漣「トラック泊地は壊滅しました」 (106)


 呉を離れること。
 トラックに向かうこと。

 廊下に張り出された辞令にはなにやら細かく書いてあったが、つまるところ、要約すればそういうことらしかった。

 表向きの名目は「今冬に敵の襲撃が予想されるため」。本心は単なる厄介払いだろう。それとも、どちらに転んでも損はないと思っているのか。
 大体あそこの鎮守府は、夏に受けた深海棲艦の本土襲撃の余波で、既に壊滅状態にあると聞いたのだが。

 ……左遷どころか島流し。のたれ[ピーーー]ってことか。

「やってらんねぇな」

 苛立ち紛れに煙草を取り出すけれど、ライターをなんど擦っても火は起きない。ガスはまだ残っているのに。
 まるで紛れないどころか火に油すら注ぐ結果。地面へ叩きつけ、踏みつける。

「くそ。百円ライターなんて買うんじゃなかった」

「あー、捨てたらいけないんですよ?」

 ぽい捨てを見咎められる。振り返った先には小娘が立っていた。
 大きな瞳と桃色の髪の毛で、何が愉快なのか笑いながら、俺を品定めしている。
 一昔前ならこんな子供は即座に海軍の敷地内からつまみ出される。忍び込むんじゃない、とゲンコツつきで。だけど、今はもう、色々なものががらっと変わってしまった。

 既にパラダイムシフトは起こっている。

「……俺を逃がすつもりはないってことか」

 ため息すら出てくる。逃げるつもりなんてないが、それほどまでに上から嫌われていると思えば、悲しくもなろうというものだ。
 桃色の小娘はそんな俺を見て、やはり愉快そうにくつくつ笑った。

「心中お察ししますけれどね」

「そう思うなら見逃してくれないか」

「まぁまぁそういわずに。短い間柄でしょうけど、これからよろしくお願いします。ご主人様!」

 桃色の小娘は――特型駆逐艦『漣』の名を持つ少女は、小さな体を目一杯に使ってお辞儀したのだった。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1475381169


* * *

「……船代すらでねぇのか」

「経費で落ちるとは思いますけどね。あとで申請したらどうですか、ご主人様」

「通るもんかよ」

「ま、お好きにどうぞ」

「朝に港を出て、グアムに寄港、のちトラック諸島。移動時間は概算で15時間……こんなんじゃ体が鈍っちまう。
 なぁ、お前は艦娘なんだろ。もっとこう、ぱぱっといけないのか。俺をおぶって」

「航続距離って言葉、知ってます?」

「知ってるよ。でも、お前はハイテクの塊だ。違うか」

「オカルトの塊ですよ、ご主人様」

 苦笑する小娘――漣。
 甲板に出ている俺たちの髪の毛を潮風が撫ぜていく。言葉はかき消されるくらいがちょうどいい。まだ俺たちの間柄は、その程度だと思ったから。
 だから、よく笑うこいつの笑みが、「どこ」「なに」由来のものかなんて、ちいともわかりゃあしないのだ。

「……」

「……」

 互いに無言。なんとなく、タイミングがずれてしまったような。

「……なぁ」

「なんです? ご主人様」

「そのご主人様ってのはなんなんだ。俺ァ確かにお前の上司ではあるが、召使を雇った覚えはねぇよ」

「男の人はみぃんなこういうのが好きではないので?」

「それは一部のオタクだけだ」

「ご主人様はオタクではないのですか?」

―――この血にまみれた卑しい戦争オタクが!

 あたまが、いたい。
 差込が走る。


「……ンなわけ、あるかい」

「……ふぅん」

 と漣はわかったようなわかっていないような、とても曖昧な返事をして、

「ま、でも、漣は好きですから。アニメとか、ゲームとか、漫画とか。だからこれでいいんです。これがいいんです。
 勿論やめろと仰れば、そりゃ上官命令ですから、呼称を変えるのは吝かではありませんが? シレイカンサマ?」

「あぁあぁもういい。別に大した意味はねぇよ。勝手にしろ」

「ありがとうございます、ご主人様っ!」

 そうして、お辞儀。

 育ちの悪いようには見えない。言葉遣いはともかくとして、変に常識外れのところもない。中流家庭の子女が容易く軍属になる現代は狂っているに違いないが、そもそも深海棲艦というエイリアンが存在する時点で、多少の狂いは誤差だろう。
 いや、それでもやはり、年頃の娘を未知の怪物との最前線に繰り出すことをよしとする風潮、世論、構造がそもそも狂っているのかもしれない。

 ハイテクとオカルトの相の子。到底理解のできない科学技術に、神道古来のまじないをよりどころにした存在。そんなものに頼らなければ、最早この国は国としての体を為し得ないのだ。
 ならばいっそと思えるほど俺は潔いつもりはなかった。そして、それは殆どの国民も同じ。
 誰しもが狂っている。生き延びるために躍起になっている。

 ……益体もないことだ。それはつまり、意味がない。意味がないことをする必要は、ない。


 死と隣り合わせのやくざな仕事だ。いつ死ぬかわからないのなら、どう生きたってかまいやしないだろう。
 海の底へと沈んでしまって、死体すら残らないのなら、猶更。

 煙草を吸おうとして胸ポケットを漁ったが、そこには普段あるはずのふくらみがなかった。と、そこでようやく、船内が禁煙であることを思い出す。搭乗時に漣に没収されてしまったのだ。

「だめですよ」

 かわいらしい笑顔でとんでもない残酷なことを言い放つ、俺の秘書艦。

「暇なら暇で、やれることは沢山あります。やるべきことも、まぁ、ないわけじゃあないです」

 そう言って取り出したのは分厚いリングファイル。表紙、背表紙ともにでっかく赤いインクでマル秘と打たれているのは、見なかったことにしておこう。

「トラック鎮守府の現状です。さすがに手探りで一から、だなんて眩暈がしますしね。拝借してきました」

「物は言いようだな」

「あれ。ご主人様、いらなかったです?」

「何言ってんだ、よくやった」

「えへへー」

 漣はまた笑った。屈託なく笑う娘だ、と思った。


「こほん。では、ご説明します。漣たちがこれから着任します泊地は、夏の深海棲艦による本土進攻の余波を受け、大量の犠牲者、及び建造物の破壊に見舞われました。在任していた提督はその際に致命傷を受け、亡くなっています。
 その後も何度か深海棲艦は襲来し、そのたびに艦娘は自ら指揮をとり、これを邀撃。成功と失敗を繰り返し、現在散発的な戦闘は展開されていますが、大規模なものは起こっていません」

「代わりの提督なりはこなかったのか。半年もこないなんておかしな話だぞ」

「えぇ、それなんですが……どうやら参謀本部はトラック諸島を見捨てる、もしくは既に壊滅状態にあり、深海棲艦の手の内にあると思っていたようなのです。しかしてその実態は、いまだ機能している前哨地。このちぐはぐが、今回の大本ですね」

 なるほど、俺もトラック諸島が壊滅状態にあると聞いていた人間の一人だ。
 となると、つまり。

「尻拭いか」

「えぇ尻拭いです」

 わかっていたことじゃあないですか、と漣が目で問うてくる。俺もいやいやながら頷いた。
 島流しという表現はまったく間違いではなかったのだ。

「……待てよ、漣」

「なんですか、ご主人様」

「提督は死んだ。本営は見捨てた。それでも泊地が機能している。艦娘の手で」

 戦いのにおいがした。


 一瞬のうちにわきあがってくる高揚を抑えたのは理性ではなく、俺の言葉に対する漣の返答だった。

「いいえ、違います」

「どういうことだ?」

「泊地は既に壊滅、機能していません」

「だが、さっき――」

「ご主人様、違います。違うんですよ。いいですか、心して聞いてくださいね。
 トラック諸島では、艦娘たちが、やりたい放題やっています」

 やりたい放題。
 やっている。

 その言葉の意味を理解するのはとても難しくて、俺は無意識のうちに、似合わないと自覚のある薄ら笑いを浮かべてしまっていた。

「大本営から外れて生きている、と言ったのですよ、ご主人様。
 艦娘としてではなく、一人の個人として、彼女らは今、トラックで生きています」

 日常と戦いが交じり合っていく中、指示を下すべき提督が死に、本営からも見捨てられ、本土と連絡はつかず……そんな状況の彼女たちは察するに余りある。
 死にたくないなら生きねばならない。もとよりそのために俺たちは戦っている。彼女たちも戦っている。そこにはなんの違いもありゃしない。
 そうなるのは、必然といえば必然だろう。

 そして、冬にはそこを深海棲艦が襲う。



「ご主人様、楽しそうな顔をしていますね」

「悪そうな顔の間違いじゃあなくてか」

「おんなじですよ?」

「うるせぇ、生まれつきだ」

 漣一人、いればいい。勿論そんなことを思ったことは一度もない。とはいえ、トラックにつけばついたでなんとかなるだろうと高をくくっていた部分も確かにあって。
 だが、果たしてどうだ。そもそも鎮守府がないんじゃ話にもならない。

「……まずは戦力集め、か」

「そうですね。生き残った艦娘たちを探して、コミュニケーションしましょう。そして、漣たちのお手伝いをしてもらうのです。
 ……はっ、これはもしや、ギャルゲー的展開かも!? キタコレ!」

「うるせぇ。とりあえず、トラックに連絡をとる手段を教えろ。窓口がなけりゃ話にならん」

「イエッサー、ですよご主人様!」


* * *

「……ほんまか? ちょーっち、信じられんなぁ」

「本当です。今朝、漁師の方が仰っておられました。日本から二人、やってくると」

「でも、それがまだ、海軍の人って決まったわけじゃないんでしょ」

「そうですが……順番的に言えば、次の『イベント』の対象はトラックである可能性も高いですし」

「夏からこっち、日本人なんて誰一人として来てへんしな。用心するに越したことはない、か」

「みんなにはどうやって伝える? ていうか、伝えたほうがいいのかな?」

「やっこさんの目的が何かにも当然よるけど、赤鬼は放っといてええやろ。病弱には一応伝えとき」

「伝えちゃうの?」

「あいつの助けになってくれるかもしれんしな」


「駆逐艦の子たちはどうしましょうか?」

「やめといたほうがええやろな。うるさくされても困る。むやみやたらに希望を持たせるのも、うちとしては好きくない」

「わかりました」

「戦艦勢と重巡勢は?」

「伝えるだけ伝えて、あとは勝手にさせ。もういい大人やろ」

「りょーかい」

「あ、あと、絶対に言っちゃあかんやつ、わかっとるな」

「もちろん」

「はい……」

「オッケー。ほな、一波乱の幕開けや。しゃかりきやるでぇ!」

「おー!」

「お、おー……!」


* * *

「……」

「ご主人様の目つきが悪いからですかね」

 冗談を言っている場合じゃない。いや、漣だってそれはわかっているだろうが。
 でなければ、互いに並んで大人しくホールドアップなどされていない。

 銛と猟銃を持った大人たち――殆ど全員が浅黒い肌をした中年男性。生命力に溢れるたくましさを見れば、第一次産業従事者なのはあきらか。
 手荒なお出迎えだ。殺意の有無くらいは俺にだってわかる。彼らが追剥でないのは確実で、ならばどうしてこんな目にあっているのかと考えれば、まず怪しまれているからに違いない。
 それとも、それ以上のことがあるか。

