双葉杏「夏の匂い」 (42)

双葉杏のssです。

地の分。文字数約9000字。きらり語難しい。物語視点。

よろしくお願いします

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 昼間だというのに、カーテンは閉められ蛍光灯も点いていない薄暗い部屋。
 かちかちとなるクリック音とゴーゴーと響く冷房の音の二つの音だけが部屋の中で静かに音を立てていた。
 部屋の主である双葉杏は肌着にヘッドフォンという、
 とても華の女子高生とは思えないような姿で部屋唯一の光源になっているパソコンに夢中になっている。

「ふぅ。まぁこんな感じかな」
 
 やっているゲームが切りのいいところまで進んだので、杏は手元に置いてあるスマホで時間を確認した。

「まだ30分もあるね」
 
 ひときわ明かりを放ったスマホの画面を真っ暗な状態に戻し、杏はゲームを再開した。

 杏がゲームを再開してちょうど30分、ぴんぽーんと音が鳴り、部屋が明るくなった。
 ゲームに夢中だった杏はもう30分も経ったのかと慌ててモニターを見た。

「きらりだよ☆杏ちゃん迎えにきたにぃ」。
「ん。今開けるから」
 
 扉の開錠ボタンを押し、部屋が薄暗くなると、
 明かりを求める虫のようにすぐにパソコンに向かった。

「杏ちゃんおはよう☆」
「おはようきらり」
 
 やってくるなり部屋の電気を点けたきらりを気にも留めず、てきとうに挨拶を返す。

「もう杏ちゃん。そろそろ出ないとレッスンに遅刻するよ」
「うん。セーブし終わったら支度するから」
 
 杏がゲームのセーブをしている間、きらりは持ってきた杏専用の櫛で杏の髪を整える。
 お互い特に会話もなく、杏はセーブ画面を、きらりは杏の髪を見つめている。

「ん。セーブ終わった。」
「こっちも髪のセット終わったにぃ」
 
 ふかふかのクッションから重い腰を上げ、杏はクローゼットに向かう。


 クローゼットから働いたら負けと書かれたTシャツと
 薄い生地で作られた黄色の短パンを取り出し、杏は着替え始める。
 
 着替えながら杏はぼんやりときらりを見る。
 きらりはせっせと杏の脱ぎ散らかした服を畳んだり、部屋の掃除をしたりしていた。 

 いろいろな形の髪留めがつけられたくるくるとした髪の毛。
 薄いピンク色のワンピース。
 膝丈より少し長めの白のロングソックス。

 今日もおしゃれしてるなぁと思うと同時に、セットにどのくらい時間がかかっているのだろうと、
 改めて自分の服装が一番効率的だと杏は思った。

「着替え終わったよ」
「じゃあいこっか☆今日も元気におっすおっす☆」
 
 杏の準備が終わったので、杏ときらりはそろってマンションを出た。
 
 マンションを出ると、外は強い陽の光が差していたので、杏は思いきり目を細めた。


「今日も暑いね」
「うん。杏ちゃんは暑いの苦手?」
 
 いつもと同じような他愛のない会話。
 
 杏は夏が苦手だった。
 身体はすぐに汗をかくし、物はすぐに腐る。
 外に出れば、とりわけ都会の夏はビルと木が密集しているからか、北海道よりも暑く感じるし、
 蝉もソロではなくオーケストラを結成している。
 東京に来て3年ほど杏は夏を経験しているが、好きになれそうになかった。

「うん。すぐ汗かくし、ずっと家でクーラーの効いた部屋でアイス食べていたいよ」
「ダメだよ杏ちゃん!そんなことしていたら、すぐダメ人間になっちゃうよ!めっ!」
「それが一番幸せなんだからいいだろう」
 
 もうすでにダメ人間な気がすると思いながらも、きらりにそういうことを話すと、
 真面目な調子で、「杏ちゃんは全然ダメじゃないよ」って言われそうなので、
 杏はそれ以上は言わなかった。


「もったいないにぃ。杏って名前なんだからせっかくの夏を楽しまないと」
「確かに杏は夏の果物だけどさ。杏は酸味が強いからそのままではあんまり食べられないよ」
「……どういうことだにぃ?」
「杏も果物の杏と同じで、一筋縄ではいかないってこと」
 
