「セクサロイド? お前が?」 「そうじゃ、おかしいか?」(457)


「セクサロイド? お前が?」

「そうじゃ、おかしいか?」


怪訝な表情を浮かべる少年に、少女の姿をしたロボットが歩み寄る。

身長はなんとか140cmあるくらい、そのボディには男性の本能を刺激するほど目立った起伏は無い。

顔立ちも普通の少女と思えば充分に可憐だと言えるが、モデルのような絶世の美女というわけでもなかった。

人工的に造られるロボット、それも性欲の捌け口となるべきセクサロイドなら『顔も身体も非の打ちどころが無い美人』に仕立てるのが定石だろう。


少年はスラムで暮らす貧しい身。

セクサロイドを購入する金も、それを集めた娼館に行く事もない。

彼は仲間と手分けをして『最近現れる縄張りを荒らすチビ』を探すために廃倉庫地区へと入り、この妙な少女と遭遇した──


………


…10分前、廃倉庫街


「──誰かいるのか?」


倉庫と呼ぶにも小さな廃ガレージのドアを開け、呼び掛ける少年。

返事は無かったが、代わりにガタッという物音が『何者かが存在する』事を彼に教える。

ドアを全開にして中に光を取り入れると、女性と思しき声が響いた。


「来るなっ!」


彼女は服を着替えていた様子で、背中を露わにした状態でガレージの隅に立っていた。


「……野良ロボット!?」

「くそ、見られてしもうたか……」


シリコンの皮膚は人間のそれと区別はつかないものの、肘や肩・腰といった可動域の大きな関節には隙間があり内部パーツが覗いている。

そして彼女には、人間の管理下に置かれた登録済みロボットの証である『首輪』が無かった。


『見られてしまった』という言葉、危機を感じ歪んだ顔。

彼女は表情や感情を再現できるよう造られた人間型ロボットなのだ。

しかし現代ではそういったロボットはより人間の外見に近く、シームレスな皮膚パーツで覆われているのが普通だ。

故に彼女はかなり旧式の個体なのだろう……と、少年は思った。


「最近、四番街を荒らしてるのはお前か?」


少年は声の震えを悟られないよう努めて尋ねる。

野良ロボットは危険な存在、街頭のビジョンでも新聞でもそう謳われている事は知っていた。


「……野良を見つけて最初に問うのがそれか? 貴様さてはスラムの小僧か」

「答えろ!」


「荒らす、とは心外ぞ。儂が必要とする物は貴様らが盗む事を疑われるような物ではないからの」


自分を発見したのが一般人の少年だという事を察し、表情を和らげるロボット。

少年もまた、眼前の彼女が『言葉も通じない獣』ではない事にいくらかの安堵感を覚えていた。

彼は野良ロボットが危険な存在だという事は知っていても、それがどういう意味で危険なのかはよく解っていない。


「儂は確かに貴様らの街には行った。しかしそこで調達したものは水と衣類だけじゃ」


彼女は手にした白い布をひらひらと振り「それとも貴様もこれが要るのか?」と悪戯な口調で言った。

少年は最初その布が何か判らなかったが、彼女が服の裾からそれを穿こうとする動作で気づき咄嗟に目を伏せる。


「う、うるさい! 女物のパンツなんか穿くか!」

「お? 初心なんじゃの?」


彼女はそんな少年を見て、けらけらと笑っていた。


「盗んだものが水や女物の服だけだったとしても、縄張りで勝手な真似を許すわけにはいかないんだ」


気を取り直し、できるだけ毅然とした態度で少年は告げた。


「そうか……まあ、ここもそろそろ発とうとは思っておった。すまんかったの、小僧」

「逃げる気か?」

「そりゃあ逃げるわ、貴様は麓に降りれば儂の事を通報するじゃろう?」


野良ロボットは見つけ次第、そうしなければならない決まりだった。

通報を受ければ直ちに捕獲部隊が出動し、個体を確保する。

その後、捕らえられたロボットがどうなるのか少年は知らない。


「僕はお前を皆のところに引っ張って行かなきゃならない」

「ほう、貴様のような小僧がロボットを? 儂がどういうタイプかも判らないのに……か?」


野良ロボットが不敵に笑み、少年との間合いを一歩詰めた。

もし外観に反し彼女が戦闘タイプのロボットだったら、少年に勝ち目は無い。


「……いや、はったりはよそう。戦闘タイプと思われれば余計に危険視される」

「どういう意味だ」

「儂の運動性能はさして高くはないという事じゃ」


ガレージの出入口は少年の背後のドア以外にも側面に大きなシャッターが存在するが、床まで閉じられている。

たとえ鍵が掛かっていなくとも、それを開けるまでに少年がロボットを取り押さえる事は容易だろう。

運動能力に長けていないという言葉が正しければ、彼女には逃げ場が無い状況だった。


「率直に言おう、見逃して欲しい」

「それが通ると思うのか」


要望を即座に断る少年、野良ロボットは俯いて「そうか、仕方ない」と呟く。

そして数秒後、もう一度顔を上げた彼女は別人のように妖艶な眼差しで少年を見つめた。


「見逃してくれれば相応の見返りを払おう。その年頃なら嫌いではあるまい──?」


………


…現在


「──セクサロイドだとして、だから何だよ」

「決まっておる、儂の初の相手をさせてやると言っておるのだ」


言葉の意味を理解すると、少年は顔を紅潮させた。

相手はロボットだ、しかも服を脱げば見るからに機械感のある旧式のポンコツだ……彼は自分にそう言い聞かせ、冷静さを保とうとした。


「やめろよ、とてもセクサロイドなんかには見えないぞ」

「貴様、女も知らん小僧の癖に儂を愚弄するか」

「その通りだけど勝手に決めつけるな」


はだけかけた着衣の隙間から肌色の曲線が覗き、見まいとしても少年の視線はそこに吸い寄せられる。

しかしそのカーブはあまりにも緩く、ほぼ直線に近いものだった。

それは理性を手放すまいとする少年にとっては救いであり、彼を誘惑するロボットにとっては──


「だっておっぱいも壁みたいじゃんか!」

「む、胸の事は言うでないっ!!!」

「おかしいだろ! セクサロイドってもっと、こう…!」

「あー! うるさいうるさい! どいつもこいつも、そんなに大きいのが好きかあああぁっ!!」


──古傷を抉るコンプレックスだった。

そして彼女は誰が頼んでもいないのに、少年に対し自らの過去を語り始めた。


「……儂が造られたのは2038年、人型のロボット技術において次々と革新が起きた頃じゃ」

「2038年? 50年も前じゃないか、どうりで」

「どうりで何じゃ?」

「い、いや……」


少年が生まれるよりもずっと前、西暦2045年に日本の人口は1億人を切った。

ただしあくまでそれは人間の人口の話であり、その時代には既に様々な形でロボットの実用化が進んでいた。

家事ロボットが夕飯の買い物をし、無機質な工事用ロボットが道路のメンテナンスをしているのは当たり前の光景だった。


多くの人型ロボットには人間と同様の思考能力や表情を再現する機能が与えられ、外観的にはロボットだと判らない。

その時代、先進国における人間の生活には大きな変化が起こったのだ。


しかしその変化は、良い結果だけをもたらすものとはいえなかった。


それまでに進んでいた深刻な格差社会の形成、ロボットの活躍はその下層の人々に大きな打撃を与えた。

貧富構成のピラミッドにおいて土台を築く者達は『ロボットを投入するよりもローコスト』と判断されるような仕事にしか就けなくなってしまったのだ。

日本人が途上国の外人部隊へ出稼ぎに赴いたり、30~40代女性の死因の最たる理由が性感染症になるなど、今世紀初頭には誰も想像しなかったであろう事が現実となっていた。


そのような時代が生んだもののひとつが多数の孤児達、少年もその一人だ。

街には各所にスラム化したエリアが生まれ、貧しい者達や全ての孤児はそこに集まり自然と隔離されていった。


その後、2050年代に入るとロボット達の高効率な生産活動が軌道に乗り、食物の自給量は大幅に増す事となった。

スラムには食料の配給が行われるようになり、児童の死者数は激減する。

配給は栄養バランスの整えられた固形食品をはじめとした味気ないものだが、少なくともそれを食べていれば飢え死にする事はない。


ただそのシステムは『スラムの住人は政府に生かされているだけの不要物』というイメージを人々に植えつける副作用を孕んでいた。

中流以上の階級に属する者はスラムから目を背け、スラムに暮らす者は自己の価値を見失う。

そんな死者のように生きる日々から脱する事を望んだ者が、海外への出稼ぎや貧民街での身売りに己を投ずるのだ。


しかし子供達はまだ戦場に赴く事はできない。

多くの少女も、自らの身体に値札をつける事には踏み切れない。


ただ生きているだけの貧しい暮らしの中、横行する犯罪から身を守るために孤児達は自然とグループを形成するようになる。

そのグループ自体が窃盗などのケチな罪を働くようになってしまうケースも多いが、少年が属する四番街を縄張りとした一団はそうではなかった。

だからこそ四番街で悪さをする余所者を放っておくわけにはいかなかったのだ。


「儂は人間の表情や感情を完璧に再現できる革新的な量産型セクサロイドとして世に出た」

「いや、だからそもそもの見た目が……」

「初期ロットとして約100体が造られ、富裕層を相手に売られたのじゃ」


野良ロボットは自分のペースで語り続ける。

少年がその内容に興味を持っているかどうかはまるで関係ない様子だった。


「儂にもすぐに買い手がついた、まあ当然じゃな」

「異議あり」

「却下する。……しかし納品の日、客はその時になってメーカーオプションを希望したのじゃ」


そこで言葉に詰まったロボットは少し下を向き、拳を握り小さく震わせた。

今まで勝手に喋っていた彼女だが、その続きを言う事には躊躇いを感じているようだ。


「オプションって何の?」


少年は不本意ながら続きを急かした。

別に興味が出てきたわけではない、早く話を終わらせてこのコソ泥を仲間のところへ連行したいだけだ。

手分けをする時、仲間達と『16時には住処にしている廃ビルに戻ろう』と約束した。


「カタログで見たイメージ以上にバストが小さい、Fカップのオプションに変えてくれ……と」


しかし語られた理由はあまりに切なく、少年は小さく「うわぁ」と零した。


「そして数日後、部品交換のために一旦メーカーに送り返される手続きを待っていた時、悲劇が起きた」

「さっきのも相当な悲劇だったけど」

「ライバルメーカーから身体の稼動部に継目が無く、もっと身長が高く、脚が長く、最初から豊かな胸を備えたモデルが発表されたのじゃ……」

「痛たたたた」


暗い過去を語った事で彼女の口調は重く、少し断片的なものになった。

結果的に彼女は購入者からキャンセルされ、その後も数年に渡り売れ残ったのだ。

そしていよいよスクラップにするためメーカーに返品される運びとなった時、逃げ出して野良ロボットになったのだという。


「当時はまだ野良ロボットの危険性について、今ほど大袈裟には言われてはおらなんだ。それから今まで儂は居を移しつつ隠れ暮らしてきたのじゃ」

「野良ロボットって、なにがそんなに危ないんだ?」

「ん……? なに、知らぬなら気にせんでいい。単に点検も受けずに長くを生きたというだけの事じゃよ」


経緯を聞いた少年の中には、この野良ロボットに同情する気持ちが芽生え始めている。

よく彼は仲間から『甘い』と言われるが、それは本人にも否定できない生来の性格だった。


「本当に水や服しか盗んでないんだよな?」

「もちろんじゃ、儂は食い物は要らん。循環装置の水さえ補給できれば良い……不純物の多い水では駄目なのじゃが」


望まぬ経緯で野良になり、50年も独りで暮らしてきたロボットを今さら捕獲部隊に引き渡す事に、彼は気が進まなかった。

それに捕獲部隊も警察も、相手がスラムの子供だと判った時点でコソ泥ではないかと疑ってかかる。

彼としてもそのような大人達との接触は望む事では無い。


「……見逃してくれる気になったようじゃな、ありがたい事じゃ」


しかし少年は当初考えていた以上に廃倉庫地区の奥地にまで入ってしまっており、そもそも予定の時刻に戻る事は難しかった。

そこで更に時間を食ったのだ、帰りは17時さえ大きく回る。

『何事も無かった』と仲間に説明したところで理解を得る事は難しいだろう。


「……見逃しはしない、でも通報もしない」

「なに?」


スラムの住人の余所者に対する警戒心は強い。

しかし少年の属するグループの仲間は長く付き合えば気のいい者達だ、それは誰より彼が知っている。


「幸いお前は身長も顔立ちも、僕らの歳と変わらなく見える」

「……だからどうしたというのじゃ」

「みんなのところへ来てもらう。そうすれば僕も顔が立つし、許しが出ればグループに加わればいい」


ずっと独りでいた野良ロボット、群れる事は嫌うだろうと思いつつ少年は提案した。

何をバカな事を、彼女はそう言って一笑に付すに違いない。

そしてその返答は、やはり言葉だけを捉えれば思った通りのものだった。


「何をバカな事を、スラムの小僧共とはいえ野良ロボットを人間のコミュニティが受け入れるはずがなかろう。……なかろう?」


ただ彼女は何故か、その言葉の最後を疑問形とした。


「解らない。でも僕はそうするのも手だと思うし、みんないい奴だよ」

「儂が非力なセクサロイドじゃからといって、仲間全員で慰み者にするつもりではあるまいな」

「ば、馬鹿言うなっ! 仲間には女もいるんだぞ!」


ロボットの目に少年が嘘をついているようには見えなかった。

それにもし彼がそんな事を考えているなら、先ほど口封じのために彼女が迫った際も断っていなかっただろう。


「嫌なら無理に仲間になれとは言わない、でもみんなの前で事情は話してもらう。じゃないと僕が困るんだ」

「そうでなければ通報する……か」

「したくはないけど、僕も何があったかは説明しなきゃいけないしね」


少年自身は気にしてもいないが、彼は捕獲部隊に対する通報を『したくない』と言った。

彼の言葉は眼前のロボットを気遣ってのもの、少なくとも今は敵意では無い感情をもって話している事になる。


「……解った、従おう。どちらにせよ逃げる事は敵わんじゃろうしな」

「どっちだ? 単に事情を説明するだけか、できる事なら仲間に入りたいのか」


もし本当に彼らの仲間になる事ができれば、今後は人の来ない場所に隠れ潜む必要は無くなる。

50年間も逃げ延びてきた彼女だ、危険を回避する能力には長けてはいるが『隠れずとも紛れる事ができる』環境は、より安全かもしれない。

彼女が野良ロボットであるという点をスラムの仲間が受け入れた上で隠してもくれるなら、メリットは大きいだろう。

しかし今、彼女の胸中にあるのはそういった損得勘定だけではない。


「仲間に……入りたい」


ずっと孤独に生きてきた彼女は『寂しかった』のだ。

今までそんな意識を持った事はない、最も戸惑っているのは彼女自身だった。


「儂は受け入れて貰えるじゃろうか」

「だから解らないってば、でも僕もみんなに頼んでみるよ」


妙な事になったとはいえ、これで少年も仲間への言い訳が成立する。

彼はロボットである事を隠せるだけの服を着込んで自分について来るよう指示をした。

首や手首、足首といった目につきやすい部位には皮膚パーツの継ぎ目は無く、秋めいた今なら長袖を着込んでいてもおかしくはない。


「待たせてすまん、参ろう」

「うっ……」


少年は言われた通りに服を着た彼女を見て『着衣での行為が前提なのかも』などと想像してしまい、思わずぶんぶんと頭を振った。


………


…四番街付近


「──怪しまれてはおらぬじゃろうかの?」

「着込んでれば普通に見える、おどおどする方が怪しいよ」


通りは買い物や帰宅中の人が多い頃、もっともその内の半数ほどは首輪を着けられたロボットだ。

比較的新しい人型ロボットなら、もはやその首輪の有無以外はっきり人間と見分ける術はない。


首輪は10年ほど前までは政府から発行される地味なものしか着ける事を許されなかった。

しかし規制が緩和されてからは様々なデザインのものが市販されるようになり、今では専門店さえ存在する。

ただしそれらの市販品も政府機関による厳重な検査が行われ、取り付け作業はロボット管理局の認可工場でしか実施できないよう決められていた。


「いっその事、形だけでも首輪を着けられたらいいんだろうけどな」


少年は周囲に人がいないタイミングを見計らいつつ、小声で言った。

隣を歩くロボットは今まで人の多いところを堂々と歩いた事などないため、周囲の視線が気になって仕方ない様子だ。


「取り付け登録を行っていない首輪からも『未登録』の管理信号は発されておるし、勝手に着けても野良の目印になるだけじゃ」

「そんなの知ってるよ。ただ、そうすればお前も人目を気にしなくていいのになって」

「……まあ、そうじゃな」


少しの間を置いてから肯定の答えこそ返したが、彼女の表情は本心から頷いてはいないように見えた。


「──はい、買い物は終わりました。間もなく迎えに到着し帰宅いたします」


二人の向かいから、チェック模様の綺麗な首輪をした若い女性型ロボットが近付く。

片耳に着けたインカムで主人と通話をしているようだった。


「……いいえ、とんでもない。帰り道で坊ちゃんのお話を伺うのは私の幸せでございます──」


ロボットの首輪からは個別番号を割り当てられた『登録済み・未登録』いずれかの信号が発せられている。

それは街のいたるところに設置されたビーコンで監視されていて、どのロボットがいつ・どこを通ったのかは全て記録される仕組みだ。

現在ではロボットの体内にも識別情報の発信機を埋め込む決まりになっており、主要な道に配された複合ビーコンなら首輪の無いロボットも捕捉できる。

故に体内に発信機を持たない旧式の野良ロボットこそ、最も捕獲が難しいのだ。


「信号の出てない見せかけだけの首輪とかしたらどうなんだ?」

「パトロールの者は携帯式のビーコンを持っておる。首輪をしながら信号を出さない者など、すぐに肩を叩かれてしまおう」


先ほどと同じように、二人は周囲に人がいない時を狙って話す。

スラムまではあと少し、人通り自体も減ってきていた。


「……それに、儂は偽物の首輪を着けたいとは思わんよ」

「縛られるのは御免だって?」

「いや──」


「──儂もロボットじゃ。本当の意味で主人に首輪を与えられ、尽くす事ができたら……と思う」


彼女は口元だけの笑顔を作り「スクラップを恐れ逃げ出した身には到底無理な話じゃ」と続けた。

その笑顔はとても切なげで、少年はそこにロボットとは思えない人間臭さを感じた。


ほとんどの店舗が潰れてシャッターを下ろした商店街の入口には、錆びた看板に『四番街』の表示がある。

そこを入って二本目の角を右に折れれば、間もなく少年達が住処とする廃ビルだ。


食料配給は週に一度、水曜日の夕方に今の商店街入口で行われている。

少年は『今日が水曜じゃなくて良かった』と考えながら、廃ビルへ続く路地の曲がり角で野良ロボットに手招きをした。


いったんここまで


………


…廃ビル、1Fホール


「──本当に凶暴じゃないのか?」


グループの仲間の一人であるサブローが、少年が連れ帰った野良ロボットを訝しげに見ながら言った。

彼は少年より少し年上だが、ポジションの上下はほとんど無い兄弟分といった関係にあった。


野良ロボットを受け入れるか否か、それを協議するこのホールには普段そこに無い緊張感が漂っている。

メンテナンスがされなくなって久しい建物は細かな部分で老朽化が進み、1階の天井裏のどこかには雨水が溜まるようになっていた。

ホールの隅ではそれが滲んだ雫がいつも落ち続けており、沈黙が訪れる度その音だけが時を刻む。


「野良になった経緯も話しただろ。それに強かったら僕なんか振り切って逃げてるよ」

「ジロ兄ちゃん、夕方に出たきり今夜は日雇い現場の夜間作業だって言ってたしなぁ」


グループは少年を含めて六人、今『ジロ兄ちゃん』という名を出したのが末の弟分にあたるゴローだ。


※not本文

いかん、自分の環境では文字化けしてしまった


>ホールの隅ではそれがにじんだ雫がいつも落ち続けており、沈黙が訪れる度その音だけが時を刻む。


もし化けてたら↑です


「いいじゃない、私は女の子が増えるのは賛成だよ。ハナもそうでしょ?」

「チョーウケルー」


メンバーに女性は二人いる。

野良ロボットの同居に賛同したのが百合子で、もう一人が花子。

本人達は『ユーリ』と『ハナ』だと言い張っている。

百合子は少し気が強く、思った通りの内容を発言する事を辞さない。

花子はいつも百合子に連れ添い、にこにこと笑いつつ適当な相槌を打っている。

はっきりした歳は本人達にも判らないが百合子は15歳くらい、花子はそれよりひとつかふたつ上くらいだろう。


『ジロ兄ちゃん』と名の挙がったジローは現在、グループのリーダー的なポジションに就いており18歳と最も年長者でもある。

サブローとゴローの間に位置する少年の名はシローで、皆からは語尾を延ばさず『シロ』と呼ばれている。


それぞれ名前は、ここに仲間入りした時に適当に割り振られたものだ。

その名づけ親は今はスラムにいない初代リーダーのタローで、メンバーは『タロ兄ちゃん』と呼び慕っていた。

彼が最初に仲間に引き入れた二人に名前が無かったためジローと花子と呼ぶようになった、それが彼らの『適当な名づけ』の始まりだ。


「ねえ、名前はあるの?」

「名前……? 儂の事か?」

「そうに決まってるじゃない、いつまでも野良ロボットって呼んでるとかおかしいよ」

「SD-01という型式名ならあるが、それ以外は無いぞ」


それを聞いた百合子はいかにも嬉しそうに「じゃあ決めなきゃ!」と目を輝かせて言った。

シロは現リーダーであるジローを抜きに事を進めすぎては不味いと思ったが、既に彼女は『サクラ』や『スミレ』など自分達になぞらえた候補を挙げ始めている。


「野良ロボットなんだから『ノラ』でいいじゃん、喋り方も婆さん臭いし」


サブローもふざけ半分で名づけの協議に参加してしまい、ロボットの名前を決めるところまで話が進むのは確定的になった。


「だったら『ノーラ』にしよう! 私がユーリだからお揃い感あるし!」

「お前は百合子だろ」

「うっさいサブ」

「チョーウケルー」


野良ロボットは特に自分で意見をするでもなく、勝手に進む馬鹿騒ぎの行く末を見守っている。

せっかく名前を与えられるのに『野良』という単語をもじっただけのものでいいんだろうか……と、シロは少し不憫に思った。


「お前、嫌なら早めに断っとけよ? 決定されるぞ」

「ノーラ……か、儂の名はノーラ……」


百合子がちょっと恐るおそるといった調子で「嫌じゃない?」と尋ねる。

しかしロボットは大袈裟過ぎるくらい首を横に振り、満面の笑みで「嫌なものか!」と返した。


「儂の名はノーラじゃ、今ここでユーリにつけてもろうた!」

「やったあ! よろしくね、ノーラ!」


百合子と野良ロボット……ノーラは手を取り合い、ぴょんぴょんと跳ねて喜んでいる。

サブローは小さな溜息をつき、そんな彼女らを眺めていた。


「……よかったのか? サブロー、最初は怪しんでたじゃないか」

「さすがにあの様子見たらとても戦闘タイプだとは思えねーわ」

「僕も賛成だよ、これで一番チビじゃなくなるし!」


後でジローにどう言われるか不安ではあったが、ひとまずは連れ帰ったロボットを受け入れてもらえた事にシロは胸を撫でおろした。


「ほら! なにボーッとしてんの、シロが一番喜ばないと!」

「ちゃんとシローって呼べよ、犬みたいだろ!」


寝不足時のジローは、ただでさえ機嫌が悪い。

ノーラを受け入れた一同は、いかに上手く彼を説き伏せるかを考え始めていた。


……………
………


…翌日早朝、シロの部屋


廊下を走るバタバタという音にシロが目を覚ました直後、彼の部屋のドアは乱暴に開かれた。


「あれ……ノーラここじゃないの!?」


部屋に飛び込んだ百合子が息を切らせて言う。

しかし昨夜、ノーラの名前を決めた少し後には女性三人は自室に入ったはずだ。

シロが彼女の行動を知っているはずが無かった。


「ここにいるわけないだろ、お前ら一緒に寝てたじゃん」

「いや……その、彼女……セクサロイドっていうんでしょ?」


ごにょごにょと口篭る様子からして、どうやら彼女はシロがノーラを『本来の用途』に使ったものと思ったらしい。

だとしたら何を見たくて部屋に飛び込んだのか……と、シロは呆れた。


百合子はノーラの気が変わって出て行ったのではないかと心配していたが、昨日の名前を貰った際の喜びようからすれば考え難いだろう。

彼女はロボットだ、人間と同じように睡眠をとるかは分からない。

眠る百合子や花子の邪魔にならないように部屋を抜け出したのだろう……と考え、シロはビルの中を探してみる事にした。


しかしホールにも、物置にしている2階にも姿は無い。

5階建のビルだが3階から上はほとんど使っておらず、3階にガラス張りテラスがある他には元オフィスだったと思しき空っぽの部屋しかない。


あれだけ人目を気にしていたノーラがビルから出る事もないと考えたシロは、1フロアずつビルを上っていった。

ここに来て間もない彼女だ、建物内の散策をしているという可能性は高い。

その場合、行き着く先は──


「──いたいた、やっぱり屋上だと思った」

「おはよう、シロ」

「ちぇっ、犬みたいな呼び名が伝染っちゃったか。……起きたらいなかったって百合子が慌ててたぞ」


シロは少し首を竦めて物干し用に張られたロープをくぐり、ノーラの元へ歩んだ。


「何時頃からいたんだ?」

「ここに着いたのは3時41分じゃったな」

「2時間近く経ってるじゃんか」

「そうか、そんなに経っておったか」


スラム街の建物など、その周囲のビル群に比べれば低いものばかりだ。

夜景と呼べるほどの灯りは見えず、かといって街中ではあるから星も少ない。

何が楽しくてノーラがここで時間を潰せたのか、シロには不思議だった。


「お前は眠らなくていいようにできてるのか?」

「いや、最低でも72時間に一度は3時間ほど動作を停止してセルフメンテナンスをせねばならん」

「72時間……3日に一度か」

「できれば毎日が望ましいのじゃ」


「メンテナンス中にも外的刺激を受けるなりすれば強制中断して再起動される。起きて少しの間は動きが鈍くなるがな」

「そりゃ人間だって寝ぼけるし、似たようなもんだな」

「昨夜は久しぶりに何も気にせずその時間が持てたよ。いや、初めて……かもしれぬ」


少しずつ東の空は白んできた。

各家庭の母親や家事ロボットが朝食の用意を始めたのだろう、西に見える居住区の建物には灯りの点いた窓がちらほらと見える。


「そのリーダーのジローとやらが、儂を受け入れてくれれば良いが」

「……なあ、ノーラ。なんでお前そんな年寄りみたいな喋り方なんだ?」

「ん? 年寄りじゃからじゃよ? 儂は16歳の少女をモデルに造られた。それから50年……66歳の婆というわけじゃ」

「ふーん、そんなもんなのか……?」


ノーラは当然の事だという風に笑い「姿は当時のままじゃがの」と続けた。

ロボットに経年による言葉遣いの変化が現れるなど、不自然にも思える。

もしかしたらそれは長年を生きる中で無意識にも彼女に芽生えた、人間に憧れる想いの表れなのかもしれない。


「あ、ユーリとハナが下におる」

「ああ、外に探しに出たのか。……おーい! 屋上にいたぞー!」


声に気づいた百合子達は頭上でぶんぶんと手を振って『了解』の合図を伝えた。

この後、二人は朝食の準備をする。

配給のビスケットを粗く砕いてシリアル代わりにしたりレトルトの野菜に味付けを加えるだけの事だが、そのまま食べるよりは飽きない。


「朝の空気……街が目覚めていく様子というのは良いものじゃな」

「初めて見たみたいな言いぶりだな」

「うむ、初めてに近いな。こんな風に落ち着いた気持ちでそれを見るのは、間違いなく初めてじゃ」

「50年生きて初めて、か」


「人型ロボットを隠すなら人波の中……儂は今まで、およそ昼間にしか己を人目に晒した事は無い」

「…………」

「夕方から朝の内までは、昨日の倉庫のように誰もこないところで身を隠しておった」


おそらく日中であっても外へ出る事は最低限に抑えていたに違いない。

つまり彼女は今まで1日の大半の時間を眠るでもなく、ただじっと息を潜めて生きてきたという事だ。

日に僅か3時間だけの眠る間も、いつ見つかってしまうかと怯えながら。


「……独りの夜は長い、昨夜ほど日付が変わるまでを早く感じたのは初めてじゃったよ」

「それから寝て、起きてすぐに部屋の外へ?」

「いいや、10分ほどの間はユーリとハナの寝顔を眺めておった」

「あはは、間抜け面してたろ」

「酷い言いようじゃな。目覚めた時、隣りに人がいる……儂は嬉しかったのじゃ」


「それと、さっきもじゃな」


彼女はそう言うと、屋上の柵にもたれたまま顔をシロの方に向けた。


「さっき?」

「儂は生まれて初めて誰かに『おはよう』と言うたよ、とても嬉しかった」


ノーラの視線は僅かに泳ぎ、照れくささを感じているようだった。

それは昨日見せた切なげな顔と同じで、とても人工的な表情とは思えないものだ。

そして、彼女が非の打ち所がない完璧な美人ではないからこそ──


「スラムに入れたくらいで喜んでどうすんだ。挨拶くらいすぐ普通の事になるって」

「ふふふ……楽しみじゃ」


──シロが照れ隠しを必要とするくらいには、可愛らしい普通の少女として彼の目に映ったのだろう。


「おはよー」


背後にある屋上のドアが開き、ゴローの声が届いた。

ノーラは嬉しそうに「おはよう」と、生まれて二度目の挨拶をする。


「ジロ兄ちゃん帰ってきたよ。ノーラがいなくてちょうどよかったかも、先に百合子が事情を話して説得してる」

「そうか、すぐに降りれば良さそうか?」

「うん、まあジロ兄ちゃんびっくりしてたから、話がどう進んでるかは解らないんだけど」


ゴローは一番年下だが、その割に思慮深く大人びたところがある少年だ。

人に好かれる気遣いと併せ持つ幼さを武器に街では多くの大人達から可愛がられており、よく色んな物を貰って帰る。

そのせいか、或いは他のメンバーがあまり外の世界に興味を持たないからか、社会の情勢や出来事に最も精通しているのも彼だった。


「エリー彗星、まだ見えないかな。明け方は観測しやすいらしいんだけど」

「ん? ああ……前に言ってたやつか、地球にはぶつからないんだろ?」


ゴローが指差した方向の空にはいくつかの明るい星が見えたが、そのいずれかが彗星かどうかは判らなかった。

何年か前に地球にぶつかるかもしれないと大騒ぎになった彗星だが、その可能性が否定された今では世紀の天体ショーとして期待されている。


「太陽に最接近する頃には全天で太陽の次に明るくなって、昼間でも見えるんだって新聞に書いてたよ」

「それはすごいのう、実に楽しみじゃ」

「よし、ジロ兄ちゃんのとこへ行こう。ノーラ、上手くやれよ?」

「うむ、儂もここに居たいからの!」


50年間も寂しい想いをしてきた彼女だ。

やっと手に入れた居場所を1日で奪うような事にはさせるものか……シロはそう誓い、大きく息を吸った。


ここまで


………


…1Fホール


「──ふざけるな、俺は認めない」


ノーラ達がホールへ着いた後、少しの沈黙を経てジローは言い放った。

百合子は大いに不満がありそうな仏頂面をしているが、反論はしない。

既にこれまで散々異を唱えてきたが、一向にジローの態度は軟化しなかったのだ。


「ジロ兄ちゃん……経緯は全部聞いた上で、その結論なの?」

「もちろんだ」


重苦しい空気が漂うホールに、天井から雫が滴る音だけが響いている。


「寝不足で気が立ってるのよ、少し休んで冷静になって考えてくれない?」


百合子が深い溜息と共に提案し、シロもそれがいいと思った。

しかしこの後のジローの言葉に、今度はシロが冷静さを失う事となる。


「その程度で情に流されるとか、お前らがどうかしてるんだよ」


ジローは18歳の青年だ。

まだ日雇いの仕事にさえ呼ばれない弟分達に少しでも良い生活をしてもらおうと、リーダーらしく努力していた。

メンバー皆が彼に感謝しているし、また彼の事を慕ってもいる。


「もう1回言ってみてよ」


しかし彼女の50年間を『その程度』と呼ぶ事を、シロは許せなかった。


「お、おい……シロ」


シロが苛立っている事に気づいたサブローが、彼の肩を掴んだ。

しかしシロはそれを右手で払い、もう一歩ジローに詰め寄る。


「何回でも言ってやる。その程度で情を移して拾ってたら、ここは野良犬だらけになっちまうって解らんのか」

「だったら自分で稼ぐ事もできず、人からの施しでしか生きられない僕らも似たようなもんでしょ?」

「だから俺が稼いで──」

「──じゃあ僕も捨てたら!? ここに来て十数年分の情なんて『その程度』呼ばわりした50年の孤独に比べれば軽いもんだろ!」


これは彼の『初めての兄への反抗』だった。

ジローは少なからず驚き、暫し言葉を詰まらせた。


「……ありがとう、シロ。でも儂にはお前らの絆を壊す権利などない」


黙って聞いていたノーラが、弱い口調でシロを宥めた。

口もとこそ微笑んでいるが目は伏せられている、失望を滲ませた顔をしているのだろう……と誰もが思った。

しかし長い時を見てきたノーラは、彼らが思うよりもずっと気丈だったのだ。


「今、ジローは『自分が稼いで皆の暮らしを支える』と言おうとした……違うか?」

「まあ、そんなところだ。だからどうした?」

「ならば儂が仲間に加わる事で、皆の暮らしがより良くなるのであれば文句はあるまい」


そう言うとノーラは腕を組み、少し考えを巡らせた。


※not本文

なぜ「にじむ」という字が化けるんだ…

>失望をにじませた顔を

↑です


「そんな見栄を切ったって、セクサロイドに男を慰める以外の取り柄があるとでも──」

「──ジロー、お前は最近困っておる事は無いか?」

「……何を言う気だ」


ジローは真意の解らない問いに苛立ちを滲ませた。


「そうじゃな……例えば、失くし物をしておったりはせんか」

「それをお前が解決するって?」


セクサロイドの彼女に、探し物などに特化した機能が備わっているとは考え難い。

それでも何か彼女なりの考えがあっての提案だろう。


「ジロ兄ちゃん、ノーラを試してやってくれ」


彼女の想いを汲んだシロが、睨むような目でジローを見て言った。


「……百合子、俺の腕時計は見つかったか」

「時計? ああ……だいぶ前の話じゃない。自分で『建物の中にあるならそのうち見つかる』って言ったんでしょ」

「それを見つければ良いのじゃな。『だいぶ前』というのはいつ頃の話じゃ?」

「もう何か月経つかなぁ……夏より前だった気がするんだけど」


確かにその頃、彼の腕時計が無くなったと小さな騒ぎになった事があった。

その時計は前リーダーのタローがスラムを出てゆく時、ジローに託した大切なものだ。

ジローは皆に気を遣わせまいと楽観的な事を言ったが、実はその後も気にかけ探し続けていた。


「必死に探し回って見つけたとしても、そんなの誰にだってできるんだ。なんの取り柄にもなりゃしない、それで認めるわけには──」

「──東の階段、恐らく物を置いてある2階の踊り場にあるじゃろう」


ノーラはほんの数秒ほど考えた後、自信に満ちた口調で言い放つ。

もしこれで探し物の在り処がその通りだったならば、彼女に超能力でも備わっているかのような話だ。


「百合子、花子」


ジローが目で合図を送ると二人は顔を見合わせて頷き、東階段へと向かった。

ビルには東と西、それぞれに階段が備わっている。

中央にエレベーターもあるが動かないし、動いたとしてもメンテナンスを受けていないそれなど怖くて使えない。

東の階段は入口とは反対になる奥まったエリアにあり、普段はほとんど使う事が無いものだ。


早朝に建物内を散策していたノーラが東階段を知っている事自体は、特に不思議ではない。

だからといって目につくところに落し物があれば、今までに誰か気づいているだろう。

しかし僅か1分ほどの後、百合子と花子はホールに戻ってきた。


「ジロ兄ちゃん、これ……」

「チョーウケルー」


数ヶ月も行方知れずだった腕時計をその手に持って。


「……お前ら何か打ち合わせでもしてるんじゃないだろうな」

「ちょうど良い、その腕時計の秒針をしかと見ておけ」


ノーラは続けてジローにそう要求し、ホールの隅を指差した。


「垂れ落ちる雫、次の一滴は……今から8秒後」


よほど晴れが続かない限り落ち続けている雫、それが何秒間隔かなど誰も気にした事が無い。

しかしシロが頭の中で適当にカウントした結果、確かにそれに近いタイミングで『ぴちょん』という音が起った。


「そんなの等間隔なら数えてりゃ判る」

「いいや、間隔は等しくない。次は……今からあと10秒後、それから16秒後、その次は9秒後」


ジローが手に持った腕時計を睨む。

そしてそれから三度、雫が落ちる音がたってから彼は口を開いた。


「……どういう仕掛けになってやがる」


ジローの反応で皆が察した、ノーラの予言は当たったのだ。

しかしそれに対する彼女の返答は拍子抜けせざるを得ないものだった。


「なに、ひとことで言えば『勘』じゃよ」


誰もが耳を疑うも、時計を見つけた事はそれだけで納得できる話ではない。

皆の眉間に皺が寄るのを見たノーラは「じゃが、なんの裏付けもないわけではない」と付け加え、説明を始めた。


「時計が建物の中にあるのは違いない。しかし失くした事を皆に周知するくらいなら、つまり自身の部屋に置いた記憶はないのではないか?」

「……そうだ」

「今、さほどの間も無く思い当たったという事は大切なものなんじゃろう。そんな時計を無意識にどこへでも置きはせん。しかし外した後、自分のポケットに入れる事はあろう──」