「――」
「――」
「――」

 男たちが何事かを喋っている。俺はチューク語など当然理解しない。

「……漣、わかるか?」

「えぇ。このまま漣たちを引っ張っていくかどうか話してます」

「本当か?」

 適当を喋っただけなのだが。

「艦娘をハイテクの塊と称したのはご主人様でしょう? 自動翻訳くらい艤装についてますよ」

「すげぇな」


「どうやら頼まれたらしいですね」

「頼まれたって、誰に」

 大方見当はついているけれど。

「そりゃまぁ……」

 漣は言葉を濁した。

 トラック泊地に残された艦娘たち。彼女らをおいて他にはおるまい。
 心のうちを推し量ることも、慮ることもできるとはいえ、自己満足も甚だしい。本土の人間が今更のこのことなにしにきたのだ。この手荒な歓迎はそういうこと。顔を合わせたくもないという意思表示。

 だからすごすごと引き下がっては仕事にならないのが難しいところだ。いや、俺自身は今すぐ小躍りして回れ右をしてもいいのだが、待ち受けているのは除隊だけだろう。それに漣にも悪い。
 俺とともに辺鄙なところへ飛ばされるくらいなのだから、漣、彼女もまた何かしでかしているに違いない。名誉回復のチャンスを俺の一存でふいにはできなかった。

「あー、あー、もうええよ、下がって。みんなありがとなー」

 拡声器で声を飛ばしながら、少し離れた地点より、ぽっくりをかぽんかぽん鳴らしながら近づいてくる人影があった。その人物の声に従って、俺たちを取り囲んでいた男衆はすんなりと引き下がる。

「んで、本土の人ら。手荒なまねして済まんかったね。ま、こっちにも色々理由があるからさ」

 朱色がまず目立った。そして茶色のツインテールも。
 背は割と高い。しかし、それはあくまでぽっくり――に似た艤装なのであるが――を穿いているからであって、その体躯は華奢。声だってかなり黄色い。

「軽空母、龍驤や。よろしゅうな」

 少女はそう言って笑った。


「……俺たちをどうするつもりだ」

「どうするって、なんや、とって喰われるとでも思ってるんか? そりゃちょっち、や、だいぶ誤解がひどいなぁ」

「いまさら何しにきたと聞かないのか。半年放置して、と怒らないのか」

「ん? きみらはサンドバッグになりにきたんか?」

 飄々と龍驤。その瞳は笑っているようで、笑っていない。
 暗い感情の炎が燻っている。

「……ご主人様」

 わかってる。いたずらに煽るようなことを言うつもりはない。

「いや、違う。俺たちは共闘しにきたんだ」

「共闘!」

 龍驤はさもおかしそうに――その実心底俺たちをばかにしたような口ぶりで、

「ほーう、共闘、共闘、共闘か。共闘ねぇ。共闘。くくっ」

 笑いをかみ殺したのは、言外に滲んでいる俺の言葉の意味を理解したからに違いない。

「なるほど、なるほどな。きみはあれや、うちらの境遇を慮ってくれるわけやな。ゴマすりに見える可能性をとっても、下手に出てきたわけか、ほほう」

 もし俺たちが、たとえばどっぷり大本営に与する人間だとして、そして完全に自らの目的のためにトラックへ来たならば、今のような単語の選び方はすまい。
 共闘。俺たちは目的こそ同じだけれど、全く別の存在であると、立ち位置であると、組織であると、そう表現している。彼女らを従わせにきたわけではないのだと。使い捨てにきてはいないのだと。


「けどあかんな」

 ずい、と龍驤は俺のそばまでやってきて、見上げるように睨み付けてくる。

「うちらはあんたらと共闘なんてせぇへん。
 あんたらがうちらの腰ぎんちゃくになる。それだけや。こっちが譲歩するようなことは一切あらへん」

「……龍驤さんたちは、やっぱり今も深海棲艦と戦い続けているのですか?」

 問うたのは漣だ。受けた龍驤は吐き捨てるように息を出す。嘲ったのはこちらか、自らか。

「大好きだった上司殺されて、仲間殺されて、そうしない理由があるか? ん?
 それとも誤解してるんか。最早ウチらはただの私怨で動いとるっちゅうことが理解できんのか?」

 漣は船の上で言った。トラック泊地の艦娘たちは、やりたい放題やっていると。
 生きたいように生きていると。

 感情と行動原理が直結していると。

 だから、

「実際のとこ、あんたらも敵やで」

 そう。俺たちも怨敵。

 見捨てられなければ助かった命もあっただろう。苦しまずにすんだことも多かったろう。国のために命を懸けて戦い続け、その挙句の仕打ちがこれでは、骨の髄まで恨みに漬かっても不思議ではない。


「それでもあんたらは殺さん。殺すわけにはいかん。ウチらは国を信じんよ。ただ、あんたらが利用できるうちは利用することに決めたんや。
 でなきゃ、みぃんな死んでまう。ウチも生き伸びれるかどうかわからん。トラック空襲。そうやろ。だからあんたらがやって来た。違うか?」

 違わない。龍驤の推察は的中していて、けれど、当然そんなことを彼女らが知るはずはないのだ。 
 海軍の中では上層部しか知ることのない「イベント」という概念。嘗ての大戦と酷似した軍勢、作戦海域。それらをさして、深海棲艦は化け物ではなく幽霊なのだと嘯くやからだって少なからずいる。
 情報が漏れている? だとすればどこからだ?

「……」

「そんな険しい顔せんでもええよ。おぉ怖、まるで獣やね」

「……」

「別にスパイがおるわけやない。大したことじゃないよ。ただ、ちょっち史実に詳しいやつがおってな。経験と理論構築、からの予測ってやつやね」

「……」

「ついでに言ってやろうか。大本営は恐れとるんとちゃうか。夏で辛勝、秋で快勝……本来負けていたはずの歴史を、いまひっくり返しつつある。だからこそ。だからこそ、や。それをおじゃんにするわけにはいかんってな。
 折角史実を翻し続けて、やっとこ歴史のレールから逸れてきたのに、ここでまたもとのレールに乗っかるわけにはいかん。そうなったらおしまいや。待っているのは敗北だけ……昔のように」



「ど」

 れだけ知っている、とは聞けなかった。
 たとえ龍驤の言葉が正しかろうとも、俺がそれを認めてしまうわけにはいかないのだから。

 漣を見た。信じられない、といった顔をしていたが、俺の無言はどうやら決定的だったようだ。
 遅かれ早かれ機密は知る身。とはいえ、覚悟もなしには少しばかり堪えただろうか……そう思っていると、俯いた漣から「くふ」と声が漏れてくる。

「なぁるほど」

 喜色満面。俺はそれが信じられない。

「なら、行きましょう。やりましょう。やれ急げさぁ急げ、って具合ですよ、ご主人様。なにぼーっとしちゃっているんですか。そんな顔は似合いませんったら」

 これには龍驤もあっけにとられ、先ほどまでの剣幕はどこへやら、ぽかんと口を半開きにしている。

「……おい、お嬢ちゃん、ウチの話聞いてた? 本土強襲は記憶に新しいはずや。秋口はパラオも襲われたのはしっとるやろ。あれの再来やで」

「秋口は漣、神祇省で適合資格検査中でしたけど、へぇ、本土強襲……なら、なおさらですね。やらないわけにはいきませんよ」


「はっ。愛国心に篤いこって」

「そんなんじゃありませんけど」

「ま、ええわ。殺すつもりはない。が、勝手に動き回られても困る。身柄はこっち預かりや。三食喰わせたるし寝床も確保したるけど、ウチらの言いつけ、ちゃあんと守ってくれんと厄介になるのはそっちやで」

 脅しのようだが脅しではない。言葉の重みが違った。
 それがお互いのためだ、と龍驤は言外に語っている。

「……どういうことだ」

「それを知る必要はない。教えるつもりも、ない」

 まぁだろうな、というところだった。だが、龍驤が無駄なことを言うとも思えない。である以上は従っておくべきだろう。
 そう、こんな龍驤ですらハト派の可能性だってあるのだから、俺たちが本土から来た海軍将校であることは、なるべく秘匿するに越したことはない。

「戦力もか。人員配置、資源の量、その他邀撃に必要な情報は山ほどある。それを把握せずに備えろと?」

「……ま、そうやね。人員配置については鳳翔さんに聞きぃや。資源、装備に関しては夕張が管理しとる」

「泊地にはその二人もいるのか?」

「その二人『が』おる、っちゅーたほうが正しいかもしれんね。生き残りは少ない。泊地に寄り付かんのもおる。形式的にでもあいつがいたころの形を維持しようとしとるのは、正味、うちを含めて三人だけや」


「あいつ、ですか」

 漣が呟いた。あいつ。先の話にでてきた、戦死した提督だろうか。
 事前資料を見る限りでは、トラック泊地ができた当初から在任している提督らしい。明朗闊達、質実剛健、文武両道を地で行く益荒男だったと記載されていた。
 当然信頼も厚かっただろう。彼の存在が自らのうちに根を下ろしすぎていて、引っこ抜かれた際にきっとどこかが壊れてしまった艦娘も、少なからずいるに違いない。

 龍驤がそうではないとは思えなかったけれど、だからこそ強く振る舞い、だからこそ提督がいたころの鎮守府を維持しようというのは理解できる。

 顎で示して龍驤は振り返った。ついてこい、というのだろう。

 彼女の左手薬指に指輪が嵌っているのが見えた。

――――――――――

漣は可愛い。
長くなりそうですが、よろしくお願いいたします。


* * *

「ふぅ、つっかれましたねー!」

 使い古された感のあるシングルベッドへ漣は飛び込んだ。スカートがめくれていちご柄の下着が丸見えになる。

「見えてるぞ」

「え、あっ!? ばか!」

「安心しろ、ガキのパンツにゃ興味はない」

「ガキじゃないですー! こう見えても14ですー!」

 ガキじゃねぇか。俺と一回り以上もはなれている。
 にしても、14。中学二年……適性検査を経て合格したのだから、それなりに有能なのはわかるけれど、それでも本土が恋しくはならないものだろうか。

「学校に友達とかはいなかったのか?」

「へ? 急になんですか。話をそらそうとしたって騙されませんよ」

「違ェよ。本人の意思を尊重すると謳ってはいるが、曲がりなりにも徴兵だからな。反対は結構いろんなところで起きてるんだぞ」

「ウチの周りには防衛省関係の施設も、ましてや神祇省関係の施設もありませんでしたからねぇ。ご主人様の周辺は知りませんけど、だいぶ静かなもんでしたよ」

「まぁ、今更ホームシックになられても困るんだが」

「なりませんてば」

 心外だ、というふうに口を尖らせる漣だった。


 現在俺たちがいるのは平屋の一室である。土壁は一見重々しそうに見えるも、案外涼しいものだった。
 本来ならば泊地の司令官室にでもいて指揮をとるべきなのだろうが、そのような状況にないことは明白。敵意の視線の中にわざわざ突っ込んでいくほど無謀ではない。必然的に隠居のようなかたちになる。

 資源と人物管理担当の二人、夕張と鳳翔は追ってやってくると龍驤は言っていたが、具体的な時間はついぞ教えてくれなかった。俺たちの処遇について、今後どうするのかを決めあぐねている可能性は十分にある。
 ならばこちらも対応策を練るべきなのだろうが、難しい。なにせこちらは向こうの情報を全くもって知らないのだ。

 漣が持ち出したマル秘資料は結局襲撃を受ける前のものにすぎない。夏に提督が死に、泊地が壊滅して以後のことは、どうやっても彼女たちの口から聞くしかないのである。
 そしてそのハードルが何よりも高い。

