杏「甘えちゃいけない」 (43)


モバマスssです。

双葉杏ちゃんメインの一人称視点で進行していきます。

モバマスssは初めてなので、細かいところはお察しでお願いします。

書き溜めで完結してます。

ゆっくり投下。



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・・・・・・



 ピンポーン。


 チャイムの音に、杏は顔をあげた。いつもの風景、恒例行事。カメラで確認するまでもなく、訪問者の予想はついた。

 布団にくるまったままでしばらく待っていると、やがて合鍵を使ってあの人が部屋まで上がり込んでくる。

「杏。もう出社時間だぞ」

 低い、それでいて起伏に乏しい声が杏の布団に降りかかる。耳に馴染んだその声を聞くと、嫌が応にも目が覚める。

 でも杏はそれを悟られるのが嫌で、布団から顔を半分だけ出した状態でプロデューサーを見上げる。

「やだなぁ、プロデューサー。出社時間はまだでしょ?」

「そうだな。正確には、今すぐ家を出ないと遅刻するぞ、だ」

「プロデューサーもお疲れでしょ? ちょっと休んでいきなよ。10時間くらいさ」

「疲れるとわかってるなら、頼むから自分の足で出社してくれ」

「ふんだ。杏はもう売れっ子だから、働かなくたって暮らしていけるんだもんね。ビバ印税! 夢のニートライフ!」

「いいから行くぞ」

 杏の言葉をほとんど無視して、プロデューサーは杏の体を持ち上げた。まるで荷物みたいに小脇に抱えられた杏は、そのままプロデューサーの乗ってきた車の後部座席に放り込まれる。

「寝るなよ。事務所に着くまでに飯を食べておけ」

 プロデューサーは心底ダルそうな声で言いながら、杏のすぐ近くに転がっているおにぎりと水筒を指差した。

「えー、めんどくさい。朝ごはんなんていらないって言ってるじゃん」

 なんて言いながらも、ラップとアルミホイルに包まれたおにぎりを食べ始める。だってこれは、だらしない杏のためにプロデューサーが早起きして作ってくれたものだって知ってるから。

 プロデューサーは、すごい人だ。こんなダメ人間の杏を、本当にトップアイドルにしちゃったんだから。

 もうアイドルをやめたって、一生暮らせるくらいの貯金はある。それでも杏がアイドル活動を続けているのは、純粋にアイドル活動を楽しいと思えるようになったから。それに、個性がぶっとんでるけど良い子ばかりの、事務所の仲間たちがいるから。

 そしてなにより……

 大好きなプロデューサーとの、唯一の繋がりを保つためなんだ。




・・・・・・



 まるでゴミ箱に空き缶を捨てるくらいの気軽さで、プロデューサーは杏を事務所のソファに放り投げた。ちょっと人権を無視した扱いを糾弾してやろうと振り返ったときには、プロデューサーはもう自分のデスクに鞄を置いて、書類を広げているところだった。

「ああ、忘れてた」

 ふと、そんなことを言ったかと思えば、プロデューサーはポケットから取り出したものを杏に投げて寄越した。わざわざ手を開いて確認するまでもない。昔から杏がお気に入りな飴だった。

「まったく、飴を与えれば杏がなんでも言うこと聞くだなんて思ってほしくないね。そろそろこの飴にも飽きてきたところだし」

「そうだったのか? まあ今日のところはそれで我慢しとけ。俺は出掛けるが、ちゃんと着替えて仕事先に向かうんだぞ。わかったな」

「ま、気が向いたらね。もぐもぐ」

 飴は好きだけど、昔と違って杏が仕事をするのはほとんどプロデューサーのためだ。仕事をうまくこなしても、プロデューサーは無愛想だからほとんど誉めてはくれない。でも、杏がヘマしたらプロデューサーの経歴に傷が付くかもしれない。それは、嫌だ。だからがんばる。

 プロデューサーが事務所を出たのを確認してから、杏は軽い足取りで更衣室へ向かう。プロデューサーがいないなら、めんどくさがりなめんどくさい子を演じる必要はない。

 そんな杏のことを ちひろがニヤニヤしながら見てたのが、ちょっぴり不快だった。




・・・・・・



 自分で言うのもなんだけど、杏は結構優秀だったりする。もともと、あんまり出来ないことはなかった。だから努力とは無縁で、怠け癖がついちゃったんだと思う。

 そんな杏を、あのプロデューサーは引きずり回してビシバシ鍛えた。おかげでほとんどのことは卒なくこなせるようになった。

 そういうわけで、その日の収録を圧倒的な早さで終わらせた杏は、いつもよりずっと早く事務所の前にたどり着いていた。プロデューサー、ビックリするかな。もしかしたら誉めてくれるかも。