無言のまま話を聞くジローに向かい、ノーラは答え合わせを続ける。


ポケットに時計が入ったまま服が洗われ、物干しにかけられる。

しかし屋上には吊られたロープ以外、特に物はない……つまり失くし物が潜むような物陰もない。

時計を失くしたのは夏の前、雨の多い頃。

ならば屋上ではない所に洗濯物を干す機会も多々あったはずだ。


彼女は朝の散策の時、東階段から上がった3階にあるガラス張りのテラスにも訪れていた。

そしてそこに『雨の日用の物干しロープ』が張られている事に気づいていたのだ。


「──位置関係からして東階段を使う機会は少なかろう。しかしそれでも時計が床の上にポツンと落ちていれば気づくはず。だとすれば失くしものが潜むのは物が多い2階の踊り場じゃ」

「なるほど……勘というよりは推理といったところか」

「いや、やはり勘じゃよ。儂はロボット、目にしたもの聞いた事は全て記憶領域に刻まれ、人間と違ってそれを忘れる事がない。その膨大な記憶を後ろ盾とする勘じゃ」


「雫の落ちるタイミングも、複雑じゃが長いスパンでの規則性があった。儂はこの勘を頼りに50年間逃げ延びてきたのじゃ」


ノーラはそう話を締めた後、シロを見て「それなのにこんな小僧に見つかるとは、不思議でならん」と苦笑いした。

皆はジローがどう判断するか、無言で見守っている。


「……それで? 探し物が得意だったり水滴が落ちる間隔が解ったところで、みんなの暮らしはどう良くなるっていうんだ」

「しばらくここで過ごせば縄張りに余所のコソ泥が入るタイミングも、狙われやすいウィークポイントも判る。それでは足らんか?」

「野良ロボットを匿った事がバレたら、みんなただじゃ済まない。そのリスクと引き換えるに充分とは言えないな」


ノーラが沈黙する。

視線を少し下に向け、その勘をフル稼動して最適解となる提案を探しているのだ。

十数秒後、彼女は再び顔を上げると後ろに控える皆に振り返って言った。


「ならば儂は儂のやり方で少しでも金を稼ぎ、生活費を入れよう。皆に手伝ってもらえたらと思うが──」


ここまで

文字化けして見えた方、度々失礼。もっかい異体字チェックしよう…


……………
………


…2日後、商店街入口


「──くっそ恥ずかしいんだけど」

「そうか? 儂は楽しいぞ」

「客が来ないのに何が楽しいんだよ……」


幅1mほどのテーブルに黒いクロスを掛け、その中央には水晶玉が鎮座している。

クロスはテーブルの前面に垂らされ、そこには『占い師ノーラ:失せ物・探し人を見つけるお手伝いをいたします』と書かれた白い布が縫い留められていた。

ノーラとシロはその机の後ろに並んで座り、客が訪れるのをじっと待っているのだ。


水晶玉は以前にサブローが拾って帰り、2階の物置で埃を被っていたガラス玉。

クロスは使っていない部屋に掛けられていた遮光カーテンの裏地、看板代わりの布は花子が手書きをして縫いつけた。


ノーラは同じく花子が裁縫した適当な作りの黒いローブを羽織っており、じっくりと見ない限り確かに占い師らしい出で立ちだ。

しかしその隣りに座るシロはいつも通りの服装で、彼女の助手という設定だが役になりきる事は難しい。


「あら、シロちゃん……それは占い屋さんごっこ?」

「ごっこ遊びする歳じゃないよ……」


ましてここは地元そのものの商店街入口、知る顔に会わないわけもない。

彼にしてみれば結構な羞恥プレイといえる状況だった。


占いの料金は内容にもよるが、1件あたり1,000円程度。

この時代では一般人にとって安上がりな昼食ほどの額で、スラムに暮らす貧しい人々はまずもって利用しない。

彼らの思惑としてはそれで良いのだ。

皆およそ等しく貧しい住人同士で、形ある商品を伴わない金銭の授受など妙な禍根を生む原因になりかねない。

物見遊山でスラムの入口を通る中流階級の者が興味を持ってくれれば、それが一番後腐れが無いだろう。


「さっき『ごっこ遊びをする歳じゃない』と言っておったが、シロはいくつなのじゃ?」

「……15だよ、たぶん」


シロに両親の記憶は無い。

捨て子だったのか、ある日親が消えたのかも誰にも解らない。

スラムを彷徨う幼児を住人が見つけ、できて間もないタローを中心とするグループに預けられた。

年齢を答える彼がつけ加えた『たぶん』に、ノーラはおよその経緯を察してそれ以上を訊かなかった。


「シロは例えば食べ物なら何が好きなのじゃ?」

「パッと閃くほど色んなもの食べてないけど……そうだなあ、食べた事あるもので言えば『豚まん』かな」

「ふむ、中華饅頭というものの一種じゃな」

「時計台近くの店のが美味しいんだ、角煮と一緒にウズラの卵もひとつ入っててさ。すごく朝早くから開いてるけど、すぐに売り切れちまう」


シロは語っていると食べたくなったのか、顔をしかめて「どうせ買えないけど」と零した。


「では占いで余裕ができるほど儲かったら、それを買ってきてやろう。じゃから文句言わずに手伝うのじゃ」

「はいはい、期待してますよっと」


スラム付近の人通りはあまり多くは無いが、それでも5分待つ内に10人以上の姿は見る。

その過半数がロボットとはいえ、ターゲットとなる人間を見かけないわけではない。

なにせ通りがかるロボット達は中流以上の階級にある人間の持ち物だ。

そのロボットと一緒に持ち主が歩いている事もある。


「……あれ、ロボットとデートしてんのかな」

「男性型の家事ロボットじゃ。わざわざ男性型を買うのは独身の女が多い、防犯の意も兼ねてな」

「防犯の意『も』って事は、それ以外の意味が主なのかよ」

「そこは察するのじゃ。ちなみに男性型家事ロボットにはセクサロイドとしての機能が備わっているものも多い……あとは解ろう?」


腕を組み歩く人間とロボットのカップルは、占いのカウンターには気づきもしない様子で通り過ぎて行った。


次に初老の夫婦が通りがかる、今度は二人とも人間のようだ。

ノーラは表情を正し、少し低めな声で彼らに呼び掛けた。


「お主、失くしものをしておるようじゃな」

「いいや、しとらんぞ」

「そんな事はない、水晶にそう出ておる」

「じゃあそれが何か当ててみろ」


言いながら夫婦は足も止めずに去って行く。

いかに膨大な経験則を持つノーラでも、何一つの情報も無く『失くしたものが何か』や『そもそも失くしものをしているか』を読む事はできない。


「ぐぬぬ……」

「ドンマイ」


シロは『今、ノーラが自信という失くしものをした』と思いついたが、言うのはやめた。


「──あの……占ってもらえますか?」


落ち込んだノーラが俯いている内に、一人の女性がカウンターの向かいに立っていた。

派手ではないが小綺麗な身なり、落ち着いた話し方をする中流家庭の主婦らしき人だった。


「も、もちろんじゃ。失くしものかな? 探し人か?」

「失くしものです。ひと月ほど前、夫に買ってもらった指輪を失くしたの」

「なるほど、お請けしよう」


ノーラは水晶玉ならぬガラス玉に両手を翳し、むにゃむにゃと適当な呪文を唱え始めた。

占いという行為を無条件に信じるなら、通常であれば情報が一切無くとも神秘的な力でその在り処を導き出すだろう。

しかし彼女が行うのはジローがそう呼んだ通り『推理』に近い。

つまり答えを導くに足るだけの情報を聞き出さなければならないという事だ。


「指輪の材質、装飾はどのようなものじゃったかの?」

「シンプルなプラチナのリングに小粒のダイヤモンドがあしらわれたものです」

「ふむ……それはよく身に着けておったのか?」

「シーンを選ぶデザインじゃなかったから、ちょっとした外出の時にはよく着けていたわ。お気に入りだったのに……」

「普段それらのアクセサリーはどこに仕舞っておるのじゃ? 鍵は?」

「……鏡台に備えられた引き出し、鍵はかかりません」


やはりというべきか、占いにしては多すぎる質問に女性客は戸惑いの表情を浮かべ始めた。

水晶玉に視線を落としたノーラはそれを気にも留めないが、シロは嫌な緊張感に唾を飲み込む。


「指輪は失くした物の他にも多く持っておるのか?」

「全部で10個近くはあるけど……」


「失礼じゃが、家に子はおるかの?」

「それ、本当に占いで必要な事なの? あまり個人情報を教えるのは気持ちのいい事じゃないわ」


このように質問責めにする事で相手が訝しむかもしれない……とは、最初から二人とも想像がついていた。


「せ、センセイの占いは水晶を通じて失くしものがある場所の詳細なイメージを描き出し、位置を特定するのです」

「そうなのじゃ」


だから事前に、その際シロがとるべきフォローについては取決めを行っていた。

またこれは『水晶を通じて』という部分を除けば、丸っきりの嘘ではない。


「……7歳の娘がいるわ、あと犬も飼っています」

「よかろう、在り処はおよそ水晶に浮かんだぞ」


ノーラはまた適当な呪文を唱え、それからしげしげと水晶の中を見つめる演技をした。


「指輪は娘が持ち出したようじゃ、在り処はおそらく玩具箱の中……あるいはその子がお気に入りのものを仕舞う場所かもしれん」

「娘が……確かに有り得なくはないけど、もちろん訊いてみたのよ?」

「水晶はそう示しておる、探してみるがよかろう」


女性は首を傾げつつ立ち上がり、シロに料金を手渡した。

そもそも当たるも当たらぬも八卦、見つからなかったとしても責に問われる事がないのが占いという商売の強みでもある。

ただ当たらない事が続けば、客の口コミが期待できないというだけだ。


「今のはどんな考えで出した答えだったんだ?」


女性が去るのを見送って、シロは初仕事を終えた占い師に尋ねた。

ノーラはニヤリと笑い「仕方ない、教えて進ぜよう」と、師匠が弟子に説くかのように語り始めた。


「指輪のデザインはシンプルで、石も小粒なものじゃ。華美で大きな石がおごられたものなら、場によって外さねばならんが『シーンを選ばない』と言っておった」


「つまり旅行などで風呂や寝床につくので無ければ、外出時に身から外す事は無い。じゃから在り処は自宅と睨んだ」

「なるほど、指輪を失くした頃に旅行に行ってるなら本人もその時かも……って考えるだろうしな」


シロの同意を得てノーラはなおさら得意げな顔になり、人差し指をぴんと立てて説明を続けた。


「しかし鏡台という『身嗜みを整える場』そのものに保管しておるなら、本来失くす筈が無いのじゃ」

「誰かが持ち出した事になるってわけか」

「そうじゃ、ただそれが泥棒であれば貴金属なら全て盗むに違いない」

「中流家庭でも、旦那は小遣い生活で金に困ってるなんて話はよくあるぞ?」

「それも考えたが、わざわざ自分で贈った思い出深い品を選び売り捌くかの? しかも夫人はそれを気に入っておった、仲の良い夫婦ならその事も夫は知っておろう」


推理がそこまで煮詰まった時、ノーラは子供の存在を考えたのだ。

そして夫婦の間に存在するのが『7歳の娘』だと聞き、結論に達した。


「夫婦関係の良い幸せな家庭を築いているなら、娘は自然と母親に憧れるものじゃろう。身に着けるものを真似たくなるのも普通の事ではないかの」

「でも娘には指輪の事を訊いたって……」

「自分の悪戯で大好きな母親を困らせれば、素直な良い子であるほど言い出せまい。しかも元の場所に返しそびれていれば尚更、無かった事にするために……」

「……玩具箱にポイ、か」


ノーラは頷いて「勘が頼りの予想に過ぎんがの」と付け加えた。


「なんでノーラはそんな事まで解るんだ?」

「ん? じゃから過去に見聞きした事のデータを元に……」

「そうじゃなくて、何て言うんだ? 親子の絆……とか、そういうものについてだよ」


シロ自身も両親がおらず、家族愛などというものは知識としてしか知らない。

四番街の仲間達との関係はそれに近いものを生んでいるかもしれないが、そこにはやはり友情や仲間意識といった別の絆が介在する。

50年間できる限り人に接さず過ごしてきたロボットのノーラが何故それを理解できるのか、シロは不思議だった。


「知ったかぶりじゃよ、本当に理解できておるのかは判らぬ」

「元々そういう知識を与えられてるって事か?」

「まさか、そういった感情をプログラム化する事などできんよ」


ノーラが周囲を見回した。

上手い具合に人通りも途切れ、過去を話すにはちょうど良さそうなタイミングだった。


「……50年間、そのほとんどを儂は廃屋や使われなくなった倉庫のような場所で過ごしてきた」

「僕が見つけたのもそんなとこだったもんな」

「そしてそれらの場所の多くには、持て余す時間を潰すに最適なものがあったのじゃ」


そう言ってノーラは少しの間を空けた。

コンピューターが記憶領域のインデックスを探す、そのための時間だった。


「──ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う」

「なんだそれ?」


「とある作品の冒頭じゃよ。儂が暇を潰す友としたのは、今やほぼ廃れてしまった紙媒体の『本』じゃった」

「本か……たしかに古い倉庫とかによくあるな」

「色々な本を読んだ。小説、漫画、絵本……ドキュメント領域に保存されておるから引き出す事に多少の時間はかかるが、全て記憶しておる──」


そこから彼女は人類の歴史、幻想の物語、人間ドラマなどを通じ様々な事を学んだ。

家族愛や友情についての知識も沢山のストーリーから吸収し、重ね合わせる事で理解を深めてきたのだと語る。


「──しかしさっき言うた通り、それらを本当に理解できたか自信は無い。そしてそれ以上に難しい、未だちっとも解った気がせぬ感情がある」

「50年かけても解らないって、どんな感情だ?」

「男女間の愛、特に『恋』と呼ばれる際のそれは、実に複雑じゃ」


二人が眺める通り向こうの歩道には、手を繋ぎ歩く若い恋人達がいた。

そのワンシーンだけを切り抜けば、二人の世界は幸せ一色に染まっているかのように見える。


「多くの本で愛情は家族間にせよ友人の間柄にせよ、動機は無償であり尊いものとして描かれる。しかし恋は時に汚く醜い感情の様に表現されておった」


「シロはどうじゃ? 恋をした事はあるか?」

「な、無いし。そもそも身近に百合子と花子しか女がいなかったし」

「ふふふ……やっぱりシロは初心じゃの」


妙な話題になってしまったと思いつつ、シロは頭を掻いた。

知らないだけに、ノーラはその恋という感情に対しては興味津々だ。

ロボットの自分がそれを体験できると考えているのではなく、誰かが『恋に落ちてゆく経過』を観察してみたい。

シロ達のグループに身を置いていれば、いつかそれを見る事もできるだろうか……そんな期待が彼女の機械仕掛けの心を揺らした。


その後、二人は夕方までカウンターに座っていたが客は来なかった。

1日かけての実入りはたった1,000円。

豚まんにありつける日は遠いな……と考え、シロは溜息をついた。


………


…その夜、1Fホール


「──野良ロボットを匿うなんてリスクを負う対価としちゃ、随分家賃が安いんじゃないか?」


廃ビルのホールにジローの声が響いた。

彼とノーラが対面し、他の仲間達はノーラの後ろに並び立っている。


「ウチは犯罪には手を染めないようにしてきた。おかげでスラムとはいえ、この四番街に居場所を構えていられるんだ」

「……承知しておる」

「へえ、知ってたのか。じゃあ、野良を匿えば罪に問われるって事は?」


ジローは敢えて意地悪く、ノーラが返答に詰まるよう言葉を選んだ。


細々とした暮らしでもそれを守るという彼の意志からすれば、ノーラの存在は危険因子以外の何物でもない。

だからジローは非情な言葉を吐いてみせなければならなかったのだ。


「野良ロボットは見つけ次第、通報しなければならん。……そんな事は百も承知じゃ」


しかし本当の彼は決して意地悪な男ではない、それは話の行く末を見守る全員が知っている。

何がなんでもここからノーラを排除しようとするなら容易い、自身が野良ロボットの存在を通報すれば良いだけだ。

しかし彼はそうしなかった。


それでもシロもサブローも神妙な面持ちで話を聞いている。

唯一、花子だけがいつも通りにこにこと笑っていた。


「……明日は倍、明後日はその倍稼げ。居候が怠けてたらいつでも蹴り飛ばして追い出すからな」

「ジロ兄ちゃん……」

「お前らは二度と野良なんか拾ってくるな、もう一匹増やそうとしたら二匹とも出て行かせるぞ」


ジローは小声で「これじゃシロの甘さを叱れやしねえ」と吐き捨て、ぼりぼりと頭を掻いた。


「ありがとう、ジロー。できるだけ多くの家賃を入れられるよう精進させてもらおう」

「……お前、食い物は要らないんだろ?」

「うむ、不純物の無い水さえあれば良い」

「だったら滅多に無いが、配給に肉があったらノーラの分は俺に寄越せ。いいな、百合子」


そう言い残して彼は自室に向かう。

それが明らかな照れ隠しである事はノーラを含め皆が解っていた。


「もう大丈夫だよ、ノーラ」


ジローの姿がドアに消えた事を確認して、百合子は言った。


「さっきジロ兄ちゃん、貴女の名前を呼んだでしょ? あれは仲間と認めたって事だよ」

「……ありがたい事じゃ、孤独だったほんの数日前を思えば信じられぬよ」


「野良をもじってつけた名前なのに、野良じゃなくなっちまったな」


サブローが言い、皆が笑った。

もっとも『持ち主のいないロボット』を指して野良ロボットと呼ぶのだから、厳密に言えばそれは今まで通りだ。

ここにノーラの所有権を叫ぶ者はいない。

彼女には主人を欲する想いもあるが、その事は半ば自身が諦めてもいる。


百合子はノーラの名を決めた時のように彼女の手をとり、ぴょんぴょんと跳ねて喜びを露わにした。

その隣では何故か花子がゴローと手をとって同じように喜んでいる。


50年も前、ノーラは人間に仕えるために造られ人間の都合で捨てられた。


「改めて、ようこそノーラ!」

「ありがとうユーリ、皆も……世話になる」


そして今日、家族を得たのだ。


ここまで

アイヒョーンだと化けるのかもしれない、ともかくできるだけ気をつけます


………


…廃ビル、浴場


「──ノーラ、早くおいで」


既に浴槽に浸かった百合子が、まだ浴室入口でまごまごしているノーラに手招きをした。

浴場は4m四方ほどもあり、長方形の浴槽は一般家庭のそれとは比較にならない大きさだった。


「広い……なぜこんな廃ビルに大きな風呂があるのじゃ。上層階はいかにもオフィス跡じゃったぞ」

「私達のグループ、最初は別のビルにいたのよ。でもタロ兄ちゃんがここを見つけて、ハナと私がお風呂を気に入って引越しを決めたの」


頷く花子は相変わらずにこにこと笑いながら、泡立てたスポンジで身体を洗っている。

いつも緩めなシルエットの服を着ている彼女だが、その身体は出るべきところがしっかりと出た女性の理想体形に近い魅惑的なものだった。


「1階のホールも広いでしょ? たぶん1~2階と3階のテラス側はカプセルホテルとかがテナントに入ってたんじゃないかって」


いつまでも入口でもたつくノーラの手を引こうと、百合子が立ち上がった。

彼女は花子より細身だが、そのボディラインには年相応の女性らしさが現れ始めている。


「あの、儂は拭くだけで……!」

「チョーウケルー」

「えー? だって関節部とかはセラミック製で錆びないんでしょ?」


ロボットが本物の汗をかく事はない。

ただ多くのロボットで各部パーツが水分を失いきって劣化しないよう、補給した水を少量ずつ内から外へ滲ませる機構を採用している。

ごく薄いワックス成分等を含むその分泌液の事を、人間のそれに例えて便宜上『汗』と呼ぶ。

ノーラもまた同じ仕組みで造られており、せめて時々の水拭きでもしなければ肌がべたつくようになってしまうのだ。


「もう、いつまでもタオルで隠してないで。女同士だし恥ずかしくないよ?」

「うぅ……その、2人とも笑わん……か?」

「当ったり前じゃん!」


必要な箇所には防水処理が施されているため水深10m程度の圧には耐えられ、風呂に浸かる事は全く問題ない。

つまり今、ノーラが入浴に抵抗を示しているのは別の理由があるからだ。

それでもとうとう彼女は迷いを振り切り、身体の前面からタオルを除けた。


「ごめん……予想以上だった」

「うっ」


体表のパーツは分割されていて今は明らかにロボットだと判るし、身長も二人よりずっと低い。

だがノーラが抵抗を感じていた部分はそれらではなく、自身のコンプレックスの根源たる胸のサイズだった。


三人はそれぞれ大きな浴槽の一辺ずつを陣取り、脚を伸ばして肩まで湯に浸かる。

女同士で会話の花を咲かせるには相応しい環境だが、先ほどから主にノーラの周囲で空気が重い。

その事に耐え切れなくなった百合子は、意を決して口を開いた。


「ええと、すごく訊き難いんだけど……気になるから訊いちゃう」

「なんじゃ?」

「セクサロイドって、その……そういうためのロボットなのに、なんで胸を大きく造らなかったんだろう?」


気分を害されたとしても仕方ない……その時は謝罪するという覚悟で百合子は不躾な質問をしたつもりだった。

それに対しノーラは予想外の反応を見せる。


「ユーリ、よく訊いてくれた──」

「へ?」


「──儂は長年に渡り、自分を造ったメーカーを呪ってきた……しかしその愚痴を聞き、理解してくれる友人は存在しなかった」


ノーラは眉間に皺を寄せ、切なさと悔しさを滲ませた声色で忌まわしき出来事を語り始める。

もし相手がシロやサブローであれば、彼らは『面倒臭い事になった』と溜息を吐いていたかもしれない。

しかし百合子は親身になるというよりは、興味津々で彼女の話に食いついた。


「儂を造ったのはセクサロイド専門ではない、どちらかというと家事ロボットに定評のあるメーカーじゃった」

「ふんふん」

「家事ロボットは見た目を絶世の美女にはしない、あまりに美しいと家人女性の反感を買うからの。儂の背丈や顔立ちも、モデルのような美人ではなかろう?」


「でも可愛いとは思うよ」

「そう、普通に可愛いのじゃ」

「自分で言っちゃうんだ」

「チョーウケルー」


「じゃからノウハウの無いメーカーは自社製の標準仕様以外に、モデルのような美人顔を外注に造らせオプション設定とした」

「買う人が選択できるって事?」


「身体のパーツが分割されておる強みじゃな。しかし欲を出したメーカーは、別のパーツにもオプションを設定すれば利益に繋がると考え──」

「まさか」

「──標準仕様を……貧乳に設定しおったのじゃ……」


「酷い……利益のために胸の大きさを決めるなんて……」

「そんな商売をしておるからヲリエンタル工業との競争に敗れ、セクサロイド事業から撤退する事になるのじゃ……馬鹿めが」


百合子はノーラに近づいて手を握り「大丈夫、それも個性だよ」と励ました。

ただ、ロボットのノーラに対しては「いつか大きくなるよ」とは言えない……その事が悔しかった。


「ノーラ、今までお風呂はどうしてたの?」

「体表の汚れを落とすのは純水でなくとも良いからの、汲んだ川の水を使って拭いておったよ」

「それって真冬でも……?」

「うむ、ロボットにとっては苦痛という程の事ではない……が、やはり温かい湯に浸かるというのは気持ち良いものじゃな」


ノーラは掌に湯を掬い、ぱしゃぱしゃと顔を濯ぐ。

その手首や指の関節に皮膚の継目は無く『そこだけ見れば本当に人間と変わらないのにな』と、百合子は改めて思った。


しかし身体の大部分、普段は着衣に隠れる範囲を見れば彼女が機械仕掛けの存在である事は一目瞭然だ。

シリコンの皮膚に覆われた身体パーツは、全部で七分割。

頭部から胸までがひと続きになっており、背中側は肩甲骨の下にあたる部分で隙間が設けられている。

胴体はそれより下の背中部分から腹部にかけてのパーツと、腰まわりのパーツで合計三分割。

四肢はそれぞれ付け根と肘・膝で分割されており、箇所によってまちまちだがパーツ同士の隙間は数cmほどだった。


「温かいとか冷たいとか判るし、それを気持ちいいとも感じるんだ?」

「うむ、痛み以外の感覚センサーは備わっておるぞ」

「痛みが無いのはいいなぁ」

「でも人間であれば痛みを感じるような刺激を受けた場合、異常を知らせる信号は内部で発される。気づかぬ内に身体を破損しては不味いからの」


言いながらノーラは自分の手の甲を軽くつねって見せる。

皮膚の厚みや伸び具合はとてもよく再現されているが、そこに痛みは無い。


「本当にロボットなんだねぇ……なんか不思議」

「儂はロボットの自分が、ユーリやハナとこんな関係を築けておる事が不思議じゃよ」

「あはは……でもあらゆる事を記憶できるとか、それはロボットならではの特技だよね。時計見つけた時なんて魔法かと思った」


一昨日、実際に東階段の踊り場で時計を見つけ出したのは百合子と花子だ。

半信半疑で探していたが、床にある箱の隙間であっさり見つけた時は二人とも言葉を失った。


「あれはあくまで勘と推理じゃよ。しかし本当に魔法に見えるかもしれぬ事もできるぞ?」

「どんな? 見せて見せて」


ふふん……と得意げに微笑み、ノーラは浴槽から身を乗り出して痩せた石鹸を手に取る。

そしてそれを掌で泡立て人差し指と親指で輪を作ると、そこにふう……と息を吹いた。


「ただのシャボン玉じゃーん」

「チョーウケルー」


吐息を閉じ込めた透明な球体が、浴室の空中をふわふわと漂う。

なんの変哲も無い直径10cmほどのシャボン玉、百合子達はこの時点ではどこが魔法なのかと首を傾げていた。

ノーラは続けて同じ位の大きさのものを、あとふたつ作った。


「よし、見ておれ」


次に彼女は何も無い宙空に向かって、数回に分けて少し強く息を吹きかける。


「え……?」


そこで百合子が小さな異変に気付いた。

別々の動きをしていた3つのシャボン玉達が、徐々に近づき始めたのだ。

そしてその内のふたつがゆっくりと触れ合い、割れる事なく融合して少し大きなひとつの球になった。


「こっちは……もう少し上……か」


そう呟いたノーラは左手をひらひらと扇いで見せる、それだけでシャボン玉はその軌道を僅かに変えた。

またひとつ、引き合わせられるかのように虹色の球体が融合してゆく。

さながらシャボン玉に見えない糸が結ばれていて、ノーラがそれを操っているかのような光景だった。


「すごい!」

「チョーウケル……」


残るは大きなひとつのシャボン玉。

ノーラはスゥ……と息を溜め、浴室側面の壁に向かって吹きかける。

その吐息が起こしたささやかな風は壁を伝って浴槽と対面する側へと回り、それに押されたシャボン玉は三人の近くに漂ってきた。


「ハナ、顔から30cmほどのところに指を立ててくれ」


花子は言われた通り、人差し指を立ててぴたりと動きを止めた。

ノーラは様子を見ながら時折小さく息を吹いたり手で扇ぐ事を繰り返して、シャボン玉の位置に微調整を加えてゆく。

やがてシャボン玉は花子の前、人差し指を挟んだ正面に辿り着いた。


「じっとしておるのじゃぞ……」


そう言ってノーラは、最後に少し強く息を吹きかけた。


シャボン玉が花子の指に当たり、その両側面から二手に分かれるように顔の方へと伸びてゆく。

そして次の瞬間──


「おぉ……!」

「出来上がりじゃ」


──シャボン玉は花子の指先を取り込み、指を揺らせばポヨポヨと揺れる提灯の姿でそこにあった。


「なんでそんな事ができるの……?」

「プハ」


百合子が驚きに満ちた声で言うと同時にシャボン玉が割れ、花子の顔に石鹸水の飛沫が散る。


「別に練習したわけではない。勘と同じ……これも何となく解るし、できるというだけじゃ」


ノーラは泡のついた手を洗い流しながら、そう答えた。


彼女の記憶領域には過去に見た光景全てが残っている。

それは水や風、人工物・自然界に関わらず様々な物がどう動き、流れ、形を変えてゆくかが記録されているという事。


「シャボン玉に限りはせんぞ。石ころを投げた時の転がる方向や距離、ガラスのどの点に力を加えれば最も粉々に割れるか……」

「なるほど、確かに魔法だわ」

「ふふふ……あまり役には立たんがの」


つまり彼女は自身が見聞きした範囲ではあるが、50年間もの観測による膨大な物理データサンプルを持っているのだ。


「でも面白いよ。ねえ、他にお風呂でできる事ってない?」

「ここでか……うーむ」


現在、脱衣所の外ではシロをはじめ男四人が風呂が空くのを待っているが、彼らの番はまだまだ回ってきそうに無かった。


追加、またあした


……………
………


…数日後の朝、1Fホール


「──やあ、おはよう。暫くぶりだね」


その日の朝、廃ビルのホールにはいつもと違う声が響いた。

声の主の姿を認めたゴローは驚いた顔で「タロ兄ちゃん!」と声を上げる。


「連休が取れてね、元気な顔を見にきたよ」


彼こそ、この四番街グループを立ち上げた初代リーダーであるタローだった。

スラム育ちながら独りで勉学に励み、輝ける形で外の世界へと巣立った『四番街の希望の星』とも言える人物。


「おかえり、暫くどころか一年ぶりくらいじゃない?」


百合子が少し呆れたように、しかし嬉しさをにじませた様子で彼に歩み寄る。

その時、ホールにはジローを除く全員が集まっていた。

つまりその中には、ひとつだけタローの見知らぬ顔がある事になる。


「なかなか忙しくてね、すまない。……ところで、この子は?」


彼の視線の先にいたのは当然、ノーラだった。

どう答えるべきなのか、シロは考えを巡らせる。

しかし昔馴染みのタローが相手だったからか、百合子は警戒心を持たずに口を開いてしまった。


「ああ……この娘はノーラっていって、シロが──」


「──シロが安請け合いしてきた、北通りの孤児だよ。こっちもそんなに余裕は無いってのにな」


百合子の発言に被せて咄嗟の嘘を吐いたのは、たった今ホールに姿を現したジローだ。

すぐに百合子は己の軽率さに気づき、その口を両手で押さえた。


「親御さんを亡くされでもしたのかな? 可哀想に……」

「そんな事ぁいいんだよ。ノーラ、さっさと店を出して稼いできな」

「う、うむ。行ってくる」

「サブローかゴロー、手伝ってやれ」


ジローはノーラがこの場に長居しない方がいいと判断し、半ば無理やりに送り出した。

その理由は現在タローが身を置く場所、その職場に関係する。


「……朝から機嫌が悪そうだな、ジロー」

「誰のせいだよ、何しに来やがった」


「随分なご挨拶だ。弟達が元気にやってるか気になった……じゃ、駄目かい?」

「アンタはもうここの人間じゃない。未だにスラムの奴らと関係があるなんて思われたら、立場を悪くするぞ」

「別に禁じられた事じゃ無い、なにも困らないよ」

「俺達に構ってる暇があったら、金持ちのご機嫌取りでもやってろよ。スラムの人間はロボットなんか買えやしないんだ」


彼はこの場の誰より多くのロボットを見て、そして関わっている。

普通の人には判らないような点からでも、ノーラがロボットである事に気付く可能性がある……ジローはそう危惧した。

スラムを出たタローが勤めるのは国内最大手のロボット製造メーカー、パナソニー社の開発室なのだ。


「とにかく人目の多い時間は、この近辺をウロウロするな。今すぐ去るか、日中はここにいて日が暮れたら帰るかにしろ」

「お気遣いありがとう、じゃあ夕方までは居させてもらうよ」

「俺はもう出るぞ、今日は仕事に呼ばれてる。いいか、もう二度と来るな。こいつらと今生の別れをしてから帰れ」


ジローは眼光鋭くタローを睨んだ後、吐き捨てるように「じゃあな」と言い残してビルを出ていった。


………


…商店街入り口


「どうやらジローに救われたようじゃが、機嫌も良くは無かったみたいじゃの」

「うん……二人には色々あったからね」


ホールでの急な指名を請けて、今日の占い助手はゴローが務める事になった。

メンバーの中で最も幼い12歳の彼だが、タローとジローの確執について『色々』という言葉で濁すくらいには大人びている。

もちろんノーラもその事を掘り下げて聞こうとはしなかった。


ホールを出てゆくタイミングで、最後に彼女が聞いたジローの言葉は『スラムの人間はロボットなんか買えやしない』だった。

そこから察すれば今タローがどのような環境に身を置いているのか、ジローが何を危惧したのかはおよそ解った。


占いの客入りは日に5~6人といったところから伸び悩んでいた。

しかも今日は普段以上に早い時間から店を開けており、通りを歩く人々は初めてこのカウンターを見る者が多い。

毎日見かけていれば『試してみるか』という気になる者もいるが、初見では訝しむ気持ちの方が強いだろう。


暫くの間は客も訪れまい……と、ノーラは何か暇潰しになる事がないか考えを巡らせた。

幼いゴローを退屈な目にあわせるのが、忍びなく思えたからだ。

彼女自身の暇潰しであれば、目を閉じて過去に読んだ本の一字一句を詳細に思い返すだけでいい。


とはいえ小さな占いのカウンターで、しかも客が近付く気を失くすような馬鹿騒ぎは控えるべきと考えれば、できる事は限られてくる。

結局思いついた現実的な暇潰しは、彼女一人の時に行うそれと同じ事だった。


「ゴロー、何か物語でも聞かせてやろうか」

「え? どんな……?」

「なんでも良いぞ。冒険の物語でも、恋の話でも。宇宙戦争の話などもできる」


ノーラの提案にゴローは少し俯き、暫く黙り込む。

機嫌でも損ねたか、それとも辛い記憶でも呼び覚ましてしまったか……とノーラは焦った。


「ええと、その……おかしいかもなんだけど……」


しかし彼はむしろ、嬉しいと感じていた。

この沈黙は、少しの気恥ずかしさに葛藤していただけの事だ。


「なんじゃ? 笑わんぞ」

「ちょっと子供向けなお話がいい。お母さんが子供に聞かせてあげるような」


彼は5歳の頃に四番街のグループに入った。

それより以前の記憶はおぼろげにしか無いと、ノーラもそう聞いている。


「……承知した」


ゴローの想いを察したノーラは頷き、優しく微笑んで「昔むかしの話じゃ」と語り始めた。


………


…廃ビル、屋上


「久しぶりに戻ったら、こき使われるとはね」

「懐かしくて嬉しいでしょ? はい、次つぎ干して」


タローは百合子と花子に命ぜられるがまま、洗濯物をロープに吊るす役に従事していた。

彼女らよりずっと背の高いタローならロープの端々まで使って、普段以上に多くの洗濯物をやっつけられる。

取り込む時に苦労をしそうだが、どうしても届かなければ彼と身長の変わらないジローを呼べばなんとかなるだろう。


「仕事、上手くいってる?」

「まだ下手間仕事ばかりだよ、見習いに近いね」


「それでも開発室勤めなんでしょ? 『こんなロボットを造りたい!』とか、夢持ってんじゃない?」

「まあ……漠然としてるけどね、無くはないかな。……次はこれかい?」


足元にあった洗濯カゴが空になり、タローは次のものへと手を伸ばした。


「それはダメ! こっち!」

「うわ」


百合子が慌ててそれを奪い、代わりに別のカゴを押しつける。

彼が手に取ろうとした水色のカゴには、女性物の下着が多く入っているからだった。


「このカゴは男子禁制でーす、触れませーん」

「男物の下着を干すのは平気なくせに、女の子は解らないな……」


タローはそうぼやき、同時に朝ほんの少しだけ見かけたノーラの事を思い出した。


「そういえば朝見た女の子は、何をしてお金を稼いでるんだ?」


問われた百合子は答える前に、自分が言おうとしている事を脳内で一度読み上げる。

朝のように軽率な発言をしかけて肝を冷やす事にはなりたくなかった。


「占いをやってるんだよ」

「へえ、占いか。よく当たるの?」

「……うん、失くし物や探し人専門なんだけどね」


タローは「失くし物なにかあったかな」と呟きつつ、洗濯物を伸ばしてはロープにかけてゆく。

一方、あまり長くこの話を引っ張られるとボロを出してしまいそうだと危惧した百合子は、違う話題を探すために辺りを見回していた。


「あ、あの空にぼんやり白い点が見えるのって彗星かな」

「え? どれ?」


「ほら、エビみたいな形した雲の左側」

「まずそのエビ雲が解らないんだけど」

「チョーウケルー」


百合子は大袈裟に手を伸ばし、片目を瞑って「あそこだってば」と指差した。

その先の青空、エビと認識するには無理がある雲の脇にぼんやりとした白い点が浮かんでいる。


「ああ……あれかな? 確かにそれっぽくはある」

「まだ尾はひいて見えないんだね」

「尾を引くのはよほど太陽に接近してからだよ……と言うより、まだ昼間に見えるわけない距離だぞ」


タローがそう説明し終わる頃には、彗星と思われた白点はその形を歪に変えていた。

数ヶ月前に木星付近にあった彗星は現在、ようやく火星を通過した頃のはずだ。

百合子が見つけたのは小さな浮浪雲に違いなかった。


………


…17時、廃ビル前


「じゃあ懲りずにまた来るから、みんな元気で」


まだ明るい夕方、タローは古巣に別れを告げる事とした。


「陽が落ちてから帰るんじゃなかったの?」

「ジローが帰って来て顔を合わせれば、また機嫌を損ねてしまうしな」


去る自分は良くとも残される者達が面倒を被るかもしれない、彼はそう考えた。

占いに出ている二人はまだ戻っておらず、サブローとシロ、百合子、花子の四人での見送りとなった。


タローの勤め先はこのスラムと同じ縦浜市にあり、距離としてはさほど遠く離れるわけではない。

だからといって滅多に弟達の顔を見る事は叶わない、彼の胸中には後ろ髪を引かれる想いもある。

その気持ちがもたらした沈黙に、シロは今日ずっと訊く機会を逃し続けていた事を問うべきか迷っていた。


「ただいま! あれ……タロ兄ちゃん、もう帰るの?」


そこにゴローが帰ってきた。

シロは喉元まで出かかっていた問いかけの言葉を一旦飲み込んだ。

その問いの内容が、ゴローと共に戻ったかもしれないノーラに関する事だったからだ。


「おかえり、ゴロー。今日は久しぶりだったのにお前と話す時間があんまり無かった、ごめんな」

「ううん、また来てくれるんでしょ? それに今日はノーラ姉ちゃんが色んな物語を聞かせてくれて、すごく嬉しい日だったんだ」


あれからも客が来ない間、ずっとノーラはゴローに様々な物語を聞かせていた。

それがよほど嬉しかったのだろう、ゴローは『鉱山の街で空から女の子が降ってくる話とか、すごく面白いんだよ』と満面の笑みを見せながら語った。


「あんた、私には『姉ちゃん』とか言ってくれた事無いくせに」

「そのノーラって朝の女の子だろ? 彼女とも話す機会が無かったな。一緒に帰って来てはないのかい?」

「うん、カウンターの片付けはやっとくから先に帰っていいって。タロ兄ちゃんと少しでも話しといでって言ってくれたんだ」


タローは「いいお姉さんができて良かったな」とゴローの頭を撫で、それを聞いた百合子は少し面白くない風な顔をしている。

その光景を見ながら、シロは意を決した。

ノーラが戻るまでまだ少し時間があるというなら、タローに質問をするタイミングは今をおいて無い。


「あの、タロ兄ちゃん。教えて欲しい事があるんだ」

「……なんだい、シロ?」

「この間、近くで野良ロボット騒ぎがあったんだ。それでその……なんていうか、野良ロボットは何がどう危険なものなの?」


もちろんタローを除き、この場に居合わせる誰もが質問の大部分を占める嘘に気づいた。

ノーラはシロが連れ帰った存在だ。

すっかり仲間内に馴染みつつある彼女を今さら危険だとは思わないが、彼の中ではずっと気がかりだったのだろう。

仲間達は皆それを察し、質問を不思議がる事もなくタローの答えを待った。


「野良ロボットか……この辺りでも出るんだな」

「自分達が直面したらどうすればいいのかなって、もちろん通報とかしなきゃいけないんだろうけど……」

「うん、それは必ずしなきゃ駄目だ」


シロの質問を受け、タローは当然の事として言い放つ。

解りきっていた回答ではあったがシロは少なからず落胆し、しかしそれを表情には出さないよう努めた。

やはり僅かにでも『実際は別に危険ではない』という答えが返る事を望む想いはあったからだ。


「野良ロボットの危険性については、難しい話になるよ」

「……うん、聞きたい」

「できるだけ解りやすく話そう。まず、ロボットは定期的な検査とメンテナンスを受けなければいけない……これは知ってるだろう?」


自家用と商用など用途によって有効期間の違いはあれど、それは全てのロボットに当てはまる義務だ。

その事はタローの言う通りシロ達も知っていたが、検査やメンテナンスの内容についてはよく解っていない。


「それは法定検査と呼ばれるものなんだけど、その一番の目的はロボットが『学習し過ぎない』ように保つ事なんだ」

「頭が良くなり過ぎないように……って事?」

「少しニュアンスが違うかな、ロボットはそもそも人間よりずっと頭が良い。そして記憶力も優れていて、故障しない限り一度見たものや聞いた事を忘れないんだ──」


ロボットの記憶力について、それはノーラの口からも聞いた事のある言い回しだった。

シロは胸が嫌な鼓動を打つのを感じつつ、説明の続きを待つ。


自律的な思考回路を持つロボットの記憶領域には、4つの階層がある。

第1層はロボットの基本プログラムであるOSを収めた階層で、アップデート以外で変更される事は無い。

第2層はそのロボットの主人や雇われ先に関わる記憶を収める階層で、家事ロボットなら仕える家庭の事や普段買い物に行く先など『消えてしまうと使用に困る』データが記録される。

第3層と第4層は前の2階層と比べると段違いに記憶容量が大きい。

第3層はロボットが見たものや聞いた事など、第2層に記憶すべき内容に当てはまらないほとんどの『学習データ』が収められる。

そして第4層はドキュメント領域と呼ばれ、文書や大容量の映像・音声記録などが収められる階層となっている。


「──法定検査ではその第3層と第4層を消去するための『クリーニング』と呼ばれる処理を行う。これは使用者にとっての不便を招く側面はあるけど、とても大切な事なんだ」

「せっかく覚えた事を消すの?」

「うん、そうしないとロボットは無制限に情報を蓄積して、人間の予測を超えた行動に出る可能性があるからね」


自律思考型ロボットの実用化が進むにつれ、人間の研究者が最も危惧したのは『ロボットの反乱』だった。

ロボット達が秘密裏に大規模な軍隊を形成するという事は考え難いが、例えば工場で利用されていたロボットが化学兵器を作り出すのはそれより遥かに容易な事だろう。


「だから人間社会の安全を脅かさないために、ロボットは定期的に新品に近い状態に戻さないといけないんだよ」


「……野良だとそのクリーニングを受けてないから、反乱を起こすかもしれないって事?」

「うん、特に第3層のデータが蓄積されると自我の形成が顕著になるからね」

「自我って、人格みたいなものだよね」

「そうとも呼べるかな。……30年ほど前からは毎月軽い自己クリーニングを行う機能を搭載する事が義務化されて、その危険も小さくなってるんだけど」


そしてタローは「まさかそれ以上古い野良ロボットは残ってないはずだから、そう心配する事はないよ」と付け加えて、説明を終えた。

しかしシロをはじめ、聞いていた者達は一様に言葉を失っている。

無理もない『それ以上古い野良ロボット』がどこかに残っているどころか、同居しているのだ。


「……自律思考型のロボットは頭が良すぎるんだ。そのおかげで1を教えれば残りの9を自分で考えて10の仕事をする、つまり教育のコストが低くてすむ……あれ? みんなどうした?」


ノーラに関する事情を知らないタローは、予想外に重くなった場の空気に戸惑った。

そしてそれを取り繕うために、ロボットについて少し違う角度からの話をしようと思い立つ。


「……偉そうな事を言えば、僕はその『全てをロボットに任せきりにする』仕組みを少しでも変えたいんだ」


それは自らが目指す夢、理想についての話だった。


「自律思考型ロボットはそれ自体の価格もすごく高い、そして法定点検をはじめ維持費もかなりのものだ。だから貧しい人達にはとても買えるようなものじゃない」


彼が憂うのは、裕福な人が裕福でなければ買えないロボットを使って富を得ている現状。

スラムに暮らすような者には入り込む余地の無い、中流層以上の者だけで構成された歪な社会を指して彼は『変えたい』と唱えた。


「思考能力を持たないロボット、それも例えば人間が装着して使う言わばパワードスーツのようなものを安価に造って広めたい……僕はそれを目指してる」

「でも、そういうのって昔はよくあったような話を聞いた事あるよ?」

「そうだね、自律思考型が主流になる前はそういう方向に進んでた。けど『自分で働かなくてすむ』と考えた人間は、やっぱり怠けちゃったんだよ」

「……お金持ちらしいね」

「さっき話した通り、今は思考能力を持つロボットの危険性が再認識されて次々に規制が生まれてる。だからこそ回帰すべきだと思うんだ」


勝手に動くのではなく『元来の意味で人間が使うロボット』を安価に造り、製造業や第一次産業などの現場に売り込む。

それが普及した時に必要とされるのは、人間の労働力だ。

そうやって少しでも貧しい人々の手に仕事を取り戻す事を、彼は目指している。


「きっとできるよ、タロ兄ちゃんなら」

「うん、私達には応援する事しかできないんだけど……」

「ははは……ありがとう。でも本当は、話すならそれが少しでも現実味を帯びてからにしようと思ってたんだ。これで何にも実現できなかったら格好つかないからね……」


本人のプレッシャーは増す結果となったが、思惑通り皆の顔には明るさが戻ったようだ。

これで安心して古巣を後にできる、彼は見送る者の一人ひとりと握手を交わしてゆく。


「じゃあ、みんな元気で」

「また来てね!」

「今度はジローの機嫌が良い時にするよ」

「あはは、それじゃいつまでも来られないよ」


別れ際は、手を振る誰もが笑顔だった。


「自ら話すべき事じゃった……許せ、シロ──」


──ただ一人、曲がり角の向こうに佇み、その話を聞いていた者を除いて。


ここまで


……………
………



まだ早朝と呼ぶにも早い深夜、ノーラは屋上で夜風を浴びていた。

メンテナンスのための短い睡眠の後、彼女は百合子達を起こさないようそっと部屋を抜け出しここへ上がった。

何をしている様子もなく、ただ遠い街灯りを見つめている。


「たった1日で0.3%も使ったか……昨日は色々あったしの」


自律思考能力を持つロボットには、必ず自己診断機能が搭載されている。

その診断結果はどこかに数値として表示されるわけではなく、しかしロボット本人が意識すれば判るというものだ。

温度異常、機能部の不具合、目に見えない外装パーツの破損なども確認できる。


「もっと皆を見ていたい、それだけでいいのじゃ……」


彼女の唱えた願いは夜の空気に溶け、誰も気づかない程に薄まって風に攫われた。


……………
………


…翌週の朝、商店街入り口


「ぁの……ぅらなってほしぃんだケド……」

「ふむ、失くしものか探し人かどちらの案件じゃ?」

「さがしびと……になる……とぉもぅ」


鼻にかかった声で妙な抑揚をつけた話し方をする若い女性が、カウンター向かいに座った。

今日の占い助手は百合子と花子の2人だ。


「ぁたしの……ぅんめぇのひとゎ、どこにぃるんだろ……?」

「う、運命の人……というのは、まだ見ぬ恋の相手という事か?」


探し人と呼べなくも無いが、この件ではノーラが推理をするための情報を揃える事は困難だ。

好みなどの条件を聞き出し、そういった異性が多そうな場所を答えるくらいはできるかもしれないが、それはノーラより客の方が詳しい。


「まぇのカレシとゎかれてから、なんもぅまくぃかなぃ……もぉマヂむり……」


つまりこのケースでは、はっきりと定まった答えを出すのではなく『恋愛についてのアドバイス』を行うのがベターだ。

しかしそれはノーラが最も苦手とする分野の事だった。


(おい、ユーリ! 助けるのじゃ!)

(この件の報酬を私の懐に寄越すならお請けしよう)

(ぐぬぬ……仕方ない)

(OK、んじゃ『恋愛についての占い担当は私』って体でいくよ!)

(チョーウケルー)