「……どうなると思う?」

「まず漣たちの目的をはっきりさせることからですね」

 漠然とした質問にも漣はきちんと答えてくれた。

「そもそもご主人様がここでどうしたいのかを漣は知りません。辞令は冬に予想されている『イベント』の対応、及び敵艦隊の邀撃でしょうけど、丸呑みして言うこと聞くんですか?」

 まさか聞かないでしょう、と言葉の裏で漣は笑っている。


 なるほど、その予測は論理的だ。上層部からの言うことにほいほい従うイエスマンが、果たしてこんな僻地に飛ばされるだろうか。
 だがしかし、論理的過ぎるのも時には困りものであるようだ。

「言われたことはやるさ」

「やるんですか?」

「まぁ、一応な。自分の命を守るためってのもあるし、なにより、知り合ってしまったんだ。見殺しにするのも悪い」

 どうやら漣は俺をあまりにも冷血漢だとみなしすぎているきらいがあるのではなかろうか。

 人は死なないに越したことはない。誰だってそうだろう。
 もし仮に死ぬとしても、納得ずくで死にたいだろうから。

 果たして彼女もそうだったのだろうか?
 俺は彼女に対して――

「――はっ」

 やめだやめだ、ばかばかしい。
 自ら頸木に頭を突っ込んでどうする? 拳銃を咥えるにはまだ早い。

「っつーわけで、最終目標は冬イベの攻略だ。敵艦隊がどれだけの規模かは知らんが、この海域を守りきる。そのためにはなんだってしてやるさ」


「ふむ。ということは、ご主人様。やっぱりギャルゲー的展開にならざるをえませんよ?
 人材を見なければなんともいえませんが、夏、秋を踏襲するならば聯合艦隊での出撃が望ましいでしょう。つまり、艦娘は12名必要です。秘書官の漣と、龍驤さんと、夕張さんに鳳翔さん。これでやっと四人。後三倍必要になります。
 最低でも八人、口八丁手八丁で篭絡しなきゃ、です」

 篭絡とは随分と下卑た言い方をするじゃあないか。ギャルゲー的展開はともかくとして、確かに、俺たちを手伝ってくれる程度には信頼関係を築く必要がある。それを篭絡といってしまえば確かにそうなのかもしれないが。

「ふーん。ギャルゲー、ねぇ」

 背後から声がした。

 振り向いた俺の目の前で、目を真ん丸くしていたのは灰色の髪の少女。緑色のリボンで髪を結わえ、どうやら彼女が夕張であることは想像がついた。

 そして、そんな彼女の背後に、もう一人。着物姿の女性が立っている。
 前にいるのが夕張ならば、消去法的にこちらが鳳翔なのだろう。


「あの、夕張さん? ぎゃるげぇ、とは、一体……?」

「あぁ、鳳翔さんは大丈夫です、そういうのはいいんです」

「え、え?」

「ちらっと聞いてただけだけど、けっこうな言い草じゃない。ギャルゲーとか、篭絡とか。本土の人間はやっぱりどいつもこいつもこういうやつばっかりなのかしら」

「……あー、誤解しているようなら、悪かった。そういうつもりで言ったんじゃない」

「そ、そうです! 全部わたしが悪いんです!」

「あぁもうわかってるけどさ! でも、言葉には注意してよね。いきなり後ろから撃ってくるやつだっているんだから」

「冗談だろ?」

 艦娘の艤装は深海棲艦特攻性能を持つが、純粋に人間に当たっても大怪我は免れない代物である。現代科学の粋を集めて作られているのだ。

「だったらどんなにいいか」

 夕張のその口調は、それが単なる冗談ではないことを如実に現していた。
 同時に俺は背筋が凍る。兵隊の死因のうち数パーセントが、味方の誤射によるものだという統計を思い出したからだ。

「……気をつけておくよ」

「ん。そうね、それに越したことはないね」


「お二人は、その、龍驤さんから言われて?」

「はい、そうですね。とりあえず、私たちが持っています資料や体験を伝えるように、と言われています」

 俺たちに対する二人の口調は、やはりどうしても硬さはあるものの、決して敵対的ではない。龍驤も含めて、彼女たちはみな、自分たちの力だけでは今後の脅威に対処できないと感じているのだろう。

 そして夕張の先ほどの言葉。「後ろから撃ってくるやつもいる」。
 漣が船上で言っていたことからうっすらと想定していたことだけれど、やりたい放題やっている、自由に生きている――トラック泊地の艦娘は決して一枚岩ではない。

「すいません、お二人とも、早速ですが資料とデータを見せていただけませんか? 行動は早いほうがいいですし」

「わたしが資材管理で、鳳翔さんが人材管理。どっちから先に聞きたい?」

「……」

 俺は逡巡して、「人材」と言った。
 資材は所詮資材だ。それを活かせる人材がいなければ話にならない。畢竟、資材が十万二十万あったとて、艦娘が駆逐艦ばかりでは大した意味もないのだから。

「わかりました。では、私、鳳翔が」

 鳳翔――鳳翔、さん、だろうか。俺と同い年くらいにも見えるが、声は若い。


「まず、手早くトラック泊地の現状を説明したいと思います。

 既にお聞きになっているとは思いますが、夏の『イベント』の余波を受け、我が泊地は壊滅しました。提督は死亡、仲間たちもその大半が死亡しています。現在、泊地に常駐している艦娘は私と龍驤さん、夕張さんの三名のみです。

 ですが、これは生存者が三名である、ということを意味しません」

「『後ろから撃ってくるやつもいる』」

「……えぇ」

 意図的ではないだろうが、鳳翔さんは視線を逸らす。

「提督は死に、仲間も死んで、もう泊地は機能しておらず……ならば、何をしたって構いやしない。そう思った方々がいたのは本当です。御国のために挺身したことが仇となって返ってきたのなら、ですが、それは致し方ないことと思います。
 勿論、全員がやけを起こしたわけではありません。のんびりと余生を決め込んでいる方もおりますし、一人で海に出ている方もおります。最早泊地とは縁の切れた身。そして嘗て共に戦った身。傷口に触れる必要もないと、こちらから干渉はしていません」

「そいつらは全部で何人だ」

「九名です。亡くなっていなければ」

 九人……泊地の三人と漣を加えて総勢十三人。何とか頭数は揃う、か?


「名前と、どこにいるかを教えてもらえるか?」

「それはできません」

「なんでですか?」

 俺よりも先に漣が反応する。存外に冷静だが、その瞳は鋭かった。尋ねているのではない。詰問だ。

「漣たちの利害は一致しているはずです。イベントの攻略。主義主張、理念、思想、そんなものは全部、そのためにうっちゃえるはずです。それでも教えられない何かがあるというんですか?」

「あります」

 応える鳳翔さんもまたきっぱりと。

「恐らく、あなたたちは勘違いしているのでしょう。私たちは、正直なところを申し上げますと、『イベントの攻略などどうでもいい』のです」

「そっ」

「それは話が違います!」

 またも漣が俺を制した。


「いいえ、違いません。私たちは皆さんの幸せを願っているのです。イベントの攻略は次善――身も心も傷つき、疲れ果てた仲間たちを、もう一度戦場へ引っ張っていくことを望んでいませんから。
 彼女たちは『やりたいようにやって』います。その邪魔をするつもりは毛頭ありません。勿論、あなたたちが説得をするのは自由ですし、説得に彼女たちが応じるのならそれはそれ、こちらが口出しすることではないですが」

「……幸せの中で死ぬならそれでもいいと?」

「えぇ。辛さを我慢して生きるよりは、そちらのほうが。私たちはそう思うのです」

 俺は真っ直ぐに鳳翔さんの瞳を見た。彼女も真っ直ぐにこちらを見返してくる。
 きれいな瞳だった。強い瞳だった。疾しいことなど微塵もない、そう自分自身を信じている瞳だ。
 ならば、俺たちに説得できる隙はない。

「……わかった。そっちに迷惑をかけない程度に、こっちもやりたいようにやらせてもらうが、いいな?」

「構いませんが、あなたがたが皆さんを悲しませるようならば、それは見捨てておけません。努々お忘れなきよう、ご留意ください」

「わかった。心に刻んでおく」

「ありがとうございます。それでは、私たちはお暇しますが、よろしいですか?」

「あぁ。御足労すまなかった。色々聞けて、参考になったよ」

「夕張さん、行きますよ」


 す、と清楚な身のこなしで鳳翔さんが立ち上がった。
 対する夕張は、ぽかんと口を開けて彼女を見ている。

 ん? なんだ? なにか、違和感が……。

「いや、あたしからの説明、まだなんですけど……」

「あ……」

 一瞬、沈黙。

「あ、その、ごめんなさい? ち、違うんですよ、夕張さん! ちょっと雰囲気に呑まれちゃったと言いますか、なんていうかその!」

「くっ、ふふっ、あははは! や、いいんですよ、鳳翔さん。面白かったですから、いまの。『夕張さん、行きますよ』って。あはははっ!」

「もう、夕張さん! そんなに笑わないでください!」

「ひひっ、あぁもうだめだ、お腹痛いー!」

「……こういう人なのか?」

「そう! こういう人なの!」

 夕張は眼尻に浮かんだ涙を拭いながら、自慢げに言った。

「かわいいでしょ?」

「かわいいな」

 それは本心である。
 まぁ、俺も忘れかけていたのだから、人のことをとやかくは言えないのだけれど。


「まぁでも、話を戻すけど、あたしは資材管理担当。ただ泊地が壊滅してから時間は経ってるし、実際に艦娘として動いてるのはあたしたちだけだから、殆どからっけつだよ。駆逐艦がいない以上、遠征にも出られないしね」

「それでも最低限、三人分の蓄えはあるんだろ」

「ないわけではない、くらいに思っといてよ。艦娘はやってるって扱いだけど、実際のところ、艤装をつけて出撃――なんてのは当分やってないからさ」

「近海に深海棲艦は?」

「出るよ。出るけど……」

 言い淀んだ夕張は、助けを求めるように鳳翔さんを見た。視線を受けた彼女は、「なりません」と言う風に首を横に振る。

「……まぁ、そこはおいおいわかると思うよ。あなたが本当にイベントを攻略したいと思っているなら、ね」

 多分に含みがある言葉だった。やはり、彼我の間の見えない壁を、測れない距離を、ひしひしと実感する。

「で、一応これが資材の管理表。推移も含めて記載してあるけど、ここ数か月は殆ど横ばいだから、あんまり見ても仕方ないかもね」

 薄めのファイル一冊分。現時点での資材数は、油、弾、鋼材、ボーキ、それぞれがおおよそ1万前後と言った様子。十分とは到底言えないが、今すぐの枯渇を心配しなければならないほどではないようだ。


「ん。ありがとう、熟読しておく」

「じゃあ、これであたしたちのお仕事は終わりかな。全面的に協力するわけじゃないけど、まぁ、互恵関係といきましょ。
 ほら、鳳翔さん、行きましょう」

 そう声をかけられて、鳳翔さんは先ほどのやり取りを思い出したのか、赤面して「もう!」と声を大きくする。
 二人は背筋をぴんと伸ばして立ち上がった。扉を開けると、まるで二人に後光が差したようにも見えて。

 ……完全に外様だな、こりゃ。
 覚悟は決めていたことだけれど。

 漣は面白くないような顔をして二人の背中を見送っていた。

「不服か」

「そりゃそうですよ。ちょっと排他主義が強すぎやしませんか? 自分が決めた生き様を貫いた結果なら、イベントの巻き添え喰って死んでもいいなんてのは、はっきりいって納得できませんね。
 横っ面をひっぱたいたって、腕を引っ掴んだって、生きてるほうがいいに決まってます」

 漣の言うことは尤もで、俺だってそう思う。
 が、それを俺たちが言う権利なんてのは、どこを見渡してもありゃしないのだ。聡明な漣自身、それをわかっているからこそ、あえて鳳翔さんには突っ込まなかったに違いない。




「あら、奇遇ですね。私も同じく思います」




 開けっ放しの扉のところに、一人の少女が立っていた。
 パジャマ姿で。

 長めの茶髪をなびかせながら、優雅なしぐさで髪の毛をかきあげる。

「軽巡、大井と申します。少しお時間よろしいですか?」

――――――――――――

書き溜めがあるうちは早い。
なくなったら週に一回とか、二回くらいの更新なんじゃないかな。


「……軽巡、大井?」

 鸚鵡返しになったことは承知の上で、俺はそれしか言葉が出なかった。
 茶髪の美少女――自らを「大井」と名乗った少女は、パジャマ姿で麦わら帽子だけを被っている。トラックの強い日差しから身を守るためだろうか。顔色があまりすぐれていないように見えるのは影のせいだけではなく、熱さに弱いのかもしれない。

 美少女。そう、美少女だ。
 肌は透けるように白く、嫋やかな笑みを浮かべていて、髪質は柔らかく、そのくせ底冷えする瞳を持っている。

 ……?
 いや、違う、か?

