は体勢を立て直そうと、後ろについた手に力を込めた。


アナスタシア「ふにゃっ!」


中野の右手はアナスタシアのほっぺたを潰していた。中野は手を退け、腕を掴みアナスタシアを立たせようとする。


中野「早く逃げろって!」

アナスタシア「う、うしろ!」


警告に振り向くと、ブレをはらんだ軌道が右斜め下から顎を狙って打ち上げられてくるのを中野の眼が捉えた。中野は後ろに身体を傾け、線を回避する。 永井は一メートル程の長さの木の棒を右手で握っていた。振り切った棒を両手で掴み、今度は中野の左側頭部めがけてふたたび攻撃しようと前に出る。


永井 (第二案「脳しんとう」。頭を揺さぶり、軽度なら数秒、重度なら数時間意識喪失させられる)


中野は永井の追撃への対応に全思考を使う。そして、殺さず無力化する方法を思いつき、振りかぶる永井に向かって突進する。


中野「どうやるんだっけな、アレ!」


中野は永井が木の棒を振り切るまえに距離を詰めると、左腕を永井の首にかけ行動を制しながら、自分は永井の背中へとまわる。首に巻きつけた左腕を右手で掴むと、力を込め、永井の首を締め付ける。


中野「中学のとき流行ったっ……!」

永井 (失神ゲームか)


永井は両手を棒の両端に移動させると、膝を打ち上げ横に倒した棒を半分に叩き折った。痛々しくさされだった折れ目を、首に巻きついている中野の腕に深々と突き刺す。中野に痛みが走った瞬間、首への圧迫が弛む。永井は拘束から完全に解放されるため、腕に突き刺さったままの木の棒を捻って傷口を苛み、さらなる痛みを与える。

中野は痛みに耐え切った。激痛にもかかわらず、解きかけた腕をさっき以上の力を込めて永井の首を拘束し、身体を後ろに倒しながら、首にかかる圧力をさらなるものにしようとする。

永井の気道が狭まり、呼吸がつまる。次の瞬間、永井は頭を後ろへ仰け反らせ、顎を上げて喉を晒した。中野の腕から引き抜いた棒を太陽の光を感じる自分の喉に刺し込む。躊躇のない自家加害は、永井の頸動脈をあっさりと破った。


中野「いっ!?」


アナスタシアは永井がまた中野の腕に棒を突き刺したのかと思った。永井の膝が落ち地面についたところで、アナスタシアは間違いに気づいた。だらんと垂れた両手には木の棒が握られたままで、喉の傷口からは血液が栓を抜いたシャンパンみたいに噴き出した。

僅かなあいだ三人は動けないでいた。アナスタシアは毒で、中野は驚愕で、永井は死亡しためだった。


この静止状態を打ち破ったのは、やはり永井だった。復活が完了した永井は、今度は中野の両腿に折れ目の尖端を突き刺し、大腿筋の深部まで捩込んだ。


中野「痛ってえ!!」


後ろへ転んだ中野が苦痛にもがいたのは僅かなあいだだった。木の棒を捨てた永井は、さっきバッグから取り出した結束バンドを地面から拾い、ナイロンでできた輪を中野の首に通してテール部を思いっきり引っ張った。


永井 (第三案「窒息」)


バンドは気道を閉塞させたが、永井の目的はそれではなく頸動脈だった。


永井 (もちろん殺すためじゃない。頸動脈洞に刺激を加えると、舌咽神経と迷走神経が反射を起こし、徐脈となって血圧が低下する。脳幹へ運ばれる血液は少なくなり、脳幹での酸素量は減少。結果、意識喪失に至る)


永井は結束バンドのテール部を右手で掴んで引っ張っていて、左手で中野の顔面を地面に押さえつけていた。それに加え、中野が起き上がれないように右膝を胸部に押し付けている。中野は手足をバタバタと、まるで溺れた人間が必死になって水面に上がろうとするように悶えさせていたが、永井が左右の頸動脈をバランスよく圧迫するためバンドを右にぐいっと引くと、その激しい運動は痙攣へと変化していった。


永井 (そして、窒息死には段階がある。数十秒、ほぼ無症状。三十秒~一分、急性呼吸困難。一分~三分、痙攣、意識消失、昏睡。死亡するまで四~五分。海水では八~十二分程。それ以上のことも。そう、ポイントは死ぬまでに時間がかかるいう所だ)


ついに中野の意識が消えさった。手足の痙攣が去り、呼吸音すらない完全な沈黙に入った。無呼吸期の段階では、心室細動さえ起こっている。中野の顔面はチアノーゼで青紫色になっていたが、結束バンドが絞めついている部分では毛細血管が破れてピンク色になっていた。

永井は中野の胸から膝をどけ、立ち上がって振り向いた。アナスタシアの姿が消えていた。


永井「まだ動けたか」


永井は舌打ちをしつつ、崖下を覗き込んだ。飛び降りてリセットしたのなら、血痕が残っているはずだがその形跡はなかった。永井は崖から引き返しアナスタシアが伏せっていた場所まで行った。地面を確認すると、小楢の木まで這った跡が残されていた。木から森までの数メートルのあいだには足跡があって、安定しない歩幅がアナスタシアの状態を物語っていた。いまのところ血痕も見当たらない。


永井 (リセットはされてない。死に慣れてはないようだ)

永井「けど、ウカウカしてらんない」


追いかける前に、無力化した中野を簡単に処理することにした。首の結束バンドはそのままで、手足にもバンドを巻いて動きを制限したあと、森の中へ運ぶ。さいわい、森に入ってすぐ落ち葉が溜まった窪地を見つけ、そこに中野を落とすと、その身体が見えないよう落ち葉と土をかけてで隠した。

永井はさっきのところまで戻ると、ワンショルダーバッグを肩にかけてから、永井は急いで森の中へ入っていった。死に慣れていないとはいえ、現在の追い詰められた状況では、先ほどの永井のように自家加害に及ぶかもしれない。永井は飛び越えるようにしてアナスタシアの足跡を辿りつつ、その場合の対処法を瞬時に組み立てた。


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アナスタシアの眼に映る森の木々は次々と分身を生み出していた。ひとつ、またひとつと木々は半分透けた影のような分身を増やし、樹間を埋めてアナスタシアの行く先を塞ごうとしているようだった。まるで森そのものが幽霊になったみたいで、薄暗い程度だった森の中は、幹の色や葉の裏側や伸び切った草の葉まで黒く見える。半透明の木々の分身と本物の樹木の区別もまるでつかない。焦点を合わせる機能が眼から失われてしまったのだ。アナスタシアは眼がおかしくなったのか、それとも頭のほうがおかしくなってしまったのか分からないでいた。頭の中で永井の声が前後の文脈もなく渦巻いていた。声は幻覚と組み合わさって森の幽霊たちが囁いているようだった。


「そのキノコは最良のスケープゴートだイボテングタケけっこうって口にあったようで中毒症状は旨かっただろアナスタシアさん亜人だとバレたら国内四例目知名度殺すなよかったよ僕にはきみの捕獲理解いってできないねこのあたりの自生していると同時に針葉樹林帯に警察や政府の追っ手コンスタントに不死身でも殺すなアイドルイボテン酸研究所にという事実がわざわざ発覚その状態じゃあ幽霊はアミノ酸が毒成分旨味のもとでおいしくない殺すなまともに操作できない二〇分から二時間で無力化草刈りに発症腹痛嘔吐幻覚痙攣精神錯乱意識不明に陥ることもあ」


アナスタシアの足が滑った。転んだ先にある木の幹は本物で、アナスタシアは勢いよく固い樹皮に額をぶつけてしまった。ぶつけた箇所の皮膚が擦りむけたが、痛みを感じることが気付けとなり、アナスタシアに現状に対する判断力がすこし戻った。増え続ける幻覚も声も相変わらず続いていたが、それを終わらせる方法をアナスタシアは知っていた。

地面にコマのようなものが回っていた。手を触れたら指が欠けてしまうかもされないような速度だったが、アナスタシアは深呼吸して息を止めると、コマに手を伸ばした。アナスタシアが掴んだのは、長さ三十センチ程の折れた枝で、黒く変色した樹皮の先から鋭く尖った部分が飛び出している。アナスタシアは両手で枝を掴みながら、先ほどの永井の行動を思い出す。眼を閉じて枝の先端を首にあてると、皮膚を針で押したような痛みになりかけている感触が伝わる。アナスタシアは肩を上下させるおおきな呼吸を二、三度行うと、痙攣する腕を引き、首めがけて枝を突き刺す。


痛みを感じて眼を開くと、枝の先端はわずかに血に染まっていて、首の傷からは血が一筋滴り落ちていっただけだった。アナスタシアは愕然とした。こんなにちいさな痛みのために、わたしは死ぬことを止めてしまったのか?

アナスタシアは、森に逃げるのではなく崖から飛び降りるべきだったと後悔した。同時にだれかに嘲笑れているという不安感も起こる。永井かと思ったがそれだけではなく、アナスタシアを押し潰そうとするように増え続ける木の分身や、蝉の鳴き声や、日を遮る葉が生み出す薄暗がりや、木の枝に着いた血が、なす術のないアナスタシアを嘲笑していた。

アナスタシアはふたたび木の幹に頭を打ち付け、これは幻覚だ、ほんとうじゃないんだ、と必死に自分に言い聞かせた。だが、もう一度自分で死ぬことはできそうになかった。死を拒否する身体の反応を抑えつけるための意志の力を引き出すには、いまのアナスタシアにはほとんど不可能だった。毒のせいもあるが、ほとんどの人間がそうであるように、アナスタシアは死にたくなんてなかったからだ。

アナスタシアは生命の危機を感じていた。このままでは確実に殺されてしまう。生き返って目覚めたら、解剖台の上にいるかもしれない。田中の生体実験の映像が急に思い出される。銃で頭を撃ち抜かれることがいちばん幸運な死に方だなんて、そんなことは思いもしなかった。


窮地から抜け出すために、アナスタシアは死ぬしかない。自分で死ぬか、永井に殺されるかの二択。前者が一回限りの死に対して、後者は無数に繰り返される死の始まりに過ぎない。

アナスタシアは黒い幽霊を発現する。黒い幽霊はさっきと同様立ったまま沈黙している。アナスタシアは喘ぎながら、苦しみに耐え頭を上げる。込み上げてくる嘔気を必死で抑えつつ、アナスタシアは自分を見下ろしている幽霊に命令の言葉を告げる。


アナスタシア「こ、殺し……」


首の後ろに衝撃を受け、アナスタシアの命令は途中で途切れる。頭が揺さぶれる感覚のあとに痛みがもたらされ、アナスタシアは木の根元にふたたび倒れた。幹に掴まってなんとか上半身だけ起こすとゴム紐が外れ、結んでいた髪の毛が首の後ろを撫でた。アナスタシアの後髪が血を吸った。

正面の斜面から永井が滑り降りてくる。スニーカーの裏が草や落ちた葉っぱを擦り、黒っぽい土が靴裏の溝を埋める。永井は斜面を降りながら黒い幽霊を発現し、自身も幽霊の後からアナスタシアに走って接近する。

永井がアナスタシアを発見したのは、ちょうどアナスタシアが黒い粒子を放出しているところだった。永井は咄嗟に手の平にぴったり収まる石を拾い上げると、手足を地面につけながら星十字の幽霊を見上げるアナスタシアめがけて斜面の上からから投石した。回転しながら放物線を描く石は、アナスタシアの後頭部にまるで正確に弾道計算がされた砲弾のようにぶつかった。これほど見事に命中するとは、永井にも思いもよらないことだった。


アナスタシアは幹の寄りかかりながら、襲いかかってくる黒い幽霊を見る。死んで復活するのを待っていたら、そのあいだに永井の幽霊がふたたびアナスタシアの幽霊を無力化するだろう。黒い幽霊の使用は二回目で、この日はすでに使用限度をむかえていた。後頭部から垂れた血が背中へ流れるのを感じながら、アナスタシアは覚悟を決めた。ここで殺されるわけにはいかない。彼の思惑通り、わたしが亜人だと世間に知られ、捕まってしまったら、悲しむ人たちが大勢いる。家族や仲間。そして美波。美波の心はもう限界だ。もうこれ以上、悲しさに耐えることはできない。だから、彼と戦う。戦って、そしていまならまだ、逃げることもできるはず。


アナスタシア「たたかって!」


渾身の叫びを放ったアナスタシアの身体が幹からずり落ちふたたび地面に手をつくことになったが、頭をさげることはなかった。命令を受けた星十字の幽霊が姿勢を低くし、引き絞られた矢が指から解放され張飛するかのように前方に飛び出した。永井はすでに足を止めている。永井の幽霊が星十字型の頭部めがけて右腕を振り下ろす。アナスタシアの幽霊は一際強く踏み込みさらに姿勢を低くすると、地上の獲物を捕獲する猛禽のような鋭い突進を見せた。攻撃をかいくぐり、右腕を伸ばしラリアットの要領で永井の幽霊の両脚にカウンターを加える。両方の膝がまるごと消失した永井の幽霊が前方におおきく倒れる。アナスタシアの幽霊は右腕の付け根から粒子を散らしながら身体を浮上させ、まっすぐ永井に向かってより強い突進してを見せる。

永井が三体目の黒い幽霊を発現させる。


三体目に対処する暇もなく、またしても星十字の頭部が砕かれる。


IBM(永井)『ざまーみろ』


三体目の幽霊がそうつぶやくのを、アナスタシアは混乱と絶望の入り混じった気持ちで聞いた。彼は、永井圭は、わたしよりもおおく幽霊を使えるの? どうして? なんで、二体同時に動かせるの?

アナスタシアも黒い幽霊を二体同時に発現することが可能だったが、命令通りに動くのは一体だけで、あとの一体はまともに動くことすらできなかった。

混乱はすぐに恐怖に変わった。膝を失くした黒い幽霊が、非人間的な動きと速さでアナスタシアに近寄ってきていた。逃げようとしても身体は麻痺して、気力を失ったアナスタシアは倒れた身体を起こすこともできなくなっていた。黒い幽霊は容赦が無かった。幽霊の手がアナスタシアの右脹脛を掴むと、尖った爪が筋肉を貫通した。


アナスタシア「うあ゛っ……あ、あ゛あ゛あ゛ああ!」


黒い幽霊は絶叫するアナスタシアを気にすることなく、そのまま脛骨も握り潰した。膝下から二十センチあたりのところで、アナスタシアの脚が外側に折れた。


IBM(永井)『なんで……他人を、気遣え……るんですか?』


黒い幽霊はその言葉を残して消失した。幽霊が消えても、アナスタシアは地面に伏せたまま。戦うことも、逃げることも不可能だった。助けを呼ぶことも、命乞いも不可能だった。泣き声まじりの呼吸が弱々しく続くだけだった。


永井はさっき投げつけた石を拾いアナスタシアに近づくと、その側頭部を小動物を打ち殺すかのように殴った。腕を振るフォームは、肩を温めるためにおこなうキャッチボールのときみたいにいい感じに力が抜けていた。

永井は意識を失ったアナスタシアの脚の傷に止血と応急処置を施した。それが終わると、中野と同様に拘束をしてから、ワンショルダーバッグから折りたたんだ青いビニールシートを取り出し、広げたシートの上にアナスタシアを運び、その身体を出来るだけ隙間がないよう包んだ。左右の端を捻りダクトテープで留めると、近くに隠していたガスボンベ用の運搬台車にアナスタシアを載せ台車から落ちないよう固定すると、後ろ手で台車を引っ張った。


永井「重いなあ……」


意識喪失した四十三キロの人体を運びながら森を進む。永井にとって、これがこの日でいちばん苦労の多い作業になった。


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アナスタシアが復活したときまずしたことは、襲ってくる痛みに耐えるため、瞼をぎゅっと締めつけるように閉じ、歯をくいしばることだった。だが痛みは一瞬で去っていった。アナスタシアが感じたのは錯覚で、折れた骨も裂けた筋肉も死から復活した際すべて完治していた。


永井「復活したか」


声がしたほうを向くと、永井が木を背にして地面に座っている。永井は中野から回収した携帯電話を操作していて、その個人情報を調べていた。永井のすぐ横に三脚が立ててあり、撮影用のスマートフォンが設置されている。永井はスマートフォンをタッチし撮影を中止すると、映像を確認しながら言った。


永井「足の傷は悪かったね。僕の幽霊は命令なしに勝手に暴走するから」


アナスタシアは何を言っていいのかわからなかったが、言いたいことがあったにしても口のまわりをダクトテープで巻かれていたため、声を出すことができなかった。アナスタシアは拘束された両脚をまっすぐ伸ばした状態で、古井戸の縁にもたれかけさせられている。井戸縁は石を積み上げてできた円形のものだった。両方の手首も結束バンドで固定され動かせない。さらに、胴体に圧迫感を感じ視線を下ろすとロープが巻かれていて、アナスタシアに巻きついているのと反対側のロープの端は、永井が背にしている木の幹に括り付けられていた。


永井「もう幽霊は出さないの?」


撮影した映像を確認し終えた永井がアナスタシアに尋ねた。永井の疑問を受けても、アナスタシアは目覚めてからと同様浅い短い呼吸を繰り返すばかりで、何もできない。細かく震えてもいる。永井はその反応を見て、黒い幽霊の使用回数には個人差があるみたいだな、と思った。これ以上有益な情報は引き出せそうにないし、中野のこともあるので、早めに処理することにした。


永井「その井戸だけど」


永井は身体をアナスタシアのほうに向ける、背後にある井戸を指差しながら言った。


永井「その穴の中には空気がない。地中のバクテリアが酸素を奪い、たかだか六メートル程度の穴の中を無酸素状態にするんだ。人は酸素のないところへ急に入ると、瞬間的に意識を失う。亜人ならエンドレスだ」


説明し終わると、永井はアナスタシアに近づいてフードを掴み、井戸縁に沿ってアナスタシアを引き摺った。井戸縁にはまるごと欠けたところがあり、そこまでアナスタシアを移動させるつもりだった。アナスタシアはくもぐった呻き声をあげながら、手足をバタバタさせ必死に?いたが、永井は力を入れ一気に引っ張った。


永井「心配しなくても、しかるべきタイミングで外に出してやるよ」


永井はアナスタシアを引き摺りながら言った。


永井「追いかける獲物がいないと、警察も政府も困るだろうからな」


アナスタシアが何かを言おうと口の代わりに目をおおきく開けた。彼女の目が捉えたのは、地面にぽっかりと空いた暗闇だけだった。アナスタシアは一瞬、大きくなった永井の眼に見られているのかと思った。次の瞬間、井戸の内壁にアナスタシアの額がぶつかった。下を向いて落とされたアナスタシアの身体がこの衝突で左方向に回って、肩から落下していった。

どすん、という落下音がした。永井は真っ暗な井戸を覗き込んだまま一分ほど待機してみた。なにも起きなかった。永井は木の幹から井戸まで伸びているロープを土で隠してから、三脚を片付け、アナスタシアと中野から回収した携帯電話の電源を切った。アナスタシアのスマートフォンは解放時に返すつもりだった。亜人管理委員会や警察に追われてパニックになったら、助けを求めて不用意に携帯電話を使用するかもしれない。

永井は森の中を移動しながら、こんどは中野を運ぶ作業か、と思った。中野の体重はアナスタシアより重い。永井はすこし憂鬱になり、ため息を吐いた。


永井「明日は筋肉痛かなあ……」


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同日、ある映像がウェブ上にアップロードされた。カメラは低いビルの屋上に固定されていて、背景にあるのは何の変哲もない街中の風景。マンションや撮影位置と同様の低いビルが見える。音声には鳥の囀りや自動車の走行音が混じっている。画面中央にパイプ椅子に腰かけた人物がいる。その人物はハンチング帽を被っている。その人物は右手をあげ、映像を見ている者に挨拶する。


やあ、また会ったね。亜人の佐藤だ。

今日話すのは楽しい話じゃない。切迫。我々は追い詰められたのだ。だから、こう決断せざるをえなかった。

我々は武力によって、住み良い国作りをスタートする。

第一ウェーブは、水曜。

まだ参戦を迷っている亜人もいるだろう。君達のためにも我々はその日、圧倒的なATP(戦闘力)を披露しよう。

無関係と思っている人間達、いよいよ始まるぞ。








衝戟に備えろ。

今日はここまで。アーニャの父親の友人が山頂の風景を語るときのセリフは、樫村晴香という哲学者が風景を言葉で描写したときの語りを借用しました。ちょっと長いけど、素晴らしい描写なので飲用してみます。


石灰岩地帯に広がるガリグと呼ばれる低木林に一日いると、太陽の高度と雲の動きに従って、植物と空気が刻々と色を変えていくのが観察できます。そして、太陽が地平線に近づく頃、奇妙な光景に出くわすのです。ほとんど水平の光を受けて、草地の上に無数の銀色の線が出現し、揺れ動き、それを追う視線は、暗くなりかけた草地と明るい光の間を激しく往復させられ、視界全体が、滲むようなハレーションに浸される。ハリュシネーションのような……。これは草地に大量に蜘蛛が棲んでいて、ちぎれた巣が風に乗って舞い上がり、水平の光だけを反射して現れる。それを見ていると、何というか途方もない快楽で、捕らわれたよくに釘付けになってしまいます。死んでもいい、というような感覚。正確にいうと、生きていることと、死んでいることの差異が構造的に変動し、両者が近づいてくるような感じです。--樫村晴香「自閉症・言語・存在」(保坂和志『言葉の外へ』所収)

このような風景描写、一生に一度でいいから書いてみたいです。
さて、次回はパッション溢れる佐藤さん。

>>342 訂正


永井「もう幽霊は出さないの?」


撮影した映像を確認し終えた永井がアナスタシアに尋ねた。永井の疑問を受けても、アナスタシアは目覚めてからと同様浅い短い呼吸を繰り返すばかりで、何もできない。細かく震えてもいる。永井はその反応を見て、黒い幽霊の使用回数には個人差があるみたいだな、と思った。これ以上有益な情報は引き出せそうにないし、中野のこともあるので、早めに処理することにした。


永井「その井戸だけど」


永井は身体をアナスタシアのほうに向ける、背後にある井戸を指差しながら言った。


永井「その穴の中には空気がない。地中のバクテリアが酸素を奪い、たかだか六メートル程度の穴の中を無酸素状態にするんだ。人は酸素のないところへ急に入ると、瞬間的に意識を失う。亜人ならエンドレスだ」


説明し終わると、永井はアナスタシアに近づいてフードを掴み、井戸縁に沿ってアナスタシアを引き摺った。井戸縁にはまるごと欠けたところがあり、そこまでアナスタシアを移動させるつもりだった。アナスタシアはくもぐった呻き声をあげながら、手足をバタバタさせ必死にもがいたが、永井は力を入れ一気に引っ張った。

更新ありがとうございます
亜人のssは数少ないのでめちゃくちゃありがたいです
提案なんですがとある魔術の禁書目録と亜人のクロスオーバーはどうですかね?

>>348
コメントありがとうございます。『亜人』のssはたしかに少ないですよね。もうすぐ実写映画が公開されますが、ssへの影響は微妙ですよね(映画自体は割と楽しみにしています)。

『とある~』とのクロスオーバーの件ですが、恥ずかしながら『とある~』はアニメを数話見たのみで原作未読でして、ご提案に応えることは厳しいと思います。申し訳ありません。

6.Let's Roll!


