【モバマスSS】二度咲く氷華 (19)

モバマスアニメの世界観の三十五年前を妄想したSSです。

妄想ゆえに公式と辻褄の合わないところが至る所にあるかと思いますが、
パラレルと思い一つよろしくお願いします。

そういうのがダメな人は閲覧注意で宜しくおねがいします。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1481418653

1981年のあの忘れられない冬、

私はロシアのドモジェドヴォ国際空港にいた。

当時はまだソビエト連邦だったあの頃、時は冷戦真っ只中である。


日本とソ連の間の行き来はそれほど盛んではなかった。

当然日本人の影は疎らで有り、空港内でも擦れ違う乗客達にも随分と奇異の目で見られたものだ。


ヒソヒソ話をされながら遠巻きに眺められるなど良い方で、遠慮の無い子供などは私に向けて指差しはしゃぎ立て、
若い母親に窘められながら腕を引かれていく。

杖を突いた老婆が強い訛りで私に非難の声を挙げて来たのには閉口した。
どうやら先年日本がボイコットしたモスクワ五輪の不満を私にぶつけているらしい。

私は下げでもの頭を老婆に向けて下げ、謝罪をし、慌ててその場から逃れた。


そんな思いをしてまで私がソ連に降り立ったのには、ある理由があった。

当時の私は老舗の芸能プロダクション、346プロに入社したばかりの駆け出しのプロデューサーだった。

数々の歌手や名優を輩出した346プロだったが、その当時経営は多少の行き詰まりを見せ、
上層部は経営方針の転換を迫られつつあった。

その理由の大半は、前年にデビューした一人のアイドルの少女の存在だった。


松田聖子――30余年を経た現在でも、彼女の事を知らない人間の方が少ないのではないだろうか?


今でも伝説のアイドルとして抜群の知名度を誇る彼女だが、
当時も愛らしいルックスと抜群の歌唱力で、デビュー間もなくからオリコン一位を独占し、その影響力で一世を風靡した。

彼女の強力な輝きによって、ピンクレディーや山口百恵が引退した後、
衰退するかと思われたアイドル業界は一気に芸能界のメインストリームにまで引上げれらつつあったのだ。

そして彼女の後を追うかのように、二匹目のドジョウを求めて、
芸能各社は各自自慢の新人のアイドルを育て、デビューさせようと画策していた。



後に、花の82年組と呼ばれた彼女達は、いずれも眩いばかりの才能の片鱗を見せ、
遠からず芸能界はアイドル黄金期を迎えるのは誰の目にも明らかだった。


老舗を自認していた346プロとしても、その流れに静観してはいられなかった。

幹部から現状維持を望む根強い反対意見はあったものの、
アイドル部門を新設する案が持ち上がりはじめたのも当然の成り行きと言えるだろう。

しかし、老舗の意地がそうさせたのか、単純に他者の後追いになるのを老舗のプライドが許さなかったのか、
今から日本国内でアイドルを発掘していても間に合わないのではないか、という意見が会議の多数を占めた。