「違うな」

「ご主人様、どうかしましたか」

「『ご主人様』」

 くく、と含み笑いを大井は零した。

「とんだ趣味をお持ちですね、提督。いえ、やっぱり私も『ご主人様』とお呼びしたほうが?」

「好きにしろ。今は俺のことなんてどうだっていい。大井、っつったな」

「えぇ。軽巡、大井。……それとも、本名をご所望で?」

「素体の名前を知ったところでどうしろってんだ。話をはぐらかすのはやめろ」


「あのぅ、ご主人様? 話の流れが、漣、全然つかめていないのですが」

「あぁ、気にすんな。どっか行っててもいいくらいだ」

「なんですかその言い方、ひどー」

「本当、酷いですね」

 と、大井がこちらを見ている。

 悪意をことさらにこめたわけではないのだが、今の俺の言葉の矛先は、漣ではなく大井に向けられていた。彼女はそれをつぶさに感じ取ったに違いない。
 『こいつの影響を受けないように』。
 隠された言葉をはっきりと理解しやがって。

「さくっといこう」

 俺は息を吸い込む。

「病院はどうした」

「抜け出してきたに決まってるでしょ? じゃなきゃ、こんなとこまで来られません」

「病院のパジャマのままで、か。よく見つからなかったな」

「一応これでも軍属ですから。身のこなしは人一倍。たとえ艤装を背負ってなくても」

「人格矯正プログラムを徹底するように進言しとくか」

「あなたが真っ先に放り込まれちゃうんじゃないですか」


 ……?
 なんだ。どういうことだ。この違和感はどうしたことだ。
 大井のこの、何もかもを全て見透かしたような眼が、あまりにも居心地が悪い。

 一度深呼吸。落ち着け、熱くなるな、冷静になれ。そうやって自分で言いきかせないと、この不快感を間違った方法で解消させかねない。

 軽巡、大井。こいつのパジャマは病院の普段着だ。俺は嘗て同じものを、日本の病院で見たことがある。
 なぜトラックの病院で同じものがあるのかはわからない。が、大井が軍属であったことを考えれば、泊地の病院は全て系列のようなものだからなのだろう。
 病院を抜け出してきたことは一目瞭然だった。けれど日に照らされている手足は健在で、白く、問題があるように見えない。

 内臓系か、はたまた精神か。

 ともあれ大井、こいつの一筋縄ではいかないっぷりは、恐らく生来のものだろう。後天的に突如として得た物ではないよう感じる。泊地が壊滅し、前提督が死んで、ということはどうやら関係なさそうだ。
 それは勿論彼女に心の傷がないことを意味はしないけれど、大井のことを慮れるほど、今の俺には余裕がない。

 救いを煙草に求めて、いまだ心の清涼剤は漣が持っていることに気が付いた。くそ。


「何をしに来た? 何が目的だ?」

「あら、それをあなたが尋ねますか? こっちとしては、そっくりそのままお返ししたいんですけど」

 いちいち言葉に棘がある。それは俺もである、という自覚がないわけじゃあないが。

「会話を盗み聞きしていたろう。聞いた通りだ。イベントの防衛任務、そのためにやってきた」

「おかしいですね。なら、わかるはずでしょう」

 私が盗み聞きしていたのを知っているのなら。
 大井は不敵な笑みを浮かべて、そう続けた。俺は確かにそのとおりだ、と思う。同時にクソ厄介な女が現れたものだ、とも。

 腹の探り合いは得意だが、得意と好きは一致しない。回りくどいのは面倒だ。そして俺は面倒事が嫌いである。漣に言わせれば、面倒事や厄介ごと、総じてトラブルは俺のことが大好きらしいので、最早諦めるしかないのかもしれない。
 逃げれば逃げるほどに追ってくるのだから堪ったものじゃない。これならまだ、海の上で撃ちあいをしていたほうが万倍マシだ。

「ほう、なら、お前は俺たちを手伝ってくれると、そういうわけか?」

「無論ですとも」


 殊勝な言葉とは裏腹ににんまりと猫のように笑う大井の表情は、まるで信用できない。悪意は感じられない。ただ、真意が別のところにあるのは明らかだった。
 とはいえ今は猫の手も借りたい状況であることもまた確か。いくら真意が別のところにあるとは言っても、まさか寝首はかかれまい。大井、こいつの病状がどれだけ重く、そしてどれだけ致命的かはわからないが、艦娘として最低限の素養はあるはずだ。

「……胡散臭いひとです」

 ぼそりと漣が呟いたのを俺は聞き逃さなかった。当然、大井も。

「あなたの喋り方に比べたらどうだってことないでしょ? メイドさん」

「なら、あなたのそれもキャラ付けだとでも?」

「漣、落ち着け。喧嘩を吹っ掛けるな」

「でも、ご主人様。この人は軽巡大井なんですよ」

「……?」

 漣の言った言葉の意味が理解できず、俺は一瞬ぽかんとしてしまう。

「雷巡じゃないんです。軽巡のまま……練度が足りないから。病気のせいですか?
 ご主人様。漣にはどうしても、この人の、この人が描いてるビジョンが、わからないんです」

 軽巡大井。雷巡ではなく。
 座学で学んだのはかなり昔だから、忘却の彼方に霞んでいる。だけど、確かに、そう言えば、そんな艦種もあったような……?


 漣の言わんとしていることの全貌はわからない。以心伝心には程遠い。だが、それでも不安は伝わった。
 そしてそれを見捨てておけるほど、俺は冷たい男ではない。

「あー、大井? 何か申し開きはあるか?」

「ないと言ったらどうなります? 今この場で撃ち殺されるというのなら、そりゃあ身の振り方も考えますが」

「とりあえず情報の相互提供といこうや。互いの立場、目的、知っていること、全て並べて初めて同じ土俵だ」

「まぁ、私は構いませんけどね。一応最古参の一人に数えられますし、あなたたちの望む情報は、恐らく提供できると思いますよ。
 あぁでも、覚悟はしておいてくださいね」

「覚悟?」

「私のことを使うからには、私に使われることも辞さない覚悟を持っているのか、と尋ねています。役に立たないような相手に与したところで、ねぇ?」

 流し目で大井はこちらを見てきた。蔑んでいるわけではない。ないにせよ、こちらを値踏みしているのは明らかだ。
 大井の目的が一体なんであれ、俺たちは俺たちの目的を完遂しなければならない。トラックなどと言う辺境の地で一生を終えるつもりはなかったし、それはきっと漣だって一緒だろう。
 本土に戻るためには任務の遂行は絶対条件で、そもそも任務が果たせなければ、自らの命だって危うい。


「俺たちにできる範囲であれば、手伝うことは吝かじゃあないが」

「吝かじゃあない。ふふ」

 何が面白いのか、大井は口元を押さえた。

「まぁいいでしょう。素体の名前に興味はない? でしたら私は『大井』――球磨型軽巡洋艦四番艦。その御霊を背負った者です。繰り返しの紹介になりますが、そこは許してくださいね。大事な伏線ですので。
 そちらは? 艤装の感じから察するに、特Ⅱ、綾波型?」

「……漣です」

 驚いているのか、あるいは若干引いているのか、漣の言葉は重たい。
 俺もあわせて名前、階級を告げると、大井は満足そうに頷いた。

「なぁるほど」

 意地の悪い笑みが大井の顔面に張り付く。

「お噂はかねがね――『鬼殺し』殿」

「提督ッ!?」

 漣が叫んだのを聞いて、初めて俺は、自らの右手に鉄塊が握られていることを知った。
 腰のホルスターに差しこまれていたリボルバー式の拳銃だった。

 その銃口は真っ直ぐに大井へと向いている。

「撃ちますか? 私を殺しますか?」

「それ以上いらんことを喋るな。指が動いちまいそうだ……!」

「なるほど、聞いた通りです」

 ひとり、正鵠を得たりと頷く大井。




「あなた、戦いに勝って勝負に負けましたね?」



「沈黙は金だぞ、大井ッ!」

 知られて困るという次元ではないのだ。心を鋭く切り裂いてくる悪漢相手に、果たして防衛以外のなにができようか。
 たとえ彼女が有能で有力な協力者足りえたとしても、駄目だ、わかっているのに、体はどうしても反応してしまう。ここで我慢しなければ、俺は金輪際勝負に勝てやしないというところまで来ていると、自覚はあったとしても!