乗客たちがハイジャッカーたちに反撃した際に「Let's Roll.(さあやろうぜ)」を合図にしたと言われている。この9・11事件以降のアフガニスタンへの「報復戦争」において、この「Let's Roll」は軍用機に描かれたり、空母乗組員が人文字を空中撮影する際に用いられたりするなど、しばらく「テロと戦うスローガン」とされた。しかし乗客はコックピット内に進入できず、テロリストの操縦により機体を墜落させたと結論づけている。--ウィキペディア「アメリカ同時多発テロ事件」


--月曜日


オグラ「オッサン、おれは煙草が吸いたい」


目の前にいる拳を握る男に向かって、オグライクヤはコンビニの店員を呼びかけるみたいに注文をつけた。オグラの頬に拳が見舞われた。殴った男の拳は第三関節のところが平らで、拳が打ちつける面積が普通の人間よりおおきかった。人間を殴り慣れている拳による殴打は、頬を叩いたときの軽い打撃音からは想像もつかない威力でオグラの頭を揺さぶり、拳がぶつかった箇所が口の内側に深く沈みこみ、オグラは自分の歯で頬肉を噛みちぎりかけた。


平沢「渋ってどうなる。もう死んだことになってるんだぞ」


殴った男がオグラにいった。男はふたたび拳を上げ、IBMについて説明するようオグラに強要した。


オグラ「ははは。亜人ぽいな」


オグラはとくにおもしろくもなさそうにいった。右側の頬骨のあたりと唇から出血している以外、オグラの顔面には変化がなかった。オグラがかろうじてぶらさがっている頬の肉からの出血に気にもとめず喉に流れ落ちるままにしていると、ふたたび同じところを殴打された。オグラの身体が拘束されている椅子の脚ごと浮き上がった。


平沢「なぜ話さない。研究員の前じゃペラペラ話してたんだろ?」

オグラ「そんなこともわからないのか?」


オグラはだらんの下に伸びきった首を上げ、平沢を無感動な眼で見据えながら言った。右の鼻から血が垂れている。


オグラ「聞きたがってる奴に話して何が面白いんだ、ハゲ」


ふたたび殴打が強く見舞われる。平沢の拳はオグラの血に湿った。拳による尋問はまだ始まったばかりだった。


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この日の午前中、亜人管理の責任を引き受ける厚生労働省が開いた記者会見は、まるで可燃性ガスに火がついたかのように紛糾していた。


「ですから何度も言ってる通り、亜人に対して人体実験が行われたなどという事実はありません」


記者たちは厚労省の広報官が繰り返した言い逃れにいい加減飽き飽きし、沸き起こるように抗議の声をあげた。かれらの執拗な興奮は、研究所からの永井圭の逃亡、テレビクルーの前で堂々と田中を施設外へ連れ出す佐藤の映像、のちに判明したオグライクヤを含めた施設内での大量殺人、そして佐藤によるグラント製薬への爆破予告といったここ最近大きなトピックになっているこれらの事件の原因が、グラント製薬が行った亜人への人体実験に集約できるだろうと考えているためだった。


「永井圭は研究所に運ばれたときすでに情緒不安定でした。それはメディアやそれに触発された心ない人たちに……」


広報官の具体性のない言い訳に記者たちがふたたび気炎を揚げるまえに、亜人管理委員会の一人がリモコンでテレビを消した。



石丸「くそっ、マスコミが騒いでる」


そう苛立たしげに言ったのは、つるりと頭を剃り上げたNisei特機工業の石丸竹雄だった。石丸がリモコンを会議用テーブルに叩きつける音を合図にするかのように、研究者の一人が入口の扉に接する壁のまえに立つ戸崎に向かって問い詰めるように言う。


研究者1「具体的な社名まであがってしまったぞ。どうすんだ、戸崎!」

戸崎「確かにマスコミはやっかいですが、日本の報道の価値はすでに死んでます。一般人も一部を除いて大半がそれに気付いており相手にしないでしょう」


戸崎は正面を向いたまま、会議に参加しているメンバーを視野に収めながらら先ほどから変わらぬ冷ややかな眼を保ったまま言った。


石丸「その一部がうるさいんだよ。くだらない情報を間に受けるバカどもが」

戸崎「ですが、いま議論するべきことではありません。いま急を要するのは帽子への対策です」

研究者2「何を偉そうに! 研究所への侵入を許すわ、サンプルを逃すわ」

石丸「そうだ! どれほどの損失だと思ってるんだ」


委員会メンバーが飛ばす叱責は戸崎を怯ませるどころか、その眼の冷ややかさを侮蔑のそれに深める効果しなかった。


戸崎 (よく吠えるもんだ……文句ばかりで何もしない連中が……)


戸崎が眼で軽蔑を示していると、ドアが開き、失礼しますと断りをいれながら会議室に入ってくる者がいた。戸崎はその人物を見て、会議が始まってからはじめて、かすかにだがその眼に感情が宿った。


戸崎「曽我部、なぜおまえがここに」

曽我部「お世話になった先輩には申し上げにくいのですが……大臣から声を掛けて頂いたんです」


そう言ったあと、あなたの後任候補として、と付け加える曽我部の表情にはまだかろうじて慇懃さが保たれていた。曽我部の言葉を聞いた委員会メンバーは胸のすく思いだった。戸崎が辿るであろう顛末を想像し、嘲笑を洩らす者すらいる。


曽我部「今日から先輩の仕事を監視し、逐一上へ報告させてもらいます。もし問題ありと判断が下った場合……」

戸崎「おれはおまえと交代ってわけか」


戸崎は先回りして言った。


曽我部「いえ。地獄行きでしょ」


そのように答えを返す曽我部の表情には隠しきれない無礼と見下しが浮かんでいて、それは下がり眉と口の橋の上がり具合に見て取れた。自分を侮っていることを隠すどころか、むしろ挑発するような態度を取る後輩に対して、戸崎の表情はどこか弛緩したような感じで、倦怠や諦観や憐れみなどを思いこさせる視線を曽我部に向けていた。


戸崎「曽我部、これはおまえへの最後の忠告だが、この一線は……後戻りできないぞ」

曽我部「先輩風吹かせてる場合ですか」


思っていたような焦りや緊迫といった反応が見られなかったためか、戸崎の忠告に曽我部はすげなかった。


曽我部「グラント製薬の警備は警察が対応に当たるのが必然。われわれ亜人管理委員会はコンサルタントとして参加することになる。あと四十八時間です。それまでにIBM対策をひねり出せるのですか?」


曽我部はまた慇懃無礼な態度になって言った。戸崎の置かれた状況を説明していると、この状況から抜け出す術はないだろうという考えが浮かび、その後のことを考えると曽我部はほくそ笑みたくなった。そんな後輩に向ける戸崎の視線が鋭くなっていく。


曽我部「やってみせてくださいよ、戸崎先輩」


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ホテルの通路の壁面の上部に備え付けられた灯りが通路をズカズカと進む戸崎を明滅するように照らしていた。影と光が交互に戸崎の顔にかかる。廊下は静まり返っていて人の気配がなかったが、それはいつものことだった。目的の部屋に到着した戸崎はカードキーでロックを解除すると中に入り、後手でドアを閉めた。


オグラ「女王様のご帰還か」


戸崎を見たオグラが言った。顔の傷などまるで気にしていない。


平沢「戸崎さん。これだけやって何も話さねえ。こいつ、本当は何も知らないんじゃ? だいいち、事実かどうか疑わしい情報なんだろ?」


尋問を行っていた黒服が前を通り過ぎる戸崎に話しかけた。戸崎は答えず手に持っていたイージージッパーを机を上に置いた。中には、パスポートなどの身分を証明する証書が数点とマガジンが抜き取られた自動拳銃が入っていて、机に置いたとき拳銃とマガジンががちゃんという音を立てた。


戸崎はオグラに歩みよると、手錠が掛けられたオグラの左手を掴み、手を開いた状態でテーブルの上に押さえつけ、長方形と二等辺三角形が組み合わさったような五角形の薄いスチール製のこてをつき下ろした。オグラの小指が骨ごと切断された。テーブルに血が広がった。こてを抜いたとき、小指がもとあった位置からずれ、テーブルを覗きこめば手と指の断面が見えるようになった。


戸崎「それを見てみろ。死んだボディーガードの私物だ」


苦悶するオグラの手を押さえつけたまま、いきなりの蛮行に驚いている平沢に向かって、戸崎が言った。平沢は言われた通り、イージージッパーから手帳を取り出し、中身を開いて見た。


平沢「国防総省……」

戸崎「オグラ・イクヤが向こうの国で受け入れられたのは生物物理学者としてではない」


戸崎はオグラを見下ろしながら、話を続けた。


戸崎「この男の話は理論や根拠はともかく言っていることは偶然にも正しい。そしてそれはある分野で大いに役立った。すなわちIBM対策。こいつの情報は有益だ」

平沢「ぶっとんでるな」

戸崎「さすが成果主義の国だよ」

オグラ「ぐ……く……」

戸崎「もう一本失うか?」


戸崎はこてを握る手を上げて、無表情にオグラを脅す。オグラは苦しそうにゆっくりと顔を上に向けてから、言った。不敵に笑っているように、口の端が上向いていた。


オグラ「二本は……残しとけよ。スモーカーには死活問題だ」


戸崎がいきおい肩を上げこてを振りかぶると、オグラが突然慌て出した。


オグラ「ま、待て! うそうそ」

戸崎「てこずらせやがって」

オグラ「いや、三本だった。灰が落とせない」


オグラの薬指が切断された。


戸崎は 「なんなんだ、おまえは。痛みに鈍いのか? 亜人にでもなったつもりか?」


表情にこそ表れていないが、戸崎は、激痛に苦しみ喘ぎはするものの、一向に話をしようとも拷問を止めるよう懇願しようともしないオグラの態度に苛立ちと困惑を覚え始めていた。

オグラは苦悶のせいで肩を大きく上下させていたが、呼吸が次第に落ち着いてくると、首を垂れたまま、潜めいた笑い声を洩らしはじめた。戸崎も平沢も、ついにオグラがいかれたのかと思ったが、それにしては笑い声に明確な対象がある気がして、不気味なものを感じ始めていた。笑い声をおさめると、オグラはふたたび顔をあげ、自分を見下ろす戸崎を見て言った。


オグラ「耐えられる程度なのさ……身体の痛みなんてのは」

平沢「戸崎さん、こいつは話さないぜ」

戸崎「なぜ」

平沢「だって、いかれてる」


オグラ「そうさ……メガネ……こんなもんじゃあ、おれは……話す気分にならない。おれが話す条件はたったひとつ……たったひとつだけだ」


頭を上げたままの姿勢を維持するのに大きな苦労でもあるのか、オグラの首がまた下を向いていた。オグラの発言に戸崎の目が見開いた。耳に意識を集中させ、その内容によって拷問を続行するか瞬時に判断しようとしていた。オグラの頭と手が、ゆっくりと大変そうに戸崎に向かって上がっていく。震える右手が戸崎を指差し、大きく見開かれたオグラの目が、暗闇の中に灯るように浮かんだ。オグラははっきりと宣言するように、要求を口にする。


オグラ「FKを持ってこい」


意味不明の要求に戸崎が腕を振り上げる。スーツが捻れ、脇のところに皺が寄ったところで、戸崎の動きが止まった。オグラの言うFKが何なのか分かったからだ。


戸崎「……え? 本気か?」


戸崎は数年前から禁煙していた。だから、オグラが煙草を要求していることにすぐには気がつかなけった。


オグラ「最初から言ってるだろ。車にあったハズだ。持ってこい、いますぐ」


黒服が要求に従い、銘柄通り、マイルドセブンFKを部屋まで持ってきた。オグラは最低限の応急処置がされただけの左手で煙草を挟み、口に咥えると、右手に持ったライターで火をつける。口腔内の咬み傷に煙草の煙はひどく沁み入るはずだが、オグラは痛む素振りなど少しも見せず、満足するまで煙草を味わうと、ゆっくりと紫煙を吐き出して、言った。


オグラ「まずい」


左手に巻かれた包帯はいまだ鮮血で赤々しく、煙草を口から離したとき、傷口から浸み出した血が一滴ぽたりと垂れた。


オグラ「さて、なにから話そう」


血の跡が残るテーブルの上に置かれた灰皿に煙草の灰を落としてから、オグラは説明を始めた。


オグラ「“アドバンス”……ああ、おまえらは“別種”と呼んでたな。
ここ数年、亜人は自分達のもうひとつの性質に気がつき始めた。自分以外にもう一つの肉体を作り出すことができたんだ。形状は個々によって変化することがあり、現れやすいのは手・口周辺。それは武器化する傾向にある。
おれはこれを『魂の痕跡器官』と呼んでる。人間の原始的な武器は爪と歯だからだ。
身体能力は人間と変わらない。が、人間の脳の制約を受けないため常に『火事場の馬鹿力』が出せる」

戸崎「過程はどうでもいい。結果だけ話せ。『つけいるスキ』とは?」

オグラ「IBMを形づくる未知の物質はきわめて不安定で、発生と同時に崩壊が始まってる」

戸崎「つまり?」

オグラ「IBMは五分から十分程度で自動的に消滅してしまうんだよ。
また、あれだけの質量の宇宙の意思に反した物質を生み出すんだ。連続して何度も出せるものじゃない。
日に一、二体が限度」

戸崎「だからあの日佐藤は……」

オグラ「違う。あの日は雨が降ってた」


オグラは言葉を切り、煙草をふかした。


オグラ「先刻話した通り、IBMは崩壊し続けており、崩壊の際に特殊な電磁波を放っている。放射性同位体のようにだ。この電磁波でIBMと亜人は意思の疎通をしている。
ラジオが聞きづらくなることがあるだろう。雨の日なんかに。アレと同じ、雨の中でIBMは動かしづらくなる。
IBMは、パワフルだができそこないだ。やり合えそうな気がしてきただろ?」

戸崎「ああ」

オグラ「オマケでもうひとつ」


説明が終わっただろうと戸崎が席を立とうとしたとき、オグラが付け加えることがあるかのように言った。


オグラ「おまえらは亜人の殺害が引き金で中村慎也事件が起きたと予想していたようだが、それは少し大きな間違いだ。 われわれはあの現象をフラッドと呼ぶ」


中村慎也事件とは、ただ死んで生き返るだけだと思われていた亜人が特殊かつ危険な能力を持っているのだと、はじめて人間側が認識した事件だった。当時大学生だった中村慎也を捕獲しようとした黒服たちが全員死亡し、遺体は無惨にもばらばらにされていた。現場には多くの爪痕が広範囲にわたって残されていた。この証拠から、黒服たちを殺害した何者かは複数体、おそらく十体以上存在していたのだと推察された。

これまでのオグラの説明によって、 “氾濫”を意味する語を冠するこの現象は、IBMの同時多発現象のことだと戸崎は理解することができた。


オグラ「異常な感情の高まりと復活が重なった時、ごくごく稀に起こる現象だ。殺害にはいうほど気を使わなくて……」


オグラの頭が突然がくんと落ちた。


オグラ「あれ?……えーと……何の話だっけ……」


戸崎「出血のせいだ。治療の手配を」

オグラ「健闘を祈るよ」


失血のせいで、オグラは眉間を押さえて項垂れていた。右手に挟んだ煙草から昇る煙は、空調に揺られゆらゆらしてながら霧散していった。戸崎はオグラと消えゆく煙を見下ろしながら、思った。


戸崎 (なんとしても、あのバカどもを納得させねば)


明日の会議で、戸崎はオグラの説明を元に立案した作戦を、亜人管理委員会のメンバーに向かって話さなければならなかった。

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--火曜日


戸崎「以上が警察への助言内容です」

石丸「限界だ!」


石丸竹雄が会議用テーブルを拳で強く打ち付けた。ざわめきたつ傍聴人を裁判長が槌を叩いて静粛さを求めるような動作だったが、この打撃音によって生まれたのは静寂ではなくさらなる叱責と怒声だった。


「科学的根拠が皆無だぞ」

「オグラ君と話してるようだ」

「バカにしてるのか」「戸崎!」

戸崎「先の襲撃から予想して立てたベターな手段です」


無思慮な発言に耐えながら、戸崎は説得を試みるが委員会メンバーは態度を変えないままだった。


「もういい!」

「曽我部君! 上へ報告して戸崎を除名しろ!」


すこし離れた位置に座って会議を静観していた曽我部は、委員会からの要求を受けてこう答えた。


曽我部「ダメです」


その発言にだれもが驚いて、さっきまで紛糾していた会議は嘘みたいに静まりかえった。


曽我部「皆さん、戸崎先輩一人を責めるのは間違っていますよ」


慇懃な口調で曽我部は話を続けた。


曽我部「研究員の皆さん、あなたたちはこれまでにIBM対策に繋がる研究成果を残していますか? 」


岸たち研究員はうってかわって、口を閉じていた。


曽我部「他の方々も何か提案のある人は?」


ほかの委員会メンバーも、曽我部の問いかけに答えず、沈黙したままだった。曽我部はそういした場の空気に憤ったのか、一転して声を荒げて身を乗り出して言った。


曽我部「何もないなら、戸崎先輩の意見に従うのが最善じゃないですか!」


会議の参加者たちは曽我部の発言にたいして反論や対案を口にすることはなく、黙って視線を漂わせていた。結局、それが結論となった。戸崎は意外そうに横に立った曽我部に視線だけ向けて言った。


戸崎「曽我部、お前からの後押しがあるとはな」

曽我部「僕は中立です。あなたの仕事ぶりを公正に上へ報告するのが仕事なのですから」


曽我部も戸崎と同じように視線を返した。曽我部が視線を戻したあとも、戸崎は観察を続けた。そして、ひとつの確信を得た。


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会議を終えた曽我部はその足で直接大臣の元へと赴いた。カーテンが閉められた薄暗さが包む部屋のなかで大臣は高級椅子に腰掛けていた。


大臣「おつかれ」


曽我部は大臣の側に背を伸ばして立ち、後ろで手を組んだ。


大臣「どうだった、戸崎は?」

曽我部「はい。戸崎先輩は、あきらかに異常なです。いろいろと知りすぎています」

大臣「となると、やはり……」

曽我部「はい。オグラ・イクヤは生きている」


曽我部が口にした結論に、大臣はひそめいた笑いを洩らした


大臣「戸崎……思った以上に大した奴だ。アメリカ側の人間に手を出すとは」

大臣「あの男は、われわれには超えられない一線を越えてくれたぞ」


大臣「曽我部、われわれはこの事実を知らない。いいか? 知らないんだ」

大臣「すべてはあの男の身勝手な単独プレー。大活躍してもらおうじゃないか。そして事態が収拾したあかつきには……すべての責任を負って、消えてもらおう」


曽我部も大臣とともにほくそ笑んだ。陰謀に加担するのは楽しい。厄介な事態への対応はすべて戸崎がやってくれる。おかげですべてが終わったあと、何のリスクもなく上のポストに就けるのだから、笑みが浮かぶのも当然だった。

戸崎は最後の瞬間までこのことに気づかないだろうという優越感も、曽我部をほくそ笑ませる要因のひとつだった。

そんな曽我部と大臣の様子を、下村のIBMが最初から最後まで見聞きしていた。

戸崎は大臣と曽我部の会話を下村から中継されるかたちで聞いていた。長椅子に座る戸崎の眼は細く引き締まり、鋭い視線を真っ直ぐに飛ばしている。戸崎は革手袋をした両手を膝の位置で合わせていて、下村から話を聞かされているあいだもその手は微動だにしなかった。


戸崎「上等だ」


覚悟を込めた声を喉の奥から響かせながら、戸崎は自らの命も賭けのテーブルにあげることを決意した。


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田中「あ、ちょっと。佐藤さん」


アジトの通路に棒立ちになっている佐藤の幽霊に田中は話しかけた。


IBM(佐藤)『私……の、名前……佐藤……あ……じん』

田中「……あら」


ぶつぶつと独り言を言う佐藤の幽霊は、まるで生まれて初めての自由に戸惑っているかのように両手を弄っていた。明らかに佐藤の命令下にない黒い幽霊をどうしようか田中がと迷っていると、佐藤がやってきて後ろなら田中に声をかけた。


佐藤「呼んだ?」

田中「なにやってんすか? アレ」


田中は黒い幽霊を指差しながら佐藤に尋ねた。


佐藤「ん? 放任!」

田中「はあ?」


佐藤の答えは単純明快すぎて、田中は逆にその意図をつかめない。


佐藤「黒い幽霊を動かす感覚は、ラジコンの操作というより犬に命令する感じに近い」


佐藤が補足説明を話し始めた。


田中「こいつらにも自我みたいなもんがある感じすからね」

佐藤「うん。それで、永井君の幽霊みたく自発的に行動させることもできたら面白いかもと思ってね。だから放任中。自我を育む」

田中「そんなにうまくいくんすか?」

佐藤「君だってあんな短期間でライフルを撃たせられるようになったじゃないか。野生的な動作より文明的な動作のほうが難易度が高い。殺戮なんかは案外簡単にできてしまうだろ?」


そこで佐藤は一旦言葉を切って、呆れたようにため息をついた。


佐藤「それに比べて奥山君はド下手。本人が器用だから、幽霊にいろいろさせてこなかったんだよ、アレは……」

田中「あいつは喋らすのも下手すからね」


佐藤は頭を上げ、黒い幽霊を見た。幽霊は相変わらず両手を弄っていて、爪の先で反対側の爪の表面をひっかくように動かしていた。


佐藤「何事も練習! シモ・ヘイヘも言ってる」


佐藤は視線を幽霊から田中へ移すと、にっこりと笑みを浮かべて話しかけた。


佐藤「よし、明日の準備をしようか」


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>>1です。実はこの後の展開が絶賛難航中でして、今日の本編の更新はここまでになります。

長らくお待たせしたうえに、原作の話をまんま文章化したものしか更新しないのはあまりにもあれなんで、代わりといってはなんですが、ちょっとした番外編3編をこの次のレスから更新していきます。

永井が346プロに入社しているという設定のコメディ的な話です。設定とか時間軸とかキャラまでゆるゆるですが、どうかご容赦願います。

番外編その①


夏期の長期休暇を目前にしてシンデレラプロジェクトのメンバーたちに立ちはだかったのは、学習範囲が広いことが厄介な期末試験であった。

アイドルをしながら学業もある水準をキープしなければならないとなると、常日頃から持続的な勉強が必要になってくるが、アイドルとしての活動も多岐にわたり、またライブやイベントが開催されるとなるとコンディションの調整に気を使わなければならなくなる。レッスンがあれば体力を消費するし、仕事の合間合間に予習復習をしても、すべての範囲をカバーしきれないのが現状であった。

もちろんプロダクションは、就学中のアイドルたちが学業に集中できるようなサポートを欠かさなかった。未成年のアイドルの保護者は、当然ながら彼女たちの学校の成績を心配する。だからプロダクションは、学業をサポートできるよう有名学習塾と契約を結び、希望者にはプロダクション内のまさしく教室そのもの部屋で派遣された講師から一対一、あるいは複数人で講義を受けることもできた。

今回、期末試験にむけて対策講義を受けることになったのは、美波をのぞくシンデレラプロジェクトのメンバー全員だった。美波の大学は試験の日程がはやく、七月初旬から始まった試験はほぼ終了していた。美波はプロジェクトのリーダーとして、メンバーたちの勉強をサポートするつもりだった。

美波とともに講師役を務めることになったのは、彼女の弟である永井だった。契約の更新になにかトラブルがあったのか、今月は講師が派遣されず、社内の人間を代理にたてようと困っていたところを入社試験を完璧にクリアした永井の名前が挙がった。


永井「それって契約外の業務ですよね」


プロデューサーから講師代理の件を聞かされたとき、永井はそう言った。


武内P「ええ、たしかに」

永井「期末テストの範囲をカバーするとなると、一日じゃ足りませんよ」

武内P「おっしゃるとおりです」

永井「メンバーは十人以上いますし」


永井はパソコンから目を離さず、キーを叩き続けながら言った。


武内P「お引き受けくだされば基本給とは別途に手当が支給されますが」

永井「通常業務に加えて、契約外の業務もやるんです。支給金額が契約先の講師と同額ってことはないですよね?」


プロデューサーはすこしたじろぎながら「確認してみます」とだけ答え、永井が「お願いします」と言ったところで講師依頼の話はそこで終わりになった。

後日、永井は要求が通ったことをプロデューサーから聞かされ、講師を引き受けることにした。


永井が講師を務めることについて、シンデレラプロジェクトのメンバーたちの心持ちは不安がかなりの割合を占めていた。それは永井の能力への不安ではなく、アナスタシアが評した永井の人物像が原因だった。

彼女たちは永井と仕事のうえで付き合いはあったが、親しくはなかった。はじめは美波に話を聞こうとしたものの、亜人を巡る一連の事件で味わった苦悩と心労から解放されたためか、ちょっと度が過ぎるほど褒めちぎるので参考にはならなかった(そもそも九年間はなればなれに暮らしていたうえに、アイドルとしての活動にまったく興味がなかった弟が自分とおなじ職場にいてはやくも成果をあげているのだから、美波としてはうれしさに満ちた気持ちを所構わず話したくてしかたなかった)。

そこで今度はアナスタシアに永井について尋ねることにした。アナスタシアも永井と同じ亜人で、美波すら預かり知らないところで永井と行動をともにしたこともあるらしい。アナスタシアは、まるで数を数え上げるときのような自然で淡々とした口調で言った。


アナスタシア「情け容赦と躊躇がないです」

美波「そっ……んなこと、はないんじゃないかな……?」


美波は思わず声をあげて反論しそうになったが、言葉はあとにむかうにつれた小さくなり、最後のほうは消え入りそうなくらいだった。


アナスタシア「アー……あとはフツウだと思います」

卯月「それは普通って言えるんですか?」


美波に対するアナスタシアのフォローに卯月が疑問を挟んだ。

この問答のせいで彼女たちはほとんど恐怖にちかい思いを抱きながら講義当日を迎えたわけだが、そんな不安を知ってか知らずか永井はさきに教室で待っていて、会議用テーブルをひとりで使っていた。メンバーが席に着くと、永井は一人ひとりにプリントを配布した。アナスタシアはプロジェクトクローネとの兼ね合いの仕事があり、すこし遅れて参加するので、配られたプリントの枚数は十二枚となった。そこには数学の問題が書かれていた。


永井「テスト問題を予想してみたから、とりあえずそれを解いてみて」


テストが返却されたのは、テスト終了後の休憩時間のあとだった。間違えた問題には赤ペンでどこをどう間違えたのかや解法に使うする公式が事細かに書かれてあった。

次にプリントが十枚ほど重ねられてホッチキスで留められていた問題集と新しい参考書が配られた。プリントにはメンバー個々人の弱点をカバーする問題がびっしりと印刷されていて、一ページ目は基礎的な内容の問題が並び、ページをめくるごとに難しさがあがっていく。