そこで持ち上がったのが、海外から外国人の少女を連れて来てアイドルとして売り出す、と言う案だ。


70年代にもアグネス・チャンの様な成功例もある。
海外から連れて来て、そのインターナショナルな魅力で売り出すべきだ、と会議は一決した。

そこで、比較的若いプロデューサーたちが、それぞれ海外にアイドルを発掘、スカウトするべく派遣された。

1人はアグネス・チャンを見出した台湾へ、

もう1人は国交正常化してまもない中国へ、

さらに1人はヨーロッパ、そして他の1人はアメリカへ…


そんな同僚たちの中、私は1人、ソ連の地に降り立ったのだった。

ロシアを選んだのは特に理由はない。


たまたま大学でロシア文学を専攻して少なからずロシア語が話せた事、

そして何時だったか…、大学での研究中に見た資料に出てきたロシア人の少女達の美しさが頭に残っていたからだろうか。


ロシア人というのは少女の頃は妖精の様な美しさを誇っている。

まぁ、年を取るごとにある人は太り、ある人は老けていく傾向にはあるが…。


とまれ、是非あの現実離れした美しさを日本のアイドル業界に持ち込んでみたい、と考えたのだった。


そんな思いを抱えながら入管の審査を受けていると、私はしばらく待たされた後、
強制的に空港の別室へと通された。


そこで私の思いは余りにも浅はかだったと思い知らされた。


どうやら、ただでさえ珍しい日本人なのに、入国の理由を尋ねられた時に、
馬鹿正直に

「日本でアイドルとして売り出す少女を探すため」

などと答えてしまったのが理由らしい。



今現在、歳を経たからこそ分かるが、自分の若い頃の過ちに目を覆いたいばかりである。


当時のソ連でアイドルなどと言う概念が伝わる訳がない。


精々伝わったところで、日本で見世物にする少女を漁りに来た女衒まがいの人物、だと思われたのではないだろうか??


そして悲しい事にそれはあまり間違っているとは、言えなかった。


入管の一室で赤ら顔の大男たちに囲まれて、入国の本当の目的を厳しく追及された。

誤解だと弁明するが全く彼等には伝わらない。

言葉が解っていても価値観が違うとこうも話は通じないものか、と、私は絶望を覚え、
全てを諦めて日本に帰りたくなった事を覚えている。


しかし、この誤解が解けないと到底帰国などさせてもらえそうにもない。


下手をすると拘留もあり得る勢いだった。

そんな最悪の想像が頭をよぎり始めた時、部屋に一人の黒いスーツの男が入って来た。


彼は周りの空港職員を手慣れた様子で部屋から追い出すと、
私の正面に立ち、流暢な日本語でKGBの職員で、エゴールと名乗った。


私はその挨拶を聞いて思わず目を見張ったのを覚えている。

スパイ小説や映画などでしか目にした事のないKGB、その職員が私の平凡な人生に関わり合いになる事があることなど、
その時まで私は想像だにしてなかったからだ。


彼は単刀直入に、

「君には少なからずスパイの疑いがかかっている、国際問題にはしたくはないし、
確証が無いため入国は拒否しないが行動には制限をつけさせてもらう。具体的には私が君に同行する。
安心してくれ、私はジュードーを覚えるために日本にも留学したことがあり、親日家を自負している」

と、一気に捲くし立て、笑いながら私の肩を叩き握手を求めて来た。

私は日本人特有の愛想笑いで応じる。

しかし、握手を返した所で気が付いたのだが、エゴールの目は全く笑っていなかった。


私はその目を見て、身体の底から心底震えあがったものだ。



とんだ同行者が出来てしまい先行きが暗澹としたが、彼は車を出してくれたし、
案内もしてくれたので、正直に言うと助かった点もある。

エゴールに、これから何処に行くのだ、と尋ねられたので、
私は前もってアポイントを入れていたボリショイバレエアカデミーに行ってくれ、と伝えて、彼の車の助手席へと乗り込んだ。


ボリショイという世界に名だたる場所のアカデミーと言うから、きらびやかで豪華なイメージを抱いていたが、
驚いた事に、いたって質素な建物だった。

場所も分かり難い場所にあり、案内が無ければ辿り着けなかったかもしれない。


しかし、職員に案内されて内部に通されたと後は評価が一変した。

ソ連中から集められた美少女達が、最高の環境で育てられている事が理解できる圧倒的なその練度。

代表で私に踊りを見せてくれた少女など、私の拙いバレエの知識ではトップのダンサーと全く区別がつかなかった。

後に聞いたところによると、彼女が世界に誇るダンサーとなるガリーナ・ステパネンコだったのだから、
それは仕方の無い事だなったのかも知れないが…。


そんな完璧な彼女達を眺めながらも、私は何処か冷めた目で見ていた。

私は彼女達には驚嘆しながらも、彼女たちはアイドルにはなれないな、と既に見切りを付けていた。


何故なら彼女達はあまりにバレリーナとして完成しつつ有り過ぎたのだ。


そう、例えるならば和菓子の品評会に精巧な砂糖細工で飾られた洋菓子を見せるような、
そんなそぐわなさ……


喩え日本に連れて来てアイドルのオーデションに出しても、全く噛み合わずに終わるだろう。

一か八か、彼女達を日本に連れて行ったとしても、アイドルにしても大成するのは難しい。

私はそう思い、この場所でアイドルを見つける事を諦めつつあった。


そして、立ち去ろうとしたその時、そんなバレエ室の片隅で彼女を見つけた。


初心者クラスなのだろうか??