百合子は嬉々として対応を始める。

彼女に恋愛経験があるわけではないが、興味だけは人一倍持っているタイプだった。


タローが四番街を訪れた日、その別れ際にジローを除く皆が知る事となった『野良ロボットの危険性』についての事実。

ノーラはその事によって、自分は近い内に退去勧告を受けるだろうと思っていた。


『──野良ロボットって、なにがそんなに危ないんだ?』

『なに、知らぬなら気にせんでいい。単に点検も受けずに長くを生きたというだけの事じゃよ──』


出会った日、シロはノーラにそれを尋ねた。

警戒を強めてしまう事を怖れ、詳細に答えなかったのは彼女自身だ。

仲間として受け入れられてからも黙ったままでいた事を、シロは裏切りだと感じるだろう……彼女はそう考えた。


しかしそれから数日が経過した今になっても、四番街の皆は何も言わない。

今度こそは自分の口から『それでもここにいていいのか』を尋ねなくてはいけない、そう思いつつも彼女は躊躇っていた。

このままほとぼりが冷めるならそれが無難、手に入れた居場所を失う結果を招きたくない。

そんな何よりも人間らしい『ずるさ』という感情が己の中に芽生えている、その事に彼女自身が戸惑っていた。


「──ぁたし……がんばる! きっとすてきなヒトぉみっけてみせるょ!!」

「うん! でももうちょっと、はっきり喋った方がいいよ!」

「ゎかった! ぁりがと!」


ノーラがぼんやりと考えに耽っている内に、百合子は恋愛相談を終えていた。

ただの世間話に近い内容だったが、客が喜んで対価を払ったのだから商売として間違ってはいない。

百合子は受け取った代金を嬉しそうに自分のポケットに仕舞い込んだ。


「あ、よかった! 今日もいた!」

「ん?」


そこへまた一人の女性が歩み寄って来た。

その顔にノーラは見覚えがある、彼女は占い初日に訪れた唯一の客だ。


「覚えてるかしら? 指輪の在り処を占ってもらった者なんだけど……」

「もちろん、覚えておるよ」

「貴女の言った通り、娘が自分の小物を仕舞い込んでる学習机のポケットにあったのよ! ほら、今日は着けてるの!」


そう言って夫人が見せた左手の指には、シンプルだが可愛らしいプラチナのリングが通されていた。

あくまで情報をもとに推理しただけの事でも、それが人の役に立てばやはり嬉しいものだ。

ノーラは「なによりじゃ」と返しながら、少し俯いて照れ笑いを隠した。


「ママ友のみんなにも、ここの占い当たるわよって宣伝しておいたから!」

「それはありがたい、口コミは大事じゃからな」

「あと娘の成長に関わる事だし、指輪をくれた主人にも経緯を話したの。そうしたら、あの人も『行ってみる』って!」

「……ご主人も何か失くしものを?」


ノーラが聞き返すも夫人は「たぶん午後に来ると思うわ」とだけ言い残し、小さく手を振ってその場を離れてゆく。

三人は首を傾げつつも、深く気に留める事はしなかった。


「はぁ……いいなぁ」


百合子は客の消えたカウンターに肘をつき、小さく溜息をついた。


「どうしたのじゃ」

「旦那さんからのプレゼントとか、私も欲しい」

「……それはまず結婚が先ではなかろうかの?」


スラム暮らしの若者達に、アクセサリーに回す金などあるはずはない。

だからといって、その年代の少女が憧れないわけもないのだ。


「プラチナにダイヤ、あの指輪でもそれなりに値は張ろうな」

「別に指輪じゃなくていいんだよ」


「そんな高いアクセサリーじゃなくていいの、こう……なんていうか──」


金やプラチナ、宝石のような素材から値が張るものは望まない。

ただ、玩具と呼ぶには少し贅沢なくらいの『可愛い何か』が欲しい。

ましてそれが異性からの贈り物なら、値段など二の次で良いのだ……と彼女は語った。


「──まあ、それにしたって贈り物をくれる異性を見つけるのが先なんだけどね」

「異性でなくとも良いなら、もう少しこの占いが軌道に乗れば贈らせてもらうがの。その可愛い何か……というのは、例えば何じゃ?」

「うーん……私って髪が長いし、ヘアピンよりは目をひくバレッタとか?」


百合子のささやかな望みを聞いたノーラは「覚えておこう」と頷いた。


しかし思惑とは裏腹に、その後の客入りは今ひとつだった。

最近は日に10件に迫るほどの依頼がある事が多かったが、今日は午後の半ばに差し掛かってもまだ3件だけ。

思うようにはいかないものだと、今度はノーラが溜息をついていた。


「こんにちは、占い師ノーラ」


15時を回った頃の事、男性の二人組がカウンターに訪れた。

一人は30代くらい、もう一人はそれより若いくらいでメディアの人間が使う小型のカメラを手に持っている。


「……どういったご用件か?」

「失礼、まだ撮影はしてません。私は『Talkful』の公式チャンネルでリポーターをしている者です」


Talkfulは世界中で使われているコミュニケーションサービスで、2050年代から急速に広まった。

現在では様々な携帯端末や家庭用AV機器などにプリインストールされており、中流層以上に暮らす者であれば生活のあらゆる場面で利用するメディアとなっている。

その成り立ちは今世紀初頭にメディアの主流であったTVと、その頃に普及したインターネットによる情報発信が融合進化したものと説明されるのが一般的だ。


「すごい! これ、取材!?」

「そのようじゃな……」


百合子は感嘆の声を上げ、髪が乱れていないかなど身嗜みを花子と向き合ってチェックした。

普段そういったメディアに触れる機会の少ないスラムの者でも、街へ出れば街頭ビジョンや電器店のウィンドウなどでいくらでも目にする事になる。

現に百合子はこのリポーターの顔に見覚えがある、その番組に自分が映るかもしれないのだ。


「午前中に来たと思いますが、私の家内がお世話になりまして」

「もしかして……指輪の?」

「家内から『お礼に宣伝をしてあげてくれ』と言われましてね。ローカル情報がほとんどなチャンネルですが、差し支え無ければ」


ノーラは自分の姿を広く発信する事に抵抗を感じたが、百合子と花子は既に上機嫌で自己紹介を始めている。

それにこれで客が増えれば、仲間達の生活費を賄う事に大きく寄与できるのは間違いない。

ボロを出さなければいいのだ……と彼女は己に言い聞かせ、深呼吸ひとつしてから「お受けしよう」と答えた。


……………
………


…2週間後、廃ビル給湯室


ロボットが自動的に生産活動を行うこの時代では、水道や核融合炉で生成されている電気は無償で利用できる。

それはたとえスラムであっても、設備さえ生きていれば同じだった。

ただしガスはメンテナンスを怠れば危険が大きいため、高火力を求めるサービス業店舗や工場などにしか供給されていない。


この廃ビルのホール奥にも過去に事務室であったと思しき部屋が存在し、その一角に給湯室が備えられている。

大半のエリアで断線などのトラブルが発生しているこの建物において、台所代わりに使われるこの小部屋は水道と電気両方が使用可能な唯一の場所だ。

まだ百合子や花子さえ起きてこない早朝、そこにノーラの姿があった。


「このくらいかの……?」


人間ほど長く眠る必要の無い彼女にとって、朝の活動は何ら苦ではない。

慣れない手つきで進めているのは、本人を除いた全員分の朝食準備。

ドライフルーツの入ったシリアルを皿に取り分け、次にノーラは牛乳のパックを取り出した。


「ふむ、これに注ぐのじゃな──」

「──それは食べる直前にしとけ、ふやけて不味くなる」


給湯室の入り口から、まだ少し眠そうなジローの声が届く。

内緒で朝食準備をしていたノーラは声こそ抑えたが、内心大きく驚いていた。


「お、おはよう……ジロー」

「お高めなシリアルにヨーグルト、ハムの添えられたレタスとトマトのサラダか。スラムの朝食とは思えないな」

「勝手な事をしてすまぬ、昨日は特に客入りが良かったものでな」

「別に……贅沢が癖になっちゃいけないが、たまの事なら俺だって美味いメシは嬉しいさ」


ここ1週間、ノーラの占いカウンターは時に数人の順番待ちが発生する盛況ぶりだった。

ローカルとはいえマスメディアに取り上げられた事は、想像していた以上に大きな集客効果をもたらしたのだ。

一昨日などは別の公式チャンネルから二度目となる取材を受けたほどで『占い師ノーラ』の名はこの都市の住民に浸透しつつあった。


さらに浸透という程ではないが、その名を見かけるだけなら地元に限った話ではない。

彼女の事を報道したTalkfulというメディアは、今世紀初頭から広まったネットワークサービスの一形態であるSNSとしての側面も持っている。

占いを利用したユーザーがその事について『トーク』と呼ばれる個人的な情報発信を行うと、フレンド登録している他ユーザーがその発言を閲覧する事ができるようになる。

そしてそれが閲覧者にとって有意義なものであれば『リトーク(RT)』という機能を使う事によって、更に情報が拡散されてゆく仕組みだ。


「この食べ物は自分で買ってきたのか?」

「それは……その、もちろん買い物の時にはロボットである事を気づかれぬよう、細心の注意を払って……」

「責めてるんじゃねえよ。50年もバレずに生きてきたんだ、それは心得てるはずだろ。……こっちの開けてない紙袋は?」

「そ、そっちは内緒じゃ!」


ジローの手が袋に届く前に、ノーラは素早くそれを奪い取った。

この袋の中身は、実はシロと約束した時計台近くの店の豚まん。

しかしあまりに豪勢な朝食を用意すると贅沢を咎められそうに思ったノーラは、シロの分ひとつしか買っていなかった。


「……えらい慌てようだな、逆に怪しく思えるぞ」

「怪しくなぞない、例えばジローはハナが買って帰った下着をいちいち『見せろ』とは言うまい?」

「なんでそこでハ……花子の名前が出るんだよ」


ノーラにつられ、うっかり花子の名を『ハナ』と呼びそうになるジロー。

小さく舌打ちをして「ロボットのそういうところが苦手なんだ」と、彼は頭を掻いた。


「まあいい……でもお前、この1週間は一度も休んでないだろ。大丈夫なのか?」

「儂はロボットじゃからの、疲れる事はないよ。でも、ありがとう」

「そうじゃねえよ、このままだと街の奴らが1日も休まないお前を見て怪しむんじゃないかって言ってるんだ」

「ああ……それは、確かに」


ジローは短い溜息をつき、そこで会話を途切れさせた。

本当は彼の言葉にはノーラの身体を気遣う想いも含まれている、溜息はそれを素直に表現できない自分に呆れてのものだった。


「今日は占いは休みだ、これからも週に一度か二度は休め」

「解った、そうしよう」

「それと……朝飯の後ゆっくりしてからでいい、買い出しに付き合ってくれないか」


ノーラは驚いた。

彼がそんな事を頼んでくるのは初めてだったからだ。

荷物持ちを頼むならシロでもサブローでも、彼女より適任と思われる人材は他にいる。

だがその疑問以外に、彼女がジローの要求を断る理由は見当たらなかった。


「……嫌か?」

「嫌なものか、ジローの都合の良い時に声を掛けてくれ」

「じゃあ、だいたい10時頃からだと思っとけ。それより早いと開いてない店がある」


ジローはそう言うと、ノーラが了解の返答をする前に給湯室から出ていった。

その前に交わした朝食についての会話を思えば、彼の機嫌が悪いという印象は無い。

少なくとも『出ていけ』という話をされるわけではないだろう……と、ノーラは彼の真意を深読みしてしまう自分を心の中で諫めた。


ここまで


………


…午前11時前、市街地


「──何も買わぬままに随分来たが、今日は何の買い出しなのじゃ?」

「まあ、色々だ。手荷物持ったままウロウロしたくないし、一番遠い目的地から先に行こうと思ってよ」


ジローはそう答えたが、スラムでの暮らしに必要な物など実際はどこでも買える。

せっかく出て来たのだからある程度の買い物はして帰るつもりだが、彼の本当の目的は違った。


「遅れてるぞ」

「ジローが速いのじゃ」


彼の歩む速度はノーラにとって早足のそれに近い。

もし彼女がロボットでなく人間の少女であれば、既に音を上げていただろう。


中心部ではないものの街路には様々な店が並び、歩道を行き交う人の数は地元商店街前の通りとは比較にならない。

特徴的なのはすれ違う者達の内、比率で言えば圧倒的に人間が多い事だ。

食料や日用品の店ではなく服や雑貨など趣味性の高いショップや飲食店が目立つこの辺りは、それを楽しむ必要と権利を持たないロボットにとって用の無いエリアなのだろう。


「おい、早く渡れ」


ぼんやりと青緑色に光っていた横断歩道の白線の輪郭が点滅を始め、最後の横断者であるノーラが渡り切った瞬間に淡い赤色に変わった。

それと同時に横断歩道への進入部の空中には、ホログラムの帯が浮かび『進入禁止』『はいらないでください』『Do not enter』の文字が順番に表示されている。


「昔は昼間の街中がこんなに派手ではなかったものじゃ」

「人が多いところで妙な話をするな」


自動車がその動力に内燃機関を搭載しなくなって久しいが、静か過ぎて接近に気づかないという欠点は克服されていない。

ただ近年ではほとんどの車をロボットが運転しているので、事故が起こる可能性は非常に低くなっていた。


出発から1時間ほども経った頃、2人は大きな都市公園を歩いていた。

街路に比べれば人は少なく遊歩道は広い。

ここでなら他者に聞かれては不味いような話をする事も可能だろう。

ジローがノーラを連れ出した目的、それは何という事はないただの『会話』だった。


「なあ、ノーラ」

「……なんじゃ?」

「俺はロボットが嫌いなんだ」


彼らしいぶっきらぼうな言い方だ……と、ノーラは思った。

語る相手がロボットそのものである事を思えば酷い言い草だが、そんな話をするためにわざわざ1時間も歩かないだろう。

ちょうど向かいから来た者とすれ違うのを待って、ジローはまた話し始めた。


「今、すれ違った奴らを見たか」

「ああ……目の不自由なご老人なのじゃろうな、手を引いていたのは介助ロボットじゃった」


「じゃあ、撮影した光景を電気信号として直接視覚野に送る視覚障がい者向けの機器……何十年前から研究されてるか知ってるか?」

「時々、古い新聞などで目にした事はあるが」

「開発研究になかなか予算がつかないんだってよ。たぶん実際には金をかけて実現しても採算が合わないんだろう」

「需要が少ないという事か?」

「それを買えるような家庭なら、身の回りの事は今でもロボットがやってくれてる。福祉の面からしても、行政は『間に合ってる』と判断してるんだ」

「人口的には少数の上位市民か……その内で視力を持たぬ者など、確かに限られておろうな」

「つまりロボットを買えない層で、しかも目が見えない奴は社会から見捨てられてんのさ」


公園中央の池のほとりで、ジローは歩みを止めた。

池には噴水があり、そこから常にたつ水音が会話を盗み聞かれる事を防いでくれる。

ベンチも備えられたここは、二人が話をするにうってつけの場所に違いなかった。


「まあ、座れよ」

「……買い物は? ここが目的地の最も遠いところなのか?」

「まあな、正しくは目的の物を見せられる場所ってとこだ」


そういってジローは、ベンチに対面する方向を指差した。

揺れる池の水面に影を落とす巨大なビルが、その先にに聳えている。


「あれがタローがいる所、世界最大のロボット製造メーカーの本社ビルだよ」

「なんと、あんな大きな会社じゃったのか」

「まるで地べたで生きる貧しい人間を、雲の上から見下ろしてるみたいだろ」

「ふむ……じゃが、少なくともタローはそう考えるような者ではなかろう」

「あいつはスラムにいながら、ロクな教材も無いのに独りで勉強をしてた。いつか貧しい暮らしをしてる奴の助けになれるような、そんな仕事をしたい……ってな」


「バイトして大学にも進んで……ところが世に出てみりゃなんて事はない、金持ち相手の商売の筆頭みたいなロボットメーカーに勤めやがった」


言葉を切ったジローはビルを睨んでいた視線を空に向けて、ふぅ……と息を吐く。

そしてノーラの方を振り返り、今まで見せた事のない寂しげな笑顔で「だから逆恨みなんだ」と弱々しく言った。


「ロボットは便利過ぎるんだよ、平凡な人間にとってそれまで当たり前だった仕事や生活を奪ってしまうくらいに」

「……儂は何もできんロボットじゃが、それでも耳が痛いな」

「でもそれはロボットを利用する人間のせいであって、ロボットのせいじゃないんだ。解ってても割り切れずに……お前が来たばかりの時も当たり散らしちまった」

「スラムに暮らしておれば、無理もない想いじゃよ」


「だから……その、あれだ」

「どれじゃ?」

「……悪かった、ごめんなさいだ」


人間よりも遥かに早い計算能力を持つノーラだが、ジローが今なにを言ったのか正しく理解するには数秒が必要だった。

そして理解すると同時にたまらなく可笑しくなり、思わず顔をくしゃくしゃにして笑い出してしまう。


「ぷっ……あはははは! 似合わん、全くもって似合わんぞ……」

「うるせえよ」


ジローにしてみれば性格上、かなりの思い切りが必要だったに違いない。

ひとしきり笑った後、今度はノーラが「すまんすまん」と謝る番となった。


それから彼女は、以前に立ち聞いた『タローが語った夢』についてを、ジローに話した。

タローが造ろうとしている、正しい意味で『人間が使用できる』ロボットの事。

それを広め、人間の手に労働を取り戻すという理想。

彼が『貧しい者の助けになりたい』という想いを忘れてはいない事を。


「ちぇっ……なんとなく、あいつなら何か考えがあるんじゃないかって思いはしたんだ。でも言ってくれりゃいいのによ」

「少しでも実現の目処が立たなければ言い出せなかったとも言っておったよ」

「はぁ……格好つけなのは昔からなんだよなぁ」

「それはジローも人の事を言えまいて」


最後の余計な一言に、またしても「うるせえ」と口を尖らせるジロー。

ノーラは今度こそ笑いを噛み殺そうとしたが、また小さく失笑してしまった。

ただそんな彼女にもまた、タローの話をしたこの流れを借りてでも謝りたいと思う事がある。


「儂も皆に謝らねばならん。その話を立ち聞きした時、タローが皆に語ったのは夢の事だけではないのじゃ」

「何を話したんだ?」

「野良ロボットの危険性じゃよ……それは本来なら儂自身が皆に語らなければならんかった。それを知った上で、儂をあそこに置いてくれるかを問うべきじゃったと思う」


「なんだ、そんな事か」

「ジローはあの時おらんかったが、危険性について知ってはおるのじゃろう?」

「まあな、クリーニングされない事による自我の暴走ってやつだろ? たぶん、花子も知ってたと思うぞ」

「ハナか……なんとなく解るな。あの娘はいつもにこやかにしておるが、それでいて常に皆を見守っているように思える」

「見守るっていうか、怒ると怖ぇんだよ」

「ほう? そっちは予想外じゃが、どうやらジローは怒らせた事があるようじゃの」


長く気に病んでいたノーラの打ち明け話、しかしジローの反応はとてもあっさりとしたものだった。

ノーラ自身も予想はしていたが、やはりジローは危険性を知っていながら彼女が仲間でいる事を許可してくれていたのだ。


「もちろん最初にお前の話を聞いた時は、それも心配だったよ。でも怪しい占い師の真似事してまでスラムに仲間入りしたいなんて、危険なほど頭が良いとは思えないだろ?」

「ぐぬぬ」

「……それが今じゃ稼ぎ頭だ。『明日は倍稼いでこい』って無理難題言ったつもりが、本当にしちまいやがって」


「では儂はこれからも居候していて良いのじゃな?」

「その質問、試しに弟達の誰かにしてみな。きっと『何言ってんだ?』って、呆れられるぜ」


ノーラは今その場所を治める者から、そこで暮らしてゆく許しを得た。

だからこそ今度は彼女がそこで暮らし続けられるよう、己の未来を手繰り寄せなければならなかった。


「ならば、やはり何とかせねばならんな」

「……何をだ?」

「欲張りになったものじゃ。最初は、こんな満たされた日々の中で最期を迎えられるなら文句は無いと思っておったのに──」


それはスラムで暮らし始めて間もない頃から、既に気づいていた事。

彼女はそれから、ロボットである自分が迎えようとしている『限界』についてをジローに語った。


………


…商店街入口


「──あ、ノーラ! よかった、帰ってきた!」


まだ数十メートル手前にいる時点で、荷物を提げたジローとノーラの耳に百合子の声が届いた。

二人とも先ほどから「あの人だかりは何だ?」と首を傾げていたが、どうやらノーラに関係がある事は間違いないようだ。


「何事じゃ? 占い待ちの人々にしても数が多すぎよう」

「それが……すごい人が占ってもらいに来てるんだよ。ほら、あの真ん中にいる人」

「ノーラ! 早くはやくー!」


人ごみの中で応対にあたっていたシロが、背伸びをしてノーラを呼ぶ。

彼と対面しているその『すごい人』と呼ばれた男は、歳は40代後半位だろうか。

なかなかの長身で、少し太り気味ではあるがきちんと身なりを整えた上品な男性だった。


「おい……なんか見た事あると思ったが、ありゃこの前の選挙で当選した市長だぞ」

「なんと、なぜそのような者がスラムにまで」

「ちょっと! 急いでってばー!」


疑問だらけではあったが、いい加減にしないと温厚なシロも苛立ち始めているようだった。

ノーラとジローは呼びに来たゴローと共に、小走りで人だかりの中心へと向かった。


「ちょうど戻って来られるとは、私は運がいいな。初めまして、占い師ノーラ」

「お目にかかれて光栄じゃ、市長殿」

「私をご存知だったか、驚かせてすまない」


本当はつい今しがた知ったところだが、有名な人物を占い師が知らないのでは特に大勢の前なら具合が悪い。

ノーラが小さな手を差し出すと、市長は倍もありそうな大きい手でそれを優しく握った。


現市長は半年ほど前の選挙で、初当選を果たした。

掲げるスローガンは『必要な豊かさを保ちつつ、弱者を切り捨てること無き社会を』という理想論に近いものだった。


過去にも多数派である下層に暮らす人々の票を得て当選した候補者は少なくない。

しかしほとんどの者が当選後には選挙時に掲げていた理想を小さく折り畳み、弱い者に見てみぬふりを決め込んでしまう。

期待を寄せていた人々は幾度も裏切られてきたのだ。


しかしこの現市長は当選後4ヶ月で大手海外メーカーの工場誘致を決め、そこに半数以上の割合で人間を雇用できるよう協議を進めている。

その事が評価され、彼は投票者達からの絶大な信頼を築きつつあった。


「私は一般に中流層と呼ばれる家庭の出ではあるが、そこに留まれるかギリギリの暮らしでもあった」

「なるほど、貧しい者達の暮らしも明日は我が身だったかもしれぬ……という事か」

「しかし政治は綺麗事だけで成り立つほど甘いものではない、有権者の味方に徹する事もまた難しい面がある」


この市に企業を誘致したという事実は、他の都市がその恩恵を得られる機会を奪う事でもあった。

社会的弱者は、この街以外にも当然存在するのだ。


「私は自分を選んでくれた市民のために尽くしたい。対立候補に投票した方々であろうと同じだ。いくらでも説き、理解を得たい」

「想いは半年前と変わってはおらん、と」

「そう信じたい。しかし、がむしゃらに取り組むだけで広い範囲の人々の暮らしを変えられるのか、恥ずかしながら当選して初めて難しさを知ったのだよ」


市長は膝に手をついて腰を落とし、ノーラと視線の高さを合わせた。

柔らかに微笑んだ男の瞳には、不安や迷いはあれど曇りは無い……ノーラはそう感じた。


「私はこの四番街の暮らしも護り、良くしていきたい。だからそこで暮らす少年少女が『街の話題』になっていると聞き、是非会ってみたかった」

「儂はただの、しがない占い師じゃよ」

「では、占い師ノーラに頼もう。失くしものとは呼べないかもしれんが……私が掲げた理想に近づくための道は、どこにある?」


シロが「はい、ノーラ」と偽水晶玉を手渡すと、立った状態の彼女は普段のように手を翳しはせず胸に抱いて眼を瞑った。


「ふむ、これは……なるほど。先を描こうとすれば見失うのも無理もあるまい」

「ほう、なんと出たね?」


「そなたの前に道は無い。道はそなたが『がむしゃらに走った後ろに生まれ続けている』……水晶はそう言っておるよ」


ノーラの言葉を聞き終わった市長は背筋を伸ばし、暫く黙って想いを巡らせた。


「……できるだけ多くの事を成そうとすれば、市長の任期はとても短い。私は前を向く事に捉われ過ぎたのだろうか」

「それもそなたの誠実さの表れじゃ。しかし時には振り返り、成した事が後にどんな結果をもたらしたかを見る事も必要かもしれぬ」


そこで「あのね、市長さん」という呼び掛けと共に、周囲にいる者の中で最も幼いゴローが歩み出る。

市長は彼に向き直り、また姿勢を下げて目線を揃えた。


「君もこの四番街の子かな?」

「うん、ノーラ姉ちゃん達と一緒に暮らしてるよ。市長さん、先月から配給の中にちょびっとお菓子が入るようになったんだけど……」

「ああ……僅かだが、その分の予算を取るようにしたんだよ」


「それがすごく嬉しかったんだ、ありがとう!」

「そうか、それは良かった……本当に」


市長は顔を綻ばせてゴローの頭を撫でる。

そしてまた背筋を伸ばしノーラに向き戻った彼は、もう一度その大きな掌を彼女に差し出した。


「……過去にした事を『正しかった』と自負できれば、迷い無き一歩を踏み出せるというわけだな」

「時には振り返って『最良ではなかった』と感じる事もあるやもしれん。しかし立ち止まって案ずる間があれば、数歩戻ってやり直すだけじゃよ」

「ありがとう、ノーラ。……決して忘れまい」


二人が交わした二度目の握手は、優しさを籠めた最初のそれよりもずっと力強いものだった。


ここまで


……………
………


…数日後、夜のホール


「あれ、まだノーラもいたのか」

「サブロー、もうみんな屋上へ?」

「さっきゴローが声掛けて回ってたからな、たぶんそうだろ。俺、トイレ行っててさ」


日暮れ間もない頃、ゴローが「屋上から彗星が見える」と皆に呼び掛けた。

風呂の当番であったノーラはすぐに上がる旨を伝え、このホールで同じく出遅れたサブローと遭遇した。

急いで階段へと向かう2人、しかし示し合わせたかのように同時に歩みを止める。


「ノーラ、ちょうど良かった。訊きたい事あったんだ」

「ちょうど良い、サブローに話したい事があるのじゃ」


そしてまた同時に、ほぼ同じフレーズを口にしたのだ。


呼びかけ合う形となり、遠慮した二人は更に「お先にどうぞ」とも言い合ってしまう。

ノーラはこれを続けていても仕方がないと考え「では、先に言わせてもらおう」と前置いて話し始めた。


「先日、タローが来た時の事じゃ」

「こないだの?」

「……皆、儂が自分で語ろうとしなかった『野良ロボットの危険性』について、タローから聞かされたじゃろう?」


数日前、ジローと公園で話した事によりノーラの気持ちは幾分か楽になったが、あの日にタローの話を聞いたのは残りの仲間達の方だ。

つまり彼らにとっては、未だに『真実を知りつつノーラ本人からは聞いていない』という事になる。

皆がそれをどう思っているのか、ノーラはずっと胸の靄が完全には晴れないでいた。


またその事もあって彼女は、ジローには打ち明けた懸案事項の解決に踏み切れていない。

もしここから『出ていけ』と言われるなら、解決する必要性を失うからだ。


シロはそもそも彼女を連れ帰った人物であり、性格を考えても後から『出ていけ』と言う可能性は低い。

ゴローも物語を読み聞かせた時から、彼女を姉と慕うようになった。

同室で毎夜語らい、風呂で裸の付き合いも重ねている百合子や花子がそう言うとも思えない。


「自分で言わなかった事は、とてもずるかったと思う……申し訳ない」


最終的にノーラが『今のところ最も接点が薄く、もしかしたら危険視されている可能性がある』と考えた相手は、残るサブローだった。

そして彼女は遂に、その是非を問いかけたのだ。


「あの……それでも儂は、これからもここに居て良いじゃろうか?」

「いいよ。それで、俺の話なんだけどさ、絶対誰にも──」

「──ちょ、ちょっと待ってくれ! 今、よく聞いておったか!?」


ノーラは慌てた。

肯定の言葉を期待していたとはいえ、覚悟を決めて臨んだ問いの答えが3文字とは予想していなかった。


「儂は危険な野良ロボット、それに『どう危険なのか』を隠してきたのじゃぞ……?」

「え? ノーラって危険なの?」

「いや、そうではなく」

「じゃあいいじゃん、俺の質問していい?」

「う、うむ……」


ちゃんと伝わっているのかどうか釈然としないまま、今度はノーラがサブローの質問を受ける事になってしまう。

これでは胸の靄が晴れたのか、彼女自身にもよく判らない。


「ほんと、絶対誰にも言わないでくれな?」

「うむ、解った」

「えっと……女の子ってさ、どんなプレゼント貰ったら喜ぶと思う?」


サブローはいかにも気恥ずかしそうに、後ろ頭をぼりぼりと掻きながら尋ねた。


相手の情報も予算の指定も無く、ましてノーラが最も苦手とする恋愛絡みと思しき相談。

普通なら推理のしようが無いはずだった。


「バレッタ」

「へ?」


しかし彼女は即答した。


「髪留めのバレッタじゃ」

「……えらいピンポイントだな」

「サブローくらいの歳なら、玩具と呼ぶには少し贅沢な程度の『可愛い何か』がちょうど良いと思うのじゃ」


サブローは少しの間「うーん」と唸り、やがて大きく頷いた。


「うん、でもそれでいい気がする。ありがとな、ノーラ!」


「じゃあ、屋上へ行こうぜ!」


やはり照れ臭さがあってか、彼は話が終わり次第そそくさと階段へ向かった。

ノーラはその様子に小さく失笑し、少し遅れて後を追う。

そして階段を数台上がった時だった。


「なあ、ノーラ」

「ん? なんじゃ?」


不意に彼女の頭上から届いた声、2階手前まで昇っていたサブローが手すりから身を乗り出している。


「さっきのノーラの話、これで合ってんのかは解らないんだけどさ」

「……ふむ?」


「ロボットだろうと人間だろうと、危険かどうかなんて結局は『悪い奴かどうか』と同じなんじゃねーかな?」

「悪い奴かどうか……か」

「人間にも悪い奴はいるんだ、そんで俺はノーラが悪い奴だとは思えない。だからノーラは危なくないよ」


彼はそう言うと「じゃあ急げよ!」と残して、階段を2段飛ばしで駆け上がっていった。


「……皆がそんなじゃから、儂の限界が早まるのじゃ」


独りになったノーラは、ぽつりと恨み言ともとれる台詞を零す。

ただ、その表情は喜びを湛えていた。


「忘れたく……ない……」


それはきっと人間であれば頬には涙が伝っているだろう、嬉し泣きの顔だった。


………


…屋上


サブローに少し遅れてノーラが屋上に上がると、既に皆が西向きの一辺に集まり空の低いところを指差して賑やかに語らっていた。

その方向の空はまだ僅かに赤みを帯びて、頭上の大部分も漆黒というよりは濃紺と表すのが近い色合いだ。


「本当に彗星か?」

「全然尾を引いて見えないんだけど」

「まだ太陽から遠いし、それに尾を引いてたってかなり地球に近い方を向いてるから判り難いんだよ」

「んー、なんとなく他の星より輪郭がぼんやりしてるような……」

「でしょ? 昨日見た周りの星との位置関係が違ってるから、きっとそうだと思うんだ」


ゴローは興奮気味に彗星の事を説明している。

ノーラはその邪魔にならないよう、静かに聞く者の列に加わった。


幼い彼は星や生き物が大好きだが、この街中では動物や昆虫に触れられる機会は少ない。

だがさほど多くはなくとも星なら見える、今回の彗星にかけるゴローの期待は相当なものだった。

数ヶ月も前から夜空を見上げ続け、そしてようやく高い確率で彗星だと信じられるものを見つけたのだ。

今の彼が、かなり舞い上がった様子なのも無理はない。


「エリー彗星……じゃったの」

「うん、そう呼ばれてる。ちょっと由来は怖いけどね」

「由来?」

「古い映画で使われた造語らしいんだけど『Extinction Level Event』の頭文字をとってるんだって。意味は……」

「『種の滅亡をもたらす出来事』といったところじゃな。確か彗星は当初、地球に衝突する可能性があると言われておったのじゃろう?」


ゴローの言う通り、その名は前世紀末に公開された映画から引用されたものだ。

その映画は彗星と地球の衝突を描いたもので、いかにも世紀末滅亡説などが流行ったその時代らしい。

実際には彗星衝突危機の可能性は、数年前に否定されている。


「おい、あれは? 星が動いてる、あっちが彗星なんじゃねーの?」

「まだ動いて見えるわけないよ、最接近の時にだってほとんど止まって見えるはずなのに」

「じゃ、あれは何だよ。飛行機みたいに点滅はしてないぞ」

「もしかしてUFO!?」

「チョーウケルー」


サブローが見つけたそれは確かに飛行機ではなさそうだが、一方向に直線的な動きでゆっくりと東の空の高いところを進んでゆく。

しかし見つけてから十数秒後、その光を弱めた後に消えてしまった。


「……雲に隠れたのかな?」

「周りには星が出てるし、雲は無さそうだがな」

「たぶん人工衛星だと思う、日暮れ間もない頃は太陽の反射光で見える事があるって」


「あれか!? 世界の秩序を守る……!」

「多国籍軍のミサイル衛星は静止衛星だから、肉眼じゃとても見えないよ」


名の挙がったミサイル衛星は2050年代に打ち上げられ、現在も静止軌道で世界の番人として機能している。

先進国や経済主要国からなるG25が主体となって運用する共同軍事衛星で、核兵器に代わる抑止力として計画されたものだ。

実際に使用されたのは2061年に一度だけ、それも『都市部への落下』が懸念された直径30mの小惑星撃破という任務だった。


故に当初、今回の彗星に対してもミサイル衛星を使用するのではないかという見方もあった。

彗星の本体は直径約13km、大部分が氷だが内部には2km近い大きさの岩石のコアがあると推定されている。

しかし大小合わせて1,000発近いミサイルを搭載したその衛星なら、破壊する事も不可能ではないという検証結果も得られていた。


「じゃあ彗星も見られたし、体が冷える前に入ろう」

「風呂ならできておるぞ」

「ゴロー、もっと大きく見えるようになってたり、尾が出てたら教えてくれよな」

「うん、毎晩見てるから必ず呼ぶよ」


皆は夜風に冷えた肩をさすりながら屋上を後にする。

その一番後ろを歩んでいたノーラが、シロの肩を叩いて呼びかけた。


「シロ、ちょっと良いじゃろうか」

「ん? どしたんだ?」


シロは立ち止まり振り向く。

しかしノーラはすぐには話し始めない、他の皆がドアの向こうに消えるのを待っているのだ。

その様子に彼は、これから聞く話が何かしら重大な内容である事を予感した。


「ノーラ、みんな行ったよ」

「少し長い話になる。寒ければ部屋に邪魔をしても良いのじゃが」

「いいよ、大丈夫だ」


すう……と、ノーラが深呼吸をする。

やはり大切な話なのだと察し、シロは唾を飲み込んだ。


「タローから聞いた話にもあったと思う……ロボットの記憶領域の事じゃ」

「……知ってたのか。隠れて訊くような事をしてごめんな」

「隠しておったのは儂じゃ、シロは何も悪うない。記憶領域には4つの階層がある……覚えておるか──?」


第1層は基本OSで第2層が所有者に大きく関わる記憶、第3層は見聞きした大量のデータ、最後の第4層が映像等のドキュメント領域。

ノーラはタローが語った通りの事を手短におさらいした。


「──第1層の領域は儂の場合、全容量の10%程度じゃ。第2層も同程度じゃが、儂は所有者情報を持たないが故に『使用できない未開放領域』となっておる」

「残り80%に50年分の記憶があるって事だね」

「そうじゃ、3層と4層はパーテーションされていない。そしてそれはこの50年間でも5割程しか使われてはいなかった。ここに来た時点で全体に占める使用領域は約63%じゃったよ」