 なんてことを考えながら事務所のドアノブに手をかけた杏は、その向こうから聞こえたプロデューサーの声で動きを止めた。

『そんなことはない。俺も杏のあの態度にはほとほと困り果てているさ』

 身体中の熱が心臓へ向かうのを感じた。

 扉に嵌め込んであるガラス越しに、プロデューサーと まゆ の横顔が見える。今の言葉がプロデューサーの口から発せられたことは間違いないようだった。

 それでも、なにかの聞き間違いかと思って扉に聞き耳をたててみる。そしてすぐに、その行動を後悔することになった。

『毎日こき使われてヘトヘトだ。勘弁してほしいよ、まったく。俺はあいつの母親になりたいわけじゃないんだからな』

 心が軋むっていうのは、きっとこういうことを言うんだと思う。自分の価値を見失う感覚。

 すぐにその場を離れようかと思ったけど、足がうまく動いてくれなかった。無理やり歩こうとしたらもつれてしまい、1歩も歩けずに転んでしまった。

 無様に地べたに這いつくばりながら、震える口許を抑えて後悔した。

 もしかしたら。

 ほとんどマンツーマンで、二人三脚で、一緒にトップアイドルへの道のりを歩んだ杏たちだから。

 絆みたいなものが築かれていて、プロデューサーも杏のことが大好きで、毎日迎えに来てくれるのも、つまりそういうことで、じつはプロデューサーも満更でもないとか思ってるんじゃないかと、そんな都合の良いことを考えてた。

 でも蓋を開けてみれば、こんなもの。プロデューサーにとって杏は、本当にめんどくさい子でしかなかったんだ。

 その日は幸い、もう仕事もレッスンも入っていなかった。杏は震える足を引きずってタクシーを拾い、そのまま家に帰った。

 そして本当に久しぶりに、声をあげて泣いた。




・・・・・・



「なにかあったのか?」

 ほとんど初めて自分の足で出社した杏を見たプロデューサーが、開口一番に放った一言がそれだった。

「べつになにも。悪い?」

「いや、悪いわけないが」

「あっそ。じゃあ時間までソファで寝てるから」

「朝飯はどうする?」

「自分で作って食べた。お弁当も作った。飴も途中で買ってきた。昨日、そうメールしたじゃん」

「新手のイタズラかと思ったぞ」

「なにそれ、ひどくない?」

「……そう、だな。すまん」

「ううん、いいよ。杏が悪いんだし。それじゃ、おやすみ」

「あ、ああ」

 プロデューサーは作ってきたおにぎりに目をおとして、そのうち自分で食べ始めた。

 あはは、作って来ないでいいって言ったのに。信用ないなぁ、杏って。

 プロデューサーのデスク脇に置いてあるゴミ箱には、まだ中身が残ってる飴の袋が捨ててあった。昨日、杏が貰った飴だった。候補生時代から杏がお世話になっていた、飴だった。

 胸の痛みを誤魔化すように、杏はソファに頭から飛びこんだ。

 ここならプロデューサーから影になってるから、ちょっとくらい泣いても大丈夫だよね。




・・・・・・



 いつもより早く出社してみて、わかったことがあった。

 あの野郎、めちゃくちゃモテやがる。

「プロデューサーさん! 今度の約束ですけど、スイパラに行きましょう! そうしましょう!」

「かな子、そういえば来週グラビア入れたからな」

「どうしてこのタイミングでそんなこと言うんですか!?」

「それじゃあPさん、次のオフはまゆと一緒にすごしませんかぁ? まゆのお部屋で……うふふ」

「さすがに先約を優先するさ。それに、アイドルが男を部屋に招くんじゃない。もっといろいろと自覚をもて」

「杏ちゃんはよくて、まゆはだめなんですかぁ?」

「杏の場合はファン公認だからいいんだよ。俺が連れ出さないと、ファンも杏の活躍をお目にかかれないからな」

「ふぅん。じゃあ、私も引きこもってみようかな」

「勘弁してくれ、凛。それに杏だって、最近は……」

 プロデューサーと取り巻きたちが、杏の方を一斉に見てきた。ドラマの台本を覚えるくらいは簡単だけど、そう見られてちゃ落ち着かないよ。

「……喧嘩?」

「いや、そういうわけでもないんだが……」

 杏ってば、そんなにいつもプロデューサーにベッタリな印象だったのかな?

 でもこれからは絶対に、迷惑はかけないよ。プロデューサーが見直してくれるまで、杏は一人で生活してみせるんだ。

 そしたらいつか、杏のこともどこかに連れて行ってよね。プロデューサー。




・・・・・・



「Pさん、ちゃんと覚えてるよねっ?」

「わかってるよ、紗南。明日はゲームショップ巡りだろ?」

「へへッ。ごっ褒美、ごっ褒美♪」

「お手柔らかに頼むよ」

 いくらなんでも、アイドルにゲームを買ってあげるのはやりすぎなんじゃないかな? それに話を聞いてると、どうやら紗南と一緒にゲームをやるらしい。杏とは絶対にやってくれなかったのにさ。

 もしかしてプロデューサーって、ああいう元気な子が好きなのかな?