隅の方で各々練習をしている初々しい様子から、まだバレリーナと言うよりは少女の雰囲気を残した一団の中に彼女はいた。

集団に埋もれていてもどことなく目を引く佇まい。

練習後の柔軟を終えて、立ち上がり、後ろに纏めていた髪を解いたその腰まである銀髪。

思わず見とれていた私の目を見つめる、鋭くも優しげな青い瞳。

私は一目見て彼女に心を奪われた。


それがアンナ。彼女と私の出会いだった。




その後、場所を変えて彼女と話し合うことになった。

今考えてみれば片言の言葉で熱心に話しかけてくる得体の知れないアジア人に、
教師の紹介があったとは言え、よくついてきてくれたものだと思う。


後ろには得体の知れない黒スーツ姿の男までいると言うのに。


その後、打ち解けた後にその事を彼女にその事を聞いてみたら、彼女は微笑みながら、

「貴方、顔が必死だったんだもの、ついていってあげなきゃ可哀想だなって思ったの、
それに悪い人じゃなさそうなのは顔をみて分かったから」

と、全てをお見通しと言わんばかりの澄んだ青い瞳で見つめながら、答えてくれた。


そんな彼女の思惑など露も知らず、当時の私は必死になって、彼女にアイドルになって欲しいと捲くし立てた。

今考えてみると、彼女には話の10分の1も伝わっていたかどうか怪しい。

それでも話に興味を持ってくれた事だけは伝わってきた。


美しい四季の有るニッポン。

そこで求められる歌や踊りの仕事…。

夢見る様な表情で行ってみたい、と呟いてくれた。

しかし、その上で彼女は話を断ってきた。

彼女いわく、不景気で父は仕事がなく母は病気がちで幼い兄弟もいる、
自分だけ海外に行く事は不安だし不可能だ、と私に告げた。


一礼して立ち去る彼女を見送りながら、私は自分のスカウトとしての闘志に火が付くのを感じていた。

一度断られたからと言って諦めるようではアイドルのスカウトは務まらない。
一度でダメなら二度、二度でダメなら三顧の礼。粘り強さが肝心である。


今現在、私も部下を持つような地位に就いているが、この事だけはしっかりと伝えて来たつもりだ。

翌日から私のアンナに対する日参が始まった。

家の前で待ち伏せされるのは気味が悪いだろうから、彼女の家からアカデミーまで
二つ角を曲がった通りで朝早くから彼女を待つ。

彼女がやってくると声を掛け、驚いた顔の彼女に軽い誘いを掛けながら、世間話をしつつ
アカデミーまで歩く。

保障の問題も有り、少しなら仕送りも可能だという具体例を提示しつつ、
アカデミーまで着いたらしつこくならない様に、彼女に軽く手を振り見送る。


後は近くのカフェで待つ。ひたすら待つ。彼女が何時出て来ても対応出来るように。


彼女が出てきたら自然に今来たように声を掛け、これまた驚いている彼女を送りながら帰宅。

せめて話だけでも、と勧誘をしながら、朝の通りまで来たらしつこく食い下がらずにスッと別れの挨拶をして立ち去る。


ひたすらこの繰り返しである。


今、この方法を使うと何かと五月蠅い世の中なので、ストーカーと間違えられる可能性が大である。


なので、あまりお勧めは出来ない。

私の部下でも一人、最近スカウトに熱が入りすぎて警察のご厄介になりかけた若手が一人居る。


しかし、この当時はストーカーと言う言葉もなかった時代で、こう言った手法は情熱的とすら言われたものだ。

生き難い時代になったものだと思う。



その行動を一週間ほど続けた。

同行するエゴールが、

「君が何れかの組織のエージェントである事を確信したよ、恐るべき忍耐力だ」

と、呆れる様に私に言ったのを今でも覚えている。

 
KGBのお墨付きを頂けたアイドルプロデューサー等、古今東西私くらいのモノだろう。


アンナも何時如何なる時でも待ってる私の熱意を感じ取ってくれたのか、次第に態度を軟化してくれ始めた。
私の熱意を感じ取ってくれたのだと思う。

今なら不気味がられて警察に通報されかねないと思うが。

生き難い時代に(ry



それから帰りにはカフェに付き合ってくれるようになり、多少話をするようになった。
少し離れた場所に座るエゴールがすこぶる邪魔だったが、アンナとの会話はスカウトを抜きにしてもとても楽しかった。