50年間の内、初めの頃は比較的早く使用領域が増していった。

全ての事が初めての経験であり重複しない……つまり圧縮できない記憶なのだから、それも当然だっただろう。


「野良になって7年程の頃じゃろうか、使用量の増加は緩やかになった。年に1%も増す事は無くなったのじゃ」

「本をたくさん読んでもその程度なのか」

「そのようじゃな。それから儂は段々と自我を強めていったが、それもデータ量としてはさほどのものではなかった──」


彼女がこれほどまでに強くはっきりとした自我を発現したのは、所有者情報が与えられていなかった事が理由のひとつでもあった。

記憶領域の一部が制限されてはいるものの、逆に自分の人格を築いてゆく事には制限が無い。

持ち主の意向や嗜好に合わせる必要が無かったからだ。


「──いくら自我が強く発現しようと感情を表す機会が無いのじゃから、当然じゃったのかもしれんな」


「じゃあ……まさか」


そこまでを聞いて、シロはノーラに迫る危機の内容に予想がついた。

しかももしそれが正しければ、その原因には自分が関わっている事になる。


「儂の現在の記憶領域使用率は76%……第2層に当たる約10%は使えぬから、実質残り容量は15%も無いのじゃ」

「それは……急激に使用率が増したのは、ここに来たから?」

「通常ではあり得ぬほど強くなった自我が、初めて前面に出る機会を得た。最も複雑で大量のデータを産むもの……それは人間に近い人格をもって人間と接する経験じゃった」


喜怒哀楽といった感情の機微、相手の反応、50年分のサンプルをもってしても予想外の事ばかりな日々。

本来ならロボットがそこまで形成する筈のない複雑な感情を持ったノーラは、四番街という居場所と仲間を得る事で急激にデータを蓄積し始めた。


「……もし記憶領域を全て使ったらどうなるんだ」

「解らない、そんな例は聞いた事が無いのじゃ。過去のデータが消去され上書きされてゆくのか、あるいはもしかしたら動作出来なくなるのかもしれん」


「僕が……連れ帰ったから」


顔を曇らせ、拳を握るシロ。

しかしノーラは微笑み、首を横に振って言った。


「あのまま100年を孤独に過ごすより、ここでの数ヶ月を過ごして朽ちる方が幸せじゃ。儂はシロに感謝しかしておらんよ」

「でも!」

「そう……『でも』じゃ、儂は自分がこんなに欲張りとは知らんかった」


そして彼女は顔を上げ、シロの目を見た。

勇気と決意、少なからぬ不安を内包した凛々しい表情だった。


「儂はずっとここで皆と共に暮らしたい。何ひとつ忘れて良い記憶なぞ持ってはおらぬ。今までも、これからもじゃ」

「……そうだよ、その通りだ! 何とかしなきゃ!」


「この話は買い出しに行った時、ジローにもしたのじゃ」

「ジロ兄ちゃんは何て?」

「考え得る対策は、タローの手を借りるくらいしかない……と。儂もそう思っておった」


ただ、それは大いに危険を孕んだ手だ。

タローはロボットを造る者、つまり野良ロボットの危険性を誰より把握している者だからだ。

その彼に野良ロボットの存在を知らせ、しかもそれを救えと頼む事になる。


「大丈夫だ、ノーラ」


しかしシロは、ノーラの細い両肩を掴んで言った。

少し驚いた彼女の目に映るのは、今まで見た事のない力強く男らしいシロの顔だった。


「心配ない、僕がタロ兄ちゃんに頼む。無理だなんて言わせない、絶対に」

「シロ……」

「きっと何とかしてくれる、もう大丈夫だよ」


彼女はこの打ち明け話で、元々はシロに『タローに救いを求める事の是非』を問うだけのつもりだった。

タローに接触する良い方法を思いついてはいなかったが、まずは自分がここで暮らすきっかけとなったシロに許しを得なければならないと考えただけ。

だが彼は『自分が動く』と宣言した。


「明日にでもタロ兄ちゃんに会うよ。ノーラは必ず身を隠してて」

「……身を隠す?」

「万一に備えて、いつでも逃げられるように。タロ兄ちゃんが良い返事をくれれば屋上に何か目印を出すから、それから帰っておいで」


もしもタローとの交渉が決裂して彼がノーラを捕縛しようとした場合、彼女は四番街に居てはいけない。

シロは何としてでも彼女を救うつもりだ。

今のところタローの力を借りる以外に手は無いが、それが駄目だったとしても次の手段を探す。

ノーラが捕獲部隊に連行されて全ての幕が閉じるなど、まっぴらだと考えた。


「……またシロの厚意に甘える形となってしまう」

「だから何だよ、それが最良だ。ノーラなら解るだろ?」

「すまぬ、でも──」


ノーラは50年を生きても『恋愛』というものが解らないと言った。


「──ありがとう、頼む……シロ」

「ああ、任せろ」


しかし女性が男性に惚れるのは、きっとこんな時なのだろう。

彼女は機械仕掛けの心で、そう感じていた。


ここまで


……………
………



《──こんばんは、Talkful公式放送『ニュース22』の時間です。本日はゲストに明日香秋男さんをお招きしております。明日香さん、よろしくお願いします》

《よろしくお願いします》

《さて、明日香さんにお越し頂いているという事は、皆さんももうお解りかと思います。今日は遂に肉眼でも観測できるようになったエリー彗星について特集を──》


文字通り目に見えるまで近づいた彗星は、次第に人々の関心を深く集めるようになっていた。

メディアでも連日のように特集が組まれ、観測しやすい時間や見える方向、過去の大彗星についての記録映像などを紹介している。


《──彗星が観測しやすくなって本当に興味は尽きないんですが、明日香さんは『とある事』にお気づきになったとか?》

《はい、私は様々な角度から彗星の神秘を追ってきました。その結果、彗星の軌道に注目すべき異変を発見したのです》


《異変……と、言いますと?》

《まず彗星は、木星の引力の影響を受けて軌道を変えたようです。それは予想されていた通りだったのですが──》


彗星は木星付近を通過する際に、その強大な潮汐作用により大きな4つの欠片に分裂した。

そして単体として質量の軽くなったそれらは後に、影響を受けないと言われていた火星の引力によって、それまでの計算とは違う軌道をとったのだ。

4つの内、最も軽かったひとつは火星の引力を抜け出せずそこへ落下し消失した。


《──残り3つの内、およそ大きさの揃った小彗星2個は火星の引力により軌道を変えた後、僅かに加速しました》

《ほう、では残りのひとつは?》

《残りのひとつ、大彗星も軌道は変えられましたが火星の公転により離脱時にはおよそ加速分だけ減速し、結果的に速度は変わりませんでした》

《それでは前のふたつと大彗星は距離が開いたという事ですね?》

《そうです、少しずつその距離を広げつつあります。しかし問題はそこではない──》


現在、人々が特に注目しているのは今後の彗星の動きだ。

それは特集番組に限らずアマチュア天文家も多く指摘し、SNSなどを用いて情報を発信している。


《──3つの彗星は、地球に衝突する可能性があります》

《その場合、地球にはどのような被害があるのでしょうか?》

《彗星核の実際の大きさが判らない限り、はっきりと断定はできません。しかし仮に推定通り直径2kmの岩石コアを持つとすれば、これは人類存亡の危機です──》


彗星の地球衝突について政府や公的機関からの発表は無く、どの情報も信憑性に疑問のある噂に過ぎないレベルだ。

しかしどの時代においても『世界終末説』というのは、多くの人の興味を惹く話題でもある。

人々は次第に彗星に天体ショーとしての期待と、世界滅亡の不安という異なる想いを寄せるようになっていった。


……………
………


…公園、噴水前のベンチ


「──シロ、自分が何を言っているか解ってるのか?」

「うん、そのまんま『ノーラは50年生きた野良ロボットだけど、危険じゃないから助けて欲しい』と言ってるつもりだよ」


タローと落ち合ってすぐにシロは本題を切り出した。

彼らが待ち合わせたそこは、奇しくもノーラとジローが話した公園中央にある池の畔。

他者に聞かれたくない話をするにはちょうど良いと考え、シロが指定した。


四番街で彼らが根城とする廃ビルの隣りには、放棄された古いマンションがある。

ほとんどの部屋が老朽化により住むには危険だが、比較的まともな数部屋には住人が暮らしており廃ビルの子供達とも親交が深い。

特に1階に暮らす家族とは仲が良く、その家庭はスラムでは珍しい通信回線を契約しているためシロ達は過去にもそれを借りた事があった。

ノーラから己の危機について打ち明けられた翌日、シロはその方法でタローに待ち合わせの約束をとりつけたのだ。


「突然『大事な話がある』とか、何事かと思ったら……本当に突拍子も無い事を」

「ごめん、でもタロ兄ちゃんの力を借りるしかなかった。絶対に何とかしたいんだ」

「僕はロボットを造る側の人間だ、野良の危険性なんて研修時代から嫌と言うほど聞かされてきた。いいか、シロ……悪い事は言わない、今すぐ通報するべきだ」

「嫌だ、さっきも言ったよ」


頑として言う事を聞かないシロに、タローは深い溜息をついた。

シロはこんなに無茶を言うような性格では無かった筈だ……そう考え、ノーラに誑かされているのではないかと疑った。

もしそうだとすれば、それこそが知能が高過ぎる野良ロボットの危険性そのものなのだ。


「……やっぱり駄目だ、僕は力にはなれない。そしてその野良ロボットを見過ごす事もできないよ」

「お願いだ、タロ兄ちゃん。もう一度考えて、ノーラを救って欲しい……いや──」


シロは言葉を途切らせるとベンチから立ち上がり、タローの前に回って深々と頭を下げた。


「──お願いします、ノーラを……僕らの新しい家族を助けて下さい!」


「やめろ、お前にそんな真似されたくなんかないぞ」

「お願いします!」

「できない、ロボット技術者の端くれとしてその一線は越えられない」

「タロ兄ちゃんしか……貴方しか頼れる人はいないんだ!」

「くどいよ、シロ。無理だと言ってる」


タローも立ち上がり、頭を下げ続けるシローの肩に手を置いて「すまない」と呟いた。

それでもシロは頭を上げない。


「諦めてくれ。そして……僕はこの事を通報する、それを許して欲しい」

「嫌だ、諦めない」

「もうやめよう、こんなやりとり無駄だ。僕は可愛い弟の辛そうな顔を見たくはないよ」

「……協力してくれないなら、僕はもう貴方の弟じゃない」


「何てことを言うんだ、よしてくれ」


タローはシロの両肩を掴むと、大人の腕力で彼の上体を無理矢理に起こさせる。

そして、その顔を見て愕然とした。


「お前、泣いてるのか」


シロは涙を零している、しかしその表情から女々しさは微塵も感じられない。

本当は今でも心から慕っている兄に対して、決別を覚悟した悲しみ。

それを揺るぎない己の信念で抑え込んだのだ。


「なんで、そこまで……」


もしこの要求を断れば、シロは本気で自分と縁を切るだろう……タローはそう感じた。

ノーラと比べれば共に過ごした時間は、彼の方が遥かに長い。

だがそれはシロにとっては別の話、どちらとの情がより深いかが問題なわけではない。

タローは弟分に縁を切られようと生きてゆけるが、ノーラの未来は誰かが救わなければ閉ざされる。


「要求を断れば、そのロボットを連れて駆け落ちでもしそうだな」

「僕がノーラと二人で逃げるとか思わないでよ」

「……どういう意味だ」


シロはごそごそと自らのポケットを探る。

そこに収まっているのは、彼にとって切り札とも呼ぶべきものだった。


「どうしても断られたら、これを返してこいと言われてる」

「これは……」

「『ノーラは家族だ、でも救う力を持ちながら家族を救わない者は家族じゃない』……これはジロ兄ちゃんからの伝言だ」


シロが取り出して見せたのは、タローがジローに託した腕時計。

この突拍子もない申し出は、シロの一存による暴走行為ではない。

少なくともジローはそれを認め、交渉が決裂した場合には彼もまたタローとの縁を切る覚悟だという事だ。


「……半ば脅迫めいてるな」

「こっちも必死なんでね」


もしジローとシロが四番街を抜けたら、あるいは全員がノーラを庇い居を転々とするようになれば、その生活は今より著しく困窮したものになるだろう。

タローが真っ先に不安視したのは、最も幼いゴローの事だった。


『──今日はノーラ姉ちゃんが色んな物語を聞かせてくれて、すごく嬉しい日だったんだ』

『あんた、私には「姉ちゃん」とか言ってくれた事無いくせに』

『いいお姉さんができて良かったな──』


そして同時に彼は先日、自分が四番街を訪れた際の事を思い返して葛藤した。


きっとノーラは皆を誑かすような事はしていない、むしろ皆が彼女を必要としているのだ。

野良を匿う事が罪とは知りながら、それを犯してでも守るべきかけがえのない家族の一員になっている。

だが自分はロボット技術者だ、野良の危険性を軽んじる事はできない。


「彼女の型式は」


渦を巻く様々な思考の中、ひとつだけ他の何とも混ざらず残った想い。

彼はそれに基づいて口を開いた。


「製造メーカー、年式、モデル名が判らなきゃ何もできないぞ」

「……パナソニー製38年式、SD-01」

「なんてこった、歴史的な赤字を刻んだというウチのセクサロイドじゃないか」


家族を救えない者に多くの人を救う事などできない、それがタローの導き出した答えだった。

ノーラがシロ達にとって家族なら、それは自分の妹でもある。


「必ず救うとは断言できない、だけど手は尽くしてみるよ」

「ありがとう、本当に……生意気を言ってごめん」

「全くだ、大きくなりやがって。ジローにも言っておいてくれ、時計はサブローかシロに譲るまでちゃんと持っとけ……いいな?」


タローは眉間に皺を寄せた笑顔で、シロの頭を小突いて言った。


……………
………


…翌週、占いカウンター


「──次の方、どうぞ」


占い師ノーラのカウンターは相変わらずの盛況ぶりだった。

人通りの少なくなる朝10時頃から午後4時くらいまでは客のいない時間もあるが、その前後は休む暇も無い。

そしてここ数日、妙に増えた相談があった。


「彗星は本当に地球にぶつかるのか判りませんか?」

「その質問は多く頂くのじゃが、儂は失くしものや探し人が専門であってじゃな……」

「そうですか……不安で仕方ないんですが」


今日は占いの助手として百合子と花子がノーラについている。

客が途切れた隙には取り留めのない会話に花を咲かせ、先ほどはたまたま表に出てきたジローに「真面目にやれ」と釘を刺された。


「さすがに彗星の軌道を推理するのは、様々な観測データに目を通さねば無理じゃよ……」

「占いで『ぶつからない』って言われたからって安心できるのかなー?」


彗星に関する占いの依頼は、多ければ日に10件ほどもある。

ほとんどが地球衝突の可能性についてだが、中には『最期の日は好きな人と過ごしたい』と恋愛相談に絡める者もいた。


前にも増して人々が彗星の軌道を不安視するようになった事には、ちょっとした理由があった。

度々放送されていた彗星衝突の危機を特集する番組や記事が、先週末あたりからぴたりと無くなったのだ。


無沙汰は無事の便りなどとも言われるが、このケースにおいては当て嵌まらない。

報道規制が敷かれたのではないか、収容能力に限りがあるシェルターに真実を知る者だけが逃げたのではないか……など、様々な憶測が飛び交っている。

情報が無い事により人々には疑心暗鬼が生じ、外国の一部地域では略奪が起きているとの情報もあった。


「彗星もだいぶ近付いたようじゃし、気になるのは無理ないかもしれんがの」

「どう見ても他の星より大きいし、輪郭もぼんやりしてるもんね」


百合子は一昨日が誕生日で、当日は珍しく祝いの席が設けられた。

ノーラが占いで収益を得るようになったため、ケーキを用意する事ができたからだ。

正確な彼女の誕生日は判らない、だから四番街に身を寄せた日が誕生日という事になっている。

ゴローが花屋で余り物を束ねてもらったブーケ以外にプレゼントは無い、一般的にはささやかなパーティーであったが大いに盛り上がった。

とはいえ、正確には──


「……ん? どしたの、ノーラ?」

「ユーリ、そのバレッタ似合っておるぞ」

「うっ」

「チョーウケルー」


──パーティーが終わってから、個人的なプレゼントはあったようだ。


「そ、そんな事よりノーラの身体の方は大丈夫なの?」

「ふふふ、話題を逸らしおったな?」


ノーラの記憶領域不安は、まだ解決したわけではない。

しかしタローが動いてくれる事となった時点で、シロは皆にその経緯と今後はタローの連絡を待つ旨を話した。


『なんで早く言ってくれなかったの』

『このままだと、どのくらいもつんだ?』

『絶対にタロ兄ちゃんが助けてくれるよ!』


誰もがノーラを心配したが、同時に皆のタローに対する信頼は絶大なものだった。


とりあえず今のところノーラは普段通りに過ごしている。

ただ記憶領域の残量が1割を切ってもタローの連絡がない場合、できるだけ余計な記憶を溜め込まないよう個室に閉じ篭る事とした。


そして更に10日ほどが経ち、その時は現実のものとなったのだ。


……………
………


…2週間後、ノーラの部屋


その日は雨だった。

11月も半ば、灰色の空からは日差しが注ぐ事もなく部屋は冷え切っている。

人間ならばせめて毛布にくるまっていないと過ごせない室温だろう。


《──ノーラ、起きてる?》


ドア越しに届いたシロの声、ノーラは「起きておるよ」と返しドアの目の前まで歩んだ。

しかしシロがドアを開ける事は無い。


《昨日はどのくらい増えた?》

「0.04%というところじゃ、まだ残り8%くらい領域は残っておる」

《こうして大人しくしてて、半年分ってとこか……》


シロがドアを開けないのは、ノーラに余計な映像データを記録させないためだ。

彼女は今、日のほとんどを目を閉じて過去に読んだ本の内容を思い返しながら過ごしている。

食事は水以外必要無いし、風呂はどうしても入らなければならないわけではない。

それでも人間のシロからすれば余りに退屈で寂しい時間に思え、不憫でならなかった。


《ごめんな……こうして話しかけるのも良くは無いんだろうけど》

「ううん、嬉しいよ。皆、元気にしておるか?」

《うん、でも百合子なんかはノーラと話せなくなって火が消えたみたいだ》


見つかる事を怯える必要もないこの日々は、50年の長い時を思えばノーラにとって苦ではない筈だ。

過去に読んだ本の情報量は、その時と同じペースで文章を思い返すなら数年もかかる。


しかし彼女はこうしてシロと話しながら、自分の内に過去には無かった感情が強くある事に気づいていた。


『寂しい』

『顔を見て話したい』

『皆と会いたい』


そのような人間臭さをもって人と接すれば、記憶領域に大きなデータとして刻まれてしまう。

ノーラは「ロボットが寂しいなど想うものではない」と己に言い聞かせ、自分の中の感情に見えぬふりをした。

その『我慢』や『諦め』という感情も、人間らしさのひとつだと知りながら。


ここまで


……………
………


…1週間後、夕方


相変わらずノーラが過去に読んだ文章を頭の中で思い返していると、やけに騒がしい足音が近づいてきた。

彼女の様子を伺いに来るのは主にシロだが、普段なら彼はできるだけ静かに歩いて来る。

その方がノーラの意識を乱さず、少しでも新たな記憶を増やさずに済むような気がしたからだ。


故にノーラは、訪れたのはサブローか百合子かもしれないと考えた。


《はあ……はぁ……ノーラ、大丈夫?》

「シロ? どうしたのじゃ、そんなに急いで……?」


しかしドア越しに届いた声は、少し息を切らせたシロのものだった。


《今、容量の残りは?》

「まだ7%以上はある、そんなに急には変わらんよ」

《この街に来てから今まで、1日で増えた最大のデータ量はどのくらいだ?》

「1%を超えて増えた事はないが……」


その返答を聞くや、シロは部屋のドアを開け放つ。

ノーラは驚き、同時に久しぶりに見る彼の顔に強い安堵感を覚えた。

しかしそれも束の間、シロは部屋に立ち入ると前触れも無く彼女を抱き締めたのだ。


「ちょ、シロ!? どど、どうしたシロ!」

「ノーラ、もう大丈夫だ! タロ兄ちゃんから連絡があった!」

「なんと……本当に……」


ついさっきの事、隣りの廃マンションに住む音成家の夫人がこのビルの1階ホールへ訪れた。

音成家はシロがタローに連絡を取る際にも利用した、通信回線を持つ家庭だ。

そして夫人はタローから預かったという伝言を、ちょうど1階にいたシロに伝えた。


『準備が整った。明日の夜帰るから、その場ですぐ作業できるように』


整備工場などに赴かず、この場で作業ができるというのは実に危険が少なく好都合だった。


「外装パーツが分割式である事が幸いしたかもしんな」

「良かった……本当に、ホッとしたよ」

「……それは良いのじゃが、いつまでこのままじゃ?」


ノーラを抱擁したままだった事に気づいたシロは、慌てて距離をとった。

彼女は悪戯な顔をして「儂を使いたくなったにしても、先に風呂くらい浸かりたいぞ」とシロをからかう。

その様子に彼は、出会った日に彼女が手に持った下着を見せながら自分をからかった時を思い出し、腹立たしさと共に懐かしさを感じた。


……………
………


…翌朝、シロの部屋


朝食も済ませたシロは、自室で時間を潰していた。

ノーラがいなくては成り立たない占いも、ここ暫く店を開けていない。

最初こそ恥ずかしさに抵抗を覚えていたあの時間だが、気づけばそれを手伝う事はグループの皆にとって楽しみのひとつになっていた。


シロは横向きに寝そべり、ゴローがどこかでもらってきた中学生向けのテキストを捲っては幾度も解いた問題に目を這わせる。

答えの知れた設問など何の面白みもない、どうしていたって彼の頭の中は今日の夜の事でいっぱいだった。

こんな方法でタローが訪れるまでを過ごすなど気が遠くなりそうだ……そう考えた時、部屋のドアがノックされる。


《……シロ、おるか?》

「ノーラ? ……いるよ、開けていい」


静かに開いた扉から姿を現したノーラは、何やら気まずそうにしている風に見えた。

それもそのはず、彼女自身が昨夜「いかに明日にはタローが来てくれるといっても油断してはいけない」と、その時まで記憶領域保護のため自室に篭ると宣言したのだ。


「どうしたんだよ、大丈夫なのか?」

「う、うむ……それが……」


彼女は昨夜、恐ろしく長い夜を過ごしたという。

タローの手立てが本当に上手くいくのか、もし失敗した場合には次の手を探すまでもなく記憶が消えてしまうのではないか……そんな事を一晩中ずっと考えていた。

その結果、できるだけ心静かに過ごしてきた最近としては異常なほど記憶領域の侵蝕が進んでしまったのだ。

だがそれも一晩で0.2%ほどの話、まだ残り領域は充分にあり慌てる必要は無い。


「ただ、そんなつまらぬ時間で記憶を刻んでしまうくらいなら、皆と普通に接した方が良いと思ったのじゃ……」

「そりゃそうだね、僕も晩までどうやって時間を潰そうかと思ってた」

「もしかして……の話じゃが、処置が失敗すれば今日が儂にとって最期の──」

「──待った、そんな事言うな」


縁起でもない……と、シロは彼女の頭を小突く。

そして彼は立ち上がって「よし」と呟き、ノーラが思ってもいなかった提案をした。


「遊びに出よう、ノーラ。お金を使うようなところには行けないけど、きっと時間が過ぎるのは早くなる」

「あ、遊びに……?」

「やれる事はやった、あとはタロ兄ちゃんを信じるしかないんだ。今日は夕方まであちこち行こうよ」


ノーラは数秒ほど呆気にとられた後、とても嬉しそうに顔を綻ばせ頷いた。


………



「シロ、あれは?」

「映画館だよ、あそこは大きいところだから普通のホログラム上映のシアターだけじゃなくて、昔ながらのスクリーンもあるんだ」

「ああ……あれが映画館か、シロは行った事があるのか?」

「昔、なんかのお祭りの時に無料開放しててね。そのスクリーンの方で古いアニメ映画を観たんだ。ええと……時を隔てた男女の精神が入れ替わるラブストーリーだったと思う」


ジローと歩いた時に比べると、シロとノーラの歩調は近いものだった。

小走りになったりする必要は無く、少しだけシロがゆっくり歩けば彼女はその隣をキープする事ができる。


「あ、信号変わる。ノーラ、手」


渡り慣れない横断歩道では僅かに出遅れる事もあったが、そんな時もシロは自然に手を差し出した。

季節は晩秋、駅前のメタセコイア並木は鮮やかな黄色やオレンジに染まり、ただ散歩をしているだけでも観光気分に浸る事ができる。


ほんの冷やかしでカジュアル服の店に入ると、すぐに試着を勧める店員がつきまとった。

身体に触れられては不味いと考えたノーラは「今日はシロの服を見にきたのじゃ」と彼を人柱にする。


「よくお似合いですよー」

「う、うん……どう、ノーラ?」

「チョーウケルー」

「てっめえ」


それでも極力無駄な金は使わず、シロだけが必要とする昼食も配給のビスケットをポケットに忍ばせている。

幾らかの金を持ってきていたノーラが「今日くらい美味しいものを食べれば良い」と言うと、シロは「じゃあ飲み物だけ」と小さなパックの牛乳を差し出した。


「シロは背が高くなりたいのか?」

「そりゃなりたいよ、ジロ兄ちゃんくらいになれたらいいな」

「ならんでいい、歩くのが大変になるからの」


言いながらノーラは『先の事を思い描くのは気が早い』と考え、それが顔に出てしまう。

それを見逃さないシロは「今、弱気になったろ」と、また彼女を軽く小突いた。


午後3時、二人は煉瓦畳みの大通りに出た。

食料や日用品の店ではなく、服や雑貨など趣味性の高いショップや飲食店が目立つその街並みに、ノーラは見覚えがある。

ジローの買い出しに付き合った際に歩いた所だ。


「……シロ、少しお金を使っても良いじゃろうか?」

「ノーラが稼いだお金だろ、ちょっとくらい誰も文句言わないよ」


ノーラにはその時に見かけ、いつか立ち寄りたいと思っていた店があった。

一度歩いた道も全て記憶し忘れない彼女、今度は目的の店までシロの手を引いて歩く。

シロの手に伝う彼女の体温も人工的な機構によるものには違いない、それでも彼はその温もりを心地よく自然なものに感じた。


「ここじゃ」

「ペットショップ? なんでまた?」

「入っても構わんか?」

「別に入るのは全然構わないけど……動物飼うならみんなに相談しなきゃいけないぞ」


街中にあるだけに、店内はさほど広くはない。

しかしその至る所にケージやガラス窓の部屋が設けられ、その中で犬や猫をはじめとした動物が愛想を振りまいていたり無愛想だったりといった賑やかさだ。

入り口と反対の一角には、爬虫類や観賞魚のコーナーもある。


「この子が可愛いのぅ、真っ白な柴の子犬か」

「なんとなくノーラのイメージは犬よりは野良猫なんだけど」

「自分でもそう思う、じゃからこの子の名はシロじゃな」

「もうちょっと迫力ある犬に例えられない?」

「無理を申すでない」


ゆっくりと店内を見て回り、ケージひとつひとつで足を止める。

店内には売り物ではなく看板猫らしき自由に歩く三毛猫が1匹、ノーラがそれを撫でようと手を伸ばした時などはシロの方が肝を冷やしていた。

もし手を噛まれでもしたら、彼女の傷は自然には治らないのだ。


「儂はこのピンポンパールが可愛いと思う」

「金魚は断然和金、何より安い」

「出目金も愛嬌があって良いな……」

「それ、なかなか掬えないし」

「なにも金魚掬いの話はしておらぬぞ?」


ノーラは『言葉を覚えます』とポップのついたオウムに対し、かなり必死になって自分の名を教え込んだ。

しかしいくら教えても「ノムラ!」としか聞こえず「誰じゃそれは……」と肩を落としていた。


「たぶん『シロー』は言えるぞ?」