「あの、双葉さん」

 スケジュールをびっしり書き込んだ手帳を眺めていたら、後ろから急に名前を呼ばれてビックリした。

「橘か。なに?」

「いえ、その。べつに大したことじゃ、ないんですが」

 いつもクールなありすにしては、ずいぶんと歯切れが悪かった。そういうときは大抵、あの男に関する話題だろう。

 辛抱強く待ってあげると、ありすはようやく前置きから本題に移ってくれた。

「双葉さんにとって、プロデューサーはどういう人ですか?」

 意外な角度からの質問だったから、杏は一瞬固まってしまった。

「どうって、プロデューサーはプロデューサーでしょ」

「そ、そういうことではなくて、その……」

 ああ、そういうことか。ませた子だなぁ。

「まぁ、お母さんってところかな。世話焼いてくれるし。けど そろそろ親離れしようかなって」

「そ、そうなんですか。ふぅん」

「ま、ライバルは多いけどがんばってね、橘」

「はい。……あっ、いえ、べつに私は……!」

 わたわたと慌てるありすは見ていて面白かったけど、後日ありすがプロデューサーと買い物デートしていたって聞いて、ちょっと笑ってられなくなってしまった。

 プロデューサーには、もうちょっと節操をもってほしい。




・・・・・・



 寝起きの悪い杏が早起きするコツは、出社時間の前にオンラインゲームのパーティ仲間と約束しておくことだ。そうすると絶対に、出社時間になるころには目が冴えてくれる。

 そしてだらけてしまうのが怖いから、休日も同じ生活サイクルで過ごしている。売れっ子の杏に休みなんて滅多にないけどさ。

 今日も7時に集合して、協力しながらクエストをこなしていく。

 この人たちは、ネットで知り合っただけの顔も名前も知らない相手だ。チームの前衛で筋肉ムキムキの肉体を奮っているのがアイドルだなんて、きっと誰も思わないだろう。

 それが気楽で、だから以前はオンラインゲームが好きだったんだけど。最近は何をしてても楽しくない。ゲームも、アイドル活動も。

 その原因が、ここ一週間まるで口を利いていないあの男にあるということは、言うまでもない。

 一回だけ。今日の朝、一回だけ。プロデューサーに迎えに来てもらおっかな。

 ……だめに決まってるよね。




・・・・・・



「杏」

 事務所でCM用の試供品アイスを食べていたら、突然プロデューサーが杏を呼んだ。あんまり久し振りだったものだから放心して、しばらく返事ができなかった。

「な、なに?」

 焦ったせいで、ちょっとどもっちゃった。でもそこで、プロデューサーがやけに真剣な顔をしてることに気づいて、一気に冷静になることができた。

「なに、そんな顔しちゃって。もしかして杏、なにかやっちゃった?」

「いや、そういうことじゃない。最近 やけに殊勝だからな。なにかあったのか?」

「ネットでの根も葉もない噂なら、べつに気にしてないよ。的はずれだからね」

「知ってたのか。いや、知らない方がおかしいか。双葉杏と言えば今や国民的アイドルだ。そんなお前の異変なら誰だって気になるし、格好のニュースにもなる」

「まったく、みんな大袈裟だよねぇ」

「それだけお前の影響力が凄まじいということだ」

「めんどくさ」

「で、なにがあったんだ?」

 プロデューサーが、今まで見たことないくらい鋭い顔つきになった。ちょっとたじろぎそうになるのをなんとか堪えて、杏は平気のへーざって顔で答える。

「やっと反抗期が終わったんだよ。はは、偉いでしょ?」

「杏。誤魔化すのはやめて、本当のことを言え」

「本当だってば。ほら、杏なんかに構ってる余裕はないでしょ? このあと、みりあの付き添いがあるんじゃないの?」

「……また今度、ゆっくり話そう」

 全然納得いってないって感じで、プロデューサーは渋々杏から離れていった。

 会話の内容はともかくとして、こんなにプロデューサーと話せたのは久しぶりだったから、素直に嬉しい。

 でも、プロデューサーに余計な心配かけちゃってるんじゃダメだよね。

 もっとしっかりしなきゃ。甘えちゃいけないんだから。プロデューサーにこれ以上迷惑かけたら、本当に取り返しがつかないくらい嫌われてしまうから。

 今はがまんだ。どんなに辛くても。




・・・・・・



 杏は無気力キャラで売ってるから、あんまりやる気を出すのは良くない。かといってグータラしてるとプロデューサーに嫌われたままになる。そのあたりの調節が、すごく難しかった。

 プロデューサーには絶対に迷惑をかけない。でもそれ以外の人には、なるべく平均的に、でも負担にならないように足を引っ張る。

「やっぱり杏は杏だなぁ」

 なんて言わせたら杏の勝ちだ。誰にも悟られず、でもプロデューサーにだけは頑張りを示す。

 他の人からの評価が変わらないから、杏の異変をプロデューサーが心配しすぎることもない。なんだ、ちょっと殊勝になったかと思ったが、やっぱり杏は変わらないな、で終わるはずだ。

 そんなこんなで、事務所のみんなが「杏事件」と呼ぶ、杏が自分の足で事務所に出社した日から、早くも三ヶ月が経とうとしていた。








 そして、あの「週休8日事件」が起こった。





今日はここまでで。おやすみなさい。


・・・・・・



「明日から一週間お休み!?」

「そうだ。明日の月曜日から次の日曜日まで全部オフにした」

「えっと、ついに杏はニート路線に呆れられて業界から干されちゃったの?」

「そんなわけないだろう。むしろその逆で、最近の杏はニートアイドルというわりには働きすぎというくらい働いていたからな。じつは各所から杏のことを心配する声があったんだ」