そのうち、アーニャと愛称で呼ぶ様に言われるようになった。
その時は、彼女に特別な意図はなかったのだろうが、その日は小躍りで帰ったのを覚えている。

日本人の男なんて、今も昔もちょろいもんだ、と言う訳だ。


アーニャは年頃の少女らしく、日本の女の子のファッションや食べ物の話を聞きたがり、
私はそれにたどたどしく答えながら芸能界の話をそこに織り交ぜていく。

彼女はその話にも嫌悪感を示すことなく、真剣に話を聞いてくれ、どのような歌があるのか
どのような人が人気があるのか、私に重ねて聞いてきた。

私はふと当時発売されて間もないウォークマンを持ってきていた事を思い出しながらバックから取り出し、アーニャにすすめた。

アーニャは恐る恐る耳にイヤホンをつけると、耳から聞こえる音楽に目を輝かせた。

今でも忘れない。旅立つ前にテープに入れた青い珊瑚礁を聴きながら、鼻歌で歌う彼女の姿を。

一度しか聴いていないにも関わらず、彼女が店内に響かせたハミングは、
期せずしてカフェの店中の視線を彼女に集めた。

曲が終わると、誰からとも無く拍手が巻き起こった。
驚いた事にエゴールまで拍手している。

そこでようやくイヤホンを外したアーニャは、ようやく周りの様子に気づき、顔を真っ赤にして俯いてしまった。


私は益々彼女の成功を確信した。


翌日からアーニャは私からレッスンの真似事を受けるようになっていた。

アーニャの歌声は元々素晴らしいものが有ったが、振り付け等のの上達も驚くほどに早く、
早くも日本式に馴染み始めた彼女に、私は益々彼女は逸材、との思いを強めた。


そんなある日、私が自宅で第一回目の調査レポート(無論、エゴールに検閲された)を、日本の本社に送り届けるために
書き上げ、最後の推敲を重ねていた。

このレポートさえ日本に渡ればアーニャは日本に渡れるだろう。

そして、彼女をトップアイドルに導いてあげる事が出来たら、どんなにも素晴らしい事か。

その思いが私の作業のスピードを加速度的に速めていた。


しかし、その途中で部屋のドアから、ドアノッカーの鈍い音が数度、響いた。


一体誰だ、せっかく気分よく作業してるのに。

 
そんな思いで頭を掻きながら、ぶっきらぼうなロシア語で答えながらドアを開けると、

そこにはなんと私の歌姫、アーニャが佇んでいた。

吹き抜けの廊下は風も入り身を切るほど寒い。
私は詫びながら彼女を室内に招き入れ、温かい飲み物を入れた。

暖炉のすぐ傍に腰かけるアーニャの表情は極めて優れない。私は先程の態度が不味かったのかと思い、重ねて謝ったが、
どうやらそれが原因では無いようだ。

只事ではない様子のアンナに飲み物を渡しながら、彼女がポツリポツリと語り始めた話を聞くと、
定職を持たないアンナの父が街角で歌うアンナの歌声を聞きつけ、
とある党の上層部のお偉方が主催する、歌姫コンテストに応募して来てしまった、と言うのだ。