 頭の上に疑問符が浮かんでそうなきらりに、
 杏自身でも筋が通っているかよくわからない言いわけをしていると
、美城と大きく書かれた文字が見えてきた。


「おはようございまーす」
「おはようございまーす☆」
「杏ちゃん、きらりちゃんおはようございます」
 
 事務員のちひろが笑顔で杏ときらり迎えた。
 その笑顔は春のお日様のように優しい笑顔だったので、とても心地良く、
 杏は先ほどまでの夏の暑さを忘れてしまいそうになった。
 
「杏ちゃん見てみて☆」
 
 ちひろの笑顔に感心していた杏をきらりが事務所の奥の方から呼んだ。
 きらりの声がした方に向かうとそこには、きらりの身長よりも少し高いくらいだろうか、
 二メートルくらいの高さの木が手を広げるかのように枝を伸ばし存在感を放っていた。


「笹だね」
「杏ちゃん正解です」
 
 そう言いながらちひろは杏ときらりに細長い紙を一枚ずつ渡した。

「これは?ちひろさん」
「短冊です。もうすぐ七夕ですから、願い事を書いてもらって、
 その笹に結びつけようという事務所内でのイベントです。
 もしかしたら本当に叶うかもしれないので、お二人もぜひ参加してくださいね」
「ちひろさん。とってもすてきなイベントだにぃー☆」
 
 きらりはそう言うとちひろからペンを受け取りオレンジの短冊に
「みんながハピハピできますように」と書いた。

「きらりちゃんらしいですね。短冊は好きなところに結んでください」
「ほんと?ちひろさんありがと☆」
「杏ちゃんはどうしますか?」
「んーちょっと待ってね」
 
 笹に短冊を結びつけているきらりの背中を見ながら、杏は願い事を考える。

 飴を食べたい。

 願わなくても言えば貰えるのでわざわざ書く必要はない。

 週休8日。

 本当に叶っても困るから杏には書けなかった。
 
 周りの人には「休みが欲しい」と杏は常日頃から言っているが、
 本当はとりわけ休みが欲しいわけでもなかった。
 印税目的で始めたアイドル活動もやってみるとすごく楽しかったし、
 周りの仲間たちもみんな素敵な人ばかりだ。だから杏の休みが欲しい発言は
 本気で言っているわけではなかったし、言われた側もそれが冗談だとわかっていて、
 一種のお約束のようなものになっていた。

「ちひろさん、思いつかないから時間もらっていい?」
「いいですよ。七夕までには出してくださいね」
 
 もらった短冊をポケットに入れ、杏は短冊を結び終えたきらりと一緒にレッスンへと向かった。

 帰宅してすぐ杏はパソコンのスイッチを押す。
 パソコンがうぉーんと起動音を上げている間に、エアコンをつけ、服を脱ぐ。
 Tシャツを洗濯かごの中にシュートし、ズボンを脱ごうとするとポケットに感触を感じた。
 
 そういえばポケットに入れたままだったとポケットから短冊を取り出した。
 今日のレッスンはダンスレッスンだったので、願い事の事を考えている暇などなかったし、
 レッスンが終わった後は、新しい振付のことが杏の頭に上書きされていたので、
 願い事のことはすっかり忘れてしまっていた。

「願い事かー」
 
 お気に入りのふかふかピンククッションに飛び込み、ブラウザを立ち上げながら杏は考える。

 杏は昔から頭のいい子だった。
 
 言われたことはすぐ理解できたから勉強もできたし、受け答えなどの頭の回転も速かった。
 
 しかし、杏は極度のめんどくさがりだった。
 
 出来のいい頭は人のために使われることはめったになく、
 いかに自分の面倒を少なくするかに使われることが多かった。
 
 めんどくさがりな性格と賢い頭のせいか杏はあまり自己主張というのを今までしてこなかった。

「飴をくれ」などの些細なお願いはしょっちゅうするが、
 杏自身の中身をさらけ出すようなお願いや言動はしなかった。
 普段から考えないから、こういうとき何も浮かばないんだなぁと杏は考える。
 