「本音は?」

「国民的アイドルが多忙の中で一週間仕事をブッチというセンセーショナルな話題獲得のため」

「それこそ干されるんじゃないの?」

「それでも叩かれないのが杏の凄まじいところだ」

「レギュラー番組の収録とか、ドラマの撮影はどうするのさ」

「各方面に話を通して二ヶ月くらい前から企画されてることだから、すべての問題はクリアしてある」

「どうりで最近、忙しすぎると思ったよ。ていうか、その熱意をもっと別のところに生かしなよ」

「なんとでも言え。杏は1日12時間労働とかもザラだったからな。それを全部キャンセルすれば、「週休8日」になるってわけだ」

「皮肉かよ」

「まず杏が働かなくなる一週目は、ニュースや現場、ネットでかなりの話題になる。そして二週目は、すべての番組から杏が消える。ドラマすら話を調節して、杏の登場は0秒にしてある。ニュースも、杏の映像や画像は使わせないようにする」

「徹底的だねぇ。そんで三週目は、杏が帰ってきたことでテレビが騒ぐって感じ?」

「さすがは杏だ、その通り。特番やスペシャルが組まれてるぞ」

「で、そっちに控えてるカメラはなに?」

「ああ。週休8日を伝えたときの杏の反応を撮りたいんだそうだ。そんなわけで、今からもう一度説明するから大袈裟にはしゃいでくれ」

「……ほんと、優秀なプロデューサーだよ」




・・・・・・



 そういうわけで、杏は突然一週間の休暇を言い渡された。ドッキリかと思っていろいろ調べたりしてみたけど、どうやらガチっぽい。

 でも急に休みって言われても、それはそれで困ってしまう。心配されるくらい忙しいってことは、仕事以外にやることがないってことだし。

 最近はゲームも楽しく感じなくなってきちゃったし、さて、明日からなにしよっかな。

 なんて考えながらチーム対抗クイズ番組で一位をとって、杏は一人で事務所に戻ってきた。

「乃々。机の下でなにやってんの?」

「……くすん」

 事務所はなにやら剣呑な雰囲気で、プロデューサーと乃々のにらみ合いを他のアイドルたちが見守っているという構図らしい。

「杏、おかえり」

「ただいま、プロデューサー。あんまり乃々をいじめちゃダメだよ」

「仕事に行かないって駄々をこねるんだ。いろんな意味で先輩である杏なら、どうにかできないか?」

「うーん、タイプが違うんだけどなぁ」

 だけどプロデューサーの頼みだし、やるだけやってみてあげる杏はほんとにちょろい女だ。

 杏は気軽に乃々のひそむ机の下に潜って、そして怯える乃々にあることを耳打ちした。

 杏の見込みが間違ってなければ、これで大丈夫なはず。

 耳打ちが終わると乃々はあからさまに絶望的な表情になって、すぐに机の下から飛び出した。

「あの……わがまま言って、ごめんなさい……」

 乃々の急激な手のひら返しに、さしものプロデューサーも面食らったみたいだった。

「い、いや。やりたくない仕事をしないためには、まず売れることだ。それまでは我慢してくれ。俺も全力でサポートするから」

「はい……頑張りますけど……」

 2人はすぐに事務所を出て、急いで仕事場に向かっていった。それを軽く見送ってから さて帰ろうかと踵を返すと、今のやり取りを見守っていたアイドルたちの視線が杏に突き刺さっていることに気がついた。

 代表して、仁奈がぽひぽひと近づいてくる。

「杏おねーさん。乃々おねーさんに、なんて言ったんでごぜーますか?」

「べつに。わがまま言っちゃダメだよって言っただけ」

 仁奈の質問を適当にあしらって、杏は荷物を回収して事務所を出る。

 乃々をどう説得したかを理解してもらうためには、乃々に説明したように まず杏がどうしてプロデューサーから距離をおいたかってとこから話さなくちゃいけないからね。

 乃々。杏みたいに嫌われたくなかったら、あんまりプロデューサーを困らせちゃダメだよ。




・・・・・・



 休暇初日の月曜、朝7時10分。

 やることもないし、オンラインゲームが終わったら積みゲーでも消化しようかと思ったんだけどさ。

 まさか初日から熱を出して寝込むことになるなんて、思いもよらなかったよ。

「39度6分」

 重病だよね、これ。一人暮らしだと普通に死ねるレベルだと思うんだけど、これほんとにどうしよう。

 家族は北海道だし、知り合いといったらアイドル仲間くらいしかいないんたけど、みんな仕事があるだろうし。

 多分この事を伝えれば、プロデューサーならきっと駆けつけてくれるとは思う。あの人は、そういう人だから。

 でもそれはだめなんだ。プロデューサーは杏の母親じゃないんだから、こんな個人的なことで呼び出したりしちゃいけないんだ。

 ほんとはわかってる。今の杏は、ただ意地になってるだけだってことも。そして、もしプロデューサーが来てくれなかったらと思うと怖くって、それで連絡できないってことも。

 頭がガンガン痛む。気持ち悪いし頭痛もする。鼻水は止まらないし、喉も痛すぎだし、咳も止まらない。寒くて体が震えてるけど、それなのに変な汗をかいてる。

 やばいな、これ。杏、ほんとに死んじゃうのかな。

 気づいたら杏は携帯を握っていた。心細くなった杏がどこに連絡しようとしたかなんて、言うまでもない。

 あわてて携帯を放り投げる。何回か床を跳ねながら転がっていく携帯を見つめて、下唇が杏の意思に反して震え始める。情けないような、心細いような、そんな惨めな気分になった杏は、勝手に溢れ出す涙を止めることはできなかった。

