鷺沢文香「読み終えたら、またここに来てください」 (59)

台風が過ぎ去って、そのせいで陽射しが強くなっていたから、あの時期はいつもに比べて暑い方だったのだと思う。

土砂降りのせいで家に閉じ込められていた僕は、雨が遠くに行ってしまった瞬間、溜めこんでいた何かを爆発させたかのように友達の家に電話をかけ、毎日のように遊びの計画を立てていた。

今日はあいつの家に集まってゲームをする。明日はあいつのお母さんの車に乗せてもらって、プールに行くんだ。明後日は自転車で、昔家族で行ったあの場所まで行こう。結局途中で自転車がパンクして、半ベソをかきながら自転車を押して帰ったのだが。

そんな思い出の一幕の中で、とりわけ記憶に焼き付けられている日がある。
あの日は確か、いつも遊んでいた友達がお婆ちゃんの家に行ってしまって、他の皆も塾だ何だとすぐに帰ってしまったから、仕方なく日が沈む前に家路についたのだ。

夏という季節は、四季の中でも一番振れ幅の大きいものだ。
家を出たときが嘘のように空を灰色が包み、地面に影とまだら模様を作っていく。
すっかり雨に嫌気がさしていた僕は、ずぶ濡れになりながら帰宅するのが嫌で、どこかで避難することを選んだ。
この雨をやり過ごせるならどこだっていい、そう思って入った建物は、扉を開けた瞬間に古い臭いがした。

カランカランという呼鈴の音が、ザーザーという音に紛れまいと静かにだが強く響く。
独特の雰囲気を臭いとともに醸し出していたその店は、どうやら古い本屋のようだった。
だが、何よりも早く視界に入ったのは、所狭しと詰められた本ではなく、店の奥にあるカウンターに本を積み、視線を手元に落とす、髪の長い女性だった。

蝉の鳴き声と雨の音が、一瞬だが遠くに聞こえた。

モバマスSS
公式と噛み合わないようなところがあるかもしれない


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僕は、別に本が好きではなかった。
読むのが苦であったわけではない。だが、だからといって大きな休み時間には図書館に足を運ぶというような、そんな殊勝な子供でもなかった。
この場所が古本屋だったことも知らなかったし、入った理由だってただの雨宿りだ。店の屋根にこそ助けられど、店の中にまで用があるわけがない。この降り方はにわかだ、焦らずとも少し待っていればすぐに家へ帰ることができただろう。
だが、そういったものとは裏腹に、僕の足は店の奥、カウンターの前へと僕を運んでいった。

女の人が顔を上げる。長い髪が少しばかり揺れた。前髪の隙間から二つ水晶のようなものが見えた。それを見た瞬間に、僕は何をしにここまで来たか、どうしてここまで歩いてきたか、そのことすらも忘れてしまった。
長い静寂が続いた。

「……あの」

先に静寂を破ったのは、僕の方だった。

「……あっ、はい……」

「……あっ、あの……」

「……はい」

「……ここってっ、本屋なんですか?」

「……はい、そうですが」

「あっ、あの、感想文、宿題で出てて、その……」

入ってくるや否や話しかけてきて、あまつさえ本屋の中で「ここは本屋か」と聞いてくる挙動不審な子供。彼女はそんな僕に呆気にとられているようだった。
僕が言葉を紡げなくなって、数秒だけ間が空いた。

「その……つまり、本をお探しなのでしょうか?」

「えっ……あっ、はい」

「……どのような本でしょうか」

「あっ……あの、まだ決まってなくって……」

「……どんな話が、好きなのですか?」

「えっ、えっと……」

「……少し、待っていてください」

彼女は、手元に置いていた本に栞を挟むと、ゆっくりと立ち上がり、店の奥へと入っていった。

一人居心地悪いまま佇んでいると、しばらくして、彼女が大量の本を抱えて、おぼつかない足取りで戻ってくるのが見えた。彼女が本をゆっくりとカウンターに下ろすと、視界が本でいっぱいになったので、少し左側に体を移動させた。

「…あの、これ……」

「…その……お客様が本をあまり読まないようでしたので…私なりに、読みやすいものを選んでみたのですが……」

「えっ」

「……もし、その中に気になる本がございましたら、声をかけていただければ……」

「あ、は、はい」

「…では…」

「あ、じゃ、じゃあ、教えてくれませんか」

「……はい?」

「あの、どの本がどんな話なのか、簡単にでいいので」

結局のところ、僕は彼女と少しでも長く話したかったのだ。ただ、その方法があまりにも一方的自己中心的なものであったために、彼女にさらに度を越えた親切を求める羽目になってしまったのだが。彼女はそんな迷惑な子供に対して、一つ一つの本のことを、まるで自分の子供を自慢するかのように語ってくれた。僕はそれを、絶対に聞き逃さまいとじっと聞いていた。

どれくらい時間が過ぎたか分からなかった。彼女は全ての本を語り終えた。

「…これで、全てですね。興味を惹くものはありましたか?」

「はい。これとか、すごい面白そうでした」

「…では、その本にしますか?」

「はい。これください」

「…かしこまりました。500円になります」

「……あっ」

「…どうか、しましたか?」

「……あの、ごめんなさい。お金が、足りなくて……ごめんなさい……」

「……」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

気づけば、僕は涙を流していた。読書を中断させてまで店の奥からたくさんの本を引っ張り出させて、そして語らせ、そこまでさせて本一つ買えない。その事実があまりにも情けなく、涙を止めることを許させなかった。

彼女は、そんな僕を黙って見ていた。そして、自らの財布から500円玉を取り出すと、本とともに僕の手の上に置いた。

「……えっ?」

「500円丁度…お預かりいたします」

「えっ……でも……」

「大丈夫ですよ」

「…大丈夫じゃ……ないです……」

「…大丈夫じゃ…ないですか?」

「大丈夫じゃないです……」

「……では、貸したということで。いつか返していただければ……」

「……いつまでですか」

「……あなたは、いい子ですね」

「……いい子じゃないです」

「いい子ですよ」

「……あの」

「…はい」

「次もまた、本教えてください」

「……はい。私でよければ」

お姉さんがいいです。そんな背伸びした言葉は、それでも届きそうな気がしなくて言えなかった。

「では、その本を読み終えたら、またここに来てください」

「はい」

「……お待ちしていますね」

そう言って、彼女は微笑んだ。前髪の後ろの水晶が輝きを増したように思えた。

僕は何事か返した後、そそくさと店を出て自転車に飛び乗った。雨はすでにどこかに行き、その代わりと言わんばかりに、太陽がいつもより必死になって陽射しを地面にぶつけていた。喉が渇いて仕方がなかった。自転車を漕ぐ脚と心臓の鼓動が早くなっていた。息切れが激しい。
とても暑い日だった。

続き書いてきます



「ごめん、今日は用事あるから」

放課後のゲームの誘いに断りを入れて、家へと向かう。
玄関を開けてランドセルを投げ捨てると、傍らにおいてある財布を開け、中身をもう一度確認する。
500円玉はしっかりと入っている。よし。
無造作にポケットに突っ込み、外に出てさっさと自転車にまたがると、力の限り足を踏み出す。
後ろから聞こえる母さんの声がどんどん遠ざかっていった。

あの出来事の後、僕はすっかり本の虜になっていた。
彼女―後から知ったが、鷺沢さんと言うらしい―に本の代金を返しに行った際に、
興奮冷めぬまま感想をべらべらと喋ってしまったくらいである。
彼女も、本を好きな人が増えたことを素直に喜んでいたようで、また僕におすすめの本を教えてくれた。
いつの間にか、鷺沢さんが勧めた本を買って、その感想を500円玉とともに伝えに行くのが僕の習慣になっていた。

この前の本は面白かった。
推理小説を勧められたときは正直絶対についていけないと思ったのだが、
気が付けば最終ページを前もって見ることもなく、その事件の一部始終に囚われてしまっていた。
鷺沢さんの教えてくれるものに外れはないのだ。次は、どんな本を教えてくれるのだろう。

そんなことを考えていると、あっという間に古書堂が目の前だ。
自転車を日陰に止めると、いつものように扉を開けた。

この店はいつも静かだ。
店長さんも鷺沢さんも寡黙だし、ここに出入りする人も数少ない常連さんばかりだから、
そもそも店内で会話が発生すること自体あまりないのだそうだ。
音楽をかけているわけでもないから、店内に響くのは呼鈴と足音くらいのものだ。
だからその日は、店内に話し声が漂っていることに対して、違和感を覚えたのである。

扉を開けたことで、呼鈴の音が響く。
それを引き金に会話は止み、会話の主であろうスーツ姿の男は鷺沢さんに何事か話しかけた後、僕を通り過ぎ、扉を開けて出ていった。
また呼鈴が鳴った。
先ほどは彼らの会話を止めるベルとして機能したそれが、今度は僕たちの会話を急かすゴングのように聞こえた。

「…いらっしゃいませ」

「……こんにちは。本、読みました」

「…いかがでしたか?」

「面白かったです。推理小説ってすごい難しいのかなって思ってたんですけど、そんなことなくって」

「…それは、良かったです」

「こういうのなら、他のミステリーとかも興味持って読めそうだなって思いました」

「…サスペンスやミステリーというと、やはり皆様敷居が高いように感じられてしまうようで…
その入り口を開くことができたのなら…嬉しい限りです」

鷺沢さんは本のことについて話す時、無意識に顔をほころばせる。
本の面白さを語れること、そしてその本の面白さが共有できるのがよほど嬉しいのだろう。
そんな彼女を見ていると、今この笑顔を見ているのはここにいる僕だけの特権なのだと、
ささやかな優越感に浸ってしまう。

だがその時、何故か先ほどの男のことがひっかかった。
見慣れないスーツ姿、聞き慣れない声。あの男は何者で、そして鷺沢さんに何を話しかけていたのだろう。
何故か、胸のあたりにもやもやとした塊ができて、大きくなっていくような感触を覚えた。

すみません明日早いので寝ます
明日明後日も忙しいので更新できないかもです

「……どうか、しましたか?」

気づけば、鷺沢さんが僕の顔を覗き込むようにこちらを見つめていた。
あまりにも真っすぐと見つめられ、思わず視線を外してしまう。
鷺沢さんはそんな僕を不思議そうにし見続けていたが、
僕が平静をできる限りに装うと、やがていつも通り店の奥へ本を探しに行った。

本と鷺沢さんを心待ちにしていると、彼女は程なくしていくつかの本を抱えて戻ってくる。
本が並べられたら、始まりの合図だ。

「……この中から、気になる本があれば」

「…これはどんな話なんですか?」

「…これは…」

鷺沢さんは、決して説明がうまいわけではない。
喋り方はたどたどしく、内容も時々難解なものが飛び出すから、説明の説明を求めることもしばしばだ。
だが、彼女の本に対する言葉には、彼女のその本への想いが溢れていて、それが直に伝わってくる。
だから、彼女の話を聞くのは全く苦ではなかった。

そして、全ての本が語り終えられる。
その中から僕が選んだのは、ある少年の初恋の話だった。

「……これ、ください」

「…500円になります」

「はい」

「…500円丁度、お預かりいたします」

いつもなら、これで彼女との時間は終わりを迎える。
僕は家に帰って本を読みこみ、それで得た思いを鷺沢さんと共有する。
そのために今できることは、鷺沢さんに礼を言い店を出ることのみである。
だが、帰り際に口からこぼれたのは、感謝の言葉ではなかった。

「……あの」

「……はい」

「……さっきの人、誰だったんですか?」

「…どうして、そのようなことを?」

「……知らない人だから、珍しいなって思って」

「……お客様の…プライバシーですので」

「絶対に言いませんから」

どうしてここまであの男のことが知りたいのか、自分でも分からなかった。
結局僕は同じ質問を何回も繰り返し、結果折れたのは鷺沢さんだった。

「……アイドルの、プロデューサーさんなのだそうです」

「えっ」

斜め上の正体に、思わず面食らう。
予想など最初からしていなかったが、していたところでこの正解を出せる人は稀だろう。
僕が狼狽えたのは、それだけが理由だった。
だが、彼女はその動揺の意味を違えたのか、さらに言葉を紡いだ。

「その…アイドルを、探しに来たと…」

彼女が取り出した紙には、僕でも知っているような事務所の名前と、
『プロデューサー』と銘打たれた大きな名前がしっかりと刻まれていた。

理解が追い付かなかった。
『プロデューサー』が何をする職業なのかはっきりとは分からなかったが、
事務所の名前と『アイドル』という言葉から、彼女に何が起きたか想像することは容易かった。

だが、受け入れることができないのだ。目の前の鷺沢さんが、アイドルになる。
アイドルといえば、テレビの中で歌って踊る、あのアイドルだろう。
鷺沢さんが、歌って、踊る。想像ができなかった。
だが『プロデューサー』の目に留まるのだ、きっと彼女にはできると踏んだのだろう。

だが、もしそうなったら。
もし鷺沢さんはアイドルになったら、鷺沢さんはどうなるのか。
鷺沢さんが、テレビの向こうに行く。
そうしたら、鷺沢さんは、ここからいなくなるのではないか。
そうしたら、こんな風に、話は、できなくなるのではないか。

それを理解した瞬間に、受け入れられないものは、受け入れたくないものになった。

「……嫌です」

「……えっ?」

「鷺沢さんがアイドルになるの、嫌です」

「…あの」

「すみません…今日は、帰ります」


鷺沢さんの返答を待たず外に出ると、自転車にまたがり、ひたすらに古書堂から逃げた。
スピードは出ていたが、足取りは軽くなかった。
帰る途中の河原で、自転車を停め、水が流れていくのを見ていた。
その流れに向かって足元の小石を投げつけた。
小石は流れに乗るわけでも逆らうわけでもなく、小さく飛沫を上げた。
表面から波紋が消えたときに、訳も分からず僕は涙をこぼしていた。

家に帰ると、すぐにソファーにもたれこんだ。
体をうつぶせにしながら、鉛色の脳細胞で思考を巡らせる。
ソファーの柔らかさとそれにつられて出てきた眠気が、却って僕の頭を冷静にさせた。

鷺沢さんのことについて、僕がどうこう言えたことではない。あの人は大人なのだ。
明日、逃げたことを謝ろう。そして、鷺沢さんの結論がどちらであっても、
僕はそれを応援すると、そう言おう。僕にできるのはそれくらいだ。
そんな思いを抱きつつ、そのまま眠りに落ちた。

通っている大学の長期休暇が終わりに近づいたために、
鷺沢さんがその夜ここを発っていたのを知るのは次の日のことになる。
そして、アイドル鷺沢文香が華々しくデビューを飾るのは、その半年ほど後の話になる。

ちょっと寝ます
起きたら続き書きます

デレステのスタミナが半端だったので、あと30分くらいで書けるとこまで書いてみます
書き溜めは尽きたので投下できるかも分かりませんが…



飯が喉を通らない。
今しがた流れたニュースのせいだ。テレビをそれ以上目にしないようにしながら席を立つ。
母さんが齧りかけのパンを見て何か言いたげにしていたが、腹が減ったら途中で買うから心配はいらない。
だが、学校に行く気力さえ湧いてこない。
ここまで何もしたくなくなったのは初めてだ。いっそのこと休んでしまおうか。
それぐらいに気分は落ち込んでいるが、おそらく誰も欠席の正当な理由としてこの事件を扱ってはくれないだろう。
それどころか学校中で噂のネタにされる。それはごめんだ。
さっさと制服に着替え、駅まで急ぐ。
だが、駅の売店にあった新聞を見て、まさか電車通学であることさえも後悔することになるとは思わなかった。

『鷺沢文香、電撃結婚 相手は担当プロデューサー』の字面が、今度はカラフルな見出しとして飛び込んできた。

今度こそ寝ます
続きは起きて書きます

鷺沢文香は、デビューして間もなくトップアイドルとしての座を駆け上がることとなった。

元々のルックスに加え、青く透き通るような歌声や、意外にも頭ひとつ抜けたダンススキルは、
彼女のポテンシャルや努力を裏付けるのに充分であった。

書で得た豊富な知識もあって、バラエティにも重宝された。
やはり喋りは決して上手いわけではなかったが、ユニットメンバーのフォローで起きる掛け合いや、彼女自身のものを伝えようとする姿勢もあって、
むしろそれが可愛いという声も少なくなかった。

彼女に対して多くの人間が魅了され、テレビの中の彼女を見つめ、ステージの上の彼女に歓声を送った。
僕もその例に漏れなかった。

アイドル鷺沢文香は、輝いていた。
彼女の笑顔は、眩かった。
嬉しい反面、なぜか悔しかった。

結局、学校へ向かう電車からは降りてしまった。
事情を知る友人には格好の弄りのネタを与えたことになるが、
どうせこのまま行ったところでそれは変わらないだろう。

さて、これからどうするか。家に帰るわけにもいかない。
特に当ても考えもないまま、駅を離れふらふらと街中へと進んだ。
そして、あの古書堂が駅から10分ほど歩いたところにあるのを思い出したのは、
目線の先にそれが見えたときであった。

鷺沢文香がデビューしてから、僕は古書堂に行かなくなっていた。
この店が嫌いになったわけではない。
彼女が古書堂からいなくなったあの日から、勧めてもらった本の頁がめくれなくなったのだ。
本を読むのは変わらず好きなままだったが、その本だけは読みかけにも関わらず手に取る気も起きない。
何となくバツが悪くてここに立ち寄ることさえできず、
気が付けば、アイドルにスカウトされた女性がトップアイドルとなって結婚するくらいには月日が経っていた。

よりにもよって、何故今日ここにたどり着いてしまったのか。
これなら学校に行った方が良かったかもしれないと自分の判断を悔やんでいると、突然店の扉が開いた。
外に出た店長さんの目線が、僕をがっちりと捕えていた。
忘れていてくれ。その思いも虚しく、店長さんが僕を見る目には、明らかに懐かしみと驚きが混じっていた。

僕は生涯でこの日一番神を呪った。


店長さんの案内を拒めないままに店に入ると、久しぶりの匂いに思わずせき込んでしまった。
店長さんに謝るも、そんな僕を見て、彼はにこにこと笑っていた。

そのまま鷺沢さんがいつも座っていたカウンターを通り過ぎ、店の奥へと連れられる。
そこには、積み上げられた無数の本と、それを避けるように机とコーヒーメーカーが配置されていた。
鷺沢さんが本を持ってくるためにいつも向かっていた部屋。
あらゆる面で遠く感じていた場所にこうもあっけなく触れてしまい、何だか複雑なものを抱いてしまう。

そんな僕の困惑をよそに、店長さんはコーヒーメーカーを作動させ、机の向かい側に座るよう促してくる。
椅子に腰かけ、目の前の店長さんをちらりと見ると、変わらず店長さんはこちらを見て微笑んだままであった。
コーヒーがコポコポとあぶくを立てる。それが一層、この異常な沈黙を引き立てていた。

「……あの、大丈夫なんですか?お店の方とか…」

「今日は休みにしたんだ。流石にね」

店長さんの何気ない一言に、テレビや新聞が出まかせを吹聴していたのではないと再認識させられてしまう。

鷺沢文香がデビュー前この古書堂で働いていたのは、ファンの間では有名な話である。
そのためここには以前に増して、内外問わず多くの人々が押しかけるようになっていた。
それでも以前のような清閑さは保たれてはいたが、時折熱心すぎるファンがやってきて、
店側に迷惑な行為を行うこともしばしばだったらしい。

今日のような日には、どんなことがあるか分かったものではない。
彼が店を開けないであろうことは、容易に想像できたはずだ。
要するに、僕は墓穴を掘ったのだ。

「君も、あれがきっかけで来たんだろう?」

意図してか知らずか、店長さんも容赦なく僕の心を言葉で殴打してくる。

「……まぁ、多分…」

「久しぶりだったからびっくりしたよ。あんなによく来てたのに」

「…すみません」

「冗談だよ」

そう言うと、店長さんは悲しそうに伏していた顔をすっと上げて、感情が跳ねたように笑顔を浮かべた。
申し訳なく思ったのを、心のほんの隅で後悔した。

「君は、大きくなったね」

「ありがとうございます」

「もう、受験とか?」

「まぁ、はい」

「早いもんだねぇ。だってあの頃まだ…」

「小学校でしたね」

「だったよね。本当に早いもんだなぁ…」

「…店長さんは…その……よく喋るようになりましたね」

「一時期日野茜ちゃんにハマってね」

「なるほど」

「…本当に、時間が経ったものだよ」

軽口を叩いていた店長さんの口調が、その瞬間に確かな重みを持って、零れ落ちた。

「……文香ちゃんがアイドルにスカウトされた日のことなんだけどね」

「えっ」

「聞きたい?」

「はい」

「うん」

気づけば、身を乗り出していた。店長さんは僕の顔を見て頷くと、深く息を吸い、呼吸を整えた。
そして、僕の知らないあの日の続きを、語り始めた。

「…あの日の夜、僕に相談してきたんだ。『どうしたら良いのか迷っている』って…
実はその時、正直とても驚いた…すぐに断ると思っていたから。
あの子は、大人しくて、物静かで、すごく引っ込み思案な子だったからね…自分から人前に立とうとするなんて、思えなかったんだよ。
だから『どうして、迷ってるんだ?』って聞かずにはいられなかった。もしその理由や覚悟が中途半端だったなら、
何としても止めるつもりだった。こっちは到底無理だとしか思ってなかったからね…そしたら、あの子がこう言ったんだ。

―私は、自分がアイドルに向いているとは、思っていません…。
もちろん人前に出られるような人間ではありませんし…
光り溢れるステージよりも、静かな場所で、好きな本を読んでいる方が私には合っているとも思います……
ですが、言われたのです。
『好きなことを好きと言っている貴女を見た人は、貴女だけではなく貴女の好きなことも好きになる。それは、貴女にしかない力だ。
私の役目は、貴女にアイドルの魅力を伝えることです。
貴女がアイドルを好きになって、貴女自身がその想いを表現すれば、もっと多くの人に、アイドルを好きになってもらえる。貴女になら、それができる』と…。
……もちろん、完全に信用したといえば、嘘になります……。
ですが…私の目を見据え、熱く語るのを聞いていると…この人なら、信用してもいいのでもいいのではないかと…
本当に、私にアイドルの魅力を気づかせてくれるのではないかと…そう、思ってしまうのです―

話を聞いた後、僕に彼女を止めるという選択肢はなくなってた。
嬉しかったんだ。文香ちゃんの前に、彼女をそこまで評価してくれる人が、可能性を見いだして、広げてくれる人が現れたことが。
その言葉だけで、その彼を信用してみようと思うには十分だった……あ」

店長さんが、こちらをちらりと見ると話をいったん止めた。

「あぁ、ごめん。流石に無神経だったかな」

「……何がですか」

「いや、彼の話を聞くのは、あまり気のいいものでは無いんじゃないかと」

「何でですか」

「だって、君、文香ちゃんのこと好きだったろ?」

頭が真っ白になった。

「は」

「え」

顔が熱い。

「…は?」

「…え?」

動悸が止まらない。

「……あれ、ひょっとして自覚なかった…?」

「……え、いや、あの、その……はい」

こちらを覗き込む店長さんの顔が、一目でわかるほど申し訳なさそうに形を歪めた。

「……あー…その、すまなかった」

「……いえ、大丈夫です……」

さっきまでの時間が嘘だったかのように、どちらも口を開かなかった。
コーヒーの茹だる音が、さっきよりもはっきりと部屋に響いていた。

「……実はね」

店長さんが、口を開いた。


「…僕が彼女を後押しできたのは、君の存在もあったからなんだ」

「えっ?」

「…さっきの彼の話さ。ああは言ったけど、僕だって馬鹿じゃない。
顔も素性もよく知らない、それも怪しい肩書きの男に、大事な姪の人生を預けようとは思わないよ。
…僕が、彼の言葉を信じられたのは、それを信じられる根拠が僕にあったからなんだ。
……それが、君だった」

どういうことですか、という言葉を吐くことはなかった。
その意味はもう、自分でも分かっていた。

「君が、彼女と出逢って、彼女と本をどちらも好きになったのを、僕は見ていたから」

予想は、外れなかった。

また、時間が静かに流れていった。
やがて、店長さんが、ふぅ、と余った息を吐きだした。

「……悪かったね、こんな話をして」

「……いえ」

「少し、喋りすぎたよ」

「……あの」

「ん?」

「どうして…僕を、招いたんですか?」

「……久しぶりに会って、懐かしくなったんだよ」

風の噂で聞いていた。
鷺沢文香が働いていた古書堂に行っても、鷺沢文香に出会えることはないことを。
そこには、無口な店長が一人いるだけだと。

「…コーヒーができたみたいだね。用意するよ」

「……はい。あの」

「ん?」

「おすすめの本とか、ありますか?」

「…あるよ。たくさん」

気づけば、学校はすでにHRを終えていた。
帰るには早すぎた自宅に、もうそろそろ向かっていないと怪しまれる頃だ。
扉の前で店長さんに礼を言うと、彼は少し寂しそうにしていた。

「また、来ます」

「…うん。ぜひ来てくれ。その頃には、僕は店長じゃなくなってるだろうけど」

「え?」

思わなかった言葉に、思わず強張る。店長さんはそんな僕を見て、にこにこと笑っていた。
その笑みはいたずらに成功した子供のようで、それがどういった意味を持つのかは何となく想像がついた。

「…そういうことですか」

「そういうことだよ」

「……じゃあ、少し時間がかかるかもしれないです」

「どれくらい?」

「初恋を忘れられるまで」

「……若いねぇ」

「…恥ずかしくなってきました」

「……その時を、楽しみにしてるよ」

「…はい。では」

「…ありがとうございました。またのお越しを、お待ちしております」

外に出ると、すっかり日は落ち、深い藍色に星々が輝いていた。
おそらく、この場所に来なかったらこれでさえ憂鬱だっただろうと思いながら、イヤホンを耳に挿し音楽を探す。

何もかもが腑に落ちていた。
あの頃の僕が、どうして鷺沢さんと無理やりでも話したがったのか。
どうして、鷺沢さんと話していただけの男を、必要以上に警戒していたのか。
どうして、鷺沢さんがアイドルになるのを嫌がったのか。
どうして、彼女が添い遂げたニュースが、すぐに信じられないほどの衝撃を持っていたのか。

単純な話だった。
初めて逢った時から、僕は鷺沢さんのことが好きだったのだ。
それも、他者から見れば簡単に分かるほど、あからさまに。

もちろん、その想いはもう叶えられないし、あの頃でもきっと叶えられなかった。
でも、その事実がかえって、胸のモヤモヤを吹き飛ばそうとしていた。

電車の中で、図書館で借りていた本を読み、すぐに閉じた。
これじゃだめだ。今は、とにかく家に帰りたくて堪らなかい。

読みかけだったあの本を、今なら進められる気がした。




「遅くならないうちに帰ってきてよ。あなたいないとお義母さん寂しがるから」

「分かってるよ。すぐに帰ってくるから」

「ならいいけど…あっ」

「どうした?」

「ついでに、お買い物行ってきてもらっていい?お義母さんが、今日多めに作るからって」

「張り切ってんな…」

「それだけ、あなたが帰ってくるのが楽しみだったんでしょ」

「だろうなー…何買ってくればいい?」

「ちょっと待って、メモあるから…はい」

「…こっち先行ってこようか?」

「いいよ。なんか用事あるなら、そっち先済ましてきて。あなた結構引きずるんだから」

「…分かった」

「…でも、できるだけ早く帰ってきてほしいかな」

「…うん。じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

外に出て自転車にまたがると、力の限り足を踏み出す。
車に乗れば楽だが、今日だけは自転車で行きたい気分なのだ。

結婚してからは実家に戻ってきたのは、今回が初めてだ。
両親は、妻のことを温かく迎え、実の娘のようにかわいがってくれている。
活発でよく喋る妻のことだ、きっと戻るころには僕の大学時代のエピソードなんかをダシにしてもっと打ち解けていることだろう。
そうなったときのために、僕も彼女の失敗談は多くストックしている。抜かりはない。

僕は、人生の中でとてもいい女性に巡り合えたと思う。
だからこそ、あそこへ行くべきは今なのだ。

目的地には、思っていたよりも早く着くことができた。
その代わりに、多大な量の汗と疲労が体を覆う。
やはり子供のころのあの感覚のままに動いてはいけない。自転車を日陰に止めると、日向に出るのが少し躊躇われて、自転車に寄りかかった。

時間が無かったのを思い出し、扉へ向かう足が少しだけ早くなった。
心臓が先ほどから少しだけ高鳴っているのは、きっと自転車のせいだけではないのだろう。
息が整ったのを確認すると、意を決して扉を開ける。
古い臭いと、呼鈴の音が、変わらないまま僕を出迎えてくれた。

僕の視界に入ったのは、カウンターに本を積み、視線を手元に落とす、髪の長い女性だった。

一歩足を踏み出すたびに、一つだけ若返っていくように感じてしまう。
きっとつま先がカウンターにくっつく頃、僕の心は彼女と初めて出逢った頃に戻っている。
一歩一歩、焦らずに確実に前へ進む。
近づくたびに分かる。何年も経ったのに、彼女は、あの頃とほとんど変わらないままだ。
変わったとすれば、僕だ。
あの頃同じ高さだった彼女の目線は、今はもう、交差しないところまで低くなっていた。

彼女が、不思議そうな顔で僕を見上げた。本当に、変わっていない。慌てるな。震えないように必死になりながら、声を出した。

「お久しぶりです」

「……お久しぶりです」

彼女は、じっと僕を見つめていた。
彼女が本当に覚えているかは分からない。変な客として、これから先の彼女の記憶に残っても構わない。ただ、これは僕のけじめだ。

僕は持っていた鞄から本を取り出すと、鷺沢さんの前に、それを差し出した。

「…遅くなってすみません。本、読み終わりました」

「……次は、どのような本をお勧めしましょうか」

終わりです。
突っ込みどころが多い展開になったのは反省しています。
次に活かします。

元は、冨田ラボの「ずっと読みかけの夏」(https://youtu.be/2QQU0q4yU10)という曲です。
聞いてみてください。

HTML化の依頼出してきます、皆様お疲れ様でした。

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