 少し考えたが短冊への願い事は何も浮かばなかった。

「とりあえず七夕について調べてみるか」
 
 慣れた手つきでキーボードを叩き、ブラウザで七夕と検索した。
 
 七夕は古くから行われている伝統行事で……
 
 七夕の由来と織姫と彦星についての雑学を得ることはできたが、
 肝心の願い事のヒントらしきものは得られなかった。
 
 浮かばないものは仕方ない。
 杏は願い事を考えることをやめ、ネットの海を泳ぎ始めた。

 ぴんぽーんと今日も同じ時間にモニターが光り出した。
 杏はヘッドフォンを外し、開錠ボタンを押す。

「杏ちゃんおはよう☆」
「おはようきらり」
 
 杏はセーブ画面、きらりは杏の髪と向き合う。

「終わった」
「こっちも終わったにぃ」
 
 立ち上がりクローゼットに向かい服を着る。
 今日の杏の服装は、上は勝ち組と書かれたTシャツ、下は昨日と同じような薄地の短パンだった。
 着替えながら、掃除をしているきらりを見る。
 
 結び目のところに大きな赤いリボンをつけたツインテール。
 シンプルな白のシャツにピンク色のカーディガン。
 ところどころに星が散りばめられたオレンジのスカート。
 
 今日もきらりはおしゃれだった。

「じゃあいこっか☆」
 
 着替え終わった杏を見て、きらりが言った。


「暑いね☆」
「うん」
 
 今日も蝉は合唱しているし、日差しは杏を腐らせてしまうのかと思えるくらいに強かった。
 少しでも涼しくなるように。そう祈りながら、冷蔵庫で冷やしておいたソーダ味の飴を杏は口に放り込んだ。
 
 しゅわしゅわと口の中で溶けていく飴を舌で転がしながら歩いていると、
 大きなビルのガラス窓が杏ときらりの姿を映していることに気づき杏は立ち止まった。
 
 まさに凸凹だった。
 身長差は40センチもあり、服装の趣味も全然違う。
 知らない人が見たら、親子や姉妹に見間違えることはあっても、同級生には見えないだろうと杏は思った。

「どうしたの杏ちゃん?」
 
 鏡を見て立ち止まっていた杏の様子を気にしてきらりが振り返った。
 
「ううん。なんでもない」
 
 杏はきらりといる時が一番楽だった。身の回りの手伝いをしてくれるからというのもあるが、
 杏と同じできらりも頭がいいと杏は思っていた。
 きらりは周りがよく見えていたし、自分の立ち位置を見つけるのも上手だった。
 みんなが困っているときは助け船を出すが、自分のことは悟らせないようにして、
 人に自分のことを背負わせることはしない。
 