 誰が見てるわけでもないけど枕に顔を埋めて泣いてると、そこでさっき投げ捨てた携帯に着信があった。どうやらメールではなく電話らしい。

 誰でもいいから助けてほしかった。だからすがるように携帯が転がってるところまで這っていって手を伸ばしたところで、思わず息が止まる。

 着信は、プロデューサーからだった。

 せめて他の誰かだったなら、気兼ねなく助けを求めることができたかもしれないのに。よりにもよって、着信はあの人からだった。

「……」

 杏が硬直してる間にも、呼び出しベルは鳴り続いてる。出るなら出るで早くしないといけない。でも、こんな喉で健康をアピールできるわけもないし、咳を我慢できるとも思えない。そうしたら、その瞬間にプロデューサーは全部察して飛んできてしまうだろう。

 それだけは絶対にできない。

 着信音が鳴りやむ。少し安心したのと同時に、また涙が溢れてきた。

 そしたら今度はメールが送られてきた。もちろんプロデューサーからだ。

『大丈夫か? なにかあったか?』

 どんな根拠でそんなこと聞くんだ、この男。超能力者か?

『ごめん寝てた。ていうかオフなんだから連絡しないでよ。電源切るね。おやすみ』

 送信。これでまた電話してくることもないだろう。ひとまず安心だ。

 一応ほんとに電源を切って、携帯を放り出す。これで完全に外との繋がりは断たれた。

 今の時間は7時20分。こんな最悪な体調じゃ、ゲームなんてできるわけないし、ここはおとなしく寝ておくことにしよう。

 布団を頭まで被る。きっと次に目を覚ました頃には、全部よくなってる。

 そう信じて、杏は目を瞑った。




・・・・・・



 それは杏とプロデューサーが初めて出会ったときの記憶だった。

 当時のプロデューサーは、今みたいな化け物じみたスペックじゃなかった。人並みにミスはしてたし、スケジュール管理が甘いこともままあったし、アイドルと信頼関係を築くのにも苦労してた。

 杏は、そんなプロデューサーが担当した初めてのアイドルだった。

「さっさと出掛けるぞ双葉。いつまで寝てる気だ。遅刻する気か」

「うっさいなぁ。そんなにせかせかしてると禿げるよ?」

「俺の頭皮の心配をしてくれるなら、これ以上ストレスをかけるんじゃない」

「マジメだなぁ。立派立派。でも杏はそういう人種が一番嫌いなの。杏は極力楽して生きてきたいんたよ。あんたみたいに暑苦しいのはノーセンキュー」

「……このガキ。大人を舐めるんじゃないぞ」

「いやー犯されるー」

「お望みならそうしてやろうか」

 プロデューサーは靴を脱いで玄関を上がってきて、床に転がってた杏を抱き起こして壁に押し付けた。

「本気?」

「謝るか?」

「やだね。だって、全然本気じゃないもん。脅すならもっと乱暴にやんなきゃ」

「アイドルにそんなことできるか」

「マジメだなぁ。ほんとに犯してくれたら、慰謝料で生きてけたのになー」

「擦れたガキだな。春でも売ったか?」

「それはまだ。でもアイドルがダメだったら、どうなるかな」

「そんなことはさせない。絶対に俺が双葉を、トップアイドルにしてみせる」

「絶対なんて言って、責任取れるの? もしダメだったらどうする? ハリセンボンでも丸飲みする?」

「その時は、俺がお前を買ってやる」

「へえ? いくらで、何回分?」

「俺の生涯賃金で、一生分買ってやる」

「なにそれプロポーズ? キモッ」

「それぐらいの覚悟ってことだ。ほら立て。早くしないと本当に遅刻する」

「あはは、顔真っ赤だよ? かーわいっ」

「お前もな」

「えっ?」

 このあと杏は荷物みたいに車へ担ぎ込まれて出社した。

 まさかほんとにプロデューサーが養ってくれるだなんてことは思わなかったけど、それでもこの人なら、今まで出会ってきたどんな大人よりも真剣に杏のことを考えてくれるって思った。それくらい純粋でまっすぐな目だったんだ。

 だから杏は、暴走列車みたいに杏を振り回すこの人に、文句ばっかり垂れながらも、なんだかんだで最後までついていった。

 そして気がつくと、杏は頂点に立っていた。




しばし休憩。


・・・・・・



 目を覚ますと、ぼやけた天井が目に入った。見慣れた電灯や染みが輪郭を結ぶのと同時に、自分が置かれている状況を完全に思い出して憂鬱になった。直前までの幸せな気分も相まって、かなりマジメに死んでしまいたいとさえ思った。

 そしてほとんど無意識に、初恋の相手を呼んでいた。

「ぷろでゅぅさぁ……」

「呼んだか?」

「うん……うん?」

 突然、逆さまの顔が目の前に現れた。いつも不機嫌そうな目つきと、血色の悪い顔色。もうすっかり見慣れた、杏の大好きな人。

 なんだ、これ。なんで杏の枕元で、この男が覗き込んできてる?

