田井中律誕生日記念SS2016(must was the 2014) (335)

 けいおんの田井中律の誕生日SSです。
本日から律の誕生日である8月21日にかけて、毎日更新で投下していきます。
(最終日は0時を跨いで迎えたいので、実質的には20日深夜までの予定です)

 なお、タイトルは2014年に投下したかったネタだけど2016年になってしまった、という自省です。
特に意味等はございません。


注意事項及び補足は下記

・直接的な性交渉はありません。
但し、マニアックな描写や際疾い描写が一部にありますので、
念の為にSS速報Rに投下しております。
閲覧の際はご注意下さい。

・地の文有り。

・長いです。

・全17章構成ですが、日に2章分投下する事もございます。



 その他、所謂「何でも許せる人向け」の内容ではございますが、
ご海容頂ける方は高覧下さると幸いに存じます。
 以下より本文です。

1章

 この順番も彼女、田井中律で最後だった。
秋山澪は興味ない風を装って、
昔日から愛用している白いバラへと目を落としたまま聞いた。
だが、田井中律の明かしたスリーサイズは、彼女の体躯と照らして納得できる値ではない。
澪は手に持ったバラの白い花弁から、律の身体へと視線を移す。
そして上から下へ、続いて下から上へと、切れ長の瞳を往復させた。

 改めて見ても、自分の抱いた感覚に自信を深めただけだった。
やはり律の体型は、彼女が自ら申告した値を備えているようには見えない。
夏休みの部室に集う面々も、思いを同じくしているようだった。
澪を含む四人の視線が一点、律の胸部へと注がれる。

「何処見てんだよぉっ。言っとくけど、脱ぐと凄いんだからぁー」

 集った視線の意味を悟ったのか、律が喚いた。
スリーサイズを打ち明け合った場では、律の大胆な物言いも自然と溶け込む。
学期内とは異なる雰囲気が、話題にも口走った言葉にも見て取れた。

 夏休み前と今で違うのは、唯の席の斜め後ろの窓周辺だけではない。
休暇入りの直後に工事が行われたその窓は、見目に目立って装いを一新していた。
伴って、その周辺の家具の配置も僅かに動いている。
だが、インテリアの変化など些事に思える程、
夏休みが彼女達の精神に与えた影響は大きかった。

 夏季休暇に入って十日以上過ぎ、暦は八月に突入している。
多感な年頃にある彼女達の話題を夏休みが毒すには、充分な時間だった。
長期休暇は気分に開放を齎し、人気の少ない学校は部活に閉鎖性を齎す。
その双糸が、彼女達を際どい会話に導いたのだろう

「そんな、ムキにならなくてもいいじゃないですか。
私達だって正直に言ったんだから、律先輩も本当の事を言っていいんですよ?」

 澪達が属する軽音部の中で、唯一の後輩である中野梓が苦笑交じりに言った。
部員五人の中で一人だけ色違いの赤いタイが、
律と同じくらいにしか見えない胸元で結ばれている。

「嘘なんかじゃないっ。澪やムギ、唯はともかく、梓には負けないんだからな。りっ」

 そう言って律が胸を突き出した。
胸に二つ尖る円錐の鋭角は、専ら梓のみへと向いている。
胸に鈍角の膨らみを盛り上がらせた紬や唯とは、張り合おうなどとしていなかった。
律も見目に明らかな分の悪さを理解しているのだろう。

 一方で、同程度の胸囲と思しき梓に対しては、対抗意識を剥き出している。
先輩としての矜持も透けて見えるようだった。
彼女に勝りたい気持ちが、律を詐称に走らせたのかもしれない。

「そぉ?ていうか、あずにゃんの方が少しだけ、大きく見えるような気もするけど。
少しだけ、ね」

 律や梓を構う好機と見たのか、平沢唯が茶化すような声音で割り込んだ。
唯は普段から、この二人へと頻繁に絡んでいる。
虐めと弄りは違うという思考の透けた、彼女なりの可愛がり方だ。

「もう。少しだけ、ってそんなに強調しなくてもいいじゃないですか」

 からかわれた梓が、棘のない穏やかな声音で唯に返す。
言葉とは裏腹に、律より上と認められた事で気を良くしているらしかった。
一方の律は不満露わに頬を膨らませ、唯と梓の胸部に険しい視線を送っている。

「駄目よー、身体の事をからかったりしたら。
りっちゃんに謝らないと、ね?」

 琴吹紬が唯を窘めた。
元々、律に甘い紬だが、それだけが擁護の動機ではないだろう。
紬自身、心無い人間から肥満だと嘲られる事が少なくない。
紬は虐めと弄りを同一視するらしく、そういった揶揄を許していないのだと推せた。

「えーっ?からかったりなんか、してないよー」

 唯が口を尖らせた。まだ、と頭に付ければ、その通りの発言ではある。
体型の事で茶化そうとしている態度を察せられ、紬が機先を制した。
それくらい、澪にも分かる。

「律も意地を張るなよ。大きければ良いって訳じゃないんだから」

 公平を期す訳ではないが、澪も律を諭しておいた。
唯は不満気だが、甘い物でも与えれば機嫌は直る。
だが、律は根に持つ性格だった。
紬の擁護を受けた今もまだ、瞋恚に燃えた瞳で唯と梓の胸を睨んでいる。
自分の主張が通らない事で、拗ねているのだ。

「意地なんて張ってないし。本当の事だもん」

 律は澪に対しても口を尖らせ反駁してきた。
反抗的な語勢が癇に障った澪は、バラの切っ先で律の口を指しながら睨み付ける。
生意気な態度も躾けてやらなければならない。

「まー、でも、大きければ良いって訳じゃないのは、その通りだけどー」

 途端に律は態度を軟化させ、澪の言を援用してきた。
惚れた側の弱みに違いないと、澪は所期の効果に内心で笑んだ。
付き合ってこそいないが、律は自分に惚れているという自信があった。
惚れた相手を前にして、真っ向から反目する度胸など律にはないだろう。

 それでも胸囲以外の事で迎合の姿勢を示すあたり、
律は主張の本旨を覆してはいなかった。

「あれー?りっちゃん、負け惜しみー?」

 唯は席を立って窓の前へと移動し、挑発的に胸を揺らしながら煽った。

 部室の窓枠のほぼ全てには、奥へスライドする方式の小窓が六つ装着されている。
唯の後方の窓も、夏休みの前までは例外ではなかった。
六つの小窓を一つの片開きの窓へと統合したのが、この夏休み初頭の工事である。
工事した窓の周辺は赤いビニールテープで囲まれており、
唯はそのビニールテープの作る四角い空間の中に位置を占めていた。

 目立つ場所に立ってまで律を挑発する唯の姿に、澪も呆れざるを得ない。
そこまでして、律に構ってもらいたいのだろうか。

「違うっての。事実じゃん。
大きいからって、唯は見せる相手も揉ませる相手も居ないじゃんかぁ。
サイズじゃないっていう、いい証拠だよ」

 律も唯の挑発を捨て置けば良いのに、彼女の掌の上で吠え立てていた。
自分の横槍が唯に付け入る隙を与えてしまっただろうか。
紬に任せておけば良かったかもしれないと、澪は思わないでもなかった。

 だが、律の胸は澪の肉欲をそそるに十分な用を為している。
自分に惚れているのなら、自分に対してだけ扇情的であれば良い。
婉曲であっても、その思いを宣せずには居られなかったのだ。

「そうだねぇ。でも、りっちゃんも居ないでしょ?
どうせ居ないなら獲得に有利な方、つまりは胸の大きい私の勝ちですなーあ」

 勝ち誇った笑みを唯が見せる。
対照的に、律の顔には悔しさが滲んでいた。

 そろそろ、唯の方を咎めるべきだろうか。
律を諭した所で、唯を調子に乗らせるだけだろう。

「もう。駄目よ、唯ちゃん」

 唯を叱ろうとした矢先に、紬が先行していた。
澪は出かけた言葉を、喉の奥へと押し戻す。
こういう役は、自分よりも紬の方が向いているとの判断からだ。
万事淑やかな彼女なら、場を荒立てずに唯も律も収められる。
そう思い、澪は黙って紬の次の言葉を待つ。

「居るもん」

 だが、澪の鼓膜を叩いた声は、穏やかな紬の声ではなかった。
激しい感情の籠もった、律の声音だ。

 紬と梓と唯の三様に呆けた顔が、一様に律へと向く。
彼女達と同じ表情を浮かべている自分の顔が、澪の脳裡を過ぎった。
律の言った事が理解できない。
それどころか、幻聴との区別さえ曖昧だった。

「彼氏、居るもんっ」

 呆けた澪達に突き付けるように、律が叫んだ。
それは空気を震わせて迫り、容赦なく鼓膜に叩き付けられる。
澪の中で現実と幻聴の区別が、別たれた。

「冗談、ですよね?」

 未知の物に触れるような口振りで放たれた梓の問いは、
取りも直さずに澪の嘆願を代弁していた。

 律が今まで自分に対して取ってきた、行動や言動の一つ一つが脳裏を巡る。
そこから恋情を汲み取っても、不自然ではないと思えるものばかりが。

「あーら、失礼な事言っちゃってぇ。
私にだって彼氏くらい居るし」

 だが、眼前の律は、澪の見通しを木端微塵に粉砕する発言ばかり続けている。
律から感じていた好意は、勘違いに過ぎなかったのだろうか。
或いは、勘違いさせられていたのか。
澪の自信が揺らぎ、変わって怒気が腹の底から湧いてくる。

「りっちゃんたら、逸早く抜け駆けしてたのね。いいなぁ」

 憧憬を滲ませた声音で紬が言う。
律を見つめる彼女の眼差しも、羨望に満ちていた。
澪には紬同様の態度で、律の発言を遇する事などできない。
落胆と怒りが視線に籠もらないよう、自分を抑えるだけで精一杯だった。

「えーっ?りっちゃんは私より先に彼氏を作ったりしないよねぇ?」

 唯が眉根を寄せて、律に問う。

「ふーんだ。胸ばっかり出てて度胸を出さずに、のろのろしてるからだ」

「りっちゃんの癖に」

 唯は頬を膨らませて、そっぽを向いてしまった。
拗ねた態度を隠そうともしていない。
唯にせよ紬にせよ、素直な反応だった。

「いや、やっぱりおかしいですって。
何で彼氏が居るって事、隠してたんですか?」

 梓も倣うかと思いきや、正面切って疑問を浴びせていた。
言われてみれば、と澪も胸中で同意する。
もし、律が恋人を作っていたのならば、自分が気付いているはずだ。

「隠してた訳じゃないって。別に訊かれてもいないのに、自分から言う事でもないからさ」

 梓に対しては、そうかもしれない。自慢のように聞こえて、宣する事は憚られるだろう。
だが、澪に対して一言も相談しないとは考えづらかった。
些細な事でさえ、律は澪の意見を求めてきている。
異性との交際など、澪に頼り切りの律が一人で処理できる事柄ではない。

 それ以上に、恋愛の当事者という重要な変化を遂げておきながら、
いつも傍に居る自分に勘付かれなかった事が不自然だ。
一体何時、逢瀬の刻を持ったと言うのだろう。

「隠れてなければ、気付くと思うんですけど。
そうだ、澪先輩。律先輩から彼氏が居るような素振りを感じたりしてました?」

 梓もそこに思い至ったらしい。
自分達はまだしも、澪には勘付かれるはずだ、と。

「おいおい、私に聞くなよ。
別に律なんかの一挙手一投足に注意を払ってる訳じゃないんだからさ。
どっかで男を誑してても、気付きやしないよ」

 澪は突き放すような語勢で答えた。
不自然な点を見つけたからと言って、澪の怒りは収まっていない。

「ほーら、澪先輩だって気付いていないみたいですよ。
で、何で隠してたんですか?それとも」

 梓は意味深に言葉を切ると、細めた目で律を見つめた。
律の事など興味がないと澪は言った積もりであったが、梓の受け取り方は異なっている。
自説に有利な部分だけ抽出し、律への詰問に充てていた。

 律に恋人ができると、梓にとって不都合な事でもあるのだろうか。
そう思わせる必死さが、彼女の論法に見え隠れしている。

「いいじゃない、きっと恥ずかしかったのよ。
大丈夫よ、りっちゃんの彼氏さんなんですもの。いい人、なのよね?」

 浮かれていた調子から一転、紬が声を引き締めて問うた。
同時に、梓の瞳が真剣さを帯びる。
澪も梓の真意を理解した。それは間を置かず、共感へと変わる。

 梓は律が悪い男に誑かされていないか、心配なのだ。
箱の外に疎い律が男を選るに当たり、自衛まで見据えられるとは考えづらい。
逆に、甘言に釣られてしまう危うさがあった。

「うん。いい人だよ。ダァったら、恰好良くって、頭も良くって、スポーツも得意なんだ。
優しくて甘やかしてくれるし、お姫様みたいに扱ってくれるんだけど、
でも、恥ずかしい事もやらせてきたりして。
うん、辱めてきたりもする、サディスティックな面も持ってて。
りーっ」

 言っているうちに恥じ入ったのか、律は赤く染まった顔を両手で覆って呻く。

「それ、りっちゃんの願望?そんな都合の良い人、居ないよねぇ」

 唯にしては珍しく、世間の人間像に拠った意見だった。
だが、当事者の心理状態にまでは寄り添っていない。
痘痕も笑窪。
欠点が多く長所の少ない相手でも、強烈に惚れてしまえば完璧な人間像をそこに見る。

「そうですか?なんか聞いてて、澪先輩みたいな人だなって思いましたけど。
律先輩には、澪先輩みたいな人が似合うかもしれませんね。
実際、似ているんですか?」

 邪気のない梓の声に、澪の心臓が跳ねた。
自分だけが律に似合っている。
それは、澪が長らく確信してきた命題だ。

「はぁ?全っ然っ違うし。何を聞いてたんだよぉ」

 律は梓の謳ったテーゼに、偽と回答するらしい。
殊に、喚き散らす強い語勢が、澪の癇に障った。
そこまで嫌なのか、と詰め寄りたくなる。
澪の気分をこの上なく害す、生意気で反抗的な態度だ。

「ああ、全く以って似てないな。大体、私がこんなのをお姫様扱いするか。
優しくする気にも、甘やかす気にもなれないな」

 澪は怒りの侭に言い放つ
尖る言葉も刺す語調も構わずに突き放してやった。
律の強張る顔を見ても、溜飲は下がらない。
その頬を張ってやったら、少しは怒気も収まるだろうか。
このバラの白い花弁が赤く染まるまで傷付けてやったら、気も晴れるだろうか。
いっそ、押し倒してしまおうか──

「いや、あの。似てるって言っても、完璧な所が、って意味で。
澪先輩、恥ずかしい事とかはやりたがらないし、やらせたりもしませんものね」

 律と澪の反論の勢いが予想外だったらしく、梓は慌てたように言い繕っていた。
悪意のない軽口を咎めた形になって、澪も決まりが悪い。

「ああ、分かってるよ、冗談だって事くらい。
第一、私は完璧じゃないからな」

 澪は朗らかに笑って、詫びに代えた。
反面、笑顔の裏に隠した心中で呟く。
唯の言うように律の願望であるならば、恥ずかしい振る舞いを強要するに吝かでない、と。

 一方の律は発言を繕う事なく、黙ったままだった。
自然、話の流れに間が訪れる。

「ねー、りっちゃん。その彼氏とは、いつデートしてるの?」

 話の切れ目に唯が割り込んで、話題を変えてくれた。
尤も、雰囲気の軟化に加勢した訳ではないだろう。
間が空く機を見計らうかのように、唯は律から視線を逸らしていなかったのだから。

「いつって。そりゃ、時々、としか。学校も部活も、唯達との約束もない時にしてるんだよ」

「ははぁ。ヤリ目ですなぁ。遊ばれてたりして?」

 唯の言葉に、特徴的な紬の眉根が眉間に寄る。
そして梓と律の反応は、殊に顕著だった。

「唯先輩っ?」

「はぁっ?どういう発想だよぉっ。信っじらんないっ。唯ったら何なのよ、もー」

 梓は唯の名を叫んで固まり、律は忙しく言葉を並べて抗議している。

「いやぁ。だって、私達と居ない時って言うと、夜でしょ?
その時間なら、やる事は決まってるよねー?
脱いだら凄いんだもんね?」

 唯は律と梓の反応を楽しむように、二人を窺いながら言った。
唯は本当に、恋人が居るという律の話を信じていないようだ。
故に、恋人が居るように繕う律と、それに釣られて右往左往する梓が愉快で堪らないらしい。

「何言ってるんだよ。部活だって毎日ある訳じゃないし。
そういう時に毎回、澪と会ってる訳じゃないんだよ。
空いた日にデートしてるのっ」

 律も唯から信じられていない事を認識したのか、返す言葉に苛立ちが篭っている。

「夏休みはいいけど。学期中は大変だったよねー。
私達と会わない休日の日中に、誰の目にも付かずにデート、だもんね」

 唯が楽しげな笑みを崩さぬまま言った。
唯は虚言を証す材料を、一つ明かした気で居るらしい。

 だが、決して白昼に逢瀬を重ねられる日がなかった訳ではない。
第一、唯の推量は、昼の逢瀬の困難さを指摘しただけに終わっている。
唯が冗談交じりに言及した、夜に会って褥を共にしている可能性は残り続けるのだ。

「あーら、仰る通り、大変でしたのよーだ。
でももう、周知の話になっちゃったから、予め言わせてもらうからね。
今月の私の誕生日だけど、部活休む。ダァとデートするんだもん」

 皮肉の込もった声音で唯の言葉を肯んじた後、
律は一転させた毅然たる声調で逢瀬を宣していた。
嘘を尤もらしく見せる方便かもしれないし、
本当に恋人と誕生日を共に過ごすのかもしれない。
澪は判断の量りを一方に傾かせる事ができぬままだ。

「あっ、やっぱり誕生日は彼氏とだよねー。いいなー。
そうだ、りっちゃんや、周知になった序に、一つお願ーい」

 唯が勿体ぶった声音を靡かせ、律の顔を覗き込んだ。
唯は愉快な事を思い付いたらしく、口元が緩んでいる。
推量を働かせるまでもなく、唯にとって”は”愉快な事に違いない。

「お願いって、どんな?」

 唯の口から何を頼まれるのか。律は慎重な口調で問うていた。
眇めた目と引いた顎にも、律の警戒が表れている。

「そのデート、私達も影から見てていい?」

 大胆な要求に、澪は呆れる外なかった。
恋人の存在が偽であれ真であれ、律が呑むはずなどない。
偽にベットしている唯は、不可能な要求で律を困らせたいのだ。
そこは澪も理解しているが、唯の戯れは度を越しているとも思う。

「まぁ、素敵ね。私もりっちゃんの彼、見たいなー」

 律が言葉を失くしているうちに、紬も便乗の声を上げていた。
唯が律の身体面の特徴を笑いの種にしていた時とは違い、
彼女の過ぎた戯れを叱ろうとはしていない。
それどころか、加勢さえしている。
厳格な道徳心を所作で示す事はあっても、紬も年頃の少女なのだ。
同級生の浮いた話に、無関心で居られるはずもない。

「ええ。私も見に行きたいです。
勿論、ちゃんとした方だとは思っていますけど」

 梓までも同調を示した。
紬を向こうに回した痛手の律に、包囲となって襲い掛かる。

 尤も、二人とも律の敵ではない。
紬は律の話を信じており、そして梓は律を心配している。
律に対する害意は欠片もなく、好意から出た言動に他ならなかった。
ただ、好意が必ずしも本人の意向に沿うとは限らない。
目下の律を見舞う四面楚歌も、そこに列せられた一例に過ぎないのだ。

「いやいや。普通に考えて、変だって。
普通、デートなんて友達に見せるものじゃないよ」

 律は常識を盾として、彼女達の要求に抗っていた。
だが、便乗した二人はともかく、発端の唯は始めから理不尽な強請りだと分かっている。
からかう事が目的なのだから、正論で構えても引き下がらせる効果は期待できない。

「えー?りっちゃん、あんなに自慢してたじゃんかー。
自慢のダァ……プッ、を見せびらかす良いチャンスだよ?
それともまさか、嘘って事はないもんねー」

 唯が意地悪く煽る。
嘘である可能性に言及した辺り、追い込みの段階に入っているのだと察せられた。

 ここが正念場だと、澪は固唾を呑んで見守る。
もし律が唯の要求に従うのなら、自分の負けだ。

「嘘ならまだいいんですが……」

 語尾を濁していても、梓の言いたい事は察せられた。
自分達を心配させないが為、不幸な恋愛を隠そうとしている。
そう懸念しているのだろう。

「りっちゃん、嘘なんかじゃないわよね?
本当に居るもんね。見せて、安心させてあげましょうよ。
それに」

 紬が律を励ますように言った。その口は、まだ閉じていない。

「見返してあげないとね」

 続け様、紬は唯を一瞥して付け加える。
察するに、唯に反発を感じていたらしかった。
恋愛への興味を捨てきれないが、さりとて律をからかう唯も捨て置きたくない。
その二つの思いが胸裏で鬩ぎ合った結果。
律の逢瀬を見物するという結論で止揚したのだろう。

 三人が三様の感情を込めて、律へと迫る。
澪は無関心を装いながらも、律の言葉を待っていた。
律が応じれば敗北だ。否んでくれれば、嘘の可能性に縋る事ができる。

 嘲笑と心配と激励。源は異なっていても、律に向けられた要求は一つだ。
その単純な問いを受けた律の口が、開いた。
声が、唇の隙間から漏れ出て、澪の鼓膜に、届く。

「いいよ、いいじゃないの。見せてやろうじゃないの。
そんなに見たいなら、後学に供してあげる。
私達のデート、見せ付けてやるんだから」

 鼓膜を叩いた振動が増幅されて、澪の回路を伝動する。
脳に収める事のできなかった大きな衝撃は、
胸にまで突き抜けて澪の願いを無残に破壊した。

 居ない相手との逢瀬を見せる事はできない。
見せると宣言した以上、律には恋人が居るという事だ。
第一波を取り乱さず凌いだ澪に、その思考が追い討ちを掛ける。
受けた驚愕が大きかっただけに、論理による理解が後を追っていた。

「ええっ?ほんとにほんと?本当に、りっちゃん、彼氏居るの?
で、しかも見せてくれるの?楽しみー」

 唯の変わり身は早い。
律に彼氏など居ないと決め付け、からかった事を恥じ入りもせず、
律の逢瀬に期待を膨らませている。
澪は呆れる反面、唯の気持ちの切り替えの早さが羨ましくもあった。

「ほら御覧なさい、私の言った通りでしょう?
でも、私も楽しみよ。りっちゃん、勉強させてもらうわね」

「期待ばかりもしていられないですよ。
本当に律先輩に相応しいかどうか、見極めなきゃいけないんですから」

 紬の声は緩んでいたが、追う梓の声には気負いが篭っている。
梓の言う通りだ。落胆ばかりもしていられない。
律に値する人間か否か、律の恋人を見定めなければならない。

 分かっている、なのに──。
それが自分の最後の役目だと言い聞かせても、気力が湧いてこない。

「あっ。言っとくけど、邪魔は駄目だからな。
見せるって言っても紹介とかしないし、陰に隠れて遠くから見てるんだぞ。
それが条件だもん」

 澪が黙っている間に、律は話を進めていた。
提示された条件に、唯が真っ先に胸を反らして開口する。

「勿論だよ、分かってる分かってる。
りっちゃんの邪魔なんて、野暮な事しないよ」

「唯が一番心配なのっ。
不自然っていうか不審なんだから、ダァに見付からないようにしてろよ。
知り合いだと思われたくないし」

「酷いー、りっちゃんが私をお荷物にするー。あんなに仲良かったのにー。
あずにゃんや、りっちゃんは男が出来て変わったねぇ。
友情よりも男なのかねえ」

 律に要注意を宣された唯が、芝居掛かった声音で戯けた。

「もうっ、ふざけないで下さい。
でも、同性の交友関係にまで口出しするような人なんですか?」

 梓が眉を顰めて問う。

「違うっての。たださ、まだ皆に紹介とかは早いと思うし。
だから、観察されてる所を見付かると、言い訳が利かないんだよねー。
大体皆、見た目は、いいからなー。心移りされたくないし」

 律こそ”見た目は”佳い。
だが、過度に我儘で極度に依存症な彼女の内面を、
自分以外に包容できる人間が居るとは思っていなかった。
否、今も思っていない。
──だから別れろ今すぐに。

「見た目は、って何ですか。何でそこ、強調するんですか」

 梓は怒ったような顔をしているが、見目をそやされて悪い気はしていないのだろう。
澪とは対照的な垂れ気味の目元が緩んでいる。

「その見た目にしても、りっちゃんより上なんて存し得ないと思うの。
でも、お邪魔はしないから安心してね。
見つからないように、彼とのデートを眺めてるから。
あ、そうだ、まだ伺っていないんだったかしら。その人のお名前は?」

 前置きした言葉に遠慮の心を代弁させて、紬が問う。
恋愛の話に最も目を輝かせていた彼女の事だ、
本心では万に渡る質問を向けたいに違いない。

「え?名前?名前はー」

 焦らすように、律は間を置いた。
「勿体ぶるな」と怒鳴りたくなるが、澪は堪える。

「さんぅ゛だよ」

 苛立っていたせいか、澪には律の返答の一部が不明瞭に聞こえていた。
う段の濁音だと当たりが付いたものの、意味する一語に辿り着けない。
だが、言い直すように求めて、関心があるように思われる事も癪だった。

「サンジュ?」

 唯も聞き取り辛かったらしく、図らずも訊き返してくれていた。
聞く側の問題ではなく、律の発音からして不明瞭だったのかもしれない。

「違うよ、サングだよ、サング。
漢数字の三に旧字の玖を書いて、三玖」

 今度は聞き取れたが、姓名のどちらかまでは分からない。

「へー。変わった名前だねぇ。
で、そのサング君とのデートなんだけど、私達は何処に何時頃に行ったらいいの?」

 唯は呼び名が付いただけで満足したらしく、具体的な計画へと話を進めている。
唯はより興味を惹く対象がある限り、些事には頓着しない。
それは集中力を一方向に傾けられる長所である反面、注意が散漫という短所でもあった。

「まだデートの行き先さえ決めてないよ。香港行けたらなー、とは思うけど。
絶佳の夜景を眼下に、ダァと恥ずかしい事しちゃったりとか。おかしぃし、りーっ」

 律は願望を並べた挙句、勝手に恥じ入って顔を真っ赤に染め上げてしまった。
いつもなら愛でられる律の仕草も、今となっては癇に障る。
律を茹でている者が、自分ではないからかもしれない。

「りっちゃん、乙女ねー」

 上気した頬に手を添えて、紬が呟く。

「で、現実は?」

 対して、梓は容赦がない。
ロマンチシズムには目も呉れず、プラグマティックに有用な情報だけを求めていた。

「ん、国内のそんなに遠くない所だと思うよ。ダァに決めてもらうんだ。
でも、映画みたいなデートにはしたいな。誕生日なんだし」

 現実的な答えを返しつつも、恍惚の念が抜け切った訳ではないらしい。
映画を模したいという望みに、理想への未練が透けていた。

「じゃあ、りっちゃん。こうしよう。プランが決まったら、私達に連絡頂戴ね。
私達も二十一日は空けておくから。それでいいよね?」

 惚気るばかりの律に痺れを切らしたのか、唯が音頭を取って提案した。
唯は遊ぶ段になると手際がいい。
マイクパフォーマンスにも活かして欲しいと、澪は度々思ってきている。

「うん、それがいいと思う。詳細が決まり次第、改めて連絡するね」

 律は素直に頷いた。
紬と梓も唯々諾々と頭を縦に降っている。
提案への応否を確認する唯の視線が、その三人の頭上を当然のように通過して──
一人、追従の動作を取らなかった澪の前で止まる。

「澪ちゃんも来るよね?」

「澪は来ないよ」

 澪が口を開くよりも早く、律が唯に答えた。

「澪、私なんかに関心ないもん」

 無関心な澪に拗ねているような口振りで、律が付け足した。
澪は律のこういった態度に、今まで幾度も遭遇してきている。
そしてその度、自分に気がある素振りだと解してきた。
だが、他に彼氏が居る以上、単なる我儘でしかなかったらしい。
律は興味のない相手からでさえ、常に注目されていないと気が済まないのだ。
度を越した主我の強さに、腸が溶鉱炉の如く煮え滾る。

「ああ。律のデートなんかに関心はないな。
その日は、家でロメロゾンビでも観賞しているよ。
よっぽど有意義だ」

 澪は誰とも目を合わさずに吐き捨てる。
逢瀬への同行に気乗りしなかった事は確かだが、
律への怒りが澪の態度をより硬化させていた。
裸に剥いた律を磔刑に処し、遍く衆人に公開してやりたい。

「澪先輩?何かあったんですか?」

 梓が不審そうに訊ねてきた。
目敏い彼女は、澪の放った棘のある言葉を見逃してはくれない。

「別に、何もないよ」

 努めて穏やかに澪は返す。笑みも添えてやった。梓に罪はないのだから。

「そうですか」

 納得した訳ではないだろうが、梓は引いてくれた。
澪が律を突き放す事など、茶飯事ではないが初めてでもない。
不審は買っても追及まではされない、その程度には些事でもあった。

「じゃあ、話も付いた事だし。そろそろ練習しようか」

 気持ちを切り替えようと、澪は立ち上がった。
先程、澪が同行に同調しなかった仕返しではないだろうが、誰も倣おうとはしない。

「えー。今日はもう、帰ろうよー。
いっぱいお話して、衝撃的な事実を聞いちゃったから、疲れちゃったよ」

「インパクト、大きかったですものね」

 怠惰な唯が口を尖らせただけではなく、勤勉な梓までも帰宅に与する声を上げていた。
確かに、澪も気疲れしている。

 加えて。律へと棘のある声音を向けた直後だけに、周囲と態度を違える事は憚られた。
立て続けば、不審は追及に至る。

「しょうがないな」

 澪も周囲に合わせ、ティーカップを手にシンクへと向かった。

*

>>2-20
 本日はここまでです。
また明日、よろしくお願い致します。

 こうなる前に、自分から告白してしまえば良かった。
この三週間近い日々、その後悔に苛まれなかったとは言うまい。
だが、それでは上手くいかないと見越したからこそ、見送ってきたのだ。
臆病な律では澪に告白されてなお、幸福からさえ逃げた事だろう。
律の殻を破る為には、澪に惚れていると自認させなければならない。
その上で、偕老同穴の道程で生じる全てのリスクを、
澪と共に背負うと覚悟させる必要があった。
律に告白させるという或る種の荒療治は、どうしても避けられない。

 だが、澪はまだ諦めてはいなかった。
律が唯達に本当の事を話して自分への告白に踏み切る、そのシナリオを捨てていない。
律に今まで持った事のない勇気を強いる策が、澪の頭部にはあった。
否、策ではない。賭けだ。

 けれども、賭ける価値ならある。義務もあった。
律が勇気を持てるまで、待つ身に甘んじてきた自分にも責任があるのだから。
だからこそ、此処に来た。これが、最後の準備である。
そして最後の準備はデートの前日でなければならなかった。
明日になるまで、唯達に見せられないのだから。

「Our Splendid Songs」

 私達の勇気の歌を。
長く美しい自慢の黒髪を靡かせ、澪は律を手に入れる為の一歩を踏み出した。
『ハーゲンタフ』と描かれた看板が目立つ店、ここに用がある。
その扉を潜り、律の勇気にベッドした。

 律を手に入れる為ならば、女の命さえ惜しくはない。

*

こんばんは。>>39の続きを投下します。


*

4章

 律の乗る電車は、横浜駅からみなとみらい線に直通した。
そして律は、みなとみらい駅を電車に乗ったまま通過する。
夜になれば、唯達はこの駅で降りるのだろう。
まだ午後になったばかりの今、律の目的地は此処ではなかった。

 終点の元町・中華街駅で降りた律は、長い地下道を一人で歩く。
澪と待ち合わせている場所は、中華街東門を正面に据えた出口だった。
恋慕の情が細い足を急かすが、期待は禁物だと自分の胸に言い聞かせる。
これは、偽装の逢瀬でしかないのだ。少なくとも、澪にとっては。

 事実、この時間帯に律が此処に来た理由も、
唯達を騙す為の打ち合わせと練習を兼ねたものだ。
夜の時間帯に見せる逢引で、唯達を騙し切らなければならない。
当日の打ち合わせや練習は不可欠だと、澪に言われていた。

 本当のデートなら良かったのに。と、家を出てから何度も胸中で呟いている。
だが、演出された偽りの逢瀬であれ、
恋情を抱く相手と恋人のように振る舞える好機には違いない。
律は無理矢理に自分を奮い起こすと、地上へと出た。

 律の瞳に、入口となる中華街の壮麗な東門が映る。
前途の多難を示すような曇天が恨めしかったが、眼前の門は太陽光などには頼っていない。
薄い光の中でさえ、雅の凝らされた装飾が輝いて律を迎えていた。
仮の装飾でしかない澪との逢引も、この街でなら優雅に映えるかもしれない。
禁物だと分かっていながらも、希望を抱かずにはいられなかった。

「律。ここからはエスコートするよ。今日の私は彼氏らしいからな」

 門に向かって歩こうとした律の足を、聞き覚えのある声が止めた。
一瞬のうちに、律の胸が興奮で沸騰する。
飼い主を見つけた子犬のようだと自覚しながらも、勢いよく振り向く首を止められない。

「澪っ……っ?」

 だが、振り向いた先の人物を見て、律は絶句してしまった。
澪であるはずなのだが、律の記憶にある彼女の容姿と一致しない。
勿論、変装して来る事は分かっていた。
それを織り込んでいても、俄かには信じ難い。
この目に映している者は、秋山澪なのだろうか。

「こら、律。彼氏の名前を間違えるなよ。サング、だろ?」

 律の内心の問いに呼応したかのように、澪が間違いを正してきた。
その通りではある。そうであるように、変装して来たのだから。

 化粧だけ見ても、随分と印象は変わっている。
だが澪が見せた変貌は、そういった可逆的な装いに留まっていない。
それだけならば違いに驚く事はあっても、律とてここまでの動揺はしなかっただろう。

 律は息を急き切らせ、何とか言葉を紡ぐ。

「そうなんだけど。えっとぉ……どうしたの、その、髪」

 昨日見た時は、澪の美しい黒髪は腰に届く程の長さを誇っていたはずだ。
なのに、眼前の澪の黒い髪は、輪郭の縁を覆う程度の長さにカットされている。
もみあげは顎の下にこそ突き出ているが、首の付け根には達していない。
後頭部の髪も項が覗ける長さだった。

「どうしたって、髪形を変えるって言っただろ?」

 澪は周知した事だと言わないばかりの、当然のような口振りだった。
失った髪に対して、執心を片鱗さえも見せていない。

 確かに律は、澪が変装の為に髪形を変えると聞いていた。
ただ、大胆な散髪まで伴う処置になるとは思ってもいなかった。
元の長さには手を加えず、
あくまで髪の纏め方を変える程度に留まるのだろうと認識していた。
命と同視し得る大切な髪を、一時を凌ぐ為だけに切るなど律には発想もできない。

 当の澪が無頓着な様子を見せているのに対し、律の方が未練を感じていた。
律も見惚れていた立派な黒髪が、恋しくて惜しくて切ない。

「何で、そこまでするの?」

 自然と、問う声にも惜しげが込もる。

「この方が、私だって事がバレないからな。
だから昨日、最後の準備に切ったんだ。
唯達と鉢合わせしないように、いつもの所じゃなくって、ちょっと遠出してな。
サロン『ハーゲンタフ』って、ファッション雑誌とかで見たあるだろ?
そこ使ってみたんだ」