 みんなのことを半歩後ろから見ている。それがきらりだった。
 
 だから杏ときらりは一緒にいることが長くなった。
 よく凸凹コンビと言われるが、内面は似たもの同士だった。

「おはようございまーす」
「おはようございまーす☆」
「杏ちゃん、きらりちゃんおはようございます」
 
 今日も事務所は快適な温度で心地よく、ちひろの笑顔も素敵だった。

「杏ちゃん、願い事は思いつきましたか?」
「いや、全然。浮かばないから結局ずっとだらだらしてたよ」
「杏ちゃんらしいですね」
「杏ちゃんみてみて」
 
 きらりの嬉しそうな声が杏を呼んだので、杏は笹の方に向かった。
 笹は短冊の量が増え、昨日見た時より少し枝が下がっていた。

「お二人がレッスンに行ってる間にやってきたアイドルたちが書いていったんですよ」
 
 笹に気を取られた二人を見てちひろが言った。

「どれどれ」
 
 みんながどんなことを願っているか気になって杏は短冊を一つ適当に選んだ。


「おりひめさんとひこ星さんがちゃんと会えますよーに。」
 オレンジ色の短冊には元気な文字で左下に薫と書かれてあった。

「薫ちゃんらしいにぃ」
 
 きらりは今にもこぼれそうなほど満面の笑みを浮かべている。
 将来子供ができたら絶対親ばかになるな、と杏は考えながら次の短冊を選ぶ。

「莉嘉や事務所のみんなともっと仲良くできますよーに★」
 と書かれたピンク色の短冊のすぐ横に、

「お姉ちゃんともっと遊べますよーに☆」
 と書かれた黄色の短冊があり、きらりの笑顔がついにこぼれた。

「美嘉ちゃんと莉嘉ちゃんとっても仲良し☆」

「そうだね」 
 
 きらりは当分元の顔に戻れなさそうだ。


「他にも何かあるかな」
 
 盛り上がってきたところで、もう一枚、短冊を選ぼうとすると、
 異様なほどに目立つ紅い短冊があったので杏はそれを選んだ。

「プロデューサーさんとずっと一緒にいられますように」

 二人はその短冊をそっと元の場所に戻した。

「……レッスン行こうか」
「……にぃ」
 
 紅い文字で書かれた短冊を目立たないように裏返し、二人はレッスンに向かった。

 帰宅して杏はパソコンを立ち上げる。そしてエアコンを起動し、服を脱ぐ。
 パソコンの横に置いてあるピンクの短冊が目に入ったが、すぐにパソコンの画面に目を向けた。

 まだ願い事は決まっていなかった。

 もういっそのこといつものように休みをくれと書いてやろうか。
 そう考えながら、杏は今日もネットの海を泳いだ。

 ぴんぽーんといつもより少し遅い時間に杏の部屋のモニターが光った。
 いつもの時間と5分も誤差がなかったので、杏は特に気にもせずモニターに向かった。

「おう。杏迎えに来たぞ」
 
 モニターに映ったのは、きらりではなかった。

「うわっ暗いな。こんなところで生活してたら目悪くするぞ」

 壁についてあるスイッチを押して、プロデューサーは明るくなった部屋を見渡していた。

「きらりは?」
「なんか風邪をひいてしまったみたいだ。
 杏ちゃんを迎えにいってくださいってメールが送られてきたから俺が迎えに来た。
 どうせお前1人だとサボるだろ」
「そっか」

 なんできらりはわざわざ杏にじゃなくてプロデューサーにメールするのか。
 杏のことを信用してないな。
 まぁ確かに誰も来なかったら事務所にも行かずにずっとゲームしてそうだけども。
 考えながら杏はセーブ画面を見る。

「着替えるから」
「はいはい」
 
 印税生活と書かれたTシャツを手に取り、頭からかぶる。
 白のワイシャツにスラックス姿のプロデューサーは手持無沙汰なのか、杏の部屋をきょろきょろと見渡していた。

「なんか思った以上に綺麗だな」
「きらりが掃除してくれるしね」
「お前、きらりお母さんいないと生きていけないんじゃないか」
「着替え終わったよ。行こうかプロデューサー」
「その髪の毛で行くつもりか」
 
 姿見で自分の髪を確認すると、髪は結られておらず、
 クリーム色の髪の毛がゆらゆらと統一感もなく揺れていた。

「ちょっとセットしてくる」
「おう」
 
 そういって杏は洗面台で髪を結い始めたが、
 自分で自分の髪を結うのは久しぶりだったので、杏は結い方がわからなかった。
 
 いつもきらりが結んでくれるのはどんな感じだっけ。
 きらりのやり方を思い出そうとするが、思い出せなかった。

「おい、そろそろでないとレッスンに遅刻するぞ」
 
 鏡の前で頭に手をやりながら思い悩んでいる杏にプロデューサーが言った。

「わかった。行こうか」
 
 結局、杏はいつもよりぎこちない髪型でマンションを出てプロデューサーの車に乗った。

「きらり大丈夫そうなの?」
「ああ。電話で話した感じそこまで大きな風邪ではなさそうだ。本人も明日には来れると言っていたし」
「そう」
 
 プロデューサーが運転をしている横で杏は窓から外の様子を眺めた。
 外は相変わらず暑そうで蝉も鳴いているいつもの夏だった。
 
 杏は冷房のきいた車で事務所に向かっている。
 こっちの方が快適なはずなのに、なぜか物足りなく感じた。
 
 外の景色が恋しくなった。

「おはようございます」
「おはようございまーす」
「おはようございますプロデューサーさん、杏ちゃん」
 
 今日も事務所は変わらない。
 いつもと同じ室温。いつもと同じちひろの笑顔。
 でも杏は心地よいとは思えなかった。
 
 レッスンまでの空き時間、
 こんなに長かったっけと思うほど、杏は時間の過ごし方に悪戦苦闘していた。
 携帯ゲーム機を持って来ればよかったと杏は後悔しながら、時間を潰すために笹を見た。
 
 短冊の量は昨日よりもさらに増えていて、
 結んだ本人たちも自分の短冊がどれだか一目ではわからない状態になっていた。
 杏は適当に短冊を選んだ。

「ロックになりたい」「尻尾が生えますように」
 と書かれたアスタリスクの短冊を見ても、

「美味しいものたくさん」「四葉のクローバーがたくさん見つかりますように」
 と書かれたかな子と智絵里の短冊を見ても気分は晴れなかった。
 
 何か面白い短冊はないものかと杏は短冊を選ぶ。次はこれにしようと手に取った短冊は、

「みんながハピハピできますように」と書かれたオレンジ色の短冊だった。

「きらり」と杏は心の中でつぶやいた。
 みんなどころか杏すらハピハピにできてないじゃないか。
 杏ときらりは、ほどよい距離感を保ちながら接しているものだと杏は思っていたが実際は違っていた。

 きらりは木であり、シロップだった。

 杏は気づかぬうちにきらりに寄りかかっていたし、
 きらりがいなければ杏は酸っぱいままだった。
 
 きらりがいないだけでこんなにも日常は変わってしまうものなのか。
 オレンジ色の短冊をもとの場所に杏は戻した。
 戻す時にちくちくと笹の葉が杏を突っついた。

 杏は笹の木を見上げた。
 杏よりもずっと大きな笹の木はみんなの願いをたくさん集めそこに立っている。

 ふと「もしかしたら本当に叶うかもしれないので、お二人もぜひ参加してくださいね」
 と言ったちひろの発言を思い出した。
 杏はポケットの中に短冊が入っていることを確かめた。

「ちひろさん書くもの貸して」
「あら杏ちゃん書くこと決まりましたか?」
「うん」
 
 杏が何を願うのか覗こうとするちひろから距離を置き、
 杏は「二人が出会えますように」と書いた。
 そして誰にも気づかれないような目立たないところに短冊を吊るした。
 短冊を吊るした後、杏はスマホを取り出して、メールを送り、レッスンに向かった。

 帰宅して杏はパソコンを起動し、エアコンのスイッチを押し、服を脱ぐ。
 立ち上がっていくパソコンの画面を見ながら、杏は横目でスマホを気にしていた。
 レッスンの間もずっと気にしていたが結局スマホは鳴らなかった。
 
 このままきらりに一生会えないのではないか。
 
 一度考え出すと考えは止まらなく、不安と後悔だけが杏の中で大きく育っていった。
 
「わはははは」
 
 画面の中ではお笑い芸人たちがギャグを飛ばし笑い合っていった。
 いつもはくすりと笑ってしまうこともあったが、今日は全然笑えなかった。

 ぴりりりとスマホが鳴った。杏は素早くスマホを確認した。
 内容は新作のアプリの宣伝広告だった。
 このアプリは絶対にやらないと杏は心に決め、そのまま逃げるように寝た。

 クーラーの寒さで杏は目を覚ました。杏はスマホを確認する。
 時間は夜の10時で新着メールは来ていなかった。
 
 杏は夜型の人間なので普段はこの時間あたりから活動的になるのだが、今日は元気も出なかった。
 それでも目は完全に覚めてしまったので、パソコンに向かい動画サイトの新着動画をチェックする。
 特に面白い新作もなく、過去に好きだった動画を見直すが時間はなかなか過ぎていかなかった。

 ぴりりりとスマホが再び鳴った。杏は素早くスマホをとった。

「返信遅れてごめんにぃ…… もうばっちし☆ だから明日もいつもと同じ時間にお迎えにいくね!
 夜更かしは、めっだよ!杏ちゃん!」
 
 きらりの髪の毛と同じくらい色々なデコレーションがついたメールを見て杏の身体は熱くなった。

「今日は早く寝よう」
 
 パソコンを落とし、杏はベッドに向かう。
 寝ることが得意な杏だったが、暑さのせいか、さっきまで寝ていたからか、なかなか寝付けなかった。

 次の日、杏はいつもより少し遅い時間に起きた。慌てて時間を確認した後、
 杏は部屋の電気をつけ、洗面台に向かった。
 歯を磨き、顔を洗った。
 クリーム色の髪の毛がゆらゆらと鏡に映っていたがそのままにして洗面所を出た。
 そしていつもきらりが家に来た時にしているようにカーテンを動かし窓を開けた。
 
 相変わらず外は夏一色だったが、不思議と嫌ではなかった。

 ぴんぽーんといつも通りの時間に音が鳴った。
 少し息を吸ってから杏はモニターを見る。

「きらりだよ☆」
「うん。今開ける」
 
 いつもと同じように開錠ボタンを押す。
 いつもは玄関を開錠してからきらりが部屋にくるまでの時間など気にしたことはなかったが、
 気にしてみると少し長く感じた。
 落ち着かない気持ちを抑えるために杏はクッションに飛び込んだ。


「杏ちゃんおはよう。あれ。今日は明るいにぃ」
「おはようきらり。まぁたまにはね」
 
 部屋の様子が違うことに困惑しているきらりに、クッションに座った状態のまま、

「きらり髪結ってよ」と杏は言った。

「杏ちゃん昨日はごめんね」
「ううん。気にしてないよ。でもさ杏じゃなくてプロデューサーに連絡するのはどうなの」
「うう、ごめんにぃ」
 
 昨日の杏の気持ちを知らないからか、きらりは目を×にしながら軽く謝った。
 杏もそれ以上は追撃せずに鏡の中で杏の髪を整えているきらりを見た。
 
 シンプルなヘアゴムで結んだ立派なポニーテール。
 胸元にワンポイントのフリフリがついた白のワンピース。
 
 きらりはとても真剣にそれでいて楽しそうに杏の髪の毛を結っていた。
 その姿に杏は嬉しくなった。

「杏ちゃん終わったよ」
「ありがと、じゃあ着替える」
 
 だが断るTシャツを着てズボンを履く。
 部屋を換気しようとしたきらりは、部屋の窓が開いていることに驚きの声を上げた。

「杏ちゃん今日はどうしちゃったにぃ。熱でもあるのかな」
「熱があったのはきらりの方でしょ」
 
 いつもと違う杏に戸惑うきらりに

「準備できたよ」
 
 と声をかけ二人はマンションを出た。

 二人で事務所までの道を歩く。
 
 外はやはり夏で、日差しは強く、蝉は鳴いていた。
 それでも今日は特別で。
 とても心地の良い夏だった。

「ねぇきらり」
「なぁに杏ちゃん」
「肩車してよ」
「へ?」
 
 横を歩くきらりが驚いて杏を見つめて立ち止まる。

「杏ちゃんこの時期は暑いの嫌がるのに」
「いいから。いいから。肩車してよ。それとも嫌なの」
「……いいよ。全然嫌じゃないにぃ」

 きらりは杏の前でよいしょとしゃがむ。
 オレンジがかったベージュの立派なポニーテールがゆっくりとゆれていた。

「ん」

 久しぶりの肩車。
 それはとても安心感があり、杏はぎゅっときらりの頭を抱きしめた。

「ねぇきらり」
「なぁに杏ちゃん」
「今年の夏はさ。お休みの日一緒にどこかに出かけようか」
「うん☆いいよ。杏ちゃんはどこに行きたい?」
「そうだな……洋服!新しい洋服が欲しい!」
「うん!きらりが杏ちゃんに似合うの選んであげゆ」
 
 大きな、ちょうど事務所にある笹の木と同じくらいの高さの影法師を作りながら、
 二人はゆっくりと歩く。
 
 次第に夏の日差しも蝉の鳴き声も杏は気にならなくなっていった。
 
 きらりの優しい匂いと二人の身体の熱さ。
 
 感じるのはそれだけだった。

「おはようございまーす」
「おはようございまーす☆」
「杏ちゃん、きらりちゃんおはようございます。あ、杏ちゃん。杏ちゃんに見せたいものがあるんですよ」
 
 事務所につくとすぐにちひろは嬉しそうにそう言い、
 冷蔵庫に行ったと思ったらすぐに戻ってきた。

「これです」
 
 素敵な笑顔を浮かべて、ちひろはそれを手渡した。

 
 
 大きくて立派な杏が手の上で、オレンジ色に輝き、甘い香りを放っていた。  


以上です。

七夕までに投降したかった。
ぎりぎりセーフということで僕は寝ます。

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