19世紀末少年「鳥のように、空を」 (26)





1898年、霧の都ロンドン。

10歳にも満たない少年はこの時、幾多もの馬車や蒸気自動車が行き交うウォータールー橋の欄干をよいせと乗り越え、東風によって波立つテムズ川を見下ろしていた。

両の手には、木の骨と羽布でできた大きな翼を。小さな体には、大いなる勇気を。震えていた足は覚束ないまま石造りの橋桁を蹴り上げ、彼は両の手を必死に羽ばたかせた。

そして、橋桁よりおよそ15m下の水面には、間もなく大きな水柱が上がった。






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これは、すでに熱気球が人を乗せて空を飛ぶようになっていた時代。

より自由に、鳥のように大空を飛びたいと強く願った、一人の男の話。



……
…………
………………







「クシュンっ!」


貧民街イーストエンドの路地裏。少年はずぶ濡れとなったその身を暖める術も無く、冷たい赤レンガに肩を寄せ、ただ寒さに体を震わせる。そして、大通りでの靴磨き三日分の稼ぎである2シリングをつぎ込み、完成させた“翼”の無残な姿を何度も見返しては、その度にため息をついた。

彼の初飛行は大失敗に終わった。高さ15mの橋から落下しながらも、怪我一つ無く生還したことは幸運と言う他ないのだが、学も無く一人で育ってきた彼に、そのようなことなど分かるはずもなかった。


「……ちく、しょうッ」


そんな無謀な挑戦によって、彼は二つのことを学ぶに至った。それは、浅はかな行動が招く恐怖心。そして、今後のそれを回避するための利口さを身に付けることだった。







………………
…………
……



初挑戦から一週間が経過したこの日、ウォータールー橋の欄干外側には、あの時と同じように少年が立っていた。だが、少年が手にしていたものはあの大きな翼ではなく、両翼が一枚の板状となった小さな鳥形の模型だった。

風向きは西、天候は晴れ。

これまで数回の食事を切り詰めて模型を製作したため、彼は以前よりやや痩せこけていた。だが、その目からは辛さや苦しさといった感情
が微塵も感じられない。彼の眼差しは、今まさにその手から羽ばたいた“鳥”の行方だけを真っ直ぐ見つめていた。

少年が知恵を振り絞り、図らずも導き出した“模型実験”という手法。それは、夢を叶える上で妨げとなる“恐怖”を極力取り除くためのアイデアだった。








ふわり。


“鳥”は一瞬、垂直に上昇を行ったかと思えば、そのまま一回転して真っ逆さまにテムズ川の水面を目指してゆく。


「あぁっ」


音を立て、テムズ川の水面に出来上がった飛沫と波紋が、そばを通りがかった小型の外輪船の起こす波によってかき消される。落胆する少年の真上を、幾多の鳩が群れをなして飛び去って行った。

彼の挑戦は、またしても失敗だった。

以前と違ったのは、彼自身がずぶ濡れにならずに済んだこと。しかし、彼は“自分自身が飛ぶ”という夢を諦めるようなことはしない。その証拠に、彼はこの後何度も模型を作っては、橋の上からそれを投げ続けて行ったのだ。








そして、あれから更に数週間が経過し、模型実験の回数はついに20を超えた。

今日の模型は“蛾”の形。少年は実験を重ねる度に、その時々の反省を生かして、それぞれ形の違う模型を作り続けた。だが、未だにそれらを真っ直ぐ、遠くまで飛ばすことは叶わなかった。

また、そんな少年の姿は、ウォータールー橋を通行する多くの市民の目に留まるようになっていた。


「おい、アイツ今日もいるぞ」

「変な奴……一体何がしたいのだろうか」

「あなた、注意しに行きなさいよ」

「嫌だね、貧民街の連中に因縁をつけられちゃたまらん」


大人たちは少年の身なりから、彼が貧民街の浮浪児だということを見抜いていた。下層階級の人々はその姿にさしたる関心は持たず、中流階級以上の人々も関わりを持とうとは決してしなかった。








「おい、君っ」

「!?」


実験がまたしても失敗に終わった直後、少年は後ろから不意に声をかけられたため驚いた。そして、その声の主が強面の中年男性、それも警察の姿だったこともあり、尚のこと驚いた。


「ゴホン、私はロンドン警視庁の巡査だ」

「え、え……」


少年は、何故巡査に声をかけられたのかが理解できず、たどたどしい応答を返す。








「君は今、ゴミの不法投棄をしていたな」

「ゴ……ゴ、ミ?」

「あぁ、私はさっきこの目で見たんだ」

「あれ、ゴミなんか、じゃ」

「……その上、ゴミを橋下の船にむかって投げつけようともしていた」

「違いま、す。そんなつもり、じゃ」

「君のような少年をしょっ引くのは心が痛むが、これも仕事なのでな」







強面の巡査は「さぁ」と口にし、大きな手を差し出してきた。

“だめだ、捕まる!”身の毛がよだつのを感じた少年は巡査の手を咄嗟に振りほどき、欄干を飛び越えて、長大なウォータールー橋を一気に駆けた。


「コラ!ま、待たないか!」


後ろから巡査の怒声が聞こえてくるが、待てと言われて待ちはしない。少年は必死になって、人ごみのなかを逃げ回ることにした。



……
…………
………………







やがて陽は暮れ、周囲の人通りはほとんどなくなった。

巡査の姿はもう、どこにも見当たらない。だが、一体ここはどこなのだろうか。少年は死にもの狂いで走り続け、いつしか見たことも無いような狭い通りへと迷い込んでしまっていた。

それもそのはず、ここはリージェント・クォトランドと呼ばれ、居住区の一切が設けられておらず、また少年と縁のないショッピングストリートの裏通りだったからだ。

もともと決まった住処を持たない少年は、元いた場所に戻れなくなったことよりも、突如襲いかかった自身の空腹を憂いた。巡査からの逃避によって、余計な体力を消耗したせいだ。少年は自身の不運に段々腹が立ってきて、足元の石ころを無意識にトンと蹴り飛ばした。








コロコロコロ。


「……?」


少年の蹴った石が転がって行った先には、見慣れない一台の車が停まっていた。

それは馬車でもなければ、仰々しい蒸気自動車でもなかった。よりスッキリとした外観の車で、黒塗りのボディに剥きだしとなった操縦席らしき座席には身なりの良い壮年の男性と、少年と同じくらいの歳の少女が座っている。

当時、この手の見慣れない乗り物を所有していたのは大体が貴族か、それに準ずる富裕層だと相場が決まっていた。だから、それを見た少年は“しめた”と言わんばかりに舌をなめずった。貴族あたりの金持ち連中なら、物乞の一つでもすれば大抵が応じてくれると知っていたからだ。

そうと決まればと、少年は未知の車へと近づいてゆく。








「……」

「――ッ!――っ!」


「……?」


だが、どうにも様子がおかしかった。その正体を確かめようと、少年はさらなる接近を試みる。




「お父様!お父様ッ!」

「ぐぅ……っ」


事情を尋ねる必要なんて、どこにもなかった。車を運転していた彼女の父親が、突如体調を崩したとみて間違いは無かったからだ。








「お父様、しっかりして!お父様!」


少女がこちらに気付いている様子は一切ない。目に涙を浮かべ、前のめりとなった父親をゆすりながら必死に声をかけていた。周囲に目を配っても、人影はどこにもない。その上、少女も気が動転して一体どうすればいいのか分からないらしく、父親を一人にすることができないため、医者を呼びに行くこともできないらしい。


「ッ!」


それから間もなく、少女は車のそばで立っていた少年の存在に気が付いた。


「や……やめて……!」

「?」








「わ、私はこどもだから……お金なんて持ってないの!だけど、お父様だけは……襲わないであげて!」

「え、襲……え……?」

「おねがい……!お父様だけは……お父様だけは……!」

「……」


どうやら、彼女は少年のことを物乞いどころか、貧民街のチンピラあたりと勘違いしてしまったようだ。酷い話だが、当時における人の身なりとはそのまま本人のステイタスとなり得る要素であったため、それも仕方のないことだった。

何も知らない少女は、彼に向かって必死に懇願を繰り返す。それを受けた少年は特別怒るわけでもなく、やがて自身の存在そのものが情けなくなって、本来の目的を果たせぬままその場を後にした。








「……」




コンコン。

……ガチャ。


「……んだよ、みすぼらしいガキじゃねぇか」

「お医者さま、あそこ……人、苦しそう」

「あぁー?何言ってやがる、今何時だと思ってる。ウチの診察時間はとっくに……ッ!?」








それは、“たまたま”付近で見つけた診療所だった。中から出てきた医者は、少年の後方に停まっていた車を見て、その態度を一気に変えた。


「あわわ……!だ、大丈夫ですか、ロード……!」


ドアの勢いよく閉まる音にかき消され、“ロード”の後に続く言葉だけが耳に入らなかった。が、それも少年にとってはどうでもいいことだった。医者が車に向かって駆けてゆくのを尻目に、少年は水銀灯に照らされた煌びやかな表通りへと出た。

結局、彼はそのまま一晩の間、一切の食事にありつくことができなかった。



……
…………
………………



今日はここまでです。

ちなみに、本作は完全なフィクションです。
歴史的な矛盾点などは、できるだけ無いようにしたいです

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