そのページにある問題のうち八割が正解だったら次のページにいけるが、正解率がそれに満たなかったら、同じレベルの問題が印刷されたプリントを渡されまた問題を解く。


いちばん最初にプリントを終えたのは双葉杏だった。杏はいきなり十ページ目の最高難度の問題を解き、すべて正解していた。


永井「双葉さんは自習で大丈夫」

杏「寝ててもいい?」

永井「いいよ」

美波「自習しようよ」


美波をはじめメンバーたちは、杏も杏だが、永井も永井だと思った。

問題を解いているあいだ、永井と美波は教室をまわり、質問に答えるなどしていた。中学生以下のメンバーには美波が面倒を見ていて、とくに神崎蘭子には細かく注意を払っていた。おそらく、弟と蘭子を会話させるのはいろいろな意味でまだ早いと思っていたのだろう。


永井は手が止まっているメンバーを見つけると、苦戦している問題を一瞥してから参考書のページ数を教えた。言われたとおり参考書を開くと、そこには問題を解くのに必要な基礎的な知識や解法、公式が書かれていて、たしかに学習の役に立つのだが、数学が不得意な者にとっては読むだけで完璧に理解ができるといったわけでもなかった。

しかし永井の口調はそっけなく、これ以上のヒントや解説をもらうのを躊躇わらせるものがあった。

そういう場合は美波がすかさず困っている様子のメンバーの側に寄って、どこがわからないのかを尋ねた。

このままでは「いい警官、わるい警官」式の授業になりそうだったが、永井も姉を見習いていねいな解説を加えるようになった。有能な人間というのは自らの能力が基準となっているので、ほかの人間に対しても自分と同等の処理能力を求めがちであり、永井はその典型といえた。周囲が熟達した技術を持ったプロフェッショナルならともかく、勉学においては普通の水準に留まるシンデレラプロジェクトのメンバーたちに永井の勉強法についていくのはかなりつらいものがあった。

美波はそんな弟と仲間たちのあいだでうまく緩衝材の役目を果たしていた。仲間たちには弟の指摘にわかりやすい解説を与え、弟にはメンバーそれぞれの性格や理解度にあわせた対応を見せた。


おかげで過度な緊張感は次第になくなっていったが、今度は量の問題が現れ始めた。課題の多さのせいでメンバーたちの脳に疲労が積み重なっていたのだ。


かな子「あまいものがたべたい……」

卯月「お菓子、もうありませんね……」


三村かな子と島村卯月が痛みに似た空腹を感じて弱々しく零した。勉強をしているあいだの飲食は自由だったが、持ってきたお菓子類はすでになくなっていた。

多くの難問を解いていくうちに、脳が要求するままに糖分を摂取していたのだが、用意したぶんではぜんぜん足りなかったのだ。


凛「手もつかれたね」

未央「てか痛いよー……」


未央はペンを握ったままの右手の指を左手を使ってゆっくりと解いていった。ペンが抜けた指はまだ固く、曲がったままの指をピンと伸ばすのも一苦労といった有様だった。


メンバーの疲労の色の濃さを見てとって、永井は彼女たちの机の上に円筒型のプラスチックケースを置いていった。白い容れ物には青いラベルが貼られていた。


みりあ「これ、なに?」

永井「ブドウ糖」


永井はケースを置きながら言った。


永井「タブレットだから問題を解きながらでも食べられる」

美波「休憩にしましょう!」


永井は姉に同意した。メンバーは美波の宣言に感謝してもしきれない気持ちだった。ブドウ糖は摂取してから脳に届くまで十五分から三十分かかるので、十五分間の休憩を取るのは合理的だった。

みんなが口の中でタブレットを転がして甘い以外の感想がないまま休憩していると、突然叩きつけるような勢いでドアを開けられた。アナスタシアだった。


アナスタシアはここまで急いで走ってきたのか息を切らしていて、呼吸をするたびに学校指定の白い半袖ブラウスの襟ぐりと、そこに結ばれた青いチェック模様のリボンが揺れていた。アナスタシアはまっすぐ永井にむかって大きな早足で近寄ってきた。


アナスタシア「これは、この写真は……アレです。アレなんですよ、ケイ……」


アナスタシアの声には動揺が現れていた。


永井「ちゃんと閉めろよ」


永井はアナスタシアが入ってきたドアを見ながら言ったが、アナスタシアは聞いてないようだった。永井は席を立ち、ドアを閉めにいった。アナスタシアはふるふる震える両手で持った写真集に視線を落としたまま永井を追うと、さっきの絞り出すようなか細い声から一転し、急に大きな声をあげた。


アナスタシア「ミナミがセクシーすぎます!」

美波「アーニャちゃん!?」

永井「うるさい」

アナスタシア「見てください、ケイ!」


アナスタシアは写真集のページをばっと開いて永井の眼前に突きつけた。


永井「これが?」


永井は開かれたページを一瞥したあと、視線をアナスタシアに戻した。


アナスタシア「水着が多いです!」

永井「アイドルなんだから水着くらい着るだろ」

アナスタシア「だから、セクシーなんです!」

美波「ア、アーニャちゃん、おち、落ち着いて」


美波の声は動揺のあまり、ちゃんと伝わってないようだった。


永井「ていうかこの写真集、サンプルだろ。どっから持ってきたんだ?」

アナスタシア「プロデューサーから借りました」


永井はため息をついて、アナスタシアから写真集をひったくると、最初のページに戻った。席に着いた永井は姉が被写体となっているグラビア写真の点検をはじめた。


美波「えっ……よ、読むの? 圭」

永井「印刷のミスとかがないかチェックしないといけないし」


永井は業務的な態度で姉に答えた。アナスタシアは腰を屈め、永井の肩口から写真集をのぞき込むと、美波の水着や濡れて透けたTシャツの過度な色っぽさをいちいち指摘していった。永井はそんなアナスタシアが邪魔でしかたないといった表情をしながら、無視してページを進めていく。

そのような二人の様子をシンデレラプロジェクトのメンバーたちはなんとも言えないまま居心地悪そうに眺めていた。


凛「反応が対照的すぎる」

卯月「永井君、ドキドキしないんでしょうか?」

未央「いやまあ、弟だからね」

杏「アレが普通なんだね」

未央「最近までアイドルことぜんぜん知らなかったみたいだから、みなみんが基準になってんじゃない?」

みりあ「ねえ、美波ちゃんが」

美波「許して……謝るから、許してぇ……」


アナスタシアと弟が自分の写真集を見ている現実に、美波は顔を赤くしながらもだえていた。


未央「ああ……うん。これはキツいわ」

智絵理「わたし、家族が自分の歌を口ずさんでるだけでも恥ずかしいのに……」

蘭子「恥辱」

李衣奈「でもさ、永井君はなんというか、淡々としてるしさ……」

みく「余計にキツくない?」

卯月「えっ、美波ちゃん、こんなポーズ……」

未央「しまむーいつの間に」

アナスタシア「ケイ、これ! このメイド服、肩と胸が見えすぎです! 前のページはふつうだったのに!」

永井「なんでカウボーイが使う牛追い鞭を持ってるの?」


永井は姉に尋ねたが、美波は顔を伏せたまま「知らないよぉ……」と消え入りそうな声で言うだけだった。いつの間にかギャラリーが増えているのに気づいた永井は、人の多さにうんざりしてページをめくるのをやめ、アナスタシアに振り返り聞いた。


永井「で、なにが言いたいんだよ?」

アナスタシア「ミナミにカワイイ衣装を着せてください!」

永井「プロデューサーに言えよ」


永井が面倒そうに前に向き直ったとき、写真集のページが自然にめくれた。

空気が凍ったような気配を感じた美波はふと視線だけをあげてみると、弟やアナスタシアだけでなく、彼らの周囲にいたメンバーたちも固まって、机の上にある写真集に視線を注いでいた。

美波は異様な雰囲気に息を飲みながらやっとの思いで立ち上がり、恐るおそる慎重に自分以外の人間が見つめたままでいる自分のグラビアに近づいていった。

二ページ使った見開きに写っていたのは、小悪魔の格好をした美波が椅子の背を前にして脚を大きく開脚しながら振り向いている姿だった。短いスカートの裾がすこし上がり、そこから木の座面に押し付けられ膨らんだようすの大腿部からヒップのラインが覗いていた。見返る美波の横顔は口の辺りが右肩に隠れていた。黒いナイロン生地に覆われた肩の上から見える頬は朱に染まり、さらにその上に潤んだように光る茶色の瞳としとやかに垂れた瞼の線があった。

永井は静かに写真集を閉じた。


美波「あっ……えっ……」


美波はこのグラビアの過度な色っぽさに説明を試みようとしたが、言葉にはならず息が洩れるばかりだった。一同は美波の呼吸音に顔を上げた。その表情を見た美波はへなへなと元の位置に戻り、ふたたび顔を伏せた。いまにも泣き出しそうな雰囲気があった。実際、うめき声のようなものが聞こえた。


アナスタシア「パルゴヴォイ……ミナミ、エッ……」


永井は右手に持った写真集をすばやく後ろに振って、左肩のあたりにあるアナスタシアの顔を写真集のカバーで叩いた。パンという軽快な音が教室に響き渡り、二人の周りにいたメンバーたちは驚いてその場から飛び退った。


きらり「にょわっ!?」

未央「顔は! 永井君、顔はやめよう!」


アナスタシアはのけ反った頭を元に戻し鼻を押さえながら、腕を上げて手のひらを見せ、自分の落ち度を認めるジェスチャーを示した。


永井「まあ、そろそろ別の路線の仕事も入れるべきかも」


永井がぼそりと言った。


アナスタシア「おねがいします、ケイ」


鼻を押さえてるせいか、アナスタシアの声はすこしくもぐっていた。


永井「プロデューサーと相談してみる」

アナスタシア「わたしもいっしょに行きます」

永井「勉強しろよ」

アナスタシア「歩きながらやります」


永井はそれ以上なにも言わなかった。二人が部屋から出て行くと、部屋に残されたメンバーは、羞恥に呻きながら顔をうずめている美波をいったいどうやって励ますかという、この日いちばんの難題に頭を悩ませることになった。

番外編その②


休憩中、ラウンジの自販機で缶コーヒーを買おうとする永井に、アナスタシアと蘭子が話しかけてきた。


蘭子「黒き分け身を我が眼が捉えんと欲しているの」

永井「……」


永井は無言で蘭子を見つめた。


蘭子「えっと……そのぉ……」

アナスタシア「アー……黒い幽霊が見たい、と言ってます」


アナスタシアの後ろで蘭子がこくこくと頷いた。


永井「見せたらいいだろ」

アナスタシア「むずかしいです……チゥーストヴァ、感情を強く込めるの」

永井「舞台稽古かよ」


永井は自販機に硬貨を入れて、缶コーヒーを買おうとしていた。 アナスタシアもつられて自販機のラインナップを見ると、新しく並んでいるきな粉味のスタミナドリンクに興味を惹かれた。


アナスタシア「きなこ……」

永井「自分で買え」


そう言うと永井はブラックコーヒーのボタンを押した。ガコンという音がして、永井が取り出し口からコーヒーを取り出す。

アナスタシアは一瞬ムッとしたが、永井の態度はいつものことなので、気を取り直してIBMについて質問することにした。


アナスタシア「オグラ博士はケイの幽霊を見た、と聞きました。ケイは、どんな感情をこめたのですか?」

永井「殺意だけど」


アナスタシアの背後で蘭子がぴぃっ、とちいさく悲鳴をあげた。アナスタシアも内心穏やかではなかったが、さらに質問を重ねた。


アナスタシア「……きらい、なんですか? 博士のこと……」

永井「なんで?」

アナスタシア「だって……」

永井「好悪の感情に関係なく人は殺せるだろ?」


永井は缶コーヒーの蓋を開けた。永井の答えに蘭子は本気で怖がっていたし、アナスタシアは、そうだ、ケイはやばいやつだった、と質問したことを本気で後悔していた。


自販機の硬化投入口の横の電光板がちかちら光っていた。四桁の数字が揃い、当たりの表示がされている。
アナスタシアは思いきってきなこ味のスタミナドリンクに人差し指を伸ばした。これを話題にして、果敢にも凄まじく居心地の悪いこの場の空気をすこしでも良くしようとしての行動だったが、先に永井の指が音もなく伸び、同じ缶コーヒーのボタンを押した。

取り出し口に手を伸ばす永井を見下ろしながら、アナスタシアはいじけたようにボソッとつぶやいた。


アナスタシア「ケイ、そんなことしてたら、友だち、いなくなります」

永井「カイになにかしたら、おまえ、殺してやる」


アナスタシアの背筋が一瞬凍りついた。明確な殺意を身に浴びて恐怖した。それが一瞬だけですんだのは、永井自身が言った直後にさっきの反応は早とちりだったし、過剰だと省みて殺意をおさめたからだった。

永井はふたたび硬貨を自販機に入れた。商品ボタンが点灯すると、永井はアナスタシアに聞いた。


永井「……きなこ味?」


永井が自販機の見本を指差した。


アナスタシア「……きなこ味」


そう答えたあと、アナスタシアも永井と同じ見本に指先を向けた。永井がボタンを押すと、商品が取り出し口に落ちてきた。


永井「神崎さんは?」

蘭子「はひっ!?」


永井に尋ねられた蘭子は肩をビクッと震わせた。スタミナドリンクを手に取ったアナスタシアは、永井の視線から蘭子をかばうように二人の間に割って入った。


アナスタシア「ランコも、きなこ飲みますか?」


蘭子は戸惑っていたが、やがてゆっくり頷いた。永井がボタンを押し、ふたたびがこんという音がしたとき、自販機のルーレットがまた当たりを出した。

アナスタシアは即座に動いて同じ飲み物のボタンを押していた。 飲み物を手に取った途端、取り出し口からまた音がしたので永井は奇妙に思った。

アナスタシアは流れるような動作でボタンから取り出し口に手を移動させ、ドリンクの瓶を手に取ると、永井に押しつけるように手渡した。


三人はラウンジにある円形ベンチに腰掛け、ドリンクを飲み始めた。

永井は飲み物を奢った時点でさっさとその場を離れたかったのだが、アナスタシアが蘭子を怖がらせた分はきっちり埋め合わせをしろと視線で告げていたし、永井自身も必要のない感情を蘭子にも見せてしまったことに多少の申し訳なさも感じていた。

しかし、きなこの味がするという以外に飲み物についての感想はなく、空気は相変わらず重かった。

アナスタシアはがんばって蘭子が興味を持ちそうな話題を話して、さっき永井が見せた殺意のことを忘れさせようとした。

アナスタシアが話したのはロシアの民話に登場する不死身のカシチェイという老人についてだった。ニコライ・リムスキー=コルサコフが歌劇の主題にもしたこの老人は痩せこているが強い魔力を持った魔王で、不死身の源である魔法の針を折られれば死ぬが、その針は念入りに隠されている。オークの木の上の長持ちがあり、その長持ちの中にはウサギがいて、さらにウサギの中にアヒルが入っており、そしてまたアヒルの中には卵が入っている。魔法の針はその卵の中にある。

永井はその話を聞きながら、針を折って死ぬのなら楽な話だな、と思った。

ロシア民話について語るアナスタシアのがんばりが功を奏して、蘭子は話に夢中になり、元気を取り戻したようだった。


蘭子「分け身たる黒き従者はやはり不可視であったか」


休憩時間がもうすぐ終わろうというとき、蘭子が残念そうに言った。


アナスタシア「ランコ、もうすこし待っていてください。ポカーザノ……見せられるようにしますから」

永井「おまえが神崎さんに殺意を持つのは無理だろ」

アナスタシア「ほかの感情!」

永井「あそう」


と、そこで永井の身体から黒い粒子が放出されるのを、アナスタシアは見た。


アナスタシア「オイ!」


ロシア語で驚きの声をあげながら、アナスタシアは背中で蘭子に覆いかぶさり咄嗟にIBMを発現した。

永井から放出された黒い粒子は人型IBMを作らず、空気の中に消えていった。

アナスタシアは、いったいケイはなんのつもりだったんだろうと訝りながら身体を起こし、蘭子に振り返った。

蘭子の目は驚いたように見開いてた。


アナスタシア「アー……いまのは、ロシア語で」

蘭子「幽霊……?」


蘭子の視線を追うと、たしかにその先にアナスタシアが発現したIBMが立っていた。


アナスタシア「ランコ、見えますか?」


蘭子はこくこくと頷いた。

アナスタシアは永井のほうに向き直った。永井はもうその場から離れていて、ドリンクの空き瓶と缶を捨てるとすぐに去っていった。


蘭子「星光りの如き十字架よ!」


蘭子の瞳も星のように輝いていた。

アナスタシアは、そうか、こういう気持ちになればいいのかと思った。自分ではない誰かを必死になって守ろうとする気持ち。おそらく、ケイもこの気持ちのことを知っているのだろう。

アナスタシアは永井が折れていった廊下から視線を戻し、ふたたび蘭子を見つめた。


アナスタシア「リクエスト、ありますか? ランコ」


それからアナスタシアのIBMは人間には不可能なさまざまな動作を披露して蘭子を驚かせ喜ばせた。五分ほどしてIBMが消滅すると、二人はラウンジからレッスンルームへと向かった。移動中のおしゃべりの内容は、当然アナスタシアのIBMについてだった。


蘭子「でも、ちょっとこわかったかも……」


ひとしきり興奮が収まったあと、蘭子がポツリと言った。


アナスタシア「仕方ないです。ケイは、ああいう性格ですから」

蘭子「アーニャちゃんの幽霊のこと……」

アナスタシア「オイ!」


アナスタシアはまたロシア語で驚きの声をあげた。

番外編その③


アナスタシア「ラッキースケベ、という言葉があります」

永井「あ?」


衣装合わせに向かう途中、アナスタシアが出し抜けに言った。永井は冷ややかな目でアナスタシアを見た。このような目で見られることに慣れつつあることを感じながら、アナスタシアは話を続けた。


アナスタシア「ディエーヴァチカ……女の子がたくさんいるところに、男の子がひとりだと、To LOVEるが起きます。マンガで読みました」

永井「マンガを間に受けてるのかよ」


永井は呆れて頭を下げると、面倒から逃れるようにアナスタシアを残してつかつかと先に進んだ。アナスタシアはいつもより大股で歩きながら永井を追いかけ、結論を聞かせた。


アナスタシア「衣装室、いきなり開けたらダメ、ですよ?」

永井「それくらいの常識はマンガじゃなくて親に教えてもらえよ」


永井の煽るようなもの言いに、アナスタシアは腕を伸ばしただけの痛くないパンチを永井の肩に繰り出して答えた。ちゃんと拳を作ってなかったので、軽く曲げた指が永井の肩甲骨に当たったとき、がくんと関節が折れ、痛かった。

ひー、という表情をして右手の指をおさえるアナスタシアを見て永井はため息をついたが、それ以上のことはせず、バカと言うこともなかった。

そうしているうちに二人は衣装室に到着した。永井がドアをノックすると、中からどうぞ、という声が聞こえてきた。

衣装室にいたのは十時愛梨だった。


愛梨「あっ、アーニャちゃんに永井君」


愛梨はバニースーツに身を包んでいた。肩を露出した赤いボディスーツの前は黄色いボタンで窮屈そうに留められていて、足ぐりのあたりには黒いフリルが舞っていて、お尻のほうにも黒くて丸い尻尾飾りが整ってついている。網タイツに包まれた脚が伸びている先にあるハイヒールもスーツと同じ赤色で、ウサギの耳をかたどったヘアバンドや蝶ネクタイなど、バニーガールにお馴染みの装飾もしていたが、カフスはなく左手首に金色のブレスレットを二つつけていた。


アナスタシア「プリヴィエート、アイリ。ウサギさん、ですね?」

永井「まだ終わってないんですか?」

愛梨「はい~……じつはこの衣装、サイズがちいさくて……」

永井「衣装さんは?」


永井は衣装の裏に衣装係が隠れていないかと探すように部屋を見渡した。


愛梨「直しに必要な道具を取りに行ってるみたいです」

永井「そうですか」


永井は手帳を取り出し、この後のスケジュールを確認した。愛梨の女性らしい丸みをおびたボディラインを強調する姿を見ても、永井にこれといった感想はなく、バストがおおきくなったかもとこぼす愛梨に、体型維持は大変ですね、と永井は手帳に目を落としたまま淡々と言った。

その返答はどうなのかと思いつつ、アナスタシアはこれほどふわふわしてセクシーな愛梨を前にしても普段と変わらない態度をとるケイは、さすがにミナミの弟だなと思ったりしていた。

とはいえ、懸念もあった。永井と愛梨はある意味で互いに無警戒と言えたからだ。永井は無関心のため、愛梨は天然な性格のためだった。二人してボタン糸が醸造しているサスペンスに気づいていない。もしも場合に備えてアナスタシアは身構えていた。


永井「僕たちはラウンジで待ってますから……」


と永井が言ったとき、愛梨の胸元のボタンが弾け飛んだ。

それからこれらのことがほぼ同時に起こった。

おおきな乳房が衣装から零れ落ちそうになり、愛理はあわてて声をあげながら背中を丸めて両腕で胸を押さえ、愛梨の声に反応し顔を上げた永井の右目にボタンが回転しながら命中し、反射的に痛むところを手で押さえようとしたら、アナスタシアが永井の視界を覆い隠そうと突き出した手がさきに永井の目元に届き、その右目に二撃目を打ち込んだ。


永井「痛ってえっ!」

アナスタシア「ああ! ごめんなさ……」


永井は反射的に右足を打ち上げて反撃をしていて、真新しい革靴の固い爪先がアナスタシアの向こう脛を蹴った。


アナスタシア「いったい!」


ロケットみたいに跳び上がりながら、蹴りつけられた右足をアナスタシアは赤くなった脛を両手でばっと押さえた。あまりにすばやく足を上げたので、アナスタシアはバランスを崩し、右目を押さえている永井のいる方に倒れてしまう。ふたりして後方に倒れこむと永井の背中がドアにぶつかり、鍵のかかってないドアは二人分の体重と衝撃で勢いよく開いた。

永井とアナスタシアの二人は廊下に倒れこんだ。アナスタシアは倒れた拍子に脛を押さえていた両手を思いっきり投げ出していた。それは永井も同様で、アナスタシアの後頭部ががら空きの目にぶつかり、永井の右目にまた衝撃が届いた。

開いたドアは壁にぶつかると勢いはそのままで跳ね返り、永井の身体に上向いて重なっているアナスタシアの赤く腫れた脛めがけて、角のところがまるで引き寄せられるみたいに戻ってきた。


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>>407 訂正


アナスタシア「いったい!」


アナスタシアはロケットみたいに跳び上がりながら、蹴りつけられた右足の赤くなった脛を両手でばっと押さえた。あまりにすばやく足を上げたので、アナスタシアはバランスを崩し、右目を押さえている永井のいる方に倒れてしまう。ふたりして後方に倒れこむと永井の背中がドアにぶつかり、鍵のかかってないドアは二人分の体重と衝撃によって勢いよく開いた。永井とアナスタシアはふたりして廊下に倒れこんだ。

アナスタシアは倒れた拍子に脛を押さえていた両手を思いっきり投げ出していた。それは永井も同様で、アナスタシアの後頭部ががら空きの目にぶつかり、永井の右目にまた衝撃が届いた。

開いたドアは壁にぶつかると、勢いはそのままで跳ね返り、永井の身体に上向いて重なっているアナスタシアの赤く腫れた脛めがけて、ドアの角がまるで引き寄せられるみたいに戻ってきた。


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衣装係が戻ってくると、そこには混沌としかいいようのない状況が広がっていた。

右目を押さえた永井は壁に手をつきながら冬のナマズのように動かず黙りこくっているし、アナスタシアは涙目で脛を押さえながらうーうー呻きながら廊下を転がっているし、バニーガールの衣装を着た愛梨は破けた胸元を隠しながらどうしたらいいかわからず廊下でおろおろしている。なにがあったらこんなことになるのか、衣装係はぜんぜん理解できず、ぽかんとしたまま口を開けていた。

その後の衣装合わせはとてつもなく重い空気の中で行われた。永井の右目は眼帯で覆われているし、アナスタシアの右足を上げる動作はぎこちないし、衣装係はとにかくはやく帰りたがっていた。三人とも、衣装のサイズが合っていればもうなんでもよかった。

それからしばらく、永井は胸の大きい女性がボタン付きの服を着ていると警戒して距離をとり、アナスタシアも永井が大きなバストに警戒しているときは蹴りが届かないところまで離れるようになった。

二人は胸の大きな女性を中心にして反対側に距離を取るので、警戒された女性からすれば、そのかたちはまるではさみ打ちのかたちのように見えた。

今日はここまで。本編の続きは資料とか読んでて、なんとか構成が見えてきた感じです。

また本編に苦戦したら番外編を書くかもしれません。次に書くとしたら、永井とありすかなとぼんやり考えてます。いまのところ確実に言えるのは、永井はデレないということくらいです。

