【モバマスSS】額縁の向こう側 (26)

 ――休養、ですか…。


 ――ああ、申し訳ない。俺の実力不足だ。


 ――いえ。私の実力が足りなかったんです。だからプロデューサーさんが持ってきていただいたオーディション、全てダメにして…。


 ――いい機会だから、少しリフレッシュするといい。最近、美術館回れてないんだろう。この機会に行ってみたり、学校の勉強だっていい気分転換になるかもしれん。


 ――ありがとうございます。少しだけお暇させていただきます。





 久しぶりの学校。学校に来ることには来ていたが、登校日に来るのは本当に久しぶりだ。アイドルとして今のプロデューサーにスカウトされてから、古澤頼子の生活は一変した。


 今まで縁の全くなかったダンスにボーカルレッスン。歩き方に話し方など色んなレッスンとオーディションを行うために学校に来れず、土日に来て補習やプリントの提出で足りない出席日を稼いでいた。


 頼子は友人に積極的に話しかけることをしないため、クラスの中心から一歩引いたところにいる。そしてアイドル活動をして学校に来る日が少ないため余計に友人が少ない。


 早くに学校に来ても、クラスメートから挨拶をされるどころか、逆に驚かれてしまう。


「……」


 頼子はそれも気にせず、美術雑誌を開いて美術館に展示されている絵画を見ていた。


「ふーん。『フェルメール』ねえ」


「!?」


 背後から少年の声が聞こえ、頼子は思いきり身をびくつかせ開いていた雑誌を自分の身体をかぶせて隠した。


 恐る恐る声のする方を振り向く。一人の男子生徒が困惑した表情で立っていた。


「ああ、ごめん……。そこまでビックリするとは思わなかった。悪い。古澤」


「いえ、こちらこそ。予想以上に驚いてしまって……。ゴメンなさい」


 彼は同じクラスの男子生徒。勉強は真面目に受けて、比較的中心的な人とも談笑している。というのが頼子の持つ彼の評価だ。少なくとも頼子を茶化すことは無いはず。


「この絵の作者、知っているんですか?」


「親父がそういう画を見るのが趣味で、一緒に行くんだよ。美術の教科書にもあるし有名だろ。絵の名前はサッパリだけど……」


「これは『真珠の耳飾りの少女』というタイトルです。今から三百五十年前に描かれたものです」


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 頼子は雑誌の見開きを見せて、頼子が解説する。


「ふーん。三百五十年前だと、日本は江戸時代か」


「その頃のフェルメールは三十三歳ほどだったそうです。面白いのはこのモデルの少女は誰だか分かっていないそうです」


「あー、何か親父もそんなこと言っていたような気がする」


「お父さんは本当に絵画が好きなんですね。ちょうど今週末からこの作品が県美術館に展示されるんですよ」


「だから、親父はやけに張り切っていたのか……」


 男子生徒はだるそうなため息をついた。


「もしかして……」


「そ。チケット渡されてね。『開館から閉館まで見てやるぞ!』ってスゲー息巻いてんの」


 男子生徒が、父親のモノマネをしながら話すのを見て、頼子は微笑んだ。


「好きなんですね。お父さんが」


「まあ、度が過ぎた絵画鑑賞以外は良い親父だと思うんだ。それも他人を巻き込まなければ……」


「それ、私もご一緒していいですか?」


 頼子の言葉に男子生徒は目を大きくさせて驚く。


「うえ!?古澤、止めとけ!というか止めた方が良いぞ!見るなら一人で、絶対俺たちに声をかけないで見た方が良い!」


「美術鑑賞を趣味にしている人って少ないんですよ。ですから、お父さんと少しお話してみたいなって」