 やはり澪は、何でもない事のように言った。
切る前にも葛藤なく、些事を処理する調子で決断したのだろうか。
もしかしたら、その決断も早い段階で下されていたのかもしれない。
律が澪に偽装の恋人役を頼んだ、その日の内に。

 律は澪から、サングの容姿を唯達に伝えるなと言い付けられていた。
あれはこの為の指示だったのだと、今となっては律にも推せる。

「変か?」

 澪の目には考え込んでいる律の姿が、似合わないと言いたげに映ったのかもしれない。
今日の装いの評価を訊ねてきていた。

「んーん」

 反射的に答えてから、律は改めて澪を眺めた。
髪が短くなった事で、澪の端正な顔立ちが前面に出てきている。
毛先にジャギーが入っている為に、ボブのような緩さはない。
逆に、剣の切っ先を長短交えたように、毛の束が鋭く連なっている。
初見では戸惑いが大きく熟視する余裕もなかったが、
落ち着いた今なら確信を持って言える。
澪に似合う、鋭利な印象を際立たせる髪形だ、と。

 顔にも見惚れてしまう。
化粧とはいっても、目元以外は大して手を付けていない。
心持ち、普段より白く見える程度だ。
勿論それだけでも、印象の変化に大きな寄与をしているのだろう。
だが、目元に走るアイシャドウは、別人と為り遂せる装いに決定的な役割を果たしていた。

 眼孔を覆う赤紫のアイシャドウの細いラインが、目尻を越えて引かれている。
醸し出されるエスニックな色気は、中華街の雰囲気に合っていた。
また、鋭い目付きと相俟って、妖艶でサディスティックな色香をも漂わせている。
澪の瞳から、別世界の色を流したようだった。

「カッコいいよ、似合ってるし。
それに、知人が見ても、パッと見じゃ気付かないよね」

 律でさえ、澪なのか俄かには判じかねた程なのだ。
他者が判別を付けるには、凝視が必要だろう。

「ああ。最初は、サングラスやマスクが必要かと思ったけどな。
でも、日焼けした梓や、すっぴんのさわ子先生の例もあるから。
それに、ごつい恰好した奴と歩くなんて、嫌だろ?」

 澪の言葉で、引かれた二つの例を思い出す。
部活の顧問である山中さわ子の時は、暗闇から急に灯が点った時だった。
明順応していない瞳孔も相俟って、
化粧をしていないさわ子が普段とは別人のように見えていた。
思わず「すっぴんのさわちゃん怖い」と言ってしまい、頬を抓られたものだ。

 海で日焼けした梓の例は、更に顕著だった。
クラスメイトの平沢憂や鈴木純までもが、初見では誰だか分からなかったらしい。
そう妹の憂から聞いたと、部活のティータイムで唯が話していた。

 それらを思い出すまで、律もサングラスやマスクが必要だと思っていた。
比して、想起の早い澪は逢瀬の雰囲気を壊す事なく、洗練された対応で解決してくれている。

「嫌だなんて、無理なお願いした私に言えるのかな。
でも、マスクとかで変装されるより、今の方が素敵だよ。
それより、髪まで切っちゃって、本当に良かったの?」

 律は感じ入る反面、澪を巻き込んでしまった自責の念も胸に兆している。
澪の黒髪には、自慢に供しても恥じない美麗さがあった。
もし律が唯達と出来ない約束さえしなければ、今も美しく靡いていたに違いない。

 本当のスリーサイズを明かしたのに、嘘だと扱われた事が悔しかった。
この日の発端となった八月初旬の、あの日の出来事が律の胸に蘇る。

 意地悪く煽ってきた唯に立腹して、意地になって誇大な話を繰り広げた。
勿論、その後先を考えない反射的な対応が、此処に至った最大の原因ではある。
だが、律が自分の嘘に固執した理由は、それだけではない。
澪の反応が見たかったのだ。

 澪に恋情を抱いていた律は、澪が律の嘘に動揺してくれる事を望んでいた。
だが、律の期待に反して、澪は無関心な様子しか見せてくれない。
それでも恋人の話を続けたが、当の澪から冷淡な態度で遇されてしまった。
律も乙女心に応えようとしない澪に苛立ち、先鋭化させた発言を向けてしまっている。
そうして意固地になった律は、
到底果たせられない約束を唯達と交わす羽目に陥ってしまった。

 追い込まれた律は澪に縋り付く以外、進路も退路もなくなっていた。
苛立って反発した相手に泣き付くなど、本来なら屈辱極まりない事である。
律とて澪以外ならば、意地でも助けを求めなかっただろう。
それが澪に対する、度を越した甘えであるとの自覚はある。
だが──

「ああ。前も言ったけど、そっちは髪を下ろしたお前に着想を得たんだよな。
ヒントをありがとな。
それと、恋人から似合っているって言って貰えて、きっとサングも冥利に尽きているよ」

 澪はこうして、律の我儘全てを許すかのように微笑んでいた。
だから律は自立心を堕す事になっても、澪に依存してしまう。
田井中律という一個の人権主体が壊されて猶、律は澪が好きだった。
恋人に、なりたかった。

 律はこの恋の勝算を、皆無と見立てている訳ではない。
澪の自分に対する態度を思い返せば、好意の表れではないかとさえ思えてくるのだ。

 だが、踏み切れない。勇気がなかった。
もし澪の態度に対する自分の読みが、勘違いだったら立ち直れない。
同性愛に対する唯達の目も怖かった。
先日は律の恐怖を裏付けるように、彼女達の異性愛に対する憧憬を見てしまっている。
澪との関係性が変わる事も、未知への不安があった。

 何より。
正式な恋人となると、甘えに正当性が付されてしまうのだ。
それは、澪に淫する依存の歯止めが、本当に無くなってしまう事を意味している。
その状態に至ってしまえば、もう自分自身の所有者を自らに留めては置けまい。
比喩ではなく、澪が所有者だ。
田井中律に属する権利の行使を全て、彼女に委ねる形となるのだから。
主体的な自意識を完全に放棄して、戻れなくなるほど壊れてしまう自分が怖かった。

「私だけじゃないって。誰に見せても似合うって言うよ。
きっと、唯達に見せても」

 自分を壊す決断に至れないまま、律は前言を他者の評価へと一般化して逃げた。
そうして自らの言葉で気付く。
澪の散髪は、今日を凌ぐだけの逃げ道しか提供していない事に。

「あっ。そうだ、唯達だよ。今日は誤魔化せると思うよ?
でも、明日以降どうするの?」

 律は続け様に訊ねた。
明日も部活がある。
そこで髪の短くなった澪を見れば、今日の相手が彼女だったと唯達に気付かれてしまう。

「そのくらい、考えてから髪を切ってるよ。
明日以降を乗り切る策くらい考えた上での行動だから、心配するな」

 澪も当然、その程度の事には気付いていた。
策まで用意しているとは頼もしいが、具体的にはどう対処するつもりなのだろう。

「どうするつもりなの?」

「後で話すよ。それより今は、目の前の中華街に行こう。
おいで。本番のつもりでエスコートするよ」

 澪は空腹らしく、食事を優先していた。
律も食い下がる事なく、素直に従う。
もう髪が切られてしまっている以上、澪の見せる自信を信じる外ない。

 第一、美食の地を目前に置いて、垂涎の思いを留める事も憚られた。
今に至るまで、中華街の前に留まり話し込んでしまっている。
その間にも、大食の澪の胃は食欲で疼いていたに違いない。

「うんっ、そうだね。私も何か、胃に入れておきたいよ。
美味しい物、案内してよ。みぃ」

 澪の表情に気付き、律は言い直す。

「サングッ」

 澪は満足そうに頷くと、律を先導するように緩やかに歩き始めた。
肩紐で脇に垂らしている澪のボストンバッグが、歩みに沿って揺れる。
逢引に用いるよりも、小旅行で使うような大きなバッグだ。
バスドラムの幅を狭めて、奥行きを伸ばした形相が最も近いだろうか。
律は自分が部活で担当しているパートから、サイズに大凡の当りを付けた。

 そのバッグが翻り、澪の全身も回った。
直後、中華街の東門を背に屹立する澪が、律の瞳に映る。
澪の普段着とは違うコーディネートも相俟って、別世界への案内人のようだった。
澪が夏に長袖を着ている姿など、サマージャケットであっても見た事はない。

 澪は白と黒のボーダーが入ったシャツの上に、
細く青いストライプが施されたジャケットを着用していた。
襟の巾が大きく、縁全体に白いラインが走っている。
そしてボトムはジャケットと同色のスラックスだった。
そのモッズスーツ風の服装の中、目元に走るアイシャドウがエスニックなインパクトを添えている。

「ようこそ。律がお姫様で居られる時間へ」

 確かに律は、別世界へと案内された。
導かれるままに、律は澪の手を取る。
或いは、サングの手を取った。

*

>>42-49
 本日は以上です。
 投下していて気付きましたが>>44の8行目

誤 >サロン『ハーゲンタフ』って、ファッション雑誌とかで見たあるだろ?

正 >サロン『ハーゲンタフ』って、ファッション雑誌とかで見た事あるだろ?

でした。
推敲はした積もりでしたが、見落としがあったようでお詫びします。

 それではまた明日、よろしくお願いします。

 気付けば、中華街の東門が間近に迫ってきていた。
中華街に入った時と同じ門なのに、違う自分になったような心持で潜る。
確かに別世界へと案内された気分だ。
そして自分がお姫様で居られる時間は、まだ終わっていない。
ゲートを潜ってもなお、律は別世界に生きていた。

「次は何処に攫っていってくれるの?」

 東門を出て真っ直ぐ歩きながら、律は首を傾げて問う。

「すぐ、そこだよ」

 律が澪の答えを聞いて、前方へと目を向けた時。
元町・中華街駅の出入口が、後方へと過ぎていった。

*

こんばんは。
>>83の続きを投下します。
今回は長いです。


*

7章

 本当に時間は掛からなかった。
東門から直進して、五分も経っていない。
それだけの時間で中華の雰囲気から一転、緑葉茂る木々を散在させた公園に着いていた。
入ってすぐの噴水を迂回して進んだ先では、アスファルトの道が横長に伸びている。
その向こう側は、海だった。
向かい風が海水を擽って、律の鼻に潮の匂いを届けてくる。
波が岸壁に当たって砕ける音も空気を震わせ、律の鼓膜を叩いた。

 右に目を動かせば、鎖で岸壁に繋ぎ止められた船が映った。
そして道の手前側、即ち海の対面にはベンチが並べられている。
だが、そこに腰掛けて海を眺めている人は少なかった。
活発に道を往来する人の多さとは対照的である。
どちらにも属さない律は、澪の隣に立って瞳を右往左往させていた。

「山下公園だよ」

 海に沿って展開するこの公園の名前を、澪が教えてくれた。
律とて、名前くらいは知っている。
みなとみらい21や中華街に比して知名度でこそ劣るが、それでも有名な場所だ。
観光の名所として、或いはデートのスポットとして。

 事実、中華街ほどの密集ではないにせよ、
団体客、親子連れ、そして恋人と思しき男女の組が視界に絶えない。
観光名所の名に負わず、写真を撮る人の姿も目立つ。

「此処が、あの山下公園。人気のデートコースだよね」

 律は声に出して、自分へと言い聞かせる。
そうする事で、デートスポットに澪と一緒に訪れられた喜びを胸へと浸透させた。

「そうだな。アリバイ作りには丁度いいだろ?」

「アリバイ?」

 律は澪の言葉を反復した。
澪の発言の意図自体は、聞いた瞬間に理解できている。
ただ、気分を壊された不満が、衝動的に口から漏れてしまっただけだ。

「ああ。夜、唯達に見せるのは、デートの途中から、って設定だろ?
だったら当然、その前にも私達はデートしているはずだよな。
明日、自分達が見る前は何処で何をしていたのかって、唯達から訊かれるかもしれない。
こうして事実を作っておけば、中華街と山下公園に行ってましたって、答え易くなるぞ。
実際に訪れているんだから、襤褸は出にくい」

 分かり切った説明が、律に現実を突き付ける。
デートスポットに立ち寄った事も、唯達を騙す策の一環でしかないのだ。
勿論、澪の気遣いに感謝はしている。
律の頼みを周到な計画と入念な準備で先導している上、
魔法に掛かったような夢の舞台まで演出してもらっているのだ。
一日限りの夢とはいえ、忘恩に等しい不満を抱くべきではない。

 そして、明日になれば魔法は解け、自分達の関係も友人でしかなくなる。

「じゃあ、デートっぽい事をしておかないとね。
唯達に言っちゃった大言壮語、実現するくらいにさ」

 ならば、せめて魔法が掛かっている今を、精一杯に享受しよう。
律は明るい声を出すと、岸壁へと走り寄った。

 足を運ぶごとに、右手に見えていた船が正面へ近付いていく。
船の舳先を真向かいに捉えた所で、律は立ち止まって手摺に手を置いた。
眼下に収めた海面と陸地の境界面では、小波がコンクリートに当たって弾けている。
その度、水飛沫とともに潮の匂いが飛散した。

「あっ、律」

 人の間をすり抜けながら、澪も追い付いてきた。

「まだ、航行している船なの?」

 鎖で繋がれた船を見上げて、律は呟く。

「いや、昔の船だ。運航から引退して、もうそれなりの年数が経ってる。
展示されているだけだよ」

 隣に並んだ澪が教えてくれた。
船首の下の船体には、この船の名称が書かれている。
一瞬、いつもの癖で『丸川氷』と読んだが、
右から左に『氷川丸』と読むのが正しいのだろう。
横文字が逆に流れている所にも、この船が経てきた長い年月が表れている。

「外観だけじゃなく、中も見れるけど。入るか?」

 澪の指に沿って右方へと目を向けると、船の側面へと続く足場が洋上に設けられていた。
その上では、入場する者と退場した者が擦れ違っている。
足場の更に右方に、チケットの売り場らしき窓口も視認できた。

「デッキには出れないんだよね?」

 船の舳先に目を転じて、律は澪へと問い掛けた。
出られたとして、やろうか、やるまいか。律は迷う。
やるとしても、澪の協力は不可欠だ。

「ああ。デッキが開放される日もあるけど、平日は立ち入れないな」

 澪の返答を聞いた律は、落胆と同時に安堵も感じていた。
デッキに出る事が出来たとしても、実践には羞恥の壁がある。
ましてや海の方向は、ここから視認のできない船尾だ。
恥じらいを忍んでも、律の望みが叶うとは限らない。

「じゃ、私はいいや。
でも、サングが見たいなら、私も付いていくよ」

 律は辞する意思を見せつつ、最終的な決断を澪に委ねた。
本音を言えば、デッキに出られないのであれば踵を返したい。
願望を諦めた律の内部で、別の焦燥が疼き始めている。
飲茶で大量に飲んだ烏龍茶が響いて、膀胱が尿意を訴え始めたのだ。
内装を見学するだけでも興味はあるものの、こちらの鎮静化が先決に違いない。
船中にも手洗いはあるのだろうが、事は急を要するだけに手間の少ない方を選びたかった。

「いや、私もいいよ。
でも、ここで他にやりたい事もないなら、中の展示物だけでも見てみるか?」

 律の内心の焦燥を組んだ訳ではないだろうが、澪も乗り気を見せなかった。
入船すると言ったなら、先に手洗いだけ行かせてもらおうか。
そう対策も思い付いていたものの、不要となった。

「ベンチに座って、海を眺めていたいな」

「夏の海も、そろそろ見納めだしな」

 律の提案を容れた澪が、手を握って先導してくれた。
二人、船から遠ざかる方向へと、海の際に沿って山下公園を進んでゆく。
噴水のある広場が左手に見えた。自分達が入園してきた場所である。
そこを通り過ぎた辺りで、澪が足を止めた。
背の高い澪の目線が落ちて、背の低い律の瞳に向く。

「ここでいいか?」

「うん。丁度、ベンチも空いてるし」

 目を合わせて問う澪に、律は即答した。
見晴らしだけで言うなら、ベンチに座るよりも手摺の前で立っていた方がいい。
殊に噴水の前の歩道では、バルコニーのような扇形の突端が海側に設けられている。
反面、ベンチは舗道の緑地側に据えられており、眺望で劣る事は避けられない。

 だが、律は体力がなく、澪は軽くない荷物を持っている。
落ち着いて海を観賞するには、座っていた方が良かった。

「じゃあ、ここにするか」

 律の返答を確認した澪がベンチに腰掛けたが、当の律は座らなかった。
落ち着いて海を鑑賞するには、下腹部で疼く焦燥を鎮めなければならない。

「律?」

 澪の首が怪訝そうに傾ぐ。
座る素振りを見せない律に、不審を抱いているらしい。

「えーとね。ちょっと、席外すから。ここで待っていてくれる?」

 顎の前で両手の指を合わせ、恥じらいが伝わるように言った。
澪ならば仕草だけで、律の意図を察してくれるだろう。

「場所は分かるか?何なら、連れて行こうか?」

 律の期待した通り、澪は理解してくれた。
のみならず案内まで申し出てくれたが、律は両手を振って遠慮する。

「えっ?いいよ。サングには、荷物と場所の番を頼みたいし。
だから、場所を教えて?何処が一番近いの?」

 途端、澪の眉根が不愉快そうに歪んだ。
表情の変化は一瞬だったが、見間違いという事はないだろう。
素直に教えてくれると思っていただけに、意外な反応が網膜に焼き付いて離れない。

「場所って、何の場所だ?
それを伝えてくれなきゃ、私も教える事ができないな」

 分かっているくせに。
意地悪く惚ける澪に、律は口を尖らせた。

「何のって、分かってるじゃんかー」

「ああ、自動販売機の場所か?曇天とはいえ、夏だもんな。
じゃあ、私が買って来てやろうか?
五百ミリの冷たい缶ジュース、一気飲みさせてやるよ」

 澪は言って、嬲るように笑う。
尿意もいよいよ激しさを増した今、
五百ミリもの冷水を一気に飲ませられたら堪ったものではない。
澪は間違いなく、分かっていて律を虐めているのだ。
気に触る事をした覚えのない律は、涙声になって訴える。

「虐めないでよ。何処の場所を聞いているかなんて、言わなくても分かってるくせに。
どうしてそんな」

──意地悪言うの。
と、続ける事はできなかった。代わりに「りっ」と、短い声が律の口から走り出る。
澪に腕を掴まれ、強引に彼女の太腿の上に座らせられたのだ。
驚きと身体に掛かる引力が、律の言葉を奪っていた。

「言わないと分からないのは、お前も同じだと思うけどな」

 耳元で囁かれ、律は心臓を掴まれたような気がした。
心の奥底まで抉り取っていく刃が、澪の声に乗せられている。
言わないと伝わらない。その事実が、澪の言葉とともに重く重く圧し掛かる。
感じ取らせるだけでは、圧倒的に不足だ、と。

「ほら、言ってごらん?取り返しが付かなくなる前に」

 今度は圧力を心ではなく身体に感じた。
律は堪らず、身を捩らせる。
澪の指に下腹部を押されたのだ。
強い力ではない。
だが、尿意が迫り上げている今は、脅威の衝撃となって律を見舞った。

「ん?」

 澪は急かすような声とともに、無慈悲にももう一押し加えてきた。
先程よりも、強い力で。

「んっ」

 滴が零れそうになり、律は慌てて下腹部に力を込めた。
猶予はない。意地を張っていれば、沈黙は致命傷に至ってしまう。

「お手洗いっ。私、お手洗いに行きたいの。
だから、お手洗いの場所、教えて」

 澪は満足したような顔を浮かべると、律を解放してくれた。

「良く出来ました。まぁ、あれだけ烏龍茶を飲めば、そうなるよな」

 飲ませた張本人に言われたくなかったが、抗議などせずに言葉を待った。
時間が惜しい上に、機嫌を損ねたくもない。

「この角を真っ直ぐ行くだけだよ。そこにある小さい建物がトイレだ」

 澪が腋の角度を狭めて指差した道は、たった今通り過ぎたばかりの道だった。
噴水の脇を通る道のすぐ横に、平行した道が通っている。
続いて澪が指差した先に、律は確かに屋根の姿を認めた。
眼前の角を曲がって直進するだけの道程である。
一聴と一見に留めても、迷いようがなかった。

「ありがと。ここからなら、そんなに遠くないね。
じゃあ、すぐに戻ってくるから」

 礼だけ言って、律は爪先を手洗いに向けた。

「待て」

『マテ?』
 澪に留められては、急く足も止まる。
律は躾けられた犬のように、飼い主の指示を待った。

「もし野郎から声を掛けられたら、大声を出して私を呼べ。
この距離なら必ず聞き届けて、仕留めてやるよ」

 切れ長の目で律を見据え、澪が言い切った。
自分を独占するかのような言葉に、律は蕩けた瞳を澪へと向ける。
本当に、嫉妬深い恋人であるかのようだ。

「勿論、本当の彼氏ができてお役御免なら、唯達との問題は一番スマートに解決するけどな」

 だが、その感覚も直後の言葉で途切れた。
律が錯覚を起こす度、常に現実が突き付けられる。
目の前に居る恋慕の対象は、本当の恋人ではない。
窮地を脱する為に協力してくれている、親友なのだ。

 だからこそ、律は疑問だった。
此処で都合良く異性から求愛されて付き合えば、唯達との約束は嘘ではなくなる。
本当の彼氏として、逢瀬を披露できるのだ。
それを否む理由など、協力者の澪にはないはずである。

「でもな。そんな恰好している女に声を掛けてくるのは、どうせ下心がある奴だけだ。
その程度の野郎じゃムギや梓が心配するから、付いて行くなよ?
もっと落ち着いた時に、信頼できる相手を選べ」

 律の疑問を先取りした訳ではないだろうが、澪が噛んで含めるように言った。
言うまでもなく、この艶美な服をプレゼントした者は当の澪である。
それだけに、色欲が目当ての輩を追い払う義務も感じているのかもしれない。

 そして律は、先ほど行先を暈して一人でトイレに行こうとした際、
澪が怒っていた理由も分かった気がした。
だが、可能性としては有り得るというだけで、当て推量の域を出てはいない。
律は”他に思い付けなかった”という理由だけで、自信がないままに問い掛ける。

「もしかして、だけど。
サングがさっき怒っていたのって、私が無警戒だったから、なの?」

 護衛が含意された同行の申し出を、律は遠慮してしまっている。
澪の義務感を尊重せず、扇情的な恰好で一人歩こうとした格好だ。
澪が怒りを覚えても不思議ではない。

「怒ってないよ」

 律の問いを否定する澪は、涼しい顔を見せている。
だが、澪の言葉を額面の通りには受け取れない。
問い掛けた推測が間違っていたとしても、或いは本当に怒っていなかったとしても。
澪は間違いなく、律に対して尋常ならざる厳しい態度で臨んでいた。

 尤も、律にこれ以上追及する余裕などなかった。
膀胱が限界を訴えている。
額から脂汗を滲ませる程に、身を捩りたい程に、耐え難い衝動だ。

「なら、いいんだけど。ごめん、サング。
もう私、耐えられそうもなくて。行っちゃうけど、いい?」

 太腿を忙しく擦り合わせ、態度でも限界を訴えた。
排泄さえ管理されている我が身が、飼い犬のようにも思えてくる。
そのような自分を、惨めだとは思わなかった。
いっそ、本当に飼われて、調教して欲しいと願っている。

「ああ、行っていいぞ。引き留めてごめんな。
今も言ったけど、気を付けろよ」

 許可の出た律は、教えられた道を小走りに進んだ。
それでも履き慣れないチャイナシューズが、急く足の動きを抑えている。
肌に当たる向かい風も鬱陶しかった。背に腹は代えられない。
律は行儀の悪さを承知で、足を大股に動かした。
慣れない靴で無理に走っては転びかねないが、
大きな歩幅で移動するなら安全に距離を稼げる。
そう、思っていた。

 だが、注がれる無遠慮な視線が、律に失態を気付かせる。
大股で歩き始めた時は、然程気に留めていなかった。
下心のある者から見られているだけだろう、程度の認識でしかなかった。
しかし、歩を進めるうち、視線の主に同性も含まれている事を看取した。
自分の身体に何か付いてでもいるのだろうか。
地を大きく跨ぎながら、律は自身の肢体を見下ろした。
そして、頭に上る熱い血の気とともに、理解へと至る。

 深いスリットが入っている為に、脚の動きに裾も連動して靡いている。
その服を着て大股で動くとどうなるか、律の瞳は捉えていた。
太腿の上に載った裾は脚の動きに沿って滑り、脚の付け根をほぼ露見させてしまっている。
股さえ晒しかねない、際どい位置だ。

 知覚によって生じた夥しい感情の氾濫を、脳は慌ただしく処理している。
それが故、歩幅を縮めろという、脚部に発するべき脳の指令は間に合わなかった。
もう一歩を踏み出す動作が、始まってしまっている。
折り悪く、前方から一際強い風が吹いた。
太腿の内側へと滑った裾が強風に煽られ、横へと靡く。
澪にさえ見せた事のない花冠が、手折られる危機を迎えて──

「っ」

 無意識に裾へと手が伸び、赤裸々な露出は免れた。
裾の端に掛かった指が、際どい所だったと教えている。
律は裾を掛け直すと、顔を俯かせて歩き出した。
此処に留まって居られない。

 露出は免れたと言っても、正面からの話だ。
観測者の立ち位置次第では、網膜に収められたかもしれない。
考えてみれば、危機を自覚した今に限った話ではないのだ。
大股で歩き始めた時から、強風は幾度か受けている。
その間、性器を露出させかねない足取りで歩いていた。
視座によっては、覗けた者が居ても不思議ではない。
自分を見ていた周囲は、どのような感想を抱いただろうか。
考えれば考える程、頭が茹って赤面してしまう。

 幸いにも、手洗いは眼前に迫っていた。
律は顔を伏せたまま、視線の追跡から逃れるように突進してゆく。
晒した痴態を人目から隠したい一心が、律の足を動かしている。
そうしてコンクリートの壁を迂回すると、俯かせた瞳が灰色の四角い入口を視認した。
あの中に逃げ込めば、衆目を遮る事ができる。
お化け屋敷の出口に駆け込む童女のように、律は入口に身を躍り込ませた。
入った途端、安堵の吐息が込み上げてくる。
律は憚る事なく相好を崩し、喉に迫り上げた息を吐き出した。

「えっ?」

 顔を上げた律は、目に移る信じ難い光景に短い声を漏らす。
律を迎えたのは、男性たちの驚いた顔だった。
何故ここに律が居るのか分からない、彼等の顔にそう書いてある。
そしてその疑問が当然だと、律も瞬時に気付く。
忘我に飛び込んだ先は、男性用の手洗いだったのだ。

「りっ」

 謝る事さえ忘れて、律は飛び出した。顔が熱い。
直後に、隣接する女性用の手洗いに入ろうとしていた同性と目が合った。
男性用の手洗いから飛び出した律を見て、彼女の顔が驚愕に見開かれる。
そして間を置かずに表情が軽蔑へと変わり、彼女は足早に手洗いの中へと消えて行った。

 折悪しく、気まずい所を目撃されてしまった。
その上で軽蔑を隠さなかった彼女と、同じ場所に入りたくはない。
だが、膨張した膀胱が律の選択肢を奪っている。
律は息を詰まらせる思いで、彼女の後を追って女性用の手洗いへと入った。

 先程の女性は、折好く個室の中に身を収めた所だった。
変質者に向ける視線で遇されずに済み、律は胸を撫で下ろす。
しかし、安堵は束の間だった。
見回す目には扉の閉まった個室が飛び込むばかりで、不運を嘆息せずにはいられない。

 早く何処か空かないだろうか。
脂汗を滲ませながら、祈るような気持ちで律は待った。
太腿を擦り合わせて踵で足踏みし、身を捩らせて必死に耐える。
蹲りたい衝動は抑えられても、尿意に悶える身体を鎮める事は容易でない。
個室から聞こえる衣擦れの音にも、用を終える兆候であって欲しいとの祈りを乗せた。
手洗いの中では、音姫であろう擬音だけが絶えずに響く。

「澪の馬鹿ぁ、私の馬鹿ぁ」

 思わず澪を詰ってしまっていたが、間髪を置かずに言い直した。
直後に轟いた浄水の音が、律の思考を押し流す。
一日千秋の思いで待った扉が、遂に開くのだ。

 実際には、然したる時間は経っていないのだろう。
後続の者は誰も入ってきていないのだ。
だが、待つ身の苦しみの上では、秒針でさえもが緩慢に動く。
今も律は衣擦れの音に耳を傾けながら、穴を穿たんばかりに扉を見つめている。
もうすぐだと分かっているのに、一秒一秒が長く遠く遅い。

 焦らすような間を置いて、漸く先客が扉から出てきた。
待ちに待った瞬間だが、律は下腹部に刺激を与えないよう慎重に歩く。
歩く際の震動さえもが、響いて疼痛のように沁みた。

 個室に入って鍵を掛けた律は、便器の形状を改めて見遣る。
腰掛けずに済む和式である事に、安堵の吐息を漏らしていた。
抗菌スプレーの入ったバッグは、澪の鞄の中に預けたままである。
律は排泄の欲求に急く緊急時でも、衛生面への留意を忘れてはいなかった。
仮に洋式であっても、便座クリーナーやシートがあるなら我慢できる。
それさえなかったら、
トイレットペーパーを便座に敷くという窮余の策に出ざるを得なかった。

 これで安心して、身体の切なる訴えの通りに行動できる。
限界との戦いから開放されるという軽やかな安堵からか、便座へと踏み出す足取りは軽い。
だが、便座の脇に足を置こうとして、律の身体は電流が走ったように強張った。

 律は顎を引いて、身に纏う被服の長い裾を見遣る。
排泄など日常的な生理現象であるにも関わらず、
実際に直面するまでこの問題が頭に擡げる事もなかった。
律は眼球だけを動かして、何度も便座と裾を往復させる。
理解した事態ではあるが、悪足掻きの確認をせずには居られない。

「汚しちゃう」

 往生際の悪い作業を打ち切る為に、律は疾うに確かめ終わっている事を口にも出した。
裾の長いチャイナドレスでしゃがみ込めば、裾が便器の中に落ちて水で汚してしまう。
後方の床や前部の凸部に裾を流す等、方策を頭の中に浮かべてはみた。
だが、僅かな動きで、裾が便器の中に落ちる危険性を排除できない。
加えて、澪から貰ったドレスである。
乾いた床であれ、不浄の場で服を地に付けたくはない。

 裾を持ち上げればいいのだろうか。
足首にまで伸びる裾の長さを考えれば、非現実的な案だ。
裾を折り畳む事にも思慮を馳せたが、
前方のみならず後方も同様の処置を施さねばならない。
二本しかない手で、上手くできるとは思えなかった。
ましてや、事後に拭く事ができない。

 考え付く案が悉く不採用になる中、無情にも尿意は激しく募る。
膀胱に膨満する尿が波を打って、下腹部を内部から圧しているようだ。
もう、猶予はない。

 律は背中のファスナーに手を回した。
これから行なう事を思えば耳が熱くなるが、葛藤している時間はない。
膀胱が破裂せんばかりに膨張しているのだ。
律はファスナーを下限まで下ろすと、袖から両腕を抜いた。
乳房を露わにして、布が地に付かぬよう慎重にチャイナドレスから両足も抜く。
裾を汚さずに排尿するには、チャイナドレスを脱ぐしかない。

「きゃはっ」

 ドレスを畳んだ律が放った吐息は歪んで、笑い声のように弾けていた。
視界には、裸の我が身を映している。
公共の場で胸部も性器も晒して裸になるなど、我が身ながら変態に思えてならない。
この手洗いの壁を隔てた場では、多くの人が文明的な恰好で行き来しているのだ。
思えば思う程に、心臓が激しく波打って呼吸を乱す。
律の吐く息を、歪ませてしまう。

 淫猥な姿に堕したものの、これで漸く目的を果たす事ができる。
律は畳んだドレスを胸に抱えて、便座に就いた。
余裕はなくとも音姫のセンサーに指を近付け、作動させる事も怠らない。
そして川の流音の響く中、耐えてきた堰を切った。

「うわ」

 排出された液体の不規則な軌道に、律の口から呻きが漏れる。
予期した直線を描かずに、出ると同時に弾けて飛沫を散らしたのだ。
飛散は花火のように一瞬で終わったが、直後の軌道は安定していない。
水溶性の膜に覆われた蛇口から、水を放ったかのような動態が辿られていた。
通り道を邪魔する膜が流水に払われてしまえば、軌道も安定に至る。
事実、律の下腹部が楽になるに連れて、軌道も直線へと転じていった。


 律は初め驚きこそしたが、原因に付いては瞬時に察しが付いている。
相次ぐ興奮に見舞われる中で、性器から分泌された粘液が尿道口にも被さったのだろう。
流水を弾いて散らした膜の正体は、それに違いない。

 自覚とともに、性的な含羞を抱いた事象の一つ一つが思い出される。
中華街でチャイナドレスに身を纏った時から、律の身体を刺激して止まないものだ。
ここ、山下公園に着いても、興奮と羞恥は律の身から離れていない
殊に、澪と離れて手洗いに向かった時からは、その連続だった。

「うー」

 胸に抱えていたドレスへと顔を埋めて、律は唸った。
身を焼くような記憶が脳裏に巡って、顔を上げてなど居られない。
痴女に思われても仕方がないくらい、媚態を晒してきたのだ。
澪に告白できなかった小心者のくせに、と、律は胸中で呟く。
臆病者らしく、晒した痴態を恥じて落魄に窶していれば釣り合うのだ。
なのに身体は、身の程を弁えていない。
晒した痴態を悦ぶかのように、粘つく体液を分泌して生理現象の軌道さえ変えていた。

 顧みているうちに、用は終わっていた。
腹部の疼きも消えている。
律は顔を上げると、トイレットペーパーホルダーへと手を伸ばした。
早く拭いて、服を着てしまおう。
公共の場で裸身を晒して興奮する淫奔の沙汰から、早く脱したい。
そう思って伸ばした指は、手応えなく空振りしていた。
勢い、指と指が柔らかく当たり合う。

「えっ?」

 律は拍子の抜けた声を漏らした。
衝かれたように、ホルダーへと首ごと視線を振り向ける。
頭を垂れて謝するようなホルダーの蓋に、律は絶句する他なかった。
ホルダーの蓋を持ち上げてみるが、紙も希望も見当たらない。
律は忙しく個室内に視線を走らせたが、
予備のトイレットペーパーが瞳に飛び込む事はなかった。

「りー」

 律は弱々しい鳴き声を、唇の隙間から零した。
こればかりは、工夫や知恵で乗り切れる類のものではない。
壁越しの個室に話を通して、予備のペーパーを投げ入れてもらえないだろうか。
その案が脳裡を過ぎった直後に、自分へと軽蔑の眼差しを向けた女性の顔が蘇る。
頼める訳がない。
自分の痴態で頭が一杯になり、隣室の挙動など感知する余裕もなかった。
まだあの女性が隣の個室に居る可能性は、決して低くはない。
只でさえ、見知らぬ人にデリケートな儀を頼む事には抵抗があるのだ。
自分を蔑視で遇した人間に懇請するなど、律の弱い心が許容できる事態ではない。

 律は胸に抱くチャイナドレスを見遣った。
このまま、着るしかないのだろう。
理解はしていても、抵抗の念は消えずに残っている。
だからこそ、採り得ない解決策にさえ思いを巡らせたのだ。
貰ったばかりの服に、不浄の跡を付けたくはない。
排尿自体が綺麗に行えた訳ではなかった事も、律の葛藤に拍車を掛けている。
陰部に塗れる粘液が尿を爆ぜさせた際、全ての雨滴が便器へと散っていった訳ではない。
その粘液自身に吸着した尿が、今も律の陰部で泥濘んでいる。
染みや匂いを遮断する下着がない以上、布地や空気が泥濘へと直接触れてしまう。
そうなれば、他者の視覚に嗅覚に、赤裸々な主張を突き付ける惨事へと至りかねない。

