緒方智絵里「お茶とお菓子と妖精さんと」 (35)


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 むしむしと暑い夜だった。

 拭いても拭いても流れ落ちる汗が止まらないのも、
 山のように用意された事務仕事がいつまでたっても終わる気配を見せないのも、

 ついでに頭の上の蛍光灯が暗いのも、全てはこの夜の暑さのせいに違いない。

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「あ、あのぅ」

 昼間の喧騒はどこへやら。

 すっかりと静まり返った事務所の中で、
 俺はぼんやりと光るパソコンのモニターを凝視したまま、
 報告書だ企画書だ、そんなものの草稿を書いては消し書いては消し。


 そして既に主が帰宅している隣に並んだ机の上には、
 電源からここまで、コードの届く範囲ギリギリまで近づけられた扇風機がデンと置かれ、

 部屋の中に充満した生暖かい空気を「これでもか!」という勢いで、
 俺のもとへとせっせと運んでいたのである。


「あの、あのぅ……」

 うだるような暑さに耐えながら、一心不乱にキーボードを叩く俺。

 座っている場所のすぐ後ろには全開になった窓があるのだが、
 立地的に風通しが悪いらしいこの建物には、日頃から風もろくに入って来ない。

 なので、俺の生命線となるのは安物の扇風機が一台と、
 時折窓から迷い込んだようにやって来る、ささやかな涼しさのそよ風のみ。


 給湯室に行けば冷たい麦茶もあるにはあるが、
 最早そこまで足を運ぶことすら億劫になってしまうほど、とにかくその夜は暑かったのだ。


「…………くすん」

 ちなみにそれ程までに暑いと文句を言うならば、
 冷房の一つでもつけてしまえばいいじゃあないか、なんて声も聞こえてきそうだが。

 なんとまぁ信じられない事に、我が事務所では数日前から事務員の手によって、
 冷暖房器具の夜間使用が禁止されていたのである。


『ええっ!? どうして使っちゃダメなんですか!』

『そんなの決まってるじゃあないですか。経費削減の為ですよ』

『……本音は?』

『仕事が終わっても家に帰らず、酒盛りしだす連中がいるからです』


 初めてその話を切り出した時の彼女の視線の先、
 冷房をガンガンに効かした事務所内の談話スペースで、

 ナイターを見ながらビール片手に騒ぐ大人達の姿を、
 俺は今でもハッキリと覚えている。


『冷房さえ使えないようにしておけば、事務所の中は蒸し風呂と同じですから。
 そうすればいくら彼女達でも、暑さに負けて退散するでしょう?』

『ちひろさんのその言い方、まるで害獣の燻し出しですね』

『支出の管理からご近所さんとの付き合いまで任されてる身として言いますけどね。
 仕事が終わると毎夜のように飲めや騒げや、騒音・暴走・挙句に光熱費のかさ増しまでされちゃ、
 いくら気の良い私でも、頭抱えて追い出したくなりますよ!』


 そうして彼女の計画は、たちまちのうちにその効果をあらわした。

 毎夜のように繰り広げられていたどんちゃん騒ぎも最近ではすっかりなりを潜めて、
 仕事が終われば三々五々、大人組の皆々様はそれぞれが好き勝手に夜の街へと繰り出して行く。


『いやぁ、ここまで計画通りに事が運ぶと、何とも嬉しくなっちゃいますねぇ』


 なんてことを胸を張って言いながら、ご満悦な表情をちひろさんは浮かべていたけども、だ。

 その分夜の街で飲み潰れた彼女達を送迎するという新たな仕事が、
 車で通勤する俺に課せられた事実からは目を逸らしているようだった。


「――プロデューサーさぁん?」

 だからだろうか。

 この時間、蒸し風呂のように暑い室内で自分を呼ぶ何者かの声が聞こえて来た時には、
 流石の俺も暑さにやられて、とうとう幻聴が聞こえるようになっちまったか……なんて心配をしたもんだ。


 しかしそれは、勘違いや幻などではまったく無かった。

 不毛な睨めっこを続けていたモニターからひょいと視線をずらしてみれば、
 その先には机の前に立つ、見慣れた少女の姿があって。


「智絵里! 君、帰ったんじゃあなかったっけ?」

「あ、はい。そのハズ……だったんですけど」


 驚いたような俺の声を聞いて、
 俯いていた目の前の少女の肩がビクリと揺れる。


「駅についてから、事務所に忘れ物しちゃったことを想い出したんです。
 ……それで、えっと、急いで取りに戻ったら」

「残業中の俺を見つけたと」

「は、はい! ……そうです」


 そうしてもじもじと「気づいてもらえた……良かった」なんて、
 伏し目がちでこちらの質問に答える彼女の姿は、

 そのフリルがついた可愛らしい服装も相まって、
 俺にある空想上の生き物の姿を連想させる。


「あ、あの、それで私、プロデューサーさんはこんな暑い部屋の中、
 遅くまでお仕事してて大変だなぁ……って、思ったので」


 それから彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめると、
 両手で持っていた小さなお盆を、ちまっとした動作で持ち上げこちらに差し出した。


「お節介かなとは思ったんですけれど、これ、お茶です。えっと、さっき用意して……
 きっとプロデューサーさん、喉も乾いてるんじゃないかなって思ったから」


 見れば彼女の言う通り、お盆の上には麦茶の入ったコップがのっている。

 俺がそれを「ありがとう」と言って受け取ると、
 彼女は心底嬉しそうにはにかんで、

「あ……はい。あの、言ってもらえれば、おかわりもすぐに用意しますから」

「そうかい? なら、悪いけれども早速一杯」


 グイッと中身を飲み干した、空になったばかりのコップを盆に戻すと、
 智絵里はパタパタとした急ぎ足で給湯室の中へと消えて行く。


「はいどうぞ。お待たせしました」


 そして数分もしないうちにまたパタパタと現れた彼女が、
 入れたての麦茶を俺に差し出した。


「ん、ありがとう」

 なので俺は再びグイッと飲み干して、

「美味い! もう一杯!」


 カンと軽快な音を立て、盆の上へと戻されるコップ。

 そして少々困惑した表情になりながらも、
 智絵里はもう一度パタパタと給湯室へ。


 そんな彼女の動きに合わせて、頭の横で二つにくくった彼女の髪が、
 ひょこひょこと跳ねるように小さく上下する。

 その動きが微笑ましいやら面白いやら、

「あ、あの、お待たせしました……」

 前述したように蒸し風呂のような部屋の中、
 俺の仕事机から給湯室までの往復で、智絵里の額にはうっすらと汗が浮かび、
 彼女の綺麗に揃えられた前髪は、ぺしゃりと額に張り付いていた。