 男子生徒は少し迷って、


「まあ、赤の他人の方が止めやすいっていうのもあるか。――良いよ。土曜日の朝一に学校の最寄駅待ち合わせでいいか?親父にスケジュール聞いてみるよ」


「ええ。それでお願いします」


 その後、男子生徒と頼子はお互いの連絡先を交換していつもの学校に戻る。

 土曜日――


 最寄駅に頼子がついたのは午前六時半。休日ということもあり人通りは閑散としている。


 頼子は襟に茶色のフリルがついた水色のブラウスに、少し濃い水色のロングスカート。黒のパンプスで左手に白のハンドバッグを持っている。


 程なくして白のワンボックスカーが頼子の前でハザードランプを付けて停車する。助手席から男子生徒が下りてきた。


「古澤!待たせたか?」


 少年は黒のカーディガンの中に白のボタンダウンに青のジーパン姿で白のスニーカーを履いていた。


「いえ。私も今着た所なので大丈夫ですよ」


「…本当にきついぞ?」


 少年は真剣な表情で釘をさす。


「ええ。むしろ嬉しいくらいです」


 笑顔の頼子を見て少年は唸ってしまう。


「…もし辛かったら言ってくれよ。じゃ、行くか」


 頼子を後部座席に乗せて、少年は助手席に座った。


「おはようございます。今日はよろしくお願いします」


「おう。こちらこそよろしく」


 運転席に座る少年の父親の面影は少年そっくりだが、頭髪は残念なことになっていたが、隠す様子もないのは些末な問題ということだろうか。


「しかし、美術館に来たい奴がいると聞いたが、まさか女の子でこんなに可愛らしい子だったと思わなかったよ。もしかして――」


「あーあー。そういうんじゃないから。ただフェルメールに興味があるから一緒に行くかって誘っただけだから」


 父親の言葉を遮って少年が鬱陶しそうに話す。


 美術館までは車で一時間弱の距離で、その間の車内は頼子と父親の美術館で見てきた絵画を、彫刻を話していた。


 少年は次々に飛び交う作品名と作者名に彼は呆然と聞いていた。もちろんその中には初めて聞く名前も出てきている。

 ――親父の美術話にも付いていってる。古澤ってすげえんだな……。


「そう言えば、古澤さんってどこかで見たことがあるんだけど、どこだったかな?」


「古澤は、アイドルやってたんだよな?」


「ええ。多分、美術館のポスターだったと思います」


「ほう!古澤さんはアイドルだったのか!」


「ですが、今はお休みしています……」


「そうか、まあ今日はたくさんの絵画を見て回ろうじゃないか」


 美術館に着いたのは開館から一時間半前の八時半。これでもコンビニでおにぎりと飲み物を買ってきてもこの時間だ。入り口にはもちろん誰もいない。


「少々早かったかな?」


「少々じゃねーよ。全然早いって……」


「そう、でしょうか?」


 少年の意見に首をかしげたのは頼子であった。


「一番乗りして、見たい絵をじっと見る。素晴らしいことだと思います」


「そうだよな。今日は初日だからどっと人が来るだろうから、そんなに見れないかもしれないが、早い時間に行けばその分だけ見れるからな」


「ええ。今回は特に著名な絵ですから。少しでも間近で見れる時間が欲しいですね」


「今回メインの絵はここのコーナーにある。最短距離は――」


 今度は美術館のパンフレットを開いて、メインの絵までの最短距離を指でなぞってみせる。


「そうですね。くれぐれも美術館では走らないようにしなければいけませんね」


 その後もメインの絵を見終わった後の絵画の見る順番や、飾られている画の情報を共有し合うなど、頼子は父親に負けずの知識を披露していく。父親の方は長年回っている分色々あるが、それについていける頼子に少年は感心しきりだ。