 だが。こうしている間にも、澪が律の身を案じて待っている。
悪い男に絆されないよう、念を押して諭してくれた友人だ。
早く戻って、安心させてやりたい。
どうせ選ぶ余地のない懊悩なら、時間を空費しているに過ぎない。
逡巡を経た所で一本道は変わらず、通る時が今か後かの違いでしかないのだ。
結論の出ている事なのに澪を待たせる訳にはいかない。
澪を不安の渦中に置いて、焦らして煩悶させる訳にはいかない。
律は、覚悟を決めた。羞恥が何だというのだ。

 律は立ち上がりざま、チャイナドレスを広げた。
裾が床に付かないよう、そして布地が湿地に付かないよう、慎重に足を通す。
両腕も袖に通してチャックを締めると、僅かに姿勢を前傾させた。
腰を支点に、裾が下へと真っ直ぐに伸びる。
律は裾の具合を確認しながら、緩やかに背筋を伸ばしてゆく。
裾の布地が恥丘に触れたが、滲み出してはいない。
背筋が伸びきっても、染みが布地に浮き出る事はなかった。

 律は心労を押し出すように、長く息を吐き出す。
幸いにも、布地が触れる個所の大部分は、体液の付着の具合が少なく済んでいた。
直下に濃く塗れたゾーンがある以上、楽観まではできない。
それでも気を付けて歩けば、惨事には至らないだろう。

 たかが排尿に、多くの時間と労力を割く羽目になったものだ。
律は疲弊の我が身に呆れながら個室を出た。
入れ替わるように、律の出た個室へと人が吸い込まれてゆく。
待たせてしまった相手は、澪だけではなかったらしい。
自身の優柔不断を省みながら、律は両手を洗う。

 無手の律はドライタオルに濡れた手を翳すに留め、トイレを後にした。
せめてハンカチだけでも持ってくれば良かったと思う。
言うまでもなく、手を拭く為ではない。
染みて匂って悟られないかとの懸念を、粘って纏わる液もろともに払拭する為だった。

 澪の下へと戻る道は険しさを増して、辿る律を苛んでいる。
風で煽られる度、痴態が露わになってしまいそうだった。
今や、太腿を滑るスリットだけが脅威なのではない。
風や動作で匂いが飛散して、往来する人の鼻腔に痴女の存在を宣していないだろうか、と。
律は頻りに周囲を気にしながら歩いた。

 四方へと張り巡らせた律の意識も、愛しき者の姿を捉えては一点へと収まる。
無遠慮な視線に犯され続けた律を、澪は抱擁で迎えてくれた。
腰と肩に回された澪の手も、耳元で囁かれる澪の声も、
律は多淫に仕上がった一身で受け入れる。
澪が、欲しい。
生殺しにされた性が疼いて、澪を欲している。

「やはり今のお前は、一際目を引いているな。
命知らずな野郎に絡まれたりしなかっただろうな?」

 言った後で、澪が威嚇するように鋭い瞳を左右に振った。
獲物の横取りを許さぬが如き澪の剣幕に怯んだのか、
律に注いでいた不躾な視線の群れが一様に伏せられる。
いつになく激しい澪の態度が、
自分が掛けてしまった心配の大きさを物語っているようだった。
律が葛藤に費やした時間を、澪は心労に費やしていたに違いない。
自分が彼女の下を離れて手洗いへと行く時から、澪は律を案じていたのだから。

 もし、これが唯ならば、と律は思う。
「遅いよー。あ、もしかして。りっちゃん、うんこ?」
などとデリカシーの欠片もない問いで、律の乙女心を踏み躙っていたに違いない。
脳裡には、嘲弄的な笑みを浮かべた唯の顔が蘇っている。
彼氏の有無で揉めた先日、律を煽ってきた時に見せた笑みだ。

 澪ならば、思っても口にはしないだろう。
現に、心配の言葉だけを掛けてくれているのだから。

 そこまで考えて、律の胸が焦燥に急いた。
澪には、野卑な想像さえも避けて欲しい。

「うん、大丈夫。でも遅くなって、心配掛けちゃったよね。
ただ、お手洗いで順番待ちしちゃって。紙もなかったし」

 言い訳でもするかのように、言葉が自然と口を衝いていた。

「紙がなかったのか?それで、どうしたんだ?
ティッシュも何も持って行ってないだろう?」

 澪がその疑問を口にするのも当然ではあるが、答えるには躊躇する。
抱いて当然の疑問だけに、問われるとの予期もあった。
そして、紙がなかったなどと余計な事は言わず、
手洗いが混んでいたとだけ伝えていれば、受けずに済んでいた問いでもある。
にも関わらず正直に告げたのは、澪を心配させた負い目があるからに他ならない。
答えも正直を貫いてこそ、責を果たした事になるのだろう。
加えて、澪に確認しておきたい事もあった。
律は逡巡を押し遣って、重い口を開く。

「拭いてないの。それでね、本当のこ」

「えっ?拭かずに出たのか?どうりで強い匂いが」

 律が言い切らないうちに、驚いた様子の澪が声を割り込ませていた。

「ええっ?」

 律も澪にみなまで言わせていない。
受けた衝撃の大きさ故、最後まで口を閉じている事ができなかったのだ。
──本当の事を言って欲しいんだけど──などと前置きして、澪に問うまでもなかった。

「うっ、嘘っ?やっぱり匂うの?分かっちゃうの?」

 瞳の奥から滲んでくるものを感じながら、律は半狂乱に問う。
羞恥のあまり、泣き出してしまいそうだった。

「ごめんな、冗談だよ。律からはいい匂いしかしないよ。
いや、冗談というよりは、いつも以上に快い香りがするように感じるよ」

 柔らかく告げる澪の声が、取り乱していた律の鼓膜を叩く。
律は潤んだ瞳で澪を見上げながら、瞬きを繰り返した。
そうして、澪の言葉を咀嚼して遅い理解に至った律は、抗すべく口を尖らせる。
言いたい事ばかりが脳裏を巡るが、喘ぐような呼気に阻まれて声が上手く出せない。
唇の隙間から短く一言漏らすだけで、精一杯だった。

「意地悪」

「ごめんな」

 澪がハンカチで律の目元を優しく叩いてくれた。
ただそれだけの動作で、あれだけ取り乱していた律の心が落ち着きを取り戻してゆく。
動から静へと至る過程すら、律の心それ自身を以って感じ取れる。
意地悪をされても優しくされると許してしまう。
自分の心は澪に掌握されて為されるがままだと、諦めにも似た気持ちで律は思った。

「でも。正直な所は、どうなの?本当に冗談で言ったの?
匂ったりしてない?」

 落ち着いたところで、律は改めて問い直した。
冗談と言う澪の発言を信じ切る事ができない。
本音を零してしまったが、律の取り乱した態度を見て繕った。
その疑念が、頭に擡げている。

「言ったろ?律からはいい匂いしかしない、って」

 澪は先程と同じ答えを繰り返した。
即ち、澪は今も先程も、無臭だとは言っていないのだ。
そこに律は拭い切れない疑念を抱いている。

「つまりそれって、匂うって事じゃ」

 律は確認するように言うが、口から漏れる声は細く弱く消え入ってゆく。

「そんなに心配なのか?なら、確かめてやるよ」

「えっ?あっ」

 律の了解を待たず、澪が顔を律の首筋に沿わせてきた。
頬に当たる澪の髪の感触が擽ったい。

「ちょっとっ、みっ」

 首の付け根に呼気を感じ、律は堪らず声を上げた。
吸音まで聞いては冷静で居られるはずもないが、
それでも”澪”と叫びかけた声は途中で押し留める。

「うん。いい匂いだ。
律が気にするような匂いは一切ないよ」

 律の首に顔を埋めていた澪が、表情を持ち上げて耳元に囁いてきた。

「なっ、何言ってるんだよぉ。
そんな事してくれなんて、私言ってないし」

 自分の身体を嗅ぎ取られた律は、恥辱で息も絶え絶えに抗言を張った。
だが、澪に気にした様子は見られない。

「律がしつこく気にしているから、確かめてやってるってだけだろ?
それに。お前、いつから私に命令できるようになったんだ?
私はお前に何を言われようと、お前の身体を好きなように扱うよ。
お前が私に出来るのは、お願いとおねだりだけだ」

 硬直して言い返せない律を眼前に置いて、澪は一呼吸だけ置いて付け加えた。

「だって今日の私は、お前の彼氏役なんだろ?
恥ずかしい事をやらせてきたりする、サディストな彼氏なんだろ?」

 高圧的に振る舞う澪を、律は拒めなかった。
田井中律を所有している者は、自分ではない。
澪の言う通り自分に許されている事など、赦しを乞うように懇願する事だけだ。

「お願い、サングー。
熱くて蒸しちゃって、汗とかもいっぱい掻いてるから。
だから」

「だから、匂わないか心配なんだろ?だから、確かめて欲しいんだろ?」

 澪が後を引き取って言った。
律が言わんとしていた内容とは正反対である。
だが、律が訂正をする前に、澪は動き出していた。
律の髪の毛に、早くも澪の鼻腔が埋まっている。

「サンッ、うー」

 律は頭に熱気を上らせながら耐えた。
澪の放つ呼気が髪の中で燻り、痒みのような疼きが首筋に走る。

「うん、いい香りだ。ん?暑いのか?耳まで真っ赤だぞ」

「熱いんだよー」

 律は身体の状態を答えたが、澪は同音異義を聞き分けられただろうか。
尤も、問うた澪とて、気温だけが原因だとは思っていまい。
恥ずかしがらせると宣していたのだから。

「みたいだな。
そのせいで今日はいっぱい汗をかいているだろうから、入念にチェックしてやるよ」

 律の襟元から胸部へかけて、澪の鼻が黄色いシルクの上を滑ってゆく。
執拗に嗅ぎ取る吸音を、間断なく響かせながら。

「やっ」

 乳首を鼻の頭で擦られた律は、短い声とともに背を仰け反らせた。

「逃げるなよ。ここは特にいい匂いがするんだ」

 澪の強い力に引き寄せられては、律も抗いようがない。
そう、圧倒的な膂力に屈しただけだ。
澪の甘い言葉に擽られたせいではないと、律は自分に言い聞かせる。

 その間にも澪の鼻梁が、無抵抗な律の胸部を蹂躙していく。
双の房の合間、露出した谷間も、澪に容易く侵略された。

「堪能したよ。芳しかった」

 律の身体から顔を話した澪が、満足を表情に浮かべて言った。
律は解放感に全身を弛緩させ、口を尖らせる。

「もー、強引なんだから。じゃあ、もうお終いっ。休も休も」

「いーや、お腹や背中も確かめて欲しいだろ?」

 澪の手に力が籠もり、律も再び身体を強張らせた。

「いっ、いいよ。そんな事しなくて」

「遠慮するなよ、お前らしくない。あっ、そうか。
こっちの方が気になるもんな。こっちを確認して欲しいって事か」

 澪は慌てて拒む律を意に解していなかった。
一方的に納得して、律の左腕を持ち上げている。

「あっ、こらっ、だめっ」

 腰を屈めた澪の姿勢に、律も彼女の意図を察して喚く。
急いで腕を閉じようとするが、澪の腕力には適うはずもない。

「ねっ、そこだけは、めっ、なのっ。許してよ」

 律の懇願は、無情にも聞き入れられなかった。
澪の端正な顔が、律の腋へと埋められてゆく。
そして、吸音が、響いた。

「やぁっ」

 顔を反らして呻く律に、自分達へと視線を注ぐ衆人の姿が映った。
一様に軽蔑が顔へと浮かんでいる。

「っ」

 込み上げる激しい恥辱が行き場を求めて、瞳から雫となり滴り落ちた。
唐突に学校での平穏な日々が思い出され、皆の笑顔が脳裏を巡る。
あの日々の自分と、大衆から蔑みに満ちた視線で遇される自分が、
同じ存在だとは到底信じられない。隔世の感だ。
あの日々を恋しがれば恋しがる程に、涙が溢れて止まらない。

「許してよぉ……恥ずかしくって死んじゃうよぉ」

 涙声を喉の奥から絞り出し、律は必死の思いで嘆願した。
それが通じたのか、単に目的を果たしただけなのか。
澪の顔が律の腋から離れた。

「発汗が他より多い部位だからな。
律の甘酸っぱい香りが濃厚で、病み付きになりそうだよ」

「馬鹿っ。止めてって言ったのに」

 律は濡れた瞳で澪を睨みつけた。

「悪かったな、焦らしたりして。怒るのも分かるよ。
だって、律が嗅いで欲しかったのって、こっちなんだもんな」

 澪の視線が落ちて、律の恥丘へと注がれた。
律は慌ただしく手を当てがって、澪の視線を遮り喚く。

「やぁっ、ここは駄目っ。絶対の絶対の絶対駄目っ」

「匂わないか私に聞いてきたのは、律の方だぞ。
拭いてないんだろ?
だから周囲に匂いを撒き散らしていないか、気になって仕方がないんだろ?」

 澪の言う通りだった。始めに自分から質問している事に違いない。
髪にも首にも胸にも腋にも言及はしていなかったが、
今澪の視線が注がれている局部には言及していたのだ。
そこばかりは、逃れようがない。
そして、強引に蹂躙の限りを尽くした澪が、逃してくれるはずもない。

「いやっ。ひっく、ぐすっ、えぐぅっ」

 反論も許容もできない律は、泣きじゃくる事しかできなかった。
そこを許してしまえば、往来する人も蔑みの色が強まった目線で律を糾弾してくるだろう。
耐えられない。

 だが、無慈悲にも澪は動いていた。
衣擦れの音が、彼女の息遣いが、人に篭る温度が、律へと迫りながら危機を告げている。

「ひぐっ」

 澪の指が自分へと触れて、律は強く目を瞑った。涙の粒が、瞼から振り落ちる。
だが、吸音は聞こえてこない。澪が触れた場所も恥丘ではなく、頭頂の髪だった。
優しく髪を撫でる澪の仕草に、律は促されたように感じてゆっくりと目を開いた。
その指使い同様に優しく微笑む顔が、霞んだ視界の向こうに映っている。
ぼやけていても分かる、律を甘やかしてくれる時の顔だ。

「悪かったよ。律がそんなに嫌がるなら、やらないよ。
それに。やるまでもなく、分かってる。
何をした後の何処を嗅いだって、律からはスウィーティーな匂いしかしないって事」

 律を気遣う澪の舌は、喋って慰めるだけの用で終わっていない。
律の眼窩の直下に伸びて、零れた涙を舐め取ってくれた。
律は潤んだ瞳で澪を見上げ、顔に這う愛撫を受け入れる。

「泣かせてごめんな。瞳まで涙に濡れてる。
ちゃんと、拭ってやるからな」

 澪の舌は休む暇もなく動いた。
口内に引っ込んで謝罪の言を繰り出した直後には、
再び口唇から飛び出て律へと伸びてきている。
澪の赤い舌先が、明瞭となった視界の中で大きくなってゆく。

「えぅっ」

 澪の舌先が瞳に触れた途端、律は反射的に瞼を閉じて背も仰け反らせた。
眼を衝いた生暖かい感触が、遅れて瞼の裏で走っている。

 開いたままの右目で見遣った澪は、律の顔を覗き込んでいた。
嫌か?と視線で問うてくる澪に、律は閉じていた瞼を開いて答えに代える。
泣いた自分を慰撫してくれる、澪の愛撫に浴していたい。

 もう一度伸びてきた澪の舌を、律は左目を開いたままで受け入れた。
瞳の上で舌先が転がり、間断なく痛みと違和を律に走らせる。
閉じそうになる瞼を意志で抑える度、異常を訴えるように目の回りの筋肉が痙攣した。

 目の中に入れても痛くない、その思いで澪を見てきた。
だが実際には、慣用句では収まらない思いを抱いていたらしい。
今や、目の中に入れる痛みを受忍してでも、澪を求めてしまう。

「あっ、はぁっんっ」

 深く侵入してくる澪の舌に、律は耐え切れずに声を漏らした。
瞼の裏側が攻められ、眼球の上部曲面に海鼠のような舌が這ってきている。
澪に塞がれて、瞼は閉じられない。瞬きの自由さえも奪われていた。
瞬きせずとも、瞳は乾く暇がない。
澪の唾液が、律の眼に塗り付けられてゆく。

 視界が揺れ動く。
否、何も映っていないのに、視界が揺れている。
酔ったように気持ちが悪い。
嘔吐しそうな感覚が、澪が舌を置く奥の奥の脳から放たれている。
唾液か涙か、眼窩の縁に水気が堪り、自重で頬を伝っていった。

「うえぇ……み、おぉ」

 堪えた嘔吐に代わって、澪を呼ぶ声が口から漏れ出ていた。
サング、などと繕う思考の余裕はない。
瞼に始まった痙攣は全身に回り、立っている事にさえ限界が訪れている。
下半身の力が抜けて、腰から崩れていってしまいそうだった。
膝が、折れる。

 律が崩れ落ちるよりも早く、澪が機転を利かせて動いていた。
立つ事も侭ならない律の腰に手を回して、身体を支えてくれている。
膝を折ったまま、律は顔を上方へと向けた。
そこに澪の口唇が降りかかってくる。
頭から食べられるような心持ちで、律は澪の唇を眼に受け入れた。
優しい口付けにも、違和に敏い瞳が瞬きの欲求に疼く。

 重力に逆らえないほど身体が困憊していても、律に休む間は与えられなかった。
澪の口唇から這い出た舌先の表面が、律の瞳に覆い被せられる。
澪の味覚を担う器官が、口中の飴玉を転がすように上下に動く。
それは緩慢に始まり、往復を重ねるうちに激しさも伴っていった。
そうして、澪の味蕾を気にしていた律から、それだけの思考の余裕が奪われてゆく。

 目が回る、脳が回る。
眩暈と吐き気に現実感を奪われる中、鋭い痛みだけが律に現実味を与えている。
制御できない涙液が涙腺を通って鼻に落ち、喉にも流れ込んでゆく。
揺らされる視覚を通じて脳が犯され、身体の末端が小刻みに震えた。
汗が、涙が、涎が、自律を保てない身体から流出してゆく。
自我も、保てない。自分が壊れる。

「み……お……」

 壊れてしまう前に、と。
律は荒い息と嘔吐の欲求の間隙から、愛しき者の呼声を喘がせた。

 直後、空いていた方の目が、愛しき者の姿を捉える。
律の眼窩に被さっていた口唇も間近に見えた。
その隙間に覗く舌先から、細い糸が自分へと落ちている。
唾液が引いた糸だと理解する間に、それは澪の唇の中へと吸い上げられていった。
吸い込んだ澪の喉が鳴り、嚥下を知らせる。

「大丈夫か?」

「うん。ちょっと、くらくらするけど」

 澪の問いに答えるも、
呂律の回らない舌が”ちょっと”どころではないと告げてしまっていた。
舐められた側の目にも痛みの余韻が燻り、閉じた瞼を開ける事ができない。

「だろうな。綺麗にしたら、少し休もうか」

 澪がポケットから取り出したハンカチで、唾液と涙に塗れた律の目元を拭いてくれた。
律は異物感が緩和された左目を、緩慢な動作で開く。
視力が完全には回復していない為か、視界には霞んだ輪郭ばかりが映る。
それも衝撃が齎した一時的なもので、直に戻ってくるだろう。
脳が揺れたような眩暈もまた、少しずつ落ち着いてきている。

 同時に、自分の身体の状態を把握する余裕も戻ってきた。
全身の肌から滲んだ汗で、身体全体が湿気を纏って蒸れている。
吸汗性に優れているシルクの素材の内側にも、
高温多湿の熱気が籠もって肌を沸かせていた。
だが、蒸気に似た湿気が纏わりつく肌よりも、一段と律の注意を引く局所があった。

「おいで、律」

 ベンチに座った澪が、隣の席へと手招いていた。
誘われるままに澪の隣席に座すべきか、律は局所の状態を知覚しながら迷う。
そこを湿らせる液体は、粘液だけではない。
澪に狂わされて制御の効かない身体は、膀胱の隅々からも液体を絞り出していたらしい。
感覚的な濡れ具合が、それを律に教えている。
幸いにも手洗いに行った直後だからか、極めて少ない量で済んでいた。
膀胱の内部に堪った状態であったのならば、
失禁する様をライブで人々に露呈していた事だろう。

 一方で、同時に湧いた粘液は、夥しい量を律の局所に塗りたくっていた。
溢れた液が脚の付け根を越えて垂れ、性器の真下にある太腿の内側までも濡らしている。
服に染みが浮き出て、淫らな形跡を赤裸々に晒していないだろうか。
恐れながら目を向けた律は、布地が恥丘に貼り付いてしまっている事に気付いた。
局部の形状を、委細隈なく明晰に浮き上がらせている。
目立たないだけで、滲み出た染みも見えた。
だが律は、形跡よりも形状を浮き上がらせる事の方が、遥かに恥ずかしい。
堆い恥丘が布地を突き上げていただけの時とは、含羞の深刻さが違う。
律は慌てて裾を摘むと、布地と性器を引き剥がした。
そうして律は布が肌から離れた開放感の直後に気付く。
蓋を開けて、抑えられない且つ止まらない漏出を招いてしまったのだと。

 酸味の強い匂いが弾け、律の鼻腔を衝いた。
爆ぜた液も地に落ちて、落下地点に染みを増やしてゆく。
地を彩る飛沫の跡から察するに、眼球を舐められている最中にも垂れていたらしい。

「変態」

 澪の口から発せられた罵声に、律は身を震わせた。
だが、目を向けて映る澪の顔に、軽蔑の色は浮かんでいない。
茶化すような笑みが浮かんでいるだけだ。
澪から蔑まれなかった事に、律は胸を撫で下ろす。
澪は律が口にしていた彼氏の像を演じているだけなのだ。

「何をポタポタと漏らしてるんだよ。真性だな。
目を舐められて感じちゃったのか?」

 律は小さく顎を引いて頷くと、小走りで澪の下へと向かった。
まだ脳の奥に残る眩暈が、足元を覚束なくさせている。
それでも転ぶ事なく澪の前まで辿り着ける程度には、回復してきていた。

 迷っていた事に決断を下した律は、澪の眼前に立って口を開こうとする。
だが、言おうとしていた言葉が口中で絡んで出てこない。
先程は恥ずかしさから逃げてしまった事を、頼む決心が漸く付いたというのに。

 口に出せないのなら、態度で示せばいい。
律は座ったままの澪へ向かって、歩みを進めた。
澪の顔と律の服が触れ合える距離まで、深く狭く近付く。
そうして澪の鼻先へと、恥丘を突き出した。

「何だよ?」

 対する澪の口調は、突き放すように冷たい。
軽蔑するような視線も、律の熱く溶ける局所を突き刺している。

「トイレの時に躾けたはずなんだけどな。
私に何か伝える事があるなら、言葉にしてみろよ。
ここを、どうして欲しいんだ?」

 澪は”ここ”の指し示す部位を、中指の先端で以って強烈に弾いた。
中指の先端を親指で抑えてから弾き出すこの動きは、
所謂「でこぴん」と呼ばれるものではある。
だが、今その呼称を用いるのは相応しくないだろう。
律が打ち込まれた箇所は、額ではないのだから。

「んぅっ」

 固い爪の背が過敏な場所へと叩き込まれた律は、堪らず苦悶の呻きを上げていた。
同時に、打たれた部位が重く湿った音を上げる。
そこに多く含まれた水気が防音材の用を為し、衝撃の齎す轟音を鈍らせたのだろう。
鋭い痛みに息を荒げながらも、部活の成果なのか音に対しては敏感だった。

 打擲の爪痕は、音と痛みだけではない。
地に落ちた飛沫も、澪が与えた一撃の強烈さを物語っていた。
滴を零すほど激しく陰唇が震えたのなら、
体液だけではなく匂いも撒き散らされたに違いない。
だが、澪の嗅覚に届いた程度では、律の本願を満たすには至らないのだ。

「で、何だ?」

 悶える律に澪は容赦がない。
再び指を構えながら、問いの文句を繰り返していた。

 一方の律も、腰を引きはしない。澪の眼前に構えたまま、躾けられた通りに口を開く。

「嗅いで?」

 泣いて逃げた時よりも艶やかに塗れて匂いの濃くなった性器が、
澪の目先に布一枚を挟んで蕩けて泥濘んでいる。

「それでいい」

 応えた澪の鼻梁が、突き出した律の恥丘を布越しに弄った。
粘つく糊を捏ねるような音に交じって、澪の鼻の鳴らす吸音が響く。

「どうかな?
汗とか……色んな液とかで、凄い事になっちゃってると思うんだけど」

 性感と含羞に身を上気させながら、律は問い掛けた。

「ああ、堪らない。お前の雌の匂いに、脳が犯されてるみたいだ。
こんな垂涎の上物、お行儀良く嗅いでられるかっ」

 前から後ろへと回された澪の大きな両手に、律の臀部が鷲掴みに抱かれる。
そして逃場を失った律の下腹部に、澪の顔が強く強く押し付けられた。
比例して澪の吸音も、強く大きく荒々しくなってゆく。

「もー、飢えちゃって。乱暴なんだからー」

 律は口を尖らせるが、内心は満更でもなかった。
澪は律の香を獰猛に貪るほど、甚く気に入ってくれたらしい。
衆人の中で性的な羞恥を強いられる行為であっても、
惚れた相手に強く求められて悪い気はしなかった。

「もっと乱暴に扱ってやるよ。
私は恥ずかしい事をやらせる彼氏、だったよな?」

 顔を上げた澪が、確認するような口振りで同意を求めてきた。
間違いなく自分が口にしていた言葉なので、否めはしない。
だが、不要な発言で言質を取られたなどと、嘆ずる念も湧いてはこなかった。
唯達に語った彼氏の像は虚栄ではなく、唯の指摘した通りに願望だったのかもしれない。
と、今更ながら、律は気付いた。

「うん。恰好良くって頭も良くてスポーツも得意で、
優しくて甘やかしてくれてお姫様みたいに扱ってくれて、
でも辱めてきたりもするサディスティックな彼氏、だよ」

 本心だから、だろうか。
律は澪の言葉に、弁も滑らかに同調する事ができた。

「なら、遠慮なく。もう後悔しても遅いから、覚悟だけしろ」

 傲然と言い放って立ち上がる澪を、律は一歩も場を譲らずに迎えた。
元から詰めていた距離である。
澪と律の間で、互いの衣や肉が擦れ合った。
そうして後、二人は互いの肌を向かい合わせて圧し合う体勢となる。
間を置かず、澪の胸の中で律の身体が回り、澪の胸に背を預けて止まった。

「鼻を直接宛がって確かめるだけじゃ不十分だ。
匂いが周りに霧散しないかも、確認しないとな」

 律を後ろから抱き支える澪が、耳元で囁いた。
耳朶に被る息と低い声が、擽るように律の耳小骨を愛撫して響く。
堪らず顔に朱の線を走らせながらも、律は首を縮めて耐えた。

「それに、濡れて漏れて蒸れちゃってるぞ。
だから、そこの風通しも良くしてやるよ」

 澪は継いだ言葉で律を嬲ってから、左腕を同じ側にある律の膝下へと添えてきた。
そして右腕で律の腰部を支えながら、律の左脚を上方へと引っ張って伸ばす。
右脚との角度が広がるにつれて、股に疼痛が募ってゆく。
左脚が腰と水平になる頃には、裂かれるような苦しみに喘いでいた。
股関節にも強い負荷を感じ、堪らず右脚を跳ねさせて足掻く。
澪に支えられていなければ転倒してしまうだろうが、
転んで地へと逃れた方が如何に楽か知れない。

 一方の澪は、残酷なまでの徹底ぶりで応じている。
自身の右脚を律の股下に割り込ませる事で、拘束の度合いを強めてきていた。
澪の逞しい右脚が、律の右脚に当て木のように添えられる形となる。
これではもう、足を跳ねさせて逃げる事も適わない。
その上で、澪は無慈悲にも左腕に込める力を増していた。

「外れちゃうよお」

 律は息も絶え絶えな口から、泣き言にも似た声を漏らした。
軋む脚の付け根が、股関節の脱臼の危機を告げている。
骨の継ぎ目が擦れる音さえ、腰の奥から響いてきそうだった。
身体が解体される痛みに、律の口から苦悶の吐息が漏れ出る。

 その吐息を限界の合図と見たのか、澪が動きを止めた。
右脚から頭頂部を真っ直ぐに結んで直立する幹の横に、
斜め上へと向けて左脚が伸びている。
爪先の高さと肩の高さが水平に近い律の姿は、
正面から見た者には片仮名のトの字を逆さにしたように映る事だろう。

 尤も、律は記号や象形文字の類ではなく、生身の体を持った人間である。
開脚が止まっても、無理な姿勢で留められた身体は苦痛に軋んだ。
吐く息も荒く、湿り気を帯びている。

「辛いか?痛いか?苦しいか?」

 問い掛けてくる澪に、律は肯んずる態度と言葉を繰り出そうと思う。
実際、喉元にまで言葉を上らせ、声に出しかけていた。

「私から解放されたいか?」

 だが、続けて放たれた澪の問いを、律は肯んずる事ができなかった。

「どうなんだ?」

 黙した律に、澪が答えを迫ってくる。
そうなのだ。澪は明言を求めている。
全てはお前次第だ、と突き付けられているのだ。

 律は首を振った。
仕草だけでは足りないと思い、言葉も態度に追わせて放つ。

「んーん、解放、しなくていい」

 律の口から出た答えに、脚の付け根が痛みで不満を訴えている。
反面、そのすぐ傍にある律の性の象徴は、口から出た回答を歓迎していた。
律の”ここ”は痛みでさえも甘受して、女としての幸せに変えてしまう。
さながら、出産のように。

「そこは全開の寸前まで開放しかけてるけどな」

 律の腰を抑えていた澪の右手から、発話に合せて中指が伸びる。
指し示す先を目で追うと、斜め上に張られ続けている左脚の根が映った。
左脚の傾斜に沿って裾が肌の上を滑り、
大きく開いたスリットが律の太腿を付け根まで余さず露出させている。
そして、露見は太腿に留まっていない。下腹部の縁の際どい所まで覗けていた。
堆い恥丘が引っ掛かりとなって、滑る裾を極限の所で堰き止めたようにも見える。
危うい縁の差の死守だった。

「ね、サング。それで、どうかな?
ここまで開放しちゃうと、やっぱり霧散しちゃってるかな?
匂い、撒き散らしちゃってる?」

 全壊の寸前まで開放しかけた股が、絶え間のない激しい痛みを走らせる。
それに発声のテンポを乱されながらも、律は問い掛けた。
付け根付近に湿潤して放たれる艶が、目に付いて離れない。
眼球を舐められて感じ入った際の跡に違いなかった。
ここまで濃く多くの体液を溢れさせてしまった身が、
蓋を極限まで取り払った状態で往来に晒されている。
激痛を押してでも、匂いの程度を訊ねずにはいられなかった。

「誘因されるようだよ。
覆うもの何もなく、ヴェール一枚で視覚だけ遮って、大開脚だもんな。
強烈鮮烈峻烈。
この匂いだと、風向き次第で十メートル越えた所の人間まで振り向かせるんじゃないか?」

「大袈裟、だよ。桁が違うし」

 喘ぐ呼気の合間に言葉を割り込ませ、律は反駁を試みる。

「あながち、大袈裟とは言えないな。ほら、ご覧?
皆、お前に注目してるぞ。放つ香りに誘因されてるんじゃないのか?」

 澪が指摘する通り、今の律は衆目を一身に集めている。
だが、嗅覚に訴えて集客の功を為した訳ではない。
今始まった事ではないのにと、律は口を尖らせた。

「前から、じゃん。さっきから、恥ずかしいかっこ、してるからぁ。
きっと皆、私の事、淫らな女だって思ってるんだ」

 否定できない痴態が、隠せない滴となって股下から落ちている。
下着を剥いだ身では、自重に耐えかねて滴る体液を堰き止められない。
大きく開脚した姿勢も、垂水の湧出に拍車を掛けていた。

「ああ、そうか。言われてみれば。さっきからずっと、お前見られてたもんな。
遠近を問わず、皆見てから通り過ぎてったっけ。
淫らな、今自覚してるまんまな見目のお前をね」

 今気付いたかのように澪は言うが、白々しい振る舞いを隠そうとはしていない。
説明するような口調にも、態とらしさが染み出ている。
だが、むくれる律に構う事なく、澪は言葉を続けた。

「でも匂いが拡散されているのも事実だよ。
お前が放っているんだって、気付いている者もいるはずだぞ」

「そんなぁ」

 喉から漏れる恥じ入った声を、自分でも白々しく思う。
匂うとの蓋然性を股の具合から自覚して、澪に嗅ぐよう頼んでいたのだ。
澪の物言いを態とらしいなどと詰れた筋合いではない。

「分かってたくせに」

 律の胸の内を透かしたように、澪が追い討ちを掛けてくる。
耳を嬲る言葉に対し反論できず、律は耳朶に熱を篭らせる一方だ。
自身の顔色を視認できずとも、耳まで赤くなる自分が鏡像を通したように自覚できている。

 行き交う人々も律の羞恥を煽って止まない。
痴態を晒す律の姿は、好奇と下心が込められた視線の的となっている。
勿論、瞥見に留めるだけの理性を持った者が過半ではあるが、
無遠慮に眺めてくる者も少なからず居た。
通りすがりにスマートフォンを構えて、撮影や録画を行う者も散見できる。
大胆にも、デジタルカメラで堂々と撮影及び録画を行っている者さえ居た。
観光地だけあって、デジタルカメラを持ち込んでいる者も少なくはないのだ。
鮮明に、克明に、律の晒す痴態がメディアへと巻き取られてゆく。

 メディアに記録された淫縦な姿は、
動画サイトやSNSにもアップロードされるかもしれない。
田井中律という個人の特定に至るだろうか。
知り合いの目に留まって軽蔑されてしまうだろうか。
そして、ネットを通じて全世界の人々の目に留まり、
この地球という星に生きるありとあらゆる人種から変態のレッテルを貼られてしまうだろうか。
或いは、ワールドクラスの変態として淫祀されるのだろうか。

 視線に犯される状況下で、律の想像が暴走してゆく。
股を裂く鋭い痛みも、自我を保つ用は為していない。
逆に脳から冷静に思惟する余裕を奪う形で、妄想の誇大化に与してさえいた。

「り?」

 その時、母親と手を繋ぎながら歩く子供が律の目に止まった。小学生くらいだろうか。
律の正面前方を通り過ぎようとする彼は、聡よりも幼く見える。
だが、律の方を盗み見る視線に、彼の男性性が萌芽を覗かせていた。

「あはっ」

 盗み見る彼と目が合った拍子に、律は笑いかけてみた。
言語を絶する痛みの中でも、表情を攣らせる事なく笑顔が作れたと思う。
初体験の最中で彼氏に笑い掛けている気分だった。

「っ」

 反射的に顔を伏せる彼の初々しい姿が可愛らしい。
息を呑んだ少年の吸音まで聞こえてくるようだった。
そして、伏せったまま時折向く横目も、律の悪戯娘としての性を刺激していた。

「えへへ」──ませた子供に悪戯しちゃおうかな。

 律は右手を伸ばすと、左側の下腹部に掛かる裾を摘まんだ。

──いいもの、見せてあげるね。

 痴女の目が我が子へと向いている事に、母親も気付いたらしい。
『見てはいけない』と言う間も惜しんだ母親の手が、我が子の目元へと伸びる。
間に合わない、という焦燥が彼女の顔に表れていた。

 そう、間に合わない。裾を摘まんだ律の右手が、右側へと動く。
そうして晒される生殖器は、間違いなく少年の視界へと飛び込むはずだった。

「こらっ、律っ」

 だが、少年の目は、淫猥な光景に当てられずに済んでいた。
『見てはいけない』と我が子を守る母が居るように、
『見せてはいけない』と律に躾ける存在が居る。
その存在たる澪が、怒声を放ちながら自身の右手で律の右手を払い除けたのだ。
同時に、律の左脚を掴んでいる澪の左手が、戒めるかのように上げる力を増す。

