梓「ムギ先輩はピアノを愛していない」 (78)


最初はただピアノに触るのが楽しかった。

先生の真似をして、鍵盤を叩く。
音が出る。
音と音を繋げるとメロディーになる。
それだけのことで、心が踊ったのだ。


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オワコン!

 
人一倍練習をした。
学校から帰ったらピアノを弾き、ご飯を食べ終わった後にまた触る。
正確に言うと、それは練習ではなかった。
新しい楽譜をメロディーにしていく作業はとても楽しいもので。
同い年の子が玩具で遊ぶように、ピアノで遊んでいたのだ。
 

  
小学校時代、学年で一番ピアノが上手かった。

合唱やダンスなどでピアノが必要になれば声がかかる。
先生も周りのみんなも、褒めてくれた。
同じようにピアノをやっている子から「凄いね」と褒められたこともあった。
 

澪紬書いてたくせに唯和にして手抜きした人?

 
学校で役割を貰えるようになると、ピアノに対する自信がついてきた。
自分のピアノには価値のあると確信できた。

無機質な白鍵と黒鍵を叩く。
それが誰かの心を揺さぶる音楽となって流れていくことはとても高尚なことで。
大げさに言ってしまえば芸術と呼ばれるものじゃないのかって。
芸術を作るすごい人達の1人になれているのではないかって。

子供ながらに、そんなたいそれたことを考えていた。
 

 
でもそんな自信と高揚感もそう長くは続かなかった。
小学校中学年になると、ピアノの先生の薦めでコンクールに出るようになったのだ。

最初のうちは緊張感に打ち勝ち、舞台の上で拍手を貰うだけで満足できた。
親も先生もそれだけで何度も褒めてくれた。

しかしそのうち、コンクールには毎回賞を取る子がいることに気づいてしまったのだ。
 

  
コンクールには様々な年齢の子がいた。
自分より大きな子もいれば、小さな子もいた。
自分より上手い子もいれば、下手な子もいた。

何度か出ているうちに余裕も出て、待ち時間に他の子の演奏に聞き入る機会も増えた。
ちゃんと聴くようになってから分かったことがあった。

自分より小さな子であっても、賞を取るような子は、自分とは決定的に違う。
その子だからこそ作り出せる何かがある。

あの子達と比べてしまうと、自分はただ楽譜をなぞっていただけ。
ただ弾いていただけで、それは表現と言えるほどのものではない。

 
 

 
それでも、ピアノに触っていればいつかはその子たちに追いつけると信じていた。

必死になって練習をした。学校でも、家でも。
使える時間は全部使った。
仲の良かった友達とも少し疎遠になった。

あれほどの熱量を持って何かに取り組んだのは初めてだった。
自分の表現を見つけようと必死だった。
 

 
その甲斐あって、確かにピアノは上達した。
それでも、決してあの子達に届くことはなかった。
 

 
ある日、親に注意された。
頑張るのはいいけれども程々にね、と。

それで、ピアノの先生に聞いてみた。
自分は練習し過ぎですか、と。

先生は苦笑いした後、こう言った。
「最近の子で◯◯ちゃんほど練習している子はいないだろうね」
 

 
それで初めて気づいた。
自分には才能がなかったのだということを。

同じだけ。いや、それ以上練習したとしてもコンクールで賞を取るような子には決して追いつけない。
あの子達はそもそもの出来が違うのだ。 

考えてみれば先生も親も、自分に賞を取って欲しいと願ったことはなかった。


「あなたはピアノを弾けばいいんです」

「楽しくピアノを弾ければいいんです」

「そこより先? それは、あの子達の仕事なのです」


誰かに言われたわけではないけれども、そう言われているような気がしてしまった。
 

 
いつの日からか、私はピアノに触るのをやめた。
 

◇◇◇◇
◇◇◇
◇◇


中野梓が目を覚ますと見慣れぬ場所にいた。
やけに高い天井。ほんのりと漂う塩の香り。
すぐに思い出す。
この夏、彼女は部活の合宿で、ある先輩の別荘に来ていた。

まわりを見ると平沢唯がいた。すーすー規則正しく寝息を立てて、気持ちよさそうに寝ている。
その横には秋山澪。枕にぎゅっと抱きついて、こちらもよく寝ている。
更にその横……というには離れた位置に田井中律。
布団からかなり離れた位置に彼女はいた。
寝ている間に3回転でも決めたのだろうか。
その様子を想像して梓は小さく笑った。
 