 ――古澤って、本当に美術館回り好きなんだな……。


 二人の話をたまに聞きながら携帯電話を操作していた。


 そしてようやく開館時間となる。一時間半待って、少年が後続を見ると十数人が並んでいた。


「結構いるんだな」


「フェルメールでも最も有名な絵ですから。真珠の耳飾りの少女は」


 開館時間になり、父親も頼子もまるで競歩の選手のように走らない程度の早足で目的の絵の前にたどり着く。


「わあ……」


 その時の頼子の表情はまるで花開いたそれで、じっと絵を見つめていた。それを少年はじっと見ていた。


「どうしたんですか?絵はこちらですよ?」


 絵を見ずに呆けている少年に頼子は注意を受けてしまった。


「あ、ああ……。そうだったな」


 少年は絵を見るが、先ほどの頼子の表情が頭に残って集中できなかった。


「おい。行くぞ」


 父親に三回言われるまで少年はずっとフェルメールの絵を見続けていた。


 その後、他の絵を見ながら父親と頼子は何かを話し合っているが、それを少年は離れた所で見ていた。


 ――そんなに何を話すことあるんだよぉ……。


 美術館全ての作品を見終えるのに、昼も過ぎて閉館時間まで残り1時間を切っていた。


「すげえな。何でそんなに話すことあるんだよ……」


 少年は呆れながら二人に話す。


「それは……。この作品が生まれた背景、その時の作者の思い……。それらを話しているとまた新しい発見が……」


「そうだなあ。頼子ちゃんの考察はすごく面白いから新しい発見が出てくるんだよ。全く若いというのに博識で驚いたよ」


「一枚一枚やってたから、本当にこの時間までかかるとは思わなかったよ……」


「そう言えばお昼どうしようか?」


 すでに夕方になっており、お昼というよりも夕飯の時間である。

「いえ、さすがにお夕飯まではご馳走していただくわけには……」


「まあまあ、美味しい中華料理屋があるんだ。今から行けば間に合うだろう」


 父親が半ば強引に連れて行こうとするので、少年はもう一度頼子に聞いた。


「本当に良いのか?」


「少し美味しいという言葉が気になったので」


 二十分ほど車を走らせたところにある一軒家風のレストランだった。


「あー。やっぱりここか」


「来たことあるんですか?」


「うん。ここは美味しいんだけど、結構辛い料理が多いんだよ。麻婆豆腐とか、担担麺とか辛いの食べて喉とか大丈夫か?」


「ええ。今はお休みしているので問題ありませんよ」


 中に入ると、まだ六時前というのにテーブル席が一つだけ空いている状態だった。頼子が一人座り、対面に少年親子が座る。


「何でも好きなの頼んでいいからね」


 メニューを見て頼子は一押しの麻婆豆腐とご飯のセットを頼んだ。


 少年も頼子と同じのを頼み、父親は五目あんかけ定食を注文した。


 頼んだ後も、フェルメールの絵の感想を頼子と父親が話し合うので、少年は一人携帯で暇をつぶしていた。


「はい。麻婆豆腐セットです」


 先に頼子に食べさせて反応を楽しむ。


「はむっ。つっ…。~~!」


 頼子はすぐにコップに手を伸ばして半分近く口に入れた。


「すごく辛いですね……」


「ここのは有名な中華料理人の弟子の人がやってるんだ。本格四川料理だよ」


 それを聞いて頼子は納得するように小さく頷いた。


「これが本物の味……」


 レンゲですくって口に入れる。すぐに辛みが襲ってきたが、我慢して次の一口を入れる。すっかり顔は真っ赤になっていた。


「辛みがやばい時はご飯で中和するといいよ」


 少年のアドバイスを無言で頷いて、ご飯を口に入れる。

「ふう……。本当に辛いですね……」


「俺も辛いのは苦手だけど、ここの麻婆豆腐は絶対食べたいんだよね」


「でも、辛みの奥にある旨味は素晴らしいです。豆腐とひき肉だけなのに、不思議です」


 頼子の感想に男二人は感心してしまう。


「さすがアイドルだな……」


「ああ」


 その後は三人で楽しく食事をして店を出るときにはすっかり暗くなってしまった。


「頼子ちゃんの家まで送っていくよ。暗くなって何かあっちゃ大変だからね」


「あ、すみません。ありがとうございます」


 頼子の自宅まで約一時間、車で揺られている途中で頼子は眠りについてしまう。


「おい」


 父親が後ろを指差して少年を後ろを向かせる。


「……」


 頼子が背もたれにもたれかかって完全に眠っていた。


「美人だな」


「アイドルだからな」


 それ以上の言葉はやり取りせず、頼子の家まで彼女を送り届けた。


「本当に今日はありがとう」


「親父も楽しかった言ってたし、こちらこそありがとう」


「それじゃあ、月曜日ね」


「おう、またな」


 頼子が家の敷地に入ったところで少年も車に乗って別れた。

 月曜日。


 いつものように学校へ来ると、頼子はすでに学校へ来ていた。そして相変わらず美術雑誌を読んでいた。


「うっす」


「おはようございます」


 少年が頼子に声をかけると、彼女はこちらを見て頭を下げた。


「先日はありがとうございました」


「こっちも楽しかったよ」


 そして少年は雑誌のページを見ると、今度は違う作品だった。


「また新しい作品が展示されるのか?」


「はい。今度は少し遠い隣県の美術館です」


 頼子が雑誌を渡されたので、それを見る。白い外壁の家の前に一組の老夫婦が立っている。男性は三又のピッチフォークを持っている。


「グラント・ウッドだよな?」


「すごいですね。その通りです。作品名はアメリカン・ゴシックです」


「へえ。これが隣県のねえ。さすがに遠いな見に行くのか?」


「はい」


 即答出来てしまうあたり頼子の美術館好きは大したものだ。同世代でそんなの言えば引かされてしまう。


「場所が場所なだけに、これは一日がかりだなあ」


「あの……。それで、もし良かったら一緒に行きませんか?」

 放課後。


 学校からまっすぐ帰ってきた少年は帰ってきてバッグを机の上に置いて、自分のベッドに飛び込んだ。


「落ち着け。考えろ、考えろ……」


 今朝頼子に言われた言葉を反芻する。


 ――もし良かったら、一緒に行きませんか?


 すぐに体を起こして、パソコンを起動させてインターネットで目的地の場所を調べる。まず電車に揺られて約1時間半。そこからもう一度乗り換えて約二十分で着くようだ。


 開館時間は午前十時。普通に考えてほぼ一日一緒に二人っきりだ。


「これってデートだよな?デート以外に何があるってたんだよ」


 今度は携帯を開いてスケジュールを開く。ほぼ白紙で今週の土日を開く。やはり白紙だ。


「予定は無し……。じゃあ、行けるって送っていいんだよな……」


 少し考えて、何かあると嫌なので少年はリビングでドラマを見ていた母親に終末なにも無いかを確認する。


「あるわけないじゃない。お父さんも休みじゃないし」


「そうだよな。ありがとう」


 去り際の息子に、へんなの。と呟かれるが少年の耳にはもうそれは入っていなかった。


『その日は空いているから。行ってもいいよ』


「だめだ!これじゃ上から目線じゃねーか!」


 少年は下書きのメールを消して一から本文を打ちはじめる。


『その日はオッケーなので。行けますよ。』


「なんか違うなあ……」


 その後も書いては消し、書いては消しを繰り返し、ついに夕食の時間になってもそれが完成しなかった。


 結局、それが遅れたのは日付も変わろうかという深夜。しかも本文は『問題ない。行ける』の二言だけだった。


 頼子はもう寝ているらしく、返事が来たのは翌朝。『ありがとうございます。では当日。』と書かれてあった。


 ――本当に女子と二人きりで行くのは初めてな少年はデート当日まで様々な場面を想像しながら頼子をどうリードしていくかを考えていく。


 そして当日。頼子の最寄駅に予定よりも三十分早く着いた。昨晩は緊張のあまりほとんど眠れなかった。

「おはようございます……」


 程なくして頼子がやってきた。服装は前回と同じだが、ビニール傘を右手に持っている。


「あれ?今日雨降るっけ?」


「はい。と言っても向こうですけど」


 すぐに少年は携帯を取り出して目的地周辺の天気を調べる。すると向こうはすでに雨が降っていた。


「あ、本当だ。傘買わなくちゃ……」


 二人で傘一本はかなり良くない。相合傘なんてとてもじゃないが出来ない。


「大丈夫ですよ。この傘かなり大きいので、二人でも入りますから」


 頼子が笑顔で話すが、本当に事の重大さを分かっているのだろうか。


「そ、そんなわけにはいかないよ。駅の売店で買ってくるよ」


 頼子に目的地までの切符をお願いして、その間に売店でビニール傘を一本買ってきた。


「これ、切符です」


 少年は印字された切符代を頼子に返し、改札をくぐって目的地行きの電車を待つ。


 電車が来るまではまだ十五分ほどあり、待合室は休日で利用している人が少ないが、少年は落ち着かない。こんなところを誰かに見られてしまったら。と考えてしまうと何も話せない。