最初に聞いた時には何の感慨も無かった。

そんなコンテストがあるのだな、アーニャの歌声ならば楽に優勝できるだろう。

そうすれば日本でデビューする時にも良い箔が付くかな、等と、そう、呑気に考えていた。


しかし、私が次にアーニャから聞いた言葉は、私を間違いなく絶望のどん底に突き落とした、と言っても過言ではなかった。

歌姫コンテストとは名ばかりで、その内実は好色家の上層部が、自分の為の妾を探す為の品評会にすぎない、
と、アーニャは青ざめた顔で語ったのだ。

私はその瞬間、怒りで目の前が真っ赤になった。

妾だと、ふざけるな、こんな幼気な少女を己の性欲を満たすために囲おうと言うのか、
私は義憤に駆られて思いつく限りの罵倒の声を党に向けて浴びせた。

建物が古さの割に堅牢な作りで良かったと思う。

近くで待機しているエゴールに聞こえでもしたら、逮捕拘禁では済みそうもない内容だったからだ。



人間をまるで歌うカナリアを選ぶかのように見比べる。その醜悪さに吐き気が込み上げて来た。

私はこの瞬間から、どことなく親しみを持っていたソ連と言う国と、社会主義を完全に見限ったと言っていい。


当然私は、アーニャに不参加を進めた、今、自分が書いてある書類を日本に送れば、君は日本に行ける。

一緒に日本に行こう。そして共にトップアイドルを目指そう!! 


私は彼女に手を差し伸べながら、力強く、そう言った。

アーニャは一瞬嬉しそうに、しかし、悲しそうな表情に戻り、静かに首を振った。

何故と厳しく問い詰める私にアーニャは、

「アイドルにはなりたいわ…、でも、貴方の話によると、すぐ行ってすぐなれる程甘い世界ではないんでしょう??
 私がお金を稼げるようなアイドルに慣れるまで掛かる時間は?一年?…二年??」


確かにアンナ程の逸材とは言え、デビューにはまだまだ足りないところが多すぎる。


少なくとも一年程は練習生で経験を積むことになるだろう、その間は確かに満足なお金は稼げない。


私がそう告げるとアーニャは、

「お妾さんに選ばれると、少なくとも来月からは食べる事は心配が要らなくなるわ。お手当も頂ければ、家族も潤うの。
ごめんなさいね…、私は家族を食べさせて行かなくちゃいけないの……」

私に語りながら覚悟を決めたのか、部屋に入って来た時の不安そうな顔はすっかり影を潜め、
その表情は諦めながらも、何処か力強い、大人の女性に変っていた。


私はそれでも諦めきれずに説得をつづけた、目には涙すら浮かんでいたかもしれない。


しかし、それでも彼女の決意は変らなかった。


日本で送る、送らざるを得ない研修期間は、寒いロシアで待つ家族には辛すぎるのだ。


結局、彼女は遥か先に見える栄光より、明日のパンとウォッカを選ぶことにした。……その身を捧げて……。


話し終わった後、アーニャは外に出る身支度を整え終えると椅子に腰かけ深く項垂れている私の頬を掴み、
一言、声を掛けると、そっとその芸術品のような桃色の唇を、私の冬の寒さに乾き、罅割れた唇に重ねて来た。

アーニャはその後、日本語でサヨウナラ、と背中越しに私に声を掛けると、
そのまま一度も振り向きもせずにドアから出て行った。


呆然と座り込む私。 この時程自分の無力感を感じたことは、現在まで一度足りとも、無い。


最後にアーニャが言った言葉は―― いや、止めておこう。私の心の中だけに秘めて墓場まで持っていきたい。


私が死ぬ時には、棺の中にはその言葉だけを胸に抱いて逝こう― 私はあの時、そう決めたのだから――



私は翌日から安酒場で飲めないウォッカをチビチビやりながら、泥酔寸前でカウンターに突っ伏す毎日を送っていた。

アーニャ程の逸材など考えられない今となっては、一刻も早く日本に帰るべきだったのだろう。

しかし、歌姫コンテストにアーニャが落選するかもしれない。

そんな一縷の希望を求めて、私は未練がましくソ連にしがみついていたのだ。


そんなある日、何時ものエゴールが極めつけのバッドニュースを運んできた。

アーニャは歌姫コンテストに合格し、莫大な支度金と共に党の役員の別邸に移ったとの事だった。
通り二本向こうの飲み屋では、アンナの父親がその支度金の一部を使ってえらい羽振りらしい。