 息も上がっているのか、呼吸に合わせて大きく上へ下へと揺れる小さな肩。

 俺も自分のことながら、心底意地が悪いなとは思ったが、
 そんな献身的な彼女の態度に、ついつい悪戯心が刺激されてしまう。


「いやぁ、実に美味しい麦茶だね」

 ニコニコとした笑顔で語りかけると、彼女もつられてニコリと笑い、

「これなら何杯でも飲めそうだ。……と、いうわけでもう一杯」

 盆に戻されたコップを見て、その笑顔がぴくりと引きつった。
 けれども彼女は、怒るでもなく、泣き出すでもなく、

「プ、プロデューサーさん」

「なんだい智絵里?」

「あの、その、喜んでもらえるのは嬉しいんですけど、
 これ以上冷たい物ばかり飲むのは、よした方が……」

「えぇ? どうしてさ」

「ど、どうしてって……えと、それは……」


 白々しい俺の質問に、一瞬視線を泳がせた彼女が、
 消え入りそうな声でぽそりと答えた。


「……お、お腹が……お腹が、痛くなっちゃいますよ!」

「なら、今度は少しぬるめにでもしてもらおうか。
 なに、ポットのお湯で薄めたのでいいからさ」

「で、でも、でも……うぅ」


 わざとらしいほどの笑顔でお願いする俺に向けて、
 困ったよな、泣きそうなような、それでいて、少しばかり怒ってもいるような。

 そんな複雑な顔を見せてから、彼女はまたまた給湯室へ。


 もうパタパタというよりも、トボトボといった様子で歩く彼女の姿が見えなくなると、
 俺は自分の机の引き出しを開け、中に入っていたある物を机の上に取り出した。


「おーい、智絵里」


 そうして給湯室に向けて声をかけると、ややあって智絵里が、
 警戒したように「なんでしょう?」とその顔を覗かせる


「君も、お菓子は好きだったよね? 
 実はここに、今日貰った頂き物のクッキーがあるんだけども」

「あ、はい。お菓子は……好きです」

「仕事の方も一息ついたし、智絵里も一緒に食べないかい? 
 こっちに戻って来る時に、君の分の椅子も持っておいでよ」


 すると顔を引っ込めた彼女が、
 今度は給湯室に置いてあったパイプ椅子を抱えてやって来た。

 俺の座る机の前に椅子を置き、
 ちょこんと腰かけた彼女の視線が机の上、クッキーの入った袋へと注がれる。


「これって、もしかして手作りですか?」

「うん、まぁ、妙な物は入ってないハズだから」


 しげしげと智絵里が眺める中で、
 俺はクッキーの入れられた袋の封を破ると、


「あちゃ」

「ど、どうかしましたか?」

「……これ、お皿を用意してなかったや」


 クッキーの封を開いたままで、
 俺はやれやれといった風に小さく肩をすくめて見せた。

 すると智絵里も、何かを思い出したように「あっ!」と小さく呟いて、


「あ、あの。私も、プロデューサーさんのお茶を持って来るの、忘れてました……」


 開いた口を、右手で隠すようにして智恵理が言った。
 その「しまった」と顔を赤らめた彼女の反応がなんとも可笑しくて、
 俺もついクスクスと吹き出してしまう。


「ははっ、大丈夫だよ。お皿を取りに行くついでに、
 今度は俺が君に紅茶でもご馳走するからさ」

「い、いえそんな! 
 ま、待っててください。すぐに持って来ますから!」


 そう言って立ち上がった俺の行く手を遮るように、
 智絵里が慌てて立ち上がる。

 けれども、俺は彼女を椅子に座りつけると、

「なぁ智絵里。君はお仕事妖精って生き物を知ってるかい?」

「お仕事……妖精さんですか?」

「そう。昔から世界各地で語られている、人の仕事を手伝ってくれたり、
 幸せを運んで来てくれたり……そんな優しい妖精さんの話だよ」

「……それなら少しだけ、聞いたことはありますけれど」


 でも、それが今の状況とどんな関係があるのかと、
 不思議そうに小首を傾げた智絵里に、俺は優しく話を続けた。


「それでだ。妖精に作業を手伝ってもらった人は、感謝の印にお礼をするんだよ。
 ……実を言うと、俺もこの暑さには心底参っててね。
 ついさっきまでは、給湯室に行くのすら面倒になってたほどなんだ」


 すると智絵里も、俺の言わんとしていることが分かったのだろう。


「プ、プロデューサーさん。それって、もしかして……」

「冷たい麦茶のお陰で、多少は涼しくなれたからね。
 妖精さんのように優しかった智絵里に、俺から美味しいお菓子と紅茶をプレゼントだ」


 そう言って数歩足を出してから、
 俺はくるりと彼女の方を振り返る。

「ああ、それから紅茶の味には期待するように。
 俺の淹れる紅茶はなんと、あの桃華からお墨付きをもらえる代物だからね」

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 そうして幸せを運ぶ妖精を捕まえるため、彼らは罠を張ることにした。
 
 美味しいお菓子に美味しい紅茶を用意して、
 妖精が住むと言う森の中、怪しいお茶会が始まった。

 ―舞台「幸せを運ぶ妖精」の一幕より―


===

 ……それから、三十分ほど経っただろうか。

 机の上には紅茶の入ったカップが二つと、残り少しになった手作りクッキー。
 その間に話していたのは、最近の仕事やプライベートで気になっていることなんかを少々。


「それで今度の舞台、私、妖精さんの役を頂いて――」

 嬉しそうに話しながら何気なく時計に目をやった時、智絵里の顔がしゅんと曇った。

「あっ……もう、こんな時間なんですね」

 名残惜しそうに呟く彼女につられて視線をやれば、
 確かに針が指示す時刻は、随分と遅い時間である。


「そうだな。……そろそろ帰った方が良い時間だ」

 言いながら俺は手早くパソコンの電源を落とすと、
 いそいそと机の上や周りを片付けだした。


 そして一通りの荷物を鞄に詰めこみ終わると、

「よし! それじゃあ、行こうか」

 空になったカップやコップを乗せたお盆を持って立ち上がる俺に、
 未だパイプ椅子に座ったままの智絵里が、その可愛らしい目を丸くして聞いてくる。


「えっ……? あの、プロデューサーさんも帰るんですか?」

「うん、帰るよ。まぁ、給湯室に使った食器を持って行ってからだけど」

「で、でも。お仕事がまだ残ってたんじゃ」

「いいのいいの、ある程度は終わってたから。
 ……それにこんな時間なんだ。流石に女の子を一人で帰らすわけにもいかないだろう?」


 恰好をつけて言ってはみたが、
 確かに智絵里の言う通り、俺の仕事はまだまだ残ってて。

 ……ま、まぁあれだ。

 そっちの方は、家に帰ってからでもやってやれないことは無く。


「それで智絵里はどうなんだい? 
 君さえ嫌じゃないのなら、送って行ってあげたいと思ってるんだけど」

 俺からの再度の問いかけに、智絵里が椅子から、弾かれたように立ち上がる。

 
 そうして自分の横に置いていた、小さな手荷物をギュッと抱きしめ、

「あ、あの! よろしくお願いしますっ!」

 ……まるであいさつ回りの時のような、勢いのある深いお辞儀。

 そうしてゆっくりと上げたその顔は、今日一番の赤さであった。


「うん。じゃあ、よろしく」

 やはりこの子は微笑ましい。
 それから俺たちは食器を洗い、事務所の戸締りを確認し、

「じゃあ、電気消すから先に出て」

「あっ、はい」


 事務所の入り口、俺が電気のスイッチに手を伸ばした時だ。


「あの、プロデューサーさん」

「んー、なんだい?」

 急に声をかけられて、電気を消そうとした俺の手の動きが止まる。

 俺が両手を腰に当てて振り向くと、
 智絵里はお土産として握らせたクッキーの袋を見ながら、
 おずおずと言った様子で口を開いた。


「このクッキー、凄く美味しかったんですけど。……どなたの手作りなんですか?」

「そんなこと聞いて、どうするの」

「あ、その……私も、こんな美味しいクッキーを作って
 プロ……皆にプレゼントをしてみたいなって。だから、作り方を教えてもらおうと」


 そうして照れたように顔を伏せた智絵里を見て、
 何とも微笑ましい気持ちになった俺は、

 溢れ出るニヤニヤとした笑いを悟られないよう、
 なるべく平静を装って彼女の質問に答えたのだ。



「それな……まゆの手作りなんだよね」

「…………えっ?」


 反射的に上げられた智絵里の顔、
 その表情、その視線が何かを捉えてこわばってゆく。

 だがそれもすぐに、電気が消えたことによって訪れた、
 暗闇によって見えなくなった。

 以上でおしまい。デレステで智絵里をお迎えした記念に甘々した話を書こうと思っていたはずが、
 本日は紅い人の誕生日と言うこともあり、なぜかこんな話になりました。

 それでは最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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