「これ、向こうのパンフレットです。見ますか?」


 ハンドバックから二つに折られたパンフレットを手渡される。


「あ、ありがとう……」


 パンフレットを開くと、もうすでに今回見に行くアメリカン・ゴシックの絵が入った新しいパンフレットであった。

「もう行ってあるのか?」


「いえ、返信用封筒を入れて事前に貰ってきたのです」


 現地に行けば無料でもらえるものをわざわざお金を使ってまで取り寄せる。本当に頼子は美術館が好きだと思える一面だ。


「詳しく見ていくと、それ以外にもその件ゆかりの芸術家が書いた作品や、モチーフになった作品も展示されているようだ」


「やっぱりメインはアメリカン・ゴシック?」


「それもありますが、やはりその土地ゆかりの方の作品も見たいですね。同じくそこだけでしか見れませんから」


 電車がやってきて運よく二人分座れるスペースを見つけ二人は隣り合って座る。左右を見渡して知り合いが誰もいないことを知ってホッとする。


「さっきからどうしたんですか?」


「いや、知り合いがいないか調べてたんだ。いたら大変だろ?」


 少年が恥ずかしそうに話すが、頼子は特に何も変わった様子がなく首をかしげた。


「だ、だってこれってデートじゃないのか?二人きりで遊ぶなんて……」


 少年の言葉ですべてを理解したのか、頼子のは一気に顔を赤くして鎌首をもたげてしまった。


「お、おい。大丈夫か?」


「は、はい……。そうですよね。これってデ、デートですよね……。すいません。私、そのことをすっかり……」


 互いに意識してしまい、目的地までの一時間半を無言のまま過ごしてしまった。


「あ、ここで乗り換えます……」


 電車を降りて頼子の後を少年はついていく。やはりその時も二人は言葉を交わさない。


 乗り換えた電車は二駅ほどの距離ですぐに降りる。駅名にしっかり県立美術館前と書かれてあった。


 駅を出ると雨が降っており、傘を差さなければずぶ濡れになってしまうほど強かった。


「行きましょう……」


 歩いて五分の距離で目的地の県立美術館に到着する。今日は雨模様からかカニ缶時間前でも人の並びは無く頼子たちが一番乗りだった。

「今日はどういう順で見るの?」


「そうですね。今日は並んでいる方が少ないので、アメリカン・ゴシックを出来る限りみたいなと。人が多くなってきたら、外れてゆかりの芸術家の作品を。と思っています。何か見たいものがありますか?」