「あ、あの、そのっ、やめてください! なにがどうなってるってんですか!」

 射線上に漣が割り込んでくる。引き金にかかる指はいまだに硬直していたが、頬を伝う汗を感じ取れるくらいには、感覚にも余裕が出てきていた。
 そして大井はようやく意地の悪そうな相貌を崩す。

「わかりました、わかりましたよ。拳銃を収めてください。事情はわかりました。となれば、私も事情を詳らかにできるということです。何も悪いことばかりじゃあありません。違いますか、『ご主人様』」

「……話を続けろ。与太話に付き合う暇はねぇ。余裕もねぇ」

 ようやく拳銃をしまう。それだけのことに随分と体が重い。

「私の目的はただ一つ。行方不明になった姉妹を探してほしいんです」


 あっさりと大井はそう告げた。あまりにもあっさりで、俺も漣も次のやつの言葉を待っていたのだが、どうやら本当にそれだけらしい。
 姉妹を探す。行方不明。わかりやすい話ではあった。ただ、艦娘という特性上、探す範囲を考えれば……。

「それは、球磨型軽巡残りの四人を、ということですか?」

 問うたのは漣。球磨型と言われても、座学で学んだのは遥か昔。忘却の彼方に消え去っている。ここはこいつに話を進めさせるのが得策だろう。
 大井と不穏な雰囲気であるのが心配だが、拳銃を突きつけたばかりの俺が言えた義理はない。そういった意味でも、俺に頭を冷やす時間は必要かもしれない。

「いいえ、違うわ。もともとここに球磨型は二人しかいなかったもの。
 探してほしいのは、妹――いえ、姉、かしら?」

「? どういう意味ですか」

「あぁ、ごめんなさい。はぐらかすつもりはないの。
 探してほしいのは、球磨型の三番艦、北上。ナンバリングでは姉なんだけど、彼女、私の妹なのよ」

「『軽巡大井』ではなく、『あなた』の?」

「そう。深海棲艦の大攻勢を受け、必死に戦っていたわ。彼女は私と違って雷巡になっていたから、激戦地帯で来る日も来る日も雷撃雷撃……そうして、敗北とともにいなくなってしまった。
 沈んだのか、それとも生きてどこかを漂っているのか、はたまたいまだに深海棲艦と戦い続けているのか、それはわからない。探しに行きたいのだけれど、生憎私は体が悪くて、うまくはいかないの」


「体が悪いってのは、そりゃ、なんだ。病院着ってこたぁ入院中の患者だろう。それが軍属で艦娘やってるってのは、不思議な話だが」

 俺はここでようやく口を出せた。
 軍属の間で大病を患ったのなら、こんなところではなく日本に戻ればいい。生まれつきの大病ならそもそも軍属になれないはず。除隊もされずに大井がトラックで艦娘をやれている理由がわからない。

 大井は俺の言葉を受けて大きく頷く。まるでそこに話の焦点があるかのように。

「私は最古参の一人だと言ったでしょう?」

 それが説明だと言わんばかりの大井であったが、果たしてその説明は俺にも、漣にも通じない。言葉は虚しく滑っていくのみ。
 沈黙が数秒流れ、ようやく彼女も事態を察したらしい。えっ、うそ、知らない? と驚いている。

「適合する女子に艤装を模した装備をさせた上で、嘗て存在した軍艦の付喪神を降ろす、そんな技術が一朝一夕で確立するわけないじゃない。当然何百と言った『失敗作』と、最初期の『成功作』が生まれてくる。
 そのうちの一人がこの私。艦娘の最古参、軽巡大井なの」

「最古参っつーのは、そっちの意味でか」

 トラック泊地の最古参と言うことではなく。

「えぇ、そう。で、ここで話は戻るのだけれど、私の体の話。
 なぜ私が最古参なのか。最初の成功例なのか――ふふっ、皮肉なものよね。神様が瑕疵を好むだなんてのは」

 大井は自らの胸へと手をやった。


「私は生まれつき心臓に欠陥を抱えているわ。だからこそ私は『軽巡大井』足りえた。何故なら史実の彼女には、生まれつき機関の不調があったから」

 あぁ、そういうことか。漣が俺の隣で呟いた。俺も合わせて理屈を理解する。
 史実の、日本海軍所有であった軽巡大井について、俺は寡聞にも詳しい情報を知らない。しかし目の前の艦娘大井は言う。軽巡大井には機関部に欠陥があったのだと。
 そして彼女にもまた、機関部である心臓に欠陥があるという。そして先ほどの言葉。「神様が瑕疵を好む」。

 考えてみれば当然の話かもしれない。軍艦を模した艤装を装備してまで、魂を降ろす準備をしているのだから、より嘗ての条件に類似した憑代を神様だって選ぶだろう。

「……随分と史実に詳しいようなのは、だからか?」

「そうね。そうかもしれない。それとも順番が逆なのかも?」

 それは最初からミリオタだったということか?
 ならばもう一つの予想も納得がいく。

「イベントの予測をしたのも、お前だな?」

「その通り。龍驤たちの指針になればと思ってね」

 そう語る大井の表情は誇らしげだった。
 決して善人ではないだろう彼女の、真っ直ぐな笑顔を見て、俺は思わず頬が緩む。


「力を貸してくれないか?」

「力は貸せない」

 即座に。

「こんな細腕借りたって、発砲スチロールも持ち上げられないわよ」

 いたずらめいた言葉だった。

「――けど、この頭脳は貸してあげる。
 私たちは味方ではないわ。代わりに、北上さんを探してもらいます。それで文句はないでしょう?」

「あぁ、これからよろしく頼む」

 俺が手を差し出すと、大井も手を握り返してくる。握力が弱弱しいのは、やはり闘病生活のためだろうか。

「漣も、よろしくお願いしますっ!」

 爛漫な挨拶とともに漣が手を差し出す。

「嫌よ」

 そうして、その手は払われた。

「あなたの口からは腐った嘘の匂いがするわ」

――――――――――――――

ガチレズBOTは衝撃だったなぁ。
あれくらいの文才が欲しいものです。


* * *

 それから三日間、特に何事もなく過ぎた。

 それは決して、俺たちが何もしていないこととは異なっている。だがしかし、俺は寧ろ、何事もないことこそが恐ろしくもあった。
 波風がなければ舟は動かない。無論、頼みの綱は船であって舟ではない。言葉遊びで不安になるなんて愚かしい……わかってはいるのだけれど。

 あれから大井と顔を合わせたわけではないものの、漣は至って普通で、余計にあいつのあのセリフがなんだったのかわからないでいる。
 『腐った嘘』。わざわざ挑発的な言葉を選んだに違いない。そしてまるで意味のないことをするようなやつでは、話した数分の感覚を頼りにするならば、無いような気がした。

「ご主人様ァ? どーしましたー?」

「……いや、なんでもねぇよ。色々な、考え事を」

「まぁた似合わないことしてんですね、乙カレー様です」

 と、少し不思議な発音で喋って、漣は俺の持っていた紙切れを取り上げる。
 龍驤からもらった、周辺の地図だった。

 海岸線、及び港までは徒歩で十五分と少し。軍港は復興の兆しもなく打ち捨てられ、代わりに地元漁師たちの漁港として使われている。まぁ、もともと艦娘には港らしい港も必要ないので、そんなものなのかもしれない。


 整備と修理を行うドックは夕張が管轄しているらしいが、どれほど稼働しているのか、まるでわからない。深海棲艦も近海にはいるだろうに、龍驤一人でそれに対処しているのだろうか。
 夕張は大体ここに詰めているらしい。だからといって用もないのに会いに行っても警戒は解けないだろう。

 ギャルゲーと漣は今の状況をそう評した。言い得て妙だとも思う。俺は別段そちらの知識に明るいわけではないが、今求められていることは、確かに類似している。
 邂逅。コミュニケーション。信頼関係。つまりはそういうことだ。

 協力してくれる艦娘を探さないことには何も始まらないのだが、誰がいるのか、どんな容姿なのか、なにもわからないままでは最初の一歩を踏み出すことすら難しかった。
 それとも鳳翔さんの方針なのだろうか。こちらからではなく、あくまであちらから――艦娘たちからの歩み寄りがあって初めて関係が成立するのだと。

 そんなに余裕があるものか、と楽観的姿勢を切って捨てるのは容易かった。だが、俺たちは既にあちらの姿勢を知ってしまっている。知ってしまった以上、唾棄することなどできやしない。
 辛さを我慢して生きるよりも、幸せの中で死ぬ方がいい。

「……」


「地図とにらめっこしてたって、何かが出てくるわけでもなし。これからの行動指針も考えないとですね」

 いつの間にか漣が俺のそばへと寄ってきていた。桃色の髪の毛から、女子特有の微かに甘いにおいが香ってくる。それは本土においても縁遠いものだったが、まさかこんな遠く離れた地で、中学生と一緒に任務に就くなどとは。
 いやいやと俺は頭を振る。常識だとか、良識だとか、そんなまともに生きるための概念は、全て意味を失くしたのだ。海から異形の怪物が姿を現した時に。

「そうだな」

 と俺は随分動きのなかった腰を上げた。

「お。ついに、ですか。どこ行きます?」

「さぁな。あてどなくぷらぷら散歩だ。こんな土壁の中にずっといちゃあ黴も生える」

「確かに」

 漣は俺の無精髭を見ながら頷いた。うるせぇ。

「準備ぱぱっとしちゃいますね」

 よいしょ。そう掛け声をかけて漣は艤装を背負った。随分と重そうに見えるが、細腕でも簡単に背負えるあたり、案外そうでもないのかもしれない。
 俺がじっと見ていると、漣は少し顔を赤らめて背中を向けてくる。


「いや、温度変化に強い金属をなるべく使ってて、あとは神様の力も多分にあるっぽいですよ。よくわかんないですけど」

「よくわかんない、ねぇ」

 俺は甚だ疑問に思う。自らの命を預けるのは、やはり長きを共にした信頼できる何かにであって、決して正体不明の「科学とオカルトの相の子」ではない。
 それはまるで旧時代的な考え方だった。艦娘が俺たちから船を奪ったのだ――そう皮肉交じりに吐き捨てるやつもいる。気持ちはわかる。だが、その思考は年寄りの思考に過ぎない。もっと言ってしまえば老害の思考だ。

 艦娘が俺たちから船を奪った。なるほど、確かにそうだとして、しかしそれよりもまず、俺たちから海を奪った存在を忘れてやしないだろうか。

 深海棲艦。

 よくわからないものに、よくわからないものを以てして立ち向かう。

 奇妙な相対性。対称性。世界とは案外そう言うふうにできているのかもしれない。

 漣は小さな手提げかばんへ私物を詰めていく。大した量が入るようにも見えないのに、漣は時折手を止め、悩み、笑みをこぼす。俺の視線など気にもしていない。

「ふんふんふーん」

 ついに鼻歌まで聞こえだして、


「元気だなぁ」

 呟いた――というよりは、零れた、漏れた、に近い。
 最近の女子中学生というのはこんなものなんだろうか。それとも、こんなメンタリティの持ち主を選りすぐって艦娘に仕立て上げているのだろうか。

「ふふんふーん」

 鼻歌は、随分と前に流行っていたという歌謡曲だった。俺が生まれたころ、だったと思う。こいつなどまだ精子にも卵子にもなっているまいに。

「随分とまぁ古い歌を」

「いいじゃないですか。いいんですから」

「いいんじゃねぇの。いいなら」

 日本語とは難しいな、と思えるやり取りだった。

「当て所なくって言ったって、落ち合う場所くらいは決めときましょうよ」

「落ち合う?」

「え? だってそっちのが早いじゃないですか」

 二人いるんだから手分けしたら効率は倍。子供にだってわかる理屈。
 いや、そりゃまぁ確かにそうなんだが。

「お前、上陸して早々武器突きつけられたの覚えてねぇのかよ。身の安全はなにものにも代えがたい。効率主義も時と場合だ」

「へぇ、ご主人様が守ってくださるんで?」

 うふふ、と漣は実に嬉しそうに笑った。あまりの不意打ちに面喰ってしまうが、一度意識して顔を顰めてみる。


「海で戦うのがお前の仕事なら、俺は少なくとも陸では、お前を守らにゃならんだろう」

 格闘技もさわり程度なら習っている。運動神経は悪くないほうだし、そもそも女子中学生と比べるべくもないが。
 漣はこの島において俺の唯一の味方なのだ。仲間と言い換えてもいい。万が一の不慮を考えるに越したことはない。

「ご主人様ではなく、ナイト様と呼んだ方がいいですかね?」

「馬鹿言ってろ」

「もう、冗談ですよ、冗談。つーまんないなー」

「島の海岸線をぐるりと回るぞ。流石に一日では回りきれないだろうから、数日かけて、うまくやろう」

「そうですね。それがいいと、漣も思います」

 探す相手が艦娘ならば、陸よりも海が妥当だろう。海を嫌って陸に揚がったやつらがいないとも限らないが、どのみち今後この島周辺を防衛するのにおいて、海岸線あたりの詳細な地形や状態を確認する必要はあった。
 近海周辺がそもそも安全かどうかを俺は知らない。漁師たちが存在し、まともに生計を立てている以上、漁をできるくらいには平穏なのだろうが……。