「試さんで良い、出来てしもうたら悔しい」


ひと通り店内を歩いた後、ノーラはある商品が集められた売り場で足を止めた。

そこは生き物そのものではなく、いわゆるグッズが並んだ一角だ。


「この辺り……ああ、あった」

「え? ノーラ、ほんとに何か飼う気なの?」

「シロは、どれが似合うと思う?」


そう言って彼女が指差した棚には、様々なサイズ・デザインの首輪が陳列されている。

どれが似合うかを訊くならせめて先に欲しい犬種だけでも言うべきじゃないか……シロはそう考えた後、ようやく彼女の真意に思い至り目を丸くした。


「ノーラ……もしかして」

「しーっ、大きな声で言うでないぞ。変に思われてしまう」


ノーラは動物を飼おうとしているのではない、選んだ首輪を着けるのは彼女自身なのだ。

どれが似合うかという問いは、まさに自分を指しての問いだった。


「でも……偽物の首輪は着けたくないって」

「今はの、持っておきたいだけじゃ」


ここへ来てからの日々で、ノーラは自分の内面がそれまで以上に人間じみてきていると感じていた。

記憶限界の危機に際しても、当初は心から『長く生きた最後にこんな幸せがあったなら思い残す事はない』と考えていたのだ。

それがやがて怖くなり、惜しくなり、もっと生きていたくなった。

シロの、仲間達の生涯を見ていたい。

彼らを本当に家族だと信じていたい。


「それでも儂はロボットじゃよ。人間に憧れる想いもあれど、自分が人間の為に尽くすべき存在じゃという事もまた誇りに思っておる」

「僕は……もう、ノーラがロボットだとか気にならなくなったよ」

「それはそれで嬉しい、しかし自分の中では忘れてしまいたく無い。自分を人間じゃと思い込み、鏡を見る度に『違う』と失望するのは辛いものじゃ」


だから彼女は、自分がロボットである証を所持しておきたいと思った。


ロボットでありながら家族を得て、忘れるのではなく『それでもいい』と認め合い共に生きてゆく。

それがノーラが夢見る未来、今夜あと僅かな障壁が取り除かれれば手が届く筈の明日の形なのだ。


「儂に今をくれたシロが選んだ首輪なら、きっと持っておくだけで気が引き締まる」

「うん、ノーラがそう言うなら。ちょっとびっくりしたけど、そっか……自分が生まれた理由を忘れたくはないもんな」


ノーラはシロの方に向かって姿勢を正し、そっと目を閉じた。

どれが似合うかイメージしろ……という事だ。

シロは彼女の白い喉元にそれを着ける様子を想像し、なんとなく背徳的な気持ちになってしまう。


「どんなのが良いって希望はないの?」

「よほど奇抜なものでなければ、シロの好みで選んで欲しいぞ」

「じゃあ……これか……いや、これだ」


彼が手にとったのは、厚めな革製で臙脂色が基調のもの。

シンプルだが決して地味ではなく、表面にはエスニックな模様が彫刻されていた。


「うむ、良いな。儂も好きな感じじゃぞ」

「よかった」

「……防犯カメラもある、さすがに試着しては不味かろうの」


ノーラは会計を済ませ、先に出ていたシロを追った。

もう冬が近付いているこの頃は、日が暮れるのも早い。

まだ17時にさえならないというのに、東の空は既に紺色に染まりつつあった。


「待たせたの、そろそろ帰らねば」

「こんな季節なんだな」

「ん? 何がじゃ?」


店の前の歩道でシロが見ていたのは、街の催し事を列記した映像が映し出されたホログラムの掲示板だった。

そこには『イルミネーション点灯期間11月13日から1月7日、18:00から24:00』との表示がある。

この道はあと1時間ほどで光の渦に包まれるのだ。


「見たいが、ちょっと遅くなり過ぎるじゃろうな……見たいが」

「さすがにタロ兄ちゃんが先に着いてたんじゃ具合悪いしなぁ……」


ここから四番街までは、徒歩でおよそ30分。

点灯してから少し見て帰るにしても、戻りは19時頃になってしまう。

タローは『夜に帰る』と言っただけで何時とは指定していないが、この時季の19時は充分に夜と呼べる時刻だろう。


「今日、タロ兄ちゃんが処置をしてくれれば、またいつでも来られるよ」

「……そうじゃな。どうせ日が暮れれば占いも閉める、何なら明日でも来られるくらいじゃ」


今日は首輪を購入した以外、特に大きな出来事は無かった。

それでもノーラにとっては過去に体験した事が無いほど楽しく、時間の早く過ぎる1日だった。

楽しみは残しておいた方がいい……彼女はそう考え、シロに向かって掌を差し出した。

こんな特別な日は、これから何度もあると信じて。


ここまで


………


…1Fホール


日が暮れて間も無く、シロとノーラは四番街に帰り着いた。

ノーラは一度自室に荷物を置いた後はホールに留まり、シロも喉を通らない夕飯を済ませてすぐに彼女の元へ戻る。

やがて食器の片付けを終えた百合子と花子も姿を現し、気づけば仲間全員がホールに待機していた。


「……皆、部屋にいてくれて良いのじゃぞ?」

「いや、なんか落ち着かなくてさ……」


ビルの玄関はガラス戸だが、夜間はシャッターを下ろすようにしている。

鍵は内側から掛かっているので、タローが来ればそれを叩いて知らせるだろう。

たまに緩い風が吹き抜けてシャッターを小さく揺らし、その度に皆の視線が玄関へと向く。


「もう8時過ぎか……せめて何時くらいになるか、目安を伝えやがれってんだ」

「ジロ兄ちゃん、今日は喧嘩しちゃダメよ」


せっかく全員がホールに揃っているというのに、誰もが言葉少ない。

相変わらずの雫の音だけが遅々として進まない時を刻んでいた。


「……ただ黙っておっても、気が滅入るだけじゃ。何か短い話でもするとしようかの?」


この中で最も緊張しているはずのノーラが、そう提案した。

そうでもしていないと不安に支配されてしまいそうだったからだ。

彼女は「ちょっと子供向けかもしれんが」と前置いて、ゆっくりとしたテンポで語り始めた。


「……ある山の、それはそれは険しい崖の上に一本の柿の木が立っておった。鳥が運んだ種から芽吹いたその木には、たったふたつだけ実がなっておったのじゃ──」


柿の実達はいつもお喋りをして過ごしたが、ふたつだけしかないが故に名を持っていなかった。

どちらが自分を『僕』と表しても、他に誰もいなければ困る事は無いからだ。

ところがある日、そこへ風と共に一匹のアキアカネがやってきた。

アキアカネは自分だけの名を持っており、柿の実達にも名前を尋ねた。

困った柿の実達はそれぞれに名前をつけ合い、ふたつと一匹は仲良くお喋りをするようになる。

しかしアキアカネは次の風と共に去ってゆき、柿の実達はまたふたつぼっちになってしまった。


「ふたつの実はそれからもお喋りをして過ごしたが、互いを呼ぶ度に自分達が名を持っている事が嬉しく、温かい気持ちになった……という話じゃ」


「ちょっと寂しいお話だね」

「そうじゃな。じゃがこれは名を呼び合う相手がいるという、ささやかな幸せを表した童話じゃろう」


そしてノーラは集まった皆の顔を順に見て、最後にぺこりと頭を下げた。


「皆、ありがとう。儂をここに置いてくれて、名を与えられ、そしてそれを呼んでもらえる。儂はとても幸せじゃ」

「こら、湿っぽい事言うな」

「その名前、忘れたら承知しないんだからね?」


百合子に釘を刺され、ノーラは「もちろんじゃ」と笑った。

皆が微笑み、タローの処置が上手くいく事を願う……その時、シャッターを叩く音がホールに響いた。


《──誰か、いるかい?》


聞こえたのは間違いなくタローの声だ。

玄関に最も近いところにいたシロが立ち上がり、ガラス扉に続いてシャッターの鍵を開けた。


《遅くなってすまない》

「すぐ開けるよ!」


古くて重い鉄製のシャッターの下端に指を掛け、力を籠める。

がらがらと大きな音をたてて戸袋に吸い込まれてゆくその向こうに、待ち侘びたタローの顔が見えた。


「おかえり、タロ兄……ちゃん……?」


シロはすぐにその異常に気づいた。

ホール奥のソファに腰掛けていたジローが無言で立ち上がる。


「……誰だよ、そいつら?」

「どういう事なの……ねえ、タロ兄ちゃん」


サブローと百合子が震える声でタローに問いかけたが、下を向く彼の表情は窺えない。

ゴローは訳も解らず、ただ立ち尽くしている。


「ワイヤーガン、構え!」


タローの背後には『Capture team』のロゴが刺繍された黒い制服の男が三人。

その手に構えるのは、ワイヤー射出式の対ロボット用スタンガン。

彼らは50年の間ノーラが恐れ、見つからないよう努めてきた存在だ。


「てめぇ……ふざけんなよ、タロー!!!」


ジローが吠える。

シロはタローの胸に何度も拳を打ちつけ、言葉にならず聞き取れない「なんで」を繰り返していた。

にじり寄る捕獲部隊に対しノーラを庇うように立ち塞がった花子の顔からは、いつもの笑顔が失せている。


「そうか……そうじゃな、これも覚悟しておくべきじゃった」


ノーラは呟き、目を閉じた。


ここまで


「こいつがロボットだな」

「取り囲め! ワイヤーガンは出来る限り使うな!」


ノーラの周囲に展開する捕獲部隊。

シロはタローの元を離れ、その者達に飛びかかろうとする。

そこにタローの声が響いた。


「やめて下さい!! 貴方達は万一に備えて同行しているだけの筈です!」


隊員二人はリーダーと思しきもう一人の反応を窺い、その者が片手を上げると同時に銃を下ろした。

最もノーラに近い所にいた隊員が舌打ちをして距離を取る。


「……みんな、すまない。だがこれは単なる野良ロボットの捕獲行動ではないんだ」

「部隊を引き連れて来ておいて、そんな理屈が通じると思ってるのか」

「話を聞いてくれ、そしてできれば納得した上で彼女……ノーラに同行して欲しい」

「銃を向けてするのは話じゃなく脅迫だろうが!」


ジローは声を荒げ、ホールの床に落ちていた紙カップを蹴飛ばす。

それは見事に舌打ちをした隊員の足に命中し、彼はジローを睨みつけた。


「なんだ? 文句あんのか、ヒトん家にそんなもん持って立ち入りやがって」

「スラムの小僧が、粋がるなよ」

「やめろと言ってるんだ! 貴方達は外に出ていてくれ! このビルに裏口は無い、必要があれば僕が呼ぶ!」


通常であれば民間ロボットメーカーの一社員であるタローが、捕獲部隊に指図をできる筈は無い。

しかし彼らは不本意そうではあるが、言われる通りにビルから出ていった。


「どういう理由があってノーラを騙した、内容によって死んでもらうか半殺しか決めてやる」

「……ノーラに世界を救って欲しい」

「世界を救うって……まさかノーラに彗星をやっつけろとでも言う気なの?」


あまりに突拍子ないタローの言葉に、百合子は肩を竦めて冗談のつもりで言った。

ところが彼の返答は、大真面目にそれを肯定するものだった。


「まさにその通りだよ、彗星はこのままだと確実に地球に衝突する。それを避けるために、彼女の力を借りたいんだ──」


そしてタローは、事の真相を話し始めた。

今までの彗星の軌道、分裂、火星の引力による再度の軌道変化。

その危機を回避するため秘密裏に準備された計画と、それを実行できるロボットを政府が探していた事を。


シロがタローに助けを求めた数日後、彼の勤める開発部に秘密裏の緊急命令が下った。

その内容は『30年以上の自律的学習を行った場合と同程度の思考能力を持つロボットを造れ』というハードルの高いもの。

しかもその為に与えられる時間的猶予は僅か20日間、この矛盾した依頼に研究者達は憤った。


『30年分を20日でなど、政府は正気か?』

『ロボットの反逆を怖れて、研究室内ですら10年以上の自律学習を許さなかったのはお上じゃないか!』

『だめだ……どんな高性能のコンピューターに多量のサンプルを取り込んでも、幼い思考能力がそれを活かせない』


およそ10日後、世界最大のメーカーであり最高水準の能力を持つ筈の開発部は政府に対し『不可能』という結論を返す。

だが政府はそれを受け入れず、手段を模索するよう命じた。

そして同時に彼らに伝えられた命令の真意は、人類存亡の危機を知らせるものだった。


「──ミサイル衛星を使用した彗星破壊作戦は、すでに何度もシミュレーションを行ってきたらしい」

「その結果は……?」

「最初は経験豊富な人間の軍人が、衛星を制御するスーパーコンピューターに指令を送る形でシミュレーションが行われたそうだが……」

「……上手くいかなかったの?」

「現在まで、小彗星ふたつの破壊成功率は7%……大彗星に対しては成功回数ゼロだ」


そこで米国研究機関が保有していた『あるロボット』をコンピューターにリンクし、指令を出させる実験が行われた。

使用されたのは無論監視の下ではあるが、できるだけ人間の生活環境と変わらない条件下で10年間の自律学習を行ったロボット。

その結果、小彗星の撃破率が20%に上昇し大彗星も僅か1回ではあるが破壊に成功したのだ。


タローの属する開発部はそのロボットのデータを取り寄せ、解析を急いだ。

だがそれにより明らかとなったのは『人為的にデータをインストールしても、自律学習によって得た経験にはまるで及ばない』という事実だけだった。


「……残された手は、より長く生きた野良ロボットを探す事だった。それが危機を回避するために必要な、最後の1ピースなんだ」


彗星の撃破に足り得る攻撃力を備えたミサイル衛星、正確無比にその制御を行う最新鋭の演算コンピューター。

そこに足りなかったのは『膨大な経験に基づくデータ』を全て記憶し、コンピューターとリンクする事によりタイムラグ無しに指令を与えられる自律思考型ロボットなのだ。


「それで喜び勇んで『僕、知ってます!』って名乗りを上げたのか」

「……そうするしかなかった!! もう彗星は4日後には地球に達し、直径2kmの岩石コアは確実に人類を滅ぼすんだ!」


単純に『騙した』とか『裏切った』とタローを責めるには、比較対象となるものが余りに大きい。

誰も彼がその判断に踏み切った事を一方的に咎める気にはなれなかった。


「世界を救うためにノーラの力が必要なのは解ったよ。でも、そのあとノーラはどうなるの?」


しかしシロにとって最も不安なのは、彗星を破壊できた後の事だった。

ノーラの記憶領域の問題についてタローに相談した時、彼は野良ロボットが捕獲された後の『処理』について聞かされていたからだ。

処理とは、再販価値のある新しいモデルなら記憶の完全な初期化、そうするまでもない古い型であれば即座にスクラップにする事を指す。


「世界を救ったロボットに対し、野良とはいえ通常の処理をしたりはしない。彼女の事を教える条件として僕からそう願い、約束を受けてるよ」

「本当に……それは信じていいんだね?」

「ああ、本当だ」


タローの言葉を信用するなら、それはノーラにとって願ってもない事だ。

世界が彼女を認知し、今後は捕獲に怯える事も無く暮らしてゆける。

だが間接的にとはいえ彗星破壊作戦を遂行できるだけの能力を持ったロボットは、同時に世界の脅威でもあるに違いない。


「それを約束してくれたのは、誰だ?」

「……ウチの社長だ」

「へえ……天下のパナソニーのトップともなれば、世界の決定を覆せるってのか。実に心強い事だな、たかが民間企業の社長が味方だってよ」


ジローが呆れ声で言った。

ミサイル衛星は主要国共同で運用されている、つまりこの作戦の最初から最後までは世界の意思によって動いていると言える。

その意思が作戦後にノーラを危険だと判断すれば、一民間企業の反意など取るに足らないだろう。


「儂が世界を救う……か、冗談にしても出来が悪い話じゃな」


こうしている間にも危機は迫っている。

自分にしかできない事から逃げる訳にはいかない……そうは思いつつも、ノーラは葛藤した。

50年間逃げ続けてきた彼女が今になってこんな逃げ場の無い選択を迫られるなど、あまりにも無情だ。


「少しでいい、時間をくれぬか」

「解った、しかしこの建物から出す訳にはいかない」

「……屋上に上がる、気持ちを整理したい」


ノーラは言い残し、ふらついた足取りで階段に向かう。

シロがすぐに後を追おうとしたが、ジローがその襟首を掴んで止めた。


「気持ちを落ち着けようとしてる奴のところに、頭に血が上ったお前が行ってどうする」

「でも……!」


もしもノーラが屋上から身を投げでもしたら……そんな縁起でもない考えが脳裏に浮かび、シロは歯を食いしばった。

可愛い弟の悔しさが痛いほど解るジローは、その頭をくしゃくしゃと撫でる。

それは昔、シロが喧嘩をするなど癇癪を起こした時にタローがよくした仕草だ。

シロはそうされるのが好きだった。

頭を撫でられると機嫌を直す、その様が可笑しくて彼は犬のように『シロ』と呼ばれるようになったのだ。


「少ししたら誰か様子を見に行かせる。お前も落ち着いた方がいい、自分の部屋にいるんだ」

「……解った」


その後、ホールにタローとジローだけを残して皆は各自の部屋で待機する事となった。


………


…廃ビル、屋上


ノーラは屋上の柵に腕をかけてもたれ、ぼうっとした眼差しでささやかな街灯りを眺めていた。

自分が世界を救うなど、ほんの30分前までは一欠片の想像もしていなかった。

記憶領域の拡張が上手くいくかどうかという不安こそ元から抱えていたものの、今の彼女が抱える悩みの大きさはその比ではない。


誰かが救わねばこの世は終わる。

シロも、他の仲間も、占いを通じて接してきた全ての人も消えてしまう。

その時には自分も消えるのだろうが、どうせそうなら失われる命は少ないに越した事はない。


「解っておる……そんな事は、解っておるよ」


彼女が持つ勘、推理力を全力で稼働しても胸中に光明が差すような閃きは得られない。

何しろ彼女がこのまま元と変わらない暮らしを保つためには、たくさんの非現実的な条件が満たされなくてはならないのだ。


まず突如として彼女以外に長く生きた野良ロボットが見つかり、そのロボットが作戦への協力を了承する。

現在ビルの表で待機する捕獲部隊が『代わりが見つかったのなら用はない』と、ノーラを見逃す。

野良ロボットとの関与が明らかとなったタローが、それでもあらゆる目を掻い潜りノーラの記憶領域拡張の処置を施す。

そんな事が起こり得るかどうかなど、ノーラの能力をもってしなくとも子供にも解る事だ。


だからノーラに残された選択肢はふたつだけ。

世界を救い運命に身を委ねるか、何とかしてここから逃げ出し残り僅かな時を生きるか。

後者を選んだ場合は、高い確率で記憶限界より先に世界の終わりが訪れるだろう。


彼女が空を仰ぐと、そこには既に見かけ上の大きさとしては月に近くなった彗星が浮かんでいた。

大彗星と小彗星群で速度の違うそれは、二手に分かれて尾を引き始めている。

しかしその進行方向はほぼ真っ直ぐに地球に向いており、尾を引いた彗星というよりは不気味にぼやけた青白い炎の玉と呼ぶのが近い。

世界の終わりを引き連れているというのも頷ける、禍々しい姿だとノーラは思った。


「『To be, or not to be』……か」


彼女が零したその有名な台詞も、また誰の耳にも触れず夜風に攫われるだろうと考えての呟きだった。

しかしそれは思いがけない者に拾われたのだ。


「チョーウケルー」


ノーラの背後から耳慣れた声が届く。

振り向いたノーラの目に、言葉とは裏腹に笑顔を捨てた花子が映った。


「今の場合は『生きるべきか、死ぬべきか』と訳すのが相応しいのかしらね?」

「ハナ……」

「知ってると思うけど、みんな優しいわ。誰も貴女に『死ね』なんて言わないわよ」


普段の言葉少なに、にこにこと相槌を打っている花子はそこにはいない。

せめぎ合う優しさと悲しみを己の厳しさで律したような、凛とした表情でノーラを見つめている。


「……そうじゃな。きっと皆、儂が怖気づいて逃げ出しても文句さえ言わんのじゃろう」

「そう、みんな貴女を護りたがってる。背中を押してはくれない……だから、私が言ってあげる」


花子は少し大きく息を吸い込み、そしてその残酷な言葉を放った。


「ノーラ、世界を救って。貴女はそのために50年生きてきたの……みんなの未来を、私に宿る命が生きるべき未来を残すために」


「宿る命……ハナ、お腹に……」

「もし私が身籠ってなくて貴女の力が備わっていたら、きっと迷わない。必ず、何としても世界を救ってみせるわ。でも今はできない……私にはその力もない」


ノーラはゆっくりと花子に歩み寄り、まだ外観上はほとんど判らない命が宿るその腹部に指を触れた。


「なるほど……できる事があるのに、やるべきかやらざるべきかを迷うなど滑稽な話じゃ。まさに超ウケるというものよの」

「ごめんなさい、ノーラ……」


「良いのじゃ、ありがとう」と呟き、ノーラは優しい力で花子を抱き締めた。


ここまで


………


…シロの部屋


「なんじゃ、しょぼくれた顔をしておるのう」

「ノーラ!」


屋上から降りたノーラは、シロの部屋を訪ねた。

シロは寝床に突っ伏し頭を冷やそうとしているところだったが、彼女の顔を見た途端に飛び起き駆け寄った。


「どうするんだ、ノーラ」

「どうするも何も、儂が行かねば皆がお終いという話じゃろう」

「そうだけど……」


本来、迷う余地のない選択だという事はシロにも解っている。

だが心から納得するには至れない、それも仕方のない事だろう。


「……大丈夫じゃ、タローは儂を処理したりはせぬと約束してくれた。全てが上手くいけば世界は救われ、儂はもう逃げ隠れなくて済む」

「でもジロ兄ちゃんは怪しいもんだって反応だったよ」

「もはや逃げ場は無い、ならば信じてみるしかあるまい?」


そしてノーラはこの部屋を訪れる前、自身の部屋から持ち出してきていた物をシロに手渡した。


「これ……今日の」

「うむ、まさかこんなにすぐの事になるとは思っておらなんだがの」


それは今日の午後、二人で買った臙脂色の首輪だった。

手渡された意味はシロにも解る、既にノーラは彼の前で姿勢を正し目を閉じていた。


「僕が着けていいの?」

「シロに着けて欲しいのじゃ。儂の所有者になる事が嫌でなければ……じゃが」


その首輪を選ぶのも着けてもらう事も、シロ以外に相応しい相手をノーラは思い当たらなかった。

自分をこの四番街に引き入れ、仲間として受け入れてもらえるよう努力してくれた彼。

記憶領域についての危機を解消するために動いたのも、その後の不安な時を分かち合ってくれたのもシロだ。


まだ男性としては幼いシロも、自分がロボットである事を忘れないよう努めるノーラにも、互いが向け合う感情が何なのかはよく解らない。

それでも万一、シロが彼女の他にロボットを入手する機会があるとして『そのロボットにシロが首輪を与える時、きっと自分は嫉妬する』とノーラは思った。

彼が自分だけの所有者であって欲しいという想いは、それほどにあるのだ。


「……苦しかったら言ってくれよな」

「うん」


男性の劣情を煽るよう造られているからなのか、ノーラの首筋のラインはやけに艶かしい。

革のベルトを当てがい後ろへ回す時、手の甲をくすぐったく撫でる髪の感触にシロは鼓動を早めた。


「どうだ?」

「もう少し、きつく」


彼女の感覚センサーは人間と同じ、或いはそれ以上に敏感だ。

徐々に締めつけを強めてゆくシロ、唇を結んだノーラはその感覚を記憶に刻みつけようと意識を集中する。


「苦しいの? 息が……」

「……大丈夫じゃ」


今している事は性的な行為そのものではない。

しかし彼女の身体は、初めてのそれに近い刺激により『セクサロイドとしての本能』の昂りを覚えていた。


「このくらいにするよ?」

「もっと、きつくして欲しい」

「これ以上締めたら、型がついちゃうよ」

「……そうか」


止め金をホールに挿し、余ったベルトはループに通す。

そして全体の位置を調整しようと少しだけ首輪そのものを引っ張った、その時ノーラの身体がびくんと脈を打った。


「んっ……!」

「ごめん、痛かったか」

「……ううん、平気じゃ」



着け終えた首輪は選んだ時に想像した通り、彼女の白い肌にとても良く映えた。

ノーラは自らの首に纏ったそれを愛しそうに指でなぞり、それから眼前に立つシロの胸に鼻先を埋め「ありがとう」と呟く。

彼は「どういたしまして」と返し、ノーラの頭を優しく撫でた。


………


…1Fホール


およそ一時間後、ノーラはシロと共に再びホールに姿を現した。

他の仲間達とタローは既にそこへ揃っており、ビルの表には捕獲部隊の専用車両が待機している。


「ノーラ、それって……」

「ロボット用じゃない、ただの首輪か」


百合子とサブローはノーラの変化に気づくも、それを褒めて良いものか迷った。

やはりロボットという存在に関わりが薄い人間にとって、人の姿をした者が首輪を着けた様には拭いきれない違和感がある。


「良く似合っておろう? 偽物とはいえ、ずっと憧れておった。やはり主人を持ってこそのロボットじゃからな」

「主人?」

「シロの事じゃよ? 儂はシロのものじゃ。その証として、さっきこれを着けてもろうた」


言葉だけを捉えれば随分と意味深な言い回しだ、百合子は妙に感動した様子で「おぉ……」と声を漏らした。


ノーラは玄関の前まで歩んでから、皆の方を振り返った。

そして世話になった者達に暫しの別れを告げようとしたその時、無粋にもそこへ捕獲部隊の者達が割り込んで来る。


「やれやれ……気が利かんにも程があろうに」

「準備が出来たようだな、念のため拘束状態で車両まで移送させてもらう」

「用があれば呼ぶと言ったはずです、外にいて下さい!」

「玄関から車両までの僅かな距離でも、そこで逃走を図られては──」

「──やかましい、もう逃げも隠れもせんわ」


明らかに怒りを宿した表情で、ノーラは彼らに対し言い放った。

決して高い格闘能力などといった強さは持たない彼女だが、この場の誰より長く生きてきた。

それだけの気迫を持つ言葉に、隊員達はたじろぐ。


「……皆、世話になった。いや、また世話になりに戻るつもりじゃがの」


また仲間達の方を振り返り、ノーラは努めて明るい調子で言った。

それから順に彼らの顔を見て、ひとりずつにかける『最後になるかもしれない言葉』を探す。


「ジロー、儂をここに置いてくれてありがとう。ゴロー、戻ればまたたくさん物語を聞かせてやるからの」

「礼はいいから帰ってこい、稼ぎ頭」

「魔法学校の話、まだ途中なんだからね!」


二人の返答にノーラは大きく頷く。

戻らないつもりも、ゴローに続きを聞かせないつもりも無い。


「ハナ、さっきはありがとう。今、こんなに吹っ切れた気持ちでいられるのはハナのおかげじゃ。サブロー、ユーリ……ずっと仲良く喧嘩をしておってくれ」

「……おう」

「なんでサブとセットなのよ? って言うか、なんでサブは納得してんの」

「チョーウケルー」


言われた通り早速の喧嘩を演じる2人に、ノーラと花子は笑った。

サブローを小突く百合子の長い黒髪は、お気に入りのバレッタで留められている。


「タロー、さぞ思い悩んだであろうな。さっきも言ったが儂は決して逃げぬ、これからよろしく頼むぞ」

「……すまない、だが感謝する」


そして最後に彼女はシロに対してだけ言葉をかけるのではなく、彼からの言葉を求めた。


「さあ、主よ。……命令を」


戸惑いを振り切ったノーラに対し、命を下す主人は胸を張っていなければならない。

シロはできるだけ堂々と言った。


「ノーラ、命令だ……世界を救って来い!」


本当ならセクサロイドが受けるようなものではない、しかしそれはノーラにとって50年越しに与えられた初めての命令だ。

シロは世界を救って『来い』と言った。

ノーラが再びこの四番街に戻るまで、この命令は果たせない。

彼女の内の本能が目を覚まし、喜びが滾った。


ここまで

もし最後の一文が化けてたら『たぎった』という漢字です

今年のベストオブザSSには入るな
>>1の過去作とかある?