「俺は、特にないかな?アメリカン・ゴシックに興味あるくらいだったし」


「そうですか。ありがとうございます……」


 開館時間になって二人はアメリカン・ゴシックの絵に一直線で向かう。誰もいない美術館に二人の男女が一つの絵をじっと見つめている。


 しばらく絵を見ていると頼子によるアメリカン・ゴシックの解説が行われた。作者の生い立ち、描かれた背景を教えてくれた。


「本当に詳しいな古澤。将来は美術の先生?」


「いえ、そこまでは何も……。アイドルだってまだ中途半端ですし……」


「アイドルはどうするんだ?」


「……分かりません」


 そのまま頼子による美術品の解説は続き、全て終わる頃には午後三時を回っていた。


「そろそろ出ないか?お腹も空いたんじゃない?」


 少年の言葉に頼子は自分の腕時計を確認する。


「本当だ。ごめんなさい……。退屈じゃありませんでしたか?」


「いや。古澤が楽しそうだったから退屈じゃなかったよ」


 少年の感想に頼子は顔を真っ赤にした。


「もう……。恥ずかしいです……」


 二人は美術館を出て、近くの洋食屋で遅い昼食を摂る。少年はハンバーグ。頼子はハヤシライスを頼んだ。

「私、そこまで楽しそうでした?」


 料理が出るまでの間、頼子は先ほどの解説のことを聞いてきた。


「うん。何て言うのかな。雰囲気かな?すごく柔らかった。学校で見せないような、そんな感じだった」


「柔らかい感じ……。具体的にどんな感じでしたか?」


「うーん。楽しそうな感じ……。これって答えにならないよね。難しいな……」


 少年から答えを引き出せないまま、料理が来てしまいここでいったん中断して料理を食べ始める。


「あ、美味しい……」


「本当だ。近くの店に入ったけど当たりだね」


 微笑みながら昼食を食べて、電車で戻る。そこで少年は疲れて眠ってしまったが、頼子は先ほどの彼の言葉を反芻して考えていた。


 そしてそのまま時間が過ぎて、二人が降りる駅に到着した。少年は眠っていたので、頼子が起こして乗り過ごさせないようにする。


「寝ちゃってたのか。悪い……」


「いえ、私も考え事をしていたので、今日は本当にお疲れ様でした」


 そのまま帰るのかと思いきや、頼子はまだ動かず少年を見続け、


「あの、来週の土曜日もお時間ありますか?」


 少年は帰宅し、リビングにいる母親に土曜日も予定がないかを確認する。やはり来週も予定はないようだ。


 自室に入り、ベッドで横になりながら頼子にメールを打つ。もちろんOKであると。


 返信して数分後に頼子からメールが届く。『ありがとうございます。では今日と同じ時間にお待ちしています』と書かれてあった。


 ――これって、俺に脈があるんだよな?


 デートの後にデートの取り付け。まるで恋愛シュミレーションゲームのような出来事で、しかも女の子の、アイドルからのお誘いだ。これはもう意識するなというほうが無理な話だ。