 
梓はこの合宿に期待していた。
普段はロクに練習しない軽音部であっても、合宿という形ならしっかり練習できるのではないかと。

しかし、同時に相反する期待もしていた。
いつも通り練習になどならないだろうが、きっと楽しい合宿になるだろうと。

案の定後者になってしまったが、悪い気はしなかった。


――と、気づく。
1人足りないことに。
琴吹紬。この別荘に招待してくれた、いつもふわふわした先輩――
 

 
この別荘は海のすぐ側にある。
もしかしたら、散歩に出かけたのかもしれない。
夏とは言え、この時間ならまだ涼しい。

朝風を浴びながら砂浜を歩く。
それはとても魅力的なことのように梓には思えた。
 

 
3人を起こさぬようにそっと立ち上がり、玄関に向かった。
しかし、梓の予想は外れた。
玄関には紬の履物があった。
ここに来るまで履いていたヒールと。海で履いていたビーチサンダルの両方が。

そこで今度は、この建物を探索してみることにした。
昨日ここについた時、紬から主な部屋について簡単な説明は受けた。
しかし、この別荘はかなり大きく、まだ全てを回れてはいない。
ちょっとした探検のつもりで、彼女は歩き出す。
 

 
物置、キッチン、リビング、お風呂場、屋根裏部屋。
どこにも紬はいなかった。
これだけ探しても見つからないとなると、逆に気になってしまう。
梓は建物をくまなく回り、そして最後に防音室――昨日少しだけ練習に使った部屋に向かった。
 

けいおんとは珍しい

 
扉を開くと、見たことのない紬がいた。
 
彼女はピアノに向かっていた。
白い指が流れるように白鍵と黒鍵の上を踊っている。
真剣に、でも楽しそうに。
そして何より、その音は圧倒的だった。


梓は目を閉じて、その旋律に身を委ねる――


――暫くすると、曲は終わった。


パチパチパチ

「梓ちゃん?」

「おはようございます」

「はい、おはようございます」

「ピアノ、上手ですね」
 

とりあえずここまで

>>5
別人

◇◇◇

「風が気持ち良いね」

2人は砂浜を歩いていた。
梓が朝の散歩を提案したのだ。

「梓ちゃん、だいぶ焼けたね」

「ムギ先輩は白いままです」

「日焼け止めはしっかり塗ったの」

「そう言えば……誘っちゃったけど大丈夫でしたか?」

まだ早い時間とは言え、夏の日差しはそれなりに強い。
この程度の太陽光であっても油断は大敵だと梓も知っていた。

「ええ。起きてすぐ日焼け止めを塗ったから」

 
「こんな早い時間からですか?」

「日焼けすると赤くなっちゃってね。
酷い時は1日動けなくなる体質なの。
だからみんなが起きてくる前に念入りにね」

「そうでしたか」

「だから少しなら遠出しても大丈夫」

「じゃあ、あそこまで」

梓が指差した先は海岸から直角に飛び出した防波堤になっている。
紬は軽く微笑んで踏み出した。
 


5分程歩き、目的地についた2人は腰掛けた。
海は透き通っていて、底まで見透せる。

「ムギ先輩」

「なぁに?」

「ピアノ、あんなに上手だったんですね」

「ふふ、小さい頃はコンクールで入賞したこともあったのよ。
でも、今更どうして?
キーボードならいつも弾いてるのに」

「あれはあれでいい楽器だと思いますが、やっぱり全然違うものだと思います
本物と電子ピアノは。
ムギ先輩もそう思いませんか?」

「そうねぇ。
けど、梓ちゃんがこんなに私のピアノに興味を持つなんて、意外だわ」

 
「そうですか?」

「だって、こうやって散歩に誘ってくれたのも、その話をするためでしょう?」

「それは違います」

「違うの?」

「話すと少しだけ長くなりますが、朝ムギ先輩がいないのに気づいて、散歩に出てると思ったんです」

「うん?」

「ほら、ムギ先輩って海岸を歩く姿が似合いそうなところあるじゃないですか」

「そうかな?」

「そうです。
で、どうせなら一緒に歩きたいなと思って、外に出ようとしたら靴があって」

「それで、私を探して誘ってくれたんだ」

「はいです」

「ふふ、嬉しいな」
 

今日はここまで

けいおんSSとか懐かしい

わぁいけいおん あかりけいおん大好き
楽器の話をする梓とムギちゃんいいですね
続き楽しみにしてます

紬は屈託なく笑う。
梓にはもっと色々聞いてみたいことがあった。
なぜピアノをあまり触らなくなってしまったのか、それが知りたかった。
しかし、その笑顔を見ると、これ以上追求する気は失せてしまった。

それからしばらく、2人で魚を探した。
目を凝らすと防波堤の周りには無数の小魚が見つかった。
魚の種類や、食べられるのか、などととりとめのない話をしているうちに、太陽が昇ってきた。

《散歩にでかけます》という書き置きは残してきたが、あまり待たせるわけにもいかない。

「戻ろっか」

2人は立ち上がり、防波堤を後にした。



合宿の間、2人がピアノの話をすることは、これ以降なかった。
この朝のやり取りで、紬が何かをはぐらかそうとしていたように梓には思えたのだ。
楽しい合宿で言いたくないことを無理に聴き出す必要はない。
それに……聴いたところで、どうなるものでもない。

やったー続ききてる!



合宿は終わり、夏は続いていた。
紬は夏休みの残りを海外で過ごすことに決まっていた。

梓はけいおん部の演奏を録音したデータを引っ張りだして聞いていた。
紬の担当するキーボードの音に集中する。
確かに上手い。だが、それ以上ではない。

あの朝に聞いたような衝撃は、この音からはほんの僅かすら感じられなかった。
あのピアノをもう一度聞いてみたい。
そんな思いが強くなっていった。

夏が終るのを待ち続け。
ようやく夏休みが終わり、授業が始まった頃……。

「おいしい明石焼きお店があるんだけど、一緒に行きませんか?」

「明石焼き? お好み焼きの親戚かしら?」

「ん、どちらかというとたこ焼きの親戚ですね。
たこ焼きの……叔父さん?」

「叔父さん?」

「はい。
たこ焼きにはソースをかけますよね?」

「あの甘辛いソースとの相性が絶品よね~」

「明石焼きは出汁につけて食べるんです」

「たこ焼きを出汁に?」

「たこ焼き……的な何かをです」

「うまくイメージできない。
……うん、楽しみ!」

と、ここまでは順調に誘えたのだが、問題はここからなのだ。
梓が誘ったところで、紬は2人で寄り道するとは思っていない。
唯たち3人も含めて5人で寄り道をすると思っている筈なのだ。

「それでムギ先輩。
今日は2人で行きませんか?」

「え、唯ちゃんたちは?」

「2人だけじゃダメですか?」

「……ううん。大丈夫。
じゃあ、部活が終わったら行きましょうか」

紬は何かを察して了解したようだった。
何か企みがあると思われたかもしれないと梓は感じた。
いや、実際にちょっとした企みはあるのだが……。

続きだ!
さてどうなる

続きはまだかな

けいおんSSってまだ生きてたんだな
期待

あーageてしまった
申し訳ありませんでした……

あくしろお



出汁に鯛節を使っているらしい。
ほんのりと鯛が上品に香るだし汁に、ふんわりとした明石焼きをつけて食べる。
口に入れた瞬間からホロホロととけていき、最後に蛸の食感と旨みが残る。

「これは……!」

「どうですか?」

「とっても美味しい!」

紬はとても気に入ったようで、明石焼きをほうばっている。
そんな紬を見ながら、梓は少し後悔していた。
というのも、この店、お客はそれなりにいるのだが、店内は狭く、椅子が8つほどあるだけである。
居座ろうと思えば居座れないわけではないが、長居をするのに向いた店ではないのは明らかだった。
少し考えた後、切り出した。

「ムギ先輩。まだ時間は大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫」

「それならうちに来ませんか?」

「梓ちゃんのお家?」

「はい」

「お邪魔してもいいの?」

「はい。歓迎します」

「ふふ。じゃあ、お邪魔しちゃおうかしら」



家についた後、梓は紬を自分の部屋に招いた。
それからお菓子と冷たいお茶を振る舞った。

紬は米菓に興味シンシンな様子だった。
じっと見つめた後、思い切りよくかぶりつく。
それが面白くて梓はじっと見つめていた。

「美味しいですか?」

「うん! とっても!
でも……今日は食べてばかりだね」

紬は楽しげに笑った。

そんなやり取りをしているうちに、最初はぎこちなかった会話も弾んでいく。

音楽のこと。けいおん部のこと。クラスメイトのこと。友達のこと。
特に純の話では大いに盛り上がった。

しばらくおしゃべりした後、紬がケータイを取り出して画面を見た。

「そろそろ時間ですか?」

「うん。もうそろそろ帰らないと……」

結局、目的だったピアノについての話は全くできていない。
ただ、紬はもう時間だと言うし、今日は楽しかった。

梓は少し迷ったが、今日のところは気持ちよく見送ることに決めた。
そんな梓に対して、紬は問いかけた。

「梓ちゃんのお家、ピアノはある?」
 



ピアノの前に紬が立つと、すっと空気が変わるのを感じた。
育ちのせいかいつも姿勢はいいのだが、今の紬は纏っている空気すら特別だった。
1つ1つの動作に無駄がなく、それでいて気品を感じさせる。
ピアノに腰掛け、確かめるように黒鍵と白鍵を叩く。
そして一息。
演奏が始まった--。








--圧倒的だった。
ただ上手なだけではない何かがあった。
合宿の朝に聴いたアレよりも、もっともっと凄かった。
梓の家にあるピアノはそれほど上等なものではない。
学校にあるものや別荘にあったものより劣る、ただのアップライトピアノだ。
だが、そんなことは紬には全く関係なかった。
1つ1つの音が、そしてメロディーが、梓に突き刺ささり、心を揺さぶってくる。

やがて演奏が終わり一息。
梓は自然と拍手をしていた。



玄関まで見送る。

「それじゃあ、ムギ先輩」

「うん。梓ちゃん。また明日。
今日は楽しかったわ~。なんだかデートみたいで」

屈託なく笑う紬はすっかりいつもの調子で、ピアノの前に立っていた彼女とは別人だった。
それが梓には少し残念で、嬉しくもあった。

紬の手に目をやる。
綺麗だが、何の変哲もない手である。
この指先があれだけの音を生み出していた事実を思うと、なんだか不思議な気がした。


「また一緒に遊びませんか」

「うん、約束!」

紬は大きく頷いた。

 


この日以降、2人の距離は近づいていった。
度々一緒に遊びに行き、梓の家で紬が演奏するようになった。

それ以前は、お互い少しだけ壁を感じていた。
それは紬の持つ独特な雰囲気だったり。
練習に対するモチベーションの差だったり。
単純に学年の差だったりしたのだろう。

壁がなくなってくると、梓の中に残っていたしこりも薄れていった。
 

そして、この関係性の変化は、紬にとっても特別なことであった。
唯、澪、律。
同学年の3人とも仲は良いし、一緒に遊びに行くこともあった。
だが、こういう風に家へ頻繁に遊びに行くような間柄にはならなかった。

梓の関心は自分自身よりも自分のピアノにあるのかもしれない。
そう思いつつも、この関係を大切にしていいたいと考えていた。

 
時間を重ねていくうちに、紬の演奏はどんどん「よりよく」なっていった。
怖いくらいに緻密で、それでいて感情豊かに奏でていく。
それはピアノの演奏に留まらず、キーボードを使う部活においても発揮されるようになっていった。
唯や澪が、紬の上達について何度か話題に出したほどである。

梓はプロのピアニストのコンサートへ行ったことがあった。
その人達の音も凄かったが、今の紬はそれに迫りつつある。
贔屓目も多少はあるのかもしれないが、そう思えてしまうのだ。

そんな紬の急激な上達に、梓も思うところがなかったわけではない。
ただ、基本的に「いいこと」であったため、深くは考えようとしなかった。
 

 


ある日のこと。
ちょっとした気まぐれだった。

いつものように2人で遊びに行き、梓の家でおしゃべりをし、紬がピアノの演奏を終え、帰路についた後。
梓はピアノの前に座った。
それが、間違いだった。

今日はここまで

読んでるよ
期待してる

 

 
はじめ紬は梓の変化に気づけなかった。
お誘いはなくなったが、それはただ単純に用事があったり、気分の問題であったりが理由なのだと考えていた。
しかし、誘いがないままひとつきが経過する頃にはおかしいと思い始めた。

学校での梓の態度は今までと変わらなかった。
それが気づけなかった理由でもある。

しかし、梓を気にかけるようになり、目が合う回数が増えると、変化が見えてきた。
じっと目を見つめると、必ず視線を逸らされるのだ。
それで、疑惑が確信になった。梓は自分のことを避けている。


紬には全く心あたりがなかった。
むしろ2人の関係はこれ以上ないほど良かったはずなのだ。
それなのに、突然距離を置かれた。

以前のように遊びにいかないかとメールを送った。
自分から遊びに誘うのは紬にとってはじめての経験であり、とても勇気のいることであった。
しかし、梓の返事は芳しくないものだった。
2回、3回と誘っては断られ、誘っては断られを繰り返した。


こうなると紬のほうが参ってしまった。
高校に入ってから、これほど落ち込んだことはなかった。
テストの点数が落ち、体重も落ちた。
注意力も落ち、部室で食器を割ってしまい、律たちに心配されたこともあった。

紬は思う。
あるいは唯のように気軽にスキンシップでコミュニケーションを取れれば違うのかもしれないと。
メールという形でしか積極的に後輩と関わっていけない自分の不甲斐なさを噛み締める。
気は沈むばかりであった。

 
紬の不調は誰の目から見ても明らかであった。
そんな紬を見かねて行動を起こしたのは、他でもない梓自身だった。
 

 

 
紬は梓の家にきていた。
誘われたのだ。

紬は怖かった。
どんな話が飛び出てくるのか予想できない。
避けられているのだから、いい話ではないことは覚悟していた。
しかし、梓は何も話さず、ピアノの前に立った。

「そこで見ていてもらえますか?」

「うん」

梓はゆっくりと腰掛け、両手を白鍵の上に添えた。

……

……

しかし、一分待っても、十分待っても、その手が奏でることはなかった。
 

「駄目なんです。弾けないんです」

「……」

「話、きいてもらえますか?」


「うん」

梓は呟くように語り始める。

「むかし、やっていたんです。
そんなにうまくなかったですが」

「梓ちゃんも、ピアノを?」

頷く。
 

 
「うまくありませんでしたが、頑張っていたんです。
頑張っていたと言っても、私なりに頑張っていただけで、
それが十分だったかどうかなんて分かりませんけど。
必死にやって、コンクールとかも目指しちゃって。
でも、全然駄目だったんです。
何ていうか、上手い人とは全然違って……あれ」

梓のいつのまにか涙を湛えていた。
それを人差し指で無造作に拭い、語り続ける。
 


「自分に何もないってわかっちゃって、それで結局やめちゃったんです。
ピアノを弾くのも全然楽しくなくなってたし……。
うん、話して見ると全然大したことじゃないんです
ただ、上手くいかなくて諦めたっていうだけで」

「梓ちゃん……」

「でも当時の私にとっては大問題で、今の私にとっても大問題だったんです。
それでムギ先輩のこと、ズルいって思っちゃって…」

「私が、ズルい……」

「違うんですムギ先輩は全然ズルくないのに、ズルいって思っちゃったんです。
だってあんなにピアノが上手くて、私の心をぶんぶん揺さぶれる音を出せるんです。
それなのに、今はもうピアノを弾いてないなんて……」

「……」

 
「綺麗な言葉を選ぶなら、才能のあるものの義務とでも言うんでしょうか。
ムギ先輩くらい才能豊かなら、きっとピアノで上を目指せるし、目指さなきゃいけない、なんて思ってしまったんです。
でも本当は分かってます。
才能があるからってそんなことをやらなきゃいけない義務なんてないです。
それにこんな気持はきっと嫉妬心から来るものだって……。
……ごめんなさい、全然話がまとまらなくて」


「ううん、大丈夫。
ちゃんとわかるから」
 

 
「最近まで忘れてたんです。そんな気持ちすっかり
でもムギ先輩のピアノがあんまりにも素敵で。
引っ張られて自分も弾けるんじゃないかって思っちゃって。昔みたいに。
それでピアノの前に座ってしまったんです。
でも手はひとつも動かなくって。
嫌なこととか、見たくない気持ちとか全部思い出しちゃって。
ムギ先輩とおしゃべりしたり、向き合ったりするのが怖くなったんです。
ほんとうにごめんなさい」

梓の謝罪に紬は驚いた。
同時に安堵していた。
この可愛い後輩は深刻な悩みを抱えているが、自分のことを嫌いになったわけではないのだ。

次は紬が話をする番だった。
 

悩んでる女の子はかわいいね……!
続きを楽しみにしているぜ


「いつから弾き始めたかは覚えていないの。
物心ついた頃にはピアノの先生がいて、毎日ピアノを弾いてた」

「私にとってピアノを弾くことは洋服を着たり、ご飯を食べたりするみたいに、当たり前のことだったわ」

「小さな頃は……そう。こんな風に友達の家に遊びにいくこともなくて、
私にとってコンクールは同じくらいの年の子と遊べる数少ない機会だった」

「みんなが私のことを褒めてくれた。
コンクールで賞を取ると、下の子も、上の子も、同じくらいの子も、
みんなが私に寄ってきてすごいねって」

 
「それでピアノをもっと熱心にやるようになって……。
本当に寝る時間も勉強する時間も惜しんでやっていた時期もあったの」


「それが……どうしてやめちゃったんですか?」

「同じ先生に習っていた仲の良い子がいたの。同い年のね」

「友達ですか?」

「うん。沢山おしゃべりをしたし、家にあそびにきたこともあったし、ピアノで連弾したりもね……。
そう、その子もピアノが上手だったの」
 

 
「ただね、上手だったけど、コンクールで賞を取れるほどじゃなかったの」

「……」

「ある日、私が先生のところに遅れていくと、その子は先生と相談していたわ。
『どうして私はつむぎちゃんみたいにやれないのかな』って」

「それで私は……。
……軽い気持ちだったの。
そんなに良く考えてやったわけじゃないの。
ただその子のことがかわいそうで、次のコンクールで手を抜いたの。
コンクールが終わるとその子に言われたわ。
『つむぎちゃんには私の気持ちはわからない』って」
 

 
「すぐに自分がいけないことをしてしまったと気づいたわ。
その子のプライドをひどく傷つけてしまったって」

「でも、本当の意味は分かっていなかったのかもしれないって、今になって思うの
その子は私のことを仲間だと思っていてくれたんじゃないかって」

「仲間?」

「そう。仲間。
ちょっとおおげさな言葉を使うと、同じ道を志す仲間だと思ってくれてたんじゃないかって。
だから私にピアノに対する思い入れが全然ないことを知って、失望しちゃったんじゃないかなって」
 

 
「その後その子に謝って許してはもらったけれど、以前のような関係には戻れなかったわ。
それで……逃げるようにピアノを辞めてしまったの」

「ピアノを辞める時にね、辞めることになった経緯を先生とお話したの。
色々おはなしした後、最後に先生はこう言ったわ。
『ピアノはつむぎちゃんを愛していたけど、つむぎちゃんはピアノを愛していなかったんだね』って。
それからひどく残念そうな顔をされて……」