--水曜日 午前九時五十八分。


 水曜日。決行の日。田中は椅子に浅く腰掛け、型落ちした薄型テレビの黒い画面を見つめていた。

 田中は一昨日もこうしてここに座り、いま自分の顔の輪郭が崩れたようにぼんやりと浮かんでいるこのテレビで厚生労働省の会見の様子を見ていた。予想していた通り、奴らは嘘と誤魔化しと言い逃ればかりを口にした。それはあらかじめわかっていたことだった。この十年で味わった苦痛はいまでも鮮明に覚えていて、眼を閉じればすべてが容易く思い出された。口の中に逆流してくる自分の血の味や膨らんだ鼻の穴から抜けていく血の臭いさえも。

 田中は射抜くような視線をテレビの画面に向けた。厚労省の広報官は見も知らぬ男だったが、でたらめを口にしているという理由だけで殺せそうな気がしてきた。だが、実際にこの広報官が眼の前にいて、自分の手に拳銃が握られていたとしても、田中はその男の口を撃つことはなかっただろう。広報官のことなどどうでもよかった。田中にはもっと他にやるべきことがあった。

 準備を終えた田中は会見を見ていたときと同じ姿勢で、液晶画面に写る自分の顔を見つめていた。うっすらと滲んだ肌色にまとわりつく深く沈んだ黒色を見ていると、憎しみが呼び起こされ、心が奮い立った。

 時計の針が十時ぴったりを指した。田中はキャップ帽を目深かにかぶり、椅子から立ち上がった。

 部屋から出て準備を終えた佐藤らと合流すると、田中は緊張で四五口径のコルトを握る手の強張りを解こうと頭の中で計画と役割を反芻し、やるべきことを心に刻みながらアジトを後にした。


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--午前十時五十六分。


 スクリーンのような横幅の広いガラス窓から差し込んでくる光線は壁に斜めの線を走らせ、三角錐を横倒しにしたような明るい領域を社長室のデスクのあたりに作っていた。

 グラント製薬の社長はデスクにしまわれた椅子の後ろに立ち、身体の向きを斜めにして窓の外を眺めている。佐藤からの爆破予告を受けたにもかかわらず、その様子に動揺したところはなく、平然としている。たかをくくっているとも言えそうな様子だった。


機動隊隊長「社長」


 背を向けて高層ビルが立ち並ぶ外の景色に目を向けているグラント製薬の社長にむかって、警備の現場責任者である機動隊の隊長が声をかけた。



機動隊隊長「社員を帰宅させるべきです」


 隊長の声は落ち着いていたが、真剣だった。


グラント製薬社長「時は金なりだ」


 振り返った社長が機動隊の隊長に答えた。


グラント製薬社長「一日の休業で何億の損失になると思う」

機動隊隊長「人命に係わります」

グラント製薬社長「金と命は同義語だよ」


 そう言うと、社長はふたたび窓のほうへ首を向けた。

グラント製薬社長「もし、IBMなんてものが実在するとして、何ができるというんだ」


 社長室から見下ろす視界に映っているのは、盾を装備した機動隊がグラント製薬の本社ビルをまるで城壁のようにぐるりと囲んでいる光景だった。機動隊のほかに百五十名近くの警察官が本社ビル周辺の警戒にあたり、不審車両のチェックのため交通規制を敷いている。そのため、グラント製薬の周囲の道路には車が延々と連なり、遅々として進まなくなっていた。

 警備の警官は屋上にも配置されていた。屋上の西側の端に無線を持った警官が待機していた。日光が顔に当たるのを避けるため、その警官は顔を下げていた。無線に指示がはいると、その警官は顔を上げ、給水口に繋げられた消化用ホースの側で待機している同僚に放水を始めるように伝えた。ホースの口は屋上の四隅に向けられていて、警官が栓を操作すると萎んで横たわっていたホースが強い水の流れによって膨らんだ。

 上向いたホースから放出された水流は放たれた直後に拡散し、ばらばらの滴となって光を浴びながら落ちていった。

 水滴は社長室の窓ガラスにも張り付き、泳ぐようにして下に向かっていく。滝の裏側を見ているような光景だった。

 
 
グラント製薬社長「この建物を吹き飛ばすのに何キロの爆薬が必要だと思う?」



 グラント製薬の社長は窓ガラスをつたう水滴を眺めながら言った。


グラント製薬社長「この警備の中コソコソ持ち込むなんて不可能だよ」

グラント製薬社長「帽子の男の虚言になど付き合ってられん」


 そのように言う社長の口調は、まるでこの鉄壁の警備が、自らの力によって組織されたかのような口ぶりだった。


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--午前十一時三十九分。


 軋んだ音が上方から聞こえてきて、中野は上を見上げた。はじめはまるで卵にひびが入ったかのように光が線となって暗闇を切り裂いたかと思うと、光は徐々に細長い長方形になり、最後に白く輝くひとつの面となった。薄暗く死ぬほど蒸し暑いコンテナのなかに、二十四時間ぶりに陽の光が差し込んできた。

 永井は昨日と同じように水と食糧のつまったビニール袋をコンテナの底にいる中野めがけて落とした。重力に従って落下してくる食糧を中野は両手で受け止める。腕が汗でぬめっているせいで、あやうく中野はビニール袋を取り落としそうになった。

 食糧を受け渡すと、永井はさっさとコンテナの扉を閉めようとした。扉を開けたとき、熱気が蒸気のようにむわっと立ち昇ってきて、はやく退散したかったからだった。


中野「永井! もう水曜だぞ」


 永井が開いたコンテナの扉に両手を置いたとき、隅にビニール袋を置いた中野が真上を向きながら大声をあげた。

 中野の声はコンテナの内壁に跳ね返り、反響を伴いながら永井の耳に届いた。永井はキーンと響く声に顔をしかめた。

 中野が閉じ込められているのは、崖から投棄されたトラックで、そのコンテナ部分に意識を無くしていた中野は放り込まれたのだった。車輌は落下の衝撃でぐしゃぐしゃにひしゃげていて、タイヤも年月の経過によってボロボロになり穴も空いている。コンテナには錆がまとわりついていたが、黒い幽霊でも破壊できないほどの頑丈さは損なわれていなかった。


永井「だから?」


 扉を閉める手をとめ、永井が聞き返した。


中野「佐藤を止めるんだよ! このままじゃ大勢殺されちまう」

永井「前にも言ったけど、日本のどこかで他人がどうなろうと僕の知ったこっちゃない」

中野「だったらおれだけでも出してくれよ! 一人でもやつを止める」

永井「僕の居場所を知ったおまえを解放するわけないだろ」


 永井は中野の物わかりの悪さにあきれ果てた。

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永井「一九九四年、ルワンダで八十万人が虐殺されたとき、国際社会は虐殺が進行中と知っていて何もしなかった。虐殺は以前から計画されたもので、それが始まる三ヶ月前にPKO司令官が阻止するために軍事介入を提案したが国連は却下した。資源の乏しいアフリカの小国家の紛争に干渉しても何も得がないからだ」

永井「日本も例外じゃない。当時の国連難民高等弁務官は日本人だった。だがその弁務官が政府に対してできたことといえば、自衛隊を当時のザイールにあった難民キャンプへ派遣するよう要請することぐらいだった。そのキャンプには虐殺の加害者もいたが、加害者と被害者を区別ができないまま支援活動を続けるしかなかった」

中野「なにが言いたいんだよ」

永井「起こりうる危機的な事態を阻止することも、起こってしまった悲劇的な事態への充分な対処もほとんど不可能だってことだよ。僕らがいるのは、事後的で、消極的な世の中ってことだ」


 陽の光で熱くなっているところに触れないよう気をつけながら永井は扉に手をかけた。永井が扉を閉じようとするのを見てとった中野はとにかくまた声をあげて、外へ出すように訴えようとした。中野の口から大声が飛び出るまえに、永井がまた顔を下に向けた。

 息継ぎをするかのように蝉の鳴き声が落ち着き、微風が涼を運んできた。

 永井はまるで折衷案を提案するかのように、中野に言った。


永井「佐藤を止めたいなら、このまま事を起こさせろよ。被害が大きければ大きいほど、政府も本腰を入れて対応するはずだ」


 それを聞いた瞬間、中野の頭から考えが吹き飛んだ。 激昂した声が空にまで届くような勢いで飛んできた。


中野「ふざけんな! クズが」

永井「わめいてろ、バカが」


 不毛さを感じながら、永井は冷たく言い返した。永井はコンテナの扉を閉めた。

 熱気のこもるコンテナの壁を中野は苛立ちながら何度も何度も強く蹴りつけた。分厚い金属の壁は打ち付けられた力をすべて受け止め、外の世界をいままでと同じ、何も変わらないままにしていた。風鈴を揺らす程度のそよ風がゆるやかに抜け、木々の陰にいる蝉たちが眩しい光から隠れながら、ふたたび鳴き始めた。


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>>416の前に入る文章の一つ目です。


中野「あの女の子は逃したって言ってたじゃねえか」

永井「彼女はアイドルとして世間に顔が知られてるから、長期間の拘束は僕にもリスクがある。加えて、僕は彼女の正体が亜人だということを知っている。僕がふたたび捕獲されるようなことは彼女にとっても不利益になる。この二点がおまえと違う」


 中野は復活した直後に聞かされたことを根拠に反論を試みた。それは当然嘘だったが、それに対する永井の返事は事実を含んでいた。有名アイドルの失踪事件となればメディアは騒ぎ出すだろうし、警察も動く。目撃証言や駅の監視カメラの映像を調べて足取りをたどれば、この辺りの地域で姿を消したことはすぐに発覚するだろう。それは警察が、永井が潜伏している村にまで訪れるというリスクが発生する事態になり兼ねないことだった。

 だが、このリスクはアナスタシアをスケープゴートにした際のメリットを考えれば、許容するに値するものだった。しかも永井は、このリスクが現実化する可能性はあまり高くないと踏んでいた。

 警察は、アナスタシアの失踪に事件性を見出ださないだろうと永井は考えている。アナスタシアとの会話やその表情から永井が感じたのは、現在の姉の状態にアナスタシアはひどく心を痛めているということだった。姉と面識のある人間は、多かれ少なかれ同情と心痛を抱いているだろうが、アナスタシアのそれは氷河を二分するクレバスのように深く刻まれているように思えた。このような心理状態なら、突然姿を消しても、警察は失踪を突発的な逃避行動と判断するだろう。両親や友人、プロダクションの人間が違うと訴えても、証拠がなければ警察はまず行方不明者の捜索を行わない。

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>>416の前に入る文章二つ目です。

 行方不明の原因が事件や事故による場合や生命に危険があると判断された場合、捜索対象者は特異行方不明者に分類され、警察による速やかな捜索が行われる。これに分類される条件はさまざまあるが、そのひとつに十三歳以下の子供や高齢者など、本人のみの生活が困難だと考えられる者という条件があり、十五歳のアナスタシアはこれに当てはまらない。警察が行うであろうことといえば、巡回の際の聴き込みがせいぜいだろう。それに佐藤の爆破テロの件もある。今日のテロが成功すれば、佐藤の情報を得ることが聴き込みの最優先事項になるだろう。あとはタイミングを見計らってアナスタシアが亜人だという証拠映像をアップロードすればいいだけだ。もちろんアップロード地点が発覚しないように工作を施す必要はあるが、平穏な生活を送り続けられるなら全く苦にならない作業だ。

 そのアナスタシアといえば、いまも井戸の底にいて、無酸素状態のなかでエンドレスで死に続けている。


中野「居場所はバラさねえって!」

永井「問題外だな」

 そこで会話は終わりになるかと思えた。だが、永井の手は扉に伸びず、影のせいで黒に覆われた顔を下に向け中野を見下ろした。永井は唐突に話をしだした。


--午後一二時二五分。


 プロデューサーはもう何度目にもなる「おかけになった電話番号は……」のメッセージに徒労をおぼえ、携帯電話を耳から離した。それから着信履歴を確認する。不在着信の履歴は五日前から変わっていない。五日前の正午前にはいったそれはアナスタシアからのものだった。プロデューサーからの連絡に折り返したもので、アナスタシアが残したメッセージには、勝手に外出したことへの謝罪とできるだけはやく帰寮するとあった。

 その日、アナスタシアは日の出前の薄暗い時刻から女子寮を出、どこかに出かけたらしい。七時前に出るときにはアナスタシアの靴はすでになかったと、ロケのため早朝に寮を出発した小早川紗枝が証言した。オフの日だったため外出そのものは問題なかったのだが、いまのような状況でアナスタシアがどこかへ出かけるというのはどこか妙な感じがした。

 いま、このようなとき、アナスタシアは美波から遠く離れてしまうような少女ではなかったはずだ。しかし、それは無責任なただの願望に過ぎないのではないかとプロデューサーは思い直した。亜人、とりわけ永井圭の置かれた状況の苛烈さは想像を絶する段階まで突き進んでいて、おそらくまだ止まないだろう。世間では、美波もこの状況を成す要因のひとつと見なされている。多くの憶測がなされ、なかには美波が亜人管理委員会に弟を一億円で売り渡したというデマもあるくらいだ。


 デマを信じる者はいなかったが、問題は美波自身がこのデマのような行いをしたのだと思い込んでいることだった。美波が実際にあったことと異なる自罰的な認識に至った理由は、永井圭がこのうえない苦痛を与えられたと暗に示すあの映像のせいだった。

 研究所に拘束された弟がどのような目に遭ったか、美波はすでに知っている。同様の苦痛を味わった国内二例目の亜人田中は、佐藤と行動を共にしている。つまり、田中もグラント製薬の爆破に賛同しているということだ。

 なら、弟は?

 永井圭が拘束されていた期間は十日と少しで、田中よりはるかに短い。もしかしたら、弟はあの映像のような目に逢っていないかもしれないと思うこともあった。そう思った直後、美波は激しい罪悪感と自己嫌悪へ振り戻された。

 なにもなかったのなら、なぜ弟は研究所から逃げ出したのか? 仮になにもなかったとして、それはあの段階ではまだということだけではないか。

 佐藤と田中は、武力を使ってでも亜人の権利獲得にむけて行動すると宣言した。はたして圭は、彼らの仲間に加わっているのだろうか? この問いがふたたび美波の心に浮上してきた。そして同時に、二つの言葉の連なりも浮き上がり、まるで問いと答えのようにイメージされた。


《「さよならだね」って最後の言葉/耳に残るから 痛いよ/今も 愛しているから》

《ぼくはあなたを愛しています、戸口でパン屑を拾っている小鳥を愛するくらいには》


 「Memories」の歌詞に、ウィリアム・ブレイクは完璧に対応していた。ブレイクの詞の言葉は、美波のなかでは弟の声の代わりを果たすものとして機能している。美波の精神にとって、声が語る詞の一節は現実の響きを持っていた。それを否定するには、永井圭が自身の喉から発した声が必要不可欠だった。だが、それは、到底望むべくもないことだった。永井圭は姿を消したまま。美波はいまこの時ほど、弟と二度と会うことはないのだと、深く絶望的な気持ちになることはなかった。

 現在、美波は精神安定剤を服用している。美波に処方された薬のいいところは、副作用が眠くなるという点にあった。真新しいスポンジがあますところなく水を吸うように罪悪感が指の先まで染み渡り、美波の身体を重く無気力な塊にしていた。身体がこんな状態だと、意識はどんどん悪い想像を働かせる。たとえば、武力行使に参加した弟の銃が、シンデレラプロジェクトのだれかに当たってしまうという想像。しかもそれは流れ弾などではなく、眉間に向けて冷徹に躊躇いなく引き金を引いたことで撃たれた銃弾なのだ。

 こういった想像から逃れるためには、薬剤の作用とそれに伴う眠りがもっとも有効だった。夢を見ることもなく、底の底まで落ち沈む。眠るというより意識喪失というほうが正確であるだろうこの状態が、美波にとってはなによりも救いになっていた。


 美波にたいして効果を与えることが可能なのは現状では医師くらいなもので(それも大したものではなかったが)、アナスタシアもその他のメンバーやプロデューサーにできることと言えば、美波の味方であると伝えること、いつでもどんなときでも力になると何度も何度も伝えることくらいしかなかった。このことは彼女たちにはとても辛い事実だった。事態が深刻さを増すにつれ、言葉と実行性の溝が深まり、無力感も増していった。亜人を巡る社会状況にたいしてはどうしようもないとしても、それに押し潰されそうな美波にすらなにもしてあげらない。できないことの多くを認め、それでも寄り添うという意志を見せること。これを誠実に実行するのは、大人、医療に従事する者でも難しいことで、まだ少女であるシンデレラプロジェクトの彼女たちにはなおさらだった。

 このような状況のなか、プロデューサーはメンバーたちにまず自分のことを最優先にするよう告げた。自らの心身を健康に保ち、学校に行き勉強をし、友人たちと会話をし遊ぶ。プロデューサーは、彼女たちに楽しいと感じることに後ろめたさを感じてほしくなかった。

 アイドルとしての仕事についても同様だった。今の彼女たちは経験を積んだプロフェッショナルで、つらいなかでも仕事をこなすことができるだろう。だが、前提として彼女らは未成年で、大人が責任をもって保護しなければならない存在なのだ。プロデューサーは彼女たちが仕事を行うかどうかは、彼女たちの意志によって決定されるべきことだと考えている。だが、状況によっては自分や保護者が介入し、無理にでも休息を取らせることも必要だとも考えていた。自分を偽ってまで笑顔を作らなければならないというなら、無理して仕事を続けるべきではない。仕事に対する責任は、まずもって大人たちが背負うべきなのだ


 現在のところ、彼女たちは仕事を続けられてはいる。だがこれはあくまでいまのところであって、これからはどうなるかわからない。彼女たち一人ひとりの状態をきちんと見極め、状況に応じた対応していかなくては。

 アナスタシアが失踪したのは、プロデューサーがあらためて身を引き締める思いになったその矢先のことだった。

 アナスタシアが外出した日、プロデューサーは女子寮の門限の時刻に寮監に連絡し、アナスタシアが帰寮しているか確認した。連絡を受けた寮監がふたたび電話口に戻ってくると、その声には戸惑いが滲んでいるようだった。アナスタシアはまだ帰ってきていなかった。アナスタシアに電話をかけてみたが、彼女の携帯の電源は入っていなかった。

 翌日、アナスタシアがまだ帰ってきていないことを確認すると、プロデューサーはアナスタシアの両親に連絡を入れた。両親とも、アナスタシアが寮に帰っていないことに驚き、不安を感じていた。両親に承諾を取り、GPSによる位置情報の特定も行ったが、位置を特定することはできなかった。プロデューサーは彼らにプロダクションが行う対応を伝え、アナスタシアが通う高校へそちらから先に連絡をいれるよう依頼した。両親が話を通しておいてくれたおかげで、高校への事情説明はすんなりいった。担任教師からプロデューサーへ連絡が来たのは昼休みが終わる少し前の午後十二時五十分頃。夏期休暇だったので、ほとんどの生徒から話を聞くことはできなかったとのことだった。


 その日のうちにプロデューサーは寮監とともに警察に行き、捜索願を出した。捜索願は受理された。四日過ぎた。警察からの連絡はこなかった。プロデューサーは警察に電話してみた。捜査状況はもちろん聞き出せなかった。電話に出た警官は、今回のケースに事件性はなく、家出人の多くは一週間以内に帰ってくるのだから落ち着いて待っていてくださいと嗜めるように言った。

 電話が切れたあと、プロデューサーはアナスタシアの携帯に電話をかけた。うんざりするくらい耳にした「おかけになった電話番号は……」のメッセージがまた再生された。


ちひろ「プロデューサーさん」


 プロデューサーは話しかけられてはじめて千川ちひろが部屋に入ってきたことに気がついた。


武内P「千川さん。すみません、気づかなくて」

ちひろ「いえ。いいんです」

武内P「皆さんはまだ部屋に?」

ちひろ「ええ。仕事がない子たちはみんな。夏休みの宿題をやっています」

武内P「今月は大変でしたからね」

ちひろ「それだけというわけではなさそうですけど」


 ちひろはいったん言葉を切り、おずおずとプロデューサーに尋ねた。


ちひろ「その、どうでしたか?」


武内P「まだ、なにも……」

ちひろ「そうですか……」


 沈黙が耳にこびりつくかのように部屋に張りつめた。それきり二人は黙りこくってしまった。耐えがたいが、耐えるしかない重苦しさが濃霧のように広がり皮膚にまとわりついた。そのとき、昼休憩の終了を告げるチャイムが鳴った。後ろめたさを覚えたように、二人はすぐには動けなかった。時計の針は止まることなく進み続けている。すこしして、二人は時間の進みに従うようにして、それぞれの作業に戻っていった。


ーー
ーー
ーー


--午後一時三十四分。


 帽子を被った男がグレーのトレーに小さなサイズのボディバッグを置いて、手ぶらのまま金属探知機をくぐり抜ける。トレーはコンベアでX線スキャナーまで運ばれる。X線を浴びたボディバッグの中身が透かされ、保安検査員が危険物が入っていないかモニターをチェックする。財布、パスポートのほか、小物が数点。本人も金属探知機に引っかかることなく通過した。帽子の男はボディバッグを肩にかけ、搭乗ゲート前のラウンジへ歩いていく。

 次に手荷物検査を受けたのは二十代後半の母親と七、八歳くらいの娘の親子連れだった。母親はあれこれと金属品をトレーのなかに入れていく。娘のほうは水色のポーチを肩から外そうとしている。ふとガサッという音がして、女の子は天井を見上げる。女の子が見たのは、大きな紙袋が天井に張り付き、左右に揺れながら一歩ずつ着実にというふうにゲートラウンジへ向かっている様子だった。


「ママ、おみやげが飛んでる」

「いいから早くして」


 母親はトレーに目を落としたまま、娘をせかした。

 紙袋を運んでいたのは、奥山のIBMだった。ホース状の首と先細ったチューブ状の四本指が特徴的な奥山のIBMは未発達といった印象を与える形状をしていて、不器用な動作で天井の梁に指をひっかけて移動していった。IBMは左腕で紙袋を抱ながらゲートラウンジで待っている佐藤のところまでやって来ると、風に飛ばされたてんとう虫が緑の葉っぱから地面に落下するみたいにぽとりと床に降りた。


IBM(奥山)『ど……ぞ……』

佐藤「おつかれ」

IIBM(奥山)『ヒ……つ……ヒマ……つ……ぶしも……入る、入れ……て……おいた……よ』

佐藤「おお。気が利くね」


 しゃべりも動きもぎこちない奥山のIBM から紙袋を受けとった佐藤は、口を広げ紙袋の中身をのぞいた。


IBM(奥山)『サ……ト……さん』

佐藤「ん?」

IBM(奥山)『本……ト……本当……上手くイカ……イケ、行く……の?』


 佐藤は紙袋から視線を奥山のIBMへ向けた。それから静かに全面がガラス張りの窓に視線を移し、タラップと連結している旅客機を眺めて言った。


佐藤「省前に来てた飛べる幽霊が仲間になってくれてたら、違うプランもあったかもね……」

佐藤「でも大丈夫。MSFSには一時期ハマったから」


 佐藤はふたたび視線を奥山のIBMに戻すと、にこやかな笑顔をつくり、はっきりとした口調で元気よく出発を告げる。


佐藤「行ってきます!」


 佐藤は搭乗手続きを済ませ、飛行機に乗り込むとチケットに記載されている座席番号を確認した。機内には六十名ほどの乗客がいて、旅行先での計画やコンペティションの資料の見直しをしている。結婚報告を向かう若いカップルも乗っている。

 佐藤は辺りを見渡し予約した座席を探す。すこしして席を見つけそこに向かって通路を進むと、微かに音楽が鳴っているのを耳にする。うたた寝している女性の耳から外れたイヤホンから漏れ聞こえてくるその曲には聞き覚えがあった。ジョニー・キャッシュの「The Man Comes Around」。黒服の男は「叫び声に嘆きの声/生まれくる者もいれば死にゆく者もいる/アルファにしてオメガの王国が到来する」と歌っていた。

 通路を挟んだ二列後方の席に座っいる男性は、タブレット端末で『ハドソン川の奇跡』を試聴している。二〇〇九年に起きたUSエアアウェイズ1549便不時着水事故とその後の国家運輸安全委員会によるサレンバーガー機長の不時着水の判断の正当性をめぐる調査を、クリント・イーストウッドが映画化した作品だった。

 佐藤はその男性の一列後ろの窓側の席に腰を下ろした。腕時計で時間を確認すると、離陸まで三十分ほどある。佐藤は紙袋に手を入れ、奥山の言ったいた暇潰しを探すことにした。それは一冊の文庫本だった。チャック・パラニュークの『サバイバー』という特殊な形式の小説で、物語は第四十七章、四二七ページから幕を開ける。集団自殺をしたとあるカルト教団の生き残りである主人公は、小説の始まりのである終章のおいて、ハイジャックした飛行機の乗員乗客を「業界用語を借りれば、降機」させたあと、コックピットで独り、「ここに至る顛末を語った物語」をボイスレコーダー相手に語り始める。