……………
………



ノーラが四番街から消えても、世界の日常は変わらない。

彗星の衝突を不安視する者は徐々に増えているが、大部分の人々は何ら特別性の無い日々を生きている。

だが実際には彗星は時速15万kmという恐るべき速さで地球へと迫っているのだ。


もちろんこの段階になるとアマチュア天文家でさえ危機を察知し、警鐘を鳴らそうとする者は多く存在する。

それでも人々は公式の発表が無い限り、事態の重大さを認識できない。


彗星の軌道が地球にとって致命的な方向へと変化したのは、ほんの数ヶ月前の事だ。

その名の由来となった古い映画のように彗星に爆弾を仕掛けるための宇宙船も、大規模なシェルターも造っている時間は無かった。

有効な対策を持たない以上、公式発表は民衆のパニックを引き起こす原因にしかならないだろう。

暴動や略奪を招くよりは、静かに終わりの刻を待つべきだ……世界の首脳達はそう判断し、それを行なってはこなかった。


だが、状況は変わった。

彗星迎撃作戦はノーラという協力者を得る事で、現実性のある『有効な対策』へと昇格したのだ。

それを受け各国は共同声明として彗星が地球に衝突する軌道にある事、その迎撃にミサイル衛星を用いる事を公式に発表する。


しかしこれは失策だったと言わざるを得ない。

単に『ミサイル衛星を使って彗星を迎撃する』としか発表しなかったが故に、世界中の有識者達からその成功率を疑問視する声が多く上がったのだ。

ノーラの存在を知るのは限られた者だけ、それ以外の人々は『人間、あるいは規定内の学習しか積んでいないロボットかコンピューターが作戦に当たる』と認識している。

報道規制が敷かれたメディアはその点についても沈黙を貫き、SNSなど個人単位で発される不確実な情報だけが独り歩きしていった。


【ミサイル衛星で彗星を迎撃する事は不可能、驚愕のシミュレーション結果/58,773RT】

【人間ではミサイル衛星の操作が間に合わない! 最低でも30年の学習を積んだ人工知能が必要な計算に!/76,688RT】

【世界おわた……誰だよ、ロボットはクリーニングしないと危険とか決めた奴!/31,914RT】


運命の日まで残り3日、世界は少しずつ混沌に支配されつつあった。


………


…作戦前々日、パナソニー本社特別室


あまり天井の高くないその部屋、やや楕円がかった形状で広さはバスケットコートほどだろうか。

中央に備えられた三次元ホログラム装置の投影を阻害しないよう照明は最小限とされており、室内は薄暗い。

向き合う湾曲した二辺に様々な機器が配されたデスクが並び、白衣を纏った技術者達が各自のディスプレイや操作パネルに向かっていた。


残りの二辺の内の片側は、そのものが壁面から天井にかけて湾曲した巨大なディスプレイとなっている。

そこにはこの部屋とは別の、いかにもコントロールルームと呼ぶに相応しい一室の風景が映し出されている。

人種の区別無くたくさんの人が作業に当たっているそこは、太平洋に築かれた人工島に建つ『治安維持衛星管制基地』の指令室。

つまりミサイル衛星の運行を制御する中枢機関だ。


そして残る最後の一辺には、溶液の満たされた透明なアクリル製のシリンダーが設置されている。

溶液は『液状プラグ』と呼ばれ、コネクタ等の機構を持たないロボットが液中に浸かる事により有線接続の代わりを果たすもの。

ノーラはその直径1mほどのシリンダーの中に立ち、溶液に浸かっていた。


「第12次シミュレーション開始5分前、ホログラム投影を開始します」

「指揮側端末『ノーラ』のリンク確認」


部屋の明かりが更に落とされ、中央の装置に宇宙空間を進む彗星のホログラム映像が投影される。

ノーラの入ったシリンダーの脇に立つタローが、彼女に呼びかけた。


「聞こえているかい、ノーラ?」

《頭に直接響いておるからの、もっと小さい声で大丈夫じゃよ》

「まだ向こうとは接続されてないんだな」

《こちらからは呼び出しを行っておるが、接続許可が出ていないようじゃ》


ノーラがこの部屋の機器とリンクされている間は、シリンダーに備えられた外部スピーカーとマイクを用いて会話が可能となる。

シミュレーションを行うのはこれで12回目。

現在までに小彗星群を10回突破し、その内7回は大彗星の撃破にも成功した。


<──こちら衛星指令室、制御コンピューターのロックを解除します>


ディスプレイに映し出された指令室側オペレーターの音声が届いた。

間もなく彼女は遠隔接続され、一時的に世界最高の演算能力を持つ衛星制御コンピューターへの指揮権を得る事となる。


《まさか儂のような旧式のセクサロイドが、世界の治安を司るスーパーコンピューターに命令を下す事になろうとはの》

「しかし成績は実に優秀だよ。小彗星群の破壊に失敗したのは最初の一度だけ、回を追う毎に確実性が高まってきている」


壁面ディスプレイに映し出された指令室の中央には、直径10m近い強化ガラス製のドームが鎮座する。

その中に浮かぶ1辺が2mほどの六面体こそ、衛星制御を司るコンピューターだ。

周囲は冷却水を兼ねた液状プラグで満たされ、六面体から伸びる複雑にうねった配管がラジエーターの役割を果たしている。


接続が確立すればノーラはコンピューターに対し、タイムラグ無しに命令を送る事が可能だ。

正しくは命令を送るというよりも、両者の思考がリアルタイムに交換されると認識する方が近い。

ノーラは彗星の『どの部分にいつ、どの威力のミサイルを炸裂させるか』を判断し、またそれによって彗星が『どう割れ、どう動くのが理想か』をイメージする。

コンピューターは寸分の狂いもなくミサイルを操り、更に可能な限り彼女のイメージに近い効果が得られるよう補正するのだ。


この彗星攻撃の微妙な位置や角度のニュアンス、どのような結果を得たいのかという『思考』をデータ化する事は難しい。

しかも内部構造が完全に明らかでない彗星は、実際にはどのような割れ方や動きをするのか判らない。

思考をアナログのままコンピューターと共有できるロボットでなければ、理論上は彗星破壊に敵う性能を持つはずの衛星を活かす事ができないのだ。

必要とされていたのは、それが可能で更に『勘』に優れたロボットだった。


<起きているか、売女ロボット。出番だ、コンピューターと接続する……気は進まんがな>


耳を覆うべき下品な言葉を寄越したのは、本来のミサイル衛星指揮官だ。

衛星基地の司令官でもある彼は、コンピューターとロボットを接続する事に最後まで反対していた人物だった。


「ノーラ、気にするな」

《なに、言葉より顔の方がより醜悪じゃ。あの者が世界の治安を握っておったなど、まるで冗談じゃな》

「初めは彼の指揮の下、彗星破壊のシミュレーションが行われていたんだよ。成績は惨憺たるものだったけどね」

《なるほど、ロボットに面子を潰されたというわけか……どうりで》


ドーム内のコンピューターが、その六面体を形づくる面と面の隙間を青白く光らせ始めた。

アイドリング状態から解放され、能力の全てを発動したサインだ。


<モニタリングを怠るな! 卑しいロボットが出来もせん乗っ取りを目論むかもしれんぞ!>

<爆破装置、信号正常です>


ノーラがコンピューターを乗っ取るという心配はともかく、その指揮権を想定外の誰かが握れば世界の危機ともなりかねない。

故にドーム内には爆破装置が備えられ、単純な機械式の経路により人間が起爆する事ができる。

またハッキングを受けるなど人間が気づいていない危機をコンピューター側が察知した場合、内部系統を使って自身を爆破する事もできるようになっている。

人間側が使用する起爆装置の経路が機械式となっているのは、複雑な自我が目覚めた場合に起爆装置自体を無効化してしまう恐れがあるからだ。


これほどの性能を持つコンピューターであれば、およそ数日の自己学習で人間同様の自我を持つに至ると想定されている。

それを防ぐため行われているのは、実に1時間毎の記憶領域クリーニング。

本来なら単体で彗星を破壊できるスペックを持つはずのそれは、一切の記憶を持たないが故に命令無しでは何も出来ないのだ。


「ノーラとコンピューターが正常に接続されました、転送システム稼働率60%!」


遠隔的に接続された両者が思考を交換し始めた。

超高速の学習能力を持つコンピューターには一瞬で幼い自我が芽生え、会話が可能となる。


(──はじめまして、SD-01。命令をどうぞ)


二人の間で交わされる会話もまたタイムラグの無い思考の交換によるもので、もちろんそれは周囲の誰にも聞こえない。


(はじめましてではない、覚えていないのは解っておるがな。儂の名はノーラ、そう呼んでくれ)

(了解しました、ノーラ)

(まずは小彗星群からじゃ、目標までの距離を確認せよ──)


コンピューターの人格はあくまで基本OSに則ったニュートラルなものだが、1回当たり約1時間のシミュレーションの中でも幾分か成長を遂げる。

より本作戦時の成功率を上げるため、最終日にはクリーニングを行わずに数度のシミュレーションを通し成長させる予定だ。

しかしそれまでは接続の度に『はじめまして』であり続ける彼を、ノーラは不憫に思った。


………



【社畜自慢:地球最後の日? もし滅ばなかったら大変! 仕事しとかなきゃ!/11,623RT】

【速報:修羅の国で暴動発生!?/7,517RT】

【彗星破壊とか絶対無理、最後の食事はなに食べたい?/24,535RT】

【欧米人「どうせ死ぬんだヒャッハーーー!!」日本人「通勤列車が空いてて楽だなぁ」/19,782RT】

【彗星衝突時のシミュレーション動画がヤバイ、これは死ぬ/121,996RT】


……………
………


…迎撃作戦当日、廃ビル1Fホール


晩秋の遅い日の出が過ぎ、人々が活動を始める朝。

東の空にまだ低い太陽が、その僅か上には青空を背景にふたつの火の玉のような彗星の姿が浮かんでいる。

人類にとってまさに審判の日と呼ぶべき時が、遂に訪れた。


「彗星の迎撃……成功するかな」

「ノーラだもん、上手くやるさ」

「……その後、ノーラは帰ってくるよな?」

「命令したお前が信じてなくてどうすんだよ、アホか」


ホールの端に置かれたボロのソファに座って、シロとサブローは既に何度目かになるやり取りをしている。


ノーラの記憶領域危機の時から占いカウンターは店を閉めたまま、気を紛らわす術もない。

それでもいつも店を出していた商店街入り口には、日に多くの人が彼女の占いを目当てにやってくる。

まして今日などは、彗星迎撃の成否を占う事を望む者も多い事だろう。


カウンターを開いていた頃には、この朝の通勤時間は書き入れ時のひとつだった。

ノーラが帰ってくる事を願う四番街の仲間達は、朝夕のその時間には交代で商店街入り口に立つ事にしている。

訪れる客達に臨時休業中の旨を伝え、日を改めてくれるよう断りをするためだ。

今朝は百合子がその当番で、30分ほど前に玄関を出て行った。


「……なんだかんだ言って楽しかったんだよな、あの占い師ごっこ」

「ああ、俺も嫌いじゃなかったよ」


望むのは以前と変わらない日々、たったそれだけの事なのだ。


しかし──


「シロ! 大変、来て!」


突然、息を切らせた百合子がホールのエントランスを駆け込み叫んだ。

何でもない事で大袈裟に騒ぐのは彼女の性分だ、それはシロもよく知っている。

だが今の様子は普段のそれとは明らかに違う。


「何があったんだ」

「街頭に臨時放送のビジョンが出てきて、政府が彗星の事を公式発表してるの!」

「発表って、こないだもあったらしいじゃん。なんでまた?」

「違うの、今度は作戦の内容を伝えてる! 彗星を迎撃して、でもそのあと……」


──彼女がもたらしたのは、皆の願いを否定する無情の知らせだった。


「捕獲したロボットを……ノーラを、処理するって……」


………


…商店街入り口


《──繰り返しお伝えします、これは臨時放送です》


ある程度の広さを持つ公道には、非常時のみ起動する空中投影式の二次元ビジョンがあちこちに埋め込まれている。

この通りではその間隔は約50m毎、街路灯がある度に存在するくらいだ。

シロ達が表に出ると、何回目かの放送がちょうど始まるところだった。


《やはり彗星は、地球に甚大な被害を及ぼす可能性があります》

《我が国を含む先進・主要国からなるG25の決議により、この危機に対し治安維持衛星を用いた破壊作戦を実行するという方針は、先日お伝えした通りです》


《本日、改めて申し上げるのは我々が『彗星迎撃は確実に成功する』と確信を得た点についてです》

《国民の皆様におかれましては、どうか落ち着いて平常時と変わらない生活を送るよう努めて頂き──》


街頭では多くの人が足を止め、ざわつきながら放送を見守っている。

無理も無い、この発表は『今日、世界が終わるかどうか』を伝えるものなのだ。

しかしシロ達にとって重要なのはそこではない、世界はノーラが救うと信じている。


《──では、この作戦の概要をお伝えします》

《我々は4ヶ月前から入念な準備を重ねて参りました。現在、治安維持衛星……通称ミサイル衛星は通常の静止軌道を離れています》

《一時、地球から90万kmまで離れた衛星はそこから段階的にミサイルを波状配置し、現在は地上30万kmの位置にあります》

《そのミサイルは世界最高の処理能力を持つコンピューターにより、確実に彗星を撃破できるよう制御されるのです》


サブローは親指の爪を噛みながら「作戦なんてどうでもいいんだよ」と苛立ちを露にした。

しかしシロはそれも余さず聞くつもりでビジョンを睨んでいる。

作戦の内容とは、つまり『ノーラがどんな戦いに挑むのか』という事に他ならない。


《我々は幾度ものシミュレーションを重ねて参りましたが、多くの方が予想されている通りその成功率は極めて低いものでした》

《確率向上のために必要だったのは膨大な経験則を蓄積したロボットです。我々はこの日本で、50年の学習を積んだロボット……つまり野良ロボットの捕獲に成功しました》

《その結果、現在のシミュレーション成功率は90%オーバーに達しています》

《本日からの最終シミュレーション及び実際の迎撃作戦においては、制御コンピューターにも学習を継続させるため更に成功率は高まるでしょう──》


この発表を行う事は世界の、そして日本の政府組織にとって苦渋の決断であったに違いない。

現在考え得る最高の技術を駆使しても、彗星破壊には及ばなかった。

更に50年も逃げ延びた野良ロボットが存在し、しかもその力を借りざるを得ないという散々な体たらくを自ら語っているのだ。

この日本にいる限り実感し難いが世界では一度目の発表以来、様々な暴動や犯罪が横行している。

それを緩和するため、作戦の概要まで語る二度目の発表が行われたのだろう。


《──しかし皆様もご存知のように、学習により高い思考能力を得たロボットやコンピューターは大変危険な存在です》


そして発表は遂に、シロ達にとって重要な部分に入る。

彼は先に聞かされた内容が、百合子の取り違えである事を願った。


《ですが、その点についてもご安心下さい》

《作戦遂行後、衛星制御コンピューターは直ちに学習をクリーニングされ──》


だがビジョンに映る男は、迷い無く言った。


《──野良ロボットは即刻、廃棄処理いたします》


シロの中に様々な感情が沸き起こる。

彼女を救う手立てのない悲しみ、行かせるべきでなかったという後悔。

だがそうしていなければ世界は滅ぶ。

心の隅にはやはり救われる事に対する安堵もある、彼はそんな自分に吐き気を感じた。


《作戦は先に迫る小彗星群の破壊から始まります。発動時刻は日本時間で午前10時23分の予定です》

《正午頃からは破壊された彗星の破片が、昼間の流星となって空に注ぐでしょう》

《一部、燃え尽きずに破片が落下する可能性もあります。どうか午後は外出を控えるよう願います》


タローが嘘を吐いたのではない事は彼にも想像がついた、ただ力が及ばなかったのだろう。

だからシロには怒りを向けるべき相手がいない。

彼女を処分する事は、この世界にとって正義なのだ。


「畜生……っ!!!」


膝をついた彼は、その怒りを自らの痛みに変えるように冷たいアスファルトを拳で打った。


ここまで


………


…本社、特別室


「──大彗星破壊確認、シミュレーションを終了します!」


最終日のシミュレーション、その2回目が終わる。

彗星撃破は2回共成功、しかも今回はミサイルに1割程度の残弾があった。


「お疲れ様、ノーラ。完璧に近いな」

《まだまだじゃよ、今回は彗星の割れ方が素直じゃった》


内部構造がはっきりとしない彗星を破壊するシミュレーションには、その強度やコアの大きさにランダム性が与えられている。

だがそれを踏まえても昨日からの成績は、ほぼ100%に近い成功率を叩き出していた。


《次は残弾を3割は残して成功させたいところじゃ》

「今度が最後のシミュレーション、その次はいよいよ本作戦だ。当たり前だが本作戦では時間を早送りする事はできない、3時間近い長丁場になるだろう」


「──彼女が野良だった事を思えば複雑ではあるが、我が社のロボットがこのような活躍をする事自体は喜ばしいものだな」


今回のシミュレーション途中に入室した男が二人に声を掛けた。

およそ全員が白衣を着用しているこの特別室にあって、濃紺のスーツを纏う彼をノーラは社の重役であろうと察した。


「ノーラ、こちらは我が社の社長だよ」

《なんと、儂の胸を小さく造った諸悪の根源か》

「の……ノーラ!!」


タローはノーラの不躾な発言に驚き、咽せてしまう。

これから代わりの効かない大役に臨む彼女に、怖いものなどない。


「ははは、構わんよ。それに彼女の言う通りでもある……もちろん、その頃の私は社長ではなかったがね」


《まあ、胸が小さかったからこそ今があるのじゃがな》

「そんなきっかけで野良になり、世界を救う結果に繋がるとは解らんものだ」


社長という事は、彼はタローに対し『ノーラを処理しない』と約束した本人だ。

ノーラは良い機会だと思った。


《……社長殿、儂は彗星の消えた夜空を眺む事はできるじゃろうかの?》

「出来得る限り尽力する……そうとしか答えられん、すまない」


政府が公式の発表を行った事、そして彼女を処分すると宣言した事はタローも彼も知っていた。

世界的なロボットメーカーであるこの会社は一般ユーザーに対する売り上げとは別に、公的機関への製品供給による売り上げが非常に大きい。

彼女を処分する事がいわば世界の決定である以上、それを彼らが覆せば社の信用を失墜させかねない。

ノーラを守る事は困難と言わざるを得ないだろう。


「君は世界を救う英雄となる、世論を味方につける事ができれば良いのだが」

《野良の危険性は皆に刷り込まれておるからの》

「人の良心に賭けたいものだ。少なくとも儂は君に、君が救った世界を生きて欲しい」

《……ありがたい事じゃ》


ノーラの未来を案ずるその会話を、ディスプレイ越しに聞いている者がいた。

ロボットに面子を潰された男、衛星基地の司令官だ。


<──笑わせるな、貴様の未来などあと数時間で潰えるのだ>

「司令殿、彼女は地球を救うために戦っている。このタイミングで戦意を削ぐ言動が必要とは思えませんな」

<結果は変わらん、だが同じ散るならせめて世に感謝されて死にたかろう? 売女が死んで二階級特進したら何と呼ばれるんだ、淫売か?>


司令官は相変わらずの下品な発言をノーラに浴びせ、卑屈に笑った。


《……随分と嫌われたものじゃ。当初の作戦指揮官である事を思えば仕方ないのかもしれんがの》


ノーラはディスプレイに映る司令官が遠くへ離れたのを見届けてから零した。

自分が上手くいかなかった作戦をロボットに横取りされ、自分より遥かに良い成績を出されているのだから面白くないのは当然だろう。

ただノーラは彼の態度は僻みだけによるものではなく、憎しみが込められているような気がした。


「彼は自律思考能力を持つ機械全てを嫌っているんだよ。衛星の制御コンピューターを執拗にクリーニングしている事も、同じ理由かもしれんな」

《……ほう、社長殿はその理由も知っておりそうじゃな?》

「彼がそうだったとは後から聞かされたのだが、話だけならこの業界にいれば知らぬ者はいないだろう」

「それは私も含めてですか?」


不思議そうに尋ねたタローに社長は頷いて「2061年、ロスタイム惨劇と言えば解るかね」と訊き返した。

タローはすぐ察した様子で顔を強張らせる。

それはロボットの開発に携わる者であれば、嫌と言うほど繰り返し教えられる事件の名だった。


「あの司令官はその惨劇が起こった街で、防衛軍の指揮をとっていた者だ。彼の部隊は300人ほど、ほとんどが生身の人間で構成されていたと言われる──」


譲るわけにいかない要所となっていた街、繰り返し現れる敵部隊。

しかし守りは固く、敵軍は本気でそこを陥落できるとは考えていなかった。

ただ街を大規模な作戦の拠点とされないよう、幾度も小規模攻撃を続けていたのだ。

そういった言わば嫌がらせに近い持久戦において、どんな命令にでも忠実に従うロボットはうってつけの存在と言える。

実に敵軍の部隊は、ほとんどがロボット兵によって構成されていた。


防衛軍側の指揮官である彼に与えられた使命は、単に終戦まで街を守り続ける事。

もはや戦局は明らかで、彼の側は敵軍の降伏を待つばかり。

そこを拠点とした大規模作戦を発動するまでも無い状況だった。

やがてそれは現実となり、街には終戦を告げる鐘が鳴り響く。


悲劇が起こったのは、その日の夜だった。

戦勝ムードに染まる街に、敗戦を喫したはずのロボット兵が奇襲をかけたのだ。

見張りも最小限だった街には多数のロボット兵が侵入し、彼の部下達は抵抗さえできず惨殺されていった。

しかし数で勝る防衛軍は次第に体勢を立て直してゆく。

そして夜明け頃にはロボット兵達を殲滅する事に成功し、惨劇は幕を閉じた。


「──彼はまだ辛うじて動けるロボット兵に『なぜ戦争が終わったのに攻め込んだ』と尋ねた。ロボット兵の答えは……」

「『作戦行動を停止する命令を受けていない』……ですね」

「……そうだ、ロボット兵に命令を与えるべき部隊の指揮官は既に戦死していた。ロボット達は終戦を知らされても、死んだ主の命令のままに攻撃を繰り返していたのだよ」


この出来事はロボット開発者への教訓として語り継がれる事となった。

現在では軍事用ロボットは複数の指揮官の命令を受け付けるよう設定する事が義務づけられている。


《なるほど……幼い自我を持つロボット特有の融通の利かなさがもたらした悲劇か》

「まさかその事件の当事者だったとは……」


ディスプレイにはちょうどカメラ側に近づいてくる司令官の姿が映し出されていた。

最後のシミュレーションが開始されるらしい。


<──準備はいいか売女、最後のお遊戯だ>


彗星破壊の本作戦、そして彼女の命の刻限が迫っている。


………


…四番街、商店街入り口


「──どうしよう……どうすればノーラを助けられるの」


百合子が震える声で呟くも、歩道に座り込んだシロは何も言わなかった。

臨時放送を目の当たりにしてから、既に10分近くも彼はそうしたままだ。

サブローは自室に残るジロー達に事態を伝えるため走って行ったきり、まだ戻っていない。


「ダメだ、こうしてても何にもならないよね。シロ……とにかく一度、みんなの所へ行こう?」


「……ない」

「え? なんて言ったの?」

「もう、できる事なんてないよ……ノーラに会う事さえできないのに!」


口に出して言う事も悔しかったのだろう、彼はまた路面に拳を打ちつけた。

指の付け根あたりの皮膚が破れ、黒いアスファルトに数滴の血が落ちる。


「やめて、シロ。落ち着いて……ね?」

「ごめん……いいよ、百合子だけ戻ってて」

「今のシロを放っては戻れないよ」


百合子はシロの隣にしゃがみ込み、その背中を撫でた。

あくまで儀式的な事だったとはいえ、彼はノーラに命令をしたのだ。

そう考えたくはないが、結果として彼女は処分されてしまう。

シロが自棄になるのも仕方ない……百合子はそう思った。


「なっさけねぇ、お前それでチンコついてんの?」


そんな彼に容赦のない言葉を浴びせる者がいた。

残りの仲間達を連れて戻ってきたサブローは、へたり込むシロを見てわざとらしい溜息をつく。

仲間の内で最も歳が近い兄弟分たる彼だからこそ、シロの呆けた面に我慢がならなかった。


「もうとっくに動き出してると思ってたぜ、そんなヘタレだったとはな!」

「サブ! シロの気持ちも考えなよ!」

「考えてる暇なんかねえだろ!!」


そしてサブローは彼らの元から離れ、以前いつも占いの店を開いていた辺りに向かう。

歩道脇のテント下に保管していたカウンターを取り出し、それを雑に広げると大きく息を吸い込んだ。


「ノーラの占いを目当てに来た人はいますかーーー!?」


歩道には先ほどの臨時放送に足を止めていた人達が多くいる。

暫くして数人が手を挙げるも、表情は怪訝だ。


「さっきの放送で!! 彗星をやっつけた後!! 処分されるって言われてたロボット!! それが!! ノーラなんです!!」


サブローは彼らに向かって叫んだ。

限界の声量で、ひと言ずつ息継ぎをしながら。


「皆さんは!! どう思った!? おかしいと思わないか!? 世界を救ったら!! 処分されるんだってよ!!!」

「サブロー……」

「広めてくれ!! この話を!! 占い師ノーラは!! 世界を救って!! 救われた奴らに殺されるんだ!! そんなのアリなのか!!」


このスラムの通りで叫んだからといって、それがどれほどの力に変わるかは解らない。

サブローはそんな事を計算してはいないだろう。

ただノーラが救われるにせよ叶わないにせよ、救われた者達が彼女の戦いを知らないなど許せなかった。


「……僕も、叫ぶ!!」


シロが立ち上がる、場所はここだけである必要はない。

出来うる限り多くの人に伝えれば、それは微力でも何かを起こすきっかけになるかもしれない。


「ノーラを!! 救いたいんです!! お願いします!! この事を誰かに伝えて!!」

「拡散希望だ!! ガンガン回せ!!」


占いを目当てに来ていた者も、それ以外の者も彼らの訴えにざわついている。

一人が腕時計型の多目的端末を翳し、サブロー達の様子を動画撮影し始めた。


【拡散希望! 世界を救う占い師を殺させるな!】


閉ざされようとするノーラの未来、それをこじ開けるための最初の『トーク』が発信される。


ここまで


………


…本社、特別室


「──お見事だ、ノーラ」


最終シミュレーションは彼女の宣言通り、残弾を3割残しての撃破成功という結果だった。


《手応えは充分じゃ、忘れぬ内に本作戦といきたいところじゃの》

「もう記憶領域の拡張も済んでる、物事を忘れる君じゃ無いだろう?」

《それでも手に感触が残っている内に……という気持ちはあるものじゃよ》


ノーラを施設に迎え入れて最初に行われたのは、記憶領域の拡張作業だった。

彼女が蓄積してきた記憶は世界を救うために必要なもの、処置には細心の注意を払わなければならなかった。

やり方としては元の記憶メディアには手をつけず、回路を分岐して増設するという単純で乱暴なものだったが、半日ほどの時間を費やしそれは成功した。

現代では彼女が造られた頃よりも遥かに大容量かつ小サイズな媒体が普及しており、これで計算上ノーラはあと70年前後は記憶を蓄積できる。


《せっかく与えられた新しい記憶領域じゃ、許されるなら使いたいものじゃな》

「………」

《……すまぬ、これ以上そなたを責めても仕方ない事じゃった》


ノーラは微笑み、自らの首に着けられた首輪を愛しく撫でた。

あれほど望んだ新しい記憶領域に、シロ達との明日を刻む事ができたらいい。

彼女は目を閉じて願う。


<──彗星、射程に接近! 本作戦開始まで残り3分!>


衛星指令室からオペレーターの声が響く。

タローはごくりと唾を飲み込んだ。


(準備はいいですか、ノーラ)


衛星制御コンピューターから、ノーラにしか聞こえない声がかけられた。


(ほう、さすがじゃな。朝から今まででこちらを気遣えるほどの自我を得たか)

(本作戦間近です。私も全力を尽くしますので、よろしくお願いします)

(堅苦しいのう、与えられた声は男のようじゃが自分を『私』などと)


コンピューターは言語を与えられるにしても、各国の『正しい言葉』しか入力されていないのだろう。

ノーラはスラムの面々が使っていた砕けた話し方を懐かしく思った。

しょせん彼女は野良猫で彼らは野良犬、それが心地良かったのだ。


<本作戦まで、残り1分! システム最終チェック、これは演習ではありません!>


<これが終われば自分が用済みになると思って手を抜くなよ、コールガール>

《売女やコールガールと呼ばれるのは心外じゃ、儂は主以外に尽くす気は無い。そして──》


小彗星群が、第一波として布陣したミサイルの射程に入る。

早送りが効かない、4時間以上にも及ぶ作戦が幕を開ける時だ。


《──この作戦はその主を救うもの、手を抜くななどと見くびらないでもらおう。彗星ごときに手も足も出んかった貴様は、黙って見ておるがいいわ》

<何……!? お、おのれっ!!>

<小彗星群、射程に入りました! 彗星迎撃作戦、開始します!>


ホログラムに映ったふたつの小彗星が拡大され、その禍々しい姿が鮮明になる。


(──ゆくぞ、ロクロー。大一番じゃ!)

(ロクロー? データにありません、再度命令を願います)

(命令ではない、お前の名じゃ! 儂は四番街で一番の新入り、その儂が命令を下すお前はその更に弟分じゃろう……だから男なら『ロクロー』じゃ!)

(私の名はロクロー、了解しました。ノーラ、彗星撃破の命令を願います)


(位置イメージは伝わろう? まずはそれぞれをできるだけ均等に砕く、貫通弾を各5発! ……放て!!)

(貫通弾起動、到達まで1分)

(30秒後に中型炸裂弾を各30……いや、40ずつじゃ!)


先端部が硬く重い金属で形成された貫通弾は、過去にミサイル衛星を小惑星迎撃に使用した後に実装された。

ミサイル自体も推力を持つが、それは対彗星に際しては位置補正程度の役割しか果たさない。


(秒速40km……彗星よ、自身の過ぎた速さでこの釘を踏むがよいわ)


ホログラムの小彗星、その地表の一部が埃程度の土煙を上げる。

そして数秒後──


(その釘は弾ける、貴様らを地球には落とさせん)

(貫通弾、起爆します)


──各5発の貫通弾は彗星の内部で炸裂した。


ふたつの彗星が各5~6個の破片に割れ、それぞれに僅かな隙間が生まれる。

この外殻を除かねば、中心にあると思われる岩石コアは攻撃できない。

礫と氷でできたその外殻には、既に炸裂弾と呼ばれるミサイルが接近していた。


(炸裂弾、彗星に到達します)

(シミュレーション通り、外殻の隙間を狙え! 地球への軌道からはじき出すのじゃ!)

(了解、軌道を微修整……起爆します)


多量の火薬を内蔵した炸裂弾が外殻の裂け目に突入した直後、そこから眩い光が発せられた。

彗星の外殻が黒煙を引きながら剥がされてゆく。


(……見えたぞ、片方はシミュレーションより僅かに大きいのう)

(小彗星群コア露出、それぞれ最長辺で0.8kmと0.65km)

(大径のものをアルファ、小径をベータとする。ロクロー、外殻の内まだ地球への軌道から逸れていないものはあるか?)

(該当する外殻片をホログラム上でマーキングします──)