「痛ぁっ」

 股に掛かる負荷が増して、律は堪え切れずに悲鳴を漏らした。
律は激痛に悶えながらも、少年の母親が自分へと向けた表情は捉えている。
嫌悪と軽蔑と怒りを隠す事なく、眉間も頬も口元も歪めていた。
穢らわしい”忌き物”に向ける表情そのものだった。
それは決して”人”に向けて良い表情ではない。
顔に唾を吐かれた気分で、律は親子の後姿を見送った。
もし射程の範囲内に居たならば、本当に吐き掛けられていたに違いない。

「誰彼構わず、場所も弁えずか?このド淫乱が。
幼い男の子にそんなものを見せて、トラウマになったらどうするんだよ?」

 無言で侮蔑の表情だけ残して去った母親に代わり、澪が怒気を露わに耳元で凄んでいる。

「ごめんなさい。でも、トラウマは人聞きが悪いもん。
そんなグロテスクじゃないし。あ、確かめてみる?」

 弁解の途中で浮かんだ思い付きを口にして、律は裾を摘んで見せた。

「確かめるついでにね。直接、嗅いでみたらどうかなって。
さっきは、生地を間に挟んでたし」

 誘う律の脳裏では、スリットから両肩を露出させて裾に潜り込む澪の姿が浮かんでいる。
そこで律の陰唇に鼻を押し付けて、存分に匂いを吸引するのだろう。
生地を通した匂いでさえ、澪の見せた興奮は常軌を逸していた。
ならば、嗅覚と対象が密着した状態で直接嗅いだのならば、
澪はどんな反応を見せてくれるのだろうか。
悦びを先取りした心が逸って止まない。

「いーや、私は確かめないよ。私なんかが、そんな事しちゃ駄目だろ?」

 勇む姿を想像していた律にとって、澪の返答は慮外のものだった。
今更、何を言っているのだろう。
澪にブレーキなど存在しないはずだと、律は詰め寄る語勢を強めた。

「今更、じゃんかー。焦らさないでよー。
ここまでやっておいて、そんな事も、駄目も、ないよ」

 股が裂かれる、恥骨が外れる。
律の声を喘がせるその痛みも、抗議の弁に加勢していた。

「あるよ。これ以上は資格がないんだよ。
さっきだって、幼い子供のメンタルヘルスだけが問題なんじゃない。
資格も問われている。
いいか?そこをどうこうしていいのは、お前の恋人だけだ。
そういう存在が本当に現れる時まで、勿体振って取っておけ」

 人の身体を支え続ける事は重労働のはずだが、澪の長広舌は一糸たりとも乱れていない。

「その恋人が、サングじゃんかー。
それに、今更だよ。人前で、こんなに私の身体を辱めておいて」

「だから。サングにその資格がないんだって、お前も分かってるはずなんだけどな」

 耳元で囁く澪の声が、律の意識に冷たい氷を落とす。

「サング如き架空の存在に、お前に関わる全権限を委ねるのは、本物の彼氏に失礼なんだよ」

 澪は言葉を続けながら、律の左足を吊り上げる力も強めていた。
痛覚を強烈な波が走り抜け、律の股下から脳へと突き抜ける。
それは澪の言葉が巡る脳に理解を齎す一撃となった。
ここまでの痛みも、今までの恥辱も、澪が与えるものだから享受できるのだ、と。
余の者では、甘受さえできない。
痛みも恥辱も拒んで、悲鳴を上げてでも逃避していただろう。
それは、律の願望を集めて作り上げた彼氏の虚像でシミュレートしたとしても同じだった。
このサディスティックな彼氏を本心からサングとして扱っていたのなら、
耐えられはしなかった。
──況や悦びの享楽をや。

「本物の彼氏は……。彼氏なんて、居ないし」

 律は言い淀んで、言い直した。
胸の奥で痞える本心は、喉元まで擡げても口外には至らない。

「それはこれから作れ。度胸か覚悟か勇気か、足りないものを充たしてからな。
取り敢えずは目先の、唯達を騙す事に集中していればいいさ」

 澪の手が、律から離れた。
律を苛んでいた過度の負担が緩和され、身体が軽くなる。
反動からか、律は身体の平衡を失してしまった。
律の肢体が、重力のまま澪へ向かって撓垂れ掛かる。
受け止める澪は、律が左足を地に着けるまで支えてくれた。

「いい子だ、良く耐えて頑張った、偉いぞ。
似合っていたよ、律」

 澪は律を解放すると、ベンチに腰を下ろす前に褒めて労ってくれた。

「おいで、律。好きな所を貸してあげる。私の身体で休め」

 ベンチの右側に腰掛けた澪が、左手で手招きして律を隣席へと誘う。

「うん」

 律は小さく頷いた。
眼球を舐められて回した目が、思い出したように吐き気を再来させている。
痛みに意識を取られていた時は、眩暈も忘れていた。
今になって頭を預けて休みたいと、揺れる脳が訴えている。

 律は覚束ない足取りで、澪の隣へと向かう。
脳や目の調子だけが問題なのではない。
無理な開脚も確実に足取りを蝕んでいた。
脚の付け根から股に掛けて、痺れるような疼痛が残っている。
それが眩みと相俟って、数歩の距離を天竺への険路に変えていた。

「大丈夫か?」

 蹣跚の体で隣席に辿り着いた律を、澪が労わってくれた。

「大丈夫、じゃないかも」

 律は苦笑を浮かべて返答した。
姿勢を反転させる時も、座す為に腰を下ろす時も、鼠蹊が鈍痛に軋んでいる。
何より、脳に擡げる吐き気は着座した今も収まっていない。
目立った外傷がないだけで、律は満身創痍の体を抱えていた。

「無茶しちゃったもんな。眠ると良い。
唯達との約束には間に合うよう、ちゃんと起こすから」

「そっちが本番だもんね。
じゃあ、お言葉に甘えて、ここ借りるね」

 律は澪の肩に自身の頭を預けた。
極度の疲労と酔ったような吐き気が、律から遠慮する余裕を奪っている。

「肩でいいのか?何処でも貸してやるぞ?」

「んー、肩でいい」

 律は首を小さく左右に動かした。
律が頭を預け眠る先として、澪の胸部も太腿も申し分のない魅力を擁している。
だが、疼痛の残る股や脚に配慮するなら、首だけ傾ければ済む肩が最も楽だった。

「確かにそこが、一番お行儀は良いかもな。
何処でもいいさ、律が休み易い所なら。今は眠って、しっかりと身体を休めておけ」

 律の髪の毛を右手で撫でながら、その手付きと変わらぬ優しい声音で澪が囁く。
そう、今は身体を休めねばならない。
目が覚めた後は、唯達の前で逢瀬を演じ切らねばならないのだ。
律は今日の使命を胸中で反芻し、重くなる瞼に逆らわず瞳を閉じた。
身心の疲羸の所為か、間を置かずに意識が離れてゆく。

「今夜は長くなるぞ」

 眠りに落ちる一瞬、律は五感も曖昧な夢現の中で、澪の声を聴いた気がした。

*

>>87-128
 本日はここまでです。
また明日、よろしくお願いします。

 余談ですが、明日より始まるコミケに行かれる方は、暑さにお気をつけ下さいませ。
失礼します。

「そっか。じゃ、向こうでもお手洗い、行きたくなっちゃうかもね。
その時、無理して我慢したら駄目だからね。約束っ」

 律は強引に澪と小指で契った。
元を辿れば、原因も責任も自分にあるのだ。
澪に無用の負担を掛け、挙句に健康や精神を害させる訳にはいかない。
例え、露見の危険を冒すことになったとしても、だ。

「大丈夫だよ。緊張したら毎度、ってタイプでもないから。
今日はあまりトイレに行ってなかったっていう事情と、相乗しただけだ。
新陳代謝の周期を少し早められただけさ」

 律の剣幕を往なすように、澪が苦笑しながら言う。
確かに、大一番の前で澪が尿意を訴えた事など、記憶を探っても思い当たらない。
ここで済ませておけば、唯達の前で再度催すという事態にはならないだろう。

 一方で、珍事であるが故に、本心から律の懇願を重視する澪の真剣さも伝わってくる。
それは澪が我が事では見せて来なかった姿なのだ。
必ず行為で示す形で、澪に報いようと。
澪の隣を歩く律の胸中で、チャイナドレスを貰った時の決意が繰り返されていた。

*

こんばんは。
>>170の続きを投下します。


*

10章

 丁度良い頃合に、ウィンドウショッピングを切り上げる事ができて良かった。
エレベーターに乗り込んだ紬は、安堵に胸を撫で下ろす。
同乗する唯と梓の顔を密かに窺ってみたが、
そこには満足と期待が浮かぶばかりで、不服も未練も感じ取れない。
ウィンドウショッピングの時間を設けた事に、満足してくれたらしい。

 ワールドポーターズの中でも、唯の興味の対象は八方へと向いていた。
一階ではレストランに、二階ではカフェとスイーツに、
そして三階ではファッションに、といった具合である。
梓が唯を注意して引っ張っていたが、その梓も本心では興味があったのだろう。
未練の有りそうな一瞥を、其処彼処のテナントへと投げ掛けていた。
指定の時間までの猶予ならまだ十分にある。
そう判断した紬は、ウォッチスポットへの道順の確認だけ済ませると、
ウィンドウショッピングの時間を設けてやった。
元より、不測の事態に備え、時間的な余裕を持たせてスケジューリングしている。

 そして紬には、不測の事態を危惧するに足る十分な理由があった。
もし口に出したのならば、梓も同調してくれるだろう。
ただ、唯の前では口外できない。彼女が、その理由なのだから。
即ち、唯が予測を超えた行動に出ないか心配だったのだ。
ランドマークタワーのカフェで梓が愚痴混じりに話していたのだが、
唯は梓と同乗した電車の中で中華街に行きたい雰囲気を醸していたらしい。
それを聞いた時、唯なら行きかねないと思ったものだ。
逆に、素直に待ち合わせ場所へと直行してきた事の方が、紬にとっては意想の外だった。
梓は遅刻を詫びていたが、数分の遅刻で済むなら安いものである。
”数分”遅れるとの連絡を貰った時、紬は彼女達にコーヒーを奢る気にさえなっていた。

 ウィンドウショッピングの時間は、お行儀の良い二人に対する紬なりのお礼でもあった。
切り上げる時も、二人はごねる事なく従ってくれている。

「また来ましょうね。その時は、ゆっくりと」

 二人に話し掛けて、紬は自分の声が弾んでいる事に気付いた。
自分が一番、楽しんでいたのかもしれない。

「ええ。今度は純粋に観光目的で来たいです。
今日のも楽しかったですけど、何も買えなかったのは少し残念でしたし」

 梓の両腕は張り合いがなさそうに、身体の両脇に垂れている。
使命に支障を来たさない程度であれば、荷物を増やしてくれても構わない。
別に隠れる訳でもなければ、身軽である必要もないのだ。
だが、全方位の事態に即応できるようにとの暗黙の了解が、紬達にはあった。

 紬達を乗せたエレベーターは上に向かっている。
ここの屋上にあるルーフーガーデン、
そこに隣接する駐車場の一角が指定されたウォッチスポットだった。
見るだけの場所に向かうはずなのに、戦場に赴くような緊張を感じている。
誕生日の──そして何より危険日の──逢瀬に望む律の本気に、
当てられているのかもしれない。

「あーあー、それ敗北宣言だからね。ムギちゃん、あずにゃん。
りっちゃんってば、今日はデートなんだよ?
それなのに私達ときたら、また次も女同士での約束?
それじゃあ先を越される一方だよ。
りっちゃんが孕んで産んでのサイクルに淫する傍らで、
私ら三喪は仲良くヤラハタ、ヤラサー、ヤラフォー、でヤラハカですか?
勘弁してよー」

 品のない言葉を連ねる唯に、紬は露骨に顔を顰めてみせた。
梓も呆れたように、眉根を寄せている。
唯の言っている事は分かるが、表現が頂けない。
内心で共感できても、それを表出させる気にはならなかった。

「もう。こんな時、澪先輩が居てくれれば」

 梓が零した。澪が居てくれれば、唯を強く窘めてくれただろう。
その頼もしい存在は此処に居ないばかりか、LINEも見ていないようだった。
それでも紬は、チャイナドレス姿の律がその画像を展開する際、
LINEのグループトークを用いていた事には安堵している。
紬達三人の見学者のみへとメールで送るケースとは異なり、澪を仲間外れにしなくて済む。

「澪ちゃん、やっぱりショックなのかな」

 唯が一転、湿った口調で呟いた。
澪の名を出した梓も、気まずそうに口を噤んでしまった。

 紬は澪と律の交遊に、予てより友情を超えたものを感じている。
今の唯と梓の反応を見るに、二人とも同じ思いらしかった。
無理もない。
それくらい、律と澪のやり取りは比翼連理じみたものを醸し出していたのだから。

 それだけに、律に異性の恋人が居ると知った時は驚いたものだ。
二人の仲に友情以上のものを見出したのは、自分の錯覚に過ぎなかった。
律の性的な興味は異性にあるのだと、紬もあの日に思考を修正している。

 だが、澪の側はどうだったのか。
異性を性的な目で見ている者は律だけであり、澪は律が好きだったのではないか。
現にあの日、澪は露骨なまでに刺々しい態度で、律を突き放していた。
今日来ない理由も、恋人を作った律が許せないからなのかもしれない。
少なくとも唯は、それに類する理由で澪が今日来ないのだと推測している。
唯の一言に黙りこくってしまった梓も同様らしい。

「あっ。もうすぐ到着ですね」

 エレベーターの中に降りた沈黙を、梓が白々しいほど明るい声で破った。
彼女の目は紬にも唯にも向かず、階数の表示されるパネルへと向けられている。

 直後、エレベーターが止まり、両開きの扉が音を立てた。
梓が宣した通り、パネルにはRFという表示が光っている。
一足先にエレベータから降りた唯を追って、紬と梓も順に降りた。

 エレベーターの乗降口は屋根と壁とガラス扉があり、
この一角だけは室内という佇まいを見せている。
だが、性急な唯は早くもガラス扉を開けて、半身を外気に乗り出していた。

 屋上から吹き込んでくる夏の風が、紬の肌に当たる。
冷房に当たりきりだった触覚に、外気が心地良い。
外に出たら、もっと気持ちよさそうだ。
紬も唯に倣って、外へと出た。

「ここに出て、どっち側だっけ?」

 左右を交互に見ながら唯が呟く。

「駐車場の側、右側よ」

 紬は指を差しながら答えてやったが、唯の視線は逆を向いている。
右往左往している内に、関心を引くものが目に入ったのだろう。
目を動かさずとも、
この辺りの地理や名所が頭に入っている紬には対象の推測も付いていた。

「ちょっとだけ、あっち行ってみていい?」

「ああ、あれですか。確かに、近くで見てみたいですね」

 平素から、梓は唯が本来の目的よりも目先の欲を優先させる度に説教していた。
だが、この時ばかりは唯に同調している。
此処は、あの狭い部室とは違うのだ。
部活において練習という目的を脇に、
お茶とお菓子とお喋りに興じる先輩を窘めるようにはいかない。
巨大な観覧車の下部の円弧を目先に置いて、
梓も普段の”真面目な後輩”のままでは居られないようだった。

「構わないわ。少しだけ、寄り道しましょうか」

 この程度の寄り道なら、予測の範疇だった。
紬は二人を伴って、屋上を右、北西側へ向かって歩く。
ルーフガーデンと呼ばれる屋外の一角で、
ここにはパターゴルフの出来る設備も設けられていた。

 パターゴルフのコートの外に、台が一段高く盛られてベンチが置かれている。
その前に三人で立って、緩やかに巨躯が回る観覧車を眺めた。
前方の視界に塞ぐに足る円は、遥か頭上の中心部に時計を掲げている。
律との約束に達するまでの時間を数えるより先に、その高さに圧倒されてしまう。
紬達の居る地平は、六階建ての屋上部分である。
にも関わらず、中心部の時計を目に入れる為には、顔を傾けて見上げる必要があった。

「凄い。下を通った時に、見上げてたはずですけど。
こうして近くで見ると、圧倒されますね」

 息を詰めて見入っていた梓が、声を取り戻した。

 梓の言う通り、ランドマークタワーからここに向かう途中、
国際橋の通過後に観覧車の下を通っている。
唯にも遊園地の名称を聞かれ、コスモワールドと答えていた。
そしてこの観覧車がコスモワールドの名物、コスモクロック21である。

「ええ。そうね」

 一周回るために十五分を要する、という巨体を間近に、紬も短く答える事で精一杯だった。
乗った事がないばかりか、近くで見る事さえこれが初めてである。
過去の横浜旅行で、遠目に見た記憶があるのみだった。
その過去の記憶を、目の前で体験している圧巻の光景が上書きしてゆく。

 思慮の足りない唯には内心で呆れる事も多いが、
彼女の積極的な姿勢から受けてきた恩恵も少なくない。
この体験も、その一つに列せられるのだ。
妹のように可愛がっている斉藤菫からも、
最近は紬の性格が積極性を帯びてきたと指摘されている。
それも、唯が齎してくれた影響なのだろう。
偶には、唯に振り回されてみるのもいいかもしれない。
偶にならと、紬は思った。

 勿論、唯が暴走しないよう制御する役を忘れてはいない。
律達の邪魔になる事態だけは避けねばならないのだから。
その手前までが、唯に乗ってもいい限度である。

「本当、大きいねぇ。何だか、ホールケーキを食べたくなってくるよ」

 唯の漏らした感想に、紬は危うく噴き出しそうになった。

「もうっ。唯先輩は本当に食べる事ばっかりですね。
これ見て思い浮かぶのがケーキですか?
もうちょっと、サイズとか、装飾とかにも目を配りましょうよ」

 梓は噴き出してしまっている。
その所為か、口から出る文句の言葉に棘は感じられなかった。

「だってぇ、今日はあまり食べてないから、お腹が減ってるんだよ
まぁ大きいのはその通りだけど、装飾は真ん中の時計以外、目を引く所なくない?」

「何言ってるんですか。幾何学的な骨組みとか……」

 唯の薄笑いに気付いたのか、梓は咳を一つした。
発言の途中での咳は、梓が滑った時に見せる癖である。

「とにかくっ。見たいって言ったのは、唯先輩じゃないですか」

「あずにゃんも賛成したくせにー。
それに、私がこの観覧車に興味を持ったのは、大きくて目立ってるからだよ?
そこは正直に言っちゃうけどさ。
だって、装飾だとか幾何学だとか、衒った事を言って格好付ける趣味ないしー」

「なっ」

 梓が色を成した。戯れた言い争いで唯には勝てまい。
見かねて、紬は助け舟を出した。
後輩を弄る趣味はない上に、時間も迫っている。

「でも、装飾、あるよ?
もう少し経って日没になるとね、
観覧車のイルミネーションが点灯するらしいの。
今日のメインイベントの後で見ようね」

「ああ、それは楽しみですね。
ライトアップされたケーキ、デザートには持ってこいです。
その前に、メインディッシュを頂いておきましょうか」

 形勢の悪かった梓が紬の話に乗ってきた。
それでもケーキに触れて唯への皮肉を忘れないあたり、
負けず嫌いな梓の性格が表れている。

「そうだね。いい加減、持ち場に着こうか。
りっちゃんの晴れ姿、見てあげないとだし。彼氏がイケメンだったらどうしてくれよう」

 同意した唯が率先して歩き出した。
後輩を茶化して遊ぶ事よりも、彼女の興味を引いているものがある。
食よりも飾よりも、色が今一番の関心事なのだ。

 紬も同じ思いだった。律の色恋沙汰が何よりも気になっている。
気付けば唯を抜かして、三人の先頭に立って歩いていた。
逸る気持ちの所為ではあるが、どのみち二人を案内する役割に違いはない。
紬は二人を先導したまま、エレベーター前の扉を通り過ぎた。
あの扉を背にして右側に、目指すべき場所がある。
エレベーター脇にある連絡通路を抜けた先、駐車場こそが目的の場所だった。

「あー、ここですか。ここから、あの辺りを」

 梓が不服を隠せない口振りで呟く。

 駐車場の入り口の付近、と言っていいのだろう。
連絡通路を通ってすぐ左に曲がった角が、律から指定されたウォッチスポットである。
見通しは自体悪くない。眼下に海とそれを囲う建造物が覗けている。

「あの道、汽車道って言ったっけ?
ここから人を見るには、幾らなんでも、遠過ぎるよねぇ」

 唯も梓に続いて口を尖らせた。
その視線の先で、桜木町駅の方からワールドポーターズの前方まで、
海を区切る様に道が伸びている。
唯の言う通り、汽車道と名付けられている道だった。

 海を区切る道が最も目立っているが、
その海上の橋梁を出てからも汽車道自体は終わらない。
ワールドポーターズの東端の向かい、
交差点の前まで続いている道までを正確には指すらしかった。

 紬は今日、桜木町駅を降りているので、
唯達との待ち合わせ場所に向かう道中で汽車道の西側入口の前を通っている。
桜木町駅からランドマークタワーへ向かう道は他にもあったが、
律達の通る場所を下見しておきたかったのだ。

 そう、律は恋人と一緒に汽車道を通る。
そして紬達はここワールドポーターズの屋上から、
二人を観察するというのが今夜の手筈だった。
汽車道の東側、海上に渡された橋梁を出て左にある階段を上れば、
このワールドポーターズの二階に直通する通路も配されている。
だが、自分達──特に唯──との鉢合わせを嫌う律が、
ワールドポーターズの中にまで入ってくる訳がない。
汽車道を道なりに通った後、そのまま真っ直ぐ東に進んで赤レンガ倉庫の方へ向かうのか。
或いは橋梁を出てから北西へ曲がり、紬達が辿って来た道を逆に行くのか。
どちらかではあるのだろうが、そこまで教えられてはいない。
紬達に許されているのは、汽車道を通る二人を遠目に観察する事だけなのだから。

 そして梓や唯が零す様に、この高さと遠さからでは、
汽車道を通る人の顔までは判別が付かない。
双眼鏡や望遠レンズの類を用いたとしても、
遮蔽物の多い中で動体を見るのは素人には難しいだろう。
況してや状況は夜で、遮蔽物には標的同様に動体である人も含まれるのだ。
まだ肉眼のままで視野を広く持った方が、標的を視界には収めやすい。
そもそもが、この距離から人の顔を判別できる倍率ともなると、
専用の機材無しでは扱えまい。

「でも。りっちゃんは、目立つ服を着ているでしょう?
私達、それを送られてきた画像で確認しているんだし。
ここからでも、りっちゃんは分かるんじゃないかしら」

 此処からでも、服の色合い程度は視認できる。
黄一色のチャイナドレスという目立つ格好が標的なのだから、律の特定も容易だった。
そして律が分かれば、寄り添って歩く人影が彼氏である。
そう言って紬は、律の指示した内容を擁護してやった。

「うーん、でも律先輩が通る時間帯って、暗くなりますよねぇ。
今の時間帯なら何とかなっても、日没後に黄色って分かりますかねぇ」

 梓は思案顔だ。

「橋の上が真っ暗になる訳じゃないから。
最低限歩けるような照明は灯すはず。
そして特定のスポットでは遠目に映えるように、ライトアップされるに違いないわ」

「むー、それ以前にだよ、あずにゃん、ムギちゃん。
明るかったとしても、彼氏の顔までは見れないよ」

 そこが何よりの問題だと主張するように、唯が語勢を強めて言った。
梓も胸中では同意見らしく、首肯で以って唯に加勢している。

「仕方ないわ。りっちゃんの目的は彼氏を見せる事じゃない。
彼氏が居るんだって事を証明する為だもの」

 律を庇う紬とて、願望に素直に従った意見を表明している訳ではない。
胸の中では、律の彼氏の情報は一つでも多く知りたいと思っている。

「まあ、唯先輩が煽りまくったのが原因ですからね。
でもこっちとしては、証明だけじゃなくって紹介までしてくれると安心できます。
勿論、ちゃんとした人だって、信じたいですけど」

 紬の胸中にある本音を、梓が代弁してくれた。
言い訳がましいが、梓も自分も好奇心だけで此処に来た訳ではない。
渦中の恋人が果たして律に相応しいのか、見極めたい思いもあった。

 だが、律にとっては過ぎたお節介でしかないだろう。
そもそもが、執拗な唯の挑発を原因として、
律は大切な誕生日の逢瀬に部外者を招く事態に陥っている。
本来ならば、二人きりで楽しみたかったに違いない。
ならば、動機が好奇心であれ憂慮であれ、これ以上容喙すべきではなかった。

「えーっ。まるで私だけが悪者みたいー。
二人だって気になる癖にぃ。此処まで来た以上、同罪なんだって分かってる?」

 唯は口調でこそ戯けているが、目には裏切り者を告発するような鋭さが宿っていた。
唯の言う通り、此処に来た事実は否定できない。
その上、紬は唯の鼻っ柱を折る為とはいえ、律に逢瀬を見せるよう勧めてまでいるのだ。
今更、自分だけ良い子の如く振舞って、唯一人に責を負わせる事も許されてはいない。

「ええ、連帯しているわ。
りっちゃんに迷惑を掛ける事になったのは、勿論私の所為でもあるもの。
だからこそ、邪魔したくなくって」

 狡い言い分になっただろうか。
自分の責を認めつつも、唯や梓の不満に理解を示してはいないのだ。
その後ろめたさ故だろうか。
紬は唯が頬を歪めて作る笑みから、
『やっぱりいい子ぶっちゃって』という無言の嘲罵を受けた気がした。

「連帯と言えばね。
あの汽車道には、その名の通り、線路に使われていたレールが埋まっているの。
その間を恋人同士で最後まで歩くと、結ばれて後に比翼連理の幸せに浴せるんですって」

 後ろめたさと唯の視線から逃れるように、汽車道を見下ろしながら紬は言った。

 汽車道を視界に収めて、
よく律はこのウォッチスポットを見付けられたものだ、と改めて紬は思う。
夜であろうと明かりさえあれば、
紬達が容姿に付いて事前の知識を持っている律の姿なら視認できる。
反面、恋人の仔細な様子までは伺えない距離だ。
逢瀬の証拠を見せつつも、恋人の情報に付いては遮断できる。

 間違いなく、律はこの日の為に下見をして、
条件に恵まれたウォッチスポットを探したのだろう。
特定の目的の下に、自らの目と足を使わなければ見付けられない場所なのだ。
そこまでして、律は自分達に恋人を見せたくないのだろうか。
或いは本当に、律の言う通り自分達を彼氏に見せたくないだけなのか。
何れにせよ、用意が周到に過ぎているように思う。
ここに留まったままでいいものか、惑う。

「へーっ。ロマンチックなエピソードですね。
レール間の幅じゃあ、密着させて歩かないといけませんよね。素敵です」

 話を逸らす目的が見え透いた話題だったが、梓は期待通り乗ってくれた。
乗ってくれるだろうとの見通しの下、変えた話題でもある。
唯に痛い指摘をされたのは、梓とて同様なのだ。

 当の唯は無言ながらも、地上を見下ろしている。
その視線は汽車道に留まらず、脇にも振れている様だった。

「ええ、そうやって寄り添ってレールを歩いて行く事で、
偕老同穴の道程を歩む事を模しているのでしょうね。
本当、素敵」

 黙って景色に目を落としている唯は置き、紬は梓に応えて言う。
それとても、梓に合わせた物言いに過ぎない。
元々が、唯の指摘から逃れる為に引っ張り出した話題でしかないのだ。

 そもそも、自分で紹介したエピソードながらも、本心では全く別の感想を抱いている。
レールの上を歩く恋愛に、浪漫など感じない、と。
レールから外れてでも、規範や人の目から駆け落ち同然に逃れてでも、
自分達の恋を貫く方に紬は浪漫を感じていた。
その方が、当人達は間違いなく幸福になれるのだから。

「ここから汽車道を見ろって事は、律先輩達もそのエピソードに擬えて彼氏と」

「ねえ」

 黙っていた唯が口を開き、梓の言葉を遮った。

 声に釣られて目を向けたが、唯は地上を見下ろしたままだった。
だが今は、視線が振れる事無く、一方向に固定されている。
紬は視線を唯に沿わせ、同じ景色を視界に収めた。

 ワールドポーターズとは道路を隔てて向かい合い、コスモワールドの南に隣接した一角。
そして汽車道とは海を挟んで北に位置する、絢爛な建物を構えた一角だった。
その建物は三階建てか四階建てくらいだろうか。
ワールドポーターズより背丈は低いものの、城を思わせる作りが海に面して映えている。

 だが、唯の視線を精確に辿るならば、その建物が焦点という訳ではなさそうだった。
建物の収まる一角の端、海に面した歩道の辺りだろうか。
海上に渡された橋梁との距離が最も近くなる角に、
唯の視線の焦点が向かっているような気がした。

「一つ、提案があるんだけどさ」

 唯の放った言葉が、紬の視線を再び唯の顔へと振り向けさせる。
梓の発言を遮った時とは打って変わり、唯の顔も双眸も紬達へと向けられていた。
代わりに唯の人差し指が、先程まで視線を置いていた一角へと注がれている。
城のような外観の建物の脇、
海に渡されている汽車道と最も近くなる陸地の角を指し示すように。

「乗ってみない?」

 諾否の問い掛けを倒置してから、唯は提案の内容を話し始めた。
或いは、誘惑の口車を回し始めた。

*


*

11章

 大さん橋を下りた律と澪は、北西へと道なりに進んでいた。
すぐに見えてきたのは、横浜税関前の交差点である。
そこを右折した先にある新港橋は、赤レンガ倉庫の前へと通じている。
だが、寄り道している時間はない。
曇天も手伝っているのだろうが、既に街は暗くなってきている。

 過ぎていく景色を、律は澪の胸の中で揺られながら眺めていた。
大さん橋を降りた直後、澪が抱えてくれたのだ。
首の後ろと膝の下に腕を差し込んで抱える、
所謂『お姫様抱っこ』と呼ばれる抱き方である。
無理な開脚と歩行で脚に負担の掛かっていた律は、抗う事無く澪に身を預けた。
澪にも律の疲労は、文字通り”手に取るように”伝わっていた事だろう。
伝わっていながら黙っているような、気の利かない彼氏ではない。
抱き方一つにもサービス精神を溢れさせる、律自慢の彼氏である。
そう、今この時は、まだ間違いなく。

 万国橋も横目に通り過ぎた。
あの橋を渡って真っ直ぐ進めば、ワールドポーターズの東端に着く道に繋がるらしい。
それは赤レンガ倉庫に繋がる新港橋同様、
澪の作成するプランの中で弾かれた道でもあった。
場所の選定は全て澪が行ってくれて、
律は澪から受けた指示通りに唯達へと伝えただけである。
楽をしている感が拭えないと、澪に揺られながら思う。

「もうすぐ歩く事になるけど。足は大丈夫か?」

 馬車道駅を通り過ぎた辺りで、澪が律の顔を覗き込んで言った。
律は前方に見えてきたランドマークタワーから、
間近の端整な顔へと目の焦点を切り替える。

「うん。お蔭様で。大分、休める事ができたよ。
もう自分の足で歩けるし」

 澪の胸の中で、律は上体を起こしてみせた。

「歩けるなら良かったよ。いと重畳、恙無いな。
でも、ギリギリまでこうしててやる。
私が下ろすまで、あんよは休めておけ」

 幼児に用いる言葉で足を形容され、律は頬を膨らませて抗議する。

「あーっ、今、子供扱いしたー」

「アダルトな扱いがお望みかい?My fair Lady」

 顔の傍で、澪が妖艶に笑う。
梓に見られたのなら、
間違いなく『バカップル』と呆れられてしまうやり取りだろう。

「サングが望むなら、好きにしていいですよー」

 密着した身体に熱が篭る所為か、歩かずとも律の肌に汗が滲んでくる。
それでも澪から離れようとは思わなかった。
足を休ませたい訳ではない。この姿勢から見る景色を、今は満喫していたい。

 北仲橋を渡り終えると、直後に汽車道の入口があった。
海を縦断する橋梁の手前から臨む景色に、律は息を呑んで絶句する。
圧巻だった。
摩天楼が、ショッピングモールが、遊園地が、
虹の如く多色の光を放って狂い咲き、囲われた夜の海と空を彩っている
宛ら、乱舞する蛍の大群が水上の楼閣を形成しているかのようだった。

「ようこそ、お姫様。下ろすぞ」

 澪は律の爪先を地に着けてから、律の身体をゆっくりと立たせてくれた。
澪の胸から降りた律は、忙しく周囲に視線を巡らせる。
左手にランドマークタワーの高層が聳え、犇き煌く数多の窓が縦に星空を形成していた。
そして海上を貫通して伸びる汽車道の奥には、
唯達の座すワールドポーターズが絢爛たる光を放っている。

「あいつらに、見せ付けてやろうな。おいで」

 律の右半身に回った澪が、腰に手を回してくる。
導かれるまま、律は橋梁の上に一歩目を置いた。
伴われて更に二歩、三歩と足を進めてゆく。
橋上の灯かりを頼りに足元を見ると、
本来ならば線路で見るべきレールが橋板に埋め込まれていた。
汽車道の由来を理解させるオブジェは、まっすぐ橋梁の進行方向に沿って伸びている。

「ああ、そのラインからはみ出るなよ?
カップルがこのレールの中から出る事なく最後まで辿ると、
偕老同穴の関係に結ばれて幸せになれるらしい。
ま、デートスポットにはよくある俗説の類だけどな。
でも、折角だ。お前を幸せにしてくれる奴が表れるよう、縁起を担いでおいてやるよ」

 律の視線に気付いたらしく、澪がレールを指差しながら説明した。

「もぉっ。何言ってるの?今は、サングがその恋人でしょ?
思い知らせてやるんだから。ぴったりっちゃん」

 律は上目で軽く睨んでから、頭を澪の胸に撓垂れさせた。

「そうそう、そんな感じ」

 聞き分けのいい子供を褒めるように、澪が頭を撫でてくれた。

 律にしても、澪の申し出を断る理由などない。
密着して歩く口実が提供されたというものだ。
律は遠慮する事なく、思う存分に汗ばんだ肌を押し付け合って歩いた。

 肉欲を別にしても、律は澪と離れたくなかった。
このレールの終点まで辿り着いた時、自分達の目的も達成の時を迎える。
今日の目的は、唯達にデートしている姿を見せる事なのだから。
そうして終点まで歩いて恋人を装う必要性がなくなったその時、
魔法が解けるように自分達の関係も友人に戻ってしまうのだ。

 澪の恋人として振舞える今を離したくない。澪を離したくない。
だから律は、澪に強く強く身を押し付けた。

「そこが気に入ったのか?でも、俯いているのは勿体無いぞ。
折角のいい天気だ」

 澪が顔を上げるように促してきた。
律を安心させる落ち着いた声が耳朶に染み入る。
律の体重が寄り掛かっていても、澪の足取りは一糸たりとも乱れていない。
頼もしくて、強靭だった。

「いい天気?」

 夜なのに。曇天だったのに。今も月が隠れているのに。
律は澪の言葉尻を捉えて拗ねてみせた。

「ああ。雨でも晴れでもなく、折角の曇だ。
だからこそ、夏のこの時間でも夜景が映える。
雨まで降っては論外だが、かといってこの季節の今の時間帯だと、
空を雲が覆っていなければ完全には暗くならないからな。
夜景を天候が恵んでいる」