 そして次の週の土曜日。朝早い時間で、長い電車移動でも苦にならない。


「おはようございます。今日もよろしくお願いします」


 今回行く美術館は、西の隣県の県立美術館。目玉作品はパオロ・ウッチェロの『聖ゲオルギウスの竜退治』と呼ばれる作品があるらしい。


「1400年代を代表するイタリアの画家です」


「確かこの人は、遠近法の描き方がすごいって親父が言っていたな。『大洪水と終息』が代表作だと」


「さすがです。その通りです」


「生の作品を見たことないから楽しみだな」


「ええ。素晴らしい作品ですから楽しみにしていてください」


 電車で目的地に向かう頼子は終始笑顔でパンフレットを見ていた。


 最寄駅に降りると、今度はバスで県立美術館へ向かう。


 そして県立美術館に付くと、天気も良いからか、開館を待つ客が数人並んでいた。


「今回は一番乗り、というわけにはいかなかったね」


「ええ。でも十分に見れると思います」


 開館時間丁度に開門され、メインの竜退治の絵を二人で鑑賞する。


「すげえ……」


 竜退治の絵は、騎士の槍が竜を貫いている部分を描いたもの。人の大きさと洞窟。そして最奥の山の稜線の遠近法がまるで写真のようで奥行きを感じる作品だ。


「この作品が今から600年前に生まれた作品なのか……」


 ここでも頼子の解説が始まり、少年はそれを彼女の表情込みで見ていた。


「そうか。分かった」


 少年が指を鳴らした。


「何が分かったんですか?」


「先週の謎。今話している時の笑顔が柔らかかった」


「笑顔が柔らかかった?」



「そ。話の腰を折ってゴメン。続きお願いします。先生」


 頼子は少年の言葉を意識してしまったのか、少し恥ずかしながら解説を始める。そしてそれが続いていくと意識しなくなっていったのか、先ほどの柔らかい笑顔に戻って行った。


 次の瞬間、携帯カメラのシャッター音が響いた。静かな美術館だからかなり大きい音に聞こえた。


「良い笑顔だった」


「もう、美術館では撮影禁止です。次からはしないように」


 頼子は顔を赤く染めながら注意した。その後、


「その写真、後で送ってください」

 美術館回りで得たのは知識だけじゃない。自身も手に入れた。


 少年が撮ってくれた心から楽しんでいる自分の写真。確かにこの笑みはアイドルで行き詰っていた時にはできなかった表情だ。


 ――この表情が出来れば、また……。


 そして再び古澤頼子の名前が出てくるのに、時間はかからなかった。


「次は午後二時。美術雑誌のインタビューだ」


「は、はい……」


 頼子が編み出した笑顔の表現は、瞬く間に評判を得て人気アイドルに変わっていった。この前までの美術館回りなどできるわけもなく、学校にも来れない日々が続いていった。


「ふう……」


 車内で買ったサンドイッチを食べながらため息をつく。


「疲れたか?」


「少し……。でも、この忙しさが嬉しいです。あれこれ考えずに済みますから」


「そう言ってくれると助かる。さ、行こう」


 本日三件目の仕事場に入る。


「ただ今戻りました……」


「はい。お疲れ様」


 事務所に戻ってきたのは条例時間ぎりぎりで、今日は5件の仕事をこなした。


 ふらふらの足取りで事務所のソファーについて、大きく息を吐いた。


「少し休むか。コーヒー持ってくるよ」


「ありがとうございます……」


 程なくコーヒーを持ってきたプロデューサーがやってきた。


「驚いたよ。この短期間であれだけの笑顔が出来るなんてな」


「あれは……。練習の成果です……」


 本当のことは言えず、練習という言葉ではぐらかした。


「独学でか……。さすがだな」

 お互いにコーヒーを何口か飲んで、プロデューサーが口を開いた。


「頼子。俺と付き合ってくれないか?」


「え?付き合うって?」


「俺と結婚を前提に付き合って欲しいんだ」


 プロデューサーの真剣な表情が、本気と気づき動きが止まってしまった。


「そ、それは……」


 頼子はぐるぐるとまわっている思考の中で、何とか結論をはじき出す。


「ご、ごめんなさい。それは…できません」


 頼子は頭を深く下げて謝った。それを見たプロデューサーは笑みを浮かべて、


「それは残念だ。さて、あまりここでダラダラしてても仕方がない。送ってくよ」


「ありがとうございます」


 乗っている車内の中で頼子はじっと運転している男性を見ていた。


 ――ごめんなさい。その気持ちは受け取れません……。裏切れませんから……。

 久しぶりにまとまったオフになり、久しぶりの学校に通う。


「うっす。久しぶり古澤」


「お、お久しぶりです……」


 少年とも久しぶりに会い、頼子は戸惑った表情で挨拶を返す。


「あ、あの……。放課後お時間取れますか?」


「放課後?――まあ、良いよ。美術館めぐりの算段か?」


「まあ、そんなところです……」


「そっか、次どこ行くか楽しみだよ」


 笑顔の少年を見て、少しだけ頼子は顔を赤くしていた。


 放課後――


 久しぶりの美術館めぐりの計画を立てているうちに、教室は頼子と少年だけになっていた。


「あ、もう俺らしかいないのか」


「そ、そうですね……」


「そろそろ帰ろうか」


 少年はバッグを持って帰る準備をするが、頼子はずっと座っている。


「あ、あの……」


 頼子が顔を赤らめて、二度深呼吸をする。彼女が歩み寄って二人の距離がゼロになった。


「ど、どうしたんだ古澤……」


「私と付き合ってください……」


「え!」


「あなたのおかげで、私は笑顔の本当の意味を見つけることが出来ました。あなたとなら、その先も見つけられそうなそんな気がするんです。だから」


 震えていた頼子の手を少年が握った。


「俺でいいなら、喜んで」


「あなたが良いんです」


 頼子が少年の手を握り返した。

 それから頼子のアイドル生活は順風満帆。メディア露出とライヴの出演とトップアイドルの階段を着実に上っていた。


「それじゃ、今日はお疲れ様」


「お疲れ様でした」


 事務所を後にして、一人で少し歩く。その前に人影。それを見て頼子は笑顔を浮かべる。


「古澤。今日のライヴも最高だったよ」


「ありがとうございます。あなたの教えてくれた笑顔で、今日も頑張れました」


 二人はどちらが言葉をかけることなく互いの唇を重ねて行った。

以上でございます。
今日も勝とうぜバファローズ。

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