「……」

「うん。昔話はここまで。
それからも家族の前や学校でピアノを弾く機会はあったけど、その程度。
ピアノとちゃんと向き合っていたのはその時までだったの」
 

待ってる

ho


 
梓にはわからなかった。
自分がどう思っているのか。
どんな言葉をかければいいのか。
紬のことを糾弾したいのか、慰めたいのか。
どうにも思考がまとまらなかった。

紬にとってのピアノは梓にとってのピアノとは全く違うものであった。
悪く言えば人付き合いのための道具でしかなかったのだろう。
だが、生活範囲が限られた中で友人を作るための手段としてピアノを選んだとして何の問題があるだろうか。

紬がピアノをやめた原因についても同じだった。
哀れみから手を抜いたことは確かに友達を傷つけたのかもしれないが、そんな紬の幼い優しさを否定する気にはなれなかった。
だが、その友達が感じたであろう劣等感や悔しさも梓には痛いほど分かってしまう。

つまるところ、自分やその子に才能がなく、紬に才能があった。

それが全ての原因であり、紬にも、その友達にも、梓自身にも問題などない。
そう思い込みたくなる。

 
梓が何もしゃべれずにいると、紬が口を開いた。

「ピアノ、弾いてもいいかな?」

梓は小さく頷いた。

 
 
 

 
 
 
 
 
 

 
「今までで一番良かったです」

本音だった。

「練習したから」

紬は笑顔を作って見せた。
梓も笑顔を作って言った。

「ムギ先輩のピアノ、大好きです」
 


  
琴吹紬が帰った後。
ベッドの上でうつ伏せになって中野梓は考える。
このふわふわした気持ちはなんだろう、と。

特に問題が解決したわけではない。
自分の醜い部分を見せてしまった。
紬がピアノに向き合えなくなった理由を聞いた。
それで色々わからなくなってしまっていたのが、今はどうでもよくなってしまった。
今日の、紬の演奏を聞いてから、どうでもよくなってしまったのだ。

あのピアノを思い出すと、自然と顔が綻んでしまう。
本当に何1つ解決していないはずなのに、自分が今まで紬のピアノに執着してきたことは――
みっともなく泣いてしまったことも――
全部ひっくるめて報われたと感じてしまったのだ。
 

 
熱病に浮かされたように、全てを前向きに考えてしまう。
そもそも最初から問題などなかったようにすら思えてくるのだ。
 
紬は「練習したから」と言っていたし、それは疑うべくもない事実である。
紬はピアノと向き合うのをやめたと言った。
しかし練習をしているということは物理的にピアノと向き合っていることを意味する。
練習が相当な長時間に渡っていることは間違いない。
形はどうあれ今の紬は真剣にピアノをやっている。
であれば、どこに問題があるというのか。

才能のある紬が、その才能をもってピアノに取り組んでいる。
その事実の前では、梓自身の過去も紬の過去も取るに足らないものでしかない。
そう、梓には思えてきた。



次の日の部活。
紬は梓に気づくと笑顔を浮かべた。

もう何もかも解決しまったように、この時の梓には思えた。
 

 
あの日のような関係にすぐ戻れると思っていた。
酷いことを言ってしまったとは思っている。
だが、それを気にするような紬ではないはずだ。
それは、あの演奏からも明らかだったように梓には思えた。
 



2人の日常が戻ってきた。
ぎこちない感じもなければ、少し前の元気のなかった紬など影も形もない。

梓はまた紬を誘うおうと考えいた。
またあの頃のように、放課後何かを食べにいくのだ。
美味しいものを前にして豊かな感情表現を繰り広げる紬を想像すると、楽しい気分になれた。

純や憂と一緒にいるときですら、それを想像するのが楽しかった。
時々それが顔に出ていたらしく、2人にからかわれたこともあった。

まさか続きがくるとは思わなかった

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