 律は弾かれたように顔を上げた。
今日、元町・中華街駅に降り立ったときは、曇天が恨めしかった。
だが、昼はムードに水を差すよう思われた天気も、
今となっては夜景を際立たせるムードの形成に一役も二役も買っている。
塞翁の故事を持ち出すのは大仰に過ぎるだろうか。
だが少なくとも澪は、
今日が曇天だと知った時点で転禍為福のシナリオを描いていたに違いない。
そう信じるに足る用意周到さを、澪は見せ付けてきているのだ。

 ならば澪に誘われるままに夜景を愉しもうと、律は視線を周囲に巡らせる。
夜景の光源は主に左手側から降ってきていた。律の視線も、自然と其方に向く。
澪が律の右半身に位置しているのも、絶佳の眺望を遮らない配慮に違いなかった。

 ランドマークタワーから建物一つ分ほど離れて北側に、
下り階段のように順に低くなる三棟のビルが連なって見えた。
あれがクイーンズタワーだろうと、今日に備えて予習してきた知識と照らし合わせる。
ランドマークタワーの側からクイーンズタワーA・B・Cと、
背の高い順にアルファベットが振られ区別されているらしい。
C棟の下部ではコスモワールドから遊園地らしい賑やかな光が放たれ、
その熱気ある煌きが入り江の入口たる国際橋を回り込むように伸びていた。
それがワールドポーターズの隣にまで、光を繋げる架け橋の用を為している。

 その、ワールドポーターズに北西側で隣接した区画こそが、
律の目を最も惹き付ける場所だった。
高層ビルにも匹敵する巨大な観覧車と、その下に見える建物の壮観さには息を呑む他ない。
巨大な観覧車──コスモクロックは、
環の色合いを忙しくカラフルに転じながら緩やかな動作で回っている。
比して、コスモクロックの下に位置した建物は、横長の山形の構造をしていた。
コスモクロックが多彩な色を淀ませずに変じ続けているのに対して、
こちらの建物を彩る光は一色で統一されている。
尤も、他のオフィスビルや商業施設とは色の魅せ方が違っていた。
窓から照明灯の光が漏れているのではない、
また壁面に取り付けたネオンで装飾しているのでもない。
建物全体が金色に輝いて見える、そういう魅せ方で配された光源が発色している。
宛ら、湖を前にして建つ、小規模な城のような装いだった。

 魅入っていた。観覧車と城のような建物の作り上げる海上の景色に。
城の如き建物が陸に近い海面を金色に染める。
屹然と立つ観覧車は陸から遠い海面に光を届かせ、海の色に間断なく変化を付けていた。
陸上と空中から夜を彩る明晰な照明と、反射して海上に映る揺蕩った灯影。
この幻想的なコントラストも、律を忘我の境地に誘う一因となっていた。

 あの、城のような建物は何なのだろう。
オフィスでない事くらい、一目で分かる。
かといって、ショッピングセンターでも無さそうだった。
何をする施設なのだろうか。
この光景を作るにあたって多大な貢献をしている建物に、
律が疑問と強い好奇心を向けた時。
身体が急に持ち上がり、視界も平衡器官も揺れた。


「わっ」

 澪に抱え込まれて回ったのだと、律は声を出した後で気付いた。
その目の前を、同伴者とのお喋りに夢中な男性が通り過ぎてゆく。

「驚かせたか?次からは間に合うようなら、声を掛けるよ」

 律を隣に降ろして澪が言う。
この汽車道も人通りが多い。
景色に見入っていた律が気付かないうちに、
正面から歩いてくる人が衝突しかねない位置まで接近してきていたのだろう。
今は澪が律を持ち上げて回避させた、という事だと推せた。
当たり前だが、都市伝説に沿って行動するカップルの都合など、
周りには関係のない話である。
誰も彼もが道を譲ってくれる訳ではない。

「んーん、私が気を付けるよ。前も見て歩かないと」

「いや。彼氏が気を付けてやるべき事だ。
それに、下手に動くとレールから出ちゃうぞ。
私が抱き抱えてやるから、律は夜景に集中してな。お前の為の光景だ」

 そうなのだ。
先程の男性を回避した時も、レールの外に足は着いていない。
身体は外に出ても、足はレールの内にだけ着くように澪が持ち上げてくれていた。
レールを辿り終えるまで、同じように守ってくれるのだろう。

「そういう事なら、甘えちゃうね。私の為の景色だもんね」

 律は申し出られるままに、前方への注意と回避を澪に委ねた。
今ならもう分かっている。澪の言うように、これが自分の為の景色なのだと。
この光景を律に見せるが為に、澪はこのデートコースを選び出してくれたのだから。
唯達のウォッチスポットの件も含め、
何度も下見に足を運んだに違いない澪の骨折りが心に沁みた。
それでも気付かぬ振りをして厚意を受け取るのが淑女の嗜みである事くらい、
律もとうに心得ている。
だから律は澪の望むまま、忘我に夜景を愉しんだ。

 その後も、律は二度ほど澪に持ち上げられた。
持ち上げる際に律の細い身体を澪の腕が締め付けるが、
痛みや苦しさよりも頼もしさを律は覚えている。
肉体が締められる痛みに軋む度、守られているのだと感じられた。
二度目に持ち上げられた時は、澪の左手側から右手側へと身体を移されている。
レールの中で左右が入れ替わった格好だが、
それさえも律を飽きさせまいとする澪の配慮に思えた。

 そうする内にも、海の終わりに近付いてきていた。
橋梁部分を終えて陸地に移ってもレールはまだ続くが、
唯達に見せるシーンは橋梁にいるうちだけだ。
陸地に移ってしまえば、ワールドポーターズの屋上からでは覗けまい。

 律はすっかり近付いたワールドポーターズの、屋上部分を見上げた。
唯達は今もあの場所から自分達を観察している。
律は夜景を見ていたが、唯達は律を見ているのだ。
彼女達に美しく見せられただろうか、と。
律は彼氏の証拠を提出できた安堵の念よりも、
晴れ姿に下される評価の方が気になった。

 距離を縮めたのは、ワールドポーターズだけではない。
一目見た時から気になっている、城のような建物も近付いている。
後少しで、建物の前に突き出た角と、海を挟んで最も接近する部分に差し掛かる。
そうなったら、あの建物に付いて澪に聞いてみようと、律がその角に目を留めた時。

──何で?

 律は大きく目を見開いていた。足も止まりかける。
そこに在るべきではないものが、目に入ってしまったから。
澪に異常を知らせるべく、律は急いで澪の耳元に唇を近付けた。
彼女の顔も、隠さなければならない。

 海を挟んで汽車道と最も近くなるその角。
そこに、ワールドポーターズの屋上に居るべきはずの、
唯と梓と紬が立ってこちらを凝視していた。

*

>>173-184 >>185-191
本日は以上です。
大体、10章あたりで文章量的には半分といったところです。
さて、律誕まで後一週間を切りましたが、引き続きよろしくお願いします。
 それではまた明日。

 唯だけではなく、制御する役を担う紬と梓も居て良かった。
漸く青になった信号を渡りながら、律は胸を撫で下ろして思う。

 尤も、紬達にしても、
ここで律達への追跡を唯に断念させる事まではしないらしい。
或いは、そこまでは唯を抑えられない、と言うべきか。
何れにせよ、律達とは距離を取っているものの、
唯達三人も横断歩道を渡る一団に列していた。

「入園フリーだ。入るぞ」

 渡った直後にあるコスモワールドの敷居を跨ぎながら、
澪が律にだけ聞こえる小さな声で言った。
喩え偽装に過ぎずとも、澪と遊園地でデートする事は喜ばしい。
一方で、付いて回る不安もあった。
入園から十数メートル進んだ辺りで後方を一瞥して、抱いた不安の的中を悟る。
追跡を躱せる訳もなかった。
分かり切っていた事なのに、迫り上げて来る嘆息は抑え切れるものではない。
律の瞥見した視界には、コスモワールドへと入場してくる唯達の姿が映っていた。

*

こんばんは。
>>212の続きを投下します。


*

14章

 時折、案内板に目を遣りながらも、澪の足取りに迷いはなかった。
律の腰を左腕に収め、疲弊の身を支えながら進んでくれている。

 コスモワールドに入園してから、澪が小声で出した指示はシンプルだった。
澪は唯達が入園するのを待って、こう言ったのだ。
『あいつらに聞こえるように”だって、観覧車に早く乗りたくて”と言え。
彼氏に甘えるようにわざとらしくだ』

 言われた通りに、律は言ってやった。
『だぁってぇ、早く観覧車に乗りたくてぇ』と。
澪は一言も喋らず、黙って律の腰に腕を回してくれた。
急に走り出した件を彼氏に言い訳する、という芝居を命じられた事くらい律にも分かる。
併せ、澪に案内を委ねる為の布石も打たせたかったのだろう。
唯達は”訝る彼氏を下手な演技で誤魔化そうとする律”に呆れたかもしれないが、
実際には彼女達の方が引っ掛けられているのだ。

 それから、後方に唯達の追跡を受けたままではあるが、
順調に観覧車へと向かって進んでいる。
演技とはいえ口に出して唯達に聞かせた以上、観覧車は必須の工程となった。
勿論、律に不満はない。
憧れの澪と二人っきりで、高所の密室に閉じ込められる僥倖に浴せるのだ。
厭う理由はない。

 観覧車の真下辺り、折り返しを繰り返して聳える階段に差し掛かった。
ここを登って行けば、乗り場に辿り着ける。
澪に耳打ちされるまでもなく、階段に掲げられているプレートが案内していた。

 足の疲労は深刻だが、腰部の後ろに回っている澪の腕がリフトの用を為してくれている。
澪に支えられて階段を上りながら、律は自身の腕で裾を押さえた。
腿を上げる度に靡く裾が危なっかしい。
走っていた時のお転婆な姿が脳裏に浮かび、顔から火が出そうになる。
あの時は気にしている余裕もなかったが、今になって思えば際疾かった。
際疾いどころか、晒してしまった瞬間もあったかもしれない。
彼氏の正体よりも”そこ”を隠すべきではないかと指摘されれば、反論できない有様だった。

 今とても、危険な状態にあると感じている。
律の登っている緑色に塗装された金属製の階段には、蹴込み板など付いてはいない。
高所に向かう屋外階段らしい設えではあるが、
下から裾の中が覗けてしまわないか不安でならなかった。
一方で、下層の階を見通し易いというメリットもある。
下方の階段には何組もの通行人が見えるが、その中に唯達の姿も散見できていた。
殊に、特徴的な梓の髪型が、発見を容易にしている。

「どこまでも付いてきているな」

 階段も終わりが近付いてきた頃、澪が耳元で囁いた。
唯達は追跡を切り上げてはいないが、律達に接しようともしていない。
疲労困憊の律が緩やかに移動する後方で、唯達は一定の距離を保って尾となっている。
横断歩道の前で唯を捕まえてくれた時と同じく、紬と梓が制御してくれているのだろう。
或いは単に”近付けば逃げる”という追いかけっこに、
向こうも疲れているだけかもしれない。
それもまた、多分に想定できる動機だった。

「唯達も、このまま乗るつもりなのかな」

 律もまた、澪にだけ聞こえる小声で返す。
こういう内幕を連想させるもののみならず、会話それ自体がシークレットだ。
唯は耳が良い。
故に、恋人同士の会話を装ってさえ、唯に聞こえる声で澪が喋る訳にはいかなかった。
唯の耳は日常で生じる音さえも、音階で表す才を持っている。
サングの声を聞いて、澪と同一人物だと判別できるだけの技術が唯の耳にはあった。

「だと良いがな」

 澪は思案顔だった。

 確かに、乗ってくれた方が良いには違いない。
律達が先に並ぶ以上、乗車も降車も先である。
即ち、降車後に唯達を観覧車の籠に置いたまま、
姿を晦まして逃げる時間的な余裕が生まれるのだ。

 だが、澪の表情から察するに、期待よりも懸念を込めた呟きのようでもある。
何か不安視する要素でもあるのだろうかと、律は思考を寄せようとした。
その時、階段も終わった。
自然、律の関心も、観覧車とその前に並ぶ行列へと移る。
入園はフリーでも、アトラクションを楽しむには当然にチケットが必要になる。
まず並ぶは、チケット売り場の列だ。

「お疲れ。結構、大変な階段だったと思うけど、足は大丈夫か?」

 チケット売り場の列に並んでから、澪が労ってくれた。
確かに、律が普段昇降する階段と比べれば、長さも形状も労苦を要求するものとなっている。
実際、澪が押し上げるように支えてくれていなければ、腿を持ち上げるのも辛かっただろう。

「お蔭様で。サングの方こそ疲れてるんじゃない?私、重くなかった?」

「お前が?嫌味を言うと、お仕置だぞ」

 澪の浮かべる笑みからは、疲労など微塵も感じられない。

 嫌味を言ったつもりはないが、愚問を放ってしまった事は分かっていた
疲れていても、澪は自分の前でそのような素振りを決して見せないだろう。

 チケットを買う順番が回ってきた。
観覧車のチケット代すらも、澪は律に出させるつもりはないらしい。
それでも律は、支払いの動作に移ろうとする澪の左手を腰部に押し留める。
澪に遠慮した訳ではなかった。
面子を汚す意図はないと示すべく、律は右手を揺り動かして見せた。

 澪は律の意図を汲み取ってくれたらしい。
左腕を律の腰に回したまま、右手で財布を取り出していた。
利き手でないだけに不安だったが、澪は器用に片手で財布を操っている。
利き手に配慮されず、どころか顧慮すらもされず、
多数派である右利き用のツールを配されても澪は文句一つ言わず使いこなしてきた。
少なくとも、律が澪の存在を初めて認めた時から、彼女はそのように振舞ってきていた。
その訓練の成果が、或いは苦難の甲斐が、出ているのだろう。
澪は慣れた手付きでチケットを二枚、買ってくれた。

 それでも部活では、澪は左利き用のベースを使っている。
澪は自分で選べる時にまで、無理に右利きに合わせた事はない。
その為、唯達には澪が左利きである事が印象付けられている。
だからこそ律は今、澪に右手を使うよう促したのだ。
当の唯達が階段を登り終えて、後方に姿を現していたのだから。

 唯達がサングの利き手にまで気を払ったかは分からない。
また、左利きに気付かれた所で、澪の連想に至るとも限らなかった。
利き手の一致など、危険とは言えない些事なのかもしれない。
だが、観覧車に乗るまでの間、唯達と同じ行列に並ぶのだ。
離れていても同居する空間は同じである以上、唯達に観察の機会を与えてしまう事になる。
ならば澪を連想させる材料は一つでも減らしておいた方がいい。
そうする事で澪に腰を取られた姿勢も維持できるのだから、律にとっては尚更である。

 律が観覧車の列に付いている間に、唯達もチケット売り場に並んでいた。
当たり前ではあるが、チケット売り場で律達の後ろに並んでいた人達も、
順に列の後尾に回っていく。
この人々が、自分達と唯達を隔てる壁だった。

 唯達が列の後尾に付いてからも、尾となる人は尽きずに更新されてゆく。
一方、更新が為されるのは尾だけではない。
観覧車のゴンドラも、降車する人と乗車する人が入れ替わっていった。
その度、列の先頭に立つ人も変わってゆく。
そしてそのサイクルが行われるごとに、律の順番も一つずつ近付いていた。

 だが、観覧車に乗る前に、超えねばならない難関が構えている。
列は真っ直ぐ乗車地点まで伸びている訳ではなく、途中で一度折り返していた。
その為、律の左手側には人二人分ほどの空間を空けて、乗車の順番が間近な組が並んでいる。
この逆行する列が難所だった。

 列を折り返した直後、唯達に律と澪を正面から晒す時間帯が生じてしまう。
律と澪が折り返して身体の向きを反転させ、唯達がこちら側の列に居る時間帯がそれだ。
化粧や髪の長さといった変化で、唯達の見慣れた澪とは異なった姿に変身してこそいる。
だが、この至近距離で正面から顔を捉えられれば、澪だと気付かれてしまいかねない。
表情だけ唯達から逸らしたとしても、至近距離で澪の面影を気取られる危険が残る。
第一、表情を唯達から逸らすという行為自体が、不審そのものだ。

 せめて、自分の背丈と澪の背丈が逆ならば、澪の顔も姿も隠せたのに。
律は詮無い想像を脳裏だけに留めた。律の頭が漸く澪の胸の位置である。
自分の身体で相手の姿を隠すなど、現実からの乖離が著しかった。
そもそも、自分の背が彼氏役よりも高ければ、それとても唯達に不審を与えていただろう。

 それでも律は状況を悲観してはいなかった。
澪ならばこの窮地を切り抜ける策が浮かんでいるはずだと、
盲信に近い信頼を彼女に寄せている。
ただ、折り返し地点が近付いてくると、不安と焦燥くらいは芽生えてしまう。
澪の事を信じてはいるが、あまり焦らさず解決策を提示して欲しい。
迫るデッドラインを前に耐えかねた律が、
澪にアイコンタクトでアクションを促そうとした時だった。
腰部を強く圧され、足も地から浮いていた。

「わっ」

 律は驚いて声を上げたが、すぐに状況を把握する。
律は身体を、澪に抱き上げられていたのだ。

 律と澪の顔は、触れ合いそうな距離にまで近付いている。
律の顔で、澪の顔を隠そうという狙いがあるのだろう。
律が澪の顔を隠すという発想自体は、律の脳裏にも過ぎっていた。
だが、自分の身体のサイズ的に無理だろうと、口に出す前に諦めてしまっている。
一方の澪は、律を持ち上げる事で、身長差の問題を解決していた。
澪の膂力も然る事ながら、律の身体が小さくて軽い事も寄与している。
律が諦めていた理由とて、澪は可能な理由へと転じてしまったのだ。
その頼もしさに惚けて、眼前の澪の頬へと口付けてしまいたくなる。

 澪の視線が、律の瞳を捉えた。
劣情を気取られたかと律は内心焦ったが、アクションの合図に過ぎなかったらしい。
澪は息を吸い込んでから、律の身体をより高く持ち上げた。
もう澪の顔の位置に律の顔はない。
澪の頭の位置にある部位は、律の胸部だ。

 澪の顔を隠す目的で律を使うのであれば、確かにこの位置の方が効果は高い。
顔で顔を隠そうとしても、はみ出る部分がどうしても生じてしまう。
だが、胸部で顔を覆うならば、唯達の側から向けられる視線を遮断する事が可能となる。
左腕で持ち上げられた律は、澪の左側の上半身を覆う格好となっていた。
丁度、折り返した直後に唯達へと向ける側でもある。
これならば唯達を躱しきれるに違いなかった。

 律は胸を澪の横顔に押し付けて支えとする事で、高所での姿勢を安定させた。
乳房が澪の輪郭の形に沿って波を打つ。同時に、胸奥の心臓も早鐘を打った。
胸は苦しいものの、この方が澪の顔を覆い隠す効果も高くなる。
一方で、澪の視界を確保できるよう配慮する事も怠らなかった。

 折り返す時、高所から見下ろす律の瞳は、
自分達に注がれる衆目とその主達の表情を捉えていた。
呆れ、辟易、妬み、揶揄、嘲笑、怒気、数多の視線に篭る感情はそれぞれだが、
所謂”バカップル”を遇する際の視線と捉えて間違いはないだろう。
”こういうモノ”を見る時の人々は、決して瞳に篭る感情を隠そうとはしない。
その中には、律の良く知る三人の視線もあった。
紬だけは稀有にも、羨望の眼差しを向けてくれているらしい。
だが、残りの二人は、他の衆目と同様の感情を目に浮かべている。
梓の表情からは呆れている事が読み取れる上に、
唯に至っては不機嫌を露骨なまでに相貌へと表出させていた。
それでも”バカップル”で狙いを糊塗できたのならば、上々と評価できる。

 念を入れる訳ではないが、律は乳房を澪の横顔に擦り合わせた。
布地の中で乳首が擦れ、喘ぐ吐息と共に硬く隆起していく。
仕草だけバカップルを演じようにも、敏感な身体は演技で留まってはくれない。
今日受けた仕打ちで身体が淫乱に仕上がっているからか、
或いは愛撫の相手が澪だからなのか。
考えるまでもなく両方なのだろう。
対して、澪にはどう伝わっているのだろうか。
起って硬化した突起が布越しに顔の側面で転がる感触も、
乳房が潰れんばかりに押し付けた胸の奥で轟く拍動も、
澪には伝わっているだろうと律は思う。
今に限らず、律の身体がどれだけ澪へと愛欲を訴えても、
澪は何らの確答も返してくれていない。

 列が進むごとに、律や唯の位置関係も変わっていく。
律の斜め前に居た唯達が隣に立ち、そして擦れ違うように斜め後ろへと流れていった。
こうなってしまえば、もう安全だった。
唯達が振り向いても、彼女達の視界に映るは自分達の後姿である。

 だからと言って、即座に澪から降りる訳にもいかない。
遣り過ごした直後に降りてしまっては、
サングの顔を隠したい意図が見え透いてしまう。
勿論、律がサングに関する情報を遮断したがっていると思われるだけならば、
生じる問題は少なくて済む。
だが、サングまで秘密の形成に協力的だと思われてしまっては、不審を招くだろう。
唯達が見ている事などサングは知らないはずなのだから、
自らの相貌を秘す動機などある訳もない。
あくまでもサングは、
甘える律に応じて睦ぶ”バカップル”の片割れでなければならないのだ。

 ならば、徹底的に甘えて説得力を増してしまおう、と。
或いは、説得力を増す口実で徹底して澪に甘えてしまおう、と。
決意した律は身を迫り上げて、澪の頭頂に乳房を乗せた。
そうして逆側の右耳へと口唇を寄せ、囁いてねだる。

「肩車、して」

 澪は口元で笑って肯いを示した。

 荷物が澪の右手から離れ、地に落ちた。
空いた右手は、回り込んで律の臀部を支える。
代わって澪の左腕が律の腰部の拘束を解き、股下へと回り込んできた。
そうして律の股を、澪の左上腕が持ち上げてゆく。
高価な陶器を扱うように、ゆっくりと。
同時に、律の臀部を支える右手も、律を押し上げる動きに加勢していた。

 膂力と体力に秀でた澪といえど、左腕に掛かる負荷を隠しきれてはいない。
律が乗る上腕の筋肉は時折震え、端整な顔には脂汗が滲んでいる。
滲むに留まらず、眉間の間を汗が一条伝っていった。
澪の筋繊維が悲鳴に軋む音も聞こえてきそうだった。
当然だろう。
律を片腕で抱えた後に、自分の首の高さまで律の腰を持ち上げようと言うのだ。
況してやその間、無情にも列は動いている。
両手の塞がる澪は足でバッグを転がしながら、
前に並ぶ者との間隔を詰めて進まねばならない。
少女の身にとって、拉ぐに足る過酷極まりない負担のはずである。

 にも関わらず澪は、自身の身体に一切の容赦をしていなかった。
筋肉を痙攣させ、体力を汗とともに流出させても、律の身を持ち上げ続けている。
苦しいはずなのに、澪の表情は苦痛に歪んでいなかった。
筋肉が断裂しても、体力が尽き果てても、澪は律を高みに導くに違いない。
それを確信させる強靭さが、今の澪からは感じられた。

 澪に無理をさせていると分かっていても、律は降りようなどと思わなかった。
澪は無理してまで表情に余裕を繕っているのに、気遣ってしまっては面子を潰す事になる。
格好付ける彼氏の水面下の苦労に触れぬは、乙女としての嗜みだ。
何より、自分の為に頑張っている澪の汗が、堪らなく愛おしい。

 澪の左上腕が肩の位置まで上がった。
それと共に、肘を曲げた左手と回り込んだ右手が、律の背へと力を加える。
滑るようにして、律の臀部は澪の左肩の上へと乗った。
肩に担いではいるが、肩車として一般的な姿勢ではない。
乗せる側の首を後ろから挟んで、相手の胸部へと両脚を垂らす体勢が標準的なものだろう。
だが澪は、片方の肩のみに律を乗せている。
自然、律の脚は澪の胸部と背部に、前後一本ずつ垂れる格好となっている。

 両脚を相手の胸に垂らす普通の肩車なら、
乗せる側が乗った側の脚を両手で支えてくれるだろう。
だが、この体勢ではそれも無理と言うものだ。
変わりに、肘を曲げた澪の左手が、律の背を押し続けている。
そうやって左肩に乗る律が落ちぬよう、
彼女自らの横顔へと律の下腹部を押し付けていた。
米俵を肩で担ぐ人の姿勢と、自分達の取る体勢が律の脳裏で似通って映る。

 だが、律は自らを支える術のない米俵とは違う。
その事を思い出させるように、澪の右手が律の脚を指差した。
そして、親指を人差指と中指の間に挟み、律にサインで指示を伝えている。
両脚で首を挟み込め、という仕草に他ならなかった。
言われずとも、そうせざるを得なかっただろう。
今の体勢からバランスを保とうと思えば、
両腿で澪の頸なり頭部なりを挟み込む以外にない。
澪の髪を掴むなど言語道断だ。

 律は澪の首を絞めてしまわぬよう、加えて視界も塞がぬよう、左脚を回した。
自然、澪の顎が軸となる。
澪の口を太腿で塞いでしまうが、どうせ喋りはしないのだから問題なかった。
鼻も密着の寸前だが、呼吸が可能な隙間くらいは空いている。
そして後頭部からは右脚を回して、
澪の頭部を挟み込むべく前後の両サイドから強く力んだ。

 圧しているのは、あくまで律のはずである。
にも関わらず律は、澪の柔らかい唇に太腿を強く口付けられたように感じた。
自分が上となり圧し込むこの体勢でさえ、どちらが惚れた側なのかは明確に表れている。
澪には勝てない。

 現に、今も律の方が攻められていた。
澪の鼻から出る呼気が腿を擽っている。
そして、澪の鼻へと入る吸気には、
律の汗ばんだ腿や泥濘んだ股の空気が濃密に含まれていた。
二人の体勢上、律を最も雌たらしめる器官は、
澪の口唇及び鼻のすぐ真横に押し付けられている。
淫靡な匂いが澪の呼吸器系統に充満し、内部から澪を穢していくように感じられた。
それは、身体の内奥へと染み込ませるマーキングに他ならない。
澪を自分のものだと主張したい激しい情念が、化学物質に変じて大量に分泌されてゆく。
自制の効かない我が身は、生物兵器を高速で生産する工場にでもなったようだ。

 澪の後ろ髪に触れる右腿も、彼女への愛しさを弥増す功を受けている。
綺麗な黒髪に腿を擽られているだけが、律を猛らせているのではない。
昨日の部活の時点では腰まで届く長髪だった。
それを、今日の逢瀬で唯達を騙し切る為に、肩の辺りの長さに揃えて切ってくれたのだ。
謂わば、女の命を賭けてまで、律を助けてくれた証でもある。
その確かな証と肌が触れ合い、情が昂じぬはずもない。

「ひぐっ?」

 不意に姿勢が前のめりに傾き、驚いた律の口から短い声が漏れる。
澪が右腕の側へと身体を屈ませたのだ。
澪は右手が再び再び空いたので、手元から離していたバッグを拾い上げたいらしかった。
澪の動きに連動して、律の体重を一身に受ける股の支点も変わる。
律の意識は、否が応でもそこから離れられない。

 ボストンバッグを持ち上げた澪は、姿勢を正すように小さく跳ねた。
その衝撃も、重力の集中する律の股には敏感に響く。
上気した顔を高く掲げる今の自分は、良い晒し者になっているだろう。

 周りの反応を確かめるように、律は周囲を見回した。
律を遇する視線は、思っていた通りに注視の度を強めている。
ただ、震源地である律の真後ろに並ぶ人は、
凝視を避けるばかりか、間隔も明らかに広く取っていた。
痴態を晒す少女に興味はあるが直接関わりたくはない、
という微妙な心情が距離感となって表れている。

 反面、ある程度離れた者は容赦をしていなかった。
不躾な視線を送るに留まらず、聞こえよがしに囁いている者も居た。『変態』と。
また別の所からは、山下公園で痴態を晒した時と同じように、
スマートフォンやデジタルカメラの撮影音が聞こえてきていた。
やはりWEBでSNSを通じ、律の痴態が顔付きで晒されるのだろう。
──ツイッターで、インスタグラムで、タンブラーで、今現在もペリスコープで。
そうして世界中へと拡散され、
この星に生きる人々の間で『律は変態』という認識が共有されるに至るのだ。
そのスケールと身に降りかかる影響を考えただけで、泣いてしまいそうになる。
どうにでもなれ。
律は自棄になった思いで、両手でピースの形を作って顔の横に掲げてやった。
無理矢理に繕った、笑顔も添えて。
涙は堪えたつもりだったが、我慢できずに瞳の端へと浮かべてしまっている。

 不意に身体を振動が見舞った。澪が左腕を突き上げて揺らしてきたのだ。
見れば、澪が眦を吊り上げた眼で、律を睨み付けている。
調子に乗るなと言ってるようにも、自棄になった律の内心を見透かしたようにも見える。
理由はともかく、制止を命じている仕草には違いない。
律は素直に手を下ろした。

 手を下ろすと、昂っていた気持ちも落ち着いてきた。
それでも脳裏には撮られた写真の事が巡っている。
画像データに映る自分達は、恋人として収められているのだろう、と。
今日限りの恋人だが、
恋人が擬態された画像はネットの海で半永久的に残り続けるのかもしれない。
バカップルであれ変態であれ、澪と恋人でいる関係が何処かで続くのは慰めに感じられた。
慰めに満足できないのならば、更に深い一歩を踏み出すしかない。

 澪が再び左腕を突き上げ、律の股に衝撃を齎してきた。
何か伝える事があるという合図だろう。
律は考え事から思考を切り替え、澪の顔に視線を落とす。
澪は律と目を合わせながら、律の太腿に右の人差し指を突き付けてきた。
流れるように次の動作で、同じ指を地面へと向ける。
降りろ、という指示なのだろう。
確かに、観覧車も律達の順番が迫って来ている。
直前で慌てふためくよりも、余裕を持って動いた方が良いに違いない。

 律が首肯で応じると、律を抱える澪の左腕の角度が緩やかな速度で下がり始めた。
拘束と支えを同時に失いながら、律はどう降りたものかと思案する。
律は今、澪の頚部を腿で挟んで、自らの体を支えている状態なのだ。
降りようとして脚を解けば、安定を失った身体は地に打ち付けられてしまうだろう。
途方に暮れる律に、澪の指が再び指針を示す。
彼女は右手の平を律に触れる距離にまで寄せてから、自身の顔の前へと振り戻した。
取手をその右手首に掛けて提げているバッグも、動きに合わせて揺れる。
意味を図りかねている律の前で、澪がもう一度同じ動作を繰り返した。
今度こそ、律も意図を察する。
恐らく、澪の言いたい事は──

 確認の為、律もボディランゲージで応じた。
別に自分の声なら唯に聞かれても不都合はないのだが、
憚らざるを得ない内容の問いである。
律は自身の脚の付け根辺りを指差してから、同じ指で澪の顔を差した。
澪が頷いてしまった事で、律は自分の推測が誤っていないことを確信する。
澪は太腿を頚部に絡めたまま、律の体を澪の顔面に回せと指示しているのだ。
確かに、慌てず臨めば、比較的に危険の少ない方法である。
澪の頭部を軸にして、律の下腹部を澪の顔の外周に沿わせ少しずつ這わせていけば良い。
そうして、澪の正面に回ってさえしまえば、後は安全だった。
律を左肩に乗せている今の体勢では、澪は両手とも律を支える用に供せない。
反面、律が正面に回るのならば、澪は両手で律を支えて下へと降ろす事ができるのだ。

 当然の事ながら、生殖器を秘す律の股が、澪の顔面へと密着する事になる。
それでも逡巡の暇はない。どころか、応否の自由さえもないのだ。
澪に命じられている以上、迷っていてもどうせ従う羽目になる。
第一、他の解決策も思い当たらない。
律は覚悟を決めると、澪の頭頂を軸にして回り始めた。

 羞恥と興奮で、心臓が破裂しそうなほどに暴れている。
太腿が澪の顔や髪で擦れる度に、意図せずに艶めかしい吐息が口から漏れ出た。
澪の視界を塞ぐ格好になってしまう為、昂ぶる中であっても手早く行わねばならない。
現状、列が進めば、律が澪の目となって前に詰める指示を出している。
指示を受けた澪は慎重な足取りで、前に並ぶ者との距離を詰め過ぎないよう、
一方で後方にも遅滞や苦情が生じぬよう、緩急の配分を上手く整えて進んでくれていた。
だが、視界が閉ざされた中で頭部に人を抱えて歩くのは、
如何に澪と言えども心身に掛かる負担は甚大なものとなる。
なるべく早く、楽な体勢に移行させてやりたい。

 澪を想いながら、律は移動を完遂させた。
後頭部に回した両足で後ろから強く挟み込んで、泥濘む股を澪の顔に押し付ける。
こうなると棘を増す周囲の視線よりも、澪が受けた知覚の方が気になった。
息苦しい程に押し付けられた”そこ”から、彼女は何を感じ取ったのだろうか。
当の澪は味わうような間を置いてから、律の腰部に手を添えてきた。
力を込めて腰を掴み、ゆっくりと律の体を浮かせてゆく。
その動きに合わせ、律も脚を解いていった。

 腰を強く掴まれているので痛みはあるが、降ろす動作自体は緩やかなものだった。
腰骨に響くほど込められた力も、律を落とすまいとする心遣いからに違いない。

「ぅーっ」

 地に足を付けた律は、間髪を容れず澪の胸へと飛び込んだ。
消え入りそうに吠える声が、抱き付く間際に律の口から漏れ出る。
澪の顔を見る暇もなく、律の顔を見せる間も与えなかった。
恥ずかしくて、顔も見れない。見せられない。

 律を胸に受け止めた澪は、頭頂の髪を優しく撫でてくれた。
淫らに蒸れた肉を顔に押し付けられたというのに、律を厭う様子は欠片も見せていない。
愛おしむように慈しむように、優しく扱ってくれている。
そうして律達が乗る順番になるまで、髪に擽るような愛撫を与え続けてくれた。

 やがて、乗る順番が来たと、律の前髪を掻き上げて澪が教えてくれた。
律は促される侭に顔を上げると、首を観覧車の方へと振り向ける。
回り終えた者の降車を確認した係員が、順番の来た組に乗車を案内する所だった。
即ち、律と澪の組である。
律は澪に両肩を抱き竦められながら、背を押して貰うような足取りでゴンドラへと向かう。

「どうぞ」

 ゴンドラへと案内する係員は、律達に対してどこか腰が引けて見えた。
無理もない反応だと、自分達の痴態を顧みながら律は思う。
寧ろ、客の手前、平静を取り繕おうとする意識は接客のプロとして褒称に値する。
訓練を受けていない者ならば、顔に鮮明な軽蔑の念が浮かんでしまう事だろう。
内心で忍耐を強いた事を詫びながら、律はゴンドラに乗り込んだ。

 勿論、緩慢ながらも動きを止めないゴンドラに乗り込む時も、澪のサポートを受けている。
後ろから抱えるようにして支えてくれたのだ。
これぐらいなら、カップルの範疇として許されるだろう。

 律達の乗車を確認した係員が、ゴンドラのドアを閉めた。
ドアに掛かるロックの音を最後に、外界の音が遮断される。
逃げ場のないゴンドラの中で、周囲の喧騒に邪魔をされない時間が漸く訪れた。
やっと、澪と二人きりになれたのだ。

 籠の中には、詰めれば四人は座れそうな座席が向かい合って配置されている。
律と澪は、同じ側の席に寄り添って座っていた。
贅沢に空間を使うよりも、贅沢に時間を使いたい。
寄る律を澪は友情故に拒まないだけなのだろうが、律は明確に恋情を秘して寄っていた。