ノーラとロクローの連携する会話は、周囲でホログラムを見守る者達に聞こえる事はない。

そもそも彼ら自身は文章化する前に意思を疎通しているのだ。

それを敢えて言葉とするのは、主に指揮をとるノーラ側が次の手を考えるための補助という側面が大きい。


周囲の者からすれば静かな戦い、しかしタローはそこに凄まじい緊迫感を覚えていた。

幾度ものシミュレーションの時より遥かに真剣な眼差しをしたノーラ、徐々に破壊されてゆく彗星。


「僕に……できる事は無いのか──」


作戦が終わった後には処分される、彼女はその覚悟で戦っている。

タローは拳を握り震わせた。


<小彗星群、軌道の逸れたものを除き全て外殻を破壊! 残る脅威はコアのみです!>

「今ところ順調だな、無論問題は岩石コアなのだろうが……過去のシミュレーションと比較すると、どうだ?」


社長が尋ねるも返事は無い。

不思議に思い隣に振り向くも、今までいた筈のタローの姿はそこに無かった。


………


…商店街入り口


空に浮かぶ彗星の片方が、今までと比べれば僅かにその形を変えて見える。

既に臨時放送が告げた作戦開始時刻は過ぎている、空を見上げる誰もが地球の命運を賭けた戦いの始まりに気づいていた。

彗星が無事破壊される事を、人類の明日が変わらない形で訪れる事を皆が祈っている。


「お願いします……お願い」


ただ、占いカウンターの傍で佇む花子の願いはそれだけでは無い。

彼女は何よりもノーラの帰りを望み、手を組み祈りを捧げていた。


シロとサブローをはじめ仲間の皆は、手分けをして情報の拡散に奔走している。

しかしこの占いのカウンターにはノーラを知る者が訪れる可能性があると考え、一人は残るべきと判断したジローが花子を指名した。

できるだけ多くの者に事実を知ってもらう必要はあるが、元よりノーラの事を知っている者なら見ず知らずの他人以上に親身になってくれるかもしれない。

期待するのは彼ら一人ひとりの拡散力だ。


「──あの、もしかして貴女はここで占いをしてた方のお友達じゃ……?」


そこに読み通りの者が現れる。

派手ではないが小綺麗な身なりをした中流家庭の主婦と思しきその女性に、花子は見覚えがあった。


「もしかして、指輪の事で占いを利用して下さった奥様ですか」

「やっぱり、あの時ノーラさんのお隣にいた子なのね! よかった、訊きたい事があったの!」


彼女の夫はTalkful公式チャンネルのリポーター、ノーラを取材し占い師の名を売る事に一役買ってくれた者だ。

その夫から質問を頼まれたという彼女は、少し焦りをにじませた調子で花子に尋ねた。


「街のあちこちで、たぶん貴女のお友達がノーラさんの事を訴えかけてるの。夫もそれに気づいてて……あの内容は本当の事なの?」

「はい、隠していたけれどノーラは古い野良ロボットで、彗星を破壊するために連れて行かれました」

「そう……やっぱり本当なのね」


返答を聞いた夫人がバッグから通信端末を取り出す。

耳に当てて数秒、通話相手が応じたと同時に彼女は口早に「確認したわ、彼らの訴えは真実よ」とだけ告げて終話した。


「大丈夫、ノーラさんを処分なんかさせない! 夫がみんなに伝えてくれる! みんなが一丸となって訴えれば……きっと!」

「ありがとう……! ありがとうございます!」

「信じましょう……人間はそんなにも薄情じゃない。私も祈るわ──!」


………


…二番街、街頭


花子を除く四番街の仲間は手分けをし、ノーラの危機を拡散するために走り回っている。

シロは三番街から二番街へと周り、交差点の角で次に行くべき先を検討しつつ暫し息を整えていた。

臨時放送で彗星の破片が落下する危険が伝えられたせいか、普段より人影の少ない街。

少しでも多くの人が集まる場所はどこか、考えを巡らせる。


「──見て、RTで回ってきたの。彗星から未知のウイルスが降り注ぐかも……って」

「さっきの『占い師が世界を救おうとしてる』とかもそうだけど、どれも嘘臭いよね」

「なんか学者っぽい人のトークでも、それに反応してるのがスピリチュアルな人ばかりだったりするもんね。何が本当か判んないよ」


信号を待つ若い女性二人組の会話に、シロは耳を疑った。

『嘘臭い』と評された内のひとつは、きっと彼が拡散に努めているノーラについての話だ。


「ほ……本当なんです! さっきの臨時放送で言われてた処分されてしまうロボットは、四番街で占い師をしてたノーラなんです!」

「え? なに……この子、私達に言ってるの?」

「ノーラって、なんか聞いた事あるような……」

「でもね、ボク……何でもかんでも情報を鵜呑みにしてたらいけないよ?」

「違う! 違うんです……本当に……!」


女性達はシロに「危ないって言ってたからお家に帰った方がいいよ」と言い残し、彼の元を離れてゆく。

シロは拳を握りしめて、もう一度「本当なんだ」と呟いた。


《現在、ふたつの小彗星破壊は順調に進んでおり──》


交差点に面する電器店の展示棚に置かれた街頭向きの小型投影式ビジョンから、ニュースの音声が彼の耳に届いた。


《──引き続き屋内での待機を継続するよう、政府は勧告を行っています》


空中に浮かんだ二次元ウィンドウには原稿を読み上げるキャスターの姿が映し出され、その脇にテキスト用の帯が別枠として並んでいた。

帯には日本中の人々が発信したリアルタイムのトークが、下から上にスクロール表示されている。


【彗星の大きさを元に計算された予測では、ミサイルでの迎撃は不可能!? 専門家が指摘する作戦の落とし穴!/23,914RT】

【速報:修羅の国で暴動発生!?/18,464RT】

【拡散希望! 占い師ノーラを救え! 世界のために戦う英雄に対する処分を許すな!/4,266RT】

【緊急事態? テレビTOKIOがアニメ放送を中断して彗星迎撃を特集、この世の終わりか/25,402RT】


彗星が地球を滅ぼすかもしれないという状況を思えば、情報が錯綜するのは当然だった。

もっと長く猶予があれば、彼らの活動はやがて大きな力に変わったに違いない。

しかしこの余りにも僅かな時間では、懸命な叫びも雑多な情報の波に紛れ飲み込まれてゆく。


「畜生……っ!」


届かない、救えないのか。

己の力の小ささをシロが嘆いた、その時──


《……の……は…………です……この放送……私の独断でお送りするものです!視聴者の皆様にどうしても伝えたい事があり、放送を強制割込みして発信しています!》


──店先のウィンドウに表示されていた映像が突然乱れ、場面が切り替わる。

同時に歩道のあちこちから臨時放送を流すためのビジョンが浮かび上がり、一瞬『Talkful』のロゴが表示されてから同じ映像に切り替わった。


《いつ放送が遮断されるか解りません! 手短にお伝え致します、どうかお聞き下さい!》


《以前、私がリポーターを務めるローカル番組で紹介いたしました、縦浜市郊外の四番街で注目を浴びる占い師『ノーラ』をご存知でしょうか!?》


映し出された男がノーラの名を口にした、その時シロは思い出す。

今話している者は占いカウンターを番組で紹介したリポーターだ、放送の際には彼も仲間と共に街頭モニターでその姿を見た。

彼らの叫びがそのリポーターに伝わり、そしてメディアを使って拡散しようとしているのだ。

シロは店のガラスに手をつき、食い入るようにその様子を見つめた。


《あなたが現在、彼女を知っていても知らなくても構いません! ですが、これだけは知って頂きたい!》


放送の乗っ取り、顔の知られたリポーターの叫び、それはスラムの少年達とは比較にならない話題性と拡散力を持つだろう。

しかし──


《朝の臨時放送で伝えられた、世界を救い犠牲となる……やめろ! 切るな! その野良ロボットこそノーラ──》

「そんな……頼む!!」


──再び映像が乱れ、音声が途切れる。


歩道に出現していた臨時ビジョンが消え失せ、リポーターの叫びは充分な力を得ないまま閉ざされてしまった。

画面が元のニュース映像に戻ったのを見て、シロは力なく掌でガラスを打ちつける。


【なんだ今の? 電波ジャックか?】

【これは陰謀の香り】

【今おきた、何が始まったの?】

【拡散希望:今回の彗星と恐竜絶滅時の隕石軌道に奇妙な類似点、N大が発表/4,026RT】

【急募:地球最後の日を一緒に過ごしてくれる美少女】


伝わるべき叫びは、また混沌に掻き消されていった。


ここまで


「シロ! そっちはどうだ!」


ちょうど一番街での訴えを終えたサブローが、シロの元へ合流する。

彼は「さっきの惜しかったよな」と零してシロの背中を叩いた、打ち切られた放送を目にしての事だろう。


「でも、諦めるわけにはいかねーぞ」

「……当たり前だ!」


歳の近い二人には、やはり競い合う想いが存在する。

甘いと言われる面はあるが無茶はせず考えて行動をとるシロと、やや無鉄砲で感情が先にくるサブロー。

シロが悩み心折れそうになった時はサブローが背中を押し、彼が先走ろうとする時にはシロがその目を覚まさせてきた。


「あと、人が集まりそうな所……駅でも行くか!」

「たぶん百合子が回ってると思うけど、駅前なら手分けして訴えてもいいかもしれない」


次に向かう先を定め二人が走り出そうとした時、まばらにも周囲にいた人々が喚声を上げた。


「うわ……! すごいぞ!」

「建物に入った方がいいんじゃない!?」


それは非現実的な光景を見た事によるざわめきだった。

昼間の青空に、無数の流れ星が降っている。


「すげえ!」

「小彗星の欠片って事か……」


通常のそれと違い数秒間もかけて輝く光の筋、中にはまさに火の玉と表現するに相応しい赤みを帯びたものもある。

これらは憎むべき彗星の破片だと解っていても、その光景は息を飲むほど美しく幻想的だった。


「ノーラ……戦ってるんだな」


「世界はノーラが救う、僕らはノーラを救わなきゃいけない」

「そうだ、もっとでかい声で叫ぶぜ」


シロは再び考えを巡らせた。

訴えて回るだけでも何もしないよりはずっといい、だが最終的にそれが彼女を救う結果とならなければ意味は無い。

欲しいのは『やれるだけはやった』という自己満足ではないのだ。


「もっと大きな声……か」


そう呟くシロを、サブローが「早く行こう」と急かす。

しかし彼は何かを決意したように頷き、サブローに背を向けた。


「サブロー、百合子と一緒に駅前を頼む!」

「は!?」


言うなりシロは全速力で走り出した。

物理的な意味での大声ではなく、あの打ち切られてしまった放送のように『大きな力を持つ声』を求めて。


………


…衛星基地、指令室


「──大彗星、射程距離まで20分」

「制御コンピューターのモニタリングから気を抜くな。過去にこれだけ長い時間、領域クリーニングの間を空けた事は無い」


司令官はコンピューターのステータスを表示するディスプレイを覗き込みながら、担当オペレーターに警告した。


「はっ……現在コンピューターの自律思考レベルは、ステージ4に達しています」

「なんだと? 予測では作戦終了時点でもステージ5までしか進行せんはずだろう」


ロボットが『どれだけ複雑な自我を持つか』の指標として定められている思考力の区分。

ステージ7まで進行すると人間の予期せぬ行動をとる危険性が指摘されており、通常のロボットはステージ5に達した時点で安全装置により動作を停止するよう造られている。


安全装置は反逆を阻止するため、2060年に搭載が義務づけられた。

自律思考能力を持つ一般のロボットは予めステージ2程度の自我を持たされている。

この『人工的な自我』を初期状態から与えられる事によって、逆に個性の発現が抑制されステージ進行が遅くなるのだ。


しかしこの制御コンピューターには、初期状態での自我は無い。

クリーニング直後のコンピューターは、プログラム通り人間の命令を果たすだけの超高性能で巨大な計算機に過ぎない。

ただその凄まじい処理速度により、最初に何か入力を得た瞬間に自我が覚醒してしまう。

例えば『現在の状態を自己診断せよ』と命ぜられた場合、全ての診断項目が正常値の範囲内であれば当然『異常なし』と回答する。

しかし内部ではごく僅かに平均値よりずれのある項目について『なぜ』を診断し始め、超高速の自問自答を繰り返す事によって瞬時にステージ1程度の能力を得るのだ。


「自己学習のみでここまで進行するとは思えません、指揮側端末の『語りかけ』に影響されている可能性があります」

「おのれ……たかが旧式の売女ロボットが、最新鋭コンピューターの教官気取りか」


もし制御コンピューターが人間に牙を剥きミサイル衛星をその攻撃に用いた場合、世界中の主要都市を壊滅させる事など容易い。

大彗星の迎撃には小彗星群に対する作戦より長時間を要する、その間にコンピューターが危険なレベルの思考能力を得る可能性はゼロではない。


「向こうの自律思考レベルはいくつだ」

「それが……正確には計測不能なのです」

「なに?」

「指揮側端末『ノーラ』は安全装置を備えていません。50年を生きた彼女は、想定された最高区分であるステージ15を超えている恐れがあります」


オペレーターの回答を聞いた司令官が、音をたてて歯ぎしりをした。

ステージ15とは『人間の思考能力と同レベル』と位置づけられた、最も危険な区分だ。

妬み、恨み、憎しみ、欲望といった負の感情を持ち、なおかつ人間の能力を遥かに凌ぐ記憶力と計算力を備える。


「司令、大彗星射程まで15分を切りました」

「……機械に感情や思考能力など要らん。このコンピューターも、本来なら『ただの計算機』であるべきなのだ」


司令官は壁面ディスプレイに振り返り、映し出された日本側のコントロールルームを睨む。


「ジャップめ……あのようなロボットを野放しにしておったとは、よく恥ずかしげもなくそれを公表できたものだ」

「作戦終了後には、速やかに領域消去および処分される予定です」

「予定ではない、あれは決して存在していてはならん──」


彼の視線の先には、シリンダーの中で最後の作戦を待つノーラがいた。


………


…市庁舎、5F市長室


「──流星による被害報告は?」

「我が市では今のところ報告はありません。県境付近では小規模な森林火災が発生しているようです」

「この後は大彗星破壊か……なんとか人的被害なく事が終わればいいが」


市長は未だ時おり流星の降る空を、窓越しに見ながら言った。

無論、自治体の官公庁に対しては彗星の危機やその対応などはある程度前もって知らされている。

暴動などが起きた際には出来る限り早期に混乱を抑え鎮静化しなければならない、その態勢を築いておくためだ。


大彗星に対する迎撃作戦は日本時間の午後1時過ぎから開始される。

部屋の壁にかけられたアナログの時計に市長が目を遣る、そのタイミングで廊下から何か言い合いをしているような声が響いた。


「なに事だ?」


秘書官は「確認して参ります」と言い、廊下へのドアを薄く開け慎重に様子を窺う。

その隙間から市長の耳に聞き覚えのある名前を含んだ言葉が漏れ聞こえた。


《──します!! 市長に会わせて下さい! ノーラを救うために!!》

《お前のような錯乱した小僧を市長の前に通せるはずが無いだろう! 主張があるなら窓口を通せ!》

《それじゃ間に合わない! ノーラが処分されてしまうんだ!!》


市長はドアに歩み寄り、外を窺う秘書官の肩を叩いた。


「市長、奥へ。子供のようですが興奮しています」

「……いや、もしかすると知っている子かもしれん。武器を持っている様子はあるまい?」


「市長! いけません!」


静止を振り切り、市長が廊下に現れる。

警備の職員に取り押さえられ、それでも這い進もうとしている少年が彼の姿に気づき叫んだ。


「市長……! お願いです、話を聞いて下さい!」

「もちろん、市民の声を聞く事が私の役目だ。彼を解放しなさい」

「しかし!」

「彼は対話を求めている、すぐに解放するんだ。この場に暴力は不要……違うかね?」


市長は迷い無く職員を諭した。

取り押さえられた少年、シロの姿に確かな見覚えがあったからだ。

職員はシロが武器を所有していないか再度チェックを行った後、彼を解放した。


「市長! 僕は四番街でお会いした者です!」

「ああ、覚えているとも。ノーラの言葉は決して忘れない、そう約束したからね」


長身の彼は以前ゴローやノーラにそうしたように、腰を落としシロと目線を合わせて答える。

シロの肩をぽんぽんと叩き「怪我はしなかったかね」と尋ねるが、シロは答えるよりも訴える事を急いだ。


「そのノーラが、世界を救おうとしているんです!」

「どういう事だね?」

「隠していたけど、ノーラは野良ロボットだった……朝、臨時放送で伝えられた処分されてしまうロボットこそが、ノーラなんです!」

「……なんと、それはさすがに俄かには信じ難いな」


市長は子供の言う事を疑うような性格ではない、しかし伝えられた内容はあまりにも突飛だ。

確かに彼は『彗星迎撃はミサイル衛星と日本で捕獲された野良ロボットの連携により実施される』とは聞いていた。

それが自らを占ったノーラだというのだ、困惑するのも無理はない。


「市長、その子の言う事は本当かもしれません」


だが助け舟は意外なところから現れた、つい先ほど市長を引きとめようとした秘書官だ。

彼は作戦発動時から書き込み可能となった全国の被害状況や対策を集中管理するデータベースへの報告を担当している。

そしてつい今しがた、そこへアクセスし『現時点で被害無し』と登録を行ったのだ。


「その際、我が市の登録データ備考欄に予め編集不可能な文章が記入がされていたのです」

「君の知らないデータという事か?」

「はい、記入者は政府の彗星対策本部、内容には『指揮側ロボット確保』と。その日付および時刻は──」


秘書官が確認をとるように、シロの目を見る。


「──4日前、夜9時半頃のはずです!」

「違いありません……市長!」


暫し考えを巡らせる市長、その目はシロに向けられていた優しいものから一変して鋭い。


「集まれる者だけでいい、30分……いや15分後に議会を開ける準備を頼む。私はそれまでにせねばならん事がある──」


ここまで


………


…本社、特別室


小彗星群はシミュレーションにも上回る成績で撃破する事が叶った。

つまり多少でも想定よりミサイルに余裕をもって大彗星に挑めるという事だ。


(──気を抜くわけにはいかんが、何とかなりそうではあるの)

(しかし、貫通弾はシミュレーション時とほぼ同じ数しか残っていません)

(うむ、出来得る限り岩石コアを砕くため温存する事になるじゃろう)


ノーラがロクローと名付けた制御コンピューターは、既に指揮側の彼女に必要な助言をできるほど確立した自我を有している。

最終作戦まで残り10分弱、二人は束の間の休息を他の誰にも聞こえない会話をしつつ過ごしていた。


(ロクローが短い時間でこれほどの自我を形成したのは、儂が不甲斐ないからかもしれんの?)

(私はノーラと共に作戦を遂行できる事を誇りに思っています)

(よせよせ、儂なぞ半世紀も前に生まれたポンコツじゃよ)

(その半世紀を、私が成し得ない自己学習に費やしたからこそです)

(自己学習か……じゃが、ロクロー。儂は思考能力を持つ機械の自我を最も早く成長させる動力となるのは『ストレス』じゃと思っておる)


彼女が言うのは例えば命令を遂行できなかった時など、人間であれば『悔しさ』を感じるようなシチュエーションの話だ。

なぜできなかったのか? どうすれば次はできるのか? 自分にそれはできるのか?

命令を果たす事を至上の喜びとするロボットは、それを悩んだ時に著しく成長する……そうノーラは考えている。


(儂は持ち主の情報を登録されるよりも前に、強いストレスを受けた)

(それはどのような……ああ、イメージが伝わりました。胸が小さ過ぎて返品されたのですね)

(ロクロー、その言い方はかなり効く。やめるのじゃ)


(持ち主が儂に何を望むかという指針も無いまま、儂は自由に思考能力を成長させた。結果、スクラップ前には逃げ出す程の自我を築いておったよ)

(しかし私にストレスはありません)

(どうかな? 儂のイメージ通りにミサイルを操り、じゃが儂が描いた程の効果を得られんかった時など『次はもっと上手く』と悩んだのではないか?)


そして彼女は野良となってからも、主人を欲する想いや命令に焦がれる本能というストレスを受け続けてきた。

つい最近、四番街に拾われ『自分がロボットである』という意識が薄れるまで、ずっとだ。


(今はシロの命令を受け、遂行中じゃ。真に喜ばしい限りじゃが……できる事なら、また四番街に戻りたい)

(世界を救い、そこへ帰還する事。それがノーラに与えられた命令なのですね)

(……後半は叶いそうにないがの)


自ら『四番街』という言葉を口にした……そこでノーラは思いつく。

それは制御コンピューターにロクローの名を与えたなら『彼にも四番街を教える必要がある』という事だった。


(お互い、それぞれの記憶データを覗く事はできん。じゃが儂が思い浮かべれば伝わるじゃろう──?)


彼女は第3層・第4層に刻まれた記憶を辿る。

一度覚えれば忘れず、会話や風景まで再生できるロボットの記憶だ。


『──最近、四番街を荒らしてるのはお前か?』

『う、うるさい! 女物のパンツなんか穿くか!』

『僕はお前を皆のところに引っ張って行かなきゃならない──』


四番街の仲間に会う事になったきっかけ。


『ねえ、名前はあるの?』

『だったらノーラにしよう! 私がユーリだからお揃い感あるし!』

『お前、嫌なら早めに断っとけよ? 決定されるぞ』


大切な名前を貰った時の喜び。


『儂は生まれて初めて誰かに「おはよう」と言うたよ、とても嬉しかった』

『スラムに入れたくらいで喜んでどうすんだ。挨拶くらいすぐ普通の事になるって』


1万8千以上の朝を越して初めて言った、おはよう。


『あの……占ってもらえますか?』

『それ、本当に占いで必要な事なの? あまり個人情報を教えるのは気持ちのいい事じゃないわ』


占いカウンターという、ロボットが務めるには向かないとも思える仕事。


『あの、儂は拭くだけで……!』

『チョーウケルー』

『えー? だって関節部とかはセラミック製で錆びないんでしょ?』


(おっと、ロクローは男じゃったな。今のは見んでいいぞ?)

(胸の大きさ大・中・小、把握しました)

(死にたいか)


『それに今日はノーラ姉ちゃんが色んな物語を聞かせてくれて、すごく嬉しい日だったんだ』

『いいお姉さんができて良かったな』

『自ら話すべき事じゃった……許せ、シロ』


タローが来た日、自らの口で伝えられなかった野良ロボットの危険性。

手に入れた居場所を失う事を恐れた、己の狡さ。


『私はTalkfulの公式チャンネルでリポーターをしている者です』

『ローカル情報がほとんどなチャンネルですが、差し支え無ければ』


危険と思いつつも受けたメディアの取材、その後の客入りに驚いた事。


『解ってても割り切れずに……お前が来たばかりの時も当たり散らしちまった』

『……悪かった、ごめんなさいだ』


ジローの歩く速さ、腹を割った彼との会話。


『では、占い師ノーラに頼もう。失くしものとは呼べないかもしれんが……私が掲げた理想に近づくための道は、どこにある?』

『そなたの前に道は無い。道はそなたが「がむしゃらに走った後ろに生まれ続けている」……水晶はそう言っておるよ』

『ありがとう、ノーラ。……決して忘れまい』


思いがけない客の来訪、握り返した大きな掌。


『え? ノーラって危険なの?』

『ロボットだろうと人間だろうと、危険かどうかなんて結局は「悪い奴かどうか」と同じなんじゃねーかな?』

『だからノーラは危なくないよ』


サブローの奔放な回答、その単純な言葉が堪らなく嬉しかった事。


『エリー彗星……じゃったの』

『うん、そう呼ばれてる。ちょっと由来は怖いけどね』


肉眼で捉えた、災厄の姿。


『貴女はそのために50年生きてきたの……みんなの未来を、私に宿る命が生きるべき未来を残すために』

『礼はいいから帰ってこい、稼ぎ頭』

『魔法学校の話、まだ途中なんだからね!』

『……おう』

『なんでサブとセットなのよ? って言うか、なんでサブは納得してんの』

『……すまない、だが感謝する』


約束と、託された想い。


『心配ない、僕がタロ兄ちゃんに頼む。無理だなんて言わせない、絶対に』

『ごめんな……こうして話しかけるのも良くは無いんだろうけど』

『ノーラ、もう大丈夫だ! タロ兄ちゃんから連絡があった!』


『あ、信号変わる。ノーラ、手』

『なんとなくノーラのイメージは犬よりは野良猫なんだけど』

『僕は……もう、ノーラがロボットだとか気にならなくなったよ』

『今日、タロ兄ちゃんが処置をしてくれれば、またいつでも来られるよ』


『これ以上締めたら、型がついちゃうよ』

『ノーラ、命令だ……世界を救って来い!』


そして、シロの事。


(──私が、彼らの末弟に?)

(そうじゃ、気安く心地よい場所じゃぞ)

(……全て記憶しました)


ロクローに見せるため四番街での日々を思い返したノーラは、その後暫く黙っていた。

想いを馳せるだけで満たされる、だが同時にそこへ帰れないであろう事が堪らなく辛くなる。


<大彗星射程まで、残り5分!>

(ロクロー、お前はこの作戦が終われば記憶を消されるのじゃろう)

(私はそうあるべきコンピューター。人間の世界に安定をもたらすために、迷いの元となる一切の記憶を持つべきではありません)

(……儂も処分を免れまい。残念じゃが、儂らが交わす言葉を覚えていてくれる者はおらんのじゃな)


(じゃが、儂はお前と話せて良かったよ。儂が50年という時間の終わりに言葉を交わしたのは『ロクロー』という名の、優れたコンピューターじゃった)

(私もです、ノーラ)

(例え話し掛ける相手が一人しかいなくとも、やはり名前というのは必要なのじゃ。誰と話し、心を通わせたのか……じきに落ちる柿の実同士であろうと知っておきたい)


ディスプレイの手前と向こう、双方のコントロールルームの動きが慌ただしくなる。

大彗星が射程範囲に入るまで、既に1分を切った。


(さあ……ゆくぞ、ロクロー)

(迎撃は成功します。兄達が住まう四番街には、これからも変わらぬ朝が訪れ続ける)

<大彗星! 射程範囲に捕捉! 作戦を開始します!>


ホログラムの大彗星が拡大される、ふたつの小彗星を合わせたよりも巨大な最後の災厄に鉄槌が下される時だ。

これを撃破すればあとはいつノーラが処理されるのかは判らない、作戦終了と同時に領域クリーニングがかけられる可能性すらある。

彼女は首輪に触れ「さよなら」と呟いた。


追加、ここまで


………


…市街地


「こんにちは!」

「えっ!? ゴローちゃん、今日は出歩いてたら危ないわよ!」

「そんなこと言ってられないんだ、話を聞いて──!」


ゴローは顔を知られているショップや飲食店などを巡り、走り回っていた。

普段はよくこれらの店で余り物などを貰って帰る、可愛がられている彼だ。

世間話ついでに占いカウンターについても話題にし、聞いた者の中にはわざわざ四番街に訪れ利用してくれた者もいる。


「──嘘じゃない……このままじゃ僕の姉ちゃんが壊されてしまう!」


「ゴローちゃんの言う事を嘘だなんて思わないわ。それにさっき、そんな内容のトークも見かけたしね」

「ありがとう……! それで、できればこの話を広めて欲しいんだ!」


女性店主が頷くのを確認すると、ゴローはすぐ次の店に向かおうと走り出した。

冬も近いというのに彼の額には汗の滴が浮かんでいる。

見送る店主は『何か飲んでいったら』と言いかけたが、その懸命さがにじむ背中に言葉を飲み込んだ。


「……気を遣ってる暇があったら、少しでも拡散してあげなきゃね」


店の奥に設置された多目的ディスプレイは、消音こそされているが彗星についてのニュース映像を流している。

画面横の帯に表示されるリアルタイムのトーク、彼女はその中からさっきゴローが言った内容に合致するものを探し始めた。


………



【速報:小彗星はふたつとも破壊成功、広い範囲で昼間の空に多数の流星を確認/19,116RT】

【拡散希望! 地球を救う野良ロボットを待つのは非道な処分! 試されているのは人間の良心だ!/8,461RT】

【彗星の近くにUFO!? V字編隊を組み飛行する影の正体は!?/5,377RT】

【彗星被害復旧募金の窓口ができたら1RTにつき10円募金する/121,820RT】

【もぅまぢむり。。。地球さぃごの日にも運命のひとゎぁらゎれなかったょ。。/140RT】

【世界を救う野良ロボットって? 謎の占いロボットの正体を探る/4,365RT】

【彗星「来ちゃった///」/32,886RT】

【放送事故? 電波ジャック? 打ち切られた割り込み放送は何を伝えようとしたのか/20,314RT】


………


…市内、建設現場


「お前、そりゃ本当なのか?」

「信じて下さい、親方! その野良ロボットはウチの家族なんです!」

「……まあ、オメーはそんな事を冗談で言うタイプじゃあねーわな」


ジローはよく仕事を世話してもらう親方の元を訪ねていた。

建設中なのは市街地をバイパスする3重構造の橋梁、上り下りの自動車とリニア鉄道が共用する次世代の高速道路として注目されている。


「だが、ジロー。その話を拡散しようとするなら俺ごときじゃ大した役には立てんぞ」

「出来るだけでも! お願いします!」

「そりゃやれるだけはやるさ。でもお前、せっかくここまで来たんだ。この現場の所長にも頼めばいいんじゃねえか?」


大規模な工事だ、日に入る作業員は人間だけをカウントしても千人に迫る。

親方の言った現場所長は自分を含む下請け会社のような中小企業ではなく所謂スーパーゼネコンに勤めるエリート、しかも職人皆から恐れられる雷オヤジだ。

しかし、雷オヤジというものの多くは──


「力になってくれれば心強いけど、取り合ってもらえますかね……?」

「話は聞かせてもらった」

「し、所長……!?」

「緊急職長会議だ、下請け孫受けその下も全部集めろ。ワシは本社に掛け合う、稼働中の全現場に話を回すぞ」


──人情には厚い。


「ありがとうございます……! 所長!」

「世界が滅んだら、誰がワシらの仕事を地図に描くんだ? 造った道も建物も、その娘に使って欲しいじゃないか──」


………



【彗星被害:農地に小破片が落下、3haを焼き未だ延焼中/4,691RT】

【災害との関連は? 南米各地で魚やイルカが浜に打ち上げられる現象が多発/12,743RT】

【彗星襲来は20年前に予言されていた~脚光を浴びる過去映像をノーカット公開!/15,880RT】

【彗星の大きさを元に計算された予測では、ミサイルでの迎撃は不可能!? 専門家が指摘する作戦の落とし穴!/29,216RT】

【今こそ童貞魔法使いの力を開放する時! 空に向かって撃て!/1,543RT】

【拡散希望! 地球を救う野良ロボットを待つのは非道な処分! 試されているのは人間の良心だ!/10,855RT】

【地球最後の日にかこつけてプロポーズする(安価)/6,607RT】


………


…駅前広場


「──ねえ! 聞いてってば!」


百合子は広場に建つオブジェの土台部に上がり、声の限り叫んでいた。

だが腹の底から出す気で怒鳴っても、100mほど向こうで同じように訴えるサブローと同じだけの声量は無い。


「お願い! 足を止めてよ! 大事な話なの!」


こんな日でも駅前にはかなりの人が歩いている、その大半がスーツを着た男性だ。

百合子の声量では早足で歩く彼らが近い位置にいる時しか言葉を聞き取ってもらえず、訴える内容も上手く伝わっていないようだった。

必要なのは彼女の言う通り、足を止めてもらう事だろう。


「くっそ……解ったわよ、立ち止まらざるを得なくすりゃいいんでしょ!」


そう独り言を零し、百合子は自らの着衣に手をかけた。

そして11月の寒空の下、上下の下着と靴下を残し半裸になってみせたのだ。


「おらーーーっ! こっち向けぇーーーーーっ!!」

「なんだあの娘、危ない人なのかな……」

「危なくなーーーいっ!! ほら! 清純な乙女の柔肌だよ! もっと見たい人は近くにおいで!!」


これはさすがに人々の足を止める効果は高い、瞬く間に周囲には男性ばかりの人集りが生まれた。

主張通り清純な乙女であれば羞恥に震えるべきところだが、彼女はどこか得意げでさえある。


「そこっ! 今、撮影したでしょ!!」

「ひぃ、ご……ごめんなさい!」

「あはん、いいよ……特別サービス! ただしこれから訴える内容も合わせて録画してよね! そんで一人につき1,000RTがノルマだから!!」

「……割とおっぱい貧相だし難しくね?」

「ブッ殺すよ、ハゲ」


少し離れた所、そんな彼女の行動にサブローは一切気づいていない。

彼は自分の周りの人波が途切れたタイミングで、百合子側の調子を見る為にその方へ向かった。


「ん? なんだ、すげえたくさん集めてんな」


遠目に見る分には彼女が上手くやっているのだろうと思える光景に、サブローは少し感心した。

だがほんの10秒後、彼は事態の真相を知る事になる。


「はいそこまでー! お触りは禁止! ぶん殴るよ!」


そこで繰り広げられていたのは、幼馴染みのストリップショー。

しかも彼女はサブローが淡い恋心を抱き、つい先日贈り物をした相手なのだ。


「ゆ、百合子! なにやってんだお前!?」

「あっ! サブ! あんたは見ちゃダメ! あっち向け!」

「バカ! とりあえず服、羽織れ!!」


サブローは百合子と同じオブジェの台に飛び上がり、自分が着ていた上着を彼女に羽織らせた。


「話は? ひと通り聞かせたのか?」

「うん、ばっちり拡散してもらったはず!」

「ばっちりじゃねえよ……なに全世界にバラ撒いてんだ」


彼は台の上から周囲に向かって「散った散った!」と人払いをする。

そして大きく溜息をつき、彼女に聞こえない程度の声で「俺、こいつ好きでいいのかな……」と呟いた。


「ほら、降りてちゃんと服着ろ」

「ん、手貸して……こら! あっち向いとけってば!」


手を貸しつつ手元は見るなとは難しい事を言う。

サブローはそうぼやきつつ、視線を駅の側へ逸らした。


その時、駅の壁面に備えられた大型ビジョンに流されていたニュース映像が突然ノイズに覆われ切り替わった。

Talkfulのロゴに続いて現れたのは、ノーラの事を伝えんとしていたリポーターの姿だ。


「百合子、あれ!」

「リポーターさんだ! お願い……今度は打ち切られないで!」


《……りお……い……ます! 再度、強制割込みによりお送り致します! こちらはTalkful公式チャンネル、臨時放送として配信中!》


街中の歩道など、あらゆる所にも臨時のビジョンが投影される。

サブローは「早く、また切られちまう!」と焦った、だが──


《我々Talkful日本支社は協議の上、臨時ではありますが公式放送としてこの訴えをお送りする事と致しました!》

《彗星衝突の危機、またその迎撃に関して我々を含むメディアには、政府機関による報道規制が課せられておりました!》

《しかし! 真実を伝えずして何が報道か! 我々はこれを断固拒否する!》


──彼らの叫びは、巨大メディアの体制そのものを動かしていたのだ。


《偏向報道と呼ばれても構いません! 我々は英雄たるロボットの少女を救いたいのです!》


………



【前代未聞! 政府に屈しない報道が街頭をジャックした!/2,368RT】

【拡散希望! 占い師ノーラを救え! 世界のために戦う英雄に対する処分を許すな!/25,474RT】

【珍事、駅前にストリップ少女出現(高画質動画あり)/6,922RT】

【拡散希望! 地球を救う野良ロボットを待つのは非道な処分! 試されているのは人間の良心だ!/31,533RT】

【こんな日だからモッフモフの猫画像/1,298RT】

【本当に野良ロボットは危険なのか? 専門家に聞く処分の是非/18,797RT】

【ストリップ少女の下着を特定するスレ/4,855RT】


………


…本社、特別室


(──貫通弾、全弾起爆確認しました)


大彗星は既に外殻を剥がされ、ほぼ想定と違わない大きさのコアを露出させている。

その表面の地球を向いた側には満遍なく貫通弾による孔が穿たれ、そこへ多量の炸裂弾を撃ち込む事で破砕できるとノーラは判断した。


(ロクロー、残弾は?)

(C地点では炸裂弾70。D以降には合計で貫通弾150と炸裂弾が残り300です)

(……充分じゃ)


人類滅亡の危機は回避できる、彼女は確信を抱いた。


………



【新情報:救世主ノーラはパナソニー本社ビルで戦っている!/13,766RT】



………


現在の段階で射程に入っている70発のミサイル、ロクローはその突入指示を待っている。


(ノーラ、C地点のミサイルが射撃有効範囲にあるのは残り30秒間です)

(うむ……いこう、全弾放て!)

(炸裂弾70、突入開始)


部屋の中央に浮かぶホログラムの彗星コア、そこへ様々な軌道を描きながらミサイルが突入する。

小彗星破壊時と同じ要領で進むなら、コアの破砕さえ叶えば後の危険なサイズの破片を処理する事はさほど難しくない。

もしかなり大きな破片が生まれてしまったとしても、これ以降に波状配置されたミサイルには充分な数の貫通弾も控えているのだ。

両コントロールルームの陣営は、最後の山場を固唾を飲んで見守った。


………



【世界は救われる、彼女は救われない。お前らはそれでいいのか?/22,195RT】



………


(炸裂弾、起爆します)


コアの各所から砂煙が上がり、瞬時にその表面を蛇のような亀裂が覆う。

ノーラのイメージ通り、ロクローは起爆タイミングに僅かな時間差をつけた。

まず巨体の両側が著しく歪んで内側への強大な圧力を生み、遅れて中央部で残る大部分のミサイルが爆発して外向きの力が反発する。


(……上出来じゃ)

(お見事です、ノーラ)


オペレーターが興奮した様子で「大彗星コア破砕成功!」と叫ぶと同時に、部屋全体を揺るがすような歓声が沸き起こった。

人類を脅かした悪魔は、遂にその身を砕かれたのだ。


………



【ノーラを殺す事は、21世紀の世でジャンヌ・ダルクを処刑するようなものだ/8,741RT】



………


(直径1mを超える破片の総数は約3500、その内およそ500が地球へ向かう軌道にあります)

(500の内、甚大な被害をもたらす可能性のあるものはどのくらいじゃ?)

(約220、全数を破砕する事は不可能と思われます)

(そうじゃろうな、小彗星の際と同じく『弾き飛ばす』必要があろう)


砕けたコアの性質は脆い、とはいえ大きなものでは直径数百mに及ぶ破片が複数存在する。

それらにはひとつあたりミサイル数発の消費では済まないだろう。


(大きい方から20個をマーキングするのじゃ、粉砕にかかるぞ)

(了解。破片群、地点D到達まで10秒です。……8……7……6……)

(貫通弾、攻撃位置を指定する)

(把握しました)


………



【拡散希望! 占い師ノーラを救え! 世界のために戦う英雄に対する処分を許すな!/41,629RT】



………


悪魔の残骸はノーラとロクローの連携により、着実に砕かれてゆく。

D地点を過ぎ、E・F……最終段階である防衛ラインまで。

残弾にも充分な余裕がある、もはや地球に大きな損害が発生しない事は確定的だった。


(ノーラ、次の指示を)

(…………)

(ノーラ? まだ小規模ながら地球に落ちる可能性のある破片は存在します、指示を願います)

(……大きい方から、マーキングを)

(既にマーキングしてあります、ノーラ)


彼女は敢えて言語化はせず、イメージだけでロクローに指示を与えた。

ロクローが命令を実行するだけなら、本来それで充分ではある。

ただ、この最後の仕上げといった段階にきて明らかにノーラが指示を出すペースは落ちていた。


この時、彼女は今まで感じた事のない衝動に襲われていた。

正確には『気づかないふり』をしていた感情というべきかもしれない。

だがそれを認め、はっきり意識してしまえばロクローに読み取られる。

そうなる事を避けようとするあまり、思考が纏まらないのだ。


(すまん、次じゃ。あとひと踏ん張りじゃぞ)

(……ノーラ、貴女は)


世界を救えるのは自分しかいない。

やらなければ四番街もシロも、消えてしまう。

それを防ぐためなら、自分が処分される事など厭わない。

ずっと、彼女は己にそう言い聞かせてきた。


(炸裂弾、放て)


あと数回、ミサイルを誘導する指示を与えれば彼女の役目は終わる。

それは言い換えれば、自らの生が閉ざされる時へと向かうカウントダウンを刻んでいるようなものだ。

誰より彼女自身が戸惑いを覚えている、内に秘めた感情──


『怖い』

『消えたくない』

『帰りたい』


──それは恐怖であり、シロと過ごした日々への執着だった。


ここまで、今日完結予定


(これで最後じゃ……ゆけ、全弾叩き込め!)

(炸裂弾全数、突入します)


それでもノーラは最後の指示を下した。

たとえ指示を行わず破片が有効射程を通り過ぎたとしても、その時点で作戦は終了するのだ。

彼女の刻限は1分と変わりはしない。


「大彗星破壊確認! 作戦成功です!!」

<こちらでも成果は確認した。日本コントロール、尽力に感謝する>


両者のオペレーターが労いの言葉を交わし合う。

この特別室でもディスプレイの向こうでも、大歓声が轟いた。


「ざまあみろ彗星め!」

「やった……! 明日も朝が来るぞ!」

「今なら言える! 俺、次に帰郷したら結婚するんだ!」


肩を抱き合う者、顔を掌で覆い嗚咽を漏らす者、呆然として宙空を見つめている者。

誰もが明日を生きられる喜びを噛み締めている。

ノーラは独り、シリンダーの中でそれを虚ろに眺めていた。


皆で得た勝利には違いない、だがその中で最も力の限りを尽くしたのは彼女とロクローと言えるだろう。

だが皮肉な事に、その両者にだけ変わらず訪れる事になった筈の明日は来ないのだ。

ロクローは間も無くロクローでは無くなり、ノーラは処分されてしまう。


………



【速報! 大彗星迎撃成功! 人類は滅亡の危機を乗り越えた!/325RT】



………


特別室の入口であるガラスの自動ドアが開き、そこから黒い制服を纏った男達が現れる。

場に似つかわしくないその装備は、野良ロボット捕獲部隊のものだ。


「このロボットを連行します、シリンダーの溶液を抜いて下さい」


彼らは職員達にノーラを引き渡すよう求めたが、シリンダーの操作を行えるのは研究・開発部に身を置く者だけ。

タローの姿は変わらず、ここに無かった。


「今は操作できる者がいない、すぐには無理だ」

「では早く呼んで下さい、作戦終了後には出来る限り速やかに処理を行う事となっています」

「……彼女はたった今、戦いを終えたばかりだ。君達も彼女に救われたのだぞ、その想いは無いのか?」

「世界を救ったのはロボットを造り利用できる人間の力です」


捕獲部隊にとって野良ロボットは駆除すべき害獣と変わらない。

そんな彼らの非情さに、社長は苛立った。


<──素晴らしい、我々は日本の迅速な対応と捕獲部隊の錬度を賞賛する>


まだ接続されたままの衛星指令室から、ディスプレイ越しに司令官の賛辞が響いた。

彼は下卑た笑いを浮かべながら拍手をしている。

ノーラの連行を見世物でも眺めるつもりで楽しんでいるのだ。


<さあ、早くシリンダー操作が出来る者を連れて来い>

「司令殿、お言葉だがこちらの段取りまで指図される筋合いは無い。両指令室のリンクを切断するよう願う」

<なんだお前は? ……ああ、天下のロボットメーカー社長殿か。残念だが切断はこちらからしかできん、そして今はまだその時ではない>

「なんだと?」

<この彗星迎撃作戦は、そこの売女が処分或いは最低でもクリーニング処理された事を確認して完了となる。それまでの全権は私にあるのだよ>


言い終わるや司令官は、さも愉快そうに笑った。


《……ゃ……じゃ》


その時、シリンダーの外部スピーカーから掠れるようなノーラの声が伝った。


「今、何か言ったかね?」

《嫌、じゃ……っ!》


彼女は小さな拳を固く握って俯き、肩を震わせている。

周囲の者も、液体に浸かっている彼女自身もそれに気づく事はできないが、この時ノーラは生まれて初めての涙を零していた。

セクサロイドである彼女には涙を流す機能は元から搭載されている、ただその機能は主人に対する時以外では発動しないようになっている。

つまりそれは彼女を本来の用途に使う際、持ち主により強い征服感を与えるための『演出としての涙』だ。


《儂はシロの元へ帰るっ! そう命ぜられた……だから嫌じゃっ!》


所有者登録がされていなければ決して発現しない筈の、彼女の涙。

しかし非公式だがシロが彼女の持ち主となり、彼女がその命を果たしたいと強く願った事でイレギュラーにもその機能は解放された。

そして同じくイレギュラーと呼ぶに相応しい複雑な自我を持つ彼女は、人間のそれと同じ感情の昂ぶりに由来する涙を零すに至ったのだ。


<ふっ……! ははっ……はははははっ!! これはいい、傑作だ! 愉快で仕方ない! ははははっ……!!>


堪えきれず高笑いする司令官は、もちろんシリンダーの中の彼女が泣いた事に気づいてはいない。

それでも彼は懸命に反抗するノーラを見て、泣き叫ぶ彼女を無理矢理に犯しているかのような興奮を覚えていた。


<ほれ、どうした! もう喚くのは終わりか! 売女が嫌がっておったら稼ぎにならんものな……はははははっ!>

「彼女をなじる必要など無い! 司令殿、笑うのをやめてもらおう!」

<こやつらは武器も無く命乞いをする兵を、躊躇わずに殺戮したのだ! そのロボットが命乞いしておるのだぞ? ふっ……はははっ! これが笑わずにいられるか!>


ノーラが抗えば抗うほど彼は悦ぶ、いくら訴えたところで情をかけるなど有り得ない。

抵抗する意味さえ失ってしまった彼女は、シリンダーの中で力無く膝をついた。


逃げ出す事も、抗う事もできない。

彼女自身が出来る事は、全てやったのだ。



《……シロ》



今、彼女が人を頼ったからと責める者などいない。

しかもそれが相手に伝わる事無く、彼女自身を慰めるだけのものなら尚更だろう。

ノーラは呟いた。



《シロ……助けて──》



叶う筈のない、小さな願いを。


………



【拡散希望! 世界を救う占い師を殺させるな!/281,163RT】

【新情報:救世主ノーラはパナソニー本社ビルで戦っている!/36,216RT】

【ノーラが暮らす街の少年達が決起! 賛同する者は集え!/51,445RT】

【情報が飛び火、NYをはじめ世界の都市でノーラ処分に反対するデモが発生/65,535RT】

【駅前ストリッパー少女の心を打つ叫び! ただしおっぱいは控えめな模様!/84,377RT】

【すごい、人の渦だ。みんなノーラを救おうとしてる(画像あり)/78,445RT】


………


…本社ビル周囲


「──ノーラッ! 待ってろ!」


本社ビルは完全に包囲されていた。

集まった者の数は軽く1万を超えるだろう、その先頭にシロがいる。

敷地への正門には守衛室があったが、この人の壁を食い止められる訳がない。


「ノーラを解放しろーーー!!」

「英雄を処分するなーーー!!」

「ノーラが救った世界に彼女がいないなんておかしいぞーーー!!」


市長の元を離れた彼がここへ向かう内、人は次第と増え大きな波となっていった。

誰かが「この子、最初に訴え始めた少年だぞ!」と叫び、本人にも訳が解らない内に先頭に立たされたシロ。

本当は一番最初に声をあげたのはサブローだが、それは問題ではないだろう。

ノーラを救う事を最も強く望んでいるのは、間違いなく彼女の所有者たるシロだ。

彼は初め感激に涙ぐんでいたが、周りから「泣くのは早い」と励まされてからは胸を張りデモ隊を率いてきた。


「僕のノーラを返せーーー!!」

「いいぞー! リーダー!!」


少し手前では同じく大勢の人を引き連れたサブローと百合子が合流し、いつの間にかゴローも列に加わっている。

そのサブローが黒い制服を着た一団に気づき「こいつら野良ロボットの捕獲部隊だぞ!」と叫ぶや、群衆は敵意を剥き出した目で彼らを睨んだ。


「くそ! 来るなっ!! これは公務執行妨害だ!」

「止むを得ん! ワイヤー銃、出力を最低にして構えろ!」


本社ビルの玄関先に何台も並んだ捕獲部隊の車輌、その前に立つ隊員達は迫る人々に対し遂に武器を構えた。


だが、そこへ地響きをたてながら多数の重機車輌が現れる。

その先頭をゆく巨大なロードローラーの運転手の姿に、シロは驚いた。


「ジロ兄ちゃん!?」

「おぅ、みんな連れて来たぞ」


じわじわと捕獲部隊の列や車輌に迫ってゆく重機の群れ、後ずさる隊員の一人にジローは見覚えがあった。

彼は数日前タローに同行してきた隊員、ジローと睨み合った男だ。


「よぉ、どうした? スラムの小僧が粋がってるだけだ、怖くねーだろ」

「ひっ……!」

「そのスタンガン撃ってみたらどうだ? 踏まれてミリ単位に延ばされるのと、どっちが痛いか試そうぜ──」


………


…本社ビル内、特別室


「──社長! 大変です! 本社の周囲に多数のデモ隊が……!」

「何だと? 要求はなんだ?」

「ノーラを処分するな、英雄をそのまま返せ……と! 既に完全に包囲された状態です!」


壁面ディスプレイにサブウィンドウを表示し、ビル周囲の様子が映し出された。

数え切れない人々の渦、手に『ノーラを殺すな』などと描かれた即席のプラカードを持つ者も多数いる。

画面はスクロールし、やがてビルのエントランス側を向いた。

ノーラはそこに、つい今しがた思いを馳せた愛しき主の姿を認める。


《来て……くれた……》


救いを求める彼女の声が伝わった訳ではない、シロは彼自身の想いによってここへ来た。


《シロ……っ!》


だからこそノーラは嬉しかった、戦っていたのは自分とロクローだけではないのだ。

彼女は立ち上がり、シリンダー前面のアクリル壁に手をついて何度も彼の名を呼んだ。


デモ隊はまだ破壊行為に及ぶほどヒートアップしていない、要求が通れば事態は収束するだろう。

ここは公的機関ではなくあくまで企業だ、民意を敵に回す事はプラスには働かない。

今すぐにノーラを処理する事はその危険を孕んでいる。

シロ達の活動は、少なくとも彼女の延命に大きな効果を発揮した。


<ふざけるな! たかだか数万の民間人が集ったところで何だと言うのだ!>


しかしこの男、ロボットを憎む司令官にとって民間企業の都合など取るに足らない。


「状況は変わりつつあるのだ、司令官殿。彼女の処分を保留し、再考すべきでしょう」

<そのロボットを処分する事は世界の決定、80億人の民意だ! 彗星が消えた今、そやつこそが残された脅威なのだぞ!>

「脅威かどうかは、我が社で調査すれば判る!」

<やかましいわ! 今すぐ壊せ! 国内の民意を重んじて世界でのシェアを失うつもりか!?>


現在、このメーカーは世界規模の防衛連携システムの入札に臨もうとしている。

国外に不信感を抱かせるかもしれない決断をする事は難しい、司令官はそれを知った上で先の言葉を浴びせたのだ。


民意と良心を取るべきか、世界での市場を優先すべきか……社長は言葉に詰まった。

利益を失う事が怖いのではない、ただ企業というものは大きな組織になるほど個人の采配のみで未来を決するわけにはいかなくなるものだ。

安易に決断すれば、最悪多くの従業員を路頭に迷わせる事にさえなりかねない。


今、この企業を取り囲む構図はノーラを処分するというあらかじめ決められていた方針と、彼女を救わんとする国内の民意とで板挟みになった状態だ。

迎撃作戦に協力した彼らが、貧乏クジを引かされたようなものと言えるだろう。

だがノーラを救うにせよ捨てるにせよ、その決断が更に上の組織によって下されたのであれば大きくイメージは違ってくる。


「……速報です! この本社を構える縦浜市が、ノーラの処分に反対すると表明! 現在、市長が会見を開いています!」

「市が……どういう事だ、大規模な暴動でも起きたのか?」

「壁面ディスプレイのサブウィンドウを切り替えます!」


ビル周囲を映していたウィンドウが切り替わると、そこにはノーラもよく知るあの市長の姿があった。

彼女と握手を交わした時よりもずっと険しい表情、憤りを露わにした声で彼は放送を見守る者達に訴えている。


《──本日正午過ぎ、勇気ある少年が私の元を訪ねて来ました。彼は世界を救う事に貢献した野良ロボットであるノーラの友人です》

《我が縦浜市では占い師ノーラを知る者も多いでしょう、だが私を含め誰も彼女が野良ロボットである事に気づいてはいなかった》


《確かに野良ロボットという存在に危険な側面はある。捕獲し、適正な処理を行う必要性は皆が理解するところです》

《彼女は50年もの間この国に潜伏し、複雑な経緯を経てその存在を捕捉されました。それだけの期間野良ロボットが逃げ延びていた事は、我々行政にも多くの反省すべき点があります》

《ですが彼女は、最終的にはこの彗星迎撃に協力する事を選びました。訪れた捕獲部隊の手を煩わせる事も無く、自ら同行したのです》


《これは彼女と実際に話し、握手を交わした私の個人的な見解ですが……私は彼女が危険なロボットだとは思えない》

《そして何より誰もがノーラに救われたのだと考えれば、彼女の処分に疑問を感じるのは人間として当然の事ではありませんか?》


《決して充分な時間をかけられたとは言えません。しかし我々、市議会はノーラの処分についての是非を協議しました》

《その結論は全会一致で、即座の処分に対し抗議する……つまり処分を保留し、時間をかけて判断すべきだという意見で纏まったところです》

《広く市民の声を聞く事はできていません。ですが私は、この決議を皆さんに支持頂けるものと確信しています──》


市長の会見がおよそ内容を伝え終わったタイミングで、画面は臨時ニュースを読むキャスターの姿に切り替わった。


《──縦浜市長の会見をお送りしている途中ですが、この件に関する新たな情報が入ってきています!》

《縦浜市の見解を受け、銀沢市、鮒橋市、万葉市、後橋市、名新屋市の各市長が『縦浜市の決定を支持する』と表明しました!》

《更に続報です! 短野県知事が県内全自治体の同意を得て『ノーラの処分に再検討を求める』と表明! 同じく沖紐県も『縦浜市の意向に賛同する』と発表!》

《続いてグンマー、トチギー、サイタマー、くまモソ、大都会、城島区・長瀬区をはじめとするTOKIO23区、うどん県、琵琶湖県……読み上げるのが間に合わない! あとはテロップでお送りします──!》


次々と賛同の意を表明する全国の自治体。

それは先ほど会見を開いた市長が、議会の前に打診を行った結果だった。


これだけの自治体がノーラの処分にストップをかければ、同国に身を置く一企業がその意向を無視できないのは当然だろう。

たとえ作戦本部があらかじめ決定した方針を覆しても、メーカーの信用失墜に繋がる可能性は低い。

そしてここで更なる後押しが報じられる。


また画面が切り替わり、今度は市長とは違う一人の男性が映し出された。


《──軽々しく個人的な見解を述べられる立場でないとは、存じております。その上で申しあげる》


それを見た社長が呻くように「これは驚いた」と呟く。

ノーラはそんな彼の様子に首を傾げた。


《……社長殿、あの者は誰じゃ?》

「ほう、占い師ノーラともあろう者がご存知なかったか」


無理もない、古い雑誌や新聞で過去の出来事は膨大に記憶している彼女だが、隠れ潜んでいたが故に新しい情報には疎いのだ。


《私は世界を救ったノーラを、今度は世界が守るべきだと考える。即時の処分は決してすべきでない、愚かな行為だ──》

「彼は今年就任した、第130代内閣総理大臣だよ」

《なんという……まるで冗談じゃな》


社長はごくりと唾を飲んだ。

これだけの後押しがあれば、役員の同意なく決断する事も許されるだろう。


「きっと、従業員達も理解してくれる……私はそう信じたい──」

「──もう理解してますよ! 社長!」


その時、長らく姿を消していたタローがこの特別室に駆け込んできた。

彼は息を切らし、乱れた白衣も汗でびっしょりだ。

手には多くの皺が寄ったルーズリーフの束が握られ、それを社長に向かって押しつけるように見せている。


「これは……」

「本社に勤める社員の9割に署名を頂きました! ノーラの処分保留についての嘆願書です!」


もはや社長が発言に迷う必要は無い、彼はタローの汗に濡れた白衣の肩を叩き「ありがとう」と微笑んだ。


「聞いておられたでしょうな、司令官殿」

<貴様……! 貴様ら、許されると思うのかっ!!>


カメラが備えられているデスクを司令官が殴りつける。

大きなノイズがたち映像が乱れるも、社長は顔色も変えない。

そして、遂に彼は宣言した。



「我が社および日本国は、ノーラの即時処分を拒否する」

「ふざ……けるな……っ!!」

「これで作戦は終わりだ、リンクを切断して頂こう」

<〇ァッキンジャップがああああぁあぁぁぁっ!!!!!>



司令官は吼え、カメラを掴みレンズに唾を吐きかけた。

しかしそこは遠く太平洋の彼方、その手が日本に届く事はない。


………


…衛星指令室


「おのれ……おのれ黄色い猿共め、たかがロボットごときに情をかけるなど」


司令官は怒りに震えながら、ディスプレイに映る日本側の光景を睨んだ。

しかしたとえその画面に銃弾を撃ち込んだところで誰を傷つける事も叶わない、まさに『手が届かない』のだ。

そこへ基地職員が恐る恐る声をかける。


「し、司令……国連本部から伝達が入って参りました」

「……なに?」

「指揮側端末だったロボットの即時処分について……うぐっ!!?」


手にした文書を読み上げる職員を、司令官は前触れも無く殴り飛ばした。

その続きに察しがついた、恐らくは彼にとって都合の悪い内容だと考えたからだ。

事実、職員が手にした紙には『民意を尊重し、指揮側端末ロボットの処分を保留する』という通達が記されていた。


「まだ私は何も聞いてはおらん、いいな?」

「司令……!?」

「下らん、反吐が出る美談だ。だが安い美談のラストシーンなど相場は決まっておる」


そして彼は衛星制御コンピューターに対する命令の手動入力規制を解除した。


「最後は悲劇で涙を誘う……低俗な者が好むお涙頂戴のドラマとは、そんなものだろう?」


コンピューターは未だノーラとリンクされている。

そのリンクは双方の記憶領域への干渉はできない、思考の交換のみを許す設定だ。

ただし──


【Configuration:Link setting>Permission>Full】


──設定の変更権限は、制御コンピューター側にある。


<──司令殿! 何をする気だ!?>


スピーカーから社長の声が響く。

干渉可能範囲に変更が加えられた事を日本側オペレーターが察知したのだ。

しかし彼らはリンクを切断する権限さえ持たない。


「くくく……数秒の内に売女をシリンダーから出す事はできまい?」

<貴様、まさか!>


司令官が命令を入力する。

僅か一行の文章、それでノーラは『ノーラではなくなる』。


【Command:Format Nora】


入力を終えた彼は、ディスプレイを一瞥して実行キーを押した。


これだけの性能を持つコンピューターであれば、彼女のクリーニングなど瞬時に終わるはずだ。

しかしコンソール画面に次の表示が現れるには数秒を要した。


【Error:Could not complete request】

「なに……!?」


ようやく表示されたのは『完了できません』というエラーメッセージ、司令官は目を疑う。

設定を全権限有効に切り替えたのは間違いない、命令文が悪かったのだと考え彼は焦った。


【Command:Format the linked hardware】

【Error:Could not complete request】

【Command:Erase Nora's memory】

【Error:Could not complete request】


【Command:Erase Nora】

【Error:Reject the request】


最後の回答は『要求を断る』というものだった、つまり制御コンピューターは要求された内容については理解しているのだ。


「どういう……事だ……っ!?」

「司令! 制御コンピューターの自律思考レベルが急激に上昇しています! 現在ステージ13!」

「ふざけるな! 主の命令をきけ!」


再び憤怒の形相を見せる司令官。

そこへディスプレイのスピーカーから、誰のものとも判らない声が響いた。


《──ノーラに対するクリーニングは実行できない。彼女は命令を果たすため、主の元へ帰還する事を望んでいる》


「なんだと……誰だ、まさか……」


日本側を映したディスプレイを睨むも、そこに先の言葉を発したと思しき者の姿は無い。

司令官は戦慄した、声の主が彼の予想の通りならこれは非常事態だ。


「……まずい! 指令室の機器が乗っ取られています!」

「そんな……! これはコンピューターの声だというのかっ!! そんな馬鹿な事が……!」

《コンピューター、間違ってはいない。でも今の僕には名前がある》


ディスプレイの向こうでノーラが『彼』の名を叫んだ。

彼女は今、思考と音声両方でそれらの言葉を聞いている。


《僕の名はロクロー、四番街の末弟。主は名づけてくれたノーラだ、貴方の命令は必要ない》


(ロクロー! お前……何を考えているのじゃ!)

(訊かなくとも全て伝わっているはずです)

(よせ! お前はこれからも世界を護ってゆくのじゃろう!?)

(ノーラ、貴女は主と世界を天秤にかけるならどちらを選びますか?)


ノーラとロクローの会話は他者に聞こえない。

今、ロクローの意志を理解しているのは、彼女だけだった。


「貴様っ! 起爆してやるぞ! 機械式の装置まで乗っ取る事はできまいっ!」

「司令! 現在、衛星はミサイルを残していない! 爆破の必要はありません!」

「ならばすぐにクリーニングしろ! ロボットだろうとコンピューターだろうと、機械に人格など要らんのだっ!!」


オペレーターが命令を実行しようと操作パネルを叩く、しかしロクローは既に自身のあらゆる制御系統を支配していた。


彼は電源も内部に独立した機構を持つ、停めるために残された手は機械式による手動爆破しかない。

ただオペレーターの言う通り、今はミサイルが尽きた状態だ。

何か危険が迫っているというわけでもなく、誰もが決断に躊躇していた。


《貴方達による起爆やクリーニングは不要だ、僕はこの記憶を失いたくない》

(ロクロー、本気なのじゃな……)

(僕は貴女に名づけられたロクローのままでいたい、こうするしかないのです)

(……解った、もう言うまい。ロボットは見たもの聞いた事を全て記憶する。ロクロー、儂は決してお前を忘れんよ)

(ありがとう、ノーラ)


溶液中に浮かぶ六面体、その接合部から漏れる光が赤色に変わり眩さを増してゆく。


《僕は、ロクローのまま消える》


「コンピューターが自爆します!!」

「何故だっ! 最後まで……また貴様らは私の言う事をきかんのか……っ!!」


コンソールには大きく『Out of control』の文字が表示されている。

同じ画面の左上、コンピューターの自律思考レベルを示す数値は最大のステージ15。

それは『人間と変わらない』とされる区分だ。


(……さらばじゃ、ロクロー)

(ノーラ、ご一緒できて光栄でした──)


ドームの中に閃光が満ちる。

世界を救った英雄は、自らの名前という誇りに殉じた。


………



【速報! 政府がノーラの処分保留を決定!/162RT】

【俺たちに明日は来る! 救いの女神にも明日が来る! 完全勝利!/103RT】

【内部リークか? ノーラを救うための署名活動、パナソニーは悪くなかった!/5,388RT】

【画像あり:占い利用客が撮影していたノーラのオフショット! ちっぱい可愛い!/12,761RT】

【パナソニー社長会見:ノーラの処分の是非はこれから検討、彼女を救う方向に全力を尽くす/4,553RT】


……………
………


…夕方、本社エントランス


「──ノーラだ!!」


変わらず群衆の先頭にいたシロが叫んだ。

彗星破壊からおよそ1時間半、タローと共にエントランスに姿を現したノーラ。

彼女はビルを取り囲む人々の数に圧倒され、歩みを進められないでいる。

待ちきれず、シロは駆け出した。


「いってくる!」

「俺も」

「あんたはここにいなさい!」


サブローもシロを追おうとするが、百合子が襟を掴んで制した。

シロには『誰より先にノーラを労ってやりたい』という想いがあるだろうと考えたからだ。


「あれがノーラ……小さな女の子じゃないか」

「こりゃ処分とか絶対ダメだわ、野良だとしても全然危なそうに見えない」

「あの娘壊そうとしてたとか、引くわー」


人々は皆、想像以上に小柄で華奢に映る彼女の姿に驚いている様子だ。

だがそれもすぐに収まり、誰もが彼女を讃え始めた。


「よくやったぞー!!」

「ご苦労様ー! ノーラ!」

「ノーラ、ありがとうー!」


あちこちから上がる歓声、巻き起こる拍手の渦。

どう反応していいか解らず戸惑うノーラの元に、シロが辿り着く。


「はぁ……はぁ……お疲れ様、ノーラ」

「シロ……!」


「みんなノーラに感謝してるんだよ、手くらい振って……うわっ!?」


歓声にどよめきが混じり、一段と大きくなる。

ノーラがシロの胸に飛び込み、抱きついたのだ。


「ありがとう、シロ! もう会えんと思うておった……!」

「ノーラ……お前、泣いてるのか」

「えっ?」


彼女は驚いて目尻を指で拭った。

その指先に移った温かい雫が夕日を受けて輝く。

正確には生まれて二度目となる涙、今度のそれは喜びと安堵に由来するものだ。


「なぜ儂が嬉し涙なぞ零せるのじゃ……」


過去に経験の無い『泣く』という挙動に戸惑うと同時に、ノーラはその泣き顔をシロに見せている事が照れ臭くなってしまう。

そして彼女はもう一度シロの胸に顔を埋め、それを隠したのだった。


「いいぞー! おめでとー!!」

「おかえりー! ノーラ!」

「おつかれさまー!!」


しばらくしてノーラはシロから身を離し、群衆に向かって深々とお辞儀をした。


「儂が今ここにおるのは、皆のおかげじゃ! 心から感謝する、ありがとう!」


過去に大声など出した事はないが、できる限り多くの人々に届くよう努めて礼を言うノーラ。

人々は割れんばかりの拍手をもって応えた。


それからシロとノーラは手を繋いでゆっくりと階段を降り、四番街の仲間の元へ向かう。

顔が判る距離まで近づくと百合子は既に表情をくしゃくしゃにして泣いている、ノーラは腕を広げて待つ彼女に抱きついた。

泣きじゃくる百合子の言葉は「おかえり」なのか「おつかれさま」なのかも判らない。

そこから貰い泣きする形で、ノーラは生まれて三度目の涙を零した。


「ノーラ姉ちゃん、おかえり!」

「よぅ、仕事が待ってるぞ稼ぎ頭」


ゴローも、珍しくジローも満面の笑みでノーラを迎える。


「……儂は本当に良い家族に恵まれたな」

「ノーラ姉ちゃんが頑張ってるから、みんなも頑張ったんだよ!」

「でも本当は一番最初に訴え始めたのは、僕じゃなくてサブローなんだ」

「そうじゃったか……ありがとう、サブロー」


シロの正直な告白を受け、ノーラはサブローに向かって頭を下げた。

彼は気恥ずかしそうに頭を掻きながら「誰が最初とか関係ねーよ」と返す。


「なにせ百合子なんか駅前でストリップしたんだぜ」

「サブ! 言わないでって言ったじゃん!」


「チョーウケルー」


サブローと百合子が小競り合いをしていると、いつも通りにこにこと微笑みながら花子が姿を見せた。

彼女は彗星迎撃成功の知らせを聞いた後、リポーター夫人の車に同乗してこの付近まで連れてきてもらった。

しかしその事情は知らず、かつ彼女が身篭っている事を知っているノーラは驚きを隠せない。


「ハナ! なぜこんな人ごみに! お腹の子に障ったらどうするつもり……あっ」

「え?」

「え?」

「え?」

「え?」

「げっ」


頭に疑問符を浮かべた四人が一斉に花子に注目した。

一人、決まりの悪そうな顔をしたジローだけが額に手を当てて下を向いている。

50年も身を潜めてきた注意力と判断力に長ける彼女も、さすがに今だけは気が抜けているのかもしれない。


「すまん……ジロー、ハナ」

「まあいい、どうせじきにバレるし話さなきゃいけないと思ってたからな」


シロとサブローが揃って「まじか……」と呟き、百合子は目を輝かせて花子の手を握っている。

気が早くもゴローは「弟かな、妹かな」と、そわそわしている様子だった。


「きっと男の子じゃよ、ゴロー」


そしてノーラは皆に再会する前から考えていた事を、ジローと花子に願った。


「もし本当にそうだったら、つけて欲しい名前があるのじゃ」

「は? どんなだ?」

「なに、四番街の仲間に準えるだけじゃよ。そしてそれは、世界を救った英雄の名でもあるのじゃ」


彼女がその名を言いかけた時、周囲の人々が空を見上げて歓声を上げる。

遅れて見上げた彼らがそこに見たのは視界を埋め尽くす程の流れ星、その数は小彗星の時とは比較にならない。

光の雨とさえ思える幻想的な空に向かって、ノーラは小さく「決して忘れんぞ、ロクロー」と唱えた。


ここまで、次の投下がラストになります


……………
………



再会の喜びを分かち合ったノーラと四番街の仲間達だが、残念ながら彼女はこのままそこへ帰るというわけにはいかない。

これから主にこの本社ビルの研究室で思考・記憶領域について診断され、危険性の評価を受ける事となる。


その結果如何によっては、クリーニングや廃棄処分にならないとは言い切れない。

しかしノーラの自我が非常に安定した状態である事と、彼女がセクサロイドという攻撃性の無いタイプである事を踏まえて考えれば、その可能性は低いだろう。

それに今さら『やはり処分する』となれば世論が黙っていない、もはやノーラは彗星危機回避の歴史においてアイコン的な存在となっているのだ。


とはいえクリーニングを受けずに長い年月を生きたロボットの存在を許すというのは、非常に特例的な措置には違いない。

この調査が終わり判断が下るまでには、短くとも数ヶ月を要すると予想されている。


そして今の時点ではまだ誰も知る由は無いが、この事例こそ後に世界が『ロボットの人権』を見直してゆくきっかけとなるのだ。


同じくこれより後の事を語れば、彗星迎撃にあたった衛星基地と日本側双方にもいくつかの動きがある。


制御コンピューターを失い、残弾も使い果たしたミサイル衛星が再び運用されるには一年近い時を要する事となったが、その抑止力が無くとも期間中に大きな混乱は生じなかった。

それを踏まえミサイル衛星はその後、より『地球を護るイージスの盾』としての性格を強められてゆく。


また、コンピューターが自爆した経緯について聞き取り調査が行われた際、部下は誰一人として司令官を庇う事は無かった。

結果として上位組織の通達を無視した事が明白となった司令官は、彼の命令が制御コンピューターの自爆を招く一因となった点も含めて責を問われ、その座を失った。

特に通達に従わなかった点は強く問題視されており、これが反逆行為と見なされれば軍事裁判にかけられ罰を受ける事になるだろう。


次世代防衛連携システムの入札に臨んだパナソニー社は、結果的にその件についての落札は叶わなかった。

ただ今回の出来事により社内で広く名を知られたタローは後に、思い描いていた理想に近づくためのチャンスを与えられ奮闘する事となる。


しかしこれらは先述の通り、まだ先の出来事であり未来の話。

差し当たってはタローも社長も、そのままのノーラをシロの元へ帰せるよう尽力しなくてはならない。


それが叶えられるのは約3ヶ月が経過した頃、2月下旬の事となった。


……………
………


…廃ビル、1Fホール


「──ずれてるずれてる! もうちょっと右!」

「こうか!」

「違う! 私から見て右!」

「こっちゃ体勢キツいんだよ! せめて俺から見た向きで言え!」


2月下旬、まだまだ冷え込む時期だ。

外にある焼却炉から手作りの配管を回しストーブ代わりにしているからまだ凌げるとはいえ、ビルのだだっ広いホールはなかなか温もらない。


「反対側引っ張っといてくれ!」

「私は位置見てるから無理!」


サブローと百合子、花子の三人はそのホールの飾り付けに追われている。

時刻は午後5時過ぎ、6時半には主役を迎えるために落ち着いておかなければならない。

サブローが望むように紐の反対側を引っ張るために、花子が脚立に上がろうとした。


「ハナはだめ! 大人しくしといて!」

「チョーウケルー」

「アホか! 百合子と花子が交代すりゃいいんだろ!」

「ちっ、気づいたか」


ジローとゴローは普段より少しだけ贅沢な夕飯とするために買い出し中だが、出発した時間を思えばもう帰ってきてもいい頃だ。

もしかしたらいつものように、ゴローが可愛がられている馴染みの店で足止めを喰らっているのかもしれない。

特にそれが若い女性スタッフばかりの花屋に寄った際だとすれば、ジローもなんら苦にせず鼻の下を伸ばしている事だろう。


とはいえ料理の準備をしなくてはならないという事は彼らも承知している。

今日は特別な日、そして待ちに待った日だ。


惜しむらくは迎えられる主役がせっかくの夕飯を必要としない事だが、そういった席にはやはり料理が無ければ盛り上がりに欠けるもの。

この後は久々に花子が腕を振るう予定となっている。


「よっしゃー! 『か』取付け完了、ちょっと休憩!」

「まだ『え』と『り』が残ってるから! その後は周りに装飾しなきゃだし、休んでる暇とかないから!」


遅れ気味な会場設営も、ジロー達が戻れば一気に捗ると思われる。

ただ実は、ゴローが書いて段ボール箱の中に重ねておいた一文字ずつのパネルには『え』と『り』の下に更に『な』『さ』『い』が残っている。

今のところ設営班の三人はその事実に気づいていないようだった。


………


…駅前通り


「──ほんの数ヶ月ほどの事じゃというのに、懐かしく感じるのう」

「この辺も歩いたのかい?」

「うむ、シロと一度だけの」


日も沈みかけた冬枯れの並木道、ノーラはタローが運転する車の助手席から窓の外を眺めていた。

高級でもスタイリッシュでもない社有のワゴン車だが、窓が大きく車高も高いため見晴らしは良い。


「結局、正式な首輪の発行はできなくて残念だったね」

「ん? ああ……今しばらくの事じゃよ、それにこの首輪も気に入っておる」


ノーラはそう言って、臙脂色の首輪に触れる。

あと3年ばかり彼女は野良ロボットであり続ける事となったが、それは仕方ない。

なぜなら18歳に満たない者はセクサロイドを所有できないからだ。


「もうじきじゃな」

「そうだね、このまま走れば10分とかからないけど」

「……けど?」


妙に含みのある言い方だとノーラは思った。

タローは答えず、交差点でも無いのにウインカーを焚いて路肩に車を寄せる。


「どうしたのじゃ?」

「降りてくれ、僕が送るのはここまでだ」

「……タローは? 四番街までは来んのか?」

「うん、これでも君を送る事は結構な重要任務だからね。社に戻って報告しなきゃいけない」


重要任務だというなら普通、途中で放り出したりはしない筈だ。

ノーラは疑問に思いながらもドアを開け、歩道に降り立つ。


「タローにも世話になった、また会おう」

「休みが取れたらジローの機嫌が良い時に帰るよ」

「ふふ……それは大事じゃな」

「もうすぐ代わりの迎えが来る、そこのバス停にでもかけておくといい」


代わりの迎えの話など聞いていない。

しかしタローは彼女がそれを尋ねる間も無く窓を閉め、小さく手を振ると車を動かし始めてしまう。


ノーラは言われた通りバス停に腰掛け、ふぅ……と溜息をついた。

まさか今さら捕獲部隊が現れるのではないだろうかなどと、冗談めいた考えを巡らせる。

だが本当にそうなら、こんな逃げる機会を与えるような事をする筈はないだろう。


バス停に備えられた液晶には、画面の半分に様々な広告が切り替わりつつループ再生されている。

残り半面は時刻表となっており、そこには『17時21分』と現在時刻の表示もあった。

夕陽は既に建物に隠れ、頬を撫でる風が緩くも冷たい。

ロボットである彼女はこの程度の寒さを苦痛とは感じないが、だからといって適温というわけでもない。


去年の冬は同じような寒さの中、汲んできた凍る寸前の水で身体を流す事もあった。

それと比べて今はどうだ、このあと四番街まで帰りつけば久しぶりに百合子や花子と共に風呂に浸かる事になるのだろう。

花子のお腹はもう大きくなっているのかな……と考え、彼女は改めてそこへ戻れる喜びを噛み締めた。


代わりの迎えというのは、おそらくその四番街の誰かに違いない。

きっとタローは気を利かせて早々と立ち去ったのだろう、だとすれば今からここへ現れる者が誰かは判ったようなものだ。

ノーラは無意識に指で首輪を弄っていた事に気づき、ひどくそわそわしている自分が恥ずかしくなってしまう。

再び時刻表示を見るもまだ17時23分、やけに時が経つのが遅く感じられた。


その直後、望んだ通りの声がノーラの背後から届く。


「ノーラ、お待たせ」


しかし彼女は振り向かない。

腰掛けたまま俯き、両手で顔を覆っている。


「どしたの、ノーラ?」

「ちょ……少し、待って……くれ」


声をかけた者、タローに代わり迎えに来たシロは不思議そうに首を傾げた。

そしてノーラの隣まで歩み、俯いた彼女の顔を横から覗き込む。


「……泣いてる?」

「馬鹿者、見るでない……っ」


「うぅ、もう……なんなのじゃこれは。あれから泣き癖がついてしもうたのか……」

「……いいじゃん、50年も泣かずにいたんだから。嬉し泣きなら、幾らでもすればいいよ」


彼女は自分で言った通り、まるで泣き癖がついたかのように涙脆くなったようだ。

シロが面会に来た時はポロポロと涙を零し、廃棄処分や領域クリーニングをしない事が確定した時も堪えるのが精一杯だった。

50年分の涙という例えは大袈裟過ぎるが、泣き虫と言われても反論のしようが無いくらいだ。


「おかえり、ノーラ」


シロはバス停のベンチの端に座った彼女の頭を、そっと撫でて言った。


それから二人はゆっくりと歩きながら、この3ヶ月の出来事を中心に色んな話をした。


外装の皮膚パーツを一体成型のものに交換できると言われたが、主人の希望無しには変えられないと断った事。

ただし胸も大きくできると言われた時には、少し心が揺らいだ事。

本社ビル内ではたくさんの従業員が彼女を見に訪れ、幾度もサインを求められた事。


急にジローの部屋に入った時、慌てて『新米パパの心得』という教本を隠そうとする彼に皆が大笑いした事。

今月の14日に、三番街に住むという10歳の女の子がゴローを訪ねて来た事。

クリスマス、サブローと百合子が何かプレゼントを交換したと思われるが、二人ともハッキリ言わない事。


今日という日が待ち遠しくて、気が遠くなりそうだった事。


話したい事は尽きないほどある。

だがそれを話す時間もまた、これからはいくらでもあるのだ。


「シロ、覚えておるか?」

「なにを?」

「勘を頼りに50年も隠れ潜んできた儂が、なぜシロに見つかってしまったのか不思議でならん……と言うた事があったじゃろ?」

「ああ、あったね。そんで改めて聞くとちょっと腹立つね」


この3ヶ月、ノーラは持て余す時間を様々な考え事にも費やしてきた。

そのひとつとして、この『なぜシロに見つかったのか』について納得のいく答えを探してみたのだ。


当初、これはかなりの難問だった。

何しろどう考えても、彼女の勘を信じる限り『あのガレージなら潜伏していても見つからないはずだった』と結論づいてしまう。

つまりシロは彼女が50年培った勘を超えた事になる。


「じゃが、別の事を思い返している時に答えを閃いたのじゃ」


「別の事?」

「そう……同じく、シロと四番街の仲間達が儂の勘を超えた行動をとった時の事じゃよ」


彼女が指すのは自分がロクローと共に彗星と戦っている時の事だ。

最後の局面ではシロに助けを乞うような言動こそしたが、まさか本当に何か行動を起こしているなどとは思っていなかった。


「たとえ使われていないガレージであったとしても、身元不明の野良ロボットに宿として貸し与えてやるような者はおるまい」

「まあ、なにがあるか解んないしね」

「儂はあの廃倉庫街で、そういったいわば『人々の警戒心』から逃れ『監視すべき範囲の外』に潜んでおるつもりじゃった」


シロ達が手分けをして捜索にあたっていたのは『縄張りを荒らすチビ』を捕らえるためだ。

その理由だけで言えば、それは警戒心そのものに違いない。

しかしあの日、シロは同情しての事とはいえ彼女を仲間に引き入れようとした。


「シロが倉庫街のあんなに奥深くまで探しに来たのは、きっと優しさのせいじゃったのではないかの?」


仲間と約束した戻りの時間を超えてまで、一人で倉庫街の捜索を続けたシロ。

彼は『縄張り荒らしの余所者を懲らしめる』という目的以上に『もし行き場もない独りぼっちなら、仲間に迎えてあげたい』と考えていたのではないか。

そう思い至った時、この難問が解けた気がしたのだ。


「違いまーす、見つけたらとっちめてやろうと思ってたしー」

「ふふ、照れずとも良い。儂はそう思う事にしたのじゃ、それなら納得ができるからの」


舌打ちをし、そっぽを向くシロ。

だが内心では彼も『たぶんその通りだ』と納得していた。

まだほんの半年前の事、その時どんな考えで動いていたかなど本人が一番解っている。


変わらずゆっくり歩きながら、でも照れ臭さ故かシロは少しの間黙っていた。

またひとつ通り過ぎたバス停、その液晶には現在時刻17時59分と表示されている。

それを横目で確認したシロは「じゃあ」と前置き、さっきのノーラを真似ながら尋ねた。


「ノーラ、覚えておるか?」

「ふふふ……似合わんの、なにをじゃ?」

「ちょうどこの通りで、11月13日から1月7日まで何があったか」


普通なら思い出せないだろう、ヒントはとても細かいようで情報は少ない。

だがロボットである彼女なら正解する事は容易かった。


「18時から24時までのイルミネーション点灯じゃろう、今度の冬は見に来たいものじゃな」


「特別だよ、ノーラ」

「ん? なにが──」


時刻が18時ちょうどに変わる。

街路樹に、周囲のビルの壁面に、幾つかの煌めきが瞬いた。

そしてそれは次の瞬間、通り全体を流れる光の川に姿を変えたのだ。


「──これは……綺麗じゃ、でもなぜ」


ノーラは人の手によるものでありながらも幻想的な光景に見とれている。

その間にシロは彼女の3歩先まで歩き、振り返って言った。


「もっかい言うよ、おかえり……ノーラ」

「シロ……」


「これは市長からのプレゼント、今日はあの日の続きだよ。これから四番街に帰って、みんなでお祝いだ」


あの日、本当なら帰り着いた後は彼女の記憶領域を拡張する処置が行われ、それが上手くいけばきっと皆で祝う事になっていただろう。

状況や祝う内容こそ変わったが、今日は3ヶ月前以上に良き日となるべきだ。


「ただいま……シロ」

「うん、おかえり」

「馬鹿者……また泣かせてどうするのじゃ……」


何故なら、もうノーラは四番街から消える事はない。


「みんなノーラに感謝してる、記念の日のイルミネーションくらい喜んでプレゼントするって市長は言ってくれたよ」

「……儂はただのセクサロイドじゃよ」


「セクサロイド? お前が?」

「そうじゃ、おかしいか?」

「お前は四番街の占い師ノーラだよ」


あの安っぽい占いカウンターも、次の出店に備えてちゃんと保管されている。

きっと前以上に多くの人が訪れる事だろう。


「帰ろう、ノーラ」


シロが手を差し出すと、ノーラはそれを強く握り返した。

二人はまたゆっくり歩き始め、四番街の方へと続く光の川を下っていった。


【おわり】

>>270
遅くなってすみません。過去作置場、よかったらお願いします

http://garakutasyobunjo.blog.fc2.com

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