全ては終わりを告げた。


私が実は、このエゴールの向こうを張るような組織の敏腕スパイとでも言うのなら、
別宅から彼女を救い出し、日本に連れ出す映画の様な事も出来るだろう。


しかし、私は無力なただの一般市民の日本人だ。
私に出来る事は傷を抱えてこの国から立ち去る事だけだ。


私はエゴールにその事を告げると、彼は深く頷いて賢明だ。
君は正しい選択をしている、とこの国に来て初めて褒めてくれた。


明日には立つ、見送りはいらないと彼に告げると、彼は無言で手を差し出してきた。

その握手に応じると、今度は、はにかんだ表情で笑った目を見せ、

「この国での出来事は君にとっては辛い事が多かったろう…、また来てくれ、とはとても言えない。
 だが、我々としても、これ以上この国の腐敗をただ見過ごしているわけでは無い。
 今は小さい種火だが、何時かは時世を変える大火となるかもしれん。その時君は、またこの国に来てくれるだろうか??」

そう告げたエゴールに、私は日本人特有の曖昧な返事で応じた。


例え、この国がどう変わろうと、私の胸に深く刺さった刺は、この雪深い国に足を向けさせはしないだろうから……。



そして私は最後に、エゴールにアーニャの父親が飲んでいる酒場の場所を尋ねた。

その言葉にエゴールは全てを察したのか、その酒場はトイレに裏口から入れる事、アーニャの父親は支度金を使い込んだのか、
分不相応な豪奢な服装をしているので、すぐに分かるだろう、と言う事を含み笑いで告げた。

私はエゴールに感謝の言葉を返すと、件の酒場の裏から入り、マフラーで顔を隠し、据えた臭いのする便所の個室で
三十分ほど待った。

そして遂に待ち人は現れた。豪華なスーツに酒瓶を抱え、赤ら顔でフラフラになりながら小便器に向かっていった。

最初はその顔をみるだけで済まそうかと思った―

しかし、娘を妾に売り飛ばしたその日に服を新調し、ご機嫌で酒を煽る、
その姿を見ただけで、当時の私の青い思考回路は怒りで真っ赤に染まった。


ロシア語で、「やぁ、おじさん」と務めて冷静に話しかけた。

その時、こちらに胡乱な表情で振り向いた、だらしのない酔顔、その中心に向けて――思いっきり拳を叩きつけた。

アーニャの父親はそのまま壁際まで吹っ飛び、放出途中だった小水は噴水の様に上に挙がり、その一張羅をずぶ濡れに濡らした。


私は汚い酒場の便所の床で蹲るアンナの父親の横を通り、酒場の裏口から出て、荷物を取り、そのまま日本から出国した。


出国ロビーを出る時に最後に振り替えると、見覚えのある黒スーツがチラッと見えたのには感心したが。




こうしてわたしのロシア出張は、苦い経験と心の傷だけを抱えて戻ってくる大失敗に終わった。

さぞ上司にドヤされるかと思いきや、他の国に向かった同僚たちもそれほど芳しい成績は残せなかったようで、
上司達の深いため息以外には、これと行った雷は落ちなかった。

しかし、当然問う言うべきか、アイドル部門設立の話は凍結。



いつか先の時代に持ち越しと決まったのだった――



そして三十五年後、すっかり私も年齢を重ね、中年を通り越して老年に入りつつあった。


もう数年でお役御免―― そんな時に、社の方針で再びアイドル部門設立の話が持ち上がったのだった。

若い頃に経験した苦い思い。 その思いが私をアイドル部門に足を向かわせたのかもしれない。

その日の内に希望を出し、内々に話の合った役員の話を蹴り、今、私は新設されたらアイドル部門の部長と言う肩書だ。


「今西部長…」


頭の遥か上から聞こえる重低音ボイス、私に声を掛けて来た見上げるような長身の彼は武内プロデューサーだ。

アイドル部門のプロデューサーの一員で私の部下に当たる。

見た目が強面なので良く勘違いされるが、心の中では熱いモノを持っている好青年だ。


しかし、その思いが空回りをして、彼もまた手痛い失敗を犯してしまった。そう、まるで昔の私の様に…。


その後、彼はまるで歯車の様に回された仕事をこなすだけの有様になってしまったが、
それだからこそ、私は彼を見守り続けていた。


何時か立ち直って、きっとまた昔の様な熱い男に戻ってくれるに違いない。そう期待を掛けて……。


それは遂に思いを取り返せなかった私が、彼に勝手に押し付けている感傷に過ぎないのではないか――

私は何度もそう思い、自己嫌悪に陥っいた事もある。


しかし、ここ最近彼は新たにスカウトしたメンバーを中心に、新たなユニット設立の計画に動き出し、
見るからに昔の生気を取り戻しつつあった。


そんな彼を見るのは何より喜びであり――

成せなかった自分の傷跡の痛みを確認する、自分の罪を再確認する贖罪でもあった――


「何かね、武内君」

「新しいプロジェクトの追加メンバーが決まりましたので、目を通しておいて頂きたいと思いまして……」

そう言いながら彼の手から両手で丁寧に差し出された書類の束には、アイドル達の写真とプロフィールが書かれていた。

捲りながら一人一人確認していく。

皆、可能性に溢れた素晴らしい子達だ。

彼女たちならば、きっと彼の止まっていた歯車を動かし、12時の鐘を高らかに鳴り響かせてくれる事だろう。

そんな事を考えながら書類を見ていくと、ひとりの少女のページで私の手はピタリと止まった。


いや、比喩でなく心臓まで一瞬動きが止まったのかも知れない。


そこには35年前、あのロシアで別れたアーニャが居たのだった。


似ているというレベルではない。正に瓜二つだ。


印象的だった腰まであった髪は短く切りそろえられていたが、あの印象的なすべてを見通すような青い瞳はそのままだ。

姓は違う――しかし疑いようも無く、彼女の血縁だろう。

名前はアナスタシア…なんと愛称はアーニャらしい。

アナスタシアの愛称はたしか、スターシャだった筈だ。

自分の眼を、そして思いを受け継ぐ少女にアーニャが自分の愛称を送った、と言うのは穿ち過ぎた考えだろうか――??

いずれにせよ、彼女の娘か孫娘か―― 

その遥か昔の思いが、遂にアイドルとしてこの地を踏ませたのか――


私は震える様な思いで、知らず、強く書類を握りしめていた。


プルプル震える私に不審に思ったのか、武内君が、


「今西部長……どうか、されましたか??」と、不思議そうに尋ねてくる。


「い、いや、何でも無いんだ……、ところで、この子の歌のデーターは有るのかい??」


と、さりげなく聞いた。


「はい、こちらの媒体に他の候補者と一緒に入れてありますが……」


と、武内君は鞄から媒体を差し出してきた。


「少し、確認したいのでちょっと借りるよ、後で持っていくから」

「はぁ…何か気になるようでしたら、本人を呼びますか??」


そう言われて私の心臓は早鐘の様に鳴る。

会えるのか、この私が??

35年前にアーニャを見捨てた私が、この少女に――


その一瞬では答えは出なかった。いや、幾ら考えたとしても答えが出る訳がない。


「いや、やめておくよ。気になるのは彼女本人では無いし、ね」


嘘は付いていない。

だからこそ自然に言えたその言葉に、武内君は納得したのか、一礼すると自分の仕事に戻って行った。


私は自分のブースに戻り、席に着くとPCを操作し、媒体からアナスタシア、と書かれた名前のデータを起動した。


そこから流れ出てきた歌声は――日本語では有ったが――― 紛れもなく彼女、アーニャの歌声だった――


私が歌わせたかった日本の歌をあの声で―― 私はその歌を聞いて、知らず大粒の涙を流していた。

どれほど涙を流したとしても、この心の奥底に凍り付いた思いは溶けはしない。


そんな事は分かっている。


しかし、氷の上に付いたへばり付いた思いは、綺麗に流してくれたのではないか…、今では素直にそう思う。


まさに私が歌わせたかったアンナの歌だ――


コレからアナスタシア―― 彼女は、武内君の元でアイドルとしての才能を開花していくのだろう、

そして武内君はその過程でかつての思いを取り返すに違いない――

私が救いたかったと存在の生き写しの人物が、私が導きたかった存在を導いてくれる――


何という神の悪戯―― いや、こんな時くらい綺麗な言葉で言おう…。 奇跡なのか――


私の胸には、久しぶりに爽やかな風が吹いているように感じた。



冬来たりなば、春遠からじ



そんな言葉すら思い浮かぶ。


随分長かった冬だったことだ――、  


私はそう思いながら、流れてくる歌声に耳を傾けながら、一杯、お茶を啜った。



【完】





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