「一旦、落ち着けるな」

 澪が隣で長い息を吐く。
張り詰めていた神経の糸が緩んだのだと、吐息のみならず澪の横顔からも察せられた。
発声それ自体が、唯達の監視下を脱した現況の象徴であり合図でもある。
律にしても、久しく聞いていなかったような懐かしささえ覚える澪の声に、
心が緩むような安堵を齎されていた。
後は白いバラ、ロサ・ブランコを手に持っていれば、いつもの澪だった。
──勿論、髪の長さを除けば、の話ではある。

「お疲れ様。また私の我侭に付き合わせちゃって、ごめんね」

 待ち時間に肩車を頼んで、澪を酷く消耗させてしまっている。
神妙に頭を下げて詫びる律に、澪は手を振り鷹揚に返してきた。

「いいや、我侭なんかじゃないよ。分かってる。
律が肩車をおねだりしてくれなかったら、
私が顔を隠したがっているように見えていたかもしれないしな。
良くやった」

 律がそこまで計算していたという澪の見立ては、全くの誤謬という訳ではない。
ただ、下心も半ば以上同居していただけに、手放しで褒められると擽ったかった。

「いやん。でも、サングだって。
あんなきつい体勢じゃなくって、一旦私を降ろしてから、
首の後ろで肩車してくれて良かったのに」

「一応、彼氏役だからな。格好付けたかった、っていうのもある。
それに、律の”そこ”に近付けるチャンス、彼氏が無駄にするはずもないからな。
そこは演じ切らないと。
ああ、それと私も律の”そこ”は気に入っているよ。
超雌のフレグランスを、山下公園で嗅いだ時からな」

 澪は律の両脚の付け根の間を指差しながら、堂々とした風情で言い切った。
律は咄嗟に前屈みになって、澪の指先から局部を隠すように試みる。
両手を行儀良く両膝の上に置いたまま前屈した所為で、
澪の迫力に呑まれた構図が出来上がってしまった。
対照的に足を組んで泰然と構える澪の姿勢も、その構図の形勢に助力を添えている。
分かってはいるが、虚勢を張って対等に振舞う余裕が律にはない。
生殖器を指差されながら評される羞恥に際して、
我が身は縮こまって茹る一方だった。

「黄色い装いのドレスの下、触れば柔らかくて、甘い匂いと味がする。
律のここ、色も感触も味も匂いも、まるで巣蜜みたいだな」

「うーっ。もうっ、恥ずかしいんだからぁっ。止めてよぉっ」

 なおも続けられる澪の感想を聞いていられず、律は羞恥を素直に叫んで遮った。
だが、労を惜しまずに抱え上げてくれた相手へと、
喚き散らすのはあまりにも冷たく遇しているのかもしれない。

「ごめん。折角、苦労して持ち上げてくれたのに。
それに、気に入ってくれたなら、私だってちょっと嬉しかったって言うか」

 放ってしまった強い語勢を打ち消す積もりで、律は言い繕う。
だが、言葉が進むに連れて羞恥も強まり、語尾は消え入るような声量に窄んでいた。

「誰だって気に入るさ。だから、謝る必要も隠す必要も恥じる必要もない。
もっと自信を持って、誇示していっていいんだぞ。それがお前の悦びだ」

 消え入りかけていた律の言葉の末端まで、澪は聞き分けてくれていたらしい。
律を肯定してくれる澪の声が、耳に心地良く響く。

「あーら、この子ったらお世辞ばっかり言っちゃってぇ。
でも、ありがとね」

 決して、世辞に対する礼ではなかった

──少し、自信を持てた気がする。
──少し、勇気を持てた気がする。

 だからこその、有難うだよ、と。心の中で、律は付け加えた。

「お世辞なんかじゃないさ。それはそうと、だ。
折角乗ってるのに、私の顔ばかり見ていたって勿体無い。だろ?」

 澪が親指で窓の外を指差した。景色を見ろ、という仕草に他ならない。
律は素直に従い身を乗り出す。そうして窓に顔を貼り付け、外の景色を目に収めた。

「少しずつだけど、建物とかが小さくなっていくね」

 律達を乗せたゴンドラは四分の一の行程を消化する手前、
即ち九十度の位置に達しようとしていた。
ここから頂点、百八十度に達するまでは、景色を小さく変えていくのだろう。

「ああ。もうすぐ、律のお好みの夜景にだってなるさ。
そこまではまだあるし、解説でも流すか?」

 ナビゲート音声の流れる装置と思しきボタンへと、
澪が指を伸ばしながら問い掛けてきた。
律は首を振って応じる。

「いい。サングのナビの方が優秀だもん」

 呼称は迷ったが、サングを継続することにした。
まだ終わっていない、そう自分に言い聞かせる為に。

「おいおい、ナビゲートするほど、詳しくはないぞ?
この街に付いて知っている事なんて、
今日のデートを乗り切る為だけに身に付けた付け焼刃だ。
ムギ辺りなら、初心者相手にナビできる程度には詳しいのかもしれないけどな」

「梓あたりも詳しそうだけどね。
旅行とかの話になると、張り切って調べたり計画立てたりしそうなタイプだし。
でも今は、レクチャーもナビゲートもしてないだろうけど。
唯達もそろそろ乗った頃合なのかな?」

 彼女達の目的は横浜の観光ではない。自分達の観察である。
興味の対象が自分達に絞られている中で、悠長に景色の解説をしているとも思えなかった。

「ああ、乗ってたぞ。
遠いし暗いから見た目じゃ分かり辛かったけど、まず間違いないよ。
少なくとも、列を抜けた素振りはなかった」

「ふーん。まぁ、折角並んだんだからね。ここまで並んで、帰ったりしないでしょ。
それに、唯達も尾行みたいな陰気な事ばっかりやってないで、
楽しんでくれた方がいいもんね」

 澪が安心したように言うので、律も調子を合わせた。
部活の仲間達の事を、気に掛けていたらしい。
律は竹馬の友を誇るような気持ちで、改めて澪に感心する。
澪は姿勢を楽に崩して律との会話に興じる一方で、
唯達の動向からも意識を逸らしていなかった。

「こっちも安全になるしな。勿論、いつだって油断は大敵だけど」

「うん、恋の鉄則だよね」

「Sweet, My Fair Lady.
 甘いな、 お姫様。
恋の鉄則を言うなら、安全こそ大敵だぞ?」

 油断するなと言いたげな澪に、相方を茶化す恋人のように返した積もりだったが、
澪の方が上手だった。
心底、敵わないと思い知らされる。

「あーら、この子ったら経験豊富そうな発言しちゃってぇ」

「お前が初過ぎるんだよ。この様子では彼氏が出来た時に不安だな。
幼い頃からの親友として、レッスンしてやった方がいいかな」

 自分で放った言葉に、澪は一人頷く。

「うん、そうしよう。親友としての努めだよな。
唯達にこのゴンドラを覗かれてもいいように、
睦み合う姿も見せておかないといけないしな」

 言いながら伸びてくる澪の右手が、律の顎を掴んで上向きに持ち上げる。

「覗くって。どうやって」

 激しく脈打つ心臓を押さえながら、律は小さな抵抗を試みる。

「角度的にさ。
唯達の乗るゴンドラから、
このゴンドラが見える配置に差し掛かる事だってあるかもしれないだろ?」

「無理だよ。見える訳ないし」

 仮にこれがシースルーであったとしても、
離れたゴンドラの様子を覗き見る事は至難である。
況してや今は、陽光が透過する昼間ではない。暗い陰の落ちた夜間なのだ。

「さっきも言っただろ?その油断が大敵なんだよ。
実際に見られるかどうかだけの問題じゃなく、意識も含めてさ。
それとも、何もしない方がいいか?嫌なのか?」

「んーん、嫌じゃない」

 律は反射的に首を振っていた。肯う言葉は動作に遅れて出てくる。
意識が、無意識に追随している形だ。

「いい子だ。まあ、実は始めから拒否権なんて与えてなかったから、
どう答えても同じだったんだけどな」

 澪は律の顎を持ったまま、窓へと律の後頭部を押し付けた。

「どういう意味?」

「言ったろ?唯達へのアピールや警戒だけじゃなく、レッスンも含めてるって。
初で無垢な律が悪い奴から酷い目に遭わされないように、教育してやる」

 律の身体に半身を圧し掛からせながら、澪が言葉を降らせてくる。
澪の体重に拉がれてしまいそうだった。

「重っ。ちょっと痛いし、苦しいよ」

「律は非力だからな。跳ね除けられないだろ?
こうされると、もう身動きできない」

 身動きの取れない律の顔に、澪が顔を近付けてきた。
澪の端整な顔が、切れ長の瞳が、長い睫が、律の眼の間近に迫っている。

「みっ」

「だから、サングだって」

 澪と言いかけて喉に閊えている間に、訂正の言を受けていた。

「サングなんだよ、律。分かってるのか?
今お前は、逃げられない空間に入ってしまっているんだ。
誰も助けに来れやしない。
こんな状況下に、そんな挑発的な格好で、野郎と二人きり。
無事で済むと思っていたのか?」

 澪の左手の長い指が、律の身体の上を滑っていく。
絹に浮き出た曲線を、念入りになぞるように、ゆっくりと。

 律もよく知っている、演奏の時にベースの三弦を自在に鳴らす指だった。
所属するバンドのHTTでは、律の受け持つパート、
ドラムはベースの真後ろに配置されている。
演奏中にいつも見ているのは、澪の背だった。
否、背を流れて腰へと落ちる、在りし日の長い黒髪だった。
その為、澪の長い指の捌きを観察する機会は少なかった。

 百聞は一見に如かず。そして、百見は一触に如かず。
今や、律は澪の指捌きを仔細に観察できるに留まっていない。
絹の上を滑らかになぞる感触を、敏感な肌に知覚させられている。

 侵略する指の動きは、下腹部にまで伸びて漸く止まった。

「この先は何があるか、分かるな?」

 為されるが侭、甲高く荒い吐息を断続的に漏らすだけが精一杯の律に、
澪が噛んで含めるように問い掛けてくる。

「だ、駄目っ。こんな所で」

 別の所ならいいのかと、胸の奥から自問する声が聞こえてくる。

「絶好の場所だろ?誰も助けになんて来れないんだから。
ほぉら、言った通り危険だ。お前が望んだんだよな?」

 澪の目は、小鳥を狙う猫の目をしていた。否、これは豹だ。
それも、迷彩を成す草叢に潜伏して獲物へと近付いている時の眼ではない。
十分に接近し、身を隠す必要のなくなった必殺の狩人の瞳だ。

「時間、ないよ?下に到着して、皆に見られちゃう」

「この観覧車は十五分掛けて一周する。
今は大体、三分の一くらい終わったか?
なら、ざっくり十分ほど残されている訳だ。
十分だぞ?分かるか?」

 澪は一旦言葉を切ると、口の端を片方吊り上げながら続けた。

「すっかり仕上がってるお前をいかせるには、十分過ぎる時間だよ」

「やぁっ」

 律は目を逸らそうと試みるも、顎を掴む澪の手によって正面へと引き戻されてしまった。

「観念しろよ。言ったろ?
そんな扇情的な格好で、ましてや下着も付けずに、
二人きりの密室に入ってしまったんだ。
”ここ”に触れた空気が蒸気と匂いを含んで、狭い密室に充満しているんだぞ?
咽せ返る程の雌の匂いで誘惑しておきながら、今更逃げるなよ」

 澪の語調は厳しかった。
この状況を律の責任に帰して、逃げ道を塞いでゆく。

「私、誘惑なんてしてないし」

「しているように見えちゃうんだよ、相手からはな」

「そんな勝手な」

「煩いぞ、口答えするな。そうだな、まずはそのお喋りな口を塞ぐ。だから目を瞑れ」

 澪が凜とした声を張り上げ、一方的な口調で命じてきた。

「えっと、心の準備とか」

「目を瞑れ」

 律の言葉を遮って、澪の高圧的な声が響く。
有無を言わさない口調に、律も覚悟を決めて目を瞑った。
そうして澪の鼻息に鼻梁を撫でられながら、唇が重なるのを待つ。
下腹部に置かれた指が、更に曲線を辿って下へと落ちてくるのを待つ。

 焦れていた時間は数秒だっただろう。
その僅かな時間で、心臓は数時間分も拍動している。
少なくとも律には、それだけの暴れっぷりに感じられた。
身体のサイズを超えて暴れまわる胸が、痛くて苦しい。

 鼻息を髪に感じた直後。
律の額に、生暖かい感触が這った。
顎を掴んでいた指の圧力は消え、代わって前髪を払って押さえる力を感じている。
のみならず、身体を押さえ込んでいた澪の重みも消失していた。

 怪訝に感じた律が目を開くと、赤い舌を口唇から出した澪の顔が映る。
その唾液の滴る赤く長い舌に額を舐められたのだと、律は間髪を容れずに理解した。

「サング?」

 予想していた事態と現状との差に、律は戸惑いを隠せない。
律を徹底して嬲った澪の口振りからしても、律の早とちりや勘違いではなかったはずだ。

「だから言っただろ?レッスンだって。
本当にやったりしないさ。それは、親友の私の役目じゃない。
本物の彼氏の役目なんだよ」

 澪が律の前髪へと添えていた手を離すと、前髪が額に落ちてきた。
汗で濡れた額に、髪の細い房が一束二束と貼り付く。

「びっくりしたぁ。
もうっ、迫真だったから、本気だと思ったじゃんかぁ、馬鹿ぁ」

 律は額に貼り付いた髪を剥がしながら返した。
実際に、迫ってくる澪は演技とは思えない凄みがあった。
律の身体も敏感に反応している。
身体中から緊張の汗が噴き出し、
生殖器は受け入れる準備を整えるように湧き出す粘液で潤った。
演技だったと分かった今となっては、
それら噴火寸前まで昂ぶった行き場のないリビドーが燻ってしまっている。
その所為もあるのだろうか。律の胸奥では、落胆している自分が居た。
付け加えた『馬鹿ぁ』という罵倒も、
期待への裏返しが口にさせた愚痴だったのかもしれない。

「始めから言っていた事だぞ?あんなに狼狽えるなよ。お前の方が余程迫真だったぞ。
でも、本気にしたなら、それだけレッスンも効果があったって事だ」

 澪が律の耳に口を寄せてきた。
これからが大事な話だと、仕草で示すかのように。

「もし律が、誰かと密室を過ごす時。
その時は、どうされてもいい相手と入れ。
特に、扇情的な格好をしたり、フェロモンを分泌している時はな」

 澪は居住まいを正してから、言葉を続けた。
律の視線に宿った抗議の色に気付いたらしい。

「ああ、分かってる。そんなの、相手の勝手な思い込みだって事。
別に二人きりの部屋に入ったからと言って、オーケーのサインとは限らないさ。
でもな。そういう輩が居る以上、お前は自衛を念頭に行動しなきゃいけない。
其処は私がお前を守ってやれない場所になっちゃうんだから。
だからこれは、お前のナイトとしてではなく、親友としての忠告だ」

 この上ない澪の気遣いに、律は自然と深く頷いていた。
澪は律の反発を分かってくれている。
その上で、例え不条理に感じたとしても、自衛するよう諭してくれているのだ。

「そこが分かってくれたのなら、このレッスンは終了だ。
私だって親友としての勤めを、一つ果たした事になる。
そしてお前が、密室下で危険に晒されてもいいと思える相手と出会えた時、
直截に言って褥を共にできる本物の彼氏を見つけた時。
その時、私の幼馴染としての役目は全て遂げた事になるんだよ」

 噛んで含めるように語る澪の表情を、寂寞の影が翳していた。
物憂げな親友を眺める律の胸奥に、鼓膜を突いた言葉が落ちてゆく。
澪の言う”危険に晒されてもいいと思える相手”となら、今も密室を過ごしている。
甘美な危険は期待外れに終わってしまったが、
親友ではなく”本物の彼氏”だったのならば、
嫌がる素振りとは裏腹な律の奥意に沿ってくれただろうか。
親友としての”教育”でも”忠告”でもなく、況してやナイトとしての護衛などでもなく、
危険な目に遭わせてくれただろうか。

 思惟を巡らせる律の眼前で、不意に、澪の表情が柔和に崩れた。

「いけないな。説教めいた話になってしまった。
今この場この時に、こういう雰囲気は似合わないよな。
だってほら、ご覧?」

 澪が窓の外を指差しながら、高らかに宣した。

「そろそろ頂上だ。見下ろし召しませ、お前の為だけの絶佳の夜景」

 澪に言われて気付いたが、観覧車も半分の工程が終わりかけているらしい。
律は供されるままに窓へと顔を押し付け、眼下に広がる夜景を見下ろした。

「わっわっ、わぁっ。期待以上だよ、綺麗ー」

 澪の言葉に違わぬ絶景を目一杯に収め、律の気分は一気に高揚した。
昂ぶるあまり、律は澪の袖を掴んで踊るように捲くし立てる。

「ねっねっ。サングも綺麗だって思うでしょ?
私の為だけなんて勿体ないよー。ほらほら、サングも見て。
あっ。あれ、汽車道だよ?わぁー、懐かしいー、さっき通ったばかりなのにー。
上から見ると、海に浮かぶ儚い灯篭の道って感じ。
私達あれを通ったんだねー」

 目線が変わると、同じ場所でも全く異なって見えた。


「気に入ってくれたなら、良かったよ。
連れ込んだ甲斐もあるというものだ」

 澪が右手首に絡む律の手を撫でながら言った。

「それは勿論、気に入るよー。
気に入らない女の子なんていないよ」

 律は澪に答えてから、もう一度夜景を眺め渡した。
海を挟んだ北西側に、観覧車に並立する形で背の高いビルが三棟聳えている。
汽車道からも見ていた、クイーンズタワーだった。
頂点に達した観覧車のゴンドラは、
A棟よりも低くC棟よりも若干高い位置で空中を遊歩している。
もしもB棟に目が有ったのなら、律と目が合っていた事だろう。

 その位置から、律は再び下へと視線を落とした。
散りばめられたトパーズとパールが発光しているような光景は、
何度見ても褪せる事はない。
それでも再見ともなれば、幾分かは落ち着いて瞳に収める事ができた。

「あ」

 視線が遠くから近くに動き、観覧車の傍に視線が達した時。
律は短く声を上げていた。
その視界には、城のような構えの建物が映されている。

「どうした?」

 律の声に反応した澪が、視線を向けてきていた。
この機を逃さず、律は指で示しながら問い掛ける。

「ねぇ、サング。あの建物って、何の建物か知ってる?」

 その建物を、律は汽車道でも見付けていた。
あの時とは見る方向が真逆であるが、位置関係からいって間違いようがない。
コスモクロックよりも目を引いた、金色に輝く城のような建物である。
それだけに、汽車道を通っている時も、澪に訊こう訊こうと思っていた。
だが、訊ねる寸前で唯達を見付けてしまい、其れ処ではなくなったまま今に至っている。
もし、ここで視界に入らなかったのなら、澪に訊く時機を逸したままだったろう。

「結婚式場だよ」

 建物を見つめながら、澪が返答してくれた。
そのワードは、律の視線に熱を宿すに十分だった。
建物へ向けた律の関心の種類は、疑問から憧憬へと変じている。
何よりも、澪に寄り添い同じ視線で式場を眺める事が、
式場の下見のようで望外の幸せを味わえた。
少なくとも律は内心、式場の下見を擬していた。

「興味津々だな」

 式場を凝視していた律は、澪の声で我に返った。

「そんなんじゃないし。ちょっと、綺麗だなって思っただけで」

 内心を見透かされているはずもないのに、律は慌てて否定してしまっている。

「そうか?将来に備えて、勉強でもしているのかと思ったよ。
まぁ、彼氏が出来て順調に進めば、何処かには連れて行ってくれるさ。
リクエスト候補の一つとして、そこも念頭に置いておけばいい」

「んー。確かにあそこは式場って分かる前から気になっていたくらい綺麗だし、
あんな所で挙げるのは素敵だろうけれど。
でも、場所ってそこまで重要じゃないよね」

 律はみなまで言わなかったが、
本音としては”何処で”よりも”誰と”の方が遥かに重要だった。

「そうか?でも、好きな相手には最高の環境で、
至上の結婚式を挙げてやりたいって、婿の方は思うものだよ。
勿論、場所を重視しなくとも、それは花嫁の自由だ。
ただ、それでも婿の方は、
花嫁の価値観を引っ繰り返す程の場所を提供してやりたいって燃えるものなのさ」

 言い切った澪が、再び窓の外を見遣った。
律も連れて視線を沿わせる。
半分以上の行程を終えたゴンドラは、既に下降を始めていた。
空に近付いていった時とは違い、今は地面に近付いていっている。
澪との二人きりを担保する密室も、そこで終わるのだ。

「ねぇ、サング。さっきの話なんだけど」

 呼び掛けて澪の視線と注意を引き付けてから、律は続けて言う。

「やっぱり、私匂う?さっき、私の……に空気が触れて、蒸気と匂いを含んで、
ゴンドラの中に咽せ返るほど充満しているとか、言ってたけど。
キツイ、よね?」

 遠慮がちに、律は上目で問うた。
澪から嬲り気味に指摘を受けるまでもなく、自分でも気にはなっている。
澪に迫られている時、怯えた態度や言葉とは裏腹に発情していた。
正確には、発情する生殖器を抑え切れなかった。
そこは場所も弁えずに、粘性の液体を滲み出させている。
それだけではない。
肌を湿らせる発汗も、律を危惧させていた。

 高所という用途柄、窓は嵌め殺しに設えられている。
換気が一切出来ない密閉された空間内では、
逃げ場を失った匂いは濃度を増していくばかりだ。
そのような場に自分一人ならまだしも、澪が居る。
澪の吸う息は、全て律の肉体から発散される液を介してしまっているのだ。

「ああ、凄まじく濃いよ。お前のフェロモンが充溢している。
次に乗る人にも気付かれちゃうだろうな」

「うぅー」

「何て言うかな。
さっきさ、お前の此処が巣蜜みたいだと言ったけど、
この中はミツバチの巣の中のようだな。
ミクロになって入ってみれば、こんな甘い匂いに満ち溢れてるんじゃないか?
いや、新鮮な柑橘類のような強い酸味もあるから、ちょっと違うのか?」

 恥ずかしさで唸る律に、澪は温情を掛けてはくれなかった。
具体的な言葉を次々に連ね、ゴンドラの中に満ちる匂いに言及していく。
澪はまだ語り続ける積もりらしいが、聞いている律の方が耐えられない。

「うーっ、もういいよぉっ。
そ、そんなに具体的に言われると、恥ずかしいんだからぁっ」

 律は喚き声を被せて、澪の口上を遮った。

「今更恥ずかしがるなよ。今日一日、人目も憚らずに淫虐に耽っていたろ?
いや、人目も興奮の材料だったのかな。
なるほど、すると恥ずかしいという言葉は、
私に対するおねだりと同義に取って良いのかな?」

「なっ」

 律は絶句してしまい、それ以上の言葉を放てなかった。
唇を動かしてはいるのだが、声は出て来ず空回りするばかりである。
まるで、水面で餌を催促する鯉のようだと、金魚の色に頬を染め上げながら律は思った。

「ふふっ、逐一に可愛い反応を見せてくれるよな。サドり甲斐がある。
でも、これ以上は虐めたりしないから安心しな。
あまりやると、律が持たないからな」

 澪は律の反応に満足したのか、勘弁してくれる気になったらしい。
忙しない律の両頬を解すように両手で包みながら、慮る言葉を掛けてくれた。

「もぉー、意地悪っ。サングったら、本当にドエスなんだから」

 不平を零しながらも、澪に指摘された性癖は否めないままだった。
澪に虐められている時でさえ、律の下腹部は性的な興奮に沸いていたのだから。
倒錯した性の願望を持っているのは、寧ろ自分の方なのだろう。

「ああ、そういう設定だろ?そういうサングがお好みだろ?」

 澪が片目を瞑って、茶化すように言う。
実際にそうだ。自分の言葉だ。
そしてあの時に唯が言っていたように、性的に倒錯した自分の願望でもあるのだろう。

「まぁ、それはそうと、だ。律。大丈夫か?
実際、今日は疲れただろ?」

 両目を開いた澪は、真面目な表情と声に転じていた。

「うん。疲れたけど。でも、サングの方がもっと疲れたでしょ?」

 今日の重労働を思えば、澪の肉体が如何に強靭と言えど堪えているはずである。

「舐めるな。お前とは鍛え方が違うよ。
と言いたい所だけど、確かに少しは、疲れているのかもな。
でも気付かない振りをしておいてくれ」

 澪は意地でも律に疲労を気取られたくないらしい。
何処までも格好付けてくれる姿が、律の心臓を跳ねさせる。

「そんな事より、自分の体を労われ。
この後、休憩でもどうだ?この地を後にする前に、一旦休んだ方がいい。
場所の手配も任せておけ」

「休憩って。何する気なの」

 身構える動作も口を衝く問いも、反射的なものだった。
ラブホテルにでも誘うような澪の口上に、律の身体が自衛の反応を自然と取っている。

「そう警戒するなって。何もしないよ。
あくまでも、お前を休ませてやりたいだけだ。サングとしての最後の勤めとしてな」

「いや、別に警戒している訳じゃないけど。
ただ、そんなに疲れてないかなって」

 澪に見透かされていたようで、律は慌てて取り繕った。

「嘘を言うな。それに、否応は言っていられないぞ?
まさかその濡れ蒸れ塗れの身体で電車に乗る積もりか?
況してや、開放的な格好で?危険だ、お前も周りも。
今のお前は存在からして犯罪的に、否、もう涜神的に猥褻なんだよ」

 澪の選んだ言葉こそ嗜虐的だが、含意された内容までは否定できなかった。
律自身、匂いと露出の気になる身で、電車に乗る気にはなれない。

「だからさ。シャワーを浴びて汗も液も洗い流して、少し休め。
そうして、身も心も落ち着けてから帰ればいい」

「まぁっ。やっぱり、ホテルに連れてく積もりじゃんかぁ」

 律は口を尖らせてみせたが、抗議の意図はない。
内心では、既に諾否は決まっている。

「まだ未達だったノルマを達成するには、お誂え向きの場所だろ?」

 澪が得意げに笑う。

「ノルマ?未達?」

 思い当たる節のない律は、澪の言葉を繰り返す事で問いに変えた。

「今日は危険日だって、手帳にマークを付けてただろ?唯達も見てたぞ。
あの、ご丁寧にサテライトまで幾つも添えた、一際目立つハートマークをな」

「あっ、ああっ」

 得心がいった。確かにそれは、唯達に見せている。
生理周期から安全日と危険日を計算して記した手帳の事だ。
そして澪の言う通り、
今日の日付に付したハートマークは意図して他の日と装いを異にしている。
唯達に自慢する為の過ぎた行いだったが、
相応のアクションを求められているかもしれない。
ホテルに寄る所を唯達に見せ付けられれば、期待へと応えるに充分だろう。

「勿論、唯達がホテルの手前まで追いかけて来れば、の話だけどな。
見せ付ける為だけに、あいつらを悠長に待つ気も、態とゆっくり歩く積もりもないし。
だからそれは唯達次第のオマケだ」

 そもそも、追って来ないのならば、唯達の興味などその程度という事だ。
見たいと無理を言って聞かなかったのは唯達なのだから、
相応の努力は彼女達の方にこそ求められる。

「待たないから勝手に追いかけて来い、って事だよね?
それでいいと思うよ。私達がホテルに寄る本来の目的って、休憩なんだし」

 身体を洗って着替える事も、休憩というワードに含意された要素である。
そうして電車に乗っても許される状態になりたいと、許されざる一日を顧みながら思う。

 自分の都合だけではない。澪も休ませてやりたかった。
強がってはいるが、少女の肉体に過酷な負担を課す一日だったはずだ。
彼女の矜持を慮って口には出さないが、彼女の身体も慮っている。

「いや、休憩も大事ではあるけどさ。実はもっと重要度の高い目的があるんだ。
落ち着ける場所で、明日に唯達をどう誤魔化すか、
その策をお前に話しておかないといけない」

 律が呆けた顔をしていたからだろう。
論題の共有に必要な情報を加えたいらしく、澪が口を開きかけた。
澪は第一声を放つ前に、長い指で短くなった髪の毛に触れる。
──”短くなった髪の毛に”──

「あっ、ああ、そうだ」

 その動作で、律は気付いた。
言われるまでもない。記憶を呼び覚ます情報は、その部位を触る動作一つで十分だ。

「髪を切った理由を、唯達が不自然に思わないよう、説明しないといけないんだよね?
上手く納得させないと、不自然過ぎるものね。
サングと同じくらいの髪の長さなんだから」

 この事は、元町・中華街駅から中華街の東門に至る道中で、律も一度指摘していた。
その時の澪は、対応策を用意した上でカットに及んだと言い、
肝心の策は後で話すと律に告げている。
逢瀬の始まりに投げた疑問の答えが、逢瀬の終わりになって漸く回答されるらしい。

「そう。お前も気にしていただろ?今まで忘れていたみたいだけどな」

 澪が茶化すように目を細めた。
決して責めてはいないようで、頬も緩んでいる。

「いや、忘れてた訳じゃないし。
頭から抜け落ちていたって言うか、飛んでたって言うか」

 それを忘れていたと言うのだと、律は我が発言ながら胸中で呆れた。

「ふふ、構わないさ。
それくらい夢中になってくれたのなら、甲斐があったよ。
誕生日に夢のような時間を過ごして貰えたのなら、
私も及第点まで後一歩って所だな」

 及第点どころか満点だと、律は澪を評点し直した。
『ようこそ。律がお姫様でいられる時間へ』
と、彼女は中華街の東門を潜るときに宣している。
言葉通りの時間をプレゼントしてくれた。

「夢のようだったけど、夢じゃないよ。
ほら、チャイナドレスだってちゃんとあるし。これと同じだよ。
本当にあった、時間だから」

 偽りのデートであっても、演じた恋人であっても、
澪が律の為に骨を折ってくれた事実に違いはない。
夢とは違い、覚めて消えていくものではない。

「そうだな。律の柔らかい感触も甘い匂いも、ちゃんと実体として感じたよ。
見目のスタイルと併せて極限に満点の肉体だ。
私が保証する。自信を持って、彼氏にくれてやれ」

 自信を持って迫れば、受け入れてくれるだろうか。
抱いてくれるだろうか。いっそ、犯してくれるだろうか。

「私の身体にも澪から受けた感触が残ってるよ。
脚の付け根とか、まだ疼痛があったりするし。
あっ、でもちょっとだよ?歩いたりするの、そんなに支障ないもん。
さっきだって走れたし」

「目は?視力は回復したのか?眩暈も大丈夫か?」

「うん。そっちはもう平気。ちょっと違和感あるかな、って程度」

 症状を過大に伝えて、
『私の体を傷物にした責任取ってよ』とでも言った方が良かっただろうか。
いっそ、障害でも負っていれば、
澪に自分を否応なく引き取らせる事が出来て良かっただろうか。
半ば冗談で、律は思った。

「問題なさそうだな。見込んだ通り、無茶なプレイも可能らしい。
もっと開発したくなるよ、彼氏に譲るけどな。
さて律。大丈夫そうなら、降りる準備もしておけ。そろそろだ」

 澪の言う通り、観覧車の行程も終わりが近付いていた。
ゴンドラから客を降ろす係員の姿が見えている。

 行程を終えてゴンドラから降りる時にも、澪が手伝ってくれた。
係員の開けたドアを先に跨いだ澪が、律の手を引いてくれたのだ。
澪が見せる逐一の振る舞いには、エスコートという言葉が良く似合う。

 乗る時とは逆側のドアが開けられたので、観覧車に並ぶ行列は円の向こうだ。
律達の乗っていたゴンドラは降車地点より先で待つ係員に渡り、
受け渡されたその係員は順番の来た客に乗車を案内していた。
当然だが、乗車地点を受け持つその係員は、律と澪の乗車を案内した者と同じだった。
彼の手によって、律達の乗っていたゴンドラに、新しい客が乗せられている。
どのような乗り心地を抱くだろうか。
──匂いが篭っていませんように。粘液が垂れて座席を汚していませんように。
と、律は祈るように念じた。

「ん、私達の乗ってたゴンドラ、
後に乗った人が違和感を抱かないか気になっちゃって」

 思案顔の律が気になったらしく、澪が顔を覗き込んできていた。
問われる前に本音を返してから、律は言葉を継ぐ。

「って、そんな事考えてる暇ないよね。
急がないと、唯達が後ろに乗ってたんだし。
あの執念深さには頭が下がるよね、あいつら危険な領域に達しているよ。
引いちゃう」

「いや?そうでもないだろう。
何が何でも面を割ろうという執念までは共有してないんじゃないか?
乗ってくれて助かったし、その事だって分かった」

 紬達を庇うような澪の論調を、律は釈然としない思いで聞いた。
執念があるからこそ、観覧車に乗ってまで追いかけて来ているのではないか。
律は口を尖らせて言う。

「何言ってるの。追っかけて来られる方が不味いじゃんかぁ」

「違うな。この辺りで待ち伏せされる方が遥かに危うかった。
実際、降車する場所に回り込まれていたら、詰みを回避できたか怪しいな」

 建物内へと通じる扉を潜りながら、澪が言う。
律は息を呑んで振り返った。
降車してから歩く道は、甲板のように広く見通しのいい通路である。
乗車する前に並んでいた程の幅はないが、少人数が待ち合わせるのに不都合はない。
その一本道の先にチケット売り場を備えた屋外ホールがあり、
乗車サイドと降車サイドを三角州のように分岐させている。
同様、今進路を取っている建物内の階段と、並ぶ時に登った階段の二つの道を別っていた。
澪の言う通り、律達が観覧車に乗っている間に、
唯達に降車地点へと先回りされてしまうと逃げようがなくなる。
唯達が後続の観覧車に乗ってくれて助かったのだ。
澪が頻りと唯達が観覧車に乗るか否か気に掛けていた理由も、今なら分かる。

「危なかったんだね。この構造を唯達が知っていたら、アウトだったんだ。
まぁ、唯達の不知のお陰で命拾いしたけど、当然といえば当然かも。
ムギや梓だって、まさかコスモワールドの下調べまでしてなかっただろうし」

 コスモワールドに寄ったのは、窮余の果ての突発的な避難だった。
計画性のなさと性急さが却って幸いしたのだろう。
唯達に推測の暇も対策の余裕も与えずに、
チェックメイトの回避に図らずも成功していた。

「下調べはしていなかっただろうけど、それが理由じゃないだろうな。
並んでから調べる程度の余裕はあったし、
そもそもこの程度の簡易な構造、況して狭いエリアだと、
フィーリングで出口くらいは探し出せる。
実際、あいつらも頭の中にこの手は浮かんでいたと思うぞ」

 では、何故この手を使わなかったのか。
律達が乗車した後に列から抜けてしまえば、もうこちらは逃げようがなかった。

 律の表情に浮かんだ疑問を気取ったらしく、澪が続けて言う。

「ムギと梓かな。あいつらが、唯を観覧車に乗る方向へと誘導しくれたんだろうな。
さっきの横断歩道の時みたいにさ。
勿論、そもそも唯も待ち伏せを言い出さなかった、っていう可能性もあるけど。
始めの約束では、邪魔しないはずだったんだから」

「いーや、唯は絶対に待ち伏せを主張してたよ。
あいつ、汽車道でだって約束破ってたもん。
横断歩道で捕まらなかったのだって、ムギと梓が押さえてくれたからだし。
執拗過ぎるもん」

 唯への不満を並べる律の脳裏には、唯に追いかけられていた時の事が蘇ってきている。
その記憶が、口から出たばかりの言葉と衝突した。

 赤信号で足止めされた横断歩道で捕まらなかったのは、
紬と梓が唯に追い付いて押さえてくれたから、で間違いはない。
だが、紬と梓が唯に追い付けなかったとしても、或いは唯に協力的だったとしても、
澪の正体を暴かれていたとは限らないのだ。
彼女には、追い付かれた場合のプランがあったのだから。

『この場でお前を犯してやるよ』

 澪の口から放たれた宣告が、彼女の声音を借りて記憶の奥底から蘇ってくる。
紬達が唯を止めていなかったのなら、澪は言葉通りに襲い掛かってきたかもしれない。
そうなっていたのなら、唯達はどうしていただろうか。
澪の読み通りであるならば、唯達は他人を装って追跡して来なくなるはずだ。
もし、唯達が他の行動を起こすとするならば、それは──

「そう言うなよ。唯の気持ちだって私は分かるぞ。
お前達、仲良かっただろ?
なのにさ、自分から彼氏の存在をバラしておいて、途端に唯を邪険にしだすものだから。
お前を親友だと思っていた唯にしてみれば、
男が出来た途端に友達への態度が露骨に変わった、
友情を裏切られた、と思っても無理はないよ」

 実際に、当の唯も似たような愚痴を梓に零していた気がする。
律は彼氏を作ってから態度が変わった、友情よりも恋愛なのか、と。
冗談めかした口調だったから、気にも留めていなかった。
だが、本心を戯けで糊塗していただけかもしれない。
今になって、そう気付く。

「唯は今だって、友達だよ。ちょっと、頭来て、引くに引けなくなったというか」

「ああ、唯もそんな感じで、意地を張っちゃっているんだよ。
そんな唯を宥めているムギや梓だって、彼氏が出来たお前の事を心配していただろ?
ちゃんと律を大事に扱ってくれる男か気になってる、見せて安心させて欲しい、
あいつ等だって本心ではそう思ってるよ」

 ならば、危機に直面した自分を見捨てはしないだろう。
今の律の脳裏には、
犯される危機に瀕した自分を助けに来た唯や紬、梓の姿が映っている。
澪も、この可能性に付いては指摘していた。
それに対し律がどういう態度を取るのかという、宿題も添えて。

「私、親友の皆を騙しているんだよね」

 律は確認するように呟いた。
澪に相談を持ち掛けた時から、分かり切っていた事実である。
だが、今は重みが違っている。
否、異なっているのではない。重いものなのだと、今は自覚できるのだ。

 手に引力を感じた。直後、澪に引き寄せられていた。

「ああ。その事は忘れるな。取り敢えず今は逃げるけどな」

 低い声を律の耳元に囁いてから、澪は時計の表示を見せてきた。

「もう唯達がゴンドラを降りている頃合だ。追って来るぞ」

 澪は観覧車の周期から、唯達の降りる時間も割り出していたのだろう。
周期を観察する時間なら十分にあった上、一周に十五分を要すると澪自身も言っていた。
後は唯達の乗った時間さえ憶えていれば、簡単な計算である。
事実、澪は唯達の乗車を確認していたのだ。

 距離に多少の有利があっても、律は目立つ服を着ている。
このまま唯達に気付かれず、逃げ切れるとは律も思っていない。
コスモワールドを出る前に捕捉され、また追跡を受ける羽目になるだろう。
そして──澪の言葉を借りるならば──
”未達だったノルマ”を達成する瞬間のお披露目へと至るのだ。

「ね、次の場所は決まっているんでしょう?
私も憶えているよ。何処にあるのか知らないだけ。
だから。私をホテルに連れてって?」

 澪は口では答えなかった。
代わりに、律の手を引く彼女の手に力が篭る。
それが、言葉よりも雄弁な回答だった。

*

>>215-251
本日は以上になります。
また明日よろしくお願いします。


*

16章

 律は窓に額を付け、景色に見入っていた。
七十階近い一室に据えられたフィックスウィンドウからの眺望とあって、
夜景の明媚たるはこの上ない。
絶佳に酔った観覧車でさえもが、電飾の渦となって下方に見えている。
遠く南東の方角には、横浜スタジアムと思しき円形の施設が光を伴って見えていた。
その更に奥の豆粒のような光の群れには、
律が居た中華街の放つ光も含まれているのだろう。
目を惹く対象は余りに多く、膨らむイメージは尽きない。
床から天井まで覆い部屋の一辺の一面を占めるこの窓は、
ドレープカーテンを開け放った瞬間から律を虜にしていた。

 没頭する律の耳にも、シャワーの音は届いている。
澪が先に浴びているのだ。

 カードキーと小型の防犯ブザーを携えた律がこの階に上がって来るまで、
澪は部屋の前で待っていた。
小型の防犯ブザーは、僅かの時間とはいえ一人で移動する律に澪が渡したものだった。
ホテル内で必要ないと律は思ったが、澪曰く油断は禁物という事らしい。
また、律が一人でチェックインの手続きを取ったのも、
予約を入れていた澪の指示である。
万が一にも唯達との鉢合わせを避けるように、という深慮の故だった。
此処まできて、サングの顔を至近距離で見られる訳にはいかない。
結果として、エレベーターの乗車時に擦れ違ってしまったのだから、
念を入れておいて良かったと思う。
考えてみれば、相当の待ち時間を要する可能性がある上、
唯達も使うであろうエレベーターは、危険なポイントだった。
この階に来て澪の顔を見た瞬間、彼女の慧眼を褒めたものである。

 その澪は部屋に入るとすぐ、律にシャワーを勧めている。
蒸して塗れた身体はシャワーを欲していたが、
抑えて律は澪にシャワーを先に浴びるよう促した。
本日の恩人である澪より先に、自分が欲望を満たす訳にもいくまい。

「待たせたな。お陰でさっぱりしたよ。
律もゆっくり、今日の疲れを癒して、さっぱりしてきな。
色々な所がベトベトだろ?」

 水飛沫の音が途絶え、バスルームを出た澪が声を掛けてきた。
夜景を眺めていた律は、違和感を覚えながら声の主へと首を振り向ける。
シャワーが止んでから、異様に早い。

「えぇっ?」

 驚いた律は、思わず声を上げていた。
高層から見下ろす夜景を上回るインパクトが、目に飛び込んできている。

「何だよ、急に大声出して。驚くだろ?」

 澪が文句を言うが、驚いたのは寧ろ律の方だった。
無理もない。澪は一糸纏わぬ裸体を、惜しげもなく晒しているのだから。
身に何も纏っていないだけではなく、恥ずべき場所を隠してさえいないのだ。
豊満な乳房も、その先端の赤く尖って聳える突起も、赤裸々に律の瞳へと飛び込んでくる。
腰に右手を当て屹立する澪は、股さえも隠していない。
そこで凄む熱帯雨林の如きナマモノを視界から阻むは、
律には生えてさえいないマングローブだけだった。
澪の”そこ”で繁茂するマングローブは、
自然界のものとは異なり墨を撒けたように黒々と生い茂っている。
これ以上そこに目を留めて、注視していると澪に勘付かれたくはない。
赤紫の肉を隠す黒いジャングルから、律は無理矢理に視線を引き剥がし、
努めて澪の顔を見据えて言う。

「こっちの台詞だよ。何ていう格好してるのさ。
早く服着てよっ」

 律が捲くし立てても、澪に動じた風は見られない。

「別にいいだろ?女同士なんだし。
それに、裸で過ごした程度で風邪を引く程、柔な身体はしていないさ」

「うー、いくら女の子同士でも、目のやり場に困るよ」

 律は何度か視線を澪の顔と肢体の間で上下させた後、俯いて伏目に澪の肉体を見遣る。
視線の置き所に困るという事を、態度で表した積もりだ。
その意図を持ちながらも、実際には伏した視線で澪の身体を貪っていた。

 陰毛の上、腹筋はシックスパックを形成しており、
陰部の下、大腿は硬く強靭に引き締まっている。
乳房の脇、筋の走る上腕も柔らかさは排され、
肘を曲げた右腕の二頭筋には隆起も見えていた。
演奏中、涼しい顔のまま重いベースを持ち上げ支え、
弦を押さえる指まで自在に動かす力の所以である。
律の股を担ぎ上げた左腕の上腕は、酷使の故か僅かに赤みが差して見えた。
下へと真っ直ぐに伸ばされているので、右腕程の隆起は見えていない。
だが、左上腕の二頭筋もまた硬く堆く盛り上がる事は、
担ぎ上げられた時に律の股が敏く感じ取っていた。

「裸なんて初めてじゃないだろ?合宿の時なんて、皆で見せ合いだったし。
それに、今日は見逃してくれ。
夏に合わない格好をしていたせいか、酷く蒸れちゃったんだよ。
特に、締め付けてた胸とか。後は股とか特にな」

 蒸れた、と言われれば律も引き下がらざるを得ない。
夏に合わない厚着をさせたのも、胸を無理矢理に押さえ付けさせたのも、
自分に原因があるのだ。

「まぁ、お陰でダイエットにはなったけどな」

 澪が柔らかい笑みを浮かべて気遣うように付け足した。
澪に対する負い目が、顔に表れてしまっていたのだろう。

「そんな必要ないでしょ。身体は引き締まっているんだし。
とーっても、頼もしかったよ。自慢の、彼氏だった」

 心の底から、本当に、そう思う。

「手落ちだらけのエスコートだったが、
そう言われると、彼氏も冥利に尽きるだろうな。
律も良く頑張ったよ。お前の細い身体には、過酷な一日だっただろ?」

「サングに比べたら」

「もう、澪でいいって」

 途中まで言いかけた言葉を、澪に訂正された。
指摘の通りだろう。
既に安全な場所に入った、というだけではない。
逢瀬を偽装する時間が終わり、澪に架空の彼氏を演じる必要もなくなっていた。
夢のような時間は終わっている。残るは、現実の後処理だけだ。
澪を『律の彼氏』という役柄から、解放させてやらなければならない。

 律は名残惜しさを振り切って、改めた呼称で言い直す。

「澪に比べたら、大したことないよ。
髪の毛まで、切ってもらっちゃって」

 髪の長い頃の澪なら、入浴後はタオルを髪に巻いていたはずだ。
そうしなければ、長い髪の穂先から、水を滴らせてしまうだろう。
翻って、今は濡れた髪を憚らずに晒している。

「ああ、お陰で髪が早く乾いていいな。洗うのも楽だった。快適だよ。
今までの風呂上りの私の髪って、どす黒くて重そうだったろ?
今は軽くなった気分だ。実際軽くなったんだろうな。ダイエットみたいなものだ」

 澪は笑うが、律に気を遣わせまいとする態度に過ぎないだろう。
流れるような漆黒が美しい、自慢の長髪だったはずだ。

「でも。それ、本心じゃないよね?本当は」

 何を、言うべきか。律は言葉に詰まった。
本当は切りたくなかったよね、などと白々しい事を口走る積もりだったのだろうか。
自分に言う筋合いはないのだと、自覚しているはずなのに。

 どうすれば、澪の献身に見合ったものを返せるのか。
今の律には、皆目見当が付かなかった。

「ん、ああ、分かってる。律も知っての通り、本当は厄介な事だってあるよ。
唯達にこの短髪を説明する件だろ?勿論、忘れてはいないさ。
それを話して聞かせる為に、ここまで来たんだもんな。
お前がシャワーを浴びたら、すぐに話すよ」

 律が言い淀んでいるうちに、澪が後を引き取っていた。
澪の言う内容は、律が今言及しようとしていた事ではなかったが、
当の澪も承知の上だろう。
律が自責の念に囚われたままにならないよう、話を本題へと戻してくれたのだ。
放つべき言葉さえ見つからない今、澪の配慮を無下にする道理はない。

「うん、分かった。お風呂から上がったら、聞かせてね。
汗とかいっぱい出しちゃった身体を、綺麗にしてくるから」

 話よりも先に、シャワーを優先してくれたのは有り難かった。
種々の体液に塗れた身体が、シャワーを欲している。

「ごゆっくり」

 澪に見送られ、律はバスルームへと向かう。

 澪が上がったばかりのせいか、まだユニットバスの中には熱気が篭っていた。
換気扇も作動したままになっている。
澪が使ったリンスの残り香を吸いながら、律は身に纏うチャイナドレスへと指を掛けた。
下着さえも身に着けていない律の脱衣は、そのチャイナドレス一枚で終わる。
加えて、左の大腿と上腕に付けていた足輪と腕輪も、今は外した。
身に余す所なく、湯を降り注がせて蒸れる余地なく流したい。
日焼けなどなく律の肌は全体として白いままだが、その部分には輪の跡が残っている。
日焼けと影が織り成す対比ではなく、押さえ付けていた物理的な跡だ。
曇天の今日は焼け易い梓さえ、肌は黄色いままだったのだから。

 ベッドルームで寛ぐ澪同様、律も一矢纏わぬ裸体となった。
バスタブに身を移し、熱めに設定したシャワーを体に降らせる。
熱い飛沫が肌に落ち、律を芯から刺激した。
顔にも直接受けて気分を覚醒させると、シャワーヘッドの真下に頭頂を据えた。
人肌よりも熱い温度が、頭の中にまで染み入ってくるようだった。
広げた腋にもシャワーを受け、汗の残痕も忘れずに洗い流す。
その後に律は飛沫をもう一度胸で受けてから、シャワーヘッドに手を伸ばした。
ボディウォッシュやシャンプーで本格的に洗う前に、
身体の末端や局部などにも余さずシャワーを当てるのが律の入浴の仕方である。

 普段のようにシャワーヘッドを引き寄せてから、律は気付く。
シャワーヘッドから、ソープの香りが漂っている事に。
澪が洗ったに違いなかった。
バス用の洗剤がないので、備え付けのソープで代替したらしい。
変わらずの几帳面さに、律は舌を巻いた。

 以前、律は当の澪から、入浴する際は真っ先にシャワーヘッドを洗うと聞いている。
水を噴き出す所が綺麗でなければ、
汚れの付着した水を受ける事になり洗う意味さえ失する、というのが彼女の言い分だった。
共に聞いていた唯は「澪ちゃん気にし過ぎ」と一笑に付していた。
律もどちらかと言えば、唯の意見に近い感想を持っている。
だが、澪の細心に感心こそすれ、唯のように笑い飛ばす気にもなれなかった。
確かに、最上流が汚ければ、下流を幾ら清浄に保とうとしても無駄な努力に帰してしまう。
一番初めに吐いた嘘の為に、その後に繕おうとしても嘘を重ねる他なく、
やがては際限がなくなってゆくように。

 最上流に問題があったから、こんな羽目になってしまったのだ。
明日以降も、律は唯達を騙し続けなければならない。
明日を凌ぐ為の策も、澪が考えてくれていて、入浴後に聞く予定となっている。
汚れた上流に手を付けられないまま、
下流の糊塗に奔走するサイクルを思うと溜息が出そうだった。

 律は頭を振ると、ボディソープをボディタオルに沁み込ませた。
慌ただしかった一日が終わる寂しさの所為か、弱気になっている。
律は努めて気分を切り替えると、肌の上でソープを泡立てていった。
首周りから始めて、腋や股、足の指に至るまで、上から下へと丁寧に泡で包んでゆく。

 そうして全身隈なく磨き込んだ律は、手から順にソープをシャワーで洗い流していった。
柔らかい泡を洗い落として、律は改めて思う。
アメニティにしては、悪くないボディソープだと。
肌に触れている時は刺激を生じず、それでも洗い流した後には爽快感と芳香を残す。
律がボディソープに求める要素に照らして、十分に及第点に達していた。

 この分では、シャンプーとリンスも悪くなさそうだ。
律はシャンプーを手に取ると、髪の毛に絡ませながら泡立てた。
次にシャンプーで狙うは、頭皮の洗浄である。
律は髪を掻き分け、頭皮へと指を伸ばした。
指の腹でマッサージをするように丁寧に、頭皮を洗い込んでゆく。
メントールとスクラブの含まれたシャンプーが、頭皮を爽快に刺激する。
念入りに洗って満足した律は、シャワーの水量を強め、シャンプーを完全に洗い流した。
清爽な気分だった。

 続いて律は、リンスを手に取った。
今度はそれを頭皮に付かぬよう慎重に、毛根の近くから毛先まで塗り込んでゆく。
本来なら、即ち家ならば。
シャンプーの次はコンディショナー、ヘアトリートメントの順にヘアケアしている。
そして、浴室から出た後は、保湿にも気を配りながら髪を乾かすのが習慣だった。
髪に対する拘りは軽音部の全員に通底しており、律も例外ではない。
内心、柔らかい髪質には自負心を抱いてもいる。
触られて、同性を羨ましがらせることは勿論、
”ずっと触っていたい”と虜にする自信さえあった。
また、髪型を変える頻度も、律が一番多い。
それだけ女に取って大切なものだと考えているから、
普段からヘアケア用品にも気を遣っている。

 今日は急にホテルで休む事になったので、満点のヘアケアには至っていない。
だが、十全には達しないまでも、アメニティでこのリンスならば十分に及第点だと、
髪の束と束の間に指を通しながら律は思った。

 リンスも洗い流すと、律はシャワーを止めた。
軽く抑えるようにハンドタオルを頭部に巻いてから、
バスタオルで身体の水気を拭きにかかる。
そして少し迷った後、日中から着込んでいたチャイナドレスを身に纏った。
備え付けのナイトウェアの方が清潔なのだろうが、折角澪から貰ったプレゼントである。
誕生日の今日、ホテルに用意されているものよりも、
澪が用意してくれたものを身に付けたかった。
律は律儀に、足と腕の輪も付け直した。
次に律が目を付けた部位は、頭部である。
タオルを髪に巻いたまま、という野暮ったい格好で澪の前に出たくはない。
合宿ならまだしも、誕生日を澪と過ごしているのだ。
況してや、チャイナドレスとも釣り合っていない。
律はタオルを髪から外すと、備え付けのドライヤーのスイッチを入れた。
普段のヘアケアの手順とは異なるが、この際致し方なかった。
それでも保湿の用を為すよう、完全には乾かさずドライヤーを手早く切り上げた。
見目柔らかく髪の毛が整えば、それで十分である。
律はもう一度自分の姿を鏡で見てから、バスルームを出た。

 ベッドルームで待つ澪は、エアコンも付けずに未だ裸のままだった。
透き通る琥珀色の液体が入ったグラスを片手に、背の高い座椅子に足を組んで座っている。
もう片方の手では、白いバラを弄んでいた。
唯達が居ない今、お気に入りのバラも気兼ねなく出せるのだろう。

「お待たせ」

「思っていたよりも早いくらいだ、気にするな。
それより、またそれを着ているのか?」

 律の着るチャイナドレスに視線を向けながら、澪は言う。

「うん。気に入っちゃった」

「いいのか?日中も着ていたものだろうに。
ナイトウェアもあるだろう?
それとも、律の着てきた元の服、バッグから出そうか?」

「これがいいの。だって、誕生日なんだもの。
貰ったプレゼントで、着飾っていたいし」

「酔狂な奴だな」

 澪はそう言うが、満更でもなさそうに頬が緩んでいる。

「酔狂なのは澪の方だよ。服着ればいいのに。
クールビズにしてもクライム級だよ」

「律もどうだ?おめかしするのもいいが、誕生日に生まれたままの姿も悪くあるまい。
もしかして、裸の格好が一番綺麗だったりしてな?」

 澪の視線が、律の菱形に開いた胸元と恥丘の間を撫でるように往復する。

「何言うんだよっ、そんな訳ないし。もー、セクハラばっかりしてぇ」

 慌てて胸元と股下を手で押さえながら、律は軽く澪を睨んだ。

「ふふっ、そう怒るなよ、律。思ったままの事を言ったまでさ。
顔が赤いぞ?クールダウンするか?いいのが冷えてるんだ。
私はもう先に頂いているが、お前もどうだ?」

 澪がグラスを揺らしながら、律を誘う。

「ね、それ何?まさかお酒じゃないよね?」

 澪の嗜む液体の正体が気になっていた律は、グラスに指を向けながら問い掛けた。

「まさか。ノンアルコールだよ」

 変わらない澪の表情からは、真偽を推し量れない。

「ミルクか、んーん、ミネラルウォーターがいいな」

 律は人肌程度に温めた牛乳を、毎日欠かさずに飲んでいる。
ただ、真夏の入浴直後の火照った身体で、ホットミルクを飲もうとは思えない。
また、冷たい牛乳を多量に飲むと、体質的に腹痛を起こす虞があった。
少量なら問題ないだろうが、喉が渇いている。
況してや、出先である事を考えれば、少ないリスクでも出来れば避けていたい。

「ミネラルウォーターでいいのか?ちょっと待ってな」

 澪は律のリクエスト通りに、
冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出すと、
用意したグラスに注いでくれた。

「ありがと」

 グラスを受け取った律は、ミネラルウォーターを一息に飲み干す。
熱いシャワーで茹っていた身体に、新鮮な水分が浸透してゆく。
喉の潤う余韻に浸っているうちに、空になったグラスへと澪が注いでくれていた。

「ん。有難う。それで、明日の事なんだけど」

 律は律儀に礼を繰り返してから、本題に入るよう促した。
澪の髪型がサングと同じになってしまっている。それをどう誤魔化すのか。
入浴後に、聞かせてくれるはずだった。

「ああ、この髪の毛の事だろ?ちゃんと策はあるし、約束通りに今話すよ。
流石に、偶然だ、じゃ通らないだろうしな。
いや、押し通せるけど、唯達が納得できる理由じゃないと、
疑いが生まれて後々面倒だからな」

 律は頷いた。サングとは澪が演じていた架空の彼氏ではないか、
という疑いを持たれる事さえ避けたい。
唯は納得しない限り、執拗に追及してくるだろう。

「まぁ、サングと私が違う髪形になればいいだけなら、楽なんだけどな。
例えば、私がもっと髪を切ってしまえばいい。
いっそ、坊主とか、或いは短髪とかな」

「駄目だよ、そんなの」

 律は口を尖らせて抗議する。

「もう、そういう理由で髪を切ったら駄目なんだからね。
私の為なんかに、そういう事しないでよ。
澪がこれ以上髪を切るくらいなら──」

 昂ぶる感情のままに声を放っていった律だが、そこで言葉に詰まった。
自分の為にこれ以上澪に髪を犠牲にさせるくらいなら──自分はどうする積もりなのか。
考えるまでもない、決まっている。責任を取るだけだ。

 澪は律を見つめたまま、黙していた。
続く律の言葉を、待っているらしい。
律は観念して言葉を継ぐ。

「バレた方が、マシだよ。
私に彼氏なんていなかったって、唯達にバレた方がまだいいよ。
ムギも梓も、それで安心するんなら。
唯が弄ってくるだろうけど、元はといえば、私が悪いんだし」

「殊勝だな。確かに、いつまでも誤魔化せるものじゃないかもな。
でも、それじゃ今日が無駄になってしまうぞ?」

 律は唇を噛んだ。
そうなのだ、安易に種明かしをする事はできない。
架空の逢瀬を劇的に演出してくれた、澪の骨折りが無駄になってしまう。
ここで簡単に諦めてしまうくらいなら、
始めから正直になるべきだったと、澪でなくとも思うに違いない。

「ま、どっちにしても時間稼ぎには違いないけどな。
でも、ネタを明かすのは本物の彼氏を作ってからでも遅くはないだろ?って事。
そうすれば、唯もお前を馬鹿にはできないからな。
それで、今日の逢瀬の目的は達した事になる。
勿論、それまでにあいつも処女だったら、の話だけど」

 澪が続けて言った。
時間稼ぎに過ぎないにせよ、今日が意味を持つ一日であるよう澪は求めている。
律は肯んずる事しかできない。共感する所でもあるからだ。
澪の苦労に報いねばならないとは、律自身も思っている。

「うん。そうかもね」

「ま、心配するな。
これ以上髪を短くするというのは、例えばの話さ。
本命の策じゃない。髪を弄るにしたって、ウィッグとかもあるからな。
これが一つ目の案だ」

「今まで通りの髪の長さのウィッグを被るって事?
でも、流石にウィッグだってバレない?
長さはともかく、髪質とかで違和感出ると思うけど」

 律は眉を潜めて言う。
初対面の相手なら兎も角、澪と同じ時間を過ごし続けている唯達が相手だ。
一昨日との髪質や色合い、量感の相違に対して、違和感を抱くに違いない。
殊に紬は澪の髪を気に入っているらしく、合宿でも綺麗な髪だと憧憬を口にしていた。
誤魔化しきれるものではない。

「ああ、指摘の通り。あの長さで精巧なものは、値も張るからな。
納期の問題もある。切る前の私の髪と似たものが既製品に無ければ、
オーダーメイドせざるを得ない。そうなると、時間が掛かる。
そんなに部活を休んだら怪しまれるし、下手すれば夏休みが終わるかもしれない。
第一、そこまでしてなお、お前の言う通り、唯達を完璧に騙せる物になるかは微妙な所だ」

 長く詳細な説明だったにも関わらず、
澪は考える素振りも見せずに淀みなく言い切った。
値段や納期に触れた点と考え合わせるに、既に結論が出ていた案だったのだろう。

「じゃあ、他に良い案があるんだね?」

「ああ。まだあるぞ。二つ目は転校だ。
それなら唯達に今の私の髪型を見せずに済む。
最後まで言い出せなかったけど、パパの都合でイルクーツクに転校するんだ、とか言ってな」

「駄目だよ、駄目に決まってるじゃん。
そんなの、私が許さないから。りっ」

 澪を睨み付けて、鼻息を荒げて律は言う。
天地が逆さになろうとも、認められる案ではない。

「ふふ、怒るなよ、冗談だ、冗談。
ただ、唯達に見せないようにするにはどうすれば良いか、
考えたらふと思い付いたってだけさ。
要は、唯達から見られない、っていう線で考えてみて、辿り着いた案だったのさ」

 澪は笑いながら言い足した。
対する律は、頬を膨らませて返す。

「そんな事、冗談でも言わないでよ。
澪が転校するくらいなら、私が転校しちゃうから。
軽音部辞めちゃうのも、唯やムギ、梓の前から居なくなるのも許さないもん」

「二人で転校か。悪くないけど、親が何と言うかな。
ま、それは現実的じゃないから、無しとして。
三つ目。本命の案があるんだ」

 顔の横に指を三本立てた澪の表情からは、笑みが消えている。
一転して醸される澪の真剣な雰囲気に、律は身を引き締めた。

 この三つ目の提案こそ、実際に澪が採用しようとしている案に違いない。
最初の二つは、その提案を通すための準備に過ぎない。
一つ目の案は自ら詳細に論難する事で、予め逃げ道を一つ断った。
そして二つ目の案には非現実的で極端なものを用意して律に反駁させる事で、
律との間に実現可能な策を採用せねばならないという合意を形成した。
即ち、澪の言う通り、次が本命だ。
それは、造形された髪を装着して騙す策ではない。
また、そもそも唯達に髪や姿を見せないという策でもない。
ならば、一体どのような策が本命なのか。

 待つに耐えられない律は、逸る心のままに先を急かす。

「それは、どんな案なの?本命の案は、どんな内容なの?」

「簡単さ。今日のデートのサングと、
この髪型になった理由を、関連付けてしまえばいい」

「どういう事?」

 澪の言いたい事が分からず、律は問いを重ねた。

「こういう事さ。私、秋山澪はお前が好きだった。
だから今日、お前と彼氏のデートをこっそり見に来ていた」

「えっ?」

 律は思わず澪の目を見つめた。
見返す澪の目は真剣そのものだった。

「振られて傷心して、その当て付けに、って事さ。
お前の事が好きだったから、彼氏が居たと知った日は、
ショックでつい意地を張ってしまった」

 澪は律から目を逸らさずに言い切った。
律も澪の視線から逃れる事無く、真正面から見返して続きを促す。

「それでも我慢しきれず、一人でお前のデートを見に行った。
そこで律の彼氏を見て、律の彼氏の話が本当だと思い知って、振られたことを実感した。
だから、な」

 言葉を紡ぐ澪の頬が、自虐的な笑みで歪んだ。

「今まで告白もせず放っといたくせに、律に彼氏が出来て頭にきた自分勝手な私は、
未練たらしくお前の彼氏と同じ髪型にした。お前への当て付けも含めてな」

「そういう設定で、唯達を納得させようっていう事?」

 律は自分の理解を試すべく、澪に問うて確かめてみた。

「ああ。勿論、訊かれてもいない段階で、こちらから言う事じゃないけどな。
でも確実に、私が部室に入ってあいつらと目を合わせた瞬間に、
髪を切った事には触れてくるさ。
そこで私は自棄を起こしたようにヒステリックに説明してやってもいい。
或いは、お前を嫌味ったらしく見ながら、当て付けめいた口調で説明してやってもいいな」

 間違いなく、唯達の方から澪の髪を話題にしてくれるだろう。
澪の短くなった髪を見た瞬間、彼女達が騒ぎ出すのは目に見えている。

「澪の言う通りの部分も多いと思うよ。でも、本当にその案でいくの?
そもそも、今の澪の話で唯達が納得するとしたら、澪が私の事を好きだった、
という前提を唯達が信じたらの話だよ?
そこからして疑われたら、澪の策は根底から破綻しちゃうよ」

 逆を言えば。その前提さえ、
即ち”澪は律の事が好きだった”という部分さえ唯達に信じさせる事が出来たのなら。
後に続く『傷心』して『当て付け』に髪を切った、という流れは強い説得力を持つ事になる。

「信じるさ。唯達は間違いなく、そこは信じるはずだ」

 澪は断固とした調子で言い切った。
自説を信じて疑わない確かな根拠でもあるのだろうか。

「何で、そう言い切れるの?」

 律は怪訝を隠さずに問うた。

「それが分かってないのは、多分お前だけだよ。信じていないのも、お前だけ。
なぁ、嘘を信じさせるコツって知ってるか?
在り来りな手法だから、お前も聞いた事があるだろうな。
真実の中に少し嘘を混ぜるってやつだ」

「真実って」

 律は目を見開いて、澪の言葉を繰り返す。
ここで澪の言う、真実とは──

「唯達を騙す嘘って言うのは、私とサングが別人だという風に装う事。
別人だと信じ込ませるというよりは、同一人物だという発想を抱かせない事、かな。
嘘を言うのはそこだけだ」

 澪は一度言葉を切った。対する律は身体が硬直して、身動き一つ取れないでいる。
舌が固まって何も言えない。視線さえ、動かせない。

 澪は立ち尽くす律を一呼吸ほどの間だけ、黙って睥睨していた。
そして、言う。

「後の話は、真実だ」

「それって」

 舌が絡まったかのように、律は言葉に詰まった。
継ぐべき言葉が浮かんでこない。

「明言した事はなくても、唯も梓も紬も、私の態度から見て取っていたはずだぞ。
それくらい、露骨で分かり易かったはずだ。
だから、あいつらに私の話を信じる下地が出来ていると言えるんだけどな。
いや、親も聡もさわ子先生もクラスメイトも、かなりの人が分かっていそうな事だ。
なのに律は言わなきゃ分からないんだな」

 澪が呆れたように付け足した言葉が、律の記憶を刺激する。
間違いなく、今日、何処かで言われた言葉だ。

──言わないと分からないのは、お前──

 そうだ。山下公園だ。
あの時は、律の言いたい事が分かっているくせに、惚けている澪が腹立たしかった。
そこで口答えした所、乱暴な態度とともに返された言葉がそれだった。

 あの時、澪はもう一言、言い添えていた。
何だったか。今すぐに思い出さないといけない、大事な言葉だった気がする。

「もういい、教えてやるよ。私は、秋山澪は」

 律が思い出す前に、澪が自らの発言を継いでいた。
裸の澪は、自己紹介でもするような前口上を置いて、律の耳に”一撃”を叩き付けた。

「お前が好きだったんだよ、田井中律」

 律は思わず近くのサイドテーブルに手を付いていた。
話の流れからいえば、予測が不可能な話ではない。
だが、鼓膜を揺らした生の声には、予想だにしない衝撃があった。

「嘘」

 短く、それだけ言うのが精一杯だ。そして自分でも、嘘だなどとは思っていない。
思えない。

「嘘じゃない。分かっているくせに、惚けるな。気付いていただろ?
だからお前は、私にあんなお願いをしたんじゃないのか?
お前に惚れている私なら、どんな無理も通せると。
そう、分かっていたんじゃないのか?」

「ちがっ。違うし、そんなんじゃないしっ」

 澪の連ねてくる辛辣な指摘を、律は叫ぶようにして否定した。
だが、澪の気持ちに全く気付いていなかったと言えば、嘘になる。
澪の自分に対する態度から、好意を感じ取っていなかった訳ではない。
だがそれが、恋情故であるとの確証に至らず、自信が持てなかっただけだ。
否、勇気を持てなかった、と言うべきか。

 澪の好意を曖昧なまま逃げ続けた自分に、
澪の指摘を真っ向から否定する資格があるのか。
澪の好意を利用した訳ではないと、言い切れるのか。
律の心も感情も、己が心奥からの告発に拉がれそうだった。

「ムキになって否定しなくてもいいさ。
それでもいいって、私は納得してやっているんだから。
惚れた方の弱みってやつだ。
だから、最後まで利用してくれて構わない」

 裸で言う澪が、堪らなく悲しく見えた。

「さっきも言ったけど、私の律に対する好意は唯達だって分かっている事だ。
だからあいつらは私の話に不自然を感じない。それで今日の件は終わりだ。
後は唯達が再びサングの存在に疑問を持つ前に、本物の彼氏を作ってしまえばいい」

 それで片付く話には違いない。
だが、それでいいとも割り切れない。
割り切ってしまう訳にはいかない。

 澪の提案は、当の澪自身に多大な心的負担を強いるものだ。
律への恋が破れて傷心して当て付けに切ったなどと言う澪の姿は、
唯達の目には未練たらしく見苦しい無様な敗残者に映る事だろう。
当然、皆の視線を浴びる澪本人も、惨めな思いをするに違いない。

 否、今この場でも、だ。
澪から恋慕の情を明言されておきながら、律がなお澪を無残に利用するのなら。
律にとって自分がどういう存在でしかないのか、澪は突き付けられる事になる。
明言されてなお、律が好きだという彼女の話を疑う積もりはない。
だからこそ、分かる。澪にとってこの策が、どれだけ残酷なものなのかが。

 黙する律に所在無さを感じたのか、裸の澪が髪を掻き上げた。
癖という程の頻度ではないが、彼女が偶に見せる動作だ。
だが、いつもとは違い、靡く髪の量は遥かに少なかった。
質感は変わらず美しいが、量感は明らかに減じている。
髪を、切った所為だ。

「それで、いいな?」

 澪が沈黙を破る。確認を求める声には、最後通告のような響きがあった。

 いい、とは言えない。顎も落ちない。

 律は自分の罪を改めて視認するべく、澪の短くなった髪を見遣った。
この上で、更なる負担を自分は求めようというのだろうか。
自分の臆病の責を転嫁して、
澪に回復するか疑わしい心の傷を負わせようというのだろうか。
そうなれば、もう澪を親友として扱う資格すら自分にはなくなってしまう。
それは自分の心に、不可逆的な喪失感を痕として残すはずだ。

 不可逆、喪失──不意に、胸中に去来したキーワードが、律の記憶を刺激した。
霧が晴れたように、律の心に引っ掛かっていた澪の言葉が蘇ってくる。
山下公園で澪は、『言わないと分からない』と律を難じた後で、こう言ったのだった。

『ほら、言ってごらん?』

『取り返しが付かなくなる前に』と。

 その言葉が再び自分へと向けられているのだと、律は目と心で理解した。
あの時、もし素直に願望を口にしていなければ、大惨劇に至っていた事は想像に難くない。
今も、そうなのだ。ここで勇気を出さねば、自分の恋が成就する未来は二度となくなる。

 律は深く息を吸った。そして静かに吐き出しながら、眼前の澪へと向けて声を撃つ。

「良くないよ」

「良くない?何故だ?」

「他にもっと良い案があるから」

「ないだろ」

「あるよ」

「ないね」

「あるもん」

「じゃあ、聞かせてみろ。どんな案があるって言うんだ?」

 律が澪の提案を拒んで始まった短い応酬は、ここで即答のテンポが止まった。
答えに詰まったのではない。応えに迷ったのでもない。
ただ、勇気を奮い起こす間が欲しいだけだ。

──Our Splendid Songs.