 佐藤は文章を目で流しつつ、ページをめくる。章の終わり近く、四二〇ページで佐藤は手を止め、そのページの文章をじっくり読む。


「これを聞いてるなら、二〇三九便の絶対に破壊されないブラックボックスに耳を傾けているなら、この飛行機が垂直降下を終えた場所に行き、残骸を見渡してみてくれ。破片とクレーターを見れば、僕がパイロットの資格を持っていないことがわかるはずだ。これを聞いてるなら、僕が死んだことがわかるはずだ。」


佐藤「ボイスレコーダーか」


 佐藤は本から視線を上げ、窓から見える滑走路をぼんやり眺めながらつぶやいた。


佐藤「使い方わかるかな」


 しばらくして、離陸の準備が終わったことが機内アナウンスで伝えられる。客室乗務員がフライト中のサービスと諸注意、非常時の対応を説明する声が機内に響く。乗客たちは乗務員の指示に従って座席のベルトを締める。佐藤もベルトを締め、窓の外を眺める。ターミナルや管制塔や格納庫、ボーディングブリッジと連結された旅客機、着陸した航空機をスポットに誘導するマーシャラー、ハイリフトローダーによる貨物の積み込み作業など、空港内のさまざまな施設や人員が見える。

 いよいよ離陸のとき。旅客機はトーイングカーによってプッシュバックされ滑走路まで牽引される。それから離陸許可が管制塔から伝えられると、佐藤を乗せた旅客機はぐんぐんとスピードを上げてゆく。景色があっという間に後ろに流れ、速さが消えたと感じた瞬間に機体が浮かび上がる。空気抵抗による機体の振動と身体にかかるGの不可に不慣れな乗客たちが緊張するなか、佐藤はまだボイスレコーダーのことを考えていた。

 吹き込む言葉はもう決まっていて、あとは使い方をどうにかするだけだった。


ーー
ーー
ーー


ーー午後二時六分。


 高森藍子と日野茜はいつもより張りつめた感じで元気を装って歩く本田未央のとなりをすこしためらいながらも調子をあわせてついていっていた。ポジティブパッションの三人は、清涼飲料水の商品宣伝のため、撮影許可を取った学校を走り回り、きらきらと光を受ける飲料水を喉に流し込んだ。撮影は予定通りに終わり、三人は夏服から私服に着替え、いまはプロダクションへの帰路を歩いていた。


未央「夏休みの校舎って、誰もいないけどけっこう声がするよね」


 未央は普段過ごしている学校という場所に新たな見方があることに新鮮さを覚えるように言った。


茜「部活の人たちですね! ラグビー部はありませんでしたが!」

藍子「撮影のときは静かにしてくれましたね」

茜「でも目線は熱かったです! 」

未央「監督、やさしかったよね。生徒や先生の見学もオッケーだったし」

茜「おかけでいつもよりボンバーできました!」

藍子「茜ちゃんは元気ですね」

未央「ほんと、さすがだよ、茜ちん」


 その声には憂いの色が滲んでいて、茜の溌剌さと自分のそれを比較したとき、後者の方にふがいなさを感じでいるような言い方だった。未央の表情にほころびができるのを見た藍子は、ついに胸の内に抱えていた思いを口にした。


藍子「未央ちゃん、無理してませんか?」

未央「え? な、なんで、あーちゃん? 撮影うまくいったじゃん」

藍子「たしかにそうでしたけど、でも未央ちゃん、カメラが回ってないとき、すごく辛そうな表情でした」

未央「そんなこと……」

茜「わたしも見てました」


 未央は驚いたように茜を見た。普段の様子からは想像もつかない神妙な面持ちで、茜は静かにぎゅっと結ばれた口許を開いた。


茜「未央ちゃん、飲み物の資料を読んだときからヘンでした。なにかイヤなことを見つけたみたいで、そのあとすぐにスマホでなにか調べて、すごくショック受けてました……でもすぐにいつもの未央ちゃんみたいに元気に仕事がんばろうって言ったから、わたしも藍子ちゃんも黙ってたんです」

藍子「もしかして、美波さんのことと関係が……?」


 未央はすこし俯いて黙っていたが、ひた隠そうとした胸中を友人二人に言い当てられたことに動揺していて、その内面が唇に現れていた。喉につっかえる言葉をなんとか口にしようと唇はわずかに開くが、すぐに閉じてしまう。藍子も茜も足を止めて未央を見守っている。やがて未央の口がちゃんと開き、迷いがちに言葉を口にした。


未央「あのドリンクさ……作ってるの、グラント製薬なんだよね」

藍子「それって……」

未央「みなみんの弟さんに人体実験してた、かもしれないとこ」

茜「ほ、ほんとうにそうなんですか……?」


 未央は小さく「うん」とだけ言った。


未央「あ、でもあのドリンクが人体実験と関係あるとかそんなことはないと思うよ。開発してるとこは子会社っぽいし」


 未央がそのように言ったのは、友人二人が自分の動揺が移ったかのように顔から表情が消えていたからだった。思わぬ事実の露呈によって、自らが拠って立っていた地面に荒涼とした陰惨な場所を発見してしまったかのように、二人の顔は青白くなっていた。

 昼下がりの通りに人はまばらでここで三人が立ち止まったところで歩行者の迷惑にはならなかったが、未央は元気を取り戻したかのように振る舞って二人をどこか別のところに連れ出そうとした。未央たちのすぐ側を中学生くらいとおぼしき三人の少女が通り過ぎた。どうやら近くで人だかりが出来ているらしく、彼女たちははしゃいだ様子でその場所に向かおうとしていた。


藍子「なんでしょう?」

茜「お祭りですかね?」

未央「わたしたちも行ってみる?」


 未央は具体的な行動をとることによって気分と話題の転換を試みた。


田中「おい! やめとけ」


 突然背後から大きな声が飛んできて、未央たちをはじめ、中学生三人も驚いて振り返った。
 

田中「爆破予告があったところだぞ。面白半分でそういことするもんじゃえねえ」


 キャップ帽を被った田中にいきなり叱り飛ばされた三人は不服と困惑と仲間内で話しながらその場からそそくさと離れていった。その言葉は田中の耳にも届いていた。


田中「馬鹿野郎が」


 田中は悪態をつきながら首を振ってまた歩きだした。悪態には計画前に余計なことをした自分への苛立ちが多分に含まれていた。


未央「あ、あのっ、おじさん」


 田中は未央の呼び掛けを無視てもよかった。だが、結局足を止め顔をしかめながらも振り向いた。


未央「ありがとうございました」


 未央は頭を下げ、深くお辞儀をした。未央の両隣にいた藍子と茜もすこし贈れてお礼とお辞儀をした。

 田中は無言でその場を立ち去った。


ーー
ーー
ーー



ーー午後二時三十三分から三十九分。


 高度一万フィート。そろそろベルト着用サインがオフになるというとき、佐藤が突然席をたった。佐藤は紙袋を手に通路をどんどん進んだ。


客室乗務員「お客様、ベルト着用サインがまだ……」


 客室乗務員は座席で身を捻り、通路を行く佐藤に声をかけた。佐藤は返事をしなかった。客室乗務員はトイレに寄るくらいなら別段問題はないだろうと思った。今日はフライトには最適の天候で、上空の気流は安定しており機体の揺れはほとんどない。乗客の数も平日の午後の時間帯の平均かすこし少ないくらいで、余裕をもって業務にあたれるだろう。客室乗務員は身体をもとの位置に戻した。

 佐藤はトイレの前を通り過ぎ、コックピットの扉の前に紙袋を置いた。身を屈め紙袋を破ると、佐藤は袋からバッテリー式の電気丸ノコを取りだし両手で持った。


客室乗務員「お客様?」


 客室乗務員は耳障りな高音にふたたび振り返った。耳にした高音からすぐさま連想したのはホイールカッターの回転音だったが、その連想が正しかったことを客室乗務員はその目で確認することとなった。
 
コックピットと客室を隔てる扉から火花が散っていた。回転刃の高音は不快に変化し、硬い金属を削りとっている。はじめは困惑しているばかりだった乗務員の気持ちに、次第に焦燥感が沸き起こり、彼女はベルトに手をかけた。何度となく扱ってきた座席ベルトに指がもつれ、それが余計に焦燥を生んだ。

 肩にかかったベルトがやっと外れる。客室乗務員は立ち上がろうとした瞬間、バランスを崩し、床に膝をついた。通路の壁に手を当て体勢を立て直し、乗務員は顔をあげる。

 その瞬間、乗務員は恐怖に凍りついた。彼女の目に入ったのは、鍵が切断されひとりでに開いたコックピットへのドアと、そこへ入っていく帽子の男の後ろ姿だった。


ーー
ーー
ーー



ーー午後二時三十九分。


ゲン「手ぇー、震えてんじゃん」


 壁に背をつけ、ビルの屋上へと続く階段に尻を下ろしていたゲンが、三段上のステップに腰掛けている高橋に向かって言った。高橋はライフルバッグを足の間に挟むように立てていて、倒れないように両手で支えている。

 ゲンが指摘した通り、高橋の手は武者震いしていて、皮膚が見えるところは汗が滲んでいる。


高橋「やばい……」

ゲン「え?」


 高橋が今朝ぶりに声を出した。いつもは軽いノリでふざけてくっちゃべってばかりいる高橋は、この日ばかりは緊張で喉を詰まらせているようだった。

 高橋はライフルバッグにくっつけていた額を離し、片眼をゲンに向けた。見開いた眼は血走っていた。高橋は深く息を吸い、口を大きく開けて空気を吐き出すと、震える歯がかち合わないように笑顔を作るようにして口角をあげて、言った。



高橋「これはやばいぜ」


ーー
ーー
ーー


ーー午後二時四十分から五十五分。

 コックピットに侵入した佐藤はまず機長の顔を左手で押さえ込み、右手に持ったネイルガンを喉元に押し付け、十秒ほどトリガーを引き続け機長を絶命させた。その様子を見ていた副操縦士は両腕を突き出し、狂ったようにバタバタさせた。佐藤は動き回る副操縦士の両手首をまるで空中にいる蝿を捕らえるかのように片手で押さえ込むと、ぐいっと引っ張り腕を延びきらせ、顔を剥き出しにした。

 副操縦士の顔面にどのような表情が張り付いているのか、佐藤は関心を持たなかった。目を閉じていた副操縦士は瞼の上に固くて冷たい金属的な感触を感じた。それは円形をしていた……

 佐藤はやわらかい右の眼球に八本の釘が打ち込まれた死体に背を向けコックピット入口へ手を伸ばした。慌ててコックピットに駆け込もうとする客室乗務員を尻目にドアを閉める。ネイルガンで薄い鉄板を何枚もドアに張り付け、乗務員の進入を防ぐと、佐藤は機長の死体を座席からどかしてシートに座り、操縦桿を握った。


 副操縦士のヘッドセットから航空管制官の声が聞こえる。マイクが拾ったコックピット内の叫び声と航空路からの逸脱について、状況の説明を求めている。ーー……便、航路を外れている。さっきの叫び声のようなものは? コックピット内は現在どのような状況だ? ーー管制官は何度も何度も繰り返し問いかけ続ける。

 進路を変更した旅客機がしばらく飛行していると、コックピットから見える景色が海上から港へと変化する。停泊中の大型船や広大な空間にまたがるコンテナターミナルの上を通過し、旅客機は街へと接近していく。

 佐藤は操縦しながら異常発生時の対処マニュアルを読んでいる。何枚かページをめくると、コックピット・ボイスレコーダーの詳細が記載されている。コックピット天井に会話収録用のマイクロフォンが装備されており、航空無線機の音声信号も簡易なミキサーを通じて収録される。

 佐藤はマニュアルを閉じると、レーダーと目視で現在位置を確認する。下方にオフィス街が見え始める。予定通りの順調なフライト。佐藤は副操縦士のヘッドセットを手に取りマイクに口を近づけ、同時に機内アナウンスのスイッチをオンにする。

 佐藤の口からある言葉が現れる。


佐藤「Are you guys ready? Let's Roll!」


 そして、言葉を言い終えたと同時に、佐藤は操縦桿を前方に強く押し倒す。


ーー
ーー
ーー


ーー午後二時五十七分。


奥山「ああ……本当にやっちゃうんだ」


 そのようにこぼす奥山の声に抑揚はなかったが、聞いた者がいるならば、奥山が感嘆していることがわかるような声だった。
 ドローンに搭載されたカメラはグラント製薬本社ビルの上空の様子を撮影している。映像は奥山のノートパソコンに中継されていて、先ほど奥山が口にした無関心と感嘆が同居した声はその映像を見たために発された。
 ビル街の上空に現れた機影は画面の上をまるでマウスポインタのようにすばやく移動していた。


ーー
ーー
ーー


ーー午後二時五十八分。


 その物体に最初に気づいたのは卯月だった。

 シンデレラプロジェクトルームには、ロケや宣伝撮影に出ている六名ーー未央、みりあ、莉嘉、かな子、智絵理、きらりーーとアナスタシアと美波を除いた六名のメンバーがいた。

 オフィスビルの三十階からの景色は、地上のオフィス街と青空が視界の上下を二分している。何気なしに窓を眺めていると、なだらかに歪曲した天地の境界線に雲の間から太陽の光が梯子のようにに降り注ぐ景色のなかに、チカッと目に射す光が卯月の目に飛び込んできた。

 その光は輝きながら地上に向かっていた。光は物体そのものが放つものではなく、反射によるものだった。

 卯月が光る物体の正体に思いあたったのは、聞き覚えのある音を耳にした瞬間だった。それはもっぱら上空から響いてきた音だった。音に反応して上を見上げると、予想していた通り、ぼやっとしたシルエットが空をなめらかに横切っていた。それがいつも見る光景だった。


卯月「飛行機……?」


 卯月の声に戸惑いがあった。他のメンバーも窓の側にいて、卯月と同じ戸惑いを共有している。誰もが音と光の動きのズレに困惑していた。それは、いつもははるか上空を飛んでいるはずの飛行機が、ほぼ垂直といってもいい角度で、地上に向かっているからだった。


ーー
ーー
ーー


ーー午後二時四十分から午後三時。墜落するまでの機内の様子。


 午後二時四十分。佐藤によるハイジャックを目撃した客室乗務員はドアまで走り、コックピットの中へ入ろうとする。扉は固定されていて、乗務員ひとりの力ではどうしようもない。しばらくドアと格闘していると取手を握る指の先が真っ赤になり、爪が痛みを訴え始める。乗務員は取手から手を離す。振り返ると、乗客たちが席から身体を乗りだし、自分の方を見ていた。その瞬間、機体がおおきく傾く。ハイジャッカーが旅客機の進路を変更したのだと、乗務員は察知する。

 午後二時四十四分。吐き気をこらえつつ、乗務員はハイジャック対策のマニュアル通りに行動しようとする。インカムで同僚の乗務員たちにすぐに集まるように連絡。客室をパニックに陥らせないために数名は残す。次に地上との連絡。機内に備え付けられた地上との交信用の電話を手に取り、ハイジャック発生を航空管制官に伝え、警察や消防への連絡を依頼する。乗務員の話を聞いた管制官がもう一度機内の状況を説明してくれと要求してくる。だから、機長と副操縦士が殺されたんです、と言いながら、相手が一度の説明で十分に理解しなかったことにいらだっていたところで、客室乗務員は自分で自分の言葉に愕然とする。半分開いたドアから見たあの光景。あれが殺人の瞬間だったのだと、いまようやく脳が理解した。受話器を持つ手の震えがいよいよ大きくなりだした。

 ほかの客室乗務員たち機体の前方に集まってきた。彼女たちは異変があったことは察しているが、詳しい状況はまだわかっていない。恐怖に身を震わせている客室乗務員を見て、集まった同僚たちも事態の深刻さに恐れを抱き始める。なかでも、現場に出て半年も経たない新人の動揺は大きい。


 だが、迷っている暇はない。管制官を待たせ、乗務員は状況を説明する。機長と副操縦士がすでに殺害されたことに、乗務員たちは強い衝撃と動揺を覚える。そんな彼女たちを、現場を目撃した乗務員はほとんど叱咤するように、わたしたち客室乗務員は保安要員としてここにいるのだと言い聞かせる。

 午後二時四十九分。乗務員たちは行動に移る。コックピットを奪取しなければ生存は叶わない。そのためには乗客たちの協力も必要になってくる。乗務員たちは乗客への状況説明と協力要請を決める。集まった乗務員たちに客室での対応を任せ、代わりの連絡要員を置いた客室乗務員は、新人といっしょに備品が機内を飛び回らないように固定作業を行うことにする。新人の手元はおぼつかない。コーヒーサーバーには淹れたばかりの熱々のコーヒーが注がれていて、揺れにあわせて縁から溢れていた。客室乗務員は荒っぽくならないよう気を落ち着けながらコーヒーを捨てた。その様子を見ていた新人の客室乗務員は、取り返しのつかないミスを犯したかのように青ざめていた。

 新人はしどろもどろに言い訳めいたことを口にした。だって今日は水曜日で、晴れた日で……。新人の言葉を途中で遮り、乗務員は固定がちゃんと行われているか確認するよう指示を出す。指示を受けた新人は、意識を取り戻したかのようにてきぱきと確認作業に当たっていく。

 地上との連絡を担当していた同僚が、ここはいいから客室へ行って、と言う。乗務員は新人を見る。必死そうに動いているが、パニックの様子はない。乗務員は同僚に頷き、客室へと向かう。


 この客室乗務員も、新人の彼女と同じように、ハイジャックが起きたのが信じられないという気持ちがあった。ーー日本で?こんな日に?今日は水曜日で、晴れた日でフライトも順調なはずだった。乗客の数も少なくて、余裕のある業務の日で……ーー 新人の彼女だけじゃなく、わたしも仲間たちもこのように考えているに違いない。でも、こういったことは考えるべきじゃない、たちまち恐怖に支配されてしまう……。客室乗務員は通路を歩きながら、犯人の目的に必死で考えを巡らせる。目的が分かれば、どう対処すればいいか分かるかもしれない。

 午後二時五十三分。客室は思ったより静まっている。そのせいで機体の揺れる音と気流の乱れが恐怖を煽るが、乗客たちはなんとかパニックにならずに済んでいる。同僚たちは中央の列に身を低くして集まっていて、五人の男性と話している。彼らはコックピット奪還に協力の志願をした乗客たちで、そのうち一人は事業用操縦士免許を取得していた。

 乗務員も作戦会議に参加する。膝をついた彼女に、五十代くらいの男性がほんとうに機長たちは殺されたのか? と尋ねてくる。乗務員の頷きに、若い男性客が同意する。彼は機体前方の席にいてコックピットから聞こえる叫び声を聞いていた。乗務員はコックピットの扉が固定され開かないようになっていると説明する。ハイジャッカーはドアロック切断してコックピットに侵入している。ならば、いまドアを固定しているものは簡易的なもので、カートを破壊槌代わりに使えば突入できるだろうと一同は結論づけた。

 犯人は何人いるんだ、と男性客の一人が乗務員に尋ねる。乗務員はコックピットにいるのは一人で、年齢や身長、服装などを皆に伝える。ハイジャッカーの特徴を語りながら、客室乗務員はどこかで犯人のことを見た気がする。


 午後二時五十五分。機内アナウンスから犯人の声が響く。


『Are you guys ready? Let's Roll!』


 客室乗務員はとてつもない恐怖に襲われる。この言葉はよく知っている。二〇〇一年九月十一日、ハイジャックされたユナイテッド93便を奪取しようとした乗客の一人がコックピットへの突入の直前に言った言葉。この言葉によって、犯人の目的がわかった。同時にいまコックピットにいる犯人の正体にも思い当たる。

 佐藤。亜人の佐藤。水曜日の午後三時にグラント製薬本社ビルを爆破すると予告した亜人の佐藤。

 そのとき、旅客機の角度が垂直になる。ノーズダイブする旅客機のなかは悲鳴がこだましている。客室乗務員はコックピットの扉まで転がり落ちていった。落ちてきたのは彼女のほかには音楽プレーヤーだけで、落下した衝撃で電源がオンになった。

 閉じられた扉を背に、悲鳴を聞きながら客室乗務員は乗員乗客全員の顔が見えた。フライト前の記憶が走馬灯にように浮かんだ。乗客たちはみな恐怖していた。客室乗務員は、かれらが怖がらないように立ち上がって仕事に戻りたかった。だが、垂直に近い角度で急降下する旅客機の通路は、崖のように客室乗務員の眼前に立ちはだかっていた。

 客室乗務員は思った。死ぬんだ。わたしたちみんな、ここで死ぬんだ。客室乗務員は泣いた。落ち着いた振る舞いなどできるはずもなかった。どうしようもなかった。喉から渇いた嗚咽が洩れた。


《There'll be a golden ladder reaching down
When the man comes around/金色に光輝く梯子が地上へ降される。そのときその男がやって来るのだ》


 音楽プレーヤーのスピーカーから曲が流れる。ジョニー・キャッシュが、まさにこの状況にぴったりな歌詞を歌う。プレーヤーは狂ったように何度も何度も同じ曲をリピート再生する。



佐藤「--は、は、は--」


 旅客機を操縦する佐藤が、ものすごいスピードで接近する地上の風景を見ながら笑い声をあげる。けたたましい警報の音も無視して、佐藤は機首を下げたままにしている。大量のジェット燃料を積んだ旅客機はそれ自体が爆弾だ。旅客機の速度はすでに音速を越えている。時刻は午後三時ちょうどになる。旅客機はビルよりも低い位置にいる。


ーー
ーー
ーー


ーー午後三時。


 グラント製薬の社長は左手の親指の爪を切っていた。安心しているというよりは、油断しているといった様子だが、爆破予告した佐藤らは予告した時間になっても現れないのだから、無理もない。グラント製薬の社長ははじめから爆破など不可能だと考えている。

 パチンという爪切りの音がする。切ったところがなめらかになるようやすりをかけ、爪に息を吹き掛ける。

 社長は爪切りの出来映えに満足している。時刻は午後三時から十五秒ほど過ぎている。

 轟音がハンマーのように上空から襲いかかってくる。社長の身体が空気の振動で揺らされるが、そのあとに続く生体的な反応も感情的な反応も行われなかった。グラント製薬社長の最期の記憶は、身体を揺さぶる凄まじい、それも一瞬にも満たない刹那の衝撃の記憶だけだった。

 よく晴れた水曜日の午後三時。乗員乗客あわせて七十二名を乗せた旅客機がグラント製薬本社に墜落した。


ーー
ーー
ーー


ーー午後三時一分。


 送迎車は渋滞に捕まっていて、一向に前進する気配を見せなかった。

 城ヶ崎美嘉と城ヶ崎莉嘉、赤城みりあの三人はすでに撮影を終え、プロダクションへ戻る道中だった。急ぐ必要がないとはいえ、遅々として進まない車の中でじっとしていなければならないのは、けっこう堪えるものがあった。とくに莉嘉とみりあは子供盛りの元気さが取り柄だったので、待ち時間や移動時間に生じる退屈との戦いが常なふたりにはなおさらだった。

 しかし、車内のふたりはいつもと違って静かに口を閉じていた。美嘉もその理由は知っていたが、それだけにだんだんと耐え難い気持ちになってきた。


美嘉「渋滞、まだ続きそうですか?」


 しびれを切らした美嘉が、運転手に聞いた。運転手がスマートフォンで渋滞情報を調べるかぎり、渋滞の原因は警察の検問であり、もうしばらく続くとのことだった。


莉嘉「警察?」

みりあ「なにか事件なの?」


 運転手は爆破予告があったみたいと曖昧に答えた。返答がぼかされていたのは、アイドルたちに気を遣うというより、運転手が検問の理由にたいして興味がないからだった。


 三十分くらいたった気がしたとき(実際には五分も過ぎていなかった)、美嘉たちはいままで響き続けていた音が急に音量を増したことに気がついた。音の響きはあきらかに音源の接近を告げていて、窓ガラスが震え出すほどだった。車内のだれもが身の危険を感じ始めたとき、道路に並んだ車列の頭上を旅客機が通過していった。

 それはあまりに現実味のない光景だった。旅客機の速度は時速一〇〇〇キロを少し越えていたが、機体自体は巨大なので、その飛行の様は川を流れる葉っぱの小舟のようにしっかりと眼で追えた。

 墜落の瞬間は落下軌道ほど持続的なものではなかった。それはカメラを通してはじめて視覚で認識できるものだった。旅客機がビルに真上から突っ込むまでの十五秒の映像は、このあとインターネット上で何度も再生される。

 鼓膜が破れるかと思うほどの轟音のあとに、爆発と黒煙が続く。黒煙が上空にのぼり、白い雲と混じっていく。


 車内で身を伏せていた美嘉たちがおそるおそる頭をあげ、旅客機が墜落した地点を見ようと首を伸ばす。運転手は車から出ないように三人に注意すると、次の瞬間に車体に雹のような小さな物体が降り注いだ。墜落と爆発の衝撃で空中に高く舞い上げられた旅客機の破片やビルの瓦礫が立ち往生している車列の襲いかかってきたのだ。

 降り注ぐ破片は車のボディに食い込み、フロントガラスを割り、ミラーを破壊する。運転手は声を張り上げ、美嘉たちに伏せるように叫ぶ。そのとき、瓦礫のひとつが弾丸のようにフロントガラスを突き破り、車内に飛び込んでくる。瓦礫が直撃した運転手の頭から血がだらだらと流れる。

 美嘉は二人に覆い被さるだけで精一杯だった。外では粉塵が津波のように押し寄せ、破壊された車を包み込んでいた。


ーー
ーー
ーー


ーー午後三時三分。


 衝撃音に撮影が中断される。カメラマンは機材を持ったまま外に飛び出し、オフィス街にオープンしたばかりのカフェでレポートを行うかな子、智絵理、きらりの三人をその場に残していく。

 カメラマンが撮った映像はその後いくつかのニュース番組に提供される。高層ビルよりも高く猛々と立ち昇る黒煙。墜落現場周辺の上空に舞う白い紙は、墜落の衝撃によって爆発より前に吹き上げられた資料で、高温によって生じた気流にのっていまも上空に舞っている。

 外では多くの通行人が黒煙を見上げている。他のスタッフたちも怖々としながら店の外に出ようとしたとき、破片の落下がはじまる。

 往来はたちまち怪我人で溢れ返った。落下物が直撃する者もいれば、割れたガラスによって負傷する者もいた。カメラマンはまだ撮影を続けていて、スタッフたちの必死の呼び掛けも聞こえてないかのようだ。


 カメラマンが機材を真正面に向ける。そこには腕を怪我した女性が血を流しながら、いまにも倒れそうな様子でひょこひょこと歩いている姿が映った。近くには女性と同じ年齢くらいの男性が倒れていた。男性の頭の位置はふつうある場所にから右側にずれていて、肩の上にあった。カメラマンは男性が死亡していることを悟った。その直後、彼女の背後から粉塵の津波がごぉーっという音を立てながら迫ってきた。

 肩に担いだ機材を手にぶら下げ、カメラマンは怪我をした女性のもとまで走った。片手にカメラ、もう片方に女性を抱え、カメラマンはカフェまで走る。粉塵がほとんど水と同じように二人のあとを追いかけてくる。

 スタッフのひとりが意を決してカメラマンのもとまで飛び出していく。カメラマンはそのスタッフにバトンのように機材を差し出し、受け取らせた。反射的にカメラを受け取ったものの、そのスタッフは当然のことながら怪我人を助ける手助けをするつもりだったので、手渡されたカメラに困惑して一瞬立ち止まってしまう。カメラマンは立ち止まっているスタッフを追い越し走り続け、それに気付いたスタッフもカメラマンのあとに続いた。

 粉塵がカメラマンたちを飲み込んだというまさにそのとき、三人はカフェのなかに転がり込んできた。粉塵を浴びた三人の全身は真っ白になっている。ぜえぜえと息を喘がせるカメラマンとスタッフとは対照的に、女性は沈黙したまま頭を下げ、床に付けていた。


 右上腕のあたりがばっくりと切れ、傷口から下がいまも流れる血で真っ赤に染まっている。右腕だけ赤い死人のような白い女というのが、この怪我をした女性を見た誰もが抱く印象だった。

 女性は同じ姿勢のまままったく動かなかったので、もしかしたら死んでいるのでは、と店内にいる者は思った。


かな子「だ……大丈夫ですか?」


 濡れたハンカチを手に持って、かな子は女性に話しかける。女性が反応を示さないので、かな子は躊躇したが、傷口から流れる血を見て、せめて怪我したところを綺麗にしようとハンカチをそっと近づけた。

 傷口にハンカチが触れた瞬間、女性はゆっくりとぎこちない動作で首をあげ、かな子を見た。その眼を見た途端、かな子の手が止まった。女性はかな子から視線を外し、ゆっくりと店内を見渡した。女性の眼を見た全員が、かな子と同じく息を止め、その場に立ち竦んでいた。その女性を助けにいったカメラマンとスタッフも同様の反応を見せていた。見開かれた女性の眼は人間のものとは思えなかった。

 それは幽霊の眼だった。自分が死んだことを自覚した幽霊の眼。彼女には、かな子や他の人間たちを自分と同じ幽霊として認識しているというふうな視線をあちこちに向けていて、その眼に見られた人間は彼女と同じ見方が伝染したかのように世界の見方が違って見えた。

 外では粉塵が落ち着きはじめていた。景色に輪郭が戻ってくると、そこに広がっていたのは、破片が積み重なる、灰を被ったかのような真っ白な光景だった。


ーー
ーー
ーー


『旅客機です、旅客機が墜落したようです』


中野「……」


 中野攻は永井から貰ったポータブルテレビでニュース中継を見ていた。レポーターの実況は驚愕と動揺をそのまま伝えていて、説明の内容より声の調子それ自体が事件の規模のとんでもなさを伝えていて要る。

 中野は険しい表情のして、小さな画面を睨み付けている。その視線には怒りが宿っている。大勢の人間が殺された光景を見ながら、中野は怒りを感じている。


ーー
ーー
ーー


《それからはじめに私は見た、天頂から落ちる星のように垂直にくだってくる、つばめのように、あるいはあまつばめのように素早く/そして私の足の?骨のところに降り、そこから入りこんだ/しかし私の左足からは黒雲がはねかえってヨーロッパを覆ったのだ》


 目を覚ました瞬間、美波の脳裡にブレイクの預言詞『ミルトン』の一節が浮かんだ。それは美波が見た夢の内容そのものだった。輝く落下物が描く垂直線と盛り上がり弾ける地面、それ続く空を覆う黒雲の面。

 不吉な内容だったが、美波は不安を感じてはいなかった。不思議と身体も軽い気がした。

 美波はベッドから起き出し、部屋を出て階下へと向かう。

 ラウンジはがらんとしていた。みんな、レッスンか仕事に出ているのだろう。女子寮全体もしんとしている。

 美波は無人の空間が作る静けさにほっとしていた。仲間たちが心配してくれる気持ちはうれしかったが、その気持ちに応えるため元気になろうとしても美波にとってそれはすぐには不可能なことだったから、ひとりでぼーっと過ごせるのは何より落ち着くことだった。

 美波はあまり意識しないままテレビをつけた。それから、そういえばテレビやスマートフォンは禁止されていたっけと思い出す。だが、いまの気持ちのよさに水を指す気がして、結局テレビをつけっぱなしにして、美波はソファに凭れこむ。


『現場では必死の消化活動がつづいています』


 美波は一瞬、自分はまだ夢の中にいて、入れ子になった夢をテレビ越しに見ているのかと思った。だが、身を乗り出したときに感じた体重の移り変わりに現実感を覚え、あらためてテレビを注視する。そこには崩壊した建物と黒煙をあげる炎が映っていた。


 美波は衝撃を受けつつも、まだニュースが伝える事態に距離を置くことが可能だった。地震があったのかと思ったが、壊れたビルは東京のオフィス街にあり、被害もこのビル一棟だけだったので、地震ではないと自ずと理解できた。

 美波はいったいどんなことがあったのだろうと、一層身を乗り出し、何を見ても冷静な態度でいられるというようにテレビに顔を近づけた。


『はたして亜人・佐藤の犯行予告と関連はあるのでしょうか』


 レポーターの言葉に美波はふたたびソファに凭れ込んだ。


美波「うそ……」


 美波は全身から力が抜けていくの感じながら、それでもテレビから目を離せないでいた。腕や脚の筋肉が弛緩したようにだらんと垂れていくなか、眼だけが見開かれていた。

 あそこに死なない人間がいる、と美波は思った。圭と同じ、死なない人間が。

 その事実がどのような結果をもたらすのか、美波にはわからなかった。

 もしかしたら、これが結果なのかも、という声が美波の頭の中のどこか奥の方から響いてきた。美波はばっと後ろを振り向いた。そこには何もなかった。美波は瞼を硬直させたままテレビに視線を戻した。

 もしかしたら、これが結果なのかも。美波は声を反芻しながら、テレビ画面を凝視した。そこに映っているのは、さっきと同じ崩壊したビルと炎、その上を覆い尽くす黒煙だった。だが、美波の意識はカメラが映すもの以上のものを感じ取っていた。

 瓦礫の山に埋もれる夥しい死体。そして、その上に立つ、決して死ぬことのない人間。


 亜人。


ーー
ーー
ーー


 永井圭は畳の上に足を伸ばして佐藤のテロの実行をテレビで見ていた。テレビの音量は山中のおばあちゃんが使っているときよりも小さくしていたので、外で騒いでいる蝉の声に負けそうだった。

 永井はリモコンを手に取り、音量をあげた。


『はたして亜人・佐藤の犯行予告と関連はあるのでしょうか』


 ヘリコプターから捉えた炎上する墜落現場の映像とレポーターの縺れそうな声。永井はそれを見ながら、すこし感心したような声を出した。


永井「やるー」


 永井は足を伸ばした姿勢のまま、このあとの展開を予想した。それが自分にとって有益な方向に進むのを期待しながら、永井はニュース中継の視聴を続けた。


ーー
ーー
ーー



 墜落地点に出来たクレーターの周囲に、破片と瓦礫が積み重なっていた。

 それらの破片の山は旅客機のボディである金属、電子部品のパーツ、コード類、プラスチック、座席シートのクッション、鉄筋コンクリート、燃え尽きた紙片など様々な素材から成っていたが、共通点としてどれもある一定の大きさ以上のものは存在しなかった。いちばん大きなものでも二〇センチに満たず、七百体以上にものぼる遺体も同様の有り様だった。医学報告書にはこれらの遺体の状況が「断片化著しい」と記載され、身元確認もままならなかった。

 そのような「断片化」した物体の山から至るところで火の手があがり、クレーターの周囲はまるで火山地帯のように煙が立ち込めていた。だが、例外も存在していた。

 墜落の衝撃で機外に放り出されたいくつかの品物が、地上に落下しても壊れずに原型を保っていた。そのひとつが音楽プレーヤーで、スピーカーから「The Man Comes Around」の最後のヨハネの黙示録の内容をノイズ交じりで唱える箇所を流している。


《And I heard a voice in the midst of the four beasts
And I looked and behold, a pale horse
And his name that sat on him was Death
And Hell followed with him.

そしてわたしは聴いた、四つの獣の中心から響きわたる声を
わたしは視た、青ざめたる馬がそこにあるのを
馬の背に乗る者の名を死といい、?陰府がこれに付き隨っていた》


 その言葉を最期に音楽プレーヤーは完全に息絶えた。

 もうひとつ原型が無事なものがあり、それはハンチング帽で瓦礫の山の上にひっそりと休息をとっているかのように置かれていた。

 そのハンチング帽を手に持つ者があった。その男は例外としての音楽プレーヤーやハンチング帽と違い、奇跡的に損傷を免れたわけではなかった。その男もまた断片と化していた。それは熊にに引き裂かれでもしたかのような男の服装を見れば明らかだった。帽子を拾う男の手も同様で、右腕の筋肉は裂け、白い骨が熱せられた外気に晒されている。だが、男にとって肉体の損傷など気にする必要はなかった。なぜなら、いままさに右腕やその他の損傷が修復されている最中だったからだ。

 男は亜人だった。この亜人は世間に対して佐藤と名乗っていた。

 佐藤は拾い上げた帽子を頭に被ると、手の感触で帽子の位置を調整しながら、弾むような声で言った。


佐藤「スリル満点!」


 復活した佐藤の周囲では、いまも炎と叫び声が続いていた。

トリップが違いますが、>>1です。スマホの機種変したので、そのせいですかね?

ともあれ、久しぶりの更新になりました。お待ちいただいた方は申し訳ありません。

さて、いよいよ今週末から実写版の『亜人』が公開になりますが、私はこれわりと期待しています。映画評論家の添野知生さんがオススメされてたことも期待に拍車をかけますね。
とはいえ、オチが被ってたらどうしようという不安もありますが……

今回の更新で引用したのはこちらの曲です。

https://youtu.be/k9IfHDi-2EA

最近では『LOGAN /ローガン』のエンディングにも使われてました。他にも色んな映画やドラマにも使われててリメイク版『ドーン・オブ・ザ・デッド』のタイトルがおそらく一番有名かと思います。
個人的な好みでは、『エクソシスト』のウィリアム・フリードキンが監督した『ハンテッド』のエンディングへの入りかたがめちゃくちゃカッコ良かったですね。
映画はサバイバル技術とナイフ殺人術の師弟であるトミー・リー・ジョーンズとベニチオ・デルトロが森で都会でFBI を後目に追走劇を繰り広げ、切り刻むという表現がぴったりの激痛ナイフバトルを天下します。

というわけで今日はここまで。

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石丸「コウマ陸佐、いつまで出し惜しみしてる気だ! 対亜を召集したらどうなんだ」

コウマ陸佐「駄目だ。存在自体違法の部隊。こんな公の場では出動させられん。上からも釘を刺されている」


 コウマ陸佐は苦渋の表情を浮かべながら応えた。


石丸「戸崎! 完敗だな!」

戸崎「ここからですよ」


 戸崎は、打つ手なしの状況に叫ぶ石丸に振り向きもせず、モニターを見上げたまま静かに言った。

 墜落現場の空は煙と埃で暗く、陽光が地上に届かないままだったが、いまもなお続けられている消火活動のおかげで火の手はかなり鎮まってきていた。消火水は雨のように墜落現場に降り注いでいる。落下する水滴はその過程で粉塵を吸い込み、すこしずつ大気を清浄に戻していく。ドス黒かった煙も火の手とともに燻ってゆき、ピークを過ぎた煙は、白く、小さくなっていた。

 進入が困難と思われていた地点に陽光が射し込みはじめ、それがまるで道標のようになっていた。墜落地点の中心部に最初にアプローチしたのは、回転翼が六つあるヘキサコプター型のドローンだった。ドローンは細長いガンケースを輸送していて、安定した飛行姿勢のまま、水滴を浴びながら空を見上げる佐藤の足元に着陸した。
 

佐藤「ありがとう、奥山君」


 飛び去っていくドローンに礼を言いながら、佐藤はガンケースのチャックを開けた。

すいません、やり直します。


曽我部「こ……こんな……」


 会議室の大型モニターで旅客機墜落の瞬間を目撃した曽我部がやっとの思いでつぶやいた。曽我部はあとに続く言葉を見つけられず、喉が詰まるような思いでモニターを茫然と見つめていた。

 会議に同席している亜人管理委員会のメンバーも曽我部と同様に絶句していて、帽子の男による亜人の特性を最大限に利用した大量虐殺の結果に恐怖を覚えていた。

 中継映像は瓦礫の山と化したグラント製薬本社ビルの跡地に大量の消火水が散布される様子を伝えていた。立ち込める粉塵のせいで視界がほとんど見えないなか、声を頼りに救助隊が現場へと向かう姿がちいさな移動する点として映っている。

 爆破予告を受けて待機していた消防隊や救急隊の数では事態に対処しきれず、応援要請を受けた消防車輌や救急車輌が墜落地点に向かおうとするが、警察の警備によって発生した渋滞に阻まれて現場まで近づけないでいる。道路にはコンクリートや旅客機の破片が散乱していて、車輌を無理に進めようとすればタイヤがパンクするだろうという有り様だった。


 悲惨なのは、破片によって二次被害を受けた人びとだった。墜落の衝撃とその後の爆発によって空中高くまで吹き飛ばされた破片物はほとんど隕石のような勢いで落下してきて、無防備な歩行者に降り注いだり、車やビルの中にいる人間にも窓ガラスを突き破って襲ってきた。頭部に直撃しなくとも胴体に当たれば内臓がダメージを負い、四肢のどこかに当たっただけでも腕や脚の動脈が損傷した。重傷でなくとも、ひどいショックを受け身体を小刻みに震わせながら自失している者や逆にパニックを起こし叫び声をあげている者たち、ビルや車から逃げ出してきた軽傷の人間が道路に溢れかえり、混乱した様子で動き回っていた。

 空には何機ものヘリコプターが舞っていた。報道ヘリ、消防防災ヘリ、ドクターヘリ等が出す騒音は上から聞こえるだけに負傷者を不安にさせる。ヘリから降り立った医師が負傷者のもとへ駆けてゆく。消防隊員もウィンチでヘリから降り、地上からは届かないところにいる被災者をひとりずつ助けあげている。

 戸崎はそのような事態の推移をただ黙って、無感情な眼で見据えていた。


石丸「コウマ陸佐、いつまで出し惜しみしてる気だ! 対亜を召集したらどうなんだ」

コウマ陸佐「駄目だ。存在自体違法の部隊。こんな公の場では出動させられん。上からも釘を刺されている」


 コウマ陸佐は苦渋の表情を浮かべながら応えた。


石丸「戸崎! 完敗だな!」

戸崎「ここからですよ」


 戸崎は、打つ手なしの状況に叫ぶ石丸に振り向きもせず、モニターを見上げたまま静かに言った。


 墜落現場の空は煙と埃で暗く、陽光が地上に届かないままだったが、いまもなお続けられている消火活動のおかげで火の手はかなり鎮まってきていた。消火水は雨のように墜落現場に降り注いでいる。落下する水滴はその過程で粉塵を吸い込み、すこしずつ大気を清浄に戻していく。ドス黒かった煙も火の手とともに燻ってゆき、ピークを過ぎた煙は、白く、小さくなっていた。

 進入が困難と思われていた地点に陽光が射し込みはじめ、それがまるで道標のようになっていた。墜落地点の中心部に最初にアプローチしたのは、回転翼が六つあるヘキサコプター型のドローンだった。ドローンは細長いガンケースを輸送していて、安定した飛行姿勢のまま、水滴を浴びながら空を見上げる佐藤の足元に着陸した。
 

佐藤「ありがとう、奥山君」


 飛び去っていくドローンに礼を言いながら、佐藤はガンケースのチャックを開けた。



佐藤「さて、敵も私を容易に逃がしてはくれないだろう」


 中には予備の帽子と真新しいシャツとズボン、ナイロン製のタクティカルハーネス、ウェアラブルカメラ内蔵のインターカム、スピードローダー九本、ランヤードに繋がれた装填済みのウィンチェスター製ショットガンM1897が入ったいた。佐藤はまず帽子を除けて、パリッと糊のきいた半袖のシャツを手に取った。

 グラント製薬本社ビルをぐるっと隙間なく城壁のように取り囲み、ネズミ一匹通さないほどの警備を築き上げていた機動隊の隊列は、落下する瓦礫によって壊滅的な被害を受けていた。機動隊の隊長は止めどなく出血が続く部下の大腿に両手を押しあて、出血を止めようと必死だった。周囲では救助を求める声が飛び交い、どこかで悲痛な叫び声が響いたかと思うと、次の瞬間には止んでいた。

 まだ微かに漂っている粉塵が落ち着きはじめ、周囲の様子が確認できるようになってきた。身を隠すにはほどよい大きさの瓦礫が散らばっている開けた空間が見渡せた。

 機動隊隊長がいる場所から五〇メートルほど離れたところに人影が見えた。リラックスした様子で立っているその男の服装は清潔さを感じさせ、この場にはそぐわない。ハンチング帽をかぶり、左耳にインターカムをつけ、右手に持ったショットガンを地面に向けている。タクティカルハーネスも装備し、胸元に目立つ棒状のものは、ショットシェル用のスピードローダーだ。

 佐藤は機動隊の隊長がいるあたり、埃が漂う向こう側を見据えながらインターカム越しに話しかけた。


佐藤「さあみんな、建物ひとつ壊しただけで勝ったなどと思ってないな」


 佐藤は煙と埃の漂いに視線を注いだまま言った。風に運ばれていく漂いのなかから、足音が聞こえてくる。


佐藤「この国最強の軍隊とは?」

佐藤「自衛隊か? 違う。一度も実戦経験のない奴らなど、論外甚だしい。」

佐藤「となると、そう……」


 足音がいよいよ大きくなってきた。音の大きさから足音は大人数からなるもので、かつその規則正しいリズムが部隊の練度の高さを物語っていた。

 風が粉塵を運びさった。そこから現れたのは目出し帽の上にケブラー製のヘルメットを被り、上腕部を保護するプレート付きの防弾ベストを身に纏った警官たちだった。胸元に警視庁の文字が刻印されている。首から短機関銃を下げ、レッグホルスターには拳銃、防弾盾を装備している者もいる。

 機動隊の隊長は前進する彼らに「頼んだぞ」と声をかけた。彼らは眼にさらなる力を宿し、テロを引き起こした犯人に向かって歩を進める。


戸崎「警視庁特殊急襲部隊(SAT )」


 と、戸崎がモニターを見上げながら説明した。


戸崎「刑事部だけでは対処できないテロや凶悪事件発生時、交渉より制圧を優先し展開する実戦経験のある精鋭たちだ」

佐藤「極論、かれらに勝てれば私達は最強の軍隊といえる」


 佐藤はショットガンのフォアエンドを後ろにスライドさせ、もとの位置に戻しながら言った。薬室に実包が装填され、戦闘の準備を整える。

 SAT隊員たちは五班に分かれ、それぞれビルの瓦礫や旅客機の破片に身を隠した。先頭の射手が片膝をついた膝射の姿勢で短機関銃を肩にあて、ピープサイトを除きこみ、佐藤に狙いをつける。


佐藤「国民に問う。この戦闘で判断せよ」

佐藤「我々と人間、どちら側につきべきか」


 佐藤の声が曽我部が膝の上で開いているノートパソコンから聞こえてきた。曽我部は「AJIN.com 」を閲覧していた。


曽我部「戸崎先輩、帽子は自分の視野をライブ配信してます。日本中がこの戦闘を見る!」


 曽我部は戸崎に向かって慌てて話しかけた。


曽我部「負けるわけには……いきませんよ」

戸崎「奴も同じだ」


石丸「どう眠らせる? 研究所襲撃の二の舞になるんじゃないのか?」

戸崎「麻酔銃の使用は違法です。あのときのような作戦はこんな公の場では展開できません」

戸崎「警察ならなおさらです。我々との裏の繋がりもありませんし」
 
石丸「は? 猛獣が逃げたときなんかに使ってるじゃないか」

戸崎「あれは獣医師等資格を持った人間に協力を依頼しています。亜人捕獲時もそう」

戸崎「だかもはや、中村慎也事件……フラッド現象の枷はありません」

石丸「ハッ。殺すのか!」

戸崎「いや、殺し続ける」



 SATの射手に射撃命令が下される。射手は了解の返答とともに引き金にかかる指に力を入れ、引き金を引き絞る。


佐藤「何!?」


 見えないはずの指の動きを佐藤は培われた戦闘勘で察知していた。その直後、佐藤の眉間の真ん中を銃弾が突き抜けた。


SAT隊長「前進」


 隊長の合図に五つの班に分かれた隊員たちが、防弾盾を装備した隊員を先頭にして佐藤に接近する。


佐藤「戦略を変えたな、トザキ君」


 復活した直後の佐藤の左のこめかみに銃弾がふたたび送られる。それを合図に、五方向から一斉に短機関銃が火を吹いた。

 佐藤の頭部や背中に孔があき、修復され、また孔があく。


「二班、装填」

「三班、撃て」


 盾役の背後に身を隠し、射手は佐藤に向かって発砲を続けながら前進していく。その間も、佐藤の身体から血と黒い粒子が絶え間なく吹き出し続けている。



曽我部「帽子が動けない……こんなにも簡単に……」

戸崎「当然だ。IBM対策と射撃の技術があっての作戦だが、SAT隊員五十名、警備員相手とはワケが違う」


 驚く曽我部に、戸崎は展開される作戦の推移を見つめながら、落ちついた声で言った。


戸崎「奴は人間をナメすぎた」


 組み立てられた担架に佐藤をのせ、手首を拘束帯で固定するのを確認すると、指揮をとるSATの隊長が大声を銃撃の音にも負けない大声を張り上げた。


SAT隊長「殺しながら護送車まで運ぶぞ!」


 IBM対策のための放水が雨のように降り注ぐなか、隊員たちは担架を二〇〇メートルほど先にある護送車まで運んでいく。担架の運び手と銃撃を担当する射手の歩幅はほとんど同じで、移動のスピードも足の運びかたも同期してるようにぴったりだった。


「五班装填!」「一班と交代!」「撃て!」


 伝達を耳にした隊長が佐藤を絶え間なく殺し続けるよう別班に指示をとばす。指示を受けた一班は前の担当班と入れ替わり、先頭の射手が担架の横に付き、陥没している両眼のまわりから黒い粒子わ沸き上げている佐藤の顔に銃口を向けた。

 引き金に指をかけようとした瞬間、銃声が響き、同時に射手の頭が大きく揺れた。射手の膝から身体を支える力が一瞬で消え去り、両手を宙に放り出しながら射手は地面に倒れた。


ゲン「右二ミル調整」

高橋「OK」


 グラント製薬正面のビルの屋上に高橋とゲンはいた。高橋はライフルの引き金を引き、身を隠すのに間に合わなかった隊員を一人撃ち倒した。


高橋「放水してる奴は見えるか?」

ゲン「物陰だ」

高橋「OK!」


 高橋がまた一人隊員を狙撃した。放水役の隊員は喉に銃弾があたり、流れ込んでくる自分の血でゴボゴボとうがいのような音を立てながら死んでいった。

 隊員たちは身を守るため頭を低くしながら一つに固まっていた。防弾盾を装備した隊員が壁を作り、背後に他の隊員か隠れるというかたちをとっていたが、ビルの屋上から放たれた銃弾が急角度で襲ってくるので、完全に防御することはできず、ふたたび死傷者がでることになった。