 ここは一度壊滅しているのではなかったか。

 復興がなされた。誰によって?
 ――龍驤。夕張。鳳翔さん。ならば島民が三人に好意的である理由もわかる。あるいはそれ以前から、泊地が健在だったころからよい関係を築けていたということなのだろう。


「ん……」

「どうしました?」

「いや、なんでもない」

 わけではないが。
 結論を出すにはまだ早い。島を一回り、でなくとも半周、してからでいい。

「『なんでもない』って言う人は大抵なんでもなくないんですよねー」

 さもありなん。

 漣は少し口を尖らせたが、尖らせた程度に抑えてくれた。
 俺の手が掴まれる。片手を包むには漣の両手が必要だ。ぎゅっと力を籠められ、踵を支点にてこの原理、こっちを思い切り引っ張ってくる。
 一気に立ち上がりながら全身に感じるのは地球の重力。トラック諸島は日本より赤道に近いが、だからといって重力の弱まりを感じるわけでもない。まぁ当たり前である。馬鹿なことを言っている自覚はあった。

 扉を開くときつい直射日光。アスファルトからの輻射熱がないだけまだましなのだろう。木の葉のざわつきが気持ちよさそうだ。

 俺は扉の所にかかっていた麦わら帽子をとって、漣にかぶせてやる。

「んっ」

 こちらを少し窺ったあと、満足そうににんまり笑う漣であった。


 日差しの中に身を躍らせる。ワイシャツが白でよかったと心から思う瞬間。漣がなぜだかやたらに手を繋ごうとしてくるのを、俺は軽くあしらって、大通り沿いに海岸まで行く。

 泊地「跡」まで徒歩二十分。海岸までも同じくらい。メイン・ストリートは露店や出店もあって、それなりに賑わっていた。

「……」
「……」
「……」

 しかし、どうにもこの視線には慣れない。
 外様だから、というだけが理由でもないように思う。聞き及びこそしないまでも、誰もがみな、島の英雄である龍驤たちと俺たちの関係性を認識しているのだろう。
 どんな尾ひれがついているのかまではわからないが……。

「さしずめ、龍驤さんたちを見捨ててた人でなし、そう思われてるんですかね」

「まぁ事実だけどな」

「でも、それは本部の判断であって、漣たちの判断じゃなくないですか」

「一般人には知ったこっちゃねぇよ、そんなこたぁ」

 誰の指示でやったかだなんて、関係がないのだ。もっと言ってしまえば興味すら。

 誰がやったか。何をやったか。
 結局、大事なのはそれだけだ。

 それだけだった。


「……あぢぃ」

 意識して口に出すことによって、何かが、いくらかは、紛れた。気休め程度でも。

「おんぶしましょうか?」

「お前が? 俺を?」

「あ、陸じゃだめですけどね。海なら」

「海に出れば風ももっと涼しいだろ。日差しを遮るものは、ないにしても」

「ですね。じゃ、ちゃっちゃと歩きましょう! ご主人様ッ!」

 漣は俺のケツを叩いてくるが、いや、ちんたら歩いて見えるのは、お前の歩幅に合わせているせいでもあるんだが。
 勿論そんなことを口にだしたりはしない。女が苦手とは言わないまでも、艦娘が実戦投入し始めてからこの方、俺はより一層女との付き合い方がわからなくなった気がした。本当に不可思議な生き物だと思う。

 結果的に、確かに海岸は涼しかった。白い砂浜には人はまばらだ。深海棲艦の現れる以前は、確かダイビングをメインとした観光で、多少なりとも潤っていたという話。それが今や見る影もない。
 砂は粒子が細かいのかよく鳴いた。そしてサンダルと足の隙間にも入り込んでくる。


「この辺は砂浜ですけど、もうちょっと行ったら岩礁があって、その先が港ですね。港って言うか、船の発着場、ってくらいのサイズの」

 地図を広げながら漣が方向を指さす。俺も地図は頭に叩き込んでいたが、ナビをしてくれるならそれに越したことはない。艤装にはGPSもついていて、位置情報の解析は容易という話だから。

「そういえばお前、装備はどうなってるんだ?」

「フリースロットの話ですか?」

「って言うのか? わかんねぇけど」

「もう、ご主人様は不勉強なんですから」

 漣は一度脚を止め、俺の手を取った。そして五本の指の先、それぞれがきちんとくっつく形で、一本ずつ丁寧に合わせていく。
 そういえばID認証もしていなかったのか。本土ではこんなことにも大した手間がかかったもんだが、今はまぁ、どうせ誰も見ちゃいない。漣の行為に及ぶ姿にも一瞬の躊躇も感じ取れなかった。

 中空に指で四角を描くと、その形に極めて二次元的なステイタス画像が現れる。バーチャルタッチパネル。こんな技術にも最早慣れっこになってしまった。

 練度は15。装備は連装砲と4連装魚雷。


「まぁ、普通だな」

「普通じゃないですー」

 あからさまに嫌そうな顔で、漣は舌まで出してみせた。

「や、でも普通だろ。駆逐艦ならしゃーない」

「そういうんじゃないですっ!」

 風船が割れるような叫び声に俺は思わず体を震わせるが、それ以上に漣本人が驚いているようだった。一瞬視線が下、右、左に揺れ、そしてまた右に戻り、俺を見た。

「あはは……」

 困ったような、それでいて媚びたような、不思議な笑いだった。

 俺と漣の付き合いは当然長くない。それでも、たった数日という期間であっても、印象というものは抱く。
 こいつに対して抱いていた印象は「よく笑う」というものだった。よく。頻度として「よく」、好感として「良く」。快活に、溌剌に、トラックまで放逐されても決してくさることなく。

 しかし、今の笑顔はまるで俺が知っている漣ではなかった。そしてその事実を、俺はどう捉えればいいのかわからないでいる。
 新しい一面を知ることができた、と前向きに思うか。
 隠していた一面を知ってしまった、と後ろ向きに思うか。


「駆逐艦に甘んじてたら進歩はないですよ?」

「……ま、そうだな」

 俺は甘んじて漣のはぐらかしに乗っかることにした。

「あ、ご主人様。漣はお腹が空きました」

「中途半端な時間だしなぁ」

 自分の腹に手を当ててみる。朝食には遅いが、昼食には早い。そんな時間帯。
 漣は離れたところに見える屋台を指さして、俺の返事も待たずに走り出す。だから単独行動は危ないと言うのに……。

 目につく範囲なら問題も起きないだろうと高を括って、俺は滲んだ汗を拭う。人の気配のない海は閑散としている。感傷に浸る余裕はないが、出自のわからない寂しさが胸中を過った。

 波間でばしゃりと何かが跳ねた。魚にしてはあまりにも巨大。それとも誰かが泳いでいるのだろうか。


「ご主人様ッ」

 お待たせしました、と漣が手にしているのは何かのフライ。黒っぽいソースがかかっていて、どうやらフィッシュアンドチップスの紛いもののようだった。
 この暑いさなかに熱いものを食べさせるとは、中々根性の据わったやつである。俺はじっと漣に視線をやっていたが、指についたソースをなめとるのに夢中で、どうやら気づいていないらしい。

「メシウマー!」

「誤用じゃないのか?」

「ご飯がおいしいからメシウマなんですよ。どこに間違いがあるってんですか」

 なるほど。
 素直な解釈だと思った。

 ふと海に視線をやってみれば、もうあの波紋は打ち寄せる波に呑まれて見えなくなっている。
 気のせいだったのだろうか。それとも、深海棲艦の恐怖が色濃く残るこの海で、誰かが楽しく泳いでいたとでも?

「美人でもいましたか」

「は?」

 何言ってんだ、こいつ。

「あの人に見惚れてたのかと思って」


 漣が指し示した先には、確かに人影のようなものが、岩先に座っているように見える。ちょうど岩礁のあたり。
 それにしたって遠すぎた。うすぼんやりとした姿にしか捉えられないが、漣にとってはどうやらそうでもないらしい。

 何か細長い、棒よりもすらりとした何かを持っているようだった。釣竿だろうか。この日和だ、のんびり棹差すには絶好かもしれない。

「夕まずめまではだいぶありますけどねぇ」

 漣はぼんやりと呟く。手で目庇しを作り、目を細めて狙いを定めている。

 一家言あるようにも見えなかった。多分、単なる薀蓄だろう。
 ああいうのは魚を釣るのが目的なのではなく、単に手持無沙汰を拗らせて、ぼんやりと時の流れに身を委ねるのが楽しいのだ。やりたいことが溢れている女子中学生には、決してわかるまい。
 俺がそう言うと漣は頬を膨らませて、

「ぶっ飛ばしますよ、ご主人様」

 おお怖い怖い。

――――――――――――

まずい、話が全く進んでいない……。
そして書き溜めはここまで。更新頻度は低下します。よしなに。


* * *

 岩礁は中々に険しかった。砂浜はそうでもなかったが、地形の影響なのか、波も少し荒々しい。岩の削られ方も歪つで、誤って転べば膝やら脛やらを強か打つだろう。もしかしたら鋭い先で切るかもしれない。
 短パンは間違いだったろうか。いや、この日差しの中で長袖なぞ穿いていられない。半袖シャツに短パン、がっしりとフィットしたサンダル。それでいいじゃないか。

 俺の少し先を行く漣は、ぴょんぴょんと至極楽しそうに岩と岩の間を跳んだり跳ねたりしている。脚を滑らせて落ちるだなんてことはまるで思いもしちゃいない。

「ご主人様、カニがいます!」

 そりゃカニもいるだろうさ。

 喫水線にはいくつかの船が見える。漁船だろうか。このあたりで獲れる魚を、俺は知らない。漣もきっと知らないだろう。

「漣」

「なんですかぁ?」

 イソギンチャクに指をつっこんだりしている漣に声をかけた。漣は目下のところイソギンチャクと戯れるのが楽しいようで、こちらを一瞥すらしない。
 俺はポケットに手を突っ込んで、海風の吹いてくる方を見た。

 大事な人を置いてきたような気もするが、最早顔すら覚えていない。


「お前、故郷はどこだ」

「田舎ですよ。近畿と中部の境目くらいの、バスが二時間に一本しかこないみたいな」

「なら自分で適性検査を受けたのか?」

「や、今は健康診断で一緒にやっちゃうんですよ。おっくれてるー」

「俺が防衛大を卒業した時には、まだ任意だったからなぁ。そうか、もう悉皆検査になってんのか」

「はい。うちの学年では、多分漣一人だけでしたね。なんかすっごい、先生とか、お母さんもお父さんも騒いでて」

「故郷に錦を飾るつもりか?」

「まさか!」

 ここでようやく漣はこちらを向いた。

「ご主人様。ご主人様は誰かのために命を賭けられますか? 何かのために深海棲艦と戦えますか?」

「……」

 俺は逡巡する。誰かのために。何かのために。大事な存在のために。
 胸を張って「そうだ」と答えられれば、なにより格好いいのかもしれない。人間として優れているのかもしれない。しかし、僅かでも考えたということは、つまりそういうことだった。


「漣は漣のために頑張ってんです。じゃなきゃだめですよ。だめになっちゃいます。と、漣は思うわけです」

「よくわからん」

「もうっ!」

 素直な返答をどうやらお気に召さなかったらしい。ついでにイソギンチャクへの興味も失せたようにも見えて、たん、たん、たん、岩から岩へ飛び移っていく。

「おい、あんまり先行するな」

「べーっだ」

 まるで子供だった。いや、中学生だから、子供には違いないのだろうが。
 それを直接言えばまた非難轟々がくる。女子中学生だなんて背伸びしたい盛りだという俺の勝手な思い込みも多分にある。

 たん、たん、たん。俺も漣に従って、少しペースを上げた。
 たん、たた、たん、た、た、たん。漣は速度に乗せてもっと先へ行く。

「どこへ向かってんだ」

「えっ?」

 海風にかき消されて、俺たちの声は少し届きづらい。

「どこへ向かってんだ!」

「てきとーですよ、てきとー!」


 漣がただただ前方を指し示す。他の岩よりも大きなそれの上に、先ほどの釣り人がまだのんびりと糸を垂らしている。

 ざぷん。
 背後で音が聞こえた。

「……ん?」

「何か、落ちました?」

 どうやら俺の空耳ではないらしかった。漣も海の方を向いて、首を傾げている。

「いや、でもなぁ」

 落ちる? 誰が、どこから。
 単なる魚じゃねぇのか。

「ですね、ぇ?」

 同意を掻き消したのは口だった。
 口。口、口、口だ。

 三つの口が海面から突き出ている!

「深海――棲艦ッ!」


 鼓動が早まる。心拍数が上がる。ぞくぞくとした衝撃が背筋を突き抜け脳へと至り、俺に行動を促したのはこれまでの経験。
 空中に四角を描き、バーチャルタッチパネルを顕現。編成――をする必要なんてない!

「漣! 即座に出撃!」

「ほいさっさー! 駆逐艦、漣、出ますよっ!」

 両手を大きく振りかぶって漣は跳ぶ――着水。その瞬間、水面に朝の烈日が顔を出したかのような輝きが、一瞬だけ迸る。
 鮮烈な光。神様の御霊とやらが喜んでいるのだ。
 また海に出ることができたと。

「敵勢力まで距離は四一! 数は三!」

 さらに情報画面を増やす。海に立てない俺には、せいぜいが漣を通して伝わる情報をまとめ、わかりやすくし、戻してやることしかできない。

 波を切り裂いて漣が発進する。その小さな背中はあっという間にさらに小さくなっていった。同時に視覚共有の画面を起動、得られる情報の拡大に努める。
 航空機を装備していればまた変わるのだが、残念ながら漣は駆逐艦。ないものねだりをしたって仕方がない。俺は意識を集中し、指示に努める。

「三体とも駆逐イ級と断定! 漣、調子はどうだ!」

「問題ないよ! イ級くらいだったら、らくしょーなんだから!」

「判断はそっちに一任する。好きにやってくれ。ただし、油断はするなよ!」

「ほいさっさー!」


 加速。
 水上を高速で進む漣の存在を、敵もようやく捕捉したらしかった。深いところから響く咆哮をあげ、漣に向かって砲撃を繰り出しながら突進していく。
 砲弾を掻い潜り、上がった水柱もさらに掻い潜って、漣は大きく弧を描きながら接敵。イ級は完全に漣を追っていて、敵と認識されたのは明らかだった。

 統率のとれた動きは見られない。野良か、あるいははぐれか。どちらにせよ驚異の度合いは低い。

「距離二五! 砲戦用意ッ!」

「わかってますよぅ!」

 腕を一振り。漣の抱えた連装砲が光を帯びて、空中に砲弾を模した光の塊が数個、その姿を現した。
 駆動音が聞こえる。俺はこの音を知っていた。仰角を調節する際の機械仕掛けのそれだ。
 当然この場には大掛かりな大砲、そんなもの存在しない。これは単なる空耳なのだ。そして深海棲艦との戦いに赴く誰もが必ず耳にする空耳なのである。

 俺は漣の背後に、巨大な鉄の塊を見た。

 海に浮くそれが、イ級に砲塔を向けているのを見た。

 遥か数十年の時を経て、再び敵を打ち倒す歓喜に震えているのを見た。

「ってぇえええええぇ!」


 俺たちの声が同調する。漣が再度腕を振り、抱えた連装砲をイ級の一体に向けた。
 砲弾が衝撃波で海面をへこませながら、爆発的な加速度でイ級を襲う。三発撃ったうち、二発は回避されたが、一発はイ級の尾骶部を大きく抉った。
 致死圏まで至るも絶命にはならない。イ級は苦悶の声をあげ――耳を劈く不快さに俺は思わず顔を顰める。

 苦し紛れのイ級の砲撃。漣は深追いすることなく、冷静に対処。距離をとりながら魚雷を召喚、計四つを指の間に挟んで、狙いを定める。

「一匹倒しても、残りの二体から反撃を喰らうぞ。そういう位置関係だ」

「敵も馬鹿じゃないってことですねー」

「そうかもな」

「指示は。ご主人様」

「繰り返すぞ。『判断はそっちに一任する』」

「そんなんでいいんですか?」

「頭から押さえつけられるよりはマシだろう? それに、だ」

 俺は通信先にも聞こえるように、手をぱちんと一度打った。

「お手並み拝見、だ」

「へへっ」

 漣は楽しそうに――恐らく――笑った。

「一応ね、これでも成績、優秀だったんですよ。漣って」


 漣が飛び出すのに合わせてイ級が二匹、手負いを庇うように前に出てくる。一匹は高速度での吶喊、もう一人は間隔を狭めた対艦射撃。漣も砲撃で応戦するが、頭を低くしながら突っ込んでくるイ級には、さほど効いてはいないようだった。

「左!」

「わかってます!」

 砲弾の直撃――いや、隔壁で防いでいる。損傷は軽微。

「前からも来てるぞ!」

「だから! わーかって、ますって!」

 水中が炸裂した。光と熱と風が、本来生まれない場所から。
 指向性を持ったそれらは三回炸裂し、漣に喰らいつこうとしていたイ級の上体を水上から僅かに浮かせる。
 機械と生物と、形容しがたい微粒子がそれらを接合している、異形の生物。漣はそれに飛びかかる。

 彼女の指には魚雷が一発だけ残っていた。

 傷ついたイ級の体の端、千切れたワイヤーなのかコードなのか、それとも生体由来の組織なのか、よくわからないはみ出た「何か」を左手で掴み、そこを支点に体を大きく仰け反らせる。

 魚雷が巨大化した。従来の大きさに戻った、と言うべきか。


「徹底的にっ!」

 そのまま、空いた右手でそれを操って、叩き込む先は口の中。

「やっちまうのねっ!」

 水中とは比べ物にならない爆裂が、漣の体ごとイ級を吹き飛ばした。散り散りになった組織が雨のように海へ降り注ぎ、海の底へと沈んでいく。
 漣は水面を転がりながらも波濤に手をかけ制動をかける。体勢を起こして、右側に砲弾、左手に魚雷。

 残るは手負いを含んで二匹。勝機も随分と見えてきたように思う。

「だめだっ! 何をやってるんだ、逃げてっ!」

 叫びながら、俺の脇を駆け抜けていく人影があった。
 岩を踏み切って海へと降り立つ――降り立つ、ということは。

 艦娘?

 ショートカットが風になびいて、しかし俺の位置からはその顔は見えず、少女は全速力で漣へと向かっていく。

 爆撃がイ級と、そして漣を襲ったのは、その直後だった。

―――――――――――――

短いですが、ここまで。
団地の隣の部屋に住んでいる漣の尻に敷かれたいだけの人生だった。


* * *

「漣!?」

 事態の把握よりもまず安否の確認が真っ先に出た。それが軍人としてどうなのか、正直、いくら振り返ってもわからないだろう。
 ウィンドウを開く。被弾――損傷は軽微……と言い難かった。

 索敵画面を見る限りにおいて、イ級は既に爆散している。跡形もない。追撃の心配をしなくていいのは不幸中の幸いだったが、だからと言って状況が好転したとも言い難く、とにかく全てが混迷を極めている。

 残耐久が目盛で表示されてはいるものの、実際の漣の姿は、いまだ黒煙に包まれたままである。残り半分。俺は認証を済ませているから、漣に対して強制帰還を行使はできるけれど、いまだ踏ん切りがつかない。
 俺は知っている。艦娘のことを知らない俺でも、彼女らが決して志半ばで頽れたりしないということを。命を擲ってでも、一秒でも長く海の上にいようとすることを。

 それは果たして彼女たち自身の意志なのか。漣は言った。「横っ面をひっぱたいたって、腕を引っ掴んだって、生きてるほうがいいに決まってます」と。そうだ。その通りだ。
 そして、そう生きられないのが艦娘の性、というものなのだった。

 少なくとも、俺の知っている彼女は、そうだった。


 去来した映像を振り払い、とにかく前を向いた。海風に煽られて黒煙の霧散は早い。
 艤装のところどころを破損し、衣服も破け、裂傷と火傷にまみれた漣の姿がそこにある。

 平気ではない。しかし無事だった。俺はひとまず胸を撫で下ろす。

 同時に俺の頭は事態の把握へと切り替わる。

 いくつか、同時に処理しなければならないことがあったのだ。

「漣ッ! そっちに今、誰かが向かった!」

「え、あ、はい! 見え――ます。見えてます! 一人! 海の上を!」

「もしもし、聞こえてる?」

 通信に混ざりこんできたのは正体不明の第三者。冷静に聞こえるが、それはそう努めているだけだ。押し殺した焦りがにじみ出ている。
 敵ではないと直感が告げている。艦娘。この島の。潰えたトラック泊地の。
 ということはつまり、味方でもない……?

「もしもし! 聞こえてるの!? オーバー!」

「あぁ、すまない。聞こえている。オーバー」

「損害は大丈夫? ボクからそっちは、今見えた」

「悪いが、誰だ? トラック泊地の艦娘か?」

「そうだけど、そうじゃない! 『元』がつく!
 所属は元トラック泊地、航空巡洋艦『最上』! とりあえずはそう呼んで欲しい!」


「最上さん、何が起きたんですか。漣、索敵は切らしていないはずです、でも!」

 そうだ。漣と同じ疑問を俺も持っている。
 深海棲艦の反応は、さっきも、いまも、どこにもない。

「説明はあとにしよう! 提督、でいいのかな? ボクの識別番号を送るよ。漣ちゃんを曳航していくから、ナビをお願い!」

「待て、待て! 一つだけ答えろ! 俺たちは一体誰に狙われている!?」

 嫌な予感がした。確信と呼んでも差し支えないものだった。
 爆撃。誰が。どうやって。深海棲艦? いや、違う。有り得ない。ステルス機能を有した個体は依然見つかっていない。
 ならば。

 ならば。

「きみたちを狙ってるんじゃない! きみたちのことなんて、眼中にないだけなんだ!」

「――あら。予想外……想定外? なんて言うんでしょう。まさか、今更この島に」

 通信に介入。無機質な声。落ち着いているのではない。落ち切っている。
 深く、深く、海の底から立ち上ってきた泡が、ぱちんと弾けたときのような声音だった。到底聞き及んだことのない種類のそれだった。


 風切り音。空耳でなければ、そしてノイズでもないのであれば、これは恐らく、直掩機のそれだ。爆撃機。艦娘の装備。艦娘の。
 イ級を殲滅した存在がこの風切り音であることに確信はあった。その矛先が次いで漣に向かわない保証は、逆に、どこにもなかった。