 そうか、これは夢だ。杏の鬱積した欲求がついにこんな幻想を生み出してしまったんだ。そうに違いない。

 それならもっかい寝よう。起きたときにもっと惨めな気持ちにならないように、さっさと起きてしまうことにしよう。

 さ、目を閉じて……

「こら杏。寝るな起きろ」

 プロデューサーが杏のほっぺを乱暴にグニグニやってくる。その痛みでようやく杏は、これが現実だってことを知った。

「ってか、なんでッ……!?」

 次々と浮かんでくる疑問を口にしようとしたところで、杏は思い出したかのように激しく咳き込んだ。同時に喉の痛みと頭痛を覚えて、布団にくるまったまま身を丸める。

「落ち着け杏。疑問にはあとで答えてやるから、今は安静にな。もう昼の2時頃だが、どうせ朝からなにも食ってないだろう。お粥を作ってあるから、ちょっとだけでも腹に入れておけ」

 そう言いながらプロデューサーは、近くのテーブルで湯気をたててるお椀を取り寄せる。

「体起こすぞ。ほら、口開けてくれ」

「んっ……」

 まるで母親が子供にするみたいに、スプーンですくったお米をふーふーして冷ましてくれるプロデューサー。なんだか無性に恥ずかしくなって顔をそらしたら、肩を抱くみたいに腕を回されて余計に恥ずかしい格好になってしまった。

 仕方なく、一口食べる。

「どうだ、しょっぱくないか? いや、鼻が詰まってて味なんてわからないか」

 たしかに、鼻が詰まってて味はわからなかった。それにもともと薄目の味付けになっていたんだと思う。

 それでも……どうしてかな。すごく、美味しかった。

「杏? どうした、不味かったか? それとも、どこか痛いのか?」

「ううん……ぢがう……」

 涙や鼻水でぐしゃぐしゃな顔をプロデューサーの胸に押し付ける。一瞬 驚いた声を出したプロデューサーだったけど、すぐに杏の頭を優しく撫でて受け入れてくれた。

 次に昼食を再開したときには、お粥はすっかり冷めきってしまっていた。






・・・・・・



 疑問にはあとで答えてやるから、なんて言いながら、結局どうしてプロデューサーがここにいるのかは教えてくれなかった。いや、秘密にされたとかってわけじゃなくて、自分から言い出してくれないってだけだけど。

 けれど、それを杏の方から聞いてしまったら、プロデューサーが帰ってしまうかもしれないなんて思って、なにも聞けないでいた。

 今の杏は心身ともにプロデューサー無しでは生きていけないくらい弱りきっていたから、ほんの少しでもプロデューサーの機嫌を損ねるかもしれないことはしたくなかった。

「プロデューサー」

「なんだ?」

「ごめんなさい」

 事務所から持ってきたらしい書類やノートパソコンに目を落としていたプロデューサーは、顔をあげて杏を振り返った。

「そうだな。次にこんなことがあったら、絶対に許さないからな」

「……うん。体調管理は、もっと気をつける」

「そっちじゃない」

「?」

「風邪くらい誰だって引くだろう。というかアイドルの体調管理はプロデューサーである俺の仕事だ。そうじゃなくって」

 プロデューサーはすごく真剣な目で杏を見つめてきた。

「体調がおかしいなと思ったら、無理しないで俺に言え。それから、もし熱を出すようなことがあったら、すぐに俺に連絡しろ。40度近い熱があるのに、強がるんじゃない馬鹿」

 多分怒られてるんだろうけど、そうやって杏を見つめるプロデューサーが今にも泣き出しそうな顔をしてるもんだから、杏は何も言えなくなる。

「ほら、さっさと寝ろ。タオル持ってきたから、俺がいなくなったらちゃんと汗は拭いておけよ」

「もう帰っちゃうの?」

「違う。俺が部屋を出たらってことだ。夜まで帰るつもりはない」

「そうなんだ」

 嬉しい。プロデューサーが夜までいてくれることは、ほんとに飛び跳ねたくなるくらい、すっごく嬉しい。

 でもこれじゃだめなんだ。これじゃ、今までとなにも変わらない。3ヶ月の頑張りが、全部水の泡なんだ。

「……プロ、デューサー」

 言え。言わなくちゃ。

「今日は、その、ありがと。でも もう大丈夫だから、事務所に戻って平気だよ」

「杏。お前は最近 俺のことを避けてるようだが、なにが気に食わないんだ? 言ってくれれば善処するぞ」

「……避けてなんか、ないよ」

「そうか?」

「そうだよ。ほら、さっさと事務所に戻って仕事しなよ。いい加減、ちひろにしばかれるよ?」

「もうしばかれるのは確定してるから今さらだ」

「は?」

「アイドルの送迎とか監督とか、全部すっぽかしてきたからな。今頃 事務所はパニックかもしれん」

「はぁ!? 無断で出てきたの!?」



「ああ。昼休みに事務所を抜け出して、杏の無事を確認したらすぐに戻るつもりだったんだ。だが、全然無事じゃなかったからな。今日は事務所に戻らないとメールして電源を切った。もう怖くて携帯に触れん」

「なっ……!?」

「念のため今日の分の書類とパソコンは持って来といて助かった。まあ、杏が日頃から言ってることだろう。たまには休めって。10時間くらいここで休んでくよ。ちひろさんには明日にでも土下座すればいい。安いもんさ」

 なに言ってるんだ、この男は。仕事に私情は挟まない性格だったじゃんか。責任感が人一倍強い性格だったじゃんか。それなのに、どうしてこんなばかなことを? 杏にはうんざりしてるって言ってたじゃんか。なのに、なんで。

「余計なことは考えなくていい。おとなしく寝て、食って、また寝とけ。そういうのは得意だろ?」

 そう言いながらプロデューサーは杏の方へ寄ってきて、布団から身を乗り出してた杏を優しく押し戻した。その手つきがほんとに優しくって、ガラス細工でも扱うみたいに優しくって、胸がきゅっと締め付けられた。

「……ばか」

「お前の馬鹿が感染ったのかもな」

「杏なんかをプロデュースしようって時点で、世紀の大ばかだよ、プロデューサーは」

「くだらんこと言ってないで、さっさと寝ろ」

 プロデューサーは杏の肩まで布団をかけて、小さな子を寝かしつける時みたいに 優しくおなかをぽんぽんしてくれた。ちょっと恥ずかしかったけど、もういろいろと今さらな気がして、おとなしく目を瞑った。

 こんなに気持ちよく眠れたのは、三ヶ月ぶりくらいだった。




・・・・・・



 目を覚ますと、部屋は真っ暗だった。

 窓の外から射し込む人工の光を頼りに、枕元の携帯を探り当てる。電源をいれて時間を確認すると、もう夜の10時頃になっていた。

 携帯の光で室内を照らす。もしかしたらプロデューサーがどこかに転がってたりしないかと期待したんだけど、案の定ど
こにもいなかった。プロデューサーは10時間くらい休むと言ってたから、もうとっくに帰っちゃったんだろう。

 そう考えると、せっかくプロデューサーと一緒にいられる時間を無駄にしてしまったような気がして、ちょっと悲しくなった。

 明日も来てくれるのかな? それとも、さすがにちひろに絞られて来れなくなるかな?

 どっちにしても、プロデューサーに迷惑かけるか、杏が寂しくて死にたくなるかのどっちかだ。

 あーあ、いつから杏はこんなに弱い子になっちゃったんだろ。昔は一人でなんでもできたし、一人でいることを辛いとも寂しいとも思ったことなんてなかったのにさ。

 それが今じゃ、たった一日、いや一時間でもプロデューサーに会えないだけで胸が痛くなるなんて。恋の病とはよく言ったもんだね、ほんと。

 よく考えたら、熱が下がったらプロデューサーとはもう会えないんだよね。そう考えると、あと6日くらいは、この強烈な頭痛や吐き気と付き合ってあげてもいいかな、なんて考えてる杏がいる。

 ほんと、取り返しがつかないくらいばかだ。

 そんなことを考えていると、杏の喉から変な音が鳴って、胃が不自然に震えた。唾液が酸っぱくなって、ヤバいと考える前に胃の中のものが出てしまった。

 さすがにお昼に食べたものは消化されてるから、出たのは少量の胃液だけだったらしい。それでも酸っぱい臭いが辺りに充満して気分が悪くなった。

 ほっとくわけにもいかないけど、ちょっと動くだけでも体が悲鳴を上げる 今の状態でタオルを取りに行くのはしんどい。

 そこまで考えたところで、そういえばプロデューサーが杏の体を拭くように渡してくれたタオルがあったことを思い出した。携帯の明かりで枕元を照らすと、よく見ればポカリや水、タオルに薬、冷えピタに洗面器まで置いてあった。おでこに手を当ててみると、すっかり冷気を失った冷えピタがかろうじて貼り付いていた。

 ……どうして、ここまでしてくれるの?

 杏が初めての担当アイドルだったから? 一人にしといたら野垂れ死にそうだからほっとけない? それとも、誰にでもこんなに優しいの?

 プロデューサーの気持ちがわかんないよ。

 嫌いなら嫌いって、ちゃんと言ってよ。じゃないと、ばかな杏は、希望を抱いちゃうじゃんか。

 タオルと水でフローリングを拭いて、布団を頭まで被って胎児みたいにうずくまる。靄がかかったみたいにまとまらない頭で、ぐるぐるとプロデューサーのことばかり考えてると、いつの間にか眠っちゃってたらしい。

 また、あの日の夢を見た。もうやり直せない、幸せだった頃の夢を。




・・・・・・



 メールで来なくていいって伝えたのに、次の日もプロデューサーは杏の家を訪れた。

「熱は……37度8分。結構下がったな」

 わしゃわしゃと杏の頭を撫でるプロデューサー。お風呂入ってないし汗がすごいから、あんまり触らないでほしいんだけど。

「下がってなかったら病院に行こうかと思ってたんだが、もうちょっと様子を見てもいいかもな。杏は病院嫌いだし」

「インフルエンザだったらどうしてたんだよ」

「うちの事務所が大惨事になってただろうな。まあ俺が気がつかなかったら杏が危なかったわけだし、俺はそれでもよかったが」

「そういえば、なんで杏の体調が悪いってわかったの?」

「あー。まあ、勘だよ」

 絶対嘘だ。この人は真剣なときにはまっすぐ目を見てくるくせに、嘘ついたり誤魔化したりするときはかなりあからさまに目を逸らすから。

 気になるけど、言いたくないなら追及しないけどさ。

「気分はどうだ?」

「結構よくなったかも。まだだるいけど、吐き気とかはないよ」

「喉は?」

「結構痛いけど、昨日よりはマシかな」

「悪かった」

 びっくりして、思わずプロデューサーの顔をまじまじと見つめてしまった。

「なにが?」

「杏の不調に気づけなかったことだ。最近は仕事を詰めすぎていた。あれじゃ体を壊しても無理はない」

「そうそう、プロデューサーの体力を基準にしないでほしいね。プロデューサーは怪物なんだから」

「ただでさえ杏の体はこんなに小さいんだ。あんまり優秀だから時々忘れてしまうが、お前はまだまだ子供なんだ。だから辛かったら辛いって言っていいんだぞ」

「子供である前に社会人でしょ。休みたいから休むなんて、簡単じゃない」

「逆だ馬鹿。社会人である前に子供なんだ。杏が本当に辛いなら、俺がどうとでもして休ませてやる」

「さんざん杏を振り回した人の台詞とは思えないね」

「杏なら大丈夫だと思ったからな。今までずっと一緒にやってきたんだ、杏が本気で嫌がってたり辛そうだったらわかる」

「ずっと、いっしょに……」

「最近は、あまり会えなくて加減がわからなかったが……いや、これは言い訳だな。とにかく、本当にすまなかった」

「じゃあさ」

 杏はプロデューサーのスーツの裾を掴んだ。プロデューサーは目を丸くして、杏の顔を正面から見つめる。

 このときの杏は、どうかしてた。熱に浮かされてまともな思考ができなくて、だからこんなことを口走っちゃったんだと思う。







「ずっといっしょにいてよ。これからはアイドルとしてじゃなくって、ひとりの女の子として、ずっといっしょに」






 顔から火を吹きそうなくらい恥ずかしいことを言ってしまった。言ってしまったからには、もう取り返しはつかない。天国か地獄か、すぐにハッキリしてしまう。

 それが怖くて今までずっと先のばしにしてきたのに、一時の気の迷いで、思わず告白してしまった。これでもう、後戻りは完全にできなくなってしまった。

 プロデューサーはしばらく、強張った表情で固まっていた。かなり長い間見つめあっていたような気がする。プロデューサーのまばたきひとつにさえ、心臓が止まりそうなほど緊張した。

 その時、プロデューサーの大きな手が、スーツの裾を掴んでいた杏の手に重なった。

 胸が高鳴る。

 そして。






「……すまない」






 ぐしゃり。って、杏の中のなにかが崩れる音がした。

 プロデューサーの手が、杏の手をスーツから引き離す。手が触れたことに一瞬でもときめいた杏がばかだった。

 まあ、でも、予想通りだったけどね。

 第一印象って大事だと思うし。杏のグータラが嫌いだったんなら、杏といっしょにいた今までずっと、プロデューサーは我慢してやってきたってことになるんだからさ。たかだか3ヶ月自立したからって、だからなに? って感じだし。

 むしろ、今までみたいに中途半端に希望がある方が辛いっていうか。だからこれでようやくすっきりしたって感じ? これで、ようやく全部……



 全部、終わっちゃった。




「あ、杏?」

 杏がよほど絶望的な顔をしていたのか、それとも涙腺が壊れたみたいに滂沱と涙を流す様子が異様だったのか、プロデューサーが心配そうな、いや、むしろ不安そうな顔で杏に手を伸ばす。

 その手を。今日まで杏のことを優しく撫でてくれた温かい手を、部屋中に響くくらい強く叩きのけた。

「……てけ」

「杏?」

「出てけっ!!」

 プロデューサーの体を思いっきり突き飛ばす。非力な上に弱ってた杏に押されたプロデューサーは、けれど呆気なく尻餅をついた。

「でてけっ! でてけ! でてけぇ!!」

 手当たり次第に物を投げつける。ポカリ、洗面器、スタドリ……全部、プロデューサーが杏のために買ってきてくれたものだった。

「杏っ! 落ち着け!!」

「でて……けほっ! ゲホッ!! ……で、てけ……でてってよぉ……!」

「わ、わかった。出ていくから、だから落ち着いてくれ、杏……」

 プロデューサーは広げていた書類をかき集めて、逃げるように杏の家を飛び出していった。

 完全に終わった。

 最悪だ。勝手に告白して、勝手にキレて当たり散らすなんて。人として最低のことをしてしまった。

「うぶっ……うぇぇっ」

 多分熱のせいじゃない吐き気に襲われて、プロデューサーが杏のために作ってくれたうどんを吐き出してしまった。

 こんなんじゃ、絶対にアイドルなんて続けられない。プロデューサーが別の人に変わったって、今まで通りのパフォーマンスなんて出来るわけがない。

 今日、杏は女として、アイドルとして終わったんだ。

「うぅ……うわあああああああん!!」

 そこからの記憶はほとんどない。気がついたら瓦礫の山みたいになった部屋の真ん中で、布団にくるまって震えていた。

 そしてそのまま、プロデューサーとも音沙汰なしで丸2日が過ぎていった。




ちょっと休憩。

暖かいコメントありがとうございます。


>>37

画像ありがとうございます! 

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