佐藤「ゲン君、高橋君!」


 復活した佐藤が高橋らに呼びかける。拘束帯によって担架にくくりつけられた手首が狙撃され、拘束が佐藤の手首ごと千切られる。一拍おいた二連射のあと、佐藤が身体を起こす。集団から飛び出してきた一人の隊員その眉間を撃ち抜き、佐藤はまた倒れた。


SAT隊長「こいつだけは復活させるな!」


 佐藤を撃った隊員の目が狙撃された。それと同じタイミングで別の射手が担架の側まで近づき、佐藤を撃ち続けた。盾を持った隊員が射手に並走し、狙撃から射手を守る。

 弾倉が残りひとつになったところで射手は盾役の隊員の背中を叩いた。それを合図に二名の隊員は担架からゆっくり離れ、射殺と後退を続けながら、待機していた交代要員と入れ替わった。落ちる水滴に混じって銃弾が飛来してくるなか、交代した射手は銃火を閃かせながら佐藤に近づいていった。集団から離れた位置にいるせいで、射手に狙撃が集中した。盾役の隊員は射手の頭部が隠れるよう盾を高めに持ち上げねばならなかった。

 地上部隊は釘付けにされていた。高橋は時折、思い出したかのように、集団に向けても狙撃を放ち、隊の前進を邪魔していた。


SAT隊長「狙撃手はなんとかならないのか!?」


 また一人隊員が頭を撃ち抜かれたのを見て、SATの隊長は叫ばずにいらなれなかった。


ゲン「手枷は外した。復活の隙を作ってやらねーと」


 ゲンは双眼鏡から眼を離して高橋に話しかけた。次の瞬間、ゲンの鼻先をなにかが掠めていった。かすかな痛みを感じながら、隣を見やると、高橋の頭が打ち抜かれていた。高橋の頭はがくんと右側に倒れ、頭の左側が上を向いた。星型に裂けた射出口からどばどばと血が流れて、屋上を赤く汚した。

 ゲンは頭を回して北側のビルに目を向けた。ビルの屋上に二人の人影が見えた。


狙撃手01「こちら狙撃01。標的を亜人と確認」


 北側のビルの屋上にいるSATのスナイパーがスコープ越しに標的の復活を確認する。


狙撃手01「狙撃02・狙撃03、殺し続けるぞ」


 三方向からの狙撃が高橋を貫き続けた。銃弾が貫通するたびに高橋の身体はびくんと跳ね、周囲に血が飛び散っていった。


SAT隊長「運搬再開だ!」


 敵狙撃手の無力化したとの無線を聞いた隊長が部下たちに叫ぶ。担架が持ち上げられ、殺しながらの移送がふたたび始まる。


『もう一人はどうする』

狙撃手01「撃つな。投降している」


 SATのスナイパーは、双眼鏡を放棄し、空の両手を挙げるゲンに投降の意思表示を認めた。ゲンから少し離れたところで、相棒の高橋が二方向から狙撃を受け、死に続けている。狙撃手はライフルのボルトを後方に引いて排莢し、元の位置に戻し薬室に銃弾を送り込むと、引き金を引いて高橋を撃ち殺した。


石丸「おい、あいつは撃たないのか?」


 会議室のモニター越しに作戦の動向を見守っていた管理委員会の一人が思わずといった調子で口にした。


コウマ陸佐「無理だ。SATの運用は従来の警察法の範囲内。それに報道ヘリまで出ているんだぞ。撃てるわけがない」

石丸「どうせ亜人に決まってるだろ!」

戸崎「殺してみない限り、あの男が亜人であるかどうか我々に判断はできません」


 戸崎の言葉に石丸は憮然としながら黙りこんだ。戸崎は、内心では石丸と同じことを考えたいた。厚生労働省前にIBMが(おそらく複数)存在していたことはほぼ確実であり、現に佐藤側に管理委員会が存在を把握していなかった亜人がこうしてテロに参加しているのだ。投降している観測手を射殺すれば、警視総監の首が飛ぶだろうが、それでもあの観測手は射殺し無力化すべきだと戸崎は思った(戸崎が現場指揮官であったなら、間違いなくそうした)。

 佐藤側の狙撃手が田中ではないことも、戸崎の胸中に懸念を生んだ。狙撃による援護を田中が担当していないとすると、残された可能性はひとつしかない。だが、戸崎にはなにもできない。曽我部の言った通り、亜人管理委員会はコンサルタントとして作戦立案に協力したが、警察による具体的な検討に参加はかなわず、現場の作戦指揮に関わることも出来なかった。厚生労働省前のIBM集合の可能性についても意見を提出したが、それがどこまでこの作戦に反映されたのかも不明だ。

 戸崎はただ、据わったように動かない眼で事態の推移を見守るしかない。


ゲン「SATのスナイパーが三箇所。北と南の屋上。あと水野ビル十一階」


 ゲンは、高橋に撃ち込まれる銃弾が三箇所から放たれたことを見てとると、周囲のビルを見やり、銃火を確認し、狙撃手の居場所を特定した。

 ゲンは狙撃手の位置を連絡し終わると、僅かに痛む鼻先を目を寄せて見ようとした。撃ち殺されている高橋と三十分からの銃声に、気にもとめていなかった。

 北側の狙撃手が、ガラスの割れた音に反応して西側に建っているビルに目を向けると、自分たちがいる屋上から一階ほど高い窓ガラスに丸い傷ができているのが見えた。連射でもしているのか、弾痕のような傷が立て続けに窓ガラスを小さく割っていった。


狙撃手01「こちら01、狙撃されてる。別の狙撃手がいるよう……」


 そこまで言って狙撃手は言葉を切った。


狙撃手01「いや……」


 狙撃手は、一瞬、見間違いかと思った。弾痕らしき傷は、自分たちを狙って位置を修正することなく、だんだんと上方にずれていっていたが、窓に穴を開ける銃弾の軌道が黒い直線として眼に映ったからだった。


狙撃手01「あれは……」


 見間違いかと思えたそれは、徐々に実体をあらわにし始めた。三本あるうちの真ん中の爪によって窓ガラスを突き刺し、ビルの外面を上っていく人間大のなにか。真っ黒なその全身をはっきりと視覚で捉えたとき、驚愕と恐怖の感情が狙撃手を襲った。


狙撃手01「本当に、実在するのか!?」


 田中のIBMは、身体を反転させ、ビルの窓を足場にして強く踏み込み、狙撃手たちがいる北側のビルの屋上に向かって一直線に跳躍した。


IBM(田中)『お゛お゛』

狙撃手01「うお゛おおお」


 銃弾のようなスピードで跳んでくるIBMは、狙撃手の首をあっさりと切り飛ばした。振り切った腕の勢いにのって、狙撃手の首はゴルフボールのように吹っ飛び、放物線を描いて屋上から落下していった。


観測手01「あ゛あ゛っ!」


 続けて、IBMは拳銃を引き抜こうとする観測手の眉間の真ん中に爪を突き刺した。IBMがそのまま屋上を駆け抜けると、ぞっとするほどの長さのある中指の第一関節のあたりまで眉間に深く突き刺さった死体の足が宙に浮き、死体は空を舞う凧のようにひらひらと揺れ動いた。

 IBMが屋上の縁から、背の低いビルをひとつ挟んだ東側の高層ビルに跳躍したとき、左中指の爪が観測手の眉間からすぽっと抜けた。観測手の死体は頭を下に向けながら、アスファルトで舗装された地上に向かって真っ直ぐ落ちていった。

 水野ビルにいる狙撃手と観測手が、ビルへと跳躍するIBMを視認する。


観測手02「01がやられた。何だあれは?」

狙撃手02「IBM……? あれがIBMだ! 準備しろ!」


 観測手は発炎筒を焚きながら立ち上がった。狙撃手は座射の体勢を崩さず、ビルの外面を走るIBMを狙撃する。そのうち一発がIBMの右腕に当たるが、黒い粒子が飛び散っただけで腕はすぐに修復されてしまう。ビルの外壁を二回踏み込んだだけで、IBMは一〇〇メートルもの距離を一瞬で詰めより、狙撃手の眼前へと迫る。狙撃はまったく当たらなくなっている。狙撃手は接近するIBMの顔がスコープを覆うのを見ながら叫んだ。


狙撃手02「来るぞぉ!」


 IBMが窓を突き破った。右足で狙撃手の肩を押さえ込み、床に押し付けると、IBM は『お゛お゛』と叫びながら右腕を振り上げ、ふたたび狙撃手の断頭を目論んだ。見開いた眼が、ギロチンの刃のように降ってくる黒く鋭い爪を捉える。

 スプリンクラーがIBMの動きを止めた。観測手はIBMが飛び込んだきた順調、発炎筒を天井に向け、腕をぴんと伸ばしたので、スプリンクラーが作動したのだった。


IBM(田中)『?』


 田中のIBMは、突然動かなくなった自身の肉体を心底不思議がっていた。


狙撃手02「止まった……止まったぞ!」


 狙撃手は緊張から解放され、胸中に喜びと安堵が満たされていくのを感じながら叫んでいた。


 発炎筒を掲げる観測手の後方のドアがばんと大きな音をたてながら勢いによく開いた。

 部屋に侵入してきた田中が同時に両手でしっかりと拳銃を持ち、二度引き金を引く。ドアが開いた音に振り返っていた観測手は左側頭部に銃弾を受けた。いまも床に磔にされている狙撃手は、頭頂から入った銃弾が顎から斜めに抜けていった。二人とも即死だった。

 スプリンクラーが降り注ぐなか、田中は銃口をすこし下げ、二人が動かないことを確認する。そのとき、いまさらになってIBMが爪を突き立てた。ドスっというすこし重い音がしてその方を見ると、IBMは狙撃手の頭から右に二十センチずれたリノリウムの床に爪を刺していた。


田中「遅えよ」


 田中のつっこみに反応したかのように、IBMは身体を崩していった。


田中「もう一箇所」


 田中は身を翻して部屋から出ると、ふたたびIBMを発現した。


SAT隊長「護送車を開けろ!」


 地上部隊が護送車の近くまでやって来ていた。その様子を双眼鏡を覗きこんで見ていたゲンが、復活したばかりで頭を振っている高橋に急かすように呼びかける。


ゲン「早く起きろよ!援護しねーと持ってかれちまうぞ!」

高橋「待てゲン!」

ゲン「は!?」

高橋「切れちまった」


 高橋はジャンプスーツの胸ポケットから小瓶を取り出すと、中に入っている覚醒剤をガンケースの上に撒いた。高橋は小さく山になっている粉末に鼻を近づけ、左の鼻の穴を指で押さえながら粉末を一気に吸い込んだ。高橋は頭を後ろに仰け反らせ、吸い込み口の周りについた粉を鼻の下を伸ばしながら擦って取ると、歯を剥いたように大きく口を開け、思いっきり息を吐き出した。

 ゲンはライフルを手に取る高橋に笑いながら話しかけた。


ゲン「はははっ!イケるか!?」

高橋「キメてやるぜ」


 高橋はスコープを覗きこみながら言った。


観測手03「01・02ダウン。これでは連続して殺せない。避難しましょう」


 南側のビルの屋上にいる観測手が腰を浮かせながら、パートナーである狙撃手に向かって言った。


狙撃手03「まだだ!」


 狙撃手は伏射の姿勢のままパートナーの提案を大声で却下した。


狙撃手03「敵の……ライフル自体を無力化する」


 右目をスコープに押し付けながら、狙撃手は狙いを高橋からライフルへと移行する。観測手は腰を浮かしたまま、どうするべきか迷っていた。離れたところで金属音がしてばっと顔をあげると、01と02を殺害したIBMが、貯水タンクを蹴ってビルの外壁に跳び移る姿が眼に入った。 IBMは驚くべき速さでこちらに向かってきている。


観測手03「はぁ、はぁ」


 観測手の呼吸が恐怖で荒くなった。いま、パートナーの言う通りに敵のライフルの狙撃に戻ればIBMから逃げることは不可能になる。迷っている時間は一秒だってなかった。

 観測手は狙撃手を見た。パートナーは何も言わずにスコープの先の標的に狙いをつけ続けている。彼にある感覚は指と眼のそれだけだった。彼の関心は狙撃することだけだった。そして、狙撃を完璧なものにするには、観測手が必要だった。狙撃手はなにも言わず、屋上に伏せたままでいる。IBMは迫りつつある。決断はすべて、観測手自身がくださなければならない。

 観測手は身を翻し、スコープを覗きこんだ。


観測手03「ほぼ無風、行けます!」

狙撃手03「了解。仕事をやり切るぞ」


 狙撃手は息を止め、わずかな震動もライフルに伝わらないようにした。


ゲン「もう一度復活の隙を作ってやるんた」

高橋「手前の奴を転ばす……」


 高橋は担当の前を持つ隊員の膝裏に狙いをつけている。息をたっぷり吸い、吐かずにタイミングをはかる。高橋が引き金を引いた。SATの狙撃手も同じタイミングでライフルを撃った。銃声が重なった。南側のビルにIBMが飛来してきて、狙撃手と観測手の背中を貫いた。高橋の撃った銃弾は隊員の膝蓋骨を破壊し担架の上に倒れこむ。同時に高橋のライフルも銃撃を受け、使用が不可能になった。金属片が弾け跳び、高橋は腕で目を覆った。


高橋「クソッ、佐藤はどうなった!?」


 ゲンは双眼鏡をのぞきこんだまま、息をのんで答えない。


SAT隊員「邪魔だ!どけぇ!」


 佐藤に覆い被さっている隊員をどかし、射手が急いで前に出る。射手が短機関銃の銃口を佐藤に向けると、復活した佐藤と目があった。


佐藤「おはよう」


 目覚めたばかりの佐藤が、射手にむけて朝のあいさつを口にした。


SAT隊員「くたばれぇっ!」


 射手は機関銃の引き金を引いた。撃針が雷管を叩き、推進力を得た大量の銃弾が火と煙をともないながら佐藤を襲った。


ゲン「駄目か!」


 離れたビルの屋上まで響く長い銃撃音を耳にしたゲンが思わず叫ぶ。もうもうと立ち込める煙に遮られ、佐藤がどうなったかはゲンのところからは見えない。

 SATの射手は、硝煙によって標的の視認が困難になる寸前で射撃を中断した。煙が風に運ばれ、ふたたび銃弾を見舞おうと短機関銃の銃口を向けたそのとき、射手は異変に気づいた。


SAT隊員「弾……が……?」

佐藤「ん?」


 先端がひしゃげた銃弾が佐藤の顔面の数センチ上で浮いていた。銃弾は宙に静止したまま、孔を穿つはずの箇所にちいさな丸い影を佐藤の顔面に投影している。

 銃弾を受け止めていたのは、佐藤のIBMだった。放水によって動くことのできないIBMだったが、特殊な分子結合によって形成された肉体は、至近距離からの銃撃すら問題としないほど強固だった。

 SATの地上部隊の目に、透明だったIBMの肉体が徐々に黒みを帯びて見えはじめる。佐藤は、SATがIBMに目を奪われている僅かな隙にランヤードに繋がれたショットガンを持ち上げ、射手の顎の下に散弾を食らわせた。


ゲン「すげえ!」


 顎を撃たれた射手の身体が、まるでワイヤーで引っ張られたかのように浮き上がる。射手が地面に落下するまでのあいだに、佐藤は上体を起こし、背中に預けたIBMを盾にして次弾を薬室に送り込む。SATからの銃撃はすべてIBMが防いでいる。


ゲン「あははっ!」

高橋「行け! 佐藤ォ!!」

佐藤「うるさいよ」


 SATが動揺から回復する前に佐藤は目の前にいる隊員の脚を吹き飛ばした。銃撃からすこしの間もなく佐藤は前に飛び出し、蹴りあげられたように身体を一回転させる隊員の下に潜り込み、その身体を背負った。


SAT隊員「撃つな!」


 その必死な叫び声に佐藤に向けていた複数の銃口の動きが一瞬鈍る。直後にスピードローダーによって装填を一瞬で終えた佐藤が、反時計回りに回転しながら周囲を取り囲む隊員たちを皆殺しにした。佐藤のショットガンは、トリガー引きっぱなしのままフォアエンドを前後させることで、連続射撃が可能なスラムファイアという動作を引き起こす機構を備えたいた。

 SATの隊員たちの死体が放射状に広がるなか、佐藤の真後ろの位置についた隊員が佐藤の膝を撃ち抜いた。膝ががくんと落ち、佐藤の体勢が崩れる。佐藤は、ジョン・ウェインが片手でくるりとライフルを扱うみたいに、ショットガンを手の中で素早く回転させ、銃口を自分の胸に当てて引き金を引いた。

 ゼロ距離から散弾をまともに食らった心臓は原形を留めることなく、散々に破れ、背中におおきく開いた射出口から吹き出した大量の血液が、真後ろの隊員にべっとりと降りかかった。

 視界を奪われた隊員が焦りをおぼえる、その直後、隊員は腹にショットガンの銃口が深く食い込む感覚を味わった……。ショットガンの三連射が隊員の内蔵をぐちゃぐちゃに破壊した……。

 佐藤は銃口を死亡した隊員に突き刺したまま、SAT隊員たちが密集している場所に飛び込んでいった。


ゲン「マジかよ……」


 集団の中心から隊員を確実に殺している佐藤を双眼鏡越しに見ていたゲンが、眼を見開いたままぼそりとつぶやいた。


ゲン「群れのど真ん中に分け入った! SATは味方の誤射を気にして迂闊に発砲できない」


 高橋もその様子をライフルのスコープを使って見ていた。高橋は口を半開きにして、引きつった笑いをこぼすかなように息を細かく吐いている。内側に押さえきれない興奮を感じたゲンは、双眼鏡を眼から外して高橋に叫びかけた。


ゲン「やべえっ、あのオッサン、人間じゃえねえ!……ああっ、亜人か!」


 高橋もゲンを真似してスコープから眼を離した。だが、隣の相棒に応える声は背骨を走る戦慄に似て、小さく、そして震えていた。


高橋「怪物だよ……」


 地上では、佐藤が短機関銃のストラップを首に巻き付けて動きを拘束した隊員を盾にして、銃弾の装填を行っていた。首に食い込むストラップのせいで、見開いた両眼が血走っている。


SAT隊長「散れ! 散れ!」


 半数以上が身体のどこかを欠損した死体となって散乱するなか、動揺が抜けきらない部隊に向かって隊長が吠えた。佐藤の周囲に密集したままでは確実に全滅する。残った人数でも部隊を三つに分け、連続射殺を再開すればまだ望みはある。場合によっては、いま拘束されている仲間ごと射殺することも想定しなければならなかった。

 隊長の指示にしたがい、部隊員たちが散開しようとする。

 拘束された隊員はナイフを手に取り、首を締め付けるストラップを切断しようともがいていた。ナイフの刃がストラップに触れた。隊員は必死の力を込め、ナイフを握る手を引き、ストラップを切断した。拘束が解け、隊員の身体が前に倒れる。右脚を前に出し、体勢を立て直そうとする直前、ナイフを握る手を佐藤が掴んだ。


 佐藤は隊員をふたたび後ろに引き倒すと、掴んだ手首を首まで持ってきて、さらけ出された喉にナイフを深く突き刺した。佐藤はナイフを喉の外側から真ん中に走らせると刃を引き抜き、今度は反対方向から同じようにナイフを素早く動かし喉を掻き切った。

 隊員の左右の頸動脈が真っ二つに切断され、噴水のように吹き出した血が雨に混じって隊員たちに降り注ぐ。佐藤は隊員を前に押し出し、いまにも散らばろうと身を翻しつつある部隊の中心に血塗れの仲間を投げつけた。

 喉を切られた隊員は自分の出血で溺れていた。あっという間に地面に血が広がり、喉を切られた隊員は血だまりに沈みながら死んでいった。

 隊員たちは仲間が残酷な方法で苦痛を味わいながら死んでいく様を見せつけられ、戦慄して動けなくなっていた。その硬直時間ははほんの数秒でしかかなかったが、その間に佐藤は次々に隊員たちを撃ち殺していった。ボディアーマーを撃ち抜くため、佐藤はショットガンを至近距離から連射した。ときには、アーマーの隙間や顎や喉を狙うことで一発で即死させることもあった


 一方的な展開だったが、それでも生き残っている隊員は、冷静さをギリギリで保ち、死体を盾にする佐藤に向けて引き金を引いた。死体を貫通した銃弾が佐藤の頬を切り裂いた。

 佐藤は死体を持ち上げると、射手のいる方向に向かって投げつけ、仰向けになって転がっている死体の胸部を撃った。タクティカルベストに装備されたスモークが吹っ飛び、あたりが白い煙幕に包まれる。

 視界がホワイトアウトするなか、隊長はショットガンの発砲音が続けざまに鳴り響くのを耳にした。発砲音の数は、生き残っている隊員の数と同じだった。

 隊長は大きなコンクリート片を背に短機関銃の銃床を肩にあて、佐藤を待ち構えた。煙の中から飛んでくるものがあり、その動きに沿うように身体が反応する。それが地面に落ちる前に瓦礫であることに気づいた隊長は、身体をもとの位置に戻そうとするが、一瞬はやく佐藤が隊長に接近し、引き金に指をかけている方の腕を吹き飛ばした。

 撃たれた右腕は、肘のところでかろうじて繋がっていた。佐藤は苦痛を叫ぶ隊長の喉元に銃口を突きつけ、背後にある瓦礫に隊長を押しつけた。その円形の感触は、永遠にも等しい時間を隊長に体感させた。佐藤は引き金を引いた。


佐藤「あ」


 ショットガンから弾は発射されなかった。佐藤は最後の一本になったスピードローダーに手をかける。一方、SATの最後の生き残りは、レッグホルスターから拳銃を引き抜き、銃口を腹にあて弾切れになるまで撃ち続けた。佐藤の身体にいくつも孔が開き、スピードローダーを持つ手がだらりと垂れ下がった。

 隊長は呼吸する間も惜しんで、佐藤が復活するまえにその場から離れようとする。身体を動かすと、拳銃を撃ったときには感じなかった激痛が彼を襲った。

 崩れ落ちる佐藤の身体の脇を抜け、隊長は前に進もうとする。痛みをこらえ、息を吸おうとする。そのとき、喉にまたあの感触を感じる。


佐藤「は、は、はーー」


 佐藤は復活していた。喉にあてたショットガンにスピードローダーを使って装填できる弾数をすべて装填し、フォアエンドを動かし薬室にショットシェルを送り込む。

 引き金が引かれるまでのあいだに、隊長はふたたび引き延ばされた時間を体感する。隊長が最期に見たものは、佐藤の“表情”だった。それは、いままで佐藤が見せてきた、どんな表情とも違っていた……。

 佐藤はトリガーを引きっぱなしにしたまま、全弾撃ち尽くすまでフォアエンドを前後させた。


 戦闘に決着がつき、グラント製薬があった場所に静寂が戻った。

 佐藤は煙が流れるヘルメットからショットガンを引き抜いた。支えを失った死体が膝から真っ直ぐ下に落ちる。死体は背をまるめながら前方に倒れると、ケブラー製のヘルメットが地面を転がった。十二ゲージの散弾を内側から食らったヘルメットは、頭頂にあたる部分が大きく破れていて赤かった。ヘルメットと死体の首は、赤色の線で繋がっていて、それはどことなく臍帯を連想させたが、実態はまるで違っていた。その線は地面に染み付いていた。

 佐藤がヘルメットの行き先を眼で追おうと下を向くと、靴が片方脱げ、片足が裸足になっていることに気がついた。佐藤はあたりを見回して靴が落ちてないか探してみたが見つからず、しかたなしに裸足のままその場をあとにした。

 戦闘によって舞い上がった粉塵の中から道路に出ていくと、いちばんはじめに周辺の警備にあたっていた警官と目があった。彼らはひとり残らず震え上がっていた。それは、佐藤が左手にぶら下げている、さっきまで轟音を響かせていたショットガンのせいばかりではなかった。

 警官たちの手は拳銃にのびかけたところで止まっていた。粉塵が落ち着きだし、SATの死体の群れが眼にはいる。警官たちの眼前を佐藤が横切った。警官のひとりが後退りし、パトカーにぶつかった。佐藤は彼らと眼を合わせ、彼らにむけてこう言った。


佐藤「いやー、疲れたね!」


 その一言で、警官たちは、佐藤を眼で追うことすらやめた。


 道路では、まだ悲鳴がこだましていた。激しい戦闘音が轟いたせいで、怪我人たちのパニックがぶり返したためだった。このせいで、救急隊員たちの仕事は依然として進んでいなかった。

 佐藤は散歩の帰り道のように悲鳴の中を歩いていった。そのとき、車列のあいだを抜けようとする佐藤を呼び止める声が耳にとどいた。


美嘉「すみません! こっちにまだ怪我人が、助けてくださ……」


 佐藤は首をぐるりと回し、いつもの表情を美嘉にむけた。

 美嘉は帽子の男の顔を見た瞬間、十七年かけて、いまこの場所にいる理由は、なにがあっても説明できないだろうという思いにとらわれた。終着点に突如として立たされた人間は、あたりの景色を見回すものだが、このときの美嘉は目の前にいる帽子の男しか眼に入らなかった。

 佐藤はショットガンを両手に持った。銃を横にすると、薬室を開いて銃弾が残っているか確認することにした。銃口は美嘉の方を向いていた。殺す理由はなかったが、殺さない理由もなかった。それはなんとなくで行われ、言うなればコイントスのようなものだった。


佐藤 (空っぽー……)


 佐藤はまた左手にショットガンをぶら下げ、その場から去っていった。

 取り残された美嘉は、しばらくのあいだ瞬きもせずに突っ立っていた。


莉嘉「お姉ちゃん!」


 姉を見つけた莉嘉が大声をあげながら駆け寄ってきた。救急隊員が頭を怪我した運転手のところにようやくやって来て、治療をはじめたことを伝えにきたのだった。

 美嘉は妹を見たとたん、なにかを言おうと口を開けたが言葉は出てこなかった。息をうまく吐き出せず、片手で口を覆うと膝からすとんと落ちていった。同時に、涙が一筋瞳から零れた。



莉嘉「お姉ちゃん!?」


 莉嘉の呼び掛けに美嘉は反応を見せず、ただ小刻みに身体を震わせていた。叫喚はまだ続いていて、歯をカタカタ鳴らす美嘉の震えはまるで周囲と共鳴するかのように次第に大きくなっていった。

 一機の報道ヘリがコントロールを失い、錐揉みしながらビルに追突した。爆発と炎上がふたたび起こり、叫喚はそれを栄養に、より一層大きなものとなっていった。


ーー
ーー
ーー


旅客機からヘリの墜落までの一部始終をモニターで見ていた亜人管理委員会の面々は、蒼い顔をして脂汗を滲ませて押し黙っていた。
 起こってしまった出来事の酷さがそうさせていたのだが、これから起こるであろうことへの恐怖も、彼らの彼らの心の奥底に混じっていた。
 戸崎だけはモニターの前に立ったまま、変化のないような態度をつらぬいているように思えた。その戸崎がわずかに肩の力を抜き、口を開いたのは、墜落した報道ヘリが爆発を起こした直後のことだった。


戸崎「ダメか」


 戸崎はまるで予期していたかのように、一言だけそうつぶやいた。


ーー
ーー
ーー

今日はここまで。

今回更新した分を書いてて思ったんですが、このクロスオーバー、アニデレ側の負担がもの凄い。クロスオーバーだからと両者を同じ場面に登場させると、片方がテロリストだから周囲は大抵死人でいっぱいという有り様で、なんだか申し訳ない気持ちになってきます。

ていうか、ラブライカへの負担が凄い。アーニャに至っては肉体的にもひどい目にあってるし……。

いちおう、これから永井は誰よりもきつい、ひどい目にあう予定なんですが、それでバランスがとれるのか。

今後も拝読して頂ければ幸いです。

あと、映画『亜人』は初日に観て、所々テレビっぽい画面は残念でしたが、現代日本を舞台に『ジョン・ウィック』以降のアクションをうまく翻案し、CGとのバランスも大変よく考えて作られた優秀な娯楽映画だと思いました。ラストが潔くて良かったですね。

あと、私は未体験なんですが、4DX 上映だと例の「転送」シーンで顔に飛沫がかかるらしいです。ファンのあいだでは綾野剛の肉片を浴びにいくというパワーワードで語られていて、ぜひ体験してみたいものですが、まだやってるんでしょうか?

あとあと、末期の癌を患い闘病生活を送っていた大林宣彦監督のお姿が見れて、初見のときは声をあげて驚きました。監督最新作『花筐』は12月公開なので、これを観ないと年は越せないなあ、とスクリーンで亜人の偏見を助する大林監督を見ながら思いましたね。

〉〉495
偶像喰種の作者の方からレスがいただけとは。大変励みになる言葉、ありがとうございます。しかも、前作から読んでくださってくれてるとは……めっちゃうれしい。

お書きになられたアーニャのssもとても素敵でした。

AyvLkOoV8sさんのssは映画ネタが多いので、そこもとても楽しく読ませてもらってます。


今年は亡くなられる映画監督が多くて悲しいです。ジョナサン・デミのことはつい本編でも名前をだしましたが、まさかロメロにトビー・フーパーまで……


佐藤との決着の付け方はいちおうちゃんと考えてあります。これはちゃんと書けたらめっちゃ盛り上がるだろうな、とけっこう自信があるんですが、原作とかぶらなければいいなあ……

〉〉496
ありがとうございます。

更新がなかなかできないなか、レスをいただけるだけでもありがたいのに励みになる言葉まで。感謝です。

潜伏中の永井が他人にコンタクトをとるのは、行動原理としてちょっと微妙にあてはまらないかもな、とは思ったんですが、こうでもしないと話を前に進められないし、メリットがでかいということにして思いきりました。

永井が自分から積極的に危害を加えにいくのも原作のなかにはないですがここも同様に思いきりました。

一度決めたらあとは楽だったというか、永井にとってアーニャがアイドルかつ亜人であること以外は、とても綺麗な女の子であったりとてもやさしかったりすることは、なんらメリットにならないことなので、対面してからの展開はかなりすんなり書けました。

でも、投稿するときはけっこうドキドキだったんで、今回のお二方のコメントにはほんとうに励まされました。

あらためてありがとうございます。

永井が雑草の葉っぱと根の境目のちかくの茎を掴んで引っこ抜くと、土の中に根を張り巡らせているこの植物はさっきまで充実感をともなってむしっていたイネ科のそれと違い、筋ごとに根が出て地面に食い込んでいるので、抜いても筋のところで千切れてしまい、抜くというより千切るとかもぎ取るとかいう感じばかりがするので、永井は、はかがいかなくなってくるのを感じた。

 雑草はとなりの畦道から勢力をのばしているようで、永井は軍手のなかをしっとりと汗ばみながら、長い茎や尖った葉を持った何種類もの雑草を抜いていっていた。田んぼで育ったシオカラトンボの群れが作業をしている永井のまわりを飛びまわった。

 永井は茎から下がない短く尖った葉を、抜き終わった雑草を山にしているところに捨てにいった。山になっている雑草はどれもシャーっと伸びたやつばかりで、この種類のものは葉っぱ自体は派手に長く伸びて広がっているが、根はひとつしかないので簡単に抜けてしまうのだった。


永井は葉から手を離したあと、曲げていた腰をもとに戻し、さっきまで草むしりをしていたところを見た。

 太陽が燦々とよく照って、雑草といえども光をたっぷり吸った葉っぱは緑にかがやいていた。あいまにある草をむしったところは掘り返された土が黒っぽい茶色を露出していた。永井が担当していた場所は緑と焦げ茶のまだらになっていて、抜きやすい種類の草ばかり抜いていたことを示している。そして、かがやく葉っぱはどれも短く尖ったかたちをしていた。

 永井はうんざりしながらしゃがんで草むしりを再開した。掘り返された土の中から透き通った翡翠のような緑をしたクモの幼生が天災から逃げるように走っていった。永井はクモの行方を眼で追いながら草をむしった。ぶちっという感触が軍手越しにつたわり、見ると、またしても尖ったかたちの草だけが手のひらに収まっていた。

永井「ひー」


 永井は悲鳴に似たため息をもらし、腰をかがめて作業をしている山中のおばあちゃんに目をやった。おばあちゃんは黙々と、草取りレーキを振って土の中の根っこを掘り返していた。永井はおばあちゃんの曲がった背中に話しかけた。


永井「雑草なんて抜いても生えてくるんだからほっとけばいいんじゃないの?」

山中「無駄だとわかっててもやるの! それが男ってもんだよ」

永井「あそう」


 返ってきた答えに前時代的な価値観を感じつつ、永井はまた草むしりをはじめた。

 雑草のサイズにたいして七倍くらいの面積を掘り返し、それを三回繰り返したあと、永井は玉になった額の汗をタオルで拭った。瞼にかかる汗も拭う。
 
 瞼からタオルをのけると、すこし離れた道のところにいる老人ふたりがこちらを見ているのに永井は気づいた。


永井「こんにちはー」


 永井はにこやかな声をつくってふたりに挨拶した。

 呼びかけられた老人たちは肩をビクッと震わせ、慌てた様子で立ち去っていった。

山中「なんだい、ありゃあ。失礼だね」


 山中のおばあちゃんは二人の態度にあからさまに顔をしかめた。永井のほうは、あいさつしたときの親しみやすさを表した表情はすっかり消えていて、細まった黒い眼でちいさくなっていく老人の背中に視線を注いだ。


永井 (まずいな……)


 永井は、かれらの背中をその姿が見えなくなるまで、じっと見送っていた。


ーー
ーー
ーー


堀口「あいつは山中さんの孫じゃねえ、永井圭だ」


 長い座卓を二つ並べた上座に腰をおろしている堀口がきっぱりと断言した。

 村の集会場には堀口をふくめ四人の男がいて、彼らはみな年老いていた。広い部屋のなかで老人たちはちゃぶ台を囲うような距離に座っていて、ごくりと唾を飲み込み、戸惑った視線を互いにむけた。


吉田「山中さんがかくまってるってことか?」

石原「いや、気づいてないのかもしれん」

吉田「オレオレ詐欺か」

山田「どう追い出す? 亜人てのは凶暴なんだろ? 偉い先生がそう言っとる」

吉田「ああ。何百人も殺したってな」

山田「そんなに強いのか?」

石原「わかんねーよ。おれに聞くなよ」


 ざわざわと話がとりとめもなく無方向に盛り上がっていった。そのとき、開けっ放しのアルミの引き戸から「誤解です」という声が老人たちに向けて話された。


永井「僕は永井圭じゃありません」


 噂をすれば影がさす。突然姿を見せた話題の主に、老人たちは気まずい思いをして口をつぐんだ。


堀口「そんなこといわれてもな」


 片ひざを立てて座っている堀口が、場が沈黙に飲まれるまえに口を挟んだ。


堀口「ひょっこり出てきたおめえを、良次君と信じろってのに無理があるぜ」

吉田「ああ、そうだ! テレビの写真もと似とる!」


 老人たちは堂々とした態度の班長を目にして、自信を取り戻したようだった。彼らは堀口があっけらかんとした口調で言ったので、そのかまかけに気づいていない。


永井「あの……弁解させてください」


 永井はちょっと困ったというように視線を下げた。詰問調に叫ばれた「なんだと!」という老人の声。永井は視線を堀口だけにむけ、取り巻きは相手にしないことにした。


永井「班長さん、まず、僕の名前は良次じゃなく良太です」


 山中のおばあちゃんの孫の名前をあっさり訂正した永井は、老人たち、とりわけ堀口班長の反応をうかがい、手に持った紙袋を置いて下座に正座した。


永井 (田舎の集落ってのは村人同士があらゆる情報を共有しあってるし、閉鎖的だから仲間意識が強い。ここからの一挙手一投足に、すべてが掛かっているぞ)


 膝を畳んで座った永井は堀口班長の周りにいる老人たちに目を向けてから話を始めた。


永井「山田さん、石原さん、吉田さん、堀口班長。たしかに、僕はどうしようもない人間です……いままでたくさんの人を裏切ってきたし……好き勝手やってきた……」

永井「みなさんも知っての通り、今年はじめ、地元東京で酒屋に忍び込み、窃盗で警察のお世話になりました。高校は退学、両親とたったひとりの兄弟にも見限られ……ここへ来ることになったんです」

永井「こうなるまで、僕は……人は一人じゃあ生きていけないんだと、気がつきませんでした……」


 と、ここで、永井はゆっくり頭を垂れた。いままで感情を抑え込んだ静かな語りのトーンに震えが混じり出した。


永井「もうここしか、居場所がないんです」


 永井は下げきった頭をすこし上げ、片目ですがるような視線を老人たちに見せてそう言った。


永井「ろくな挨拶もしてなかったし疑われるのは当然ですよね……でも僕は、本当に永井圭ではないんです」

永井「こんなことになってしまって、本当に……申し訳ないと思ってます」

永井「だから、どうか……(ここで涙が一筋、永井の頬を伝っていった)……ここにいさせてもらえないでしょうか……」


 永井は深く頭を下げ謝罪の姿勢をつくった。


吉田「なあ……おれはこんな子が亜人には見えねえよ」

石原「ああ」


 老人たちはほだされたように互いを見やった。


堀口「話におかしな所はねえ。本人じゃなきゃあこんなにポンポン出てこねえわな」


 永井は頭を下げたまま、瞳を正面にいる堀口にむけて動かした。頬には涙で湿った感触が残っていたが、その眼はもう乾いている。


堀口「だがな、そんなんじゃあここの一員と認めるわけにはいかねえぞ」


 堀口だけは永井の涙混じりの弁解の言葉にほだされた様子は見せず、冷静な視線で永井を見据えながら言った。永井圭ではなかったとして、それだけで村の住人になれるわけではないのだ。ただの若造になにかしてやる義理はない。


永井「はい……この度は、本当にご迷惑をお掛けしてしまったので」


 永井はそう言いながら持参した紙袋の中に手を入れた。ガサゴソと中を探り、永井は中身を取り出すと、それを座卓の上にどんと大きな音を立てて置いた。


永井「お詫びといってはなんですが」


 一升瓶の底が座卓を叩く音に反応した老人たちに見えるよう、永井は瓶のラベルを正面に向けた。


堀口「ははっ」


 堀口が笑い声をあげた。目の前の若造はひ弱そうにみえて、取り入りかたををよくわかっている。ほかの老人たちも緊張を解くのにうってつけのタイミングでうってつけの飲み物が差し出されたことに喜んで腰を上げた。


石原「じゃあー、誤解も解けたことだし一杯やりますかね」

吉田「コップコップ」

堀口「良太君、酒飲める年だったよな?」

永井「十六ですよ」

堀口「問題ねえじゃねえか」


 さてと、この場はてきとうに……。永井は頭のなかで考えたのはそこまでだった。

 酒の入った瓶が銃声とともに割れた。瓶を割った散弾は永井の胸部から飛び出してきた。背中を撃たれた永井は額を座卓に打ち付けた。座卓の弾着したところがけばだち、蜂の巣のような穴に透き通った酒と永井の血が流れ込み、混じりあった。

 突然の銃撃に驚き、その場を飛び退いた老人たちは、上半身を突っ伏している永井を息を止めながら見た。顔を上げると、猟銃を持った男が入り口に立っていた。


堀口「北さん! あんた、なんてこと!」


 堀口が猟銃を持った男に向かって叫んだ。


北「見ろ!」


 北さんと呼ばれた長い白髪を後ろに撫で付けた肉付きのいいその老人は、猟銃の先を永井の背中の穴に向け、老人たちの視線をそこにうながした。

 細かい孔が密集している背中の銃創から、黒い粒子が泉の水のように湧き出し(といっても、老人たちにその粒子は見えなかった。IBM粒子は亜人にしか見えない)、永井の傷を癒していく。

 それを見て老人たちは慄きながら、また数歩後退さった。永井はもう眼を開いていたが、すぐに動かず、老人たちの悲鳴から現状を把握した。座卓に突っ伏しているとうことは、後ろから撃たれたというわけだ。復活したことを悟られるまえに、永井はおおきく口を開け、亜人の“声”を使った。


永井『動くな!』


 部屋に響き渡る振動が老人たちの筋肉を硬直させた。永井は弾かれたように身体をあげ、いちばん近くで固まっている山田めがけて飛びかかった。

 中野が自分の首に腕を引っ掻けたのと同じ要領で、永井は老人の首に左腕を引っ掻け、肩を掴みながら背中にまわると、腕を締め付け、老人を人質にした。


「ひいいいぃッ! 亜人!!」

北「化け物め!」


 悲鳴と罵倒を浴びながら、永井はじりじりと後退していった。


永井「クソッ……台無しだろ!」

北「それを言いてえのはおれの方だ!」


 永井は憎々しげに猟銃を持った北を睨みながら、後方にあるドアへと近づいていった。首を絞められている老人は、喉の閉塞と恐怖ーー後ろにいる永井と目の前で黒く光る猟銃の銃口ーーによって、息苦しそうにぜえぜえ喘ぎながら足をもつれさせている。


北「クソガキ……取っ捕まえて、痛めつけてやる!」


 永井は腕からずり落ちそうになっている老人を無理やり引っ張りあげ、自分の身体をかばう盾のように扱いながら後ろに下がった。老人の身体があがった瞬間、猟銃の銃口が反射的にすこしだけ下がる。永井はそのタイミングでドアノブの位置を確認すると、ノブに手を伸ばし、ドアを開けてそこから逃げた。

 逃げるときに突き飛ばされ、床に倒れている老人を仲間が起き上がらせたとき、もう永井の姿は消えていた。


堀口「あいつ……騙してやがったのか」


 堀口は茫然とした面持ちをして言った。


石原「北さん、助かったよ」

吉田「でも鉄砲まで持ち出さなくても……」

北「ニュースで見ただろ! やつらがどんな生き物か! 油断してっとこっちがやられるぞ!」


 北は話しかけてきたふたりから部屋全体へと視線を移すと、説得的な大声をあげた。


北「みんなで捕まえるんだ!」

石原「でももう出てってくれんじゃねーか?」


 一方的な宣言のように聞こえる北の発言に、老人のひとりがおずおずと反対意見を口にした。

 ぎろりとした脅しつけるような眼で発言者を睨んだ北は、憎しみを込めた声で言った。


北「あんな化け物がただで逃げると思うか?」


 生々しい実感がこもった北の声を聞き、老人たちの背中に怖気が走った。かれらは我勝ちにといった勢いで集会場から飛び出し、逃げ出した亜人を捕まえるため、伝令と武器の取りに駆け出していった。

 集会場に残っていたのは、北老人と堀口班長のふたりだけになった。堀口は猟銃にちらと眼を向け、それから北老人の顔を見ながら静かに尋ねた。


堀口「……北さん、何であいつが亜人だってわかった?」

北「……亜人だったろ?」


 北はそれだけ答えると堀口に背を向け、集会場をあとにした。


ーー
ーー
ーー


 玄関の戸がガラッと音をたてながら開けられたので、山中のおばあちゃんがその方向に眼をやった。村の顔役たちが集まる集会場に出かけていった永井が慌てた様子で、疾走でもしてきたのか、汗まみれになりながら急いで玄関の鍵を閉めているところだった。


山中「あ、圭君、どうだった?」

永井「バレた」


 永井は靴を履いたまま、たたかきから廊下に上がり、おばあちゃんの前を突っ切って、すれ違い様に「もうここにはいられない」とだけ言い残し、自分の部屋へと向かった。

 山中のおばあちゃんは動転しながら身体を永井が消えた方向に回して大声をあげた。


山中「そんな……出てってどうするんだい!?」

永井「どうしようもない! とにかくこの村から出ていかないとダメだ!」


 永井がワンショルダーのボディバックに荷物を詰め込みながら言い返したとき、玄関がガンガンと叩かれ、見ると、戸の格子のあいだに嵌め込まれた曇りガラスの向こうに何人もの人影がいるのがうかがえた。


北「山中さん! どうした、カギなんかかけて!」


 北の喚き声が玄関を突き抜けて家のなかにいる永井と山中の耳に届いた。乱暴なノックに玄関の戸は、まるでそこから逃げ出そうとするかのようにガタガタと揺れ動いる。


山中「圭くん、裏の窓から逃げな」

永井「うん、ありがとう」


 山中のおばあちゃんは騒がしく鳴っている玄関へと向かう途中、土のついた足跡が廊下に残されていることに気がついた。おばあちゃんは雑巾を取ってくる暇も惜しんで廊下に膝をつくと、服の裾を使って足跡を拭き取り始めた。

 戸を叩く音はさっきよりも増して、いよいよ打ち壊そうとするかのように激しくなっている。


北「開けろ!」


 戸を叩く拳の激しさにも負けないくらいの大声を北があげると、さっきまで揺さぶれるがままだった引き戸が突然開いた。


山中「どうしたんだい、勢揃いで」


 玄関を開けた山中が驚いた様子で集まっている村人たちに言った。彼らは手の中に武器になりそうなものを持ち、なかには狩猟用の銃器を持つ者も数人いた。


北「あのガキはどうした!?」


 集団の先頭に立つ北が山中のおばあちゃんに詰め寄り大声で詰問した。


山中「帰ってないよ」

吉田「山中さん、あいつはアンタの孫じゃない。亜人だ!」

山中「え!?」

石原「あんただまされてんだよ」

山中「そんな……」


 山中のおばあちゃんは茫然した様子でつぶやいた。


北「村の出口は二ヶ所、橋と林道だ! 残ったやつは森を探すぞ!」


 北が飛ばした指示に従って村人たちはそれぞれの武器を握り駆け出していった。


山中「そんな……あの子が……」


 北はいまだショックから立ち直れない様子の山中を見た。山中が立っているところは玄関の庇の下で、呆けている表情が浮かんでいるはずのその顔には影がかかっていた。


北「山中さん、アンタ……本当に知らなかったのか?」


 北は影の下にいる山中に向かって、先ほどの詰問調とうってかわって、冷静な感じのする声で尋ねた。


山中「もちろんだよ」


 山中は影の中に身を置いたまま、北に答えた。

 返答を聞いた北の眼筋が引き締まり、目が細くなった。年老いた北はその細まった黒い眼を山中に向けながら、首が固定されたように山中から視線を動かさず、猟銃を握る手に力を込めた。


堀口「北さん、はやく!」


 急かされた北は山中に背を向けた。集団に合流するのあいだ、北が考えていたのは、山中の服にこびりついていた土汚れのことだった。


ーー
ーー
ーー


 一台のバンがかなりのスピードで杉の木が道の両端に並ぶ林道を走り抜けていった。平凡な夏の日によく見る光景だったが、タイヤが巻き上げる土埃の勢いは運転手が急いでいることを物語っていた。

 運転手は頬がこけた老人で、出っ張った頬骨の上には眼鏡のつるがあり、車体の揺れにあわせてレンズに反射する光が上下していた。


老人「山中さんにぜんぶ聞いたよ」


 運転している老人が助手席の永井に声をかけた。
 老人は山中の家の裏窓からにげだした永井を待ち構えていて、村から車で脱出させようとしてくれたのだった。


永井「亜人を怖がらないんですね」


 永井は老人のほうを見ながら言った。


老人「ニュースがすべて正しくないなんてことくらいわかるよ。きみは化け物じゃない」


 老人は運転に集中していて前を向いたままだったが、永井をないがしろにせず、不安を払拭するためによく言葉を考えて口にした。


永井「ありがとうござまいす」


 永井はほっとしたように言い、頭をシートのヘッドレストに預けてリラックスした。


 だが、永井がその姿勢でいられたのは、束の間のことだった。


老人「私が責任をもって安全な場所まで連れていくよ」


 永井をさらに安心させるため、老人は言葉を続けた。


老人「国に保護してもらおう」

永井「はあ!?」


 永井はシートに沈めていた上半身を跳ね起こして、老人に向き直った。


老人「若いから窮屈に思うかもしれないけど、それが一番だよ!」


 老人の提案は永井にとって、それが口にされた瞬間に結論となっていた。騒ぎすぎるマスコミが正しく報道をおこなっていないのは永井もおなじ意見だが、メディアが世間に流通している情報すべてが正しくないかといえば、もちろんそんなことはなく、複数のメディアから得た情報を突き合わせ、検討していけば、亜人を巡る現在の状況のおおよその見取り図はできる。

 たとえ善意をもって味方になろうとしている人物であっても、この見通しが立てられない者は、永井には足を引っ張る邪魔者でしかなく、ましてや絶望してもいいくらいのマイノリティである亜人と国家との非対称的な関係性を想起できない奴など論外もいいところだった。


永井「ダメだ、こいつ」


 永井は運転席の老人をとっとと見捨てることにした。永井の腕が獲物に飛びかかる蛇みたいにハンドルめがけて伸び、林道から真っ直ぐ空をめざす一本の樹木めがけて限界までハンドルを切った。正面にのびる林道から樹々が集まる森の景色へと老人の視界に写るものが一瞬で移り変わる。老人は悲鳴をあげながら必死でハンドルを元に戻そうとするが、永井は身体を運転席に乗りだし、老人のハンドル操作と視認の邪魔をする。そして、壊れたシートベルトを腕に巻き付け衝突に備える。

 永井がフロントガラスにめり込んだ額を引き抜いたとき、日は傾きはじめ、林道は橙と黄色に輝く夕陽に染まり、林道から森へ曲線を描く轍に黒い影がかかっていた。


永井「ぐ……」


 永井は細かくなって皮膚に埋まったガラスの破片を手のひらで擦り取った。眉の上のあたりの傷口から血がじゅくじゅくと滲み出て、顎まで伝い落ちてきた。

 運転席の老人は顔をエアバッグに埋めていた。老人は気絶しているのかぴくりともせず、薄くなった皮膚の下にある頸椎を天井にむけて晒している。


『私たち素人は「死なないだけなんじゃ?」と思ってしまうのですが