「漣! 視覚共有だ! 信号を送れ、早くしろ!」

「あ、あ……」

「固まってないで、逃げるよ!」

「――今更この島に、本土の人間がやってくるなんて」

「最上! お前でいい! 識別番号を、視覚を寄越せ! 誰だそいつは!」

 やばいやばいやばいやばいやばい。
 これは、わかる。誰にだってわかる。
 出会ってはいけない種の存在だ。海と陸のように、薄皮一枚隔てて別世界の住人だ。

 風切り音が大きくなる。距離が、近い。眼と鼻の先? 少なくとも集音装置のすぐそばを周回しているようだった。牽制なのか、もっと剣呑な別の何かなのか。


「……このコは、敵じゃないよ。聞いてない? 龍驤さんから」

「敵? 何を言っているんですか、最上さん。別にそのかたを狙ったわけではありません。ただ……そうですね。少し、思い違いをしていたふしは、あります。私はてっきり、神通さんの子分かと、そう思っていたものですから」

「だったら一緒に吹っ飛ばしてもいい、ってことにはならないんじゃないかな」

「あれくらいで動けなくなるような情けない人材なら、それまででしょう。なんのために神通さんに師事しているのか、わかったものではありません」

 最上から識別番号が送られてくる。入力、認証。視覚共有を試みる。

「そういう考えは好きじゃないな――赤城さん」


 袴。弓。足袋と雪駄を模した艤装。おっとりした顔にきめ細かい髪の毛はまさに良家の子女といった出で立ちだ。ただ、瞳がどこを向いているのか、全くわからない。
 最上の方を見ている。それでも、視線が交わっていない。その気配すらない。どこを見ているのか、あるいはなにも見ていないのか、微笑みすらもただただ恐ろしかった。

 おかしな話だ。海に救う化け物、深海棲艦。それよりもこんな二十歳くらいの娘が、よほど俺の背筋を震わせるとは。

「上官はおられるのですか? このやりとりを聞いている?」

「聞いてる、と思うよ」

「……聞いている。漣は俺の秘書艦だ。あまり手荒に扱わないでもらいたい」

「なら、こちらの邪魔をしなければいいんですよ。単純な話です」

 澄ました顔で赤城は言う。

「私はトラック泊地所属、航空母艦の赤城です。覚えなくて結構。どうせもう、二度と会うこともないのでしょうし」

「待て、赤城。お前は何を言っている」

「新しく着任した提督などいなかった、ということですよ。いえ、別にね、命までとったりはするつもりなんてないんです。大人しく隠居をしていてくだされば、のんびりと余生を、この島で過ごしてくださればいいんです」


「漣たちには」

 ようやく忘我から戻ったらしかった。漣は、それでも気圧されている感を滲ませつつ、必死に赤城の圧へ抗う。

「任務が、あります。やるべきことが、あるんです。そうです。じゃないと、みんな、みんな死んじゃうから」

「は?」

 声が赤く染まった。奇しくもそれは、彼女が負った色だった。
 偏諱――あるいは、名は体を表す。

 耳を劈く爆撃音が響いた。一発、二発、三発目で、かき消されながらも最上の「赤城さん!」という叫び声が届く。

 砲撃。海水が盛大に打ち上げられ、雨となって降り注いでいくのが見える。

「ちっく、ちくしょう! なんだってんですか!」

 漣の額は大きく割れていた。生え際から血を流し、彼女の右目を潰している。
 海へと吐き捨てたのは唾だろうか。それとも血だろうか。そのまま魚雷を、砲弾を顕現し、赤城へ向ける。

「やめろ! 漣、やめろ! 事を荒立ててどうする!」

「ってったって、ご主人様ッ!」」

 荒立てはじめたのはあっちでしょう! 漣の叫びには正当性があった。俺に、自衛を放棄しろという命令は間違っても下せない。


「やめろ! 漣、やめろ! 事を荒立ててどうする!」

「ってったって、ご主人様ッ!」」

 荒立てはじめたのはあっちでしょう! 漣の叫びには正当性があった。俺に、自衛を放棄しろという命令は間違っても下せない。

 爆撃機が漣を襲った。一発一発が肉を抉り身を焦がす、炎の驟雨。苦し紛れに漣が放った武装は、赤城に難なくかわされる。
 最上が溜まらず漣を抱き留め、肩から掬い上げる形で高速移動。戦線離脱を計る。

「最上! 強制帰還だ、何としてでも逃げ出せ!」

「わかった、けど……!」

 視界が動く。海風にたなびく黒髪をかきあげながら、直掩機を散開させ、二人へ向かう赤城の姿がそこにある。
 海を滑る速度よりも風を切る速度の方が圧倒的に早い。背後に放たれた爆撃が二人の退路を断つ。

「みんなはもう死にました」

 断絶。言葉に籠められた意味を解釈すれば、ただひとつ、それだけ。

「みんなは死んでしまったんです」

「でも、まだ生きてるひとだっている!」

「いませんよ」

 赤城はとびきり満面の笑みを作った。

 ひまわり畑のような、笑顔だった。

「ここにいるのは一人残らずみぃんな亡霊です」

 艦娘の、亡霊。

 船の御霊を背負った子女が艦娘だというのなら、その子女さえも死んでしまったとき、艦娘は一体何になるというのだろうか。


「私は深海棲艦を殲滅します。私が殲滅するのです。あなたがたはそれをただ見ているだけでいい。本土もいろいろうるさくて大変なのでしょう? 和睦交渉だの、なんだの。人権派がどうだのと。
 それとも功に逸ってやってきたのですか? 壊滅したトラックを立て直せば、二階級特進が約束されているとでも言われて。そしてまた、私たちの声を無視する。そうでしょう」

 くつくつと赤城は笑った。俺たちを嘲っているのは明らかだった。

 赤城が矢を弓に番えた。

「もう一度言います」

 それを綺麗な姿勢できりりと引いて、

「あなたがたはただ見ているだけでいい」

 放つ。

 弾かれた矢は初速が最高速、そして一瞬で爆撃機の小隊へと変化し、上空に舞い上がっていく。
 空中で一回転。そのまま鼻先を殆ど地面と垂直になる急降下、水面に腹がつくかつかざるかというタイミングで魚雷を切り離し、一斉に起爆させる。

 巨大な水柱が轟々と音を立てて屹立し、漣と最上、そして赤城の間を隔てる一枚の巨大な壁となった。

「指を咥えて黙って見ていろ!」

 轟音に負けないほどの大声で叫んで、水柱が落ち着いた時にはすでに、赤城の姿は水平線の向こうに消え去りかかっている。

 たなびく長髪は、すぐに見えなくなってしまった。


 最上の手を縋りつくように握り締めている漣の姿があった。気丈に振舞おうと口の端をきつく噛み締めているのが、ひどく健気に思う。前線で戦うのは、情けないことに俺たち大の大人ではなくなってしまっているから、最早俺にはかける言葉も見当たらない。
 銃後は銃後で立派な役目であるとはいえ、漣や、なんなら龍驤だっていい。彼女らが化け物と戦っている間、俺だけが安全圏にいるというのが、申し訳なく感じてしまう。

「うぅー……!」

 堪えているのは涙か、それとも別の何かか。言い返せなかったのが口惜しかったという単純なものでは、恐らく、ない。

 責任をとることが上官の仕事だと、嘗て誰かが言った。十全に部下が動ける環境を用意してやることがそうであるとも。
 そのとき俺は果たしてそれが本当なのかわからなくて、そしていまだにわからないでいるようだ。

 ただ、こう言わないとこの場は収まるまい。

「漣、帰投しろ。最上も、悪いが詳しい話を聞かせてもらえるか」

「……ま、そうだよね」

 最上は漣から視線を切って、空を仰いだ。トラックの青空は抜けるような青だ。海とは違った透明感がある。


「漣、大丈夫か。あまり無理しないでいい。ご苦労だった」

「……別に、でも、だけど、……うん」

 嘆息。どうしたものか。

「とりあえずボクたちはそっちに行くよ。それまでに、少しだけ通信で説明したいけど、いい?」

「あぁ、ありがたい」

「龍驤さんたちから現状は聞いてるんでしょ?」

「あと、大井からも、少し」

「大井さん!?」

 素っ頓狂な声をあげる最上。

「あの人、まぁた抜け出して……また発作が起きたら、いや、まぁ、仕方がない。とりあえず置いておこう」

 こほん、と咳払い。仕切り直しだ。

「赤城さんを知らなかったね? ってことは、誰がいるとか、どんな……うん、そうだね」

 最上は少し躊躇して、言葉を止めた。何かを考えているような、迷っているような。
 言葉を選んでいるのだと遅れて気づいた。

「誰が『どんな感じ』 になっているとかも?」


 誰が。
 どんな感じ。

 思わず不躾な言葉が出そうになるのを、俺は咄嗟に嚥下した。

「聞いていない。もし俺たちの仲間になって欲しいなら、俺たちが、自らの脚で探せ、と。会話をして、親しくなれと。鳳翔さんはそう言っていた」

「あぁ、そうか。やっぱりね。龍驤さんがボクのところに来たときは、そういうことは何も言ってなかったからさ」

「龍驤が、来たのか」

「うん。島の艦娘のところを回ってるみたいだったよ。だから、二人のことをみんな知ってるんじゃないかな」

「龍驤は、その、なんて?」

「別に? 本土から提督が秘書艦連れて、たった二人で来るって。『イベント』の攻略のためだって。それだけ伝えて、あとは好きにしなって」

「そうか」

 それはなんとも有り得そうな姿に思えた。
 龍驤だけではない。鳳翔さんも、夕張もそうであるが、彼女らは自主性を何よりも尊重する。奇しくも漣の言った通りの「好き勝手やっている」ということだ。


 そこで漣がだんまりであることに気が付く。バイタルサインは正常。心拍数が高いくらいで出血の影響は見られないし、怪我で会話もできないというわけではなさそうだ。
 赤城とのやりとりであいつが何を思ったのか、感じたのか、想像してみるしかない。俺たちは提督と艦娘であり、提督と艦娘でしかないのだから。急ごしらえの。

「漣、好きなもんはあるか」

 だからこんな言葉しかぱっと出てこないのだった。

「……は?」

「腹が減ったな。朝から食べたのは、あれか、フィッシュアンドチップスの紛いもんみたいなやつだけだもんな」

「……別に、特に、です。漣は好き嫌いないほうですけど、お肉よりはお魚かなぁって」

 反応があっただけでも儲けものだろう。漣の訝る視線が痛い。

「あ、じゃあちょうどいいや。今日は大漁だったんだよ」

「大漁?」

 つい鸚鵡返しになってしまう。


「あ、ご主人様、今見えました。タリホー!」

 お前は空軍所属じゃないだろうに。
 海の向こうに目をやれば、波間にぶんぶんと大きく手を振る漣の桃色が映えていた。隣には漣よりもいくぶんか背の高い、最上の姿がある。

「ボクはのんびりと釣りをするだけで十分だったんだけどねぇ」

 ふと岩礁にいた釣り人へ視線を向ける。
 ……誰もいない。ただ釣竿だけが、倒れていた。
 傍らにあるバケツで魚が跳ねた気がした。

――――――――――――――

色々思考錯誤。
今後ともよろしくお願いいたします。

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2016年10月17日 (月) 11:08:15   ID: bqpRBZuH

ええ感じの長編になりそう
うえっへっへ、期待やで

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom