杏「きらりがハピハピって言わなくなったから」 (130)



『働きたくない』


それは労働という責務を強いられたこの世の中で、確かな自由を与える魔法の言葉。
そうだー! 働きたい人が働けばいいんだー!

そんな杏の足掻きは、この世界には通用することもなく。杏は働かなければならなかった。
アイドルになって、夢の印税生活が待っていたはずなのに……。ど、どうしてこうなった……。

そうだ! どうしてっ! どうして、働かなければいけないんだー!
働くことが素晴らしいなんて、そんなことは思わないぞー!


め、メーデー! ここに非労働者の墓を建ててやるー!


……なーんて。
男女共同参画社会が生んだ弊害を一身に受けた杏は、働くことを強いられたわけなのだ。いも。



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あ、そうだ。

杏のことを知らない人もいるかもしれないから、ちょっとだけ昔話をしよっか。

むかーしむかし。
双葉家に産まれた双葉杏は、「不労所得万歳!」という言葉と共にこの世に生を受けました。
その時、母は「お父さん、保有株の株価が上がってるわ!」と喜び、父は「これで我が家も貯蓄に困らなくて済むな!」と返したそうな。
日経新聞は大慌てで杏のことを取り上げて、「日本に舞い降りたアダム・スミスだ!」と騒ぎ立てた。
ついでに、杏の銀行口座には大量のお金が舞い降りた。
めでたしめでたし。



――まあ、そんなわけもなく。
双葉杏は、どこにでもいる平凡な女の子だったそうな。




……ん? 本当にそうだったっけ?

む、昔話かあ。
うーん、思い出してみてもあんまり楽しいことはなかった気がするなあ……。

そもそもさ。杏は昔からめんどくさがりを理由に色んなことを言われることが多かったんだよね。
思い出せばたくさんあるけど、クラスの友達にもよく言われたセリフがこれ。


「双葉さんって、どうしてそんなにやる気ないの?」


あー、ごめんごめん。やるやる、やりますよ~。
っていうのが、いつものパターンだったっけ。



そんな小言を言われつつ、窓から外を眺めたらさ。
学校の外にはいつも部活動で走り込みしてる陸上部だったり、必死になって同じフレーズを練習してる吹奏楽部の子がいたわけ。

他にも、学校行事に精を出して夜まで残ったり、校舎の裏で一生懸命先輩に告白したりしてる子がいたり。


学校ってそういう子で溢れてた。


そんな子たちを見る度に、杏には無縁の世界だなあって、ひしひしと感じながら食べる飴玉はいつもよりほろ苦かったんだよね……。

ただのコーヒー牛乳味の飴玉だっただけなんだけどさ。
うーん、雪印……。



「やればできるのに、本当に双葉さんはもったいないね」


……っていうのは担任の先生の言葉。

やればできる子って、それ生きているうちに何回言われたか分かんないよねー。

言われるたびに、はい次は頑張りますー。
って返したら、まだ言い足りないぞって顔しててさ。
その顔見る度に、家に帰ったら何のソフトで遊ぼっかなあって考えてた。



まあ、詰まる所。


杏は「頑張る」ってことを頑張らなかったわけ。




そんな杏にも、ようやく頑張ると言う気持ちが芽生えたのは17歳のころ。

な、な、なんと。
杏はアイドル事務所からスカウトされたんだ。

杏が食いついたのは、アイドルっていう仕事じゃなくて、『印税』と言う言葉だったんだけど。

印税、それは不労所得を得るための栄光の架橋……。
瞳の奥でキラキラと輝く幾千ものお金。

二つ返事で返したものの、すぐには決まるわけもなく。
名刺を差し出してきたプロデューサーという男の話を詳しく聞くために、向かった先がアイドルのオーディションだった。


い、印税について詳しく聞かせてもらおうか……。
という意気込みでいたのは、あの中では恐らく杏だけだったはず。



……オーディション。そんなこともあったなあ。



たしか、あのとき初めて――きらりに会ったんだっけ。



きらり、と言えば『諸星きらり』という女の子のことなんだけど。
きらりは、まず第一印象からものすごかった。

喋り方もズレてるし、は、ハピハピ? なんじゃそりゃ……ってなったもんね。
それに、そうやって振る舞ってるのに身長が大きいんだよ。


大きいって、言っても普通サイズじゃないよ? 
で、デカくない……? って聞き返したくなるくらい大きかったんだからね?




まあ、そんなインパクトも背丈もデカかったきらりだったけど、話してみたら実は普通の女の子でさ。


大きな体に似合わず、結構緊張したりするし、小心者みたいなところもあったんだよね。


杏はこんなんだから、小さい体を不思議そうな目で見られたこともあったけど、きらりはきらりで大きい体を気にしてて。



――そんな二人だったから、どこか馬が合ったのかもね。なーんて。





で、ここからが大事な話。

それはいつも通り、杏が事務所でダラダラしてたときのこと。
ポチポチって新作のゲームで遊んでたら、事務所の扉が開いてさ。すぐに扉の向こうからきらりが現れたんだ。


「お~、きらり。やっほー」


ひらひらときらりに向かって杏が手を振ったとき、ちょっとした違和感を感じたんだ。
……あれー? きらりが「にょわー! 杏ちゃーん!」って言ってこないなあって。


「……きらり?」


やっていたゲームを置いて、きらりの方を眺めると、きらりは俯き加減で立ち尽くしてて。
これは、何かヤバい予感がする……って杏の第六感が感じ取ったんだ。



「き、きらり……。どうしかしたの?」


三度目の呼びかけにも、きらりは反応しなかった。
ただ何も言わずに、その場に立っていた。



……。



「杏ちゃん……」


いつもより、低いトーンでようやくきらりが声を出した時、杏はきらりの前まで足を運んでいた。
気分悪いのかなとか、もしかして女の子の日? とかいろいろ考えてた矢先。


「うっきゃー!」

「わっ!」


落ち込んでいたと思ったきらりは、突然ふるふると体を揺らし始めた。

な、何事だ? と若干反応に困っていた杏だったけど、しばらくするとまたすぐにきらりは俯いていた。
情緒不安定だな……やっぱりあの日なのかな? と憶測を結論へと近づけていた杏であった。

……いやいや、そうじゃなくて。



「どうしたんだよ、きらり。なんか今日変だぞー」


その言葉に反応して、またピクリときらりが肩を動かす。
それから、ズリズリと大きな体をソファのところまでその足で持って行くと、ドサリと腰を下ろした。


あ、杏ちゃ~ん……。とモジモジと杏の名前を呼ぶきらり。
な、なんだよ……。とうろたえる杏。


そして、一言。




「……す、好きな人出来ちゃった」




へ? って杏の口からそんな声が出た。

書きだめ、ここまでです。
時間見つけて更新していきます。



あれから、杏ときらりは色んなお店を回った。

雑貨屋さんに始まり、ファンシーな雰囲気の喫茶店を巡ってさ、途中で見つけたかわいいお菓子のお店に入ったらショーケースから中々離れないきらりを引き離
すのは大変だったなあ……。

そこを出たら、ウィンドウショッピングの時間。

あれやこれやと可愛い服を見せられ、着せられて。い、イヤだそんなの! と嫌がる杏に無理やりスモックを着せたきらりを一生恨んでやる……と杏は諸星家を末代までの呪うことを誓ったわけであった。まる。



と、まあ。デートの予行演習はこんな感じで過ぎ去ったんだ。

うーん、総合点を点けるとしたら、友達加算点込みでも三点だね。あ、三点満点中ね。

……補正がなかったら、どうだろう。



――今日のデート。本当に楽しんでもらえるのかな。





――カエダーマ大作戦は、その次の日から実行された。


例えば、普段の会話の中で。
ハピハピすゆ~、とか言ってるきらりをつっついたり。


例えば、仕事終わりの車の中で。
プロデューサーの横に座って、なにやら楽しげに話すきらりに対して、おーい、きらり。また戻ってるぞー。と杏が注意したり。


そのたびに、きらりははっと気づいたように顔を赤らめていた。
口癖とか、そういうのってさ。ふつう、そんな数日とかそこらで直せるもんじゃないよ?
でも、きらりは本当に頑張ってたんだよ。そんな自分を見つめ直そうとしてたんだ。


そんな日が、数日ほど続き……。


程なくして、きらりは少しずつ『きらり』から遠ざかっていった。
杏の知ってるきらりから、少しずつ――。


……。




それは、デートの数日前のはなし。

カエダーマ大作戦の効果があったのか、きらりは見るからにあの喋り方をしなくなった。
仕事では、アイドルとしてのイメージがあるから、いつも通り振る舞ってはいたけれど。
それでも、日常会話ではまるで普通の女の子みたいに話してて。

周りの皆もそれに驚いたりもしたけど、きらりのことを良く知ってるから、何も怖がらないで傍にいてくれてた。
少し大人っぽくなったね、なんて年長組の人から言われると、きらりは少し照れくさそうに笑ってさ。
年少組からは……、前の方が可愛かったけど、今のきらりちゃんも可愛いね、なんて言われて、またまた照れくさそうにして。


……そんなきらりを見て、杏はどこかふわふわとした気持ちでいたんだ。



うん、これで良かったんだよね。

きらり自身が、変わるきっかけを作れてさ。
それで、デートも成功したりしたら。


……もうほんと、こっちまでハピハピじゃん。


ふふ、と笑ってから、杏はまたポチポチとゲームを続ける。
そんな杏に、誰かが声をかけてきた。



――杏ちゃん?


良く聞き覚えのある声だ。
なんだよー、いまいいところなんだぞ。っていうと、その子は困ったように眉を下げた。
……なに。なんか、用事?
そう付け加えると、きらりはいつも通り、話し始めて。


でも、そこには、いつもの『きらり』はいなかった。


――杏ちゃん、聞いてる?


そう言われて、はっと我に返る。


――もう、ちゃんと聞いてよね。


はは、ごめんごめん。
なんてそんな乾いた言葉を返す。


――デートね。お店とかいろいろ調べて、たくさんいいところ調べたんだ。


そうなんだ……まあ、そのほうが良かったかもね。
前のお店は、結構好み激しいだろうし。


――うん。いつも、ありがとう。


そんなこんなで会話をして。
ひとしきり用事を話し終えると、きらりはどこかへ行ってしまった。




気づいたら、画面にはゲームオーバーの文字列が。
ああ、またもっかいやりなおしかあ……。

そう思ってやり直しても。何度やり直しても、クリアできなくて。
いつもなら間違えることのないミスを連発してしまった杏は、そっとゲーム機を机の上に置く。


……。

ぼんやりと宙を見つめる。


そう、あれは紛れもなくきらりだった。

だけど、そうじゃなくて。

カエダーマ大作戦は、思いのほか成功したんだ。
でも。それはいつの間にか、杏にズシンと重く圧し掛かっていた。

自分で言ったはずなのに、どうしてなんだろう。
なんてそんなことを思うのだ。



そんな杏の元に、どこからともなく『だらだら妖精』が現れる。


なんだよ。
幻覚なんてよしてくれよ……。


そうぼやく杏に向かって、その妖精はこう言い放つんだ。



「キミは――いつまでもそのままでいいの?」



なんて、そんなことを。




……。




その日の夜。
杏はどこかそわそわと高ぶる気持ちが邪魔をして、思うように眠れずにいた。


……いよいよ、明日か。


そう。きらりは、明日デートに行く。
待ち合わせ場所は、あの日、杏と待ち合わせた駅の前。


う、う~ん。


「って、なんで杏が眠れなくなってるんだよー!」


がばぁっと布団から飛び起きると、そんなことを叫び散らかした。
はあ、と溜息を吐くと、再びもぞもぞと布団に入る。



まったく……。と不満げに声を漏らすと、杏は目を閉じる。
カチカチと時計の針が揺れる音が鳴る。


――杏ちゃん。


そしたらすぐに、きらりの声が聞こえてきた。


……きらりはさ。
明日のデート成功させるために、頑張ったよね。
慣れないことしたりして、見てるこっちがハラハラしたけどさ。
でも、頑張ったんだもん。きらりはほんとに良く頑張ったよ。
だからきっとうまくいくよ、明日のデート。


そうだよ、うまくいくよ。
だって、きらりは十分、魅力的な女の子だもん。
男の子なんて、そんなのイチコロだよ。



カエダーマ大作戦のおかげで、きらりはずっと、普通の女の子になった。
それは傍で見てきた杏がいちばんよく知ってる。

普通に憧れてたんだもん。
たぶん、これがいちばん良かったんだよね。
きらりのためにもさ。


カチカチ、と針は進む。


あの日、オーディション会場で会ったとき。
きらりは普通じゃなくて。だけど、杏だってそんなに普通じゃないから、二人とも仲良くなってさ。
きらりのいいところも、わるいところも、杏のいいところも、わるいところも。これまで全部、埋め合ってきたよね。


……でも。


でも、きらりが変わっちゃったから。
そんなきらりを見て、一歩先を歩いていくきらりを見て。
杏は、どこか心の中で焦っちゃってたんだ。


きらりがハピハピって言わなくなったから――杏も変わらなくちゃ、ってそう思ったんだ。




だって、きらりは、もうあの時の『きらり』じゃないから。
年相応に恋をして、もう、普通の女の子になったから。


だけど、杏は変われずにあのときのままでいてさ。
ずーっと、なんにも頑張れないままで。そんな杏のままでさ。


だから、変わっちゃったきらりを見て、羨ましく思っちゃったんだ。


……ねえ、きらり。
きらりは今でも、幸せの色が見える?



――杏は……まだ、見えないままだよ。


一旦区切らせてください。
すぐに戻ってきます。


>>65 訂正

途中で見つけたかわいいお菓子のお店に入ったらショーケースから中々離れないきらりを引き離すのは大変だったなあ……。 → 途中で見つけたかわいいお菓子のお店に入ったときはショーケースから中々離れないきらりを引き離すの大変だったなあ……。



……。
ジリリ、という目覚ましの音がどこからか鳴り響いてきた。
小鳥の囀りが、窓の外から聞こえてきたとき。
ガンガンと頭痛がする最悪な朝の目覚めに、思わず頭を掻いた。


そっか、昨日はあのまま寝ちゃったんだ……。


なんだか楽しくない記憶がぼんやりと蘇る。

うう、まあいいや……。ええと、今の時間は――。
時計の針を眺めると、それはちょうど正午を指していた。

寝つきが悪かったからか、いつもより眠れなかったなあ……。

なんてことを思いながら、のそのそとベッドから起き上がる。
……さて。どうしよう。



今日は仕事もなく、やることは何もなかった。
まあ、ないわけでもないんだけどさ。
ゲームとか、漫画とか、ふふ、楽しめるものはたくさんあるぞ。


そう思った矢先、ふと壁に掛けたカレンダーに目が行く。


『きらり、デートの日』


とだけ、その日付の下に汚い字で書かれてあった。
おいおい、これ書いたの誰だよ! って思ったら、それは杏で。
あー、これ眠かった時に書いたんだっけってことを思い出す。



そっか。今日は、きらりの。


それを思いだして、杏はぎゅっと拳を握りしめる。
……大丈夫かな。きらり。


すぐに、心配になる杏が居た。いやいや、ちょっと過保護すぎない?
いやあ、でもさあ。娘の晴れ舞台を見に行かない親なんているもんかね?


そう思い立ったが先、杏はいそいそと支度を始めた。


――ま、ちょっと見に行くだけだから。


なんて言い訳がましく自分をごまかして。




駅前に着いた時、休日だからかガヤガヤと前来た時と同じく、そこは人で賑わっていた。
そんな中で、今日も杏はいつもの自分らしい格好に身を包んでいた。
は~い、今日の双葉杏ちゃんの……って、もうこれはいいか。
キョロキョロと広場に群がる人の中から、お目当ての人物を探す。


う~ん、どこだあ?


目を細めて、チラチラとまるで探偵にでもなったかのように、杏はくまなく辺りを見渡す。


そして。


「いた……」


きらりは、木陰のベンチに腰掛けていた。
その恰好は、前に杏と一緒に来たときとは違ってて。

落ち着いた色合いのカーディガンと、足先まで伸びた淡い色のロングスカートなんて着ちゃってさ。

前までのきらりを知っていたら、いや~もっとど派手なポップカラーに身を包んでいたよね、君? とでも言ってしまいたくなるくらいに、傍から見るとそれはまるで別人だった。



きらりは、チラチラと腕時計に目を配せていた。
そわそわと自分の恰好を気にする素振りを見せると、空を眺めていた。


もうすぐ。
きらりの誘った子が来るんだ。


……ああ、なんだかこっちまでドキドキしてきたんだけど。


いつの間にか手にかいた汗が滲む。
ふぅ……よし、戦略的撤退をしよう。
って、いやいや。なに逃げようとしてるんだよ! ダメだダメだ!
ここまで来たんだから、せめて最後まで見届けないと。
そうだ。二人が、出会うところまで――。


そして、時計の針は待ち合わせの時間を指した。


今日中に完結できそうな予感がしています。
また後ほど。



……おかしい。
何かがおかしい。いや、もしかするとさ。杏の持ってきた時計壊れてるのかな? ん? って、スマホの時間と一緒じゃん! 合ってるじゃん!
一人身悶えながら、何度も時計の時間を眺める。そう、時間はあってる。待ち合わせの時間も聞き逃してないはず。きらりもあそこにいるし。
 

じゃあどうして。


「なんで、来ないんだ……」


そう。
待ち合わせの時間過ぎても、きらりの誘った男の子は現れなかった。


10分、20分……。時間だけが流れていって、杏はたらたらと汗をかいていた。


きらりは、連絡をしようともせず、ただじっとその場で待っていた。
おいおい……。向こうの電話番号とか知らないの? もしかして、事故に遭ったりしてるのかもしれないじゃん。ほら、電車でダイヤ乱れたとか!


と、後ろを振り返ると、ちょうど通常通り運行してる電車が過ぎ去っていくところだった。


じゃ、じゃあ……どうして。




そこまで、自分に尋ねかけて――ひとつの推測が浮かぶ。
でも、そんなのあまりにも、ひどすぎる。
そんな、そんなはずはない。


時計を眺めると、もう約束の時間はゆうに超えていた。
焦る気持ちが、さっき浮かんだ推測を結論へと導こうとする。


でも、だって。そんな。
ベンチで待つきらりを眺める。


こんなの、あんまりだ……。
だって、あんなきらりに向かって。


――約束をすっぽかされたなんて、誰が言えるっていうんだよ。




1時間以上の時間が過ぎた時、杏はもう駅前から遠ざかっていた。
これ以上、あんなきらりを見てられないって。そう思ったから。
もう、ずいぶんと歩いてきた。いま、どの辺りにいるのかも分からない。


本当は、きらりに声をかけてあげたらよかったのかもしれない。
約束、すっぽかされちゃったんだ、まあ杏が慰めてあげようって。
そう、言ってあげたらよかったのかもしれない。

だけど。そんなの、杏には出来ないよ。


……だって、杏がいちばんきらりが頑張ったことを知ってるんだから。


とぼとぼと一人で歩く帰り道は、少しだけやるせなくて、少しだけ苦しかった。



今度、きらりにどんな顔をして会えばいいだろう。
きらりに何て言えばいいだろう。


そっと、地面に落ちていた石ころを蹴り飛ばす。
コロコロと、小石は杏の見えない所へ転がっていく。


杏にはわからない。
そう、わかるわけもない。

誰かのために頑張った、その努力を無下にされたことなんて杏にはないんだから。
頑張らない杏に、そんなきらりの気持ちが分かるわけないよ。

だから。そうだ、今度会ったら「この前の、どうだった?」って何も知らない顔して聞けばいいじゃん。
そしたら、きらりはきっとフラれちゃったんだ、って明るく返してくれるはずだもん。

それでぜんぶ終わり。
またいつもの毎日がやってくる。




……それが、本当に正しい?




ぴたり、と杏の足が勝手に止まった。


「――そんなの」


気がついたら、杏の足はもと来た道を辿っていた。
歩くくらいの足取りが、どんどんと速くなっていく。

景色が、ぐんぐんと移り変わっていく。

すぐに息が苦しくなる。
肺が軋むように、酸素を求めてくる。

だけど、足は止まろうとしない。
ただ、前に、前に進もうとする。

息が、苦しい。
呼吸が、辛く、なる。



『双葉さんって、どうしてそんなにやる気ないの?』


なんだよ、やる気なかったら悪いのか!
みんながみんな、やる気あるわけじゃないんだよ!


『やればできるのに、本当に双葉さんはもったいないね』


杏がどんだけだらけてても、それは杏のせいだろ! 
頑張らなくて何が悪いんだ!



――息が詰まりそうになる。足も、腕も、ちぎれそうになる。



もういいだろ! 杏は頑張らないんだ!
頑張らない杏のことなんて、もう、どうだって良いんだよ!


だけど――。
だけど、頑張ってる子が報われないなんて、そんなの……。



……そんなの、良いわけないだろ!





そのとき、もつれあった足が絡み合うと、杏の体はそのまま宙に投げ出された。


どてっ、という音と共に、杏は地面に向かってうつ伏せに倒れ込む。


ぜえ、ぜえ。と息が切れた杏は、その姿勢のまま動くことが出来なかった。




愛も、夢も、そんなのは全部、キラキラってしてるからさ。
誰もが憧れちゃうから、誰もが欲しがってて。
でも、それを手に入れられる人は限られてるんだ。


それを手に入れるために頑張る人がいる。
でも。杏はそんなもののために頑張らない。
頑張りたくない。


……違う、そうじゃない。


杏は、そんなのいらないんだ!

それを本当に欲しがってるあの子の元に、届けばいいって思ってるから!



むくり、と体を起き上がらせる。
じんじんと膝小僧が赤くなっていて。気づいたら、靴紐もほどけてた。
すぐに屈んで、靴紐をもう一度結び直すと、どこか気分は晴れ渡っていた。

息を一つ整えると、真っ直ぐとその先を見つめる。


よーし……全力ダッシュだー!


――駆け出した足はもう、止まらなかった。




「きらりぃぃぃ――ッ!」

杏の叫び声は、やけに大きく響いた。
ぜえぜえと息を切らして、不格好に服を乱して。
そんな杏を見て、きらりは驚いたように目を丸くしていた。


――杏ちゃん、どうしてここに?


なんてそんなことを言うもんだから、杏も何を言い返すか本当に困った。
たしかに、たしかにそうだよ。なんで、杏はこんなところで息を切らせているんだろう。


そう気づいたら、もう、途端に顔が真っ赤に火照って来て。
そうじゃん。まだ男の子が来るかもしれないのに。なんで、こんな早とちりしちゃったんだろう。
ぐるぐると、頭が沸騰していく。

……ああ、もう煮るなり焼くなり好きにしてくれ! 
杏の心が勝手にそう叫んだ。




――もしかして、気になって見に来てくれてたの?

……うん。


もう杏には、きらりの問いかけに頷くしかできなかった。
う~、恥ずかしい。なんて思ってたらそんな杏を見て、きらりはもうホントに嬉しそうに笑ってきてさ。
なんだよ、笑うことないだろー、ってせめてもの抗議をしてみせたんだ。


でも、きらりはやっぱり笑うことをやめなくて。


そうやって、ずっと笑っていたらさ。
きらりの瞳から、スーって一筋の涙が流れたんだ。


――あれ、なんでだろう? おかしいな……。


そしたら、すぐに止めどなく涙が溢れてきて。
きらりは必死になって、何度も何度もそれを拭うんだ。


そんなきらりをぎゅって抱きしめることしか、いまの杏には出来なかった。
もう、きらりってホント体おっきいなあ。


……こんなちっぽけな杏の腕じゃ収まりきらないよ。


なんて、そんなことを思いながら。



それからのことは、よーく覚えてる。
泣いちゃったきらりを励ますために、杏はそりゃあもう奔走したんだよ。
とりあえず美味しいスイーツ店に入って、今日は食べるぞ! やけ食いだー! なんて無茶苦茶言いながら、バカみたいにケーキを頬張ってたらさ、それを見てたきらりもいつしかもの凄い早さでケーキを食べだして、結局二人で何皿食べたかも分かんなくなっちゃって。


可愛いプリクラを二人で撮って、カラオケで思いっきり歌を歌って、あの時みたスモックを買って。


それで、すっかり暗くなった街に繰り出したら、さっきはいなかった場所にギターを弾き語りしてるお姉さんが居てさ。その人が弾き終わってから、いいぞー! なんてハイになった杏が思わずヤジを飛ばしたら、お姉さんは笑って、よーし今日はキミたちのリクエスト曲を弾こうかな、なんて言うんだもんね。


それじゃあ、杏、きらりのうたを歌いまーす。


なんてことを返したら、お姉さんは、なんだそれーって笑ってたけど、きらりは恥ずかしそうにしてて。それで杏はもうがむしゃらに、きらりのうたを歌ったんだ。


歌は、きらり可愛い! 最高! 愛してる! 飴頂戴! だったんだけど、そんなんでもきらり大号泣しちゃってさ。
へっへっへ、また泣かしてやったって思ってたら、気づいたら杏も泣いちゃってて。二人して、泣いてたらお姉さんもつられて泣いて。
なんだよ、みんなして、なんでこんなに泣いてるんだよ。って泣きながら、杏は笑ってた。


……そんな、そんな何でもないひと時が、杏はすごく愛おしかった。




帰り道。
なんだか、今日は一日フワフワしてた気分だった杏は、ぼーっと空を眺めてた。
杏はなんにも言わなかったけど、きらりから突然口を開いて、こう告げたんだ。


――今日ね、杏ちゃんが来てくれるちょっと前にね。


ずっと気になってたこと。
なんで、待ち合わせに男の子が来なかったのかっていうこと。
それは聞こうと思って、ずっと聞けずにいて、それで今日が終わるんだと思ってた。

でも、きらりは思い出す様に、うーんって唸って。
それから、一言一言を、一生懸命言葉にしていた。


――誰かから電話がかかってきてね。誰だろうって、そう思って出てみたら、その子の声がしてね。

――きっと、色んな人に聞いて、やっと電話くれたんだって思ったから、何も言わずに聞いてて。

――電話の向こうで、本当に申し訳なさそうにしててさ。

――諸星さんはアイドルだから。きっと、いつか迷惑かかっちゃうから。ずっと迷っていたんだけど、やっぱり今日は行けない。連絡遅れて、本当にごめん。

――って、そう言われちゃって。


きらりは話をしてる間、ずっと空を眺めていた。



……そっか。そうだったんだ。
どうやらソイツはきらりが言ってたみたいに思ってたよりも良い奴で、思ったよりもバカだった。
断りもなく、約束をほっぽりだすなんて、男の風上にも置けないけど、だけど、きらりのことをすごく考えてくれていて。


もしかすると、それは行かないための口実だったのかもしれないけど。
でも……。それでもこんな夜は、そんなことを疑いたくもなかった。


そう思って空を眺めたら、都会の空に少しだけ星が輝いていた。
それがなんだかいつもよりも綺麗に見えて、だけど、すごく切なく見えたんだ。


キラキラ、キラキラってさ。




――あれから日は過ぎて。


「……働きたくない」


杏は再び、事務所でグータラしていたのだった。フカフカの布団に包まれて、なんて、なんて最高なんだ……と打ち震える自分の体を止めれなかった。
実は今日はかねがね予約をしていた新作ゲームが解禁されたんだよねー。よーし、今日はこれをするから仕事なんてサボって……。


「にょわ~! 杏ちゃ~ん!」


なんて思ってたら、どこからともなくいつもの声が。
ちょっ、ぱ、パッケージ剥がしてるからさあ。ん? 仕事? 杏は今日、このゲームをやるから、仕事なんてサボって――え? 飴くれるの? やった~! ……って騙されないぞ、こんなの!



あの日から。
杏にはまた、ハピハピって言ってくれる友達が出来た。

それは嬉しいことだったのかもしれないし、はたまた、悲しいことだったのかもしれない。

でも。それでも。
愛も夢も全部、この布団の中と、あとはちょっとだけあの子に詰まってるからさ。
だから、そんななんでもない毎日がまたやって来てくれて、なぜだか安心してしまう杏がいたんだ。

だって、杏はきっとそんな毎日が好きだからさ。


「杏ちゃん?」


……いつか。
いつか、杏にもきらりにも好きな人が出来て、その人と一緒に歩いていくのかな。
だったら。
今だけは、なんでもない日々が、このまま続きますように。
おやつは飴玉で。隣にはきらり。……なーんて。



……。

それじゃあ最後に、最近、杏が見た夢の話でもしよっかな。
なんだよー。ちょっとくらい話してもいいだろー?


その夢の中ではさ、杏は誰かの膝の上で眠ってるんだ。
それで、そよそよ~って風が窓辺から吹いてきたから、ゆっくり目を覚ましてさ。首を横に向けたら、その窓の向こうには飛行機が遠く向こうの彼方まで飛んでいくんだ。

そんな杏を見て、誰かが嬉しそうに笑ってて。髪をその人に撫でられて。杏は、またゆっくりと目を閉じて眠る。



……ねえ、きらり。

やっと、杏にも見えたよ。幸せの色。

せかいじゅうで、杏にしか見えない色がさ。



おわり

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