 律は歌うように自分の胸へと言い聞かせた。或いは、胸中で口ずさんだ。

「だから、その本物の彼氏に、澪がなってよ」

 律は言い切った。そして沈黙が落ちた。

「何だって?」

 問い返す澪の声を聞くまでに、律の胸は千回は拍動しただろうか。
それでも、五秒程しか経っていないのだ。

「だから、澪が私の本物の彼氏になるの。皆に紹介だってしちゃうんだから。
そうすれば、三週間前、唯達に言っちゃった事も、
今日、皆に見せた事も嘘にはならないでしょ。
ああ、勿論ね、サングって名前だけは嘘だけど。そのくらい、いいよね。
だって、唯達だって、約束破ってたもん」

 律はセンテンスを短く区切って言う。
心臓を酷使した所為か、呼気が荒ぶって発声を苦しくさせていた。

「へぇ、律にしては考えたな。で、三週間前に言った事、そして今日見せた事、
それらを嘘にしない為に、私と付き合おうと言うのか?
なるほど、つまり律のお相手がサングという偽名から、秋山澪という本名に変わる訳だ」

 対する澪は、憎たらしいほどに落ち着いていた。
だが、自分にも言葉足らずだった部分があるのだろう。
そう自分に思い聞かせ、律は前言に補足して言う。

「違うもん。今日の偽装デートの焼き直しがしたい訳じゃないし。
だって、私も澪の事が、好きだったから。昔から、大好きだったの。
だから、私の本当の彼氏になってよ」

「そうなのか?私はお前が理想とする彼氏とは、全っ然違うんじゃないのか?
忘れたか?お前自身が言っていた事だぞ?」

 澪は容易には首を縦に振ってくれなかった。
まだだ、まだ足りない、と。澪を満たすに足る言葉を継ぐよう、促されているのだ。

「あの時、彼氏が居るって嘘を言っても、澪ったらどうでも良さそうだったから。
剰え、突き放してくるし。
それで私も怒っちゃって、澪の反応を引き出したくて、
どんどん彼氏の話を膨らませちゃった経緯もあるんだよ?
でも、理想の彼氏の像を口にした時、無意識に澪をイメージしちゃってた」

 理想の彼氏像と澪の相似を、梓に指摘された時は焦ったものだ。
同時に、澪に気付いて欲しい、と思う甘えも心に同居していた。

「私も同じだ、律」

 応えて、澪が口を開く。

「私だって、あの時はお前に腹を立てたものだよ。
私に散々好意があるような態度を取っておきながら他所で彼氏を作るなど、
許せるはずもないからな。
それでお前を突き放す態度をエスカレートさせてしまったんだ。
ふふっ、大人気なかったかもな。
お前から彼氏の話は嘘だ、助けて欲しい、と聞いた時には、安堵したのだから」

「何だよぉ、澪だって意地っ張りじゃんかぁ」

 尖らせる口の傍らで、緩む頬を律は抑えられなかった。

「そうかもな。でも、律は意地っ張りだったから、なのか?
私の方から、この秋山澪から告白させなければ気が済まないなどと、
不遜な事を考えたからなのか?ノン、違うだろう?
ほら、あとひと頑張りだ。言ってごらん?
何で律は隠していたんだ?何で私の事が好きだと言わなかった?」

 澪は右拳に頬を載せ、律を眇めて問うた。

「色々、あるよ?」

「だろうな。話せ」

「勿論、告白するだけの度胸が無かったっていうのが第一にあるよ。
振られるにせよ、付き合えるにせよ、部活に影響しちゃうのは避けたかった。
澪との関係が変わっちゃうのも不安だったし。
不安って言えば、自分が変わるのも不安だったよ。
それにね、付き合えるとしても。
世間体というか、同性愛に対する偏見だって無視できなかった。
エッチとかの、性的な出来事の当事者になるっていうのも現実味なかったし。
恋人が出来て、唯達とかとの友人付き合いが変わっちゃうのも、なんか抵抗あったし」

 律は嘘を言っていない。
理由は多々あり、それらが複合して澪との交際を避ける結果に繋がっていたのだ。
だが、結果を導くクリティカルマスに達するには、あと一つの理由が足りない。
それこそが最も強く、律を縛ってきた理由だった。

 律は声帯に力を込めて続ける。

「何より、ね。
澪の彼女になっちゃう事で、澪に対して甘える正当性が生じちゃう。
それが不味いと思ったの。
だって、今だって十分甘えているのに、それでも足りないって思ってるんだよ?
親友って制限があるから、抑えられているだけで。
もし、彼女になったりしたら、歯止めが効かなくなっちゃう。
甘え過ぎて、そして度を超して澪に依存しちゃう。
澪に落ちて、堕落しきって、澪に隷従していなくちゃ生きていけない、
そんなスレイブに堕しちゃうのに抵抗があったの」

 澪は律が理由を言い連ねている間、眉一つ動かさずに黙って聞いていた。
そして律が言い終えた今、組んでいた澪の脚が解れた。
右脚に載っていた左脚が上がり、爪先が天井を指す。
必然、律の視界に、澪の生殖器が飛び込んできた。

「で、今は?」

 生殖器を見せ付けながら、凛たる澪が高らかとした声で問うてきた。

「もう、怖くないよ。んーん、怖くはあるけど、澪ならいいよ。覚悟ができた。
澪に、私の全部を貰って欲しい。
私の全てを澪に委ねるから、だから、私を愛のスレイブにして欲しいなって。
もう、澪なしで生きていけなくなっても、構わないから」

 澪に隷属できるのなら、人間としての尊厳など取るに足らない。
田井中律という一個人が持つべき人間足り得る資格にさえ、
芥ほどの価値も感じはしなかった。

「良く出来ました、合格だ」

 声を張り上げて宣した澪が、掲げている左脚を勢い良く床に振り下ろした。
反動を利用して直立した澪は、バラを椅子へと投げ捨てて、律の目を見据えて歩き出す。
一歩、二歩、三歩、と。裸の澪が豊満な乳房を揺らしながら近付いて来る。
律は臆する事なく、受け入れる覚悟で澪を待った。
澪と律の乳房が衝突するまで、歩幅二つを残すのみだ。
そこで澪は止まり、左手を自身の心臓に当て、再び口を開く。

「田井中律の告白を聞き届けた。
田井中律の全権、この秋山澪が貰い受ける」

 仰々しくも荘厳に契約の成立を宣する澪は、魂を引き取る悪魔のようだった。
それは、交わしたが最後、解約の許されぬ契である。

「もう、逃げられないや。こんな私なのに有難う、澪。
絶対、満足させちゃうから、好きなように使っちゃってよ。
壊しちゃっても狂わせちゃってもいいから」

 その事さえも澪が支配者ならば甘受に足りると、律は恍惚とした心持ちで言った。
悪魔と交わす取引は、本当に甘美なのだ。

「言われるまでもなく、遠慮はしないさ。脱げ」

 律は澪の目を見返した。

「脱いで、どうするの?」

「どうするかだって?何をするのか、分かるだろ?
ゴンドラの中で忠告していたはずだ。
もし誰かと二人きりで密室に入るのならば、どうされてもいい覚悟を固めろ、と。
ホテルの一室なんて、典型じゃないか。ナイトは居ないけど、文句は言えないよな?」

 確認するように念を押す澪に、律は訂正の言葉で応じた。

「違うよ。
澪は、密室に二人きりになる時はどうされてもいい相手と入れって、
そう言ったんだよ。
私はちゃんと澪の言い付けを守ったもん」

 澪にならどうされてもいい。
だから、此処まで着いて来た。

「へぇ?まさか期待していたのか?なら、気合入れて応えてやらないとな」

 そう凄まれると、律の方こそ期待してしまう。

「そんなんじゃないし。
ていうか澪の方こそ、どっちに転んでも私の身体は頂く積もりだった癖に。
もぉ、エッチな澪の為にも、すぐに脱いであげないとね」

 本心を見透かされているに違いないが、
律は強がってみせてからファスナーへと手を回す。
そうしてファスナーを下ろした律は焦らすことなく一息に、
チャイナドレスから身体を抜いた。

「寄越せ。畳んでやるよ」

 言うが早いか、澪は律の手からチャイナドレスを奪うと、
器用に畳みながら先ほどまで座っていた椅子へと歩く。
その背凭れに畳んだチャイナドレスを掛けてから、再び律の元へと戻ってきた。
二人を隔てる距離は先ほどと同じく、歩幅二つを保っている。

「ほう。唯や梓に言い張っただけあって、確かに脱いだ方が凄いな。
それに、私の目に狂いもなかったな。
やっぱりお前は、何も着ていない姿が一番美しいよ」

 一糸纏わぬ律の身体を凝視した澪が、舌舐めずりして言う。

「あんまり見ないでよ」

 律は赤く染まった顔を逸らして呻く。
澪は褒めてくれているが、陰毛も生えていない生殖器が幼いようで恥ずかしい。
澪の堂々と茂った生殖器と対比できる距離なのだから、尚更だ。

「痴態を衆目に晒されて興奮していた癖に、何を言っているんだろうな。
それに、それだけの美しい肢体を恥ずかしがるなんて、勿体ないぞ。
見せ付けて、平伏させてやろうな」

 澪が、一歩距離を詰めた。対する律は、一歩下がる。
また澪が一歩詰め、律は一歩下がった。そのサイクルが二人の間で飽きなく続く。

 今更、澪を拒みはしない。受け入れる覚悟はある。
だが、容易く、という訳にはいかない。律にも女の矜持がある。
欲情を煽る身なのだと証したいのだ。
だから律の裸体を見た澪には、貪欲になって欲しかった。
後退る律を捕まえる程には、発情を示して欲しい。

 一歩詰めては一歩開く恋人同士の緩い追いかけっこも、
律が窓際に追い詰められた事で終わりを迎えた。
律はそれを、背に当たるフィックスウィンドウの感触で知る。
この分厚いウィンドウの向こうは、地上七十階近い中空だった。

「捕まえたぞ、My fair Lady」

 律の両肩が澪の両手に掴まれ、唇に唇を重ねられた。
前掛かりに攻める澪の重みで、臀部と後頭部と肩甲骨がウィンドウに貼り付く。
割れる設計のはずがないと自分に言い聞かせても、
命懸けの接吻を交わしている気分だった。
もし割れて澪と二人で高空を踊る羽目になっても、二人が離れる事はないだろう。
切れない繋がりの象徴のように、律の口唇を割って入った澪の舌が、
律の舌に巻き付けられている。

「ふぅっふっ」

 澪に口を塞がれている律は、酸素を求めて喘いだ。
早鐘を打つ心臓の所為で、鼻呼吸だけでは空気が足りない。
澪の呼吸に乱れは見られないが、苦しくない訳ではないだろう。
それでも二人、接吻を止めなかった。
湿って生温かい軟体動物のような二つの舌が、口中で蕩け合っている。
疲労を訴える顎にも容赦はしなかった。

「ふーっふーっ」

 荒く断続的な息を漏らしながらも、律はなおも澪を求めて舌を擦り合わせた。
口腔に澪の唾液が落ちて、律の唾液と混ざり合う。
澪の喉が鳴った。口腔に溜まった律の唾液を嚥下したのだろう。
対する律に、開口したまま飲み下す余裕はなく、口から溢れる唾液を留めようもなかった。
顎の先端まで、濡れそぼってゆく。

 限界を迎えているのは、口腔のキャパシティだけではなかった。
開口を支える顎も辛いが、それ以上に舌の困憊が著しい。
力が、入らなくなってゆく。
対する澪の舌は、律の舌から力が抜けても遠慮などしてくれなかった。
寧ろ、束縛から解き離れたとばかりに、律の口腔内で暴れ回っている。
澪の長い舌の先端が、律の口内のあらゆる箇所を這っていった。
喉の奥も、歯の裏側も、頬の粘膜も、侵略する澪の舌先に嬲られてゆく。
山下公園では眼孔を犯された。それと同じ舌に、今は口腔を犯されていた。

 舌で律の口内を何度も何度も激しく往復して澪も疲れたのか、或いは満足したのか。
炭酸飲料の缶のプルタブを起こしたような音とともに二人の唇が離れ、
律は漸く解放された。

「Sweet, 甘かった、そして旨かったぞ。
中も外も、体全体がフルーツみたいな奴だな」

 感想を漏らした澪は、まだ律を貪り足りないとばかりに、首元に顔を埋めてきた。

「やぁっ、此処でそんなに激しくされると、恥ずかしいよ。
カーテン降ろしてから続きしよ?」

 覗き見られる恐れのない高層階だと分かっているものの、
外の景色を明瞭に透過する窓の手前では羞恥が湧く。
況してや、律の身体を収めて余りあるフィックスウィンドウなのだ。

「何を私に指図しているんだ?私は恥ずかしがるなんて勿体ないと言った。
だから見せ付けて平伏させてやると宣言したはずだ」

「痛ぁっ」

 澪に乳首を強く抓られて、律は激痛のままに叫び声を上げていた。
瞳には涙が滲み、視界の端を霞ませる。

「気持ちよさそうに、そして嬉しそうに痛がるよな。ドマゾが。
ほら、皆に見てもらおうな。今日は何度も、痴態を見せ付けていたはずだ。
もう戻れないんだよ、お前は」

 澪は再び律の両肩を掴むと、力のままに律の身を反転させた。
律の視界は百八十度回転した後、外界の夜景へと向く。
ウィンドウ越しに見下ろす街の光が、
律の身体を下方からライトアップさせているようだった。

「やっやぁっ」

「逃げるな」

 顔を逸らし身体も捩じらせた律に、澪が一喝を浴びせた。
動きを止めた律の臀部に、澪の足が乗る。
そのまま蹴り出されるように足で圧され、
律の身体はフィックスウィンドウに押し付けられた。
直に後ろから圧力の掛かる下腹部を中心にして、膝も腿も胸部も窓に貼り付く。
顔だけは後ろに逸らして、窓への密着を避ける事ができた。

「こんなの、駄目っ。おかしーしっ」

 律は両手で窓を押しながら、背面の澪の力に抗する。
割れないだろうと思っていても、恐れが先行して手に力は込められない。
尤も、力一杯押した所で、澪の力には敵うまい。

「おい、その手はなんだ?反抗的だな。
両手は水平に伸ばせ。大さん橋で練習しただろう?」

 澪は命じながら、足に込める力を増してきた。
律の臀部が強く強く圧されて、ウィンドウとの間で挟まれた下腹部が重みに軋む。
恥丘も堆さが災いしてか、拉げそうな程に痛い。

「そんなに力を入れて、割れても知らないぞ?
大人しくしろよ」

 澪が忠告するように言うが、律の力よりも当の澪の込める力の方が遥かに強い。
割れて落下するのならば、澪がトリガーとなるだろう。

「分かった、するから。あまり押さないで」

 律は澪に従って、両手を水平に伸ばした。
今日、タイタニックの名シーンを模して、大さん橋の先端でそうしたように。
劇中のローズもまた、海に落下するリスクを負っていた。
彼女がジャックを信じたように、自分も澪を信じるしかない。

「実際、どうなんだろうな?
肉眼では、地上からお前の顔までは見えないだろう。
でも、もしかしたら、裸の痴女が居るぐらい、朧気に分かるかもな?
そして、高性能なレンズで覗かれたり録られたりして」

 痛みと恐怖と羞恥に耐える律とは対照的に、茶化す澪の声は愉快そうだった。

「朧気でもそんなん分かる訳ないしっ。
高性能なレンズだって、都合よく持ってる人きっと居ないもん」

 律は精一杯に強がってみせた。
だが、恥じらいに染まった顔の色は見られずとも、異様に熱い耳の色だけは隠しようもない。

「なら、飛んで降りてみるか。
そうしたら、綺麗なお前の身体を見せ付けられるもんな?
中身まで出しちゃったりして?ほら、GO!」

 掛け声とともに、勢いよく澪が恐ろしい程の力を脚に込めた。
凄まじい衝撃が律の臀部から下腹部へと突き抜ける。
マットを地に叩き付けたような鈍い音が室内に響き、
律の身を受けるフィックスウィンドウが撓んだ。

「痛っひゃんっ」

 痛みと恐怖で、律の口から発作のように声が飛び出た。
それだけ澪の加えた力は並ならぬものがあった。

「なんて、な。素直に、もっと低く、目視できる位置から晒したほうが良いよな。
それも、赤の他人より先に、身近な人間からお披露目していく方がいいか。
律には見返したい奴も居るみたいだしな」

 澪は唯の事を言っているらしいが、今の律は唯よりも眼下の景色に心を奪われている。
夜景の美しさには入室した時から既に見惚れているが、
今は単純に高さ故の戦慄と興奮を味わっていた。
背を向けていた時は見えなかった地上が、斜傾の視座ではあるが遥か下方に見えている。

 窓が邪魔して身を乗り出せず、直下の底は見えない。
だが、命懸けの磔刑に処されている律にとっては、この窓こそが命綱でもある。

「どうしたんだ?そんなに見入って。
この街がそんなに気に入ったのか?」

 律は澪の声を、赤みの消えない耳朶に受け止める。
澪は慄いて逸らせない律の視線を、憧憬の眼差しと解したらしい。

「うん。綺麗な夜景だよね。この街で、いい思い出だってできたし」

 律はランドマークタワーより見下ろす横浜の夜景を目に焼き付けながら言う。
この景色の中に今日、自分達は間違いなく居たのだ。
そう思うと、『怖い』程度の感情など押し殺して、
自然と澪の意見を肯んずる応答ができた。

「気に入ったのなら、また連れて来てやるよ。
ああでも、この地は妥協だったな。
本命の香港にだって、連れて行ってやるよ。百万ドルの、世界三大夜景の筆頭だ。
楽しみにしておけ」

「また無理させちゃうんじゃない?」

 そう言いつつも、期待している自分が居た。

「言ったろ?お前は財布の心配をするなって。
甲斐性なしだと思われたくないからな。
お前に良い景色を見せる為なら、どこまでも頑張るさ。
そう思って私は、今まで自分を鍛えてきた。
報われる時が来たって気分だよ」

「じゃあ、新婚旅行は香港で決まりだね
あのチャイナドレスを着ていくね」

 そうなると、明日、唯達に彼氏たる澪からのプレゼントだと自慢した後、
大切に仕舞っておかねばなるまい。

「卒業旅行もまだなのに、新婚旅行とは気が早いな。
結婚するまでに、香港くらいなら行ってしまうかもな。
新婚旅行の行き先は結婚する時に考えればいいさ。
でも、式場の理想くらいは、今のうちに決めておいてもいいかもな。
目指すゴールとして頑張れるよ」

 気が早いのはお互い様らしい。

「澪だって、待ち切れないくせに。
ね、ね。あの式場なんてどう?観覧車から見たでしょ?
コスモワールドの脇にある、お城みたいな式場」

 ここから見下ろすその式場は、観覧車から見下ろした時よりも遥かに小さく見える。
それでも澪との挙式を想像するに翳りはない。

「そこも気にしていたっけな。確かに悪くはないだろうな。
でも、結婚式だから式場なんて枠に囚われず、
もっと忘れられない場所の方がいいだろ?
何かの競技場を貸し切るとかな」

 ここからも、南東の方角に横浜スタジアムらしき施設が朧気に見えている。
当然、競技場と聞いて律が思い付くのも、横浜スタジアムからの連想となった。

「競技場って、球場とか?
あっ。武道館もいいかもね」

 視界にある球場の次には、日常にある風景から連想が湧いた。
部室のホワイトボードで犇めき合う落書きや自由な願い事の中で、
一際大きく書かれている文字が律の脳裏に蘇ってくる。
『目指せ武道館』と。

「武道館は、私達の、HTTの目標だからな。
二人の目標とは切り離してみないか?」

 同じ部活動の仲間であり、バンドの仲間でもある彼女達とは別に、
自分達二人だけの目標を持とうと澪は誘っている。
これも、澪と付き合う事で訪れる変化の一つなのだろう。
友人達を澪と同列に遇してはおけない。

「うん。でも、式に招待はするからね。唯とか呼ばないと煩いだろうし」

「ああ、律の真っ白なウェディングドレスも見せてやらないとな。
向日葵のような黄色の似合うお前だけど、式の日は白だって似合うと証明できるはずだよ」

「澪の王子様の姿も、見せてあげないとね。きっと格好いいんだから。
競技場かぁ。それなら、三百六十度から、私達を見せられるね。
でも、結婚式みたいな、スポーツ以外の目的で貸し切れるのかな?」

 スポーツ選手が浴びるであろう歓声を、自分達も浴びるのだと思うと夢が膨らんだ。
他の者が相手なら夢で終わる話だろうが、澪が相手だと現実味さえ帯びてくる。
澪は夢を見せてくれる人間ではなく、夢を現実に変えてくれる人間なのだから。
積年の夢だった彼氏も、誕生日の今日、手にする事ができたように。

「オフシーズンなら、可能みたいだぞ。
勿論、運営サイドのフィロソフィーやポリシーとかにも依るだろうけどな。
前にテレビで見たけど、実際に競技場を貸し切って挙式した例が紹介されてた。
かなり有名なスタジアムの割に、オフシーズンだからか、かなり安かったぞ」

「そうなの?前から、目を付けていたんだね。
私てっきり、横浜スタジアムを見て思い付いたんだと思っちゃったよ」

 律の後方から、澪の吹き出す声が聞こえてくる。
笑っても脚に込める力を緩めない辺り、澪の嗜虐心も大したものだった。

「ふふっ、鋭いじゃないか。流石は私に惚れているだけあるな。よく心得ているよ。
ああ、そうだ。
実際に、とあるスタジアムで結婚式を行った報にはテレビで接したさ。
でも、その事を思い出したのはお前の言う通り。
あの横浜スタジアムを見たから、だよ。
まぁ、国内の球場じゃなくて、海外のサッカースタジアムの例だったけどな」

 澪の思考に沿えた事が嬉しくて、律は声を弾ませて問うた。
もっと、澪に近付きたい。

「えへへ、凄いでしょ。
でも、澪に惚れていても、分からない事だって、まだまだいっぱいあるよ。
だから教えて。
何処の何という名のスタジアムだったの?澪も、そこで式を挙げたいの?」

「ニュースで観たのは、スペインのカタルーニャ州バルセロナのカンプ・ノウだけどな。
でも、私が挙げたいのはそこじゃない」

 澪の答えに律は驚きを禁じ得なかった。
サッカーなど所謂『ニワカ』と呼ばれる知識しか持ち合わせていない律でも、
その名前くらいなら知っている。

「わぁ、あんな大きな所で結婚式なんてできるんだね」

「逆に大き過ぎて、維持費だけでも膨大だからな。
だからヨーロッパのスタジアムってオフシーズンはサッカー以外にも積極的に貸して、
稼動日を極力高めようとしているらしい」

 澪の説明を聞いて、日本のホテルと似たようなシステムなのだと律は理解した。
それはミクロ経済学で云う、
損益分岐点と操業停止点の話と似たようなものだ。
維持費や建物の償却費は固定費として蓄積され、
損益計算書の数値を悪化させる一方である。
ならば、廉価でも営業を続ける事で、固定費の一部でも回収した方が経済的というものだ。

「確かにね。でも、まさかスタジアムで結婚式なんて発想はなかったよ。
それで。澪は何処で結婚式を挙げたいの?
んーん、何処で私との結婚式を挙げてくれるの?」

 今は横浜の夜景を映している律の目に、
澪はどのような景色を見せようとしてくれているのか。

「分からないか?同じスペインの首都の方にあるだろう?
ウェディングドレスの白、その白色が最も映えるスタジアムが」

 思い当たった律は、指示されている姿勢を崩しそうになった。
慌てて下がりかけた手を水平に伸ばし、浮きかけた恥丘も窓に押し付け直す。
そうして姿勢を保ってから、律は息せき切って言葉を紡ぐ。

「サンチャゴ・ベルナベウ……ッ……」

 後方で頷く澪が見えるようだった。

「そうだ。そこで律を祝福したいと思っているよ。
お前は、どうだ?気に入ってくれるか?想像して、答えてご覧?律」

 問い掛ける澪に呼応して、律は瞳を閉じた。
横浜の夜景の映像が消え、
変わって巨大なスタジアムのピッチに立つ自分の姿が浮かんでくる。
四方八方から降り注ぐは、律に向けた祝詞の大合唱だった。
シーズン中ならば、
ゴールキーパーと白いユニフォームを纏う十人のフィールドプレーヤに、
この天をも揺るがす声援が送られているのだろう。
律の衣装も白色だが、纏うはユニフォームではない。ドレスだ。
祝詞の声に耳を傾ければ、彼等彼女達が放つ言葉の内容までも聞こえてくる。

『アシ!アシ!アシガナ・エル・リッチャン!アシガナ・エル・リツミオ!』

 律はゆっくりと目を開ける。
サンチャゴ・ベルナベウの映像は消え、代わりに横浜の夜景が視界に復した。
だが、今見たいのは、景色ではない。澪の顔だ。
餓えるように澪を思いながら、律は答える。

「私だって、気に入っちゃうよ。私をベルナベウに連れて行って欲しい。
白いウェディングドレスを着て、格好良い澪と二人、皆から祝福されたい。
ねぇ、澪。お願い、顔を見させて?」

「いいだろう、律。式場は決まりだな」

 澪が答えた直後、律の臀部を圧していた力が消えた。
澪が脚を退けたのだ、と理解した直後、律の股下に澪の左手が回ってきていた。

「えっ」

「ああ、もう手は下ろしていいぞ。立たなくてもいい。
ベッドまで連れて行ってやるよ」

 言いながらも澪は動いている。
澪の右腕が背面から律の右脇を通って、そのまま律の胸部に回ってきた。
律の胸の上を進む澪の右腕は、律の左脇に指先を食い込ませた所で動きを止める。
そして澪は、律の胸部を囲い込んだ右腕を強く締めた。
律の胸部を圧する程に、強く、強く。

「苦しいか?」

 気遣うように、澪が耳元で囁く。
律は首を横に降った。
苦しくとも痛くとも、澪に強く抱きしめられる事は苦痛ではない。

「大丈夫」

「なら、上げるぞ」

 澪は律の胸部を囲って締める右腕と、股を下から握るように掴む左手で、
律の身体を持ち上げた。
その体勢で律を浮かせたまま、澪はベッドへ向けて歩みを進める。

「重いでしょ?澪の方こそ、無理しないでね」

 澪にとっては無用の気遣いだろうが、
律の方が何かを話していないと沸騰してしまいそうだった。
気を散らしていないと、
直に触られたデリケートな場所へと意識がどうしても向いてしまう。

「いーや、重くはない。重くはないが……ちょっといいか」

 澪は言葉を濁して足の進路を変えた。
ベッドへと直行するルートから僅かに逸れ、先ほど澪が座っていた椅子の前で止まる。

「重くはないのだがな。下の生暖かい局所が、ぬるぬるして滑っちゃいそうになるな」

「なっ。しょうがないじゃんかぁ。大体、みぃおが虐めた所為でもあるんだからね」

「虐められて、こんなになっちゃうのか?お前ってつくづく真性だよな。
ちょっと待ってな。掴みづらいから、滑り止めを使わないとな」

 律を下ろした澪は、左手を律の股から離した。
その左手に、何かを持ったらしい。
変わらず胸部を拘束されたままで振り返れない律は、気配から澪の動向を察する。

「ちょっと痛いかもしれないけど、いや、痛くない訳がないんだけど。
お前って虐められて喜ぶド真性だから、このくらいならご褒美だよな?」

 律が訝しむ暇を持てたのも束の間、直後には鋭い痛みが局部に走っていた。
堪らず律は片目を閉じて、口から悲鳴に似た叫びを漏らした。

「痛ぁっ」

 澪の左手が、再び律の股へと回ってきているのは理解できる。
だが、局所に走る針で刺されたような痛みの正体までは掴めず、
ただ息を荒げて耐える事しかできない。

「この程度で喘ぐなよ。お楽しみは此処からだぞ」

 恐ろしい事を抑揚のない単調な声調で言ってのけた澪が、再び律を持ち上げた。
局部を劈く痛みはいよいよ鋭さを増して、律を苛む。
真冬に身体の末端へと氷水を当てられたような、鋭利な痛みだ。

「降りるか?自分の足で歩くか?」

 耐える律の苦痛が甚大なるを察してか、澪が問い掛けてきた。
律は脂汗を額に滲ませながらも、首を振って返す。

「だって、初夜でしょう?痛いのは、覚悟してるよ。
だから、澪が、褥まで運んでよ」

 痛みに喘ぐ呼気が邪魔をして断続的な発言となったが、言い切る事ができた。
ねだる事が、できた。

「既に覚悟済みか。なら、もうちょっと辛抱するんだ。
そうだよな、ベッドに着いた後、もっと痛いのに耐えなきゃいけなくなるもんな」

 愉しそうに宣告する澪は髄からのサディストなのだと、律も思い知る。
それを悟ってなお期待してしまう自分もまた、
病的なマゾヒストなのだと自覚せざるを得ない。

「お待ちかね。褥に到着だよ、My Fair Lady.
いや、My Fiancee」

 ベッドに辿り着いた澪は、抱えた律ごとマットレスに倒れ込んだ。
瞬間、コイルが音を立てて縮み、二人の身体の形状に合わせてマットレスが沈む。
律が初夜を迎えるベッドのシーツは、赤を零せば目立ちそうな純白だった。
式場に続き、今宵は律に白が付いて回っている。染まり易い色だ。
では、この白を、澪は何色に染めてくれるのだろうか。

「律。私の顔を見たいと言っていたな。
私も同じだ。お前の顔が見たかった。
体勢が変わったから、存分に見せ合えるな」

 顔を寄せた澪が耳元で囁く。
律も澪の顔を見たかったはずなのに、一目見て逸らしてしまった。
息のかかる距離では正視できない。

 律が目を逸らした先に、澪の左手があった。
その手には、白いバラが握られている。
局部を刺していた痛みの正体が、今分かった。

「ああ、そうか。バラの棘を、滑り止めに使っていたんだね」

 そういえば、バスルームから出た律をベッドルームの椅子に座って迎えた澪は、
白いバラを手にしていた。
そして立ち上がって律に向かって来る際、椅子へと投げ捨てている。
このバラを回収して滑り止めの用途で用いる為に、椅子へと寄り道したらしい。

──ロサ・ブランコ

 強靭かつ高貴で気高いこの白いバラの特性を、律は思い返す。

 非常に硬い茎に有した鋭利な棘は、ダンボールさえも容易に貫いてしまう。
柔肌で棘に触れようものなら、一溜まりもなく皮膚を切り裂いて流血に至る。
花弁も強靭であり、生半可に力を加えても形が崩れる事はない。
花弁の白色は多色に馴染み易く、浸す染料の色を忠実に映す。

 そして花言葉は『道無き道』。
鋭い棘々の屹立する険しき茎を登れる者だけが、美しく香り高い花弁に辿り着ける。
転じて、掲げたる高き目標に向かい、
困難でも怯まずに立ち向かって行く勇士を称揚するモチーフとしても名高い種だった。

「ああ。この棘が、私の手とお前の生殖器を繋ぎ留めてくれていたよ。
お蔭で、お前を落とさずに済んだ」

 澪が鮮血に塗れた左手を翳しながら言った。
律の視線も連れて動く。

 律の股の柔らかい粘膜を切り裂いた出血のみが、澪の手を赤く濡らしているのではない。
止まぬ血の流れが、律にも教えている。
澪の左手自身もまた、ロサ・ブランコの鋭い棘に皮膚を破られているのだ。
そもそもがロサ・ブランコの茎を素手で握って、無事で済む訳もない。

「澪も無理するんだから。指は大事にしてよ。
ベーシストなんだから。しかもピック弾く方の手だし」

「いいんじゃないか?
律の血を初めに受けるなら、ピックを預ける方の手指が適していると思うぞ。
コーサ・ノストラの入会の儀式でも、銃を持つ方の手を差し出すらしいからな。
初めての儀式では商売道具を扱う方の手こそが、血で濡らすに相応しいんだよ」

 澪は律の顔を覗き込みながら言った。
律も澪を見返して言う。

「私も大事な所の血を差し出したけど、澪も大事な所の血で応えてくれたんだね」

「ああ。そうして私達の血が混ざり合った。
互いの傷口から、相手の血が入っただろうしな」

「私の血と澪の血が、混ざっちゃったんだぁ」

 律は夢見心地で呟く。
澪の血液が自分の血管を流れ、律の血液が澪の血管を流れている。
考えれば考える程に、互いの距離が近づいたと感じられた。
澪の血液に自分の身体の隅々を内部から犯されている気にさえなる。

「さて、律」

 呼び掛けた澪は、ロサ・ブランコの花弁で律の生殖器を軽く一度だけ撫でた。
そしてその花弁が、澪の手を以って律の眼前へと翳される。
染まり易いこの薔薇は、早くも花弁の一部を律の血で鮮やかな赤色へと変えていた。

 澪は律の注意を花弁へと引き付けてから、言葉を続けた。

「お前から流れるルビーを溶かしたような赤で、このロサ・ブランコを真っ赤に変えたい。
もっと滂沱のような血が必要になって、お前を傷物にしちゃうけど、いいよな?」

 意地悪な問いだと、律は思う。

「駄目って言ってもやっちゃうくせに。
それに、嫌だなんて言わないって分かってるくせに」

 澪が律に何をしようとも、律はもう拒めないのだ。

「律には隠し事ができないな」

 律の答えに満足したらしく、澪が笑んだ。
そして顔を引き寄せ、耳元で囁く。

「明かりも消さないぞ。赤裸々だ。それと、明日。唯達に私達の事を、紹介するからな。
ただ言うだけだなんて、思うなよ?
私の事を散々焦らして、梃子摺らせた罰だ。
思いっ切りラディカルに、心ゆくまで残酷に、紹介してやる」

 意気込む澪から漂うは、
待ち望んでいた罰をやっと与えられる復讐者のような危うさだった。
その暴力的な感情を一身に受けても、律は怖じていない。寧ろ、逆だ。

「もう、澪ったら暴君なんだから。
それでね、My Tyrant,
どうやって、紹介するの?
私もただ澪の傍らで紹介されるのを待つだけじゃないんでしょう?」

 血と熱に陰唇を滾らせながら、律は問うた。

「分かっているじゃないか、
指示を仰ぐなんて、スレイブとしての自覚をちゃんと備えているようだな。
勿論指示はあるし、手解くよ。
自由からの逃走を果たしたお前に対する、お前の独裁者としての務めだ」

 澪は堂々たる態度で宣した後、溜息の湿る淫靡な声で付け足した。

「でもさ、細かい手順はお前を貪りながらのお話だ。
もう、我慢できそうにもない」

「いいよ、召し上がれ。
私だって、焦らされちゃって、我慢できないし。
だから、私の身体を傷付けて、薔薇を赤く染めながら、どうすれば良いのか教えてよ」

 律も澪と同じ思いだった。早く、澪が欲しい。

「応えてやる。
でもその前に。明日、最終的にお前をどうするのかだけ、教えてやる。
お前も自分がどうなってしまうのか、気になるだろ?」

「うん。私をどうするの?私はどうなっちゃうの?」

 律は素直に頷いた。
細かい手順は後に回してでも今を愉しみたいが、
澪が自分をどう扱う積もりなのかだけは気になっていた。

 澪は律の頭を両手で掴み、瞳を覗き込みながら毅然と宣した。
曰く──

「裸に剥いて磔刑に処して、衆目に晒してやる」

 血と痛みの引かない律の性器が、熱を持った粘性の液体で濡れた。
明日が楽しみで我慢できない。

 澪の重みが、律へと伸し掛かってきた。
そうだ、今宵は、今を愉しもう。
律は明日への期待を心に仕舞い、澪を受け入れた。

*

>>274-317
本日はここまでです。
次回の投稿で最終回となります。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom